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時代を見ない令和臨調 [評論]



6月に、令和臨調が発足しました。
さて、臨調に期待は持てるのでしょうか。
日本の最重要・喫緊の課題は「国力衰退」ですが、臨調のメンバーは、国力衰退を阻止する提言が出来るのでしょうか。
結論から言えば、難しいと思います。
それは、臨調のメンバーを見れば一目瞭然です。
肩書の見本市なのかと思うくらい、「お偉い方々」の集まりです。肩書のない方は一人もいませんでした。もしかすると、選考基準は肩書だったのかもしれません。
名誉会長・会長・元社長・社長・相談役・元大学総長・大学総長・名誉教授・教授・代表幹事・委員長・理事長・弁護士・元長官という面々です。
一人だけ、新潟県中魚沼郡津南町町長という方がいましたが、この方がどんな方か知りません。有名な方なのでしょうか。
もちろん、肩書が悪いと言っているのではありません。
皆さん、世間の荒波を乗り切り、成功した人達です。
それは、「なあ、なあ」「まあ、まあ」を駆使した結果だと思います。
意識はしていないかもしれませんが、「なあ、なあ」「まあ、まあ」が染みついています。
彼等が議論して導き出される結論は、当然、「なあ、なあ」「まあ、まあ」になります。
とても、原因の原因の原因に辿り着けるとは思えません。
もちろん、原因の原因の原因に辿り着くことなく、革命でもなく、国力衰退を阻止する提案が出来ればいいのですが、そんな「上手い方法」があるとは思えません。
委員の皆さんの現状認識と時代認識と想像力が問われます。
そんな会議なのに、老人の山です。平均年齢が何歳になるのか知りませんが、ここは、老人の出る幕ではないように思います。
多分、過去の延長線上にある臨調になるものと思います。
今、この国に必要なのは、常識ではなく、非常識なのだと思います。

最初に結論を書いてしまいましたので、無駄かもしれませんが、令和臨調の目的と主旨にも目を通してみたいと思います。


臨調の目的。
「日本の未来を守る」
自分たちの社会を自分たちの力でより良いものにしていこう。その強い意志こそが民主主義です。次の時代に持続可能な日本社会と民主主義を引き継ぐため、世代や立場を超えた有志による、令和国民会議(令和臨調)を発足します。


目的は大賛成です。民主主義を前面に出したことも評価します。
ただ、「世代や立場を超えた有志」が「お偉い方々」の集まりになっているのは、理解に苦しみます。
若者は、どこに。
貧しい人達は、どこに。
若い主婦の皆さんは、どこに。
見当たりません。
次の時代を意識しているのであれば、名もなき若者が半数(50人)は必要なのではないかと思います。
「令和国民会議(令和臨調)を発足します」となっていますが、(令和臨調)という呼称は要らないと思います。国民の会議にすることを推奨します。
これまでの臨調は、「政府に物申す」会議体でした。役立たずの政府に物申しても、何も解決しません。そもそも、臨調が政府御用達の会議体になっています。与党と野党の茶番劇だけでも、充分、国を衰退させていますが、そこに、政府と民間の茶番劇を上乗せして、何をしようとしているのでしょうか。
令和臨調は、「政府に物申す」ことをやめて、今からでも、「国民に物申す」会議体にするべきだと思います。
なぜなら、民主主義を民主主義にするのは、政府ではなく国民だからです。
「お上」と「下々」という概念は、卒業しなければならないと思います。
国民の皆さんに立ち上がってもらわなくては、この国は、衰退するだけです。


発足主旨は長文ですから、抜粋します。

臨調の主旨。
「統治構造改革」「財政・社会保障」「令和の国土構想」について長期ビジョンを検討し、その実現に向けて合意形成活動を行います。
わが国では、世界に先駆けて人口減少が進行しており、今後少なからぬ自治体が存亡の淵に立たされる。GDP200%に上る財政赤字を積み重ね、量的金融緩和を続けながらも、経済は長期的停滞から脱却することができない。過去30年、経済成長を続けてきた諸外国に比べ、わが国の相対的な地盤沈下は著しい。
進行性(国力衰退)・急性リスク(災害等)が複合的に顕在化したとき、われわれの社会や民主主義ははたして正常に機能できるだろうか。
いずれの課題も根は深く、解決するためには長く、粘り強い取り組みが必要になる。長期的、継続的に責任を持って事に当たれる主体は、政党を措いて他にはない。
世代を超え、立場を超えた幅広い人びとが立ち上がり、志ある政治家とも協働して、党派を超えて取り組まねば解決困難な平成以来の課題と取り組み、進行性の危機にも、急性の危機にも立ち向かいうる、しなやかで強靭な日本社会と民主主義の持続可能性を守ることが、令和臨調の目的である。われわれはこうした営みを通じて日本の未来を守り、希望ある日本を創り、そして育てたいと思う。
三つのテーマに取り組むことを、ここに宣言する。
第一に、ビジョンや構想をアクションに移す仕組み作り、「統治構造改革」である。平成時代以来の改革を検証しつつ、政党のガバナンス、二院制や国会審議等の国会のあり方、選挙制度、政府や政府与党関係、政官関係、いわゆる官僚の働き方改革など、積み残してきた課題と取り組む。さらに、熟議民主主義やデジタル・デモクラシーなどの新しいアイデアを採り入れつつ、危機にも揺らがない政権交代可能な責任ある政党政治の実現を目指す。
民主主義は政治家のみによって行われうるものではない。わが国の社会と民主主義の持続可能性を守るため、それぞれの立場や利害を乗り越えて、危機を乗り越えるために手を携えようではないか。


主旨にも、賛成です。
「わが国の相対的な地盤沈下は著しい」という認識。これは、「国力衰退」を認めているということです。
現状認識と目的は、間違っていません。
しかし、「日本の未来を守る」という目的は、その通りですが、主旨で語られている内容から見ると、目的が「ふわ、ふわ」としているように、綺麗事を並べているように、見えるのは、なぜ、でしょう。
それは、「日本の未来を守る」という目的が論理的に生み出されたものではなく、万人受けの良い言葉を選んだ結果なのではないかと思うからです。
目的と現状認識の間が空白です。多分、その空白を提言で埋めていこうということなのでしょうが、これまでも、その方式では成功しませんでしたし、この先も、成功する可能性はゼロに等しいと思います。そのことに、気付いていません。
現状で見えているものは、どれも結果です。その結果と目的の間を単純に埋めようとしても、成功しません。私達に見えている結果を生み出した原因を掘り下げなければ、目的を達成することは難しいと思います。しかも、原因には原因があり、原因の原因にも、原因があるのです。趣旨説明を読む限り、原因究明の姿勢は感じられません。
もしも、臨調発足の一丁目一番地に、原因究明があれば、趣旨説明では、その事が主題になっていたと思います。そうはなっていません。その結果、「誰が、この目的を達成するのか」が明確ではありません。いや、目的を達成する主体は政府だと思い込んでいます。民間の「お偉い方々」も優秀な方ばかりですが、官僚の皆さんだって負けていません。そんな官僚が束になって尽力してきたのに、日本は衰退しているのです。政府に「おんぶにだっこ」で何とかなるという考えは、既に、破綻しています。
この国を変えるのは政府ではありません。国民です。国民が変われば、自動的に政府も変わります。歴史と伝統に従えば、国民は管理監督される対象なのかもしれませんが、それは違います。政府は、国民の外注先にすぎません。それが、民主主義です。
これまで誰も語りませんでしたが、必要なのは、国民の使命であり、国民の責務だと思います。それは、目的を達成する主体は、国民しか存在しないからです。国の使命と国の責務は、ついでに明確化すればいいのです。
1つ目のボタンから掛け違えているのだと思います。
国民会議なのですから、国民に対して、正面から向き合う姿勢が必要なのだと思います。臨調のメンバーには、選挙という試練はありません。国民に厳しい要求を出しても、選挙で落選するという心配をしなくてもいいのです。
「民主主義は政治家のみによって行われうるものではない」と言っているのに、国民のほうを見ていません。
「長期的、継続的に責任を持って事に当たれる主体は、政党を措いて他にはない」と断じていますが、これは、歴史と伝統の上にある、「お上」と「下々」という既成概念の延長線上にある考え方だと思います。この認識の間違いが、日本を衰退させてきたのです。また、同じ轍を踏もうとしています。国民が変わらなければ、政治は変わりません。
政党にしっかりしてもらえば、日本の未来は守られるというのは、幻想だと思います。性善説に立脚す「れば」、政党が本来の使命を全うしてくれ「れば」、と考えているのかもしれませんが、政党を運営しているのは人間であり、人間の行動原理は「欲」で決まります。人間の欲は、そんな生易しいものではないと思います。特に、政治家の欲は、強欲の部類に入ります。「れば、たら、もし」という砂上に楼閣を建てても、役に立ちません。
誰でも、一番可愛いのは自分です。自分の利益を優先させるのは、ごく当たり前のことです。それは、政党でも同じです。
「お上」に「おんぶにだっこ」という通念を捨てなくてはならないと思います。
国民の責務と国の責務を明確にした上で、目的を達成する道筋を見つけなければ、どんな提言をしても、宙に浮いてしまいます。なぜなら、誰も、自分が目的達成の主体だという認識を持っていないからです。特に、国民に、その認識がありません。
「ビジョンや構想をアクションに移す仕組み作り」と書かれていますが、そもそも、地に足をつけた「ビジョンや構想」は、どこにあるのでしょう。砂上の楼閣の上に「日本の未来を守る」という旗を立てて、誰が、守るのですか。皆で、「俺には関係ねぇ」と言っているのです。目的が、お題目では、何の役にも立ちません。
どうして、国民の協力が不可欠だということに気付かないのでしょう。
「ちょちょいのちょい」で何とかなるのであれば、もう、とっくに、国力衰退は終わっていたと思います。
思考そのものを過去と決別させなければ、これまでの30年間と同じ結果になります。
これでは、また、結果を捻じ曲げるだけの提案になるだけです。
やるだけ、無駄です。
「なあ、なあ」「まあ、まあ」という提案は、何千、何万と提示しても意味がありません。

