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花火 [超短編]


 背後の山は白一色なのに、眼下の里に、まだ雪はなかった。遠目に見ても豊かな土地にはみえない。今の時期なら麦の穂があってもいいのだが、それらしき作物も見えない。農夫が一人、土に鍬を打ち込んでいるが、芋畑と思える土から芋を掘り出しているようにはみえなかった。
こんな貧しい村で、食べ物を分けてくれるのかどうか。自分達の食べ物を確保するだけで精一杯の村なら、余所者に分ける食べ物はないかもしれない。しかし、もう他の村を探すだけの体力が残っていない二人は、この村に下りて行く他はなかった。落ち武者狩りがあるという話は聞いていた。里に下りて行けば、捕えられて突き出される危険は大きい。二人はよく話し合って覚悟を決めたはずなのに、立ち上がるのには時間が必要だった。
「アル」
「ん」
立ち上がると、少し眩暈がした。水だけで三日間生きてきた。もちろん、その前も十分に食べていた訳ではないので、この三日は体力を限界まで奪ってしまった。最後に兎を仕留めて食べたのが何日前だったのか覚えていない。まだ何日間かは息をすることができるかもしれないが、動けなくなったら、それは死と同じことになる。
カイの剣とアルの弓は、森の茂みに隠してきたので、二人は丸腰だった。武器を持ったままで、食べ物を分けてくれと言っても、争いごとになるだけだろう。ただ、ひたすら、頼み込む。それで、駄目なら諦めるしかない。多分、もう、戦う体力は残っていない。
前を歩くカイの姿は、浮浪者のようだ。着の身着のままで半年も山を逃げていたのだから仕方がない。髪は伸び、カイはうっすらと髭も生えている。せめて、顔だけは洗っていこうと言って、二人は冷たい川の水で顔と手を洗った。髪も束ねて紐で縛った。
アルは背中に矢筒を背負っていないだけで、宙を歩いているような違和感があった。アルにとって、弓矢は友であり同志であり心の支えだった。それを手放した今、自分の半身を森に忘れてきたような喪失感がある。きっと、空腹のせいだけではないだろう。
近づくと、農夫が持っているのは銃だった。丘の上から見た時は確かに鍬だったはずだ。銃口をこちらへ向けていないのだから、有無を言わさずに殺すつもりはないようなので、二人は農夫に近づいた。
「食べ物を分けてもらいたいのですが」
カイが落ち着いた声で話しかけた。いつでも、カイは落ち着いている。
「お金は持っていません」
カイは薄汚れたカバンから短剣を取り出して地面に置いた。
「これは、私の家に代々伝わる剣です。値打ちがあるのかどうかはわかりませんが、これしかありません。できれば、これをお金の代わりに受け取ってもらいたいのです」
「ハザルの国から来たのかね」
「はい」
「十日前に、落ち武者狩りの連中が来たところだ」
「そうですか」
「山にいたのか」
「はい」
「武器は」
「山に隠してきました」
「どうして」
「もう、争うだけの体力がないからです。それに、あなたは銃を持っている」
「これは、ただの護身用だ」
「助かります」
「名前は」
「私は、カイ・オルバンです。それと、弟のアルです」
「歳は」
「僕が16で、弟は14です」
「私は、ワッツ・ドイルだ。お前達も戦ったのか」
「はい」
「だったら、お前達は勇者だ。勇者なら、喜んで我が家に招待する」
「はい」
男は、銃を背中に背負い、鍬を手にして歩き出した。
「あの」
「ん」
「これは」
「大切なもの、なんだろう」
「はい」
「仕舞っておきなさい」
「はい」
背の高い男は、歩く歩幅も広い。ずんずんと進んでいく。二人は、小走りになって追いかけた。
母屋と納屋の間には、雑多なものが置かれていた。馬車もあり、馬の水飲み場もあり、洗濯物も干されている。どこにでもある、村の風景だ。
「そこに座って、待っててくれ」
「はい」
外で食事をとることがあるのか、机と長椅子があった。
納屋は馬小屋なのかもしれない。馬の鼻息が聞こえる。あれは、馬が喜んでいる時の声。誰かが馬の背をこすっているのだろう。アルも馬の手入れは好きだった。サバという名の馬は父親を乗せたまま突撃していき、帰ってこなかった。
男が両手に木皿を持って戻ってきた。その後ろに、女の人が水差しとコップを持って立っている。多分、ワッツという人の奥さんなのだろう。きれいな女だ。
「食事は今から作る。それまで、これで我慢してくれ」
二人の前に置かれた皿には、パンとチーズが載っていた。パンを見るのは半年ぶり、チーズは、多分、一年ぶりだろう。アルはおもわず唾を飲み込んだ。
「何日、食べていない」
「三日、です」
「ゆっくり噛んでくれ。慌てると吐くことになる」
「はい」
「妻のララ」
二人はお預けを命令された犬のように、パンとチーズから目を離さずに、頭だけを下げた。
コップに水が注がれた。
「どうぞ。ゆっくり、食べるのよ」
二人は、パンに手を伸ばした。口に近づけると、パンの匂いがする。
「食べながら聞いてくれ」
ワッツが、向かいの椅子に座り、ララは母屋に戻って行った。
当たり前のことだが、パンはパンの味がした。目はチーズに釘付けになっている。パンを飲み込んでチーズを食べたいが、正面からワッツが見ている。皿を握っている自分の指が震えているようにみえたが、きっと、勘違いだろう。
「君たちは、勇者だが、落ち武者だ。落ち武者を匿えば、私達も無事には済まない。このことはわかってくれるな」
カイとアルは頷いた。
「この前、落ち武者狩りの連中が来た時、あいつらは、家の中まで調べた。家族の様子も、部屋の様子も知っている。それと、その家の臭いも知っている。だが、君たちは臭い。自分でも臭うだろう」
二人は首を傾げた。自分の臭いはわからないし、カイが臭いのかどうかもわからない。でも、体は洗っていないし、色々な場所で寝ていたし、殺した獲物の血や獣の臭いは付いているかもしれない。
「君たちが家の中に入れば、臭いが残る。だから、それを食べ終わったら、最初に風呂に入ってもらいたい」
二人は頷いた。城にいた時も風呂なんて入っていないから、もう一年は入っていない。
「それと、着ているものは全部捨ててもらう。その鞄も。この辺では、そんな服を着ている者はいない。ハザルの人間だとすぐにわかる。洗濯してもいいが、干しておいたら危ないし、証拠は全部始末したい。もちろん、着るものは用意する。それで、いいか」
アルは顎が疲れるほどパンを噛みながら、頭を上下に振った。今は、着るものなどどうでもいい。食べる物さえあれば、いい。
「サーシャ。ガルシャ」
ワッツが納屋に向かって大声を出した。
納屋から、子供が二人出てきた。きっと、アル達と同じくらいの歳だろう。女の子と男の子。
「なに」
「紹介する。ハザルの国から来たカイとアル。落ち武者だ」
「子供なのに、落ち武者なの」
「娘のサーシャと息子のガルシャ。君たちと同じ歳だ」
「私、サーシャ。よろしく」
「俺、ガルシャ」
「カイ・オルバンです」
パンを飲み込んだカイが名乗ったので、アルもパンを飲み込んだ。これで、チーズが食べられる。
「僕は、アル。よろしく」
「サーシャ。風呂を沸かしてくれ。ガルシャは水だ。この臭いでは、すぐに見つかってしまう」
「臭い」
「ガルシャ」

風呂の外で待っていたワッツの許可が出て、用意されていた服を着ると疲れで座り込んでしまった。しかし、どうも、服が落ち着かない。ハザルの服は手首も足首も細くなっている。与えられた服は、そんな細工がなく、締まりがない。でも、温かい。
二人は食堂に連れていかれた。狭い食堂で、壁際の暖炉には赤々と火が燃えていた。アルの住んでいた家でも食堂は狭かった。薪を節約するためだ。
食堂に入った時は、暖炉の前で寝てしまいたいと思ったが、スープの匂いがして、元気が出た。
「どうだ。気分、悪くなってないか」
「大丈夫です」
「じゃあ、遠慮なく食べてくれ。ララが勇者のために腕を振るった」
「はい」
カイとアルは、ハザルの神に短く祈りを捧げて、スプーンを手にした。四人の目が二人に注がれていたが、二人の目はスープしか見ていなかった。
最初の一口を食べた時、目の前が曇り、アルの目から涙が零れ落ちた。カイの手が背中に置かれたのはわかったが、アルはスプーンを使えなくなった。
「すみません」
カイがアルの代わりに謝ってくれた。
「このスープ、母さんのスープと同じ味がします。こいつ、まだ、子供だから」
「お母さんは」
「死にました。アクバの砲撃でバラバラに。何日も探しましたが、右腕だけが見つからなくて。アルは、右手がなければ母さんがあの世で困るからと言って、なかなか埋葬できなかったんです。こいつは、母さんが大好きでしたから」
「ごめんなさい。酷いこと聞いてしまって」
「いいんです。もう、アルは乗り越えていますから。そうだな、アル」
大丈夫、と胸を叩きたかったが、アルは小さく頷いてみせた。母さんのことも父さんのことも乗り越えてなどいない。そんな日が来るとも思えない。
食事を終った二人は、毛布を渡されて納屋に連れていかれた。
納屋の外にある便所に連れていかれたあと、道具棚を動かした隙間から暗闇の中へ入った。
「ベッドで寝てもらいたいけど、ここで我慢してくれ」
連れていかれたのは、狭くて急な階段を登った暗い場所だった。ランプをカイに預けたワッツさんが太い材木を二本外して板を外すと、サーシャとガルシャがいた。そこは、二階の干し草が置かれた倉庫になっていた。
「壁が二重になってる。ここにいれば、見つかる心配はない」
干し草を隠し部屋に敷き詰め、板を立て、固定用の材木を上下に嵌める練習をさせられた。
二人は、狭くて、真っ暗な場所で、すぐに干し草と毛布にくるまれて眠ってしまった。
不安はあったが、疲れの方が大きかった。

三日で体力は戻った。
「やはり、アクバに行こうと思う」
「ん」
考えるのはカイの仕事で、カイを助けるのがアルの仕事。
ただ、何の礼もなく去るわけにはいかない。二人が手にした仕事は薪割りだった。
サーシャとガルシャの協力をもらい、鋸を使い、薪を割った。薪はいくらあっても邪魔にはならない。カイとアルにとっても、リハビリの効果はあった。
納屋の外壁にある薪置き場は、三日もすると置き場に困るまでになった。
「ドーン」
サーシャとガルシャの体が緊張した。
「隠れて、誰か、来る」
カイとアルは追われるようにして、隠れ部屋に駆け込み、板を立て、材木をはめ込んだ。
サーシャとガルシャが梯子を下りて行く音がして、静寂が来た後に、外で馬蹄の音が聞こえた。一頭や二頭の馬ではない。
しばらくすると、人の足音と、壁や床を叩く音がし始めた。梯子を上ってくる気配。干し草を叩く音。二人は、息をひそめた。少しでも動くと、藁が音を出す。首を動かすと、骨が鳴る。闇の中で、正面を向いて、動かないようにした。
納屋から人の気配は消えたが、安全かどうかはわからない。安全が確認できれば、誰かが知らせてくれるだろうと思っているが、その知らせが無いままに時間は過ぎていく。
「ドーン」
先ほど聞こえたものと同じ音がして、しはらくして、梯子を登る音。すぐに壁を叩く音が聞こえた。でも、固まってしまった体は動かなかった。また、壁を叩く音。
板を外すと、ワッツとガルシャの顔があった。
「もう、大丈夫だ」
「便所」
「おう」
カイとアルは、明るさに目を細めながら梯子を降り、便所に走った。
二人が納屋に戻ると、ララとサーシャが作業台の上に食事を並べていた。皆の顔が緊張しているのが不安だった。ララとサーシャは無言で母屋に戻って行った。
「二人には見張りを頼んだ。ララはこの村で一番の射撃手なんだぞ」
ワッツに促されて、四人は無言で食事をした。
「明日、と言うか、夜が明ける前に、二人を山に連れていく。連中は、何か、感づいてる」
「薪だと思う」
ガルシャの声は、いつもと違った。
「この前、来た時から見れば、薪が何倍にも増えている」
「そうだな」
「ごめんなさい。僕たち、すぐにでも出て行きます」
「どこに」
「アクバに行きます」
「行ったことがあるのか」
「いえ」
「馬車で行っても、四日はかかる。途中、食糧も水もない。アクバ軍だけではなく、強盗団がいる街道をどうやって行くつもりだ」
「でも、ここにいれば、皆さんに迷惑がかかります」
「だから、山に連れていく」
「ワッツさんは、どうして、そこまでしてくれるのですか」
「ん。君達の力を借りたいからだ。このザーカの村も、三十年前にアクバに占領され、多くの犠牲者を出した。今のアクバの力は強大で、倒すことはできない。でも、いつの日か、アクバは倒さなければならない。その時に、君達の力がいる。三十年前、私は君達よりも小さかった。弟と二人、山にある叔父の家に隠れていたが、里にいた人間の半分は殺され、残りはアクバに連れていかれた。鉱山で働かされていると聞いている。もう、三十年も経っているのだから、誰も生きてはいないかもしれない。でも、一人でも助けなければならない。そのために、仲間は、一人でも多く欲しい。あの落ち武者狩りの連中だって、アクバとの戦いになれば仲間になる」
「えっ、僕達を追っているのはアクバ軍じゃないのですか」
「君たちの首には賞金がかかっている。落ち武者狩りをやっているのは貧しい農民だ。彼等は生活のために、賞金稼ぎをするしかないんだ。この村だって、貧しければ、君達をアクバに差し出していただろう。もちろん、裕福だとは言えないが、食べることはできる。私達にはあの山があるから」
「山って、雪と氷ですよね。獲物なんていませんでしたよ」
「狩りだけが、山の民の仕事ではない。ザーカの村は、昔から山でいろいろなものを作ってきた。木で作った食器や道具や家具。鉄製の鍬や刃物。焼き物の食器。少し離れているが牛や馬も飼っている。花火もザーカの花火が一番。それ以外にも、あの山ではいろいろなものを作っている。花火を知っているか」
「聞いたことはあります」
「アクバにも花火はあるが、ザーカの花火がなければ、アクバの祭りは成り立たない。それに、花火は合図にも使える。ドーンという音を聞いただろう」
「はい」
「ザーカの村は、辺境の地と言われている。この先には、山しかない。だから、ザーカの村への道は、この村の者しか使わない。余所者が来れば、花火で合図して、村全体が戦闘態勢に入る。もしも、アクバ軍が来れば、何発もの花火が上がり、私達は山に逃げる。それは、私達がアクバを攻める時に、一人でも多くの仲間が必要だからだ」
「僕達でも、役に立ちますか」
「何を言う。君達は、実際にアクバ軍と戦った勇者じゃないか。私達は、まだ、アクバの軍と戦ったことなどない。私達は、きっと、いい仲間になれる」
ワッツとカイとアルの三人は、四時間だけ睡眠をとり、持っていくものを用意して、暗い道を山へ向かった。
ワッツの言うように、いい仲間になれるかもしれない。


