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国民が法律を作れる仕組み [評論]



迷走する裏金事件。自民党議員は、いや、岸田さんは、必死の防衛です。
野党の追及だけなら、何も怖いことはありませんが、この事件は国民の大きな反感を買ってしまいました。ですから、政治資金規正法の改正は不可避です。
さて、どんな改正ができるのか、とても、楽しみにしています。
「欲」の亡者である国会議員が、自分の利益を危うくする法律を、自分で作るのです。
そんな法律作れません。無理です。人間ですから。
それでも、何かしないと、収まりが付かない状況です。
ほんとに、困ったことです。
それでも、この国は「なあ、なあ、まあ、まあ」の国ですから、何とかなります。
これまでも、政治家は、特に、自民党の政治家は幾多の困難を乗り越えてきました。
政治家の皆さんは、国民生活を守ることではなく、自分の利益を守ることを、自分の責務だと信じて、知恵を出してきたのです。平安貴族も徳川武士も帝国陸軍も自民党も、やっていることは同じです。これも、2000年の歴史と伝統です。私達の国は、いつになったら、民主国家になるのでしょう。
これまで、彼等の知恵が有効だったのは、この国が「なあ、なあ、まあ、まあ」の国であるだけではなく、「お上と下々」の国であることも、大きな利点でした。
ただ、今回のことで、従来から常識として存在した、「お上」は優遇されて当然という意識に、「下々」が、漠然とではありますが、「それ、変じゃない」と気付きました。「1円」と「4000万円」の違いや納税義務の違いで、可視化されてしまったからです。ただ、国民は、まだ、個別の現象に違和感を持っているだけで、この国のあり方が間違っていることには気付いていません。ですから、まだ、「なあ、なあ、まあ、まあ」で何とかなります。

現在の政治資金規正法は、政治家にとって、特に自民党議員にとって、財産です。それを毀損する訳にはいきません。ワーキングチームに優秀な人がいるのかどうかは知りませんが、改正法案の担当は、その能力が問われます。もちろん、議員本人ではなく、法律に精通した優秀なスタッフがいれば、充分です。ここは、政治家生命をかけて、自分の利益を守らなければなりません。一歩間違えれば、数百万円、数千万円、人によっては数億円の利益を失います。今、頑張らなくて、いつ、頑張るのだ、と自分を叱咤激励していると思います。
まだ、自民党は政治資金規正法の改正案の中身を提示していません。党則の改正案というアドバルーンを上げていますが、評判は良くありません。
特に、今回は、多くの国民が関心を持っていますので、簡単ではなく、当初から、「これが抜け穴です」という法律は作れません。
ですから、将来、抜け穴として使える箇所を数多く残しておく必要があります。そのためには、できるだけ、曖昧な表現を使わねばなりません。それを可能にしているのが「なあ、なあ、まあ、まあ」文化です。「なあ、なあ、まあ、まあ」文化がある限り、「抜け穴」は作れるのです。10年後、20年後に問題が出ても、また、作り直せばいいだけです。
「なあ、なあ、まあ、まあ」は文化です。文化は空気と同じで意識する必要がありません。ですから、曖昧な表現を使っても、誰も、不思議だとは思いません。そのことを、政治家の皆さんは理屈としてではなく、生活の知恵として持っているのだと思います。
そうではあっても、少なくとも、表面上は、反省の姿勢を見せなければなりません。
何よりも、世論が風化する時間を前に進めなければなりません。火に油を注ぐような結果になることは避けねばなりません。
ですから、難しい改正案になりますが、ここは踏ん張りどころだと思います。
ただ、例え、どんな改正案が出てきても、それで、何かが変わることはありません。
新しい抜け道を作ればいいだけです。
だって、カネは必要なんですから。
「案ずるより産むがやすし」「窮すれば通ずる」という格言があるように、必ず、道はあるのです。政治家にとって、「なあ、なあ、まあ、まあ」は有難い文化なのです。