「画竜点睛を欠く」という言葉があります。知力と感性もその関係にあると思います。
令和臨調事務局は、日本の知力を結集したと自負しているのかもしれませんが、今、この国に必要なのは、知力ではなく感性だと思います。先ず、何の脈略もなく、原因に辿り着くことが出来るのは、知力ではなく感性だと思います。知力がその力を発揮できるのは、感性で根っ子を見つけた後です。必要なのは、感性と知力の合体だと思います。
今、この国に必要なのは、原因の原因の原因を見つけることです。
しかし、原因の原因の原因には、全く、言及がありません。
頭脳明晰な方々が山のようにいる日本で、これまで、なぜ、言葉の定義が必要だということに気付かないのか不思議でしたが、どうも、知力では手に入らないようです。
国家運営を担う「お偉い先生方」も、肩書が立派な「お偉い民間人」も、名もなき「偉くない庶民」も、過去という温泉に浸かって、妄想に生きているように見えます。まるで、集団催眠にかかっているようです。これ、ヤバイと思います。


2022-07-06



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じっと、待つ [評論]



日本は、なぜ、ここまで、国力を落としてしまったのでしょう。
過去に、この国にも、国力を高めた時期がありました。
明治維新後の日本と第二次大戦敗戦後の日本です。
今の日本と、何が違うのでしょう。
2つの時代に共通しているのは、「挑戦」という空気があったことだと思います。
それは、この2つの時代には、「目的」があったからです。
明治維新後の目的は「植民地にならないように、富国強兵を実現する」というものであり、第二次大戦敗戦後の目的は「焼け野原から立ち上がり、世界に追いつき、追い越せ」という目的だったのではないかと思います。
これらの目的は、今の政党が選挙のために、助平根性で、でっち上げている「スローガン」とは別物です。
目的が明確であったために、曖昧の空気が薄まった結果だと思います。

第二次大戦では、多くの若者が死にました。
それ以上に、多くの若者が戦場から戻ってきました。
子供だった私の周りでも、戦場から戻ってきた人達が大勢いました。
第二次大戦敗戦時の20代30代40代の働き盛りの人達が、歯を食いしばりました。
未知に対する挑戦の時代が始まったのです。
食う物もなく、大きな都市は焼け野原でしたから、住居を失った人も多く、毎日を生き抜くことが最大の関心事だったと思います。栄養失調のせいで、病に罹患し、死んだ人も大勢います。それでも、なぜか、「なにくそ」と思ったのです。今の若者の目には「何を、くだらない」と思えるかもしれません。しかし、些細な事であっても、それで、あの焼け野原から復興したのは事実です。
不思議なことに、多くの人が、誰が決めたわけでもありませんが、「焼け野原から立ち上がり、世界に追いつき、追い越せ」という意識を持っていたと思います。
戦後、まだ、物心がついたばかりの私の記憶は「ひもじさ」です。飽食の時代を知らず、生まれた時から「ひもじかった」のですから、比較なんて出来ませんが、それでも、やはり、「食う物」は欲しかった記憶があります。私達の年代の者は、「早食い」だと言われます。次の食い物を口に入れるために、口は空にしておかなければ、生き残れないと思っていたのかもしれません。これが、本能です。戦後復興に尽力した人達も、「なあ、なあ」「まあ、まあ」ではなく、本能が働いていたのかもしれません。
私が社会人になった頃は、まだ、挑戦の時代が続いていました。
「世界に追いつき、追い越せ」は、まだ、生きていました。
誰もが、新しいことに挑戦する意欲を持っていました。
時間を忘れ、家族を放り出して、挑戦を続けたのです。
今では、家庭を顧みない父親は非難の対象ですが、当時は、誰もが、そんな父親でした。
「何かを得ようとすれば、何かを捨てなければならない」と言われます。
良し悪しは別にして、あの時代は、多くの人が、経済発展を得ようとしたのです。
世界は、そんな日本人を、「働き蜂」とか「経済アニマル」と呼びました。
一人一人の挑戦の結果は莫大なものではありませんでしたが、多くの国民の成果が日本を経済大国と呼ばれる国にしたのです。世界は、奇跡だと言いました。
もちろん、戦後復興の再現はできないでしょう。
でも、このまま、朽ちていくのは、やはり、違うと思います。
皆さんは、ノーベル賞受賞者が増えたという印象はお持ちでしょうか。
2000年以降、日本人のノーベル賞受賞者が増えました。これも、新しいことに挑戦するという当時の風潮が生み出した結果だと思います。
彼等も、戦後を必死に生き、新しいものに挑戦した人達です。
30年後、50年後、日本人のノーベル賞受賞者は出るのでしょうか。
期待できないと思います。

「なあ、なあ」「まあ、まあ」を凌駕する「目的」があるかどうかで、国力は決まると思います。いや、そういう結果になっています。
今は、「目的」がなく、「なあ、なあ」「まあ、まあ」が大手を振っています。国力が衰退するのは、自然の帰結だと思います。
少し長期の視点に立てば、明治維新の結果が第二次大戦だとすると、明治維新は失敗だったということになり、戦後復興も、この先にやってくる日本崩壊に繋がっているのであれば失敗だったのかもしれません。
それでも、何度も、何度も、挑戦するしかないのではないかと思います。
栄枯盛衰を繰り返しながらでも、生き延びなければならないとすると、私達に必要なのは「目的」なのではないかと思います。
「日本人は、一度、どん底まで落ちないと、這い上がれない」と言う人もいます。
そうなのでしょうか。
徳川時代があのまま継続していたら、間違いなく、日本は西欧列強の植民地になっていたと思います。
日本人は、植民地になる前に、明治維新をやってのけたのです。
どうして、出来たのでしょう。
「このままだと、ヤバイ」と思った人が、それなりにいたのです。
もちろん、それほど純粋な動機で明治維新が始まったわけではありませんが、それでも、その意識はあったと思います。
日本人にも危機を事前に回避する能力はあったのです。
特に、今回は、危機を回避する行動が、強く求められています。
それは、国が崩壊して、最貧国になってから、立ち上がるまでには、長い時間が必要だと思うからです。今度は、あの戦後復興の再現は出来ません。あれは、奇跡ですから。
19世紀や20世紀と違って、21世紀の世界時間は、その速度を上げ続けています。時間に追いつくだけでも、長時間必要です。多分、100年単位の時間が必要になると思います。もしかすると、500年必要になるかもしれません。
500年前の時代とは、尾張で、織田信長が生まれた頃です。
気の遠くなるような時間が必要なのです。

