SSブログ

ドリル優子の再登場 [評論]



ドリル優子という呼び方が流行したのは、約10年前です。
「政治とカネ」問題で追及された自民党の小渕優子議員の事務所が、証拠隠滅のためにハードディスクを電動ドリルで破壊したと報じられ、全国に名を売りました。
その小渕優子議員が、今年の内閣改造で、自民党四役と呼ばれている選挙対策委員長の要職に抜擢され、ドリル優子という呼び名が再登場しました。
政治の世界特有の常識である「禊は済んだ」という現象だと思います。
この「禊」という文字は大変便利な言葉で、どんな悪事を働いていても、次の選挙で当選すれば「身の潔白は証明された」という解釈になります。
日本の有権者の多くは、まだ、「下々」です。これは、紛れもない事実です。小渕優子が国会議員を続けていることが、それを証明しています。
「下々」は、「お殿様」だけではなく、「お殿様」の家の「お姫様」にも逆らえません。何よりも、「下々」は、自分の責務を知りません。ただ、ただ、土下座をしてやり過ごすことが習慣になっています。
先ず、小渕優子に一票を投じ、国会議員にしたのは、そんな「下々」の皆さんです。ですから、自分に責任があることを知りません。何の責任も感じていませんので、次の選挙でも小渕優子に投票します。「お姫様」だから、です。そして「禊」は完成します。とても、責任ある主権者の行動とは思えません。投票理由は、「お殿様」だった小渕恵三の娘だから、というものだと思いますが、まさに、これは、「お殿様」と「百姓」の関係です。
「下々」が存在する限り、政治家は好き勝手なことが出来るという風土です。政治家に「禊」という便利グッズを提供しているのは「下々」なのです。それでも、「下々」は「ふむ、ふむ」と納得しています。ほんとに、救いがありません。
私には、平安時代に栄えた陰陽師文化が、まだ、脈々と受け継がれているような印象しかありません。
まさに、歴史と伝統は不滅です。
ただ、私には、小渕優子を糾弾する資格がありません。
なぜなら、私が小渕優子と同じ立場に立てば、ドリルを使うかどうかは別にして、同じことをやっていた可能性が高いからです。「私が悪うございました。議員を辞職します」なんてことは、私も、絶対に言いません。政治家は、バレたことを「失敗だった」と思っているかもしれませんが、「悪事を働いた」とは思っていません。政治家とは、そういう人種ですから、批判をしても意味がありません。政治家は、国民から「落選」という引導を渡されるまで引退が出来ません。
でも、国民の皆さんには、いや、「下々」の皆さんには苦言を言いたいと思います。
選挙区は群馬県だそうですが、選挙区の皆さんは、どうして、ズルをしている小渕優子議員に一票を投じるのですか、と聞きたいです。選択を誤ったのは群馬県民の皆さんです。小渕優子議員も群馬県民も、全く、責任を感じていないだけではなく、「バレてしまったのは不運だった」と思っているのでしょう。それは、小渕優子議員が、破竹の8連勝中だということで証明されているようです。まさに、どっちもどっち、です。
政治家の「禊」という儀式を認め、好き放題をさせているのは、「下々」の皆さんです。
ほんとに、歴史と伝統は恐ろしいです。
今、この国は衰退トレンドの真っ最中で、国民は、日々貧しくなり、将来の展望は全く見えない状態です。
「おらが村」を守っても、何の得にもならないことに、どうして、気付かないのでしょう。
「おらが村」を守っていても、国民生活が壊れれば、「おらが村」も壊れるのです。それとも、群馬県だけは大丈夫だと信じているのでしょうか。なんと愚かなことでしょう。
物理的に見て、現在が、平安時代の延長線上にあることは否定しませんが、陰陽師や「おらが村」という伝統を守っていても、私達の生活は守れません。皆さんは、自分達の生活よりも、歴史と伝統のほうか大事なのでしょうか。
たぶん、そういうことなのだと思います。これを、洗脳と呼びます。
であれば、この国が潰れるのは、必然なのだと思います。
国民の皆さんが、自分の手で、この国を壊しているのです。
ただ、厄介なのは、国民の皆さんが、そのことに気付いてないことです。
自分の中では、良き振る舞いをしていると思っています。
文化と歴史と伝統は、世界最強の洗脳ツールです。宗教ですら足下に及びません。
多分、ドツボにはまっても、きっと、「ふむ、ふむ」と言うのでしょう。
日本の人口の大半の人が、数千万人の非正規労働者とその家族、そして数千万人の年金生活者が貧しい暮らしをしている国、それが日本です。しかも、貧困化が止まりません。
しかし、暴動は起きませんし、政権交代ですら起きません。
何故だかわかりますか。
国民が、国民ではなく、「下々」だからです。
小渕優子に一票を入れた皆さんは、「自分は正しい」と思っています。ですから、何回でも小渕優子に投票するのです。「下々」がいる限り、政治家は、いつでも「禊」が可能なのです。これまでも、文化と歴史と伝統は、常に「お上」の利益のために存在しましたし、今でも、「お上」の利益を守る守護神です。「下々」は、今でも「下々」です。この構図には、救いがありません。

