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陽だまり 4 [陽だまり]


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紺野奈津は悩みながらも取り調べには応じてくれた。異例ではあったが、恭介は病院での取り調べを主張して譲らなかった。紺野奈津が自殺をしないという確信は持てていない。帰宅優先組の恭介が一週間も帰宅しなかったのは結婚して初めての出来事だったが、重大事件の最前線にいる夫を恭介の妻は励ましてくれた。
国選弁護人の鬼塚律子弁護士とは、話し合いをした。警察と弁護士の間にまともな話し合いができると思っていなかった鬼塚弁護士も恭介の熱意を認めてくれた。
「あなた、変わった警察官ね」
紺野奈津と鬼塚弁護士の間にも、微かだが、信頼関係ができたようだった。
拘留期限を取れるだけ取り、納得のいく調書が作りたい。それが、警察官としてできる最大の誠意だと思うことにしている。
拉致監禁されていた3年間の取り調べには、強靭な精神力を必要とした。供述を聴く立場の恭介と佐竹も、毎日のように落ち込んでしまい、取調室になっている病室は暗雲に覆われたような空気が澱んでいた。
「的場さんも男ですよね。同じような願望があるんですか」
佐竹は男を敵視し始めているのか、余り口をきいてくれない。
「勘弁してくださいよ」
「私、男なんて、信用ならないと知りました」
反論をすれば、余計に溝を深めることになりかねない。決してタフな警察官とは言えない恭介には、どの場面も大きな試練だった。
目黒署で取り調べを受けていた須藤洋平は、傷害で検察に送られ、起訴も確定しているようだった。三浦を拉致する時に殴ったことだけが、須藤洋平と紺野奈津の供述を根拠に立証されただけで、他の犯罪は立証できなかった。物的証拠は全くない。自供に頼るしか方法はない。警察にとっては扱いに困る事案だった。
警察は四番目と五番目に殺害が予定されていた裁判官と国交省の役人からも、任意で事情聴取をおこなった。二人は常連だったが主催者ではないので、二人からは多くの情報は取れなかった。ただ、既に社会的制裁は受けていたようだ。二人とも、職を辞し、離婚調停の最中である。又、三宅組にも捜査が入り、二名の女子の行方が捜索されたが、何も出てなかった。名前も年齢もわからない。紺野奈津が知っているのは、二人の女子の泣き声と叫び声だけだった。坂東と三浦は若い時からの趣味仲間ではないかと紺野奈津が言っているが、二人とも死亡しているので確認はできていない。
秋吉管理官の指示で捜査内容がリークされ、必殺処刑人は無差別殺人に見せかけるために犯人が仕組んだもので、そのような犯罪集団は存在していないという内容の週刊誌の記事が出た。ネットの騒乱を抑える目的で行われたリークだが、犯人逮捕がなければ、必殺処刑人が独り歩きをする危険があったのだから、政治家や警察トップは胸を撫で下ろしたことだろう。
紺野奈津は3件の殺人で起訴が決まった。物的証拠はなく、状況証拠と自白なので、公判の維持に関して検察は難色を示したが、これだけ大きな事件を不起訴にすることはできない。しかも、求刑は20年と決められている。独立性を公言している検察にとって、政治的配慮や超法規的措置は、検察のプライドを損なうものであったが、受け入れざるを得ない状況はわかっていたのだろう。
警察の仕事は終わった。紺野奈津の身柄は拘置所に移される。心配なのは、恭介の手の届かない所へ行くことだった。「できるところまで、やってみます」という言葉を信じるしかない。恭介は秋吉管理官に頼んで、異例の要望書を東京拘置所へ書き送った。

拘置所という所へ移された。そこは、いわゆる牢獄であった。病院のベッドと違って圧迫感があり、閉じ込められていることを実感した。殺人犯として逮捕されたのだから、当然のことだったが、最初は戸惑いをおぼえた。しかし、一人で畳の上に座っていると不思議な安心感がある。身近にナイフもない。もう、誰も殺さなくてもいい。終わったのだと思うことができた。机の上に置いてある身の回り用品。差し入れてくれたのは身元引受人になってくれた叔母だった。余りにも遠い記憶なので、叔母の顔は漠然としている。自分では勝手に天涯孤独だと思っていたが、的場刑事から叔母の言葉を伝えられ、差し入れてくれた物を見ていると、胸がざわつく。
人間の想像力が現実の前では、なんの力も持っていないことを思い知らされた。あの監禁部屋を逃げ出せたら、別の生き方が待っていると想像していた。しかし、現実は苦しみを増幅させただけだった。体が恐怖を憶えている。それは、現実の恐怖より大きかった。男たちに対する憎しみも大きくなった。だから、五人の男を殺すことで、恐怖を克服しようと思った。それなのに、男を殺す度に殺人の恐怖が大きくなり、二種類の恐怖を抱えてしまう結果になった。恐怖に押し潰され、逃げ場を失くし、自分すら失くした。残された道は一つだけ。自分で自分の命を絶つ。その思いが強くなり、ナイフを自分の胸に刺す時を待っていた。あの時、九鬼が死んだ時に、自分も死んでおくべきだった。逮捕など、あってはならない。捕らえられて、死を選ぶことも出来なくなれば、恐怖や苦痛が永遠になると信じていた。だが、実際に逮捕され、病院で自分に戻った時に感じたのは、安堵感だった。思い悩むことに何の意味もないことを知ってしまって、先のことを考えて悩むことを止めようと思ったのも、あの病院のベッドの上だった。笑ってしまった。自分の人生を笑ったことで、多くの事が意味を無くしてしまった。だから、私は抜け殻。今は、生きたいとも死にたいとも思っていない。そんな気がする。九鬼や須藤、そして、的場刑事と佐竹刑事の気持ちを暖かいと感じている。だが、それに答える方法を知らない。もしかして、私はもう死んでしまっているのだろうか。考えるのは、やめよう。
拘置所の職員が窓越しに、面会が来ているが、どうするのかと聞いてきた。
「北村千恵さん。叔母、となってる」
「叔母さん」
「どうする」
「はい」
叔母は身元引受人になってくれたそうだが、殺人犯と関わりを持てば、叔母やその家族に迷惑がかかるのではないだろうか。返事はしたものの、体は動かなかった。
「今日は、帰ってもらおうか」
「ええ」
「何か伝えることは」
「いえ」
少しだけ拘置所の生活に慣れた。一週間が短いように感じた。そんな時、佐竹刑事が面会に来た。
「刑事さん」
「どう。元気」
「ええ」
「今日は、警察官じゃなくて、友達として来たの。私達、友達、よね」
「ええ」
「叔母さんに、会わなかったんだって」
「ええ」
「そう」
「私のせいで、迷惑してるのに」
「そう」
「会えません」
「そうかな。私、自分の母親に聞いてみたの。私が殺人犯になったら、どうするかって」
「・・・」
「関係ないんだって。娘は娘だって。あなたの叔母さんも一緒だと思う。会ってあげればいいのに。顔を見れば、叔母さん、きっと、安心してくれると思うな」
「ええ」
「詳しくは話せなかったけど、少しだけ話した。叔母さん、可哀そうにと言って、泣いてた。もう少し、待ってあげてくれるように、言っておいたけど」
「ええ」
「少しは、慣れた」
「はい。皆さん、親切にしてくれます」
「よかった」
「佐竹さん。病院では思い出せませんでしたけど、世話係のおばさんの名前」
「ええ」
「ばんば、みちという名前だったと思います。どんな字を書くのかは知りません」
「そう。ばんばみち。調べてみる」
「はい」
困ってることはないか、要る物はないかと聞いてくれた。ただの愛想で言ってくれているのではないことは、佐竹の目でわかる。
的場刑事は20年と言っていたが、やはり死刑になるのだろうか。だから、こんなに親身になってくれるのだろうか。自分で先の事を想像しないことにしたので、死刑のことも考えていない。受け入れることが出来るかどうか自信はないが、その時に考えようと思っている。でも、まだ、月に一度面会に来てくれる叔母に会う踏ん切りはついていなかった。
拘置所生活も三カ月になり、自分の住み家だと思えるようになってきた。記憶を失うことも無くなった。鬼塚弁護士に差し入れてもらった教科書で自習している。中学も高校も行けなかった。勉強の目的はないが、一日一日が過ぎていけばいいと思っている。ノートに自分で作った詩を書き始めた。明るい詩を書いていると自分でも明るくなれるような気がしてくる。子供時代の幸せだった風景を思い出しても、心が乱れない。両親の事も思う。もうこの世にいないことが実感できていないせいか、二人はいつも笑顔だった。もう、辛かったことは封印しようと思っていた。
叔母が面会に来た。三度も断っている。これ以上は断れない。奈津は面会室に向かった。
ドアを開けると、プラスチックの仕切り板の向こうに、中年の女性がいた。13年振りだったが、一目で叔母だとわかった。
「なっちゃん」
叔母が椅子から立ち上がった。
奈津の目の前が揺れていた。声が出ない。支えられるようにして椅子に座ったが、叔母の顔から目が離せなかった。ぼやけて見える叔母の目から、大粒の涙が落ちていた。
「よかった。よかった」
呪文のようなつぶやきが聞こえる。叔母は母と似ていた。姉妹なのだから当たり前かもしれないが、母を見ているようだった。奈津は大声で泣いていた。叔母もつられたように声を出して泣き始めた。叔母の胸に飛び込みたかったが、仕切り板一枚だけど、もう世界が違っていることを噛みしめるしかなかった。
奈津は謝ることしかできなかった。話は何もしていない。叔母は、よかったと言い。奈津は、ごめんなさいと言うだけ。それでも、叔母の目が、奈津の全てを受け入れてくれている。奈津は、ごめんなさいと言った。

鬼塚律子は東京地裁に向かっていた。連続刺殺事件の公判前整理手続きが開かれる。劇的な犯人逮捕から一年、世間はすっかり忘れ去っているが、当時は大騒動になった事件だった。弁護人が国選になった経緯はわからない。女性の被告の場合、鬼塚に振っておけばいいという単純なことなのかもしれない。鬼塚はDVの専門弁護士と言われている。だから、普段は被害者側に立つことが多い。数は多くないが、DVの結果が事件になった時は事件の加害者の立場に立つことになる。弁護士会は口止めされているようだが、この話の筋書きを描いたのは警察ではないかと、最近、漠然と感じていた。
鬼塚律子は自分の事務所を開いてからでも20年が過ぎた。過去に何度か国選弁護人を引き受けたことはあるが、久しぶりであった。
被告人の名前は紺野奈津。三人の男を殺害して、殺人罪で起訴が決まっている。殺人罪に普通の殺人はないが、紺野奈津の場合も悲惨な事件だった。長い拘留期間を病院で過ごし、接見の回数も限定された。警察官には珍しく、柔らかい刑事の口車に乗ってしまっただけなのかもしれないが、詳しく話が聞けたのは拘置所に移送された後だった。話を聞けば聞く程、その悲惨さにはやり場がなかった。いつも思う。どうして、女は女であることで、悲惨な経験をしなくてはならないのか。どうして、女は、これほど司法に無視され続けているのか。どうして。どうして。どうして。いつも、そう思っていた。
「物証はなし、ですか」
「ええ、これだけ状況証拠があれば、いらないでしょう。自供もしっかりしてる」
担当の占部検事は平然と答えた。検事は金太郎あめと同じ。どの検事も自分が世界を支配しているのだと言う強い自負を表に出す。鬼塚に好き嫌いはないが、唯一、検事だけは好きになれない。それは、思い出すこともできないほど昔に検事との恋に破れたためではない。法廷での人間蔑視の姿勢が許せないのだ。態度に出すまいとしているようだか、成功していないことを彼らは知っているのだろうか。
「どうです。鬼塚弁護人。量刑の評議ということで、いいですかね」
真面目で、気の弱そうな山本裁判官が、小声で聞いてきた。
「鬼塚さんは、無罪の主張がお好きだから、また、無罪ですか」
占部検事が、薄笑いをしながら言った。嫌な奴。
「ボイスレコーダーは」
「殺人には直接の関係はありません。必要ないので、外しました」
共犯となった男の裁判では、ボイスレコーダーを利用したのに、今度は無視するようだ。
「弁護側の証拠として、出しますよ」
「どうぞ、ご自由に」
採用する証拠で協議は紛糾した。検察は自分に都合のいい証拠だけを提示採用する。それは今回の裁判に限った事ではないが、隠れ証拠が司法を歪めているという実感を拭いきれない。再協議をすることで合意したことだけが収穫といえば収穫だった。事件の内容から憶測していた譲歩は、無いものと覚悟しなければならない。感触から言えば、検察は死刑を求刑してくる。無罪を主張して戦うことができるのかどうか、自信はない。被告人に自供の全面否定をさせることができれば、戦いになる可能性はあるが、勝つ見込みは非常に小さい。この裁判は情状酌量で争うことが最善だと考えていた。
被告人の紺野奈津がこの裁判をどう捉えているのか。まだ、その本音は掴めていない。鬼塚は拘置所に紺野奈津を訪ねた。
「体調は」
「はい。大丈夫です」
「そう。今日は少し突っ込んだ話をしたいと思ってるんだけど、いい」
「はい」
「裁判、始まるけど、あなたは、どうしたいの。無罪なの」
「わかりません」
「検察は死刑を求刑してくる。情状酌量されても無期懲役が限界。死刑か無期かの裁判になると思う。それで、あなたは、いいの」
「わかりません」
「そう。私は、あなたを犠牲者だと思ってる。何らかの責任は取らなければならないと思うけど、それは死刑でも無期でもないと思う。無罪を主張して戦ってもいいけど、可能性は限りなく小さいという覚悟がいる。あなたは、自分が、有罪だと思う」
「わかりません」
「そう。困ったわね」
「あの」
「ん。なに」
「的場さんと、話、してもらえませんか」
「的場さんって、警察の」
「はい」
「どういうこと」
「わからないんです。困った時は相談に乗ると言ってくれたんです」
「警察、ね」
「ごめんなさい。自分でも、わからないんです」
「そう。あり得ない話だけど、一度会ってみようか。あの刑事さん、変わり者だから」
弁護方針が立たないまま裁判になってもいい結果が出る筈はない。無駄を承知で的場刑事に会うことにして、その足で目黒署に向かうことにした。
電話番号を調べて目黒署に電話をすると、的場刑事は待っていると言ってくれた。
通された会議室には、的場刑事と少し年配の男が待っていた。
「ご無沙汰しています。先生に来ていただけるとは思いませんでした。何かあったんですか」
「いえ。そうではなくて、紺野さんが、あなたと相談してくれと言うから。弁護士が警察に相談しにくるのも変だけど、被告人の要望だから」
「そうですか。紹介します」
紹介された男は目黒署刑事課の野本課長という上司だった。
「紺野さん、何か困ってるんですか」
「ええ、まあ。私が困らせてるのかもしれません。裁判のことになると、わからないという返事しか返ってこないんです。ほんとに、どうしたらいいのか、わからないみたいで、どうしたらいいのか。そしたら、彼女が的場さんの名前を出したんです」
「裁判のこととおっしゃいますと」
「彼女の場合、死刑か無期かの裁判ではいけないと思うんです。だったら、無罪を主張するのか。でも、彼女は自分のこととして捉えていないのか、わからないと言うんです。あなたと彼女の信頼関係に私が到達していないと言うことなのかもしれないけど、彼女と何か約束でもしたの」
「それは、今のままでは、死刑か無期かの裁判になると言うことですか」
「ええ。検察はそのつもりのようです。でも、本当の被害者は彼女ですよね。全く責任を取らなくていいとは私も思っていませんが、死刑は許せません。もしかすると、無罪を主張した時に、自供の全面否定をすることで、的場さんとの約束を破ることを心配してるのかしら。何か、約束したの」
「いえ。僕が紺野さんと、話をしてみても、いいですか」
「それは、いいですけど」
「死刑の話は、公判前整理手続きで検察が出してきたんですか」
「はっきりとは、言いませんが、私はそう受け取りました」
「そうですか。明日にでも、会いに行かせてもらいます」
「そう」
「結果は、先生に必ずお知らせします」
「わかったわ」

恭介は玄関まで鬼塚弁護士を送り、会議室に戻った。
「課長」
「管理官は席にいるそうだ。行ってきてくれないか」
「はい」
紺野奈津の情報は最大限集めていたので、公判前整理手続きが行われたことも知っている。
検察は約束を破ったということなのか。信じられない。
恭介は本庁の静かな会議室で20分待たされた。
「確認が取れた」
部屋に入ってきた秋吉管理官は、恭介の情報が正しかったと確認したようだ。
「正式なルートですか」
「まさか」
「こちらから、念押しはできないのですか」
「敵は確信犯だな。裁判の論告求刑で死刑を求刑しておいて、既成事実にするつもりだ。その時点までは約束を破ったことにならない。抗議して謝られても、後の祭りだよ」
「あの時の検事、確か、石橋検事でしたよね。私が会いに行っても駄目でしょうか」
「石橋検事は、だいぶ前に飛ばされた。後任の検事に、そんな話は知らないと言われればそれまでということだ。一年前の口頭での約束。どこにも文書は存在していない。裏取引なんだから当然だけど、その気になれば破るだろう。彼らに実害はない。警察の一部の人間が抗議してきても、申し訳ないと言えば済む。あの時にあった社会不安はもうないのだから、何でも出来る気になってるのだろう」
「それは」
「わかってる。警察は完全にコケにされている。いいか、的場君。ここからは、全て裏の話だから、そのつもりで聞いてくれ。表向きでは、検察と警察は協力して社会秩序を維持するために職務に邁進している組織である。このことには、いささかの揺るぎもあってはならない。だが、裏では、そんな仲良し倶楽部ではない。闘争はいつでも続いている。警察としては、指を咥えて見ているつもりもない。向こうが喧嘩を売ってきた。買うしかない。君は家族の安全のために戦う必要に迫られている。私達もここで負ければ、影響が大きい。上層部の面子もある。奴らが、最後には、求刑を20年にせざるを得ないと考えるようにしなければならない。そのためには、あらゆることをする覚悟がいる。出来るかな」
「もちろんです」
「君のキャリアに傷がつくかもしれない。最悪の場合、交番勤務になることもある。それでも、やってくれるか」
「はい」
「鬼塚弁護士にアポイントをとっておいてくれ」
「これから、ですか」
「少し、急がなければ」
「はい」
二人はタクシーで神田にある鬼塚法律事務所に向かった。小さな貸しビルに事務所はあった。
「本庁の秋吉管理官です」
「あら、お偉いさんの直々のお越しですか」
「秋吉です。先生の裁判は一度拝見いたしました。見事なものでした」
「いつ」
「DVの被害者が殺人事件をおこした裁判です」
「ああ、あの裁判。私は結局、何の役にも立ちませんでした」
「そんなことありません」
「で、今日は」
「お願いがあって、来ました。微妙な話になりますので、できましたら」
「ああ、ここには、しゃれた応接室はないんです。書庫でよければ」
「それで結構です」
「そう、それじゃ、そこの椅子を持ってついてきてください」
三人は自分のパイプ椅子を持って、階段で五階に上がった。そこは、言葉通りの書庫で、書類の山だった。狭い空間に三つの椅子を置いて、話が始まった。
「結論から申し上げます。紺野奈津の裁判で、20年、いや16年以下の判決を引き出していただきたい」
「16年」
「この的場君が全面協力します」
「これは、当然、非公式の話ですよね」
「はい」
「驚いた。でも、可能性があるのなら、私に異存はありません。説明していただけますか」
「ありがとうございます。先生、勝手なことばかり言って申し訳ありませんが、この話、裁判の後ではなかったことにしていただけますか」
「口外無用と言うことですね」
「はい」
「いいでしょう。被告人の利益になるのなら」
「すみません。最初からお話します」
秋吉は事件解決の経緯を話し、検察との裏取引の話もした。もちろん、恭介の家族が危険に晒されることも含めて。
「警察の持っている情報は、全て開示します。証人として的場君を召喚していただいても結構です。嘘の証言はできませんが、事実を隠すことはありません。検察は都合のいい証拠しか出してこないでしょう。先生には事件の全貌を掴んでいただき、16年をもぎ取っていただきたい」
「そこまでする理由は、的場さんの家族のためですか」
「最大の理由は、そうです。それと、約束を破ると、どうなるか。それを知っておいてもらいたい。これは、基本のルールですよね」
「ええ」
「あの事件で、四人目の犠牲者になる予定だった男は裁判官です。検察もこのことを知っていますから、裁判官への圧力はかけてると思いますが、先生が知ることで裁判官への圧力はなくなります。それと、これは検察には知らせていない情報ですが、番場メモというものがあります。事件が片付いた後で紺野さんが思い出してくれたことです。そのメモには耽幼会へゲスト参加した人物の名前があります。その中には、検事もいますし、政治家、学者、その他にもいろいろな職業の人がいます。もちろん、弁護士もいます。これも、表に出していただいて結構です。明日から目黒署が裏をとります。紺野奈津の供述も全て見ていただきます。それは悲惨な過去です。彼女が死刑や無期懲役になるのはおかしいと思います」
「こんなことして、あなたたちの立場はどうなるんです」
「もちろん、ダメージはあります。でも、16年を取れなかったら、もっと大きな被害が生じることになるんです。的場君は仕事より家族を大切にする、刑事としては変わり種です。そして、残念ですが優秀な刑事です。警視庁には、いや、警察には彼のような優秀な人材が数多くいます。警察と言う組織はそれで成り立っているんです。私の役目はそういう警察官を守ることなんです。検察の裏切りくらいで、警察官を無駄死にさせたくない。どうしても、先生には勝っていただかなければなりません」
「そう。警察と二人三脚なんて初めてですから、戸惑います。それと、お二人ともお話が上手。全面的に信用したわけじゃありませんが、利害は一致するわね。私は弁護士ですから、被告人の利益になるのなら、全力でやります。利害に不一致があった時は、考え直します。それでいいですか」
「もちろんです」
「それと、聞いてはいけない話ばかりのようですから、私の記憶には裁判の終了と同時にその記憶が消滅する時限装置をセットしておきます」
「ありがとうございます」
「実はね、弁護方針が立てられなくて困ってたんです。これで、少し先が見えてきました」
「この件は、ごく少数の人間しか知りません。打合せは的場君とお願いします」
「はい。変わった刑事さんだと思ってたんです。愛妻家なんですか」
「はい」


11

連続刺殺事件の裁判は裁判所の予定より二カ月遅れて始まることになったが、簡単に決まったわけではない。目黒署が番場メモの捜査をする時間を稼ぐために鬼塚が引き延ばしを図ったのも遅延の要因だった。弁護側の抵抗が主な原因だったので、裁判官の心証も悪い。それでも、鬼塚は簡単に妥協するつもりはなかった。
公判前整理手続きでは、争点は量刑に絞るということで合意した。弁護側は、ぜひ裁判員裁判にする必要があった。証拠に関しても、ボイスレコーダーを弁護側の証拠として認めてもらい、それ以外は検察の意見を受け入れた。弁護側証人として警察官を召喚する件では、若干の抵抗があったが、証拠の大半が自白によるものだから、調書を作成した警察官に質問するのは当然のことだと裁判官も認めてくれた。ただ、日程調整は紛糾した。明らかに裁判官は検察寄りに見えた。
鬼塚は集合時間の前に裁判所に出向き、四人目のターゲットは裁判官だったそうですね、とさりげなく爆弾を投げた。その一言で事態は大きく変わり、弁護側の意見を取り入れた日程に落ち着いた。
裁判初日は雨だった。それでも傍聴人は詰めかけ、抽選倍率はそれなりの数字を示した。それでも、一年前の必殺処刑人騒動に比べれば非常に大人しい反応だと言える。
被告人の紺野奈津は落ち着いた様子で、傍聴席に目をやるゆとりもあった。鬼塚の目から見ても、紺野奈津は大きく変わったと写っていた。相手を思いやるような眼差しが印象的だと思っている。本来の紺野奈津は優しい人間だったのだろう。裁判で傷つかないで欲しいと願っていた。
人定尋問、起訴状の朗読、罪状認否。検察は死刑と言う言葉は出さなかったが、強い口調で極刑に値すると断じた。刑法の極刑なのだから死刑以外にないのだが、そこまでの自信は検察にもないのだろうと鬼塚は解釈した。被告人は起訴内容を全面的に認めた。法廷内は、どこか緊張感に欠けたざわめきがあったが、裁判員の緊張だけは解けていない。裁判長の指名を受けて鬼塚が立ちあがった。日程調整で一番苦労した部分だが、裁判の方向を決めるためには、どうしてもこの一時間は必要である。立ちあがった鬼塚は法廷内に静けさが戻るまで待った。
「これから弁護人が一時間にわたりお話するのは、被告人尋問で明らかにすべきことですが、時間の制約がありますので要約させていただくものであります」
「さて、裁判員の皆さま。大変、緊張されていることと思います。人間が人間を裁く。緊張しないで、と言う方が無理でしょう。あなた方が死刑という判決を下した時、被告人は実際に絞首刑により命を絶たれることになります。これは、模擬裁判や空想の世界の出来事ではないのです。死刑囚の中には、暴れたり、泣きわめいたりする方もいると聞いています。そして、量刑を決めるということは、皆さんが決めた時間、人間の自由を奪い、刑務所に閉じ込めるということです」
「皆さんは、重い役目を背負わされました。どなたも、自分なりに納得のいく判断をしたいと願っているものと思います。裁判が終わった後に、法廷では明らかにされなかった事実があった時、そのことを知っていたら、自分の判断は違うものになっていたという後悔はしたくないと思うのではないでしょうか」
鬼塚は裁判員、一人一人の顔に視線を送った。
「先ほど、検察官が起訴状を朗読しました。規則に従って作る起訴状ですから、少しわかりにくい部分もあります。簡単に要約してみましょう。被告人は殺人計画を立て、殺人訓練をし、殺意を持って、三人もの人間を殺した。しかも、その発覚を防ごうとして架空の犯罪者集団を作り上げ捜査の撹乱を図った。更に、逮捕後も殺された被害者に対する謝罪の言葉はない。つまり、殺害計画、殺意、多数殺人、犯行隠蔽、無反省。被告人は極悪非道な殺人鬼としての要件を完璧に満たしていると断じているのです」
法廷内に張りつめた空気が生まれ始めていた。弁護人が検察の意図を裁判員に解説するなど、もってのほかの行為だった。
「そうして、被告人は、その訴状に対して、反論もなく認めました。弁護人も検察官の訴状には、何の瑕疵もない、事実だと思っております」
「検察官は、五年前に遡り、犯罪という一本の木を見事に描いてくれました」
「弁護人は、これから、皆さんに、森を見ていただきたいと思っています。その森の中には検察官が描いてくれた木もあります。裁判員の皆さんには、この大きな森を見て、一本の木の正邪を判断していただきたいと思います」
「弁護人は、事件の13年前まで遡ります。被告人は当時中学一年の少女でした。父親は紺野建設という会社を経営し、母親はその会社の専務として働いていました。被告人は社長令嬢として、さぞ優雅な生活をしていたのだろうと思いましたが、紺野一家は貧しく質素な暮らしをしていたそうです。なぜならば、自分たちの生活より困っている人を助けてしまう悪い癖があったと周囲の人が言っています。とびきり優しい、いや、優しすぎる家族だったと、いまだに慕ってくれている人が大勢います」
「父親の経営していた紺野建設はある大手ゼネコンの下請け会社として、仕事もありました。発端は、その大手ゼネコンの社内規則の変更にあります。変更の結果、紺野建設は直系の下請け企業の基準から大きく外れる立場になりました。そのゼネコンの社員だったのが、三番目に殺害された三浦さんでした。紺野建設はゼネコンから約一億円の借り入れをしていました。それは、会社と会社の貸借ではなく、三浦さん個人の力で、別名目で出資していたお金だったんです。なぜ、三浦さんがお金を融通したのかは、後ほど聞いていただく録音にありますが、紺野建設からの二千万円のキックバックにありました。中小企業が生き残るためには、親会社の意向は絶対のものです。親会社の担当者の提案を断る勇気のある社長はいないでしょう。断れば、明日から仕事は無くなるのです。紺野社長も二千万円を三浦さんに渡しました。ところが、親会社の社内規則の変更により、突然、三浦さんは融通していた一億円のお金を取り戻す必要に迫られたのです。紺野建設としては、仕事があり、時間があれば返すことのできるお金でしたが、即座に用意できる金額ではありません。しかも、仕事はなくなるのです。でも、三浦さんは、その一億円を何が何でも回収しなければなりません。結果的に横領になってしまうからです。会社での出世街道を走っていた三浦さんには選択の余地はなかったのでしょう。そこで、思いついたのが経営者保険です。その保険金を返済資金にしようとして、三浦さんは社長夫婦に自殺を強要したんです。社長夫婦の保険金が合わせて一億円だからです。誰でも、はい、そうですかと言って自殺などしません。当たり前です。そこで、三浦さんは被告人を拉致したのです。娘は育てるから、死んでくれ、と言うのが三浦さんの発想でした。これは、立派に営利誘拐だと思うのですが、結果的に社長夫婦は自殺をしました。今となっては、その詳細はわかりません」
鬼塚は水分補給のために、そこで話を切ったが、法廷は静まりかえっていた。
「その時に、保険金の受取りや会社整理に協力してくれたのが、最初に犠牲となった本間弁護士です。紺野建設の整理で得た金額は一億五千万円だったようです。三浦さんが紺野社長との約束を果たすのなら、五千万円は被告人の養育のために使われるべきものでしたが、その五千万円を、三浦さんは本間さんと二人で分けたのです」
「三浦さんも、本間さんもこの事件の被害者ですから、弁護人は、あえて、敬称をつけて話してきました。事件にならなかったら、立派な市民なんでしょうか。非常に抵抗を感じながら敬称をつけていることもわかってください」
「皆さん、これは酷いと思っていますよね。でも、このことが被告人の殺害動機になったのではありません。被告人が殺人という手段に訴え始めた時点では、被告人はこの事実を知りませんでした。両親の自殺は知っていましたが、なぜ自殺したのかを知ったのは、三浦さんの告白を聞いた時なのです。では、なぜ、被告人は、人殺しを始めたのでしょう。そのことをお話しする前に、悲惨な話が苦手な方は退席されることをお勧めします」
「では、少し我慢して話を聞いてください」
「三浦さんには、他人には知られたくない特殊な性癖がありました。ロリコンとSMを合体させた趣味です。少女に暴力をふるい、少女を犯す趣味です。三浦さんは、家を借りて、そこに被告人を監禁しました。足に鎖をつけて、逃亡を防ぎました。死なれては困るので、管理人を雇いました。なぜ、死なれたら困るのか。楽しみがなくなるからです。この場では、とても暴行の具体的内容を話せません。暴行だけではなく性交も常軌を逸したものだったそうです。まだ、中学一年の少女ですよ。当初、被告人は自分の身に何が起きているのかさえわかりませんでした。生傷は絶えません。十分な手当てをしていないので、傷は残ります。被告人の体には、13年経った今でも傷が残っています。女性なら、人前では決して見せたくない体でしょう。弁護人は写真で見ただけですが、泣きました。暴行や性交の話を聞いただけで、私は体の震えが止まりませんでした」
「余りにも苦しくて、辛くて、何度も死のうとしました。でも、残念ですが、死ねませんでした。泣いても、叫んでも、三浦さんの暴行は終わりません。抵抗すればするほど、相手が喜ぶのだと知った時、被告人の心のどこかで糸が切れたそうです」
「でも」
鬼塚は、ティッシュを出して鼻を拭いた。
「でも、それは、地獄の始まりに過ぎなかったんです」
「類は友を呼ぶ、という言葉がありますが、同じ趣味を持つ坂東さんが参加してきました。坂東さんは二番目に殺された人です。次に本間弁護士も参加しました。被告人と同じ奴隷の女の子も二人増えました。顔を合わせたことはなかったそうですが、叫び声と泣き声で、別の女の子が二人いたと証言しています。三人の変態さんは、耽幼会という秘密クラブをつくり、ゲストを参加させるようになりました。その数は推定でも数百人です」
「生き地獄は三年続きました」
「生理中の女性を好む男もいるそうで、三人の少女は365日休みなしです。本物の少女を本気で暴行できるのは、日本で唯一、耽幼会だけだと豪語していたということです」
「私は、この話を、被告人が、今、どんな気持ちで聞いているのかと思うと、胸を締め付けられます。了解はもらっていますが、とても、苦しいです」
「ある日、被告人は逃亡に成功します。16歳になっていました。もう、立派に大人の女性です。雨の中、バスタオル一枚で、裸足で、逃げました。Kさんという方の裏庭で倒れているところを、Kさんに助けられました。高熱を出しながら、病院に行くことを拒んだそうです。何よりも連れ戻されることが怖かったのです。Kさんの献身的な看病で、事なきを得ましたが、あの場で死んでいた可能性もあったのではないかと思っているそうです。全身傷だらけの全裸の女の子に事情が無いはずはありません。Kさんは被告人を遠くから見守っていてくれたそうです」
「Kさんは、五年後に亡くなりました。亡くなる一年ほど前に、Kさんは闇の戸籍を手に入れ、被告人を入籍させました。それは、生活能力に不安のあった被告人に家と財産を残すためでした。結婚しましたが、最後まで男女の関係にはなれませんでした。彼女は恐怖症になっていたのです。Kさんの誠意に対して、なにもできない自分が情けなかった。何もない彼女は自分の体で応えたいと思いましたが、体が震え、硬直し、何もできませんでした。二度とセックスのできない体になっていたのです。Kさんは馬鹿なことは考えるなと言ってくれたそうです。俺に恩返しがしたいのなら生きろと言われました。憎しみを糧にしてでも生きろ。それがKさんの最後の言葉でした」
「その後、彼女が何をしたのか。それは、先ほど検察官が述べてくれた通りです。その続きを話しましょう」
「被告人はナイフを投げて、相手を倒します。手にしたナイフを相手の心臓に差し込む訳ではありません。それなのに、ナイフが肉を裂き、めり込んでいく感触が手に残るそうです。殺人の感触が彼女を苦しめることになりました。暴力に苦しめられ、その苦しみを克服したいと思った被告人は、殺人という暴力を使ったことで、新たな苦しみを生みだしたのです。なぜ、被告人が、これほどまでに苦しみを背負わなくてはならないのですか。そして、今、この法廷は彼女を裁き、三つ目の苦しみを、彼女の背中に乗せようとしている。なぜ、なんです。私には、理解できません。法律って、そんなに偉いんですか」
「終わります」
静寂の中で、裁判長が休廷を告げた。
午後の法廷は証人尋問で始まった。証人は弁護側が申請した目黒警察署の刑事課、的場恭介巡査部長だけだった。
鬼塚は供述調書に関する質問を何点かした。公判前整理手続きでは、調書作成者への質問をすることになっている。
「調書によれば、被告人の殺害予定は五人になっていましたか」
「はい」
「私の見た調書には、その記述はありませんでした。弁護人の見ていない調書があるということでしょうか」
「自分には、わかりません」
「そうですね。後で検察官に尋ねてみます。三人殺害されていますので、殺害されなかった人が二人います。その二人はどこの誰かは、わかっているのですか」
「はい」
「捜査をされたのですか」
「はい。事情をお聞きしました」
「その人は、どのような方ですか」
「異議あり」
検察官が大声を出した。
「弁護人はこの事件には関係のない個人情報を引き出そうとしています」
「裁判長。私は、どのような方かと聞いています。せめて、職業ぐらい教えてもらってもいいと思いますが、何か不都合がありますか」
「あの。それは」
裁判長は言葉を濁すだけだった。
「もう一度、お聞きします。個人情報の漏洩に当たらないように、お二人の方の職業を教えていただけますか」
「はい。お一人は裁判官で、もうお一人は国土交通省の官僚の方です」
「裁判官と官僚」
「はい」
検察官の顔色が変わった。異議を申し立てたのは、証言台にいる警察官に、余計なことを喋るなという意味だったのに、警察官は何の抵抗もなく証言した。警察は検察の下部組織だと思っている検察官にとっては、あり得ないことが起きていた。
「弁護人が被告人から聞いた話では、その二人が足繁く通っていた常連で、暴力も酷かったのでターゲットにしたと言ってましたが、そのことも調書に記述しましたか」
「はい」
「その調書も弁護人は見せてもらっていません。私が見ていないということは、裁判員の方も見ていないということです。裁判員も弁護人も守秘義務があるのですから、見せていただかなくては困ります。では、耽幼会の管理人をしていた女性の名前を知っていますか」
「はい」
「捜査をされましたか」
「はい」
「調書はどうされましたか」
「提出してあります」
「その方を、ここでは仮にBさんとしましょう。Bさんはゲストの名簿を持っていたらしいという話をききました。そのようなものはありましたか」
「はい」
「異議あり。弁護人は本件に関係のない質問をしております」
「弁護人。そうなんですか」
「耽幼会の管理人は多くの事実を見聞きした人物です。どこが関係していないのか理解に苦しみます」
「質問を続けてください」
「はい。その名簿には何人の名前がありましたか」
「およそ、400人です」
「個人の特定はできたのですか」
「いえ。特定ができたのは、約120名だけです」
「では、どのような方がおられたのでしょう」
「異議あり。個人情報の保護からも、不要な質問です」
「裁判長。弁護人は、先ほどと同じように、職業だけをお尋ねします。それ以上の事は質問いたしません」
「職業だけですね」
「はい」
「続けてください」
「的場さん。どのような職業の方たちですか」
「あらゆる職業と言えます」
「例えば」
「政治家とか」
「教師もいましたか」
「はい」
「その他には」
「俳優もいました」
「まさか、お坊さんは、いませんよね」
「いえ。おりました」
「えっ。でも、まさか、検事さんはいないでしょう」
「おりました」
「えっ、ありえません。それなら、警察官もいたのですか」
「はい。残念ながら、いました」
「と言うことは、当然、弁護士もいたんですね」
「はい」
「裁判官の方は」
「被告人の殺害のリストにあった一人だけです」
「そうですか。弁護士は何名いましたか」
「三人です」
「検事は」
「四人です」
「おやおや、その人たちは、少女に鞭を振るったり、ろうそくを垂らしたりしてたわけですか」
「話をしてくれた人は、そうだったようです」
「ありがとうございました。これ以上お聞きすると、吐き気がしますから止めておきます」
検察官は反対尋問をしなかった。
「裁判長」
「弁護人」
「従来から、度々問題になっていますが、検察側の情報統制は度を越しています。裁判員や弁護人が見ることもできない証拠が多すぎます。これで、正しい判断をせよというのには無理があるのではないでしょうか。ぜひ、証拠の全面開示を命じていただきたい」
「努力します」
裁判長の煮え切らない態度に法廷がざわついた。
「では、被告人質問に移ります。検察官」
「ありません」
「ひっ。よろしいのですか」
「はい」
「では、弁護人」
「ありません」
「ええと、では、その、今日の審理は以上で」
「裁判長」
「あ、はい」
「裁判員の方が何も質問されませんけど、裁判長のご指示があるのですか」
「いえ、そのようなことは、その都度、確認しておりますから」
「わかりました」
「では、今日はこれで閉廷とします、明日は」
裁判長の話は誰も聞いていなかった。検察官も書類を片付けているし、廷史も立ちあがっている。傍聴人はさっさと席を立って出口に向かっていた。
鬼塚は法廷を出ていく紺野奈津の後姿を見ていた。何度やっても裁判は疲れる。しばらく弁護人席で腰を落ち着けた。これで16年が勝ちとれるのか、不安がいっぱい。裁判員の無反応が気掛かりだった。
法廷の出口で的場刑事が待っていた。
「お疲れ様です」
「あなたも」
「明日、秋吉が来ます。法廷内で二人で談笑したいと言ってます。握手も」
「へえ。デモンストレーション」
「そのようです」
「あの方は、策士ね。私は、そういうの、好きな方じゃないけど、16年取るためだったら何でもするわよ。キスしろと言われれば、キスもする」
「そう、伝えておきます」
「馬鹿ね、冗談よ」
「わかってます」
「あなたとなら、考えてもいいわよ」
「自分は遠慮しておきます」
「そうよね」
変な警察官だと思っていたが、鬼塚は的場と一生友達付き合いをしてもいいと思うようになっていた。秋吉は的場の事を刑事としての力もある男だと言っていた。遠い、遠い、また、その昔、鬼塚にも青春時代があった。的場のような男が、この世に存在しているのなら、結婚を諦めるべきではなかったのかもしれない。たまたま、恋をした相手が人間としても最低の男だったことで、その反動で仕事にのめり込んだ自分が間違っていたとは思いたくないが、男を見る目がなかったことは確かなことのように思える。

