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若者の意識 [評論]



若者(18~25歳)の意識調査をした記事がありました。

「政治について」
政治に興味がない 56.5%
自分が投票しても政治は変わらない 56.9%
政治家に定年制が必要 63.2%
支持する政党がない 61.2%
日本の未来に期待していない 59.0%

「自身の行動や考えについて」
多様性が大事 80.6%
他人に興味がない 63.7%
他人との競争は苦手 71.0%
世の中の役に立ちたい 64.7%
ムダが嫌い 69.7%
周囲から浮かないようにしたい 68.6%
他人に迷惑をかけたくない 81.0%
自分の判断に自信がない 53.0%

「仕事について」
社会に貢献できる仕事がしたい 60.5%
仕事上の競争や優劣に興味がない 65.0%
バリバリ働くよりマイペースがいい 72.7%
スキルアップには挑戦したい 62.5%

このアンケート結果を見た人は何を感じたのでしょう。
私は、若者が現実から逃げたいと思っているように感じました。
能動的でもなく、活動的でもなく、前向きでもなく、明るさもなく、ただただ、自分を守りたいという意識が強いように感じました。
まさに、この国の写し鏡です。
社会に対する、国に対する、自分の未来に対する、諸々の「諦め」が底辺にあるように感じました。しかし、それでも、生きていかなくてはならない。「傷つかないように」「何とか無難に」という意識が、「守りに重点を置く」という姿勢を生み出しているように見えました。
でも、仕方ありません。
国全体として、多くの国民の皆さんも、「守り」に入っています。
そして、この「守り」の姿勢が、国全体の「ジリ貧」に繋がっています。
その渦中にある若者が、「守り」に入っても仕方ないのではないでしょうか。
「自分さえよければ」「なあ、なあ」「まあ、まあ」「俺には関係ねぇ」という大人達の姿勢を見ている若者に、何かを期待するのは難しいのかもしれません。若者が「俺には関係ねぇ」と言っても、それを責めることはできません。
自分の内側に熱を持っている存在、それが若者の特徴の1つです。私のような老人の細胞とは違い、彼等の細胞はエネルギーに満ちています。それなのに、なぜか、若者の心は冷え切っています。
若者も、国力衰退は感じていると思います。
しかし、「ヤバイよ、何とかしなきゃ」という気運は、どこにもありません。
10代、20代の皆さんだけではなく、30代以上の皆さんにも共通するのが、「俺には関係ねぇ」です。大人も若者も、「諦め」という大海に漂う浮遊物になって、嵐の過ぎ去る時を待っているように見えます。しかし、嵐は、ますます、荒れ狂うことになります。それなのに、「俺には関係ねぇ」は、見事に受け継がれています。10年後、彼等は、私達と同じ禄でもない大人になるのです。
私に彼等を責める資格はありません。
私も、何も出来ない、禄でもない、大人の一人ですから。

それでも、現状は何とかしなければなりません。
国力衰退を止めなくてはなりません。
今、この国が壊れ始めていることを否定できる人はいないのではないでしょうか。
今後、更に、壊れます。
最終的には、皆さんが、1人の例外もなく、地獄を見ることになると思います。
これは、国民の皆さんの「俺には関係ねぇ」の結果ですから、このままだと、甘んじて受けるしかありません。残念ですが、後悔は先には立ちません。
個別の総理大臣の名を挙げるまでもなく、総理大臣に出来ることはありません。
この国の、この窮地を救えるのは国民の皆さんしかいないのです。
特に、若者の皆さんの力は不可欠のものです。
そんな若者に、どう伝えたらいいのでしょう。
言葉では伝えられません。私達大人の姿勢だけが若者の意識を変えるのだと思います。
国民の皆さんが、この窮地に気付き、自らを救おうとしなければ、必然的に地獄が来ます。
大変、悲しいことです。
「れば、たら、もしも」で申し訳ありませんが、もしも、私達の目的が「子供達の未来を守る」ことだったら、こんなことにはなっていなかったのではないかと思います。
大変、残念です。

景気は「気」だと言われます。
社会も国も、「気」次第なのだと思います。その「気」と同じ働きをしてくれるのが「目的」だと思います。いや、「目的」が「気」を作るのかもしれません。
もちろん、「気」さえあれば、他に何もいらないという意味ではありません。
最低限、「気」だけは、無くてはならないものなのだと思います。
この国には、今、それが欠けているように思います。
だから、私達の生活も、社会も、国も、まとめて「ジリ貧」になっているのだと思います。
無限の可能性を持っている若者でさえ、「守り」に入っているということは、かすかな光も失われているということだと思います。
では、「気」って何でしょう。
意識だと思います。個人の意識であり、国民全体の意識だと思います。
自分の力で自分を守る、自分の力で自分の家族を守る、自分の力で自分の社会を守る、自分の力で自分の国を守る、という意識なのだと思います。自分で自分を守るためには、自分だけではなく、家族も社会も国も守らなければ、守れません。
原始時代では当たり前だった「自分で自分を守る」という意識は失われ、「誰か」が、「お上」が、守ってくれるのではないかと思ってしまっています。
これ、大きな勘違いです。
原始時代でも、今でも、これからも、「自分で自分を守る」という鉄則は変わりません。
ただ、「守る」という言葉には、2つの意味があります。
前向きに「守る」ことも、後ろ向きに「守る」ことも、「守る」ことです。
今、求められているのは、前向きに「守る」ことです。
以前にも書きましたが、一生懸命働いていても、どれだけ「いい人」を演じていても、私達は潮流の前では無力です。今、国力衰退という悪しき潮流が生まれています。ですから、悪しき潮流を作らないことも、悪しき潮流を止めることも、「守る」ことなのです。これが、前向きに「守る」ということなのだと思います。
「前向きに守るって言われても」
その通りです。
私達は、生活費を稼ぐために、必死で働かなければなりません。他人や社会や国を守ることに費やす時間はありません。
その通りなんですが、潮流という荒波の前では、私達が無力であることも事実です。
生活費を稼ぐことも、潮流も、現実なのです。どちらか片方を守っていればいいということではありません。
「潮流を防ぐと言ったって、私達には何も出来ないと思いますよ」
では、誰が、潮流を防いでくれるのですか。
「そりゃあ、お上の仕事だろ」
では、「お上」は、その仕事をしているのですか。
「・・・・・」
結果的に守れなければ、何にもならないのです。
生活費を稼ぐことも、潮流から身を守ることも必要なのです。
ここで、別の勘違いに気付いて欲しいと思います。
国会議員や官僚は「お上」なのですか。
皆さんは、「下々」なのですか。
違います。
私達は生活費を稼ぐことに忙しいから、潮流を防ぐ仕事を外注しているのです。
皆さんが「お上」だと思っている集団は、私達国民の外注先に過ぎません。
その外注先が、仕事をしないのであれば、仕事をさせなくてはなりません。それが難しいのであれば、外注先を変えなければなりません。これも、国民の責務です。
「政権交代ってこと・・・・ 政権交代では、変わらないだろう」
その通りです。
ですから、私達の生活を守るために、潮流を防いでくれる新しい政治集団を生み出す必要があるのです。これも、私達の責務です。
「そんなこと、無理だろ」
そうでしょうか。
政治家は、私達国民の一票がなければ、国会議員になれません。
今は、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で投票している私達が「こういう人に一票入れますよ」と言えば、彼等は、私達の要求に応えるしか道はありません。
「こういう人」というのは、国会議員の責務を明確にするだけでいいのです。
そのためには、「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義をする必要があります。もちろん、毎日毎日、言葉の定義をする必要はありません。一度、言葉の定義をして、「責務」を明確にし、その検証システムを構築すれば、後は、メンテナンスだけです。
「言葉の定義って言われても、やったことないし」
言葉の定義に専門的理論も専門的知識も必要ありません。
「国って、何」「国は、何のために、あるの」
素朴な疑問を掘り下げていけば、言葉の定義はできます。私のような馬鹿でもできるのですから、心配いりません。
「責務」を明確にすれば、「目的」も見えてきます。
「目的」があれば、若者も前向きになってくれると思います。
そうなれば、日本は再生のスタート地点に立つことができます。
小手先や口先や過去の常識では、スタート地点に立つことさえできません。
文化を変えるしか方法はないのではないでしょうか。


