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池袋母子殺害事故 [評論]



今日は、池袋の母子殺害事故から見える、「なんか、変だな」について書きます。
権力構造に組み込まれた官僚組織が、国民の利益よりも権力者の利益のために働いている実態の一端がこの事件で見えてきます。封建制度下の官僚組織が、「お上」の利益を守るために働くのは当然の事だったのでしょうが、民主国家になってからも、その働き方は変わっていません。これは、この国が民主国家にはなっていないことの証です。
もちろん、証拠があって告発したいから書くという文章ではありません。庶民の愚痴だと思ってください。
「一事が万事」「氷山の一角」の、ごくごく、小さな実例です。

池袋の母子殺害事故の判決がありました。
一審の判決は、懲役5年の実刑です。
加害者が、退官した旧通産省の高級官僚であったことから、「上級国民」という言葉が流行になりました。「上級国民」に相応しく、最後まで、無罪を主張しました。「あれは、本人の意思ではなく、弁護士の戦術だった」と加害者を擁護する方もいます。でも、本人の同意なしに戦術は作れません。「車が悪い」と言い続けたのは、やはり、加害者本人だと思います。
これはこれで、「上級国民」の皆さんから見れば「あっぱれ」な態度だったのかもしれません。
2人を殺害し、9人もの人達を傷つけた事故ですが、反省の色がないとメディアや「下々」の皆さんに非難されましたが、それでも、無罪を主張し続けました。一般人であれば、挫けるのでしょうが、上級国民ですから、誇りにかけても、譲れなかったのかもしれません。大変な重圧だったと思います。
世論を無視したのは、加害者にとって、メディアや「下々」よりも重視しなければならないものがあったのだと思います。自分は「お上」の一員だという意識です。「お上」全体を守るためであれば、高級官僚は、文書の改竄もしなければなりませんし、虚偽答弁もしなければならないのが、使命です。もう、退官しているのですから、そこまでしなくてもいいと思うのですが、それは一般人の思考なのかもしれません。
「お上」の一員としては、天晴な態度です。ここで、腰砕けになったら、「お上」の皆さんに多大な迷惑をかけると思ったのかもしれません。いや、あっぱれ、です。
確かに、私の言っていることは無茶苦茶です。たとえ、加害者に対してであったとしても、とても失礼な発言だと思います。でも、私達の思考では理解できないものがなければ、あんな対応はしなかったと思うのです。弁護士を代えてでも、「大変、申し訳ない事をした」と言えば済んだことです。
加害者を知る人は、「とても、いい人です」と言います。多分、そうだと思います。日本では、「いい人」でない人のほうが珍しいです。
でも、「俺のせいじゃない。車が悪いのだ」と言い続けました。
車の調査は綿密に行われ、異常がなかったと報告されました。
逆に、アクセルを踏み込んだ記録があり、ブレーキを踏んだ記録がないことも、車には不具合がないことを示しています。
それでも「車が悪い。私は悪くない」と言って、納得してくれる人はいるのでしょうか。
無理を通して道理を引っ込めようとしていることは、小学生でもわかることです。
高級官僚は、馬鹿では務まりません。きっと、頭脳明晰な人だと思います。
もしも、普通の神経を持っていれば、かなり、辛かったと思います。
でも、加害者は、本物の官僚であることを見事に証明してみせました。
普通の感覚であれば、車両の不具合が立証されなかったのですから、老人がよくやる「ブレーキとアクセルの踏み間違い」だと思いますが、絶対に認めません。車両の報告書が出た時点で戦術を、本人の意思として、変更してもよかったのに、そうはしませんでした。
それは、加害者が、高級官僚であり、「上級国民」だったからだと思います。
高級官僚は罪を認める権利を放棄している、いや、放棄させられているものと思います。官僚機構という体制を維持するためには、個人の良識に依存するわけにはいかないからです。悪事に加担しない高級官僚が皆無だとは言いませんが、悪事のレベルにもよりますが、ほぼ全員の高級官僚が悪事に加担しています。中には、運良く、悪事に加担せずに退官する人もいるかもしれませんが、そんな人は、この2000年の官僚史でも、ごく稀なことだと思います。
それを、一々、認めていたら、官僚機構は維持できません。悪事を働かなければ高級官僚は務まりません。いや、悪事を働くために高級官僚という存在があるのです。残された選択肢は、罪を無かったことにするしかないのです。加害者が、何年官僚をやっていたのかは知りませんが、人生の大半を官僚として生きてきたのです。退官したからと言って、簡単には変われなかったのでしょう。
悪事に加担しない官僚の方はいると思いますが、そんな方は、高級官僚にはなれません。高級官僚になるということは、人間の良識を捨てるということです。ただ、ひたすら、組織のために、「お上」のために、死力を尽くすのが、高級官僚の使命です。
国民の皆さんは、官僚の使命を知りません。もちろん、官僚の皆さんも、自分達の使命を公表することはありません。国民の皆さんと官僚の皆さんの判断基準は違うのです。国民の皆さんが、加害者を「上級国民」と揶揄して呼ぶのは、加害者の行動が異様に見えるのは、判断基準が違うからです。
官僚の皆さんは、「ふん、下々が騒いでおるわ」と感じているのかもしれません。
官僚の皆さんは、「俺達は国のために働いているのであり、国民のために働いているのではない」と思っているかもしれません。いや、そう信じていると思います。
官僚の皆さんは、「少数の下々が死んで騒ぐのはおかしい。私達が国を支えているから、下々は生きていられるのだ。下々は私達に感謝するのが筋だと思う」と信じているかもしれません。「国とは」という定義がないことが、残念です。
なんか、変です。
その原因は、国民と官僚では、判断基準が違うことにあります。
官僚の皆さんは、本気で、「国のために働いている」と信じています。
「国民のために働く」という意識がゼロだとは思いませんが、出世すればするほど、高級官僚に近づけば近づくほど、その意識は薄れていきます。国という概念と国民という概念は、次第に離れていき、対立構造にまで乖離してしまうのだと思います。
問題は、「国とは、国民とは」という定義がないことです。
交通事故という些細な出来事ですが、些細な出来事にも「言葉の定義」が欠如していることが影を落としていると思います。

