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記事紹介 25 [記事紹介]



「医療ガバナンス学会」というホームページがあります。メジャーな学会ではなく、数人の医師が立ちあげたホームページだろうと推察しています。
その記事の中から紹介します。
表題は、日本の「変わらなさ」へのささやかな抵抗
筆者は、福島県立医科大学災害医療支援講座/雲雀ヶ丘病院 堀 有伸氏
全文は転記しませんが、興味のある方は「医療ガバナンス学会」を訪問してください。

[ 前略 ]
村重直子の『さらば厚労省』では、現実的な思考よりも、所属官庁の権益を優先する判断を行い、そのことがあまりにも自明で葛藤を生じる余地もなくなってしまった一部の役人の姿が描かれている。その中から一部を引用する。「私は医系技官になって、彼らのこんな会話を耳にした。『現場を知らないからできるんだ』『それを知っていたら、俺たち、こんな政策決められないよなあ』 『それ』とは、たとえば『現場の声』であり、論文である。現場の常識を知らないことを棚にあげ、『知らないからこそできる』と開き直っているのである。そして間違いを認めることもなく、『知らないからこそできる』と言っている人が、外に出るとこう胸を張るのだ。『我々の使命は国民の健康を守ることです』 なぜ、こんな矛盾だらけの発言になってしまうのだろうか。ある医系技官は、こんな話をする。 『医系技官の世界では、そういう考え方が先輩から後輩へと受け継がれてきたからね』 これが医系技官ムラに伝わる常識なのだ。」

厚労省以外でも、例えば「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会」の報告書では、電気事業者について厳しい指摘が行われている。「学会等で津波に関する新しい知見が出された場合、本来ならば、リスクの発生可能性が高まったものと理解されるはずであるが、東電の場合は、リスクの発生可能性ではなく、リスクの経営に対する影響度が大きくなったものと理解されてきた。このことは、シビアアクシデントによって周辺住民の健康等に影響を与えること自体をリスクとして捉えるのではなく、対策を講じたり、既設炉を停止したり、訴訟上不利になることをリスクとして捉えていたことを意味する。」

そして、力関係を背景に所属集団の内部のことがらを理想化して秘密を守り、外部の問題点のみを指摘することに由来する万能感は、単に精神的なものだけではなく、実社会における「支配-被支配」の関係とも関連している。村重は、医系技官のあり方について「砂上の楼閣を守るために新たな仕事を作り出さずにはいられない。こうして、次々と医療に口を出すようになった。その主な手段が医療費抑制と、補助金行政、通知行政である。(中略)どの病院に補助金を渡すかを決めるのは役人だ。医療費抑制政策によってほとんどの病院は赤字経営を強いられているから、補助金を受け取れるか否か、病院にとっては死活問題だ。だから多くの病院は、嫌でも役人にひれ伏すしかない」と論じた。東京電力と監督官庁の関係について、前述の事故調査委員会の報告書は、電気事業者について「原子力技術に関する情報の格差を武器に、電事連等を介して規制を骨抜きにする試みを続けてきた」と指摘している。ここからも、組織がその内部と周辺の個人を、「組織が空気と一致することによる万能感」の中に飲み込んでいった様子が推察される。

閉鎖的な組織に一致することから生じる万能感は、中央よりも県や市のような地方自治体・医療機関・他の私的な組織においても往々にして認められ、そちらの方が強烈であることも少なくない。さらに、「知らない」と開き直ることで責任を回避し、問題を外部に押し付け続ける依存性は、一般国民の中により露骨に現れることがある。そしてそれは「普通の市民感覚」として、近年称揚され続けてきたのである。日本的な精神性の負の側面を一部の組織に投影してそれを攻撃することは、この自己愛的な万能感の問題を解決するどころか、疑似解決を与えることで、かえってそれを強化してしまう可能性がある。批判のための批判を行うことで感情的なカタルシスを得ることはできても、経験のある実務担当者を、情熱はあっても具体的な能力に乏しい人々に置き換えてしまうのでは、いたずらに社会を混乱させるだけである。私はただ「厚労省が悪い」「東京電力が悪い」と主張したいのではない。それよりもむしろ、私たち国民の一人一人が、「全体と一致することによる万能感」に耽溺することで満足し、それと独立した個人としての責任ある判断し行動することとの間に、あまりにも葛藤を感じなくなっている現状に警告を発したいのである。
[ 後略 ]



