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海の果て 第3部の 4( 完 ) [海の果て]




モニターから警察官の姿が消えた。
「阿南さん、チャンスはありませんかね」
「後に退いただけですからね」
「ですよね」
機動隊の楯がないと、画面の中が寂しく見えてしまう。電話がきた。
「町村です」
「住民の避難状況はどうですか」
「進んでいます」
「町村さん。僕の予言聞いてみますか」
「はい。ぜひ」
「あと、数時間で、警察は後詰に回されます。あなたの役目も、そこで終わります」
「どうしてですか」
「僕が追われている理由は」
「三宅組爆破でしょう」
「他には」
「余罪は出てくるでしょうが」
「今、僕を確保したいと思っているのは、内調です。もう、自衛隊主導の危機管理対策チームが動き始めていると思います。ですから、三宅組の件も闇の中に消えていきます。僕は、国家機密の闇の部分に手を突っ込んでしまいました。だから、警察に逮捕させるわけにいかないんです。せっかく、僕の居場所を突き止めたのに、そのことも表にでることはありません」
「自衛隊ですか」
「あなたも、僕を逮捕することは無理だと思うでしょう」
「そんなことありません。話し合えば」
「何も知らない、いや、知らされていないあなたが、どうやって交渉するんです。自衛隊は、僕を逮捕しようとは思っていません」
「どうするんです」
「抹殺しか、選択肢はないと思っていますよ」
「まさか」
「あなたたちは、よくやったと思います。僕はヘマをしなかったと思っていたのに、よくここまで追い詰めたと感心してます。苦労したでしょう。ここで、自衛隊に持っていかれたら、後悔だけが残ります。でも、それがあなたたちの仕事でもある。難しいとこですね」
「中野さんの条件を教えてください」
「無理ですって。しばらくしたら、上の命令という訳のわからない理由で、警察全体が後詰になります。これが、僕の予言です。それまでは、怪我人が出ないようにすることです」
「納得できませんね」
「だったら、情報交換でもしますか」
「お願いします」
「僕は、かなり自信を持ってたんです。絶対に尻尾は掴まれていないと言う自信を持っていました。そこが、残念なんです。どうして、ここを突き止めたんですか」
しばらく、町村の返事はなかった。
「盗聴器です」
「盗聴器」
「ええ。この二日、データを取ったでしょう」
「三つですか」
「ええ」
「でも、電波は一瞬ですよ」
「我々も、同じものを取り寄せました」
「なるほど。それでわかりました」
「では、中野さんの情報を」
「いいですよ。防衛予算はいくらか知ってますか」
「大体は」
「装備品の価格がどこで決められているかは、知りませんよね」
「ええ」
「政治家と官僚、そして一部の企業が、都合のいい価格を決めています。そして、年間で約五千億円の金が闇に消えます。僕はその半分をピンハネしました。警察にはその被害届は出ていないはずです。なぜなら、まだ半分はそのグループの資金になっているからです。半分と言っても、二千五百億ですからね。簡単には手放せません。僕を逮捕して、裁判にかけることになれば、困るのは僕だけではありません。しかも、その資金を受け取っている政治家が政府を動かしているんです。だから、僕を殺すことしか、選択肢はないんです」
「何か証拠があるんですか」
「なければ、彼等は金を払わないでしょう。証拠はここに置いてませんがね」
「にわかには、信じられない話ですが」
「でしょうね。他にも、山ほどの不正資金から、ピンハネをしてます。三宅組は競合相手だったんです。でも、この話は町村さんの腹の中にしまっておいてください。あなたの命が危険になりますから」
「無理ですよ。この会話は記録されてますから」
「そうですか。迷惑かけてしまいました。言わなきゃよかった」
町村は言葉を失っていた。
警察庁の盗聴器が見つけられていただけなら、今回の仕事には影響しない。このまま、時間が過ぎていけば、スイスの口座に三十兆の金が到着することになる。
「少し、ここで頑張りますか」
藤沢の家が見つけられた理由を聞いて、阿南も安心したようだった。
膠着状態のまま、夕方になった。また、電話が入った。
「町村です」
「どうしました」
「中野さんの予言どおりになりました」
「そうですか。ご苦労さんです。くれぐれも気をつけてください」
「中野さん。我々に捕まるわけにはいきませんか」
「捕まって、どうするんです」
「裁判に持ち込みます」
「町村さんに、そんな力があるんですか。自衛隊に渡せと、上から命令を受ければ、そこで終わりでしょう」
「わたしが駄目でも、今の長官なら、裁判にしてくれます」
「警察庁長官の罷免など、簡単にできますよ。相手は政府そのものなんですから」
「そうなんですか」
「それよりも、住民の安全をお願いしますよ」
「それは、もう」
「僕は、町村さんに捕まっても、いいですよ。裁判になるならね」
「どうやって」
「僕を有名人にしてください。簡単には殺せないほどの有名人に」
「・・・」
「マスコミに、リークするんです。警察組織全体で」
「はあ」
「自衛隊が部隊を展開するには、まだ少し時間があります。戦いになれば、自衛隊にも大量の犠牲者が出るし、このあたりは廃墟になります。マスコミもじっとしていられないでしょう」
「・・・」
「警察本来の使命ですよね。犯罪者を逮捕して裁判にかける。その使命のために、少し違う手段を使うことになりますが、時には、使う手法でしょう」
「相談してみます」
「無理しなくても、いいですよ」
警察が浩平のために何かをやってくれることはないが、警察の面子のためであれば、何でもやってくれるだろう。自分たちが長年追い続けた獲物を、目の前で攫われる。しかも、それが政治的理由によるものであれば、どこかに反発はある。犯人の一方的な言い分に過ぎなくても、統治者の側にも正義がないのであれば、面子が優先しても自己弁明は可能になる。自衛隊が前面にでることに納得できる理由があるのであれば仕方ないが、そうでない場合は、許せるものではない。警察庁長官の判断が流れを決めことになるだろう。ネットには藤沢で起きていることに関する書き込みが増えている。警察が報道規制を外さなくても、有名無実のものにしてしまえば、マスコミの報道は一気に過熱することになる。そうなると、政府も報道を止めるために強腰にはなりきれない。昔の軍部統制を思い出させては、政府側にとって利益にはならない。どうなるのかは、浩平にも読めなかった。
「阿南さん。僕も死に場所を探してるんでしょうか」
「そうなんですか」
「阿南さんは、どう見ても、死に場所を探してますもんね。自分もそうなんじゃないかと、今、ふと思ったんですよ」
「片山さんには、生きてて欲しいな」
「阿南さんだって、生きていて欲しい」
「自衛隊が出てくるんでしょ。自分にとっては理想的な展開になってきたなと思ってます。これが、他国の軍隊だったら、もっとよかったけど、警察にやられるよりは嬉しいですよ」
「阿南さん、百姓やると言ってたじゃないですか」
「中途半端な男なんです。自分はこれでいいです」
「ここが、死に場所ですか」
「気にいってるんです、ここ」
「困った人だ」
自衛隊はどういう攻撃をしかけてくるのだろう。テロリストを殺すことが目的なら、最初から砲撃をするだろう。迫撃砲を数発撃ちこめばいい。だが、治安出動という名目であっても、殺戮が目的では、その後の自衛隊の在り方に禍根を残すことになる。特殊部隊を投入し、身柄の拘束を初期目標にすると思われる。
「阿南さん。天井はどうなってます」
「開けられます。ヘリでしょう」
「ええ」
阿南が、狭い階段を登って、天窓を開けて見せた。
「向こうにも、もう一つあります」
「地雷の場所は」
阿南が取り出した見取り図には、地雷原が色分けされていた。

交替で三時間ずつの睡眠を取り、朝を迎えた。阿南も熟睡できるようになっていた。
六時を過ぎて、藤沢の事件が報道されるようになった。封鎖されている道路に向かって自衛隊の車両が移動している映像や、避難所の様子、避難住民に対するインタビューが放映されている。テロリストのアジトを包囲、というテロップが流れている。テロリスト、自衛隊の治安出動、自然災害以外での住民に対する避難命令。どれをとっても、目新しいものばかりなのだから、報道合戦が過熱することは間違いない。マスコミ各社には、総動員令が出ているだろう。政府の発表は限定的にならざるをえない。記事に飢えているマスコミがそれで満足をするはずはない。
「警察が臍を曲げました」
「どこまでリークしますかね」
「今は、鬼退治ですから、まだ政府に有利でしょう。警察が僕を逮捕するためには、五分五分にしたいでしょう。裁判で事実を明らかにして欲しいという世論が必要です。そのうちに、防衛省の不正疑惑が漏れてきます」
「自衛隊は短期決戦で来ますか」
「まだ、わかりません」

京都北白川の白石邸の居間で、食事を済ませた亜紀は新聞を読みながら、優と二人でテレビを見ていた。まだ字を読めない優も母親の真似をして新聞を広げる。亜紀の耳がテレビから流れてきた「テロリスト」という言葉に反応した。警察が三宅組を爆破したテロリストのアジトを包囲している。
「久さん」
亜紀が大声で久子を呼んだ。優の体がビクッと動いた。優にとっては、初めて聞く母親の厳しい声だった。
「はい」
食堂にいた久子が、居間に走ってきた。
「優をお願い」
「はい」
亜紀は自分の部屋に行き、携帯を取り上げて、緒方の電話番号を探した。
「白石亜紀です。ごめんなさい。こんな時間に」
「いえ」
高校三年の夏休みに、白石の希望で髪を切り、変身した時に世話になったスタイリストの緒方とは、個人的な付き合いが続いている。
「緒方さん。テレビ局に知人が多くいますよね」
「はい」
「報道番組をやってる方を、紹介して欲しいの」
「報道ですか」
「藤沢のテロリスト、知ってる」
「いいえ」
「今、流れているニュースなの。そこにテレビある」
「はい」
緒方がテレビを操作する時間を待った。
「はい。やってます」
「その事件の証言が、私にできると思うの。当たってもらえないかしら」
「テレビに出てもいいんですか」
「ええ」
「やってみます」
「多分、人の命がかかってます。急いでお願い」
「はい。わかりました」
「私、今から東京に向かいます。この番号に」
「はい」
亜紀は地味なスーツに着替えて、簡単な旅支度をした。押入れの奥から書類の束を取り出して、鞄につめた。片山浩平から証拠書類というものを受け取り、片山のやってきたことを聞いた後で、亜紀は一か月かけて資料の全てに目を通し、コピーをとって数か所に保管していた。鞄に入れた資料は、そのコピーだった。
「久さん。しばらく留守にします。電話しますから」
「はい」
「優、かあさまは大事な用事があって出かけます。おねがいね」
「いいよ」
「久さん。誰もこの家に入れないように。警察でも、です」
「はい」
亜紀はタクシーに乗ってから、何か所にも電話を入れた。突然姿を消せる立場にはいない。和久井がいれば、和久井に言うだけで済んだが、今は個人秘書のような人はいないので、自分で連絡を入れなければならない。
新幹線が名古屋を出たところで、緒方から連絡がきた。
「亜紀さん。出演の約束、取れました」
「ありがとう。今、名古屋を出たとこです」
「私、東京駅に行きます」
亜紀は切符に書いてある列車番号と到着時刻を緒方に伝えた。
「緒方さん。しばらく、私のマネージャーしてくれませんか」
「やります。今、局中が大騒ぎです」
「おねがいします」
緒方を通じて、何度もテレビ出演を依頼されたことがあったが、全て断ってきた。こんな形で緒方の希望がかなうとは、緒方自身も思っていなかっただろう。
東京駅には、緒方と番組のスタッフの若い男子社員が来ていた。迎えの車に飛び乗った。
「どうなってます」
「少し、風向きが変わっています」
「・・・」
「防衛省の不正がからんでいるらしいという噂です。どこの局も、裏が取れませんからニュースとしては流していませんが、ただのテロリスト事件ではない、というのが局の判断です」
「その防衛省の件、私が証拠書類を出します」
「えっ、ほんとですか」
山本と名乗った男が、興奮した声で電話報告をした。
テレビ局の玄関に着くと、数人の社員が待っていて、亜紀は拉致されるようにして会議室に通された。証言すると言ってきた証人が、若くて、とびきりの美人であることに、待ちうけていたスタッフに言葉はなかった。会議室は亜紀の持ち込んだオーラで充満し、亜紀が席についても、しばらくは誰も口をきかなかった。
「今日は、無理なお願いを聞いていただいて、ありがとうございます」
最初に発言したのは亜紀だった。
「いえ。とんでもありません。私、局長の宗像といいます。藤沢の件で、証拠がお有りだと聞きました」
「はい」
亜紀は鞄から取り出した書類の束から、一枚の書類を取り出して、緒方に渡した。それは、権田議員が書いた念書だった。念書と書いてあるが、事実上は自白調書である。
目を通した宗像局長がため息をついた。
「本物なんですか」
「筆跡鑑定でも、そこにある拇印の指紋鑑定でも証明されます。それは、コピーですが、原本は私が保管しております」
「テロリスト、いや、テロリストと言われている人と、白石さんのご関係は」
「知人です」
「お身内ではない」
「私は、兄だと思っています」
「お名前も、出せますか」
「はい。片山浩平という人です」
「では、三宅組の件もご存じですか」
「はい。承知しております」
「全て、お話していただけるんですか」
「できれば、片山さんの承諾をいただければ、と思っています。防衛省以外の件は」
「承諾、と言いますと」
「片山さんに、会うチャンスを作っていただけませんか」
「・・・」
「説得したいんです。彼は死ぬ気なんだと思います。私は彼に裁判で証言して欲しいと思っています」
「・・・」
「宗像さん。これが証明されるということが、どういうことかわかりますか」
「と、言いますと」
「年間で五千億円の不正資金があるんです。過去十年だとすれば、五兆円もの税金が不正に使用されているんです。その不正資金を受け取ったという議員の名前もここにあります。その人たちが政治を動かしているんです。現総理の名前もあります。片山さんは、逮捕されても裁判はないと言ってました。つまり、生かしておいては都合の悪い人が大勢いるんです。彼は殺される。そう思うから、ここに来たんです。ただ、あなたたちにとっても、これは危険な賭けになります。局の存亡さえかけなくてはならなくなります。内閣総辞職ぐらいでケリのつくことではありません。体制の崩壊もありえます。ですから、充分、考えてください。ただ、時間がありませんので、結論はすぐにいただきたい。私は次の局に走らなければなりませんから」
「ま、待ってください」
「十五分だけ待ちます。緒方さん、先に出てタクシーを捕まえておいてください」
亜紀は時計を確認し、緒方が部屋を飛び出して行った。
宗像局長も携帯を耳につけたまま、部屋を飛び出して行った。前代未聞の大スクープを前に、正常な行動ができるのか。勇み足でもいいから、亜紀は放送して欲しいと願っていた。
「山本さん」
「はい」
「何か、飲み物をいただけませんか」
「はい。なにが、よろしいでしょうか」
「日本茶があれば」
「わかりました」
山本も部屋を飛び出して行った。残された人は、誰も口を開く勇気はないらしい。
約束の十五分が過ぎた。亜紀は立ち上がり、出口に向かった。資料を残して行っても、発表する気のない局には宝の持ち腐れになるだけにすぎない。だが、勢いよくドアが開き、宗像が戻ってきた。
「よおし、特番の用意だ」
残されていたスタッフから歓喜の声が上がった。
「白石さん。座ってください」
「よろしいんですか」
「百パーセントではありませんがね。権田先生のサイン入りの本があるんです。この念書のここの部分をコピーさせてもらいました。サインの筆跡鑑定をして、同じものなら放送します。ただし、うちの安全も考慮した内容になりますが、そこのところは勘弁してください」
「わかりました」
亜紀は緒方を呼び戻した。
「宗像さん。二人だけで、お話できませんか」
「いいですとも」
亜紀は宗像に連れられて別室に移動した。
「この五千億の行方を知りたいですよね」
「もちろん」
「片山さんが盗ったのは半分です」
「はい」
「残りの半分は、まだ議員たちに渡っています。そして片山さんの分は子供基金という公益法人に寄付されています」
亜紀は子供基金の内容を説明した。今は、片山の命を守ることを優先させる。子供基金のことは、その後で考えればいいと決めていた。片山が死んでしまい、ああそうですか、とは言えない。
「テレビ局もご自分の社が大事ですよね。私にとっても、子供基金は大事なんです。ですから、子供基金を守りたい。配慮していただけると助かります」
「わかりました。片山さんって、ほんとは英雄じゃないですか」
「はい。あの方を死なせてはいけないと思ってます」
「こんなこと聞いて、怒らないでくださいよ。白石さん、片山さんは恋人ですか」
「違います。どう説明すればいいのか。私の行動規範は、いつも主人なら、どうするかで決めています。主人なら迷わずに、片山さんの窮地を救おうとするだろう。だから、私もそうする。それだけなんですけど、納得していただけないかもしれませんね」
「いいえ。わかりました。すみません」
「子供基金のこと、出さなくてもいいでしょうか」
「ぼかして、それらしきことは、言って欲しいですが、あなた次第です。それと、この念書も表に出しません。あなたは、裁判資料として提出できるものを持っているとだけ言ってください。見せてほしいと迫りますが、あくまでも裁判で、と言ってください。我々は資料の信憑性の裏を取ってますから、それで逃げます。他の証拠もお持ちのようですが、それは見ないことにします。うちで爆弾を抱えてしまって、爆発した時に怪我しそうですから」
「ありがとうございます。それと、投降を勧めに行くということで、現地に入れるといいんですが、無理でしょうか」
「それも、今、動いています。これは、信じ難いほどのスクープなんです。しかもテレビ局独自のスクープですから、うちも全力であたります」
亜紀と緒方は控え室に移された。生番組ではあるが、台本が来るのでよく読んでおいて欲しいと言われた。
「緒方さん。ごめんなさいね」
「とんでもありません。私、ますます、あなたのこと好きになりました」




電話のベルが鳴った。自衛隊からの電話だとすると、随分急いでいることになる。
「はい」
「私は、陸上自衛隊第一師団の津山と言います。あなたとの窓口になります。お名前は中野さんだと聞いていますが、よろしいでしょうか」
「はい」
「投降するつもりは、ありますか」
「はい」
「そうですか。投降はしないものだと思っていました。条件がありますよね」
「はい」
「教えてください」
「裁判です」
「裁判」
「裁判にかけるという保証があれば、投降します」
「それだけですか」
「そうてす」
「警察も、その事を知っていますか」
「はい」
「なら、どうして、です」
「津山さんなら、できるんですか」
「もちろん、です」
「まさか」
「は」
「交渉は終わりですね。裁判の保証という条件を出して、あなたはできるとおっしゃった。交渉役のあなたが、できる判断ではないですよね。形通りの交渉がしたかったんですね。ですから、終りだと言ったんです」
「交渉が終われば、お二人は厳しいことになりますよ」
「承知しています」
「阿南さんは、そのことわかっていると思いますが」
「だから」
「いえ。覚悟ができているのなら、それでいいんです」
「津山さん」
「はい」
「実行部隊の方に、これは訓練ではないと、念を押しておいてください」
「わかってます」
「津山さんはなんでも安請け合いするんですね。あなたの階級は知りませんが将校なんでしょう。あなたの下につく兵が気の毒です。本物の戦争に、あなたは行かない方がいい。負けます」
浩平は受話器を降ろした。
「阿南さんの名前も、二人しかいないことも、バレてましたね」
「わかるでしょう。そのくらいのこと。でも、片山さんの名前はわかっていない」
「自衛隊は、やる気です」
「そのようですね」
「まだ、コーヒー豆あります」
「ええ」
「お願いできますか」
「了解」
テレビでは、まだ防衛省のことは出ていない。リークがあったとしても、裏も取らずに放送するには重い内容に違いない。
浩平は殺気を感じた。
「阿南さん」
「はい」
阿南がコーヒー豆を放り出して、中二階に駆け上がってきた。
「天井を頼みます」
「了解」
「狙撃隊がいます。頭を出さないように」
「了解」
ヘリの音はまだ聞こえていない。
浩平はロケット砲を引き寄せた。昨夜、玄関前にある浩平たちの車を、道路近くまで移動させてある。殺気が次第に強くなってくる。こちらの監視に姿を見せることもなく接近してくる行動は褒めてもいい。しばらくして、遠くから、ヘリの音がしてきた。阿南の体に緊張が漲った。見えた。車の影に走りこんだ兵士が一人。殺気は横にも後ろにもあった。
浩平は、ロケット発射用の窓を開けた。後方で地雷の炸裂音。ロケット砲を車に向けて発射。ヘリが上空に到着。左右の地雷の炸裂音。阿南の自動小銃が火を噴く。
ヘリが遠ざかり、静寂が戻ってきたが、まだ殺気は消えていない。阿南が天井の階段から降りてきた。浩平は殺気のある方向を四か所指差した。後を阿南に任せて、浩平は小銃の安全装置を外した。庭の畑の玄関寄りのところに軍靴が見える。その靴に向けて引き金を引き、一メートル上に向けて二発目を発射した。玄関左の植え込みから、自動小銃が乱射されてきた。浩平はその銃口に向けて、三回引き金を引いた。同時に阿南の自動小銃からも発射音が聞こえた。家の近くにある殺気は一か所になった。一階にある銃眼から外を見た阿南が、来てくれと手で知らせてきた。
「地雷で負傷してます」
「援護します。武器を捨てさせて、部屋で手当しましょう」
「了解」
二人は家の裏口から出た。狙撃兵のいそうな場所はない。
「武器を捨てろ」
阿南が声をかけた。殺気がないことを確認して、阿南の背中を叩いた。
阿南に連れられてきたのは、まだ十代の子供のような兵士だった。左足から血が落ちている。武装解除をして、太ももを縛りあげた。もう、かなりの出血をしているようで、兵士の意識は失われる寸前だった。止血しても、助からないかもしれない。
浩平は、津山という交渉役がかけてきた番号にリダイアルした。
「津山」
「負傷兵がいる。すぐに迎えに来い」
数分後に、赤十字マークをつけた車両がバックで入ってきた。ヘルメットに赤十字マークをつけた兵士が二人降りて来て、後部ドアを開けた。
「自分が行きます」
「援護します」
意識をなくしている負傷した兵士を、抱き上げて阿南が玄関を出た。浩平は小銃を手に援護に出て、二人を見守った。
「伏せろ」
浩平の大声に、阿南が素早く対応した。ドア付近の着弾に続き、銃声がした。浩平は外に出て、遠くの民家の屋根上にいる狙撃兵を気道で倒した。阿南も物陰に退避し、二人の兵士も身を伏せている。投げ出された負傷兵が路上に放置されていた。
「早く、連れて行け」
浩平は赤十字マークの二人を怒鳴りつけた。
「阿南さん、戻ってください」
浩平は小銃を構えて、援護の態勢に入った。阿南が身を縮めて家の中へ駆け込んできた。負傷兵も無事にトラックに収容されたようだ。赤十字マークの兵士が一人、浩平が構える小銃の射界に立って、敬礼をしてから走り去った。
「怪我は」
「ありません」
「自衛隊も、地に堕ちたな」
「今度から、負傷者にはトドメをさしますよ」
自衛隊のなりふり構わぬ姿勢に、政府のあせりを感じた。総理大臣の下命がなければ、自衛隊は動けない。現体制を保持するために強権発動をせざるを得なかったのだろう。電話のベルが鳴ったが、浩平は受話器を取るつもりはなかった。残された道は、殺し合いしかない。
「阿南さん。コーヒーが途中でしたよね」
「あっ、そうだ」
何事もなかったような静寂の中で、二人はコーヒーを飲んだ。次の攻撃を生き伸びる確率は、さらに低くなるだろう。戦える間は戦う。二人の意識は同じだった。
「阿南さん。寝ておいてください。三時間で起こします」
「了解」
ネットでは、防衛省の不正に関する書き込みが増えてきたが、浩平が見ても信憑性のないものが多かった。チーム池崎は浩平たちのやっていることを知らされていないから、書き込みはできない。藤沢テロ包囲事件のテロリストが浩平だとわかっていても、何をしていいのかわからない。イライラしながら見ているのだろう。テレビ各局は、材料不足で立ち往生している。警察がたいした証拠を持っていないのだから、リークにも限度がある。どうやら、ここまでのようだ。

十二時から始まるワイドショーが特別番組に編成替えされた。報道番組でおなじみのキャスターが呼び出されて司会をするようだ。
「今、そこで、あなたの街で起きている、藤沢テロリスト包囲事件の真相に迫るべく、この時間は特別番組をお送りします。先ず、事件の経緯を追ってみましょう」
画面には写っていないが、亜紀はゲスト席に座っていた。コメンテーターと言われる男が二人別の場所に座っている。
「この事件は、どう解釈したらいいのでしょう」
司会者はコメンテーターに質問をした。
「実に、不可解な事件です。この時間でも自衛隊の部隊が増強されていると聞きます。一説によると、テロリストは数名だそうですが、あれほどの軍隊を投入するのは、なぜなのか、という疑問があります。藤沢で一体何が起きているのか、実に不可解ですね」
「現地は、道路封鎖が行われていて、誰も入ることはできません。また、航空制限もあって、ヘリも飛べません。そこで、今日は、その真相に迫ることができるゲストの方をお迎えしました」
ゲスト席を写しているカメラに映像が切り替わる。
「京都でホテル業を営んでおられる、白石亜紀さんとおっしゃる方です。白石さん、よろしくお願いします」
「よろしく、お願いします」
「早速、お尋ねしますが、白石さんは、藤沢のテロリストだと言われている人をご存じだと聞きましたが、そうなんですか」
「はい」
「お名前を出していただいても、いいでしょうか」
「はい。片山浩平さんとおっしゃる方です」
「白石さんとは、どう言うご関係ですか」
「主人が大変お世話になった方です。私も、助けてもらっています」
「では、よくご存じの方ですね」
「はい」
「その片山さんという方が、どうしてテロリストとして追われているのでしょう」
「国の不正を知っているからです」
「国の不正、ですか。そのことと、テロリストとどう結びつくんでしょう」
「片山さんがやっていたことは、暴力団のようなことです。その暴力団同士の抗争で横浜にあった三宅組という暴力団事務所を爆破したために、テロリストという呼び方をされたのだと思います。国の不正に食い込んでいるのは片山さんたちだけではありません。ですから、暴力団同士の利権闘争なんです」
「片山さんという方は、暴力団の組長なんですか」
「そういう立場だったと思います」
「驚きました。で、その、国の不正というのは」
「防衛省の装備調達に関する不正です」
「さらに、驚きですが、白石さんは、その中身をご存じなんですか」
「はい。私は、その証拠書類を預かっています」
「それを、持っておられるんですね」
「はい」
亜紀は書類の束をテーブルの上に置いた。
「それを、見せていただけるんですか」
「いえ。お見せすることはできません。この書類は裁判所に提出したいと思っています」
「裁判所と言いますと」
「片山さんには、裁判を受けてほしいと願っています」
「そうであれば、警察に逮捕された方がいいと思っておられるんですね」
「裁判があるのであれば、私は現地に行って説得します」
「逮捕されれば、裁判は開かれるでしょう」
「いいえ。片山さんが知ってしまった内容は深刻なものですから、裁判はないだろうと本人も言ってました」
「どういうことです」
「国には、片山さんの口を封じる必要があるんです」
「逮捕せずに、殺すということですか」
「そうです」
「独裁国ではありませんよ。そんなことはありえません」
「そうでしょうか。では、なぜ、あれだけの自衛隊を向かわせたんですか」
「それは」
「藤沢にいるのは、数人だと言いましたよね。私もそう思います。どんな手段を取ってでも抹殺するつもりなんでしょう」
「それほど、大変な不正だということですか」
「はい」
「教えていただくことは、できませんか」
「それは」
「概略だけで、結構です」
「はい。ここには、四人の方の念書があります。政治家の方と、防衛省の方、そして民間の会社の方がお二人です。自衛隊の装備品の価格はどうやって決まるかご存じですか」
「いえ。知りません」
「この四人の方たちが作っている非公式の団体が決めています」
「どういう団体なんですか」
「いわゆる、談合のための団体だと思います」
「談合ですか」
「この書類のなかには、参考価格としてアメリカ軍が調達している価格もありますが、それに比べると法外な価格で購入されています。その結果、年間五千億円のキックバックがこの談合団体を経由して、不正に分配されているんです」
「まさか」
「その事実を認めた内容が、この念書に書かれています」
「どうして」
「その不正資金を受け取っている政治家の方の名前も、ここにあります。誰もがご存じの政治家の方々です」
「そこに、あるんですか」
「はい。片山さんは、その不正資金の半分を合意の上でもらっているそうです」
「信じ難い話ですね」
「その通りです。その信じ難い話が、もしも、ほんとなら、どうなります」
「大変なことになります」
「不正資金は防衛省だけではありません。証拠がある分だけでも六つの省に不正があります。中央官庁が、税金を好き勝手に使っていることが証明された時に、どうなるとおもいますか」
「体制の崩壊が起きますね」
「国が、一人の人間を抹殺しようとしているんです。片山さんが正しいことをしているとは言っていません。国も片山さんも裁かれるべきだと思います。だから、裁判なんです」
「んんんん」
「それと、このことは言わない方がいいのかもしれませんが」
「なんです」
「片山さんは、その資金を、ある福祉団体に寄付しているんです。私腹を肥やすためにやっているのではないんです」
「寄付」
「ええ」
「政府の説明とは、全く違いますね」
「裁判が必要です」
「でも、こんなことを、話して、白石さんの身に何か起きることはないんですか」
「そのことは、覚悟しています」
「・・・」
「ここにある証拠は、全て、コピーです。本当の証拠は、日本にはありません。事故でも殺人でも、私が死んだら、発表してくれるジャーナリストの方がいます。まだ、海外には本物のジャーナリストがいますから。そうなると、日本は世界から袋叩きにあいます。国益という意味では、日本国中が辛い立場に立つことになります。私も、事業をしています。直接経営している会社が三つあり、関連会社も数多くあります。その仕事が辛い立場に立たされると思います。でも、亡くなった主人なら、やれと言ってくれると信じています」
「そこまで、覚悟を」
「はい」
特別番組が終わり、亜紀が控え室で緒方と二人で休憩していると、局長の宗像が部屋に入ってきた。
「白石さん、御苦労さまです」
「ありがとうございました。宗像さんのご決断には感謝しています」
「そこなんです。私、少し、やりすぎたかな、と反省してます」
「申し訳ありません」
「いやいや。あなたが命を賭けておられるのだから、私が職を賭けてもいいわけなんですが、家内には厳しく怒られるんでしょうね」
スクープもほどほどのものがいい、と感じている顔だった。
「まだ、白石さんが、ここまでの決断をされた真意がわかりません。私があなたの立場だったら、同じことをしたでしょうか」
「わかりません。今、私がやらなければ、という直感だけなんです。若気の至りなのかもしれませんね」
「いや。羨ましくもあります。若さって」
ドアが勢いよく開き、若い男子社員が走りこんできて、宗像の耳に早口で何か言った。
「すみません。失礼します」
宗像があせった様子で部屋を出て行った。
「引き揚げますか。ホテルは確保できましたから」
緒方はすっかりマネージャーになっている。
「そうですね。あれだけの爆弾を投げてしまったから、このままでは帰れないでしょうね。でも、緒方さんはここまででいいです。ありがとうございました」
「でも」
「これ以上は危険です」
「警護を依頼した方がいいと思いますが」
「誰に」
「えっ」
「今は、国の敵になったんです。警護を頼めば、刺客が来ますよ」
先ほどの男子社員が、また飛び込んできた。
「すみません。局長が、来てほしいと言ってます」
宗像局長の手に負えない事態が起きているようだ。連れられて行ったのは応接間だった。宗像が電話に向かって頭を下げている。「今、変わります」と言って、受話器を持った宗像が近づいてきた。
「官房長官の野々村先生です。あなたと、直接、話したいそうです。いいですか」
「はい」
受話器を受け取った亜紀は、応接セットの椅子にゆっくりと座った。
「お電話変わりました。白石です」
「お呼び立てしてすみません。官房長官の野々宮と言います。放送は拝見しました」
「はい」
「総理が、直接、白石さんと話がしたいと言っています。官邸までご足労いただけませんか」
「はい」
「よかった。迎えの車をすぐにそこにやります」
「私の方からも、お願いをしていいですか」
「もちろんです」
「二つあります。一つは、すぐに自衛隊を止めてください。二つ目は、私の目で片山さんの無事を確認させてください」
「確認と言いますと」
「藤沢の現地に行かせてください。もちろん、説得もします」
「んんんん」
「総理も野々宮さんも、穏便な決着をお望みですよね。このままでは、双方に大きなダメージを残してしまいます。この難局を乗り切れるのは、私だけだと思っていますが、違いますか」
「いや。その通りです。そう思ったから、あなたに電話をしました。少し、待ってください。総理と相談します」


10

浩平はパソコンから目を離して、テレビを見た。藤沢の事件は、取り上げられていないようだ。チャンネルを次々と変えると、特別番組の予告をしているテレビ局があった。特別番組をするほどの材料を手に入れたのだろうか。十五分後には始まる。その時、全身の肌で殺気を感じた。
「阿南さん」
阿南が飛び起きた。
「来ましたか」
「ものすごい数です」
「正面突破ですね」
住宅街の一角だから、遠くは見通せない。
「前だけですか」
「そのようです」
雲のような殺気は前方にしかない。二人は銃眼から目をこらした。次第に車の排気音と軍靴のざわめきが聞こえてくる。
「おう」
道路の前方に大きな車両が姿を現した。
「装輪装甲車です」
「阻止できますか」
「さあ。残りのロケットを全部、撃ち込んでみましょう。片山さんはあの銃座を狙ってください。ロケットを撃ったら、一旦、地下壕に逃げます。一斉射が始まれば、この家は持たないでしょう。瓦礫の中から、応戦するしかありません」
「わかりました」
二人はロケット砲を手にして窓を開いた。後を向いた浩平の目はテレビの中にいる亜紀を見つけた。
「亜紀さん」
音声は落としてあるので、話は聞こえない。
「片山さん」
「おう」
阿南が最初のロケットを発射した。浩平も銃座にむけて引き金を引く。阿南が三発、浩平が二発を撃てば、ロケットはなくなる。
二人は小銃を手に、階段を走り降りて地下壕に飛び込んだ。装輪装甲車を阻止できたかどうかを確認する時間はなかった。直後に嵐のような銃弾が飛んできた。ロケット砲弾による破壊音も聞こえる。そして、ついに木造家屋が倒れる音が聞こえた。
「くそっ。壊しやがった」
「阿南さんは、ここで待っててください」
「断ります。一人でも二人でも道連れにしてやります。筒井さんの家を」
「阿南さん」
一斉射の銃声が止まった。上空にはヘリも来ているようだ。阿南が地下壕を飛び出した。阿南の中には怒りしか残っていない。説得する間もなく、近くにあった自動小銃に持ち替えた阿南が瓦礫の中を右に走った。浩平も仕方なく左に走った。隙間から見えるのは、山のような兵士の群れだった。道路にも住宅の庭にも、銃を構えた兵士がいる。ありったけの銃弾を部屋中に配置してあったので、どこにいても予備弾には困らないが、襲ってきている敵を撃ちつくすだけの弾はないだろう。
阿南の自動小銃の発射音がした。敵は遮蔽物を求めて逃げまどう。浩平は銃口を向けている敵を気道で次々に倒した。阿南がいたと思われる場所に集中砲火が来た。素人ではないので、すでに阿南は移動しているだろう。すると、別の場所から、阿南の銃声が聞こえた。嵐のような銃声が起き、家中に銃弾が飛び込んでくる。銃声が止むのを待って、浩平は阿南の方へ走った。
「阿南さん」
体中に銃弾を浴びた阿南は、すでに絶命していた。確かに、これが阿南の望んでいた死に方かも知れないが、浩平には納得できなかった。体中に怒りが満ちて来る。顔つきも目つきも変わり、体から殺気が飛び出している。
「おうりゃゃゃゃ」
気合いが空気を切り裂く。瓦礫のあらゆる隙間から飛び出した浩平の殺気が、包囲している兵を襲った。
浩平は瓦礫を飛び出した。まだ、敵の殺気は残っている。
「きぃぇぇぇぇぇ」
上空のヘリも操縦不能になり、横滑りしながら墜落炎上し、もう、殺気は残っていなかった。
いよいよ、砲弾による攻撃がやってくる。周辺の住宅も全て瓦礫と化すだろう。浩平は阿南の死体を担ぎあげて、地下壕に降ろした。これ以上阿南の体を痛めたくはなかった。
コーヒーが飲みたかったが、瓦礫の中に座り込み、ペットボトルの水で我慢した。自分もやはり死に場所を探していたんだろうか。どこかへ逃げる気持ちはなかった。抜けるような青空と静寂。音が無さ過ぎる。
浩平は、目だけでテレビを探した。亜紀がなぜテレビの画面の中にいたのだろう。「骨を拾ってあげる」と言っていたが、拾ってもらう骨が残るのだろうか。浩平は、壁に背を預けて、ウトウトしていた。
突然の拡声器の声で、目覚めた。
「片山さん。この声が聞こえたら、銃声を一発送ってください」
「片山さん」
「片山さん。この声が聞こえたら、銃声を一発送ってください」
浩平は近くにある小銃を取って、発砲した。
「今から、白石亜紀さんが、そちらに向かいます。発砲しないでください。聞こえましたら、銃声を三発お願いします」
浩平は、空に向けて三発の銃弾を撃った。亜紀が、なぜ。
右手の細い路地の向こうに赤十字マークの車が停まった。グレーのスーツを着た女が一人で歩いてきた。その女を目だけで追った。確かに、白石亜紀だったが、あまりにも場違いな状況に体は反応していなかった。亜紀は、真っ直ぐ浩平の方へやってきたが、視界が開けて、死体の山が目に入って、足を止めた。それは一瞬のことで、すぐに近づいてきた。
「片山さん」
浩平の正面で膝を折った亜紀が呼びかけた。
「どうして」
「よかった」
「骨を拾ってくれるんじゃ」
「骨だけじゃなくて、よかった。今から、総理大臣相手に取引をします」
「テレビに出てましたね」
「ええ」
「どうして」
「説明は、後で、ゆっくりします。行きますよ」
「どこへ」
「総理官邸。そして、京都」
「京都」
「優が、片山のおいちゃんは、って聞くの」
「優ちゃん」
亜紀に手を取られて、浩平は立ち上がったが、真っ白な頭の中に阿南がいた。
「阿南さんが」
「阿南さん」
浩平は地下壕の方を指差した。
「あそこに、いるの」
浩平は地下壕から、阿南の死体を引き揚げたが、それは一仕事だった。
「取引が成立したら、引き取りに来ましょう。阿南さんは待っててくれます」
「そうか」
浩平は、亜紀に引っ張られるようにして、車に向かった。赤十字マークのヘルメットをかぶった兵が直立して敬礼していた。どこかで、見たことのある男のような気がしたが思い出せなかった。
ヘリに乗ったところまでは覚えている。

ヘリの中で、片山が気を失った。市ヶ谷の防衛省に着陸した亜紀は救急車を要求し、近くの民間病院に片山を入院させた。総理官邸からの一本の電話は、不可能を可能にしてくれる。突然の入院要請にもかかわらず、特別室が用意された。
「ここで、お話できませんか」
「病室で、ですか」
「ストレッチャーを官邸に持ち込むより、いいでしょう」
「わかりました」
野々宮官房長官との電話を切って、亜紀は地獄から帰ってきた男の寝顔を見た。数百人と思われる兵士たちの死体の山。また、苦脳を背負いこんでしまったのだろうか。白石の死で、絶望の真っ只中にいた時に助けてくれたのは片山だった。今度は、亜紀が片山を救う時だった。
竹原洋介総理と野々宮官房長官が二人だけで部屋に入ってきた。
「白石です」
亜紀は二人の老人と握手をした。亜紀は自分の笑顔力を知っている。笑顔と握手で、仲間になる。失敗したことはなかった。
「最初に、お願いがあります」
「なにを」
「藤沢に、片山さんの仲間の遺体かあります。丁重に取り扱ってください」
「わかりました」
野々宮が電話で防衛省に連絡を入れてくれた。
広い個室に机と椅子が持ち込まれた。総理大臣を立たせたまま、と言う訳にはいかないという警護の人間の配慮だった。
「総理、全てを闇に閉じ込めませんか」
「どうやって、です」
「シナリオを作ることにかけては、あなた方は専門家でしょう。片山さんの命が助かって、犯罪の全貌が不明で、裁判も開けない。私は、そのシナリオに協力します」
二人の老人が顔を見合わせた。
「証拠を渡してくれる、ということですか」
野々宮が笑顔で言った。
「あれは渡せませんが、公表はしません」
「それでは」
「不安ですか」
「そうです」
亜紀はしばらく考えているふりをした。政治家は、これ以上の譲歩はないということが納得できるまで粘り腰を見せる。地方の政治家も国会議員も同じものを持っている。子供基金の寄付集めで、京都中を走り回った時に何度も体験していた。別に悪気でやっているのではないこともわかっていた。それが、政治家の習性なのだと思っている。
「やはり、お渡しすることはできません」
「それでは、話し合いにならないでしょう」
「そうですか。残念です」
「えっ」
「野々宮さんは、あの現地をご覧になってませんよね。たった二人の男相手に軍隊が死体の山を晒していました。素人の私でも、想像を超えています。自衛隊員の命もあなたの命と同じものだと思います。あなたたちの判断で、さらに多くの犠牲者が出てしまいます。とても残念だと思います」
亜紀は席を立って、ベッドの方へ移動した。今の浩平に戦闘能力はない。亜紀でも老人二人なら倒すことができるだろうが、部屋の外にいる警護の人間が来れば、敵う筈もない。交渉決裂は、片山の命だけではなく、亜紀の生存も危険にする。それでも、亜紀の直感は強気を選択しろと言っている。耐えるしかない。
「白石さん」
総理が呼びかけた。
「はい」
「あなたを、信じましょう」
「よろしくお願いします」
亜紀は頭を下げた。譲歩を迫られている度合いが、失うものの大きさによるならば、政治家側に不利なのは明らかである。ただ、多少なりとも得をしたという意識で決断してもらった方が、その後の展開は有利になる。
「では、失礼する。後は秘書官をよこしますので、よろしく」
「はい」
総理大臣ご一行様が病院から引き揚げた。亜紀は京都の石井法律事務所に電話を入れた。
「家長」
「叔父様。ご心配かけてすみません」
「大丈夫か」
「はい」
「驚いたよ」
「説明は戻ってからします。援軍が欲しいんですが」
「何を」
「遺体の引き取りと埋葬です」
「わかった」
叔父の石井徹に病院を告げて、自宅に電話をする。
「久さん」
「奥様」
「優は、どうしてる」
「元気にしてます」
「そう」
「奥様、危険なこと、おへんか」
「もう、大丈夫。畑中さんに来てもらいたいの」
「はい。私は」
「久さんは、優をお願い」
「はい」
翌朝、総理秘書官の飯田という男がやってきた。片山浩平は藤沢から逃亡し、全国指名手配になったと言う。警察庁に残っている似顔絵が、唯一の資料だった。自衛隊の犠牲者は発表されない。捜査本部は縮小し、この事件の風化を待つことになる。適当な時期に、テレビ局のインタビューがあり、亜紀は海外に逃亡した片山から連絡があったと答える。証拠資料は全て片山が持って行ってしまい、手元には残っていないことになる、と言った。テレビで亜紀が発表した防衛省疑惑は、くすぶり続けることになるが、時間が解決してくれるのを待つらしい。
片山が生き残り、子供基金が無事であれば、亜紀の目的は達せられたことなる。どんな証言でもするつもりだった。
石井法律事務所の顔見知りの職員が二人到着し、飯田秘書官と阿南の遺体引き取りの打ち合わせをしてもらった。三人が病室を出て行った後に、畑中正幸が来てくれた。畑中は庭師の仕事だけではなく、なんでもこなしてくれる。亜紀は片山を車で京都に連れて帰るつもりだった。
眠り続ける片山の診断結果を聞くために、詰め所で医師の説明を聞き、部屋に戻ると、片山が目を覚まし、ヘッドの上に座っていた。
「片山さん」
片山が悲しそうな表情で亜紀を見た。何か言いたそうに口を開くのだが、言葉にはならないようだ。亜紀は片山の手を取った。
「いいのよ。もう。あとは私が、守るから」
浩平の顔が無表情になり、目は何も見ていない。心が壊れてしまったのか。三十人もの人命を奪ってしまったと苦しんでいた男が、今度は数百人の命を絶ってしまったのだ。立ち直れるのだろうか。
翌日、畑中の運転する車で、三人は京都に向かった。少し、表情は出るようになったが、発音はない。片山の中で荒れ狂う嵐が外に飛び出しそうになることもある。
京都に入り、車は北白川を通り越して、鞍馬へ向かった。白石家の菩提寺になっている仁明寺に連れて行く。仁明寺は地味な、どこにでもある寺だが、観光客の入山は拒否している寺で、白石家専属の寺だと言ってもいい。叔父を通じて和尚には了解をとってある。白石の墓もあり、亜紀も月命日には必ず行く寺だった。
蝉の声を聞きながら、自然道を登り、本堂の脇にある小さな庵に入った。開け放たれた庵に座り、片山の表情に少し落ち着きが見える。周囲は自然林で、山の中の一軒家のような佇まいが、傷心の片山にどう影響するのか心配だったが、大丈夫のようだ。
「しばらく、放っときなさい」
和尚にまかせて、一か月が過ぎた。
「様子はどうですか」
「まだ、のようだな」
捉えどころのない和尚だ。六十前後の大柄な和尚だが、その細い目の中をよむことはできない。結婚はしているが、子供はいない。ただ、民さんと呼ばれる奥さんはくるくると動きまわる働き者で、さらに世話好きだった。民さんが寺を支えている。和尚が本堂に行くと、その民さんが現れた。
「民さん」
「愛想なしで、ごめんね」
「いえ」
「来たころよりは、元気になった。でも、まだ、のようね」
「そうですか」
「もう少し、時間を」
「はい」
亜紀が、何もできずにホテルへ戻ってくると、和久井が待っていた。忙しい和久井が来るのは珍しい。子供基金の仕事に体ごとぶつかっている和久井は、理事長にふさわしい女性になっていた。
「美緒さん」
「家長」
「珍しいわね。何かあった」
「ええ」
亜紀は和久井を連れて、自分の事務室に入った。
「これを、見てください」
和久井が出した資料は銀行口座の出入り表だった。百万単位の入金が連続で入金されている。一日に数千件あるという。それが、今日まで三日間連続で入金している。しかも、送り主はすべて外国からだった。
「どういうことなんでしょうか」
その寄付金が片山のものだと、亜紀にはわかった。
「片山さん、でしょうか」
「たぶん」
「どうすれば」
「いったん、別の口座にプールしておきましょう」
「片山さんは、まだ」
「ええ」
「そうですか」

半年が過ぎて、仁明寺の民子が北白川の家を訪ねてきた。
「和尚が、そろそろ、いいだろう、と言ってます」
「そうですか」
仁明寺には、毎月墓参に行っているが、片山はいつも不在だった。
「片山さんは、朝の十時までしかいません。どこに行ってるのかはわかりません。おむすびを持って出て行って、帰ってくるのは夕方です。最近は、本堂の掃除もしますし、お墓の草取りもします。口はききませんが、目がしっかりしてきたと、和尚が言ってます」
「よかった」
翌朝、亜紀は優をつれて仁明寺を訪れた。優の足に合わせて、ゆっくりと登って行く。鞍馬はまだまだ寒いが、朝の境内はすがすがしい。こんな早い時間にお出かけをすることが珍しいのか、優の足はしっかりとしていた。本堂の前庭を掃いている男がいる。坊主頭で作務衣を着ているが、片山に間違いない。優も気づいたようだ。亜紀の手を離して、一人で作務衣の男に近づいて行く。しばらく、優に任せよう。気配に気づいた男が振り向いた。
「片山のおいちゃん」
立ち止まった優が呼びかけた。驚きの顔に悲しみの表情が浮いている。膝を折った男に向かって優が走った。そして、片山の首にしがみついた。片山の手が恐る恐る優を抱きしめた。亜紀は二人に近づいた。
「よかったね、優」
片山は、何かを伝えたくて口を開けているが言葉にはならなかった。
「片山さん、無理にしゃべらなくても、いいですよ。それより、優にその頭を、よしよし、させてあげてください」
「・・・」
「優、おいちゃんの頭、よしよし、してあげて」
片山の首から手を離して、優は片山の坊主頭を優しく撫ぜた。そして、片山の頭を胸に抱き寄せた。「もう、大丈夫だからね」と言っているような抱擁だった。片山の体が震えている。亜紀も優に抱かれると、いつも泣いてしまう。ほんとに、不思議な子だった。
「おいちゃんの部屋、見せてもらおうか」
「うん」
優の抱擁から解放された片山は、その場に呆然としていた。
「いこ」
優に手を取られて、片山は立ち上がり、歩き出した。冬なのに、片山の庵は開け放たれていた。
「いい」
片山の顔を仰ぎみて、優は片山の許可をせがんだ。片山が大きく頷くと、優は靴を脱いで、少し高くなっている板間によじ登り、部屋に入った。狭い部屋の真ん中に立って、珍しそうに周囲を見渡して、その場に正坐した。優は、首をかしげて照れ笑いをした。大人の真似をしているつもりなのだろうか。
「かあさまも、いい」
「いいよ」
亜紀も片山の部屋に入って、優の横に座った。
「いいお部屋ね」
「うん」
優に手まねきされて、片山も部屋に入ってきた。優を真ん中にして、三人は庭を向いて座っている。
「片山のおいちゃんは、病気で声が出ないの。だから、今は優とお話できないの。早く良くなるといいね」
「うん」
優のちいさい手が片山の指を掴んだ。何の会話もない時間が過ぎていく。庵の中にいると、なぜか、亜紀の気持ちも豊かになったような気がする。
「優、そろそろ帰りましょう」
優は下を向いて小さく首を横に振った。
「おいちゃんは、お仕事があるの」
優は立ち上がって、片山の頭を抱きしめてから、部屋を出た。
部屋に座っている片山の方を何度も振り返った優が、心配そうな顔で亜紀を見た。大丈夫なのと目が聞いている。
「また、来てあげようね」
「うん」
坂を下って、庵が見えなくなっても、優は振り返った。

                                 完


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海の果て 第3部の 3 [海の果て]




浩平が京都に来て、一年が過ぎた。子供基金の方向性は、ほぼ決まってきている。もう、浩平が事務局にいる必要はなくなった。
藤沢から持ってきた資料をバッグに詰め込んで、亜紀の自宅を訪問している。
「優はもう寝てしまいました」
「はい」
「きっと、明日、私、怒られますね」
浩平は、優が寝ている時間を選んで来た。優に会うと自分の決意が鈍る心配がある。子供にはそれだけの力があると思うようになっていた。
「東京に戻ろうと思ってます」
「そうですか」
「亜紀さんには、ほんとに、力を貸していただきました。感謝しています」
「東京で何をするんです」
「まだ、決めていません」
「また、悪事に戻ろうと思ってますね」
「そうなるかもしれません」
「わかってます。奨学金なんでしょう」
子供基金独自の奨学金が欲しいという話は、二人で何度か話し合った。亜紀はお見通しのようだった。
「実は、保険を掛けようかと思ってるんです」
「保険」
「あの寄付金は不正な金だと言いましたよね」
「はい」
「そのことを話しておこうと思うんです」
「ええ」
「ただ、危険が伴いますので、躊躇してます。あなたの身に何かあったら、白石さんから預けられた白石グループの安全を、危険に晒すことにもなります。そこまで、やっていいものか」
「片山さんの悪い癖ですね。男らしいのに、どこか煮え切らない。一言、頼む、と言えば終わることです」
「殴られそうですね」
「私の方が強いとわかっていたら、そうしているでしょうね」
「すみません」
「話してください」
「僕が死んだときの保険ですから、それまでは、何も知らないと言い張ってください」
「わかりました」
「それと、その時点で危険があると判断したら、何も抵抗しないように」
「はい。そうします」
「実は、あの金は国家予算から、脅し取ったものなんです。ですから、税金なんです」
「税金ですか」
「官僚と政治家が不正に私腹を肥やしている事実を調べ、その事を公表すると脅して、取り上げたものです。その事が判明すれば、返還要求をしてくるかもしれません。確かに、僕は不正な手段を使って、手にしていますから、彼等なら返せと言いかねません。ただ、僕が取り上げたその不正資金は、どれも、全体の半分なんです。つまり、残りの半分はいまだに彼等の懐に入っているんです。官僚と政治家が国庫に返還するという条件なら、子供基金の寄付金も返還せざるをえません。ですが、彼等は自分の不正は認めないと思います。その時は、こちらも返還する義理はありません。その不正の証拠を持っていれば、突っぱねることができます。ただし、この証拠は両刃の刃ですから、あなたも危険な立場になる。一番の問題は、この証拠を公表してくれるメディアがないということです。既存のメディアは、この内容が余りにも危険なので、協力はしてくれません。残された方法は、ネット公表です。我々も、数回、このネット公表を使いましたが。これはこれで大変でした。でも、彼等が返還要求をしてきたら、ネット公表すると言えば、諦める可能性はあります。僕が言う、保険というのは、このことなんです。僕が生きている間は、彼等も無茶はしないと思っています」
「その不正資金が、あんな大金になったんですか」
「一部です。僕たちは不正資金の全容を解明した訳ではありません」
「片山さんは、基金の額を増やしたいと思っている。そうなんですか」
「僕は、もう三十人を超える人の命を奪っています。そのことが重くて、一旦、悪事から手を引きました。子供基金も、そこから逃れようとする悪あがきに過ぎませんでした。でも、結局、逃れることはできない。だったら、悪の上塗りをするしかない、残された道はそれしかないのだと思いました」
「聞いてもいいですか」
「はい」
「もし、一人も殺さなければ、片山さんは、ここにいますか」
「いないでしょうね」
「戦いなんでしょう。どちらか一方しか、生き残れない。私も、まだ、この手に骨の折れる感触が残っています。相手は生き残りましたが、私は、あの時、相手が死んでもいいと思ってました。戦いなんですから、仕方ありません。だから、あなたの責任とは思えませんが」
「その通りですが、法は認めてくれません」
「法に認めてもらわなければ、いけないんですか」
「そう言われると、困ります」
「気にすることじゃありません。肝心なところで、優柔不断になるのは、なぜなの」
「ええ。僕も自分が、情けない」
「それと、片山さんは不正な金だと言ってましたが、もっと正確に言えば、不正な手段を使って得た不正なお金だということですよね」
「そうなります」
「そのお金は、今、本来使われるべき場所で使われています。何の問題もないじゃないですか」
「そうは言っても」
「ほんとに、殴りますよ」
「すみません」
「それで、片山さんは、また命をかけようとしている。やめるという選択肢はないんですか」
「ありません」
「どうして、そこで男前になるんです。変ですよ」
亜紀は、手に負えないという表情をした。
「基金が十兆になれば、独自の奨学金も可能です。二十兆になれば、施設や職員の充実も図れます。三十兆になれば、施設に入りたいという子供が列を作ります。施設という意識が変わるんです。いいですか、年間三兆円の恐喝が十年続けば、三十兆も可能な金額なんです」
「それでも、命まで」
浩平は証拠になる資料と録音データの説明をして、亜紀に預けた。亜紀には片山のことを説得できないということがわかっているようだった。
「工藤開発と陣内組のこと、今、わかりました。あなただからできたんですね」
「その後、陣内組は」
「何も」
「そうですか」
「もう、京都には来ないつもりですか」
「わかりません」
「寂しいですね。私、片山さんのこと、兄さんだと思っています。白石があなたを後継者にしていたら、私は白石と夫婦にはならなかったんでしょうが、あなたのこと、他人だとは思えないんです。単純に生きていて欲しいと思うんです」
浩平は辛い気持ちで白石邸を後にした。相馬園長に電話して、時間をもらった。
「こんな時間に申し訳ありません」
「いいんです。いつも、遅いんです」
「子供基金の方も軌道に乗りましたので、東京に戻ろうと思います」
「そう。亜紀さんには」
「今、ご挨拶に行ってきました」
「何と言ってました」
「寂しいと言ってもらいました。兄だとも」
「そうね。今度のことで、亜紀さんは目を見張るような働きでした。あなたのためだったような気がしてるの。あの子は父親を知らないし、育児放棄をするような母親で、兄弟もいなかった。一番信頼していたご主人にも」
「はい」
「あなたのこと、兄だと思っているあの子の気持ち、わかります。寂しいんでしょうね」
「ええ」
「あの家も、引き払うの」
「そのつもりです」
「たまには、来てくれるの、京都に」
「時間があれば」
「そう」
「先生に、お願いしたいのは、亜紀さんのことです。支えてやって欲しいんです」
「ええ。でもね、私で支え切れるのかどうか」
「そこを、お願いしたいんです」
「そうよね。あなたがいなくなったら、私が支えなくてはね。あなたが京都に来てくれて、私、喜んでた。ほんとよ。あなたなら、あの子を支えてくれると思ったの」
「すみません」
「なにもかも、うまくいく人生ってないのかしらね」
「あったら、いいですね」
向日町の家に戻ると、福村が待っていた。
「どうしたんです。こんな遅くまで。彩ちゃんは」
「水島が見てくれています。東京に行ってしまうんですか」
「ああ」
「ほんとなんですね」
「福村さんの仕事、なくなってしまいました」
「誰もいないから、言いますけど、私、片山さんのお嫁さんになりたかったんです。知ってました」
「ごめん。気がつかなかった」
「だと、思いました」
「聞かなかったことにするよ」
「そうですね」
「水島君のこと、頼みますよ」
「わかってます。うまくいかないものですね」
向日町の家の後始末は水島に頼んでいるので、心配はない。浩平はバッグを一つ持って東京へ向かった。

上野のホテルから、本間直人に電話をした。
「片山さん」
「戻ってきた」
「ほんとですか」
「ああ」
「よかった」
「皆、元気か」
「はい」
「会いたいな、皆に」
「いつがいいですか」
「いつでも」
「今、どこです」
「上野」
「すぐに、行きます」
二時間も経たずに直人がやってきた。昔の面影は全くなくなった。後藤組から引き取った時の、あの拗ねた子供のような様子は遠い思い出になった。電話の声だけを聞いていたのではわからないが、落ち付いた成人男子で、普通のサラリーマンにはない、凄味のようなものがある。初対面の人間は直人を極道だと思うに違いない。二人はしっかりと握手した。阿南と似た戦友の感情が二人に出てきたのかもしれない。
「阿南さんは、少し遅くなります」
「藤沢だからな」
「他の仲間は、久し振りでしょう」
「ああ」
直人は、現状報告を熱心にしてくれた。浩平の留守を預かっていたという意識が強い。チーム片山の解散後は、保田と二人で、ごく普通の探偵社をやっていたそうだ。一時間もしないうちに、菅原と保田が来て、すぐに志保も来た。
「片山さん、別人みたいですね」
「片山さん、整形したんだって」
直人が、浩平の整形話を志保に話した。
「阿南さんがまだ来てないけど、子供基金に協力してくれたこと、ありがたいことだと感謝してる。この通りです」
浩平は皆の前で頭を下げた。
「金もあそこまでデカクなると、自分の金だと思えない。預かりものを返せて、ほっとしてる」
菅原の言葉に誰もが同意した。
「知ってます。光園の子供たちの目が変わりました」
「そう」
「園長先生も若くなったし。子供基金のおかげです」
「よかった」
志保の目も生き生きとしていた。
「まさか、こんなことになるなんて。どうして、こんなこと思いついたんです」
「保田さんの扶養家族とか、志保や直人の寄付金の影響かも。僕は誰のためにも、何にもやってなかった。保田さんたちは、誰かのために何かをやっていた。真似したかったんだと思う。昔、直人が世直しがしたいと言ってたが、それもあったかな」
「片山さんだって、僕たちのためにやってくれたじゃないですか」
「いや。利用したにすぎない」
「そんなことありませんよ」
保田が少し納得いかないという表情だった。
「僕は自分自身の閉塞感から逃れるために、あの恐喝をやっていた。一人ではできないから、皆の力を借りた。だから、皆の身の安全は、あらゆることに優先していた。自己満足のために、他人を犠牲にすることはできない。これは、プライドというより自己保身だったんだと思っている。どこまでも自分族だったんだ」
「片山さんは、時々訳のわからんことを言い出すから、困る」
「すみません」
浩平は菅原に謝った。
「京都の白石さん、憶えてるよな。あの白石さんが、子供基金のことでは先頭に立ってくれたんだけど。あの人に言われた。僕は、優柔不断で煮え切らない男だと。時々、殴りたくなるそうだ」
「賛成。時々、そうなる」
白石亜紀の意見は、浩平を除いて、全員一致だった。
「国に喧嘩しかけたり、こんな基金を作ったり、逆立ちしたって俺にはできん。今は、生まれてきたことを後悔してないし、明日、死んでも、悔いはない。これは、あんたのおかげなんだ。それで、いいじゃないか」
「菅原さん。今日はよくしゃべりますね」
「へへへ」
「菅原さんだけじゃありません。皆、そう思ってますよ」
直人が菅原に同意すると、志保も保田も納得したように頷いた。
志保が光園の子供たちのことを、夢中になって話した。施設の子でも夢が持てる、卒園した子でも帰る場所がある、このインパクトは強烈だったようだ。それは、卒園年齢になった子供たちだけではなく、卒園という言葉の意味がわかっていない子供の目をも輝かせた。志保は、うらやましいとさえ思ったようだ。
「剣埼先生に僕の名前、言ったことがある」
「すみません。随分と昔ですが、言ったことがあると思います」
「初めて行ったのに、先生から礼を言われた。あれは、志保のことだったんだ」
「大丈夫でしょうか」
「あの先生なら、心配ない」
阿南が到着した。
「これで、全員揃った。改めて、皆に相談がある。全国に児童養護施設は六百近くある。いずれ、子供基金は全部の施設に基金を出していきたい。そこで、簡単に言えば、資金が足りない。今は五千億だが、最終目標を三十兆円としたい。最初は二兆もあればと思ったけど、奨学金も出したいし、施設のスタッフの待遇もよくしたい。それと、どこの施設も古くて、いずれ建て替えを迫られる。だから、目標を三十兆としたい。これは、途方もない金額になる。だから、年間一兆円を三十年続けることを目標にしたい。やってもらえるだろうか」
「無理だな。俺は三十年も、もたんよ」
菅原が笑顔で答えた。
「菅原さんなら、いけますよ」
保田の言葉に全員で爆笑したあと、全員が賛同した。
「チーム片山の鉄則は事前準備だった。これからは、もっとシビアになる」
阿南が真剣な表情で話しだした。
「片山さんのことは心配していない。自分も含めて、残りの五人に問題がある。たとえば、直人が捕らえられたとする。直人は全部吐かされることになる。そうなれば、次々に逮捕される。どうする」
「僕は、吐きませんよ」
「通常の取り調べなら、そうだろう。でも、チーム片山はテロリストだと思われている。当然、公安や自衛隊も参加する。我々は、自白剤を打たれても吐かないという訓練はしていない」
「自白剤」
「そう。自分が捕まっても、多分、全部話してしまうことになる」
「訓練はできるんですか」
「いや、我々には、無理だろう。専門の施設と専門の医師団が必要になる」
「どうすれば、いいんですか」
「捕まったら、死ぬことだ。死んだ人間に自白剤は効かない」
部屋の中が静まりかえった。
「どうして、私達、五人なんですか」
「片山さん、のことか」
「はい」
「品川埠頭でのことは、遠くて見れなかったと思う。片山さんは、何人でも殺せる。だから、この人は捕まらない」
「阿南さんの言ったことは、一つの案だと思う。僕は、誰かが捕まった時に、この仕事は終わりにすればいいと思う。そうすれば、自決する必要はない。知っていることを全部話せばいい」
「片山さん。それは違う」
阿南が沈痛な面持ちで言った。阿南は何を感じているのだろう。
「昔、片山さんが言ってたが、どんな罪状で逮捕されても、我々は、裁判を受けることはできない。わかるよね。我々の罪状を証明するためには、国がやっていた不正を公表することにつながっている。逮捕されて、裁判が開かれないとしたら、逮捕された人間をどうする。無罪放免にするのか。それは、ないだろう。殺されるかどうかはわからないが、戻ってくることはないと思わないか。自分には、詳しいことはわからんが、公表するぞ、と言う脅しで、奴等は大金を出した。防衛省は二千五百億だぞ。どうしてなんだ。それだけ出しても守りたいものがあるんだろ。五人のテロリストの命など、奴等は躊躇しない」
戦士としての直感が、阿南に危険を知らせているようだ。
「自分は、仲間を危険に曝すより、自決を選ぶ」
「待ってください、阿南さん」
「誰かが、捕まって、仕事は中止、それでは終わりませんよ、片山さん」
「交渉するんです。生き残ってくれたら、交渉します。死んでしまっては、交渉できません。必ず、取り戻します。彼等にとって、一番の問題は、体制の崩壊なんです。交渉の余地はあると思っています。自決は駄目です」
「奴等、交渉には乗りませんよ。自分が逆の立場なら、証拠もろとも、ふっ飛ばします。生かしておいたら、何が起きるかわからない」
「阿南さん。その証拠ですけど、今、どこにあるのか知ってますか」
「藤沢でしょう」
「もう、藤沢にはありません。ここにいる誰もが知らないのに、警察にわかりますか」
「そのぐらい、調べるでしょう」
「なら、証拠を見つけるまでは、時間があります。その間に、交渉します」
「自分は、難しいと思いますがね」
「ともかく、自決は禁止です。ギリギリのところまで生きてください。僕が取り戻します。勝手に死に場所を決めてもらっては困ります」
「命令ですか」
「そうです」
「わかりましたよ」
「ただ、皆、住所不定になってもらう。誰がどこに住んでいるのかを知らなければ、捕まった人間も吐きようがない」
「藤沢は、どうするんですか」
「藤沢には、僕と阿南さんが住む。警察が押し寄せてきても、あそこなら、持ちこたえることができる」
「わかりました。あの家を要塞にします」
「それと、藤沢の固定電話からのワン切りは、危険信号。姿を消して欲しい。危険が一杯だけど、皆、やってもらえるだろうか」
「もちろん、です」
全員が同意してくれた。交渉して救い出すと言ったが、救いだせるという確信はない。仲間を失うことも覚悟しなければならないが、危険があってもやるつもりだった。
「何をすれば」
「先ず、保田さん。池崎さんのチームはどうしてますか」
「変わりありません」
「人数、増やせませんか」
「何人にするんです」
「多ければ多いほど、いいですね」
「一度、話してみます」
「各省庁と外郭団体、全ての経理データを集めたい。歳入と歳出の全てです。今までは、歳出に関する部分が多かったんだけど、歳入も調査したい。膨大な量になりますので、池崎さんたち三人では大変でしょう」
「わかりました」
「直人と保田さん。調査対象のリストアップと、池崎さんたちの仕事を助ける情報の収集。菅原さんの協力もいります。阿南さんは、待機です。僕は、経理屋さんを捜して、志保と二人で勉強する。いいな、志保」
「はい」
「直人」
「はい」
「中規模の会計事務所を捜して、履歴書を撮影してきて欲しい。そして、浜中調査事務所に素行調査を頼んでくれ」
「わかりました」
「あと、携帯が大量にいる。継続して手に入るようにしてくれ」
「はい」
「志保は、明日から僕の秘書だ。朝九時にここに来てくれ」
「はい」
「アパートを探したい」
その日から、新しいチーム片山が行動を開始した。翌日、浩平と志保は本郷界隈で小さなアパートを探した。上野商事の社員寮にすると言うと、不動産屋が戸建ての貸家を勧めたので、それを契約した。車も二台は楽に駐車できるし、洋風の二階建の家には一階と二階に台所とバストイレがあって、不動産屋が言ったように社員寮としては最適だった。同じ不動産屋で上野商事の本郷別室としての事務所も契約した。その不動産屋の二代目は商売熱心な若い男で、事務機器の手配をさせてくれと言われ、全てを任せた。
「片山さん。私も、あの家に住んでもいいですか」
「いいけど、生活は別だよ」
「はい」
「じゃあ、志保が二階だ」
二人は秋葉原で家電と家具を買った。全て二セットなので、店員は大喜びだった。
保田に呼び出されて、浩平は志保と別れた。
「どうしました」
「池崎さんが、片山さんに会わせてくれ、と言ってきかないんです」
「わかりました」
浩平と保田は、チーム池崎のマンションに行った。池崎たちの部屋は、いつ行っても不思議な臭いがする。
「池崎さん。久しぶりです」
「片山さん」
「僕、歳取りましたか」
「いえ、少し違うかなと」
「片山ですよ」
「ですよね」
「何か、話があると」
「あっ、はい。保田さんから言われたんですけど」
「人数ですね」
「はい。どうしても、でしょうか」
「と言うと」
「自分で言うのも変ですが、こんなことをやってる奴は変な奴ばかりなんです。ここの三人は長い付き合いだし、折り合いはついているんですけど、新しいのが来ると、たぶん潰れると思うんです。つまり、パフォーマンスと言う意味では、かなり低下しますし、下手すると空中分解してしまいます。だから、このままで、やらせてもらえたらと思っているんです。どうしても、と言うなら、仕方ありませんけど」
「でも、膨大な仕事量ですよ」
「はい。聞きました。必死にやります」
「それじゃあ、ミス出ませんか」
「そのことは、大前提でやります。お願いします」
「そうですか。保田さんは、どう思います」
「池崎さんたちのことは、僕ではわかりません。でも、専門家がこれだけ言うのですから、ここは池崎さんの言うことが当たっていると思います」
「わかりました。では、そうしましょう」
「ありがとうございます」
「でも、体を壊さない程度にしてください。元も子も無くすのは困ります」
「はい」




再出発から二か月が過ぎ、計画は軌道に乗った。データも集まってきた。浩平は、五人の子持ちの畑山志郎という会計士にアルバイトを持ちかけた。時給一万円なので、畑山は二つ返事だった。五人の子供たちに、存分に食べさせたい。不正の片棒を担ぐことになることにも、腹をくくったようだった。上野商事本郷分室で、畑山を先生とする分析チームが動き始めた。畑山は決算月の財務諸表と預金口座の入出金記録を見て、諸勘定元帳が必要だと言った。チーム池崎は、勘定元帳を収集のために二度目のハッキングをやった。
「これは、変だということでいいですか。証拠は難しいと思います」
「難しい、ですか」
「どうにでも、言い逃れを考えられます。国税庁の調査のような方法であれば、可能かもしれませんが」
「わかりました」
「たとえば、ここは、人件費に見合った費用が発生していません。つまり、架空の人件費が計上されている可能性があります」
「なるほど」
「それと、この仮受金は、飛ばしだと思います。年間の歳入に比べて金額が多いいのは、剰余金ではなく、ここがダミーに使われているのでしょう」
「どういうことです」
「決算月には、仮勘定は消えます。省庁も独立行政法人も決算月は三月です。表に出せない勘定は、決算月の違うところに付け替えればいいんです」
「ということは、決算月だけ外して、ぐるぐる回せば、表に出ない」
「税金を納める必要のない公益法人であれば、可能でしょう。ここにあるのは、厚労省の外郭団体ですよね。国税庁と話はついているのでしょう。監査はないと思います。会計基準に基づいた資料さえ揃えておけば問題はないでしょう。その中身までは調べないと思います。こんな桁違いの仮受金が存在するということが、普通ではありえません。しかも、決算月にはきれいになってる。会計検査院が監査する立場にありますが、片山さんの話では、この不正は厚労省主導でされているんでしょう。であれば、表には出ません」
「どうしてですか」
「会計検査院ですか」
「ええ」
「あれは、行政上のポーズです。検査してますから、皆さん安心してくださいという形だけのものです。各省庁から、お土産を貰ってきて、発表しているだけです。各省庁は検査院用の案件を作ります。国民に安心感を持ってもらうためには必要なんでしょう」
「では、省庁の監査はどこがするんですか」
「そんなものありません」
「やりたい放題」
「国のトップに立つ中央官庁が、悪いことをするはずがない。これが、基本ですから」
「でも、実際にやってますよね。不祥事という形で。でも、取り締まれない」
「無理でしょう。そんな法律を作る訳がない。法律を作っていると言われる国会議員は、それなりに法律で縛られていますが、省庁を縛る法律はありません。だから、会計検査院が必要だったのでしょう。自浄能力に期待するしかない。そんなものありませんけどね」
「畑山さんは、それを、どう思います」
「どうって。私はそう言う体制の中にいますからね。考えてもね」
「ですよね」
「片山さん。この調査で、あなたが何をするつもりなのかは聞きません。いえ、聞きたくありません。私は、経理データの矛盾点を発見するだけのアルバイトでいいんですよね」
「もちろんです」
「確かに、矛盾を感じたり、義憤を感じたりしますよ。でも、私には、子供たちの方が大事なんです。わかってください」
「わかってますよ。だから、あなたにこの仕事をお願いしているんです」
分析チームは資料に埋もれた三か月を過ごした。どこの省庁も特別会計を持っている。その歳入額を監査する機関がないので、数字は作り放題になっている。その剰余金が、隠し金として存在している。隠し金を使っている様子はないので、不正とは言えないのかもしれないが、隠していること自体が不正とすることにした。全省庁の隠し金の合計は八十兆円にもなり、年間の国家予算に匹敵する。
ただ、恐喝の材料はない。チーム片山は恐喝集団ではなく、窃盗集団にならなくてはならない。省庁は盗難届を出すのだろうか。
浩平は、チーム池崎のマンションを訪問した。
「池崎さん。この金を盗み出す方法はありませんか」
「全額ですか」
「いえ。三十兆でいいです」
「考えます」
「お願いします」
畑山は三ヶ月間、土日返上で働き続けた。月額四十万のアルバイトは畑山にとって最重要事項だったと思われる。畑山の本気に、浩平たちが引っ張られていた時もあった。
「私の名前は出ませんよね」
「ええ。あなたさえ、黙っていれば」
「はい」
「御苦労さまでした」
畑山のアルバイトは終わったが、浩平と志保は資料の整理に没頭した。証拠品にならないかもしれないが、省庁の隠蔽を明らかにする資料にはなるだろう。
上野商事本郷分室の役目も終わるだろう。志保が夜食を買って来てくれた。
「大変な作業だったな」
「はい。こんな仕事初めてでした」
「志保は、よくやった」
「そうですか。限界ギリギリでした」
「もう一つ、頼めるか」
「はい。なんでしょう」
「スイスに行って欲しい」
「は」
「スイス」
「片山さん。もう少し、前振りしてください。大変だぞ、大変だぞ、実はこういうことだと言ってください。いつも、突然で、頭がついていきません」
「すまん」
「もう」
「大変だぞ、これは」
「もう、いいです。本題に入ってください」
「料理、好きだよな」
「はい」
「スイス料理の修業に行ってみないか」
「どうして、スイスなんですか」
「今度の窃盗は、金額が大きい。少し、時間を置く必要があると思っている。向こうも必死だろう。資金凍結の荒技を使ってくるかもしれん。だから、資金はスイスに置いておきたい。志保は、その送金役をやって欲しい」
「送金」
「子供基金への送金。五年とか十年かけて送金したい」
「そうですね。五年で三十兆を送金すると、年間では六兆円の送金になりますね。毎月、五千億になります。これは、異常です」
「志保が現地にいなくても、送金できる方法を作ってくれたら、早く帰れる」
「うわあ。たいへん」
「現地に行っても、すぐに送金する必要はない。言葉とか就職先が先だ。ただし、口座開設だけはやってもらう必要はある。事情がわからないから、銀行は筒井さん経由で紹介してもらう。初めての事ばかりだな」
「ほんと」
「考えておいてくれ」
「はい」
当初の目標は、年間一兆円を三十年としていたが、実際にやってみると大きく変わる。問題はその金額の大きさだった。わけのわからない人間の口座に、何兆もの資金が入ってくれば、銀行から警報が鳴りだすだろう。時間との戦いになることは予想できた。細部にわたるシュミィレーションが必要だ。浩平は再び池崎のマンションに行った。
「何か、方法ありますか」
「まあ」
「また、池崎さんの選択肢を狭くしてしまいますが、三日間で、できますか」
「三日」
「すみません。それと、実行は数か月先にしたいと思っています」
「今、考えているのは、フィシィングです」
「それは」
「銀行に繋ぐと、こちらが作ったホームページに飛ぶようにします。そこで、送金処理をしてもらいます。実際には送金処理は出来ていませんので、我々が送金先を変えて送金処理をすることになります。いずれ、調べればバレますが、暫くは気がつかないと思います。それを、何か所もの場所でやりますので、張り付かなければなりません。ここも、バレる可能性があります」
「そうですか」
「これって、かなり危険ですよね」
「ええ。池崎さんたちも、どこかに隠れてもらわなくてはなりません。東京を離れる必要もあります。警視庁管内では、厳しいかもしれません」
「そうですね」
「保田さんに頼んでおきます」
「はい」
打ち合わせはホテルと決まっていた。別個に宿泊し、浩平の部屋に集まって打ち合わせをする。その都度、ホテルは変わったが、やり方は同じだった。
「昨日、池崎さんに会ってきた。ほぼ、やり方は決まっているようだった。ただ、今回は池崎さんも危険を感じている。皆も、同じだと思う。これが、最後の仕事にしょう」
誰にも異論はなさそうだった。
「先ず、退路をはっきりしておきたい。保田さん。池崎さんたちの新しいねぐらを確保してほしい。それと、僕たちがバラバラになったとしても、あの三人が生活できるようにしてほしい」
「はい」
「それと、志保。どうする」
「はい。行きます」
「すまん。志保にはスイスに行ってもらう。資金管理をやってもらう」
「阿南さん。筒井さんに、スイスの銀行を紹介してもらえないか、聞いてみてくれ」
「はい」
「直人。この仕事が終われば、上野商事は使えなくなる。池崎さんには、三日でやってくれるように頼んだ。金は直接上野商事に入れる。すぐに、ルートに乗せてくれ」
「はい」
「今回の、洗浄ルートの最終地点は、スイスの銀行にしたい」
「はい」
「こんな大金は、初めてのことだから、何が起こるか見当もつかない。危険と判断したら、その時点で中止する。国の金が三十兆円無くなり、子供基金に三十兆の寄付があったんではバレバレだから、志保はしばらくスイスに滞在してもらうつもりだ。皆も地下に潜ってもらわなければならない。念のため、菅原さんも電気工事士を辞めてほしい」
「わかった」
「実行は数か月後になると思うので、今のうちに辞めた方が無難でしょう」
「ん」
「阿南さんは、本気でアメリカに行ってください」
「片山さんは」
「僕も、地下に潜ります」
「つまり、今度こそ、チーム片山は解散なんだ」
「そうです。誰がどこにいるかもわからない。自分の力で生き伸びてください。もう、再結集はありません」
「ま、いい夢をみさせてもらったな」
菅原が、しんみりとした声で言った。
「今、残金はどのぐらいある」
「約二千億です」
「半分はスイスの銀行口座の資金にして、残りは七人で分けよう」
「七人ですか」
「ここには、いないけど、池崎さんの分だ」
「わかりました」
「ただし、預金では駄目だ。現金でないと、追われることになる。現金を作るのは僕がやる」
「でも、百億もの金、現金では持てませんよ」
「それもそうだな」
「一人、十億にして、残りは寄付するのは、どうです」
「どうする」
「私は、いらない。スイスには持って行けないから」
「スイスの金は、志保の自由に使っていいから、志保は外そう」
全員が同意した。
「じゃあ、決行する月までプールしておいて、それを寄付しよう」
「了解」
「他に、何かあるか」
「僕も、スイスに行ってもいいですか」
「ん」
「保田さん」
志保が驚いた顔で保田を見た。
「志保。どういうことだ」
「ええ」
「結婚を申し込みました。断られましたけど。何年も帰ってこないんでしょう。それに、チーム片山も解散だし」
「いい話じゃないか、なんで断る」
「ええ」
「志保は片山さんのことが好きなんです」
「はあ」
「違います。私は結婚しないと決めてるだけです」
「僕も片山さんのこと好きだから、志保が好きになっても当然だと思う。でも、結婚は別だと言ったんです。違いますか」
「いや。違わない。それに、僕は心に決めた人がいる。その人が、うん、と言ってくれなかったら、一生独身のつもりでいる」
「でしょう。そのことも言ったんです。信じてもらえませんでしたけど」
「誰なんですか」
「勘弁してくれよ」
「志保が、オーケーしてくれたら、僕の十億もいりません」
「志保、もう一度、考えてやってくれ。保田さんは本気だ」
志保はうつむいてしまった。
「どちらにせよ、二人でよく話してくれ。他には」
「もう、辞めるから、いいんだけど、担当が変わった。今は財務省だ」
「何かあったんですか」
「わからん。総替え。ぐるりとローテーションした。国交省の担当だった人間が、一度に三人退職して、後が大変だったからかもしれんが」
「そうですか」
「藤沢の家、要塞にしたけど、無駄だったかな」
「そうなりますね。それより、横浜の倉庫。解約した方がいいのかな。これも、筒井さんに確認しておいてください」
「わかった」
「他には」
いい仲間に恵まれていたんだと思った。
「直人と相談がある」
直人だけを残して、一人ずつ廊下を確認して出て行った。
「すまん。おまえと地獄まで一緒だと言ったけど、これで終わりにしなければならん」
「わかってます」
「どうする」
「どこかで、施設の仕事をしようと思ってます。大検も受けます」
「光園じゃないのか」
「身元が割れた時、迷惑かけますから」
「そうか。紹介しょうか」
「迷惑、かからなければ」
「京都に、のぞみ園という施設がある。いい先生だと思う。僕が紹介すると問題あるかもしれないので、別の人に紹介してもらう」
「はい」
「相馬保育園という施設がある。名前は保育園だが、立派な養護施設だ。そこの先生は頼りになる。頼んでおく。決行日までは時間があるから、行ってきたら」
「はい」
「垢の付いていない戸籍で、向こうに部屋も確保してこいよ」
「はい」
「連絡はしないけど、僕も京都に潜るかもしれない」
「そうなんですか」
「ああ。名前を教えてくれ」
「井岡にします。名前が一緒なんです」
「井岡直人」
「そうです」
「連絡しとく」
「来週の月曜日に行きます」
直人は大人になった。後藤祐樹が生きていたら、どう言うだろう。昔がどんどん遠くなる。
浩平は一人になって、事前準備に漏れはないかを考えた。保田と志保があのような関係になっていることに気がつかなかった。本郷の貸家に志保が浩平と一緒に住んでいた時の、保田の気持ちはどんなものだったのだろう。知っていれば、別々の部屋を借りていた。
一ヶ月後に保田と志保がスイスに旅立った。保田も志保も新しい名前でパスポートを取り、現地でも別々に生活をするという。頑固な女だが、保田が同行することは認めたらしい。阿南は現地調査でアメリカに行った。直人は京都での生活拠点を作って戻ってきている。浩平と直人は、池崎たちの引っ越しを手伝った。
更に一か月が過ぎ、スイスの銀行に子供基金と言う名前の口座ができた。上野商事のルートに乗せて、スイスに一千億を送金した。
決行の日は九月十二日と決まった。九月を見送ると十二月になる。
浩平は、真崎組の松木に電話をした。
「中野ですが」
「中野さん」
「変わりありませんか」
「なんとか」
「お願いしたいことがあるんですが」
「私にできることですか」
「現金がいるんです」
「いくらですか」
「五十億です」
「大変な額ですね」
「百億送金します。残りの五十億は手数料です」
「五十億ですか」
「検討してみてください」
「はい。時間は」
「十日」
「わかりました。明日、電話してください」
「頼みます」
「中野さんの電話は、いつも驚かされる」
「念のためですが、足のつくような金は駄目ですよ」
「わかってます」
送金もせずに、五十億の現金を用意しろ、と言っても松木は応じるだろうが、商売にしてしまった方が問題が少ないだろうと判断した。
十日後に、トラックごと五十億の現金を受け取った。本郷の貸家でワゴン車に乗せ替えて、藤沢へ向かう。もう、この貸家に来ることはないだろう。一年分の家賃が引き落とせる残高は残してあるので、問題が発生するとしても、まだまだ先のことになる。直人と菅原には、藤沢で現金を渡して、池崎の分は浩平が運んだ。チーム池崎の作業は横浜の新しいマンションでやっている。当日だけ、古い部屋に戻って、決行する予定になっている。浩平と阿南は、その古い方のマンションの清掃に力を入れた。もちろん、家主に対する礼儀などではなく、池崎たちの証拠を消すことが目的だった。
スイスチームを除いたチーム片山が藤沢に集合した。
「これが、チーム片山の最後の打ち合わせだな」
「はい」
「菅原さんは、もうやることがないから、明日から消えてください」
「わかった」
「直人は、上野商事の資金操作が完了するまで。最後の送金が確認できたら、消えてくれ」
「はい」
「僕と阿南さんは、池崎さんたちの送迎と、盗聴器のデータ収集をやります。二人も、最後の送金が確認できたら、消えます」
「了解」
「トラブルが発生した時は、その時点で終了。絶対に助平根性は出さない。いいな」
阿南とは最後まで一緒だが、菅原と直人には、もう会うこともない。四人は無言で強い握手をした。
九月十二日になった。チーム池崎の三人と浩平と阿南の五人がビニールの敷き詰められた部屋に集まって、六台のパソコンを並べた。十二日からの三日間に振り込みが実行されるだろうと予測しているだけで、確証はない。部屋は緊張感に満ちていた。チーム池崎の三人は交替でトイレに行っている。相手にとっても大きな仕事だから、朝一番に反応があると思っていたが、十時になっても反応はなかった。
「間違ってるんでしょうか」
池崎は、自分の予測に自信を持っていただけに、その不安は大きいようだ。
「気長に待ちましょうよ。三日間ありますから」
阿南が昼食を買ってきたが、誰も箸をつけなかった。
六時を回り、植田と平井の二人を阿南が送って行った。池崎と浩平は、この部屋で一夜を明かすことになっている。直人に電話を入れて、簡単な報告をした。
「池崎さん。一人で大丈夫ですか」
「はあ」
「盗聴データを取りに行ってきますが」
「ああ、はい」
浩平は戻ってきた阿南の運転で、六か所のデータを収録に行った。部屋に戻って三人で確認したが、なんら変わったことはないように思える。
「池崎さん。寝ておいてください」
「とても、眠れません」
三人は、昼食に買ってきたつめたい弁当を少しだけ食べた。
明け方の三時に、阿南が二人を迎えに行った。
平井が、鞄に薬を詰め込んで持ってきていた。胃薬、頭痛薬、安定剤が入っている。池崎は胃薬を飲んだ。
九時を過ぎ二日目が始まった。だが、なにも起きない。池崎は何度も何度もテストを繰り返した。こちらのソフトに欠陥があるように感じているようだった。




二日目も空振りに終わったようだった。
植田と平井も泊まり込みを希望した。池崎はこの仕事が失敗に終わることを心配していたが、二人は池崎と離れていることに不安を感じているようだったので、池崎も承知せざるをえなかった。池崎はそれよりも二日間の空振りがこたえていた。
「どうしましょう」
「心配いりませんよ。一件もなかったことが救いです。まだ、三日間あります」
「そうですね」
浩平と阿南はデータを取りに行って、五人で聞いてみたが、違和感はどこにもない。
「池崎さん。明日は、六件全部来ますよ。眠っておいてください」
「はい」
三人が一緒にいることで、チーム池崎は落ち着きを見せた。仮眠ではあったが、三人は熟睡しているように見える。浩平と阿南も眠ることができた。
九月十四日になった。阿南が食糧の調達に行き、三人が並んで歯を磨いている。この三人を引き離したら、生き伸びることができないかもしれない。ほんとに、世の中には色々な結びつきがある。
熟睡したことで、五人の窃盗集団には落ち着きがあった。
「きた」
平井が大声を出した。
「こっちも、来た」
チーム池崎は画面に釘付けになった。六台のパソコンが、全て反応している。しばらくすると、三人の男がキーボードを叩き始める。普段は頼りなさそうに見える三人の男からアドレナリンが噴出しているのが見えるようだった。
浩平は、直人に連絡を入れた。
「全部で、六件。金額は合計で、三十八兆」
「了解」
浩平は電話を切って、池崎の顔を見た。
「やりましたね」
「はい」
「これで、池崎さんたちの仕事は、全て終わりました。ありがとうございます」
「よかった。一時はどうなるかと思いました」
「阿南さん。送って行ってください。僕はここの片づけをします。また、戻ってきてください」
「了解です」
四人が部屋を出て行き、浩平は丁寧に一部屋づつ磨き始めた。もしも、警察がこの部屋に踏み込んで来ても、指紋の一つも出ない部屋にしておきたい。池崎たちを犠牲者にするわけにはいかない。あの三人は限られた場所でしか生活をしないので、発見することは難しいだろう。手袋と足袋をつけて、家中に敷き詰めたビニールを巻きとり、掃除器をかけた。できれば、髪の毛の一本も残したくない。ビニールを入れたダンボールと掃除器を玄関の土間に置いて、阿南の到着を待った。警察の捜査が入る前に、別の人間が引っ越ししてきてくれるとありがたい。
「データ収集に行きます」
「了解」
二人は六か所のデータを集めた。イヤホーンで聞いたかぎりでは、異変は起きていない。上野商事から洗浄ルートに乗せるためには、銀行間の決済が終了しないと送金できないので、一日必要になる。上野商事から洗浄ルートの銀行に送金すると、その決済のために、さらに一日必要になる。後は洗浄ルートを回るために、およそ八日がかかる。だから、スイスの銀行で使える金になるためには約十日必要になる。それまでは事件になって欲しくなかった。
「警察庁の盗聴器は、まだ生きてるのかな」
「さあ。直人に聞いてみないと」
「行ってみればわかるか」
「行きますか」
「お願いします」
警察庁の盗聴器は、まだ生きていた。警察庁の三つのデータを取って、藤沢に向かった。
藤沢の家で阿南が料理を作ってくれている間に録音データの確認を始めた。五時間分のデータが九つあるので、阿南と二人で聞いても一日掛りの仕事になる。飛ばしながら聴く技も上達しているので、徹夜をすれば何とかなりそうだ。三日間はデータ収集するつもりだから、しばらくは寝る時間を削ることになる。
翌日の九時三十分に直人から、送金完了の連絡があった。
「直人の仕事は終わった。お疲れ。そこを引き上げてくれ」
「はい」
「じゃあな」
「はい」
直人は、自分の気持ちにケリをつけたようだった。
「コーヒーです」
「阿南さんのコーヒーも、もう飲めませんね」
「まあ」
「もう、阿南さんも離脱してください」
「でも、まだデータ取りに行くんでしょう」
「一人で大丈夫ですよ」
「聴くだけでも、大変ですよ」
「あと、一日だけですから」
「じゃあ、あと一日だけ付き合います」
「わかりました。あと一日だけ、ですね」
夕方に、二人で都心の七か所からデータ収集をしてきた。車の中で飛び飛びに聴いたかぎりでは、まだ発覚していないようだった。明日の朝の銀行間交換決済が済めば一安心できる。あと数日は録音データの確認をするつもりだったが、阿南にはそのことを言っていない。明日は浩平も藤沢を離れようと思っていた。
夕食はコンビニのパンで済ませていた。
「最後のコーヒーです」
「すみません」
「自分は、どれを聴きましょう」
「これを、頼みます」
今日も徹夜になる。
十二時を過ぎた時に、浩平の肌に神経が浮き上がってきた。それは、危険信号だった。
「阿南さん。敵だ」
「は」
イヤホーンを外すと、すでに、殺気は家の周囲に満ちていた。
「囲まれた」
阿南の行動は早かった。先ず、窓を閉じた。ガラス戸の内側にある板を落とす。本棚を動かして、武器を持ち、中二階の階段を駆け上がって、板戸を外すとモニターが並んでいる。阿南が、モニターの電源を入れると、監視カメラの映像が現れた。
「囲まれてますね」
街灯の明かりだけだったが、機動隊の楯がある。
「片山さん。ここに来てください」
中二階は物置のような部屋だったが、阿南が改造したようだった。浩平は階段を昇った。
「ここは、補強してあります。ロケット砲に耐えられるかどうかはわかりませんが、小銃なら大丈夫です」
「要塞にする、と言ってたのは、このことですか」
「ここだけではありません。庭には地雷が埋めてありますし、ロケット砲も、手りゅう弾もここに置いてあります。敵が警察なら、催涙弾ですよね。マスクはここです」
板戸を外すと、棚の上に武器が整然と並べられていた。
「あと、銃と弾薬を運びます」
「手伝います」
浩平と阿南は小銃と弾薬を五回にわたって運び上げた。
「水だけは、上げておきましょう」
阿南は、ペットボトルをまとめて持ってきた。
「どうしましょう」
「ん」
「こちらから、仕掛けますか」
「いや」
「はい」
「どうして、ここがわかったんだろう」
「さあ。でも退路は無くなったようです」
「少し、様子を見ましょう。退路はありませんか」
「この方向なんですけど」
阿南がモニターの一つを指差した。そこにも楯が街灯に光っていた。
「窓を閉めたから、相手も気づいてるでしょう。向こうの接触を待ちましょう」
「了解」
「阿南さんだけでも、離脱できませんか」
「もう、無理でしょう」
「数で押し寄せて来ても、僕一人なら、なんとかなりますが、僕の気道は敵と味方の区別はできないんですよ。阿南さんを殺してしまうんです」
「いいですよ」
「そうはいきません」
「気道から逃れる方法はないんですか」
「岩の中とか、シェルターの中とかですね」
「あそこに、地下壕があるんですけど」
「地下壕」
「ブロックとセメントなんで、機密性があるとは言えませんが」
「どこです」
一階の西端の床を持ち上げると、マンホールの蓋があり、それを外すと、中には小さな空間があった。
「二人入ると、一杯ですけど」
「どうして」
「前に、片山さんが、やられる時は爆弾だと言ってましたから。直撃弾なら無理ですが、多少は役に立つかもしれないと思って」
「自信はないけど、最後はここに退避してください」
「了解」
「それにしても、いろいろとやりましたね」
「これが、えらく、楽しかったんです。畑より、楽しかった」
二人は中二階に戻った。モニターを見る限りでは変化はなかった。
「近づけるのは、正面だけです。地雷を抜けて近づくのは難しいと思います」
「爆薬を扱えるテロリストだと思われてますから、簡単には近づいて来ないとは思いますが、わかってない人もいますからね」
「地雷を踏んで死ぬ奴が出る前に、あの車を爆破しましょうか」
「積んであるんですか」
「いえ。ロケット砲で」
「待ちましょう。それより、狙撃隊ですね。もう、何か所かで銃を構えてます」
「わかるんですか」
「銃口を向けると、どうしても殺気がでますから」
「そうなんですか」
「阿南さん、今のうちに寝ておきましょう。明日は厳しくなりそうです」
「はあ」
「僕が先に寝ます。三時間したら起してください」
「はい」
浩平は床に横たわって、目をつぶった。ここまできたら、先のことを考えても意味がない。出たとこ勝負しかない。阿南を昨日のうちに離脱させておくべきだった。
「片山さん」
「おう」
三時間経って、阿南の声で浩平は起きた。
「阿南さん。寝てください」
「はい」
横になった阿南は寝返りを打ち続けた。眠れなくても、目をつぶっていれば休息にはなるだろう。
空が明るくなってきて、モニターの画像も鮮明になってきている。阿南が二時間で起き上がった。
「無理」
「相手は動きません。阿南さん朝食をお願いしますよ」
「了解」
「コーヒーも」
「了解」
朝食が出来上がった時には、朝になっていた。二人はモニターの前で食事をした。
「どこから、ここのことがわかったのか、心配です。上野商事からの送金ができないと、残念なことになる」
「そうですね」
包囲網の最前線は機動隊だが、その後方にどの位の部隊がいるのかはわからない。
「近所の人たちは避難したんでしょうか」
住民になって時間が経っているので、近所には顔見知りの人もいるだろう。阿南はその人たちのことを心配していた。
「どこまで避難したかはわかりませんが、昨日は、それらしき動きがありましたよ」
「そうですか」
「警察にしても、浅間山荘以来のことで、困っているんでしょう」
「迷惑かけちゃったな。懇意にしてくれてた人もいますからね」
「阿南さん。退路はこのカメラだけですか」
「そうです」
「ここを突破したら、可能性はありますか」
浩平はモニターの機動隊を指で差した。
「難しいですね。多分、藤沢だけではなく、湘南全域に非常線は張られてるでしょう」
「ですよね」
「途中に廃屋の地下室がありますが、警察犬がくればお終いです」
「あとは、正面だけですか」
「正面」
「交渉して、一般市民に戻るんです」
「逮捕もされずに、ですか」
「ええ」
「片山さん。俺だけを助けようとしてませんか。それは、無理ですよ。自分は、片山さんに生き残って欲しいと思ってますから」
「でも、二人とも生き残ることが厳しいわけですから、僕が人質になります。阿南さんでは人質の価値を認めてくれませんよ」
「たとえ、そうでも、駄目です」
「困った人だ」
「自分はいくらでも、囮になりますよ。その間に脱出してください。片山さんなら逃げ切れるでしょう」
「それが、できればね」
「片山さんには、できないか」
「最後まで、諦めないことにします。二人とも生き残りましょう」
「了解」
「もう一杯、コーヒーもらえますか」
「了解」
警察の立場に立てば、包囲はできても、突入は難しいのだろう。プラスチック爆薬を使うテロ集団のアジトに突入する決断は重すぎる。軍と軍が戦っているのなら、犠牲覚悟での突入はありえるが、警察にはできない。当分、睨み合いが続くことになる。
「どうぞ」
できたてのコーヒーは、一段と美味しかった。
「阿南さん。兵糧はどうなんですか」
「大丈夫ですよ。要塞にすると言ったでしょう。二人で二か月はいけます」
「コーヒー豆も」
「それだけが、残念なんです」
「大事にしましょう」
「向こうは動きませんか」
「動けないでしょう。警察ですから」
「こちらからも、動きませんか」
「ええ。動きようがありません」
「睨みあいですね」
「阿南さん。次はしっかりと寝てくださいよ。長期戦ですから」
「了解」
「テレビをつけておいてください。ここのことがニュースになるかもしれない」
「了解」
テレビがニュースで流してくれれば、直人に連絡しなくても済む。阿南が居間の大型テレビの電源を入れて、小型のテレビを中二階に持ってきた。
「今、アンテナを引きますから」
テレビでは朝のニュース番組をやっていたが、藤沢の事件はまだ報道されていないようだ。警察は報道制限をかけたのだろうか。浩平は居間のテーブルからパソコンを持って上がった。
「このケーブルも伸ばせますか」
「了解」
藤沢の住人に避難指示が出ていると思われる。誰かが、ネットに書き込みをするかもしれない。
その時、居間にある固定電話が鳴りだした。阿南が中二階に置いたままの自分の小銃の方を見た。
「僕が出ます」
阿南は作業を中断して、中二階の銃を取りに行った。
「はい」
「私は、警視庁の町村と言います。あなたとの交渉を担当します。お名前を教えていただけませんか」
「中野です」
「中野さん。もうご存じだとは思いますが、あなたは包囲されています。投降をお勧めしようと思ってます」
「町村さんは、刑事ですか、公安ですか」
「公安です」
「住民の方の避難は、どうですか」
「近隣の方には、避難してもらいました」
「範囲は」
「五百メートルほどになります」
「そうですか。せめて二キロ、できれば五キロにしてもらえませんか。市民を巻き添えにするわけにはいきません」
「五キロですか」
「それと、機動隊の方には下がってもらいます。装備は拳銃ですよね。こちらの武器と差がありすぎます。無駄死にする必要はないでしょう」
「どんな武器なんですか」
「我々は、拳銃は使いません。小銃以上だと考えてください」
「投降はしない、とうことですか」
「交渉はしますが、町村さんとではありません。最終的には総理との交渉になるでしょう」
「私が代表だと思っていますが」
「いいですよ。当面は、そうしましょう」
「何か、要求があるんですか」
「いや、そういうことではないんですよ。機動隊の前線を後退させることと、住民の避難を急いでやってください」
浩平は受話器を下ろした。
「何と」
「投降を勧めたい、と」
阿南は銃を背負って、ケーブルの延長作業に戻った。
「これも、伸ばせますか」
浩平は電話機を持ち上げて、阿南に示した。
「やってみます」
浩平はモニターの場所に戻った。町村には言ったが、機動隊は前線を動かさないだろう。職務についているだけの警官を殺すことには躊躇があるが、仕方がない。
一時間で阿南の作業は完了した。
「非常電源はありませんよね」
「そこまでは、できませんでした」
「ま、当分は無茶しないでしょう」
「すみません」
「ここまでやってくれて、感謝ですよ」
阿南のコーヒーは冷めてからでも美味しい。腰を落ち着けてモニター画面を見たが、機動隊には動きがなかった。電話のベルが鳴ったが、浩平は無視した。機動隊が後退するまで、次の話し合いをするつもりはない。
浩平は監視用に開いている隙間から、外を見た。
「阿南さん。あそこに車が三台ありますよね」
「はい」
「無人だと思いますか」
阿南は棚にあった双眼鏡を手にした。
「座席に寝てる奴がいたら、わかりませんね」
「窓ガラスを割ってみましょうか」
「了解」
「三台の後部ガラスです」
三発の銃声が響き、三台の車の後部ガラスが破壊された。
モニターの中の機動隊員が楯のなかに身を隠す様子が見えた。それから、五分で前線が後退した。警察も危険だと思ったのだろう。そして、電話のベルが鳴った。
「町村です」
「町村さん。行動が遅い。死人が出ますよ」
「すぐには、動けません」
「動くんです。住民の避難は」
「やってます」
「指揮車の中ですか」
「はい」
「そこから、うちの正面にある三台の車両が見えてますか」
「ええ」
「誰も乗ってませんか」
「はい」
浩平は棚に載っている自動小銃を指して、三台の車を撃つように指示した。阿南が銃を持ちかえて、フルオートで弾丸を送り出した。
「町村さん、見ましたか」
「はい」
「機動隊をもっと、後退させてください」
機動隊の後方にある車両が銃弾でズタズタにされたのを見れば、機動隊が今の場所にいる意味はないことに気づくはずだ。それよりも、警察はいつまで踏ん張れるのか。警察の特殊部隊や機動隊で制圧できないことがわかれば、自衛隊に場所を渡さなければならない。面子を大事にしたい警察にとっては、苦しい判断になるだろう。


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海の果て 第3部の 2 [海の果て]