今日は、小渕優子議員に国会議員を代表してもらっていますので、群馬県民の皆さんをボロクソに言っていますが、この構図は、全国規模で存在しています。もちろん、だからと言って、群馬県民の皆さんに責任がないわけではありません。群馬県民の皆さんにも、国民貧困化の重大な責任があります。
「お前は、群馬県のことを知らないから、そんなことが言えるんだ。立候補者の中では小渕さんが一番ましな立候補者なんだ」
「俺達には、他の選択肢はないんだよ」
きっと、そうなのでしょう。
これまでは、そんな言い訳は、真面な意見に聞こえたかもしれません。
しかし、ここまで貧困化が進めば、それは、ただの言い訳に過ぎません。
政治家の都合で政党が結成され、政党の都合で立候補者が決められています。
なぜ、国民の都合で、政党ができないのでしょう。
なぜ、国民の都合で、立候補者が決まらないのでしょう。
これって、おかしくありませんか。
国は、国民生活を守るために存在しているのです。政治家がズルをするために存在しているのではありません。それなのに、国民は既存の政党しか選択肢がないと思い込んでいるのです。それって、封建時代の「下々」のやることです。どうか、「下々」を卒業してください。皆さんは、この国の主権者です。
国会議員だけではなく、後援会長も後援会の人達も事務所のスタッフも、全員、自分の利益のために働いているのです。口では「県民の皆さんのために」と言うでしょうが、そんなことは露ほども思っていません。自分のためにやっているのです。
それが悪いと言っているのではありません。誰でも、そうします。
しかし、投票権を持っている国民には、責任があります。
それは、国民が、この国の主権者だからです。
皆さんは、政治家やその取り巻きのために存在しているのではありません。
ましてや、皆さんは「下々」ではありません。自分のために、自分の家族のために、そして、全ての国民のために、自分達の生活を守るという重大な責務を負っているのです。
皆さんには、その責務を果たす義務があります。
今、既存政党という選択肢しかないのであれば、主権者である国民自身が、新しい政党を自分で作らなければなりません。
それが、責任を果たすという意味です。
百歩譲りましょう。
国民の皆さんが、豊かな生活ができ、幸せであれば、たとえ「下々」であっても問題はないのかもしれません。
でも、現実は、そうではありません。
この先、国民は、更に貧しくなります。
確かに、「下々」という立ち位置は、居心地はいいのかもしれませんが、ドツボにはまりそうになっている今は、「下々」に安住している場合ではないと思います。
しかも、最終責任は、皆さんが取るのです。
「あちゃー」では済みません。
国民生活は、助平根性では守れません。
どうか、自分の責務を知ってください。
「東京に行けて、観劇できて、美味しいお弁当が食べれて、お土産もあって」
「別に、1円にもならない投票権なんだから、それぐらいいいだろう」
これって、世間では「助平根性」と言います。
皆さんに責務がないのであれば、その理屈は通ります。
でも、皆さんは、責任ある立場にいるから主権者なのです。
皆さんは、そのことを知らないだけなのです。
お願いです。
民主主義を知ってください。
国の責務を知ってください。
国民の責務を知ってください。
今のままだと、この国は、貧しくなるだけです。
貧困化の先にあるのは、国民生活の破綻です。

小渕優子議員は、選挙対策委員長就任会見で、ドリル事件を持ち出され、涙目になってみせたそうです。議員を続けるためであれば何でも利用する人のようで、女を演じ、誤魔化そうとすることも選択肢の1つなのでしょう。人間としてもいかがなものかと思います。
群馬県の皆さんは、恥ずかしいとは思わないのでしょうか。
思わないのでしょう。だから、小渕優子が議員を続けているのです。逆に、「うちの姫に、なんてことをするんだ」と思っているのかもしれません。
もし、そうなら、ほんとに、救いがありません。群馬県民の皆さんの行動を見る限り、この国を壊しているのは、国民なのだと痛感します。文化と歴史と伝統、そして、無知は、ほんとに怖いと思います。

また、新党が出来るそうですが、一部の人達の都合で新党が出来ている間は、国民意識が今のままなら、国の責務と国民の責務が曖昧なままであれば、この国は変われないと思います。まだまだ、壊れ続けます。
国民の皆さんが、新しい政治集団を作らねばなりません。ただ、直接、新党を作るのは国民の皆さんの仕事ではありません。国の責務を、国会議員の責務を明確にし、「私達は、責務を果たしてくれる候補者に投票します」と宣言すればいいのです。少なくとも、小渕優子を当選させるのは、間違っていると思います。
国民の皆さんは「下々」ではありません。
国会議員は「お殿様」でも「お姫様」でもありません。外注先の社員です。
政党は、特定の一部の人達が立ち上げるものではありません。多くの国民が民主主義の原理原則を知り、それをオーソライズすることで、自然発生的に生まれるものだと思います。
日本は民主国家だと思っている人が多いようですが、今は、看板がかかっているだけの民主国家です。この国は、実際には、民主主義風王政並立封建制度の国です。その証拠に、民主主義の定義もなく、国の責務が明確ではなく、皇室が存在し、「下々」が健在です。
多くの国民の皆さんの生活が、どんどん、貧しくなっているのは、民主国家の最大の責務である「国民生活を守る」ことが出来ていないということです。本来の責務を守るために、本物の民主国家になってみませんか。
言葉の定義をし、国民による、国民のための、新党が生まれることを期待します。


2023-10-05



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

必要は発明の母



昨日は高齢化率の話題を書きました。その中で、真の問題は少子化だと書きました。
多分、この認識は多くの方の共通認識だと思います。
しかし、少子化トレンドは衰えることなく進行しています。
私達は、その数値を見て、「ふむ、ふむ」と頷いているだけです。
「じゃあ、お前は、何か有効な提案を持っているのか」
いいえ、持っていません。
「じゃあ、黙ってろ」
そうなのでしょうか。
抵抗しては駄目なのでしょうか。「足掻く」のはみっともないのでしょうか。
「見て見ぬふり」が正しいのでしょうか。
そうは思えません。
少子化だけではありませんが、国力衰退は国の存続を危うくする大きな課題です。考え得るあらゆる対応をすべき課題だと思います。国民の皆さんの生活がかかっているのです。「俺には関係ねぇ」では済みません。
ここで言う「あらゆる対応」とは、経済的、制度的対応だけを指すのではありません。
どうしても必要になるのが国民意識の変革だと思います。
少子化の原因に、結婚しない若者、結婚しても子供を作らない家族、が挙げられています。もちろん、結婚したくても経済的な理由で結婚できない人もいますし、出産・育児の負担が大きすぎて諦めている人もいます。そういう若者に対しては、経済的、制度的なサポートが必要です。
ただ、経済的、制度的なサポートだけでは、問題は解決しません。
「子供を持つ必要を感じない」という若者もいます。「悲惨な未来しかない時代に、子供を持てば、子供が苦しむだけだ」という若者もいます。生き物の本能である「永遠」でさえ、否定する人が実際に存在するのです。それが、国民のコンセンサスになるのであれば、それは仕方ないことだと思いますが、それほど簡単に本能を否定することは難しいと思います。多くの方が、本音では、幸せな家族に囲まれて生きたい、と思うのではないでしょうか。
確かに、先ず、経済的、制度的なサポートをしろよ、と言われればその通りですが、「あらゆる対応」が必要であるという観点から、同時に、国民意識を変えることも不可避なのではないかと思います。
先程も書きましたが、私は、有効な少子化対策の提案を持っていません。
でも、私は、1億2000万分の1です。
いや、もっと言えば、少子化に直面している国は日本だけではありません。数十億人の人達が不安定な未来を抱えているのです。
ここは、人類の叡智が必要とされる時だと思います。
ただ、国際関係は冷徹です。「他国がどうなろうと、知ったこっちゃない」が当たり前です。ですから、日本の少子化は、日本で解決するしかないのではないかと思います。
それでも、1億2000万もの頭脳があるのです。知恵を出し合う必要があるのではないでしょうか。
「必要は発明の母」という言葉があります。
人類は、この言葉を、常に肝に銘じて生きてきたと言っても過言ではありせん。
初期の人類にとって最大の課題が「衣食住」でした。
寒さをしのぐために服を作りました。
食料を安全に食べるために、体温を維持するために、火を見つけました。
雨露を避けるために、洞窟を探しました。
どれも、生き延びるために必要とされたことを、知恵を出して、解決してきたのです。
国力衰退の先にあるのは「滅び」です。
「滅び」の世界では、私達にとって不可欠な要素である「衣食住」が確保できない可能性が高まります。
生き延びることを諦めるのですか。
私達は、生き延びるという必要性を常に抱えているのです。
ここは、知恵を出す時ではないでしょうか。
ただ、皆さんは、少子化の先に「飢餓」が待っているなんて想像はしません。いや、薄々とは知っていますが、口には出しません。
でも、少子化が進めば、待っているのは「飢餓」です。
その事を知ってもらわねば、「知恵を出してみようか」という気は起きないかもしれません。「まさか、大袈裟だろう」
そうでしょうか。
私達の国は、どんどん、貧しくなっています。
皆さん、「見て見ぬふり」をしていますが、それが、現実です。
貧困の先にあるのは何ですか。
北朝鮮やアフリカの貧困国で起きていることは、「飢餓」です。
どうして、日本は大丈夫だと言えるのでしょう。
私達は、少子化に、国力衰退に、対処する必要に迫られているのです。
だから、知恵を出す時なのです。