公判三日目は、弁護人の最終弁論と検察官の論告求刑、そして評議を経て判決が言い渡される。傍聴人も増え、マスコミの騒ぎも大きくなっていたが、鬼塚はマスコミの力を信用していなかった。マスコミに笑顔を振りまいても結果はついてこない。法廷内で結果を勝ち取ることが弁護士の仕事なのだ。インタビューにも無言を通した。
鬼塚は、開廷の30分前には自分の席に着くことを習慣としている。最終弁論だけなので、持ち込んだ荷物は少ない。ファイルの最終ページに草案はあるが、一字一句、頭の中に叩き込んだ。見る必要もないが、念のため目を通した。視線を感じて傍聴席の方を見ると、秋吉が軽く会釈をしている。検察官の席は、昨日より人数が増えていた。楽しそうな顔もないし、話し合う様子もない。そっくり、そのまま、お通夜の席に移せば、いい演出になること間違いない。いつ見ても、好きになれない集団だった。
鬼塚は立ち上がって、傍聴席との柵に近づいた。秋吉管理官は声を落として話し始めたが、それは昨日、法廷の出口で的場と打ち合わせした時の話題だった。
「的場君とだったら、キスもありなんですか」
「あの馬鹿」
「彼にとっては、衝撃的だったようですよ。尊敬する先生に言われたもんで」
「冗談に決まってるでしょう」
「ともかく、先生、もうひと押し、お願いします」
「もちろん」
二人は固い握手をして離れた。
傍聴人にはわからないだろうが、この裁判は過去の裁判とは違っていた。いつもは裁判官と検察官が腕を組み、見えない場所で警察官が支えている。その最強軍団に弁護人が挑むのが常だが、今回はその構図がなかった。裁判官も検察官も、我が身が第一。しかも、バックアップの警察官が弁護人と人前で何かを相談をしている。誰にも見えない場所でいろいろな思惑が飛びまわっている様子は、司法関係者の暗闘と言っても過言ではない。
開廷され、弁護人による最終弁論が始まった。
鬼塚弁護士は立ち上がったが、法廷内が鎮まるのを待った。
「弁護人は、裁判員の皆さんに森を見ていただきたいとお願いしました。それは、裁判員の皆さんの良識と良心に、この裁判を委ねることが最善の道だと信じたからです」
「法曹三者という言葉があります。裁判官、検察官、弁護人のことです。今回の事件では、法曹界そのものが事件に関与しています。もちろん、この法廷におられる方々は、私も含めて、この事件に関与していないと信じております。いえ、信じたいと思っております。あってはならないことが、現実に起きたのです。耽幼会という秘密組織に関与していた人間の大半が、いまだに解明されていません。この法廷にいる裁判官、検察官、弁護人がその中に含まれていないという確証はないのです。そんな不確実な法曹三者に人間を裁く資格があるのでしょうか」
「例えば、検察官には求刑する資格がありますか。裁判官には判決を言い渡す資格がありますか。いいですか、加害者が被害者を裁こうとしているんです。これは、独裁者にしかできないことです。私達は独裁者の手先なんですか。この事件は他人事ですか。違います。現実にこの被告人を虐待し、弄び、苦しみのどん底に突き落としたのは、私達なんです。その被告人の罪だけを取り出し、他の事には目を瞑り、裁いて、そのどこに正義があるんです。法律だから、ですか。規則は正義より優先されなければならないのですか」
「正義より利益。正義より規則。誰かのためより自分のため。社会が疲弊し、未来の見えないこの国の中で、せめて、司法だけでも、正義の最後の砦として、踏みとどまることは、無駄なことなのでしょうか。少なくとも、弁護人は無駄ではないと信じています。時代遅れの愚か者と言われるかもしれませんが、我々司法従事者が投げ出してしまえば、もう、後ろには何もないのではありませんか。裁判員の皆さん。裁判が終わっても、正義の味方になってもらいたい、と言っているのではありません。せめて、裁判員として司法の一員でいる間だけでも、正義のために戦っていただけませんか。あえて、愚か者になっていただけませんか。弁護人は無茶なお願いをしているのでしょうか」
「そもそも、なぜ、検察はこの被告人を起訴したのですか。検察はこの事件の全容を知りながら、起訴をしたんです。これを傲慢と言わずに何と言うのです。あなた方は神ですか。それとも、独裁者ですか。コンベアに乗って運ばれてきた案件を自動的に仕分けて、何も考えずに起訴したのですか。コンベアに乗っているは人間ですよ。あなたがたには、不起訴の選択肢もあったんです」
「起訴状の内容を思い出してみてください。その内容は、被告人に罰を与えることだけが目的としか思えない内容でした。その目的のために情報を隠蔽し、真実を隠し、検察の自己満足を充足するためだけの裁判をしようとした。その目的は一体何なんですか。検察の威信のためなんですか。この事件を起訴したことで、検察の威信は大きく傷つきましたよ。本当の目的が別にあるのなら、ぜひ教えていただきたい。それとも、あなた方には、この被告人を裁く資格がまだあると考えているのでしょうか」
「弁護人は、ここであらためて、裁判官と検察官にお願いします。どうか、良識と良心を取り戻していただきたい。法曹界の常識は、良識と良心を担保するものではありません。人間としての尊厳を取り戻していただきたい」
「裁判員の皆さん。弁護人としては、皆さんに託すことしかできません。もし、皆さんの中で耽幼会に関わったことがある方がおられたら辞退していただきたい。そして、司法に代わり評議をお願いしたい」
「さて、ここで、誤解を招かないように、もう一つ、別の側面からの意見を言わせていただきます。弁護士も司法の一端を担っています。ですから、社会秩序の維持に関しては責任を持たねばなりません。皆さんも、私的な報復や復讐が認められていないことはご存じだと思います。それを許せば、社会が収拾のつかなくなる大混乱に陥るからです。被告人は、三人の人間を殺してしまいました。殺されても当然と思われる男ばかりですが、社会秩序の維持という観点から、敢えて、処罰せざるをえないという事情があることも確かです。情としては、無罪を主張したいのですが、何らかのけじめはつけなくてはいけないとも思います。その観点に立てば、検察官も苦渋の選択をせざるをえないでしょう。そのことは理解してあげてください。もっとも、苦渋の決断として死刑を求刑してきたとすれば、検察は権力の驕りという呪縛から解き放たれていないということになります。その時は、どうか検察の求刑を無視して評議をお願いします」
「以上で、最終弁論を終わります」
裁判官の席で話し合いが行われて、裁判員の男性が手を挙げた。
「弁護人の方に質問があります」
この裁判で初めての質問だった。
「あなたは、何年がいいと思っているのですか」
「裁判長」
「どうぞ」
「記録を止めていただくことはできますか」
「記録を」
「はい。弁護人が具体的な量刑に言及することは控えなければなりません。でも、それでは裁判員の方は困るでしょう。個人の参考意見として述べることはできませんか」
「わかりました」
裁判長が書記の男性に言葉を伝えた。
「弁護人としてではなく、鬼塚個人として意見を申し上げます。私見ではありますが、5年から10年が妥当ではないかと考えております。でも、これは、あくまで参考意見です。どうか、そのことをお含みください」
「ありがとうございます」
「他に質問は」
裁判長は裁判員の顔を一人づつ、ゆっくりと見回した。
「では、検察官。論告、求刑を」
検察官は元気のない声で論告を読み上げ、20年を求刑した。
鬼塚は最後まで検察と警察の間で行われた裏取引のことに言及しなかった。それは、検察に最後の逃げ場を残しておいたつもりだが、検察は理解していただろうか。
法廷は三時まで休廷になり、その後に判決が出る。鬼塚にできることはなかった。一旦、事務所に戻るか、ここで待つか。迷うところだ。人影の無くなった傍聴席に秋吉と的場の姿があった。警察官との付き合いは、求刑が出た時点で終わっている。的場一人だったら、時間潰しもいいかもしれない。秋吉は温厚そうに見えるが、鬼塚の目からは権力闘争の鬼に見える。お付き合いをしたいと思う人物ではなかった。
「先生は、三時までどうされるのですか」
「そうね」
「私は戻りますが、的場君は待つそうです。よければ、付き合ってやってくれませんか」
「そうね。私も、やはり事務所に戻ります」
「そうですか。先生、本当に、ありがとうございました」
「じゃあ」
この歳になっても、夢見る少女になれる。女は幾つになっても女なんだ。いい男とだったら一緒の時間を過ごしたいと思っている。それにしても、秋吉は嫌な奴。的場を生贄に差し出してきた。こんな男は事故で死にますように。早急に。
紺野奈津の量刑は10年だった。
翌日、上告の意思があるかどうか確かめるために鬼塚は拘置所に向かった。
「判決に同意出来ない場合、あなたは高等裁判所に上告することができます。どうしますか」
「同意します」
「そう」
裁判の前に、紺野奈津はどんな判決でも受け入れると言っていたが、確認をするのは弁護士の仕事である。それでも、仕事が終わった安堵感はあった。最初に会った頃に比べると、紺野奈津は落ち着いているように見える。だが、女は外見ではわからない。
「あなた、もう、大丈夫なの」
「えっ」
「的場さんが、心配してた。あなたが自殺するんじゃないかって」
「わかりません。でも」
「ん」
「先生。私、悪い人間を嫌と言うほど見てきました。それに、最悪の女も」
「女?」
「私のことです」
「ああ」
「でも、いい人にも沢山出会いました。いい人は、皆、同じことを言うんです。生きろ、って。九鬼も、須藤さんも、的場さんと佐竹さんも、叔母さんも、そして先生も。皆、私が地獄にいたことを知っているのに、鬼のような女だということを知っているのに、同じことを言うんです。苦しんでるのは私なんだから、放っておいて欲しいという気持ちはあります。でも、違うんじゃないかとも思うんです。私のような女に、見ず知らずの人が、そうやって声をかけてくれるのは、なぜなんだろうと思うんです」
「・・・」
「私、体も心も見た目以上にぼろぼろなんです。笑顔も偽物なんです。でも、大勢の人に同じことを言われると、そうなのかなとも思うんです。どこまで、頑張れるのか、自信はありません。朝になると、とりあえず、今日だけは、と思うことにしてます」
「そう」
「ごめんなさい」
「うんん。私は、あなたのような苦しみを味わっていない。だから、私にはあなたの気持はわかっていないと思うの。でもね、私、何にも言わずに、あなたを抱きしめてあげたい。結婚もしていないし、子供もいないけど、お母さんのように、ただ、抱きしめてあげたい。私にあなたの心を救う力はないけど、何もできないけど、ほんとに、抱きしめてあげたい。その気持ちは、嘘じゃない。あなたの苦しみを長引かせることになるのかもしれない。でも、お願い。生きて欲しい。理屈じゃないの。だから、うまく説明できない」
「ありがとう、先生」
鬼塚の所に来る女は、皆、不幸や苦しみを抱いている。自分で命を絶つ女もいる。悲しいことだが、鬼塚の力では、そんな女を救えていない。神の力が欲しいと何度も思った。自分の無力を呪いながらも、少しでも、力になれば。せめて、今日一日。それが、鬼塚という弁護士の人生だった。


12

紺野奈津は栃木の刑務所に移された。拘置所住まいは刑務所の予行演習とも言えるが、刑務所の空気が同一のものというわけではない。奈津が収監されたのは四人部屋で、どの囚人にも特別配慮はない。38号室は無口の佐野さん、ぼやきの山田さん、夢見る太田さんが共同生活者だった。決められた時間に決められたことをする。それが刑務所の生活だった。団体生活なので、いろいろな問題はある。特に、普通の社会生活をしてきていない奈津には戸惑うことも多かった。それでも、38号室は大人しい部屋だったようだ。600人以上の大所帯なのだから、いろんな人がいて、集団生活特有の権力闘争もある。入所早々には裏ボスの脅しもあった。同室の三人を追い出して、三人の女が奈津の前に座った。
「あんた、名前は」
正面に座った大柄な女が低い声で言った。
「・・・」
奈津は、暴力の臭いには敏感だ。静かに、三人の顔を見た。奈津の中から、怒りのマグマが無くなった訳ではない。体の奥底に沈んでいるにすぎない。心に小さな怒りが生まれれば、マグマは一気に湧き上がってくる。一生分、いや、お釣りがくるほどの暴力を受けている。もう、これ以上の暴力を認めるつもりはない。
左に座った女の髪を持って引き倒し、膝で相手の首を制して、親指と中指を相手の両目に置いた。突然の出来事に、残りの二人は唖然とするだけだった。
「私には、手を出さないで」
一般人とは生きてきた世界が違う。怒りのマグマが奈津の体からこぼれ落ちている。三人とも声さえ出なかった。
「この女の目を潰そうか」
「あわあわあわ」
「どうするの」
「・・・」
「私に手を出したら、三人とも死ぬよ。もう、しないよね」
「ああ、はい」
その事件の後、奈津の噂が所内に流れたらしい。三人の男を殺した凶悪犯という噂だった。それ以降、暫くは、部屋の中でも、風呂場でも、食堂でも、腫れものに触るような状態だったが、奈津に権力意識がないことかわかると、次第に落ち着いた。体中の傷が奈津を不気味な女に見せていたのもあって、奈津は一匹狼の座を手に入れた。
自由時間は、教科書を読むだけの静かな囚人。怒りのマグマさえ表に出てこなければ、危険な臭いは全くない模範囚だった。
佐野の無口にも、山田のぼやきにも慣れた。作業をしている時は単調な作業に没頭し、自由時間は教科書に没頭する。何も考えない時間が一番楽だった。
頻繁に面会に来てくれる叔母に、手紙でいいからと説得し、奈津も叔母に手紙を書いた。そうして、一定のリズムで刑務所生活が流れていく。変化が欲しいとは思わなかった。
一年も共同生活をしていると、同室の皆のこともよくわかる。それぞれに癖はあるが、いい人ばかりだと思う。刑務官としか口をきかないと思っていた佐野も、奈津とは話をしてくれるようになったし、山田も太田も、奈津に自分の話を聞いてもらいたがった。裏ボスの遠藤までが奈津の部屋に来る。奈津は何を言うわけでもなく、黙って聞いているだけなのに、話を聞いてもらうと気持ちが落ち着くのだと言う。自由時間が無くなるのは困ったが、誰の話でも聞くようにしていた。女たちの話を聞いていると、いつも感じるのが碌でもない男の存在だった。奈津も、酷い男ならいくらでも見てきた。だが、女たちは不実な男に未練を持っている。信じられないが、それが現実だった。次第に何も答えないカウンセラーとして所内に知れ渡り、38号室にやってくる人が増えた。だが、それは同室の人たちの自由時間を奪うことになるので、奈津は断るようになった。すると、他の人たちが38号室の人間を非難するようになり、施設内の問題にまで発展した。施設側が臨時措置として、独房が空いている時は使用を認めるという案が実現した。受刑者の間では、紺野ルームと呼ばれ、裏ボスの遠藤がその予約を取り仕切ることになった。ところが、その予約に不正があるという評判が立つ。結局、刑務官の監視下にある予約ノートによる運営ということで落ち着いた。紺野ルームは週に一日だったのが、二日になり、今では週に三日開かれることになっている。相談者は紺野ルームに入っただけで気持ちが晴れると言う。何もしていない、ただ話を聞いているだけの奈津は、相談者の思い込みに過ぎないと思っているが、そのことを批判しても意味のないことだと思っていた。それよりも、毎日が忙しく過ぎていくことが有難いことだった。

須藤洋平は、的場刑事から聞き出した刑務所に向かった。二年の刑期を終えて出所した洋平は自分で考案した鍵を手に会社訪問をし、あるメーカーに就職していた。前科があることは隠さなかったが、以前に窃盗を繰り返していたことは黙っていた。開発部門では、洋平のアイデアや助言が喜ばれた。プロの窃盗犯が助言するのだから、役に立って当たり前であったが、会社側はそれを洋平の才能だと思ってくれていた。無理に堅気の生活をする覚悟を決めたのは、旧姓九鬼和子、今は紺野奈津と呼ばれている女が出所した時に身元保証人になるためだった。逮捕されて、刑務所暮らしをして、ほぼ三年になる。九鬼和子と会うことが嬉しいようでもあり、怖いようでもあった。
面会室に入ってきた和子は元気そうに見えた。
「須藤さん」
「元気そうですね」
「もう」
「はい。刑期は終わりました」
「そう」
「怒ってます?」
「何を」
「警察には、僕が」
「ああ、的場刑事に聞きました。どうして、あんなことを」
「あなたに、生きていて欲しかった」
「だって、あなたは逮捕されずにすんだのに」
「頭、悪いから、他に方法が見つかりませんでした。やっぱり、怒ってます」
「とんでもない。感謝してます。もう、殺さなくてもよくなったのは、須藤さんのおかげです」
「よかった」
話したいことは山ほどあると思っていた。だが、話すことがなかった。あの時の事は、昔話をするように、笑い合いながら話せる話題ではなかった。それなのに、二人の繋がりはあの事件しかない。ぎこちない笑顔の後は沈黙になった。
九鬼和子は洋平の知っている、いや、知っていた九鬼和子ではなかった。紺野奈津に戻ったことは的場刑事に聞いていたが、確かに九鬼和子ではなかった。初めて会った時にも殺人鬼には見えなかったが、久しぶりに見た和子は菩薩になっていた。もう洋平には手の届かない場所に行ってしまったのだろうか。
「じゃ。元気そうな顔を見れたので、帰ります」
「そう」
「また、来ても、いいですか」
「えっ」
「いや、いつか、ですよ。いつか」
「はい」
「お元気で」
「ありがとう。須藤さんも」
生まれて初めて恋をして、でも、失恋して。「やっぱなあ」と笑うしかないけど、笑えない。勝手に夢を見て、その夢を勝手に膨らませて、最悪、最低だ。どうしょう。洋平の脱力感を押し流したのは、強い悲しみだった。
それでも、彼女はまだ自分と戦っているのかもしれない。洋平の目には見えないだけで、自分の運命と戦っているのかもしれない。女の気持ちは洋平にとって、いつまでも未知の世界の領域を出ない。
光だと感じるものがなかった洋平の人生。あの時は九鬼和子という女が輝く光に見えた。もう、細い光も残っていないのだろうか。


エピローグ

人並みのサラリーマンになって5年。洋平が開発する商品がヒットして主任になったのはいいが、平社員の時よりは2時間も余分に働かなければならなくなった。マンションの玄関に着いたのはいつも通り10時を過ぎていた。エントランスの郵便受けの前に大きな紙袋を前にして女性が一人立っている。オートロックのマンションではないので、少し不自然だった。照明の関係で陰になっていた顔が洋平を見た。洋平はその場に凍りついた。一瞬だが全ての音が消えて、音が戻ってきたときには洋平は走っていた。
「九鬼さん」
「おつかれさま」
「どうして」
「今日、出所しました」
「連絡を」
「ごめんなさい。こうやって、須藤さんに会いたかったんです」
「ともかく、部屋へ」
「はい」
一年に一度だけと決めて面会に行っていたが、笑顔は見せてくれるが何故か歓迎されていないような印象が拭えなかった。洋平の中では、恋は終わり、遠くで見守るだけでいいのだと納得していた。出所した、その日に行く場所が洋平の部屋だという想像はできなかった。今日だけの印象なのかもしれないが、九鬼和子は洋平の知っている九鬼和子ではなかった。あの凛とした強さも、シャープで危険な匂いもなかった。少女と呼ぶには無理がある年齢だが、陽だまりにいる少女のような印象を受ける。一緒にいるだけで、幸せのオーラに包まれているような安堵感を感じさせてくれる。余りの落差に洋平の体半分は戸惑いの中に置き忘れたような違和感に包まれていた。
「いい部屋ですね」
部屋に入った和子は、入り口で立ち止まったまま、初めての部屋なのに懐かしそうに見渡して言った。
「こっちが」
「寝室です」
「ここは」
「使ってません」
「そう」
独身の洋平が2DKの部屋を借りたのは、九鬼和子を迎える強い意志を自分で納得するためでもあったが、一人では二部屋を使えなかった。失恋してしまったのだから、高い家賃を払う必要はないと思っても、未練が決断を先延ばししてきた。
「座って。冷たいお茶でいいですか」
「はい」
洋平は慌ててグラスに麦茶を入れた。何を話していいのか、何も思いつかない。
「いただきます」
「あっ、はい」
初恋の女の子の前に立った中学生でも、もう少し気のきいたことが言えるのだろうが、洋平の頭の中は混乱していた。
「須藤さん。座ってください」
「ああ、はい」
「最初にお話ししたいことがあります」
そら、来た。これが、やばい。だよな。
「私、ほんとに、須藤さんに助けてもらいました。こんな日が来るとは、思ってもいませんでした。ありがとうございます」
「いえ、そんな」
「八年間、ずっと考えていました。この一年は、この気持ちを須藤さんにどう伝えたらいいのだろうと毎日考えました。結局、ありがとうございます、しかありませんでした」
「いえ」
「直接、須藤さんからは言われませんでしたが、須藤さんが私の事大切だと思ってくれていると的場刑事から聞きました。だから、ここに来たんですが、よかったんですか」
「はい。もちろん。もちろんです」
「私は、どうすれば、須藤さんの気持ちに応えられるのですか」
「それは」
「はい」
「できれば」
「・・・」
「できれば、あなたと、生きて行きたい」
「ありがとうございます。私が、人殺しなのに」
「だからです、この先も共犯者でいたい」
「もう、しませんよ」
「わかってます」
「よかった。それで、お願いがあります」
「はい」
「須藤さんの中で、九鬼和子は封印してください。紺野奈津でもいいですか」
「はい」
「私が、と言うか、私の体が須藤さんを受け入れられる時まで、時間をもらえませんか」
「ええ、僕はその日が一生来なくても、二人でいたい」
「そうはいきません。私は九鬼とそうなれなかったこと、まだ後悔してます。刑務所の仲間の話をいっぱい聞いて、私なりに勉強しました。男と女なんですから、何もないのは不自然なんだと教えられました。だから、今度は、須藤さんと一つになりたい。そうでないと二人で生きて行くことにはならないと思ったんです。まだ自信はありませんけど」
「僕は無理したくない」
「ありがとう」
「僕は、ずっと、そう思ってきましたから」
「ええ。それと、もう一つ、いいですか」
「はい」
「多分、私のとこへ大勢の前科者が来ると思うんです」
「聞いてます」
「たいしたことはできないけど、受け止めてあげたい」
「もちろんです」
「よかった」
「よかった」
「私、出すぎたことしてますよね」
「いえ、僕、苦手だから、ほんと」
「あの時、あなたを殺さなくてよかった」
「ほんとに」
「須藤さんとなら、やり直せるかもしれない。世話かけてばかりだけど」
初めて、二人は恋人のようにお互いの目を見つめ合った。
「九鬼さん。いや、紺野さん。食事は」
「まだですけど、紺野さんは変ですよね。私、洋平さんと呼んでいいですか」
「ええ」
「私のこと、奈津と呼んでください」
「奈津さん、ですか」
「それも、変。なっちゃんにしましょうか。子供の頃はそう呼ばれていました」
「なっちゃん。いいですね」
「洋平さん、食事は」
「まだです」
「何か材料あれば、作ります」
「いえ、カレーでよければ」
「洋平さんが」
「料理はだいぶ上達しましたよ」
「食べてみたい」
                                了



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陽だまり 3 [陽だまり]