 九時に水島が迎えに来た。家政婦の面接をして欲しいから、時間を早めてくれという電話を貰っていた。近所に住む寡婦で、まだ幼い子供がいたが、人柄はいいという。事故で死んだ水島の友人の奥さんだった。
「事故って、交通事故」
「いえ」
「そう」
水島は、事故の話はしたくないようだった。
向日町の家の前で、まだ二十代と思われる女性が、三歳ぐらいの女の子をつれて、待っていた。水島が鍵を開けて、全員が部屋に入った。
「窓を開けていいですか」
水島が家中の窓を開けていった。しばらく使われていなかったので臭いが籠っていた。
「福村愛さんです」
昨日は畳も積んだままだったが、水島が畳を敷いておいてくれたようだ。何もない部屋の畳の上に座って面接が始まった。
「福村さんの希望を聞きます」
浩平は子供から目を外して、福村愛に聞いた。
「この子がいますから、連れてきたいんです」
「いいですよ。他には」
「食事の用意はどうしたらいいですか」
「多分、生活は不規則になると思いますから、自分でやろうと思ってます」
「そうですか。私がしては、いけませんか」
「ん」
「すみません。掃除だけだと、すぐに終わってしまいます」
「そうですね。では、お願いしましょう」
時給だと水島が言っていた。小遣い稼ぎで働くのではないのだろう。
「どんなものが、お好きですか」
「僕は、何でも食べます。できれば、レンジで温められるものがいいです」
「いつまで、ですか」
「そうですね。僕にもまだわかりませんが、福村さんにも生活設計がありますよね。長期出張はありますけど、当分、ここを家にしたいと思ってます。この程度しかお約束できませんが」
「はい。一年は大丈夫でしょうか」
「もちろんです」
「よろしく、お願いします」
「では、僕の希望と心配を言いますよ」
「はい」
「福村さんは、まだ若い。独身者の世話をすることで、将来不利にならないか、心配です。もちろん、僕は家事以外の要求はしませんが、世間は勝手に憶測します」
「そんなの、平気です。私、この子と生きていくには、どうしても仕事が欲しいんです」
「わかりました。それと、僕は勤め人ではありません。はっきり言って、職業不詳です。僕のことを詮索したり、他所でしゃべらないで欲しい。何も知らない、と言ってください」
「はい」
「もう一つ。お互い無理をしない。言いたいことは言いましょう。でないと、長くは続きません」
「はい」
「では、契約完了ですね」
「お願いします」
「今日から、働けますか。荷物を入れるまでに、掃除をしないと」
「はい」
「買い物が終わったら、僕もします。たぶん、水島さんも手伝ってくれます。そうですよね、水島さん」
「あっ、はい」
「福村さん。車の運転はできますか」
「はい」
「車は」
「いえ」
「そうですか。今日、買い物用の車も買ってきます。それを使ってください」
忙しい一日だったが、買い物も掃除も終わった。福村愛の愛娘、彩とも仲良しになった。福村は真剣だったが、問題は水島だった。すぐに手を抜こうとしているのが、よくわかる。水島が福原の機嫌を取ろうとしている裏に何かを感じる。これでは、この男は使えない。
「水島さんは、今回の件、聞いてますか」
「何か、基金を作る仕事だと」
福村親子を送っていった水島とビールを飲みながら、小さな打ち合わせをした。
「児童養護施設を援助する基金を作る仕事だけど、多分、初めてのことだと思う。今までの施設とは違う施設にするために、いろいろ難しいこともあると思う。君たちの家長も全面協力をしてくれる」
「どんな施設にするんです」
「今の施設がどんなものかは、知ってる」
「はい。僕、施設で育ちました」
「ああ。家長は知ってる」
「はい。家長に面接してもらいましたから」
「いつ」
「一年前です」
「それまでは、何を」
「いろいろ、です。碌な事はしてませんでした」
「白石不動産には、どうして」
「施設の先生の紹介です」
「一年経って、どう」
「まだ、全然駄目です」
「いくつ」
「二十五です」
「若いな。何でもできる」
「はあ」
仕事も小手先なら、話も小手先でこなしてしまう。
「片山さんも、施設で」
「いや。僕は違う。ただ、何人も友達がいる」
「京都に、ですか」
「東京」
「碌な生き方してなかった、でしょう」
「どういう意味」
「別に」
「水島さん。仕事やる気ある」
「やってますよ」
「僕のアシスタントをするように言われたんだろ」
「そうですよ」
「仕事、嘗めてないか」
「いいえ」
「本気でやってる」
「はい」
水島は平然と答えた。
「そうか。明日から、ここには来なくていいよ」
「はあ」
「君は使えない」
「わかりました」
お前に使ってもらえなくても別に構わない、と言う意味だろう。
「君が紹介してくれた、福村さんにも仕事をしてもらうつもりはない。君から話しておいてくれるな」
「どうして。オーケーしたじゃないですか」
水島が気色ばんだ。
「福村さんに、責任はない。紹介者の君が信頼できないからだよ」
「そんなの、納得できません」
「納得できない」
「ええ」
「それは、甘ったれのセリフだ。お前の納得のために、誰かが何かをしてくれるんじゃない。お前が誰かを納得させるんだよ。私が納得できませんなどというセリフは、拗ねた負け犬が言うことだ。そんな奴は、足手まといになるだけだから、要らない、と言ってる。福村さんのこともそうだ。お前個人の思惑で紹介したんだろう。お前は恩を売りたかった。福村さんには気の毒だけど、仕方ない」
「・・・」
「うまくやったと、思ったのか」
「・・・」
「どうした。福村さんは、二度と口を聞いてくれないだろう。彼女にとっては、この仕事は願ってもない仕事だ。親子の未来に少しだけ光が見えたところだろう。それを、お前はぶち壊しにするんだ。いい顔してくれるとでも思ってるのか。ちょいちょいと小手先でやってしまう。うまくいかないと、僕納得できないと開き直る。世の中、それほど甘くはない。お前は、闇に沈んでろ」
浩平の変化に、水島の体が固まった。
「水島よ、つまらん仕事だから手を抜く奴は、大事な仕事でも手を抜くんだ。恩を売って女を自分のものにする奴は、女を不幸にするだけなんだ。お前の腹の底にあるのは、どうせ俺なんかという負け犬根性なんだ。どうして、本気でぶつからない。怖いのか。負けて、負けて、自分の傷を舐めるのが、お前の趣味か。福村愛が好きなんだろう。なぜ、正直にぶつからない。正面からぶつからなくては、チャンスを見逃す。一生、負け犬のままだ。そんな仲間は要らない。地べたを這って、誇りを取り戻せ。それが、男の生き方じゃないのか」
水島にとって、福原の存在は想像よりも大きなもののようだ。
「今日は、もう帰れ。本気になる気があるなら、明日、朝の九時にここに来い。福村さんも、九時に来てもらう。お前が来れない時は、福村さんに契約解除を言い渡す。違約金は払うから心配するな。お前に仕事させて、そのけつを拭くことに比べれば、違約金など安いもんだ」
浩平は福村愛に電話で、朝九時に来るように言って、タクシーを呼んで帰った。
社会に出て、辛い思いばかりしてきたのだろう。世の中を斜めに見て、拗ねていると、それが自分だと思ってしまう。どこかで大きく舵を切らなければ、一生拗ねたままになってしまう。好きな女がいるのなら、その情熱は大きな力になる。女にも正面からぶつかれないのであれば、救いようがない。今が水島の正念場だった。
翌朝、タクシーで向日町に八時半に行った。水島の車は昨日と同じ場所に停められたままだった。帰らなかったのだろう。
水島は台所を磨いていた。
「おはようございます」
「帰らなかったのか」
「はい」
「で、どうするんだ」
「アシスタントを続けさせてください。お願いします」
水島は深々と頭を下げた。
「福村さんにも、ぶつかれるか」
「はい」
「事情があっても、正面からぶつかってみろ」
「はい」
「どんなことにも、手を抜くな。すぐに首だ。そんな男が、女を幸せにはしてやれない」
「はい」
九時になって、福村親子がやってきた。
「おはようございます」
「おはよう。それは」
「雑巾、作って来ました」
「いやあ。悪いな」
福村愛は自分にできることを精一杯やろうとしている。
「福村さん。一つお願いがあるんです」
「はい」
「この水島が、あんたにどうしても聞いてもらいたいことがあるんだと。我慢して聞いてやってくれないだろうか」
「水島君が」
「聞いてやってくれますか」
「はあ」
「水島」
浩平は彩を受け取って、自分の膝の上に座らせた。何もない場所で、向き合うのは、かなり気恥ずかしいものがある。それでも、水島は覚悟を決めていたようだった。
「愛さん。俺、あんたのことが好きなんです。彩ちゃんも。兄貴には悪いんですけど、二人のことは俺が守りたい。お願いします」
水島は畳に両手をついて頭を下げた。福村愛は、突然の愛の告白に呆然としていた。
「水島君。頭を上げて」
「水島」
水島が頭を上げた。
「びっくりすること、言わないで。私、そんな」
「断らないでください。すぐでなくてもいいんです。いつかでいいんです」
「福村さん」
「はい」
「僕は二人の間にある事情は知りません。でも、水島君が福村さんの事を大事に思っていることは、僕にもわかります。ただ、この男は、本気で、正面からぶつかることを避けて、斜に構えて逃げることしかできなかった。仕事でも恋でも、中途半端な男だったと思います。情けないとしか言いようがない。今回、僕たちは児童養護施設の子供たちを援護するための子供基金を作る仕事をやろうとしています。この仕事が成功すれば、施設の歴史を変えるようなものになるはずです。でも、それだけ厳しい仕事になりますから、本気で取り組まなければ成功しません。チームの中に一人でも中途半端な人間がいれば、成功は難しいと思っています。ところが、僕のアシスタントに指名された男が、その中途半端な人間を代表するような男だったら、僕はその男を切らなければなりません。しかも、この男は、福村さんにこの仕事を紹介することで、あなたに恩を売り、そこに付け込んであなたを自分のものにしたいという下心を持っていました。卑劣極まる男だと思います。好きな女に自分の気持を告げることができずに、遠くから見守るのならわかる。策を弄して、なんとかしようとする根性は最低だと思う」
「・・・」
「だから、そんな水島君の紹介する人も信用できないと言いました。あなたは、この仕事に本気で取り組もうとしてますよね。それなのに、この男のせいで、この仕事が駄目になるかもしれないのです。僕は、福村さんとの契約を破棄すると言いました。この男の覚悟一つだったんです。一晩考えて、水島は覚悟を決めました。あなたたちのことが大事だったから、正面からぶつかることにしたんです。突然の告白でびっくりしたかもしれないけど、こいつの気持ちもわかってやってもらえませんか。もちろん、男と女の間の事は理屈では割り切れません。最終的に断る権利はあなたにあります」
「私、急に言われても」
「当然です。すぐに、とは言いません。二人で話し合う時間を持つことにしてもらえませんか」
「はあ」
「水島君。女子供を守るということが、どういうことなのかわかるか」
「・・・」
「安定した収入を稼ぐことだ。そのためには、仕事で必要とされる人間になること。つまり、本気で仕事と向き合うことだ。手を抜いたり、逃げたりすれば、すぐにわかる。その時は、容赦なく首にする。白石不動産でも必要な人間とは認めないだろう。そうなったら、どうやってこの二人を守るんだ」
「はい」
「今日は、もう帰って、寝ろ」
「はい」
「タクシーで帰れよ。昨日、寝てないんだろう」
「はい」
水島はふらふらと立ち上がって、出て行った。
「福村さん」
「はい」
「すみません。あなたには、迷惑かけました。契約解除なんてしません。水島君とは、まだ一日しか仕事をしてませんが、中途半端なんです。あなたに対する恋心を、結果的に利用するようなことになってしまいました。謝ります。でも、水島君のあなたへの気持ちは本当だと思います。できれば、恋愛対象の一人としてみてやってくれませんか」
「私、水島君は弟のように思ってました。だから、あんなこと、言いだすなんて」
「この仕事をやり遂げれば、水島君も大人になります。不動産の仕事でも必要とされる人材になれます。そうなれば、頼りがいのある男になると思うんです」
「はい」
「僕は出かけます」
「はい。いってらっしゃいませ」
白石ビル御池の準備委員会事務局は会議机を入れただけで走りだしていた。弁護士、会計士、司法書士の事務所から五人が召集され、銀行からの出向者も二人来ている。新規採用の広告も出していて、総勢で二十人ほどの事務局になる。準備委員会の間は、白石亜紀が陣頭指揮を取ると言ってくれた。
「水島君は」
「昨日、徹夜で仕事してもらったので、寝るように言いました」
「使えますか」
「なんとか」
「そうですか」
亜紀は心配そうな顔をした。
「相馬園長が連絡してくれていますので、今日、のぞみ園に行ってきます」
「お一人」
「いえ。園長にも同行してもらいます」
「お願いします」
見事なリーダーシップだった。二十一歳の女子とは思えない。まだ高校生だったこの子の才能を白石はどうやって見つけたんだろう。こうなることがわかっていて、結婚すると言っていたのだ。
相馬園長をレンタカーに乗せて、宇治へ向かった。
「片山さん」
「はい」
「どんな危ないことをしてるのかは聞かないけど、どうしてなの」
「成り行き、では駄目ですよね」
「ええ」
「閉塞感でしょうか」
「閉塞感」
「はい。相馬さんは自分族という言葉、知ってますか」
「どこかで、聞いたわね」
「亜紀さんでしょう」
「そう。昔、そんなこと言ってたわね」
「自分さえよければ、の人たちです。僕もそうなんです。僕の父は道場をやってましたので、子供の頃から武道家になるのが夢でした。でも、武道家にはなれないとわかった時、それに代わるものが欲しかったんです。修業していた二十五年間、僕なりに必死でした。僕から武道を取ると、何もなかったんです。その時、そこにあったのが犯罪でした。そこには、生きているという実感がありました。安易な選択です。自分族ですから」
「その自分族が、どうして、子供基金なの」
「白石さんです」
「求さん」
「はい。白石さんと、僕が世話になった旅館の女将さんが、僕とは正反対の誰か族だったんです。誰か族というのは、誰かのために、という意味です。自分族に行き詰って、誰か族に救いを求めている、どこまでも自分勝手な自分族なんだと思います」
「それも、閉塞感」
「はい」
「その、誰か族になりたいの」
「いえ。僕には無理です。ワルの道に踏み込んでしまうと、戻れないんです。自分が犯した罪は、自分が一番知ってるわけですから」
「じゃあ、なに」
「たぶん、自己満足なんだと思います。自分は悪くないと、自分を納得させたいんだと思います。そんなこと、無理だとわかってますけど、弱い人間ですから」
「困った人ね」
「ええ。自分でも、そう思っています」
「今度のことで、あなたに危険はないの」
「いつかは、そんな日が来るのでしょうね」
「それでも、やるのは、なぜ」
「わかりません」
「ほんとに、困った人ね」
「この基金を軌道に乗せてしまえば、基金が独り歩きしてくれるだろうという、甘い考えが前提になっています。いつでも、既成事実は強いものです」
「求さんが生きていたら、何と言ったでしょうね」
「わかりません。僕も聞いてみたい」
「いつか、その犯罪というのを、教えてもらえるのかしら」
「んんん。僕が死んだ時ですかね」
「それでは、遅いわね」
「すみません」
「ともかく、あなたの言うように、既成事実を作りましょう。まだ、私、あなたと犯罪が結びつかないの」
のぞみ園は相馬保育園よりは立派な建物だった。子供たちの数も多い。
「中野です」
のぞみ園の園長は五十代の頑固そうな大男だった。頭髪は丸刈りで、目つきが鋭い。刑事か極道に見える。
「こちらが、この前お話した片山さんです」
「どうぞ、座ってください」
園長が自分でポットからお湯を注ぎお茶を出してくれた。
「若い方なんですね」
「・・・」
「お話は相馬さんから聞きましたが、まだ、よくわかりません。お話をきかせてください」
浩平は二千億の話を抜いて、概要を話した。
「素晴らしい話ですが、基金ですよね。そこがわからない。寄付金をいくら集める予定なんですか」
「そうですね。多くて一千万だと思います」
「でしょうね。一千万では基金にはならないでしょう。それに、全国規模にするんですよね」
「片山さんは、多額の寄付金をしてくれる秘密のルートをお持ちなんです」
「秘密のルートとは、怖いですね。どんな紐付きなんです」
「紐は付いてません」
「いくらです」
「二千億です」
「二千億」
「はい」
「二千億なら、基金になりますが。でも、出来すぎでしょう」
「確かに、そうです。それでも、数か月後には基金は動きだします。その時、その基金がのぞみ園に援助したいと言ってきたら、先生はどうされますか」
「んんん」
「出来すぎだから、と断りますか」
「それは」
「資金の出所を確認して、納得できてから、と」
「いえ。断りません。いや、断れません」
「ただ、この基金は、施設の運営を楽にするための基金ではありません。子供たちに生き抜く力をつけてもらうためのものです。ばらまくことが、目的ではありません。こちらで提示した目的にしか使えないお金です」
「紐付き」
「ええ。そう言う意味では紐付きです。その紐を、中野さんに作ってもらいたいのです」
「紐を作る」
「ええ。子供の目線から見て、自慢のできる園とは、どういうものですか。卒園していった子供たちは、今、どんな生活をしています。苦界に沈んでいる子供が何人いますか。十八の子供が、施設というハンデを背負って、生きていけると思いますか。施設の子は医者にはなれませんか。国が方針を変えてくれるまで待つんですか。施設が自分を変えずに、何かが変わると、本気で思っている訳じゃないですよね。民間から変えましょうよ。それが新しい基準になるような施設を作りませんか」
「本物なんですね」
「そうです。本物の児童養護施設を作るんです。人口は減少しますが、施設に収容される子供は、ある時期から急増すると思っています。日本が病んでるからです。子供たちには生きていくスキルが必要だと思いませんか」
「おっしゃる通りです。私は何度も陳情してきました」
「それで、何かが変わりましたか」
「いいえ。何も変わりません」
「単発の寄付金に頼ることが、いかに厳しいことかは、中野さんが一番知ってますよね。だから、基金なんです」
「失礼をお詫びします」
「とんでもありません。あやしい話と思うのが当然ですよ」
「やらせてください。ぜひ」
「お願いできますか。相馬先生からは、あなた以外にはいないと言われました」
「ありがとうございます」
「先生にお願いしたいのは、子供たちが堂々と社会に出ていけるシステムの構築と、各施設に示す雛型、そして、施設の選定とディスクローズと監査のマニュアルです。先ほども言いましたが、これは施設の運営を助ける基金ではありません。施設の運営が厳しいことは知っていますが、それは、児童養護施設だけではありません。子供基金から受け取った金を施設側の使いたいように使えば、本来の目的は霧散してしまいます。だから、ディスクローズを要求しますし、監査もします。子供のための基金なんです。支給の打ち切りもあります。そういう意味からも施設の選定は重要になります」
「片山さんは、どうして、新しいシステムを作りたいと思ったんですか。施設の卒園者ではありませんよね。どうしてですか」
「卒園者を大勢、知っているからです。彼らは、社会からはじかれているだけではありません。誇りをなくしています。なぜなんです。全部、大人の責任でしょう。フェアじゃありません。子供たちに、しっかりしろ、と言う前に、大人がやらなければならないことが、山ほどあると思うんです」
「その通りです。国の都合や、役所の都合でやられたんでは、たまったもんじゃない。子供たちは誰も、生身の人間なんです。さっき、片山さんは、子供たちが自慢できる施設と言いましたよね。そうでなくてはいけないと、私も思っています。施設は子供たちの踏み台です。でも、時々、帰ってきてほしい。幸せを一杯持って、誇りを持って、実家に帰る時の子供のように」
「先生にお願いに来て、よかった。余談かも知れませんが、児童養護施設という呼び方を変えられませんか。施設であってはいけません」
「考えます」
準備委員会事務局の場所と浩平の電話番号をメモに書いて、のぞみ園を後にした。
「ありがとうございました。いい方を紹介してもらいました。この基金には、うってつけの人です」
「よかった」
「まだ、問題は次々と出てくるでしょうが、中野さんなら乗り越えてくれそうです。あの先生、頑固者でしょう」
「ええ。超頑固かな」
「先生は、ご自分が幸せ者だと思いますか」
「はあ」
「生意気なこと、言いましたか」
「そうね、忙しくて、考えたことないけど、不幸ではないと思っているわ」
「先生のような生き方ができれば、僕にも、まともな人生があったのかな、と思うんですよ。今更、手遅れってこと、多いんですね」
「求さんが、あなたに一目ぼれしたのが、わかり始めました。あなた、素敵よ」
「とんでもありません。でも、白石さんの眼力は認めます。亜紀さんの才能を、白石さんは見抜いてました。僕は、あの方に会うのは今度で三回目になりますが、三度とも別人です。美人だけど、変わった人だと思っていましたが、とんでもない大物だと思うようになりました」
「その通りね。最初にあの子に会った時、私もあの存在感に圧倒されたのよ。でも、今の亜紀さんの大きさは想像できなかった。親子ほどの歳の差なのに、それを感じない。怪物なのかもしれないわね」
「それです。亜紀さんは怪物だ」
「あなたと、亜紀さんの間に、何があったの」
「何もありませんよ」
「そうかしら」
工藤殺害の件は、相馬園長にも話していないようだ。考えてみれば、当然のことだろう。どんなに親しい人にも言えないことだ。自分で墓場に持って行くしか選択肢はない。




十日ほど経って、向日町の家にも生活環境ができた。食べ物にはうるさくない浩平だったので料理に期待などなかったが、福村愛の料理はおいしかった。
「旦那さん」
福村愛が食卓の向こうで、肩をすぼめていた。
「福村さん。何度言ったらわかるんです」
「でも」
「その、旦那さんという言い方、止めてください。今度から、罰金取りますよ。一回に千円。一日に、五回言えば、あなたはただ働きになります。十回言えば、借金を抱えますよ。それでもいいですか」
「いえ」
「だったら、止めてください。いいですね」
「はい」
「で」
「あのお」
「用事があったんですよね」
「はい。実は、前借りをお願いできないかと」
「何に使います」
「生活費です。もう、電気を止められます」
「そうですか。いくら、です」
「できれば、十万円」
「わかりました。生活費以外に使ったら、取り立てますよ。僕の取り立ては厳しいですが、いいですか」
「はい」
「返済は、月に一万。給料から引きます」
「ありがとうございます」
福村は何度も何度も頭を下げた。
水島には事務局に常駐するように言ってある。水島は、自分の仕事を下働きと決めたようだった。どんな仕事でもした。水島の覚悟が見える。
応接間の工事は終わっていないが、机や書庫、事務機器もほぼ揃ってきた。パーテーションで区切られた会議室も更衣室もある。
「水島君」
「はい」
会議室で昼食を二人で食べながら、浩平は福村愛のことを水島に聞いた。
「福村さんは、どんな生活をしてる」
「えっ」
「生活は苦しいのか」
「はい。母親一人ですが、最近、パートを首になったと聞いてますので、苦しいと思います」
「電気、止められるぐらいか」
「えっ。それは知りません。そう言ってました」
「前借りしたいと言われた」
「そうですか」
「水島君は、貸してるのか」
「少しだけ」
「あんなことがあったから、言いにくかったんだろう。でも、そっとしといてやれ」
「はい」
浩平の携帯が振動した。相馬由紀からだった。
「はい。片山です」
「相馬です。片山さん、今日はそこにおられますか」
「ええ。どうしました」
「ご相談したいことがあるの。お邪魔していいですか」
「僕が行きますよ。ここでは、あまり役に立ってませんから」
「そうなんですか」
「先生の都合のいい時間は、何時ですか」
「いつでも」
「わかりました。一時間ほどしたら、ここを出ます」
「お願いします」
特定公益法人の申請書類は、ほぼできあがっていて、事務局にも少し余裕が出てきた。工事で言えば突貫工事だった。
白石亜紀が事務所に入ってきて、緊張感が走った。だれひとり、亜紀が年少女子だとは思っていない。決して高圧的な態度ではないのに、亜紀が出す本気オーラの中では、誰も手を抜くことなどできなかった。情報を共有する定例会議が始まる。全員参加である。
「新聞広告を出そうと思いますが、どうでしょうか」
冒頭に亜紀が発言した。
「考えているのは、一ページ広告です」
静かな会議室が、さらに静かになった。
「私たちの基金を知ってもらうことと、大勢の方からの寄付金を募るものにしたいと思っています。そのためには、ホームページの充実と、問い合わせに対応できる体制作りが必要になります。正規の職員募集とは別にアルバイトのオペレーターの方を募集しなければなりません」
反対する人間も、意見を言う人間もいない。結局、一人で決断しなければならないという重圧を、亜紀は何度も乗り越えている。
「水島さん。あなたにやってもらいたいと思っています」
「えっ」
「片山さん。よろしいでしょうか」
「もちろんです」
「水島さん。やってくれますね」
水島が、浩平の顔色をうかがった。浩平は、やれ、と目で返事をした。
「はい」
報告事項が出され、意見交換がされる。最終的には亜紀の一言で方向が決まる。事務局が開設されてから、同じやり方が続いていた。
会議は終わり、亜紀と水島の二人が会議室に残って打ち合わせを始めたのを見て、浩平は相馬保育園に向かった。
「何かありましたか」
「ええ。中野先生が、この仕事を降りたいと」
「どうしたんでしょう」
「自信がない、と言うんです」
「あんなに、やる気だったのに」
「わかるような気もします。この仕事が軌道に乗れば、今までの福祉に対する考え方が変わってしまいます。歴史を変えようとしている、とおっしゃいました。現場にいる人間としては、知りすぎているだけに恐怖もあります。自分で良かれと思っても、逆の結果が予想できてしまうんです。いろいろな結果も含めて、自分だけでは背負いきれない。中野先生は、そう思っているんだと感じました」
「そうですか。少し、無理があったかもしれませんね。中野先生はベストでなければならないと強く思っているのでしょう。そんな必要ないんですが、僕の言い方がわるかったのかもしれません。もう一度、話をしてみます。やめます、と言われて、はいそうですかとは言えません」
「お願いします。私のせいで、すみません」
「とんでもありません。中野さんにお会いして、先生の直感が正しいと僕も思ってます。中野さんにやってもらうしかありません」
浩平は宇治に車を走らせた。
園長室に入るなり、中野が机に両手をついた。
「申し訳ありません。本当に済まないと思っています」
「先生」
「最初はチャンス到来、と思いました。でも、考えれば考えるほど、重かった。とても、私の手には負えない。いつも、子供たちには、言ってるだけじゃなく実行しろ、と言っているのに情けない」
「先生は、完璧なものを作ろうとしてませんか」
「えっ」
「そんなもの、僕は無いと思っています。ところで、千葉の方に光園という施設があるのを知っていますか」
「はい」
「光園の園長先生は、どんな方ですか」
「大先輩です。もう七十を越えておられると思いますが、しっかりとした考えを持っておられる先生です。僕と違って、あまりしゃべりませんが」
「そうですか。西の方に、施設の現状に危機感を持っておられる先生はいませんか」
「西の方というと」
「関西以西です」
「熊本に、ここと同じ名前で、のぞみ園という施設があります。そこの高見先生は立派な方です」
「三人でチームを組んでいただけませんか。もちろん、千葉と熊本へは、僕が行って説得にあたります」
「チームですか」
「僕が、先生おひとりに、責任を被せようとしたことが、そもそもの間違いなんです。これは、大仕事です。合議制の委員になっていただけませんか」
「はあ」
「こんな仕事、俺の知ったことじゃない、と言われるんでしたら、諦めますが、そんなことは言いませんよね」
「それは、もう」
「お二人の承諾が取れたら、また伺います。その時は必ず、先生も承知してください」
「まあ」
「中野先生。責任の重さを感じていただいたことに感謝してます。それだけ、先生がいい加減な仕事はしたくないと思っておられる証拠です。そんな方に立案していただきたいのです。ベストである必要はありません。そのシステムに血が通っていればいいんです。何度でも修正すれば済むことですから。役人は作文が上手です。でも、そんな人に作ってもらいたくない。子供の目線を知っているのは、現場の先生たちです。ぜひ、お願いします」
「あなたと話していると、自分にもできるような気がするんですが、一人になると、不安の方が大きくなるんです」
「ですから、チームを作るんです。もう一度、お伺いしますから」
「はい」
浩平は、熊本と千葉の住所が載っている資料をもらって帰路についた。相馬先生に報告をして、事務局にも連絡した。そして、その足で熊本に向かった。
「こんな時間に突然お邪魔しまして、申し訳ありません」
「いえいえ。京都の相馬先生から連絡いただいてます」
「そうでしたか。よろしくお願いします」
「片山さん、食事は」
「電車の中で済ませました」
「そうですか。では、お話を聞きましょう」
「ありがとうございます」
浩平は子供基金の内容を話した。そして、宇治での出来事も話した。
「なるほど。中野先生、断りましたか」
「僕の説明が悪かったんです」
「中野先生は、一途だから、わからなくもない。それでも、子供たちのことを、誰よりも真剣に考えている人です。相馬先生が推薦したようですが、間違っていません。あなた方の基金には最適な先生だと思います」
「よかった。中野先生お一人に押しつけてしまった僕の責任です。そこで、高見先生にもご協力いただきたいと思って来ました。こんなお願いの仕方、失礼だとは思いましたが、ありのままをお話する方がいいと思いました。ご協力いただけませんか」
「もちろん、協力しますよ。あなたの真摯な態度も立派です。それよりも、何かが変わる可能性があることなら、いつでも、どんなことでも協力します。私は、現場のことで精一杯だから、前向きな事は出来ないんだと自分に言い聞かせて、結局、何もしていないんです。どこの先生も現状でいいなどと思っていません。こんなチャンスに協力しなかったら、自分にも言い訳できなくなってしまいます。よく、声をかけてくださったと感謝してます」
「ありがとうございます」
「でも、思い切ったことを考えましたね。厚労省はなんと言いますかね」
「何も言わないでしょう。せせら笑うぐらいです」
高見は高笑いをした。
「成功させたいですね」
「はい」
浩平は市内のホテルに泊まり、翌朝の成田便を予約した。
千葉の光園は、古い住宅街の中にある古い施設だった。浩平が訪問した施設は、雨露が凌げればいい、という施設ばかりだった。目の前のニーズに応えるのが精一杯です、と言っているようにもみえる。路上で飢え死にすることがなければ、それでいいのか。千葉の光園は特に古い施設に見えた。直人や志保が送金する気持ちも、もっともだと思った。
「相馬先生から聞いとる」
浩平は基金の話をし、中野先生と高見先生のことを話した。中野が言っていたが、光園の剣埼園長は無口だった。
「ん。わかった」
剣埼からは、賛成も反対も意見もきくことはなかった。わかった、と言っただけ。浩平が最初から最後まで、一人でしゃべっていた。
「よろしく、お願いします」
浩平は狭い園長室のドアのところで頭を下げた。一末の不安があった。
「片山君」
椅子から立ち上がった剣埼が、浩平を呼び止めた。
「はい」
「ありがとう」
剣埼は深々と頭を下げた。浩平は剣埼に負けないぐらいに頭を下げた。七十を超えていると思われる年長者に頭を下げられてしまうと、身の置き場に困る。
光園を出てから、剣埼は浩平の名前を知っていたのかもしれないと思った。ありがとうと言ったのは、基金の件ではなく、直人や志保のことだったのかもしれない。
浩平は阿南と直人に電話をして、藤沢に向かった。居場所が変わった時には、二人に連絡を入れているし、向日町の住所も知らせてあった。
藤沢の家には懐かしさを感じた。夏ではないので庭の畑は寂しかったが、阿南が手入れをしているのはわかる。玄関の前で、チャイムを鳴らすべきかどうかと迷ったが、チャイムを押した。今は阿南の家なのだと思った。
「片山さん」
直人がドアを開けた。
「どうして、チャイムなんです」
「変か」
「変ですよ」
部屋にはコーヒーの香りが満ちていた。
「阿南さん」
二人は、自然と握手をした。古い戦友に会った懐かしさだった。
「ここは、いいな」
兵隊だった筒井が作った部屋は、戦士の休息のために作ったものなのだろう。
「片山さん。少し変わりましたね」
「そうですか」
「牙が見えない」
「うまく隠せる年齢になったのかな。阿南さんだって、百姓になってますよ」
阿南と直人の近況を聞いた。直人は、落ち着いた成人男子だった。
「今日は、千葉の光園に行って来た」
「えっ」
「剣埼先生と、話をしてきた」
浩平は京都でやっている子供基金の事を話した。
「昔、直人が世直しと言ってたことを思い出した。成功すれば、少しは世直しになるかもしれん。金の使い道に困ったからという理由は誰にも言ってないがな」
「全部、出したんですか」
「まだだけど、そのつもりだ。僕に、金はいらない」
「いいですね。自分も仲間にしてくださいよ。あんな大金、持ってるだけで肩がこる」
「僕も、困ってました」
「いくらでも、寄付金、受け付けるよ」
「片山さん。あんたと話すると、いつも目の前が明るくなる。生きてみようかなと思う」
「直人。剣埼先生は僕の名前知ってるのかな」
「僕は言ってませんが。志保は言ったかも」
「ありがとう、と言われたが、どうも今度のことで言われたんじゃないと思った」
「まずかった、ですか」
「いや。あの先生なら大丈夫だろう」
「よかった」
「この分だと、片山さんは、しばらく京都だな」
「そうですね。この件が軌道に乗るまでは」
浩平は一時間ほどで、藤沢を後にした。直人が東京駅まで送ってきた。
「連絡は下さいよ」
「ん。わかってる」
浩平は新幹線で京都まで戻り、相馬保育園の駐車場から宇治の中野を訪ねた。
「お二人は、協力してくれるそうです。高見先生も、この仕事には中野先生が最適な方だとおっしゃってました。改めて、お願いしたいのですが」
「熊本と千葉に行ってこられた」
「はい」
「やります。なんか、ぐずぐず言ったようで申し訳ない」
「とんでもありません。僕が無理言ってしまったからです。検討会には僕も参加させていただきます」
「わかりました」
「ありがとうございます」
子供基金の根幹は、新しく作ろうとしている、このシステムにかかっている。失敗する訳にはいかない。合議制になった方がよかったのだろう。
浩平は相馬保育園に取って返した。
「夜分に、すみません」
「どうでした」
「はい。皆さん、引き受けていただけました。先生のお口添え、助かりました」
「よかった」
「中野先生お一人に押し付けるより、この方がよかったと思っています」
「忙しかったでしょう」
「大丈夫です。まだ、若者のつもりですから」
「この基金、成功するような気がしてきました」
「若干、疑ってました」
「ほんの少し、ね」
「亜紀さんが、大車輪でやってくれてます。絶対に成功しますよ」
「そう」
「亜紀さんの昔の話、聞かせてください。あれは、二十一歳の女子にできることじゃありません。世の中は広いな、と思います」
「そうね」
相馬園長は、亜紀との出会いや白石の事を話してくれた。
「優ちゃんが生まれてから、新しい亜紀さんも生まれたのかもしれない。求さんのこと、よく乗り切ってくれたと感心してます」
「僕も、そう思います」
その日は、久し振りに家でゆっくりと寝た。
翌日、久し振りに亜紀に時間を取ってもらった。
「大変だったでしょう」
「えっ」
「熊本と千葉、行ったんでしょう」
「大丈夫ですよ。まだまだ、僕だって若いんです」
亜紀は、返事をせずに笑っていた。年寄りだと思ってる。ここで、反発すれば本物の年寄りになりそうなのでやめた。
「中野先生にも、承諾してもらいました」
「責任重大ですものね。中野先生は、そのことがわかってたんですね。どんなシステムを作るかで、なにもかも変わってしまいます。合議制にできて、よかったかもしれません。私も、その会議には参加させてください」
三人の園長会議に出席依頼することも、用件の一つだったが、亜紀が片づけてくれた。
「採用の件なんですが」
「はい」
「面接してますよね」
「ええ」
「会議の結果で変わるかもしれませんが、監査要員が必要になると思います」
「監査、ですか」
「会計監査と運営監査です。どこの施設も運営は厳しいものがあります。手元に金があれば、そちらに使いたくなるでしょう。自分を納得させるだけで、どうにでも使える金にしてしまっては、前に進みません。そして、そうなる確率は、かなり高いと思っています」
「わかります」
「この子供基金を、子供たちのものにするには、厳しくても、やらざるをえない措置だと思います。性善説は通用しないと思ってます。将来を考えると、全国行脚をしてくれる監査要員の方の採用が必要になります。すぐにではありませんが、人員計画には反映しておきたい」
「何人ほど必要と考えられますか」
「将来的には、五十名」
「五十ですか。人員計画と言われた意味がわかりました」
「子供基金の主要部門は監査部門になると思っています。ですから、人材の確保が大変になります。それでも、これだけはしなければなりません。どんな人でも、不正には手を染めます。僕はそんな人を大勢見てきました。ここの運営を最終的に誰がやるのか。あなたでも僕でもない。ということは、ここの監査も信頼できる監査法人にお願いしなければなりません。人が集まり、金が動く場所では、不正が行われると思っています。人間がやることですから仕方ありません」
「片山さんは、ここの運営には係わらないということですか」
「係わらないのではなく、係われません。この仕事は真っ白な人がしなければならない。でないと、多くの子供に迷惑をかけます」
「そうでしたね」
「あなたも、係わる必要はありません。白石の仕事を放り出してやってくれていますが、いつまでも、そんな無理はお願いできない。それも考えていただけませんか。あなたの後任人事を」
「ええ。わかってはいるんですが。なかなか」
「和久井さんでは、いけないんですか」
「和久井さん」
「あなたの片腕ですからね、無理ですよね」
「いえ。そういう意味ではなく、年齢的なことです」
「理事長に年齢制限など、ありませんが」
「ええ。まあ」
「でも、和久井さんが承知しませんね。僕にも右腕の若者がいますが、僕から離れようとはしません。和久井さんを見ていると、彼女もそうなのかもしれない」
「一度、考えてみます」
「ご相談は、もう一つ。児童養護施設という言葉に代わるものありませんか」
「代わり、ですか」
「言葉はそれ自体が力を持っています。養護施設ではいけないと思っているんです」
「そうですね」
「申し訳ない。また、山ほど注文つけてしまいました」
「ほんとに、片山さんは」
「すみません」
「いえ。私が甘すぎるだけです。こんなチャンス、逃がしませんよ。そうです。白石なら、同じことを考えます。片山さんが、参った、という仕事をしてやろう、って」
「もう、充分、参ってますけど」
「嘘はいけません。私、怒りますよ」
浩平は両手を上に挙げて、降参の態度を示した。
「僕は、あなたと仕事をしていると、楽しい。今まで、仕事は苦痛でした」
「うれしいです。励みになります」
「じゃあ」
「片山さん」
「はい」
「優が会いたがってます。一度行ってやってください」
「嬉しいことを言うんですね」
「ほんとですよ。あの子には傷を負っている動物の気持ちがわかるらしいんです。片山さんの話をすると、悲しそうな顔するんです。私のことも、大事にしてくれます。母親に向かって悲しそうな眼差しを向けるんですよ。今でも、私、毎日、白石のこと想います。そうすると、優が私の髪を撫ぜてくれるんです。悲しそうな眼で。私、頑張るしかないんです。あの子のおかげで、毎日が過ぎていきます」
「行かせてもらいます」




年が明けて、三人の園長による第一回の検討会議が開かれた。浩平と亜紀、そして和久井と水島が参加した。水島は書記係と決められている。
三人の園長はそれぞれの案を作ってくれた。中野に押し付ければいいとは思っていないようだ。
全員の紹介が終わった後に、浩平が発議した。
「和久井さんに、議長をお願いしても、いいでしょうか」
全員の拍手をもらって、和久井が議長を引き受けた。緊張はしているが、怯えはないようだった。亜紀は後任の話をしたのだろうか。
「では、私、和久井美緒が議長を務めます。この会議は全員一致を原則とします。いちいち大変ですが挙手でお願いします。よろしいでしょうか」
全員が挙手した。
「次に会議日程ですが、検討内容が沢山ありますので、会議時間も日数も決めませんが、よろしいでしょうか。ただし、皆さんお仕事がありますので、携帯には対応していただいて結構です」
各園長の資料は事前に配布されていたし、討議内容も知らされている。基金の理念に関する項目から会議は本格的に始まった。
議長の指示で、自由に発言してもらうことになった。意見に大きな差はないのに、これだという結論が出ない。
「先日、片山さんから、新しい名称はないかと言われました」
一度も発言せずに、じっと聞いていた亜紀が初めて発言した。
「学舎という言い方はどうでしょうか」
亜紀がホワイトボードに「学舎」と書いた。
「皆さんの原案では、現在の施設の中にどうやって実現させるかということに、とても苦労されているように思いました。部外者で、勝手なことを言って、すみません。新しい施設を作ってしまってはいけませんか。たとえば、中野先生ののぞみ園の場合、ここに中野学舎という新しい設備を作ります」
亜紀はボードに絵を描いて説明した。
「この基金ができれば、卒園の年齢制限が変わります。子供たちの人数は確実に増えます。現状の施設に何らかの変更が必要なんですから、ここに施設を作ってしまってはどうでしょうか」
「そんな選択肢もあるんですか」
中野が驚きの声を出した。
「いえ、そう言う意味ではなくて、新しい施設が必要だとしたら、どんなことが考えられるかと言うことを検討しても、いいのではないかと思うんです。たとえば、どこからか建物を寄付していただくことができないか、寄付が無理なら格安で手に入れる方法はないのか。京都と熊本と千葉。地域による差もあると思います。でも、新しい学舎を作ることで、運営面でも解決できることがあると思います」
「片山君」
千葉の剣埼が初めて発言した。
「はい」
「予算を教えてくれんか」
「わかりません。今から募金をしますから。ただ、現状で見えている金額は、年で百億だと思っています。ですから、一つの施設に十億必要だとすれば、参加できる施設は全国で百が限度になります。二億で済めば、五百の施設をカバーできます。目標は全施設ですが、すぐに実現できるとは思っていません。先ず、システムを作って、必要な予算を出して、募金を増やしていく。時間がかかっても仕方ないと思います」
「そうか。わしは、お譲さんの意見に賛成する。わしらは頭が固いな」
剣埼は、二人の園長の顔を見た。
「うちにコンピュータソフト開発の会社があるんですが、そこの独身寮は以前銀行の寮でした。銀行の再編の時に不要になった物件を安く買いました。どこにでも、同じような物件があるとはかぎりませんので、参考にならないかもしれませんが」
亜紀の提案で、議事は一気に進んだ。
「僕の希望も聞いてください」
「どうぞ」
議長の和久井が認めた。
「全ての子供を、と思わなくてもいいのではないかと思っています。一般家庭の子供でも、全員が完璧な教育を受けている訳ではありません。僕は大学に行きましたが、二年で中退しました。大学は二流校でした。大学を卒業するだけでは、将来に何の希望もないと感じました。卒業するだけで資格とみなされるのは、国立校だけだと思います。技術を身につける専門校には、それなりの価値があるのかもしれませんが、何の役にも立たない専門校もあると思います。結局は、子供の意識の問題なのだと思います。大学院への進学、医学部への挑戦もあっていいと思います。ただし、大学進学にさいしては、既存の奨学金取得は必須だと思います。施設の子でも、自分の力をつけるチャンスがあるのだということが重要だと思います。自分がなんの努力もしないのに、施設のせいにしている子供も大勢います。施設の子供だから厚遇すると言うのは、行き過ぎだと思います。それよりも、卒園者が帰ってくる場所を提供してやる必要があるのではないかと思います。ニートになってもらっては困りますが、再出発の気力を養う場所であってくれれば、子どもたちも頑張れる。僕の考え、甘いでしょうか」
「そうなると、ごく一部の子供だけになりませんか」
「最初は、そうなるのかもしれません。ただ単に年齢制限を撤廃するだけで、子供たちが社会の荒波を乗り切れるとは思えません。定着すれば、大勢の子供が挑戦するようになると信じています」
「片山さん。具体的な話で、あなたの考えがよくわかります。私たちは、どの子も可愛い。ついつい親バカになってしまいます。子供たちが帰ってくる場所を用意できる。これは、素晴らしいことだと思います」
「もう一つ、厳しいことを言わせてもらいます。この基金に関する会計監査と運営検査は実施します。不合格になれば、基金の打ち切りもありえますし、返還請求もします」
「監査」
「残念ですが、性善説は採用しません。現状の運営には性善説が不可欠ですが、この基金を軌道に乗せるためには、監査が必要だと考えています」
「あんた、厳しいね」
「すみません」
しかし、剣埼の顔は怒った顔ではなかった。
「ま、いい。金を出すのは、あんたたちだ。どんな条件でも、協力する価値はある」
「そうですね。剣埼先生のおっしゃる通りです」
「先に進めよう」
「ありがとうございます」
会議は三日間続いた。厳しい会議だったが、三人の園長は最後まで協力してくれた。なんとか運営規約ができそうな目処がついた。
特定公益法人の申請は、いろいろな圧力をかけて、二月には認可が下りることになった。申請書の内容は、いかようにでも解釈できるような文面になっている。その点では、役人にも負けない作文になっていた。臨時のオペレーターが採用されていて、事務所の中には人があふれていたが、新聞広告が出されて、さらに忙しい事務局になった。白石亜紀は精力的に寄付金集めに走り回っている。和久井美緒が理事長就任を承諾してくれて、財団法人子供基金は動き始めた。
二か月で寄付金は一千万円になった。浩平も資金移動をした。架空名義の口座からの振り込みだから、後追いは難しいと思う。直人と阿南だけではなく、志保も保田も、菅原まで送金してくれたので、子供基金の資産は五千億円になった。資産の運用は五社に分散して、平均金利は3パーセントを越えた。利率が低いのは元金保全を優先した結果だった。
千葉の光園が学舎を見つけたという連絡をしてきた。京都と熊本では、学舎が決まり改造に取り掛かっている。銀行からの借入は、子供基金が保証人になることで最低の金利で実行してもらっている。初期投資の不動産は全国一律とはいかないので、白石不動産の力を借りて、不動産の地域係数を算出してもらっていた。浩平は子供基金の事務長になった水島と白石不動産の村野という専門家をつれて、千葉の物件を見に行くことになった。ただし、物件を見るだけの仕事ではない。自分の足で独自の調査をする。不適当と判断すれば、施設側に再調査をするように勧める。施設側が応じない場合は、学舎申請自体を断ることになる。不動産売買には、多くの要素が絡み合う。たとえば、身内の物件を高値で買い取らせようとする場合もあるし、問題のある物件を掴んでいる可能性もある。不正は徹底的に排除する。子供基金は厳しいところだと言う噂が広がることを期待していた。発足当初が最もインパクトが大きいから、手を抜くことはしない。
千葉の物件は、以前は内科医院だったところで、開業医としては規模の大きな医院だったと思われる。数年前に廃業して買い手がついていない。近くに総合病院が新設されているので、医院としての価値は下がっているのかもしれない。霊安室があることを気にする人もいるかもしれないが、剣埼は平気だった。価格は妥当だったが、再度交渉をするために、剣埼を伴って、管理委託をされている不動産会社に出向いた。交渉は村野の仕事だった。改造の仕事をお願いするという条件で、当初の価格より下げることができた。物件の販売は委託を受けているものだから、自分の腹は痛まない。改造の仕事が新たな利益を生み出してくれるわけだから、物件の値段が下がることになる。四人はその足で、光園の取引銀行に向かった。都銀なので、子供基金のことは知っていた。改造費用が確定してからの借り入れになるが、金利はこちらから指定した。支店長は渋々だったが、引き受けてくれた。
千葉駅で食事をし、一仕事終わったということで、ビールも飲んだ。
「片山君。わしは、あんたに感謝しとる。厳しいことばかり言う男だと思っとったが、頼りになる基金になってくれそうな気がしてきた。わしも、この歳だから、いつまでもできるわけではない。最後にいい仕事をさせてもらえた、と思うとる。ありがとう」
「とんでもありません。まだまだ、働いてもらいますよ」
「お前は、年寄りを泣かせる男だな」
「子供たちに、大きな夢を見てもらいましょうよ」
「そうだな」
今年卒園する子供たちは、もう受験の機会を逃しているので、希望者には一年間の猶予期間を認めていた。一年間は夢を見ることができる。
「説明会をするそうだな」
「はい。来月予定してます」
「徹底的に厳しいことを、言うてやれ」
「そのつもりです」
全国の児童養護施設だけでなく、認可されていない施設へも案内状を出した。初年度は百施設を予定している。競争率は六倍になる。
その説明会が始まった。出席通知をもらった施設を六日に分けて説明会を行う。それでも、一日の参加施設は百施設になる。京都駅前の会場に人が溢れた。議事運営は水島が担当し、説明は理事長の和久井が行う。浩平と亜紀も会場の後ろの席に座り、参加者のような形で傍聴する。
説明会の開始が告げられ、会場が静かになるのを待って、和久井が発言した。
「本日は、お忙しい中、この説明会に参加していただきましたことを感謝します。さて、冒頭ではありますが、厳しいことを言わせていただきますことをお許しください」
和久井は会場に緊張感がみなぎるまで待った。
「皆さんは、毎日、施設の運営にご苦労されていることと思います。特に運営資金のことでは、ご苦労の連続だろうと推測しております。そのことを承知の上で申し上げます。この子供基金はその苦しい運営資金を助けるものではありません。そればかりか、現在の運営資金を圧迫することになると考えてください。お送りした資料は読んでいただいているものと思いますが、抜き打ちで会計監査も運営の検査も行います。その結果で基金の停止、基金の返還請求も行います。この事業をやるためには銀行借り入れも発生しますので、借金だけが残る可能性もあります。つまり、濡れ手に粟と言うことにはなりません。皆さんも大きなリスクを抱えることになります。このことは、規約にも書いてありますが、念のために申し上げておきます」
参加者の何割かの人は、運営資金の一部になればと思って来ている。苦しい運営を強いられている人にとっては、当然のことと言える。施設の運営をしている者は、いつでも、藁でも掴む。しかし、少し様子が違うことに気がつき始めているようだった。
「もっと、簡単に申し上げれば、現在の施設運営に、この基金を流用することは禁止されているということです。子供基金は、国の機関ではありませんので法律はありません。法律に代わりうる内容の契約書を交わすことで、法律に代えます。契約書の内容は、皆さん方が圧倒的に不利になる内容になっています。民事裁判では、子供基金側が必ず勝つことになります。そうです、訴訟もします。私たちの目的は、規約の理念の項にありますように、子供たちの選択肢を増やすことです。実は、それしかできないんです。子供基金に無限の資金があれば、なんでもできますが、限りある資金なので、限りある用途にしか使用できない、と言うのが現状なんです。どうか、ご理解ください」
和久井の話し方は、ゆっくりと自信に満ちたものだった。和久井も水島も、見事に脱皮したようだ。たとえ若くても、理事長の風格はある。
規約の説明、質疑応答があって説明会が終了した。出席者は基金申請用紙を持って帰って行った。何人の園長が申請書を提出してくるだろうか。園長は小論文も書かなくてはならないし、経理内容も提出しなければならない。国に提出する内容より、面倒かもしれない。
申請書が出されると、書類審査と面接がある。面接は和久井と事務局の女子職員が全国の児童養護施設を訪問することになる。
スタッフ全員で反省会をやった後、浩平と亜紀、そして和久井の三人で北京都ホテルのレストランで食事をした。
「美緒さん。ごめんなさいね。ホテルの人じゃなくなってしまって」
「白石の籍は外さないでくださいね。私は、家長の秘書ですから」
「ええ」
「理事長の件、僕が言いました」
「美緒さんは、ホテルの仕事がしたかったのに、私が、無理に秘書の仕事をお願いしたんです。ホテルの仕事に戻す約束でした」
「もう、ホテルの仕事はいいんです。家長の代理で相馬保育園に行って、私の中で何かが変わったんだと思います。今は、この仕事に納得しています。でも、家長と離れるのが」
「離れる訳じゃない。私の仕事をやってくれているの」
「そうでしたね」
「和久井さん、僕のこと恨んでます」
「とんでもありません。片山さんがいなければ、こんな画期的なことできませんでした。そのことは、家長も私も、納得しています。私が言っているのは、個人的な感情なんです。私は、家長のことが大好きなんです」
浩平は、いつも、なぜか大勢の人を巻き込んでしまう。山にこもって、坊主にでもなった方がいいのかもしれない、と思うことがある。
「いまさら、遅いんですけど、巻き込んでしまったこと、謝ります」
「片山さん。これが、片山さんなんだと思いますが、どうして、悩むんです。あなたの話だったから、私が無理矢理やってるとでも思っているんですか。誰かがやらなければならないのなら、私は法律を無視してでもやりますよ。不正なお金だと言ってましたけど、それがどうしたんです。五千億ものお金を誰が出してくれるんです。私、時々、片山さんのこと殴りたくなることがあるんです。わかりませんか」
「いえ。殺気を感じたことはありますよ」
「どんな傷を持っているのか、聞きません。乗り越えてください。昔、私に言ったこと憶えてますか。全部飲み込んで、乗り越えろと言ったんです。あなたも、そうしなければならない宿命を負っているんです。骨は、私が、拾ってあげます」
「・・・」
亜紀の殺気が飛んできて、おもわず身構えそうになった。
「私、怒ってます。わかります」
「はい」
「優に慰めてもらいなさい。あの子は、片山のおっちゃんの傷を見抜いてます」
「やめときます」
「どうして」
「僕、泣いてしまいそうなんです」
「泣けばいいんです。私なんか、何度も、泣いてます」
和久井が驚きの表情で二人を見ていた。自信満々な二人が、悲しみをつれて生きている。そんな人間の裏側を見てしまった。
女には勝てない。いつまでも、片山浩平の弱点は女のようだ。
向日町の家には水島が来ていた。
「どうした」
「はい」
台所で福村が食事の用意をしているようだ。
「福村さん。食べてきました」
「はあい。いま、お茶いれます」
「何があった」
「いえ」
水島の様子が落ち着かない。
「お疲れ様です」
福村がお茶を持ってきてくれた。娘の彩は、いつものようにソファーで寝ている。当初はおどおどしていた福村だったが、今は、一家の主婦のように落ち着いていた。
「あの」
「ん」
「片山さんに、お願いがあります」
「なに」
「あのお」
福村が素知らぬ顔で二人を見ている。
「福村さんと、結婚したいんです」
「はあ」
「それで」
「で」
「片山さんの、許可がいるんです」
「どうして」
「それが、福村さんの条件なんです。お願いします」
水島が、机に額を付けるぐらいに頭を下げた。
「どういうこと。意味わからないし」
「ですから、片山さんが認めてくれることが、結婚の条件なんです」
「僕は福村さんの父親ではないけど」
「わかってます。でも、片山さんなんです」
「それって、説得できなかったから、僕に、なんとかしろ、ってこと」
「いえ」
福村は他人事のように見ている。さすが、女だ。うろうろするのはいつも男。
「水島君。君たちの結婚は君たちが決めることで、僕の許可など意味ないと思う。条件つけられた、と言うことは、断られたということじゃないの」
「いえ。愛さんはオーケーしてくれました」
「それは、君を傷つけるのが可哀そうだから、そう言っただけじゃないの」
「そんな」
「だったら、強引に嫁にしてしまえばいい」
「無理です」
「じゃあ、諦めろ」
「もっと、無理です」
「僕が、認めないと言ったら」
「それは、駄目です」
「認めるしかないのか」
「そうです」
「わかった。認めよう」
男同士だ。これ以上はいじめになる。
「いいんですか」
「ああ。認めるよ。水島君の熱意は、福村さんにも伝わっていると思う。そうだな、福村さん」
「はい」
「おめでとう」
「ありがとうございます」
水島は一生この女に頭が上がらない。水島はそれでもいいのだろう。水島の人生にはまだ一山も二山もあるだろう。福村のようなしっかり者がついていれば乗り切れる。福村が飴と鞭を使って、水島を働かせてくれるだろう。二十五歳という若さで事務長という肩書をもらった水島だが、自分の仕事は下働きだと決めているようだった。多分、これも福村の助言だと思う。二人で一人前でもいい。
「福村さん。ここの仕事はどうする」
「続けます」
「時間を減らせよ。これは、雇い主の命令だ」
「はい」
子供基金の説明会で思いっきり厳しい説明をしたためか、申請件数は百件に満たなかった。事務局としては、五百件の申請が来たらどう対処するかを苦慮していたので、ありがたいことだった。申請資料の審査で面接は約六十件になった。和久井理事長は面接のために、全国行脚に出かけた。施設の現状を確認することと、施設責任者の人柄を見ることが和久井の役目だった。


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海の果て 第3部の 1 [海の果て]




 片山浩平は京都に来ていた。各地の道場を訪ね、もう一度、武道に救いを見つけようとしたが、その旅は武道に決別するためのものになった。やはり、殺人拳の生きる場所はどこにもない。福岡と大阪で整形外科に通院して小さな整形をしたので、白石亜紀が気づいてくれるかどうか心配だった。北白川に訪問するのは約三年ぶりだった。電話の声は元気で落ち着いていたから、あの事件は乗り切ってくれたのだろうか。それとも、乗りきったふりをしてくれたのだろうか。
入口の門は開いていたので、屋敷の中に入った。そう言えば、玄関から訪れたのは初めてで、少し緊張する。玄関のブザーを押して、少し待つと大きな引き戸が開き、上品な中年の女性が出てきた。
「片山といいます」
「おこしやす。奥様がお待ちしております」
女性は身を引いて、中に入るように言った。綺麗に手入れがされた広い玄関。昔の武家屋敷の玄関もこの様なものだったのかもしれない。女性はもう一度浩平の靴を揃えてから案内をしてくれた。時間の流れが、京都では遅いのだろうか。
広い客間に案内された。その客間は天井裏から見たことがある。亜紀が陣内組の組長の首に短刀を当てた場所だった。障子とガラス戸が開け放たれていて、広い庭が一望できる。浩平には庭の良し悪しはわからなかったが、見ていると落ち着く。世の中の争い事とは無縁の場所に思えるが、この家の主はその争い事で命を落とした。
着物姿の若い女性と小さな女の子が部屋に入ってきた。
「片山さん。また変装してます」
「はい」
前回に変装していて警戒されたのを思い出した。変装ではなく整形だったが、そのことは言わなかった。
「お元気そうで」
「そう見えますか。よかった」
「この子が、あの時の」
「ええ。優といいます。優ちゃん、ご挨拶して」
「白石優です」
母親の美しさは、言葉にできないほどだが、その娘の可愛さもとびぬけていた。
「片山浩平です」
優はにっこり笑って、母親の顔を見た。「どう、上手にできたでしょ」という顔つきだった。母親の亜紀に東京で初めて会った時にも感じたが、その子供の白石優にも気品があった。白石亜紀は私生児で生まれ、貧乏と一緒に成長したはずなのに、凛とした気品があった。白石優は本物のお姫様なのだから気品があるのだろうか。
案内してくれた中年の女性がお茶を持ってきた。
「久さん。優をお願い」
「はい」
久と呼ばれた女性に手を引かれて出て行く優が、振りかって浩平に笑顔を置いて行ってくれた。
「片山さん。優に気に入られたみたいですよ」
「嬉しいです」
「何からお話すればいいのか。最初にお礼をもうしあげます。白石の今があるのも、優も、片山さんのおかげです。あの時、優を流産して、自分で陣内組や工藤に復讐をしていたら、全てを失っていました。白石はそんなことを望んでいませんでした。でも、片山さん一人に押しつけてしまったこと。とても、申し訳ないと思っているんです」
「もう、済んだことです。僕は白石さんに恩義があり、白石さんのためにやったことです。あなたが負担に思うことではありませんよ。あなたの元気な顔と優ちゃんの顔を見ることができました。多分、白石さんには納得していただけたと思います」
「そう言っていただけると。ありがとうございます」
「白石さんにお線香を」
「ありがとうございます。白石が喜びます。白石はあなたのことが、本当に好きでした」
案内された仏間は広く、お香の香りで満ちていた。古い仏壇には、白石の写真が置いてあった。写真で見ても、白石の慈愛に満ちた目は健在だった。自然と手を合わせた浩平は、その写真に見入った。自分のような男を養子にしたいと言ってくれた白石。こんなに素晴らしい人が、欲深い人間の犠牲になって死んでしまう。誰かのためにと生きてきた人が、自分さえよければという強欲の人間に殺されてしまう。この不条理は一体何なのだ。自分族同士の殺し合いは仕方がない。殺るか殺られるかという我欲の中に選択肢はない。それでも、人の命を奪ってしまった傷は予想以上に深かった。争わずに生きる道はないのか。自分族にやりたいようにやられても、争ってはいけないのか。浩平の傷はまだ癒えていなかった。
「白石と何を話してたんです」
客間に戻った亜紀が聞いた。
「いろいろです」
「片山さんに、来ていただいて、白石はほっとしたと思います」
「白石さんは、あなたの中で、まだ生きてます。あなたに後を託したことを、白石さんは納得していると思います。僕でなくてよかった」
浩平は、白石から養子にしたいと言われて驚いたが、亜紀を後継者にしたことは正しかったと思っている。そう言う意味では、亜紀と浩平は義兄弟なのかもしれない。最初に出会った時の亜紀は直線的な目をしていたが、今は柔らかい目になっている。白石に似てきたのか、白石が遺産として置いて行ったのか。
「忙しいですか」
「はい。これほどとは思ってませんでした。白石はどうやってたのか聞いてみたいと思ってます」
「今日は」
「今日は一日空いてます。必要なら何日でも」
「忙しいあなたの時間を取ってしまって、申し訳ないんですが、僕のお願いを聞いていただけますか」
「もちろんです」
「詳しいことは言えませんが、僕が犯罪者だということはご存じですよね」
「はい」
「できるだけ、ご迷惑をかけないようにしますが、表社会での知人は、あなたしかいないんです」
「はい」
「しばらく京都に住みたいと思っています」
「はい」
「家を探してもらえませんか。できるだけ田舎の方がいいです」
「大丈夫です」
「相馬保育園を紹介してもらいたい」
「寄付の件ですか」
「いいえ。人を捜しています」
「人を」
「忙しいあなたにお願いし難いんですが、京都で基金を作る仕事を手伝ってもらいたいんです」
「基金」
「京都子供基金を作りたいんです。親を亡くした子、親と暮らせない子、親と暮らしてはいけない子、そういう子供たちを受け入れてくれている民間の施設は全国にありますが、どこも運営は苦しい。そして、一定の年齢になると施設を出て行きます。大学まで行かせてくれる施設は少ないんです。僕は大学を中退しているので、大学というところに何かがあるとは思っていませんが、本当に勉強したいと思っている子供もいるでしょう。そして、施設を出た子供が辛い生き方をしているのを知っています。本人次第だと言われればそれまでですが、まだまだ助けを必要としている子供は大勢います。古くからのやり方が限界にきているのに直せない。その第一の原因がお金なんです。京都の財界、宗教界、民間から寄付を集めて基金を作りたい。それを雛型にして、全国に広げていきたいと思っているんです。僕一人の力ではできません」
「基金というのは、利息で運営するってことですよね」
「そうです」
「とても、大きなお金が要ると思いますけど」
「最初は、それほど大きくなくても、いいんです。その母体を作って、別の寄付を受け入れるんです。ただし、寄付金の出所を秘匿できる団体にしたいんです」
「できるんですか」
「どなたか、政治力のある方の協力が必要ですが、可能だと思います」
「そして、片山さんが寄付をするんですか」
「ええ。僕は、二千億のお金を出します」
「二千億、ですか」
「はい。全て、不正なお金です。出所を追及されたら、逮捕されるだけです」
「片山さんも施設で育ったんですか」
「いいえ。でも何人も知っています」
「どうして、です」
「・・・」
「どうして、そこまで」
「亜紀さんは、自分族という言葉、知ってますか」
「はい。自分さえよければ族ですね」
「知っているんですか」
「私も自分族でした。まだまだ、抜け切れていませんが、白石のような誰か族になりたいと思っています」
「そうですか。僕は、自分族の上前をはねるぐらいの自分族なんです。際限がありません。自分のこの行き詰りを打ち破ることができるのは、誰か族なんじゃないかと思ったんです。ところが、これも自分のためなんですよね。笑えるでしょう。それでも、挑戦してみたいんです」
「そうだったんですか。銀座の中華飯店でお目にかかったとき、片山さんは、自分が歩いているのは悪の道だと言いました。悪の道だとしても、自信を持って歩いているのだと思っていました。そんな、片山さんでも迷うことがあるんですね」
「ええ。迷いの海で溺れている気分です」
「数か月でしたが、私も施設で暮らしました。園長先生や職員の皆さんの苦労も知っていますし、子供たちの悩みもわかります。白石の後を継いで、園への支援は続けていますが、これって違いますよね。もっともっと、しっかりとしたものが必要です。残念ですが、それって経済基盤なんです。本当は、園が親にならなくてはいけないんです。十八歳になったら、もう親でも子でもない。ありえないでしょう。子供は誰でも国の宝なんです。たとえ、大人になって国の役に立たなくても、子供の間は宝なんです。碌でもない親の子供として生まれてしまった子供だって宝なんです。子供に親を選ぶチャンスがない以上、これは大人の最低限の責任です。悔しくて、悔しくて」
庭に向けた亜紀の目には殺気が乗っていた。
「ごめんなさい。片山さんにぶつけることじゃないのに」
「とんでもありません。もっとぶつけてください。僕もやる気が出ます」
「私にできるかぎりのことはします」
「ありがとう」
「昼から、相馬園長のところへ行きましょう」
仕事の電話をしてくると言って、亜紀が部屋を出て行った。白石が自慢していただけのことはある。女のくせに決断の仕方を知っている。ああいう女を男前と言うのだろう。
しばらくして、優が一人で部屋に来た。にっこりと笑っただけで、当然のように、浩平の胡坐の中に座った。小さい子供の扱いがわからずに、浩平の方が緊張する。優が浩平の手をとり、前に回した。尾の白い鳥が庭に来て、餌をついばみ始めた。優がその鳥を指さして教えてくれた。浩平は肩の力を抜いて、両手で優を抱いた。涙が出そうだった。今までに体験した事のない安寧がそこにあった。小さな肩と、小さな指、子供は宝だと言った亜紀の言葉が現実として体感できる。
亜紀が戻ってきた。
「あら」
「・・・」
「片山のおいちゃんの相手をしておいてねって、私が言いました」
「そうですか。ここに座られて、僕がオロオロでした」
「自分で座ったんですか」
「ええ」
「この子には、おいちゃんが大勢いるんです。人気者なんですけど、こんなことは初めてです」
「はあ」
「優ちゃん。ありがとう。かあさまとお話があるから、また後でお願いね」
「うん」
「久さん」
先ほどの中年の女性が優を連れていった。
「どうでした。子供の感触は」
「宝ですね」
「でしょう。私が白石と出会えたのも、小さな子供の小さな指でした」
「泣きそうになってしまいました」
「ええ。片山さん、食べ物の好き嫌いありませんか」
「いえ」
「お昼を食べてから、行きましょう」
「はい。ご馳走になります。ところで、練習はまだしてるんですか」
「白石に封印されてしまいましたが、運動で、型だけは」
「一度、あなたの空手が見てみたかった。僕と立ち会ったら白石さんに怒られますかね」
「運動なら平気ですよ」
「この庭で、いいですか」
「すぐに、着替えてきます」
亜紀が着替えに行ったので、浩平は上着と靴下を脱いで、庭に下りた。土の感触と草の柔らかさが気持ちいい。体が自然と動く。山に戻っても動かなかった体が自然に動いている。その動きは殺人拳ではない。武道だと思えた。子供の頃に、父と練習をしていた時を、父の表情を想い出していた。無心になっていた。片山道場では、父の考案した気道と称する武道を教えていた。父の気道は拳法でも空手でもない、守りがその中心だった。浩平の気道は、空気と空気の壁の間にある細い空間に殺気を通す、まさに殺人兵器だった。それは、父の気道と正反対にある気道だった。強さを求めた浩平が正しいのか、守りを求めた父が正しいのか。父の気道が懐かしかった。
気が付くと、廊下に立ちつくしているジャージに着替えた亜紀の姿があった。
亜紀も素足で庭に降りてきた。
「どうして」
「え」
「どうして、私の型を知ってるんです」
「亜紀さんの型」
「ええ」
「これは、父の型ですが」
「私が自分で作った型と、一緒なんですけど」
「父の型は、他ではやってないと思います。亜紀さんの型をやってみてください」
亜紀がやった型は、確かに父の型と酷似していた。
「これ、ほんとに、亜紀さんが」
「ええ。道場で教えてもらったものではありません」
「亜紀さん。道場主になれますよ。父は、これを気道という名前で教えていました」
「・・・」
「僕は破門されましたが」
「驚きました」
「立ち会ってみましょう。遠慮せずに打ち込んでいいです」
亜紀が半身で構え、浩平は自然体で立った。亜紀が殺気を内にため込み、膨らませているのが浩平にはよく見えた。対峙が続き、亜紀の体から汗が噴き出し、息が荒くなる。
「駄目です。打ち込めません」
亜紀が肩を落とした。
「素晴らしい」
「どう打ち込んでも、私、死んでるんでしょう」
「ええ。それを見切った亜紀さんの腕は一流ってことです。全国の道場を回りましたが、僕に勝てる人は誰もいませんでした。見切った人は何人もいましたが」
「私、一回くらいは勝てるのかと思ってました」
「僕に勝てなくてもいいんです。僕の気道は殺人兵器なんです。実験はできませんが、離れていても、一瞬で人の命を絶つ危険な気道なんです」
「気道ですか」
「見えませんけど、空気は一定ではないんです。空気の壁と壁が入組んでいて、細い道が縦横に出来ているんです。その、ごく細い空気の道に殺気を通すと武器になるんです。殺気の大きさを変えると、僕の周囲にいる人は全て死にます。僕は、そんな化物になってしまいました」
「苦しいんじゃありません」
「その通りです。反省してます。父にもよく殺人拳だと言われました」
「お父様は」
「もう、亡くなりました」
「そうですか。きっと、片山さんのことを心配してたんでしょうね」
「今は、そう思っています。親不幸な子供でした」
「奥様。お食事の用意ができましたよ」
廊下から久さんと呼ばれていた女性が大声で呼びかけた。
「久さん。足を拭くもの、お願い」
「はい」
食堂で三人の人を紹介された。亜紀は家族の一員だと言っていたが、いわゆる使用人で、庭担当、料理担当、そして家事担当の三人だった。玄関で出迎えてくれたのは今西久子という家事担当の人で料理担当の今西正とは夫婦だった。料理は京風懐石と言うのだろう、上品な和食で、味は絶品だった。
和久井美緒という女性が迎えにきた。秘書だと紹介された。大人たちが外出する様子を見て、優が「抱っこ」をせがんだ。亜紀が着替えをしてきても、優は浩平の首から手を離さなかった。
「片山のおいちゃんは、また来てくれるからね」
車庫で今西久子に優を渡した時の優の眼差しは忘れられなくなりそうだった。
和久井美緒の運転する車で三人は相馬保育園へ向かった。
「ケーキは」
「はい。積んであります」
「大変だったでしょう」
「ええ。でも、前沢さんは喜んでますから」
「そうね。一度、前沢さんに出張してもらって、ケーキ作りの実演してもらったら、前沢さんにも喜んでもらえると思わない」
「はい」
「改装の時なら時間作れないかしら」
「はい。相談しておきます」
「ケーキの差し入れは、白石が始めたことなんです。美緒さんにお願いして、続けています。白石はケーキのおじさんと言われて、園では人気者でした。今はケーキのお姉さんが人気者になってます。そうよね」
「はい。この仕事はいつも楽しいです。元気が出るんです」
「白石もよく言ってました。ケーキを持って行って、元気をもらって帰るって」
「はい」
相馬保育園は立派な建物ではなかった。園の横にある空き地に車を停めて、和久井がトランクからケーキの箱を取り出した。
「美緒さん。今日は片山さんに持たせてあげて」
「はい」
浩平は大きな紙袋に入っているケーキを両手に持たされた。石段を登って玄関に行くと、数人の子供が三人の大人を見つめてた。すぐに、子供たちが亜紀と美緒にまとわりついてきた。
「ケーキのお兄さんよ」
亜紀の言葉に子供たちの視線が浩平に集まった。一人の子供が、建物の奥へ走りこんで行った。「ケーキのおにいさんだよ」と叫んでいる。玄関にいた子供たちも一斉に走って行った。
「行きましょう」
亜紀を先頭にして、三人は食堂に入った。浩平はケーキを机の上に置いた。続々と子供たちが食堂に入ってくる。
「あきさあん」
小さな女の子が、亜紀に抱きついた。亜紀も膝を折って、その子を抱きしめた。職員の女性がケーキを袋から出して、子供たちが用意した皿に配り始める。浩平は子供たちの勢いに負けて、食堂の隅に押しやられた格好だった。
「すごいでしょう」
和久井が浩平の横に来て言った。
「ええ。あの子は」
「家長のもう一人の子供」
「もう一人の」
「実の子じゃなくて、母親替わりなんです」
食堂に中年の女性が入ってきた。
「亜紀さん」
「先生」
「忙しいのに、よく来てくれたわね」
「はい」
亜紀に言われて、女の子はケーキの列に並んだ。
「先生に会っていただきたい方がいるんです」
「あの方」
「はい」
「談話室に行きましょうか」
「はい」
小さな談話室に四人が座った。
「この方が」
「はい」
「求さんの気持ち、わかるわ。どこか似てる」
亜紀が浩平を紹介すると、園長の相馬由紀が納得したように頷いた。
「片山さんには、京都子供基金を創りたいというプランがあるんです」
「子供基金」
「はい。児童養護施設をバックアップする基金です」
「詳しく教えて」
亜紀が浩平のプランを、不正資金の部分を除いて説明した。
「片山さんは、東京の方」
「いいえ。僕、九州です」
「どうして、京都なの」
「相馬園長がおられるからです」
「私」
「僕一人では、何もできません。大勢の方の協力が絶対に必要なんです。実際に施設を運営されている相馬園長と企業に話を紹介してくれる白石さんが、京都におられるからです」
「そう。亜紀さんの紹介だから、私、片山さんのこと、信用してないわけじゃないのよ。でも、よくわからない。あなたは、何をするの」
「僕は・・・」
「それに、こういう話は何度も立ち消えになってるの。だって、基金にするような金額は集まらないから。お話としては、とてもいいお話ですけど」
この園長先生は一筋縄ではいかない。
「すみません。実はもう少し込み入った話なんですが、ここから先をお話すると、皆さんに守秘義務を強要しなければならなくなります。よろしいでしょうか」
「守秘義務の強要と、おっしゃいました」
「はい」
「穏やかな話じゃないようね。亜紀さんは知ってるの」
「はい」
「そう。だったら、いいわ」
「和久井さんは、どうです」
「私、わかりません。でも家長が了解してらっしゃるなら」
「犯罪に係ることでも、ですか」
「えっ」
「いえ。あなたに犯罪を犯せと言ってる訳ではありません。知りませんと言い通すことができるかという意味です。多少の拷問は覚悟していただく必要はありますけど」
「家長」
美緒は亜紀に救いを求めた。
「あなたの判断でいいのよ。私は知りませんと言い通します」
「僕は、無理強いするつもりはありません。断る勇気も大きな勇気です」
和久井美緒の困惑はしばらく続いた。
「わかりました。私、家長についていきます」
「ありがとうございます。僕は、不正な手段で二千億円を手にしました。この金を基金にしたいんです」
「二千億」
「園長先生。不正なお金で、やってはいけませんか」
亜紀が落ち着いた声で言った。
「驚いたわ。こんな重い話だったのね」
談話室が静まりかえった。
「その犯罪の中身までは、教えてもらえないのよね」
「それは、言えません。亜紀さんにも言ってません。逮捕されても、僕は裏で殺されるだけです。裁判はありません。皆さんは知らない方がいいと思ってます」
「で、私は何をしたらいいのかしら」
「児童養護施設の責任者の方で、この人なら信頼できるという人を紹介していただきたい。全国の全施設に援助したいと思いますが、この金額では無理です。できれば、各県にモデル施設を作りたい。その雛型になる施設を京都で作れればと思っています。実際にどの位の費用がいるのかも、やってみなくてはわかりません。金をばらまくだけの基金では子供たちは救えないと思っています。本当に子供たちの目線でシステムを構築できる人が必要なんです」
「片山さんも、施設で」
「いえ。僕は違います。施設で育ち、苦しい生き方をせざるをえない人たちを知っています。だからと言って、これは施設の子供を甘やかすための基金ではありません。自分の人生を自分の力で切り開けるような基盤が必要なのではないでしょうか。施設の子供が医者になってもいいと思いませんか。親は、子供が自分の力で生きていける力をつけることを望んでいます。施設が、十八になったらお終いでは駄目だと思いました。施設も子供たちに力をつける場所であって欲しい。でも、金が、足りませんし、安定していません。世の中では無駄な金が腐るほど垂れ流しになってるんです。そんな金を、子供たちのために、使ってはいけませんか。夢でしかないのかもしれませんが、何もしないよりはいいと思います」
「片山さん」
「はい」
「私、日常に流されていたのかもしれません。そう言えば、最近、夢を語ったことがありません。昔は、もっともっと、夢があったのに。私達が夢を失えば、子供たちが夢を無くす。こんなことも、忘れていたのね。ごめんなさい」
「園長先生」
「守秘義務なんて、糞くらえ、だわ。私、片山さんを守ります。福祉って言葉も嫌い。何様のつもりなの。子供が犠牲になる社会なんて」
「二千億の金では、五十億の資金しかできません。せめて、五百億は欲しいと思っています。つまり、二兆円の元金が必要になります。このプロジェクトが役に立つとわかれば、僕はその二兆円を集めます。そのためにも、子供基金が市民権をとり、誰からも破壊されない組織になる必要があります。ですから、皆さんの力を貸して欲しいんです」
「モデル施設を作るのに最適な人がいます。ご自分の施設でも、工夫をこらしてやってますが、やはり、資金不足で困っています。いつでも紹介します」
「では、先ず計画書を作ります。会計士の方、弁護士の方にも協力をお願いしなければなりません。でも、ここから参加していただく方には守秘義務の強要はできませんので、二千億の話はしません。匿名寄付金については、亜紀さんに政治力をお願いしなければならいかもしれません。よろしいでしょうか」
「はい」
三人は相馬保育園を後にした。白石不動産で水島俊という若い男子社員が合流し、浩平の家探しをしてくれる。京都の風景が消えていき、どこにでもある田舎になった。竹林や雑木林を通って、舗装されていない細い道を登ったところに、一軒の民家があった。建物はそれほど古くはないが、田舎の一軒家に違いない。九州の田舎にも同じような家があった記憶がある。深い山ではないが、山の中のような場所にある家が気に入った。
「ここ、お願いします」
「わかりました」
白石不動産の社員は、一軒目で決まったことに満足している様子だった。
「ついでに、家事をやってくれる方を紹介してくれると、助かります」
「大丈夫です。手配しましょう」
「水島さん。地元の方ですよね」
「はい」
「買い物に付き合ってもらえませんか。車と家電と簡単な家具、その他もろもろ」
「いいですよ」
気のいい若者なのか、亜紀に言いつけられているのか、水島は不動産の仕事以外の仕事も快く承諾してくれた。翌日の時間を決めて、水島を四条大宮で降ろした。
「片山さん。今はどこに泊ってます」
「駅前のホテルです」
「荷物は」
「ホテルです。バッグ一つですけど」
「じゃあ、取りに行きましょう。京都に来て、他所のホテルでは白石に叱られます」
「はい」
「それと、先ほどの水島ですが、どう思いました」
「どうって」
「片山さんの、アシスタントにと思ってますけど、合格しますか」
「もちろんです。僕からもお願いしょうと思ってました」
「よかった。じゃあ、そうしましょう」
「ありがとうございます」
浩平が泊っていたホテルで荷物を取って、三人は北京都ホテルに向かった。
「初めてですか」
「いえ。一度、泊めていただきました」
「印象は」
「落ち着いたホテルです」
「そう言われるのが、一番嬉しい。ね、美緒さん」
「はい」
ホテルのオーナー事務室には、数人の男が待っていた。
「ごめんなさい。お呼び立てして」
「いえいえ」
会計事務所の所員と弁護士事務所の所員だった。浩平が亜紀に子供基金のことを話してから、まだ数時間しか経っていない。ここまでの準備ができる亜紀の能力に、浩平は驚いている。ゆったりと、さりげなく行動しているように見えたが、これほど先を読む力を持った人には出会ったことがない。国交省の鳥居も勝てないだろう。
「公益法人を設立したいと思います」
亜紀が子供基金の構想を説明した。設立準備委員会の立ち上げ、計画書の作成、日程表など、設立に必要なことを文書化することを依頼した。
「できれば、設立趣意書を至急作成して、寄付金集めに行きたいと思ってます」
「わかりました」
「和久井さん」
「はい」
「御池の白石ビルの五階に事務局を置きます」
「烏丸御池の、ですね」
「ええ、事務局が動けるように準備してください」
「どの位の規模ですか」
「そうね、三十人。来ていただく方は、みなさん、それなりの方になると思います。応接室は三つ。会議室も三つ。一階のネームプレートも忘れないようにね」
「はい」
浩平が口を出す隙はなかった。出席している者は、亜紀より年長者ばかりだったが、リーダーは白石亜紀だった。きれいな顔して、この女、ただものではない。
「最後に、事務局の責任者は、こちらの片山さんにお願いします。私も事務局員として入ります。皆さんにも、それなりの力を出していただきます」
亜紀が本気だと言うことは、言わなくても全員に伝わっていた。設立準備委員会の事務局に白石の家長が入ると宣言するということは、それなりのことをしろ、と言っているに等しい。
「次の打ち合わせには、所長にも出ていただけるように言っておいてください」
言葉は丁寧だが、「舐めた真似するな」と言っているようなものだ。突然の呼び出しだったから都合がつかなかったのだろうが、亜紀は釘を刺した。
亜紀は、出席した四人の男を自分で送りに行った。
「和久井さん。あなたのボスは、化物ですね。もちろん、いい意味ですよ」
「はい。同感です」
「いつから、秘書を」
「三年です」
「だったら、あなたの家長は、まだ十代でしたよね」
「はい」
「抵抗はなかったんですか」
「ありました。でも、今は年齢など意識したこともありません」
「ほんと。化物だ」


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海の果て 第2部の 4( 完 ) [海の果て]


40

四月五日に、二人は左京区役所に行って婚姻届を提出した。亜紀は大きな試練が始まった緊張感で、口数がいつもより少なかった。
荷物はまとめてあり、畑中さんという人が相馬保育園に取りに行ってくれている。白石の自宅は北白川にあるが、初めてで地理はわからなかった。いたるところにお寺があって、白壁は珍しくないが、古い門を入り、木立を抜けると、平屋の日本家屋があった。何台も停められる駐車場が右手にあり、白石はそこに車を停めた。
「我が家へようこそ」
「はい」
玉砂利の道が玄関へと続いている。開け放たれた玄関の横に三人の男女が待っていた。
「いらっしゃいませ」
亜紀は立ち止って、三人に頭を下げた。白石は使用人という言い方はせずに、家事を助けてくれている人だと言っていた。
「荷物は」
「はい。お部屋に」
「ありがとうございます」
玄関の上り口は、十人でも並んで座れるほどの広さがあった。
「上がって」
白石に続いて、亜紀も家に入った。古くて広い廊下を進み、左へ曲がると、新しい廊下が続いていた。何畳あるのかわからなかったが、広い部屋に入った。部屋の向こうには、広大な庭が広がっていた。
「わあ」
亜紀はその景色に見とれていた。生まれて初めて見る景色だったが、これが本物のお屋敷なんだと思った。白石は別世界の人で、驚くことばかりだったが、少しは慣れている自分がいた。
白石に呼ばれて、亜紀は白石の隣に座った。
「紹介します。今日から我が家の一員になってくれた、亜紀さんです」
「亜紀です」
亜紀は軽く頭を下げた。自分の妻になった女を紹介するのに、さんづけは変だと思ったが、口には出さなかった。
「今西さん、料理をすべてお願いしてます」
「今西どす」
年齢は五十は超えていると思われる、いかにも頑固そうな人だった。
「今西さんの奥さんで、家事全般をお願いしています」
「今西の家内どす」
体つきはご主人の今西さんの倍ほどありそうな女性で、笑顔がとても可愛い人だった。
「畑中さん。庭の世話と、その他もろもろ、何でもこなしてくれるありがたい人です」
「よろしゅうに」
背の高い男前で、年齢は多分今西さんより上、六十を超えているのかもしれない。
「よろしくお願いします」
「皆さんには、長い間お世話になってます。僕にとってはもう家族です。亜紀さんに参加してもらって、力を合わせて白石を守っていきたいと願ってます。亜紀さんは、まだ自分の才能に気がついてませんが、大きな力になってくれます。是非、よろしくお願いします。亜紀さんも、何か言ってください」
亜紀は少し緊張した。
「私は、ご覧のとおり、まだ子供です。何もわかっていません。皆さんに教えてもらいながら、少しづつ前に進めればと思っています。正直なところ、私は貧乏人で、父親の名前も知らない私生児です。常識に欠ける部分も多々あります。本来であれば、ここに来るような人間とは思えません。大半は私が折れる必要があると覚悟しています。でも、自分が自分でなくなるほどには譲歩できないこともあると思っています。その時は、どうか許してください。ごめんなさい」
「自分のことを卑下するのは、今日で終わりにしてください。皆もそんなこと気にしてませんから」
「よろしいでしょうか」
今西が発言した。
「はい」
「奥様には、食べ物の好き嫌いはございますか」
「好き嫌いはありません。でも、その奥様というの、勘弁してください。十年たったら、そう呼んでいただくということで、亜紀と呼んでいただけませんか」
「亜紀さま、ですか」
「いえ。亜紀さんでお願いしたいんですが、いいでしょうか」
「はい」
今西が白石にお伺いをたてるような目つきをした。
「じゃあ、この十年間は、この家の中に限って、亜紀さんでいきましょう」
「あの」
「・・・」
「私、白石さんのこと、家長と呼びます。家長は私のことを、亜紀と呼び捨てにしてください。変ですか」
「仕事みたいだな」
「仕事ですよね」
「じゃあ、人前では家長と呼んでください」
食事の時間や洗濯物から風呂にいたるまで細かい話が出たが、次第に打ち解けた話になり、部屋の中は笑いで包まれた。これが、白石の人柄なのだろう。和やかな雰囲気でありながら、白石に対する尊敬は揺るがない。亜紀と母親との間に信頼関係はなく、いつも冷たい戦争状態だった。だが、白石の家には信頼関係がある。信頼がお金で買えるのだろうかと言う疑問が、一瞬だけ亜紀の脳裏をかすめた。
「案内してあげてください」
白石が今西久子に言った。久子にうながされて、亜紀は立ち上がった。大きな台所は清潔な感じで、食堂と居間は和式ではなかった。用途不明の板の間を通って、寝室と夫婦それぞれの個室に行った。落ち付いた和式の部屋で、亜紀の部屋は家具が並んでいても狭く感じなかった。箪笥を一つづつ開けて、中に入っている物の説明を受けた。和服、洋服、下着、部屋着等、驚くほどの量だった。京都システムの独身寮に置いてあった服やバッグもあったが、見たことのない物が大半で、和服は初めてだった。
「どこに、何が入ってるんか、わからしまへんやろ。いつでも、聞いておくれやす」
相馬保育園から運んでもらった荷物は部屋の隅に小さくまとめられていた。
寝室の障子を開けると、別の建物が見えた。
「向こうは使いません」
「・・・」
「今までは、向こうが母屋どした。旦那さんは亜紀さんのためにここを建て増ししはったんどす」
「新しくですか」
「へぇ」
次は広々とした浴室と、びっくりするほど広い便所だった。再び、食堂を通って台所の横を抜けると、ドアがあり、ドアを開けると廊下が続いていた。
「この先が、畑中はんとうちの住まいになってます」
廊下は渡り廊下になっていて、建物が二つあった。
「入口は別々になってて、うちらは表門使わしまへん。あとで表門の開け閉めをご説明します」
「広いですね。どの位の広さなんですか」
「うちには、わからしまへん。このへん一帯は白石の土地で、なんぼあるものか」
なにもかも大規模で、目の回る思いだった。
客間に戻ると、白石が一人で待っていた。
「僕が、庭を案内します」
「ほな、表門もお願いして、よろしおすか」
「わかりました」
庭を一回りして、二人は居間に戻ってきた。
「緊張してる」
「もう、目が回るほど」
「すぐに、慣れるよ」
「ええ」
「さっき、僕のこと家長と呼ぶと言われたけど、二人の時は勘弁してもらえないか」
「どう、呼ぶんですか」
「もとむ」
「はい」
「お昼を食べたら、石井の叔父のところへ二人で行きましょう。これからも、いろいろお世話になるから」
「はい」
「スケジュール、勝手に決めて悪いけど、しばらくは、いい」
「お願いします。全く勝手がわかりませんから」
「明日から一週間、冠婚葬祭の練習にしましょう。その後、白石の総会に出てから、白石不動産に出勤してください」
「はい。練習って」
「今までに、結婚式やお葬式に出席したことは」
「ありません」
「家長の立場にいると、冠婚葬祭は欠かせません。どこでも一緒と言うわけにはいかないので、経験がないと、その場で途方に暮れてしまいます。喪服の練習もしないと。久子さんが教えてくれます」
「はい」


41

昼食は天麩羅蕎麦だった。簡単なものだが、蕎麦のイメージを一新する美味しさだった。
「おいしい」
心配そうに見ていた今西が安堵の溜息をもらした。
「みなさんは」
「後でいただきます」
慣れなければいけないことが、山のようにある。自分の下着も洗濯できないお姫様のような生活に慣れることも、仕事の一部と理解しなければならない。どこにでも、苦労はころがっていた。
食事を終えて、二人は石井法律事務所を訪れた。
「いらっしゃいませ」
受付にいた広田の目が大きくなった。
「広田さん。うちの亜紀です。よろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
亜紀は、笑顔を見せて、小さく頭を下げた。誰に対しても、深々と頭を下げてはいけない、と言われている。口数も少なくていいらしい。二人は三階の部屋に案内された。
「おう。これは、これは」
「今朝、届を出して来ました。妻の亜紀です」
「おう」
「石井徹さん。僕の親父の弟さんで、白石の法律関係全てを見てくださってる」
「亜紀です。よろしくお願いいたします」
「石井です。求ちゃんの目は確かだな。素晴らしい」
年齢はもう七十を過ぎているのかもしれないが、温厚で知的な様子は、将来の白石の姿を予測させた。
「十五日の欠席はない」
「そうですか」
「後継指名をするつもりかね」
「はい。披露宴じゃありませんので」
「結婚のことは、連絡しておいたから、披露宴のつもりでくる人もいるだろうな」
「でしょうね」
「亜紀さん」
「はい」
「大変な役回りをお願いして、驚いてますか」
「はい」
「今までも、求君に苦労を押しつけて。一族の者は気楽にやらせてもらってます。まだ、だいぶ先のことだけど、亜紀さんにもご苦労かけることになります。よろしく、お願いします」
亜紀は、笑顔だけで返事を返した。胸を叩いて、「はい」とは言えない。亜紀には、まだ何も見えていなかった。
徹叔父が白石の子供の頃の話をいろいろと聞かせてくれ、楽しい気持ちで石井法律事務所を後にした。
夕食は給仕役の久子が見るなかで、純粋な日本料理と思える食事だった。これが、懐石料理というものかもしれない。
食事も作らない、食べても後片付けをしない。それが、なにか落ち着かない。居間に移っても、お客さまの気分だった。
「疲れた」
「いえ。大丈夫です」
「テレビ見る」
「いいえ」
「そうか。僕もほとんど見ない。ニユースもネットで見てしまうから、見なくなった。亜紀は、そこのパソコン使ってくれていいよ。僕の部屋にもあるから」
「はい」
居間の片隅にある机の上にパソコンが一台置かれているのが見えた。
居間から白石が出て行き、紙袋を持って戻ってきて、書類と形の違う小さめの箱を何個か取り出した。
「これが、パスワードの一覧。本やCDはほとんどネットで買っている。亜紀も自由に使ったらいい。他は、まだ必要はないと思うけど」
「はい」
「それと、これは結婚指輪」
「はい。どうすれば」
「してもいいし、しなくてもいい。ただ、冠婚葬祭の時は久子さんに聞いて適当なものをしてもらわなくちゃいけないが、普段は亜紀の好きにしたらいい。僕は気にならない方だから」
「普通の人は、してますよね」
「ん」
一つの箱には、シルバーのリング、別の箱に石の乗った指輪が入っていた。たぶん、ダイヤなのだろう。
「これを、つけます」
「そう。貸してごらん」
白石がシルバーのリングを亜紀の薬指につけてくれた。サイズは合っていた。
「サイズは緒方さんに聞いておいたから。それと、亜紀の部屋の服だけど、最小限のものを緒方さんにお願いして揃えてもらった。和服の方は久子さんが選んでくれた。制服みたいなものです。普段は好きなものを着ていればいい」
「はい」
「名前が変わって、手続きに時間がかかるだろうから、当面の必要経費は、これで」
真新しい財布を渡された。
「銀行口座やカードは、追々作るから」
「はい」
「日用品で必要なものは、久子さんに言っておけば揃えてくれる」
「はい」
亜紀は、あらゆることを無条件で飲みこむつもりだった。園長も覚悟だと言っていたが、他に方法はないと亜紀も思っていた。
京都システムで仕事はしていたが、個人的にネットを利用していた訳ではないので、ネットに関する知識は相馬保育園にパソコンを導入した時の知識しかなかった。
白石に教えてもらいながら、ネット上の本屋をアクセスし、試し買いとして、京都の地図を二冊購入して決済した。
「なにか、飲もうか」
「えっ」
「二十歳前だけど、もういいだろう」
「お酒ですか」
「飲んだことは」
「一度も」
「じゃあ、ビールにしよう」
亜紀は白石の後から、食堂に行った。きれいに片付いていて、台所からも音は聞こえない。今西夫妻は引き揚げたようだ。
「にがいです」
「慣れると、この苦味が美味しさになる」
「そうなんですか」
今日という日の密度の濃さに酔う思いがした。負けるつもりはない。自立してみせる。今日まで生きてきたのは、自立のためだった。自分自身に負けていたのでは、この先の自立はない。ビールの苦味など些細なことだった。
ビールを飲みながら、徹叔父に聞いた白石の子供の頃の話を、本人の口から聞いた。叔父の記憶違いだと強がっている白石が、可愛かった。二人でビールを二本空けたが、亜紀も酔ってはいなかった。
「今日は疲れたな。風呂に入って寝よう」
「はい」
「じゃあ」
白石は食堂を出て行った。亜紀はビールとグラスを台所へ運び、グラスを洗った。しかし、そのまま洗い場に置きなおした。久子の立場を犯してはいけないと思った。
居間に戻って、パソコンに向かった。京都システムでパソコンに親しんでからは、パソコンの前にいると落ち着くような気がする。
「亜紀も入りなさい」
「はい」
「お湯の調節はわかるかな」
「はい。久子さんに聞きました」
亜紀はパソコンの電源を切って、風呂場に行った。脱衣場にある籠に亜紀の着替えとパジャマが用意されていた。いつかは、自分のことは自分でする生活にしようと思った。
風呂場は広すぎて、すこし落ち着かないが、いつか慣れるだろうと気軽に考えるようにした。風呂場の広さはいいとして、あの便所の広さには慣れる自信が持てなかった。草原で用を足しているような不安を感じる。いろいろなことが、自分の身の丈にあっていないことばかりなので、あきれてしまい。突き抜けてしまっている自分に笑ってしまう。余裕が大きくなってきている自分を意識した。捨て身の強さなのだろうか。
後始末をして、風呂場を後にした。食堂にも、居間にも白石の姿はなく、亜紀は明かりを消して、自分の部屋に入った。髪の毛を短くして、風呂上がりが楽になった。バスタオルさえあれば乾いてしまう。化粧はしたこともなく、クリームさえ塗ったこともない。
寝室に入ったが、そこにも白石の姿はなかった。二人分の寝具があり、男性用と女性用の区別はすぐにわかった。亜紀は自分の布団の横に座って白石を待った。頭の中を空にすれば、腹にある覚悟だけが働くことになる。それでいい。
白石が部屋に入ってきて、布団の上に座った。
「今日は寝よう」
「えっ」
「無理するつもりはない。亜紀が慣れてからでいい。今日はこのまま寝よう」
「いえ。私なら大丈夫です」
「・・・」
「大丈夫ですよ」
「じゃあ、一緒に。おいで」
「はい」


42

総会は十一時から始まる。求は会場になる自分の事務室にいた。徹叔父から席順の説明を受けたが、円卓会議だから、気にすることもないだろう。出席者の中に異論を唱えるような人間はいない。人間が五十人近く集まって、一人もへそ曲がりがいないことを喜んでいいものかどうか。徹叔父と苦笑いをした。議事進行は、いつものように徹叔父の役目であり、今日の主役の亜紀に対しても、何の不安も持っていない。四月五日に籍を入れてから十日過ぎたが、亜紀は一回りも二回り大きくなった。改めて、女の強さを実感させられる。時々、年齢差さえ感じなくなる時がある。
事務室のドアは全開になっており、ホテルの社員に案内されて参加者が集まり始めた。求と徹叔父の方へ挨拶をして、各人が自分の名札のある席についていき、人が増えるに従って、挨拶をし合う人たちで会場は騒がしくなった。
五分前に会場に来るように伝えておいた亜紀が部屋に入ってきた。自分で選んだ、グレーの地味なスーツを着ていたが、事務室の中は一瞬で華やかになった。出席している人たちはほとんど男で、年配の者が多い。一羽の鶴が舞い降りたようなものだった。
「皆さん。席についてください」
徹叔父の呼びかけに、参加者が自分の席に戻りはじめ、次第に喧噪は収まった。求と徹叔父も席についた。
「これから、総会を始めます。欠席者はありません。前回の総会から十五年が経ち、世の中も変わりましたが、皆さんのご努力により支障なく総会が開けたことを、祝いたいと思います。本日は、家長の白石求から、家長の後継についての話があります。ご静聴ください」
徹叔父に促されて、求が立ち上がった。
「お忙しい中、集まっていただき、ありがとうございます。白石グループも順風満帆とは言えません。この十五年間に三人の方が廃業されました。後継者難は、我々共通の悩みです。この五年間、私も白石の解散を視野に入れてやってきました。白石本家の後継は、なぜか、いつも綱渡りのようです。私の代で終わる予感さえしていました。ですが、偶然、ここにいる亜紀に出会って、将来に希望がもてるようになりました。私は、まだ十五年はこの責務を果たすつもりですが、時期をみて、白石亜紀に家長の責務を渡したいと思っています。皆さんにご心配かけずにすむことを、私が一番喜んでおります。是非、皆さんのご協力をお願いいたします」
拍手が静まるのを待って、亜紀が立ち上がった。あわてる風もなく、会場の出席者に目をやって話し始めた。
「初めまして、白石亜紀と申します。家長から、責務を継ぐように言われておりますが、胸を叩いて引き受けている訳ではありません。少なくとも、十年は猶予期間をください、とお願いしています。私はまだ十八で、皆さんの子供か孫のような年齢です。このことは、わかっていただけているものと思っています。今は全力で家長を支えることが、私の役割だと思います。皆さまには、子供か孫のように、亜紀ちゃんと呼んで、可愛がって頂ければ、この上ない喜びです。どうか、よろしくお願いいたします」
柔らかな声でゆっくりと話す様子は、年配者には好感を持たれるだろう。そして、直接接触するようになれば、亜紀のファンが増えていくことだろうと思われた。暖かい拍手に、笑顔で答えている亜紀は堂々としているようにも見えた。
「亜紀ちゃんの成長を見守るということで、ご協力をお願いします。さて、今日は初顔合わせですから、お一人づつ自己紹介をして、亜紀ちゃんに覚えてもらいましょう。よろしいでしょうか」
徹叔父が議事進行していく。
「では、私から、自己紹介を始めましょう」
亜紀が身を寄せてきて、「中に入ってもいいですか」と聞いてきた。求は、亜紀が何をしたいのかわからずに、聞きなおした。
「自己紹介は私のためですよね。正面で聞きたいです」
亜紀が手で真ん中の空間を指して言った。
「わかった」
求は徹叔父に伝えた。求と徹叔父が机を動かして、亜紀のために通路を作った。亜紀は適度な距離を置いて、徹叔父の前に立った。
「ええ、私は石井徹と言いまして、家長の叔父にあたります」
徹叔父が自己紹介を始めた。最初の人が簡単な自己紹介をしてしまうと、後からの人も簡単に終わらせてしまう。そのことを承知している徹叔父は、詳しく自己紹介をしている。いつもながら、徹叔父の気配りには頭が下がるおもいだった。
順番に自己紹介するだけだと、座が白けるところだが、亜紀が正面に立つことだけで緊張感が生まれ、有意義な総会になっていった。中には握手を求める人もいて、連帯感も生まれている。亜紀は人付合いが苦手だと言っていたが、人を惹きつける力は求よりも強いものを持っているようだ。求は、毎日のように新しい亜紀を発見している。自分の予測をはるかに超えた逸材なのかもしれない。
「求ちゃん。あの子、頼もしいね」
徹叔父が小声でささやいた。


43

総会が終わり、記念品を手に引き揚げて行く人たちの流れは、自然と亜紀の前を通り、親しげな挨拶をしていく。亜紀は、名前と顔と仕事、それに白石との関係を一人一人頭に叩き込んだ。さっと終わってしまえば、次に会った時にも、初対面になるだろう。街で偶然出会っても挨拶ができるようにと願っていた。
「須藤さん」
「沢井さん、じゃなくて、亜紀ちゃん。立派だったよ。京都システムは頑張るからね」
「ありがとうございます。勝手してすみません」
「いやいや。悪いのは白石さんだから」
「あら、聞こえますよ」
「いいんですよ。でも、もう戻ってこないんだろうな」
「すみません」
「でも、たまには、顔出してくださいよ」
「はい。行きます」
出席者はホテル内の食券を持っていて、好みの食事をして引き上げてもらうことになっていた。
会場に残ったのは、白石と徹叔父、そして亜紀の三人だけだった
「亜紀さん。素晴らしい演出だった」
徹叔父が、亜紀の顔をまじまじと見つめて言った。亜紀は演出をしたつもりはない。その場で最善と思われることをするだけで、精一杯であり、計算は全くなかった。
総会の翌日から、白川不動産の研修が始まった。堀川の事務所は本社機能が主で、店頭営業は市内にある十二の店舗がやっている。管理している賃貸物件の数は京都で最大の規模だが、新しい団地を造成するような大型の開発はしていない。地味な経営は何代も維持されていた。
「とりあえず、これを見ておいてください」
専務の内藤が、CDを亜紀に渡した。
本社の二階にある営業の部屋は、二十人ほどの社員が静かに仕事をしている。簡単な紹介が終わり、部屋の隅に用意された机に座った亜紀はパソコンにCDをセットした。
物件名、住所、建物の種類などが一覧になっている。記号や数字は説明を聞かないとわからないのだろう。このデータベースでなにができるのか、しばらくいろいろなことを試してみたり、別のソフトを立ち上げたりして、CDの内容を調べてみた。メインのデータベースと物件のコード番号らしきものが記入された地図がCDの内容のようだ。亜紀は使用されている文字を憶えることに専念した。
昼休みになり、亜紀は内藤に誘われて近くのうどん屋に食べに行った。味も値段も店内も普通のうどん屋だった。
「亜紀ちゃん、と呼ばしてもらうわな」
「はい」
「昨日の亜紀ちゃんは、ほんま、かっこよかった」
「ありがとうございます」
「家長が認めたお人や。ただのべっぴんはんと、ちごたな。わしも、教え甲斐があるいうもんや」
「よろしく、お願いします」
「CD見てもろた」
「はい」
「この商売は、記憶と直感、そして暗算がすべてや。昼からは、わしの講義とあのCDの説明。あとは、亜紀ちゃん次第や」
「はい」
「車はまだ」
「はい。月末になるそうです」
「そうか。ほな、最初は近場やな」
「はい」
午後は三階の会議室で、内藤の講義が始まった。
「ええ、それでは、講義を始めます」
内藤は少し緊張しているようにみえた。京都に来てから、男は単純で可愛らしい動物のようだと感じている。内藤老人の頭をなでなでしてあげたい気分だった。
「白石の商売は、世間からも言われとるが、みみっちい商売に徹しとる。ずっと、それでやってきた。商売の基本は、安く仕入れて高く売る。この一言に尽きる。ここでは、不動産の売買をやり、店では賃貸物件の管理と営業をする。これが、うちのやりかたや。売り買いでは、うちの言い値で買い、うちの言い値で売る。値段が合わん時は見送るだけ。深追いはしまへん。土地開発をして建売住宅を売るような商売もしまへん。儲けは薄いが、損はしまへんわな。亜紀ちゃんはバブル言うても、知らんやろな」
「聞いたことはあります」
「うちはな、何十年とかけて買いためてきた物件を、あのバブルの時に売りまくりましたんや。うちの言い値で売れたからやけど、家長が、売れ、言うたんです。あん時売った物件の大半は、売値の半分で買い戻しました。白石にしたら、未曾有の大儲けですわ。わしも、ちっとは心配やった。手持ちの物件が、ほんま、底つくんと違うかおもた。あとになって、なんで、売れ、言うたんか聞きましたんや。家長、どない答えた思います」
「さあ」
「直感やて。ほんま、無茶しはる。あれがバブルで、いつか弾けるおもた、言うんやったら、かっこええのに、ただの直感やったんです。そやけど、腹据わっとることだけは、確かや。さすがや」
内藤も息子ほどの白石を尊敬し、自分の親分だと思っているのだ。
「今は、あのバブルの時のような商売はできへん。みみっちく儲けることや。最初に、記憶と直感と暗算、言いました。もう一つ大事なことがあります。それが現場です。刑事は現場百回言いますやろ。不動産屋も現場百回ですわ。あのCDを頭に叩きこんで、現場百回、これで怖いものなしや」
内藤の話は、際限なく続いた。


44

求は白石不動産の自分の部屋で調べ物をしていた。亜紀の研修は半年で終わり、今はホテルの研修に行っている。不動産に関しては専務の内藤が太鼓判を押してくれた。社員も亜紀の力量を認めていて、既に次期家長としての立場を確立したと言っていいだろう。才能を開花させていく若者を見るのは気持ちがいいものだ。亜紀なら、家長としてやっていけるという確信を持たせてくれた。
内藤が部屋に入ってきた。
「家長。変な噂を聞いてます」
「どんな」
「工藤はんとこが、危ないんと違うかいう」
「そんな話があるんですか」
「その物件も、そうですけど、よそでも出とるそうですわ」
内藤は求が見ている資料を指さして言った。
「ゴルフ場ですかね」
「それに、精華町の物件も」
工藤開発は、夏に先代が亡くなり息子の工藤高広が後を継いだ。ゴルフ場の開発は高広が専務の時に親父の反対を押し切って始めたものだ。共同開発をしていた中国系の会社が、勝手に手を引き、本国に帰ってしまった。どうして、この時期にゴルフ場なのか、誰もが不思議に思っていた。工藤高広はアマチュアとしてはトップクラスのゴルファーだったが、そのことと商売は別の次元のはずで、そんなことは本人もわかっているだろう。工藤開発は京都の不動産業では飛びぬけて規模の大きな会社だから、共同出資をしていた会社がいなくなったとしても誰一人心配する者はいなかった。だが、商売をしている者なら誰もが経験することだが、不運は束になってやってくることがある。
「でもね」
「わしも、そうおもてますが、気になりますわ」
「銀行回りをしてみますか。亜紀を紹介しとく必要もありますからね」
「そうしてもらうと、ありがたい。でないと、手つけられまへん」
どの銀行も白石グループに対しては、最低利率を適用してくれている。借入金と同額以上の預金残高があり、抵当に入っている物件も、ごく僅かしかない。銀行にとっては全くリスクのない顧客ということになるので、付き合いも五分の付き合いだった。資金を貸してもらっていると言うより、借りてあげていると言う言い方が実情に合っている。
都銀も地銀も、ほぼ全ての金融機関と付き合いがあるので、内藤が取ってくれたアポは八件、二日がかりで回ることになった。
工藤開発のメインバンクの三友銀行烏丸支店が最初の訪問先だった。
「ご無沙汰です」
「なかなか白石さんには会えません。私は、ちょくちょくお邪魔してるんですよ」
「いつも、失礼ばかりで」
「白石さんの、わざわざのお出まし、何かうちに不手際がありましたか」
「いや。そういうことじゃありません。今日は家内を紹介しておこうと思いまして」
「そうですか。次期家長になられると聞きました」
「さすがですね」
「内藤専務にも、奥様を紹介して欲しいとお願いしてたんですよ」
「家内の亜紀です」
「支店長の前橋といいます。いつもお世話になっております。お会いできて光栄です」
「白石亜紀です。よろしくお願いいたします」
「すみません。商売と関係ありませんが、噂に違わず、ほんとにおきれいですね」
「ありがとうございます」
「そんな噂があるんですか」
「ありますとも。私もお目にかかって納得しました」
しばらく前橋支店長の話に付き合った。
「ところで、支店長。工藤さんに、なにかありました」
「えっ」
「工藤開発ですよ」
「と、言いますと」
「資金繰りに困っている、という話ですが」
「まさか」
「お話、いただけませんか」
「あの」
「当然、我々にも、大きな影響があります」
「私の口からは」
「やはり、そうですか」
「一寸、待ってください」
白石がポケットから出したものを机の上に置いた。支店長がその小切手と出金伝票を見比べた。
「あと、どのぐらい、ですか。一か月、それとも五か月。言わなくても結構です。指で」
「白石さん。ひどいじゃないですか。これは」
「申し訳ありません。うちも必死で」
支店長は机の上の小切手を手にして、指を三本立てた。
「ありがとうございます」
二人は三友銀行を出た。
「うちにも、そんなに影響があるんですか」
「いや。大したことないでしょう。ああ言わないと、支店長は答えてくれない」
「まあ」
「工藤開発から出たと思われる物件は、しばらく買いません。どんなひも付きかわからない。いつかは、買うことになるでしょうがね」
「わかりました」


45

白石と銀行回りをしたが、三友銀行以外では工藤開発に関して、それらしい反応はなかった。メインバンクが一番に裏切り行為をしたことになる。
「たぶん、三友銀行は必死に回収に回ってるだろう。工藤開発が倒れたら、京都の不動産業では、うちが最大手になる。うちの出金伝票を受け取るわけにはいかない、と支店長は判断した。会社が死にかけると、寄ってたかってその病人の足を引っ張る。そんなことになってはいけない、ということなんだ」
「はい」
内藤専務が、みみっちく儲けると言っていた意味が現実として実感できた。
「工藤開発にも、多くの関連企業がある。その人たちも巻き添えになり、大勢の人が泣きを見ることになる」
「はい」
二日間の銀行回りで、亜紀は多くのことを学んだ。毎日毎日、学ぶことが山ほどあるが、決して苦痛ではなかった。白石の大きな愛情で包まれていて、亜紀は自分のことに専念できる。愛情を信じることができるということが、これほどの大きな力になることを知ったのはごく最近だった。先月、生理がないことに気づいて久子に相談した。病院に行って、妊娠を告げられてからは、特に白石の愛情を感じている。自分が親になるという実感はまだないが、白石の子供ができることは、素直に喜べた。
月に一回の相馬保育園へのケーキの差し入れは亜紀の担当になり、ケーキのお姉さんが誕生した。東京の片山から預かった闇の寄付金も亜紀が担当していて、いろいろな施設に匿名の寄付金として渡している。その詳細を記録につけているが、片山はその報告を拒否しているので、現金の残高も支出先も一人で管理しなくてはならない。そのことは、少しだけ重荷に感じていた。
京都の地理にも、車の運転にも慣れた。京都システムに寄って、須藤や久保田とも会いたいが、仕事の邪魔をするようで遠慮している。亜紀は保育園の駐車場に車を入れた。相馬保育園を出てから八か月しか経っていないが、自分の中では遠い過去になっていて、それだけ懐かしさも強く感じていた。白石が、子供たちの笑顔が何より嬉しいと言っていたことがよくわかる。ケーキに群れてくる子供たちの笑顔は亜紀にとっても、大きな励みになっていた。
特大のケーキの箱を二つ持って、保育園の石段を登る。玄関付近で遊んでいた子供が、大声で叫んで走り去った。
食堂には、もう大勢の子供の歓声が満ちていた。佳奈ちゃんが亜紀にまとわりついてくる。明るくて元気な小学生になっていた。調理師の太田がいつもの笑顔で迎えてくれ、園長も食堂に姿を見せた。
「亜紀さん、ありがとう」
「変わりはないですか」
「皆、元気」
「野口さんは」
「頑張ってるようよ」
野口香織は、高校を卒業して看護学校に行っている。休みの日には保育園に来てくれていた。
「今は、ホテルの研修だって」
「はい」
「どう」
「毎日が勉強で。でも楽しいです」
「よかった」
「先生。談話室、いいですか」
「ええ。いいわよ」
相馬保育園の談話室は、いつも亜紀にとって重要な場所になってきた。
「まだ、誰にも知らせないでおいて欲しいのですが、私、子供ができました。もうすぐ、四か月です」
「亜紀さん」
園長の目が大きく見開かれて、大粒の涙が溢れ出してきた。机を伝うようにして近づいてきた園長が、立ち上がった亜紀の体を抱きしめた。亜紀も園長の体に腕をまわした。よかった、よかったと言って泣きじゃくる。園長が泣きやむまで、しばらく時間がかかった。
「ごめんなさいね。私、うれしくて」
隣の椅子に座った園長が、亜紀の背中に手を置いて言った。
「短い期間だったけど、あなたもここの卒業生。私にとっては、あなたたちは、みんな私の子供なの。一番の心配は、結婚して家族が作れるかということ。それを亜紀さんが、見事にやりとげてくれたの。こんな嬉しいことはないわ」
「はい」
「でも、最近、求さんと電話で話したけど、何も言ってなかったわよ」
「私から、報告した方がいいだろうって」
「求さんらしい。で、亜紀さんは、どうなの」
「まだ、実感ありませんが、求さんが喜んでくれてますから、私も嬉しいです」
「そうなの」


