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記事紹介 10 [記事紹介]



少し古い記事になりますが、JBPRESSの7/21付の記事を紹介します。
表題は「特殊出生率2.04の下條村が教えるいじめ対策」
筆者は川嶋諭氏です


滋賀県大津市の男子中学生自殺事件にからむいじめ問題で、全国で同じようないじめ事件が起きていることが次々と明らかになっている。いじめは大人社会にもあることで非常に身近なだけに、どうしても感情的になり、担当教員や校長、教育長、市長など現場の責任を問う声が強くなるのは致し方ない。

 しかし、それだけでは問題の本質的な改善にはならない。こうしたことが頻発する構造問題を一つひとつ明らかにして手を打っていく必要がある。
 その中で最も重要な点の1つが学校と地域の関係だろう。
 今回いじめ問題を起こした町で記者会見に臨んでいる教育長や校長の姿で違和感を感じるのは、どこか上の空の対応である。
 教育委員会や教員がその地域にしっかり根を張っていれば、恐らくあのような対応は生まれないのではないだろうか。
 昨日、長野県の下條村を訪れた。東京都心から280キロほど、車で約4時間走ったところにある人口4000人の小さな村である。
 村のほとんどが中山間地で目立った産業もないが、日本全国から視察団が絶えない。
 その理由は1992年に村長になった伊藤喜平さんによる村の経営が見事だからである。
 本来なら過疎に悩んでもおかしくないのに、特殊出生率が2.04と日本ナンバーワン。若い人が住み着き人口が増えてきた“不思議な村”なのである。
 その村の経営については後日詳しく書くつもりだが、今回は教育といじめ問題だけを抜き出して下條村をご紹介したい。
 下條村には中学生によるバーチャルな村議会が存在する。村の中学生が集まって議員や議長を選び、村の経営を真剣に議論するのである。
 7月19日にもその村議会が開かれた。このとき、議員の中学生たちから伊藤村長はある種の吊るし上げにあったという。

村の財務データに詳しい中学生、何も知らない教員

「下条村は人口がずっと増えてきたが、ここにきて伸びが止まっている。これまでの対策が限界に達しているのではないか。新しい対策についてどう考えているのか」
 なかなか手厳しい。
 中学生による村議会では村の財務状況や今後の方向性も議論される。伊藤村長は言う。「うちの村の中学生たちは、数字をよく知っとる。どれだけの収入があって、何にいくら使われているか」。
 この中学生による村議会は、もちろん文部科学省による教育カリキュラムの一環ではない。村独自のものだ。
 「中学生に教えとる教師たちは、村の数字なんか全く知らない。関心もないんだろう。だから地域経済のことでは中学生の方がはるかに上だね」
 「教員は何たっていまやただの労働者だもの。ローテーションで配属がころころ変わるし、余計なことまでしようとはしないさ」
 目の前に最高の教育題材があるにもかかわらず、それを使うこともなく教員たちはひたすら文科省からのお仕着せのカリキュラムを教えることに汲々とする。
 全国一律で公平な教育を目指すという意図からすればそれでいいのかも知れないが、ここにこそいじめを誘発する大きな原因の1つが潜んでいないだろうか。構造的に教員と子供たちの距離が遠すぎるのだ。
地方財政に詳しい大和田一紘さんによると、中学校のカリキュラムにも地方財政を教える時間が用意されているそうである。しかし、その授業は存在することだけに意義があるようなものだという。
 「ある町のケースをAとして教えるんですが、抽象的すぎて中学生には分からないでしょう。そもそも教員が内容を正しく理解しているかどうかも怪しい」
 「例えば中学校の教科書には経常収支比率という指標も出てきます。これは家庭におけるエンゲル係数のようなもので、その比率が高くなると財務的に苦しくなると教えているのですが、具体的なケースで教えていかないと頭に入るわけがない」
 「本来なら自分たちの村や町のデータを使って丁寧に教えるべきなのに、教える方も生半可な知識だから具体的な授業をやるとボロが出てしまう」

教育長をわざと欠員にしている下條村

 一方、下條村には一連のいじめ問題で悪役になりつつある教育長と呼ばれる役職自体が存在しない。その理由について伊藤村長は次のように話す。
 「教育長なんているだけムダな存在だからだよ。だって、たいていの場合にはどこかの元校長が就くんだろう。そしたら、現役の校長たちはどうしてもその先輩に遠慮しちゃう」
 「教育長に何か言われたらと思うと、積極的に自分の考えで責任持って行動ができなくなるでしょう。過去の人に昔は良かったいまはダメだなんて言われた日には目も当てられないよ」
 「下條村は、子供たちと直に触れている小中学校の校長たちと村長の私が直接、子供たちの教育については話し合っているんだ。ここ(村役場)の2階で酒を飲みながらさ。腹を割って議論するんだよ」
 屋上屋のような存在はいらないというわけだ。しかし、教育長は置くことが義務づけられているという。そこで下條村では、苦肉の策を考え出した。欠員にしておくというものだ。
 「名前だけの教育長を指名するという手もあるよ。でも、報酬だけで1000万円以上もかかっちゃう。そんなムダなカネがあったらほかに使いたいからね」
 下條村にはメディアを騒がしているような悲惨ないじめはないという。それは、学校と地域が密着しているためである。
 日本の教育の構造問題を真剣に考え直さない限り、対処療法をいかに講じたところで陰湿ないじめはなくならないのではないだろうか。