2023-05-05



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自分を守ってください [評論]



このブログでは、これまで、この国の衰退の個々の現象と、その原因について書いてきて、その原因の原因の原因は、「文化」だと書いてきましたが、そのような視点は、未だに、見受けられません。
いつも、「何か、他に、いい方法があるはずだ」と主張する人がいます。でも、そういう方が「いい方法」を提示したことはありません。最終的には、常に、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で終わります。こんなこと、いつまで、続けるのですか。「あちゃー」となって、初めて、気付いても手遅れです。これで、この先、大丈夫なのか、とても心配です。
私は、文化であるとか、潮流であるとか、不安感・閉塞感・焦燥感などと言う、目には見え難いものを、見る必要があると主張してきました。
時代も、その一つです。

今日は、選挙と空気を通じて、時代について考えます。
4月の統一地方選挙の浮き沈みを見てみましょう。
党勢を拡大したのは維新と国民で、後退した政党が2つあります。
自民党は、所帯が大きいことと、いつも、多少の増減はありますので、除外しました。
党勢が後退した政党は、日本共産党と公明党です。
なぜ、でしょう。
時代です。
日本共産党と創価学会は、組織票の雄と言われてきた団体です。
その組織票に翳りが出てきたのです。
古今東西、繁栄し続ける組織・団体はありません。
ですから、いつかは、衰退する運命にあります。
それが、時代の流れです。

1960年代以降、学生運動が盛んな時代がありました。
良し悪しは別にして、若者に熱気が漲っていた時代でした。あの時代、マルクスレーニン主義は、一部の若者のバイブルだったと思います。そんな時代の若者にとって、共産党員になることが、彼等にとってステータスだったのかもしれません。
もちろん、活動家と呼ばれる学生の数は、それほど多くはありませんでしたが、普通の学生(当時はノンポリと呼ばれていました)でも学生運動については知っていましたし、デモに参加しなくても一定の理解はしていたと思います。誰も革命が出来るとは思っていなかったでしょうが、そういう空気感はありました。
そんな時代を生きた若者は、学生運動が下火になっても、革命や革新に一定の理解を持っていたと思います。
しかし、当時の若者が、今、どんどん、鬼籍に入っています。今でもマルクスレーニン主義を信奉している若者は存在していると思いますが、当時の信奉者よりも少ないと思います。いや、かなり、少ないと思います。
日本共産党の力が弱くなるのは、自然なことです。
日本共産党は、「我々は、ブレない」「100年の歴史がある」と自慢します。過去に言及し始めたのです。これは、「我々は、衰えました」と宣言していることになります。ですから、日本共産党の集票力は、この先も、衰えていくと思います。
時代は移るのです。
過去にしがみ付いていると、時代に置き去りにされる運命にあります。

私の感覚ですが、創価学会が飛躍的に信者数を増やした時期は、安保闘争の10年前くらいだったのではないかと思います。強引な勧誘で、しかも、多額の寄進を要求され、周囲の大人の会話を聞いていると「あの人も、被害に遭ったらしい」という内容でしたので、一般市民には、最近問題になった統一協会のような捉え方だったように思います。
飛躍的に勢力を伸ばした創価学会は、社会認知度が高くなるに従い、無茶な勧誘を自粛したようです。今では、平和を愛好する宗教団体というお面を被っていますが、「被害に遭った」多くの人達の不幸を土台にして築き上げた宗教団体だと思っています。
戦後、多くの信者の獲得に成功した創価学会ですが、日本共産党と同じように、信者の高齢化と死亡で、選挙時の集票力を支えてきた信者数が減少しています。
でも、今更、昔のような無茶な信者獲得は出来ません。
時間の経過は、特定の組織・団体が持っていた社会への影響度合いを変え、時代を変えるのです。これは、どんな社会でも同じです。

