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記事紹介 39 [記事紹介]



今日は、臨時で記事紹介をしたいと思います。
ダイヤモンド・オンライン 8/19の記事です。
筆者は 日本総合研究所調査部主任研究員 河村小百合氏。
表題は 「そして預金は切り捨てられた。戦後日本の債務調整の悲惨な現実」です。
表がいくつもありましたが、それは転載しませんでした、詳しく読みたい方は、是非、ダイヤモンド・オンラインで読んでみてください。




日本の財政再建がなかなか進まない。政府債務残高は名目GDP比で約250%と、財政状況は、先進国、新興国を問わず世界で最悪であるにもかかわらず、である。国内には、「財政危機だ、財政危機だと言われたこの10数年間、結局何も起こらなかったではないか」、「リーマンショックや東日本大震災以降、年間40兆円とか50兆円といった金額の新発国債を増発して借金残高を増やし続けても、実際には何も起こっていないではないか」といった意識が蔓延しているようにみえる。
「ギリシャと違って日本は、国債をほとんど国内で消化しているのだから大丈夫だ」、「日本は、国民が多額の金融資産を保有しているから、ネットでみた国としての負債残高は、グロスの負債残高ほどに大きくはないから大丈夫だ」――こうした議論は間違っていないのだろうか。このまま国債残高を増やし続けても、国内消化の比率が高ければ、本当に大丈夫なのだろうか。
一国の財政運営が行き詰まり、立て直しのための万策尽きた後の最後の手段には、大別して、①非連続的な対外債務調整(対外デフォルト)と、②非連続的な国内債務調整(国内デフォルト)の2通りがある。①は、近年のギリシャの事例等があり、その実態や顛末は一般にも比較的よく知られている。他方、②の国内債務調整については、各国ともそうした不都合な事実は対外的に隠したがる傾向があり、詳細があまり明らかにされていないことも多い。
そうしたなか、国内債務調整における事態の展開を詳細に追うことができる稀有な事例は、われわれの意外な身近にある。それは、第二次世界大戦直後に実施されたわが国の債務調整(国内デフォルト)だ。その実態を、財政当局監修でまとめられた『昭和財政史終戦から講和まで』(東洋経済新報社)シリーズ等における記録を基に、つぶさに明らかにする。

終戦直後にわが国が直面した状況

1945(昭和20)年8月15日の第二次大戦終戦の時点で、わが国の財政は軍事関係の支出によって大きく拡大し、財政運営の継続はすでに困難な状態に陥っていた。第二次大戦をはさんだ昭和期の国民所得と物価上昇率、国債残高等の推移は図表1の通りである。
国債に借入金も含めた政府債務残高の規模(対国民所得比)は、1944(昭和19)年度末時点ですでに約267%に到達していた。加えて、戦時補償債務や賠償問題があり、政府債務の全体像の確定は困難な状況にあった。大戦前からのインフレが大戦中さらに加速し、敗戦時の国民の財産・資産は、事実上、現預金に尽きるといっても過言ではない状態であった。
昭和初期において、わが国の国債の約4分の1は外国債(利率は内国債よりかなり高め)が占めていた時期もあったが、戦時中の1942(昭和17)年から外国債の利払いは停止された。わが国は対外デフォルト(債務不履行)状態に陥り、その後1952年まで継続した。国債の構成も、終戦の時点では、金利水準を人為的に低く抑えた内国債が残高の99%を占め、そのほとんどを日本銀行と預金部(政府)が引き受ける状況となっていた。

「取るものは取る、返すものは返す」

わが国が降伏文書に調印した9月頃から、極めて切迫した財政・経済・金融状況を抱え、大蔵省内部で、専門の財政学者等を交え、具体的な対応策が検討されていった。1946(昭和21)年度予算を概観すると、普通歳入120億円に対し、歳出は172億円、うち78.3億円が臨時軍事費借入金利子や補償金利子も含めた国債費であった。
大蔵省内では、①官業および国有財産払い下げ、②財産税等の徴収、③債務破棄、④インフレーション、⑤国債の利率引き下げ、が選択肢に上るなか、GHQによる押し付けではなく、あくまでわが国自身、財政当局の判断として、「取るものは取る、返すものは返す」という原則に象徴される対応が決定されていった。
具体的には、一度限り、いわば空前絶後の大規模課税として、動産、不動産、現預金等を対象に、高率の「財産税」(税率は25~90%)が課税された(=「取るものは取る」)。それを主な原資に、内国債の可能な限りの償還が行われ、内国債の債務不履行そのものの事態は回避された(=「返すものは返す」)。他方、戦時補償債務については、これを切り捨てる決断を下し、国民に対して政府の負っている債務と同額での「戦時補償特別税」の課税も断行した。そして、これらの課税に先立ち、順番としては一番先に(1946<昭和21>年2月)預金封鎖および新円切り替えが行われている(図表2)。
当時の政策運営上の意思決定の状況について、『昭和財政史終戦から講和まで第11巻政府債務』(執筆者は加藤三郎東大教授)には、昭和20年10月14日の官邸での会合の列席者による回想として、以下のような記述がみられる(89ページ)。
…(前略)…大蔵省として天下に公約し国民に訴えて発行した国債である以上は、これを踏みつぶすということはとんでもない話だ、というような意見が勝ちを占めまして、おそらく私もその一人であったろうと思うのですが、これは満場一致の形で、取るものは取る、うんと国民から税金その他でしぼり取る、そうして返すものは返す、こういう基本原則をとにかく事務当局で決めてしまいました。その場で財産税という構想が出まして、議論を重ねました。この財産税は結局日本戦後の財政史上、国内混乱を起こした以外何ものでもないことになりましたが、財産税の構想はその会合でたまたま議論が起こったものです。…(後略)…
(原資料:今井一男口述「終戦以後の給与政策について」『戦後財政史口述資料』第八分冊、昭和26年12月17日)
また、同11巻85ページには、以下のような記述もみられる。

…(前略)…山際次官(当時)はこの点について次のように語っている。
渋沢さんの大臣御在任中のことを、発生的に考えてみると、いろいろなことの発端が、やはり財政再建計画というやつから来ておる。五箇年計画というものを造って国債をどうするか、それを償還するために財産税ということになって、そのために通貨整理、封鎖ということに発展したのですね。
(財産税について-引用者<加藤三郎教授>)ほかの富の平均化とか、インフレ抑制策というものは、あとからついて来たものです。
(原資料:「元大蔵大臣渋沢敬三氏口述(全)」『戦後財政史口述資料』第一分冊、昭和26年5月8日)

貧富の差なく国民の資産を吸い上げる

戦後の国内債務調整(デフォルト)の中心となった政策の内容を順に確認していこう。
一度限りの大規模課税である財産税の課税対象としては、不動産等よりはむしろ、預貯金や保険、株式、国債等の金融資産がかなりのウエートを占めた(図表3)。課税財産価額の合計は、昭和21年度の一般会計予算額に匹敵する規模に達した。また、本税の実施に先立って作成された、階級別の収入見込み額をみると(図表4)、国民は、その保有する財産の価額の多寡にかかわらず、要するに貧富の差なく、この財産税の納税義務を負うこととなった点がみてとれる。
税率は最低25%から最高で90%と14段階で設定された。1人当たりの税額は、もちろん、保有財産額の多い富裕層が突出して多いが、政府による税揚げ総額の観点からみると、いわば中間層が最も多い。このように、財産税の語感からは、ともすれば富裕層課税を連想しがちではあるが、実際にはそうではなく、貧富の差を問わず、国民からその資産を課税の形で吸い上げるものであったといえよう。
なお、当時は新憲法制施行前で占領下にあり、こうした措置は、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の承認を得て、法律案を衆議院に提出、可決される形で行われた。このように、国による国民の資産のいわば「収奪」が、形式的には財産権の侵害でなく、あくまで国家としての正式な意思決定に基づく「徴税権の行使」によって行われた点に留意する必要がある。
そして、そのようにして徴収された財産税を主たる原資として、可能な限りの内国債の償還が行われた。図表1で、国債の現金償還額が終戦後、ケタ違いの額に伸びていったことは、このような異例の大規模な財産税課税によって、可能な限り国債残高を削減しようとしていた事実を物語っている。

預金封鎖・新円切り替えを先行した狙い

こうした財産税課税に先立ち、昭和21年2月17日には、預金封鎖および新円切り替え(注)が断行されている。新円:旧円の交換比率は1:1であった。日銀や民間金融機関も含めて極秘裏に準備したうえで、国民向けの公表は実施の前日16日に行われ、わずか1日で実施に移される、という「荒業」であった。
実際の政策運営の流れは図表2の年表で確認できるが、預金封鎖・新円切り替えを先行させたのは、財産税課税のための調査の時間をかせぎつつ、課税資産を国が先に差し押さえたとみることができよう。預金封鎖等を発動した「金融緊急措置令」が公布された2月17日には、同時に「臨時財産調査令」も公布されている。
こうした措置について、国民向けには「インフレ抑制のため」という説明で政府は通したが、国民からは相当な反発があったことが、『昭和財政史終戦から講和まで』シリーズでは明らかにされている。その第12巻『金融(1)』100ページには、執筆者である中村隆英東大教授による、以下のような記述がある。
…(前略)…これ以降の政府の説明もこの趣旨で貫かれている。こうして、大蔵当局の一時インフレの高進を抑え、時をかせごうというひかえ目な判断に基づく政策効果の見通しはかくされたまま、公式には徹底的なインフレ対策としての面のみが強調され、一般もそのような政策としてこれを理解することになったのである。そこにこの政策がのちに多くの批判をあびなければならなくなった最大の理由があったといえよう。…(後略)…

戦時補償を打ち切り国内債務不履行を強行

その後、昭和21年10月19日には、「戦時補償特別措置法」が公布され、いわば政府に対する債権者である国民に対して、国側が負っている債務金額と同額の「戦時補償特別措置税」が賦課された(図表5)。これは、わが国の政府として、内国債の債務不履行は回避したものの、国内企業や国民に対して戦時中に約束した補償債務は履行しない、という形で部分的ながら国内債務不履行を事実上強行したものである。そしてこれも、国民の財産権の侵害を回避すべく、「国家による徴税権の行使」という形であった。
政府の戦時債務の不履行や、旧植民地・占領地における対外投資債権請求権の放棄等により、企業、ひいては民間金融機関の資産も傷み債務超過となった。このため同じ10月19日には、「金融機関再建整備法」および「企業再建整備法」も公布された。これを受け、民間金融機関等の経営再建・再編に向けての債務切り捨ての原資として第二封鎖預金が充当された(実施は昭和23年3月、図表6)。要するに、債務超過状態を解消するために、本来であれば国が国債を発行してでも調達すべき、民間金融機関に投入する公的資金を、国民の預金の切り捨てで賄ったのである。
そして、財産税法の公布は、昭和21年11月12日であった。財産税の納付には、不動産等の現物納付が認められた一方で、先行して差し押さえられていた封鎖預金も充当された。
以上が、「非連続的な国内債務調整」の典型例として、わが国が第二次大戦終戦直後に経験した厳しい債務調整の実情である。これらの事実から明らかになるのは、国債が国として負った借金である以上、国内でその大部分を引き受けているケースにおいて、財政運営が行き詰まった場合の最後の調整の痛みは、間違いなく国民に及ぶ、という点である。一国が債務残高の規模を永遠に増やし続けることはできない。「国債の大部分を国内で消化できていれば大丈夫」では決してないのだ。
無論、世界大戦の敗戦国という立場に陥り、社会全体が混乱のさなかにあった当時と、平時の現在とは状況が全く異なる。政府債務残高の規模が、当時とほぼ並ぶGDP比250%の規模に達したからといって、すぐに財政破たんするというものでもなかろう。しかしながら、国債の大半を国内で消化するという現在の状況は終戦当時に通じるし、現時点で債務の膨張に歯止めがかかる見通しは全く立っていない。
今後のわが国が、市場金利の上昇等により、安定的な財政運営の継続に行き詰まった場合、それが手遅れとなれば、終戦後に講じたのと同様の政策を、部分的にせよ発動せざるを得なくなる可能性も皆無ではなくなろう。この点こそを、現在のわが国は、国民一人一人が、自らの国の歴史を振り返りつつ、しっかり心に留めるべきである。




余談です。
第二次大戦の敗戦後に、この国がどのようにして、国民の資産を取り上げたのか、について書かれています。
財務省(当時は大蔵省)は、インフレ対策という看板を掲げて実行しましたが、それは後付けの看板に過ぎず、現実はハイパーインフレになりました。
つまり、財務省にとって都合の良い理由を前面に押し出し、本物は国民から隠したのです。
隠蔽の仕方も、今のやり方と同じです。
その財務省の基本姿勢も書かれています。
それは、「取るものは取る」「返すものは返す」という姿勢です。
ただし、この姿勢は財務省を中心にして地球が回っている場合にのみ有効な姿勢だと言えます。少し補足するならば「国民から、取るものは取る」「国へは、返すものは返す」という意味です。
つまり、国民から税を絞りとり、日銀や政府が抱えている国債を返済しようという作戦だったのです。財務省の人は「そんなの、当たり前だろう」と平然と言うでしょう。でも、国民目線では、当たり前ではありませんが、私が間違っているのでしょうか。
国は、国民に何を返したのでしょう。失われた350万人の命を返したのでしょうか。失われた国民の財産や時間を、返したのでしょうか。国民からみれば、返して欲しいと思っているのは国民の方です。人生そのものを返して欲しいと思っていた国民は数多くいたものと思います。
でも、現実は、全部、逆向きの一方通行でしかありませんでした。
彼等は、国民の持っていたものを根こそぎ取り上げたのです。
国家には徴税権があるのだから、許されるという論理です。
では、国民には、何の権利もないのですか。
踏んだり蹴ったりのひどい仕打ちなのではありませんか。
これは、他所の国での出来事ではありません。この日本という国で、ほぼ70年前に実際にあったことです。
国は何でも出来るのです。それが、国家権力です。
それに従わなければ、国民は処罰されるだけです。
国民が国家運営に失敗したのでしょうか。
戦争をしたのも、その戦費を借金したのも、戦争に負けたのも、全部、「お上」の責任なのではありませんか。民に責任転嫁するやり方は、お殿様だけが偉いという封建制度そのままだったように見えます。
今の日本が、経済成長から見放されたのも、1.000兆円もの借金をしたのも、「お上」の責任なのではありませんか。今でも、この国の基盤は封建制度ですから、民に責任転嫁するのは、ごく自然なことなのです。
当時の大蔵省がやったことと、今の財務省がやろうとしていることは、同じ事なのです。あのようなことは二度と起きないと言える人はいないと思います。同じ事が起きる確率の方がはるかに高いと確信します。それは、この国には、もう、国民貯蓄以外にお金はないからです。「お上」の「自分さえよければ」は何一つ変わっていませんから、国民の財産を根こそぎ取り上げることに躊躇はしないと思います。理屈を作り出す能力は卓越していますから、いや、それが国家運営だと彼等は信じていますから、国民が信じてくれそうな理屈は言うことと思いますが、それは、騙しにすぎません。ま、国民は、今でも、騙され続けているのですから、次も、必ず、騙されます。
ここで、一つ、謝らなければならないことがあります。以前に、タンス預金を推奨するような文章を書きましたし、これからも例として書くかもしれませんが、防衛策にはなりませんので訂正し、謝ります。タンス預金は、通貨を切り替えられたら、何の役にも立ちません。ただの紙屑になります。
国民の資産は、その資産の形態にかかわらず、全部取り上げられるということです。
私達には、日本という国を自ら捨てるという防衛策しかないものと思います。
ただ、これは、誰にでも出来る防衛策ではありません。充分な資産を持っている人か、若くて才能もあり、国外でも生計を立てることが出来る人に限られます。
あなたは、何ヶ国語喋れますか。若さも才能もありますか。

国家運営者の意識は、明治維新でも、戦後でも、今でも、何一つ変わっていません。
彼等の意識によれば、国は国民のためにあるのではなく、国民は国を支えるために存在するのです。彼等にとっては、必要とされるだけの年貢を、民から取るのは当たり前のことなのです。その上、その国を運営する権力者という存在も、国民が支えなければならないものの一つだと考えています。また、国のためという大義名分さえあれば、何をしても、どんな嘘も許されると考えています。これって、民主主義なのでしょうか。
当然のように、事実が隠蔽され、言い訳や争点外しが横行している現状を見れば、現在の日本でも変わりがありません。この国の意識は、まだ封建制度なのです。
石田が、新・資産税と呼んでいる税金は、戦後に実施された財産税と同じものです。新・資産税という呼び名は、石田が勝手に命名しましたが、税目そのものは石田のオリジナルではありません。既に政府内部で検討されているということを聞いたことがあります。
仮に、新・資産税を課税するとすれば、枕詞が用意されるでしょう。
社会保障充実のため。環境保護のため。災害防止のため。成長戦略のため。
いや、財務官僚なら、新しい枕詞を生み出すかもしれません。
日本人は、文化的にも枕詞が大好きです。

真実を隠蔽することも、嘘をつくことだと定義した時、権力者は、嘘をつくことが自分達の仕事だと考えています。いや、70%は、それが主な仕事です。つまり、権力者の発言には30%の真実しかありません。権力者の仕事は、70%が嘘をつくことだとすると、官僚がこの国の最高権力者になった理由も見えてきます。彼等は、言い訳や争点外しのプロ集団です。この技術は政治家にはありません。
やはり「貯金を守ろう運動」はやらなければならないのかもしれません。
でも、国家権力には勝てそうにありませんので、無理なのでしょう。
必ず、70年前と同じ事が起きます。
このことだけは、断言できます。


2013-08-20



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記事紹介 38 [記事紹介]



ロイターの記事を紹介します。BNPパリバ証券 経済調査本部長の河野龍太郎氏のコラムです。専門家の方にも、いろいろな意見があります。専門用語や専門家の視点が出てきますので、私にはよく理解ができませんが、この筆者が心配していることは長期金利が制御できない危険物だと言っているのは理解できます。



これまでのコラムでも述べてきたように、アグレッシブな金融緩和と大盤振る舞いの追加財政をパッケージにしたアベノミクスは、今後も追加財政を止めることができず、結局、「マネタイゼーション」の罠に陥るのではないかと筆者は懸念している。このとき問題は、デフレから脱却した際、日銀が国債をアグレッシブに購入しても、長期金利の上昇を食い止めることが難しくなるという点だ。
1%の均衡実質金利を前提にするならば、2%のインフレ予想が定着した場合、長期金利は少なくとも3%程度まで上昇する。長期金利が上昇し、損失が発生すると、投資家は損失リスクへの見返りとして上乗せ金利(リスクプレミアム)を求めるようになる。リスクプレミアムが織り込まれれば、長期金利は4%、5%へ上昇しても不思議ではない。
現段階では、債券投資家はリスクプレミアムをほとんど要求していないが、債務危機が発生する前の南欧諸国の国債金利はドイツ並みの低位で安定し、リスクプレミアムは相当抑え込まれていた。しかし、危機が始まると、同プレミアムは跳ね上がり、債券利回りも急上昇した。ギリシャやポルトガルは言うに及ばず、イタリアやスペインにおいても、危機のピークでは10年債利回りの対独スプレッドが6ポイント前後まで急上昇したことは、記憶に新しい。
日本にとって、この南欧諸国の教訓は重い。政府債務残高は対国内総生産(GDP)比ですでに先進国中最大の200%に達している。いったん長期金利が上昇を始めれば、利払い費が増大し、債務残高が雪だるま式に膨張していく。
長期金利の上昇を受けて、国債を大量に保有する金融機関の自己資本が劣化すれば、金融システムに動揺が走りかねない。後述のように対応を誤れば、南欧で見られた「銀行支援のための財政膨張、国債価格下落、銀行の資本劣化」という財政問題と銀行危機の負のスパイラルが始まるリスクがある。
<長期金利の分水嶺は3%か4%か>
では、長期金利がどの程度上昇すれば、金融システムは動揺を始め、危機に陥るのだろうか。大手金融機関と地域金融機関の多くは、3%程度までの長期金利上昇への備えは十分にできている模様である。保有債券の実質的な価値の毀損(きそん)により、純資産の3割前後は失われるものの、「バーゼルⅢ」上で必要な自己資本比率は維持される。系統金融機関についても、自己資本への影響は同程度にとどまると見られる。
しかし、問題は総資産の5割以上を国内債券で保有する中小企業金融機関等だ。長期金利が3%を上回ってくると、保有債券の価格下落により自己資本の7割以上が実質的に失われるため、経営問題に直面する恐れがある。
このこと自体は、あくまで一部の金融機関の問題で、本来、金融システム全体に影響を及ぼすものではない。しかし、これらの金融機関は強い政治力を有するため、1990年代のように、政府が誤って猶予政策を取り、ゾンビ銀行の延命に財政資金の投入を始めると、市場は将来的に公的資金の投入が際限なく膨らむ可能性を意識する。その結果、財政リスクプレミアムが上昇し、長期金利は一段と上昇しかねない。
長期金利が4%に近づけば、今度は地域金融機関で自己資本が不足し金融システムに動揺が広がるが、リスクプレミアムの上昇を目の当たりにした政策当局は資本注入に二の足を踏むだろう。しかし、この時点では、株式市場も動揺が始まっていると想定されるため、市場からの資本調達も難しい。結局、日銀が国債の買い支えに動かざるを得なくなるが、動揺した市場を安定化させることは容易ではないだろう。
巨額の財政赤字が続く日本では、政府は継続的に国債を発行し、入札によって消化する必要があるが、欧州債務危機で見られたように、リスクプレミアムが発生し金利が上昇する局面では、損失を抱えた金融機関は応札を手控えるため札割れが生じ、そのことがさらなる金利上昇圧力となる。
中央銀行によるセカンダリー・マーケットへの介入だけで、金利上昇を抑え込むことは容易ではなくなる。また、物価安定よりも金融システムの安定を重視せざるを得ない日銀の行動そのものが、円安を加速させインフレ懸念を高めることで、長期金利のさらなる上昇圧力をもたらすだろう。
長期金利が5%を超えると、大手金融機関、系統金融機関でも自己資本不足に陥るところが現れ、金融システムは危機的様相を強める。6%まで上昇すると、大手金融機関を含め大半の金融機関で自己資本が不足することになる。市場から資本を調達しようにも、株式市場でもかなりの動揺が広がっているため、大手金融機関であっても自己資本を充当させることは難しい。国債の価格下落が問題の根源にあるため、危機収束のために公的資金を投入しようにも、市場から資金を調達することもできず、日本政府単独では対応できない。国際通貨基金(IMF)に支援を求めることになるだろう。
あるいはもう一つ、金融抑圧政策という選択肢もある。こちらの方が、蓋然性が高いと思われる。金融抑圧政策とは、公的関与の強化によって、インフレ率が上昇しても、低い金利の国債を金融機関に半ば強制的に購入させることだ。マイナスの実質金利となる国債を保有する金融機関、最終的には預金者や保険契約者、年金契約者の犠牲によって、公的債務(正確には対GDP比)を圧縮していく。具体的には、日銀の大量国債購入だけでなく、国債保有の優遇税制の導入や非市場性国債の発行、時価会計の停止などを実施する。
政策当局者が現段階でそうした政策を検討しているとは思われないが、インフレ率が上昇し長期金利に上昇圧力が加わり始めると、眼前の財政危機や金融システム危機を避けるために、政治家や行政官、セントラルバンカーが対症療法を続け、結果的に金融抑圧政策が進展していく可能性がある。金融抑圧政策については、改めて論じる。




余談です。
この意見が妥当な意見なのかどうか、私にはわかりません。
ただ、日銀の会見では、説得力のある説明がありません。質問に対しても、意識的に主旨を外した回答をしているように見えます。もしかして、この人達はわかっていないのではと思わせる空気があります。リフレ理論を全否定出来ないとしても、解明されていないだけで、いろいろな条件が満たされた時に起きる経済現象なのかもしれません。
動き始めれば、いつか幸運がやってくる、と考えているのかもしれません。もっと厳しいことを言えば、リフレ派の人達は脚光を浴びるチャンスに飛び付いただけかもしれません。
日銀の説明に明確な反論をしている人達がいるということは、日銀の説明を鵜呑みにしている人が少ないのではないかと感じます。専門的で難しいので、私の感覚が正しいかどうかはわかりませんが、上記のコラムを書いた河野氏の意見の方が説得力があるように感じます。私の目には、日銀が「迷走」しているように見えてしまうのです。
でも、問題は、専門家だけではなく、石田のような素人が危惧している状況がやって来た時に、それは長期金利が急騰した時にという意味ですが、国民の生活がどうなるのかということです。エコノミストの仕事は、経済事象に関する分析ですから、国民生活には言及しません。それは、私達国民が考えることなのではないでしょうか。
国民目線から見れば、これは大事件だと思いますが、皆さんはどう思いますか。
あなたの生活には、何の影響もありませんか。
先日、テレビを観ていましたら、専門家らしき人が「長期金利が上がって、財政が破綻する可能性はありますが、それは、ただ、財政が破綻するだけですから」と国民には何ら影響がないような発言をしていました。その場にいたお笑い芸人やタレントは、「俺達には、関係ないんや」と私語していました。財政破綻が国民に与える影響は、語ってはいけないという決まりがあるのかもしれません。

国会議員が新聞に対する軽減税率適用の署名運動を始めたという記事がありました。理由は「言論」を守るためということです。今の新聞に言論なんてありません。今の新聞にあるのは政府によって統制された情報を複写するだけです。いっそのこと、全て国営新聞にすべきなのではありませんか。上記のような記事が新聞では見られないのに、言論を守るという大義が適用されるのは変です。


2013-05-29



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記事紹介 37 [記事紹介]



4/9付 フィナンシャル・タイムズ紙の記事を紹介します。
表題は 本格始動するアベノミクス 一歩たりとも間違いが許されない綱渡り




日本は20年間ためらった後、ついに経済の綱渡りに挑み始めた。これは大胆であり、かつ必要な取り組みだ。綱渡りにはリスクもあり、日銀は少しぐらつきながらその第一歩を踏み出した。
 新総裁の黒田東彦氏が率いる日銀は先週、大規模な量的緩和プログラムを新たに打ち出した。安倍晋三新首相の経済対策「アベノミクス」を初めて実行に移した格好だ。

正しい診断書と正しい治療法

 アベノミクスの目標は、世界で最も難しい経済問題を解決することにある。
 実のところ、日本は3つの経済問題を抱えている。これらは互いに絡み合っており、1つだけ切り離して対処することが不可能な均衡を生み出している。
 3つの経済問題とは、デフレ、低い経済成長率、そして財政赤字への構造的な依存である。
 安倍氏を見ているとわくわくするのは、彼が正しい診断書と正しい治療法を手にしているからだ。デフレには金融緩和で対処する。民間需要の回復への道筋をつけるために財政支出を増やし、後でこれを引き締める。そして構造改革を進めて経済成長率を引き上げる、というのがその骨子だ。
 これらを一度に、精力的に、そして必要な時間を十分にかけて実行すれば、日本経済は今の停滞から抜け出せるかもしれない。

日本が歩まねばならない狭い道

 15年前、10年前なら、いや5年前でも、このような施策が成功するチャンスはあっただろう。しかし年を追うごとに、一方ではデフレが続いたり、他方では債務危機が発生したりしたことで、日本が歩まねばならない道の幅は狭くなってしまった。
 これはアベノミクスを試みない理由にはならない。試みなければ惨事は避けられない。日銀のこれまでのためらいが本当に腹立たしいのは、そのためだ。しかし、ミスは許されない。
 その理由の1つはデフレ期待の根深さに求められる。物価下落の罠から脱出しようという過去の試みはいずれも、消費者がデフレ期待にどれほど強く捕らわれているかを示す結果に終わっている。
 2005年を思い出してほしい。円相場は1ドル=118円というレベルにあり、現在の97円よりかなり円安だった。日経平均株価はこの年だけで40%上昇して1万6194円に達した(現在は1万2833円)。
 日本以外の国々は好景気に沸いていたし、当時の小泉純一郎首相は選挙で構造改革を訴えて再選された。日本経済はそれでも持続的なインフレには戻れなかったのだ(確かにこれは、日銀がその後に利上げを行ったためでもある)。
 日本のトレンド成長率は、人口が高齢化するにつれて低下している。また苦しい時代が何年も続いたことで、国内総生産(GDP)比の純公的債務残高は135%に上昇した。日銀がこれから取る行動はすべて、信用できる財政政策と矛盾しないものでなければならない。

理想的とは言えない日銀の第一歩

 こうした懸念を考慮すると、日銀が先週踏み出した第一歩は理想的なものではなかった。
 黒田氏は今回、大規模かつ従来型の量的緩和(QE)策を国債市場で打ち出した。株式や不動産の購入額も増やす計画で、こうした施策を物価上昇率が2%に達するまで続けると公約している。
 規模の面ではいいスタートを切ったと言えるが、目に見える結果が出てこなければ人々の期待は変わらない公算が大きいし、巨額のQEも銀行システムに潜む罠に捕らわれる可能性は残る。
 政府が財政赤字を出し続ければ、国債を買っている日銀はリスクにさらされることになる。さらに、QE自体には構造改革を促す効果はない。前日銀総裁の白川方明氏は慎重ではあったものの、構造改革を熱心に促そうとしたのは適切だった。
 日銀が次に取るべき施策は実物資産の――特に株式の――購入を大幅に増やすことだろう。具体的には、銀行と事業会社が持ち合っている株式を買い取ればよい。安倍氏と黒田氏は、日銀への株式売却は義務だと日本企業に告げるべきだ。
 このようにして株式の持ち合いを解消すれば、競争も促されるだろう。納入業者に自社の株式を5%保有されているということがなければ、その納入業者からほかの業者に乗り換えることは容易だからだ。
 また持ち合いを解消すれば、銀行が株式市場から受ける影響も小さくなるだろう。日銀のキャッシュは事業会社に直接流れるし、そこで配当を支払うよう圧力をかけておけば、株主にもキャッシュが流れる。
 さらに、日銀の国債購入の態勢と財政政策の進捗とをリンクさせておけば、安倍氏の側にも財政に対する有用な緊張感が生まれるだろう。
 安倍氏はまた、株高と円安が政策発動の余地を作り出している間に結果を出さなければならない。といってもそれは、同氏から統治の権限を奪う無用な政治的痛みを意味するものではない(日本の首相のイスは壊れやすいのが常だ)。
 経済面の成功で得られた政治資本はほかのことには使わず、経済面での次の成功を手に入れるために使うことをはっきり示すべきだ、という意味だ。
 消費税率の引き上げ(現行の5%を2~3年以内に10%に引き上げることになっている)は、予定通り実施すべきだ。これによる財政引き締めの効果をほかの施策で短期的に緩和することがあったとしても、引き上げの延期などはすべきでない。
 貿易の環太平洋経済連携協定(TPP)には参加すべきだし、日本の女性が仕事と子育てを両立できるよう支援する政策も自民党内の保守派の意向に関係なく推進すべきである。日銀いじめはアベノミクスの中でも容易な部分だった。今後は安倍氏がもっと難しいことに取り組む様子を見たいところだ。

破綻を経験することなく問題を解決する最後のチャンス

 もし経済統計が日本と同様な数字を示している国があったら、恐らくその国はとっくに危機に陥っているだろう。
 しかし、日本には目を見張る強さがあり、それゆえに脱出する道が残されている。世界トップクラスの輸出企業と巨額の貯蓄、そして社会に連帯感もあるこの国では、困難な改革も常に可能なのである。
 日本が破綻を経験することなく経済問題を解決できるチャンスは、今回が恐らく最後だろう。いよいよ綱渡りが始まった。人々は固唾を飲んでこれを見守っている。一歩たりとも間違いは許されない。




余談です。
この記事に全面的に賛成しているのではありませんが、日本という国を外部から見た時は、ごく自然な見解だと思います。
「 日本が破綻を経験することなく経済問題を解決できるチャンスは、今回が恐らく最後だろう。いよいよ綱渡りが始まった。人々は固唾を飲んでこれを見守っている。一歩たりとも間違いは許されない」
この、記事の最後の文章こそが、言いたかったことなのではないかと思います。
ただし、これも社交辞令にすぎません。他国のことですから、「日本は崩壊するしか選択肢はありません」などと言えないのです。多分、海外では「日本は終わった」と思っているのが本音なのだと思います。
国内でも「成長戦略こそがアベノミクスの成否のカギを握る」という解説は一般的にも言われていることです。
しかし、今年の1月に書いた「アベノミクス」でも言及しましたが、3本の矢の1本とされる成長戦略という矢は、幻の矢だと書きました。それは、成熟国家には、もはや、過去に体験したような成長戦略が見当たらないことによるものです。これは、日本だけに限ったことではありません。
ある専門家の方は、4本目の矢を用意しろ、と言っています。それは、財政再建という政策です。念仏のようにプライマリーバランスのことを言っているだけでは財政再建にはならないとも言っています。
百歩譲って、20年前であれば、通常の成長戦略でも、それなりの効果は期待できたのかもしれません。でも、今、求められている成長戦略は超ウルトラ成長戦略なのです。通常の成長戦略でさえ実行できなかった国が、突然、超ウルトラ成長戦略を手にすることができるのでしょうか。残念ですが、勝負を挑む前に勝敗は決まっているようなものです。
紹介記事にもありますように、これは、この国にとって最後の挑戦となります。確かに、失敗は許されません。でも、失敗することは、既にわかっていることです。もちろん、この5月か6月に発表される政策を待つ必要はありますが、私の予感では「焼け石に水」的な、自称成長戦略が発表されるのではないかと思っています。以前に試算しましたが、この国に求められている成長戦略は、短期間でGDPを3倍にする戦略です。そんな超ウルトラ成長戦略が存在するとは思えません。
では、この国に必要なのは、成長戦略ではなく、縮小戦略なのでしょうか。
しかし、これも今は絵空事に過ぎません。
現実的には、痛みのない縮小戦略はありません。それは、借金の大きさが原因です。縮小すれば縮小するほど、借金の大きさは大きくなるのです。縮小戦略をとるためには、先ず、借金を返さなくてはなりません。そのお金は国民資産しかありません。たとえば、今年中に預金に資産税を課して、全額借金返済に充てれば出来ないことはありません。預金1円につき1円の税金を課せばいいだけのことです。でも、これをやれば、流石の日本人でも暴動を起こすでしょう。企業だって、倒産します。しかも、こんな無茶苦茶な国家運営ができるとしても、この1~2年以内しかチャンスはありません。
だから、今の国家運営は、じわじわと、気付かないうちに、崩壊まで持っていくことが求められているのです。私達は、進むことも、退くことも出来ない場所にいるのです。
成長戦略も超ウルトラ成長戦略も縮小戦略もありません。ですから、インフレを使って国家を崩壊させようとしている国家運営は、理に適っているとも言えます。選択肢がないのですから仕方がありません。「せめて、崩壊を迎えるまでは、知らせないでおこう」という親心なのかもしれません。
でも、この国民を騙すやり方が国民のためになるのでしょうか。誰か、真剣に縮小戦略を考えたのでしょうか。今こそ発想の転換が必要なのではないでしょうか。
巨額の借金のことを考えれば、縮小戦略は無謀だと思われるかもしれません。しかし、そこに小さな光はないのでしょうか。
縮小戦略は、確かに苦しいし、痛みも大きいでしょう。他の民族では乗り越えられなくても、日本人なら乗り越えられるのではないか、と思うのは買い被りなのでしょうか。
どう考えても、ほんのかすかな光であっても、いや、光はまだ見えていなくても、私の直感は縮小戦略の方向へ目を向けろと言っているのです。もちろん、石田の直感なんて、何の価値もありません。でも、選択肢がないのですから、初めから縮小戦略を捨てるのは間違っているように思えるのです。アベノミクスで国民が盛り上がっている時に、大変申し訳ないと思うのですが、そんな時だからこそ、もう一度考えてみる必要があるのではないかと思うのです。
「れば・たら・もし」は「あの時、こうしていたら」という過去の選択を元に戻したいという願望です。確かに、時間は戻せませんから何の価値もありません。でも、時間が過去になる前の今だから、選択肢は捨てるべきではないと思うのです。
ですが、縮小戦略の「し」の字もこの国にはありません。
私は、そのことを大変残念なことだと思っています。
ま、奇人・変人の類いの石田の言うことですから、気にしないでください。


2013-04-17



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記事紹介 36 [記事紹介]



4/9付 イケダハヤト氏の記事を紹介します。
表題は 社畜と家畜の共通点



巷でよく言う「社畜」って何なんでしょうね?と思ったので、家畜との共通点を洗い出してみましたよ。

飼われている

家畜は牧場主に飼われています。
毎朝エサ場に行けばたらふくご飯を食べられますが、何らかの事情でエサが与えられなくなったら、家畜たちは右往左往します。弱った足腰では、柵を超えて生き延びることすらできないでしょう。そもそも、「牧場の外に出ること」すら頭に思い浮かばないかもしれません。
社畜は雇用主に飼われています。
毎朝オフィスにいけば毎月給料が与えられますが、何らかの事情で給料が与えられなくなったら、社畜たちは右往左往します。弱った足腰では、会社の外に飛び出して生き延びることすらできないでしょう。そもそも、「会社の外に出ること」すら思い浮かばないかもしれません。

搾取されていることに気付いていない

家畜は搾取されていることに気付きません。毎日エサを与えてくれる牧場主に感謝すらしているかもしれません。
しかし、牧場主は利益を最大化するため、家畜たちを無機質に殺していきます。家畜たちが、自分たちは「商品」にすぎなかったことに気付くのは、死の瞬間においてです。
社畜は搾取されていることに気付きません。毎月給料を与えてくれる雇用主に感謝すらしているかもしれません。
しかし、雇用主は利益を最大化するため、社畜たちを無機質に「使い捨て」にしていきます。社畜たちが、自分たちが「労働力」にすぎなかったことに気付くのは、退職を強要される瞬間においてです。

いつクビを切られるかわからない

家畜は、自分のクビがいつ切られるかを知ることができません。動物的な鈍感さのために、彼らは毎日をのうのうと暮らします。
社畜もまた、自分のクビがいつ切られるかを知ることができません。理性がある社畜たちは、「いつクビにされるんだろうか…」と怯えて暮らすことになります。

群れている

家畜は基本的に群れています。牧場主は、管理のしやすさを追求し、意図的に同質な群れをつくります。
社畜は基本的に群れています。雇用主は、管理のしやすさを追求し、意図的に同質な群れをつくります。
社畜たちは家畜と違い、群れのなかで相互監視を行います。「あいつは群れに合わないヤツだ」と判断された社畜は放逐され、群れの同質性はさらに高まっていきます。

現状に満足している

家畜たちは、現状を疑うことをしません。言い換えれば、現状に満足しているのです。彼らはこのまま飼われつづけたいとすら願っています。
社畜たちは、現状を疑うことはあれど、行動することをしません。言い換えれば、現状に十分満足しているのです。彼らはこのまま飼われつづけたいとすら願っています。
現状に満足している社畜は「俺は社畜だからさ」と自虐的に語ります。そのことばを吐くたび、彼らは行動から一歩遠ざかります。自分の位置を、自分で認めてしまっているからです。
このブログをお読みの方々は、「社畜」からは遠い存在でしょう。会社に「飼われる」ことを全否定するわけではありませんが、これからの時代はかなりリスキーだと思います。「会社の外をいつでも飛び出していけるだけの力」を持っておくべきでしょう。




余談です。
イケダハヤト氏はネット上では、そこそこ有名な人だと思っています。もちろん、立派な人格者だと言っている訳ではなく、話題性がある人なのではないでしょうか。
前回紹介した谷本真由美氏の本でも社畜という言葉は出てきました。誰が、この言葉を作ったのかは知りませんが、上手いこと考えるものです。私が谷本真由美氏の名前を知ったのもイケダハヤト氏の記事からです。
ネット上で、当たり障りのない記事を書く必要はない、とまでは言いませんが、メジャーメディアが堕落しきっているこの国では、当たり障りのある記事を書くことこそネットメディアに求められていることのようにも感じます。
日本の元気のなさを指摘する文章は多見されます。私も何度となく書きました。特に、若者の目に、キラキラした輝きやギラギラした光が見えません。
社畜と言われる日本のサラリーマンだけに限らず、国民が活き活きとしていません。それは、多分、国民の官僚化が進んでいるからではないかと思っています。冒険をしない。マニュアルに支配される。周りを刺激しない。小さくまとまる。数え上げればきりがないほど官僚化の兆候は挙げることができると思います。それは、この国の親分が官僚ですから、仕方ないのかもしれません。でも、官僚の真似をしていれば、小さな間違いはしないかもしれませんが、大きな間違いをしてしまう危険があります。時代の流れは、官僚や小人には見えません。気が付いた時は、地獄に堕ちていたということもあるのです。

やはり、この国には革命しか選択肢は残されていないように思われます。
私は、ブログに文章を書いていますからネット界の片隅にいるのは間違いありませんが、ネット界の流行にはついていけてません。有名人の谷本氏やイケダ氏を取り上げたのは、少しだけ同じ臭いがしたからだと思っています。彼等は、罵詈雑言一派と呼べるかもしれません。この罵詈雑言グループの底辺には「これでいいのか、日本人」という焦りがあります。石田にもその焦りがあります。2chにも、表現方法は少し違いますが、その焦りはあります。でも、残念ながら、このグループは「キャンキャン」と吠える小型犬のような印象もあります。
なぜなら、騒ぐだけで、吠えるだけで、解決策を提示できていないからです。ずっと、必要なのは哲学と思想だと書いてきましたが、これは簡単ではありません。世界を動かす哲学と思想は、人類滅亡までの人類史という視点で見てみると、この21世紀以降にその哲学と思想が生まれる可能性は非常に低いと思っています。一つ生まれれば大成功です。
ですから、少し限定して、哲学と思想に代わるものとして、新しい国家像の発見が出来ればいいと思うようになりました。私達は、その新しい国家像を、未だに発見していません。罵詈雑言が増えるのは、それが原因なのだと思います。
では、煩い小型犬は必要ないのかというと、そうではありません。逆に、もっともっと「キャンキャン」と吠える小型犬が必要です。日本中が罵詈雑言で満たされた時には、新しい国家像が、無理矢理にでも生まれるかもしれないからです。それがなければ、革命は起きません。もちろん、まだ間に合うと言っているのではありません。これらの、罵詈雑言にしても、革命にしても、最後の抵抗です。


2013-04-16



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記事紹介 35 [記事紹介]



3/28付 ダイヤモンドオンラインの記事を紹介します。
筆者は 山田厚史氏
表題は キプロスは他人事ではない キーワードは国債、銀行は火薬庫




海の泡から生まれた美神アフロディーテ(ビーナス)神話の発祥の地はキプロスである。文明の源流にひたる地中海の島がユーロ体制を動揺させている。銀行封鎖・預金課税という新手の荒療治が始まった。国家の債務危機という「EUの病」は、金融危機と表裏一体で、ある日突然、預金が国家に奪われる、という事態が日常に起こることを示した。

キプロス危機は他人事か

日本から見たキプロス危機は、他人事である。
「EUは大変だ」「ユーロ体制は保ちますかね」そんな反応がほとんどだ。
そうだろうか?私には、このほど発足した日銀の黒田東彦総裁が抱える課題とキプロスは二重写しに見える。
キーワードは国債。銀行は火薬庫、ということだ。
もちろん日本は、キプロスのように外国の資金に頼る経済ではない。産業の厚みも経済規模も比べものにならない。だが、国家債務と金融不安が隣り合わせになっている経済の構造は変わりない。
「日本がキプロスみたいになるわけはないじゃないか」
ほとんどの人は、そう思っているだろう。平時では、皆そう考える。原発がそうだったように、身近に危険がありながら、変わらぬ日常がつづいている限り、人々はまさかの事態は考えない。
キプロスもそうだった。20世紀末に金融国家を針路としたキプロスの人々は「ギリシャ危機さえなければ、こんな悲劇に見舞われることもなかったのに」と嘆いているだろう。
事の起こりはギリシャにあったが、キプロスにも問題があった。銀行がカネを貸して企業を育て、共に成長する、という本来の業務から逸脱したことである。集めたカネで国債を買いまくり、金利の低下で大もうけする、という金融業の堕落。リスクを取らず浮利を追う経営に走ったキプロスの銀行は、実は大変なリスクを犯していた。国債といってもギリシャ国債をたくさん買っていたのである。国家は破綻しない、という金融常識によりかかった経営が、ギリシャ危機で裏切られた。

キプロスは危機の新たな処理モデル

それが日本とどう関係があるのか、は後で述べる。まずキプロスで何が起きたか、おさらいしよう。
キプロスがEUに金融支援を願い出たのは2012年6月のことだ。3ヵ月前にギリシャの第二次支援策がまとまり、民間銀行が抱える国債の元本がカットされることなった。ギリシャ危機がキプロスに波及することはほぼ見えていた。
だが当時、世界の目はスペインやイタリアに注がれ、小国であるキプロスに向かなかった。経済規模が小さいので、損害は知れている、欧州中央銀行(ECB)が救済するだろう、という程度の関心だった。
今回、大騒ぎになったのは、EUの支援を受ける条件として、キプロス政府が銀行預金への課税を打ち出したからだ。
これまでEUやECBの支援を受ける国家は、見返りに緊縮財政や増税を迫られた。キプロスでは課税と銘打ってはいるが、事実上の「預金カット」というメニューが加わった。国民の懐にいきなり国家が手を突っ込む異常な事態である。
最初の案では、10万ユーロ(約1250万円)を超える預金には9.9%、10万ユーロ以下の小口預金には6.75%を課税する、となっていた。国民は怒り、小口預金への課税は見送られたが、10万ユーロ超の大口預金者に負担が集中することになった。税率はまだ決まっていない。20%とも40%とも言われている。
預金者だけではない。キプロスで1位と2位の銀行は事実上の破綻処理となった。株主は株券が無価値になり、銀行が発行した債券(金融債)も切り捨てられ、投資は損害を受けた。銀行のリストラは、従業員の暮らしにも影響が出るだろう。
国家の債務危機が、国債の暴落や元本カットを通じて金融部門に波及することは、これまでも散発的に起きていた。
キプロスでは、銀行の損害が大きすぎて政府では処理しきれず、他に飛び火することを恐れたEUが、100億ユーロを支援する見返りに、キプロスの預金者に負担を求めたのである。
ユーロ加盟国の財務相で組織するユーロ圏財務相会合(ユーログループ)の議長・ダイセルブルーム・オランダ財務相は「(キプロスの処理は)ユーロ圏の金融危機を解決する新たなモデルになる」と語った。
国家の破綻で銀行が被った損害を、銀行自身が埋めきれない場合、銀行の預金者や株主にも責任をとってもらう、ということである。つまりユーロ圏では、よその国が破綻すれば、自分の預金が減ることを覚悟しなさい、ということである。
キプロスは外国、特にロシアからの資金を取り込み、銀行資産がGDPの7倍にも膨れた金融立国である。肥大化した金融がギリシャ危機をもろに受ける結果となったが、ユーロ圏の金融立国は他にもある。一人当たりGDPが世界一という金持ち国ルクセンブルクの銀行資産は、GDPの22倍に膨れている。マルタは8倍、アイルランドは7倍だ。国家の規模が小さい国が金融で生業(なりわい)をたてている。
キプロスの処理は、金融にすがる小国をモデルにした救済劇だった。預金者まで痛めた前例は、今後のユーロ金融危機の方向を示唆している。

双子の兄弟

そこで日本である。我が国は、バブル崩壊後の金融破綻を経験した。公的資金の注入も、大手銀行を3メガ銀行体制にした金融再編も断行した。欧州や米国に「バブル後の政策モデル」を示した、という自負もあり、欧州危機は我がことにあらず、の雰囲気が漂っている。そこに盲点がある。
国家の債務危機はやがて銀行危機に波及する、という流れがユーロ圏で鮮明になった。アメリカも日本も、国家の債務が大きな問題になっている。リーマンショックの震源地だった米国は、ドル札を刷りまくって銀行や大企業に配り、危機を緩和している。その咎めで財政の首が回らない。日本は国民の貯蓄を国債にまわし、公共事業や社会保障を支えてきた。
1000兆円を超える日本政府の借金を支えているのは主に銀行である。大企業は自己資金をため込んで、銀行融資を必要としない。中小企業には危なくて貸せない。溜まるばかりの預金の振り向け先が国債だった。不況と金融緩和で金利が下がっているので、買い込んだ国債価格は値上がりした。融資は手控え、漫然と国債を買っていれば儲かる。そんな夢心地の経営が続いている。
ユーロ圏で他国が発行するユーロ建て債を安閑と買っていたキプロスの銀行と、円圏で発行される日本国債を横並びで買っている日本の銀行はよく似ている。ユーロ圏ではギリシャで発火し銀行という火薬庫のいくつかが爆発した。
そこに黒田日銀総裁が登場した。「物価目標2%達成」が公約である。大胆な金融緩和でインフレ期待を煽り、投資や消費を呼び起こそうという政策だ。物価が安定的に上がることが景気を後押しする、という考えだが、その裏に見落とせない問題が潜んでいる。
期待インフレ率が上がると、金利も上がる。物価が安定的に上がれば、金利は上がる。これまでの経験では、消費者物価が2%上がると、金利は2%超になる。
金利が上がると国債価格は下がる。真っ先に影響を受けるのは銀行経営だ。長期にわたる金利の低下で国債を持っているだけで儲かった。そんな経営が反転し、持っているだけで損がでる。売れば国債価格がさらに下がり、経営悪化に拍車がかかる。
政府債務の危機と銀行危機は双子の兄弟なのだ。
背景には、地球規模の過剰流動性がある。米国を先頭に、「金融緩和は全てを癒す」という風に、マネーをふんだんに発行して経済矛盾を覆い隠す政策が採られてきた。世界的なカネ余りが超低金利をもたらし、借金の負担が楽になった国家はいとも簡単に国債を発行する。
引き受ける銀行は、持っているだけで利益が出る。その怠慢が国家の債務危機を生み、金融に厳しい自己変革を求めている。資本主義が内蔵する「手荒な自己調整システム」である。日本がその枠外にあるとは考えにくい。