洋平は店長に嫌味を言われながらも、コンビニの仕事を辞めていた。三浦を殺した後の九鬼和子の様子が心配だった。一言も喋らない。笑顔がないだけではなく表情がない。何もしようとしない。その結果、何も食べない。洋平が作ったものは機械的に食べてくれるが、自分の意思で食べているようには思えない。夜は狛江の自分の部屋に戻るが、翌朝九鬼邸に来ると、和子は前の夜と同じ場所にいる。眠っているようには思えない。そんな状態の和子を独りにしておく勇気はなかった。
知らない方がいい真実があると言われていることは正しいのかもしれない。そして、その真実を暴こうと持ちかけたのは洋平だった。こんなことになるのなら、と思ってみても後の祭りだった。九鬼和子を絶望のどん底に叩き込んだ責任は自分にもある。両親の死は、自殺とは言えない。両親はどんな想いで足元の椅子を蹴ったのか。娘の無事を祈ってか。最初から娘という存在そのものがなければ、自殺する必要はなかったのではないだろうか。洋平でもそのぐらいの想像はつく。何のために。それは、一人の卑劣な男の自己保身が唯一の目的だったとしたら。和子の中では、その卑劣な男を殺したとしても、それで決着がついた訳ではないのだろう。時間を13年巻き戻し、幸せな家族の中で、それまでの時間を続けていくこと。それ以外の決着はない。洋平にはかける言葉が見つからなかった。黙って見守ることしかできない。和子に残された道は自死しかないように思えた。一度も会ったことがない人だったが、洋平は九鬼竜平のことを思った。九鬼竜平は愛する妻に生きていて欲しかった。いや、愛する妻の心の中で九鬼竜平が生きていたかったのかもしれない。だから、憎しみも生きる糧になると言ったのだろう。洋平は自分の胸に問いかけた。「俺はこの人を愛しているのか」と。恋愛経験のない洋平には答えようがなかった。だが、一日一日、時間が過ぎていく分だけ、生きていて欲しいという気持ちが強くなる。だが、それはこちら側の勝手な都合であり、傲慢に過ぎないのではないか。死にたいと願う人間に生きることを無理強いすることは、どこまで行っても、こちらの勝手なのではないのか。それでも、人の気持ちなど変わるものだとすれば、いつの日か、生きていてよかったと思うことがあるのではないか。万人にとって正しいことなど存在しないということを思い知る。死ぬことも生きることも選べない時は、どうすればいいのか。
洋平は黙々と料理を作って、和子に食べさせ、何も言わずに横にいることしかできない。自分の中で答えが出るまで、その状態を続けるしかなかった。
和子が、自分の手の平を眺め続けるようになった。肉に食い込むナイフの感触が残るのだと言っていたが、今はその人殺しの手を見て何を思っているのだろう。和子の中で止まっていた時間が動き出したのか。だとすれば、どこに向かって動き出したのか。洋平は自分の部屋に帰ることを止め、九鬼邸で夜を過ごすようになった。仮眠しかできないが、とても和子から目を離すことはできない。朝、冷たくなっている和子に会うことなど、断じて認められない。
三浦殺害から二週間ほど過ぎたある日、今夢から覚めたという表情で和子が洋平を見た。
「須藤さん」
「・・・」
「何、してるの」
「・・・」
突然、洋平の目から涙があふれ出した。
「どうしたの」
言葉を出せば、大声で泣き出してしまいそうな予感がして、何も言えなかった。洋平は独りで裏庭に出て泣いた。
暫くして和子が庭に出てきた。
「私、あっちに、行ってたみたいね」
「ああ」
「九鬼と出会った時も、そうだった」
「ああ」
「台所が、私のやりかたと違う。須藤さんが、してくれたんだ」
「ああ」
「もう、大丈夫」
「えっ」
とても大丈夫には見えない。
「もう、終わりにする」
「はあ?」
「あとの二人は、止める」
「そんな」
「あれっ。須藤さん、賛成してくれると思ったのに」
「駄目ですよ」
「どうして」
「どうしてって。僕、そういうの駄目なんです。この計画に参加する時、僕にしたら大決断だったんです。三人と決めたら三人でないと駄目なんです」
「はあ?」
「そうしましょう」
「へえ、わからない。この話はまたにしましょう。私、地面に吸い込まれそう。疲れてるの。眠ってもいい」
「はい」
「ごめんね。眠る前にお礼を言いたかった。ごめん」
和子は、ふらふらとした足取りで家の中へ戻って行った。あと二人の殺害目的を放棄してしまえば、和子が生きている目的は無くなってしまう。殺人計画だろうが何だろうが、今は生きていてもらわなければならない。次の条件が、生きる条件ができるまでは、生きていてもらわなければ困る。
和子は丸二日間眠り続けた。だが、洋平は仮眠しかとれなかった。何度考えても、どう考えても堂々巡りにしかならない。それは、和子と洋平の向かっている方向が真逆だから。生きることは和子の苦しみになり、和子が死ぬことは洋平の苦しみになる。洋平は自分が和子のことを好きになっている、いや、かけがいのない相手だと思っていることに気づいていた。だから、こんなに苦しい。和子は洋平のことを、親切な協力者としか見ていないだろうが、それはそれでいい。何か方法を考えなければならない。
「須藤さん。まだいてくれたの」
「はい」
「私、まだ変なの。何度も意識失くすと思う。前もそうだったから。だから、もう、いいわよ。須藤さん、仕事もあるし」
「そんなわけにはいきません」
「そう」
「今、何か作りますから」
「もう、いいよ」
「駄目です」
「もう、楽になりたい」
「お願いです。そんなこと、言わないでください」
和子の敵は警察ではなく、和子の中にいる自分自身なのだ。自分を失うことでしか、自分でいる方法はない。どこにも、逃げ場はない。どうすればいいのだ。九鬼と暮らしている時に、和子は同じような体験をしているようだ。でも、憎しみを抱き締めることで戻ってきたじゃないか。憎しみ以外に生きる意味を与えてくれるものはないのだろうか。
一人の男の保身と快楽のために、地獄に落とされた家族。その男に報復をしたことで、更なる地獄に落ちている人間がいる。このまま、死んでしまったのでは酷すぎる。こんなの、おかしいだろう。
和子は明らかに病気だと思われた。一進一退の症状は続き、洋平は無言で介護に専念した。正常な和子に戻った時の生活は普通だったが、自失の時は洋平の言いなりに動いてくれるようになった。洋平の指示に従って風呂にも入る。和子は洋平の前で全裸になり、体を洗われても無表情だった。火傷の跡や切り傷の跡が何か所もある。監禁されていた壮絶の3年間を想像すると、洋平の体からも力が抜けてしまう。洋平は泣きながら和子の体を洗った。だが、和子は洋平の前で自分が全裸になったことを憶えていないようだった。
殺害計画もネットでの情報操作も空白になっている。洋平は和子を生かす方法ばかりを考えていて、他の事を考えるゆとりはなかった。事件がどうなっているのか、新聞もないし、テレビも見ていない。事件の事は気にならなかった。
和子が自分の命を絶たずに、病気になることで生きているのは、洋平の許しが出ないことが最大の要因だと思えた。協力者になってくれた洋平に対する義理のようなものだけが和子の決断を止めているのではないか。「もう、いいよ」と洋平が言えば、そこで和子の命は終わるのだろう。言えない。いや、言ってやりたい。
和子も痩せたが、洋平も痩せた。こんなやり場のない悩み事をするのは初めてだった。それでも、洋平の頭の中では整理されたことがある。和子にとっての一番は、自分の手で命を絶つことである。二番はない。洋平にとっての一番は、和子に生きていてもらうことである。どちらも譲れないとすれば、二番を捜すしかない。その二番は問題山積みだが、洋平は決心した。自分が最低最悪の人間になることを受け入れるしかない。和子には更なる苦しみと悲しみを背負ってもらうことになるが、許してもらいたい。
和子の病状が軽くなった時に、洋平は出かけるようになった。一人で計画を立て、一人で実行しなければならない。
以前に川崎駅の近くで、携帯電話の裏取引を目撃したことがあった。売人は自分のテリトリーで取引したいと思うだろう。同じ場所は危険だか、東京や横浜まで足を伸ばすことはないと思った。自分が売人だったら、どこがいいか。そういう場所を徘徊した。40代の頭髪がかなり薄くなった男で、競輪場でよく見かけるちょい悪の雰囲気で、高架道路のわき道で目だけが動いている怪しい男だった。洋平は遠くからその男を見張った。しばらくすると、これも挙動不審な若い男が近づき、取引が始まった。洋平は取引の終わった売人の後をつけて部屋を見つけた。その男の行動パターンを調べる。どんな人間でも特徴があるものなのだ。三日後にその男のアパートに入り、携帯電話を2台盗んだ。
次にパソコンにかじりついて、過去一カ月の社会情勢を読み始めた。まだまだ、必殺処刑人の話題は衰えをみせていなかった。洋平がダミーの書き込みをしなくても、三浦の殺害は必殺処刑人の犯行だと言いだした奴がいて、それは既成事実のようになっていた。模倣犯を装って書き込みをした人間が警察に逮捕されている。警察の捜査は、それほど進展しているようには見えない。新聞の論調には、警察批判の部分が表に出始めている。法の不備も問題視されていて、庶民の不安も膨らんできている。
洋平は渋谷の公衆電話から目黒署に電話をした。
「刑事課の的場さんをお願いします」
「はい。あなたは」
「渋谷といいます」
「少しお待ちください」
しばらくして、男が電話に出た。
「的場ですが、どちらの渋谷さんですか」
「以前に友達が的場さんのことを話してました。ナイフを捜してますよね」
「ええ」
「そのナイフのことで話したいことがあるんですが」
「どういう話ですか」
「いえ、それは会った時に話します」
「いいですよ。いつです」
「今からでも」
「場所は」
「駅前の本屋の入り口」
「あなたの目印は」
「僕が捜します」
「わかりますかね」
「的場さん。刑事さんでしょう。わかりますよ」
「ほう」
洋平は本屋の入り口から少し離れた場所で待った。
中肉中背の、一見したところ刑事には見えない男が人を捜している。だが、洋平にはその男が的場と言う刑事だとすぐにわかった。顔がわかればいい。
翌日、的場の自宅を突き止め、更にその翌日、家族を調べた。
最初の電話から三日後に、洋平は目黒署に電話をした。渋谷と名乗るとすぐに的場刑事が電話口に出てきた。
「的場です」
「的場さん。ひどいじゃないですか。まさか、刑事さんにすっぽかされるとは思いませんでしたよ」
「とんでもない。僕は行きましたよ」
「えっ、そうなんですか」
「いつ、会えますか」
「いえ、今日は、無理なんです」
「そうですか。いつでも話、聞きますよ」
「はい。都合がついたら、また電話しますよ。あっ、そうだ、携帯の番号、いいですか」
「携帯ですか。この電話でもいいですけど」
「的場さんは、一日中、おられますか」
「いや。そうでもないですけど」
「そうですか。一寸面倒ですね。又にしますよ」
「あっ、一寸、待ってください」
「刑事さんに内緒の話するのって、大変なんだ」
「携帯の番号、言います。ぜひ、電話ください」
「そうですか」
これで、的場刑事の携帯電話の番号はわかった。後は、会って話すだけだった。
世の中には、キーを付けたままの車が多い。特に商用車にはその傾向が強いようだ。そんな車を拝借して、洋平は的場の帰路を待った。的場は遅い時間にお寺の横の道を歩いて帰る。警察官だから暗い夜道も平気なのだろう。狭い道路だが対向車はなんとかすれ違うことができる。
バックミラーに男の人影が現れた。洋平は的場の携帯番号を押した。男が携帯を取り出して耳に当てる。
「的場さんですか。渋谷です」
「ああ」
「今から、お話できますか」
「いいですよ」
「的場さんの目の前に、ライトバンが止まってますよね。見えますか」
「なに」
「ブレーキ、踏みますよ。ブレーキランプ、見えました」
「君は、何者だ」
「ナイフの話です。どうしますか」
「・・・」
「危害は加えません。話をするだけです」
「わかった」
「後ろのドアから入ってください」
車のドアを開けた的場の体には緊張が見て取れた。
「ドアを閉めてください」
「どういうことです」
「すみません。驚かせてしまったようですね」
「君は誰だ」
「どうしても、あなたと個人的に話がしたかったんです。先ず、これを見てください」
洋平はタオルに包んだナイフを後部座席の的場に渡した。
「これは」
「捜してるナイフは、それでしょう」
「これを、どこで」
「それを今からお話しますが、その前に聞いておいて欲しいことがあります」
「ああ」
「僕を逮捕しても、警察では何も喋りません。今、的場さんはナイフを持ってますから僕を刺すこともできますが、警察官がそんなことはできませんよね。もちろん、僕があなたに危害を加えることもありません。僕と取引することで、警察は連続刺殺事件を解決することができます」
「取引だと」
「最後まで聞いてください。僕は四人目の犠牲者も五人目の犠牲者も出したくない。ネットの騒ぎも治めたい。そのための条件を一つだけお願いしたい」
「条件」
「僕の条件は、犯人に対する求刑を20年以下にしてもらいたい。それだけです」
「警察と求刑は関係ない」
「わかってます。的場さんに検察と交渉して欲しいんです」
「それは、無理だ」
「すみません。言い方が悪かったですね。的場さん個人が交渉するのではなく、警察が検察と交渉するという意味です」
「それでも、無理だ」
「それは、何人殺されても、ネットがどんなに騒いでも、いいと言うことですか」
「そうは言わない。でも取引はできない」
「放っておけば、現実に模倣犯が出ますよ」
「残念だが、出来ないんだ」
「では、これを聞いてください。編集はしていますが、付け加えてはいません」
洋平はカセットテープを入れてスイッチを押した。
それは、三浦の告白テープだった。三浦本人の名前を除き、ほかの名前の部分は消してある。的場刑事はそのテープに聞き入った。テープの再生が終わり、洋平はテープを取り出してから、ガスバーナーを当てた。車内はプラスチックを燃やした異臭がした。それは、あっという間の出来事で、的場は声にならないようだった。
「渡すことはできませんが、これが、求刑20年の材料です」
「君は」
「こんな人にも、検察は死刑を求刑するんですか」
「犯人は、紺野奈津」
「ほう。そこまではわかってるんだ」
「そうなのか」
「でも、紺野奈津は見つかりませんよ」
「だろうな。ずいぶん捜したが、見つからなかった。たとえ写真を公開したとしても、これだけ時間が経っていれば、難しい。それでも、取引は無理だ。警察にそんな力はない。取引を持ちかければ、検察は意地になって拒否するだろう」
「やってみなければ、わからないでしょう。取引はあくまでも裏取引です。次の犠牲者を出さずに事件は解決するんです。他に何が重要なんです。警察や検察の面子ですか。建て前ですか。そんなのおかしいでしょう。そんなのは、三浦と同じ精神構造じゃないですか」
「確かに。僕もそう思うよ。でも、勝算はない。残念だが」
「交渉する気もない、と言うことですか」
「それよりも、なぜ、君はこんな危ない橋を渡るんだ。内部分裂なのか」
「僕は、彼女に生きていて欲しいだけですよ。このままでは、紺野奈津は死ぬしかない。聞いたでしょう。これだけ痛めつけられて、地獄の苦しみを嘗めて、報復しても、彼女には自分の命を絶つことしか選択肢がない。こんなの、おかしいでしょう。悪いのは三浦であり、本間であり、坂東ですよ。何をやっても、ばれなければいいんですか」
「自分の手で処刑しなくても、告発すればよかったんだ」
「あんた、本気でそんなこと言ってるのか。告発だって。誰がそんなもん聴いてくれる。誰が証拠を暴いてくれるんだ。馬鹿なこと言わないでくれ」
「すまん。君の言う通りだ」
「あんたは、交渉する気もないんだ。僕も軽い気持ちでこんなことやってる訳じゃない。僕自身も命を賭けてる。話を聞いた以上、あんたには警察を辞めてもらう。理屈が通らないことは承知してるけど、この話は何も聞かなかったことにしてもらう。警察官でいたら、聞かなかったことにはできないだろう」
「それは、できない」
「奥さんや娘さんに、危険があってもか」
「なに」
「僕は、10年でも20年でも、時間をかけてでも目的は果たして見せる。理不尽だと思うだろう。紺野奈津もそんな目に遭ってるんだ。僕は許さない」
「待て」
「自分が、自分の家族が、卑劣な男の犠牲になる。それでも、あんたは警察の面子の方が大事なのか。僕は三浦になってやる。あんたにそれを止める力はない。だから、警察を辞めるように言ってるんだ」
「待て。一寸待ってくれ。考える」
的場は頭を抱えて下を向いた。この賭けが裏目に出た時は、洋平たち二人は危なくなる。
「交渉するだけで、いいのか」
「いや。約束を取り付けなきゃ駄目だ」
「僕には家族が一番大事なんだ。家族を脅しに使われたら、負けるしかない。君が本気なのはわかる。でも、成功する自信がない。どうすれば、いい」
「そんなこと、そんなことは、あんたが考えろ」
「それはないんじゃない。君にだって考える義務あるだろう。違うか」
「まあ」
「時間をくれ。考えようじゃないか。二人で」
「ああ」
「いいか。犯人が紺野奈津だとしよう。紺野奈津の両親は自殺と言うより、あれは三浦に殺されたようなもんだ。従業員だった人も、社長夫婦を悪く言う人はいない。あんないい人がと言ってた。その上に、さっきのテープだ。テープが偽物じゃなかったら、三浦という男は鬼だ。紺野奈津が復讐するのは、わかる。だけど、これは、あくまでも人の情としてだ。社会は情だけでできてる訳じゃない。報復とか復讐を認めないというのが、検察の基本姿勢になってる。でなきゃ、世の中殺し合いになる。だから、検察も正しい。紺野奈津は三人殺してるんだろう。それを、20年にしろと言われて、はい、わかりました、と言うか。それは、無茶だ」
「じゃあ、次々と死人が出てもいいのか。事件が解決しなくていいのか」
「それは、検察の問題じゃなくて、警察の問題なんだよ。警察は事件を解決したいし、次の殺人は阻止したい。だけど、求刑を決めるのは検察なんだ」
「そこを、なんとかしてくれと言ってる」
「さっきから、そこで困ってるんだ」
「お願いします。なんとかしてください」
「はあ?」
「あの人は死んでしまう。それじゃ、酷すぎる。酷すぎるよ」
「紺野奈津のこと、好きなのか」
「たぶん」
「ともかく、よく考えてみよう。安請け合いできるようなことじゃない」
「わかった」
「いいか、僕の家族には絶対に手を出すな。そうなれば、僕も殺し合いの輪に入っていく」
「わかった。でも、頼みます」
「僕はまだ、引き受けたとは言ってないからね」
「次の犠牲者は裁判官だ」
「裁判官」
「その次は、エリート官僚」
「そいつらは」
「常連の変態野郎。死んでも惜しいような男じゃない」
「そうか」
「降りてくれ。また連絡するから」
「これは」
「そのナイフは証拠品。いっぱいあるから」
洋平は的場刑事をそこに残して車を出した。しばらく走って帽子とマスクをとった。自分は喋り過ぎたのだろうか。あの刑事がこちらの要求を無視すれば、警察は紺野奈津を本気で捜し始めるだろう。あの刑事は紺野奈津のことも調べていたのだから、九鬼和子に辿り着く可能性も無いとは言い切れない。もし、和子が逮捕され死刑になったら、それは自分のせいだと思う。その時は的場刑事の家族を殺して、自分も死ぬしかないだろう。でも、そんなことがこの自分に出来るのだろうか。辛い過去も時間が癒してくれる。そんな言葉に賭けたことが、そもそも間違いだったらどうするのだ。刑務所の20年が、ほんとに和子を救ってくれるだろうか。刑務所なら自殺できないと思ったのは正しいのか。不安材料は山のようにあった。




翌朝、的場恭平はナイフとタオル、渋谷と名乗った男の携帯電話番号と車両番号を佐竹に渡して、調査を依頼した後、野本課長を取調室に連れ込んだ。
「何があった」
「はい。夕べ、男に待ち伏せされて、取引を持ちかけられました」
「誰」
「ナイフのことで話があるという電話をしてきた渋谷と名乗る男です」
「ああ」
「偽名だと思います」
「で、何の取引」
「犯人を教えるから、検察と交渉して求刑を20年にしてもらいたい、という要求です」
「で」
「それが出来ない時は、私の家族に危害を加えると」
「穏やかじゃないな」
「はい」
「どう答えたんだ」
「時間をくれるように言いました」
「ガセじゃないのか」
「本気だと思います。ナイフを預かりました。ナイフは鑑識に渡しました」
「あのナイフか」
「全く同じものです」
「でも、うちでは、どうにも出来ないことだ。ということは、お前の家族に何かが起きるということか」
「はい。多分、殺人」
「そんなもん、保護してみせるよ」
「10年でも20年でも待つと言われました。話の内容を誰にも言わずに警察官を辞めるなら見逃してくれるそうです」
「はったり、じゃないのか」
「違うと感じました。第四の犠牲者も第五の犠牲者も出したくないし、ネットの騒動も治めたいと言ってました。次のターゲットは裁判官だそうです」
「裁判官。全部、怨恨なのか」
「はい。次の犠牲者を出さずに、この事件を解決する。その交換条件が求刑20年です」
「もし、それがほんとの話なら、警察にはありがたい話だが、検察が首を縦に振ることはない。逆に捜査に問題があると言ってくるだろうな」
「はい。自分は警察官を辞めるしかないでしょうか」
「まあ、待て」
「自分は家族を犠牲にするつもりはありません」
「だから、一寸待て」
課長も困るだろう。恭平も一晩中、思い悩んだ。現在でも警察の威信は地に堕ちている。これで模倣犯が現れたりしたら、警察の威信を通り越してしまう。事件を早急に解決することが求められているのに、事件解決の糸口も見えていない。
「ともかく、私が預かる」
「いつまで、ですか」
「わからん」
「次の電話で結論を伝えなくてはなりません」
「いつだ」
「わかりません」
「先ず、お前の家族に護衛をつける」
「待ってください。それがばれたら、宣戦布告になってしまいます」
「じゃあ、引き延ばせ」
恭平は刑事課の部屋に戻ったが、何もやることがなかった。理屈は渋谷という男の方が正しい。だけど、社会は理屈で出来ているのではない。だから、渋谷の理屈が通ることはない。だったら、警察を辞めることが自分にとっては一番正しい選択になる。納得していた職場だったが、家族の安全と引き換えにできるほどの職場ではない。やはり、これで決まりだ。恭平は引き出しの奥から封筒を取り出した。ついに日付を埋めることになった。
「それ、何です」
「えっ」
佐竹が部屋に入ってきたことに気付かなかった。
「辞表。なんで」
「後で話します」
「何があったんです。相棒を無視するのは、まずいんじゃないですか」
「そういうことでは、ないんです」
「ナイフから指紋は取れませんでした。タオルにも何もありません。車は盗難届が出てます。携帯は持ち主を捜査中です。これ、全部、説明してください。報告に来たら、辞表とにらめっこ。わけ、わかりませんけど」
「すみません」
「謝らないでください。説明して」
「今は、まだ、説明できません」
「へええ、そう。そうなんですか。どいつもこいつも一緒なんだ。秘密、秘密、秘密。刑事課なんて、クソ食らえよ」
佐竹は手にしていた恭平の辞表を叩きつけて、部屋を出て行った。佐竹なら怒るだろう。恭平は辞表に日付を書き込んでポケットにしまった。
捜査本部所属になっている地域課の先輩が部屋に来た。
「的場。署長室で課長がお呼びだ」
「はい」
「何、やったんだ」
「いえ。大丈夫です」
恭平は先輩に頭を下げて、署長室へ向かった。
署長室には、管理官と野本課長の二人が待っていた。
「説明しろ」
「はい。課長にご報告した通りです」
「いいから、お前の口から言え」
恭平は課長に報告した範囲のことだけを報告した。
「的場君は、これがガセだとは思っていない。そうだな」
「はい」
「それは、ナイフなのか」
「はい」
「それだけか」
「・・・」
「他にも、あるのか」
「申し上げられません」
「どういうことだ」
「すみません」
恭平はポケットから辞表を取り出して、横にいる課長の前に置いた。
「こんなもんで、事が済むと、思ってるのか」
「すみません。でも、家族を危険に晒すことはできません」
「ともかく、座れ」
「いえ」
「いいから、座ってくれ」
野本課長に静かに言われると、座るしかない。
「具体的なことは聞かない。的場君の感触を聞かせてくれ」
「はい。あの男は本気です。取引が成立すれば、新たな犠牲もなく事件は解決します。成立しなければ、自分の家族は間違いなく殺されます。自分が何も話さずに警察官を辞めれば、家族に危害は加えないという約束を取り付けました。ですから、これ以上詳しい話はできないんです。検察が取引に応じることはないと、自分も確信しています。でも、自分のような若僧にはわからないことがあるかもしれません。そんな確率に期待した自分が間違っていました。申し訳ありません」
「私は、やってみる価値があると思います。相手は無罪を要求してきているのではありません。私もそこに本気を感じています。捜査の進展が期待できれば、こんな取引に耳を傾ける必要はありません。相手がドジを踏むまで殺しをさせておくこともできません。それと、心配なのは、模倣犯が出てくることです。社会不安が増大すれば、警視庁だけではなく、警察全体の責任を問われることになります。ここまで来ると、お宮入にして蓋をするだけでは収まりません。社会的影響が大きくなりすぎました。この事件は、もう時間との勝負になっているのです。それなのに、我々には一枚のカードもありません。潮時だと思います。もちろん、このことはここにいる人間以外に知らせるつもりはありません。取引のとの字も知られてはなりません。その上で、私はこの取引を成功させることを進言します」
「的場君」
それまで一言も発言しなかった本庁の管理官が発言した。
「はい」
「君は、この20年をどう思った」
「法律的な根拠はありませんが、仕方ないな、と思いました」
「そうか。わかった。本庁に持ち帰ります」
「管理官」
「このままだと、何人も腹を切る人間が出ますよ。的場君の次は野本課長が辞表を持って署長室に来るでしょう。それで終わらないのが、今度の事件の怖いところです。社会制度が脆弱になっていることで、犯罪予備軍はつまらない理由で一線を越えてしまう。それでも警察官は責任を取らされる。有能な人材が散逸して、警察の弱体に拍車をかけることはやめておきたい。そうは思いませんか」
本庁の人間に面と向かって反対出来る人間はいない。
「的場君。その辞表はもう少しポケットに入れておいてくれませんか。ゴーがかかれば、君にも一緒に行ってもらいたい。検察は頭固いから」
「はい」
「結果を出しましょう、野本さん」
会議は終わり、恭平は課長に連れられて取調室に入った。
「もう、わかっていると思うが、この件は誰にも話さないでもらいたい。家族にも」
「相棒にも、ですか」
「そうだ」
「ちゃんと話をしておいて、口止めした方が確実じゃないかと思います。ここまでの捜査は全て知ってますので、なぜ、突然、犯人に辿り着いたのか、不思議に思うでしょう。自分が逆の立場なら、疑います。口止めしていない訳ですから、推測を誰かに話すかもしれません。佐竹さんは鋭い人ですから、かなり正確に推測すると思います。それと、自分も動きにくくなります」
「相棒を変えようか」
「そんなことしたら、確実に噂は流れます。こちらに引き込んでおいた方が安全だと思います」
「相手は交通課の巡査だからな」
「でも、優秀ですよ。刑事としても」
「そこまで言うなら、そうしょう。ただし、決まってからにしよう」
「はい」
「私に話していないことは、多いのか」
「はい」
「君は変わった警察官だな。第一線の捜査官なのに、優先事項の一番に家族がある。私の感覚ではありえない警察官に見える。ところが、捜査を本筋に戻し、解決の糸口を掴んでくる。新しい警察官なのかもしれんな」
「そんなこと、ありません」
「私の先輩に、自称ラッキー刑事という人がいた。自分は何もしてないのに、なぜか事件解決のポイントにいる。そう言ってた。ご本人は謙遜していたのだろうけど、不思議だった。君は似てる。犯人が、なぜ、君に接触してきたのかな」
「わかりません。なぜ、自分の名前を知ってたのか、わからないんです。本音では、迷惑だと思っています。退職に追い込まれたのは、あの男のせいです。自分はこの仕事好きですから、ほんとは辞めたくありません」
「そうか。この事件では、不思議な警察官に会う。管理官もそうだ。あの管理官をどう思う」
「自分にはわかりません」
「私は多くの警察官を見てきた。キャリアの人も。あんなキャリア、初めてだよ。頭がいいだけではない。スケールが大きい。初めてキャリアの存在を認める気になった。検察との交渉は、管理官と君の二人でやることになるだろう。よく、見ておくことだ」
「はい」
「連絡あるまで、待機。いいな」
「はい」
どうも、居心地が悪い。署を出て喫茶店で時間を潰したいと思うが、無責任だと言われるのもいい気分ではない。結局、自分の席しか行く場所はなかった。あの男はどこで恭平の名前を知ったのか。大勢の人間に会って話を聞き、名刺を渡してきた。関係者の延長線上にいることは確かだが、それは誰だったのだろう。いろいろな人間の顔を思い浮かべてみるが、思い当たる人物はいなかった。
佐竹が部屋に入ってきて、横の席に座った。
「出したんですか」
「ええ。でも、返されました。明日、出します」
「そうなんだ。お日柄がよくなかったんですか」
「そう言えば、今日は友引だったかな」
「なに、ふざけてるんです。よくも、相棒に無断で、こんなことができましたね。的場さんは、今、最低、最悪の人間になり下がってるんですよ。それで、いいんですか」
「申し訳ない」
「私が、何かヘマしました」
「いや」
「信頼できないと思ってるのは、どうして」
「そんなこと思ってませんよ。話せる段階になれば、話しますから」
「その時は、もう、警察官じゃないんでしょう」
「・・・」
「あああ。馬鹿みたい。的場さんに憧れて、刑事になってみようかな、なんて夢みて。私も、最低、最悪」
二人は無言で座っているしかなかった。最低最悪と言われても話すことはできない。夢を壊した張本人みたいに言われても、あなたの勝手でしょ、とは言えない。それを言えば子供の喧嘩になってしまう。困った。
野本課長が急ぎ足で部屋に入ってきた。
「的場くん。すぐに出発してくれ。秋吉管理官は本庁一階の受付で待ってる」
「はい」
「そうだ、佐竹君。本庁まで送って行ってやってくれ。サイレン鳴らしても構わん。急げ」
「佐竹さん。行きますよ」
「はい」
恭平と佐竹は階段を駆け降りた。佐竹は走り出す前からサイレンを鳴らした。
「何なんです、これ」
「話せるかもしれない。急いで」
「はい」
交通課にいるからではないだろうが、佐竹の運転技術は優秀だった。運転席で怒鳴りながら一般車両を蹴散らして進んだ。恭平の仕事は「緊急車両が通ります」とマイクに喋り続けることだけだった。
駐車場には入らずに道路わきに停めて、入口まで走った。
秋吉管理官の姿はすぐにわかった。
「早かったですね」
「はい」
「行きましょう」
「はい」
「上の方で話はつきました。ゴーです。ただし、現場を説得することが条件です。これが、難敵でしてね。カチコチの頭を溶かさなくてはなりません。的場君に期待してますよ」
「はあ」
「元気出してくださいよ。君だけが頼りなんだから。この事案はもうトップまで上がってる。失敗すれば、詰め腹を切らされる人間が大勢いる。僕もその一人だ。ここまで来て、済みませんでしたでは、済みませんよ。ねじ伏せてでも承知させる。いいですね」
「はい」
恭平の声が小さくなった。管理官は歩きながら軽い世間話をしているような口調だったが、恭平の立場から見れば、雲の上の、重々しい出来事に見える。
地検の会議室には四人の男が待ち構えていた。しかも、四人に笑顔はない。
「お時間取って頂き、ありがとうございます」
誰も席を勧めたりしないが、管理官は会議机の反対側に平然と座り、恭介には横に座れと手で示した。
「前置きは省かせていただきます。現在捜査中の連続刺殺事件、別名は必殺処刑人事件のことはご存じでしょうか。必要であれば、その話からいたしますが、ご存じですね」
「・・・」
「ありがとうございます。では、事件の解決が遅れ、もはや社会問題、いや、社会不安にまでなっているという我々の認識に同意いただけますでしょうか。異論がありましたら、お聞かせください」
「・・・」
「この事件は、一日も早く解決しなければなりません。我々は解決の糸口を掴みましたが、解決のためには大きな難題を乗り越えなくてはなりません。それが、今日、お願いに来ました20年の件です。内容はお聞きになって頂いたと思いますが、ご賛同頂けますか、いや、ぜひにも、ご賛同頂きたい。この通りお願いします」
管理官は机に額をつけた。慌てて、恭平も習った。
「秋吉さん。今回の件で、あなたが職務権限を大きく逸脱していることは、ご存じですよね」
「はい」
「本来なら、この話し合いも必要ないところですが、検察上層部の面子もあるでしょうから、お話だけはお聞きすることにしました。最初に結論を申し上げておきますが、この件は受け入れることはできません。そのことを承知の上でお話ください」
「ありがとうございます。詳細はここにいる的場巡査部長からお話させてもらいます。的場君は捜査本部発足時からのメンバーで有能な人物です。よろしくお願いします」
恭平は渋谷と名乗る人物が接触してきたところから話し始めた。テープの内容も思い出せる限り、全ての内容を話した。
「的場君が話した内容は、私を含めて、まだ、誰も知りませんでした。犯人側にとっては非常に不利になる内容が多く含まれています。彼は、この全てを腹に収めて警察官を辞める決心でした。家族を犠牲にしたくないという気持ちからです。彼は、目黒署で一番の愛妻家という変わり種です。辞職の決断は彼にとっては自然の事だったと思います。条件付きながら、おたくの上層部の承諾をいただいたので、この場で話すことを強要したのは、私です。この時点で、私は彼のご家族に対して重大な責任を背負ったことになります。皆さんも信念に基づいて反対されていると思いますので、そのことには何も言えません。でも、この場で、皆さんにも、この的場君のご家族に対する責任が発生したことは承知しておいていただきたい。私は知らんと言って逃げたい方は、それはそれで一つの生き方だとは思いますが、褒めてくれる人は少ないと思います」
「秋吉さん。あなたは検事に対して、脅しで結論を出そうとしてます。警察官としてはあってはならないことですよ」
「脅し、ですか。私は、まだ、脅したつもりはありません。ここで、ご賛同頂けない場合は、本格的に脅しをかけさせていただく」
「馬鹿なこと、言うんじゃない」
「ここは、超法規的措置というやつで乗り切る場面です。八方丸く収めるためには、それしかありません。いろいろな立場の方がいますが、反対してるのは、あなたがた現場の検事だけです。政治家の先生も、警察、検察の上層部も、捜査本部も、現場の警察官も、ここにいる的場君も。誰もがこの案に賛成です。それはなぜか。最大の目的は社会不安の解消です。次に、更なる犠牲者を出さないためです。裁判官や官僚が、幼い少女に卑劣な行為をしてたんです。さらに捜せば、検事も警察官もいたかもしれない。もし、犯人が全てを暴露したらどうなります。あなた方四人で責任が取れると思いますか」
「・・・」
「どうしても、反対されると言うのなら、事の顛末をマスコミにリークします。そうすれば、的場君に責任はないと犯人が納得してくれるかもしれない。私には、どんなことをしてでも、彼を守らなくてはならない責任があります」
会議室が静まり返った。
「この犯人に情状酌量の余地はありませんか。裁判になれば、裁判員裁判になりますよ。もし、検察が死刑を求刑して、10年の判決が出たら、どうするのです。裁判員裁判に大きな課題を残すことになります。八方丸く収めるためには、皆さんの協力が必要なんです」
「時間をくれないか」
「それが、無理なんです。次の電話で、相手に、はっきりとした結論を言わなければなりません」
「電話は、いつ」
「五分後かもしれないし、五日後かもしれない。タイミングを逃せば、もうチャンスはありません」
「2時間だけ、待ってくれ」
「駄目です。一時間で結論を出してください」
「わかった。一時間だな」
「ここで、待ってます」
四人の男が部屋出ていき、管理官は腕を組んで目を閉じた。この管理官は大声を出したり、机を叩いたりする訳ではないのに、圧倒するような迫力があった。捜査本部の上席に座っている管理官を見ている限りでは、大人しいもやしのようなキャリアに見えていたが、とんでもない大物に見えてきた。これが、課長の言っていたスケールの大きさなのかもしれない。
検事が一人だけ部屋に戻ってきた。
「秋吉さん。我々が反対であることは、変わりません。このことは、承知しておいてください」
「はい」
「条件は、この取引が決して表に出ないこと。それと、これはあなたに対する大きな貸しになります。必ず、回収させていただく。よろしいですか」
「はい」
「では」
「20年です。25年でも30年でもありません。20年です。お願いします」
「わかってますよ」
「では、失礼します」
管理官は何でもない会議を終えたように地検の建物を後にした。
「的場さん。もう、途中放棄は認められません。必ず、事件を終わりにしてください」
「はい」
「ところで、的場さんは、どうして、あのネット騒動がダミーだと思ったんですか」
「わかりません」
「刑事の勘、ですか」
「とんでもありません。自分のような若僧に勘の捜査はできません」
「では、虫の知らせ」
「さあ」
「あなたの方向は、真っすぐ紺野奈津に向かってました。やはり、虫の知らせですか」
「はあ」
「どの所轄にも、あなたのような捜査員がいます。それが、警視庁、いや、警察の財産です。できれば、あの辞表は永遠に提出しないでもらいたい。手に余る時は、私に一言、声を掛けてくれませんか」
「はあ」
「あなたなら、自然体で捜査するだけで、大きな力になります。忘れないでください」
「はあ」
「おや。あなたの相棒が待ってますよ」
「えっ」
「私はこの件の始末をつけていきます。捜査本部には戻らないと野本さんに伝えてください」
「はい」
恭平は管理官の後姿に向かって礼をした。退職せずに、事件を解決する可能性を手に入れてくれたのは秋吉管理官の力だった。
「的場さん」
「帰らなかったんですか」
「課長の指示です」
「そうですか。少し待ってください」
恭平は野本課長に簡単な結果だけを伝える電話をした。
「行きましょう」
「はい」
車の座席に座ると、疲れがどっと押し寄せてきた。
「疲れました」
「休憩しててください。安全に署まで連れて行きますから」
「ありがとう」
目を閉じたら、ほんとに眠ってしまったようだった。佐竹に揺すられて、目を覚ました時には目黒署の駐車場にいた。
「着きましたよ」
「はい」
「本気で寝てましたね」
「みたいですね。課長に報告します。佐竹さんも一緒に来てください」
「いいんですか」
「相棒ですからね。そう言ったのは佐竹さんですよ」
「はい」
恭平は取調室に入り、詳細を課長に報告した。
「この件は、報告書、書かなくていい」
「はい」
「捜査本部の中で、このことを知っているのは、ここにいる三人と管理官の四人だけ。この人数を増やすつもりはない。的場君の強い要望があったので、佐竹君にも聞いてもらったが、絶対に他には漏らさないでもらいたい。たとえ、警察官を辞めても話してもらっては困る。約束してもらえるか」
「はい」
佐竹の体が硬直しているのがわかった。恭平も同じ緊張感を持っていた。
野本課長が部屋を出て行った。
「すみません」
佐竹が頭を大きく下げた。
「もう、いいですよ」
「私、足、震えています」
「僕も、地検で震えていました」
「的場さん。ほんとに奥さんの事、愛してるんですね。離婚したら、私が的場さんを引き受けてもいいと思ってましたけど、離婚の可能性、ないみたいですね」
「馬鹿な。でも、家内には、報告しておきますよ」
「止めてください。これぐらいは、二人だけの秘密にしておいてくれなくちゃ」
「ごめん。うちは、秘密なし、なんです」
「もう」
「了解、は」
「あああ」




