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復讐 - 5 [復讐]



K大付属病院の院長は伊東弁護士の父親と深い付き合いがあり、入院に問題はない。さらに、望月の根回しで内科部長にも話がいっていた。
病室に入った真人は、移動のために疲れたのか、すぐに深い眠りに入った。不眠症の真人が珍しく朝まで起きなかった。
「なっちゃん」
目を覚ました真人のベッドの横には奈津子がいた。
「おはよう」
「ああ、そうか。入院したんだったな」
「気分は」
「よく寝た。元気だ」
「そう」
「心配かけるな」
「うんん。検査が続くみたいよ」
「そうか。嬉しくはないな」
「そうね」
「拘置所よりは、居心地がいいといいのにな。でも検査がな」
「ちゃんと、検査するのよ」
「わかってるよ」
三日間、検査が続いた。伊東も来たし、香織も、望月も来て、最後に恵子も来てくれた。
「面会に行かなかったから、顔見てみたくてね。その顔、忘れるとこだったわ」
「心配かけて、ごめん。叔母さん、具合は」
「私は、全然、大丈夫よ」
「そう」
主治医は滝口という細身の内科医だった。歳は50前後に見えた。奈津子は看護師に呼ばれて詰め所に行った。滝口医師はカルテを見ていた。
「結城さん。今日は一人」
「はい」
「望月さんは」
「夕方には来ますが」
「そうですか。来られたら、連絡してください。検査の結果をお二人に説明しますから」
「はい」
夕方に望月が来て、奈津子は滝口医師に呼ばれている話をした。
「父さん。何か怖い」
「お前が、しっかりせな」
「うん。わかってる。けど、怖い」
三十分程して呼ばれ、二人は看護師に連れられて二階の会議室に入った。望月は入院の時に内科部長に挨拶しているので、内科部長と滝口医師の顔は知っていた。もう一人年配の医師がいて、三人の前に二人は座った。
滝口医師が内科部長と外科部長を紹介し、話を始めた。
「結城さん。大丈夫ですか。望月さんに聞いてもらいますか。お二人は親子で、結城真人さんと望月さんは義理の親子ですよね」
「いえ。私も、聞きます。いえ、聞かせてください」
「わかりました。では、結論から申し上げますが、結城真人さんは肺がんと診断されました。院長からの指示もあり、内科と外科の慎重な検査の結果です。どうして、ここまで放っておいたのか、理解に苦しみました。本人に痛みはあったと思います。院長の話では、結城さんは拘置所に収監されていたということですが、拘置所にも医師はいるはずです。大変残念です。癌は広い範囲に転移しており、外科の処置でも摘出は難しいと判断せざるをえません。奥さん。大丈夫ですか」
奈津子の顔は真っ青だった。体にも震えが見られる。
「奈津子」
「大丈夫。大丈夫です」
「いいですか」
「はい」
「あとは薬物療法と化学療法になりますが、残念ながら、劇的な回復にはならないと思っています。そこで、お聞きしますが、ご本人は告知を希望していたようなことはありませんか」
「聞いていません」
「そうですか。結城さんの場合、ご本人に告知するのがいいように思うのです。ご本人の意思で治療を選択なさる方が、納得がいくのではないかと思います。結城さんは聡明で、ご自分の意思がはっきりとしている方のように思いますが、違いますか」
「そうだと思います」
「今からは、痛みも強くなっていくでしょう。いずれ気づくことになると思います。黙っていた方がいいのでしょうか」
「手の施しようがない、ということですか」
望月の出番だった。奈津子には正常な判断を求めるのは難しいと思えた。
「端的に言えば、そういうことです」
「どの位、ですか」
「この、数か月かもしれません。長くても半年だと思います」
「半年」
奈津子が下を向いて、声を殺して泣き始めた。
「残り時間を、ご本人が納得のいく時間にしてあげた方がいいと思います。あの方は、それを受け止めることができる人だと、私は感じています」
「度胸と言う意味では、天下一品でしょうな。それと、奈津子に演技は無理ですやろ。すぐにばれますわ。どや、奈津子。先生から話してもらお。わしも、よう言わんし。お前は、もっとあかんやろ。先生にお願いするしかないと思うわ。真人さんなら、受け止めてくれるやろ。半端な男と違うからな」
奈津子が大きく頷いて、声を出して泣き始めた。
「では、私から話してみます」
「お願いします」
望月は立ち上がって、大きく頭を下げた。奈津子は体を折って泣いていた。
真人は入院してから、よく眠れる。点滴の中に睡眠薬が入っているのでないかと思うくらいよく眠った。心の中のざわつきも少ない。自分でも病気なのだと感じている。
「結城さん」
「ああ、先生」
「ご気分は、どうですか」
「あまり、変わりはないです」
「そうですか。今、お話してもいいですか」
「ええ」
「検査の結果です」
「聞かせてください」
「結城さんは、ご自分の病状を聞きたいと思う人ですか」
「告知という意味ですか」
「ええ、まあ」
「ぜひ、お願いしたい方ですね」
「そうですか。私の勘が外れていなくてよかった」
「先生。その様子では、かなり悪い話ですね」
「ええ。でも、あなたなら、受け止めてくれる。私はそう信じてますが」
「最近、腹に力が入らない。泣いてしまうかもしれませんね」
「できれば、泣くのは、私が部屋を出た後にしてくれませんか」
「わかりました」
「病名は、簡単に言えば、肺がんです」
「はい」
「そして、広い範囲に転移しています」
「はい」
「手術では、摘出しきれないほどに転移が進んでいます」
「そうですか」
「治療法としては、薬物と化学療法がありますが、どの位遅らせることができるのかわかりません。あなたご自身で、選択された方がいいと判断して告知することに決めました」
「残りは、どの位ですか」
「長くて半年。この数か月でも不思議ではありません」
「そこまで」
「はい」
「家内には内緒にできますか」
「申し訳ありません。奥様には、もうお話しました」
「そうですか。大丈夫でしたか」
「大丈夫とは言えません」
「でしょうね」
「痛みは、強くなるんですよね」
「はい」
「私の父も肺がんでした。最後は痛かったようです」
「もちろん、痛み止めは処方します」
「何もしないという選択肢もあるんですよね」
「あります」
「退院もできますか」
「できます」
「先生は、私が保釈中だということはご存じですか」
「聞いています」
「殺人罪だということも」
「はい」
「家内に頼まれているんです。戻ってくるように。そして、一日だけでもいいから一緒に生活したいと。約束が守れそうですね」
「ええ。運がよければ、半年は暮らせますよ」
「それはいい」
「私たちは、いつでも、あなたを受け入れます。ご希望の治療もします。そのことは、お約束します」
「わかりました。家内と相談してみます。面倒みてやらないと言われたら、ここに置いてもらわないと、行く場所がありませんから」
「いいですよ。焦ることはありません。ゆっくり、話しあってください。ただ、奥様は、今、かなり動揺しておられます。少し落ち着いてからの方がいいかもしれません」
「そうします」
「私にできることはありませんか」
「ありがとうございます。その時は、よろしくお願いします」
「いつでも」
滝口医師が部屋を出て行き、目を閉じた真人は眠ってしまった。過去の不眠症で失った時間を取り戻そうとしているような睡眠だった。
話声で目が覚めたのかもしれない。入口の横にあるソファーで奈津子と香織が話しているのが見えた。
「お父さん。起きた」
「ああ」
二人が立ち上がってベッドの方へ来た。
「今、何時」
「夕方の六時」
「そうか。また、眠ってしまった」
「お父さん。聞いたよ。まだ、六か月もあるんだって」
「えっ」
「退院するんでしょう」
「ああ」
「やっと、一緒に暮らせるね」
香織は、あと半年ではなく、まだ六か月もあると言ってくれた。
「なっちゃん。退院しても、いいかな」
奈津子は目に涙をいっぱい溜めている。口を開けば、その涙が溢れそうで、歯を食いしばっているように見えた。
「母さん。泣いて、いいよ。言いたいこと言っていいよ。お父さんは勝手なことばかりしてたんだから、言ってやりなさいよ。お父さんは殴られたって文句言わないよ」
ついに、奈津子の我慢が切れた。真人のベッドに顔を伏せて、子供のように泣きじゃくった。真人は子供の頃に同じようなことがあったことを思い出した。真人が木から転落して骨折した時に、奈津子は自分のせいだと言って泣いていた。奈津子はあの頃と変わっていない。泣き虫奈津子と言って、からかったこともある。真人は昔のように、奈津子の髪を撫でた。真人と香織は顔を見合せて、苦笑するしかなかった。
次第に奈津子の背中の揺れが小さくなり、泣き声も収まってきた。
「ごめんなさい」
顔を上げた奈津子に香織がハンカチを渡した。奈津子は涙も鼻汁も一緒に拭いた。
「母さん」
泣き止んだ子供をあやすように、香織が奈津子の頭を撫で、拭き残した涙を拭いてやる。
「ごめん」
「ほんとに、泣き虫なんだから」
「うん」
「お父さんに、言ってやること、ないの」
奈津子は首を横に振った。
「お父さん。母さんは強いことが言えない人だから、私が言うね」
「ん」
「退院の条件。二つ。いい。食べること、そして、諦めないこと。病院食が嫌なら、母さんが作ってくる。こんな、点滴つけたままでは退院できないよ。それと、一日でも一分でも一秒でも長く生きる。お父さんが諦めないこと。できるよね、お父さんなら」
「ん」
「母さんは、泣き虫だけど、頑張る人だから」
「わかってる」
「奇跡、起こそうよ。お医者さんがいい訳するとこ、見たいと思わない」
「そうだな」
「あっ、忘れてた。もう一つ条件があった。これは、私の条件。お父さんは、絶対に謝らない。済まない、済まないと言わない。いい」
「ん」
一週間で退院の準備が整った。真人は病院食を食べ、点滴を外すことに成功した。
奈津子と香織は真人の家で生活している。望月には建て変えてもいいと言ったが、奈津子はその必要はないと言ったらしい。
「なっちゃん。ほんとに、この家でいいのか」
「どうして」
「いや」
「私ね、よく智子さんと話をするの。あの写真の智子さんだけど。最近はすっかり仲良しの姉妹みたい」
「そうか」
「それに、この家は、子供の頃の思い出がいっぱいだし。私、ここ、好きよ」
「ありがとう」
「あなた。智子さんと、そして朝子さんといっぱい話あるでしょう。私のこと気にしたり、遠慮したら、私が居辛くなると思わない。私も香織も、智子さんと朝子さんも、皆、家族だと思ってる。香織も時々仏壇の前で朝子さんと話してるし、それでいい。変に気を回すと、香織に叱られますよ」
「ん」
広い庭に面している、以前は客間に使っていた部屋が真人の病室になった。仏壇も昔のままだった。随分長く家を空けていたように感じている。食事は食堂で取り、寝こまないように努力した。香織が学校に行くと、奈津子と真人の時間だが、香織が帰ってくると香織が真人を占有した。香織は事件の一部始終を知りたがった。
庭を散歩するくらいはできるが、体重は日に日に少なくなっているし、痛みも取れていない。それでも、平穏な毎日が過ぎていく。最後の日が近づいてきているのは本能が知っていた。
食堂で奈津子と二人でお茶を飲んでいる時に、電話が鳴った。
「東京地検の山岡さんという方が、ここに来たいと言ってますが、どうします」
「余り、時間は取れないけど、と言って、それでもと言われれば仕方ない」
「はい」
受話器を置いた奈津子が真人の前に座った。
「5分で来るそうですよ。少し疲れたと思ったら、すぐに帰してくださいよ」
「わかった」
奈津子が客を応接室に通して戻ってきた。
「お二人です」
「二人」
「先にお茶を出します」
「ん」
真人はしばらく待って、応接室へ入った。
「恩田さん」
「すみません」
「まあ、座ってください」
「僕は、断ったんですよ」
「いいですよ。で、ご用件は」
「お具合は」
「よくありません」
「そうですか。無理言って申し訳ありません」
「いつもの山岡さんと違いますね」
「いえ。どうしても、あなたの口からお聞きしておきたいことがあります」
「死ぬ前に、ということですか」
「申し訳ありません。その通りです」
「どうぞ」
「結城さんは、拘置所にいても、計画を実行する方法はあると言われた。それは、今でもあるんでしょうか」
「山岡さん。今のままでは、あなたは検察内部の厳しい競争を勝ち抜けませんよ。もっと柔軟な思考に替えない限り、どこかで落とし穴に堕ちます」
「えっ」
「あなたは、いつも自分が一番正しいと信じ込んでいる。競争に勝ち抜くためには、その気持ちは不可欠なものです。でもね、それが独りよがりなものであれば、刀の刃は自分の方に向けられているんです。あなたは、今まで峰の部分で相手を倒してきた。これは、大変危険なことです。あなたには、自分自身が見えていない。自分の刀がどちらを向いているのかも見えていない。なぜか、わかりますか」
「・・・」
「私にとっては、敵があなただったことで、どれだけ助けられたことか。たとえば、奈良西署の楠木刑事が相手だったら、私は手も足も出なかったでしょう。違いを教えましょう。あなたは、相手の立場に立って考えるという習慣がありません。でも、楠木刑事は犯人になりきって考えてきます。あなたは、強姦され、自殺した娘を持つ親にならなかった。楠木刑事は自分の子供が、女の子ですが、同じ境遇にあればと考えました。あなたが、本気で私の立場に立っていれば、私の話の中にある、多くの嘘八百に気づいたと思います。恩田さんは、私がまだ計画を実行すると言ってますか」
「いえ」
「私に聞くまでもないことです」
「だから、言っただろう」
恩田が山岡の顔を見ながら言った。
「こうやって、死を目の前にすると、見えていなかったものが見えてきます。この事件のキーマンは山岡さんだったんですよ。あなたの活躍がなければ、こんな結末にはならなかった。そうでしょう。検察上層部を説得することなど、私からすれば夢のまた夢です。あなたがいなければ、テロ計画はただの笑い話で終わったでしょう。一番感謝されなくてはならないのは山岡さん、あなたです」
「恩田、お前」
「僕は知らないよ」
「そうです。恩田さんも知らなかった。私も、つい最近気がつきました。それまでは、自分の力でやったのだと思ってましたからね」
「そんな」
「そのことに気づいたから、今日お会いしたのです。このまま逝ってしまうのも、どうかなと思ったんです。山岡さん。もう心配はありません。私にそんな力は残っていません」
奈津子が部屋に入ってきた。
「あなた、そろそろ」
「そうだな」
「結城さん。あの金はどうすればいいんですか」
「恩田さん。そんな話をすると、山岡さんの猜疑心に火を付けますよ」
「いいんです」
「あなたに任せます」
「宿題ですか」
「あなたは、どこまでもいい人ですね」
二人が帰ると、さすがに疲れて眠ってしまった。

ベッドで過ごす時間が長くなった。痛み止めの消費量も増え、会話も少なくなった。
一進一退の病状が続いた。
痛みは堪えがたくなり、おもわずうめき声を出すこともある。薬だけが頼りだった。半覚半睡の状態だったが、香織との約束を破ることはできないという意識は持ち続けた。夫としても父親としても、何も成していない真人にとって香織との約束が二人への誠意を表わす唯一の方法だったのだ。本気で、一秒でも一分でもと思っている。
3月には珍しく、その日は小春日和のような日だった。気分がよかったので、ベッドの頭部を上げて、庭を見ていると、明るい庭に朝子と智子が立っているのが見えた。
「父さん」
「あなた」
「もういいよ、父さん」
「ありがとう、あなた」
朝子の顔は、あの苦しそうな顔ではなかった。何度も想い出そうとして叶わなかった朝子の笑顔がそこにあった。
「朝子。智子」
「済まんな、お前たちの所へは行けそうもない」
悪魔に魂を売ってしまった真人は地獄行きを受け入れている。
「平気だよ。おいでよ」
自分が目を閉じたのか、二人の姿が消えたのか分からなかったが、目の前には奈津子の顔があった。
「今、そこに・・・・・・」
「あなた。真人さん。いやあぁぁぁ」
香織が部屋に飛び込んできた。
「母さん」
ここのところ、苦しそうな顔しか見ることができなかった。でも、真人の顔は苦痛に歪んでいなかった。痛みから解放されたためか、穏やかな笑顔に見えた。
「父さん。頑張ったよ」
香織の中で、お父さんが父さんに昇格した瞬間かもしれない。
「痛かったよね」
「もう、いいよ」

都会ほどの犯罪はないが、田舎の警察が暇なわけではない。楠木刑事も倉沢刑事も飛びまわっていた。
「楠木さん。あの結城さんが亡くなったそうです」
「結城さんが」
「自宅での病死だそうです」
「そうか。良かったんかな」
「わかりません。明日がお葬式だそうです。どうします」
「お前は」
「私は、行きたい」
「そやな」
「はい」
二人にとって、結城真人の事件はすでに遠い事件であつた。それでも、結城真人の最後は見ておきたかった。
結城真人の葬儀は、2時から自宅で行われた。案内板に従って臨時の駐車場に車を置いて、二人は会場に向かった。門の前に大きな看板があり、香典も記帳も受け付けていないと書かれていた。門をくぐると、広い庭に人が群れていた。それは制服姿の学生で、百人近くいるのではないかと思われた。テントの下にある祭壇の横に親族が座っているが、四人しかいない。葬儀社の人数の方が多い。大人の参列者は数えるほどで、小さくなっていた。
葬儀社の人間が葬儀の開始を案内し、遺族席にいた制服姿の女子がマイクを握った。
「今日は、来てくれて、ありがとう」
「これほど多くの人が来てくれるとは思っていませんでした」
「私の父、結城真人は殺人犯です。病気になって保釈され、この自宅で亡くなりました」
「犯罪者の葬儀に、皆に来てほしいと言ったのは、私が父を誇りとしていること、そのことを多くの人に知ってもらいたい。そう思ったからです」
「結城真人は、私の実の父親ではありません。母が再婚して、私はつれ子として娘になりました。でも、普通の親子関係には負けていません。私が結城真人の娘になる前、父には高校一年の娘がいました。名前は結城朝子です。私にとっては一度も会ったことのない姉に当たるのかもしれません。結城朝子は大阪で強姦され、この家に戻って来て、自分の手で死を選びました」
「犯人は裁判で有罪になりましたが、5年で刑務所を出てきました。5年です。罪は償ったと胸を張ったそうです」
「父は、その男を拉致して、監禁しました。撤去されましたが、この建物の裏にあった離れに監禁したのです。全く反省の気持ちは無かったそうです」
「犯人は他にも強姦をしていると確信していた父は、手の爪10本、そして、足の爪10本、ペンチで剥がすと脅かしました。それでも白状しなければ、骨を砕き、耳を削ぎ、生きたまま壊していくと脅しました」
「その男は、爪を剥がされる前に、11件の強姦を白状しました。私の姉の朝子を強姦するまでに11人もの女の子を強姦していたのです」
「その男はまだ、何か隠していました。父は男の左手小指の爪をペンチで剥ぎ取りました」「男が白状したのは殺人でした。抵抗した女の子を殺し、山に埋めたのです」
「死体を埋めた場所も白状したので、警察に引き渡すつもりでしたが、その男は舌を噛んで自ら命を絶ちました。法律の知識はありませんが、これは殺人罪になるそうです」
「父は自首をして、殺人犯として逮捕されました」
「私は、最初に、父を誇りに思っていると言いました。もし、私が、朝子さんと同じように強姦され自殺したとしても、父は私の無念を晴らすために、自分の命を賭けてくれたと信じることができるからです。私は殺人犯の娘でも、恥ずかしいと思ったことはありません。逃げ腰の大人ばかりなのに、父は娘の無念に正面から向き合ってくれた。そんな父を私は尊敬し、誇りに思います。私にとって、父は英雄です」
「私の家は親類縁者がほとんどありません。英雄を送り出す葬儀で、送ってくれる人が少なくて寂しいのは可哀そうです。だから、皆の力を借りようと思いました。是非、父の出棺の時は、皆の、大きな、拍手で、送ってもらいたい。おっさん、よくやった、と褒めてやって欲しい。世の中、まだまだ捨てたもんではないと、感じてやって欲しい。父さんは、ほんとに頑張ったんです」
少しの間があって、拍手が湧きあがった。拍手のせいで、進行役を務めている葬儀社の男の声は聞き取れなかった。
焼香が終わり、棺を門の外で待機している霊柩車まで運ぼうとした葬儀社の人間は飛び出してきた男子生徒たちに押しのけられてしまった。
割れんばかりの拍手の中を、結城真人の棺が出ていく。
楠木刑事と倉沢刑事も、学生たちに負けないくらいに手を打ち合わせた。
「ええ葬式や」
「はい」
二人の刑事は会場を後にした。
「あの、おっさんも、ええ根性しとったけど、あのねえちゃんも負けとらんな」
「ええ」
「警察にリクルートせな」
「駄目ですよ。結城不動産の跡取りで、次期社長ですよ」
「不動産屋のおばちゃんでは可哀そうやろ」
「でもね」
「なんや」
「警察だと、婚期を逃しますからね」
「それは、言えとる」
「楠木さん」
「わしは、何も言うとらんで」
「それを、セクハラ根性と言うんです」
「悔しかったら、結婚してみい」
「もう」
「仕事や、行くで」
二人の刑事は駆け足で車に戻った。




 了

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復讐 - 4 [復讐]



起訴の判定をするために真人は検察へ送られ、検事の取調べを受けた。
担当検事は笹本と名乗った。
「拉致、監禁、拷問、自殺。あなたは、この自殺が殺人に当たることも知っている。そういうことですね」
「はい」
「前代未聞の犯罪ですが、何か言いたいことがありますか」
「はい。裁判で言います」
「不起訴になったら、言う場所がなくなりますね」
「はあ」
「仮に、の話ですよ」
「不起訴にした時、私の身柄をどうするんです」
「ですから、仮の話です」
その時、部屋に一人の男が入ってきた。事前の打ち合わせは終わっているようで、男は黙って座った。
「あなたは、犯行を積極的に自供しているし、物証もあり、起訴を望んでいるようにも見えます。どうしてですか」
「質問の意味がよくわかりません」
「ま、いいでしょう。あなたを起訴することにします。山岡検事、何かききたいことがありますか」
「よろしいですか」
「はい」
「では、結城さん。私は東京地検の山岡と言います。私の名前を知っていますか」
「いえ」
「恩田敬一郎という名前を知っていますか」
「恩田さん」
「知ってますか」
「わかりません」
「わからない、ということは、知っていると解釈していいのですね」
「さあ」
「恩田さんの話しでは、あなたがテロ計画を進めているということですが、それに間違いありませんか」
「テロ計画。穏やかではありませんね。その恩田さんは、何か証拠を持ってるのですか」
「そのような計画はないのですか」
「おっしゃっている意味が、よくわかりません」
「結城さんは、内乱罪という言葉を知っていますか」
「ええ。聞いたことはあります」
「その量刑も知っておられる」
「確か、最高刑が死刑で、最少刑が死刑だったと思いますが」
「よく、ご存じですね」
「それは、私に内乱罪を適用するという脅しですか」
「まさか。そんな計画は持ってないのでしょう」
「今から、計画してみましょうかね。面白そうです。戦前は知りませんが、戦後で内乱罪を適用された事件はありませんよね。私は有名人になれそうです」
「どうやら、本気で戦うつもりのようですね」
「・・・」
「簡単にはいきませんよ。おやめなさい」
「国に逆らって、どうする、ということですか」
「お訊きすることは、以上です」
真人には、この先の展開は読めない。検察も読めていないのではないか。前例のない事態に対しては創造力しか役に立たない。そう言う意味では五分五分だとも言える。

起訴が確定し、真人の身柄は大阪拘置所に移された。真人が出した条件が厳しかったのか、まだ弁護士が決まっていない。どうやら、望月には迷惑をかけているようだ。更に、検察の意向があったのか、面会も許されていない。着替え等の差し入れはあるが、外部とは絶縁状態のまま、大阪に移送された。
拘置所に収監されて三日目に弁護士面会があった。父親の代から世話になっている三塚弁護士事務所の二代目が若い弁護士を伴って来ていた。
「三塚先生。お手数をかけてすみません」
「とんでもない。遅くなってしまった。真人さんの弁護を引き受けてくれる伊東圭介先生です」
「伊東です」
「結城真人です」
伊東圭介弁護士は三十を超えたかどうかという若さだった。背が低く顔の造作が大きいという印象が第一印象だった。
「伊東先生は、伊東洋平先生の御子息で、前途有望な方です。間違いなく、真人さんの力になってくれると思います」
「はい。よろしく、お願いします」
「若輩者ですが、全力でやらせてもらいます」
「若い弁護士さん、大歓迎です。検察でも前代未聞の犯罪人と言われました。前例や司法界の常識は役に立たない可能性があります。ぜひ、一緒に戦ってください。もちろん、手に余ると思ったら遠慮せずに言ってください。あなたのキャリアを潰してしまうかもしれませんから、その時は早めにお願いします」
「お言葉ですが、僕、根性なしに見えますか」
「そうは言ってません。心配は、一つ間違うと、あなたを潰してしまうことになるのではないかということです。弁護士として、これからだと言う時に、躓く必要はない。本心からそう思っているんです」
「大丈夫ですよ。弁護士辞めても、私は生きていけます。というか、辞める機会を狙っているのかもしれません。ただ、中途半端は嫌いなんです。今は弁護士ですから、弁護士として徹底的にやりたいと思ってる。私の人生よりあなたの人生を考えましょうよ」
「ありがとう。そう言ってもらえると、無茶が言えそうだ」
「やりましょうよ」
「伊東さんが、この案件を引き受けようと思った動機はなんですか」
「司法制度への挑戦だとお聞きしたからです」
「あなたも、その司法制度のど真ん中にいますよね」
「ど真ん中ではなく、端の方にいます。私から見た司法は制度疲労で健康体とは言えません。風穴を開ける時が来ていると思っています」
「あなたのこと、先生と呼んでませんが、違和感ありませんか」
「名前で呼ばれて、とても新鮮に感じています。僕みたいな若造が先生と呼ばれることの方がおかしい。これも、制度疲労ですよ」
「先日、不起訴にしたらどうするつもりだと検事に言われました。内乱罪を適用するとも言われました。この意味わかりますか」
「不起訴ということは、闇に葬るということですか」
「多分、薬漬けにするという脅しでしょう。今でも、まだそんな事例があるとは思いませんので、軽い脅しなんでしょう」
「内乱罪ということは、無条件に死刑だという意味ですよね」
「そうです。私は、そのくらい検察に嫌われていると言うか、危険分子だと思われているってことです。彼等は本気で向かってきますよ」
「そのようですね」
「法律論だけではすみません。やれますか」
「やります。こんなチャンス、滅多にありませんよ。内乱罪ですか」
「私には、テロ計画があることも事実なんです」
「えっ」
「どうしますか」
「それは、困りました。テロの片棒を担ぐわけにはいきません」
「ですよね」
「テロだけは、外してもらえませんか」
「難しい、ですね。ここが鍵になりますから」
「テロの目的はなんですか」
「司法の変革です」
「それで、テロですか」
「他に方法があれば、テロでなくてもいいんですが」
「他に方法はないと考えておられる」
「検察は現司法を守るために脅しをかけてきているんです。この時代、国に対抗できるのはテロぐらいしかないのではありませんか」
「正直、困りました。一日だけ時間くれませんか」
「いいですとも」
「具体的な要求はあるんですか」
「あります。強姦罪の量刑を30年以上にしてもらいたい」
「現在は3年ですよね。30年ですか」
「変ですか」
「いえ。考えてみます」
翌日、伊東弁護士が一人で面会に来た。
「結城さん。この裁判、僕も参加させてください」
「いいんですか。あなたのお父さんのことはよく知りませんが、有名な方なんでしょう」
「だと思います」
「お父さんに迷惑がかかりませんか」
「ですから、一日時間を貰いました」
「説得したということですか」
「いえ。宣言したと言った方が合ってます」
「お父さんは、テロのことも承知なんですか」
「まさか。依頼人の重大秘密ですよ。話す訳にはいきません」
「でも、三塚先生が話すでしょう」
「それは、僕の事情ではなく、結城さん、あなたの守備範囲です。三塚先生のおられる場所であの話をしたのは結城さんですから」
「たしかに」
「二人しかいませんが、僕たち弁護側のリーダーは結城さんのようです。パートナーとは思っていません。僕は部下に徹します。それで、いいですか」
「ありがとう。私はいい弁護士さんに会えたようですね」
真人は事件の内容について話をし始めた。ただし、共犯容疑の心配がある甲斐探偵社のことだけは伏せておいた。
「伊東さん。三塚先生と結城不動産の望月専務に、あなたが弁護を引き受けたことを知らせてやってください」
帰り支度をしている伊東に頼んだ。望月は心配していることだろう。
「はい」
「弁護料の件も望月専務にお願いしてあります。それと、刑法関係の本と参考資料をできるだけ揃えて差し入れてください」
「はい」
翌日、伊東と一緒に望月と奈津子が面会に来た。弁護士が選任された以上、面会の制限は難しいと考えたようだ。
「なっちゃん」
「元気そうで、よかった。届は出しました」
「ありがとう」
「私、待ちます。真人さんと、一日だけでもいいから一緒に暮らしたい。帰って来てください」
真人は立ったままで、深く頭を下げた。一緒に暮らす日がくることはないだろうが、気がかりは一つ消えた。朝子の父親としては精いっぱいのことをしているが、奈津子に対してはいい男とは言えない。男の身勝手を許してもらえるだろうか。
「これで、専務は私の父親になった。お父さん、不肖の息子をお願いします」
「そんなん、照れるがな」
「香織ちゃんは」
「誇りに思ってる、と言ってました」
「ほんとに、すまない。皆には迷惑かけてしまう。許してください」
「うんん。真人さんの思い通りにやって。でも、帰って来て欲しい。今日は来れなかったけど、香織も同じ気持ちです」
「皆さん、座りましょうよ」
伊東が気を利かせて二人に椅子を勧めた。一般面会なので、伊東は気軽な気持ちでいれるのだろう。
「事務所にも家宅捜索が来ましたで」
専務の顔には、その後のことを報告したいという表情があったが、真人は目で制した。詳しいことは二人の時に話をしたかった。
「事務所にね」
「あっちゃんの遺骨は、納骨しましたで」
「ありがとうございます」
「家の方は、まだ、ほったらかしや」
「そのうちに、考えましょう」
「ともかく、元気そうな顔見れて、よかった。ん」
「伊東さんの弁護料、頼みますよ」
「わかってまんがな」
「面会手続き、わかりました」
「おう。ばっちりや」
「また、面会にきてくれますか」
「もちろん」
「あっちゃん、も」
「はい」
「ありがとう」
「ほなな」
「伊東さんは」
「お二人を送ったら、来ますから」
「お願いします」
翌日、朝一番に望月が一人で面会に来た。
「すみません。忙しいのに」
「なんの。あの先生、なんかありまんのか」
「いや。それをお願いしようと思って」
「ん」
「丸調を」
「丸調」
不動産業では、それなりに信用調査が必要になる。トラブルが起きた後の方がコストがかかるので、結城不動産は個人の調査を含めて探偵社も利用していた。社内では調査のことを丸調と言っている。
「この関係を、一か月」
真人は手を広げて望月に見せた。手の平には、検察と公安の文字がサインペンで書かれている。大声で話ができる内容ではない。
「事務所の捜索は、どうでした」
「大慌てや。初めてやし」
「何か持って行きましたか」
「もう、戻してもろたけど、帳簿を持って行きよった。うちの帳簿は模範生やから、怖いことあらへん」
「他には」
「そけだけ」
望月に預けた紙袋は無事だと望月の目が言っていた。
「会社のことですが、代表をあっちゃんの名前に変えてください。私の名前ではいろいろと不便になります。それでいいですか、専務」
「わかりました」
「名前だけですから、今まで通り、専務にはやっもらわなくてはなりません。いいですか」
「ああ」
「それから、家の方ですが、警察は」
「もう、ええそうですわ」
「そうですか。なら、あの小屋は撤去してください。一度、警察には断っておいた方がいいかもしれません。欲しいと言うなら持って行ってもらってください」
「ああ」
「あの家の処分は専務に任せます。私が残しておいて欲しいものは仏壇だけです。それも、私が死んだら処分してもらっていいです」
「真人さん」
「あっちゃんが住んでくれるのなら、すっくり、建て替えてくれてもいいです」
「まあ、まあ。まだ先の話にしましょ」
「専務。届のこと、口出ししてないでしょうね」
「それは、ほんまに、しとらん。あれは奈津子の意思で決めたことや。ここだけの話やけど、あいつは嬉しかったんやと思うわ。ずっと、そう思てたんやろ。智子さんには、悪いけど、あんたを待つ気らしい」
「専務も、私のこと、ひどい奴だと思ってますか」
「いや。真人さんのこと、わしは、男やと思う。家族のために、ここまでできる奴は滅多におらん。わしが真人さんの立場やったら、と思うと自信がない」
「でも、あっちゃんは女だから。悪いと思ってます」
「真人さんの気持ち、あいつ、わかっとると思います」
「恵子さんの具合は」
「心配ない。ここんとこ調子がええらしい」
「そうですか。専務、楽隠居はできませんね」
「する気も、ないけど」
真人は体調不良を理由にして、伊東と打ち合わせをするペースを落とした。実際に体調も悪かった。拘置所は自分の時間で生活できるわけではない。決められた時間に起きて、決められた時間に寝る。不眠のおかげで、真人の睡眠時間は極端に少なくなっていた。
「大丈夫ですか」
「ええ、少し眠れるようなりました。慣れてきたんでしょう」
望月に頼んだ伊東の身辺調査が終わり、不審な点はないという報告を信じて本格的に動き出した。
「伊東さん。箕面の方で白骨死体が発見されたという記事を探してください」
「それが、なにか」
「千葉の犯行です。その結末が知りたい」
「それが、千葉の自供で」
「今日か明日、あなたの所へDVDが届きます」
「はい」
「千葉の拉致、監禁、拷問。全部記録してあります。カメラごと警察に渡しました。その映像のコピーを伊東さんの事務所に送らせました。これは、まだ他には言わないでください。警察は、検察の意向があれば、闇に葬るかもしれません。千葉は11件の強姦と殺人を1件喋りました。11件の強姦を証明することは難しいでしょうが、箕面の死体は、千葉の言った場所から発見されているはずです。検察はこのコピーの存在をまだ知りません。コピーの可能性を疑って結城不動産の事務所まで家宅捜索したのでしょうが、見つかっていません」
「隠ぺいはしないでしょう」
「さあ、それを確認しておきたい」
「ただ、この件を持ち出しても、検察は事件に関係ないと言うでしょうね」
「ええ、でも疑問は増えます」
「状況証拠にはなります」
「うちの娘は千葉に強姦されて自殺しましたが、殺人罪ではありません。私は、千葉を拷問して、千葉が自殺をしました。でも、私には殺人罪を適用するんです。これも、疑問の数に入れましょう」
「状況証拠を積み上げるということは、結城さんは、裁判員裁判を希望ですか」
「ぜひ、そうであって欲しいと思いますが」
「あなたの話を聞いていると、難しいかもしれませんね。検察は承知しない」
「私は、自分の事件で容疑事実として出されるものは、全部認める積りです。ですから、量刑だけが裁判で審理される。裁判員裁判に最適ですよね」
「まあ」
「以前にも言いましたが、私の目的は強姦罪を30年にすることです。自分の量刑は何年でもいい、たとえ、それが死刑でも受け入れます。その目的のために、あらゆる手段を使いたい。伊東さんには、私の犯罪の動機の部分に最大の力をつぎ込んでもらいたい。犯行動機の尋問の中で、テロ計画の話も出します。マスコミにも取り上げてもらいたい」
「マスコミですか」
「何をリークすれば、マスコミが食いついてくれるか、それも考えてください」
「考えてみます」
「法廷で出た話を書くことは、マスコミが責任をとる必要はありません。私にとって、法廷で話すことの一番の利点がそこにあります。できれば、千葉の拷問映像も出して欲しいぐらいです」
「あなたは、命を捨てている。検察にとっては嫌な被告人になりますね。命を捨てたら、どんなことでも言えます」
「そうなんです。テロ計画を話しましょう」
もう、何人にこの計画を話しただろう。真人の頭の中では整理され、流れるような計画に仕上がっていた。
伊東は途中からメモをとることをやめて話を聞いていた。
「なるほど。あなたの心配がよくわかりました。この計画は検察も知っているわけですね」
「そうです」
「この裁判の攻防はここなんですね」
「ええ」
「たしかに、これは前代未聞の裁判になります。でも、検察がどう出てくるのか、想像できません。過去の判例も経験も意味がない」
「そうです」
「僕たちのシナリオが、決め手になる。そういうことなんですね」
「その通りです。そのシナリオを二人で作っていきたい」
「ただ、裁判員裁判は更に難しくなりましたね。検察がうんとは言わないでしょう」
「この部屋も盗聴されているかもしれません」
「まさか」
「保証できますか」
「いえ」
「相手はどんなことでもできるんです」
「ほんとに、テロ計画を実行するんですか」
「相手次第です」
「内乱罪、ですか」
「まだ、予備罪ですけどね」
真人はそれほど裁判員裁判には固執していない。裁判員にできることは真人の裁判の判決に関与することであり、強姦罪には無関係の立場にいる。ただ、司法関係者以外の目が6人分増えることは歓迎したいと思っている。死刑の求刑が予想される裁判になると思われるので、記者席に大勢の記者が来てくれることを期待していた。
拘置所生活が始まって三か月が過ぎた。奈津子は週に一度は来てくれる。香織も二回面会に来てくれた。二人の願いは真人の健康だけだった。最悪の夫や、最低の父親にはなりたくなかったが、どうすることもできない。道理に合わない、辻褄合わせの結婚を押し通しているのだから、責めは負わなければならない。奈津子と香織を巻き込んだことを何度も何度も後悔している。全体を見て、たとえ合理的であっても、人の心を合理で押し切ることはできない。本物の鬼になったのではないかと感じることがあった。
恩田敬一郎が面会に来た。
「どうしました。ここへは来ない方がいいんじゃないですか」
恩田は薄く笑った。見るからに元気がない。
「まるで、駄目。どうしょうもない。あんたには、済まないと思ってる」
「うまく、いきませんか」
「ええ。どいつもこいつも、我が身大事で、話にならん。日頃の話と全然違う」
「いいですよ。恩田さん。無理しないでください。この先、恩田さんの出番が来ますよ。何社かに話をしてくれたんでしょう」
「3社」
「今は、それで良しとしましょうよ。少なくとも、テロ計画の存在を知っている人が増えたことになります。裁判が始まれば、恩田さんのところへ話が来ると思います。直接インタビューしたジャーナリストは恩田さんだけなんですから」
「でしょうか」
「私の裁判で爆弾が落ちるらしいという噂を流しておいてください。必ず、恩田さんに喰いついて来るところがあります」
「まあ」
「元気のない恩田さんは、らしくないですよ」
「ええ」
「ただ、あの絵は大切にしてください。紛失しないように」
「もちろん。あの二千も預かったままでいいんですか」
「きっと、役に立つ日がきます」
元気を取り戻すことなく、恩田は帰って行った。