社会のあり様を変えているものに、「多様性」という空気があります。
これも、時代を反映していて、選挙の時の投票行動にも影響を与えます。
「多様性」は個人の自由を最大化することが目的の一つです。
個人の自由を尊重するということは、組織の縛りが効かなくなるということです。日本共産党と創価学会の場合は、まだ、ある程度、組織の縛りが効いていますが、労働組合の縛りは、ほとんど、効かなくなりました。
これも、時代の流れです。
「多様性」の昨今のトレンドで言えば、LGBT運動も、その一つです。
特に、先進国では「多様性」は尊重される空気があります。
ただ、日本には歴史と伝統に培われた「お上」と「下々」という目に見えない階級制度があり、まだまだ男尊女卑の空気も残っていますので、欧米とは同じようになりません。
それでも、この「多様性」は、日本でも空気になり始めていて、いつの日か、LGBT法案も成立する時が来るものと思います。
ただ、厄介なのは、この「多様性」という時代風潮は、取り扱いを誤ると大きな負の副作用を生み出します。
その副作用とは、「多様性」が「自分さえよければ」に通じているからです。
「別に、それでいいじゃない」と思う人もいるかもしれません。
ほんとに、そうなんでしょうか。
何事にも裏と表があり、それぞれに前提条件があります。完璧なんてことはあり得ませんから、副作用は出るのです。
私達の究極の目的は、自分を守ることです。
自由は大切ですが、優先度は1位ではありません。優先度の1位は生命であり、2位は生活です。自由が確立されても、命や生活を失えば、自由に価値はありません。
先ず、自分の生命と自分の生活を守ることが優先です。
しかし、自分を守るためには、自分の社会を守り、自国の経済を守り、自国の安全を守らなければ、守れないのです。これは、理論ではなく、現実です。
狭義の「自分さえよければ」では、自分を守ることができません。
欧州のように陸続きで国境を接している国々は、経験上、その事を知っていますが、島国の日本の場合は、気付きません。ですから、日本でこの「多様性」を尊重する場合には、充分に気を付けて受け入れないと破滅へつながります。
しかし、時代の流れは、「多様性」に向かっています。
まだ、「多様性」の始まりの時代ですが、日本での「多様性」は投票率の低下にも寄与する性格を持っています。
日本では、「自分さえよければ」や「俺には関係ねぇ」が認められたと勘違いする人がいるからです。「多様性」は、国に対して個人として責任を持ち、社会に対して個人として責任を持たなければ、副作用だけが出てくるのです。
敗戦後、私達の国は、建前だけですが、民主国家になりました。
戦前の軍国主義とは180度の変化です。
多くの日本人が、戸惑ったと思います。
私は、まだ、子供でしたから、その戸惑いの空気は知りません。
大人は、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で、その変化を吸収したのだと思います。
ただ、言葉の定義をしませんでしたから、その中身はわからないまま、「民主主義だ」「選挙権だ」という風潮だけが強かったものと推察します。
しかし、その風潮も、時間と共に薄れ、投票率は下がりました。
それでも、昭和を生きた人達の選挙に対する意識(とりあえず、投票所に行かなくちゃ)は、未だに、あります。
しかし、そう言う人達が高齢者になり、鬼籍に入り、投票行動への意識は、社会全体としては、昭和時代とは違うものになりつつあります。
敗戦後、あの混乱の時代に「言葉の定義」は難しかったと思いますが、10年後でも20年後でもいいので、「民主主義とは」という言葉の定義をしていれば、日本は変わっていたと思います。しかし、ついに、戦後80年経っても、「言葉の定義」はされませんでした。多分、このまま、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で、時間は流れていくものと思います。
政治家は、口先で公約を叫んで国会議員になり、自分の利益確保と支援者への返礼をしておけば、安泰です。そんな政治が続いています。
多くの国民の皆さんは、「これでいい」とは思っていません。
では、政治家が「私が悪うございました」と言うでしょか。
いいえ、言いません。
彼等は、やりたい放題ができる今の状態がベストなのです。
しかし、今のやり方を続けていれば、必ず、破滅を迎えます。
そんなこと、国民の皆さんだって知っています。
国が崩壊して困るのは、国民の皆さんです。
どうか、自分を守ってください。
自分を守るために、社会を守ってください。
社会を守るために、国を守ってください。
それが出来るのは、国民の皆さんしかいないのです。
私は、「投票に行きましょう」と言うつもりはありません。だって、投票所に行っても、投票に値する候補者はいないのです。
皆さんがやらねばならないのは、投票したいと思う候補者を新しく生み出すことです。
特定の組織・団体のためではなく、国民生活を支えるために政治をしたい人がいれば、投票所に行く理由が生まれます。特定の組織・団体に属する人達よりも、国民の数のほうが圧倒的に多いのです。国の責務と国民の責務を確立し、口先ではなく、本気で取り組んでくれる「国民生活を守る党」が誕生すれば、私達の生活は変わります。今は、投票行動が自分の生活に反映していると実感することができません。でも、生活が変わるのであれば、次も、投票所に行こうと思えるのです。
ただし。
「濡れ手に粟」はありません。
「いいとこ取り」もありません。
「助平根性」では、国民生活は守れません。
「俺ではない、どこかの、誰か」はいません。
国民の皆さんが、社会に、国に、個人として責任を持つことで、初めて、皆さんの生活は守られるのです。
でも、今は、あらゆることが「ボンヤリ」としていて、どうしていいのかわかりません。
ですから、先ず、この「ボンヤリ」から抜け出さなければなりません。
「言葉の定義」を推奨しているのは、そのためです。
国民の皆さんが、「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義をして、国の、国民の、責務を明確にし、国としての、国民としての、目的を持てば、新しい政治集団は勝手に生まれます。もちろん、国民の皆さんも責務を果たさねばなりませんが。
このままだと、間違いなく、この国は潰れます。
そんなこと、皆さんだって知っていますよね。
「俺ではない、どこかの、誰か」は存在しません。
バイデンが、習近平が、プーチンが、岸田が、「何とかしてくれる」のですか。
いいえ、皆、自分のことで、手一杯です。
私達の生活を守れるのは、国民の皆さんだけなんです。
私達が財布として岸田に使われるのではなく、私達が岸田を使わねばなりません。なぜなら、政府は「お上」ではなく、主権者である国民の外注先だからです。
しかし、内閣支持率が上昇しています。ほんとに、理解できません。皆さんは、「マゾ」なんですか。六公四民が目前だというのに、国民を痛めつける岸田を「ご主人様」と崇めるのですか。五公五民は、既に「悪政」です。六公四民は「酷政」です。七公三民は「苛政」です。それなのに、国民の皆さんは、どうして、「ふむ、ふむ」なんでしょう。自分で自分の首を絞めて、楽しいですか。