2015-11-10

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火球少女 [超短編]



「相沢正也」
「はい」
担任の名前は、三井治五郎。まだ、30歳にはなっていない、どこか気の弱そうな国語の教師だが、治五郎は似合っていない。でも、10年後「井上先生って、どんな先生だっけ」という卒業生はいても、治五郎先生なら憶えてくれている確率が高い。
「相沢。正也。西中。サッカー。頭は悪い。以上」
高校生初日、自己紹介をしろと、担任の治五郎が言い出した。正也は、いつも、出席番号が1番。差別だと言っても、誰もとりあってくれない。わ行から始めたとして、ま行の次は何行かという答えには、少し時間がかかる。やはり、あ行から始めるしかない。
「青山千秋」
「青山。千秋。高山南中。サッカー。頭脳明晰。以上」
なぜか、最初のパターンが法則になってしまう。
頭脳明晰だ。だったら、どうして一高に来るかな。一高で頭脳明晰は禁句だ。教室の冷めた空気は、誰もが同じことを考えた結果だろう。その一言に、治五郎もフリーズしているようだ。
「井上真理」
治五郎の声が裏返っていた。
青山千秋の渾名は、間違いなく「貞子」になるだろう。前髪が顔を半分ほど隠している。その上、自分で頭脳明晰なんて言えば、嫌ってくださいと言っているようなものだ。一高は、サッカーだけで有名な高校だ。

「おっ、すげえ」
途中にバレー部の部室があったが、バレー部と違ってサッカー部の部室は、驚きの広さだった。バレー部の部室を見る限り、高校でも運動部の部室は狭くて汚くて臭いものだ。いくらサッカー部の部員が多いといっても、これでいいのだろうか。
部屋の奥に人だかりができている。近づいてみると、その真ん中にいたのは、あの青山千秋だった。
「差別するなら、教育委員会に申し出ます」
学校の規約集の中には、サッカー部に入部できるのは男子に限るとは書いていない、というのが青山の主張らしい。
「でも、試合には出れないよ」
「わかっています。女子サッカー部が出来るまでの、練習ですから、試合には出れなくてもいいです」
「うちの練習は厳しい。体力的に無理じゃないか」
「大丈夫です」
「女子更衣室もない」
「トイレで着替えてから、部室に来ます」
「意識的でなくても、どこに手が当たるかわからない。セクハラだとか言われても困るんだけど」
「それも、大丈夫です。慣れていますから」
「困ったな、結論は校長に相談してからにします」
「よろしく、お願いします」
「はい、はい、では、入部希望の人は、ここを先頭にして並んでください」

「おう、相沢。来たな」
「はい。先輩。よろしくお願いします」
正也が西中に入学した時のキャプテンが向井だった。西中のサッカー部はそれほどレベルの高いサッカー部ではなかった。だから、向井が一高でレギュラーになっていないのも仕方がない。西中は、正也が入るまでは、普通の中学校だったからだ。西中の相沢正也は、関東では、少しは有名な中学生だった。全国レベルの高校からも誘いはあったが、正也は一年生から確実にレギュラーがとれる一高に進学した。
一高は、サッカーが強くて、偏差値が低くて、公立高校という強みがあるので、他所の地域からもサッカー少年がやってくる。サッカー好きな少年は多いが、練習はきつく、新入部員は半年で半分になると言われているらしい。
練習初日、3つの班に分けられた新入生は、準備体操、柔軟体操、ランニング、ダッシュでしごかれた。土曜日に1日休みを入れて、日曜日に試合形式の練習があるらしい。新入生のランク付けが目的だと、向井先輩から聞いた。
正也の班には、西中のサッカー部で一緒だった仲間が2人もいる。補欠に青山千秋の名前もあったが、当然、無視した。ただ、すだれ髪を後ろで一つに括ると、アスリートの顔になったように思えた。あの顔が地黒でないとすれば、練習量は豊富だったのだろう。
2年生チームを相手に、15分ハーフで30分の試合。ただし、5点差で勝負が決まる。
最初のチームは、5分で5点取られて試合終了。二つ目のチームは、8分持ちこたえた。だが、1年生チームはシュートさえ打てなかった。
正也のチームは、前半1対5。後半開始30秒で1点取られて負けた。1年生チームの1点は、2年生のオウンゴールだから、自慢できる得点ではない。
3年生も参加し、試合は続けられた。試合は、1年生チームが30分持ちこたえるまで続けられるというルールが、地獄になるとは思わなかった。故障者や脱落者が出て、補欠にされていた青山が正也のチームに入った。
「ワン・ツーで、スペースに出してくれ」
正也の横に立った青山が、声をかけてきた。「俺に、アシストしろってか」と思ったが、返事はしなかった。
フォワードの位置にいても、ボールなど来ることはない。正也のチームは、パスが通ることがあるが、力の差は歴然としているのだから、カウンターを狙うのは当然の作戦になる。だから、正也も低い位置からのカウンターを狙った。
開始早々、青山がサイドバックの位置から、ドリブルで持ち上がり、正也も走った。2年生も、女だと思って油断していたし、青山の技術も捨てたものではなかった。正也は、青山に言われていたからワン・ツーのパスを出したわけではない。ワン・ツーで前に出ることが正しいと思ったから、スペースにボールを送った。青山は左足で、シュートを打ち、ゴールキーパーは一歩も動かなかった。青山は、正也に向かって親指を立てた。うそ、だろう。正也もそう思ったし、皆も同じだろう。先制点が1年生チームなんて、ありえない。
1年生チームの2点目も青山だった。コーナーキックのボールを2年生がクリヤミス。真上に上がったボールが正也の頭上に落ちてきた。ジャンプする前に、青山と目が合った。自分はゴールを背中にしている。青山の前にあるスペースに、ボールを出すのは自然な反応だった。走りこんだ青山のボレーシュートは、見事にネットを揺らした。
ディフェンスが弱いのだから、点を取られるのは仕方がない。でも、前半は2対4で終わった。2点とも青山のシュート。フォワードの正也としては、喜べる結果ではない。
2年生は、青山を潰しにかかった。だが、青山は義経みたいにひらりひらりとかわして、ドリブルで持ち上がる。マークされなくなった正也とのワン・ツーは、面白いように決まる。
2年生は、足を出すだけでは止められなくなり、体ごと青山にぶつかっていく。平気でジャージを引っ張る。その度に、青山は地面に這った。しかし、青山は表情を変えなかった。
見かねたコーチが、2年生に注意をしたが、青山を止めるためには、体を使うしかない。コーチはレッドカードで次々と2年生を退場させた。
4人の退場者が出て、試合は膠着状態になり、試合は4対4で引き分けた。正也も1点取ったが、3点は青山の得点だった。
2年生は、退場者を4人も出したことで、グラウンド10周のペナルティー。2年生は、おもいきり暗い顔で走っている。正也の顔も暗かった。正也のサッカー人生では、自分よりレベルの高い選手はいなかった。一高の2年生3年生を見ても、自分よりも明らかにレベルが高いと思う選手はいなかったのに、青山には敵わないと思った。初めての挫折かもしれない。しかも、それが、よりによって、女だということも、落ち込む原因になった。
誰かと談笑しながら家路につくような余裕はない。正也はトイレに行くような素振りで教室に向かった。1対0の1点と、4対4の1点では1点の価値が違う。2年生が30分で4点しか取れなかったのは、退場者が多かったからだが、ザルのような1年生のディフェンスの中で、何度もシュートを防いだのは青山だった。つまり、青山一人で引き分けに持ち込んだようなものだ。誰が見ても、主役は青山。端役の体験がない正也にとっては、屈辱の試合に感じられた。
教室のドアが勢いよく開いた。
「やっぱり、ここで、泣いてたか」
「はぁあ」
「お前は、一高のエースになった。ここは、泣く場面か」
「ばか、泣いてなんか、ない」
「じゃあ、なんで、落ち込んでる」
「落ち込んで、ない」
「説得力ないな。僕、泣いてますって顔だ」
「うるせえよ」
「お前の目標は、何だ。全国大会か」
「ああ」
「軟弱だな」
「はあ」
「チームのエースの目標が全国大会というチームが、全国大会に出れるのは、幸運の山にぶつかるしかない。それは、目標でなく、ただの夢だ」
「じゃあ、青山の目標は、なんだ」
「俺か。俺の目標は、全日本のチームを世界一にすること」
「馬鹿か」
「お前、全日本のメンバーになるイメージも持っていないのか」
「一寸待て、さっきから、お前、お前と呼び捨てにしてるけど、俺達って親友だったか」
「悪い。相沢は、全日本に選ばれるつもりはないのか」
「そりゃあ」
「多分、その程度なんだろうな。もしも、うまくいけば、選ばれる、かも。だろう」
「何が、言いたい」
「相沢なら、世界で戦える。教室で一人泣いてるような、屑じゃないってことだよ」
「だから、泣いてなんか、いない」
「俺は、今まで男の中で戦ってきた。でも、自分よりもレベルが高いと思える選手に出会ったことがない。だが、お前、いや、相沢だけは、俺よりも少しだけ上かもしれない。そんな奴が、ウジウジしてるのは、許せない」
「勝手なこと、言うな」
「1点しか、取れなかったからか」
「む」
「だったら、なんで、ボールを蹴ろうとしない」
「えっ」
「この時間は、黙々とボールを蹴っている時間じゃないのか」
「ん」
「俺がキーパーをやってやる。納得出来るまで、やれよ」
「お前、ほんとに、女なのか」
「俺が女かどうかなんて関係ないだろう。気になるのなら、証拠を見せようか」
青山が立ち上がって、ズボンに手をかけた。
「あわわわわ」
「冗談だよ、見せるわけないだろう」
「だよな」
「今、相沢も、お前と言ったよな。俺達、親友になったってことか」
「あ」
「俺、お前、でいいな」
「ああ」
「俺が世界一になっても、初めての世界一じゃない。でも、お前ら男子が世界一になれたら、初めてだろう。こんなチャンス、見逃す手はない」
「ああ」
「お前なら、それが出来る。だけど、こんなとこで泣いてたら、無理」
「だから、泣いてないって」
「いくぞ」
「ちょっと」
「はあ」
「確かに、俺は落ち込んでた。それは、認める。でも、女のお前に言われて、はい、はいと言って練習はできない。それは、無理」
「これだから、男は嫌いだ。もう、いい。勝手にしろ」
青山は、机を蹴散らすような勢いで教室を出て行った。
正也は、大きく息を吐いた。青山が言ったことは正しい。教室に逃げ込んで、落ち込んでいても、何も変えられない。でも、それを女に言われたくない。いや、それも違う。結局「青山を女だと思わなければ、いい」という結論になった。