黒田総裁のもう一つの仕事

日本で金利が上がり、政府と銀行が惰眠をむさぼる日はやがて終わる。
長期金利が急上昇した時、日銀はどうするか。選択肢は二つある。一つは、金融緩和にブレーキをかける。金利上昇は市場からの警告、国債の消化能力が限度に達した合図、と判断して手じまいする。もう一つ選択は、日銀が市場で国債を買いまくり、金利上昇を力で抑えこむ。
力で金利を押さえ込もうとすれば、市場と日銀の大勝負となる。
うまく行けばいいが、無理をすれば日銀の一手買いとなり、政府が発行する国債が日銀に溜まってしまう。財政法で禁止されている日銀の国債引き受けが、事実上進んで行く。
好調に見えるアベノミクスも、デフレ退治の「入り口」に過ぎない。マネーをばらまくため国債をどんどん買い上げるが、買った国債をどう始末するか、市場のあぶく銭をどう始末するか、政策の「出口」は何も考えていない。
原発で発電したが、使用済みの核廃棄物をどうするか、考えていないのとよく似ている。原発は安全に運転しているときは、安い電力だった。
「全てを癒す金融緩和」は、ユーロという仕組みの中でほころび、金融そのものを破壊しかねない事態になっている。
日本は安全でいるうちに、危機への想像力を逞しくすることが大事ではないか。それも黒田総裁の仕事である。




余談です。
山田厚史氏は、元朝日新聞論説委員だそうです。
私は新聞が嫌いです。特に朝日と産経は大嫌いです。
でも、山田氏の場合は「元」を理由に許容しています。
これは、私の堕落なのかもしれません。

この程度のことは、山田氏だけではなく、多くの方が知っていることです。
ただ、皆さんが、知識という段階で停まっていることが残念です。
想像力を働かせましょうよ、と言いたいです。
・・・が今後の課題です、という言い方がよくされますが、それは、その先の想像を放棄していることになります。
空想と言われても、妄想と言われても、もっともっと想像してみませんか。
その先には、何かが見えてくるかもしれません。
評論家と言われる人も、識者と言われる人も、表層を触るだけで満足するのは、なぜなのでしょう。忙しいからですか。効率的に金を稼ぐためですか。
山田氏なら、この先も、見ようと思えば見える筈です。
もったいないと思います。


2013-04-01



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記事紹介 34 [記事紹介]



3/28付 ダイヤモンドオンラインの記事を紹介します。
筆者は 鈴木博毅氏
表題は 超入門「学問のすすめ」




『学問のすすめ』は生涯学習や平等主義を説く本ではない。幕末・明治への転換期に書かれた、個と国家の変革を促す「革命の書」である。140年前の幕末と現代は、グローバル化の波、社会制度の崩壊、財政危機、社会不安など多くの共通点があるが、この歴史的名著には、転換期を生き抜くサバイバル戦略が満載なのだ。今、現代の日本人が読むべき転換期を残り越えるヒントとは何か?歴史を変えた名著をダイジェストで読む。

激動の時代に書かれた革命指南書

「なぜ、今『学問のすすめ』なのか?」
そう不思議に思う人もいるかもしれません。現代では『学問のすすめ』と聞くと、10代の受験生が勉学に励むための啓発書か、若者へ学びの大切さを訴える本、あるいは生涯学習を勧める書籍というイメージを思い浮かべる人も多いでしょう。
「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」
この大変有名な言葉から、平等主義を説いた道徳的な要素の強い書籍と思っている方も多いのではないでしょうか。しかし、『学問のすすめ』が執筆された時代を見ると、まったく違う側面が浮かび上がります。
著者の福沢諭吉が慶應義塾の名称を正式に採用した1868年は、東京の上野で旧幕府側の彰義隊と、新政府軍の戦闘(上野戦争)が行われるなど、国内を二分した戊辰戦争の真っただ中でした。諭吉の自伝にも上野の大戦争の最中、大砲の轟音が遠く鳴り響く日にも英書で経済の講義をしていたことが書かれているくらいです。
ペリーの黒船来航が1853年ですから、福沢諭吉が『学問のすすめ』を執筆した時代は、日本の歴史上際立った激動期であり、生きるか死ぬか、日本という国家の未来がどうなるかを日本人全員が固唾をのんで見守り、ある者は旧江戸幕府と共に戦い、ある者は近代化を目指して明治維新へ邁進するなど、現代日本人の想像をはるかに超える大変革の時代だったのです。
『学問のすすめ』は激動に次ぐ激動の時代に、いかに取り残されずにサバイバルするか、日本の未来を確かなものにする変革へ向けて、個人と国家のあるべき関係をダイナミックに変える革命指南書だったのです。

新時代を切り拓こうとする日本人が夢中で読んだ書

『学問のすすめ』は明治維新の5年後、日本が国家存亡の岐路に立った時期の1872~76年に書かれました。日本の人口が3500万人であった当時、17編で合計約340万部、現在なら1200万部に相当する驚異のベストセラーです。ある意味で、日本の歴史上初の自己啓発書であり、日本人が「自己変革と日本革新のための最高の武器」として貪り読んだ貴重なメッセージでした。
現代日本と幕末日本の類似点として、半ば強制的に「鎖国を解かれ」、本格的なグローバル競争に直面していることが挙げられます。1842年の清とイギリスによる「阿片戦争」は、イギリス側が貿易の完全無条件受け入れを強要したことが発端です。
当時、アジアの大国だった清の敗北を知った日本では、「鎖国の維持は近い将来不可能になるだろう」と予感して、秘かに対策を取り始める人たちが増えていきます。日本という国家の崩壊を避けつつ、必死で近代化を目指す日本人は、明治維新という社会・国家革命に最後は一丸となって飛び込んでいきました。
現代日本もすでに避けられないグローバル化の波に大きく影響を受けており、個人も国家も、新しい時代にこれまでにない形でサバイバルする必要性に迫られています。1980年代以降、隆盛を誇った日本の製造業は円高で続々と海外移転をする現在。従来の制度がすでに変化に対応できないこの国では、財政、社会保障制度を含めいくつものシステムが危機的状況を迎えています。
大げさではなく、新しい時代を切り拓く英知こそ、今まさに求められているのです。幕末期、新しい日本をつくろう、新しい社会をつくろうと日本の先人たちが未来を憂え、新国家創造に命を懸けた姿には、現在難局に直面する我々も大いに学ぶ点があるのではないでしょうか。
140年前、新しい時代を切り拓く指南書として、明治維新の真の実現を後押しする書物として、日本人全員が夢中で読んだ書籍。それこそが、福沢諭吉の書いた『学問のすすめ』という書籍だったのです。

安倍首相が引用した『学問のすすめ』「一身独立して一国独立する」新時代へ

先日、一部メディアでも話題となりましたが、自民党の安倍首相が、第183回国会における施政方針演説で、福沢諭吉の歴史的書籍『学問のすすめ』から「一身独立して一国独立する」という有名な言葉を引用しました。
「『強い日本』。それをつくるのは、他の誰でもありません。私たち自身です。『一身独立して一国独立する』。私たち自身が、誰かに寄り掛かる心を捨て、それぞれの持ち場で、自ら運命を切り拓こうという意志を持たない限り、私たちの未来は拓けません」
この演説で安倍首相は「苦楽を与にするに若かざるなり」という言葉も『学問のすすめ』から引用しています。元の意味は、人を束縛して一部の指導者だけが悩むのではなく、多くの人を解放し自主独立に導くことで、官民を問わず日本国民全員で新しい時代の問題に取り組むべし、という主旨です。

1800年代、西洋列強の世界進出によりアジア諸国が次々と植民地となっていた時代に、日本の大変革を目指して提唱された『学問のすすめ』は、当時の日本が国家の自主独立を維持しながら、社会革新を成し遂げて急速な近代化に勝利するきっかけとなった書籍です。この国の首相が、140年前の歴史的名著を引用して施政方針演説をした事実は、日本に新しい時代が訪れる予兆を感じさせる出来事ではないでしょうか。
安倍首相はこの演説で、明治維新後に日本人が成し遂げた社会変革の精神や飛躍への強い気概を取り戻すことの重要性を私たちに伝えたかったのでしょう。日本の幕末明治と言えば、サムライ・武士封建制度の時代から、黒船の来航で一気に世界が転換し、政治体制の一新を成し遂げて近代国家への大変革に成功した歴史です。

140年前との「隠れた共通の構造」

幕末の日本と、140年後の現代日本は奇妙な共通点を抱えています。
【現代日本が直面する難題】
・国が長期の財政赤字に苦しみ、改革は既得権益者に毎回つぶされている
・政府の構造改革に着手した政治家が、足を引っ張られて失脚
・世界規模のグローバル化の波が、日本にも押し寄せてきている
・社会不安が増大し、一般庶民の生活が苦しくなっている
・海外諸国に侵略の意図があり、日本の国家海防が重要事項となってきた
いずれも現代の日本人が肌で実感している、日本という国家の抱える厳しい問題です。「このままでは日本は衰退するのではないか?」「閉塞感の先に何が起こるのか不安で仕方がない……」。政治や経済が行きづまり、グローバル化の波が押し寄せて、国際マーケットで次々と日本企業が敗北を喫しているなか、社会の不安は高まっています。現代日本と日本人は、待ったなしの多くの難題に今まさに直面しているのです。
一方で、140年前の日本という国家、日本人が体験した深刻な国難と、現代日本の難題は不思議に似ています。「隠れた共通の構造」を持つとさえ言ってもいいでしょう。
【幕末日本が抱えていた難題】
・長老体制、腐敗政治などで江戸末期の財政は大幅に悪化
・ペリーの黒船来航により、強制的にグローバル化の波にさらされる
・打ちこわし、「ええじゃないか」など、社会不安で騒乱が起こる
・金と銀の交換比率により、外国人投資家が殺到、日本から多量の金が流出
・西洋列強は植民地主義を掲げており、日本は国家防衛力の増強が急務だった
西洋列強と比べて、技術力・武力・知識の差が歴然だった当時、幕末期は現代日本の危機よりさらに巨大な閉塞感と見えない未来への不安に脅かされていたと考えられます。しかし、私たちと同じ日本人である幕末明治の人々は、未曽有の国難を見事に乗り越えます。約300年間続いた江戸幕府という日本の旧権力構造は維新で刷新され、140年前の日本人は新しい統治体制を創造することができたのです。日本という国家の輝かしい歴史上の勝利ですが、勝利を手に入れる前は「絶望的」とも呼べる、巨大な危機に直面していたのです。
これまで何度も構造改革に取り組みながら、結局は何も変わらない今の政治。危機感を募らせる日本企業も、なかなか新しい道筋を見つけられずに右往左往しています。一方で、我々国民もまた、本当の意味で危機感を持ち、他人任せにせず、自らの手で新しい国や社会をつくろうという意識が低いことも事実でしょう。そんな状況において、今では多くの人が悲観的な感情を持ち始めているかもしれません。
「なぜ、かつての日本は変われたのか?」
同じ日本人である幕末明治の人々は、どのように個と国家の変革に成功したのか。実は、その秘密を解くヒントが、当時日本人が夢中で読んだ『学問のすすめ』に隠されているのです。

『学問のすすめ』が示唆する、変革期に消滅する3つの古い勝者

明治維新直後の方向感を模索する日本国内で、10人に1人が読んだとされる大ベストセラー『学問のすすめ』は、日本の近代化に多大な影響を与えます。

維新の立役者の一人である西郷隆盛は、諭吉の書籍を愛読していたと言われており、日露戦争で活躍した秋山好古陸軍大将は(日本海海戦での参謀、秋山真之の兄)諭吉を尊敬しており、晩年を教育者として過ごしています。
『学問のすすめ』は、時代の変革期には過去勝者だった3つの存在が敗北することになると示唆しています。悲惨な運命を辿るのは、どのような存在なのでしょうか?
(1)古い身分制度に依存する者
諭吉は古い身分制度に依存することで成立していた権威が、新時代には無意味なものになると指摘しています。幕府と武士階級は身分制度に固執したことで、新しい時代の問題解決能力を失っており、黒船以降の大変革に対処できずやがて日本から消滅します。
(2)実際の効果を失った古い学問に固執する者
幕末期にすでに効果を失った時代遅れの学問に対して、諭吉は人間の日常に役立ち、今日の問題解決ができる学問を「実学」と呼んで新たに定義しています。古い定義の学問に固執したものは、学んだことがすでに効果を失っていることで、長い修養を積んでも自身の生計すら立てることができず、周囲や国家に貢献できる人間に成長することができない。逆に、今日の問題解決が可能な「実学」を優先的に学ぶ者こそ、新しい時代に自分を生かす活躍の場を得ることができるとしています。
(3)直面する問題に当事者意識のない個人・集団・国家
戦国武将の今川義元(駿河)が、織田信長の合戦で討たれたあと、今川軍は蜘蛛の子を散らすように四散して、あっけなく今川軍は滅びてしまいました。一方で、フランス軍はプロシアとの普仏戦争でナポレオオン3世が捕虜になったのちも激烈な戦闘と抵抗を続け、国家としてのフランスを維持することができました。フランス人は直面する問題について国難を自分の身に引き受けて、自ら戦ったからです。
現在、新しく直面する問題に当事者意識のない個人、集団、国家は、誰かから指示を受けないと動けず、頭も使うことがありません。結果としてこのように当事者意識のない集団は、指示をする指導者が有効性を失うと、一気に瓦解してしまうのです。
これら3つの存在は、昨日と同じ今日が続いていく限りは、ある種の勝ち組であったと考えることもできます。古い身分制度や権威にしがみ付いても問題が起こらない平穏な時代、過去の学問を学んでも、その学問が実用として効果を発揮してくれる時代、当事者意識がなくとも、周囲や指導する人になんとなくついていけば安泰だった時代、そうした古き時代の勝者が、新しい問題や変化に対処できないとき、過去に依存していた存在はすべて敗退することになります。
この変化が一つの業界で行われるなら、ビジネス上のイノベーションと私たちは呼びますが、国家規模で起こった場合、大変革期と呼ぶ歴史の一ページとなるのでしょう。江戸末期には、西洋砲術(大砲の技術)と日本国内の砲術には相当の性能差が存在し、西洋列強と戦闘になった薩英戦争や下関戦争では、薩摩藩と長州藩が共に敗退しており、江戸幕府も西洋列強との接触では問題を解決することができず、1858年には不平等条約といわれる日米修好通商条約を締結しています(同条約の解消には約40年の月日がかかった)。
『学問のすすめ』は刀を指したサムライの時代から、ガス灯が煌めく明治への大変革を成し遂げた時代を代表する啓蒙書です。リアルタイムで日本と世界の劇的な変化を体験した福沢諭吉は『学問のすすめ』を通じて、現代の私たちに変革期に消えゆく存在がなんであるかを、改めて教えてくれているのです。

学問は生き残るための武器である

諭吉は『学問のすすめ』第10編で、「今の我が国の陸海軍が西洋諸国の軍隊と戦えるか、絶対に無理だ。今の我が国の学術で西洋人に教えられるものがあるか、何もない」と述べています。この箇所を読むだけでも、戦後の長期的な繁栄のあとで、すっかり自信を喪失した現代日本と、明治維新直後の社会状況や庶民の精神性に類似点があることがわかります。
諭吉は「ただただ外国勢力や西欧の科学文明を恐れているのではダメで、日本という国家の自由独立を強化することこそ、学問をする者の目標である」と説きます。学問に励み知恵を得るのは、国内で競うためではなく、外国人と知の戦いで勝ち、日本人が日本の国家的地位を高めるためである、とまで言っているのです。
面白いのは、諭吉が1860年、徳川幕府の軍艦である咸臨丸で太平洋を横断し、アメリカを訪問した際の話です。各地で大歓迎を受け、日本人が好きな魚が毎日用意され、風呂も沸かしてくれるなど日本の習慣を理解した最大限の歓待を受けました(諭吉は現地で接したアメリカ人の、フェアで公正な精神にも大いに感銘を受けています)。
しかし、訪問先でさまざまな科学技術や先進的な工場を紹介されたとき、アメリカ人は当時の日本人が夢にも思わない先端技術を紹介したつもりでしたが、諭吉自身はすでに数多くの洋書を研究読破していたため、「テレグラフ」「ガルヴァニの鍍金法」「砂糖の精製術」など、科学技術に関しては知っていることばかりで、少しも驚きませんでした。「無知」が知らない存在を畏怖させる一方、「適切な学問」で必死に努力することは、人に深い自信を植え付けてくれることを、諭吉自身も体得していたのかもしれません。
当時は日本国内の古い社会制度が崩壊し、同時に西欧列強に最短で追いつく近代国家の建設に日本人全体で邁進した時代です。諭吉のメッセージは、新しい時代に不安や恐れを抱く国民を励まし、勇気を与え、日本の国家的自主独立を維持しながら、見事な近代化を成し遂げる、日本人の強固な精神的支柱となったのです。

新時代をサバイブする武器としての『学問のすすめ』7つの視点

諭吉が書いた『学問のすすめ』という書籍は、単純に修身の教科書のような読み物ではなく、日本の危機的状態に対処するためのサバイバル戦略と、国家と個人の変革を指南する切実な内容であることがおわかりいただけるのではないでしょうか。
『学問のすすめ』を日本の変革を導く戦略指南書であると捉え、以下の7つの視点で分析することで、真の姿をより鋭利に描き出すことができるようになります。
(1)変革に必要な意識と対策
西洋列強のアジア進出と、すでに多くの国家が植民地となってしまった現実を見据えて諭吉が出した「日本変革に必要な意識と対策」。日本はギリギリのところで西洋の植民地化を免れていますが、書籍『学問のすすめ』はどのような役割を果たしたのか。
(2)実学という新たな定義の威力
古い学問の賞味期限切れと、江戸幕府が海外情勢の変化に対処できなかったことには密接な関係がありました。日本が国家として、日本人が個人として生き残るために「学習対象を切り替える」必要性を諭吉は鋭く論じています。
(3)変革期のサバイバルスキル
先に「変革期に消え去る3つの勝者」についてご説明しましたが、変革期に直面する社会では、過去の多数派と同じ流れになんとなく付いていくことで、成功を維持することができません。何しろ、多数派自体が間違っている可能性が高まっているのですから。
(4)グローバル時代の人生戦略
比較検討の枠組みが急速に広がるグローバル化。幕末明治の日本と日本人は、半ば強制的にグローバル化を押し付けられた立場でしたが、対処しないわけにはいきませんでした。比較検討の枠組みが広がることで何が起きるのか。ガラパゴス化という言葉が象徴するように、内にこもりがちな日本と日本人が変化の時代にどう生きるべきなのか。
(5)難しい時代に必要なアタマの使い方
慣れ親しんだ過去と決別し、新しい時代に直面するとき、不安や悩みが続くことで「自分のアタマを使うことを放棄する人たち」が続々と出現します。良し悪しの判断力を磨くこともせず、新たな説を盲信して表層的な“開化先生”になる人物も増える時代、どのように私たちは自分のアタマを使うべきなのか。その具体的方法。
(6)歴史が教える「変革サイクル」の起動法
諭吉は幕末明治人には珍しく合計3回の海外渡航経験があり、幕府の使節団として米国・欧州を訪れています。さらに多くの洋学書を読破した諭吉は、各国の歴史が教える社会変革に共通する事項を見抜いていました。『学問のすすめ』には諭吉が天才的な頭脳で到達した、「国家の変革サイクル」を起動する方法が描かれているのです。
(7)日本の未来を創造するための鍵
諭吉はなぜ書籍『学問のすすめ』を書いたのか。なぜ日本を変革する戦略指南書となったのか。当時、日本を取り巻く環境と時代はどのように動いていたのか。中津藩の下級武士の家に生まれた諭吉青年が、自ら環境の壁を飛び越えながら学び、世界情勢と日本の現状を見比べて辿り着いた、未来を創造するための構造とは一体なんだったのか。
上記、7つの新たな視点での分析は『学問のすすめ』のまったく別の「真の姿」を映し出してくれます。諭吉は日本の国内戦争だった戊辰戦争で、東京の上野で大砲が鳴り響く中授業を行うような時代を体験し、自身が幕臣であることで江戸幕府内部がいかに時代遅れであったかを痛感していました。
一方で彼は攘夷(外国排斥運動)を強固に推進する薩摩長州側が勝利すれば、外国排斥が激化し、海外先進国の技術知識、文化を日本が学ぶことを拒むようになり、最終的に日本という国家が弱体化して西洋の植民地にされることも強く憂えました。

結果、彼の先見性と戦略性、世界情勢の中で日本という国がどうサバイバルすべきかという提言のすべてが『学問のすすめ』という類まれな書籍に昇華されていったのです。

日本の歴史から読み解く「失敗の本質」から「成功の本質」への回帰

昨年出版した拙著『「超」入門失敗の本質』では、日本的組織論の白眉である『失敗の本質』から、現代日本に共通するエッセンスを導き出しました。名著『失敗の本質』は約70年前の、大東亜戦争における日本軍の作戦を精緻に分析したベストセラーです。
今回の連載ではさらの70年遡り、約140年前の日本の歴史的勝利である「明治維新」を当時の国民的ベストセラーである、福沢諭吉の『学問のすすめ』を通じて分析し、日本という国の「成功の本質」を描き出すことを目標としています。
当時の日本で文明開化を目指した諭吉や、維新に奔走した幕末の志士達は無為無策のままで時間を過ごしたわけではありません。彼らを含めた無数の日本人が危機に奮い立ち、望ましい未来をつくるために行動したからこそ、歴史の偉業が成し遂げられたのです。
幕末以降から現代に至るまで、日本の飛躍は大きく2つあると言われています。一つは明治維新後に、極めて短期間に先進国へ追い付いた幕末明治初期。もう一つは300万人以上が亡くなった敗戦以降、わずか20年程度で経済大国に成長した戦後日本の高度成長期。
この国の失敗の本質が存在するのなら、当然成功の本質も存在するはずです。過去2回の大飛躍である明治維新後と、戦後の高度成長。この2つの隠れた共通点を見つけることができれば、それは「日本の成功の本質」と呼べるものかもしれないのです。





余談です。
これは、鈴木博毅氏が自分の著書を解説する文章です。
鈴木博毅氏は、思想家ではないと思いますので、あまり無茶は言えませんが、少しだけ注文をつけたいと思います。
鈴木氏には、この国の課題を捉える視点はあると思います。
ただ、時代背景が似ているとはいっても、瓜二つではありませんので、今の時代に「学問のすすめ」をそのまま流用することはできません。
鈴木氏は、「学問のすすめ」に匹敵する思想が必要だ、と言っているのだと良心的に解釈しておきます。
ここまでは、建前論です。
折角、長い文章を読んでもらったのに、申し訳ないのですが、私には、こんな本を買う人の気がしれません。
この本が、現在の日本に警鐘を鳴らしているのだとしたら、空論に過ぎません。
それは、この本が現実を無視しているからです。
残念ですが、この著書が、現実から遊離していると感じるのは、福沢諭吉が「学問のすすめ」を書いた時の時間軸です。この本は明治になってから書かれています。明治維新と呼ばれる政変は、江戸城が炎上しなかったとはいえ、間違いなく武力革命です。その革命後に書かれた文章です。では、今の日本で、革命が行われたのでしょうか。これから、革命が起きるのでしょうか。いいえ、革命が起きることはありません。このことが、時代背景を全く別のものにしているのです。
徳川幕府の中枢にあった大老と老中が、その時代に対応できなくなり、世界の潮流に遅れ、他のアジア諸国と同じように植民地になる危険があったために、革命が起きたのです。もし、明治維新がなかった時、徳川幕府の老中が、政策を変えることができたのでしょうか。
現在も、日本の中枢にいる官僚が、今の時代に対応しきれていないから、国家衰退が始まっているのですが、革命は起きていません。今のままで、官僚に日本のあり方を変えることができるのでしょうか。いいえ、権力者が自ら進んで権力を手放すことはありません。
明治時代は、革命後の日本だったから、「学問のすすめ」に意味があったのです。
現在は、革命が起きていませんし、官僚が排除されていませんから、「学問のすすめ」は、残念ながら、通用しないのです。
このままでは国が崩壊する、という状況は同じですが、革命の有無は決定的な相違点になります。
では、今の日本で、革命が起き、新しい思想が生まれるまで、どのくらいの時間が必要なのでしょう。仮に、13年後に財政破綻が起きるとした時、それまでに日本は変われるのでしょうか。とても、無理です。
残念ですが、鈴木氏の著書も、私の主張と同じマスターベーションに過ぎません。
今の日本では、「学問のすすめ」を勧めても効果はありません。
今の日本に、最も必要とされるのは、革命です。
それを主張する方がいないのが、この国の不幸だと思います。
もちろん、政治家を殺せ、とか、霞が関を燃やしてしまえと言っているのではありません。
法律を使って、この国に革命を起こすことは可能です。昔は、法律での革命などありえない発想です。でも、今の時代であれば、機能はしていませんが、この国は形の上では民主主義国家であり、法治国家ですから、法律で革命を起こすことは可能です。皮肉な話ですが、民主主義や法治主義が初めて役に立つことができるのです。中国や北朝鮮では、武力革命という手段しかないと思います。
そのためには、「自分さえよければ」ではない政治集団と、民主主義という概念を正しく定義できる学者集団とそれを支持する国民が必要です。要は、今の封建制度や独裁政治を排除すればいいのです。看板通りの民主主義国家になればいいのです。その上で、明治時代に必要とされた「学問のすすめ」のような、時代に合った思想を手に入れることです。
でも、それは、「学問のすすめ」そのものではありません。
復古で時代を変えることはできないのです。それは、ただの無能力の証明にしかなりません。教育勅語を道徳にしようという馬鹿もいます。今の時代を生きている人間が、今の時代のために創造する思想だけが、時代を変えるのです。過去の思想は、最大限、参考にするべきですが、あくまでも、新しい思想は、今の時代のためのオリジナルでなくてはなりません。時代を変えるためには、時代に負けない巨大なパワーが必要だからです。そのパワーは、誰かを、何かを真似ることでは手に入れることはできません。
ただ、時代を変えるためには、革命が不可欠であることだけは間違いありません。それは、権力者の交代を意味します。権力者の交代こそが革命なのです。革命の手段は問いませんが、革命なしには時代が変わることはありません。
権力者はその力を使って自分を守ります。ですから、革命前夜の数年間で革命家の多くが命を奪われる結果になってきました。これは、古今東西、人間社会に共通する歴史です。革命は、それほど簡単にできることではありません。でも、それしか権力者を交代させることはできないのも、厳然たる事実なのです。今の日本人に、そのパワーがあるでしょうか。いや、それ以前にこの危機を認識しているでしょうか。残り時間は、どんどん失われていきます。
そう考えると、ずるずると崩れていくのはやむを得ないのではないかと思います。


2013-03-31



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記事紹介 33 [記事紹介]



3/21付 ダイヤモンドオンラインの記事を抜粋して紹介します。
筆者は 野口悠紀雄氏
表題は 日本のTPP交渉参加を、中国はどう見ているか?



[前略]
最初に注意すべきことは、「TPPはアメリカのアジア戦略の一部だ」ということである。
日本では、「TPPとは貿易自由化協定である」と単純に理解されていることが多い。しかし、これは自由化協定ではなく、「ブロック化協定」である。これは、実質的には日米のFTA(自由貿易協定)であり、その目的は、太平洋経済圏にアメリカ流の経済ルールを確立し、中国の成長をけん制することだ。
日本は、安全保障の面でアメリカに依存せざるをえないという事情があるので、TPPがアメリカの太平洋戦略である以上、それには参加せざるをえない。これは、最初から課されている制約条件である。つまり、「経済的な利害得失を考慮してTPPに参加するか否かを選択する」というオプションは、日本には最初から与えられていないのだ。
ところが、それでは国民を納得させることができない。そこで、TPPに経済的な意味付けを与えようとする努力がなされる。
しかし、純粋に経済的に見れば、TPPにはほとんど意味がないのである。とくに、「日本の輸出を増やす」という観点から見ればそうだ。
政府の試算がそれを明確に示している。TPPはGDP(国内総生産)を0.66%増やすというのだが、これは、「10年後に」ということだ。単純に年率で考えれば、GDPのわずか0.066%ということとなる。これは、「誤差の範囲」と言ってもよいオーダーのものだ。つまり、TPPがGDPを増加させる効果は、ほとんどないのである。
こうした結果になるのは、アメリカの関税率は(トラックなどを除けば)すでにかなり低く、またアメリカ以外の参加国は経済規模が小さいので、日本の輸出に与える影響はきわめて小さいからだ。
もちろん、農産物などの市場開放がなされることは、日本の消費者の立場からすれば望ましいことである。しかし、市場開放が目的であれば、日本が自主的に行なえばよいことである。関税以外の点での日本開国も、TPPによらなくともできる。それらは、日本が自発的に行なえばよいことだ。
[中略]
今回の日米共同声明に至るまでの経緯を見ると、日米両国とも、国内の利害調整に配慮しつつ、形式的にTPP交渉に入ることを最優先してきたことが分かる。
どちらの政権にとっても、それぞれの「お家の事情」がある。すでに述べたように、アメリカは、アジア戦略の一環として、日本を含むTPPを形成したい。しかし、オバマ大統領の再選には、自動車産業が集積するアメリカ北東部の支持が重要な役割を果たした。だから、自動車産業の利益には配慮せざるをえない。乗用車の関税はすでに2.5%と低いが、トラックは25%である。
他方で、安倍政権としては、TPPを安倍経済政策の「3本の矢」の第3番目である「成長戦略」の一環として位置付けたい。しかし、当然のことながら、農産物の市場開放に反対する農業関係者に配慮しなければならない。
だから、日米どちらの政権も、これらの点に配慮して実害を少なくしつつ、政治的な成果と見せることが目的なのだ。
すでに述べたように、TPPはもともと経済的にはあまり意味がないものだ。それに加えて自動車や農業が例外になれば、経済的にはほとんど意味がないものになるだろう。
[中略]
日本では、TPPを貿易自由化協定と見なし、これが製造業の輸出を増やすという経済効果が強調されている。その半面で、これが国際政治的にいかなる意味を持つかが議論されていない。これは、大きな問題だ。
とくに重要なのは、中国の反応である。TPPを中国の立場から見るとどういうことになるのか。これが日本では十分に議論されていない。
第1に、中国は、TPPをアメリカ極東戦略の一部と位置付けている。アジア太平洋地域でのアメリカの戦略の一環であり、軍事戦略と同列のものだというわけだ。
第2に、関税撤廃というよりは、アメリカの取引ルールを押し付けるという面を重視している。そして、その面においては、中国の現在の経済体制では適合できないとの認識がある。
第3に、中国は、日本が対米関係を緊密化することを快しとしない。日中韓FTAを先行すべきだと考えている。
このように、TPPは国際政治がからむ非常に複雑な問題である。
日本でこうした視点が欠けているのは、多分、政府の説明を記事化することが新聞報道の中心になっているからだろう。中国のほうがTPPの性格を客観的に見ている面もある。
日本のニュースを外国のメディアから見るのは重要な視点だ。ところが欧米のメディアは、あまり日本に関心を示さなくなってしまった。他方、中国にとっては、日本は重大関心事だ。だから、今回の交渉参加決定に関しても、多くの報道が行なわれている。
[後略]




余談です。
野口悠紀雄氏は中国語にハマっていて、少し読み辛いことがありますので、中国語の部分は外しました。野口氏はかなりの年齢だと思いますが、中国語に挑戦される熱意には敬意を表するものであります。
石田の意見とは違いますが、野口氏の意見も国内で流布されている官制意見とは違いますので、ここに取り挙げました。私には、官制報道より野口氏の意見の方が納得できます。
記事の中の文章に、私なりの解釈をしてみます。

「TPPがGDPを増加させる効果は、ほとんどないのである」
石田は、政府発表の数字を疑問視しただけでしたが、野口氏は効果がゼロだと書いています。プラス効果が期待できないとすると、この先、マイナス効果が国民の前に突きつけられることになり、結果的には、多くの国民が落胆することになるでしょう。安倍氏が、目的を捻じ曲げて華々しく上げた花火ですから、その反動はやってきます。最初から、これが「みかじめ料」だということを発表しておけば、問題は軽減されると思うのですが、それは庶民の浅はかな思慮に過ぎないのでしょうか。
安倍政権を汽車に例えると、これまでの問題を引っ張っているだけではなく、機関車役の安倍氏が新たな問題を積み込んでいるように見えます。時間が経過すれば重いと感じる荷になると思われます。デフレ脱却も金融緩和も財政出動もTPPも、いつか、動きのとれないほどの重さになって、安倍号にとってはブレーキとなります。

「日本では、TPPを貿易自由化協定と見なし、これが製造業の輸出を増やすという経済効果が強調されている。その半面で、これが国際政治的にいかなる意味を持つかが議論されていない」
これは、官僚による言論統制の結果です。官僚達は、既に、どこに、どんな利権が生まれるかを調査済みだと思います。その利権を獲得するために、どのような世論操作がベストなのかも調べてあるでしょう。TPPを国際政治上の産物だとすると不都合があり、政治家の利害とも一致したものと思います。

「日本でこうした視点が欠けているのは、多分、政府の説明を記事化することが新聞報道の中心になっているからだろう」
日本の新聞は「お上」の広報宣伝用の新聞だ、という評価はネット上では常識になっていますが、一般的には、まだ新聞を信用している人が数多くいるのが現状です。ここは、日本ですから、仕方ありません。いくつもの新聞社がありますが、赤旗を除いては、どこも同じようなものです。
世論調査の数字も信頼できないと何度も書きましたが、現実に新聞報道や世論調査の結果を信じている人は多いと思います。いつも書きますが、メディアの罪は大変重いと思います。

「日本のニュースを外国のメディアから見るのは重要な視点だ。ところが欧米のメディアは、あまり日本に関心を示さなくなってしまった」
世界では、日本の問題は記事になりません。このことは、野口氏の記事だけではなく、いろいろな方の意見として聞くことがあります。世界は、衰退国家日本には関心がないのです。今は、反面教師としての価値しかありません。「日本化」と言われることを世界は嫌います。


アメリカとFTAを結んだカナダ、メキシコ、韓国が、マイナス効果に苦しんでいることは世界の多くの国が知っています。
TPPは、アメリカンルールの押し付けなのですから、この際、交渉の席上でアメリカ合衆国の日本州にしてくれという条件を提示してみてはどうでしょう。そうすれば、全ての規制を外すことができます。社員の首切りも簡単ですし、保険も問題解決です。軍事施設も自由に設置できます。
ただし、アメリカは承知しないと思いますので、強力な武器になると思います。それくらい腹を据えて交渉する覚悟が求められますが、日本政府にその覚悟はあるのでしょうか。そんな交渉力はありませんよね。
TPPは、アメリカの利益になり、日本は貧乏籤を引くだけです。そして、最終的には日本を切り捨てるという日本カードが切られます。それが、13年後だとすると、これも財政破綻や巨大地震と時期が重なります。
どうしましょう。


2013-03-24



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記事紹介 32 [記事紹介]



3/14付 ダイヤモンドオンラインの記事を紹介します。
筆者は 山田厚史氏
表題は 国民に知らされないTPPという悲劇



安倍首相は15日にもTPP(環太平洋経済連携協定)交渉参加を表明する。
TPPとはいったい何なのか。安倍首相も含め、全体が分かっている人が日本に何人いるのだろうか。日本だけではない。交渉当事国でさえ、自分の国が何を交渉しているのか、国民は知ることができない。
前原氏が暴露した事前交渉の一端
一端を伺わせるシーンが11日の国会論議であった。民主党の前原誠司氏が、日米事前協議を暴露した。TPPの最大の問題点は、「農業」でも「聖域なき関税」でもない。交渉内容が国民に知らされないまま、決まってしまうことだ。
日本がTPP交渉に参加するには、すでに協議を始めている加盟国の承認がいる。前原は国会で次のように述べた。
「我々が最後まで交渉参加を表明できなかったのは、なぜかというと、米国の要求、事前協議の中身があまりにも不公平だった。トラック、乗用車については関税をすぐにはゼロにしない猶予期間を設けるべきだ、ということだった。日本の安全基準については米韓FTAと同じように枠を設けるべきだ、ということだった。保険については、はじめはがん保険だけと思っていたら、学資保険の中身を変えることについても色々と言い出した。つまり中身について、事前交渉でこれをとにかく武装解除しなければ米国議会に通告しない、と。しかしこういう中身について我々は不公平であると、本来であれば、自動車の関税猶予なんてことは本交渉でやる話であって、我々は農産物を相殺して妥協しなかった」
事前交渉とは、何のためにあるのか。TPP交渉に参加する資格を審査する、というならまだ分かる。実態はTPP交渉に入る前の「武装解除」だったと前原は指摘する。
実質的な通商交渉が始まっていたのである。その要求は親米派とされる前原氏にすら「不公平だ」と映った。自由貿易を掲げながら自国の自動車関税は下げない。それでいて米国から輸出する自動車には、安全基準の審査で特別なはからいをしろ、という。「OKしなければTPPに入れないぞ」である。こういう要求は日本の国内法なら「優越的地位の乱用」とされ違法行為だ。

保険分野では学資保険も標的

保健分野ではガン保険だけでなく、学資保険まで文句をつけてきた。米国保険会社と競合する保険商品を問題にする。かんぽ生命の株主が政府であるのは非関税障壁だと主張し、「売らせるな」と圧力をかける。かんぽ生命はがん保険を扱わない、と決めたのは、こうした裏交渉を受けての決定だった。それが学資保険までダメ出しされ、「そこまでは」と日本の腰が引けた、というのが真相のようだ。
異なる文化を持ち、制度も慣行も違う国が経済取引のルールを作ることは必要なことであり、世界はその方向に進んでいる。問題はその決め方だ。フェアで、対等で、情報が公開されることが大原則だ。
TPPの危うさは、ここにある。フェアであるか怪しい。対等ではない。情報はまったく公開されない。
中身を知らない国会議員が、どうして交渉参加の是非を議論できるのか。
安倍首相は「自民党にはさまざまな意見がありますが、いったん決まれば全員がひとつなって取り組みます」と、常々言っている。
今回も、反対論、慎重論が噴出しているが、党の部会で審議にかけ、首相一任を取り付ける段取りだ。そこには議論はない。言いっぱなし、聞きっぱなしの「ガス抜き」があるだけで、問題の所在を語り合い、ことの是非を真摯に考える自由で民主的な作業は見えない。党内の議論は、手順を踏む儀式である。

主要紙は前原発言を無視

もともとTPP交渉参加は、民主党政権で菅直人首相が、突然言い出したことだ。
対米関係でしくじった鳩山政権の轍を踏まず、米国への「武装解除」を示すのがTPP参加だった。不安定な政権を維持するには、米国との軋轢を避けるしかなかった。その足下を見透かすように「参加したかったら、これを飲め」と要求を突きつけられた。外交とはそういうものだ。
前原氏は民主党で政策調査会長を務め、昨年10月からは国家戦略担当としてTPPの事前交渉を知る立場にあった。米国の理不尽な要求を跳ねつけることも、飲み込むこともできず、交渉参加を決断できなかった。環太平洋の自由貿易をうたい、モノ作り日本に新たな活路を見出すTPPというコンセプトなのに、自動車輸出に障害を残す、というのでは国民に説明がつかなかった。
国会でこうも語っている。
「我々は交渉参加表明をしたいと模索したが、この条件ではあまりにも日本は不公平だということで、我々は非対称的だということで交渉参加表明をしなかった」。そして「これ、妥協してまさか交渉参加するなんてことはないですよね」と迫った。

安部首相は正面から答えず、「前原さんも民主党も政府として交渉に当たってきた。米国との交渉においては、中身においては、皆さんに守秘義務が課せられているはずです。交渉中のことをいちいち外に出せば交渉にならない」とした。
前原氏が「守秘義務」を破っても訴えようとした「不公平な交渉」は、翌日の全国紙はほとんど載らなかった。東京新聞が扱った程度で、朝日も日経も無視した。

バスはもう出てしまった

TPPの悲劇は、交渉に守秘義務が課され、事実が外に伝われらないことだ。
前原氏が問題視した事案は、民主党政権のごく一部と官僚だけが知っていたことだ。
自動車が米国市場で不利に扱われるのを認めるか、見返りに農産物の例外を認めさせることがいいことなのか。かんぽ生命への干渉を許すのか。どれも日本にとって重要なことだ。政府のごく一部だけが知り、決めてしまう。こんなことが秘密裏に行われていいのか。国会も国民も蚊帳の外におかれてきた。
守秘義務をかけた交渉で、得をするのは誰なのか。
日本が交渉参加を表明すると、米国議会が参加を認めるかどうか審査する。あちらもねじれ国会、財政削減をめぐり大統領とギクシャクする議会にとって、重要度がさして高くもない日本のTPP交渉参加が、どれほどの優先度で審議されるか定かではない。7月までに結論が出るといわれるが、そうなったとしても日本が交渉のテーブルに就けるのは夏休み明けの9月から。交渉終了の1ヵ月前である。
入れ、入れ、とせっ突かれ、無理を受け入れて交渉に参加しても、ルール作りにはほとんど加われない。
7日の東京新聞は「日本が交渉入りしても加盟国が合意した項目は、再協議することはない、と参加9ヵ国で決められている」と特報した。バスはもう出てしまった。
シンガポールで開かれた3月の交渉で、米国の交渉担当者は、「日本が交渉参加を表明しても、事前に交渉のテキストを見ることはできないし、確定した項目に修正や文言の変更は認められず、新たな提案もできない」と述べた、という。

決められたルールは受け入れるしかない。見せてもらえない、というテキストは900ページに及ぶといわれる。交渉参加はサインするだけになりそうだ。

企業が国家を支配する

では、交渉参加国は喜んでいるのか。そうともいえないのである。なぜなら、国民は何が話され、どう決まったのか、知らされていない。交渉の主導権を握る米国でも、TPPへの疑念は広がっている。
「TPPで企業が国家を支配する」という刺激的なタイトルをつけたキャンペーンフィルムが米国のNGOによって作られた。
焦点となっているのがISDS条項と呼ばれる「投資についての紛争解決システム」だ。ある国に投資した企業が、政策の変更で損害を受けたとき、その国の政府を訴えることができる。訴訟を扱うのはワシントンに本部のある世界銀行だ。
米国のNGOは、NAFTA(北米自由協定)に盛り込まれたISDS条項を使って、メキシコやカナダで、米国の廃棄物業者が政府を訴え、巨額の賠償金を勝ち取ったことを実例に上げ問題にしている。環境規制を強化したり、国内業者を保護したりする政府を、外資が訴えるという仕組みだ。
国境を越えた投資は、各地で摩擦を起こすことは少なくない。それぞれの国で裁判になるのが普通だが、国家を飛び越え世銀に設けられた仲裁機関が決定する。言語は英語である。決定に当事国の裁判所は関与できない。訴訟社会の米国らしい解決方法だが、多国籍企業が訴訟という武器を装備することになる。世銀は代々米国が総裁を送り出している。IMFと並び米国主導の国際金融体制を支えてきた拠点である。
TPPは協定が結ばれると、国内法制を協定と整合性ある形に変えることが迫られる。分野は貿易にとどまらない。薬品の認可や価格、食の安全表示の仕方、金融や輸送、知的財産、紛争処理超国家の経済秩序が各国の制度を規定する力となる。
秘密交渉のTPPの交渉内容は、各国のNGOが監視し、政権内部のシンパから情報が伝わる、という展開になっている。
TPPは、文化と伝統を背景に出来ている経済の慣行や制度を根本から問い直すものだ。改革のきっかけになるかもしれないが劇薬である。力の強いものに有利に働くだろう。
そうであるなら、国民的論議が必要だ。少なくとも国会に情報を提供して、議論されてしかるべきだろう。
「不公平な武装解除」を問題にした前原氏も結局は抱え込んだまま、国民に問いかけることをしなかった。自民党は、農協の反対を抑えるのに、米国にも「自動車という聖域」がある、と示しただけで、それでTPPで日本がどうなるのか、明らかにしていない。
安倍政権は、菅政権同様、日米関係という力学で参加を決めたように見える。あとは手順を踏むだけ。形ばかりの審議で決めてよいのか。TPPは日本の民主主義の成熟度を試しているように思う。




余談です。
私見では、TPPはアメリカという暴力団に上納する「みかじめ料」だと捉えています。
TPPはアメリカ経済のための政策であり、日本のためではありません。政府は3.2兆円のプラスだと発表していますが、その数字に根拠はありません。だったら、「みかじめ料」を支払うことを拒否できるのかと言うと、それはできません。日本という国は、アメリカの庇護のもとに存在しているからです。商売をやめるか、「みかじめ料」を払うかの二者択一なのです。属国である日本に他の選択肢はありません。
多分、多くの官僚や政治家も同じ考えだと思います。
この67年間、アメリカは日本を属国にしたことで大きな利益を得てきました。日本から利益が得られない時期が来ることは想定していると思います。その時が、日本を切り捨てるという日本カードを切る時期になります。それが怖いから、日本はアメリカの要求を受け入れるのです。いずれ、日本カードは切られますので、いまやっていることは、財政破綻と同じ構図の引き延ばし策に過ぎません。それでも、アメリカに切り捨てられた時のダメージを考えると、身が竦むのでしょう。権力者は、特に恐怖心が強いものです。
山田氏の評論は正論ですが、前提にあるのは対等な国家関係です。でも、日米間には、対等な国家関係などあったことはありませんし、現在も日本は属国です。
ですから、不利益であってもTPP交渉に参加することになりますし、不利益な条文でも受け入れるしか選択肢はありません。安倍氏の種々の発言はリップサービスです。
日本崩壊という時期を迎えているこの国にとって、TPPも崩壊を推進する材料になると思われます。ほんとに、「これでもか」というくらいに条件が整備されてきています。
これは、私達日本人が、あらゆる事柄を曖昧にしてきた結果です。それでも、私達は嵐が通り過ぎるのを待つことしかしていません。
もう一つ、山田氏は厳然たる事実を無視しています。
それは、日本が民主主義国家ではないという現実です。
山田氏は、評論の最後で「TPPは日本の民主主義の成熟度を試している」と書いています。山田氏の評論に限らず、このような主張は常に行われています。前提を無視すれば、どんな論法でも成立する見本です。成長戦略はないという前提を無視して、成長戦略という枕詞を使ったり、民主主義国家でもないのに、民主主義の成熟度を持ちだしたりするのは違反だと思います。
でも、国民はそれで納得しているのですから、仕方のないことなのです。私達は足元を見る習慣がありませんので、誰も見た人はいないかもしれませんが、私達の両足は地面についていません。日本は、曖昧という空気の中で、宙に浮いている国なのです。


2013-03-16





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記事紹介 31 [記事紹介]



記事を二つ紹介します。


ウォールストリート・ジャーナル紙からの抜粋です。

船橋洋一氏という人が、「日本最悪のシナリオ」という報告書を出すそうです。
尖閣諸島をめぐる軍事衝突、北朝鮮崩壊、ホルムズ海峡閉鎖といった3つの地政学リスク、それから核テロ、サイバーテロ、首都圏直下型地震による中枢機能のまひ、パンデミック(感染症の世界的流行)、人口衰弱、国債の暴落。以上の9つを挙げています。


余談です。
石田の私見では、東日本大震災を通常の厄災だと考えれば、これら9つのシナリオの内、最後の国債暴落を除く8つは通常シナリオだと考えています。東日本大震災を通常の厄災だと決めつけるのは、心苦しいのですが、厄災の規模が違いすぎますので仕方がありません。国債暴落以外のシナリオでは、犠牲者は多くても数万人から数十万人だと思います。しかし、国債暴落だけは数千万人の犠牲者が出ます。でも、最悪のシナリオに挑戦するということは大切なことです。間口が広いので、船橋氏が、どれだけ深く掘り下げることができるのか、心配ですが、見守りたいと思います。船橋氏だけではなく、これをきっかけとして、多くの方が最悪のシナリオに挑戦して欲しいと願っています。
また、どんな報告書になるのか不明ですが、シナリオですから起承転結は書いて欲しいと思います。そうすれば、起承転結の「結」で、最悪の事態を迎えた後の国民生活が想定されるという期待が持てるかもしれません。
とは言っても、余り期待はしていません。でも方向性は正しいのですから、時間をかけて挑戦するしかないのでしょう。
どちらにしても手遅れですから、無理を言うつもりはありません。