46

工藤高明から電話があった。堀川の事務所に来ると言う。求も工藤開発の本社へ行ったことはないが、工藤が白石不動産に来た記憶もない。かなり、切羽詰まっているということなのか。
硬い表情であらわれた工藤は、工藤です、と一言だけ言って三階の会議室に案内された。
「どうした」
「もう少し、ましな、ビル建てろよ」
「そうか」
「今日は、お前に一肌脱いでもらう」
「ん」
「一寸、急ぎの資金が必要になった。これを売るのはもったいないんだがな。ま、お前が持っててくれたら、まさか転売はしないと思ってな」
工藤がカバンから一枚の紙を取り出した。
「ほう」
「一等地だろ。希望価格はそこに書いてあるが、交渉には応じてもいい」
「これは、大変な金額だな」
「東京や大阪には売りたくない。京都でこれが買えるのは、お前のとこぐらいだ。すぐに買い戻す。勿論、金利分は払う」
「難題だな、これは」
「どうして」
「うちの商売は、工藤も知ってるだろう」
「なんだ、それ」
「言い値で買って、言い値で売る。それが、うちのやりかただ」
「だから、交渉には応じると言ってる」
「だったら、この金額の半値だな」
「半値だと」
「本当は、半値以下のとこもあるが、お前の頼みだからな。それに、抵当権はきれいにしておいてくれよ」
「待てよ。この値段で引き取るとこはあるんだぞ」
「じゃあ、そうしろ。うちは無理な商売はしない」
「見損なったぞ。わざわざ、俺が頼みにきたんだぞ」
「そうなのか」
「俺が土下座すればいいのか」
「いや。土下座でも、地面にもぐっても、同じだよ。商売のやり方は変えられん」
「お前に儲けさせてやろうと思ったんだ。普通じゃ、こんな値段では売れない」
「ほう。じゃあ、今は普通じゃないってことか」
「そんなこと、言ってない。うじうじした商売やってるから、ここから抜け出せないんだろ。目を覚ませ。儲け話なんだ」
「半値なら、儲け話になるかもしれん。それでいいか」
「馬鹿なことを。こんだけの物を、この半値で売る奴がいるか」
「じゃあ。この話は無しだ」
「・・・・」
「悪く思うなよ。これが代々伝わってる白石のやり方だから」
「後悔するぞ」
「仕方ないな」
工藤は席を蹴って出て行った。
入れ替わりに専務の内藤が入ってきた。
「本物ですな」
「らしいですね」
「工藤が倒れると、後始末がえらいことや」
「うちは、最後の最後に残ったおこぼれでいいですよ」
「もちろんですわ。ところで、向こうが半値でええ、言うたら、どないしましたんや」
「言わないでしょう。かなり、思い切った値段でしたからね。半値だと、どぶに捨てるようなものです」
「実は、心配してましたんや。わしが、工藤はんの立場なら、自分だけ泥かぶって、吸収合併してくれ、言うやろな、おもてましたんや。仕入先や工事業者は、無傷とは言えまへんが、それでも、助かります」
「そんな度胸はないでしょう」


47

密度の濃い研修の一日が終わり、居間で白石と静かな時間を持つことが明日のエネルギーを作りだしてくれる。妊娠していることがわかってからはビールを飲んでいないが、夏にビールの美味しさを発見してからは、大きな楽しみだったのに残念でしかたない。出産後には思いっきり飲むぞと決めていた。
十二月に入ると、工藤開発の噂はいろいろなところで出始めていて、建設会社や資材屋が白石不動産に新規取引の交渉に来るようになって困っていると白石が言っていた。
「ほんとに、危ないんですね」
「必死になってるだろう。あいつは気が小さいくせに、強がる。子供の頃から、そうだった。今頃は東京や大阪を走り回ってると思う。うまくいけば、いいと思うが、かなり難しいだろう」
「内藤さんが心配してた、吸収合併の話がきたら、どうします」
「今更だけど、最初にそう言われてたら、困っただろうと思う。僕は白石を守らなくてはならない。たぶん、断っただろう」
「私も、忘れないようにします」
「頼むよ。亜紀と会うまでは、白石グループの解散も考えてた、と言ったよね」
「はい」
「倒産と解散は雲泥の差なんだよ。倒産はその会社だけでなく、関連する会社も大きな被害を受ける。僕が言っていた解散は、それぞれの会社を独立させるか、売却して、関連会社にはその配当金を渡すことができる。解散の後は自己責任で会社を維持していかなくてはいけないから大変だと思うが、倒産に比べれば天国みたいなものだ。もっとも、白石グループを存続させた方が誰もが安心するけどね」
「クループ内で、倒産の可能性が出た時はどうするんです」
「助けますよ。無条件とはいかないけど、基本的には倒産はさせない。廃業はさせるけど、倒産はさせない。白石の家系なのか、無茶する人はいない。みみっちく儲ける人ばかり。その代り、白石の家長の後継ぎを買って出てくれる人もいない。なかなか、うまくはいかないってことだ。この前の総会でも、誰も反対しない。みんな、よかったと胸を撫で下ろしていただろう。算盤勘定はしっかりしてる。グループのバックアップがあれば、銀行は喜んで貸してくれる。しかも低金利だから、誰もが白石の存続を願っている。困っている時ほどお金が必要になるけど、銀行は困っている会社には貸したがらない。困っていない会社になら、いくらでも貸す。これも、現実なんだ」
「銀行って、ずるいですよね」
「銀行だけじゃない。どこの会社でも、ずるいんです。自分の身を守るためには何でもやるんです。どこも、そうやって生き延びているんだよ」
「最近、そのことを知りました。そう思うと、腹が立たないことも発見しました。でも、歳とったみたいで、少し抵抗はあるんですよ」
「気にすることない。誰でもそうなる」
「ですね。お風呂に入りましょう」
「えっ」
「一緒に。背中流しますから」
「ん」
妊娠を告げてからは、白石は亜紀を避けているように思う。流産の心配をしているらしいが、産婦人科の先生は心配ないと言ってくれている。妊娠してからの方が、白石に抱かれたいと願っていた。もっともっと抱いて、と言いたいのを我慢している。今晩は絶対に逃がさないぞと宣言するために、亜紀から風呂に入ろうと言った。


48

フロントに立ちお客様の受付をすることが、現在の研修項目だったが仕事は多岐にわたり、宿泊客の受付をしていればいいというわけにはいかない。お客様の質問、要望、クレーム、あらゆることがフロントに立つ担当者に持ち込まれる。応用力が要求される職場で、先輩たちの仕事さばきに目をみはる思いだった。
三時を過ぎ、チェックインのお客様が増える時間になった。事務方の社員が、亜紀に電話だと伝えにきた。携帯電話以外の電話は受けたことがないので、不審な顔をしたようだ。「警察からです」と小声で言われた。亜紀はフロントの裏側にある事務室に行き、電話をとった。
「はい。白石ですが」
「こちらは、東山警察署です。白石求さんの奥さんですか」
「はい。そうです」
「先ほど、交通事故でご主人が病院に搬送されましたのでご連絡いたします。病院は東山通りにある西川病院ですが、場所わかりますか」
「はい。どんな」
「搬送された時は、意識不明でした。今は病院で処置中だと思いますが、急いで行かれた方がいいでしょう。病院の場所、わかりますか」
「はい」
亜紀は受話器を持ったままで立ちつくした。何が起きたのかはわかっている。でも、体はその場に固まったままだ。心配そうに横に立っていた社員が亜紀の手から受話器を取り上げて、警察からの連絡をあらためて聞きなおした。
「わかりました。すぐに、いきます」
社員は総支配人の望月の机に走り寄って報告した。
「亜紀さん」
走り寄ってきた望月が亜紀の両肩に手を置いて言った。
「わかってます」
「すぐに、行ってください。浜田君、車」
浜田と呼ばれた社員が部屋を飛び出していく。
「岩本さん、亜紀さんについていって」
女子社員が自分のバッグと、亜紀の席から取ってきた亜紀のバッグを持って、望月と亜紀の後を追った。
玄関にはホテルの車が待っていた。
「浜田君。落ち付け。安全運転でな」
「はい。わかってます」
亜紀は、女子社員に押し込まれるようにして車に乗り込んだ。
何が起きて、今何をしているのか。全てわかっている。ただ、現実感がない。岩本という、少し年配の女子社員が横に座って亜紀の手を握ってくれているが、手を握られている感触がない。
西川病院は佳奈ちゃんが入院していた病院だから、よく知っている場所だし、白石の知人も多い病院だ。車は東山通りを南下している。少しづつ、現実感が戻ってきた。岩本の手の感触も感じる。その現実感と一緒に、とてつもなく大きな圧迫が押し寄せてきている。夢の中で浮遊するように、現実と夢の間を行き来した。
「亜紀さん」
岩本に呼ばれ、手を引かれて車を降りた。
岩本に手を引かれるままに、病院の廊下の椅子に座った。
「まだ、手術中です」
岩本の説明にも、しっかり頷いている。大丈夫、自分は冷静だと心の中でつぶやいた。車を駐車場に置きに行った浜田もやってきた。
「手術中ですね。総支配人に電話してきます」
浜田が電話をするために姿を消した。
何人もの人が廊下を通り過ぎた。時間の経過はわからない。亜紀は背筋を伸ばし、正面を見て座り続けた。
「亜紀さん」
久子と今西がやってきた。亜紀は黙って頷いた。久子が横に座り、亜紀の手を岩本から受け取った。
手術室の扉が開いて、ストレッチャーに乗った白石が出てきた。亜紀は、その白石の姿を目で追った。包帯で覆われ、酸素マスクで素顔は見えないが、白石に間違いない。亜紀は静かに立ち上がって、白石を追うつもりだったが、手術室から出てきた医者に止められた。
「奥さんですね」
「はい」
言葉で返事をしたつもりだったが、声は出なかった。
「残念ですが、重体です。麻酔も効いてますが、今、意識はありません。今日一日乗り切ってくれれば、なんとか、助かると思いますが、予断はできない状況です。集中治療室で、我々も、ずっとつきますから」
「ありがとうございます」
礼を言ったつもりだったが、自分にも声は聞こえなかった。看護師に先導されて、亜紀と久子は集中治療室へ向かった。岩本と浜田と今西が後ろからついてきている。
しばらく集中治療室の前で待たされ、亜紀だけが部屋の中に入った。白衣を着て、ビニールの帽子を被った亜紀は、白石のベッドの横にある椅子に座らされた。
「まだ、意識はありません。意識が戻った時に、奥さんの顔を見ればご主人も安心でしょう」
「はい」
看護師は、そっと離れて行った。
白石の顔を見る。まだ、耳のところに血が残っている。シーツの下にある白石の体がどうなっているのかはわからない。確かに呼吸をしているが、白石が死に直面している現実は、そこにあった。
「おねがい。おねがい。・・・・・」
誰にお願いしているのか、何にすがろうとしているのか、亜紀は念じ続けた。
「おねがい」
もう、何千回言ったのか、いや、何万回言ったのだろうか。白石の体は動く気配もなかった。医者と看護師が何度も何度も見に来てくれたが、白石に変化はなかった。
時間の感覚は完全に失われている。亜紀は一心にお願いし続けた。
突然、何かに突き上げられるようにして、亜紀は立ち上がった。白石が目をあけている。
「求さん」
亜紀は白石の体に覆いかぶさるようにして、顔を近づけた。白石の視線には力が感じられる。もう、大丈夫だ。
酸素マスクの向こうにある白石の口が動いた。声は聞き取れない。
「せんせい」
亜紀は大声で叫んだ。大丈夫。声は出ている。
看護師が走ってやってきた。
「なにか、言ってます」
「わかった。すぐ先生呼びます」
白石はまだなにか言っている。亜紀は耳を近づけて聞いたが聞き取れない。酸素マスクが邪魔をしている。亜紀は酸素マスクをずらして、自分の耳を白石の口につけた。
「く、ど、う、に、や、ら、れ、た、か、た、や、ま、く、ん、に、そ、ぅ、だ、ん、し、ろ」
「あ、き・・・」
飛び込んできた医者が亜紀を突き飛ばすようにして、白石の酸素マスクを戻し、白石の首に指を置いた。一瞬、白石の体が痙攣し、医者が大声で看護師に矢継ぎ早の命令をだしている。
叫び声が聞こえて、亜紀は意識を失った。


49

目を覚ました亜紀は起き上がった。なぜか、ベッドの上だ。
「だめです。奥様」
久子の声だった。
「家長が」
「わかってます」
久子が覆いかぶさってきて、亜紀はベッドに押し戻された。
「いいですか、私の話を聞いておくれやす」
久子が覆いかぶさった状態で言った。
「奥様は、流産しかかってます。動いたらあきまへん。旦那はんがおらんようになって、お腹の赤ちゃんまでおらんようになったら、どないしますの。お願いやから、うちの言うこと、聞いておくれやす。奥様の気持ちは、ようわかりますが、今は堪えて、安静に。よろしおすか」
「求さんは」
「堪忍や。今は、安静や」
久子が泣いていた。
亜紀には、白石がいなくなったことがわかった。そのまま、地底に引きずり込まれるように意識を失った。
亜紀が寝ているベッドの横に、白石が立って亜紀の方を見つめている。困ったときにする苦笑いの表情だった。
「求さん」
白石の顔が「頼む」と言っている。
「求さん」
意識を取り戻した亜紀の目の前には、久子の顔があった。
「今、そこに、家長が」
「旦那はん」
「・・・・」
「奥様。お腹の赤ちゃん」
「ええ」
亜紀は目を閉じた。白石は死んだ。最後に頼むと言いにきた。約束が違う。守ってくれると言ったじゃない。白石がいなくなる。一人では生きていけない。もう、私は昔の亜紀じゃないの。白石のいない人生などいらない。
どのぐらい眠っていたのか、意識を失っていたのかわからなかったが、亜紀の目の前には病室の天井があった。亜紀は自分の体の中に気力のかけらもないことを知った。「もう、いい」と思った。
絶対安静と面会謝絶のまま、一週間が過ぎた。点滴だけが亜紀の命を支えていた。ベッドの上での排便が苦痛だったが、それに逆らう気力はなかった。


50

今日は白石の最後の言葉が気になりだしていた。「工藤にやられた。片山君に相談しろ」と白石は確かに言った。もしも、それが本当なら、許せない。白石の仇をとるのは亜紀しかいない。白石だって、無念のおもいだったろう。
廊下を行き交う足音が増えてきた。朝になったようだ。病室のドアを開けて看護師が入ってきた。
「白石さん。体温ですよ」
元気な看護師さんだった。
「あら。今日は目が覚めてたの」
「私、ここ、何日ですか」
「えっ、そうね。入院して、七日かな」
「そうですか」
「今朝は、気分、いい」
「ええ」
「よかった。血圧測らせてね」
血圧と体温の測定を終えて、看護師が部屋を出て行った。
白石は、どうして、片山に相談しろといったのだろう。内藤でも望月でもない。白石と片山の関係を知っているのは亜紀だけで、片山が普通の人ではないことが関係あるのだろうか。
点滴のパックを変えにきた看護師が、先生の診察と検査がありますからと言って出ていった。
時計が周りにないので、何時なのかわからなかったが、検査用の機材が運ばれてきて、医者もやってきた。
「産婦人科の三宅といいます。エコーで検査します。いいですか」
「はい」
冷たい液体を塗られ、検査が始まった。
「大丈夫。赤ちゃん元気ですよ」
検査を終えて、三宅医師が笑顔で言った。
「まだ、しばらくは入院してもらいますが、もっと、栄養を取ってもらわないと、退院できませんよ」
「はい」
「流動食からになりますけど、食事を出してもいいですか」
「はい」
「よかった」
三宅医師と検査機材が部屋を出て行くと、入れ違いに久子が入ってきた。
「奥様」
「久子さん」
「よかった」
「毎日、来てくれてたのね」
「ほんまに、よかった」
「ごめんなさい」
久子がいつもの笑顔になった。
「栄養つけたら、退院できそう」
「おいしいもの、作らせます」
「トイレに行けるようにして欲しい」
「まかしなはれ」
「内藤専務と望月総支配人に来てもらえますか」
「ホテルの岩本さんが、もうみえる思いますえ」
「岩本さん、毎日来てくれてるんですか」
「毎日」
白石が死を前にして言った言葉だ。たとえ、それが白石の直感だけだとしても、正しいものに思えてきた。この決着を付けるまでは死ぬわけにはいかない。
岩本が連絡してくれて、昼前には内藤と望月が揃って来てくれた。
「亜紀さん」
「すみません。ご迷惑かけました」
「とんでもありません。みんな、あなたが頼りなんです。じきに石井先生もこられます」
「ありがとうございます。専務さん、何かありますか」
「いや。今は業務停止ですわ。何も心配いりまへん。はよ、元気になっておくれやす」
「そうします。もう少しお願いします。白石の意思を継ぎます。今は業務停止でもしかたありません。工藤さんの方は」
「今のとこ、なんもおまへん」
「岩本さんが毎日来てくれていますが、岩本さんがいないと、事務が大変です。どなたか、別の方ではいけませんか」
「家長の心当たりは」
「和久井さんでは、どうですか」
「あの子は、まだ二年目ですよ。できますかね」
「和久井さんなら、大丈夫だと思います」
「じゃあ、そうしましょう」
和久井美緒は、エントランスホールの担当サブをしている入社二年目の若い女子社員だった。岩本は事務のベテランだが、和久井はまだ駆け出しの社員で、ホテル業務に支障をきたすことはないだろう。だけど、亜紀は和久井の将来にひそかな期待を持っていた。
石井徹弁護士が部屋に入ってきた。
「亜紀ちゃん」
「おじさま」
「よかった」
「ごめんなさい。もう、大丈夫です」
「ん。その目を見ればわかる。ほんとによかった」
「栄養つけたら、退院できるそうです」
「そう。報告事項は一杯あるんだよ。もう少し元気になるまで待とうか」
「いえ。いいです。聞きます」
「じゃあ、私たちは引き揚げます。いいですか」
「はい。ありがとうございます」
内藤と望月が部屋を出て行った。
「おじさま。お願いします」
葬儀の報告から始まった。そう言えば、葬儀のことは全く意識にもなかった。徹叔父が喪主になって葬儀は終わり、遺骨はまだ納骨せずに北白川の仏間にあると言った。納骨は工藤の件が片付いてからだと思った。相続の手続きは、まだ終了していないが、いつでも明細は持参できるようになっていると言った。代表者印も徹叔父が預かってくれている。重要な立場にいる自分が勝手なことをして、大勢の人に迷惑をかけているのだ。
「おじさま。ほんとに感謝してます。もう少しお願いしていてもいいでしょうか」
「もちろん」
「相続の件は、私、伺ってもわかりません。事後報告で結構ですから、進めてください」
「じゃあ。そうしよう」
「ホテルの社員の方で、和久井さんという人に、しばらく助けていただきます。彼女から連絡があれば、よろしくお願いします」
「ん。わかった。無理しないように」
「はい」
徹叔父が帰り、亜紀には疲れが押し寄せてきた。
「久子さん。少し寝ます」
「そうね」


51

目が覚めた時は夜になっていた。久子の横に和久井美緒が座っている。
「和久井さん」
久子が立ち上がってベッドの傍にきた。
「目、覚めた」
「はい」
「私、奥様の食事取りにいってまいります」
「はい」
「和久井はん。あと、たのみましたえ」
「はい」
「和久井さん、ここに座ってください」
「はい」
「私、しばらく動けないみたい。で、あなたに助けてもらいたい。やってもらえますか」
「はい。でも、どうして、私なんです。まだ、新米ですし」
「ホテルの仕事じゃなければ、駄目ですか」
「私、ホテルの仕事、好きなんです」
「そうですよね。知ってます。知っていますが、お願いしたいんです」
「わかりません」
「家長の白石が亡くなったことは知ってますよね」
「はい。とても残念に思っています」
「私が、後を継いで、家長をしなくてはいけないことも」
「はい。知ってます」
「私の年齢も知ってますよね」
「はい」
「私のような子供に、できると思いますか」
「わかりません」
「無理ですよね。私も、そう思います。それでも、やるように言われてます。白石には、できない理由を捜すな、と言われました。どうしたらできるか、それを考えろと。だから、大勢の方に協力をお願いしようと思ったんです。私には、和久井さんの協力が必要なんです」
「私のことなど知らないのに、ですか」
「ええ。でも、直感なんです。この前ホールで小さな男の子が迷子になってましたよね」
「はい」
「あなたは、あの子の親御さんを捜しました。あの子が和久井さんに声をかけられた時の表情、憶えてます」
「表情ですか」
「安心の表情です。子供は大人の外観ではなく、その人の本質を見抜いて、手を握るそうです。あの時、あの子の方から和久井さんの手を握りました。私、それを見ていて、和久井さんの本質を見たと思ったんです。たしかに、あなたの細かいことは知りません。でも大切なことはわかっているつもりです。それでは駄目でしょうか」
「手ですか」
「ええ。しばらくやってみて、どうしても、と言われれば諦めます」
「なにをすればいいんですか」
「将来的には、私と二人三脚でやってもらいたいけど、最初は秘書のような役割をしてもらえると助かります。自分より年下の女の秘書では嫌ですか」
「年齢は関係ありません」
「私が嫌い」
「好きでも嫌いでもありません。考えたことありませんから」
「じゃあ。今はどう思います」
「・・・ 好きになれるかも」
「私は、もう、あなたのこと、大好き」
家長の責任は一人で背負うには重すぎる。若い仲間が欲しかった。
「で、私は何を」
「私が動き回れるまでの、臨時連絡体制を作ってください。最終決定ができない状態は、日常業務へも影響します。だから、私が遮断された状況を変えたい」
「わかりました。考えてみます」
どんな対応をするかは和久井に考えてもらいたかった。和久井が細かな指示を求めてこなかったことで、この人選は正しかったと確信した。
亜紀は目を閉じて、自分の世界へ籠った。工藤高広をどうするか、まだ決断できていない。白石の籍に入った時に、亜紀の空手は封印されている。白石との約束事だった。まだ、封印されているのだろうか。自分一人の力で真相究明ができるだろうか。白石なら、どう返事してくれるだろうか。その白石の最後の言葉が、片山への相談だった。白石の直感を信じることが最善の道なのか。
目を閉じたまま、自分一人で実行するというシミュレーションを始めた。問題点が次々と出てくる。その問題点を無視しても、また行き詰ってしまう。無視して、さらに無視して進めてみても、最終目的に近付くこともできない。子供同士の喧嘩とは違う。単純に男の暴力から身を守ることとも違う。亜紀はシミュレーションを諦めた。


52

夕食に久子が持って来てくれたお粥を食べた。多くは食べられなかったが、無理はしなかった。どう考えても簡単にできることは一つとしてない。腹を据えてかかるしかない。復讐が生きる支えになってどこが悪いと開き直った。和久井の最初の仕事は、病室で自由に携帯電話を使ってもいいという許可を得たことだった。
久子と和久井が帰って、一人になった。亜紀は片山の携帯に電話をした。
「はい」
「私、京都の白石です。今、お話できますでしょうか」
「白石さん」
「家内の亜紀です。白石の携帯にあった番号を使いました」
「どうしました」
「実は、白石が亡くなりました。一週間前です」
「白石さんが、どうして」
「交通事故だとされています」
亜紀は、白石の最後の言葉を含めて、簡単に事情を説明した。
「わかりました。それ以上話さなくてもいいです。僕が行きます。病院は」
「西川病院というところです」
「この携帯は、亜紀さんの傍に、いつもありますか」
「はい」
「僕の方から連絡をします。僕の携帯には、電話しないように」
「はい」
朝になって、最初に久子が来てくれた。朝食のお粥を大事そうに抱えている。久子は持てる力で亜紀を守ろうとしている。そのことをひしひしと感じていた。
「ありがとう、久子さん」
「はい、はい。食べて」
九時を過ぎて、和久井が来たが、すぐに出て行った。
担当の三宅医師の診察が終わり、静かな時間がやってきた。
久子は昼食を取りに帰った。和久井は帰ってこない。少し眠ったのかもしれない。ドアの開く音で目が覚めた。
「園長先生」
「亜紀さん。やっと面会許可が出たのよ」
「そうでしたか」
「思ったより、元気そう」
「まだまだ、なんです」
「白石さんのことは、何と言ったらいいのか」
「ありがとうございます」
「ごめんなさいね。なんか責任感じちゃって」
「先生の責任なんかじゃありませんよ」
「ごめんなさい。私にできること、なにかない」
「先生」
「赤ちゃんは」
「ええ。無事です」
「よかった」
ドアが開いて、和久井が戻ってきた。
「お客さんですか」
「入ってください。紹介しておきます」
園長と和久井を引き合わせた。
「先生。もうすぐ、クリスマスですよね」
「子供たちには、言ってあります。だいじょうぶ、だいじょうぶ」
「駄目ですよ、先生。白石が落嘆します」
「でもね」
「和久井さん。ほんとは、私がやらなくてはいけないことなんだけど、この状態ではできないの。あなたにお願いするしかない。お願いできないかしら」
「なにをすれば」
「詳しくは、後で説明するけど、あなたにサンタのお姉さん役をやって欲しいの」
相馬園長が帰り、昼食が終わって、亜紀は和久井に相馬保育園と白石の関係、そして亜紀との関係を詳しく話した。
「知りませんでした」
「白石の社員が出した利益が、何人もの子供たちを救っている。誰も救おうとしない子供たちが、ほんとに大勢いるの。相馬園長はその一人一人を大事にして、自分の人生を作れるようにとご自分の身を投げ出してる。そして白石にとっては、自分の生き様を支えてくれる、大事な事業だったと思う。だから、私も続けたい」
「やります」
「ありがとう。当面の費用はホテルから出せるように望月さんにお願いしておきます。和久井さんが自腹を切るようなことはしないでください。私が退院したら和久井さんの身分もはっきりさせます。無理なこともお願いすると思うけど、お願いします」
「家長。私、少し楽しくなってきました」
「そう」
和久井が亜紀のことを、家長と呼んでくれた。久子が、奥様と呼ぶことも受け入れている。白石はどう言うだろう。
亜紀の病室は特別室のせいか周囲の騒音は少ない。夕食時間を過ぎると、静けさがましてくる。ドアが開いて、男が一人入ってきた。見覚えのない中年男性だ。
「どなた」
亜紀は危険な臭いを嗅いだ。寝たままで、体力もなく、流産の危険があるために運動能力もない。ナースステーションに繋がっているブザーに手を伸ばすしか方法はないと思った。
男は手で制する仕草をして、「片山です」と言った。
「片山さん」
男は両手を上に挙げて、危険はないという様子で近づいてくる。片山とは一度しか会っていないが、まだ三十前の青年のはずだった。
「驚かせて、申し訳ない。電話もらって、駆けつけました。これは変装です。ブザーは押さないで」
「でも」
「そうですよね」
男は部屋の中央で立ち止まって考えた。
「あなたと、会った時の話をしましょう。東京の中華飯店で白石さんと三人で会った時、僕はあなたに殺気を向けましたよね。あなたは、後ろに飛んだ。そうそう、気道の話もしました」
亜紀は手のブザーを離した。
「座っていいですか」
片山はベッドの横の椅子を指差した。
「すみません」
「あっ。起きなくていいです」
「はい」
「こんな変装で申し訳ない。あなたと僕が会ったことにはしたくない。僕の仕事は、用心の上にも用心をします。だから、会うのもこの一回だけにします。知っている限りのことを教えてください」


53

亜紀は年末に退院した。古い母屋にある仏間で、白石の遺骨と会った。片山の調査の結果が出るまで、納骨するつもりはない。まだ、出歩くことは止められているが、和久井の努力で連絡網は機能しているから、業務に支障はなかった。誰かが近くにいる時は明るく振る舞っていたが、一人になると喪失感に打ちのめされる。白石が直感したように、事故が単なる事故ではなく、仕組まれたものだとわかれば、自分の全能力を使って、いや、自分の生命を賭けてでも復讐したいと願っている。この想いだけが亜紀を支えていた。
亜紀の退院を皆喜んでくれ、久子は若返ったようにさえ見えた。亜紀と生まれてくる白石の子供を守るのは、自分だと確信しているようだ。「旦那さんは、使用人の私たちを家族同然に扱ってくれた。私たちにもいろいろなことがあったが、旦那さんの大きな気持ちのおかげで生きてこれた」と久子は振り返った。「今度は、私たちが、ご恩を返す時なんです」と言い、亜紀のまだ大きくなっていない腹部を見つめていた。
最初はホテルの仕事を離れることに抵抗していた和久井美緒も、秘書役に徹してくれている。保育園でサンタのお姉さん役をしてからは、白石を支える一員になったことを喜んでくれた。
徹叔父から、相続に関する事情も聞かされ、手続きもほぼ終了する。会社関係の代表者はすでに白石亜紀の名前になっていた。名実共に白石の家長になったわけだが、亜紀の中ではまだ決着していない。毎日、片山からの連絡を待つ日が続いていた。片山がどんな方法で真相究明しようとしているのかはわからない。亜紀にも片山にも捜査の公権力はないので、立ちふさがる壁は大きい。片山が真相究明してくれるのかどうか、半信半疑だったが、片山以外にこの件を相談できる人はいなかっただろう。
大晦日になり、自宅にいる限り世間の喧噪は届かないが、それぞれの会社の業務は継続している。ホテル勤務をしていた和久井も、年末年始が休みだと思っていないようで、「いつか、まとめて休みます」と言ってくれた。
「内藤専務から来てもいいかと問い合わせがありましたが、どうしましょう」
「今日ですか」
「はい」
「わかりました。もう、不動産はお休みなのにね。急ぎの用件なのかしら」
「用件は聞いてませんが、聞きましょうか」
「いえ。来てもらってください。時間は、和久井さん決めて」
「はい」
亜紀の承認決済が必要な事項はメールで済ませていて、病院で会って以来内藤とは会っていない。体調不良を理由に仕事は最小限にしているが、本音を言えば、誰とも会いたくはなかった。白石の書斎にある大きめの椅子に座り、白石の蔵書を読んでいる。もっとも、活字を追っているだけで、中身は理解しているとは言い難い。体の中に醒めきった部分と激情が同居していて、自分自身を扱いかねていた。
十時に内藤がやってきた。
「具合は、どないで」
「ごめんなさい、まだ」
「大事にしてもらわんと」
「今日は」
「へぇ。こんな時やけど、工藤の物件、そろそろ結論出さなあかんかな、おもてます」
「その件なら、もう少し待ってください。なにか、特別な状況がありますか」
「いや、それはおへん。営業の連中が焦っとりますんで、士気を落とさんようにおもて」
「内藤さんには、ご苦労かますが、お願いします」
「いつごろ、ですやろ」
「内藤さん。何か私に隠していることでもあります。どうして、急がれるのか、わかりませんが」
「とんでもない。なんもありまへん」
「そうですか。もう少し待ってください。お願いします」
片山の調査が終わるまで、動いてはいけないと言う直感があった。最悪の場合、時期を逸して利益を失ったとしても、白石は納得してくれるだろう。白石の最後の言葉は誰も知らないし、片山に調査を依頼したことも知られていない。「自分の直感を最後まで信じる」と白石は言っていた。たとえ、結果がよくなくても、それが実力なのだから仕方ない。自分以上にも自分以下にもならない。このことは、どうすることもできないと言っていた。亜紀も工藤物件で利益を失ったとしてもいいと考えていた。


54

何事もなく正月が過ぎた。体調は自分でも驚くほど回復していた。まだ、白石の書斎に一人でいる時間が多かったが、周囲の人たちに安心感を与える技術は進歩した。家の中に緊迫感はなく、平穏無事な日常が過ぎている。だが、亜紀の喪失感は日増しに大きくなっている。自分が妊婦でなければ、思いっきり立木に拳を打ち込みたいと思う。片山に依頼せずに、流産覚悟でも自分で真相究明をした方がよかったのか。自分の中に宿っている生命が白石二世だという現実だけが、亜紀の暴挙を止めている。白石に抱きとめて欲しいという激情ともいえる感情に襲われると、肉体的な痛みさえ感じた。
白石の部屋で読む本は詩集ばかりになった。決して気が楽になるわけではない。ほんの少し、現実から逃れたかった。
片時も手放さなかった携帯電話が振動した。この携帯電話に電話をくれるのは片山か間違い電話かのどちらかだ。
「亜紀さん」
「はい。そうです」
「今晩、遅くに、そこに行きます。今、書斎ですか」
「はい」
「書斎で待っていてください」
「はい」
電話は一方的に切れた。電話が切れてからの方が胸の動悸が大きい。来るものが来た。亜紀は静かに椅子に座った。書斎にいることが、どうして片山にわかったのだろう。不思議だった。
一日が終わり、亜紀にとっては長い夜が来た。何度時計に目をやっても、時間は遅遅として進まない。
十一時を過ぎて、書斎のドアから片山が静かに入ってきた。
「片山さん」
片山は以前東京で会ったときの片山だった。
「随分、時間がかかってしまいました。心配だったでしょう」
「はい」
「どこから、入ってきたのか、と、思ってます」
「はい」
「無断で申し訳ないが、何度も、来てます。あなたの様子を見に」
「知りませんでした」
「夜になれば、この建屋にはあなた一人だということも知ってます」
「・・・・」
「座ってもいいですか」
「あっ。ごめんなさい。座ってください」
「おもてなしはいりませんよ」
「はい」
椅子に座った片山がCDを机の上に置いた。
「結論から言います。白石さんが見抜いたとおり、工藤高広の仕業でした。実際に手を下したのは、遠藤という全く関係のない男です。このCDの中には、それぞれの証言が入っています。あとで聞いてください」
「はい」
「背景と仕組みを説明しましょう。工藤開発が経営危機になっていることはご存じですね」
「はい」
「倒産を回避するためには、白石さんの会社の協力が必要でした。工藤高広という男は経営者には向いていません。私が分析した限りでは、工藤開発が生き延びるためには、白石さんのところに吸収合併をしてもらうしかなかったと思います。工藤高広は当座の資金繰りがつけば、なんとかなると考えていた。で、白石不動産に手持ちの不動産の売却話を持ちかけた。白石さんがその話を断ったことは知ってましたか」
「はい」
「そこで、白石さんがいなくなれば、なんとかなると考えた。どうして、そんな論理が成り立つと思ったのか。そこで、工藤は知り合いの陣内組に話を持って行った。白石求を殺してくれと。暴力団といえども、はいそうですか、と言って請け負うことはありません。でも、暴力団のもう一つ先に、請け負ってくれる組織があることを工藤は知っていました。自動車事故を装った殺人ビジネスがあるんです。相場は三千万だそうですが、工藤は五千万の空手形をきって依頼したんです。もう、商売人の金勘定とは思えません。多分、個人的な恨みになってたんでしょう。二人は友達だった」
「はい。そう聞いています」
「自動車事故が故意のものか、過失によるものかの判定はできません。相手が死亡している時には、加害者の言い分だけしかわかりません。たとえ、裁判で有罪となっても、刑法の殺人罪より軽くて済みます。借金を抱えて、暴力団に追われている人間にとっては、渡りに舟なんです。ただ、何が何でも相手を殺さなければなりません。ブレーキもかけないし、衝突後もアクセルを踏みこみます。殺される方にはその殺気が伝わるんでしょう。白石さんは、普通の事故ではないと気づいたんです」
「ひどい」
片山はポケットから写真を取り出して、亜紀に渡した。
「知ってますよね」
「はい。営業部長の内藤さんです」
「これも見てください」
片山が机の上に三枚の写真を並べた。
「これが、工藤高広です」
工藤高広と白石不動産の内藤部長が一緒に写っている。内藤部長は内藤専務の息子で、比較的気の弱そうな人物だという印象しか残っていない。
「工藤は」
「昨夜から、行方不明です。もっとも、昨夜は僕が事情聴取してましたが、陣内組に預けた後はわかりません」
「・・・・」
「この中には、工藤の証言と陣内組の組長の証言が入ってますが、物的証拠はなく、証言だけですから、警察に持ち込んでも事件としては受け付けてくれないでしょう。だからと言って、あなたが裁いてはいけません。ご自分で決着つけようと思ってますね」
「はい」
「それは、一般社会に属している人がやってはいけません。それとも、あなたも、裏社会の一員になりますか」
「それでも、いいです」
「だと、白石さんの意思は、白石さんがあなたに託したことは、どうでも、いいんですか」
「それは・・・」
「私がお願いしている寄付金はどうなります。あなたがやってくれているんですよね」
「・・・」
「この家にいる今西さんたちは、どうします」
「・・・」
「そして、これが一番大事なことですが、その子はどうするんです。裏社会で育てるんですか」
「じゃあ、どうしろと」
「全部、飲みこみなさい。それしかありません。あなたならできる。できると思ったから、こうやって全てを話しています」
「できません」
「いいえ。できます。あなたは白石さんの愛情を裏切ってはいけません。あなたのことも調べました。あなたにとっては、初めての本物の愛だった。そうでしょう。短い時間だけど、あなたは幸せだった。ここから先の人生、白石さんのためだけに生きても、いい、と思いませんか」
亜紀は返事ができなかった。
「この事は言わないで済めば、と思ってましたが、言います。僕の独断で、工藤高広はすでに死んでいます。あなたに相談しなかったことは謝ります。実際の殺害行為は陣内組が実行しました。その証拠映像もありますが、それは見せません。白石さんの仇は、勝手に僕がとりました。ごめん」
「・・・」
「時間をかけてでも、乗り越えてください」
しばらく二人とも黙っていた。
「では、僕は帰ります。それと、今までの携帯番号は破棄しますので、今日以降繋がりません。新しい番号です」
片山がメモを渡してくれた。
「暗記して、その紙は捨ててください。約束してください」
「はい」
「いいですか。乗り越えてください」
「あの」
「・・・」
「教えていただけないのかもしれませんが、どうして、ここまでのことがわかったんですか」
「そうですね。細かいことは言えませんが、三十人でほぼ一か月かかりましたよ」
「三十人、ですか」
「白石さんは、命の恩人ですからね。必要なら何百人でも動員しますよ」
「すみません。私、駄々こねてますか」
「あなたの立場なら、自然なことでしょう。そのことも承知の上で、乗り越えてほしいと思ってるんです」
「私は、どうお礼をしたらいいんですか」
「乗り越えて、寄付金の仕事を引き受けてください」
「よく考えてみます」
「じゃあ」
片山は来た時と同じように、自然な様子でドアから帰って行った。


55

二週間が過ぎた。立ち直ったとは言い難いが、片山の説得の中にある誠意には逆らえないとも思っていた。片山は、一人で飲みこめと言った。その通りで、誰に相談することもできないし、たとえ、相馬園長にもこの話はできない。重いものも苦いものも、飲みこむことを強要されることが、大人になるということなのか。

ホテルにある割烹「市原」の市原老人が面会したいと言ってきていると和久井から連絡があった。一度だけ、お店で会って挨拶をしただけの老人だったが、尊敬できる人だと感じていたので、いつでもどうぞと返事をした。
市原老人と孫の市原智明が和久井の案内でやってきた。
「無理なお願いをして、申し訳ありません」
「ご無沙汰しています」
老人に続いて、市原智明が体を固くして挨拶した。
「料理の修業を始めたと聞きました」
「はい。走り回ってます」
「よかった」
「白石さんと、あなたのおかげです」
「で、今日は何か」
「すんません。智明がどうしても、お願いしたいことがあると申しますんで」
「お願いですか。でも、工藤さんがらみは駄目ですよ」
「その工藤がらみなんです」
孫の智明が固い表情で答えた。
「じゃあ、聞かないでおきます」
「駄目ですか」
「ええ。まだ彼女と」
「はい」
「残念ね」
亜紀は老人の目を見た。
「市原さん」
「すんまへん。このとおり」
市原老人が頭を畳につけた。市原老人は何も聞いていなかったようだ。孫の体を引きずるようにして、帰って行った。あの市原智明が後を継ぐのであれば、市原本店の将来には投資できない。市原老人の年齢を考えると、ホテルに別の日本料理店を入れる必要があると感じた。
それから三日後に工藤開発が倒産した。社長は行方不明ということであり、死亡という噂はなかった。
亜紀は、内藤専務を呼んだ。
「専務。これを見てください」
亜紀は工藤高明と内藤部長が写っている写真を出した。
「これは」
「内藤部長は工藤物件を買うように勧めていませんでしたか」
「そう言ってました」
「この写真は、そのことの少し前のものだと思います」
「この写真をどこから」
「ほんの偶然でした。言いませんけど」
「あのアホが」
「内密に調べてください。専務以外に知られないように。真相がわかればそれでいいです」
「はい」
「内藤部長も騙されているんでしょう。いいですか、辞めさせろと言っているのではありませんよ。ほんとのことが知りたいだけですから」
「はい」
亜紀はまた一つ飲み込んだと思った。亜紀の中にある被害者感情は、治まっていない。誰もが、白石の死は交通事故だと思っている。だから、亜紀が複雑な感情に苦しんでいることを知る人もいない。
翌日、内藤専務の弁明は聞いた。追及すれば、内藤親子は辞めざるを得なくなる。後任の人選ができるまでは、今の体制でいくしかないと判断した。
あらゆるものを放り出したいと思っても、次々と仕事上の決断を迫られ、最善と思われる判断を下している。そのことが、責務を投げ出すことを難しくしていた。
一週間後に、内藤専務から陣内組組長が会いたいと言っているが、どうしたらいいか、と問い合わせが入った。内藤専務は事情を知らないので、工藤開発倒産に関連した話ではないかと言った。片山の話では陣内組は手を出してこないはずなのに、何の用件なのか。断れば、どんな対応をしてくるのだろう。はい、そうですかとは言わないだろう。会ってみることにした。工藤高明の計画に乗った男だ。自分の手で、復讐することもできる。きっと、片山には怒られることだろうが、片山の努力を無にしないで、できることがないか。会って決めればいい。
午後になって、陣内隆三が内藤とやってきた。庭を一望できる客間に入ると、六十を過ぎているとおもわれる痩せた老人が、畳に額をつけていた。内藤は身の置き場に困っている。
「白石です」
上座に座った亜紀が落ち着いた声で言った。
「陣内隆三と申します」
陣内は頭を下げたまま名乗った。
「顔を上げてください」
顔を上げた陣内を正面から見つめた。暴力団の組長に初めて会うが、どこにでもいそうな老人の顔だった。
「奥様。お人払いをお願いしてもよろしいでしょうか」
「わかりました。専務、食堂で待っててください。しばらく、誰も来ないように」
「・・・」
「お願いします。お茶は用件が済んでからでいいと久子さんに伝えてください」
「はい」
何が起きているのかわからないまま、内藤が部屋を出て行った。
「用件を聞きましょう」
「はい」
陣内は上着の内側から、白木の短刀を出して、亜紀の方へ押しやった。
「いつ、刺していただいても、いいです。私の命と引き換えに頂きたいものがあって来ました」
亜紀は目の前に置かれた短刀をゆっくりと手にして、鞘を払った。
「よろしいんですか」
「はい」
「何を」
「片山さんから、渡されたCDとDVDです」
「誰です、その片山さんというのは」
「奥様。工藤の一件、お聞きになりましたよね」
「ええ。聞きました。お名前はおっしゃいませんでしたが」
「あの方が、片山さんです」
「そうですか。白石に世話になった者だとしか」
「遺族の方には、話をすると言われました」
「はい」
「あのCDとDVDの中身はご存じですよね」
「知ってます。あなたが黒幕です」
「申し訳ありません。今日は命を差し上げるつもりで来ましたが、私が死んだあとはきれいにしておきたい。老人の未練です。片山さんが持っていれば、こんなお願はしません。でも、こんな言い方をして申し訳ないが、素人さんは何をなさるかわかりません。ぜひ、頂きたい」
「警察に持って行くと」
「かもしれません」
「あの方に止められました」
「そうですか」
「でも、お渡しできません」
「そこを」
「ご老人の覚悟はわかりました。私は、あなたの命が欲しい。白石の無念を晴らしたい。でも、お渡しする物が、もうないんです。言葉だけでは私が納得しないだろうと思って用意したそうです。四つに折って持ち帰られました」
「四つに」
「残念です。あの方は、全てを知った上で、全部飲み込めと言って、出て行きました」
「そうなんですか。奥様の言葉を信じましょう。ならば、ここまでです。それで、刺してください」
「自首することはできませんか」
「それは勘弁してください。もちろん、奥様の罪にはしません。自殺で処理するように言ってありますので」
「そうですか」
陣内は両手を膝の上に置き、目を閉じた。
「陣内さん」
「は」
「どうしてです」
「と、おっしゃいますと」
「陣内組は暴力団なんでしょう。だったら、私から、無理矢理取り上げることもできたでしょうに」
「いえ。無理です。奥様に手を出せば、陣内組は跡形なく消えてしまいます。片山さんは、それをやってしまう人です。暴力団の組長が言うことではないでしょうが、全滅は避けたい。それに、もう老人ですから」
「陣内さん。度胸がおありですね。あの工藤に、もう少し度胸があれば、こんなことにならなかったのに。もう、白石は帰って来ません」
「申し訳ありません」
「何を言っても」
「奥様」
「・・・」
「今は、奥様の手にかかることが、少し楽しい。いい人に会えた、と思ってます。遠慮なさらずに、恨みを晴らしてください」
亜紀は短刀を持って立ち上がった。陣内が目を閉じて、真っ直ぐ座っている。陣内の前で片ひざをつき、右手に持った短刀に左手を添えて、短刀の峰の方を陣内の首に当てた。陣内は短刀を首に当てられても微動だにしなかった。
亜紀が陣内から離れて、短刀を鞘に戻した。
「陣内さん。私にはできません」
「奥様」
「抵抗してくれて、逃げ回ってくれれば、できたかもしれません」
「許していただけるので」
「いいえ。許すことはできません」
「はい」
「もう一度聞きます。なぜ、ここに、来たんです。命を捨ててまで」
「はい。極道が脅しに負ければ、失格です。わしは、片山さんの脅しに負けて、いいなりになりました。わしの命で済むことなら抵抗したんでしょうが、組の連中を全員殺すと言われたんです。横浜で、それなりに大きな組が全員抹殺されたことを知っとります。犯人は挙がってませんが、片山さんがやったとわかりました。わしも、歳取りすぎました。時代が変わっていることに気づきませんでした。だから、引退することにしました。で、今度の件はきれいにしておきたい。老人の命で許してもらえるのなら、そうしたい、と思ったんです。わしは、極道の面汚しです。素人さんにこんなことお願いすることが、もう極道としては失格です。要は、歳取ったということなんでしょう」
陣内が庭に目を向けて、独白するように言った。老人の顔だった。
亜紀も庭に目を向けた。忸怩としたおもいがある。
「奥様。お幾つになられました」
「どうしてですか」
「わしには、子供も孫もおりませんが、失敗だったかなと思いましてね。わしの人生、失敗ばかりでした。もう少し前に奥様に会っておれば、こんなこともせずに済んだと」
「・・・」
「また、お邪魔してもよろしいでしょうか」
「お断りします。二度と会いたくありません」
「そうですね。片山さんに会った時も自分の歳を感じましたが、今日も、痛いほど歳を感じます」
陣内は最初の時と同じように深々と頭を下げて、席を立った。


56

四十九日の法要を済ませて、白石の遺骨を納骨した。選択肢はいくつでもあるというのは真っ赤な嘘だ。岐路に立った時の選択肢は、いつも一つしかない。片山が言ったように、全てを飲み込む道しか残されていない。現実として不条理な暴力が存在し、その暴力に苦しむ人が大勢いる。相馬園長のように、暴力を受けた被害者のケアーだけが人間に残された選択肢なのだろうか。恨み、憎しみ、痛み、後悔、無念、そして懺悔。諦めを道連れにして、苦しみを背負い続けていく人生のどこに価値を見出せばいいの。白石の愛に報いるためにと、自分自身を納得させようとしている自分自身の向こうに嘘が透けて見えている。本心は、もっと愛されたかった、もっと傍にいてほしかった。もっと、もっと、もっと。これって、我儘なの。白石の声が聞きたい、笑顔を見たい、体に触れていたい、一緒に生きていきたい。どうやって、飲み込めばいいの、教えて、求さん。


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海の果て 第2部の 3 [海の果て]


27

顔面に亜紀の蹴りを受けて腫れていた矢島の顔も元に戻ったころ、下校時の亜紀を柳沢が待っていた。
「工藤が退学した」
「そう」
「何もないか」
「別に」
「そうか、気をつけろ」
「それだけ」
「それだけ、心配じゃないのか」
「別に」
「お前、いつも、男前だな」
「なに、それ」
「俺にできることあったら、いつでも呼んでくれよ」
「柳原君に助けを求めるようじゃお終いでしょう」
「そういうな」
「もういい」
「ああ。じゃあな」
西川病院に寄ると、病室の中が大騒ぎになっていた。佳奈ちゃんは回復が認められて、四人部屋に移っている。その部屋ではしりとりゲームが流行していた。佳奈ちゃんは声を出せないので、紙に書いて参加していたが、全員が紙に書くゲームになっていて、子供たちにとっては新鮮なゲームとして受け入れられている。佳奈ちゃんも生き生きとした目をしていた。亜紀も参加させられて、ゲームは盛り上がる。無理矢理、看護師も仲間入りさせられてしまうこともあるらしく、そのうちに小児科病棟に蔓延するのではなかと心配されていた。
病室で少し遊びすぎて、京都システムに出社するのが遅くなっていた。コンピニで夜食のおにぎりを買って、亜紀は自転車を走らせた。
京都システムのビルが近づいた時に、前方に嫌な空気を感じた。亜紀は自転車を降りて、自転車を押してビルに近付いて行く。すこし暗さの増した道路に男が飛び出して来て、亜紀に突進してきた。右手に持っているのはナイフのように見えた。男が近づくまで待った亜紀は、自転車を男の前に投げ込んでおいて、後へさがった。自転車に足を取られた男が倒れたところで、男が手にしていたナイフを蹴った。ナイフは道路の向こうへ飛んでいき、男は自転車と格闘している。やっと自転車を乗り越えた男の胸元へ、亜紀の前蹴りが入り、男の体は自転車の上に頭から突っ込んでいった。男は攻撃を続けるべきか、逃げだすべきかを迷った。男が背を向けた時、背後から男の股間を亜紀の蹴りが襲い、男は悶絶した。亜紀は男の背中にさらに蹴りをいれて、男を蘇生させると、体をかする程度の蹴りを連発して、男をビルの地下駐車場へと追い込んだ。男は文字通り坂道を転がりながら逃げまくった。
「名前、教えて」
男は逃げる場所を探して、左右を見回す。大きく回転した亜紀の左足が男の顔面を捉え、男の体は壁のコンクリートに激突した。男がまた気絶したらしい。亜紀は男のズボンからはみ出している財布を取って、中を調べた。免許証によると、男の名前は市原智明で、生年月日から男の歳は二つ上の二十歳だった。亜紀は道路に置き去りにしてきた自転車を回収するために駐車場の坂道を登った。自転車を駐輪場に置いて戻ってきたが、男はまだ気を失ったままだった。柳原が心配していたのは、このことなのだろうか。確認はしておかなければならない。亜紀は壁にもたれて、男が立ち上がるのを待った。
「市原君、気がついた」
目を覚ました男が事態を把握するのには、すこし時間が必要だった。
「おまえ」
「そう。沢井亜紀を襲え、誰に言われたの」
「しらん」
「じゃあ。そろそろ警察に電話するよ。君のナイフも道路に転がってるし、女の被害者は有利だよね。襲われたと言えば警察は信用するから」
「・・・」
「男がナイフで女を襲う。傷害未遂か殺人未遂。たまたま逆襲されて、格好悪いけど、状況的に君は不利な立場だし、すぐには帰してもらえないと思うけど、いいの」
「・・・」
「誰に頼まれたのか言えば、このまま帰ってもいいんだけど」
「・・・」
「それとも、もうすこし、痛いおもいをする」
「くどう」
「えっ。だれ」
「工藤玲奈だ」
「なんて、言われたの」
「生意気だから、痛めつけろ、って」
「それ、変でしょう。じゃあ、あのナイフはなに」
「顔に傷つけてこい、って」
「そう、市原君は暴力団の組員さんなの」
「ちがう。ただの友達」
「沢井は危険な女だと、聞いてこなかったの」
男は首を横に振った。危険な女だと知ってたらやらなかったのにという思いが表情に出ていた。
「そうか。君もいいとこの坊ちゃんなんだ。警察に通報なんかされたんじゃ困る。そうなの」
男はコクリと頷いた。
「わかった。今日は帰してあげる。この免許証はしばらく預かるわね。ちゃんと返すから」
「すみません」
意気消沈の男は立ち上がって、亜紀に頭を下げた。
「もう、やめるように言っといて」
「はい」


28

亜紀の携帯から電話があり、会って相談したいことがあると言われて、求は京都システムに向かった。相馬由紀から、亜紀が保育園で生活を始めたことは聞いていた。独身寮の件で、少し強く言い過ぎたかなと心配していたところだ。何の相談かわからなかったが、独身寮のことなら須藤にまかせたら、うまくやってくれるだろう。近くまできたら電話をくださいと言われている。求は五条烏丸を過ぎたところで電話をした。
ビルの前で待っていた亜紀を乗せると、駐車場でいいと言う。
「すみません。誰にも聞かれたくない話なんです」
「わかった」
京都システムの駐車場はいつも空に近い。求は適当に車を停めた。
「どうした」
「はい。私、白石さんに頼りすぎてますか」
「気になる」
「はい」
「僕は、君を支えると、言った。何の問題もない」
「ありがとうございます」
亜紀が学校で起きた事件と若い男に襲われた事件の話をした。これ以上、騒ぎを大きくしないためには、どうしたらいいのかという相談だった。
「その生徒、工藤玲奈と言ったね」
「はい」
「多分、僕の知っている子だと思う」
「えっ」
「工藤開発という会社があって、そこの専務のお嬢さんだろう。こんな小さい時から知っている。だとすると、陣内組との関係もある。工藤開発というのは、うちと同業の不動産開発業で、京都ではトップ企業だ。不動産業は多かれ少なかれ暴力団と言われるところと関係があってね、僕も陣内組には知人がいる。うちは地味な不動産業だけど、工藤開発と陣内組とはもっと深い関係にあるだろう。だから、その何とか言う番長の心配は当たっているかもしれない。まだ陣内組が動いてなければ、終りにできるかもしれない」
亜紀の様子は落ち込んでいるように見えた。
「大丈夫。君は悪くない」
「すみません」
「世間ではよくあることだから」
「これ」
亜紀が差し出したのは免許証だった。市原智明という、襲ってきた男のものだと言った。求は免許証の住所を確認した。割烹「市原」の息子と思える。世間は狭いと実感した。心配しなくてもいい、と言って亜紀と別れた。
求は途中で車をとめて工藤高広の電話番号を押した。しばらく電話をしていないので、番号が生きているかどうかわからない。だが、すぐに工藤が電話口に出た。
「白石だ」
「どうした。久し振り」
「今日、一寸、時間とれないか」
「急ぎか」
「ああ」
「一寸、待て」
しばらく待たされた。
「六時半から、一時間ぐらいなら」
「すまんな、三矢でいいか」
「わかった。じゃあな」
求と工藤高広は高校の三年間、同じクラスだった。大学は違ったが、京都に帰ってきた時には二人でよく飲みに行った。お互い忙しくなって、飲みに行くチャンスは減ったが、五年前までは家族ぐるみの付き合いをしていた。
京都という町は不思議な町だと思う。都会でありながら、京都ほど村社会が残っているところはない。
求は六時に「三矢」に入った。京料理「三矢」の看板が出ているのはカウンター席だけの店で、看板のない隣の入口を入ると座敷のある「三矢」になっている。こみいった話なので、突き出しとビールを置いておいてくれればいい、と女将には伝えておいた。
六時半を過ぎて、求はビールを飲み始めた。工藤が時間通りに来たことはないので気にしない。七時前になって、やっと工藤がやってきたが、遅くなったことには触れることなく、手酌で飲み始めた。
昔から、お洒落には人一倍気を使う男で、ますます磨きがかかっている。多分、身につけているものを積算すると、一千万円を超えるのだろう。
「どうした」
「ああ、玲奈ちゃんのことで」
「玲奈のこと」
「学校辞めたのか」
「いや」
「ん」
「転校はした」
「そうか」
「俺は、最初から府立校は気に入らなかったんだ」
「どうして転校になった」
「どういう意味」
「転校の理由を知ってるのか」
「お前に言われることじゃないだろ」
「確かに、俺が知ってることは変だな」
求は七高での事件を簡単に話した。工藤は知らなかったようだ。
「だから」
求はポケットから免許証を取り出して、工藤の前に置いた。
「知ってるか」
「市原のぼんだろ」
「玲奈ちゃんの友達だろ」
「だと思うけど」
市原智明が亜紀をナイフで襲った事件を話した。
「玲奈ちゃんに頼まれたそうだ」
「一寸、待て。その沢井とかいう子は、お前のなんなんだ」
「卒業したら、結婚するつもりだ」
「結婚」
「ああ」
「高校生だろ」
「ああ」
「まっ、いいか。で、俺にどうしろと言うんだ」
「もう、終りにするように、玲奈ちゃんを説得して欲しい」
「子供の喧嘩に親が出るのか」
「そうだ。このままだと、玲奈ちゃんは陣内組に行くかもしれない」
「陣内組か」
「お前が首を突っ込まないなら、表に出すつもりだ」
「どういう意味だ」
「警察に持ち込む。大事になる前に」
「・・・」
「傷害未遂か殺人未遂。依頼者は玲奈ちゃんだ」
「おい」
「俺にとっては家族になる人だから、本気で守る」
「証拠はあるのか」
「男の子たちは、自白するさ。たとえ、証拠不十分で不起訴になったとしても記録は残るし、いじめ問題としてマスコミにも追われる。何一ついいことはないだろう」
「呼び出しといて、脅しか」
「わかった。お前とは長い付き合いだから、一応、声掛けとこうと思ってな。俺にやれることはやる。それだけだ」
「待てよ。何もしないとは言ってない」
「・・・」
「わかった。話をする」
「話をするだけじゃ駄目だ。説得してもらいたいんだ」
「わかった、わかった」
「陣内組にも話しといてくれよ。誰かが勝手にやった、と言う話もなしだ。この件はなめてかかるなよ」
「うるさい。やればいいんだろ」
工藤は勢いよく立ちあがった。
「高広。あの子には、白石の将来がかかってるんだ。お前ならわかるよな」
工藤は返事をせずに、部屋を出て行った。表面では強気な男だが、工藤の本質は気の弱い小心者であることを知っていた。
求は北京都ホテルのフロントに電話をして、「市原」本店の電話番号を調べた。割烹「市原」の本店は市原智明の父親が経営していて、料理人としても売出し中だった。そして祖父が、北京都ホテルに出店している。亜紀が取り上げた免許証の持ち主は本店の市原正明の長男で、求の記憶では大学生のはずだった。人混みに石を投げたら知人に当たるというのは、このことだろう。亜紀の事件の関係者が求の知人でもあることに、改めて驚いていた。
求はタクシーを拾って、嵐山に向かった。市原正明に電話で、直接自宅を訪ねる了解を取っている。京都はどこへ行っても観光地だが、町中に古くからの住宅街もある。夜でもあり、住宅街はしずかだった。市原家の自宅へは、何度かきたことがある。タクシーに一時間待つように言って、門を入った。
日本家屋なのに、応接間が洋間なのは、日本人以外の訪問客があるからと聞いている。畳の間なら二十畳ぐらいある広い洋間に案内してくれたのは、文子さんという年老いたお手伝いさんで、求のことを覚えていてくれた。
「すぐにお呼びします」
入れ違いに、市原智明がやってきた。顔の腫れはまだ引いていない。かなり痛めつけられたようだった。
「どうぞ、座ってください」
「ありがとう。僕のこと覚えてますか。多分君が中学生の頃だけど」
「はい。祖父がお世話になっています」
きちんと挨拶をしておくように父親に言われているのだろう。
「ずいぶん、やられたね」
「はい」
求は机の上に免許証を置いて、智明の方へ押しやった。
「まず、これを返しておく」
「えっ」
「沢井亜紀さんに預かってきた。君に返してくれと」
「はあ」
「あの子は、僕の婚約者なんだ」
もちろん、結婚の話も亜紀にはしていないし、婚約を承諾してくれているわけでもないが、智明にプレッシャーをかけておく必要があった。
「白石さんの」
「そう。歳は離れてるがね」
「すみませんでした。僕、知りませんでした」
「まだ、誰も知らない。さっき、玲奈ちゃんのお父さんに会って、そこで初めて言った。知ってるのは工藤と君だけ。このことはまだ他言無用にしておいてくれるかな」
「はい」
お手伝いの文子さんがお茶を持って部屋に入ってきた。
「やはり、文子さんのお茶は美味しい」
求は出されたお茶を一口飲んで、褒めた。前にも文子のお茶を褒めた記憶があり、本人もそのことは意識しているに違いない。文子は、恥ずかしそうに下を向いて、礼を言って出て行った
「今日来たのは、免許証を返すだけで来たわけじゃない。君にやってもらいたいことがある」
「はい」
工藤に話した内容を説明した。
「玲奈ちゃんが大人しくしていてくれれば、何も起きない。でも、なにか事件が起きれば、工藤にも言ったけど、表沙汰になる。そうなると、君は傷害未遂罪だ」
「仕方ないです」
「玲奈ちゃんも策士だけど、あの父親も策士なんだ。よく似てる。今日か明日には、君のところへ何か言ってくるだろう。その話は向こうにとって都合のいい話になってると思う。僕が、ああ言ったこう言ったと嘘の話もするだろう。だけど、君には君自身の判断をしてもらいたい。直接君の身に降りかかることなんだから」
「はい。ありがとうございます」
「ところで、どうしてあんなことしたの」
「自分でもよくわからないんです」
「こんな結果になることは、わからなかった」
「はい。今、考えれば当たり前のことなんですが」
「もし、君が警察で取り調べを受けたら、お父さんも先代も嘆くだろう」
「はい。でも、仕方ありません。僕かやったことですから」
「ん」
「もう、逃げたくないんです。僕は、今まで、逃げて、逃げて、ばかりでした。大学に入学したのも逃げでした。何もすることのない学校で、どこへ逃げればいいのかもわからなくなってました。店を継がなくてはいけないことはわかってましたが、逃げました。あの子に殴られ、蹴飛ばされていた時、初めて逃げ場のなくなっている自分を知ったんです。僕は彼女を一発も殴れませんでした。多分、指一本も触れていないと思います。何度も何度も蹴られて、倒れて、死ぬかもしれないと思いました。僕が襲った相手は、年下の女の子なのに、地面に這いつくばっているのは僕だったんです。情けないけど、家に帰ってから、ずっと泣いていました」
「そんなに、すごかった」
「はい。気がつくと地面に倒れてました。でも、彼女は何も悪くありません。僕は警察に行きます」
「そうじゃない。自首しろと言いに来たんじゃない。悪い方向に向かうかもしれないから、覚悟だけはしておいて欲しいと思っているんだよ。彼女も表沙汰にしたいとは思っていない。いいか、工藤父娘は悪あがきをすると思う。玲奈ちゃんが陣内組に頼んで、組員があの子を襲ったとする。やられるのは組員の方だろう。その時点で玲奈ちゃんは関係なくなる。組員の面子と沢井亜紀の戦いになってしまうんだ。大騒ぎになる。始まりは、玲奈ちゃんの我儘なんだ。これ以上、騒ぎを大きくしたくない」
「僕は、どうすれば」
「大人になる時だと思う。嵐が過ぎ去るのを待つのも大人の知恵なんだよ。これは、逃げと違う。腹の中に覚悟さえあれば、逃げじゃなくて我慢だと思う。表沙汰になった時に、腹を切ればいい。君に覚悟があることを知れば、工藤も諦めるしかない」
「はい」
「ありがとう。わかってもらえて助かった」


29

二日後に、求は市原智明の携帯に電話をした。
「工藤から、何か言ってきた」
「はい。昨日、工藤のおじさんが来ました。僕は警察へ行ってもいいと言うと、驚いていましたが、そのまま帰りました」
「そう。ありがととう」
「いえ。とんでもありません。白石さん、僕、大学辞めることにしました。親父の下で、見習から修行を始めようと思っています。白石さんと話ができて、逃げの人生やめる決心ができました。というか、あの沢井亜紀さんに叩きのめされて、正面から自分を見ることができたのかもしれません。今は、すごく気持ちが楽なんです。でも、僕、根性なしだから、また、逃げたくなるんでしょうね」
「その時は、沢井亜紀を紹介するよ」
「それは、勘弁してください」
「がんばれよ」
これで、工藤が観念してくれたら、騒ぎが治まる。そして、一人の青年が新しい人生に立ち向かってくれそうだ。
求は工藤の携帯番号を押した。
「白石だ」
「ん」
「どうだった」
「もう、お終いにするそうだ」
「よかった」
「切るぞ」
工藤は一方的に電話を切った。人間は変われないものだと思う。工藤の根性の無さは、昔と変わっていない。引退できずに社長を続けている工藤の父親が気の毒だった。
求は亜紀の携帯にメールを入れた。


30

土曜日の十一時に迎えの車を保育園の駐車場に用意するので、北京都ホテルまで来てほしい、と言うメールを受け取った。用件は工藤玲奈の件となっていた。
事件がエスカレートしていく危険を感じて、亜紀は白石に相談せざるをえないと思ったが、事件の発端からの自分の行動に問題はなかったのかと自問していた。白石に頼るのではなく、自分自身でこの事件を終わらせることはできなかったのか。柳原たちに襲われて、あの教室で五人の男子に輪姦されたらよかったのか。空手という武器を持っていたことが、事件を終わりにしなかった原因だろう。大河原先生が「空手を捨てろ」と言ったのは、このことが想定できたからなのか。どんな仕打ちを受けても、どんな犠牲を強要されても、甘んじて受けて、そこから立ち直れと言うのか。そんなことができるのか。男の暴力に蹂躙されて、泣き寝いりするのが女の生き方なのか。自分を守ったことが、間違いなのか。不条理な問が次々と出てくるが、断定できる答えがない。今までの自分であれば、自分のやったことに疑問など持たなかった。明確に正しいことをしたという自信があった。たとえ、事件がエスカレートして、争いが争いを呼び、命のやり取りになったとしても、自分の気持ちにブレはなかっただろう。
今は、答がない。
こんな面倒を持ち込まれて、白石はどんな思いなのか。私を支えてくれると言ったことを後悔しているのだろうか。そもそも、白石はどうしてここまでやってくれるのか。佳奈ちゃんの友達になることが、そんなに重大なことなのか。わからない。
自分の人生が切り開けるかもしれない、と思い始めたために、何かが狂ったのか。たしかに、余りにも簡単に道が見えてきた。そんなにうまくいくはずはない。やはり、また、奈落の底に落ちるだけなのか。プログラムが少しうまくいったから、舞い上がってしまい、自分を失っているのか。
考えれば考えるほど、迷路に入り込んでいく。
十一時少し前に駐車場に行くと、タクシーが一台止まっていた。運転手が降りてきて、亜紀の名前を確認してドアを開けてくれ、暗い気持ちのまま、ホテルに着いた。
「おかえりなさいませ」
ホテルの玄関で礼儀正しい社員が亜紀を迎えてくれたが、笑顔を返す余裕はなかった。
制服姿の女子高生は目立つのか、フロントに近付くと、年配の社員がやってきた。
「沢井さま、ご案内します」
「はい」
一度来たことのあるレストランに案内された。椅子を引かれたので、会釈して座ったが、すぐに白石が姿を見せたので、亜紀は立ち上がった。
「ちょうどいい。紹介しときます。ここの総支配人をお願いしている望月さんです。望月さん。この人がお話した沢井亜紀さん」
「望月です」
「沢井です」
「ホテルのことなら、僕がいなくても、望月さんに言えば大丈夫だから、覚えておいて」
「はい」
「なんでも、言ってください」
「ありがとうございます」
白石の顔を見て少し気持ちが楽になった。望月が去り、白石と二人になると、安心感が増した。
「工藤玲奈の件。一応の話はついたと思う。玲奈ちゃんは小さい頃から我儘しほうだいだったから、どこまで納得したのか、少し心配だけど、たぶん、大丈夫だろう。市原智明君は、後悔していた。自分で警察に出頭してもいいと言ってくれている。市原君が覚悟を持っていれば、工藤親子も動けないと思う」
「すみません。本当にすみません」
「そんなことない。いいこともあった。市原君は料理屋の跡取り息子でね、二十歳になるのに、まだ決心かついていなかったらしい。それが、今回の件で自分の迷いに決着がつけられたと言っていた。青年が一人、自分の道を見つけることができた。これはうれしいことだと思っている。あの子のお祖父さんから礼を言われた」
「すこし、やりすぎました。最初、陣内組の関係かと思って」
「いや。肉体的に窮地に追い詰められたことが、彼の役に立ったようだ。気持ちがぐらついたら、君に会わせてあげる、と言ったら、勘弁してくれと言ってた。あの子にとっては、最初で最後の経験だろうな」
昼食だから、軽めのものということでサンドイッチと紅茶を頼んでくれた。
「あの」
「ん」
「一つ、聞いてもいいですか」
「いいよ」
「私がやったこと、間違ってたのでしょうか」
「それは、ない。ただ、世間には、逆恨みや自分勝手は、どこでも起きている。それだけのことだよ。気にすることない」
「でも、白石さんにやってもらわなければ、もっと大変なことになってたと思うんです。自分で決着をつける力もないのに、私も自分勝手をしたんじゃないかと」
「一人で生きてる訳じゃない。他人の手を借りてなにが悪い。あんな連中に一人で立ち向かう方が、無茶なんだよ」
「でも、白石さんはどうして、そこまでやってくれるんですか。私が佳奈ちゃんの面倒を見てるからですか」
「そのことを、今日、話そうと思って来てもらった」
「はい」
「食事が終わったら、話そう」
サンドイッチの味はよくわからなかった。食事が終わり、求の事務室に行くと、日本茶の用意がされていた。亜紀は二人分のお茶の用意をした。
「実は、この話はもっと先でしようと思ってた。工藤の件があって、今日話すことになった。結論から先に言うけど、僕と結婚してもらいたい」
「・・・」
「藪から棒ですまない。断ってくれてもいいけど、僕の話を聞いてからにして欲しい。いいだろうか」
「・・・」
亜紀は頷くことで返事をした。思いもよらない白石の言葉だった。
「本来は、二人がお互いに好きになって、一緒に居たいという思いで結婚する。そういう意味では、不純な動機だと思っている。前にも、すこし話したかもしれないが、株式会社白石という、何もしていない会社がある。このホテルも京都システムも、白石不動産もその株式会社白石の子会社になっている。僕はこの全ての会社を運営する責任を負わされている。白石という家は古くからある家で、後継者は必ず一人と決められている。兄弟がいても、養子に出される。本家を継いだものには、あらゆる権限が与えられているが、一族に対する責任も義務づけられている。権限の中には、全ての事業を解散させる権限も含まれているから、何が何でも後継者ということではないが、大勢の人たちの生活を考えると、白石を継続させたいと思う。僕は、五年前に事故で妻と後継者になる息子を亡くした。しばらくは解散のことしか考えなかった。一族の中に、白石を継いでくれる人がいれば、それが一番なんだけど、それを託せる人がいない。ところが、一年半ほど前に、偶然片山君に会った。この前、東京で紹介したあの青年だ。僕は、直感的に、この男なら白石を託せると確信した。だから、危ない橋も渡った。警察庁の庁舎の中で立ち往生していた片山君を、うちの社員だと言いきって、連れて帰った。だが、彼はすでに法律から外れた生き方をしていた。彼には彼が責任を持たなければならない人たちを抱えていて、仕事を放棄する訳にはいかないと断られた。片山君が持っていたオーラのようなものに、僕は相馬保育園で出会った。それが、亜紀さん、君だ。女の子だけど、君ならやってくれると感じた。最初は君を養女にしたいと思ったが、叔父に相談したら、結婚したら、と言われた。そして、今回、工藤との話し合いの中で、僕は君を婚約者だと宣言した。僕の跡を継いでもらいたいと思っている人のトラブルは僕にとってもトラブルなんだという覚悟を見せておきたかった。他人には宣言しておいて、本人に知らせないという訳にはいかないので、今日話すことにしたんです。それと、最初に動機が不純だと言ったけど、君のことを大事にしたいと言う気持ちは、僕の中に純粋にあると思っている」
「待ってください」
亜紀は混乱を解消しようと思っていたのに、それ以上の混乱を白石は持ち出してきた。返事のしようがない。
「びっくりするような話で、ごめん。でも、すこし、考えてくれないだろうか」
「でも」
「もちろん、今、返事を欲しいとは言わない。卒業するまでに決めてくれるとありがたい」
「私が、お断りしたら、京都システムでの仕事は」
「それは関係ない。京都システムにとって、すでに君は必要な人材だよ。でも、どうやって断ろうかと考える前に、やってもいいかどうかを考えてくれないか。強引を承知で言ってる。ぜひ、お願いしたい」
たしかに強引だ。こんな白石は初めて見る。
「ともかく、今日は帰らせてください」
「怒らせてしまった」
「そんなことありません。でも、帰ります」


31

どうしょう。
答えの出ない日が続いている。眠れない夜が続き、授業も、京都システムの仕事も満足に出来ていない。睡眠不足のせいか、足元もふらついているような感覚だった。鏡に映った自分の顔が、疲れきった顔に変わってきた。白石の話を聞いてから二週間が過ぎた。
土曜日の夜になって、食堂の奥にある相馬園長の部屋へ行った。
「どうぞ」
ドアを開けて、部屋に入る。園長は机で書き物をしていた。
「よろしいでしょうか」
「亜紀さん」
亜紀は頭を下げた。
「大丈夫じゃ、ないようね。座って」
「はい」
「何か飲む」
「いえ」
「そう、私、喉かわいちゃった。お茶でいい」
「はい。すみません」
園長はお茶の用意をして、湯沸かしポットのスイッチを入れた。
「なにが、あったの。最近の亜紀さん、いつもの亜紀さんと違う。やっと来てくれたのね」
「はい。どうしていいか」
「話してみて。私にできることがあれば」
「はい」
亜紀は、学校での事件とナイフ事件のことを話した。
「そんなことがあったの。香織ちゃんは何も言ってなかったわ」
「多分、他の人は、誰も知らないと思います」
「ひどい、話ね」
「白石さんに相談しました。暴力団が来たら、私の手には負えなくなると思って」
「そうね」
白石と工藤が知り合いだったこと、ナイフで襲ってきた市原という男も白石の知り合いだったことと、話し合いがうまくいったことを話した。
「よかった。問題は解決したのね」
「はい。そのことを聞きに、白石さんのホテルに行きました」
亜紀は、下を向いて黙ってしまった。
「で」
しばらく亜紀の話を待っていた園長が言った
「そこで、白石さんに、結婚してくれ、と言われました」
「えっ。結婚って言った」
「はい」
「そう」
「工藤玲奈のお父さんに、私が白石さんの婚約者だと説明したそうです。だから、話しておきたいと」
「それは、相手を説得するための方便」
「そうなんでしょうか。白石さんは、私を、最初、養女にしたいと思ったけど、誰かと相談して、結婚になったと言ってました」
「ちょっと、待ってね。結婚の話は、説明の中に入ってるの。それとも、別の話なの」
「わかりません」
「そう。もう少し、詳しく話して。どういう順序でそうなったのか」
園長の質問に答え、あの日のことを思い出しながら話した。
「求さんは、いえ、白石さんは、亜紀さんと結婚したいと思ってるようね」
「そうなんですか」
工藤玲奈の父親への話の中身だったら、悩みは解消する。そうであれば、どれほど楽か、と思った。
「それで、亜紀さんは」
「帰って来ました。びっくりして」
「それで」
「どうしていいのか」
「そう」
「私、白石さんと結婚できるような、そんな人間じゃありません。父親もわからない私生児で、ひどい母親で、貧乏で、育ちも悪く、決して性格がいいとは言えません。白石さんみたいな立派な人に、そんなこと、無理です」
「断りたいの」
「出来れば」
「断れない」
「どう、断れば」
「そうね。亜紀さんが、今、一番信頼している人が、白石さんなんでしょう」
「はい」
「そんな、白石さんを、困らせたくない」
「はい」
「そうよね。それで、食べれないし、眠れない」
「はい」
「断らなければ」
「えっ」
「白石さんとの結婚は絶対できないの」
「そんな」
園長はお茶を入れるために立ち上がった。
「あのね。白石さんが言った、あなたのオーラ、私も感じてたの。初めてあなたと会ったとき。お茶どうぞ」
「はい」
「私の妹が、白石さんと結婚していたこと、知ってるわね。事故で亡くなってしまったけど」
「はい」
「後継ぎになる、仁君も」
「はい」
「白石さんは、すこし、家のことが先にきてる。亜紀さんを一人の女性として、尊重することを忘れてる。白石さんらしくない」
「・・・」
「真紀が、妹の真紀が、いつも大変だと言ってた。白石の家長になることが。仁君が可哀そうだと。だから、今の白石さんも大変なんだと思う。でも、一番考えなければならないのは、あなたの気持ちだと、思う。そんなことのわからない人じゃないのに」
「私の気持ち」
「ええ。ところで、亜紀さんは、結婚をどう思う。一般的な意味での結婚」
「考えたことありません」
「まだ、若いものね。でも、夢とかない」
「ない、と思います。自立はしたいと、ずっと考えてきましたが、その中に結婚は入ってませんでしたから」
「好きな人は」
「そんな人いません」
「今までに、一人も」
「はい。そんな生活じゃありません」
「そうね」
「白石さんのこと、異性として見てない」
「もちろんです」
「お父さん」
「こんなお父さんなら、と思ったこと、あります」
「亜紀さん。時間、かけてみない」
「時間」
「ええ。仮によ、結婚するとして、何が問題になるのか、考えてみない。あなたが、感じているのは、こんな私と、でしょう。それ以外に何か障害がある。歳が離れていること。それとも、動機が不純なこと。白石さんのこと、嫌い」
「いえ」
「歳の差」
「いえ」
「不純な動機」
「いえ」
「こんな自分」
「はい」
「でも、白石さんは、百も承知で言ってると思う。身も蓋もないかもしれないけど、愛だ恋だで、あの人と結婚しても、うまくはいかないと思う。白石さんが家を、家長の責任を放棄するなら、できるけど、多分、白石さんには、そんなこと無理ね。もし、亜紀さんが、自分の気持ちを整理することができれば、二人の結婚、私は、賛成よ」
「・・・」
「白石さんは、あなたを後継者にしたいのよ。最初は養女にしたいと思ってたんでしょう」
「そう言ってました」
「結婚というのが、少し飛躍しすぎなんだけど、あなたなら、白石の家をなんとかしてくれると思った。乱暴な話よね。妻と養女では」
「・・・」
「だから、少し時間をかけましょう。亜紀さんの自立に結婚という選択肢が入れられるかどうか」
「はあ」
「食べるもの食べて、ちゃんと眠って、健康体で考えてみるの。どうしても、断りたいという結論が出たら、私が話してもいい。どう」


32

相馬由紀から、亜紀の件で話があると電話があった。結婚の話をして、亜紀が怒ったように帰ってしまってから、求も苦しい毎日を過ごしていた。もう一度、話をやり直そうと思い、何度も電話に手をやったが、電話はできなかった。相馬由紀に様子を聞けばよかったのに、そんなことも思いつかなかった。だから、由紀からの電話には助けられたような思いがある。保育園でない場所で話をすることになり、「三矢」の予約を取った。
「ここに来るの、久し振りだわ」
「そうですね。何年も前です」
「求さん。今日は、私、抗議に来たのよ」
「はい」
由紀は全くアルコールには手を出さないので、料理には腕を振るってくれるように頼んでおいた。
「亜紀さんから、話を聞いたわ。あの子、食べないし、眠れなかったようよ。ふらつく足で私のとこへ来た。あの子も、普通の人だったんだ、と思ったの」
「すみません。僕の言い方がまずかった」
「その通りよ。求さんに対する信頼は、あの子にとって、何事にも変えられないほど大きなものだから、どう断ればいいのか、苦しんでいたの」
「断る」
「そうよ。あの子は断るつもり、だった。なぜだか、わかる」
「・・・」
「歳の差も、求さんが言った不純な動機も、断る理由には入っていないわ。自分が求さんに相応しい人間ではないことが、断る理由なの」
「どうして」
由紀は亜紀が言った言葉をできるだけ忠実に再現して話した。
「そんなこと、断る理由にならないでしょう」
「あなたは、仕事をしている時は、本当に優秀だと思う。でも、女の気持ちのことは、全くわかっていない。あの子のこと、女の子だとわかってないんじゃないかと。養女なら、まだ許せるかもしれないけど、結婚となると、それではすまない。私までが、腹立たしくなってしまったわ。いい、女は時間をかけて、少しづつ、順を踏んで、あたかも、二人で出した結論なんだと思えるような、そんな錯覚が欲しいの。特に結婚に関してはね。亜紀さんは、男前だから、普通の女の子とは違うでしょう。でも、いくらなんでも、突然すぎると思わない。事務連絡じゃないのよ」
「ええ。それは反省してますよ」
「あの子には、あなたと出会えたこと自体が夢のような話なの。仕事を世話してくれて、いろんな相談に乗ってもらって、本気で、信じてもいい人に初めて出会えたの。二人の信頼関係は、一日でできたの。あの子は、恐る恐る手探りで進んできた。求さんは、そんな亜紀さんを待っててあげたじゃない。あの子の凍りついていた心を開いてあげたのは、求さんの気遣いがあったからでしょう。その信頼を壊したいの。亜紀さんは、二人の信頼を壊すことが一番怖いの。もう、昔の自分には戻りたくないと思っているはずよ。だから、眠れないほど苦しいの。あの子の才能が白石の家には、必要なんでしょう。もし、あの子が心を閉じてしまったら、求さんの手では、二度と開けられなくなるの。わかる」
「わかります」
「だから、亜紀さんには、時間をかけてみましょう、と言ったの。断る理屈を見つけるんじゃなく、自分が一番大事にしている、自立、のために、結婚が自立の一つの選択肢にならないかどうか、考えてみましょうよ、と言ったの。それでも、断りたい時は、私が話してあげるから、と言いました」
「ありがとうございます」
「どなたのアイデアなんでしょう。この結婚の話」
「石井の叔父です」
「この話を聞くまで、想像もしませんでした。でも、とてもいい話だと気がついたの。真紀もきっと喜んでくれます」
「由紀さん」
「真紀は、とても心配してました。白石の家のこと。たぶん、心苦しい思いだったと思う。仁君まで。だから、求さんが、結婚し、後継者ができれば、安心すると思ってるの」
「由紀さんに、そう言ってもらえると、ありがたいです」
「求さんも、真紀も、いろいろな関係の人も、亜紀さんがやってくれれば、助かります。もちろん、私も。だから、亜紀さんの気持ちは大事にしなくては、と思います。亜紀さんにとっても、いいことでなくては、この話は成り立ちません。求さんに、私、偉そうなこと言ってる。あなたなら、聞いてくれると思うから」
「もちろんです」
「しばらく、亜紀さんに時間をあげてください」
「そうします」


33

相馬園長に相談したことで、気持ちが落ち着いた。決して問題が解決した訳ではないが、考えるゆとりはできた。園長先生が言ってくれたように、時間をかけて考えてみようと思った。
仕事の方も軌道に乗り始め、佳奈ちゃんが退院してきて、亜紀の生活は元にもどった。でも、薄氷の上を歩いていることに、変わりはなかった。白石との関係を断てば、一からの出直しになる。たしかに、怖いと思えば怖い。でも、失うものが何もなかった頃に戻れば、どうにでもなるだろう。自分に嘘をつけば、どこかで破綻することも想像できる。かと言って、我儘を言いつのるほどお譲ちゃんではない。だれの問題でもない、亜紀自身の問題だと言うことが、今はよくわかっている。白石にふさわしい人間ではないという言い方が、偽善だということにも気づいている。相手のことを考えているのではなく、持てるものを失うのが怖いだけ。この数か月で、余りにも多くのものを、手にしすぎた。
自分の母親が結婚して、家族を作るという人並みの生活をしている訳ではないので、結婚に対する具体的なイメージはない。
考えが行き詰ると、そのことは次の日に持ち越すことにしている。食べることと眠ることを優先しているので、随分楽になった。
十一月になり、さすがに秋の匂いがする。ケーキのおじさんとしての白石は保育園に来ているようだが、平日は夜遅くまで京都システムにいるので会わずじまいだ。最近、なぜか白石に会いたいと思っている自分がいた。
土曜日に、佳奈ちゃんと昼食を済ませて、京都システムに向かった。
七条通りで自転車を停めて、白石の携帯に電話を入れた。
「沢井です」
「おう」
「すみません、勝手して」
「いや」
「お会いできませんか」
「今、どこに」
「京都システムに行く途中です」
「わかった。三十分で行ける。京都システムの前でいいかな」
「はい」
白石とは、一か月以上会っていなかったが、自然な気持ちで話が出来てよかったと思った。自動販売機でお茶を二本買った。
三階に行って、久保田に休ませてもらいたいとことわった。ほんとに久保田はしゃべらない。首を縦に振っただけで、もう画面に目をやっている。自分の席で背中のバッグを降ろして、リストと参考書を入れ、三階を後にした。
三十分と言っていたが、三十分は経っていなかった。
「早かったですね」
「ん」
亜紀は荷物を後に置いて、シートベルトをした。
「久しぶりに、神戸に行こうか」
「はい」
やはり、白石の横にいると落ち着ける。いつものように、なにも話さなくても、自然な時間が過ぎて行く。
車は高速道路に乗った。
「運転、大丈夫ですか」
「えっ」
「いつもと、少し違うみたい」
「そうか」
白石は肩を上下に動かして、緊張をとる仕草をした。
六甲山頂に着くまで、二人は何も話さなかった。白石も落ち着いて、いつもの白石らしい運転だった。
車が停まったので、亜紀はお茶のペットボトルを一本白石に渡した。
「この前、ホテルから勝手に帰ってしまって、ごめんなさい」
「いや。僕が無茶な話をしたから。すまないと思っている」
「びっくりしてしまって」
「相馬園長に、こっぴどく叱られた」
「そうだったんですか」
白石と園長が話し合ったことは知らなかった。
「なぜ、私なんです」
「んんん。僕の直感としか言えない」
「その直感が外れていたら、どうするんですか」
「それはそれで、どうもしない。ただ、僕は自分の直感を信じてる。直感にも大小というか強弱のようなものが、自分なりにあるんだけど、確信に近い直感で外れたことはない」
「私は、白石さんに相応しい人間じゃない、と今でも思っています。あまりにも違いが大きいとは思いませんか」
「確かに、生きてきた環境は違う。でも、なぜ、それが問題なのかわからない。僕は、もういい歳だ。君の全てを受け入れることのできるほどの年寄だと思ってる」
「年寄なんですか」
「そう。それに、全てではないけど、君の生き様は聞かせてもらっている。心配はしていない」
「私、劣等感の塊なんだと感じました。ただ、私の劣等感が白石さんの申し入れを断る理由にならないことはわかってきました。お断りの理由を必死に探していたのは、自分に失うものがあるからなんです。白石さん、園長先生、京都システムの先輩、そして今の仕事、すべて今までに持っていなかったものです。失うのが怖かったんです」
「結婚すると、失ってしまう」
「はい。すぐにそう思いました」
「どうして」
「わかりません。わかりませんが、たぶん、私が自分族の一員だと思うからです」
「自分族」
「自分さえよければ族です。白石さんも園長先生も誰かのために、何かをしようとしてますが、私と私のまわりにいるのは自分族なんです。大河原道場の先生と奥さんは違います。この前、東京に行った時に大河原先生を誤解していたことを知りました。私を養女にという話があったこと、話しましたよね。その時、法外なお金を要求されて断念したことを、奥さんから、初めて聞きました。母がそう言ったのか、男に言わされたのかはわかりませんが、そんなことをする親なんです。自分で育児放棄をしておいて、自分さえよければよかったんです。だから、私は生きている世界が違うと思っているんです」
「じゃあ、君はどうして、佳奈ちゃんの力になってあげているのかな。誰かのためだと思うけど」
「違います。最初は相馬先生に取り入るためでした。その後、白石さんに、よく思われたいという打算が加わりましたが、結局、自分のためでした。ひどい人間です。私、母のこと大嫌いです。でも、私も母と同じ自分族なんです。こんな私が、白石さんを騙して結婚しても、うまくいくはずありません。その時は、私、全てを失ってしまいます。それが怖かったんだと思います。昔の私には、失うものがありませんでしたから、怖いものはなにもなかったんですが」
「君のやっていることが、相馬園長や僕の関心をえるためだと言ったが、そういう野心が全くないとは言わないが、それだけではないと思っている。なぜかと言うと、本人が隠していたとしても野心は見えてしまうんだよ。特に僕のような立場にいると、僕に寄ってくる人は必ず野心と二人づれで来るものなんだ。よく見える。もっとも、僕はその野心が見えていないふりをしているが、実によく見えるものなんだよ」
「じゃあ、母がお金を出せと言ったら、どうします」
「もう、君は子供じゃない。お母さんは言わないと思う」
「もし、言ったら」
「悪いけど、僕は出さない。君をお金で売り買いしてはいけない」
「じゃあ、私が、お金くれなければ、結婚しない、と言ったら」
「君は、言わない。そんなこと、自分が一番わかっている。そうだろう。でも、どうしても、断るために、そういう策をとるとすると、僕はかなりダメージを受けると思う。君がお金を要求してまで、この話を断りたいのなら、仕方ないけど、できれば、その策は止めて欲しい」
「ごめんなさい」
「君のプライドは、君にそんなことさせない」
「はい」
「どうして、そこまで自分を追い込む」
「わかりません。園長先生は、白石さんが求めているのは、後継者なんだと言ってました。白石さんも動機が不純だという言い方をしました。でも、私にそんな大役が務まるんでしょうか。その壁がどうしても乗り越えられないんです」
「本人を差し置いて、言うのも変だけど、君にはその力がある。僕の直感を信じてみては」
「私、白石さんを信頼してますし、白石さんといると気持ちが楽なんです。だから、白石さんと一緒に生きていけたら、嬉しいです。私にとっては夢のような話なんです。でも、自分のこと考えると、ブレーキかかってしまうんです。もう少し、時間もらってもいいでしょうか」
「もちろん。でも、考えすぎて体を壊さないようにしてくれないと、また園長に叱られます」
「はい」
「さっき、佳奈ちゃんのこと、園長に取り入るためだったと言ったよね。ほんとは、どうして」
「小さな手です。佳奈ちゃん、私の手を握って離さなかったんです。佳奈ちゃんの手から、悲しみが伝わってきたんです。自分の小さい時を思い出して、あの小さな手を振りきれませんでした。そして、談話室で光の洪水を見た時に、佳奈ちゃんの友達になってもいいと思いました」
「光の洪水」
「ええ、川面が太陽の光でキラキラ光っていたんです。佳奈ちゃんが教えてくれました。それまでの私、自分のことで精一杯で、誰かの力になれるのは、ずっと先のことだと決めてました。でも、光の洪水の中で佳奈ちゃんと二人でいると、仲間のように思ってしまったんでしょうね。私に何ができるか。子供にとって、どこまででも信頼することができる人に出会うことは救いなんです。ほんとは、親がその役目をしてくれるのですが、あそこにいる子供は、その親に裏切られた子供たちなんです。私は大河原道場の先生や奥さんに助けられました。そういう存在になれればな、と思いました」
「光だったんだ」
「はい。今でも、あれは大好きです」


34

亜紀は神戸から帰って来て、相馬園長の部屋を訪ねた。
「今日、白石さんと会って来ました」
「そう」
「もう少し時間をください、とお願いしました」
「そう」
「園長先生、白石さんに話してくれたんですね」
「ごめんね。黙っていて」
「いえ。ありがとうございました」
「断ったんじゃないのね」
「はい。まだ」
「亜紀さんの中で、なにが問題なの」
「ええ。私が後継者になれるのかどうか、どうしても、そんな、だいそれたこと、納得できないんです」
「白石さんは、なんて」
「直観だと。白石さんの直感を信じてくれと」
「そう」
「だから、もう少し、よく考えてみます」
「亜紀さん。無茶、言っていいかしら」
「えっ」
「やめとく」
「いえ」
「いい」
「はい」
「亜紀さん、結論の出ない結論を出そうとしてるように見える。将来のことは、誰にもわからない。若い人には、自分の才能も読み切れない。だって経験がないんだもの。やってみることによって、出る結論もあるし、わからないことだらけだと思う。私、この歳で、まだ試行錯誤。だから、結論出さなくても、いいんじゃないの。亜紀さんにとって、未知の領域でしょう。白石さんを信じて、黙って飛び込んでしまう。それでいいんじゃないのかしら。白石さんは、必ず、あなたを守ってくれると思う。無茶、だと思う」
「わかりません」
「覚悟しかないと思うの」
「覚悟ですか」
「ごめんね」
「いいえ」
「白石さんのこと、きらい」
「いえ。好きです」
「一緒にいると、楽しい」
「楽しい、と言うより、安心です」
「安心」
「はい。ホッとします。二人とも何もしゃべらないことがあるんですが、そんな時、いいな、と思います」
「結婚ということに、抵抗ある」
「わかりません」
「結婚して、夫婦になれば、セックスするわね。そのことが負担に感じてる」
「わかりません」
「あなたにも、大きな傷があるわよね、そのことが障害になってると思う」
「全くない、とは言えませんが、やはり、後継者になれるのかが、一番心配です」
「今までに、事故以外の体験は」
「ありません」
「酷なこと、言うようだけど、考えてみて。たぶん、自分で意識していなくても、避けて通ってると思うの。ここの子供たちも、そのことが、私、一番心配なの。でも、現実にそうなるの。このことは、誰の助けも役にたたない。自分で乗り越えることしかできないと思ってる。できれば、心の準備は、ひそかに、でいいけどしておいて欲しいのよ」
「・・・」
確かに、結婚すればセックスの問題があることは、頭で理解しているが、隅の方へ押しやっているかもしれない。
「私が、なぜこの仕事をしてるのか、亜紀さんにも知っておいて欲しい。確かに、乙女チックな理由なんだけど、どうしても、抜けられないの。中学の親友が自殺したの。その子とは小学校も一緒、家も近くだった。原因が父親の性的暴力だったの。その父親は、その子の母親に対しても日常的に暴力を振るっていた。外で、他人に対しては、ごく普通の礼儀正しい男性だったけど、家の中では妻と娘に暴力を振るっていたのね。その子のお母さんが、私にそっと渡してくれた日記で知ったの。その親友が日記の中で私に話しかけてるのよ。私、悔しかった。日記の中で話をしてくれるのなら、どうして言ってくれなかったのか。中学生の私が、そのことを聞いたとしても、解決はできなかったけど、死なないで欲しかった。私、大学を卒業して、セーフハウスの仕事についた。暴力から逃げるための、駆け込み寺ね。大人の女性と一緒に子供も逃げてくるけど、逃げるに逃げられない子供たちがいるのを知って、子供の駆け込み寺を作るように運動もしたけど、実現は難しかった。自分でそういう施設を作るお金はないし、役所は決められたことしかしてくれない。結婚して京都に来ていた妹に、そんな不満をぶちまけたの。そしたら、妹のご主人が、相談に乗ると言ってくれた。その人が白石さん。民間の経営に行き詰っていた保育園を買い取ってくれて、自由に使いなさいと言ってくれた。だから、ここは、最初普通の保育園だったの。性的暴力を受けた子供を受け入れ始めると、逆に普通の園児はいなくなっていった。親御さんは影響があると思った。仕方ないわね。二階を改造して、建て増しもして、今の形になったの。セーフハウスで仕事していた時に、逃げてきた母親と娘さんがいて、娘さんも父親の性的暴力を受けていたんだけど。セーフハウスは一時避難場所だから、出て行くのね。何年か経って、その子が逃げ込んできたの。父親の暴力ではなく、恋人の暴力だと言ってね。でも、よく話を聞いてみると、暴力じゃなくて、その子のセックス恐怖心だったの。どうしても男性を受け入れられないのね。二年ほど経って、その子から結婚しました、という手紙をもらった。前の恋人とは別の男性だったけど。嬉しかった。自殺した中学の親友に、話してあげたかった。すごく、難しくて、繊細な問題なのね。セックスは。だからこそ、正面から向き合う必要があると思ってるの。ごめんね。こんな突っ込んだ話をして。でも大切なことだと思う」
「園長先生。もう少し、時間かけます」
「そうね」
「先生。私、怖いんだと思います。半年前は、こんなこと想像もしませんでした。雨が降って、野口さんとこの保育園に来て、佳奈ちゃんに会って、先生に会って、白石さんです。こんなによくしてもらって、私のことで心配してくれて、助けてもらって。出来すぎだと思っても仕方ないですよね。この半年でなにもかも変わってしまった。いいことに慣れてないんです」
「ええ。でもあなたなら、大丈夫よ」


35

クリスマスが近づいてきた。子供たちはパーティーの準備で忙しく、騒々しさは倍増していた。ケーキのおじさんは、年に一回サンタのおじさんになり、暮れには餅つきのおじさんになるのだと園長から聞いた。神戸で会って以来だ。白石に会えるクリスマスが楽しみだった。
土曜日は、洗濯をして、部屋の掃除をしてから、バイト代で最初に買ったアイロンで、制服にアイロンをかけた。
ドアをノックする音がして、「園長先生が呼んではる」という隣室の春花ちゃんの声が聞こえた。
「ありがとう」
園長は食堂ではなく、遊戯室にいた。佳奈ちゃんと二人で立っている。話しをしているようにも見えた。
二人が亜紀の方へ向き直って、園長が佳奈ちゃんの背中を押している。
「あ・・・き」
佳奈ちゃんが声を出した。
「佳奈ちゃん」
「あ・・・き・・さ・・ん」
亜紀は走り寄って佳奈ちゃんの肩に両手を置いた。
「すごい」
「あ・・・き・・さ・・ん」
「すごい。すごい。がんばったね。佳奈ちゃん」
園長が満足そうな笑顔で二人を見ている。佳奈ちゃんが養護学校の先生のところへ、訓練に行っていることは知っていた。
「加奈ちゃんが、最初に亜紀さんの名前を呼びたいと言ったのよ。すごいでしょう。少しづつ、できるようになるって」
「えらかったね。佳奈ちゃん」
死を宣告された病気から立ち直った佳奈ちゃんは、小児科病棟の友達の影響も大きかった。自分でも声を出したいという欲求が強くなったようだ、と園長が言っていた。
「もう、いいよ」
園長が佳奈ちゃんの背中を軽く叩いた。いつも一人ぼっちで遊んでいた佳奈ちゃんが、他の子供たちの仲間に入って遊ぶようになった。佳奈ちゃんにとっては、だれもが大きなお姉さんだったが、仲間に入ったつもりのようだった。
「佳奈ちゃん。もう、大丈夫ね」
「よかった」
「お医者さんに、あと数日と言われた時は、地獄だった。でも、あの病気のおかげで、あの子の中に意欲が出たのね。生きる意欲が」
「ほんとに、よかった、です」
「亜紀さん。ありがとう。ついに、やったわね。あの子にとっては、亜紀さん、母親だから、この先も見守ってやってね」
「もちろんです」
亜紀は暖かい気持ちで部屋に戻った。うれしかった。
白石から結婚の話を持ち出されてから、ずっと自分と向き合う日が続いた。今はもう、正面から自分に向き合える。逃げても、逃げても、逃げる場所はない。自分の運命を素直に受け入れる気持ちは固まっている。佳奈ちゃんの変化が、自分の背中を押してくれているような運命を感じさせる。園長先生が言ってくれたように、目をつぶって飛び込むことが、最善の道だと思えるようになった。それは、生まれて初めて感じる豊かな気持ちだった。
二十四日になって、食堂の飾り付けは完了した。ハンバーグとマカロニサラダ、ポテトのから揚げ、夕食の準備も完成に近づいている。
栄養士の大田洋子さんの指揮下に入って、亜紀もハンバーグの担当だった。子供たちがソワソワしている。
駐車場の方から車のホーンが聞こえると、子供たちが保育園を飛び出して行った。
「すごい荷物やし、みんなで運ぶの」
太田洋子が説明してくれた。台所にいるハンバーグ担当になった三人の高校生だけが残っているだけだ。レンジもフライパンも総動員でハンバーグを焼いている。子供たちが荷物を持って戻ってきた。食堂に用意された机の上に、プレゼントが山のように積まれていく。ケーキの箱が到着し、中からクリスマスケーキが出てきて、子供たちの歓声が一段と大きくなった。子供たちの目が輝いているところへ、白石と園長が来た。
「はいはい、みんな、座りなさい」
園長の一声で子供たちは、それぞれ自分の席に座った。焼きあがったハンバーグを皿に盛り付ける。太田洋子の手際の良さには、いつも驚かされる。ケーキは食事の後と決まっていて、食事の間中、誰かの視線がケーキを監視し続けた。
亜紀は自然と白石に視線が行ってしまっている自分に驚いていた。食事の時間が終わり、ケーキで大騒ぎした後、プレゼントでさらに大騒ぎになった。
隣に座っている春花ちゃんが、亜紀さんは何を頼んだの、と聞いてきた。
「私、なにも」
「そう」
春花ちゃんが名前を呼ばれて、プレゼントを貰ってきた。皆、自分の膝の上に大事に抱えて待っている。全員が手にするまで開けてはいけない約束になっている、と教えてくれた。
「亜紀さん」
「はい」
園長に手まねきされて、白石からプレゼントを渡された。園長は亜紀もここの住人だと言っていたが、亜紀は部外者の居候だと思っている。まさか、クリスマスプレゼントが貰えるとは思ってもいなかった。
「さあ、開けてもいいわよ」
園長の声を待ちに待っていた子供たちが、一斉にプレゼントを開け始めた。ここの子供たちは、生活必需品しか持っていない。一年に一回だけ、クリスマスプレゼントだけは、自分が欲しいと思っているものが手に入る、大切な一日だった。子供たちは一年間、考え続ける。そして、品物と一緒に子供たちは自分の夢も一緒に貰うことになる。亜紀も自分の貰ったフレゼントを開けてみた。電子辞書だった。京都システムの久保田が持っているのを、何回か借りたことがある。プログラムのコメントを書く時や、取扱説明を作る時に便利だった。
「部屋に持って帰っていいわよ。一時間後に集合して、後片付けをしてね」
「はあい」
子供たちは、大きな返事をして、大事なプレゼントを抱えて、一目算に食堂を後にした。食堂に残った大人たちの顔も、幸せで緩んでいた。亜紀は園長と白石が座っているところへ行き、礼を言った。
「ありがとうございます。私まで」
「欲しいもの、聞いとけばよかったけど、つい、忘れちゃって、今日、大急ぎで買ってきて貰ったの。役に立つかしら」
「もちろんです」
「すごい騒ぎだったでしょう」
「はい」
「子供たちは、この日を一年間待ってるの。出費が嵩んで、求さんには悪いんだけど、この日があるから、子供たち頑張れると思うの」
「僕も、今日が一番楽しい。子供たちの笑顔は最高のプレゼントですよ」
「ほんとに、皆、いい笑顔だった」
「はい」
「この後、食堂の片づけが終わったら、歌ったり、ゲームしたり、今日は消灯時間はなし。一時間したら、また大騒ぎになるわよ」
「あの」
「・・・」
「白石さんと、お話させてもらっていいですか」
「ええ。もちろんよ。談話室を使って」
「はい。できたら、園長先生も」
「わかったわ。行きましょう」
三人で談話室に入った。
「白石さん。よろしくお願いします。いろいろ考えましたが、園長先生がおっしゃったように、飛び込むことが一番大事なことだと気がつきました。どうか、よろしくお願いいたします」
亜紀は頭を下げた。
「よかった。おりがとう。僕の言い方が悪くて、辛い思いをさせてしまった。ほんとに、ありがとう。あとは、僕にまかせて」
「よく決心したわね。私も、嬉しい」
「あと、何を、どうしたらいいのか、見当もつきません。言われたようにしますから、お願いします」
亜紀にとって、この結婚は打算かと問われれば、その通りと答えざるをえない。結果が吉と出れば、自立の夢はかなうが、凶と出れば大きな不幸を背負いこむことになる。自分が安全を最優先にできる立場にいないことを知っている。しかも、選択肢は限られていた。


36

恒例となった相馬保育園のクリスマスイベントは、求にとっても楽しい行事になっている。一年に一回、子供たちの本音の顔が見れる日だった。時間が欲しいという亜紀に遠慮していたが、大手を振って会うことができる。
山ほどのプレゼントとクリスマスケーキを運ぶ子供たちの騒ぎはすさまじいものがあった。
食堂の中は園長の声が聞こえない状態だったが、夕食のハンバーグが運ばれてくると、飛び跳ねる子供もいた。
「はいはい、手伝ってね」
調理師の太田洋子が大声で言った。
ハンバーグの皿を両手に持って亜紀が出てきた。落ち付いた様子で子供たちに指示を出している。相馬保育園の子供たちの中で、亜紀は最年長だったこともあり、子供たちは素直に従っていた。亜紀が求の方に軽く会釈をし、求は笑顔を返した。深刻な表情はなく、自然なふるまいだった。
食事とケーキが終わり、一人一人にプレゼントを渡した。子供たちは自分と自分のプレゼントの世界を作り、夢の世界にいた。
子供たちが部屋に引き揚げ、求は園長と亜紀の三人で談話室に入った。他の二人は落ち着いているのに、求は緊張していた。
亜紀は、よろしくお願いします、と言ってくれた。求は肩の力が一度に抜ける思いだった。亜紀に断られていたら、後継者を見つけるのに何年もかかるだろうし、その努力を自分がするのかどうかもわからなかった。多分、解散の選択肢が大きくなっていただろう。
決断を下した亜紀は、清々しい表情で、また一回り大きくなったように思えた。
翌日、求は京都システムに須藤を訪ねた。
「須藤さん。今日は無理なお願いをしに、来ました」
「どうしたんです。改まって」
「沢井さんのことなんですが」
「はい」
「僕と結婚してもらいます」
「は」
「結婚して、僕の後継者になってもらおうと、思っています」
「まさか」
「その、まさかなんです。僕の方から一人前のプログラマーにして欲しいと頼んでおきながら、申し訳ないと思っています」
「待ってください。藪から棒じゃないですか」
「申し訳ない」
「僕は沢井さんにうちの将来を賭けているんです。二年もすれば、うちも元請けのできる会社になれる。そう信じています。ですから、沢井さんを引き抜かれては困ります。ほんとに、絶対に困ります。結婚に僕は反対です。結婚は個人の自由ですが、会社を辞めてもらっては困ります。駄目ですよ、白石さん」
「そうなんですが、そこを曲げてお願いします」
「駄目です。考え直してください。僕は今まで白石さんに反対をしたことはありませんよね。それに、白石さんあっての京都システムだということもわかっています。でも、この件だけは納得できません。なんとか考え直してください。お願です」
須藤の強い拒絶反応にあい、求はたじろいだ。今までの須藤からは想像もできないような反対表明だった。だが、何度でもお願いするしかない。
求はその足で真鍋建設の事務所を訪れた。亜紀に結婚を申し込んだ直後、亜紀の承諾を貰えていないのに、自宅の増築を依頼してあった。現在の母屋の南側に新母屋を作る予定で動いてもらっている。真鍋社長は頑固な社長だったが、日本建築では右に出る建築会社はない。全ての予定を変更してもらった上に、三月一杯で完成するように、無理を言わなければならない。
「お願いできますか」
「あんたの頼みじゃ、やらな」
「ありがとうございます」
求は引き続き、石井法律事務所に徹叔父を訪ねた。求は白石の総会をやるつもりでいた。白石の総会は、求が家長になった十五年前にやって以来だった。亜紀から承諾を貰った報告をして、総会の取りまとめを依頼した。
「総会をやろうと思っています」
「そうだな。その方がいい」
「叔父さん。まとめてくれますか」
「わかった。いつがいい」
「四月の早い時期に」
「久しぶりだな」
「ええ。十五年」
「もう、そんなになるか」
「十五年は、あっと言う間ですね」
「ほんと、ほんと。他にすることは」
「思いついたら、またお願いに来ますよ」
「そうか。ともかく、よかった」
「ありがとうございます」
求は家長になる時、徹叔父に後見人になって欲しいと頼んだ。京都人には珍しく鷹揚な人柄で、グループの重要な要になってくれている。弁護士というより市場のおやじが似合っていた。