3年生は受験があるから自主参加になっているが、一高の場合は半数以上の3年生が練習に参加する。もちろん、この1年間の主力は2年生であり、3年生は試合への出場は、ほぼできない。1年生は、基本的な体力を作るグループ、体力増強とサッカーの基本を練習するグループ、2年生チームに合流するグループの3つに分けられた。2年生と合流する主力チームに選ばれたのは、正也と青山以外に4人いた。2年生チームに入ったからといってもレギュラーになれるわけではない。青山は女だから補欠にもなれない。でも、正也は自分がエースになるつもりでいた。グラウンドには簡単な照明装置があり、居残り練習は自由にできる。正也と青山は居残りをして、黙々とフリーキックの練習に取り組んだ。青山のことを女だと思わなくなって、正也の気持ちは楽になっていたし、青山とのサッカー議論、特にキックの議論は楽しい。
「俺、キーパーの経験ないから、わかんないけど、お前のシュートは、結構痛い。火の玉って感じだ」
「アニメの見すぎ。お前のボールだって痛い」
「俺は、男だから」
「また、差別してやがる。お前、宮間のシュートを受けたことあるのか」
「いや」
「全日本なら、あれくらい、普通なんだろう。俺も、宮間のシュート受けたことないけど」
「かなり、筋トレ、した」
「ああ、中学生だからって、止められたけどな」
「俺も、筋トレ、真面目にやろう」
「ジムに行くか」
「行きたいな」
「ほんと、俺達、時間ないよな」
「お前、女子部を作るんだろう。進んでるのか」
「いや、予算がないんだと」
「じゃあ、愛好会だ」
「だよな」
「最初は、愛好会でいいじゃん」
「でもな、金、かかるし」
「寄付、集めれば。商店街とか、会社とか、市役所とか、あとPTAとか、OBとか。なんとかなるよ」
「ああ」
「お前一人では無理だろう。仲間を集めろ。それよりも、問題は、お前の髪型だ」
「なんだ、それ」
「キャプテンは、青山だろう。女の子は、貞子みたいな女がキャプテンしてるサッカー部に入りたいと思わないだろう。あの髪型、何か意味あるのか」
「あれは、男除け。前にストーカーで嫌なことがあった」
「でも、新しい部を作るなら、ストーカーされるくらいで、いいんじゃないのか。キャプテンが格好良くて、ユニホームが可愛ければ、女の子は集まるよ」
「他人事だと思って、勝手なこと言うな。でも、ユニホームは恰好いいのが欲しいな」
「向井先輩、あの人、中学の先輩なんだ。サッカーは普通だけど、絵は抜群に上手い。向井先輩なら、いいデザインしてくれると思う。頼んでみろよ」
「相沢」
「あ」
「サンキュウ。お前と親友になって、よかった。俺、一寸、壁にぶつかってたかも」
「らしくないな。明るくて、爽やかで、格好良くて、私達、今、青春でーす。世間は、その方が喜んでくれる。生徒だって世間の一部なんだから」
「ああ」
「先ず、その髪、切れ」
「ああ」

翌日、青山千秋ではない青山千秋が教室にいた。
髪をショートカットにしただけではない。表情も声も別人だ。ボーイッシュな髪型にしたのに、どう見ても、女の子に見える。正也は、声もかけられなかった。
最初は、一歩引いていた生徒も、一週間で魔物に飲み込まれてしまった。治五郎も青山の顔を見ると愛想笑いまでする。女は、女として生まれたその日から魔物であり、そのことを意識することもなく自然に振る舞える。正也は、まだそのことを知らない。もっとも、自分が魔物だと気付かないままの女も、ごく稀にいる。
青山は、居残り練習もしなくなり、練習を休む日もある。本気で女子部を作り始めたようだ。先輩の向井は、嬉々としてユニホームのデザインをし、正也の意見を聞きにくる。
練習が終わった後、正也は一人で黙々とフリーキックの練習に没頭した。いや、ゴールの前で両手を拡げて待っているはずの青山に向けて、足を振りぬく。どこかに苛立ちがあるが、そのことには、目をつぶった。




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告発 [超短編]