2023-05-04



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不安感と閉塞感と焦燥感 [評論]



4月に、現職の総理大臣を襲撃する事件が起きました。
安倍襲撃事件から1年も経たないこの時期に、同じような、新たな事件が起きたことに、驚きがあります。実害はなかったものの、潮流は健在であることが証明されました。
もちろん、潮流とは、滅びゆく国を静かに押し続けている目には見えない大きな時流のことです。このことに気付いている方が何人いるのか、とても心配です。
まだ、事件の背景はわかっていません。
ただ、日本という国を知らない人が、これらの事件を知れば、毎年、政府要人が狙われるような政情不安の国だと思うかもしれません。
でも、日本に政情不安はありません。逆に、自民党政権の安定度は群を抜いています。
なぜなら、日本には、2000年の歴史と伝統に培われた「お上」と「下々」という盤石の体制があるからです。
そんな国で、なぜ、このような事件が起きているのかは、検証するべきだと思います。
紛争国のような民族紛争はありません。
思想信条による闘争もありません。
武力を行使するような権力闘争もありません。
あるのは、ただただ、個人的な恨みと模倣です。
一体、そこには、何があるのでしょう。
その根底にあるのは、不安感と閉塞感と焦燥感だと思います。
少し、歴史を遡ってみましょう。
テロ事件の最近の例を見てみると。
桜田門外の変が起きたのが1860年で、明治維新が1868年。
226事件が起きたのが1936年で、終戦が1945年。
テロ事件と共に時代は変わっているのです。
私は、当時、生存していませんでしたが、当時の社会は、やはり、不安感と閉塞感と焦燥感が大きかったのではないかと想像します。
最近では、秋葉原事件を始め、いろいろな無差別殺傷事件が流行った時期がありましたが、その根底にあったのも不安感と閉塞感と焦燥感です。
時代が変わる時には、このような事件が起きやすくなる、ということなのだと思います。
それは、社会に不安感と閉塞感と焦燥感が充満し、不安定だからだと思います。
今、皆さんは、何も感じていませんか。
そうじゃありませんよね。
何となく不安ですよね。
何となく窮屈ですよね。
何とかして欲しいと思っていますよね。
時代が変わる時に共通するものが、不安感と閉塞感と焦燥感だとすると、今も、時代が変わろうとしているのかもしれません。

今回の事件について、いろいろな方が、いろいろなことを言い始めていますが、さて、日本社会に満ちている不安感と閉塞感と焦燥感に気付き、その原因を見つけ、対処法を提言できる人が何人いるのでしょう。
余り、いや、ほとんど、期待できないと思います。
対処法として言われるのは、警備の強化くらいしか出てこないのかもしれません。
国民は、安倍元総理が統一教会とズブズブだったことを知ったことで、安倍襲撃事件の犯人に同情が集まり、暴力を容認するような発言があったと言う人もいます。相手がどれほどクズ人間であっても、暴力は容認できないという正論を主張し、言論の自由を制限しろ、と言わんばかりの国会議員もいます。こんなサル共には、時代の空気は見えないのだと思います。目の前の出来事に惑わされず、せめて、国家運営に携わる者は、広くて大きな視点を持って欲しいと思います。
ほんとに、視野の狭さには困ったものです。
個々の事件に囚われずに、時代がどの方向へと動こうとしているのかを知り、悪しき方向へと向かっているなら、そのベクトルを変える努力が求められる時代なのだと思います。
そのためには、今、この国に充満している不安感と閉塞感と焦燥感の存在を知らねばなりません。
これまでもそうであったように、この先も、いや、いつの時代でも、不安感と閉塞感と焦燥感が時代を変えるのではないでしょうか。もしかすると、潮流とは、民の怨念が集まって出来ているのかもしれません。
しかも、私達が向かっている先は、国家崩壊という悪しき未来です。
気付いてくれる人はいるのでしょうか。
誰一人、気付かないとは思いません。
いいえ、この国の将来が「ヤバイ」ことは、漠然とではありますが、ほとんどの方が知っています。それでも、「下々」の人間は、そんなことを口にしてはいけないと思っています。ただ、ただ、じっと我慢することが、自分の役割だと信じています。自分の生活が破綻するというのに、じっと我慢です。ほんとに、歴史と伝統は強力です。
どんな新しい時代であっても、時の経過とともに歪んでいきます。それは、「自分さえよければ」が積み重なっていくからです。これは、どんな社会でもあることです。しかし、それを是正し修正するためには、根拠が必要になります。「なあ、なあ」「まあ、まあ」では、根拠になれません。原理原則になり得る責務の明確化が必要なのです。
ところが、今あるのは、強力な「なあ、なあ」「まあ、まあ」です。
どうして、なんですか。
文化が創り出している空気に、私達は、がんじがらめに縛られているからです。
皆さんは、どうして、この空気を見ようとしないのですか。
総理大臣を筆頭に、市井の老人・子供まで、曖昧という空気の中で「なあ、なあ」「まあ、まあ」「ふむ、ふむ」で自分を誤魔化しているのです。なぜなら、責務を知り、責務を果たすより、はるかに楽だからです。これを、生活の知恵だと言う人もいるでしょう。
そんな社会では、誰も、声を出しません。誰も、村八分になりたいとは思いません。
しかし、表には出しませんが、厳しい現実とは直面しなければなりませんので、怨念だけはあります。それが、不安感と閉塞感と焦燥感を育てるのかもしれません。
もちろん、「お上」だって、不安感と閉塞感と焦燥感が最大の問題だという方向へは動きません。そんなことをすれば、社会不安を認めてしまうことになります。ですから、「お上」は、社会不安をなかったことにします。それが、自分の利益を守ることになるからです。社会不安を「お上」が認めてしまえば、「下々」は「お上」が言っているのであれば、「俺達は、ほんとに、ヤバイんだ」と思ってしまいます。そんな社会になれば、いとも簡単に、社会崩壊が起きます。
ですから、不安感と閉塞感と焦燥感という言葉は、口にチャックをします。
でも、実際の問題は、不安感と閉塞感と焦燥感なのです。