被害者の家族の皆さんは、随分、苦しんだと思います。
最愛の妻と子を失っただけではなく、加害者の態度にも傷つけられました。
多分、傷口に塩を塗られたような気持だったと思います。
庶民感覚としてわかります。
被害者家族が良識のある方のようですから、救われます。
私のような変人が、あの方の立場いれば、何をしたかわかりません。
では、加害者の家族の皆さんも、大変苦労したのでしょうか。
それは、わかりません。
「上級国民」と脚光を浴びた人の家族ですから、私達の感覚とは違うかもしれません。
「エリートは守られて当たり前だ」と信じている「上級国民」の家族を私は知っています。
庶民の私には理解できませんが、確かに、別世界は存在しています。もちろん、加害者の家族が、別世界の人だったのかどうかは知りません。
事故当時、加害者は87歳です。どうして、免許証の返納をしなかったのでしょう。家族は、なぜ、勧めなかったのでしょう。「上級国民」ならば、国民の範となる行動をしても不思議ではありません。自分の利益を、自分の権利を、追うだけの「自分さえよければ」族だったのでしょうか。全員とは言いませんが、かなりの数の官僚の皆さんの感覚は、私達とは全く違います。

その後のニュースを見て、ビックリです。
加害者は上告せずに、一審の判決を受け入れたそうです。
「遺族に対して申し訳ない。収監を受け入れ、罪を償いたい」と語っているそうです。
それでも、上告しないと筋が通りません。
犯罪などなかったと言い張るのが、官僚の皆さんの仕事です。
仮に、犯罪行為があったとしても、なかったことにするのが、官僚の皆さんの仕事です。
実刑判決が出て、犯罪が明るみに出てしまったから、戦術を変えたのでしょうか。
それでも、「私は、やっていません」と言うのが、官僚答弁です。
上告する権利はあります。
いや、これは権利の問題ではありません。官僚の名誉と意地と根性の問題だと思います。官僚の皆さんは、たとえ、それが無理筋だとしても、筋を通すものです。
だからこそ、「私は悪くない。車が悪いのだ」と言い続けたのです。
一審で判決を受け入れるのであれば、これまでの主張は、一体、何だったのでしょう。
体に染み込んでいた「保身」という習性で動いていただけなのでしょうか。
街宣車や爆破予告や脅迫に屈したということなのでしょうか。
だったら、どうして、あんな無謀なことを主張したのでしょう。
私には、自分の過失を認めようとしない加害者の振舞は、「国力衰退」という現状を認めようとしないこの国の振舞と重なって見えました。
日本の未来を暗示しているようで、とても不気味です。
最後は、投げ出すのです。
日本の国家運営者の皆さんも、きっと、最後は投げ出すことになると思います。
「お上」に丸投げしている国民の皆さんは、自衛を考えなければなりません。
車の不具合を主張していた加害者の主張は、科学的な調査で全て否定されたのに、加害者はそれを認めませんでした。
「国力衰退」も、多くの数値が示しています。これも、科学的な根拠です。しかし、国は、それを認めていません。
同じ構図です。

この加害者の振舞を見ていると、今が令和という時代ではなく、明治時代だと言われても違和感はありません。いや、江戸時代だと言われても、頷いてしまいます。五千石の旗本の殿様が、馬で街中を駆け抜け、死傷者が出て、「馬が勝手に走ったのだ」と言っているようなものです。いくら江戸時代であっても、この旗本は職を解かれていたと思いますが、死んだり、怪我をした庶民は、泣き寝入りをしたと思います。
庶民が見れば、明らかに、変ですが、現実はそうではありません。
令和の時代になっても、国民は、虫けらに過ぎないと思われているのです。
「私達は、大所高所から国を支えているのであり、下々のことを斟酌している余裕はない」と言われているようで、大変、不快です。
何のための国なのですか。
何のための公務員なのですか。
国民の皆さんは、メディアの皆さんは、「上級国民」と揶揄するだけで満足なのですか。

官僚の皆さんだけを叩くのは公平ではありませんので、国家運営者の皆さんのことも叩いておきます。もちろん、一番、批難されるのは、今のシステムを黙認している国民の皆さんです。
野党の国会議員の先生方は、どうして、「モグラ叩き」が趣味なのでしょう。
財務省の佐川氏も高級官僚です。公文書改竄や偽証に対して個人攻撃をしても、何も解決しません。なぜ、佐川氏がそうしなければならなかったのかを見つけなくてはなりませんでした。財務省の佐川が悪い、安倍が悪い、麻生が悪いと言って、誰かの首を取ることにしか興味を示しません。これだと、次から次へと叩き捲らなければなりません。モグラはいくらでも出てくるのです。政権党の全議員の首と、全官僚の首を取らなければ終わりません。これは、「やってるふり」をしているだけだと思います。
「お上」と「下々」という構図が間違っていることに、どうして、気付かないのでしょう。
どうして、「言葉の定義」をしないのでしょう。
いつまで、封建制度を続けるのでしょう。
国会議員は、「お上」ではなく、国民の外注先です。ましてや、官僚は、その外注先から仕事を請け負っている孫請けでしかありません。どうして、孫請けの官僚が「上級国民」なのでしょう。
国会議員と国民は五分と五分です。もちろん、官僚と国民も五分と五分です。
民主国家では、それぞれの立場の人が、自分の責務を果たすのが、本来の姿です。
ところが、目的も責務も、何一つ明らかではないのです。
「なあ、なあ」「まあ、まあ」と言いながら、未だに、「お上」と「下々」という構図を守っているのです。
これでは、国ではありません。少なくとも、民主国家ではありません。


2021-11-06



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自分さえよければ、今さえよければ [評論]