スウェーデン在住のジャーナリストの[みゆきポアチャ]氏の記事で「欧州に吹き荒れる大量解雇の嵐」という記事を抜粋して紹介します。

[前略]
過去最悪を記録する失業率
最悪はギリシャの27%で、次いでスペイン26.2%、ポルトガル17.6%となっている。特に深刻なのは若年層の失業だ。EU全体での25歳以下の失業率は23.6%。ギリシャの若年失業率は59.4%、スペインでは55.5%、イタリアでは38.7%となっている。
[中略]
 政府の財政緊縮策が貧困と大量失業を生み出している諸悪の根源だ。少なくとも、ギリシャやスペインをはじめとする南欧の人たちはそう考えている。
 これらの国々では、現在何百万、何千万もの人が極度の貧困状態に陥っている。
 ギリシャ銀行(中央銀行)が2月25日発表した年次リポートによると、2012年には人口の23%が貧困ライン以下で生活をしている。2011年には16%だった。子供の貧困も増え、貧困のリスクにさらされている家計は人口全体の31%に達したという。2010年から2012年にかけて、ギリシャ人の給与は平均で20.6%カットされている。
 現在ギリシャでは465万人が失業しているか、収入が何ら得られない状態にある。家族の誰一人として職に就いていない家庭は45万世帯に上る。2010年には民間企業全体で260万人が雇用されていたが、現在までに、そのうちの90万人が解雇されている。
 ギリシャのホームレスは公式発表で4万人に上っている。キリスト教会の炊き出しには長い行列ができ、栄養不足により子供が学校で失神するという報告が増えている。政府市庁舎の前で、抗議の焼身自殺をする失業者のニュースも報道される。
 が、このリポートを発表する際にギリシャ銀行総裁で欧州中央銀行(ECB)政策理事会のメンバーでもあるジョージ・プロボポラス氏が放った発言は、こうだ。「(緊縮財政措置により)金融崩壊の危機を克服し、信頼は着実に回復している」「(危機の)終わりが見えてきた。より一層の厳しい措置が必要だ。不況を言い訳にしてはいけない」
[中略]
 緊縮財政策に反対する公務員や民間企業の労働者、農民も含めた大規模なストは続いている。これに対しギリシャでは、軍隊を投入して大規模反対運動を弾圧する用意をしている。
[後略]


余談です。
このブログは、ギリシャと長い付き合いになりました。私も、久しぶりに、ギリシャの話題を読むことが出来ました。筆者のみゆきポアチャ氏は、多分、スウェーデン人の男性と結婚してスウェーデンに住んでいるのだと思います。
ここで、私達日本人が勘違いしてはいけないことがあります。
欧州各国は、国家崩壊には至らないだろうという予測があるということです。これは、石田の予測ですから、余り信用しないでください。
つまり、バケツの底は抜けていませんので、どこかで貧しさが安定し、時間をかければ再生が可能な状況にあるということです。
これを、石田流で言えば、ギリシャはレベル5へ向かっているのです。それでも、ギリシャ政府は軍隊で国民を押さえつける必要があると考えています。
ニュースにはなっていませんが、貧困にあえいでいるのは一般庶民であり、権力者グループの人々は、それなりに豊かな生活をしているものと思います。それは、どこの国でも行われていることです。ギリシャ銀行総裁の発言が載っていましたが、彼が貧しさの中に沈み込んでいたら、あのような発言はしないと思うのです。
ギリシャのGDPの減少は、6年目になるそうです。ユーロ危機以前のGDPの3/4になったそうです。あと何年我慢すれば、失業率が何パーセントになれば、収入減が何パーセントになればギリシャのバケツの底が見えるのか、まだわかりません。でも、いつかは底が見えます。頑張ってほしいと思います。
しかし。
日本の場合は、バケツの底がありません。
日本では、貧しさが安定することはありません。ですから、ギリシャが辿っている道は、私達日本人が辿る道とは別のものです。ギリシャは、どこかで貧しさの安定に出会うことが出来る。今は、その途上にありますが、日本は、ずっと途中経過が続きます。それは、貧しさがどんどん深くなっていくということです。ギリシャの比ではありません。
底なしの貧しさ。
これが、レベル9です。


2013-03-13



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記事紹介 30 [記事紹介]



2013年3月1日付 英フィナンシャル・タイムズ紙の記事を紹介します。
表題 日本経済、手早い対策は緩やかな停滞より危険か




大方の日本人投資家は、通貨を押し下げ、新たな財政刺激策に乗り出す首相の決意を歓迎した。安倍晋三氏が昨年12月に首相に選ばれてから、TOPIX(東証株価指数)は22%上昇し、円相場は大幅に下落した。
 そして今後、財務省の元キャリア官僚で新たに日銀総裁に指名された黒田東彦氏が、より積極的な量的緩和策を指揮することになる。
 だが、もっと懐疑的な向きもある。構造改革の不足や不利な人口動態、低い生産性、中国、韓国などの近隣諸国からの競争上の脅威を考えると、こうした政策は金利上昇を招く一方、悪影響を相殺する恩恵が見込めないと考えているからだ。
 数十年とは言わないにせよ、もう何年も、日本円と日本国債に対する空売りは、損失が膨れ上がるために墓場トレードとして知られてきた。

「墓場トレード」と呼ばれてきた日本売りに異変

 ところが今、アベノミクスという決して新しくはないが素晴らしい世界のおかげで、円売りは利益を上げており、日本に対する弱気筋は、弱気に基づく賭けの対象を日本企業に広げている。
 こうした投資家のポジションは、政府がやろうとしていることにどれだけ大きな利害が絡んでいるかを物語るとともに、多くの運用担当者やエコノミストが、新政権が日本を今より高く持続的な成長軌道に乗せられる可能性について悲観的な理由を示している。
 なぜなら、政府の政策課題は概ね、過去にうまくいかなかった手っ取り早い対策から成り、長年の低成長ないしマイナス成長を経た今では、従来以上に危険な対策だからだ(そして現在、日本はマイナス成長が3四半期続き、再び景気後退に陥っている)。
 いくつかの面では、安い円は確かに日本の輸出企業の収益に貢献する。だが、そうした効果はある意味で人為的だ。むしろ、より魅力的な製品を作り、価格決定力を持つ方が望ましいだろう。

純粋な恩恵ではない円安

 いずれにせよ、円安は決して純粋な恩恵ではない。何しろ日本は依然、原材料の輸入に依存している。福島の原発事故で原子力発電が大幅に減少したため、現在は輸入エネルギーに対する依存度が高まっている。円安により、貿易収支と経常収支の双方に大きな圧力がかかる。
 そのうえ、もし政府が望んでいるように円安進行が続いたら、外国人投資家は為替サイドのリスクを補うために、高いリターンを求めるようになる。こうした資金は市場に流れ込む投資の一部にすぎないが、変化は常に周縁から始まるものだ。
 金利の上昇は、政府にとっても、過度な借り入れを行っている日本企業にとっても問題になる。後者のような企業が、新政権の政策に納得していない例の投資家の標的だ。
 政府の支出政策も、お粗末な対策に終わる可能性が高い。景気刺激策はこれまで、特に建設業界の既得権益の要求をそのまま反映しており、乗数効果がゼロだった。こうした事業は日本の有名な光景であるコンクリートで舗装された川や山間の小川にかかる立派な橋を生んだ。
 だが実際、そうした政策はこれまでは逆効果だった。消費者は、これらの不要な工事の代金を払うための増税を見越して、従来以上に節約しなければならないと感じたからだ。
 日本の人口高齢化を考えると、道路よりも老人ホームを建設した方がずっと良かった。そうした施設は、発展の遅れた日本のサービス部門を育成するとともに、老後のために貯蓄する動機を減らす助けにもなるはずだ。だが、それには移民が必要となるかもしれない。移民の受け入れは、政策課題に挙がってさえもいない多くの構造改革の1つだ。

「オールドジャパン」銘柄に目を付ける弱気筋

 さらに言えば、たとえアベノミクスが円安の結果としてより高い物価上昇率をもたらすことに成功したとしても、賃金は恐らくインフレに追いつかないだろう。賃金は物価に追いついたことがないからだ。その場合、弱い内需は一段と弱くなる。
 こうした理由から、米国の一部ヘッジファンドの運用担当者は今、まさに安倍政権の政策の恩恵を最も受けるはずの「オールドジャパン」銘柄に対してネガティブなポジションを取っている。
 こうしたファンドは例えばクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)市場で、製紙業界や海運業、鉄鋼業界の多くの企業のプロテクションを買っている。これらの企業がデフォルトすると考えているからではなく、事業衰退のリスクと比べて、CDSの保証料率が安く思えるからだ。
 これらの投資家が考えているように信用スプレッドが拡大すれば、投資家は儲かる。一部の鉄鋼メーカーは、アルセロール・ミタルよりも債務負担が大きく、同社以上に中国に影響されやすい。また、日本人がファクスされた地図の代わりに様々な機器を使うようになり、製紙会社ではついに需要が減少し始めている。

軍備関連銘柄が買われ始めたら・・・

 さらに、多くの日本人でさえ、安倍氏の右派の国家主義的な見解のために、こうした政策が短命に終わったり効果がなかったりしたらどうなるか心配している。
 一部のバンカーは、ほぼ150年前の明治時代以来、日本は戦争によってしか景気後退から脱したことがないと指摘する(望むらくは、1950年代の朝鮮戦争などの他国の戦争だった)。
 再軍備関連の銘柄が高騰し始めたら、日本の運勢は短期的に上向くかもしれないが、長期的には一段と大きな危険にさらされるだろう。




余談です。
フィナンシャル・タイムズ紙は、当初、アベノミクスには好意的な評論を書いていました。珍しいことだと思っていましたが、ほんの少し時間が過ぎた今、「あれっ」と思ったのかもしれません。
紹介記事の最後の部分で、安倍さんは海外から右翼だと思われている部分がありますが、海外の認識が違うのか、国内の認識が違うのか、私には判別できていません。しかし、世界の論調は、安倍氏=右翼が定番になっています。
私も、この数カ月は、いや、昔からかもしれませんが、比較的戦争を取り上げることが多かったように思います。いろいろな評論やメディアの論説にも、戦争のことが書かれることが増えているようにも感じます。実際に戦争の臭いがしているのは、否定しません。
ただ、私には、日本が戦争に突入するという予感はありません。
戦争に突入したくなるような環境になるとは思いますが、戦争はしないと思いますし、して欲しくないと思っています。戦争をして欲しくないという願望が、予感を封じているのかもしれませんが、正常な感覚からは戦争で解決できるという判断はできないと考えています。もっとも、戦争に突入する時は正常な感覚ではなくなっていると思うので、私の判断は間違っている可能性が高いのかもしれません。石田の日本崩壊論には、戦争の要素は全く含まれていません。勝手に内部崩壊するシナリオになっています。

フィナンシャル・タイムズ紙はアベノミクスの成長戦略が、昔ながらの公共投資に過ぎないと思っているようです。一寸冷静になれば、そう考えることが自然なことだと思いますが、今の日本国内は普通の状態ではないということなのかもしれません。安倍政権の支持率が70%だということは、きっと、そういうことなのでしょう。
笹子トンネルの崩落事故が「国土強靭化計画」にお墨付きを与えてしまったことにも、私は違和感を持っています。時の流れという巨大な力が、多くのことを巻き込んで、更に成長している様子を彷彿させるからです。あの天井板が崩落するのは、5年前でも5年後でもよかったのに、なぜ、このタイミングで崩落したのか。そこに、悪魔の存在を感じるのは異常なことなのでしょうか。民主党政権が誕生したことも、領土問題が顕在化したのも、なぜ、今なのでしょう。阪神淡路大震災も東日本大震災も、この20年間に発生しています。借金が限界まで膨らんでいることも、国民が貧しくなっているのも、なぜ、今なのですか。いじめが原因で、これほど多くの子供達が自分の命を絶つ社会は、当たり前のことなのでしょうか。
もう、はっきりと方向は見えているのではありませんか。
「日本化」という言葉は、いまや、衰退国家の代名詞になっています。世界の国々は「日本化」と呼ばれることを屈辱だと思っています。そして、海外の論調は、日本はもう何をやっても無駄だろうと思っているようです。そう思っていないのは、日本国民だけです。確かに、自分のことは、意外に気が付かないものです。そんな国で、官僚を頂点とする利権集団は、いまだに、利権漁りに余念がありません。衰退国家になったのも、そんな利権集団に原因があるのですが、国民が目を覚ます気配はありません。国民は、ヘラヘラ笑っている場合ではないと思いますが、相変わらずヘラヘラ笑っています。救いようのない愚か者です。
世間は曖昧な空気の中で、「なんか、よさそう、かも」と安倍政権を支持しています。世論を作っているのは、大手メディアです。その大手メディアを制御しているのが官僚です。そのことに、そろそろ、気付かなければなりません。


2013-03-06



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記事紹介 29 [記事紹介]



2/28付 ダイヤモンドオンラインの記事を紹介します。
筆者は 山田厚史氏
表題は 恐いのは「関税」より「非関税障壁」 日米首脳会談の盲点



再選を果たしたオバマ大統領、再挑戦の安部首相。初顔合わせの首脳会談は、日米双方の外交姿勢が鮮明に現れた。米国は攻めの外交。国内を守りながら日本市場を取りに行く戦略性を鮮明にした。日本は、米国にすがる外交が露わに。国内を説得するためTPP関連では「関税撤廃に聖域」があるかのような表現を共同声明に入れてもらった。
焦点はもはや、「関税撤廃の聖域」ではない、ということに多くの国民は気付いていない。実は「非関税障壁」がより問題にされている。コメよりも、保険、医薬品、遺伝子組み替えなどに米国の標的は移った。
昨年2月、このコラムに「TPP=自由貿易」の嘘、という題で事前協議が米国のむちゃくちゃな論理で行われていることを指摘した。今回も同じだ。

首脳会談での一芝居

安倍首相はひらすら「交渉に聖域がある」という言質をオバマに求め、「米国も聖域に理解を示した」と土産を持ち帰ることで、TPP交渉参加への道を開こうとした。
そんな日本の事情を熟知した米国は1月下旬、各国の政府関係者が集まるスイスのダボス会議で、カーク通商代表が茂木経産相に「日本車の輸入関税を続ける」と通告した。
「政府内は戸惑いと安堵という複雑な反応だった」と、政府関係者は明かす。
自動車の関税を残すTTPとは一体何なのだ、という声が上がる一方で「これで交渉参加へ道が開ける」と外交関係者は胸をなで下ろした、という。
舞台裏で進んだ根回しの結果、安倍首相は「聖域なき関税撤廃というのでは日本の国益は守れない。首脳会談で私が直接オバマ大統領に確かめ、(聖域があるという)心証を得てきたい」と国会などで繰り返し発言するようになった。
自動車関税継続の通告で「聖域化」は既に決まっていた。そこを伏せて、首脳会談で心証を引き出すと芝居をうった。

今や通商交渉のテーマは非関税障壁

工業品の代表である自動車に関税を残すというのでは、TTPが唱える「高いレベルの自由化」は空文化するのではないか。今回のポイントはここにある。
実は、TTPの主課題は今や関税ではない。世界の通商交渉のテーマは、すでに非関税障壁、投資保護、知的所有権、紛争処理など関税以外の分野に移っている。
「関税引き下げ」が自由貿易の代名詞のように使われていたのは、米国が最強の輸出国だったころからだ。米国の主導でケネディラウンドと呼ばれる一括関税交渉が始まったのは1960年代。ガットのウルグアイラウンドを経て、ほぼ落ち着くところに達したのが現状だ。残るは「センシティブ・マター」と呼ばれる各国の政治案件だ。日本のコメと同様の課題をそれぞれの国が抱え、突っつきすぎると交渉の枠組みが壊れかねない。
関税は途上国に市場開放を迫る道具としては今も有効とされるが、先進国間では自由貿易の旗を振るアメリカでさえ、自動車産業などが「関税保護」に頼り、関税交渉の時代は終わったというのが現実だ。
そこでアメリカは他国の市場をこじ開ける「新しい道具」を用意した。分かりやすい例が「日米構造協議」であり「対日経済要求」である。「あなたの国はこんなにおかしな制度だから、米国企業の活動の自由が妨げられている。直しなさい」というやり方だ。
こうした2国間協議をアジア太平洋で丸ごと仕組み化しようというのがTPPだ。
もともとシンガポール、ニュージーランドなど産業がぶつかり合わない4ヵ国でやっていた取り組みに米国が乗り込んで、主導権を取った。
米国の国家情報会議(NIC)が昨年末にまとめた「2030年グローバルトレンド」は、今後30年間で文明の重心は米国からアジアに移るという。産業革命から始まった西洋の隆盛が反転し、世界経済や政治でアジアが復興する、と予測している。
米国はこうした大局観から国家戦略を構築する。狙いはアジアだが、そこには中国が控えている。「制度を変えろ」と要求しても、従う国ではない。
そこでアジア地域の経済改革を、非中国の国家群で先行させようというのがTTPである。平たく言えば「アジアにおける米国主導の経済同盟」である。

仲間であり利害対立を抱える当事者

当然「日本も入れ」となる。だがこの同盟は必然的に抱える難問がある。「仲間であり利害対立を抱える当事者」という複雑な関係だ。
今回の首脳会談にもそれが滲み出た。安倍首相は民主党政権がこじらせた日米関係を修復して存在感を示したい。領土問題で争う中国への対抗上、米国と緊密な関係を強調したい。
そのためには「忠誠の証し」が必要となる。自民党内は国内での反対を押し切って交渉に参加する意思表示が、交渉の予備段階で米国に示され、共同声明の文案が作られた。
「すべての関税撤廃をあらかじめ約束するよう求められるものではない」という表現で「聖域があります」と読めるようにした。ここまでは同盟関係である。
その裏に「利害対立」が潜む。声明に盛られた以下の部分だ。
「両政府は、TTP参加への日本のありうべき関心についての2国間協議を継続する。これらの協議は進展を見せているが、自動車部門や保険部門に関する残された懸案事項に対処し、その他の非関税障壁に対処し、TPPの高い水準を満たすことについての作業を完了することを含め、解決する作業が残されている」
さらっと読むと素人には分かりにくいが、やさしく言えば次のようになことだ。
「コメなど農産物に特段の配慮してもらえるならTPPに参加したい、という日本の事情は日米でさらに話し合いましょう。でもそのための条件として米国が要求している自動車と保険の問題に決着がついていない。懸案となっている非関税障壁の問題も含め、外国企業が日本で自由な活動が出来るよう制度やルールを変える仕事がまだ残っています」
両国間には、まだ決着しない利害対立が残っていますよ、と書いてある。
それでも帰国した安倍首相は同盟関係を重視し、交渉参加へと舵を切った。反対の声が多かった自民党も「首相一任」。TTP交渉参加に弾みがついた。

アメリカの真の狙い

だが、聖域が残れば、問題はないのか。そうでないからTTPはややこしい。
政界・国会・メディアで取り上げられているTTP問題は、いつもコメに象徴される農業問題であり、防波堤となっている関税問題だ。反対するのは農協であり農林議員という構造で描かれる。無策の農政、既得権にしがみつく農業団体や経営感覚のない農民。旧態依然たる産業が、構造改革に抵抗しているので日本の強みであるモノ作りの強みを世界で発揮できない――という分かりやすいストーリーで描かれている。
確かに農業には問題がある。TPPがあろうとなかろうと改善しなければいけない課題は山積している。だがTTP問題のキモは農業に関係する関税でもなければ、関税に例外措置を設ければ打撃を回避できる問題でもない。
コメ問題は「敵は本能寺」なのである。アメリカの真の狙いは非関税障壁と投資だ。察するところ戦略的ターゲットは、医薬品認可基準の変更、保険ビジネスへの参入、とりわけ医療保険ビジネスを広げるため国民健康保険制度に風穴を空けること。そして遺伝子組み替え食品の表示を取り外し、日本で遺伝子組み替え種子のビジネスを展開することなどが予想される。
ここで「推察」とか「予想」とかの表現を使っているのは、交渉の実態が明らかにされていないからだ。TPP交渉は秘密交渉で行われ、参加国でも交渉の全貌は明らかにされていない。日米間で行われている事前協議でも、米国側から「日本車への輸入関税継続」が通告されながら、国民や国会に伏せられていた。
オバマ政権は、アジア市場に製品やサービスを売ることで輸出と雇用を増加させる、という分かりやすい政策を米国民に約束している。米国の強い産業が自由に活躍できる制度的インフラを、市場たるアジアに広げる。それがTTPの狙いだ。
競争はあっていい。だが、自分たちの都合の悪い制度や仕組みを潰しに掛かるようなことがあるなら、受け入れることはできない。それが「利害のぶつかり合い」だ。

国民健康保険制度が標的か

分かりやすいのが日本の国民健康保険だ。日本国内では財政問題など難点が指摘されるが、世界水準で見れば「優れモノ」である。日本が長寿国になったのも国民健康保険があったからだ。
一方、民間の保険産業を見れば、米国の保険会社は圧倒的な力を持っている。いま米国の保険産業はアジアを目指す。日本でも急進している。だが得意分野の医療保険が日本ではさっぱりだ。国民健康保険がほぼすべての国民をカバーしているので、入り込む余地がない。国民健康保険が壊れれば民間保険を売ることができる。
英国ではサッチャー政権の時、それが起きた。財政削減で国民健康保険でカバーできる医療が劣化し、きちんとした医療を受けるには民間の保険を買うしかなかった。制度の崩壊は保険会社にとってビジネスチャンスだ。
米国の論理で言えば、財政が支援している国民健康保険は「民業圧迫」で、優れた保険商品を扱う米国の保険会社の活動を妨げる「非関税障壁」となる。今は、日本国民が国保を支持しているので、そこまでの主張はしないが、国保が財政的に衰退すれば状況は変わる。
その原型が事前協議の「保険問題」にある。米国は政府が株主である日本郵政の子会社であるかんぽ生命が売るガン保険などを止めるよう求めている。政府の信用で全国展開のビジネスをするのは「非関税障壁」だというのだ。この論法は、やがて国民健康保険でも使われるのではないか。
医療関係は米国が強い。薬品も同じだ。今の薬品価格は厚労省が低く抑えている。これでは儲からない。これも非関税障壁になり、撤廃されれば薬価は上がり、国民健康保険の財政も危うくなる。

表示で差別するのは非関税障壁!?

注目したいのが「遺伝子組み替え食品」だ。害虫に喰われない農産物を作るため遺伝子組み替えの種子が米国では一般化し、いまや穀物地帯の南米まで席巻している。ムシが付かない防虫効果が人にどんな影響を与えるのか、まだはっきりしない。
日本では作付けは認められていないが、遺伝子組み替えの大豆を輸入して作った醤油やみそなどが売られている。こうした状況に消費者は敏感になり、「遺伝子組み替え食品は使っていません」と表示した商品に関心が高まっている。米国はこの表示を問題にしている。「表示で差別するのは非関税障壁」というのだろうか。
背後には遺伝子組み替え種子で世界制覇を目指すモンサント社がある、とされる。この問題はいずれ改めて書く。
ワシントンで石を投げればロビイストに当たる、というほど米国議会は業界のロビー活動が盛んだ。民主党も共和党も国会の議決に党議拘束はない。業界ビジネスがストレートに経済外交に反映し、米国の世界戦略と一体となって進んでいる。
それは米国のお国柄だが、他国が築き上げた制度や消費文化を破壊して攻め込むのは歓迎できない。開かれた貿易体制を目指すTTP交渉なら、国民に情報を開示して判断を仰ぐことが必要だろう。
メディアも、表で騒がれていることばかり追うのではなく、裏で秘密裏に進む重大事案を描き出す努力が必要だと、つくづく思う。




余談です。
TPPで保険が問題だと言われていた部分の具体例を、初めて読んだことになるのかもしれません。
国民健康保険は、今でも崩壊の危機にありますが、それをアメリカが後押しをして崩壊へと持ち込み、そこへアメリカ産の保険が押し寄せてくる。最終的には、貧乏人は医療を受けられないというアメリカと同じ土俵に立つことになるようです。
もちろん、山田氏の意見が現実になるというわけではありません。でも、火のない所には煙は出ない、とも言います。危険を承知で突っ込むのはいかがなものかと思います。アメリカがTPPへの参加を強要しているのは、日本国民の幸せを願っているのではなく、アメリカにとって利益があるからです。利益の反対側には不利益があるのは当然です。日本にとって許容できる不利益なのかどうか、心配になります。本当に、国民は、これがみかじめ料だとわかっているのでしょうか。
仮に、このような心配が現実になりますと、国民は、増税とインフレで生活を圧迫されるだけではなく、医療でも苦しい立場に立たされることになります。
「ブルータス、お前もか」と言われるほど、多くの要素が同じ方向を指しています。
崩壊の条件は、日毎に整備されていることに、国民は気付きません。


2013-03-05



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記事紹介 28 [記事紹介]



小さな記事を二つ紹介します。


弁護士ドットコムというサイトの記事です。

生活苦から学生時代に借りた奨学金の返済に困っている人が増えている。不景気で就職難やリストラなど働く環境が悪化していることが影響しているとみられる。なかには、奨学金の返済遅延が足かせとなって、夢をあきらめたり、結婚ができなかったりする若者も少なくない。この問題に詳しい弁護士は「日本の奨学金制度の抜本的な改善が必要だ」と指摘している。
奨学金事業を請け負う日本学生支援機構の資料によると、奨学金の返済が遅れている要返還者と未返還者を足した人数は、2004年の198万人に対して2011年が334万人と、7年間で130万人以上も増えている。奨学金を返せない人は、ここ数年で急増しているのだ。
奨学金には、返還義務のない「給付型」と卒業後に返還義務が生じる「貸与型」の2種類があるが、日本では全体の約9割が貸与型だとされる。しかも無利子ではなく、「有利子」の貸与型を利用せざるを得ない学生が多いのが、日本の特徴だ。日本学生支援機構による奨学金では、有利子が7割を超えている。
「日本の奨学金制度は『金融事業化』してしまっている」と指摘するのは、奨学金問題に詳しい岩重佳治弁護士だ。「欧米では奨学金とは給付型のことを指し、貸与型については『学資ローン』と呼んで区別している」と語り、日本は本来の奨学金制度とは違う方向に進んでいると批判する。
返済に苦しむ人への「支払督促」が増えている
岩重弁護士によると、もともと奨学金事業を担っていた日本育英会から日本学生支援機構に引き継がれた2004年以降、奨学金が「金融事業」と位置づけられ、その後、金融的手法の導入が進んだという。奨学金に占める有利子の割合や民間資金の流入が拡大。返済金の回収も強化され、2010年度からは返済が滞れば、滞納者として「全国銀行個人信用情報センター」に登録されるようになった。
回収の強化といえば、近年、裁判所を使った「支払督促」を申し立てられる奨学金滞納者が急増している。2004年にはわずか200件だった支払督促の申立件数が、2011年には1万件と、この7年間で50倍に拡大しているのだ。
この背景について、岩重弁護士は「最近は債権管理部ができたり、債権回収会社を利用したりするなど、回収が徹底されるようになった。おそらく、財務にかなり焦げ付きがあり、回収強化に乗り出したのだろう」と推測する。その上で「本来であれば、雇用情勢が悪化しているのだから、救済手段の強化や制度を柔軟化するなどの対応を取るべきだが、そこの見極めができていないため悲劇が起きている」と苦言を呈した。
返還猶予制度の運用にも問題があるようだ。日本学生支援機構の奨学金には返還期限を猶予する制度がある。岩重弁護士は、この制度について「非常に厳しい要件が課されている上に、運用上も様々な制限が課され、申請方法なども複雑で不明瞭なため、制度を利用できない返済困難者が多い。返還猶予制度はもっと柔軟に分かりやすくするべき」と指摘する。
返済に困っている人が利用できる「救済手段」
返還猶予制度を利用できない返済困難者はどうすればいいのだろうか。「自己破産や個人再生などの債務整理手続きがある。お金のない人は法テラスを利用して、費用援助を受けながら、専門家の支援を受けるという方法もある」と岩重弁護士はアドバイスする。
また、人によっては時効が成立している場合もある。「返済期日から10年たつと債務の消滅時効が成立し、支払わなくてもよくなる」。ところが、時効についての知識がなく、「時効成立を知らないで、払い続けている人がいる」という。
奨学金を返せない若者が増えている現状を打破するため、岩重弁護士は全国の法律家や学者らとともに2013年3月31日、「奨学金問題対策全国会議」(仮称)を設立する予定だ。全国会議では、返済できないで困っている人の救済に個別で取り組む。
一方で、奨学金制度の抜本的な改善を求める運動を展開し、給付型や無利子の奨学金を増やすことなどを目指していく。岩重弁護士は「当事者にも声を上げてもらって、国民的議論にしていきたい」と話している。


余談です。
奨学金を返済しない人が、全員、返済できない境遇にいるとは限りません。中には、返済したら損だと思っている人もいるでしょう。そういう人も含めて、生き難い社会になっていることは否定できません。
奨学金をもらい、高等教育を受けるチャンスを手にした筈なのに、職を得られないのであれば、何のために奨学金を受けたのか、わからなくなります。返済義務だけが残るのであれば、きっと、ストレスは大きいと思います。今の社会が変質していることに気付かなかった本人の自己責任かもしれませんが、日本人は自己責任に慣れていません。
大昔、と言っても明治・大正・昭和初期のことですが、当時は、高等教育を受ければ、職を得られ、頑張りさえすれば、それなりの成功をおさめることが出来たのだと思います。大学の数も少なかったし、大学生も少なかった。当時は、エリートになれたのです。
でも、今は時代が違います。
何が何でも大学に進学するという社会風潮が、時代に合わなくなっているのです。生き方を考え直す時がきているのかもしれません。職探しに追われ、ポストには督促状が入っている人生は、喜ばしい人生ではありません。丁稚制度や徒弟制度はありませんが、成人してから生活の糧を得られる仕組みを新しく作る必要があるのかもしれません。
子供の頃は「夢を持とう」「自分を活かせる仕事につくために勉強しよう」と大人は言いますが、社会に入って見れば、そんなことは子供騙しに過ぎなかったと誰でも気が付きます。生活費を稼ぐためなら、嫌な仕事でもしなければならないのが社会人になるということです。社会がここまで壊れてしまった現在では、子供達にもう少し本当のことを教えていかなければいけないのではないでしょうか。これは、どう見ても制度疲労だと思います。
現状維持に固執し、変革を嫌い、思考を止めてしまったのでは社会は息苦しいものになるしかありません。
奨学金制度を変更しようとしているようですが、個別の制度を変更することで何かが変わることを願う時期は過ぎていると思います。もう、改善という手法でどうにかなる状態ではありません。社会を変えるしか方法はないのではないでしょうか。
奨学金とは関係ありませんが、教育再生実行会議が道徳の時間を正式に教科とするよう報告を出したそうです。大人達は、子供に何を教えようと言うのでしょうか。「嘘をついてはいけません」と教えるのでしょうか。でも、「いじめはありません」と嘘をついてきた大人達を、子供は、嫌と言うほど見せられています。とても説得力があるとは思えません。
やはり、「国とは、国民とは、民主主義とは」を議論して、定義し、再構築するしか方法はないのだと思います。そうすれば、きっと、自己責任についても定義できます。
そろそろ、封建制度や独裁制度から抜け出さなければなりません。
もう、「お上」に頼る時代ではなくなっているのです。
ほんとに、あらゆる場所で「綻び」が噴出しているのが現状です。



ウォールストリート・ジャーナル紙の記事を一部抜粋します。

SNEP(スネップ、孤立無業者)とは「Solitary Non-Employed Persons」の略。20~59歳の在学中ではない無職の未婚者で、関わりを持つ人が家族以外に一切いない人のこととされており、その数は増加している。無職あるいは不完全雇用、また、社会的孤立といったSNEPの各分野が拡大しているように見えるが、東京大学の最近の調査で、2011年には、職に就かず、かつ、家族以外の人々との接触がほとんどない人々が162万人に達したことが明らかになり、特に懸念されている。これは、国内の未婚で無職の256万人の約60%にも相当する。


余談です。
フリーターという言葉が生まれ、ニートという言葉が生まれ、今、新たにスネップという言葉が生まれてきています。時間軸を少し縮めて、この現実を見ると、この国がある方向を向いて動いていることがわかると思います。以前に、非正規労働者が労働人口の35%になったというニュースも書きました。人口減少が始まっている国で、弱者だけが増え続けているこの現実を、私達は極力見ないようにしています。出来るだけ、自分の順番が来ませんようにと祈りつつ、腫れ物に触らないように心がけています。生活保護という弱者をバッシングすることで、自分は弱者ではないと思いこもうとしています。
これは、社会が壊れている証です。
でも、祈りは、届かないのが普通です。私達の順番は、間違いなくやってきます。
国民の貧困化は、今年から加速します。皆さんの順番がやってくるのも、それほど先のことではありません。どうか、その衝撃に耐えられるように心の準備をお願いします。


2013-03-04



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記事紹介 27 [記事紹介]



2/26付 ダイヤモンドオンラインの記事を紹介します。
筆者は 原田武夫氏
表題は すでに「通貨戦争」の対日宣戦布告が発せられた?円安に沸く日本が気付かぬリスキー・ゲームの内実

長文ですが、ユニークな意見なので、転載しました。ダイヤモンドオンラインさん、度々、転載して申し訳ありません。



「知る者は言わず、言う者は知らず」円安・株高で浮かれてばかりでいいのか

「知る者は言わず、言う者は知らず」
先日、東京・芝にある芝大神宮を参拝したときに境内で見つけた言葉だ。マーケットと外交、そして国内外情勢の狭間を歩いている私からすると、まさに「そうだ」と大きく頷いてしまう言葉だと思った。
だが哀しいかな、忙しい日常を過ごしているとどうしてもこのことを忘れてしまう。そして「その発言者が学者として有名だから」「マスメディアが皆、その発言者を取り上げているから」といった理由で、世の中で大勢を占めている議論を鵜呑みにしてしまう。
特に欲に駆られているときが一番危ない。やれアベノミクスだ、株高だ、円安だなどと大騒ぎしているときこそ、危険なのである。
一見すると非常に複雑に見える金融マーケットと国際情勢。これら2つに多くの日本人が苦手意識を持つ共通の理由がある。それはどちらも「イロハのイ」を学校で習うことはないという点である。
そのため、どうしても安易に「専門家」と称する人たちの言葉に頼ってしまう。そうすることによって、失敗してしまってからでは遅いのである。大切なことは、金融マーケットにしろ国際情勢にしろ、「己の頭」で考えること、これしかない。
しかもマネーは、経済大国・日本にとって基本中の基本であるし、島国ニッポンにとって国際情勢を踏まえないわけにはいかないのだ。
もっとも「己の頭」で考えると言っても、何も複雑なことをいきなり詰め込めば良いというわけではない。まずは「基本中の基本」を押さえること、これをすべきだ。
今をときめく「リフレ派」と呼ばれるアカデミズムの住人からは、「とんでもない床屋談義」と言われるかもしれないが、マーケットは閉じられた条件の下で温室培養された実験室ではない。まずは誰しもが肯定しない、しかしそれでいて否定することもできない「事実」から考え始めること。ここから私たちのリテラシー磨きの第一歩が始まる。

知っていそうでよく知らない為替マーケットの「イロハ」

たとえば為替レート。第二次安倍晋三政権が成立してから「円安、円安!」とかまびすしい。渋る日本銀行を抑え込んで、いよいよ量的緩和に我が国が踏み込んだから円安になり、インフレになり、全ての問題が解決するような楽観論がメディアを席巻している。
しかし、そうしたユーフォリア(熱狂的陶酔感)の中だからこそ、「いや待てよ……」と考えることが必要なのだ。
まず為替マーケットにおける「イロハのイ」を列挙してみる。するとこうなる。
●為替マーケットにインサイダー規制はない
とても単純なことだが、為替マーケットにインサイダー規制は存在しないのである。この点は商品マーケットについても同じだ。「為替マーケットでインサイダー?いったい何のこと?」と思われるかもしれない。この場合のインサイダーとは、金融・通貨政策を決定する政府当局及び中央銀行と密接な関係にある者たちのことを指している。
たとえば、政策金利について考えてみよう。政策金利とは、その名のとおり政策的な配慮から設定されている金利のことであり、これを引き上げるとその国の国債が買われ、当該国債を買うためにその国の通貨が買われていく。「高金利国の通貨は買われる」という原理原則だ。
ということは、政策金利の引き上げ・引き下げが間もなく行われることを知っている人物(=インサイダー)は為替マーケットで予め仕込んでおくことが可能なのだ。しかもそうしたとしても、一切インサイダー規制には引っかからない。これが株式とは全く違うところだ。
●金融メルトダウンからの脱出のため
主要国全てが輸出増進を図っている
私は先月、香港で行われたアジア金融フォーラム(AFF)に出席したが、その際、ランチで基調講演をしたローレンス・サマーズ元米財務長官が語ったこんな言葉が忘れられない。
「米国、欧州、そして日本に中国。全ての主要国が今、輸出主導で景気を良くしようとしている。しかしいったい誰が買うのでしょうか、それだけのたくさんの輸出品を?」

今や世界中が使いたくて仕方がない「伝家の宝刀」

至極単純な事実なのだが、私たちがどうしても忘れてしまうことが1つある。それは「富」とは結局のところ、開放経済の下においては国内でつくったものを国外で売り、国外から得て来るものだということだ。
だからこそ、政府は貿易政策を決めて物を盛んに輸出しようとする。あるいは関税政策を決めて、逆に富が外に出ていかないようにする。攻める側からすればそうした壁をつくられては困るので、「自由貿易論」を展開する。守る側はそれでは困るので、関税引き下げには応じつつも、事実上の壁である「非関税障壁」を密かに築き上げる。
すると、攻める側はこれを「規制だ、構造だ」と騒ぎ始め、「構造改革こそ善」という議論を展開する。その繰り返しなのである。
輸出で有利な立場に立つためには色々な手段があるが、最も典型的なのが自国の通貨を相手国の通貨との関係で切り下げてしまうことだ。いわゆる「近隣窮乏化策」というものである。今や世界中が「この伝家の宝刀を使いたくてたまらないと」いった衝動に駆られている。
最も安易な手段だからなのであるが、通貨切り下げ競争が始まるとこれを防ぐ側との間で「自由貿易体制」が崩れてしまい、しまいにはヒト・モノ・カネの国境をまたいだ移動はまかりならんということにまでなってしまう。これでは「戦争」の一歩手前なのであって、これは絶対に避けなければならない――。
そんなわけで、2010年11月に行われたG20ソウル・サミットの「首脳宣言」では、こうした競争的な通貨切り下げを行わないという約束が明文化されているのだ。

ギリシャ外交官時代に見た外国に従い易い日本人の性

「これをやってはいけない」と外国に言われ、ルールが決まってしまうと素直に国内法を整備し、これに従うのが日本人の性(さが)だ。私はキャリア外交官として、外交の現場でそんな哀しい性(さが)を何度となく見てきた。
逆に言えば、我が国がそうして決まった金科玉条であるはずの国際ルールを真正面から破るというとき、我が国はかなり追い詰められているはずなのだ。まさに「不退転の決意」であって、もはや逃げ道がないから正面突破だ、ということになる。
しかし米欧は全く違う。何が違うのかと言うと、ルールをつくりながら平然とそれを破るのだ。むろん、表向き政府当局は「ルールの遵守」を謳い、実際そう行動する。だがそのルールにとって「想定外」の出来事の発生をあえて招き、それによる反射的効果によってルールが破られてしまうような事態を創り上げるのだ。
このとき、米欧諸国はいずれもこう言うはずだ。――「私たちこそ被害者だ。ルールを守りたかったが、想定外の出来事が生じてしまった。遺憾だが致し方ない」

ルールを守った者だけが馬鹿を見る? 
「円バラマキ論」に納得してしまう日本人

結果、ルールを墨守してきた我が国だけが馬鹿を見ることになる。国際ルールを押しつけられた政府当局は、独りだけでその責任を負いたくはないので、都合の良い「アカデミズムの大家」を持ち出す。
「円バラマキ論」をテーマとした「リフレ派」と呼ばれる識者たちが、政府による「円安誘導」のときに駆り出されるのはそのせいだ。
そして私たちは、新聞やラジオ、そしてテレビ、雑誌や書籍でこうした「エライ先生方」の議論を毎日のように目にし、耳にするので、ついつい何も考えずに思ってしまうのである。「確かにそうだな」と。
仮にこれが塗炭の苦しみを私たち国民に強いるものであっても、全くもって同じなのである。結果、私たち日本人の富は海の向こうへと次々に流れ出すのだ。そしてまた新たなゲームが米欧によって始められ、我が国がカジノに誘い込まれていく……。
この2つの、誰も否定することのできない「事実」を重ね合わせたとき、いったいどんな近未来が見えて来るのだろうか。
昨年暮れ、民主党の野田佳彦前総理大臣が衆院解散総選挙を宣言し、安倍晋三総裁の率いる自民党の優位が報じられるにつれて、為替レートが円安・ドル高/ユーロ高へとぶれて行ったことは記憶に新しい。
安倍晋三総裁は「安倍晋三総理大臣」となり、そこでの政権公約であったデフレ脱却のため、量的緩和を強力に推し進める政策を実際に執行し始めた。為替レートがますます円安へとぶれていったことは、読者もご承知のとおりである。
むろん、安倍政権のお歴々は鼻高々といった感じである。だが、そのことに大いなる不安を感じるのは私だけだろうか。
なぜならば、国際ルールを押しつけられ、ギリギリまで追い詰められた我が国がいきなり逆襲に出るとき、外交の現場で米欧がいつもとる手があるからだ。それは「まずは我が国に勝たせる」というやり方だ。

緒戦はわざと勝たせるもの・・・・
太平洋戦争を「通貨戦争」に当てはめる

このことが一番わかりやすいのが、太平洋戦争の緒戦であった「真珠湾攻撃」である。1941年12月8日に行われたこの攻撃によって、旧日本軍は大勝。国内世論は「勝った!勝った!」と色めき立った。
だが、そのわずか半年後に行われた1942年6月初旬の「ミッドウェー海戦」で、我が国の連合艦隊は大敗北を喫することになる。様々なミスが重なった結果であったが、虎の子の空母を数多く撃沈された我が国は、制空権・制海権を共に失い、その後3年間にわたり苦しい戦いを強いられることになる。そして原爆2発を投下されるに至って、「敗戦の日」を迎えたのである。
緒戦で勝利した旧日本軍がとった手段、それは機動部隊による奇襲戦法だった。つまり、空からの戦いで我が国は勝利したわけであるが、ミッドウェー海戦ではまさにその「空からの戦い」で大敗北を喫したのである。同じやり方を今度は米軍からされて、日本は負けたといっても過言ではない。
このことを、現在進行中の我が国を取り巻く「通貨戦争」に当てはめてみるとどうなるか。安倍政権はいわば猛烈な口先介入を行い、円安誘導を行った。政府関係者はこれを「デフレ脱却のための措置を講じ、その意思を表明しただけで、為替操作には当たらない」と繰り返している。
だが、こうした詭弁が厳しい国際場裏で一切通用しないことは、その後の、とりわけ欧州要人たちの発言からも明らかだ。1月に開催された世界経済フォーラム(ダボス会議)で、メルケル独首相は「円安に対する懸念」を表明。続いて2月には欧州議会の場でオランド仏大統領が「欧州も為替政策を執行していくべきだ」と発言。
これに続けて欧州中央銀行(ECB)のドラギ総裁も、「急激なユーロ高進行をウォッチしている」と言い出したのである。これで何も起きない、起こされないと考えるのがおかしい。

G20の共同声明による縛り ほくそ笑む米欧の「次の一手」

外交の現場感覚から言ってまず考えられるのが、2月15日にモスクワで開かれた、G20財務大臣・中央銀行総裁会合の「共同声明」による縛りだ。
「円安展開は日本も為替操作によるものではないと説明している。疑わしいが、しかし一応は信頼しよう。いずれにせよ、G20ソウル・サミットの首脳宣言に立ち返って、競争的な通貨切り下げは止めることをお互い確認しよう」と話し合いが行われ、ホッとした我が国は二つ返事でこれに応じた感がある。
だが、これを見てほくそ笑む米欧には、「次の一手」がある。何らかの「市場外」「想定外」の出来事が発生するのを看過し、それが延焼していくのを慌てふためいたふりをして事実上放置するのである。
この「市場外」でありかつ「想定外」の出来事はむろん、ドル安・ユーロ安へと為替レートを反転させる。急激な円高展開を前にして、これまでの凱旋気分から我が国の状況は一変。「いったい何が起きているのかわからない」と阿鼻叫喚の事態に陥るはずだ。
ここで言う「市場外」「想定外」の出来事が何になるのかが、1つにはカギを握って来る。中東における本格開戦なのか、イタリアなど南欧諸国のデフォルト・リスク拡大なのか、はたまた米国債の格下げ騒動なのか、あるいはこれら全部なのか。想像は尽きず、予め決め打ちすることは不可能だ。
とりわけ気になるのが、今週27日から始まる、2002年にデフォルトとなったアルゼンチン国債の取り扱いを巡るニューヨーク控訴審裁判所での公判の行方だ。その債務交換を拒むヘッジファンドによる提訴を受けての公判だが、仮にこれでアルゼンチン政府が敗訴となれば、そのデフォルトへの急転換が現実味を帯びてくる。
なぜこれが重要なのかというと、かつての「メキシコ債務危機」と構図がよく重なるからだ。アメリカの強力な後押しで経済開発協力機構(OECD)に加盟したメキシコには当時、「新興国」として投資が殺到した。しかし1994年になって、同政府発表の主要な経済データが何と虚偽であったことが判明。怒涛の勢いで資本の逃避が始まり、12月には「メキシコ債務危機」となった。
市場ではこれを受けて、ドル安へと急展開した。なぜならば、「メキシコが危機ならばアメリカに飛び火する」と考えられたからである。やや遅れて発生したこの急激な円高は「テキーラ効果」と呼ばれたが、1995年4月19日に「1ドル=79円75銭」にまで到達。当時の自社さ政権は大混乱に陥った。
日本政府は武村正義大蔵大臣(当時)をワシントンに急遽派遣した。「何とか円安に戻してほしい」と懇願する武村蔵相を出迎えたロバート・ルービン米財務長官(当時)は、涼しい顔で「我々には何もできない」と言い切ったのである。その結果、円高局面は持続した。かの有名な「慇懃なる無視」(ビナイン・ネグレクト)政策である。

メキシコの先進国クラブ入りは早い でも、アメリカの圧力だから・・・

一連の出来事を「単なる偶然だ」と思われるかもしれない。しかし私は入省したての1993年当時、OECDを担当する国際機関第2課に所属し、「メキシコ加盟」のプロセスをつぶさに見ることのできる立場にいた。
そこで省内関係者たちは、異口同音に「メキシコを先進国クラブ入りさせるのは早過ぎるのではないか。だがアメリカからの圧力だから……」と述べていたことを、今でもはっきりと覚えている。その後起きたことに、アメリカの密やかだが強烈な国家意思を感じた我が国政府関係者は、私1人だけではなかったと思う。
ここで浮かび上がる「構図」を、今のアルゼンチンに当てはめてみるとどうなるか。つい10年ほど前にデフォルトになったはずのアルゼンチンは、今や「G20」の一国として処遇されている。当然、そこにはアメリカを中心とする西側諸国が盛んに投資しているが、その一方でこの2月には国際通貨基金(IMF)より消費者物価指数を巡る改竄疑惑を指摘され、データの再提出を命じられているのだ。
そこに来て、ニューヨークにおける訴訟騒動なのである。しかも厄介なのは、かつてデフォルトになったアルゼンチン国債を大量に持っていると考えられるのが、歴史的にも同国と関係性の強いイタリア人たちだということだ。
そのため、仮にアルゼンチンが再度デフォルトとなれば、アメリカだけではなくイタリアにも「飛び火」するのである。まさに「ドル安・ユーロ安」のダブル・ショックへの導火線だ。
仮にそうなった場合、ダンディな出で立ちで先のG20会合に登場し、メディアの注目を集めた麻生太郎財務大臣が、米欧に急派されるはずだ。しかし、そこで米欧のカウンターパートたちはこう言い切るかもしれない。――「G20モスクワ会合での合意を踏まえれば、残念だが人為的に円安への誘導はできない」。
そうなれば、まさにビナイン・ネグレクトの再来だ。今度は「タンゴ効果」とでも呼ばれる中、強烈な円高が事実上放置されることになる。

すでに金融マーケットにおいて「対日宣戦布告」が発せられた

だからこそ、「疑いようのない2つの事実」に立ち返る必要がある。そして歴史的に、米欧が我が国をどう処遇してきたのかを振り返ってもらいたい。
そうすれば、こうした米欧による無言の大戦略を知り、あるいは察したインサイダーたちが今、為替マーケットで「円安の続伸」ではなく「円高への急転換」にこそビッドしていることを悟るはずなのだ。そして気付くのである。「2月15日にG20の場で、金融マーケットにおける対日宣戦布告が発せられたのだ」と。
むろん、予算委員会もたけなわの今、急転直下の展開に慌てふためくであろう安倍政権は、さらなる緩和措置を講じ、それが歴史的なバブルへとつながっていくはずだ。
そう、この「日本バブル」への自らの追い込みこそ、米欧の狙いなのだとすれば、輸出主導による景気回復の宛先人が一体誰なのかも、すぐにわかるのである。間違いなくそれは我が国であり、だからこそアメリカは環太平洋経済連携協定(TPP)への安倍政権のコミットメントを強く求めているわけだ。
「知る者は言わず、言う者は知らず」――私たち日本人1人1人が「言わずとも知る者」にようやくなったとき、この「日本ゲーム」には終わりが訪れるのかもしれない。