ここで、少子化が進んでいることを証明する数字を見てみます。
青森県の数字です。
青森県の地方紙「東奥日報」が、青森県内の20代人口の推移を集計した結果を発表し、話題を呼びました、
県内10市のうち6市が2002年からの20年間で20代が半数以下になったのです。
県庁所在地の青森市も54.07%の減少です。
減少率の高いベスト10を見てみましょう。
       2002年  2022年   減少率
佐井町     201     38     81.09
深浦町     918     80     80.39
外ケ浜町    661    166     74.89
平内町    1353    431     68.14
鯵ケ沢町   1055    337     68.06
中泊町    1253    422     66.32
風間浦村    190     68     64.21
蓬田村     290    108     63.45
三戸町     990    367     62.93
大鰐町    1078    401     62.80

特定の世代が、20年で、80%も減少する状態が普通とは思えません。
でも、これは、青森県に限った現象ではないと思います。地方都市では、これが普通になっていると思います。
これで、日本の将来は盤石だと言う人はいないと思います。
「東奥日報」は、危機感を持ってこの数字を載せたと思いますが、危機感を持って受け止めた人が何人いるのでしょう。いや、自分事だと思った人はいるのでしょうか。
多分、「ふむ、ふむ」「俺には関係ねぇ」で終わりです。
どうして、自分の、家族の、子供達の、将来なのに、関係ないと思ってしまうのか、不思議ですが、他人事なのです。
国家運営に携わる人達は、自分の領域の仕事の結果ですから、騒ぎ立てたら、自分の首を絞めるだけですから、「知らんぷり」をします。
本来、この数字に目鯨を立てなければないないのは、国民の皆さんなのですが、国民は、自分の領域ではないと思い込んでいます。
誰も危機感を持ちませんので、ずるずると、少子化は進行しているのです。
国民の責任は重いと思います。
ま、国民は、誰一人、自分の責務を知りませんので仕方ありませんが、不幸なことです。多分、不幸は、こういう隙間から生まれのだと思います。
フランスも、一時期、出生率が低下し、少子化のトレンドを生み出しました。
しかし、フランス政府は、独自の少子化対策を徹底的に推進し、少子化のトレンドを変えました。人口増加は達成できませんでしたが、少子化の傾斜は反転したのです。
もちろん、人種も文化も常識も、何もかも違う国ですから、フランスの対策をそのまま導入しても、日本では上手く行かないと思います。
では、フランスと日本は何が違うのでしょう。
これは、私の独断と偏見かもしれませんが、市民革命をやった国民と、「下々」に甘んじている国民の違いなのではないかと思います。
私達から見ると、フランス人は権利意識がとても強いと感じます。それも、国民の市民意識が強いように感じます。フランス人は、すぐにデモをします。それも、いつも、全国規模に発展します。日本人から見ると「業突く張り」の人達に見えます。為政者にとっては、ほんとに厄介な国民だと思います。
フランス人にとっては、少子化は、自分達の利益を損なうものだと感じたから、政府の少子化対策を受け入れたのだと思います。
自分のために、政府と共に少子化に向き合うことが必要だと感じたのです。
フランス人にとって、少子化対策は「必要は発明の母」だったのだと思います。
そんな意識は、日本国民にはありません。
「お上」の言うがままです。
少子化対策が、自分達にとって死活的に必要だと思っていれば、地方都市の現状は、今の状況にはなっていないと思います。
日本の少子化対策が何の役にも立っていない原因は、政府の無能にありますが、その無能を許しているのは国民意識ですから、問題は、国民にあると思います。どっちもどっちで傷を嘗め合っていても事態は好転しません。
政府を擁護するつもりは全くありませんが、日本の少子化の原因は、やはり、私達に、「下々」に、国民に、あると思います。
皆で、ドツボにはまる宿命(さだめ)なのだと思います。
多分、日本には日本独自の少子化対策が必要なのだと思いますが、中でも、欠かせないのが国民の意識変革なのだと思います。
少子化の先にあるのはドツボなんですから、何とかしなければなりません。
「言葉の定義」をし、責務と目的を明確にすれば、日本独自の少子化対策は生まれる可能性があります。それが、どんなものなのかは、わかりませんが、何もしないよりはいいと思います。
騙されたと思って、「言葉の定義」をしてみてください。


2023-10-04



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

文化を変えるという選択を [評論]