毎回、毎回、同じような話ばかりで「うんざり」していると思います。
申し訳ありません。
国家崩壊の渦中にいると、変化は見え難いと思いますが、崩壊は着実に進行しています。
近い将来、このブログのような意見が、当たり前のように発信される時がやって来ると思いますが、それは、崩壊の最終章に入ったシグナルだと思ってください。今でも、打つ手は、ほぼありませんが、末期になればなるほど、打つ手はなくなります。
ただ、皆さんの直感は、この国が壊れることを、既に認識しています。
人間の直感は、大まかな結果だけが見えているだけで、具体像は見えませんが、原因とか、理屈とかの途中のプロセスも見えませんが、皆さんの直感は、未来を正しく予測しています。人間の直感は、優れものなのです。特に、庶民の直感は優れています。
崩壊は、いろいろな数値やグラフを見れば、一目瞭然なのですが、人間は、見たくないものは見ないようになっています。皆さんの思考は、無意識のうちに、将来の不幸を拒絶するように働きます。それは、人間が長期間のストレスには耐えられないようにできているからです。ただし、直感だけは、律儀に、同じ結果を示します。厄介なことに、人間は、そんな直感を無視することができません。だから、皆さんは「何となく、不安」なのです。
常識の世界では、そっとしておくことが礼儀なのかもしれませんが、このブログは、皆さんが見たくないものを、書き続けています。
ほんと、禄でもないブログです。
ただ、皆さんの直感が見ている将来の不幸は、半端なものではありませんので、何とかしたほうがいいと思います。津波のように、人間の力では、どうすることもできないのであれば、逃げることが正解なのでしょうが、将来の不幸は、もしかすると、皆さんの気持ち次第で、避けられるかもしれません。いや、間違いなく、避けたほうがいいと思います。
皆さんには、その力があるのです。

日本の歴史に縄文時代という時代がありました。
約1万年続いたと言われています。
なぜ、1万年も続いたのでしょう。
争いが少なかったから、1万年も続いたとも言われています。
明治維新で、日本人は、刀とちょん髷をやめました。今では、ちょん髷をしている自分を想像出来る人は少ないと思います。でも、明治維新から、まだ、150年です。そう考えると、1万年という時間は、想像を絶します。
しかし、縄文時代には平穏な社会があったから、1万年も続いたのだと思います。平穏な社会を維持していた理由は山のようにあると思いますが、想像でしかありませんが、推測されている生活様式から、「自分さえよければ」「今さえよければ」が封印されていたのではないかと思っています。もちろん、歴史書には、こんな解説はありません。
「自分さえよければ」「今さえよければ」が社会的に認められると、殺し合いのような争い事が増えます。争い事が増えれば、社会は衰えます。
ただ、争い事がなければ、社会は衰退しないのかというと、そうではないと思います。
争い事が社会を衰退させる要因になることは言うまでもありませんが、「自分さえよければ」「今さえよければ」だけでも、充分、社会を衰退させる力はあるようです。私達は、今、そのことを証明している最中なのだと思います。
縄文時代の社会では、暗黙の了解の元、半ば強制的に、「自分さえよければ」「今さえよければ」は認められていなかったのではないかと想像します。それは、皆で「自分さえよければ」「今さえよければ」をやっていたのでは、生き残れなかったからだと思います。
もちろん、縄文時代に戻れば、なんて思っていません。いや、戻れません。
それでも、「自分さえよければ」「今さえよければ」に溺れているこの国の現状は、私達にとって、良い環境だとは思えません。

縄文時代の後に、約700年間の弥生時代と呼ばれる時代があり、その後に、大和朝廷が誕生し、約800年間は天皇による統治の時代があり、保元・平治の乱から、武士の力が社会を動かし始め、明治維新までの約800年間は武士が社会を統治する封建制度の時代がありました。でも、1万年という時間から見れば、短命に終わりました。
縄文時代には、統一政府と呼ばれるものはなく、集落ごとに統治が行われていました。集落間の交流や交易はありましたが、統治システムは個別の集落で決められていました。弥生時代に、稲作が普及し始めたことで、人口が増え、少しずつ貧富の格差が生まれ、そこから「自分さえよければ」が解禁されるようになったものと思います。
どの時代でも、食糧の確保が最大の課題です。
今は飽食の時代だと言われていますが、歴史から見れば、些細な変化に過ぎません。
より多くの食糧を確保できた者が権力を握ります。それは、食糧を分配することで、より多くの部下が養えるからです。権力者は、その権力を支えてくれる部下のために、強権を使うことを躊躇しなくなります。自分を支えてくれる者のために「自分さえよければ」を受け入れることも、権力者の権利だと思うようになります。もちろん、全ての人のためではなく、自分の権力を支えてくれる人達のために「自分さえよければ」を行使するのです。この構図は、今でも続いています。
ただ、権力者の「自分さえよければ」が行き過ぎると、ベネズエラや北朝鮮のような国が生まれます。

縄文時代には文字がありませんでしたので、文献が全くありません。遺跡から想像する方法しかありませんが、それなりに、縄文社会の様子は想像できています。
法律はありませんでしたが、集落とそこに住む人達が生き残るための「掟」はあったと思います。村長がいて、占い師がいて、集落と住民の秩序を維持していたと思います。その「掟」は、私が提案している「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義に近いものだったのではないかと思っています。縄文時代の「掟」の根っ子にあったものは、個人と集団が生き残ることであり、その目的は「永続」という一点にあったと思うからです。「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義から導き出される目的が「子供達の未来を守る」ことであれば、縄文時代の「掟」に通じるものがあるのではないでしょうか。
縄文時代と現代では、環境が全く違いますので、比較することでさえ意味はないと思いますが、一点だけ、人間が生きていくという点では同じだと思います。それは、目的が同じであっても不思議ではないということです。私達は、未来のために、未来の子孫のために、今を生きていると考えることはできないのでしょうか。縄文時代を真似すれば1万年生き続けることが出来るとは思いません。しかし、同じ目的を持てば、実現するかどうかは別にして、可能性は生まれるのではないかと思います。
今の日本社会は、「自分さえよければ」「今さえよければ」が横行し過ぎているように見えます。もちろん、私達は人間ですから、どうしても、「自分さえよければ」「今さえよければ」に傾斜してしまうと思いますが、共通の目的を持つことで、ある程度制御できるのではないかと思うのです。
もっとも、国民の皆さんの大半が、「永続」なんて要らない、明日滅んでも「自分のやりたいように生きたい」と思うのであれば、それも否定できません。人間の目的が「永続」だとは決まっていません。皆さんが、何を選択するのか、という問題だと思います。
ただ、崩壊は、苦痛を伴うことを忘れるべきではありません。幸せの中で滅ぶという選択肢はないことを承知しておく必要があります。貧困と飢餓の中で、食糧の奪い合いや殺し合いの中で、苦しみと絶望の中で、死ぬことになります。人間社会では、自分にとって都合の良いことだけが起きるわけではないのです。