想像は出来ませんが、あり得ない設定ですが、仮に、「お上」も「下々」も、原因が不安感と閉塞感と焦燥感だと認めたとします。
では、その不安感と閉塞感と焦燥感に、どう対処するのですか。
対処法へ辿り着く人は、一人もいないのではないかと思います。それは、誰一人、原因の原因の原因に辿り着く人がいないからです。
ですから、これまでのように、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で一件落着するしか選択肢はありません。「なあ、なあ」「まあ、まあ」が原因の原因の原因なのに、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で対処するのです。まるで、ジョークですが、これが現実です。
国が壊れてしまってから、四の五の言っても何の役にも立ちません。
生活が苦しいと感じている国民の皆さん。
この先に遭遇する生活苦は、次元の違う生活苦です。餓死者が続出するような生活苦なんて想像もしていないかもしれませんが、それが、現実になります。
壊れる前に気付いて欲しいと思います。

ほんとに、文化は巨大です。刃が立ちません。
これまでこの国を支えてきた文化が、この国を潰します。
「そんな馬鹿な」と言う方がほとんどでしょう。
もちろん、未来のことですから、絶対はありません。でも、仮に、万が一であったとしても、潰れた時のダメージが大きすぎます。私達は、他の動物とは違い、想像力という力を持っているのですから、対応策を考えるべきだと思いますが、そうはなっていません。
ですから。
充分な資産をお持ちの方、能力のある方、へは海外移住を強くお勧めします。
そうではない方は、何の役にも立ちませんが、せめて、覚悟をお願いします。
次の日本は、皆さんの想像を超えるほどの悲惨な国になります。

1億2000万人の中には、原因の原因の原因が、確信は持てないけど、もしかすると、「なあ、なあ」「まあ、まあ」に代表される曖昧文化なのではないかと気付いている人は、いると思います。いや、いて欲しいと思います。
しかし、「文化って、なに」「曖昧文化って、なに」と問われると、なぜか、答が曖昧になります。当たり前です。定義をしないことが曖昧文化の本質です。「曖昧」という言葉の対極にある「定義」という言葉に気付く人もいません。だから、その対処法が「言葉の定義」だということに気付く人は、いません。
多分、私、一人だけだと思います。
いやいや、そんなことはないと思います。
ただ、そのことを多くの人に知ってもらい、納得してもらう方法を、私だけではなく、誰も見つけていないのだと思います。
困ったことです。
ほんとに、皆さんに知ってもらう方法が見つかりません。
途方にくれます。
でも、これが現実なのですから、仕方ありません。
地獄へ堕ちることがわかっているのに、指を咥えて見ている事しかできません。
とても、悲しいことです。


2023-05-03



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システムの老朽化 [評論]



4月に統一地方選挙がありました。
マスコミの一部で、課題だと指摘されたのが、無投票選挙区の増加と低投票率です。
ただ、ほとんどの国民の皆さんは、今に始まったことではないので、「俺には関係ねぇ」と思っています。無投票選挙区の増加と低投票率も、右肩下がりのトレンドになっていて、今年も、最低の数値を更新する地区が続出したのは事実です。
でも、これが日本の課題だと考えている人は、ほとんど、いません。マスコミは、適度に、理想を語らねばなりませんので、いつもの対応をしているだけです。
でも、この些細なことに見える現象は、この国に衰退を招いている原因と同根のものであり、国家破綻へと向かっている国に出ている一つの症状です。
その原因は、現行システムの老朽化だと思います。
このまま、古いシステムを使い続ければ、壊れる日を迎えることになります。
これは、地方自治に限定された課題ではなく、統一地方選挙は「一事が万事」の「一事」に過ぎません。
現行システムは、「なあ、なあ」「まあ、まあ」「曖昧統治」という国家を運営するために作られたシステムですが、もう、そのやり方では運営できない時代になったのです。だから、いたる所で機能不全が起きているのです。

無投票選挙区の増加の原因は、過疎化によるものです。
過疎化地区の特徴は、平均年齢の高齢化です。年寄りばかりなのです。
年寄りの価値判断基準は、「邪魔くせー」が、結構、上位にあります。立候補するのも、投票に行くのも、「邪魔くせー」のです。
50歳の若者も立候補しません。小さな自治体の場合は、議員報酬が低く、議員業だけでは食べていけません。例えば、人口1000人未満の自治体の議員報酬は15万円で、議員を専業としている人の割合は10%だと言われています。
無投票選挙区の増加という課題は、仕組みを変えるしかないと思います。2040年までに、自治体の半数が消滅すると言われていますので、今の対応では、まだ、無投票選挙区の増加は続くものと思います。人口減少、国力衰退の国では、止むを得ません。