余談です。
私は、文庫本以外の本を買ったことがありません。これは、貧乏が作り出した個人の性癖なのだと思います。
掘氏が引用している村重直子氏の『さらば厚労省』もハードカバーで、2000円もしますので読んでいません。前回紹介しました「いまだ人間を幸福にしない日本というシステム」という本は、文庫本だったから読むことができました。私が知らないだけで、ウォルフレン氏や村重直子氏だけではなく、多くの方が問題を提起し、警告を鳴らしてきたと思います。堀氏もその一人でしょう。
でも、この国は変わりません。
これが現実です。
それは、ほとんどの国民が、自分の問題だと感じていないことによるものです。
私達日本国民は、聞く耳を持たなくても問題はないと信じ込まされているようです。それは、どんな分野にも安全神話が用意されているからです。「これは、お上の領域の問題であって、あなた達国民には関係がありません」「大丈夫です。何も心配いりません。ごらんなさい、こんな安全神話があるのですよ」と言われ、「なんだ、私達には関係ないんだ。お上が万事間違いなくやってくれるんだ」と国民は納得します。
このことは、日本の官僚がいかに優秀であるかという証明でもあります。
それは、情報隠蔽が当然のように行われるシステムを官僚が作り上げたからです。そこには、日本人の民族性を利用しようという発想が存在します。こういう発想ができるということも、官僚が優秀だという証明です。
官僚独裁主義は、盤石なのです。
官僚は変化を嫌います。
この一点を見ただけでも、日本崩壊は揺るぎない日本の未来です。
なぜなら、時間や時代が、変化を求めるのは、ごく自然な事です。盤石であるということは、崩壊のマグマをため込んでいる事を意味するからです。日本のシステムは、日々硬直しているのです。
石田が心配している財政破綻も、硬直化の一つの事象に過ぎません。でも、余りにも大きな事故になると思われますので、この国にとって致命傷になる可能性があります。今、事故という言葉を使いましたが、適切な言葉ではないかもしれません。例えば、赤信号の交差点に突っ込めば事故が起きることは容易に予見できます。それを敢えて突っ込む行為は、暴挙と呼ぶことの方が正しいのではないかと思います。事故が起きた後を見れば、交差点事故と変わりがありませんが、事故の原因は別物だと思います。
しかし、国民は、「関係ない」と思いこんでいます。
この国民の能天気ぶりは、世界に類を見ない能天気のようです。
「手の施しようがない」という感想が現状を表現する最も適切な言葉だと思います。
「手の施しようがない」という言葉が使われるのは、末期症状の患者に対して医師がよく使う言葉です。この国も、同じなのです。
日本の民は、権力者に従うことが正しいことだと教え込まれてきました。権力者にとって都合の悪い事はやってはならぬと教えられてきました。その理由は「ならぬものは、ならぬのです」というものです。その結果、会津藩はどうなったでしょう。権力に殉ずることは、本当に美しいものなのでしょうか。お殿様のために命を捨てることが美しいのでしょうか。私は、そうは思えないのですが、国民としては恥ずべき事なのでしょうか。
この国が崩壊して、地獄がやってきたとしても、民は泣き言を言わないのでしょうか。恨みも抱かないのでしょうか。とても、そうは思えません。
お上が民を守ってくれるというのは、幻想に過ぎません。自分の身は自分で守るしかないのです。人類の歴史は、そこから始まっているのです。しかし、「自分さえよければ」が自分を守ることにはならないということを、人間は体験で知りました。他人と力を合わせなくては生き残れないのだと知りました。権力者は、その部分だけを利用する知恵を持っていたのです。権力者は、人間の弱みを利用することで、自分の権力を確実にすることに成功したのです。時間とともに、次第に、それが正義になりました。権力者を支えるために民があると思うようになったのです。それで、民が幸せになれるのであれば、世界中の国は独裁国家のままでよかったのです。でも、今、世界には独裁国家が数えるほどしか残っていません。民は、自分が幸せになるためには、自分も責任を持って、国の運営に関与しなければならないと知り、民主主義が生まれたのです。この民主主義が、人間にとって最終兵器なのかどうかは、まだわかりません。でも、多くの民が生き残るためには、現在ではこのシステムが最良のものだと考えられています。では、日本はどうなのでしょう。私達国民は、この国が民主主義国家だと思い込んでいますが、それは、看板を立てているだけで、実際には官僚独裁国家にすぎません。なぜなら、私達は、まだ、民主主義とは何かについて、何も知らないからです。