37

新しい年を迎えて、求は再び須藤を訪ねた。
「須藤さん。やはり、お願いしたい、と思っています」
「そうですか。僕も考えました。残念ですが、白石さんの意向は断れません。人材を確保しても、資金力がなければ、絵にかいた餅というやつです。大きい仕事を受ければ受けるほど必要になる資金も大きくなります。白石さんと決別する積もりなら、できるのでしょうが、白石さんから離れるということは、沢井さんを失うということでしょう。こんなチャンスを逃すのは残念ですが、諦めます。僕としてはお二人の結婚を、個人的に祝福しますが、京都システムの須藤としては決して喜ばしいこととは言えません。今でも、考えなおして欲しいと願っていますよ」
「すみません」
「で、いつなんです」
「四月です」
「仕事のきりがついたら、どうしたらいいですか」
「後は、僕が。車の免許も取ってもらいたいと思ってます」
「そうですか。じゃあ、二月一杯で」
「いいんですか」
「了解したんですから。ゴネたりしません。ところで、後を継ぐと言いましたよね。ここの仕事より、はるかにハードでしょう。でも沢井さんなら大丈夫ですよ」
「須藤さん。そう、思います」
「ええ。半年でしたけど、目から鱗です。年齢じゃないんですね。才能というか、器と言うのか、沢井さんの将来は、予測不能です。僕は、世界的なコンピューター技術者になると期待していました」
「たぶん、コンピューター技術者の方が社会に貢献できるのだと思います。白石の後継ぎをしても、白石グループに貢献してくれるだけで、社会への貢献度では小さいでしょう。そう言う意味では僕の我儘なんでしょうね」
「白石さん。承知の上なんですね。もう、僕は何も言いません。お二人の幸せと言うよりご健闘を祈ります」
「ほんとに、申し訳ありません。感謝します」
求は須藤と別れて、電話をくれるように亜紀にメールをして、堀川へ向かった。
「専務。結婚することにしました」
「は」
「結婚します」
「そう。そらよかった。あの世で、先代に申し開きせな、おもてました」
専務の内藤は、父の代から不動産一筋で、白石不動産の主だった。
「相手は、まだ高校生です。後を継いでもらうつもりです」
「ほう」
「で。お願いなんですが、不動産の仕事、教えてやってもらえませんか」
「わしで」
「不動産がわかっていないと、白石の仕事はできません。あと十五年で僕の代も終わります。教育は専務にやってもらうのが一番だと思っています」
「こんな年寄りでええのか」
「僕も専務に鍛えられました。まだまだ、歳を理由にしてもらっちゃ困りますよ」
「きついね」
口では迷惑そうな言い方をしているが、内藤の顔は喜んでいた。
「四月からです」
「四月」
「半端な女の子じゃないですから」
「ほう。ほんまか」
「頼みましたよ」
「家長命令には、従わな」


38

京都システムの前で待ち合わせをして、亜紀は初めて白石不動産を訪問した。予想していたものと違って、古くて小さなビルだった。三階にある白石の事務室は北京都ホテルの事務室の数分の一しかなく、室内も質素なものだったが、落ち着ける事務室だった。
「狭いでしょう」
「はい。でも、いい部屋です」
「今でも、この不動産部門が白石の中心なんです。ここは父の代から変わっていない。この部屋は落ち着けるんですよ」
「ええ」
「今日は、これからのことを相談しておこうと思ってね」
「はい」
「須藤さんから、やっと許してもらいました。君を辞めさせること、絶対反対と言われてたんです。あんな須藤さん、初めて。それだけ期待してたんだな」
亜紀は須藤がそれほど期待していたことを知らないので、答えようがなかった。
「で、二月末日で退職と言うことになった。結婚は四月と言ってある。四月でいい」
「はい」
「君の結婚観というか、希望と言うか、そう言うの、聞かせてくれないか」
「別にありません」
「こうしたい、とか」
「ありません」
「弱ったな。式はこうしたい、とか、旅行はどこがいい、とか、住まいの理想とかです」
「何もありません。式は、しなくてはいけないんですか」
「ウェディングドレスとか、ウェディングケーキとか、なにかあるでしょう」
「ありません。式をする、と言われれば、それに従います。できれば、何もないほうが、嬉しいです。私、そういう、何て言うか、派手なことは、自分の身の置き場に困ると思うんです」
「そう」
「すみません。式はこうする、と言われれば、やります」
「いや。そう言うことじゃない。女の子なら、なんか、夢みたいのあると思ったんだ」
「そう言う夢を見る環境じゃなかったことは、白石さんは知ってますよね。急に、女の子にはなれません」
「わかった。式は無しにしよう。僕はその方がありがたい。この歳で新郎席も抵抗あるしね」
「よかった」
「旅行は」
「私、旅行なんて行ったことありませんから、わかりません。白石さんが考えているのでいいんです。行っても、行かなくても、場所がどこになっても、希望はありません」
「住む場所も」
「はい。私にとって、この結婚は自立の一つの道だと思ってます。白石さんのお嫁さんになって、白石さんの帰りを待つ専業主婦になるわけじゃない、と。仕事ができる環境があって、白石さんや、大勢の皆さんのお役に立つことが、自分の自立だと思ってますし、必要とされなければ、自立できないと思ってますから。京都だと、やはり、しきたりとかあるんですか」
「しきたりじゃない。僕が一方的に決めたんじゃ、また、君に辛い思いをさせるかな、と思って」
「ありがとうございます。でも、もう、飛び込む決心をしたんです。白石さんが一方的に決めてくださっていいんです。私、どんなことしてもついていきますから」
「ありがとう」
「あまり、気を使われると、窮屈になります。私に文句付けられるぐらいで、いいんですよ」
「それって、プレッシャー」
「ごめんなさい」
「じゃあ、式は無し。旅行は落ち着いてから考える、ことで、いいかな」
「はい」
「住むところは、僕が今住んでる場所でいい」
「はい」
「二月で仕事を終えたら、車の免許を取ってください。一か所に、じっとしている仕事じゃないから、機動力は必要です。これも、いいですか」
「はい」
「四月の初めに、白石の総会をやります。関連する会社、個人の方に集まってもらい、皆さんに紹介します。いいかな」
「はい」
「白石の中心は、やはり不動産業なので、四月からは、先ずここで勉強してもらいます」
「はい」
「京都中を走り回ることになると思うけど、地理の勉強にもなります」
「はい」
「そして、これが問題になるのかもしれないが、君のお母さんに会える機会を作ってもらいたい。家を出て行って、誰かと結婚し、その結婚相手が誰かも知らない、と言うわけにはいかない。けじめとしても挨拶をしておきたい」
「この話題が出なければいいな、と思ってましたが、やはり、会わなくてはいけませんか」
「是非」
「駄目だと言っても、白石さんは、一人でも会いに行くんでしょうね」
「多分」
「わかりました。卒業式が終わってからでいいですか。学生を卒業してからにしたいんですが」
「それで、いい」
「一度だけですよ」
「わかった」
普通の母親であれば、と何度思ったことか。京都に来てよかったことは、沢井親子のことを知る人がいないことだった。
「何か、聞いておきたいことは」
「ありません。具体的に聞かせてもらって、よかった」
「僕たちはパートナーだと思ってる。それでも、君を幸せにしたい」
「うれしい、です」
白石の気持ちは、真っ直ぐ伝わってきた。幸せになるということの実感は湧かないが、少なくとも、今は幸せだと思えた。
ドアをノックする音がして、老人が一人部屋に入ってきた。
「専務」
「このお譲はん」
「そうです。紹介しておきます。沢井亜紀さん。こちらは内藤専務という、白石不動産の生き字引のじいさま」
「沢井です」
「内藤です。えらいべっぴんや」
「座ってください」
三人が椅子に座った時、ドアがノックされ、若い女性がお茶を持ってきてくれた。
「んんん。家長の言ってはった意味、わかりました。半端とちゃいますな。楽しみや」
内藤老人が余りにも見つめるので、亜紀は目のやり場に困った。


39

卒業式が終わって、一週間が過ぎた。事前に母の予定を聞いておこうかと思ったが、気の進まないまま、白石との約束の日になってしまった。
亜紀は白石を連れて、母のアパートに向かった。
台所の窓が開いていて、人影があった。
「びっくりするじゃないか」
「一寸、いい」
「なに」
「うん。ちょっと」
母は顎でドアの方をさした。
亜紀はドアを開けた。玄関といっても、人間が一人立てば一杯になってしまう程度の広さだから、亜紀は靴を脱いで台所に入った。白石も亜紀の後から入った。
「だれ」
お湯を沸かしながら、母が不機嫌な声で言った。
「はじめまして、白石求と言います」
「・・・」
「突然、お邪魔してすみません」
「は」
全く、取りつく島もない。
「お嬢さんと、結婚したいと思い、ご挨拶にきました」
座れ、とも言われていないので、白石が立ったままで挨拶をした。
「はあ」
「母さん」
「どう言うこと」
「私、白石さんと結婚することにした」
「だから」
「ご挨拶に」
「出て行ったと思ったら、こういうことかい」
「母さんが出て行けって言ったのよ」
「こんな年寄りと、金」
「そんなんじゃない」
「だって、変だろ。まだ学生だろうが」
「もう、卒業式終わったから」
「ふうん。あたしは別にどうでもいい。せいせいするよ」
「ありがとうございます」
「さっさと、帰りな」
ドアが開いて、ジャージ姿の男が入ってきた。年齢は三十から四十の間だろう。若い時は、それなりに男前だったろうが、荒れた生活がそのまま顔に出ている、いわゆる、ろくでなしだった。コンビニの袋を持っているのは、食糧の買い物に行っていたようだ。
「こいつら、だれ」
「むすめ」
「へえ、こんな大きな娘がおったんか。へええ、えらいべっぴんやないか、なあ、ねえちゃん」
「もう、帰るとこだよ」
男は白石と亜紀の間をすり抜けるようにして、小さなテーブルの椅子に座った。
「それに、ええ体しとる。なんで、黙ってたんや。おいしそうやんけ。ねえちゃん、今日、泊っていき。おっちゃんが、ええこと教えたるさけえな」
「あんた」
「なんや。別に減るもんやないやろ。この、おっさんはなんや」
「結婚するんだって」
「まさか。そりゃあ、無茶やで。やめとき。もう、役にたたへんで」
「帰りましょう」
亜紀は、白石をうながした。
「待たんかい」
亜紀は左足を引いた。
「あんた。この子は駄目。大怪我するから」
「あん」
「あの手袋の下、見てみれば」
「手袋。見せてみいや」
亜紀は手袋を外した。争いになるより、はるかにいい。
「マジかよ」
「二人とも、とっととお帰りよ」
亜紀は白石の体を押し出すようにして、母のアパートを後にした。
「ごめんなさい」
アパートの階段を降りた所で、亜紀は謝った。
「君が謝ることじゃない」
「でも」
「一応、お母さんには伝えることができた、としょうよ」
「はい」
後味の悪い対面だったが、仕方のないことだった。白石の気持ちが離れてしまわないことを祈った。


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海の果て 第2部の 2 [海の果て]


14

長年京都で暮らしていても、京都の暑さには腹立たしさを覚える。求は、夏にだけ毎年休暇をとっていた。涼しい軽井沢で一週間体を冷やし、残暑を乗り切る。京都の残暑は半端ではないが、夏休みのおかげで精神的には乗り越えられている。ホテルの仕事も不動産の仕事も休日がない商売だったが、ソフトの仕事にも休日はなかった。求が休暇をとるのは一年間に一週間の夏休みだけ。ただ、休暇の後の忙しさは、大変だった。古い土地でもあり、冠婚葬祭だけでも走り回らなければならなかった。京都システムに顔を出すことができたのは、京都に戻ってきてから十日も過ぎていた。相馬保育園のケーキを車に乗せたまま、須藤と打ち合わせをしている。
「ところで、伊藤さんとはうまくいってる」
「はい。いい人ですね、伊藤さん。沢井さんのことも気に入ってくれて、何度もきてくれてます」
株の取引を実際にやっている人を紹介してくれ、と言われて紹介したのが、父の古い友人で伊藤昌一という老人だった。伊藤は証券会社勤務を終わってからも、自分で株取引をしている。実力のほどはわからなかったが、人柄では信頼できる。伊藤も嫌な顔をせずに引き受けてくれた。
「で、どう」
「なかなかのものができますよ。ともかく、沢井さんはすごい。ただ、説明には連れて行けませんよね」
「ん」
「本人がむこうで説明してくれると、後々の対応もやりやすいのですが、バイトさんにそこまでさせては、と思って」
「そうですか。社員でも外注さんでもいい訳ですから、バイトでもいいと思いまけど」
「いいですか。じやあ、行ってもらいますか。しかし、もう一つ問題が」
「問題」
「ええ。あのままでは。あのヘアスタイルと制服で行かれても」
「たしかに」
「白石さんから言ってもらえませんか。それに、多分スーツも持っていないと思います」
「わかりました」
白石は苦笑した。見慣れたとはいえ、あの外見では世間に通用しないだろう。
打ち合わせを終えて、白石は相馬保育園に向かった。子供たちの顔を思い浮かべると、自然に顔がゆるむ気がする。一番肩の力が抜ける時間だった。辛い体験をした子供たちだが、保育園に来てからは子供らしい生き方をしていて、白石も園の職員も救われる思いだった。
玄関で遊んでいた子供たちが、「ケーキのおじさん」と叫んで、食堂に走っていく。幼い子供が一人だけ残っていて、白石に笑顔を送っていた。佳奈ちゃんだ。
「佳奈ちゃん」
無言だったが、佳奈ちゃんは白石の手を引いて、食堂に連れて行ってくれた。食堂はすでに大騒ぎだった。佳奈ちゃんの落ち着き方が亜紀に似てきたように思う。
職員の太田が、いつもの笑顔で子供たちにケーキを配り始め、佳奈ちゃんも列に並んでいた。
「求さん」
「園長」
「いつ、お帰りになったの」
「十日ほどになります。来るのが遅くなりました」
「忙しかったでしょう」
「いえ。慣れてますから。それより、今日は佳奈ちゃんに笑顔をもらいました」
「変わったでしょう、あの子」
「どこか、亜紀さんに似てませんか」
「求さんも、そう思います」
「あの子も、ただものではなくなるんでしょうか」
「土曜日と日曜日は、必ず来てくれます。いつも、遊戯室で読書三昧ですが、最近は、亜紀さんがよく話かけてくれています。仕事の話とか、求さんの話。だから、求さんへの亜紀さんの信頼感が、そのまま、佳奈ちゃんの信頼感になってる。多分、佳奈ちゃんの笑顔はそういうことじゃないかしら」
「僕は信頼されてますか」
「亜紀さんだけじゃありませんよ、私もです」
「恐縮です」
「前に話しましたが、うちも、ついに、パソコンが動きだしてます。
全部、亜紀さんがやってくれました。助かりました」
「それはよかった」


15

八月も残り二日となった。プログラムの完成は近いということが自分でもわかる。伊藤老人と話した内容には到達していないが、久保田の指示する内容は越えているはずだ。九月になれば、予定通り説明書の制作にとりかかる。夏休みが終われば、仕事の時間が少なくなるのが気がかりだった。めずらしく三階に人があふれているが、誰もが自分の世界に入り込んでいる。それは亜紀も同じだった。最近は気を使うこともなく自分の仕事に集中できる。
白石が一人で部屋に入ってきた。白石が来ると、すぐに気づく。亜紀は立ちあがり、軽く会釈した。白石に気づいていない人の方が多いが、気づいていても自分の仕事を続ける人がほとんどだった。
「沢井さん。少し時間ください」
「はい」
「セーブしておいてください」
「わかりました」
亜紀は、作成中のプログラムをセーブして、電源を切った。白石は久保田の許可を取りに行ったようだ。
地下駐車場から車に乗り、白石は無言で走り出した。シートベルトの使い方もわかっている。白石のそばにいることが単純に嬉しかった。車は河原町通りを北上しているが、道路の混雑や景色には関心がなかった。一度だけ市役所に行ったことがあったが、御池通りより北には行ったことがないので、どこを走っているかはわからない。少し車の混雑がなくなり、さらに走り続けて、緑が増えてきていた。白石の車は突然林の中を走り、その林を抜けると、目の前に建物があった。林に入る時に、「北京都ホテル」という案内標識があったので、この建物がそのホテルだろう。林の中にある五階建ての地味なホテルで、亜紀が想像していたホテルとは違った。車はホテルの玄関に乗り入れた。
「おかえりなさいませ」
制服を着た男女が、車の両側からドアを開けてくれる。白石の後について、自動ドアを二つ通り抜けると、学校の体育館の二倍ほどの広間があり、落ち着いた照明の中を進む。東京でも京都でも、ホテルの外観しか見たことのない亜紀にとっては、初めての光景だった。何人もの制服を着た人たちに挨拶され、白石が笑顔で答えているので、亜紀も笑顔で応じた。「従業員通路」という立札の横を通り、通路を何度か曲がって部屋に入った。
「ここが、僕の仕事場」
「はい」
会社を出てから、初めての会話だった。
広い部屋には、会議用のテーブルと応接用の椅子、奥に重厚な事務机が一つある。白石は会議テーブルの椅子を引いて、座るように言った。
「飲み物は何がいい」
「お茶がいいです」
「緑茶」
「はい」
白石は事務机へ行き、電話で話をしている。亜紀は部屋の中をゆっくりと見回した。ホテル業と不動産業をしていることは、白石から聞いていたが、亜紀の想像とは違うようだ。白石の様子や笑顔から想像していた会社社長とも違う。全く別世界の人だったのだと感じた。本当なら、亜紀との接点などあろうはずもない。はるかに遠い存在の人だった。
「座って」
「はい」
「今日は、沢井さんに、少し無理なお願いをします」
「・・・」
「今やってるソフトの説明を、ユーザーの前でしてもらいたい。これは須藤さんの希望でもあります。この仕事をはじめて間もないし、アルバイトという立場であり、少しきつい要求かもしれません。どうです。やってくれませんか」
「私でよければ」
「ありがとう。実は、さらに言いにくいお願いなんですが」
「はい」
「お客さんの前に出るということは、社会に出るということでもあり、外見もそれなりに礼儀ということで、できれば、その髪をなんとかしてもらわなければ、と思う。個人の自由と言われれば、それまでなんだけど、会社としては、協力をお願いしたい」
亜紀にとっては、思いもよらない話だった。
「沢井さんが、そのスタイルを選んでいる理由も聞いている僕としては、言いにくいことなんだけど」
「あの」
「僕にできるかぎり、君のことを守る。今までの君と違う沢井さんになって欲しいと思ってる。了解してもらいたい」
「はい」
白石にそこまで言われて、亜紀は覚悟を決めるしかない。
「ヘアスタイルも、着る物も、持つ物も全部変えてほしい。費用は立て替える。京都システムの給料で余裕が出た時に返してもらうということで、今日は僕の指示に従ってもらえないだろうか」
「わかりました。そうします」
「よかった。ありがとう」
「とんでもありません」
ドアをノックする音がして、お茶をワゴンに乗せた制服の女性と私服の女性が部屋に入ってきた。
制服の女性が三つの茶碗に注ぐ。
「ありがとう。あとはやります」
「失礼します」
制服の女性は出口に向かい、私服の女性にテーブルにつくように白石が言った。
「紹介しよう。スタイリストの緒方さん。この人が沢井亜紀さん」
「緒方です」
亜紀も立ち上がって名乗った。
「緒方さんは、お若いのに予約を取るのに苦労すると聞きました。今日は、無理を言って来てもらいました」
「いえ。そんな、たいそなことありません」
「このお嬢さんを、一日で変えていただきたいのです」
「はい。実は、お会いして、すごくワクワクしてます。白石さん、多分、びっくりしますよ」
「楽しみですね」
「はい。楽しみです」
「沢井さん。緒方さんの助言に従ってもらいます。いいですね」
「はい」


16

白石が部屋を出て行った。
「沢井さん」
「はい」
「希望がありますか。こうしたいという」
「いえ。ありません」
「そうですか。では、私のイメージを話していいですか」
「はい」
「少し、触るわよ」
「はい」
緒方が両手の指で、亜紀の前髪を持ち上げた。
「あなたの性格、男っぽい」
「たぶん」
「ショートカットでもいい」
「はい」
「あなたは、顔が小さいから、思い切ったショートでも似合うと思う。このメガネは」
「度が入ってません」
「やっぱり。外しても、いい」
「はい」
「先ず、ここのホテルの美容室にいきます。結構有名なんですよ。次に、デパートに行って買い物をします。そして、制服も買い替えます」
「制服も」
「この制服は、このヘアスタイルにしか合いません。三年生よね。でも、まだ半年あるから。スタイリストにもプライドあるんです。私のプライドのためだと思って」
「はい」
ホテルの中の一角にいろいろの店舗があり、白石がいつも保育園に持ってきてくれるケーキ屋もあった。連れて行かれたのは、美容室「F」という名前のお店で、店内は清潔でシンプルな佇まいだった。
「加瀬さんを」
「はい。お名前を教えていただけますか」
「白石で予約しています」
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」
受付の若い女性が案内してくれ、壁際の席に二人は座った。部屋の中は静かな活気が満ちている。
「いらっしゃいませ。加瀬です。白石さまより伺っております。どうぞ」
緒方に促されて、亜紀は重い腰を上げた。場違いな所に来てしまったような違和感が体を重くしている。加瀬ですと自己紹介をした人が、二十代なのか三十代なのか、年齢は推定できなかった。きっと男前の部類に入るのだろうが、落ち着いた眼差しに好感が持てる。京都システムという会社に行くようになって発見したのだが、仕事をしている人には二種類の人がいることだ。遊ぶために仕事をしている人と仕事をするために遊ぶ人の二種類で、須藤も久保田も仕事人間だった。もちろん、母親の恋人になる男は、この二種類から外れていた。加瀬という人にも仕事人間が持っている頑固そうな眼差しがあった。大きな鏡の前の立派な椅子に座らされて、緊張する。
「お名前を教えていただいていいですか」
「沢井です」
「ありがとうございます。沢井さま。ご希望を教えていただけると助かります」
亜紀は鏡の中で加瀬の横に立っている緒方の目を見た。
「思いっきりショートに、と思っています。申し遅れましたが、私、沢井さんを担当させてもらう、スタイリストの緒方と言います」
亜紀の代わりに緒方が答えた。
「スタイリストの緒方さん」
「はい」
「緒方志保さん」
「はい」
「お名前は、よく聞きます。三浦律子先生、ご存じですよね」
「もちろんです」
三浦律子は、日本でもトップクラスのスタイリストで、緒方の目標でもあった。
「三浦さまは、ここのお客様なんです。先生が脅威だと言ってました、あなたのこと」
「まさか」
「そうなんですか。緒方さんがショートと言うなら、間違いありません」
「ありがとうございます」
「正直言って、イメージで迷いました。学生さんでなければ、他の選択肢もあるのかなと」
「できれば、分厚くないショートの方が、合わせやすいと思っています」
「失礼します」
加瀬の手が亜紀の髪を、やさしく後ろに束ねた。
「緒方さんのイメージが見えました」
「お願いします」
料理人が包丁を入れる前に素材の吟味をするように、加瀬の手が亜紀の髪をさわっている。
「沢井さま。美容室は初めてですか」
「はい」
「ずっと、ご自分で」
「はい」
「苦労したでしょう」
「ええ」
鏡の中の緒方が怪訝な顔をした。
「沢井さまの髪質は、膨らませるのに苦労します。この髪型を維持するのは、かなり大変だったと思います」
加瀬が緒方に向かって説明した。
「ご自分でカットされてますので、長さもバラバラですし、髪の毛も傷んでいます。これからは、ぜひ、美容師に切らせてやってください」
「・・・」
亜紀は返事に困った。白石に言われたから髪型を変えることに同意したが、美容室に行くような贅沢ができるとは考えていない。
「沢井さま。カットする前に、シャンプーさせていただきますが、よろしいですか」
「はい」
加瀬が別のスタッフを呼んだ。
亜紀は、あらためて覚悟を決めた。
カットに入ってから、亜紀は閉じた目を一度も開けなかった。まな板の上の鯉になるしか方法がない。髪の毛で顔を隠してきた三年間は、誰にも素顔を見せていない。この髪型には安心感があった。だが、今は腹に力を入れる必要に迫られていた。
「沢井さま」
「・・・」
「目を開けていただけますか」
もう、気持ちは落ち着いていた。目を開けて鏡の中の自分を見る。そこには、全く違う自分がいた。顔が露出しただけではなく、耳まではっきりと見えていた。髪型で素顔も変わるということなのか。
「沢井さま。眉にも手を入れていいですか」
亜紀は、うなづいて了解した。自分を乗り越えて、ほほ笑む余裕もあった。
「よろしいでしょうか」
加瀬が緒方に同意を求めた。
「さすがですね。カリスマ美容師の腕は」
「ありがとうございます。シンプルなショートですが、私にとってもベストカットです」
他の美容師も、自分の仕事を中断して、加瀬の後ろで輪になって、ざわめいていた。
亜紀と緒方は、美容室「F」を出た。
「制服、変でしょう」
「ええ」
「今までより、かなり多くの視線にさらされると思う。無視。ね」
「はい」
二人がホテルの出口に行くと、計ったように黒の営業車が寄ってきた。制服の女性がドアを開けて、笑顔を向けた。


17

緒方が携帯電話で連絡をしていたので、デパートに着くと私服の社員が二人待っていた。
「先ず、ジーパンとシャツをお願いします」
二階の売り場に着くと、緒方が売り場を泳ぐように移動しながら、デパート側の社員に次々と指示をだし、既に手には数本のジーンズが掛っていた。移動中の車の中で、サイズを聞かれたが、亜紀は自分のボディーサイズを知らないと言った。狭い車内だったが、緒方は手際よくサイズを測り、ノートに記入していた。
フィッティングルームの前で、手にしていた五本のジーンズから一本だけ亜紀に渡して、「中で」と言った。緒方の顔は仕事顔になっている。
「すぐに、もどります」
緒方は、手にしていたジーンズを社員に渡して、小走りに去って行った。部屋の中で一人になった亜紀は、初めてのジーンズを履き、制服のスカートを降ろした。ウェストには余裕があるが、腰回りはきれいにフィツトしている。
「沢井さん。いい」
「はい」
緒方が顔だけ出して、亜紀のジーンズ姿を見て頷いた。
「これ、着てください」
白いシャツを渡された。緒方はシャツを選びに行っていたようだ。
シャツは半そでの前ボタンで、何の飾りもないシンプルなものだった。制服を脱いでシャツを着たが、ジーンズの中に入れるのか、外に出しておくのか迷ったが、単純に手間のかからない方を選んだ。
「沢井さん」
「着ました」
緒方が部屋に入ってきた。
「屈伸運動してくれます」
言われるままに、亜紀はその場で屈伸運動をした。
「きゅうくつ」
「いえ。大丈夫です」
「ウェスト、大きかった」
「少し」
緒方の手がシャツの下に入ってきて、ウェストをチェックした。
「我慢できます」
「ええ」
前を向いたり、後ろを向いたり。
「とりあえず、これでいきましょう」
「はい」
「これ、着ていきます。値札とか外してください。この制服は他のものと一緒に持って帰りますので」
売場の店員が、手際よく値札の類を取り外してくれる。
「靴は下でしたね」
それから、緒方はデパートの中を嵐のように動き回った。体力には自信があるので心配いらなかったが、頭の中の計算機が集計する金額におびえていた。靴、下着類、スーツ、バックなど、今まで持ったことも買ったこともない種類と数だった。
忙しさのあまり、周囲を見る余裕はなかったが、緒方が言っていたように多くの視線を感じるようになっていた。嵐のような緒方のパワーに対する視線なのか、亜紀に対する視線なのか、衆人環視の状態の中心にいることは理解できた。
デパートを出て、東山通りの小さな洋品店で制服を買い、二人は帰路についた。
「疲れたでしょう」
「大丈夫です。でも」
「・・・」
「びっくり」
「買った量でしょう。そう。私も。一度にこれだけの買い物したの初めて。でも、白石さんの指示だったから。沢井さんに会う前だったから、イメージわかなかったけど、何回も下見に行って、大体の予算も報告して、そういう意味では予定通りなんだけど、実際に買うと大変」
「そうですか」
白石からの指示が出ていたようだった。
「でも、私は勉強になって、すごく楽しかった」
「すごい、パワーでしたよ」
「でしょう。まだアドレナリンが引かない」
車は北に向かっていた。
「白石さんが、あなたのこと、洋服持っていないって言ってたけど、
そうなの」
「ええ。制服とジャージだけです」
「えっ。一年中」
「ごめんなさい。ジャンパーは持ってます」
「ところで、沢井さん、ハーフ」
「えっ」
「そうかなって」
「さあ。私、父親知らないんです」
「ごめんなさい、ほんとに、ごめんなさい。時々、調子に乗る悪い癖があるんです。ごめんなさい」
緒方が何度も謝った。
「いいんです。気にしてませんから」
「顔立ちとか、スタイルとか、私には初めての人なの。すぐにでも、モデルになれると思うけど」
「あの、私、プログラマーの見習なんです」
「コンピューターの」
「はい」
緒方は解せない顔をした。
「私、てっきり、デビュー前の準備だとばっかり。普通、スタイリストを個人的に雇ったりしないもの」
「すみません。期待を裏切ってるみたい」
緒方の口数が少なくなった。スタイリストの職業意識が、クライアントの獲得という夢を見させたようだった。でも、数分で緒方は立ち直った。その打たれ強さは、緒方の過去にいろいろなことがあったのだろうと思わせた。


18

亜紀とスタイリストの緒方を部屋において、求は車を走らせた。河原町通りを下り、京都御所近くの石井法律事務所の駐車場に車を停めた。
「こんにちは」
「あら、白石さま」
受付にいるのは、広田という年配の女性で、百年ほど同じ席をあたためているように思える。
「いますか」
「はい。どうぞ」
求はエレベーターで三階に行くと、所長室のドアを開けて、叔父の石井徹が待っていた。
「求ちゃん。ここにくるのは久し振りだな」
求の父親が長男で、次男が石井家に養子に行った徹叔父、三男が舞鶴で不動産業をやっている田中家に養子に行った譲叔父である。石井法律事務所は、白石グループの顧問弁護士でもあり、北京都ホテルや白石不動産の事務所ではよく顔を合わすが、荒神町の事務所に来たのは何年か前だった。
「裕君は元気にしてますか」
最近、叔父が老けこんだようで心配だった。石井裕は叔父の一人息子で、東京の弁護士事務所にいる。
「変わらず、だ」
石井裕は、刑事専門の弁護士になりたいようで、民事専門の石井法律事務所の後を継ぐ気はないらしい。
「豊君に来てもらおうと思っている」
「舞鶴はオーケーしたんですか」
「本人次第だろう」
田中豊は舞鶴の譲叔父の次男で、石井法律事務所で五年前から働いている。
「どこも、後継者で苦労します。叔父さんのとこだけじゃないです。僕も、決めておかないと」
「そうだな。でも、難しいな。うちの跡取りとは違うから」
徹叔父が、「難しい」というのは、白石の系類に候補者がいないということで、二人の意見は一致していた。白石家の家長になりたいという人はいない。器がなければ、無理矢理後継者にしても潰れるだけである。
白石家がなくなれば、グループ会社の中には危機にさらされるところも出てくる。このことは、叔父もわかっていたが、五年前の事故があって、求の心情を思って黙っていてくれた。白石家は不思議なことに血縁を重視していない。先々代の家長は、白石の系類ではなく、結婚した相手も系類ではなかった。入り婿と入り嫁だから、血は完全に途絶えている。だから、求が誰を後継者に指名しても異議をとなえる人はいない。後継者には能力だけが求められた。白石家の存在が銀行や地域の信頼を得ているために、グループ各社は無形の利益を手にすることができる。
「養女を貰おうかと思ったんです」
「養女。女かね」
「ええ」
「ありえるかも知れんな。候補者は誰」
「京都システムにアルバイトに来ている高校生なんですが。将来、白石を背負ってくれるという確信はないけど、直感が、この子だと言っているんです」
「ほう。もう、その子に話した」
「いえ、まだ」
「求ちゃんの直感なら、僕に異存はないけど、なぜ養女なんだね」
「・・・」
「高校生でも、女だろ。結婚すればいいんじゃないのかね」
「結婚」
「ん」
「相手は高校生で、親子ほど離れてますよ」
「年齢差が何か意味あることかね」
「そうは、言っても」
「真紀さんに申し訳ないと」
「そうではないと思いますが」
真紀というのは、亡き妻の名前だった。
「その子が結婚してくれて、子供が生まれれば、二代分予約したようなもんだよ。一石二鳥」
「叔父さん」
「すまん、すまん。責任ばかり押し付けて申し訳ない」
「無理でしょう。こんなオヤジ相手では」
「ま、希望的観測だよ」
求が亜紀を養女にしたいと思ったのは今日だった。あの髪形は苦労して作り上げたものだということを求は知っている。でも、亜紀はそれまでの生き方をさらりと捨て去る柔軟性を見せた。芯が強いだけの女の子ではなかった。亜紀なら後を託せる。その思いが急激に噴き出した。石井徹に相談したのは、自分自身の直感を実現するためのプロセスのつもりだったが、叔父は養女ではなく妻にしろと言う。その意外性に言葉を失ってしまった。
堀川にある白石不動産に寄ってからホテルに戻ったが、亜紀はまだ帰ってきていない。ロビーの椅子に座って、待つことにした。
亜紀と緒方がホテルに戻ってきたのは、六時を過ぎていた。ロビーに二時間も座り続けていたことになる。ただ、緒方が一緒にいなかったら、亜紀に気がつかなかったかもしれない。全く別人だった。求は自分の動揺を隠すために、二人を連れて事務所へと向かった。事務所の会議机に座って、正面の亜紀を見た。涼しげな目、大きすぎない鼻、大きいが品のある口、そして淫らになる手前でとどまっている少し厚めの唇。髪で隠していた亜紀の全てが生き生きと輝いていた。
「驚いた」
求の表現に、緒方が満足そうに頷いた。
「どう」
「すこし、居心地が悪いです」
「そう」
居心地が悪いと言いながら、亜紀の様子は平静だった。動揺していたのは求の方で、うろたえている気持ちが外に出ていないことを祈った。
「三人で食事をしよう」
求には、もう少し時間が必要だった。二人を連れて最上階にある、レストラン「京都」へ向かった。すれ違う男たちの視線が亜紀にまとわりついてくるのがわかる。レストランは広いフロアを贅沢に使って、客席の独立性を確保している。フロアマネージャーは白石たちを窓際の席に案内してくれた。
「緒方さん、何がいいですか」
「私、何でもいただきます」
接客用の料理はシェフに一任すると決めてあるので、細かなオーダーは必要でなかった。
「お飲物は」
マネージャーが飲み物のオーダーだけはと聞いてきた。
「僕は、いりません」
残りの二人も頷いて同意した。求は自分の動揺が収まっていることに安堵した。
「大変だったでしょう」
求は緒方の苦労をねぎらった。
「いえ。久し振りに楽しかったです」
「ありがとう」
「すこし、立ち入ったことを伺ってもいいですか」
「なにか」
「私の勝手な判断だったんですが、今日は、モデルか女優へのデビューの準備だと思ったんです。でも、沢井さんはプログラマーの卵だと。そうなんですか」
「そうです」
「そこがわからないんです。私、モデルの方も女優の方も、大勢知っています。いろいろな方がいらっしゃいますが、トップクラスの皆さんにはオーラがあります。そして、沢井さんにもオーラがあります。私だけが感じているのではなく、デパートの中で大勢の方が沢井さんのオーラに酔っていました。顔立ちが整っているだけでは一流になれません。でも沢井さんには、沢井さんにしかない力があります。白石さんなら、いくらでもルートはあるのじゃないでしょうか」
「緒方さんのおっしゃるように、沢井さんにはオーラがあります。それは、髪を切る前からありました。ただ、美しさとオーラの延長線上に芸能界という発想は、鉄則ではないと言うことです。今日、こうやって沢井さんに髪を切ってもらったのは、社会との折り合いをつけるためです。本人は気付いてませんが、沢井さんには、ソフト開発の世界を変える力がある、と断言している人もいるんです。多分、舞台でスポットライトを浴びる仕事より、プログラム開発の仕事の方が納得してもらえると思っているんです。本人に聞いてみてください」
「そうなんですか」
「はい」
「緒方さんは、業界の方だから、そう感じるのでしょう。たしかに、芸能界では正論なのでしょう」
「そうですか」
緒方は納得できない表情だった。


19

緒方が帰って、亜紀は白石と二人で事務室へ戻った。そこには、山ほどの荷物が並べられていた。
「大変だったな」
その荷物の山を見て、白石があらためて言った。
「ほんとに、すごい量です」
「緒方さんには、僕が細かに指示しておいた。彼女はそれをしっかりやってくれた」
「ほんとに、これだけのもの、私に返せるのでしょうか」
「急ぐことはない。僕は君に投資をしているけど、それを短期間で回収しようとは思っていない」
「この荷物、ここに置いておく訳にはいきませんよね」
「そうだな」
「うちは、狭くて」
「そう、それは考えなかった」
実際に亜紀の住んでいるアパートは、六畳一間と狭いリビング、もっと狭いバストイレだけだった。家具はほとんどないが、とても荷物は持って帰れない。
「そうだ、寮を荷物置き場にしたらいい」
「はい」
「明日、手配しておく。住むわけじゃないから」
「はい」
「疲れただろう。今日は、もう帰って休んだほうがいい。荷物は明日運んでおくから」
「はい。そうします」
「送っていこう」
「はい」
亜紀は制服の袋だけを持って、白石の車に乗り込んだ。車の中では二人とも無言だった。自分の人生がどう変わっていくのかわからないことに、少しだけ不安がある。自分だけは、自分の素顔を知っていると思っていたが、髪型が変わっただけでその自信も揺らいだ。おもえば、顔を隠すためにだけ鏡に向かっていたように思う。
アパートには誰もいなかった。最近の母は仕事熱心なホステスになっている。張り詰めて、生き生きとして、若返る母。恋人ができたのだろう。京都に来てからは、初めてだった。酔った勢いで、男を部屋に連れて来て、男が自分の家のように振る舞う日がやってくる。もう、男の暴力に蹂躙されることはないが、この狭い空間で同じ時間を共有することに嫌悪感がある。亜紀は体操服に着替えて部屋を出た。京都システムにアルバイトに行くようになって夜間練習の時間が少なくなっている。近くの公園の生木を相手に、拳を叩きこみ、蹴りを入れる。相手の動きを想定して、防御と攻撃の練習をした。それは、決められた型の練習ではなく、実戦を想定した戦いに勝つ練習だった。大河原道場の先生に練習禁止を言い渡されてからの亜紀の空手は、完全に自己流の、実戦で勝つためだけの空手になっている。母の男に襲われて、男に全治三週間の怪我をさせたことが、練習禁止の理由だった。静かな公園なので、気合を出さずに攻撃することにしているが、木を打つ時の音だけは消しようがなかった。しばらくすると、汗が飛び散るようになり、体の動きが自然体で流れていく。体を動かし、汗を流すことで、平常心を取り戻す。空手に何度助けられたことか。気持ちが潰れそうになった時、練習で自分を追い込む。そこには、心の平安があった。
学校でも、保育園でも、京都システムでも一騒動起きることだろう。白石という人物に賭け、覚悟を決めたことは間違いではないという強い気持ちがある。失うものも、逃げる場所もないのが強みだった。
翌日、新しい制服を着て、静かに部屋を出た。土曜日は相馬保育園の日だ。石段を登り、玄関で三人の子供と出会い、遊戯室へ向かった。子供たちの表情には、仲間への親しみはなかった。遊戯室のいつもの場所で本を読んでいた佳奈ちゃんが走って来て、いつものように亜紀に抱きついた。そして、二人は自分の本を読み始める。佳奈ちゃんの様子に全く変わりがなかったことが嬉しかった。佳奈ちゃんに拒絶されたら、どうしょうと心配していた。
しばらくして、遊戯室に園長が姿を見せ、園長の後ろに子供たちがいた。
「亜紀さん」
「おはようございます」
「髪、切ったのね」
「はい。白石さんの命令です。プログラムの説明で、東京まで行くように言われました」
「驚いたわ。子供たちが、知らない人が入ってきたって騒いでいたから」
「ほんと、亜紀さんだ」
中学三年の美咲ちゃんが言った。
園長と一緒に、子供たちが遠巻きにして、亜紀さん、亜紀さんと言っている。
「さあ、みんな、もう大丈夫よ」
園長も子供たちもざわめきながら、遊戯室を出て行った。亜紀は騒ぎが大きくならなくて胸をなでおろした。
昼前になって、野口香織が遊戯室にやってきた。
「沢井さん。えっ、沢井さんなの。うそ」
「切ったの」
「園長先生に聞いた。でも、うっそう。別人や」
「お願い」
「きれい。女優さんみたいやわ。えええ、うっそう」
「もう」
「ほんまに、ほんまやの」
食堂でも、職員の先生たちが大騒動だったが、保育園での一騒動はそれで終わった。
夕方から、京都システムの事務所に行ったが、事務所での騒動は保育園より大きかったが、なんとか乗り切ることができたようだ。須藤に連れられて、寮に行き、寮母さんに挨拶をして、部屋に案内された。吉田さんという五十前後の寮母さんは、どこにでもいそうな気さくな人で安心した。部屋は押入れもベッドも机も備えつけの、ごく小さな部屋で、昨日の荷物がベッドの上に山積みになっていた。
「なにかあったら、さっきの食堂にいます」
「はい」
亜紀は椅子に座って部屋の中を見回した。こんな部屋が自分の城になったらどんなに嬉しいことか。卒業の日が早く来てほしいと思った。


20

夏休みが終わった。亜紀は香織と二人で登校した。京都システムでアルバイトをするようになって、自転車を利用しているが、登校時は押して行く。
「ぜったい、誰も、気ぃつかん」
香織は楽しそうだった。教室に入っても、誰ひとり気づいている様子はなく、無視されている。
「沢井さん、この前借りた本、返すの、もう少し待ってな」
香織がわざとらしい声で亜紀に話しかける。香織に本を貸した覚えはない。すぐに大騒ぎが起きてしまった。
亜紀の周りに人の輪ができていて、野口香織が解説者のような顔で亜紀の隣に立っていた。
一時限目の授業が終わると、教室の外の廊下が人であふれている。職員室でも変身した亜紀のことで騒がしかったという。予想はしていたが、気が重かった。携帯のフラッシュも嫌いだ。
授業がすべて終わり、亜紀は逃げるようにして学校を飛び出した。騒ぎが収まってくれることを願うしかない。元々、学校が好きだったわけではなく、学校しか行くところがなかったので、休むこともなく出席していただけで、熱中できる仕事に出会った今は、学校が色あせてみえる。中退したいという思いが本音だったが、白石の許可が出ないことはわかっていた。
授業が終わると、逃げるようにして自転車を走らせた。
アルバイト先の京都システムでの騒ぎはすぐに収まり、誰もが普通に応対してくれていた。初めての取扱説明書作成も順調に進んでいて、九月三十日の東京での打ち合わせには、問題なく間に合う。エクセル上のソフトなので、久保田の作っているソフトとは比べ物にならないが、マクロのデバッグをしていると、一人前のプログラマーになったような嬉しさがあった。説明書の作成も楽しい。これで生活費がもらえるのなら、学校の成績など何の意味もない。
東京への出張の日がきた。久保田が書いてくれた図で新幹線改札口の場所はすぐにわかった。久保田の姿が見えた。
「おはようございます」
「おはよう」
久保田が目を合わせてくれたくれたのは、ほんの一瞬で、すぐに自分の世界へ戻って行った。ただ、久保田の態度は亜紀に対してだけではなく、誰に対しても同じ態度なので、気にはならなかった。通り過ぎる男たちの視線が、亜紀をとらえていくが、久保田と亜紀が同じ会社の人間だとは思わないだろう。しばらく待つと、白石の姿がエレベーターの上に現われた。白石には独特の雰囲気があり、いつ見ても素敵だと思う。男前の部類には入らないが、なぜかカッコいいと言う表現が似合う。亜紀は白石の笑顔が好きだった。
「待たせた」
「いえ、今来たとこです」
久保田は頷くことで同意を示した。久保田が、白石と亜紀に切符を渡してくれる。切符の手配を先輩にしてもらっていることが心苦しいが、初めての出張なので大目にみてもらっている。
白石を先頭にして、三人は売店へ行った。ユーザーへの手土産と、亜紀の個人的な手土産を買う。白石の助言で、亜紀は大河原道場に行く予定になっている。白石も京都システムの仕事に関係のない知人と会う予定があり、久保田だけが日帰りの予定だった。


21

TCSでの説明会は、成功だったと久保田が言ってくれた。さらに発展した内容の受注も可能らしい。亜紀には肩の荷物を降ろした安堵感と実際の運用で問題が出るかもしれないという心配が同居していた。白石はTCSの役員との酒席会合に出るので、久保田は東京駅に、亜紀は東京駅近くのホテルへ向かった。ホテルは、白石の北京都ホテルしか知らないので、東京のホテルは質素に見えた。ホテルの客室に初めて入ったが、居心地がいいという感触は持てなかった。だが、一日中初めての体験ばかりで、疲労感に負けて、ベッドに横になると眠ってしまった。途中、スーツを脱いで、持参の体操着に着かえたことをかすかに覚えていたが、目が覚めたのは翌朝の六時だった。空腹感があるのは、昨日の夕食を抜いてしまったからだった。白石も同じホテルに泊っていて、七時に電話をしてくれることになっている。空腹感は辛い思いであったが、歯を磨いて、顔を洗って、白石の連絡を待つことにした。
着替えをして、バッグを整理して、窓から空を見て待った。自分の身に起きている、この三か月の激変が沢井亜紀を内側から変えようとしている。何もしない、静かな時間の中にいることで、そのことを実感していた。
七時になって、白石からの電話が入った。一階のロビーで待っているという。ハンドバックだけを持って部屋を出た。スタイリストの緒方が選んでくれた品物はどれも亜紀に合っていた。
白石はロビーの中央で待っていた。
「とても、高校生には見えないな」
「そうですか」
「食事をしよう」
「はい」
レストランは土曜日だというのに、サラリーマンの男性ばかりで、雰囲気としては、仕事のスタート地点にいるようだった。髪を切ってからの亜紀は、男に動じなくなっている。男の視線に右往左往していると、どこにも居場所がない。堂々と胸を張るより他になかった。
バイキングになっている食事を皿に盛って椅子に座ると、白石が驚いた顔をした。
「すみません。夕べ、食べるの忘れて、お腹減ってるんです」
「そうか。食事のこと、言わなかったな」
「横になったら、いつのまにか、眠ってました」
「疲れただろう、昨日は」
「はい。でもホッとしました」
「いい評価だった」
「ありがとうございました」
食事をしながら予定を確認した。大河原道場には午前中いてもいいことになった。亜紀は一人でホテルをチェックアウトし、東京駅から中央線で水道橋に向かった。
水道橋から小石川の方向へ歩く。見慣れた風景が多くなったが、故郷に近付いているという感覚はない。悪い思い出の方が多い場所を故郷とは言わないのかもしれない。
道場に近付いたが、以前の風景とはすこし違うようだ。以前、亜紀が住んでいた家は跡形もなく、小さなアパートになっていた。いつ建てたのかもわからないくらいの古い平屋だったから、建て直すしかなかったのだろう。生まれてから高校一年生まで住んでいた場所が跡形もないということにも、特別の感情は湧かなかった。隣の道場はそのままで、少し安心した。道場の中から子供たちの気合いが聞こえる。亜紀は門を入って、裏手に回り、見なれた引き戸を開けた。そこは、先生の家の台所の入口だった。
「おはようございます」
亜紀はできるだけ明るい声を出した。
「はい。どなた」
道場の奥さんが出てきたが、亜紀のことには気づいていない。
「亜紀です」
「あきさん」
「沢井亜紀です。おばさん」
「ええっ。亜紀ちゃん」
「はい」
「うわぁ。ほんと、亜紀ちゃん。びっくりした。大きくなって」
最後に会ったのが一年半前だから、久し振りには違いないが、大きくなった訳ではない。
「入って、入って」
亜紀は見なれた居間に入った。何も変わってはいない居間に、やっと懐かしい気もちが湧いてきた。奥さんは「お父さん」と叫びながら道場の方へ走って行った。
「後で来るから、座んなさい。お茶いれるわね」
娘が実家に帰ってきた時の、母子の会話みたいだと思った。京都に行ってからの話を熱心に聞いてくれた。一時間ほどして、先生が居間に入ってきた。
「ご無沙汰してます」
「亜紀ちゃんか。変わったな」
「でしょう。コンピュターのプログラムをやってるんだって」
「ほう」
「まだ、アルバイトです。卒業したら、今の会社で働かせてもらいます」
「そうか。よかった。本当に心配してたんだ」
「すみません。何も言わずにいなくなって」
「亜紀ちゃんのせいじゃないさ。お母さんはどうしてる」
「相変わらずです」
「そうか。練習はしてるのか」
「はい。近くの公園で。我流ですけど」
「明日、子供たちの大会があってな、うちの子も大勢出る。どうだ、見ていくか」
「はい。いいんですか」
「もちろん。見るだけだ。母さん、道着を出してやってくれ」
亜紀は道着に着替えた。空手着は何年も着ていないが、気持ちが引き締まる思いだった。
道場では、子供たちが真剣な気合いを出して、型の練習をしていた。
道場に立つと、懐かしさが押し寄せてきた。子供の頃の生活の大部分が、この板の間の上だった。板の模様も傷も知っている。
「やめ」
先生の大きな声が道場に響いた。
子供たちが静かになるのを待って、亜紀が呼ばれた。
「沢井亜紀さん。みんなの先輩だ。知ってる人もいるな。今日は模範演技をしてもらう」
「おっす」
子供たちが元気に返事をした。模範演技の話など聞いていない。でも、これが先生の気の使い方なのだ。亜紀は集中を高めて型を始めた。道場に緊迫感が漲る。板が鳴る音、蹴りで空気が切り裂かれる音、子供たちが息をつめて見つめている。
演技が終わって、女子の指導をするように言われた。明日の大会に出場する子供に対して、一人一か所だけ手を加えた。模範演技をしたおかげで、子供たちは真剣にやってくれた。もう二度とこの道場に立つことはないと思う。先生は、そのこともわかっていて、亜紀に思い出を作ってくれた。
午前の練習が終わり、子供たちが引き揚げていった。
「お昼、食べていきなさい」
着替えた亜紀に奥さんが声をかけてくれた。
「ごめんなさい。まだ、人と会う約束があるんです」
「そう」
奥さんが寂しそうな声をだした。新しい人生を始めようとしている亜紀が別れを言いに来ていることを奥さんは知っている。
「亜紀」
「はい」
「もう、空手はやめろ」
先生は亜紀に空手をやめさせたがっていた。大人しく嫁に行ってくれるような女の子でいてほしいようだ、と奥さんが言っていた。
「はい」
先生の気持ちは、ありがたく受け取る。もちろん、空手を使う場面が来ないように、亜紀も望んでいた。
道場を出て、通りでタクシーを拾った。タクシーに乗ったのは白石の指示だった。場所を説明するのが大変だから、という。
「どちらへ」
「銀座にお願いします」
携帯を出して、白石の番号を押す。
「沢井です。タクシーに乗りました」
白石は運転手に代わるように言った。
「すみません。行先を聞いてもらえませんか」
タクシーの運転手は車を左に寄せて、白石の電話に出て行先を聞いてくれた。
見なれた街並みが過ぎ去っていく。亜紀は過去に決別した。今からは、仕事を精一杯して、自立した自分を実現する。大河原道場に行くことを勧めてくれた白石に感謝した。
「お嬢さん。あそこに見える中華料理の店です」
「ありがとう」
東京で生まれ育ったが、銀座に来たのは初めてだった。
タクシーを降りて、四川飯店の看板に向かって歩き始めると、男が寄ってきた。
「僕はこういうものです」
目の前で、名刺を差し出している男。亜紀はよけて通ろうとしたが、男は道を譲らない。仕方なく受け取った名刺には「佐多プロダクション」の道下という名前があった。
「お話させてもらえませんか」
「けっこうです」
「東京の方ですか、お名前教えてください」
「けっこうです、と言ってます」
デパートの買い物が終わって、北京都ホテルへ帰る車の中で、緒方が言っていた。必ず、スカウトにつかまると。そして、高飛車に断りなさいと。その図々しさは半端じゃないからと言っていた。
目の前の男も、気障を絵にかいたような男で、「俺の言うことを聞かない女なんて、いねぇよ」と友達に嘘吹いているような男だ。
「名刺は貰いました。しつこい人は嫌いです」
亜紀は左足を半歩さげて、殺気を放った。
「どきなさい」
毒気を抜かれた男は呆然として、道を譲った。
四川飯店の店に入ると、店の人が寄ってきた。
「白石さまのお連れさま」
「はい」
「ご案内します」
白石が迎えにいくように頼んだようだ。広い部屋の丸いテーブルに、白石と見知らぬ若い男の二人が座っていた。
「お連れさまがみえました」
突然、大きな危険が亜紀を襲った。亜紀は、かばんを捨てて、後ろへ大きく飛んだ。どんな危険か、どこから来たのかもわからないが、恐ろしいほどの殺気だ。白石と店の人には、何が起きたのかわかっていないらしい。
「ごめん」
若い男が、両手を合わせて謝った。亜紀はどうすればいいのかわからずに、白石の方を見た。
「どうした」
「すみません。僕が余計な事をしました」
「・・・」
「もう、しません。途中、何かありました。殺気が」
「ああ」
「いったい」
「彼女が入ってきた時に、危険が一緒だったんです。ほんとに申し訳ない」
「よくわからないが、紹介してもいいかな」
「はい」
「僕の友人で、沢井亜紀さん。こちらも、僕の友人で片山浩平さん」
「沢井です」
「片山です。ごめん」
「料理、お願いします」
「ああ。はい。すぐに」
三人は席に着いた。
「びっくりしました。僕の気を見破ったのは、沢井さんが二人目です。一人目は、うちの戦闘部隊のリーダーをやっています」
どこと言って特徴のない片山と言う男が言った。先ほど会ったプロダクションの男はブレスレットやネックレス、そして両手の指には大きな指輪をしていた。亜紀には判別できないが、着ていた服もきっとブランド物なのだろう。一番の違いは、目の光だった。片山の眼は澄んだ光で、プロダクションの男の目は濁っていた。
「片山さんは、僕の個人的な、そう、仕事や地域や血縁に全く関係のない、個人的な友人で、僕と片山さんの交友関係を知っている人はだれもいないと思う。今日、二人を紹介したのは、二人がよく似ていると思うからで、単に僕の好奇心を満足させるだけのことに付き合わせたことを、許してもらいたい。特に片山さんは、交友範囲を広げたいと思っていない人なので、申し訳ないと思ってます」
「いえ。白石さんの紹介なら、いつでも、だれとでも会います。そのことで逮捕されることがあっても、別にかまいません」
二人の言っている意味がよくわからない。
「片山さんは、裏社会の人で、逮捕理由は山ほど持っている。大変危険な人なんだ」
「裏社会って、暴力団なんですか」
「そうですね、暴力団が競合相手になるという意味では、僕たちも暴力団という部類になるんでしょう。自分では、ちょっと違うと思ってますが」
「あまり詳しく聞かないほうがいい」
「はい」
「そんなに、似てますか。沢井さんに会っていても、自分では何も感じませんけど。沢井さんは、どうです」
「私にも、わかりません」
「それと、もう一つ。寄付金の仕事を沢井さんに手伝ってもらいたいと思って」
「寄付金って、相馬保育園のですか」
「いや。片山さんに頼まれている分があってね」
「その件ですが、今年は一桁上がってしまいます」
「片山さんは、売上の一パーセントを寄付したい、と言って僕に預けてくれてる。表に出せないお金で、それなりに大変なんだ」
「すみません。感謝してます」
「京都システムの仕事の合間でいいんだ、手伝ってほしい」
「私にできるんですか」
「簡単だけど、秘密厳守で」
「たぶん、僕の逃げ道なんだと思います。自分の悪事は正当化できないけど、再配分することで、少しは自分の気持ちが楽になるのかな、と思っているんです」
亜紀には理解できない話ばかりだったが、話の途中から無理にわからなくてもいい話なのだと思った。必要になれば、白石が説明してくれる。他人に聞かれてはいけない話をしているのに、後暗い話をしているという雰囲気は全く感じられなかった。


22

さすがに疲れていて、すぐに眠ったが、一晩熟睡したことで、疲れは感じていなかった。金曜日は学校を無断欠席し、土曜日は相馬保育園に行かなかった。園長先生には、電話で伝えておいたが、佳奈ちゃんは心細い思いをしていただろう。
亜紀は少し早めにアパートを出た。保育園の玄関を入ったところに、園長先生が走るようにしてやってきた。
「亜紀さん。ありがとう」
「どうしたんですか」
「昨日、佳奈ちゃんが入院したの」
「えっ」
「すごい熱で、バケツにいっぱい吐いて、呼吸困難になって、救急車で」
うろたえている相馬園長を初めて見た。
「園長先生」
「ごめんなさい」
「座りましょう」
「そうね」
亜紀は園長の体を支えるようにして、談話室に入った。
「佳奈ちゃんの容態は今」
「熱は、断続的に高くなるの。それで、佳奈ちゃんがあなたを捜すの。泣きそうな顔で」
「わかりました。すぐに行きます」
「お願い。私、子供たちの病気が一番嫌い」
亜紀はアパートに自転車を取りにもどって、東山通りにある「西川病院」へ走った。三階の四人部屋の締め切ったカーテンの中に、佳奈ちゃんは一人でいた。眠っている。亜紀はベッドの横にある椅子に座って、佳奈ちゃんの寝顔を見た。すぐに目を覚ました佳奈ちゃんが、亜紀の顔を見て、しがみついてきた。
「ごめんね。昨日来なくて」
佳奈ちゃんの熱が伝わってくる。本当に心細かったのだろう。しがみついた手を離そうとはしない。気がすむまで抱いててあげる。佳奈ちゃんの体が震えている。悲しくて、泣いて震えているのではないことに気がついた。ナースステーシュンにつながっているボタンを押した。真っ赤な顔で、うつろな目をして、熱のために佳奈ちゃんは震えていた。
「どうしました」
カーテンを開けて、若くはない女性の看護師が入ってきた。
「熱が」
「また、上がってきたみたいね」
「はい」
「氷枕、持ってきますからね」
看護師が出て行った。強く抱きしめても、震えは治まることはないのだろうが、亜紀は佳奈ちゃんを抱きしめた。
「ごめんなさいね、離してくれる」
戻ってきた看護師は亜紀と佳奈ちゃんを離して、佳奈ちゃんの頭が氷枕の上にくるように寝かせた。
「手を、握っててあげて」
「はい」
上気した顔で、粗い呼吸をしていて、体中が震えていた。その高熱は三十分ほど続いた。熱が少し収まったのか、佳奈ちゃんは疲れて眠りに入ったようだ。
一時間ほどすると、また高熱になり、疲れて眠る。点滴のチューブは次々と薬を送り込んでいるが、効果は見えなかった。
相部屋の他の患者に昼食が配られ、部屋は食べ物の臭いで一杯になった。カーテンを開けて相馬園長が来た。「どう」と目で問いかける。亜紀は首を横に振った。
「亜紀さん。食事してきて。地下に食堂があるから」
佳奈ちゃんの手を、園長に預けて、亜紀は部屋を出た。
ナースステーションに寄って、付添を申し入れたが、規則で付添はできないと断られた。肉親の場合は、医師の判断で許可がでることもあるが、それ以外は無理だと言われた。まだ数時間しか見ていないが、佳奈ちゃんの病状はかなり重いと思う。精神的な支えなしで、病気と闘えるとは思えない。亜紀は一階の玄関を出て、白石に電話を入れ、事情を話した。
園長は二時間ほどいてくれて帰っていった。
熱は四十度を超えているようだ。小さな体で熱と震えに耐えている。その度に絞れるほどの汗をかくので、保育園で集めてきてくれた下着と寝巻きが山のように積まれていた。
夕方になって、付添が許可になったと看護師が伝えにきてくれた。白石が話をしてくれたようだ。小さな介護用のベッドが持ち込まれ、さらに荷物の山になってしまった。今の佳奈ちゃんにとっては、昼も夜もないだろう。夜中に熱で震えている時に誰もいないと、誰からも見放されているように感じるかもしれない。亜紀の姿を捜している、と園長が言っていた。一人で病気と闘うには、佳奈ちゃんは幼すぎた。
学校へは行っていない。もう、何日も無断欠席が続いていて、野口香織が園長に相談していた。園長が学校に行って、担任の大場先生に事情を話して、ようやく了解を取り付けてくれたらしい。亜紀にとって学校の存在感は、はかりなく小さい。
佳奈ちゃんが入院して十日が過ぎたが、佳奈ちゃんの容態は変わらず、苦しい毎日が続く。点滴での栄養補給しかできず、どんどんやせ細っていっていく。食べ物を欲しがらず、無理に食べさせても戻してしまう。汗に濡れた寝巻きを着替えさせる時には、日ごとに痩せて行く体が、いやでも目に入る。そんな現実が続く毎日に、亜紀自身も言葉少なくなっていた。亜紀が傍にいることは知っていると思うが、周囲のことを気にする体力は残っていないのかもしれない。主治医の後藤先生は、回診に来ても、難しい顔をして去っていくだけで、身内でもない亜紀に説明はしてくれなかった。
昼前に園長先生が来てくれたが、二人には話すことがなかった。
「相馬さん」
「はい」
「先生が呼んでおられます」
「はい。すぐ、行きます」
園長は重い腰を上げた。
「園長先生、私、後藤先生に、佳奈ちゃんの容態を聞いてみたいんですが、行ってもいいですか」
「ええ」
二人は、ナースステーションの隣にある、小さな診察室に入った。
「相馬さん。桜井さんのご両親は来られませんね」
「申し訳ありません。何度も、伝えていますが、来てくれません」
後藤医師がレントゲンを取り出して、セットした。
「入院した日、五日前、今日のレントゲンですが、このかげ、わかりますか」
「はい」
「急速に、広がっています。薬が全く効いていません。ウィルス性肺炎と診断していますが、抗生物質がどれも効きません。京大の先生にも協力してもらっていますが、手の打ちようがない、と言うのが現状なんです。残念です」
「と、言いますと」
「身内の方に来ていただいた方がいいと思います」
「えっ」
「そうなんです。長くて一週間。ここ数日かも知れません。申し訳ないと思います」
園長も亜紀も、後藤先生の言っていることが、現実として、理解できるまでに時間がかかった。
「そんな」
「助からない」
「いえ。まだまだ諦めませんが、覚悟は必要だと思います。ご両親にも、このことをわかっていただきたいと、思っています」
二人は呆然と診察室を出た。
「園長先生」
「私、もう一度、お母さんのところへいきます。亜紀さん、付いていてあげて、今の話は、気づかれないように。私は納得しない。そんなことありえない。でも、お母さんには伝えないと」
「はい」
園長がエレベーターの方へ歩きだしても、亜紀は動けなかった。このまま、佳奈ちゃんの側には行けない。亜紀は洗濯物を取りに屋上へ行った。
必ず治ると信じ切っていた。洗濯物に触りながら、亜紀の頭の中は空っぽで、全く働いていない。立ち尽くすだけだった。


23

四条堀川にある、白石不動産の本社ビルは三階建ての古びた建物で、街の不動産屋さんのビルと変わりがない。京都の地場企業としては、
トップクラスの株式会社白石だが、その小さなビルが不動産部門の発祥の場所で、本社機能はそこに置かれていた。社長室は狭くて質素だが、そこが求の城だった。大半の時間はその部屋で過ごすが、仕事の事情ではなく、単にその部屋の居心地が良かったからだった。不動産部門の仕事は古くからいる専務の内藤に任せておけば何の問題もない。
「はい。どうしました」
携帯に相馬由紀からの電話が入った。相馬由紀が携帯を持つようになって、初めての電話だ。西川病院の後藤医師から聞かされた話を伝えてくれた。佳奈ちゃんのことは、沢井亜紀に任せっきりだが、亜紀がこの事態を乗り切れるのか不安だと言った。
「いつも、困ったときに助けを求めて、ごめんなさい。また、亜紀さんの力になって欲しいんです。正直、私も余裕なくて」
「沢井さんは、今」
「病院です」
「わかりました。すぐに行きます。大丈夫」
求は渋滞の恐れのある四条通りを避けて、五条通りを東へ車を走らせた。誰も病状がそこまで切迫しているとは思っていなかった。この話を聞いた時の亜紀の心情はどうだったのだろう。医師は付添人に生命を預かってくれとは言わないが、付添人は介護をしていたのに、急に生命を預かってくれ、と言われたと感じてしまうかもしれない。後藤医師に相談して、医師団を作ったのは三日前だった。京大と阪大の若手の優秀な医師を、求は政治力を尽くして集めた。それは、求の個人的我儘であったが、あえて押し通した。患者の桜井佳奈のためというより、付添人の沢井亜紀のためだった。動機は不純と言えなくもないが、亜紀の気持ちを支えてやりたかった。求のためだけではなく、白石グループのためにも、かけがえのない人になる可能性がある。大人の打算だと思うが、それでもいいと思える年齢になっていた。
病室に亜紀の姿はなかった。看護師に教えられ屋上に行くと、洗濯物の間に亜紀の姿が見えた。洗濯物を取っているのではなく、干してある洗濯物を手にしたまま、ただ立っていた。
「沢井さん」
呼びかけに気がついた様子がないので、求は回り込んで正面に立った。
「沢井さん」
「ああ、白石さん」
「相馬園長から電話もらいました。園長も、風邪をこじらせただけで、治るものと思っていた、と言ってました。僕もそうです」
「白石さん」
「後藤先生には、もう一度、話を聞きますが、たぶん、僕が聞いても、同じ話だと思う。君に辛い思いをさせてしまって申し訳ないと園長が言ってた。ほんと、君に頼り切っていた僕も、すまないと思っている」
「そうじゃありません。私は、自分の意思でやってます。園長先生や白石さんに謝ってもらうことじゃありません。ただ、どうしていいのか、わからないんです。ほんとに、わからないんです。どうにかしなければ、と思っても、どうすれば」
「僕の考えを、言ってもいいかな」
「お願いします」
「先ず、座って話をしよう」
「はい」
求は亜紀を椅子のある場所に連れて行った。
「僕は、沢井さんを子供だとは思っていない。自立したいと強く願っていることも知っている。君が自立したいのは、経済的に自立したいと考えているだけで、精神的には、もう自立していると思う。だから、君が大人だという前提で話をしたい。いいかな」
「はい」
「よかった。僕が沢井さんを子供だと思っていたら、あとは僕がやるから、と言うだろう。もちろん、僕に何かができるという意味じゃない。医者が言うのだから、生命の危険は、きっと現実のものだと思う。そこで、あらためてお願いしたい。あの子に最後まで付いていてあげてほしい。あの子が死ぬとしたら、沢井さん、君にいてほしいと願っているはずだ。それに応えてやるのが大人の役目だと思う。だから、最後まで見ていてやってほしい。君には、とても辛いことだと思うが、受け入れてやらなければ、あの子が、あまりにも可哀そうじゃないか。生まれて、まだ、たったの七年、辛いことだけしか知らなかった七年だと思う。残念だけど、世の中は不条理の山の中にある。正しいことだけが、行われている訳ではない。そのことを、君は十分知っている。だから、せめて、最後は安らかに終わって欲しい。納得できなくても、やれることはやってあげたい。沢井さんの気持ちの中に、そういうものがあって、現実とすり合わせができないことが、今の君なんじゃないだろうか。君だって、ここで後ろにさがる気はないだろう。だから、現実を無理矢理でいいから、受け入れて、最後の一秒まで、あの子を支えてやってほしい。ぜひ、お願いする」
求の話を聞きながら、亜紀はじっと一点をみつめていた。
「そうですよね。私に、あの子の病気が治せるわけではないですよね。私、神様になりたがっていたのかもしれません。白石さんの話を聞いて、少し落ち着きました。私にできることを、最後までやっていくこと。悲しいし、悔しい。でも、それは、私事ですね。ほんとに悔しいのは、佳奈ちゃんなんだから」
「ありがとう。もう一つ無理言ってもいいだろうか」
「はい」
「あの子は、今、点滴だけで生きている。そうだよね。体力が極限まで落ち込んでいる。だから、気力は、もう、尽きているのかもしれない。いつも、最後の望みは、人の生きたいという気持ちなんだと思っている。物理的に病気に侵されているわけだから、役には立たないかもしれない。それでも、もう一度、生きたいという気力を持ってほしい。最後だから、優しい愛で、包んで、見送るというのは偽善のように思えるんだ。たとえ、叱り飛ばしてでも、あの子に生きたいと思ってほしい。周りから見れば、鬼の仕打ちに見えるかもしれない。でも、やってはいけないことだろうか。それを、君がやるのなら、あの子は、きっとわかってくれると思う。いや、君にしかできない。あの子と君の間にある信頼は、そんなこと乗り切れるはずだ」
亜紀は、もう求の目を見て話を聞いている。
「白石さんの言うとおり、あの子、弱気になってます。ほんとは芯の強い子なのに。私、鬼になってもいいです」


24

また、白石に助けられた。後藤先生の話を聞いて、自分を見失ってしまった。アルバイトを始め、東京出張もなんとかやりきったことで、大人の仲間入りをしたような過信を持ってはいなかったか。後藤先生や看護師さんたちに、不平や不満を持っていなかっただろうか。自分の力で、なんとかしようという驕りはなかったか。神様になろうとしていた自分の未熟さが、恥ずかしい。だが、白石の話を聞いて、もう、吹っ切れた。佳奈ちゃんの生命が、ここまでだと言われても、最後の一秒まで励ましたい。自分の無力に負けて、逃げだしたいという気持ちが、どこかにあったことを自分だけは知っている。無力でもいい、そんな自分に正面から対峙しなくては、介護にはならない。
「やってくれるか」
「はい」
心配そうな顔の白石に、亜紀は笑顔で答えた。
「洗濯物、洗濯物」
亜紀は、乾いているものだけを取り入れて、屋上を後にした。途切れていた介護のリズムが復活した。
部屋に戻ると、高熱にうなされている佳奈ちゃんの頭に、看護師が氷枕を当てているところだった。
「ありがとうございます。また」
「ん、かわいそうに。お薬、先生に聞いておくから」
「はい」
熱に震える様子に耐えられず、解熱剤を出せと何度も看護師にせまったことがある。後藤先生は、体が熱を出すことで戦っている、無理に熱を下げられないと言って、簡単には解熱剤を出してくれなかった。亜紀にできることは、解熱剤を要求することではない。佳奈ちゃんの気持ちを支えることなのだ。
高熱で震えがきている時は、触られるのが嫌みたいだった。熱がすこし下がった時に手を握ると安心してくれる。亜紀は椅子に座って、小さくなった佳奈ちゃんを見つめた。「がんばれ」「負けるな」。亜紀は声に出さずに、佳奈ちゃんに話しかけた。
四人部屋にいたのは最初の数日で、ウィルス性の疑いが出てからは個室へ移り、周囲への気遣いはいらなくなっていた。着替えを置いておく場所に困らなくなり助かっている。取り込んだ洗濯物を畳んで、セットする仕事をした。
熱が高くなって震える、その高熱が引き、着替えると、疲れて眠る。何回繰り返しただろう。今は静かな寝息だ。亜紀は佳奈ちゃんが目を覚ます時を待った。
残っている洗濯物を取り込んで部屋に戻ると、佳奈ちゃんが目を覚ましていた。
「のど、かわいた」
佳奈ちゃんは弱弱しく笑って頷いた。冷ましたお茶を少しだけ吸った。点滴が水分の補給をしてくれているせいか、お茶を飲む量も減ってしまった。
「佳奈ちゃん。私の話聞いてくれる」
亜紀は、佳奈ちゃんの手を握った。
「小さい頃、佳奈ちゃんと同じ位の小さい時、私、食べるものがなくて、苦しい時があったの。母親の育児放棄、わかるかな。他所で食べさせてもらったり、ゴミの山から食べ物拾ったり、大変だった。こんな辛いこと、もうやめたいと思った。お腹減ってると、元気なくなっちゃうの。もういいやと思った。でも私、頑張った。どうして、頑張ったのか、もう覚えてないけど、今は、頑張ってよかったと思っている。佳奈ちゃんも、いま、苦しいよね。もういいや、と思ってるよね。でも、駄目。病気なんかに負けないで欲しい。佳奈ちゃんが高校生になる頃には、私、おばさんだけど、話をしたい。こんなことあったよねって話をしたい。佳奈ちゃん、そう思わない」
佳奈ちゃんがちいさな笑顔を返してくれた。
「病気なんだから、苦しくて、辛くて当たり前でしょ。負けないで。私も負けなかった。いい、心の中で、負けるもんか、負けるもんかって言い続けるの。病気になんか、負けるもんかって」
佳奈ちゃんが頷いてくれる。
「言ってみて」
佳奈ちゃんは素直に、言ってくれている。亜紀には聞こえるようだった
「もっと」
「なんども」
「がんばって」
亜紀は佳奈ちゃんの体を抱きしめて、「負けるもんか」と耳元でささやいた。
佳奈ちゃんは疲れたのか、また眠ってしまった。亜紀は食堂へ向かった。食欲はない。それでも食べる。亜紀自身も「負けるもんか」の気持ちだった。病院にいるだけで、病気になるような気がする。大人しい患者ばかりではない。一晩中苦しそうな声で泣いている子供もいれば、死んで行く子供もいる。看護師が誰もいなくなった個室のベッドメイクをしていると、その部屋の子供は霊安室に移されたということだ。親の泣き声も、この短期間の間に二度も聞いていたが、自分の番が来るとは思ってもいなかった。亜紀の場合、睡眠時間が切れ切れにしかとれないことも、体力の消耗に繋がっているのだろう。消灯時間は九時だが、佳奈ちゃんの容態が落ち付いていれば、十時頃には寝ることにしていた。それでも、夜中に二度は着替えさせてやらなくてはならない。介護は体力勝負だった。
主治医の後藤先生は、午前と午後の二回、回診にきてくれるが、消灯時間の前に後藤先生が顔を出してくれた。
「先生」
「いや。今日は当直だから」
「そうでしたか」
いつもと違う時間に医師の回診があれば、危険信号かと思う。先生も髭が伸びて疲れた様子だった。もう、医師や看護師に対する反感はなくなった。素直に感謝している。先生が部屋を出て行く時も「ありがとうございます」と心から言える。
後藤先生が部屋を出てから、手まねきした。
「疲れてるだろう。君はよく頑張ってくれてる。僕たちも必死だ。あの子を励ましてやってほしい。人間の生命力が、どんな薬より効くことがある。医者が言うことじゃないかもしれないが、限界で勝つのは、その人の生命力なんだ。頼むよ」
「はい」
後藤医師が初めて声をかけてくれた。
亜紀は、佳奈ちゃんの様子を確認して横になった。大勢の人が佳奈ちゃんのために力を貸してくれている。きっと、佳奈ちゃんは病気に負けない。私も負けない、と思った。
病院の朝は看護師さんの検温で始まる。
「桜井さん。お熱、計ってね」
いつものように、体温計を渡されて、亜紀は佳奈ちゃんを見た。いつもと様子が違う。
「佳奈ちゃん。体温計だよ」
佳奈ちゃんの体がいつものように熱くない。顔が青ざめてみえる。亜紀は耳を近づけて、佳奈ちゃんの呼吸を確かめて、体温計を脇に挟んだ。いつもは、汗を拭いてから体温計を入れるのだが、汗はかいていなかった。
自分が寝ていた付添ベッドを整理して片づけ、お茶を冷やす入れ物を用意する。電子体温計の計測完了の音を聞いて、体温計を取り出した。熱は三十六度六分だった。入れ方が悪かったようだ、と思って佳奈ちゃんのおでこに自分のおでこを重ねてみた。佳奈ちゃんのおでこが熱くない。何が起きたのか。今まで、発熱は四十度を超える。それが収まっても三十八度までしか下がらない。発熱は慣れてしまうと、三十八度でも随分楽になるらしく、周囲の人も一息つけた。三十六度台の体温は初めてだった。
「桜井さん。どうかな」
「それが」
亜紀は体温計を看護師に渡した。
「ん」
看護師は佳奈ちゃんの顔に手を当てた。
「ほんとだ。ないね」
「大丈夫でしょうか」
長くて一週間と言われている。これが容態の変化で、最悪の事態が迫っているのだろうか。亜紀と看護師は、しばらく見つめあっていた。
「後藤先生、当直あけで、まだ居ると思う。すぐに連絡しとくからね」
看護師が部屋を出て行き、亜紀はもう一度佳奈ちゃんの額に自分の額を重ねてみた。佳奈ちゃんが目をあけた。
「佳奈ちゃん。どう」
「しんどい」
「楽」
佳奈ちゃんが頷いた。
「熱ないよ」
佳奈ちゃんも自分の手で、額を触ってみたが、よくわからないという表情をした。十分後に後藤医師が入ってきた。
顔を触り、目を開き、口の中を確認すると、聴診器を胸に当てて、しばらく音を聴いていた。
「昨夜はどうだった」
「そういえば、着替えをしてません」
「最後は」
「昨日の夕方、六時か七時ごろです」
「んんん。下がってるね。もう少し様子を見てみよう。今日、熱が出なければ、峠は越えたかもしれないね。少しでも変化があったら、すぐに知らせて」
「先生、今日はお休みですか」
「いや。いるよ」
「わかりました」


25

熱が下がって三日が過ぎ、園長と亜紀は後藤医師に呼ばれた。
「見てください」
後藤医師はレントゲンの説明をしてくれた。
「もう、大丈夫ですよ。抗生物質は全く効きませんでしたが、なぜかホルモン剤が効きました。過去にそういう事例があって、念のため投与しました。どういう因果関係があるのか、これからです」
佳奈ちゃんはお粥を食べられるようになったし、何よりも目に力が戻ってきた。園長先生が話をしてくれ、亜紀も月曜日から学校に復帰する許可が出た。
久し振りにアパートに帰り、思いっきり寝たいと思っていたが、母の美愛からおもわぬ話をされた。アパートを出てくれと言うのだ。アルバイトで収入があるのだから、自分で生活しろと言う。
安いアパートを捜さなければならない。母親から離れることは願ってもないことだが、それを母親から言われたことに驚いた。母親に恋人ができたのは間違いない。男がアパートに来るようになって、あの狭い部屋での三人の生活など願い下げだ。次は本当に殺してしまうことになるかもしれない。
翌日、不動産屋を訪ねた。とびきり安いアパートを捜していると言ったが、思ったほど安くはなかった。
「学生」
「はい」
「その制服、七高やな」
「ええ」
「あんたが、住むんか」
「ええ」
「親御はんは」
「いますけど」
高校生には貸せないから親の名義で借りるか、しっかりした身元引受人をと言われた。要は部屋代が払えない時は誰が払ってくれるのかが問題のようだった。アルバイトでは駄目なのだと言われた。部屋代で迷惑かけるようなことはしないと言っても、初めて来た客の言葉を信じてくれないのは当然でもあった。
母親の名義で借りるつもりはないので、身元引受人を捜すことになる。亜紀の身元引受人になってくれそうなのは、白石か相馬園長しかいないが、白石には頼めない。白石は母親に会うと言うだろう。
亜紀は保育園に相馬園長を訪ねた。
「亜紀さん」
「今日は、園長先生にお願いがあって来ました」
「亜紀さんが」
「はい」
二人は談話室に入った。
「どうしたの。亜紀さんには、頼みごとはしても、されることなどないと思ってたわ。ちょっと、嬉しい。私でできることなら、何でも言って」
「実は、身元引受人をお願いしたいんです」
「身元引受人って」
「アパートを借りたいんです」
「お母さんのところを出るの」
「いえ。出て行ってくれと言われたんです」
「どうして」
「一寸」
「難しい話のようね。白石さんには」
「話してません」
「わかったわ。結論から言う。身元引受人になるわ。ただ、説明してくれると、嬉しい」
肩肘張らずに、園長先生には話をしよう。これからも、園長先生とは長い付き合いになるだろう。今日はいい機会かもしれない。
亜紀は自分の過去を話した。
「母も、狭いアパートで三人が暮らすのは無理だと感じたのだと思います」
「辛いこと、よく話してくれたわね。あなたも犠牲者だった。実の父親だけじゃなく、内縁の男の犠牲になる子供も多いの。あなた、その重みを一人で背負ってきたんだ。そうなの」
「先生が白石さんに頼んでくれて、京都システムの仕事をして、自立のきっかけができたんです。自立は私の一番大きな夢なんです」
「そうよね。白石さんのおかげで、明かりが見えた。白石さんはあなたの苦労を知っていて、受け入れてくれたのね」
「感謝してます。何度も助けてもらってます」
「ところで、さっきの身元引受人のことだけど、アパート捜すのやめて、ここに来てくれない。私も心強いし、佳奈ちゃんも喜ぶし、皆も歓迎してくれる。言ったことあると思うけど、部屋はあるの。そうして」
「でも」
「皆には話さないけど、亜紀さんはここに入る資格があるじゃない。もっとも、公共施設じゃないから、資格の有無は私が決めてるんだけど」
他人の好意を負担に感じていた昔の自分は、白石に出会って変わったように思う。卒業まであと半年だけど、ここで暮らすのもいいかもしれない。昔、大河原先生から亜紀を養女にしたいという話があったが、実現しなかった。自分ではもう大河原の子供になったつもりだったので、落胆も大きかった。先日、大河原道場に行った時に、奥さんが謝っていた。あの時は母の美愛から、かなりの額のお金を要求されて断念せざるをえなかったと言っていた。そんな事情も知らないで、恨んだこともあった。あの母親から離れることができるのなら、手段はどうでもいい。
「ありがとうございます。助かります」
「よかった」


26

引っ越しは簡単だった。驚くほど荷物が少なく自転車で三回往復して終わった。二階の一番奥にある部屋で、窓からは鴨川が見えた。
月曜日から学校に行き、帰る途中で病院に寄って京都システムに行く日常が始まった。京都システムでは待ってましたとばかりに、仕事が始まった。久保田の指導でVBを本格的に始める。大手薬品会社の統合ソフトで、全事業所の既存のデータベースを新ソフトに統合し一元化するもので、全ての業務がこのソフトをベースにして展開される。大人数のスタッフの中の一人だが、身の引き締まる思いだった。
京都システムでは亜紀を特別な目で見る人はいなくなったが、学校ではまだ人が群れる。騒ぎがおさまるまで静かに待つだけだった。
授業が終わり、帰り支度をしている時に、同じクラスの矢島という男子が近寄ってきた。一度も話をしたことのない、小柄で地味な男子で、苗字しか知らない。
「沢井さん」
「・・・」
「かんにん。野口さんが」
「野口さん」
「文化祭のことで、困ってて、呼んできてって」
「私」
「みたい」
意味不明だったが、野口香織の名前を無視することもできなかった。
「どこ」
矢島に連れられて行ったのは、今は使われていない三階の端部屋だった。部屋に入った途端に、矢島と別の男子が二人でドアに立ちふさがった。矢島は明後日の方向を向いていた。騙されたことは明らかだった。部屋は会議に使っていたのか、中央に長机がコの字型に並べられ、パイプ椅子が乱雑に置かれている。五人の男子生徒と女子が一人。女子の名前は工藤玲奈という七高のマドンナと呼ばれている二組の女子生徒だった。長机の議長席のパイプ椅子に両脚を伸ばして座っているは、七高の番長で柳沢という大男だ。部屋の中にはオスの臭いが充満している。何のためにこの部屋に連れてこられたのかは明明白白だった。
亜紀は番長の柳沢の方へ歩き出した。面倒なことになってしまったが、逃げる方法は無いと思わなければならない。亜紀の正面に男子が一人立ち塞がり、亜紀の背後に一人の男子が回り込んだ。正面の男子の顔は卑猥に歪んでいる。下品の見本のような顔だ。絶対に女の子にもてないタイプで、暴力でしか望みを遂げることのできない男だと断定してもいい。
「さ、わ、い、さん」
嫌な口臭が臭ってきそうだ。亜紀は右に動く動作をしておいて、左足の蹴りを相手の膝に叩き込んだ。力を加減したつもりだったが、男子はその場に崩れ落ちた。後にいる男子に動く度胸はないと判断して、亜紀は柳沢に近づいた。
「二組の柳沢君だよね」
「すごいじゃん」
「訳、教えてくれる」
「わけね」
「そう。柳沢君、番長だよね。セコイ真似できないでしょう。それとも、君も男じゃないの」
床に倒れている男子と柳沢を見比べて言った。
「訳がわかれば、やらても、いいってか」
「わからないまま、やられるよりはね」
「ま、いいか」
「柳沢君」
工藤玲奈が鋭い目つきで言った。
「いずれ、わかることだろうが」
「・・・」
「玲奈の依頼だ」
「工藤さんの依頼って」
「一寸だけ、ヤキを入れてくれって、な」
「理由は」
「理由も言うのか」
「おねがい」
「おねがいときたか。ま、いいか。理由は二つある。そうだよな、玲奈」
工藤玲奈はしらん顔をした。
「その一、お前、転校生だろ。一年の時は、玲奈が学年トップだったんだ。二年になって、お前が転校してきて、トップは奪われた。その二、この夏休みまで、七高のマドンナは玲奈だった。お前は、そのマドンナも奪ってしまった。俺は、中学まで東京だったから知らないけど、玲奈は小学校でも、中学校でも人気ナンバーワンのスーパーマドンナだったらしい。プライド傷つくよな。玲奈の気持ちもわからなくない。だから、引き受けた」
「そう。わかったわ。私、今日から成績落とす。マドンナにもなりたくない。だから、工藤さんが一番。だったら、理由はなくなる。それでいいでしょう」
「そんなことは、解決にはならない。落ちたプライドはどうする」
「それは、工藤さんが解決すること。柳沢君の決めることじゃない。柳沢君は問題を解決した」
「そうもいかない」
「まだ、何かあるの」
「ん」
「お金を貰った」
「お前」
「あたりなの」
「まさかね」
「私が、工藤の倍出すと言ったら」
「それは、ない」
「じゃあ、三倍」
「お前、金あんのか、一万、二万と違うぞ」
「百とか二百なら」
「まじかよ。でも、やめとけ。こいつんち、大金持ち。競り合ったらお前の負けだ」
「無理」
「無理だな」
「わかった。柳沢もやめる気はない」
「ああ、契約不履行は格好悪いだろう」
「私に勝つ気」
「俺、今まで負けたことないから」
「相手が弱かったのね」
「そうか」
「確かに、強そう。私も、手加減できないだろうなって思ってる」
「手加減」
「だから、悪いけど、障害が残るかも」
「お前」
「気は進まないけど、急所も外さない。目と背骨、そして、男の急所。最悪の時は、一生、車椅子になる。でも、許してくれるのよね」
「わかった。お前も一生、女にはなれなくなる。いいな」
柳沢の顔が笑ってはいなかった。亜紀は靴を脱いで、靴下も脱いだ。足を床になじませる。柳沢は百八十で百キロという巨漢だから、体力勝負では全く勝ち目はないだろう。守りに入って後ろに退がれば、そこで負けになる。柳沢が動く瞬間に攻撃に移る。その先は、感性で動けばいい。柳沢の体力に一蹴りで致命傷というのは難しいかもしれないが、亜紀は飛ぶことにした。前蹴りでダメージを与えることが必要だ。
柳沢と亜紀は広い場所に出た。
亜紀は静かに柳沢の高まりを待った。体はいつでも飛べる準備に入っているが、柳沢は気が付いていない。
柳沢が前に向かって動き始めた瞬間に、亜紀も前に走り出した。
飛ぶ。亜紀の足刀が柳沢の顔面に叩き込まれた。
亜紀の足に衝撃が伝わる。その衝撃に耐えて、更に、蹴りの力を押し出した。普通の男なら、後方へ吹っ飛んでいる筈だが、柳沢の体は、その場で倒れただけだった。亜紀の体は柳沢の体に重なるように落下した。
柳沢は瞬間的に気を失ったのか、動かなかった。亜紀は転がり、柳沢の伸びきった体の横で、膝立ちになって待った。動けば、正拳を叩きこむ。
柳沢は、すぐに目を開けた。だが、動かなかった。
「わかった。お前の勝ちだ。障害者手帳はいらねぇよ」
「よかった」
柳沢は上半身を起して頭を振った。
「生まれて初めて負けた相手が、女。これって、相当、きついな」
工藤玲奈が出口に走り出した。
「つかまえて」
亜紀は鋭い声で入口の男子に命令した。逃亡防止のために配置されている二人が両手を広げて、工藤玲奈の前に立ち塞がった。
「ここに」
呆然と立っている男子に、工藤玲奈を連れてくるように言った。逃げ切れないと判断したらしく、工藤玲奈は自分から戻ってきた。
椅子に座った工藤玲奈は、窓の方を向いて、不機嫌を体中で表現している。不愉快な顔でも、その端正な顔立ちは美しい。さすが、マドンナにふさわしい美人だと思った。でも、その腹は腐りきっている。
「何したのか、わかってるの」
「ふん」
「柳沢」
「ああ」
「男が女にヤキを入れるって、どうするつもりだったの」
「どうって、決まってるだろ」
「私を、皆で、ってこと」
「聞くなよ、そんなこと」
「こいつらの目、ギラギラしてたよね」
「そうか」
「工藤は、わかってた」
「普通、わかるだろ」
「そうかな」
「・・・」
「わかってない、と思わない」
「本人に聞けば」
「本人は答えないと思う」
「だから、なんなんだ」
「やっぱ、わかった方がいいと思うの」
「はあ」
「自分が体験すれば、どういうことか、よくわかる」
「言ってる意味、わかんねぇよ」
「負けても、責任はとれないってこと」
「そうは、言ってないけど。ヤバイだろ」
「私だったら、ヤバクなくて、工藤ならヤバイ。どういう意味」
「別に」
「私が知らないことが、まだあるみたいね」
「・・・」
「ここには五人の男子がいるよね。女子が一人騙されて連れ込まれた。私が、なにをしても正当防衛になると思わない。殺したら過剰防衛かもしれないけど、死ぬ寸前なら問題ないと思うよ。先の心配より、今の心配をしたら」
「おまえ、マジかよ」
「全員に障害者手帳を渡してあげてもいい」
「わかったよ。こいつんち、大金持ちってだけじゃない。陣内組とも繋がってるんだぜ、お前だって、あとあと面倒になるって」
「陣内組」
「暴力団」
「そりゃ、ヤバイ。確かにヤバイ。でも、暴力団にやられても後遺症は残らないよ。立派な傷害罪だし、そこまではしない」
「・・・」
「どうする」
突然、亜紀は出口に走った。その勢いのまま、出口を固めている矢島の顔面に左足の蹴りをぶつけた。矢島は鼻血を床に飛ばして大きく倒れこんだ。残った出口係の男子は、呆然と立ちすくんでいる。亜紀が手で奥へ移動するように示すと、大人しく従った。
床に倒れて、恐怖の眼差しで見上げている矢島にも、奥に行くように指示した。
「わかったよ」
ゆっくりと戻った亜紀に、柳原が言った。
最初に亜紀の蹴りで倒れた男子は起き上がることも忘れて、同じ場所に座り込んでいる。
「君、名前は」
「馬場です」
「君が、一番乗り。いいね」
「あっ。はい」
「立って」
馬場と名乗った男子は、足をかばいながら立ちあがった。苦境の中にも関わらず、馬場の顔には卑猥な笑みがあった。
「ゆるさへんえ」
目を見開いた工藤玲奈が悲痛な声を出した。よりによって、最初に襲い掛かってくる男が、馬場だということは、工藤にとっては犯されること以上の屈辱と思うだろう。皆が息を飲み、緊張が走った。
右足を引きずりながら、更に近づいて行く。
「いややあ」
工藤が悲鳴をあげて床にしゃがみこんだ。
馬場は一気に工藤に飛びかかった。
押し倒された工藤の目の前に、馬場の卑猥な顔が迫っている。
「そこまで」
亜紀の鋭い声が部屋に響いた。だが、馬場はもう我を失っている。
「とめろ」
亜紀は柳原に言った。柳原の剛腕によって、やっと引きはがされた馬場は、何が起きているのかわからない様子だった。
「もう、いい。行きなさいよ」
工藤玲奈は、ノロノロと立ち上がり、定まらない足で出口に向かった。
「みんな、よく聞いて」
床に座っている五人の男子は従順だった。
「今日のことは、一切、誰にも言わないこと。君たちにとっても名誉なことじゃないし、これ以上、私もトラブルはいらない」


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海の果て 第2部の 1 [海の果て]


副題「誰か族」

 誰か族とは、誰かのために生きようとする人たちのことを言う。



 黒い雲が天を覆い、雨は突然にやってきた。沢井亜紀は、軒下へ走ったが、髪も制服も濡れていた。亜紀は怒りの眼差しで空を見た。ハンカチを取り出して眼鏡を拭く。その表情には怒りの残滓もなかった。災いが通り過ぎるのを待つことには慣れている。古い建物の軒に打ち付ける雨音は、屋根を突き破りそうな勢いで、亜紀は周囲を見回した。そこは、毎日通る通学路なので、その建物が使われていない工場であることは知っていた。雨の水煙で道路の向かい側の建物も見えない。その水煙の中から、傘を挿した人影が軒下へ飛び込んできて、亜紀は身構えた。
「野口さん」
同じクラスの野口香織が、全身を濡らして、地団太を踏んだ。
「沢井さん」
野口香織は、傘を放り、ハンカチで顔を拭いた。
「傘、持ってたのに」
顔と髪を拭いただけで、ハンカチは役に立たなくなっていた。
「うち、雨女。なんでやの」
「えっ」
「どんなに天気でも、傘は手放されへんのに」
学校での野口香織は、クラスの太陽のような存在で、笑顔を絶やしたことがなく、誰とでも仲が良く、誰からも好感を持たれている。
野口香織と、お友達でないのは、誰とも口をきかない、亜紀ぐらいだろう。その、野口香織が「雨女」とは信じ難い取り合わせだった。
「沢井さんも、ずぶ濡れや」
亜紀は、笑顔に戻った香織から視線を外して、雨を見た。雨の勢いは更に強くなっていた。
「かんにん。沢井さんも雨女かな、思たんや」
亜紀は、自分がどんな様子なのかわかっていた。普段でも地に落ちた鳥の巣のような髪が、雨に濡れてひどいことになっている筈だった。
「沢井さん。聞いてもいい」
亜紀は、野口香織を無視する様子を見せた。
「沢井さんは、京都が、嫌い」
「えっ」
「転校してきて、一年以上やのに、友達作らへんし。ずっと思ってたんよ。京都が嫌いなんかなって」
「別に」
「そう。私のこと、嫌い」
亜紀は、香織の顔を見て、首を横に振った。
「よかった。じゃあ、今から友達になろう。かまへん」
押し付けがましいことを言っているのに、香織が言うと、そうは感じない。亜紀は、苦笑いをするしかなかった。
「そこに、相馬保育園があるの、知ってるやろ。うち、調理手伝いしてる」
「バイト」
「ううん。バイトと違う思う。二人分の食事もらってるだけ」
「そう」
「遅刻しそうや。少し小降りになったら行こ」
「私は、べつに」
「でも、濡れたままやったら、風邪ひくし。保育園からは、この傘持っていって」
クラスでも、香織はいつも相手のことを一番に考えて行動していることを、亜紀は知っていた。押し付けがましいとは誰も感じていない。人柄だと言ってしまえば、それまでだが、亜紀は何か違和感を持っていた。人間が善であることはない、と思っている。
「野口さんは、いつも、自分のことが二番なの」
「えっ」
「ちがう」
「そんなん、考えたことない」
「そう」
苦労知らずのお嬢ちゃんなのかもしれないと、亜紀は納得した。
雨は小降りになった。
「いこ」
香織にせかされて、亜紀も香織の傘に入って歩き出した。亜紀は友達になったつもりはなかったが、相手はもう親友になったつもりかもしれない。雨宿りした廃工場から保育園まではすぐだった。石の階段を登って、つつじの植え込みの間を進むと、開け放たれた大きな玄関があり、そこには雨に閉じ込められた五人の子供たちが暗い表情で外を見ていた。
「あっ、香織ちゃんや」
子供たちの表情が明るくなったが、亜紀を見て緊張したようだ。
「友達の沢井さん」
「こんにちは」
子供たちが声をそろえて挨拶をした。
「こんにちは」
亜紀は、玄関から目を逸らして小さな声で答えた。小さな女の子は嫌いだ。昔の自分が重なってしまう。
「傘、いい」
傘を取ろうとした手に何かがからみついた。亜紀の指を小さな女の子が握っていた。
「佳奈ちゃん」
なぜか、香織が驚いた声を出した。亜紀は、少し強く手を引いたが、女の子は手を離す様子はなかった。亜紀は香織の方を見た。
「沢井さん、ちょっとだけ待ってくれる」
香織は、女の子の前に座るようにして、女の子の目を見つめた。佳奈ちゃんと呼ばれた子は、目を伏せたまま両手で亜紀の指を握ってきた。
「沢井さん、急いでかえらなあかんの」
「どうして」
「この子が、自分から、こんなことしたこと、あらへん」
香織も、当惑顔で、他の子供たちの方を見た。
「沢井さん、少し一緒にいてやって、お願い」
亜紀は、困った顔をした。別に急ぐ用事などなかったが、子供たちと係わりを持つことに抵抗があった。かといって、力づくで振り払うことはできない。亜紀は、玄関の中に入り、鞄を板間に置いて腰を降ろした。佳奈ちゃんは、亜紀の横に座って、正面を見つめていた。
「ちょっとだけ」
香織は、奥へ走った。子供たちが二人を遠巻きにして見ている。亜紀と佳奈ちゃんは、黙って前を見ているだけだった。
「こんにちは。私、園長の相馬です。ご迷惑かけてるようで、ごめんなさい」
香織に連れられてきた年配の女性が、亜紀の横に背をかがめた。亜紀は、ちいさく首を振った。
「すこし、いいでしょう。上にあがって」
園長の言葉は丁寧だったが、有無を言わさない強さがあり、亜紀は園長に従って靴を脱いだ。三人が入ったのは、面談室と書かれた部屋で、テーブルと椅子だけの部屋だった。
「指が痛いよ。放してくれる」
亜紀は、佳奈ちゃんに頼んだ。だが、佳奈ちゃんは力を緩めただけで、亜紀の指は放してくれなかった。
「放してくれないようね」
園長が座るように手で言った。
「この子が、こんなに強い感情を出してくれたのは初めてなの。あなたには悪いけど、無理を聞いて欲しいの。野口さんのお友達ですって」
「はい」
亜紀は、窓の外を見た。雨がやんだようだった。香織につきあってここまで来たことを後悔していた。
部屋の外が騒々しくなって、香織が部屋に入ってきた。
「佳奈ちゃん。ケーキのおじさんよ。はよう」
「このおねえちゃん。園長先生がつかまえておくから、食べてらっしゃい。大丈夫。まかしておいて」
佳奈ちゃんは悩みぬいて、香織に手を引かれて部屋を出て行った。
「ごめんなさいね。すこし、事情を説明させて」
亜紀は。指をさすりながらうなずいた。
「ここは、看板に保育園と書いてあるけど、少し違うの。昔は普通の保育園だったのよ。でも、今は養護施設みたいなもの。虐待を受けた子供たちを預かっているの。特に性的虐待を受けた子供。だから女の子ばかりなの。佳奈ちゃんは虐待されたわけじゃないけど、あの子のおねえちゃんが被害者で、佳奈ちゃんは多分、その現場に居合わせたのだと思う。あの子、来年から小学校だけど、全くしゃべらないし、喜怒哀楽も出さない。養護学校に行くしかないのかと思っていたの。できれば、普通の学校に行かせたい。だから、今日はびっくりしたの。普通の子供に戻れるかもしれない」
「私に、どうしろと」
「わからない。でも、あなたといれば、あの子に何かが起きるかもしれない。こんなこと初めてだから」
園長は、しばらく黙り込んでしまった。
「あなた、ご家族は」
「母と二人ですが」
「料理はだれが」
「私です」
「調理手伝ということで、出来た料理を二人分持って帰ってくれたらいいから」
「野口さんみたいに」
「ええ。家に帰っても料理はするんでしょ」
「はい」
「そして、あの子と一緒にいてあげて欲しいの」
「一緒にいて、何をするんです」
「何って、普通に遊ぶだけ。本を読んだり、散歩したり」
「私に、なにかを期待してます」
「そうね。そういうことになるわよね。でも、あの子が今の状態から抜け出せなくても、それは、あなたのせいじゃない。ただ、一縷の望みなんだと思う。だめかしら」
「すこし、考えさせてください」
「そうよね。私、きっと無茶言ってるのね」
「ええ」
「それと、ここは公立の施設じゃなくて、全くの私立の施設なのね。確かに補助金は貰っているけど、ほとんどは個人の寄付なの。しかも白石さんという方の寄付金で成り立っている施設なの。その白石さんが月に一度、ケーキを持ってきてくださるの。子供たちは、とっても楽しみにしていて。この施設では、大きなイベントかな。ここにいる子供は、みんな、心に大きな傷を持っていて、男の人には拒絶反応があるのだけど、白石さんだけは、受け入れられているみたい。だから、ケーキも白石さんという男の人が来てくれることも大事にしたいと思っている。この施設を卒業したら、男の人抜きの生活などない訳だし、できれば、いつかは、普通の生活をしてもらいたいから」
「野口さんも、ここの卒業生なんですか」
「どうして。気になるの」
「別に」
「あの子は、ここの手伝いをしてくれている学生さん。それだけよ」
「はい」
「雨が、やんだわ」
大きな窓から陽が差し込んできていた。
「あなたも、ケーキ食べていって。美味しいの」
「はあ」
「いま、持ってくるから」
園長は部屋を出て行った。
面倒なことに巻き込まれたと感じていたが、小さな子供の、小さくて、柔らかくて、頼りない指の感触が、そんな気持ちを封じたのか。   途方に暮れているというのが現状だった。園長の説明の中にあった性的虐待という言葉にも一歩引いてしまう。自分のことだけで精一杯。このまま、帰ってしまおうか。
ドアが開いて、野口香織と佳奈ちゃんが入ってきた。佳奈ちゃんの手には、皿にのったケーキがあった。落とさないように、持てる力を振り絞っている表情で、一歩ずつ近づいてくる。そんな気持ちを壊してしまわないように、香織が佳奈ちゃんの後ろに張り付いていた。亜紀は動けなかった。
亜紀の座っているテーブルの上に、やっとの思いで、ケーキの皿を置いた佳奈ちゃんが、大きなため息をついた。
佳奈ちゃんは一言も口をきかない。亜紀は椅子から降りて、床に膝をつけると、何も言わずに佳奈ちゃんを両手で抱きしめた。佳奈ちゃんの体から、力が抜けていくのがわかった。
「ケーキ、食べたいな」
佳奈ちゃんが体を起こして頷いてくれ、隣の椅子に佳奈ちゃんを移した。ケーキはケーキ屋で売っているケーキのようだ。高校三年になるまで、本物のケーキを食べたことがない。信じられないことだが、亜紀には食べたことのないものが山ほどある。食べるものがなくて、残飯を捜し歩いていた時もあった。「ここまでして、生きていかなければいけないのか」と深刻に思ったこともあったが、生存本能の方が強かった。
「おいしいね」
ケーキは美味しかった。でも、初めてのケーキだとは言えなかった。
佳奈ちゃんが椅子の上に立ち上がって窓の外を指差した。
「どうしたの」
亜紀は、立ち上がって窓の外を見た。保育園は、すこしだけ高台にあり、鴨川が眼下に見える。雨を降らせた黒い雲はなく、太陽の光が川面に反射してキラキラと光っていた。鴨川は底が浅く水面は滑らかではない。その水面で太陽光が反射して、宝石が踊っているようにきらめいていた。
「わあ」
亜紀は、その光景に見とれた。佳奈ちゃんを抱き上げ、出窓に乗せて、二人は無言で光の乱舞に見入った。自然の力の凄さのようなものを感じた。
「すごいね。佳奈ちゃんはここが好きなんだ」
佳奈ちゃんは感性も高く、優しさも気力もある。ただ、声の出し方がわからなくなっているだけなのだと思った。光の洪水の中で触れ合っている二人。
「佳奈ちゃん」
亜紀は、出窓に座っている佳奈ちゃんの正面に立って言った。
「私の名前は、さわい、あき。今日から佳奈ちゃんと友達。毎日は来れないかもしれないけど、また、来るから」
佳奈ちゃんが初めて、大きく頷いた。亜紀は、優しく抱きしめた。
「ごちそうさま。お皿を片付けて、園長先生を呼んできて」
抱いたまま、出窓から降ろすと、佳奈ちゃんは緊張感を持って、皿を手にして部屋を出て行った。年長の友達のために、何かができるときの喜びは、亜紀にも経験があった。
佳奈ちゃんに手を引かれて園長先生が部屋に入ってきた。
「佳奈ちゃんと、友達になりました。何かができるとは思っていませんが、いい友達になります」
「そう。よかった。ありがとう」
園長先生は、背をかがめて、佳奈ちゃんに「待っててね」と言って、亜紀の前に立った。
「ほんとに。よかった。ありがとう。お願いします」
亜紀の前で、園長先生が頭を下げた。亜紀は身の置き場に困った。
「座りましょうか」
佳奈ちゃんを椅子に座らせて、亜紀にも椅子を勧めた。
「さわい、あきさん。どんな字なの」
「はい。谷沢の沢、井戸の井、亜細亜の亜と紀元の紀です。古臭いですよね」
「ううん。いい名前よ。私は、相馬由紀。理由の由と紀元の紀。似てるわね。亜紀さんと呼んでもいい」
「はい」
「佳奈ちゃん。よかったね。亜紀さんが友達になってくれて」
佳奈ちゃんは、下を向いたまま頷いた。
「亜紀さん。無理はしないでね」
「はい」
亜紀も肩を張って無理をするつもりはなかった。
「亜紀さんの都合のいい時に、いつでも来て。部屋も用意できるわよ」
「ありがとうございます」