 ふっと部屋の中が暗くなったような気がして、片岡正明は窓を見た。陽が差していた窓の外が暗くなり、遠くで雷鳴までが聞こえている。秋から冬へと季節が移っていくらしい。毎週のように雨がやって来た。
この片岡法律事務所の所長である正明の父親は、朝から裁判所に行っている。事務所の中には、昔から事務を一手に引き受けてくれている坂本女史と正明の二人だけだった。
「また、一雨、来そうね」
「ええ」
村上勇一が来たのは、まだ雨が降る前だった。
弱気なノックの音の後に、事務所のドアが軋んだ音を出し、その音が止まった。ある程度開けると、最後に微かな手ごたえがして軋んだ音は消えるのだが、訪問者は音に気圧されてドアを開けることを断念したらしい。
坂本女史が、「うん」と一声かけて立ち上がった。以前に、立ち上がる時に「よいしょ」と言って立ち上がるようになった女史に、所長が怒ったことがある。それ以降、女史は小さな「うん」にしたらしい。所長も「うん」は認めた。
「どうぞ」
坂本女史の声に続いて、ドアの軋む音がした。
正明の席からは入口が見えないが、どうやら来訪者は部屋に入ったらしい。
「若先生」
「うん」
正明も一声かけて腰を上げた。
会議テーブルには、鼻息を吹きかけただけで飛んでしまいそうな若い男が座っている。真面目そうな、どこにでもいる若者に見えるが、ともかく存在感がない。勿論、法律事務所にはあらゆる種類の人達が来るのだから、誰が来てもいいのだが、その若者は法律事務所に来るにはまだ早い学生のような印象だった。
「片岡です」
正明は名刺を男の前に滑らせた。
男は、まだ正明の目を見ていない。名刺にも手を出さずに、少し斜めになった名刺を、顔を斜めにして見ている。一瞬だが、人でも殺してきたのかと思った。
「どんな、ご相談ですか」
男が、一瞬だけ正明の顔を確認して、小さく頭を下げた。
「ご無沙汰してます」
ご無沙汰と言うからには、以前にどこかで面識があった筈だが、見覚えはない。
「以前、どこかで、お会いしましたっけ」
「あの」
「はい」
沈黙が流れた。そこへ、坂本女史がお茶を持ってきた。所長の方針で、来客には必ずお茶を出すことになっている。セールスマンが来ても、それは変わらない。弁護士は相手をしないが、坂本女史がセールスマンの話を聞いて「御苦労さま」と言って、帰ってもらう。商店街の人達が酒やつまみを持ってやって来ることもあるが、そんな時は来訪者の方から「お茶はいりません」と坂本女史に声をかける。勿論、弁護士は相手をしない。会議テーブルで勝手に盛り上がり、酒盛りが終わればテーブルを綺麗に片付けて、ゴミは持って帰る。町内の集会所みたいな役割を、なぜ法律事務所がやらなければならないのか、最初は不思議だったが、もう気にならなくなっている。
「お名前は」
「村上です。村上勇一」
名前を聞いても、何も浮かんでこない。でも、男の言い方は「ほれ、あの時の村上ですよ」という意味が込められているように聞こえる。でも、思い出せない。
「村上さん。どこでお会いしましたっけ」
「楽々亭」
楽々亭は町内にある中華料理の店だから、知っている。
「いつごろ、でした」
「一年前です」
一年前と言えば、楽々亭の大将が客と喧嘩をして、客の鞄を踏みつぶし、相手を殴り倒した事件があった。器物損壊と傷害で訴えられた。その弁護を正明が引き受け、何とか示談で済ましたことがある。あの時、殴れた男は望月という名前だった。村上ではない。
「あの喧嘩騒ぎの時」
村上という男は、小さな笑みを送ってくれた。「気が付いてくれましたか」という笑みだろうが、思い出せない。
「えええと、僕と話をしました」
「はい」
「あのお店の関係者」
「バイトしてました」
そう言えば、影の薄い店員がいて、話をした記憶はある。だが、顔は思い出せない。全く違う人間が村上だと名乗って会いに来てもわからないだろう。
「あの時、困ったことがあったら相談に来なさいと言ってくれました」
「そうですか」
おぼろげながら、輪郭は見えてきた。なんだか、長い道のりだったような気がする。
「で、今日は」
「あの。弁護士さんにお願いしたら、どのくらいの費用が」
「説明し難いんだけど、依頼の内容によって違うから、価格表のようなものはないと思ってくれた方がいいですね。標準報酬というものは、あくまでも標準で、いくらでも報酬額は変わります。どんな、依頼なんですか」
「テレビとか新聞と、弁護士さんは、どんな関係なんですか」
「関係はありませんね。何か、内部告発のようなことですか」
「いえ」
「村上さん。何をしたいのか、それを教えてもらえないと、具体的な返事は何もできないんですよ。場合によってはテレビや新聞にも働きかけることはあるでしょうし、行政に働きかけることもあります。全部、その依頼内容によるんです。勿論、依頼人に、おやめなさい、と言うこともあります」
「そうですか」
男は、よろよろと立ち上がった。
「今日は、おいくら、払えばいいですか」
「えっ」
一寸、強く言いすぎたかもしれない。普通の人は弁護士なんて縁のない存在だから、それなりに現実的な事を言わなければならないと思っているが、言いすぎたかなと思った。男は、古びた財布を取り出している。
「今日は、費用はいりません。一年前、僕は君に話を聞いた。でも、僕は費用を払っていませんよね。今日の話は、その程度のものだと思ってください。依頼内容がはっきりしたら、どのくらいの費用がかかるか計算しますから」
男は、しばらく財布をポケットに戻そうかどうしようかと迷っていたが、財布を手にしたまま、頭を下げて部屋を出ていった。男が出ていったドアを見ていた正明は、「ううん」と掛け声をかけて立ち上がった。妙に疲れている。
「なんだったんでしょう」
「わかりませんね」
「ですよね」
年が変わり、村上勇一のことなど全く思い出したこともなかったが、村上勇一から封書が届いた。
「若先生。これ、去年来た人ですよね」
坂本女史が渡してくれた封書には、住所はなく名前だけが書かれていた。
封書の中には、ディスクが一枚と封筒が三枚入っていた。封筒の中身は二通の手紙と、現金が18万円。手紙の一通は村上から。もう一通の封筒の裏には沢田はるかという名前が書かれていた。知らない名前だ。
面識のある村上の手紙を読んだ。そこには、沢田はるかの希望を叶えてやって欲しいという依頼と、沢田はるかが三日前に自殺したことが書かれていた。追伸として、同封したお金は沢田はるかから預かったもので、交通費にしかならないけどお願いしますとあった。
「自殺」
沢田はるかの手紙は、多分、遺書なのだろうと思える内容だが、知らない人間に遺書を送るのは、どうなのだろう。意味がわからない。DVDを観てくれと書いてあった。
「若先生、どうしたんですか」
「いや。なんか、訳わからなくて」
正明は手紙を坂本女史に渡した。
「あらあら」
手紙を読んだ坂本女史も、訳わからないという声を出した。
「どうした」
今日は、所長も見習い弁護士の清水京子も調査を担当している真野竜彦も揃っている。全員が二通の手紙を回し読みした。全員が、訳わからないという顔をしている。
「取りあえず、DVDを観てみようじゃないか」
所長に言われて、坂本女史が自分のパソコンにDVDを入れた。
DVDは、沢田はるかと思える女性のビデオレターというか、死のメッセージというか、自殺する理由が録画されていた。それほど長い映像ではなかったが、終わっても、誰一人声を出さなかった。出演者本人が宣言した通り、自殺しているのだから、まるで自殺に立ち会ったような重い空気が流れている。
正明は、村上勇一が来た時のことを話した。
「これって、国を告発するってこと」
「たぶん、この人は、そのつもり、なんだろうな」
「正明、どうする」
「どうするって」
「一応、裏を取って、やれるところまで、やってみれば」
「やるって言ったって」
「依頼されてるし、交通費だけとは言っても費用も入ってる。できるところまで、やる義務はあるんじゃないか」
「まあ」
「真野君、このDVDから写真を取り出して、警察に本人確認してくれないか。いたずらかもしれんが、18万円も同封するいたずらはしないだろう」
「はい」
村上の手紙には、担当した警察署の名前が書いてあった。
「この、村上君の連絡先は」
「聞いてません」
「ここに、来たんだろ」
「仕事の依頼という感じじゃなかったですよね、坂本さん」
「まあ、そんな感じでしたね」
「それにしても」
「楽々亭に聞いてみましょうか」
「そうしてくれるか」
「はい」
楽々亭で教えてくれた電話番号は「現在、使われていません」のメッセージが流れてくるし、住所が近かったのでアパートまで訪ねたが、転居先は不明だった。
沢田はるかと村上勇一の関係も不明。これで、自殺が確認できなければ、気味の悪いいたずらということになる。
しかし、沢田はるかの自殺は確認が取れ、身寄りがないということで、無縁仏になる予定だと聞きだしてきた。
正明は、須藤祐樹に電話を入れて、時間を取ってもらった。須藤祐樹は同じ大学で、同じ年に司法試験に合格し、同じように実家の事務所に入所している。正明との違いは、祐樹は男前だし、仕事にも成功しているし、テレビ出演もしている売れっ子の弁護士だという些細な部分だけだった。確かに着ているものも、一桁は違うと誰かに言われたし、祐樹には妻も子供もいる。でも、そんな些細な事は正明も祐樹も気にしていなかった。
須藤法律事務所を訪ねた。受付の女の子は若いし、当然のように難しい敬語も使う。事務所も立派だし、所員も30人以上いるらしい。だが、正明は気にしていなかった。
「おう、久しぶり。元気か」
「ああ」
「珍しいな、お前が来るなんて」
「ああ」
「難しい話か」
「まあ」
「場所は、ここでいいのか」
正明は応接室を見渡した。パソコンはある。
「ん。問題ない」
「で」
正明は鞄からDVDを取り出した。
「これを、観てくれ」
「おう」
DVDを観おわった祐樹が、無言で正明の顔を見ていた。
「これが、手紙だ。交通費として18万円が同封されていた」
「で、この娘は、ほんとに自殺を」
「確認した」
「で、どこか、テレビ局を紹介しろ、と」
「ああ」
「紹介はするけど、テレビは流さないだろう」
「駄目なら、週刊誌に持っていく。小中高と同期だった奴が週刊潮流にいる」
「そうか。週刊誌なら取り上げるかもしれんな」
「さあ、無理かもしれん。でも、やるだけのことは、やってあげたい」
「わかった。今日、夕方の5時に局の人と会う予定がある。その前に30分ほど時間を取ってもらおう」
「すまん」
「予定が決まったら連絡する。待ち合わせ場所はテレビ局でもいいか」
「ああ。なんとか、行く」
テレビ局の入口付近に来たが、どこで待っていればいいのかわからない。警備の人が、正明を不審者を見る目つきで見ている。自然と、人目につかない場所に移動していた。待ち合わせなのだから、わかり易い場所にいるべきだと理性は言うが、現実は居心地が悪いのだから仕方がない。ポケットの携帯電話が振動して、正明は飛び上がった。これでは、正真正銘、不審者と思われても否定できない。
祐樹には会えたが、弁護士に付き添われてテレビ出演をする犯罪者に見えたかもしれない。
一応、小さな会議室に入って、少し落ち着いた。
10分ほど遅れて、40前後に見える巨漢の男が部屋に来た。
「申し訳ない。遅れました」
祐樹に紹介されて、名刺交換をした。大きい。小杉という名前のディレクターだが、このまま、頭にちょん髷を乗せていたら、力士だと紹介されても信じるしかないだろう。
話は、祐樹に任せた。
DVDを観た小杉は、「ううん」と溜息をついた。
「この人の気持ちも理解できるし、社会に問題があるのも確かです。でも、この映像を流せるか、ということになると難しいものがあります。須藤先生が、どうしても、やれと言われるのでしたら、上にかけあってもいいですが」
「いえ、そこまで、無理を言うつもりはありません」
「すみません。こういう貴重な映像は、流すべきだと思うのですがね」
正明は、祐樹と別れて、テレビ局を出た。街中に戻ると、ほっと一息ついた。正明には、テレビ局という場所は異世界に見えた。
一日をおいて、週刊潮流の町村将太に連絡を入れて、相談したが、難しいだろうという返事だった。
「所長。テレビ局も週刊誌も、引き受けてくれませんでしたよ」
「そうか」
期待していたわけではないが、断られると、やはり落ち込む。依頼者が死んでいるのだから弁明することもできない。DVDが成仏できずに宙に浮いているような、中途半端な気分だった。村上勇一を捜してみようかと思ったが、手掛かりはないし、見つけたとしても、それで何かが変わる訳でもないだろう。それに、片岡法律事務所は暇ではない。小さな案件ばかりであっても、それなりに忙しい。沢田はるかには悪いと思ったが、仕方がないと思うことにした。
翌日、ふっきれない気持ちのまま、土地の境界線をめぐる話し合いのために、正明は外出していた。耳の遠い老夫人との話は、予想以上の時間が必要だったが、適当に手が抜けないのが正明の性分で、これも仕方がない。「俺の人生は、仕方がない、の連続なのかな」と祐樹に愚痴を言ったことがある。「いや。それが、お前のいいとこだよ」と慰められた。つまらないことで愚痴を言う自分も情けないが、「いいとこだよ」と慰める祐樹には、もう少し実のあることを言ってもらいたいものだと思う。
昼を過ぎて、老婦人の家を出た。食事をしていけと何度も言われたが、正明は少し疲れていた。お年寄りの相手は、それなりに疲れるものだと知っているが、相手の耳が遠いと疲れも倍増することを知った。携帯電話の電源を入れると、不在着信と留守録が4件ずつあった。事務所と須藤祐樹からのもので、事務所の留守録は須藤祐樹に電話しろという用件で、須藤祐樹の留守録は電話をしてくれという伝言だった。それぞれ2回も電話してきたということは急ぎの用件に違いない。須藤祐樹に電話を入れた。
「この前のDVD。まだ手元にあるのか」
「DVD」
「女の子が自殺した」
「ああ。あるよ」
「日東テレビの小杉さんが、使いたいと言ってきた」
「どうして、使えないと言ってただろう」
「事情が変わった。いじめ自殺をした子供の父親が、3人殺した件は」
「いや、知らない」
「今、テレビで大騒ぎをしてる」
「まだ、見ていない」
「小杉さんに、オーケー出していいか」
「ああ」
「何時頃に事務所に戻る」
「30分くらいかな」
「多分、お前の事務所に取りに行くと思う」
「わかった。小杉さんとは、話しできるのかな」
「話」
「余り、好き勝手には使って欲しくない。あの娘の気持ちが間違って伝わるのは、よくないと思う」
「わかった。小杉さんには、伝える。一度話をしてくれ」
「わかった」
事務所に戻ると、殺人事件の話で空気が緊張していた。
いじめ自殺をした子供の父親が、加害少年2人と中学の校長をナイフで刺し殺し、警察へ自首してきたらしい。事務所の中の反応は「ついに来たか」というものだった。日本人の心のどこかには、まだ仇討の選択肢は残っている。日本人なら、それほど違和感がなく受け取れる。これまでに、仇討事件が起きなかったことの方が不思議だと言う人もいる。それでも、現実になると、それは重い現実だった。大人達は、一度も、いじめ問題に正面から向き合おうとしなかった。それは、社会が壊れているということを意味している、とテレビ局も判断したのかもしれない。だから、あのDVDを使う気になったのだろう。
「若先生、日東テレビの小杉さんという方から」
正明は受話器を取った。
「片岡です」
「あっ、どうも。工藤さんから聞いていただいたと思いますが、この前見せていただいたDVDを使わせてもらいたいと思っています。よろしいでしょうか」
「はい。ありがとうございます。一つだけ、お願いがあります」
「はい」
「できれば、全部、あのまま使っていただきたいと思っています。編集加工する場合には、彼女の伝えたいことが間違って伝わらないような配慮をお願いしたい。これは、文書にするのも違うと思いますし、そんな時間もないと思いますので、あなたに全てを委ねたいと思いますが、是非、配慮してやってくれませんか」
「わかっています。私の全力でやります」
「よろしく、お願いします」
「山口という男が、伺います。渡してやってもらえますか」
「承知しました」
一週間後に、その番組は放送された。「いじめ問題を考える国民会議」という大上段に振りかぶった番組名と、夜の7時から10時までのテレビ局にとってはドル箱と呼ばれる時間帯に持ってきたことで、テレビ局の意気込みが感じられた。
殺人犯になった父親は、留置場にいるので出席できないが、母親が音声だけで番組に参加すると宣伝されている。有識者と呼ばれる人達が、会場に集められたが、中には、参加資格が不明な人達もいた。
片岡法律事務所の所員は、全員、事務所でテレビを観ることになり、コンビニのおにぎりとカップラーメンが支給された。せめて、出前の寿司くらい取りませんかという正明の提案は坂本女史に却下された。
沢田はるかのビデオが流されたのは、9時10分を過ぎてからになった。
「私は、沢田はるか、と言います」
「緊張していますので、うまく喋れるかどうかわかりませんが、できれば、最後まで見て下さると嬉しいです。頭、真っ白になって、話ができなくて、5回目の挑戦です。今度は頑張ります」
「年齢は、27歳です。住所はK市に住んでいます。身寄りはいませんので、こんなことして、迷惑をかける人がいないことは安心です」
「ええと。私は、これが終わり、DVDにして、友人に渡した後、死にます」
「たぶん。死にます」
しばらく、言葉が途切れた。
「私は、小学校、中学校、高校と、ずっといじめに遭ってきました。学生の頃に思っていたことは、学校を卒業すれば、いじめから解放されるという想像でした。でも、社会へ出てからも、いじめはなくなりませんでした。それは、自分の性格が原因なんだと思うようになりました。弱気で、引っ込み思案で、口下手で、陰気な性格です。職場を転々としました。今日は、27年分の強気をかき集めて、このビデオを撮影しています」
「小学校2年生の時に、父親が死にました。父親の暴力がなくなって、ほっとしたことを憶えています。母は、私を育てるために、必死で働いてくれました。そのことを知ったのは5年生の時です。そんな母に、いじめのことは言えません。先生に相談しましたが、いじめがひどくなる事を知り、先生にも言わなくなりました。学校には行きたくなかったけど、母の悲しい顔を見るのが怖くて、無理してでも行きました。不思議なもので、いじめにも慣れることを知りました。多分、逃げ場がなかったからだと思います」
「母は病院の食堂で働いていました。調理師ではなく雑用係です。母は仕事のことを話してくれませんでした。私も学校のことを話しませんでした。いつのまにか、それが二人のルールになっていました。今、考えると、母は職場で辛いおもいをしていたのではないかと思っています。そんな母の口癖が、世間のせいにしない、自分が頑張ればいい、というものでした。私も、勉強を頑張りました。中学を卒業したら働きたいと言いましたが、認めてくれませんでした。母は、私が生活のために働きたいと言っていると思ったようです。私は、いじめから逃れられると思っていただけですが、諦めて高校に進学しました。高校では、いじめの回数が減りました。社会に出れば、いじめがなくなるという想像は、その体験があったからかもしれません。今、考えると、受験勉強が忙しくて、いじめをしている暇がない人が多かったからではないかと思います。母は、私が高校を卒業するのを待っていたかのように、心臓病で急死しました。学校の成績はいい方でしたから、大きな会社の事務に就職しました。2年間働きました。最初の会社が一番長く続きましたが、セクハラと先輩のいじめで、会社を辞めました。社会に出ても、いじめはあったのです。それからは、職場を転々としました。どこの職場でも、いじめられました。今は、もう辞めましたが、3カ月前までソープで働いていました。いじめはありましたが、他の職場よりはましでしたので、2年働きました。でも、もう、疲れてしまいました」
「ほぼ20年間、一番身近にあったのが、いじめです。ある日、気が付いたんです。いじめている人達は、気晴らしでいじめをしているのではない、ということに気が付いたのです。いじめる人は、いじめる前より、いじめをした後の方がイライラしているのです。追いつめられていたのは、いじめをする人達だったのです。母の言葉を思い出しました。世間のせいにしてはいけないという言葉です。でも、それは、世間が悪いことを認めてしまえば、行き場を失ってしまうから、自分が頑張る方を選ぶということだったんだと知りました。まだ、27年間しか生きていないのに生意気言うな、と言われるかもしれませんが、私達の社会はどんどん悪くなっていると思います。社会に追いつめられる人達が増え、少しでも逃れたいと思って、人間が悪あがきをしているのです。そこに、いじめ易い私のような人間がいると、自然と、標的になるんです」
「ソープに来るお客さんは、いろいろです。やくざと呼ばれる人も来ます。背中一面に刺青をしている人もいます。痛かったですか、と聞くと、痛いと言っていました。最近では、背中一面に刺青をする人が少なくなったと聞きました。あの時は、まだ、自分が頑張ることの方を選んでいたんだと思います。刺青の痛さを我慢できれば、この先のいじめにも耐えられるのではないかと思ったのです。でも、違いました。刺青の我慢は、刺青が完成するまで我慢すれば終わるのです。いじめは、いつまでも終わりません。終わらない苦痛には、耐えられないということを、刺青をして、知りました」
沢田はるかは、立ち上がって、後ろ向きになり、着ていたシャツを脱いだ。背中には、真っ赤な大輪の薔薇が咲いていた。
シャツを着た沢田はるかが正面を向き、髪の毛を直した。
「いじめ事件が起きても、社会が悪いとは言いません。加害者が悪い。いじめられる方にも問題がある。学校が悪い。校長が悪い。家庭に問題がある。ほんとに、そうなんでしょうか。いじめは、昔からある。いじめは、なくならない。これって、逃げているだけなんじゃないですか。社会が悪いと認めると、ドン詰まりにいる自分達を認めることになるから、認めたくないだけではないのですか。私には、社会が悪いとしか思えません。自殺をすると、何か方法はあっただろう。逃げているだけだろうと言う声も聞きます。逃げているのは、自殺する人間だけではありません。皆さんも、逃げているのです」
「でも、20年間もいじめられ、この先も永遠にいじめられると思うと、もう、そろそろ、逃げ出してもいいんじゃないかと思うんです」
「誰も、言いませんので、言うことにしました」
「悪いのは、社会です」
「私は、この社会を、告発します」
沢田はるかが、カメラの方に近づいてきて、映像が切れた。
映像は、司会者とアシスタントのアナウンサーに切り替わった。二人とも、悲痛な顔をしている。殺人者になった父親と、メッセージを残して自殺した女性。笑顔で司会する状況ではないとわかっているようだ。アナウンサーが口を開いた。
「沢田さんは、このビデオを作った沢田さんは、撮影の二日後に亡くなられました。自殺だったそうです」
「皆さんに、感想を伺っていきたいと思います」
正明は、リモコンを手にとって電源を切った。
「若先生」
「どうせ、下らないことしか言わないでしょう。時間の無駄ですよ」
「それは、言えてる」
「ああ」
「片付けて、帰りましょう」
「そうしよう」
おにぎりとラーメンの残骸を片付けて、片岡法律事務所の業務は終わった。
正明は、体が重くて、また椅子に座った。
着替えをした坂本女史が、黙って正明を見ている。
「どうしました」
「なんか、これで、よかったんですかね」
「若先生は、できることをやりましたよ。沢田さんは、もう、なにも言ってくれませんけど、片岡法律事務所に頼んでよかったと思っている。私には、そう思えるんです。他の事務所だったら、こうならなかったんじゃないですか」
「そう、ですよね」
「そうです。明日から、また、頑張ってもらいますよ。他のクライアントに迷惑かけたら、沢田さんも肩身が狭いでしょう」
「はい」
坂本女史は、軽く手を挙げて、事務所を出ていった。正明だけではなく、坂本女史も、事務所の皆もどこか割り切れないものを感じているのかもしれない。
電話が鳴った。
もう、時間も遅いから出るのはやめようかと思ったが、手が受話器を持ちあげた。
「はい。片岡法律事務所です」
「あ」
電話が通じたことを意外に思ったのか。相手の言葉は続かなかった。この空気は知っている。
「村上さん」
「はい」
「どこにいるんです」
「はあ」
「あなたのこと、捜していたんですよ」
「はい」
村上を捜していると口に出して気がついたが、村上を捜し出して、どうするつもりだったのか、自分の中に答えがないことを知った。
「一度、会って、話をしませんか」
「はぁ」
押せば押すほど、引いてしまう男に、かける言葉が見つからなかった。
「あのぅ」
「はい」
「一言、お礼が、言いたい、と思って」
「そう。沢田さんは、どう思うだろう」
「喜んでいると思います」
「そう思いますか」
「はい」
「これで、よかったのか、僕は確信が持てなかった。僕は沢田さんに会ったこともないし、それよりも、彼女を助けてあげることもできなかった。だから、あなたに会いたいと思っていたんだと思います。あなたと沢田さんは、どんな関係だったんですか」
「友達です」
「友達」
「はい。小学校と中学校で、同級生でしたが、その時は友達ではありませんでした。沢田さんも、僕もいじめられる側で一緒でしたが、特に話をしたことはありません。高校を出た後、ああ、僕は中退しましたので、沢田さんが高校を出た後です。偶然、出会って話をしました。共通の話題は、いじめですけど。それからも、何回か会って話をしました。話はいつも、いじめの話です。沢田さんは、悩んでいました。僕は、もう、慣れっこになっていて、いじめられるのが普通だと思っていましたが、沢田さんは悩んでいました。沢田さんから計画を打ち明けられた時、僕は、一応、とめたんです。でも、多分、儀礼的にとめただけだと思います。僕には、沢田さんを助けてあげることはできませんでしたから、強くはとめませんでした。僕に、今回のことを頼んだということは、沢田さんも僕のことを友達だと思っていたんだろうと思ったから、先生の所へ行ったんです。僕にできることは、それしか、ありませんでしたし」
「そうですか。友達の関係を先に進めることは出来なかったんですか」
「は」
「二人で生活すれば、乗り越えられたかもしれない、と思って」
「ああ、それは、無理です。僕は、一人でもかつかつの生活をしています。とても、誰かの生活に責任の持てるような人間ではありません」
「二人で働けば」
「多分、先生には、わからないと思います。いじめられ人間が二人になったら、普通の生活があると思いますか。二人で、死ぬことしか道はないと思います。僕は、沢田さんみたいな度胸はありません。しがみついてでも、生きていくしかないんです」
「ごめん。何か、君を責めるような言い方になってしまった。そういうつもりじゃ、ありませんから」
「わかってます」
「でも、村上さんから、沢田さんが喜んでいるだろうと言われただけで、少し救われました。それと、村上さんは、しがみついてでも生きていくと言ってくれたので、安心しました。もう、DVDを受け取るのは最後にしたい、と強く思っています」
「はい」
「それでも、行き詰ったら、もう、どうしようもなくなったら、ここに来てください。僕に何ができるか、わかりませんが、一緒に何か考えられるかもしれない」
「ありがとうございます。僕は大丈夫です」
「そうですか。また、気が向いたら、電話してくれますか」
「はい」
正明は、電話を切って、大きな溜息をついた。重たい空気がなくなった訳ではない。自分が世界の救世主になれる訳でもない。これが、現実だということはわかっている。でも、どうしても、沢田はるかが言う「社会が悪い」という言葉に同調したくなる。
沢田はるかや村上勇一から見れば、自分も「糞のような社会を作っている糞のような人間」の一員に見えるのかもしれない。いや、見えるのではなく、きっと、糞なのだろう。
いかん、いかん。自分までが沢田はるかになってしまいそうな気分だ。
「よいしょ」
正明は、大きな掛け声を出して立ち上がった。