今日は、もう「お馴染み」の数値になった高齢化率の話を書きたいと思います。
2022年の日本の高齢化率は、29.0%だそうです。
私の実感では、60%だと言われても信じることができます。私の生活圏では、そのくらい、多くの老人がいます。しかも、私のような貧困老人が多いと感じます。
全国平均の推移を見てみます。
1950年   4.9%
1975年      7.9%
2022年         29.0%
予測値 2045年         36.8%

参考値として、地域別第1位の秋田県の数字も見てみます。なぜか、秋田県は、「全国1位」の称号を多く持っています。
1975年      8.9%
2023年         39.3%
予測値 2045年         50.1%

これ等の数値を見ると、全国平均の2045年の予測値(36.8%)を、秋田県は2023年(39.3%)に、既に、追い越しています。地方は、約20年先行しています。地方自治体の崩壊は既に始まっています。1975年では、1.0%の差しかなかったのに、2023年には、10.0%の差が生じています。これが、トレンドの怖さです。塵が積もれば山になるのです。
日本の少子高齢化は、何の抵抗もなく、着実に進行しています。
もう、この数値に驚く人はいなくなったと思います。
では、この数値は、何を表しているのでしょう。
いや、私達にどんな影響があるのでしょう。
国は、老人が増えれば増えるほど、豊かになるのでしょうか。
そんなことには、なりません。
当たり前ですが、国は、老人が増えれば増えるほど、貧しくなります。
18歳から64歳の人が、0歳から18歳未満の子供と65歳以上の高齢者の生活を賄わねばなりません。これだと、全員で貧しくなるという方法しかありません。
そんなことは、誰でも知っています。
しかし、私達の国は、少子高齢化のトレンドを変えられていません。
それは、変える努力をしていないからです。
いや、「やってるふり」はしていますが、口先や小手先では、どうにもならないことを証明しているのが、高齢化率の数字だと思います。
少子高齢化も国力衰退の大きな要素です。
この国力衰退の責任は、最終的に国民の皆さんが負うことになるのに、国民の皆さんは「ふむ、ふむ」「俺には関係ねぇ」と言っています。まるで、他人事です。これでは、変わらないと思います。
最終責任を取るのは、いつでも、国民なのです。
福島の処理水放出で責任を取らされているのは、誰ですか。
漁民の皆さんです。
高い電気代を支払っているのも国民の皆さんです。
これは、国民の皆さんの問題です。
でも、そんな意識は、国民にありません。「俺には関係ねぇ」で一件落着です。
国民の皆さんにも、言い分はあると思います。
「だって、俺達には何も出来ないだろう」という点では、認識は一致しているのでしょう。でも、これは、勘違いです。
「少子高齢化対策は、お上の仕事であり、下々の出る幕はない」と信じ込んでいます。これも、違います。
「お上でも出来ない仕事を、下々に出来るわけがない」と思っているようですが、ここにも勘違いがあります。
結果責任を取るのは「下々」である私達なのに、いつでも、そこは問題にはなりません。
「お上」の仕事であろうと、「下々」の仕事であろうと、何とかしなければ、ドツボにはまるのは、私達です。これだけは、不変の法則なのです。
ですから。
仕事をしない政府に仕事をさせるのが国民の仕事なのです。
今の政府が仕事をしないのであれば、仕事をする政府に換えなければなりません。
これ、当たり前のことだと思います。
政府は「お上」ではなく、国民の外注先です。
民間企業であれば、口先だけで仕事をしない外注先と契約するでしょうか。
いいえ、そんな民間企業は、成り立ちません。国も同じです。
私達は、完全にボタンをかけ違えています。政府は「お上」ではありません。
国の場合、企業が外注先を変えるように簡単には変えられないと思うかもしれません。
でも、独裁国家であれば不可能ですが、民主国家なら、それが可能なのです。
国民に出来ること。
既存政党に出来ないのであれば、いや、実際に、既存政党では無理ですから、国民生活を守ることを目的とする政治集団を、自ら作ることです。
だって、国家運営を担っている政治家は、国民の信認なしには仕事ができないからです。民主国家では、そのために、主権者である国民に投票権があるのです。
岸田や泉や志位に1票を投じていたら、皆さんはドツボにはまるのです。
それを証明しているのが、この高齢化率の数値です。