白石は慎重に運転して七条大橋の手前で右折した。トランクルームのアイスボックスには、大量のケーキが入っている。相馬保育園の子供たちの輝くような眼に会えると思うと、心が浮き立ってくる。だが、その前に一仕事しなければならない。京都システムの須藤から、相談ありのメールを貰っていた。京都システムは株式会社白石の傘下企業ではあったが、実務は須藤という副社長に任せっきりだった。コンピューターソフト開発の会社を起業するつもりはなかったのだが、大手のコンピューターメーカーに依頼していたホテル北京都の電子化は費用に見合ったものにならなかったので、八年前に友人の紹介で東京コンピューターシステムという会社から若手のSEを譲り受けて設立したものだった。会社の代表は白石の名前になっているが、実際の会社運営は須藤誠一というSEがやってくれていて、白石は須藤に全幅の信頼をよせていた。
「白石さん」
二階のドアを開けると、須藤が声をかけてきた。
「どうしました」
「はい。またTCSが納期短縮を言ってきました」
「どうしょうもないですね。的場さんが優秀すぎましたね」
TCSの開発部長をやっていた的場順一郎が独立してからは、後任の部長にTCSの社員も下請け会社も振り回されていた。
「これ以上は、無理ですよ」
「須藤さんの予定は」
「僕は、いつでも、時間作ります」
「じゃあ、来週の早い時点で行きましょうか」
「はい」
「腹決めて」
「はい」
仕事を取りすぎている、と感じていた。しばらく、つらい時期を耐えなければならないのだろう。これほどソフト開発の会社の仕事が過酷なものとは思っていなかった。
「これが、対策案です。目を通しておいていただけますか」
「無理してませんか」
「無理はありますが、これが限界です」
「わかりました」
白石は京都システムを出て、相馬保育園に向かった。園にいるのは、心に大きな傷を持った子供たちだったが、子供たちの顔を見ることを楽しみにしていた。園長の相馬由紀は、亡き妻の姉だった。妻の真紀の希望で、十年前から寄付金は出していたが、妻と息子の誠を五年前に交通事故で亡くした時から、園の運営を全面的にバックアップしていた。ホテル北京都にある洋菓子専門店のケーキを、山ほど持っていくようになってから二年になり、園ではケーキのおじさんと呼ばれている。
園の横にある駐車スペースに車をとめて、アイスボックスから慎重にケーキを取り出すと、石段を登った。先程までの雨はやみ、夏を思わせるような太陽が照り付けていた。玄関で遊んでいた二人の子供が、白石の顔を見て、目を輝かせて、奥に駆けていった。園の中はいつものような騒ぎになっていて、白石が食堂に行った時には、もう十人ほどの子供たちが待っていた。調理を担当している栄養士の大田洋子が、いつもの大きな笑顔で白石を迎えてくれた。
「おこしやす」
「今日は、新作ケーキですよ」
「楽しみやわ」
年長の子供たちが、ケーキ用の皿を用意し始めた。二十人を超える子供が一堂に集まると、賑やかというより騒々しくなる。女の子は
よくしゃべる。少し太り気味の大田洋子が手際よくケーキを盛り付けていく。子供たちが、手にした皿を大事にかかえて自分の席に座り、「いただきます」を待つ様子は見ているだけで楽しかった。
「佳奈ちゃんは」
大田洋子が、この席にいない、佳奈ちゃんという子供のことをきいた。
「談話室に、園長先生といてはる」
「お待たせ」
野口香織が佳奈ちゃんと一緒に食堂に駆け込んできた。
「いっただきまぁす」
白石は机の片隅に座って見ていた。ケーキは充分にあるにもかかわらず、まるで競争だった。ここでは、仕事のことを忘れることができる。大田洋子もケーキの前に立って、嬉しそうに子供たちを見ていた。ここの職員は、誰もが子供大好き人間ばかりだ。安い給料なのに辞める職員がいないのは、園長の人柄のおかげだが、皆子供が好きなのだ。何度も寄付金の増額を提言したが、園長は頑なに受けようとしなかった。「ここは贅沢をする場所じゃないの。居場所を与えることが、ここの仕事だから」と言って、切り詰めた生活をしていた。白石のほうが年上だったが、いつも敵わないと感じている。白石の仕事は多岐に亘っていて人脈も多いが、相馬由紀を超える人物に会ったことがなかった。金や権力という意味では大物はいくらでもいたが、ものの考え方や、身の処し方において、相馬由紀は一級品だった。
全員が食べ終わった頃に、園長が食堂に入ってきた。野口香織と佳奈ちゃんに何かを話して、白石の方へやってきた。
「求さん。いつもありがとうございます」
いつものように、園長は深く頭を下げた。
「ここに来ると、いつも気持ちが落ち着きます」
「今日も、忙しいですか」
「いえ。何でしょう」
「いつも、お願いばかり。また、力になって欲しいことがあるんです」
「もちろんです。私にできることなら」
園長は、佳奈ちゃんに起きたことを話した。
「香織ちゃんは、一期生の野口香織ですか」
「ええ、香織ちゃんも今日友達になったばかりだって」
「で。私は何をすれば」
「いま話した沢井亜紀さんの力になって欲しいの。あの子は何か深刻な問題を抱えていると思う。それがわかるの。でも、あの子が必要としているのは、私ではないように思うのよ」
「わかりました。近いうちに、私が話しをきいてみます。どんな子なんですか」
「香織ちゃん」
食堂に入ってきた野口香織を園長が呼んだ。
「こんにちは。今日のケーキ、変わった味だけど、とても美味しかったです」
「新作だけど、自信はあると言ってました」
「ところで、あの子のことだけど」
「佳奈ちゃんですか」
「いえ、あなたのお友達の沢井さん。どんな子なの」
「沢井さんだけは、私にもわかりません。そこの松葉荘にお母さんと二人で暮らしてると思うけど、それしか知りません」
「そう。学校では」
「誰とも、話をしません。取り付く島がないというか、無視されるというか。強烈なバリアがある、と思います。でも、成績は飛びぬけていいんです。この前、全国共通の模擬試験があったんですけど、沢井さんは一桁だったんです。私は五桁でしたけど」
「一桁って、十番以内って事」
「そうです。学校の成績も、ぶっちぎりの一番だから、一寸、近寄りがたい」
「もちろん、進学コースよね」
「ええ。そういうことになってますけど。どうなのかなあ」
「どうして」
「うちも、貧乏では誰にも負けないけど、沢井さんのお弁当、いつも、おにぎりが一つなんです。国立だとしても、受験料とか入学金とか授業料、払えるとは思えないんです」
「そう」
「文房具とか、持ち物とか、どうみても、うちよりお金があるとは思えないし、休み時間に読んでいる本は、図書室の本ばかりで」
「そういえば、制服も変ね」
「転校してきた時に、先生が中古品を世話したって、聞きました」
「ずっと、あの髪型」
「ええ。きれいな顔だと思うけど、男の子は気持ち悪いって言ってます」
「たぶん、わざとね」
「わざと、ですか」
「若い女の子だったら、少しでも自分を綺麗に見せたいと思うわよね。あの子は隠してる」
「ともかく、変な子なんです。どうして、佳奈ちゃんが」
「そうね」
「来週、東京から帰ってきたら電話します」
「お願いします」
白石が椅子から立ち上がり、園長と香織が頭を下げた。香織も卒業すると、白石の紹介で大手の病院に付属する看護学校に行くことになっていた。




 三日間、相馬保育園に行かなかった。佳奈ちゃんは、自分自身に勝たなければ再生はないと、亜紀は思っている。たとえ、ほんの小さな子供だとしても、自分の体験からも譲れない部分だった。甘えさせてやりなさい、全面的に受け入れてあげなさい、というのは大人の感覚にすぎないと思っている。子供だって、それなりに強かに生きる能力を持っている。心のどこか深いところで、この人に受け入れられている、守られているという確信さえあればいいのだ。亜紀の場合は、道場の大河原先生がそうだった。時間はかかるけど、自分がそんな存在として、佳奈ちゃんに体感してもらうことができれば、必ず再生すると思っていた。
四日目の放課後に、亜紀は相馬保育園の石段を登った。想像していたように、佳奈ちゃんは玄関で、ひたすら待っていた。この四日間、玄関に張り付いていたはずだ。
「佳奈ちゃん」
亜紀はカバンを板間に置いて、両手を広げた。亜紀の胸に飛び込んできた佳奈ちゃんを抱きしめて、そのまま板の間に腰を降ろした。こうやって体が感じる信頼という薄い膜状のものが、一枚ずつ重なっていき、確信という厚いものになることができれば、佳奈ちゃんは自分の人生を始めることができる筈だ。理屈ではなく、自分に勝つという感覚を体で覚えることが出発点になる。自分に勝つことしか、生き残る道はないということを体中が知る日が来る。この相馬保育園に保護されている子供たちは、居場所があるということだけでも恵まれている。だから、自分というものに気づく時間が、より多く必要になるかもしれない。だが、佳奈ちゃんはダメージが大きかった分だけ優位に立っているとも言える。今は、時間が必要だった。亜紀は、先の見えない人生ではあったが、自分の人生を生きていると感じていたし、必ず切り開くことができると信じていた。
「佳奈ちゃん。私、学校の勉強したいの。ここでやってもいい」
亜紀は、佳奈ちゃんを膝から降ろした。佳奈ちゃんは抵抗することもなく、亜紀の横で、亜紀の制服の端を握っていた。
亜紀は日本史の教科書を取り出して、読み始めた。もう、一冊まるごと暗記できるほど読んでいたので、目新しいものはなかったが、教科書に集中した。亜紀の母親は、十八歳で私生児を生み、亜紀が三歳の頃にはホステスとして働き始めたらしい。母親が帰ってこない日もあり、食事のない日もあった。隣の空手道場の奥さんがくれる食べ物で、その日を乗り切ることもしばしばだった。小学生になると、学校から道場に帰り、そして家に帰るという生活になった。家に帰った時は教科書を読みふけることしかなかった。愛読書が教科書だったので、亜紀は高校三年のいままで、学校の成績は一番しか取ったことがない。母親は保護責任遺棄の現行犯であり、亜紀は施設に収容される状況だったが、道場の大河原先生が亜紀を支えてくれた。今から思えば、あの頃から、自分を守るのは自分しかないという現実に気がついていたと思う。小学三年生の頃には、家事も家計も亜紀の担当だったが、そのことは全く苦にならなかった。母親が家計にお金を入れてくれれば、何の問題もなかった。
「亜紀さん。ありがとう」
園長が声をかけてくれた。亜紀は教科書に目を落としたまま、小さく会釈を返した。職員や子供たちが何人も通り過ぎたが、佳奈ちゃんと二人の世界を作って、すべて無視していた。
それから、三日間は毎日相馬保育園に行き、佳奈ちゃんと二人、玄関で勉強をした。二人を覗きにくる子供たちも減っていった。野口香織も二人に小さく手を振るだけで通り過ぎる。園長だけは、必ず声をかけていった。次の日から三日間、保育園に行かずに四日目に行ったとき、佳奈ちゃんは玄関にいなかった。佳奈ちゃんは遊戯室だった広い板の間の片隅で本を読んでいた。
「佳奈ちゃん」
佳奈ちゃんは、本を捨てて、膝立ちしている亜紀の胸に飛び込んできた。
「佳奈ちゃんも、お勉強」
「あそこで、一緒にお勉強しようか」
二人は片隅で、別々の本を読んだ。初めて佳奈ちゃんに出会った頃と比べると、佳奈ちゃんはとても落ち着いた様子だった。
夕方になると、保育園の中が騒がしくなった。「ケーキのおじさん」
という声が聞こえる。
「佳奈ちゃん。ケーキのおじさんよ」
遊戯室の入り口から、香織が声をかけてきた。
「いこ」
亜紀は立ち上がった。佳奈ちゃんはケーキが好物のようだったが、亜紀もケーキが好きになっていた。二人が食堂に行ったときには、すでに大騒ぎになっていた。佳奈ちゃんと二人で列に並んだ。食堂の奥で園長先生と一緒に座っている人が、ケーキのおじさんらしい。野口香織から聞いていたケーキのおじさんは、もっと年配の人だと思っていたが、そうではなかった。園長と話をしながら、時折笑っている。その笑顔に好感が持てた。大河原先生とも違うし、母親のろくでもない恋人たちとも違う。亜紀にとっては初めて出会う人種だった。
佳奈ちゃんと並んでケーキを食べた。美味しい。皆がケーキのおかわりをしていたので、亜紀も二つ目を食べた。最初にこの保育園に来たときの子供たちの目は、よそ者を見る眼だったが、今は仲間と思われているようだ。大河原道場でも大勢の仲間がいたが、一度も心を開いて友達を作ったことはなかった。食べ終わって食器洗いを手伝おうとしたが、年長の子供たちが手際よく片付けていて、亜紀の入り込む余地はなかった。亜紀は遊戯室にもどって、佳奈ちゃんと本を読むことにした。
夕方になって、香織が夕食を告げにやってきて、亜紀は佳奈ちゃんと別れた。香織は、使い捨ての容器に入った二人分の食事を渡してくれる。園長先生が言っていたとおり、保育園に来たときは食事を持って帰るようになっていた。
「ありがとう。いつもおいしい」
「よかった。太田さんにゆうとくわ」
野口香織の友情は気持ちがよかった。友達になったからといってまとわりつくことはしなかった。亜紀は荷物をまとめて玄関へ向かった。
「亜紀さん。時間、まだいい」
「はい」
玄関で園長が待っていた。園長と一緒に談話室に入ると、ケーキのおじさんがいた。
「紹介するわ。こちら、白石さん。この園の最大の理解者なの。美味しいケーキも持ってきてくれるし」
「白石です」
「沢井です」
亜紀は素直に頭を下げた。
「佳奈ちゃんのことで、無理を言ってます」
「いえ」
「みんな、あの子のことは心配しています。最近、あの子の目が変わってきたと園長先生も言ってます。あとは、あの子の力だと思っています」
この白石さんという人は、佳奈ちゃんが再生するのは、本人の力だということがわかっている。こんな大人もいるのだと、亜紀は初めて知った。
「はい。あの子には大きな力があります」
「沢井さんと出会えたことが、あの子の運です」
「ごめんなさい。私が行かないと、夕食が始まらないので。求さん、お願いね」
園長が談話室を出て行った。
「座りませんか」
「はい」
「余計なお世話かもしれませんが、園長が君の相談に乗って欲しいと言ってました。何の相談ですか、と聞いたら、わからないから、相談に乗ってと言うんですよ」
「はあ」
「訳、わらないですよね。僕にもわかりません。でも、園長の考えは、後になって納得いくことが多いんです。だから、ともかく、君と話をしようと思ったんです。迷惑ですか」
「いえ。別に。でも」
「ですよね。では、先ず、友達になりませんか。一寸、歳食った友達ですけど」
「ええ」
「先ず、自己紹介しましょう。僕は、白石求です。要求の求です。ずっと、きゅうちゃんと呼ばれていました。仕事は、いろいろなことをやっていますが、ホテルと不動産とソフト開発かな。京都ですから、ずっと昔は呉服関係でしたが、今は、直接やっている仕事はありません。それから、五年前に交通事故で、妻と息子を亡くしました。園長先生の相馬由紀さんは、妻のお姉さんですが、お手伝いさせてもらっているのは、園長の人となりを尊敬しているからです。あと、ケーキは、うちのホテルにあるケーキ専門店のものです。ここは、ぎりぎりの経費で運営しています。だから、月に一度のケーキの日は歓迎されています。ここに来ることで、僕も一杯元気を貰いますから、お互い様かな。そして、と、仕事で、精一杯で、無趣味です。自己紹介も変か」
白石は、声を出して笑った。やはり、笑顔に魅力があった。
「ごめん。またにしよう。園長のために、言っておくけど、これは交換条件とかじゃないから。佳奈ちゃんのことは佳奈ちゃんのこと。君の事は君の事。あの人はそういう人だから」
「はい」
「足を止めてしまったね」
「いえ」
白石が椅子から立ち上がったので、亜紀も立った。
「ケーキ。美味しかったです」
「ありがとう。うちのホテルの自慢なんです。じゃ」
「はい。失礼します」
亜紀は談話室を後にした。
亜紀は相馬保育園に来てから、何かが動き出しているという感覚があった。生まれて初めてのチャンスかもしれない。残された時間は少ない。亜紀は、進学するものだと誰もが思っている。三者面談を断っても問題は起きない。亜紀の成績なら、先生は何の心配もないからだ。経済的なことも、「大丈夫です」と言い切ってしまうと、先生はそれで納得してくれた。亜紀は、大学に行くつもりもないし、行ける筈もなかった。亜紀の夢は、ほんとに小さい頃から、自立することだった。来年の三月には高校を卒業しなければならないのに、今はまだ何の進路もない。だが、学校の就職斡旋を受けて、御茶汲みや売り子の仕事を自分がこなせるとは思えなかった。かといって、困り果てているわけでもない。矛盾するようだったが、開き直ったら何でもできるという腹はあった。理想を言えば、自分にとって意味のある仕事で生活を立てたいと思う。もっとも、そんな生き方をしている人がいるとも思えなかったが、園長先生はそんな生き方をしている、ごく稀な人なのかもしれない。最近、相馬保育園で働く自分を想像したことがある。あの園長先生と仕事ができたら、きっと楽しいと思う。でも、職員の増員の予定があるのなら、園長は白石に相談をしなかっただろう。お見合いでもないのに、しどろもどろで自己紹介をしている白石の顔を思い出すと、自然に顔がゆるんでいた。今度、白石に会った時は、本気で相談に乗ってもらおう。食堂で白石の笑顔を見た時から決めていた自分に気がついた。それなのに、初対面の白石に対して、女のずるさを出している自分にびっくりだった。




 相馬由紀から電話を受けて、白石は大急ぎでケーキの手配をした。月に一度のケーキの日が、今月は二回目となる。「シフォン」のマスターには事前に緊急品が出ることを伝えてあったが、大変だったろう。何種類ものケーキを寄せ集めて用意されたものを持って、ホテル北京都を飛び出した。会ったこともない、沢井亜紀という女子高生にどう対処したらいいのかもわからない。自分で書いたシナリオで動くことが日常になっているので、今日は足が地についていないような、妙な不安があった。歳を取ったということなのか。四十五才といえば、働き盛りの筈だが、五年前の事故から、以前のような力が出ていないことを自分でも感じている。心の片隅で、楽になりたいという気持ちがある。自分の仕事を重いと感じている自分に驚くこともある。だが、白石グループの会社と社員と家族、全てが白石の肩にかかっているのだ。弱音を吐ける立場にないことは、充分、承知しているのだが、自分の中を吹き抜けていく風を止めることができない。相馬由紀でさえ、白石求は立ち直ったと思っているらしい。
それでも、相馬保育園に来ると元気がでる。
子供たちがケーキに群がっている。沢井亜紀が食堂に入ってきて、「あの子」と園長が目で知らせてきた。乱れた髪で顔が半分隠れているうえに、時代遅れの眼鏡までかけていた。着ている制服も大きすぎる。
「驚きましたね」
「そう。でも、とても魅力的な子よ。話してみればわかるわ」
園長と白石は、談話室に場所を変え、園長は佳奈ちゃんの様子を詳しく教えてくれた。
席を外した園長は、書類を持って戻ってきた。
「またですか」
「ごめんなさい。私、どうしても気がすまないの」
年に何回ともなく、保育園の運営状況を報告してくれる。必要な資金は、無条件で出すから、思い通りの運営をしてくださいと言っているのに、園長は承知しなかった。相馬保育園に資金提供をしているのが、唯一の道楽だったが、税金で持っていかれる分を寄付しているので、さしたる痛みもない。しかも、本来この施設は自治体が運営すべきものだから、白石の寄付金は自治体にとってもありがたいものであり、自治体に対して発言力が増し、白石の事業にとっても有利なものになっていた。
保育園運営状況の報告が終わり、書類を持って出て行った園長は、沢井亜紀を連れて戻ってきた。「お願いね」と言って、園長が談話室を出て行くと、心細さを感じている自分に動揺した。
沢井亜紀は物怖じした様子もなく、静かに椅子に座った。面と向かって見ると、圧倒的な存在感がある。一体、何物。何年も手入れをしたことのないような髪で、顔が半分隠れている。しかも、眼鏡。どう見ても、美人の部類に入る顔立ちなのに、なぜ隠すのか。左手には、何年も洗濯していないような手袋。火傷痕かあざがあって、それを隠しているのか。眼鏡の奥の大きな目は、まっすぐだった。大胆なのか、素直なのか、それとも何もわかっていないのか。その視線は、無造作にこちらの本音を見つめてくる。社会人という身ぐるみを剥ぎ取ろうとしているのか。一体、何物。でも、女子高生で、ほんの子供ではないか。
何故か、少年のように、自己紹介をしていた。
白石は、片山浩平を思い出した。東京で、警察庁の友人を訪ねた時に偶然出会った若者だったが、その圧倒的な存在感に似ている。
息子を亡くして以来、自分の後事を托せる人物に初めて出会えたと思った。だが、その片山浩平はすでにアウトローの世界に生きていた。堅気の世界に戻ってくることはない、とわかっているが、あのオーラは魅力だった。片山浩平は、まだ二十代だと思うが、百人のチームを持っていた。なぜ、片山が自分の仕事の事を話してくれたのか。一年前に突然京都まで来たときに、わかったような気がした。多分、正常な世界との接点が欲しかったのだろう。白石が相馬保育園に寄付をしていることも調べてあった。一億の現金を持ってきて、出所がわからないように寄付して欲しい、と頼んできたのだ。片山の稼ぎは数百億で、全て不正な所得だった。国家公務員の個人的なスキャンダル、組織的に行っている公金の横流しを洗い出し、その口止め料として、公金の横流しをさせるのが片山の仕事だった。米軍の盗聴技術を利用した情報収集で、日本の官庁では簡単に情報を取ることができたらしい。ただし、案件によっては広域暴力団が競争相手となることがあって、独自の武闘組織も持っている。横浜の三宅組事務所の爆破事件は、片山のグループがやったものだと言った。日本全土に勢力を持つ真崎組の傘下だった三宅組を壊滅させたことで、日本全土の暴力団を敵に回すことになったが、まだ片山の正体はわかっていないので、直接の脅威にはなっていない。どうしても衝突せざるをえない時は真崎組の本体を潰すつもりらしい。暴力団の抗争で、鉄砲玉といわれる若者が相手の組長に発砲するようなことではなく、組織の殲滅と主要幹部の殺戮を実行できるだけの、小さな軍隊だと言っていた。「どうして、そこまで話す」と聞いたが、「自分でも、わかりません」と言っていた。まだ、発展途上であり、将来の目標は一兆円だった。利益率が五割の一兆円企業など、世界中さがしてもないだろう。「一体、君は何をしたい」と聞くと、「それも、わからないんです」という答えだった。
沢井亜紀には、片山浩平のような危険な臭いはないが、どこかに共通するものを感じる。園長が心配していたが、なんらかの事情で、重いものを背負っている子供には違いないと白石も感じた。相馬由紀の頼みだから、力になりたいとは思うが、道筋は見えなかった。少し様子を観て見よう、というのが白石の結論だった。
「すこし、時間をください」
白石は園長に短く結論を言って、保育園を後にした。




亜紀の母親は、恋人がいない時の方が少しだけ人間らしくなる。人間らしいと言っても、決していい母親であったためしがないのだが、男に狂っている時の母親に比べれば、天と地の差があった。京都に来てからの一年半、何度か男の影はあったが、深い付き合いにはならなかったようだ。一旦恋人ができると、母の愛美はその全てをかけて、男に尽くすようになる。他人から見れば、常軌を逸していることに思えても、母にとってはかけがえのない真実らしい。恋人ができると、普通のホステスがトップホステスになり、あらゆる努力をして稼ぐが、その全てを男に貢いでしまう。その結果、家計は危機的状況となる。亜紀がへそくりをするようになったのは、小学校三年の頃からだった。一円も無駄にしない生活が続いている。だから、廃品回収は亜紀の得意技だ。大型ゴミの集積所から拾ってきて使っているものは数限りがない。食べ物を拾うことの方がはるかに難しいという体験をしたから、食べ物以外に金を使うわけにはいかなかった。
近くの大型ゴミ集積所で手に入れた自転車に乗り、図書館の本を返すために、東大路通りを北へ向かっていた。亜紀にとって、図書館は我が家の一部だった。
「沢井さん」
グレーの車から降りてきた男に声をかけられて、亜紀は自転車を停めた。
「白石さん」
「自転車旅行かい」
「いえ。そこの図書館にいきます」
背中に大きなリュックを背負っているから、旅行者にみえたのだろうか。リュックの中には、返却する本が入っている。
「図書館」
「はい。本を返しにいきます」
「そう。本を返した後、時間ある」
「ええ」
「この前、話が中途半端で、気になってね」
「はい」
「図書館の前で待ってるよ。いいかな」
「わかりました」
亜紀の気持ちは決まっていた。十八年間彷徨い続けている自分の人生の方向を変える大きなチャンスかもしれない。亜紀に父親がいるとすれば、白石は同じ年頃だろう。大きな賭けをするつもりだった。
図書館で本の返却を済ませ、白石の指示に従って、自転車に鍵をかけて車の助手席に乗りこんだ。車の中の涼しさに驚く。街の騒音も聞こえてこない。車の中は別世界だった。
「シートベルト、して」
「えっ」
「シートベルトしてないと、僕が罰金だから」
「あの」
亜紀は、バス以外の自動車に乗ったことがなかった。白石の体を斜めに走っているのがシートベルトだと思ったが、操作方法の糸口はなかった。
「すみません。初めてなんです」
「車に乗るのが」
「はい」
白石の手が伸びてきて、亜紀の右肩の上からシートベルトを引き出し、「カチッ」と音がして、亜紀はベルトに拘束されたように感じた。亜紀はベルトと止め具を指でなぞって、シートベルトを確認した。車は来た道を引き返し、七条へ向かったが、すぐに知らない道路上を走っていた。京都に来てからの亜紀の行動範囲は、限られた場所であったが、それを意識したことはなかった。車の外は新しい景色であったが、感慨はない。亜紀は些細なことに驚いてみせる同年代の女子の気持ちが理解できなかった。しばらく走ると、外の様子が変わった。それが、高速道路だということはわかった。白石は無言で運転をしている。亜紀も黙って、前を見つめた。相馬保育園で会った時に、白石の人柄は理解している。成人男子に対する敵愾心はなかった。外の世界から隔離された空間に、白石と二人でいることが心地よかった。亜紀には、その心地よさの方が驚きだった。時間の感覚はなく、いつの間にか車は雑踏の中を走っていた。
「少し、待ってて」
コンビニの駐車場に入って、白石が出て行った。コンビニには、あまりいい思い出がない。
「食料」
白石が買ってきた袋を、後部座席に置いた。
「ここ、どこですか」
「神戸。初めて」
「はい」
しばらくすると、車が曲がり角の多い道路に入り、窓からの景色が変わっていった。




山科にある大曲刺繍で打ち合わせをして、白石は市内に向けて車を走らせた。後継者不足で家業を廃止する店が増えている。伝統産業と言われる業種の永遠のテーマだった。
東大路通りへ入り、北へ向かった時に見覚えのある女子高生の頭に出会った。自転車に乗り、大きなリュックを背負っている。そのヘアスタイルの女子高生は、京都に一人しかいないだろう。沢井亜紀のオーラに圧倒されて、少年のように舞い上がってしまった自分を思い出して、少し胸が痛かった。亜紀を追い越したところで、左に寄ってハザードランプを点けて停車した。声をかけると、少し驚いた様子だったが、白石の言うことを素直に聞いてくれた。図書館の本を返却に行く途中だという。白石は東山図書館の前に車を停めて、亜紀を待った。
亜紀は、車に乗るのが初めてだと言う。この時代に、車に乗ったことがない高校生がいるとは思えないが、沢井亜紀の言葉に嘘は感じられなかった。
白石は京都南インターから高速道路にのった。京都ではない場所で、亜紀の相談にのることが、自分の平静を保つことにつながるような気がしていた。学年では息子が一学年下だったが、生きていれば亜紀と同じ年頃だった。自分の子供のような年齢なのに、沢井亜紀のこの存在感は何なのだろう。
六甲山山頂の駐車場に車を置いて、展望スペースに亜紀を連れて行った。ほとんど会話はなかったが、違和感はなかった。誰が見ても親子に見えただろう。山の上から阪神間の街並みを見ても、何の反応もないように思えた。車にも乗ったことがない女の子にとっては、驚きの景色だと思うが、そんな表情はない。白石は眼下に広がる景色の解説をやめた。
「お腹減ってない」
「減ってます」
「パン食べようか」
「はい」
車に戻って、菓子パンの袋を開けた。「どれでも」というと、丸いメロンパンに手をだした。白石は細長のメロンパンにして、紅茶のペットボトルを亜紀に渡した。
「受験勉強で、大変」
「いえ、受験はしません」
「そう」
「でも、就職では悩んでます」
「ん」
今日は、亜紀の方から積極的に話をしてくれそうな空気に白石は難関を一つ越えたような安堵感を感じた。




「私の夢は、自立することなんです。中学進学の時に、自分にできる仕事を探しました。でも無理ですよね。本気だったんですが」
「だろうな」
「相馬保育園の子供たち、性的暴力の被害者ですよね。羨ましいなと言う気持ちもあります」
「どうして」
「安全な場所があって、食べるものがあって、親代わりの先生もいます」
「・・・」
「小六の時に、私も被害に会いました。相手は父親ではありません。うちは母子家庭で、私は父親の顔を知りません。男は母の恋人でした」
「・・・」
「小さい時にはわかりませんでしたが、母は、自分の恋人以外のあらゆることに関心を持っていません。家事も育児も放棄していました」
「・・・」
「私が生き残れたのは、隣の大河原先生と奥さんのおかげです。大河原先生は空手道場の先生です。昔からの下町で、知り合いの多いところでしたから、隣の子供に目をかけてくれたのかもしれません」
「・・・」
「小学校の低学年の頃から、家事は自分でやりましたが、道場にいる時間の方が多かったと思います。料理を教えてくれたのも道場の奥さんです。自分では何もしないのに、母は私が道場に入り浸っていることが気に入らなくて、よく怒られました」
「・・・」
「家計のやりくりも、家事も私の仕事でしたが、自分で料理をしなくてもいい給食の時間が一番嬉しい時間でした」
「ん」
「母の恋人は、よく替わりました。あの男は、働く様子もなく、酔って寝てることが多い、ろくでなしでした。力ずくでした。私、空手には自信あったんですが、役に立ちませんでした」
あの時のことを思い出すと、今でも吐き気がする。酒臭い息が襲い掛かってくる時の恐怖がよみがえる。亜紀は目の前の空を見つめた。「あの男は、母親の承諾をもらっていると言いました」
「・・・」
「母は、大丈夫、避妊するように言っといたと平気でした。この母の言葉で、私は身も心もズタズタにされました」
「無理に」
「いえ、聞いてください。私みたいな子供が、自立が夢だったと言っても信じてもらえません。本気なんです、私」
「ん」
「道場の先生にも、奥さんにも言えませんでした。でも、二つの目標を持つことにしました。男の欲情を刺激しない女になることと、成人男子を倒す力を持つことです」
亜紀は左手の手袋を取って、白石の前に差し出した。その手は少女の手ではなかった。それは何年も砂を叩き続けた手だった。
「その髪は」
「ええ。この眼鏡も度は入っていません」
「そう」
「中2の時に、また母の男が襲ってきましたが、男は重傷で入院しました」
男の肋骨が折れる時の感触がよみがえって、亜紀は拳を握った。
「でも、地獄はその後にやってきました」
「地獄」
「治療費がかかると言って、家計にお金を入れてくれなくなったんです。一ヶ月が限度でした。家の中には食べるものは何一つなくなりました。近くに飲食店もいっぱいありましたから、残飯を拾い集めました。辛くて、全部投げ出そうと、何度も思いましたが、空腹には勝てません。噂が立って、道場の奥さんに現場を見つけられてしまいました」
もうペットボトルの紅茶は無くなっていた。
「道場の先生が母を呼びつけ、私を引き取ると言いましたが、母は承知しませんでした。私は、道場の子供の方がよかったんですが、子供には選択肢がないんですね。でも、どうして承知しなかったんでしょう。厄介払いできるのに」
「ん」
「まだ、利用価値があると思ったんでしょうか」
「んんん」
「私、開き直りました。それまで以上に家計にお金を入れてもらうことで、水に流そうと言いました。必死でお金を貯めて、それで高校に行こうと思いました。あのことは水に流せるようなことではありません。自分を守るためには、お金が必要だったんです。あの時は、高校を卒業すれば仕事が見つかると思いました」
「で、貯まった」
「はい。卒業まで問題ありません」
「よかった」
「中学の時は、お金さえ手に入れば、どんな仕事でもいいと思っていましたが、今は違います」
「今は」
「今は、長く続けられる仕事が必要だと思っています。それは、自分で納得できる仕事じゃないかと思うんです。園長先生に会って、特にそう感じています」
「自分ではどういう仕事が合うと」
「一人でコツコツやる仕事。白石さんの仕事は呉服関係にもありますよね」
「ん。グループ内にはありますよ。どんなことを想像してます」
「染めとか刺繍とかです」
「うんん。楽じゃありませんよ。給料は安いし、仕事はきつい。そして、最後は才能です。人間関係も大変です」
「仕事がきついのも給料が安いのも平気ですが、才能わかりません」
「そうだな、一度見学してみたらいい」
「はい」
「野口さんの話では、成績がいいらしいけど、大学に行く気はないの」
「無理です」
「奨学金もあるし、僕からの借金という手もある」
「ありがとうございます。でも、大学でなにをするんです。それよりも、自分の足で歩きたいです」
「自立」
「はい」
「話してくれたような生活だと、勉強する時間がなかったんじゃないのかな」
「別に勉強したつもりはありません。私の家にはテレビもラジオもありませんでした。母が嫌いでしたから。私は本を読むしかなかったんですが、本を買うお金はありません。ですから、教科書を読むことが、私にとって読書だったんです。道場には上級生がいっぱいいましたから、教科書をいっぱい貰いました。図書館で本を借りれるようになって、いろんな本が読めるようになって助かっています。図書館の本は、ただですから」
「コンピューターは」
「学校の授業でさわっただけです」
「好きになれそう」
「わかりません」
「一度、ソフト開発の仕事を手伝ってみては。あれも一人でコツコツやる仕事だと思う」
「ソフト開発って、プロクラムを作るんですか」
「そう。本を読んで、勉強して、規則に従って言語という文を書いていく。君の得意分野だと思うけど」
「考えたことありませんでした。私にもできるんでしょうか」
「できる。やる気と時間があれば、誰にでもできると、僕も言われましたよ。僕には時間がありませんでしたけど」
亜紀は黙り込んだ。あまりにも多くのことをしゃべった。どう受け取られるのかという計算もしていなかった。でも、今の自分にできる精一杯のことはした。これでいいのだと思った。
京都システムという会社のことを話してくれている。白石が本気になっていることは、その話からよく伝わってきた。




二人ともペットボトルを空にして、よくしゃべった。既に、陽は落ちて、しばらくすれば神戸の夜景が見れるようになるだろうが、白石は車を出した。山道を下る時に見える風景にも、亜紀の表情は変わらなかった。今、この子には自分の将来のことしか目に入っていない。その強い思いが伝わってくる。まだ短いが、壮絶な人生を生きてきて、自分の人生はこれから始めるのだと言う強さ。女の子がここまで強くなれるのだろうか。自分の過去を初めて話すと言う言葉も嘘ではないだろう。たとえ、話の全てが嘘であったとしても、別にかまわない。沢井亜紀という一人の人間の熱意には答えてやりたい。自分には、誰かの人生を応援する力がある。ただそれだけのことだ、と思った。
山道から市街地に入り、三宮駅のガードをくぐって海岸の方へ向かい、車を停めた。友人の持ちビルのスペースに駐車して、車を降りた。
「食事をしていこう」
「はい」
その店は、テキサスのステーキハウスを意識した地味な店だったが、神戸に来た時には、白石がよく行く店だった。
「白石さま」
「空いてますか」
「はい。すぐにご用意いたします」
案内されたのはオープンスペースではなく、予約客に提供する間仕切りのある少し余裕を持ったテーブルだった。
「いらっしゃいませ」
「ご無沙汰で」
「ほんとに、お久しぶりです。間宮さまも、お忙しそうです」
「彼は、ほとんど日本に帰ってこないと聞きましたよ」
「そうらしいですね」
白石はステーキとサラダを二人分オーダーした。異様な髪型と大きすぎる制服を着た女子高生だったが、白石の同伴者なので問題はなかった。その店は平然と入店を断る店だった。ステーキもステーキハウスも、亜紀には初めてのことだと思うが、そんな様子は全く見せなかった。生まれ育ちに曲げられない、天性の品格のようなものを感じる。
白石の食べる様子を見ながら、落ち着いてナイフを使っている。
「おいしい、です」
「よかった」
相馬保育園の佳奈ちゃんという言葉を失なっている子供に対する接し方に、園長の相馬由紀が感心していた。甘やかさず、突き放さず、子供の持っている力を引き出そうとするやり方に驚き、「あの子の優しさは本物だわ」と言っていた。六甲山頂では、亜紀の強さを見た。優しさと強さと才能があれば、何でもできる。残るのは、この子の才能だと思った。
相馬保育園の前に車を停めた時には十時を過ぎていた。
「遅くなってしまった」
「いいえ」
「自転車はどうする」
「明日、取りにいきます」
「そう、家まで送ろうか」
「いえ。すぐそこですから」
「しばらく、考えてみたらいい」
「はい。考えました」
「ん」
「残念ですが、どういう仕事に挑戦したらいいのか、まだ私にはそれを決める力がありません。ですから、白石さんの直感を受け入れるか、どうかを考えました。私は、ソフト開発という仕事に挑戦してみたいです」
「ん。やってみるか」
「はい」
「今日、時間は、まだ大丈夫かな」
「はい」
「行ってみようか。まだ大勢いると思う」
「はい」
白石は、白石七条ビルへ向かった。ビルの灯りは全てついている。休む時間のない不思議な業界だった。
二階のドアを開けて、須藤の姿を捜すと、打ち合わせテーブルで資料を広げている、疲れた顔の須藤がいた。
「おつかれさん」
「白石さん」
「遅くに、すまんな」
「どうしました」
「ん。一寸頼みがある」
「あっ、すいません。どうぞ座ってください。コーヒー入れます」
「ありがとう」
白石は亜紀に椅子を勧めて、自分も座った。二階は作業スペースではないので、この時間だと須藤以外には誰もいない。コーヒーを持った須藤が戻ってきた。
「ありがとう」
「ありがとうございます」
「頼み事って、何でした」
「この子をプログラマーにして欲しい。沢井亜紀さんと言って、僕の友達です」
「はい」
須藤は怪訝そうな返事をした。仕事は専門知識が必要なので、社員の採用も須藤がやっている。白石が人事に口を挟んだことは一度もなく、須藤には戸惑いがあったようだが、何か事情があることを察してくれた。
「いいですよ」
「経験も知識もなし。学校でパソコンをさわったことがあるだけなんです」
「誰でも、最初はそうです」
「現役の高校生だから、放課後しか使えません。夏休みは、それなりにできると思いますが、どう」
「はい」
「それと、もう一つ。沢井さんには、あの保育園の小さい子供のカウンセリングをお願いしているので、その時間が取れるようにしてやって欲しい」
「急ぎますか」
「ん」
「何か事情があって、早急にプログラムを組む必要があるとか」
「いや。そういうことでは。来年、卒業したら、戦力になれればいいですよ」
「なら、急ぐってことですね」
「半年では無理」
「戦力という意味では」
「そうですか。じゃあ、事情が許す範囲で、しかるべく速やかにということで」
「わかりました。いつからです」
「明日からでも、大丈夫かな」
「はい。大丈夫です」
「じゃ。明日の放課後、ここに来てください。できれば、履歴書を書いてきてくれると助かります」
「はい」
「白石さん。待遇はアルバイトでいいんですか」
「そうしてください」




ソフト開発、プログラムという言葉は、言葉として知っているだけだった。それでも、白石の直感に賭けたことを後悔しないで済むように自分の全てをぶつけなければならない。亜紀は履歴書を持って自転車を走らせた。
「失礼します」
京都システムの二階のドアを開けた。昨夜は須藤という副社長だけしかいなかった部屋に六人の男女が打ち合わせをしていた。打ち合わせをしている須藤と目が合った。須藤が同じテーブルの椅子を指差した。亜紀は打ち合わせの邪魔にならないように、そっと椅子に座った。打ち合わせの内容は、日程の調整をしているようだ。亜紀は何度も視線を感じていた。けっして居心地のいいものではない。
「紹介しておこう」
須藤が立ち上がって言った。亜紀も急いで立った。
「沢井亜紀さんです。七条高校の三年生で、来年はうちの仲間になります。白石さんのたっての依頼で、半年で戦力になってもらいます。経験はなしです」
「半年ですか」
「そう。半年」
誰もが考え込んでいる。
「久保田くん。どう」
「はあ」
亜紀に負けないぐらい乱れた髪の男子社員が返事に困っている。
「冷機の仕事は大村くんに渡して、TCSの方に専念して、沢井さんを頼む。どうだろう」
久保田以外の四人に安堵の表情があった。
「久保田くん」
「はあ」
久保田が小さな声で返事した。
「よし。解散。久保田くんは残って」
四人が部屋を出て行った。
「沢井さん。こっちに座って」
「はい」
「紹介します。久保田隆君」
「久保田です」
久保田はまだ一度も亜紀と目を合わせていない。
「沢井亜紀です。よろしくお願いします」
「久保田君は、シャイで人付き合いは上手とは言えないけど、プログラミングの腕は一流ですし、誠実な人です」
「はい」
「多分、白石さんの紹介ということが、気になってる。そうだな、久保田くん」
「はあ」
「僕にも、白石さんの真意はわからない。でも、白石さんの頼みだから、こたえたい。だろう」
「はあ」
「沢井さん」
「はい」
「全く経験のない人を半年で戦力にすることは無茶な話です。白石さんも、そのことを承知の上で言ってます。でも、私たちは、なんとか、こたえたい。私たちがここまでやってこれたのは白石さんのおかげなんです。社長だから当たり前とは、誰も思っていません。多分、白石さんの人柄なんでしょう。是非、こたえたいと思っています。かなり、きついことになりますが、沢井さんにも頑張ってもらわなければなりません。お願いします」
「はい」
「久保田君」
「はあ」
「沢井さんと打ち合わせをして、計画と日程表を作ってください。学校もあるし、外せない用事もある。君ならできる。いや、この仕事は久保田君にしかできないと思っている。頼む」
「はあ」
亜紀は久保田について三階への階段を登り、左に折れて部屋に入った。事務机が二十ほどの部屋だったが、人の姿はなかった。窓の近くの端の机を久保田の指が指している。「君の席だ」と言っているらしい。亜紀はその席の前に立った。久保田は奥の書棚で探し物をしていた。何冊かの本を持って久保田が近づいてきて、久保田の手が「どうぞ」と言っている。座ってもいいようだ。
「この本を読んでください。理解できなくてもいいです。そして、質問事項を書き出してください」
本は、「エクセル入門」と「エクセル制覇」、そして「コンピューター辞典」だった。
「このパソコンは、沢井さん専用ですから、自由に使ってください。質問事項ができたら、僕に声かけてください」
久保田は奥の机に戻っていった。エクセルなら授業で経験があった。ただ、プログラムとどう関係しているのかわからなかったが、「入門」の本をひらいた。亜紀の読書法は、先ず最後のページまで読みきる。それで終わりになる本もあるが、何回も読み直す本もある。「入門」は読むだけでは無理で、実際にエクセルを動作させる必要があることがわかった。パソコンの電源を入れて、エクセルを立ち上げる。亜紀はエクセルに熱中した。
「沢井さん。そろそろ終わりにしましょう」
目の前に久保田が立っていた。
「もう、十時ですから」
「はい」


10

 夏休みになって、亜紀は誰よりも早く出勤した。京都システムの事務所は、鍵を掛ける暇がないから、出入り自由だった。今は、パソコンの前に座ることが楽しくて仕方ない。途方に暮れていたのは最初の一週間だけだった。書き出していた質問事項の大半は自分で解決できたので、久保田と話をする機会はあまりなかった。今までの人生も本が友達だったが、今も本が最大の友だった。授業中以外の時間は参考書を読んでいた。本に書かれている事を画面で確認することが楽しくて、いつも早くパソコンの前に座りたいと思う。
「楽しそうだね」
須藤が亜紀の横に立っていたが、全く気がつかなかった。
「はい」
「どうですか」
「楽しいです」
「よかった。好きになれそうですか」
「はい」
「今は、何を」
「マクロのデバックです」
「えっ。マクロの」
「はい」
「QB」
「はい」
「驚いたな。これ、TCSの」
「そうです」
エンドユーザーは証券会社で、エクセルによる株価の簡易分析ソフトだった。
「久保田君」
須藤は久保田を呼んだ。
「これ、もう回線に接続されてるの」
「はい。貰っているIDとパスワードでアドインしています」
「そう。フローの説明は」
「しました」
「これで納入」
「そのつもりです」
「驚いたな」
「沢井さんは、大丈夫です」
「納期の方は」
「問題ないと思いますが、最後は僕も」
「そう」
「9月ですよね」
「うん」
「プログラムは、8月には。多分、9月は説明書だけですよ」
「そう。今までの分、見せてくれるかな」
「はい」
亜紀はやりかけのプログラムをセーブして、未完成の株価分析ソフトを立ち上げる。須藤が近くにあった椅子を引き寄せて亜紀の横に座った。
「最初は、ユーザーの設定画面です」
亜紀は簡単な数値を入れながら画面の説明をした。全てが出来ているのではなく、フローの骨格が半分ほどプログラム化されているだけだったが、須藤は熱心に質問してきた。久保田は少し後ろにさがり、窓にもたれた楽な姿勢で二人のやりとりを眺めている。
「出来ているのは、ここまでです」
「なるほど。久保田君の言うとおり8月にはできるね」
「でしょう」
久保田が後ろから声をかけてきた。
「で。沢井さんは、どう」
「どうって」
「8月にはできる」
「フローに書かれていることだけなら」
「どういう意味」
「私、株なんてわかりまんので、役に立つのかどうか、そこがすごく不安なんです」
「ううん。正直言うとね、このエクセルは付録みたいなもので、とりあえず、フローにあることができればいいんですがね。でも、自分が作ったものがどう役に立つかは知りたいよね」
「はい。全体ができてからでいいんですけど、実際に株取引をしている人に意見を聞いてみたいと思います。その結果で大幅な変更が必要になれば、8月は難しいかもしれません」
「そこまで考えているなら、早いほうがいい。捜してみよう」
「でも、まだできていません」
「何度でも見てもらえばいい。その人と共同開発をするつもりでやれば、現実的なものができるし、付加価値は大きく変わる。再度売り込みをやってみる価値が出てくる。付録が付録でなくなるよ」
「・・・」
「いいですね、それ。付録が稼ぐ、好きです、そういうの。やりましょうよ」
窓にもたれていた久保田が少し興奮した口調で言った。
「沢井さんはアルバイトで、給料は固定ですが、社員は出来高払いなんです。全く仕事をしなかったら、基本給だけですから、生活できません。多くのソフトは一人で全部作るのではなくて、大勢の人の合作になります。いろいろな分野のエキスパートが必要なんです。売上に見合う予算があって、社員はプログラムを請け負って、その予算を分配するんです。ただ、ユーザーから押し付けられる、いわゆる付録には予算がありません。この付録の予算を捻出するのが、結構大変なんです。付録で売り上げがあれば、実にありがたい」
「はぁ」
「それと、付録の良し悪しでユーザーの評価が左右されるしね」
「はい」
「そのうちにわかるよ」
「はい」
「久保田君。新鮮な感覚が、我々から失われているってことだな」
「ですね」
「予算を捻出することに汲々としていては、差別化できないってことだ。沢井さん、勉強になったよ」
「はぁ」
須藤の言っていることが、亜紀にはわからない部分があった。
久保田たち、プログラマーがどのぐらいの月収なのかわからない。まして、副社長とはいえ、実質的な経営者である須藤の月収など想像すらできなかった。オーナーである白石の個人的紹介ということがあったおかげか、亜紀のアルバイト代は、10万円の固定給となっていた。それは、亜紀にとっては驚愕の金額だった。もうすぐ初めての給料が振り込まれる。銀行に自分の口座を作ったのも初めてだった。10万円あれば、自立することができる。亜紀にとっては重い仕事であり、自分の力が必要とされないかぎり得られないこともわかっていた。須藤の言葉を褒め言葉と受け止めたい。自立のために、自分の全てをぶつける覚悟はできていた。


11

 求は「北京都ホテル」のオーナー事務室で、総支配人の望月と人事の打ち合わせをしていた。個人用の携帯にメール着信のランプが点いている。須藤からのメールのようだった。このところ、宿泊客からの苦情が続いていた。客質が落ちたのか、社員の心に隙ができているのか。そのことで、社員の士気が落ちているのが気になる。望月はローテーションをやってみてはと言っているが、求は社員の力が落ちたとは感じていない。
「部門ごとに集まってもらって、私が皆に話すということで、どうでしょう」
「白石さんが」
「いつも、望月さんに悪役をお願いしてばかりで、申し訳ないと思っているんです。たまには、私がその役をするのも新鮮かなと思いますが」
「はい。私は、少し客質が落ちたのかなと思っているのです。社員はよくやっています。でも、客質の良し悪しは、この仕事では当たり前のことですから、こちらで対応する必要があります。ただ、社員の士気が落ちているのは確かです。白石さんに声をかけてもらえば、がんばれます」
「少し、内装に手を入れましょう。料金を上げてもかまいません」
「それもいいですね」
「会議の日程は、望月さんにお願いします」
「わかりました」
望月が部屋を出て行き、求は須藤のメールを見た。急ぎの用件ではないようだったが、求はホテルを出た。しばらく京都システムに顔を出していないので、沢井亜紀のことが気になっていた。
「白石さん」
須藤は驚いた様子だった。
「どうしました」
「それほど、急ぎではなかったんです」
「いえ。私も沢井さんのことが心配でしたから」
「そうでしたか。じつは、沢井さんの関連なんです」
「何か」
「トラブルじゃないですよ」
「そう」
「白石さんのお知り合いで、どなたかデイトレーダーの方はいませんか」
「株のですか」
「はい。TCSの仕事で証券会社の物件がありまして、その一部を沢井さんにやってもらってます」
須藤はデイトレーダーが必要になったいきさつを話した。
「ほう」
「白石さん。彼女は、もしかすると、びっくりするような才能を持っているのかもしれませんね。僕は多くのオタクを見てきましたが、僕の理解を超えています」
「そんなに」
「白石さんは、わかってたんでしょう」
「いえ。多分、本人も」
「そうですか。沢井さんを担当しているのは、久保田君なんですが、ほとんど一人でやったそうです。しかも、デイトレーダーの話が聞きたい、というのはSEの発想です。驚きました」
「沢井さんは、まだいますか」
「ええ。夏休みになってからは、寝る時間だけ家に帰る状態だそうです」
「未成年者をそこまでやると、問題じゃ」
「ええ。久保田君もかなり強く言ったそうですが、聞き入れてはくれないそうです。一度、見てやってください」
求と須藤は、三階に行った。十人程の男女がパソコンの前で難しい顔をしている。部屋に入ってきた二人に注意を向ける者はいなかった。遠く離れた窓際の席に亜紀がいる。その特徴的な髪型で、すぐにわかった。二人はまっすぐ窓際へ向かった。亜紀が立ち上がって挨拶をしている。求は軽く手を挙げた。
「がんばってるようだね」
「はい」
「どう」
「楽しいです。こんなに楽しいとは思いませんでした」
亜紀の表情からは暗い影が消えていたが、その存在感はさらに大きくなったように思われた。
「沢井さん、君のソフト、もう一度頼みます」
須藤に言われた亜紀は、椅子に座ってキーを叩いている。求にはできなかったブラインドタッチだった。
「はじめます」
亜紀の説明に従い、画面のデータが動いて行った。
須藤や久保田が作ったソフトであれば、「そう」と言っただけかもしれないが、プログラムに接して一か月の初心者が作ったソフトなら、須藤が言ったように驚きの内容だった。
「まだ、ここまでしかできていません」
亜紀が立ち上がって、すまなそうに言った。
「驚いたな」
「そうでしょう」
部屋にいた社員が集まってきた。
「沢井さん。もう一度」
後ろに立っていた久保田が声をかけた。現役のプログラマーに囲まれ、緊張した様子で亜紀は座りなおした。「おう」とか「んんん」という先輩の声がしている。
「すごいな。沢井さん。よそでやってた、とか」
「いえ」
「だよな。現役の高校生やし」
「須藤さん。もう納品しましょう」
しばらく、褒め言葉が続き、亜紀が身の置き場にこまっている。
先輩たちが騒々しくそれぞれの席に戻って行った。
「トレーダーの件は白石さんにお願いしたから」
「はい。ありがとうございます」
求は、須藤と二人で二階に降りた。
「他の連中も、本気で驚いていました。もう、同僚扱いでしょうね」
「びっくり、ですか」
「はい。見たことも、聞いたこともありません。あんな人がいるんですね」
一時間ほど、須藤と打ち合わせをして、求は亜紀を連れ出した。


12

 久しぶりに白石の顔を見て、懐かしい人と再会した時のような暖かい気持ちだった。「食事をしよう」と言われて、嬉しかった。亜紀も白石に相談したいことがある。社員の半数は独身者で、例外なく独身寮にいる。寮は、会社のすぐ傍にあり、昼食ですら食べに帰る社員がいた。亜紀は家を出て、寮に入りたいと思っていた。寮で自分一人の生活ができるということは、小さな夢の実現に違いない。久保田から聞いた話では、寮費も食費も格安だった。そのことで、白石の考えを聞きたかった。
込み入った場所にある駐車場に車を置いて、込み入った場所にある料理屋へ連れて行かれた。細長いカウンター席だけの店の奥を抜けて、こじんまりした部屋に通された。
「いま、おぶをお持ちします」
着物を着た年配の女性が、柔らかい笑顔を残して部屋を出て行った。
「ここのご主人の奥さんです」
「はい」
「すごいじゃないですか。須藤さんは、ただただ驚いてました」
「そうなんですか。私、本に書かれてることを、そのまま書き写しているだけなんです。須藤さん、大袈裟なんですよ」
「でも、先輩たちも驚いていたじゃないですか」
「よくわかりません」
「須藤さんは、小学校の頃からパソコンをさわっていて、パソコンオタクと言われていたそうです。だから大勢のプログラマーを見てきてます。それに、彼は信頼できる人ですから、きっと、大袈裟でもいい加減でもないと思います」
「はぁ」
女将が、お茶を持って部屋に入ってきた。
「女将さん。紹介しておきます。沢井亜紀さんといって、私の大事な友人です」
「三矢の女将どす。よろしゅうに」
「沢井です。よろしくお願いします」
「今日は、この人が未成年者なので、お酒はいりません」
「へぇ。腕によりをかけて、美味しいもの、作らせます。凛として、おきれいなお嬢はんや」
亜紀は、女将のお世辞にあっけにとられたような顔だった。きれいなお嬢さんなどと、言われたことはない。接待業の最前線にいる女性のすごさを見たと思った。本気で言っているようにしか聞こえなかったが、どんな術を使うのだろう。白石といると新しい世界ばかりだった。
「さすが、お上手ですね」
女将が出て行って、亜紀は白石に言い訳のように言った。
「そうですか。相馬園長も同じことを言ってました」
「園長先生が」
「なぜ、隠すのかと言ってました。園長は君の子供の頃のことを知らないから。ところで、仕事の方だけど、君自身はどう」
「すごく、ほんとに、すごく楽しいんです。でも、実際にお役に立ててからだと思っています。お金をいただくんですから、自分が楽しいだけじゃ駄目ですよね」
「いえ。先ず自分が楽しくなくてはね」
「自分でも、こうなるとは思っていませんでした」
「じゃ、しばらくこのままでやってみよう。君が最初、呉服関係の仕事のことを言ってたのが気になっててね」
「すみません。私、何もわからないまま、勝手なこと」
「いや、そういう意味じゃない」
「このまま、続けさせてください」
「よかった」
「我儘ばかりですけど、もう一つお願いしてもいいでしょうか」
「なにか」
「独身寮に入りたいんですけど、いけませんか」
「独身寮」
「はい。アルバイトでは、駄目でしょうか」
「んんん。そうではないと思うが、多分、保護者の了解がいると思う。須藤さんには」
「言ってません。でも、中学を卒業して働いている人は入れますよね。学生だから、ですか」
「中学卒業の人の場合も、未成年の場合、多分、保護者の了解はもらっていると思う」
「そうですか」
「どうしても、というなら、僕がお母さんの了解をもらいに行ってもいいけど」
「それは」
白石を、母に会わせることは出来ない。母は母、自分は自分と思っているが、生理的な拒絶反応が自分のなかにあった。
「君は、今でも働きすぎている。自分の責任でやっている、と言っても、会社にも責任がある。それが、社会というものだ、と言わなければならない」
「白石さんも、ですか」
「ん」
「私にとっては、この仕事、命がけなんです」
「自立」
「そうです。自立です。でも、きっと、わがままなんでしょね」
社会の仕組みが、いつか目の前に立ち塞がるだろうという予感はあった。たとえ、些細なことでも、仕組みに押しつぶされることが、悔しかった。
「すみません。今の話は聞かなかったことにしてください。白石さんを困らせるつもりはありません。ごめんなさい」
白石が、本当に当惑していた。これほど感情を表に出したことは、自分の記憶になかった。自分のことを理解して、応援してくれている白石を困らせて、どうするの。感情が昂ったためか、何年も働いたことがない涙腺に違和感がある。こんな場面での涙は卑怯よ。でも、体が震えて、目が霞んだ。「私、白石さんに甘えようとしている」。道場の奥さんにも、体ごと甘えたことはない。いつでも分別のある子だった。亜紀のなかでは、もう寮のことは問題ではなかった。大人社会の壁の最前線に、白石がいることが、亜紀の感情を揺さぶっていた。
「ごめんなさい。今日は、帰らせてください」
「ん」
「今日の私は変です。白石さんの前で壊れたくないです」
「いいよ。こわれても。十八年分の悔しさを」
亜紀の目から、大粒の涙が噴き出した。白石は泣きそうな私をわかっていた。寮のことではなく、十八年分の涙だとわかってくれている。白石といると、あらゆるものから守られているような気がするのはなぜだろう。机に両手をあて、体を支えて、声を出して、亜紀は泣いた。何かが体から抜けていく。


13

「何かあった」
野口香織が、心配そうな声で聞いてきた。土日の昼間は、相馬保育園で、佳奈ちゃんと過ごすことにしている。
「どうして」
「沢井さん、変わった」
「そう。何も」
亜紀も、自分の変化に気がついていた。白石の前で大声で泣いてから、自分の中に、いろいろなことが許せるような、不思議な感情が出てきている。相手の気持ちが手に取るようにわかるし、それを許せる気持ちもあり、自分の気持ちにゆとりができた。
自分のことで精いっぱいだった過去の自分に苦笑する。佳奈ちゃんを助けているのではなく、佳奈ちゃんに助けられたのかもしれない。佳奈ちゃんとの出会いが、園長先生と白石に結び付けてくれ、その延長線上にいる自分。暴力、差別、非難の渦巻く中で溺れたくないと、必死にもがいていたことが、昔のことになりそうな予感がある。ただ、このまま、苦しみから完全に解き放たれることなどある筈がないという確信に似たものもある。それでも、一つの節目を通り越したことは確かで、香織の目には「変わった」とみえたのだろう。
部屋の片隅で、佳奈ちゃんと二人で読書にふけった。読んでいる本が教科書から、コンピューターの技術書に変わっただけで、二人の関係は何も変わっていなかった。佳奈ちゃんの読む本も絵本から童話になり、読める文字も増えていた。
「亜紀さん」
遊戯室の入り口で、園長が手まねきしていた。
亜紀は、席を外すことを目で知らせて立ち上がった。佳奈ちゃんは、亜紀が離れることに不安を示すようなことはなくなっている。佳奈ちゃんはすぐに本に目を戻した。
談話室に入ると、自然と川面に目がいく。だが、曇りのせいで、光の乱舞はなかった。
「また、亜紀さんにお願いがあるの。私、お願いばかりしてるわね。よく反省はするのよ。でも、誰かに頼ってしまう。悪い癖。ごめんなさいね」
「いいえ」
亜紀の母親は、自分のためだけに生きていて、相馬園長はいつも誰かのために生きている。自分には、どちらの生き方もできないように思う。
「パソコンを入れようと思うの。私、どこか毛嫌いしていたかもしれない。最近は住所を聞く前に、メールアドレスを聞かれるのね。施設に係る人たちとの情報交換も、今は全部メールみたい。だから、そろそろ、時代についていかなくちゃと思ったの。この前、友人の紹介で養護施設の先生に会ったの。プライベートで佳奈ちゃんの発音練習をしてもらえそう。でも、「メールアドレスは」、って言われて、「今、手続き中です」って言ってしまったわ。携帯電話も持たなきゃいけないようよ。亜紀さん、携帯は」
「会社から、渡されています。まだ、使ったことはありませんけど」
「そう。私、おばぁちゃんになった気分」
「そんな」
「で、一から十まで世話してもらいたいけど、時間ある」
「大丈夫ですよ。会社にはパソコンのプロがいっぱいいますから」
「助かるわ。よろしくね」
「はい」
「ところで、亜紀さん、何かあった」
「えっ」
「ごめんなさい。別に詮索するつもりはないのよ。とても、明るくて柔らかになったと思う。素敵よ。だから、心配してる訳じゃないの。単なる好奇心かな」
「何もありません。ただ、プログラムの仕事が楽しくて」
「そう。よかった」
夕食を佳奈ちゃんと一緒に食べて、亜紀は事務所に向かった。
二階には、久保田しかいなかった。

「久保田さん。相馬保育園、知ってます」
「ん。白石さんが応援してる施設だろ」
「そこの園長先生に、パソコンの世話をしてほしいって頼まれたんです。何もわからないので、一から十まで」
「予算とか、言われた」
「いえ。それは聞いてません」
「ま、いいか。パソコンで何がやりたいのかな」
「メールと情報収集だと思います」
「わかった。概略を書き出しておくから、自分でやってみる」
「はい。そうします」
最初の頃と違って、仕事以外の話も、少しだけするようになった。須藤に紹介された時に、シャイだけど信頼できる人だと言われたが、須藤の言葉通りの人だと思う。いい先生に会えたことも、プログラミングが楽しくなった原因だ。亜紀は席に戻り、自分の仕事を始めた。


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第2部について [海の果て]

第2部は、第1部のことを全て忘れて読んでください。
別の物語になっています。
以前に「なぜ」を読まれた方は、この2部を飛ばしてください。
1部と2部は、3部で合体して最終章になります。
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海の果て 第1部の 9( 完 ) [海の果て]

23

一度の連絡もなかった浩平が藤沢の家に帰ってきたのは、真崎組との打ち合わせから半年後だった。
「片山さん」
畑仕事をしていた阿南が駆け寄ってきた。
「すみません」
「丁度、直人も来てます。よかった。よかった」
浩平は、下を向いたまま頷いた。
庭に面した廊下から直人が飛び出してきた。浩平の前に立った直人は何も言わなかった。ただ、ぼろぼろと涙を流した。
「なかに入りましょう」
阿南に言われて、三人は部屋に入った。筒井から譲り受けた時と変わらない部屋は心地よかった。阿南の入れてくれたコーヒーを飲んだ。誰も何も言わない。
疲れているのか、やつれているのか、浩平は以前の浩平と違っていた。
「すまない」
直人が落ち着いた様子で半年間の報告をしてくれた。防衛省の裏金に問題はなかった。真崎組も完全に手を引いたようだ。
「今日、ここに来たのは、二人に話が合って来た。今度こそ、終りにしようと思う。これは、騙しじゃない。人間を殺すと言うことが、これほどのダメージになるとは思わなかった。阿南さんも知ってる通り、品川埠頭で三人を気絶させたことがある。僕は気を失っただけだと思っていたが、三人とも一ヶ月後に死んだそうだ。それと、この前真崎組に行った時に三人を殺した。どれも、刑事事件にはなっていないが、殺人事件に変わりはない。僕はこの六人の命を背負いきれないでいる。三宅組爆破で二十五人を死なせている。祐樹も僕のせいで死んだみたいなものだ。このままだと、百人でも二百人でも殺してしまうことになる。開き直ったつもりだったが、そうはいかないらしい。だから、二人には悪いが、僕はこの仕事から手を引きたい」
「・・・」
「いいですか。阿南さん」
「自分は、片山さんの決めたことに従う」
「許してもらえるか、直人」
「いいですけど、一つだけ条件があります」
「条件は無しにしてくれ」
「駄目ですか」
「もう、直人は自分の足で歩いていける」
「今までの、どうするんです」
「入ってくる間は、貰っておけばいい」
「片山さんは、どうするんです」
「まだ、わからん」
「連絡はできますか」
「それは大丈夫だ。そうする」
「なら、俺は、この資金管理をやります」
「そうか。すまない」
「とんでもありません。きつい仕事を全部、片山さんにしてもらってたんです。俺たち、何かを言える立場じゃありません」
「ありがとう。資金管理をするなら、一つだけ言っとく。こっちからは絶対に動くな。向こうの誘いにも乗るな。入金が止まっても追うな。それができないなら、資金管理をやっちゃならん。僕たちは、金が目的だった訳じゃないだろ。もう、腐るほど金はあるはずだ。約束できるな」
「はい。そうします」
「それと、もう一つ。防衛省の金が入ってきてる間は、新橋の管理も資金洗浄も真崎組にやってもらう。直人がやる必要はない。入ってくる金だけを受け取る。いいな」
「はい」
「直人、やりたい仕事ないのか」
「まだ、です」
「見つけろ。お前とは一生仲間だ。それは変わらない。でも、やりたいこと、捜せ」
「はい」
「阿南さんは、どうする」
「おれは、ここで百姓する。近くにある畑を借りる話もある。大丈夫ですよ。たまには、俺の野菜食べに来てくださいよ」
「もちろんです。阿南さんのコーヒーも飲みたいですし」
「片山さん。防衛省の金、入ってますが、どうすればいいですか」
「直人が決めればいい」
「じゃあ、六人で分けます」
「それでいい。ただし、資金の動き追われないようにな」
「わかってます」
「当分は、ホテルを転々とするけど、落ち着いたら連絡する」
「お願いしますよ」
「ああ」
浩平は東京へ戻った。上野の安いビジネスホテルに泊っている。ホテルの近くから大阪の松木組へ電話をした。松木は東京にいるらしい。教えてもらった携帯に電話をした。
「中野です」
「松木です。また東京ですよ」
「真崎組の誠意は見せてもらいました。谷村さんにも、礼を言っておいてください」
「はい」
「真崎組の取り分、百五十億。元に戻します。資金洗浄は真崎組の仕事にしてください。残りの五十億は、うちの取り分から送ります。僕が行かなくても段取りつけられますか」
「はい。ありがとうございます。谷村が喜びます」
「それとは別に、五十億送ります。三宅組の二十五人と品川の三人、そして西宮の三人の香典です。遺族がいたら、よくしてやってください」
「そこまで」
「もし、あの時、本物の戦争になってたら、こんなことはしません。谷村さんの決断と真崎組の誠意に対する、礼儀です。その代わりに、遺恨はなしですよ」
「もちろんです」
「松木さんは、当分、東京ですか」
「そうなると思います。一度会えませんか。谷村も呼びます」
「やめときます。何かあると、お二人の命が危ない」
「勘弁してくださいよ」
「送金先を調べておいてください。明日電話します」
「はい」
「じゃあ」
「はい。ありがとうございました」
これで真崎組の矛先も鈍るだろう。そう願いたい。


                         完

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海の果て 第1部の 8 [海の果て]


20

菅原は仕事を終えて、何事もなかったように帰って行き、阿南は浩平のアパートに一泊して帰ることになった。
「片山さん。あの借用書、いつ用意したんです」
「昨日です」
「最初から、あのシナリオあったんですか」
「いいえ。成り行きです」
「思うんですよ。片山さんって、いつも理解不能なんです。天使なのか悪魔なのか」
「自分でも、わかってませんから」
「あの男を殺す気、あったんですか」
「まさか。でもあの議員は恐怖でしかコントロールできないと思いませんか」
「それは、そうですが、一瞬、殺すのかと思いましたよ」
「阿南さんならわかると思いますが、殺るか、殺られるかの時には仕方ないです。それ以外では、殺したりしませんよ。こちらが殺される危険のある相手は暴力団とか警察とか、自衛隊とかです」
「自衛隊ですか」
「僕が潰されるのは、自衛隊が出てきた時だと思ってます。軍隊を相手にしては勝てません。接近戦なら、それなりに戦えますが、砲弾を撃ち込まれればお終いでしょう」
「そんな想定をしてるんですか」
「ええ。考えてしまいますね。だから、いつ、この仕事をやめるのかを考えてしまいます。こんな危ない仕事はいつまでも続かないでしょう」
「そうですか」
「僕達が掴んでる秘密は、これからも増え続けます。国が国家機密にしている情報も、手にしてしまうことになります。そうなれば、国は僕を逮捕して裁判にかけるという選択肢を失います。公になっては困る情報ばかりですからね。最後は力でねじ伏せるしか方法がなくなるんです。特殊部隊を投入して、僕を抹殺することができなければ、どうします」
「戦争ですね」
「僕がいる地域を確定して、その地域ごと爆破することになる」
「片山さんが悩んでる訳がわかりましたよ。道連れにしたくないんでしょう、仲間を」
「それも、あります。でも、わからない。ずっと、何か違うんじゃないかと感じてるんです。その何かが何なのかもわかりません」
「大将って、大変なんだ」
「そんな立派なもんでもないでしょう。情けない悩みですよ」
「俺は、あんたの下で働いていて、納得してる。自衛隊の爆撃がある時は、ぜひ一緒にいたい」
「馬鹿なこと言わないでくださいよ」
「一度、あの世に送った命です。惜しくないと言ったはずですよ」
「想定で思い出しました。いつの時点かはわかりませんが、真崎組の本部を殲滅する必要が出てくると想定してます。阿南さんも考えておいてください」
「俺に、作戦を作れと言っても無理です。でも、今度仲間にしようと思ってる奴は、そういうことが好きなんです。やらせてみますよ」
「お願いします」
その後、農林水産省と経済産業省の作戦が完了した。大槻メモが役に立って大槻にボーナスを出し、大槻が泣いて喜んだ。それでも二年の歳月が必要だった。浜中調査事務所は防衛省の調査にかかっている。防衛省に着手するかどうか、まだ決めていないが、防衛省の秘密を手にすることも必要だと思っている。
年に数回、京都の白石から電話があり、時間を作って会っていた。白石と会っていると気持ちが落ち着く。浩平も一度京都に行って、白石に無理を頼んだことがある。直人や志保の真似がしたかったのかもしれないが、自分自身のガス抜きがしたかったのかもしれない。一億の現金を持って行って、匿名の寄付をしてくれと頼んだ。簡単なことではないのに、白石は簡単に引き受けてくれた。
久しぶりに白石からの電話があり、銀座の中華料理をごちそうすることにした。中華料理というより中華風の和食に近い。
「今日は、紹介したい人がいる」
「はい」
「片山さんに初めて会った時に言いましたが、僕は後継者を捜していました。君には断られたけど」
「すみません」
「まだ高校生なんだけど、君と同じようなオーラを持ってて、結婚したいと思っている。まだ、本人には言ってないから、内緒だけど」
「それは、おめでとうございます」
「こんなオヤジと結婚してくれるか、心配でね」
「はあ」
いつもの白石と違って見える。白石はその高校生がいかに素晴らしいかを話し続けた。本物の恋をしたことのない浩平には、相槌を打つのが精いっぱいだった。そして、噂の女子高校生が浩平たちの部屋に入ってきた。ただ、その女子高校生は殺気を持って入ってきて、浩平は思わず構えた。すると、女子高校生が後ろに飛んだ。普通の人では感じることのない殺気だったはずだが、その子は防御した。二人目だ。一人目は阿南だから仕方がない。浩平は平謝りに謝った。それよりも、その美しさに打ちのめされた。だが、白石が結婚しようとしている相手なのだから、自分の気持ちの高ぶりが出ないことを祈った。女装の時の鳥居の魅力が色あせて見える。名前は沢井亜紀と言った。白石が言っていたとおり沢井亜紀の魅力は、その美しさではなかった。凛とした気概と包み込む柔らかさが、その子の魅力だった。その存在感は際立っている。白石の伴侶としては、最適な女性だと思う。
その後、二人が結婚したという連絡をもらい、浩平は心から祝福した。
だが、その沢井亜紀から、白石が死んだという電話がきた。交通事故だが、白石は殺されたと言い、浩平に相談しろと言い残したと沢井亜紀が言った。電話で話すような内容ではない。浩平は、念のために変装をして、すぐに新幹線に乗った。京都の病院に着いて、習慣になっているのか、調査をした。沢井亜紀は流産の危険があって入院しているらしい。夜になるのを待って病室に入った。白い顔の沢井亜紀がベッドで横になっていた。浩平が変装しているので、警戒している。浩平が銀座の中華飯店での話をすると納得してくれた。
「おかげんは」
「あまりよくないそうです。それより、わざわざ、ごめんなさい」
沢井亜紀と目を合わせて、守りたい、と浩平は強く感じた。
「白石さんは僕の命の恩人だって言いましたよね。僕にできることは、何でもやりますから」
工藤開発という会社が倒産寸前の状態で、そこの社長の工藤高広に殺されたと白石が言ったらしい。
「私の想像ですが、陣内組という暴力団が、係わっていると思います」
沢井亜紀は工藤高広が白石不動産に来た時の話や、銀行の話をした。
「奥さん。あなたは病気を治すことだけを考えてください。工藤開発や陣内組のことは僕がやります。暴力団が係わっているので、今日明日に結果はでません。でも、必ず結果は出しますので、時間をください」
「はい。お願いします」
「自分で、動いてはいけませんよ。絶対に」
「はい」
浩平は仲間を京都に呼んだ。すでに五十人近い仲間がいるが、最初は主力の五人に来てもらった。チーム片山の全ての力を投入してでも真相の解明をする。陣内組と工藤開発の監視を始め、盗聴器も取りつけるつもりだ。京都のホテルにも拠点を持ったが、主要な拠点は大阪においた。何度か京都に来ていて感じたのは、京都は村社会だということである。観光客でもない他所者が動きまわると目立ちすぎ、東京では感じた事のない不便を感じる。監視用のアパートを借りるのにも苦労した。だから、使用する車両の数が増えるのは仕方のないことだった。準備に万全を期すことが、チーム片山の鉄則なので、その基本は守る。
京都の探偵社も使い、あらゆることを調べた。陣内組と工藤開発だけではない。白石不動産も関連の会社も、そして沢井亜紀のことも調べた。参加しているチーム片山の人数は三十人を超えているだろう。
調査に着手して約一か月が過ぎた。工藤開発は個人資産も使い果たし、明日にも倒産するような状態で、抱き込んでいる白石不動産の内藤という営業部長に矢のような督促をしていた。どうしても、白石不動産の資力が必要なのだ。浩平は陣内組の組長を拉致してトラックに監禁した。六十を過ぎた痩せた老人だが、暴力団の組長をやっているのは、それなりの資質があると思われる。変装はしているが、目だし帽はかぶらなかった。
「陣内さん、ですね」
「そうだが。何ものなんだ。陣内組の組長と知ってやってるように思うが」
「はい。その陣内組組長さんに、どうしてもお聞きしたいことがありまして」
「京都の人間じゃないな」
「あなたも、京都の人ではないように見えますけど」
「俺はれっきとした京都人よ」
「そうなんですか」
「京都は好きだけど、京都弁は好きじゃない」
「ところで、陣内さんは、真崎組の下働きをしてるんですか」
「けっ。あんな組とつるんでどうする」
「ほう、嫌いですか、真崎組」
「真崎組の回し者か」
「違います。僕も嫌いです」
「じゃあ、何ものなんだ」
「僕は、恩義のある人の、事故死を調べています」
「ん」
「白石さん、知ってますよね」
「白石不動産の白石か」
「そうです。僕はあの人に、命にかかわる窮地を救ってもらいました。でも、あの交通事故には納得がいきません。陣内さんが、やったと考えてます」
「どうして、うちが白石さんを殺すんだ」
「工藤に頼まれたからです」
「工藤に」
「はい。工藤開発の工藤社長です」
「どうして、そう思う」
「警察じゃないんですから、証拠を出せなどと言わないでくださいよ。僕がそう考えているんです」
「ほう」
「陣内組がやったんですか」
「もし、そうだとしたら、どうする」
「そうなんですか」
「若いの。ここから先は、いわゆる黙秘ってやつだ。ヤクザにも守秘義務があるからな」
「困りましたね」
「工藤が頼んだと思っているなら、工藤に聞けばいい」
「もちろん、工藤さんにも聞きます」
「脅してるつもりかもしれんが、脅しにはなっとらん。わかるか」
「どうしてです」
「どうして。ま、いいか。先ず、お前さんの脅してる相手はやくざだろう。脅しをかける仕事はわしらの仕事で、あんたらの仕事じゃない。次に、老いぼれのやくざが、命を惜しがっていては様にならん。こんな命、いつでもくれてやる。だから、脅しにはならんのよ」
「僕は組長の命をくれ、とは言ってません。陣内組の命を脅しの材料にしてます」
「どう言うことだ」
「陣内組は昔ながらのやくざで、身内の結束は固いと聞いています。組長にとっては、みんな子供や孫みたいなもんでしょう」
「それがどうした」
「子供や孫を死なせてまで、守りますか。あの工藤という男を」
「なに」
「横浜に三宅組という暴力団がありました。真崎組の下働きです。三宅組は組事務所ごと潰れました」
「ああ」
「陣内組の事務所にも、爆薬が仕掛けられてます。組長が行方不明になり、総動員で捜しているところでしょう。誰ひとり生き残りませんよ」
「待て」
「若僧だからと、なめてかかってはいけません」
「そうか、あれは、あんたか。最初から、あんたの落ち着きは何なのか、それがわからなかった。組をひとつ吹っ飛ばすことができるんなら、当然か。組長を掻っ攫うことぐらい、どうってことないんだな」
「わかっていただけましたか」
「だがな、素人衆に脅されて、はいわかりましたじゃ組長失格だ」
「素人ではありませんよ」
「わしから見れば、あんたは素人だよ。十年前、何してた」
「学生でした」
「わしが、時代を読めなかったってことか」
「そんなことありません」
「慰めてるのか」
組長が力なくうつむいた。浩平は陣内のことが好きになりかけていた。
「教えていただけますか」
「確かに、工藤に頼まれた。やくざのもう一つ裏に殺しを請け負う組織がある。なぜか、工藤はそれを知っとった。やくざ同士の抗争には噛んでこん。決まった事務所があるわけでもない。交通事故しかやらん。中国系だと言われているだけで、誰も知らんだろう。ただ、仲介するだけで一千万だから、楽なしのぎになる。わしの趣味には反するが、一千万は大きかった」
「そうですか」
「危険運転致死罪にならなければ、楽なもんらしい。警察も事故か殺人かは区別できん」
「このことを、工藤に話してもいいですか」
「しゃあない」
「一番の責任は工藤にありますが、陣内さんにも責任があります」
「たしかに」
「責任取ってもらわなければなりません」
「ん」
「陣内組の責任で、工藤を殺してもらいます」
「殺すのか」
「白石さんは、死んでます」
「ん」
「工藤からも話は聞きますが、その後、死んでもらいます。その殺しをビデオに撮ってください。死体の処理はまかせます。表に出す必要はないでしょう」
「ビデオ」
「そうです。死亡が確認できるビデオです。細工をすれば、陣内組に責任とってもらいます」
「あんた、素人とは思えんな」
「すみません。僕、本気ですから」
「らしいな」
別のトラックの中で、拉致した工藤社長に話を聞いた。惨めなほどに狼狽し、最後は何もかも話すことになった。そして、陣内と工藤を一緒にして解放した。工藤は命拾いをしたと思っただろう。
三日後に、陣内を呼び出して結果を聞いた。陣内は黙ってDVDを浩平に渡した。
「あんた、地獄に落ちるぞ」
「覚悟してます」
陣内と別れた浩平はDVDを確認してから、陣内組に仕掛けた爆薬を取り外した。
白石亜紀を殺人犯にさせるわけにはいかない。そして、凄惨すぎてDVDの中身も見せるわけにいかない。我慢してもらうしかないだろう。白石亜紀は退院して、自宅で療養している。監視班とは別に、浩平も二度忍び込んで様子を確認しているが、元気になったとは言えない。まだまだ時間が必要だ。陣内と工藤の録音だけを渡して、無理に納得してもらった。しばらく、様子をみよう。白石家に取り付けた盗聴器と監視用に借りている部屋を残して、チーム全員に帰ってもらった。監視用部屋は少し遠いので望遠鏡を必要としたが、東京とは環境が違うので贅沢は言えない。
盗聴器のデータを回収して、その中身に驚いた。陣内が白石亜紀を訪ねてくる、それを亜紀も了解しているのだ。二人とも何をする気なのだ。昼間なので危険だったが、浩平は白石家に忍び込んだ。古風な日本家屋なので屋根裏にはスペースがある。忍者の気分だった。
病み上がりとは思えない亜紀の姿が見えた。その凛とした亜紀の前に頭を下げた陣内老人がいる。陣内は証拠となるDVDとCDを返してほしいと頼み、浩平が四つに折って持って帰ったと亜紀が返事をした。DVDは渡していないし、CDも持ち帰ったりはしていないが、亜紀は平然と嘘をついた。
亜紀が短刀を手にして陣内に近づく。出て行くべきか。浩平は悩んだ。ここで、殺人を犯してどうすると叫びたい。だが、亜紀の殺気が緩やかなものなので待った。刺した後に出て行って自分の仕業だと言うしかない。亜紀は短刀を陣内の首に当てただけで止めた。
翌日、浩平は監視部屋の契約を解除して、東京に戻ることにした。陣内は白石亜紀に手を出すことはない。後は時が過ぎるのを待つだけだ。いつか、傷は癒える。そう信じたい。


21

官僚は省庁という縦社会に生きていると言われるが、不正に関しては横並びだった。防衛省は制服組がいるから、他の省庁と違うのかと思ったが、同じだった。省にとっては自衛隊という制服は無いに等しい。官僚は官僚の本分を全うするべく、一心不乱に不正を積み上げている。国土防衛の意識もシビリアンコントロールの目的も単なるお題目にすぎないようだ。省内にも自衛官にも、そのことに疑問を持っている人間はいるはずなのに、お家大事の縦社会だけは機能していた。
「阿南さん。市場価格ってあるんですか」
「兵器に、ですか」
「ええ」
「難しいでしょうね。デパートでは売ってませんからね」
「装備は米軍と一緒だと考えればいいんでしょう。だったら、米軍がいくらで購入してるのかを調べればいい。筒井さんでも難しいでしょうか」
「一度、聞いてみましょう」
「お願いします。軍事機密でしょうから、簡単には出てこないでしょう。いくら出せば教えてくれるのかを聞いてみても面白いですね」
「了解」
「保田さん。池崎さんたちに防衛省のコンピューターに潜入してもらわなければなりません。先ず、装備品の購入価格です。それと開発費用の支出」
「はい」
「他の皆は、従来通り、キャリアの素行調査と外郭団体の調査の詰めをやってもらう」
チーム片山の陣容は大幅に膨れ上がったが、打ち合わせは五人でやった。直人は浩平の副官に専念し、調査に関するチームは保田がまとめている。志保はチーム保田の中で広岡探偵事務所を指揮していた。女性だけの探偵社は珍しいが、重要な役割を担っている。本間探偵事務所の責任者は保田がやっていて、小規模の探偵社ながら広岡探偵事務所を含めて五つの探偵社の指揮をとっている。直人も保田も頼りになる大人になった。変われるというのは若さなのだろうか。やっていることの大半は不法行為だが、チーム片山は情報産業と言える。調査チームが増えることはやむを得ない。新しい仕事として、上野商事という会社が表の会社として貿易業務をやっている。電子機器と電子部品を取り扱う会社だが、実際の業務はマネーロンダリングをすることだった。実際の取引価格が百万円のものを一億円で売り買いして、世界を一周する。世界の裏組織が参加しているといってもいい。ただし、上野商事の役員は買い入れた戸籍の人間がやっている幽霊会社だった。
「十億だそうです」
「直人。筒井さんのとこへ送金できるか」
「大丈夫です」
米軍の装備購入価格調査に必要な金額が十億円。その金額が妥当かどうかはわからない。でも必要な情報は手に入れる。
防衛省と防衛省装備施設本部だけの調査だけでも大変な気苦労と時間を必要とした。公表されている外郭団体以外の団体を調査して内容を把握するだけでも大変なのに、民間会社まがいのものもあり、民間会社の形態の組織もあった。膨大な利権の影が見え隠れしていたが、その全容がつかめない。装備品調達価格の調査も難航した。装備品の種類は多岐に亘り、全てを調べることは断念せざるをえない。陸上、海上、航空各自衛隊の全ての装備品の価格の調査などできるものではないと思い知らされた。しかも、全てが軍事機密という御旗を立てて守られていた。チーム池崎のハッカーたちは民間会社への侵入も開始している。軍需産業の会社は一般の会社よりもセキュリティーが確立しているだけでなく、ここにも軍事機密の壁があった。
数兆円の装備品の調達を装備施設本部がやっているのに、五百人程度の人員しかいないことに気がついた。役所の仕事なのだから、書類や書式は山のようにあるだろう。いわゆる書類仕事だけで五百人は必要になると思われる。では、どこで価格が決められているのか。米国から買い入れる物。純国産品と言われる物。ライセンス生産をしている物。民間よりもモデルチェンジが少ないとは言っても、これだけの種類があれば、毎年どれかが移行期を迎えるだろう。新機種の開発もどこかで行われている。誰が、その価格を決めているのか。少なくとも防衛省にその力はないと思わなくてはならない。だからと言って、民間の会社が決められることでもない。価格決定の機能を持つ組織がどこかに存在している。その組織が表に出ていないということは、そこに不正が潜んでいるということだろう。時間がかかってもいい、気長にやっていこうということになった。
そんなある日、官僚を尾行していた探偵事務所の社員が三人、同じ場所に集まる結果となった。個々の官僚が同じ場所に集まったということらしい。その日本会館という場所には国会議員の姿もあり、高級乗用車が何台も集結しているという。会館の中には入れないので、保田の指示を仰いできた。
「写真を撮りまくってくれ。どこかに警備があるかもしれないから、周辺も撮りまくれ。気付かれるなよ」
保田はフィルムを抱えた応援部隊を送り、自分も社員をかき集めて赤坂に駆け付けた。
「どうだ」
「まだ出てきません」
二時間近く過ぎて、送迎用の車両が集まり始めた。警護要員と思われる集団もいた。その中には公務員とは思えない者もいる。保田は、官僚と国会議員らしき人物を除き、できるだけ多くの出席者を尾行するつもりだった。探偵としてもベテランになった保田は、直感で相手の背景を見分ける力をつけている。官僚なのか議員なのか、民間人でもトップなのか中堅社員なのかを判別する。次々に尾行の車を発進させた。最後に国会議員と得体の知れない男が出てきた。保田にはその男がやくざ以外の何物でもないように見えた。外で待っていた警護の人間がその男を見ている。明らかに私設警備集団だ。保田はその男を尾行した。
「驚きました。大手企業の役員です。しかも、防衛省に納入している会社です」
「ここで、何かがあったと言うわけだ」
「はい。でも、中には入れませんでした」
「警護があったと」
「はい。明らかに暴力団ですが、何組かはわかりません。新橋のビルに入りました」
チーム片山の五人が集まり、日本会館で撮った写真の分析をしている。
「このビルは、あの三宅組の賭場があったとこじゃないですか」
直人がビルの写真を取り上げた。
「また、真崎組らしいな」
「ここのビル、探りましょうか」
「準備万端でないとできない。真崎組は日本一のやくざだからな、なめてかかれる相手じゃない」
「あの」
保田が言いにくそうな様子で発言した。
「ん」
「片山さんに怒られるかもしれない、と言ってましたが。志保があの日本会館に潜入してはどうかと」
「潜入」
「ウエイトレスとか、接客係とかで就職すれば、内部の情報も取れると」
「うんんん」
「危険ですよね」
「募集してるんですか」
「はい」
「男は」
「いえ、女だけです」
「少し、考えさせてくれ」
「はい」
日本会館で行われていると思われる会合の中身がわからなければ前には進めそうにないが、女子の調査潜入は危険が多い。建物の様子から見ても部屋数はかなりのものだと思われる。どこに盗聴器を取り付けるのか、全室に取り付けるのか。ワンタイムの盗聴器を現場に忍び込ませるには、どうすればいいのか。出席した官僚の一人を拉致して内容を聞きだしたとしても、そのことが漏れれば相手の警戒を強くするだけに終わるかもしれない。
「他に方法はないのかな。皆も考えてほしい」
相槌をうってくれたが、誰も自信はなさそうだった。日本会館の監視と新橋のMKビルの監視をする体制を作った。監視をするだけで、それ以上のことはやらないように念を押した。特に新橋の監視班は直人か保田が直接指揮することとした。
進展のないまま時間が過ぎて行く。筒井から米軍の情報が届いた。十億の成果としては少ないものだったが、池崎たちの調査も進んでいない。その調査状況からすれば米軍の情報は妥当なのかもしれない。情報の付け合わせをしてみると、やはり日本の価格は世界の常識から外れているとしか言いようがない。極端な物は倍以上の開きがある。アメリカから購入している物だけではなく、国産品も五割は高い。アメリカの国益という観点からすれば、これほどアメリカの国益に寄与しているものはないだろう。巨大なアメリカの軍需産業を支えるために、日本という国は不可欠な存在になっている。日本の独立を認めたのも、日米同盟が存在するのも、武器輸出という一点だけでも妥当なものだと判断したアメリカが正しいということだ。軍事費という側面からみれば、日本は世界のトップクラスにいるが、その軍事費に見合った軍備になっていないという側面からは二流国家となる。今までに数十兆の金が闇に消えている。何度も軍備の国産化が騒がれたが、アメリカはそのことに同意したことはない。輸入品で戦う軍隊が戦えるのは、せいぜい数か月だろう。戦闘能力のない軍隊に仕立てて、そこに大量の税金をつぎ込むことが是認されているのだから、不正が起きないわけがない。憲法で不戦を謳っているからではなく、戦争をすれば負けるから、しないと考えた方が妥当なのだ。不正行為を理由にして国家機関を恐喝し、国から金を取ることが浩平たちの仕事だとすれば、この巨額な防衛費を避けて通ることはできない。真崎組がこの軍事費に係わっていることは正しい。やくざという固定概念から抜け出す発想が今日の真崎組を作ったと言える。一流の証なのだ。
浩平は大阪の松木組に電話を入れた。
「組長はおられますか」
「おたくは」
「品川埠頭で会った男だと言ってもらえればわかります」
しばらく待たされたが、松木が電話に出てくれた。
「何の用」
「今は、大阪ですか」
「ずっと、大阪だが」
「そうですか」
「あんたのせいだぞ」
「すみません。ところで、僕、提案しましたよね。話してくれました」
「まさか」
「そうですか。僕も少し認識が甘かったと反省しているんです」
「ほう」
「個別の案件で話し合いをするということでお願いしたいのですが。全部、手を引けというのは乱暴だと思いました」
「どう話をつける」
「真崎組の取り分も認めるということです」
「取り分」
「案件にもよりますが、一割とか二割とか」
「話にならんな」
「でも、一度、話してくれませんか」
「無駄だ」
「そうですか。松木さんが真崎組のトップだったら、どうします。やはり、相手にしませんか」
「しないだろうな」
「そうですか。残念です」
「そんなことで電話してきたのか」
「はい。近いうちに会うことになるかもしれません。次は手加減しませんから」
「待て」
「はい」
「何かあるのか」
「別に」
「俺にどんな返事をしろと言うんだ」
「気にするな」
「わかった。話してみる」
「はあ」
「話す」
「もう、いい」
「待ってくれ」
浩平は電話を切った。誰が考えても通る話ではない。全面戦争を覚悟するきっかけが欲しかったのかもしれない。松木にもう少し動物的な勘があれば、変わっていたかもしれないが、それは期待のし過ぎというものだ。
「阿南さん。あの発信機の話を進めてください」
「わかりました」
浩平が最初に購入した、あの盗聴器メーカーが開発したという発信機の話を筒井が持ってきていた。現状を打開するために、志保の提案を受け入れるしかない。ならば、可能な限りの安全策を考える。それが浩平にできることだ。
送ってきた発信機は、付爪の形をしている。大きさは爪を削るようにして整えることができて、マニキュアを塗れば、どこから見ても爪だった。志保は両足の親指の爪に仕込んで、何度もテストを繰り返した。爪の上から一定の圧力をかけると、GPSで自分の位置を確認して発信することができる。志保が日本会館の中にいる時間は、浩平も必ず監視用の部屋にいることにした。
志保が就職した。大人しくて地味なウエィトレスを目指したのに、小柄で童顔の志保にウエィトレスの制服は似合っていた。クラブではないのに指名する客が出てきた。その一人が防衛省事務次官の増岡修司だった。防衛省はいろいろな会合で日本会館を利用していて、増岡修司は常連客のようだ。
新橋政策研究会という名前を見つけたのは直人だった。MKビルの監視部屋にいてもやることのない直人は池崎が収集したデータに目を通すことを仕事としていた。五菱重工のコンピユーターから収集した資金移動報告の中にその政治団体と思われる名前を見つけた。大企業の五菱重工だから資金移動の金額も回数も大きいが、直人は丹念に調べた。政治献金だと思えば、それまでだが、直人は新橋という名前に引っかかった。
「直人。これはビンゴだな」
「はい」
新橋政策研究会の所在地が新橋のMKビルだったのだ。MKビルは雑居ビルのように見えるが、本当は真崎組の持ちビルなのかもしれない。志保の休日に合わせて、武器を持った直人とチーム阿南を周囲に配置し、浩平とチーム菅原が内部に侵入し盗聴器の取り付けと、新橋政策研究会から情報を盗み出す作戦を実行した。チーム菅原に参加している栗原俊和は警報装置に関するプロだった。配線を変更したりバイパスしたりして、無力化してしまう凄腕の持ち主なので、仕事は安心してできる。栗原は、まだ若いが末恐ろしい泥棒だった。MKビルは細長いビルで一つの階にテナントはひとつだけなので、盗聴器は一階から八階までの各階に取り付けて、全てをカバーした。ただ、以前賭博場のあった地下だけは侵入できなかった。
新橋政策研究会は法人ではないらしい。年間数千億の金が動いているのに、経理資料を見た限りでは納税をしていない。国税庁の査察は入らないのだろうか。取引銀行と口座番号、そしてネットバンキングのIDを使って預金の出入りを調べた。
「これ、見憶えありませんか」
ジャパントレードという会社から多額の入金がある。浩平たちがマネーロンダリングのシステムで見かける名前だった。真崎組が係わっている理由が見えてきた。議員、官僚、そして大企業が直接資金洗浄に係ることはない。資金洗浄と私的警護に暴力団を使う。長年の日本的慣習がここにも生きていた。金額が大きいことと係わっている人間が多いことで、不正のシステムも大掛かりにならざるをえない。検察庁、警察庁、国税庁という機関の協力がなければ作りえないシステムでもある。これは、政治家主導で行われなければできないことで、防衛省は協力の一機関に過ぎないのかもしれない。これは役人相手の交渉ではなく、政治家と暴力団という最も暗い場所にいる集団との交渉になる。大槻メモにも防衛利権をめぐる不正は書かれていなかった。とても書けなかったのだろう。大きな闇が、大きな力を持って政界を牛耳っている。そこに一枚噛んでいる真崎組が、はいそうですかと降りるはずもないということか。
防衛産業に係る企業が業界団体を作っていて、そこでは、公然と談合が行われていると思われる。さらに、アメリカの軍需産業との調整も行われていると考えなければならない。浩平たちの行動がアメリカの国益を損なう結果になれば、あの国はなりふり構わずに介入してくることになり、浩平は世界を相手に戦争をしなければならなくなる。日本国を相手にするだけでも勝ち目はないと思っているのに、アメリカが参戦をしてくれば、手も足も出ない。どうする、浩平。
やはり、MKビルは真崎組の塊だった。盗聴データから十日後にあの会合が行われる予定になっていることが判明した。志保が調べた予約表からも確認がとれ、会合が行われる部屋もわかった。議員、官僚、民間企業の三つのグループは別々の会合を同じ日本会館で行う。そして、会館内で合流して本来の会合を持つこともわかった。チーム菅原はその四つの部屋に盗聴器を取り付けた。
やはり、その会合は収益金の分配に関する打ち合わせだった。国家予算の実行には多少のずれが生じる。換金の時間も必要になり、確定金額と出金可能な時期が報告される。さらに、次年度の予算に絡んだ防衛省調達価格の調整も行われた。事実上の防衛予算はこの日本会館で決められているのだ。
浩平は志保の仕事は終わったと判断して、退職させた。勿論、偽名で就職していたので、追跡調査に引っかかることもないだろう。浩平の肩の荷が一つ下りた。日本会館の監視チームも引き上げ、新橋も引き揚げた。
浩平は四人を集めて会合を持った。
「先ず、僕の感想を言うと、我々の手には負えないというのが実感だ。皆はどう思う」
「俺も同感だ」
菅原が同意した。
「危険だな」
阿南も同じ意見のようだ。
「ここで、手を引くんですか」
直人が、ありえないという表情で反論した。
「やりましょうよ。連中、ひどすぎる」
保田は中止には反対のようだった。
「今までと違うのは、アメリカが絡んでいることだと思う。あのマネーロンダリングのルートは当然掴んでる。筒井さんや上野商事にも気が付くだろう。時間はかかるが、我々の存在も突き止めると思う。我々がアメリカの国益を損なうような意思がないとしても、そのことを知らせる方法がない。あったとしても、納得させる自信はない。つまり、これ以上は全員の命にかかわることになる。自分の命だけではない。仲間の命も危険になる。だから、僕はアメリカに宣戦布告をしたくない」
「ここにいる五人は、すでに命を捨ててる。他の人たちには辞めてもらいましょうよ。規模を縮小したって、やる価値はあると思う。最悪、金にならなくったっていいじゃないですか」
クールな保田にしては珍しい発言だった。
「僕も、保田さんに賛成」
「待てよ。片山さんは、誰の命も失いたくないんだ。保田さんの命も直人さんの命も。自分は片山さんにもらった命だから、勝手に預けている。でも、それは自分が勝手に思っているだけで、片山さんは、俺の命も失いたくないんだ。ここから先は本物の戦場になる。片山さんには、そのことがわかってるんだ。戦って、それで、俺が命を落としたとする、片山さんは、落とした俺の命を、動かない命を、ずっと背負っていくことになる。それが、上官の宿命だと、最近、気づいた。たとえ、こっちが承知の上で死んだとしても、それでいいってものでもない。俺が甘えているだけだってことに、気がついた。だから、俺は片山さんが決めたことに従う」
阿南は浩平が後藤祐樹の死を背負っていることを知っている。
「阿南さん」
「俺は、どっちでもいい。片山さんなら、俺の命、背負っていってくれそうだし」
菅原はニヤリと笑った。
「僕は、この辺が潮時だと思う。保田さんも直人もわかって欲しい。残金は皆で分ける。社員を抱えてる場合は、その退職金も払う。できれば、土地も名前も変えて新しい生活を始めてもらいたい。それだけの金はあると思う」
「確かに、最初は金のためにやってました。でも、金さえもらえばいいってもんでもないんですよね。片山さんから離れて、どうやって生きていけばいいのか」
確かに保田の表情は途方に暮れていた。
「片山さん。俺は」
「直人は、もう昔の直人と違う。一人で立派にやっていける」
「そんな」
「チーム片山の基本は菅原さんに教えてもらった。それは、安全第一だ。ここまでやってこれたのは、皆がその基本を守ったからだと思ってる。素人集団にしてはよくやった。敵は僕たちをプロ集団だと思ってる。そこで、これからのことだが、チーム片山を解散しても、しばらくはこの基本を守らなければならない。警察の捜査本部が解散したわけではない。警察の素晴らしさは、そのねばりだと思う。真崎組の情報網も無視できない。だから、新しい戸籍で新しい人生を作り上げてもらいたい。できることなら、土地も替えて欲しい。地方が無理なら近隣でもいい。チーム片山は煙のように消えてしまいたい」
「片山さんは、どうするんです」
直人が暗い表情で言った。直人は納得しているわけではない。
「僕は、やりかけになっている道場回りをやろうと思ってる」
「俺も一緒に行っちゃいけませんか」
「すまんな。直人」
「これが、片山さんの結論なんですか」
「そうです。保田さんを引きずり込んで、申し訳ないと思ってます」
「なら、仕方ないです。片山さん抜きでは、この仕事できませんから」
「申し訳ない」
浩平は四人を前にして、頭を下げた。
「大変だけど、直人には残金整理をしてもらいたい。分配は、次の打ち合わせでやる。その時は志保にも入ってもらう。それと、藤沢の家は僕が引き継ぎます。いいですか、阿南さん」
「もちろんです。自分は筒井さんのとこへ行きます」
直人と保田の落胆はそうとうなものだった。
実際の解散までには、一か月近い時間がかかった。探偵事務所は廃業し、上野商事も休眠会社になった。覚せい剤の在庫もなくなり、後藤組との取引も終わっている。浜中調査事務所は普通の探偵社としてやっていける。名実共に浜中の会社になった。保田は浦和に、菅原は市川、直人は船橋、志保は千葉に行き、新しい名前で生活を始めた。阿南は、渡米するまでに会話のレッスンを受けると言って都内のマンションに転居した。浩平も田端のアパートを引き払って、藤沢に移った。
浩平は、庭の畑の世話と海岸の散歩、それと、家の改造に一日を使った。筒井が作った武器庫を参考にして、盗聴器と各種データの収納庫にする予定だ。
一か月後、浩平は衆議院議員の権田栄一と三人の人間の行動を調べた。権田議員は愛人のマンションからの帰路に隙ができる。目立たないマンションに愛人を住まわせていることが、裏目にでることもあると認識はしていないのだろう。浩平は無言で権田議員を拉致して、横浜の地下に監禁した。そして、翌日には防衛省事務次官の増岡修司、五菱重工株式会社常務取締役の山内正、五菱商事株式会社常務取締役の安達敬一郎の三人も強引に拉致した。日本の重要人物が四人も消えてしまったことになる。警察は大騒ぎになっているだろう。当然、三宅組爆破の捜査本部にも激震が走っている。
浩平は目だし帽をかぶって、地面に繋がれた四人の前に椅子を置いて座った。
「顔ぶれを見れば、どんな用件か、わかりますよね」
「お前が、あのテロの犯人か」
「僕の要求は、防衛予算の裏金を半分だけ、いただきたいだけです。念書にサインをお願いします」
権田が大声で笑い出した。
「そんなにおかしいですか」
「お前、誰と話してるつもりだ」
「権田栄一だと思いますが。人違いなんですか」
「なに。この若僧が。俺はな、日本を動かしとる男だぞ。お前のような小僧、どうにでもできるんだ。悪いことは言わん、とっととここから出せ。今なら見逃してやる」
「僕には、負け犬の遠吠えに聞こえますが」
権田は顔を紅潮させて、体を震わせた。
「増岡さんは、いかがです。サインしますか」
増岡は権田の顔色を窺うだけで返事をしなかった。
「山内さんと安達さんは、民間会社の方ですから、適切な判断ができますよね」
二人は顔を伏せたままだった。
「誰もそんなもんにはサインなどせん」
「話し合いでは、駄目だということですか」
「当たり前だ」
「話し合いで駄目だとすると、拷問になりますが、それで、いいんですか」
「そんな脅しが通用するとでも思っとるのか」
「さあ、通用するかどうかは、やってみないとわかりません」
その時、地下室の分厚いドアの鍵穴に鍵が入る、かすかな音がした。静かな地下室では大きな音に聞こえた。この地下室の鍵は浩平しか持っていないはずだが。浩平はドアの近くへ移動した。静かにドアが動いて、目だし帽が出てきた。浩平には、その目だし帽が阿南だとすぐにわかった。
「やっぱり」
浩平はドアの外へ出た。
「阿南さん。どうして」
「片山さんが、一人でやる気なのは、わかってましたから」
「僕、そんなに下手くそでしたか」
「他の人は知りませんが、自分には、ピンときてましたから。現場を押さえたんですから、これ以上の騙しは駄目ですよ」
「まいったな」
浩平の後ろから重そうなバックパックを抱えた阿南が付いてきた。
「そこで、射撃訓練でもしててください」
「了解」
静かな地下室に、阿南の小銃の音が響いた。
「すみません。どこまでお話しました」
「・・・」
「そうだ、話し合いより、拷問の方がいいというところまででした」
「なぜだ」
「なぜ」
「なぜ、お前に半分渡さなければならないんだ」
「ああ、そうでしたね。僕があなたたちの秘密を知ってしまったからです」
「それが、どうした」
「公表されたら、困るでしょう」
「公表だと。そんなもん、公表する場所があるとでも思っとるのかね」
「えっ」
「どこのメディアも相手にはせん」
「どうしてです」
「当たり前だ。どうやって、裏をとる。裏も取れない記事を、誰も相手にはせん」
「ああ、その点なら大丈夫です。そのシナリオを知りたいですか」
「ああ」
「あなた方四人の死体を晒しものにします。そして、犯行声明をアルジャジーラに送ります。CNNでもいい。貧困撲滅団という新しいテロ集団が世界にデヒューするんです。世界から貧困を無くすことが目的のテロ集団です。世界中のテロ組織が拍手で迎えてくれるでしょう。そうすれば、日本のメディアは裏を取る必要がありません。アルジャジーラでこういう報道がありましたというニュースが流せるんです。実名も公表します。年間五千億の裏金がこんな人物や団体に流れているという内容です。日本政府には、その五千億の金を世界の貧困対策に当てること、という要求をします。新橋政策研究会の資金の動きも表に出てきます。もちろん、真崎組の関与も、です。なぜ、司法がなにもできなかったのかも話題になるでしょう。要するに日本の政治システムの崩壊が起こるということです。その引き金をあなたたち四人が引くことになるんです。わかりますか、そんな事態を考えれば、裏金の半分は安いものだと思いますよ」
権田も声が出なかった。
「安達さん。あなたの会社は、不正にまみれた武器商人として世界中から叩かれます。どこの国の商社も不正に手を出してるでしょうが、表沙汰になると取引を控えるところが増えますよね。武器部門だけではありません。五菱商事の商売全体が大きな影響を受けることになります。会社の存続にも係る大事件になります。そう思いませんか」
安達の顔は青ざめていた。
「話し合いが拒否され、拷問でもサインしていただけない場合には、皆さんは死体になって世界に名を売ることになります。説明はこれ位でいいですか」
「お前はアメリカも敵にする気か」
「仕方ありません」
三人が権田の顔を見た。その表情は、負けを認めてくれと言っていた。
「わかった。お前に半分くれてやる。さっさと、ここから出せ」
「ありがとうございます。では、次に移らせてもらいます」
四人の前に机を動かして、椅子を用意した。足は鎖で拘束されているが、手は自由になっている。
「座ってください」
四人が椅子に座るのを待って、浩平は書類とボールペンを鞄から取り出した。
「ここに、見本があります。これを参考にして、念書を書いてもらいます」
四人は、目の前に置かれた見本だと言われた書類を読み始めた。四人の様子に戸惑いが出ている。最初に見本の紙を投げ捨てたのは権田だった。
「こんなもんが、書けるか」
「書けませんか」
他の三人の表情も硬かった。浩平は念書だと言ったが、その中身は自白調書そのものだったから、抵抗するのも当然だった。
「権田さんは拒絶するそうです。増岡さんは、どうされますか」
増岡は首を横に振った。
「ここで、拒否すると、もう、引き返せませんよ。拷問に耐えきれずに書くより、今、書かれることをお勧めします。皆さんでは、拷問には耐えられないと思います。それでも、よろしいですか、増岡さん」
「こんな奴の言うこと、聞くな。こんなもん、書いたら、お前は終わりだぞ、増岡」
権田が迫力のある声で増岡に迫った。
「増岡さん。ご自分で判断してください。後で後悔の度合いが違います。権田さんの脅しに屈して、その上、僕の脅しにも負けることになるんです。生き残った時に、ご自分を支えることに苦労します」
増岡は首を横に振らなかった。
「山内さんは、どうします」
「書きます」
「安達さん」
「書きます」
「そうですか。では、三人の方は、書き始めてください。権田さんは、どうしても拷問を受けてみたいようですから、この端で始めます」
阿南が近寄ってきて、権田を椅子に縛り付けた。足も椅子に固定する。浩平は細い鉄棒を手にした。
「権田さん。説明します。今から片足づつ潰していきます。両足が終わった時点で、一度目のチャンスがあります。次は左腕です。権田さんは右利きですから、右腕は残します。これが二度目のチャンスです。その次は、両耳です。ここが、最後のチャンスです。次に目が潰され、最後は、体の皮膚を全て剥ぎ取ります。その途中で息を引き取ることになるでしょう。では、いきます」
「ま、待ってくれ」
「権田さん。説明しましたよね。最初のチャンスは両足が終わった後だと」
浩平は権田の左足の脛を鉄棒で叩き始めた。罵詈雑言と阿鼻叫喚。権田はエネルギッシュな男だ。しかし、五分も経たずに権田の体が飛び跳ね出した。一回の衝撃は、それほどの痛みではないが、回数が耐えきれなくなる。しかも、いつまで続くのか読めないことが精神的重圧になり、権田の叫び声が地下室を震わせる。浩平は数を数えながら、無心に鉄棒を振り続けた。
「やめてくれ」
念書を書いていた山内が叫んだ。浩平は手を停めた。
「やめてくれ」
「これは、山内さんの問題ではありません。権田さんが自分の責任で選択したことです」
「わかってる。だが、私の心臓は限界なんだ」
「心臓に持病があるんですか」
「そうだ。この叫び声には耐えられない。私の心臓が停まって、この書類が書けなくなったら、君も困るだろう」
「そのことは、あなたが心配することではありません。あなたの替わりはいくらでもいるんです。五菱重工で、このことを知っているのが山内さんだけというわけではありませんから、次の人を拉致するだけです」
「だが、私の心臓は、これ以上、耐えられそうにない」
「そうですか。では、議員の方のナンバーツーはどなたです。この権田さんの次に力を持っている人です」
「川口議員でしょう」
浩平は阿南の近くに行って、阿南の鞄から短銃を取り出した。マガジンの銃弾を確認して権田のところへ戻った。
「権田さん。あなた、騒ぎ過ぎです。山内さんが、あなたの叫び声を止めろ、と言ってます。僕も、あなたには期待が持てないなと思っています。だから、山内さんの指示があれば、あなたを楽に死なせてあげます。後は川口議員にお願いすることにします」
浩平は権田の顎を左手で制して、銃を口の中へ捻じ込んだ。
「山内さん。指示を出してください。あなたの指示で引き金を引きます」
権田の顔は涙と鼻水で無茶苦茶になっている。やめろ、と言っているのか、ただ泣いているだけなのか判然としないが、嗚咽のような言葉が聞こえる。ズボンの前に染みが広がり、権田は失禁したようだった。
「山内さん」
浩平は山内の決断をうながした。山内は権田の叫び声をやめさせてくれと願っただけで、権田の死に対して責任を背負う予定はなかった。「殺せ」という指示など出せるはずもない。
「権田さん。書いてくれ。念書を書いてくれ」
安達が叫んだ。
「お願いします。チヤンスを」
増岡も机に頭を押しつけた。
「なかなかのチームプレイですね」
増岡にならって、二人の民間人も机に額をつけた。浩平は銃口を権田の口から引き抜いた。権田の嗚咽が止まり、地下室に静けさが戻った。
浩平は四人を置いて、阿南のいる場所で射撃訓練を始めた。締め切られた空間での銃声は、重低音のドルビー付きだ。薬莢が転がる音も、なぜか重々しい。約十分、射撃練習を続けて、浩平は四人の所へ戻った。
「山内さん」
「できません」
「殺人の片棒を担ぐのは、嫌ですか」
「はい」
「嫌なことはしない。でも、美味しいものは欲しい。そういうことですか」
「・・・」
「自分だけは安全な場所にいたい。あなたたちは、不正なことをやり続けた。それでも、自分のことだけは守りたい。それって、卑怯者だと思いませんか」
「はい」
山内は蚊の泣くような小声で答えた。自分が卑怯者だということは知っているようだ。
「特に、この権田議員は最低な男だ。こんな男の命を助ける必要があるんですか。それとも、ただ、責任を負いたくないということですか」
「・・・」
「こんな不正をしていることに、反省はないんですか、山内さん」
「あります」
「じゃあ、どうして、続けたんです。内部告発だってできたでしょう。本当は、いやいややってたんですか」
「そうです」
「きれい事、言わないでください」
「えっ」
「日本会館での、皆さんの様子を知っていますが、山内さん、いやいややっているようには思えませんがね」
「・・・」
「まあ、いいでしょう。僕もその不正に加担しようとしてるんですから。今回は特別チャンスを作りましょう。権田さんが、全て僕の指示に従うのなら、あなた達の希望を入れることにします。それで、いいですか。権田さんが拒否した場合は、拷問を最後まで続けます。途中で意見の変更は認めません。拷問の中にある三回のチャンスをまとめて、この特別チャンスとします。これからは、山内さんの心臓にも配慮はしません。よろしいですね」
「お願いします」
三人が頭を下げた。
「さて、権田さん。次はあなたの覚悟を聞きましょう」
「書く」
「か、く」
「いえ。書きます」
浩平は机の前に座っている三人を見た。
「やはり、権田さんは、おわかりではないようです」
地下室に緊張が走った。
「僕は、なんと言いました。権田さんが僕の指示に従うなら、と言いましたよね。それは、書いてやる、という精神状態でできることではないと思います。状況が悪いから、書いてやってもいい、などという高慢な態度では、駄目でしょう。どうです、山内さん」
山内が、がっくりと首を落とした。
「この人には、所詮、無理なんです。命を危険にさらしているのに、傲慢から抜け出せない。あなた達の努力もここまでですね。山内さんも、この男の悲鳴は無視して念書を書いてください。心臓がもたなければ、そこまでです。いいですね」
三人が一斉にボールペンを走らせ始める。浩平が地面から鉄棒を取り上げた。
「あわわわわわ」
浩平は権田の横の椅子に腰を降ろした。権田は椅子ごと飛び跳ねて、横倒しに倒れた。その不自由な姿勢では暴れようもない。鉄棒が振り下ろされていなくても、先ほどの痛みが戻ってきているのだろう。左足が震えている。
それからも、小さなやりとりがあり、大騒ぎをした権田が、子供のように従順な権田に変貌した。政治家の能力をもっと建設的な場所でふるわせる方法はないものだろうか。その粘り強さ、変幻自在の変わり身の術、そして厚顔無恥は一級品だと思う。
四人の人質は浩平の思い通りに動いてくれた。念書という自白調書を書き、自筆のサインをして、親指で捺印までしてくれた。権田は暴れた罰として、裏金を渡した議員の名前を列挙してもらった。
「さて、権田さん。真崎組を管理しているのは、あなたですか」
「はい」
「真崎組の介入は、これを機に控えてください。マネーロンダリングは僕がやります。新橋政策研究会の管理もやります。よろしいですね」
「はい」
「先ず、二千五百億を用意してください。その後は月額二百億をいただきます。安達さんがその指揮を取ってください。邪魔をする者がいれば、僕が排除します」
「はい」
「最後に皆さんの身の振り方です。行方不明で、捜索願も出てるでしょう。今日のことが表沙汰になれば、大勢の方が困ることになります。世間を騒がせない方法を考えてください。協力します」