九鬼和子の病状は波動状態が続いていた。自失状態の時の記憶はないようだ。苦痛が大きすぎて、精神の壊滅を回避するために、自動的に自分自身を切り離す本能の働きなのだろうと思った。今まで、洋平は自分の人生が酷い人生だと思ってきた。和子の人生を垣間見た時、自分の人生などふわふわと飛んでいるシャボン玉に過ぎないと感じている。人間をここまで痛めつけることが許されるだろうか。
洋平が、何も知らずに正義漢面をして、真実を暴く行為に走った結果が、和子を苦痛の底に沈める結果を招いた。和子は、そのことを非難することもしない。洋平は自分を捨てることで償わなければならない。和子が自死を選べば、洋平の未来もない。たとえ、遠い将来でもいい、生きていてよかったという和子の言葉を聞きたい。そのためだけに生きていく。それでもいい。洋平は何でもやるつもりだった。
和子は自分の手は血で汚れていると感じている。自分の投げたナイフが肉に食い込んでいく感触が手に残っていると言った。殺人という罪悪感に押し潰されそうになっている。和子は体験者にしかわからないと言った。そうやって自分で自分を追い込んでいる。たとえ、相手が死に値する男だったとしても、慰めにはなっていない。
洋平は和子を生かすために、拘束を選んだ。断罪され、拘束されることで贖罪の実感が得られれば、生き残る道があるかもしれない。細い、ほんとに細い道かもしれないが、眼前にあるのが死に繋がる道しかないとすれば、たとえ細い道だとしても賭ける価値がある。裏目にでるかもしれないが、選択肢はないと思った。そのためには、刑は有期刑でなくてはならない。警察と取引をすることになるとは思ってもいなかったが、的場という刑事に電話をしたのは冒険に違いないが、時間との勝負になると考えていた。
的場刑事と話してみた結果、求刑をするのは検察の仕事だと言われた。漠然とはわかっていたが、犯罪者にとっては警察の比重が大きいためか、警察と交渉すればいいと考えていた。犯罪者との窓口は警察なのだから。確かに、調べてみると的場刑事の言っていたことは正しい。だが、検事に知人はいないし、個人名は知らない。誰と交渉するのかを決めなければならない。結局、あの刑事に検事の名前を教えてもらう以外に方法はないと思った。
「的場さん」
「はい」
「渋谷です」
「はい」
「この前の件だけど」
「交渉しました。20年で了解が取れました」
「へっ」
「20年でしたよね」
「ええ」
「これ以上の変更は無理ですよ」
「ああ」
「話し合いをしなければなりません」
「もちろん」
「時間と場所を、言ってください」
「ああ」
「どうしたんです。今さら、約束違反は困ります」
「そんなことはしない。でも、のこのこ出て行ったら、逮捕ですか」
「そんなことしても、事件が解決しないと言ったのは、あなたです」
「ええ。ほんとに、20年ですか」
「はい。20年です」
「わかりました。じゃあ、準備ができたら、連絡します」
「渋谷さん。携帯も盗難車も要りません。話し合いに行くのは僕と相棒の刑事二人だけです。卑怯な真似もしません。この前の話で、その位の判断はしてください。僕が信用できませんか」
「いや。でも、もう一度電話をします」
洋平は渋谷の公衆電話の前で、しばらく思考停止に落ちてしまった。そして、渋谷の街を一時間ほど彷徨った。すでに、虎穴に入っているのだから、虎児を得ずに戻るわけにはいかないという結論に達した。洋平は的場刑事に電話をして、車で渋谷まで来るように伝えた。
「渋谷さん。今日はマスクをしてませんね」
車に乗り込んだ洋平に最初に声をかけたのは的場だった。
「あんたのこと、信用することにした」
「そうですか。同僚の佐竹です」
洋平は運転席にいる女刑事に会釈をした。
「20年、簡単じゃありませんでした。今度は、あなたが約束を守ってもらう番です」
「わかってます」
「我々は、どうすれば」
「彼女は、紺野奈津は、今、病気なんです」
「病気」
「医者に見せたわけではありませんし、病名もわかりません。でも、病気なんです」
「そうですか」
「症状が悪くなると、身動き一つしなくなります。その時に連絡しますので、来てください」
「はい」
「僕の希望は伝えましたよね」
「はい。20年ですね」
「それと、彼女に生きていてもらうことです。自殺の可能性は99パーセントあります。逮捕されれば、僕が横にいることはできませんよね。彼女が死んでしまったら、何にもなりません。このことも、約束してくれませんか」
「どうすれば、いいんです」
「24時間監視するとか、自殺出来ないように手足を拘束するとか、どんな方法でも構いません。生きていてくれれば、それでいいです」
「考えてみます」
「今は、四人目の男を殺すまで、死んではいけないと言って、止めています。逮捕されれば、もう殺人はできないので、彼女を止めるものがなくなります」
「わかりました。でも、どうして、彼女が自殺すると確信してるんですか」
「彼女は、最初から、五人の男を殺して、自分も死ぬ計画を立てたんだと思います。彼女はいいことをしてるとは思っていないでしょう。だから、ずっと苦しみながら計画を進めていた。僕は、真相を知るべきだと言い張って、三浦を拉致して告白させました。彼女は両親の自殺の原因を知りませんでした。彼女は地獄の底で苦しんでいると思ってましたが、更に深い地獄を見てしまったんです。もう、殺人は三人で止めると言いだしました。どうして止めるのか。自分の命を絶つためとしか考えられない。僕は約束が違うと責めました。あと二人。それまでは勝手なことしてもらっては困ると言ったんです」
「辛いですね」
「20年後でもいい、30年後でもいい。生きていてよかったという言葉が聞きたいという僕の我儘です。ほんとは、希望通り死なせてやることが、一番いいのかもしれない。それが本当の優しさなんでしょう。でも、このままじゃ、酷すぎませんか。時間と言う魔法に期待している僕の浅知恵かもしれません。生きていることで、より深い苦しみを味わうことになるのかもしれません。それを思うと」
「あなたがしようとしていることが、正しいのか、正しくないのか、ぼくにもわかりません。ただ、僕が渋谷さんの立場にいたら、同じことをすると思う」
「そう思いますか」
「ええ」
「ありがとうございます。少しは気が晴れます」
「でも、あなたも、逮捕されることになりますよ」
「仕方ありません。僕は立派に共犯者ですから」
「彼女が自殺をして、あなたが知らぬ顔をしていれば、警察に捕まることもない。あなたは自由です。どうして」
「そんなこと、できませんよ。的場さんなら、そうしますか」
「いえ。しません」
「僕は更なる苦しみを与えようとしている地獄の使者なのかもしれない。それを考えると、足が竦みます」
「・・・」
「念のために言っておきますが、彼女と僕は男女の仲ではありません。でも、介護をしていますから、彼女の体は見ました。火傷や傷の跡を見て、僕は泣きました。今でも、あの五人の男は死んで当然だと信じています」
「本音では、すぐにでも、と思ってました。でも、渋谷さんの気持ちを信じて待ちます。ただ、介護の必要がある病気だとすると、彼女から事情を聴くことはできないのですか」
「いえ、良くなったり、悪くなったりの繰り返しですから、大丈夫です。ただ、症状が悪くなると、何も言いませんし、何もしません。食事も食べさせなければ、自分からは食べてくれません。トイレも風呂も介護が必要です」
「そうですか」
「的場さんに話してよかったと思ってます。いい結果が出ることを祈るばかりです」
「そうしたいですね。ところで、具体的なことなんですが、迎えに行く時はどこへ行けばいいのかは、まだ教えてもらえませんか」
「それは。そうですね。川崎、だけではいけませんか」
「川崎。川崎ですか」
「何か」
「いえ、我々は東京の警察なので、川崎だと、神奈川県警に頼まなくてはなりません。出来れば、静かに、と思ってましたから」
「だったら、僕のアパートで逮捕したことにすれば、いいです。僕のアパートは狛江にあります」
「そうですか。では、どんな態勢で行けばいいでしょう。病気であれば、救急車か何か必要でしょうか」
「いえ。この車で、お二人で来ていただければ、いいと思います」
「バックアップ要員を認めてもらえますか」
「少人数でしたら」
「それと、先日聴かせていただいた録音とか、他に参考になるものは、その時に渡していただけますか」
「わかりました」
「お二人をお連れした後、神奈川県警と合同の家宅捜索をすることになると思いますが、よろしいですか」
「はい。ただし、鍵はかけておきますが」
「はい。もう一つ。お二人は別々の場所にお連れすることになると思います。多分、刑期を終えるまで、会う機会は無くなると思います。承知しておいてください」
「はい」
「このことを、彼女は知っているんですか」
「いえ」
「彼女は裏切られたと思いませんか」
「思うでしょうね。でも、今は、この話を受け入れてくれないと思います。自殺を早めてしまうかもしれない。それが、困るんです」
「最後に、あなたのお名前と、彼女の現在のお名前を教えていただくことはできませんか」
「んんん。言わなければいけませんか」
「無理にとは、言いません」
「当日まで、許してください」
「わかりました。そうします」
洋平は車を降りて渋谷駅に向かった。予想外の展開だった。だが、もう引き返すつもりはなかった。今日、すぐに実行してもよかったが、あと一日だけ、和子の傍にいたかった。

「署に戻ります」
「はい」
的場恭介は後ろ髪を引かれていた。彼らの住所を確認したい、本名を知りたいという願いはあった。だが、失敗した時のダメージを考えると自重するしかなかった。紺野奈津と渋谷と名乗る男は、いつでも闇に溶け込むことができる。そうなれば、再発見は不可能と思われる。ここまでの彼らの仕事ぶりから考えると、彼らが警察に証拠一つ残さずに消え去ることは可能だと思う。渋谷の発言が全て正しいとして、川崎と狛江にローラー作戦をかけても、発見の確率は低い。
「私、胃が痛い」
「佐竹さんも、ですか。僕もそうなんです」
署に戻って、野本課長に報告した。今は、課長直属の特別班になっているので、捜査本部での居心地はよくない。待機を命じられているので、帰宅もできないし、やることもない。待つことだけが仕事だった。恭介は自分の席に戻り、事件の経過を整理する仕事に没頭することにした。
佐竹にも泊まってもらった。婦警の泊まり込みには、狭い部屋だが仮眠室がある。恭介は道場の片隅で遠慮がちに寝た。
渋谷からの電話がかかってきたのは翌日の昼過ぎだった。
先ず、狛江まで来るように言われた。恭介と佐竹のバックアップは、刑事課で直属の上司である日高警部補が一人だけだった。秘密厳守の方が優先されているようだ。
狛江に着く前に二度目の電話があり、多摩水道橋を渡るように指示された。警察無線は使えないので佐竹の携帯を使って、後続の日高警部補に連絡を入れる。三度目の電話は、府中街道を南下するようにという指示だった。すでに神奈川県警の管轄区域に入っている。佐竹は自分の実家の近くなので、運転に迷うことはない。
四度目の電話が来た。
「的場さんは、九鬼という家を憶えてますか」
「ええ」
「目的地は、そこですが、来れますか」
「ええ。大丈夫です」
「鍵は開けておきますから、そのまま入ってください。よろしくお願いします」
「はい」
まさか、という思いが強い。
「佐竹さん。前に行った、九鬼という家です」
「ひぇっ」
「びっくり、ですね。僕たちは紺野奈津と話をしていたことになる」
「うそみたい」
一度訪問しているので、佐竹は迷うことなく敷地内に車を進めた。
玄関を入ると、廊下の奥に渋谷が立っていた。食堂に入ると、ソファーに座って庭の景色を見ている女性の姿が見えた。その横顔には見覚えがある。恭介たちが部屋に入っても、その女性は動く気配を見せなかった。部屋にはまるで殺気がない。念のために持参するように言われた拳銃が重い。
渋谷が佐竹の耳元で、「ここで待っててください」と言って、恭介を地下室に案内してくれた。
「ナイフはここにあります」
渋谷が開けた棚の中には、夥しい数のナイフが並べられていた。
「これが、ボイスレコーダー。そして、これが調査資料です」
渋谷が分厚いファイルとレコーダーを恭介に渡した。
「僕の名前は須藤洋平です。彼女の現在の名前は九鬼和子といいます」
「須藤さん」
「はい。これで、約束を果たしましたよ。次は的場さんが約束を果たす順番です」
「わかってます」
「意外でしたか」
「まあ」
「彼女の命は的場さんに預けました。守ってください。お願いします」
「はい」
紺野奈津は須藤に体を支えられて、何事もなく車に乗り、須藤が小声で話しかけると、紺野奈津は須藤に体を預けて目を閉じた。
「的場さん。行先は」
エンジンをかけた佐竹が、恭介の指示を仰いだ。
「中野に行きましょう」
「はい」
恭介は日高警部補に電話で応援を要請した。警察病院から、目黒署まで須藤を護送してもらわなくてはならない。地下室で今後の段取りは須藤に話してある。点滴等の処置が必要かもしれないので、紺野奈津は病院に収容し、須藤は目黒署に留置する。昨日、念のために、病院にも中野署にも重要参考人の収容を依頼してあった。
東京警察病院の最上階の特別室に紺野奈津を収容し、須藤を目黒署に送り出した時は三時を過ぎていた。医師の診察には佐竹を立ち会わせ、駆けつけてきた野本課長と残ってくれた日高警部補の三人で打ち合わせをした。
「尋問はできそうか」
「まだ、無理のようです」
「そうか。発表しても、問題はないか」
「ナイフはありました。ボイスレコーダーはまだ聞いていませんが、前に聞いたものと同じであれば状況証拠としては役立ちます。班長にお渡しした資料も状況証拠になります。物的証拠は家宅捜索で見つけるしかないと思います」
「男の方の裏付けはどうだ」
「わかりません。自分は情報提供者としての須藤しか見ていません。どういう犯罪を犯しているのかは、わかりません」
「紺野奈津の尋問は、引き続き、君にやってもらう」
「はい」
「家宅捜索は、うちも立ち会うが神奈川県警にやってもらうことになった」
「はい」
「逮捕の現場は狛江でいいんだな」
「はい。詳しい住所はまだ聞いていません。須藤に確認してください」
「わかった。私は何をすればいい」
「紺野奈津を死なせるなと何度も念を押されています。彼女が死んだ場合、私も私の家族も須藤の報復を受けることになります。24時間の監視をお願いします。そして、監視班のベッドの確保もお願いします」
「よし」
「精神科医師の診察が必要になるかもしれません」
「手配しておこう」
「ボイスレコーダーのコピーをください」
「ん」
「尋問がいつからできるかわかりませんので、検察の方へは根回しをお願いします。尋問ができなければ、検察には送れません。ここに、来ていただいてもいいです」
「わかった」
打ち合わせを終えて病室に戻ると、紺野奈津は眠っていて、佐竹がベッドの横で元気なく俯いている。
「どうしました」
「はい」
部屋の隅まで連れて行かれ、佐竹が小声で話をした。
「ひどいです。十年前の傷でしょうが、怪我したときの様子を想像すると、体が震えました。許せません」
「そうですか」
「あの須藤さんが男女の仲ではないと言ってましたが、他人の前で裸になるのは嫌だと思います」
「そう」
「彼女のやったことって、ほんとに犯罪なんですか。そんなの、おかしい」
それから、二日間、紺野奈津に変化はなかった。食事を与え、時間をみて排便させる。看護師の指示に素直に従っているが、そこに紺野奈津の意思は感じられなかった。
二日後、突然ベッドの上で起き上がった奈津が周囲を見回した。
「ここは」
「病院です」
「あなたは」
「憶えてますか」
「いつかの刑事さん。私、逮捕されたんですか」
「はい」
「そう」
奈津が弱々しく笑った。
「僕の話、聞いてくれますか」
「私だけ?」
「いえ。須藤さんも逮捕しました」
「そう。あの人は何もしてませんよ」
「そうなんですか」
「私に、脅されて、少しは手伝ってくれましたけど、何もしてません」
「そうですか。須藤さんは、あなたの事をとても心配していました」
恭介は経緯を全て話した。後になって知るより、いいと思ってのことだった。警察官としては逸脱した行為だと思ったが、紺野奈津が何も知らないのはフェアではない。警察の独自捜査で逮捕したのではない。須藤の信頼を自分が背負ったことで逮捕に至っている。須藤の信頼には答えなければならない。規則だけで動くつもりはなかった。何よりも紺野奈津に死んでもらっては困る。
「どうして、そこまで」
「えっ」
「黙っていれば、須藤さんは捕まることもなかったのに」
「これは、須藤さんから聞いた話ではありませんが、須藤さんはあなたのことを本気で愛しているように見えました」
「私は、誰かに愛される資格なんてありません。人殺しですし、男の人には、何もお返しできませんから」
「これも、僕の勝手な想像ですが、須藤さんは、全部承知の上だったと思っています。見返りを求めているのではないと思います」
「須藤さんは、どうなるのですか」
「取り調べで犯罪行為が認められれば、起訴されて裁かれることになります。彼にとっては自分が裁かれることなど、重要なことだとは思っていないように見えました。あなたの命だけを心配してました」
「たぶん、須藤さんには見抜かれていると思ってました。約束だから、四人目を殺せと言って、私に圧力をかけてきたのも、そのため」
「そう言ってました」
「須藤さんは、いい人ですけど、余計なことをする人です。こんなことして、私が喜ばないことを、須藤さんは知っていると思ってました」
「ええ。同じようなことを、言ってましたね。あなたには、恨まれると」
「馬鹿なことを」
「まだ、死にたいですか」
「これ以上、私には耐えられません。もう、終わりにしたいんです」
「そうですか。須藤さんはあなたの自殺を阻止してきました。これからは、僕が阻止します。諦めてください」
「須藤さんも、あなたも、何もわかっていない。自分自身から逃れる方法なんてないんです。どこまで苦しめばいいんですか。もう、許して欲しい」
「僕は医者ではありませんから間違っているかもしれません。あなたは、どう見ても病気ですよね」
「何も出来なくなって、何も憶えていない。病気なんでしょうか」
「そう思います。もう耐えられない、もう死にたいと思ってますよね。苦しいですよね。正気のままでいたら、あなたはバラバラに壊れてしまう。あなたの病気は、壊れてしまう自分を防ぐための自然現象だと思うんです。ということは、あなたのどこかに死に対する抵抗があると思うんです。僕はそんなあなたに期待したい。それと、あなたは、僕なんかには想像もできない程の、ほんとに酷い目にあっているんです。だが、あなた一人ではないかもしれない。いや、きっと、あなたと同じように苦しんでいる人がいる。そんな人たちのためにも戦ってもらいたい。悪いのは、死んでいったあいつらでしょう。ここで、あなたが死んだら、あいつらの思う壺ですよ。負けないで欲しい。お願いだ」
「どうしてなの。須藤さんも、あなたも、おかしい」
「僕は警察官で、警察官の仕事は犯罪を証明することです。僕はあなたの犯罪を証明することで、本当に裁かれなくてはいけないのは誰なのかを、大勢の人に知ってもらいたい。そのためにも、あなたには、生きて、証言してもらいたい。全然おかしくなんかありません。あいつらの卑劣な行為を許せないのは、あなただけじゃない。須藤さんも僕も、許せないと思ってるんです」
理屈にならなくても、屁理屈でもいい。よく喋る男だな、と自分でも思う。考え付くことは全部伝えたい。何かが紺野奈津の琴線に触れることを期待していた。大事なものを山ほど失くした女に、大事なものを失くしたくないと思う男の話が通じるのかどうかはわからない。恭介にとっても、紺野奈津は生きていてもらわなければならない存在だった。
「あなたは、人間を殺したことがありますか」
「いえ」
「私の、恐怖は、あなたには、わかってもらえない」
「はい」
「私は、三人も、殺したんです」
「だから、人間は贖罪という方法を作り出したんじゃないでしょうか」
「贖罪」
「刑罰を受けることで、罪悪感と均衡をとる。刑罰は悪いことをした人間に罰を与えるだけではなく、罰を受けた人間にも許しを与えてくれるんじゃないでしょうか。自分の命で購うだけが罰ではないと思います。僕は、大勢の人から、あなたのお父さんとお母さんの話を聞きました。もちろん、あなたの話も聞きました。あなたの家族のことを悪く言った人はいませんでした。神様は何考えているんだと怒った人もいます。その根っこにはあなたたちが誰に対しても優しい気持ちを持っていたからなんだと感じたんです。あなたの優しさは失われていない。だから、苦しい。人一倍優しいから、人一倍苦しいのです。そんな人が死んではいけません。いつか、あなたの優しさに救われる人がいるはずです。あなたのご両親が大勢の人たちに生きる勇気を与えたように。ご両親があなたに残した優しさを大切にするために。あなたには、生きていて欲しい。幸いなことに、あなたは刑務所で罰を受けることになります。時間をかけて罪を償い、誰かのために生きて欲しいのです。あなたのご両親は、いつも周囲の人のために生きていた人だったそうですね。ご両親は、そんな生き方をしてくれるあなたを嬉しく思ってくれるんじゃないでしょうか。そして、そのことが、ご両親の死を無駄にしない、たった一つの方法だと思います」
「・・・」
「北村さんにも会いました。あなたの叔母さんですよね。北村さんは、今でもあなたが生きていると信じています。必ず、帰ってくる。何の疑いもなく、そう言いました。北村さんは子供に恵まれなかったから、あなたの事を自分の娘のように思っている。僕は、そう感じました。北村さんも喜んでくれます。あなたが生きることで、北村さんの人生が豊かなものになると思いませんか。あなたには、もう一度出直すチャンスがあるんです。まだまだ多くの人を幸せにすることができるんです」



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陽だまり 2 [陽だまり]




的場恭介は目黒署の弁護士刺殺事件捜査本部に配置されたまま、必殺処刑人対策本部の一員として働かされていた。それまで相棒だった梅原は別の刑事とコンビを組んで飛びまわっている。不本意だったが、恭介はパソコンに張り付いたまま、本庁のネット犯罪対策本部との連絡係となった。膨大な、余りにも膨大な情報の嵐の中では、風に舞う一枚の木の葉より儚げな存在として、画面を見続けている。
世田谷区の成城にあるアパートの一室から書き込まれた「予告文」で、元々秩序などないネット世界が狂乱というべき暴風に巻き込まれた。予告文が発信されたパソコンの持ち主は、前回と同じで無関係だと判明した。犯人、もしくは犯人グループは他人の部屋に忍び込み、必殺処刑人と名乗って書き込みをしている。パソコンを無断使用しただけで、電気代以外の盗難はなく、警察が手を出す余地もない。学校や会社に通う独身者が都内に何人いるのか。対策を考えるだけ無駄だと言える。発信場所やそのパソコンを割り出す手法は、何の役にも立たないと言うことだ。空き巣の前科を持つ人間がマークされたが、捜査の刑事は違和感を抱いていた。必殺処刑人というテロ集団と空き巣が結びつかない。たとえ、そういう男が手先として利用されていたとしても、何度もできることではないという感触がある。必殺処刑人の文面から推察すれば、近いうちに新たな声明文が出されることになる。もし、そうなれば、空き巣犯をマークすること自体が意味のないことだと言わざるをえないが、打つ手がない以上、上層部は中止命令を出すことはないだろう。警察は完全に後手に回り、テロ集団に馬鹿にされているようなものだった。周辺に設置されている防犯カメラの映像を分析しているチームからも、犯人に繋がるような情報は得られていない。犯人の片鱗も見つけられていないのだから、聞き込みも曖昧な質問しかできない。市民の方から、必殺の情報ですかと聞かれる始末で、捜査員はくさりきっていた。不審者情報というものは、いつでも空振りと相場が決まっているが、泉のように湧き出す不審者情報に警察は振り回されていた。見知らぬ人は、誰でも不審者にされてしまうのが必殺処刑人探しの現実だったが、警察は動かざるを得なかった。
ネットでは、処刑するターゲットを申請した場合の申請者の罪状について論議が盛んだが、ターゲットが処刑された場合は殺人の共犯になるという意見から、これは単なるゲームだから罪には問えないとする意見まで、言いたい放題だった。現実的には迷惑防止条例くらいしか該当しないのではないかという意見が主流になっている。名誉棄損罪で告訴した場合、敗訴した時のダメージが大きすぎるから告訴する人間はいないだろうと予測されている。確かに、脛に傷を持つ人間は告訴などしないと恭介も思う。いかにも正義の使者を気取って鉄槌請負人などというハンドルネームを使ってはいるが、殺人犯の単なる言い逃れにすぎない。こんなことが許されることはありえない。これは、法律や、警察への挑戦状だと息巻く上層部の怒りにも一理あると思っている。問題は、第三の処刑が行われた時に、警察は何を主張するのだろうかと心配になる。今のままでは、その第三の処刑が行われることを阻止する有効な手段を警察は持っていない。
恭介の手が勝手にマウスの操作を行い、画面はスクロールしているが、目は文字を読んでいなかった。何かが引っかかっている。それが何なのか。気持ちが、どこか焦っている。ただの疲れなのだろうか。捜査本部に蔓延している焦燥感なのか。何かが違う。どこかでボタンをかけ違えたような不快感がある。
「的場」
背後に人が立っていることも、名前を呼ばれていることも気づかなかった。肩を叩かれて、恭介は飛びあがった。
「何、やってんだ、お前」
「班長」
恭介の直属の上司である日高警部補だった。
「すみません」
恭介は気をつけの姿勢を取った。
「休憩しろ。役に立ってない」
「はい。いえ。大丈夫です」
「馬鹿野郎。ついてこい」
日高警部補に連れられて、刑事課長の前に行った。
「課長。的場をちょっと、借りますよ」
「おう」
「こい」
恭介は日高警部補の後ろを悄然として歩いた。明らかな失態だった。
自販機でコーヒーを買った日高に連れられて、2階の休憩室、別名たばこ部屋に入った恭介は日高の前で直立不動になった。
「ほい」
缶コーヒーを渡された。日高は缶コーヒーのプルを引く前にたばこを口にした。ヘビースモーカーでニコチンが切れると機嫌が悪くなる。
「飲め」
「はい」
「肩の力」
「はい」
「疲れてるのは、お前だけじゃない。気にすることはない。頻繁に休憩をとれ。椅子に座ってるだけでは、何の役にも立たんだろ」
「はい」
「こんな事態は初めてだ。目黒署にとってだけじゃない。警察にとっても、国にとっても初めての体験なんだ。開き直るしか手はないだろう。俺たち警察はゲームには慣れてない。あいつら、オタクの方が一枚も二枚も上手なんだ。気にするな。俺たちは俺たちのやり方でしか、できん。あいつらのペースに巻き込まれたら、負けるぞ。いいか、開き直れ。それしか突破口はない」
「はい」
「わかったら、コーヒー飲んで、もう一踏ん張りしてこい」
「はい」
確かに、相手のペースで事態は動いている。恭介だけではない。警察全体の足が浮いている。日高警部補の言ったように、開き直りが必要かもしれない。何でも疑ってかかるのが刑事の習性だ。よし。疑ってやろう。自分の席に戻って画面を見た。今までと何かが違う。自分の土俵から見たネツトの世界は、新しい顔をしていた。
「出ました」
恭介は大声で叫んだ。17時08分。パソコンの後ろに人垣ができた。恭介は本庁の対策室へ電話を入れた。対策室も同時刻に確認していた。
「必殺処刑人からのお願い。
 前回、予告文でお知らせしましたが、次の要領で申請の受付を行います。
 1 悪行を重ねながら、何の罪に問われることもなく、更に悪行を重ねている奴がいる。
   そんな奴を我々が処刑します。
   申請の内容は次の4項目
氏名
   年齢
   住所
   悪行の告発
   (注)悪行はできるだけ具体的に書いてください。
 2 申請の受付時間
   17:10 より 17:20 までの10分間。
 3 受付場所 
   下記URLの掲示板
   http/xxxxxxxxxxxx
   http/yyyyyyyyyyyy

注意事項
その1 申請案件の全てに対応するわけではありませんし、申請内容を精査しますので、即刻処刑するわけではありません。
 その2 処刑申請は自己責任とします。
     申請者の所へは警察が殺到することが予想されます。自分の身は自分で守っていただきます。罪に問われる可能性も排除できません。
 その3 申請内容に虚偽があった場合、申請人を捜し出し、処刑リストに書き込みますので注意してください。
 鉄槌請負人」

