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文化という壁 [評論]



毎年、5月になると憲法の話題が増えます。
季節限定商品のような空気はありますが、年に一回くらい憲法について考えることは悪いことではありません。
ただ、本当に、憲法論議が行われているのでしょうか。
話題は増えていても、議論にはなってないように見えてなりません。
議論には前提条件が必須です。それが、「憲法とは」という定義です。
しかし、この国に、そんなもの、ありません。
その原因は、いつものことですが、目に見えない壁があるからです。
今日は、憲法と壁の関係について書きますが、その前に、まだ定義はありませんが、仮に、憲法が「その国の姿」の宣言書みたいな法律だと仮定すると、「国とは」という定義に言及せざるをえませんが、実際には、そんなものは存在していません。まるで、定義があるような空気だけで、四の五の言って、意味があるのでしょうか。もちろん、私が、確定的な定義を記述しても意味がありません。私が「憲法とは」「国とは」という定義を持っていたとしても、国民のコンセンサスが得られていなければ、ただの世迷い事に過ぎません。国民が議論をして、多くの国民の皆さんのコンセンサスを得て、初めて「国とは」という定義ができあがります。
「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義を国民議論で作り、それが国民の承認を受けたら、次は、「憲法とは」という定義を話し合わなくてはなりません。憲法条文の中身を話し合うのは、その「憲法とは」という定義ができてからの仕事になります。
憲法制定や憲法改定の壁になっているのは、この前提条件が整っていない状況で、憲法条文を触ろうとしている「曖昧さ」です。これは、基礎工事もせずに家を建てることと同じです。
何度も書きますが、これが曖昧文化の弊害です。
私達の前には、巨大な「文化」という壁が立ちはだかっているのです。
私達日本人は、そのことを不思議だとも思わずに受け入れています。
「憲法とは」という定義もなく議論して、結論が出るのでしょうか。
どうして、そのことを不思議だと思わないのでしょう。
曖昧文化の中では、定義をしてから議論をするという習慣が生まれませんでした。それは、必要がなかったからです。各人が、それぞれの定義を持ったまま、あるいは、定義そのものを持たないまま、議論をしても結論を得ることはできません。なぜなら、議論する人達の間に、同じ物差しがないからです。ですから、「まあ、まあ」で決着することにしたのです。それぞれの尺度が違うのですから、仕方がありません。だから、何事も、儀式を行うことで権威付けをする必要があり、私達の国は儀式を大切にする国になり、現在もその流れの中にあります。卑弥呼の時代から、今日まで、その方法に変化はありません。
では、ここで、「曖昧文化」と呼ばれるもののルーツを見てみましょう。
この文化を作り出したのは、どんな社会だったのでしょう。
食料の確保に成功した人類が、自然の法則に従って数を増やし、分業という概念が生まれ、集団で生活するようになりました。集団で生活するために、ルールが必要になりました。そのルールに沿って生まれたのが文化です。ルールを作ったのは、その時代の支配者であり、為政者でした。支配者は、神ではなく、人間ですから、自分に不利になるルールは作りません。当然のことですが、ルールに沿わない文化は、支配者によって抹殺されることになります。結果的に、支配者にとって利益のあるルールや文化が、生き残ったのです。これを、伝統と呼ぶ人もいます。そういう人達は、伝統を重んじることを要求します。確かに、権力者にとっては伝統を重んじたほうが利益になります。今、生き残っている「曖昧文化」は、1,000年以上も過酷な時代を生き抜いてきました。なぜ、生き抜くことが出来たのでしょう。そうです、支配者にとって利益があったからです。
近代に入り、欧州で主権者という概念が生まれました。それまでの力による支配者ではなく、主権者と呼ばれる人達を代表する人達が国家を運営する方法が生まれたのです。支配者という概念から、主権者という概念に変わるということは、文化も変わるということです。もちろん、その目的は、理想のためではありませんでした。国を一つにまとめ、国内で争っていた勢力を束ねて、より強大な力にして、世界制覇をめざすためでした。