真人と伊東はシナリオ作成に全ての時間を使った。被告人尋問であっても、弁護人と被告人が都合のいい話ばかりできるわけではない。検察官も裁判官も横槍を入れてくる。特に検察官の横槍はシビアなものになるだろう。弁護側は変幻自在でなくてはならない。
そんなある日、伊東が緊張した表情で面会に来た。
「親父のとこに、検察からの打診がありました」
「えっ。そんなことってあるんですか」
「親父も驚いていました。聞いたことがないと」
「で、どんな」
「結城さんに話し合いの気持ちがあるかどうかです。もちろん直接的にそういう言葉を使ったわけではなく、それらしきことを言って、それなりに判断してくれという彼等の得意技を使っていたそうですけど、言いたいことは、話し合いだろうと、親父は言ってます」
「そうですか。私は話し合い決着でも構いませんが、検察が本気で話し合う積りがあるとは思えませんね。こちらの本音が知りたいだけなんでしょう。敵もシミュレーションの途中なんだと思います。いいでしょう。こちらの条件は強姦罪30年だと言ってください」
「いいんですか」
「もともと、力関係で言えば、我々が勝つ確率は非常に低いと思います。たとえ言質を与えるような言い方をしていないとしても、隠し玉にはなる可能性があります。相手は卑怯な手を使う訳ですから」
「まあ」
「お父さんには、何か言葉を拾ってきてくれるように頼んでくれませんか」
「わかりました」

奈良監禁殺害事件の初回公判が五月の連休後に開かれることになった。事件からほぼ一年が過ぎ、事件は風化し、世間の注目を集めることもないと判断したのか、裁判員裁判になった。この検察側の余裕がどこから出ているのかはわからなかった。この裁判に限れば検察が負ける心配はないが、真人の持っている爆弾を不発にさせる方法が見つかった結果なのだろうか。裁判が始まってみなければわからないと思うしかない。
真人が警察に渡したビデオ映像は検察側の証拠として提出されていない。拷問部屋の映像や千葉の体に残されていた怪我の写真は証拠として出されていて、警察医が証人として申請されていた。弁護側は担当した警察官を証人として申請していたが、裁判前の整理手続きでは比較的短時間の裁判になる可能性もあった。
裁判は10時開廷の予定になっている。一般傍聴席に空席が見られたが、記者席には多くの記者章を手にした人間が群れていた。どこで手に入れたのか記者章を巻いた恩田の姿があった。傍聴席には甲斐雅子がいたが、真人は目線を止めないようにした。望月と奈津子には来ないように言ってある。法廷画家といわれるホームレスのような年老いた画家がスケッチブックを手にして真人の様子を観察している。検察席には、表情の硬い四人の男が鋭い目付きで真人を見ていた。伊東が調べたところ、エース級の検事が担当しているらしい。なぜか、東京地検の山岡が左端に座っている。弁護人席には伊東と助っ人にきた伊東の友人で笹本正平という男前が席についていた。真人が入廷した時には、すでに裁判官席以外の出席者は揃っていた。
裁判は決められたルールを守って始まった。裁判員は男性3人と女性3人の六人。裁判長は学者の方が似合いそうな細身の中年男子だった。
検察官が控訴事実を力強い声で読み上げている。声を聞いているだけでも検察官が強敵であることは間違いない。
「被告人。前へ」
「今、検察官が述べた控訴事実に間違いはありませんか」
「はい」
法廷内がざわめいた。死刑の可能性がある事件で被告人が控訴事実を認めた。
引き続き、検察官が事件の内容を写真やイラストを示しながら説明する。女性の裁判員は画面から目を背ける場面もあった。
「このように、拉致、監禁、拷問の末に、被告人は被害者千葉直樹を自殺に追い込んだのであります。拷問という卑劣な手段を使い、人間を自殺に追い込むなど、あってはならないことであります。人間のすることとは思えません。厳しい審理をお願いします」
検察官は強い口調で締めくくった。何度も拷問という言葉を使い、この犯罪がいかに極悪非道な犯罪であるかを強調した。さすがにエースと呼ばれる検事だけあって、その声には説得力があった。
「弁護人」
「はい。弁護人は、このような惨い事件がなぜ起きたのか。どうすれば、このようなひどい犯罪を無くすことができるのかを求めていきたいと考えています。このような犯罪が二度と起きないようにすることこそが、この裁判の使命であると信じます」
これでは、検察官と弁護人がスクラムを組んで被告人を糾弾する法廷になるような錯覚を与えることになる。裁判員の中には弁護人の言葉が呑み込めていない人もいた。
「証人尋問を始めてください」
「はい。裁判長」
最初の証人は、遺体の検視に当たった警察医だった。
「遺体の傷は何か所ありましたか」
検察官は静かな声で質問を始めた。
「手元に資料を持っていませんが、数が必要ですか」
「それは、記憶できないほどの数だということですか」
「そうですね。無数にと言った方が適切でしょう」
「わかりました。傷の種類はどのようなものでしょう」
「一番ひどい傷は左手小指の爪ですね」
「爪に傷があったんですか」
「いえ。爪を剥がされたためにできた傷です」
「剥がされた。生爪をですか」
「はい。出血もあり、化膿していたので小指全体が腫れていました」
「他には」
「擦り傷と圧迫痕です」
「それは」
「被害者は椅子に縛られていたと報告を受けています。その傷だと思います。それ以外にも本人が暴れたのか、加害者が暴行したのかわからない傷もありました」
「他にもありましたか」
「はい。やけどの跡がありました。多分、スタンガンによる傷だと考えられます」
「ひどいですね。では、次に被害者の死因についてお尋ねします。被害者の死因は何ですか」
「舌を噛み切ったための窒息死。自殺です」
「舌を」
「はい」
「よくあることなんですか。先生は過去にも同じような遺体を見たことがありますか」
「私は初めてです。言葉ではありますが、簡単なことではありません。噛んで血が出る程度では死ねません。完全に噛み切ってしまわないとできないことです。そのような事例は聞いたことがありません」
「ありがとうございます。以上です」
「弁護人は質問がありますか」
「ありません」
「裁判員の方の質問は、ありますか」
「証人は結構です。御苦労さまでした」
「では、次に弁護側の証人をお願いします」
がっしりとした体格の精悍な男が証人席に来た。警察バッヂを出さなくても警察官と認識してもらえそうな楠木刑事だった。
裁判所の規則に従い、証人の身分が明らかにされ、質問が始まった。
「証人は現場で被告人を逮捕した警察官ですか」
「はい」
「どのような経緯で逮捕に至ったのか、話していただけますか」
「被告人からの自首をしたいという電話を受けて現場に行きました」
「逮捕の時のことを伺います。証人は、被告人をどこで逮捕しましたか」
「被告人の家の部屋です」
「その部屋には、誰がいましたか」
「被告人と私と同僚の警察官の三人です」
「証人は被告人を逮捕した時、被告人に向かって、公安に監視されていたことを知ってたか、と聞いたそうですが、それは、どういう意味ですか」
楠木刑事は言葉が出なかった。
「どうしました。もう一度言いましょうか」
「忘れました」
「残念ですね。思い出せそうですか」
「異議あり」
検察官が反応した。
「弁護人は本件に関係のない証言を求めています」
「弁護人の質問の意図はなんですか」
「裁判長。今、検察官は、この質問が本件と関係がないと言い切りました。まだ全容が解明されているわけではないのに、関係ないと言い切る根拠を検察官は持っているのでしょうか」
「わかりました。でも、質問の意図だけはお聞きしておきましょう」
「公安の監視については、被告人の犯行動機に深く係わっております。そのことにつきましては、あとの被告人質問で明らかにしていきたいと思っております」
「検察官の異議は却下します。弁護人は質問を続けてください」
「ありがとうございます」
「答えていただけますか」
「被告人の電話を受けて、同僚と二人で被告人の家に急行しました。被告人の家の近くに不審車両がいたので、車を降りて職質をかけました。そこにいたのは、大阪府警の公安の人間でした。名前は知っていますが言いたくありません。その男は、結城になにかあったのかと聞いてきました。結城というのは被告人の苗字です。警察官なら、それだけで公安が被告人を監視していることがわかります。被告人は人を殺したようには見えませんでしたし、落ち着いていました。簡単な殺しではないと思いました。こんな偶然は滅多にあるものではありません。刑事なら、なにかあると思いますよ。まだ見えていないものを引きずりだすためには、その程度のことは言います」
「被告人は、逮捕の時、ビデオカメラを警察に渡したと言っていますが、あなたは受け取っていますか」
「はい」
「その映像をご覧になりましたか」
「はい」
「そこには、何が写っていましたか」
「全部です」
「全部というのを、少し詳しく教えてください」
「被害者を監禁した日からの記録だと思います」
「いわゆる拷問部屋での、拷問の記録ですか」
「はい」
「その記録の最後には、何が写っていましたか」
「風景だったと思います」
「風景ですか。その風景には意味があったのですか」
「被害者が遺体を埋めた場所だと思われます」
「遺体を埋めた。被告人ではなく、被害者が遺体を埋めたのですか」
「はい」
「異議あり」
検察官が立ち上がった。
「弁護人は、何も証明されていない、本件には関係のない案件を持ち出し、この裁判の遅延を図っているように見えます」
「却下します。弁護人は続けてください」
「はい。証人は、ビデオは全記録だとおっしゃいました。普通、拷問とは相手に何かを喋らせようとして行うことが多いと思いますが、この拷問で被害者は何を話したのですか」
「異議あり。弁護人は推測で証人に発言を強要しています」
「却下します」
「裁判長。検察官の異議発言はこの裁判を妨害するためのもののように思われます。注意をしていただけると助かります」
「わかってます」
「裁判長。我々検察は、被告人が提出したビデオ映像を証拠として採用しておりません。被告人が一方的に撮影したと言っているものであり、客観的な映像ではなく、証拠にはなりえません。その中身について、この場で言及するのはいかがかと思います。誰が、この映像を事実だと認めるのですか」
「証拠に採用するとは言っていません。参考資料として、聞いています。裁判員の皆さんも、そのことは承知しておいてください。検察官の言うとおり、証拠能力はないものと考えられます。ただ、重要な参考資料だと本官は感じております。なぜ、被告人がこのような物を作成したのか、それも知りたい。弁護人。この件はできるだけ短時間でお願いします」
「はい。では質問を繰り返します。被害者は何を話したのですか」
「ビデオの中では、十二件の強姦と一件の殺人を被害者が話しています」
「異議あり」
「裁判長。何度も言及しますが、これは本件とは関係がありません。この法廷は被告人である結城真人の犯した犯罪を審理しております。被害者の犯罪を追及する場ではありません」
「裁判長。この事件は、拷問などという前代未聞の犯罪を審理しています。出会い頭の単純な殺人事件ではありません。複雑な背景を知ることが、正しい判決への近道だと思われます」
「双方のご意見は、それぞれ正しいと思いますが、本官はもう少し証人の話をお聞きしたいと思います。弁護人。続けてください」
「はい。では、その殺人についてお尋ねします。拷問に耐えられずに、被害者は殺人を犯したことを白状したとしましょう。そして、その遺体を埋めた。その遺体を埋めた場所が、ビデオに残されていた風景だと思っておられる。証人は、その風景の現場には行かなかったのですか」
「行きました」
「それで」
「行った、だけです」
「どうして、ですか」
「うちの管轄ではありませんから」
「では、管轄署に連絡をしたのですか」
「いいえ」
「不思議ですね。たとえ不確定な情報だとしても、殺人に関する情報ですよ。放置することが、できるのですか」
「放置はしていません。情報として上に報告しました。その後は、私が担当しておりせん」
「そうですか。実は、私もその現場に行きました。近くで白骨死体が発見されたという新聞記事も読みました。発掘されたと思われる現場も見ました。被告人は、その場所が被害者の特定した場所だと言っております。ビデオに残されていた風景が死体遺棄現場だと私も確信しました。証人は、どう思われましたか」
「私は、その後の現場を見ていませんので、わかりません」
「関心はないのですか。あなたが手にした情報ですよ。刑事さんって、そんなに淡白なものなんですか。遺体を埋めた場所を特定したのは被害者です。犯人しか知り得ない情報ですよね。それなのに、白骨死体の事件が解決したという話は聞きません。あなたが、情報操作をしているのですか」
「いいえ」
「まだまだ質問はしたいのですが、短時間にということなので、質問は以上です」
「検察官。この証人に質問はありますか」
「ありません」
「裁判員の皆さん、質問はありますか」
「はい」
一番の男性裁判員が手を挙げた。裁判長は手で、どうぞと言った。
「あなたの感想でいいのですが、そのビデオの中で話されたことは、真実に近いと思われましたか」
「個人的には、そういう感触を持っています」
「で、そのビデオは、まだ警察にあるのですか」
「あると思いますが、時間も経っており、私は確認しておりませんので、わかりません」
「ありがとうございます」
「他に、質問はありますか」
「では、証人は御苦労さまでした。引き続き被告人尋問を行います」
裁判が始まった時は、この裁判の行方がはっきりと見えていた。そう感じていた人が大半だっただろう。今では、不透明な霧で覆われた印象が強い。被害者の殺人が浮かび上がっただけではない。公安の監視という言葉は記者が敏感に反応する言葉の一つだった。「この裁判では何かが起こる」という空気が記者席の緊張を強いものにしていた。
弁護側は疑問を積み上げる作業をしている。多くの疑問を解き明かすという名目でテロ計画になだれ込んでいこうという計算だった。
「被告人。前へ」
「検察官。質問を始めてください」
「はい」
「被告人は、警察に電話をした時、人を殺したので自首すると言ったのですか」
「はい」
「でも、被害者は自殺ですよね。どうして、殺人だと思ったのですか」
「以前、どこかで、そのような記述を見たことがありました」
「被害者が自殺をするという、想定を持って拷問をしていたのですか」
「いえ。自殺のことは想定していませんでした」
「それは、殺意がなかったということですか」
「いいえ。殺意はありました」
「殺意があった」
「はい」
「つまり、最後は殺すつもりだったということですね。たまたま、相手が自殺したために、殺す手間がなくなった。そうですか」
「多分、検事さんは拷問をしたことがないと思いますが、拷問をする側にも、重大な覚悟が必要なんです。何度も、最後は殺すと宣言しました。楽には死なせないとも言いました。本気で殺す気がなければ、拷問にはなりません。ですから、私に殺意があったことは確かです」
「あの犯行現場の部屋は、片手間でできる改造ではなかったと思いますが、どの位の時間が必要だったんですか」
「5年です」
「5年。つまり、5年前から、殺人計画を持っていた、ということですか」
「はい」
「この犯行は計画に基づき、殺意を持って犯行に臨んだ。そういうことですね」
「はい」
「反省をしているようには見えませんが、どう思っているのですか」
「反省はしております」
「ほう。どう反省してるのですか」
「計画に不備がありました」
「不備」
「はい。彼が自殺することを、予測できませんでした。とても残念です」
「反省や後悔が、人間の生き死にではなく、計画の不備によるものですか」
「そうです。私が、彼の自殺を予測できていれば、彼は死なずに済んだのです」
「言っていることが支離滅裂ですね。被告人は殺害計画を立て、殺意をもって拷問をしたと証言したのですよ。ところが、自分の計画が完璧であれば、被害者は死なずに済んだと言う。それは、余りにも死者を冒涜する言葉ではありませんか」
「もう、私は彼から聞き出すことは全部聞けたと思っていました。死体を埋めたと言う現場に案内してもらった時に、私の殺意は消えていました。あとは警察に任せるだけだと思っていましたが、私が至らなかったために、彼は自分の命を絶ってしまった。とても、残念でなりません」
検察官が言葉を失った。
「確固たる殺意が、一瞬で消えた、と言うのですか」
「いえ。一瞬ではありません。それなりに時間はかかったと思います。あのビデオを見てもらえばわかりますが、彼が最後に言った言葉。なんで、子供のことで、そこまでするんだと言われました。あの時、私には見えていない絶望の淵に彼は立っていたのだと思います。自殺したのは、その夜です」
「殺害計画を立て、殺意を持っていた被告人が、最後の最後で殺意はなくしたと言う。これを詭弁と言わずに何と言えばいいのか。罪を逃れたい一心だと思われますが、卑劣としか言う言葉が見つかりません。質問を終わります」
検察官の目的は、計画的犯行と殺意の二点だった。反省していないという言質が取れれば花丸になる。その目的は達成されたようでもあり、達成されなかったようでもある。法廷にいる人たちの多くが消化不良の不快を感じていた。中途半端の連続は胃にいいとは言えない。
「一時間の休廷にします。午後は1時20分から弁護人による被告人尋問を行います。休廷」
元気に退廷する人は一人もいなかった。記者もどんな記事を書けばいいのか迷っているのだろう、動きまわることが好きな記者席に動きが見られなかった。

午後の審理が始まった。冒頭に裁判長の発言があった。
「検察官。被告人が撮影したという映像を証拠として提出するつもりはありませんか」
「ありません。あれは、被告人による謀略の可能性すらあるものです。論外です」
「そうですか。残念です。裁判員の皆さんは強く希望していますがね」
「裁判長」
「弁護人」
「コピーでよければ、弁護側は提出できますが」
「検察官のご意見は」
「公判前手続きでは、討議されていません。もし、提出すると言うのであれば、公判前手続きからやり直していただきます」
「わかりました。では、弁護人。被告人質問を始めてください」
「はい。裁判長」
「被告人は、前へ」
「亡くなった方は、二度と戻ってくることはありません。では、残された我々は何をすればいいのか。午前の審理でも、被告人は犯行を全面的に認めております。被告人はまぎれもなく有罪であると考えます。弁護人は二度とこのような犯罪が繰り返されないように、この犯罪の背景を徹底的に洗い出し、対策を施す材料にしなければならないと信じております。それは、自ら命を絶った被害者に対する、我々の責務でもあります。裁判員の皆さんにも、この複雑な背景をご理解いただくために、様々な話をすることになりますが、辛抱強く聞いてくださるよう、心からお願いいたします。一見、無関係なことに思えることも、全てがこの犯罪に繋がっているということを断言しておきます」
「さて、被告人に聞きます。先ほど、検察官の質問で、この犯罪が五年前から準備されていたと答えましたが、その理由を聞かせてください」
「はい。私の娘は、高校一年でしたが、本件の被害者である千葉直樹に強姦され、その日に自殺をしました」
「異議あり。本件とは関係がありません」
「却下します」
「本件被害者はその裁判で有罪でしたか」
「はい。求刑10年。判決8年の有罪でした」
「殺人罪ではないのですか」
「違うそうです。拷問の結果で相手が自殺した私の場合は殺人罪が適用されますが、強姦の結果自殺した娘の場合は勝手に死んだことになっています。ただ、誤解しないでください。私は自分が殺人罪を避けたいのではありません。強姦された女子が自殺した時でも、殺人罪が適用できる道を作っていただきたいと思うから、このことに言及しています。男である私が言うことではないのかもしれませんが、女子にとって強姦は拷問に匹敵すると思います」
「娘さんを失ったこと。とても残念だったのでしょうね」
「どこの親でも同じことです。生まれた時、しゃべった時、初めて歩いた時、小学生になった時、生意気なことを言い出した時、その全てが私にとってはかけがえのない、とても大切な子供でした。犯人に殴られ、強姦され、娘は首をくくりました。殴られたために唇が裂け、その死に顔は苦痛に歪んでいるように見えました。でも、犯人は8年の刑で服役し、5年で仮釈放です。犯人が憎いことは当然ですが、私にとって一番辛かったことは司法の不備でした。ですから、私は計画を立てたのです。犯人は出所してからも再び強姦をするであろうと思っていましたし、私の娘以外にも強姦をしていたと思っていました。警察の取り調べでは許されていない拷問という方法を使ってでも、犯人の犯罪全てを喋らせようと決心しました。それを司法に示し、司法改革に繋げて欲しかった。私の希望は強姦罪の最少量刑3年を30年にしてもらうことです。弱者に対する犯罪は国が責任をもって守らなければならないと思うからです。弱者は自己責任で自分を守ることができないのです。暴漢から子供を守るのも親の責任ですか。日本はそんな国ではないはずです。司法が時代から取り残されているのです。犯罪加害者は圧倒的に男が多い。そして性犯罪の被害者は女性です。少子化が問題になっているのに、どうして女性を大切にしないのですか。私の娘も、いつか母親になり、おばあちゃんになる日もあったはずです。もし、強姦罪の量刑が最低でも30年だったら、私の娘は死なずに済んだかもしれない。国は我々市民に、いや弱者に、何をしてくれるのですか。弱者を守ることが国の責務ではないと言うのなら、国民が自己防衛可能な法体系にしていただきたい。市民に武器を持たせてください。私的報復も可能にしてください。自分で自分を守る原始時代に戻りましょうよ」
「被告人が記録したビデオ映像は、そのためのものなのですね」
「そうです。ただし、私は拷問をしてでも犯罪を証明しろなどというつもりはありません。拷問など許される行為ではありません。司法の不備を正すために、このような手段を使う社会にしてはいけないのです。娘の裁判の時、私は被害者遺族として意見陳述をしました。犯人を社会に戻さないでほしいとお願いしました。司法には私たち被害者遺族の声は聞こえていません。とても残念なことです」
「では、自分が犯罪者になるという大きな犠牲を払って、被害者千葉直樹の罪を白日のもとに晒した今、あなたの希望は叶うと思っているのですか」
「いいえ。この法廷に立ってわかりました。やはり、司法が変わることはないと確信しています」
「どうして。なぜそう言えるのですか」
「検察官の席についておられる検事の方の表情を見て、そう思ったのです。司法の要は裁判所でも裁判官でもありません。検察なのです。私は、検事取り調べの時、不起訴にすると脅されました。内乱罪を適用するという脅しも受けました。ここにいる検事さんも、同じ表情で私を見ています。ここにおられる検察の方が、検察のために働くのではなく、市民のために働くのだという意識を持っていただかなければ、司法は変わりません」
「不起訴にするとは、どういう意味ですか」
「裁判をしないということです」
「裁判をしなければ、裁けないじゃないですか」
「裁判をしなくても、裁く方法はある、ということなのでしょう」
「では、なぜ、被告人が、殺人罪で起訴されている被告人が、内乱罪になるのです」
「それを、口にすれば、残念ながらこの裁判は中止になります」
「そんなことはできませんよ。今、こうやって、裁判は進行してるじゃないですか」
「試しに、やってみますか。その時に、私の犯した罪はどこへ行ってしまうのですか」
「裁判長。被告人はこのようなことを言っておりますが、本当に裁判は中止になる可能性があるのですか。検察官の意向でそんなことができるのですか」
「そんなことは、ありえません」
「ありがとうございます。裁判官が保障してくれました」
「裁判長」
検察官の声が法廷を震わせた。
「休廷をお願いします」
「どうしてです」
「裁判長にお話があります」
「ここで話すことはできないのですか」
「そうです」
「わかりました」
「裁判長」
二番の裁判員が手を挙げた。
「はい」
「これは、検察の脅しです。ここで、休廷をすれば、司法そのものが傷を負うことになります。私は休廷に反対です」
「私も反対します」
「裏取引は認められません」
裁判員全員が手を挙げた。
「裁判長。基本的な問題を申し上げる。公判前整理手続きはどうなったのですか。三者の同意で始められたこの裁判を違う方向に向けようとしているのは弁護側です。しかも、被告人は司法を愚弄し、検察官を侮辱しております。断じて許すことができません。司法が愚弄されているということは、あなたも愚弄されていることになるのですよ。弁護側の暴走を許した場合、一裁判官に責任の取れるような問題ではなくなります。もし、それでもと言うのであれば、裁判長の責任で処理することです。我々検察官は責任が取れませんので、退廷します」
「退廷」
「そうです。検察官のいない裁判は、裁判の要件を満たしません」
「逃げるのか、あんたたち」
裁判員の一人が叫んだ。法廷内が怒号の渦となり、裁判長は頭を抱え込んだ。法廷内に配置されている廷士が立ち上がって身構え、入口の近くにいた廷士が応援を呼びに走った。
「きゅうてぇい」
立ちあがった裁判長が疳高い声で叫んだ。