余談です。
原田氏の意見は、私の意見と違いますが、これはこれで怖いものがあります。
イタリアは総選挙で問題を抱えています。アルゼンチンからの飛び火があるとすると、さらに、やっかいになります。
シリアが、化学兵器を使うかどうかも問題になっています。
イスラエルのイラン攻撃が近づいているという予測もあります。
イギリスが泥沼に沈みそうな空気があります。
今、順風満帆な国はどこにもありません。世界は行き詰っています。イライラしています。こんな時に、何が起きるのか。学校の教室で起きるようなことが起きるのではありませんか。日本は、いじめに遭う要素を持っています。格好のターゲットとも言えます。
アメリカが「シカト」をすれば、即座にいじめが始まります。だから、TPPも参加せざるをえないのでしょう。でも、以前にも書きましたが、TPPは危険です。
確かに、どこか、第二次世界大戦前夜が近づいているような嫌な空気があります。
国内要因だけでも、十分にドツボに嵌ると予測していますが、国際要因でもドツボに嵌ることになれば、10年も待たずに崩壊の可能性が出てきます。
ただ、第二次世界大戦前の国際情勢と現在のそれは違います。それは、中国の存在感です。たとえ、経済規模で中国が世界一になり、中国の横暴が通る時代になっても、アメリカはそれに甘んじることはないと思います。オバマ大統領なら受け入れるかもしれませんが、彼以外のアメリカ人のプライドは、それを許さないと思うからです。日本はアメリカのポチですから、扱いやすいために軽視されますが、アメリカにとって手駒になっている日本を捨てる選択肢を選ぶためには、それに替わるメリットがなくてはなりません。オバマ大統領の任期中に日米安保が破棄されれば仕方がありませんが、そこまで踏み込むのは難しいのではないかと思っています。まだまだ、この先に、日本を捨てるという日本カードを使う場面はやってきます。それまでは、カードを温存するものと思います。今は、まだ日本を「生かさず、殺さず」がアメリカにとってはメリットがあると思われます。そうは言っても、アメリカにとっては直近の自国の国益が優先しますから、TPPではメリットを出すでしょう。脅しもかけてきます。これは、みかじめ料みたいなものです。中国も立派に暴力団ですが、アメリカだって暴力団です。庶民の立場の日本は、お金を払う選択肢しかありません。国際関係では、どこの国も「自分さえよければ」をやりますが、日本は対外的には「自分さえよければ」をやりません。国内向けに限定されています。これは、強い者にはへつらい、弱い者には威張るという卑怯者のすることです。

円高になっても、円安になっても、日本がダメージを受けるとすると、為替レート以前の問題なのではないかと思います。その問題とは、多分、国力の問題なのではないでしょうか。国力とは、国民の力だと思います。国家が、国民から富を奪い続けたら、国家崩壊に至るのは当たり前のように思えます。安倍総理の所信表明演説の社会保障に関する発言では、自助と自立が前面に出て、共助と公助が否定されています。これは、参議院選挙後に社会保障費の削減をしますよというメッセージです。確かに、アベノミクスの発表で円安になり、株価は上昇しています。でも、安倍政権はまだ何もしていません。リップサービスだけで動いているのです。一般的な経済理論であれば、株高と債権安は同時進行するものです。しかし、長期金利は上昇していません。私は、債権市場はバブルになっているので、下がらないと思っていますが、債権市場のことを知る人の中には、プロはアベノミクスが成功するとは考えていないという人もいます。今の株高は、実体経済の裏打ちがある上昇ではなく、一時的な熱狂によるものだと考えるべきだと思います。日本の株式市場は海外投資家が動かしています。彼等にとっては、大きな上げ下げかあった方が利益を得られます。株式投資の世界では、最初に海外投資家が買い、次に日本の機関投資家が買い、最後に日本の個人投資家が買うと言われています。個人投資家が買い始める頃には、海外投資家は利益確定をして売り逃げます。この6月に提示する成長戦略を見た海外投資家が、日本の経済再生を確信できるかどうかが決め手になるでしょう。彼等は、財務省に踊らされている評論家の意見で動く訳ではありません。独自の判断で動きます。この数カ月の間に策定される成長戦略の重さは計り知れないものがあります。本物の成長戦略が打ち出せるのであれば、奇跡が起きないとは言えません。でも、そんな成長戦略はありませんし、前回の記事紹介のような会議から本物が生まれてくるとは思えません。
国民の多くは「この国が立ち直るためなら、税金が重くなっても、社会保障費が削減されても我慢するしかない」と考えています。ほんとに、いい人ばかりです。残念ですが、前提となっている「この国が立ち直れば」という部分が、簡単に実現すると夢想しています。それは、文字通り「夢」に過ぎません。では、少し条件を変えてみましょう。「利権集団の利権を守るために、この国が、たとえ、立ち直ることがなくても、重税と給付削減は受け入れる」ことができるのでしょうか。
このまま、国民が浮かれたままで参議院選挙になれば、自民党は過半数を取る可能性があります。そうなれば、公共工事は膨れ上がります。
昨年の衆議院選挙で、国民は自民党を支持しました。今度の参議院選挙で、国民が自民党を支持すれば、その結果に対する責任は国民にあります。国民は、自分で自分の首を絞めていることにさえ気付いていません。
これで、いいのでしょうか。でも、仕方ありません。


2013-03-03



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記事紹介 26 [記事紹介]



2/24付 ダイヤモンドオンラインの記事を紹介します。
筆者は 岸 博幸氏
表題は アベノミクスの評価を一気に下げかねない産業競争力会議の事務局官僚の暴走



アベノミクスの3本目の矢である成長戦略を検討する産業競争力会議の第2回会合が2月18日(月)に開催されました。そこで明らかになったのは、会議の事務局の官僚の暴走がひどいということです。

成長戦略の2つの路線

政府が産業の競争力を強化するためには、どのような政策を講じるべきでしょうか。この点について、例えば産業競争力会議の民間議員の1人である竹中平蔵先生は第1回会合に提出した資料で、①政府が民間に自由を与える、②政府が民間にカネを与える、という2つのアプローチがあると述べています。
単純化して言えば、①は構造改革路線、②は国家資本主義路線とも言えます。もちろん、現実的には政策がそのどちらかのみになるということはあり得ず、①と②のどちらが政策のメインとなるかが重要なのですが、だからこそ、産業競争力会議では両方の路線についてしっかりと議論して、正しい成長戦略を導きだす必要があります。
ところが、第2回会合ではそうした当たり前のことが行われず、むしろ事務局の官僚が②の路線だけを成長戦略に盛り込みたいのであろうことが明らかになりました。この原稿を書いている2月21日(木)の段階ではまだ会議の議事録が公開されていないのですが、公開されている情報からそれを検証してみましょう。

「研究開発予算を増やしたい」だけ? 偏った安倍総理の取りまとめ

まず、第2回会合の議題の1つであったイノベーションです。このテーマについて、民間議員の側からは2種類のペーパーが提出されました。1つは主に政府の研究開発予算を増やすことを求めていますが、これに対してもう1つは政府の予算増額よりも民間の研究開発を促進し、またビジネスモデルなど技術以外のイノベーションを重視すべきと提言しています。
即ち、民間議員の側からは①と②の両方が提示されたのです。しかし、それを受けた安倍総理の取りまとめは、「世界最高水準のイノベーション環境の実現に向けて、総合科学技術会議の司令塔機能を抜本的に強化したいと思います。……省庁縦割り打破を図るため、権限、予算両面においてこれまでにない強力な推進力を発揮できるようにしたいと考えます。」と、明らかに②の立場のみを反映したものになっていました。
それでは、なぜそういう結果になったのでしょうか。
当日、安倍総理は会議に最後の30分だけ出席したので、イノベーションに関して民間議員の間でどういう議論が行われたかは知らなかったと考えられます。そのため、事務局の官僚が用意した総理の取りまとめ発言をそのまま棒読みせざるを得なかったのではないでしょうか。
そして、事務局の官僚は②の政策(政府の研究開発予算を増やしたい)だけに関心があり、かつ事務局の背後にいる経産省は、文科省と内閣府が牛耳って研究開発予算の大宗をコントロールする総合科学技術会議の運営に関与したいという、②の延長であると同時により矮小な霞ヶ関内部のことに執着しているため、総理の取りまとめ発言の内容を意図的に②の方向ばかりにしたと考えざるを得ません。
同じことは、第2回会合のもう1つの議題であった農業でも起きています。農業を産業として強化するための政策についても、民間議員からは2種類のペーパーが提出され、片方は②の路線(公的資金を使った官民ファンドによる六次産業化の支援)を、もう片方は①の路線(規制改革による強化)を強調していました。ちなみに、農水大臣が提出したペーパーも明確に②の路線になっています(規制改革についてはどうでもいい小ダマについてだけ言及)。
つまり、農業についても①と②の両方の意見が出されたのです。それなのに、安倍総理の取りまとめ発言は、「農業の構造改革の加速化、農産品・食料の輸出拡大でありますが、……日本の農業は弱いのではないかという思い込みを変えて行くということが重要ではないかと思います。……農業と流通業、そしてIT、金融業など多様な業種との協力、事業提携が加速していくようにしたいと思います」となっています。
この取りまとめを見ると、例えば“農業の構造改革”という用語は農水大臣ペーパーの表現そのままであり、“農業の規制改革”とは意味が完全に異なります。要は、イノベーションほどではないですが、総理の取りまとめはやはり②に偏っているのです。その原因はイノベーションの場合と同じです。

守旧派の事務局の暴走でアベノミクスの効果も減退か

ついでに言えば、産業競争力会議の事務局の官僚は、当初は会合に提出される民間議員ペーパーを1つだけにして②の観点のみを強調したかったようにも見受けられます。そう考えると、事務局の官僚が用意していた総理取りまとめが②の観点ばかりになっていたのは、ある意味で確信犯だったとも言えます。
さらに言えば、第2回会合では電力システム改革も議論されたのですが、そこで事務局と経産省は、経産大臣のペーパーで原発の早期再稼働の必要性をさりげなく主張し、わずか十数分の議論だけで産業競争力会議全体として原発再稼働に賛成という結果にしようとしていたようにも見受けられます。
こうした様々な事実を考えると、産業競争力の事務局とその背後にいる経産省は改革路線とはほど遠い守旧派路線で暴走しようとしているとしか思えません。しかし、それがベースとなって成長戦略が作られたら、民主党政権時代に毎年作られた“官僚による官僚のための成長戦略”と同じような内容となり、アベノミクスの政策効果のみならず、アベノミクスに対する現状での金融市場や海外の高い評価を一気に下げかねないのではないでしょうか。
日銀の新総裁が決まった後は、成長戦略の中身がどうなるかが安倍政権の経済政策の正念場になりそうです。




余談です。
前回、安倍政権の成長戦略について書きました。乱暴な計算ですが、800兆円の成長戦略が必要になるという試算もしました。仮に、アベノミクスが成功するとしたら、その成否は成長戦略にかかっています。一気に800兆円が無理だとしても、1年後に200兆円、2年後に400兆円、3年後に800兆円の経済成長が必要になります。しかし、政府の成長目標は2.5%だと決まったようです。10兆円です。それも、大部分が物価の上昇によるもののようです。つまり、最初からやる気はないのです。
政府にやる気がないのですから、会議を開いても成長戦略が生まれる筈はありません。そこは、官僚利権の漁場になっているのです。
成長戦略神話は、今や言葉遊びにすぎません。
現実的には、成長戦略がないという前提に立つことです。神話に頼っている限り、現状を打破する方法は見つからないのです。
それでも、官僚は官僚組織のために神話を利用します。
さあ、ここからは、官僚の腕の見せ所です。いつものように、作文と、数字の組み合わせによる利権獲得に真剣に取り組んでいる彼等の姿が、ここ奈良からでも見えそうです。
どっちみち、結果は数年後にしか出てきませんから、何の問題もありませんし、そのことで責任を取らされた官僚はいません。この数年間で、いくら、官僚達の懐に入ってくるかが問題なのです。こういう書き方をすると、まるで国家予算がそのまま官僚個人の収入になるように誤解されるかもしれませんが、日本の官僚はそんな幼稚なことはしません。彼等は、官僚組織全体の利権のパイを大きくすることが、自分の利益になることを知っています。もちろん、部分的には直接懐に入るものもありますが、それは国家予算の規模から言えば少ないものです。官僚組織の構成員が、生涯に受け取れる金額が増えればいいのです。外郭団体が大切なのはそのためです。民間の天下り先も大切です。回り回って、最終的に官僚の懐に入りさえすればいいのです。その為には、現状維持は最低条件であり、少しでもそのパイを大きくしておくことが官僚の仕事なのです。その構造が維持できなければ、先輩達だけがいい目をするだけですから、後輩達が頑張ることができません。先輩のため、自分のため、後輩のために全員が頑張れる組織、それが官僚組織なのです。ですから、本来の目的よりも、国の利益よりも、国民の利益よりも、省益の方が優先するのです。日本の最高頭脳と言われる人達が、その仕事に邁進しているのですから、日本最強の組織になったのです。官僚は現状維持と利権の拡大のために、国民には見えない場所で日夜努力を続けています。官僚のその頑張りのおかげで、この国は滅びようとしています。国民が貧しくなっているのも、官僚達の「自分さえよければ」という努力によるものです。それは、官僚による官僚のための制度を維持するために、彼等は日夜努力を重ねているからです。仮に、私が官僚の一員であったら、彼等の努力を誇りに感じると思います。
どこに官僚利権が隠されているのか、その全容解明はできません。捜査権を持っている公権力従事者は、全員、公務員ですから身内の捜査はしません。国民は、手も足も出せません。官僚を罷免する権限も国民にはありません。
官僚独裁の最大の弊害は、世論操作です。彼等は、自分達の利権を守るためなら何でもやります。国の衰退よりも、官僚利権が優先します。
今年の6月頃に、具体的な成長戦略への道筋が発表されることになっていますが、多分、その時には「よいしょ」をする人達が大勢いるものと思います。官僚達は、その根回しも始めているでしょう。全体像を議論すれば、成長戦略の貧弱さが目立ちますので、視野狭窄を誘導するような論調も増えると思います。世論統制に関しては、実績がありますし、彼等は絶大な自信を持っているものと思います。
この国の全体像を俯瞰してみると、やはり、日本国民はマゾヒストであることが明白だと思われます。権力者に騙され、痛めつけられ、それでも、権力者を求めている私達は、正真正銘のマゾヒストだと思います。私は、自分がド・エムだと思っていますが、日本国民の皆さんには敵いません。脱帽です。


2013-03-02



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記事紹介 25 [記事紹介]



「医療ガバナンス学会」というホームページがあります。メジャーな学会ではなく、数人の医師が立ちあげたホームページだろうと推察しています。
その記事の中から紹介します。
表題は、日本の「変わらなさ」へのささやかな抵抗
筆者は、福島県立医科大学災害医療支援講座/雲雀ヶ丘病院 堀 有伸氏
全文は転記しませんが、興味のある方は「医療ガバナンス学会」を訪問してください。

[ 前略 ]
村重直子の『さらば厚労省』では、現実的な思考よりも、所属官庁の権益を優先する判断を行い、そのことがあまりにも自明で葛藤を生じる余地もなくなってしまった一部の役人の姿が描かれている。その中から一部を引用する。「私は医系技官になって、彼らのこんな会話を耳にした。『現場を知らないからできるんだ』『それを知っていたら、俺たち、こんな政策決められないよなあ』 『それ』とは、たとえば『現場の声』であり、論文である。現場の常識を知らないことを棚にあげ、『知らないからこそできる』と開き直っているのである。そして間違いを認めることもなく、『知らないからこそできる』と言っている人が、外に出るとこう胸を張るのだ。『我々の使命は国民の健康を守ることです』 なぜ、こんな矛盾だらけの発言になってしまうのだろうか。ある医系技官は、こんな話をする。 『医系技官の世界では、そういう考え方が先輩から後輩へと受け継がれてきたからね』 これが医系技官ムラに伝わる常識なのだ。」

厚労省以外でも、例えば「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会」の報告書では、電気事業者について厳しい指摘が行われている。「学会等で津波に関する新しい知見が出された場合、本来ならば、リスクの発生可能性が高まったものと理解されるはずであるが、東電の場合は、リスクの発生可能性ではなく、リスクの経営に対する影響度が大きくなったものと理解されてきた。このことは、シビアアクシデントによって周辺住民の健康等に影響を与えること自体をリスクとして捉えるのではなく、対策を講じたり、既設炉を停止したり、訴訟上不利になることをリスクとして捉えていたことを意味する。」

そして、力関係を背景に所属集団の内部のことがらを理想化して秘密を守り、外部の問題点のみを指摘することに由来する万能感は、単に精神的なものだけではなく、実社会における「支配-被支配」の関係とも関連している。村重は、医系技官のあり方について「砂上の楼閣を守るために新たな仕事を作り出さずにはいられない。こうして、次々と医療に口を出すようになった。その主な手段が医療費抑制と、補助金行政、通知行政である。(中略)どの病院に補助金を渡すかを決めるのは役人だ。医療費抑制政策によってほとんどの病院は赤字経営を強いられているから、補助金を受け取れるか否か、病院にとっては死活問題だ。だから多くの病院は、嫌でも役人にひれ伏すしかない」と論じた。東京電力と監督官庁の関係について、前述の事故調査委員会の報告書は、電気事業者について「原子力技術に関する情報の格差を武器に、電事連等を介して規制を骨抜きにする試みを続けてきた」と指摘している。ここからも、組織がその内部と周辺の個人を、「組織が空気と一致することによる万能感」の中に飲み込んでいった様子が推察される。

閉鎖的な組織に一致することから生じる万能感は、中央よりも県や市のような地方自治体・医療機関・他の私的な組織においても往々にして認められ、そちらの方が強烈であることも少なくない。さらに、「知らない」と開き直ることで責任を回避し、問題を外部に押し付け続ける依存性は、一般国民の中により露骨に現れることがある。そしてそれは「普通の市民感覚」として、近年称揚され続けてきたのである。日本的な精神性の負の側面を一部の組織に投影してそれを攻撃することは、この自己愛的な万能感の問題を解決するどころか、疑似解決を与えることで、かえってそれを強化してしまう可能性がある。批判のための批判を行うことで感情的なカタルシスを得ることはできても、経験のある実務担当者を、情熱はあっても具体的な能力に乏しい人々に置き換えてしまうのでは、いたずらに社会を混乱させるだけである。私はただ「厚労省が悪い」「東京電力が悪い」と主張したいのではない。それよりもむしろ、私たち国民の一人一人が、「全体と一致することによる万能感」に耽溺することで満足し、それと独立した個人としての責任ある判断し行動することとの間に、あまりにも葛藤を感じなくなっている現状に警告を発したいのである。
[ 後略 ]



余談です。
私は、文庫本以外の本を買ったことがありません。これは、貧乏が作り出した個人の性癖なのだと思います。
掘氏が引用している村重直子氏の『さらば厚労省』もハードカバーで、2000円もしますので読んでいません。前回紹介しました「いまだ人間を幸福にしない日本というシステム」という本は、文庫本だったから読むことができました。私が知らないだけで、ウォルフレン氏や村重直子氏だけではなく、多くの方が問題を提起し、警告を鳴らしてきたと思います。堀氏もその一人でしょう。
でも、この国は変わりません。
これが現実です。
それは、ほとんどの国民が、自分の問題だと感じていないことによるものです。
私達日本国民は、聞く耳を持たなくても問題はないと信じ込まされているようです。それは、どんな分野にも安全神話が用意されているからです。「これは、お上の領域の問題であって、あなた達国民には関係がありません」「大丈夫です。何も心配いりません。ごらんなさい、こんな安全神話があるのですよ」と言われ、「なんだ、私達には関係ないんだ。お上が万事間違いなくやってくれるんだ」と国民は納得します。
このことは、日本の官僚がいかに優秀であるかという証明でもあります。
それは、情報隠蔽が当然のように行われるシステムを官僚が作り上げたからです。そこには、日本人の民族性を利用しようという発想が存在します。こういう発想ができるということも、官僚が優秀だという証明です。
官僚独裁主義は、盤石なのです。
官僚は変化を嫌います。
この一点を見ただけでも、日本崩壊は揺るぎない日本の未来です。
なぜなら、時間や時代が、変化を求めるのは、ごく自然な事です。盤石であるということは、崩壊のマグマをため込んでいる事を意味するからです。日本のシステムは、日々硬直しているのです。
石田が心配している財政破綻も、硬直化の一つの事象に過ぎません。でも、余りにも大きな事故になると思われますので、この国にとって致命傷になる可能性があります。今、事故という言葉を使いましたが、適切な言葉ではないかもしれません。例えば、赤信号の交差点に突っ込めば事故が起きることは容易に予見できます。それを敢えて突っ込む行為は、暴挙と呼ぶことの方が正しいのではないかと思います。事故が起きた後を見れば、交差点事故と変わりがありませんが、事故の原因は別物だと思います。
しかし、国民は、「関係ない」と思いこんでいます。
この国民の能天気ぶりは、世界に類を見ない能天気のようです。
「手の施しようがない」という感想が現状を表現する最も適切な言葉だと思います。
「手の施しようがない」という言葉が使われるのは、末期症状の患者に対して医師がよく使う言葉です。この国も、同じなのです。
日本の民は、権力者に従うことが正しいことだと教え込まれてきました。権力者にとって都合の悪い事はやってはならぬと教えられてきました。その理由は「ならぬものは、ならぬのです」というものです。その結果、会津藩はどうなったでしょう。権力に殉ずることは、本当に美しいものなのでしょうか。お殿様のために命を捨てることが美しいのでしょうか。私は、そうは思えないのですが、国民としては恥ずべき事なのでしょうか。
この国が崩壊して、地獄がやってきたとしても、民は泣き言を言わないのでしょうか。恨みも抱かないのでしょうか。とても、そうは思えません。
お上が民を守ってくれるというのは、幻想に過ぎません。自分の身は自分で守るしかないのです。人類の歴史は、そこから始まっているのです。しかし、「自分さえよければ」が自分を守ることにはならないということを、人間は体験で知りました。他人と力を合わせなくては生き残れないのだと知りました。権力者は、その部分だけを利用する知恵を持っていたのです。権力者は、人間の弱みを利用することで、自分の権力を確実にすることに成功したのです。時間とともに、次第に、それが正義になりました。権力者を支えるために民があると思うようになったのです。それで、民が幸せになれるのであれば、世界中の国は独裁国家のままでよかったのです。でも、今、世界には独裁国家が数えるほどしか残っていません。民は、自分が幸せになるためには、自分も責任を持って、国の運営に関与しなければならないと知り、民主主義が生まれたのです。この民主主義が、人間にとって最終兵器なのかどうかは、まだわかりません。でも、多くの民が生き残るためには、現在ではこのシステムが最良のものだと考えられています。では、日本はどうなのでしょう。私達国民は、この国が民主主義国家だと思い込んでいますが、それは、看板を立てているだけで、実際には官僚独裁国家にすぎません。なぜなら、私達は、まだ、民主主義とは何かについて、何も知らないからです。
仮に、日本の現状を憂い、日本の将来を心配する人が50万人いたとしましょう。20歳から70歳の大人が8000万人いたとすると、7950万人の日本人は、自分には関係のないことだと思っているのです。また、心配する50万人の中で、声を出す人は500人か5000人だとすると、その声を7950万人の耳に届けるだけではなく、心に届けなくてはなりません。それは不可能です。彼等は、自分が正しいと信じているのですから、崩壊という現実に直面するまでは、聞く耳すら持っていないのです。
独裁国家に住む隷属という土俵にいる人達と会話をしても、話は通じません。それは、国とは、国民とは、民主主義とはという基本的な部分で共通の認識が持てていないからです。
言葉が通じないのですから、どうすることもできないのです。
何も変わらなくて、当然なのです。
勿論、官僚独裁国家でも、民が幸せであれば何の問題もありません。
でも、この国の民は幸せと言えますか。
将来に幸せが見えていますか。
仮に、国が崩壊したとして、民は納得できるのでしょうか。
破局願望を持っている人でも、実際に崩壊して「よかった、よかった」と言えるのでしょうか。崩壊の現実が自分の身に及んできても「これで、いいのだ」と言いますか。
国が崩壊すれば、今、私達が持っている正義も論理も常識も、全部吹き飛ばされてしまうのです。全く別の正義と論理と常識に支配されるのです。それまで信じてきたものは、跡形もなくなるのです。
私達は人間なのですから、少しは想像という力を使うべきです。
レベル9を想像することができれば、私達の常識は根底から変わります。
正しいか、正しくないかは個人によって異なります。でも、恐怖は大勢の人に恐怖として認識してもらえるものです。ですから、7950万人の日本人には、お行儀のいい正論を伝えるのではなく、レベル9という恐怖を伝えるべきなのでしょう。確かに、これは脅しになりますが、大勢の方がお行儀よく警告したことが無意味に終わっているのが現実なのですから、他に選択肢はないものと思います。
ただ、この方法は、現行の体制を破壊する可能性がありますから、権力者の圧力がかかってくるのは覚悟しなければなりません。流言飛語だと決めつけられるかもしれませんし、国家騒乱罪に当たる刑法77条の内乱罪を適用される心配もあります。
石田の場合は、暴力や武力による革命は推奨していませんし、レベル9も小説という表現方法を使っていますので、内乱罪が100%適用されることはないと、勝手に解釈していますが、それが通用するかどうかはわかりません。
そうは言っても、このブログの発信力では、7950万人の無関心な人達に伝えることは不可能なことでしょう。それでも、万が一ということもあるし、悩ましいことです。
崩壊後の社会の国民生活に言及する人達が出てくるまでには、まだ時間がかかります。崩壊が予測の段階を越えて秒読みの状態にならなければ、書けないのだと思います。もっとも、崩壊後の社会を伝えることが出来たとしても、それで崩壊が回避できる訳ではありませんし、国民が自分の身を守ることも出来ませんので、実質的なメリットは何もない訳です。何かメリットがあるとすれば、生き残った人達が新しい社会を作る時の参考になる程度でしょう。でも、生き残った人達が作る社会は、きっと、今の社会とそれほど変わらないものになると予想できますので、役に立つかどうか、疑問はあります。そう考えると、無駄な抵抗になるのでしょうが、人間は、愚かな生き物ですから、抵抗をするものだと思うことも選択肢なのかもしれません。
石田は、今までも、無駄な抵抗をしてきたのだから、この先も抵抗するのか、それとも無駄だと認識するのか、それが問題です。一寸、ハムレットの気分です。
そうです。
私は、お馬鹿さんです。


2013-01-15



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記事紹介 24 [記事紹介]



1/4付 ダイヤモンドオンラインの記事を紹介します。
筆者は 山田厚史氏
表題は 焦る財務省、諦めの日銀、「緩和総裁」が破局を招く?

新年早々に、こんな記事を紹介するのか、という抗議があるかもしれませんが、このブログでは暗い話題しか取り上げていませんので、どうか、ご容赦ください。



自民党の政権復帰は、霞が関の力学構造にも及んでいる。「直勝内閣」と言われたほど野田政権を操っていた財務省は逆風にさらされ、「消費税増税」さえ危うい。
日銀は、財務省と密かに握った「次期総裁は元財務次官の武藤(敏郎)氏」という人事案が宙に浮いた。原発事故で窮地に立つ経産省は「援軍来たる」と活気づいている。「国土強靭化」という積極財政が踊り出し、財政再建は後退するだろう。2013年は波乱含みの幕開けだ。円安・株高へと経済の潮目も変わった。「好転」なのか「破局」への道なのか。政府への信任が問われる年になる。

実質的な日銀による国債引き受け

「大胆なマクロ政策の転換」を叫ぶ安倍政権の経済政策は、年度の上半期に、その真贋が見えてくるだろう。注目点は「4~6月の景気」「金利上昇」「国債発行高」である。
例えばこんな事態も起こるかもしれない。
4月×日、日銀の白川総裁が退任、金融緩和を積極的に行う新総裁が登場した。首相の期待に沿い大胆な「買いオペ」で市場に資金を流し始めた。30兆円から始めた「買い入れ基金」は6月に100兆円を突破した。
この裏にはもう一つの事情があった。1月の大型補正予算から始まった財政の大盤振る舞いで政府は財政資金の不足が深刻になっていた。国債消化を円滑にするため、日銀が金融機関の保有する国債を、一層、買い上げなければならなくなったのである。「買いオペ」は銀行が保有する国債を日銀が買い取ることで、市場に日銀券(通貨)が供給される。日銀には国債が溜まる。日銀はオペを通じて実質的な国債の「日銀引き受け」を始めたのである。
「財政再建」を目指す財務省にとって、日銀に国債を買ってもらうことは財政規律を歪め、あってはならない事態だった。だが財務官僚から異論は出ない。消費税増税の条件に「名目成長率3%」の高いハードルがあるため「増税にこぎ着けるまで無理な財政出動にも耐えるしかない」という事情がある。「景気が回復しない限り増税はできない」という政権の意向を無視できず、資金を国債に頼る財政出動→景気対策に歩調を合わせた。
官邸は7月に発表される「4~6月の成長率」を見守っている。夏の参議院選挙を左右するのは経済、と見ているからだ。「憲法改正」などの安倍カラー濃厚な懸案を封印し景気対策に邁進した。財務省も4~6月のGDPが増税の可否に影響するだけに必死だ。日銀の新総裁は、集中的に資金を投入し、市場から国債を買いまくる。
そんな状況の中で「日本の中央銀行は財政をファイナンスしている」という観測が海外で囁かれるようになった。円安で儲けたヘッジファンドが、今度は国債売りを仕掛けてきた。下がりっぱなしだった金利が上昇し始める。市場では、「通貨価値を落とすインフレ政策が本格化する」という見方から金利の高騰が始まった。安倍首相が野党自民党総裁のころ主張していた「日銀が輪転機を回しておカネを刷りまくればいい」という言葉が、現実味を帯びる。
銀行は大慌てだ。金利が上がれば保有する国債の価格が下落し、経営は大打撃を受ける。買い手が引っ込んだ国債は「消化難」となり財務省は高い金利をつけて国債を売り出す。金利はさらに跳ね上がり、日銀内部では「これ以上の金融緩和は危険だ」という声が高まった――。
以上は、今年予想される「悪いシナリオ」である。夢物語ではない。日銀や財務省でも、表だっては言われていないが、その危険性は内部で共有されている。

経済政策の助言に二派

安倍政権の発足で彼らが眉をしかめた人事がある。内閣官房参与に藤井聡京大教授が任命されたことだ。
「右派の論客・西部邁氏の弟子で、国土強靭化政策の提唱者です。安倍首相のブレーンで、国債を大量に発行して大規模な公共事業を行うことを進言してきた」(財務省幹部)
日銀批判の急先鋒・浜田宏一エール大名誉教授も内閣官房参与になった。「金融緩和を強調する浜田先生は財政規律への配慮は大事と言われる。しかし藤井教授の主張は国債大量発行が前提となる。本来は並び立たないのに安倍さんの政策は、国土強靭化を軸に金融超緩和・財政膨張・国債の日銀買い入れがワンセットになっている。極めて危うい政策だ」(日銀OB)
安倍首相に経済政策を助言する人に二派ある、という。一つは浜田教授に象徴される金融緩和論者。デフレは市場に流通する通貨が足らないので起きる、じゃんじゃんお札を刷って金融を緩和しよう、という主張だ。「リフレ論」とも呼ばれ、竹中平蔵氏やダイヤモンド・オンラインの論客である高橋洋一氏などがかねてから主張していた。みんなの党や橋下氏の日本維新の会も同調している。
もう一派は公共事業による景気対策を主張する財政膨張論。「コンクリートから人へ」の民主党によって否定された路線が、国土強靭化という新たな装いで再登場した。自民党にはこの路線の支持者が多い。3年8ヵ月の野党暮らしで自民党の政治家は、緊縮財政もあって選挙区へのお世話ができなかった。政権を取った今、支持者への恩返しもしたい、という心理も働いている。東日本大震災からの復興、笹子トンネルに象徴されるインフラの劣化。政権復帰を機に財政膨張への期待が一気に吹き出ている。
デフレ脱却を狙う金融の超緩和に公共事業の大盤振る舞いが重なること、日銀がお札をじゃんじゃん刷って、国債を買い、その金で公共事業に邁進する、という「平成ニューディール」が始まるという。
景気のいい話だが、浮かれる時が一番危ない。返済の当てが無くなった、と市場が見たとき国債の暴落が起こる。「日本売り」の好機と見て円売り・国債売りを仕掛ける投機筋にとって絶好のチャンスでもある。
日本にとって本当に恐いのは金利の高騰、すなわち国債暴落だ。
政府の借金は1000兆円を突破した。その大部分は国債だ。先進国で例を見ない借金財政でも経済がおかしくならないのは、日本人の貯蓄が銀行を経て国債に回っているからだ。「国債安全神話」が支えになっている。みんなが買っているから安全、国が破綻することはないだろう、という「漠然たる信頼」で、国家の信用は維持されてきた。
だが「アベノミクス」は通貨の価値を下げ、インフレにする、という。物価が上がる、ということは金利も上がる、ということだ。
金利上昇には二つのタイプがある。景気がよくなり資金需要が出て金利が上がる。もうひとつは国債が売れなくなり、買ってもらうために金利を高くする。後者は「悪い金利高」とされている。国債が売れなくなり長期金利は20%台まで跳ね上がったギリシャ。国債の市場金利が7%を超えて大慌てしたイタリアなど、景気回復と無縁な悪い金利高は世界各地で起きている。日本だけがそうならない、とは言えない。
1000兆円の借金を抱える財政で金利が3%上昇したら、単純計算で財政負担は30兆円増加する(実際には一気に30兆円の増加にはならない)。消費税換算で約12%分の財源が吹っ飛ぶ勘定だ。
物価は黙っていても上がる。円安で輸入物価が値上がりするからだ。いま輸入は輸出を大きく上回っている。円高は輸出業者に深刻だったが、円安は消費者に打撃を与える。
通貨が下落し、物価に波及すれば、次は金利上昇である。国債暴落を招けば、物価が急騰するという意味でハイパーインフレにつながりかねない。
「金利が上がったら、速やかに金融を締めればいい。オイルショック後の狂乱物価やプラザ合意後のバブル経済も、日銀は見事に火を消し危機を乗り切った」と言う人がいる。そうだろうか。

今年最大の懸念は「日本売り」

先に述べた「悪いシナリオ」に続きを書こう。
7月のある日、国債金利が跳ね上がった。
強靭化政策で財政支出が膨らみ、市場は日銀の積極的な買いオペを「財政ファイナンス」と受け取るようになっていた。金利上昇は市場の警告だった。これ以上の国債買い入れは不健全な財政の片棒を担ぐことになる、という意見が吹き出し、日銀の金融政策決定会合は大揺れ。
委員の意見は「金利上昇が起きたからには、緩和政策にブレーキを掛けるべきだ」と「ここで緩和を緩めれば景気回復の腰を折る」に割れた。代わったばかりの新総裁は「金融緩和の継続」を譲らなかった。総裁と一緒に安倍政権が任命した二人の副総裁も同意見だった。日銀は国債買い入れオペを一段と強めた。
「景気対策の手を緩めたら参議院選挙は戦えない」という声は与党に強く、日銀は抵抗のすべもなかった。市場で買い手のつかない国債を日銀が買い支える。投機筋の売りが円と国債に殺到し、国債の値崩れが始まった――。
「日本売り」は今年最大の懸念である。日銀が「買いオペ」を通じて、国債保有を増やしてきたのが昨年だ。政府の圧力を回避するため、「自発的」に買い取りを進めてきた。
「買いオペ」による保有も、財政法で禁止されている「日銀の国債引き受け」も、実質は変わりない。市場を通すか、通さないか、の違いだけで政府の財政を日銀が支えていることは変わりない。
問題は「危険水域に入ったとき、やめる決断ができるか」である。
国債の買い取りが「市場の金融調節」として行われているならやめればいい。だが「危険水域」では政権は存亡の危機に見舞われる。日銀がそっぽを向けば、政府は資金繰りに行き詰まる。そんな時に「毅然たる姿勢」を取ることは容易ではない。
「金融緩和に積極的な総裁」が「政府に逆らえない総裁」であったらことは重大である。「政府が大変なとき日銀は打ち出の小槌を振ってお札を刷りまくる」と見なされるような人が総裁になったら、通貨価値は地に落ちるだろう。
どんな人が日銀総裁に選ばれるか。まずはこのあたりから今年の金融財政運営が読みとれるだろう。






余談です。
山田厚史氏の意見が、日本全体の意見ではありませんし、山田厚史氏の意見が正しいとも言いません。石田も、前回の評論で安倍政権の政策が危険だと指摘しました。山田厚史氏以外にも、アベノミクスに懸念を表明している人はいます。いつも、反対意見を書くのは石田だけだったのですが、最近は、比較的多くの方が同じような意見を表明してくれます。これは、石田の妄想力が衰えたのか、或いは、石田の意見は妄想ではなかったのか。大変悩ましい現実ですが、どちらにしても、国民にとって明るい未来が近づいてきている訳ではありませんので、決して喜ばしいことではありません。
でも、危険が近づいてきている波動は、多くの国民の体に届いているものと思います。
それは、安倍政権の誕生を、日本の救世主の誕生だと捉えている国民がいるようには見えないからです。石田のように全否定する国民は少ないでしょうが、大半の国民は半信半疑の状態なのではないでしょうか。
前回、2012年で崩壊回避の可能性は消えた、と書きました。
2013年からは、静観の姿勢で、この国の崩壊を見届けることにしています。
もう、皆さんに「声を出してください」とも言いませんし、解決策を模索することもありません。
ただただ、冷静に、崩壊の過程を見ていくだけです。
それでも、このブログを読んで下さる皆さんにお願いがあります。
ハイパーインフレにも銀行閉鎖にも耐えられる、個人の預貯金保護の方法を考えてください。そして、それを、私にも教えてください。これは、無茶なお願いです。国の崩壊に私達は抵抗できませんので、せめて、自分の崩壊を防ぎたいという身勝手です。でも、ここまできたら、許されるのではないかと思うのです。これは、悲しいことですし、惨めなことですし、卑怯な振る舞いですが、それを多くの国民に伝えることができれば、罪は少しだけ軽くなるような気がするのです。
このブログには全く関係していないある方が言っていました。「資産保護なら、金の購入や不動産購入でしょう」と。この方は、国が崩壊しても、現状の延長線上に未来はあるという前提で物事を考えています。どんな神経をしているのだろうと思いました。10年や20年という短期間で日本再生が可能であれば、金や不動産の購入も可能性としては否定しません。でも、どうやって生き延びるのですか。金や土地や建物を持っていっても、食料と交換をしてくれる人はいないと思います。
崩壊後の社会は、金本位制でも不動産本位制でもありません。食料にしか価値が認められない食料本位制になるのです。かつての敗戦後の食料不足とは比較できない、恐ろしいほどの食料不足になるのです。過去の経験則も役には立ちません。
でも、何か自衛策があるのではないかと、妄想することはできます。


2012-01-05





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記事紹介 23 [記事紹介]


今日は、少し古い橋下大阪市長のツイッターを紹介します。
これは、先日、財務省が地方公務員の給与について言及したことに端を発していると思います。財務省は地方交付税を減らすために地方公務員の給料を減らせと言いだしました。しかし、総務省は現在の国家公務員の給料は震災支援のために減額されているので、地方公務員の給料と比較すべきではないと反論しました。多分、山口県民はどちらにも言い分があり、それなりに「理」があると思って聞いたことでしょう。しかし、橋下氏の意見は少し違いました。


[橋下氏]
11日読売新聞社説。「地方公務員給与、自治体はもっと削減努力を」地方がもっと努力しなければならないことは否定しない。ただ、国と地方の給与比較のおかしさについて読売新聞はもう少し突っ込んで調べて欲しい。国は、高給取りの幹部を除いて地方と比較している。一番高い層を除いているのである。
それは国家公務員一種試験に合格し、地方と比べる層ではないという発想なのだろうか?この辺りの層は、市長である僕よりも、また知事よりも給与が高い。確かに選挙で選ばれる公選職がみんなバリバリ仕事をしているとは言えないが、それでもこれは程度の差だろう。
ましてや国家公務員と地方公務員の比較において、国家公務員の高給取りクラスを全部外すのはおかしいのではないか?国家公務員の一番給料の高いクラスも含めて、地方公務員と比較すべきだ。ただ、これを言いだすと地方側も分が悪い。そもそもの官民給与比較のメカニズムそのものがおかしい。
今、この官民給与比較メカニズムのおかしさを調べているが、まずは民間企業との比較。一部例外的な高給取りの社員もサンプルに入り、この給与に合わせるような仕組みになっている。それとそもそも一番の問題である現業職が全く比較対象となっていない。地方公務員の給与で問題なのは現業職だ。
運転手、看護師、保育士、給食調理員、警備員・・・・・ここが民間と比べて物凄く高い。大阪市では、ここの組合に応援を受けていた平松前市長まで、全く改革できず。僕が市長になってから、現業職の給与見直しをやっているが民間ときちんと比較できる物差しがない。これは国を挙げてやる問題だ。
全国の多くの自治体の長は、現業職の組合から選挙応援を受けるので、彼らの給与を守るのが首長の第一使命となっている。また現業職の民間給与比較は、ある程度の体制を整えてやらなければならない。厚労省が出している賃金センサスは非正規労働者が入っているから使えないとか言ってくる。
もうラスパイ比較はダメだ。このラスパイ比較は、今の公務員組織・ポスト数を前提に、この組織を民間給与で構成するといくらになるかという論理。そもそも公務員組織・ポスト数のような民間企業はない。公務員組織はポストが多すぎる。それに現業職も比較対象でない。
一方、バリバリ働く公務員層の給与が低いことも事実。公務員組織は、これまで共産主義組織だった。これは変えなければならない。バリバリ働く層にはきちんとした給与水準を。そうではない層にはそれなりの給与を。もっとメリハリを付けなければならない。今、大阪府、大阪市ではそれに挑戦している。




余談です。
市長や知事は、権力側の人達の筈ですが、官民格差に言及するということは、橋下氏はそちらの土俵に立っていないようです。彼の人気は、その辺にあるのだと思います。橋下氏が言っているように、国家公務員と地方公務員の給料比較にはカラクリがありますし、公務員と民間勤労者の給料比較には、もっと大きなカラクリがあります。名古屋に民間勤労者の実際の給与明細を集めてデータを収集している団体があると聞いたことがあります。政府発表の民間給与とは大きな差がありました。以前、地方公務員の平均給与についても書いたことがありますが、年収600万以下の自治体は数えるほどです。600万円から700万円に集中しています。一方、農業や漁業が中心の地方では、民間勤労者の年収は200万円程度ですが、そんな所でも公務員の給与は600万円を越えていますので、鹿児島の方で実在する公務員の給与を公開して、大騒ぎが起きたことがあります。それでも、暴動にはなりませんでした。それは、その街の住民が、全員、日本人だったからです。問題は解決しませんが、取りあえず、丸く収める道を選んだのです。
公務員は、国民の安全と幸せを実現するために存在している筈でした。そのために、彼等の給与は国民が納めた税金で支払われています。今では、封建時代の階級に匹敵するものができているのかもしれません。公務員は、自分の収入は他の市町村と比べても高くはないと、平然としています。民間人は努力が足りないと思っている人もいます。勿論、彼等の言う努力というのは、利権を手にするための努力の事です。
日本の衰退は、この公務員の「自分さえよければ」に象徴されていると思います。公務員給与を下げたくらいでは日本の借金は減らないと言う方がいます。確かに、年間2兆円の公務員給与を半分にしても1兆円しか捻出できません。でも、給与はほんの氷山の一角にすぎないのです。誰も公務員利権の総額を計算した人はいませんが、石田の推定では年間約50兆円はあるものと思っています。官僚利権と公務員利権を排除すれば、この国は生き返るのです。公務員給与は、その一部に過ぎませんが、放置するわけにはいきません。どの政党も、このことを声高に言わないのはなぜなのでしょう。非正規労働者を正社員にしろ、という政党はあります。最低賃金を上げろ、という政党もあります。でも、選挙の時でさえ、社会の歪みの象徴である公務員給与を下げろ、という政党はいません。
50兆円という数字を出すと、それを証明しろ、という人もいるでしょう。私に強制捜査権と予算を与えてくれたら、きっと証明できると思っています。
霞が関では、官僚による官僚のための国家統治が行われ、地方では公務員が公務員のための階級を守っているのです。階級社会になれば守りの構造になります。日本からダイナミズムは失われ、発展の余地を自分達で殺しているのです。税金を納める人よりも、税金で給与を貰っている人の方が裕福だという、この現実は階級社会の特徴ではないでしょうか。給与の差は、10%や20%ではなく、200%も300%も差があるのです。それでも、日本人は我慢します。その上、財政破綻になれば、必死に貯金していたお金が何の役にも立たなくなるのです。それでも、日本人は声を出しません。日本民族は奇跡の人の集まりですか。選挙で、このことを争点にする政党があるのでしょうか。国の力は、国民の力です。それも、一人一人の国民の力の集大成です。守りに入った国で、気力を失くした国民が、日本の発展に寄与してくれるとは思えません。日本の若者の目から輝きが無くなっていることが、今の時代を表しています。それは、大人達が「なあなあ」や「まあまあ」で逃げていることが最大の原因です。私達大人は、いろいろな言い訳を自分に言い聞かせて、責任放棄をしているだけです。大人の責任は、次の世代に安心できる社会を渡すことではないのですか。民主主義も偽物です。選挙制度も偽物です。誰も人前では言いませんが、そんなことは誰もが知っていることです。逃げて、逃げて、また、逃げて。私達大人は、どこまで逃げるのですか。子供や孫達を地獄へ送り込むのは、私であり、あなたであり、今を生きている大人達です。そんなことでさえ、気がつかない振りをしてしまうのです。
私達は、特に山口県民は「お上」が示した数字を、公平公正な数字として受け取っています。その計算根拠や前提に関して問うことはしません。それは、「悪いことなどするはずがない」という性善説が底流にあるからです。いや、そう思っていた方が無難だと思っているのです。もし、官僚達の騙しや隠蔽が表面化したとしても、そこには何か奥深い理由があるに違いないと山口県民は勝手に納得してしまうのです。これでもか、というほど山口県民はいい人達ばかりなのです。
石田は、山口県民を馬鹿にしているのではなく、軽蔑しています。
自己保身しかない山口県民を、最低の大人だと思っています。本気で、子供や孫達のことを考えるのであれば「なあなあ」や「まあまあ」をやっている時ではないのです。玉虫色に加工し、曖昧の中で、事を丸く収めるだけが大人のやることではありません。そういう、大人の知恵という逃げの姿勢では問題の解決ができない時もあるのです。
今は、子供達のために、声を出すべき時なのです。
それは、大人としての最低限の責務です。
逃げている大人達には、「卑怯者め」と言いたいほどです。
山口県民に数では勝てませんが、責任放棄をした人間の生き様が正しいとは、どうしても思えないのです。
官僚達は、性善説を逆手に取り、法律の隙間を潜り抜け、何百年もの間、利権を手にしてきたのです。結論に合わせて、数字を組み立てる官僚達の技術は素晴らしいものです。言葉と数字のマジック。これは、官僚マジックと呼んでもいいほどの完成度があります。
その技術は、多分、世界一だと思われます。
それは、ただの騙しなのですから、承知の上で何も言わない国民にも責任はあります。
利権には莫大なお金が必要になりましたし、その利権は税金で支払っています。そして、その税金の不足分は国民に負担しろと言われています。何と言っても日本国民の主流派は全国の山口県民なのですから、官僚にとっては赤子の手を捻るようなものです。山口県民は「お上」にとって優等生です。石田は、正真正銘、混じりっけのない馬鹿ですから、余り大きな声では言えませんが、国民の立場からみれば、山口県民は裏切り者にすぎません。いい子ぶりっこをする発育不全のマザコンに似ています。
そもそも、なぜ、年収300万円の庶民が、年収1000万円の公務員を支えるために税金を支払うのかが理解できません。公務員は、年収以外にも、天下り先は確保されていますし、裏金にも不自由しませんし、領収書の不要な金銭や物品の授受もありますし、福利厚生も、住宅も、年金も恵まれています。実質的な収入については公務員本人も把握していないかもしれません。特に国家公務員の場合、人によっては、表に出ている収入の数倍の実質収入があるのではないかと思います。彼等は、自分達は選ばれた人間なのだから、高待遇を受けるのが当たり前だと考えています。彼等は、自分達は選ばれた人間なのだから、税金を自由に使う権利があると考えています。
それでも、この現実を山口県民は受け入れます。山口県民の中にも年収が300万円の人達は大勢いると思います。きっと、奥ゆかしい方が多いのでしょう。だからと言って、「お上」が山口県民に感謝している訳ではありません。自分達選ばれし者を支えるのが、民の義務だと思っているのです。私から見れば、山口県民は底なしの馬鹿だと思うのですが、何と言っても、彼等は多数派であり主流派ですから、堂々としたものです。こんな馬鹿が日本国民の主流派なのですから、この国を滅ぼすのも、山口県民ということになります。
山口県という所は明治維新の立役者になりましたし、今度は日本崩壊に大きく貢献します。山口県には、何かがあることは間違いありません。もしかすると、日本人発祥の土地なのかもしれません。
もう一つ。次の総理大臣になるだろうと言われている人も、山口県選出の世襲議員です。ここまでくると、もう、呪いとしか言いようがありません。
日本国民の皆さん、そして、特に山口県民の皆さん。
どうか、目を覚ましてください。
皆さんの大好きな性善説や曖昧文化は、利権集団に利用されているだけなのです。
今度は、皆さんが、直接、被害に遭遇するのです。
自分を守り、子供達を守り、孫達を守ってください。
皆さんは、日本を守るために自民党を支持しているのだと思いますが、それは大きな勘違いなのです。あなた達は、ただただ、逃げているだけです。
ぜひ、そのことを、わかってください。
それどころか、山口県民の皆さんは、自民党や民主党や官僚達と一緒になって、日本を潰そうとしているのです。自民党も民主党も官僚も、あなた達山口県民のために働いているのではありません。あなた達とは立場が違います。彼等には「自分さえよければ」という強欲しかありません。
「自分には関係ない」「どうしようもない」「無駄だ」と言っていても、地獄へは落ちるのです。先ず、私達国民が、国民のために働いてくれる本物の政治家を求めなくてはなりません。「そんな政治家が、どこにいるのだ」と言っていては、本物の政治家は現れません。多くの国民が本気で本物の政治家を求めれば、必ずそうなります。国会議員は、国民に投票してもらわなくては議員になれないからです。
国民が本気で考えれば、方法はいくらでもあります。
選挙制度が国民の本音を反映できないのなら、選挙制度を変える運動を起こさねばなりません。政治家や官僚に都合のいい選挙制度ではなく、国民に都合のいい制度を作るべきです。なぜなら、この国は国民主権国家だからです。
別の方法もあります。私は、共産主義国家になることは、断じて反対です。でも、崩壊するのであれば、共産主義国家でも仕方がないと思います。極論ですが、自民党や民主党の国会議員を作るくらいなら、共産党の国会議員を作る方がましかもしれません。もしも、万が一、共産党が衆議院第一党になったら、他党の候補者も考えを改めるしかありません。国民にとっては、賭けになりますが、国民にはそれだけの力があるのです。もっとも、そんな無茶をすれば、15年を待たずに崩壊する危険は高くなります。でも、すでに、賭けに出るしか道はないと思わねばなりません。
先ずは、国民が本気になる事です。逃げない事です。
自民党政権になれば、借金はもっともっと増えると書きました。14年後の日本の借金は2000兆円になっているだろうと書きました。景気低迷だけではなく、人口減少に伴い日本ではGDPも減少します。仮に14年後のGDPが400兆円だとすると、借金は対GDP比で500%になります。GDPが300兆円であれば、約700%になります。現在200%を越えているだけでも世界の奇跡みたいなものです。500%や700%は奇跡を通り越しています。いくらなんでも、あり得ません。
これでも、国が存続すると強弁する方がいたら、是非ともその根拠を教えてもらいたいと思います。さすがに、強弁する人は減りました。それまでの主張を正反対に変えるのは格好悪いから、しばらくは無言を選択しているのでしょう。どのくらい無言の時間が続くのかは不明ですが、近い将来、財政破綻の大合唱が始まります。
日本崩壊と、その結果やってくる地獄の方が、はるかに現実的な予測なのですから、そうならざるを得ないのです。でも、それでは手遅れなのです。
嘘や騙しが積もり積もって、現在の1000兆円の借金になったと考えてください。これからも、それを続ければ、いや、続けようとしているこの国は、2000兆円の借金を抱えることになるのです。
自民党の支持率が一番高いということは、そういうことなのです。
確かに、民主党に期待した私達は間違いを犯しました。民主党には、二度と政権を担当する資格はないと思いますし、そんなことをやってはいけません。だからと言って、自民党に政権を戻せば、この失敗でさえ無駄になるのです。今は、毒を食らわば皿まで食べる覚悟が求められているのです。危険ですが仕方がありません。
この国を、崩壊を待つだけの国にしてしまったのは政治家や官僚だけの責任ではありません。私達国民にも責任があるのです。
私達は、救いようのない大馬鹿者ですが、目を覚ます時が来ているのです。
今日は少し過激な事を書いてしまいました。謝ります。
「いつもだろ」
すみません。