少子高齢化という言葉を、少し整理したほうがいいと思います。
少子化が進んでいるために、高齢化率が進んでいるのは事実ですが、少子化と高齢化は別に考える必要があると思います。
仮に、100年間、出生率が同じだとすると、高齢者の率は寿命の長短だけの差になるはずです。更に、少子化を変える方法はあっても、高齢化を変える方法はありません。
少子高齢化問題とは、人口問題であり少子化問題なのです。高齢化そのものを変化させる方法は存在しません。
ただ、高齢化問題は、貧困化に影響します。
ですから、高齢化と貧困化は、受け入れるしかありません。
問題は、少子化と高齢化が、同時進行していることです。
子供の数が減らなければ、時間はかかりますが、劇的な変化は望めませんが、高齢化と貧困化は緩和される時が来ます。
私達は、少子化に、真剣に対応する必要があるということだと思います。
その事を理解している方は、それなりにいます。
いろいろな提案もされます。
しかし、トレンドには何の変化もありません。
どうしてなのでしょう。
その原因は、「中途半端」にあると思います。
その「中途半端」の原因は、日本人の「行動原理」にあると思います。
その「行動原理」の原因は、「文化」だと思います。
その一例を見てみましょう。
岸田政権が推奨する「子供手当の拡充」です。
「子供手当の拡充」を実現すれば、日本の少子化トレンドは止まるだろうと評価している方がいるのでしょうか。そんな評価は聞いたことがありません。
少子化の原因に迫ることなく、「ばら撒き」でその場を凌ごうというやり方です。
しかも、その「ばら撒き」の源資は、国民から徴収する税と保険料です。これは、「皆で豊かになりましょう」という施策ではなく、「皆で貧しくなりましょう」という施策です。貧しくなれば、少子化は進みますので、「子供手当の拡充」は逆効果です。
少子化の原因は、国民の、特に若者の、意識にあります。「子供手当の拡充」で、若者の意識が激変するのでしょうか。そんな気配は皆無です。子育て世代の方は「ま、貰えるものは貰っておく」で終わりです。まさに「中途半端」な施策です。
では、日本人の「行動原理」とは、何でしょう。
「先送り」「なし崩し」「やってるふり」「責任不在」「ふむ、ふむ」「俺には関係ねぇ」「無関心」「従順」「土下座」「いい人ぶりっこ」と数え上げればいくらでも出てきそうですが、これらをひっくるめて表現すると、「なあ、なあ」「まあ、まあ」なのだと思います。
もちろん、一方的に非難されるような「行動原理」ではありません。日本人の行動を賞賛する人は、世界中に大勢います。「何と、ストイックな民族なんだ」と感心されます。でも、これは、世界常識から見ると、日本人は異質な存在である、ということでもあります。
しかし、現実の生活を維持するという点では、もう、従来の「行動原理」では、対応できなくなってしまったのです。確かに、「なあ、なあ」「まあ、まあ」は優れものですが、「なあ、なあ」「まあ、まあ」にも限界があったと言うことです。
だから、国が衰退しているのです。
それでも、皆さんは、まだ、「武士は食わねど高楊枝」をやるのですか。
皆さんは、武士の誇りを胸に、死を選ぶのですか。
ただ、人間は、そう簡単には死ねません。苦しんで、苦しんで、苦しんで、死ぬことになりますが、それでもいいのですか。
もう、これまでの「行動原理」を維持するのは限界なのだと思います。
日本人の「行動原理」のベースにあるのは「曖昧文化」です。
もしも、「行動原理」を変えるのであれば、「文化」を変えなければなりません。
2000年間、お世話になった「文化」を変えるのは、至難の業だと思います。
それでも、背に腹は変えられません。
国力衰退の先にあるのは「ユートピア」ではありません。「滅び」です。
「生き延びる」ことを選ぶのか、「滅び」を選ぶのか、それを選ぶのは皆さんです。
確かに、「生き延びる」ことにも苦労はつきものですが、「滅ぶ」までの時間は、苦労ではなく苦痛の連続だと思います。滅んだ後の地獄では、その苦痛が永遠に続きます。
今、皆さんは、その耐え難いほどの苦痛の道を選択しようとしているのです。
それでいいのですか。
私は、文化を変えるという選択をお勧めします。
ただただ、苦痛しかない地獄の生活を何十年、何百年、何千年続けるより、文化を変える選択をするべきだと思います。実際に地獄へ堕ちてみないと理解できないのかもしれませんが、地獄へ堕ちた後では、後悔しようが、臍を嚙もうが、もう、どうすることもできないのです。この2000年間に、国家規模の試練は何度もありましたが、多分、次にやって来る試練が最大のものになると思います。
数ある生き物の中で、最弱の生き物が人類だと思います。本来であれば、人類は、生存競争に勝てなかったはずです。でも、人類が今日まで生き残ってきたのは、想像力という才能があったからです。皆さんは、そのことを忘れています。
窮地に落ちて「あちゃー」と言うのであれば、猿にでもできます。
どうか、生きる努力をお願いします。
日本という国土も、日本人という民族も、素晴らしい存在だと思います。
そんな場所を地獄に変えるのは間違っていると思います。
「欲」にまみれた「お上」の好き勝手にさせてはいけません。
この場所を守れるのは、国民の皆さんです。


2023-10-03



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

時代と文化の不整合 [評論]



今日は、少し、ミクロの視点から、国民の皆さんの将来を見てみましょう。
もっとも、ミクロの視点でも、マクロの視点でも、見るものは、皆さんの将来ですから、同じ結論になります。
最後は、いつもの文化の話になりますが、ご容赦ください。

岸田政権は、9月に、経済対策を発表しました。
経済の「5本柱」だそうです。
〈1〉物価高への対応〈2〉持続的な賃上げと地方の成長〈3〉国内投資の推進〈4〉人口減少対策〈5〉国土強靱(きょうじん)化です。
ところが、国内に、歓迎や期待という空気は生まれていません。
「柱だけでは、風雨は凌げない」という批判すらあります。
「海外や企業にカネをばら撒くのが岸田政権のやり方だ」という批判もあります。
誰が命名したのか「増税メガネ」というニックネームまで出て来ました。つい、頷いてしまいました。本人は気にしているという報道もあります。
「5本柱」の言葉だけ見ると、薔薇色の世界が待っている、と国民に勘違いして欲しいという意図が見えます。
でも、実際には、「皆で、仲良く、貧しくなりましょう」という「柱」です。
皆さんは、年々、豊かになっていますか。
実質賃金の世界比較というグラフを見てもらえば、一目瞭然です。
過去の実績というものは、ほんとに、重いものがあります。政治家が、いくら美辞麗句を並べてみたって、数字には敵いません。
年々、日々、日本人は、他国の皆さんと比べると、貧しくなっています。
もしも、この30年間、他の先進国と同じような経済成長を続けていたら、皆さんの給料は、今の数倍になっていたはずです。もちろん、その分、物価も上がりますから、劇的に生活が楽になるわけではありませんが、今よりも数段良い生活が可能だったかもしれません。少なくとも、給料が上がるという夢は見ることができたと思います。
しかし、この国がやってきたのは「皆で貧しくなりましょう」というやり方であり、その延長線上にあるのが、今回の「5本柱」です。
でも、これが、私達の現実です。