真人の裁判は中断されたまま、半年近い時間が流れた。当時はマスコミも大騒ぎをし、世論も盛り上がるかに見えたが、一か月とは続かなかった。大きな出来事が次々と起きる現代でのニュース賞味期限は日に日に短くなっている。裁判中断事件は遠い過去の出来事という箱の中に仕舞いこまれていた。
「伊東さん。もう、いいでしょう」
「はあ」
「何度も言いますが、あなたの責任ではありませんから。貴重な経験をしたと思えばいいのです。これ以上、あなたを拘束する権利は私にはありません。あなたは、あなたの人生を築きあげなければなりません。再び、戦いが始まれば、最初に伊東さんを呼びます。いいですね」
「わかりました」
伊東は、この半年間動き回って裁判の再開を図ろうとした。裁判所も検察も硬く扉を閉じたまま、伊東の呼びかけを無視し、今では弁護士会も伊東の父親に圧力をかけてきている。
「弁護士、辞めませんよね」
「それは、わかりません」
悄然とした伊東が帰って行った。
一審も終了していないのに、拘置所の古狸になりそうな雰囲気だった。それは、真人の周囲にある空気のせいかもしれない。背中に危険人物というレッテルが貼られているかのような視線を感じる。いつも、どこかに、緊張感があった。面会も差し入れも自由だったが、誰かの監視下にあるという印象は付いて回った。奈津子が毎週欠かさずに来てくれている。結城不動産の話や地元の話、そして香織の話をして帰って行く。香織も月に一度奈津子と一緒にやってくるが、私服の香織はもう大人だった。若い頃の奈津子に似てきた。姉妹に間違えられるのは、ひどくない、と香織が言っていた。
クリスマスだから、と言い訳をして、香織が一人で面会に来た。
「お父さん。体調悪いとこ、ない」
「ああ」
「大学行くのって、意味あるのかな」
「突然、どうした」
「なんか、こう、ぴったり、来ないのよね」
「そんなもの、行かなきゃわからないだろう」
「そうかな。行ったら、何かあるのかな」
「それは、香織自身が感じて決めることだ。他に何かやりたいことがあるのか」
「どうして、わかるの」
「普通、わかるだろう」
「でしょう。でも母さんは、大学大学しか言わない」
「そうか」
香織は真人のことをお父さんと呼び、奈津子のことを母さんと呼ぶ。この微妙な違いは何なのだろう。本人に聞く勇気は持ち合わせていないが、気にはなった。
「お父さんは、若い時、何がしたかったの」
「そうだな。発見かな」
「発見って、コロンブス」
「いや。数学が好きだったから」
「ふうん。数学が好きだったの。私、一番苦手」
「香織は、何がしたい」
「私、作家になりたい」
真人の体に衝撃が走った。香織が朝子と同じことを言っている。
「変」
「いや」
「そんな、驚いた顔しないでよ」
「ごめん」
「無理だとは思うんだけど、これって、人生を無駄にするってこと」
「それはない。人生に無駄なんてものはない。あるとすれば、自分を裏切った時は無駄になるかもしれない」
「わかる。私もそう思う」
「新しい環境は新しい目を育ててくれる。変化を嫌う必要はないと思う。大学に行って、香織が新しい目で見た時、別の切り口があるかもしれない。それって、作家になる邪魔になるのか」
「ならない。やっぱり、お父さんはいいな。母さんは、途中で違う方向に行くの。止めるのも可哀そうだから、付き合うけど、ちょっとね」
「それは、母さんに言わない方がいい」
「もちろん。言わないけど。お父さん、チクったりしないでよ」
「まさか」
「母さん、どんどん若くなる。お祖母ちゃんから、母さんの小さい時の話を聞いた。だから、母さんは、今が一番幸せなんだと思う。私が言うのも変かな」
「済まない」
「私たち、一般的とは言えないけど、これも家族の形でいいと思うの。お父さんが謝る必要なんてないし、謝られると辛い。私にとっては、自慢のお父さんなんだから。もしもよ、私が昔からお父さんの子供だったら、お父さんは私を守るために全てを賭けてくれると思う。これって、すごいことだよね。お父さんが謝ることはないの」
「ありがとう」
「それと、これも母さんには内緒だよ。お父さんは自分を裏切る必要はないと思ってる。大丈夫。母さんの面倒は私が見るから」
「香織」
「ほんとはね、私、もっともっとお父さんと話がしたい。でも、母さんから取り上げる訳にもいかないでしょう。子供としては、これでも気を使ってるのよ。母さんの幸せの邪魔にはなりたくない」
「香織がそこまで考えてくれていたのを知らなかった。嬉しいクリスマスプレゼントを貰った」
「長い道の、まだその先のことかもしれないけど、絶対に帰って来て。これは、母さんと同じ。母さんも私もおばあちゃんになっているかもしれないけど、それでも帰って来て欲しい。私たち家族なんだから」
「ん」
「お父さんには、体を大切にする義務がある。わかる」
「ああ」
香織が帰り、部屋に戻された真人は部屋の真ん中に座って泣いた。奈津子と香織、それに望月たちの暖かい気持ちは嬉しい。でも、朝子のあの苦しそうな顔を忘れることはできない。真人にできることは残されていないが、朝子の死に殉ずることだけが唯一の道になる。兇暴とも言える国家権力の前では、個人の存在など意味を持たない。その国家権力を行使しているのも、本来はただの個人のはずなのに。
5月になり、裁判が中断されて一年が過ぎた。クリスマスに香織から体力維持が義務だと言われてから部屋の中で運動を続けている。毎朝の乾布摩擦も続いているので、風邪をひくこともなくなった。検察は真人の死を心待ちにしているのかもしれないが、楽になりたいという気持ちと、簡単に死ぬことなどできないという気持ちがあった。自分の中に真逆の心理がある苦しみは、人間が克服できるものではないと諦めることもできない。出口のない永遠。それが悪魔との契約なのだろうか。
「面会です」
水曜日は面会に来る人のいない日だった。
「誰ですか」
「行きましょう」
真人が連れられて行ったのは、いつもの面会室ではなく、立派な応接室だった。先客が二人座っている。一人は東京地検の山岡検事だった。
「どうぞ」
山岡が立ち上がって椅子を勧めたが、もう一人の年配の男は座ったまま真人を見ていた。
「私の上司です」
山岡は上司の名前を言わなかった。どこまでも秘密が好きな人たちなんだと思い、笑いたくなった。
「元気そうですね」
「何か」
「あなたと、話をしようということになりましてね」
「はい」
「笑いが止まりませんか」
「はあ」
「計画を中止していただきたい」
「・・・」
「結城さんの要求は30年でしたよね」
「まあ」
「かけ引きなしで申し上げる。30年は無理です。10年が限度です」
「何をおっしゃっているのか、わかりませんが」
「あなたのアリバイは完璧ですからね。あえて、あなたがやったとは言いません。でも計画は中止してもらいたい」
「ですから」
「このことで押し問答をしても意味がありません。話を変えましょう。あなたは、強姦罪の量刑を変更して欲しいという希望を持っていますね」
「はい」
「先ほども言いましたが、最少量刑10年が限度です。結城不動産の帳簿にはあなた宛ての貸付金が4億円支出されていますね。あなたがその4億円の隠し場所を教えてくれれば、法改正に動きます。あなたのテロ計画が理由ではありません。弱者に対する犯罪防止がその理由になりますが、異存はないですよね」
「それは、まあ」
「信用できませんか」
「まあ」
「でしょうね。では、改正法案が国会に上程されたら、信用していただけますか。国会で否決された場合は、我々の力ではどうにもなりませんが」
「ほう」
「あなたの資金を没収するつもりはありません。動きを封じるだけです」
「でも」
「わかってます。一度動き出すと止まらない。でしょう。でも資金が動かなければ、計画も動かなくなります。まさか、全額を渡したわけではありませんよね。緻密な計画を立てるあなたが、全額渡すようなことはしない。私はそう思っています」
「・・・」
「法改正には反対ですか」
「とんでもない」
「この提案が拒否された時には、我々も実力行使をしなくてはなりません」
「すでに、実力行使してますけど」
「別の実力行使です。あなたにも新しいご家族がおられますよね。高校生のお嬢さんもおられる」
「そこまで、堕ちますか」
「あなたと、同じことをするだけです」
「ですから、私は何もしていない、と言っているじゃないですか」
「押し問答はしないと言いました。あなたを含めて、我々がなぜ犠牲を出さなければならいのですか。責任を取るべきは強姦犯のはずですよね」
「都合のいい論理ですね」
「そうですか。私はそうは思いません。どうしますか。資金の隠し場所を明らかにする積もりはありますか」
「考えてみます」
「いいでしょう。法案が提出され次第、お邪魔します。それまでに結論を出しておいてください」
真人は深刻な表情で頷いて見せた。
山岡には交渉能力がない。自分で喋って、自分で譲歩をしてみせる。最初から最後まで、一人で喋っていた。真人は具体的な事は何も口にしていない。
どこかで、誰かが、検事の家族を強姦したのではないか。そんな偶然があるのだろうか。でも、勝手にではあるが相手が譲歩案を持って来てくれたのだから、それに乗らない手はない。3年が10年になるだけでも大きな変化だと思う。もし、実現すれば、朝子の死に対して少しは報いる結果になるのだろうか。お前の死は無駄ではなかったと言ってやれるのか。
金曜日に奈津子が面会に来た。
「頼みがある」
「はい」
「なっちゃんと香織にボディガードをつけたい」
「えっ」
「今、ある人物から脅しをかけられている。実行はしないと思うが、念のために防衛しておきたい。多分、半年もすれば危険はなくなると思う」
「はい」
「怖いか」
「ええ。でも、その位の覚悟は持ってます。殺人犯の妻になったんですよ、私」
「そうか」
「香織も、同じだと思います。私たちも一緒に戦います」
「ありがとう。迷惑ばかりかける」
「でも、どこで、頼めばいいんでしょう」
「さあ、それも調べてもらいたい。ここでは何もできない」
「そうですよね」
土曜日に恩田敬一郎が面会に来た。
「結城さん。元気なんですか」
「そう見えませんか」
「見えますけど、でもねえ」
「どうしたんです」
「いや。その。あの計画。動き始めたんですか」
「どうして」
「検察の動きが変なんですよ」
「ほう」
「一時、家族の警護がきつかったんですが、それが無くなったなと思ってたら、ここのところ更に厳しい警護が始まったんです。噂にしか過ぎませんけど、複数の犠牲者が出たらしいという話があるんです。結城さん。やってませんよね」
「やってませんよ。私はここから、一歩も出てませんから」
「そうですよね。でも誰かにやらせたとか、あるんですか」
「ありませんって」
「やってませんよね」
「三日前に山岡が、ここに来ましたよ」
「山岡が」
「山岡も私がやったと言ってました」
「やったんですか」
「ですから、やってません」
「ですよね」
「あなたにまで疑われては、かないませんね」
「いえ。僕は信じてますよ。信じてますけどね」
「それよりも、こんなとこに来ても大丈夫なんですか」
「どうして」
「ここは、盗聴されてますよ」
「ひぃ」
「あなたも、テロ集団の一味だと疑われませんか」
「まあ、山岡は知っている訳ですから、同じでしょう」
「でも、どこまで深く係わっているか、調べているかもしれない」
「脅かさないでくださいよ」
「当分、私には係わらない方がいいでしょう」
「ええ。やってませんよね」
「やってませんって」
「山岡は何をしに来たんですか」
「それを言ってはいけないでしょう。私に引導を渡しに来たのかもしれない。かなり、具体的な脅しを受けましたのでね、少し心配しています」
「結城さん。やることはやったんじゃないんですか。脅しに負けても、亡くなったお譲さんは怒らないと思いますよ」
「あなたは、山岡の手先ですか。結城を説得してこいと言われた」
「まさか。そんな言われ方、心外です」
「ともかく、私のことを忘れてしまった訳ではないということがわかって、とても嬉しいですよ。でも、これ以上深入りはしないでください。あなたに何かあっても困ります」
「怖いこと言わないでくださいよ。僕はどこまでも、味方です」
「わかってますよ」
恩田は半信半疑のまま帰って行った。恩田も山岡の監視下にあるのだろう。今は、山岡が、そして検察が勘違いに気付かないことを祈るしかない。
二ヶ月後。山岡が一人で大阪拘置所にやってきた。
「法案が提出されました。結城さんの結論をお聞きしたい」
「私はあなたの話を信用するしかないのですか」
「何を」
「法案の提出です」
「ああ。確認ですか。あなたなら、そう言うでしょうね。うっかりしてました」
「私の弁護士が確認のために東京へ行きましょうか」
「それでも、いいです。というか、それしか方法はないでしょうね。私たちのことは信用してない訳ですから」
「便宜を図ってください。法案の提出と法案の中身の確認ができるように」
「わかりました」
「伊東弁護士は法廷で一緒でしたから、わかりますよね」
「いつですか」
「あなたが電話をして確認してください。あなた方の指示だと思いますが、私は電話一本できませんから」
「いえ。電話ができるように取り計らいます。私は直接タッチできません。東京地検の受付でわかるように手配しておきます。日時だけ、私に連絡してください」
「いいでしょう。話し合いには伊東弁護士も参加できますか」
「いいえ。二人だけでお願いします」
「法案はあなた方の手を放れているわけですよね。法案を取り下げたり、否決にさせたりもできるのですか、検察は」
「それはできません」
「だったら」
「私は結城さんのことを無頼漢だとは思っていません。勝手な希望かもしれませんが、我々の誠意に対しては、あなたも誠意で臨んでくれると、上司を説得しました。ここで、あなたが無茶を言えば、私が腹を切るだけです」
「そうですか」
山岡は手帳を破って、自分の電話番号を書いて出て行った。
係官が部屋に入ってきた。
「番号、わかりますか」
「いえ。憶えていません」
「では、少し待ってください」
連絡先として、結城不動産と伊東弁護士事務所の電話番号を登録してある。すぐに伊東弁護士の電話番号を書いたメモを持って戻ってきた。
「その電話で外線にかかりますから」
「わかりました」
係官はそのままドアの前で待つようだった。
伊東は事務所にいた。
「伊東さん。元気ですか」
「結城さん」
「急ぎの用事をお願いしたいのですが、大丈夫ですか」
「もちろんですとも」
「ありがとう。明日、東京地検に行って欲しいのですが」
「東京地検ですか」
「受付で、あなたの名前を出してくれれば、たぶん、国会に案内してくれると思います。そこで、ある法案が正式に提出されているかどうか、法案の中に新しい強姦罪の量刑が書かれているかの二点を確認してきていただきたい」
「量刑の変更ですか」
「そうです。私は10年と聞きました」
「行きます。時間の指定はありますか」
「いえ。伊東さんの時間を連絡するように言われています」
「そうですか。では、11時に東京地検の受付ということで」
「わかりました。そう伝えておきます」
「動いたんですね」
「わかりません。それを伊東さんに確認してきていただきたい。面会時間に間に合うようでしたら帰りに拘置所の方へ寄ってください。時間がなければ翌日でいいです」
「承知しました」
「お願いします」
翌日は面会時間に間に合わなかったらしく、次の日の早い時間に伊東が面会室に来た。
「昨日は、時間が間に合いませんでした」
「そうですか。お手数をかけてしまいました」
「これが変更内容です」
伊東はA4用紙を5枚、仕切りボードに張り付けて言った。強姦罪の部分には赤いペンで線が入っていた。
「法案は、これで全部ではありません。主な箇所を書きとってきました」
「政治的な判断になりますが、法案の通過する確率はどうなんでしょうか」
「それは、わかりません。調べます」
「私はこれで、検察と合意しようと思ってます」
「そうですか。よかった」
「これが、検察の騙しでないことを祈ります」
「はい」
「もう少し時間を取ってもらえますか。法案通過の確率と、施行される時期、改正法の影響が知りたい」
「喜んで」
「私の裁判もこれで動くといいのですがね」
「はい」
「よろしくお願いします」
伊東が帰ると、その場で、検事さんがお待ちですと告げられた。山岡は待機していたらしい。
「確認がとれましたか」
「はい」
「合意でよろしいですか」
「はい。合意します」
「では」
「電話をかけてもいいですか」
「どこにです」
「結城不動産の望月専務です」
「望月さんが管理していたのですか」
「いいえ。専務は何も知らないと思います。大体、鍵がない」
「ということは、資金は一度も動いていない」
「そうです」
「あれは、あなたが仕掛けたことではないと」
「私は、ずっと、そう言ってます」
「まさか」
「被害者が出たようですね」
「ええ」
「全くの偶然です」
「三件ですよ。ありえない」
「でも、そうなんです」
「馬鹿な」
「どうします。現金の確認はしますか」
「もちろんです」
「電話していいですか」
「ええ」
真人は応接室の電話で望月に電話を入れた。
「真人です。専務をお願いします」
「真人さん」
「専務。お願いがあります」
「今、どこから」
「拘置所ですよ」
「何かおましたか」
「ええ。それは、また、奈津子に話しておきます」
「はあ」
「今から、男の人が一人、専務を訪ねて行きます。私の字で、ある金庫のダイヤルの数字と、私のサインが入っているメモを持って行ってもらいます。私のサインなら区別できますよね」
「そらもう」
「その人を間宮の部屋へ案内してください」
「智子さんの」
「部屋の中に金庫があります。その金庫の鍵は仏壇の智子の写真の中に入っています。その金庫の中身は私への貸付金の4億です。その人はその金を確認するだけですから、渡す必要はありません。鍵は専務が預かっておいてください。何かわからないことありますか」
「いえ。わかります。でも、意味がわからへん」
「それは、奈津子が来た時に説明しておきますから」
「さよか。ほな、わかりました」
真人は電話を切って山岡の前に座った。
「手帳を一枚くれますか」
真人は山岡から貰った紙に、金庫の解錠番号を書き、サインをした。
「結城不動産の場所は知ってますね」
「ええ」
「望月のことも知ってますね」
「まあ」
「これを持って行ってください。このメモは差し上げます。私のサインも入ってますから。それと、現場で写真を撮影していただいても結構です」
「電話で言っていた間宮さんというのは」
「もう亡くなりましたが、家内の母親です。短期間その部屋にいました。随分昔の話です。そのマンションは結城不動産の物件ですから、意味もなく借りっぱなしになっていました。金庫は私が5年前に買ったものです」
「では、ほんとに、あなたの計画ではないと」
「違います」
「計画を実行する気はなかったんですか」
「いえ。まだ決めていませんでした。実行する可能性はゼロではありませんでした」
「いつ、決める予定だったんですか」
「予定はありません。朝子の許しが出たら、と考えていました」
「朝子さん。お譲さんですよね。亡くなった」
「ええ。私の前にはいつもいます。苦しそうな顔をした朝子がね」
「でも、ここにいたら、できませんよね」
「いえ。何時でも実行できる準備はありました。迷惑がかかる人がいますので、その方法は言いません」
もちろん、そんな計画など存在していないが、疑心暗鬼に溺れている山岡には判別不能だと考えていた。
「そうなんですか」
「恩田さんの名誉のために言っておきますが、恩田さんではありませんよ」
「そうですか」
「今、一瞬、疑ったでしょう」
「まあ」
「彼は実行反対派でした。気の弱い人ですね。あなたに比べれば天使のような男です」
「そんなに、私の印象、悪いですか」
「いいはずないでしょう。私から見れば、あなたも私と同じ悪魔ですね」
「はっ、あなたには言われたくないですね」
「山岡さん。シナリオ作りは得意ですよね。悪魔として協力しますよ」
「先ず、現金を確認して来ます」
「どうぞ」
翌日、奈津子が面会に来た。望月に言われたのだろう。
「あの人は」
「東京地検の検事さんだ」
「その検事さんが、どうして」
「私にはテロ計画があると言い、彼等はそれを信じた。そのテロのための資金があの金だ。彼等は、どうしても金の隠し場所を掴むことができなかったので、取引を持ちかけてきた。私は取引に応じた。取引の条件として、刑法の改正案が国会に提出されている。今日から、あの部屋は国の監視下に置かれていると思う。当分、あの部屋には近づかないように専務に言っておいてもらいたい。有無を言わさずに逮捕されることもある。没収はできないが、あの金は、暫くはただの紙切れとしての価値しかない」
「真人さんは大丈夫なの」
「それは、心配ない」
「そう」
山岡は金庫の中身を確認したあと、何も言ってこない。取引は終わったと思っていいのか。望月や奈津子たちに危険はないのか。拘置所に監禁されている真人にはわからないことばかりだった。
伊東弁護士が面会に来た。
「法案は通過の可能性が高いそうです。突発事件がなければ、ですけど」
「そうですか」
「可決されても、施行まではしばらく時間が必要になります。これは仕方がないことです」
「そうですね」
「改正の影響ですが、賛否両論あって、これはわかりません。現在の方向は厳罰化の方向が優勢ですが、そろそろ振り子が反対へ動き出すと言う人もいます。強姦罪に限って言えば犯罪抑止力はかなり強くなるだろうと言われています。重犯罪の領域に入っていますから、躊躇せざるをえない犯人は増えるでしょう。完璧とは考えていないのでしょうが、結城さんの目的は達成されたと考えるべきだと思います」
「そうですか。法案の成立を祈ることにします」
「訊いてもいいですか。どうして、こうなったのか。あんなに抵抗していたのに」
「推測の域は出ませんが、彼等は早い段階で法案改正に着手していたと思います。改正法案は一日や二日でできるものではない。その法案を提出するきっかけになったのは、偶発的に起きた犯罪のせいでしょう。検察関係者の家族が強姦被害に遭いました。それも、三件連続だそうです。彼等は私の計画が動き始めたと思った。それを聞いた時、私の方がびっくりしました。事情を知っている者なら誰でも、私がやったと思います。私はやっていないと否定しましたよ。でも、あの人たちは、他人の話を信用しない習性があります。いつでも、自分達が一番正しいと思ってますから。彼等は私の仕業だと確信していました。今でも、まだ自分たちの間違いには納得していない様子があります。偶然と自信過剰のおかげで、私は取引に成功した。そう考えています。私は4億円の隠し場所を教えただけです」
「そんな、偶然があるんですね」
「被害に遭った方には、申し訳ないと思っています。でも、もっと早く法案を改正しておけば、この被害は防げたかもしれない。悪いのは犯行におよんだ男ですが、防げたかもしれない犯罪を無視した司法の責任は重い。まだ、彼等はそのことに気付いていないかもしれない。正論ははじき返される。ヤクザまがいの脅しは通用する。日本は、どんどん袋小路に追い込まれているような気がします。お前には言われたくない、と彼等は言うでしょう。でも、彼等は私の卑劣な脅しに負けたのです。そのことも、闇に葬るのでしょう」
「救い難いとは思います。でも、結城さんのような方も、まだ存在している。僕は素直に結果だけを喜ぶことにしますよ」
「悲しいことですね」
弁護士を辞めるかもしれないと言っていた伊東だが、どうするのだろう。伊東には言わなかったが、検察は検察内部で凝結してしまい、厳罰化志向の検事は法改正の口実を待っていたのではないかと疑っていた。真人の脅しを自らの主張を正当化するために利用しただけで、真人の脅しに屈服した訳ではない。そうだとすれば、日本の司法には、もう救いはないのかもしれない。建前や思惑が市民より優先順位が高くなり、滅びの法則に呑み込まれていく現実は、もう止まらないのか。大勢の手で作り上げた、実像を持てない国家と言う深い闇に溶け込んでいく生身の人間たち。どう、立ち向かえばいいと言うのだ。

最近、係官の態度が微妙に変化していることに真人は気付いていた。要注意人物として収監した男だが、いたって素直で礼儀もわきまえている。普段は使用されない所長応接室を自由に使う男たちがやって来て、その男たちと応接室で話をする要注意人物。真人のことを大物だと判定しても仕方のないことなのかもしれない。高飛車な物言いもなくなったし、上から目線もない。気を使ってくれ、丁寧な扱いになっていた。
「面会でっせ」
「はい」
「べっぴんさんの奥さんやでぇ」
「どうも。伝えておきます」
「あほ。そんなん、言わんでもええ」
「はい」
面会室には奈津子が待っていた。
「真人さん。顔色悪い」
「そんなことない」
「そう」
「専務は元気」
「ええ。老いて、なお盛ん」
「それはいい」
「真人さん。どこか具合悪くない」
「いや」
「ほら、その咳」
「大丈夫だよ」
「中にはお医者さんいないの」
「いや。先生はいる」
「診てもらって」
「わかった。そうする」
一通りの話が終わり、奈津子は帰り際に医者に診てもらうようにと念を押していった。
「すぐ、行くかい」
部屋に戻ると、係官が聞いた。
「えっ」
「先生のとこ」
「ああ、大丈夫ですよ。一寸した咳だけですから」
「でも、奥さんに怒られるで」
「一週間で治りますから」
「そうかい。いつでも、言うてや」
「ありがとうございます」
だが、咳は止まらず、確かに体調も悪い。翌日には痰に血が混じっていた。何度も経験があるので本人は気にしていなかったが、診療所の医師は「大きな病院に行け」と言った。「手配しようか」とも言ってくれたが、遠慮した。だが、翌日は起き上がれずに、診療所のベツドに連れて行かれた。点滴をして、横になっているだけだが、意識はしっかりしていた。
医師の指示で、望月に連絡がいき、伊東弁護士が飛んできた。医師と面談した伊東は、すぐに裁判所へ医師の診断書をつけた保釈請求を提出した。許可が下りないと思っていた保釈が即刻許可になり、真人は大阪拘置所から直接K大付属病院に入院することになった。


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復讐 - 3 [復讐]



事件から5年が過ぎた。
真人の頭の中は半分以上が自分の裁判のことになっていた。準備に漏れはないか。覚悟はあるか。司法を、いや国を敵に回して勝つ目算などあるのか。朝子の苦しそうな顔が、より鮮明に浮かんでくる。
大阪のビジネスホテルで探偵社の甲斐雅子を待っていた。甲斐雅子は携帯電話を接続したままでやってくる。到着と同時にドアを開けて入ってもらった。以前に恩田敬一郎に目撃されるという失敗をしてからは、より慎重になった。
「甲斐さん。五年過ぎました」
「はい」
狭い部屋の椅子に座った甲斐雅子の表情も緊張していた。
「これからの仕事がほんとの仕事になりますが、やっていただけますか」
「もちろんです。大きな借りを返せるのかどうか、それを心配しています」
「他の仕事は、どうですか」
「はい。結城さんにはご迷惑かけません」
「忙しい、ですか」
「はい。それなりに」
「また、増えましたか」
「はい。全部で四人になりました」
「甲斐さん、所長の貫禄がでてきました」
「とんでもない、です」
「この仕事が終わっても、一本立ちできそうですね」
「なんとか」
「無理、言いますが、しばらくは、この仕事に時間を下さい」
「はい」
「最初にも言いましたが、甲斐さんの仕事は監視することです。絶対に手出しはしないでください。お願いします」
「はい」
「大丈夫ですか。最初、そのことに抵抗を感じてましたよね」
「大丈夫です。覚悟はあります」
「よかった。前にも言いましたが、あなたの危険度は最大限低くします。ただ、万が一の時は勘弁してください」
「はい」
「私と甲斐さんの信頼関係はしっかりしたものだと思っていますが、何か、吹っ切れていないことがあったら、言っておいてください。正念場ですから」
甲斐雅子が目を見開いて、真人を見た。
「確かに、お聞きしたいことはありました。でも、やめました。それも含めて覚悟をしたということですから」
「いいですよ。訊いてください。全部答えるとは限りませんが」
「はい。それでは、二つだけ」
「どうぞ」
「どうして、この仕事を、私に依頼してくれたのか、私、わかっていないような気がしているんです」
「あなたの目に賭けたんです」
「目、ですか」
「この仕事は、誰でもいいという仕事ではありません。普通の商売なら商品があります。商品を吟味することで、ある程度、良し悪しは決まります。あなたの仕事には、その商品がない。甲斐さん自身が商品なんだと思います。それを、私は相手の目で判断しようとしました。今、考えれば、危ない橋を渡ったものです。たまたま、あなたと出会えたことが幸運だったのかもしれません。他にも判断材料はありましたよ。あなたが元警官だったこと。会社設立2年目で、事務所の様子からは、厳しい状況だと思えたこと。卑怯ですが、札束であなたの顔を殴ったことになります。申し訳ない」
「いえ。少し、すっきりしました。石の上にも3年と母に言われて、2年経った頃でした。先は全く見えていませんでした。結城さんのお仕事がなければ、3年で終わっていたと、今では、そのことがよくわかります」
「でも、この5年で仕事は増えましたよね」
「なんとか」
「それは、甲斐さんの人柄なんだと思います。自信を持ってください」
「とても、まだ」
「もう一つは」
「ええ。これは、私には関係ないことなんでしょうが、結城さんの目的がわかりません」
「目的ですか。多分、私の我儘なんだと思います。私は、今の司法制度に変わって欲しいと思っています。娘が強姦されて、勝手に自殺したと言われて、犯人は5年で社会復帰です。親として耐えられません。あの男の過去の余罪もわからず、出所してからも、あの男は必ず同じことをすると思っています。私はその事実を司法にぶつけたい。あなた方のしていることは、こういうことなのだと。誰も振り向いてくれないかもしれない。それでも、やらなければ、娘と私の間にあった信義は意味を失ってしまう。娘は死んでしまったんですから、あの子にとって信義など、何の役にもたちませんが、私にとっては重要なことなんです。だから、つきつめて言えば、私の我儘なんです。国に向かって牙を剥く男が一人ぐらい、いてもいいと思うんですよ」
「でも、結城さんが辛い立場に立つことになりませんか。娘さんは、それを望んでいると思いますか」
「わかりません。父さん、もう止めて、と言うかもしれません。もう、娘のためにやっていることではなく、自分のため、自分の感情を満足させるためだけにやっているとしても、私には自分をとめることができない。だから、我儘なんです」
「そうですか」
「あなたを巻き込んでいることは、すまないと思っています。我儘なら、自分一人でやれよ、と言われるかもしれないが、一人であれもこれもはできない。あなたには、私の目の代わりになって欲しいんです」
「はい。そのことは、引き受けています」
「ありがとう」
若干の報告をして、甲斐雅子は静かに部屋を出て行った。納得してくれたのかどうか、自信が持てないまま真人はベッドに横たわった。眠れるわけではないのに目を閉じてみる。そこには、やはり、いつもの朝子の顔があった。狭い部屋の中を歩き回ることでは何も解決しないことを百も承知だが、苛立ちは治まらない。
携帯電話が振動した。甲斐雅子との連絡用に使っている他人名義のものだ。ディスプレイには甲斐雅子の番号が表示されていた。
「はい」
「私です」
「どうしました」
「外に出れますか」
「ええ」
「阪急梅田に向かって歩いてくれますか」
「わかりました」
「そのまま、本屋に行ってください」
真人は迷ったが鞄を持って部屋を出た。鞄の底にスタンガンが入っている。まだ、職務質問に遭遇したことはないが、その時は護身用で通すしかない。
梅田駅にある大型書店に入り、法律関係の専門書のコーナーに落ち付いた。
すぐに携帯が振動して、真人は書店を出た。
「はい」
「男が尾行してます。心当たりは」
「さあ」
「どうします」
「正体、掴めますか」
「わかりました。応援を呼びます。連絡するまで、中で時間潰しておいてください」
「お願いします」
尾行をするとしたら、と考えても思い当たる人間はいない。適当な本を一冊買って、雑誌の棚で車の本を手に取った。いつから尾行されてるのか分からないが、自分に不審な行動はなかっただろうか。一番不審な行動は、奈良の人間が大阪のホテルに宿泊していることだろう。甲斐雅子はマークされたのだろうか。でも、どうして。
尾行者を尾行する準備が出来て、真人はホテルに戻った。
零時を過ぎて、連絡が来た。
「確証はとれませんが、警察だと思います。それも、多分、公安」
「公安」
「何か、ありますか」
「いえ。どうして、公安が」
「明日の朝、そこを出たら、どうされますか」
「奈良に帰ります」
「普通に動いてください。しばらく、くっついてみます。向こうもプロですから、うまくいく保証はありませんが、やってみます」
「あなたのことは」
「気付かれてないと思います」
「そうですか。お願いします」
心当たりと言えば、恩田敬一郎しかいない。甲斐探偵社の調査結果を待って、電話をしてみる必要がある。もしも、公安が張り付いているとしたら、行動は大幅に制限されてしまう。逃れる方法はあるのだろうか。
甲斐雅子から、大阪に出る用事を作って出かけるように言われた。田舎では尾行が難しいが、尾行者を尾行することはもっと難しいらしい。大阪府立体育会館で拳法の大会があって道場の子供たちも出場することになっている。見学に行くことにした。
連日のように外出した。大阪のデパートであったり、京都の博物館であったり、神戸のセンター街へも行った。5年間忘れていた普通の市民生活をしているようで不思議な感覚だった。
甲斐雅子の指示に従い、タクシーと電車を使って尾行を振り切った。甲斐の指示は相手に撒かれたと思わせないような配慮がされていて、真人も自然体で動いた。
真人と甲斐は京都駅で合流した。駅前のホテルに予約を入れてある。いつものように、真人がチェックインして、甲斐が遅れて部屋に入ってきた。
「どうでした」
「はい。大阪を出る時には、尾行はありませんでした」
「そうですか。甲斐さんは、どうして尾行に気づいたんです」
「あの日、ホテルの狭いロビーに嫌な空気の男がいたんです。普通の人は気付かないかもしれませんが、警察官は臭うんです。最初は、それほど気になりませんでした。ホテルを出て、歩いている時、ターゲットが結城さんではないかとひらめいたんです。単なる勘でしたけど。それで、動いてもらったんですが、当たりでした」
「そうですか。あなたを見張ってたわけではない」
「はい」
「相手が警察だとわかったのは、その臭いですか」
「最初はそうです。でも、男が大阪府警の建物に入るのは確認しました。部署も名前もわかりませんが、あの空気は公安の男だと思います。ただ、緩い監視だと思います。人数が少ないし、時間も少ない。趣味で監視しているような雰囲気です。念のためということではないかと思います。例えば、本ボシの関係者を押えておくという程度のものだと思います。心当たりないと言いましたよね」
「実は、ないこともない、かもしれない」
「えっ」
「話しておいた方がいいかもしれない」
「ぜひ」
真人は恩田が強姦テロ計画という名前をつけた計画の話をした。恩田敬一郎と甲斐雅子は短い時間だけど面識がある。
「フリージャーナリスト、ですか」
「胡散臭い、でしょう。ただ、憎めない」
「余り、相手にしない方が賢明だと思いますが」
「ええ」
「その恩田さんの友人が、本気で心配したら、結城さんの名前は出てきますよ。過去の強姦事件を当たればいいだけです。その手のデーターベースは東京だけ独立している訳ではないと思います。強姦事件の被害者の家族で、資産家の人間を調べるだけです。だって、憎しみとお金さえあれば、実現可能だと、私でも判断できます」
「まあ」
「憎しみとお金を持ちあわせていて、絶望している被害者遺族。それって、結城さんですよね。私が命令する立場にいたら、念のためなどと言いません。24時間体制の完璧な監視体制をとります。もちろん、盗聴もします。あなたをテロリストと認定してでも」
「困りましたね、千葉の尾行をするのに、自分が尾行されてたんでは、動きにくい」
「千葉の監視は、私がやります。結城さんは報告を聞いて、指示を出してくれたらいいんですから」
「いや、私もこの目で確認しておきたい。もちろん、甲斐さんの協力は不可欠ですけど」
「でしょう、ね」
「仕事をややこしくして、すみません」
「いえ。それが仕事ですから。でも、事前にわかって、よかったです」
「お願いします」
「結城さん。本気なんですね」
「ええ。本気です」
「でも、そのテロ計画、実行しませんよね」
「わかりません」
「相手の出方次第ですか」
「それも、わかりません」
「私が言うことではありませんけど、実行しないでください。何百人もの被害者が出ることになりますよ」
「わかってます、私は。でも、彼等はわかっていない」
「それは、そうですが、お願いします。結城さんに雇われている探偵としてではなく、個人としてのお願いです。それは、辛すぎます」
「それも、わかっています。私の娘も犠牲者なんですから。彼等は、あなたのような善意の上に胡坐をかいている。いいですか、彼等がしなくてはいけないのは、私に監視をつけることではありません。司法を守ることと、市民を守ることが同義語だとは思いませんが、余りにもかけ離れている。これが、現実なんです」
「私は、結城さんのことも、心配です。甲斐探偵社の救世主ですからね」
「私は、大丈夫です。あまり無茶をしないタイプですから」
「ほんとに、そうなら、いいんですけど」
「監視は、いつまで、続くんでしょう」
「わかりません。中止命令が出なければ、半永久的に続くと思った方がいいです」
「そうですか」
国家権力という壁にぶつかって、粉みじんに粉砕される自分が容易に想像できる。