明治維新で植民地化を阻止したように、今回も、国家崩壊を回避できるのでしょうか。
その可能性は、残念ですが、それほど大きくはありません。
それは、明治維新の時代に比べて、危機感を持っている方が、少ないからです。
確かに、多くの方が、将来不安を感じていますが、余りにも漠然とした不安ですから、国家崩壊を予測できていません。
明日、突然、国家崩壊になっても不思議ではないと思いますが、そんな予測は、どこにもありません。悲観論者の私でさえ、明日だとは思っていません。
しかし、「崩壊の時期は、いつなのか」は決まっていませんが、必ず、崩壊します。
それは、崩壊に向けたトレンドが存在するからです。
何度も書いていますが、一度、トレンドが生まれてしまうと、そのトレンドを変えるのは容易なことではありません。じわじわ、ずるずる、何となく、ではありますが、トレンドは着実に進みます。トレンドは、小手先や口先では変わりません。特に、衰退のトレンドには、大きな変革が求められます。
天皇統治が衰退し、平家が衰退し、源氏が衰退し、室町幕府が衰退し、豊臣が衰退し、徳川が衰退しました。いつの時代でも、時代を変えるような政変という大きな変革があったことを見れば、別に珍しいことではありません。人間社会に変革は不可欠なのです。
封建制度というシステムであれば、時の権力を倒すことが時代を変えることに繋がりましたが、民主制度の現代では、その理屈は通用しません。
倒すべき独裁者が存在しない民主制度下では、一番難しいことですが、自分を変えるしか方法はないのではないかと思います。いや、もしかすると、独裁者は、低い国民意識なのかもしれませんし、曖昧という空気なのかもしれません。ただ、明確な独裁者が存在しないということは、それだけ、変革の難易度が高くなるということなのかもしれません。
多分、いや、間違いなく、国民意識を変えることでしか、この国は変わらないと思います。
どうすれば、国民意識は変わるのでしょう。
その前にやらねばならないことがあります。
国力衰退という現実を認め、その先にある未来を想像し、危機感を持たなければ、変革のスタート地点には立てないと思います。「なあ、なあ」「まあ、まあ」をやっていたのでは危機感は持てません。
危機感がなければ、変革はできません。
今の日本に、危機感はあるのでしょうか。
いいえ、まだ、不安感の領域を出ていません。
それは、明確な現状認識ができずに、想像力が衰えてしまったからだと思います。
それは、戦後復興の上で胡坐をかき、冬眠状態になってしまったからだと思います。
「マジでヤバイ」と思えば、想像力は復活します。
しかし、国民の皆さんは、「俺には関係ねぇ」と言っているのです。
2000万人もの相対的貧困者が誕生しているのに、その現実を見ているのに、どうして、「俺には関係ねぇ」なんて、言えるのでしょう。明日は、自分の番だとは思わないのでしょうか。不思議ですが、思わないのです。なぜか、「自分だけは、大丈夫」だと思い込んでいます。ま、よくあることですが、これが命取りになります。既に、貧困者の仲間入りをした2000万人の人達の大半の人も、「自分だけは、大丈夫」だと考えていたと思います。早いか遅いかの違いはありますが、皆さん、例外なく、貧困者になります。それが、トレンドです。個人は、トレンドという激流の中では、木の葉か小石に過ぎません。
危機感が持てないのですから、変革が始まることはありません。私達は、変革のスタート地点に立つことさえ出来ていません。
想像し難いとは思いますが、仮に、多くの国民の皆さんが危機感を持ったとしましょう。
危機感を持てば、変革が出来るのでしょうか。
そうではありません。
私達は、日本国民は、自分で変革をしたという経験を持っていません。
「自分ではない、誰か」が変革してくれるのを待つことになります。
「じっと、待つ」のです。
私達は、この2000年間、明治維新を別にすれば、そうやって、生きてきたのです。
と言うことは、この国では、危機感があれば何とかなるわけではないのです。
自分の力で変革を推し進めるという意識を持つまで、国民意識を変えるという大改革が必要なのです。
そう考えると、ほとんど、希望の光はありません。
ですから、この国は、崩壊します。
これ、自然な成り行きです。
しかし、それでも、奇跡は信じたいと思います。
明治維新のあの時代でも、国民の多くが危機感を持っていたわけではなく、ほとんどの日本人が持っていたのは不安感だったと思います。
危機感を持っていたのが1000人なのか、1万人なのか、10万人なのかわかりませんが、現代でも、志のある若者が一定数いれば、改革、いや、革命は可能かもしれません。
私達の国で求められているのは、革命なのだと思います。
民主主義風の国で革命を起こすために必要なものは、何でしょう。
大義と国民の同意ではないかと思います。
そのためにも、国民の手による、目的と責務の明確化が必要なのだと思います。


2022-07-05



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この国、変ですよ [評論]



2022年3月、経済産業省所管のエネルギー庁が、2012年の制定以来初めてとなる「電力需給ひっ迫警報」を発令した、というニュースがありました。そして、6月に、「電力需給ひっ迫注意報」が出されました。
これまで、電気は、空気と同じで、「あって当たり前」だったと思います。
それなのに、最近、電力に関するニュースが多くなってきたのは、何故なのでしょう。
時代は変わるという、ごく当たり前のことが、起きているのだと思います。
その始まりは、福島第一原発事故の影響による、原発停止だったと思います。
次に、電力の自由化という政策の失敗があります。
カーボンニュートラルの影響もあります。
化石燃料の価格高騰という世界潮流もあります。
電力会社の設備の老朽化に見られるように、国力衰退という潮流があり、積極投資ができなかったという理由もあります。
次から次へと不運と不幸が重なってやってきますが、これが自然なのだと思います。
不幸な事象は、これ以外にもあったと思います。

この先、「電力需給ひっ迫注意報」や「電力需給ひっ迫警報」は、出てくると思います。
もしかすると、計画停電ということもあり得ると思います。
自然エネルギーは、天候次第で発電量が変わるという弱点があります。革新的な蓄電技術の向上と設備が不可欠ですが、まだ、実現していません。
需給ギャップを埋めるために使われている古くなった火力発電所がいつまで使用に耐えられるのか、わかりません。映像が流れましたか、かなり、ボロボロに見えました。
電力会社から見れば、原子力発電所の稼働を停止しておいて、「何とかしろ」と言われても困ります。設備を持っていても、利益は得られないだけではなく、維持費だけはかかります。電力会社は、国営企業ではありません。
この「電力需給ひっ迫警報」の発表は、いつもの「なし崩し方式」による原発再稼働プロジェクトが動き始めたということです。
徐々に、「電力需給ひっ迫注意報」「電力需給ひっ迫警報」「計画停電」「大規模停電」というシナリオが進行し、政府は国民に「原発を稼働させれば停電は起きませんが、どうしますか」と問うてきます。
さて、国民の皆さんは、どう答えるのでしょう。国民は、「もう、停電は勘弁してくれ。原発、再稼働してもいいから」と言うことになります。
停電による経済活動の停止は、決して、軽いものではありません。
経済活動だけではなく、個人の生活にも影響します。些細な事かもしれませんが、想像しただけでも、暗い気持ちになります。
老人にとっては、私だけなのかもしれませんが、冷凍庫は生活の基盤になっています。冷凍庫が使えないと、痛手です。電力消費量が多い時期は、極暑の時や、極寒の時です、冷暖房をエアコンに頼っている私は、お手上げです。老人の生活に欠かすことができないレンジもトースターも使えません。読書もできませんし、パソコンが使えなければ、こんな文章も書けません。集合住宅ですから、水道はポンプで汲み上げていると思いますので、水も使えなくなり、料理もできませんし、トイレにも行けません。エレベーターも使えません。
ここに挙げたこと以外にも影響はあると思います。行動力が衰えた老人にとっては、電力という生活基盤の破綻は厳しいものになります。
個人への影響だけではなく、国全体への影響も無視できません。
中国の人口に匹敵する人口を持つインドが、優秀な人材が豊富だと言われるインドが、なぜ、中国に後れをとっているのでしょう。
大きな要因の一つが、電力インフラの未整備によるものだと言われています。インドでは、度々、停電します。そんな土地に進出しようとする海外企業はありません。
発展途上国、貧困国に共通するのは、電力インフラ不足です。電力は、経済発展の土台なのです。
そう考えると、電力供給に不安が生じている日本は、経済発展が望めない国になろうとしているということです。