2012-11-25



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記事紹介 22 [記事紹介]


長文ですが、ダイヤモンド・オンラインの記事を転載します。

11/22ダイヤモンド・オンライン
表題「金融右翼が円を卑しめる。「国債の日銀引き受け」は暴論」
筆者 山田厚史 氏


「安倍相場」と囃され、安倍晋三・自民党総裁の悪のりが止まらない。タブーとされた「国債の日銀引き受け」を公然と主張するようになった。さながら街宣車で日銀に押し掛けるような荒っぽい論議である。

ちゃぶ台返し金融ポピュリズム

 選挙向けとはいえ、冷静で緻密であるべき金融政策に対して、「ちゃぶ台返し金融ポピュリズム」の登場だ。12月の総選挙では安倍自民党が第一党になる可能性が高いという。「金融右翼」が日本国通貨「円」を卑(いや)しめる時代が始まるのか。
 最近の安倍語録はこんな調子だ。
「かつての自民党とは次元の違うデフレ脱却政策を推進する」
「建設国債は日銀に全部買ってもらう」
「輪転機をぐるぐる回して、無制限にお札を刷る」
「日銀総裁には大胆な金融緩和をする人になってもらう」
 一連の発言は、近代国家が行き着いた「中央銀行の政治的独立」という大原則を頭から否定するものだ。金融に馴染みのない人には「中央銀行の政治的独立」がなぜ大事なのか、ピンと来ないかもしれない。平たく言えば「権力者に打ち出の小槌を握らせない」ということだ。
 権力者が小槌を振って、好き勝手に通貨を発行したら、どうなるか。
 紙幣は昔の金貨や小判みたいに、それ自体に価値があるものではない。紙幣の価値は政府の信用で維持される。例えば「1万円」と印刷された紙幣は「ブランド米15キロ」と同等の価値を持つという「共同幻想」の上に成り立っている。
 お札をどんどん印刷すれば、政府に対する信用がなくなり、やがて紙幣はタダの紙切れになる。
 財政難に陥った政府が、輪転機をフル回転して「ハイパーインフレ」と呼ばれるすさまじい物価上昇を招いた例は、世界にいくらでもある。戦争直後の日本がそうだったように預金や国債が無価値になり、庶民は生活の基盤を失い悲惨な暮らしを味わった。
 世界あちこちにそうした教訓があり「通貨発行は政府から切り離す。政治的独立が保証された中央銀行が行う」という決まりができた。
 政治家は政権維持や選挙対策で、輪転機を回す誘惑を断ち切れない。だから誤りを犯しやすい。「通貨発行を政府から切り離す」ことは、中国のような独裁国家は別だが、先進国で当たり前のことになっている。
 安倍自民党は、総選挙向け政策に「日銀法改正」を盛り込み、日銀に政治圧力を公然とかけ始めた。蔓延するデフレ・円高に決定打が打てない民主党政権に「大胆な金融政策」で対立軸を作ろう、という戦略だろう。
 野田首相は「禁じ手で、あってはならない経済政策だ」と反論した。安倍周辺は「民主党が土俵に乗ってきた」と喜んでいるという。

復活した安部総裁の経済ブレーン

「大胆な金融緩和」を真っ先に掲げたのはみんなの党だった。消費税増税に反対し、増税なき景気回復の柱として「日銀法改正も視野に入れた積極的な金融緩和」を掲げた。
 民主党内でも同様の動きが生まれ「デフレから脱却し景気回復を目指す議員連盟」が発足し、日銀に大胆な金融緩和を迫る緊急声明を出した。自民党は谷垣総裁のころは、消費税増税に邁進し、中央銀行の独立性を侵までして金融を緩和することに慎重だった。
 安倍総裁の登場で潮目が変わった。経済への助言者が変わったからである。安倍氏が首相だった時代のブレーンが復活した。安倍首相は小泉政権の継承者だった。小泉純一郎首相は消費増税には消極的で、規制緩和と金融緩和で景気を拡大させる、という新自由主義がもてはやされた。旗手は竹中平蔵氏、その盟友でいまは脱藩官僚となった高橋洋一氏がブレーンとして活躍した。
 小泉氏を引き継いだ安倍氏は竹中氏を頼りにしたが、安倍首相が政権を放り出し福田康夫政権になると竹中氏らはお役御免となる。格差拡大、貧困の増加などが社会問題になり、自民党も新自由主義に距離を置いた。
 小泉路線を継承したのは渡辺嘉美氏が旗揚げしたみんなの党だった。竹中・高橋両氏はみんなの党のブレーンになった。さらに竹中氏は橋下徹大阪市長に重用され、維新の会の政策に「日銀法改正を視野に入れた大胆な金融緩和」を盛り込ませた。
 そして今回、安倍自民党がこの路線を大々的に採りいれたのである。
 安倍氏自身は「自分の考えはほとんどなく、近くにいる人の言うことをよく聞く。問題は誰の意見を聞くかだ」と、元側近はいう。
 憲法改正や教育改革などは、親しい取り巻きがいるが、経済は明るくない。そこに知恵を付けているのが首相時代に接していた竹中グループだという。

異例!日銀総裁が反論

 大胆な金融緩和は米国でも採用され、こと新しい政策ではないが「国債を日銀に引き受けさせ、輪転機をぐるぐる回し、無制限な金融緩和を」とまで言うと、話は穏やかではない。
 日銀の白川方明総裁が「やってはいけないことの1番目に上げられていることだ」と反論した。「一般論として」と条件を付けているが、中央銀行総裁が首相になるであろう人物の発言に真っ向から異を唱える、という事態なのだ。
 国債が大量に発行されながら、国債の暴落が起きていないのは、庶民の預金が銀行を通じて国債に化けている、という日本の特有の事情がある。国の巨額の借金は国民の膨大な貯蓄が支える、という構造があるから、まだ何とかなっている。だが、日銀が輪転機を回してお札を刷って国債を買うようになったら「円」の信用は急速に失われる。
 ましてや、その国債で公共事業をバンバンやれば、日銀が赤字国債を無制限に引き受けて戦争を遂行したあの頃の二の舞になりかねない。
 円が安くなった、と喜んでいる場合ではない。ダイエットで痩せたと思ったら、実はガンだった、となる恐れがある。
 安倍総裁が言う「輪転機を回してお札を無制限に刷る」という政策は、「通貨を卑しめる政策」で、絶対にやってはいけないこと、とされてきた。そのタブーに挑戦して「強いリーダー」を演じ、自分のひと言が相場を動かした快感を弄(もてあそ)んでいるとしたら、安倍総裁は危ない政治家、である。
 3%のインフレ目標のはずが、天井知らずの物価高と国債の暴落を招く、という日が来ないといえるのか。恐いのは円高より、円を死に至らすような円安だ。

極論が出てくる背景にあるもの

 だが、「危険な政治家」「常識が分からないお粗末な政治家」と切って捨てれば済む話でない。一度退場した右翼的政治家が、再び舞台に上がってきた背景を無視することはできないからだ。
 20年も続く経済停滞、広がる格差、失業と非正規雇用の増加。そんな状況が、苛立ちと短絡的思考を増殖させている。
 以前だったら一蹴されている「国債の日銀引き受け」を政党の代表が堂々と叫ぶ背後には、「失業者が増えるデフレより、バブルだろうとなんだろうと、好景気がいい」というインフレ願望が潜んでいる。
 不況や格差社会の犠牲者である若者の間には、「インフレで資産を失うのは金持ちだ」という絶望感に近い破局願望が渦巻いている。雑誌のコラムなどにも、「ガラガラポンでしか日本は生まれ変われない」「焼け野が原から再生が始まる」といったガラポン願望が見られるようになった。
 欧州ではネオナチが拝外主義と結びつき、米国では「強いアメリカ」を叫びながら低所得者への支援を拒否するティーパーティーが一定の力を得ている。明日の見えない若者の間に、拝外主義や破局願望へと傾く素地が醸成されているのではないか。
「ネット右翼」が「金融右翼」を生み、「インフレ目標」「輪転機を回せ」と声高に叫ぶ時代にならない、と誰がいえるだろうか。
「今は選挙だから威勢のいいことを言っているが、安倍さんだって首相になったらバカなことはできませんよ」と霞が関の高官は言うが、インフレと同じように、過激な世論に火がつくと政治家もブレーキが効かなくなる。
 尖閣でも、金融でも、威勢のいい発言を繰り返す安倍総裁は、自分の言葉に政策が引きずられることにならないか。
 安倍新首相が打ち出の小槌を握るという事態だけは、避けたいものだ。





余談です。
金融政策に関しては、いろいろな意見があることは承知しています。
山田氏の意見が正しい意見だとは言いません。何が起きるのかは、実際にその場になってみなければわからないのです。
例えば、インフレターゲットは正しい金融政策なのでしょうか。
インフレターゲットは正しい、と認知されているような風潮ですが、国民は本当に納得しているのでしょうか。物価が上昇すれば、庶民は上昇した高い物品を買うのですか。いいえ、庶民は質を落とします。その安かった物品も値段は高くなっています。つまり、質を落とした物品を従来よりも高い値段で買うのです。インフレターゲットは、庶民の犠牲で成り立つものなのです。正しい金融政策と書きましたが、誰にとって正しいのかが明確になっていません。増税も給付の削減も、国民の犠牲で成り立ちます。国家破綻の最終的な責任は国民が取るのだから、前倒しで責任を取らされているのでしょうか。その前に、国家とは、誰のために存在しているのでしょう。もしかして、この国は民主主義国家だったのではありませんか。主権者だけが貧しくなっていく体制が民主主義なのでしょうか。
少なくとも、最終責任を取るのは国民であることを明確に示し、それを避けるために犠牲になってもらうと宣言すべきではありませんか。国民は何も知らないのです。知らなかった国民が悪いという論法はフェアではありません。
どんな行程を辿って日本が崩壊するのかは、いろいろな予測があると思いますが、行き着く先は同じ場所です。
例えば、現在の場所を大阪とします。崩壊の場所が東京だとすれば、東京へ行く方法はいろいろな方法があります。飛行機を使う。鉄道を使う。フェリーを使う。深夜バスを使う。高速道路を使う。一般道を使う。自転車でも徒歩でも行くことはできます。でも、移動手段は違っても、終着点は東京です。そこは、地獄です。
少なくとも財政破綻が起きる確率だけは、ほぼ100%に近いものと思われます。
財政破綻がハイパーインフレを引き起こすのか、銀行閉鎖になるのかは別にして、金融システムが破壊されることは避けられません。それは、国民生活の根底が破壊されるということです。
安部金融論が、亡国論になる確率は否定できません。
嘘つき野田が消費増税で一歩前進し、ヘタレ安部が金融暴走で更に一歩前進します。
崩壊へ、崩壊へと役者が揃うのはなぜなのでしょう。
嘘つきやヘタレが向かっているのは、どこでしょう。
そうです。
地獄です。
でも、山口県民はダイヤモンド・オンラインなど読みませんし、ましてや、石田の評論など読んでくれません。
ですから、自民党政権が復活することになるのでしょう。
15年という年月は、あっという間に過ぎ去ります。遠い、遠い、未来の話ではありません。
私には「まさか!!!!!」と言う日本国民の合唱が聴こえます。
確かに、自業自得ではありますが、余りにも芸がないと思いませんか。
自民党の政治家は金の臭いを嗅いで涎を垂らしている官僚に飼い慣らされたパブロフの犬です。なぜ、皆さんにはあの涎が見えないのでしょうか。
14年後には、国民の皆さんは増税と給付削減と景気低迷で、ヘロヘロになっています。
2000兆円もの借金を背負って国が倒産するのです。そんな財政破綻の衝撃に国民が耐えられるとは、とても思えません。
また、山田氏は、若者に破局願望があると書いていますが、破局願望というのは、一度破局しても、再生するという前提がある願望です。でも、日本の場合、再生はありません。破局すれば、数百年間は破局したままになるのです。想像してみてください。電気もガスも石油も石炭もありません。それでも、人間は煮炊きをしなければなりませんし、暖房も必要になります。燃料になる物は樹木です。はげ山になった日本で、もし、日本人が立ち上がったとしても、それは再生ではなく、新しい国家の創設なのです。現在の日本とは関係のない、全く別の国家なのです。そこに住むのは砂漠の民かもしれません。
老いも若きも、ボケているとしか思えません。
この国は、今、国家存亡の危機にあるのです。「自分さえよければ」をやっている場合ではないはずです。「お上」も「下々」も、利権集団も庶民も、全ての国民がこの危機に立ち向かわなければ、危機は崩壊へと繋がるのです。


2012-11-23



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記事紹介 21 [記事紹介]



記事を三つ紹介します。一つは10/25のフィナンシャルタイムズ紙の記事で、残り二つは11/8のダイヤモンド・オンラインの記事ですが、長文なので部分的に抜粋しました。興味のある方は、是非、それぞれのサイトで読んでみてください。


その1

10/25 フィナンシャルタイムズ紙
表題「欧州の新たな首都ベルリンへようこそ」

[抜粋]
 実際のところ、ベルリンは次第に欧州連合(EU)の事実上の首都になっている。もちろん、EUの主要機関である欧州委員会と欧州理事会はブリュッセルに本部を構えている。だが、重要な決断は次第にベルリンで下されるようになっている。
ギリシャはユーロから離脱しなければならなくなるか? これは最終的にドイツが判断する問題だ。政治家は南欧諸国に対する追加の救済策を支持するか? これに関する極めて重要な議論は、欧州議会ではなく、ベルリンの連邦議会で行われることになる。
 国際通貨基金(IMF)がユーロ危機に関して電話する相手は誰か? 最も重要な対話は、欧州委員会ではなく、ドイツ政府およびフランクフルトの欧州中央銀行(ECB)との間で行われる。
ドイツによる財政支援の代償は次第に、ベルリンで定められた規則と法律を受け入れることになってきている。
この手の権力は奢りにつながることがある。筆者は先週ベルリンで、傲慢なスペイン人、高飛車な英国人、妄想に暮れるフランス人、堕落したギリシャ人に対する怒りの言葉を時折耳にした。
問題は――もし問題が存在するとしたら――、ベルリンの生活があまりに甘美だということだ。ドイツは裕福な国で、ベルリンは快適でファッショナブルな都市だ。ギリシャやスペインの苦闘は、遠くかけ離れた場所の出来事のように思える。「力への意志」ではなく、その他ユーロ圏諸国からのこうした孤立こそが、ベルリンが欧州の奇妙な首都であり続ける理由だ。


その2

11/8ダイヤモンド・オンライン
表題「大国の誇り諦めた米国有権者―”撤収する指導者”となるオバマ大統領」
筆者 山田厚史 氏

[抜粋]
 オバマになっても米国経済は好転しなかった。2期目の大統領選挙は「業績評価」とされるが、実績を見ればオバマは期待はずれで落第だった。それでも米国民は再びオバマを選んだ。4年で結果は出なくても、あと4年の執行猶予を与えたのである。


その3

11/8ダイヤモンド・オンライン
表題「財政赤字と金融緩和の行き着く先はどこか?」
筆者 野口悠紀雄 氏


[抜粋]
 しかし、現在の状態がいつまでも続く保証もない。
 いまの財政状況をいつまでも続けられるとも思えない。
 理由について議論の余地はあるものの、日本が公的債務を積み上げているのは、間違いない事実だ。そして、日銀がこの貨幣化を行なっているのも事実だ。
 では、この状況は続けられるのか?これは、日本経済にとって、最大の問題だ。
 海外からの資金流入が続けば、当然、国債の外国人保有比率は上昇する。外国人投資家は、これまでサブプライム証券化商品や南欧国債を買ってきたときと同様、短期に資金調達して運用している。だから、市況が変化すれば、簡単に売りに転じる可能性がある。
 第2に、「日本国内の国債購入者である金融機関は、簡単には国債を売却しない」と述べた。しかし、金融機関のうち、メガバンクは、保有国債のデュレーションを著しく短期化している。これは、将来起こりうる金利高騰に備えた行動であると解釈することができる。
 インフレの兆候はないが、バブルはすでに起きている。国債バブルだ。それが崩壊すると、金融機関に巨額の損失が発生する。
 現在の世界経済は、ユーロ危機の行方(収束するかどうか)、アメリカ金融政策(緩和からの転換が起きるか)、中国経済の動向(成長減速が続くのか)に大きく影響される。
 これらの一つでも大きく変わると、日本経済は変調する。すでに中国の減速が、大きく影響している。日本の将来は、大きな不確実性に包まれていると言わざるをえない。



余談です。
国家運営の最も重要な仕事は経済運営だと、何度も書きました。
そこで、欧州とアメリカと日本の話題を取り上げました。
ドイツの一人勝ちになっている欧州の現状は、この基本的な現実を如実に示しているものだと思います。以前に残飯を拾い歩くギリシャ市民の話を書きました。ドイツやギリシャに行くチャンスはありませんが、ドイツ庶民の暮らしとギリシャ庶民の暮らしの格差は大きくひらいているものと思われます。それは、国が経済運営に成功したか失敗したかの差なのです。
アメリカは、難しい選択を迫られています。その原因は基本的に経済問題です。アメリカも巨額の借金を抱えていますので、オバマを選んだということは、世界戦略に大きく貢献してきた軍事力の削減に動くということです。このことは、近い将来、アメリカはこれまでと別の道を進まざるをえないということです。アメリカの力の源泉になっていた軍事力。その軍事力を支えてきた経済力。でも、借金には勝てなかったようです。アメリカの時代は終わったという人もいますが、すぐにでもアメリカが没落するということではないでしょう。もう少し時間が必要です。
参考までに、中国の発言権が強くなっているのも、その背景は経済です。
では、日本はどうなのか。
経済的には、GDPで中国に抜かれ、国内では貧困者が増大しています。そんな日本の最大の問題は財政問題です。確かに、今日明日の財政破綻が見えている訳ではありませんが、近い将来に必ずやって来ることが決まっている、大災害みたいなものです。野口悠紀雄氏の危惧している環境は直近のものですから、かなり近い将来の心配をしているようです。5年以内には、欧州かアメリカか中国で何かが起こる可能性は高いと思います。
石田の予測では、崩壊は14年後ですから、まだ多少の時間はあります。その根拠は、苦痛度レベルは時間をかけて深くなっていくと予測しているからです。一気にレベル2からレベル9にはならないのではないかと思っています。日本人は、もっと、もっと、貧しくなり、財政破綻が起きなくても生活苦に喘ぐレベル5の人達が増えます。
ただ、レベル5からレベル9へは時間的に短いかもしれません。財政破綻は、崖っぷちに立っている国民の背中を押す、最後の一押しになるのだろうと予測しています。14年後の日本国民は疲弊しきっていますので、踏ん張る力は残っていないと思います。


さて。
日本は、経済成長という課題に真剣に取り組んでいるのでしょうか。
いいえ。それは、この20年間の実績を見ればわかることです。
国家運営の基本中の基本である経済運営のことは、いつの間にか遠い話題になってしまっています。多分、経済成長しないことにでも、人間は慣れるものなのでしょう。
また、日本の国際環境が厳しくなっていることを、民主党外交の拙劣さだとする評論が主流になっていますが、それは違います。日本の国力の低下による、他国のごく自然な対応の変化なのだと捉えなくてはなりません。
そんな下り坂にあるこの国で、あらゆる場面で、論点が本質から外されているのは、なぜなのでしょう。今ほど、根源的な問題と向き合い、本質に係わる議論をしなければならない時はありません。「これは変だぞ」と誰も言わないのは、どうしてなのでしょう。
実に多くの場面で勘違いが横行していますから、国民は、まるで、靴の上から痒い足を掻くような苛立ちを感じています。
国民をミスリードしている欺瞞に満ちた世論操作を終わらせるためには、誰かが、どこかで正論を述べるだけでは難しいのです。ぼけた国民と、カネの亡者になった利権集団の人達の目を覚まさせるには、ショック療法しかないのだろうと思います。
そのショック療法のつもりで、「苦痛度等級」や「崩壊との遭遇」という文章を書きましたが、これを多くの国民に伝えることが出来ませんでした。きっと、私のように歯ぎしりをしている方は他にもおられると思います。庶民は無力だということです。国民の声を代弁してくれる筈だったメディアの視線は国民や国の将来を見ていません。
石田は、自分の発言力のなさを嘆いて、ジャーナリズムに矛先を向けますが、元々、日本にはジャーナリズムはなかったのかもしれません。「お上」の管理術は、江戸時代から今日まで成功し続けています。その管理術は江戸末期に破綻しそうになりましたが、明治政府は見事に復活させました。ジャーナリズムが育つ土壌はなかったのです。日本の歴史の中で、ジャーナリズムが歴史を動かしたことはありませんでした。日本の国家統治は封建時代の延長線上から外れていません。封建社会では、為政者である「お上」の質により「下々」の生活は決まります。「お上」が利権漁りをしている時代には、庶民は苦しい生活を強いられていました。これは、何百年も変わっていません。敗戦後、日本は民主主義という言葉を、言葉として輸入しましたが、日本流の民主主義は「お上」の道具の一つになり、「お上」はその本当の中身を国民に伝える努力もしませんでした。私達国民は、日本が民主主義国家だと信じ込まされていますが、国民は民主主義について考えたこともありません。そんな社会で、メディアが利権にしがみつき、国民を無視し、自分勝手な理屈を作り上げているのは必然なのでしょう。
3.11の福島原発事故の時、日本政府は情報を徹底的に隠していましたから、海外メディアでしか事故内容を知ることができないと言っている方が多くいました。財政破綻の問題も、その危険を正面から指摘しているのは、主に海外メディアです。ネットメディアの中では財政破綻に言及する記事が出てきましたが、それは、財政破綻の危険を指摘する記事であり、財政破綻の結果が国民生活をどのように変えるかという記事はまだ見当たりません。財政破綻の危険があるという知識は得られますが、それが、自分にどう関係するのかを知ることは出来ません。他国の財政破綻の記事と何ら変わりがないのです。
この国の歯車が狂っていることを把握しているのは「お上」だけなのでしょう。正常な動きにしなくてはならないことは「お上」も理屈ではわかっていますが、利権を手放すことができませんので、「お上」もフリーズしています。「お上」を運営しているのも人間ですから、欲が最優先になっても仕方がありません。ですから、これはシステムの不備だと考えなくてはならないのです。性善説や曖昧文化を卒業して、システムの不備を修正する勇気を持たなくてはならないのだろうと思います。そうしないと、皆がこけます。ただ、これが簡単な事ではありません。それは、敵が人間最強の本能である「欲」だからです。「カネ、カネ、カネ」という欲に勝てるとすれば「生き延びたい」という欲しかないと思いますが、そんな危険が身近に迫っていることを誰も知りません。「生き延びたい」という欲が生まれる時には、「自分だけは、生き延びたい」という欲も生まれます。そして、その欲望が破滅への道だということに、人間は気がつかないものなのです。
うまくいっている時は、いろいろな事が噛み合うものですが、うまくいっていない時は、チグハグになるものです。そのチグハグには人為的なものも含まれています。本当の課題に触れようとしませんので、この国では、無理が無理を呼び、全体を歪な形にしてしまっているのです。
今の日本の状況は「お上」も「下々」も皆で自分の首を絞めているようなものではないでしょうか。集団行動ですから、誰も「自分が悪い」とは思っていません。こういうことができるのは、この地球上では日本民族だけではないかと思います。
日本史の中には集団自決という場面がどの時代にもあります。今度の日本崩壊は、その集大成になるのかもしれません。
集団行動だとはいえ、個人個人には自分の感情があります。周囲の空気には逆らえないので黙っていますが、喜んで自決をする人などいません。それでも、不思議と足並みを揃えることができるのが日本人です。
私には、一歩一歩破滅へと向かっている今の日本人が、そんな風に見えています。
日本人は、過去に多くの栄枯盛衰を体験してきました。ある時代が終わっても、日本は見事に再生してきたという実績があります。ですから、今度も再生するだろうという漠然とした安心感があります。でも、本当に、そうなのでしょうか。
国民が感じている不安感・焦燥感・閉塞感は間違っていないのです。無理は、どこかで破綻すると相場は決まっているのです。我々の第六感は、すでに破綻を認識しています。偽装された世論には危機感がないけれど、自分の第六感は危ないと感じている。しかし、世間はどんよりとした平和の中で、気力を失った人達がどんよりとした時間を過ごしています。笑えないお笑い番組を見て、無理矢理、笑っている不自然さにも気付いていません。自分の体のどこかで空っ風が吹いているのは何故なのだろうと思う時もあるのに、その正体はわかりません。テレビや新聞は、目を背けたくなるような話題を日替わりで伝えてくれます。それでも、世間は平和です。自分の内側と外側が、全く連動していないのは気持ちの悪いものです。目に見えないその違いに、多くの国民が「何か変」だと感じています。それが、国民のイライラになっているのではないでしょうか。
あなたに、イライラはありませんか。
あなたが歩いている方向は、あなたにとって正しい方向ですか。
この国は、あなたの子供や孫が安心して生きていける国になれるのでしょうか。


2012-11-12



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記事紹介 20 [記事紹介]



JBPRESSの11/01付の記事を紹介します。
表題は「緊急時対応の能力がなかった政府と東電の罪」
副題は「原子力防災技術者が語る福島原発事故の深層(その3)」
筆者は烏賀陽 弘道氏です。


10/23に(その2)を紹介しました。原子力専門家の永嶋國雄さんへのインタビュー記事の最終回です。
長文ですから、ここには転載しませんが、興味のある方は、JBPRESSを訪問して下さい。
永嶋國雄氏は技術屋さんらしいまともな事を言っていますが、保安院や電力会社や御用学者という専門家の方々は、「自分さえよければ」の塊のような人達に見えます。しかし、原子力村の人達が異常なのではありません。彼等は、人間としてごく普通の人達なのです。人間は聖人君子にはなれません。必ず欲が勝つのです。そんな人間が扱うものとして、原発は危険すぎます。原子力発電という発電手法を採用している限り、再び原発事故で国民が苦しむ時は来るということです。例え、事故を30Km以内に封じ込めたとしても、そこは人間の住めない土地になるのです。放射性物質を原子炉内に閉じ込める技術があるわけではありません。良心的にみえる永嶋國雄氏が言っていることでも、そういうことです。




余談です。
これまでの日本社会のシステムは、昔の日本人が持っていた規範の上に成り立っています。日本人が劣化していることを素直に認めて、劣化人間を前提としたシステムを構築しなければなりません。確かに、昔から「自分さえよければ」は存在していました。でも、各分野でリーダーと呼ばれる人達がこれほど多く「自分さえよければ」やっている時代はあったでしょうか。百歩譲って、過去にも、時代の終焉時には、そんな時もあったでしょう。だからと言って、このまま崩壊してもいいという理由にはなりません。
このことは、原子力行政だけの問題点ではありません。
今、変わらなければ、この国は崩壊するのです。
取りあえず、欲を封印して、冷静に考えれば、誰にでもわかることです。
社会を変えてから、再び、利権の構築を始めればいいのです。
大丈夫です。
人間から欲は無くなりません。

日銀が二カ月連続で金融緩和策を発表しました。エコノミストの評価は低いと言われています。もともと、金融政策はインフレの抑制が目的でした。逆も真だろうということで、デフレ対策として金融政策に頼っていますが、残念ながら効果はありません。それは、逆が真だとは限らないことを証明してみせています。日銀の金融緩和策を見てみますと、市中から国債を買い上げ、その代価として市中に現金を注入していますが、その注入された現金が投資されているのは日本国債です。あれれ。その実態を見ると、民間が財務省から国債を購入する資金を、日銀が民間から国債を買うことで供給しているだけですから、国債を中央銀行が引き受けていることになります。これで有効な金融政策と言えるのでしょうか。借金の穴埋め政策に日銀が一役買っているだけの愚策に見えます。このままですと、日銀には国債の山が出来ることになります。それでも、国債を消化しなければならないとすれば、実体のない貨幣を自動的に発行することになります。これは、蟻地獄です。皆さんにも、その先に何が待っているのかは容易に想像できるでしょう。貨幣価値が下落するのですから、円安とハイパーインフレが来るのです。手にした給料を全額、お米の購入に充てたとしても、1Kgしか手に入らないとしたら、どんな生活をするのでしょう。一カ月1Kgの米で生きていかなくてはなりません。勿論、電気代も水道代も払えませんし、味噌や醤油も買えません。お酒など、とんでもありません。お酒の好きな人にとっては、早々と地獄になります。私達は、既に、この一本道の上に立っているのです。私達が平然としていられるのは、単に想像力が欠如しているに過ぎません。
経済成長をするための成長戦略に代表される経済政策も、潤沢な資金を市中に注入する金融政策も限界を迎えているのです。随分前に、先進国では成長戦略が枯渇したと書いたことがあります。成長戦略がないのは、日本だけではありません。ただ、誰も、そのことを表だって認めようとはしないだけです。それは、保身と利権のためです。もし、成長戦略があるのであれば、政治家は喜んで利用した筈です。20年間も成長戦略がなかったことを、どう説明するのでしょう。この実績は重いものです。20年間もなかった成長戦略が突如出現するなんてことはあるのでしょうか。そろそろ、夢から覚めなくてはなりません。
この現実を前にした時、私達がしなければならないのは、経済成長という概念を問い直すことなのかもしれません。その上で、国と国民を守るために、国にできることは何なのかを打ち出す必要に迫られているのかもしれません。経済成長なしに国を守るという命題は、途方もなく困難な命題です。それでも、解決しなければならない命題であることは間違いありません。解決しなければ、クラッシュするだけです。失われた10年と言われ、今は失われた20年と言われる日本は、世界の先頭を走っているのですから、日本が真っ先にクラッシュする運命にあるのです。国民は、日本が世界一の国だということを知りません。借金も、電気代も、自殺者数も世界一です。多分、国の将来に対する無関心も世界一なのではないかと思います。
経済という命題は国の基幹に関する大きな問題ですから、小手先の対策や目先の対策だけでは解決できません。国難とも言うべき状態であることに、早く気付き、根本療法を見つけ出し、果敢に実行していかねばなりません。この対策は、当然、痛みを伴う手術が必要となります。それなのに、この国難に気付いているのは利権集団の人達だけでしょう。彼等は、利権を失うことが怖くて、この問題を表面化させたくないと考えています。従って、国民がこのことに気付く以外にこの国を救う方向へは動けないのです。その第一歩は現状認識です。国民がこの現状に気がつかないようにするために、あの手この手の世論操作をしていますので、非常に国難なことだとは思いますが、敢えて、現状認識から始めなくてはなりません。多分、チャンスは一回しかないと思いますので、正しい現状認識が必要です。現状認識が間違っていたら、当然の事ですがその対策も間違うことになります。やり直しが出来ないのであれば、最初の現状認識に成否がかかっていると言っても過言ではないのです。人間ですから、自分の利権を犠牲にすることは難しい事です。ですから、利権のない庶民が動くしか道はないのでしょう。「お上」に任せておけば、この国は必ず潰れます。頼るべきは庶民しかいないと思います。なぜなら、庶民にとっては、自分自身の問題なのですから。
もっとも、この部分が山口県民には理解できないでしょう。
と言うことは、この国では庶民が立ち上がるという期待は持てません。
ですから、このまま、ズルズルと日本崩壊へ向かうのは、必然なのです。
そこで。
他に選択肢はありませんから、次善の策を考えました。
これは、物理的ではなく、精神的な究極の奥の手です。
先ずは。
「皆で堕ちれば、きっと、地獄も怖い所ではないのだ」と理屈抜きで信じましょう。
もう一つ。
「信じれば救われる」ということも信じましょう。
これで万全です。
もう、怖いものはありません。
今日は珍しくハッピーエンドで終われました。


2012-11-02



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記事紹介 19.5 [記事紹介]



JBPRESSの10/29付の記事を紹介します。
フィナンシャル・タイムズの「日本国債の回転木馬に現れた亀裂」という表題です。




ふと立ち止まって考えると、日本の政府債務はかなり恐ろしいものだ。1000兆円を超える政府の債務と保証債務の残高は、国民1人当たり約800万円にもなる。
 しかも、国内総生産(GDP)比235%に相当する残高は増え続けている。過去4年間、財務省は毎年、税収よりも多くの金額を国債発行で集めてきた。恐らく来年度もそうするだろう。

ディーラー側が財務省に要請した異例の会合

 政府が物事をうまく回し続ける方法は、誰も立ち止まってこの状況について考えないようにすることだ。すべての国債入札は毎回、財務省が実施されると言った時に必ず行われる。2~3カ月に1度、国債の発行で入札を義務付けられている有力債券ディーラー25社が財務省に招かれ、どうすれば発行プロセスを円滑に進められるか話し合う。
 だが今回は、ディーラー側が自分の方から押しかけてきた。これは政府にとって非常に憂慮すべきことかもしれない。(財務省と金融機関の会合は通常、財務省が召集をかけて開催されるが、10月26日の会合はディーラー側の要請を受けて臨時に開催された)

 赤字国債法案――2012年度(2013年3月までの会計年度)予算92兆円の約40%の資金を政府が調達することを認めるもの――を巡る政治的な行き詰まりが妥協以外のもので終わるとは誰も思っていない。
 野田佳彦首相は総選挙を行うという今夏の約束を守るだろうし、野党は11月に臨時国会が閉会するまでに赤字国債発行法案を通過させるだろう。
 結局のところ、誰も国の年金支払い能力を脅かしていると見られることは望んでいない。「政治家はそれほど馬鹿ではない」とある債券トレーダーは言う。

もし国債発行が停止されたら・・・

 だが、日本の財政に当てられたスポットライトは熱くて不快なものだ。東京のディーラーは、それが本当に起きると思っていないとしても、来年1月に次の通常国会が開かれるまで国債発行が停止されるというシナリオと向き合わざるを得なくなっている。
 1つの結果は、市場の頼みの綱である日本の大手銀行、生命保険会社、年金基金が、急激に限られたものになる資産のプールを追いかけることによって、国債価格が急騰することかもしれない。逆に、赤字国債発行法案が最終的に成立した後の大量発行で入札が失敗に終わるのではないかという不安に駆られて、国債価格が暴落することかもしれない。
 どちらにしても、打撃は避けられない。だが、支出の凍結が日本の不安定な経済にさらなるダメージを与える――野村証券の試算では、場合によっては昨年の地震と津波の影響の3倍も厳しい打撃になる恐れがある――との理解が広がる日はそう遠くないかもしれない。このような事態になれば、それ自体が相場急落の引き金になる恐れがある。
 外国人投資家の役割については言うまでもない。過去数十年間の大半の期間、外国人投資家は、日本の債券市場で通行人の役を演じてきた。今は、もっぱらユーロ圏危機からの安全な避難先を求めて資金が流れ込んでいるおかげで、外国人が日本国債のほぼ10分の1を保有している。

外国人投資家を遠ざけてしまうリスク

 その資金の多くは、ただ短期国債に逃げ込んで、欧州で何らかの解決が見られるのを待っているだけだが、ボラティリティーが低いために珍重されている長期国債に流れ込んでいる資金もかなりある。価格下落に促されるにせよ、ただ価格下落への不安に促されるにせよ、そうした外国人投資家の資金が大量に引き揚げられれば、摩擦を起こす可能性がある。
 三菱東京UFJ銀行の平野信行頭取は、今月東京で行われた国際通貨基金(IMF)のイベントでうまいことを言った。外国人が日本国債を買っているのは、日本国債が良い投資先だと思っているからではなく、「将来の安定した経済と恐らく安定した社会への期待」からだ、と述べたのだ。
 東京で広がる不安は、世界最大の債券マシンがガタピシいう音に関心を引き付けることによって、政府が外国人投資家を追い払ってしまう恐れだ。





余談です。
前回の記事紹介19の記事に類似した記事がありましたので、追加として記事紹介19.5にしました。ご存じだとは思いますが、国債の暴落と長期金利の暴騰は同じ意味です。
フィナンシャル・タイムズは以前から日本国債の危険度を何度も指摘しています。その危険度はなくなった訳ではなく、より危険になっていますので指摘せざるを得ないのでしょう。
念のために、フィナンシャル・タイムズが書いている内容は、英国の話ではありません。日本国内の話題です。他国のジャーナリストに、このような記事を書かれて、日本のジャーナリストはどう感じているのでしょう。
日本のメディアがこの問題の本質をニュースとして伝えているでしょうか。また、正しい問題点を指摘し、国の将来を憂慮しているのでしょうか。この現実が外国人には見えて、日本人には見えない、なんてことがあるのでしょうか。
それは、ありません。
この実情をニュースにすれば、メディアが利益を失うから、触ろうとしないのです。自分の社や自分自身の利益が優先し、国民や国の利益が無視されている結果です。
公共性が求められるメディアが「自分さえよければ」をやっているのです。
紹介記事の文中で「政府が物事をうまく回し続ける方法は、誰も立ち止まってこの状況について考えないようにすることだ」という文章は、問題意識がなければ訳のわからない文章だと思います。前回も書きましたが、利権集団の人達は一致団結して、国民が立ち止まって状況を把握することを阻止しているのです。
皆さんは、石田の評論は無茶な話が多いと思っている筈です。私も、眉に唾をつけながら読んでくださいとお願いしています。
でも、石田が無茶なことを書いているのではありません。利害関係さえなければ、誰もが気付くことを書いているだけです。官制情報を垂れ流しているこの国では、そして、それに慣れきっている国民には、きっと、石田の主張の方が嘘八百に見えるのだと思います。
そうは言っても、やはり、眉に唾をつけながら読んでください。100%正しいことを書いているとは、決して言いませんから。


2012-10-30



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記事紹介 19 [記事紹介]

 [東京 19日 ロイター] 特例公債法案が成立しない状況が続いている。財源枯渇が迫ってもなお与野党間のチキンレースから抜け出せなければ、早ければ11月末の2年物から国債入札ができない「休債」に追い込まれる。銀行などの投資家は、今のところは最悪のシナリオを想定していないが、年内解散を迫る自民、公明両党と民主党の溝が埋まらなければ法案審議が遅れ、発行停止のしわ寄せが年明け以降の金利上昇を招く可能性もある。
 
 「国債発行が出来なくなると市場はどう動くのか」。先週、米系証券に顧客から問い合わせが入った。
 
 政府・民主党は、今月29日の臨時国会召集に向けて19日の自民、公明両党との3党党首会談にようやくこぎ着けた。しかし、その日程そのものは、政府筋によると、当初の遅くとも10月初旬とする想定から2週間以上の遅れが生じており、顧客からの問い合わせは「今後も与野党間の調整が手間取ったりすれば、財源が枯渇する11月末をあっという間に迎えかねない」(前出の米系証券)との危機感からだったという。
 
 政府は、今年度に新規財源債(建設国債と赤字国債)や復興債、財投債などで174.2兆円の国債を発行することを決めた。しかし、同法案が成立しなければ赤字国債38.3兆円の発行はできない。
 
 財務省によると、市場発行を予定している国債149.7兆円のうち、1年以内に償還を迎える割引債を除いた利付債の総額は118.8兆円。同省では、赤字国債を発行できない状況を踏まえ、それ以外の建設国債や財投債、借換債などを先に発行し、市場に悪影響が及ばないよう配慮してきたが、12月以降は、10兆円の利付債発行を毎月同じように発行することが不可能になる。
 
 このため、市場には「追加(第2非価格競争)入札の状況によるが、早ければ11月27日の2年債、12月4日の10年債入札から影響が出るだろう」(SMBC日興証券の末澤豪謙・金融経済調査部長)との見方がある。
 
 今のところは「市場はソフトランディングのシナリオを判然と織り込んでいる」(三菱UFJモルガンスタンレー証券の石井純・チーフ債券ストラテジスト)ため、長期金利などへの悪影響を懸念する声は広がっていない。「いずれ(特例公債法案は)通るだろうし、仮に通らなかったとしても国債供給が減るという意味では『買い』の材料では」(大手銀行の幹部)との受け止めが多く、保有国債の価格下落リスクが高まるとは見ていない。
 
 ただ、法案成立の先送りはその後の国債増発というかたちで相場の重しになることは確実だ。別の銀行関係者は「混乱の末に法案成立が越年し、毎月10兆円の発行が15、20兆円と増えるようだと、『札割れ』とまでは言わないが、需給悪化からの金利上昇は避けられない」と指摘している。






余談です。
長期金利の話は、国民に馴染みのない話なので、説得力に欠けるテーマだと言えます。皆さんがどこまでくみ取ってくれるか不安ですが、記事紹介をしてみました。国民の皆さんが、長期金利の強大な破壊力を知っていれば、国民の視線はもっともっと長期金利に注がれていると思いますが、誰もが自分の生活とは関係がないものだと勘違いしていますので、説得力がありません。
石田のブログを読んで下さる方は、長期金利の怖さを知っていると思いますが、そんな皆さんは例外なのです。日本の人口は、127522000人です。この概算値の数字を見てもわかるように、1000人以下は省略されています。石田のブログを読んでくれている人が100人だとしても、それは誤差と同じなのです。極論ですが、長期金利の怖さを国民は誰も知らないということです。長期金利は国債を売買している一部の人達に限定されたお話です。ところが、実際には、長期金利という怪物は1億人の人達を喰い殺す力を持っているのです。もっとも、そんなこと知らない方が幸せなのだという意見もあるでしょう。確かに、その意見にも一理あります。庶民には何も出来ないのですから。
特例公債法案は、どんな経緯で成立するかは別にして成立します。本当の論点は、法案が成立するかどうかではなく、この法案が、なぜ、必要なのかということであるはずですが、そのことに言及するメディアはありませんし、論点は見事に外されています。毎年、人質にとられる特例公債法案にしてみれば、いい迷惑です。特例公債法案など必要としない財政運営が、本来のあり方です。個人の借金の場合の終着駅は自己破産だと多くの方は知っています。ところが、国家の場合は別だろうと勝手に考えています。庶民に勘違いをさせているのは、国家予算という美味しい汁を吸っている人達です。
「ごちゃごちゃ言うな。現実に金がないんだから、仕方ないだろう」と言われると思いますが、それは子供の言い訳と同じです。カネがないから借金をする。こんな短絡的な発想で国家運営などできるのでしょうか。国民の生命と財産を守るという国の使命は成り立つのでしょうか。借金をすることを当然視するやり方は、最終的に国民の利益になるのでしょうか。どう贔屓目に見ても、収入の半分を借金に頼っている財政運営が正常だとは言えません。当然の事ですが、後日、国民にはまとめて請求書が届きます。それは、強制的に支払いをしなければならない請求書なのです。国民一人当たり1000万円の請求書になります。あなたの家は、何人家族ですか。いつまで、こんな恐ろしいことを続けるつもりなのでしょう。「国の借金なんて、俺の知ったことか」と全国民が考えています。では、一体、誰が、この借金を返済するのですか。「そんなこと、知るか」で済みますか。残念ですが、他人事ではありません。国には強制権があるのです。国民一人一人が支払うしか他に方法はないのです。もう少し、具体的に考えてみましょう。例えば、4人家族の支払い額は4000万円です。この金額を支払える家族がどれほどいるでしょうか。請求書を受け取る時点では、買い手がいませんから不動産には資産価値がありません。株券や債券も暴落していますから資産価値はありません。従って、現金と預金から支払うしかありません。国民に、そんな金があるのでしょうか。それでも借金は返済しなければなりません。結果、金持ちも貧乏人も無一文になるのです。貧乏人は、もともと無一文ですから影響が少ないでしょうが、金持ちにとっては厳しい状態になります。この想定は、無理な想定ではありません。自然な結末です。この国は、そういう危機的な状態の真っ只中にいるのです。特例公債法案で騒いでいる場合ではないのです。知らないということは、ほんとに怖い事です。
記事の内容は、今日明日にも日本が倒産するというものではありませんが、この先、危険度を増した記事が出てくることを示唆しているように見えます。
5年前に、10年前にこのような記事はなかったのではないかと思います。
この1~2年は、日本国債の危機的状況に関する記事が散見されるようになりました。
一般メディアでは、特例公債法案を成立させれば、万事丸く収まるという感覚になっていますが、それは勘違いです。長期金利の上昇が問題なのであり、それは、大きすぎる借金に原因があります。法案の成立が遅れた時に、長期金利が上昇するのではないかと心配する人がいるのは、その借金の大きさによるものです。例えば、日本の借金が1兆円だとすれば、長期金利の上昇は問題にはならなかったでしょう。
貧すれば鈍するという言葉があります。この国は、そんな状態にあります。
野田総理は、予算が通れば特例公債法案も自動的に成立するように法改正をしたいと言い出しました。つまり「行くとこまで行こう」という意思表示であり、政治が国家統括権を放棄したことを意味します。政治には財政再建の意志はなく、増税等の対処療法だけに頼り、延命を図ることだけを政治の仕事だと考えるようになったのです。ここで言う延命とは、民主党の延命ではありません。政治の延命であり、国家の延命です。延命という言葉は、人間の体に例えれば、その先に死があることを前提として使われますので、事実上の終焉に等しいと思います。健康な体を取り戻す可能性はないのです。
この姿勢は、自民党が政権を取ったとしても変わることはありません。自分達の利権のためには現状追認をするしかありませんので、自民党政権になっても、現在歩んでいる道を道なりに歩んでいくことになり、その先にあるのは地獄でしかないということになります。
自民党の支持率は民主党の支持率の2倍から3倍もあります。半年か1年前は、同じような支持率だったはずです。ま、民主党のお粗末が国民に浸透した結果だとは言え、この急騰した自民党支持率には、背筋が寒くなります。一体、国民は自民党に何を期待しているのでしょうか。私には理解できません。
今後、次第に、財政危機に関するニュースは増えていき、それが現実となり、最期を迎えることになると思われます。
10年後の記事は、この程度の記事でおさまることはありません。多分、現実的な財政破綻のカウントダウンが始まっているのではないかと思います。