「自分さえよければ」「今さえよければ」の中でも、権力者の行使する「自分さえよければ」「今さえよければ」は、最悪のパターンです。
その最悪のパターンは、余りにも多すぎて、日常茶飯事となり、あたかも「自分さえよければ」「今さえよければ」が正義になっているようにも見えます。ただ、曖昧な空気に包まれたこの国では、つい、見過ごされてしまいます。とても危うい状況だと思います。
この危うい状況を放置しておいていいのでしょうか。
必要なのは、言葉の定義であり、目的と責務の明確化だと思います。
そこで、庶民でも分かり易い「自分さえよければ」「今さえよければ」について見てみたいと思います。ほんの些細な出来事ですが、これも氷山の一角だと思います。
秋篠宮家の長女の結婚問題です。
「私は、どうしても、何があっても、この人と結婚したい」「どうしても、30歳までに、結婚したい」と言い張って、強行したことは、庶民であれば問題ありませんが、権力者が強行すると、それは最悪のパターンになってしまいます。
権力者に「よいしょ」したり、何よりも個人の権利を優先したいと思っている「自分さえよければ」教を信奉する方は、内親王を応援しているようですが、多くの国民が、本音の部分で、「それは、ちょっと」と感じていると思います。それは、水面下で天皇制が続いているこの国では、庶民が、内親王は権力者の「お姫様」だと思っているからです。庶民は、隣の家の真子ちゃんが、駆け落ち婚をしても、こんな大騒ぎにはしません。権力者の「お姫様」だから、税金で生活をしている権力者だから、騒ぐのです。明らかに、ダブルスタンダードです。これも、定義不在の弊害だと思います。
私達の国には、民主主義もあります、天皇制もあります、「お上」と「下々」もあります、「何でもある」デパートのような国です。それぞれの原理原則は異なりますので、原理原則を表に出せば、収拾がつきません。だから、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で国家運営が行われてきたのです。今回の件は、この「なあ、なあ」「まあ、まあ」が機能しなかったことによるゴタゴタだと思います。
私は、日本の国体を、民主主義風王政並立封建制度と呼んでいます。そんな国では、宮家の内親王は権力者の一員になります。それは、内親王の婚約者が、将来の権力者の一員であるという理由で、利用価値があることで、多くの利益を得ていることからも歴然としています。権力者の「お姫様」という高級ブランドは、利用価値があるから、おカネが集まって来るのです。ロースクールを卒業したばかりの30歳の夫の年収が2000万円で、妻になった「お姫様」の年収が1500万円だと言われています。それだけ払っても、利益が出るのです。権力とカネは表裏一体ですから、いや、カネを手に入れるために生まれたのが権力ですから、そこには、当然、表には出てこないカラクリがあります。
国民の批判に耐えかねた宮内庁が、内親王は病気だと言い出しました。「国民の誹謗中傷で、内親王は病んでしまった。これ以上の誹謗中傷は止めてください」というやり方は、感心しません。宮内庁だけではなく、新郎新婦が二人揃って国民による誹謗中傷を非難していましたが、これは、政治家のお家芸である「国民が、勝手に誤解した」というやり方と同じです。権力者側の問題を、国民にすり替えてしまうやり方は、誹謗中傷という強い言葉で国民を威圧するやり方は、褒められる手法ではないと思います。このやり方を見ても、内親王が権力者の一員であることは明らかです。
恋愛成就が人生最大の願いなのは、素晴らしいことだと思いますが、贅沢な願いにすぎません。庶民は、生活という、もっと切実なことで苦しんでいます。内親王と同年代の女性の中には、風俗の仕事を選択するしか道がない人もいます。多くの若者が生活に困窮し、中には、命を絶つ若者もいます。内親王は、宮家の一員であったというだけで、破格の収入を得られる仕事が用意されているのは、いかがなものかと思います。
下世話な話ですが、これだけ大騒ぎをして、啖呵を切って、結婚した内親王は、退路を断ったことになります。口が裂けても離婚という言葉は出せません。夫が、どんな人なのかは知りませんが、夫は、とても有利な立場を手に入れたと思います。やりたい放題をやっても、妻は従うしか道はありません。孤立無援の外国で、逃げる場所もなく、愚痴を言う相手もなく、一生を送るのは大変だと思います。大丈夫なのでしょうか。夫が、100%の「いい人」であることを、そんな人はいないと思いますが、願うしかありません。
「自分さえよければ」「今さえよければ」をやっているのは、内親王です。結果が凶と出ても、受け入れるしかありません。とても、気の毒だと思います。
これは、内親王が生まれた時から「公人」と決められているからです。
世間に賛否両論があるのは、天皇の定義が、皇室の定義が、曖昧であり、民主主義との整合性が取れていないからだと思います。
皇族の家に生まれると、生まれた時から、公人なのです。
もちろん、これは、皇室が決めたことではありません。天皇を利用することで利益を得られる人達が決めたことです。
少し斜に構えて見てみると、皇族は「人身御供」に見えます。時の権力者が、皇族には利用価値があると思うから、人格を無視してでも利用するのです。保元平治の乱以降、天皇家は、権力者の利益のために、利用され続けてきました。内親王は、その犠牲者だと言うこともできます。
内親王が公人でなければ、権力者の一員でなければ、今回の行動は、一般的な悩み事に過ぎず、国民が違和感を持つような「自分さえよければ」「今さえよければ」にはならなかったと思います。
民主主義を定義し、皇室を定義すれば、済むことではないかと思います。
今でも、天皇崇拝者は、それなりにいます。そのほとんどが、欲と二人連れであることは仕方ありませんが、それでも、歴史と伝統の名の下に、この国には天皇が必要だと言います。とんでもないことです。国民生活が壊れようとしている時に、歴史とか伝統は、何の足しにもなりません。歴史と伝統が、食事に事欠く貧困家庭を救っているのですか。歴史や伝統では腹は膨れません。歴史や伝統よりも、現実が優先されます。歴史や伝統は、国民の生活にゆとりがある時に限り容認される贅沢品にすぎません。
もしも、権力や自分の利益を度外視してでも、天皇を崇拝する人達がいるのであれば、そんな人はいないと思いますが、ファンクラブを結成し、その人達の献金で天皇家を支えればいいと思います。税金を使っているから、国民が四の五の言うのです。いや、国民には、四の五の言う権利があります。内親王は、そのことがわかっていたから、1億5千万円は受け取れなかったのだと思います。
国論が分断されたと評する人もいます。元々、曖昧の上に成り立っていた「国民の総意」ですが、見事に、「総意」ではなくなりました。仮に、多くの国民が賛成していたとしても、それは、国民の総意ではありません。「総意」とは全員の意思という言葉です。もちろん、そのことも、曖昧さえあれば、どうにでもできてしまいますが、この曖昧が日本を衰退させているとしたら、考え直す時だと思います。そもそも、憲法に書かれている「国民の総意」は、一部の人達の利益を守るために生まれた言葉であり、当時の国民でさえ関与していません。出発点から、間違っているのです。
私は、皇室を抹殺しろ、なんてことは思いません。多分、多くの国民が、そう思うのではないでしょうか。貴重な文化として、保護していくべきだと思います。例えば、この国には人間国宝という制度があります。人間国宝になっている方は、「私人」であり「国宝」なのです。この「国宝」は権力の領域とは別のものです。
もちろん、皇室の定義をする前に、「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義をすべきです。その定義で目的と責務を明確にすれば、憲法の1丁目1番地に天皇条項が書かれていることが間違っていることに気付くことができます。この国は、天皇のためではなく、国民のためにあるのです。
時計は逆回転できませんが、縄文時代の生き方は参考にすべきだと思います。
縄文時代にも権力は存在したと思います。
ただ、権力は自分のために使うのではなく、集団のために、そこに住む人達のために、使うものだとされていたのではないでしょうか。縄文人にとっては、権力よりも、生き延びることのほうが、はるかに優先順位が高かったと思います。彼等には、「永続」という唯一無二の目的があったのです。今の、この国の、目的は、何ですか。
もちろん、私が言っていることは、大きく今の常識を逸脱しているのでしょう。
でも、縄文人から見れば、どちらが常識なのでしょう。縄文人にとっては、「自分さえよければ」「今さえよければ」よりは、「子供達の未来を守る」ことのほうが常識なのではないでしょうか。1万年という実績は無視できません。