仮に、日本の現状を憂い、日本の将来を心配する人が50万人いたとしましょう。20歳から70歳の大人が8000万人いたとすると、7950万人の日本人は、自分には関係のないことだと思っているのです。また、心配する50万人の中で、声を出す人は500人か5000人だとすると、その声を7950万人の耳に届けるだけではなく、心に届けなくてはなりません。それは不可能です。彼等は、自分が正しいと信じているのですから、崩壊という現実に直面するまでは、聞く耳すら持っていないのです。
独裁国家に住む隷属という土俵にいる人達と会話をしても、話は通じません。それは、国とは、国民とは、民主主義とはという基本的な部分で共通の認識が持てていないからです。
言葉が通じないのですから、どうすることもできないのです。
何も変わらなくて、当然なのです。
勿論、官僚独裁国家でも、民が幸せであれば何の問題もありません。
でも、この国の民は幸せと言えますか。
将来に幸せが見えていますか。
仮に、国が崩壊したとして、民は納得できるのでしょうか。
破局願望を持っている人でも、実際に崩壊して「よかった、よかった」と言えるのでしょうか。崩壊の現実が自分の身に及んできても「これで、いいのだ」と言いますか。
国が崩壊すれば、今、私達が持っている正義も論理も常識も、全部吹き飛ばされてしまうのです。全く別の正義と論理と常識に支配されるのです。それまで信じてきたものは、跡形もなくなるのです。
私達は人間なのですから、少しは想像という力を使うべきです。
レベル9を想像することができれば、私達の常識は根底から変わります。
正しいか、正しくないかは個人によって異なります。でも、恐怖は大勢の人に恐怖として認識してもらえるものです。ですから、7950万人の日本人には、お行儀のいい正論を伝えるのではなく、レベル9という恐怖を伝えるべきなのでしょう。確かに、これは脅しになりますが、大勢の方がお行儀よく警告したことが無意味に終わっているのが現実なのですから、他に選択肢はないものと思います。
ただ、この方法は、現行の体制を破壊する可能性がありますから、権力者の圧力がかかってくるのは覚悟しなければなりません。流言飛語だと決めつけられるかもしれませんし、国家騒乱罪に当たる刑法77条の内乱罪を適用される心配もあります。
石田の場合は、暴力や武力による革命は推奨していませんし、レベル9も小説という表現方法を使っていますので、内乱罪が100%適用されることはないと、勝手に解釈していますが、それが通用するかどうかはわかりません。
そうは言っても、このブログの発信力では、7950万人の無関心な人達に伝えることは不可能なことでしょう。それでも、万が一ということもあるし、悩ましいことです。
崩壊後の社会の国民生活に言及する人達が出てくるまでには、まだ時間がかかります。崩壊が予測の段階を越えて秒読みの状態にならなければ、書けないのだと思います。もっとも、崩壊後の社会を伝えることが出来たとしても、それで崩壊が回避できる訳ではありませんし、国民が自分の身を守ることも出来ませんので、実質的なメリットは何もない訳です。何かメリットがあるとすれば、生き残った人達が新しい社会を作る時の参考になる程度でしょう。でも、生き残った人達が作る社会は、きっと、今の社会とそれほど変わらないものになると予想できますので、役に立つかどうか、疑問はあります。そう考えると、無駄な抵抗になるのでしょうが、人間は、愚かな生き物ですから、抵抗をするものだと思うことも選択肢なのかもしれません。
石田は、今までも、無駄な抵抗をしてきたのだから、この先も抵抗するのか、それとも無駄だと認識するのか、それが問題です。一寸、ハムレットの気分です。
そうです。
私は、お馬鹿さんです。


2013-01-15



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