石原氏が都知事を辞めて国政に復帰するようです。世間は8対2で批判的です。その最大の理由は80歳という年齢と右翼思想にあるようです。個人的には、私も石原氏には期待を持てませんので批判グループになるのでしょう。80歳という年齢ですから、経験も知識も持っていますし、石原視点もあります。それなのに、なぜ、あの記者会見で国家像を語らなかったのでしょうか。記者の質問が政局がらみの質問ばかりでしたから、自然とそんな発言が多かったのだろうと思いますが、若造ではないのですから本質を語るべきだったと思っています。40歳だろうが60歳だろうが80歳だろうが117歳だろうが構いません。日本の目指すべき国家像を、少ない言葉で、多くの人達に伝える努力をするべきだったと思っています。もしも、最後の御奉公と言うのであれば、真摯な姿勢で臨むべきです。あの記者会見が、石原新党の将来を決める鍵になるように感じました。
確かに、個々の問題点を把握しているのでしょうが、それだけではこの国を変えることは出来ません。なぜならば、あの記者会見の内容では山口県民の賛同が得られるとは思えないからです。山口県民は「無難に」「痛くないように」「穏便に」しかし「自分だけは得するように」やってくれる政治を望み、それが日本風でもあるのです。あの会見からは、山口県民が将来を見ることも出来ませんし、やたらと危険な言葉が出てくるようでは尻ごみせざるをえないのです。それでも、お年寄りの中には石原ファンもいますので、それなりの反応はあると思いますが、この国がこの苦境を克服することはできないと思います。
誰も指摘しませんが、石原新党が成功しないであろうもう一つ決定的な要因があります。それは、彼も利権の恩恵の中でしか生きてこなかったという過去です。官僚支配を変えるという発想も本物には見えません。地方行政の長をしていたのですから中央官庁に対する不満はあったでしょう。それは、ごく些細なことであり、そこを是正してもこの国は変わりません。そんな発想では革命にはならないからです。過去の価値観から抜け出せない人達の仲間なのに、乱暴な事を言って注目を浴びることを楽しんでいるだけの人に過ぎないように見えます。
ただし、彼が、あの記者会見で本物の乱暴者になっていれば、もしかすると、この国の方向は少しは変わったのかもしれません。そのことを考えると、とても残念です。「なんて、もったいないことをするのだろう」と思いました。
「国民の皆さん。皆さんの選択肢は、レベル2とレベル5の選択肢ではありません。皆さんには、レベル9とレベル5の選択肢しかないのです。レベル9を望みますか」と問いかける事です。国家非常事態宣言を出してでも、身の丈に合った国にしなければならない現実を訴える事です。こんな乱暴な手法をとった人は誰もいません。しかし、今となっては、こんな方法しか国を変えることは出来ないのだと思います。乱暴者と言われている石原氏であれば、発言出来たと思うのです。
そのために必要な事が官僚政治の打破であれば納得できます。中央集権を廃止すれば、うまくいくというのは幻想に過ぎません。その辺は、大阪の橋下氏と変わりません。石原氏は、国の仕組みも、この国の問題点もわかっているはずです。老いてしまったためなのか、過去の価値観から脱却できないためなのか、過去の手法しか思いつかない。これは、老人病かもしれません。
個人が、国のあり方を変えることなどできません。でも、方向転換の火をつけることが出来る人は、ごく少数ですがいる筈です。石原氏もその一人だった、かもしれないのです。
彼には発信力があるのですから、彼が本物であれば、方向転換の火付け役になる使命があったのではないかと思うのです。記者会見が終わってみると、利権村に棲む一匹の貉に過ぎなかったということなのでしょう。
頑なな山口県民であっても、レベル9とレベル5の選択肢を示されたら、レベル5を選択するしかないのです。
記者会見で、石原氏も正しいことを一つだけ言いました。「若い者が何もしないからだ」という発言です。でも、あなたも、その若い者と同じ発想だというのは、いかがなものなのでしょう。世間は、碌でもない若い者と、碌でもない老人しかいないのであれば、せめて若い者の方がいいと言っているのです。
この国は、どうしても悪い方向へと動くようです。「あの時・・・が・・・れば」が随所にあります。橋下氏が維新八策を発表した時もそうでしたが、今回の石原会見もその一つになるでしょう。多くの日本人が、過去という亡霊に縛られ、自分を失ってしまっているのですから仕方がないと言えますが、困ったことです。


2012-10-28



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記事紹介 18 [記事紹介]



JBPRESSの10/18付の記事を紹介します。
表題は「備えも訓練も吹き飛ばした判断ミス」
副題は「原子力防災技術者が語る福島原発事故の深層(その2)」
筆者は烏賀陽 弘道氏です。
少し長文です。




原子力防災の元実務技術者である永嶋國雄さん(71)へのインタビューをお届けしている。永嶋さんの名前を教えてくれたのは、『原子力防災』の著者、松野元さんだった。永嶋さんは、松野さん同様、原発事故に備えた防災システムの設計に関わり、危険を警告していた人物で、『原子力防災』の共著者にもなるはずだった。
 政府は巨額の予算を投じて、原子力発電所のシビアアクシデントに対する防災システムを構築していた。しかし、3.11ではそうしたシステムがまったく生かされなかった、という話を前回聞いた。今回は、国が実施していた「原子力総合防災訓練」の欠陥や、事故発生後に官邸と現場で積み重なった判断ミスなどについて話を聞いた。

非難範囲を10キロ圏内に抑え込むべきだった東電の責任

──国は「原子力総合防災訓練」を3年に1回やってるはずなんですよ。2008年には福島第一原発でやってるんです。菅内閣の閣僚だって2010年に浜岡原発を舞台にやってる。訓練をしたのに、なぜ本番ではまったくできなかったのか、不思議なんです。
 「地震の大きさは事前には決められません。が、原発災害は、放射能が出る量を勝手に決めてしまえる。要するに『放射能の出る量はこの程度にしておこう』と想定を決める。それが政府の決めた『防災指針』の『避難範囲10キロメートル』というやつです。『10キロメートルに影響する量でやりましょう』と勝手に決めるんです。ところが、今回は現実が30キロメートルを超える拡散になったから、もう何もできなかった。逆に10キロメートル内だったら、菅(直人)総理も出る幕が全然なかったかもしれない。訓練はみんなそれでやってるから」
──2010年の訓練では「10キロメートル内避難」でした。それは「10キロメートルが避難しなくてはならない事故の規模を想定して訓練をやりましょう」ということですね。逆立ちしたロジックですね。
 「どこに責任があるか。電力会社は10キロメートルだって100キロメートルだっていくらでも出せるんですよ。その時の電力会社の役割としては『事故が起きても避難は10キロメートル以下に抑える』という責任でずっと今までやってきてるんです。これは、世界どこでもそうなんです。電力会社が絶対に10キロメートル以下に抑える。だから国とか県とか全てが、10キロメートルに相当するシナリオで防災体制を組んでるわけですよ」
──実際に「防災指針」のEPZ設定は「8~10キロメートル」と書いてあります。
 「それを東電が守れなかったんですよ。だから国には責任はないと思う」
──言い直しますと、原発敷地内部のコントロールは電力会社がやるというのが前提ですよね。敷地内での事故を、10キロメートル圏内で避難する程度に抑えられなかった電力会社に一義的に責任があるということですか?
 「PBSの予測演算では、ベントもできなかったら、どれぐらいヒートすると思いますか? 避難範囲が100キロメートル超えてたんです。ベントすると30キロメートルぐらいに抑えられた」
──最悪のシナリオでは170キロメートルがありました(注:細野豪志首相補佐官の著書『証言』より)。実際には何キロくらいなんですか?
 「いろんなシナリオがあるんだけど、170キロメートルというのもありますね。原子力委員長・近藤駿介が出した」
──それは、1号機2号機3号機全部が、格納容器が破れてしまった場合のことでしょうか?
 「1つの原子炉で格納容器が破裂すると、1つの原子炉で100キロメートル超えちゃうんですよ。実際はそれでも計算上いろんな現象、正確に演算するとそれくらい。あとは、原子炉にある放射能全部出るって仮定しちゃうと、1000キロメートル超えちゃうんです」
──1000キロメートルっていうと関西よりさらに西も入りますね。
 「それぐらい超えます。原子炉にある放射能を全部出すとそうなっちゃう。でも、実際に格納容器が破裂したって放射性物質の大部分はそこに留まってるんです。 そういうシミュレーションをして計算していくと、100キロメートル超えるくらいに収まる」
──東京~福島第一原発が大体230キロメートルくらいです。100キロメートルというとその半分ですね。
 「その時に、いくらなんだって(原子炉内の放射性物質が)全部出るなんてのはおかしな話です。物質にもよるけど、プルトニウムとかストロンチウムなんかはなかなか出にくい。そういうのを正確に計算していくと、1000キロメートルの10分の1で成り立っている。それでさらに運転方法でそれを抑え込めば、小さくできるんです」
──つまり、最悪の演算をすれば避難範囲は1000キロメートルを超える。が、現実にはそれはほとんどありえなくて、運転や何らかの予防措置によってそれを小さくできる。そういう意味ですね?
 「それで、電力会社はいろんなことを考えて、絶対に10キロメートル以上には広げないというものが電力会社の役割だった。これはずっと昔から、その前提でやってきたんです。だから官邸のところに、なぜ10キロメートル超えたのかと批判が集まった。それで菅総理も頭にきた。東電は役割を何もやってないじゃないかと。しかも東電は『事故を抑えます』と言わなかった。だから菅総理は『バカなやつらだ』『自分が指揮する』ってヘリコプターで現場へ飛んだんでしょう」
──じゃあ「過剰介入」ではないという意味ですか?
 「もちろん最終責任は総理大臣にある。戦争と同じです。最高責任者は総理大臣ですよ。総理大臣が保安院や東電に『どうやって抑えるんだ』と聞いても一向に答えられない。だから『こんなアホなやつらではどうしようもない』と菅総理は『俺が行かなきゃ』と勘違いした」

原子力安全・保安院は東電より技術がない

── 一義的には10キロメートルに抑える責任が東電にあったとします。とはいえ、原子力安全・保安院も何かすべきだったと、私は思っています。それはどうなんでしょう?
 「保安院は東電より技術力がないんですよ。だからどうしていいか分からない。それが実態なんです」
──電力会社は永嶋さんの研究や警告を知らなかったのでしょうか。
 「読んでいるけど、いかにそれを抑えこもうかと思ったのでしょう。東電は何も言ってこない。が、電事連からはレスポンスがあって、永嶋さんの言うことを参考にさせてもらえませんかってね」
──電事連が反応したんですか? 逆みたいな感じがしますね。
 「電事連は明らかに東電が悪いと分かってたから。専門家は分かってるんです、東電が何をしたか。それで、いま関電が運転再開を自信を持ってやりますと言っている。彼らは自信があるんです。関電は『普通の技術者だったらああいうことしなかった』って思っている。だから関電が運転再開をやるのは、技術的に見るとおかしいことではない」
──関電の方が東電より技術力が高いということですか?
 「技術力は似たようなもんなんだけど、あのようなことはしないと思っているでしょう。何かの事故があれば、すぐ勉強するでしょ?」
──なるほど。福島第一原発事故を研究して「あんなことはしない」と言っているのですね。
 「それともう1つ、プラントの大きな特徴の違いがある。福島第一発電所の『沸騰水型』BWRっていうのは、緊急時に原子炉を冷やす時に、原子炉に直接海水を入れるんです。これだと海水で原子炉系全部やられて廃炉になっちゃう可能性が高い。(関電・大飯原発の)『加圧水型』PWRっていうのは、蒸気発生器の2次側に入れるんです。原子炉には海水を入れなくていいんです。そうすると原子炉をぶっ壊すことにならないから、安心して入れられるんです」
──そうか。海水を放り込んで冷やしても、原子炉は壊れないから躊躇しない。
 「だからもし事故が起きたら、ただちに海水を注水します。そういう練習もしてます」

事故対策の明らかな運転ミス

──要するに「事故が起きたら遠慮なく海水をぶち込めます」「ですから事故は拡大しません」と関電は言える。それでは、永嶋さんのような原子力防災を専門とする技術者から見て、福島第一発電所事故の対応でおかしいのは何でしょう。
 「原子炉を壊さない運転操作を十分できるんです。これが1号機にしろ、2号機3号機にしろ、明らかに運転操作がおかしい。例えば1号機のIC(非常用復水器)の運転ミス。これは事故調でも指摘されてた。国会事故調も政府事故調も素人的な技術屋が評価してるんだけど、彼らですら『いくらなんでも、そんなことはないだろう』と言っている」
──国会事故調の報告には「ICが作動してると勘違いしていた」というくだりがあった。あまりにノイズが多くて、コントロールボードが狂ってしまった。動いてるものだと思っていたら、止まっていた。あるいは、誰かが勘違いしてマニュアルで止めてしまった。そう書いてあった。ありうるのでしょうか。
 「地震が起こった後、すぐにICを動かしている。だけど、ICは制御が非常に難しくて、圧力温度が急激に下がります。下がるためにそれを一旦止めたんです。で、止めた後に津波が来た。大体3時間くらい止めても、原子炉はまだ冷却できるような状態にあって、炉心は露出しないです。炉心が露出すると燃料棒が破損する。その1時間弱後に津波が来たんですね。あと2時間くらい余裕があるので、その間にICを再起動すれば冷却できたんです。一切問題なく抑えられたんです。ところが、津波が来たあとICを再起動させる運転操作をした形跡がないんです。いろいろなデータや事故調の報告を見ても。その時の条件になるには1時間経ってるんだから、あと2時間以内に絶対に、ICを回復するっていうのは最優先でやるべきだったんですよ。どうもそれをしてなかった」
 「だいたい午後4時に津波が来たんですよね。そうすると7時くらいの時点でもう炉心が露出しちゃっていた。それからあと、1時間か2時間で燃料棒が破損します。実際9時頃になると格納容器の線量が上昇した。だから9時頃にはかなり燃料棒が破損しちゃってる」
 「原子炉建屋内、格納容器の中には当然あった。原子炉の建屋内は線量ががーっと上がった。そうすると原子炉建屋に行って、いろんな装置を動かすのが大変になった」
──思い出しました。当時、東電は「冷却装置が作動してる」って発表した。「じゃあ、なんで線量が上がっているんだ」とあの時問題になっていた。東電の会見でも「冷却装置か線量計か、どっちかが間違ってるんじゃないのか」って散々言われてました。

PBSが起動していれば運転ミスもなかった

 「それはPBS動かしていれば全然分かっちゃう」
──えっ! そうなんですか?
 「地震の後、起動させたICを止めた。止めた後、再起動していないことに気づかなくても、PBSで計算してみるとズレが出るでしょ。変だと気づく」
──しかし、現場は当時「ICは動いてる」つもりだったのでは?
 「止めた後、再起動したという話がどうもない。止めておいても大丈夫だっていうふうに、運転側が思ってたようですね」
(烏賀陽注:逆に言えば、PBSの存在が明らかになれば、ICの運転ミスも証明されることになる)

東電は崩壊熱の怖さを知らなかった?

──つまり「見落とし」じゃなくて「止めておいてもいいんだ」と思った。止まってるのを知っていながら放っておいたということになりますね。
 「止まってるのは分かってるけど、どれぐらいの時間まで再起動しなくてもいいかということが、どうも分からなかったということでしょう。事故当時、原子炉設計のベテランから私にメールが来た。『崩壊熱が出てるが、崩壊熱だったらそんなに燃料が溶けることはないんじゃないか』『マスコミが騒いでるのはおかしい』と。原子炉を設計しているベテランですよ。そんな人でさえそう思ってる。東電の運転員はあまり勉強していないのか、そういうことが分からない」
──永嶋さんは著書や講演で「崩壊熱こそ怖い」とおっしゃっていますね。
 「原子炉を止めた後でも、注水がないと、3時間後には燃料が露出して、さらにあと1時間で燃料が溶け出す。崩壊熱です。そういうことがPBSのデータベースに入っている。常識としてデータがあるんですよ」
──PBSを見ればこれからどうなるかが時系列で分かっていたはずだ。そうなれば、2時間もICが止まっているのはやばいんじゃないのかってことが分かる。つまり、PBSは「進行予定表」みたいなものですね。
 「そう。そういうのがデータベースとしてある」

原子力安全・保安院はPBSが動いているのを知っていた

──それぞれの炉についていろいろな条件の下で、スケジュール表を見せてくれるわけですね。
 「これははっきりしてないんだけど、JNES(原子力安全基盤機構)はPBSの計算をしたんですよ。原子力安全・保安院に持っていったんですよ。だけど保安院はそのデータの意味が分からず、無視した。全部東電の情報に頼るんだと。JNESの人は分かっていた」
──えっ! 原子力安全基盤機構はちゃんとPBSを動かしていたんですか?
 「いちばん最初の政府発表での炉心溶融のデータは、PBSのデータなんです。3月11日の夜ぐらいの時点で政府発表があったんですよ。その中にその数値が出てます」
──思い出しました。福山(哲郎)官房副長官の『原発危機~官邸からの証言』(ちくま新書)にも出てきます。
 「あれはPBSに頼ってます」
──分かるんですか?
 「それしか方法がない。JNESが運用してるPBS以外に短時間で計算を出せるものがないんです。別の組織があって、そこでも同じような計算コード使ってるんだけど、それをやるためにはまずプラントのデータを入れないといけない。それには膨大なデータ使いますからね。何週間もかかっちゃう。東電がメルトダウンを発表したのが5月半ばごろでしょう? 同じような計算コードを使って、東電が自ら計算したんです」

シビアアクシデントの予行演習は数百回やった

──そうだったんだ。あれは東電が一からやり直したんだ。だからメルトダウンを認めるのに時間がかかったんだ。
 「そのくらい時間食うんですよ。だからPBSはそういうことを事前にやってある。いちばん重要なことですが、2000年ぐらいの時点で、そういうシミュレーションをしょっちゅうやってあるんですよ」
──え? 誰がですか?
 「NUPEC(原子力発電技術機構)の職員です。松野(元)さんや私が、です。その時に、こういうときにどういう操作したらいいかっていうのを、皆でトレーニングしてたんですよ。だから松野さんと私だったら『こういうふうにしたらいいっ』てのがすぐ分かるんです。その時やった経験があるから」
──何回くらいそういうシミュレーションをやったんですか?
 「回数からすると、まぁ仕事やりながらヒマな時にやってるんで、週に2~3回ぐらいやってました。それを何年間かやってました。だから数は何百ですよ」
──え! 週に2~3回を何年もやってらっしゃるんですか? 全国の54基の原子炉に関してですか?
 「そうです。だからそこにいた人だったら、だいたいすぐ分かってしまうんです」
──そうか。松野さんも永嶋さんもお話が自信に満ちているのは、そういうのを繰り返しやってらっしゃるからなんですね。
 「だから事故調査委員会報告を読むと、どれがおかしいかってのはすぐ分かるんです。これは、嘘ついてる、これは隠してるなって」
──シミュレーションを何度もくり返していらっしゃったというのは、報告書か何かをまとめようとしていらっしゃったんですか?
 「そういう緊急事態になったときに、本来は我々が国をちゃんとサポートして、それをちゃんとやらなきゃいけない、JNESとして。それがJNESの役目なんです。そのためには訓練をやってなかったらできないんです。1~2時間の余裕で結果を出していかないと、うまい操作ができない」
──なるほど、万一の事故のときに備えている。
 「それをできるように、いろんなシナリオについて訓練してるわけです」
──どこで何が起きても「ああ、あれならやったことがある」でなきゃダメってことですね。
 「まぁ、54基全てやるってのは大変だから、あとは類型化します。同じ出力、同じ原子炉の型だったら同じ特性だから。54基全部やってたわけじゃなくて、代表するとなると20基以下ぐらいなんです」
──つまりその20基をシミューレーションしておけば「福島第一発電所の3号機はこうだからこう」というふうに決まってくるわけですね。
 「福島第一発電所だったら2、3、4号機はまったく同じです。1号機は出力が小さい。違ったものだけについて全部やってた」
──本当に備えは十分にしてあったんですね。
(つづく)




余談です。
原子力専門家の永嶋國雄さんへのインタビュー記事です。一回目の記事を紹介したかどうかを憶えていませんが、JBPRESSで探せば一回目の記事も読めると思います。
こんな話は、新聞でもテレビでも伝えてくれません。
ただし、永嶋國雄氏の想定する事態に対処できれば、それで安全だとは、私には思えないのです。先ず、その対策は有効に機能するのでしょうか。また、想定外の事態は起きないのでしょうか。想定外のことまで心配すれば何も出来なくなると言われると思いますが、とても心配です。
なぜ、こんな心配をするのか。
それは、事故が起きた時のダメージが大きいことによる心配です。例えば、尼崎のJR事故も悲惨な事故でした。犠牲になられた方々は戻ってきませんが、鉄道は復旧しJRの電車は昔のように走っています。それに反し、福島はこの先100年は住むこともできない場所を抱えることになりました。事故の質が全く違うのです。
最悪の場合、原子炉が完全に爆発したら、放射性物質は1000Kmも飛散すると専門家の方も言っているのですから、日本国土の半分は汚染されることになります。危機管理は、最悪の事態を想定するものですから、この1000Kmは視野に入れざるをえません。
ここで、たった一発のミサイルという少し無理のある設定を考えてみましょう。
原子力発電所の危機対策に、戦争やテロは想定されていると聞いています。でも、その対策が行われているとは考えられません。それは、原子力発電所の構造や施設の配置を見ても明らかです。イランや北朝鮮が核施設を地下深くに設置しているのは、攻撃を防ぐためです。日本では、原子力発電所にパトリオットが装備されている訳でもありません。
世界情勢は、いつ、どのように変化しても不思議ではありません。日本の外交は劣悪ですし、日本の常識は世界の非常識ですし、日本の自虐姿勢がすぐに変わるとも思えません。日中間も日朝間も日韓間も日ロ間も良好な関係とは言えません。中国も北朝鮮も韓国もロシアも、日本は脅しをかければ、尻尾を巻くと考えていますし、現実にそのような関係にあります。日本国土は、その四カ国のミサイルの射程圏内にあります。脅しのつもりのミサイルが、計器故障で日本に飛んで来ることはあり得ない話なのでしょうか。ミサイルの心臓部は電子機器です。そして、電子機器にはトラブルが起きるものなのです。
運悪く、原子力発電所の制御棟にミサイルが直撃した時でも、原子炉は制御可能なのでしょうか。あの福島の免震重要棟を見る限り、それは期待できないと思います。「まさか、制御室にミサイルが直撃するなんて。想定外です」と言っても後の祭りです。一発のミサイルによる被害は、核弾頭でなければ、そして落下地点が山の中であれば人的被害はないかもしれません。でも、原子力発電所に、たまたまであっても落下した場合には、その二次被害が核兵器以上の被害になる可能性もあるのです。日本では、国際紛争など起きないと断言できる方がいるのでしょうか。平和ボケしているこの国に、原子力発電所は分不相応な施設なのではないかと思っています。
そんな危険と二人連れで、この先何十年も生活を共にする必要があるのでしょうか。いや、私達にその事故を受け入れる覚悟はあるのでしょうか。体験者の福島の人達は、どう答えるのでしょうか。
関西電力は事故の被害を押さえこむ自信があるように書かれていますが、それがどれほど頼りになるものなのでしょうか。東京電力のように失敗する可能性は絶対にないのでしょうか。関西電力の社員は超人なのでしょうか。私には、そうは思えません。東京電力の社員は他の電力会社の社員より優秀だと思っていたでしょうし、まだその確信はあると思います。緊急事態に遭遇した時の人間の力は、事前に想定しているものとは違うものです。そう考えると、東京電力の失敗の方が現実的に見えるのですが、違うのでしょうか。
「失敗しました」の一言で終った時に、誰か責任の取れる方がいるのでしょうか。いや、どうやって、責任を取るのですか。最悪の場合だとしても、国土の半分が汚染された時、それはもう責任云々という問題ではないように思います。
確かに、この一発のミサイルという設定は確率的には低いものです。でも、1000年に一度の津波だって確率的には低いものだったのではありませんか。一発のミサイルや1000年に一度の津波を排除して、危機管理が成り立つのでしょうか。
この永嶋國雄氏の話は、政府発表や原子力村の学者達の話より遥かに現実的な内容ですが、これを読んでも原子力依存は国民にとって望ましい選択肢ではないように思います。彼の話からは、いろいろな対策が立案されてきたことはわかります。でも、現実にそれが何の役にも立たなかったということは、対策に無理があったと考えなければなりません。結果的に実行できなかった対策を立てているような技術は、使ってはいけないという事です。
念のためにお断りしておきますが、私が反原発の意見を書くのは、原発が余りにも危険で、余りにも高額な発電手法だからです。このことは、私も含めて国民は知らなかったのです。気付いた上で、それでも、尚、原発に頼るということは、確信犯になるということです。もしも、次の事故が起きた時、国民には受け入れる以外の選択肢はありません。これは、社民党や共産党のように、自己利益のためのお題目とは全く違います。自然災害の多発地帯にあり、国際環境も流動的であり、平和ボケしている国のあり方に安住し、利権優先の社会風潮にあるこの国で、原子力発電は手を出してはいけない分野だと思います。
原子力発電から撤退するデメリットは決して小さくはありません。でも、今、この国は身の丈に合わせた国にならなければ存続さえ危ぶまれる状態なのです。原子力発電からの撤退も、この国を象徴する出来事だとは考えられないでしょうか。
これは、原子力発電の問題だけではなく、私達はこれまでの価値観を問い直す時代に生きているのではないかと思えるのです。過去の延長線上で何とか辻褄を合せようとするのは、悪あがきに過ぎないように思えるのです。この国の政治も経済も社会も、文化でさえも限界を超えているように見えます。

私事ですが、私には助言してくれる専門家集団もいませんし、諮問機関もありません。その辺に転がっているただの庶民です。従って、私が得られる情報は決して多くはありません。また、専門の職業評論家ではありませんので、評論という作業に生活の大半の時間を当てているわけでもありません。
更に、得られた情報が正しい情報なのかどうかの検証もできません。
そういう意味では、私には紹介記事の信憑性を請け負うこともできません。
勿論、私の評論が全て正しいと言う積りもありません。
しかし、今は、石田の問題提起が世間の論調から外れているように見えるかもしれませんが、いずれ、このような議論をしなければならない時期は来るものと思っています。
この国は、どこを見ても、ヘロヘロで、ボロボロなんです。上っ面の議論で何とかなる状態ではありません。
出来るだけ早く、出来るだけ大勢の方がこの国の本当の姿に気付いてくれることを、心より願っています。時間は残されていません。


2012-10-23



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記事紹介 17 [記事紹介]



今日は小さな記事を三つ紹介します。
読売新聞のスペインに関する記事と、ロイターの中国関連の記事と、ロイターの日本国債に関する記事です。



[読売新聞 10/4]
債務危機が深刻なスペインで、ラホイ政権の緊縮政策に対する地方の反発が強まっている。
 南部アンダルシア州では、住民の先頭に立って略奪を指揮する村長まで現れた。
 州都セビリアから100キロ。人口約3000のマリナレダはオリーブ畑の真ん中にある。フアンマヌエル・ゴルディーヨ村長(60)は8月、失業者ら十数人を率いて州内のスーパーを襲撃し、略奪したコメや缶詰をセビリアで貧困家庭に配った。
 この事件について村長は「悲惨な現状を告発するための非常手段だった」と強調し、「不動産バブルに踊った銀行のツケを庶民が払わされているのだ」と訴えた。
 スペインの失業率は欧州連合(EU)で最悪の25%だが、アンダルシアでは実に34%に達する。
 村長は事件で全国的な注目を集め、貴族から奪った物を貧者に分け与えた中世イングランドの伝説にちなんで「現代のロビン・フッド」(エル・パイス紙)とも呼ばれた。事件後も毎週、州内を仲間とデモ行進し、銀行で座り込みを行った。
 村の主婦カルメン・プラダさん(63)は「子供7人は全員失業し、夫(農業)の月収420ユーロ(約4万2500円)で家族が食べている。泥棒は犯罪だが、村長は現状を変えようとした英雄」とたたえる。警察も、州議員を兼ねる村長の訴追には慎重だ。



[北京 11日 ロイター] 国際人権非政府組織(NGO)のアムネスティ・インターナショナルは11日、中国で社会不安の主な要因となっている土地収用のための強制立ち退きが過去2年間に急増したと報告書で指摘。
背景には、債務返済を急ぐ地方政府が土地を差し押さえ、売却する動きがある。中国では基本的に土地は公有地。不動産をめぐる争いはしばしば暴力的となり、社会不安にもつながっている。習近平氏が率いるとみられている次期共産党指導部が直面する課題の一つだ。
アムネスティの報告書は2010年2月から2012年1月までの期間が対象。強制立ち退き時の暴力行為で住民が死亡したり、逮捕投獄、自殺するケースもあったとしている。
アムネスティの調査担当責任者はロイターに「中国では、潜在的にこうした違法な強制立ち退きをさせられるリスクにさらされている人が何百万人もいる。強制立ち退きに関する抗議は、大衆の不満として最大の問題」と指摘。長らく続いている問題であるうえ、ここにきて規模も大きくなっており、歯止めをかけるべき時にきているとの認識を示した。
地方政府の土地売却は、2008年に中央政府が打ち出した4兆元の景気刺激策を機に加速した。この景気刺激策は、地方政府向けにインフラ(社会資本)建設目標を設定。地方政府は目標達成のため資本調達を急ぎ、それが不動産バブルにつながった。結果的に、地方政府は巨額の債務を抱えた。債務残高は2010年末時点で10兆7000億元(1兆7000億ドル)。地方政府は債務返済のための土地売却を迫られた。
中国政府は2011年に暴力的な強制立ち退きを非合法とする規則を発表した。
アムネスティはこの規則を歓迎したが、適用対象が都市の住民に限られていることから、満足できる内容でないとしている。
アムネスティが調査した40件の強制立ち退きのうち、立ち退きを拒否したり抗議した住民が死亡したケースが9件あった。2010年3月に湖北省武漢市であったケースでは、取り壊し対象の家に住む70歳の女性が掘削機で生きながらにして埋められたという。
アムネスティはこれまでも、中国政府が強制立ち退きを防ぐ策を講じていないと繰り返し批判していた。



[東京 15日 ロイター] スタンダード&プアーズ・レーティングズ・サービシズ(S&P)は15日、日本の信用力について、消費増税関連法の成立など最近の措置は万能薬ではないと指摘した上で、政治的な混乱が長引けば政府の追加措置が遅れ、日本の財政・構造問題の解決を一層困難にするとの見解を示した。日本の長期信用力に関するリポートの中で指摘した。
S&Pでは、消費増税関連法が成立したが、日本(ソブリン格付け「AA─/ネガティブ/A─1+)の信用力は徐々に低下し続けるとみている。同法成立は、日本が抱える主要な問題のひとつに重点的に取り組む政府の行動を示したという点で重要だが、消費税率引き上げだけでは政府の財政赤字を削減し、より持続可能な歳入・歳出構造を形成する体制を作り上げるのに十分な財源は生み出せないと指摘。さらに、S&Pでは、今回の消費増税は日本の財政問題に対する対症療法にすぎず、国内経済の成長見通しの改善や社会保障制度の改革に向けた抜本的な解決手段ではないとの考えを示した。
S&Pによると、すでに政府の財源調達手段に圧力がかかる兆候がある。日本銀行の国債保有高は現在、銀行券の発行額以下に収めるという自主ルールの上限に接近しており、今後は日銀が日本国債を買い増すことがより困難になるという。
日本国債の発行残高のかなりの部分は、日本に本拠を置く金融機関が保有している。S&Pは今のところ邦銀が国債を買い増すことは可能だが、それにも限界があると指摘。国債発行残高に占める非居住者保有比率はまだ低水準だが、海外投資家による国債買い入れは増加しており、海外投資家が日本国債を購入し続ければ、日本の債券市場の外的ショックに対するぜい弱性が増大するという。一方、過去2年間、与野党の政治的な駆け引きが繰り返され、赤字国債の発行に必要な特例公債法案成立の遅れや妨げにつながっている。
現時点で、S&Pはこうした財源調達面での兆候が日本の信用力に直接的な影響を及ぼすとは考えていない。また、市場も静観しているもよう。しかし、政局によってさらに政策の決定・実施が遅れれば、日本の財政・構造問題の解決はより困難となる。S&Pではこうした状況下で、政府が低コストの財源調達手段を無制限に利用することはできないとみている。





余談です。
ギリシャもスペインも失業率は25%を越えています。若年層に限れば、失業率は両国とも50%を越えています。失業していない人達も、年々、収入が減少しています。それがどんな現実なのかということについては、4%か5%の失業率しか体験のない私達には正しい想像はできないのではないのではないかと思います。そんな国で起きた事件ですから、私達には笑い話に見えてしまうのかもしれません。
では、15年後の崩壊した日本を世界のメディアは、どのように伝えるのでしょうか。そして、ギリシャ人やスペイン人は、どう感じるのでしょう。やはり、他人事だと思うのでしょうか。どうなのでしょう。よく、わかりません。
ヒットラーやスターリンやポルポトのいない国でも数千万人の人が死ぬという事実は、空前絶後の事態ですから、それなりのインパクトはあるのでしょうか。日本が変わるだけではなく、世界のあり様も大きく変わるような歴史的転換点になる可能性もあります。
でも、きっと、日本人はお馬鹿さんに見えるのだと思います。
ま、正真正銘、お馬鹿ですから、正しい評価なのでしょう。
馬鹿は、自分が馬鹿だということを知らない訳ですから、地獄が来るまでは幸せだと思い込むことができます。日本人の馬鹿さ加減には、ほんとに辛いものがあります。

中国の利権確保構造と日本の利権確保構造の違いは、野蛮な方法か、合法的なものかの違いだと思います。野蛮であれ合法であれ、絞りとられているのは馬鹿な国民です。中国では老婆を生き埋めにしているのだから、日本の方がましなのだと思っていませんか。とんでもありません。日本は、いずれ、束にして地獄へ突き落されるのですから、中国よりも遥かに重症なのです。

S&Pは大手格付け会社の一つです。あれだけゴリ押しをして成立させた消費税増税法案の効果は、もう消滅しようとしています。格下げに向かって確実に前進しています。S&Pが日本に対して敵対的な評価をしているわけではありません。日本の経済人だって、百も承知していることばかりです。日本では、このニュースを取り上げて問題にするメディアはありません。そんなことをすれば、辛い立場に立たされるからです。
国民が知らない間に事態はどんどん悪化しているのです。



いつ書いたのか憶えていませんが、復興予算にシロアリがたかることは何度か書きました。きっと、読まれた方は、あの時、「また、こいつは下らんことを書いている」と思われたことでしょう。「被災地のために」や「きづな」などという言葉が飛び交い、国民は増税に賛成しました。それなのに、今は復興予算の流用が伝えられています。被災地の復興は遅々として進んでいません。東北の方は、もっと怒らなければならないと書きましたが、東北人は我慢をし、諦めに向かっています。東北の人達は、諦め顔で「見捨てられてる」と感じているのです。でも、強欲豚は復興予算であっても食い荒らしています。これが現実なのです。その上、表に出てこない裏金がどれほどあるのか、私達には見えていません。
復興予算の流用について驚いている方が大半でしょうが、こうなることは、最初から決まっていたことですから、驚くのであればあの時に驚かなければ意味がありません。なぜならば、流用された予算は既にどんどん消化されているからです。
また、消費税増税法案が成立し、国民は社会保障や財政再建のためには必要な事だと思っていますが、これも、何度も、そうではないと書いてきました。利権集団の懐を温めるための増税であったことが、後日、判明することになります。この先、増税と社会保障の削減が波のように連続してやってくるでしょう。それも、利権集団の利益を確保するためであり、決して、社会保障や財政再建のためではありません。
こんな簡単なことなのに、なぜ、国民は「ころり」と騙されてしまうのか。「お馬鹿さん」だと言う以外に、どんな表現があるのでしょうか。
でも、現実に馬鹿なのですから、手の打ちようがありません。
金儲けは、弱者から絞りとるという秘訣があるようですが、私は、少し違うと思います。
金儲けは、馬鹿から絞りとるのです。だって、弱者より馬鹿の方が遥かに多いのですから、利益が大きくなるのは道理というものです。

法的に、納税は国民の義務です。
でも、税金を国民のために使うという法律は存在していません。
一部の利権集団のために税金を使っても法律違反にはならないのです。
逆に、納税拒否をすれば国民は犯罪者になります。
これって、おかしくないですか。
法律に触れなければ何をやってもいいのです。そして、法律は利権集団にとって都合の良い法律になっているのです。
ここにも、国とは、国民とは、民主主義とはという定義が欠落している弊害が出ています。
現行法は、利権集団が自分達の利益を損なわないように作り上げてきたのですから、法律そのものが違法なのです。どんな法律にでも、官僚だけが使える抜け穴が用意されています。善良な国民は、こんなカラクリには気付きません。合法的という言葉は、法律が正しい法律だという前提の上に成り立っている言葉です。
例えば、税金の使途に疑義があるとして、納税拒否訴訟を起こす法的根拠はあるのでしょうか。そんな訴訟を起こしても勝てる根拠はどこにもありません。
自分達の都合に合わせて作った法律ですから、彼等が法律に違反することはありえないのです。つまり、彼等はやりたい放題できるのです。
非難の声が挙がっても、75日ほど辛抱すればいいだけのことです。
利権集団に属してもいないのに、馬鹿な国民は、それを受け入れるのです。なぜならば、馬鹿だからです。どこにも、救いはありません。これを自業自得と言うのです。
やはり、私達には地獄を受け入れることしか、選択肢はないのだと思います。
それって、誰のせいですか。
そうです。私達国民の無知によるものです。

先日「強いられる死」という本を読みました。自殺者の周辺取材をしたルポルタージュのようなものです。自殺者の数でも日本は世界のトップを走っているようです。ただ、ノンフィクションの限界なのか、現象を捉えることしか出来なかったようです。多すぎる自殺という問題の本質には迫っていませんので、解決策は提示されません。電話相談やカウンセリングや自殺防止のNPO活動では、この問題は解決しません。個々の環境が歪んでいるのは全体が歪んでいることに端を発しているのですから、個別対策では解決しないのです。この自殺の問題に限らず、あらゆる問題点が表層的な捉え方で伝えられますので、問題は何も解決しません。辛い取材をして、苦労して書いたのだと思いますが、残念ながら何の役にも立ちません。
今、植民地支配を目指すなどと言えば笑われますが、世界が植民地支配で富を得ることが当然だと思われた時代がありました。日本も植民地になるのではなく、植民地支配の列強の一員になろうとしたことがあります。結果的には大失敗でした。
この世界の潮流に逆らえるかどうかは難易度の高い問題ではありますが、きっと、それを見つける必要があるように感じます。
今、世界の潮流は「自分さえよければ」です。その潮流に押し流されているために、この国は変形しているのです。人間の叡智が、世界を破滅から救うことができるかどうかわかりませんが、このまま世界が「自分さえよければ」を追求していけば、人類の未来もそれほど希望の持てるものではないのかもしれません。
新しい哲学と思想が必要だと言い続けてきましたが、まだ何も見つかっていません。
多分、いろいろな大きな出来事が世界を揺るがせることで生まれてくるのかもしれません。アメリカのサブプライムローンに代表される金融経済の「自分さえよければ」が現在の世界の苦境に繋がっています。欧州で国家破綻候補が続出し、四苦八苦しているのも「自分さえよければ」の結果です。「自分さえよければ」が当たり前になった日本が崩壊すれば、世界中に影響が出ます。
日本は、次のステップのための捨て石になろうとしているのかもしれません。
ギリシャやスペインの苦境は大したことではありません。国民が貧しくなることで折り合いはつけられます。日本の国家破綻とは質が違います。日本崩壊で、世界は本物の破綻を経験することになります。そして、世界は潮流を変える必要に迫られることになるのではないかと思うのです。と言うことは、今、一番、潮流を変える必要があるのは日本なのではありませんか。日本という捨て石を見て、舵を切る人達はいいかもしれませんが、捨て石になった日本人は捨て石のままなのです。
しかし、こんな話は馬鹿の耳には届きません。新しい哲学と思想を提示できないのですから、私も馬鹿なのです。馬鹿が馬鹿に馬鹿と言っているのですから、こんな馬鹿な話もありません。嗚呼、どうしたらいいのでしょう。


2012-10-16



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記事紹介 16 [記事紹介]



ニューズウィーク紙の9/27付の記事を紹介します。
表題は「中国ナルシスト愛国心の暴走」
副題が「政府が植え付けた被害者意識と独善的な愛国主義が中国近海の領有権問題解決を永久に遠のかせる」



 東シナ海に浮かぶ5つの島と3つの岩礁から成る尖閣諸島。その領有権をめぐる日中間の対立が再び先鋭化したのは8月半ばのこと。中国各地では反日デモが起き、メディアやネット上には政府が領土防衛にもっと力を入れ、日本の「不法占拠」に対抗するべきだという声が高まった。
 中国ではこれに先立ち、南シナ海のスプラトリー(南沙)諸島の領有権問題でも、政府にもっと厳しい態度を求める世論が高まった。その声に応えるように、中国政府は武力行使以外のあらゆる手段を駆使して東南アジア関係諸国に揺さぶりをかけた。
 ある時は軍事関連施設の設置を検討すると発表し、またある時は経済制裁をちらつかせ、石油開発にも乗り出した。関係諸国は今のところ有効な対抗手段を取れていない。ASEAN(東南アジア諸国連合)も足並みが乱れて、中国に対して結束することができずにいる。
 外交評論家らが指摘するように、中国の民衆やエリート層が領土問題で政府に厳しい対応を求めるようになったのは、冷戦終結と世界各地における共産主義の崩壊以降、政府が愛国主義を強力にあおってきた結果だ。
 その愛国主義とは、「中国は19世紀以降ずっと不当に扱われ、列強によって領土や主権を踏みにじられてきた。今の中国は、自らの支配権を守り、領有権問題の起きている領土や主権を取り戻す力を付ける途上にある」という被害者意識をベースにしている。
 政府のこのプロパガンダが奏功して、民衆とエリート層の間に被害者意識が生まれた。厄介なのは、毛沢東やトウ小平らカリスマ的な指導者がいなくなり、世論に敏感な集団指導体制が確立した今、民衆とエリート層の意見が外交政策に与える影響が拡大していることだ。
 とはいえ、被害者意識は中国当局が育ててきたいびつな愛国主義の一面にすぎない。それと同じくらい重要なのは、中国政府が自国民に刷り込んできた「身勝手に国益を追求する他の大国と違って、中国は国際社会で正義を実践する国だ」というイメージだ。

中国の外交は常に正しい?