更に半年が過ぎ、世の中は師走の慌ただしさと不況の静けさが混ざりあい、殺気だった様子も見える。尾行されているという前提で注意深く周囲を見ているが、真人にはその気配すら確認できなかった。もう、監視は中止になったのだろうか。
甲斐雅子から、千葉直樹が仮釈放になって実家に戻っているという連絡があった。行動パターンを掴むから待つようにと言われ、真人は焦る気持ちを抑えた。
二か月待って、甲斐探偵社の車の中から千葉直樹の姿を見ることができた。双眼鏡を渡されて、レンズの中から見た千葉は法廷で見た千葉よりも凶暴な顔に見えた。罪を償い、更生した人間には見えない。甲斐の調査によれば、昔の仲間には相手にされていないようで、単独行動ばかりらしい。家に居づらい事情があるのか、ほぼ一日中車で出歩いている。家には寝るために帰るだけのようなので、家族との会話が多いとは思えないし、友達と話す機会もないようだと甲斐は言った。
「あの男は危険ですね。結城さんが心配していたことが、現実になるかもしれません」
「ええ」
「ストレスは、溜まってますよ、きっと」
「ええ」
「仮釈の身ですから、無茶はできないはずなんですが、あの男の目を見てると危ないと思います」
停めた車にもたれて缶コーヒーを飲んでいるが、視線は歩道を歩く若い女に向けられている。千葉の頭の中でどんな仮想劇が展開されているのかは、容易に想像がつく。
「頻繁に買春していますが、楽しそうな顔を見たことがありません」
真人は生返事を返した。
「どうして、男の人の頭の中は、こうなってるんですか」
「えっ」
「すみません。独り言です」
甲斐が離婚したという話は最初に聞いたが、中身はわからない。でも、男女の意識の差があったのかもしれない。甲斐の頭の中には元亭主の顔が映し出されているようだ。
千葉は場所を変えるが、通行人を見つめる行動は変わらない。毎日毎日、よく飽きないものだと甲斐は呆れていた。だが、いつの日か、眺めるだけでは済まなくなる。
「勉強するとか、仕事をするとか、奉仕活動でもいい。何でもやれるのに」
「独り言、ですよね」
「すみません」
「少なくとも、あの男は社会に戻すべきじゃない」
「同感です」
「強姦罪の量刑は、終身刑でなくてはなりません」
「はい」
甲斐の調査結果にあったように、千葉は何度も場所を変え、同じ行動をした。真人と甲斐は深夜まで追い続けた。甲斐は奈良まで送ると言ったが、真人はタクシーで帰った。

四月になり、冬が通り過ぎたと実感できる季節になった。毎回尾行を振り切ると、相手を警戒させると言われ、十日に一度程度しか千葉の監視に参加できなかったが、納得せざるを得ない。公安とは言え、警察官の目の前でできることではない。
久しぶりに監視班に入った真人が連れて行かれたのは、繁華街とは程遠い場所だった。
「このところ、ここが多いんです」
新大阪駅の北側は、まさに裏側だった。東海道線の線路を地下で抜ける道路が走っており、その地下道の側道は不法駐車の車で一杯だった。
「あそこです」
反対車線に千葉の4WDがあった。
「何、してるんですか」
「わかりません。寝てるのか、瞑想に耽っているのか。あの先に公園があるんですが、時々そこに行きます。公衆トイレがありますから、用足しかもしれません」
「人通りは、ありませんね」
「ええ」
一時間過ぎても千葉の車に動きはなかった。
「甲斐さん」
「はい」
「休み、とってます」
「大丈夫です」
「もう、三か月、張り付いたままでしょう」
「仕事ですから」
「尾行がついてなければ、私が引き継げたのに、申し訳ない」
「この日のために、結城さんは私を雇ったんですから、気にすることありません」
「助かります」
「ほんとに、結城さん、いい人なんですね。私の周りには、いません。世界が違うんでしょうね」
千葉は一度車を離れて、すぐに戻ってきた。戻ると、シートを倒して姿はまた見えなくなった。
「甲斐さん。私もトイレに行ってきますが、いいですか」
「はい。できるだけ大回りでお願いします」
真人は大きく迂回して、20分かけて公園に到着した。小さな公園は人影もなかった。公園の北側は団地が並んでいる。JR東海道線を電車が行き交い、都心でありながら、さびれた郊外の印象が強いのは団地の壁の色がくすんでいるせいなのか、人通りが少ないせいなのか。真人は用を足して樹木の多い公園を出た。
真人と入れ替えに甲斐も出かけた。甲斐は元刑事だから張り込みにはなれているのか、落ち着いている。探偵という仕事も大変な仕事だと感じた。
「ずっと、この調子ですか」
「昨日も、何もせずに11時までいましたね」
「監視の仕事、大変なんですね」
「慣れてますから、それほどでもないですよ」
「水分を摂らないのも、仕事」
「ええ。生理現象には勝てませんから」
日が暮れて、もうすぐ8時になろうとした時に、千葉が車を出た。
「あの男は水分摂ってるんだ」
真人は甲斐を見習って水分補給をやめていた。
三十分ほど過ぎた。
「遅いですね」
甲斐が時計を見た。二人は同時に胸騒ぎがした。
「行きましょう」
二人は公園の裏側から近づいた。千葉の姿が見当たらない。
「トイレの横です」
甲斐に言われて、目を凝らして見ると、トイレの陰に人影があった。甲斐の後ろについて、公園の外からトイレに近づくと、蹲っている千葉の姿が近くに見えた。甲斐が真人の動きをとめる。二人は息を殺して、石になった。人通りはなく、電車が通り過ぎる。
道路から足音が聞こえてきた。ヒールがコンクリートを鳴らしている。
ドスッという肉を打つ音がして、二つの人影が公園の中へもつれるようにして入ってきた。女の小さな悲鳴と、肉を打つ音。倒れている人影の上に馬乗りになっている千葉の姿があった。
「声を出すな」
「・・・」
女が口を開けようとしたのか、千葉は続けざまに女の顔を殴った。女の抵抗がなくなったのを確認して、千葉が自分のベルトを外している。それは、まさに、強姦現場だった。
真人は甲斐を手で制しておいて、公園に飛び込んだ。
気配に気づいて、振りかえろうとした千葉の股間に、真人は渾身の力で蹴りを放った。
千葉の体が女の体の上から飛び上がった。地面に転がった千葉は全く動かない。気を失ったのか死んだのか。甲斐も飛び込んできた。
「逃げろ」
甲斐は女を無理矢理立たせて、公園の外へ。
真人は背中のバックパックを降ろして、用意した道具を取り出した。すぐに使えるようにスタンガンを横に置いて、手錠で千葉の両手を後ろ手に拘束し、足首をロープで縛る。千葉の体を返して、ガムテープで口を塞いだ。念のためにガムテープで首から顎を二巻きしたが、千葉に動く気配はなかった。千葉のポケットから車のキーを取り出し、甲斐の姿がないことを確認して、千葉の車に走った。手袋をすることも忘れなった。冷静に行動している自分が誇らしかった。
トイレの横の道路に千葉の車を停めて公園に戻り、落としもののないように注意して道具を仕舞った。千葉の体を担ぎあげ、車の後ろのドアを開ける。この時のために5年間肉体改造をしてきたのだ。
五分ほど走った暗闇で車を停め、バックパックからロープの束を取り出した。
千葉の首にロープを巻き、そのロープの片方を足首のロープに巻きつける。気がついたとしても、千葉は動けない。真人は新御堂を北へ向けて走った。
すぐに新御堂を降りて、一般道を走り、レンタカーの看板を確認して、側道の不法駐車の仲間になった。
真人はズボンと服の泥を落として、人通りのない坂道を下りて行った。
千葉の車からレンタカーへ移す時は苦労したが、アドレナリンの力で乗り切った。
市内に向けて走り、南森町の近くで車を停め、甲斐に電話を入れる。
「結城さん。大丈夫なんですか」
「すみません。逃げられました。女の人は」
「家まで連れて行きました」
「そうですか。タクシー捕まえて追ったんですが、危険だからやめました」
「よかった。今、どこですか」
「多分、千里の近くだと思います。そこまで、戻った方がいいですか」
「いえ、私は大丈夫です」
「そうですか。では、私はここから帰ります」
「わかりました。結城さんに怪我はないんですね」
「ええ。でも、疲れてます」
「そうですよね」
「明日、電話します」
「はい。結城さん。ありがとうございます」
「どうして」
「強姦をとめてくれました」
「失敗です」
「そんなことありません」
「それじゃ」
「はい」
甲斐を騙していることで、真人の胸は痛みを感じていたが、仕方のないことなのだと自分に言い聞かせた。
高速を使って奈良に向かう。レンタカーであればNシステムは怖くない。だが、直接自宅まで帰るのは危険だろう。甲斐の話だと自宅も監視されていると思わなければならない。
T駅の近くにある団地の不法駐車場に行った。不法駐車が犯罪に利用されるという警察の言い分は正しい。犯罪に使われた車は木となって森に隠れることができる。T駅から電車で自宅に戻り、自分の車でレンタカーの場所へ行った。何度か住宅街に入り込み、尾行している車がないことを確認してある。
レンタカーのトランクルームを開けると、千葉は意識を回復していた。千葉は細い目を大きく開いて何か叫んでいるが、ガムテープのために声にはなっていない。真人は自分の車からスタンガンを持ち出した。
「暴れると、これ、使いますよ」
千葉の抵抗は弱くなったが、大柄な千葉を動かすことには大変な労力を必要とした。
自宅のガレージに戻り、シャッターを下ろして、用意してあった車椅子に千葉を移した。椅子に座らせるために首のロープを外したので、千葉は大暴れを始めた。重い千葉を背負って部屋に入ることは難しいと判断した結果の車椅子だが、千葉の抵抗を予測しなかった判断は甘かったのか。千葉は車椅子から転げ落ちた。
真人はスタンガンを千葉の腹部に当ててスイッチを押した。すこしくぐもった音がして千葉の体が跳ねた。痛みに耐えて丸くなっている千葉を見降ろして、暫く千葉の反応を待った。抵抗するようだと、何度もスタンガンを使わなければならない。
「どうする。次はここだ」
真人はスタンガンを千葉の股間に当てた。千葉の体が反応した。股間の痛みはまだ取れていないと思う。千葉の体から力が抜けるのを待って、再び千葉の体を車椅子に乗せた。
車椅子を押して、真人は裏庭へ向かった。裏庭には母屋とは違うプレハブ小屋がある。小屋と言っても小さいものではなく、中にはキッチンも風呂もトイレもある。部屋の片隅にはホームバーもあった。父親が音楽室として使っていた。真人の父親の趣味はクラシック音楽で、大音量を楽しむために完全防音の小屋まで建ててしまった。父親が亡くなった後は、使う者もなく放置されていたが、真人が五年かけて改造した小屋の中は手製の拷問部屋になっていた。
国家権力を持たない真人は、権力の代わりに暴力を使用する決意で臨んでいる。
拷問台と便器の機能を持った椅子に千葉を拘束した。さすがに疲れた。口を塞いでいたガムテープを剥がすと、真人は小屋を出た。
翌日、レンタカーを奈良の営業所に返却し、甲斐に電話をして、しばらく監視を中断するように言った。甲斐も、それがいいと同意してくれた。
小屋の中は千葉の糞尿の臭いで満ちていた。ホースを伸ばし、簡易便器の中を洗い流した。この臭いには慣れなければならない。
千葉の下半身は裸にされている。その寒さと体中の痛みで眠れなかったのだろう。千葉の目は充血していた。
真人は椅子を千葉の前に置いて座った。正面から千葉の目を見る。恐怖と怒りと痛みが混ざった複雑な眼差しだった。
「あんた、だれ」
千葉は真人が誰なのか、まだ気づいていない。5年前の結城真人は千葉の中で別人だと判別されているようだ。
「なんでや」
「千葉直樹、強姦罪で服役、現在は仮釈放の保護観察期間。そうだな」
「だから、お前は、誰なんや」
「結城朝子の父親を、忘れたか。法廷で会っただろ」
「あのオヤジか」
「そうだ。そのオヤジだ」
「せやけど、なんでや。俺は、刑務所に入って、もう罪の償いはしたんや。あんたには関係ないやろ」
「償い」
「そうや。おっさん、これは逆恨みや。こんなこと、許されるとおもてんのか」
「逆恨み、か」
「わかった。あんたの気持ちもわからんことはない。今までのことは無かったことにしたろ。ここから、出せ。警察へはいかへん。黙っといたる」
「罪は償ったのか」
「そや。あんなとこへ5年もおったんや。充分やろ」
「更生したのか」
「そや」
「更生した人間が、昨日、公園で、どうしてあんなことしたんだ」
「なんもしとらん」
「あれは、強姦未遂と違うのか」
「あれは、合意の上や」
「なるほど」
「ええか、おっさん。あんたは、今、罪を犯しとんねん。傷害と監禁の罪や。捕まったら5年では済まんで。それを水に流したろ、言うてんねん。損はないやろ」
「わかった。全部、正直に話して、それを文書にして、サインしてくれたら、ここから出してやってもいい」
「はあ」
「私の娘を強姦する前に、何人やった」
「そんなもん、やってへん。あれが初めてや」
「そうか。残念だな」
「なんや、それ。変な関東弁使うな」
「痛いおもいをしてからしゃべるよりも、今の方がいいと思うけど」
「何やて、これ以上罪を重ねたら、俺も見逃されへんで」
「しゃべる気はない」
「ちゃう。しゃべることが、ないんや」
「そうか」
真人は立ち上がって、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出した。千葉の右手首の革手錠だけを外して、キャップをとったボトルを渡した。肘が固定されているので右手が自由になったわけではない。それでも、千葉は一気に水を飲んだ。
「さあ、外せ」
「この5年間、いろいろと勉強した。拷問の方法もいろいろと考えた。なかなか難しい。だから、古典的な方法でいくことにした」
「はあ」
「昔から、拷問の定番は、爪剥がしらしい。左手の爪を一枚づつ剥がす。次は足の爪だ。それでも駄目なら、骨を砕いていく。それでも頑張るなら、別の方法を考える」
「あほか」
「一日だけ、時間をやる。よく考えることだ。それと、水はいくら飲んでもいい。食べ物はなしだ。痛みがひどいと胃の中の物を吐き出すらしい。ゲロの中で生きてるの、嫌だろ。あと、ここは完全防音になっている。無駄な体力は使わずに、拷問に耐える力を残しておくことだ」
真人は脇机を千葉の椅子の横に置き、水のボトルを5本並べた。
「待てよ」
「ん」
「しゃべるから」
「まだいい。ゆっくりで、いい」
真人は小屋を出た。後で千葉のどなり声がしていた。
翌日、小屋に入った真人に向けて水の入っているボトルが飛んできた。本人は力一杯投げつけた積りだろうが、肘から先だけで投げたボトルはトスをするよりゆるいものだった。
真人はボトルを両手で受け止めておいて、椅子に座った。脇机の上に置いてあったボトルは床に散乱している。
「臭いな」
千葉は思いっきり唾をとばした。真人の椅子までは届かなかったが、千葉の反抗心を証明するには充分だった。
ホースを伸ばして便器の掃除をし、ついでに水流だけで千葉の下腹部を洗浄した。
今日の千葉の目にあるのは、怒りだけだった。
「くそっ。なんでや」
「それは、自分に聞け」
「うわあああ」
千葉は狂ったように叫び続けた。その様子は大きくなった駄々っ子だった。
何も食べていない千葉の体力は急速に萎み、声が出なくなった。そして、大粒の涙を流して泣き始めた。
「こんなん、逆恨みや」
真人は小屋を出て、一時間後に戻った。千葉は半分眠っていた。大騒ぎをして、体力の消耗が激しかったのだろう。
真人がホースで千葉の下腹部に水をかけると、飛びあがるようにして目を覚ました。
「話してみろ」
「へっ」
「何を怖がってる」
千葉の体が小さく震えた。
「ここは、警察でも裁判所でもない。失うものは何もないだろう。それとも、何か大きな秘密でもあるのか」
千葉は顔を背けた。どうやら図星だったらしい。
「仕方がない。お前の体に訊くことにするしかないな」
真人は用意しておいたペンチを持って、千葉の左手に近づいた。目を見開いて、左手に力を入れて握っている。爪を見せないつもりのようだ。真人は小指をペンチで挟み、指を引き出したあと、左手で千葉の小指を固定してペンチを爪に当てた。
「わかった。言う」
「少し、遅かったな」
真人はペンチに力を入れた。
「頼む、言うから、止めてくれ」
「約束か」
「約束する」
「約束破ったら、二本一度に抜くぞ、いいのか」
「約束する」
「わかった。話してみろ」
真人は椅子に座って待った。
「全部は覚えてない。多分、十人ぐらいだ」
「ぐらいって、なんだ」
「いや、十人だ」
「いつ、どこで、相手は。ゆっくりでいいから話すんだ。時間はある」
千葉の話は曖昧なものばかりだったが、十件の話をした。既に、高校の頃から強姦魔だったようだ。
真人は立ち上がって三脚の上のカメラのスイッチを入れた。
「最初から、もう一度話せ。同じ話だぞ」
質問を入れながら、具体的な話になるまで手を緩めなかった。
「もう一度だ」
「えええ。何度話しても同じやろ」
「話せ。約束だ」
同じ話だと言いながら、五回目になると違う話が混じりだした。
「十人じゃないな」
「十一人だ」
矛盾だらけの話だが、千葉は七回繰り返して話すことになった。
「もう一人、いるだろう」
「いや。もう、いない」
「お前が、殺した子だよ。死体はどこに捨てた」
「なに言ってんだよ」
「約束違反か」
「違うって、これで、全部だ」
「わかつた。休憩にしよう。後で訊く。ピザは好きか」
「ああ」
「冷凍ピザしかないけど、食べるか」
「ああ。タバコが欲しい」
「タバコか、それは気がつかなかった。あとで買ってこよう」
真人はピザをレンジに入れておいて、コーヒーの準備をした。
「コーヒーはブラックでいいか。ミルクはないんだ」
「ブラック」
「よかった」
出来あがったピザを切って、脇机に置いた。
「ゆっくり、だぞ。下痢でもされたら、臭くてかなわん」
コーヒーもピザの横に置いた。
「タバコを買ってくる」
真人はタバコの銘柄を聞いて小屋を出た。
自販機はほとんど役に立たなくなっているので、G駅構内の売店でタバコとライターを購入した。
小屋に戻るとピザもコーヒーもなくなっていた。
「コーヒー、もう一杯飲むか」
「ああ。先にタバコが欲しい」
「タバコは、最後の一人を話してからにしよう」
「だから、もう全部話したって」
「わかってないようだな。ここは警察じゃないんだ。とぼけて済まそうなんて考えは、捨てろ。お前が死ぬまで責め抜いて、結果、死んでも、別にかまわん。警察は規則があってそこまではしない。でも、私に規則はない。何でもできるんだ。ここは、二人にとって地獄の一丁目なんだよ。私も半端な気持ちでやってるわけじゃない。私が信用できるような話をしろ。でないと、苦しみぬいて死ぬことになる。楽には死なせないよ」
「全部、話した」
千葉の声が小さくなった。分かりやすい男だ。
「仕方ないか」
「待て。待ってくれ」
「いづれ、お前は話をする。痛みには耐えられない。損得を考えろ」
「少し、待ってくれ」
「頭、悪いな、お前」
真人はペンチを手にして、容赦なく左手小指の爪を引き抜いた。千葉は叫ぶ前に失神していた。やり方が乱暴すぎたのか、出血があった。
真人は小屋を出た。自分の行為に吐き気がする。鬼になった積りだったが、覚悟が足りなかったのだろうか。
三時間後に小屋に戻った真人が見たのは、泣きじゃくる千葉の様子だった。不思議だったのは、この数時間で体が一回り小さくなったように感じることだった。
真人は冷蔵庫からミネラルウォーターを出して、千葉に渡した。千葉は素直に受け取ったが、手にしたまま、ただ泣くだけだった。
ペンチを手にした真人が近づくと、千葉は涙と鼻汁で濡れた顔をあげて真人の方を見上げて首を横に振り、イヤイヤという仕草をした。
「約束は2本だ」
千葉の体には力が入っていない。手の平も握っていない。千葉は声を出して泣き始めた。
「話してみろ」
千葉は頷いたあと、ガクッと頭を落とした。真人は椅子に座った。
一時間後に、やっと千葉が話し始めた。
「あいつは」
「いつ、どこで、を忘れるな」
二十歳の夏頃、吹田の近くだと千葉は話し始めた。他の話をした時のように真人が質問を交えて話は続いた。
「あいつが、訴えると言ったんだ」
「終わったあとか」
「ああ。そんで、どついたら、女がひっくり返って、コンクリートの角に頭ぶつけて、動かなくなった」
「だったら、殺人じゃなくて、傷害致死だろう」
「わからん」
「なぜ、警察に行かなかった」
「行ける訳ないやろ」
「その時、警察に行っていれば、こんなことにはならなかった」
「・・・」
「それで、その女をどうした」
「埋めた」
「どこに」
「覚えとらん」
「全部、話すんだろ」
「箕面の方だ」
「場所を思い出せ」
「もう、思いだされへん」
真人は小屋を出て、家の中にある地図を捜し、車の中にある道路地図も集めて戻った。
脇机を千葉の正面に置き、地図を開いた。
「さあ、探そう。これが、お前の分かれ道だ。爪はまだ14枚も残ってる。その小指も痛いだろ。病院に行けば治療もできるし、痛みも抑えられる。何としても思いだすんだ」
千葉は病院という言葉に反応したのかもしれない。二人で何冊もの地図帳を並べて、必死に死体を埋めた場所を探した。
地図上で大体の場所はわかったが、埋められた死体を捜すとなると範囲が広すぎる。
休憩をして、ピザとコーヒー、そしてタバコを振る舞った。千葉の記憶を手繰り寄せなければならない。
二日間、千葉から聞き出せることは聞き出したと感じ、真人は現地に向かった。千葉の話だと、死体を埋めたのは8年前になる。そのままの風景が残っている確率は低いのだろうが、自分の目で確かめなければならない。
ここだ、と考えた場所に来たが、途方に暮れるしかなかった。開発の手は伸びていないが、場所を特定するのは無理だとわかった。真人は来た道を戻り、再び目的地へ向けて車を走らせた。途中で何度も停まり、携帯で写真をとる。写真を見せて、千葉が思い出せばいいが、そうでない場合は本人をここへ連れてくるしかない。こんな事態は予測していない。どうやって千葉をここまで連れて来るかを考えなければならないだろう。
奈良に戻った真人は、パソコンに撮影した写真を取り込みプリントアウトした。
小屋に行って、千葉に写真を見せたが、写真ではわからないと言った。
「死体が見つかったら、どうなるんや」
「お前が嘘をついていないと、証明できる」
「そしたら、どうなる」
「お前は警察に自首する」
「殺人でか」
「そうだ。警察は爪を剥いだりしない。トイレにも行けるし、食べ物もくれる。ここに比べれば天国みたいなもんだ」
「死刑か」
「それは、わからん。でも、その可能性は高い。最近は一人でも死刑がある。そうならないように祈ることだ」
「・・・」
真人は自分の部屋に戻りパソコンに向かった。最近では車椅子で乗り降りできる車両が多くなった。現地に千葉を連れていくためには、先ず移動手段の確保から始めなければならない。レンタカーのホームページを見て歩き、福祉車両という名称でリフトにより車椅子を乗降させる車種があることを知った。営業所に電話をして、翌日の予約をし、真人はホームセンターへ走った。後部座席には遮光フィルムで目隠ししておきたい。
慌ただしい行動計画だったが、翌日の午後には、千葉を現地に連れて行くことができた。
何度も停まり、確認しながら進んで、予測地点に着いた。
「ここか」
「ああ。こんな感じだ」
いくら人通りや車の通行が少ないとはいえ、車椅子に縛り付けた千葉を外に連れ出す訳にはいかない。遮光フィルムを剥がして、外の景色がよく見えるようにした。
「たぶん、あの辺やと思う」
「木が三本並んでるあたりか」
「ああ」
「わかった」
真人は遮光フィルムを貼り直して、車を出した。
「掘らんのか」
「今日は掘らない」
死体を埋めたという話をしてからの千葉は元気をなくしてしまった。反抗もしないし、真人の目を見ようともしない。口数も極端に少なくなり、素直で大人しい千葉直樹になっていた。
奈良に戻る途中で、千葉が泣き始めた。
「どうした」
「なんで、あんたは、そこまでやるんや」
「どういう意味だ」
「子供のために、なんで」
「・・・」
会話はそこで終わった。真人が口を開こうとしてバックミラーを見ると、千葉は首を傾けて寝入っていた。左手小指は倍ほどに腫れているのに、痛いとも言わない。千葉はこわれてしまったのだろうか。
小屋の拷問椅子に戻す時も、千葉には暴れる意思がなかった。こんなにも大人しくなってしまった千葉の爪はこれ以上剥がせない。明日は、警察に連絡しよう。自分自身が逮捕されることも承知の上だが、後始末の段取りだけはしておかなければならない。