2021-11-05



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円の暴落と輸入価格の暴騰 [評論]



最近、スタグフレーション(stagflation)という言葉が散見されます。
このstagflationという言葉は、stagnation(停滞)とinflation(物価上昇)を合体させた造語だそうです。日本で「石油ショック」と呼ばれた経済変動があった頃に、イギリスで作られたようです。
インフレーションは、経済活動が活発であり、物価も上昇する現象です。
デフレーションは、経済活動が停滞し、物価上昇が起きない現象です。
スタグフレーションは、経済活動が停滞しているのに、物価上昇が起きる現象です。
デフレーションとスタグフレーションは、どちらも経済の停滞状況は同じで、物価が停滞するか、物価が上昇するかの違いです。
庶民にとっては、度を越したインフレーションとスタグフレーションが歓迎できません。それは、物価上昇が家計を圧迫するからです。
一部のエコノミストの方が、このスタグフレーションの危険を指摘しているのです。
コロナの影響もあり、日本経済は停滞状態ですが、いや、この30年間ずっと停滞していますが、この秋には、いろいろな物が値上げされました。電気・ガスは4カ月連続で値上げされています。
もちろん、この先、スタグフレーション状態になるかどうかは、まだ、わかりません。
ただ、今の状況を続ければ、その可能性は高いと思います。なぜなら、経済が活性化する要因は、どこにもないからです。
スタグフレーションが度を越すと、ハイパーインフレになります。今のベネズエラが、日本の将来の姿を見せてくれているのかもしれません。
何か、方法はないのでしょうか。

もちろん、このスタグフレーションは、日本だけで起きるのではありません。
今起きているのは、資源相場の変動であり、これが世界の潮流になれば、非力な日本は翻弄されます。原油の相場は、上がったり下がったりしますので、皆さん、慣れていると思います。ガソリン価格も高値を付けていますが、過去の経験から、「いつか落ち着くだろう」と思っています。食糧の価格も上昇していますが、「いつか落ち着くだろう」と思っています。相場に永遠はありません。ただ、上昇トレンドがいつ終わるのかはわかりません。
ここで、原油や食料が、長期上昇トレンドになった時を想像してください。
上昇トレンドのチャートは、10上昇して3下落し、5上昇して2下落、7上昇して1下落し、10上昇して3下落するという動き方をします。でも、出発点と比較すると、23も上昇していることになります。
もちろん、エネルギー原料価格の上昇も、食糧価格の上昇も、青天井で続くわけではありません。相場の上昇トレンドは、いつか終わります。それでも、その上昇期間中は、耐えなければなりません。耐えるのは、消費者です。
その衝撃は、上昇幅と上昇期間で変わりますが、耐えるしかありません。
エネルギーや食糧以外の、たとえば、航空機の価格が上昇したとしましょう。
航空運賃が上昇しますので、経済への影響は避けられませんが、直ちに、庶民を直撃することはありません。
しかし、エネルギーと食料は、私達の生活に欠かせないものです。
エネルギー原料価格の上昇は、電気代やガス代を直接上昇させ、家計に大きく影響します。物流コストも上昇させますが、それだけではありません。エネルギーは、製造現場でも必要不可欠なものですから、製造コストに影響し、消費者価格を上昇させます。食糧価格の上昇は、食糧だけではなく、家畜の飼料価格上昇に影響しますので、これも、消費者価格に影響します。
もう1つ、とても危険な要素があります。いや、これが一番危険です。
それが、為替相場です。
私達は、エネルギー原料も食料も、輸入に頼っています。
世界から、物品を購入する時は、ドルで買わなければなりません。物品を買う前に、ドルを買う必要があるのです。そのためには、円を売って、ドルを買わねばなりません。その円とドルの交換レートを決めるのが為替相場です。
では、為替相場は、現状維持できるのでしょうか。
これは、誰にも、わかりません。
為替相場の大きな視点は、その通貨の信頼性によります。
通貨の信頼性とは、その通貨を発行している国の信頼性のことです。
もっと、厳密に言えば、その国の経済力に対する信頼性です。
日本のデータは公開されていますので、日本が「衰退国家」であることは、世界が知っています。国際収支という1本の綱で支えられている信頼性ですが、その綱も経年変化で脆くなっていますので、いつまで保てるのかは不明です。
韓国では、1人当たりGDPで日本に勝ったのだから、韓国は日本を追い抜いたと言われています。私も、そう思います。私達は、韓国に抜かれたことを、危機と感じたのでしょうか。明らかに、日本の「国力衰退」が原因だと思いますが、日本国内に、そんな空気はありません。確かに、韓国も、周回遅れで衰退国家の仲間入りをすることになります。それでも、現時点では、韓国のほうが上です。ここは危機感を持つべき局面だと思います。
以前から、言われていたことですが、日銀保有の国債を永久国債にしようという提案が、一部で言われています。この永久国債というのは、借金の棒引きのことです。日本政府と日銀は一体だとして、自分の借金を自分で棒引きにするのです。
理論的には不可能ではないと言われています。
しかし、世界は、そんな国を信用してくれるのでしょうか。
輪転機を回すだけで、資金が自由に捻出できる国の通貨を信用してくれるのでしょうか。
例えば、財源が逼迫した北海道が、北海道内で使える独自通貨「円円」を発行し、輪転機をフル回転させ、「円」と交換してくれと言って、誰か交換してくれますか。
国は、地方自治体の財政破綻を厳しく制限しています。地方自治体の破綻は駄目で、国が良いという基準は何なのでしょう。夕張市の借金を棒引きしていないのは、何故でしょう。
国を鎖国し、世界の為替相場から日本円を外すのであれば、それは、日本の勝手ですから、いくら輪転機を回しても構いません。
しかし、その場合、信任されていない日本円で他国の通貨を買うことは出来ません。
日本の都合だけで、永久国債なんて無茶は、通らないと思います。
そんなことをすれば、円は暴落します。
世界は、今の日本の国力にも、経済力にも、信用を置いていません。
過去の日本の遺産である海外資産で、生き延びているのが日本です。
客観的に見て、世界一の借金大国日本は、いつデフォルトしても不思議ではない国なのです。
今も、円安傾向を心配する方はいます。ここで言う「円の暴落」は数円の円安のことではありません。数百円、数千円の円安であり、為替相場から締め出されるような円安のことです。北朝鮮ウォンではドルが買えませんが、それと同じ状況になります。
円が暴落するということは、輸入価格が暴騰するということです。
100円で買えていたものが、1000円出さないと買えないとすると、その商品の価格は10倍になります。それが、円の下落の影響です。
世界のエネルギー価格や食糧価格の上昇は、日本固有の事情で、何倍にも、何百倍にでもなり得るのです。いや、もしかすると、ベネズエラのように何兆倍になるかもしれません。円の暴落がハイパーインフレの引き金になる可能性だってあります。