 このイメージづくりを担ってきたのは中国外務省や、対外問題を取り扱う政府機関と共産党機関、政府や党や軍と関係の深いNGO(非政府組織)、そして政府の巨大なプロパガンダ機構だ。彼らは民衆が政府の外交を高く評価するように仕向けながら、中国の国際的地位向上に努めている。
 このため民衆は、中国は国際問題に関して、原則にのっとり道義的な立場を取っていると信じ切っている。さらに驚くべきことに、こうした戦略を取ってきたからこそ、中国は外交政策で誤りを認めたり、国際問題への対応で謝罪するような事態に陥らずに済んできたと思い込んでいる。
 一部の外交当局者や専門家は間違いなく、状況をもっときちんと把握している。彼らは「中国の外交は正しい」というイメージに違和感を覚えているかもしれないが、それを公言することはない。政府の外交政策について民衆やエリート層が受け入れる批判は、政府が弱腰過ぎるというものだけだ。
 こうした「正しい国」のイメージが浸透したおかげで、民衆は、中国がアジアや世界で指導的な役割を果たすことも強く支持している。そして政府が最近力を入れている課題でも、良心的な政策が取られるものと楽観している。
 政府が力を入れている課題とは、外国で平和と開発を推進することや、近隣諸国等で中国の影響力を高めつつ支配的あるいは覇権的な態度を取らないこと、領土拡大政策を取らないという王朝時代の伝統を守ることなどだ。
 こうした認識と現実の間には大きなギャップがある。確かに被害者意識に関して言えば、中国は19〜20世紀にかけて、列強から抑圧的な扱いを受けた。
 だが中華人民共和国の過去60年間の歴史を見れば、道義的で原則に基づく善良な外交が行われたのは例外にすぎないことが分かる。その政策はむしろ一貫性を欠き、暴力的なことが多かった。
 特にその傾向が強かったのは、アジアの近隣諸国に対してだ。これらの国の多くは、中国の侵攻や干渉を受けた経験がある。中国政府はクメール・ルージュ(カンボジア共産党)など、近隣諸国の反政府勢力や武力組織を支援して現地政府の弱体化を図った。
 冷戦終結後も、近隣諸国は中国による暴力と威嚇外交を忘れていない。中国政府は懐柔策を試みたが大きな成果はなかった。最近の南シナ海と東シナ海における中国の好戦的な姿勢は、近隣諸国に昔の中国を思い起こさせている。
 問題の一部は、中国のエリート層も民衆も、自国の暴力と過干渉の歴史をほとんど知らないことにある。だから彼らは、近隣諸国と遠くの大国(つまりアメリカ)がなぜ中国に対して疑念や懸念を抱くのか理解できない。
 アメリカに関して言えば、中国の外交にはもうひとつ一貫した特徴がある。それは域外の大国が中国周辺に強力な影響圏をつくり維持しようとすると、猛烈に反発することだ。
 アメリカだけでなく過去にはソ連、それに最近では日本やインドがこうした動きを見せると、中国当局(と体制派のエリート層と民衆)は、冷戦時代の「封じ込め」政策の復活であり中国に脅威を与えるものだなどとして、過剰なほどの反発を見せてきた。

近い将来の解決は難しい

 要するに、中国当局がエリート層と民衆に植え付けてきた愛国主義には2つの特徴がある。中国が大国の犠牲になってきたという意識と、中国は外交において道義と正義を守ってきたという独特の強烈な意識だ。
 このため彼らは、近隣諸国やアメリカとの間で主権や安全保障をめぐる問題が起きると、中国ではなく相手側に原因があると考えるようになった。またアジアで主権や安全保障が関わるセンシティブな問題が起きて、他国が領有権を主張したり、中国に譲歩を求めたりすることに我慢できない。
 中国のエリート層と民衆が、南シナ海と東シナ海の問題に関して、政府にもっと厳しい態度を要求するのにはこうした背景がある。
 中国政府のイメージ戦略は見事に成功した。それだけに中国近海における緊張を緩和するのは一層難しくなったといえるだろう。これらの問題が近い将来解決される可能性は乏しい。






余談です。
日本の場合は、何事も曖昧にしたために行き詰っていますが、中国の場合は、プロパガンダが行き過ぎたために行き詰っていると言えます。
日本国民も中国国民も、正しい判断が下せない国家に住んでいるようです。
どちらの国でも利権の甘い汁を吸っている人達だけが、にこにこと笑っています。
仮に、戦争になったとすると、死ぬのはどちらの国でも貧しい一般国民になります。
ただ、「お上」のことを信頼しているという部分に、いや、信頼させられているところに危うさを感じます。日本も中国も、白人共の餌食になるだけのように思われてなりません。
何と恐ろしい事なのでしょう。何と愚かなのでしょう。
権力者が、私達のことを愚民と呼ぶのも、頷けます。
だって、間違いなく、私達は愚かな民だからです。
中国のテレビアナウンサーが過激で陳腐な言葉を使うのは仕方ありませんが、政府のスポークスマンも毎度お馴染の恫喝声明をするのは国内向けなのでしょうか。或いは、中国での常識的発言なのでしょうか。でも、国連の議場で「ドロボウ」と言ったり「マネーロンダリング」だと言ったり、そのレベルの低さは大変危険な要素を感じさせます。彼等は自分達のレベルが低いとは思っていません。そこが、一番怖いです。
多分、紹介記事にもありましたが、中国の自己矛盾が原因なのではないかと思います。日本の政治家は小さな嘘を数多く語りますが、中国の政治家は大きな嘘をつくのでしょう。嘘もスケールが大きければ許されると思っているのかもしれません。共産主義体制で市場経済システムを実行するという大きな自己矛盾を果敢に実行できる国ですから、我々島国の人間のスケールでは計り知れないものがあるのでしょう。



海外で日本の右傾化が心配されています。
それとは別に、戦後日本が初めて口を開き始めたと言う人もいるようです。
領土問題でコテンパンにやられていますので、仕方がないことかもしれません。
でも、ナショナリズムを育てるのは、違うと思います。
戦後日本が何をしたのか、また、何をしなかったのかに目を向けるべきであって、今の現実に対して反発するだけの行動は、決して国益にはなりません。この現状は曖昧文化が限界に来ているのだと認識すべきだと思います。何度も書きますが、国とは何か、国民とは何か、民主主義とは何かを問い直さなければなりません。その上で、この国が目指すべき国家像を描き、理念を共有し、何が国益なのかも明確にしなければなりません。ずるずると、なし崩しに、過去の延長線上に夢があると考えることには無理があります。目先の利権しか見ようとしない現状は、暴挙以外の何物でもありません。
いろいろな事が、時代に合わなくなったり、先送りされたり、隠蔽されたり、修正されなかったりしている現状を数多く書いてきました。
何故、このような袋小路に、私達は迷い込んでしまったのでしょうか。
何故、根っ子の問題を見ようとしないのでしょう。
それをすれば、どこかで、責任問題が表面化してしまうからだと思います。
責任を認めるということは、利権の喪失に直結します。保身のためには、誰の身にも責任を持っていけないのです。それが、現実社会です。
これは、人間の行動原理からはごく自然な事なので、これを変えることはできません。
ですから、これは、あくまでもシステムの不具合でしかありません。と言うより、修正するシステムが存在していないことが原因なのだと思います。
では、放置しておいていいのでしょうか。
国民が、それを納得していれば、それでいいのだと思います。
現状を見る限り、大半の国民は、積極的ではないとしても納得していますので、日本はこれでいいのだと思います。多分、最終責任を取らされても、この国の国民はじっと我慢してくれると思います。たとえ、それが命との交換でも大丈夫でしょう。
私は納得していませんので、こうやってブログを書いています。しかし、私一人の意見など何の役にも立ちませんので、これは私のマスターベーションに過ぎません。確かに、愚かな抵抗に見えますが、誰一人警告を出さなかったという非難だけは避けたいと願っています。どっちみち、最後は死ぬことになります。何の抵抗もせずに死ぬか、一人芝居であっても抵抗して死ぬか。これは、個人の価値観の問題でしかありません。そこに、大した意味はありません。でも、私は抵抗したいと思っているのです。
ナショナリズムはその根底に武力行使があります。それは、中国やアメリカを見ていればわかることです。武力を否定しているのではありません。武力は抑止力として使わねば意味がありません。
前にも書きましたが、国力を高める事です。日本を敵に回したら損をするという判断を世界がしてくれるほどに国力を高めることです。科学や経済の分野で、世界が日本と仲良くすることで利益が得られると思ってくれる、そんな国になるべきです。それと同時に、最低レベルにある外交力を高めなくてはなりません。世界史を見ていても、外交力というのは人間力だということがわかります。科学や経済の分野でも、外交という分野でも、必要とされるのは人材です。いま、この国は、人材を育てるような仕組みになっているのでしょうか。アジアの小さな島国の日本が、総合力で世界一になることはありません。でも、一目置かれる存在になることは可能です。日本には、他に道がないことを認めるべきなのです。
そのためには、早く国家像を持たねばなりません。
目標もなく右往左往しているだけだと、目先の損得や感情が優先してしまいます。人間は追いつめられるとヤケクソになったりするものなのです。
間違っても、戦争などやってはいけません。
今、世界は、尖閣問題を紛争だと捉え始めています。軍事衝突の可能性も指摘されています。でも、そのような事態になったら、日本の国益は大きく損なわれます。
では、尖閣を奪われてもいいのか。
日本人には、その現実を受け入れる選択肢しかありません。それは、これまで何もしなかったことのツケですから、ツケは払うしかないのです。但し、ここで、今までのように曖昧な結論を出せば、日本の国力は大きく損なわれることになるでしょう。なぜ、ツケを払うことになったのかということを、明確にすることでしか前に進むことはできません。それが出来れば、戦後日本が終わり、新しい日本を始めることができます。尖閣を奪われることより大きなものを手に入れれば、それでいいのです。尖閣も奪われ、自分の足元を見ることもできないという結果が最悪です。
この国が再生へと一歩踏み出す材料は、ほんとに、山のように存在しています。後は、私達がそのことに気付くことが出来るかどうかにかかっているのです。
崩壊は内部崩壊だけとは限りません。外的要因や巨大な自然災害でも国は滅びるのです。

尖閣は日米安保の適用範囲内であるというアメリカの発言を聞いて、我々は守られていると喜んでいる人達がいます。私の目には、それらの日本人は劣化人間としか見えません。
一方、領土問題は二国間の問題であり、アメリカは中立であるというアメリカの発言は、それほど重視されていません。しかし、この発言の方が安全保障条約より優先していることを知っている人はどれほどいるのでしょうか。
仮に、尖閣領域で日中の軍事衝突が起こったとしましょう。
その時、アメリカ軍は戦闘には参加しません。軍事情報の提供は、もしかすると、やってくれるかもしれませんが、一兵たりとも兵士を派遣することはありません。
つまり、日本はアメリカを敵に回さなくてもいいという程度のアドバンテージしか手に出来ません。ただ、現状では、尖閣領域に限定された戦闘であれば、日本の軍事力の方が優位にありますので、中国海軍を領域から追い出すことは可能です。
では、限定された戦闘に負けた中国が、仮に、東京をミサイル攻撃した場合を考えてみます。アメリカ軍は日米安全保障条約に従って戦闘に参加するでしょうか。可能性はありますが、これは、可能性であって、そうならない場合の方が大きいと思われます。その基本は、二国間の領土問題に端を発する戦闘に参戦してアメリカの若者が死んでもいいのかという判断が優先します。これは、自由や民主主義を守るための戦いではありませんので、アメリカ軍には兵士を投入する理由がないのです。では、日本を守ることがアメリカの国益なのでしょうか。アメリカにとっては、日本も中国もお客さんでいることが国益であり、片方に味方することは国益に反します。どうしても、どちらかを選択しろという状況になれば、日本に味方するのか。これも、微妙な判断になるでしょう。それは、国際環境とアメリカ国内の環境とその時の政権与党と大統領の判断になるのであって、決して固定されているものではありません。少なくとも日本の事情では決まりません。
日本人は、まだ勘違いをし続けていますが、米軍が日本人のために無条件で血を流すことは絶対にありません。アメリカ国内の世論を納得させるには、自由や民主主義を守るという大義がなくてはならないのです。更に、米中間が戦争状態になれば、アメリカの国益は守れません。アメリカは国家として、中国に進出しているアメリカ企業を守る義務があり、それを犠牲にする価値はどこにも見つけられないのです。また、アメリカにとって、中国の購買力を捨てる価値が日本にあるとは思えません。何度も書きますが、地球上では経済的な利益が最優先するのです。アメリカの自由と民主主義、そして人権というスローガンは建前に過ぎません。それを押し付けることがアメリカの経済的な利益になってきただけのことです。天秤にかけた時に、経済的な不利益が生じるのであれば、スローガンは何の意味も持たないのです。あくまでも、優先するのは利益です。
一部に、沖縄に米軍基地があるのだから東シナ海は米軍が守るだろうと言う人がいます。ほんとに、そうでしょうか。アメリカは沖縄の基地を撤収して、グワムに引き上げてもいいのです。アメリカは昔のアメリカと違います。その国力は縮小を続けていますし、今後も縮小します。もう、いつまでも世界の警察官をやれる国力ではなくなりました。引退する時は近づいています。
もし、仮に、私が中国海軍の参謀であれば、最終的に尖閣を中国領とする作戦は簡単に作ることができます。それは、漁民(または漁民になりすました軍人でも可)を尖閣に上陸させて実効支配の道筋を作る作戦です。100年かかってもいいのです。
万が一、日本が発砲してくれれば成功。中国人漁民の中に日本人の銃弾で死亡する人間が出れば大成功。多数の中国人が死亡すれば、或いは中国の艦船が撃沈されたら、それは、もう大大大成功です。
中国人に犠牲者が出れば、国連の日本制裁決議が出ることは間違いありません。
日本は国際的に袋叩きにされ、中国に頭を下げて尖閣を献上することになります。
こんなことは、日本も中国もアメリカもわかっています。
つまり、尖閣領域で、発砲するような軍隊はいないのです。
そうであれば、漁民による尖閣支配が最善の道なのです。海上保安庁の巡視船が放水する水に耐えるだけでいいのです。銃弾はどこからも飛んできません。
中国海軍にとっては、この尖閣実効支配作戦を実行するタイミングを待つだけです。
中国にとっての東シナ海は、資源だけの問題ではありません。台湾の併合を含めて、太平洋を自分の領海にすることは、大国としての誇りだと信じています。中国が東シナ海を放棄することはありません。ただし、中国では、制圧・腐敗・内戦・崩壊というサイクルが続けられてきました。もう、腐敗は充分に進行していますので、内戦が起きる可能性はあります。日本としては、その内戦を待つことしかできないのです。
日本は、いつまでもアメリカさん頼みではやっていけなくなっているのです。なぜ、日米安保が過去の亡霊に過ぎないということに気付かないのでしょう。アメリカは、日本を守るつもりもありませんし、そんな余力もありません。日米安全保障条約は、今やアメリカが日本に対して宣戦布告することはないという証でしかありません。
与党も野党も右も左も、日米安保が基軸だと言うようになりました。私にはこの風潮が日本人の甘さに見えてしまうのですが、違うのでしょうか。国内的にも国際的にも、日本という国は限界を迎えているように見えるのです。どんな国でも、最後は自分の足で立つしかないのです。



9/26にギリシャとスペインで反緊縮の大規模なデモがありました。
ギリシャのデモ隊のシュプレヒコールは「EUとIMFはギリシャから出ていけ」というものだったと報道されています。
一寸待ってください。EUとIMFは、ギリシャがデフォルトしないように支援している立場だった筈です。EUとIMFの資金援助がなければ、ギリシャは倒産していた筈ですし、これからもその資金援助がなければ、国家運営はできないのです。
ギリシャ国民の多くはユーロ圏に残りたいと考えています。それなのに、EUとIMFに出ていけと言っています。ギリシャ国民は、援助は欲しいけど、貧しくなるのは嫌だと言っていることになるのです。そんな美味しい話はどこにもありません。
財政破綻は、国民が貧しくなることでしか修復できないのです。これは、ギリシャに限ったことではありません。
多分、このデモは官制デモなのではないかと思います。デモの参加者は公務員です。政府とは太いパイプがあるでしょう。政府は、「これ以上、国民に負担を強要できない。もう少し時間の猶予を貰いたい」という交渉に使いたいのだと思います。ギリシャ政府には先延ばしの選択肢しかないように見えます。では、この先延ばしはいつまで続くのか。それは、国民の貧困が財政破綻を回避できるところまで続くことになります。
ギリシャの直近の失業率は24.4%だそうです。日本の失業率が4%台ですから、約20%の開きがあります。失業率だけではなく、収入も年金も減少しているのが、今のギリシャです。ギリシャは昔から暴動や内戦がある国ですから、ユーロ離脱が現実になったら内戦になるという予測もされています。
荒唐無稽な想像ですが、もしも、ドイツ国民がデモをしたとすると、そのシュプレヒコールは「EUとIMFはギリシャから手を引け」というものになるような気がします。
人間は不思議な生き物だと思います。このギリシャの話は、日本人の頭の上を通り過ぎています。自分の身に災難がふりかかるまでは、災難を災難として認識できない。ところが、実際に災難に遭遇すると、大騒ぎをする。難しいものです。
人類は、数万年かけて国家という社会形態を完成させました。短期間で国家を否定するような新しい形態は出てこないでしょうが、いつかは変わる日が来ることも考えられます。
日本やギリシャに限らず、公務員という存在が国家を内部から崩壊させる存在にまで膨れ上がってしまいました。これは、どこかで修正しないと社会形態が維持できなくなる日が、やがて来るものと思われます。


自民党総裁選で「ヘタレ」の安部氏が選ばれました。
自民党は党の代表を総裁と呼ぶのを変えるべきだと思います。随分前に「拝啓自由民主党殿」という文を書きましたが、その時も政党名を変えるように提案しました。こそこそと逃げ出した男を代表に選び、党名も変えず、代表を総裁と呼んでいる政党。それが自民党です。安部氏は経験が一番大事だと発言しています。彼の強みは長い時間政治家をやっているという部分にしかないのですから、他に言葉がないのだとは思いますが、時代に対する洞察の欠片もありません。今、この国に必要とされているのは経験ではなく志なのです。
自民党は何も変わっていません。政権交代前の自民党と同じ自民党に何ができるのでしょうか。政権を取り戻して得られる利権を、涎を垂らして待っている自民党の豚共。こんな国にしてしまった豚共は、もっともっと利権を、と目を輝かせています。
安部氏の選挙区が山口県だというのも、因縁なのでしょうか。山口県民は健在です。でも、山口県の皆さん、あなたたちがこの国を滅ぼすことになるのをご存知でしょうか。
この国は、いよいよ、末期症状に突入するようです。
誰も、石田の予測など信用していないと思いますが、着実に一歩一歩地獄に近づいていることをお知らせしておきます。



2012-10-03



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記事紹介 15 [記事紹介]



JBPRESSの9/22付の記事を紹介します。
表題は「90歳を超えたお年寄りでもボケない下條村」
筆者は川嶋諭氏です



経営力がまぶしい日本の市町村50選(1)の第1回として、長野県下條村のケースを2回に分けて紹介した。2つ目の市町村は近々にリポートするが、その前に今回は下條村にお住まいの主婦の方から手紙をいただいたのでそれをご紹介したい。

最近になって、私の住む下條村は県内だけにとどまらず注目され始め、「家はどこ?」との問いに「下條です」と答えると、「下條? いいところなんだって?」と言っていただけることが少なくありません。
 早くから少子化対策として子育て支援推進を実施、若者定住促進住宅の建設、保育料の引き下げなど、安心して子育てができる生活環境を整えた成果でしょうか。
 下條村への移住を考える家族にとって、家賃が安いのは決断を大きく左右します。
 村営住宅は家賃が安く、県外から大勢子供のいる家族が移住してきました。あるお母さんは、アレルギーを持つお子さんのために下條へ来る決断をしたと言っていました。
 住宅やホールができても、自然は豊かで空気はきれいなままです。ただ市街地へは距離があり、通勤には時間がかかります。電車やバスの交通機関は少なく、ほぼ車での通勤になります。
 近年、「買物難民」という言葉をよく耳にしますが、下條村にもその問題はあると思います。商店が少なく、飯田市まで車で買い物に行きます。
 村では福祉バスを運行し、お年寄りなどが利用しています。商店独自で送迎のサービスもしています。福祉バスは病院、買物、役場、いきいきらんどでの教室に行けるように運行されています。
 いきいきらんどでは、お年寄りが介護状態にならないように脳刺激訓練教室や運動器機能向上の教室などをいくつか開き、交流できるように活動しています。
 中でも脳刺激訓練教室は、下條村が一番先に始めた教室で、他の市町村にもないものだったそうです。私の祖母も通っていました。2年前に亡くなりましたが、90歳までボケることなくしっかりしていたのは、この教室のおかげでしょうか。
18歳まで医療費無料、保育料一律10%引き下げ、学校経営、行事への援助、中学生の海外体験学習などは、私たちの生活に直接関わり、ありがたさを実感しています。

中学1年生がグアムでホームステイ

 私の子供も中学1年生の春休みに、グアムに体験学習に行きました。3泊のうち2泊ホームステイしてきました。2人1組でグアムの家庭にお世話になり、学校にもその家庭の子供たちと一緒に登校。合同で授業を受けたり、各地の見学に行ったり・・・。
 本人も楽しく行って来られました。
 準備も学校を通して行ってくれました。費用も村の負担がかなりあったので安くすみました。パスポートを持っていない私にとっては、子供を海外に行かせてやるなんて自力ではとてもできることではありません。良い体験をさせてやれたと思っています。
 電源立地地域対策交付金事業を有効活用して保育所運営費に充当したり、土地を利用した工場の誘致、生活道路の整備は資材は村で用意し、住民が道を作る。道の駅下條では大きなイベントを開き、村外から大勢集客して宣伝活動。考えてみるといろいろと思いつきます。

地域戦隊カッセイカマン

 宣伝活動と言えば、下條村には「地域戦隊カッセイカマン」というローカルヒーローがいて、けっこう有名です。村では交通安全活動や下條村祭などのイベントに出演し、子供たちを喜ばせています。
 また北は岩手県から南は沖縄県まで広く活動し、地元の名産品(親田辛味大根)などを紹介しています。全国の子供たちにも大人気のようです。
 そういう意味でも、下條村は住みやすいところだと思います。
 いじめや不登校などが全くないとは言いませんが、学級崩壊や暴力といったことは聞いたことがありませんし、社会見学、修学旅行では行った先で子供たちの態度や挨拶が良いと感心されると先生方に言われました。住んでいる環境が、ここにつながってくるのかもしれません。
 住民の目に見える政策をすることによって理解を得る、結果を出す。早くから少子化や高齢化に目を向けて対策をしてきたことによって、今の下條村があるのだと思います。
 私も小学生の時、学校で「未来の下條がどうなっていたら良いか」といった作文を書きました。みんなが子供らしいアイデアで、いろんなことを書きました。その作文から何か実現したものがあったかもしれません。
 自然豊かで活気のある下條村に生まれ育った私は、とても幸運なのかもしれません。





余談です。
このブログでは、下條村の話題は4回目になります。川嶋氏の下條村報告の番外編のようですが、これまでもこのブログで取り上げましたので番外編も紹介しました。
下條村のリーダーが、常に将来に視点を置いて村の運営にあたってきたことが、現在の下條村になっているのであり、ローマは一日にしてならずという格言は生きているようです。
日本国のリーダーは、どうなのでしょうか。



私達が今日まで、当たり前だと思ってきたことを、時代に合わせて再検証する時が来ているのではないかと痛感しています。前回、憲法のことを書きましたが、再検証しなければならないのは憲法だけではありません。私達は、現在の選挙制度も検証すべきです。
国民は選挙で国会議員を選び、彼等に国の運営を委ねています。
いや、そういう建前になっています。
全国民が国の運営に直接携わることは無理ですから、代表を選ぶことは道理に叶っていると思います。でも、今の仕組みがそうなっているのでしょうか。
国の運営と選挙が結びついているのでしょうか。
現実の選挙は、地元の利益代表を選ぶことであり、自分の所属する組織の利益代表を選んでいるのが実情です。今の選挙は、国の運営をする人達を選ぶためのものではなく、いかに地元に利益をもたらすか、自分の組織に利益をもたらすかを求めるための選挙になっているように思います。その利益代表に選ばれた人達が、ついでに、片手間で国の運営もやっているのです。大きな利権を地元にもたらす国会議員が、大物議員と呼ばれ、国民は利権構造を積極的に容認しています。これは、村社会の延長線上にある仕組みなのではないでしょうか。多分、50年前までは、この仕組みでよかったのだと思います。
政治家が、国の運営を片手間でやっていたために、実質的な国の運営は官僚が担当するようになったのです。実質的な責任者になった官僚の元に権限も利権も集中し、自然と、官僚が権力者になってしまったのです。この国を動かしているのは政治家ではなく、官僚なのです。官僚が自発的に権力を奪い取った訳ではありませんが、一度権力を手にすると手放すことが出来なくなるものです。
このような状況でも、選挙という制度が機能しているのでしょうか。私達が選挙で選んでいるのは、何もしない、何もできない国会議員であり、実質的な権力者である官僚を選んでいるのではないのです。
現在の選挙制度は、その目的から逸脱しているとしか言えないのではありませんか。
しかも、立候補する政治家は、嘘つきかペテン師か金の亡者ばかりです。
現実的には、官僚独裁政治ですから、それでもいいのかもしれません。
官僚にとっては望ましい国かもしれませんが、国民にとってはどうなのでしょう。
役に立たない国会議員を選ぶ選挙が必要なのでしょうか。
官僚が得意とする諸々の儀式と同じように、形式的な選挙が実施されているにすぎません。官僚にとっては選挙でさえ儀式になっているのです。
自民党が悪いとか、民主党が悪いという問題ではなく、国のシステムが民主主義政治から官僚独裁政治へと変質してしまったのです。官僚独裁政治には、国民が指一本触れることは出来ません。それが、独裁です。現実は、正に、そうなっているのです。
既に、選挙には何の意味もないのです。
もし、私達が民主主義国家でいたいと思うのであれば。
やはり、国とは何か、国民とは何か、民主主義とは何かを問い直さなければならない時代を迎えているのだと痛感させられます。
その上で、国民にとって望ましい選挙制度は、どのような制度なのかを考えなくてはならないのではないでしょうか。
選挙制度さえあれば民主主義を実践しているのだと思い込み、役にも立たない選挙制度にしがみつき、焦燥感と不安感の中で身動きも出来ず、政治家を罵倒したって何も変わりはしません。自民党政権でも民主党政権でも、何も変わりませんでした。このことは、総理大臣がこの国の主役ではないことを証明しています。あれほど何人も総理大臣が変わりましたが、誰一人国民のために働いた人はいません。もう、そろそろ、政治家には何の力もないことに気付いてもいいのではありませんか。これは、政治の問題ではなくシステムの問題だということに気付くべきです。
国家統治の仕組みも、社会の仕組みも、時代に合わないものになり、私達は出口のない袋小路に入り込んでいるのです。
耐え忍ぶことが好きであれば、虫けらのように扱われることに喜びがあるのであれば、民主主義政治を諦め、官僚独裁政治にこの国の国体を変えるのも、それはそれで選択肢の一つです。でも、なし崩しはよくありません。


この国は、どこを見てもドン詰まりの状態です。
一度、潰れなくてはならない、と言う人が多くなりました。
潰れることを予測する人は増えましたが、潰れたらどうなるのか、ということに言及している人はほとんどいません。具体的に、自分の身の回りがどう変わるのかは話題になりませんので、切実感はありません。
「この国、もう、駄目らしいよ」
「あ、そう。いいんじゃない、こんな国」
多分、この程度の会話でしょう。
「今日、雨、降るらしいよ」
「あ、そう。傘忘れたけど、まっ、いいか」
と同じ内容です。
何か、覚悟があっての話ではありません。ただの、話です。
ところが、実際には、本物の地獄がやってくるのです。
そして、この国は、二度と立ち上がることはありません。
このことを知っているのは、1億2500万人の日本人の中で、このブログを読んだ人だけです。日本人は、まだ誰も知らないと言ってもいいと思います。
もっとも、この5月に書いた石田の「崩壊との遭遇」を読んだ方でも、信じている人はいないと思いますので、誰も知らないと言った方が適切かもしれません。
ほんとに、こんなことで、いいのでしょうか。
人間の歴史は栄枯盛衰の繰り返しであり、その栄枯盛衰の原動力は「欲」です。
「欲」で栄え、「強欲」で滅びるのです。
石田の視点は「強欲」だと書いたことがあります。この強欲に支配された国が、或いは集団が滅亡するのは日本史だけではなく世界史を見ても明らかです。今の日本は「自分さえよければ」という強欲に支配されています。ですから、日本が滅亡することは必然なのですが、過去の滅亡と違うところは私達の周囲の環境です。世界は狭くなりましたし、時間の流れは速くなりました。お米を作っていたら生活できる時代ではありません。世界を、日本を支配しているのは金融です。過去と同じパターンが繰り返される保証はどこにもないのです。過去の栄枯盛衰と同じパターンを想定し、私達は、どこかで、いつか、再生すると思い込んでいるようですが、この21世紀からは新たな栄枯盛衰のパターンが出現します。それは、再生ではなく消滅という現象です。日本は、その先陣を切っているのです。これは、コロンブスのタマゴです。その現実に直面するまでは、誰一人信用しません。日本という国が消滅した時、世界は新たなパターンの出現を認識し、対策をとることになりますが、消滅した日本は復元しないのです。

現在の日本のシステムは、官僚に白紙委任状を渡しているようなものです。そこにあるのは、「お上」は正しいことをしてくれるという、ありえないような大前提です。
「お上」は神様じゃありません。
神様どころか、豚なんです。それも、悪知恵をつけた史上最強の強欲豚なのです。
確かに、ある特定の一面だけを見れば、官僚は正しいことをやっています。でも、それは官僚にとって正しいことであり、国民は関係していません。国民は、自分達にとっても正しいことをやってくれていると思い込んでいます。その思い込みを支えているのは、「お上」は悪さなどしない高貴な人達だという何の根拠もない性善説なのです。
この国の民は、道の端で土下座をして砂の数を数えている百姓と変わりません。ただ、ひたすら「お上」が善政を施してくれるのを待っているのです。
吹く筈もない神風を待っているのです。
泣けてくるほど、いい人達の群れです。
愚かさも、ここまでくると、笑えてしまいます。
こんな恐ろしい大前提を受け入れるほど、神様の仮面を被った強欲豚に運命を託すほど、私の肝っ玉は太くありません。きっと、私の度量が狭いのでしょう。
ところが、元祖日本人は、簡単に受け入れます。勘違いに過ぎないのですが、そのことには気がつかないふりをして、どこまでも信じようとします。信仰も、ある意味では勘違いから成り立っていると思いますが、官僚への信頼は信仰に近いと感じます。
この恐ろしいほどの勘違いの輪の中に入れない石田は、不安感や焦燥感以上に、疎外感を強く感じます。
もしかすると、私は日本人ではないのではないか。
もしかすると、間違っているのは、この私なのではないのか。
もしかすると、下條村は宇宙人の村なのではないか。
もしかすると、ここは、もう、地獄なのかも。


2012-09-24



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記事紹介 14 [記事紹介]



JBPRESSの8/25付の記事を紹介します。
表題は「地方自治におけるトヨタ自動車、下條村の堅実経営」
筆者は川嶋諭氏です
紹介記事の中で赤字になっている部分は石田が勝手に加工したものです。


本国政府だけでなく大半の地方自治体が多額の借金地獄に苦しむなか、下條村には基金が44億5000万円もある。基金は家計で言えば貯蓄に当たる。下條村は人口が4000人ちょっとだから、住民1人当たり100万円を超える“貯蓄”があることになる。
BIS規制が呼び水となった「地方自治のバブル」
 これは前回紹介したユニークな施策によってコストを徹底的に抑えてきた結果である。もちろん、コストを抑えたからといって住民サービスが低下したわけではない。
 若い子育て世代が下條村に住み着いていることが如実に示しているように、住民サービスも極めて手厚い。
 ムダなコストは徹底して省き、住民サービスを手厚くする。それだけではなく、万一のときに備えて貯蓄もしっかりとしておく。
 「地方自治のトヨタ自動車」。そう呼んでもおかしくないのが下條村の経営なのである。それを可能にしたのが、村長である伊藤喜平さんである。
 伊藤村長は1992年に誕生する。このタイミングがいまから考えると絶妙だった。20年前を少し振り返ってみよう。このときから日本はバブルが崩壊して暗くて長いトンネルに入るからだ。
 1989年に破裂したバブルの後処理のために日本銀行は急激な金融引き締めに転じ、さらには当時の大蔵省(現財務省)が総量規制を実施したことも引き金となって、我が国の経済はデフレに突入する。
 悪いことは重なるもので、国際決済銀行(BIS)による規制が1992年から実施されたことで(これも日本のバブルが原因の1つだったが)、金融機関は自己資本比率を高めるためにゼロリスクとされた国債の保有にひた走り始めた。
 一方、デフレ対策のためにゼロ金利政策を採った政府は、国債発行コストが低くなったことから箍(たが)が外れたように赤字国債を乱発するようになった。こうして国債の発行者と引き受ける側の利害が一致、日本は赤字まみれの国へと転落していった。
 国の赤字が増えるだけならまだしも、国はこともあろうに地方にも多額の借金をさせるような施策を採った。いわゆる“ひもつき”の地方交付税と呼ばれるものだ。
 地方自治体に地方債を発行させ、景気対策の名の下に公共事業を乱発させた。その地方債が償還を迎えたときに地方交付税を上乗せしてあげると約束したのだ
 地方にとってみれば、ほぼゼロコストで公共事業ができるのだから、多くの自治体はこれに飛びついた。しかし、よく考えてみれば、大きなハコモノを作れば維持費も多額になる。建設費は国が補助してくれても維持費は自前で毎年支出し続けなければならなくなる。
 つまり、日本経済はバブルが崩壊してデフレ経済に陥ったとき、地方自治では別のバブル経済を引き起こしたわけである。そのツケがいま日本の地方に重くのしかかっているのだ。
 下條村の場合、そうした地方自治のバブル経済が発生しようという段階で幸いかな伊藤村長が登場した。企業経営で培ってきた目には、国の政策が奇異に映り、バブルに踊ることがなかった。
 しかし、周囲がバブルに踊っていれば踊りたくなるもの。人と違うことをするのは日本では非常に勇気がいることだ。変人扱いされることもある。なぜ下條村は堅実経営ができたのか。今回はその理由を伊藤村長と地方財政の第一人者である大和田一紘さんに聞いた。

どうして多くの自治体には「必ずやって来る危機」が見えなかったのか?
川嶋 
伊藤さんが村長になられた1992年は、日本経済のバブルが崩壊してデフレ経済に向かうまさにそのときですね。何かおかしいぞと思い始めていましたが、国民のほとんどは多少景気が冷えただけで、日本の成長はまだまだ続くと思っていましたよね。
大和田
 ちょうど同じ時期に、交付税特別会計が赤字を生み出し始めるんです。1991年の赤字は7000億円程度だったのが、今じゃ34兆円にまで膨らんでしまった。
 地方交付税を身の丈よりもどんどん増やすということは、公共事業をやらせるってこと。つまり国に特別の政策がなかったということです。公共事業をやらせれば地方は豊かになるだろうという、いつもの発想ですよ。
 で自治体はといえば地方交付税だけでは足りないから、地方債を発行して借金をどんどん増やすことになる。国も地方も出費を増やして、それで効果が上がればいいんですが、そううまくいくはずもなく・・・。
川嶋 
本来は構造改革によって新しい日本をつくるべきだったのに、為政者もバブル崩壊を気楽に考えていたわけですね。それまでと同じ景気対策をすれば景気は持ち直すと。
 しかし、実際には日本は改革が迫られていたわけで、公共事業にカネをばら撒くことは逆効果でしかなかった。結局、政府の間違った施策に乗った市町村は国と同じように雪だるま式に赤字を増やしたわけですが、下條村は乗りませんでした。なぜそれができたのでしょうか。
伊藤
 家計でも村の会計でも、数字は同じだわな。足し算、引き算の単純な話だ。内需喚起だ、景気浮揚のための公共事業だと言われても、分不相応なことには危なくて乗れるわけがない。
 政治家のみなさんはそれぞれ立場もあるし、わが身可愛さがあるから、どうしても良い格好をする。それを当てにしたら痛い目に遭う。信頼していいのは、一番シンプルな数字だけだ。
 下條村はそういう形でやってきて、おかげで基金は今もかなりある。
大和田
 基金というのは積立金、家計で言えば貯金のようなものですね。下條村の基金は平成22年度で44億5000万円近くあります。
伊藤
 ひところは県の担当者が、あんまり良い決算をすると交付税が減りますよと言った。だから財政調整基金は表面上少なくしとけと指示しとったよ。まあ、幼稚な指導をしたもんだと思うよ。そういう国家を欺くような担当者が実際におったんだ。
川嶋
 しかし下條村は交付税を減らされてもいいと、覚悟を決めてちゃんと決算したんですね。
伊藤
 減らされるときを見越してな。
川嶋
 小泉(純一郎元総理)さんが三位一体という形で地方財政の改革を始めたのは2001年ですが、伊藤村長はそういうときがいずれ来ると分かっていたんですね。
伊藤
 もしものときのためにちゃんとストックしとけ、財務体質を含めて社内の体制を強固にしとけという話だ。商売をやってたら、そんなのはイロハのイなのにな。
大和田
 自治体というのは意外に、財政を長いスパンで考えないところがあります。その場しのぎでやっているから、貯金がどれだけあればいいのか分からない。
 過去の財政運営を見て浮き沈みを知っていれば、そんなことは分かるはずなのに。
川嶋
 ここが日本にとって大きなポイントですよね。日本の役所は3年4年で担当が変わって、責任を持ち越さないから、政治がリーダーシップを取って長い目で見た施策を打たなければならない。お役人にすべてを丸投げしているいまの民主党政権に日本を良くできるわけがない。

地方交付税はよくできた制度。しかし打ち出の小槌ではない

大和田
 ただね、下條村をはじめとして、全国の自治体の中にはまともにやってるところもたくさんある。
 1つや2つなら変わり者、「例外」ということになりますが、そうじゃないんです。地方から国を変えるつもりで、こうした動きを整理してちゃんと世に明らかにすべきだと思います。
 北海道のニセコ町なんかは良い例です。地方分権こそが地方を変えるという信念のもと、十数年前から職員教育も含めて取り組んでね、黙っていたら過疎地になるようなところに移住する人が増えるまでにした。
 宮崎の綾町もそう。九州に行くと大分の湯布院の次に有名で、やっぱり人が減らない。そういうところには学ぶべき良いところがあるんですよ。
 下條村にしたって、なぜか若者が住み着くわけです。私の見るところ、要因は定住促進住宅の補助制度とか保育園とか、文化芸能交流センターとか。あとはハイテク企業をうまく誘致した飯田市に職場があれば、もう十分なんです。
 ちょっとした知恵があればこういう環境を作れるはずなのに、あまり数が多くないのは政治の貧困と言うしかないんですが・・・。
伊藤
 ここまできて本当に日本の体質を変えるには、この危機状態をオープンにして、国は国民に早く立て直さんとえらいことになるんだよということを教えないといかん。  現実はもう破綻がすぐそこまで来ているんだけども、「おれの目にはまだ天下泰平なんだ」と国民自体が思っている。
大和田
 平成の大合併を経験した自治体なら、じき猶予期間が終わることや財政への影響も大きな問題なのに、どこまで分かっているのか・・・。
伊藤
 全然分かっていない。今まで何とかなってるから、神風でも吹くと思ってるんじゃないだろうか。
大和田
 夕張だけじゃなくて、あと3つ4つ潰れた方がよかったかもしれない。夕張が社会に大きく貢献したのは、自治体だって破綻するということを世に示したことです。でも、1つだけじゃ例外的な存在だと片づけられてしまう。
川嶋
 米国ではカリフォルニア州を中心に次々と市町村が破綻しています。JBpressでも最近、それを報じるフィナンシャル・タイムズの記事を載せました。
 どうして日本はそうならないんでしょう。
大和田
 米国には地方交付税制度ってものがありませんから。
川嶋
 なるほど。自己責任が徹底しているということですね。
大和田
 日本の地方交付税制度は、どちらかというと北欧に近いんです。日本は国土が狭くて、平地はさらに狭いでしょ。そこに1億人以上の人がいるわけだから、離島や山の中の不便なところにも住んでもらわないといけない。
 今の地方交付税制度をやめるとね、人口が平地にばかり集まっちゃうわけです。そこいくと米国は、砂漠が多いにしても平らな土地が広い。これは大きいことなんですよ。
川嶋
 つまり日本の地方交付税制度は設計段階では非常によくできていたというわけですね。それがどこかでおかしくなり始めた。
伊藤
 本当によくできている。でも腹一杯やっちゃだめなんだ。満腹になると食欲がなくなる。安心して、どうにかなるわいと思ってしまう。
 そんな具合にこの制度は、自治体に希望というか依存心を持たせてしまった面がある。逆に言えば危機感を持たせるということがなかった。しかしもともとが打ち出の小槌じゃないんだ。
地方自治・財政を肌で学べる中学生議会を16年前から実施
大和田
 私はね、地方財政の学びのカリキュラムを小さいときからライフステージごとにやるべきだと思っています。
 スウェーデンではそれをやっているんですよ。小学校2年とか3年になると自分の町の財政規模はどれくらいなのかって。日本では、例えば下條村だって、いい大人に財政規模はどれくらいかを聞いてもきっと答えられないでしょ。
 日本では財政規模も分からないのに何となく「苦しいらしい」とか言う。自分の家計だったら、お財布の中身を把握しているから「今月は足りなそうだ」と分かるでしょう?
川嶋
 北欧型の地方交付税制度を入れるんなら、教育システムも入れないといけませんよね。なのに官僚に任せきりで、そういう勉強をさっぱりしない。
伊藤
 昔は学校の先生は郷土のことを教えたんだが、いまの先生は地元のことをよく知らない。だから「苦しいらしい」とかバーチャルな話にしてしまうんだ。
 だからな、うちの村では徹底して情報公開している。それに、実は昨日もやったんだが、中学生議会というのもやってる。
川嶋
 ほう。中学生が町議会を開くんですか。いつ頃から始めたんですか?
伊藤
 中学3年生が対象で、もう16年ぐらいになる。だから、下條村では中学生に財政規模を聞けばすぐに答えられる。村の問題点も指摘する。大人は無理だけどな・・・。
川嶋
 子供議会ではどんなことをやるんですか。
伊藤
 例えば文化ホールについて、これだけ金をかけたが収支はどうかと。あんまり使われとらんということなら、収支が合っとらんじゃないか、改善せにゃいかんとなる。で、もっと利用者を増やすにはこうしようというアイデアを出す。
 昨日は少子化対策や人口を増やすための策も出たな。下條村の人口は今までずっと伸びてきたが、今は4100人と4200人の間を行ったり来たりしてる。これは政策が息切れしているんじゃないか、どうなんだと。村長のおれにしてみればカチンとくる話だったけどな(笑)
 下條村が含まれる飯伊地域には、人口が減らない高森町というのが1つあって、あとは軒並み減る一方だ。今の時代、人口を減らさないなんて至難の業だからな。
川嶋
 下條村は出生率の高さでも有名ですよね。2003年から2006年の平均で2.04人。これがさらに上がらないと増えないってことですか。あるいは転入者が減った?
伊藤
 そういうこととな、去年、なぜかお亡くなりになるお年寄りが多かったこともある。
大和田
 僕が村長だったら、周りと比較してみなさい、もっと長いスパンで考えなさいと言うところですが(笑)。下條村の数字は立派なもんです。
伊藤
 中学生は本当にまじめだ。しかし先生たちは完全に労働者なんだな。忙しくてもこれだけはやらんといかんという情熱がない。昔ならクラブ活動っていうと、先生が必ず遅くまで指導したもんだが・・・。
川嶋
 本来、先生の仕事は頭を使って子供たちを育てることで、決まりきったことをやっていればいいという話ではないはずですよね。

教育長がいてもまどろっこしいだけ。「欠員」にして人件費節約
伊藤
 一般論として教育の中立性に鑑み、行政は口を出さないってことがあるが、冗談じゃない。教育委員会なんて得体の知れんものもあるが、まどろっこしくてうまくいかん。
 だからうちは教育長は置いとらん。と言ってもポストをなくすと怒られるから、欠員にしてる。形だけ置くにしても、年収1000万円超えるからな。その分はほかに使いたい(笑)
 校長さんとはよく会って、この役所の2階で一緒に酒を飲みながら話すが、村の行政のトップも学校のトップもだいたい悩みは同じだ。
 しかし、教育委員会が入ると、たいていの場合には校長や行政のOBが就く。そうすると、現役の校長たちはどうしてもその先輩に遠慮してしまう。

先生たちの間のタテ社会はすごいものがあるから、積極的に自分の考えで責任持って行動ができなくなるんだな。過去の人に昔は良かったいまはダメだなんて言われた日には目も当てられないわけさ。
川嶋
 欠員とは、よく考えましたね。見事な発想です。ポストは形だけ残しながら、しかし給料は払わずに済んでいる(笑)。世の中には守らなければならない決まりはあるけれども、すべて杓子定規に守れということではありませんからね。
 そういうアイデアを思いつくことが素晴らしいし、実行に移せるのは肝っ玉が据わっている。お話を聞いていて何だか清々しい気持ちになります。
 ところで、子供たちは村のこともちゃんと勉強してるんだから、先生にも少子化問題とか人口問題とか考えてもらわないと困りますね。
伊藤
 ダメだよ。彼らはイロハとか九九とか、そういうことしか教えん。先生がちゃんと勉強していれば、教育の場で言葉の端々に、郷土の話とか、コレは常識から言っておかしいとかおかしくないとか、そういうことがポロッと出てくるはずなんだ。
大和田
 今の先生には精神的なゆとりがないんですよ。昔と違って転勤が多かったりしてね。
 実は、日本のカリキュラムには小学6年生に1時間、中学3年に2時間、地方自治・財政の授業があるんですが、現場には地元の行政や財政のことを教えるだけの知識がない。
 赤本と呼ばれる教師のための指導書には議会費はいくら、総務費はいくらと書いてあるけれど、それは「A市の場合」といった一例であって具体性がない。
 それを子供たちに教える段階では、先生たちがその村や町の実例に直して授業すべきなんです。下條村の子供なら下條村の財政についてとか、自分の町について教えてもらわないと、子供たちはリアルに理解できないでしょ。
川嶋
 A市の例みたいに抽象化したら、受験勉強になっちゃいますよね。一夜漬けで試験のための暗記はできても、次の日はきれいさっぱり忘れてしまう。
大和田
 中学3年生の教科書には経常収支比率は地方財政のエンゲル係数とも言うという例えまで書いてある。でも先生が内容を分かっていない。
 私はこういうことを忙しい先生が教えるのは無理だと思う。その代わりに、例えば教育委員会の社会教育課とかがやってる生涯学習ってありますよね。ああいうカリキュラムを充実させたらどうか。
 リタイアした大人が山ほどいて勉強したがってるわけだから、教育委員会が人材登録して、出前で授業をやらせればいいんです。彼らは喜んで誇りを持ってやるし、実際にやってるところがあるんですが、子供たちにも好評ですよ。
川嶋
 財政の話ではないですが、以前、京都の教育改革を取材したことがあります。堀川の奇跡で有名な堀川高校の荒瀬克己校長や、当時は京都市の教育長でいまの京都市長である門川大作さんをはじめ小中学校もたくさん訪問しました。
 そこでは大和田先生の言われるように地元の方々が教育に参加されていて、子供たちみんな面白がっていました。そういう地元密着型の教育システムが必要ですよね。
 さて、最後にお聞きしたいのですが、6期目に入った伊藤村長の新しいプランは何かありますか。
伊藤
 目新しいことをあれこれやるのではなく、これまでつくってきた基盤をさらにボトムアップしたい。この前も公開討論の席で知事から「もうちょっと他の町村と足並みを揃えてもらえませんか」と言われたしな。
川嶋
 下條村はでき過ぎだから、スピードダウンしろということですか。それは変ですね。何だか小学校の徒競走で順位をつけるのが嫌だからみんなで手をつないでゴールしようというのに似ている。そういう発想が日本をダメにしていることが全く分かっていない。
伊藤
 もっともな。ほかの自治体からいろいろ言われる知事の気持ちも分からないでもない。でも、うちの村は急にスタンドプレーをやっているわけじゃない、これまで予想してやってきた中からにじみ出るもんなんだと答えた。
 知事だってそのへんは分かっているんだ。だからあまり目立たないようにやって実を取ろうと思っている(笑)





余談です。
下條村の話題は3回目です。
何か変だと思いませんか。
私には、当たり前のことをやっている下條村が特別な存在として記事になることの方が異常だと思えるんです。国民や住民にとって、間違った道を選んでいるのは、国であり、下條村以外の自治体なのではないでしょうか。
人口増加も、高い出生率も、健全な財政も、活き活きとした子供達も、本来は下條村の専有物ではないはずです。
借金にあえぐ国と、貯金をしている下條村。
この落差は、どこから生まれているのでしょう。
なぜ、日本の国や地方自治体が下條村であってはいけないのでしょうか。
答えは簡単です。
下條村になれば、利権という甘い汁が吸えなくなる人達がいるからです。
私達の税金は、どこへ消えてしまったのでしょう。
この答えも簡単です。
利権という闇の中に吸い込まれているのです。
これって、やはり、おかしくありませんか。
これは、誰が見ても国家運営の失敗です。
失敗の責任を取るのは、政治家でも官僚でもありません。
責任を取らされるのは、あなたです。
もちろん、私もです。
そして、一番辛い道を歩かなければならなくなるのは、子供達です。
何もしない私達大人は、今や、加害者なのです。


衆議院の解散総選挙が近いということで、大阪維新の会に注目が集まっています。
維新の会が維新八策を出すまでは、私も期待の眼差しで見ていましたし、このブログでも何回となく橋下氏を応援しました。しかし、維新八策には落胆しました。中身を見ると、ただの選挙用のマニフェストでしかありません。新しい政党なのですから、理念を掲げて欲しかったと思います。既成政党がどこも将来の国家像を示していないのですから、維新の会はチャンスだったのです。戦略のない集団だということが露呈してしまい、大変残念に思います。これ以上、理念のない政党は、もう要りません。
維新八策は、余りにもスケールが小さくて、船中八策を作った坂本竜馬が気の毒です。あの維新八策では、この窮地から抜け出すことはできません。それどころか、逆に崩壊を早める可能性があります。
維新八策の最終版が近く表明されるようです。そこでは、是非、前文をつけてもいいですから、理念又は国家像を国民に伝えて欲しいと願います。その理念が、正しい財政再建に向かうようなものであれば、少しだけ期待が持てます。日本が乗り越えなくてはならないのは、先ず財政再建です。その上で、社会正義と経済の復活です。
政治家の視線も、国民の視線も根っ子を見ていません。そんな環境からこの国を変える政党が出現することはないと言われれば、言葉もありませんが、現状の維新八策ではそれを証明してしまいます。
以前にも書きましたが、維新の会は人材不足です。広い視野を持った戦略家がスタッフとして必要です。種々の発言や行動を見ている限り、そのような片鱗が見えてきません。
維新の会は地域政党からのスタートです。その最大のテーマは地方分権です。しかし、地方分権でこの国を変えることが出来ると考えている出発点そのものが間違っています。木に例えるなら、地方分権は一本の枝です。幹がなくては、木そのものが倒れるだけです。
従来の思考をもとに、何かを組み立てても何も変わりません。そのためには、現状を否定することから始めなくてはなりません。それは、現状を否定する新たな理念が求められるということです。目指すべき国家像があり、それに近づくための政策として地方分権が枝になるのであれば、立派な木になることもあるでしょう。
地方分権は幹にはなれないのです。
また、地方分権のやり方を間違えると、この国は簡単に沈没してしまいます。福井県や山口県を見ている限り、とても地方分権で国がよくなるとは思えないのです。全国の知事の8割は「予算が増えるなら、歓迎だ」と思ってる筈です。中央の利権が地方に拡散し、地方の利権が増殖する状態で、この国が持ちこたえられるとは思えません。
現在の地方自治体のあり様を是認した上に、地方分権という制度を上乗せしたとして、何かが変わるのでしょうか。いいえ、これは、とんでもなく危険な事です。
幹となる理念もなく、地方分権の定義もせず、腐敗防止システムも構築せず、市民の監視機能もなく、情報公開もせず、勢いだけでやってしまいそうな空気があります。情報公開を請求しても、黒塗りの資料が出てくるだけです。全国の市町村が下條村と同じなのではありません。下條村のような地方自治体は、10本の指があれば数えられる程度しか存在しません。
今だって、地方自治体には十分すぎるほどの腐敗があるのですから、地方公務員は更なる利権を手にするチャンスを待ち構えていることでしょう。その上、利権システム構築のノウハウを持った国家公務員も地方へやってきます。
地方分権にはお金がかかりますので、増税をおねがいしますと言われても、日本人なら納得してくれます。国家公務員の方を地方へお招きするのだから、立派な建物や宿舎や福利施設が必要ですから増税します。ついでに、地方公務員の待遇もよくしなければなりませんので増税します。天下り先を山ほど作らなくてはなりませんので、その費用も増税で賄いたい。あれやこれやで、増税します。
これでは、国民がいくら税金を納めても足りません。
根っ子を変えずに、形だけを変えても何も変わりません。維新八策からは、根っ子に切り込むような臭いはしていません。この国は、表面的に何かを変えれば立ち直れるような状況ではないのです。この国の症状は、瀕死の重傷なのです。どうして、そこから目を逸らすのでしょうか。近隣諸国の人達には、この臨終に近い日本の姿が見えています。「日本など、もう、たいした国ではない」と言っていますし、その言葉は間違っていません。そのことから目を逸らしているのは日本国民だけです。
今なら、中央の利権を切り捨てるだけで済みますが、地方分権をすれば、全国規模で利権の排除をしなければならなくなります。これは、前進ではなく後退です。
それでも、自民党よりは、多少ましなのかもしれない。その程度の大阪維新の会に、この国を立て直すことができるのでしょうか。いいえ、間違いなく潰れます。
全ての国民が適温に保たれた曖昧文化のなかで、流れに逆らわずに浮遊しているだけです。そんな日本人の中からは、英雄も英雄的政治集団も出現しません。「なるようにしかならない」という庶民の諦観は間違っていないのです。私達は崩壊と遭遇する運命なのです。
地の果てが有限であることを願わねばなりません。「崩壊との遭遇」で書いた状況も充分悲惨ですが、無限地獄は、辛すぎます。
仮に、維新の会が政権の一翼を担うような状況になった場合には、石田の予測は5年ほど早めなくてはならなくなるでしょう。どうしようもありません。