翌朝、小屋のドアを開けた瞬間に真人は異常に気づいた。真人は千葉直樹の前に立ちつくした。明らかに千葉は死んでいた。口元に血の跡。舌を噛み切るしか方法が無かったとはいえ、千葉にはそんな勇気はないと確信していた。なんで。
真人は小屋を出て、仏間に入った。朝子にも、智子にも語りかける言葉が見つからない。これが、悪魔に魂を売るということなのだろうか。戦いは始まったばかりなのに、もう挫けそうなっている。乗り越えるしかない。
真人は恩田敬一郎の携帯電話の番号を押した。
「恩田です」
「結城ですが」
「どうしました」
「恩田さん、今、どこですか」
「今。品川」
「無理にでも、こちらに来てもらえませんか」
「今から」
「ええ。出来るだけ早く」
「何があったんです」
「来てから話します」
「結城さんが、そう言うのなら、行かなければなりませんね」
「申し訳ない。ぜひ、お願いします」
「わかりました。G駅でいいんですよね。着いたら電話します」
「すみません」
真人は、次に甲斐雅子との連絡用の電話で甲斐の番号を押した。
「私です」
「はい」
「実は、あなたを騙していました」
「はあ」
「あの時、あの男を拉致しました」
「そうでしたか」
「そして、ここで、殺してしまいました」
「えっ」
「自首しますので、これが最後の電話になると思います。残念ですが、契約は解除です。成功報酬渡す積もりでしたけど、できそうにありません。許してください」
「とんでもありません。そんなこと心配しないでください。最初から、こういうつもりだったんですね」
「ええ」
「では、何も言いません」
「あなたのとこまで捜査は及ばないと思っていますが、あなたと私は何の関係もなかった。それで押し通してください。この電話も処分します。いいですね」
「わかりました」
「ありがとう」
「いえ。私の方こそ、お礼申し上げます」
真人は電話を切って大きく息を吸った。椅子を動かして鴨居の隙間から電源を切った携帯電話を投げ入れた。この家を解体しなければ、この携帯電話は出てくることはない。
次に、真人は望月の自宅に電話をした。
「真人です」
「おはようございます」
「専務。頼みがあります」
「何ですやろ」
「専務となっちゃん、そして香織ちゃんの三人で、ここまで来てもらいたい」
「三人」
「ええ。できれば、すぐに。他に何か予定があったら、そちらを断ってでも来てもらえませんか」
「わかりました。すぐ、ですな」
「申し訳ない」
三十分も待たずにチャイムが鳴った。真人は三人を食堂に案内した。
「座ってください」
「どないしましたんや」
「説明します。先ずは座ってください」
三人が座るのを待って真人は話を始めた。
「私が全部話し終わるまで、我慢して聞いてください。香織ちゃんはもう高校生だから、大人扱いするけど、許してもらいたい」
「朝子を強姦した男、千葉直樹という名前なんだけど、私は千葉を殺しました。用事を済ませたら自首をします。傷害致死になるのか、殺人になるのか、わからないけど、もう、ここへは帰ってこれないと思う。専務も知っているように結城の家は代々早死にの家系です。多分、刑務所で死ぬことになると思う。そこで、心配があるんです。朝子がいなくなって結城の血筋は絶えました。私が死ねば、全ての資産は国に没収されます。結城不動産の社員もビルのテナントもマンションの人たちにも、迷惑がかかります。私が一人我儘しただけで、申し訳ないことになってしまう。そこで、厚かましいお願いなんですが、なっちゃんに跡を継いでもらえないだろうかと思いました。今から、なっちゃんには再婚話がいろいろと来ると思う。それもわかっていながらの話なんだけど、私と戸籍上の夫婦になってもらいたい。結婚したいという男性が現れても、私が死ぬまで我慢してもらいたい。殺人犯の男の籍に入ることになるし、香織ちゃんは殺人犯の子供になる。これが、無茶な話だということはわかってます。なっちゃんと香織ちゃんのどちらかが反対であれば、この話はなかったことにしてくれていい。なっちゃんにも香織ちゃんにも自分の人生を生きる権利がある。だから、無理にとは言えない。少し時間をかけて考えてもらえないだろうか。それと、この件に関して、専務にお願いがあります。専務はこのことには一切口を出さないでいただきたい。会社のためだと無理強いしてもらいたくないんです」
真人は用意した紙を出した。
「なっちゃん。こんな無理言って、ごめん。でも、時間が無くなってしまって、こんな形で頼むことになってしまった。卑怯だと思うけど、考えてもらえないだろうか。私のサインはしてある。承知してくれるのなら、君のサインをして提出してもらいたい。そうでなければ、この紙は破ってくれていい。二度と帰ってくることのない、幸せを約束してくれない男の妻になってくれと言ってる。断ることに躊躇はしないで欲しい」
真人は恩田の名刺を望月の前に出した。
「この男には、いずれ、連絡する必要が出てくると思います。自首すれば、この家の中は家宅捜索で滅茶苦茶になると思います。押収されるものもあって、何がどこにあるのかわからなくなると思う。いつも、後始末ばかりで申し訳ありませんが、今回も専務を頼るしかないんです。お願いできませんか」
「真人さん」
「この通りです」
真人は立ち上がって、頭を下げた。
「真人さんの頼み、全部引き受けま。何でも、言うてください。わしにできることなら、命でも賭けまっせ。望月康夫を頼りにしてくれて、おおきに」
「叔父さん。叔父さんは朝子さんの仇を討った。私は、叔父さんを誇りに思います」
「ありがとう。香織ちゃん」
「奈津子。どうやねん」
「ごめん。私、頭、真っ白で、わからない」
「奈津子」
「専務。さっきお願いしました。この件だけは、口を出さないでください。お願いします。専務には専務の人生があるように、なっちゃんにはなっちゃんの人生があります。専務の気持ちは、抑えてください。是非、お願いします」
「わかった」
「私の我儘でなっちゃんの人生を奪ってはいけない。百のうち一つでもという思いなんです。少し冷静になってからでもいいんです。時間がかかってもいいんです」
「そうします」
「専務。次のお願いです」
「はい」
「三塚先生は民事が専門なんで、私には刑事の弁護士さんが必要です。探してもらいたい。私は司法制度に戦いを挑むつもりです。その条件に合う人を探して欲しい」
「わかりました」
「結城不動産の判断は、全て専務に一任します。書面が必要ならいつでも書きます。それと、必要になるかどうかわかりませんが、恵子さんの名前で望月不動産が設立できる段取りをしておいてください」
「望月不動産」
「結城不動産は潰されるかもしれない」
「潰される」
「ええ。司法制度と戦うということは、国に逆らうということです。国家権力は何でもできるんです。その用心はしておいた方がいいと考えてます」
「えらいこっちゃな」
「それから、私への貸付金がありますよね」
「ああ。四億や」
「何も承知していないと言い張ってください」
「それ。ほんまのことや」
「私に聞けと言ってください」
「わかった」
「最後に、もう一つ。朝子の遺骨を、納骨して欲しい。仇を討つまでと思ってましたが、まだまだ時間がかかるし、私には面倒をみる時間がなくなりました」
「承知や」
「叔父さんには、最後の最後まで、面倒かけます。すみません」
「水臭いこと、いいなや」
「その名刺の男が、東京からこっちに向かって来てくれてます。その男と話をしたら、自首します。今日の内に」
真人は三人と握手をして送り出した。最後に望月だけを呼び止めて、紙袋を一つ渡した。
身の回りの整理は終わっていたが、もう一度確認しておこう。心残りは仏壇だが、奈津子が承知してくれない時は諦めなければならない。智子は許してくれるだろうか。
昼前になり、真人が二人分のサンドイッチを作っている時に、G駅に着いたと言う恩田の連絡があった。道順を教えて、コーヒーをセットする。恩田の反応は予想できないが、やるだけのことはやっておきたい。
食堂に通した恩田にサンドイッチを出して、煎れたてのコーヒーを飲んでもらった。
恩田は真人が話し出すのを待っている様子だった。この男は、こういう気の使い方をする。強引に呼び出されたのだから、文句の一つも言いたいところなのに、平然とした様子をしてみせる。キザと見るか、気遣いとみるか。真人は、恩田の気遣いだと感じていた。
「無理、言って、すみません」
真人は素直に頭を下げた。
「恩田さんに、一肌脱いでほしいと思っています。もちろん、断ってくれてもいいです。恩田さんの仕事にとっては、大きなダメージになる危険もあります。恩田さんがどちらに賭けるかをお聞きしたい」
「難しい話のようですね」
「ええ。恩田さんが窮地に立っても、私はバックアップできません。ご自分の力だけで切り抜けてもらわなくてはなりません。申し訳ない」
「話してください。聞くだけなら危険はないでしょう」
「さあ、どうでしょうか」
「はあ」
「ここに来ていただいたことで、既に危険領域に入っていることになるのかもしれません」
「どういうことです」
「私は監視されてます。多分、恩田さんの友人の指示でしょうが」
「えっ。山岡が」
「山岡さんと言う人ですか。その方が一番危険な人かもしれません」
「そんな」
「そのことは、また後で話しましょう。朝子を強姦した犯人は千葉直樹と言います。千葉は仮釈放で戻ってきました。私は、千葉が新たな強姦罪を犯そうとしている現場に飛び込んで、千葉を拉致しました」
「拉致ですか」
「ここへ監禁し、拷問をしたことで、千葉は自分で命を絶ちました。恩田さんとの話が終わったら、私は警察に電話をして自首するつもりです」
「・・・」
「私は専門家ではありませんが、殺人罪で起訴されると考えています」
真人はテーブルの上に用意しておいたDVDを恩田の前に出した。
「ここに、拷問の一部始終が入っています」
「ということは、死体は、まだここにある」
「そうです」
「私は共犯」
「いえ、死亡推定時刻に、恩田さんは東京ですから、問題ないでしょう」
「まあ」
「千葉は、十一件の強姦を話してくれました。拷問の結果ですから法的な価値はないでしょうが、状況証拠にはなるでしょう。そして、千葉は殺人も犯しています。死体を掘り出してはいませんが、死体を埋めた場所は大体特定しました。千葉のこの話が嘘であれば、他の強姦の話も嘘ということになりますが、もしも、死体が出てきたら、千葉の話は真実に近いものになるでしょう。そのことも、そこに写っています」
恩田は束になっているDVDを手に取った。
「これを、私が預かるってことですか」
「それもあります」
「それもって」
真人はカメラを恩田の前に出した。
「それで、インタビューしてもらいたい。例の強姦テロ計画のインタビューです。殺人犯への直接インタビューです。あなたは、報道するだけですから罪には問われないでしょう。そして、それをどこかのメディアで公表していただきたい」
「それでは、結城さんが不利になるでしょう」
「大丈夫ですよ。日本には死刑以上の刑はありませんから」
「でも」
真人は大きな紙袋を恩田の前に置いた。
「この中に、二千万あります。これは、恩田さんの危険手当だと思ってください。危険手当としては少ないかもしれませんが、無いよりはいいでしょう」
「やっぱり、共犯」
「厳密に言えば、そうなるかもしれません。お友達の山岡さんの出方次第でしょう。最後の砦はあなたの肩書だけかもしれません。恩田さんがジャーナリストという肩書を持っていなければ、共犯者だと決めつけられるかもしれませんね」
「僕に考える時間は、ないんですか」
「五分や十分考えても、あまり影響ないでしょう」
数分の沈黙のあと、恩田は危険を背負う側へ足を踏み出した。やらせのインタビューを真面目な顔でこなし、細かな質問をしてきた。
荷物をまとめた恩田が大きなため息をついた。
「恩田さん。あなたの事は警察では話しません。ただ、あなたがここに来たことを公安は知っていると思うので、このインタビユーのことはしゃべりますが、それ以外の事を自供することはありません。DVDのことも、危険手当のことも、です。そのつもりで」
「わかりました」
「あなたを、こういう形で利用することになるとは想像しませんでした。でも、なにとぞ、よろしくお願いします」
「あの時、結城さんに声をかけたこと、後悔することになるんですかね」
恩田は少し重い足取りで帰って行った。
真人は仏間に入り、智子の写真と朝子の遺骨を見た。でも、話しかける言葉が見つからなかった。何を言っても、二人には届かないような気もしていた。
食堂に戻って、警察に電話をした。
「刑事課の倉沢さんをお願いします」
「あなたは」
「結城真人といいます」
暫く待たされた。
「はい。倉沢ですが」
「結城です」
「どうされました」
「千葉直樹を殺しました」
「はっ。何て、言いました」
「千葉を殺しました」
「結城さんが、ですか」
「そうです」
「今、どこにおられます」
「自宅です。死体もここにあります。ご足労いただけますか」
「ええ。それは自首するってことですか」
「はい。お待ちしています」
「すぐに、伺います」

受話器を置いた倉沢は、夢を見ているような違和感で一杯だった。
「倉沢。自首って何だ」
楠木刑事に声をかけられて、倉沢は自分を取り戻した。
「結城さんが、千葉直樹を殺したと言ってきました。死体は結城さんの自宅です」
「マジかよ」
二人の刑事には、やっぱりという気持ちと、まさかという気持ちがある。
「行くぞ」
「はい」
階段を駆け下りて、車に走った。
「サイレン、どうします」
「鳴らせ」
「はい」
倉沢は駅前の渋滞をサイレンで蹴散らして結城の自宅へと向かった。
「停めろ」
楠木の大声で急ブレーキを踏んで、二人はフロントガラスに突っ込むところだった。
「どうしたんです」
「一寸待て。いや、お前先に行ってろ」
「楠木さん」
楠木は車を出て、今は営業していない店舗の前に停まっている車に近づいていった。
倉沢は両手でハンドルを力任せに叩いて、車を発進させた。楠木の突発行動には悩まされるばかりだ。「ちゃんと、説明しろよ」倉沢は車内で大声を出した。
結城邸の玄関に車を横付けにして、倉沢はチャイムを鳴らした。オートロックの門扉が解錠された音を聞いて、中に入る。玄関ドアの所に結城真人が立っていた。
「結城さん」
「ご迷惑かけて、すみません」
「冗談なんでしょう。まさか、あなたが」
「すみません。そのまさかなんです」
「もう」
「楠木刑事さんは」
「途中で脱線しました。困った人です。ところで、死体がここにあるとおっしゃってましたね」
「はい。案内します。楠木さんは、いいですか」
「とりあえず、確認させてください」
真人は裏庭の小屋に倉沢を案内した。
「この中ですか」
「はい。鍵はかかっていません」
「先に、入ってください」
「はい」
異様な部屋の中には、椅子に拘束された男が一人。頭が垂れ下がっている。近づかなくても、それが死体であることはわかった。「現場保全」の四文字が倉沢の足を止めた。何で楠木がいないの。倉沢は呪いの溜息をついた。
「すみません。楠木を待ちます」
「確認していただいた方が」
「ええ。そうですね」
警察官が現場に到着して、被害者にまだ生き残る可能性があった時はやらねばならないことがある。放置したことで死に至ったと判定されれば難しいことになる。
倉沢は男に近づき、男の死亡を確認し、小屋の外へ出た。
「結城さん。あなたが」
「はい」
「事情は、あとでゆっくりと聞かせてもらいます」
倉沢は携帯を取り出して、応援の要請と鑑識の出動を依頼しておき、楠木の携帯に電話を入れた。
「楠木」
「どうなってるんです。応援と鑑識、呼びましたよ」
倉沢の声は怒りに震えていた。
「わかった。すぐに行く。どなるな」
倉沢は誰にも聞かれないようにお腹の中で「くそおやじ」とどなった。
応援が到着する寸前に楠木がやってきた。
「なんで、そんなとこに突っ立ってる」
「はあ」
倉沢はおもわず蹴りを入れそうになった。原因は、お前だろ。
そこへ、応援部隊と鑑識がやってきた。結城真人の案内で小屋に入る。
「死亡は確認しました」
倉沢が大声で宣言した。異様な室内に目を見開いていた警察官たちは、すぐに自分の仕事に着手した。
「結城さん。事情を訊かせてください」
楠木に促されて、現場を離れた。
「お邪魔しても、いいですか」
三人は結城邸の応接室に入った。
「結城さん。自首したということでいいんですね」
楠木刑事は不思議そうな表情で言った。
「はい」
「この時点では、傷害の現行犯ということで逮捕します。反抗の様子もないと判断して、手錠はしません」
倉沢刑事は逮捕の時刻を控えた。
「倉沢への電話では、殺したと言ったそうですが、そうなんですか」
「はい。直接の死因は千葉が自殺したことでしょうが、拉致、監禁、拷問の結果で自殺した場合は殺人になると読んだことがあります」
「拷問ですか」
「はい。その内容は、あの部屋にあるカメラに全部入っています」
「撮影していた」
「はい」
「それを、押収しても、いいんですか」
「はい」
「結城さん。全く、読めていないんですが、あんたの狙いは何なんです」
「・・・」
「あんた。何者なんです」
「言っている意味が」
「公安に監視されてたのは、知ってたんですか」
「いえ」
「あんたは、何度も尾行を振り切っているそうじゃないですか」
「そうなんですか」
「先ほど、拉致と言いましたよね。そのことを公安は掴んでいない。公安の監視は素人に振りきられるほどヤワなもんやない」
「偶然だと思います」
「そうですか」
「楠木さんは、どうして監視のことを知っているんですか」
「申し訳ない。質問には答えられないんです」
「そうですか」
「ともかく、全く別の目的のために、わしらは、ただ、餌に食いついているとしか、思われへんのですわ。この通報も、この逮捕も、納得いってまへん。拷問の一部始終をビデオに撮って、それも持って行っていい。はあ、おおきに、とわしらが言う、とでも」
「いえ」
「目的は、何です」
「裁判で、ということでは、駄目ですか」
「やっぱ、な」
「犯罪の事実を解明するのが、警察の仕事ですよね。楠木さんや倉沢さんを困らせるつもりはないんです。犯行事実については全面自供でいいんです。犯行を隠すつもりはありません」
「結城さん。あんた、わしらをアホや思てんのか。警察官かて、本物の真実とやらを捕まえたい思てまんねんで」
「すみません」
「動機は、娘さんの仇打ち」
「そうです」
「なら、刺したら終わりでしょう。なんで、拷問を」
「すみません。警察に意趣返しする気は全くありませんが、あの男は他にも強姦をしていると思っていました。それを、警察とは別の方法でしゃべらせたいと思ったんです。拷問という手段を使って」
「で、しゃべったんですか」
「はい。十一件の強姦と殺人を一件」
「殺人」
「まだ、話だけですよ。死体は出てませんから」
「倉沢。お前がやってくれ。俺はこの件、下ろさしてもらう。わしは病気療養や」
「楠木さん。馬鹿なこと言わないでくださいよ」
「気にいらん。わしら警察は、最後にドツボに落ちるんや。やってられるか」
「楠木さん。ほんとに、申し訳ありません」
「あんた、そうやって謝るだけやろ。どっかで爆弾落ちてくる予感がしてんねん。刑事の勘や。公安がらみの事件で、よかったなんて事件はあらへん」
開けっ放しの応接室の入口に別の刑事が来た。
「長さん。家宅捜索、いいですかね」
「よろしいか」
「はい。どうぞ」
「やってくれ」
「倉沢。あいつら何を捜索する気や」
「形式的な捜索でしょう」
「なんも、出てこんやろ」
「でも」
「これは計画的な犯行や。たぶん、物証も自供も釣りが来るぐらい出るやろ。それは、この人が渡してもいいと判断したものだけや。気にいらん」
「それでも、やることはやらないと」
「わかった。署に戻る」
「現場を見なくていいんですか」
「わしらが見ても、意味ない。あるのは、この人が差し出した証拠だけやからな」
警察署に連行される車の中で、楠木刑事は無言だった。
取調室に入ってからも、楠木刑事は何もしない。尋問も調書作成も、倉沢刑事が一人でこなさなければならなかった。もっとも、犯人が全面協力しているのだから、尋問技術は何もいらない。時間を追って、書類に書き込んでいく作業だけだった。倉沢には見えていないものを楠木は見ている。そのことだけで、クレームをつける根拠はなくなっていた。
「身内の方は」
「いません」
「では、連絡しておきたい方は」
「結城不動産の望月専務に、お願いします」
「わかりました」
一日で終わるような内容ではないと判断して、倉沢は真人を留置場へ移した。
「楠木さん。どうしたらいいんです」
「わしにも、わからん」
「公安の件、なんで」
「車の中におった奴や。あいつは、大阪府警の公安や」
「府警」
「そこから、気にいらん。違うか」
「なんで」
「あいつらがほんとのこと言うとるの、わしは聞いたことない」
「気に入りませんね」
「せやろ」
「でも、粛々と、しかないでしょう」
「そや。つまり、この取り調べは誰がやってもええ訳や」
「は」
「別の殺人事件を追うことにする」
「別のって」
「十一件の強姦と一件の殺人、言うてたろ」
「はい」
「罠に嵌められてるようで、気悪いけど、あのおっさん、わし、嫌いやないねん」
「ですよね」
「ほな、あのビデオ、見さしてもらおか」
「はい」
ビデオを見終わるには一日かかった。
「倉沢。お前の感想は」
「あり、だと思います」
「押収品の中に地図帳があるか、見て来てくれ」
「はい」
地図帳には何か所にも印があったが、辿りついたと思われる場所は黒く塗りつぶされていた。下見ということで、二人は箕面に向かった。
「ここやな」
「はい」
「あの木や」
「はい。写真撮ります」
「瓢箪から骨か」
「楠木さん」
「わかっとる。不謹慎や」
千葉直樹の強姦事件を担当したのは大阪南署になる。箕面署は公務執行妨害で逮捕したにすぎない。千葉の余罪を追及できなかった責任は南署に降りかかる。南署に手柄を攫われた格好だった箕面署は難を逃れたことになるのだろう。奈良西署でも箕面署でも、あの男から余罪を引き出せたという保証はないが、責任は南署に任せておけばいい。
箕面署は遺体発見を引き受けてくれて、すぐに白骨化した遺体が発見された。
「倉沢。あのおっさんと友達やな」
「はあ」
「取調室では言われへん。箕面で白骨死体が出たこと、耳打ちしといたれ」
「いいんですか」
「いずれ、わかるこっちゃ」
「はい」
「この事件はまだ何かある。恩を売っといて損はないやろ」
「はい」
「南署みたいな恥、かきとうはない」
「楠木さん。あのビデオは表に出すんですか」
「出さなしゃあないやろ。死体が出たんや。どないして事件にするつもりや」
「するんでしょうか」
「ほう。お前も大人になったな」
「楠木さん」
「お前の心配は当たっとる。ここは、見物や。前にも後ろにも行かれへん。パソコンあったな」
「押収品ですか」
「ああ。あのおっさん。用意周到やと思わんか」
「思います」
「どこ探しても、あのビデオのコピーは出てきてない。カメラごと、わしらにすんなり渡しよった。あのパソコン、調べてもらえ」
「はい」
「もしも、や。あれを表に出さんといて、コピーが出てきたらどないするんや」
「カメラごと渡したのは、予定の行動ですか」
「わからん。この事件では、わしは何も信用しとらん」


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復讐 -2 [復讐]