余談です。
下條村でできることが、なぜ、国にはできないのか。不思議です。
では、国は何をやっているのでしょうか。
中長期的なエネルギー政策の原発依存度を決める一般市民意見聴取会なるものが開かれました。公聴会が、愚かな民を騙す儀式になっていることは、皆さんも御承知の通りです。これは、儀式という名の茶番劇です。ただし、茶番劇とはいえ、「お上」は見事に民を騙し、愚かな民は騙されているのですから、立派に役目は果たしています。
「お上」は従来通り粛々と儀式を執り行いたいと願っていましたが、いつもの儀式とは少し様子が違いました。それは、国民の危機感が過去のものと違っていたからです。
政府は忘れているようですが、あの福島原発事故をレベル7の世界最悪の事故だったと宣言したのは日本政府だったはずです。少なくとも、ここまでの日本政府の対応は、世界最悪の事故に対するものではありませんでした。このエネルギー政策の出発点は、あのレベル7にあるのでしょうか。私には、利権集団の欲しか見えませんが。
エネルギー政策だけではなく、そもそも日本には国としての中長期的な展望は存在していません。そんな中で、エネルギー政策だけに中長期的展望を策定することが、理に適っているとは思えないのです。
でも、ここは、ひとつ「なあなあ」「まあまあ」を受け入れるとしましょう。
私が心配なのは、今時点で持っている国民の危機感がとても脆いもののように感じる事です。節電程度の努力をするつもりはあっても、それ以上の犠牲を受け入れる覚悟はないように見えるからです。原子力発電の依存度を[ 0% ]にする意見への応募が一番多いそうですが、それは心情的なものに過ぎず、[ 0% ]にした時の犠牲を提示されたら、その意見は即座に変わるような頼りないものだと感じるからです。
更に言えば、エネルギー政策の議論は、原子力発電の依存度を議論することではないと思っています。原子力発電を継続したいと考えているのは、電力会社と経産省を中心とする原子力村の人達なのであって、経済的な観点からも安全保障の点でも、とても採用できるような発電手法ではありません。どのくらいの数字になるのかわかりませんが、原子力発電のコストは他の発電コストの何倍もかかるものだと思います。立地自治体への補助金という名の税金もコストですし、先送りしてきた中間貯蔵施設や核廃棄物の最終処分施設もコストになりますし、いつかは廃炉にしなければならないのですから廃炉にも莫大なコストが必要です。その上、事故の補償費を考えなくてはなりません。そこに倍額の利権が上乗せされているとすれば、とても、産業として採算の取れる発電方式とは言えないのです。そして、人間が原子力を制御できると考えていたことが間違いだったと、福島原発事故が証明したのです。
官僚の得意とする、作文によるコスト計算に立脚し、原子力村が利権を貪っていたことも判明しているのです。
エネルギー政策として議論するのであれば、世界の平均的な電気料金よりも安い電力を作るために何をしなければならないのかを議論するべきです。それが日本経済の力になり、国民の生活を安定させることになるからです。その議論をすれば、必然的に原子力発電は採用されなくなります。原子力の依存度が問題なのではありません。
世界一高額な電気料金という汚名を返上するいい機会だと捉えなければなりません。
これこそが、中長期の展望なのではありませんか。
でも、そんな議論をすれば、利権を失って困る人達が大勢いるのです。そして、それらの人達が政策を策定する中心にいるのですから、手の打ちようがありません。この利権構造が、この国の現実であり、これを変えなければ国民の不安感や閉塞感はなくなりません。国民の直感は間違っていないのです。ただ、「お上」の指示に従っていては、その不安感や閉塞感は消えることがない、ということに気付いていないのです。
現在の延長線上に将来の絵を描いても、状況は変わりません。いいえ、状況は悪化するだけです。
さて、その上で儀式という茶番劇を見てみましょう。
儀式の仕込みは、三択の数値です。
[ 0% ]と[ 15% ]と[ 20%~25% ]の数値がどのような根拠に基づいて決められたのか、不明です。ここには、この数値を作った人の思惑が練り込まれているものと思います。
先ず、[ 0% ]と[ 15% ]が一つの数値であるのに対し、[ 20%~25% ]は複数の数値になっています。次に、最大と最小を設定し、その中間の数値を設定したのであれば[ 15% ]は変です。
[ 0% ]と[ 5% ]と[ 10% ]と[ 15% ]と[ 20% ]と[ 25% ]でも別に構わないのではないかと思うのです。無理矢理、三択にする意味はあるのでしょうか。
意見を述べる国民には[ 5% ]と[ 10% ]の選択肢がありません。
[ 20%~25% ]が複数の数値になっているのは、「お上」の自由度を確保する思惑を感じます。批判勢力に対しては20%を前面に出し、実際には25%なんだと利権集団の安心を買うための数値でしょう。
また、中間をとるという意味では[ 15% ]は [ 10% ]でも問題ないと思いますが、より大きな数値が望ましい人達が考えた結果なのだろうと思います。
落とし所は[ 15% ]の可能性が高いので、[ 10% ]の数値を出せなかったのかもしれません。
もう一つ不思議なことがあります。名古屋の聴取会で発言を希望した市民の数です。
[ 0% ]に106人、[ 15% ]に18人、[ 20%~25% ]に37人だったそうです。106人と18人は理解できますが、[ 20%~25% ]に37人は理解できません。これは、明らかに原子力村が動員をかけたとしか思えません。しかも、意見を述べるのは3人づつです。数で判定はできませんので、意見の内容で判定するのであれば、誰が判定するのですか。また、どうやって判定するのでしょう。実に不思議です。聴取会のニュースで盛り上がっている人達がいましたが、馬鹿にされていることには気付いていないようでした。これは、単なるガス抜きが目的であり、儀式に過ぎません。