「上の掲示板に行きます」
恭介は大声で宣言し、URLをクリックした。そこは「園芸と話の広場」というホームページだった。
少し離れた場所にいるネット監視班の別の刑事が、下のURLに行くと叫んだ。
発見後、2分と経っていないのに、掲示板には書き込みが始まっている様子だった。画面の動きが鈍くなった。処刑依頼だけではなく、反論や応援メッセージもある。この百花繚乱がネットの特徴で、読む側を含めてごった煮にしてしまう。誰もが関係者であり、誰もが関係者ではないという構図ができあがる。どんな発言でもできるが、裏返せば無責任な発言も許されることになる。真面目な警察官から見れば、不快を無理矢理呑み込まされたような生理的嫌悪感を感じてしまう。恭介もこの手の人種は苦手だった。
警察にとっては、この必殺処刑人と名乗る集団を逮捕することが最優先の課題だったが、個人的には、あるいは警察の一部では、処刑依頼の申請書に興味をもっている人間がいることも確かだった。処刑対象者は悪人に限るという条件がある。悪人に一番関心を持っている組織が警察という組織なのだから、当然のことかもしれない。これを、一種のタレこみ情報だととらえれば、それなりに価値ある情報になる可能性を秘めている。だが、その密かな興味を表面に出せば、警察と言う組織を危うくすることになると言うことも警察官はわかっていた。何が何でも毅然とした態度で犯罪者を逮捕しなければならない。恭介もそのことを強く意識していた。
受付時間は10分間とされていたが、書き込みも更新も終わる気配がない。二つのホームページが閉鎖されたのは五時間後だった。事前に根回しもあり、逮捕という強権を振りかざした結果だと思われるが、五時間は長かった。だが、該当ホームページの閉鎖は情報の閉鎖と同義語ではない。書きこまれた処刑申請書は別の場所で次々に復活をし始める。それを止めるためには、全ての回線を閉鎖する必要があった。
二つのホームページを訪れた人数は膨大な数で、発信者特定の作業は事実上デッドロックがかかった状態だった。時間が経つに従って、ネット人口は増え続けていると思える。有名な掲示板を持つホームページへのアクセスは不可能に近い。たとえ、ホームページに入れたとしても、記事を呼び出すには長時間待たされる。設定されているサーバーの処理能力を大きく超えて、手の打ちようもない状態になっているのだろう。目黒署でも、一台だけ接続状態にしたまま、一斉休憩に入った。
ネット上の騒乱は、今まで新聞もテレビも見て見ぬふりをしてきたが、さすがに無視できない状況になっているようで、ニュース番組での言及が増えている。警察がどんな発表をするのか、どんな取締りをして、いつ犯人を逮捕するのか注目されている。さらに言えば、既に社会不安の様相を呈している状況に国がどう対応するのかも問われることになる。恭介が処刑依頼の文面を読んだ限りでは、ターゲットと名指しされたのは悪人半分、誹謗中傷の対象となった善人半分と思われる。嘘八百が8割だとすると、全体の中におよそ1割の悪人が存在していることになる。これは、驚きの数字であった。全体の件数が不明だが、市民がこれほどの数を悪人として、私的告発をするとは思ってもいなかった。警察のブラックリストに載っている人間もいると思われるが、ノーマークの人間も大勢いると考えなければならない。犯人は、どうやって次の犠牲者を決めるつもりなのだろう。
上層部の人間には寝る時間もないだろうが、捜査員は方針が決まるまで動きがとれない。待機などさせずに、帰宅させた方が士気は上がると思うが、署長にはその勇気がないようだった。帰宅優先組を自称する恭介も、前回帰宅したのは4日前だったので、娘の顔が見たかった。眠れそうにないので、恭介は刑事課のある二階に向かった。午前零時を過ぎているのに刑事課には日高班長と室井先輩がいた。捜査本部ができたからといって、日常的に発生する事件がなくなったわけではない。限界まで人数を捜査本部に持っていかれているので、刑事課にも寝る間がないことになる。
「的場。早く終わらせてくれよ」
室井が大声で悲鳴を上げた。
「はあ」
「どうした」
日高班長の顔には疲労が滲み出ていた。
「はい。一斉休憩です」
「まだ、待機か」
「はい」
「なんか、見込みはあるのか」
「いえ。全く、ありません」
「そうか」
「忙しい、ですか」
「そりゃあ、この人数じゃ、回らんよ」
「はい。すみません」
「お前が謝ることじゃない」
「でも」
室井が席を立って、やってきた。
「的場。茶、入れてくれ」
「はい」
恭介は三人の湯呑にお茶を入れて戻った。
「コーヒーより、お茶だよな」
「ええ。初めて刑事課のお茶が美味しいと思いました」
恭介は事件の経過を簡単に説明した。
「つまり、手も足も出ないって、ことか」
「まあ」
室井の声には落胆の色が隠せない。その気持ちは恭介も一緒だった。
「班長。これって、ホンネタなんでしょうか」
「ん」
「なんか、変だと思うんです」
「何が、だ」
「あの必殺処刑人は、誰かの悪ふざけなんじゃないかと思うんです」
「でも、犯行声明も、凶器のナイフのこともある」
「そうなんですが、どこか、腑に落ちないんです」
「刑事のカンか」
「いえ。自分なんか、まだまだそんなことが言える立場じゃないです」
「でも、お前はそう思う」
「ええ。ずっと、なんか変だなと思ってたんですけど、班長に開き直れと言われて、画面を見てると、何か、全部が嘘っぱちに見えてきたんです。俺たち、全然別の道を走ってるような気がして」
「そうか。変か」
「はあ」
「会議で、意見を出したのか」
「とんでもないです。俺みたいな若造の出る幕はありませんよ」
「ん。お前なら、どうする」
「現場に戻るという意味では、弁護士刺殺事件です。今は、あの処刑人とやらのことばかりですけど、元の事件に戻ることが必要だと思います」
「そのこと、一度、課長に話してみろ」
「できませんよ。パソコン係から逃げ出したいと言ってるようなもんですから」
「パソコン、嫌か」
「決まってるじゃないですか。あんなことしてたら、病気になりますよ」
「お前の歳で、それを言うか」
「歳は関係ありません」
「だったら、方法を見つけることだ。本庁からも人が来てる。課長の立場を考えたら、俺からその話を持ち出す訳にはいかん。だが、一人くらい別の道を走っている奴がいてもいいんじゃないか」
「はあ」
確かに、パソコン監視役は願い下げだが、恭介の中には警察官として不純な動機も隠されている。班長にも言えないが、外回りになれば、帰宅のチャンスが増えるのではないかという期待だった。
翌日、恭介が思い切って課長に相談を持ちかけると、簡単に許可が出た。それは、あっけないほどだった。相棒は交通課から人数合わせのために捜査本部に来ている、佐竹巡査という若い婦警だった。
「よろしく、お願いします」
「こちらこそ。婦警さんと組むのは初めてです。なんでも言ってください」
「私も、愛妻家の刑事さんと組むのは初めてです」
「これは、どうも」
「私、結構、怒ってます。何で、私が捜査本部なのか、意味わかりません。的場さんに怒ってる訳ではありませんから、気にしないでください」
気の強そうな婦警にぶち当たったようだ。でも、メソメソされるよりはいい。
青梅の坪井さんの息子から貰った手紙にあった九鬼という人物を捜すことから始めるつもりだった。
「遊園地の近くに住んでいる、又は住んでいた九鬼という人を捜します。遊園地の名前も九鬼さんがどんな人かもわかりません。当時、幼稚園児だった坪井さんという人のかすかな記憶だけが頼りで行きます。気楽に行きましょう」
「はい」
「これが、遊園地のリストです。25年前にはあった遊園地も入っています。近くの交番から始めて、役所にいきます」
「了解。的場さんって、いつもそんな丁寧な言葉なんですか」
「年下の人と組むのは、初めてなんです。それと、婦警さんと組むのも」
「大丈夫ですよ。私、打たれ強い方ですから。ばんばん言ってください」
「どうも」
私服の婦警は、いつもと感じが違う。制服を着て、チョークを持っていた方が安心できる。
4日かけて走り回ったが、九鬼という人物は見つからなかった。珍しい名前だから、一度も九鬼という名前に出くわすこともなく、ただの徒労に終わった。
「私の実家の近くにも遊園地ありますよ」
「どこです」
「よみうりランドと向ケ丘遊園」
「神奈川ですよね」
他県の場合は、問い合わせを入れるか、断りを入れる必要がある。
「ええ。でも地図で調べるぐらいは、いいんじゃないですか」
「地図」
「ほら、一軒一軒、家の名前が書いてあるやつ」
「ああ」
「あの地図、実家で見たことがありますけど」
「見てみたいですね」
「じゃあ、行きましょう」
「えっ、すぐに、ですか」
「他に、行く所があれば、今日でなくても。でも、私、しばらく実家に帰らせてもらえませんよね。暇になれば、帰って取ってきますけど」
「そうですね。今から、行きましょうか」
「了解」
二人は小田急で登戸に向かった。川を渡るだけで、面倒な手続きがいるというのも考えものだと思う。佐竹巡査の実家では母親に歓迎された。
「母さん。これは仕事だし、この人は妻帯者。交通課の上司でもないの。地図が見たいから寄っただけ。いい」
久しぶりに娘が帰って来て喜んだだけではなかったようだった。女は早く嫁にいった方がいいと信じている母族の一人なのだろう。彼氏ではないと言われたのに、茶菓子を持って来てくれた母親は愛想がよかった。
「お母さん。ほんとにお構いなく。佐竹さんの言うように仕事ですから」
「はいはい。ごゆっくり」
佐竹が地図を2冊持って戻ってきた。
「最新のと、少し古いのとあります。私、向ケ丘遊園の方を捜します」
「了解」
「それ、私のセリフ」
二人は地図に没頭した。その直後に、佐竹が悲鳴のような声を出した。
「きゃあ、あった」
「えっ」
「こ、これ」
佐竹の震える指先には、九鬼の二文字があった。
「やりましたね、佐竹さん」
「はい。すごい」
4日間空振りばかりだったので、佐竹の興奮は恭介にもよくわかった。二人一組での行動という規則のためだけに捜査本部に放りこまれた交通課の巡査は、刑事の後ろを歩くだけが仕事だった。小さな発見だったが、初めて、捜査の仕事を自分の手でやって、その成果が自分の目の前にある。その興奮は恭介にも体験があった。
「ここからだと、何分かかりますか」
「えええと、20分、か、30分」
「行ってみましょう」
「はいっ」
佐竹の地元なので、道案内は佐竹の仕事だった。弾むように歩く佐竹からは興奮がこぼれ落ちているように見えた。
「私、刑事になっちゃおうかな」
「あれ、交通課が好きだったんでしょう」
「交通課もいいけど、刑事課も」
「刑事課にいくと、お母さんが悲しみますよ」
「へっ、どうして」
「お母さんの望みは、佐竹さんの結婚なんでしょう」
「ああ、それね。でも、結婚なんて縁でしょう。課は関係ありません」
「佐竹さんって、何でも一生懸命になるタイプでしょう。刑事課は、そういう人間を呑み込んじゃいますよ。結婚より仕事になったら、困るでしょう。お母さん」
「もう」
「僕もまだ新人ですから、偉そうなこと言えませんけど、先輩に言われたことが、今はよくわかるんです。刑事課の仕事は99の無駄を足で稼ぐ仕事だそうです。事件が解決すれば100になりますけど、ずっと99の時もある。最後の1を求めて歩き回るのが刑事課の仕事だと言われました。この九鬼さんの件でも、事件の真相に繋がる可能性はごくごく小さいと思います。でも、これが、最後の1かもしれない。つまり、刑事課の仕事は果てしない道に迷いこむようなものなんだそうです。結婚、遠くなるような気がします」
「的場さん。私、今、最高の気分なんです。水を差すようなこと、言わないでください」
「ごめん」
「大丈夫ですよ。私なんかが刑事にはなれませんって」
「いや。刑事に向いていると思うから、心配なんです。お母さんの顔がちらつくんです」
「もう。結婚の話はなし。捜査。捜査」
「了解」
「こら」
臨時の相棒だが、いいコンビになれそうな気がしていた。
九鬼という人物の家は広い敷地に建つ古びた洋館だった。表札の類はどこにもなく、まるで無人の廃屋に見えた。門にも玄関にも呼び鈴やブザーがなく、恭介は玄関ドアをノックした。応答はない。しばらく様子を伺って、ノックする。留守かもしれない。だが、念のため三度目のノックをすると、女の声が聞こえた。
「どちらさまですか」
「あっ、突然お邪魔してすみません。目黒警察署の的場と言います。お聴きしたいことがありまして、お邪魔しました。ここは、九鬼さんのお宅ですよね」
ドアが細く開けられて、目が見えた。恭介は相手によく見える場所に移動して、バッヂを開いて見せた。
「怪しいもではありません。警察のものです」
ゆっくりとドアが開き、若い女の姿が見えた。20代中頃の整った顔をした女だった。
「すみません。驚かしてしまったようですね」
「なにか」
「九鬼さんのお嬢さんですか」
「いえ。家内です」
「奥様」
坪井の情報から、九鬼という男は60代の男だと想像していた。頭の中で、妻と名乗る女との歳の差を計算していた。女は天を仰ぎ溜息を洩らした。
「九鬼の家内です」
「あの。はい。すみません。奥さん」
「結婚詐欺かなんかの調べですか」
「いえ。とんでもありません」
「じゃあ。歳の差がある結婚は法律違反なんですか」
「いえ」
「ご用件は」
「ご主人は」
「主人は、亡くなりました」
「へっ。あの」
「今度は殺人容疑ですか」
「いえ。そんなことは」
「刑事さん。噂の真相究明ですか」
「噂」
「財産目当てで結婚して、夫を殺した悪妻がいると聞いてきたんですか」
「いえいえ。とんでもありません」
「もう、いいですか。こんな訪問は大変不愉快です」
「すみません。態度が悪かったら謝ります。申し訳ありませんでした」
恭介は腰を90度に折って、頭を下げた。後にいる佐竹も頭を下げているようだ。
「用件を、言ってください」
「はい。ご主人の九鬼さんが有名なコレクターだと聞いたものですから」
有名も嘘。コレクターも情報なしだったが、この経緯では多少の嘘は仕方がない。
「コレクター」
「はい。生前、九鬼さんと親交のあった青梅の坪井さんの息子さんからお聞きしました。ナイフのコレクターだったんじゃないかと」
「ナイフ」
「何か、お聞きになってませんか」
「いえ。初めてです。主人がナイフを集めていたんですか」
「はあ」
「いつ頃の話ですか」
「ええと、ざっと25年前ですけど」
「25年。私ではわかりません」
「九鬼さんのご親戚とか、ご友人とか、いませんか。25年前のことを知っていそうな人」
「さあ。付き合いのある親戚はいないと言ってましたし、友達の話も聞いたことありません」
「いつ、お亡くなりになったんですか」
「5年前です」
「だったら、何か遺品のようなものありませんか」
「遺品」
「倉庫の奥に、昔の収集品が残ってるとか」
「いえ。見たことありません。警察の方ですよね」
「はい」
「ほんとに、警察の方なんですか」
「はい」
「だったら、110番で確認してもいいですよね。お名前教えてください」
恭介は慌てて名刺を差し出した。
「できましたら、そこで確認していただけますか」
「はあ?この名刺が偽物だったら」
「えっ」
「110番じゃ、いけないんですか」
「わかりました。110番で結構です」
110番では神奈川県警に接続され、目黒署の刑事が県警に無断で動いていることがわかってしまう。だが、疑いを晴らすためには腹を括るしかない。
「じゃあ、そのまま、後に五歩下がってください」
「へっ」
「偽警官なら、私に襲いかかりますよね」
「いえいえ。下がります」
恭介と佐竹は歩調を揃えて、五歩下がった。
「電話、してきます」
女はドアの向こうへ消えた。恭介はその場にしゃがみ込みそうな疲労を感じた。
「しっかりした人ですね」
「ああ。県警に電話しなきゃならなくなった」
「でも、歳、離れ過ぎですよ」
「ああ。そのことが向こうにも伝わった。修業不足だな」
「普通、びっくりします」
「佐竹さんに慰めてもらってる僕は何なんでしょうね」
暫くして、女が出てきた。
「ここに、確認しました」
女が名刺を振って見せた。
「はい。どうでした」
「偽物ではないそうです。でも、100パーセント信用したわけではありませんよ」
「はい」
「ここではなんですから、中に入ってください」
「すみません」
「拳銃とか、持ってませんよね」
「もちろんです」
二人は食堂に案内された。
「紅茶しかありませんけど、いいですか」
「いえ、お構いなく」
「私が飲みたいんです」
「はい」
出された紅茶を三人ですすった。
「で、九鬼の親戚とか友人の話でしたっけ。いや、物置の奥に隠している物の話でしたね」
「いえ。隠してるんじゃなくて、放置されているものです」
「ええと、的場さんでしたっけ」
「はい」
「警察の方ですから、調べればわかると思いますが、主人は昔、傷害で服役しています。刑務所から帰って来て、主人は昔の物を全部捨てたと言ってました。私が遭った時の主人は、優しいだけの人でした。昔の話を聞いて、びっくりしました。乱暴者で有名だったそうです。だから、うちには古いアルバムもありません。どんなお友達がいたのかも、私には教えてくれませんでした。優しい人で、私を大事にしてくれましたし、私も主人のことを心から愛していました。噂では悪女のように言われているのを知っています。でも、私たち二人は幸せだったと思っています。有名なナイフのコレクターだとおっしゃってましたが、私は見たことがありません。物置はありますので探してもらってもいいですよ」
「わかりました。念のため、後で物置を見せていただけますか」
「どうぞ」
「こういうナイフを捜しています」
恭介は殺害に使われたナイフの実物大のコピーを見せた。
「さあ」
「何か思いだしたら、名刺の番号へご連絡頂けると助かります」
「はい」
物置を見せてもらったが、園芸用品が入っているだけで、古い物はなかった。
恭介と佐竹は、口をつぐんで駅まで歩いた。細い糸でしかなかったが、九鬼が故人になっていることで凶器の線は切れてしまった。手さぐりで新しい道を開拓しなければならない。必殺処刑人と2件の殺人事件は別のものだと決めつけて捜査の許可をもらったのだから、そのことは外せない。そうなれば、被害者と犯人の間には、必ず接点がなくてはならない。無差別殺人でもなく、物盗りでもない。被害者の過去を辿ることしかないだろう。先ずは被害者に関する報告書を読み、その続きを捜査することだ。
翌日、恭介と佐竹は被害者遺族である弁護士の妻に面会の約束を取った。
「何度も、いろんな刑事が、同じようなことを聞いてると思います。恐縮ですが、また、お願いできますでしょうか」
事件前に会ったことはないのでわからないが、奥さんの様子は疲れているように見えた。
「刑事さん。主人はあの処刑人とかいう連中に殺されたんですか」
「いえ。私は違うと思って捜査をしています。今日お邪魔したのも、そのためです」
「そうですか。主人が極悪人みたいに言われるのは、変ですよね。そりゃあ、多少外れたことはしてたでしょう。清廉潔白とは言えないでしょう。でも、あんな風に言われるのは酷いと思います」
「ええ。奥さんの言われること、私にはわかります」
「実はね。片付けをしていたら、こんな物が出てきたんです。警察の方、どなたも来なくなりましたのでね」
靴箱に入っていたのは、10冊以上の手帳だった。警察は被害者の家も捜索している筈である。見つけられなかったことは問題だった。
「どこに、あったんですか」
「靴棚の奥に」
「そうですか。これ、お預かりしてもよろしいでしょうか」
「ええ」
「それと、何か思い出されたことはありませんか」
「もう、全部、話しました。他にはありません」
恭介は預かり証を書いて、靴箱を抱えて弁護士の家を出た。新しい糸口が見つかりそうな予感がした。




処刑申請の受付をしてから、一週間が過ぎた。
「驚きました。こんなに来るとは思いませんでした」
「私も」
「いい加減なのも、いっぱいありますけど」
「ええ。ひどいのがあった」
「このデータ、どうするんですか」
「まだ、何も考えてないの」
「ほんとに、皆、信じてるんですかね」
「実はね、次のターゲットになっている三浦信孝の名前があったの」
「えっ」
「だから、裏ルートは必要なくなった。必殺処刑人の仕事にできる」
「そりゃあ、すごい」
「私は三浦の調査に専念する。ネットは、しばらくお休み」
「へええ、こんなことがあるんだ」
「ただ、一寸、気掛かりなことがあったの」
「どうしたんです」
「刑事が来たの」
「刑事」
「目黒署の刑事が二人」
「まさか」
「九鬼の古い友人の息子から、九鬼がナイフの有名なコレクターだと聞いたと言っていたわ。ほんとかどうか、わからないけど、ここに来たということは、情報があったということだと思う」
「で」
「私が結婚した時には、そんなものはなかったと言っておいた。九鬼は、過去と決別するために、あらゆるものを捨てたと言ったことがあるの。実際に古い写真は一枚もないし、手紙もなかった。ナイフは捨てられなかったみたいだけど」
「刑事は信じました?」
「わからない。物置も見ていったけど、私にナイフの写真を見せたのは、ただ情報が欲しかっただけだと思う」
「そうか。ナイフの出所を捜してるんだ」
「だと、思う。あのナイフは売ってないから、過去に持っていた人を捜すしかない。そういう捜査だったと思う」
「警察もやるもんですね」
「でも、どちらが、より真剣かということだと思う。私は負けない」
「ええ」
「刑事が最後まで気にしてたのは、私と九鬼の歳の差だったみたい」
「そうですか。でもご主人は、どうしてナイフを捨てなかったんでしょう」
「最初にナイフを見た時は、怖いと思ったけど、今は、美しいと思う。九鬼がナイフを捨てられなかった気持ち、今ならわかる」
「僕は、まだ、怖いと思う」
「そうよね」
「突然、刑事が来て、びっくりしたでしょう」
「最初は、ね。自分でも不思議なんだけど、すぐに開き直ってた。怖い女だなと思った。もう一人の刑事がどう思ったのか、ちょっと心配」
「・・・」
「もう一人は、女の刑事だったの」
「なるほど。でも、女のことは、僕にはわかりません」
「須藤さんは、女が嫌いなの」
「いや。苦手です」
「私も?」
「九鬼さんのこと、女だとは思ってませんから、平気なんです」
「ありがとう」
須藤が帰った後で、和子は刑事の訪問について、もう一度考えてみた。問題はないと確信しているが、ゆったりと構えているわけにもいかない。気を引き締めて、次の行動に移ろうと思った。
一年前から、三浦の身辺調査はしていた。三浦の妻から依頼されたと言って、探偵社に浮気調査の名目で調べてもらった。その報告書には行動の全てを書くように指示した。同じ依頼を次々と三軒の探偵社に依頼し、その調査結果を基に自分の足でも尾行をした。どの探偵社も三浦の浮気を立証してくれたので、探偵社の人間は、もう離婚が成立していると思っているに違いない。和子は新しい探偵社に、三浦の浮気調査を依頼した。たとえ、必殺処刑人のリストに載せられても、警察が全員に監視をつけることは不可能だと思いたい。
一か月後、探偵社の行動調査が終わり、化粧とかつらと眼鏡で別人になりすまし、探偵社の人間と会って、料金を精算し、分厚い報告書を手に入れた。須藤が襲撃する場所を見つけなければならない。以前から監視カメラに写らないように行動してきたが、須藤に実地訓練をしてもらったので、さらに自信をつけることができた。
三浦は大島建設という大手ゼネコンの企画室次長という要職にいる。勤務時間中に襲撃するような隙はない。出張も度々あるので、判を押したような行動ではなかった。自宅は豊島区にあるが、週に一度は杉並のマンションを訪問する。浮気相手は何人もいるが、杉並のマンションにいるのが浮気相手かどうかわからない。分譲マンションなので、探偵社の人間もマンション内部には潜り込めなかったようだ。三浦は用心深い性格のせいか、マンションにタクシーで乗りつけるようなことはしない。そして、人通りの少ない道を好んで歩いている。やましいことをやっているという意識は充分にあるようだった。
和子は須藤を連れて下見に出かけた。マンションの近くにある公園横の道路は夜になると車の量も人通りも極端に少なくなる。監視カメラがある様子もなく、絶好の襲撃場所になりそうだと須藤も同意してくれた。須藤は独りで車を降りて、住宅のチェックをしている。最近では一般住宅でも監視カメラを付けている家があるからだ。
「ここなら、大丈夫でしょう」
「ええ」
長居は無用だった。過去の不審車両として記憶されたくはない。打合せは走る車の中で始めた。
「あのあたりを第一候補にしましょう。成功した時の逃走経路と、失敗した時の経路を見つけるために、僕は何度か来なくてはなりませんが、九鬼さんは念のため行かない方がいいでしょう。確信が持てるまで、下見をします。その間に状況が変われば別の方法を考えなくてはなりません。それでいいですか」
「もちろんよ」
「三鷹、もしくは調布に中継点を作ります。九鬼さんは、そこから家までの道路でNシステムのない裏道を探してもらえますか。できれば、橋も」
「はい」
「杉並と中継点の間は盗難車を使います。僕はそのまま府中か立川に盗難車を捨てに行きますので、九鬼さんは、三浦を乗せて、中継点から裏道を使って川崎に戻ってください。もちろん、三浦は無力化しておきます。殺しちゃ駄目ですよ」
「はい」
Nシステムのカメラは道路の真上に付いているとは限らないから注意するようにということも言われた。いわゆる逃走時の心得を須藤はわかりやすく説明してくれた。
一ヶ月後に、須藤は大きな旅行カバンをもってやってきた。海外旅行に持っていくカバンの中でも、特に大きなものだった。
「三浦は小柄な男だと言ってましたよね」
「ええ」
「僕ぐらいなら、この中に入れます」
「ああ」
「電動ドリルありますよね」
「ええ。地下室に」
「穴を開けます。窒息されると困りますから」
地下室でカバンの中から須藤が取り出したものは、特殊警棒、催涙スプレー、スタンガン、手錠、ロープ、ガムテープといった襲撃用品と2足のスニーカーだった。須藤はどれも買ってきたのではないと言った。須藤はどこまでも用心深い。そして、真剣だった。
それからの一か月、二人は逃走経路の検討を積み重ねた。須藤の用心深さは半端なものではなかった。そして、中継地点も襲撃地点も決まった。
襲撃の当日は小雨の降る夜だった。須藤は公園の中に潜んでいる。和子は須藤からの合図を待っていた。催涙スプレーを使うので、ゴーグルに近い眼鏡とマスクで顔を隠し、帽子を被っているが、遠目からでも女とわかるようなスカートとハイヒールだった。日中であれば不審者だった。バックにはすぐ取り出せる場所に催涙スプレーが入っている。
携帯電話が震動した。
「行きましょう」
「はい」
緊張感はあったが、躊躇はなかった。和子は傘を開いて、道路に足を踏み出した。
遠くに人影がある。自然な歩調で歩いた。
襲撃地点が近づいてくる。須藤の方にトラブルはなかっただろうか。傘で顔を隠したまま、歩調を維持して進んだ。
右手をバックに入れてスプレーを握った。三浦の傘の内側から発射したい。
和子は至近距離から催涙スプレーを発射した。
「うおお」
傘を放り投げて、三浦がしゃがみ込む姿を目の端にとらえながら、和子は歩調を速めた。公園から出てきた須藤とすれ違う。手には警棒が握られていた。
車に乗り込み、ゴーグルをはずしてエンジンキーを回した。
公園の横に蹲る二つの影の前に車をつける。ハッチバックのドアが開き、車体が揺れる。和子は前方と後方を監視した。
ドアが閉まる音がして、車の窓ガラスを叩く合図と同時に発進した。
和子の任務は中継地点の三鷹まで、安全に運転することだった。
中継地点に決めた自動車工場の近くにある空き地に車を乗り入れた。駐車しておいた和子の車の横に停めて、運転席を降りた。古いブロック塀があって、車道からは見えない場所になっている。カバンを下す須藤に手を貸した。
荷物を積み替え、先に和子が空き地を出発した。五分後に須藤が出ていく計画になっている。二人は一度も会話をしなかった。お互いに自分の役目に専念する。これも重要な計画の一部だった。
まだ、計画が終わった訳ではない。事故や交通違反はあってはならない。
慎重な運転をして、やっと自宅の裏庭に車を乗り入れた。襲撃開始から、ほぼ2時間。さすがに疲れていた。
三浦が生きているのかどうか、確認したいという気持ちを抑え、車を降りて裏口から家に入った。須藤の帰りを待つ計画になっている。須藤は電車で帰ってくるので、まだ暫く時間がかかる。和子は計画にはなかった夜食を作ることにした。一晩ゆっくり寝てから、三浦から話を聞く。そんなことが出来る筈もない。今日は徹夜になるだろう。
二人で夜食を食べた後で、カバンごと地下室に運び、須藤が目出し帽を被ってカバンを開けた。三浦は意識を取り戻していて、二人を睨みつけた。須藤は無言でカバンをひっくり返して、三浦がカバンからこぼれ出るのを見守った。後ろ手に手錠が掛かっているので、不自然な動作で起き上がった三浦の口からガムテープを勢いよく取り外した。スプレーの成分がのこっているのか、涙目で睨みつける。
「お、お前たち、なんだ」
「こんなことして、ただでは済まんぞ」
「何とか、言え」
須藤が棚から警棒を取り、ひと振りした。カチャと音がして長くなった警棒を三浦の眼前で一閃した。その音に三浦は息を飲んだ。
「大島建設企画室次長の三浦信孝。間違いありませんか」
「そうだ」
「だったら、この女性に見覚えありませんか」
「知らん。会ったこともない」
「そうですか。名前を聞いたら思い出しますよね。紺野奈津さんです」
「こんの、なつ」
「そうです」
「奈津、か」
「思い出したようですね」
「坂東と本間をやったのは」
「そうです。あの二人は強気を通して、命を亡くしました」
「必殺」
「ええ。必殺処刑人は我々のことです。事情は呑み込めたようですね」
「私を、どうする気だ」
「お話を、お聞きしたい。坂東も本間も最後まで我々を見くびっていました。人殺しなどできるわけがないと思ってたようです。あなたは、どうしますか」
「まあ、落ち着きなさい」
「大丈夫です。我々は落ち着いています。落ち着いている場合でないのはあなたです」
「そうじゃない。話し合いを提案している」
「ほう」
「先ず、この手錠を外してもらいたい。フェアじゃないと思う」
「で」
「君たちのことは、全て忘れる。今日のことも、坂東と本間のことも、全部呑み込んで墓場まで持っていく」
「ほう」
「確かに、奈津には悪いことをしたと思っている。だから、慰謝料を払う。五千万だ」
「で」
「だから、君たちは、私をここから解放する」
「話し合い、と言うより、取引ですね」
「そう、とってくれてもいい」
「違うんです。僕たちは、あなたの話が聞きたいんです」
「五千万だぞ」
「あなたの話は、その五千万より価値があるんです」
「馬鹿な」
「話を聞かせてくれたら、手錠も外しますし、警察に駆け込んでもらっても結構です。もちろん五千万も払う必要はありません。でも、そうでない場合は、あなたもあの二人と同じように、いや、違うか、あなたは首謀者ですから、簡単に死なせるわけにはいかない。結果は同じですけど、殺してくれと言うまで痛めつけて殺すことになります。これが我々の条件です。簡単でしょう。あなたは、洗いざらい話すだけでいいんです」
三浦は須藤を見上げたまま、何も言わなかった。
「あっ。もう一つ、言い忘れていました」
須藤は棚のところに行って、缶を手にして戻ってきた。
「これ、何だかわかりますか」
「・・・」
「そうです。ガスボンベです。炎の温度は1500度ぐらいだと思います。あなたの話、僕たちが信じられないな、と感じた時に使う拷問道具だと考えてください。火傷は、その時も痛いけど、後からじわじわ痛みが来ますよね。体の何パーセントが火傷すると死ぬのか知らないんですが、やり過ぎて死んだ時は許してください」
須藤はボンベのスイッチを引いて炎の調節をした。
「三浦さん。あなた、今、頭の中で、この事態をどうやって乗り切ろうかと必死に考えてますよね。多分、あのお二人も、そうやって死んでいったと思います。俺には苦境を何度も乗り切ってきた実績がある。きっと、乗り切れる筈だ。いや、乗り切って見せると思ってますよね。でも、彼女を、奈津さんを、過去の常識で判断するのは間違っています。どうです、僕の助言に従ってくれませんか。僕は、もう、これ以上死んでほしくない。そう思ってるんです」
三浦は返事をしなかった。
緊張した沈黙を破ったのは須藤だった。
「すみません、奈津さん。僕が間違っていたようです。自分が甘かったこと、認めます。でも、チャンスを貰えたことには感謝してます。後は、奈津さんの気の済むようにやってください。僕はもう何も言いませんから」
「そう」
「待ってくれ」
「三浦さん。残念です」
「私は、何も、話さないとは言っていない。重大な発言をするんだから、時間ぐらいくれてもいいだろう」
「無理です。あなたを見ていれば、本当のことを話してくれるとは思えません。いいかげんな話を聞かされたんでは、あなたたけではなく、僕の命も危なくなります。僕にはあなたの保身のために命をかけるつもりはありませんから」
「待て、待ってくれ。話す。だから、約束は守ってくれ。話をすれば、解放してくれるんだろう」
「申し訳ない。もう、僕にその気はなくなりました。あなたたちは、坂東も本間もあなたも、駆け引きで何とかなると自分の物差しで判断してる。正直、やってられません。もう交換条件はないんですよ。僕が降りた時点で、あなたの命は無くなったのも同然なんです。何で、そんなこともわからないのか。信じられませんよ」
「どうすればいい」
「切り刻まれて、死ぬことです。僕なら、苦痛より死を選びます。耐えられません。痛いの、嫌いなんです僕は。あなたも、早く殺してくれと頼んだ方がいい」
須藤にこんな力があったことを知らなかった。三浦は確実に追い込まれている。和子はナイフの保管箱からスローイングナイフを取り出して、投げた。的を外す心配はない。三浦の耳を掠めて、ナイフが後ろにある畳に鈍い音をたてて突き刺さった。
「ひぃ」
和子は、さらにナイフを手に取った。
「ま、まってくれ、話すから、たのむ」
三浦は額を床につけて、「たのむ、たのむ」と呪文をとなえた。
「もう一度、チャンスをあげるわ。聞いてあげて」
「いいんですか」
「仲間の命をとるのは、あまり気分のいいものじゃないのよ」
「はい」
頭を上げた三浦の体には、硬さが見られなかった。本気で喋ってくれそうだ。
「三浦さん、よかったですね。条件、復活しましたよ」
「はい」
「じゃあ、僕の質問に答えてください」
須藤は畳からナイフを抜いて、和子に渡し、三浦から見えない場所でボイスレコーダーのスイッチを入れた。
「先ず、あなたのお名前を、フルネームで教えてください」
「三浦信孝」
年齢、住所、勤務先、役職名を聞いた。家族の名前、出身地、小学校の担任教師の名前、子供の頃の思い出も聞いた。須藤は、第三者が録音された内容を聞いても、本人と特定できるような内容にしたいと言っていた。
「では、紺野さんのご両親のことについて教えてください。あなたとの関係は」
「紺野建設はうちの下請けでした。本来、孫請けのような規模でしたが、小回りを効かせるために私が育てた会社です」
「で」
「方針の変更があって」
「何の方針ですか」
「会社の外注に関する方針です」
「どうなったんです」
「紺野建設は基準から外されました」
「外されたら、どうなるんです」
「仕事は出せません」
「倒産ですか」
「そういうことです」
「倒産を苦にして、自殺したんですか」
「それもあります」
「別の理由もあったということですか」
「まあ」
三浦の口は重かった。
「三浦さん。僕はあなたが善人だとは、これっぽっちも思っていません。いい子になろうとすると不自然に見えますよ。正直に、ありのままに話してください。調べればわかることです。あなたが嘘を言っていると思ったらバーナーを使いますが、半信半疑の場合は調査をします。調査が終わるまで、あなたはここで、人間以下の生活を続けなければならなくなります。それと、一週間も無断欠勤をすれば、あなたのキャリアは復旧不可能になると思いませんか。ライバルも多いでしょう。早く元の生活に戻りたいでしょう。そのためには、洗いざらい話してしまうことです。我々には時間がありますが、あなたには時間がない。さっさと片付けることが、あなたにとって一番得だと思います」
三浦が大きな溜息をついた。
「奈津さん、上からあの首輪を持ってきてくれませんか。そこの柱に繋いでおきましよう。これでは、らちがあきません。長期戦でもいいですよね。僕も眠いし」
「わかったわ」
「待て、待ってくれ。話す」
「三浦さん。もう何回も何回も待ってるんですよ。いいかげん、僕、疲れました。我々は一カ月かかっても二カ月かかってもいいんです。気長にやりましょう」
「頼む。話を聞いてくれ」
さすがの三浦も覚悟を決めたようだった。
銀行からの借り入れを減らして、紺野建設には三浦の都合で資金を貸し付けていた。三浦の都合というのは、資金貸し付けの手数料を個人的に受け取るためで、1億の貸し付けに対して二千万の手数料をとっていた。仕事が止まり、三浦はその資金を回収しなければならなくなった。社員に対しては退職金も減額して払わせ、社長と専務に自殺を強要した。会社が受取人になっている保険を、その返済資金に充てるためだったが、承知しない社長と専務の娘を、それが紺野奈津だったが、誘拐した。保険金が手に入ったら、奈津の生活費と学費は補償するという約束になった。自分の独断で貸し付けが行われ、それが回収不能にでもなれば、三浦のキャリアが終わるだけではなく、刑事訴追される危険もあった。紺野建設の社長と専務に自殺してもらうしか方法はなかった。会社経営に行き詰った経営者の自殺は珍しいことではなく、問題なく保険金を手に入れることができた。その時に手伝ってくれたのが本間弁護士だった。本間は同じ趣味を持っていて、急速に親しくなった。同じ趣味を持つ三浦の知人だった坂東に声をかけて、三人で趣味の会を作った。耽幼会という名前をつけ、本間も坂東も中学生を連れてきた。坂東が管理人の女を用意し、三浦が家を用意した。三人だけではもったいないので、ゲストを受け入れる秘密クラブにした。常連客になった裁判官の大場と国交省キャリア官僚の三上は三人の仕事上での協力者となった。本物の中学生をホステスとする売春クラブは貴重な存在だった。しかも、男の欲望はなんでも叶えられるという特典付きなのだ。三浦は大島建設の出世頭となった。だが、紺野奈津が逃亡し、耽幼会は解散した。証拠隠滅のために、利用していた家を下請けの会社に買い取らせ、建物を解体して倉庫にした。その下請け会社も倒産し、今は更地になっている。他の女の子は坂東が海外に売り払ったと聞いているらしい。それだけの話を三浦は4時間かけて話した。もちろん、須藤が質問をして、聞き出したことも多い。
両親の自殺の真相を聞いた和子は言葉をなくした。それは、自殺などではなく、殺人だった。須藤が何と言おうと、三浦は自分の手で殺す決意を固めた。4人目と5人目のターゲットは裁判官の大場と国交省キャリア官僚の三上だったが、三浦の話を聞く限りでは、三浦を殺せば完結することのようにも思えた。あの家で、誰よりも悪逆非道な行為をしたのは大場と三上だったが、三浦のやったことに比べれば大したことではないのかもしれない。坂東と本間を殺したことは間違いではなかった。声だけしか聞いたことのない、あの二人の女の子は自分のせいで海外へ売られていったのだろうか。怒りと悔しさと悲しみで、自分が溶けていきそうな不思議な感覚の中に埋まっていた。三浦たちのせいで、和子は二度と男を受け入れられない体になっていた。九鬼を受け入れようと何度も試してみたが、体が硬直して動けなくなってしまい、最後まで九鬼と一つになることはできなかった。だから、女としての人生は終わっている。人を殺したことで、人間としての人生も終わっている。生きること、そのものが限界にきている。生まれてきたことを恨むことしか、そんなことしか自分には残っていないのか。強気を表に出しているが、いまにも、ガラガラと音を立てて崩れてしまいそうな気がしていた。
「奈津さん。休んでください。後は僕が」
「ありがとう。明日、もう一度」
「わかってます」
眠れるわけはないが、和子は自分の部屋に入った。