世界的に心配されているスタグフレーションとか、日本独自の円の暴落とか、輸入価格の暴騰は、私達の生活に、どんな意味を持っているのでしょう。
言葉だけを見れば、私達の生活には関係のないことのように見えます。
でも、そうではありません。
私達の生活を直撃するのです。
それは、何故なのでしょう。
国力が衰退しているからです。衰退国家では環境の変化に対応できません。
資源価格が高騰したのは、今回が初めてではありません。過去にも、何度も、同じような時代がありました。特に、影響が大きかったのが、石油ショックと呼ばれた時代です。
トイレットペーパーの買い占めはありましたが、物価上昇率は25%にもなったそうですが、何とか、凌ぐことができました。それは、50年前の日本は、今ほど、国力が衰退していなかったからです。今の日本が25%のスタグフレーションになったら、生活できない人が続出し、社会不安は大きくなります。月々、10万円で生活している人が何人いるのかは知りませんが、数百万人ではなく、数千万人いると思います。25%の物価上昇に耐えられるとは思えません。
まだ、公式には認めていませんが、明らかに、日本は衰退しているのです。
こんな時に、スタグフレーションとか、円の暴落とか、輸入価格の暴騰があれば、日本は耐えることができません。それは、国民生活が破壊されるということです。
どうすればいいのでしょう。
先ずは、「国力衰退」を止めなくてはなりません。
では、「国力とは」何でしょう。
仮に、国力とは富を稼ぐ力だとすると、稼ぐのは、誰でしょう。
政治家ですか、それとも、官僚ですか。
違いますよね。
国力とは、富を稼ぐ、国民の力です。
その力が衰えているということは、国民が衰えているということです。
では、どうして、国民の力が衰えているのでしょう。
それは、国民が「俺には関係ねぇ」と言っているからです。
「なんだ、精神論か」と言う方もいるかもしれませんが、精神論なしに国は成り立ちません。「塵も積もれば山となる」という例えがあるように、国民の小さな努力を積み重ねることが国力になるのです。
では、なぜ、国民は「俺には関係ねぇ」と言っているのでしょう。
それは、国民が、自分の目的も責務も知らないからです。
スタグフレーションとか、円の暴落とか、輸入価格の暴騰があれば、国が破綻する可能性がとても高くなります。もし、その原因が「国力衰退」だとすると、国民生活を破綻させてしまうのは、頑張っていない国民だということになります。
だとすると、国民生活の破綻は、国民が責任を取らねばなりません。
当たり前のことです。
つまり、このまま、「なるようになる」のを待っていれば、貧困や飢餓や生命喪失は、国民が甘んじて受けるしかないということです。
国民が責務を果たさずに国を壊すのですから、その責任を国民が取る。
何の不思議もありません。
分析は間違っていないと思いますが、何か、変です。
それは、国民生活が破綻して、喜ぶ国民は1人もいないからです。
何が、変なのでしょう。
国家運営は、「お上」の仕事だと思い込んでいるのが、変です。
目的がない事を、変だと思わないことが、変です。
それは、国民が、自分の責務を知らないことが、原因です。
では、なぜ、国民は、自分の責務を知らないのでしょう。
それは、自分達が「下々」に過ぎないと信じて疑わない国民が、今までも、今も、自分達が「国民」であることを、知ろうとしなかったからです。
もっとも、「お上」も知って欲しくないと思っていたことも影響しています。国民が、自分の責務を知るということは、その過程で、国の責務も知ってしまうからです。
国にとっても、国民にとっても、「なあ、なあ」「まあ、まあ」が最適な答だったのです。
誰も負うべき責務を知らないのですから、「自分さえよければ」「今さえよければ」が容認されました。これが、誰にとっても一番楽だったのです。
皆で、好き勝手をやっていたのですから、国が壊れても不思議ではありません。