私は、専門家ではありませんので、間違った解釈をしているのかもしれません。その時は、どうか許してください。
1本目の柱である物価高対策。
政府の物価高対策は、電気・ガス料金とガソリン料金の高騰を抑えるものです。食料品や日用品やその他の物品の価格高騰には対応していません。建設資材の高騰で建設会社の倒産が増えているというデータもあります。
電力会社、ガス会社、石油元売り会社に対する補助金を継続することを、物価高対策と呼んでいるようです。
補助金を貰っている各社は好決算になっているという報道もありました。
なぜ、こんなことになっているのか。
自民党と経団連は、古き「お殿様」と「豪商」の関係を継続しているからです。
まさに、歴史と伝統に培われた関係です。
「腐れ縁」と呼んでもいいような関係です。
2本目の柱である持続的な賃上げと地方の成長。
持続的な賃上げについても、経団連との貸し借りの関係維持を指しています。ただ、日本の企業が全て経団連に属しているわけではありませんので、賃上げは一部の大企業に限定されます。2023年の春闘で、大企業の賃上げが騒がれましたが、日本全体としては、また、実質賃金の減少が続いています。
地方の成長については、意味不明ですが、多分、最低賃金のことを指しているものと思います。過疎化に苦しむ地方都市の成長を意図するのであれば、地方に仕事を生み出さねばなりませんが、そんな対策は誰も思いつきません。地方が、最低賃金を上げることで成長するとは思えませんが、何もしないよりはいいのかもしれません。地方でも働いている人はいるのですから、多少でも時給が上がれば、購買力は増える計算になります。逆に、人件費の増加で立ち行かなくなる零細企業も出てくると思います。
3本目の柱である国内投資の推進。
経済を成長させるためには設備投資が欠かせませんが、日本の企業は、どこも、守りに入っています。その空気を変えることなく、投資が増えることはありません。掛け声だけで空気が変わるのであれば、苦労はありません。
また、NISAのことも指しているのだと思いますが、たとえ、NISAであっても、投資は投資ですから、全員が利益を得られるわけではありません。いや、年金財政が危ういのですから、老後は「自分で何とかしてね」という意味の投資推奨です。ただし、これは、あくまでも、自己責任です。
4本目の柱である人口減少対策。
これは、財源で四苦八苦している「子育て支援」のことだと思います。
これまでに何度も指摘しているように、人口減少対策としては、副作用が大きすぎます。副作用とは「皆で貧しくなりましょう」という副作用のことです。
5本目の柱である国土強靱化。
自民党は、もう、何十年も、この国土強靱化を掲げていますが、それで、随分献金も貰いましたが、岸田政権が言う国土強靱化は、軍事力の増強を指しているものと思います。
これも、「皆で貧しくなりましょう」政策です。

言葉だけを聞いていると、薔薇色の未来が待っているように勘違いする人も大勢いるのでしょうが、この「5本柱」で未来が変わることはありません。
いや、変わります。
薔薇色の未来ではなく、皆で、更に貧しくなる未来に変わります。
いつも、システム設計の話を出しますが、岸田政権の政策には、システム設計の基本である「目的」が欠落しています。この国の目的は、何ですか、と問いたい。その目的を達成するために、誰が、どんな、責務を果たすのですか、と問いたい。言葉やスローガンで、何をしようとしているのですか、と問いたい。
弥縫策、対処療法で何とかなる状態ではないとは思わないのでしょうか。
私に見えるのは、政治家の助平根性だけです。

でも、そんなことは、岸田さんにとっては、どうでもいいことです。
「総理大臣を続けたい」
岸田さんは、そのことしか考えていないと思います。
政局専門家の皆さんの見方は、統一協会への解散命令で点数を稼ぎ、具体的経済政策の発表で国民を騙し、補正予算の成立で身内にカネをばら撒き、体制を整えて、解散総選挙をするというものです。
岸田政権は、決して盤石な政権ではありません。ただ、強力なライバルが存在していませんので、「岸田おろし」は起きていませんが、このまま、来年の自民党総裁選挙まで待っていると、「ジリ貧」になる危険もあり、行動しなければならないという焦りがあると言われています。
確かに、来年の9月の総裁選挙まで、このままでいけば、政権支持率は更に低くなると予測されます。岸田さんは、世論調査には「一喜一憂しない」と言っていますが、最も「一喜一憂している」のが岸田さんだと思います。
自民党の総裁選挙は、本音が出る選挙です。
「この総理総裁で、岸田で、自分は選挙に勝てるのか」が最大の関心事です。
政治家にとっては、選挙が命です。
一票を持っているのは国民です。その国民の支持率が低く、「増税メガネ」と揶揄されるような総理で選挙を戦いたいと思う政治家はいません。
岸田政権の支持率は、随分下がりましたが、まだ、底を見たわけではありません。支持率が上がる案件が、突然出てくる可能性はありますが、確実ではありません。
だったら、「今、解散総選挙をしてしまえ」と思っても不思議ではありません。
その焦りは、岸田さんだけの焦りではなく、多くの自民党議員の焦りでもあるとすれば、解散総選挙には現実味があります。

でも、これ、やっぱり、変です。
政治家の都合で政党が作られ。
政治家の都合で政策が決まり。
政治家の都合で立候補者が決まり。
政治家の都合で選挙が行われる。
どこに、国民の出番はあるのでしょうか。
政治家は、自分の身分が一番大事で、国民のことは、低い優先度しかありません。
だから、無党派層が増え、投票率が下がります。投票所に足を運ぶのは、何らかの組織に属している人か、長年の習慣から惰性になっている老人ばかりだと思います。欲得と義理と老害で、この国が蘇るとは思えません。これは、民主主義ではありません。
私達は、どうして、そのことに気付かないのでしょう。
それは、民主主義という言葉の、国という言葉の、国民という言葉の定義がないからです。
政治家が支配する今のシステムでは、国民の出番はありません。国民の皆さんが、自分の生活を守りたいのであれば、国民自身が議論し、言葉の定義をするしかありません。ここで言う国民の議論は、「下々」を集めてやる、結論ありき、の国民「的」議論のことではありません。生身の国民が議論する国民議論のことです。楽をしていれば、どこかでツケが回ってきます。政治家の好き放題を許しているのは、この国の主権者であるはずの国民の皆さんの、低い意識なんです。
この国の今のシステムは、政治家の、政治家による、政治家のための、システムです。これは、文化と歴史と伝統が生み出したシステムですが、これで美味しい果実にありつくのは一部の人達だけです。
この国に国民は存在していません。存在しているのは「国民もどき」の「下々」です。