22

「一時はどうなるかと思いましたよ」
「阿南さんなら、わかってるでしょう。我慢比べですから」
「いつも、勉強になります」
「阿南さん、いつですか」
「アメリカですか。行きませんよ」
「最初から」
「ええ」
「騙されましたね」
「片山さんは、それ、言えないでしょう」
「これからが、本当の戦争です。アメリカに行ってくれた方がよかった」
「迷惑でも、くっついて行きますよ」
「困りました」
それからの阿南は上官の世話をする兵士のように、浩平の影に徹したようだった。迷惑だが、断る方法が見つからない。仕方なく、浩平は藤沢の家を阿南に明け渡して、都内のマンションに移ることにした。
藤沢での最後の日に、直人が現れた。
「阿南さん。どうしてここにいるんです」
「いや。ちょっと、予定が変わった」
「片山さん」
「ん」
「どういうことです」
「阿南さんに聞いてくれ」
「阿南さん」
「ほんとに、予定が変わっただけだから」
「俺、騙されてるんですか」
「だから」
「片山さん」
「阿南さんは、予定が変わったと言ってる」
「違いますね。何があったんです」
「何もない」
「へえ、そうですか。何もないんですか。24時間の監視体制をとってでも、調べますよ」
「無茶言うな」
「必要なら全員呼び戻してでも、監視しますよ。俺たち探偵業ではプロですからね」
「直人」
「監視されたらまずいことでもあるんですか」
「脅してるのか」
「はい。恐喝が飯のタネですから」
「僕を、怒らしても、か」
「冗談じゃない。怒ってるのは、俺の方ですから」
勝手にしろ、とは言えなかった。直人は本気で監視チームを作ってしまう。それでは、解散した意味がなくなってしまう。直人の脅しに屈するしかないのか。
「わかった。僕は犠牲者を出したくなかった。それは今でも変わらない。本物の戦争に突入する。しかも、最後には負けるとわかっている戦争だ。そんな戦場に連れて行く訳にはいかない。祐樹の命を背負っているだけでも、息切れしてるんだ。これ以上は背負いきれん。勘弁してくれ」
「いいえ。片山さんなら、背負えます。片山さんは、何人もの命を背負って生きていく宿命を持ってるんです。その宿命からは、逃げられません。それも、覚悟でしょうに」
「・・・」
「いいですか、犠牲は出ない方がいい。そんなこと、当たり前です。でも、犠牲が出る時は、少ない方がいい。これが現実です。今なら、犠牲は阿南さんと俺の二人で済みます。この二人は認めてください。これを断れば、犠牲者はもっともっと出ます。それでも、いいんですか」
「片山さん。あんたの負けだ。直人はほんとにやりかねません」
「わかった。二人とも、どうして、そう死にたがるんだ」
「片山さん。それは、違う。俺は生き返るんです。俺、この数か月、死んでました。だから、今から、生きるんです。わからないんですか」
「もう、怒るな、直人」
「はい」
阿南が死に場所を捜しているのは知っている。だから、阿南を道連れにすることに抵抗は少ない。だが、直人は、まだ自分の新しい生き方を見つけるチャンスがあると思っている。片山浩平に出会ったことが直人の不運だった、という結果になって欲しくなかった。浩平の手も阿南の手も血で汚れているが、直人はまだ一般人に戻れる。いや、戻してやりたい。直人は浩平の命を守ろうと、覚悟を決めているのだろうが、浩平が直人の命を守っていることには気づいていないと思えた。
「直人」
「はい」
「変装の技術を磨け。僕が見ても本間直人だと気付かないぐらいになれ。これが、宿題だ。それができたら、一緒にやってもいい」
「やります」
浩平が大きなため息をつき、直人と阿南がニヤリと笑った。
「阿南さん」
「はい」
「狙撃の練習、しといてください」
「はい」
「権田は、悪あがきをすると思う。何度か警告をしておかないと」
「はい」
浩平は防衛省事案の説明を直人にした。
「四人とも、百戦錬磨の老人だ。簡単にはいかない。このことを忘れるな。権田が今の力をどれだけ苦労して作り上げたか。増岡もそうだ。一口に事務次官というが、誰にでもできることじゃない。そして、大企業で役員になることも簡単なことではない。四人とも血のにじむような努力をして築き上げた地位なんだ。人生の全てがかかっている。僕たち若僧には想像もできない苦労があったと思う。そこのところを甘く見たら、僕たちの負けになる。権田には、真崎組と手を切るように言った。こうやって、口にすることは簡単だが、そんなに生易しいことではない。日本一の真崎組になるのに、どれだけの血が流れ、どれだけの金がかかり、どれだけの時間がかかったのか。つまり、目の前にいる敵だけでも、強敵ばかりだ。その先には、日本という国があり、アメリカを敵に回す可能性もある。これは、戦争なんだ。いつ、和平交渉をし、いつ手を引くか。タイミングを間違えば玉砕しかない。勝つ見込みはゼロ。僕たちは、踏み込んではいけないところに踏み込んでいる。覚悟だけで、何とかなるものではない。運が落ちれば、そこまでなんだ。よく、噛みしめておいてくれ」
翌日、浩平は目白にあるマンションに移った。マンションという名前はついているが、アパートと呼んだ方がふさわしい建物だからセキュリティーは何もない。住人は学生が多く、外国人も何人かいるようだ。浩平が溶け込める環境と言える。
浩平は、新宿から権田の携帯電話に電話をした。
「中野ですが」
「ああ」
「真崎組の方は、手を打ってもらいましたか」
「話した。あんたと、直接話したいそうだ」
「そうですか」
板谷という男の電話番号を聞いた。場所を移動して板谷という真崎組の男に電話をした。
「板谷」
「僕は、中野と言います。権田さんから、あなたの番号を聞きました。直接、話がしたいということですが、何を話すんですか」
「あんたか。松木から話は聞いた。真崎組に、手を引けと言ってるそうですね」
「はい」
松木は、ほんとに話をしたらしい。
「一度、話がしたい」
「あなたと、ですか」
「そうだ」
「あなたは、真崎組の代表になれますか」
「関東はまかされてる」
「では、真崎組を代表する人と話し合いができるように、取り計らってください」
「俺では、不足か」
「いいえ。二度手間を避けたいだけです」
「先ず、この板谷と話してからでは、いかんのか」
「すみません。できれば西宮と話したほうがいいと思ってます」
「どうしてもか」
「くどい。うちは、このまま戦争してもいいんです。板谷さんに話したことで、こっちの義理は通してる。本部と相談してください」
浩平は一方的に電話を切った。また、移動して、大阪の松木に電話を入れた。松木はすぐに電話口に出てきた。
「いま、板谷という男と話をした。あの男ではラチがあかない。松木さんは、今度の話、聞いてるか」
「大体は」
「直接、話したいと言ってるそうだが、本部の意向か。それとも板谷の希望なのか」
「それは、本部の意向ですよ。板谷は窓口にすぎません」
「そうか。だったら、松木さんが段取り組んでください」
「わかった」
「板谷にも言ったが、僕が話し合いをしたい訳じゃない。このまま、戦争でもかまわない。だから、四の五の条件つけるんなら、応じるつもりはない。それと、話し合いの相手は真崎組の頭でなくてはならない。大丈夫か」
「わかりました」
「また、電話する」
松木は三宅組の件で、関東地区の代表を板谷に奪われている。松木にとっては復権のチャンスでもある。どういう復権の仕方をするのか、興味深い。今度も先が読めないようなら、浩平のメガネ違いということだろう。
直人が同じマンションに引っ越ししてきた。
「何、考えてるんだ。別のマンションにしろ」
「そうも思いましたが、今の片山さんは、信用できない。ここしかありません」
「馬鹿なこと、やめろ」
「大丈夫です。赤の他人で通しますから」
直人は引き下がらなかった。騙したと言う負い目が浩平にはあるし、もう騙されないぞという強い決意が直人にはあった。
浩平は、松木に電話するために、池袋に向かった。直人はしっかり後をつけているようだ。
「どうだ」
「十五日でどうですか」
「三日後だな」
「はい。場所は西宮の本部でいいですか」
「わかった。ただし、変な小細工はするな。死人の山ができることになる。今度は手加減しない。そのことを、よく話しておくこと」
「はい」
三日後に、直人と阿南を連れて、新幹線で西へ向かった。直人と阿南はレンタカーを借りて、決めた場所で待機する。浩平は一人でタクシーに乗った。
真崎組の本部は立派な豪邸だった。下調べはしてあるが、建物の中まではわからなかった。真崎組本部の近くにはパトカーに乗った警官が警備している。タクシーで乗り付けた浩平の写真は撮られているだろう。また、危ない橋を一つ渡ったことになる。
門構えの豪邸の入口には、数人の男が待っていた。
「中野といいます。松木さんに取り次いでくたさい」
スロープの上から松木がゆっくりと歩いてきた。
「お待ちしてました」
「予定通りか」
「大丈夫です」
「行こうか」
坂道を上がって、左に曲がると、大きな建屋と大きな玄関が見えた。黒服の男たちが玄関の両脇に並んでいる。二十人はいるだろう。浩平と松木の方へ、三人の黒服が近づいてきた。一人は日本会館で見かけた男だから、板谷という関東地区の代表だろう。
「板谷です」
浩平の道を塞ぐように正面に立った黒服が挨拶した。
「中野です」
「身体検査をさせていただきます」
「身体検査」
「はい。そういう規則になってますから」
「どこの規則です」
「ここに入る人にはどなたにもお願いしています」
「それは、あなたたちの規則ですね。僕の規則にそういうものはありません」
「そこを、お願いします」
「断ります。どうしても、と言うなら、腕ずくでやればいい。ただし、警告しておきますが、死にますよ」
板谷の後ろには、ひときわ体格のいい男が二人並んでいる。
「松木」
「はい」
「もう、約束が守られていないようだな」
「すみません」
「あの並んでる連中も、僕を撃ち殺そうと待ち構えてるのか」
「いえ。違います」
「言ってあるんだろ、少しでも不審な行動をしたら、死ぬことになる、と」
「はい」
おおきな声で話しているので、その場にいるもの全員に聞こえているはずだ。
「いいでしょう。どうしても、と言うなら、腕ずくでやればいい」
いくつかの死体が転がることになるのは覚悟してきた。板谷が後ろにさがり、二人の男が前に出た。見上げるような大男だ。
二人の男が一歩前に出て、浩平も前に出た。何事もなくすれ違ったように見えたが、二人の男は切り倒された大木のように地面に倒れた。
「次は、あんただ」
板谷はまだ何が起きたのかわかっていない表情だった。
「身体検査、するんだろ」
板谷は二三歩後退した。
「下のもんがやられて、逃げたら、しめしがつかないだろう」
浩平が一歩前に出て、板谷が一歩退がった。
「どうした。ビビってんのか。やれよ」
我に帰った板谷が浩平に殴りかかってきたが、ぐしゃっという音がして、板谷の体が沈んだ。板谷の顔が変形していた。
「行こうか」
「・・・・」
「松木」
「あっ、はい」
「行くぞ」
「はい」
会議室のように広い応接間に大勢の人が入っていた。玄関で起こったことは、もうこの部屋に伝わっているらしい。くつろいでいる人は一人もいなかった。
「中野さんがおみえになりました」
松木の声もうわずっている。真崎組の組長である谷村武史の顔は写真で知っている。一番奥に座っている男がその谷村組長のようだ。浩平はまっすぐ谷村の方へ歩いた。呆然と見守るだけで、誰ひとり動く者はいなかった。
浩平は、谷村の横に近くの椅子を持って行き、座って挨拶した。
「中野です。谷村組長ですよね」
浩平は、人懐っこい少年のような表情だった。
「谷村です」
「話があるということなので、来ました」
「ああ」
「最初にお詫びします。組の方、三人を死なせてしまいました。謝ります。すみません」
浩平は深々と頭を下げた。
「ん」
「本題に入る前に、これだけ大勢の方に、この話を聞いていただく必要がありますか」
「いや」
「できれば、二人でお願いします」
部屋の中がざわついた。
「怖いのであれば、誰か一人、銃を持って護衛についてもらってもいいですよ。僕があなたを殺す気なら、何人いても役には立ちませんけど」
谷村が苦笑いをした。
「二人だけで話しましょう」
「はい。松木さん、全員出てもらってください」
大勢の人が口々に何か言っていた。二人は危険だと言っているようだ。
「しばらく、二人にしてくれ」
静かな声だが、説得力はある。ぐずぐずしながらも全員が出て行き、部屋は二人だけになった。
「防衛省の件ですが、谷村さんはどんなふうにお聞きになってますか」
「あんたに、脅されて、全部取られたから、うちには払えなくなった。そんなことを言われたらしい」
「それは、誰からですか」
「権田先生からです」
「それだけですか」
「資金の洗浄も、調整もやらなくていいとも、言ってたな」
「真崎組の取り分は、いくらあったんですか、年間で」
「五十億」
「まさか」
「・・・」
「それで資金洗浄もしてたんですか」
「いや。その手数料は別だ」
「それが、いくらです」
「一割だと思う」
「では、2パーセントですね。合計で百五十億」
「そのぐらいだろう」
「他には、何か言ってましたか」
「それだけだと思うが」
「で、谷村さんの話というのは」
「あんたに、手を引いてもらいたい」
「その見返りは、何なんです」
「見返りはない」
「つまり、戦争にするってことですか」
「あんたが、そう望むなら、仕方がない」
谷村は無表情だったが、強気だった。
「どんな奴か、顔でも見ておくか、ってことですか」
「ん」
「わかりました。では、そういうことにしましょう」
「それでいいのか」
「ええ。僕も、あなたの顔が見ておきたかった」
「いい度胸しとる。真崎組に戦争しかけるとはな」
「とんでもない。谷村さんこそ、いい度胸してますよ。せっかくここまで育てた真崎組を潰すとは」
「ほう」
「いい機会ですから、今から戦争にしましょう。幹部の方も来ているようだし、組長もここにいる。敵の大将の首が戦争の初日に取れたら楽になります。それぞれの組は時間をかけて潰していきます。今日はこの本部だけにしますよ」
「これだけの人数を、一人で潰す気なのか」
「はい。谷村さん、不思議だと思わないんですか」
「ん」
「僕は、敵地の真崎組本部に一人で来てるんです。普通、来ないでしょう。あなたなら、どうします」
「行かないな」
「なぜです」
「勝ち目はない」
「そうですよね。ところが、絶対に勝てるとしたら、どうします」
「ありえん」
「そこなんですよ。権田議員もそういう間違いを犯しました。過去の経験に頼り過ぎて、ありえないという判断をしてしまう。先が読めなくなったら、その組織は終わりますよ」
「それでも、ありえんだろう」
「じゃあ、ここに一人でやってきた僕は、究極の馬鹿だと思いますか」
「そうは思えんが、わからんな」
「僕は化物なんです。普通の人間だと思ってると大怪我します」
「まさか」
「皆さんを呼んでください。なぜ死ぬのか、その理由ぐらいは教えてあげましょうよ」
「武装してるんだぞ」
「かまいません。拳銃など、何の役にも立ちません」
「はったりかましてる場合じゃないだろう」
「やれば、わかります」
「んんん」
「そうそう、品川埠頭で三人、気を失ったこと、聞いてますか。殺してもよかったんですが、手加減しました。今日は手加減しないと松木さんにも言ってあります」
「あの三人は死んだ」
「えっ。いつです」
「一か月ぐらいだったか」
「駄目でしたか」
「何をしたんだ」
「そうですか。松木さんは何も言ってなかった。駄目でしたか」
浩平は動揺していた。
「死にましたか。自分では、武道のつもりでしたが、やっぱり、殺人の道具に過ぎなかった。駄目でしたか」
「武道なのか」
「いえ。もう、武道とは言いません。殺人道具です」
浩平の前にあるのは、修羅の一本道だった。そこにいるのは、人懐っこい表情の若者ではなく、まがまがしい殺人鬼の若者だった。自分の体内で凶暴な何かが暴れ出している。
浩平の様子が一変した。椅子に沈みこみ、顔つきも目つきも変わった。谷村は椅子の中で後ろへ退がった。
「なに、してる」
「・・・」
「呼べ、谷村」
「待ってくれ」
「戦争は、もう始まってる」
浩平の体から出る殺気が谷村の目にも見えるようだった。巨大な悪と極少の悪が対峙している。その差は明らかだった。何の害もないように見えていた男が、鬼に豹変していることを谷村は体中で感じていた。真崎組が全滅の危機にあることも理解できた。化物だ。
「たにむら」
浩平の怒声に谷村が椅子から飛びあがった。
「すみません」
谷村は浩平の足元に土下座をした。
「私の負けです。言うとおりにします。組のもんは助けてやってください」
「お前は、死んでも、か」
「はい。私の命だけで、勘弁してください」
「強気の谷村は、どこに行ったんだ」
「私の、間違いです」
「真崎組は俺の下でいいのか」
「はい」
「まつき」
浩平は大声で松木を呼んだ。ドアが開いて、松木を先頭にして大勢の幹部たちが顔を見せた。そして、浩平の足元に土下座している組長の姿に息を飲んだ。
「組長は、自分の命で、お前ら全部を助けてくれと言ってる。それでいいのか」
「組長」
男たちが口々に叫んでいる。
「静かにしろ」
谷村のドスのきいた声で静かになった。浩平の中では戦闘意欲が煮えたぎっている。谷村は平平凡凡の日常を生きてきたわけではない。危険な臭いを嗅ぎ分ける能力は持っている。
「中野さん。待ってくれ」
「あいつらの顔には、戦争したいと書いてある」
「私が、言い聞かせます。お願いです。待ってください」
「部屋に入れてやれ」
浩平の言葉にドアに群がっている男たちが反応しようとした。
「動くな」
谷村が怒鳴った。浩平の殺意が膨らんでいることに谷村は気付いているようだ。
「そのまま、聞いてくれ」
谷村は床に座ったまま、入口の方へ向き直った。
「一つ。今日から真崎組は中野さんの下に入る。二つ。今は全員ここから逃げろ。いいか、意地を張っても、無駄死になる。この二つが、俺の最後の命令だ。いいな」
男たちのざわめきが起きた。
「松木。お前の言うことを聞いときゃよかった。すまんな」
「組長」
「行け」
谷村の大声で男たちが動いた。松木だけが、入口の床に正坐している。
「中野さん。親父の最後を見届けさせてくれ」
「馬鹿野郎。お前を死なせるわけにはいかねえんだ。行け」
「中野さん」
「入れよ」
「はい」
「谷村さんも、そんなとこにいないで、座ってください」
「・・・」
「大丈夫だ。もう、治まった」
浩平の様子が変わっていた。もう、殺気も出ていない。
「松木さんも座ってくれ」
「はい」
「あの三人、駄目だったのか」
「はい」
「どうして、言わなかった」
「言っても」
「そうか。済まなかった」
「はあ」
「谷村さん。あんたは立派な親分だった。さすが、真崎組だ。真崎組が僕なんかの下にいちゃいけません。全部、取り消します。あんたの命もいりません。防衛省の件は、後日にしましょう。松木さんに連絡します」
「中野さん。あんたは、いったい、何者なんだ」
「化物なんでしょう」
浩平は立ち上がった。
真崎組までやってきた成果は何もなかったが、仕方がない。今日も三人の命を奪ってしまった。もう、修羅の道しか残されていないのか。
「送ります」
「ああ」
「馬鹿な奴がいたら、ぶち壊しになりますから」
谷村と松木に左右を守られて、浩平は真崎組本部を後にした。
浩平は、直人と阿南とは別行動で東京に戻った。
「しばらく、山に行く」
それだけ言い残して、浩平の姿は東京から消えた。


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海の果て 第1部の 7 [海の果て]


17

厚労省はしばらく手をつけないことにした。橋本は旧労働省の人間だが、今や将来の事務次官候補の筆頭になった。口先だけではなく、仕事の実力もあるので本当に事務次官になるだろう。
国土交通省の資料に関しては、浜中調査事務所が調べられる範囲は終わっている。浜中調査事務所には農林水産省の調査にかかってもらう。
厚労省の経験から、チーム本間の調査は国土交通省の外郭団体の選別から始めた。意味不明な団体名で、何をやってもおかしくない団体。少人数であることも選別要件とした。四団体を選別し、盗聴器の取り付けと資料の撮影を実行した結果、道路研究会という団体を選んだ。国交省の総務課の名前を借りて、意味のないお知らせメールを送り、パソコンに潜入。道路研究会のパソコンにバーチャル調査員を誕生させた。職員数は十八名となっているが、実際に勤務している職員は四人で机の数も十一しかない。それよりも、収入と支出が桁外れに多いことがわかった。年度によって違いはあるが、五百億以上の金が動いている。道路研究会の仕事は国交省や他の外郭団体から調査を依頼され、それを民間の会社に丸投げしている。ところが、実際の発注者は大手ゼネコンであり、丸投げしている民間会社は大手ゼネコンの関連会社だとわかった。浩平が侵入して撮影してきた資料の脚注には、ゼネコンの会社名が記入されていた。キックバックの金を受け取るためのシステムになっていると判断した。道路研究会の所管課は道路土木局土木課の課長で鳥居正行というキャリア官僚だった。チーム本間には鳥居を徹底マークをするように言った。道路研究会の職員となっている人間と仕事を丸投げしている民間会社の社員を洗い出して、浜中調査事務所に調査を依頼した。
鳥居正行は小柄で大人しそうな、職業は公務員という返事がよく似会う童顔の男だった。ほとんどのキャリアは自信満々で、俺が国を動かしているのだという傲慢を背追っている。だが、鳥居は腰の低いキャリアだった。
チーム本間にとっての問題は尾行に成功しないということだった。尾行に気付かれているという印象はないのに、必ず見失う。相手が意識的に尾行をまいているとしか考えられない。尾行に失敗した時は念のために自宅をチェックする。自宅に帰っている時もあるが、真夜中まで帰ってこない時もある。これでは、チーム本間は仕事をしていないことになる。浩平も尾行チームに参加させられたが成功しなかった。鳥居の変装に気がついたのは志保だった。男子トイレから出てきた鳥居は高級官僚ではなく、中年の職人だった。志保は鳥居の左手の絆創膏だけに注意を向けていたので発見できた。鳥居は田町のマンションに消えた。自宅は恵比寿だから、愛人のマンションなのかもしれない。外で見守っていると五階の端部屋に明かりがともった。愛人は留守だったのか。志保と直人は辛抱強く待った。一時間も経たずに部屋の明かりが消えた。二人はマンションの玄関に目をこらす。老婆と若い女性が別々に出て行ったが、鳥居の姿はなかった。マンションの前の通りは人通りもなく、遠くからの監視だったので見逃したのだろうか。
「あの女」
「は」
「女に変装してたんだと思う」
「女か」
鳥居は変装の名人だっただけではなく、女にも変身していた。そして、鳥居には男の恋人さえいた。
「あいつ、志保より女らしいな」
「直人に何がわかるの」
浩平が鳥居の奥さんの調査を浜中調査事務所に依頼した結果、男関係は派手なものだった。道路研究会の職員の調査結果も意外なものだった。鳥居の妻の旧姓の職員がいたことは驚きではなかったが、議員秘書の名前が五人もあったことである。議員へのキックバックは秘書給料という形で還元されていたし、道路研究会が調査を依頼した民間会社の非常勤の社員は国交省のOBや国交省職員の関係者だった。道路研究会もその先の民間会社も、実態のない立派なダミーだった。そこで年間五百億の金が動いている。
浩平は銀座の路上で鳥居に声をかけた。
「鳥居さん。ですよね」
「えっ」
少し首を倒して、浩平の方を向いた鳥居は、声もきれいで、どこから見ても女だった。
「国土交通省の鳥居さんでしょ」
「いいえ。人違い、みたい。あなたは」
「中野と言います」
落ち着いていて、美人で、きれいな声で、着ている物もセンスがよく、きれいな足の持ち主。変装していることを知らなければ、一目で恋に落ちそうな予感さえする。
「中野さん、どこかでお目にかかりました」
「いいえ。ご挨拶するのは、今日が初めてです」
「残念ね、人違いで」
鳥居は、きれいな笑顔を残して、立ち去ろうとした。浩平は横に並んで歩きながら、田町のマンションと恵比寿のマンションの写真を見せた。
「どこかで、お話できませんか」
「わかったわ。ここにしましょう」
鳥居は田町のマンションの写真を指でさした。
二人はタクシーで田町にある、彼女のマンションに行った。高級マンションに住んでいる女性の部屋には入ったことがなかったが、どう見ても女性の部屋だった。
「着替えた方がよくって」
「僕はどちらでも、いいです」
「そう。じゃあ、このままお話を聞くわ。何かお飲みになる」
「いえ。結構です」
「お話を聞く前に、あなたの正体を教えて」
「あの、すみませんが、やっぱり、着替えてくれません」
「どうして」
「鳥居さんにもどっていただかないと、話しづらい、です」
「あら、いやだ」
「そう言うことじゃなくて。僕、向こうむいてますから」
俺は遊ばれている、と思ったが、嫌な気持ちではなかった。
浩平は玄関の前に立ち、ドアの方を向いた。後で服を脱ぐ音がしている。男が女装しているだけだとわかっていても、胸が騒ぐ。ここに、保田がいなくてよかった。
「もう、いいですよ」
振り向いた浩平の前には、国交省職員の鳥居正行がいた。化粧を落としてかつらも外しているが、女装した時の鳥居を知っている浩平には素顔の鳥居も魅力的な女性に見える。応接用のソファーに向き合って座っても、目のやり場に困っている自分がいた。
「正体を教えるつもりはないようですね」
「はい」
「中野という名前も偽名」
「はい」
「中野さんは、僕のことを調べて、かなり詳しく知ってます。それって、フェアじゃないでしょう」
「すみません」
「お話、聞きましょう」
「ありがとうございます。道路研究会のことです」
「それが」
「業界からのキックバックを受ける団体ですよね」
「・・・」
「職員の中に、小原優子さんという方がいますが、鳥居さんの奥さんの妹さんですか」
「いえ、家内の母親です」
「議員秘書の方が、五名もいますね」
浩平は、国会議員の名前を二人告げた。
「なるほど」
「それと、道路研究会が業務委託をしている会社には実態がなく、社員も国交省関係の人たちばかりです。しかも、道路研究会へ仕事を依頼している本体は大手ゼネコン各社です。まだ、現金の動きは検証してませんが、相当な金額が動いています。なぜ、常勤職員が四人しかいない団体が五百億もの金を動かせるんですか」
「随分、調べましたね」
「これは、まだ中間報告です」
「で、どうしょうと。公表するつもりですか」
「どうして、そう思うんです」
「これだけの調査能力があって、中野さんの人柄を推測すると、不正にメスを入れる世直し隊に見えますが、どこかの新聞社ですか」
「違います」
「なら、公表は難しいでしょう。公表すれば、天地がひっくり返りますよ。こんな爆弾を引き受けてくれる新聞社はありません。新聞社がひっくり返ります。警察や検察が動いてくれますか。答えは、ノーです。大きな組織は、どこも動かないでしょう。赤旗新聞でも躊躇すると思います。だから、公表という選択肢はありません。中野さんは、どうしたいのですか」
「どこも、動きませんか」
「動きません」
「どうしてですか」
「中野さんは、この国の仕組みを理解していません。この国は、道路研究会のようなシステムで成り立っているんです。道路研究会は、一つの例にすぎないが、そのシステムが崩壊すれば、あらゆるシステムに波及することになます。そうなれば、国が崩壊します。既得権益を持っている組織が、そのことを座して見ていると思いますか」
「困りました。鳥居さんの話を聞いていると、国を相手に戦うしか道はない、と言うふうに聞こえます」
「その通りです。しかも、勝つ見込みのない戦いです。いいですか、この国ではちいさな正義を追及することも、小さな不正を積み重ねることもでますが、おおきな正義を求めたり、大きな悪を実現することは不可能です。国家とはそういうものなんです。中野さんは若いから、いや、体制側にいないから見えないのでしょう。国は国民のために存在しているのではありません。国の体制を維持することで、自分の権益を守ろうとする人たちのために存在しているのです。こういう調査をした中野さんに残された道は、革命家になることだけだと思いますよ。あなたが、革命家として先頭を走れば、そんなあなたについてくる公務員も数多くいると思います」
「鳥居さんも、その一人ですか」
「ええ。多分、失敗に終わるとは思いますが、あなたが走り出せば、私も一緒に走ろうとするでしょうね」
「参りました。僕の考えが甘かったようです。僕は世直し隊でも革命家でもありません。新種の暴力団みたいなものです。恐喝を仕事とする暴力団です。鳥居さんを恐喝しよぅとしましたが、不正が日の目を見なければ意味ありません」
「恐喝ですか」
「はい」
「似会いませんね」
「そうですか」
「私の女装趣味なら、恐喝の材料になりますよ」
「ご本人から、そう言われて、金を出せと言えますか」
「確かに、新種の暴力団ですね」
「は」
「暴力団なら、私からなにがしかの金をとるでしょうに」
「僕は、小金、いりません。鳥居さんからは百億単位でいただくつもりでした」
「今、フッと思いつきましたが、厚労省の前久保という課長、木谷という局長、中野さんの仕事ですか」
「まさか」
「私も、内部告発の誘惑に何度も襲われましたが、やめました。受け止めてくれるメディアがないと思ったからです。ところが、あの厚労省のハッキング事件で、ネットが情報発信の大きな武器になることがわかりました。既存のジャーナリズムは体制に組み込まれています。だから、革命はネットから起きます。あれは、中野さんのアイデアですか」
「だから、僕じゃありませんって」
「でも、ハッキングの能力は持ってる。そうですね」
「鳥居さんは、何を言いたいんですか」
「厚労省の情報は他の省庁に充分に伝わっている訳ではありません。厚労省は厚労省で隠しておきたいことが山ほどあるからです。あのハッキング事件で厚労省は大打撃を受けていると思います。それなのに、警告を発信しない。わかりますか、どの省庁でも他の省庁は赤の他人なんです。だから、私はあの事件の全容を知りません。それでも、ネットが大きな力を持っていることは証明しました」
「はい」
「中野さんにネットを自在に使いこなせる力があれば、恐喝の大きなカードになります」
「僕の恐喝に乗ろう、ということですか」
「そうじゃない。中野さんの目的と私の目的は違います。目的を達成するプロセスが同じ線上にある。そういうことです」
「驚きました」
「どうです。協力してみる気はありませんか」
「でも、目的が違う訳ですよね。最後に笑うのは、一人だけ」
「それじゃ、いけませんか」
「鳥居さん。僕があなたを脅して恐喝してるんですよね。逆転してるように思えるんですが、僕の勘違いですか」
「中野さん。ほんとの名前教えてくれませんか。あなたのことが、益々好きになりました。中野さんと呼ぶのは、溝が深い。お願いします」
「それは、勘弁してください」
「そうですか。一度よく考えてみませんか、お互いに」
「はい」
浩平は、ここは引き揚げる潮時だと感じた。このままだと鳥居の魔力に侵されてしまう。
「今日は帰ります。また、連絡します」
鳥居が自分の携帯電話を差し出した。浩平は礼を言って番号を移した。
「中野さん」
「はい」
玄関で浩平は振り返った。
「次、会うとき、女で、いいですか」
「・・・」
浩平が今までに接触した官僚は強欲と二人づれだった。欲を持っていないとしか思えない鳥居との接触には困惑した。それと、あの頭の回転の良さには勝てない。厚労省の木谷の頭の悪さと比較してしまう。同じ東大卒とは思えなかった。
「片山さん」
「お手上げだ」
チーム本間の三人が浩平の帰りを待っていた。
「国交省の不正を掲載してくれるメディアはないと言われた。公表することのできない情報には脅しの価値はないそうだ」
「どうしてです」
「公表されたら困るから、金を払う。鳥居は、公表できるなら協力すると言う。これじゃ、脅しにならない」
「ほんとに、公表できないんですか」
「鳥居の話では、そうなる。一度、試すことは必要だが、鳥居の言葉は説得力あった」
「そんな」
「ただ、どこかの新聞社と接触したとする。敵に回すことになる危険がある」
「どうして」
「鳥居は、前久保と木谷の事件は僕たちの仕事かと聞いた。新聞社の人間がそのことに気がつかないとは言えない。三宅組爆破事件と厚労省ハッカー事件の犯人を追う方が新聞社の利益になると思うだろう。警察と真崎組を敵に回して、その上新聞社を敵に回す。これってヤバくないか」
「そうですね」
「不正が似合わない省庁はどこだと思う」
「検察庁、警察庁、法務省」
「じゃあ、法務省の不正を捜そう」
「国交省をやめて、ですか」
「いや。実験。その不正をネットで攻撃する。反応があれば脅しの材料になる、と思う」
「はい」
「やり方はいつも通り。直人、やってくれるか」
「俺が、ですか」
「チーム本間と菅原さんでやってもらう。直人、我々の基本は」
「準備です」
「菅原さんには連絡しとく」
「片山さんは」
「池崎さんのとこに相談にいく」
「わかりました」
前にも感じたが、池崎たちのいるマンションの部屋は、得体のしれない空気が支配している。男所帯の臭いとも違う。鳥居のマンションとの落差はなんなのだろう。ハッカー三人に集まってもらった。
「法務省の不正をネット上で公表して、大騒ぎさせたいと思ってますが、方法はありませんか」
「不正って、どんな」
「天下りと裏金」
「うんんん。難しいよな」
「この前のような、下ネタはないんですか」
「そうそう。あの女王様のナイスボディー。あれが決め手だったよな」
「そういう政治ネタは、難しいと思います」
「そうですか」
「でも、それが仕事なんですよね」
「ええ。そうです。僕はプロの方にお願いしてるつもりです」
池崎だけは、役に立たなければ片山の仕事が来なくなることもわかっている顔つきだった。
「時間は、どのくらい」
「そうですね、一週間」
「片山さんの希望通りにはならないかも知れませんが、方法を捜してみます」
「よかった。お願いします」
一週間が過ぎて、法務省にも天下りと裏金の存在が確認された。
「留守宅を見つけられませんか」
池崎の話を理解するには、時間が必要だった。
「どういうことです」
「この仕事は、プライドを捨てます。力仕事です」
「説明してくれませんか」
「法務省の不正公表ページに、大勢の訪問者を呼び込むために、数で臨みます。考えられるだけの場所に書き込みをして、公表ホームページへの道をつけます。勿論、ご褒美は用意します。平井君は、雨宮悠里のファンで、画像処理の天才です」
「雨宮悠里って」
「アイドルです。トップアイドル」
「それと、画像処理がどう関係するんです」
「顔が雨宮悠里で、体は他人というコラージュ画像を置いておきます」
「で、力仕事というのは」
「誰にでもできる仕事ですが、時間が必要になります。ここのパソコンを使うのは危険が多すぎます。ですから、旅行にいっているような赤の他人の部屋で作業したい」
「留守宅ですか」
「はい。できれば男子の部屋で、自分のホームページを持っていればありがたい。旅行に行っていれば、その男子にはアリバイがあるので逮捕されることはありません」
「なるほど。なぜ、男子なんです」
「証拠は残さないこと。もし、残ったとしても、見逃す可能性を考えると、女子の部屋はよくないと思っています。あと、手術用の手袋」
「それと、ホームページですか」
「それは、無理にとは言いません」
「どの位の時間が必要なんですか」
「三時間」
「三時間ですか」
「それと、部屋の鍵が必要です」
「わかりました。なんとかします」
なんとかします、と言ったものの、全く絵は描けていなかった。チーム本間の三人に池崎の条件を話した。
「あの」
志保が遠慮がちに言いだした。
「旅行社で調べたら」
「潜入して」
「いいえ。旅行社は誰でも入れるし、パンフレット見てたら、かなり長時間大丈夫。カウンターに座っている人は契約している人でしょ。社員の説明を聞いていれば、出発日も何泊かもわる。その人を尾行して自宅を確認する。一人暮らしの男子を捜すのは簡単です」
「それでいこう」
「でも、ホームページまでは無理です」
「池崎さんも、そこは譲歩してくれてる」
部屋の鍵は、菅原の力を借りることにした。
大川という見知らぬ独身男子が旅行に出かけた夜に、池崎が作業をした。平井と植田の二人は自分の部屋でモニターしている。池崎が作業を終了すると、深夜にもかかわらずアクセスが急増した。キャツチフレーズは「省庁不正第2弾。レアがあるかも」となっていた。厚労省の件でレア画像があったことは有名になっているので、誰もが第2弾に期待したとしても不思議ではない。法務省のホームページからも、不正公表のホームページに直接飛ぶことができるようにしてある。
翌日、法務省不正公表ページは嵐のような騒動になった。最初は画像を求めるネットサーファーが殺到したが、騒ぎになると一般のアクセスも増える。ヒット数が増えれば、誰もが公表ページに一度は行ってみようとする。法務省は自省のホームページを閉鎖した。新聞はネット上の事件を報道する。事件を報道するだけなら、新聞社に傷がつくことはないという判断だ。どこの新聞も不正内容には踏み込まない。裏をとる取材は許可されないと思われる。どの新聞社も自分の手で、この種のパンドラの箱を開けてみたいとは思わない。
「池崎さん。大成功ですね」
「心臓、停まるかと思いましたが、今は満足してます」
「いつか、第三弾が必要になるかもしれません」
「勉強しておきます」
浩平は国交省の鳥居に電話をした。
「法務省の件、聞きましたか」
「やりましたね、中野さん」
「会っていただけますか」
「喜んで」
「じゃあ。明日の夜」
「場所は、私の部屋でいいですか」
「まさか」
「えっ」
「僕は夏の虫じゃないですから」
「私が信用できない」
「当然です。明日、電話しますから」
翌日、浩平は高輪プリンスのスイートルームで待機していた。
鳥居がホテルに入ったと直人からの連絡が入った。
「鳥居さん、ロビーで三十分待ってください」
「どういうこと」
「危険物がないか、確認しますから」
三十分後、鳥居が部屋に来た。前回よりも魅力的な女だった。だが、少し怒っている。
「怒ってます」
「ええ」
「犠牲者を出したくないんです。あなたに危険物がついていれば、排除せざるをえませんから」
「どういうことなの。逮捕されるのが怖いだけじゃないの」
「僕は、大丈夫です。警察官に犠牲が出るだけです。そして、その時はあなたの命も危険になります」
「私のため」
「はい」
「どうして」
「わかりません。なぜか、あなたを死なせてはいけないと思うんです」
「私はあなたを戦友にしようとしてるのよ。疑われるのは、イヤ」
「勘弁してくださいよ」
「わかったわ。打ち合わせにしましょう。戦友」
「ありがとうございます」
「法務省の件、見事だったわ。これで、カードができた。今は、どこの省でも戦々恐々としてるはずよ。カードを作ったのはあなただから、先ず、あなたの目的を達成しましょう。いくら要求するつもり」
「二百五十億」
「半分」
「はい。但し、これは初回分です」
「初回分」
「僕は恐喝をしてます。一度で済むとは思っていませんよね」
「今、私の中に激情が渦巻いての、わかる」
「また、怒らせてしまいましたか」
「ううん。あなたを押し倒して、犯したい。ここが痛いのよ」
鳥居は自分の胸を指さした。
「鳥居さん」
「触って欲しい、と言っても、無理よね」
「はい。無理です」
「あああ。どうしょう、私、駄目になっちゃいそう」
「鳥居さん。これ、打ち合わせですから」
「わかってる。わかってる」
鳥居は自分の気持ちを抑えるために目を閉じた。上気した鳥居の顔は美しかった。普通の女の気持ちもつかめないのに、女装した男の気持ちなどわかるはずもない。
「ごめんなさい。もう、大丈夫だから」
「二百五十億の件です」
「そうね。証拠を集めて」
「証拠、ですか」
「ええ。先ず、口座記録。現金の受け渡しの証拠。確かに、道路研究会は私の管轄だけど、私でも知らないことがいっぱいある。大きな現金が動いている。その全容と証拠がいるわね。あなたならできる。私は脅されたと言って、上の了承をとる。そして、あなたは二百五十億を手にする」
「わかりました」
「私は、あなたの目的達成に協力します。でも、条件が一つあります」
「何ですか」
「たびたび、私と会って、打ち合わせをすること」
「たびたびは、無理です。忙しくなりますから」
「じゃあ、できるだけ、時間を作って、でもいいわ」
「いいですよ。いつも、女装ですか」
「ええ。いけなくって」
「一寸、苦手なんですけど」
「そのくらい、我慢なさい」


18

チーム池崎の全面出動を覚悟したが、証拠集めは短時間で終了した。
「敵は手を抜いてますね。誰かが調査に来る事を予測してないとしか思えません」
「どう言うことです」
「ほとんど、ネットバンキングなんです。手間を省くということが優先してますね。僕たちも手間が省けます」
職員への振込、調査費の支払い、ダミー口座からの振替という資金の移動はすべて道路研究会のパソコンで済ませている。一か所に集めた資金の出金だけが銀行の店頭で行われる。だから、道路研究会のパソコンになりすますことで情報は得られる。過去一年間の資金移動情報はすべて池崎のパソコンに集められた。いかにも個々の支払いをしましたと言う体裁を保っているだけで、全容を掴めば不正が表にでてくる。税務署や警察の捜査が無いと言う前提に立たなければ、こんな無茶はできない。日本のエリート官僚も、ぬるま湯の中では知恵が働かなかったのだろう。年間収支の約半分が現金化され、どこかに移動している。鳥居正行の妻の実家の名前になっている口座からの振替は行われていないので、末端口座から振替処理が行われていない口座が国交省の取り分と思われる。議員秘書に支払われている分と現金化された資金の行先が政治家の取り分となる。
チーム池崎は国交省の取り分と思われる口座の、個々の入出金経歴を銀行のシステムに入り込んで調査を続けている。金を動かす場合のセキュリティーは厳しいが、閲覧やコピーはそれほど厳しくない。口座番号さえあれば、必要な暗証番号の類は銀行のシステムに入っているので、それを使えばいい。現金で出金されると、物理的な追尾が必要になるのだが、振替をしているケースがほとんどだった。その振替先が実際に受け取っている人物なり団体となる。
道路研究会が現金の引き出しをするのは十五日と決められているようなので、チーム本間は尾行の準備をした。だが、現金授受の証拠を押さえることは至難の業だと思われる。直人は打開策を考えるために動画も撮ることにして、保田と志保を車に同乗させた。途中、警察署の交通事故掲示板を写して、その日が何日なのかを証明する。運転を担当している若い男は道路研究会の職員ではないが、戸別訪問は常駐している中年の女子職員だった。運搬先は、議員会館や議員事務所ではなく、議員の自宅または秘書の自宅に運んでいるようだ。
「証拠は押えられませんでした」
浩平は尾行から戻ってきた直人の報告をきいた。紙袋を持ち歩いているだけで、現金の授受ではないと言われれば反論のできない映像だった。
「そうだな。一軒ずつ忍び込んでカメラ回すわけにもいかない」
「どうしましょう」
「議員事務所に行ってみるしかないか。現金のままで置いてあったら駄目だが、銀行に持ち込めば情報は取れる。また、菅原さんの力を借りよう」
十一人の議員事務所のデータを盗み出すのには、二か月を要した。各々の口座経歴を調べた結果、道路研究会が十五日に出金した金額と議員が口座へ入金した金額には大きな違いがあった。現金のまま、別の場所に移動している大金が存在する。しかし、そこから先は調査のしようがなかった。名前を聞けばだれでも知っている大物国会議員の事務所には盗聴器を取り付けてもらった。他の情報が取れるかもしれないという思惑で、念のために取り付けたものだが、次の十五日の記録を聴いてみる必要がありそうだ。
盗聴器のデータからは、ヒントになりそうな会話はなかった。完全に手詰まりの状態になった。それでも、浩平はその大物議員に食らいつくことにした。周辺にマンションはなかったので、苦労して小さなビルの小さな部屋を借りた。古いビルの空室率が高くなってきており、今では得体のしれない会社にも部屋を貸すようになったらしい。一応、事務所の体裁をとるために机を配置したり、電話を引いたりした。貿易商社の片山商事として、使用することになりそうだ。議員事務所の監視をするチーム本間は、九時から九時まで交替で片山商事の部屋に社員として通った。
十五日を過ぎると、見たことのある紙袋を持った人たちが議員事務所に集まってくる。数日後に台車に乗せた紙袋が隣のビルに運び込まれるのを確認。監視役の志保が追ったが、どの階に行ったのか確認できなかった。入居しているテナント名を書きとってきた。
「三階のここだと思うんですが」
志保が指したのは「日本の国土を考える会」という団体だった。すぐに、浩平は電気工事士になって三階の「日本の国土を考える会」を訪問した。そこは無人の部屋だった。
翌日、菅原を伴って電気の工事に行った。
「ここは、セキュリティーかかってます。それを調べるのが先ですね」
「どうするんですか」
菅原は天井を見ながら、廊下を捜した。
「先ず、あそこに脚立を立てましょう。片山さん天板を外しておいてください」
浩平は廊下にある天板のビスを外した。反対側の廊下なので、菅原が何をしているのかわからない。
「片付けますよ」
仕事を終えた菅原は浩平を手伝って天板をもとに戻した。
ビルの入口で、誰かを待っているという顔で立っていると。警備会社の制服を着た男が二人、ビルに急ぎ足で入って行った。エレベーターは三階でとまった。
「行こう」
「もう、いいんですか」
「警備会社がわかればいい。普通、警備会社の名前はどこかに貼ってあるんだけどね」
「で」
「警備会社によって違う。俺も、ただ単に電気工事会社に行ってるだけじゃないんだよ。仕事柄、警報システムは研究してる」
何度も下見に行き、十日後の深夜に「日本の国土を考える会」の部屋に入った。部屋は小さな事務所になっていて、もう一部屋は理事長室のような部屋だったが、巨大な金庫があった。菅原が大きく息を吐いた。
「出直しましょう」
「はい」
また、十日かけて議員事務所の下見をした二人は、議員事務所で金庫の番号の控えを手に入れ、鍵の複製を作った。
再び、「日本の国土を考える会」の金庫を開けた二人は、現金に目を見張った。
「無理だな、これは」
「そうですね」
二人は何も盗らずに部屋を後にした。「日本の国土を考える会」に常駐職員がいないことが救いだった。三度も忍びこめば危険は増大する。
三度目の訪問はチーム本間も参加した。災害時に使うシューターを用意した。外ではチーム本間が現金を受け取ってくれる。侵入した二人は一生懸命シューターに現金を投げ込んだ。チーム本間の三人の仕事も大変だったろうが、無事に金庫の中を空にすることができた。現金は五十億以上あった。
「これは、証拠の品物だから、しばらくは使えないぞ」
「わかってますよ」
「この件が決着して、返さずに済めば、これは全員で分けよう」
「おう」
「みんな、きわどい仕事ばかり、よくやったと思う」
現金の保管は直人に一任して解散した。一人になった浩平は鳥居に電話した。
「証拠が手に入ったので、一度会いましょう」
「うれしい」
ホテルオークラの部屋に入ってきた鳥居は少し痩せたようだった。
「痩せました」
「わかる」
鳥居の目が輝く。
「いえ。そんな気がしただけです」
余計な事を言ってしまった。
「これが、証拠です」
「これだけ調べられたら、逃げられないわね」
「そして、これが政治ルートです」
ワープロで書いた表と現金を運ぶ写真を渡した。
「証拠としては、少し弱いと思うけど」
「ですよね。政治家ですから。さすがと思いました。日本の国土を考える会の金庫にあった現金の写真はあります。現金、今はありませんけど」
「どういうこと」
「五十億は前払で頂きましたから」
「ほんと。あなたって、ほんとに楽しいわ」
「これで二百五十億の交渉できますよね」
「違うわ、二百億よ。連中、五十億の分は出さないわよ」
「そうですか。じゃあ、二百億です」
「随分、大変だったでしょう」
「まあ」
「私も、国交省なんて辞めて、あなたの仲間になろうかな」
「無理ですよ。鳥居さんはエリート官僚が似合ってます」
「私のこと、いやがってるの」
「そんなことないです。人には、決められた生き方みたいのがあるように思うんです」
「たしかに、そうね」
話を引きのばされて、なかなか解放されなかったが、犯されずに別れられたことはよかったと思った。回答は十日後と指定した。
結果的にネット公表でも、という思いが少しだけあった。鳥居を喜ばしてもいいかな、と言う思いだ。対面していると女としか思えないが、実際にはれっきとした男なのだ。あれが、本物の女だったらネット公表に同意していたかもしれない。
十日後、浩平は確認の電話をした。
「はい。鳥居です」
返事をしたのは、まだ男のままの鳥居だった。
「まだ、国交省ですか」
「そうです」
「電話、し直した方がいいですか」
「いえ。このままで」
何かがあった。
「回答を聞きましょう」
「はい。その前に、もう一度話し合いたいそうです」
「どういうことです。あの資料では不足ですか」
「いえ。そういうことでは」
「鳥居さん」
別の人間の声が近くで聞こえる。
「拒否と受け取って、いいですね」
「待ってください。拒否はしません」
争っている様子が伝わってくる。突然、同間声の男が電話に出た。浩平は電話を切って、念ために電話ボックスを移動することにした。公衆電話が少なくなり、電話ボックスを捜すのも楽ではない。十分近く経って、再び鳥居の電話番号を押した。
「鳥居さん。何か企んでます」
「違います」
「では、すぐに目白の駅に移動して、改札を出た場所で待ってください。一時間です」
浩平は直人に電話して、目白駅で監視体制に入るように指示し、浩平も池袋に移動した。
「目白にいます」
直人から電話が入った。
「鳥居が来る。確認したら電話くれ」
「はい」
浩平は携帯電話をポケットに入れて、公衆電話ボックスの近くに移動した。
「確認しました」
直人から電話が来た。一時間以内に到着したようだ。
「何人、いる」
「五人です」
「何か、変わった様子は」
「この場所では、五人とも周囲から浮いてますけど」
「それだけか」
「はい」
「そのままで、実況報告してくれ」
浩平は公衆電話から鳥居に電話した。
「はい。鳥居です」
「わかるように、説明してください」
「大槻先生が、どうしても交渉する、と言いまして」
「僕と交渉できるのは、鳥居さんだけだと言ってやってください」
浩平は別の耳で直人の実況を聴いていた。「携帯をとられました」
「大槻剛三だ。俺が交渉する」
同間声は大槻議員のようだ。
「聞いているのか。大槻だ」
「落ち着け。指示に従わなければ、交渉は終わる。わかるか。お前も終わりだ」
「もう一度だけ、交渉したい」
大槻は少し弱気になった。
「鳥居さんに、替るんだ」
「申し訳ありません。鳥居です」
大槻は鳥居に電話を戻したらしい。
「鳥居さん。時間あれば、大槻を説得できますか」
「無理だと思います」
「そうですか。じゃあ、大槻の電話番号を聞いてください。僕から話しましょう」
浩平は大槻の電話番号をメモに控えた。
「僕からの電話を待つように言っておいてください」
「はい」
浩平は警察の動きが知りたいと思った。議員の大槻が警察に駆け込むのは、最後の手段だと考えるだろうが、国交省が警察に通報しないとは限らない。捜査本部が出来ている以上、警察は各省庁に厳重注意と単独行動禁止を通告していると思われる。大槻に電話をする前に阿南を呼ぶ電話をした。
「品川埠頭を打ち合わせ場所にする。チーム本間は事前に配置して、敵の全容を掴んでもらう。阿南さんは、僕のバックアップをお願いします」
「相手は」
「警察かもしれないが、僕は暴力団だと思っている。もし、警察だったら、打ち合わせ場所を変更して、警察を移動させてから、打ち合わせは中止する。その間に離脱してもらう」
「暴力団でも、やばくないですか」
「あの議員先生は、簡単には諦めない。極限まで追い詰める」
「そうですが」
「三人は、絶対に手を出すな。何人か死ぬやつが出るかもしれない。それでも、絶対に手を出すな。約束できないなら、この作戦には参加してもらいたくない」
「わかりました」
「阿南さんも、僕が合図するまでは、堪えてください」
「了解」
「もちろん、大槻が一人でくれば、何の心配もなしだ」
場所の下見をして、チーム本間の配置も決めた。打ち合わせは午前一時にコンテナ置き場の突端で行うという電話を大槻にした。
「必ず一人で来てください」
「わかった」
大槻は簡単に返事をした。
チーム本間の三人はすでに配置についているはずだ。浩平と阿南は品川の小学校の通りに車を停めて待機した。
九時を過ぎて、最初の連絡がきた。
「車が何台も集まってきてます。ベンツですから、警察ではないと思います。また、連絡します」
「集まってきた車はベンツだそうです」
「やはりね」
「一時までは、まだ時間ありますね」
「筒井さんの件、報告していいですか」
「忙しくて、聞く暇なかったですね」
「片山さんは、ふっきれたんですか」
「それが、なかなか」
「そうですか」
阿南のアメリカ出張の報告を聞いた。いくつも興味深い話があった。十時過ぎに二度目の報告がきた。
「確認できた人数は、十八人です」
「了解。引き続き頼む」
「はい」
十二時を過ぎて、三度目の報告があって、待ち伏せの人数は二十二人になっていた。
浩平は一時になるまで動くつもりはない。一時になって、四度目の報告があり、大槻と思われる人間と七名が到着したようだ。待ち伏せの場所を地図に書き入れる。
「途中で降ろします。徒歩でおねがいします。地図は持っててください」
「了解」
浩平は車を出した。品川埠頭に入ると車の通行はない。暴走族が来るかもしれないと心配したが、それもないようだ。待ち伏せの車両から見えない場所で阿南を降ろして、浩平は打ち合わせ場所に車を進めた。前方に停まっている車から人数が降りてきたので、車のスピードを落とした。後方から数台のヘッドライトがきている。防犯のための明かりで周囲はそれほど暗くなかった。
浩平は車を停めた。前後から男たちが走り寄る。拳銃を手にした男が数人いた。浩平は車を降りて両手を挙げて、歩き始めた。人数を確認すると、二十名前後しかいない。残りの十名は後詰に回ったようだ。阿南が言ってたように戦争を知っている男がいるらしい。
「大槻さん。約束が違いますよ」
「当たり前だ。あの金を返してもらおう」
「そうですか」
大槻の後ろにいる男に見覚えがあった。大阪の松木組の組長で、真崎組の幹部の男だ。三宅組爆破の時に来ていた男。どうやら、関東方面の責任者らしい。
「松木さんですね」
「やはり、あんたが三宅組の」
三宅組爆破の時に顔を合わせたわけではないが、松木は感のいい男のようだ。充分に変装してきているので、不安はない。
「松木さん。僕が一人で来たのが、意外ですか」
「ああ。なにかあるな」
「用心してください」
「名前を聞こうか」
「今は、中野と名乗ってます」
「なめやがって」
「大槻さん。一人できたら、あの金返してもいいと思ってたんですよ。どうです、仕切り直ししますか」
「大槻さん。この男に騙されちゃ駄目ですよ」
「ん。ともかく、あの金はすぐに必要な金なんだ。返してもらう」
「ところで、松木さん。人数が足りませんが、集めていただけますか」
「なに」
「あと、十人」
「調査済みか」
「はい」
「お前の援護がないとわかればな」
「もう、配置済みですよ」
松木は周囲を見回した。
「松木さん。武器を捨てるように言ってください。僕はあまり殺しは好きではないんです」
「・・・」
「チャカを持っている人間から、死ぬことになりますよ」
松木は判断に迷っている。
浩平の左側にいた男が後ろに倒れた。男は動いていない。続いて隣の男が同じように後ろ向きにぶっ倒れた。どこかに狙撃者が潜んでいるとしか思えない。
「チャカを捨てろ」
浩平は大声で警告したが、松木が浩平に掴みかかってくる。浩平の左足が一閃して松木が地面に這いつくばった。
「チャカを捨てろ」
男たちのリーダーが倒れたことで、動揺が広がった。浩平の目の前にいる男が後ろ向きに倒れて、動かなくなった。男たちが銃を投げ捨てる。大槻が金を取り戻すまでは殺すなと指示していたのだろう。本気で浩平に銃口を向けるものはいなかった。
「全員。両手を上に挙げろ」
ざわめく男たちが次々と両手を上に挙げた。松木が起き上がろうとしている。浩平の蹴りが松木の顔面を捉えて、松木が失神した。
「もっと、上に」
男たちは必死に両手を挙げた。
「全員、進め」
浩平は岸壁の方を指差した。男たちは素直に従った。
「飛べ」
暗い海を前にして男たちが怯んだ。
「死にたくないなら、飛ぶんだ」
一人が飛ぶと、次から次へと飛んだ。浩平は失神して倒れている松木と腰を抜かして地面に座り込んでいる大槻の所へ戻ってきた。
「大槻さん」
「は、はい」
「あなた、余程、死にたいようですね」
「そ、そ、そ」
浩平は松木に活を入れた。
「松木さん。残りの部隊を呼んでください」
松木は周囲を見回して、誰もいないことに驚いている。
「場所はわかってます。全員殺しましょうか」
「わかった」
松木が携帯で指示を出し、車が二台やってきた。
「武器を捨てるように言ってください」
「みんな、チャカを捨てろ」
男たちが武器を捨てた。
「海に飛び込んでもらいます」
浩平は岸壁の方を指した。
「三人やられた。みんな、海に飛び込め」
松木も岸壁を指さしてどなった。戸惑う男たちに「いけ」と松木がどなった。これ以上死人を出したくないという松木の気持ちが伝わったようで、男たちは一目散に走って飛んだ。
浩平は手を上に挙げて円を描いた。すぐ傍のコンテナの蔭から、小銃を手にした阿南が姿を見せた。今日は黒い目出し帽だった。
「車に乗ってもらいます」
二人は大人しく浩平の車に乗ってきた。
「運転は僕がします。妙な動きをしたら、構わずに発砲してください」
浩平は三人を乗せて大井埠頭に向かった。
「松木さん。後片付けしとかないと、やばくないですか。銃が転がってますよ」
「電話しても、いいのか」
「そうしてください。用件だけでお願いします。それと、あの三人は気を失ってるだけですから、連れて帰るように言ってください」
松木は電話に出てきた人間に怒鳴り散らかしていたが、電話を終えると疲れた様子で椅子に沈みこんだ。
大井埠頭に車を停めた浩平は大槻を連れて外に出た。
「大槻さん。大変なことをしてしまいましたね」
「すまん」
「どう始末つけます」
「わからん」
「大槻さん。僕のこと若造だとなめてませんか」
「いや」
浩平は振り向きざま、大槻の腹部へ軽い蹴りを入れた。その場に倒れこんだ大槻の顔、腹部、背中、足とあらゆる場所に連打を放った。痛さと驚きで、地面を転がる大槻の顔がゆがむ。
「大槻さん。立ってください」
大槻は丸まったままで喘いでいる。
「立たないと、もっと痛みますよ」
大槻の喘ぎがとまった。耳はよく聞こえている。
「三つ、数えます。ひとつ」
大槻の体がおもちゃの熊のようにすばやく立ち上がって、直立不動の姿勢をとった。六十を超えた老人の動きとは思えない。
「これが、あなたと僕の力関係です。わかりますよね」
「はい」
「今だけではありません。いつでも、あなたを痛めつける力があります。そこを充分に理解してください。横浜の三宅組爆破事件、知ってますよね。また起きるかもしれません。あなたの事務所や自宅で」
浩平は大槻の体に恐怖が浸みこむ時間をおいた。
「大槻さん」
「はい」
「僕の指示に従ってくれますか」
「はい。従います」
「今日のようなスケベ根性は、あなたの損にしかなりません。わかりますか」
「はい」
「今日のあなたの違反は、あの五十億で許してあげます」
「はい」
「国交省の鳥居さんに伝えた条件で、いいですか」
「はい」
「大槻さん。あなたは政治家でしょう。いつまでも、古い権益にしがみついていては駄目です。常に新しい権益を掘り起こして金にする。それが政治家の仕事でしょう。もう、歳とって、その元気ありませんか」
「いえ」
「これを、いい機会として、新しい権益を開拓するんです。その金まで獲ることはしません。初心を忘れてはいません。政治家が貪欲というパワーを失ったら、もう政治家ではありません。先輩が開拓した権益にしがみついている姿は見られたもんじゃない。常に新しい権益に向かっていくのが、政治家のあるべき姿ですよね」
「はい」
「一回だけ、という約束ですから、あなたとの交渉はこれで終わりです。よろしいですか」
「はい」
「僕は、松木さんと話があります。ここで、しっかり立ったまま待っててください。この場所を動いては駄目ですよ」
「はい」
浩平は車に戻った。
「松木さん。提案があります」
「その前に、あんたが何者なのか、教えてもらえないか」
何度も修羅場を潜ってきただけあって、松木は自分を取り戻していた。
「中野などと言う、偽名では困りますね。でも、まだ名前つけてないんです。そうですね、霞が関の一字をもらって、関組としましょう。霞組ではすぐに消えてしまいそうですから」
「ふざけてろ」
「いえ。本気です。今日から関組と名乗りますよ」
「・・・」
「そこで、提案なんですが、霞が関はうちのテリトリー、やくざ風に言えば縄張りというやつです。霞が関に何らかの係わりがあの案件は関組がやります。真崎組は手を引いてもらいたい」
「馬鹿なこと、言っちゃいけない」
「これも、本気なんです。今日は死人を出しませんでしたが、松木さんを含めて全員が死んでいても不思議ではありませんでした。天下の真崎組でも、潰すことができます。真崎組をここまで育てるのは、並大抵ではなかったと思っています。ここで、潰してしまって、いいんですか」
「やくざを、なめちゃいけない」
「あの大槻さんも、そうでした。今までのやり方で何とかなる、と思っていました。真崎組は時代を変えました。やくざ屋さんは、それがいつまでも続くと思っていますよね。あなたなら、何か違うと感じてるはずです。だから、松木さんに話してます」
「・・・」
「西宮をつぶしても、真崎組は変わらないと思ってませんか。僕は大きく変わると思っています。群雄割拠でつぶし合いになります。東京の勢いも強くなります。そして、真崎組の時代が終わるんです。松木さんにとっては喜ぶべきことかもしれませんが、今は時代の先を見ていたのは松木だと言われた方が得だと思いますね」
「一体、何ものなんだ」
「だから、関組ですよ」
「どうしろと、言うんだ」
「だから、霞が関には手を出さないという通達を出してください」
「無理だ」
「そうですか。あなたなら、わかってくれると思ってたのに残念です。次にぶつかった時は、あなたを含めて完璧に潰します。そして、真崎組も」
「一応、話だけはしてみる。話すだけだ。はいそうですかと言う訳がない」
「それでいいです。真崎組に時代を読む人がいることを祈ります。松木さんは、その先を見据えておいた方がいいでしょう」
「俺のために、言ってるのか」
「そうです。あなたには何かある。もう少し見てみたい」
「わからん男だな」
「降りてください」
松木が車を降りて、浩平は大槻の様子を見た。直立不動だが、体中が震えている。時間の問題で倒れるだろう。浩平は二人を残して、車を発進させた。


19

「片山さん。あれは、何をしたんです」
「あれが、気道です」
「初めて、見せてもらいました」
「危険な殺人道です。だから、武道家を諦めました」
「筒井さんがやってたような傭兵になれば、世界のトップになりますね」
「殺すためだけの戦いは、ちょっとね」
「そうですね。片山さんには似合わない」
「今日、僕の部屋に泊ってくれませんか。明日、集まってもらおうと思ってます」
「いいですとも」
直人に連絡して、明日の集合の段取りを頼んだ。菅原はもう寝ているかもしれない。
翌日の夜、菅原の時間に合わせて六人が集まった。
「今日は、これからのことを話し合いたいと思って集まってもらいました。仕事がどんどん増えて、これ以上は難しいと思う。どうしたら、いい」
「どうしたら、と言われても」
「今までの仕事で守りに入るか、人数を増やすかの時期だと思う」
「それを決めるのが、片山さん、あんたの仕事だよ」
滅多に口を出さない菅原が言い、皆が頷いた。
「菅原さん」
「みんな、ついていくよ」
「そうですか。僕が足を洗いたいと言っても、ですか」
「それは、それでいい」
誰の顔にも、異存はないと書いてあった。
「では、一つ提案があります。ここにいる一人一人が新しいチームを作って、組織を大きくする方法です。チーム本間は解散。チーム保田、チーム広岡、勿論、チーム菅原も作る。新しい仲間を一人づつ確保すれば、今の倍の人数になる。日本の国土を考える会から頂いた金は、約束通り分けて各人の資金とします。一人十億です。ここから一番難しいのは、裏切り行為だと思う。ここまでは、僕の責任で皆を守るし、皆を守るために排除もします。だが、新しい仲間に対する責任は、それぞれの人にある。組織というものは、そういうものだと思う。やってもらえるだろうか」
「目をつけてる奴がいる。俺も一人じゃ苦しいと思ってる」
菅原が最初に賛成の手を挙げた。
「自分も仲間にしたい奴がいる。まだまだ出番が少ないから、言いだせなかった」
阿南も賛成した。
「僕は、浜中事務所にいる男にします」
保田が賛成した。
直人と志保が、目を丸くした。
「私には無理です。十億はいりません。誰かのチームに入れてください。お願いします」
志保は降りた。
「直人」
「俺、何も考えてなかったから、今から捜します。でも人数は増やします」
「そうか。誰か志保を引き取ってくれるか」
「僕が引き取ります」
保田が手を挙げた。
「直人さんには、片山さんの副官の仕事もあって、大変だと思いますから」
「志保はそれでいいか」
「はい。ありがとうございます」
「じゃあ、志保の十億は保田さんが取ってくれ。保田さんには池崎さんたちの面倒もみてもらわなくちゃならないから、その分だと思って」
「はい。わかりました」
「しばらく、まだ、先に進むか」
五人の顔が引き締まって見えた。
「実は、昨日、真崎組に宣戦布告してきた。いよいよ、暴力団になった。霞が関を縄張りとする暴力団。霞が関の一字をとって、関組だと名乗った。つまり、僕たちは犯罪集団なんだ。どんなに格好つけても、犯罪集団に変わりはない。危険の崖っぷちを歩かなければならない。ここからは、本気の覚悟がいる。皆は生身の人間だから、辛いことも、死ぬこともありうる。それでも、いいのか」
誰も返事をしなかったが、覚悟はしている。
「じゃあ、一年後に新体制を完成するとして、心配事が一つある。警察の動きがわからないことだ。捜査本部が出来て時間も経った。証拠は握られていないと思っているが、よくわからない。今回の品川埠頭の件でも、警察は情報を取るだろう。大槻が密告する可能性もある。警視庁は難しいとしても、警察庁に複数の盗聴器を仕込みたい。できるだけ多くの情報を取ってもらいたい」
異例ではあるが、捜査本部は所轄署ではなく警視庁におかれている。事件が東京と神奈川にまたがっているためではなく、霞が関が大きく係わっているという理由のようだ。ただ、警視庁内部では刑事と公安に軋轢があり、纏まっているとは思えない。どちらにしても、警察庁には全ての報告が上がってくる。さらに、事件が大阪や神戸に広がれば、内調や他の調査機関も独自に動き始めるだろう。それぞれの組織の調整が必要になり、最終的には警察庁が重要な役割を担うことにならざるをえない。そして、国家機関の内部で綱引きが始まる。秘密の暴露を恐れる省庁と議員。内閣に圧力がかかり、検察、警察、公安、調査機関もフリーハンドの捜査は難しくなる。犯人に迫るということは、国家機関が公然とやっている不正の公表に迫ることにもなる。国民は国が暴力団とこれほど密接に繋がっているとは思ってもいないだろう。暴力団はすきま産業と似ている。不正のすきまに浸透していくのは当然のことで、それが仕事なのだから仕方がない。不正のない国家機関など存在しないのだから、暴力団と二人三脚になるのは、必然とも言える。不正はやってます、暴力団とは協力してます、などということは国民に知らせてはいけない。時々、小さな不正を摘発し、国民のガス抜きをすることも国の仕事であるが、大きな不正を暴露されることなどあってはならないことである。
浩平は革命家でもなければ、正義の味方でもない。だから国を転覆させようという意図もない。生きることに行き詰ってるだけの名もない市民なのだ。ただ、その名もない市民が新興暴力団となって不正の構図のなかに割り込もうとしている。既存の暴力団と勢力争いになることも、仕方のないことだと思っている。理屈も哲学もない。緊張感のある一日が欲しかっただけの男だ。国家機関と暴力団に追われ、力関係で決着が着くとすれば、最終的には死だけしか選択肢は残されないのだろうという予感はある。どこまで戦えるのか。自分では、自衛隊が治安出動してきた時が最後だと感じている。国軍を相手にして勝てるとは思っていない。国の秘密はもっとある。深刻で危険な秘密が山のように存在している。その秘密を浩平が握って、突如革命家に変身した時に、国はどう対処するのだろうかという興味がないわけではない。自分は生まれながらの戦士なのか。そうだとすれば、目の前の敵を倒すことが使命なのかもしれない。わからないことばかりだ。
組織が大きくなれば、浩平一人で全員を守ることはできない。今日の提案は、自分の命は自分の責任で守ってもらうという宣言でもある。だから、志保の判断は正しい。多分、女の直感なのだろう。やはり、女は恐ろしい。
菅原が会社を辞めて、職場を替えた。新しく就職した会社は東都メンテという会社で、官公庁の仕事ばかりを請け負っている。菅原は電気工として、立派に一人前になっていたので、辞めるのには随分苦労したらしい。
二か月後に、菅原が警察庁と警視庁の電気図面を持ってきた。
「よく、こんなものコピーできましたね」
「実にゆるい。いいのかなと思ってしまう」
「助かります」
「どっちにする」
「警察庁に」
「じゃあ、警察庁の担当にまわることにする」
「そんなこともできるんですか」
「本採用になったら、希望を聞いてくれるらしい」
「日本という国、大丈夫なんでしょうか」
「俺もスパイみたいなもんだけど、よその国は楽だと思うよ」
それから一ヶ月後に本採用になった菅原は毎日のように警察庁に仕事にでかけた。
菅原と話し合いの結果、長官室と刑事局長室、そして刑事第七課長室の三か所に盗聴器を取り付けることになった。
データ収集は走行中の車からも可能なので、運転手さえいれば走り回るだけでデータを取りこむことができる。毎日同じような場所に車を停めて親機の操作をしなくていいので怪しまれることもない。問題はデータを聴く作業にあった。キーワードを指定して、そこだけを拾いだすことができるという高度なソフトは付属品としてついていない。阿南が筒井を経由して確認中だった。音声を文字に落とすことができれば、文字の検索が可能になるのだろうが、日本語に対応させるだけのニーズはないと言われている。五時間のデータには五時間かかるのが現状だった。直人が仲間として連れてきたのは、録音データを聴く作業をしてくれる女の子だった。直人や志保の後輩で、施設を出て、社会の荒波に翻弄され、生活を支えるため際どい仕事につかざるをえない若い女の子。その仕事でもいいという子もいるが、苦痛に思う子もいる。経済的にも精神的にも追い詰められ、行き場を失った女の子が二人やってきた。高校を卒業すると施設を出なければならない。行方のわからない子供や犯罪に走った子供、男の食い物になっている子供。不幸を背負っている子供たちの数は少なくない。そういう子供たちは、清廉潔白では生きていけないということを体で知っているから、犯罪に係ることには抵抗がない。大人なんて、きれい事だけ言って信用できないと思っている。直人のアパートにも志保のアパートにも、行き場を失った子供たちが来ていることは浩平も知っていた。直人も志保も、あえて仲間にはしなかった。自分たちがやっていることが犯罪行為だということがわかっていたからだ。だが、追い詰められて、死と直面している子供たちに、その場しのぎの金を与えても解決にならないことを体験していた。「死ぬぐらいなら」という思いで、直人は二人の女の子に仕事を与えた。経済的に安定すると、子供たちは精神的にも安定するらしく、録音を聴く仕事を一生懸命にやって、おしゃれをする余裕も出てきたと直人が言っていた。今までに関係した人物の名前や団体名、そして省庁や暴力団、それらの言葉をキーワードとして渡してある。何度かキーワードにヒットしたが、何の進展もないらしいということが判明しただけで、成果は上がっていない。
浩平は警察庁の庁舎は見に行って知っていたが、内部の雰囲気は見当もつかない。一度見ておきたいと思って出かけた。玄関ぐらいなら入れるだろう。
有楽町駅から歩いて、皇居を右手に見ながら歩き、桜田門の警視庁を見上げて、しばらく進むと警察庁の庁舎が見えてきた。スーツ姿の団体が浩平を追い越して正面玄関に入って行く。浩平はその団体の最後尾について庁舎に入った。何か大きな会議があるのだろう。警備員に咎められることもなく、エレベーターに乗って六階で降りた。別のエレベーターで二十階まで行き、下へ向かって一階ごとに止めていった。まったく人通りがない。十一階で女子職員が乗ってきたので、エレベーターを出た。危険が迫っている。違うエレベーターで下へ向かった。やりすぎた。菅原の教訓を忘れている。十階で降りて、用件をかかえている人間に成りきって歩き始めた。
「すみません」
後ろから呼び止められたが、聞こえない振りをして歩いた。後で足音がする。前方の部屋から男が二人出てきた。窮したか。
「日吉君、ここで何してる」
前方の男の一人が声をかけてきた。
「すみません」
とりあえず、謝った。
「入口で待ってるように言っただろう」
「はい」
「お知り合いですか」
後ろから追ってきた若い男が聞いた。
「ええ。うちの社員ですが」
「どうしたんだね」
「この方は参事官のお知り合いの方ですか」
「そうだが」
「失礼いたしました。自分の勘違いです」
「君。名前は」
「はっ。刑事局の大川です」
「僕の大事な友人に失礼だろう。謝りたまえ」
「申し訳ありません」
「俺からも謝る。許してやってくれ」
「いや。こっちが悪い。謝ります。ここでいいよ」
「そうか」
「日吉君。行くぞ。よくお詫びしろ」
「はい。申し訳ありませんでした」
浩平は警察庁の二人に深々と頭を下げた。
「失礼するよ」
「おう。また、きてくれ」
若い男が最敬礼をして二人を見送った。
浩平は男の後ろについて警察庁を出た。
「タクシー」
「はい」
浩平は走って、通りでタクシーを停めた。
「乗りたまえ」
男が小声で言った。
「神田須田町、お願いします」
男は鞄から書類を出して見ているだけで、一言もしゃべらない。浩平も口を閉じた。
神田須田町のビルに入って、TCSという会社に入った。コンピューターソフトの開発会社のようだ。そこでは、取りとめのない話を三十分しただけで出た。エレベーターで二人になった。
「しばらく付き合いなさい。つけられてるかもしれない」
「はい」
タクシーで東京駅に行き、男の指示どおり京都駅までの新幹線の切符を二枚買った。
「京都までは、追って来ないだろう」
「はい」
「君は品川でも横浜でも、降りたらいい」
「はい」
「あの若い男は納得してなかった。仮にも、警察庁ですからね。確認するだろう」
「はい」
「名前は」
「片山浩平です」
「そう。しばらく、日吉君だな」
「申し訳ありません。京都まで行きます。心配ですから」
グリーン車だから、周囲に乗客はいない。
「何をしてたか、聞かないんですか」
「答える気、ないだろう」
「ええ。すみません」
「一眠りする」
「はい」
本当に、男は京都駅到着まで寝ていた。
「京都です」
「そうか。あぶない、あぶない」
「お名前、聞いてもいいですか」
「白石です」
「白石さん。よく考えると、僕、かなり危険でした。助かりました」
「もう、いいよ」
「どうして、助けてくれたんですか」
「わからない。なんで、だろう」
「ありがとうございました」
「どこか、泊まるあては」
「いえ」
「うちに泊ってもいい。ホテルをやってる」
「はあ」
「無理にとは言わない。若い人はそれなりにあるだろう」
「いえ。泊めてください。ご迷惑でなければ」
「料金はとるよ」
「はい」
「その前に、何か食べていこう」
「はい」
その店は四条河原町の近くの込み入ったところにあった。常連客らしい。
「参事官の和泉は小学校からの友達で、東京に行くとよく会いに行ってた。いい奴だけど、官僚になってからは変わった。あの特権意識にはうんざりする。永い友情も今日で最後にしようと思った時に、君に出会った」
酒を飲みながら白石は自分の気持ちを分析し始めた。
「三年前に妻と息子を交通事故で亡くしてね。かなり、こたえてる。立ち直りたいけど、いや、立ち直らなければいけない立場だけど、なかなか」
浩平は返事のしようがなかった。
「後を継いでくれる人でもいれば立ち直れるかもしれないという思いもある。若い人を見ると、そんな目でみてしまう。この若者は後継者にどうだろうという目で見てしまうんだ。君を見た時、この男だと思った。理屈はない、そう感じたんだ。君は自分の持っている存在感みたいなものに気づいてるのかな」
「さあ」
「だろうな。僕にも何の根拠もないんだ。だから、よくわからない」
「はあ」
「僕は自分の直感には自信がある。でも、これは悪あがきにすぎない。言ってることも支離滅裂だ。何してるのかな」
白石が弱々しく笑った。自信に満ちた立派な社会人に見えたけど、心には大きな傷を持っているらしい。初対面の男の前で、ここまで自分をさらけ出せる人がいるのか。そう思うと、親近感がつよくなった。なぜか、初めて会った時から、白石という男に惹かれている。浩平の人生で初めて会う男かもしれない。
「白石さん。褒めていただいて、嬉しいんですが、僕はそんな男ではありません。僕はもう法の外にいます。申し訳ありません」
「だろうな。あんな場所で立ち往生している君は、普通じゃない。あの若い男のほうは、君を疑っていた。当然のことだけど」
食事をして、白石のやっているというホテルに行った。東京のホテルと違って落ち着ける、気持ちのいいホテルだった。
東京に戻って、浩平は浜中に電話をした。警察庁で危険な目に会ったことは誰にも話すつもりはなかったが、白石については調べておきたかった。
「浜中さん。京都の探偵社、どこか知りませんか」
「京都ね。調べてみましょうか」
「お願いします」
「何を調査するんです」
「普通の調査です」
「わかりました」
浜中調査事務所は順調に伸びている。浜中も自信に満ちた社長になった。浩平の依頼による調査料が、まだ事務所を支えていたが、必要でなくなる日も遠くないと思う。浜中から紹介された探偵社に白石の調査を依頼した。
白石に関する調査結果が送られてきた。京都の地場企業としては、トップクラスの最優良企業だった。株式会社白石の代表者で、ホテル業と不動産業、そしてソフト開発会社を直接経営している。昔は糸関係の仕事をしていたようで、関連会社として呉服関連の会社が三十社ほどある。白石グループと呼ばれていて、京都では有名な会社だった。ルーツは京都の公家らしい。後継者にこだわっていた白石の発言が理解できた。白石グループの経営は地味で堅実だという。銀行が競って取引を求めるような、リスクのない会社のようだ。白石個人の報告もあった。妻子を交通事故で亡くし、現在は四十三歳の独身。地元有名人でありながら、公の名誉職には付いていない。私立の養護施設へ多額の寄付を個人としてやっている。亡くなった妻の実姉の施設らしい。個人の資産総額は推定でも数百億と言われている。
探偵社の報告を読んで、最初に感じたことは、白石が自分族ではないということだった。旧家で資産家の白石は自分族になる必要もなかったということか。いや、白石の人柄からも白石が自分族ではないということを浩平は感じていた。金持ちは誰でも自分族だと決めつけていたことが間違いなのか。「自分さえよければ」の対極は「誰かのために」とすれば、自分族の対極は誰か族と呼べる。白石に清新な印象を受けたのは、白石が誰か族だからなのかもしれない。そう言えば、上野原旅館の女将も自分族ではなかった。個性の問題なのかもしれない。上野原旅館の女将や白石に惹かれるものを感じる。そこに生きる道があるのか。わからない。自分族の最先端にいる政治家や官僚を相手にしている浩平も自分族の最先端だと感じている。わからない。
盗聴データの中に、品川埠頭という言葉が出てきた。暴力団の抗争があったらしいという未確認情報が、三宅組爆破事件捜査本部の捜査に追加されたようだ。匿名の通報者からの情報で、品川埠頭の抗争は暴力団と二人の男の争いだったという。一人は小銃を持って覆面をしていたという情報があり、捜査本部はその小銃に大きく反応している。国内では自衛隊以外に存在しないはずのプラスチック爆薬が使用されたことと、散弾銃やライフル銃ではなく小銃が使用されたらしいという情報からは、事件の首謀者が左翼過激派ではないと結論したようだ。捜査本部の目は、国外テロ集団に向いていたが、テロ集団と暴力団の抗争はありえないという意見も多い。
浩平は、匿名の通報者は大槻議員以外にいないと確信した。どこまで往生際の悪い男なんだろう。まだまだ抵抗をするつもりのようだ。既得権益にしがみつく執念には病的なものさえ感じる。このまま放置すれば、国交省の鳥居との取引にも影響する。
一か月の調査をして、浩平は菅原と阿南をつれて大槻議員の自宅に向かった。大槻の選挙区は九州だが、小石川にも自宅を持っている。秘書が一人と家政婦が一人同居している。その日は、家政婦が月に一度自分の息子の家に外泊する日だった。前久保の家にいた家政婦の浜さんの件で、浩平は家政婦が苦手だった。菅原に侵入の先導をしてもらい、二人が続く。浩平が秘書の部屋に行き、寝ている秘書の頸部を締めて落とし、阿南が秘書の両手と両足を縛って拘束する。強力粘着テープで口も塞いだ。菅原は不測の事態に備えて、退路を確保するために家を出た。阿南が寝室の大槻を拘束して、食堂に抱えてきた。口いっばいにタオルを詰め込まれているために叫び声は聞こえないが、喉の動きからは叫んでいるように思える。食堂の椅子に座らせて縛り直した。今日は三人とも目だし帽で覆面をしているが、大槻にはそれが浩平だとわかっているようだ。
「大槻さん。僕が誰かわかりますよね」
大槻は首を上下に振って答えた。
「今、このタオルを取りますが、大声を出すと暴力的に制圧しなければなりません。よろしいですか」
大槻がまた首を上下に振った。
「楽になりましたか」
もう、声を出すことができるのに、首を上下に振っている。
「大槻さん」
「俺はなにもしとらん」
「どういうことです」
「俺は、何もしゃべってない」
「わかりませんね。僕には、あなたが何かしゃべったとしか、聞こえませんが。そうなんですか」
「知らん」
「何をしゃべったんです。何か僕に知られてはまずいことがあるようですね」
「だから、何もしゃべっとらん」
「いいでしょう。今から、じっくりお聞きします」
浩平は大槻の口の中にあったタオルを阿南に渡して、台所に行き、出刃包丁を持って戻ってきた。包丁を見た大槻が椅子の中で暴れた。タオルを口にしているので声は出ない。
「大槻さん。どうやら、あなたは約束を破っているように思えてきました。何をしたのか、何をしゃべったのか、それを教えていただきます。でも、あなたには聞きません。あなたの体に聞きます。あなたは嘘つきでも、体は正直だと思いますよ」
浩平は出刃包丁の背の方で、大槻の膝頭を軽く叩いた。椅子ごと大槻の体が飛びあがったのを見て、阿南が椅子に体重をかけた。浩平は、屈み込み、五つずつ数えながら、包丁の背で大槻の膝頭を叩く。ひとつひとつの衝撃は軽いものだが、数が重なると痛みになっていく。浩平は無心になって、数えながら膝を打ち続けた。次第に大槻の痙攣が大きくなってくる。浩平が顔をあげて大槻の顔を見ると、涙と鼻汁で大槻の顔が光っていた。
「大槻さん。このまま叩き続けると、左膝は壊れます。でも、まだ右膝があり、両腕もあります。そして、二つの目もあります。あなたは、僕のことをなめてかかってます。僕は既に二十五人の命を奪っています。あなたが、二十六人目になることに、何の躊躇もありません。ですから、両足、両腕、両目を無くす苦痛の中で、あなたに死んでいただきます」
大槻がイヤイヤをした。
「多分、あなたの、汚い、その根性は変わらないでしょう」
大槻がさらに首を左右に大きく振った。
「どうしました」
浩平は大槻の口からタオルを取り出した。
「何でも、何でも、言うとおりにします」
「じゃあ、大槻さんは何をしたんですか、僕との約束を破って」
「すみません。品川埠頭での争いは二人の男と暴力団との争いだった、と匿名で知らせました」
「どこに」
「警察です」
「そうですか。それだけですか」
「はい。誓って、それだけです」
「ところで、大槻さんの部屋に金庫、ありますよね」
「はい」
「どこにありますか」
「・・・」
「何でも、言うとおりに、するんじゃなかったんですか」
「本棚の下です」
阿南が寝室の本棚の奥に隠れている金庫を見つけた、と指で知らせてきた。
「鍵はどこです」
「・・・」
浩平はタオルを手にした。
「鞄の中です」
「番号は」
阿南が金庫の中の物を食堂の机の上に並べた。浩平はその中にある書類に目を通して、大槻の縄を解くように言った。
「これにサインをお願いします」
浩平は、懐から取り出した紙とボールペンを机の上に置いた。細く折ってあるので、何の書類かわからない。
「何の」
「それは、知らなくていいです。サインを。これと同じサインを」
金庫の中に入っていた契約書の大槻のサインを横に置いた。自署捺印の重さを知っている男には、酷な要求だったが、大槻は五枚の紙にサインをした。
「実印はどれですか」
机の上に並んでいる印鑑から大槻が選び、浩平は参考にした契約書の印と比べ、印鑑証明の印鑑とも付け合わせた。
「大槻さん。あなたが警察に知らせた内容は、どう言う内容でした。もう一度教えてください」
「暴力団と争ったのは二人の男だと言いました」
「それだけですか」
「ほんとに、それだけです。ほんとに」
「そうですか。では、僕の計画を教えてあげましょう。あなた方の取り分二百五十万から半分を出していただくように言いました。でも全額出してもらうことにします。秘書給与も没収です。他の五人のお仲間や党本部は何と言うでしょうか。選挙で公認が取れると思いますか。それに、秘書をしている息子さんの公認も難しいでしょう。先ほど書いていただいたのは十億の借用書です。五人のお仲間に渡します。あなたは、議員を辞めて、さらに五十億の借金を抱えることになります。自分さえよければと思った、あなたの助平根性が招いた結果なんです」
「・・・」
「その助平根性を二つ教えましょう。一つ。約束を破って、警察に通報したこと。匿名かどうかは問題ではありません。二つ。通報内容をごまかしたことです。大したことではないと思ってましたね。背信行為は、あなたにとつては日常茶飯事であっても、政界以外では通用しません。少なくとも、僕との関係においては、嘘は命取りになるんです」
「・・・」
「あなたは、議員としては終わりです。堂々と警察に駆け込みなさい。政治資金規正法違反だけでは済みませんがね。それより、そんなスキャンダルを党本部が認めますか。あなたは、闇に葬られるだけです。読みが甘い。そう思いませんか。もう一つ、警察にどんな情報を出すんですか。あなたが、僕の何を知ってるんですか」
大槻は、やっと自分の立場を理解したようだった。
「二人の様子を詳しく話しました」
「そうですか。それなら、理解できます。普通、そうするでしょう。最初から言えばよかったんです」
大槻が力なく笑った。
「覚悟ができたようですね」
大槻は慌てて首を左右に振った。さすが、国会議員の鏡のような男だ。この執着は褒められることかもしれない。どんな逆境からも生きて帰るという信念は立派だ。
「大槻さん。あなた、政界の古狸と言われてますよね。裏事情にも詳しい。僕の手先になりませんか。報酬は百二十五億です。党や仲間のためではなく、僕のために働いてみては」
「えっ」
「ただし、危険ですよ。僕は」
「お、お願いします」
「あなたの、その助平根性。買いましょう。裏切った時は、苦しんで、苦しんで、死んでもらいます。いいですか」
「はい」
「生き延びれば、逆転の可能性もある。そう思ってませんか」
「いえ」
「じゃあ、最初の仕事として、大槻メモを書いてください。政界の不正を洗いざらい書くんです。それが、僕への忠誠心になります。できますか」
「やります」
「多分、大槻さんのことだから、誤魔化そうと知恵を絞ると思いますが、今回だけは正直に、全てを書き出してください。僕は、当然のことですが裏をとります。大槻メモに嘘があれば、その場で契約は解除になります。弁解は聞きません。僕が嘘だと感じた時が、あなたの最後の時です。よろしいですね」
「はい」


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海の果て 第1部の 6 [海の果て]


14

結局、銃器訓練は半年かかった。もっとも、最後の一か月は殺気を消すためのクーリング期間として、藤沢の庭にある畑で働いてもらった。チーム本間の三人は、個人差はあるが、それぞれにおおきく変わって帰ってきた。直人には、幼さの片鱗もなくなっている。やんちゃな言葉づかいはしないし、怒りを仕舞いこむことも身につけた。
前久保健治の調査を再開した。チーム本間はあせることもなく、地道な調査を続けて、大銀行の相談役になっている上西保という老人に辿りついた。上西は博打好きだけではなく、ロリ嗜好がある。目黒のマンションに個人のプレイルームを持ち、幼い少女たちを連れてくるのは三宅組の組員と思われる男だった。近くのマンションを借りて、チーム本間が張りついた。証拠写真を撮る。二週間かけて、それなりに鮮明な写真が撮れたと直人から報告があった。
浩平は、後藤祐樹との取引の時に、三宅組とクラブ「まこと」のことを聞いた。
「調べましょうか」
「面倒なことになるかもしれんぞ」
「ばれるようなことはしませんよ」
「無理しない程度でいい」
浩平は、写真を手に上西老人に接触した。上西は半端ではない大金持ちのようだ。大邸宅の上西の部屋に菅原の助けを借りて忍び込んだ。今日は変装している。歯科技工士に頼んで入歯を作ってもらい、それを自分で加工して変装用の入歯にしている。頬を膨らませたり、くちびるを前に出すだけで人相はがらっと変わる。ただ、少し喋り難い。
「何者だ」
「佐藤といいます」
「警察を呼ぶぞ」
「いいですよ。でも、死んでしまっては意味ないでしょう」
浩平はサイレンサーのついた拳銃を取り出して見せた。
「これ、持っててください」
近くにあった分厚い本を上西に渡した。その本に向けて無造作に銃弾を撃ち込んだ。本が老人の手を離れて部屋の壁まで飛んだ。浩平は部屋の隅から本を拾って、銃弾がめりこんだ部分を老人に見せた。
「少しだけ、私の頼みをきいてください」
老人の膝の上に写真を置いた。
「何だね」
「この子の名前は知ってますか。本名を」
「わわわ」
「上西さんは、友山銀行の相談役でしたよね。この写真、銀行へ持って行ってもいいんですが、あなたに買っていただいた方が、いいでしょう」
「これは、恐喝かね」
「そうです」
「いくら、いるんだ」
「金はいりません。一日だけ、あなたの甥にしていただきたい」
「甥」
「そうです。上西さんは、クラブまことの会員ですよね」
「ああ」
「連れて行ってもらいたいんです」
「警察関係者かね」
「いいえ。警察がこんな面倒なことしますか。あなたには迷惑かけません」
「あそこは、簡単には入れん」
「あなたの甥でもですか」
「んんん」
「甥の社会勉強だと言えば問題ないでしょう」
「まあ」
「どうします。一日で済みます。それとも、銀行や雑誌社に持っていきましょうか。今は社会的にも、こういうロリは糾弾されていますが、大銀行の相談役がこんな破廉恥な行為の常習者だとわかると、雑誌社は喜びますよ」
「考えさせてくれ」
「何を考えるんです」
「だって、そうだろう。危険がいっぱいなんだ。よく考えないと」
「駄目です。明日、行きます。時間は追って連絡します。余計な事をすれば、あなたの人生はお終いです。銀行のダメージもかなりのものになるでしょう。この家の中もね」
浩平は机の上に置いてあった上西の携帯電話から番号を移した。菅原も盗聴器の取り付けを終わっているだろう。チーム本間は上西邸を監視している。
翌日の夜八時に、芝公園の近くで上西の車に乗り込んだ浩平はスーツにネクタイの真面目なサラリーマンにみえた。盗聴器のデータでも、訪問者にも不審な様子はないと直人から報告をもらっている。
クラブ「まこと」のドアを上西の後から入る。その部屋は受付とクロークがあるだけの静かな部屋だった。
「上西さま」
「ん」
「お連れ様ですか」
「ん。甥の正人だ。社会勉強にな」
ヤクザ者とは思えない男が笑顔でうなずいた。
「念のために、身体検査させていただきますが、よろしいでしょうか」
「もちろんだ」
受付の男が浩平の背後にまわり、身体検査を始めた。
「お客さま。携帯はクロークで預かりますが、よろしいでしょか」
浩平は頷いて、腰のベルトにつけている携帯を外して男に渡した。だが、そのベルトの下にある小型のカメラには気づかなかった。カメラは改造してシャッター音が鳴らないようにしてある。
「今日は、いろいろなお客様が来られていますので、少し混みあいます。どうぞ、ごゆっくりお楽しみください」
クロークの番号札を持ってきた女性が、二人を案内して奥のドアを開けた。数メートルの廊下の奥に別のドアがあり、そのドアを入ると、広々とした賭博場になっていた。
上西はいろいろな人物と挨拶をして、ルーレットやトランプを見て回る。浩平はつつましく上西の後ろについて歩いた。十分もすると、二人はその場に溶け込んでいる。いろんな人の会話を聴いていると、どうも、右翼の大物が来ているらしい。小さいものではあったが、北方領土や共産主義や中国の文字の入った横断幕があった。そんな中で、ひときわ大声で話している男が厚労省の前久保健治だった。写真でしか見たことはないが、隣にいるのは今の事務次官で斎藤という男だろう。浩平は上西から離れ、興味深そうにテーブルを回りながら、写真を思い切り撮った。その賭博場に入って一時間。上西に声をかけて一緒に部屋を出た。さすがに、今日は博打に手を出すゆとりはなかったようだ。何か言われたら、体調が悪いということになっている。
「上西さま。もうお帰りですか」
「ん、一寸、体調がな」
「そうですか、どうぞ、お大事にしてください」
上西は本当に体調が悪いように見えた。クロークで二人分の携帯電話を受け取り、クラブを後にした。上西のプレイルームを盗撮したカードを上西に渡して浩平は車を降りた。
部屋に戻った浩平は賭博場にいる前久保健治の写真を十枚プリントアウトした。どう見てもキャリア官僚には見えない。チーム本間の三人も戻ってきた。
パソコンに取り込んだ写真を驚きの声を出しながら三人が見ている。浩平は写真撮影がうまくいって胸をなでおろしていた。もう、探偵としては三人の足元にもおよばないだろう。「片山さん。上手に撮れてますよ」
「ありがとう」
「明日からは前久保ですね」
「頼む」
浩平は、犯罪では大先輩にあたる菅原の助言を守っている。事前の調査が充分でない山はやってはいけない、という鉄則だ。だから、前久保健治の行動をじっくりと調査する。
翌日は後藤祐樹の話を聞くために外出した。
「少し前に、東西対決がありましてね。関西の真崎組と東京の花村会です。花村会が潰れそうになって、仲裁が入りました。政界の大物が乗り出したという噂です。その結果、花村会の縄張りの中に真崎組のシマができたそうです。あのビルが真崎組の飛び地みたいなものです。そこで、真崎組の武闘派と言われる横浜の三宅組が、あのビルの管理をしているそうです」
「三宅組は武闘派」
「多分、日本で一番荒っぽい組でしょう」
「そうか」
「先輩、三宅組となんかあるんですか」
「いや、あのクラブの客に用事がある」
「あそこは、さわらない方がいいです」
「そうみたいだな」
一か月近くの調査をして、前久保の自宅を交渉場所にすることに決めた。厚労省を出た後は、交友関係が広く車で動きまわる。その車の運転手は、どうみても三宅組からの出向者だと思えた。前久保は妻と死別していて、田園調布の自宅には家政婦がいるだけだった。
金曜日、夜中の十時過ぎに帰宅した前久保を確認して、浩平は塀を乗り越えた。前久保の家を見渡せる場所に車を停めて、阿南がバックアップに入っている。大きな庭に面した居間で、前久保は郵便物に目を通していた。
「前久保さんですね」
突然のことで、前久保の体がビクッと動いた。
「なんだ。おまえ」
「佐藤と言います」
「どこから、入ってきた」
「むこうからです」
「なめたこと。まっ、いい。怪我しないうちに帰れ」
前久保は浩平を無視して郵便物に目を戻した。
「今日は、前久保さんに買っていただきたい物があって、お邪魔しました」
「人違いだろう」
「いいえ。厚労省大臣官房人事課の前久保健治さんに、ぜひ買っていただきたいものなんです」
「若いの。悪いことは言わん。このまま帰れ。浜さん」
浜さんと呼ばれた五十過ぎの家政婦が部屋に入ってきた。
「お客さんがお帰りだ。お見送りしろ」
「はい」
「浜さん。まだ話が終わってませんので。でも、じきに帰りますから」
家政婦は困った顔で二人を見比べた。前久保が、仕方無いという様子で家政婦に出て行くよう手を振った。
「何を売りに来たのか、見せてみろ」
「ありがとうございます」
浩平は写真を前久保の前に並べた。
「これがどぅした」
「賭博場であることはわかりますよね」
「で」
「国の高級官僚の方が、行くところではありませんよね」
「どうして」
「国は、この手の賭博は禁止してます」
「賭博というのは、金をかける場所だ。どうやって証明するんだね」
「会員制のクラブで、このような施設があれば、常識的には賭博でしょう」
「俺が買わない場合は、マスコミに持って行くのか。誰も記事にはしないだろう」
「どうしてです」
「裏が取れない」
「なるほど。賭博ではない。単なるゲームだということですね」
「そうとしか思えんよ」
「では、この写真は、どうです」
「一緒だな」
「この写真はマスコミではなく、中国に流します」
「中国」
「共産主義や中国を非難する横断幕があります。こんな集会に官僚が出席している。しかも事務次官と人事課長が、です。これは、カードになりませんか。日本叩きの」
「あんな連中、言わせとけばいい」
「でも、政府は困りますよね」
「この程度のことは、いくらでも起きているんだ。誰も取り上げたりはせん」
「そうですか。一度やってみましょう。私の方には失うものはない。どんな結果になるか、楽しみです。それと、もう一つ。日本厚生振興会という外郭団体の職員に三宅美津子さんという方がいますよね」
「それが、どうした」
「所管部所は人事課になってます。そして、この三宅さんは、横浜の三宅組の組長夫人です。暴力団に資金を流しちゃまずいでしょう」
「お前。死にたいのか」
「いや。抹殺されるのは、あなたですよ。これだけ出れば、上はあなたを切るしかない」
「何者なんだ、お前」
「佐藤と言いました。一市民です」
「で、これは、誰の差し金なんだ」
「それは、言えません」
「いくら、欲しい」
「五百億円、いただきます」
前久保が大声で笑い出した。
「好きにしたらいい」
「では、そうさせていただきます」
「五百億、取れると思ったのか」
「一千億でも、よかったんですが、初回ですから、五百ぐらいかなと思って」
浩平は笑顔を残して、出口に向かった。
「待て」
「はあ」
「五億なら、払ってもいい」
「結構です。はした金はいりません」
浩平のポケットの中で、携帯が動いた。阿南からの連絡で、男が二人門をくぐったことと、三人が外の車で待機しているという情報だった。
「前久保さん。お待ちかねの人が来たようですよ」
浩平はドアから少し離れて、二人を待った。部屋に入ってきたのは、どこから見ても暴力団構成員という二人だった。前久保は、家政婦が三宅組を呼んだことを浩平が知っていること、そして、この家が監視されていることにも気がついたようだった。その辺のチンピラがやっていることではない。組織的な動きがあるとすれば、それは、どこの組織なのかと疑心暗鬼になっているのだろう。
「どうしました」
「・・・」
「前久保さん」
「こいつが、恐喝をしに来た」
「恐喝」
部屋には、コンビニの店員のような若者が一人いるだけなので、男は前久保の言葉が腑に落ちない様子だった。だが、前久保の様子は普通ではない。連れの男が浩平に近づいて来る。
「怪我しないうちに、帰ったほうがいいですよ」
「なに」
男と浩平が何気なくすれ違ったように見えたが、男はその場に崩れ落ちていた。位の高い方の男が身構える。
「外の三人も呼んでください。手が省けますから」
「お前、なにもんじゃ」
「兄さん、びびってます」
「てめえ」
飛びかかろうとした男は、浩平の蹴りで吹っ飛んだ。起き上がろうとした男の顔面に浩平の蹴りが入り、男はその場に沈んだ。
「前久保さん。これは、まずいことしましたね」
「・・・」
「一緒に来ていただきますよ。素直について来るか、痛めつけられて引きずられていくか、どちらにします」
前久保は顔を横に何度も振った。どちらも嫌だと意思表示したつもりなのだろうが、浩平は前久保が痛めつけられる方を選んだと解釈することにした。
「そうですか。素直には来れませんか」
その時、男が三人部屋になだれ込んできた。家政婦の浜さん、なかなかやるな。
だが、三人の男はその部屋で気を失うために入ってくる結果になった。
「浜さーん」
浩平は大声で家政婦を呼んだ。
「これ以上、ジタバタすると、あなたも痛い目に遭いますよ」
浩平は、ドアから目だけ出している家政婦に言った。すると、浜さんの目がすばやく引っ込んだ。
「前久保さん。死ぬ気ですか」
「あわわわわ」
「行きますよ」
腰を抜かして動けない前久保の首を両手で挟み、一瞬の絞め技で落としておいて、その体を肩にかけて運んだ。二人を乗せた阿南の車はNシステムのない道を選んで、横浜に向かった。途中で車のナンバープレートを付け替え、前久保を拘束し直し、目隠しをした。浜さんは警察に通報するのだろうか。浩平は直人に前久保の家を遠くから監視するように言った。
「すみません。阿南さんの警告、聞かずに、二度手間になってしまいました」
阿南は、最初から拉致を主張していた。
横浜の地下に前久保を監禁したが、手詰まりであることには違いがない。前久保を自由にしても、三宅組をバックにして厚労省に居座るだろう。三宅組にしても、資金源としては手放せない。こちらは、恐喝と誘拐の犯人なのだから、善意の市民の通報とは言えないので、官僚と暴力団の結びつきを糾弾するマスコミもないと思わなければならない。最終的には前久保を殺害するしか方法はないのだろうか。殺人罪はいずれ犯すことになるとは思っていたが、現実にその必要性に直面すると、躊躇がある。三宅組の組員五人に顔を見られているし、家政婦の浜さんにも見られている。マウスピースをしていたので人相の特定は困難と思われたが、藤沢の家で浩平は髪型を変えた。阿南の理髪の技術はプロ級だった。
「しばらく、考えます。死なない程度に食べ物と水をお願いします」
「わかった」
一週間が過ぎたが、前久保の誘拐事件は表沙汰になっていない。警察が発表していないのか、浜さんが通報していないのか。前久保邸を監視している直人からは、三宅組の動きはあるものの、警察が動いている様子はないという報告しかない。普段はテレビを見ないが、誘拐事件の速報が出るかもしれないので、ニュースだけは見るようにしている。だが、そのニュース番組で見たのは別のニュースだった。後藤祐樹が死体で発見されたというニュースで、暴力団の抗争事件か、と報道された。浩平は、三宅組のやったことだと直感した。浩平は、この事案が前久保との戦いではなく、三宅組との戦いになっていることに気がついた。後藤祐樹が殺害された状況は不明だが、浩平との関係をしゃべっていれば、既にこのアパートに襲い掛かって来てもおかしくはない。ただ、三宅組にとって難しいのは、前久保の救出が優先事項にならざるをえないことだ。前久保あっての資金源なので、誘拐犯を殺したところで何の利益もない。前久保の処分を決める前に、三宅組を潰す。
浩平は電車やタクシーを乗り継いで、藤沢に向かった。チーム本間の三人にも、部屋に戻らず、尾行をまくつもりで藤沢に集合するように伝えた。
浩平が到着後、三人が次々に集まった。アパートを出る前に阿南に頼んでおいたニュースの録画を見た。
「祐樹さん、この件に絡んでたんですか」
「僕が、情報収集を頼んだ」
「そうだったんですか」
「この人は」
「後藤組の組長の息子で、直人が後藤組にいた時の直属の兄貴分。僕の学生時代の後輩だった。祐樹から話を聞いてから少し時間があいてる。でも、三宅組にやられたと思ってる」
「どうして、そう思うんですか」
「根拠はない。でも、間違っていないと思う」
直人は動揺しているようにみえた。
「そこで、祐樹が僕のことをしゃべったとすると、あのアパートに近付くのは危険だということになる。わざわざ、藤沢まで来てもらったのは、そのためだ。しばらく不便するけど、皆、新しい部屋を借りてもらいたい。普通に生活できるように、買うものは買ってもらわなくてはならない。この件が落ち着いて自分の部屋に戻ったとしても、アジトとして使うつもりだから、そういうことも考慮に入れて選んでほしい。住民票は移さない方がいいな」
「打ち合わせは、いつも、ここですか」
「いや。その場所は僕が確保する。祐樹は何もしゃべってないかもしれない。だから、これは念のため」
皆が緊張するのも無理はない。
「直人。プリペイドの携帯、すこし余分に買っといてくれ。三宅組が電波盗聴するとも思えないが、これも念のためだ」
「はい」
「ここからが、本題になる。前久保邸の監視はやめる。今日から、我々の敵は三宅組だ。だから、調査の対象も三宅組。かなり、危険な仕事になる。どうする」
「どうするって」
「降りてもいいってことだ」
「片山さん。まだ私たちのこと、なめてます」
志保が厳しい口調で言った。
「・・・」
「今の、片山さんの発言、僕も気に入りません」
保田も志保に同調した。
「すまん」
「三宅組を監視して、どうするんです」
「祐樹を殺したのが三宅組なら、三宅組をつぶす」
「潰すって」
「言葉通り、全滅させる。相手は暴力団なんだ。中途半端なことをすれば、こっちが潰される。だから、文字どおり潰すんだ。阿南さん、爆薬の手配をしてください。時限装置もいります」
「わかった」
「暴力団の組事務所に盗聴器を仕掛けるのは危険すぎる。いつも、盗聴器を取り付けてくれる人に死んでくれとは言えない。我々だけでやる。これが、まだ使えるかどうかわからんが、盗聴器はこれしかない」
浩平は、バックパックからワンタイムの盗聴器と親機を取り出した。購入時に使用期限を聞かなかったので、自信はなかった。親機の充電もしなければならない。
「充電するまで、少し待ってくれ」
「片山さん。筒井さんから、葉書が来てます」
「おお」
絵葉書に、元気だということが書いてある簡単なものだったが、住所と電話番号が書いてあったので、安心した。アメリカでの格闘訓練センターの仕事は始まったのだろうか。
「阿南さん、一度電話して、筒井さんの近況を聞いておいてください。できれば、こことコンタクト取ってもらえると助かる」
盗聴器の簡単な取扱説明書に書いてある社名を示した。
「前は、片山商事という名前で取引しました」
「やってみます」
浩平は、皆に盗聴器の説明をし、何の変哲もない小さなプラスチック片を渡した。
「これが」
「収録時間と電波の距離に問題がある。充分にテストしないと」
盗聴器が使用可能であることを確認して、浩平は取扱いの説明をした。
「何度も言うけど、あせっちゃいけない。むこうも神経質になってる。相手が相手だ。祐樹の二の舞になってもらっては困る」