ただ、国民は、知っていて、国民生活を壊そうとしているわけではありません。
まさか、自分で自分の首を絞めているとは思っていません。
国民は、ただただ、知らないのです。無知蒙昧の民と呼んでもいいと思います。これは、教育のレベルの問題ではなく、意識の問題です。国民は、知ろうとしていないのです。
無知は、ほんとに、怖いです。
国民生活が壊れて、喜ぶ国民なんて一人もいませんが、そこは、都合よく、責任転嫁をします。「お上のせいで、壊れたのだから、俺には関係ねぇ」と思っています。いやいや、実際に責任を取るのは、あなたですから。
国民に責務があるなんて、想像もしていなかったと思います。
悪いのは、全部、「お上」のせいだと思っています。
国民の皆さんは、寛永とか享保の時代を生きているのかもしれません。皆さんは、「見ざる、言わざる、聞かざる」を律儀に守っています。「従順」と「服従」が自分の責務だと思っています。これでは、言葉の定義なんて思いつくこともありません。この国の責任者は国民の皆さんなのに、皆さんは、自分に責任があるなんて微塵も思っていません。
確かに、政治家も問題あります。官僚も問題あります。
でも、一番問題なのは国民です。
近い将来、間違いなく、国民の皆さんの生活は。一人の例外なく壊れます。
それなのに、国民は「ふむ、ふむ」と頷き、「へらへら」と笑い、「俺には関係ねぇ」と言っているのです。救いようがありません。
皆さんの生活が壊れるのです。
壊れてから「あちゃー」と言っても遅いのです。
国民の皆さんが、目を醒まし、自分がすべきことをするしかないのです。
でも、この国のどこを探しても、そんな空気はありません。
政治家をぼろ糞に言う人はいますが、昭和・平成・令和の国民は政治家以下なのに、「国民に問題がある」なんてことを言っている人を知りません。
「お前のブログは、マイナーだから、言えるんだ」と言われれば、その通りかもしれません。


2021-11-04



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子供達の未来を守る行動を [評論]



このブログは、最近、特に、嫌なブログに傾斜しているように見えます。
それは、国民の皆さんを糞味噌に言うことが増えてきたからです。
政治家は、有権者の一票が必要ですから糞味噌には言えません。新聞の購読者も、テレビの視聴者も、消費者ですから、メディアも国民を糞味噌には言えません。国民は、アンタッチャブルなのです。為政者もメディアも上級国民も、国民の生き血を吸って生きているのです。生かさず殺さず、とことん利用するほうが利益になるのです。
非常識で、変人である私であっても、こんなマイナーブログであっても、国民の皆さんには遠慮がありました。この国を壊しているのが国民であることは否定しようがありませんが、その事を明言することを避けていました。これも、助平根性だと思います。
でも、子供達の未来を守ることのほうが、遥かに大切ですから、助平根性を捨てることにしたのです。その結果、ひどい言葉が並ぶようになりました。
こんな文章を読んで、喜んでくれる方は、一人もいないと思います。
「なにを、偉そうに。お前に、そんなこと、言われる筋合いはない」と思うほうが自然だと思います。失礼な言葉を使っているのですから、私が悪いと思います。ただ、何もしようとしない皆さんのほうが、はるかに悪質です。
10年前は、5年前は、これほど酷いことは書かなかったと思います。
段々と、矛先が国民へと向かったのは、ここ数年です。
国民をボロクソに書くようになったのは、この1年かもしれません。
国家運営に対する批判は多くの方が書きます。
昔、私が書いていたのも、政権批判であり、政治批判でした。
どれほど多くの方が、山のように批判を浴びせたとしても、何も変わりませんでした。「国力衰退」のトレンドは、びくともせずに、粛々と進んでいます。
それは、批判されなければならないのは、政治ではなく、国民だったからです。私達は、見当違いをしていることに、今でも、まだ気付いていません。国民は、一票であり、消費者であり、納税者ですから、悪しざまに言う人はいないのです。
国民が、自分で自分の責務に気付くしか方法はありません。
政治は、国民の意識次第でどのようにでも変わります。政治の好き勝手を許している国民にこそ責任があったと思います。この国の責任者は国民です。国民こそが当事者であり、政治家は国民の外注先でしかありません。
批判の対象としても、国民の存在は無視されていたのです。今も、そうです。
それでも、批判は、批判でしかありません。必要なのは、具体的な解決策です。
唯一無二の解決策ではないのかもしれませんが、「言葉の定義」に気付いてから、書く内容が変わったと思います。ただ、「言葉の定義」を掘り進めると、いつも、国民という強固な岩盤にぶつかります。そこから一歩も進めません。確かに、提案はしましたが、「ふむ、ふむ」で終われば、提案も批判と同じで、何の役にも立ちません。
提案は、実際に行動に移して、初めて、意味を持つのです。
ところが、行動するのは、強固な岩盤であり、「俺には関係ねぇ」と言っている、国民の皆さんなのです。お手上げです。
原因の究明ができれば、対策が立案できれば、と考えていたのですが、間違いでした。
段違いに難しいのが、それをどう実行するのか、ということだったのです。
国民の皆さんだって、今のままでいいのであれば、不安なんてないはずです。今のままでいいと思っていないから不安なのです。ただ、自分で行動するということに慣れていませんので、じっと、何かを待っているのだと思います。それでも、待っているだけではドツボにはまるのは避けられません。今は、明治維新に匹敵するような変化が必要な時なのだと思います。厄介なのは、薩摩藩も長州藩もありませんので、国民がやるしかないことです。
結果、どんどん深堀りし始め、強い言葉が並ぶようになりました。
ほんと、難しいです。
最近は、この辺が私の限界なのかな、と思っています。
日本の常識に照らせば、私の言葉は暴言の類になるのかもしれません。
「これが、人にものを頼む時の言葉か」と言われれば、謝ります。申し訳ありません。
でも、地獄が近づいていることに、気付いて欲しいのです。
「だったら、言うだけじゃなく、お前が行動しろ」「お前は、言うだけ番長か」と言われると思いますが、その通りです。私には行動力がありません。老人の私にできる行動は、下手な文章を発信することくらいです。大変、申し訳ないと思っています。
「お前が書いていることは、国民を鼓舞しているのか、愚弄しているのか、よくわからん」と言われるかもしれません。「もう少し、書き方があるだろう」と言われても、反論できません。「大人の対応」ができなくて、申し訳ありません。ぐうの音も出ません。
これが、私の限界なのだと思います。才能が欲しいです。
どうすれば、この壁が乗り越えられるのか、教えて欲しいです。