メディアも、世論も、ミクロの視点からの批判で溢れています。
でも、ミクロの視点では見えないものがあります。
この国の課題は、その見えない部分にあります。
確かに、人々は、目先のことで動きます。人間ですから仕方ありません。
では、本物の課題を世に示し、方向性を出す仕事は、誰がするのでしょう。
学者と呼ばれる人達の仕事だと思います。
しかし、日本の学者は、全く、機能していません。
自分の守備範囲の中に埋没し、広い視野を持つこともなく、とりあえず、今の自分の立場を守りたいと思っているように見えます。
憂国の志を持つ人も出て来ません。
皆さん、どっぷりと、曖昧の中に安住しているのです。
私達の課題は、ミクロの世界にあるのではありません。
マクロの世界、それも、2000年という超マクロの世界にあるのです。
無茶な私見に過ぎないのかもしれませんが、時の流れが緩やかな平安時代には、曖昧文化はフィットした文化だったと思います。曖昧文化は、他に例のないほどの優れものだったと思います。しかし、20世紀以降、時間の経過が早くなり、目まぐるしく変わる環境下では、曖昧文化は真価を発揮できなくなりました。文化は、時代の要請で人間か作り出したものです。であれば、時代に合わせた文化を作ることも理に適っているように見えます。
そうです、文化に気付き、文化を変えることでしか、対処できないと思います。
もっとも、こんなことを言っても、理解してくれる人もいないのでしょう。
何となく体が重い、元気が出ない、心配だけど何が心配なのかわからない、先が見えない、等々の症状は、人間だと精神疾患の症状ですが、国の場合はシステム疾患に当たると思います。時代と文化の整合性が失われ、かなり重症になってしまいました。
そのことに、誰も気付かないのですから、いや、当事者は気付き難いものですが、既に、病気に罹患しているのだとすると治療が必要です。しかし、治療は行われていませんから、この国が壊れるのは、必然だと思います。
多分、多くの皆さんは、「何となく、貧しくなっているような気がする」と感じているのかもしれません。文化なんて代物は、余りにもマクロなものですから、認識しづらいのだと思います。でも、紛れもなく、この国は病気です。病名は、時代と文化の不整合によるミスマッチ病という名称かもしれません。


2023-10-02



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

食料の確保 [評論]



このブログを読んでくださる方は、国民のどなた、かです。
それなのに、私は、国民の皆さんをクソミソに書いています。誰も、こんなブログ読みたいとは思わないでしょう。大変申し訳ないと思っていますが、他に方法が見つかりません。国民生活は、壊れ始めていますが、本格的に壊れる日が必ずやってきます。それを防ぐためには、国民の皆さんの力が必要なのですが、そういう空気は醸成されていません。ですから、国民生活は壊れますが、そこで、終わりではありません。再建という大変困難な仕事が待っています。その時に必要になるのが、やはり、「言葉の定義」です。せめて、「言葉の定義」という言葉だけでも憶えておいて欲しいです。

私は、国民の皆さんに、「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義をしてくださいとお願いしています。
そして、そこから導き出される、国の責務を、国民の責務を、明確にし、国の目的を、国民の目的を持ってください、とお願いしています。
しかし、私のお願いは、空論に見えているのではないかと思います。
皆さんは、「言葉の定義 ? 責務 ? 目的 ? そんなことで状況が変わるとは思えない」と言うかもしれません。
では、どうすれば、この状況を変えられるのですか。
八方塞の時は、原理原則に戻るしかないと思います。
原則論が必要になる時、それは、悪しき結果が出ている時であり、悪しき未来が想定できる時です。
原理原則を無視し、ずるずると、悪化を見過ごすのは間違いだと思います。
今が、その時だと思います。
順風満帆な時代では、原理原則なんて無視しても、上手く回ります。いや、きっと、無意識に原理原則が守られているのだと思います。「何とかなる」ものなのです。
逆に、悪化の時代になれば、小手先で、何をやっても上手くいきません。それは、人間社会の最強の存在が「欲」だからです。「欲」は、原理原則をも駆逐する力を持っています。
悪化は、放置すれば、行き着く所まで行ってしまいます。それは、人間の「欲」には限度がないからです。
そんな時は、意識的に、原理原則を知ることでしか、悪化を止められません。
誰も、この国の今の流れを「良」とする人はいないのではないかと思います。
では、どうするのですか。
放っておいて、大丈夫なのですか。
「何か、もっと、上手い方法があるだろう」「まあ、まあ」「俺には関係ねぇ」「何とかなるさ」で、いいのでしょうか。逃げても、事態は好転しません。
多分、「俺ではない誰かが、何とかしてくれよ」と思っているのでしょうが、そんな美味しい話は、ありません。
物価は上がります。
国民負担は更に重くなります。
国力衰退が続けば、いつか、本物の不景気がやってきます。
皆さんは、収入が途絶えたら、どうするんですか。
「あちゃー」と言ったら、何とかなるのですか。
いいえ、残念ながら、これ、自己責任で、一件落着です。
たとえ、誰かのせいだとしても、その誰かが、皆さんの生活を助けてくれるわけではありません。自分で、何とかするしかないのです。そういう意味で、自己責任なんです。
今の、この流れは、絶対にヤバイと思います。