なぜ、こんな国になってしまったでしょう。
電力は、個人の力では、どうすることもできません。
ですから、これは、いや、これも、国家運営の失敗が招いたことです。
原子力神話を作り、その上で胡坐をかき、利益を貪った電力会社と経済産業省が、国の運営を誤った結果です。
数十年という時間が経過していますので、過去の失敗は見過ごされます。これが、「先送り」のうま味です。「今さえよければ」「自分さえよければ」をやっていても、逃げ続ければ、時効は成立するといううま味です。
では、なぜ、「先送り」「今さえよければ」「自分さえよければ」が横行するのでしょう。
それは、目的を持たず、責務を曖昧にしているからです。
「国家100年の計」という言葉があります。国家運営は、100年先を見通して運営する必要があるから生まれた言葉です。目的も責務もなく100年の計は作れません。
この国は、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で運営されているのです。

先日、たまたま、国会中継を見ました。
共産党の小池議員が質問者です。小池さんの質疑応答では、度々質疑が止まります。多分、それが小池さんの狙いなのだと思いますが、小池さんが質問巧者であることは確かなようです。質疑応答が中断すると、委員会の各党の理事が出てきて話し合いをします。そこで落としどころを決めて、大臣に伝えます。つまり、「なあ、なあ」「まあ、まあ」が議事進行のルールになっているのです。自民党の理事が、小池さんの肩を叩いて「まあ、まあ」と言っているような様子も見えました。あの予算委員会は、「なあ、なあ」「まあ、まあ」が基本なのです。野党は言いっぱなし、与党は馬耳東風、そして、何となく時間が経過し、一件落着となります。与党の議員も野党の議員も、テレビに出演しているのですから、彼等の頭の中にあるのは選挙だけだと思います。茶番でも何でもいいのです。
与党と野党には共通した原則がありませんので、「原則に照らして」という議論が生まれることはありません。共通している原則は「選挙」くらいのものです。つまり、彼等は、自分の選挙のために国会活動をしているのです。そうです。国民生活を守ることが、彼等の目的でもなければ、仕事でもないということです。

れいわ新撰組の大石議員が、暴言を吐いたという記事もありました。
「この鬼」
「資本家の犬」
「財務省の犬」
と岸田総理を非難したのです。
驚き、ですが、実際にあった話のようです。漫画です。
確かに、大石議員の原則から見れば、岸田総理は「鬼」であり「犬」なのかもしれません。
どうして、皆さんは、共通の原則がないことに気付かないのでしょう。
皆さん、自分の原則しか持っていませんので、言いっ放しでも、聞きっ放しでも、自分は正しいと思ってしまうのです。
国会は、何のために存在するのでしょう。
国会は、国民生活を守るための議論をする場所です。
しかし、そこで議論をしている人達は、自分の原則と自分の選挙しか念頭にありません。
どうして、変だと思わないのでしょう。
それは、国民が、「俺には関係ねぇ」と思っているからです。
それは、国民も、共通する原則を持っていないからです。
最終的に責任を取る国民が、「俺には関係ねぇ」と思っているのですから、国会議員が自分の選挙に専念するのは仕方ありません。
あの国会での茶番は、国民の皆さんが作り出しているのです。
国民の皆さんは観客ではありません、皆さんが国そのものなのです。

岸田政権の支持率は堅調です。
岸田政権は、国民生活のための施策を果敢に実行しているのでしょうか。
私には、そうは見えません。
「ああでもない、こうでもない、検討します」と口先で言っているだけに見えます。
取り敢えず、参議院選挙を乗り越えることが、岸田政権の最大の目的です。
7月の選挙が終われば、3年間は国政選挙がありません。
岸田さんは、大石議員が指摘したように「資本家の犬」「財務省の犬」になる条件が整います。国民の皆さんは、どう対応するのでしょう。
「どうしようもないだろう。だって、自民党に代わる政党がないじゃないか」
その通りです。
今の私達には、自民党一択の選択肢しかないのです。
でも、それでいいのでしょうか。
私達の生活も、子供達の未来も、あんな政治家に任せておいて大丈夫なのですか。
政治家は、自分の選挙のことしか見えていませんので、変われません。
これまで、政治家は仕事をしないけど、官僚がしっかりしているから、日本は大丈夫だと言われていた時代がありました。
今も、その神話は生きているのでしょうか。
東京国税局の職員が持続化給付金詐欺の容疑で逮捕されました。国税局は、国民から税金を収集する仕事をしています。そんな人達が税金を騙し取って逮捕されているのです。
では、そんな人は、ほんの一部の人達なのでしょうか。
日本最狭の狭き門であるキャリア試験に合格した人達の離職が止まりません。
既に、官僚システムは機能していないのではないでしょうか。
この国、変ですよ。

私達は、結果に右往左往するだけです。そして、結果を捻じ曲げようとします。岸田さんは「鬼」かもしれませんし、「犬」かもしれません。でも、それも、結果です。
どうして、原因を見つけようとしないのでしょう。
どうして、原則を作ろうとしないのでしょう。
「お前達は、政権批判とかスキャンダル騒動しかできないのか」と批判された野党第一党の立憲民主党は、提案型の政党になると大見得を切って新体制を発足させました。これも、結果を捻じ曲げるやり方です。だから、政党支持率は下落しています。国民の皆さんは、確かに、皆さん、「いい人」ばかりです。でも、決して、馬鹿ではありません。
立憲民主党の皆さんは、支持率が上昇しない原因を、未だに見つけていません。
国力衰退という現実を認め、そのトレンドを変えるのが、彼等の仕事です。
立憲民主党が政権を取れば、こんな国になります、という青写真を示したことがありません。相変わらず、自民党批判とばら撒きです。それだけではなく、ウクライナ戦争を目の当たりにした国民に対して、安全保障の面では、左翼のお花畑論に引きずられていて、国民の心配に答えることができません。

1つ1つは些細なことですが、色々な場面で、「何か変」が横行しています。
それには、原因があるはずです。
目的がないことと、責務が明確でないことが、これらの原因です。
そのことに、そろそろ、気付かねばならないと思います。
どうすればいいのでしょう。
国民が変わるしか、この国を変えることはできないと思います。
国民が変われば、政治家は手の平を返します。
「国民生活を守るために」と連呼し始めると思います。
だって、政治家は、国民の一票を貰わなければ、カネにならないからです。
どうして、こんな明白な事実に誰も目を向けないのでしょう。


2022-07-04



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実に厄介です [評論]



経済の衰退、政治の衰退、社会の衰退に言及する記事が、民間レベルで、少しずつですが、増えています。経済界も、やっと、「国力低下」という言葉を使い始めました。
しかし、政治家は、相変わらず、「自分さえよければ」をやっています。
私は、これらの衰退現象を一纏めにして「国力衰退」と呼んでいます。
民間の、今の動きが、トレンドにまで育つのかどうか、まだ、わかりません。
それでも、何も起こらないよりは、はるかに、朗報です。
ただ、まだ、議論は煮詰まっていませんので、核心に辿り着くまでには、時間が必要です。
崩壊までの時間との勝負ですが、私達は、国家崩壊を阻止できるのでしょうか。
全く、わかりません。
私は、悲観論者ですから、間に合わないと思っています。それでも、何もしないよりは、いいと思います。それは、この国が「ドツボ」に落ちた後、這い上がって来る時の力になる可能性があるからです。可能性にすぎませんが、何もないよりはいいと思います。
今日は、国力衰退に関する記事を2つ紹介します。