もちろん、近代化ができなかった国も多く存在します。この近代化が遅れた地域は、地方の権力者の力が強く、その権力者に慣れ親しんできた住民の意識改革が行われなかったことが、要因として挙げられます。中東やアフリカの国々では、今でも、族長支配が続いています。もちろん、族長支配が悪だと言っているのではありません。近代化された国よりも、族長支配の国のほうが人間らしい温情が残されています。世界と関わらなくても生きていけるのであれば、族長支配の住民のほうが幸せなのかもしれません。しかし、それは、時代が許しません。どんな国でも世界と付き合うしかないのです。
過去の支配者と、近代の主権者との間には大きな差があります。
欧州で、憲法が生まれたのも、主権者の代表である国家運営者が、過去の支配者のように、自分の利益だけを考えて行動しないように、国家運営者を縛る必要があったからです。そこには、人間は「欲」には勝てないという考えがあったからです。日本にある「性善説」とは逆の思考です。
地球上に、帝国主義という嵐がやって来た時、日本も、植民地から逃れるために、国内の力を一つに集めなければ列強諸国に蹂躙される危険があったために、明治維新という政権交代をやりました。明治政府の最重要課題は、当然のように、西欧列強が近代化で導き出した結論である「富国強兵」になりました。近代国家の結論だけを取り入れただけですから、中身は近代国家ではありません。ですから、主権者という概念が生まれたわけではありません。帝国主義を取り入れることには成功しましたが、主権者という概念は生まれずに、「曖昧文化」は見事に生き残ったのです。
では、なぜ、曖昧文化は、権力者に好まれたのでしょう。
権力者にとって、裁量権の大きさは欠かすことができません。裁量権の最大値を獲得した国は、独裁国家と呼ばれます。かつての封建制度の国家も、独裁国家の一種です。先程、伝統に言及しましたが、伝統と呼ばれているのは、独裁政治を維持するための手法なのです。反乱や謀反を防ぐために、法度は作りましたが、それは、あくまでも、独裁を守るための法度でした。支配者にとって、決まりごとは、出来る限り曖昧な方がいいのです。権力者が、どのような解釈でもできる法度が、好ましい法度だったのです。その流れは、今日まで延々と続いています。定義などして、四角四面の法律を作れば、裁量権よりも法律のほうが優先されたら、困るのは国家運営者です。
明治憲法も、現在の憲法も、自民党の憲法草案も、その芯にあるのは、民主国家の法律に求められている筋ではなく、曖昧という真逆の概念です。戦後日本は、アメリカの要求に従い、民主国家という看板を掲げました。建前では、主権者は国民だということになっています。国民のための国家であるのなら、どうして、憲法の第一条に天皇条項があるのでしょう。それは、現行憲法を作成する段階で、明治憲法を修正するという、やっつけ仕事をアメリカがやったからです。自国の憲法ではありませんので、それでよかったのでしょう。アメリカには「日本に、二度と武力を持たせてはならない」という定義がありました。そのことを、憲法に書くことが、アメリカの仕事でした。
近代日本の国家統治システムは、主権者と呼ばれる国民の代表が国家運営をするのではなく(形式的な真似事はしましたが)、明治天皇を奉るという手法を使い、新しい身分制度を作ることで封建制度を温存しました。それが、明治憲法や教育勅語です。しかし、天皇主権封建制度の日本は、戦争に負けて、アメリカの支配下におかれます。
その時の日本人は、天皇制度の中で生きていましたので、制度の温存に動き、マッカーサーに、象徴天皇という曖昧な表現を使うことで、天皇制度の枠組みを認めさせました。
結果的に、明治憲法の流れを残し、アメリカから支給された民主主義で装飾を施した「民主主義風王政並立封建制度」になったのです。曖昧の上に曖昧を乗せて誤魔化されていますが、国家も国民も封建制度を卒業できませんでした。
でも、アメリカの定義があったために、現行の日本国憲法は、70年間、役目を果たすことに成功しました。現状を見てください。自衛隊の持つ武力では、他国と戦争することができません。日本は、今でも、武力を保持する国ではないのです。ですから、国も国民も、日米安保が基軸だと言うしかないのです。アメリカに頼らなければ、自分の国を守ることもできません。これは、アメリカの定義でしたが、定義があったからこそ、法律が機能した好例です。
「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義がなければ、憲法の定義もできません。定義のない法律が機能するとは思えません。あくまでも私見ですが、「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義を憲法に書くことが、憲法の定義だと思います。特に、憲法からは曖昧を排除しなければなりません。解釈次第で、どのようにも利用できる憲法は、役に立ちません。天皇の統帥権を利用して、大日本帝国陸軍が暴走したのも、多くの犠牲者を生んだのも、憲法解釈という手法で憲法が利用できたからです。安倍政権でも、無理はありましたが、憲法解釈の変更で集団的自衛権の道を開きました。実に、姑息なやり方です。