もう少し、話を進めてみましょう。
実は、原発依存度の議論は、利権から視線を逸らすための道具に過ぎないことにお気づきでしょうか。
過去の手法を参考にしますと、ここで決める数値はほとんど意味を持っていないのです。付則に、それなりの条文を入れておけばいいだけの話です。たとえば、5年後や10年後に、この数値に拘る人がどれほどいるでしょうか。時間が経てば、どのような修正でもすることができるのです。
それだけではなく、このエネルギー政策の策定には、もっと深い伏線があるのです。
災い転じて福となすという言葉があります。利権集団にとっても、福島原発事故は禍でした。しかし、利権集団の優秀な頭脳は、この禍を福に変える下準備をしているものと考えてください。電気料金の決定は、原子力村に所属する電力会社が、同じ原子力村のボスである経産省に認可申請をし、経産省が認可する方式なのですから、この先、電気料金はいくらでも上げることが出来ます。
世界標準の2倍の電気料金に異議を唱える人がいないのですから、3倍になっても4倍になっても問題にする人がいないことになります。そこには原子力発電以上の利権が埋まっていることになります。利権集団にとっては、あの原発事故が千載一遇のチャンスになっていることに気付く必要があります。
また、東京電力の値上げ幅を10%から8%に変更したことで世間は納得していますが、これは立派な値上げです。
原子力の依存度であったり、値上げ幅の圧縮であったり、本来の議論からは離れた所で議論がされているのです。日本の電気料金が、高すぎることは議論から見事に外されています。これは、利権集団の思う壺です。
つまり、私達は、何の意味もない議論をしているのです。いや、させられているのです。
官僚らしいと言えば、実に官僚らしい手法であり、国民が甘いと言えば、これほど甘い国民もいないでしょう。レールを敷かれて、その上を走っていることに気付く人はいないのではないでしょうか。
これは、いつものことだから、と納得していてもいいことなのでしょうか。
なぜ、いつもこんな稚拙なことが繰り返されるのでしょうか。
私は、日本の文化そのものが限界にきているように思っています。
国民が気付き難いのは、権力者が性善説を逆手にとって利用しているからなのです。でも、現実は違います。日本が善き人ばかりの国であれば、この国がここまで酷い状態になっていることを、どう説明すればいいのでしょう。「あいまい文化」はそれなりに価値のあるものですが、その「あいまい」を利用する人間にとっては、これほど都合のいい文化もありません。これは、官僚の作戦勝ちなのです。
多分、日本という国も、日本人という民族も、文化の再構築をしなければならない時期にあるのだと思います。味のない国や民族になってしまうかもしれませんが、私達国民が味のある人間の集まりではなくなったのだと思います。性善説を卒業しなければ、勘違いや「ちぐはぐ」は永遠に続くことになります。
政府の望んでいる長期エネルギー政策を立てれば、それで問題が解決するわけではありません。
本気で問題を解決しようとすると、国も、国民も、その覚悟を問われることになるのです。
国にも国民にも、そんな覚悟はありません。
現状の延長線上のエネルギー政策でも、原発依存度を下げた政策でも、電力会社のあり方を変えなければ何も変わりません。もちろん、電力会社のあり方を変えるためには経産省を変えなければならなくなり、経産省を変えるためには、と延々と続いていき、最終的には、国民が変わらなければなりません。そんな議論をする覚悟、ありませんよね。
でも、まあ、原発依存度だけを変えたとしましょう。
電力会社は独占企業であり、「電力の供給を止めるぞ」と脅しをかける体質を持っていることも判明しています。さらに、その経営は総額原価方式という驚きの利権構造の上に成り立っています。電気料金の半分は利権集団の利益です。ですから、世界一の料金になっているのですが、この世界一高額な電気料金は、このままでは更に高くなります。既に値上げは始まっています。電力会社自体が変わらなければ、電力の需給関係は改善されることはなく、高価で不安定な電力状況にならざるをえません。経済活動のインフラである電力が、高価で不安定だとすると、経済が失速する危険は高まりますし、産業の空洞化も確実に進みます。一般消費者の使用する電気料金も、生活を圧迫するでしょう。これは、国民の雇用や貧困という形で表面化してきます。
利権も守り、経済も守り、国民生活も守る。そんな魔法の手法はどこにもありません。
私達に残されている選択肢は、誰が、どのように痛みを受け入れるのかというものです。
利権集団と経済界と国民という区別をした時、一番弱い立場にいるのは国民です。このまま、ずるずると時間が経過すれば国民が疲弊するだけです。主権者である国民が疲弊するということは、国が疲弊するということです。電力問題一つを取り上げても、現状の延長線上には希望がありません。
求められているのは、覚悟です。
この国を、根底から変えるという覚悟です。
でも、この国も、この国の国民も、覚悟を持つことはないでしょう。
なぜなら、そのような発想はどこにも見当たらないからです。発想すらないものが、現実になることなどありえないのです。
このことに、薄々とでも気付き始めた人はいるようですが、行き着く所まで行くしかないと思っているようです。でも、行き着く所って、どこなんですか。
この国では、政治も、経済も、財政も、政策も、貧困も、いじめも、社会システムも、文化も、あらゆることを変えなければならない時が来ているのです。それは、私達がどれだけ痛みに耐えられるかということなのです。そんな覚悟、誰も持っていません。
私達は、何か問題が起きると、その穴を塞ごうとしたり、見えないようにしたりします。でも、ここまで社会がボロボロになってしまうと、それが問題の解決にならないばかりか、問題を複雑にしてしまい、整合性を取ることができなくなるのです。