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逃亡者 [超短編]



「来るな」
健太は大声で脅したが、チビは尻尾を振って目を輝かせていた。
近くにあったブロックの欠片を拾って投げつけた。チビは石が自分に向かって飛んで来るなどとは全く考えてもいないようで、警戒の様子もない。転がって来た石に近よって臭いを嗅いで、「なんだ、石か」という顔をした。
健太は勢いよく背を向けて、急ぎ足で歩き始めた。生まれて初めての大仕事を始めた健太にはチビを相手にしている時間はないし、チビを連れていくような余裕もない。
大沢健太は二条小学校の三年生で、三年間辛抱をし、一カ月かけて用意をした家出の一歩目だった。ここで失敗したのでは苦労して不登校を勝ち取った意味がなくなる。
確かに二歳年上の大沢雄太は、成績もいいし、親に反抗することもない。顔立ちも男前だし、話し方も優しい。だから、何なんだ。何から何まで兄と比べられて、邪魔者扱いされて、罵倒されて。母親は、健太を見る目に憎しみが込められているのを隠そうともしない。出来は悪いが、憎まれる謂れはないと思う。生んでくれと頼んだ覚えもない。一番応えたのが体罰よりも食事だった。暫くは大人しく振る舞う健太を見て、母親は夕食抜きが最強の武器だと思ったらしい。
「家出する」と言って泣きじゃくる健太に、「しなさいよ」と冷たく言い放つ母親。自分が邪魔者だと信じ始めたのは一年生の時だった。一学期の成績表を貰って帰った時から地獄が始まった。
父親は、ほとんど声を出さない人で、母親の味方になる訳ではないが、健太を庇ってくれるわけでもない。晩酌のお酒を飲みながら、家族の方を優しい目で見ているだけの人だった。健太は父親を父親だと思ったことは一度もない。歳の離れた兄で、母親の圧政の下で生き延びようとしている兄弟にしか思えない。
もう三年間我慢してきた。限界だった。
目的地があるわけではなく、一歩でも家から遠く離れたいと思った。全財産の1250円と棚の奥にあった地震対策で買った乾パンと小さいほうのミネラルウォーター、ついでに冷蔵庫にあったソーセージを持ちだした。リュックの中には、寒さに備えるジャンパーと着替え、祖父から貰った拡大鏡、そして兄の携帯ゲーム機が入っている。ゲーム機がなくなっていることを知った時の兄の顔が見れないのは残念だが、それぐらいは我慢すべきだと思った。
不安はある。三年生になったのだから、家出の先に夢のような世界が待っているとは思ってはいない。今は、あの母親から逃れることが最大の希望で、他の事は辛抱するしかない。そういう決断をしたのだから、心配などしていないと自分に言い聞かせた。
健太は、できるだけ人の少ない、そして車の少ない場所を選んで歩いた。自分は逃亡者なのだから人目につくのは危険すぎる。そう思って、ただ、ひたすら歩き続けた。
距離をおいてチビがついてきているのは知っていたが、追い返す時間がもったいなかった。
農道のような道から車の通る道を横切って、再び細い道に入る。だが、二時間も歩き続けると、疲れが出て来た。
「焦るな」と自分に言い聞かせ、稲の収穫が終わった広い農地が見渡せる場所で休憩をとった。リュックから水を取り出し、思い切り飲んだ。飲みながら喉が渇いていたのを思い出していた。飲み終わるとペットボトルの水は半分に減っていた。水分補給をしたことで緊張が解けたのか、疲れは感じていたが立ちあがった。少し離れた場所に腰を下ろしていたチビも立ち上がって健太を見ている。
「チビ」
犬を連れた逃亡者など聞いたことはないが、チビの気持ちは固いと感じた。走り寄ってきたチビは健太の足に纏いつき、健太の足に手をかけて親愛の情を目一杯伝えてくれた。
「やめろ」
振り払う健太の手をチビの舌が舐めまわす。
「いくぞ」
歩き出した健太の前を走ったり、横に来たり、そして時々臭いを嗅いで遅れたり。だが、チビが納得しているのは健太にもわかった。
健太は、一心不乱に歩いた。住宅街を抜け、電車の線路の下を抜け、着実に家から遠ざかって行く。遠足に行った時でも、これほど歩いたことはない。
誰もいない公園で休憩をして、乾パンを3個ずつとウインナを半分ずつ分けて食べた。チビはこぼした乾パンの屑も食べた。時計は2時を過ぎていた。残り少なくなった水を公園の小さな噴水で補充して、健太は再び歩き始めた。少し雲が出てきて、傘を持ってこなかったことが気になったが、心配を振り切った。
日が暮れて、健太とチビは古びた公民館のような建物の軒下に座って乾パンとウインナを食べた。疲れていた。足全体が痛かった。
目の前の山と雲が赤く染まり始め、暫く目が離せなかった。
「すごい」
夕焼けを初めて見たわけではないが、山も空も雲も地上もこれほど赤く染める夕焼けを見たのは初めてだった。きっと、自分の勇気を褒めてくれているのだと思うことにした。横に座っているチビを見ると、チビも夕焼けを見て喜んでいるように見えた。明日はもっと遠くまで行こう。母親の顔と声がまだ近くにある。どれだけ離れれば届かなくなるのだろう。母親の顔は見たくないし、声は聞きたくない。
暗くなってきたし疲れていたので、公民館の横手にある棚の上で寝ることにした。しかし、暗闇は怖かった。健太は、うるさいほどの虫の声を聞きながらチビを抱いて眠りに落ちた。
次の日も、痛い足を引きずりながら歩いた。コンビニで380円もする弁当を買い、チビと分け合って食べた。もう、チビはかけ替えのない同志になっていた。
三日目は雨だった。
それでも、健太は歩いた。まだ、母親の声が聞こえる。その声が聞こえなくなるまでは、歩き続けなければならない。
だが、四日目になって、健太は動けなくなった。焼き肉屋の横にある路地で健太は座り込み、座っていても辛くて横になった。チビが悲しそうに泣いていたが、時々チビのことも忘れかけていた。
健太が目を覚ました時に、最初に見えたのは白い天井と白いカーテンだった。右手に窓があり、窓の外は暗闇だった。健太は体を起こした。左手に注射針が刺さっている。どう考えても、そこは病院のベッドの上に思えた。入院した友達を見舞いに行った時に、その友達が特別のベッドで寝ているように見えて、羨ましかった事を思い出した。
体がとてもだるい。健太は横になった。どこかのお店の横で、疲れて横になったのは憶えているが、健太の記憶はそこで終わっていた。チビの姿が見えない。健太は注射針に注意しながら体を起こして、ベッドの下を見た。チビがいるとすればベッドの下に決まっていると思ったが、チビの姿はなかった。チビを捜さなくては。
先ずは、この注射針を外さなければならない。健太は用心深くテープを外した。痛くなかったことで少し安心したが、針を取る時は痛いかもしれない。ゆっくりと針を抜くと、針の跡から血が出て来た。それでも、痛くはなかった。
体がふわふわとして、思うように動けなかったが、頑張ってベッドから降りた。だが、変なパジャマを着ている。健太は自分のジーパンとズックを捜した。棚の上にリュックがあるのだから、ジーパンもズックもある筈だ。
「あった」
棚の下に見慣れたズックがある。身を屈めると、急に床が寄って来た。
カーテンを引く音がして、女の人の声が聞こえた。
「君、何やってるの」
あっと言う間に体が浮き上がり、柔らかい物の上に着地した。頑張って目を開けた。体格のいい、白い服を着た看護士が健太の体を押さえているようだ。
「チビ」
「なに」
「チビは」
「犬の事」
「・・・」
「大丈夫、警察で預かってくれてる」
健太は、起きあがろうとした。警察に捕まったのなら助けに行かなければ。
「大丈夫だから」
その時、別の女の人が来た。
「どうしたの」
「犬を捜すつもりみたいですよ。点滴も自分で外して」
「そう」
「ちょっと、体、押さえておいて。今、点滴外されちゃ困るのよね」
「わかった」
健太の腕に、また注射針が戻ってきた。
「犬は、私が預かってる。元気にしてるわよ」
「チビという名前みたいですよ」
「そう、チビ、お腹すいてたみたい」
健太は体の力を抜いた。何か食べさせてくれたのなら、殺されたりはしないのだろう。そこで健太の意識はとぎれた。
次に健太が目を覚ました時は、窓の外に光があった。少しずつ記憶が戻る。白い服じゃない人がチビを預かっていると言ってた。それよりも、小便が今にも溢れだしそうだ。間に合うかな。トイレはどこ。健太は、また注射針を外しにかかった。昨日、経験済みなので簡単に外すことが出来た。
カーテンが引かれて、白い服の看護士が来た。昨日の人とは違うが、顔が恐そうだった。
「なに、してるの」
「トイレ」
「トイレ。ちょっと、待ってなさい」
待てないから、注射針を外したのに、無茶をいう看護士さんだと思った。
ふらつく体を支えて、ベッドに座った時に看護士がガラス瓶を持って帰って来た。
「だめ、だめ。寝なさい」
「トイレ」
「だから、寝て」
無理矢理、横にされた。少し漏れたかもしれない。
「ちょっと、待ってね」
パンツを脱がされて、冷たいものが股間に触れた。
「いいわよ」
いいわよ、と言われても。でも、我慢できずに放尿が始まってしまった。寝小便をした時の嫌な感覚を思い出した。
「もう、いい」
「・・・」
「いっぱい、出たね。我慢してたんだ。偉いぞ」
「・・・」
「君は、注射外しの名人なんだってね、ちょっと、待っててね」
ガラス瓶に入っているのは健太の小便らしい。人のパンツを勝手に下ろして、あのビンの中に放出させたのだ。健太に残ったのは屈辱感だった。戻ってきた看護士が注射針を元に戻しても、声をかけられても、健太は目を開けなかった。女なんて最低だ。
次に目が覚めた時は、窓の外が暗かった。白い服ではない女の人が椅子に座って何か書いている。確か、チビを預かってると言ってくれた人だ。
「どう」
「チビは」
「うん。署の裏にいるんだけど、散歩に連れていくのが遅れて失敗しちゃった。大の方。チビも反省してるみたいだし、私も反省してるから、もう大丈夫」
「すみません」
「ところで、まだ、君の名前聞いてないんだけど」
健太の右斜め上に、突然母親の顔が出てきた。やばい。名前を言えば、あの家に返される。それだけは阻止しなければならない。以前に漫画で見た、記憶喪失症になることを即決した。詳しいことはわからないが、「わかりません」「忘れた」「思い出せない」と言えばいい。
「名前」
健太は、少しだけ頭を振って「わかりません」と小さな声で言った。
「わからないって」
「ごめんなさい。思い出せません」
「住所は」
健太は首を横に振った。
「学校の名前」「電話番号」「友達の名前」「憶えてる場所」と矢継ぎ早に質問されたが、全部、首を横に振った。
「そう。まだ無理か」
女の人は健太に紙切れを渡した。
「私の名刺。何か思い出したら、看護士さんに頼んで、その番号に電話してもらって」
生まれて初めての名刺に少し感動したが、さりげなく振る舞った。
「チビのことは、大丈夫だから」
そう言い残して、女の人は出て行った。
名刺には竹原千秋という名前が書かれていた。同じクラスの竹原千秋と同じ名前だ。同じ名前の人間がいることに気付いた驚きがあった。今日は、記憶喪失、うまくいったかもしれない。