福島原発事故の高濃度核汚染物質の中間貯場施設の候補地として福島県の12カ所が提示されました。福島県民は踏んだり蹴ったりのいじめを受けているようなものですが、東北人ですから我慢して受け入れるかもしれません。
これらは、あの原発事故で発生した汚染物質の処理です。もっと大変な事業が残っています。それは、使用済み核燃料の中間貯場施設と最終処分施設です。さらに、この先、廃炉になる原子炉が出てきます。その最終処分施設も必要になります。その事を考えると、今回の政府方針が既成事実を作るための行動に見えます。
このまま原子力発電を続けていけば、日本人は核廃棄物の上で生活する日がやってきます。
この辺で終止符を打つべきではありませんか。
ここで、石田流の無茶な提案をしてみましょう。
核汚染物質も核廃棄物も現実に存在しているのですから、貯場施設は作らねばなりません。
難局に際して求められるのはリーダーシップです。リーダーシップの要素に「率先垂範」があります。今は、その率先垂範が必要な場面ではないでしょうか。
そのためには、先ず、東京都に核廃棄物貯場施設を作る事です。場所は、23区内がいいでしょう。23区内でも、千代田区が、できれば霞が関のど真ん中が一番理想的です。そして、全国の都道府県に貯場施設の設置を法律で義務付けることです。自分は犠牲になりたくないから、お前の土地に核廃棄物を埋めろ、というやり方は率先垂範にはなりません。先ず、最初に政府機能がある東京で貯場施設を作り、他の地域にもお願いするのが率先垂範なのではないでしょうか。東京の人達は、なぜ東京なんだ、と言うでしょう。では、今、なぜ、福島なのですか。福島原発がある場所だからですか。だったら、政府機能がある東京でも、理屈は通ります。
電力消費量では、東京都が飛び抜けて多いと思いますので、東京都が最も大きな核廃棄物貯場施設を作らねばなりません。
もしも、こんな無茶な政策が取られるとすれば、話し合いでは決着しませんので、最終的には籤引きくらいしか方法はありません。それであれば、国民全員の問題です。
全国規模で核廃棄物の施設が出来るのですから、自分の住居の横がその施設になることもあります。こんな提案がなされても、国民は原子力発電を続けたいと思うでしょうか。
自分の町や村に核貯場施設が作られるとなれば、他人事ではありません。
こうなれば、本気で国民的議論ができるのではないでしょうか。
どうして、こういう議論にならないのでしょう。
原発を容認し、太っ腹を演じている人達の尻にも火が付きます。特に、こういう人達は自分の利害には敏感なものです。そして、俺はずっと原発には反対していたと声高に言うでしょう。そんなことを、やりそうな人、あなたの周囲にもいると思います。
民主党の統治能力の欠如が大きな要因であることはまちがいありませんが、自民党時代であれば、水面下の交渉で乗り切ったのでしょう。
「今度だけは、泣いてくれ。この埋め合わせは、必ずするから」
これも、利権構造に特有な根回しです。自民党は、そうやって日本を壊してきたのです。
これで、いいのでしょうか。
福島の住民が言っていました。
「私達が、何か悪い事、したんですか」と。
皆が、「自分さえよければ」をやって、我慢した奴が損をする時代なのですか。
こんなこと、いつまでも続けられませんよ。


2012-08-29






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記事紹介 13 [記事紹介]



JBPRESSの8/20付の記事を紹介します。
表題は「役人が猛烈に働き住民が幸せを謳歌する下條村」
筆者は川嶋諭氏です


下條村の話題は、7/28日にも紹介しました。その続きのようなものです。
少し長文ですので、ここに転記しませんでした。
興味のある方はJBPRESSを訪問して読んでみてください。

JBPRESSそのものを推奨しているのではありません。フィナンシャルタイムズの記事があり、時々今回のような記事がありますのでよく読みますが、JBPRESS自体は傾向として「右寄り」だと思います。私は「右寄り」ではありません。また、革命を勧めたりしますが、私は「左寄り」ではありません。「右」や「左」に安住している人達の気持ちも理解できません。では、「真ん中」なのかというと、それも違うような気がします。
多分「いいかげん」なのだと思われるでしょう。自分の主張に都合のいい記事を良い記事として、勝手に利用しているだけのご都合主義だと言われるかもしれません。
私は、「事実」なのか「粉飾」なのかが基準になる方がいいと思っています。もう少し厳密に言えば、「事実」と「粉飾」の比率が適正かどうかという問題だと思います。行きすぎた「事実」も「粉飾」も人間社会には有毒なものに見えます。
今は、「粉飾」が余りにも多すぎます。これとよく似た状況としては、第二次大戦時の大本営発表があります。どちらも、その先にあるものは、破滅です。


2012-08-21



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記事紹介 12 [記事紹介]



8/11付 ダイヤモンド・オンラインの記事を紹介します。
筆者は、早川幸子 氏 [フリーライター]

表題は オリンピックと政局報道の陰で密かに進行している「国民皆保険」の危機


 ロンドンオリンピックの開会式で、イギリスの功績のひとつとして国民保健サービス(National Health Service=NHS)がパフォーマンスに登場した。
 NHSは租税をおもな財源とする国営の医療制度で、国民は所得に応じた保険料を支払うが、病気やケガをしたときは薬剤費などのわずかな一部負担をのぞいて誰でも無料で医療を受けられる。
 誰もが平等に医療を受けられる制度は、病気を治すという個人的な問題を解決できるだけではなく、その国の社会に安定をもたらし、経済的発展にも貢献する。NHSは公的な医療保障の先駆けとして1948年に始まり、各国の社会保障にも影響を与えたため、イギリスが誇るものとして紹介したのも頷ける。
 だが、我が国の公的な医療保険制度もイギリスに負けず劣らず、世界に誇れる素晴らしい制度といえるだろう。
 日本で、貧富の差に関係なく利用できる「国民皆保険」が実現したのは1961(昭和36)年。その後、半世紀に渡って、「いつでも、どこでも、だれでも」よい医療が受けられるという理念のもとに、どの時代も、どんな政権でも国民皆保険を守る政策がとられ、国民の健康を支える中心的な役割を担ってきた。
 その国民共有の財産ともいえる皆保険を崩壊に導く可能性のある法案が、国民がオリンピックに浮かれている間に、どさくさに紛れて採決されようとしているのだ。

「強制加入」「現物給付」が日本の医療制度の最大の特徴

 今の日本で、生まれてから死ぬまで一度も医療機関に行ったことがないという人はまずいないだろう。皆保険制度のおかげで、私たちは病気やケガをしたときは、保険証1枚あれば日本全国どこの医療機関でも、少ない自己負担で医療にかかることができる。そんな日本でも、ほんの50年前までは医者にかかれないために命を落とすことは稀なことではなかった。
 戦後の混乱が残る1955(昭和30)年。当時すでに、会社員や公務員のための健康保険、農村漁村や都市部の自営業者のための国民健康保険は存在していたが、経済的事情などでなんの健康保険にも加入できない人が約3000万人もいたという。その割合は全国民の3割にものぼった。そのため、当時は生活保護を受ける原因の6割は病気やケガによるもので、防貧対策として国民皆保険を求める声が上がっていたのだ。
 1959(昭和34)年1月、それまで任意加入だった国民健康保険を改正して、会社員や公務員など勤務先の健康保険に加入する労働者とその家族以外は、すべての人が国民健康保険に加入することが義務付けられる。そして、全国すべての市区町村に国民健康保険組合が作られ、2年後の1961(昭和36)年4月に国民皆保険が実現した。
 2008(平成20)年から、75歳になると、それまで加入していた健康保険を脱退して、すべての人が後期高齢者医療制度に移行することになったが、「誰もがなんらかの公的な健康保険に加入する」という大枠はこの50年間変わっておらず、皆保険制度は守られてきた。
 ところが、今、参議院で採決されようとしている社会保障制度改革推進法が通ると、国民皆保険が崩壊し、必要な医療が受けられなくなる危険があるのだ。

法案の条文から消えた「国民皆保険の堅持」

 社会保障制度改革推進法は、参議院での採決が待たれている「社会保障・税の一体改革関連法案」のひとつで、財政論の観点に立脚して医療をはじめとする社会保障の在り方を見直すことを目的としたものだ。
 実は、これまでの医療制度改革の文書では、どんなときも「国民皆保険の堅持」という言葉が使われ、時の政府も国民皆保険を支持していた。ところが、今回の社会保障制度改革推進法では、この言葉が消えて「医療保険制度に原則として全ての国民が加入する仕組みを維持するとともに」という言葉が使われているのだ(赤字は筆者、以下同)。
 気がつかなければ読み飛ばしてしまうかもしれないが、「原則として」という言葉が入ったことは、「例外を作ってもよい」ということだ。国の都合で、「この人は健康保険に入れなくてもよい」ということが行われることも否定できず、「いつでも、どこでも、だれでも」よい医療を受けられるという理念は崩壊することになる。
 さらに恐ろしいのが、具体的な改革として「医療保険制度については、財政基盤の安定化、保険料に係る国民の負担に関する公平の確保、保険給付の対象となる療養の範囲の適正化等を図ること。」と書かれた条文だ。
 政府の文書で「適正化」といえば、削減・縮小を指すのはいうまでもない。
 現行の制度では、病気やケガの治療のために必要な診察、検査、投薬、手術、入院などは健康保険で受けられることが保障されている。新しい治療法や薬が開発された場合は、有効性と安全性が確認され、その技術が倫理的にも問題がなく、効率よく広く一般に普及できると判断されると、健康保険が適用され、お金のあるなしにかかわらず誰でも医療技術の進歩を享受できる。
 しかし、推進法では、財政の原理によって、健康保険が適用される治療の範囲を「適正化」すなわち「削減・縮小」していくことを謳っている。

推進法が採決されたあとに待ち受けるシナリオとは

 推進法が採決されると、いったい日本の医療にどのようなことが起こる可能性があるのだろうか。具体的なシナリオを考えてみた。
①健康保険の適用範囲の縮小。有効性や安全性が認められても費用の高い医療技術や薬は健康保険を適用しない
②免責制度の導入。たとえば、1回の医療費が5000円以下は健康保険を適用しないなど
③高齢者の医療では、本人や家族が望んでも、健康保険を使った終末期の延命治療を一切行わない
④健康保険が適用される薬はジェネリックで、同じ有効成分の先発薬を使う場合は差額が自己負担になり、選択肢が狭められる
 これらはたんなる思いつきではなく、これまでも繰り返し議論されては、健康保険の理念や人道的な立場から否定されてきたものだ。それが推進法という法的な根拠を得ることで、一気に現実のものとなる危険を秘めている。
 ここ数日の報道では、消費税増税法案の採決と政局の行方ばかりが注目を集めている。だが、消費税増税法案とセットで採決される社会保障制度改革推進法案が、国民の健康や命を左右する可能性のあるものだということを、どのくらいの国民が知っているのだろうか。
 もちろん借金に頼る財政構造をこのまま続けていいわけではない。財政健全化のための増税は免れない時期にきているとも思う。だからといって、皆保険を放棄し、健康保険の適用範囲を縮小する可能性のある法案までも、だまし討ちのように採決することは許されるはずはない。
 ロンドンオリンピックで紹介された他国の医療制度に目を奪われている間に、自国の医療保険制度を崩壊に導く法案が採決されて、世界一の医療制度を手放すことになっては笑うに笑えない。
 この原稿を書いている8月8日現在、いまだ消費税増税関連法案の成立と政局の行方に答えは出ていない。早期解散を約束して関連法案が可決されるのか、野田政権への内閣不信任案によって推進法も廃案になるのか。いずれにせよ、関連法案の行方を注視していく必要があるだろう。





余談です。
社会保障費の削減は、医療の分野から始まるようです。
「増税」と「給付の削減」は、何度も書きましたので、このブログを読んで下さる皆さんからは「くどい」とお叱りを受けるかもしれません。
社会保障と税の一体改革が民主党のキャッチフレーズでした。
その実体は。
社会保障に関しては、「給付の削減」です。
税は、「増税」です。
不思議なことに、どちらも国民負担の増大です。
国民は勘違いしているようですが。
決して、社会保障の充実などではありません。
これから設置される予定の、社会保障改革の国民会議と称する機関が背負っている使命は、給付の削減をする会議の設置です。
こんな、みえみえの政策を実施されても、まだ、国民は「お上」を信じているのです。
「お上」にとって、この国の国民は優等生です。
どんなひどい仕打ちをされても、ヘラヘラと笑って許してくれます。
「もっと、ぶって」と言わんばかりに自民党に投票してくれます。
いくらでも、貢いでくれます。
私には、そのことを、国民が喜んでいるようにしか見えません。
何と愚かな、でも従順な国民なのでしょう。

生活保護費に関しては、吉本の芸人を生贄にして、メディアがバッシングをしましたが、あれは見事な演出でした。でも、胡散臭い臭いはしていました。吉本興業もグルになっていたのかもしれません。あのキャンペーンは、生活保護費の削減をするためのものです。
次は各種年金の切り下げ、各種保険料の増額です。
そして、再び、新たな増税がやってきます。
「増税」と「給付削減」は、途切れることなく、最後まで続きます。
この流れは、もう止まりません。
今日は、この一連の政策の意図を見てみましょう。
ここで、日本の窮状の原因がどこにあるのかを思い出してください。
それは、国債暴落による財政破綻の危機です。
今後、この国が行う全ての政策は、この危機を回避することに絞られます。
本当に危険なものは、最後まで隠しておかなければ、いくら日本国民といえども動揺します。その危険を国民に知られてしまうと、本気で財政再建をしなくてはなりません。財政再建のための増税を提示すれば、国民の目は、今よりも歳出削減に向けられます。歳出削減を前面に出せば、利権が危険になるのです。理屈は簡単なのです。
今回の増税は、財政再建という言葉を隠し、日本国債の格付けを一時的に維持する目的で行われたものです。国民は知らされていませんが、かなり、危険な状態だったのだと思います。いわば、緊急避難的な措置でした。しかし、格付け機関の姿勢は「ネガティブ」のままですから、格下げの時期を先送りしたに過ぎません。その先送りのために、国民から毎年12.5兆円もの税金を絞りとるのです。実に高い買い物ですが、官僚の腹は痛みません。
次に行われる社会保障費の給付削減でも、財政再建の言葉は出せません。財政再建であれば、社会保障費以外の歳出削減をしなければならないからです。
増税も給付削減も、その場しのぎではありますが、そして、歪な形になっていますが、財政再建の一端です。
ただ、このやり方は、財政再建に失敗するモデルケースを地で行っていることに気付かなければなりません。
この国がやろうとしている財政再建の行程表を、再度、整理してみましょう。
1. 先ず、とことん国民から税を取る。
2. 国民への給付を極限まで削減する。
3. それでも、不足する場合に限り、官僚利権を少しずつ削減する。
昔から、「お上」のやることは変わっていません。
この国では「お上」を支えるために民があるのであって、民を支えるために国があるのではありません。日本人は、このことに関して大きな勘違いがあります。
守られているのではありません。守っているのです。
なぜ、裕福な人を守って、貧乏人の自分が守られないのかということを、2000年間も自問したことがありません。
「お上」は、自分達は選民なのだから、「下々」に支えられて当然だと思っています。
「お上」と「下々」の関係は、21世紀になっても守られています。そして、「こんなものだろう」と納得しています。
実に、不思議な民族だと言えるでしょう。
財政再建をしなければならないことは、誰にでもわかっています。
その時、何を守りながら政策を進めていくかが問われている時期なのですが、守るものは、やはり利権なのです。国は国民を守るために存在している筈なのに、何故か、守られるのは利権集団です。それでも、国民は何も感じていません。
これは、もう、「お上」が悪いのではなく、民が愚かなのです。自分の愚かさにも気付かない究極の愚者なのです。どこにも、救いは見当たりません。
こんな方法で、財政再建が成功するとは思えません。
このやり方で成功した国はどこにもありません。
必ず失敗します。
失敗すれば、国民がその責任を取らされるのです。
そのことすら、国民は知りません。
どこまで愚かなのでしょう。底が見えません。
今日現在では、日本は財政破綻をしないという解説が圧倒的に多く、財政破綻の危険を指摘すると、仕事を失いますので、職業評論家は口にしません。国民は、そんな風潮に安心しています。しかし、この根拠のない安心感は前提条件が隠されていることによるものです。その前提条件というのは、評価期間の事です。
「当面、財政破綻はありません」という解説が正しい表現です。
この「当面」が曲者なのです。
当面って、いつまでなんですか。
永田町では「近い将来」と「近いうち」で騒いでいますが、この曖昧さが日本文化なのでしょう。文化でさえ我々に牙をむいていると感じませんか。
5年後には、財政破綻をしないという表現が今よりも弱いものになり、10年後には、破綻の可能性もないわけではないという表現に変わり、15年後には、破綻は不可避だと言われるようになります。こんなこと、今の時点で、わかっているだけではなく、既に20年前からわかっている事なのです。
日本は、決められた場所に向かって、着実に一歩一歩前進しています。
たかが一歩ですが、されど一歩です。
この先も、国債の暴落から一時的に逃れるために、次から次へと国民負担は増えます。
今回の増税は、5%以上の力があります。それは、エンドレスループに入る一歩目だったことです。もう、この後は一本道になりました。財務省では祝杯が挙げられたと思います。道は開かれたので、あのK氏も退任するようです。
前回、山口県民の話を書きましたが、愚かな彼等にこのカラクリが理解できるとは、とても考えられません。
すみません。
山口県民を馬鹿の代名詞みたいに書いていますが、これはイメージです。個々の方を誹謗するつもりは全くありません。特に、このブログを読んでくれている山口県民のあなた、あなたのことではありませんので聞き流してください。
この国では、山口県民が日本人なのであり、石田のような人間は日本人失格です。
ま、諦めるしか方法はありません。
そうは言っても、私は日本も日本人も好きなんですよね。困ったものです。

このままでは、ただの嘆き節になってしまいますので、解決方法も探ってみましょう。
ただし、小さな針の穴に、太いロープを通すような無茶な方法です。
そこは、ひとつ、大目に見てやってください。
夢を見てみましょう。
「れば」「たら」を山ほど書きますが、そこもお許しください。

最初に一番難しいことを提案しておきます。
国民に頼らずに、政治家が、本来の政治家になればいいのです。
夢のような話ですが、そうなれば、どんなに嬉しいことでしょう。
何度も書きますが、この国の窮状を救うことが出来るとしたら、政治家に期待するしかありません。このことは、政治家が政治家になれば、日本が変わる可能性を持っていることにもなるのですが、現実的には夢物語です。なぜなら、国民が責任を自覚する国民になることはないと思うからです。そんな無責任な国民に選出される政治家が本来の政治家としての使命を果たしてくれるとは考えられないからです。でも、夢ですから。
再び、利権の指定席に戻りたいだけの自民党に、国民は一票を投じるのです。自民党と民主党がすでに共犯関係にあることにも、国民は気がつかない。自民党が何も変わっていないだけではなく、国民も変わっていません。実に、恐ろしい事ですが、これが現実です。日本人は、心の奥底で地獄を待っているのでしょうか。悲惨な毎日を嘆くことが、日本人の美学だとすれば、石田は日本人失格です。
それでも、敢えて、夢を見てみましょう。
たとえ、国民が何もしないとしても、この国を生き返らせる英雄のような政治家の出現を願いましょう。
これは、あくまでも、夢ですから、どうかご理解ください。

次に、この国に求められているのは、革命です。
本当は、国民の総意で現状打破をすることが望ましいのですが、山口県民を見る限り、その可能性はありません。彼等は、民主主義そのものを理解していません。ですから、国民に責任があることも知りません。封建時代のように長いものに巻かれていれば、いつかは嵐が通り過ぎると信じています。教育は普及していますので、彼等は読み書きが出来ない訳ではありません。でも、自分の頭で物事を考える能力はありません。民主主義は、彼等にとって絵にかいた餅と同じなのです。
従って、仮に、革命に成功し、この窮地から脱することが出来たとしても、国民が変わらないのですから、その新しいシステムの賞味期限は長くても30年だと思います。この国に、民主主義が根付くことはありません。それは、何度も指摘したように国民の意識が低いからです。このことは、官僚独裁政治からの脱皮ができないことを意味します。それでも、なんとか「崩壊との遭遇」で書いたような状態にならないように努力はしなければならないのです。それは、「先延ばしだろう」と言われれば、その通りです。2000年の時間を使って形成した民族性ですから、新しい民族性を手に入れるにも2000年の歳月が必要になります。2000年間先延ばしが出来れば、新しい日本になることも可能です。
何もしないよりは、少しは気が晴れるかもしれません。

ここで、簡単に革命の定義をしてみます。
一般的な見方では、革命というのは、それまでの価値を「物理的に壊して」、新しい価値を作ることではないでしょうか。
この「物理的に壊して」という部分が革命の本質だと思います。現状を打開する方法がある間は、革命は必要ありません。壊す以外に方法がなくなった時に革命が必要とされるのです。
過去、この「物理的に壊して」のために武力が使われました。でも、この先、武力革命が起こる可能性は極めて低いと思います。特に、先進国と呼ばれる国ではゼロだと思います。それは、次世代イデオロギーが出現する可能性がないからです。
しかし、革命そのものではなくても、革命的手法で現状を変える必要は、どの国にもあると考えられます。その最先端を走っているのが、日本だと思います。
武力を使わない革命。新しいイデオロギーを必要としない革命。つまり、革命であって革命ではない革命を、仮にプチ革命と呼ぶことにします。
プチ革命では、現体制を全て破壊するのではなく、部分的に破壊し、作り変えることになります。これは、改善や改革とは次元の違うものだと考えてください。改善や改革では、現状追認が前提になりますので、「物理的に壊して」という方法が採用されません。

「物理的に壊して」を実現するためには強制力が必要です。
武力以外に強制力のあるものは法律です。
法律を作れるのは国会議員しかいません。
ですから。
新しい政治集団が現れて、政権を取り、プチ革命をすることで、日本の向かう方向を変えることが可能になります。
ここでは、時間的に間に合うかどうかは考えないことにします。
日本の場合、プチ革命をしてでも変えなければならない部分は官僚政治体制であり、その結果増殖した利権集団です。これを放置すれば、日本は潰れます。
こんな書き方をすると、まるで明日にでも実現可能なように思えますが、これは、机上の空論に過ぎません。方法としては、これ以外の方法はないと思いますが、実現の可能性はありません。
その最大の理由は、現体制でも新体制でも、国債の暴落を阻止する方法がないことです。現体制でも15年で崩壊が始まりますが、新体制になれば、新たな混乱が生じ、5年以内に崩壊が始まるかもしれません。
詳しい数字は知りませんが、日本国債の国外保有率は、8.5%を越えたという記事を見ました。単純計算をすれば85兆円になります。この金額は国家予算の一年分です。少し古い数字ですが、日本の年間の国債発行額は170兆円です。もしも、国外の債権者が日本国債を売った場合、国内の購入者は250兆円の買い支えをしなければなりません。実に国家予算の3倍の規模の資金が必要になります。しかも、これは国債の格付けが現状のままでなくてはなりません。もし、格下げになった場合、購入する金融機関は激減すると思われます。今回の増税は、この格下げを回避する目的で行われました。格下げになった場合、従来通りの金額を購入してくれるのは、ゆうちょ銀行しかなくなるかもしれません。
背に腹は代えられないという理由で日銀の直接購入が始まるものと思われます。ここからは、坂道を転げ落ちる雪だるまになります。あとは、時間の問題でクラッシュを待つことしかできません。
国債暴落を阻止する手段さえあれば、危機を乗り越えることが出来るかもしれません。
しかし、多分、誰もその手段を持っていないと思います。
世界中の国が、その解決策がなくて四苦八苦している状態ですから、日本の政治家にそんな手段が見つかるとは考えられません。でも、これは夢ですから。
プチ革命そのものは、それほど難しいものではないと思います。政治家が、腹を決めてプチ革命を行えば、官僚は普通の公務員として仕事をします。彼等だって化け物ではありません。中央官庁の役人を山口県民と同じだと考えてはいけません。彼等は、最後まで抵抗して、貧乏籤を引くような馬鹿ではありません。
このプチ革命は産業界では常識になっています。企業は肥大化した業務を切り捨て、成長が見込める分野に特化することで生き残りを図りました。また、大胆なリストラもやりました。その手法で生き残った企業は沢山あります。切り捨てることも破壊の一部です。
国家運営は別だという発想は、症状が軽い時には言えるかもしれませんが、日本のような重症国家には当てはまりません。
それでも。
たとえ、プチ革命が成功したとしても。
国債暴落が始まれば、一巻の終わりです。
でも、夢を見るのは自由です。

せめて、10年前にプチ革命が行われていれば、利権の解体による財政再建で国債の暴落は防げたかもしれません。
時の流れは、国民負担の増大という流れになりました。国政選挙ではありませんでしたが、その流れを決定づけたのは、あの山口県民の愚行です。あの知事選で自民党候補が敗北していれば、この流れは変わっていたかもしれません。
歴史は、こういう動き方をするものです。
山口県という場所は、歴史を動かす宿命みたいなものを持っているのでしょうか。

石田の文章を見てもらえばわかる事ですが、「れば」「たら」の大安売りです。
「れば」「たら」の上に作ったものを、砂上の楼閣と呼びます。
石田の提案も、この砂上の楼閣です。砂よりも脆い「れば」「たら」という土台の上に作られた幻影みたいなものです。
何を言っても繰り事にしかならない状況は、時代が破滅へと向かっている証明です。
この先、「れば」「たら」がもっと増えることになります。
こんな対策では希望は持てなかったかもしれません。
現実は、いつでも、それほど甘いものではないということです。

庶民の生活は、この先10年間で、もっともっと、ひどいものになります。このブログを読んでくれているあなたにも貧困が忍び寄ってくるでしょう。社会も荒れ放題になります。誰もが自分のことで精一杯です。10年後には、10年前の2012年が過ぎ去りし良き日々として想いだされるでしょう。今日、問題になっている自殺やいじめや餓死や孤独死などは、10年後には些細な問題でしかありません。今日の貧困と、10年後の貧困とでは質が違います。それでも、まだ地獄ではありません。本物の地獄は、その後にやってきます。

北方四島、竹島、尖閣。
領土問題が、ざわざわとしていますが、この国は何も出来ません。
「民主党外交の失敗」と言われていますが、そうなんでしょうか。
これらのことは、国内問題とは別のものなのでしょうか。
いいえ、そうではありません。
領土問題も国内問題も根っ子は同じです。
この国の基本的な問題点は、何度も書きました。
石田は学者ではありません。論文にはなっていませんので、散文の中から読み取っていただく必要がありますが、その項目だけを次に挙げておきます。
この国には、国とは何か、国民とは何かという定義がありません。
先送りすることが政策だと思い込んで、何もしてきませんでした。
性善説と曖昧文化が、世界共通の文化だと考えています。
国民が、自分の身近の生活以外は他人事だと信じているために、国や他の住民に対する責任を自分が負っていることに気付いていません。
国民は、「お上」への依存心や信仰心が根強く、従順で我慢強く愚かです。
日本人は、問題と向き合うことより、逃げる方が好きです。
島国というハンデキャップはありますが、日本人は視野が狭く、将来を見る習慣がありません。もちろん、世界を見る目も、劣っています。
ここに挙げた事項を見ていただくとわかると思いますが、ほぼ、日本人という民族性に起因するものばかりです。
石田は、何度も、日本人は絶滅する運命にあると書きました。それは、これらの民族的な特質が明日から突然変わるということは起きないからです。世界中の人達が日本人のようになってくれれば、世界はもっと穏やかなものになるかもしれません。現実にそれを夢見る人達もいます。でも、そんなことは起きません。もし、生き延びようとするならば、日本人の方から世界標準に近づくしかないのです。
今年は、敗戦から67年過ぎたようです。
一時的には、経済の繁栄を体験しましたが、日本が潰れてしまえば、それは何の意味もありません。大勢の日本人が、働き蜂と揶揄されながらも頑張った時間は役に立ったのでしょうか。いいえ、このまま潰れてしまえば、この67年間、無駄な時間を費やしてしまったという無残な結果しか残りません。
日本人は頑張り屋さんですから、60年もの時間があれば、世界に近づく努力は出来たのではないかと思います。何もしなかった事に関して、問題提起がされません。
67年前、いえ50年前、いえいえ40年前、それでも駄目なら30年前に、この現実を見つめた日本人はいなかったのでしょうか。そんなことは、ありません。100年前にでも、日本のあり方に警告を発していた人はいた筈です。しかし、誰一人、その警告に耳を傾けた人はいなかったのです。
これは、やはり、運命なのだと思わざるを得ません。
以前にも書きましたが、ブログを書き始めの頃、石田は預言だと断って未来を書きました。動物的な直感でしかありませんが、この国が壊れる様子を見てしまったのです。裏付け捜査をしていくと、それが、どうやら夢ではないことに気付きました。こんな予兆を感じた人間は私だけではないと思います。太古の昔から、村には預言者の一人くらいいたものです。多くの方が危険を察知している筈です。でも、そんな原始的なことが取り上げられることはありません。卑弥呼の時代であれば、預言者が歴史を作ったこともあったかもしれませんが、現代の預言者は、ただの半端者に過ぎません。
そろそろ、終末が近づいてきています。
逃げて、逃げて、逃げて、それでも、まだ、逃げますか。

大津市の教育長が大学生に襲われて怪我をしたというニュースがあります。
大津市長は「暴力は許せません」と言っていました。一方、2chでは「よくやった」と盛り上がっています。両方とも、何か忘れていませんか。これでは、市長も2chの住人も同じ穴の貉です。あの大学生は一生を棒に振りました。彼も、この腐りきった社会の犠牲者です。このままでは、恐ろしい事ですが、2chの反応が市民に受け入れられる日がやってきます。2chが堂々と市民権を得られる社会が、望ましい社会なのでしょうか。そんなことになれば、2chの住民でさえ居心地が悪くなるような気がします。
この壊れている社会を、正面から見る人はいないのでしょうか。
本気で襟を正さなければならないのは、私達大人です。どうして、他人事にしてしまうのでしょうか。
病状は大変悪くなっています。
そろそろ、苦い薬を飲む時期ではありませんか。
そろそろ、真面目に取り組む時ではないのですか。
そろそろ、本気になってみませんか。


2012-08-17



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記事紹介 11 [記事紹介]



8/2付 ダイヤモンド・オンラインの記事を紹介します。
筆者は、岸 博幸 氏 [慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授]
表題は クリエイティブ国富論


 野田政権の成長戦略である「日本再生戦略」が7月31日に閣議決定されました。オリンピックの報道がメディアの大半を占める中で酷評は免れていますが、その出来の悪さは半端ではありません。同時に、この成長戦略は今の政府の2つの深刻な問題点を如実に示しているのではないでしょうか。それは政治の官僚依存の深刻化と、官僚の質の深刻なまでの低下です。

官僚依存の深刻化

 まず官僚依存の深刻化という点について見てみましょう。「日本再生戦略」をしっかりと読み込んでみますと、政権の官僚依存がここまでひどくなったのかと思わざるを得ない点があまりに多く発見できます。
 例えば、マクロ政策の最優先課題であるデフレ脱却に関しては、デフレの原因について「需給ギャップの存在、企業や消費者の成長期待の低下、デフレ予想の固定化といった要因がある」と記述するのみで、デフレの主因である日銀の金融緩和不足には何も言及されていません。
 その延長で、デフレ脱却に向けた政府の対応でも、肝心の金融緩和については“日銀は頑張っています、政府も日銀の頑張りを期待します”という趣旨の代わり映えしない表現のみで、あとはどうでもいいことばかりが延々と記述されています。日銀の金融緩和が欧米と比べて全然不十分であることを考えると、これでは、政府の美辞麗句とは裏腹にデフレ脱却は望めません。
 なぜこのようなインパクトのない中身になってしまうかと言うと、「日本再生戦略」の内容の調整を官僚に丸投げし、政治の側がしっかりとチェックしなかったからに他なりません。関係省庁間での文言調整の結果を政治が丸呑みしているから、おそらく日銀の意向でデフレの原因に金融緩和不足が入らず、具体策でも現状の金融政策の是認で終わってしまったとしか考えられません。
 この官僚丸投げの弊害は、個別分野の成長戦略にも明確に現れています。政策内容が異常なまでにアンバランスなのです。
 例えば、重点分野の「ライフ成長戦略」を見ると、“医療・介護・健康関連産業を真に日本の成長産業とする”と啖呵を切ってはいるのですが、そのための具体策を見ると、これまで規制改革会議や経済財政諮問会議などで何度となく指摘されてきた医療や福祉の規制改革の具体策は皆無です。“関連する規制・制度改革を進める”という抽象的な一言があるだけです。
 その一方で、厚労省の関与や予算の増大につながる政策についてはやたらと具体的な記述が多くなっています。挙げ句には、“独立行政法人(医薬品医療機器総合機構)の要員の増員や財政基盤の在り方の検討を行う”という焼け太り、官の肥大化につながる表現まで出てきます。
 要は、中身の調整を官僚に丸投げして政治がしっかりとチェック/修正をしなかった結果、「日本再生戦略」の中身は官僚がやりたい政策、財務省に対する予算要求の根拠となる表現の羅列となってしまったのです。その意味では、この戦略は、日本の再生の主役となるべき民間に対するメッセージというよりも、霞ヶ関内部での自己満足ばかりという内向きなメッセージばかりという、霞ヶ関文学の集大成とも言えます。
 その証拠に、「日本再生戦略」は全体で125ページという異常なまでの大部、世の人に読んでもらうことを前提としたものとなっていません。本文が67ページで別添の工程表が58ページもあり、明らかに各省庁がやりたいけど本文に入れられなかった個別の政策をすべて工程表に押し込んだのは明白です。
 手前味噌になりますが、私は、小泉政権時の経済財政諮問会議の運営に携わっているとき、毎年の“骨太の方針”は極力分量を少なくし、できれば20ページくらいに収めることを心がけてきました。理由は簡単で、大部なものをすべて読んでくれるほど民間の人はヒマではないからです。
 政治の意思があれば簡単に実現できるそうした当たり前のことさえも行わないくらい、政治の官僚依存が深刻化しているのです。

官僚の質の低下

 もう1つの問題である官僚の質の低下も深刻です。これは例えば2つの点から明らかです。
 まず、今回の「日本再生戦略」では、グリーン(エネルギー・環境)、ライフ(健康)、農林漁業(6次産業化)の3つが重点分野とされています。
 グリーンとライフは直感的に成長分野に該当すると思えますが、農林漁業はどうでしょうか。がんじがらめの規制によりこれまで産業としてのポテンシャルを発揮できていないのは事実ですが、それでも農林漁業が日本を引っ張る成長産業として、例えばIT分野よりも優先度が高いとは断言できません。
 それにも拘らず農林漁業が重点3分野の一角を占め、ITよりも優先されているのは、おそらく政治の側の意向が働いたからなのでしょう。間違った政治判断だけはしっかりと行われているのです。
 問題は、そうした間違った政治判断があった場合でも、その理由をいかにももっともらしく説明するのが官僚の仕事なのに、それが全然できていないということです。
 実際、「日本再生戦略」では、グリーン、ライフ、農林漁業の3つが重点分野に選ばれた理由について“暮らしの向上や経済・地域の活性化等に結び付き、その速やかな実施が特に求められる”という抽象的な記述しかなく、それを超える説得的な理由は何も示されていません。
 次に、「日本再生戦略」では“480万人以上の雇用を産み出す”という数値目標を設定していますが、この数字の具体的な詳細は何も示されていません。
 この数字は、重点産業の将来の市場規模をもとに機械的に計算したものと思われますが、おそらく産出量と雇用の間の相関関係を示すオークンの法則がベースになっていると思われます。
 しかし、IT・デジタルがビジネスプロセスのみならず製造工程までも効率化する中で、企業の成功や産業の規模拡大がリニアに雇用拡大に結びつかなくなっている、つまりオークンの法則が成立しにくくなっていることを考えると、“480万人以上の雇用”という具体的な数字を出すなら、それがオークンの法則的なアプローチをベースにしたものなのか、具体的な根拠を明確に示すのは不可欠なはずです。
 そうした点も「日本再生戦略」の中でまったく示されていないようでは、官庁エコノミストを自認する内閣府の官僚もその程度かと言わざるを得ません。

「日本再生戦略」が示す教訓をどう活かすか

 このように「日本再生戦略」は、政治の官僚依存はひどくなる一方なのに、その官僚の質が激しく低下しているという政府の深刻な状況を示しています。この状況を少しでも改善するにはどうすればいいのでしょうか。
 個人的には、早く衆院総選挙が行われ、その結果として実現するのが自民・民主・公明の大連立政権であっても、政府の無能を厳しく追求するしっかりとした野党が産まれることが不可欠だと思います。
 逆に言えば、過去3年間の自民党は野党として失格だったのです。その自民党が与党に復帰して政治の官僚依存が更にひどくなることを前提に、それに対抗できる体制を構築することが必要です。



余談です。
紹介記事は、官僚のやりたい放題を、そして官僚がわが世の春を謳歌している実情を少しだけ見せてくれています。今や、官僚の主目的は、税金食い尽し競技に参加し、いかに多くの税金を食うかになっているようです。オリンピックや国体ではありませんので、競い合うようなことではないと思いますが、現実はそうなっています。
これでは、日本の財政が破綻するのも無理ありません。すでに、この状態が何十年も続いています。よく、今日まで生き残れたものだと感心します。
税金だけではなく、1500兆円もの国民資産も食い潰したわけですから、もう満腹になっていてもいいようなものですが、強欲豚と呼ぶにふさわしい、底なしの食欲です。
あなたの預金通帳に、残高があるとしても、安心しないでください。それは、紙に印字された、ただの数字になるのです。
あなたの税金も資産も豚共の胃袋の中で消化中です。
「豚さん。もうこれ以上食べないでください」
「ブー、ブー」
「豚さん。お願いですから、食べたものを返してください」
「ブー、ブー」
豚さんは、今日も明日も食べ続けるのでした。
もしも、ご自分の資産が惜しいのであれば、豚を殺し、腹を裂き、未だ未消化の資産を取り戻すしか方法はないのです。時間が経てば、消化されて排泄物になるだけです。
その最大の要因は政治が官僚組織の下部組織になったことによりますが、この現状を変えることは至難の技になります。そもそも、政治家が官僚の小間使いになり下がっていることに気付いている人は、ごく僅かです。
このブログを読んで下さる方の多くは、この国の現状に危惧を抱き、この国の将来を心配している方々だと思っています。そんな皆さんでも、諸悪の根源が官僚政治にあるという石田の主張に対しては半信半疑だろうと推測しています。まして、世間一般の人は官僚が悪いなどとは夢にも思っていません。悪いのは政治家だと思っています。従って、政治家を取り変えても日本が変わらないのは、なぜなのか、という発想も生まれません。これでは、いつまでたっても、日本が変わることはありません。危険信号は至る所で点滅していますので、不安感や焦燥感はありますが、何が原因なのかがわからないのですから、その不安感や焦燥感が消えることはありません。
一言で官僚と言うと誤解が生じますので、その全体像を書いてみます。
石田が言う官僚や官僚政治という時の官僚とは、官僚を頂点とする官僚組という日本最大の広域暴力団だと考えてください。山口組などは足元にも及びません。
親分が官僚で、若頭が政治家です。官僚組という暴力団は全国に傘下団体を持っています。彼等は一般的な呼称では公務員と呼ばれる暴力団構成員です。県や市の職員も含まれます。少し毛色が変わった構成員としては、日教組傘下の教員がいます。暴力団組員が全員「刺青」をしているわけではありませんが、中にはそういう組員もいるようです。でも、外見は一般人と変わりがなく、いかにも暴力団という人達はほんの少ししかいませんので、社会に完全に溶け込んでいます。それだけではなく、コバンザメのように官僚組に媚を売る準構成員という利権集団もいます。
約70年という歳月を使って緻密に作られた組織ですから、一般人には区別がつきませんし、隣の住人が暴力団であっても気付きません。親分が人前に出てくることもありません。
暴力団の収入は「しのぎ」と呼ばれます。官僚組の「しのぎ」の大半は国民から「みかじめ料」として集めた税金と呼ばれる収入です。国民の何倍もの収入を得ている大勢の組員を養っていかなくてはなりませんので、増収の方法は常に考えています。問題は人口の減少や少子高齢化、そして景気の低迷によって「みかじめ料」が相対的に減少している事です。暴力団の論理は一般人と少し違います。絞りとれるなら、最後の最後まで、絞りとることに、躊躇をしません。それが、暴力団のやり方なのです。国家運営にその論理を持ち込めば、国が疲弊し衰退していくことになるのです。
国民が、この実態に気付かなければ、この国の衰退は止めることができません。
しかし、私達日本人には、それができません。
なぜ、なのでしょう。

現実を知るために、最近の例を見てみましょう。
先日、山口県の知事選挙が行われ、自民と公明が推薦する候補者が勝利しました。
現知事が禅譲を宣言し、県庁職員とOBが一致団結して選挙戦に臨みました。自民党と公明党の県内の支部が総力を上げ、ここでも県職員のOBが助っ人に参加したそうです。
どこの地方選挙を見ても、同じ構図があります。なぜ、県庁職員という公務員がここまで熱心に選挙運動をするのか。そこには、当然、既得権益があると考えなくてはなりません。大阪市でも同じ状況があり、橋下市長は公務員が選挙活動をできないようにする条例を作ったほどです。そんな中、山口県民は、公務員が既得権益を守ることに対し、投票行動を通じて積極的に同意しました。これって、どう考えてもおかしいでしょう。これは、山口県民の意識の低さが露呈した選挙でもあります。
新知事は国交省のOBの方で、前回の衆議院選挙では、山口県でただ一人落選した候補者でした。福井県知事も官僚出身ですが、知事に官僚出身者が多いことも、この国を食い物にしている集団が存在していることを証明しています。
今日は、これらの利権集団ではなく、山口県民に焦点を当ててみたいと思います。
さて、対立候補の方は、選挙戦に出遅れたと弁明していますが、敗北は出遅れの問題ではありません。土地柄の問題なのです。山口県には衆議院小選挙区が4区ありますが、3人は自民党議員だそうです。いわゆる、保守王国と呼ばれる土地柄です。3年前の選挙で、勝率75%は驚異的な数字です。国民は、福島原発事故を体験し、その事故が収束していないことも知っていますし、大飯原発再稼働問題では、毎週数万人の人達が官邸を囲んでデモをしています。今日から原発をゼロにしろと言っている人は少ないでしょうが、ある程度の期間(例えば、20年)を設定した場合、国民の大半は反原発にあると思われます。しかし、山口県民は、その反原発候補を選びませんでした。念のために言えば、山口県の隣は広島県です。原子爆弾で数十万人の犠牲を出し、放射能被害で苦しんでいる県がすぐ近くにあるのです。それなのに、まるで、他人事のようです。その意識の低さは驚異的だと感じます。
もちろん、知事の仕事は原発問題だけではありませんので、そのことだけが問題とは言いません。でも、少し違和感はあります。1位と2位の候補者を見た時、どちらが当選しても大差はないと思われるからです。それでも、自民党推薦の候補者が勝利しました。
山口県民に代表されるように、日本人の根底には、変化を好まないという民族性が流れ続けているようです。その保守感覚の上に胡坐をかいて、日本を苦境の淵に立たせたのが自民党という政党なのに、それでも、山口県民は昔と何も変わっていない自民党を選択しています。こういう意識の低い人達が日本中に大勢いるのです。「なあなあ」や「まあまあ」という生ぬるい曖昧文化の中に安住している間に、国民が日々貧しくなっている現実にも目を向けません。明日は我が身という想像力も働きません。「それでも、我々は生きてきた」という自負があるのかもしれません。でも、この先も、そうなのでしょうか。神様でもそんなことは保証してくれません。どこを見ても、利権です。その利権の原資になっているのは国民から徴収した税金です。「もっと利権を」「もっと、もっと、もっと利権を」という声に応えたのが消費税増税法案です。この国は狂っています。それでも、国民は増税法案に賛成している自民党に一票を投じます。愚かとしか言えません。山口県民の方が、どうして、自分の首を絞めるのか、私には理解できません。
変化を好まず、我慢することに慣れている民族性は、国が発展している時には何の問題もありませんが、国が衰えていく時にはボディブローのようにダメージを与えることになります。いわゆる、ジリ貧という状態です。このような民族性を世界はストイックだと感じて、驚きの視線を向けます。確かに他の民族とは少し違います。でも、ストイックであることが負の方向へ影響するのであれば、手放しで喜べることではありません。
今は、どうなっているか知りませんが、昔、山口県の県庁所在地である山口駅には急行列車が停まりませんでした。鉄道が新設された当時の人達は、列車が停まれば山口の富が奪われると本気で考えたのです。山口県民は変化を受け入れませんでした。明治維新の立役者になった長州のイメージと随分違うので驚いた記憶があります。でも、今考えると、変化を好まない県民性の方が本来の山口県民なのではないかと思います。幕末の長州藩はいじめにあって、追いつめられていました。あれは、窮鼠が猫を噛んだのだと考えれば理解できます。幕末当時の大勢の長州人ははらはらしていたのではないでしょうか。

日本を衰退に追い込んだ張本人の自民党の推薦でも、選挙で勝てるという、この現実に着目してください。自民党に一票を投じる根拠は、どこにあるのでしょう。
これほど無責任な国民が、この国の主権者なのです。救い難いほどの愚か者の集まりです。今、永田町では政局で盛り上がっていますが、何も変わっていない自民党でも選挙をすれば勝てると考えています。舐められていると思いませんか。馬鹿にされていると感じませんか。官僚や政治家が直接殺した訳ではありませんが、3万人の自殺者も、餓死した人達も、孤独死をした人も、いじめで自殺した子供も、こんな社会にしてしまった私達が殺したようなものです。山口県民のような愚かな国民が相手ですから、自民党がそんな予測をしたとしても不思議ではありません。
これは、国民が変わらなければ国は変わらないという具体的な例です。
悲しいと思わないのですか。
悲しまないことすら、平気なのですか。
誰もかれも「自分さえよければ」なのです。
これが、私達の現実なのです。

山口県を例にしたのであって、山口県民の皆さんだけを批判しているのではありません。これは、日本人の民族性なのだと思います。既存政党の政党支持率を見ても、自民党が一番支持されているのですから、山口県民だけのせいではありません。

どう考えても。
今、必要とされていることは現状の認識と打破です。
しかし、山口県民の行動を見る限り、通常の手段では何も出来ないようです。
もはや革命という手段を使わねばならない状況にあることを、彼等が証明してくれました。
ところが。
日本人には革命が似合いません。なぜなら、革命とは変化そのものだからです。
何も変わりません。
残念ですが、ジリ貧は続きます。
どこまでも。
そして、官僚支配も終わることはないでしょう。

「革命」などという刺激的な言葉を出しますと、「何か他に方法はあるだろう」と言う方が大勢います。いや、大半の人はそう言うでしょう。では、その「他の方法」って何ですかと問えば、誰一人答えは持っていません。これは、逃げ口上の定番なのです。何とか、自分に被害が及ばずに、穏便に解決してもらいたい。それまでは、逃げたい。
ともかく、逃げたいのです。
民主主義という社会システムでは、一番大きな責任を負っているのが国民です。
このことを承知の上で逃げているのであれば、何も問題はありません。
でも、最終責任を取らされた国民は、きっと泣き言を言うのでしょう。
国民の皆さん、あなたは被害者ではありません。あなたは加害者なのです。
国民の皆さん、あなたには果たすべき責任があったのです。
さあ、どこまで、逃げ切れるのでしょう。
逃げるというDNAしか刷り込まれなかった過去の歴史の重さは半端ではありません。
でも、今回の危機だけは。
逃げ切れません。
「崩壊との遭遇」で書いたような状態になっても、山口県民は「お上」の指示に従うものと思われます。それは、それで殉教と呼べるようなものですから、美しさは残せるでしょう。これこそが、大和魂なのだと言われれば、何も言うことはありません。
最初に、「私達日本人には、それができません」と書きましたが、最後にもう一度書いておきます。
山口県民に代表されるような人達に、前を向かせる方法はありません。太陽を使っても、風を使っても、できません。
我慢してしまうからです。
彼等は悪人ではありません。それどころか、とてもいい人ばかりなのだと思います。
きっと、悲しくなるほど、愚かと思えるほど、いい人達なのだと思います。
ですから。
どうすることも出来ません。
怒りよりも悲しさの方が大きいのは、私だけなのでしょうか。
山口県の皆さん。
そして、国民の皆さん。
どうか、その目を覆っている鱗を落としてくれませんか。
これでは、悲しすぎます。

今回は、山口県の皆さんに嫌われたと思います。少し前には福井県の皆さんにも嫌われました。ずっと前には東京都の皆さんに嫌われています。このままですと、全都道府県の皆さんに嫌われることになりそうです。どうか、お許しを。
私は「大人の振る舞い」や「太っ腹」ができません。普通の時であれば、社会を円滑に運営するために、これらの偽善は必要だと思います。でも、レベル9という惨状を知ってしまった者としては、そんな余裕は持てません。それは、偽善を通り越して悪になってしまうからです。どうか、どうか、どうか、お許しください。
石田の意見は極端すぎる、奇を衒っていると感じている方もおられるでしょう。
もう少し、時間をください。10年後には普通に納得していただけると思っています。

前回は原発問題を取り上げました。少しだけ追加します。
政府は国民的議論をすると表明していますが、国民の多くが国民的議論にはなっていないと感じています。本気で国民的というのであれば、どうして国民投票をしないのでしょう。
皆さんが想像している通りです。
国民投票などすれば、利権集団が窮地に立たされるからです。
このことだけを見ても、日本の政治は国民のために行われているのではなく、利権集団のために行われていることが明らかです。そんなことは、誰にでもわかっていることですが、誰も言及しません。皆さん「大人の振る舞い」をしているのです。
福島で行われた意見聴取会で、傍聴者に取り囲まれた細野大臣が「政府は皆さんの声を聞く責任があります」と言っていました。声を聞くという発言は、性善説を利用した詐欺に過ぎません。発言者は、我々の言うことを聞いてくれたのだから、きっと彼等は我々の意見を大事にしてくれる筈だ、と思ってしまいます。声を聞いた側は、声を聞くとは言ったが、その意見を取り入れるとは一言も言っていません、と開き直れます。
国民の皆さん、何度、騙されたら気がつくのですか。
声を聞くぐらいのことは豚でも「どじょう」でもできます。
目を覚ましましょうよ。
「お上」は国民のために政治をしているのではないことに、気付いてください。
福島の人達は、さらなる虚しさを抱える結果になりました。
これを福島だけの問題だと受け取っていていいのでしょうか。
原発事故だけの問題だと思っていていいのでしょうか。
こんな理不尽な扱いを受けても、多くの日本人は変化を好みません。他人事だと思い込み、どこまでも、我慢をしてしまいます。でも、これでは、生物としての生存能力に欠陥があるのではないかという心配すら出てきます。


2012-08-10



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