この段階になると、もう現状を追認していてはいけないのだと思います。現状追認、これが、最初の落とし穴なのだと思います。既得権益を守ることのどこが悪いんだと自分を納得させ、周囲の人達はその既得権益を正面から批判しません。次は自分の既得権益が危険に晒されるから、触らずにいることが大人の対応だと思って目を瞑るからです。大飯原発再稼働の問題では、そのことが顕著に現れていました。助平根性の醜い争いです。このままで、地方分権などすれば混乱するだけです。どの問題でも、同じ構図になっているのです。
必要なのは、別の視点です。或いは、原点に戻った視点です。たとえば、安価で安定した電力供給をするためには、何をしなければいけないのかを議論すればいいのです。辻褄を合せたり、何かを繕ったりする方法には限界があるのです。その出発点は、国というものの定義であり、国民の定義なのではないでしょうか。本来あるべき姿というものが見えなくなっているのです。現状にしがみつこうとするのは、他に頼るべきものがないからなのではないかと思えます。
「ご立派なことを言ってるけど、そんなこと出来るわけないだろう」と思う方が大半だと思います。その通りです。だから、こんな国になってしまったのです。
国民がそう思っている限り、国民が何もかも他人のせいだと考えている限り、この国が立ち直る可能性はありません。
三人寄れば文殊の知恵という言葉がありますが、あれは正しくありません。無知な人間が、たとえ1億人集まっても、無知は無知です。何も変わりません。原発依存度意見聴取会だけを見ても、そのことを実感させられます。残念ですが、日本史の中には庶民が国を変えたという実績はありません。「そんなこと出来るわけないだろう」は国民の実感です。でも、何にでも初体験はあるものです。先ずは、無知から脱却しなければなりません。
労働組合は、昔、労働者を助ける白馬の騎士だったことがありますが、今は、立派な利権集団に成長しました。連合の会長などは、権力者の風格さえあります。そう考えてみると、社会システムの賞味期限とは、それほど長期間続くものではないということなのでしょう。人間は同じシステムの中で住み続けることができない生き物なのです。そこには、必ず、利権と腐敗と硬直が生まれるからです。一つの社会システムが長期間続くと、権力者達の主要テーマは、「いかにして民から搾取するか」に収斂します。このことは、大昔から、地球上のどこの場所でも、人間社会が歩んできた道です。権力者や利権集団は、文化も宗教も法律も、あらゆるものを利用して貪欲に利益を追求するようになるのです。
私は、いつも不思議でなりません。消費税の問題でもいじめの問題でも原発の問題でも、本質から外れた議論に終始します。そして、隠されている本質を追究していくと、ぶつかるのは利権ばかりなのです。明らかに、誰かの意志が働いているとしか考えられませんが、庶民は無音です。まるで、自分の問題ではないかのようです。
愚かな民と優秀な官僚とでは勝負にならないと言われればそれまでですが、貧乏籤を引くのは民なのです。少しくらい、気付いて欲しいと思います。官僚達に、利用され、馬鹿にされ、笑われていることに気付かなければならないと思います。もっとも、それに気付かないところが民の民たる所以かもしれませんが、それも限度があると思います。
利権の中でぬくぬくと生きている人達には、現状を変える動機はありません。愚かだと言われる私達庶民が変わるしか方法はないのではないでしょうか。もっとも、このブログを読んでくれている人達には、まだ豊かさがあり、現状を変える必要性は感じていないのかもしれません。でも、近々、その豊かさが確実に失われることを知っていただきたいと思っています。
一度、コップの外から見てみれば気がつくのかもしれませんが、コップの中の濁った水に安住していたのでは、何も見えてこないのだと思います。
大津のいじめ事件の加害生徒も被害生徒も、利権社会の犠牲者に過ぎません。そこから派生したネット情報で大騒ぎをするヒステリックな世間の対応は、いつも本質から外れてしまいます。余りにも閉塞感に満ちているために、憂さ晴らしをすることにも正当な理由があると勘違いしてしまうのです。また、それを平然とネット社会の弊害だと決めつけて、一件落着する。結局、問題は何も解決に向かわないのです。問題は、子供達にあるのでもなく、ネットおたくにあるのでもありません。身動きの取れなくなった、この利権社会にあるのです。
紹介記事にありましたように、下條村の運営は利権のためのものではないと思われます。村民のための政治が行われているから、中学生の意識も違うのだと思います。
1000万円の教育長や600万円の教員の利権を守る事と、子供達の命を守ることを比べれば、誰にでもわかることですが、欲に溺れている人達には見えないのです。下條村は、この国にありますし、そこに住んでいる人達も普通の日本人です。村長だって、きっと普通の人だと思います。下條村を見る限り、日本人にでも国民のための政治は出来るのだと思いませんか。高度な政治理論や経済理論が必要なわけではありません。ただ、利権政治をしなければいいだけのことなのではないでしょうか。本当に、村民のことを、子供達のことを考えるだけでいいのではないでしょうか。私は、下條村に行ったことはありませんが、それなりに山の中の村だと感じました。都会から見れば辺鄙な場所なのでしょう。そこでしかまともな政治が行われていないということを、私達は真摯に受け取るべきなのではないでしょうか。
このことに気付くまでは、壊れ続けることになります。気付いて欲しいという願いがある一方で、無理だろうな、と思う確信に近いものがあることも否定しません。
原発依存度に関する市民の意見聴取会という茶番を見ていると、「ああ、この国は、もう駄目なんだ」という感想が最初に浮かぶのです。