15

後藤祐樹殺害の男が自首してきたというニュースがあった。三宅組の組員で、単純な喧嘩だという。三宅組のビルが見えるマンションを二か所借りて、チーム本間の監視が始まり、地道な調査が始まった。浩平は何度も監視用の部屋に行った。
「毎日、いろんな店の出前があります。鮨屋の店で配達を募集してますから、応募してみようかと思ってるんですが」
「危険、あるな」
「多少、無理しないと」
浩平は変装用に作った入れ歯の話をして、直人を歯医者に行かせることにした。直人だけではなく、三人とも入れ歯を手に入れておいた方がいいという結論になった。
鮨屋の配達人になった直人は、寿司桶の改造に取りかかった。盗聴器を張り付けた板を桶の底に張り付ける。店で使っている桶と同じ大きさのものを捜すのに苦労したが、擬装用の底板ができて、盗聴が開始された。一日分として四十八枚の盗聴シートを貼り付け、タイマー機能を利用してデータ収集する方法が軌道にのり、内部情報が手に入った。
データ解析には浩平も参加した。三宅組は臨戦態勢にある。各地の暴力団からの情報収集が行われていて、電話による会話が数多くあった。三日目のデータ解析をしている時に、会話の様子に何か違和感を感じて、浩平は何度も聞き直した。
「直人。これ、どう思う」
「これが、何か」
「三宅さんと呼びかけてる部分がある。三宅さんと呼ばれる人間は組長だろう。じゃあ、三宅さんと呼んでるのは誰だ」
「えっ」
「組員が組長に三宅さん、とは言わないだろう」
「それは、ありません」
「真崎組の幹部が来てたら、三宅さんと呼んでも不思議じゃないな」
「はい」
「僕たちの敵は、真崎組だった、ということなのか」
「そうなりますね」
「天下の真崎組が相手だったんだ。どう思う」
「身が引き締まるというか、相手に不足はないというか。一寸、笑えますね」
「笑えるか」
「小さな組の落ちこぼれヤクザが、真崎組に喧嘩売ってるんですよ。笑えます」
「そうだな。こっちも、性根入れないと」
「はい」
「監視の二人に、この男が特定できないものか聞いてみてくれ。多分、三宅組にとっては上部組織からのお客さんだ。態度が違うと思う。このビルに泊っているとも思えない。写真が欲しい」
「わかりました。どうするんです」
「まだ、わからん」
二週間連続で盗聴器をしかけて、大体のことがわかった。後藤祐樹殺害は、本当に喧嘩が原因だったようだ。今回のことと関係あるんじゃないかという人間もいたが、その意見は一顧だにされなかった。上野の弱小組織にできるようなことではない、という意見が大勢を占めていた。三宅組がチーム片山の尻尾も掴んでいないことが原因だと思われる。真崎組の情報網にかからない組織などあるはずがないという過信が目を曇らせている。国の秘密機関か、国外の組織という方向へ向かっていた。代議士や警察庁からも情報を取っている。確かに優秀な情報網だ。大物議員も真崎組の情報源の一人にすぎない。
浩平の気持ちは固まっていた。この件を終結させるためには、劇的な幕引きが必要となる。真崎組は継続して、チーム片山を追うことになるだろうが、それを避ける方法はないと覚悟するしかない。全員藤沢に集まり打ち合わせを行った。菅原にも参加してもらった。爆薬の取り付けは、阿南と菅原が担当し、残りの四人は二人を援護する。三階建の三宅ビルを爆破し、ビル内の人間を全滅させる。ビルは角地にあり、隣は駐車場と歯科や内科の入った医療ビル。夜間は無人になるが、三宅ビルだけを爆破するつもりだった。爆薬の取り付け場所と四人の援護範囲。さらに、その範囲が重なる部分の正副の役割。逃走経路。潜伏場所。異常事態が起きた時の対処方法。綿密な打ち合わせを重ねた。拉致監禁している前久保は三宅ビルの玄関に放置する予定だった。運がよければ、命を拾うこともある。だが官僚としての命を永らえることは無理になると思われる。警察の鑑識は使用された爆薬がプラスチック爆弾だとすぐに判別するだろう。その情報は真崎組に伝わり、チーム片山が国外組織だと確信することになる。当然、警察組織も謎のチーム片山を追うことになるが、てがかりになるのは変装した浩平の似顔絵ぐらいしかない。真崎組から派遣されてきている男はホテルに泊っているので、難を逃れるが、諦めることにした。また、いつかどこかで出会うことになるのだろう。
「実行は二日後にします。いいですか」
浩平は、その夜、前久保邸に侵入した。警察の監視もなく、三宅組の人間も来ていなかった。浩平は帽子をかぶり、マスクをして、寝ている家政婦の浜さんを起こした。
「浜さん。僕が誰か、わかりますよね」
「・・・」
「そうです。あの時の犯人です」
浜さんは、首を左右に激しく振って、知らないという意思表示をしている。
「モンタージュに協力しましたね」
さらに激しく首を振る浜さん。
「今日から、この件については、一切協力しないでください。僕はあなたを殺したくないんです。あの日と今日。あなたを殺すチャンスを二回見送りました。三回目はありません。誰にも知られないとこに身を隠してください。ここのご主人はもう帰って来ません」
横に振っていた首を、浜さんは縦に変更した。
二日後の0330時に爆破作戦は実行に移された。新聞配達のバイクが動き出す前には終了しておきたい。人通りもなく、作戦を阻害するようなことは何もなく、十五分で爆薬の取り付けは完了した。睡眠薬で眠り込んでいる前久保を玄関の前に横たえ、ダンボールをかぶせて放置した。0405時にタイマーがセットされているので、退避行動には余裕がある。三人づつに分かれて二か所の監視部屋に戻る。翌日の通勤時間帯に合わせて、浩平と直人を残して現場離脱する予定になっていた。
浩平、阿南、菅原の三人は、部屋の電気を消したままカーテンの隙間から三宅ビルを見守った。幹線道路ではないので、車の通行はない。人通りもなく、爆破時間がきた。
浩平が予測していた音と全く違っていた。震動と音が同時に来て、浩平は窓から身を避けた。天と地がひっくり返ったような音と感じた。どこかでガラスの割れる音もした。三宅組以外に被害が出ないことを祈るしかない。阿南以外の人間にとって、爆破は初体験だから、菅原の驚きようもひどいものだった。
「成功です」
落ち着いた声で阿南が浩平に報告した。三宅ビルは瓦礫と化し、建物があったという印象すらかった。隣の医療ビルにも若干の被害はありそうだが、建物自体は残っている。五分後には、遠くでサイレンの音がし始めた。あと五分もすれば、消防車、救急車、パトカーで埋め尽くされるだろう。
次々に緊急車両が到着し、緊急用のバトライトで周囲が赤く染まる。ビルの破損状況から、生存者がいる可能性は無い。臨戦態勢をとっていたので、ビルで寝泊まりしていた組員が三十人はいると思われる。警察の現場検証は困難を極めることになるだろう。東京ガスの車両も到着。破損した水道管から漏れ出した水が流れを作り始めた。監視部屋に使っているマンションは老朽マンションなので防犯カメラはない。周囲の防犯カメラには写らないように行動したが、三宅ビルの防犯カメラには黒づくめの覆面男が写っていると思われるが、この爆破で再生不能になっていて欲しいと願っていた。ヤジウマが集まり始めた。いずれテレビ局の中継車も来るだろう。日本で初めて発生した爆発物によるテロを見ようと、大勢の人が集まるはずだ。警察の規制線がどこに引かれるのかにもよるが、人出は多い方が現場離脱に有利となる。二か所の監視部屋は、望遠レンズで監視しなければならないぐらい離れているので、すぐには警察の聞き込みは来ないと予測している。
七時半を過ぎて、阿南と菅原が部屋を後にした。問題が発生しなかった場合は浩平の携帯にワン切りの連絡を入れる約束になっている。八時半までに四人からの着信があった。浩平は直人の携帯にワン切りの電話をした。警察が電波盗聴体制を取っているかどうか不明なので、原則携帯電話の使用は禁止にしてある。浩平と直人の二人は、最低一か月はそれぞれの部屋で生活する。直人は鮨屋のバイトを続けるが、浩平は寝るときだけ帰ってくる契約社員ということになっている。勤務先は浜中調査事務所。どんな細かなことも対応しておく、と言う菅原の教訓を守り続ける。それが、チーム片山の鉄則だった。
二週間が過ぎ、死者の数は推定二十五人となった。その中には前久保の名前もあった。三宅組の全員が死んだわけではないが、組長と幹部組員は全滅した。真崎組は縄張りを維持するために代替の組織を作らなくてはならない。日本暴力団史でも初めての出来事だろう。一瞬で組が壊滅し、報復する相手も不明なまま、途方にくれることなどありえない事態だったが、手の打ちようがなかった。警察は特別捜査本部を東京に設置した。神奈川での事件で東京に捜査本部が置かれることは異常事態だったが、爆発物によるテロで二十五人の犠牲者を出したのだから、国としての対応になることも仕方がない。神奈川県警が異議を申し立てる余地はなかった。
浩平はスーツを着て上野に向かった。この重い気持ちは墓場まで持っていかなければならない、と覚悟している。
直人を引き取りに行った時に一度行っただけの後藤組の事務所のドアを開けた。
「後藤祐樹君のご霊前に、線香をあげさせていただけませんか」
しばらく待つと、幹部組員と思われる男が出てきた。
「たしか、片山さんでしたよね」
「はい。片山です。遅くなりましたが、祐樹君にお線香を」
「ありがとうございます。組長に伝えますんで、待ってください」
浩平は、お供えの果物を持ったまま、数分待たされた。
「どうぞ」
「はい」
三階が組長の自宅になっている。組長は、笑顔で迎えてくれたが、老いたように見えた。案内してくれた男が部屋を出て行ったので二人になった。浩平のことを信用してくれているようだ。
「遅くなりました」
「よく、来てくれた」
仏壇には祐樹のものと思われる位牌があった。浩平は全身で祐樹と向き合った。「すまない」と心の中で言った。「先輩」という祐樹の元気な声が聞こえてくる。意味はないけど「仇は討った」と報告した。生きていて欲しかった。善良な市民でも、不慮の死はある。生死の淵を歩いている極道にとっては運命なのだと言ってしまえばそれまでなのかもしれない。
「お悔やみ申し上げます」
浩平は組長に頭を下げた。
「ありがとよ。来てくれないのかと思ってたよ」
「すみません」
「あいつは、いつも、あんたのことを、言ってた。惚れたあんたに来てもらって、あいつも、やっと成仏できるだろう」
「ありがとうございます」
組長にとっては一人息子を亡くしたことになり、その心の痛みは想像すらできない。浩平は頭を下げることしかできなかった。
「あんたに極道の話をしても、何だけど、極道はどんなとこからでも、生きて帰ってこんとな。それが修羅場というやつよ。あいつは、最後まで極道には、なれんかった。自分では、いっぱしの極道のつもりだったが、なれんかった」
浩平には、言う言葉がなかった。
「俺は、いい親父じゃなかった。組長の顔ばかりで、辛い思いもしたろう。あっちに行ったら謝ろうと思っとる」
「・・・」
「ところで、あんたは、何しとる」
「は」
「祐樹もわからんと言っとったが、堅気の商売じゃなかろう。親は健在か」
「いえ。二親とも亡くなりました」
「そうか。親より先に死ぬ、親不幸はせんでもすむか」
「はい」
「なら、思う存分やんなされ。俺にできることがあったら、いつでも、来たらいい」
「ありがとうございます」
浩平は深々と頭を下げて、部屋を後にした。二階に降りる階段の踊り場で、案内してくれた男が待っていた。
「少し、お時間いただいても、よろしいでしょうか」
「はい」
浩平は応接間に通された。若い男がお茶を持って、すぐに現れた。
「もう、いい。みんな下に行っててくれ」
組員が数人部屋を出て行った。
「藤枝と言います」
「片山です。祐樹から藤枝さんのことは聞いてます」
「祐樹さんから」
「次の組長だと」
「そんなこと、言ってましたか。祐樹さん、自分でやるつもりだと思ってました」
「自分は、そんな器じゃない。藤枝さんしかいないと」
「そうですか。ところで、片山さん。三宅組、知ってますよね」
「えっ」
咄嗟のことで、動揺を見せてしまった。
「あなた、だったんですね」
「何が、です」
「あの爆破です」
「違います。僕に、そんな力はありません。ただ、祐樹の仇を討ってくれたことには感謝してます」
「そうですか、そういうことにしときます。もう一つ、聞いてもいいですか」
「はい」
「祐樹さんは、どこからかヤクを引いてました。どうしても、教えてはもらえませんでしたが、片山さんじゃないんですか」
祐樹が秘密裏にそんなルートを作ったとは、誰も思わないだろう。
「僕が仲に入ってました」
「やはり、そうでしたか」
「藤枝さんが窓口になってくれるのであれば、継続しますが」
「ありがたい」
「多分、祐樹も、そうしてくれと言うでしょう」
「うちにとっては、死活問題ですから、ぜひ、お願いします」
「条件は一つだけです。当然のことですが、入手先は不問。もちろん、仲に入っている僕のことも他言無用です。藤枝さんの胸の内に仕舞ってください」
「わかりました。約束します」
「すぐに、必要ですか」
「できれば、お願いします」
「わかりました」
「ところで、直人は元気にやってますか」
「はい。なくてはならない、僕の右腕です」
「よかった。片山さん。自分にできることあったら、声かけてください」
「組長にも、言われましたが、気持ちだけいただきます。今日以降、僕と後藤組の関係は何もないことにしてください。祐樹の古い友達が、たまたま焼香に来ただけです。取引は藤枝さんと僕の個人的な付き合いとしてください。二度とここには来ませんから」
「片山さんの心づかい、ありがたくいただきます。でも、自分は個人として、片山さんと付き合わせてもらいます。断っても駄目ですよ」
「藤枝さん。ご存じだとは思いますが、覚せい剤のルートは、いつ消えるかわかりません。取引量が減ってもかまいませんから、安全策を考えておいてください」
「はい。そうします」
浩平は後藤組の事務所を後にした。後藤祐樹との友情も終わった。流れを作ったのは自分に違いないが、そろそろ自分の手に負えない流れになっている。考える時が来たのかもしれない。


16

三宅組爆破事件の騒ぎが少しだけ落着きをみせた。直人は、アルバイトを辞め、浩平は監視部屋を引き払った。そして、藤沢に集合してもらった。六人のチーム片山。
「しばらく、休みにしたいと思ってる」
「休みって、どういうことですか」
「言葉通り、休み」
「何もしない」
「そう。何もしない」
「どのくらいですか」
「二か月、かな」
「はあ」
「時間があったら、したいこと、とかあるだろう」
「自分は、筒井さんのとこ、行ってみたいと思っています」
「阿南さん。それじゃ、仕事になってしまいますよ」
「この仕事、いつか潰されると思ってます。筒井さんの仕事が軌道に乗るようだったら、アメリカでもいいかな、と思ってます。生き残ればの話ですがね」
「そうですか」
「片山さんも、どうですか」
「僕は、日本の方がいい」
「そうですか」
「費用は全額出します」
「そうですか。助かります。少しは仕事もしてきます」
「私、千葉でボランティアします」
「あそこでか」
「はい、光園です」
「俺は変わらずだ。電気工事の試験もあるし」
「俺はやることないから、探偵仕事します。浜中さんから仕事もらって」
「僕もそうする」
「片山さんは、どうするんです」
「僕は、しばらく、山に戻るつもりだ」
「携帯とか、圏外ですか」
「僕から、直人に電話する」
浩平は鞄から現金を取り出した。
「五千万ある。これを直人に預ける。お前が必要だと思ったら、使っていい」
「片山さん」
「お前、片山浩平の右腕なんだろ」
次の集合日を決めて、解散した。浩平は山に入って、静かに考えてみるつもりだった。

以前使っていた洞窟は、そのままの状態で残っていた。一週間かけて、食糧を運び入れる。山はまだ寒い。故郷に帰ってきたという心地よさに浸った。見慣れた木々や岩、その一つ一つに思い出がある。旧友に会うように、山を歩き回った。
二週間ほど経って、浩平は自分が気道の練習をしていないことに驚いた。武道を極めようと一心不乱に修行していた時のような魂の震えはない。武道への夢も、武道家の魂もなくしている。生ける屍。この言葉が一番自分にふさわしい言葉になっている。では、街に行けば、東京に行けば、何かあるのか。街にあるのは閉塞感だけ。何のために生きるのか、という陳腐な問いかけはしたくない。人類がいまだに見つけ得ないことに拘っても、得るものは何もない。人間は、ある限られた条件の中でしか生きられない。そうだとすれば、自分の条件とは何か。犯罪者として金字塔を建てることなのか。答えのないまま、鬱々とした日々が続いた。人生の半分を過ごした自然の中にいても、自分の居場所を見つけられない。浩平は浮遊した気持ちをかかえたまま、東京に戻った。

藤沢に六人の犯罪者が集まった。庭の畑にいた阿南が迎えてくれた。
「片山さん。元気ないですね」
「そう、見えますか」
「見えます」
「すみません」
家の中では、若者に混じって菅原もトランプに興じていた。
「片山さん」
「よお」
休暇中に変わったことは何一つなかった。そのことは直人からの電話で聞いていた。
「みんな。休みはどうだった。志保は」
「休みって、必要なんだなと思いました。結構、自分が煮詰まってたみたいで、休めてよかった」
「俺も、そう思った。よかった、です」
皆、志保の意見に同感だった。
「今日から、再開ですか」
「ん。結論出なかった。皆は、どう思う。このまま、続けていいのかな」
「片山さん。どういう意味です」
直人が膝を乗り出すように言った。
「僕がこんなことじゃ、いけないとは思うが、正直、わからない」
「俺は、いや、僕はこのまま続けたい」
直人が浩平を睨みつけるように、言葉を吐き出した。
「俺みたいな馬鹿でも、役に立ちたい。俺はあいつらをぶっ潰して、世直ししたい」
「世直し」
「はい」
「直人。勘違いするな。チーム片山は、もう二十五人の人間を殺した犯罪者だぞ。殺人の責任は百パーセント僕にあるけど、お前にも多少の責任はある。そんな悪党に世直しなんて、似会わない」
「直人さんの言い方は、少し違うかもしれないけど、僕も続けたい」
保田には珍しく、はっきりとした言い方だった。
「僕は、仕返しだと思う。為政者が私腹を肥やし民が苦しむ。今の日本は、そういう状態だと思います。そんなあいつらに仕返しをする馬鹿がいても、いいと思います。世の中、変わらないかもしれないけど、仕返しはしたい」
「仕返しか」
「私も、賛成。ひどすぎるよ。あいつらのポケットに入る金のひとかけらだけでもあれば、施設の子供は助かるし、あんなところに来なくても済んだかもしれない。私も、仕返ししたい」
「悪党になりきろう、ってことか」
「俺も、世直し、やめて、仕返しにします」
「阿南さん。どう思う」
「自分は、片山さんが決めたことに従う」
「菅原さん」
「年寄りが口出すことじゃない。俺は若者に付き合う」
「仕返しか」
浩平は目を閉じた。
「保田さんと志保は、金が目的だったよな」
「もちろん、金も欲しいです。この仕事、両立しますよね」
「私も」
「悪党なら悪党らしくか。正直言うと、祐樹のことが、こたえた。これほどとは思わなかった。もう、これ以上死んでほしくない。他人を殺しておいて、勝手な話だとは思うが、これが本音なんだ」
「終りにするんですか」
「すまん。自分でも、決まらないことに、うんざりしてる」
祐樹の死を理由にしたが、自分にもわからないという方が本音なのかもしれない。それと、三宅組を潰したことに関して、自責の念はない。殺らなければ、殺られる。戦争とはそういうものだと思っている。
「もうしばらく、時間をくれないか」
全員、消化不良のまま解散することになった。
三日後に直人が浩平のアパートにやってきた。駅の反対側に借りたアパートは、それまでいたアパートより少しだけましなアパートだったが、見る人によれば大差ないのかもしれない。
「振込がありません」
「木谷の方か」
「はい。この前、厚労省のホームページ確認しましたが、木谷は局長になってました。何か関係あるでしょうか」
「確認してみよう」
浩平は木谷の携帯電話の番号を押した。「現在使われていません」というアナウンスが流れてきた。振込を止めて、電話番号を変更する、ということは、これで終わりだ、と宣言したつもりなのだろう。
「木谷の自宅を確認してくれ。多分、替ってる」
「わかりました」
翌日、事態が変わっていることが判明した。浩平が予想したように木谷は、官舎を出て成城へ引っ越ししていた。それよりも大きな変化は、警護がついていることだった。木谷が強気に出ている理由は、そのことがあるのだろう。
「通勤時は警護の車両が並走しますし、自宅にも人数が配置されています」
「そうか」
「拉致しましょう」
「強硬策か」
「はい。なめられていては、恐喝になりません」
「ま、一寸待て。保田さんはどこにいる」
「自分の部屋にいると思いますが」
「電話して、今から行ってもいいか、と聞いてくれ」
「はい」
浩平は直人を連れて保田の部屋へ行った。保田の部屋に入るのは初めてだった。
「保田さん。扶養家族の方たちに会わせてくれませんか」
「は」
「お友達のパソコンおたくの人です」
「ああ。いいですけど」
「ハッキングもできるんでしょう」
「ええ。かなりのもの、らしいですけど」
「犯罪になる仕事ですけど、やってくれますかね」
「やってることは、毎日、犯罪の連続でしょう。二つ返事でやると思います」
「報酬を出します」
「喜びます。初めて自分の手で稼げる。プライドは高いんです」
保田が連れて行ってくれたところは、3Kのマンションだが、どの部屋も狭く面積なら小さめの2DKといったところだ。そこで、三人の男が共同生活をしているという。
暗い顔の三人が狭い台所に集合した。三人の目には浩平も直人も邪魔者と見えているようだった。
「僕のボスで、片山さんと本間さん」
三人が聞きとり難い声で自分の名前を言った。リーダー格は、池崎竜生という男らしい。保田の友達としては、かなり若く見える。
「仕事の依頼です」
「仕事」
「そうです。成功報酬、百万出します」
「百万」
「ただし、これは犯罪行為になります」
「ふん」
「池崎さんに侵入できない場所はどこですか」
「ハッキングですか」
「そうです」
「国内であれば、どこでも」
「侵入するだけですか」
「いや、なんでも」
「そうですか。部屋、見せてもらっていいですか」
「どうして」
「仕事の環境を確認したいんです」
「・・・」
「最初に言いましたよね。これは、仕事なんです。失敗しました、出来ませんでした、捕まりましたでは困るんです。言い訳も聞きたくありません。道具が悪かったとか、環境が、という言い訳はなくしておきたい。仕事ですから、池崎さんには責任が生じます」
「わかりました」
部屋は、予想していたより整然としていたが、狭い部屋は小さなベッドの上だけが空間だった。
「このシステムで、仕事できますか」
浩平はパソコンのプロではないので、詳しいことがわかる訳ではない。ただ、ハッカーの部屋という感じがしなかっただけだ。
「そりゃあ、揃えたいものは、いろいろありますけど」
「池崎さんが、理想とするシステムにするには、どのぐらいの費用が必要ですか」
「理想ですか」
「夢でも、いいですよ」
「二百万、くらい」
「わかりました。三人分で六百万出します。それで、出張作業も可能ですか」
「はい」
「多分、この最初の仕事は皆さんにとっては簡単な仕事だと思います。この仕事に成功すれば、継続的に仕事を用意します。勿論、犯罪行為になる仕事です。あなた達が警察に拘束されたとしても、保田さんや僕の名前は出してはいけません。この約束を破れば、命にかかわる事態になると思ってください。いいですか」
「はい」
「成功するでしょうから、成功報酬は先払いします。設備費用込みで、お一人三百万です。やっていただけますか」
「やります。もちろん、やります」
設備の更新は、どんな「おたく」にも魅力のある条件となる。他の二人の顔色も明るいものになっていた。
「僕は、あなた達に九百万投資します。どうしてか、わかりますか」
「・・・」
「仕事だからです。遊びは卒業してください。できますか」
「はい」
「九百万は今日中に届けます」
「どこに、侵入すればいいんです」
「厚労省のホームページです」
「簡単じゃないですか」
「どこをクリックしても、我々が用意したページに飛ぶようにしてください。できれば、ホームページの閉鎖ができないようにしてください」
「うんんん。閉鎖の件は難しいです。ハードを切り離されたら、閉鎖になってしまいます」
「その時は仕方ありません。もう一つ。省内で誰もがアクセスするアプリケーションかデータベースにも同じ効果が出るようにしてください」
「わかりました」
「すぐに、プログラムの修復に動くでしょう。三日間ぐらいの修復時間がかかる仕掛けがいいですね」
「三日ですね」
「敵も侵入経路を追うでしょう。ここが突き止められる危険がある場合は、その対策をしなければなりません。ネットカフェは駄目ですよ。防犯カメラの山ですから。不可能と思われる方法でも、一度は検討させてください」
「はい」
「これは、手始めです。究極の目的はネットを支配することです」
「はい」
浩平と直人はパソコン部屋を後にした。自分の部屋に戻り、直人に九百万を持って行ってもらった。
夜になって保田が浩平の部屋にきた。
「ありがとうございます。みんな、別人になりました」
「犯罪に引き込んでしまった。いいのかな」
「あの三人は、いずれ自分自身を殺す危険がありました。犯罪ですけど、生きる場所を提供したんです。納得してると思います」
世間と折り合いがつけられない人間が犯罪を犯す。チーム片山のメンバーもそういう人間の集まりなのだろう。犯罪予備軍は日本中に溢れている。「自分族」の増殖が、いつか日本を食いつぶすことになるのだろう。直人は世直しと言い、保田は仕返しと言った。浩平も悪の金字塔を建てることしか残っていないのか。結論の出ないまま、動き始めた。
二週間後、準備ができたと池崎から連絡があった。侵入してプログラムを埋め込むと同時に、いろいろな掲示板に厚労省のホームページにレアな画像があという書き込みをする。その画像は木谷がSMプレイをしている画像で、木谷の役職、名前、そして自宅の住所も電話番号も記載されているものだった。協力してくれた古川美和の顔にはモザイクをかけてある。
通常の数十倍のアクセスがあり、厚労省はハードウェアの切り離しを行ったが、木谷の画像は大勢の個人にコピーされており、いろいろなサイトに溢れかえった。厚労省内でも、業務がストップし、プログラムの修復に徹夜の作業が続いていると橋本順也から聞いた。多分、木谷は自宅に戻ることはないだろう。家族の順風満帆な生活は終わっているはずで、子供たちは転校することになる。そんな家族のところへ帰れる訳がない。自宅は直人と志保が監視している。木谷が帰宅したという報告はない。
一週間後、浩平は橋本に電話して省内の様子を聞いた。橋本からもらっている排除リストには木谷の名前があり、これで競争相手が一人減ることになる。木谷は依願退職をしたと橋本は冷静な声で言った。問題を起こした官僚を雇ってくれる民間企業はなく、省としては外郭団体に天下りさせることもできない。木谷は自分で職探しをすることになる。厚労省の方を監視していた保田から、警護が外れているという報告があった。木谷はホテル住まいを余儀なくされていたが、自宅に戻らなければホテル代にも困るだろう。浩平は木谷の自宅の近くで張り込んだ。
午前零時を過ぎて、ぼんやりとした人影が見えた。浩平は木谷が通過するのを待って車を降りて、声をかけた。
「ひっ」
振り向いて、浩平の方を見たとたんに、木谷はその場にしゃがみこんだ。
「話があります。乗ってください」
「わわわわ」
木谷はイヤイヤをした。
「金がいるでしょう。奥さんは出してくれませんよ」
奥さんからどうやって金を引き出すか。そればかりを考えて、ここまで来たはずだ。奥さんは出してくれないと浩平に言われると、その通りだと自分でも思っている。木谷はわかりやすい性格だった。
浩平が車の方へ戻ると、木谷は起き上がってやってきた。
「どうしてですか」
「すみません」
「うまくいってたじゃないですか」
「すみません」
「もっと、うまく立ち回れるとおもったんですか」
「・・・」
「木谷さんには刑事罰もあるんですよ。理解できません」
「はい」
「依願退職だと聞きました。刑事罰を受ければ、懲戒免職もありますよ。退職金はなくなります。奥さんは、そのぐらい予想してます。それなのに金を出してくれると思いますか」
木谷は元気なく首を振った。
「ネットで、木谷さんの背任と横領の噂を流せば、警察は捜査を始めます。政治家がからめば東京地検も動きます。どうするつもりですか」
「あああ」
「木谷さん。外に漏れては困ることを、あなたはいろいろ知ってますよね。守秘義務などと言ってる場合じゃありません。洗いざらい吐き出してください。僕が役に立つと判断すれば、金を出します。このままだと、ホームレスですよ。金がいりますよね」
木谷は、コックリと頷いた。
「それと、もう一つ。これ以上、その悪い頭で考えをめぐらさないことです。また、ドジ踏みますよ」
浩平は木谷を乗せたまま、都心のホテルまで連れて行った。
「ここは、三日間予約をとってあります。料金は僕が払います。逃げだしてもかまいませんが、次はありませんよ。前久保さん、どうなりました」
「ひっ」
浩平はノートとボールペンを渡して、ホテルを出た。木谷が本気で書いて、最後にサインをさせれば、もう立派な内部告発書になる。


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海の果て 第1部の 5 [海の果て]


11

浜中調査事務所の探偵が一ヶ月間、木谷昌一に張り付いて行動を調べていた。土曜日にゴルフをしない日はないので、金曜日の夜は自宅に帰る。自宅は目黒の官舎。浩平は草むらで木谷昌一を待った。購入した中古のワンボックスカーで阿南が待機している。遅い時間なので、人影はない。男が一人近づいてくる。写真で見ただけでなく、実物も見ているので、男が木谷昌一に間違いないと確信した。草むらから出た浩平は木谷昌一の正面に立った。突然の事態に木谷の体は反応したが、表情は変わらなかった。浩平は無言のまま、木谷の鳩尾に当て身を叩きこんだ。そして、崩れ落ちる木谷の体を掬いあげて背中に乗せた。誰に会うこともなく、阿南が待つ車に着いた。後部座席で待っている阿南に木谷に渡す。人間を制圧する方法はプロの阿南の仕事である。浩平は運転席に乗り込み、車を発進させた。横浜に向かう途中で、木谷の意識は戻ったが、身動きもできないし、声も出ない。
倉庫は倉庫街とも言える場所にあるが、一番不便でさびれた場所にある。倉庫街は、深夜になり静まりかえっている。扉を開ける音が周囲に響き、思わずあたりを見回した。浩平は、頭の中で仕事のスケジュールに扉の改造を書き足した。心配しながら扉を閉じる。暴れる木谷を肩に担いだ阿南が、地下室の鍵を浩平に渡した。地下の射撃場の片隅にある休憩室の椅子に木谷を座らせて、椅子に拘束する。目隠しがされているので、木谷の不安は相当なものになっているだろう。浩平は阿南が目だし帽をかぶるのを待って、木谷の目隠しを外した。
「木谷昌一さん、ですね」
「君は、誰だね」
「沢松と言います」
「どういうことか、説明したまえ」
「わかりました。では、これを見てください」
浩平は鞄から写真を取り出して、机の上に並べた。女王様の靴を舐めている木谷の姿や、女王様の尻の下で喜悦の表情をした木谷。SMプレイに興じている木谷の写真だったが、木谷は声を出さなかった。保田が古川美和の了解を得て撮った写真だが、保田がアパートを引き払って姿を消してしまったので、古川美和も見ることはないだろう。
「あなたには、中学生の息子さんとお嬢さんが、おられますよね」
「どういうことだ」
「二人のお子さんにこれを送ってもいいんです」
「なに」
「それと、この女性はホステスの古川美和さん。と同時に、医薬推進協会の職員のお一人でもありますね。非常勤の」
木谷の顔に動揺が走った。
「ここに、支払実績もあります。明らかに愛人ですよね。木谷さんの奥様は一流会社の会長のお嬢さんですから、離婚して生活に困ることもないでしょう。それと厚労省のホームページに、この写真を貼り付けましょうか、所属と実名入りで」
「いくらだ」
「ありがとうございます。話しが早くて助かります。ゴルフに欠席しなくても済みそうですね」
「だから、いくらだ」
「十億です」
「なに、十億だと」
「はい。初回は十億です」
「初回」
「僕は、あなたの弱みを握って恐喝しています。一回で済むと思いますか」
木谷の目が泳いだ。
「これも、見てください」
浩平は自分で作成した医薬推進協会の名簿を出した。
「この方は、OBで現在入院しておられますね。遺族年金のおつもりですか。この方は、部長の親戚の方です。そして、この方はある参事官の身内の方です。みなさん、勤務実態はありません。もちろん、古川美和さんにも勤務実態はありませんね。医薬推進協会はどんな仕事をして収入を得ているんです」
「君は、誰なんだ」
「ですから、沢松だと言いました」
「どこの、沢松だ」
「どこの、と言われましても。ただの沢松ですから」
「こんなことして、ただで済むとでも思ってるのか」
「いえ。ただでは済ませません。だから、十億だと言ってるんです」
「断る」
「わかりました。なかなか潔くって、大したものです。では、こうしましょう。あなたは、内部告発者として、この資料を野党に送ります。そして、これらの写真は厚労省の内部で配布すると同時に、ご家族にも送ります。あなたは、なにもかも捨てるつもりになったから断ったんですから、それでいいですよね。当然、部長や参事官も詰め腹をきることになりますが、彼らの自業自得でもあり、それはあなたが責を負うものではありません」
「・・・」
「ただ、証拠隠滅を図る可能性がありますから、当分の間、解放することはできません。不自由は我慢してください。死なない程度に食糧と水は供給します。これは約束します」
浩平は阿南に合図を送った。阿南が部屋の隅にあった鎖の束を持ってきて、無言で、木谷の足首に巻き、錠を取りつけていく。二人で椅子ごと木谷の体を移動させ、壁にむきだしになっている補強用のH鋼に鎖を取りつけて、錠をかけた。
「木谷さんは、無駄な努力はしない方だと思いますから、言っときます。ここは、地下室で完全防音になってます。三日したら、また来ます」
写真と資料を鞄に戻し、木谷の持ち物を全部木谷の鞄に入れて、二人は出口に向かった。二人が出口のドアに手を伸ばす前に、木谷が大声をだした。
「待ってくれ」
「大丈夫です。三日後に来ますから。三日ぐらい大丈夫、死にませんから」
浩平は大声で答えて、ドアに手を伸ばした。
「金を出す」
木谷が、さらに大きな声で叫んだ。
「そんなことない、というふうに、首を横に振ってください」
浩平は小声で阿南に言った。
「相談してるように、何か話してください」
木谷に声は聞こえないが、二人の仕草は見えている。最後に、浩平が、仕方無い、という仕草をして、木谷の所へ戻った。
「木谷さん。この話し合いの前提とルールについて、僕は最初に言うべきでした」
「金は払う」
「ルールを教えないのはフェアではありませんでした。先ず、この話し合いの前提を言います。力関係というか、上下関係ですが、九十九対一であなたは負けています。なぜなら、生殺与奪の権利は僕が持っているからです。次にルールを言います。この話し合いには、やり直しはありません。一回勝負なんです。駆け引きも交渉も必要ありません。あなたには、イエスかノーの返事ができますが、一度ノーと言えば、もう変更はできないんです。今回は、僕がルールの説明をしなかったので、一度だけやり直しをします。いいですか、上下関係とルールを充分にかみしめてから返事してください」
「だから、金を払うと言ってるだろう」
「まだ、おわかりになってないようですね。力関係は何対何でした」
「・・・」
「あなた、事務次官の前に立った時、どんな態度を取りますか。金を払うと言ってるだろう、と言いますか。違いますよね。僕は非常に気分を害しました。ですから、この話し合いは、ここまでです。今度は、事前に説明しましたから、アンフェアだとは思っていませんよ。霞が関に激震が走るのも、楽しそうだと思い始めているんです」
本気で木谷の目が泳ぎ始めた。
「もう一つ教えてあげましょう。ご家族を大事にしていないあなたですが、三日も連絡がなければ、ご家族は捜索願を出すでしょう。でも、それだけでは警察は動けません。何らかの犯罪が発生しているという証拠がいるんです。目撃情報もなく死体が出ることもなく、何か手が打てますか。あなたの携帯は、もう電波を出していません。永久に行方不明になっている人がどのぐらいいるのか、僕は知りませんが、かなりの数だと思います。現に、この地下室の下には、十体以上の死体が埋められていますが、警察の捜査はありません。行方不明のままです。ですから、木谷さんも希望は持たない方が賢明だと思います」
浩平は椅子から立ち上がった。
「ま、待ってくれ」
「・・・」
「いや、待ってください」
「木谷さん、あなた、東大卒のキャリア官僚でしょう。ほんとに、頭、悪いですね」
「お願いします」
「残念です。糞尿にまみれて、ご自分の立場をよく考えてください。それと、ここには虫が多いだけでなく、かなり大きなネズミも出ます。ですから、気をしっかり持って生き抜くことです。明日、もう一度来ます。あなたの態度が変わっていれば、話し合いに入りましょう」
浩平は木谷の叫び声を無視して、地下室を出た。
「電気はどうしましょう」
鍵をかけた阿南が聞いてきた。
「消しましょう」
地下室なので、月明かりの一筋も入ってこない。漆黒の闇の中で、一番恐ろしいのは人間の想像力だ。虫もネズミもいると言われると、想像力が虫やネズミを創り出す。木谷は一睡もできないだろう。
翌日、夜の十時に浩平と阿南は地下室のドアを開けた。約二十時間、闇の住人になっていた木谷の顔は憔悴しきっていた。縛られていた椅子を倒したままの恰好でうつろな目をしている。阿南が椅子を戻し、木谷の体を拘束していた縄を外し、ペットボトルのミネラルウォーターを渡した。小便の臭いはするが、大便は我慢したようだ。
「木谷さん。話し合いの用意はできましたか」
「はい」
木谷は浩平の方を見ずに、小さな声で返事した。
「水、飲みますか」
「はい」
自分の手の中にペットボトルがあることに気がついたようだ。半分ほど飲んで、大きなため息をついた。そして、肩を震わせて泣き始めた。泣きじゃくっていて、手の着けようがない。よほど恐ろしかったのだろう。この一日で、木谷の人生は別のものになってしまった。一生、今日の体験からは逃れることはできない。驕りの一歩先には絶望が待ち受けている。人間はそれでも生き延びたいと思う。偽物の人生を生きるために、傲慢の上塗りをすることになったとしても、生きたいと思うことになる。
トイレに行ったことで、木谷は話ができる状態になった。
「木谷さん、落ち着きましたか」
「はい」
「昨日も話しましたが、初回分として十億をいただきます」
「はい。用意します」
「ありがとうございます」
「今日、解放していただけますか」
「もちろんです。ところで、医薬推進協会の収入はどうやってるんですか」
「・・・」
「仕事をしてるようには、思えないんですが、一億五千万の収入がありますよね」
「うちの課には、同じような仕事が一杯あります。職員がする場合と外部に依頼するものがありますが、出来上がった仕事の名前だけを変更して、医薬推進協会に依頼します。だから医薬推進協会は仕事をする必要はありません。調査依頼費として、予算をつけます」
「予算の二重取りですか」
「仕事の中身までは、誰も調べません。予算さえ通っていればいいんです。誰でもやっていることです。うちの省だけではありません。先輩たちが、長い時間をかけて作り上げたものですから、当然先輩の方にも権利はあるのです」
「では、医薬推進協会の規模を秘密裏に大きくしてください。特別予算のようなものはあるんでしょう」
「はい」
「年収二千万の職員を十人増やしましょう。そして、半年に五人づつ、退職させます。退職金は一人当たり五千万にしましょう。これで、七億になります。これだけの予算を確保するのが木谷さんの使命です。年間七億です。あなた個人の腹は痛みませんし、ご家族に知られることもない。あなたさえ裏切らなければ、外部に漏れることもありません。どうですか、できそうですか」
「はい。大丈夫です」
「落ち着きましたか」
「はい」
「木谷さんが事務次官になる確率は、まだ、ありますか」
「えっ」
木谷の表情が変わった。頭は悪いが勘はいいようだ。
「どの位、ですか」
「五パーセントぐらいですが」
「五パーセントというのは、あなたが、事務次官になっても不思議ない程度ですか」
「もちろん、です。本命ではないでしょうが、可能性はあると思ってます」
「わかりました。では、事務次官になっていただきます。あなたのライバルたちは、我々が排除します。あなたは、本気で出世してください。厚労省を退官した時、あなたは解放され、我々から、自由になれます。どうです。やれそうですか」
「やります」
「悪魔に魂を売ることになりますが、それでも、やりますか」
「やります」
「よかった。一か月、あなたに時間を差し上げます。あなたの出世計画を作ってください。邪魔なライバルのリストアップと、そのライバルたちの不正を書き出してください。我々が、退官に追い込みます」
「はい」
「いいですか。今日からは、あなたの人生は変わります。出世のことだけを考えてください。女遊びも、なしです。あなたの弱点は下半身にあるんです。簡単に事務次官になれるとは思っていないでしょう」
「はい」
「入省した頃の野心を思い出して、本気をだしてください」
「はい」
「今晩、解放します。ゴルフ仲間の説得とご家族の説得はあなたの仕事です。それと、あなたの監視は続けますので、違反のないようにしてください。もう、ここへは戻って来たくないでしょう」
「はい」
「連絡はあなたの携帯にします。番号を替えないようにしてください。それと、もう一度だけ拘束しますが、これはわれわれの秘密を守るために必要なことなので我慢してください。痛いほどは縛りませんから」
「はい」
木谷の頭の中には。事務次官のことしかないようだった。
戸籍屋の大村からは継続的に戸籍を購入している。大村の勧めもあって、年配者の戸籍も購入していたが、その値段は驚くほど安かった。年配者は自分で売りに来るケースが多く、当然足元を見られて買い叩かれることになる。しかも、圧倒的に供給過剰で買手市場だった。四か所のアパートで、一般市民になるプロセスを経て、保険証と銀行口座ができるまでは時間が必要になる。医薬推進協会の職員を十人用意するために、忙しい時間が続いていた。本間直人が近くのマンションの一室を借りて、探偵事務所を設立した。本間と保田の二人だけの探偵社だが、少なくとも十人規模にしてもらわなくてはならない。若いだけに本間は苦労するだろうが、本間ならできると思っている。浩平は本間が事務所設立に保田を誘ったことを評価した。自分でも保田を誘っていただろう。浜中調査事務所への依頼は木谷の監視だけを残して、国土交通省の調査に変更した。
一ヶ月後、浩平は木谷を千葉のホテルに呼び出した。
「木谷さん、元気そうですね」
「はい」
「リストは持ってきましたか」
「はい。これです」
木谷は背広の内ポケットから封筒を取り出した。
「拝見します」
所属と名前、そして、やっている不正とおもわれる内容が書かれた手書きのリストだった。
「手書きですか」
「データを残したくありませんので」
「わかりました。この六人がいなくなれば、事務次官はあなたのものですか」
「はい」
「一度に六人は排除できませんよ。せいぜい、年に一人か二人です」
「はい」
浩平は鞄から、医薬推進協会の職員にする名簿の紙を木谷に渡した。
「十人です。いいですか」
「はい。準備はできてます」
「よろしく」
木谷は自分の身の安全と、野望を手中におさめるために真剣になっていることが、よくわかった。やはり、官僚の能力は半端ではない。予算という伝家の宝刀の使い方をよく知っている。身銭を切るわけではない。国を食い物にする怪物だった。浩平は自分の向かっている方向が間違っていないことを確信した。こいつらを食いつぶしてやる。
浩平は自分のアパートに戻って、木谷のリストと浜中調査事務所の調査結果をつき合わせた。リストにある阿部という男には、痴漢の疑いがあるという調査結果があった。浩平は木谷に最初のターゲットの名前を告げて、阿部が持っている予算の取り込みを指示し、実行部隊の本間を呼んだ。
「何日か、この阿部という男を尾行してくれ。朝だけでいい」
「はい」
浩平は調査資料を本間に渡した。
「痴漢ですか」
「やらせの痴漢事件をやる。この男の、好みの女を雇ってくれ」
「わかりました。ただ、事件にすればいいんですか」
「できるだけ大騒ぎにして、新聞沙汰にできれば、手が省ける」
「明日の朝からやります」
「女の子の報酬は、出し惜しみするな。こっちが調べられたんでは困る」
「はい」
二週間後の新聞に公務員の不祥事として、阿部の事件が報道された。阿部は依願退職に追い込まれ、木谷のリストから名前が一つ消えた。


12

木谷のリストの中に、一人気になる男がいた。備考欄が空白になっている。弱みも不正の事実もないということだ。旧労働省系の課長で橋本淳也。年齢が木谷と一緒だということは、東大の同級生なのかもしれない。痴漢事件で阿部を潰したあと、本間にはこの橋本を徹底調査するように言っておいた。
本間探偵事務所の三人が浩平の部屋に集まっている。本間と保田、そして痴漢事件で被害者になった広岡志保という女子社員の三人。広岡志保は本間と同じ施設で育った。本間より一歳年上のホステスをやっていた女の子だった。高校生の制服を着れば、誰が見ても高校生と思う童顔の小柄な女の子だが、目はしっかりしていて、その気の強さがホステス稼業の邪魔をしてると本間が言っていた。
「不倫しています」
「ほう」
「同じ課の米沢真理という三十歳の女です」
本間が写真の束を見せた。華奢な感じの美人だった。
「不倫するようには見えないね」
「片山さん」
保田が軽く手を挙げた。
「内気で、奥ゆかしくて、優しそうな女だと思ってるでしょう。でも、この手の女が一番したたかなんです。怖い女ですよ」
「・・・」
「片山さんの弱点は、女ですね。その弱点を克服するためには、無条件で、女は信用しないことです」
「保田さん。それは言い過ぎだろう」
本間が驚いて、遮った。
「本間さん。それは間違い。片山さんは、僕たちのボスだろ。ボスが間違った判断をすれば、どうなる。ゴメンでは済まないと思うよ」
「でも、そこまで言わなくても」
「わかった。ここは、保田君の言うことが正しいと思う」
「志保ちゃんでも、片山さんなら簡単に騙せるよね」
「保田さん」
「だって、それが本当のことだろう」
「私は、片山さんを騙したりしない」
「どうして」
「だって、片山さんはカッコいいもん」
「立場が立場だからだろう」
「それもあるけど、私はそんなことしない」
「保田さん、もういいじゃん」
「保田君を先生にする。自分でも自信ない。考えてみると、僕はずっと武道としか向き合ってこなかった。女の子とデートしたこともないし、何、考えてるのかもわからない。男を倒す自信あっても、女だとどうしていいか、わからない。だから、皆の話をよく聞くことにする」
「ぜひ、そうしてください」
「ん。先、頼む」
「橋本は、もちろん妻帯者です」
橋本の自宅は国立市にあるが、月に二度ほど帰るだけで、四谷のマンションに住んでいる。賃貸だけど、高そうなマンションだと本間は言った。
「同じマンションに米沢真理も住んでます」
「同じ部屋」
「いえ、隣です」
「不倫の事実は」
「こんな写真しかありません。外で逢引している訳ではありませんので」
写真はベランダにいる橋本の写真だった。
「ここが、橋本の部屋で、こっちが女の部屋です。ベランダから行き帰してます」
確かに隣の部屋のベランダにいる橋本が写っている。
「なるほど。でも、どうしてわかった」
「最初は保田さんの勘です」
「あの目は、上司を見る目ではありません。恋人を見てる目です」
保田が言った。
「よく、こんな写真が撮れたな」
「少し離れたマンションの空き部屋からです」
「もう少し、決定的な証拠が欲しい。これだけだと、白切られるだろう」
「はい。前に聞いた盗聴器を、と思っていますが、駄目ですか」
「わかった。でも、まだ監視は続けてくれ。それと、橋本の奥さんのこと、詳しく調べてくれ。浜中さんとこに、頼んでもいい」
「私、やります」
志保が身を乗り出した。
「志保ちゃん、まだ、無理。ぼくがやる。保田さんのサブ頼む」
本間が首を振った。
「うん。わかった」
橋本淳也と米沢真理の部屋に、菅原が盗聴器を取り付け、本間がデータ収集を担当して、一週間が過ぎた。チーム本間の三人が浩平の部屋に集まった。
「音声、とれてた」
「はい。バッチリです」
「で」
「二人は夫婦ですね。本物の奥さんのこと、女の方は気にもしてないようです。近々、京都に行きますよ。二人で」
「旅行」
「いや。橋本は会議です。来週の金曜日」
「ツーショットの写真が撮れそうだな」
「はい。三人で行ってきます」
「で、本妻の方は」
「すごい豪邸です。大地主の娘で、遊びまくってます。あの橋本と夫婦とは思えないっす。若くて、美人で、ナイスバディーで、公務員の奥さんって感じじゃない」
「子供は」
「いません。別居夫婦ですね」
「不倫とは言えないか」
「でも、形式上では、不倫ですよね」
「ま、証拠だけは掴んで来てくれ」
脅迫の材料としては弱いと思う。どこにでもある話で、公務員だからダメージになるという要素もない。退官に追い込むことも難しいかもしれない。
「データを置いて言ってくれ、僕も聞いてみる」
「片山さんは止めた方がいいと思いますよ」
保田が笑いながら言った。
「どうして」
「刺激強いし、また、女に対する判断を誤ることになりますよ」
「そんなに、怖い」
「はい。女は魔物です。な、志保ちゃん」
「別に」
「まあいい。魔物に会ってみよう」
三人が帰った後で、浩平は録音を聴いた。保田の言ったように魔物がいた。実物は見ていないが、写真から想像していた女とは違う女がいた。二人のセックスがどんなものかは、浩平でも想像できる。橋本は本気で女に惚れているが、女の方は楽しんでいる。橋本にとっては、この女の落差が魅力なのだろうか。浩平にはわからなかった。
京都から帰ってきた本間が一人で報告に来た。保田と志保は国立の本妻の調査に行っていると言った。
「これ、見てください」
本間が大量の写真を出した。全裸の男女が、林の中でセックスしている。すぐ下にある道路には車の通行もあるし、ハイカーの姿もある。
「女は爆発してました。俺にも、まだ信じられません」
「んんんん」
浩平は唸ることしかできない。望遠カメラの映像だが、女の表情もはっきりと写っている。数メートル先にいるハイカーを見ながら、全裸で男を受け入れている女の顔に満足そうな笑みが浮かんでいた。
「片山さんだけしゃありませんから。俺も保田さんには歯が立たないっす」
「まったくだ」
浩平はこの写真を橋本にぶつけてみることにした。勝算はないが、これが限界かもしれないという気がしていた。
まだ人通りが多いので、浩平と本間は橋本のマンションを少し離れた場所に駐車して、橋本の帰りを待った。
「直人。お前は出てくるなよ。探偵の面が割れたんじゃ商売にならん」
「はい」
本間はバックミラーで監視している。
「女が帰って来ました」
助手席の浩平は半身になって、女が通り過ぎるのを待った。実物を見ても、米沢真理は楚々とした美人だった。
「女って、訳わかんないっすよね」
「ああ」
保田の冷笑が目に浮かぶ。だが、頼りになる仲間だった。
一時間後に、橋本が帰って来たことをしらせてくれ、橋本をやり過ごして浩平は車を降りた。
「橋本さん、ですよね」
並んで歩きながら、浩平が声をかけた。
「君は」
歩を緩めた橋本が、浩平の顔を見た。
「山田と言います」
「なんだね」
「橋本さんに買っていただきたい物があります」
立ち止まった橋本の目の前に写真を出した。街灯だけの明るさしかないが、本人にはそれがどんな写真か判別できたようだ。
「五百万です」
「五百万」
「明日、また連絡しますので、よく考えてみてください」
「・・・」
「橋本さんの番号、教えてください」
「何者なんだね、君は」
「厚生労働省の方へ電話しても、いいですか」
「・・・」
恐喝の交渉では、相手の質問には答えない。
「じゃあ、明日」
浩平は背を向けて戻り始めた。
「待ってくれ」
浩平は自分の携帯に橋本の番号を打ち込んで、その場を後にした。本間は指示通り車を移動している。浩平は地下鉄の駅へ向かった。
翌日、盗聴器のデータを収集した本間が、チーム本間を連れて浩平の部屋にやってきた。
「どう」
「まだ、聴いてません」
「そうか」
四人で女の部屋のデータを再生して、聴き始めた。
「どうしたんです、遅かったですね」
「ん。一寸、問題が」
「変ですよ、課長。すぐ、食べます」
「いや。後にしょう」
「どうしたの」
しばらく、会話が途切れた。
「先に、私のこと、食べます」
「実は、京都でのこと、写真を撮った奴がいる」
「えっ。京都って、あの時の」
「ああ」
「あら」
「さっき、山田という男が脅迫してきた」
「どんな、写真なの」
「全部だ」
「持ってこなかったの」
「ああ」
「見てみたかったわ」
「脅迫されたんだ。五百万出せと」
「そう。で、どうするの」
「もちろん、払わない。次は一千万になる」
「そう。困ったわね」
「お終いだな」
「どうして」
「どうしてって、あの時のこと全部だぞ」
「払う気ないんでしょう。だったら、うっちゃっておけばいいじゃない」
「あんなもん、ばらまかれたら、もう、厚労省にはいれないだろ」
「私は、平気よ。不倫なんて、どこにでもあることだもの」
「君」
「だって、ジタバタしたって」
「私には、立場がある」
「だったら、お金払えば、いいのよ」
「何度も何度も、か」
「仕方ないでしょう」
しばらく会話はなかった。
「田舎に帰って、小さな食堂でもやろうかな、と思っている」
「食堂」
「そうだ。食べていけたら、それでいい」
「そう。だったら、そうなされば」
「君にも、来てほしい」
「どうして、私が」
「私は、君なしでは、やっていけない」
「じゃあ、私には自分の人生を選ぶ権利もないわけ」
「そんな」
「私、田舎の食堂で、料理を作ってるあなたの姿なんて見たくないし、どうして、私が食堂のおばさんにならなくてはいけないの」
「・・・」
「私は、あなたに、結婚を迫ったこと、あって」
「いや」
「私は、強い男の側にいたいの。あなたなら局長でも、いいえ、事務次官も夢じゃない。女が強い男を求めるのって、間違ってる」
「いや」
「あなたの価値は厚労省の橋本なのよ。逃げだしたら、ただのおじさん。たかが、不倫の写真ぐらいで、なにもかも捨てようと言うの」
「・・・」
「いっそ、不倫がバレたら、あんなに嫌がっていた奥さんとも別れられるじゃない」
「君は僕と一緒にはこないということ」
「ごめんなさい。私にとって、あなたは最愛の人よ。でも、自分を捨ててまで。二人とも、きっと、不幸になると思う」
「私は、君のいない人生なんて考えられない」
「だったら、厚労省辞めて、食堂のおじさんになる、なんて言わないで」
「際限なく、金を払い続けろ、と」
「他に、方法があるの。私たちを守る方法が」
「そんな、金はない。最初の五百万だって、払えない」
「言ってもいい」
「えっ」
「裏金を作らないの、なぜ」
「だって、間違ってるだろ」
「あなた、正義の味方なの、それとも、キャリア官僚なの」
「えっ」
「正義の味方で自己満足。何、気取ってるの。確かに、仕事の実力は、省内で一番。でも、仕事ができても、周囲と協調できない官僚は優秀な人材とは言えないでしょう。協調って、わかりますよね。利益を分配し合う仲間ってこと。裏金作らないキャリアなんて、キャリアじゃない。あなたのこと、皆が言ってる。だれもがやってることなのに、正義の味方やりたいというあなたの方が変だと思う。中央官庁では、あなたの方が異常なの。予算を自由に扱える中央官庁は誰のためにあるの。あなたたち高級官僚のためにあるんじゃないの。こんなつまらないことで、優秀な人材を失わないような仕組みになってる。国家予算はあなたたちのためにあるんでしょう。それを使って何が悪いの。もちろん、意地張ってるあなたも素敵だけど、そろそろ目を覚ましなさい。私はあなたのこと好きになってしまったから、こうやって付き合ってる。でもね、今だから、言うけど、あなたとのお付き合いは、あなたが厚労省辞めるまでと、私、決めてたの。だから、結婚して欲しいなんて、思ってもいない。食堂はお一人でやってください」
「君」
「今日は、もう帰ってください。それと、しばらく会うのやめましょう。多分、喧嘩になるだけだから」
それで二人の会話は終わっていた。多分、女が別の部屋に行ったものと思えた。
「保田さん。脱帽です」
「すみません。僕も、この女、ここまでの悪だとは思いませんでした。まだまだ、甘かったですね」
「すごいっす」
「橋本本人も言ってたけど、橋本はこの女と別れられないと思う。悪の道に入ってもらいましょう。我々も、五百万ぐらい取っても意味ないし。厚労省の次官になってもらう。そして、五百億稼ぎましょう」
「五百億ですか」
「先ず、橋本の希望通り、離婚させてやる。そしてあの女と結婚してもらう。あの女は僕たちの守り神になれる。だろう」
「はい」
「本妻の方の不倫事実をつかみたい。どうだ」
「それがですね」
保田が申し訳なさそうに言いだした。
「あの奥さん、遊び好きだけど、言葉通り、遊び好きなだけみたいなんです。僕たちが調べた範囲では、男との肉体関係はありません。セックス好きじゃなく、男遊びが好きな女って、いるでしょう。そんな女ですよ、あの奥さん」
「そうか。誰から聞かれても、友達だと答えれば済む」
「そうです」
「じゃあ、セックスフレンドを作ってあげればいい」
「セックスフレンド」
「うってつけの男を捜すことだ。金に困っているプロを捜す。保田さん、自分でやっちゃ駄目ですよ。まったく無関係な男がいい」
「わかりました。捜してみます」
木谷からもらった六人のリスト。浩平は全員消し去るつもりはない。木谷の競争相手を作っておく必要がある。橋本をその競争相手にするつもりだった。
浩平は、橋本を助手席に乗せて、代々木公園近くの路上に駐車した。橋本の顔には疲労が浮き出ている。
「どうされるつもりですか」
「金を払う」
「そうですか。じゃ、写真は没にします」
「一回では終わらないんだろうね」
「僕がやってることは恐喝ですから、要求はエスカレートすることになりますね」
「君のことを知りたいと言っても、無理か」
「勘弁してください。ただ、新種の暴力団だと思ってください」
「金は払うが、すぐには用意できない」
「いいですよ。待ちます」
「えっ」
「橋本さんのことは、調べました。金がないこともわかってます。我々の要求に応じてくれると決心していただいたことが重要なんです。時間さえあれば、金はいくらでもできるでしょう。払っていただくのは、それからで結構です。待ちますよ」
「よく、わからんが」
「あなたは、官僚錬金術を使ってません。少なくとも厚労省では、橋本さんだけでしょう。あなたの実力で錬金術を使えば、金の心配はありません。あなたが、金を払うという決心をした、ということは錬金術を使う決心をしたと解釈してます。だから、待つんです」
「そこまで」
「昨日は、五百万と言いましたが、忘れてください」
「えっ」
「三十億にします」
「三十億」
「年間十億で三年間です」
「きみ」
「難しい金額ではないでしょう」
「無理だよ」
「橋本さん。まだ、腹決まってませんか。一旦、手を染めたら、躊躇しないことです。その代わりに、あなたの事務次官就任を我々がバックアップします。厚労省のトップに立ってください」
「次官」
「もう一つ。現在の奥様、国立の方にお住まいの奥様と離婚できるようにします。あなたが慰謝料を払う必要はありませんし、奥様は反対しません」
「・・・」
「あなたの出世に邪魔になる人物のリストアップをしてください。時間は必要ですが、逐次排除していきます。あなたは、ご自分の能力をフルに発揮してもらえば、自然と事務次官の道が開けます。そして、事務次官を退官された時、我々は消えます。あなたは自由になれるんです」
「事務次官ですか」
「橋本さんも、今回、退官を考えたでしょう」
「ああ」
「たかが、不倫ですよ。無傷とはいきませんが、退官するほどのことではありません。それでもあなたは退官を考えた。多分、他の方はもっと大きな秘密を持っています。公になれば大変なことになります。懲戒免職を避けるために、依願退職を選ぶでしょう。我々には、その力があります。あなたの不倫でさえ見つけたんですから」
「わかった」
「一週間、じっくり考えてください。あなたに本物の覚悟ができるのを待ちます」
橋本をその場で降ろして、浩平は車を発進させた。橋本の決意は、まだ六分か七分の決意でしかない。本気で決断しなければ、途中でトラブルを起こすことになる。


13

橋本淳也の件が決着して、浩平は前久保健治の調査を始めた。写真を見ても強面の人事課長であることは、すぐにわかる。木谷の資料では、前久保の弱点は博打となっている。本間チームの調査によれば、新橋の秘密クラブ「まこと」に頻繁に出入りしている。そこには、洋風賭場があるという噂だったが、確認はできていない。ただ、都内にありながら、バックにいるのは、真崎組傘下の横浜最大の暴力団といわれる三宅組だった。
「あせるな。時間をかけてやろう」
クラブへの潜入ができないと、本間があせっていた。
「常連客をつかむ。その中で社会的地位が高く、スキャンダルを嫌う人間をみつける。そして、その人間の裏をつかむ。我々の、いつものパターンでやればいい」
「はい」
「危険だから、潜入は僕がやる」
「片山さんが」
「山のような暴力団相手に、直人じゃ勝てないだろう」
「まあ、そぅっすけど」
「暴力沙汰は、僕に任せとけばいい」
「はい」
「片山さん。聞いてもいいですか」
志保が恐る恐るといった声で言った。
「なに」
「直人から聞いてますけど、ほんとに片山さん、強いんですか」
「どうして」
「だって、直人の替わりはいても、片山さんの替わりはいないし」
「おいおい。直人が泣きだすぞ」
「片山さん、危ないことは全部自分でやると決めてるんですか」
「ああ、そのつもりだよ。ただ、僕はマジ強いから。心配ない」
「どの位、強いんですか」
「どのくらいと言われてもな。心配するな」
「志保、やめとけ」
本間チームの三人は帰り支度を始めた。
「直人。それ、何だ」
「は」
「その、封筒だ」
「これっすか」
本間が現金書留の封筒を浩平に渡した。封筒の宛先は、本間と広岡志保が育ったと言う施設の名前になっている。封筒の厚さから、五十万以上の金が入っているはずだ。
「直人。どういうことだ」
「えっ」
「これは、どういうことだと、聞いてる」
「それは」
「お前、この仕事、辞めろ。本間探偵事務所は保田さんにやってもらう。ただし、よそに行って一言でもしゃべったら消すぞ」
ほんの少しだけの殺気を乗せた浩平の声に、三人が固まった。
「ごめんなさい。私が最初にやりました」
「そうか。じゃあ、志保ちゃんも明日から、来なくていい」
「本間さんは、善意で」
「善意だと。おまえら、なめてんのか。この仕事。サツからこの金の出所を聞かれたら、どう答えるんだ。カツアゲしましたとでも言うのか」
「いえ」
「直人。かっこつけれるような人間じゃないだろう、俺たちは。施設の先生にいいとこ見せたかったのか」
「いえ」
「俺たちは、もう充分裏社会の人間なんだ。お前には、はなから、わかってただろうが」
「はい」
「いいか、チーム片山はここにいる四人だけじゃない。お前の甘えた考えで他の人を危険にさらすわけにはいかない。だから、外れろ、と言ってる。わかるな」
「すんません」
本間が畳に額をすりつけた。
「お願いします。やらせてください」
保田までが、畳に額をすりつけて、謝った。
「直人。性根据えて答えろ。いいか」
「はい」
「俺だったら、どうしたと思う」
「・・・・」
「答えろ。直人」
「・・・」
「匿名で送ります」
頭を畳につけたままの志保が答えた。
「直人」
「すんません。俺、間違ってました」
「何回、送金した」
「二回です」
「この仕事やる覚悟、あったんだろ」
「はい」
「皆、頭、上げろよ」
三人が、のろのろと頭を上げた。
「いい機会だから話しとく。僕たちは仲良しクラブをやってるわけじゃない。本気で悪になる気がないなら、やめてくれ。他でこのことを話さなければ、何もしない。まだ、殺人だけはしていないが、いつかはそうなる。君たちに、人殺しをしてこいとは言わないが、殺人集団の一員であることには変わりない。僕たちのやってることは暴力団と一緒。人並みの夢を諦めなくてはできない仕事だと思うし、危険の山だ。いいか、もう一度よく考えてみてくれ。今から、一週間、全員休む。続けるなら、一週間後に、ここに集合。チャンスは今しかない。次にヘマしたら、死んでもらうかもしれないから、よく考えてくれ」
「はい」
「保田さんも志保ちゃんも、よく考えてほしい」
「はい」「はい」
三人が立ち上がって、うなだれて出口に向かった。
「直人」
「はい」
「お前だけ、残れ」
「はい」
他の二人が心配そうな眼差しで本間を見つめる。本間は何度も、大丈夫だという顔で頷いて見せた。
「直人。どうしたんだ」
「はい」
「心配するようなことじゃないのか」
「いいえ」
「本間チームのボスはお前だよな。お前と違って、あの二人は表の世界で生きていけると思う。お遊びはここまでだろう。裏社会の地獄を見たお前は、僕と一緒に地獄に落ちる覚悟があると思う。僕も、お前と一緒に地獄に落ちる覚悟はある。お前一人を地獄にやるつもりはない。お前がこんなドジ踏むとは思わなかったが、それはもういい。あの二人は戻してやれ。保田さんは変わり者だから裏が合ってるのかもしれんが、志保ちゃんは裏で生きる人間には見えない。ボスは下の者に責任がある。自分の責を下の者に押しつけるような暴力団にしたいか。もう一度、最初から人集めを始めろ。地獄に落ちてもいい奴だけを集めるんだ。この仕事は、そういう仕事だ。格好つけてやれる仕事じゃない。国を相手にした喧嘩だ。いずれ、警察が束になって向かってくる。殺しを避けては通れない。警察だけじゃない、公安も情報機関も、自衛隊だって出てくることも覚悟しとかなきゃならん。半端な覚悟では乗り切れない。わかってるよな、直人」
「はい」
「ボスなんかやるんじゃなかった、と思ってるか」
「いえ」
「ボスを辞めたいなら、そう言ってくれ。僕の兵隊として、お前だけは連れて行く」
「いえ。やります」
「どうしてだ」
「片山さんと一緒にやりたいっす。俺、片山さんの役に立ちたい」
「兵隊じゃ、駄目か」
「はい。まだまだっすけど、俺、片山さんの片腕になると決めてますから」
「命を預けることより、命を預かる方が、つらい立場に立つことを忘れるな」
「はい」
「お前はあの二人には言わずに、一週間、藤沢に行け。阿南さんという人がいる。阿南さんの指示で動け。自分の命は自分で守る。この基本は変わらない。腕力は重要じゃないと言ったが、最低限の力は持ってなきゃ、ボスの役は務まらない」
「はい」
浩平は、阿南の住所を書いて直人に渡した。
直人が部屋を出て行った後で、藤沢の家に行くというメールを阿南の携帯に入れた。阿南は、倉庫の地下を改造している。舞台で使うような張り子の壁を作り、エアー配管を設置している。阿南独自のアイデアで風船射撃場にしようとしているのだ。浩平たちが銃を使う時は、一瞬の判断が生死を分ける。的に狙いを定め、集中してトリガーを引いている暇はない。セット内にあるどの風船が膨らんでも、瞬時に銃弾を撃ち込まなければならない。そんな訓練施設にしようとしていた。
暗くて庭の様子は見えなかったが、庭の畑も引き継いでやっていると阿南か言っていた。野菜に関しては自給自足の生活ができるらしい。
「どうです。工事の具合は」
「ほぼ、完成ですよ。こんな楽しい生活初めてです」
「そうですか」
新潟にいた時の、あの暗い表情は全くなくなっていて、阿南の表情は生き生きとしていた。自分の命を絶つ決意をした男が、新しい人生を生きている。束の間かもしれないが、浩平はそんな阿南の姿を見ることができたことを喜んでいる。阿南も躊躇なく地獄への道を駆け下りていってくれる仲間だった。仲間に対して、大きな責任を背負うことになるが、浩平にも地獄の現実は見えていなかった。こんなことをして、意味があるとも思えないが、意味のない世界から自分の生き様を見つけるためには、地獄の果てまで行ってみるしかないという思いが強い。戦うことしかできない人間の業なのかもしれない。
「明日、本間直人という若者が阿南さんを訪ねてきます」
浩平は、いきさつを話した。
「あいつは、僕と一緒に地獄に落ちるつもりなんです。でも、百パーセント僕が守ってやることはできません。生き伸びる力は自分でつけるしかない。自衛隊に入って、毎日の訓練で身につけた方がいいんでしょうが、最低限のことを教えてやって欲しいと思ってます。一週間では、大したことはできないでしょうが、短銃の扱いをできるようにしてくれませんか」
「一週間ですか」
「無理ですか」
「難しいでしょうね」
「じゃあ、時間を作って継続的に来るように言います。今日明日に銃撃戦をやるわけではありませんから。ただ、調査の仕事も忙しくなります。できるだけ短期間でお願いします」
「わかりました。とことん絞りますが、いいですか」
「もちろんです。ギブアップしたら放り出してください」
銃の訓練をするより、格闘技の方がいいに決まっているが、短期間で力をつける方法はない。銃という道具に頼ることが、最短の道になる。

約束の一週間が過ぎ、浩平の部屋のドアを最初に叩いたのは広岡志保だった。
「志保ちゃん」
「お願いします」
「直人から、手を引くように言われなかったか」
「言われました」
「なぜ」
「私、お金が欲しいんです」
「金を稼ぐなら、他にも方法はあるだろう」
「男に媚を売って、股を開いて、ですか」
「そうじゃなくても」
「学歴もない、手に職もない私が稼げるお金が、どのぐらいか知ってますか。自分が生きていくので精いっぱい。私は、どうしても仕送りがしたいんです。止めたくありません」
「いつから、仕送りを」
「施設を出てからです」
「志保ちゃん。この仕事はいつまでも続く仕事じゃない。いずれ、潰される」
「それでも、いいんです。私、もうホステスの仕事に戻りたくない。コンビニ強盗やって捕まるのも嫌です」
「いつか、命のやりとりをすることになるかもしれない」
「片山さんには怒られるかもしれないけど、別に命は惜しくないんです。納得できない生き方より、納得できる死の方がいい」
「志保ちゃん、男の人を好きになったことは」
「ありません」
「でも、好きな人ができたら、その人といつまでも生きていたいと思うようになる」
「そして、子供を産んで、捨てるんですか」
「志保ちゃん」
「私、片山さんのことなら、好きになるかもしれません。でも、たとえ片山さんの子供でも生むつもりはありません」
「地獄への道だよ。直人の説明が悪かったと思う」
「いいえ。直人からは聞いてます、最初から」
「んんん」
「片山さんなら、絶望という言葉、知ってますよね。絶望の真ん中から戻ってくる場所はここしかなったんです」
「・・・」
「片山さん。私が女だからって、なめてます」
「いや」
志保がバッグからナイフを取り出した。皮ケースから取り出したのは、女には似合わないサバイバルナイフだった。志保はそのナイフを両手で、逆手に持った。目が座り、手も震えていない。本気で自分自身を刺すつもりのようだ。
「わかった。もういい」
「・・・」
「やめろ」
「・・・」
「お前は仲間だ」
志保の体が痙攣している。極度の緊張感が志保の自由を奪っている。ナイフを手にしたままで危険だった。浩平は志保の指を一本づつ外すはめになった。そして、やっとの思いで志保の手からナイフを取り上げた。
次第に震えが治まると、志保の目から大粒の涙が溢れ出した。浩平には、手の付けようがなかった。黙って眺めるしかない。保田の解説が聞きたかった。女は鬼門か。
「大丈夫か」
「はい」
やっと、志保が落ち着いた。
「志保ちゃんは卑怯者だ。ナイフの次は涙。男をなめてないか」
「ごめんなさい。でも、いいんですよね」
「ああ」
「ありがとうございます」
「僕が止めることわかっていて、やった」
「いいえ。私、もう、いいかなって」
「でも、やっぱり、卑怯だろ」
「すみません」
「この」
「すみません。私、ちびっちゃったみたい」
志保はトイレに走りこみ、浩平は大きな溜息をついた。浩平の敵が浩平を分析した時、弱点の欄に「女」と書くのだろうか。志保は三十分以上もトイレから出てこなかった。
いつもの様子に戻った志保は、コーヒーを入れると言って台所に立った。そして、黙々と掃除を始めた。浩平は朝からやっている国土交通省のデータ作成に戻った。
静かにドアが開いて、直人が来た。
「志保」
台所にいる志保を見て、直人の動きが止まった。
「直人。お前、大丈夫か」
「はい」
だが、直人はその場に座り込んだ。
「直人」
直人の返事はなく、目を閉じていた。浩平は顔を近づけて直人の呼吸を確かめた。死んでいるわけではない。そのやつれた顔を見れば、限界をここまで引き延ばして来て、ここで力尽きたのがわかる。阿南の訓練が過酷なものだったに違いない。浩平は直人の体を抱えて、自分のベッドに移した。
「大丈夫。生きてるよ。寝かせておこう」
心配そうな志保に、浩平は大きく頷いてみせた。志保が台所を磨き始め、浩平も自分の仕事に戻った。時折、直人の様子を確認する。胸が上下している。大丈夫だ。
「片山さん。私、何か買ってきます」
「ん。直人が起きた時に欲しがるようなものを頼む。この一週間、きつい訓練を受けてたんだ」
「はい」
志保がバッグを持って部屋を出ようとした時に、保田が来た。
「保田さん」
「来てたのか。本間さんは」
志保は顔で浩平のベッドにいる直人の方を指した。
「行ってきます」
志保が部屋を出て行った。
「買い物に行ってもらった」
「直人は」
「体、鍛えなおしてもらった。ぶっ倒れている」
「そうですか」
「保田さんは、どうして」
「僕は、辞める気なんてありませんよ。変ですか」
「保田さんなら、普通の生活できるでしょう」
「僕に、ですか」
「ああ」
「普通の生活、ね」
「僕たちは、はみだしもん、だけど、保田さんは違う」
「違いますか」
「そう、思う」
「まっ、いいです。今日、来れば、やらしてもらえるんでしょう。この仕事」
「まあ」
「僕、扶養家族があるんです。だから、金が欲しいんです」
「扶養家族」
「本当の家族じゃありません。ガキの頃の友達とその仲間。どうして僕が面倒みてるのか、今となっては、自分でも不思議なんですがね。あいつら、放りだしたら生きていくの難しくなると思ってるんです。いきかがかりでそうなってるんですけど、そういうことってありません」
「よくわかりませんが」
「ですよね。僕の趣味だと思ってください」
「その友達、何やってるんです」
「何もしてないです。だから、扶養家族」
「何人」
「今は三人」
「今は、って」
「勝手にいなくなって、また帰って来て、増えたり減ったりです」
「何者なの、その人たち」
「パソコンおたくっていうか、ハッカーというか。ともかく、生産的な仕事は何一つできない半端な人間ですよ」
「以前、本間探偵事務所やる前は、そんなに給料なかったでしょう」
「それは、大変でした」
「女に貢がせてた」
「それもあります。だから、この仕事、助かりました。それなのに、はい、そうですかとやめる訳にはいきません。片山さんだって、僕たちの食い扶持、稼ぎたいと思うでしょう。僕にも養う扶養家族がいるんです」
「自分の命かけても、ですか」
「そういう意味では、もう一つ理由がありますね」
「何です」
「僕は、片山さんのことが、好きなんです」
「えっ」
「あああ、勘違いしないでくださいよ。僕、そっちの趣味ありませんから」
「ああ」
「僕、片山さんみたいに、なれない。女の話を例にしても片山さんにはわからないでしょうが、女がよく言う台詞です。―あなたみたいな人、初めて―なんてね。僕も、そんな心境です。別に、こんな命、いつでもくれてやりますよ」
「わかりませんね」
「でしょうね。それより、あの子も続けるんですか」
「ああ」
「やっぱりね」
「やっぱり」
「いろんな理由はあるでしょうが、あの子も、片山さんのことが好きなんです。男と女の話じゃありませんよ」
「いつも、保田さんの話は別世界だな」
「こんな奴がいてもいいでしょう」
「まあね」
「志保ちゃん、買い物だと言いましたよね」
「ん」
「迎えに行ってきます。きっと、両手に荷物かかえて、ヘロヘロいってますよ」
「そうだな」
保田が出て行き、浩平は直人の寝顔を見ながら考えた。調査はしばらく中断するしかない。保田も志保も、阿南の訓練に耐えてもらう。
二人が両手に荷物を抱えて戻ってきた。三人でほか弁を食べたが、直人が起きてくる気配はない。保田と志保も帰る様子がない。結局、三人が床の上で雑魚寝をすることになった。翌朝、志保と保田が起きて朝食の準備をしていることを知っていて、浩平は寝たまま、自分の両肩にある重みを感じていた。この先、この重みはさらに増えるだろう。予測はしていたが、現実の重みは重かった。
突然、直人がベッドの上で起き上がった。
「目が覚めたか」
浩平は起き上がって、直人に声をかけた。
「片山さん」
直人は部屋を見回し、保田と志保を見て、ベッドに寝ている自分を見た。
「すんません」
「腹、減っただろう」
「はい。いえ」
「起きろ。朝めしだ」
「片山さん。そこで寝たんですか」
「ああ。三人で雑魚寝」
「すんません」
「いいから、起きろ」
「はい。どうして、二人がいるんです」
「辞めないそうだ」
「そんな」
直人が自分の体を持ち上げるようにしてベッドを離れ、台所に行った。
「志保」
「ごめん。片山さんを脅して、オーケーもらった」
「脅した」
「ごめん」
「直人。すまん。志保ちゃんにやられた」
「片山さん」
「僕も、オーケーもらったから」
保田を見た直人に、保田が宣言した。
「すまん。お前の頭越しにやるつもりはなかったんだけど、やられた。すまない」
直人が音をたてて椅子に座った。
「腹、減った」
野菜サラダ、ベーコンとスクランブルエッグ、オレンジジュース、そしてパンが山のように机の上に並んだ。四人は黙々と食べた。こんなに作ってどうなるのかと思った朝食は全て若者の胃袋に収まった。
保田がコーヒーをいれてくれた。正直、志保が作ったコーヒーより美味い。
「どうだった」
「きつかった、です。マジきつかった」
「合格したのか」
「まだまだ、だと言われました」
「そうか」
しかし、以前の直人とは少し違うと感じた。拳銃の訓練を受けただけで、精神訓練をしたわけではない。だが、直人は脱皮しようとしていると、浩平は感じた。
「本間探偵事務所は、当分の間、休業にする」
皆の視線が浩平に集まる。
「全員で、訓練に参加してもらう。直人が受けた訓練だが、どのぐらい時間がかかるのかはわからない。探偵事務所の再開は、その後にする。それと、念のために言っとくが、チーム本間のボスは直人。異存はないな」
「はい」
保田と志保が同時に返事を返した。


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海の果て 第1部の 4 [海の果て]



浜中調査事務所が立ち上がった。出資金は浜中豊と名義だけの出資者十名で登録した。浩平は出資者に名前をださなかったが、実際の出資金はすべて浩平が負担した。固定客と社員の大半は浜中調査事務所に移ってきたので、向こうの社長が怒り狂っているらしい。浩平が月に五百万程度の匿名依頼を出すことになっていたので、設立当初から大赤字を出さずに済みそうだ。浜中の給料は会社経費で約束の一千万が出せるようになるまで、不足分は裏金で浜中に出す約束になっているが、裏の事情を知っている者は浩平と浜中だけだった。先ず、中央官庁の名簿を集め、厚労省から順に名簿を顔写真付きのものにすることをやってもらう。ターケゲットを選ぶ仕事はその後だった。

覚せい剤の取引は、月額で六十キロが限界のようだったが、後藤にはプレッシャーをかけなかった。浩平のルートがいつ無くなるかわからないから、慎重になっても仕方がないだろう。ある日突然ルートが消えた、と言われれば、その取引はなくなる。供給責任を追及しても、何も出てこない。戸籍屋を紹介してもらったり、戸籍の値段を適切なものにしてもらったりと、後藤組を利用させてもらっている。だが、後藤から取引以外の依頼を受けるとは想像していなかった。それは、若い組員を一人、引き取ってくれないか、という頼みだった。集金の金を使ってしまって、何に使ったかも言わないし、返済の目途もないので、本人は「殺してくれ」と言っているらしい。組としては、「はい。わかりました」とは言えないし、「殺す」こともできない。後藤祐樹の数少ない直系の子分なので、困っていた。金だけなら、後藤が立て替えれば済むが、使途不明では納得してもらえない。破門になるだろう。
「破門になったら、もう使えないんだろう」
「先ず、無理です」
「金額は、いくら」
「三百万です」
「なぜ、言わない」
「俺も説得したし、かなり、痛めつけられましたが、言いません。組長の説得にも応じなかったんで、それが致命傷ですかね。破門まですることないと思いますが、自分の息子の直系だから、厳しくせざるをえないんでしょう。最近、俺が稼ぐんで、派閥争いみたいになってましてね。ゴリ押しもできません」
「極道の世界も厳しいな」
「そうなんです。お願いできませんか」
「わかった。僕が引き取るよ。そして、詫び料込みで五百出す。ただ、祐樹の先輩として、堅気の仕事につけるためとしておいてくれ。取引のことは絶対出すなよ」
「ありがとうございます」
「いつ、引き取りに行けばいい」
「明日にでも、来てくれますか」
「わかった」
「ところで、先輩。なに、しょうとしてるんです」
「知らない方がいい。お前に迷惑かけないようにするから」
「そうですか」
「根回ししといてくれよ。組事務所で弁明はつらい」
「はい」
翌日、本間直人という若者を後藤組から引き取った。まだ若い。二十二歳だ。背は高くないが、顔立ちの整った男前で、かつらをつければ時代物の映画に出演できそうだった。二か月前に隣の部屋が空いたので借りていたのはこんな事を想定していたわけではなかったが、本間をそこに住まわせることにした。本間に百万渡して、引っ越してくるように言った。逃げるなら、別に追うつもりはない。組長は五百万で売った、といったが、浩平は買ったつもりはない。縁がなければ、いつかは離れていく。それでもいい。
翌日、自分でレンタカーを運転して、本間が引っ越してきた。荷物を運び入れるのを浩平も手伝った。
「このまま、浦和まで、行ってくれ」
「はい」
浦和で適当に不動産屋に入り、部屋を借りた。浩平が、手に入れた戸籍の男になり、本間が今まで住んでいた住所を書いて保証人になった。不動産屋は住民票を出せとは言わなかった。次に船橋に行って、浩平は二人目の戸籍の男になり、浦和の男が保証人になって部屋を借りた。川崎でも同じようにした。今は三人分の戸籍しかないが、戸籍屋の大村商事には引き続き、手に入れるように言ってある。何度かローテーションして、捜査の後追いができないようにするつもりだった。当面は住民票の転入をして、保険料と年金を払い、銀行口座を作る。善良な市民の形が整えば、転居したことにする、そこへ新しい戸籍の男が入居する。善良な市民となった行方不明者ができあがり、別の場所で架空の生活をすることになる。一年経てば、最初に保証人になった本間の名前も消えてしまい、本間を手掛かりとして浩平にたどり着くことも難しくなる。              今、浩平がやっているのは一年後を想定している。全てが役立つとは思っていないが、考えられる準備はすべてやっておきたかった。菅原が空き巣に入る民家を決めた時は、充分な準備をする。それが成功の秘訣らしい。今度忍び込むのは、民家ではなく国家機関だから、より緻密な準備が必要だった。想定できない事態は、いくらでも起きる。浩平の想像力が成否を分けると言っても過言ではない。時間が必要となる対策は事前にやらなければならない。
三軒のアジトの管理は本間に任せた。転出と転入、郵便物のチェック、家賃の支払いなど、月に何度かは三か所を回らなければならない。本間は必要な事以外は、口を開こうとしなかったし、その表情は暗いままだった。後藤に確認したが、もともと明るい性格ではないと言っていた。だが、浩平は自分と同じ臭いが本間という若者の中にあることを感じていた。それが、何なのかわからないが、気になることは気になる。中学の頃から不登校で、高校も行っていないと後藤が言っていた。一匹狼で、十代の頃から喧嘩は強く、不良グループも本間を避けていたらしい。
都心の北方向にもアジトになるアパートを確保するために、浩平は本間を連れて代々木に向かった。大久保でもよかったのだが、代々木でアパートを借りた。これで、本間は四軒のアパートの面倒をみなければならない。
「四軒も大丈夫かな」
「はい」
「そうか。無理なら言ってくれ。僕も行くから」
「はい」
浩平は本間を連れて新宿で電車を降りた。学生の時以来だから八年は経っていたが、歌舞伎町の人ごみは変わっていなかった。
「新宿は」
「いえ」
「どっかで、なんか食って帰るか。相変わらず、ここはあまり好きになれない」
歩いているうちに、裏道に入ってしまった。大通りに引き返そうとした時に、四人の男に取り囲まれた。いかにも筋者と思える様子なので、路地の奥でなにかが行われているらしい。浩平も本間も地味な服装なので、単にインネンをつけられている訳ではないのだろう。奥で人が争う音が聞こえてきた。
「こら、なに、見てんだよ」
「すみません。何も見てません。失礼します」
浩平は素直に謝って、引き返そうとしたが、本間が一歩前に出た。
「てめえ。何のつもりなんだ」
一人が、本間の胸ぐらを掴もうとしたが、本間は半歩引いて相手に体当たりをした。充分に体を沈めた体当たりだったので、男が後の壁に激突した。本間は、すぐに次の相手に左ストレートを繰り出したが、別の男の蹴りが本間の腹に入って、本間は前のめりになった。三人が一度に襲い掛かり、本間が地面に這った。地面に這った本間には、三人の蹴りがやってくる。浩平は背中を向けている男に前蹴りを送った。男は本間の体の上を飛び越して、一回転する。浩平は振り向いた二人の男の鳩尾に正拳を打った。男たちがその場に崩れ落ちるのを確認して、本間を立ち上がらせた。最初に壁に激突していた男が、大声を上げながら、浩平にパンチを繰り出したが、男は浩平の蹴りを受けてその場に沈んだ。
「行くぞ」
「はい」
二人は走った。もう、食事どころではなかったので、田端まで戻り、いつもの「美美亭」の野菜炒めになった。
「僕を、守るつもりだったのか」
「すみません」
「ありがとう。でも、僕のことは、守らなくていいから」
「はい」
部屋に戻って資料作りを始めた。浜中調査事務所から、厚労省の官僚の写真が集まってきている。恐喝業務の基本になるであろう、官僚のデータベース資料。それは、営業マンが顧客管理を行うソフトで、スキャナーからの顔写真も貼り付けることができるし、キーワードによるソート機能もあった。
ドアを叩く音がして、本間が顔を出した。
「おう。入れよ」
「はい」
まだ、新宿のことを気にしているのだろうか。
「茶、飲むか」
「いえ」
「突っ立ってないで、座れば」
「はい」
「冷蔵庫にビール、あるけど」
「いえ」
突然、本間は板の間に土下座をして、額を板につけた。
「すんません」
「わかったから、座れ」
浩平は少し強い声で言った。菅原の指定席になっている椅子に本間が座った。
「本間君、今から話すことは、説教じゃない。僕は、もう君とは仲間のつもりだから、そのつもりで聞いてくれ」
「はい」
「今からは、ここ、と、ここ、なんだ。これは役に立たない」
浩平は最初に、頭と胸を指でさし、拳を握って見せた。
「頭と度胸を鍛えろ。喧嘩は、もう卒業する時だ。自分の強みは喧嘩だと思ってるだろうが、餓鬼の喧嘩は終わりにする歳だと思う。いいか、一対一で、相手が弱ければ、相手を制圧できる。一対二でも、もしかすると勝ち目はあるかもしれない。でも、それ以外は、自分の負けになるんだ。素手で来るとはかぎらない。刃物やチャカを向けられて、勝てるのか。だから、喧嘩で勝とうとしても、意味はないんだ。護身用の力を持つことは必要だけど、それは喧嘩の道具じゃない。ギリギリの所を切り抜けるための道具にすればいい。僕はそうしてる。もっとも、本間君が僕のようにはなれないし、なる必要もない。僕は二十五年かけて、今の力を作った。でも、役に立つことのほうが、はるかに少ない。いいか、喧嘩に勝っても、自分の中には何も残らない。そう、思わないか。今日だって、喧嘩には勝ったけど、新宿から逃げかえっただけだ。何も残らない。多分、喧嘩の数では本間君の方がはるかに多いと思うが、何が残った。喧嘩は卒業するべきだと思う。もう、わかっていると思うけど、僕は堅気の善良な市民ではない。自分勝手な馬鹿もんにすぎん。ワルを食い散らすワルになろうとしてる、どうしようもないワルなんだ。そのために、僕は頭と度胸を鍛えてる。本間君も、今までため込んだもの、全部捨てることを、お勧めする。せっかく、破門されて、人生が変わったんだから、今がチャンスだと思う」
「・・・」
「よけいな、お世話だったか」
「いえ」
「ともかく、今日のことは、忘れることだ」
「はい」
「パソコンは」
「いえ」
「これ、手伝ってくれるか」
「俺には」
「そうか」
浩平は、パソコンの画面に目を戻した。役所の部局の多さと、公務員の多さにはびっくりする。今、一種合格者の名前を調べてもらっている。重点調査は、キャリアから始める方が効率的かもしれない。
「片山さん」
「ん」
「お聞きしても、いいですか」
「なにを」
「どうして、俺を、引き取ってくれたんですか」
「後藤君に頼まれたから。・・・でもないか」
「・・・・」
「後藤君に頼まれたのは本当だけど、別に引き受ける義理はない。君に会うまでは、なぜ、引き受けたのか、自分でもわからなかった。でも、組の事務所で会った時、これでよかった、と思った」
「どうしてですか」
「何と言うか、匂いかな。どこか、僕に似てる。それだけだ」
「片山さんに、ですか」
「いや。よく、わからん。もう、いいだろう」
「すんません」
「悩むんだったら、自分の部屋でやってくれ。気が散って、困る」
「すんません」
浩平は本間を無視して、入力作業に本腰を入れた。

久しぶりに菅原の携帯に電話した。電源を切らずに、持っているようだ。
「菅原です」
「片山です。手の空いた時に、寄ってもらえませんか」
「わかった」
三時間後に、菅原が部屋に入ってきた。
「菅原さん、携帯の約束、守ってくれてますね」
「深雪の猛特訓に耐えてる」
「ほう」
「メールでもいけます」
「すごい」
「いや。一寸、楽しい」
「よかった」
「仕事ですか」
「違います。菅原さんの仕事は民家ですよね」
「ん」
「事務所は」
「ない」
「防犯カメラが、これでもかっていう事務所に入れますか」
「んんん」
「そこで、なんですが、就職してくれませんか」
「就職」
「電気工事の仕事について欲しいんです」
「電気なんて、やったことない」
「だから、です」
「電気か」
「次の仕事になるのは、厚生労働省の建物になると思います。厚生労働省の出入業者に、すぐに入れとは言いません。電気の技術を多少覚えておいて欲しいんです。僕も就職するつもりです」
「そうか。やってみる」
「お願いします」
「でも、履歴書とか、いるんだろ」
「小さな会社なら、調査はしませんよ。旅館の番頭やってましたと書いとけば、いいですよ。上野原旅館はもうないし」
「そうか」




菅原が錦糸町の電気工事会社に就職し、浩平も田端電気という近くの会社に就職した。三週間後に本間がその田端電気に見習いで入社してきた。
「どういうこと」
本間の行動が理解できずに、アパートに戻ってから問いただした。
「すんません。片山さんが働いているのに、俺が遊んでる訳には」
「アパートの方は」
四か所のアパートの管理は本間に任せてある。
「夜、行きます。日曜もありますし」
確かに、浩平は忙しい毎日を送っていた。田端電気の勤務を終えてから、夜遅くまで資料作成をしている。ぼろアパートなので、隣の住人が何をしているのかは筒抜けだ。本間が自分だけ遊んでいるように感じても仕方なかった。最近、本間は変わった。もともと無口な男だったのだろう。無駄な話はしないが、目に力がある。浩平の一言一言を真剣に聞き、自分から前進する意欲も感じられる。拗ねた様子はなくなり、素直な、いい若者になっていた。浩平は本間に自分のバックアップをしてもらいたいと思っている。そろそろ、今度の構想を話す時期だと思った。
「僕が就職したのは、生活費のためじゃない」
浩平は新種の暴力団立ち上げの構想を話した。
「本間君には、僕のバックアップをお願いしたい。そのうちに、僕一人ではできなくなると思ってる。頼めるかな」
「俺なんかに、できることなんですか」
「僕は、そう、思ってる。せっかく、暴力団、辞めたのに、また、暴力団の一員じゃ、困るか」
「とんでもありません。ホッとしてます。片山さんに言われれば、堅気の仕事もしますけど、いつまで続くか自信ありません」
「堅気の仕事の、何が、気にいらん」
「これが、世間の常識だという態度が、駄目です」
「みんな、そこと折り合いつけて、やってる」
「でも、それが、嘘だと、知ってます。奴等は自分さえよければいいんです。俺がたいした人間じゃないこと、わかってますよ。俺も、自分さえよければ、やってますけど、それが、正しいことだとは、思ってません。極道は、自分が正しいなんて、誰も思ってない。だから、後指さされながら、極道やってます」
「そうだな」
「俺は、どうすれば、いいんですか」
「前にも言ったけど、こことここだ」
浩平は頭と胸を指した。
「本間君は、自分はここが駄目だと思ってないか」
「学校も行ってないし、勉強もしてませんから」
「受験するなら、致命傷だろうな。でも、僕たちは、そうじゃない。学歴なんか、なんの役にも立たない所で生きている。いいか、できない、じゃなくて、やるんだよ。誰かが何かやってくれる訳じゃない。自分の道は自分で作る。他に方法あるか」
「ありません」
「だから、頭を鍛えるんだ。そして、考えたことを実行するには、度胸がいる。腕力はそこそこでいい、僕はそう思っている」
「はい」
「本間君なら、できる」
「片山さん。一つ頼みがあります」
「なに」
「俺、片山さんを、ボスだと思っても、いいすか」
「僕は、仲間だと思ってるがな」
「片山さんは、俺より、年上、っすよね」
「ああ」
「ずっと、気になってしょうがないんですけど、本間君とか、君とか、やめてもらえませんか。なんか、自分が、みじめになるんです。変ですか」
「すまん。癖らしい。何と呼べばいい」
「直人です。それと、君ではなく、お前で、お願いします」
「直人君」
「違いますよ。呼び捨ての直人です」
「呼び捨てか」
「俺、まだ、呼び捨てしてもらえるだけの、信用ありませんか」
「いや。そういうことじゃない。慣れてないんだ」
「俺、頭、鍛えます。だから、呼び方替えてください。こういうの、他人行儀って言うんですよね」
「他人行儀か。わかった。替える」
「仲間って、何人ですか」
「今は、五人。菅原さん、浜中さん、阿南さんと僕たち二人。いずれ、紹介するけど、みんな年上の人ばかり。多分、将来は百人位になるかな」
「俺、五人目っすか」
「数の上では、そうなるけど、先輩後輩も、歳も関係ない。直人がトップやった方がよければ、トップになる。本人の総合力だろう。今は、言いだしっぺの僕がトップをやってるだけだ」
「総合力って、何です」
「こことここさ」
「やっぱり」
次の日曜日に、本間が秋葉原へ行って、パソコンを買いたいと言ってきた。
「こっから、使ってもいいすか」
「お前に預けてある金は、自由に使える金だよ。女に使っても、バクチに使ってもいい。必要なら、いくらでも渡す。いちいち聞くな」
「はい」
次の日から、本間は一分の余裕もない生活を始めた。寝る時間があるのだろうかと心配だった。二週間程して、本間が浩平の部屋にやってきた。
「片山さん。全然、駄目です。最初は教えてもらって、いいっすか」
「待ってたよ。一から独学は無理。いつ、来るか、待ってた」
「すんません。お願いします」
本間にパソコンを教える仕事が加わり、浩平の忙しさは、その度合いを深めた。そんな時に阿南から連絡があり、接触している筒井という男が住んでいる藤沢まで出向く必要ができた。現金を見せろと相手が言っている。浩平は一億の現金と阿南を車に乗せて、藤沢に向かった。
「これって、自宅なんですか」
「わからない。横浜で何度も会ってるから、横浜だと思ってた。何かの罠なんだろうか」
「そんな、様子ありましたか」
「ない、と思う」
「出たとこ勝負で、行きましょう。阿南さんと二人なら、なんとかなりますよ。人間相手に気道使ったことないから、一寸楽しみです」
「気道」
「自分で勝手につけた名前です」
「武道」
「その積もりですけど、多分、殺人道なんだと思います」
「どんな」
「説明は難しい」
「まあ、片山さんがいるんだから、安心してます」
「阿南さん。命、張っちゃ駄目ですよ」
「はい」
鵠沼の海岸から少し入った住宅街に筒井の家はあった。質素で古い日本家屋だった。
庭で野菜を育てている。畑にいた男が二人に近付いてきた。義足のせいか、歩き方が不自然だったが、その表情は柔和に見える。
「すまんな。こんなとこに呼び出して。説明するから、無茶しないでくれよ」
筒井は軽く両手を挙げて、降参の仕草をして見せた。
「あんたが、ボスの片山さんか」
「はい」
「阿南。少し、力抜けよ。今にも飛びかかりそうだぞ。何の仕掛けもない」
案内されたのは、広い洋間だった。
「こういう家が好きなんだけど、畳に座るのがつらくてな。コーヒー入れるよ」
「ありがとうございます」
浩平は部屋を見回した。薄っぺらな部屋ではなく、金をかけた部屋のように見えた。
「いい部屋ですね」
「そう思うか」
「落ち着けそうです」
「嬉しいね、そう言ってくれると」
コーヒーメーカーをセットしておいて、筒井が大きな本棚の方へ行って、下の方の扉を開けて何かをやっていた。
「阿南。これ、押してくれ」
阿南が本棚を押すと、本棚が簡単に動いた。壁のようにみえる板を筒井がスライドさせると、何段もの棚があらわれる。隠し戸棚だった。
「片山さん。先ず、これを見てくれ」
木箱の蓋を開けると、銃器が並んでいた。短銃、小銃、ライフル銃だ。
「手入れはしてある。すぐに使える」
別の箱には銃弾が整然と入っていた。
「実は、これを買ってもらいたい。俺のコレクションだけど、金がいる」
「見てもいいですか」
阿南が、筒井の許可をもらって、一つずつ手にとって確かめている。
「俺は、現役を引退した老いぼれだけど、静かな余生というのが性に合わん。アメリカの友人がやってるセンターの仕事を手伝わせてもらうことになった。ただのトレーニングセンターじゃなくて、殺人マシーン養成トレーニング。非合法だけど、人気があって人手がたりない。片足無くても、いいそうだ。それで、これの処分をして金を作りたい」
「それで、ここに呼んだんですね」
「これだけのもの、動かすのも大変だし、片山さんは全部買ってくれそうだったからな」
「わかりました。全部、買わせていただきますが、この家ごと売りませんか」
「家ごと」
「もう、日本には帰ってこないつもりなんでしょう」
「まあな」
「家は置いておきたい、ですか」
「ん。できれば」
「じゃあ、十年間、貸してください。十年分の家賃は払います」
「ありがたい」
「僕の希望を言います。全部サイレンサーが装着できるようにしてください。もちろんサイレンサー本体も必要です。それと、銃器の補充ルートを作ってください。爆薬も欲しいと思ってます。あと、可能であれば、マネーロンダリングの請け人になってくれるとありがたいです。これに関しては別途手数料を決めてください」
「あんた、戦争する気か」
「いえ。そんなことにはなりたくありませんが、いつか自衛隊を向こうに回して戦う必要が無いとは言えません。ずっと、先の話ですよ」
「わかった。ひっくるめて、いくらで買ってくれる」
「家賃込みで、一億。現金で」
「そうか。片山さん。もう一つ、無理きいてくれるかな」
「なんでしょう」
「横浜に倉庫を一つ借りてる。三十年契約で、まだ、半分残ってる。実は、その倉庫の地下に射撃場があるんだ。そっちも肩代わりしてもらえないか。賃料は年末に請求がくる。実は、その射撃場、使わせてる人間が何人かいて、それも引き継いでくれるとありがたい。国内には、射撃場が少ないんで、困る奴が何人も出てくる。それに、あんたたちも練習場所が必要だろう」
「もちろんです」
「その地下の施設を作るのに金がかかってる。それを、回収させてもらってもいいか。別の奴に頼むつもりだったけど、あんたの方が面倒がない」
「いいですよ。今日は一億しか持ってきてませんので、お金は後日でもいいですか」
「一千万でいい」
「わかりました。三日待ってください。持ってきます」
「よし。決まった」
「金は車にあります」
「見てみたいな」
「いいですとも」
浩平と阿南は車に戻った。
「阿南さん、品物は確かですか」
「はい。申し分ありません」
「ここに引っ越してください」
「わかりました。でも、片山さん」
「はい」
「あんた、強いだけじゃない。すごい男だよ」
「買い被りでしょう」
「いや。すごい。筒井さんも納得だろうけど、うちだって、基地が必要です。相方丸く治まるってことです」
阿南が言うとおり、浩平たちにとっては、渡りに船だった。これで、マネーロンダリングの道が開ければ、大きな収穫だ。藤沢まで来た甲斐があった。