では、低投票率の課題は、どうでしょう。
システムの変更も必要ですが、これは、システムを変えただけでは、難しいと思います。
民主主義に欠かせないものが選挙です。
少なくとも、51%未満の投票率では、民主主義が機能しているとは思えません。
新聞の購読数やテレビの視聴数の減少に見られるように、これまで社会を支えてきた人が高齢になり、年々、老人が死に、昭和時代の惰性で投票所に行っていた人も減りました。
時代は、日々、年々、変化しているのです。
一方、若者は、自分の生活に政治が生きているという実感を持っていません。「政治。俺には関係ねぇ」と思っている若者が大勢います。
「投票に行きましょう」と宣伝をしても効果はありません。
投票率の低下は、責務を曖昧にしているために生まれた自然現象ですから、宣伝では改善しないと思います。
課題は、投票率だけではありません。
この低投票率を支えているのが組織票なのです。自分の所属する団体の利益になればと意図して投票している人達の助平根性が投票率を支えているのです。もしも、組織票を無効にする方法があれば、投票率は何パーセントになるのでしょう。
そんな選挙構図は、地方選挙の場合、特に顕著です。
組織票は民意ではない、と全面否定することはできませんが、偏った民意であることは否定できません。組織票は「自分さえよければ票」だと言っても過言ではないと思います。
国は、システムを変えませんし、国民は、意識を変えませんので、今の状態が続くものと思います。
ですから、今後は、組織票が地方政治を牛耳ることになり、一部の利益代表による地方自治が一般的になる時代を迎えるのだと思います。いくつかの組織が談合すれば、どんな自治も可能になります。
中には、民主主義の後退だと言う人もいますが、そもそも、日本には民主主義なるものは存在していませんでしたから、その意見は的を外しています。でも、風味は薄まったのかもしれません。日本は、今でも、民主主義風王政並立封建制度です。「下々」は「俺には関係ねぇ」と言えるのですから、このトレンドは、起きるべくして起きているトレンドです。
では、国民の皆さんは、それを「良し」としているのでしょうか。
そうではありません。
皆、一様に、背を低くして、何とか良き風が吹いてくれるのを待っています。
ただ、自分で風を起こすのではなく、どこかの誰かが風を起こしてくれるのを待っています。
そんな環境の中に存在するのは、「不安感」であり「閉塞感」であり「焦燥感」です。
主権者が他力本願なのですから、仕方ありません。
国民の皆さんは、これこそが「下々」の取るべき姿勢だと思っているようです。確かに、楽ですが、楽をしたツケを払うのは、皆さんです。
「下々」に徹することで、豊かで平穏で幸せな生活が実現するのであれば、日本の歴史と伝統は最強の思想になります。
しかし、そうはなりません。
生活が苦しくなり、先々は、もっと苦しい生活が待っていています。
日本の国民の皆さん。
私達のシステムは、どれも、もう、限界なのです。
どうか、その事に気付いてください。
皆さんが気付かなければ、この国は地獄になります。
いや、今でも、地獄を見ている人が増えています。
子供の自殺案件が増えていることも、その一例です。
無投票選挙区の増加と低投票率も「俺には関係ねぇ」と「自分さえよければ」の結果です。これは、あらゆる局面で支配的な考え方です。
当然、国力衰退へもつながっています。
しかし、国力の衰退は、何としても止めなければなりません。
国力の衰退を止められるのは、国民の皆さんしかいないのです。
お偉い政治家の先生方や頭脳明晰な官僚の皆さんが、「ああでもない、こうでもない」と口先で言い続けてきましたが、国力衰退は止まらず、ますます、衰退しています。彼等は、自分で、衰退を止められないことを、現在進行形で、証明してみせているのです。
当たり前のことです。
国を豊かにするのは、国民の仕事だからです。
GDPという言葉は、日本語で言えば、国民総生産です。政治家総生産でも官僚総生産でもありません。国民にしかできないのです。
国民に頑張ってもらうしか方法はありません。
しかし、国民は、国を豊かにするのは「お上」の仕事だと信じ切っています。
なぜ、こんな勘違いが起きるのでしょう。
「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義をすれば一目瞭然なのに、誰も、定義をしてみようとしないからです。
投票率が低くても、「俺には関係ねぇ」で済んでしまいます。
組織票は助平根性が支配しています。彼等にとって、国も、国民も、関係ありません。ただ、ひたすら、自分の利益を追求します。昨日、多くの企業が自社を守るために、人件費削減を選択したと書きましたが、政治でも同じことが起きているのです。「自分さえよければ」が大手を振って闊歩しているのです。自分を守ることは必要です。でも、全体が守れなければ、結果的に自分は守れないのです。非正規労働者を増やし、組織票で政治を歪めている現状を見れば、この国が、国力衰退という病に冒されているのは、自明の理だと思います。
今は、その国力衰退が表面化し、多くの人の目に見えるようになりました。
人間だけではなく、生物の根源的な本能は「種の保存」です。
どうして本能が存在するのかというテーマは、ここでは考えません。
人間も、数十万年もの長い時間、この本能に従ってきました。
これからも、この本能は、存在し続けると思います。
選挙を支配している組織票と呼ばれるものには、宗教団体票、医師会票、農協票等々がありますが、宗教信者だけが、医者だけが、農民だけが生き残っても、人類は生き残れません。これは、自然の摂理に反することです。
私達は、全体として生き残らなければならないのです。「自分さえよければ」「俺には関係ねぇ」は絶滅の思想に過ぎません。
人間は、木の皮や草の根を食べてでも、時には、人肉を食してでも生き延びようとするのです。どんな事態に遭遇しても、私達は、「種の保存」という本能に従ってきたのです。これからも、そうなります。
だったら、木の皮や草の根や人肉を食するのではなく、美味しくて栄養のあるものが食べられる社会を実現するしかないのではないでしょうか。
そんな社会を作り、持続させるためには、あらゆる人が、各々の責務を果たさねば実現しません。もちろん、一人一人の責務は同じではありません。でも、一人一人に責務はあるのです。
しかし、今は、その責務が、何一つ明確になっていないのです。
責務が明確になれば、目的も生まれます。
目的が生まれれば、その目的を達成する動機が生まれます。
今は、国の目的も、国民の目的も、曖昧で、共有されたものが存在しません。私は、勝手に、「子供達の未来を守る」ことを目的にしてみませんか、と推奨しています。
それは、子供達は、必ず、大人になるからです。
昔、子供だった大人が、「子供達の未来を守る」ことを目的とすれば、次世代の子供達が守られます。これは、尽きることなく「子供達の未来を守る」大人が存在することになります。「種の保存」は、「子供達の未来を守る」ことで実現できるのです。