2012-07-28



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記事紹介 09 [記事紹介]



7/19付、JBPRESSの記事の後半部分を抜粋して紹介します。
著者は田中正知氏。
「原発事故、大津いじめ事件、波風を立てない組織の大罪」
です。


大津の自殺事件の背後にあるもの
 この原稿を書いている傍らで、テレビが大津の中学生の自殺事件にまつわる報道をしています。筆者にも中学生の孫がいるので、他人事ではなく、心を痛めています。
 報道では中学校や教育委員会がやり玉に挙がっていますが、中学校を原子力発電所、教育委員会を原子力保安院などの取り締まり当局と置き換えてみると、その原因はまさに「国会事故調」の報告書にある通りです。規制する側は教育村の先輩であり、規制される側は後輩です。全く同じ構造であることが分かります。
 これに加えて、教諭という職業には特異性があります。業務内容は、文科省のマニュアルに沿って、4月の入学式から始まり3月の卒業式まで教える相手が入れ替わるだけで、毎年同じことの繰り返しとなります。
 さらに、教諭は就職した翌日から教壇に立ち、教え方には校長でも口を挟めません。身分は保障されていて、生徒のスカートの中を盗み撮りしてもクビになりません。説明会で「子供が死んでいるんだ! 黙祷くらいせんかい!」と父兄が怒声を上げたという背景には、教育村があまりにも世間離れした存在になっているという事実があります。
 今後、本稿で言う【B】のやり方、すなわち仕組みを変え、人を変える対策が打たれると思いますが、そこに加えてほしい改革の1つは、「ようこそ先輩」というテレビ番組にあるように、ラーメン屋の大将から科学研究者まで、世間の風にさらされて頑張ってきた「人生の達人」たちを、20~30%学校の職員室に入れ、価値観の多様化を図ることです。学校は職員室から変わっていくというのが筆者の考えです。

「自分の命が一番大事」と教える教育は正しいのか?

話が前後しましたが、マスコミのいじめ報道では「何があっても自分の命が第一」「命の大切さを子供たちに教えよう」という論調で終始しています。筆者はこれに強い違和感を覚えます。
北朝鮮のような国で生き延びるには正しいのかもしれませんが、民主主義国とは「お互いの人権を守る国」と同義語であると思っております。民主主義国での義務教育の場で第一に大切なのは、「お互いの人権を尊敬しながら集団生活を送る術を訓練すること」にあるのではいでしょうか。
 集団生活を維持する手段として「自治」という手段があり、ある少数の生徒が不都合なことをしていたら、クラス会でそのことを討議し、クラスとしてその生徒たちに制裁を下すことが「自治」の第一歩で、これを教育環境の下で訓練するためのクラス会であり、さらに全体としての生徒会があるわけです。
 目を国外に向けると、状況は一変します。 7月14日のパリ祭は、実はフランス革命記念日です。先進諸国は専制君主から市民の人権を守る、いわゆる市民革命をそれぞれ経験しています。
 途上国を見ると、第2次大戦後にアジア諸国は植民地支配からの独立戦争に勝利し、その後アフリカ諸国が独立戦争に勝利しています。市民革命や独立戦争は、人権回復の戦いでもあるので、これらの戦争に勝利した国では、義務教育の場で、戦死した人たちに感謝することを教えるとともに、人権は一番大事なもので、時には命を懸けても自分たちで守るべきものとして教えられます。
 国際会議や貿易取引の場で、「自分の命が一番大事」と教えられ育った日本代表と、「民族の独立と自分たちの主権は命を懸けて守るべき」と教えられて育った外国代表とでは、互角の交渉は期待できません。最近、日本の地位がズルズル後退しているように感じてなりませんが、この教育の違いから来るものではないことを祈るばかりです。
 世界中でオペラ「蝶々夫人」が好評を得て公演されているのは、プッチーニの音楽が素晴らしいだけでなく、ラストシーンの「名誉のために生けることかなわざりし時は、名誉のために死なん」という銘の入った父の遺品の刀で、1人静かに死んでいくという、蝶々夫人の誇り高い生き方が世界の観客の涙を誘うからだと思います。
 今回の中学生の自殺は、「自分の命が第一」「見て見ぬふりをする」を教える教育体制への抗議であり、命に代えて自分の名誉を守るためのものであったと筆者は感じ取り、ここに心からご冥福を祈ります(合掌)。
 この事件で、今の日本の義務教育の抱えている問題点が顕在化しました。民主主義国として義務教育の目的を「お互いの人権を尊敬しながら集団生活を送る術を訓練すること」において、【B】の道を採って、法律を変え、組織を変え、人を育て教育制度の大変換がなされることを切に願っています。