「2025年日本経済再生戦略」という本の解説をしている記事がありましたので、そのことについて書いてみたいと思います。書いた方は、元日本マイクロソフト代表取締役社長の成毛眞さんと経営共創基盤(IGPI)グループ会長の冨山和彦さんという方です。この国は、今のやり方を続ければ、危険だと心配しています。
いつものことですが、本は購入していません。ですから、私の解釈は間違っているのかもしれません。記事を抜粋します。

「若者は上場企業よりユニコーンを目指せ」
「1960年生まれのリーダーは昭和にとどめを刺せ」
「日本の政治も行政も、そして大企業も昭和のレガシーを引きずり、保身に毒されたままなのだ。彼らがいくら、『何とかなる』という楽観論、『何とかする』という根性論を掲げても、それで国がよくなるはずがない」
「昭和の価値観を引きずっている政府は、日本経済再生の先導役にはなりえない。100%自己責任の意識で、個人として人生を構築すべきだ」
「中小企業の70%が国内消費依存、GDPに占める個人消費の割合は50%強にも上る。官製内需頼みが日本経済低迷の原因なのだ」
「コロナ禍でも企業倒産件数が史上最低水準で推移している日本は、逆に、危ない。いろいろなかたちで企業には巨額の資金が政府から流れており、キャッシュが回っている限り、どんなに大赤字になっても企業はつぶれず、ゾンビ化して生き延びるのだ」
「政府であれ、大企業であれ、日本の古典的なエスタブリッシュメント組織の体質をひとことで言うなら『グダグダ』であるということだ。すべてが固定的で旧時代的。何かというと『ことなかれ』の保身に走る。悪しき『昭和』である」
「横並びの価値観から自分だけの幸福感にシフトせよ。空気を読まない、集団に埋没しない、権威・権力に屈しない、そんな自分勝手に生きる個人こそが、今後は生き残っていく」
「昭和世代に足をすくわれないよう注意しよう」
「新たな能力を身につける、自己トランスフォーメーションが必要」
「岸田政権が掲げる『新しい資本主義』に頼らないことが新しい資本主義だ」

書かれていることに、私は「ふむ、ふむ」と頷いてしまいました。
これを書かれた方は、国力衰退という現実を認めています。ですから、現実という当たり前の認識の上に立脚した提案ができるのだと思います。
この本のキーワードは「昭和」です。
私も、度々、「昭和」という時代を引き合いに出しますが、この本の筆者は、「昭和を否定しろ」と書いています。
ただ、どうやって、「昭和を否定するのか」がわかりません。
それは、「昭和」を否定して、何を基準するのかが見えないからです。
否定しなければならないのは、「昭和」ではなく、「曖昧文化」であり、「昭和」の代わりになる基準は、「目的と責務」の確立です。
ほとんどの方が、このことに気付きません。確かに、曖昧文化は、見えませんから、仕方ないのかもしれませんが、頑張って欲しいと思います。
この「曖昧文化」は、昭和だけではなく、平成にも令和にも存在しますので、「曖昧文化」にドップリと浸かったままの私達が、「昭和」を否定しようとしても、それは、無理な相談です。
これを書かれた方は、意識下で、気付かずに、目的と責務を定義しているのかもしれませんが、本人は、そのことに気付いていません。
ただ、一歩前進していることは認めます。
必要なのは、やはり、原因の原因の原因の解明なのだと思います。

上の記事では、衰退の現象は書かれていますが、言葉としての「衰退」は使われていません。
最近、「衰退」という言葉が使われることが多くなってきたと思っています。
民間では、少しずつですが、現状認識が進んでいることになり、喜ばしいことです。
衰退に関する別の記事も転記しておきます。

カーボンニュートラル行動計画の産業部門では、2020年度実績で既に 20.8%削減されたことになっている。結果だけが表面に出ているが、どうして、そんなに削減されたのかは、明確になっていない。
その中身。
「(1)経済活動量の変化」、すなわち産業の衰退でCO2が18.2%も減少した。
「(2)エネルギーの低炭素化」はわずかに3.9%のCO2減少。
「(3)省エネ」に至っては何と1.4%のCO2増加。
つまり日本の産業が衰退したのが、CO2減少の最大の理由だ。エネルギーの低炭素化も、省エネも、あまりCO2減少に寄与していない。
東京都の産業部門のCO2排出量は、2000年に679万トンだったのが2019年には43.9%も減って381万トンとなり、今後、2030年にはさらに41.8%も減らして222万トンとするという見通しになっている。エネルギー消費量も、同様に激減してきたし、今後も激減を続ける見通しになっている。その原因は、産業の衰退なのです。
実は、工場が壊滅的に減っている。
 東京にも工場はたくさんある。23区の中では大田区が有名だ。西部の多摩地区にも多くの工場がある。だが、次々に無くなっている。地元の方はまさにこれをよく実感しているだろう。
2003年から2015年の12年間だけで、事業所数は4万9580から2万7142まで減っているから、実に45%の減少だ。従業者数は46万7210人から29万6132人まで減っているから、37%も減っている。これだけ工場が激減し、雇用も減っていれば、CO2が減るのも何ら不思議はない。
大田区から、多摩地区から、工場が減り、雇用が無くなることを、東京都は今後も促進したいのだろうか。

「昭和」とか、「衰退」とかを発信する方は、まだ、少ないと思います。
それでも、声に出してはいませんが、多くの方に、「衰退」は「何となく」理解されています。この国が、順風満帆だと思っている国民は一人もいないのでないでしょうか。
国力衰退という現実を、公的に認め、正面から向き合うべきですが、それが出来ません。特に政府高官は「衰退」という言葉を禁句にしているのではないかと思っています。
何故なのでしょう。
どうして、「新しい資本主義」などという「まやかし」で誤魔化そうとするのでしょう。
それは、誰も、その対処法を見つけていないからだと思います。
でも、だからと言って、対処しなくてもいいということではありません。
衰退から生まれる現象は、結果として、誰の目にも見えています。
どうしても、結果に目が行くのは仕方のないことだと思います。
政府だけではなく、多くの方が、原因を見つけることもなく、結果を捻じ曲げようとします。
中には、原因を見つける人もいますが、対処法がわかりません。たとえ、対処法を見つけたと思っても、成功しません。それは、原因の原因がわかっていないからです。
仮に、原因の原因を見つける人が出てきても、対処法までは見つけられません。
それは、原因の原因の原因が「曖昧文化」だからです。
堀り進めていけば行くほど、「曖昧」の密度は濃くなり、対処法に辿り着けないのです。

なんてことを言っても、多分、誰も「ふむ、ふむ」とは言ってくれないでしょう。
ここで、原因と、原因の原因と、原因の原因の原因の関係を具体的に見てみましょう。
もちろん、これは、私の独断と偏見から生まれたものですから、正しい分析であるという保障はどこにもありません。
先ず、誰にでも見える結果は、2000万人もの相対的貧困者が存在するという事実です。これを、貧富の格差だと言う人もいます。
その原因は、多くの皆さんが指摘するように「賃金が上昇しない」からです。
多くの方が、そのことを知っていますが、一向に賃金は上昇しません。
それは、「賃金が上昇しない」原因が見えていないからです。
では、「賃金が上昇しない」原因は何でしょう。
政治は、結果を捻じ曲げようと、春闘で賃上げを要求したり、分配することばかり議論しています。こんなことをしても、賃金は上昇しません。
その原因は「国力が衰退」しているからです。
これが、原因の原因です。
この「国力衰退」を止めない限り、賃金は上がりませんし、分配は限界を迎えます。
ところが、原因の原因がわかっても、対応策は見えません。
それは、「国力衰退」の原因が、余りにも多すぎて、手に余るからです。個別の何か1つを変えれば、国力が繁栄するわけではありません。
どうしても、「国力衰退」の根っ子にある原因を見つける必要があります。
そのためには、私達は、原因の原因の原因を見つけるしかないのです。
ここからは、私の独断と偏見です。
原因の原因の原因は、この国に目的がないからです。
いや、目的を達成するための明確な責務がないからです。
責務がないのは、言葉の定義がされていないからです。
言葉の定義がされないのは、曖昧文化だからです。
これが、原因の原因の原因です。
実に厄介です。
更に、厄介なことがあります。
それが、「お上」と「下々」という歴史と伝統です。
私達には、不都合なことは「お上」が悪いからだ、という逃げ道があります。
特に、左翼の方、野党の方は、「お上が悪い」と声高に言います。自分達が、国民生活を守ることよりも、「お上」を批判しているほうが楽だからです。これも、逃げです。
確かに、「お上」は最悪です。
でも、それは、国民が最悪だから、「お上」が最悪になっているのです。
国民に選ばれた国民が「お上」というシステムを動かしているのですから、最悪が最悪を選んでいるのですから、「お上」だけが変わるなんてことはありません。
最悪の国民から、最良の「お上」が生まれることはないのです。
もしも、奇跡的に、突然変異が生じて、「お上」だけが変わったとしましょう。それで、国力衰退は止まるのでしょうか。いいえ、国力衰退は止まりません。
なぜなら、国力を繁栄させる主体である国民が変わっていないからです。
「2025年日本経済再生戦略」を書いた人は、個人に向けて提案しています。方向性としては、これが正しいやり方です。国民が変わらない限り、この国は変わりません。しかし、世代交代を待っている時間は残されていません。
この国に必要なのは、自然治癒ではなく、外科手術なのです。
国を繁栄させるのも、国を衰退させるのも、国民次第です。
どうか、「曖昧文化」ではなく「言葉を定義する文化」を導入してください。
責務を明確にして、目的を見つけてください。
そうすれば、国民の皆さんは、変わります。
この国の国民には、今の国力衰退トレンドを変える力があります。


2022-07-03



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発想の転換 [評論]



岸田政権の「新しい資本主義」というものが、骨太の方針を出した後も、何が「新しい」のか、未だに、よくわかりません。それでも、国民は岸田政権を支持しています。ほんとに、国民の皆さんは、「底なしのいい人」です。いや、ご立派な「下々」です。
確かに、盛沢山な施策は並んでいます。しかも、過去の施策の焼き直しばかりです。過去の施策を網羅したことが「新しい」の意味なのでしょうか。
骨太方針の重点項目を見てみましょう。
(1)人への投資と分配
(2)科学技術・イノベーションへの投資
(3)スタートアップ(新規創業)への投資
(4)グリーントランスフォーメーション(GX)への投資
(5)デジタルトランスフォーメーション(DX)への投資
骨太方針の重点は、政府による投資です。
文字面だけを見ていると、何となく、新しく見えるかもしれません。
でも、その中身は、貧弱です。
1億円投資するのも、100兆円投資するのも、「投資」という同じ言葉を使います。
しかし、重点と呼ぶほど大々的に宣伝するほどの投資額には見えません。遠慮がちな防衛予算の増額のほうが、はるかに重点項目に見えます。
「3年間で4,000億円」となっていますが、年間では、1300億円、GDP比0.02%です。
例えば、職業訓練に投ずる政府投資を海外と比較してみると、オランダではGDP比0.35%です。日本の17倍です。
多くの方が指摘しているように、日本に求められているのは労働環境の大改変です。職業訓練に、チョロチョロと投資していたのでは、焼け石に水です。アリバイ作り、「やってます感」しか感じません。全く「新しくない」、従来の「なあ、なあ」「まあ、まあ」の延長線でしかないように見えます。ある記事では、「新しい資本主義」を「水増し、玉虫色、混乱」と書いています。
国力衰退が顕著な日本に必要なのは、職業訓練レベルの弥縫策ではないと思います。
労働構造、経済構造、国家構造の変化が必要なのだと思います。もう、これまでの構造では、生き残れない環境にあるのが、今です。ただ、構造を変えるためには、思考を変えなければなりません。しかし、原因究明がされていませんので、思考が変わりません。
私達の身近にある「もやもや」を見てみましょう。
古典的な疑問ですが、「何のために働くのか」という疑問です。
もちろん、「自分のために働く」のです。
雨露をしのぎ、日々の食糧を手に入れるためには、働くしかありません。これは、人類が地球に誕生して以来、何も変わっていません。ただ、いつの時代でも、「自分」という概念には差があります。自分だけなのか。自分の家族なのか。自分の家族と仲間なのか。自分を含む集落の皆なのか。その範囲が狭くなればなるほど活動が狭くなるのも仕方ありません。現代は、その弊害が表面化しているように見えます。
「労働とは」という言葉の定義をしてみる必要があるのではないかと思います。
「自分のためだけに働く」というモチベーションを、ほんの少し削り、「自分の子供を含む、全ての子供達の未来を守るために働く」というモチベーションを、加味してみてはどうかと思います。モチベーションなんて無形のものですから、力にはならないと思う方もいるかもしれません。でも、そうではありません。国民の意識が全てを決めるのです。
そう考えると、政府が最優先でやらねばならないことは、国民の心への、国民意識への、働きかけなのではないでしょうか。経済は、国は、国民次第なのです。
言葉の定義をし、責務を明確にし、目的を持てば、国民の力が、この国を蘇らせます。
ここまで窮地に追い詰められた日本を再生するのは、意識を変えることでしか、実現できないと思います。人間の力を嘗めちゃいけません。人間は、時として、不可能を可能に変えてしまう力を持っているのです。それは、国民の意識から生まれます。
過去の延長線上には、日本の未来はありません。
「なあ、なあ」「まあ、まあ」をやっている場合ではありません。
人への投資金額は少額ですが、それでも、財源は必要です。
財源は、全て、借金で賄うのでしょうか。
これも、過去の延長線上の、「なあ、なあ」「まあ、まあ」です。
岸田政権だけではなく、皆さん、借金に麻痺しています。
財務省のことを糞味噌に言う方がいますが、財務省の言っていることのほうが正しいと思います。それは、後世の歴史家が証明してくれます。
どうして、今の状況が末期症状だということがわからないのでしょう。