N署刑事課少年係。竹原千秋は刑事課二年目のまだ駆け出しだったが、周囲との折り合いも良く、仕事に不満はなかった。
「まだか」
「はい」
直属の上司である高山警部補は温厚な中年で、署内の信望も厚い男だった。
行き倒れで発見された少年の身元がわからない状態が三日も続いている。簡単に終わる案件だと思っていただけに、高山警部補も心配していた。県内の捜索願には該当する家出少年はいない。近隣の警察本部に依頼した調査でも、該当者はいなかった。そして、本人も自分の名前を憶えていないと言う。
「本当に、記憶喪失なのか」
「いえ、わかりません。何か事件がらみなんでしょうか」
「そうは、思えんがな」
千秋は、少年が三年生か四年生だと思っている。そんな子供が行方不明になって捜索願を出さない親がいるのだろうかと思う。たとえ、虐待をしている親でも自分の立場を守るために捜索願は出す。何らかの事情で親も行方不明になっているか死亡しているとすれば、捜索願が出ないこともあるだろう。その場合は、親の事件がらみになる。だが、県内にはそんな案件は起きていない。
「記憶喪失の検査はやってくれるんだろ」
「はい。肺炎が治まったら、と言ってくれていますが、本人が喋らなければ同じことかもしれません」
「市の福祉課に連絡しといた方がいいかもしれん」
「はい」
病院の費用も払わなくてはならないし、退院したとしても放置しておくことはできない。犬の事以外には何の悩みもない少年に見えるが、子供でも外見だけで判断できないことは少年係になって充分見てきた。

病院に来て何日過ぎたのかはよくわからないが、憶えているだけでも二週間は過ぎていた。病室にはベッドが4台あり、隣のベッドの男子とも話をするようになった。話をすると言っても、話をするのはその男子で、健太は相槌を打って聞き役をした。今のところ、記憶喪失はうまくいっている。余計な事を喋って、何かわかってしまっては努力が無駄になる。分別をわきまえた大人の気分だった。
質問にも慣れた。頭に変なものをつけられて検査をされたが、無事に通過しているらしい。だが、チビに会えない事が寂しかった。竹原千秋という警察の人は毎日来て、チビの様子を知らせてくれるし、最初は嫌な奴だと思っていた看護士のお姉さんも、本当は優しいお姉さんだった。何よりも一日三回の食事ができることは有難かった。このまま、ずっと病院にいてもいいくらいだった。
「思い出さない」
「ごめんなさい」
竹原千秋と健太の会話の定番だった。
「退院してもいいんだって」
「はい」
「明日、迎えに来るから」
「・・・」
「君には、養護施設に行ってもらうことになるの」
「養護施設」
「親のいない子や、親と一緒に住めない子がいる場所」
「あの」
「うん」
「チビは」
「ああ、チビも置いてくれるって」
「よかった」
病院を出たら、健太は逃亡を続けるつもりだったが、お金のないことが心配だった。もう、280円しか残っていないので、弁当も買えないかもしれない。数日間の逃亡だったが、生きていくことがどれだけ大変かということは、わかったつもりだ。世界には優しい人の方が圧倒的に多いこともわかった。どうして、自分の母親だけがあんなにも自分の事を憎むのか、そのことはわからない。ひょっとして、自分は本当の子供ではないのか。でも、それはない。健太は自分の顔が母親によく似ている事を知っていた。




健太の荷物はリュック一つだった。
同室の友達がくれた雑誌やキーホルダーが増えていたが、リュックに入っていたジャンパーを着たので、家を出た時より小さなふくらみしかない。健太はベッドの上にリュックを置き、小さな椅子に座って、警察官の竹原千秋を待っていた。どんよりとした曇り空をカラスが飛んでいる。体の中がざわざわとしている。疲れているような感じもするし、体に力が入らないような不安感があった。健太は自分の足元を見て、床を踏みつけてみた。ズックが床を踏む音は聞こえるが、足には余り衝撃を感じない。
「瀬田君。退院おめでとう」
竹原千秋と二人の看護士が部屋に入って来た。病院では瀬田一郎と呼ばれている。瀬田町の路地で収容された男子児童という意味しかないが、病院で呼び名がないのは不便だという理由でつけられた名前だった。
「用意、できた」
健太は頷いて、リュックを背中に担いだ。
「一週間後に、外来に来たら、3階にも来てね」
し瓶に放尿させられた時の大友さんという看護士で、健太に一番優しくしてくれた人だ。
「うん」
部屋の入り口で、同室の3人に手を挙げた。3人とも無言で手を挙げたが、退院していく友達にはあまり関心がないような態度だった。
「行こうか」
竹原千秋に促されて、健太は病室を後にした。






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算術 [超短編]