さて、国民の皆さんは、これでいいのですか。
「なあ、なあ、まあ、まあ」社会では、それでいいのだと思います。
「自民党も頑張ったし、まあ、これでいいか」「ふむ、ふむ」で風化が進むと思います。国民の皆さんは「大人の対応」や「太っ腹」が好きです。自分達がドツボに嵌ろうとしているのに、ほんとに、「いい人」ばかりで、政治家は大助かりです。
でも、私は「大人の対応」が苦手ですし、「太っ腹」ではありませんので、異論を書いてみたいと思います。
私は、国の目的も、国民の目的も、政治家の本来の目的も、「国民生活を守る」ことだと思っていますので、その観点から、今のやり方は間違っていると思います。
「なあ、なあ、まあ、まあ」でも「お上と下々」でも、「国民生活を守る」という目的が達成できるのであれば、何の問題もありません。しかし、今は、「国民生活を守る」ことが目的になっていません。そのために、国民生活は貧しくなるばかりです。その原因が「なあ、なあ、まあ、まあ」や「お上と下々」にあるのであれば、いや、他の原因は見当たりませんので、変えるべきだと思います。曖昧が顕著に表れるのが言葉です。定義をしない言葉が、「なあ、なあ、まあ、まあ」の源泉です。

立命館大学研究者の桜井啓太氏が、国会で「お答えを差し控える」が飛び出した回数を可視化した、というニュースがありました。そのデータによると、1970年にはわずか7回だった「お答えを差し控える」の回数は、2014年の275回から急増し、昨年はついに602回の〝新記録〟を樹立した、そうです。

「お答えを差し控える」と言う言葉の意味は、「知っているけど、言いたくない」という意味です。自白の強要はできないという常識を上手に使っています。
では、その常識しかないのかと言うと、「お上」の常識もあります。それが、「政治にはカネがかかる」とか「政治には秘密保持が必要だ」という常識です。
私達には「下々」の常識しかありませんが、政治家は、「お上」の常識と「下々」の常識の両方が使えるのです。しかも、どの常識も、とても、曖昧です。
国民の皆さんが、裏金事件で感じた不平等感は、ここにあります。
自民党の「ガバナンス委員会」の提言が「党と社会の認識が大きくずれている」というものになったのは、ごく自然だと思います。ただ、なぜ、「認識が大きくずれている」かの原因については理解していないと思います。それは、自民党の皆さんが、「党と社会」が「お上と下々」構造になっていることを認識していないからだと思います。いや、政治家も国民も、認識していません。自分達は民主国家の一員だと信じています。原因を認識していませんので、ずれた対応、小手先の対応、になるのは仕方ありません。それでも、見た目、「対応しましたよ」という改正案になると思います。しかし、原因に対応していませんので、「なあ、なあ、まあ、まあ」の原理が働き、元の木阿弥になります。
あり得ないとは思いますが、もしも、仮に、有効な改正案を作るつもりがあれば、「なあ、なあ、まあ、まあ」文化と「お上と下々」という意識構造を変える必要があります。
その為には、この国が民主主義風王政並立封建制度という国体だということに気付く必要があります。皆さんは、「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義もせず、責務も明確ではなく、目的すら持っていないのに、「何となく」民主国家だと思い込んでいます。「何となく」では民主国家になれません。民主国家ではありませんので、過去の封建時代の「お上と下々」という構造が、今でも生き残っているのです。