年が明けて、極寒の二月に大阪地方裁判所で千葉直樹の裁判が始まった。裁判員裁判の傍聴券を求める長蛇の列はなくなっていて、ごく当たり前に裁判が行われるようになった。
千葉直樹の強姦罪裁判は小法廷で開かれ、記者席はあっても記者がいないという寂しいものになった。
真人は被告人の顔がよく見えるように、傍聴席の左側の二列目に座った。千葉直樹という男を初めて見ることになる。最後に見た朝子の苦しそうな顔が浮かぶ。怖かっただろう。苦しかっただろう。痛かっただろう。悲しかっただろう。そして、なによりも、悔しかっただろう。
傍聴席には五人。書記官の席にも書類を整理する男がいる。検察官の席に若い男子検察官と更に若い女子検察官が座った。検察官もこのような裁判で経験を積むことになるのだろう。弁護人席に、年配の弁護士と若い女子の弁護士がやってきた。年配の弁護士は風呂敷から書類を出して、机の上に並べている。検察官の方を見ることもなく、自分の世界を作り上げているように見えた。女子弁護士は無関心な様子で別の方向を向いている。関係者に緊張は見られなかった。
開廷五分前に記者席に腕章を手にした男が一人座り、傍聴席も七人程度になった。甲斐雅子の姿もあったが、真人は無視した。もちろん、甲斐雅子も同じ様子だ。
横のドアが開いて、制服を着た二人の廷士に挟まれて被告人の千葉直樹が入って来た。背の高い、がっしりとした体格の男で、顔には卑しさが滲み出ている。千葉直樹は歩みを止めて、傍聴席を見回したあと、苦笑いを残して被告人席の前に立った。廷士が手錠を外し腰縄をとると、被告人席に大きく足を広げて座った。体全体からふてぶてしさを発散させている。
十時になって、裁判官と裁判員が正面のドアから入ってきて、法廷内いる全員が起立し、裁判長の礼に合わせて全員が礼をする。ただ、千葉直樹だけは頭を下げなかった。
年配の弁護士が、苦々しそうな表情で被告人の後頭部を見た。甲斐探偵社の調査によれば、千葉直樹の父親は巨大銀行の役員をやっているらしい。息子の事件があっても、その職に留まっているということは、職を辞する程の出来事ではないと考えているのか。無罪を勝ち取れると思っているのか。年配の弁護士はその父親から因果を含む言葉を投げつけられているのだろう。弁護側のチームワークがいいようには見えない。
公判前整理手続きで何が決められたのか、遺族とはいえ個人の資格しかない真人には知ることのできないことだった。しかも、この裁判は強姦罪を裁く法廷であり、強姦致死罪を裁くものではない。厳密な意味で言えば、被害者家族であっても被害者遺族ではない。
真人は被害者家族としての意見陳述をすることになっているが、その呼び名にも異論があった。強姦とは切り離され、朝子は勝手に死んだという位置づけに対して、家族はどう受け止めればいいのか。
裁判は儀式のように始まった。
人定尋問が終わり、検事が公訴事実を読み上げる。自分で書いた文章ではないのか、何度も読み間違いをしている。紙に書かれた文字を読むだけの控訴事実には説得力の欠片もないのではないだろうか。
弁護側は強姦を否認して和姦を主張した。
検察側と弁護側の主張を聞く限り、事件のあった場所で千葉直樹が朝子と性交をしたことだけは、物的証拠から明らかな事実と認定されている。
検察側の証人として、片桐卓也という医師が証言台に立った。
「警察医の先生ですね」
「はい。非常勤ですが」
「被害者の結城朝子さんの遺体を解剖されたのは、片桐先生ですか」
「そうです」
落ち着きと自信に満ちた態度は、外科医師の持つ特性だと思われる。
「遺体には、多くの外傷がありましたか」
「はい」
「それは、どのような傷ですか」
「ほとんどが、殴打された傷でした」
「つまり、殴られたためにできた傷ですね」
「はい」
「何か所ですか」
「傷の深さには多少違いがありますが、十二か所です」
「被告人は、被害者が殴って欲しいと言ったので、やったことだと言っています。そういうプレイを好む女だと思ったそうです。そういった類の傷でしたか」
「いいえ。あの傷は、そのようなものではありません」
「違いますか。どう違うのですか」
「私は、外科医として二十年やってます。いろいろなことがあります。いわゆるSMプレイの中で、誤って怪我をさせてしまったという患者にも遭遇しています。そのようなプレイでも相手に怪我を負わせることは滅多にないのが普通だそうです。やりすぎて、出血しても傷の深さはたいしたことありません。この被害者の傷は、誰かが本気で、力を込めて殴ったためにできた傷です」
「そのような傷はどんな場合に見られますか」
「本気で喧嘩した時とか、リンチをされた時にできる傷です」
「ありがとうございました。以上です」
「弁護人。反対尋問をしますか」
「はい。裁判長」
弁護人は立ち上がったが、しばらく言葉を捜していた。
「先生。先生はSMプレイをしたことがありますか」
「いいえ。ありません」
「そうですか。では、詳しいというわけではありませんよね。それとも、SMプレイを医学的に研究しているのですか」
「いいえ」
「では、どうして、その傷がその手のプレイでできた傷ではないと断言されるのですか。何か、科学的根拠がおありですか」
「科学的という意味では、傷の深さです」
「でも、SMプレイでもありうるではありませんか」
「ないでしょう。私も出会ったことがないし、そのような事例があったという話も聞きません。あの怪我は素人で処置できる怪我ではありません。医者にかかる必要があります。我々の常識では考えられません」
「100パーセント、ありえないと断言されるのですか」
「いいえ。私が申し上げているのは、常識の話です。あなたの論理であれば、被告人は常識を外れた人間だと言う結論になってしまいます」
弁護人が目を剥いて、顔を赤らめた。
「私がお聞きしているのは、プレイの傷ではないと、100パーセント言い切れますかと聞いています。はいかいいえでお答えください。100パーセントですか」
「いいえ」
「質問を終わります」
検察側の証人は片桐医師一人だけだった。
なぜ、同じ場所にいた内村健太を証人として検察が申請しなかったのか、不思議だった。強姦なのか和姦なのか、その場に居合わせた内村健太の証言にかかっていることになる。
驚いたことに、内村健太を証人申請したのは弁護側だった。
弁護人は片桐医師への質問で失点したことを承知しているようで、自分が申請した証人に対して厳しい表情で臨んだ。
「内村健太さん。あなたは、今、宣誓されましたね。正直に、事実を述べていただかないと偽証罪であなた自身が裁かれることになります。よろしいですね」
「はい」
「警察の取り調べで、あなたは被告人により手錠で拘束されていた、と証言したそうですが、そのような事実はありましたか」
「いいえ」
「つまり、あなたは、警察に嘘の証言をした。そういうこと、ですか」
「はい」
「では、犯人はあの男だと、警察で被告人を指して証言した。それも、嘘の証言ですか」
「いいえ」
「あなたにとっての真実は、ご自分の都合で変幻自在に変えることができる。そういうものなんですか」
「・・・」
「あなたと結城朝子さんは仲がよかったと聞いています。周囲の人は恋人同士に見えたと言っていますが、特別に仲のいい友達だったのですか」
「はい」
「将来の結婚を約束するほどの間柄でしたか」
「いいえ」
「違うのですか。あなたの友達は、あなたの口から聞いたと言っていますが、その友達は嘘をついてるのですか」
「結婚の約束はしていません」
「それは、あなたは結婚したいと思っていたが、まだ彼女の承諾をもらっていないということですか」
「はい」
「あなたは、高校一年生ですね」
「はい」
「彼女と肉体関係がありましたか」
「いいえ」
「肉体関係を求めたことはありますか」
「いいえ」
「正直に言ってください。決して恥ずかしいことではありません。私も、あなたの年頃の時は自分の性欲に困ったものです。私にも恋人と呼ばれるような彼女がいたら、肉体関係を迫ったと思います。それが普通の高校生だと思いますが、あなたは違ったのですか。もう一度聞きます。肉体関係を求めたことはありますか」
「いいえ」
検察官は異議を挟むこともなかった。
「では、肉体関係を持ちたいと思ったことはありますか」
「はい」
「あなたは、被告人と被害者の二人が性行為をしている時、どこで、何をしていましたか」
「車の中に閉じ込められていました」
「車の中、ですか。変ですね。普通、車は中から自由にドアは開ける事ができます。閉じ込められることはありませんよ。車の中で何をしてましたか」
「何も」
「二人の様子を見てましたか」
「・・・」
「どうなんです。見えてましたか」
「はい」
「もし、無理矢理犯されているのだとしたら、どうして、止めなかったんですか。大切な彼女ですよね。二人が合意の上だったから、行動に出ることができなかった。そうなんでしょう」
「違います」
「違う」
「怖かったんです」
「怖かった。そんなもんですか。結婚したいと思っているほどの間柄ですよ。警察に嘘の証言をして、この法廷でも嘘の証言をするつもりですか」
「いいえ」
「質問を終わります」
弁護人は席に座った。被告人は笑みを浮かべて内村健太を見ている。弁護側は唯一の目撃者である内村健太の証言を無力化することに成功した。
「検察官。反対尋問をしますか」
「はい。裁判長」
検察官は冷ややかな目で内村健太を見ていた。
「今、弁護人の質問にありましたが、どうして、あなたは、手錠をかけられていたなどと嘘をついたのですか」
「怖かったんです」
「結城朝子さんは、被告人の行為に喜んでいましたか」
「いいえ」
「あなたに、助けを求めましたか」
「はい」
「一度ですか」
「いいえ。何度も」
「それでも、あなたは、助けに行かなかった。どうしてですか」
「怖かったんです。体が動かなかったんです」
「そうですか。あなたの目から見て、強姦に見えましたか」
「はい」
「質問を終わります」
最初から最後まで、内村健太は真人の方を見なかった。
真人の中で、何かが腹の底にストンと落ちた。朝子が自殺をした理由が体でわかった。それまでは、なぜ、という疑問が解けていなかった。朝子は強姦されたために自殺したのではない。絶望して自殺したのだ。朝子も内村健太のことを将来の伴侶だと考えていただろう。最悪の事態に堕ちた時、内村健太は何もしなかった。そんな男を将来の伴侶だと考えていた自分が許せなかったのではないだろうか。将来が全否定されたと感じたのではないか。一言でも相談してくれれば、自殺を止められたのに。何でも話し合ってきた父子だったのに。自分の力不足だったのか。
それでも、朝子の将来を砕いたのは千葉直樹という男に変わりはない。許せない。絶対に許すことはできない。
被告人尋問が始まった。
証言席に立っても、被告人の態度に変化はなかった。意識してふてぶてしさを出そうとしている訳ではないようだと真人は感じた。この男は、本心から世の中をなめきっている。真人の周囲にいる人たちとは人種が違うのではないだろうか。裕福な家庭で育ち、大学に入学しても、通学することもなく遊び歩いている。働いている様子はないと探偵社の報告にはあった。4WDの車も親が買い与え、贅沢できるほどの小遣いを渡しているのは親なのだろう。千葉直人の22年間の人生は、自分の思いのままに生きてきた人生だったと思われる。自分の主張が通らなかった経験はなかったのではないか。若さと腕力と経済力があれば、若者の世界では怖いものはない。唯一の劣等感が女性関係だったと思われる。誰が見ても「いけめん」からは遥かに遠い。女の子からは近づきたくない男に分類されているだろう。過去に朝子のような犠牲者が何人もいたはずである。それらの犠牲者が被害届を出さなかったことも、社会をなめる条件になったのであろう。
検察官が質問を始めた。
「被告人は、この裁判を、どう感じていますか」
「茶番」
「ほう、茶番ですか。どうして、そう思うのですか」
「誰でも、セックスするよね。あんたも、そこにいる裁判官も」
千葉直樹は検察官と裁判官を指で示してみせた。
「だったら、あんたたちも被告人。被告人が被告人を裁く。おかしい、しょ」
「被告人は、あくまでも、強姦容疑を否認し、和姦だと言い張るのですか」
「だって、そうなんだから」
弁護人は遠い壁の方を睨んで、苦虫をかみつぶした。この被告人の弁護では、どんな優秀な弁護士がついても勝訴は難しいだろう。被告人や被告人の家族と弁護士の間は弁護方針で一致していなかっただろうと想像した。優秀な弁護士なら、有罪判決が出るであろうことは容易に推定できる。情状酌量で争うのが弁護士の役割になると主張したはずである。被告人の父親の社会的地位が、弁護士に不本意な方針を受け入れさせたと考えたほうがわかりやすい。
「被告人は、被害者を殴打しましたか」
「だから、そう、頼まれたんだって」
「そうではなく、殴ったのか、殴らなかったのかを聞いています」
「そういう質問には、答えたくない。いきさつがあって、結果がある。だよね」
「では、質問を変えましょう。被害者は、いつ、何と言って頼んだんですか」
「憶えてない。でも、頼まれたのは間違いないよ。困るんだよな。真実は当事者しか知らない。そうだよね。当事者は二人しかいない、しょ。真実を話さないで、勝手に死なれちゃ迷惑。おかげで、こうやって、被告人にされて、冤罪で裁かれることになる。こんなの許せない、しょ」
千葉直樹は馬鹿ではないようだ。矛盾点が出そうな部分では、検察官の質問をはぐらかした答えをしている。検察官は、若さのせいなのか、有罪を確信しているのか、それ以上の追及をやめてしまっている。それとも、ただ、仕事をこなしているだけなのか。
検察官も弁護人も、まるでマニュアルに従ったような質問を繰り返した。
裁判員も当たり障りのない質問をした。
被告人による、聞くに堪えないような死者への誹謗中傷があった。でも、真人はそのことで動揺することはなかった。大きな目標が眼前にあり、被告人が何を言っても驚かないだけの覚悟はできていた。
午前の日程は終わり、午後には被害者遺族である真人の意見陳述と検察の論告求刑、そして弁護人による最終弁論が予定されている。明日、裁判員による審理が行われ、午後には結審することになるだろう。
食欲など出る訳がなく、真人は地下の喫茶室でコーヒーを頼んだ。バザーの時に活躍する誰かのお母さんのような女性が二人働いていた。裁判所だというのに落ち込んでいる客は真人だけに見えた。
午後からの意見陳述の内容が頭の中を回っている。千葉直樹は一つだけ正しいことを言った。それは、この裁判が「茶番」だということだ。誰もが、自分の求める方向だけを見て、自分に都合のいい事を言っている。午後の意見陳述でも、真人は自分の求める方向だけを見て、自分に都合のいいことだけを発言するつもりだった。茶番の上塗りをして、裁判そのものが茶番だということを、何人の人が理解してくれるのか。真人の戦いは、まだ始まったばかりだった。
被害者参加人の意見陳述が始まった。真人は被害者参加人席で立ち上がって、裁判官の方へ小さく頭を下げた。常識は持ち合わせていますよ、という態度表明でもあった。
「私は、被害者、結城朝子の父親です。娘は被告人に強姦され、自殺をしました。被告人の答えにもありましたように、娘は勝手に死んだことになっています。でも、私は被害者遺族のつもりですので、その観点から意見を述べさせていただきます」
「先ず、被害者参加制度ができて、被害者家族が法廷で意見陳述できることになりました。このことに関しては感謝しています」
「初めてのことで、大変緊張しています。被害者のガス抜きが目的で作られたこの制度をガス抜きで終わらせてしまうかどうかは、私たち被害者家族にかかっています。今は、とても、重い責任を感じています」
「裁判員の皆様にもお願いがあります。司法に対する不信を和らげるために創設された裁判員制度も、単なるガス抜きになってしまってはいけないと思っています。司法は長い時間をかけて、市民から遊離してしまいました。市民のための司法を取り戻すのには、まだまだ時間がかかるでしょうが、一つ一つの裁判で、皆さん裁判員の方の努力が大きな力になることは明らかです」
「私は被告人の発言で、一つだけ共感した言葉があります。被告人はこの裁判を茶番だと切り捨てました。その点では、私も同じ意見です。強姦された被害者の、あるいは被害者遺族の願いは一つです。二度と犯人を社会に戻して欲しくないということです。二度と同じ犯罪が起きて欲しくないという願いです。でも、裁判は決められたレールの上を粛々と進められています。求刑も判決も出ていませんが、被告人が終身刑になることはありません。つまり、被害者の願いは一顧だにされていないのが現状なんです。ですから、私の目から見ても、この裁判が茶番に見えてしまうのです」
「白状しますが、私は、この事件の当事者になるまで、犯罪にも裁判にも関心はありませんでした。国民のほとんどの人が、私と同じだと思います。当事者になって、私は愕然としました。市民は国に守られているのだという漠然とした安心感。それが幻想だと知った時の衝撃は大変なものでした。それは、恐怖と呼ぶにふさわしいものです」
「女と子供は弱者です。大人の男の、悪意の前では無力と言っても過言ではありません。弱者を誰が守るのですか。親ですか。24時間、つきっきりでいろと言うのですか。この国はそんな国なんですか。司法が犯罪抑止力になっているのですか。いろいろな疑問が浮かんできます。でも、どこにも答えは見つかりません。ぜひ、教えてください」
「少なくとも、弱者に対する暴力には厳罰をもって対応していただかなくては困ります。弱者に、身を守る能力がないことも自己責任なんでしょうか。もし、そうなら、銃規制を撤廃してもらいたい。私なら、娘が自分の身を守るために、娘に銃を持たせます」
「強姦犯は、数年の刑期を終えれば社会に戻ってきます。性犯罪の再犯率が高いことは、我々一般市民でも知っています。その現実を放置しているのは、なぜなんでしょうか」
「刑期を終えれば、その罪は償われたと言われています。司法関係者の方でも、それを言葉通りに受け取っておられる方はいないでしょう。被害者や被害者遺族にとっては、論外な話です。被害者遺族の願いを優先度の高いものから挙げていきます。一番は、娘を返せ、です。二番は、犯人を殺せ、です。三番は、犯人を二度と社会に戻すな、ということです。被害者遺族は百歩も二百歩も譲って、せめて、犯人を社会に戻して欲しくないと願っています。これって、法外な要求なんですか」
「強い者だけが、勝つ世界でいいのですか」
「裁判官、検察官、そして弁護人の法曹三者と言われる方々にお聞きしたい。司法はほんとに国民を守っているのですか。社会秩序は守られているのですか」
「市民感覚で言えば、答えはノーです」
「だから、裁判員制度を導入したではないか。そう言いたいのですか。とんでもありません。市民だって馬鹿ではありません。裁判員制度がごまかしにすぎないことは、市民だけではなく、あなた方が一番よくわかっているはずです。市民感覚を司法に、と言うのなら、検察員制度を導入してください。検察官の職域を聖域にしていたのでは司法改革にはなりえません。検察官が、起訴不起訴を決め、求刑を決める。判決は求刑の八掛け。それのどこに市民感覚があるのですか。これが、私の暴言であり、偏見だと言うのなら、検察員制度を導入することに躊躇することはありませんよね。そうなれば、司法は大きく市民感覚に近づくことができます。混乱がお嫌いですか。混乱を嫌うことと、犯罪を嫌うことのどちらが市民感覚に合っていると思いますか。犯罪被害者という立場になって、私はそのことに初めて気付きました」
「皆さん、迷惑そうな顔をしていますね。迷惑ついでに申請書に書いていない話をしたいと思いますが、許可いただけますでしょうか。ここからの話は本物の暴言になります。もちろん、訴追覚悟で話します。お願いいたします」
「許可、できません」
裁判長の声は裏返っていた。立腹は相当のものだと思われる。
「そうですか。裁判員の皆さんには不思議かもしれませんが、私、被害者参加人も検察官の管理下にあります。検閲されていない意見は話すことができません。検閲という言葉は共産主義の国か第二次大戦下の日本でしか聞いたことのないような言葉ですが、司法の場では、実情に合致した言葉なんです。あなたたち裁判員も管理されているのです。もし、それを確かめたいのなら、求刑の量刑に縛られることなく20年の刑を決めてみてください。それが不可能であれば、被告人が主張する和姦を認めて無罪判決を出すことです。死んだ娘も、遺族の私も被告人が五年や十年で社会に戻ってくることを望んではいません。無罪放免にして、あの男が、あと何人の弱者に暴力を振るうのか、見てみようではありませんか。その時の被害者は、もしかすると、あなた方の家族かもしれません」
「被害者参加人。それ以上の発言は許可しません。発言をやめない場合は強制退室を命ずることになりますよ」
「私の意見陳述を終わります」
裁判長も立腹しているかもしれないが、真人の怒りは比較にならないほど大きい。自分に世界を壊すことのできる力があったら、全てを壊してもいい。そんな怒りだった。たが、最終目標のためには、冷静な判断が必要だった。そのことを支える強さは、すでに悪魔から貰っていた。
真人は傍聴席に戻り、検察官の求刑を聞くために座った。
被害者に与えた傷害の程度が重いと判断したのか、検察官は強姦罪単独の求刑にしては重い10年を求刑した。
弁護側は最後まで和姦を主張し、無罪判決を要求した。ただ、弁護人の声には力が感じられなかった。
裁判長が閉廷を宣告する直前になって、六番の裁判員が手を挙げた。
「まだ、なにか」
裁判長は用心深く問いかけた。明日の審理を考えると、ここで人間関係を壊すわけにいかないという判断と、六人の裁判員の中で一番公平な態度の持ち主だという信頼に似たものがあったためだった。
「どうしても、検察官に確認をしておきたいことがあります。検察官に質問してもいいでしょうか」
「部屋に戻って、私がお聞きするのでは、いけませんか」
「裁判長にお聞きしたいのではなく、検察官にお聞きしたいのです」
「わかりました。一つだけにしてください」
「どうして、ですか」
「裁判長の権限として、とご理解ください」
「納得はできませんが、一つだけにします」
「検察官。よろしいですか」
「はい。裁判長」
「では」
「先ほど意見陳述をされた被害者のお父さんのことですが、お父さんは被告人を殺すのではないかという心配をしました。もしも、です。そうなった時に、検察にも我々裁判員にも責任があるように思えるのですが、検察官の所見をお聞きしておきたいと思います」
「わが国では、個人的報復は認められていません。従って、もしも、そのような事態になった場合は新たな事件として裁判を受けねばなりません」
「いえ、そういうことではなく、検察官に責任はないのですか、とお聞きしています」
「ありません。我々は法に照らして適切に職務を遂行しております」
「そうですか。裁判員の責任については、後で裁判長にお伺いします」
「では、明日二時から判決を言い渡します。閉廷します」
真人も法廷を出て、エレベーターで一階に降りた。正面玄関を出て淀屋橋への道を捜した。
「結城さん」
後ろから声をかけられて、真人は足を止めた。同年配と思われる、少し崩れた感じのする男が笑顔を向けている。サラリーマンではない。真人から見ると職業不詳の男に見えた。
「何か」
「お話、聞かせていただけませんか」
「あなたは」
男はボケットから名刺入れを出して、名刺を差し出した。名刺には恩田敬一郎という名前と電話番号しか書かれていない。
「お仕事は」
「フリージャーナリスト。ほんとは、ノンフィクション作家といいたいところですが、本を出している訳ではないので、遠慮して、フリージャーナリストです」
「悪名高き、ですか」
「とんでもない。私は、もっとも良心的なジャーナリストだと思ってます」
「その良心的な方が、私に何の用です。私のこと書いても、金にはならないと思いますが」
「少し、気になりましてね」
「なにが、です」
「法廷で、裁判長に拒否されて、しゃべれなかったことです」
「あの、法廷におられた」
「はい」
「被告人の関係者ですか」
「いいえ、たまたま、ふらっと入っただけです」
「たまたま、興味を持った」
「ええ」
「話す気はありませんね。申し訳ないけど」
真人は歩きだした。恩田敬一郎も肩を並べて歩き始めた。
「何を言おうとしたのか、気になりましてね。気になると、僕、眠れないんですよ」
「それは、気の毒なことをしました」
「お願いしますよ」
「恩田さん、でしたっけ」
「ええ」
「あなたなら、法に触れるような計画を誰かに話したりしますか」
「でも、結城さんは、あの時、話そうとしたじゃないですか」
「あの場所でなら、意味があったんです」
「よくわかりません。法廷以外では意味がない話。ますます、眠れない」
「謎かけ、じゃありません。たいしたことでもありません。つまらんヨタ話です。枯れ尾花って、知ってます」
「幽霊の話ですか」
「そうです。気にしないで、ぐっすりと眠ってもらっていいですから」
「じゃあ、あなたの友人リストに載せてください。役に立つ時もあると思いますが」
「申し訳ない」
「結城さん、さっき僕のこと悪名高きと言いましたよね」
「あなたのことじゃない。フリージャーナリストが、です」
「そのフリージャーナリストは一度食いつくと、スッポンのようだと言われてるのも知ってますか」
「脅し、ですか」
「はい。結構、迷惑だと思うんです」
厚かましい男だけど、どこか憎めない。少し、楽しいかもしれない。
「恩田さん。私、今からサウナに行こうと思ってますけど、一緒に行きますか」
「もちろんです。僕も丁度、サウナに行きたいと思ってたところです」
恩田は旧知の友人のような様子で、難波のサウナまで付いてきた。見た目は軽い男に見える恩田だが、一皮剥けば強かな男だと考えておかなくてはいけない。フリージャーナリストをしているということは、そういうことなのだろう。朝子の死を契機に真人も変わっていた。悪魔のおかげかもしれない。
サウナで汗を流し、水風呂で体を冷やしたあと、二人はマッサージ器に座ってビールを飲んだ。
「結城さん。一つ、教えてください」
「ん」
「結城さんは、裁判に何の期待もしていない。そう感じたんですが、何故です」
「そんなことありません。期待してますよ」
「言葉は悪いかもしれませんが、あなたの意見陳述は司法攻撃に終始していたと思うんです。あなたにとっては、目の前の裁判が一番重要だと思いますが」
「重要」
「違うんですか」
「日本には終身刑がありませんから、無期懲役になりますが、求刑が無期懲役なら、あなたの言うとおり裁判そのものが重要になると思います。あの男を一生刑務所に閉じ込めておいて欲しいというのが遺族の本音なんです。現実はほど遠い、ですよね。司法そのものが変わってもらわなければ、困るんです。それは一つ一つの裁判の積み重ねなんじゃないでしょうか」
「何か、違うな」
「違いますか」
「優等生の答案を読んでるようで、どこか痒い、そんな感じですね。結城さんの目は、あの時、そんなことを訴えていたようには思えない」
「恩田さん。深読みして、失敗するタイプでしょ」
「れれれ、わかります」
真人の友人には恩田のような男はいなかった。確かに職業は信頼感に乏しいが、人柄という面では他にない豊かさを感じさせる。人生が短くなると人生が濃くなるという話を聞いたことかある。恩田との出会いも、その一端なのかもしれない。
「恩田さん。記事にしないということで、話しましょう」
「えっ。ここで」
「ええ。手元にレコーダー、ありませんよね」
「ひどいな。そのためのサウナですか」
「用心深い質なんです。もし、あなたが約束を破って記事にしたとしても、それはあなたの意見になります。発表すれば、恩田さんが起訴されることになるかもしれない。まあ、話だけなら不起訴かな」
「一寸、甘く見たかな」
「恩田さん。資産家ですか」
「まさか」
「だったら、不起訴というより、警察が相手にしないかもしれない。フリージャーナリストのヨタ話で、一件落着です」
「とほほ、ですね」
「どうします。ヨタ話、聞いてみますか」
「不起訴になるんでしょう。聞かせてください」
「わかりました。少し長い話になります。いいですか」
「もちろん」
「恩田さん。子供はいますか」
「いえ。僕は独身主義を通してます」
「親の気持ち、わかります」
「たぶん、わかってないんでしょうね」
「嬉しいですね、そう言っていただけると。当事者にならないと、わからないものなんです。子供をあんな形で失ってから、あなたの気持ちわかります、と多くの人から言われます。中には、ほんとにわかっていると信じている人もいる。私には、強姦被害に遭うことも、子供が自殺してしまうことも、想像すらできませんでした。その中に放り込まれて、初めてわかったんです。私は、いたって普通の市民だったと思います。多くの人がそうなんです。犯罪や裁判なんて、自分にとっては別の世界の出来事なんです。無関心で生きていても、全く支障ありません。司法制度は、その上に胡坐をかいているんです。司法による司法のための司法制度。彼等も公務員みたいな存在ですから、仕方ないのかもしれない。でも、被害者はそれでは済まないんです。司法に大きく変わってもらわなくてはならない。司法は究極の国家権力なんです。だから、下々の声は届き難い。被害者が叫んだ位では変わりません。司法が自ら変わろうとしなければ、変わることはありません。どうしたら、司法が自ら変革しようとするのか。恩田さんに、その手立てがありますか」
「いや。ない、でしょう」
「被害者にも、温度差があります。私のように、残された自分の生きる道さえ無くしたと感じる被害者も大勢います。もう、失うものは何もありませんから、私には、何でもあり、なんです。犯罪との境界線も、私にはありません。世間では、私のような人間を逆恨みの卑劣漢だと言うでしょう。そう言った非難を受け取ることにさえ、何の抵抗もありません。ここからが、前代未聞の犯罪計画です。検察官、次に裁判官、最後に弁護士、この法曹三者と呼ばれる人たちが司法を動かしている、と言うより司法そのものなんです。個人としての検察官、裁判官、弁護士が当事者になれば、司法は変わらざるをえなくなります。被害者とそれ以外の人との落差は、体験した者にしかわかりません。感情は論理を超越するのです。あらゆる理論が崩れる。恩田さん、ユーゴの内紛はご存じですよね。隣人と、友人と殺し合いをしなくてはならなくなった時、彼等は理論や理想の前で自分を律したでしょうか。そんなこと、できないのが人間なんです。検察官と裁判官だけでも、五千人はいるでしょう。中には、あなたのような独身主義者もいますが、私のように娘を持つ親もいます。きっと誰にとっても大切な家族のはずです。検察官の娘だけが狙い撃ちにされて強姦されたとしたらどうなります。一人や二人ではありません。百人、二百人という犠牲者が出るのです。検事という使命感だけで乗り切れると思いますか」
「いや。でも、そんなこと、できっこない」
「私が、鬼になって強姦魔になると思ったんですか」
「・・・」
「私は、何もしません。金を出すだけです」
「金」
「僅かな金のために、殺人や強盗をする男はいませんか。その日の金に困って、明日の弁当を買うために、何でもするんです。この女を強姦すれば、百万出すと言えば、行列ができると思いませんか。殺人をしろと言ってるのではありません。強姦です。若い男にとって強姦のハードルは決して高いものではありません。強姦の場合、やり得の方が圧倒的に多いのです。百件の強姦があったとしましょう。被害届を出す人が十人だとします。そして、逮捕される犯人は五人とします。成功率は何パーセントになります。加害者百人の内、成功するのは95人です。95人は、何のお咎めもなしで百万の金が手に入るのです。しかも、失敗した時の服役期間は五年で済むとしたら、こんなおいしい話はないと彼等は思うでしょう」
「でもね。どうやって募集するんです」
「募集も私がやるのではありません。これは、あくまでも裏の仕事です。一件の強姦につき百万の手数料を払うと言えば、手を挙げる暴力団がいるのではありませんか。自分の組員が強姦罪をかぶるわけではありません。段取りをつけて募集するだけです。キャッチフレーズは、世直し隊募集とすれば、抵抗も減ります」
「でも、一人二百万だとすると、それだけで二億の金が必要ですが」
「私には、二億でも五億でも払えます」
「ううん」
「さらに、恐ろしい事が起きます。強姦は親告罪だということは知っていますよね。被害届を出した被害者の実名と写真がネット上に流れることになります。どうしてかわかりますか。強姦の証拠のためにカメラを回すことが条件になるからです。映像には困りません。ドキュメント映像として、裏で出回るかもしれないのです。そうなれば、告訴する人間は更に少なくなります。成功率は限りなく100パーセントに近づきます。強姦請負単価も下がり、犯罪希望者は増え、抽選会の必要も出てきます。そして、便乗犯も出てくるでしょうね。これは、もう立派な社会不安です。司法が変わるしかありません」
「犯罪ですね。いや、これはテロですよ」
「恩田さんなら、自分の計画として、書きますか」
「いえ。やめときます」
「賢明な判断です」
「あの場で、この話をするつもりだったんですか」
「ええ」
「ありえない」
その時、隣の椅子に男が座った。少し暗い印象の初老の男だが目は鋭く、声は低かった。
「聞かせてもらったよ」
その声を聞いただけで、その男が何者なのか二人は理解した。
「私にも、協力させてもらえないか」
「はあ、その」
「組の力もいるんだろ」
「ええ、まあ」
「どこか、伝手はあるのか」
「いえ」
「うちがやれば、間違いなくうまくいく」
「でも、まだ計画だけなんです」
「金さえ用意してくれれば、調査も実行もうちでやれる」
「その金が」
「そうか」
「計画では、4億の現金が必要です。簡単ではありません」
「まあな」
男が右手を挙げると、黒服の若い男がやってきた。
「わしの名刺、取ってこい」
「はい」
若い男の持ってきた名刺には、佐藤組の佐藤有三となっていた。
「あんたの名刺もくれんか」
「それは、勘弁してください」
「駄目か」
「素人の仕事としては、やばい仕事でしょう。用心するのは大目に見てください」
「わかった。その代わり、よそに頼んだ事がわかれば、それなりの落とし前はつけてもらうことになるよ」
「わかってます」
二人は、大急ぎでサウナを出た。
「尾行はないとは思いますが、念のため、撒きましょう」
恩田の指示でデパートと地下鉄を使って、また淀屋橋まで戻ってきた。
「もう、大丈夫でしょう」
二人は地下道を歩いて北浜まで行き、地上に出て喫茶店に落ち付いた。真人は、自分の名刺を出して、恩田に渡した。
「いいんですか」
「友人になった方が無難でしょう」
「わかりました」
「でも、あの佐藤さんに会って、いたって現実的な計画だということがわかりました」
「まさか、実行しませんよね」
「レコーダー貸してくれますか」
「えっ」
真人は恩田が出したレコーダーが切られていることを確認してテーブルの上に置いた。
「娘が生きていれば、反対したと思います。あの子はそういう子です。自分と同じ被害者が百人も増える。絶対に許さないでしょう。でも、現実を見てしまった今、私は自分の感情を抑える自信がない。もし、実行に移すとしても、まだまだ考えるでしょうね。ただ、私にとっては、理想とか常識とか、良心の問題ではないんです。恩田さんにはわからないでしょうが、地獄に落ちることに抵抗はないんです」
「そうですか。僕には、よくわかってないんだと思いますが、せっかく友達になったんですから、僕にできることがあったら連絡してください。もっとも、僕は地獄に落ちる覚悟はしてませんけど」
「ありがとう」

翌日、開廷の予定は二時間遅れた。審理が紛糾したことによるものと思われる。
判決は懲役八年の有罪判決だった。単独の強姦罪としては重い判決だと言える。裁判員の表情が硬かったことが印象に残った。甲斐雅子の姿は法廷にあったが、恩田の姿はなかった。真人は冷静な目で法廷を見ていた。法廷関係者の目は、結城真人が暴れ出すのではないかと警戒している。この人たちには、何も見えていない。他人の痛みを推し量るだけの感受性も失くしている。自分たちが守らなければいけないのは、司法だと思っている。
真人は法廷を後にした。
次の課題が見つかっていた。千葉直樹が出所してきた時、真人は千葉直樹を無力化して支配下におかなければならない。だが、非力な真人の場合、返り撃ちに遭う確率の方が大きいと考えなければならない。体力の増強と武器の調達が不可避になる。
真人は38年間、勉強と研究しかしてこなかった。体育会系の中学生相手でも勝つ見込みは薄い。そもそも、基礎体力が欠けている。しかも、年齢的には下降線というジェットコースターの上に乗ったあわれな中年男である。それでも、最低限の体力を獲得することは、自分を守ることに繋がる。娘の仇を討つために挑んだ戦いで返り撃ちにあったのでは泣くに泣けない。
新大宮にある体育クラブに個人レッスンという項目があった。イケメンの若い男が笑顔でこちらを見つめている写真がある。着ているトレーナーを脱げば、きっと筋肉が四角く分かれているのだろう。真人のような中年男の行く場所ではないだろうが、運動に関して知識のない真人には指導者が必要だった。
「スポーツ11」というクラブは中規模のビルの五階にあった。エレベーターを降りた場所が受付になっている。真人は足が竦むおもいだった。
「見学ですか」
営業スマイルの若い女が声をかけてきた。
「あの」
「どうぞ、お伺いします」
受付の女性はキビキビとした動作で、二つある椅子の一つを勧めた。
「どのような、ご相談でしょう」
セールスではなさそうだし、会員ではない。見学でもなさそうだ。残るは、相談だという風に消去法で決めたようだ。
「ええと、体力増強というか、指導者が欲しいというか」
「わかりました。専門のインストラクターをお呼びします。少し、お待ちください」
受付嬢はエレベーターから降りてきた会員らしき女性客に明るい声をかけて、ドアの向こうに消えた。居心地の悪さではデパートの婦人用品売り場に匹敵する。
二十代前半とおもわれる若いトレーナー姿の男性が来た。広告に出ていた男性ではないが、女性客からはイケメンと言われているに違いない。採用試験には、容姿端麗が条件に入っているのかもしれない。
「インストラクターの前田といいます。ご相談だと聞きました。話していただけますか」
「ええ」
「体力増強だと」
「ええ。私のようなおじさんの来る場所ではない、ですか」
「とんでもありません。いろいろな方が来られています。最高齢の方は七十歳を越えておられます」
「人並みよりも、少し上でいいんですが、体力をつけたい、と思いまして」
「何か、スポーツをやっておられましたか」
「いいえ。全く」
「まったくですか。最後にスポーツらしき体験をされたのは、いつ頃ですか」
「多分。高校の、体育の時間」
「それ以降、スポーツはやられていない」
「はい」
「失礼ですか、お幾つですか」
「38です」
「ご希望をもう少し具体的に教えていただけますか。アスリートになりたいとか、市民マラソンに参加したいとか。何か描いていることがおありだとおもいますが」
「そうですね。格闘技で勝ちたい、とか」
「格闘技をやっておられるのですか」
「いいえ。やろうと思っているんですが、私の身体能力では難しいと思って。スポーツに関しては、知識がありませんので、何をどうしたらいいのか見当もつかないんです。ですから専門家に教えていただきたいと思って」
「わかりました。個人レッスンでいいんですか」
「ええ」
「ところで、ご専門は」
「数学ですが」
「数学。学者の方ですか」
「いえ。今は、辞めましたが、民間の研究所にいました」
「なるほど、何か心に期するところがあって、一念発起でスポーツをやろうと決心された」
「まあ」
前田は立ち上がって受付からパンフレットと入会申込書を持ってきた。
「これに、記入していただいて、終わったら受付の者に言ってください。ジムの見学されるでしょう」
「はい」
入会申込書を出し、入会金とジム使用料を支払った。前田に連れられてジムを見学し、受付で会員証を渡された。平日の昼間だったが、広いジムにはそれなりの人がいた。
「明日、結城さまの体力測定をしましょう。その上で計画書を作ります。私たちインストラクターを占有される時間は、レッスン料が発生しますが、よろしいですか」
「もちろんです。よろしくお願いします」
「では、運動できるような服装で、明日、十時に」
「運動できる服装ですか」
「そうですね。トレーナーとズックがあればいいですよ。よければ、受付の横に売店もあります。それと、汗をかくと思いますので、着替えがあった方がいいです。荷物はロッカーがありますから」
「はい」
真人はトレーナーとズック、そしてスポーツバックを購入してビルを出た。ビルを出て大きく息を吸い込んだ。やっと自由に呼吸ができる。
ジムに慣れたら、生駒にある拳法の道場に入門するつもりだった。五年かけて、体育会系の男子までとは言わない。せめて、人並みの男にならなくてはならない。結城不動産の仕事は無理かもしれないと思った。

三ヶ月後には、トレーニングと拳法の道場の生活が軌道に乗ってきた。毎朝のランニングも順調に距離を伸ばしている。拳法の道場では子供たちと一緒に練習が出来て、毎日でも行きたいほど楽しい。子供たちは真人のことを足手まといだと感じているようだったが、道場に寄付をして、大人たちを懐柔しているので勘弁してもらっている。真人には金の力しかなかったが、その力を使うことに何の抵抗もない。
朝子の死から、真人の生活は変わった。確かに、楽しいことも多い。だが、真人の前からあの朝子の苦しそうな顔は一時として消えたことがない。もう、不眠には慣れたが、体の中から爆発を起こしそうになる怒りは、真人を苦しみの渦に巻き込む。大人しくて、善良な市民の見本だった真人の様子は、日々変化してきていた。
「結城さん」
「はい」
道場で声をかけてきたのは、奈良西署の倉沢刑事だった。
「刑事さん」
「どうして」
「入門しました。刑事さんは」
「私、ここの卒業生です。非番の日だけ、時々、子供たちに教えています。気がつきませんでした。子供たちの噂は知ってましたが、結城さんだとは思いませんでしたよ」
「噂ですか」
「いえ。大したことじゃありません」
「動きの鈍いおじさん、ですか」
「いえいえ」
「皆には、悪いと思ってます」
「でも、どうして」
「家の中に籠っていると、発狂してしまいます。体を動かして、何とか」
「そうですか」
「迷惑かけないように、がんばります」
「ええ」
子供たちが倉沢を呼びに来て、倉沢刑事は連れ去られた。真人と違って人気者のようだ。
他の師範の話によると、倉沢は全国レベルの実力者らしい。仕事で骨折をしてからは大会に出ていないが、この世界では有名人だと言っていた。刑事の勘が働かないことを祈るしかない。

真人の祈りが効かなかったのか、倉沢刑事の勘はざわめいていた。
「あの結城さんのお父さん、憶えてます」
「強姦事件のか」
楠木刑事は面倒くさいという顔で答えた。
「昨日、道場で会いました」
「で」
「あのお父さんに、拳法は似合いません。何か考えてるんじゃないでしょうか」
「だから」
「だからって、心配になりません」
「復讐か」
「ええ」
「そんなこと、俺らが心配しても、しゃあないやろ」
「でも」
「俺たちの仕事はな、今起きている事件のことを心配する仕事なんや。お前、老けるで。気にするな。俺はあの犯人が、どうなっても、別に構わん」
「結城さんが犯人になってしまう」
「それは、あの人の話や。ほんまに、そんなこと考えとるんやったら、本人は覚悟の上やろ。俺は邪魔する気、ないで」
「そんな」
「ええか、警察官も人の親なんや。もし、うちの子がやられたら」
「そんなこと、言っていいんですか」
「お前も、はよ結婚して子供作れ、そしたらわかる」
「結婚はひとりではできませんから」
「合コン、合コン、婚活や。努力せな、結果は出ん」
「そんな時間どこにあるんですか」
「そこを、根性で乗り切れ。それにしても、お前みたいないい女に誰も気がつかんのは、なんでや」
「楠木さん、それ、褒めてます」
「アホか」
倉沢刑事の胸のざわめきは、楠木のせいで大きくなってしまったが、楠木の言うとおり警察に何かができる訳ではないと自分に言い聞かせた。

真人自身にもどんな結末になるのか見えていないが、用心をして困ることはないと思っている。この六カ月、髪と髭を伸ばして人相を変えていた。簡単に、しかも合法的に入手できる武器はそれほど多くはない。一年間、武器の入手ができない時は、趣味を射撃にするつもりだった。ライフルでもショットガンでも、手続きさえすれば手に入る。だが、銃の場合、問題はその音だった。簡単に使える訳ではない。先ずは、スタンガンを試してみるつもりだった。
大学の四年間は東京にいたが、図書館に用事はあってもガンショップなど無縁の場所だった。警察は購入経歴を五年前まで、遡るのだろうか。多分、店員は何人も変わり、真人の顔を記憶している人間はいなくなるだろう。東京の人口は半端ではない。時間も田舎の何倍ものスピードで過ぎていく。東京は犯罪者にとってはなくてはならない土地だと思う。
二軒の店を回って、四台のスタンガンと四個の手錠を購入した。店員は淡々と仕事をしていて、不審に思っている様子ではなかった。
問題はスタンガンの能力だった。江戸時代にはやった、殿様の試し切りのようなことはできない。自分の体で実験するしか方法はなかった。