憲法改正でやらねばならないのは、封建制度と決別するのであれば、国民が主権者になるのであれば、「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義をした上で、明治憲法と決別する必要があります。そうしなければ、民主主義国家の憲法にはなりません。
憲法は、国の姿を書くことであり、国の原則を決める法律だとすれば、解釈次第でいかようにも変えられる憲法を、憲法と呼ぶべきではありません。でも、こんな議論は、どこを見ても存在していません。定義は、曖昧模糊とした霧に隠れて、見えていないのです。

仮に、「国とは」という定義に、「国は、国民の生命と財産を守らなければならない」という項目があったとしましょう。
交戦権を持たずに、国民を守ることができるのでしょうか。
いつの時代にも、無法者は存在します。このことは、私達が人間である以上、この世から消えてなくなることはありません。
もちろん、交戦権の目的は戦うことではありません。交戦権は使用することが目的ではなく、持つことが、国民を守ることになるのです。これが、安全保障の世界標準です。
交戦権を持ち、その権利を行使できる実行集団を持ち、ミサイルや核兵器という有効な交戦手段を保持し、その権利を行使するための法律を持っていることが、国民を守ることに繋がるのです。これが、どこの国でもやっている安全保障です。
その大前提にあるのが「自分の国は、自分で守る」ことです。
その上で、安全保障を、より強固にするためには、同盟も必要になるでしょう。でも、自国防衛を他国に全面的に依存するのは、間違いです。なぜなら、どこの国にも、その国の国益があり、絶対に守ってくれるという同盟関係など、地球上には存在していないからです。例えば、アメリカが、アメリカ人の血を流してでも、日本を守る必然性があるのでしょうか。
そんなもの、ありません。
全ての出発点は、「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義にあるのです。
明治維新以前も、明治維新からの150年も、私達は、曖昧の中で生きてきました。第二次大戦の敗戦も、その結果だと言っても過言ではありません。鎖国政策が継続できていれば、曖昧文化だって、悪さはしなかったでしょう。しかし、私達は、否応なく、世界と向き合わなければ生きていけません。世界標準を無視しても、何もいいことはないのです。



さて、ここからは、各論です。
安倍政権は、憲法改正の機運を高めようとして、いろいろな策を打っています。
政府は、北朝鮮のミサイル攻撃に対処するために、地方自治体に避難訓練をするようにと求めています。先月も書きましたが、避難訓練は役に立ちません。政府は、そんなこと、百も承知だと思います。パニックにならない程度に、国民を脅す目的でやっているとしか思えません。おかげで、「怖いです」という国民が増えました。成功です。
安倍総理は、私案だとした上で、憲法9条に言及しました。
加憲を主張する公明党に配慮し、9条の1項2項を残して、3項を加え、自衛隊の存在を明文化したいと言っています。
驚きました。現在の2項と新しい3項は、真逆の内容になりますので、2項の文章を玉虫色に変え、3項で玉虫色の自衛隊を書き込まねばなりません。安倍総理にとって曖昧は正義ですから、不思議だとは思わないのでしょう。
憲法改正は、2020年に施行したい、と言っています。その理由は、オリンピックの時期と合わせるためだそうです。オリンピックと憲法って、何か、関係ありましたっけ。そう言えば、共謀罪もオリンピックのためだと言っています。もう、ほとんど、火事場泥棒状態になっていますが、これで、いいのでしょうか。中国や韓国で「反日愛国」と言えば、なにをやっても許されることと同じことをやっています。
更に、細部に言及し、国民投票を国政選挙と同時にやるか、独立してやるかを検討して欲しいと言っています。
彼等は、争点を提供することで、憲法の定義から、離れて行く方向へと誘導しています。
根っ子に触れさせずに、目くそ鼻くその争点を提供することが、彼等の利益なのです。
一方、野党は、憲法改悪反対と叫び、安倍政権下での憲法改定は容認できないと言っています。これは、安倍政権でなければ、憲法改定に賛成するという意味なのでしょうか。支離滅裂と言わざるを得ません。野党にとっての「国とは」という定義は何なのでしょう。国民を守ることが、国の定義だとすると、憲法さえ守れば国民を守ることができると考えているようです。お花畑理論は、もう、賞味期限切れだということに、どうして、気付かないのでしょうか。
いつものように、「平和、平和」「戦争反対」と言います。「平和、平和」と連呼していれば、どこからともなく、平和がやって来るという夢物語を、いつまで、続けるのでしょう。もう、お花畑理論では、国民の心に届きません。これでは、逆効果にしかならず、安倍改憲を応援しているようなものです。
安倍総理に「民進党も、憲法草案を出してくださいよ」と言われ、蓮舫代表は「ぐー」の音も出せませんでした。
これが、憲法論議なのですか。
誰も、定義の話をしません。
与党も野党も国家運営に携わっている人達だとすると、彼等が率先して根っ子の議論から離れて行こうとしているのです。それを、許している私達は、確かに、彼等が思っているように、愚民だということです。こんな能天気な政治家が、憲法の案を作って、国民に提示し、愚民である私達は空気を読んで儀式に参加するのです。
確かに、私達国民が能天気なのですから、その能天気国民から選ばれた政治家が能天気であっても、文句のつけようがありませんが、困ったことです。
この国の閉塞感は半端ではありません。今、ヒットラーやスターリンやポルポトが出現したら、いや、トランプが出現しても、国民は、喜んで、その下僕になる危険があります。
これは、不幸としか言いようがありません。
さて、改憲が現実味を持ってきましたが、最大の課題は何でしょう。
憲法改定で、一番の課題は、国民です。
なぜなら、憲法の改定は、国民投票で決まるからです。
もちろん、国民投票が問題なのではなく、国民が、大問題なのです。
国民の憲法定義は千差万別だと言えます。いや、千差万別であっても定義を持っている国民のほうが圧倒的に少なく、「俺には、関係ねぇ」という国民が大半です。定義がないということは、判定する物差しを持っていないということです。そんな国民が、その時の空気を読み、投票して、決めるのです。自分が何をしているのかさえ、理解していません。「よくわからないから」という場合、私達は「☓」を書くのではなく「〇」を書く習性があります。だって、私達は、いい人ですから。波風は立てなくない、「お上」には逆らえない、非難されたくない、「まあ、まあ」という理由で、「〇」を書きます。
これで、大丈夫なのでしょうか。
どこまでも、曖昧という芯が通っています。「曖昧」と「芯」は真逆の概念だと思いますが、「曖昧」を「芯」にしてしまうのが、文化の底力なのでしょう。
憲法の中身ではなく、国民にとって、いかに心地よい言葉を示すことができるのか、が国民投票の結果を決めるのです。論理的であることより、「なんとなく」という空気に従ってしまうのが、曖昧文化に埋没させられている私達日本人です。しかし、「なんとなく」にも限界があります。その限界が、近づいているために、漠然とした不安や焦燥が生まれているのです。これは、動物的な本能によるものです。この窮地から脱するには、国民が目を覚ます以外に方法はありません。しかし、動物的な本能は時代遅れだと思い込んでいると、目を覚ますことはありません。原始的な視点だと思われるかもしれませんが、本能を捨てて生き延びることは、至難の業です。
日本の場合、国民投票は審判ではなく、儀式なのです。献花方式という葬儀がありますが、私達は花の代わりに「〇」が書かれた紙を箱に入れるという儀式に参列するのです。
以前に、一般公募による憲法草案コンペという提案をしたことがあります。もちろん、実現の可能性は100%ありませんが、袋小路に入り込んだ私達が出口を見つけるためには、この方法しかない、と今でも思っています。誰でも参加できるのですから、自分の作った草案が、国の法律になるのであれば、結構、盛り上がると思います。いや、きっと、国民は横目で見て知らん顔をするのでしょう。それでも、この方法であれば、一部の人達でしかないかもしれませんが、半覚半睡の国民が目を覚ますきっかけになる可能性がゼロだとも思えません。
自民党の草案しか叩き台がないとすると、私達は自民党草案の賛否を投票することになります。現在ある自民党草案がそのまま最終案になるかどうかはわかりませんが、大きな変更はないものと思います。ですから、明治憲法とアメリカ製の現憲法を踏襲した、いや、そこに、更なる曖昧表現を追加した草案が、国民投票という儀式を経て、新憲法になります。それは、どのような解釈でも出来る優れものです。そもそも、私達の国は、憲法を最重要法規だとは考えていません。だから、憲法裁判所も設置されていません。憲法は、ただの、装飾品です。それは、民主主義そのものが装飾品なのですから、仕方ありません。

この現状の底流を見てみましょう。
先ず、自民党ですが、彼等は定義の「て」の字も発言しません。当然です。定義などしたら、自分達の首を絞めるだけです。そのことに、メディアも国民も平然としています。曖昧文化に支配されていることに気付いていないのですから、仕方ありません。
自民党は、国民のことは考えていません。これも、当然です。今の自民党の思想は、ほぼ、「日本会議」に乗っ取られていますので、その目的は、天皇主権国家であり、国民は使い捨てのできる臣民に過ぎず、大日本帝国陸軍の復活であり、特高警察の再現です。「日本会議」の利益の最大化のためには、民主主義風王政並立封建制度が最適なのです。国民主権を謳う民主憲法が生まれる素地はありません。
では、民進党の底流は何でしょう。
民進党は、共産党の持っている固定票を恵んでもらうために、共産党の尻を舐めることに専念しています。彼等にとっては、憲法も国民も、どうでもいいのです。彼等の目的は「票」だけです。「反対、反対」と叫ぶことが、一番楽で、コストパフォーマンスの良い方法だと思っているのでしょう。反対を叫ぶだけなら、憲法の定義など考える必要もありません。蓮舫代表は、二言目には「再び、政権党に」と言います。共産党の後ろに隠れていては、政権は取れません。彼等は、チャンスに気付いていません。自民党が憲法草案を出しているのですから、後出しじゃんけんのアドバンテージがあるのです。これが、国民主権の憲法だ、という草案を出し、政権政党に相応しいのは民進党だと主張すれば、共産党の持っている固定票くらいは楽に集まります。「おこぼれ、ちょうだい」という乞食根性をやめて、汗を流すべきです。楽をして得をしようという助平根性では、政権政党にはなれません。

いつまで経っても、政治が過去に縛られたり、利益追求に専念していたのでは、近代国家にはなれません。これが、日本社会を覆う閉塞感の底流です。この閉塞感を打ち破る方法は、一つしかありません。それは、国民が目を覚ますことです。
しかし、日本国民も、いつまで経っても、近代国家の市民にはなれないようです。結果、私達日本国民は、国民投票に対応できる知見を持っていません。猫に小判です。それなのに、なぜ、国民投票で憲法を決めようとするのでしょう。それは、民主国家だという看板を掲げているために、意味のない儀式であってもやらねばならないからです。私達は、もう、何千年も同じやり方をしていますが、そろそろ儀式から卒業すべきです。もちろん、自分のためではありません。未来の国民のために、私達が変わらねばならないのです。それが、大人の責任だと思います。
「自分さえよければ」「今さえよければ」が、道の真ん中を堂々と闊歩している社会が、私達の求める社会なのでしょうか。確かに、今、世界標準は「自分さえよければ」「今さえよければ」になっています。その点では、世界も奈落へと向かっています。でも、ここは、踏ん張るところなのではありませんか。だって、私達は、いい人達集団なのです。他の民族には出来ないことだとしても、私達日本民族であれば出来るかもしれません。



憲法ではありませんが、今国会で共謀罪が成立します。
当面、矛先は北朝鮮や中国の工作員を取り締まる方に向かいますが、その矛先はいつでも国民に向けることが可能です。それは、どのようにでも解釈できる法律になっているからです。共謀罪は、過去に何度も廃案になりましたが、今回は、国民の支持を受けて、成立します。もちろん、民主国家になるのであれば、何の問題もありません。民主主義を守るためには、国防を考えるのであれば、共謀罪は必要だと思います。しかし、現在のような封建制度の下では、国民取締法になる危険のほうが大きいと思います。これも、国民が選択した道ですから、致し方ありませんが、とても心配です。前回の選挙の時、前々回の選挙の時、「自民党には投票しないでください」とお願いしました。それは、この国が民主国家ではないために、誰かに権力を集中することは危険だと思ったからです。曖昧文化で国家統治をしている国なのですから、曖昧があるべき姿なのです。曖昧なまま、権力だけを集中すれば、危険です。しかし、国民の皆さんは、自民党を支持しました。空気は、怖いです。でも、結果的に、それが皆さんの選択だったのです。
実際に、共謀罪が国民を取り締まる目的に変わった時、皆さんは、きっと、「あちゃー」と言うでしょう。でも、もう、後の祭りです。
私達は、曖昧文化に埋没している百姓根性から、脱皮するべきだと思います。
「国民とは」という定義をしなければ見えないかもしれませんが、それが主権者の責任なのだと思います。
特定の誰かのためではなく、名前も顔も知らない、未来の国民のためです。


2017-06-02



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