少しだけ、余談です。
遺族は「二度と、このようなことが起きないように」と主張しています。
定番の言葉ですが、他の言葉が見つからないことも事実です。
いじめによる子供の自殺は、これが初めてなのでしょうか。
いいえ。
何度も、何百回も、何千回も、いえ、何万回も繰り返されています。
どれほどの遺族が、同じ言葉を表明したことでしょう。
何かが、変わったのですか。
何も変わっていませんよね。
死んだ子供は戻ってきません。
それでも、遺族としては、せめて、自分の子供の死が再発防止に役立てば、犬死ではなかったと納得したいのです。
でも、その願いは叶えられたことはありませんでした。
それは、なぜ、なのでしょうか。
大人達が、子供の命より自分の利益を優先したからではないでしょうか。
国家運営の現状を見てください。権力者は、率先して嘘をつき、国民を騙して、国民に痛みを求めています。子供達に「いじめ」をするなとは言えない状態です。
現在の社会システムがボロボロになっていることで、子供達の心は痛めつけられています。しかし、大人達は、その壊れている社会システムにしがみついているのです。
他人や弱者のことよりも、先ず、自分のことが大事です。この「自分さえよければ」という生き方は、利益を多く得ている人達に顕著に現れています。教育委員会という組織そのものの存在意義も疑問視されていますが、その組織がなくなれば利権を失う人がいるので廃止することもできません。職業別の年収ランキングを見れば、学校の教師は上位にランクインしています。誰も、現在の心地よい立場を奪われたくないと思っています。
現状維持が、一番望ましい事なのですから、隠蔽も欺瞞も自分にとっては正当な理由だと納得してしまうのです。一般企業の場合であれば、倒産という現実から逃れることはできませんので、自浄作用は自然に起きます。公務員の場合は、その自浄作用がありません。
遺族が戦っている相手は、公務員なのです。公務員に自浄作用や正義が期待できないのが現実なのです。
「二度と・・・・・」という言葉が、いかに虚しいものなのか。それでも、自分の死んだ子供のために、そして、自分自身のために、その事を言う以外に戦う手段や主張はないのが現実なのです。
国が、社会が、人間の心が壊れているのです。
昔、日本には「恥の文化」というものがありました。
「自分さえよければ」は恥ずかしくて、許されない事なのだという文化を構築しなければいけないのかもしれません。世界環境も社会環境も昔とは全く違いますので、復古することはできません。人間は、新しく構築することでしかシステムを作ることはできないのです。でも、文化の形成には何世紀もの時間が必要になります。
このことは、現在の日本では「自分さえよければ」を追求する人達が時代に乗っている人達なのだということです。高邁な理屈を並べることには何の意味もありません。ひたすら、自分の利益を追求することが生きることになるのです。たとえ、それが人間として悲しいほどの堕落だとしても、現実に逆らっては生きていけないのです。
これって、とても悲しいことだと思いませんか。
私達は、いつから、人間を、やめてしまったのでしょう。


2012-07-19



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記事紹介 08 [記事紹介]