秋になって生活が落ち着いてきた頃、結城不動産の望月専務が難しい顔で真人の自宅にやってきた。結城不動産の仕事に何の貢献もしていない真人は、明らかに心拍数が増えていた。仕事は任せておけと言っていた望月だったが、朝子の事件から一年以上にもなるのに、仕事にタッチしようとしない真人に苦言を呈しにきたのだろうか。
「何か」
「真人さん」
望月が真人を社長と呼ばずに、昔のように名前で呼ぶのは、いい兆候ではない。下を向いて言い難そうにしている。たとえ、望月に叱られても生活を変えるつもりのない真人は、対応に窮した。
「実は、我儘言わせてもらいたいんや。娘が帰って来ましてな」
「なっちゃん、が」
「結城不動産に採用してもらいたい、とお願いに来ましたんや」
「そんなことですか。ぜんぜん、問題ないでしょう」
「いや。わしは先代に約束したんや。先代が紹介してくれた婿はんを蹴飛ばして、勝手に行ってしもた娘のこと、二度と家には戻さんとわしは約束した。せやけど、子供連れて帰って来て、仕事が欲しい、言われると、アホぬかせ、出ていけ、とは言えまへん。かっこ悪い話やけど、真人さんに何とか、勘弁してもらいたい思て、来ましたんや」
「親父は、もういません。たとえ、いたとしても、親父なら二つ返事で引き受けたと思いますよ。何の問題もありません」
「おおきに。そない言うてもらえたら、助かります。すんません」
「何があったんです」
「あのアホ亭主。車で事故りましたんや。それも、不細工な、自分で勝手に壁にぶつけてあの世行きですわ。ふらふらしとった男やから、家族に何も残さんと、いてまいよった。奈津子が、うちのやつのとこへ金貰いに来とったんは知らん顔してました。恵子も別れて帰ってくるように言うたらしい。せやけど、啖呵切って出て行った以上、奈津子も帰りにくかったんやろと思てます。パートも人員整理やし。詫び入れて帰ってきよりました」
「よかったじゃないですか。専務、ほっとしたでしょう」
「アホな」
「強がり、言わないで、大切にしてやってください。帰ってきてくれる娘がいる。その幸せを忘れたら罰があたります」
「せやな」
「子供さんは、いくつです」
「まだ、小学生ですわ」
「そうですか」
「お願いついでに、もう一つ」
「専務」
一難去って、また一難なのか。
「実は、うちのが、体調悪うて、検査に行ってますのや」
「恵子さん、どこが」
「まだ、わかりまへん。めまいがきついらしい」
「よくないじゃ、ないですか」
「恵子を、辞めさせても、ええでしょうか」
「もちろんです」
「奈津子では、まだ恵子の代わりはできしまへんけど、ちょっと、休憩させてやらなあかんのかな、思て」
「そうしてください」
結城不動産を望月夫婦に任せっきりにしている真人にも責任はある。真人は背中に汗をかいていた。
「おおきに。わしら、お世話になりっぱなしや。先代に拾てもろて、真人さんにようしてもろて、すんまへん」
「私の台詞ですよ。私は専務に仕事押し付けたままで、申し訳ないと思ってます」
「まさか、おおきにやで、真人さん」
「恵子さん、大事にしてあげてくださいよ」
「おおきに。すぐに奈津子、来させます」
「いいですよ。専務から、採用決定と伝えてください」
「それは、あきまへん。採用は社長の仕事です。社長に採用言われて、初めて社員になれる。そこを外したら、もぐりや」
「はあ。わかりました」
望月が帰って行ったのは五時半を過ぎていた。六時になってチャイムが鳴った。
奈津子と娘の二人がやってきた。望月夫婦は晩婚だったので、真人と奈津子は三歳違いだった。子供の頃は兄と妹のようにして大きくなった。
「なっちゃん。久し振りだな」
「無理なお願いして、すみません」
「とんでもない」
「娘の、香織です」
「向井香織です」
明るい表情で香織が頭を下げた。
「父が、採用通知をもらってくるようにと」
「もちろん。採用です」
「ありがとうございます」
「コーヒーでいいかな」
「いえ。そんなの、社長さんに」
「なっちゃん。やめようよ。昔通りでいこう。まだ、兄のつもりだから」
「ごめんなさい」
「香織ちゃんは、コーヒー、いけるかな」
「はい」
念のために、砂糖とミルクも出したが、香織もブラックで飲んだ。
「おいしい、です」
「よかった」
奈津子にはいろいろな感情が渦巻いているのだろう。まだ、肩が緊張していた。子供の頃、奈津子は「大きくなったら、お兄ちゃんのお嫁さんになる」と言っていた。真人が智子と結婚したので、真人の父親は罪滅ぼしのつもりもあって奈津子の結婚相手を探した。誰かに悪意があったわけではないが、奈津子の心が傷ついたのは事実だった。
「何年になるかな」
「六年。お父さんのご焼香に」
「そうか。六年か」
真人の父親の葬儀には、望月が首を縦に振らなかったので、奈津子は出席できなかった。日を空けて一人で焼香に来た奈津子に会ったのが最後だった。
「なっちゃん。いろいろあっただろうけど、なっちゃんには香織ちゃんがいてくれる。頑張れない訳がない。優しくて、明るいなっちゃんでいなくちゃ」
「はい」
「お父さんから事情は聞いてるだろ」
「はい」
「なっちゃんは、幸せだと、思ってよ」
「はい」
「お母さんのことも、大事にしてあげて欲しい」
「ほんとに、ありがとう。私が真人さんの力になってあげなくちゃいけないのに、迷惑ばかり」
「そんなこと、ない。でも、娘に笑われない親にはならなくちゃ」
「はい」
「お父さん、まだ事務所で待ってるだろう。報告してあげて。採用決定だって」
「はい」
奈津子と香織が帰って行った。香織の生き生きとした様子を見たことで、真人の感情は爆発しそうだった。朝子が生きていれば、この家も明るかったのに。体力増強計画のためにアルコールは卒業したが、今夜はスケジュールを破ろう。
一晩だけと決めた酒が一週間続いた。自分で自分の傷を舐めていた。塩味がした。朝子の涙なのか、自分の涙なのか。苦しい。でも、朝子の苦しみに比べれば。楽になってしまった方がいいのか。浴びるような酒の中で、体中が分解してしまい、頭の中も砕け散ったのか。苦しみの中では、何でもありの思考を止める術はない。もがきながら酒から抜け出した時には、体重が3キロ減っていた。アルコールだけで生きていたのだから仕方がない。
問題は、それまでに築き上げてきたスケジュールが壊れてしまったことにある。それを復元するのには一か月の時間が必要となった。
冬が終わり、春が来ても、真人の表情が明るくなることはなかった。昔から口数の多い男ではなかったが、その寡黙さに危険な臭いがし始めていた。運動のせいで体が細くなっただけではなく、頬も削げて目の力が浮き出ている。優しい目を持っていた癒し系男子の見本のようだった昔の面影は全くない。
突然、内村健太の父親が訪ねてきた。
小学校の学校行事の時に顔を合わせただけで、何年も会っていないし、特に知人と呼ぶような関係でもない。
「ご用件は」
玄関で話を聞いて、帰ってもらおうと思っていたが、内村隆志は体を二つに折る勢いで頭を下げた。真人は内村を応接室に通した。
内村の顔を見たまま、話し始めるのを待った。
「実は、お願いがありまして。結城さんに助けていただきたいのです。厚かましいことは重々承知していますが、あなたしか、頼る人がいません」
真人より十歳以上は年上の、髪の毛も薄くなった男で、眼鏡の奥の目がおどおどしている。
「得意先から不渡り手形をもらってしまいまして、会社の資金繰りが苦しいんです。三日後の残高が足りません。勿論、一時的なことですから、すぐにでもお返しできます。一か月だけ助けていただけませんか。お願いします。この通りです」
内村は椅子を降りて床に手をついた。
「なぜ、私、なんですか」
「えっ」
内村は、旧知の友人から意外な質問を受けて、戸惑っているという表情を見せた。
「うちの健太の証言で、犯人が逮捕されたんですよね」
「はあ」
「うちの子が、黙っていたら難しかったんじゃないですか。健太は犯人の報復を恐れずに証言したんです。お譲さんの無念を晴らしたと思いますが」
「いくら、必要なんです」
「はい。二千万でいいんです」
「このことは、健太君も承知ですか」
「は」
「どうなんです」
「いえ。健太には、言ってません。大人同士の話ですから」
「それでは、健太君にこのことを話して、彼がここへ来るなら、考えましょう」
真人は、朝子の自殺の原因が健太にあると思っている。その想いを本人に直接ぶつけたことはないので、いい機会だと思った。健太はどんな弁明をするのだろう。
「二時間だけ、待ちます。出かけますので」
赤の他人に借金を申し込むということは、金策のレベルとしては最終段階にあると思われる。少しでも可能性があるのなら、どんなことをしても金を引き出したいと思う。内村は慌てた様子で帰って行った。
健太は来ないかもしれない。法廷で真人を避けていた様子では、自分の行動が不適切だったことを認識しているように思えた。真人は簡単な夕食を作って食べた。
約束の二時間が過ぎて、やはり来なかったと思った時にチャイムが鳴った。
「用件は」
玄関で青白い顔で固まっている健太に問いかけた。
「おじさんの所へ行くように、言われました」
「だから、用件は」
「わかりません」
「お父さんに、用件を聞いてきなさい。一時間だけ待つと」
「はい」
そして、一時間後に、更に青白い顔になった健太が玄関に来た。
「用件は」
「おじさんが、二千万円貸してくれるからと」
「どうして」
「えっ」
「どうして、私が」
「わかりません」
「お父さんは、君のおかげで、犯人が逮捕されたのだから、金を貸せと言ってる」
「えっ」
「君は、朝子が、どうして自殺したと思ってる」
健太は顔を伏せて、返事をしなかった。
「君にはわかっている。そうだな」
「はい」
「お父さんに、そのことは話したのか」
「いいえ」
「私が、君のお父さんに金を貸す義理があると、思うか」
「いいえ」
「私は、君を許してはいない。朝子も、たぶん、そうだろう。断られた理由をお父さんに説明しなさい」
「はい」
真人は仏間に入り、朝子に報告した。朝子の本当の気持ちを知ることはもうできない。真人の独断に対して、朝子は怒るかもしれない。生き残った人間の勝手な憶測に苦笑いをしているのだろうか。朝子がこの世に残した想いは、どうやって知り、どうやって消してやればいいのだろうか。真人の独断と偏見は、朝子の想いと大きく乖離しているのだろうか。だが、自問自答の最後には、朝子のあの苦しそうな顔が浮かんでくる。
一か月ほど過ぎ、内村一家は夜逃げをしたという情報を望月が持ってきた。しばらくは債権者が押し掛けてきて騒然としていたらしい。

真人は梅田のホテルに来ていた。ビジネスホテルだから人の出入りも多く、フロントの人間だけではなく客も他人を気にしていない。探偵社の甲斐雅子との打ち合わせはホテルを利用していた。真人の宿泊室に来てもらって、千葉直樹の関係者の情報変更を報告してもらい、顧問料を支払う。甲斐雅子は情報量が少ないのに、顧問料をもらい難いと言っているが、感謝していると深々と頭を下げる。時間をかけて貸しを作る。これが、真人の目的だった。こうやって、甲斐雅子と仕事をしてみると、ここまで用心する必要はなかったのかもしれないと思うが、最後の最後に裏切られたら全てが台無しになってしまうと、あの時は考えた。真人との人間関係ができ、法外な顧問料を受け取っている甲斐雅子が裏切ることはないだろう。一番危険な時に近くにいる関係者は甲斐雅子になる。誰にも知られることのない関係者でいてもらわなければならない。
「別件でも、何かあれば言ってください」
「わかってます。もう少し、頑張ってください」
「はい。ありがとうございます。これで失礼します」
甲斐雅子は半年分の顧問料である三百万円をバックに仕舞った。
「下まで一緒に行きましょう」
「えっ。いいんですか」
「大丈夫でしょう」
真人は眠れない夜のための本を仕入れておくつもりだった。不眠とはもう親友になっている。アルコールに代わるものが必要だった。
「結城さん」
二人で部屋を出たとたんに、声を掛けられた。
「恩田さん」
フリージャーナリストの恩田敬一郎だった。
「私は、ここで失礼します」
甲斐雅子は気を利かせて、去って行った。
「まずかった、ですか」
「いえ、別に」
「こんなとこで、会えるとは思いませんでしたよ」
「恩田さん、元気そうですね」
「そうでも、ありませんがね」
「そうなんですか」
「結城さんに電話しようかどうか、迷ってたんです。結構、これでも気の弱い男でしてね」
「知ってますよ」
「えええ」
「中で話しましょうか」
恩田に口止めをしておかなければならない。真人は自分の軽率な行動を呪った。甲斐雅子は化粧をしていないので、狭い部屋でも匂いは残っていないだろう。
「あの人のことは、忘れてください」
「もちろん」
「結婚するかどうか、わかりませんから」
「はあ」
「・・・」
「何か、あるんですか」
「どうして」
「変ないい訳、するから」
「えっ」
「結城さんが、こんな安ホテルで、デートしないでしょう」
「・・・」
「いいです。忘れました」
「すみません」
「結城さん、変わりましたね。最初、別人かと思いましたよ」
「そうですか」
「細くなったと言うか、怖くなったと言うか」
「そうですか。歳とったんですよ」
「そうですかね」
「苦しみが大きいと、時間の流れが速いんです」
「そう言われると、一言もありませんけど」
「それより、私に何か用が」
「ああ、弱ったな。まだ、悩んでるんです」
「何を」
「怒りませんか」
「私が、怒るようなことなんですか」
「まあ」
「じゃあ、聞かないことにします」
「いや。話します」
変な奴だが、やはり憎めない何かを持っている男だと思った。
「一か月ほど前に、あの話をしたんです」
「ほう。記事にしたんじゃないんですか」
「ええ。他の記事にそれとなく、もぐり込ませようかな、と思って。感蝕を探るために、学生時代の友人に話したんです」
「ええ」
「その男、職業、何だと思います」
「さあ」
「検事、やってます。東京地検ですけどね」
「それは」
「やばい、でしょう。だから、ノンフィクションやめて、サスペンス作家になると言ったんです。信じてませんでしたけどね」
「ええ」
「最初は、僕のこと、馬鹿にしたような顔で聞いていましたけど、最後はマジ顔になってました。金さえあれば、実現可能だと言うことに気づいたようです。忠告されました。他所でその話はするなと言われましたよ。僕が難しい立場に立つことになるって」
「でしょうね」
「もちろん、結城さんの名前は出してませんし、大阪の話だとも言ってません。大丈夫ですよ。東京の人間は、この世は東京だけだと思ってますから、地方の事まで考えません。でも、記事にするのは、中止しました」
「そうですか」
「多分、あいつにも娘がいるんだと思いました」
「そう」
「結城さん、怒ってます」
「いえ」
「やっぱ、怒ってますよね」
「怒ってません。私が言ったという証拠はありませんよね。私の名前を出せば、名誉棄損で訴えられるかもしれない」
「れれれれ。それはないでしょう」
「それとも、佐藤組を証人にしますか」
「まさか」
「恩田さんには、何のメリットもない。違いますか」
「いえ。違いません。言いませんよ、結城さんのことは」
「自分のこと、もう少し大事にしないと」
「ふぅ」
恩田は大きな溜息をついた。
二人で食事に出て、恩田の仕事の話ばかりをした。
「あの計画、やりませんよね」
恩田は別れ際に真剣な目で聞いてきた。
「まだ、決めてません」


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復讐 -1 [復讐]



 東大寺二月堂修二会、そのお水とりの行事が終わると春が近いと言われる。これは、奈良人だけではなく広く知られていることだが、実際には春分の日を過ぎるまで冬は終わらない。娘の朝子が中学を卒業したのは、お水とりと春分の日の中間だった。四月から高校生として通学を始めるまでの期間、朝子の弁当は作らなくてもいい。目覚まし時計も三十分遅らせてあるし、布団の温もりを楽しむ時間もある。それでも、朝食は作らなければならない。結城真人は、意を決してベッドから出て、着替えた。
食堂に灯りがあり、昨夜消し忘れたのかと思った。
「朝子」
「おはよう」
「何、やってんだ」
「見ればわかるでしょ」
「だから、なに」
「父さんの、お弁当」
「はあ」
三年前に妻の智子が急性心不全で他界し、娘の弁当は真人が担当してきた。朝子が中学の卒業式を終えたので、暫くは弁当担当から解放されたという安堵感。いや、娘の成長に対する安堵感かもしれない。その朝子が、突然、父親の弁当を作っていると言う。
「大丈夫か、朝子」
「なにが」
「何か、あったのか」
「もう」
「父さんは、会社の食堂で食べると、言ったよな」
「いいから。父さんは、顔洗って、歯磨いて、新聞取ってくる」
「ん」
智子が生きていれば、娘の行動を解説してくれただろうが、思春期の娘の心の振幅をつかみきれない自分を真人は認識している。子供だと思っていると子供でなかったり、大人だと思うと子供だったり。女の子の体験がない父親にはわからない部分があった。必死で母親の役もこなそうとしてきた三年間だったが、いたるところに限界があった。そんな心の動揺を見せないように、大人の振る舞いをしてきたつもりだが、それが成功していたのかどうかはわからない。今朝も心の中がザワザワしている。自分の子供が自分の手中にいないような不安感があった。
朝子の指示に従って、洗顔と歯磨きを終えて玄関を出た。寒さで引き締まった空気が肌を刺す。玄関から郵便受けまでは少し距離があり、冬場は苦労する。近くを近鉄電車が走っていて、乾いた音が聞こえてきた。
真人は食堂に戻る前に仏間の引き戸を開けた。カーテンが開けられていて、線香の匂いが残っていた。朝子がもう智子に会ってくれたようだ。
「朝子が弁当、作ってくれてる」
線香に火をつけながら、亡くなった妻の写真に話しかけた。
食堂に戻り、テレビの電源を入れて、新聞を開いた。昨日まで一家の主婦役をやっていたせいか、お父さん役はどこか居心地が悪い。
真人は台所で料理に没頭している娘の方に視線を泳がせながら、新聞を読んだ。
二十分ほどで食卓の上に朝食が並んだ。
「食べよう」
「ん」
出し巻きたまごがいい味になっていた。
「うまい」
「でしょう」
「今日は、父さんの誕生日じゃないよ、な」
「うん。卒業したから」
「卒業記念のサービスデー」
「違う、違う。今日から、私がシェフ」
「は」
「もう、高校生なんだからね。いつまでも、父さんの世話になってるわけにいかないの」
「は」
「料理だけね」
「ああ」
「小村さんには、今まで通りやってもらうつもり」
朝子が小村さんと言ったのは、通いで来てくれている家政婦さんで、買い物と掃除、そして洗濯をお願いしている。料理は土日に二人で作る保存食と、真人が簡単に作る朝食と弁当で三年間やってきた。満足のいく食生活とは言えなかったが、父子家庭としてはそれなりのものを食べさせていたと自負している。
「でも、休みの日は、食べに連れていってよ」
「ん」
「お味噌汁の味、どう」
「ああ、うまいよ」
「よかった」
妻の智子は真人に似て静かな女だった。だが、娘の朝子は子供の頃からひまわりのように明るい子だった。真人の祖母が元気で明るい人だったから、隔世遺伝というのかもしれない。朝子が部屋に入ってくるだけで部屋が明るくなると智子が言っていた。真人も智子も、控えめで大人しい性格だったから、朝子のいない時は「疲れるな」と二人で陰口を言ったこともあった。でも、智子が亡くなってからは、朝子の明るさに助けられてきた。
真人は朝子が作ってくれた弁当を持って家を出たが、嬉しさ半分と寂しさ半分という複雑な気持ちだった。
真人はS電気の研究所に勤務している。大学時代の専攻は数学で、大学院に残らないかという話もあったが、個人的な理由でS電気に就職した。卒業を待って智子と結婚することになっていたし、父親の入院があって奈良に戻らなくてはいけない事情を抱えていた。さらに、智子は東京の人間だったが、奈良に住みたいという希望を持っていた。
親の転勤で中学の時に奈良に来た智子は奈良の魅力にとりつかれ、高校時代に郷土史研究会で真人と出会った。東京で同じ大学に通っていたが、智子の奈良に住みたいという一言が真人の行動を決めたと言ってもいい。
就職する必要もなかったが、どこにでもあるような家庭で子供を育てたいという智子の希望があってサラリーマンになった。だから、真人にとっては会社が一番ではなく、家族が一番大切な存在だった。出世には関心がないというより、権力や金銭に執着を持てない平和な性格のせいかもしれない。他人は真人のことを「ぼんぼん」と言っているらしい。S電気に勤めるサラリーマンという立場と結城不動産の代表という立場を持っているのだから、世間の評価の方が正しいのだろうが、本人にそんな意識はない。世間のお父さんと同じように決まった時間に真面目に出勤し、全力を出して仕事をする。ただ、他の人より退社時間は早いし、付き合いで飲みに行くこともなかった。今は、何よりも娘の朝子のことが大事だった。朝子の結婚ということを考えない訳ではないが、まだ中学生だからという言い訳を楯にして考えないようにしているのは事実だった。結城のDNAは早婚が多い。真人も22歳で結婚した。それは早世の家系だからなのかもしれない。早く子孫を残さなければならないという防衛本能が働いているとのではないだろうか。

土曜日は大阪で買い物をした。大きな書店で本を仕入れ、デパートで紳士用品と婦人用品の売り場に分かれ、最後はデパ地下で買い物をする。この一年は行動パターンが決まっていた。それまでは婦人用品売り場にも連れて行かれていたが、真人は婦人用品売り場の居心地が苦手だった。
買い物から帰って、夕食用に買ってきた寿司を食べて、一日のスケジュールが終わる。
「父さん」
「ん」
「私、作家になる」
「えっ。新聞記者じゃなかったのか」
「作家」
「今からは、衰退産業だぞ」
「新聞だって、一緒でしょ」
「まあ」
「とびきり明るい小説が書きたい」
「明るい小説ね」
「父さんが読んでるのは、いつも暗いよね」
「そうか」
「そうよ。性格、暗くならない」
「元々、暗いから」
「明るい読み物、読んだら、明るくなれるのに」
「多分、父さんは、無理」
「どうして」
「父さんは暗い人だから、暗い方が安心する」
「そうかな」
「高校では、新聞部じゃないのか」
「新聞部は続けるよ。いろんなことができるから」
朝子は、小学校の頃から新聞を作ることに情熱を燃やしていた。何人の生徒が読んでくれているのか疑問だったが、小学校の時から将来の夢は新聞記者だった。新聞記事を書くのだから、書くことは嫌いではないのだろうが、作家とは飛躍したものだ。
「この前、新人賞に応募したんだ」
「へっ」
「全然、駄目だったみたいだけどね」
「へえ」
「私、何度でも、挑戦するよ」
「んん」
どう反応すればいいのだろう。気の利いた言葉は浮かばなかった。やはり、自分は暗いのかなと思ってしまった。娘がどんどん大人になっていく。覚せい剤に手を出しましたとか、子供ができたと言われるよりはるかにいい。親は応援するだけだ。
金曜日に帰宅すると、食堂は宴会のような騒ぎだった。そう言えば、お別れ会をするのだと朝子が言っていた。
「お邪魔してまーす」
一斉に声をかけられて、真人はおもわず頭を下げてしまった。手巻き寿司パーティだと言っていたが、既にケーキが並んでいた。
「ごめん。父さん、自分の部屋で食べてくれる」
「ああ」
「すぐに持って行くから」
「ん」
真人が自分の部屋で着替え終わった頃に、大きなお盆に手巻き寿司の材料を乗せた朝子がやってきた。
「こんなに、食べれないぞ」
「残していいわよ。あと、お茶、持ってくる」
「ん」
手洗いをして、部屋に戻り、手巻き寿司を食べ始めたが、あまり美味しくない。手巻き寿司は、大人数で競争しながら食べるから美味しかったのだということを知った。
成績がよかったり、美人だったりすると友達ができないというのが相場だが、朝子には友達が多い。明るいだけではなく、繊細な気配りができる女の子で、親よりはるかに繊細な神経の持ち主だと思ったことがある。親は勝手に娘が美人だと信じているが、一般の評価では美人の部類に入っていないのだと本人が言っていた。
八時にパーティが終わり、子供たちが引き揚げていった。自分の部屋にいても、家中が静かになったように感じる。
食堂には朝子と親友の内村健太の二人が椅子に座っていた。
「お邪魔してます」
「健太君。大変だったろう」
「いえ。楽しかった、です」
朝子には健太を顎で使うようなところがある。男の子なのに、健太はそれを喜んでやっている節があった。多分、今日もこき使われたのだろう。近所に住んでいて、二人は幼稚園から中学まで一緒だった。ずっと同じクラスだった訳ではないが、二人の友情は続いていた。高校も同じ高校に行くので、ここまでくれば腐れ縁と言ってもいい。これで、同じ大学にでも行ったら、結婚してしまうのかもしれない。朝子にはそんな様子も見える。
「ご飯、足りたのか」
「炊飯器持参で来てくれた子が三人いたから」
「ああ。炊飯器一つでは無理だもんな」
「健太君の計画は完璧だったのよ。具もご飯も完食」
「へえ」
「たまたま、うまくいっただけです」
「そんなことないよ」
男は褒めて使うべし、という真理を小さい時から実践してきた朝子の言葉に不自然さはない。男は何も気づかずに、必死に役目を果たそうとする。恐るべし女の術。健太は幸せそうな顔をしている。
「ほんとに、卒業したみたい」
「僕も、そう思う」
一大イベントを終えた二人の表情は満ち足りていた。

四月になり、朝子は高校生になった。高校の制服を着ると高校生に見えるし、表情も大人びてきた。朝子の成長を感じる度に、智子にもそんな朝子を見て欲しかったという気持ちが湧いてくる。少しづつ少女の殻を抜け出す毎に美しくなっていくと感じるのは親の欲目なのだろうか。
夏休みになったが、塾には行かないと言って、校内新聞の特集記事に熱中している。郷土史の特集らしい。高校時代に真人と智子も郷土史に熱中した時があった。受験勉強が忙しくなって熱中できたのは一年だけだったが、真人にとっては大切な、そして輝くような青春だった。
難波宮の取材だと言って大阪の博物館へ朝子と健太は出かけて行った。
真人は六時半に会社を出て帰路についた。五年前に買った愛車は一度も故障することなく走り続けている。エンジン音にも異常がない。混雑するG駅前を通り抜けて自宅に向かった。真人の家の前に回転灯をつけた救急車がいる。何があったのか。近づくとガレージの前にも車両があり、その車が邪魔になってガレージに入ることができない真人は、その後に車を停めた。救急車の中から無線の声が聞こえ、門扉が開け放たれている。真人の家で何らかの異常が発生していることは明らかだった。真人は門を抜けて走った。
玄関戸も開けられたままになっていて、中から人声が聞こえる。
目の前に大柄な男が立ち塞がった。
「結城さん、ですか」
「はい。何があったんです。あなたは」
「私は、奈良西署の楠木と言います」
楠木と名乗った男は警察バッヂを開いて見せた。
「警察」
「落ち着いてください」
「落ち着いてますよ。何があったんです」
「お嬢さんが、自殺を」
「朝子が。まさか」
「救命処置をやってもらいましたが、まだ蘇生しません。今から病院に搬送します」
「馬鹿な」
男を押しのけて玄関ホールに入って、壁にぶち当たったように止まった真人の前に担架に乗せられている朝子がいた。救急隊員と思われる男が二人、担架の両端にいる。朝、出かけた時と同じジーパンとTシャツを着ている。
「朝子」
「あ、さ、こ」
「あさこおお」
真人は朝子の肩を両手で持って揺すった。
唇の片端が腫れて歪んでいる。こんなに苦しそうな顔をした朝子を見るのは初めてだった。
「お父さん。ともかく、病院へ運びましょう」
楠木と名乗った刑事が真人の体を引きはがした。
「どうして」
真人は刑事の顔を見た。
「わかりません」
救急隊員が担架を持ち上げた。
「お父さんも、一緒に病院へ」
少し離れた場所に内村健太と大柄な女が立っていた。なぜ健太がそこにいるのか不思議に思ったが、真人は担架の動きに合わせて玄関を出た。
救急車がサイレンを鳴らして動いた。
真人は朝子の顔から目が離せない。「なんで」「なんで」と言う想いだけが頭の中を駆け回っている。病院に行けば、朝子は目を覚ます。
「朝子。がんばれ。もう少しだぞ」
長い時間かかって、やっと病院に到着した。
ストレッチャーになった担架は病院の廊下を駆け抜けた。真人は朝子の名前を呼びながら、ストレッチャーの横を走った。
看護師に阻止されて、部屋の外に置き去りにされた。誰もいない。朝子が運び込まれた部屋の前を右に左に歩くことしかできない。
頭の中では「なんで」が渦巻いている。
楠木刑事がやってきた。
「なんで」
「まだ、わかりません」
「なんで」
楠木刑事は、それが真人の独り言だと気付いて口を閉じた。
「なんで」
朝子が消えていったドアに耳を押しつけて中の様子を窺う。部屋の前を歩き始めた真人を見て、楠木刑事は壁際によけて真人の自由にさせた。楠木刑事にも娘がいた。まだ、小学生だが、娘を失った男親の気持ちはわかるつもりだった。「わかってないのかもしれん」と思って楠木刑事は首を横に振った。
気の遠くなるような時間が過ぎて、ドアが開けられた。実際には三十分ほどのことだったが、真人には時間の感覚がなかった。
「先生」
真人は、部屋から出てきた医師らしき男に詰め寄った。
「申し訳ありません。死亡を確認しました。残念です」
「馬鹿な」
真人は部屋に飛び込んだ。半裸状態の朝子に看護師が布を被せていた。
朝子の傍に行くまでに、真人は楠木刑事の太い腕で抱きとめられた。
「あさこお」
真人はあらん限りの力で暴れた。
「はなせえ」
「結城さん。落ち付いて」
「おあああ」
真人は叫び声をあげた。それは、火事場のクソ力だった。体力的には勝ち目のない真人が楠木刑事を振り払って、看護師を突き飛ばして朝子の体にすがりついた。突き飛ばされた看護師の腕から出た血が床を赤くした。楠木刑事が真人の体を持ち上げるようにして投げをうち、床に抑え込んだ。今度は楠木刑事も本気だった。それでも、真人は暴れた。「朝子を死なすわけにはいかない」という一念だけだった。医師が看護師から受け取った注射器を真人の腕に射した。
少し時間がかかったが、真人の体が動かなくなった。床に投げ出されて怪我をした看護師の手当も終わった。
「申し訳ありません」
楠木刑事が医師と看護師に頭を下げた。
「あなたは」
「奈良西署の楠木と言います」
「警察の方でしたか」
「この怪我、どうしましょう」
「三井さん。どうします」
「大丈夫です。ちょっと、すりむいただけです」
「そうですか。ありがとうございます」
楠木刑事は看護師に頭を下げた。楠木刑事が悪いわけではない。
「先生。この薬は何時間ぐらいでとれますか」
「三時間ですかね。人によりますけど」
「この子の親なんです。多分、事件になりますので、事情を話さなければなりません」
「部屋が用意できるかどうか」
「いえ。また暴れるといけませんので、署に連れて行きます」
「事件ということは、変死扱いですね」
「はい。解剖の手続きをとります」
「わかりました」
「それと、監識の人間が来ます。しばらく、ここを借りますけど、いいですか」
「いいですけど、別の急患が来たら、部屋移ってもらいますよ」
「はい。よろしく」