「新しい」とか「優しい」とか、耳障りの良い言葉は、利用価値はありますが、言葉だけでは、現実は変わりません。
キャッフレーズを発表すれば、それだけで、仕事をした気分になっているのでしょうか。
政治家の先生方は、与野党問わず、「標語」「スローガン」「キャッチフレーズ」が大好きです。いや、昔から、日本人は、国会議員に限らず、「お偉い先生方」は標語が好きです。それも、「標語」を実現する基盤のない、一人ぼっちの「標語」ばかりです。「1億〇〇〇」という標語は、ベストセラーです。過去には「1億玉砕」というスローガンもありました。
中でも、岸田総理一押しの、「貯蓄から投資へ」というキャッフレーズには、違和感しかありません。
この「貯蓄から投資へ」というキャッフレーズは、1960年代から言われ続けたキャッフレーズであり、かなり「手垢」がついていますが、岸田政権のキャッフレーズは、斬新で、実現可能なものなのでしょうか。まだ、中身はよく見えませんが、NISAやiDeCoの拡充のようです。これまでも、NISAやiDeCoは宣伝してきました。実際には、その宣伝で、投資が大幅に増えたわけではありません。未だに、個人資産の5割強は預貯金です。
「貯蓄から投資へ」に関する最近の世論調査では、別の議論が盛んです。
「あなたは、あなたの貯蓄を投資へ回しますか」という質問に対する答は、次のような結果だったそうです。
投資に回そうと思わない40%
投資に回す貯蓄がない34%
投資に回そうと思う23%
このアンケートでは、「投資に回す貯蓄がない34%」が脚光を浴びてしまいました。このことは、このブログでも何度となく指摘してきたことですから、別に驚くようなことではありません。これが現実です。
驚きは、「投資に回そうと思う」と答えた人が23%もいたことです。
いや、逆に、「お上」のお達しに「ふむ、ふむ」と頷いた人が23%しかいなかったということにも驚きました。アンケートですから、実際に投資に回す必要はありませんので、「ふむ、ふむ」と答えてもいいと思うのですが、皆さん、どうしてしまったのでしょう。
では、この23%の皆さんは、貯蓄を投資へ回すのでしょうか。
そうは、思えません。
50年も、「貯蓄から投資へ」と宣伝し続けてきた結果が現在です。
突然、23%もの人が投資をするのでしょうか。
あり得ません。
もしも、政府の口車に乗って投資を始める人が23%もいれば、この国の近未来は、今の予想よりもはるかに厳しいものになります。老後資金を手にする人(1%)よりも、老後資金として貯蓄していた資産を失う人(99%)のほうがはるかに多くなるということであり、悲惨な老後を迎える人が増えることを意味します。
日本人の持っているスキルで投資をすれば、資産を失うのは、火を見るより明らかです。
それほど、日本には「投資する」という習慣がなかったということです。
投資と言えば、「これに投資してくれれば、年に2割の配当が手に入ります。もちろん、元本は保証されます」という詐欺事件でしか馴染みがありません。ですから、投資とは、詐欺の手法だと思っている人もいると思います。
投資は、全員が利益を手にするわけではありません。当たり前のことですが、カネを手にする人と、カネを失う人が、同じ数いるのです。それが、投資です。しかも、プロとアマのオープン戦です。明らかに、プロのほうが強いと思います。投資の世界は、経験と技術力の闘いの世界です。貯金しかしなかった素人が、投資という戦場に行くのは自殺行為です。そんな甘い世界ではありません。プロである金融機関・証券会社と外国人投資家の利益を増やすだけだと思います。
貯蓄の場合のリスクは、金融機関の倒産と国家破綻とインフレですが、投資の場合のリスクは、それらの貯蓄リスクだけではなく、あらゆるリスクに対応しなければなりません。情報量の少ない個人には、リスクを知ることだけでも難しいのが現状です。
23%の「投資に回そうと思う」と答えた人が、建前で答えていてくれたらと思います。2割もの人達が、悲惨な老後に直面すれば、それは、国の崩壊と言っても過言ではありません。そんな馬鹿なことはしないと思いますが、心配です。総理大臣が言ったからと言って、総理大臣が責任を取ってくれるわけではありません。投資の損失は自己責任です。
もっとも、若い人は貯蓄がありません。預貯金を持っているのは高齢者です。「投資に回そうと思わない」と答えた人は、ほとんどが老人だと思います。
現実を見れば、「貯蓄から投資へ」というスローガンは実現しません。政府のスローガンに騙された若者の中の、23%が、虎の子の貯金を失い、路頭に迷う人を作るだけです。
また、個人が貯金を引き出して投資をしても、投資の総額は変わりません。個人の貯金は金融機関が投資をしているのですから、金融機関の投資が減るだけです。投資額は同じなのですから、それで経済が活性化するわけではありません。いや、そもそも、この国には資金需要がありません。
どう考えても、「貯蓄から投資へ」は何の役にも立たないのです。
もしも、個人の収入を増やしたいのであれば、預貯金の利息を高くすればいいのです。
預貯金の利息を上げられないのであれば、預貯金と投資の間に、NISAやiDeCo以外の、ローリスク・ローリターンの金融商品を作る努力をするべきです。時間はかかりますが、ローリスク・ローリターンの金融商品に、国民が慣れてくれば、ハイリスク・ハイリターンの投資に挑戦する国民が育ちます。
政府は金利を低く抑えて、個人の貯蓄による利益を奪っておいて、個人に博打をしろと言うのは、なんか、違うと思います。

今日は、岸田政権の「新しい資本主義」の「人への投資」と「貯蓄から投資へ」を取り上げましたが、この施策で国力の衰退が止められるとは思えません。
もちろん、骨太の方針には、これ以外にも、数々の施策が盛り込まれています。
骨太の方針策定に何人の人がかかわったのかは知りませんが、大勢の優秀な人材が、長期間、寝食を忘れて、作り上げたものだと推測します。
彼等の努力は報われるのでしょうか。
いいえ、報われることはありません。
国力衰退は、粛々と進行します。
私は、シシフォスの神話を思い出します。
先端が尖った山の頂上に大きな岩を持ち上げるという刑罰を受けたシシフォスは、渾身の力をこめて、岩を押し上げます。しかし、その山の頂上は三角形の頂点のような形状をしているために、岩は山を転がり落ちます。シシフォスは、再び、山を下りて、岩を持ち上げねばなりません。この刑罰には終わりがありません。たとえ、シシフォスが神の一人だとしても、体力が続くとは思えません。いつかは、岩と共に山から転落することになります。
私達がやっていることは、シシフォスの神話です。
過去にしがみ付き、「なあ、なあ」「まあ、まあ」方式を続けるのは、もう、限界です。
私達に必要なのは、発想の転換だと思います。
どうか、そのことに、一刻も早く気付いて欲しいと思います。
国力衰退の先にある国家崩壊で被害を受けるのは、国民の皆さんです。
貧しい生活をしている人も、まあまあの生活をしている人も、豊かな生活をしている人も、一人も取りこぼすことなく、極貧生活を強いられることになります。「そんな馬鹿な」と思っている皆さん。それ、勘違いです。その勘違いは、皆さんが想像力を失っているからです。多分、今の皆さんには想像できないと思いますが、「明日の食糧の目途が立たない」「今日、食べる物がない」「もう、3日も食べていない」が日常になるのです。国が崩壊するということは、そういうことなのです。
皆さんは、自分の身を守るために、子供達の未来を守るために、行動を取るべきだと思います。


2022-07-02



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選挙公約という詐欺 [評論]



今日は、参議院議員選挙について書きます。
実現不能な能書きを示して不当な利益を得る行為を詐欺と呼ぶとすると、選挙公約は、まさに、詐欺そのものです。「実現不能な公約を提示した者は、10年以下の懲役に処す」という法律はありません。政治家は、そんな法律を作りません。でも、詐欺は詐欺です。
これまでは、自民党や立憲民主党に焦点を当てて書いてきましたが、今日は、国民民主党に焦点を当ててみたいと思います。
これは、既存政党の既成概念が、この国をドン詰まり状態にしていることを、国民民主党に代表してもらうものであり、国民民主党を非難することが目的ではありません。自民党を筆頭に、既存政党では、この国の国家運営は出来なくなっていることに気付いていただきたいという願いを持って、書きます。
私には、国民民主党の公約は、いや、他の政党の公約も、弥縫策にしか見えません。
弥縫策という言葉の意味を調べると、「一時のがれにとりつくろって間に合わせるための方策」と書かれていました。原因を追究することなく、結果を捻じ曲げようとする、曖昧文化の下ではよく使われている手法です。
今、この国に必要なのは、弥縫策なのでしょうか。

さて、国民民主党の主な参院選公約です。

[ 景気対策として、給料が上がる経済の実現 ]
「物価を上回る賃金アップ」の実現、がキャッチフレーズのようです。
自民党が対応できなかった課題を、国民民主党は解決すると宣言しています。
もちろん、言うのは自由です。でも、当選すれば、詐欺です。
「給付付き税額控除を導入し、最低賃金時給1150円以上を早期に実現する」
この給付付き税額控除というのは、10万円の国民給付金(インフレ手当と呼ぶそうです)と消費税の5%減税のことのようです。
つまり、国民に10万円をばら撒き、消費税を5%下げ、最低賃金を上げれば、給料が上がる経済を実現できると主張しています。
どうすれば、こんな無茶な公約が作れるのか、不思議です。それとも、ジョーク。
経済成長しないのは、賃金が上がらないのは、国力が衰退しているからです。
そして、経済が停滞しているのは、賃金が上昇していないのは、国にも国民にも国力衰退を止める意志がないからです。
この国の責任者は国民です。国民がその気にならない限り、この国の衰退は止まりません。でも、そんなこと選挙公約にしてしまえば票が貰えません。これは、選挙のための、いつもの、詐欺のテクニックに過ぎません。選挙で当選することが最優先であり、国民生活を守るために仕事をするつもりは、最初から存在していないということだと思います。