最初に、「一事が万事」と書きました。
その「一事」に過ぎない現行の選挙システムの変更は必要だと思います。
その通りなのですが、選挙制度だけを手直しすれば済む話ではありません。
変えなければならないシステムは山のようにあるのです。
冷蔵庫の中の食品が軒並み賞味期限切れになっていると考えてください。冷蔵庫は役に立っていません。それでも、使い続けるのですか、と問われているのです。
ただ、全く、何もしていないわけでありません。
しかし、追い詰められてシステムを変えていますので、効果が薄く、また、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で変えますので、中途半端な変更しか出来ず、いつまでも、課題は解決しません。それだけではなく、ここまで老朽化が進むと、個々のシステム変更の効果では、課題が改善することは期待できないと思います。私達の国は、小手先や口先でチョロチョロと対応していたのでは効果が得られないほど痛んでいることに気付いて下さい。
必要なのは「考え方」を変えることだと思います。
ただ、言葉にすれば「考え方を変えれば・・・」になりますが、これが至難の業なのです。考え方を変えるためには、私達の基盤にある「曖昧」「なあ、なあ」「まあ、まあ」を変える必要があり、そのためには、文化を変える必要があります。
ただ、そんな発想は、どこにもありません。
ですから、じわじわと、ずるずると、朽ちているのです。
今、私達のシステムは、壊れ続けています。
だから、皆さんは、不安でしようがないのです。
どうか、気付いてください。
このツケを払うのは、国民の皆さんです。
気付いていないと思いますが、今、国民の皆さんは、自業自得という名の道を歩んでいるのです。もちろん、そこに道路標識はありません。道路標識はありませんが、皆さんの直感は、その事を知っています。だから、何となく、不安なのです。


2023-05-02



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吾輩はサルである [評論]



ある老人の繰り言。
昔々、儂等のことをイエローモンキーと呼ぶ不届きな輩がいたと聞く。
儂等は、人間だとばかり思っていたが、近頃、都では、自分達を「サル」と称して自慢する輩がいるそうな。
永田町界隈に住むお偉い先生方が、自分達をサルだと自慢しているのであれば、人間がサルを選ぶとは思えず、儂等「下々」も、きっと、サルなのであろう。
日々、年々、衰退し続ける儂等の生活を見れば、どうやら、間違いなく、この国はサルの国であるようだ。

今日も、国力衰退について書きます。
「非正規労働者の増加」という言葉に報道価値がなくなって、どのくらいの年月が経ったのでしょうか。
急激な増加傾向は収まりましたが、着実に、今でも、増え続けています。日本の労働人口の約4割が非正規労働者になったのですから、もう既に、これが常態になりました。だから、報道価値が失われたのだと思います。
では、実際に、どのくらいの人が非正規労働者なのか、という数値を見てみましょう。
非正規労働者の多い企業ランキングという数値があります。
上位500社の企業名と非正規労働者数が表になっています。
その1位の会社は、スーパーでお馴染みの(株)イオンです。
社員数、42万人。非正規、26万人。正規、16万人です。非正規労働者率は、63%です。女性社員が多い業種ですから、仕方ないのかもしれません。
非正規労働者率が一番高い企業は、95.9%の東京個別指導学院という学習塾です。
500社中、約200社が、非正規労働者率50%を超えています。
500社中、非正規労働者率が10%未満の企業は、27社しかありません。
今の日本社会では、非正規労働者、当たり前、なのです。
問題は、非正規労働者と正社員の間に、賃金格差があることです。この賃金格差が、国力衰退と国民の貧困化を作り続けています。
労働人口全体の非正規労働者率は、38%です。男性の非正規労働者率が23%で、女性の非正規労働者率は、56%です。男性労働者と女性労働者の間にも賃金格差があります。
この数値は、日本の労働環境が、正社員から非正規労働者へ、男性労働者から女性労働者へと、より安い人件費に流れたことを示しています。企業は、自分の会社を守るために、労働者を犠牲にし、国力を衰退させる原動力として動いたのです。
ほとんどの企業が、開発や新規事業ではなく、「いっせいのーでー」と、賃金削減を選択しました。
これは、明らかに、延命策です。
日本経済が衰退しているのは必然的な結果だと思います。
日本経済は、今、延命の途上にありますが、そろそろ、その延命策にも限界が来ていて、将来展望は見通せません。そもそも、延命は、寿命を延ばしているに過ぎませんので、どこかの時点で寿命は尽きます。延命では、病気の治癒はできません。
3月に春闘の記事を書きましたが、春闘は大企業の正社員の賃金が対象ですから、春闘を話題にすることが間違っていると書きました。
今年の春闘では、これまでにない賃上げが行われたという結果になりましたが、物価上昇のほうが優勢で、実質賃金では、下落トレンドにブレーキはかかりませんでした。非正規労働者の賃金を上げた企業もあったようですが、ごく一部です。
多くの非正規労働者は、物価上昇に苦しんでいます。
つまり、国民の約半数は、更に、生活レベルを落とす必要に迫られたのです。
これが、この国の現状です。

その原因は、皆で「守り」に入ったために起きたものです。
その結果、国力衰退が進み、庶民の生活を圧迫しています。
そして、4月に、五公五民の話を書きました。
その中で、近々、六公四民の社会になると書きました。中には「六公四民」を「六公死民」と呼ぶ人もいますが、六公四民では、まだ、国民は餓死しません。
ただ、かなり、苦しい生活を強いられます。
増税と社会保険料増額の話題が盛んになり、現実になる日が近づいていて、六公四民は、最早、夢ではなくなりつつあります。
六公四民では百姓一揆は起きない、と書きましたが、政権交代の可能性はあります。
では、自民党政治が終われば、この国力衰退は止まるのでしょうか。
いや、逆に、政権交代が起きれば、国力衰退は加速されます。
さて、何人の国民が、その事を理解しているのでしょうか。
六公四民で「ヤケクソ」になった国民は、自民党政治に「ノー」と言うかもしれません。それが、自分の首を絞めることに気付きませんので、「あちゃー」という結果になります。
日本国民は、決して、馬鹿ではありません。
でも、この国の国民の皆さんは、絵に描いたような「無知なる国民」なのです。
どうして、既存の政党しか選択肢がないと思い込んでいるのか、不思議ですが、これも、無知の結果です。
これが、歴史と伝統に培われた国民の皆さんの実態です。
曖昧文化の中では、そのことに、全く、気付けません。
自分達が無知であることに気付かないのは、文化によるものですから、容易に気付くことが出来なくても仕方ないのかもしれません。だからと言って、知らないままであれば、皆さんの生活は、この先、更に壊れます。
古来より、「自分で自分を守る」ことの延長線上に、私達の生活はあります。国が機能していないのであれば、それを機能させるのは、国民の皆さんの責務です。
今は、国も、国民も、責務を果たそうとしていません。
なぜなら、国も、国民も、その事を知らないからです。
この先、国民負担率の増加という現実に直面します。当然、国民は不満を溜め込みます。ただ、その不満を解消するためには行動が必要になりますが、無知な国民には、政権交代という行動くらいしか思いつきません。どの政党に政権を託しても現状を変えることが出来ないにも拘わらず、政権交代したら「何とかなる」と思ってしまうのです。
自分で何かを創造するという習慣はなく、与えられた選択肢の中から「まし」なものを選ぶという習性があります。これは、長年、私達が「下々」だったことからくる習性です。
どうぞ、目先の原因に飛びついて、「ヤケクソ」になって、政権交代に突き進んでください。
地獄への階段を1段ずつ降りるという自民党政治を変え、数段ずつ階段を駆け下りる野党連合政権を実現してみてください。その痛みは、多分、現実に遭遇してみなければ理解できないのだと思います。ただ、どっちにしても壊れるのですから、比較すること自体、意味を持ちませんが。
1段ずつか、数段ずつか、の差はありますが、階段を下っていることには変わりません。
どの政党も、国力衰退を止める処方箋を持っていないのですから、どうすることも出来ません。いや、そうではありません。国民の誰一人、処方箋を持っていないのです。