真人が目を覚ましたのは深夜だった。畳敷きの広い部屋だが、どこなのかわからない。
「気がつきましたか」
「・・・」
真人は起き上がった。体中の痛みに顔をしかめた。
「痛いですか」
「ここは」
「西署の道場です」
「朝子は」
「病院です。司法解剖させてもらいますので」
「解剖」
「はい。事件になりますから」
「事件」
「ええ。私の話、聞いてくれますか」
「事件」
「そうです。大丈夫ですか」
「朝子」
真人は痛みに耐えて立ち上がった。
「結城さん。また、暴れるようだと、拘束しなくてはなりません。落ち付いてください」
真人は膝を折って、その場にしゃがんだ。朝子の苦しみの顔が浮かんだ。病院で医師から朝子の死亡宣告を受けたことも思い出した。朝子が死んだ。死んでしまった。
目の前にいる刑事が朝子を殺したわけではないのに、掴みかかって殺してやりたいという衝動がある。自分の体が震えている。刑事は、事件だと言った。
真人は放心状態から戻ってきた。
「事件、と言いました」
「はい。落ちつきましたか」
「話、聞かせてください」
「わかりました。下の部屋に行きましょう」
まだ数時間しか過ぎていないのに、真人の顔は憔悴で黒く変色していた。朝子が死んだことは感情としては認めたくないが、理性では受け止めている自分がいる。苦悩というものは、自分の中で全く相反するものが戦っている状態なのだと、何かで読んだ記憶がある。真人の中では感情が渦を巻いて暴れていた。
小さな会議室に案内され、言われた場所に座った。
ドアが開いて、背の高い若い女性が入ってきた。お茶のペットボトルを真人の前に置いて、「倉沢です」と名乗った。真人の自宅で内村健太の横に立っていた女性のようだ。
お茶を目にしたことで、真人は自分の喉の渇きに初めて気づいた。
「いただきます」
一気に半分ほど飲み、大きく息を吸った。二人の刑事を見た。それまでは漠然とした警察官という実態のないものとしか感じていなかった刑事を生身の人間として認識できるようになった。楠木は上背も体重も申し分ないほどの体育会系の男で、首が短いところは柔道選手として活躍したであろうと思われる。倉沢という女性刑事は真人よりも数センチは高い均整のとれた三十前後の女性だった。二人に共通しているのは、その目の鋭さだった。
「結城さん。警察官が公務員だということはご存じですよね。公務員というのは報告書を山のように書かなければならない職業なんです。本題に入る前に、いろいろとお聞きしなくてはなりません。ご理解、いただけますでしょうか」
真人は頷いた。
「ありがとうございます」
氏名、年齢、住所、家族構成、勤務先、朝子の年齢と学校名。楠木が報告書に必要とされる項目を淡々と質問し、倉沢刑事が書類に書きとっていく。
「内村健太さん、ご存じですよね」
「はい」
「どういう方ですか」
「朝子の友人です」
「かなり、親しい」
「はい。幼稚園から高校まで一緒で、よく遊びに来ます。身内同然の親しい友人です」
「今日も、一緒に出かけられた」
「そう言ってました。二人で大阪の博物館に行ったはずです」
「その内村さんが、119番通報をしてくれました」
「そうですか」
「彼に鍵を渡していましたか」
「いいえ。でも健太君なら、スペアキーの場所を知っているはずです」
「ええ。彼はガレージのドアをスペアキーで開けて入ったと言ってます」
「はい」
「彼は玄関のオートドアの操作も知っていました。そのくらい親しい友人ということですか」
「はい」
「彼の話では、大阪城の近くで男に襲われて、彼もお嬢さんも殴られたそうです。そして、内村さんは手錠を使って木に縛られ、お嬢さんは乱暴されたそうです」
「何時頃、ですか」
「二時ごろ、だそうです」
「真昼に、ですか」
「はい。お嬢さんに言われて、二人はタクシーで家まで帰ってきたそうです。一人になりたいと言われて、内村さんは自宅に戻ったそうですが、心配になって様子を見に行ったと言っています」
「はい」
「家に戻ってきたのが四時半頃で、内村さんが様子を見に行ったのが六時半頃だそうです。救急隊員の話では、自殺後、一時間は経過しているだろうと言っています。ですから、心肺蘇生は難しかったそうです。通報した内村さんがレイプと言っていたので、警察に連絡が来て、我々が行きました」
「はい」
「お父さんが帰って来られたのは、その後です。内村さんには、ここに来てもらって詳しい状況をお聞きしました。相手の男の人相も車のナンバーも証言してくれました。既に、手配済みなんですが。ご存じかと思いますが、強姦は親告罪なんです。被害者の告訴がなければ事件にはなりません。お嬢さんが亡くなられているので、お父さんが代わりに告訴していただければ、事件になり、我々は捜査をすることになります」
「はい」
「現場の保存も必要ですし、少し、急いでいます。無理にここまできていただいたのは、そのためで、結城さんの心痛を無視しているわけではありません。ご理解いただきたいわけで。どうされますか。お嬢さんの名誉のために、告訴しないというご家族もおられます。我々が無理強いすることはできません」
「もちろん。告訴します」
「そうですか。明日、一番で、内村さんには現場に行ってもらいます。情報は揃っていますので犯人逮捕は時間の問題だと思っています。もし、よければ、この後、被害届けを出していただけますか」
「はい」
真人は被害届けを出し、警察が預かってくれていた家の鍵と車のキーを受け取ってサインをした。深夜を過ぎていたが倉沢刑事が車で送ってくれた。
「私にできることがあれば、言ってください」
「ありがとうございます。大丈夫です」
「そうですか。ご遺体の引き取りについては、連絡させていただきますので」
「はい」
真人は倉沢刑事の車を降りて玄関の前に立ったが、何をすればいいのか、思いつかない。倉沢刑事が車から降りてきた。
「車のキーを貸してください。ガレージに入れます」
真人は手に持っていたキーを渡した。倉沢刑事が車を車庫入れする様子を眺めるだけだった。玄関の鍵を開け、家の中に入ったのも倉沢刑事に言われるままに従った。
「結城さん。ほんとに、大丈夫ですか。誰か、来てくれる方はいませんか」
「大丈夫です。ありがとう」
大丈夫でないことは自分でもわかっている。頭の中がパニックになっていることも承知していたが、どうしようもない。痛みも、苦しみも、悲しみも、怒りも、全部一人で背負わなければならない。
倉沢刑事が帰った後、真人は仏壇の前に座った。先ず、智子に謝らなくてはならないと思った。娘を守ってやれなかったことを謝らなくては。
真人は、仏壇の前に座り続けた。真人の中で時間は止まっていた。
夜が明けても、動けなかった。
どこかで、電話の呼び出し音が鳴っていたが、何をしたらいいのかわからない。
十時になって、家政婦の小村が仏間に来たが、顔は知っているが名前を思い出せなかった。しばらくして、望月夫婦が部屋に来た。望月康夫は結城不動産の専務取締役をお願いしている父の代からの番頭だった。
「社長」
全く反応しない真人を見て、三人が部屋を出ていった。三人には何が起きたのかわかっていない。
「電話が鳴りっぱなし、なんです」
家政婦の小村が、そう言った時に電話が鳴った。
「はい。結城ですが」
専務の望月が電話に出た。S電気からの電話で、無断欠勤で困っていると言う。望月にも事情がわからないので、わかり次第、連絡をすると言って電話を切った。
受話器を下ろすと、すぐに電話が鳴った。
「はい。結城です」
「あなたは」
「結城不動産の望月ですけど、おたくさんは」
「結城さんに、何かあったんですか」
「それが」
「結城さんに、電話に出てもらえますか」
「おたくさんは」
「あっ、失礼。私は奈良西署の倉沢と言います」
「警察。警察がなんで」
「結城さんは」
「なんも、言いませんのや」
「無事なんですか」
「無事って、どういうことです」
「何も、ご存じないようですね」
「どないなってますのや」
「詳しくはご説明できませんが、昨日、お嬢さんの朝子さんが自殺をされました。昨日、結城さんを送って行ったのは私なんですが、様子が心配だったんです。今日は非番ですが、夕方に一度行きますから、結城さんをお願いします」
倉沢はそれ以上詳しいことは言わなかった。
望月は食堂の椅子に座り込んだ。
「なんやて」
望月の妻の恵子が、望月の横の椅子に座って聞いた。
「警察や、あっちゃんが、自殺やて」
「あっちゃんが」
恵子と小村が息を呑んだ。望月夫妻は朝子が生まれた時から朝子を可愛がってきた。朝子も二人をほんとの叔父叔母と慕ってくれていた。それよりも、二人は父親である真人の朝子に対する愛情を知っていた。もし、ほんとに朝子が自殺したというのなら、真人の様子は納得できるが、朝子と自殺は結びつかない。
「警察は、どない、言うてんの」
「自殺したとしか、言わへん」
「あほな。あっちゃんに限って、そんなこと」
「わしも、そう思うけどやな、真人さんの様子がな」
「うん」
「夕方に警察の人が来てくれるらしい。わしは、会社に戻るけど、お前はここにおれ。もし、警察の言う通りやったら、真人さんは、今、どん底におるんや。先ずは体力や。無理矢理でもええ。何か食べささなあかん。水分補給もせなならん。わかるか。二人で知恵絞って、なんとか食べさせるんや」
「せやな。わかった」
三人にとって結城真人は大切な人だった。生活のためだけではい。集団の中心にいる人物にはそれだけの存在価値がある。

望月康夫が取り仕切って、朝子の葬儀が五日後に行われたが、真人は出席しなかった。親族が一人もいない葬儀は珍しい。結城朝子の親族は真人しかいない。結城の血筋はそれまでも細々と繋がれていたのに、唯一の子孫である朝子が死んでしまった。学校関係者には事件を理由に参列を断ったので、参列者は近隣の住人だけだった。
一週間、真人は仏間から出てこなかった。望月恵子と小村舞子の努力にも関わらず、真人はほとんど食事を摂らなかった。痩せ細り、目だけが不気味に光る男になっていた。
真人の希望で、望月は真人の代理としてS電気に辞表を持って行った。会社側は落ち着くまで待つから辞表は受け取れないと言ったが、望月は無理に預けてきた。

奈良で朝子の葬儀が行われていた日に、大阪箕面署が公務執行妨害の犯人として千葉直樹という22歳の男を逮捕した。結城朝子強姦容疑で内偵していた千葉直樹に職務質問をしたところ、暴れて刑事の前歯を折る怪我をさせたためだった。奈良県警にも正式の連絡がきたが、柔道の近畿大会で楠木刑事の好敵手となっていた箕面署の安達巡査部長からプライベートな連絡も入り、楠木と倉沢の二人は取り調べに参加することになった。本人は強姦に関しては否認しているらしい。DNA鑑定が出る日を待って二人は箕面署に出かけた。
千葉直樹は180センチの堂々とした体格の持ち主で、刑事に怪我を負わせた腕力は頷ける。ただ、顔には凶暴な男特有のふてぶてしさがあった。誰が見ても、喧嘩相手にはしたくないと思うだろう。取り調べ室でも、全く臆する素振りは見せないらしい。
「三日の日、神戸に行ってたと、言ってたよな」
「そうだっけ」
「そう記録されてるけど、違うのか」
「忘れた。そんなん」
「大阪城近くの病院駐車場には行ったことがない、と言ってたが、それも忘れたか」
「ああ。忘れたな」
「そこで、アベックを襲って、強姦したろう」
「さあな」
「駐車場で、お前の体毛が出てきた。なんで、お前の毛が、そんなとこから出てくるんだ」
「知らん」
「お前、女を強姦して、中に出したろう」
「だから、知らん、言うとる」
「だったら、なんで、お前の体液が女の子の体から出てくるんだ」
「さあ」
「DNAが一致した。DNAをなめたらあかんで。今じゃ立派に証拠になるんや」
「知るか」
「アベックの、男の方を憶えてないか。面通しで犯人はお前やと言うとる」
「あの、アホが。チクったのは、あのガキか」
「やったんやな」
「あんたら、字を間違えとるな。あれは、強姦と読まずに和姦と読むんや」
「強姦とちゃうのか」
「和姦や。いいケツしとったから、教えたろ、言うたら、自分でケツ出したんや」
「殴ってか」
「あれ、刑事さん。なんも知らんな。喜ぶ奴がおるんやで」
「男を手錠で繋いどいてか」
「手錠。なんじゃ、それ」
「男が騒がんようにしたんと、違うんか」
「あほ、言いなや。あいつ、車の中から涎たらして見とったんやで」
「けど、やったのは、やったんやな」
「せやから、和姦や、言うてるがな。この前、あの女自殺した、言うてたな。生きとったら、証言できたのにな」
「そんな言い分通るか」
「合意の上の、行為や。あの女に聞いてみいや。悦んどいて、自殺なんかされたら、かなわん。俺がまるで強姦犯みたいや」
一日中、千葉直樹は強姦を認めなかった。
奈良西署の二人は暗い表情で帰路についた。
「楠木さん。どうします」
「何を」
「内村健太の証言」
「ああ、あれな。どうしょうもないやろ」
「被害者の親には、言っといた方がいいと思いますけど」
「わざわざ、言わんでもええやろ」
「でも、公判になったらわかりますよ。手錠の話はあの男が言ってることの方が説得力ありますよ。自宅にガサかけても、手錠は出てこないでしょう」
「そん時は、そん時や」
「あの子も、なんで、あんな嘘つくんですかね」
「誰でも、自分がかわいい。しゃあないやろ。新聞部の取材でも、あの二人にとってはデートやったやろ。連れの女を守れんかったんや。嘘もつきたくなる」
「はあ」
「あの親は、だいぶ痛んどる。今、傷の上に塩塗る時と違うで。いずれ、わかるかもしれんが、わしらはあの子の証言をゆがめて伝えたわけと違う。余計な事を言わんだけのことや。違うか」
「いえ」

暗く沈んだ結城邸を楠木刑事と倉沢刑事が訪れて、初めて真人が仏間を出た。
「結城さん」
二人の刑事は真人の様子をみて絶句した。別人に見えた。
「大丈夫なんですか」
倉沢刑事が恐る恐る声をかけた。
「はい」
「結城さん。今日は犯人が逮捕されたことを、ご報告に来ました」
「はい」
「大阪の箕面署が公務執行妨害の罪で千葉直樹という男を逮捕しました。まだ、自供はしていませんが、物的証拠から犯人に間違いないと思います。大阪南署から、強姦罪の逮捕状も出ました。いずれ、起訴されると思います」
「ありがとうございます。これで、娘に報告できます」
「犯罪被害者支援のシステムもあります。なんなと、ご相談ください」
「はい。その節は、お二人にも、病院の方にもご迷惑かけました。申し訳ありませんでした」
「とんでもない。私にも娘がおります。私なら、もっと暴れてたかもしれません」
「はっきりと憶えていないんですが、私が暴れて、看護師さんが怪我をされたと、おっしゃってましたね。看護師さんのお名前、わかりませんか。謝りに行きたいと思ってます」
「名前はわかりません。看護師さんは事件にはしないと言ってくれましたので、警察には資料がありません」
「そうですか」
二人の刑事は言葉少なく帰って行った。
真人は仏間に戻った。望月恵子と小村舞子は事件の後、真人の家に常駐していたが、腫れものに触るようにして遠くから見守ってくれている。
仏壇には納骨をしていない朝子の遺骨がある。
「朝子。犯人が逮捕された」
「智子。すまん。お前たちのいる所へは行けない」
解けないパズルが、犯人逮捕で解けたようだ。悪魔に魂を売れば済むことなのだ。地獄に落ちる覚悟はできている。智子と朝子のいる場所に行けないことは残念だが、仕方がない。朝子の仇打ちではない。自分にできることをする時間が欲しかった。役目を終えれば、命に未練はない。智子も朝子もいないこの家には、生きる価値も見つけられない。
真人は食堂で望月恵子が作ってくれた雑炊を食べた。想像していたほどは食べることができなかったが、恵子は喜んでくれた。
夕方になって、望月専務がやってきた。
「社長。犯人が逮捕されたそうですね」
「刑事さんが、来てくれました」
「よかった」
「望月さんには、何から何まで世話かけました。すみません」
「あほな。当たり前のこっちゃ。雑炊、食べてくれはったらしいな。恵子が喜んどります」
「恵子さんにも小村さんにも、我儘言いました」
「なに、言うてんねん。真人さんは、わしらのボスなんや。気にすることやおまへん」
「すみません。ちゃんと食べます」
「ほんまやで」
「それと、仕事の方ですが、もう少しまかせきりでいいですか」
「はい。慣れとります」
「すみません」
真人の代になってから、結城不動産は不動産売買をしていない。売買する不動産がないわけではないが、相続税のために寝かせてある。真人の父も真人も商売熱心ではなかったので、代替わりをする度に資産が減っていくのは仕方がない。地方都市だが、駅前の一等地に七棟の貸しビルと住宅街にある二棟のマンションを合わせれば9棟あり、結城不動産はその管理だけをやっている。社員は五人いたが、公務員みたいにおっとりした人たちで、賃貸契約と修理、そしてクレーム処理が主な仕事だった。社長の真人がいなくても何の問題もない会社だった。
一ヶ月後には、自分の食事は自分で作るようになり、望月恵子も小村舞子も本来の仕事に戻った。真人が暴れた病院の看護師を捜して謝罪に行き、慰謝料を本人が受け取ってくれなかったので、病院に寄付をした。金持ちの我儘に過ぎないことはわかっていたが、この事件に関することでは自分の我を通す決心をしていた。
警察署で犯人の情報をもらった。強姦罪で正式に起訴されており、住所、氏名、年齢は公判になればわかることだからと言って倉沢刑事が教えてくれた。犯人は22歳で学生となっているが、保護者である親は一度も連絡をしてきていない。もっとも、真人には会うつもりがないので、かえって面倒がなくてよかったと思っている。ネットで強姦罪に関する項目も調べた。そして、求刑10年、判決8年、実質刑期は5年から6年と想定した。
真人は地味な服装で大阪に来ていた。
扇町公園の近くにある甲斐探偵社を捜していた。既に、探偵社を3社訪問したが、どの所長の眼差しにも満足できなかった。どんなことでもご相談くださいと言うが、依頼主に対してもあらゆる対応があると、その目が言っていた。自分の利益のためなら、瞬時に味方にも敵にもなりうる。笑顔の裏にそんな腹の底が見えていた。
路地に入った所にある扇町第一ビルは、50年前ならビルと呼ばれたかもしれないが、既に耐用年数は終わったと言われるような建物だった。広くない、暗い階段で3階まで登った。確かにドアには甲斐探偵社と書かれていた。真人は期待を持たずにドアをノックした。
部屋の中はビルの外観から想像していたものとは違い、明るくて清潔な感じがした。壁にはポスターの類もなく、応接セットではなく会議机が置かれている。若い女性が電話をしながら手で座るように言った。真人は椅子に座って周りを見た。見る人によっては殺風景だと感じることもあるだろう。女性は電話をしながらメモをとることに集中していて、真人の方へ視線を向けることもなかった。
「すいません。お待たせしました」
短い髪がよく似会う女性で、何よりも目が明るかった。真人は立ち上がって頭を下げた。
「どうぞ」
女性は名刺を真人の前に置いて、自分も座った。甲斐探偵社の所長で甲斐雅子という名前らしい。
「結城、です」
「初めまして。ここ、探しました」
「はい」
「ですよね」
笑顔もさわやかだった。
「結城さんは依頼人に見えるんですけど、まさか、セールスとかじゃないですよね」
「はあ。依頼人になるかもしれません」
「探偵社を使うのは初めてですか」
「ええ」
「眉に唾つけなから、ドアをノックしました」
「まあ」
「何社か回られましたね」
「ええ」
「結城さんの目、不審チェックモードになってます。で、ここは、どうですか」
「はあ」
「普通、私の方から質問させていただくことが多いのですが、結城さんの場合は、私が質問に答えた方がよさそうですね。不審を取り除いていただくために」
「まあ」
「何でも聞いてください。心配ですものね」
「いいんですか」
「ええ」
「何人で、やってるんですか」
「二人です。二人と言っても、留守番をしてくれる母と私ですから、実際には私一人ですね」
「おいくつ、ですか」
「37です」
「開業されて、何年目、ですか」
「二年です」
「依頼人は、多いですか」
「いえ。少ないと思います」
「続けるの、大変でしょう」
「ええ。大変です。今は下請け仕事の方が多いですね」
「下請け」
「ええ。同業者の人手が足りない時に手伝いをします」
「どうして、探偵社を」
「私、警察官だったんです。ある事情があって、この事情も話さなければいけませんか」
「いえ」
「ある事情があって、退官しました。で、私にできること、それが、この仕事でした」
「ご結婚は」
「別れました」
「お子さんは」
「いません」
「探偵さんって、どの位、秘密が守れるんですか」
「難しい質問ですね。少なくとも、私は、何があっても、と考えています」
「法に触れても、ですか」
「それは、困りますね」
「あなたが、法に触れるという意味じゃありませんよ。調査の途中で違法行為に遭遇した時に、見なかったことにできますか。道義的責任が出てきますよね」
「すみません。この答えは、少し保留させていだいても、いいですか」
「時と場合による、ということですか」
「はい」
「そうですか」
真人は口をつぐんだ。
「どうやら、そこが肝心なとこのようですね」
「まあ」
「多分、ご事情がおありなのでしょうが、無条件に受け入れることは難しいかと思います」
「そうですよね」
「硬いこと言っていたら、商売にならないんですが、依頼人を裏切るのも嫌ですから」
「ええ。簡単に引き受けてもらっても、信用できません」
「わかります。もし、その事情をお話いただければ、はっきりとお答えします。もちろん、お聞きした内容は私の誇りにかけて守ります」
真人にとっても決断のしどころだった。探偵社の力を借りることは不可欠だと思っている。
「少し、時間かかりますけど、いいですか」
「ええ。うち、時間だけはあります」
真人は思わず笑いそうになった。
「失礼」
「いいんです。ほんとのことですから」
「ある男の調査を、長期にわたってしたいんです」
「長期、ですか」
「ええ。多分、五年くらい」
「五年」
「ですから、私の顧問探偵社になってもらうことになります。一年ごとの契約で、最短でも五年間継続したい。最初に着手料を二百万払います。年間の契約料は六百万の予定です」
「恐ろしいほどの金額ですね。五年間だと三千万になりますよ」
「あなたが、悪魔に魂を売る金額です。高くはありません」
「悪魔に」
「事情をお話します。私には高校一年の娘がいました。私にとっては、自分の命より大切な娘でした。その娘が、先月、自殺しました。原因は強姦されたことです」
「強姦」
「ええ。犯人は逮捕され、近いうちに裁判が始まります。でも、犯人は五年もすれば戻ってきます。そして、また、同じことをするでしょう。そして、いつか、強姦罪で再逮捕されることになります。私は、犯人の余罪を告発したいし、司法のゆがみも指弾したい。野獣のような男を五年で解き放つ司法は市民を守っていることにはなりません。私の娘も、そんな司法のゆがみに殺されたのだと思っています。警察におられたのだから、強姦が親告罪だということはご存じですよね。うちの娘以外にも犠牲者はいたと思いますが、犯人は自供していません。たぶん、犯人にとって、強姦は軽いものだったのでしょう。私は自分の人生をかけて、あの男の、司法の前に立ちはだかりたい。だから、あなたがこの仕事を引き受けると、強姦の目撃者になることになります。強姦を阻止するのではなく、強姦の証拠のために見過ごしてくれと依頼しなければならない。道義的責任への強い違反が生じます。ですから、悪魔に魂を売ってもらえないかと言ったんです」
甲斐雅子の表情は固まっていた。
「強姦被害者の願いは何だと思いますか」
「・・・」
「犯人を刑務所に閉じ込めておくことです。現在の司法は機能していません。野獣はやりたい放題です。娘は死んでしまった。しかも無駄死にです。親が娘の死に、ほんの少しでも意味を持たせてやりたいと思っても許されると思いませんか」
「でも、犯罪を見過ごせと」
「ええ。自分勝手だと思います。ただ、あなたが目撃者になるのは、依頼があったからですよね。監視していたから、その現場に遭遇するのです。でなければ、誰も知らずに過ぎていくのです。これが詭弁に過ぎないことは承知しています。どうですか。悪魔に魂を売ってくれませんか」
「少し、時間をいただけませんか」
「もちろん、です」
真人は自分の名刺を出して、裏に携帯電話の番号を書き足した。
「一週間待ちます。決心がついたら、電話ください」
「はい」
真人は立ち上がった。
「甲斐さん。この事務所は感じがいいです。あなたも、いい探偵さんになると思います。ご縁がなかったとしても、ぜひ、がんばってください」
「はい。ありがとうございます」
真人は甲斐探偵社を出て、梅田まで歩いた。甲斐雅子が断ってきてから次の探偵社を捜すつもりだった。甲斐雅子に強姦現場を見過ごせと言ったが、彼女がそんな状況になることはないはずだと考えている。その前に、犯人の千葉直樹は死ぬことになる。真人の殺意を探偵に知らせる訳にはいかない。結果的に甲斐雅子を騙すことになるのが気の毒だったが、もう悪魔に魂を売ってしまった真人に選択肢はなかった。
翌日の夕方になって、甲斐雅子から電話があった。
「今、ご自宅ですか」
「ええ」
「住所、教えてください」
「自宅の」
「はい。今からお邪魔して、いいですか」
「いいですけど」
突然で驚いたが、住所を伝えた。
「G駅からの距離は」
「私の足で五分です」
「じゃあ、五分後に」
甲斐雅子には、昨日会った時にあった柔らかさがないように感じた。でも、断るためだったら家まで来る必要はない。真人は落ち着かない気持ちで五分待った。
五分後にチャイムがなった。
オートロックの門扉を開け、玄関のドアを開けて甲斐雅子を待った。
「突然ですみません」
「いえ。どうぞ」
応接間ではなく、食堂に通した。
「コーヒー、入れたとこなんですが、飲みますか」
「いただきます」
「すぐに、わかりました」
「ええ。捜しものは専門ですから」
「そうでしたね」
「今、お一人ですか」
「ええ」
「ご家族は」
「もう、いません」
「奥様は」
「家内は三年前に亡くしました」
「そうでしたか」
「砂糖は」
「いえ。ブラックで」
コーヒーを渡して、真人も座った。
「甲斐さん。何か怒ってます」
「えっ」
「怒ってますよね」
「そうですか。そう見えますか。多分、自分に腹が立っているんだと思います」
「どうして」
「正直に言って、いいですか」
「ええ」
「私、金に目が眩んだんです」
「それが、悪いことですか」
「そういう生き方、してきましたから」
「でも、どこかで転機はきます。褒めたことではありませんが、それが大人になるということなんじゃないですか」
「母にも、そう言われました」
「で、今日は、私に支払い能力があるのか。確認ですか」
「それも、あります」
「他にも」
「はい。仕事をさせていただくために」
「そうですか。ありがとうございます」
「いえ。礼を言うのは私の方です。行き詰っていたんです。看板を下ろすことも考えていました。でも、私、好きなんです。この仕事」
「甲斐さん。女性のあなたに言うのも変ですけど、人間はどこかで潔さを求められます。開き直ってみませんか」
「・・・」
「怒っていては、話が前に進みません」
「女々しいと」
「そう、思います」
「そうですね。ごめんなさい。私、女々しいの、一番嫌いなんです」
「コーヒーを」
「あっ、はい。いただきます」
甲斐雅子の肩の力が抜けたように見えた。
「改めて、この仕事引き受けさせていただけませんか」
「もちろんです。あなた以外に、いません」
「ありがとうございます」
甲斐雅子の表情に柔らかさが戻ってきた。
「一寸、待っててください」
真人は仏間に置いてあるカバンを取りに行った。最近は仏間が真人の書斎になっている。
「住所と名前です」
千葉直樹の名前と住所が書かれている紙を雅子に渡した。
「お聴きしてもいいですか」
「はい」
「裁判が始まるとおっしゃってましたよね」
「ええ」
「有罪になれば、この男は服役しますよね。出所まで、何をすればいいんですか」
「ええ。仕事の量から言えば、最初と最後が大変です。途中は確認作業くらいしかありません。ですから、最後の仕事をしてもらうための年間契約です。あなたには、五年後も、探偵をしていてもらわなければならないし、五年後に忙しくて断られても困ります。何よりも大事なのは守秘義務の履行です。そのための費用です。数社しか回っていませんが、信頼できる探偵さんは、あなたしかいないと感じたのです」
「そうですか」
「これは、私個人の、言ってみれば我儘に過ぎません。一個人が国を相手に喧嘩をしても意味のないことかもしれませんが、私は我儘を通したい。ですから、あなたに迷惑がかからないように、最大限の努力をします」
「わがまま、ですか」
「甲斐さんは警察官をされていたから、刑法の近くで生きてこられたでしょうが、私の生活は刑法とは無縁のものでした。私は、今まで、大人しくて、分別のある模範的な市民だったと思います。でも、我々、市民がほんとうは守られていないことを知ってしまいました。ですから、模範市民を辞めて、国と、司法を相手に喧嘩する市民になろうと思いました。非難されることは覚悟しなければなりません。でも、その非難が私以外の人に及ぶことは避けなければなりません。あなたの名誉を全て守るとは言い切れませんが、全力で守ります」
雅子が頷いた。刑法に問題があることはわかっているようだ。
「強姦罪には多くの問題があります。多分、問題は強姦罪だけではないのでしょうが、大声をあげないと、是正の方向へは向かいません。傲岸不遜と言われても、私は問題提起をしたい。あの世に行って、娘と顔を合わせることができるように、あの世でも父親だと思ってもらえるようにしたい。変ですか」
「いえ」
「仕事の話をしても、いいですか」
「はい」
「いろいろ、注文を出しますが、いいですか」
「はい」
「先ず、この仕事は、裏仕事にしてください」
「裏、仕事ですか」
「甲斐探偵社も帳簿をつけてますよね」
「はい」
「私の仕事は、売上に計上しないでください。領収書も不要です。支払は全額現金で手渡します。いいですか」
「はい」
「私は、犯罪に抵触しそうなことをやろうとしています。そして、いずれ、私のやったことは表に出ることになります。いえ、表に出すことが目的なんです。警察が動くかもしれません。あなたと私の関係は誰にも知られたくありません。私は二度とあなたの会社を訪問することはないし、あなたもここへは二度と来ないでください。どこかで会ったとしても、知人ではなく他人でいてください。次に、お互いの携帯に経歴を残したくないので、連絡方法はあなたが考えてください。その他、警察が捜査しそうなことを想定して対策を打っておきたい。あなたなら、それができますよね」
「そこまで」
「そうです。そのことを前提として、その男の身辺調査をお願いします。家族、友人、学校、できるだけ詳細な調査をお願いします。納期は決めません。無理をせずにやっていただきたい。男が出所するまでの間は、その調査事項の変更を調査するだけで結構です。刑期も決まっていませんので、出所時期は不明ですが、できるだけ早く出所の時期を掴んでください。出所後は、可能なかぎり男の行動を監視していただきたい。ただし、監視だけです。その費用は別途出します。そして、成功報酬も出します。どうですか、できそうですか」
「やります」
「よかった」
真人は鞄の中から封筒を取り出して、雅子の前に置いた。
「着手金の二百万です。次にお会いした時に顧問料は払います。半年ごとの前払で、いいですか」
「はい。少し、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「このお金を持って、私が逃げたら、どうされるのですか」
「諦めます」
「五年後に、私が、こんな話は知らないと言ったら」
「それも、諦めます」
「どうして」
「自分の判断が間違っていたことになります。誰のせいでもありません。自業自得です」
「もう一つ。いいですか」
「ええ」
「この話、あまりにも、おいしい話ですよね。まだ、何か裏があるような気がしてならないんです。いえ、引き受けないと言ってるんじゃありません。どんでん返しは好きじゃないんです」
「そうですか。でも、どんでん返しはありません。私には別の計画もあります。まだ実行するかどうか決めていませんが、刑法に抵触するかもしれないという話ではなく、犯罪そのものの話です。もちろん、探偵さんにできる仕事ではなく、暴力団の仕事になるでしょう。もしも、あなたが泥をかぶるつもりなら、一億でも二億でも出します。あなたは、そんな人ではない。この仕事であなたに渡すお金は多くても五千万まででしょう。別に惜しい金ではありません」
「価値観の違い、ということですか」
「そうです。そして、たまたま、私が金を持っているということです」
「結城さんに裏切られたくありませんが、裏切られたとしても立ち直る覚悟を持つことにします」
「無理、言って、すみません」
「いえ。結城さんの信頼に答えたいと思っています」
「ところで、夕食、まだですよね」
「はい」
「パスタでよければ、作りますが」
「いえ。とんでもありません」
「この十年は、あなたと食事する機会はないでしょう。同志になっていただいたお礼です。料理の腕はかなりいいんです。食べていってください」
「はあ」
「待っている間に、簡単な計画書ぐらいできるでしょう」
「わかりました。ご馳走になります」


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