余談です。国民民主党だけではなく、野党は「減税」と「ばら撒き」を公約しています。今回は参議院選挙ですから、政権交代は起きません。だからと言って、国家運営を放棄するような公約をするのは、いかがなものかと思います。
国家運営は税で行われています。「減税」は歳入の減少であり、「ばら撒き」は歳出の増加です。明らかに、財源は減少するのです。先ずは、税収の増加策を示すべきだと思います。法人税の増税と富裕税の新設をしたとしても、短期的に増収になったとしても、ジリ貧になるだけです。
国力衰退を阻止し、税収の自然増を確保しなければ、国家運営は行き詰まります。いえ、既に、行き詰っています。自民党は、その方策を提示できていないのですから、野党にチャンスがあるのです。「減税」と「ばら撒き」なら、小学生でも公約できます。
自民党幹事長が「消費税5%減税なら、社会保障費3割削減になりますが、いいのですか」と脅したことで、野党の大合唱が起きています。立憲民主党の代表は「非常に冷酷な人物だ」と演説しています。確かに、自民党幹事長は「自分さえよければ」をやっている「ろくでなし」だと私も思いますが、「冷酷な」という表現には驚きました。「お前ら、小学生か」と言いたいくらいです。目的も責務もないために、皆さん、やりたい放題です。

[ 人づくりこそ国づくり ]
言葉は、美しい。
この標語にも瑕疵はありません。
その通りです。
では、どうやって、実現するのでしょう。
教育国債(これも借金です)を創設して、教育の無償化を実現するそうです。
具体的には、年収にかかわらず児童手当を18歳まで一律月1万5000円支給するというものです。年間、18万円です。子供のいる家庭は、ほんとに、助かります。
財源が国債でなければ、これは、少子化対策として必要なものです。でも、これは、これまでの無策だった少子化対策を補完するものであり、マイナス部分を補う施策であり、「人づくり」「国づくり」という前向きの施策とは呼べません。
「人づくり」って、カネさえ出せばできるのでしょうか。
私には、そんな美味しい話があるようには思えません。
この国には、目的とグランドデザインがありませんので、ばら撒きが施策だと勘違いしてしまうのだと思います。
子供達に、夢はあるのでしょうか。
自分から、「頑張ってみようか」と思うモチベーションはあるのでしょうか。
それを見つけることのほうが先だと思います。
間違っているかもしれませんが、「人づくり」は、「動機づくり」だと思います。
大人達が、目的も責務も持っていなくて、どうやって動機を作るのでしょう。
「人づくり」「国づくり」が出来ていないという現状認識は正しいと思います。
しかし、その原因を見つけていません。
カネさえ出せば、人づくりも国づくりもできると考えるのは、幻想です。

[ 安全保障とエネルギー ]
「自分の国は自分で守る」ことが原則だと主張しています。
このキャッチフレーズも間違っていません。
抑止力の強化と自衛のための打撃力(反撃力)を整備するそうです。
当然、防衛費の増額は必要ですし、増額は認めています。しかし、財源については書かれていません。岸田総理と同じで、国債による増額を容認しているようです。
エネルギーでは、原発を容認するようです。
安全基準を満たした原発再稼働と、次世代炉等へのリプレース(建て替え)を提案しています。
その前に、福島第一原発の処理の問題と、核廃棄物の処理に関する施策を提案してもらいたいと思います。自民党では展望が持てていないこれらの諸課題について、国民民主党であれば、「こう解決します」という案を出して欲しいと思います。
言葉ばかりで、中身がありません。これを、詐欺と言うのです。
もちろん、自民党だって具体策を持っていないのだから、国民民主党に要求するのは筋違いだと言われれば、その通りなのかもしれません。でも、実現性は、ほぼゼロだとしても、「国民民主党が政権を取れば」というのが公約だと思いますので、提示する必要はあります。

[ 正直な政治 ]
これも、間違ってはいません。
公文書改竄などが起きないように罰則を作るそうですが、官僚の責任だけではなく、政治家の責任を糾弾する法律を成立させるつもりはあるのでしょうか。ま、政権を取ることはないのでしょうから、どんな法律でも要求はできますが、自民党にその条文を認めさせる力は、国民民主党にあるのでしょうか。
私には、机上の空論にしか見えません。

この他にも公約はあるのでしょうが、それは割愛します。
どの公約を見ても、言葉は、間違っていません。でも、口先だけです。
この公約を見て、国民の皆さんは、国民民主党に政権を取って欲しいと思うのでしょうか。
国民民主党に政権を委ねれば、国民生活が豊かになると思う国民は、何人いるのでしょう。
そんな国民はいないと思います。
もちろん、国民民主党も政権を取ろうなんて考えていないでしょう。
「先生」と呼んでもらえる快感と余禄、議員歳費というカネのうま味、に群がるだけの助平根性が、彼等の原点だと思います。
自民党批判票、立憲民主党批判票、共産党批判票が取れれば大成功なのだとすると、国民民主党の存在価値は、どこにあるのでしょう。
そんなもの、あるようには見えませんが、実は、国民民主党にも存在価値があるのです。
それは、自民党政治の補完機能としての価値があるのです。
自民党政治が100%国民に受け入れられるなんてことは、ありません。
人は、百人百様です。国民の不満は、常に存在します。
ですから、その不満の受け皿としての野党が必要なのです。
これまで、自民党批判が大きくなった時代が何度かありますが、その後、すぐに、復元しています。ですから、戦後日本の国家統治は、ほぼ、自民党が担ってきました。
日本では、基本、「お上」は自民党なのです。
野党は、基本、「ガス抜き装置」としての機能を持っているのです。
では、国民は、自民党を信頼しているのでしょうか。
そうではありません。
国民は、自民党を信頼はしていませんが、歴史と伝統に従い、自民党が「お上」なのだと思っているのです。いや、思い込んでいます。封建時代の百姓だって、領主を信頼していたわけではありません。歴史が、「お上には従う」という伝統を作ったのです。それが、現在でも、脈々と受け継がれているのです。
結果、政治家は、自分達が特別の存在だから、何をやってもいいと思っています。
国民は、政治家を「先生様、先生様」と呼んでくれます。まるで、「お殿様」です。
もう、歴史と伝統という伝統的な手法では乗り越えられない時代を迎えているのです。
確かに、歴史と伝統から生まれた曖昧文化は、心地いい面が多々あります。
だからと言って、国民生活が破綻したのでは元も子もありません。
私達の国は、これまでの長い歴史の中でも、最も困難な時代に遭遇しているのです。こんな時代は初めてだと思います。
今日は、国民民主党の公約を取り上げましたが、まだ、これでも、ましなほうです。「消費税廃止」「ガソリン税廃止」「年間40万円給付」と約束している政党もあります。国家運営を放棄しているとしか思えませんが、それでも、一票を投ずる人がいます。
極論ですが、投票所へ行ってはいけません。それは、一票を投ずるに値する政党が存在しないからです。どうしても、投票したいのであれば、「白票」を投ずることをお勧めします。もちろん、こんなことをしても、何も解決しません。でも、消極的な意志表示にはなります。投票率が20%になれば、「何とかしなくては」と思う人も出てくると思います。
政治家は、どの党の政治家も「国民の金銭的な要求に応える」のが政治だと思っています。それ、違います。「国民生活を守る」ことが仕事です。国民生活を守るためであれば、国民に「責務を果たせ」と言わねばならない時もあります。それなのに、野党は、国民にゴマをすり、実現しない「ばら撒き」の公約ばかりを掲げます。政治家の皆さんの仕事は、詐欺を働くことではありません。国力衰退を止め、国民生活を守ることです。
確かに、国民も、政治が「金銭的な要求」に応えてくれること期待しています。それは、政治家も国民も、自分の責務を知らないからです。政治家も国民も「なあ、なあ」「まあ、まあ」をやっているのです。こんな国が、繁栄するとは思えません。
こんなやり方を続けていれば、国民の皆さん一人一人の生活が破綻します。
国家運営システムも、選挙も、これまでの既成概念も、文化でさえも、賞味期限を過ぎています。どうか、そのことに、気付いてください。


2022-07-01



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