祐天寺で殺人事件発生。
早朝から目黒署は大騒ぎになった。死体発見場所は、まさに目黒署の目と鼻の先だった。弁護士刺殺事件の捜査本部に詰めている捜査員が叩き起こされ、次から次へと走り出していく。第一発見者の新聞配達員の電話によれば、ナイフで刺されているという通報だった。どの刑事の頭にも嫌な予感があった。
的場恭平が署に着いた時には、必殺処刑人による第三の犯行と断定されていた。全く同じ凶器で背中から心臓を一突きにされている。持ち物から、大島建設の企画室次長の三浦信孝というサラリーマンと判明した。近隣警察署からの大量動員が決められ、本庁からも増員されることになった。捜査本部の目の前で行われた第三の犯行。どの警察官も眼の色が変わっていた。警視庁の威信をかけた初動捜査が行われる。失敗は許されない。
別働隊として動いていた恭介と佐竹も聞き込み捜査を命じられ、署を飛び出した。車で行くような距離ではない。二人は小走りで、祐天寺一丁目に向かった。
「必殺の仕業なんでしょうか」
「わからない。連続殺人であることは間違いないけど、わからない」
2件の殺人が必殺処刑人の仕業ではないと思っていた恭介も自信が揺らいでいる。一時間後には、必殺処刑人に申請されたリストに三浦信孝の名前があるという情報が全捜査員に伝わった。
「これで、決まりなんでしょうか」
「わからない。でも、何かが引っ掛かってる。思い出せないけど、気になる」
早朝からの聞き込みなので、住民は笑顔で話をしてくれることはない。貴重な朝の五分を警察に持っていかれて喜ぶ人はいないのはよくわかるが、今日だけは、迷惑でも突っ込んでいくしかなかった。犬の鳴き声の証言は三件あった。犬の言葉はわからないが、鳴き声は単発で終わる場合と連鎖する場合がある。深夜の2時ごろという内容も一致している。もし、死亡推定時刻が2時前後であれば、犬だけは異常事態を感知していたということになる。ただし、目撃していたとしても、犬は証言してくれない。万が一、証言してくれたとしても裁判所が認めてくれるとは考えられない。報告書に書くべきかどうか悩むところだ。
捜査会議が6時からという連絡を受けて、署に戻った二人が7階に行くと、会議室の机は片付けられていて、人が溢れていた。全員での会議は見送られ、グループ分けの一覧表が配布された。署内のあらゆるスペースが会議室なり、そこにテーブルが置かれて臨時の会議室になった。ただし、全員が寝泊まりする場所までは確保できずに、近隣署からの応援捜査員は自分の署に戻って寝ることになっているらしい。恭介の班は廊下に並べられた机で報告書を書き、椅子だけを持ち寄って会議をすることになった。恭介は報告書に犬の遠吠えしか書くことがなかった。他の地域でも犬の話は出たと思うが、会議の席上では発表されなかった。肩身の狭い思いで、会議が終わるのを待った。
捜査本部の一員でありながら、別働隊の恭介は刑事課にある自分の机を拠点としていた。頭を整理しておきたかった。佐竹も2階の刑事課についてきた。
「的場さん。私は、必殺の仕業ではないと思います」
「根拠は」
「ありません。交通課の勘です」
「言いますね」
「あの三浦という男のことを書きこんだ人間が、犯人ではないという証拠もありません。あの騒ぎが自作自演だったら、大変なことになります」
「なるほど。鋭いですね、佐竹さん」
「でしょう」
「でも、何か材料がなければ、僕たちは捜査本部に戻されてしまいます」
「私は、的場さんと組むんだったら、本部でもいいんだけど。どうなるかわからないし、変なオヤジと組まされたら、へこむな」
「佐竹さん。そう言うのを不純な動機って言うんですよ」
「いいんです。私、交通課だから」
佐竹との会話は恭介の緊張を和らげてくれる。タフで弱音を吐かないし、相棒としては最高の相手かもしれない。
「何だろうな。的場さんが気になってること。刑事の勘?」
「さあ」
「私たちと捜査本部が違うこと。一番は必殺の扱いですよね。他には?」
「あっ。待った」
「どうしたんですか」
「手帳だ」
「被害者の奥さんから預かった、あの手帳ですか」
「確か、三浦の名前があった」
「そんなの、ありました?」
「確認してみよう」
「はい」
資料室から手帳を持ってきて、二人は黙々と手帳を読んだ。そして、一時間後。
「あった」
佐竹が叫んだ。
「どこ」
フルネームで書かれている訳ではないので同一人物と特定できないが、三浦という名前が何度も出てくる。本間弁護士のクライアントに三浦という人間がいたことは間違いないようだ。調べる価値はある。今日の報告書に書いた犬の遠吠えよりはるかに価値がある。
「行きますよ」
「えっ」
「課長のとこ」
「あっ、はい」
大増員で配置が変わってしまい、課長は署長室にいるらしい。署長室のドアをノックする勇気はない。待つしかなかった。
「佐竹さん。僕は待ちます。引き上げてもらっていいですよ」
「まさか」
「でも、いつになるか」
「私のこと、女だと思って、気、使い過ぎ。情けは人のためならずって言うでしょう」
「古い言葉」
「私も、待ちます」
「了解」
「もう。そういうのは若い女の子のすることなんです。いい歳の男がやっても、可愛くありませんから」
確かに、交通課の制服で敬礼をして「了解」と言う動作は、若い女の子に限る。恭介は了解という言葉を呑み込んだ。
署長室は、それなりに人の出入りがある。ノックもせずに入っていく本庁の人間もいた。
「誰を待ってる」
部屋から出てきた副署長が声を掛けてくれた。
「野本課長です」
「入れよ」
「えっ」
「時間の無駄だろう。ここは、今、署長室じゃない。作戦司令室なんだから、遠慮なんかするな」
「はい」
恭介はノックをして、部屋に入ったが、誰もノックなど聞いてはいなかったようだった。
「課長。すみません。見ていただきたいものがあるんですが」
「ん」
恭介はドアを指差した。
廊下には、手帳の入った靴箱を持った佐竹が背筋を伸ばして立っていた。
「どうした」
「これです」
恭介は手帳を開いて、課長に渡した。
「他には、何かあったか」
「いえ。これだけです」
「中で説明しろ」
「自分が、ですか」
「そうだ」
「はい」
「佐竹巡査も、それを持ってきてくれ」
「はい」
恭介と佐竹は、恐る恐る署長室に入った。
「すみません。的場巡査部長の話を聞いてやってください」
一瞬で部屋が静かになった。
「的場君」
「はい。これは、最初に殺された本間弁護士の奥さんから預かった本間弁護士の古い手帳ですが、その中に三浦という、顧客と思われる名前が出てきます。フルネームはありませんので、今回殺害された三浦と同一人物かどうかはわかりません。もし、この二人に接点があったとすると、ネット上の必殺はカモフラージュの可能性が出てきます。つまり、無差別殺人でない可能性も否定できません。捜査の必要があると思いました」
「わかった。この件は野本課長に任せます。捜査の詳細が決まったら報告してください」
本庁の管理官の許可が出た。今日一日の捜査でも、それらしき証拠や状況は聞いていない。どんな些細な可能性でも欲しいと誰でもが思っている。上層部の思いはさらに深刻なのだろう。三浦という名前一つであっても、即決で態勢がとられることになった。
7階の会議室に、1グループの捜査員を集める指令が飛んだ。1グループは弁護士刺殺事件から担当してきたグループで、恭介もその一員だった。野本課長の補佐をしている生活安全係の斎藤警部補が合流し、2階の刑事課で4人の打ち合わせが始まった。
「的場君、計画は」
「えっ」
「何にもなしで、俺に話した訳じゃないだろう」
「はあ」
「的場さん。被害者宅の家宅捜索って言ってたのでいいんじゃないですか」
いや、そんなことは言ってない。
「なるほど。三浦の家宅捜索だな。他には」
「本間弁護士の事務所で入金のチェックをしたいって、言いませんでした」
いや、それも言ってないし。
「それも、やろう。他には」
「あの、同じ時期に紺野という名前が出てくるんです。関係があるかどうか」
「よし。こんのだな。どんな字だ」
恭介は紺野という文字があるページを開いて手帳を渡した。
「斎藤君、意見は」
「先ず、その線でいきましょう」
「よし。会議だ」
野本と斎藤が勢いよく席を立って、7階へ向かった。恭介は全身に汗をかいていた。
「佐竹さん」
「すみません。出過ぎたことして」
「いや。助かりましたよ」
「でも、的場さんも、そう考えると思ったんです。もうツーカーのコンビですから」
確かに漠然とではあったが、家宅捜索のことは頭の中にあった。だが、手帳のことで頭がいっぱいだったことも確かだった。
翌朝一番で2枚の家宅捜査令状を取り、二人の被害者の自宅と事務所に出かけた。恭介と佐竹の二人も三浦の自宅に押し掛けた。
三浦の自宅は目白にあり、豪邸の部類に入る。家族の協力が得られない場合は令状を開くつもりだったが、ご自由にどうぞと言われた。祐天寺の事件は、発表の内容を限定した関係で三浦の自宅にマスコミが押しかける状態にはなっていない。ネット上でも、まだ話題にはなっていかった。
書斎にある棚の奥から古い手紙類を引っ張り出した恭介は、年賀状の中から本間隆三の葉書を見つけた。現場指揮官の斎藤警部補に耳打ちをして、持ち帰る物の選定をした。家族の許可を貰い、空の段ボールが持ち込まれた。被害者の家の捜索なので、恭介と佐竹は後片付けを慎重にやった。
「ご協力ありがとうございました」
「被害者だと言うのに、警察はこんなことをするのね」
「申し訳ありません。犯人逮捕の情報に繋がることを願っています」
「私たちが何を言っても、無駄なのよ。そうでしょう」
「そんなことはありません。ご協力感謝しています」
「もう、いいわ」
「あと、何かお気づきのことがありましたら、私までお電話いただけると助かります」
「そんなことすると思ってるの。まるで、私たちは犯人扱いだったのよ。さっさと帰ってください」
「すみません。失礼します」
最後の二人になった恭介と佐竹は深々と頭を下げて、三浦邸を後にした。
署に持ち帰った書類や手紙、そして古い手帳を精査したが、恭介が見つけた年賀状意外に関係資料は発見できなかった。年賀状以外に本間、坂東、紺野という名前もなかった。
本間の事務所に捜索に行った班も収穫がなく、恭介は三浦が意図的に処分したのではないかと思った。見つけた年賀状は、たまたま残っていたものだとすれば、表に出せない関係があったのではないかと想像できる。これが連続殺人であることは凶器から見ても殺害の手口から見ても間違いはない。犯人がこの三人に深い恨みを持っていたとすれば、殺された三人にも深い関係がある筈である。それなのに、年賀状一枚しかない。どう考えても不自然だった。
三浦の死体検案書では、前の2件の殺害と大きく異なることが判明した。数か所に外傷があり、顔や髪から唐辛子成分や接着剤の成分が見つかっている。それは三浦が拉致され、監禁されていたことを示していた。三浦の足取りが消えて、死体になるまでに空白の時間がある。つまり、出会い頭に殺害したのではなく、何らかの意図があったと思われる。それが何なのか。そこに辿り着くには、まだまだ道は遠いと恭平は感じた。警察の地道な捜査の積み重ねしかない。ネットに振り回されていては、事件は解決できない。
殺害場所は祐天寺だと思われるが、どこで拉致され、どこに監禁されていたのか。祐天寺の周辺は捜査員が執拗な聞き込みをしているが、監禁場所になったと思われる場所は見つかっていない。必ず、移動手段がある。不審車両の発見にも多くの捜査員が充てられていた。
糸口らしきものがあっても、どれもこれも先細りになり、糸が切れてしまう。残されているのは紺野という名前だけだった。ただ、捜査本部の中では必殺処刑人の比重は大幅に減少した。ネットは無視できないが、この殺人事件は連続刺殺事件として正面から取り組まれるようになった。本来の警察の仕事が復活したのだ。これだけ劇的に捜査方針が変えられるということは、捜査本部の上層部がまだ腐っていないということで、捜査員からもそれなりの評価がされている。
翌日、恭介と佐竹は丸の内にある大島建設本社を訪問した。昨日も別の刑事が事情を聴きにきているので、会社としては歓迎できる訪問者ではないのだろうが、大会社としての対応をすることが社員にも求められているように感じた。対外的な窓口を担当している総務部の市橋という50前後の紳士が笑顔で迎えてくれた。名刺交換すると同時に、淹れたての日本茶が出てきた。
「何度もお邪魔して、申し訳ありません」
「とんでもございません。うちの三浦のことでお手数をおかけして、恐縮でございます」
「早速なんですが、13年ほど前に三浦さんとお仕事をされていた方をご紹介いただけませんか」
「13年前ですか」
「古い話で、すみません」
「調べるのに少し時間がかかりますが、よろしいでしょうか」
「はい。お手数かけて、すみません」
今日は、恭介も下手に出ていた。笑顔と丁寧語で追い出そうとしても、そうはいかないということを態度で示しながら、あくまでも丁寧にお願いする。ネット上で騒ぎが大きくなれば、いろいろなところで歪みが出てくる。会社の対応も変わるかもしれない。
「刑事さんも、お忙しいでしょう。明日までに探しておきますけど」
「ありがとうございます。でも、ここで待たせてもらってもいいですか。なんせ、上がうるさいもんで。目の前の机ぐらいは平気で蹴っ飛ばすような上司なんです。ご迷惑だとは思いますが、お願いできませんか」
「迷惑だなんて。とんでもありません。それじゃ、しばらくお待ちください」
「無理言って、ほんとに申し訳ありません」
笑顔を見せて出て行ったが、本当に2時間も待たされた。
「敵も、なかなかやりますね」
佐竹が囁くような声で言った。
「頑張りましょう」
「はい」
ノックの音がして部屋に入ってきたのは40過ぎのエリート官僚のような男前だった。平身低頭して貰った名刺は秘書課課長の馬場幸彦となっていた。
「どうぞ、お座りください。あまり時間はありませんけど、よろしいでしょうか」
「もちろんです。すぐに済みます」
「三浦さん。殺されたんですって」
「はい。多分、他殺だろうと思われます」
「どんな死に方をしたんです、あの人」
「まだ捜査中なので、詳しいことはお話できないんです。ご協力をお願いしておきながら勝手なことを言って申し訳ありません」
「いいですよ。で、何が知りたいんですか」
「13年前の、三浦さんをご存じですか」
「ええ。同じ課にいました」
「そうですか。紺野という名前をお聞きになったことはありませんか。紺絣の紺に野原の野です」
「紺野、ですか」
「はい」
「そう言えば、紺野建設という会社がありましたね」
「紺野建設ですか」
「もう、ずいぶん前に倒産したと思いますよ」
「倒産したのはいつ頃でしょうか」
「んんん、はっきりは憶えていませんが、そのぐらいかな」
「大体の所在地と言うか、どこにあった会社ですか」
「たしか、立川の方じゃなかったかな」
「そうですか。三浦さんと紺野建設さんの関係は」
「さあ、そこまでは憶えてませんね。出入りの業者さんだと思いますが」
「そうですか。ところで、三浦さんはどんな方ですか」
「どんな、と言われましても。仕事のできる立派な方でしたよ。会社にとっては大きな損失でしょう」
「企画室というのは、どんなお仕事なんですか」
「いろいろですよ」
馬場は、あからさまに時計を見た。もう、帰れと言うことのようだ。又の機会があるかもしれない。悪印象を残していくのも得策ではないと思った。
「ありがとうございました。お忙しいのに時間をいただいて感謝しています」
「いえいえ、また、いつでも」
「はい。ありがとうございます」
大島建設のビルを出て、恭介は本部に電話連絡を入れた。13年前に倒産していると思われる紺野建設という会社を調べるために立川まで行くことを伝えた。立川署の方へは連絡を入れておいてくれると言ってくれた。
「行きましょう」
「はい」
立川署は駅から少し距離があった。刑事課へ行くと、広田という年配の警部補が待っていてくれた。
「紺野建設とは、えらく古い話ですね」
「はい。どなたかご存じの方、おられますでしょうか」
「私は当時、谷保交番におりまして、走り回りました」
紺野建設の事を知っている広田警部補が待機していてくれたようだ。
「倒産しましたよね」
会社が倒産したくらいでは警察官が走り回ることはない。
「ああ、倒産ね。確かに。でも、大変だったのは、社長と専務をしていた奥さんが二人で自殺しましてね、中学生の娘が行方不明になったんです。大騒ぎでした」
「自殺と行方不明」
「娘さんの行方は、まだ見つかっていません」
「その自殺に不審な点は」
「ありませんでした。遺書もありましたし、検視の結果にも問題はありませんでした。ただ、娘さんの行方不明が自殺の前なのか後なのか、わかりませんでした。何か事情を知っているのではないかということで、ずいぶん捜査をしましたが、見つかりませんでした」
「広田さんはどんな感触を持たれました」
「そうですね。どこか割り切れないものがあったという印象が今でもあります。特に娘さんの行方不明はそうです。会社の倒産で自殺を選ぶ経営者がいることは不思議ではありません。でも、奥さんまで一緒に自殺となると、どこか変ですよね。会社経営をしている友達がいますが、死ぬ時は独りで死ぬと言ってました。一つ一つは納得いくんですが、三つ重なると変でしょう。当時、刑事課も懸命に動いてくれましたけど、何も出ませんでした。行方不明の捜索願であんなに動いたのも珍しいことじゃないですかね」
「と言うことは、捜査資料があると言うことですか」
「あるんじゃないですか。まだ確認はしてませんけど」
「見せてもらえますか」
「ええ。捜してみましょう」
広田警部補は席を離れ、若い刑事と話をして戻ってきた。
「これは、目黒の殺人ですね」
「はい」
「インターネットで騒ぎになった」
「ええ」
「紺野建設が、からんでるんですか」
「まだ、わかりません。どこにも発表されてませんので、ここだけの話にしてください」
「もちろんです」
「一人目の被害者と三人目の被害者の接点の近くに紺野建設がいるのかもしれない、という疑いですが、何もわかってはいません」
「そうですか。自分にも娘がいますんで、あの娘さんの事は時々思い出すんです」
しばらくして、薄い捜査資料が届けられた。ざっと目を通したが、三浦に関するものはなかった。社長夫婦の自殺に関する捜査であれば、三浦の名前が出るかもしれないが、娘の行方捜索の資料だから仕方がないのだろう。聞き取りをした報告書に紺野建設の従業員だった人間もいる。参考のために写真も欲しかった。
「従業員だった人に、話を聞きたいんですが」
「さあ、古い話ですから、そこにいるかどうか」
「当たらせてもらっていいですか」
「いいですけど、大変ですよ。それより、我々がやった方が早い。捜査本部もだいぶ困ってると聞いてます。正式に捜査依頼をする方が早道だと思いますよ」
「そうですね」
恭介は迷わず電話を取り出して、野本課長に報告をして、立川署への捜査依頼の話を伝えた。課長は二つ返事で引き受けてくれた。
「お願いするそうです」
「それが、いい」
「しばらく、ここで待たせてもらってもいいですか。この資料も読みたいし」
「どうぞ。弁当、取っておきましょうか」
「あっ、ありがとうございます。助かります」
「好き嫌いは」
「ありません」
「お譲ちゃんも」
「ありません。でも、お譲ちゃんじゃありませんから」
「了解」
「うっ」
広田が席を外した。了解は佐竹だけのものではない。
「ほら。誰でも、言いますよ」
「了解」
午後になって立川署で小さな捜査会議が始まった。正式な捜査態勢になったことで、恭介は本間と三浦のことについて詳しく説明し、紺野建設の当時の状況を調べたいと伝えた。
「本間と三浦、そして紺野建設の関係。できれば、坂東という名前が出てきてくれると助かります」
「坂東。あの川崎の被害者か」
「はい。本間と三浦の接点は出てきましたが、坂東との接点が全くありません。連続殺人事件だとすれば、必ずどこかで繋がりはある筈です。でも、重点はあくまで本間と三浦と紺野の関係です。よろしくお願いします」
「なんせ、古い話だ。まず、紺野建設の従業員を捜す。親戚にも話を聞く。ところで、的場さんたちは、今日だけかね」
「いえ。明日も、朝一番から参加させていただきます」
「よし。人数に入れとくよ」
「はい」
紺野奈津という中学生の捜索記録にあった紺野建設の関係者から当たることになった。警察官になってから、一度も報告書を好きになったことがない。報告書を書くと思うだけで暗い気持ちになっていた。だが、こうやって13年後に報告書が役立っているのを見ると、考えが甘かったと認識せざるをえない。
案内役として、恭介よりも若い滝川という巡査部長が同行してくれる。男前で、口数が少なくて、暗い表情が気になるが、知らない土地での捜査だからありがたい配慮だった。恭介たちが担当した人物は大林健三という、当時50歳の男だから今では63歳になっている。国立の外れにある富士見台団地に住んでいたが、今でもそこにいるかどうか。先ず、動いてみる。机で思案していても事態はなにも変わらない。
13棟の2階に、大林の表札があった。恭介は呼び鈴を押した。
「はあい。どちらさん」
中から女の声が聞こえた。
「立川署の滝川と言います」
「警察」
「健三さんは、おられますか」
ドアチェーンと鍵を外す音がしてドアが開いた。細い年取った女の顔がドアの隙間から覗いた。滝川は警察バッチを見せて、同じことを聞いた。
「健三さんは」
「主人は、いませんよ。3年前に亡くなりましたから」
「そうですか」
滝川は、後は任せましたよと目で言った。
「13年前の、紺野奈津さんのことでお聞きしたかったんですが」
「ああ、あれね。見つかったの」
「いえ。まだです。奥さん、当時の事知ってますよね」
「私はほとんど、知らないね。なんなら、27棟に秋山さんという人がいるから聞いてみれば」
「秋山さんも紺野建設におられた方ですか」
「ええ」
「27の何号室でしょうか」
「確か、4階だったと思うけど、番号は知らないね」
「ありがとうございます。この時間おられますかね」
「もう、仕事はしてないと思うよ」
「行ってみます。お時間とらせてすみませんでした」
滝川の案内で27棟の秋山信夫の部屋に着いた。秋山の足は片方しかなかった。63歳より若いように見えるが、これでは仕事はできないだろう。紺野建設のことで聞きたいことがあると言うと、秋山は三人を部屋に入れてくれた。独り暮らしのようだ。
「懐かしい話だな」
「紺野建設にお勤めでした」
「ああ」
「倒産して、大変だったでしょう」
「まあな」
「その頃のことを話してくれませんか」
「そうさな。仕事もあって、順調な会社だったのに、ある日突然、倒産だ。驚いたね。ほら、何とか言うだろ、晴天のなんとか」
「晴天の霹靂ですか」
「そう。それよ。社長も奥さんもいい人でね、何の問題もない会社だったんだ。それなのに、もち代にもならない退職金で、辞めてくれだよ。びっくり。頭の中真っ白。たぶん、他の皆も同じだったと思う。それで、お終いよ」
「文句言う人はいなかったんですか」
「あの社長に土下座されたら、誰も何も言えないよ。悪いのはあの大島建設の奴だと言ってたな、皆で」
「大島建設の何という人ですか」
「名前は忘れた。あんな奴の名前」
「三浦という名前では」
「さあ、憶えてないね」
「そうですか」
「そうそう、皆が辞めた後で社長と奥さんが自殺してな。気の毒に、あんないい人が。社長が死んだ後で、もう少し粘ればよかったなという話になってよ。でも後の祭りってやつだな」
「どうして」
「がっぽり、保険金が入った筈だと。もう少し退職金貰えたんじゃないかってね」
「保険金」
「ほら、社長が死んだら会社に入る保険金よ。専務の奥さんも入ってたらしいから、かなりの金額になったろうって言ってた」
「その保険の事を知ってる人がいたんですか」
「ああ。事務のさっちゃんが、そんなこと言ってた」
「その、さっちゃんの名前、わかりますか」
「ええと、思い出せないな。古い話だからな」
「年齢は」
「まだ、若かったな」
「そうですか。それと、娘さんがいましたよね」
「ああ。なっちゃん、な。あの子もいい子だったな。普通、どんな家でも嫌な奴いるもんだけど、あの家族だけは違った。社長も奥さんもなっちゃんも、みんな、いい人ばかりだった。それなのに、社長と奥さんは自殺するし、なっちゃんは行方不明だろ。お天道さんはいないのかね」
秋山の目は遠くを見ていた。他の従業員の消息を尋ねてみたが、大林さんも死んでしまったからな、という返事だった。坂東という名前もヤクザも記憶がないようだった。最後まで、事務のさっちゃんという女性の名前は思い出してくれなかった。名刺を渡して、思い出したら連絡をくれるようにと頼んだ。
紺野建設はまともな会社だったようだ。税金も保険も納めているだろう。たとえ令状を取ってでも、事務のさっちゃんという女性を見つけたいと思った。
立川署に戻り、広田警部補へ報告した。
「今、うちの野田が雨宮幸子という女性から事情を聴いている」
「事務のさっちゃんと呼ばれていました。もし、その人なら保険金の話を聞いてください」
広田はすぐに電話をしてくれて、電話口に野田が出てると言ってくれた。
「的場です」
「野田です。今、雨宮さんに変わります」
しばらく待たされた。
「もしもし」
「突然で、すみません。秋山信夫さんから話を聞いたんですが、秋山さんが事務のさっちゃんと呼んでいたのは雨宮さんのことでしょうか」
「はい。多分、そうだと思います」
「保険金の話を聞きましたが、社長と専務には会社の保険金がかかっていたんでしょうか」
「はい。そんなことがありました」
「いくらです」
「死亡保険金がお二人合わせて、一億円だったと思います」
「受け取ったんでしょうか」
「それは、わかりません。私、もう退職してましたから」
「そうでしたね。ありがとうございます。野田さんに代わっていただけますか」
「野田です」
「保険金のこと、もう少し聞いておいてもえますか。それと、紺野建設が使っていた銀行の名前もお願いします」
「はい」
明日は朝から来ますと言って、恭介と佐竹は立川署を後にした。自分の署に戻って、今後の指示を貰っておかなければならないと感じていた。それと、明日は野本課長にも立川署に同行してもらい、立川署に仁義を通しておかなければならない。これで金の動きが掴めれば本間と三浦は確実につながる。まだ犯人の後姿も見えていないが、そう遠くない日に影ぐらいは見えるような気もする。
目黒署は緊張の中にあった。
「課長。何があったんですか」
「おう。ご苦労さん。またネットが騒ぎ始めた」
「そうですか」
「報告を聞こうか」
「はい」
野本課長が所轄の刑事課長に立ち位置を戻してくれたように感じた。立川での報告と明日からの予定を話した恭介に、課長は「わかった」と一言だけ答えた。反論も新たな指示もなかったことで少し気持ちが楽になった。
「不審車両は見つかったんだが、その車は羽田で発見され、盗難車だとわかった。これも、行き止まりだ」
「はい」
「ここだけの話だが、これだけ何も出ないのはおかしい。個人の犯行ではないんじゃないかと思ってしまう。だが、君の捜査では怨恨の可能性も出てきた。参ったよ、この事件は。自分の頭を冷やすためにも、今日は家に帰って、明日は立川署に直行しょうと思う」
「はい。お願いします」
捜査員に愚痴をこぼす課長の姿を初めて見た。
「佐竹さん。明日は我々も現地集合にしましょう」
「はい。時間は」
「立川署に9時でいいですか」
「了解」