この国を、こんな危険な国にしてしまったのは、国民の皆さんです。
「えっ、俺、それ違うだろ」
違いません。皆さんは、この国の責任者なのに、責任者としての責務を果たしていません。それは、皆さんが責任者としての自分の責務を知らないからです。
誰だって、好きにやってもいいとなれば、自分の利益だけを優先させます。人間ですから仕方ありません。その典型的なのが、国会議員であり官僚であり、そこに群がっている利権集団の皆さんです。
そのことは、皆さんも承知していると思いますが、それでも、皆さんは「いい人」ばかりですから、じっと我慢をします。私は、「いい人」ではありませんので、利権にしがみ付いている人達のことをボロクソに書きます。与党の議員も、野党の議員も、官僚も、利権団体も、全員クソだと書いています。ですから、この国のシステムを変えましょうと提案しています。自民党を非難する声は満ちています。確かに、自民党は最悪の政党です。でも、問題は政党だけではなく、原則のないシステムも問題なのです。
確かに、日本最悪の政党である自民党の悪しき国家運営が国民の皆さんを窮地に堕とそうとしています。
もしも、民主主義が機能しているであれば、自民党以外の政党が、国民の願いをくみ取らなければならない立場にあるのですが、全く、その気配がありません。
ですから、国民にとっては、どの政党も自民党と同等の最悪政党です。
なぜ、こんな袋小路に入ってしまったのでしょう。
現在の政党は、国民の声から生まれたものではなく、政治家の都合で作られた政治集団です。そして、彼等は、自分達は「お上」だと思っています。私達国民は、「あてがい扶持」の政党から、自分達の生活を守る集団を選ぶしかないのです。これは、私達の「下々」意識から生まれていますので、文句は言えませんが。結果、国民も国をも、袋小路に追い詰めているのです。
この国の責任者は、国民の皆さんなのに、自分達で、何かを変えるという意識は、全く、ありません。皆さんは、その責任を放棄して、この国を衰退させているのですから、悪いのは国民の皆さん自身です。ただ、皆さんは、そのことに気付いていません。
一番の最悪は、政党ではなく、国民なのです。だって、責任者ですから。
どの政党も、今の状態で美味しい汁が吸えるのですから変える気はありません。
追い詰められているのは、国民の皆さんなんです。
「お上」に虐げられている皆さんは、「いつか、きっと、お上が何とかしてくれる」と思っています。これを不条理と呼びます。どこまで「いい人」なのか、底が知れません。責任者である国民が機能しないシステムは、欠陥システムです。
国は、国民生活を守るために存在しているのです。
その国を運営する仕事を請け負っている政治は、重税を課して国民の富を奪うのではなく、国民の生活を守るために働かなければなりません。
こんな当たり前のことが、なぜ、できないのでしょう。
どの政党も、自分の利益のために仕事をしているからです。
これは、民主主義ではありません。与野党の国会議員、官僚、利権集団が作った「お上もどき」による、専制国家です。
それは、国家運営者の責務が明確ではないからです。
それは、国民の皆さんが、国の責務を知らないからです。
皆さんは、未だに、政府を「お上」だと思っています。
でも、政党も政治家も官僚も、「お上」ではなく、国民の外注先に過ぎません。
皆さんは、国の責務を知らないだけではなく、国民の責務も知りません。
いや、皆さんは、今でも、自分達は「下々」だと思っています。
それは、一度も、言葉の定義をしたことがないからです。
明治維新から150年です。
その間、誰も、「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義に挑戦しませんでした。
学問を研究することを仕事にした学者と呼ばれる人は、一人二人ではありません。
日本社会が前近代的な体制(封建制度)のままだと指摘した学者は、数多くいましたが、それを変えるための提案をした学者がいないのです。余りにも曖昧文化の影響が日常になっていたために、原因の原因の原因が見えなかったのだと思います。
第2次世界大戦で敗戦するまでは、まだ、封建制度の延長線上の天皇制の時代でしたから、取り上げられなかったのかもしれません。
でも、敗戦を契機に、民主主義国家になったはずですが、この80年間でも、誰一人、言葉の定義に挑戦した学者はいません。
そういう意味では、専門家でさえ気付いていないのですから、国民の皆さんを責めるのは間違っているのかもしれません。
でも、国民の皆さん自身の生活のことですから、国民の皆さんには、言葉の定義をする責務はありました。そのことを指摘する学者もいません。
誰もかれもが、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で、80年間、挑戦しませんでした。
国民の生活は、どんどん、貧しくなっています。
この先、もっと、貧しくなります。
そろそろ、気付く時だと思います。
皆さん自身のために、皆さんの家族のために、子供達の未来のために、気付いてください。それが、皆さんの責務です。責任者である皆さんには重い責務があるのです。

私は、民主主義原理主義者ではありませんが、少なくとも、国民にとっては、民主主義が一番理のある体制だと思っています。
右翼や左翼の理想形よりも、はるかに、いい体制だと思います。
ソ連と中国が失敗していますので、左翼は論外だとして、右翼って、何でしょう。
日本で、右翼と呼ばれる思想を持っている方は、天皇崇拝者です。
天皇制は封建制度の1つの形であり、右翼の方は、封建制度のほうが自分にとって有利だと考えているのです。「お上」と「下々」というシステムが心地よい人は、権力側にいる人達であり、庶民ではありません。
そんな人達の中で、天皇制を復活させることで、神社の利権を最大化するための団体が日本会議であり、現在の右翼の最大勢力です。自民党の大半の政治家が、日本会議の理想に賛同しています。自民党は、少なくとも、庶民のための政党ではありません。
私は、天皇制にも共産主義にも反対です。
国は、国民生活を守るために存在すべきだと考えています。
私は、右でも左でもなく、真ん中だと思っていますが、いや、ほとんどの皆さんがそう思っているでしょうから、珍しいことではないのでしょうが、やはり、真ん中です。
多くの国民の皆さんも、自分は真ん中だと思っているのでしょう。
でも、それ、少し、違います。
ここで、箱庭を想像してください。
箱庭の左側には共産主義を理想とする人達が住んでいて、右側には天皇制の復活を願う人達が住んでいます。ほとんどの方は、その中間に住んでいますが、「言葉の定義」をしていないために、思想という地面を持っていません。そうです。皆さんは、真ん中にいますが、宙に浮いた状態にあるのです。
立っている場所が正しいか正しくないかは別にして、右翼の方も左翼の方も、少なくとも、地に足をつけています。問題は、ほぼ、9割の皆さんが立つべき地面を持っていないことです。皆さん、宙を浮遊していて、どこにでも移動可能ですから、「なあ、なあ」「まあ、まあ」「ふむ、ふむ」「俺には関係ねぇ」が通用します。そういう意味では、とても、居心地がいい場所なんだと思います。
しかし、強風が吹けば、どこに飛ばされるかはわかりません。
「別に、構わないし」と言う方もいると思います。
「俺だけは、大丈夫」と、根拠のない自信を持っている方もいるでしょう。
「多少貧しくても、自分が、そこそこの生活ができれば、それでいい」と思っている方もいると思います。
でも、国が壊れるということは、今ある常識が全て壊れるということです。
「別に」も「大丈夫」も「そこそこ」も通用しない世界があるのです。
もう歴史の中に埋もれてしまいましたが、日本が戦争に負けた時、国民の皆さんは食料の確保に走り回りました。栄養不良で病に勝てずに、亡くなった方も沢山いました。
電気、あって当たり前。コンビニ、あって当たり前。スマホ、あって当たり前。今、「当たり前」と思っているものが失われても、皆さんは、平気ですか。
国が壊れるということは、そういうことです。
ただ、ただ、食料の確保が最大関心事になるのです。
人間は、食べなければ生きていけないという現実を回避することはできません。
80年前に、国民の皆さんの先輩が体験したあの不条理が、再現するのです。
国が壊れる原因は戦争だけではありません。
国力衰退でも重税でも、いや、災害でも、疫病でも、充分、国は崩壊するのです。
原因の如何を問わず、壊れた結果は、食糧難です。
そのことは、既に、あの敗戦で証明済みです。
食わずに生きられる人間は一人もいません。
この国には、1億2000万人分の食料が必要ですが、今は、5000万人分の食料しかありません。やりくりをして、何とか、1億人が飢えを凌いだとしても、2000万人は餓死する運命にあります。


2023-10-01



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog