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記事紹介 15 [記事紹介]



JBPRESSの9/22付の記事を紹介します。
表題は「90歳を超えたお年寄りでもボケない下條村」
筆者は川嶋諭氏です



経営力がまぶしい日本の市町村50選(1)の第1回として、長野県下條村のケースを2回に分けて紹介した。2つ目の市町村は近々にリポートするが、その前に今回は下條村にお住まいの主婦の方から手紙をいただいたのでそれをご紹介したい。

最近になって、私の住む下條村は県内だけにとどまらず注目され始め、「家はどこ?」との問いに「下條です」と答えると、「下條? いいところなんだって?」と言っていただけることが少なくありません。
 早くから少子化対策として子育て支援推進を実施、若者定住促進住宅の建設、保育料の引き下げなど、安心して子育てができる生活環境を整えた成果でしょうか。
 下條村への移住を考える家族にとって、家賃が安いのは決断を大きく左右します。
 村営住宅は家賃が安く、県外から大勢子供のいる家族が移住してきました。あるお母さんは、アレルギーを持つお子さんのために下條へ来る決断をしたと言っていました。
 住宅やホールができても、自然は豊かで空気はきれいなままです。ただ市街地へは距離があり、通勤には時間がかかります。電車やバスの交通機関は少なく、ほぼ車での通勤になります。
 近年、「買物難民」という言葉をよく耳にしますが、下條村にもその問題はあると思います。商店が少なく、飯田市まで車で買い物に行きます。
 村では福祉バスを運行し、お年寄りなどが利用しています。商店独自で送迎のサービスもしています。福祉バスは病院、買物、役場、いきいきらんどでの教室に行けるように運行されています。
 いきいきらんどでは、お年寄りが介護状態にならないように脳刺激訓練教室や運動器機能向上の教室などをいくつか開き、交流できるように活動しています。
 中でも脳刺激訓練教室は、下條村が一番先に始めた教室で、他の市町村にもないものだったそうです。私の祖母も通っていました。2年前に亡くなりましたが、90歳までボケることなくしっかりしていたのは、この教室のおかげでしょうか。
18歳まで医療費無料、保育料一律10%引き下げ、学校経営、行事への援助、中学生の海外体験学習などは、私たちの生活に直接関わり、ありがたさを実感しています。

中学1年生がグアムでホームステイ

 私の子供も中学1年生の春休みに、グアムに体験学習に行きました。3泊のうち2泊ホームステイしてきました。2人1組でグアムの家庭にお世話になり、学校にもその家庭の子供たちと一緒に登校。合同で授業を受けたり、各地の見学に行ったり・・・。
 本人も楽しく行って来られました。
 準備も学校を通して行ってくれました。費用も村の負担がかなりあったので安くすみました。パスポートを持っていない私にとっては、子供を海外に行かせてやるなんて自力ではとてもできることではありません。良い体験をさせてやれたと思っています。
 電源立地地域対策交付金事業を有効活用して保育所運営費に充当したり、土地を利用した工場の誘致、生活道路の整備は資材は村で用意し、住民が道を作る。道の駅下條では大きなイベントを開き、村外から大勢集客して宣伝活動。考えてみるといろいろと思いつきます。

地域戦隊カッセイカマン

 宣伝活動と言えば、下條村には「地域戦隊カッセイカマン」というローカルヒーローがいて、けっこう有名です。村では交通安全活動や下條村祭などのイベントに出演し、子供たちを喜ばせています。
 また北は岩手県から南は沖縄県まで広く活動し、地元の名産品(親田辛味大根)などを紹介しています。全国の子供たちにも大人気のようです。
 そういう意味でも、下條村は住みやすいところだと思います。
 いじめや不登校などが全くないとは言いませんが、学級崩壊や暴力といったことは聞いたことがありませんし、社会見学、修学旅行では行った先で子供たちの態度や挨拶が良いと感心されると先生方に言われました。住んでいる環境が、ここにつながってくるのかもしれません。
 住民の目に見える政策をすることによって理解を得る、結果を出す。早くから少子化や高齢化に目を向けて対策をしてきたことによって、今の下條村があるのだと思います。
 私も小学生の時、学校で「未来の下條がどうなっていたら良いか」といった作文を書きました。みんなが子供らしいアイデアで、いろんなことを書きました。その作文から何か実現したものがあったかもしれません。
 自然豊かで活気のある下條村に生まれ育った私は、とても幸運なのかもしれません。





余談です。
このブログでは、下條村の話題は4回目になります。川嶋氏の下條村報告の番外編のようですが、これまでもこのブログで取り上げましたので番外編も紹介しました。
下條村のリーダーが、常に将来に視点を置いて村の運営にあたってきたことが、現在の下條村になっているのであり、ローマは一日にしてならずという格言は生きているようです。
日本国のリーダーは、どうなのでしょうか。



私達が今日まで、当たり前だと思ってきたことを、時代に合わせて再検証する時が来ているのではないかと痛感しています。前回、憲法のことを書きましたが、再検証しなければならないのは憲法だけではありません。私達は、現在の選挙制度も検証すべきです。
国民は選挙で国会議員を選び、彼等に国の運営を委ねています。
いや、そういう建前になっています。
全国民が国の運営に直接携わることは無理ですから、代表を選ぶことは道理に叶っていると思います。でも、今の仕組みがそうなっているのでしょうか。
国の運営と選挙が結びついているのでしょうか。
現実の選挙は、地元の利益代表を選ぶことであり、自分の所属する組織の利益代表を選んでいるのが実情です。今の選挙は、国の運営をする人達を選ぶためのものではなく、いかに地元に利益をもたらすか、自分の組織に利益をもたらすかを求めるための選挙になっているように思います。その利益代表に選ばれた人達が、ついでに、片手間で国の運営もやっているのです。大きな利権を地元にもたらす国会議員が、大物議員と呼ばれ、国民は利権構造を積極的に容認しています。これは、村社会の延長線上にある仕組みなのではないでしょうか。多分、50年前までは、この仕組みでよかったのだと思います。
政治家が、国の運営を片手間でやっていたために、実質的な国の運営は官僚が担当するようになったのです。実質的な責任者になった官僚の元に権限も利権も集中し、自然と、官僚が権力者になってしまったのです。この国を動かしているのは政治家ではなく、官僚なのです。官僚が自発的に権力を奪い取った訳ではありませんが、一度権力を手にすると手放すことが出来なくなるものです。
このような状況でも、選挙という制度が機能しているのでしょうか。私達が選挙で選んでいるのは、何もしない、何もできない国会議員であり、実質的な権力者である官僚を選んでいるのではないのです。
現在の選挙制度は、その目的から逸脱しているとしか言えないのではありませんか。
しかも、立候補する政治家は、嘘つきかペテン師か金の亡者ばかりです。
現実的には、官僚独裁政治ですから、それでもいいのかもしれません。
官僚にとっては望ましい国かもしれませんが、国民にとってはどうなのでしょう。
役に立たない国会議員を選ぶ選挙が必要なのでしょうか。
官僚が得意とする諸々の儀式と同じように、形式的な選挙が実施されているにすぎません。官僚にとっては選挙でさえ儀式になっているのです。
自民党が悪いとか、民主党が悪いという問題ではなく、国のシステムが民主主義政治から官僚独裁政治へと変質してしまったのです。官僚独裁政治には、国民が指一本触れることは出来ません。それが、独裁です。現実は、正に、そうなっているのです。
既に、選挙には何の意味もないのです。
もし、私達が民主主義国家でいたいと思うのであれば。
やはり、国とは何か、国民とは何か、民主主義とは何かを問い直さなければならない時代を迎えているのだと痛感させられます。
その上で、国民にとって望ましい選挙制度は、どのような制度なのかを考えなくてはならないのではないでしょうか。
選挙制度さえあれば民主主義を実践しているのだと思い込み、役にも立たない選挙制度にしがみつき、焦燥感と不安感の中で身動きも出来ず、政治家を罵倒したって何も変わりはしません。自民党政権でも民主党政権でも、何も変わりませんでした。このことは、総理大臣がこの国の主役ではないことを証明しています。あれほど何人も総理大臣が変わりましたが、誰一人国民のために働いた人はいません。もう、そろそろ、政治家には何の力もないことに気付いてもいいのではありませんか。これは、政治の問題ではなくシステムの問題だということに気付くべきです。
国家統治の仕組みも、社会の仕組みも、時代に合わないものになり、私達は出口のない袋小路に入り込んでいるのです。
耐え忍ぶことが好きであれば、虫けらのように扱われることに喜びがあるのであれば、民主主義政治を諦め、官僚独裁政治にこの国の国体を変えるのも、それはそれで選択肢の一つです。でも、なし崩しはよくありません。


この国は、どこを見てもドン詰まりの状態です。
一度、潰れなくてはならない、と言う人が多くなりました。
潰れることを予測する人は増えましたが、潰れたらどうなるのか、ということに言及している人はほとんどいません。具体的に、自分の身の回りがどう変わるのかは話題になりませんので、切実感はありません。
「この国、もう、駄目らしいよ」
「あ、そう。いいんじゃない、こんな国」
多分、この程度の会話でしょう。
「今日、雨、降るらしいよ」
「あ、そう。傘忘れたけど、まっ、いいか」
と同じ内容です。
何か、覚悟があっての話ではありません。ただの、話です。
ところが、実際には、本物の地獄がやってくるのです。
そして、この国は、二度と立ち上がることはありません。
このことを知っているのは、1億2500万人の日本人の中で、このブログを読んだ人だけです。日本人は、まだ誰も知らないと言ってもいいと思います。
もっとも、この5月に書いた石田の「崩壊との遭遇」を読んだ方でも、信じている人はいないと思いますので、誰も知らないと言った方が適切かもしれません。
ほんとに、こんなことで、いいのでしょうか。
人間の歴史は栄枯盛衰の繰り返しであり、その栄枯盛衰の原動力は「欲」です。
「欲」で栄え、「強欲」で滅びるのです。
石田の視点は「強欲」だと書いたことがあります。この強欲に支配された国が、或いは集団が滅亡するのは日本史だけではなく世界史を見ても明らかです。今の日本は「自分さえよければ」という強欲に支配されています。ですから、日本が滅亡することは必然なのですが、過去の滅亡と違うところは私達の周囲の環境です。世界は狭くなりましたし、時間の流れは速くなりました。お米を作っていたら生活できる時代ではありません。世界を、日本を支配しているのは金融です。過去と同じパターンが繰り返される保証はどこにもないのです。過去の栄枯盛衰と同じパターンを想定し、私達は、どこかで、いつか、再生すると思い込んでいるようですが、この21世紀からは新たな栄枯盛衰のパターンが出現します。それは、再生ではなく消滅という現象です。日本は、その先陣を切っているのです。これは、コロンブスのタマゴです。その現実に直面するまでは、誰一人信用しません。日本という国が消滅した時、世界は新たなパターンの出現を認識し、対策をとることになりますが、消滅した日本は復元しないのです。

現在の日本のシステムは、官僚に白紙委任状を渡しているようなものです。そこにあるのは、「お上」は正しいことをしてくれるという、ありえないような大前提です。
「お上」は神様じゃありません。
神様どころか、豚なんです。それも、悪知恵をつけた史上最強の強欲豚なのです。
確かに、ある特定の一面だけを見れば、官僚は正しいことをやっています。でも、それは官僚にとって正しいことであり、国民は関係していません。国民は、自分達にとっても正しいことをやってくれていると思い込んでいます。その思い込みを支えているのは、「お上」は悪さなどしない高貴な人達だという何の根拠もない性善説なのです。
この国の民は、道の端で土下座をして砂の数を数えている百姓と変わりません。ただ、ひたすら「お上」が善政を施してくれるのを待っているのです。
吹く筈もない神風を待っているのです。
泣けてくるほど、いい人達の群れです。
愚かさも、ここまでくると、笑えてしまいます。
こんな恐ろしい大前提を受け入れるほど、神様の仮面を被った強欲豚に運命を託すほど、私の肝っ玉は太くありません。きっと、私の度量が狭いのでしょう。
ところが、元祖日本人は、簡単に受け入れます。勘違いに過ぎないのですが、そのことには気がつかないふりをして、どこまでも信じようとします。信仰も、ある意味では勘違いから成り立っていると思いますが、官僚への信頼は信仰に近いと感じます。
この恐ろしいほどの勘違いの輪の中に入れない石田は、不安感や焦燥感以上に、疎外感を強く感じます。
もしかすると、私は日本人ではないのではないか。
もしかすると、間違っているのは、この私なのではないのか。
もしかすると、下條村は宇宙人の村なのではないか。
もしかすると、ここは、もう、地獄なのかも。


2012-09-24



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