これは、評論ではありません。
石田よりも過激な評論がありましたので紹介します。


いま増税すると、日本はどうなるのか?:堀川直人(国際金融アナリスト) 《 PHP研究所刊『略奪される日本経済』より 》


「増税」という名のナイフで突き刺される日本経済

 気息奄々たる日本経済に、政府・与党はいま、最後のとどめを刺そうとしている。
 殺害に使用する凶器は――増税という名のナイフである。
 最初の一撃は、東日本大震災の復興予算捻出のための増税である。総額は13兆円で、とりあえず復興債を発行して調達し、2013年から行う増税によって25年間かけて償還しようという計画である。増税の中身は、所得税の増税に加え、たばこ税、個人住民税、法人税も上げる。
 それだけではない。第二撃がある。
 それは、「社会保障と税の一体改革」による、消費税の増税だ。これは、消費税をいまの5%から10%に段階的に引き上げるというものだ。2014年に12%引き上げて8%にし2015年にさらに2%引き上げて10%に持っていく。
 大和総研の試算によると、年収500万円の標準世帯(夫婦と子供2人)では、これによって可処分所得が年間約31万円も目減りする。月額平均では2万5833円の減である。
 だが、これだけで済むわけがない。2012(平成24)年度予算で見ても、歳入と歳出の基礎的財政収支(プライマリーバランス=公債発行を除いた収入と、債務に関わる元利払いを除いた支出の収支)は20兆円以上の赤字になっており、新発国債を44兆円も発行する計画になっている。今回の消費税増税による税収増は、約10兆円であり、これだけでは到底足りないのだ。
 しかも民主党政権では、公的年金の一元化と最低保障年金の創設が念願であり、これを実行するとなると、さらに巨額な財源が必要になる。そのため、ナイフによる第三撃、第四撃が用意されており、日本経済は、これでもか、これでもか、という具合に何度も突き刺される。
 具体的には、所得税と相続税の最高税率の引き上げ、証券優遇税制の廃止に加え、新たに消費税を7.1%引き上げ、17.1%にする案が検討されている。
 増税に関しては、経済学にフリードマンの「恒常所得仮説」という定説がある。これは、消費は将来を含め長期的な所得予想によって決まる、というものである。すなわち、政府が増税の動きをするだけで、国民は将来の所得の減少を見込んで財布のひもを締めるから、消費が落ち込み税収が落ちる。実際に増税をすれば、消費はさらに落ち込む、というわけだ。
 かくして、政府が増税をすると税収が落ち込み、落ち込んだ分をカバーしようと、政府はさらに増税を重ねる。このようにして、増税と税収減の悪循環に陥り、経済は奈落の底に落ちていく。
 たとえ将来の増税とはいえ、先に増税という重石を置いておくのは、線路の先に石を置いて電車を走らせるのと、同じようなものなのだ。石があると知っていたら、運転手はスピードを緩めて注意しながら電車を走らせる。知らなければ、いつものスピードで電車を走らせるから、石に乗り上げて脱線する。
 いま、政府がやろうとしていることは、線路の先にいくつもの石を置き、そのことを声高に知らせて注意を促しているようなものなのだ。だが、経済という電車は、スピードを緩めることはできでも、止めることはできない。前方に置き石があるとわかっていれば、急ブレーキをかけるが、止まらずにそのまま走りつづけ、最後は脱線転覆する。
 殺害のシナリオは、かくして完結する。ウタリン抜け首相は、このシナリオを「不退転の決意」で実行しようとしている。しかし、空にはハゲタカが舞っており、惨劇はこれだけでは終わらない。

無知か、未必の故意による殺人か

 この惨劇の動機は何か――。痴情・怨恨の線は薄い。残るは、騙されたとか、無知による犯罪、あるいは未必の故意による殺人であろう。「未必の故意」というのは、死に至るかもしれないことがわかっているのに、あえてその行為を実行して死に至らせることである。 騙されたということは、あり得る。誤った処方箋を与えられ、何も知らずにそれを患者に飲ませ、殺してしまった、という場合である。もう1つは、昔から使われていた処方箋に従って、今回も薬を調合し、患者に飲ませてみたが、その処方箋そのものが誤りであった、という場合である。
 この処方箋は、昔から財政再建というと、必ず出てくる定番メニューである。特に、IMF(国際通貨基金)や世界銀行は、必ずと言っていいほどこの処方をする。極端な緊縮財政をとり、支出を切り詰める一方、増税を行って税収増を図る。昔からの定石どおり、「入るを図って出(いずる)を制する」やり方である。
 薬とは言いながらも、一種の毒薬であり、体力が弱っているときには、かえって体を壊す。健康体であっても、その毒に耐えるのは相当な痛みと苦しみが伴う。しかも、短期間では治らず、体力を回復するまでに、かなりの歳月を要する。ときには、その間に命を失うこともある。
 かつてIMFにこの処方を与えられた発展途上国のなかには、死の寸前まで行ったところもある。ギリシアも今回、同様な処方を突きつけられて、政府も国民も、その薬を飲むべきか飲まざるべきか大激論を繰り広げ、町では暴動が起こったのである。
 事実、IMFは今年の1月末、日本にも注文をつけてきて、「消費税率を10%に引き上げるだけでは、公的債務比率を縮小させるには不十分だ」と、一層の増税を求めてきている。IMFや世界銀行には財務省からも出向しており、IMFのこうした勧告は、財政均衡派の財務省の意向を汲んだものであろうし、財務省にも当然、伝えられているはずである。
 では、なぜ薬ではなく毒を処方するのか――。
 簡単に言えば、「従来の経済学には、この処方以外の財政再建策は書かれていない」ということなのだ。副作用の激しい抗ガン剤でも、公に認められた薬である。これ以外に病気を治す方法はない。この処方で死んでしまったら、「それに耐える体力がなかった。本人が不運だった。お気の毒です。あきらめなさい」ということになる。昔から、偉いお医者さんがよく言うセリフである。
 しかし、この処方については、IMFのなかにも異論があるようだ。チーフエコノミストのオリビエ・ブランチャードがブログで、「財政再建が低成長につながると、国債市場のリスクが高まる」、と多額の債務を抱えた国の急激な緊縮財政に警鐘を鳴らしはじめている。要するに、「この処方箋を採用すると、国債発行残高の多い国は、国債が暴落するかもしれない」と言っているのである。
 このように、IMF内部でも意見が2つに分かれている。しかし、ウタリン抜け内閣は、断固として従来型の処方箋を使おうとしている。顔は丸っこいが、頭の中は意外と頑固で、動脈硬化でも起こす寸前の状態なのだろう。「ウタリン抜け」とは、よく言ったものである。
 従来の結果から見て、この処方箋の薬害については、チーフエコノミストの言うほうに理がある。それでもなお、IMFの処方を採用して、日本経済が死に至ったら、だれが責任を取るのだろうか。すでに警告はなされているのだから、その場合には、無知による犯行と言うより、未必の故意による殺人、と言うべきであろう。