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陽だまり 1 [陽だまり]




闇に身を沈めて五感を研ぎ澄ましていく。体全体の筋肉が張り詰めて、どんな状況にも対応できるようになるまで動きださないのが、須藤洋平のやりかただった。樹木の横では木になり、塀の傍ではブロックになる。勿論、家の中では家そのものになる。人の気配を感じ、貴重品の隠し場所へも直感が導いてくれる。まだ若いが、須藤洋平は空き巣のプロだった。遊びで盗みをやっていた高校時代。卒業と同時にプロに転向してから10年、まだ逮捕されたことは一度もなかった。小柄で童顔、まだ学生服でも通用する外見だが、20代は残り少なくなっていた。性格は臆病で几帳面。洋平の辞書には「無茶」という文字はなかった。フリーターという人種が市民権を得て、バイトを転々とする生き方を誰も不審に思わない時代になり、都会では市民と犯罪者の間に境界線は引かれていない。納得のいくまで情報収集を行い、計画を細部まで詰めて実行に移す。空き巣被害のほとぼりがさめると、その町を出ていく。戦国時代に生まれていれば、忍者になっていたかもしれないという空想に浸ることもあった。高校時代は体操部に所属し、床運動が得意だった。住宅街の塀の上を走っている時など、男子にも平均台の種目があれば、全日本級の選手になれていたかもしれないと思う。
プロの自負を持っている洋平だったが、今日はなぜか集中ができない。見た目ではいつもと変わりがない住宅街なのに、いつもの住宅街と違う。街のせいなのか、自分のせいなのか分からないが、今日は大人しく部屋に帰って寝ることが最上の策だと思い始めていた。
少し離れた場所で人の声がした。それは緊迫感を伴った声に聴こえた。何人かの足音がする。走っている。住宅街全体に緊張が満ちた。洋平は自分の背後の気配を探った。何本もの退路を確保しているが、どの退路が一番安全なのか。小さなビルと民家の間の細い隙間にいた洋平が体の向きを変えて走りだそうとした時に、塀の横を走る黒い影を見た。街を覆っていた違和感の正体が見えた。警察の張り込みと、黒い影の犯罪者。
洋平は通りに体を出した。
「こっちだ」
黒い影は急停止をして、洋平を見て、後を気にした。
「早く」
洋平は、そのまま狭い隙間に飛び込み、走りだした。黒い影が後ろにいることを気配で感じて、塀に飛びつき、塀の向こうに飛び降りた。黒い影は洋平のように身軽ではなく、塀を越えるのに時間がかかる。それでも、後を追って来ている。細い通路の出口で止まり、通りの様子を窺う。深夜の住宅街には人通りも車の通行もないが、安全確認もせずに飛び出すことはできない。後にしゃがんだ黒い影の息がよく聞こえている。
「行くぞ」
洋平は道路を横切って、また狭い隙間に入り込んだ。何度も住宅の庭を横切り、学校の裏側を走り、小さな崖を下った。古びた3階建ての小さなマンションの裏に出て、黒い影に待つように言って、表に回った。「マンション並木」の1階の端部屋が洋平の部屋だった。玄関から鍵を開けて部屋に入り、電気を点けずに裏に面したガラス戸を開けた。
身を潜めている黒い影は、上も下も、そしてズックも黒。しかも、黒いキャップを被っている。「素人」だなと思った。田舎じゃあるまいし、都会の住宅街に真っ暗闇などない。黒装束はそれだけで目立つ。洋平はグレイの上下で、ズックも黒ではない。洋平は手招きで黒い影を呼びこんだ。遠くでパトカーのサイレンが増えている。
ガラス戸を閉めて、カーテンをした後で部屋の電気を点けた。
正面から黒い影を見た。キャップを取ったのは女だった。額に汗が光っている。洋平は口に人差し指を当てて、声を出さないようにと注文をつけた。一人暮らしの男の部屋から話声が聞こえれば、それはいつもと違う状況が生まれる。警察は、何か変わったことはありませんでしたかと聞き込みをする。そんな状況を作る訳にはいかない。洋平の部屋には洋平以外の人間が入ったことはなく、ましてや女の声などする筈もない。
小さな座卓の上に、ノートとボールペンを置いた。
「どこか、痛いとこ、ないか」
ノートに書いた質問を渡した。胡坐をかいて座った女が首を横に振った。
洋平は立ち上がって、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを出して、一本女に渡した。
「なぜ、助けた」
女がノートに質問を書いていた。
「敵の敵」
女は洋平が書いた敵という文字を丸くかこった。
「警察だろ。追っかけてたのは」
「あなたの敵」
洋平は頷いた。
「今日は、ここを出ない方がいい」
女が、部屋を見回した。その六畳間には小さなテレビとラジカセが一台、それに小さな座卓があるだけ。隣の台所にも小さな冷蔵庫が一台あるだけの寂しい部屋だった。
「何を、やった」
空き巣や泥棒で警察があれほどの動きをする筈がない。女はボールペンを手にしたまま考え込んだ。ボールペンの先でノートを叩く。暫くして、女が書いたのは「殺人」という文字だった。
洋平は女の顔を見つめた。女が冗談を言っているようには見えない。女は洋平の顔を見返した。目鼻立ちはくっきりとしていて、美人の部類に入るのだろうが、顔は戦闘モードのままで危険なオーラが立ち昇っている。洋平は自分の部屋に危険物を持ち込んだことに気がついた。
「近くのコンビニまで行く。僕のいない間は動かないで。トイレも台所も使用禁止。僕がいない間にトイレの水が流れたら変。わかる」
女は返事を書かずに、洋平の顔を見た。
洋平は入口の横にあるドアを指差した。
洋平は、女がトイレの水を流し終わってから外に出た。食糧と飲み物を調達し、外の様子を確認しておきたかっただけではなく、考える時間が必要だった。窃盗と殺人では重さが大きく違う。自分の身に危険が及ぶ事態は避けなければならない。
コンビニは少し大きな道路に面している。終電の終わった時間だから人通りはないが、車の通行はそれなりにあった。初対面だから、女の嗜好はわからない。弁当はやめて、パンとおにぎりを買い、お茶とコーヒーを買った。
パトカーがサイレンを鳴らして通り過ぎて行った。
「何かあったんですか」
「わからん。でも何台も通ったな。物騒で困る」
レジにいる中年の店員がほんとに困っている顔で答えた。コンビニ強盗が珍しくなくなり、深夜のコンビニを任された店員には危険が身近なものになっている。洋平もコンビニのバイトをしているので店員の気持ちはよくわかった。
洋平はコンビニを出て、天を仰いだ。なんて馬鹿なことをしたのだろう。あの殺人犯を助ける必然性などどこにもなかった。できるだけ速やかに、出て行ってもらわなければならないが、あの女が警察に捕まっても困ることになる。逃亡幇助の罪を被る立場に自分を追いやったようなものなのだ。
部屋に戻り、食糧はテーブルの上に置き、飲み物は冷蔵庫に入れた。女は壁にもたれて、目だけで洋平の動きを見ていた。洋平は押入れを開けて自分の毛布と、まだ使ったことのない新しい毛布を出した。
「まだ、使ってない毛布」
ノートに書いて、毛布を女に渡した。
「先に寝る。寝る時は電気を消して」
今晩は動けない。悩むより寝てしまった方がいい。洋平は自分の毛布を体に巻きつけて、女が座っている壁の反対側に横たわった。
女が立ち上がって電気を消した。毛布を使う様子も、横になった様子もなかった。
初対面の殺人犯と同じ部屋にいて眠れるほど洋平の神経は太くない。壁を見つめたまま、身動きもせずに、朝がきた。
トイレを済まして、温くなっているミネラルウォーターを飲んで、押入れから新品のトレーニングウェアと携帯用バックパックを取り出した。背丈は同じぐらいだから問題はないだろう。
「これに着替えて、今着ているものは、これに仕舞って、通勤時間帯に合わせて出て行ってもらいたい。その黒装束は目立ち過ぎ」
「お借りします」
「いや。返してもらわなくても、いいです。この先、二人は無関係。いい」
「わかった」
「好きな物、食べて」
「ありがとう」
筆談のペースが掴めてきた。女は菓子パンを取って食べ始めた。
「缶コーヒーでよければ、冷蔵庫」
洋平は、かつおのおにぎりの包装を外した。
「通勤時間帯は7時から7時半」
女は自分の時計で時間を確認した。
洋平はテレビをつけた。数時間前に起きた殺人事件は、まだ放送しないと思ったが、念のために世間の騒ぎは確認しておきたかった。
だが、十分ほど経ったローカルニュースで殺人事件が映像なしで放送された。殺されたのは暴力団の幹部で、鋭利な刃物で心臓を刺されたと伝えている。抗争事件の可能性も否定できないというのが警察の見解だった。同じ川崎市で拳銃の発砲事件があったばかりなので、その関連ではないかとテレビ局は推測していた。と言うことは、この部屋にいる女は暴力団に雇われた殺し屋なのか。洋平は女の顔を見た。だが、女はニュースを聞いていないふりをした。これこそ、正に最悪の事態だった。
7時になって、女が台所で着替えを始めた。先ほどまで女が座っていた場所にナイフがあった。鞘とベルトが見える。足に巻いて隠してあったナイフなのだろう。それを見て、洋平は自分の迷いを吹っ切った。この街では一度も仕事をしていない。せっかくの情報が無駄になるけれど、次の街へ移ることに決めた。川崎での仕事が終わったら、少し離れた市川市に行く予定をしていた。明日からアパートを探しに行こう。
「最初に、僕が出る。僕が道路で両手を挙げたら、すぐに、ここを出る。挨拶はいらない」
洋平はノートに行動予定を書いて、女が戻ってくるのを待った。
戻ってきた女がノートを読んで、頷いた。洋平はナイフを指差した。
「持っていかない。危険」
見るからに殺傷能力のありそうなナイフを持って出るのは危険だ。女の言うことの方が正しいのだろうが、割り切れない気持ちもある。でも、洋平は頷かざるをえなかった。
「用意は」
「はい。ありがとう」
洋平は部屋を出た。ドアは半開きにしてある。道路に出て、周囲の建物の窓をチェックし、通行人を見た。安全を確認して、道路で体操をしているつもりで両手を上に挙げた。
女は洋平と目を合わせることもなく、自然な態度で歩きだした。黒いズックだけが浮いていたが、着ているトレーニングウェアは全然不自然ではなかった。
部屋に戻った洋平は毛布の上に倒れ込んだ。疲れ切った頭を叱咤激励して目覚まし時計をセットする。バイト先のコンビニの店長は物分かりがいいが、今日の今日では休みは取れない。明日にも辞める店だったが、無茶な辞め方はしたくなかった。
翌日、市川でアパートの賃貸契約をして、バイト先を一週間後に退職する話し合いもついた。自転車で通勤しているが、その途中でターゲットに決めていた家を見ると気持ちが揺れる。だが、殺人事件の緊張感はまだ街中に残っていた。忍耐力が仕事の基本だと信じている洋平は自分の衝動を抑えつけた。

監視を始めて三日になる。バイト先のコンビニに行って名札で名前は確認した。男は須藤洋平。年齢は20代前半か後半か不明だが、30代ではない。化粧をして、眼鏡もかけているのでレジで対面しても気がついた様子はなかった。人畜無害の男に見えるが、須藤洋平が、なぜ助けてくれたのかがわからない。
九鬼和子は「マンション並木」の近くで車を停めて須藤洋平の帰りを待っていた。朝早くに出勤したから、夕方には帰ってくるだろうと思っていたが、須藤洋平が帰ってきたのは夜の10時を過ぎていた。
和子は須藤洋平の自転車の前に立ちはだかった。
「なにか」
「あなたと、話がしたい」
「は」
「お礼も、言いたいし」
「えっ。あなたは」
「そう。あの時の」
「一寸。約束、違う。もう、無関係だと言いましたよね、僕」
「ごめんなさい。でも、無理。あなたの安全も大事だけど、私も自分の安全を確保しておきたい。あなたなら、わかりますよね」
「・・・」
「あの車で待ってます。自転車置いて来てください」
和子は車に戻った。あの男が逃げ出せば、不本意ではあるが、口を塞がなくてはならない。殺人犯を目撃した人間は無条件で殺す必要はあったが、助けてくれたという義理はある。話し合いで両者の立場を創り出さなければならないと思っていた。
しばらくして須藤洋平が無言で助手席に乗りこんできたが、迷惑だと顔に書かれていた。
和子も無言で車を発進させた。近くの工事が中断されている道路に入った。不法駐車の車が何台もあるが、人通りは全くない。
「最初に、助けていただいたお礼を言います。ありがとうございました」
洋平は無言で頷いてみせた。
「どうして助けたのかと聞いたら、須藤さんは、敵の敵だと言いましたよね。警察を敵だと思っているということは、あなたも犯罪者ということになりますが、そうなんですか」
「ああ」
「あなたも殺人犯、なんですか」
「違いますよ」
「じゃあ、何を」
「僕は、可愛い空き巣です。ただの窃盗犯ですから」
「そうですか。そこが、わからないんです。敵の敵はわかりましたが、それだけで、助けますか。私なら、自分だけ逃げますよ。普通、そうでしょう」
「自分でもわからないんですよ。なんで、あんな馬鹿なことをしたのか」
「でしょう。もう少し、納得できる理由はありませんか」
「魔がさしたとしか、言えません。僕だって後悔してるんです」
「そう」
「もう、勘弁してくださいよ」
「須藤さん。逮捕されたことは」
「ありません」
「窃盗なら、有期刑ですね。私、もう二人殺してますから、無期か死刑です。この差がわかりますか」
「・・・」
「それよりも、私は、あと三人、殺さなければならないんです。捕まるわけにはいかないんです。あなたが捕まれば、私のモンタージュ作成に協力することもできます。それって、とても危険なことですよね」
「そんなこと、しませんよ」
「私も、そう思います。でも、あなたも人間ですから、絶対ということはありえない。たとえ1パーセントの確率しかないとしても、危険は危険です。わかってくれますよね」
「だから、絶対に、しませんって」
「無条件に、信じろ、と」
「ええ」
「須藤さん。たとえ、軽微な窃盗だとしても、あなたも犯罪者ですよね。そんなあなたが、他人の言葉を信じろと言って、説得力があると思いますか」
「・・・」
「では、立場が逆だったら、あなたは、どうしますか」
「・・・」
「私の言葉を信じますか。それは、ないでしょう」
「僕に、どうしろ、と」
「まだ、わかりません。だから、話し合って、お互いに納得できる結論が欲しいと思っているんです」
「確かに、僕は失敗をしました。あなたの逃亡に手を貸すべきではなかった。だからと言って、こんなこと言われるのはおかしいと思います。それに、どうして僕の名前を知ってるんですか」
「あのコンビニで、あなたの名札を見ました」
「僕がレジしたんですか」
「ええ」
「どうして、わかったんです。勤め先が」
「・・・」
「監視してたんですか」
「ええ」
「まいったな。ひどいじゃないですか」
「あなたと私では、失うものの大きさが違います。当然のことをしただけです」
「僕は帰らせてもらいます。たとえ、僕が逮捕されても、僕はあなたの名前も住所も知らないから、警察に情報を取られることもありません。それで、納得してもらわなければなりません。それ以上のことはできませんから」
「それでは納得できないから、ここにいるんです」
「そんな無茶な」
「須藤さん。あなた、気懸りなことがあって、仕事に支障があるとしたら、どうしますか。その気懸りを放っておきますか、それとも解決しようとしますか。私なら、心配事は無くしておきたい」
「そら、まあ」
「ですよね。ま、あなたが助けてくれたのは、あなたが言うように魔がさしたとしましょう。でも、結果的にそれが私の心配事になってしまった。あなたが意図したものではなかったかもしれないけど、このことは、つまり、あなたと私の関係ははっきりとしたものにしておかなければなりません。ん。回りくどい、ですよね。はっきり言っていいですか」
「ええ」
「あなたは、私の顔を見てしまった。私としては、安全のために、あなたに死んでもらうことが最善の方法になります。死人に口なしですから。でも、あなたには助けてもらったという恩義があります。できれば、殺したくない」
「・・・」
「私は、あなたを殺さずに、心配事を解決する方法を見つけたい」
「そんな」
「あなたの、命を救う方法。それを考えてください」
「わかりません」
「須藤さん。あなた、ほんとに真剣に考えてますか。このままだと、殺されますよ。私のこと女だと思って、なめてます」
「いえ」
「だったら、考えて」
「僕が、捕まらなければいいんですよね」
「で」
「空き巣、辞めます」
「その保証は」
「保証、って」
「例えば、片足になるとか。松葉杖ついて、空き巣は無理でしょう」
「まさか」
「じゃあ、視力を失うとか」
「そんなの、駄目です」
「うちには地下室がありますけど、そこに監禁するとか」
「それも、駄目です」
「そうですか。困りました」
「信じてくださいよ。絶対に喋りませんから」
「喋らない。その保証は。そうか。あなたも、殺人犯になればいいんです。それなら、窃盗で捕まっても、殺人のことは喋りませんよね」
「勘弁してくださいよ。僕にそんなことできるわけがない」
「だって、他に方法はないでしょう」
「駄目です」
「待って。あの日、あなたは、あの路地にいた。つまり、アリバイはないのよね。私達が二人組でもおかしくない。そうか、私があなたを共犯者だと自白すれば、あなたにはそれを否定する材料がない。あとは、動機さえあれば」
「待ってくださいよ」
「あなたは、坂東に脅されていた。窃盗のことを黙っていて欲しかったら、組の仕事をしろと脅されていた。覚せい剤の運び屋とか」
「坂東って、誰です」
「この前、私が殺した三宅組の幹部。坂東は死んでるわけだから、どんな話も裏は取れない。警察は共犯である私の話を信用するしかないでしょ。それに、私の指紋はあなたの部屋にある。全部消すのは難しいと思うし、一つでも見つかれば、あなたが隠蔽工作をしたことが立証される。警察は、そもそも、女が一人で男を二人も殺すことができたことに疑問を持つわね」
「どうして、そうなるんです」
「あなたの命を助けるためよ」
「おかしい、ですって。僕が何をしたと言うんです」
「ごめんね。私、捕まるわけにはいかないの。自分勝手だと言われても、どんな障害を排除してでも、必ず、やりとげる。あと三人。それが終わったらあなたは自由になる。それまでは我慢して」
須藤洋平は頭を抱え込んだ。
「実はね、私、今とても危ない橋を渡っているんだと思う。問答無用であなたを殺しておかなかったことを後悔することになるかもしれない。あなたを殺して、そのことを後悔することの方が正しい選択なんだと思う。自分でも、どうして、こんな危険なことをしてるのかわからない。あなたが私の希望通りに動いてくれる保証はどこにもないでしょう。須藤さんの監視だけをするわけにもいかないし、あなたが逃げれば、見つけるために大変な時間が必要になり、見つけても殺す以外に方法はないとすると、二度手間になるのよね。あの日、あなたの部屋に行った時、何度も殺そうと思った。でも、できなかった。馬鹿よね」
「ここでも、そうなんですか」
「・・・」
「僕のこと、殺そうと思ってます」
「それはありません。だって、血痕がここに残るもの。危ないのは、車を出た後。でも、そんなことにはしたくない」
「つまり、共犯者になるしかない、と言うことですか」
「ええ。そうしてくれると、嬉しい」
「えらい人に出会ってしまったようですね。手遅れですけど」
「そうね。運が悪いと言うか」
「全くです。僕は自分の計画をやめて、引っ越す予定でした」
「市川でしょう」
「それも、わかってたんですか」
「ごめんなさい」
「あと三人殺したら、僕は自由になれるんですよね」
「ええ」
「どの位、時間、かかります」
「そうね。二年かな」
「じゃあ、二年待ちます。その間、仕事はしません。だから、捕まることはありません。ただのフリーターでいます」
「そう。よかった。ありがとう」
「ふうう」
引っ越しの話は黙っていてもいいことだが、須藤が自分からその事に言及したことでその言葉に少し信頼感が出てきた。
「では、次の話し合いに移りましょう」
「えっ」
「須藤さんは、私の共犯者?」
「違いますけど、そうです」
「どっちなんですか」
「共犯者ということになってます」
「つまり、あなたには共犯者という意識はないということ?」
「だって、違いますから」
「そうよね。そこで、相談です。あなたが腹を括るためにも、実際の共犯者になってもらう必要があると思うの」
「はい?」
「違う?」
「あのね。言ってることが、無茶苦茶なんですけど」
「あなたには、いつでも裏切る用意がある。私にはそう聞こえる。とても、安心できませんよね。つまり、本物の共犯者になってもらうしか、ない。そう思いませんか」
「思いません」
「そこで、あなたには、次のターゲットを探してもらいます。あなたに殺人は無理なようですから、殺せとは言いません」
「出来ませんよ」
「条件を言います。殺されても当然だと言われる男を見つけてください。年齢は問いませんが、できれば40代以上の男が理想です」
「どういうことです。あなたは、無差別殺人をやってるんですか」
「いえ。無差別殺人に見えるようにしたい」
「偽装工作」
「ええ」
「そのために、人を殺すんですか」
「いけませんか」
「普通、いけないでしょう」
「それを言うなら、無差別でなくても、殺人はいけないでしょう」
「そりゃあ、そうです」
「私は、目的のために手段を選ばない決心をしました。でも、人を殺すという行為は、想像を超える衝撃がありました。肉に食い込むナイフの感触が残るんです。二人殺しましたが、慣れることはできません。多分、何人殺しても、同じことだと思います。だから、死んでも当然と思われる相手が必要なんです。三人目の被害者は須藤さんでもよかった。でも、須藤さんは小さな悪事は働いていても、殺されても仕方がないほどのことはしてませんよね。あなたを殺した時は、これまでの衝撃より、はるかに大きなダメージを受けることになるような気がするんです。ただ、他に選択肢がなければ、それは、仕方のないことですけど」
「どうしても、と言うことですか」
「ええ。最悪の出会いだったと、諦めて、くれませんか」
「ほんと、最悪です」
「ごめんなさい」
「どうして、偽装工作が必要なんです。あと三人を、とっとと殺してしまえば済むことでしょう」
「そう、簡単にはいかないんです。実際にやってみると、殺人は簡単じゃありませんでした。無差別に五人殺すのなら、時間はいりませんが、特定の人間を殺そうと思うと、時間がかかるものなんです。途中で捕まりたくない。そのための偽装工作です。次の男を殺すと、捜査線上に私が浮かぶ可能性もあります。そうなると、四人目と五人目の男を殺すことができなくなる。それは困るんです」
「でも、僕の周りにそんな男はいませんよ」
「だから、捜すんです」
「捜すと言っても」
「須藤さん、ネットは」
「パソコンありません」
「ネットカフェは」
「そりゃあ、行ったことはありますけど」
「本職は空き巣ですよね」
「その言い方、一寸」
「でも、そうでしょう」
「まあ」
「学生証を集めてください」
「どうして」
「あなたなら、学生でもおかしくないでしょう。監視カメラがありますから、多少の変装はしてくださいね。先ず、噂を流します」
「噂」
「ええ。現代版の仕事人がいるらしい、と言う噂です。目黒の公園刺殺事件も川崎の暴力団幹部刺殺事件も、その仕事人がやったのだと。二人の悪行を書いて、死んでも当然の男だったと」
「で」
「時間が経てば、その噂は独り歩きをするでしょう。もちろん、警察も目を光らせる。ハッキングは」
「それは、無理」
「じゃあ、私がします。休眠状態の他人のホームページに殺人依頼を書き込む場所を作ります。そのリストを拾い上げて、削除してください。これは、時間との戦いになります。警察がネットカフェに駆けつける前に逃げださなければなりません」
「捕まりませんか」
「絶対安全ではありません。危険はあります」
「ですよね」
「いっぱいダミーを作りますから、それなりに時間はかかると思いますし、きっと、マネをしてくれる人も出てくるでしょう。この手の話は、皆、好きですから、噂が噂を呼ぶと思います。逮捕者が出るかもしれませんが、私達が実行に移すのは、半年先ぐらいになります。ほんとに、処刑されるにふさわしい男かどうか、調べなければなりませんから」
「はあ」
和子は、ここまで話して、須藤洋平の落ち込んだ様子を見て、諦める決心をした。殺害もいとわないという強い決意でこの場に臨んだのだが、自分にはこの男を殺すことはできない。どう考えても、処刑に相応しい男ではない。この男を放置すれば危険はあるが、それは自分で背負っていかなければならないだろう。殺した坂東が警察の監視下にあったことに気がつかなかったのは、あくまでも自分のミスであり、須藤には関係がない。
「無理みたいですね」
「えっ」
「私のことを、誰にも話さないということで、勘弁してあげます」
「いいんですか」
「須藤さんは私を助けてくれた。それなのに、私はひどいことを言ってる。私、必死なんです。許してください。でも、諦めることにします」
「はあ」
「送ります」
和子はエンジンを始動した。

どんどん追い込まれて、もう逃げ場がないと思った時に女は諦めると言い始めた。洋平はなぜか肩すかしをくらったように感じていた。こんな強さを持った人間に出会ったのは初めてだった。空き巣を重ねて、細く長く生きようとしていた自分が小さく見える。犯罪者なら太く短く生きるべきかもしれない。別に将来に何か希望を持って生きているわけではなく、充実感があるわけでもない人生。本気で考えれば、自分を壊すことになると思って、棚上げにしてきた自分の生き様。納得しているわけではないのに、先送りにすることで問題を解決したように感じていた自分。女に頬を張り飛ばされたように感じた。自分の中にまだ残っている男の部分が、「どうする。男を捨てるのか」と問いかけている。
「じゃあ」
女に言われて、洋平は車を降りた。
洋平は、車の発進に合わせて車のルーフに取り付けられているパイプに手をかけて屋根に飛び乗った。出来る限り屋根に張り付く。車高のあるワンボックスカーだから、他の車からは見えにくいはずだが、大型車からは丸見えだろう。でも、この機会を逃せば二度とこの女とは会うこともなくなる。何かをやり残し、消化不良のまま時間を送ることができなかった。問題はどこまで走るのか、だった。まだ十月とはいえ、風をまともに受けて長時間走られたら体力に問題が出る。
女は幹線道路を使わずに裏道ばかりを走った。川崎に住所を移してからまだ2年にもならない洋平には初めての道ばかりだった。前後を走る車はなく、対向車も一台しかいなかった。東横線は越えたが、まだ小田急線は越えていない寂しい場所に女の家があった。田舎風の垣根と広い門を入った車は屋根だけの駐車場に停まった。建屋は田舎作りではなく、古びた洋館風の建物で灯りの類は月明かり以外に何もない。玄関灯すらなかった。
洋平は女が車を降りて建屋に入るまで、車の上で待った。しびれた手足を揉みほぐしながら、「ほんとに、いいのか。引き返せないぞ」と自分に問いかける。臆病を慎重に、優柔不断を思慮深いに言い換えて、30年近く生きてきて、そのことに倦んでいる自分を無視して、「何してるんだろう」と呪いながらも、ただ流れ続ける朽ちた葉のような自分。人生なんてそんなものだろうと悟ってみても、何も満たされることのない人生。自分自身に「うんざり」していることだけは、自分が一番よく知っている。二人もの人を殺し、まだ三人殺すのだと言っていた女の目には輝きがあった。あの女には、俺の目は死んだ魚の目のように見えたことだろう。息はしているが、俺は生きていない。あの女は、生きている。自分一人では冒険できないが、あの女となら、それができるかもしれない。死ぬのは怖いが、百年生きるのも怖い。何もしなかったという後悔に包まれて死ぬことを、昔の人は成仏できないと言ったのだろう。今、この一歩を踏み出さなければ、自分の人生は想定通りの、何の輝きもない人生になってしまう。
洋平は玄関に向かって歩き始めた。
玄関の前に立ったが、どこにも呼び鈴のようなものがない。どんどん、どんどんと拳でドアを叩いた。自分の心臓の音が聴こえる。
「だれ」
「須藤です」
ドアがゆっくりと開いた。最初に見えたのは、手に握られたナイフの光だった。
「入って、いいですか」
女が背中にナイフを隠して、目を見開いていた。
「どうして」
「いいですか」
女が道をあけて、洋平は玄関の中に入った。
「共犯者って、仲間ですよね。仲間なら、正体は知りたいですよね。話も途中だったし」
「でも、どうして」
「ああ、簡単です。僕もあなたの車に乗ってきましたから」
「車に」
「ええ。屋根の上は寒かったです」
「屋根」
「気付きませんでしたか」
「ええ」
「できれば、何か温かいもの、ないですか」
「ああ、ごめん」
洋平は食堂に案内された。玄関ホールも食堂も古く、明治時代にタイムスリップしたのではないかと思った。テレビドラマに出てくる鹿鳴館風の館、ドラマなら、その内部では必ず殺人事件が起きることになっている。女が出て行ったドアの向こうは台所になっているのだろう。ガスの音や食器の音が聞こえてくる。テーブルも椅子も窓もアンティークを気取ったものではなく、自然とアンティークな家具になりましたという古さを感じる。
「紅茶しかないの、いい」
「はい」
砂糖もミルクもレモンも出てこないところを見ると、このまま飲むものらしい。
「いただきます」
一口飲んで洋平は驚いた。美味しい。生まれて初めての紅茶ではない。何回かは飲んだ記憶があるが、まるで初めての体験のようだった。
「美味しいです」
「よかった」
「ところで、お名前を、教えてもらえませんか」
「言ってませんでしたか」
「聞いてませんよ」
「そうよね。九鬼和子です」
「九鬼さん。この家に、お一人ですか」
「ええ、主人は亡くなりました」
「お歳を、聞いてもいいですか」
「26」
「僕より、年上かと思ってました」
「須藤さんは」
「僕、28です」
「見えませんね」
「でしょう。いつも、そうです」
お互いの名前と年齢がわかっただけで、随分身近に感じる。
「事情はあるのでしょうけど、僕を仲間にするという話は本気なんですか。そもそも、人を殺したという話、ほんと、なんですか」
「ええ」
「僕のこと、殺すつもりだった、というのも」
「ええ」
「その気持ち、まだ、あるんですか」
「いえ。須藤さんを殺すのは、諦めました」
「よかった」
「でも、どうして。あんなに抵抗してたのに」
「僕、優柔不断だと言われます。石橋を叩く方なんです。いつでも、安全第一なんですけど、そんな自分に行き詰っていたんだと思います。犯罪者なら犯罪者らしく、太く短くでもいいんじゃないかってね。どう見ても、せこいんです。僕の生き方。九鬼さんの発想に、揺さぶられたと言うか、叩きのめされたと言うか、いつか後悔するんでしょうが、いや、きっと後悔しますが、一歩踏み出してみようかな、なんて」
「でも、窃盗なんですから、細く長くも、あるんじゃないですか」
「何十年も、ですよ」
「無期懲役よりは、よくないですか」
「捕まらなければ、いいんです」
「それは、無理でしょう。捕まりますよ、私も須藤さんも」
「そこを、何とか、頑張って、切りぬけましょうよ」
「変な人ですね」
「僕も、そう思ってます」