算術


秋元平蔵は、用心深く木々の間に入り込んだ。秋口とはいえ、まだ暑さが残る城下と違い山の中は空気が冷えている。道を外れた樹木の中はさらに涼しさが際立つようだった。
まだ元服前の平蔵は、髪の乱れを気にしながら森の奥に進んだ。道場の友人も先輩も山辺池に行ったことがあるという人間はいなかったので、確固たる場所はわかっていなかった。
暫く進むと、椎の木の根元には木の実も落ちている。あけびの蔓には実がなっていた。あけびを持って帰れば喜ばれることはわかっていたが、次の機会にすることにした。
更に進むと、小さな草原に出て、少し暑さが戻ってきた。だが、空気には木々の臭いだけではなく草の匂いも混ざり、山に包まれているように感じる。思い切って来た自分に満足感があった。伝説は人を寄せ付けない、どこか恐ろしさを秘めたものだったので、数年間は無関心を装っていたが、好奇心には蓋ができなかった。嘉太郎を誘ったが、嘉太郎は首を縦には振らなかった。
だが、どこを見ても池があるようには見えない。水の臭いもしなかった。
平蔵は草原を横切り、木々の間に分け行った。道がある訳ではないので、真っすぐ進んでいるつもりでも、そうではなかったのかもしれない。草原を背にして歩いたつもりだったが、高台に上がって振り返ると、先ほどの草原が右手に見える。少しだけ帰り道が心配になったが、そこから引き返す気持ちはなかった。
高台を下ると、木々が途切れた場所に微かに人が通った跡があった。そこが、本来の山道なのかもしれない。平蔵は左に折れて足跡を追った。
だが、平蔵の足はすぐに止まった。少し開けた場所に、剣を構えたままの男が立っている。横顔しか見えないが、まだ若い男のようだ。横に薙いだ刀が上段から真下に空気を切り裂いた。見たこともない太刀捌きは、沢村道場のものではない。
息を整え、静かに刀を収めた男が平蔵の方を向いた。無精髭はあるが、まだ二十代の男に見える。男の目にも体にも殺気はないが、空気は押してくる。
男は無造作に平蔵の方へやってきた。平蔵は左手を刀に当てた。
「坊主。何するつもりだ」
平蔵は左手で刀を握った。平蔵が一番嫌っているのが、子供扱いにされることだった。子供には違いはないが、童顔のせいで友人たちより年下に見えるのが気に入らない。
「待て」
男は足を止めた。
「子供相手に、無茶はせん」
平蔵は、両足を開き、右手で柄を握った。
「おい、おい」
刀を抜くつもりは全くなかったのに、手が勝手に動いて、平蔵は正眼に構えていた。
「ほう」
男は近くに落ちていた木を拾い上げて前に突き出した。
「沢村道場か。打ち込んできても、いいぞ」
真剣を抜いている相手に、木で対する姿勢は許せない。侮られたという気持ちが、平蔵の顔を上気させた。だが、足が前に出ない。上段に振りかぶろうにも手が動かない。体中から汗が噴き出してきた。
男が、手にした木を横に捨てた。
「もう、いいだろう。刀をしまえ。なかなかのもんだ。子供扱いして、悪かった」
平蔵は自分の手とは思えない手で、刀を鞘に収めた。
「俺は、糸井作十郎だ。お前は」
「秋元平蔵」
「こんな所で、何をしてる」
「山辺池に」
「山辺池か、珍しい男だな」
平蔵は、糸井作十郎が男と言った言い方に納得した。だが、まだ、大きな息遣いのままなのが悔しかった。
「俺の名前を知ってるようだな」
平蔵は頷いた。秋篠藩で一番の使い手だと聞いている。ただし、素行の悪さでも藩随一だという噂もある。具体的にどう悪いのかはわからないが、悪いらしい。
「どうして、池へ行く」
「どうしても」
「そうか。場所はわかっているのか」
「いえ」
「ついてこい」
糸井作十郎の後ろを歩きながら、最初はその背中に隙を見つけようとしたが叶わなかった。たとえ、後ろから切りつけても自分の刀が相手の体に届く前に自分が切られる様子が想像できた。もっとも、平蔵も武士である以上、背後から騙し打ちをかけるようなことはしないだけの誇りは持っている。次第に糸井作十郎の背中が信頼できる大人の背中に見えてきた。
「あれだ」
四半刻ほど歩いて登った高台から、不思議な池が見えていた。周囲の草木よりも鮮やかな草色をしている池は、窪地にある草の群生のように見える。
「近くには行けん」
「どうして、ですか」
「あの池の周りは、瘴気が満ちている。大勢の者がその瘴気で死んだ。伝説は、近よるなという戒めだ」
「はい」
美しい景色だが、そこに毒があるという言い伝えは素直に受け入れられた。糸井作十郎に出逢わずに一人で山辺池に辿りついていたら、二度と帰ることはできなかっただろう。
糸井作十郎が腰から刀を外して腰を下ろしたので、平蔵も並んで腰を下ろした。高名な剣士と二人で並んで座っていることが誇らしい気持ちだった。
「お前は、どんなことでも、突き止めたいと思う男だ」
「はい」
「そういう男は、命を落とす」
「・・・」
「兄弟はいるか」
「はい。兄が二人、います」
「そうか、お前も部屋住みか」
「はい」
「剣術が、役に立つと思うか」
「・・・」
「剣術が、婿入りの道具になると、思っているのか」
「そんなことは、まだ、考えません」
平蔵は、考えていないと答えたが、将来を考えない人間などいない。必死で修業しているのも、婿入りの道具だと腹の底ではわかっている。ただ、認めたくない。
「学問をしろ」
「学問は苦手です」
「本の素読だけが学問じゃない。実際に役に立つ学問もある。算術だ」
「算術、ですか」
「俺はもう手遅れだが、お前なら、まだ間に合う。それに、お前はこの池の正体を見たいと思った。算術を習い、その正体を突き止めれば学問になる。算術では命を落とすこともない」
「命を落とすことが、怖いのですか」
「ああ。怖い。武士なら怖くないと思うのは偽りに過ぎん。人間なら誰でも怖いと思ってる。俺達は怖くないと思いたいだけだ」
「・・・」
「まあ、いい。算術の話だ。相模屋を知っているな」
「はい」
「番頭の友哉という男が算術に詳しい。最初は友哉に教えてもらえ」
「・・・」
「町人ごときに、と思ったか」
「いえ」
「勘定奉行が誰か知っているな。俺でも、お前でも、いや、お前の父親でも大槻様と膝詰めで話をしたことはなかろう。だが、友哉にはそれができる。何故かわかるか。友哉にはそれだけの力があるということだ。武士だ、剣術だと大声を出してみても、何の役にも立たん。力のあるものが世の中を動かす。俺も、お前ぐらいの歳に、そのことがわかっていれば、もう少しましな男になっていたかもしれん」
平蔵の頭の中は混乱していた。こんな話をする大人とは出逢ったことがない。
「お前なら、習った算術の奥を突き止め、算術を学問にすることができるかもしれん。それが力になる。勘定方でも、作事方でもその力は必要とされる。一生、部屋住みで終わるよりは、多少ましな一生になるかもしれん」
「どうして、私にそんな話をしてくれるのですか」
「俺は、あの池で死にかけた。わからぬことをわからぬままにしておけなかった。今のお前と同じだ。俺は剣の道を極めれば、道は開けると信じていた。確かに、まだ極めてはいないが、たとえ極めても、道が開けることはないということが今ではわかる。なぜか、わかるか」
「いえ」
「今、求められているのは武力ではない。どの藩も、怖くて戦などせん。求められているのは金だ。金を生むための仕組みが求められている。その仕組みを作った商人はどんどん大きくなって行くが、その商人から金を借りて生活をしている藩は衰退していくことしかできない。俺たちは目を背けているが、これが現実だ」
「はい」
「だからと言って、俺達が商人になれるわけではない。武士である事と、刀を持っていることで、俺たちは頭を下げることが出来ずに、棒のように立っているだけだ。頭でわかっていても体は動かん。特に、歳を取れば取るほどできなくなる。俺自身、自分がこうなるとは思いもしなかった。お前ぐらいの歳で、このことがわかっていれば、変われていたかもしれん。商人にならずとも、商人の知恵を学び、それを生かせば道が開けるかもしれんが、簡単にできることではない。素直な気持ちと、極めたいという欲と、時間が必要になるが、俺には、もう、どれもない。一言で言えば、手遅れだ。多分、お前の若さが羨ましいのだろう。それに、お前の未来にあるのは部屋住みの一生かもしれん。俺みたいな男になることが楽しいことではないことを知っておいて欲しいのかもしれん。あの池を突き止めようとした、いわば同志だと思ったからかもしれん。あんなに美しい池なのに、あれは死の池だ。そんなことが、多すぎる」
糸井作十郎は、突然立ち上がって歩きだした。平蔵も慌てて後を追った。池の方には視線を送ることもなかった。平蔵の中では山辺池の探検は終わっていた。
糸井作十郎の歩行速度に付いていくために、平蔵は小走りになっていた。
「この道を行けば柴田村に出る。俺は寄らねばならんところがあるから、ここで別れよう」
「はい」
「それと、俺と会ったことは黙っていろ」
「どうしてですか」
「俺の噂は剣術だけではあるまい。無頼漢と付き合いのある人間も、同類と思われる。お前にとって得るものは何もない」
「あの」
「何だ」
「あの時、何を切っていたのですか」
「ん」
「刀を抜いておられました」
「ああ、自分だ」
「自分ですか」
「何度試しても切れん」
平蔵の返事を待たずに、背を向けた糸井作十郎が遠ざかって行く。
平蔵の頭の中の混乱は、少しも治まっていなかった。

父親の喜左衛門は御蔵番で、武器庫の警護に当たっている。何代にもわたって武器庫の武器が使用された事はないが、武器の手入れと警護は何代も続けられている。禄高は五十石だが、実際の碌はその半分もないそうだ。それでも、他家よりも恵まれているのは、祖父と三人の息子が熱心に畑仕事をし、母親の内職が家計を助けていたからだった。母親のいとが縫った着物は評判がいい。平蔵にはわからないが、針仕事にも上手下手があるらしい。
日が傾き、次第に明るさが消える道を平蔵は急ぎ足で歩いた。食事の時間に遅れれば、家族が心配する。特に母親には心配をかけたくなかった。田舎道に人影はない。次第に小走りになった。目に入る汗だけを拳で拭きながら、家に近づくと全力疾走になっていた。
「ただいま、戻りました」
「平さん」
母親は平蔵の事だけは「平さん」と呼ぶ。母親の声には安堵の響きがあった。
「遅いぞ」
秋元の家では、何故か長兄の甚蔵が一番威張った口をきく。祖父も父も口数の少ない人だが、長兄はそうではなかった。父は、母親に似たのだと言うが、母は確かに口数は多いが威張った物言いはしない。
「あらあら、先ず、汗を流してきなさい」
「はい」
部屋に戻ると、母と平蔵の二人分の膳が残っていた。
「すみません」
「お腹、減ったでしょう。食べなさい」
「はい」
食事が終わり、膳を片付けたところへ長兄が来た。
「こんな遅くまで、どこに行っておった」
「山で、道に迷いました」
「山。何をしに参ったのじゃ」
「あけびをとりに」
「あけびなど、ないではないか」
「見つかりませんでした」
「いいかげんなことを申すな」
「いいかげんではございません。次は、山ほど持って帰ってきます。兄上はあけびがお嫌いですか」
「そういうことではない」
「無事に戻ってきたのですから」
部屋に戻って来た母が平蔵をかばった。
「母上は、平蔵に甘すぎます」
「はい。でも、惜しい事をしました。久しぶりにあけびを食べとうございました」
「母上」

山辺池の瘴気に冒された訳ではなく、ただの風邪ではあったが、平蔵は三日間熱にうなされた。苦い煎じ薬を飲みたくないという理由で、母親にも風邪をひいたと言わなかったこともあったが、今度ばかりは体が動かなかった。食事の替わりに煎じ薬だけを飲んでいたようなものなので、病人らしく痩せることができたし、それほど煎じ薬が苦いとも思わなくなった。熱にうなされながらも、平蔵の頭の中は糸井作十郎に言われた算術と婿入りのことで一杯だった。
「平さん、少し食べてみませんか」
母がおかゆを持ってきてくれた。白米の香ばしい臭いがする。
かなり激しい雨の降っている庭を見ながら、平蔵はおかゆを食べた。父は城に行き、二人の兄は学問所に行っている。雨で畑仕事ができない祖父は、自分の狭い部屋で釣り道具の手入れに熱中しているだろう。
「おいしゅうございました」
「熱は下がったようですね」
「はい」
母親の優しい笑顔はいつも平蔵を幸せな気持ちにさせてくれる。
「母上」
「なんです」
「剣の修業は、婿入りのためになるのでしょうか」
「・・・」
「私も、部屋住みになるのでしょうか」
「どうしたのですか」
「先日、山に行った時に会った方に言われました。剣の修行などしても婿入りの道具にはならないと」
「どなたです」
「お名前は聞きませんでした」
「平さんは、どう思いますか」
「道場にも部屋住みの方がおられますし、道場に来なくなった方にもおられます。剣の腕がいいから養子の口が来るようには思えません」
「そうですね」
「兄上に叱られながら、一生過ごすのも、辛いことに思えます」
「ええ」
「その方は学問をしろと言いましたが、私は、論語は苦手です」
「・・・」
「算術をやれと言われました」
「算術」
「勘定方や作事方では算術が役に立つそうです」
「変わった方ですね」
「はい。その方も部屋住みだそうです。でも、今からでは手遅れだと言っていました」
「そうですか」
「算術を学び、それを学問にすることができれば、どんなことでもできると言われました」
「私には、その算術のことがよくわかりませんが、どこで学ぶのですか」
「相模屋の友哉という番頭が算術に詳しいそうです」
「友哉殿が」
「知っているのですか」
「ええ、まあ。平さんが会った方は、糸井作十郎という方」
「えっ」
「このことは父上しか知りませんが、友哉殿の奥様の仕立は私がやっています。一番有難い内職ですが、大きな声では言えませんから他言無用ですよ」
「はい」
「友哉殿のお宅で、何度か糸井様のお顔は見ています」
「そうでしたか。その友哉殿とはお話になったのですか」
「いえ。ご挨拶はしたことがありますが」
「どんな方です」
「そうですね。物静かな、奥の深そうなご立派な方だと思いました」
「町人ですよね」
「どうなんでしょう。私達が接する町人とは少し違うような気がします」
「・・・」
「どうして、糸井様の名前を伏せたのです」
「悪い噂もあるから、言わない方がいいと言われました」
「ご本人が」
「はい」
「面白い方ですね」
「でも、剣は凄いです」
「まさか、立ち会ったりしてないでしょうね」
「いえ。木の棒であしらわれました」
「で、平さんは、どう思うのですか」
「私にできるかどうかわかりませんが、一度学んでみたいと思います。でも、相手が町人ですから、兄上は首を縦に振らないかもしれません」
「そうですね。母が一度考えてみます。もう少しお待ちなさい」
「はい」
「平さんが、こんなこと考えているとは、驚きましたよ。私の可愛い平さんはどこへ行ってしまったのでしょう」
「母上」
「はい。はい」






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 [超短編]