冒頭で老人の繰り言を書きましたが、それは、私達に原因があるように思えます。
国会議員の醜態は、私達の姿を鏡に映したものなのです。よく、「国民にも」責任があるという言い方がされますが、この認識は間違っています。国民がサルであれば、そこから選出される政治家がサルであるのは当然であり、その責任は「国民にしか」ないと思います。
つまり、国民の皆さんが、「無知」という名のサルの集まりなのです。なぜ無知なのでしょう。耳を塞ぎ、目を覆い、口を塞いでいる日光東照宮の三匹のサルが、私達の姿そのものです。そうです。私達は、今も、江戸時代を生きているのです。
だとすると、国民の皆さんが変わるしか、この苦境を脱することはできないのではありませんか。
どうか、そのことに気付いてください。
皆さんは、馬鹿ではありません。ただ、ただ、知らないだけなのです。
国の責務は、国民生活を守ることです。
では、国民生活は、守られていますか。
いいえ、少なくとも、非正規労働者の皆さんは貧困に苦しんでいます。
それだけではありません。
五公五民でも生活は苦しいのに、六公四民へと移行する現実が目前に迫っているのに、それでも、皆さんの生活は、国に守られているという実感を持てますか。
賃金の低い非正規労働者がこれほど増えて、皆さんは、なぜ、黙っているのですか。
皆さんは、国の責務が国民生活を守ることだということを、何となく、漠然と、曖昧なまま、知っていると思っているかもしれません。でも、知っているつもりになっているだけでは、知っていることになりません。皆さんは、行動に移せるほどの明確な責務を知らないのです。これが、無知です。
皆さんの生活が苦しい原因は、国力が衰退しているからです。
その原因の原因は、皆さんが無知だからです。
そして、その原因の原因の原因は、皆さんが曖昧文化の中に安住しているからです。
無知ほど怖いものはありません。

責務は国にあるだけではありませんので、別の責務も見てみます。
電力会社やガス会社を一例として見てみましょう。
今の物価上昇の大きな部分を占めているのが、光熱費の高騰です。個人個人の電気料金やガス代が高くなっているだけではありません。電気やガスを使って物を作っているのですから、私達の食糧や日用品も上昇しています。
しかし、電力会社やガス会社は殿様商売を続けています。
電気料金やガス代が、どんなふうに決まっているか、知っていますか。
あらゆる経費を積算し、利益を上乗せして、販売価格が決まります。
この「あらゆる経費」の「あらゆる」に、電力会社やガス会社の旨味があります。
電力会社やガス会社は、絶対に倒産することはありません。必ず、利益が出る仕組みになっているからです。
電力会社が独禁法に違反して、課徴金として1000億円を徴収されます。
でも、電力会社にとっては、何も問題はありません。それらしい経費を計上すれば、電気料金として消費者から回収できるからです。
公共インフラと呼ばれる事業を運営している企業は、潰れません。
潰れたら、国民が困るからです。
では、公共インフラと呼ばれる事業を運営している企業の責務は、他の一般的な企業と同じ責務しかないのでしょうか。
違うと思います。
電力会社やガス会社は、国民生活を守るために、安価で、安全で、安定した電力やガスを、持続可能なシステムで、供給する責務があると思います。
だとすると、海外の原料に頼るのではなく、人体に危害を与えるような危険なシステムではなく、日本独自のシステムを構築しておく責務があったのではないでしょうか。
公共インフラの「公共」とは、そういう意味があるものと思います。
言葉の定義が曖昧なために、欲が優先し、いいとこ取りをしてきたのが、今の公共インフラなのだと思います。全ての人ではないと思いますが、電力会社やガス会社の社員は、総じて偉そうに振舞います。自分達は選ばれし者なのだという自負があるのかもしれません。「俺様は、〇〇電力の社員様だぞ」という態度の人が多いと聞きます。国会議員の先生様と通じるものがあります。責務も果たしていないのに、どうして勘違いできるのか不思議ですが、これが、日本の歴史と伝統なのだと思います。
国会議員の先生様も、電力会社やガス会社の社員様も、先ず、責務を果たしてください。
もちろん、完璧にとは言いません。
しかし、完璧を目指した努力はあったのでしょうか。
言葉の定義がなく、明確な責務がなく、私達は「なあ、なあ」「まあ、まあ」でやってきたのです。
確かに、「なあ、なあ」「まあ、まあ」は優秀な手法だと思います。
しかし、この「なあ、なあ」「まあ、まあ」にも、限界があったのです。
そのことに気付く必要があります。

公共インフラ企業だけではなく、多くの企業が、いや、そこで働く多くの日本人が、「自分さえよければ」「俺には関係ねぇ」という道を選びました。国としての「目的」がなく、皆が「守り」に徹したことも影響しました。その結果が国力衰退です。
従来の仕組みの延長線上には、日本の豊かな未来はありません。
それが、今、徐々に、形になって出てきているのです。
それが、国力衰退です。
国力衰退を止め、反転させるのは容易なことではありません。でも、それを実現しなければ、私達の未来はありません。
原因の原因の原因を見つけ、それを克服するしか道はないと思います。


2023-05-01



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