10

電気工事会社に勤めてから半年経ったが、浩平は解雇された。突然の休みが多すぎるというのが解雇の理由だった。菅原は真面目に勤務している。もう立派に電気工としての仕事がこなせるようになっていて、誰が見ても職人の風貌になり、深雪が喜んでくれてる、と言っていた。本間は、浩平が解雇されて一週間後に依願退職をした。
「俺、どうしたら、いいっすか」
「実は、直人には、新しい仕事をやってもらいたい」
「はい」
「探偵の仕事」
「はい」
「浜中調査事務所、知ってるよな」
「はい。片山さんが仕事させてるとこですよね」
「立ち上げる新暴力団の中心は調査能力になる。浜中さんにも頑張ってもらうけど、もっと突っ込んだ非合法な調査も必要になると思う。直人は、その組織を作ってほしい。浜中さんには言っとくが、二か月で一人前になってもらえないか。本間探偵事務所を作って、人を集めて暴力団らしい調査をやってほしい」
「二か月ですか」
「ああ、そのつもりで頼む」
「任せてください、と胸叩きたいけど、がんばります」
厚生労働省の調査を始めて、半年以上になり、具体的な案件が出始めている。もっと突っ込むためには別動隊が必要だと考えていた。誰にでも、他人に知られたくない事の一つや二つはある。愛人、不倫、性癖、万引き、交通事故のもみ消し、家族の問題、と数限りがない。個人のスキャンダルを足掛かりにして業務上の不正を調べる。大きな金になるのは、この業務上の不正だ。時には、暴力や拷問も必要になるだろうが、その分野は浩平が自分でやるつもりだった。自分の我儘でやっている以上、他人に罪を被ってもらうことを少なくしたい。仲間になってくれた人は、違法を承知の上だが、この覚悟が礼儀だと思っていた。厚生労働省医薬局研究推進課の課長、木谷昌一を最初のターゲットにする。愛人問題があり、その愛人は特殊法人の医薬推進協会の職員になっている。木谷昌一はかなり派手に遊んでいて、愛人も一人ではない可能性がある。医薬推進協会の職員が、なぜ銀座のクラブに勤めているのか、以前二葉銀行の女子行員から情報を引き出してくれた保田に依頼して、古川美和という女性の調査が始まっている。この調査の期間は、浩平の指示で動くことを了解してもらっている。ホステスのマンションの近くにある安アパートを借りて、保田は古川美和に近づいた。貧乏も売りになりますから、と保田は言った。
「皆には、役得だと言われるんですが、そんなんじゃないんですよね」
「どうして」
「片山さんも、そう思ってるんだ」
「僕が思ってる、と言うより、そう聞いてる」
「吉村さんでしょう」
「ん」
「僕は、女と言う生き物、大嫌いなんです。だから、僕にとっては苦行なんです。でも、これしかできないみたい。仕事と割り切ってやってるから、なんとか」
「そうなんですか」
「好きでやってると思われてますよね」
「だろうな」
「違う才能欲しい、と思ったことありません」
「あるある」
「でも、ないんですよね」
「ん」
「今ある才能と心中するしかない。これが、生きるってことなんでしょう」
「そうかも」
「僕が、女好きになったら、女は落とせない。矛盾してます」
「探偵の仕事が嫌いですか」
「わかりません。僕、前に事務機の営業やってたんですけど、二年で辞めちゃいました。この仕事は五年続いてますから、嫌いでもないんでしょうね」
「ちょっとだけ、偉そうなこと、言ってもいいですか」
「なんです」
「人には、決められた道というか、そうしかならない運命みたいなもんがあると、僕、思ってるんです。これ、僕の場合ですけど。運命から逃げてもうまく行きません。だから、僕は、自分の運命に踏み込んでやれ、と思ってます。保田さんに、そうしろ、とは言いません。僕はそれで、随分楽になりました」
「片山さんって、訳のわからない人ってだけじゃなくて、哲学者でもあるんだ」
「嫌われたか」
「とんでもありません。好きになっちゃいましたよ。僕も、最近、そう思ってるんですよね。土足で自分の運命に踏み込んでやれってね」
「釈迦に説法だったな」
「嬉しいですよ。誰にもこんな話できなかった。片山さんって、人畜無害な顔をして、実は怖い人なんじゃないですか」
「ばれましたか」
二人は大笑いをして別れた。
四か所のアパートの管理は、浩平が引き継いでいる。船橋の帰りに錦糸町に寄って、菅原に会った。
「菅原さん。ビルの一室から、資料を取りたいんです。やってもらえませんか」
「いよいよ、始まるか」
「カメラの場所は、僕が確認します」
「助かる」
浩平は準備を始めた。医薬推進協会は新橋の雑居ビルの五階にある。田端電気の作業服に手を入れて、関東電気工事という会社の作業服にして、医薬推進協会に向かった。浩平は買い取った戸籍の沢松一郎のネームプレートを胸につけ、ワープロで打ち出した作業指示書を持っている。作業指示書の訪問会社名は、隣のビルの五階にある会社名になっていた。
ビルの入口に二台のカメラを確認。常駐管理人はなし。エレベーターにカメラ有り。階段にはカメラなし。トイレを確認、カメラなし。廊下にもカメラはなし。浩平は堂々と医薬推進協会のドアをノックして中に入った。
「関東電気です。調べにきました」
「はあ」
事務机は十台ほどあったが、年配の男性が一人と、中年の事務員が一人、どうやって暇つぶしをしようかと思っていた様子だった。
「臭いって、どんな臭いですか」
「一寸、待って、うちでは、そんな依頼してませんよ」
「えっ」
「階、間違えてるんじゃないの」
事務員の中年女性が、立ち上がってカウンターへやってきた。男性は、関係ないとばかり、窓の外に視線を移した。
「ここ、五階ですよね」
「そうだけど」
浩平はボードに挟んである作業指示書に目をやった。
「見せて」
事務員が浩平の手からボードを取り上げた。
「あなた、これ、隣のビルじゃないの」
「えっ」
「それに、入口のプレート見たの。うちは医薬推進協会」
「うわ」
「しっかりしなさいよ。急ぎなさい。火事にでもなったら、どうするの」
「はい。すみません。申し訳ありません」
医薬推進協会の部屋の中にカメラはなし。浩平はビルを出て、隣のビルに入った。隣のビルに用事がある訳ではないので、入口にあった自動販売機でお茶を買った。
日曜日に浩平と菅原は普段着で新橋のビルの下見にきた。平日と違って、車も少なく、人通りも少ない。駐車スペースにも困らなかった。
「僕も一緒に中に入れませんか」
「ん」
「盗聴器も仕掛けたいし、コピーする資料も多いから」
「片山さんと出会ってから、初体験ばかりだな」
「難しいですか」
「いや。初体験はこなしていくつもりだから、やってみよう」
「安全第一ですよ、菅原さん」
「わかってる。見てくる」
菅原は車を降りて、隣のビルに向かった。医薬推進協会が入っているビルと違って、隣のビルには、人の出入りがそれなりにある。菅原は三十分ほど出てこなかったが、両手に缶コーヒーを持って出てきた。
「片山さん、高所恐怖症はないよね」
「はい。大丈夫です」
「隣のビルは、文字通り雑居ビルで、セキュリティーは弱い。屋上に行って来たけど、隣のビルに行ける。階段にカメラないな」
「はい」
「じゃあ、二人で行こう」
「お願いします」
それからの一週間、夜遅くになって、下見を三回やった。菅原が納得できるまで、浩平は口をだすことはしなかった。菅原の許可が出て、実行は金曜日の夜と決まった。七時までに、階段を使用して最上階の空き部屋に来るように言われた。医薬推進協会に侵入するのは、深夜の一時となる。
菅原は先端に大きな釣り針のようなものがついているロープを投げて、身軽に隣のビルに移動した。ロープを張り直し、そのロープに命綱をつけて、浩平は空中を移動した。運動神経には自信がある浩平だったが、足が地に着いていない不安は大きかった。着地した時には、自然と大きな吐息をついていた。
「大丈夫か」
「はい」
屋上の扉の鍵は、菅原の手にかかり、すぐに解錠され、二人は中に入った。十一時に警備員の見回りがあることは確認しているが、警報装置の有無は確認できなかった。菅原は、階段のドアや廊下の機器を調べて、警報装置のセンサーらしきものはないと判断した。
五階の医薬推進協会に侵入し、盗聴器の取り付けを菅原に頼み、浩平は書庫とロッカーを調べた。浩平の目的は、従業員の人事資料、できれば年末調整の時の資料が欲しかった。資料は事務員の机の引き出しにあった。鍵はかかっていたが、別の引き出しに、その鍵があり、菅原の手を煩わすこともなかった。給与明細も振込銀行の資料も見つかり、浩平はコピー機の電源を入れた。コピー機の音が気になったが、他に方法がない以上危険を冒す必要がある。落ち付いてコピー作業に集中するだけだった。二十分で菅原が取り付け作業を終えて、手伝ってくれたので、約四十分でコピーが完了した。慎重に現状復旧作業をして、侵入してから四十五分で医薬推進協会の部屋を出た。隣のビルに戻り、二階の窓から地上に降り、菅原が調査した逃走経路で大通りに出た。終電も終わっているのに、まだ多くの酔っ払いが動いていた。タクシーで代々木まで行き、五分歩いて代々木のアパートに入った。あとは静かに朝まで眠ることだ。菅原との間に会話はほとんどない。浩平は目を閉じて、今度の仕事を最初からたどってみた。移動手段と運転役が必要だと反省した。タクシーでの移動は危険がある。車とナンバープレートを手に入れる。小さな倉庫を借りて、駐車場として使う。資料を盗み出す仕事はこれからもあるから、高性能なカメラも必要だ。コピー機を動かしてたんでは駄目だと思った。まだまだ、準備することは一杯あった。
翌日は、近くにある月極駐車場の契約をして、レンタカーも一か月借りた。毎日データを取りに新橋まで行かなくてはならない。資料にあった医薬推進協会の職員のうち、古川美和を除いた職員の調査を浜中調査事務所に依頼した。
一週間、盗聴データを確認したが、事務所の中は静かなもので、いつもの二人の声しか録音されていない。女子事務員が長電話をしている時は、あの年配の男性職員も来ていないようだった。給与明細では、年収一千万を超える職員が六人はいるはずだったが、その姿もない。私用電話以外の電話がかかってこない。仕事をしている様子もない。経理資料によれば一億五千万の収入があり、その大半は人件費になっている。調査中の職員が何者かがわかれば、そのカラクリも解明できるだろう。


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海の果て 第1部の 3 [海の果て]




浩平と原深雪は二葉銀行本社の前に立った。平日だったので、学校はズル休みになる。
「深雪ちゃんは、何もしゃべらなくてもいいよ。表情は、知らん顔。ボイスレコーダー役のために来たと思っていればいいから」
「はい。そのつもりです」
立派なビルに入った。正面ホールは広く、受付カウンターまでは少し距離があった。
「アポイントはありません。御社の不正に関して、ご相談したいので、担当の部署の方に、お願いします」
今日の浩平はダークスーツにネクタイも締めている。くすんだ赤のネクタイで、柔らかな雰囲気を出したつもりだ。深雪は制服に通学鞄。
「あの。失礼ですが、お名前を教えていただけますか」
「この人は、原深雪さん。私は片山といいます。原さんが被害者です」
「弁護士の方でしょうか」
「いいえ。今日はこの子の親代りとして来ていますので、弁護士ではありません」
弁護士かと言う問いに対して、否定も肯定もしない。相手が勝手に弁護士と判断するのは勝手だ。
「もう少し、具体的に教えていただけますか」
「申し訳ありません。微妙な内容なので、勘弁してください。しかるべき方にお話したいのですが」
「すみません。内容もお聞きせずに、連絡できないことになっておりますので。是非、教えてください」
「そうですか。では、詐欺と横領、確定はしていませんが、もしかすると殺人も視野に入れた不正だとお伝えください」
「うちの社員がと言うこと、ですか」
「はい」
銀行に対する、ゆすり、たかりは日常茶飯事なのだろう。受付嬢には、何の動揺もない。
「しばらく、お待ちください。聞いてみます」
別の受付嬢が、二人を椅子に案内した。電話の内容を聞かせるつもりはないのだろう。浩平は素直に従った。時間は九時三十五分。浩平に緊張感がないので、深雪も平然としていた。七分ほど過ぎて若い男子社員が、受付嬢から話を聞いている。多分、浩平と同年代だと思われるが、自分はエリートだと宣言しているようだった。男が気取った歩き方で、浩平たちが座っている方へ歩いてきた。
「片山さまでいらっしゃいますか」
「はい」
「私、総務の二階堂と申します。お話を伺います。こちらへどうぞ」
浩平と深雪は、気障男の後ろから、小さな応接室に入った。
「二階堂卓也です」
男が名刺を出した。
「申し訳ありません。今日は名刺を持ってきておりません。片山といいます。こちらは、原深雪さんです。被害者の方です」
「どうぞ」
二階堂が二人に椅子を勧めて、自分も座った。
「何か不正に関するご相談だと伺いましたが」
「はい。二葉銀行の社員の方による、詐欺と横領です」
「受付では、殺人の話もしておられましたが」
「殺人については、状況証拠だけですから、私たちでは証拠を示すことはできません」
「そうですか。では、詳しい内容をお話いただけますか」
二階堂は、ノートを広げた。
「二階堂さん。大変申し訳ありませんが、あなたは総務課の社員ですよね。私は会社として責任を取れる方、頭取とは言いませんが、役員の方にご相談したいと思っています。ですから、その手続きをお願いしたいのですが」
「大丈夫です。私が会社を代表してお聞きしますから」
「内容も言わないで、申し訳ありませんが、あなたに責任が取れるようなことではないんです。ぜひ、担当の役員の方に取り次いでください」
「内容も知らずに、取り次ぐのは無理です。私がお伺いします」
「二階堂さん。私たち、軽い気持ちで来ている訳ではないんです。実は、ここに来ること、かなり、迷いました。雑誌社の友人のとこへ行くべきか、直接、警察へ行くべきか、でも、当事者の話し合いが全くないのは、フェアではないと思って来たんです。ですから、あなたの一存で断っていただいても、いいんです。一応、こちらとしては、誠意を示したという実績だけを知っておいていただければ」
「無理を言われても困ります。子供の使いじゃありませんので、内容はお聞かせいただかないと困ります」
「二階堂さん、将来、あなたが役員になられた時には、あなたにお話します。でも、まだ平社員のあなたにはお話することはできません。それと、あなたは、もう責任を負っていらっしゃる。私たちが、このまま帰った場合、二階堂さんに断られたことは公表します。これが、二葉銀行の対応だった、と言うことになります。この件は、二葉銀行さんの信用を大きく傷つけるだけではなく、金融機関の在り方に一石を投ずることにもなりますので、業界での二階堂さんのお名前は、一躍有名になると思います。私は、どちらでもかまいません。役員の方を連れてきていただくか、私たちが、このまま帰るか。あなたが、決めてください」
「ですから、お話を」
「わかりました。従いましょう」
浩平は深雪の方を向いて手を出した。
「もう、切ってもいいよ」
「はい」
深雪が鞄から出したボイスレコーダーを浩平が手にした。
「申し訳ないが、会話は録音させていただきました。あとで、言った、言わないということにならないように。失礼します」
浩平が席を立ったのを見て、深雪も席を立った。
「待ってください。僕は何も」
「二葉銀行さんにも、チャンスをと思って来ただけです。これ以上、押し問答するつもりはありませんから。それと、あなたのキャリアを潰してしまったことは謝ります」
浩平は二階堂に頭を下げた。
「待ってください。取り次ぎます。ですから、座ってください」
二階堂は、自分のキャリアのことを言われて、突然変わったようだった。もし、これがマジネタだったら、キャリアどころの話ではない。職を失うことになる。
「二階堂さん」
「ほんとです。このままで、お待ちください。お願いします」
二階堂が立ち上がって深々と頭を下げた。
「わかりました。一度だけ待ちます」
「お願いします」
浩平は座りなおして、時計を見た。浩平と深雪が座るのを確認して、二階堂がドアに向かった。
「二階堂さん」
「はい」
ドアの取手を持ったまま、二階堂が振り向いた。
「今、十時十五分です。十五分だけ待ちます。十五分以内に話し合いが始まるように希望します。それと、話し合いは、ここで、この場所でお願いします」
「せめて、三十分、いただけませんか」
「二階堂さん」
「わかりました」
二階堂が部屋を飛び出して行った。
浩平はホイスレコーダーのスイッチを入れて、深雪に渡した。
約束した十時半にあと一分を切った時に部屋のドアが開いた。そして、六十前後の痩せた紳士が部屋に入ってきた。続いて身を固くした二階堂が入り、更に数人の男たちが入ってきた。
「渋川といいます」
紳士が名刺を出した。常務取締役となっていた。
「片山といいます。こちらは被害者の原深雪さんです」
「お掛けください」
「はい」
「二階堂君。お茶も出てないのかね」
「すみません」
「お茶は、私がいらないといいました」
「すぐに、用意しなさい」
渋川と二階堂以外に部屋に入ってきたのは三人。狭い応接間なので、ドアの前に並んで立っている。
「渋川さん。大変失礼ですが、あなたが、常務取締役であるという証明をしていただけませんか」
「どういうことかね」
渋川は気分を害したようだった。
「初めてお会いする方なので、名刺をいただいても、ご本人かどうか、私にはわかりません。お願いします」
「どう、証明しろと言うんですか」
「証明は無理ですか」
「私は、間違いなく渋川です。本人が言ってる。確かでしょう」
「銀行の方は、押し問答が好きなんですか」
「どういう意味です」
「今は、面子を捨ててください。せっかく話し合いの席につかれたんですから」
ドアのところに立っていた案山子の一人が、渋川に近寄って耳うちした。渋川が頷き、案山子がドアを開けて走った。
「今、証明を持ってくる」
「ありがとうございます。失礼をお許しください。それと、もう一つお願いがあります。いや、お願いじゃなくて、これは助言です。渋川さんだけが、この話を聞かれることをお勧めします。これは、前代未聞の不祥事になる可能性があります。このことを知っている人間は限定すべきだと思います。どんな状況で内部告発が出てくるか、わかりません」
「・・・」
「簡単な話ではありません。詐欺と横領、しかも暴力団がらみです、その上、殺人の可能性すらあります。多分、頭取の辞任ぐらいではすみません。この場に出てこられた渋川さんは、否応なく詰め腹を切らされます。この件は、なにがなんでも、闇の中で処理する必要があると思います。ただ、これは、あくまでも、二葉銀行さんの問題であり、私たちには、失うものは何もありません。ですから、助言だと言いました」
「わかった」
渋川は後を向いて、頷いてみせた。
残っていた案山子の二人がドアを開けた。入れ違いに最初の案山子がパンフレットを手にして入ってきた。受け取った渋川が案山子に部屋を出るように言った。
「これが、証明になるかな」
パンフレットには、役員紹介が写真入りで書かれていた。
「ありがとうございます」
「話を聞きましょう」
「はい」
浩平は席を立って、ドアのロックを回した。
「この子の家は、上野で旅館をやっています。母親が一人で切り盛りをしていましたが、亡くなりました。すると、二葉銀行の上野西支店から、借入金の返済を求められました。女将の力で成り立っていたような旅館でしたから、先の見通しがないと判断されても仕方のないことです。この子もまだ高校生ですし、旅館も古いし、客観的判断でも継続は難しいと思われます。ただ、旅館の経理に計上されていた借入金残高は二百万で、銀行から返済要求があった金額は三億でした。旅館の帳面は高校生になった時から、この子の仕事だったので、帳面のことはよくわかっています。三億の借入金のことは、税理士も知りませんでした。税理士の先生は、三億もの資金需要はないと言ってます。旅館は古いけど、土地は三百坪ほどあります。それが、全て抵当に入ってました。ですから、三億の借入金を返さなければ、この子は、裸で叩き出されることになります。女将さんの死因は急性心不全でした。何も言い残すこともなく、亡くなってしまったので、そのいきさつも聞くことができません。旅館の名前は上野原旅館と言いますが、上野原旅館の口座に、三億円の入金記録はありません。税理士の先生が銀行にある書類の確認に行ってもらいましたが、銀行には書類は揃っていたそうです。ここまでの説明はよろしいでしょうか」
「何も、問題ないように、思いますが」
「では、この録音を聴いてください」
石山と安岡の会話の録音をテープに落として持ってきていた。
「いかがですか」
「これが、うちの行員ですか」
「はい。上野西支店の石山隆志と安岡純也の二人の会話です。どう思われますか」
「それを、どうやって証明するんですか」
「信じていただくしかありません。もっとも、警察に持ち込んで、音声判定をしてもらえば、何の問題もありません。支店のどなたかが聴いても、すぐに誰の声かは判明するでしょう」
「ここでの三億と、あなたの言っている三億がどうやって繋がるんですか」
「明らかに繋がっていると思いますが。証明しなければなりませんか」
「そりゃあ、証明していただかなければ」
「ヨタ話に聞こえますか」
「そうは、言いませんがね」
「そうですか。では、証明しましょう。ただし、ここからの証明は高いものになりますよ。私は、この録音を聴いていただいた時点で渋川さんから、事態収拾のご提案をいただけると思ってました。では、これを見てください」
貸付金の返済資料と通帳のコピーを出した。
「安岡が預かった資料です。三億の金は、この五社に裏融資されています。そして、これは、返済用の特別口座です。このタイトートチというのは、大里組という暴力団のフロント企業で台東土地開発という会社です。五社の貸付残高を確認していただければ、相手企業との残高不整合が出ます。表の会計では、三億は上野原旅館への貸付金になってますので、裏融資の金はすべて、石山と安岡、そして台東土地開発のものになります。ただ、銀行にあった上野原旅館への貸付の書類には、女将のサインもありましたので、偽造ではないでしょう。実に都合よく、上野原旅館の女将が死んでくれたことになります。殺人の可能性もあると言ったのは、このことです。証拠は、まだ、ありません」
「この、資料は、どうやって」
「資料の入手方法に、何か意味がありますか」
渋川が腕組みをして考え込んでしまった。浩平は渋川の反応を待った。渋川の頭の中では、いろいろな場面が想定されているのだろう。
「どう、しろと」
「録音を聴いていただいたところであれば、旅館の抵当権をはずしていただくだけで、よかったんですが、この資料をお見せしたので、別の要求をさせてもらいます。高くつくと言いましたよね」
「それは」
「調査をして、その全てを公表してください。そして、あの二人も警察に渡してください。殺人容疑は、私たちの手には負えません。その上で、抵当権は外してもらいます」
「公表するんですか」
「だって、この子の母親は、殺されたのかもしれないんですよ」
「そうなんですが、公表となると、私の一存では、ご返事できません」
「大変なことになるとは、思います。社員の個人的犯罪だとしても、銀行のシステムを利用した犯罪ですから、マスコミからも徹底的に叩かれるでしょう。公共性を求められている銀行業で、あってはならないことが、起きたんです。事態の収拾には、大変な努力が必要となります。ですから、録音を聴いていただいた時点で、もっと証明が必要なんですか、とお聞きしました。つまり、あなたが判断を誤ったために、公表ということになったんです。そこは、おわかりですよね」
「そんな」
「三十分、時間を差し上げます。あなた一人で結論が出せないのなら、協議してください。結論が出ない時は、こちらが警察に行きます。いいですか、後追いになったら、傷口はもっと大きくなります。先ほども、私の忠告を無視して、事態を悪化させました。今度は、そうならないことを祈ります」
「三十分では、とても」
「渋川さん。この期に及んで、姑息な交渉は止めませんか。価格交渉してる訳ではありませんよ。なんなら、十分にしましょうか」
「わかりました」
渋川がフラフラと立ち上がった。この部屋に来た時には自信に満ちた、やり手の銀行役員だったが、今は、一人の老人になっていた。
「渋川さん」
「は」
「あなたの時計は、今、何時です」
「十一時十分です」
「では、十一時四十分が、約束の時間ですから、走られたほうがいいですよ」
それでも、渋川の動きは鈍いものだった。
浩平はテープレコーダーと資料を、この日のために買ったビジネスバッグに戻して、姿勢を正して、目を閉じた。深雪は、よく対応してくれている。今の深雪は交渉の材料として、この場所にいることを理解している。芯の強い娘だ。このビルを出たら褒めてやろう、と思っていた。銀行は浩平のことを弁護士だと思いこんでいるかもしれない。正義の弁護士なら、不正の公表を求める。だが、事件の公表を求めたのは武器の一つにすぎない。戦いの場合、最初に負けを認めた方が、ずっと敗者になることを知っている。銀行の最高責任者が出てきて、この場で負けを認めれば、戦いは終わる。女将の死が、殺人か病死かを究明することは難しい。そうであれば、公表するメリットはない。この件が決着した後で、石山と安岡の体に聞けばいいのだ。浩平は静かに待った。
ドアをノックする音がして、二階堂がお茶を運んできた。微量の殺気を乗せた視線を送り、小さく首を横に振ると、二階堂はお茶を持ったまま引きさがって行った。
約束の時間の直前になって、二人の老人が入ってきた。一人は渋川で、もう一人は小柄な老人だった。
「町田といいます」
小柄な老人が机の上に名刺を出した。サラリーマンは名刺を出すのが好きらしい。浩平は名刺を手にした。役職名は頭取となっていた。
「片山です。こちらは被害者の原深雪さん」
「こちらの原さまには、多大のご迷惑をおかけしているようで、申し訳ないと思っております。事態の解明が終わり次第、改めてお詫びに伺います。ところで、片山さま、この事件の公表を希望されていると伺いましたが」
「はい。殺人の容疑がある以上、警察には届けなければなりません。私たちの手で、真相究明は無理だと思っています」
「我々に、その容疑を晴らす機会はありませんか」
「何か、方法がおありですか」
「ここで申し上げる訳にはいきませんが、ご納得いただける結果を出せます。うちの行員が殺人犯の場合は、当然、警察に逮捕されることになりますので、結果的に公表することになります」
「殺人犯でないことが、証明できれば、どうなさるのですか」
「公表は控えたい」
「詐欺と横領がはっきりしても、ですか」
「できれば」
「でも、もし、私が悪人であれば、二葉銀行は私の金づるになりますよ」
「仕方ありません。この時期に、これを公表することは、銀行の命取りになります。あなたに金を払い続けるしかありません」
「そうですか。頭取のあなたがそこまで、おっしゃるのなら、殺人の捜査はおまかせします。もちろん、結論はお聞きします。私たちの手には負えませんから。そして、詐欺と暴力団がらみの横領については、納得いく結論が出れば、私たちはこの件から、手を引きます。先ずは、実情を調査してください。調査内容を隠したり、嘘をついていると私が判断した場合には、私独自の行動をとります。よろしいですか」
「もちろん、です」
「あなたが嘘をついたとしても、私はその嘘の内容を証明はしません。私が、そう感じた時には、行動を起こします。よろしいでしょうか」
「はい」
「殺人に関しては、時間がかかると思いますが、実情調査には、どのぐらいの時間が必要ですか」
「一か月と言いたいところですが、二週間ください」
「わかりました。待ちましょう。それと、念のために言っておきます。私のこと、知りたいと思いますよね。敵を知ると言う意味では必須条件ですが、やめてください。事態をより複雑にしてしまいます。これも、お約束いただけますか」
「約束します」
「では、二週間後に、連絡を入れます」
浩平が立ち上がり、深雪も従った。
「片山さん。録音テープと、資料を」
「これは、お渡しできません。内容は渋川さんに伝えました。内部の方なら、簡単に調べることができると思いますが」
不正な方法で取得したものを、相手に渡すとでも思っているのだろうか。
「渋川さん。内容はわかっていますね」
「は。なんとか」
「なんとか、では困ります。調査できませんよ」
「はあ」
二階堂は内容を聞くと言って、ノートを広げたが、渋川は、全く控えを取らなかった。記憶違いがあれば、調査に支障をきたすこともある。
「私は、これで、失礼します。あとは役員である渋川さんの責任だと思います」
町田頭取は渋々と浩平たちを送り出した。
浩平は二葉銀行の本社ビルを出て、上野原旅館にいる菅原に電話をした。盗聴器の撤去はしておかなければならない。




一か月が過ぎて、殺人容疑の解明はできない、という結論に深雪も納得してくれた。最初、石山は金利差を利用して小遣銭をかせぐつもりで上野原旅館に貸付を実行したが、女将の突然の死をきっかけに裏融資が始まり、結果的に上野原旅館を被害者にしてしまうことになったようだった。女将と石山は男女の仲で、石山がよからぬことを企んでいたことは、事実だが、女将は犯罪になることを知らなかった。
相続税のために、旅館の一部を物納して資産は減ったが、残りの土地は二葉銀行が買い入れ、深雪は別の場所の小さなマンションのオーナーになった。多分、この事件での二葉銀行の持ち出し額は、二億円以内で治まったとおもわれる。信用失墜の崖っぷちにいた銀行にとっては安い買い物だったろう。横領事件が新聞に出ることもなかった。上野原旅館の従業員には退職金を払い、吉村と清水にも、お礼として百万円が渡された。借入金返済用に立て替えていた資金の返済はしてもらったが、浩平と菅原は一円も受け取らず、深雪の怒りを買ったが、それでよかったと二人とも思っている。

事件が終結して目標はなくなったが、浩平は落ち込んでいなかった。アウトローの世界に踏み込んでしまった現状を否定することはできない。浩平は究極の悪を目指してみたいと思っている。世の中には、自分さえよければという自分族が蔓延している。上野原旅館の女将のような人は、どこにもいない。他人様の役に立つことが女将の喜びだったようだ。浩平自身も最悪の自分族の一人である。今度の事件で、秘密の暴露が巨大な利益を生むことを知った。しかも、社会的に地位のある人間の方が秘密の暴露を恐れて、対価を支払ってくれるのだ。中でも、一番、恐れているのは誰だろう。政治家と高級官僚は秘密を持ち、その暴露を恐れ、金を動かす力を持っているように思える。フーバーメモの話を思い出していた。金を集めてどうするのかと言われると、返事はできない。今でも、裏金の処理には困っている。いつか答えが出ることを期待して、今は自分族からピンハネすることに専念してみようと思った。組織を作り、システムを構築して、法律を破り、集金する。これは、暴力団そのものだった。永田町と霞が関をシマとする新しい暴力団の旗揚げをしよう。日本という国を食い物にしている連中を食い物にする新種の暴力団組織。きっと面白くなる。あの盗聴器が、役に立ってくれるだろう。
「片山さん。まさか礼金がもらえるとは思いませんでしたよ」
「それだけのことを、吉村さんはしてくれたんです」
浩平は吉村を自分の部屋に呼んでいた。
「また、何かやることがあるんですか」
「いや。そういうことじゃないんです。吉村さんの尊敬する探偵さんは誰ですか。この人はすごいって人、いるでしょう」
「いるいる。うちの部長はすごいよ。片山さんも、すごいけど、部長もね」
「お幾つぐらいの人ですか」
「四十五かな」
「独立の希望とか、ないのかな」
「あるある。おおあり。社長と合わなくてね。部長がやった方がいい仕事できると思うけど、あの社長ではね。社長も、昔は優秀な探偵だったらしいけど、人格的に問題ありかな」
「部長さん、結婚はしてる」
「いえ。別れたと聞いてますよ」
「一度、その部長と会わせてくれないかな。独立の話をしたいと言って」
「いいですとも」
二つ返事で引き受けてくれた吉村からの返事は翌日にあった。三日後の夜、八時にホテルニューオオタニに宿泊している片山を訪ねてくれるように頼んだ。一人で来るようにと念を押した。吉村には結果の報告をする条件だった。
約束の時間より数分早く、浜中豊がやってきた。
「お呼びたてしてすみません。それと、独立の話だというのに、こんな若造で申し訳ないと思っています。片山浩平と言います」
「浜中です」
学生時代はラグビーでもやっていたようながっしり体型で、五分刈りの頭も、えらの張った顔も四角だった。
「うさんくさい話だと思ってるでしょうね」
「まあ」
「ですよね。実は、そのうさんくさい話なんです。僕は、無法探偵社を作りたいと思っています。その探偵社をあなたにやっていただけないかと思っているんです。こんな話、迷惑ですか」
「単刀直入ですね」
「はい」
「無法というのは、法律を破るということですか」
「はい。場合によってですが」
「どういう場合ですか」
「そこは、まだ僕にもわかりません。でも、きっとそんな時がくると思ってます」
「我々の仕事は、法律スレスレの仕事です。でも明確に法を破ることはしていません」
「浜中さんの哲学では、絶対にやってはいけないことになりますか」
「そうは、言いませんが、場合による、としか言えません」
「仕事の九十九パーセントは、今の仕事と何も変わらないと思います」
「片山さんと私はどんな関係になるんですか」
「僕は出資者であり、顧客です。運営はすべて浜中さんの仕事です。探偵社の仕事ですから秘密厳守ですが、僕の依頼する仕事は、徹底的な秘密厳守でやってもらいます。僕の仕事は、スレスレではなく、一から法律を破っています。ですから、顧客が暴力団みたいなものです。運営には気苦労があると思います」
「暴力団ですか。現実にそうなんですか」
「いや。まだです。でも、そういう組織を作る予定です」
「ううん。こんな重い話とは知りませんでした。吉村君は知ってるんですか」
「いいえ。言ってません。この先も言いません。あなただけが知っていてくれれば」
「即答する程の自信はありませんが、私のメリットはなんでしょう」
「そうですね。自分のやりたいと思う会社運営が、今より多少納得できるという可能性があることと、年収くらいですかね」
「年収ですか」
「現在の年収はどのくらいですか」
「五百ぐらいです」
「社長ですから、倍にはなるでしょう」
「年収が倍で、社長として会社を運営できる。問題は顧客が暴力団だということですね」
「いや。顧客の一部が暴力団だということです」
「どんな規模の探偵社を考えてますか」
「あなた次第です。五人でも十人でも、百人でもかまいません。本格的なリサーチ会社にしてもらってもいいです」
「いくらでも、金は出すということですか」
「はい」
「昔から、美味しい話には裏があると言いますが、その通りの話ですね」
「はい。しかも、ヤバイ裏です」
「その、中身は」
「それは、まだ、お話できません。浜中さんが引き受けてくれれば」
「でしょう、ね。破る法律は重いものですか」
「そうですね、重いと言えば重い。窃盗罪でも、そこそこの刑になるでしょう」
「窃盗罪ですか」
「今の業務遂行の中で、それに近いもの、ありませんか」
「あるでしょう。でも、逮捕されるような悪質なものはありません」
「それは、被害届けが出ない、ということですよね。被害届けが出る可能性はあります」
「殺人、強盗、放火のような重犯罪がないということですね」
「そうです」
「弱りました。この話、私にとっては、大きな魅力です。本音は即答したいぐらいです」
「よく、お考えになってからで、いいです」
「これも、答えてもらえないでしょうが、あなたは、何者ですか」
「すみません。ただ、逮捕される条件は十分に満たしているような男です」
「あなたと組めば、私もアウトローの仲間入りですか」
「出来る限り、累が及ばないようにしたい、と思ってますが、確約はできません」
「一寸、下で、コーヒーを飲んで来てもいいですか。少しだけ、一人で考えてみたいんです」
「もちろん、です」
一時間近く経って、浜中が戻ってきた。
「片山さん。この話、お願いします」
「引き受けていただけますか」
「はい。現状を続けても、年金生活が待っているだけです。自分自身が、今の生き方に納得していないことは、知っていましたが、何もせずに、今がある。あなたの話を聞いて、それを痛感しました。私には、系類もないし、誰かのために働くというモチベーションもありません。惰性だけで生きている自分に、嫌気がさしていたのは事実です。あなたと働けば、何かがあるんじゃないだろうか。この歳で考えることではないかもしれないが、充実した生き方ができるのではと。青臭い判断をしました。多分、あなたの魅力に負けたんだと思います」
「ありがとうございます」
「別に、年収に惹かれた訳ではありません。今の給料で十分です。それに、社長になりたい訳でもない。まだ、説明されてませんが、あなたとの仕事には、緊張感があるように思えたんです。それが、引き受ける理由です」
「わかりました。浜中さんとは、初めてお会いしました。会うまでは、本気でお願いするかどうか、決めていませんでした。あなたと、会話を始めて、本気でお願いする気になったんです。なぜか、わかりません。年長者のあなたには失礼ですが、仲間になれる人だと感じたんです。理屈はありません」
「そう言っていただけると、嬉しいですね。私も、まだ枯木になってた訳じゃない」
「では、共犯者になっていただいた浜中さんに、僕のやりたいことをお話します。二葉銀行の件は知ってますよね。吉村さんにも手伝っていただきましたが、おたくの探偵社にも仕事の依頼をしました」
「概略だけは」
「あの件では、差し引き一億ぐらいの利益が出ました。利益は旅館のお嬢さんのものですから、我々は何の得もありません。でも、大きな事を学びました。それは、秘密の暴露が金になる、ということです。で、一番、秘密の暴露に敏感なのは、どんな人種かと考えたんです。僕は、政治家と官僚だと思います。秘密を入手し、恐喝する集団を作ってみたいと思いました。永田町と霞が関を縄張りとする暴力団の旗揚げです。フーバーメモを知ってますか」
「FBIの長官ですよね」
「個人のスキャンダルでも不正でもいいですし、組織的な不正でもいい。日本という国を食い物にしている連中を食い物にする暴力団です。貧乏人からむしり取る訳ではないという言い訳の余地も残しました」
「壮大な計画ですが、大きすぎませんか」
「強大な人種を敵にすることで、手ごたえのある毎日が送れると思ったんです。法律は彼らを守るために作られているんです。彼らを敵に回すということは、彼らの法律を破るということなんです。僕は、敢えて、挑戦してみたい。子供みたいですが、こんな男がいても、いいんじゃないですか」
「実現すれば、快挙です」
「二葉銀行の時も、最初は何の根拠もなかったんです。積み重ねていって、事実が究明できました。だから、実現可能だと思っています」
「他に仲間がいるんですか」
「いえ。仲間になって欲しい人はいますが、まだ、話をしていません」
「吉村君は」
「浜中さんが、独立して、彼も、その探偵社で働く。それでいい、と思います」
「そうですか」
そのまま、具体化の話に移った。浜中にはやるべきことが山ほどあることがわかった。事務所の選定と確保、人材の選別と確保、顧客の確保。早くても三か月はかかると言われた。別に急ぐ仕事ではないので、納得のいく仕事をして欲しいと要望した。

翌日、深雪のマンションに電話をして、菅原への連絡方法を聞いた。だが、連絡方法はないと言われた。毎日電話してくるから、伝えると言ってくれた。
深夜の十二時を少し過ぎたころに、菅原が浩平の部屋に来た。
「菅原さん。電話してくださいよ」
「ああ」
「いないことだってありますよ。こんな僕でも」
菅原は、ニヤリと笑っただけだった。浩平の部屋に来た時に座る場所だと決めている椅子に座った。姿勢を正して、浩平の話を待っている。お見通しらしい。
「話というのは、菅原さんに、仲間に入って欲しいという話です。わかってます、菅原さんはつるまないんでしょう。そこを、曲げて、お願いしたいんです」
「なにを」
浩平は、自分の構想を話した。
「面白そうだな。いいよ」
「えっ。いいんですか」
「ん」
「ありがとうございます」
「変か」
「どうやって説得しようか、悩んだんです。なんせ、相手は菅原さんだから」
「この前、楽しかったんだ。仕事変えても、いいかな、と思ってる」
「よかった」
「それと、あんたは、信用できる。あんたの下で働く」
「いや。仲間ですよ」
「五分と五分」
「はい」
「じゃあ、この話は断る」
「えっ」
「俺は、あんたの下で働きたい。それが、駄目なら、この話はなし、だ」
「そんな」
「やめるか」
「いえ。菅原さん抜きでは、この仕事はできませんよ」
「なら、あんたが、ボス。いいな」
「はい」
「この歳になって、こんな奴に会えるとは思わなかった。声かけてくれたこと、感謝してる。楽しみだ」
「わかりました。ボスをやります。で、菅原さん。菅原さんはどの位稼いでました」
「気にしない。金のためにやるんじゃない」
「そうですか、では、とりあえず、年間、一千万でお願いします。仕事が軌道に乗ったら、成果配分しますから」
「一千万か。驚きの金額だが、あんた、金はあるんだろうから、もらっとくよ」
「ただし、条件があります」
「ん」
「携帯電話は、持ってもらいます」
「わかった」
「約束ですよ」
「わかった」

三日後に後藤祐樹と覚せい剤の取引をして、戸籍屋の名前を教えてもらった。後藤の名前を出したら、協力するように言っておいてくれるらしい。犯罪に係る部分は、自分でやるつもりだった。菅原が不法侵入する犯罪のカバーはできないが、他の人間には捜査が及ばないようにしたい。それと、片山浩平の名前で最前線にいれば、いずれ捜査の網にかかる危険があると思った。二葉銀行との交渉の時は片山浩平の名前だった。不法侵入、盗聴、窃盗、恐喝の罪を追及されても、反論のできない状況だった。相手の弱みが大きかったことと、こちらの要求が過大ではなかったことが、相手に告訴をさせなかっただけで、犯罪行為には違いない。恐喝が本業になると、相手との対面交渉は避けられない。名前を変え、変装をして、個人の特定をさせないぐらいの対策はとる必要はある。事案ごとに名前を変えるのは難しいかもしれないが、できるだけ多くの戸籍が欲しかった。
御徒町の古くて小さな雑居ビルの三階にある大村商事のドアを叩いた。ドアは半開きになっているので、そのまま入る。
「だれ」
五十代なのか、六十を超えているのか、巨漢が椅子に収まりきらずにはみ出して座ったまま、浩平を誰何した。残り少ない髪が揺れている。
「後藤さんの紹介です。片山と言います」
「おう。聞いてる。入ってくれ」
「はい」
部屋に入っている相手に入れというのも変だが、浩平は素直に返事をした。
「戸籍がいるらしいな」
「はい」
「ドア、閉めてくれ」
「はい」
金属音をたてて、ドアを閉めた。六畳一間ほどの狭い空間がゴミに近い物で埋まっている。大村商事という社名だから、部屋の主は大村というのだろう。その大村が座っている椅子以外には椅子はなかった。「座れ」とも言っていない。
「どんな、戸籍がいるんだ」
「はい。僕と同じ年頃のが」
「いくつだ」
「二十七です」
「難しい注文だ。老人の戸籍なら簡単だがな、若い奴のは、ないぞ」
「はあ」
「まあ、心当たりがないわけじゃないが、高い」
「はい」
「いくら、出せる」
「相場がわかりませんから」
「んんん。まず、一千万というとこかな、相場は」
「一千万ですか」
「女はいらんのか。女ならもう少し安い」
「女はいりません。一千万でいいです。もし、これが法外な値段だったら、後藤に落とし前つけさせます」
「わかった。手配してみよう。できるだけ安くするように、わしが交渉する。一週間後に来てくれ」
「わかりました。できれば、五人ほどお願いします」
「五人だと」
「はい」
「一度には無理だぞ」
「はい。その電話、使えるんですか」
机の上に廃品と思われるような電話機が置いてある。浩平は指差した。
「ああ」
「番号、教えてください。金を用意しますから」
大村が言った番号を携帯に打ち込み、発信ボタンを押した。
「テストですから」
大村商事の電話が鳴った。
「それと、もう一つ。問題が起きるような戸籍だと、大村さんが痛い目に遭いますから、充分、吟味してください。いいですね」
大村が口を開けたまま、頷いた。普段は、無害の男に見える片山浩平だが、殺気を乗せた発言をすると、一変する。修羅場をくぐり抜けてきたとおもわれる大村の心拍数が上昇したのが見てとれた。

浩平は新潟に向かった。覚せい剤の引き上げに専念している時に民宿のように使わせてもらった三枝直美を訪ねるためだった。海岸沿いに一軒だけのその家は、秘密の作業にうってつけで、寡婦になっている直美が一人で住んでいた。直美は薬草の専門家で、それで生計をたて、世間とは没交渉の、思いっきりの変人だった。浩平のやっていることにも、一切口を出さず、料金も取らなかった。浩平は肉体でその料金を払わされたが、海に潜るよりも過酷なものだった。直美の家にいた四か月で浩平の体重は五キロ減少していた。恋人のトラック運転手が、音信不通になって二か月過ぎた時期に浩平が現れ、直美の欲情は溢れ出したようだった。引き揚げ作業が終わり、直美から解放される喜びを味わっていた時に、恋人が現れた。一瞬だったが、義兄弟が睨みあった。阿南博信という四十前の男で、身のこなしから、明らかに武道の経験者。それも、かなりの腕とみた。阿南も浩平の力を見極めて、すぐに戦いを放棄した。その日に出発してもよかったが、武道者の血が騒いだ浩平は、トラックの運転席で一夜を明かし、阿南に戦いを申し入れた。だが。負ける戦はしない主義だ、と阿南に断られた。阿南は自衛隊の特殊部隊にいた、戦いのプロだったが、上官との折り合いが悪く、退官して、トラック運転手になった。それが、大失敗だった。民間に戦闘能力を生かすような仕事はなかった。自衛隊以外の世界を知らなかった自分が悪かったのだから、誰を恨むこともできないが、鬱々とした生活が続いた。阿南の口からは聞くことはできかったが、どうも、その半年は犯罪に係わっていたようだった。
レンタカーを借りて、直美の家に着いた。縁側に座っている阿南が、浩平の方に目を向けた。思いっきり暗い表情で、男のぬけがらのようだった。
「ご無沙汰してます。片山です」
「・・・」
まだ、思いだしてくれてはいない。
「去年、ここで、しばらくお世話になった、片山です。阿南さんですよね」
「おう」
「直美さんは」
「山」
「元気ではないようですね」
「ああ」
「阿南さんに、話があって、来ました」
「俺に」
「はい。でも、又にします。無理みたいですから」
「・・・」
浩平は車の方へ戻った。車のエンジンをかけようとしていると、阿南がフラフラと立ち上がって、車の方へ歩いてきた。
「俺に、話って、なに」
「いいんです。阿南さんがもう少し元気な時に、話しますよ」
阿南は薄く笑った。
「これ以上、元気にはならないと思うから、話せよ」
「そうなんですか」
「ああ」
「じゃあ、乗ってください」
「ああ」
「阿南さん。ずっとここに」
「ああ、生ける屍としてな」
浩平は暴力団設立の構想を話した。暴力団だから、武闘組織が必要で、仲間になってもらいたいと頼んだ。死んでいた阿南の目に光が戻ってきている。
「自分は、何をすれば」
「文字通り、武器を持って戦って欲しいんですよ。ただし、命の保証もしませんし、警察に逮捕されることもあります」
武器を持って戦うという言葉が、阿南の腹の中に火をつけたようだ。
「国と喧嘩しようって、か」
「はい。僕は相手がデカいほうが、燃えるんです」
最初、下を向いて、小さく笑っていた阿南が、身をそらせて大声で笑い出した。手の付けようがなかった。阿南は、涙を拭きながら笑い続けた。
「僕、なんか。変なこと、言いました」
笑いの治まるのを待って、浩平が聞いた。
「そうじゃない。なんか、おかしくてよ。俺、今日、死ぬつもりだった。直美は遠出だから、帰ってこない日なんだ。もう、意味ねえし、終りにしょうと思った。結構、自分では硬い決心だったのよ。でも、あんたの話を聞いただけで、生きる気になってる。笑えるよな」
「どうして、そこまで」
「戦うことしか知らない、かたわもんなんだ。娑婆に生きる場所がないことを、おもいしらされた。なんもできん根性なしさ。上官が気に入らなくて、辞めたけど、上官がいないと生きていくこともできない。そんな自分に嫌気がさした」
「そうなんですか」
「今日、捨てた命だ。片山さんに、預ける。好きなように使ってくれ」
「はあ」
「一寸、待っててくれ。荷物まとめてくる」
阿南は、しっかりした足取りで車から出て行った。そして、十分も経たずに、右肩にバックパックをかついで戻ってきた。
「これ、記念に、取っといてくれ」
阿南が、鞘つきのサバイバルナイフを浩平に渡した。
「これは」
「それで、死ぬ予定だった。行こう」
「はい」
阿南を連れ出したのが浩平だとわかった時の、直美の怒りを想像すると、一刻も早く、ここから去るべきだと浩平も思った。
東京に戻って、浩平は阿南のアパートを借り、前払だと言って阿南に二百万渡し、家財を揃えるように言った。
「ボクシングジムに行きたいけど、この金使ってもいいかな」
「もちろんです。ジムのお金は別に出します」
「いや。これで充分」
生気に満ちた阿南に戻っていた。
一か月ジムに通っている阿南が、試合に出てはどうかと言われた。
「この歳で試合になんか、出れるか、と言ってやった。あいつらのは遊びにすぎん。戦う気があるのか、聞きたいよ」
「阿南さん。無茶しないでくださいよ。我々は、善良な市民じゃありませんから」
「わかってる」
「体、鍛えるだけで、スパーリングでは負けてください」
「そうだな」
「ところで、武器の調達、できますか」
「ああ」
「どこで」
「自分が新兵の頃にいた先輩で、傭兵で海外に行ったこともある人が、横浜にいる。片足無くして、もう兵隊には戻れないけど、いろんなルートを持ってると聞いた」
「そうですか。一度、聞いてみてください。武器の選定は阿南さんがしてください。サイレンサーは絶対に必要です。だから、まがい物はだめです。まともな武器がいります」
「わかった」
今すぐ阿南の働きが必要だとは思っていないが、一年後には必要になる予感がある。選択肢は増やしておきたかった。


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海の果て 第1部の 2 [海の果て]




品物の確認のために、清水が書いてくれたイラストを頭に叩き込んで、浩平は指定された蒲田の倉庫へ車を走らせた。浩平たちの心配は杞憂に終わり、清水が作ってくれた片山商事名義の注文書を送り、取引は成立した。一億の現金が車の中にある。友人に違法行為をさせたくなかったので、清水の同行は断った。
吉村の探偵社に調査を依頼して、すでに一か月になるが、予想通り進展の望みはなくなっているのが現状だ。
カーナビのおかげで、目的地には迷うことなく行き着いた。
「うちの、取扱商品ではありませんから、商品説明はできませんよ」
東洋貿易の戸田という若い社員が愛想のない様子で言った。
「大丈夫です。向こうで説明してもらってますから。現物の確認さえできれば」
「いいですよ」
明るくて大きな倉庫だったので、違法な取引をしているという印象はなかった。清水の書いたイラストと同じ品物があり、浩平は数の確認をするだけだった。浩平はキャリングケースを戸田に渡した。銀行の帯封があるので、戸田は面倒くさい顔つきで札束の数だけをチェックした。
「これが、納品書と領収書です」
「お世話かけました」
品物の積み込みには、戸田は参加してくれなかった。余計な仕事をさせられて、ウンザリしている様子だ。
電子機器の素人である浩平には、とても一億円の価値がある品物には見えないが、戸田の無関心ぶりから想像すると、外見から判断してはいけないのかもしれない。それにしても、あっけない取引だった。
アパートの自分の部屋に荷物を入れて、レンタカーの返却に行った。品物があっても、清水がいなければ、ただの物にすぎない。
六時過ぎになって、清水と吉村が相次いで浩平の部屋にやってきた。
「急いで帰って来ましたよ」
「片山さん。何か問題ありました」
「いえ。あっけないぐらい、でした」
「よかった」
清水が段ボール箱の中から品物を取りだし始めた。
「これって、パソコン」
「ええ。改造パソコンみたいなもんです」
「こっちは、携帯」
「外見は携帯、中身は別物です。電話はかけられませんから」
吉村が言ったように、親機はパソコンと携帯電話にみえる。
「これが、固定型のセンサー、子機です。実験してみますね」
パソコンの電源を立ち上げてから、清水が子機を持って部屋を見渡した。
「ここにセットします」
清水がテレビの電源ケーブルに子機を巻きつけるようにして取り付けた。
「さっき、ここで操作した時に、あの子機にIDを送ってあります」
清水がパソコンの画面を指さして説明してくれた。
「KYS0001としました」
画面にそのIDが表示されている。
「録音開始のコマンドを送ります」
清水はパソコンのキーをいくつか叩いた。
「開始しました。子機は人間の音声に反応するように設計されていますが、人間の音声だけしか録音しないかというと、実際には雑音にも反応してしまいます。こいつのすごいところは、多くの周波数パターンをメモリーに持っていて、最適なパターンを選べることです。それと、機械的な音も選別します。たとえば、モーター音のように一定のパターンを持つノイズなどです。データとして保持できるのは五時間分ですから、ノイズを拾っていたら、すぐにメモリーが一杯になってしまいます。それと、最初にIDをセットした時に時計データのセットもされていますので、一時間ごとにタイムスタンプが記録されます。だから、いつの会話かの判別が可能です。データ送信のコマンドを送ると、最新の五時間分のデータを送ってきます。データは暗号化されると同時に指定された方式で圧縮されていて、五時間分のデータの送信時間は六秒です」
「すごい」
「たとえば、銀行の内部に仕掛けたとして、通信距離はどの位ですか」
「建物の構造によっても違うそうですが、最大で一キロと言っていましたが、実際にどの位なのかはやってみなくてはなりません」
「どう言う場所にセットするんですか」
「どんな建物でも電気系統の開口部があります。修理点検や増設のためです。天井部であったり床下だったりします。何らかの電源ケーブルのある場所です。あれは、テレビのケーブルから電力を盗んでいます」
「ますます、すごい」
「それと、子機には自爆装置があって、コマンドを送ると、溶けてしまいます。回収されて分析されることもありません」
「子機の集音能力というか、音声を拾える範囲は」
「これも、実際にやってみないとわかりませんが、実験データでは最大で五十メートルだそうです。初期設定で集音範囲の設定が可能です。これは、範囲を狭める目的です。高範囲の音声を拾ってしまうと、解析できなくなりますから」
「今も、この部屋の会話を拾ってるんでしょう」
「ええ、一度、聞いてみましょうか」
清水がコマンドを送るために、キーを叩いた。
「データが来ました。普通の音声データに変換します」
黒い画面で点滅していたカーソルの場所に日時データが現れた。
「再生しますよ」
カーソルを日時データの上に移動して、清水がリターンキーを押した。音量マークが画面に表示されて、音量「5」を指定するとパソコン内臓のスピーカーから話声が聞こえてきた。清水の声だ。明らかに、吉村の声も浩平の声も判別できる。
「どうです。優れものでしょう」
「ほんとに、すごいです」
「この親機ですけども、最初に電源を立ち上げた時は、普通のパソコンのようにウインドゥズが立ち上がります。アプリを起動して、IDとパスワードを入力するとコントローラになります。そして、この外付けの黒いボックスが通信端末になります」
「もう一つの方は」
「やってみましょう」
古い携帯電話にしか見えない親機にケーブルをつなぎ、コンセントに差し込む。
「充電します」
ちいさなケースから、プラスチックの切れ端のような部品を取り出して、親機の画面の上にあるスペースに部品をセットして、清水がキーを操作した。
「番号をセットしました」
子機から薄紙を剥がして、その子機を吉村の時計に張り付けた。
「動作開始のコマンドを送ります。この子機は動作開始から、約三十分の録音が可能です。音声だけに反応する訳ではなく、あらゆる音を拾います。集音範囲は、一メートル前後。親機との通信距離も、最大で五メートル。できるだけ近いほうがいいそうです。これにも、自爆装置はありますが、内部が破壊されるだけで、溶けたりはしません。できれば、回収した方がいいと思います。データを回収してみますね」
清水がコマンドを打ち込んだ。
「来ました」
吉村は、子機の変化を見ようと目をこらしている。
「もう、壊れたのかな」
「と、思います。僕らでは分析できませんけどね」
「変わった様子はないよ」
清水が親機を耳に当てて確認してから、浩平に渡した。浩平の耳に先ほどの清水の声が聞こえた。吉村に渡して聴いてもらう。
「なるほど」
「セットは簡単だけど、運用は難しそう。コマンド送るの、数メートルでしょう。データ回収のタイミングもあるし」
「タイマー機能はありますが、子機番号を設定してからの動作可能時間は、二十四時間しかありません。これも実際にやってみないとわかりません」
「いろいろテストしてみましょうよ」
「そうですね」
「一番の問題は、どうやって猫の首に鈴をつけるか、ですね」
「そう。僕もそう思う」
「それも、いろいろやってみましょう。僕も吉村さんと一緒に張り付きますよ」

一つ一つ問題を解決しながら、いや、問題を避けながら前に進んでいるが、時間ばかりが過ぎて行くように思える。そして、また難問にぶつかっていた。盗聴器がセットできない。固定型のセットには、銀行内部に侵入する必要があり、石山と安岡の自宅にセットするにはセキュリティーを突破しなければならない。使い切り型の子機を監視対象の二人にセットするためには、至近距離に近づかなければならない。人ごみの中で、安岡のバッグに取り付けたが、満足な結果は得られなかった。
捜査権もない、素人集団が無茶なことをしているという暗雲に覆われている。浩平は石山の拉致を選択肢にいれるようになった。暴力で石山の口を割らせる。だが、非常手段を取って成功するという確信も持てない。
「吉村さん。銀行の出入り業者を調べてくれませんか」
「いいですよ」
「僕、就職します。内部に入らなくては何もできません」
「そうですね」
「僕は、諦めません」
「わかりました」
浩平が、吉村に諦めないと宣言したのは、自分自身に宣告するためでもあった。もう、引き下がれない。
浩平は上野原旅館に向かった。返済用の資金送金はしているが、調査の進捗状況は報告していない。報告できる成果がないのだから、どうしても足が遠のく。
深雪に電話をして、帰宅時間に合わせて訪問することを伝えてある。旅館の前で、学校帰りのままの深雪と、相変わらず暗い様子の菅原が待っていた。浩平の姿を見つけて、深雪が大きく手を振っている。浩平は小さく手を挙げて答えた。持って生まれた性分なのだろうが、苦況の中でも明るく振る舞える深雪が眩しかった。
仏壇の女将に線香をあげてから、現状報告をした。盗聴器に一億払ったとは言えないので、たまたま手に入った盗聴器と説明した。
「そんな訳で、あの銀行の建物に入れる業者に就職しようと思っている。まだまだ、時間はかかると思うけど、必ず真相を明らかにするから」
「おにいちゃん。私にできること、ほんとにないの」
「ん。今はね」
「申し訳なくて、私、何かしたい」
「そうだな、そのうち、頼むことになるよ」
「ほんと」
「ああ」
待つだけの深雪も、つらい毎日だろう。他に用事があると言って、浩平は早々に引き揚げた。
自分のアパートに戻った直後にドアがノックされた。吉村と清水が来るにはまだ早い。後暗いことが増えているので、どうしても慎重になってしまう。だが、のぞき穴には菅原が立っていた。
「菅原さん」
「ん」
菅原の声を聞くのは何回目だろう。そのことが、先ず頭に浮かんだ。
「どうぞ」
1DKの狭い部屋だから、部屋と台所の間にあるガラス戸は外してあって、ワンルームボロアパートになっている。そのガラス戸のあった場所をまたいで置いてある、少し大きめの食卓が浩平の生活空間だった。
「座ってください」
浩平は椅子を勧めた。
「何か飲みます」
「いえ」
椅子に浅く腰かけた菅原が背筋を伸ばして、正面を睨んでいる。
「何か」
「盗聴器」
「はい」
「苦労してる」
「はい」
「自分が」
「菅原さんが、取りつけてくれる、ということですか」
「ん」
「深雪ちゃんが言ってた、泥棒さんの話、マジなんですか」
「ん」
「永いことやってて、一度も捕まったことがない」
「ん」
「驚いたな。協力していただける」
「ん」
「捕まるかもしれませんよ」
菅原は首を横に振った。
「そうか。プロなんだ」
菅原がニヤリと笑った。初めて見る菅原の笑顔は可愛かった。
「自宅」
「あの二人の自宅に仕掛けてくれるんですか」
「ん」
「菅原さんなら、やってくれそうですね」
「住所と盗聴器」
「一寸、待ってください。盗聴器と言っても、少し変わりものなんです。この件は吉村さんと清水さんと僕の三人でやってます。菅原さんも仲間に入ってもらえませんか。盗聴器は取り付けに少しだけ技術が必要なんです。清水さんの講習を受けないとできません。二人を紹介しますので、帰ってくるまで待って欲しいんです」
「ん。住所」
「場所を見ておきたい、と言うことですか」
菅原が、またニヤリと笑った。
「わかりました。今、書きます」
この調査を始めた時に購入したパソコンを立ち上げ、石山と安岡の住所をメモ紙に書き出した。
菅原はメモを一読して立ち上がった。
「菅原さん。夜に、もう一度来てくれますか」
「ん」
「九時以降なら、清水さんは帰ってると思います」
「ん」
菅原が部屋を出て行った。遅遅とした動きだったが、壁に突き当たると、思わぬ事態が起きて調査を前に進めていく。自分の想像力が役に立たないことを痛感する。浩平は伝言メモを清水と吉村の郵便受に投入して、駅前の書店に向かった。電気工事の勉強をするつもりだ。電気工事の業者として、銀行の建物に入り込めたら、盗聴器取り付けのチャンスは飛躍的に増えるだろう。銀行内部は防犯カメラの山だと思わなくてはならない。夜間の侵入は菅原の逮捕につながりかねない。業者であれば、作業のふりをして隠すことも可能になると思えた。
「美美亭」で一緒になった清水と吉村が、そのまま浩平の部屋に来てくれた。
「新情報って、なんです」
吉村が目を輝かせた。
浩平は今日一日の出来事を話した。
「で、仲間になってくれそうですか」
「大丈夫だと思います。それとは別に、僕は電気工事の勉強をします。参考書も買って来ました。清水さん。電気のこと教えてください」
「さあ。僕のやってる電子の仕事と電気工事の仕事は違います。でも、片山さんよりは知識あると思いますので、その範囲でなら」
「もちろん、それでいいです」
「その菅原さんが、やってくれれば、前に進みそうですね」
「ええ」
浩平が買ってきた本を手にして、清水が勉強会を始めたが、すぐに菅原がやってきた。全員を紹介した。
「菅原さんは、寡黙な人だから、気にしないで」
菅原は姿勢を正して、前を見ていた。
「ところで、場所はわかりましたか」
「ん」
「可能性はどうですか」
「大丈夫」
「よかった。清水さん。子機の説明をお願いできますか」
「わかりました」
講習会は十分とかからなかった。




十日後に、菅原が浩平のアパートの部屋の前で待っていた。前回、三人で携帯電話を持つことを勧めたが、菅原は拒否した。
「菅原さん。電話持ってくださいよ」
「いらん」
「どうぞ」
やはり、携帯電話を持つ気はないらしい。椅子に座ってもらい、お茶の用意をするために、やかんをガスにかけた。
「お茶で、いいですよね」
「ん」
「すぐですから」
「つけてきた」
「はい」
「ふたつ」
「は」
「盗聴器」
「えっ、あれをつけてきてくれたんですか」
「ん」
「ええええ、いつです」
「三日前と今日」
「わわわ」
言葉にならなかった。菅原は姿勢正しく、正面を向いている。
「菅原さん」
「ん」
「僕たち、苦労して苦労して、それでもできなくて、完全にどんづまりにいたんです。まだ、十日も経ってませんよね。驚いたな」
「ガス」
「あっ、すみません」
やかんが沸騰していた。
「何か、問題は」
「ない」
「そうですか。ありがとうございます。ほんとに」
「ん」
「菅原さん。深雪ちゃんのことですが」
「ん」
「随分、時間が経って、大丈夫でしょうか。明るく振る舞ってますが、ほんとは、一番つらい筈です。僕がモタモタしてるからです。でも、もう少し、頑張ってもらわなくては。何とか支えてやってくれませんか」
「わかってる」
「真相究明が目先の目的ですけど、旅館が取り戻せなければ意味ありません。女将さんは深雪ちゃんのこれからを一番心配してると思います。丸裸で叩き出される訳にはいきません。あいつらをさらって、力づくで、口割らせようかとも思ったんですが、うまくいかないと、ひどいことになるし、できませんでした」
「ん」
「まだまだ、一山も二山もあるでしょうが、これからも協力していただけますか」
「これ、ほんとは、自分の仕事なのに、片山さんには感謝してます。深雪も」
「ありがとうございます」
簡単な返事しかしない菅原が、自分の気持ちを口にしてくれたことが嬉しかった。
電気工事の学科と実技を清水から教わりながら、盗聴器の親機の使い方も練習した。親機を持って、菅原と一緒にアパートを出た。石山のマンションと安岡のマンションにデータを取りに行くためにレンタカーを借りることになったが、菅原も念のため同行すると言ってくれた。
二葉銀行上野西支店貸付係主任、石山隆志は大塚駅近くのマンションに住んでいる。浩平が運転して大塚へむかった。
「片山さんのこと聞かせてもらえませんか」
「えっ。何を、ですか」
「今までのことです」
「今まで、ですか」
「どんな、生き方してきたのか」
「あああ」
菅原の質問は、当然のものだった。上野原旅館の女将は、浩平の過去を全く詮索しなかったので、行きずりの旅人にすぎない。長逗留して、支払の心配のない上客の一人だった。組んで仕事をする相手の素性を心配するのは、菅原の職業上不可欠のことだ。
浩平の人生には武道しかない。浩平は、過去の武道経歴を話した。
「仕事は」
「今は、ありません。まだ親父の遺産で食えますから」
「どうして、ここまで」
「というと」
「今度のことで、どうして」
「ああ、そのことですか。さっきも言いましたが、僕には、母親の記憶がありません。母親が欲しいと思った記憶もないんですが、女将さんに接して、母親って、いいな、と思ったんです。で、勝手におふくろになってもらったんです。もちろん、女将さんには何も言ってませんよ。勝手に僕が思ってるだけですから。でも、もしも、僕が実の息子だったら、こうするでしょう」
「ん」
「あなただって、お姉さんのために、何かがしたいんでしょう」
「ん」
「だから、心配しないでください。僕の勝手でやってることです」
「深雪のことを頼めないか」
「はあ。どういうことです。深雪ちゃんのために、やってますよ」
「そぅじゃなくて、深雪を、もらってくれないか、ということだ」
「結婚しろ、と」
「深雪は片山さんのことを、一番信頼してる。俺よりもな。心配なんだ」
「菅原さん」
「ん」
「あなたは、結婚してますか」
「ばかな」
「どうして」
「俺なんかが、できる訳ないだろう」
「仕事が仕事だからですか」
「そうだ」
「僕も、ですよ」
「えっ」
「菅原さんには、言ってませんが、この盗聴システム、いくらすると思いますか」
「さあ」
「一億です」
「いちおく」
「ええ。一般市民が個人で、そんな金出しますか。出さない、と言うより、出せないでしょう。中身は言いませんが、菅原さんより、ひどい、悪事を働いて手にしたものなんです。だから、あなたと一緒です。結婚など考えてもいません」
「待てよ」
「そんな金で、やっちゃいけませんか」
「いや。あんたら、三人は普通の人だと思ってた」
「あの二人は、本物の善良な市民です。僕の裏は知りません。教えるつもりもありません」
「じゃあ、俺は、なんで」
「あなたは、信用できると、思ったからです。いけませんか」
「いや」
石山の住まいは、大塚駅近辺では、かなり高級感のある低層マンションでセキュリティーも万全なものに見えた。
「ここですよね」
マンションの前に停車して、菅原に確認した。
「ん」
「カーナビを操作しててください」
「えっ」
「触っている振りです」
「ああ」
浩平は親機を立ち上げて、データ収集の操作をした。暗証番号を入力。解凍と変換を実行して、タイムスタンプの中でデータ量の多いものを選んで再生した。音量を上げると、明らかにテレビの音声と思われる声が聞こえてきた。テレビの音声は分別できない、と清水が言っていた。だが、録音されていることは確認できた。
「次に、行きます」
浩平は発進した。安岡の住まいは北千住にある。
「さっきの話、それとなく深雪には言っとく」
「すみません」
「恨まれるかもしれんな」
「仕方ないでしょう。深雪ちゃんのためです」
「だな」
信号停止の間にカーナビを安岡の住所に変えた。
「今まで、組んで仕事したことはないけど、あんたとなら」
「光栄です。プロにそう言ってもらえると」
安岡の部屋に仕掛けた盗聴器には、まだデータはなかった。




浩平は一人でデータ収集の担当をした。吉村と清水には、自分の本職を大事にしてもらいたい。
録音されていたのはテレビの音声だけで、石山と安岡の肉声はなかった。一人暮らしだから、会話はないのだが、電話もかかってこないということは、友達もいない、ということなのか。一週間経っても、肉声を聞くことはなかった。電話の会話が録音されていたのは、十日目のことだった。しかも、安岡から石山にかけた電話なので、両方の音声がきれいに収録されていた。
「安岡です」
「どうした」
「今日、山中に行ったんですが、なんか変な貸付だな、と言われたんです」
「どうしてだ」
「入金が遅れた話、しましたよね」
「ああ」
「僕が連絡したのが、五日後でしたから」
「大丈夫。適当に言っとけ」
「はあ」
「まだ、なにか言ってきたら、全額返済してくれてもいい、と言ってやれよ」
「はい」
「神経質になるな。大丈夫だから」
「わかりました」
二人の会話はそれだけで、その意味はよくわからない。会社で報告するような話を個人の電話にしてくること以外には、普通の会話だった。
二人の友人ができて、訪問者がある部屋になったが、それまでの浩平の生活を考えると、会話がないことが当たり前の生活だった。他人の部屋の盗聴をしてみて、家族がいない人間の部屋には会話がなくても不思議ではない、ということに気がついた。
電話の会話があってから、さらに二週間が過ぎて、核心に迫るかもかもしれない会話が録音されていた。
安岡の部屋に石山がやってきた時の会話だった。テレビがついていなかったようで、突然会話が始まった。
「どうしたんです」
「一寸、頼みごとがあってな」
「びっくりするじゃないですか。まあ、上がってください」
二人が居間に移動する時間の会話はなかった。
「実は、かみさんが帰ってくるかもしれん」
「えっ。復縁ですか」
「まだ、わからん。だが帰ってくると、やっかいなことでな」
「何が、です」
「おまえは、独身だからわからんだろうが、女はやっかいなんだ。家中、隅から隅まで自分の領地として管理したがる。隠し事を捜す能力は警察犬なみ。だから、これを預かっておいて欲しい」
「待ってください。この部屋に、ですか」
「そうだ」
「勘弁してくださいよ。僕は主任に言われたことをやってるだけで、こんなの預かれませんよ」
「安岡。おまえな、他人ごとみたいなこと言うな。お前は、もう立派に共犯者なんだぜ。いいか、バレなきゃいいんだ」
「そんな」
「三億の横領。お前は、その三割を手にしてる。知りませんでは済まねえんだよ」
「勘弁してくださいよ。お金は返しますから」
「だったら、その金持って、警察にでも駆け込めよ」
しばらく、会話がとぎれた。
「わかりました。でも奥さんとの話が終わるまで、ですよね」
「ああ、それでいい」
また、会話が途切れた。
「頼んだぞ」
しばらく時間をおいて、安岡の声で「石山のくそったれが」という大声が入っていた。
やはり、上野原旅館が借りたという三億にはカラクリがあったようだ。その証拠は安岡の部屋にある。浩平は上野原旅館に電話した。
「片山ですが、菅原さんはいますか」
「はい。代わります」
深雪の声は明るかった。まだ、菅原は浩平の裏を話していないようだ。
「菅原です」
「また、相談、あるんですけど、こっちに来てくれます」
「ん」
菅原が来たのは、深夜の一時だった。この件に係わってから、浩平の部屋のドアには、鍵がかけられていない。菅原は音も立てずに部屋に入ってきた。
「すみません」
「ん」
「これ、聴いてください」
安岡の部屋の録音を聴いてもらった。
「出たね」
「はい。やはり、カラクリ、あったみたいです」
「ん」
「菅原さんに、この、安岡が預かっているものを、持ちだして欲しいんですが」
「ん」
「僕がコピーしたら、また、返してほしいんです」
「いつ」
「今日でも、明日でも」
「じゃあ、明日」
「わかりました。指図してください」
「ん」
「明日は、この携帯を使ってください」
「わからんよ」
「簡単です」
浩平は電話の使い方を説明した。
「わかった。部屋に入ったら、これで、連絡する。入口で安岡の部屋番号を押してくれ。部屋からドアを開ける」
「何時ですか」
「昼過ぎだな」

計算書と預金通帳が五冊あった。コンビニでコピーをとって安岡の部屋に戻した。四人が浩平の部屋に集合して、その証拠の分析を始めた。
「このタイトートチですが、台東土地開発という会社じゃないかと思うんです」
通帳の出金欄の名称を指して、吉村が言った。
「石山がよく会っていた大里組の上杉という男が、この台東土地開発の代表者なんです。たぶん、大里組のフロント企業でしょう」
「調べたんですか」
「ごめん。ついね」
暴力団の関係には、手を出さないように言っておいたが、吉村は独自に調べていたらしい。
「お願いしますよ。僕たちは素人なんですから、暴力団を相手にはできません」
「わかってる」
「で、吉村さんは、どんなカラクリだと思いますか」
「想像でいい」
「もちろん」
「わかんないことが多いいけど、銀行が旅館に貸し付けをしたようにしておいて、実際には、ここにある五つの会社に裏融資をする。この口座を返済口座として作り、この口座からは、自動引き落としで台東土地開発に口座振替になる。石山は台東土地開発から、その金を受け取る。もちろん、台東土地開発にも取り分がある。旅館が返済不能になったら、不良債権として、抵当の土地を取る。無理あるかな」
「旅館の女将さんが、承知しないだろう」
清水が簡単な疑問を口にした。
「そうなんだよな。女将さんが死んで、うまくいったけど、そんなの予測できないし」
「石山が、女将さんを殺した」
浩平が言ったことで、部屋が静まりかえった。
「だと、すると、殺人と詐欺と横領だ。銀行員がそこまでするかな」
「ううん」
誰もが、唸る。
「吉村さんの仮説をもとにして、考えると、これが裏融資でなくちゃならない。だったら、この五つの貸付が、裏融資かどうかを調べる方法はないかな」
「銀行の表の帳簿に、この融資がのっていないことを調べるわけでしょう。かなり、難しいでしょう」
浩平の問いかけに清水が答えた。
「あの女を使いましょう」
「女子行員の」
「そう。確か、堀内とか言う女子行員。うちの保田が担当してますが、女を落とすには時間がいるんです、なんて生意気言ってたけど、まだ何も仕事してない。やらせますよ」
「お願いします。全部とは言いません。二社だけでも」
「わかった」


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海の果て 第1部の 1 [海の果て]


― 自分族とは、自分さえよければという思考回路が特に優先している人たちのことを指す言葉である ー





片山浩平は上野が好きだった。気取らない人が集まり、雑多な街がどんな人でも受け入れてくれる。上野にはそんな懐の深さのようなものがある。東京に来ると、どうしても足が上野に向い、その周囲に生活圏を作ろうとしてしまう。
「後藤祐樹さんおられますか」
「おたくは」
「片山といいます」
「どちらの片山さん」
「大学時代の友達です」
電話は保留の音楽になった。後藤の事務所に電話をするのは初めてだった。
「先輩ですか」
「久し振り」
後藤祐樹の声はすぐにわかった。
「どこ、行ってたんです」
「山ごもり」
「七年ですよ。七年。最初は捜しました。もう」
「祐樹、稼業を継いだんだ」
「継いだ訳じゃありません。修業中です」
「親父さんは」
「元気、元気」
「そうか。相談したいことがあるんだけど、時間取れるか」
「いつです」
「明日は」
「いいすよ」
「祐樹の番号、教えてくれ」
後藤祐樹の携帯番号を控えた。
「明日、電話する。一人で来てくれるか」
「いいすよ」
上野駅を出たところにある公衆電話のボックスを出た浩平は信号を渡り、美術館に向かう坂道を登った。東京はどこへ行っても人の波だ。浩平は人波に入ると存在感を無くす。中肉中背で特徴のない顔。スーツを着ればサラリーマンになり、ジーパンを履けばフリーター、ジャンパーを着ると工員になる。すでに二十七歳になったが、学生でも通用する。すれ違う人たちにとっては風景の一部のように見えるのか、視線を感じることもなかった。
翌日、ホテルレインボーに部屋をとった浩平は、ホテルの部屋から後藤祐樹の携帯に電話をして、部屋で待った。
「一人」
「はい」
「無理言って、すまん」
「全然変わりせんね。七年振りというのが嘘みたい」
「祐樹は立派になった」
後藤組の一人息子で、親と同じ稼業をすることに抵抗していた後藤祐樹も、どこから見ても極道になっている。
「山ごもりって、何なんです。学校も辞めちゃうし、行方不明になるし、訳わかんないっすよ」
「親父が死んで、学校に行く理由がなくなったから、かな」
「親父さんが理由だったんですか」
「親父は、息子を普通のサラリーマンにしたかった。ところが、息子は武道家になりたかった。武道家の親父が、自分の息子には、武道家になって欲しくないと思ってたんだ。普通は、自分の跡を継がせたいと思うだろ。親父は、俺の拳を殺人拳だと言ってた。自分の家が道場なのに、出入り禁止だったんだ。だから、中学の頃から学校の帰りに山に入って、一人で練習していたんだ。その延長だな、山ごもりは」
「で、武道家になったんすか」
「いや」
「親父さんの言ってた、殺人拳、当たってると思いますよ」
「俺も、そう思うようになった。でも変わらない」
「今、なんで食ってるんですか」
「田舎の土地建物を売った金で食ってる」
「で、相談って何です。俺にできることなら、言ってください」
「組の中での力はあるのか」
「五番目ぐらいかな」
「ビジネスを一つ取り仕切ることは」
「中身によるけど、そこそこには」
浩平は椅子の横に置いておいたカバンから、袋に入った白い粉を取り出して、後藤に渡した。
「まさか」
「その、まさかなんだけど。買ってもらえるか」
「本物なら、もう、喜んで買いますよ」
「よかった」
「どういうことなんです」
「ん。山からおりてきて、全国の道場を見て回ろうと思って、ある場所である人と出会い、ルート作りを頼まれた。あまり、気が進まなかったけど、祐樹のこと思い出して、一度頼んでみようかな、と」
「継続的にですか」
「ん」
「大丈夫っす。うちで受けます」
「ありがとう」
「よしてくださいよ。これ、うちにはありがたい話だし、俺も、組の中で、力持てるし、俺の方からお願いしたいぐらいの話ですよ」
「最初から弱気だな」
「先輩にはったりかけられませんよ」
「わかった。それは、祐樹の好きに使ってくれていいよ」
「マジっすか。キロはありますよ」
「値段は格安にする。ただし、入手ルートは秘密厳守。これだけは守ってもらう。今から、俺とお前は知人でも友人でもない。たとえ、街中で会っても挨拶はなし。そして、取引には誰もかませない。一対一でやる。もし、違反があったと俺が判断すれば、相手がお前でも、死んでもらう。いいか」
「わかりました。約束します」
「ところで、さっき五番目と言ったよな。組長の息子でもナンバーツーじゃないのか」
「そんなに、甘くはありません。喧嘩が強いだけでは、上に立てません。金です。どんだけ金が稼げるか、ですよ。息子だから、五番目ですけど、実力だと、下から数えた方が早いくらいです」
「これで、稼げばいい」
「そうなんです。俺にとっては渡りに船です」
「決まり、だな。一回目の取引は十キロでいこう。十日後に電話する。金を作っておいてくれ」
「おっす」
「舞い上がるなよ」
「わかってます」
「俺からの電話には、返事だけでいい。余計なことを言うな」
「はい」
「じゃあ」
「おっす」
後藤祐樹は自分のセカンドバックの中身を取り出して、品物を仕舞いこんだ。
「祐樹」
浩平はドアに向かっている後藤祐樹に声をかけた。
「はい」
「それの、純度調べられるか」
「もちろんです」
「その結果を教えてくれるか」
「いいっすよ」
後藤祐樹が部屋を出て行ってから、十分待って浩平も部屋を出た。隣の部屋も予約済みで、キーも持っている。廊下に人の気配がないことを確認して、隣の部屋へ入った。後藤祐樹が失敗した時と、あの粉末が覚せい剤ではなかった時の用心だった。覚せい剤に違いないという確信はあったが、浩平には確認する方法がなかったから、一沫の不安もあった。
日本中の空手と拳法の道場を見てみようと思って旅に出たが、新潟に行った時に、いきがかりで、漁船に乗ることになった。どこにでも世話好きなおじさんがいる。あの船長もそんなおじさんの一人だった。ところが、運悪く遭難してしまい、光栄丸の船長と息子は死体で収容された。アルバイトの男が乗っていたことは誰も知らないので、浩平の捜索は行われなかった。光栄丸に一つだけあったブイにつかまり、浩平は一命を拾った。雨の中、陸地が見えてから、気の遠くなるような時間が経って、浩平は潮に乗った。潮の流れに、人力では逆らう術もなく、海面に浮かぶことだけで精一杯だった。強い力で水中に引き込まれて、意識が薄れていくのが、海での最後の記憶だった。
目を覚まして、しばらくは自分の居場所が理解できなかった。薄暗いゴミ捨て場にいたが、自分が遭難していることを思い出した。足元を流れる水が海水だということに気づくと、ひどい渇きを覚えた。多分、一日以上水を飲んでいない。ふらつく足で立ち上がって見回したが、出口のような場所は見当たらない。難破船と思われる船の残骸やポリタンク、海草などが山になっていた。自然の洞窟のようだったが、その全容はわからない。壁際まで移動すると、人骨らしきものもあった。仲間入りするのは趣味ではない。先ず、水を捜すことだ。岩の裂け目から流れている水を口に含んでみると、海水ではなく雨水のようだった。しばらく、岩に口をつけて飲み続けた。一息ついた浩平は、ゴミをかき分けて出口の探索をしたが、洞窟の奥は暗くて断念せざるを得なかった。悩んでいる時間はない。時間と共に体力は衰えていく。水際に戻った。洞窟に引き込まれた時が満潮だとすれば、引き潮に乗れば脱出できる道理だったが、今がそのどちらなのかわからない。海面と海水の流れを観察するしかない。一時間待って判定不能たったら、流れに飛び込むつもりだ。浩平は時計の秒針が動いていることを確認して、待った。
結果的に生き残った浩平が、洞窟の中にあったゴミの山を思い出したのは、旅を中断して東京の旅館にいる時だった。ビニール袋に覆われてロープで連なる夥しい数の残骸が覚せい剤ではないかという思いだった。浩平はスキューバダイビングの講習に参加し、二ヶ月後に新潟の洞窟に戻った。苦労の上に苦労を重ね、四か月かかって取り出した品物を、レンタカーのトラックに乗せて持ち帰った。自分名義のトラックを購入し、駒込の方にある小さな倉庫を借り、車ごと倉庫に格納して、後藤祐樹に電話をした。品物が本物の覚せい剤だとすれば、一生も二生も暮らせる金になるだろう。

ホテルレインボーで二日待ったが、後藤祐樹は現れなかった。翌日、上野原旅館の女将に保証人になってもらい、田端駅の近くのアパートを借りた。自分の将来には何の展望もないが、しばらく東京に腰を落ち着けてみようと思っている。
駒込の倉庫に通い、簡単な作業ができるように整備した。木材を買って頑丈な作業机を作っていると、小学校の時の工作を思い出して楽しかった。電子秤を購入し、業務用のシール機を揃えた。先ずは、十キロの商品を作らなければならない。
「祐樹か」
「はい」
「レインボーホテルに、村井という名前で予約してある。フロントでキーを貰って、部屋で待っててくれ」
「はい。わかりました」
村井という名前で予約した部屋は六階の二十八号室。浩平は二十六号室から電話をした。一時間もすれば、後藤祐樹が部屋の前を通るはずだ。後藤祐樹は、背が高くて男らしい風貌だが、素直で優しい。決してヤクザ向きではないが、少しはずる賢く成長したのだろうか。錬金術を身につければ、そこそこにはなれるだろうが、極道の世界で一流になることはないだろう。素人の浩平にとっては、うってつけの極道と言える。
ドアののぞき穴から後藤祐樹の姿を確認して、ドアを細く開いてエレベーターに向かう通路を監視した。五分経過。異常は認められない。浩平は部屋を出て、エレベーターで一階のホールに降りた。一度、外に出て戻ってくる。どこにも危険な臭いはなかった。
六階の二十八号室をノックした。すぐにドアが開いて後藤祐樹が顔を出した。
「部屋を変えよう」
「はい」
後藤祐樹は荷物を取りに戻って、浩平の後ろから二十六号室に入ってきた。
「先輩。用心深いですね」
「携帯の電波はあちこちで盗聴されてるんだぞ。大っぴらにできる取引じゃない」
「ですよね」
「で、純度はどうだった」
「はあ、あまり上物ではありません。でも、大丈夫です。商売にはなりますから」
「やっぱりな」
「やっぱり」
「上物だと言われたんだが、どうも信用できなかった。言い方がちょっとな」
「そうなんですか」
浩平の向こうに組織があると思ってくれるだろう。それでいい。
「いくら、用意した」
「三億です」
「転売できるのか」
「はい。うちだけでは捌けませんから」
「どのぐらい、流せる」
「そこそこには」
「そこそこなのか」
「少し、時間ください」
「そうか、よそに話してもいいか」
「それは」
「ルートを作ってくれという要求なんだ。量が問題になる」
「やります。だから、少し時間を」
「わかった。二か月待とう。頑張ってみてくれ」
「はい。どのぐらいの量ですか」
「月に百。無理なら八十」
「やります」
「無理するなよ。祐樹を潰すつもりはない」
「はい」
「品物を確認してくれ」
「はい。これもお願いします」
「いや。俺はお前のこと信用してるから、いい。お前は、組の勘定も入っているんだろ。確認しろ」
「すんません」
後藤祐樹は緊張したまま、キャリーバックを引いて部屋を出て行った。部屋には浩平と三億の現金が残った。浩平は自分が悪の道に踏み込んだことを噛みしめようとした。あと戻りできない場所に踏み込んだが、まだ実感はない。

山ごもりをして、自分で考案した気道を完成させようとした。だが、完成に近づいた気道が殺人道具でしかないことを知ってしまった。殺人拳で武道家と言える時代ではない。目標を失ってしまった浩平は、縋るようなおもいで各地の道場を訪ね歩いた。そして、その旅は、自分が武道家にはなれないということを再確認する旅になってしまった。流されるままに生きていくことしかできない人間になってみると、悪の道であっても抵抗感がない。どんな結末を迎えるかわからないが、行くところまで行くしかないのだろう。どこかのビルの屋上から三億の現金をばら撒きたい衝動を覚えて、苦笑した。
傾きかけた安アパートに戻って、更に暗い人間になってることを、他人事のように見ながら酒を飲んだ。薄い壁一枚の隣室から、ロックの重低音が響いてくる。壁越しのロックを聞きながら眠ってしまった。立派な悪人になったのに、砂を噛むようなおもいは消えずに、凍えるような風さえ吹き始めていた。
何の目標も希望も展望もない毎日は、究極の罰に思える。地獄に落ちても耐えられるように訓練することが、現世の仕事なのか。
どんなに落ち込んでいても、腹だけは空く。死んでしまえと思いながら、まだ何かを期待している自分がいる。天に唾しながら、薄ら笑いをしている。浩平はアパートを出て、近くの中華料理店に向かった。ラーメン屋と書くだけで売れる時代に、ラーメンを作らない店。十人がやっと座れるだけのカウンター席しかない、朽ちてしまいそうな中華料理店。狭い調理スペースで身動きもままならないほど太った店主が、不精ひげのまま、無愛想に料理を作り、閉店後はゴキブリが宴会場に使っていると思われる店。だが、安くて、美味くて、量もたっぷりなメニューのファンは多い。浩平の夕食は、いつも、その「美美亭」だった。同じ時間に行くと、同じ顔ぶれに出会う。何年も通っている常連客もいるのだろうが、店主は愛想の一つも言わないようだ。
「野菜炒めと中」
返事がなくても、野菜炒めと中ご飯は出てくるので、黙って汚れたスポーツ新聞に目を落とす。いつも出会う客が二人と、見るからに人相の悪い、見なれない客が一人。店主も口をきかないが、客も注文を口にするだけで静かな店内が「美美亭」の常識。何の興味も持てないプロ野球の情報を眼で追う。
「いくらだ」
人相の悪い客が同間声で言った。
「千八百円」
店主も負けずに不機嫌な声で答える。
「つけといてくれ」
「は」
「つけだ」
「冗談じゃねえ。うちは、つけはなしだ」
「そうか。今日からは、つけもありだ」
「あんた、警察とは、相性悪いんじゃねえのか」
「けちなこと、言うな」
男は矛先を隣に座っている若者に向けた。
「にいちゃん。金払っといてくれ。借りだ」
「えっ」
店主が携帯電話を持ち上げた。
「お客さん。電話するぜ」
「やってみな。サツが来るまでに、こいつは半殺しの目に遭うぜ」
男は若者の襟を掴んで引き寄せた。若者は恐怖の目で店主を見た。男が言うように警察が駆けつける前に若者はズタズタにされるだろう。店主の手は止まった。
店の出入り口は引き戸になっていて、どの席からでも出入り自由になっている。浩平は席を立って外に出た。いつもの浩平なら余計なことはしないのだが、鬱々とした気持ちが腹の中に黒い激情を生み出している。八当たりをしたい気分だった。
男の後ろにあるガラス戸を開けて、男の左手首を取った。
「終りにしましょう」
振り向いた男の顔は、「くそ生意気な若造が」という怒りで赤黒くなった。男は若者の襟にあった右手を外して体ごと浩平に襲い掛かった。だが、宙に舞ったのは男の体だった。コンクリートに思い切り腰を打ちつけたのに、男はすぐに立ち上がっていた。
「やめましょう」
「てめえ」
男は懐から取り出した短刀を手にして、口をゆがめて笑った。
「やめませんか」
「死んでもらうぜ」
浩平は、困ったという表情になった。だが、男が動作を起こす直前に浩平の左足が男の右手首を襲った。短刀は店のガラス窓に当たって落ちる。
「無理ですから」
「うおおおお」
両手を前に突き出して、男が突進してきた。軽く一歩さがった浩平の右足が男の腹部に伸び、重い衝撃音がした。男は顔面からコンクリートに倒れた。男を殺すことは簡単だったが、事後処理を考えると手加減せざるをえない。
浩平は体を入れ替えて、男の逃げ道を作った。まだ襲ってくるようなら、動けなくなるまで痛めつけることになるのが面倒だった。
腹部を押さえながら、ゆっくりと体を起こした男は、後ろにいる浩平の方を見たが、転ぶようにして道路へ走った。
「大将、千八百円、取れませんでした」
自分の席に座った浩平は、申し訳ない様子で言った。
「いいってことよ」
店主は何事もなかったように調理を始めた。
「ありがとうございます」
若者が椅子から立ち上がって浩平に頭を下げた。
「ああ」
浩平は、気にするなという意味を込めて手を振った。
「山岡荘の人だよね」
もう一人の若者が声をかけてきた。
「・・・」
「僕も山岡荘にいますから」
「そうですか」
「強そうには見えないのに、強いですね」
「見えませんか」
「この三人の中で一番弱そう」
「僕は、清水と言います。ほんとに助かりました」
「もう、いいですよ」
「僕、吉村」
「片山です」
確かに、清水はがっしりとした体格で、吉村は長身、浩平よりは強そうに見えるかもしれない。
「二十七」
吉村が自分の方を指さして歳を言った。
「僕も。片山さんは」
「同じです」
「寂しさも一緒かな」
皮肉な顔つきで吉村が言った。三人の男の琴線がどこかで触れ合った。
「僕の部屋で飲みませんか」
吉村が清水と浩平の顔を見て、同意を求めた。
「いいですね」
「ん」
カウンターの上に浩平の野菜炒めが出来上がった。
「にいちゃん。これは俺の奢り」
「とんでもありません。あの男からも取れませんでした」
「あいつは、はなから、払う気などありゃしねぇ」
「よく来るんですか」
「いや。初めてだな」
「ヤバい筋でしょうか」
「さあな。ここらのやくざの顔はほとんど知ってるから、よそもんだろ」
「もし、なにかあったら、呼びだしてください」
「ありがとよ。にいちゃん、男前だな」
店主と電話番号を交換して、若者三人は酒屋経由で山岡荘の吉村の部屋に行った。
浩平はフリーターだと自分を紹介した。吉村は探偵社勤務の探偵さん。清水は電子技術者だった。田舎の高校を卒業して、東京の大学に通い、安アパートで一人住まいをしているという境遇も酷似している。東京に来てからは、心を開く友人に出会うこともなく、閉塞感に満ちた日々に流されている。浩平とは別の意味で友人を求めていたようだ。麻薬所持と麻薬密売で逮捕要件を満たしている浩平とは違い、二人は善良な市民。浩平は仮面の友人にならざるをえない。でも、酒盛りは盛り上がった。
週に三回は同じ場所で夕食を共にし、五回に一度は酒盛りになる。三か月もすると、三人は押しも押されぬ親友になった。




一度目の取引が終わって二か月経った頃に、後藤祐樹から電話が入った。元気なのは、少し目処がたったということだろう。一週間後に三十キロの取引をする約束をした。覚せい剤があるから販売する。だが、その対価を受け取っても、その金で何かをするという目的がない。いつか、自爆するしかないのだろうか。
上野に運搬用のキャリーバックを買いに来たが、人ごみにいても、疎外感は消えない。
「片山さん」
声をかけられて、後暗い気持ちがある浩平の体は、一瞬固まった。
「板長さん」
上野原旅館の板前で奈良達郎という男だった。
「買い物ですか」
「はい。ご無沙汰してます。女将さん、元気にしてますか」
「それが、えらいことになっててね」
「・・・」
「片山さん、時間ありませんか。相談に乗って欲しいことがあるんですが」
「もちろん。どうしたんですか」
「旅館まで、いいですか」
「ええ」
「実は、女将さんが亡くなりまして」
「女将さんが」
湯島天神近くの上野原旅館に向かった。旅館の門は閉じられていて、休業中の張り紙があった。古い旅館で木製の大きな門が閉じられている様子は暗く沈んでいる内部を想像させた。横の木戸から入ると、人気のない古い旅館はタイムスリップをして訪れる百年前の旅館のように思えた。廊下の電気を点けながら歩く奈良の後ろをついていく。無音の廊下には旅館特有の臭いだけが広がっていた。原奈津子と深雪の母子が暮らしていた離れの板戸を奈良がノックした。
「譲ちゃん」
「はい」
「入りますよ」
「はい」
板戸を引いて二人は離れの部屋に入った。居間になっている部屋には、女将の娘で高校生の深雪と仏壇の前に座っている見知らぬ男がいた。
「おにいちゃん」
「丸井の前で会って、来てもらいました」
「深雪ちゃん。ごめん。知らなかった」
「お線香あげてやってください」
仏壇の前にいた男が浩平に席を譲った。仏壇には見なれた女将の笑顔があった。線香に火をつけて、手を合わせる。浩平には自分の母親の記憶がない。密かに、女将と自分の母親をダブらせていた。旅館の女将の枠を超えて面倒をみてもらった。勿論、浩平にだけ特別に親切だった訳ではない。上野原旅館に泊まる客は、女将の暖かい情に会いたくてやってくる。美人なのに、その気取らない人柄は大勢の宿泊客の憧れの的だったのかもしれない。
「何があったんですか」
「急性心不全ということで」
奈良が答えた。
「心臓が悪かったんですか」
「いえ。女将さんは病気をしたことがないというのが自慢でした」
「ですよね」
「わからないもんです」
「深雪ちゃん。ほんとに、ごめん」
「片山さん。こちらは、女将さんの弟さんで、菅原道彦さんです。譲ちゃんのお身内は道彦さんだけで、何度も来てもらってます」
浩平は菅原に会釈した。
「片山さんは、お客さんの一人なんですが、女将さんはとても気に入ってました。今の時代に珍しいほどの男らしさを持った人だと言って、自分の息子にしたいと言ってました」
奈良が片山のことを菅原に説明した。菅原は下を向いたままで小さく会釈した。
「何か僕にできることがありますか」
「実は、旅館を閉めなきゃなりません」
「閉めるって、廃業ですか」
「譲ちゃんが若いこともありますが、借金があるんです」
「・・・」
「旅館が三億の借金の抵当に入ってます」
「三億ですか、どうして、そんな大金」
「そこが、わからないんです。儲かるほどの売り上げはありませんでしたが、トントンでやっていけてると聞いていました」
「深雪ちゃんは、なにか聞いてた」
「聞いてません。母はなんでも私に話してくれていると思ってました。二百万の借入金があることは知ってます。三億の話は税理士の先生も知らないし、私が記帳していた帳簿にもありません。高校生になって経理は私がやってましたから」
「どこから」
「二葉銀行です」
「二葉銀行。あの二葉ですか、大銀行の」
「はい。税理士さんに銀行に行ってもらって確認してもらいました。でも、うちには、何の書類もありません」
「銀行が嘘を」
「わかりません。でも、私は母を信じてます。こんな大事なこと、黙っているような母ではありません」
「三億が返済できなければ、明け渡すしかありませんか」
「ええ」
ビルの谷間にある古びた旅館。土地値だけても相当な金額になるだろう。土地バブルが終わったとはいえ、この立地条件なら、右から左に売れるのだろう。
「板長さんは、どう思います」
「女将さんが、黙って借金をしたとは思えません」
「菅原さんは」
菅原は首を横に振った。
板長の奈良が「えらいことになっている」と言ったが、難題だった。浩平には三億を出すことができるが、裏の金がそのまま表の金にはならない。
「銀行の返済はいつからですか」
「来月です」
「返しましょう。お金は、僕が用意します。時間を稼ぎましょう」
「おにいちゃんに、そんな迷惑かけられません」
「前に話したと思うけど、田舎の土地を売った金があるし、今は使う予定もない金だから、心配いらない。最後に決済してもらえばいい」
天下の大銀行の嘘を暴くことは、簡単なことではない。だが、深雪や板長の言葉を信じたい。勝算はないが、あの女将の笑顔に答えてやりたかった。
「深雪ちゃん。学校行ってるか」
「うん」
「女将さんは、深雪ちゃんの笑顔が好きだった。きっと、明るく生きていって欲しいと願っている、と思う。だろう」
「うん」
「おにいちゃんにまかせなさい」
「おにいちゃん」
どんな結末を迎えるのかわからないが、明日の目的ができた。体中から無為という霧が晴れていく。
「仲居さんたちは」
「辞めてもらいました」
「退職金とかは」
「払ってません」
「ここを売る覚悟は」
「仕方ありません」
「銀行が間違っているとすれば、ここを売って、皆さんに退職金を払って、深雪ちゃんの学資と生活費を出すことができる。それでいい」
「はい」
「上野原旅館が無くなるのは、つらいことだけど、女将さんも納得してくれると思う。もっとも、深雪ちゃんが旅館を続けたいというなら別だけど」
「自信ありません」
「そう。叔父さんが、やってくれるなら」
菅原が慌てて手を横に何度も振って否定した。頼りになる叔父さんではないようだった。

空を掴むような話だったが、浩平の足には力が入っていた。
吉村の部屋に集まった二人の友人に相談を持ちかけた。
「相手は二葉銀行だよね」
「そうなんだ」
「ありえないことのように思うけど」
清水が難しい顔で言った。
「何でもありの世の中だから、あるかも」
吉村は反対意見に回った。
「二人の言うように、可能性はどちらもあると僕も思いました。だったら、銀行の間違いだと決めつけてみようと思うんだけど」
「わかった」
「でも、何から手をつけたらいいのか、わからない」
「敵は二葉銀行なんだよね。敵を知ることが最初じゃないかな」
「同感」
「敵を知ることか」
「その旅館に来てた担当者の名前はわかりますよね」
「その人を調べる」
「吉村さん、依頼すれば調べてくれますよね。仕事として」
「もちろん」
「探偵社って、盗聴もやるんですか」
清水が真面目な顔で聞いた。
「盗聴ねえ、やることはあるらしいけど、バレるとやばいしね」
「僕、今年、アメリカの展示会に行ったんです。電子機器の展示会なんですけど、変な外人と友達になったんです。で、時間があって、会社訪問して、見せられたのが盗聴器だったんですよ。日本での特約店にならないかと言うんです。盗聴器なんて、日本でビジネスになるとは思えないし、話半分しか聞かなかったんですけど、優れものであることは間違いありません。ネットで売られているような物とは別物です。もし、何が何でも調べる必要があれば、役に立ちませんか」
「どんな盗聴器なんです」
「日本で市販されている盗聴器は、電波を出し続けますよね。だから、見つけられる。その盗聴器は、親機の指示でデータを送信するんです。データは暗号化されていて、超高速の通信で送ります。軍事技術だそうです。普段は電波を出しませんから、見つけられることはありません。盗聴技術では、大人と赤子の差がありますね。驚きますよ」
「すごいな」
「手に入るんですか」
「特約店になればね。個人では難しいかもしれません」
「清水さん。一度オファーしてみてくれませんか。市場調査の段階で、試してみたいと言って」
「ただ、値段を聞いてないんです。まさか、オファーするとは思いもしませんでしたから」
「問い合わせならいいんじゃないの」
「そうですね。問い合わせで、どうでしょう。それと、購入希望者がヤクザでもいいか、と聞いてみてください。清水さんの会社が特約店になることはないでしょうし、これは、どうみても裏の商売ですよ」
「片山さん、ヤクザに知り合いがいるんですか」
「いないわけではない、と言うか、売り込みはできますよ」
「わかりました。一度連絡してみます」
「お願いします」
「俺、一寸、楽しくなってきました。こんなの何年振りかな」
吉村の目が輝いていた。
「僕もです」
清水も大きく頷いている。
「他に何か打つ手はないですかね」
「後は、女でしょう」
「女」
「二葉銀行の女子行員です。女は会社の臍なんです。情報の宝庫と言ってもいい」
「どうするんです」
「ナンパします」
「ナンパ」
「ベッドでなら、どんな話もします。片山さん、予算はどのくらいあります」
「案件が三億ですからね、一割を必要経費に使ったとして、三千万でしょう」
「わかりました。うちに、その道専門の男がいます。別々の依頼ということでやりましょう。費用さえ払えば大丈夫です。わが社にとっては仕事ですから」
「是非、お願いします」
「銀行の担当者の名前、調べてください」

三人寄ればと言うが、とっかかりができた。もっとも、浩平は何の知恵も出せなかったが、前に進む予感はしている。翌日、上野原旅館を訪ねて、銀行の担当者の名前を聞いた。石山という中年男と安岡という若い行員が来ていたようだ。名刺を捜してもらった。
板長の奈良はいなかったが、原深雪と叔父の菅原がいた。四十前後の働き盛りなのに、毎日のように旅館に来ていて大丈夫なのか。
「菅原さん。お仕事は」
「えっ」
「おにいちゃん。叔父さんはね、泥棒なの。ね」
「泥棒。冗談」
「ううん。母さんは、私のことより、叔父さんのこと、心配してた。いつか塀の向こうに行ってしまうって」
「永いことやってるんですか」
「そう。私が生まれる前から」
「それで、一度も塀の向こうに行っていない」
「叔父さんは、それが自慢なの、ね」
「それは、すごい。プロの中のプロじゃないですか」
「そう、叔父さんはプロ。この言葉、大好きなのよね」
菅原が照れ笑いをした。
「でも、今度は私が心配する番。たった一人の肉親だから」
「そうですよね」
「俺、他に何もできねえし」
菅原が初めて口を開いた。
「おにいちゃんがこの旅館取り返してくれたら、足洗ってくれるようにお願いしてるの。泥棒さんに養ってもらうのも、どうかと思うでしょう」
「でも、捕まらなければ、いいんじゃない。誰でも似たようなことしてるんだし」
「おにいちゃん」
「いや。上野原旅館の人は別だよ。世間一般の話。騙して、奪って、逃げてる。違いはないと思うけど」
「叔父さん。駄目よ。叔父さんも上野原旅館の一員だから」
菅原は深雪に頭が上がらないようだ。何かつぶやいたようだったが意味不明だった。女将も子供の頃はこんな娘だったのだろうか。深雪なら、明るくまっすぐに生きていく。深雪が毎日泣き明かすような娘だったら、周囲は重たい負担を強いられていただろう。

一回目の会合から一週間が過ぎた。浩平も後藤祐樹との取引の仕事で忙しかったが、清水と吉村も忙しかったようだ。
吉村の部屋で第二回目の会合が行われた。
「一週間が、あっと言う間だった」
開会宣言のように、吉村が言った。他の二人も大きく頷いた。
吉村が書類を取り出して説明を始めた。
「この石山と、これ、安岡。そして、貸付係にいる堀川恵が調査対象です」
「これは」
「名簿ですよ」
「こんなものが、手に入るんですか」
「時々、思うんだけど、片山さん、どこか国外に行ってました」
「えっ」
「少し、時代、遅れているから」
「申し訳ない。わかりますか」
「今は、何でも、入手可能なんです」
「そうみたいですね。実は五年間一人で山ごもりしてました。でも、たった五年ですから。もともと常識に欠けるんでしょうね」
「山で何を」
「僕は武道家になりたかった。修業してました」
「強い訳だ」
「僕も、片山さんみたいな人、初めてです。武道家なんだ」
清水も疑問が解けたという顔つきだった。武道家は普通の人間ではないと言われたようなものだったが、常識に外れていることは間違っていない。
「で、この石山という男、何かありますよ」
「何かって」
「銀行の中にいる時の顔と外の顔が全く違うんです。遊び方も派手だし、会っている人間も堅気じゃない。調べてみると、大里組の人間なんです」
「暴力団」
「そう、しかも幹部クラスですね、あれは」
「吉村さん。暴力団の方は、あまり追わなくていいですよ。何かあったら困ります」
「わかってますよ。石山は離婚していて、一人暮らしです。結構なとこに住んでます。銀行員だとしても、少し金回りよすぎです」
「臭いますね」
「若い方の安岡ですが、これは、普通のサラリーマンです。趣味がいいとは言えませんが、普通でしょう」
「趣味が変ですか」
「ロリ趣味です。片山さんにはわからないかな」
「そのぐらいわかりますよ」
二人が大声で笑った。
「もう。で、女の方は」
「そっちは、まだです。女を落とすのは、時間が必要なんだと、馬鹿にされてしまいましたよ」
この部屋にいる三人は、女に強いとは言えない。デートをしているような様子もない三人だった。
「盗聴器のことなんですけど」
清水が一枚の紙を取り出した。
「購入は可能ですが、大きな問題が一つあります」
「どんな」
「初回購入の金額が、八千万円だそうです」
「八千万」
吉村が驚愕の声を出した。
清水が紙に書かれている明細の説明をした。盗聴器は、固定型と使い切り型の二種類で、それぞれの親機と子機がある。親機がバックアップを含めて二セットづつ。固定型の子機が二百台。使い切り型の子機は千台だった。それぞれの単価も書かれている。
「妥当な値段なんですか」
「わかりません」
「吉村さん。その石山という男が、不正に係わっていたとして、証拠みたいなものが、手に入りますか」
「うううん。難しいかな」
「多分、監視しているだけでは、壁を越えられないように思うんですよ。違法ですが、さらに、突っ込んだ調査をしようと思えば、盗聴しかないと思います」
「でも、八千万でしょう」
「問題は金額だけですよね。もし、百万だったら、買いますよね」
「百万ならね」
「清水さん。親機を四セットにして、同じ金額で、いけますか」
「さあ」
「それと、もう一つ。この取引が成立したとして、受け渡しは日本国内で、支払は現金払いという条件をつけてみてください」
「どういうことです」
「転売するんです。親機二セットと子機を半分。もし、八千万で売れれば、残りはタダになります」
「おおう」
「でも、売れますかね」
「売るんです。僕がなんとかします」
浩平に転売の目途など全くなかったが、使えない金は腐るほどある。相手が現金決済してくれれば問題はなかった。
「支払は、ドルではなく、日本円が条件です。一億でもかまいません」
「すごい」
「最初は、世話になった上野原旅館の女将さんのためと思って始めたんだけど、やり始めると、自分のための仕事に思えてきて、今は、やり遂げたいと思っている。これって、何なんでしょうね」
「わかる。僕も同じ気分」
吉村の言葉に、清水も大きく頷いた。


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「海の果て」は3部からなる長編です。
第1部は、副題を「自分族」という恐喝集団の活躍。
第2部は、副題を「誰か族」という第1部とは95%独立した、愛の物語。
第3部は、1部と2部の完結編。
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では、恐喝集団の悪事の始まりです。
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