山肌をゆっくりと雲が降りていた。また、雨が来る。愛には関係なかったが、雨がくる。雨の中を歩きたい。いや、大声を出して走りたい。冬の雨は冷たかっただろうか。
今は、窓から見える黒松の葉が雨に揺れるのを見ることができるだけ。
ドアが開いて母が戻ってきたのがわかる。
「あい。お友達が来てくれたわよ」
愛は入り口へ目を移した。小笠原大和が不機嫌な顔で立っていた。大和の不機嫌な顔は珍しくない。あいつに微笑まれたら怖いだろう。いつでも、自分だけは中学生のつもりらしい。
「あい。お母さん、買い物に行って来るから」
愛は目で頷いた。
「大和くん。ゆっくりしてってね。冷蔵庫にジュースあるから」
大和は窓の方を見てうなずいた。「ガキじゃないぞ」と言いたいのだろう。母はまったく気にしなかった。
交通事故で生死の間をさまよい、半年過ぎても下半身は動かない。意識を取り戻してから、一ヶ月くらいは大勢の友達が来た。だが、今でも来てくれるのは小笠原大和と川島紗枝の二人だけになった。興味本位で来る友達などいらない。大和は見舞いに来ても、気の無い返事をするだけで帰っていく。それでも、愛が一番会いたいのは喧嘩相手の大和だった。
「そんなとこに立ってないで、座ってよ」
大和は不本意ながらという表情で椅子の方へやってきた。
「学校、どう」
「別に」
「だよね。やまと、三途の川って、知ってる」
「なに、それ」
「知らないよね。昔の言葉」
「ああ」
「三途の川というのは」
愛は、母からきいた話をした。
「この世と、あの世の間にある川なんだって。死んだ人は、その川を船に乗って向こう岸に行くの。あの世に行く船はあるけど、この世に戻る船はないの。昔の人は、死んだら、あの世まで旅をすると思ってたんだって」
「迷信だろ」
「うん。川は無かった。質問されたけど」
「質問」
「て言うか、道が分かれてるって言うか。三択なの。別に標識が出てるんじゃないけど分かれてるのよ」
「お前の夢だろ」
「そう。夢かも。でも、妙に憶えてるの」
「三択って」
「死にたい人の道と死の無い世界に行きたい人の道、そして死にたくない人の道の三択なの」
「なんじゃ、それ」
「私、死にたくって死んだんじゃないし、でも、死んでしまったんだから死にたくないと言っても意味ないし、死の無い世界って不気味だし」
「だから」
「そこから、動けなくって。でも、死んだ人がどんどん来て、早くしろってどなるのよ。追い越して行って欲しいけど、きっと追い越せない決まりがあるのね」
「で」
「病院のベッドで目が覚めたの」
「夢だよ」
「そうよね。夢なんだけど、すごく怖くて。頭は真っ白だし。その時、大和に助けて欲しいと思ったの。父さんや母さんじゃなくて、なんで大和なのか、不思議だった。ジュース飲む」
「いらねえよ」
「でも、死の無い世界って怖くない」
「怖いな」
「でしょう。大和ならきっとそう言うと思った」
「雨だ」
愛は窓の外に目を移した。黒松の葉が揺れている。事故に遭う前に、にわか雨の中を小笠原大和と二人で走ったことを思いだしていた。

また、二人が喧嘩をしている。大和は押し入れのふすまを閉めた。大和の両親の喧嘩は毎日のことなので慣れていたが、これほど長く続くとうんざりする。飯を食わして貰っているのだから、大和には文句を言う資格はない。でも、うんざりだった。狭いアパートの狭い押し入れが大和の部屋であり、両親の喧嘩から避難する場所であった。学校に行っても楽しいことは何もなく、先生やクラスの皆に冷たい視線を向けられるだけだ。大和は先生の命令には従わないし、乱暴者と言われている。ズックも穴があいているし、着ているものも汚れている。その上、成績も悪い。学校では大和はいないものとして扱われている。家の中でも、両親は自分たちに子供がいることも忘れてしまったのではないだろうか。
中学に行っても、何も変わらないだろう。そして、その先もずっと。何もかも、全てにうんざりしていた時に出会ったのが、「あたしは魔女だよ」と言う変な老婆だった。
「あんた。なにもかも、うんざりって顔だね」
「ああ」
「この先も、いい事なんて、ないね」
「ああ」
「どうだい。終わりにしてみないかい」
「はあ」
「あたしは魔女だから、簡単にあの世に連れて行ってあげられるよ」
「あの世って、どこ」
「あの世は、あの世さ」
「あの世に行けば、うんざりは無くなるのか」
「それは、保証できない。もっと、うんざりかもしれないし、一寸だけうんざりかもしれない。それは、あんた次第だよ」
「いい子にしてたらって、言いたい訳だ」
「そうさ」
「あんたも、他の大人と一緒だ。魔女なんて格好つけて、ただのばばあじゃないか」
「ばばあ、はよくないね。あたしにも、きみえという立派な名前があるんだよ」
「気味の悪いばばあという名前だろ」
「あんたとは友達になれるかと思ったけど、あたしの勘違いだったのかもしれないね」
「きっと、そうだろ」
出逢ったその日に喧嘩別れをした。
しかし、何日か過ぎると、妙にきみえばばあに会いたくなる。そして、会えば喧嘩になる。だが、両親や先生やクラスの皆と違って、大和を無視するようなことはしなかった。
「俺、あの世に行ってもいいな」
「そりゃあ、そうだ。他に行くとこなどありゃあしない」
「でも、もっとうんざりなんだろ」
「だから、それは、お前次第だと言っとるじゃないか」
「いい子になんか、なれないよ」
「ちっ、ちっ、ちっ、ちっ」
老婆は頭を振って舌を鳴らした。
「なんだよ」
「いい子って、どんな子の事だね」
「大人の言う事を、はい、はいと聞く子だろ」
「ちっ、ちっ、ちっ、ちっ」
「やめろよ、そのちっ、ちっ、ちっは」
「今は、誰もが自分のことばかりじゃ。誰かのために何かをやっている人間を見たことがあるか」
「いや」
「そうじゃろう。誰かのために、お前が命を差し出せばいいのじゃよ。そうすれば、あの世でのうんざりは少なくなる」
「ふうん」
「例えば、お前の親が喧嘩をやめて仲良くなるとか。二人とも幸せになるよ」
「無理だろ」
「先生が優しくなるとか。評判がよくなって校長かも」
「ありえない」
「友達が、お前のような悪でも尊敬してくれるようないい人になるとか」
「気持ち悪」
「自分の為じゃなく、なんか、願いはあるじゃろ」
「無いな」
「ないか」
「いや、一つある」
「ほう。どんな願いじゃ」
「友達の足が治って、走れるようになったら嬉しい」
「それは、病院にいるあの女の子じゃな」
「ああ」
「好きなのか」
「そんなんじゃない。あいつは、俺の事を無視しない」
「そうか」
「でも、そんなことができるのか」
「舐めちゃいけないよ。あたしゃ、魔女だよ」
「だったら、そうする」

ついに、大和も見舞いに来てくれなくなった。夢の中でしか会えないのは寂しい。
外は風が強いらしい。木々が大きく揺れていた。
「おまえ、もう歩けるんだぞ」
夢の中で、いつものようにぶっきらぼうな言い方で大和が言った。
愛はベッドの上に起き上がり、布団をどけた。自分の足の指が動いたような気がしたのだ。
大きく深呼吸をして、目を閉じ、心を落ち着かせて目を開けた。
指が動いている。
「うそ」
いや、間違いなく指が動いた。
愛は、また動かしてみた。動いている。震える手でナースコールを押した。
「紺野さん。どうしました」
「足が」
「足が、どう・・・・」
看護士が部屋を飛び出していった。
そして、怒涛の検査が始められた。検査の結果、損傷していた脊髄の影がなくなっているのが判明した。外科的治療も内科的治療も行われていないにも関わらず、脊髄の正常化は医師に納得がいかなかったようで、医師からの明確な説明はなかった。
医師の説明は「奇跡です」という結果になった。
勿論、長時間使われなかった足の筋肉が、すぐに動きはしなかったが、リハビリの計画が立てられるということは、将来的には歩くことも可能だということであった。
マッサージとリハビリに明け暮れる日が続き、愛は大和の夢を見る暇もなかった。
ふと、窓から見える黒松の葉が雨に揺れているのを見た愛は、大和が夢の中で言った言葉を思い出した。「おまえ、もう歩けるんだぞ」と大和は言った。あの言葉が奇跡の始まりだった。だが、もう二カ月以上も大和の顔を見ていない。病状が好転したことを知った先生や級友が見舞いに来てくれたが、大和は一度も来てくれていない。愛は、どうしても夢の話を大和にしたかった。
「お母さん。大和君はどうして来ないのかな」
「大和君って」
「小笠原大和君。よく来てくれたじゃない」
「いつ」
「何カ月も前だけど」
「そう。そんなお友達、いたっけ」
「えっ」
「誰かと間違えているんじゃない。お母さんは憶えていないけど」
「うそ」
「何かの勘違いよ」
数日後に先生と友達が見舞いに来てくれた。
「先生。小笠原君は」
「小笠原君 ?」
「小笠原大和君です」
「うちのクラスの子 ?」
「えっ」
「誰か、知ってる」
友達は、全員が首を横に振った。
これは、何かの陰謀だと思った。
「みんな、どうして、隠すの。どうして」
余りの大声に、全員が声を呑みこんで、愛を見詰めた。それは危険物を見る目だった。
泣きだした愛を置いて、小声で話しながら全員が部屋を出て行った。

リハビリが始まってからの愛は、明るく元気な小学生だった。だが、母親に否定され、先生や友達に恐れられたことで、笑顔のない暗い女の子に戻ってしまった。
今では、車椅子を自分で動かして病院の中だけではなく、庭にも自由に行くことが出来る。雨さえ降っていなければ、愛は庭に出た。どこかで、大和に会える。そんな確信があった。特に風の強い日は好きだった。愛の目は、いつも大和の姿を求めていた。
いつもは行かない、木立の中の細い通路に車椅子を向けた。
「よかったな」
「や・ま・と・・・」
「おれ、川を渡っちゃった」
「うそ」
「がんばれよ」
「いやっ」
「・・・」
もう、大和の声は聞こえなくなった。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ」
突然、雨が激しく落ちて来て、愛の意識が途切れた。






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すずめ [超短編]

すずめ


どこにでもある物干し竿、その左端に物干し竿を拭くためのタオルがかかっている。それが僕の幼少の頃の思い出。そのタオルを自分の故郷だと信じている雀がいた。まだ、毛が生え変わらない子雀で、体を膨らませて遠くを見ていた。近くに親雀がいるような様子はなく、なかなか餌を取りに行こうとしない。陽のある間は空を飛んでいるか、餌をついばんでいるのが雀の生態だと思っていたので、心配だった。ベランダに出て行って、話しかけても、言葉が通じないのだから、手の打ちようがない。僕は余った食パンをアルミの皿に入れて、子雀の応援をすることにした。食べやすくするために皿の中に水を入れると言う気の使いようで、自分でもよくやったと思う。家族の一員にするために名前を考えた。弟が欲しかったので、チュン太に決めた。ありふれてるって。でも、どう見てもチュン太なんだから。皿の端を両足でしっかり掴んで、パンを食べてる姿を見るのが楽しみだった。どうやって情報が漏れたのか、大人の雀が何羽も来るようになり、チュン太は隙を見て一口食べるのがやっとと言う状態になった。大人の雀は行儀が悪くて、パンを食い散らかす。ベランダがパンだらけになり、洗濯物に糞をする。母の怒りが頂点に達した。
「やめてちょうだい」
ベランダの掃除を命じられ、一時間かけて掃除をした。母の「家族を大事にする男になって欲しい」と言っていた言葉は嘘なのだろうか。
パンが無くなって雀の訪問はなくなった。寂しさに耐えることが大人になることだと言うことに、漠然とでも感じた記念すべき出来事だと前向きに考えることにした。

あれは、抜けるような青空の日だった。学校からの帰り道、僕は友達の浩平君と別れて、ふとん屋とクリーニング屋の間の道に曲がった。車の通行も人通りも少ない道路で、道路の真ん中を歩いても危険はない。だが、僕はすぐに立ち止まった。目の前で戦いが展開されていた。一羽の獰猛なカラスと十羽の雀が睨みあっている。雀の鳴き声に殺気がこもっていた。餌の奪い合いだと思うが、雀がこんな強硬手段に出ているのを見たことがない。普通、雀は逃げるでしょう。カラスも攻撃雀に初めて出会ったのかもしれない。戸惑いが見える。雀軍は距離を保ちながらも、攻撃の意思を示していた。がんばれ。だが、カラスには飛び去る気配はない。雀軍に追い払われたことが知れたら、仲間外れにされてしまうのかもしれない。カラスが羽根を広げて前に出ると、雀軍が後退する。雀軍の武器はその鳴き声だけなのか、必死の鳴き声でカラスを威嚇する。じれたカラスが立ち去りそうな様子を見せた時に異変が起きた。そのカラスの気持ちを読んだのか、一羽の雀が大きく前に出た。距離を保つことに失敗した雀の首に、カラスの巨大な嘴がくいこんだ。泣き叫ぶ雀。戸惑うカラス。だが、カラスは口にした雀を放しはしなかった。仲間の雀軍が距離を詰めた。今にも雀が本当に襲い掛かるのではないかと思うぐらい緊迫した。雀を銜えたカラスは後退せざるをえない。一歩、二歩、三歩と後退したカラスが飛び立った。雀を銜えたまま。残された九羽の雀は嘆きの声をあげるだけで、それ以上のことはできなかった。僕も動くことができなかった。見てるだけじゃなく、援軍として駆けつけるべきだったのではないか。あの犠牲になった雀がチュン太でないことを祈ることしかできない自分が情けない。家族を守れなかった自分を恥ずかしいと思った。
僕は前川君を思い出した。クラスで一番の乱暴者。被害に遭っている子が何人もいることを知っている。そう言えば、前川君はどこかあのカラスに似ている。僕もあの暴力に屈して泣くのだろうか。噛みついてやろうか。無理なんだろうな。
家に帰って、僕はベランダを見ていた。餌はなくなったが、青年になったチュン太が来ていることは知っている。






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