目黒署7階にある弁護士刺殺事件の捜査本部には疲れた表情の捜査員が群れていた。事件が発生してから一か月になるのに、まるで方向が見えない。凶器が特殊なナイフだったので、すぐに解決する事件だと誰もが思っていた。10月に発生した川崎の暴力団幹部刺殺事件の殺害手口と凶器が全く同じだということが、目黒の事件を複雑にしていた。警視庁も神奈川県警も連続殺人事件とは発表していないが、警察にとっては同一犯人による紛れもない連続殺人事件だった。川崎の事件の場合、別件で監視していた警察官の前で事件が発生したのに、一人として犯人を目撃した刑事がいない。それは、あり得ないような失態だった。多摩川を境界としている警視庁と神奈川県警は決して良好な関係を築き上げているとは言えない。未だに合同捜査本部の話は宙に浮いたままだった。
二つの事件に使われた凶器のナイフは柄の部分の文様まで一緒なのだが、目黒署はその捜査に行き詰っている。一般に市販されているナイフではない。コレクターと呼ばれる人種が持っている特殊なナイフで、スローイングナイフと呼ばれている。被害者は二人とも背中から心臓を一突きにされて、ほぼ即死だったと思われる。物盗り目的ではなく、怨恨と言うより処刑に近い。やくざが被害者になったことで、処刑説が多くなったが、二人の被害者の接点はどこにもなかった。犯人はプロの殺し屋で、既に国外に逃亡しているのではないか。憶測ばかりが先行し、警察の得意とする地道な捜査でも空振りばかり。捜査本部の士気が下がるのは仕方のないことだった。
的場恭介は殺人事件の捜査本部に初めて参加した。本庁から来た警部補と組んでいるが、その梅原警部補の口数が日に日に少なくなっていく。冗談も言えない雰囲気で、毎日が重苦しい。被害者の弁護士は悪徳弁護士だと判明し、恨みを持つ人間は山のようにいる。すぐにでも犯人が絞り込めると思われていたが、容疑者は浮上してこなかった。犯行時刻は深夜と推定されているため、目撃情報は数件しかなく、それも全て裏がとれて無関係と断定された。周辺の店舗やマンションの防犯ビデオをかき集めて分析したが、有力な情報は得られていない。
恭介は凶器のナイフ捜査班だった。ネット販売の場合には送り先があるが、店頭にきた客に対しては身分証の提示を求める必要もない。しかも、販売されていないナイフを捜すのだから、マニアやコレクターを捜すことが先になる。特に両刃のナイフが販売できなくなってからは、マニアは情報提供にも二の足を踏む。ナイフ所持者全員の捜索令状を請求するわけにもいかず、頭を下げて情報を貰うくらいしかできない。東京中を走り回っているが、スローイングナイフを持っている人間はいなかった。特に若者は実物を見たこともないという人間ばかり。どこで売ってるんですかと聞かれることの方が多かった。
若い頃は、コレクターだったという人間がそのコレクションを捨てきれずに物置の奥に仕舞っているナイフ。可能性が高いのはそんな元コレクターだが、それを捜すことは事実上不可能に近い。何十年も遡って、かつてのマニアやコレクターを見つける方法はないのが現状だった。それでも僥倖を求めて歩き続けなければならない。
神奈川県警との合同捜査は暗礁に乗り上げたままだが、この事件に関してだけは情報交換を徹底するという協定が成立した。お互い、背に腹は代えられないというのが本音だった。捜査方針は二人の被害者の接点を求める方向に移り、大半の捜査員は被害者の弁護士、本間隆三の過去に振り向けられた。ナイフ捜査の担当は梅原警部補と的場巡査部長の二人だけになった。
「このまま、年越しですかね」
「さあな」
二人の刑事は青梅市に向かっていた。話しが聞けそうな人物がいれば、どこへでも出かけなければならない。効率の良し悪しは問題ではない。微かな情報だけでも車を走らせている。最近は捜査時間の大半が移動時間に使われていて、それなりの話が聞ければ成功と言わなくてはならない。相手が見つからないこともあれば、全く無関係の場合もある。青梅市の向こうには奥多摩があるだけで、その先は東京ではなくなる。犯人が東京在住とは限らないし、さらに日本在住でないことも考えられる。青梅市ぐらいで不服を言うつもりはないが、当たりのない捜査は疲れを溜めるだけの行動にしかならない。二人の間には無駄話の種も、世間話の種も尽き果てていた。
やっとの思いで辿り着いたが、見事に空振りだった。該当人物は2年前に亡くなっていて、一人息子は海外在住だった。住んでいた家もなくなり、遺品がどうなったのかを知っている人間もいなかった。
梅原は恭介より年齢も階級も上だが、二人とも中肉中背で、体育会系ではない。さらに、共通しているのは、疲れた暗い表情だった。
そして、恭介が予測したとおり事件は何の進展もなく年を越してしまった。それまでにリストアップされ、既に聴取した人間から二回目の聴取もした。行き詰りとどん詰り状態の中で、もがく術さえなくなっている。
「青梅の坪井さんを、当たってみませんか」
「どうして」
恭介の提案には何の根拠もないが、元気のない梅原の反論にも根拠はないはずだと思った。
「海外出張は無理ですけど、手紙は書けます」
「ああ」
「住所調べてみますよ」
「ん」
「梅原さん、本庁に用事があると言ってましたよね。住所調べるだけだから、自分一人で行ってきます」
「そうか」
忙しく嗅ぎ回っている時は二人で行動しても問題ないが、煮詰まってしまうと二人でいることだけでも息苦しくなる。それは恭介だけではない。溜息の数を数えていれば、梅原も同じ気持ちでいることがわかる。
「わかった」
恭介は一人で青梅に向けて車を走らせた。天気は曇りだが、気持ちは晴れていた。梅原は、先輩風を吹かしたり、意地悪をするような悪い人ではないが、とにかく暗い。同僚から暗いと言われている恭介より何倍も暗いと思っている。
坪井義雄の親戚を探すために、市役所に寄った。
「坪井さんね。たしか亡くなりましたよ」
「ええ。知ってます。どなたかご親戚の方の住所をお聞きしたいと思いまして」
「坪井さんが、何か」
「坪井さんの息子さん、海外だと聞いたんですけど、住所をお聞きしたいので」
「そうですか。新町の坪井さんなら、甥っ子がいますけど」
「ここに」
「はい。呼びましょうか」
「お願いできますか」
すぐに愛想のいい男が窓口に現れた。
「坪井です」
「的場と言います」
恭介は名刺を出した。坪井義雄の甥がくれた名刺には坪井康夫とあった。
「坪井義雄さんの息子さんの住所、わかりますか」
「たっちゃんが、何か」
「いえ。坪井さんの古い記憶を教えていただこうと思ったんですけど、2年前に亡くなられたそうですね。息子さんなら何か知っているかなと思っているんです」
「ややこしいことに、なりませんよね」
「もちろんです。ただの情報集めですから」
「わかりました。じゃあ、私の家まで行ってもらえますか」
「ええ」
「達也からの手紙がありますから。家の者には電話しておきます」
「すみません」
坪井康夫の自宅では、明るくて気さくな奥さんに昼食までご馳走してもらった。行きも帰りも、こんなに気持ちのいい一日は久しぶりだった。これが、人間の生活というものだ。梅原も連れてくればよかったと後悔した。坪井達也はカナダで大学の研究員としてバイオの研究をしているらしい。日本に帰ってくる予定はないだろうと言っていた。
恭介は生まれて初めて書くエアメールに少し興奮しながら、丁寧に依頼事項を書いた。
地球の裏側にいる人間が、見知らぬ刑事の頼みごとに答えてくれるのかどうか。期待しないでおこうと思いながら、毎日返事を待っていた。そして、二十日後に恭介宛のエアメールが実際に届いた。手紙を手にしただけで、心臓が躍った。カナダから手紙が届いたということだけで感激だった。
かなりの数のナイフがあったが、ナイフの種類までは記憶にない。廃品業者に頼んで処分してもらった。業者の名前は憶えていないが、地元の業者だから坪井康夫に調べてもらえばわかると思うと書かれていた。コレクター仲間かどうかはわからないが、まだ小学校に行く前、遊園地に連れて行ってもらったことがあった。その時、父の友達の家にいったことがある。父は古い友達だと言っていた。名前は九鬼という名前だったと思う。先祖は九人の鬼だと脅かされたので憶えていたらしい。ただ、その人がナイフのコレクターだったかどうかは確信がないと書かれていた。遊園地の名前も記憶にはないので、悪しからずとあった。坪井康夫の奥さんから聞いた話では坪井達也の年齢は32歳だから、25年ほど昔の話になる。
恭介は、梅原と一緒に青梅に向かった。市役所の坪井康夫が調べてくれた廃品業者は三田商店だったが、一か月前の12月に主人が亡くなり、店は閉めたと奥さんに言われた。伝票の類はなく、どこに処分したのかわからなかった。同業者に当たってみたが、始末に困る品物は埋め立てに回すから、二年前の品物を捜すのは無理だと言われた。誰か買い手がいたとしても、他の業者に漏らす奴はいない。そこの親父が死んだら、闇の中だと言っていた。スローイングナイフがあったのかどうかも不明で、どこに処分されたのかも不明だった。恭介は梅原を連れてきたのが間違いだったのではないかと思った。どんな世界でも同じなのだろうが、刑事の世界にも運の強い男と不運に付きまとわれる男がいる。恭介には梅原が強運の男には見えなかった。
次は遊園地を一つ一つ潰していかなければならない。遊園地の近くにある九鬼という名前の男の家を捜す。25年も前のことなので、雲を掴むような話だったが、時間だけは充分にあった。
遊園地のリストアップをして動きだそうとした日に、捜査本部は激震に揺れた。ネット上に犯行声明ともとれる書き込みが見つかったのだ。少し前から「必殺処刑人」という書き込みが出始めていたが、いつもの悪乗りだと思われていた。ところが、その書き込みには目黒と川崎の被害者が過去に犯した悪行が書かれていて、次に処刑する人間を公募すると書かれていた。二人の被害者は細身のナイフで心臓を一突きにして処刑したとある。この書き込みが認知されると、連続殺人事件という発表をしていなかった警察の姿勢も批判の的にされることになる。
捜査員は全員足止めされた。恭介たち捜査員の心配は上層部の迷走だった。特別捜査本部が二か所にあり、今度は本庁のネット犯罪対策室が前面に出てくるだろう。船頭が多くなって被害を受けるのは、現場の捜査員と相場は決まっている。捜査本部の部屋に重い空気が流れているのは、捜査の将来を予見している刑事たちの気持ちそのものだった。
書き込みをした人間が特定されれば、捜査員は問答無用で走らされる。目黒署からも、現地に向かっている捜査員がいた。捜査本部は必殺処刑人捜査本部に変わろうとしていた。当分は凶器捜査班も開店休業にしなければならない。目黒署でも情報収集の目的で捜査本部にパソコンが集められ、臨時のネット監視班が作られ、恭介もパソコンの前に張り付くことになった。
必殺処刑人という言葉は、既に検索キーワードの一位になっていた。処刑対象者を公募した鉄槌請負人というハンドルネームの書き込みは削除されていたが、各種の掲示板はその噂で賑わっていた。その状況を警察の側から見れば、事情聴取をしなければならない人間が秒単位で増え続けているということだった。たとえ、首都圏在住者に限定しても一日で警視庁のキャパを超えてしまうだろう。ネットに繋がっているのは、パソコンだけではない。携帯電話から書き込みをしている人間の方が多いし、学校や職場のパソコンやネットカフェからも書き込みされている。全員を追いかけるのは不可能なことなのだ。誰がふるいにかけるのだろう。本物を取り逃がす心配はないのだろうか。
捜査員が次から次へと飛び出して行き、残っているのは臨時のパソコン監視班になっている若手刑事3人だけになった。夜になっても捜査員は誰も帰ってこない。捜査員は電話報告を入れると、次の聞き込みを命じられて別の場所へ飛んで行く。10時を過ぎて、3つの班が戻ってきた。梅原も帰ってきた。
「どうでした」
「あれは、白だな」
「梅原さん、あの鉄槌請負人で書き込んだ奴ですよね」
「多分、アリバイ成立だろう」
鉄槌請負人のハンドルネームで書き込みをしたパソコンの持ち主は宮坂健三という大学生だったが、本人はずっと学校にいたらしい。食事をして自分の部屋に帰ると、刑事に囲まれることになった。参考人として署に連れてきたが、交友関係の洗い出しをして、確実なアリバイが成立すれば、すぐにでも帰さなければならないだろうと梅原が説明してくれた。
「そもそも、部屋の窓には鍵がかかってない。外部からの侵入も可能だ」
「侵入の形跡は」
「監識が調べてるが、本人はそんな形跡はないと言ってる。いつも窓の鍵など閉めたことはないと言ってた」
「パソコンは間違いないんですか」
「ああ。若林がネットの履歴を調べたら、あったよ。あのパソコンから書き込まれたのは確かなようだな」
犯人に辿りついたわけではなかったが、捜査ができたことで梅原の口も軽かった。
「そっちは、どうだ」
「手に負えません。増えるばかりです。これでは、捜査になりませんよ」
「そうか」
「皆、言いたい放題ですし、恐ろしいほどの数です。スローイングナイフの写真も出てきましたよ。多分、自分らが事情聴取をした連中です。写真を見せてますからね」
「誰か行ってるのか」
「はい」
「こいつら、一人や二人じゃないな。監識の捜査で何も出てこなかったら、かなり、手ごわい相手だということになる。凶器の出所は無理かもしれん」
「と言うと」
「その辺にあった古いナイフを使った犯行ではないのかもしれん。殺しの手際も見事なものだし、ナイフを国外から持ち込んでいれば、どうにもならん」
「はあ」
その日は、恭介も鼾の大合唱で賑やかな道場に泊まることになった。妻と一歳になる娘がいるので、極力自宅に帰るようにしていたが、暫くはそれも難しいかもしれない。話しには聞いていたが、捜査本部に入るということは家族との別離の始まりなのか。でも、そんな警察官にはなりたくなかった。




「須藤さんも、ほんとに共犯者になってしまいましたね」
「そのようですね」
「いいんですか」
「ええ。そう、決めましたから」
「ありがとう」
「でも、こんなに大騒ぎになってしまったら、やりにくくないですか」
「少し、時間をおけば、騒ぎは治まりますよ。待つのは平気ですから」
二人は九鬼邸の食堂で、紅茶を飲んでいた。パソコンにしがみついていたので、肩がこっている。騒ぎは洋平の想像を超えていた。
洋平は狛江に引っ越しをして、近くのコンビニでバイト先を見つけ、同じような生活をしていた。空き巣には入らないが、調査は以前より綿密にするようになった。命がかかっているのだから当然のことだ。無人の部屋に入って金品を盗むのではなく、パソコンを使うだけ。極力、侵入の痕跡を残さないことが最大の注意事項だった。防犯カメラのあるネットカフェに行くつもりはなかった。職業上、防犯カメラは洋平の天敵だった。
作戦を立てるのは九鬼和子の仕事で、洋平は兵隊に徹することにしていた。ただし、殺しの実行だけは洋平の役目ではない。
「須藤さん。理由を聞きませんね」
「理由」
「ええ。私がこんなことをする理由です」
「まあ」
「須藤さんは、情報が欲しいタイプですか」
「ええ。僕の仕事は情報が命ですから」
「私のこと、わからないことばかりで、不安ですか」
「まあ。いつかは」
「ですよね」
「どうしたんですか」
「気になってしまって。仲間なのに、ね」
「いいですよ。僕も気の長い方ですから」
「そう」
「ほんとに、公募するんですか」
「ええ」
「その中から三人目の犠牲者が出るんですか」
「いえ。ネットはダミーにします」
「そうですか」
「三人目の男は、公募の結果だと思ってもらえばいいんです」
「警察も、そう思いますかね」
「必殺処刑人を放ってはおけないでしょう」
「ええ」
「そのためにも、公募は本気でやります。先ず、公募予告を出します」
「予告ですか」
九鬼和子はパソコンを操作した。
「これが、その原稿です」
「必殺処刑人からのお知らせ
 後日、処刑対象者を公募しますが、その申請要綱をお知らせします。
 必要な記載事項は次の通り。
 氏名、年齢、住所、処刑に値すると思う具体的な理由の4項目。
 注意事項。
 その1 公募のお知らせをした後、申請の受け付けは10分で締め切ります。
     尚、申請案件の全てに対応するわけではありませんし、申請内容を精査しますので、即刻処刑するわけではありません。
 その2 処刑申請は自己責任とします。
     申請者の所へは警察が殺到することが予想されます。自分の身は自分で守っていただきます。罪に問われる可能性も排除できません。
 その3 申請内容に虚偽があった場合、申請人を捜し出し、処刑リストに書き込みますので注意してください。
 鉄槌請負人」
「厳しいですね。申請者はいるでしょうか」
「いなくても、いいんです。この公募の後に、裏ルートがあるらしい、という噂を流します。噂だけでいいんです」
「三人目は、その裏ルートの男」
「そう、思ってもらえれば。もちろん、犯行声明は出します」
「正に、ダミーですね」
九鬼和子の中には、沈着冷静な女と、燃えるような女が同居している。洋平にとっては不思議な女だった。いや、女とは言えない。女との付き合いが苦手な洋平が、九鬼和子に対しては女という意識を持たずに付き合えている。九鬼和子は女ではない。
ネットで必殺処刑人の話題が一段落した時に、洋平は再び他人の部屋に入り、予告文を書きこんだ。その予告文は前回の騒ぎを超える大騒ぎになり、スポーツ新聞や週刊誌が必殺処刑人の話題を取り上げ始めた。処刑申請の書き込みがいつになるのか、というXデー予測までネット上に現れた。荷物を増やさない主義だった洋平の部屋にもパソコンが置かれ、プロバイダーと契約もした。必殺処刑人はネット上でアルカイダのような組織に膨れ上がっていて、テロリスト軍団のような存在になっていた。
洋平は狛江に引っ越しをした時に買った愛車のアンカーで九鬼邸に向かった。風を切って走っている時、充実感があるのを知った。殺人犯に協力をし、テロリストのようなことをしているのに空き巣をやっていた頃にはなかった充足感がある。こんな気持ちは28年間で初めてだった。
「九鬼さんは、警察の動き、気になりませんか」
「気にはなりますけど、何か方法があるんですか」
「いえ」
「私たちには、警察の情報を取るほどの力はないと思ってます」
「そうですね」
「でも、充分、注意はします。敵も必死になってるでしょうから」
「ええ」
「こんな展開になるとは思ってもいませんでした。須藤さんの協力がなければできませんでした。感謝してます」
「よかったんでしょうか」
「充分、時間稼ぎはできると思います。もう、警察の相手は必殺処刑人ですから、私の個人的事情に辿りつくには時間がかかると思います」
「ええ」
「やっぱり、話、するべき、でしょうね」
「・・・」
「須藤さんには、知る権利ありますものね。逆の立場なら、私は知りたい。でも、私は自分を守ることだけしか考えていない。ひどい、でしょう」
「いえ」
「思うんです。自分を守るだけでいいのか。その結果、須藤さんとの信頼関係がなくなってもいいのか、って。駄目ですよね、仲間に引き入れたのは、私ですもの」
「そんなに、急がなくても、いいですよ。僕は仕事、しますから」
「やっぱり、話、します。その前に何か食べましょう。パンはあまり好きじゃない、ですか」
「いえ」
「サンドイッチで、いいですか」
「はあ」
「待ってて、ください」
「はい」
洋平はネットで必殺処刑人の記事をチェックすることにした。九鬼和子が何をしようとしているのか、何度も聞こうと思ったが、その都度躊躇してしまう雰囲気を感じて実行できなかった。人を二人殺して、あと三人殺す予定だと言われれば、気になって当たり前だと思うが、九鬼和子にはその質問を受け付けないという強い意思があるように思えた。ただ、最近はそのことを知らなくても、一緒に仕事をすることが楽しくなっていた。
「ローストビーフのクラブサンド、です」
サンドイッチと紅茶の用意ができた。
「美味しい」
「よかった」
「こんな、サンドイッチ、初めてです。コンビニで売ってるサンドイッチしか食べたことありませんので、びっくりです」
「主人が好きで、よく作りました」
「そうでしたか」
「私、主人とは40近く歳が離れていました。親子と言うか、祖父と孫と言うか。でも、とても優しい人で、主人と暮らしたのは5年だけですけど、私は幸せでした。命の恩人でしたし、私には尊敬できる大人でした。主人が亡くなって、5年経ちます。そうそう、私の本当の名前は紺野奈津と言います。九鬼と結婚した前田和子は戸籍だけの人です。その人が生きているのか死んでしまったのか、わかりません。売り買いされるような戸籍ですから、きっと事情はあるのでしょう」
「私は13歳の時に拉致と言うか誘拐というか、ある男の家に閉じ込められていました。今の時代に信じられないことですが、足に鎖をつけられて、奴隷のように扱われました。犠牲者は私だけではなく、他にも二人か三人、いたように思います。声というか悲鳴が聞こえたことが何度もあります。その子たちが、どうなったのかは、わかりません。新しいゲストと呼ばれる男の相手をさせられることがありました。私はそのゲストの隙をついて、逃げだしました。3年目のことです。バスタオル一枚で、台風の夜の街を走りました。バスタオル一枚でしたし、誰かに見つかれば連れ戻されると信じていました。男からもそう言われてましたから。三日間、何も食べずに逃げましたが、この家の庭に逃げ込んだ時に、もう限界で、倒れてしまいました。熱も出ていて、意識も朦朧としていたんですが、医者も警察も駄目だと言い張ったそうです。九鬼は一人で看病してくれました。もう、あの家には戻りたくないという一心だったと思います。私は、舌を噛んで死ぬと九鬼を脅したそうです。その時のことは余り憶えていないんです」
「九鬼は何も聞きませんでしたが、いつでも出ていっていい、と言わんばかりだったので長居をしてしまったのかもしれません。ここからは、いつでも逃げ出せると思ってましたから。亡くなった奥さんの下着や服を着て、会話のない生活が始まりました。後で九鬼が言ってました。今にも襲い掛かって喰い殺しそうな眼をした、野獣だったと」
「九鬼に事情を話したのは、半年後くらいだったと思います。九鬼が調べてくれたんですけど、私の両親は、私が拉致された直後に、二人とも自殺をしたそうです。自殺の理由はわかりませんでした。私には、帰る家もなくなり、この家を出て行っても生活する自信はありませんでした。怖くて外出はできませんでしたが、家の中の仕事は積極的にしました。料理も九鬼に教えてもらいました。そして、私が20歳になった時に、九鬼が前田和子の戸籍を持ってきて、九鬼の妻として入籍したらどうだと言ってくれました。九鬼が私の将来を心配してくれているのは知っていました。資産家でしたから、私が一生くらしていくのには充分なものがありました。九鬼が亡くなったのは、入籍した1年後です。財産目当てで老人を騙した女だと言われました。最後まで、私と九鬼は男と女の関係になりませんでした。でも、九鬼は、おかげで、穏やかに死ねると言ってくれたし、私も、幸せでした。九鬼が亡くなって、しばらくして、九鬼のいない時間が耐えられなくなりました。九鬼は、私のことを大きな心で包み込んでいてくれたんだと気づき、奈落の底でもがきました。九鬼が最後に言った言葉、その時は意味がわかりませんでしたが、藁にもすがりたいと思っていた時に思い出したんです。憎しみも生きる糧になるという言葉を」
「私は、あの男たちを処刑しようと決心しました。すると、世の中が変わったんです。憎しみは、九鬼の言ったとおり、生きる糧にできたんです。九鬼は、自分が死んだ後で、私が苦しむことを知っていたんだと思います」
「九鬼が死んでから今日までの5年間、私には休む暇もありませんでした。男たちの消息を掴むことと、男を殺害できるだけの自分を作ること。必死でした」
「後で見てもらいますが、ここには地下室があります。そこで、私はナイフを投げ続けました。それしか、殺害方法を思いつかなかったんです。九鬼は、一時期荒れたことがあり、傷害罪で服役したこともあると言っていました。熱に冒されたようにナイフの収集をしたこともあり、地下室には大量のナイフがあります。九鬼の夢は殺人鬼になることだったのかもしれません。そして、私は、その後継者なのかもしれません。でも、漫画ではありませんので、ナイフを投げて簡単に人を殺すことなどできません。筋力や握力を鍛えることから始めました。つい最近です。投げたナイフが人間の心臓に達する力を自分のものにできたのは」
「ただ、問題はあります。私は、手にしたナイフで人間を刺しているわけではないんですが、投げたナイフが肉に食い込んでいく感触が手に残るんです。物理的に手とナイフは離れているのに、この手に残るんです。これは、殺人者にしか分からないのでしょうが、自分のことを鬼の化身だと感じるのです。それは、心を壊してしまわなければ、生き続けることができないような底知れない怖さです。目的を達した時、その先にあるのは暗い闇でしかないのかもしれない。この恐怖と折り合いをつけて生きる方法を九鬼は教えてくれませんでした。きっと、こんな闇があることを、九鬼は知らなかったんだと思います。私の心のどこかで、九鬼の所へ行きたいという気持ちがあるのかもしれない。今は、わかりません。少なくとも、五人の男を殺すまでは生き続けます」
洋平は言葉をはさむこともできなかった。拉致されていた3年間、奴隷のように扱われたと言っただけだが、洋平には想像できた。男の中には、幼い少女を凌辱したいという気持ちがある。でも、それは想像や作り物の映像で体験するものであり、実際に実行すれば、それはもう犯罪の領域になる。洋平は五人の男を処刑することを容認できると感じている。だが、その目的を達成したあとの闇をどうすればいいのかは、わからない。
洋平は地下室へ案内された。地下には部屋が二つあった。物置として使われている6畳ほどの部屋と、スポーツジムのような広い部屋があった。物置部屋の収納庫には、夥しい数のナイフが整然と並べられていて、不思議な美しさがあった。
「これです」
渡された細身のナイフは質感があり、危険な臭いがした。
「投げてみますか」
「えっ」
広い方の部屋の壁際に畳が立てかけてあった。ナイフを手にしたまま、立ち往生。
「こうして、投げます」
九鬼和子が、野球の投手のようにサイドスローでナイフを投げ、鈍い音がしてナイフが畳に食い込んだ。
洋平は五回投げたが、畳に刺さったのは一本だけだった。
「最初は、私も、そうでした」
「難しいものですね」
「何度も、途中で諦めようと思いました。でも他に方法はなかったんです」
二人は食堂に戻った。
「話を聞いても、まだ、須藤さんは協力してくれますか」
「もちろんです。ナイフは無理ですけど」
「ありがとう」
「あの」
「・・・」
「九鬼さんの計画にケチつけるつもりはないんですけど、そいつらのやったことは拉致と監禁、そして虐待ですよね。犯罪者の僕が言うのも変ですけど、それって犯罪ですよね。告発とかできないんですか」
「無理だと思います。私が監禁されていた家は、もうありません。九鬼も言ってましたが、私が逃げ出した後、証拠は隠滅しただろうと。坂東はヤクザですけど、他の四人は社会的地位もある人間です。私の話だけでは、どうにもできないと」
「ですけど、事情を明らかにすべきじゃないんですか。それに、あなたの両親の自殺も理由が分からないんでしょう。僕には、あなたの拉致と関係あるように思えるんですけど」
「ええ」
「五人の中に、その事情を知っている男がいる筈です。それに、一緒に監禁されていた女の子も、どうなったかわからない。そういうこと、全部、そいつらは知らん顔なんです。ただ、死んでもらうだけでは、ちょっと」
「でも、どうやって。監禁されてた時、噛みついたり、掴みかかったこともありましたが、男の力には敵いませんでした。だから、ナイフを投げることにしたんです」
「二人になったんですから、何か方法があるかもしれない。僕は腕力のある方ではありませんが、一応男ですから」
「須藤さん」
「ご両親の自殺の理由、知りたくないですか」
「いえ。知りたい」
「あなたは、優秀な作戦参謀なんです。考えましょうよ」
自分の手で人を殺さなければ、九鬼和子の闇を理解することはできないのだろうが、その闇に光を入れる手伝いができないだろうかと洋平は考えていた。
「ありがとう。でも、無理だと思います。これまでも、散々、考えました。方法はありません」
「だったら、力ずくで拉致しましょう。ぼこぼこに殴って。死んでもいいわけですから」
九鬼和子は力なく笑った。
「バットとか鉄パイプとかの武器を持っていって、不意を襲えば勝てますよ」
「傷害罪になります」
「殺人の共犯なんですから、傷害ぐらい、軽いもんです」
「あなたに、そこまでやってもらうことはできません」
「この件は、僕が作戦を立てます。もちろん、あなたの協力は必要ですが、いいですね」
「どう、しても、ですか」
「そうです。僕はあなたに協力した。だから、本当のことが知りたい」
「ありがとう。須藤さん。私は何をしたら」
「三人目の男の名前は」
「三浦信孝です」
「三浦、ですね。三浦の行動は調べてありますよね」
「ええ。半年前の行動ですけど」
「現在の行動を調べてください。その情報を見て、襲撃場所を決めましょう。人通りがなくて、防犯カメラがなくて、僕が隠れることができる場所。夜間の方がいいです」
「はい」
「車を何回も借ります。自転車ばかりなので、全然運転してなくて、これでは事故起こしてしまいます」
「はい」
「ちょっと、ぶつけたりも、するかもしれませんが」
「ええ、いいですよ。古い車ですから」
「襲撃の時は、二人でやります。僕は盗難車をつかいますが、あなたの車も使います」
「はい」
「三か月後に実行ということで、いいですか」
「はい」
「ネットの方の予定も立ててください。前後するわけにいかないでしょう」
「原稿は用意してあります」
「いつ、載せればいいですか」
「須藤さんの都合のいい時に」
「わりました」
九鬼和子が用意した原稿には二つのURLが列記されていた。
「あまり活動していないホームページで掲示板がある所です」
「このホームページの管理人は驚くでしょうね」
「事前に承認を貰う訳にもいかないし、申し訳ないと思ってるんですよ」
「ビジターのアクセスでパンクするんでしょうね」
「ええ。私は、須藤さんが書き込む前にここに先回りしておきます。須藤さんは書きこんだ後に、こっちのホームページに行ってください」
「了解です」
「時間の余裕はどのぐらいありますか」
「・・・」
「書きこんで、部屋から逃げ出すまでの時間です」
「わかりません」
「そうですか。じゃあ、こっちは諦めましょう」
「いえ、別の部屋から、行きます。二か所選んでおきます」
「そうですか。ホームページに行くだけです。クリックはしません。申請があったら、カメラに撮ってください。映像からデータを文書化しますから」
「了解」
「それと、この申請受け付け時間ですけど、最終的には須藤さんが調整してくださいね」
「了解」
さあ、いよいよ、幻の必殺処刑人の活動が始まる。ネットにはまる人間の心理が洋平にもわかるような気がした。申請者があるのか、どうか。世の中に悪人は星の数ほどいるのだから、被害者もそれ以上いることになる。本気で処刑したいと思っている人間にとっては、危険を冒す価値はあるだろう。自分がその立場にあれば、洋平も申請を出す側に立つだろうと想像した。ネット上での犯罪を取り締まる法律は、まだまだ脆弱だと言われている。処刑の申請をした人間はどんな罪状で逮捕されるのだろうか。全てが新しい実験だと言えた。
洋平は古巣の川崎で情報収集を始めた。前回の予告文は東京からの書き込みだったから、今回の書き込みは川崎からしようと考えていた。警察も広域の警戒態勢をとっていると思うが、実際に動くのは各警察署の人間になる。各地域の警察本部同士の連携は万全になる土壌がない。特に警視庁と神奈川県警の過去は、反目の歴史だと言われている。警察のセクショナリズムは洋平の利点と言えた。
洋平の人生は犯罪の歴史と言える。子供の時から盗みの常習者だった。どんな仕事でも言えることだが、仕事はセンスだと思っている。他人が失敗した窃盗を見ていると、失敗して当たり前だということが多かった。それは、センスのなさだった。洋平の場合、窃盗に関してだけは、意識しなくても、あらゆるアンテナが動作を始める。だから、失敗はなかった。今回ほど、犯罪が楽しいと感じたことはない。

須藤に話をするかどうかを思いっきり悩んだが、危険を承知で話すことにした。朝飯前のようにして他人の部屋へ忍び込む須藤の特技は、和子にとっては大きな武器になっている。須藤との関係で、メリットとデメリットを計算すると、明らかにメリットの方が大きい。そのことは、須藤との関係に亀裂が生じれば、デメリットが襲いかかってくるということでもある。つまり、須藤との信頼関係を維持することが、計画遂行のためには欠くことのできない条件になっているということだった。須藤が逃げ出したり、裏切った時には大きな危険を抱えることになるが、和子は賭けに出た。須藤がなぜ協力してくれているのかが、自分で納得できていない。自分が須藤の立場なら、迷わずに逃げる。その方が自然ではないか。だが、須藤の態度には裏があるようには見えない。そう言えば、九鬼のことも信用できなかった。優しいだけの男などいる筈がないと思いこんでいたが、九鬼は死ぬまで和子のことを信じて大切にしてくれた。九鬼が死んだ時に感じた喪失感の中には、自分の信じていたことが崩壊したという喪失感もあったのではないか。九鬼も、いつか、牙を剥くに違いないという確信を持っていた。それなのに、最後の最後まで、九鬼は優しい九鬼のままだった。
須藤は真相を究明しようと言った。そのことを一番望んでいたのは、当事者の和子だったが、それよりも五人の男全員を処刑にすることの方が重要だった。和子には真相究明の手立てが見つからなかった。女が一人で五人もの男に復讐することなど不可能なことなのだ。距離をおいてナイフを投げることが、女の和子にできるぎりぎりのことだった。もちろん、真相究明できたとしても、それが何かを変えることにはならない。そんなことは、考えるだけ考えた。真相はわからないより、わかった方がいい。その程度のことに過ぎない。許せないものは許せない。法が裁かないのなら、自分が裁く。残された道はそれしかなかったのだ。殺人という行為の裏側に潜んでいた、ねばりつくような恐怖の存在を知ってしまった今、もう和子に逃げる場所はなかった。五人の男を殺して、九鬼の胸に抱かれたい。あの優しい笑顔の前なら、この恐怖も乗り越えることができる。



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