ハゲタカ来襲の予兆

 ハゲタカ軍団はまず、ヨーロッパの空を覆い、ギリシアやポルトガル、スペイン、イタリアなどで国債という餌を襲って、死肉をついばんだ。ついでにユーロも暴落させ、ご馳走をたっぷりと食べた。EUの対応が遅れたので、時間は十分あり、じっくりと中落ちや鶏肋(けいろく)までしゃぶることもできた。その後、中国の空に現れ、おいしいところをつまみ食いして、仲間を呼び集めると、海のかなたに去っていった。
 ハゲタカはいま、日本の上空に姿を現し、旋回をはじめた。数はだんだんと増えてきている。彼らの最後の標的は、日本である。崖の上ではいままさに、未必の故意による殺人が行われようとしている。
 彼らが来襲する予兆はあった――。
 『日本経済新開』の1月29日付電子版に、アメリカのヘッジファンド、へイマン・キャピタル・マネジメントのカイル・バスとのインタビュー記事が掲載された。彼は、アメリカの住宅バブルの崩壊や、EUの債務危機の到来を的中させた、ウォール街の凄腕ファンド・オーナーである。
 インタビューのなかで、彼は、「日本の国債バブルの崩壊が、今後18カ月以内に起きる」と明確に予言し、「詳しいことは話せない」が、自分のファンドは「日本の長期金利の上昇と為替の円安に備えたポジションをすでにとっている」と、答えている。
 ということは、「ギリシアやユーロのほうはすでに十分儲けたので、手じまいをしつつあり、資金はドルに換えて持っている。次は円と日本国債だ。その準備は終わった」と言っているわけである。おそらく彼は、何らかの確実な情報をつかんでいるのだろう。
 それが、IMFの情報なのか、格付け会社による格下げの動きなのか、はっきりとはわからない。しかし、ヨーロッパの危機と同じようなシナリオがどこかでつくられており、その情報をキャッチしているのに違いない。であるなら、それはおそらく、格付けに関する何らかの情報とウォール街の人とカネの動きであろう。なにしろ、EUの債務危機は、彼が最初に予言したのだから……。
 彼はさらに、
 「日本国債の金利が1%上がるだけで、10兆円規模の利払い負担が増え、2%の上昇となれば、日本の財政が持続できなくなり、実質的に破綻する」
 と、不気味な予言をしている。そして――、
 「いまの市場が均衡を保っているのは、きわめて心理的な要素に基づいていると思います。『過去も大丈夫だったから、当面は何とかなるだろう』という心理です。しかし、金利上昇は、ある日突然起きるものです。ギリシアがそうでした。国債入札の札割れといった深刻なイベントが何も起きなかったのに、唐突に金利が上がりはじめ、一気に欧州危機が訪れました。人々の見方は一瞬にして変わります。日本だけが例外でいられる理由はありません」
 こう論じたうえで、彼は、
 「国債市場が崩壊すれば金利が急上昇し、預金をしていた一般の人々が最も大きな損失をこうむります。私ができるアドバイスは、円資産をできるだけ手放したほうがいいということです」
 と言う。
 このアドバイスはおそらく扇動ではなく、本音から出た言葉だろう。一般投資家の資金など、彼らから見たら吹けば飛ぶようなものであり、扇動して動かすほど価値のあるものではない。だから、いまのうちに緊急避難しておくほうが無難だよ、と助言してくれているのだろう。
 ということは、タイミングを見て、彼自身が「円売り・日本売りに出る。とばっちりを食わせるのは気の毒だから、できたら避難しておいてほしいね」と言っているわけだ。
 インタビューの最後で、彼は、「中央銀行のバンカーや国家を信用するな」「自らの力で考え、生き残っていかなければならない時代が来ている」と述べている。これは、自分ひとりの知恵と力で自分と家族の命を守ってきた、ユダヤ系の人々の典型的な考え方である。彼もおそらく、そうした人たちの仲間なのであろう。
 ちょうど同じ頃、ゴールドマン・サックスのジム・オニールも、「今後2~3年で日本とイタリアの国債利回りは、ほぼ同じ水準になる」とするリポートを発表した。日本国債の利回りは1%前後で推移しているが、イタリア国債の利回りは2月初め現在で6%前後である。彼は「日本国債が今後、2~3年で 3.5%まで上昇し、その一方でイタリア国債は徐々に金利を下げ、同じ頃に日本国債の金利と並ぶ」と見ているわけだ。


2012-07-07



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