「国民は、法の下で平等である」と言われます。では、法そのものが平等でない場合は、どう平等を担保するのか。その事が表面化した事件が、今回の裏金事件です。そのことが、「1円」と「4000万円」という数字で可視化されたことで、国民は怒っています。「国民は、法の下で平等である」は「下々は、法の下で平等である」ということだったのです。
「下々」の常識から見れば、明らかに犯罪だと思うことでも、法律が犯罪だと定めていなければ、犯罪ではありません。例えば、収支報告書に「カニ代、30万円」と記載されていても、必要経費で落とせます。その蟹を誰が食べたのかは問われません。山ほどの「土産代」を支出していても、合法です。数千万円の本を購入しても合法です。「使途不明」と書いた経費でさえ合法です。
先程、政治資金規正法は政治家にとっては財産だと書きましたが、「下々」の常識では許されないことが、政治資金規正法があるだけで、認められているのです。
最近の言葉で言えば、上級国民の特権と呼ぶのかもしれません。
その特権が具体的な数字で見えてしまったことで、国民は怒っています。
でも、国民の皆さん。こんなことは些細なことに過ぎません。政治家が裏金を作ったとしても、それを不正に使用したとしても、多くて数億円です。しかし、この国は、国力衰退で数千兆円の損失を出しているのです。それは、国家運営に失敗しているからです。この30年間で政治家が不正なカネを使ったとしても、1000億円にはなりません。数千兆円の損失から見れば、誤差の範囲です。
国家運営に成功して、多くの国民の皆さんが豊かな生活をしているのであれば、政治家の不正は大目に見てもいいのかもしれません。しかし、皆さんの生活は、日々、貧しくなっています。この先は、もっと、貧しくなります。でも、皆さんが騒ぐのは、裏金事件や政治資金規正法です。政治資金規正法を改正しても、国力衰退は止まりません。いや、悪い冗談でしかありません。瓢箪から駒が出ることはありません。
国家運営そのものを変えなければ、このまま、ドツボに嵌るだけです。
どうか、そのことに気付いて欲しいです。

この騒動が下火になっても、国民の皆さんの「割り切れない感覚」は残ると思います。
なぜ、私達は「割り切れない」と思うのでしょう。それは、重責を担い、多額の報酬を得ている人には、それ相応の倫理観を持ってもらいたいと思っているからです。
今までも、定型文のように使われていた「知らぬ。存ぜぬ」が、今年も大盛況です。もちろん、人によって使う言葉は違いますが、政倫審での発言の「知らなかった」「承知していない」「関与していない」「認識しておらず」は、全て、「知らぬ。存ぜぬ」です。もっとも、質問者が裏取引をしているのかと思うくらいの質問しかしませんので、「知らぬ。存ぜぬ」は有効な答弁になっています。倫理審査委員会なのに、倫理観は見えません。
法律は、基本、性善説で作られています。裁判も、その精神で裁かれます。中には、とても性善説では説明のつかない犯罪もあり、その時は、裁判長が強い言葉で判決を言い渡します。でも、性悪説で法律が作られることはありません。
そもそも、犯罪の最大の原因は、カネです。特に、政治家の犯罪の99%はカネです。政治家が、痴情のもつれで人を刺したという事件はなかったように思います。
今回の裏金事件でも、安倍派だけがやっていたように思っているかもしれませんが、そんなことはないと思います。自民党議員で裏金の無かった議員は1人もいないと思います。
だとすると、性善説が当てはまりません。
政治家は、カネでズルをするのが当たり前で、それを性善説で裁くのは間違いだと思います。少なくとも、政治家の犯罪を防ぐためには、「政治家は悪事を働くもの」として対応する必要があると思います。「下々」は「疑わしきは、罰せず」ですが、「お上」は「疑わしきは、罰する」にすれば、悪事を働かなくなると思います。
では、誰が、そのようなシステムを作るのか。
それを作ることができるのは、国民しかいないと思います。
その前提になるのが責務です。但し、全ての人が同じ責務を負っているのでありません。その人の立場によって、責務は違います。
先ず、「国会議員とは」という言葉の定義をし、国会議員の責務を明確にする必要があります。そして、国会議員は国家運営という重要な責務を担い、重責があるから、敢えて、厳しい制約があると納得してもらう必要があります。一般国民と立場が違うのだから、厳しい法律が不可欠だと、国民が要求すればいいのです。国会議員は、重責を担っているから、税金で多額の報酬を出しているのです。国会議員の悪事は、たとえ、性悪説に基づく法律であっても裁く必要があると思います。
そんな法律、政治家には作れません。三権分立は、誰もが良き事をする人であるという前提で成り立っています。その前提を壊しているのが立法府です。私達が向き合わなければならないのは、個別の法律ではなく、国のあり方です。私達が見ているのは、国会議員にしか法律が作れないというシステムの限界だと思います。
国のシステムを変え、国民でも法律を作れる仕組みを作るようにすれば、政治家にも自浄作用が働くことになります。


2024-04-01



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