皆さんは、原因にも対策にも関心はありませんでした。ただ、ただ、棚から牡丹餅が落ちてくるのを待っているのです。目的もなく、責務も知らず、土下座をして「神様、仏様、なにとぞ御恵みを」と呪文を唱え、自分に美味しい結果だけを待っているのです。封建時代の百姓の皆さんも、同じようなことをしていたと思います。
これでは何も変わりません。
どうすれば、国民の皆さんがそのことに気付いてくれるのか、私には、まだ、その答が見つかりません。それを見つけるのには、まだまだ、時間がかかるのかもしれません。いや、見つからないのかもしれません。
ただ、目的だけは、はっきりしています。
子供達の未来を守ることです。
目的がある限り、挑戦するモチベーションはあるということです。
ただ、老人の私と、死は、それほど遠い存在ではありません。
私にも、国民の皆さんにも、残り時間は多くないのです。
確かに、焦りはあります。
だから、性急になっているのかもしれません。最近は、「切れる老人」が多いと聞きますが、私もその一人なのかもしれません。
困ったことです。

貧困化が進み、児童虐待まで増加し、多くの数値が悪化しているのに、この国の課題が、国力の衰退だとは、誰も言いません。
データは持っていませんが、昨日も、今日も、新しい貧困家庭が誕生しているでしょうし、明日もそうなります。これが、国力衰退です。
皆さんは、棚から牡丹餅が落ちてくるのを、誰かが何とかしてくれることを、待っているのです。確かに、これまでは「従順」と「服従」が私達の使命でしたから、自分から動くことなど、頭をよぎることもなかったのかもしれません。でも、危険が迫ってきているのです。皆さんの直感は、その事を知っているのです。
貧困化を止めるためには、「国力衰退」を止めるためには、行動が必要なのです。
私が提案している「言葉の定義」でなくても構いません。皆さんは、自分を守るために行動を起こす必要があるのです。
答はあるのでしょうか。
「俺には関係ねぇ」と言っている国民の皆さんに、「そんなもん、お上の仕事だろ」と言っている国民の皆さんに、気付いてもらう方法も、行動してもらう方法も、ありません。
ただ、何となく、ずるずると、衰えていっているのです。
識者と呼ばれる人達は、時折、「国民にも、問題がある」と言いますが、そうではありません。「国民にこそ、問題がある」のです。
それでも。
多分、おそらく、いや、確実に、私には国民の皆さんを説得できません。
と言うことは。
この国は、このまま、行き着く所まで、行くということだと思います。
この国の衰退は、既に、トレンドになっていますので、自動的に行き着く場所は決まっています。世界一の貧困国です。世界一の下は存在しません。
今は、じわじわ、ずるずる、と坂道をずり落ちている状況ですが、どこかで、ドカンと転落する時がやって来ます。その引き金を引くのが何になるのかは、まだわかりません。それは、戦争かもしれませんし、地震かもしれませんし、デフォルトやハイパーインフレかもしれません。トドメを刺された時に、皆さんは、初めて気づきます。でも、それは、最後のトドメが劇的に見えるから、そう思うだけで、この国は、もう壊れ始めているのです。
「なに、また、戦後のように奇跡を起こせばいいだけの話だ」と思っているかもしれません。
そうではありません。
奇跡なんて、何度も起きません。だから、奇跡なのです。
「一度、壊れないと、俺達はその気にはなれないんだ」と言う方もいます。
冗談を言ってもらっては困ります。その気になったら再建できるのですか。
どうして、再建が可能だと思うのか、理解できません。
「日本は神の国だから、必ず、蘇るのだ」と信じている人もいるかもしれません。
神の国なんて、誰が決めたのですか。日本は普通の国です。妄想家の私が言うのは違反かもしれませんが、神の国信仰は、妄想に過ぎません。
世界の最貧国から抜け出すのは、簡単ではありません。
最貧国から抜け出すのに、100年かかるのか、500年かかるのか、或いは、二度と抜け出すことは出来ないのか、それはわかりません。
今生きている私達老人は、死にますので、いいのかもしれません。
でも、子供や若者は、かなり長い間、貧困に苦しみながら、絶望の中で死にます。
孫や、その孫達は、豊かな国だったという記憶もなく、貧困が日常の生活をしなければならないのです。
でも、これが、昭和・平成・令和の大人達の置き土産だとしたら、許されないことだと思います。私達の無作為が、多くの将来の国民を苦しめることになるのです。
これは、どう見ても、人として、あるまじき行為だと思います。

今は、国民の皆さんが、人としての責務を果たす時だと思います。
古い言葉に「人非人」という言葉があります。「人にして人に非ず」と読みます。「人として」の責務を果たさない人のことを指す言葉です。
「言葉の定義」をすることが気に入らないのであれば、せめて「人として」の責務を思い出してください。皆さんは、「人として」子供を守る責務があることを知っています。
歴史年表には載っていないかもしれませんが、貧困も最貧になると、私達は子供を間引くことだってしました。これも、私達の歴史です。「人として」失格だと思いますが、そうなってしまうのです。今なら、私達は「人として」の責務が果たせます。
子や孫に辛酸を嘗めさせようとしているのは、昭和・平成・令和の大人です。
国民の皆さんが、この国を変えるしか選択肢はないと思います。
その方法が、私の主張と違うものでも、何の問題もありません。
要は、子供達の未来を守ってくれたらいいのです。
この国にあるのは、溢れるほどの批判だけです。それも、自分の利益を守るための批判です。子供達の、孫達の、利益は誰が守ってくれるのでしょう。
これは、子供達に発言権がないことを利用した、「自分さえよければ」「今さえよければ」というご都合主義です。抵抗できない子供や孫に、責任を押し付けていいのでしょうか。これは「人非人」のやることです。
「ほんとに、壊れるのか。そんなもの、壊れてみなければ、わからないだろう」なんて言わないでください。
壊れてから「あちゃー」と言っても、どうすることもできないのです。
誰かが、何とかしてくれるだろう、なんて都合のいいことは起きません。
お願いします。子供達の未来を守る行動をお願いします。
皆さん一人一人には、先人として、大人として、人として、その責務があります。
それでも、やっぱり、「俺には関係ねぇ」という答しか返ってこないのでしょうか。
お偉い先生方に見放され、国民に見放され、子供はどうすればいいのですか。
これも、立派な児童虐待だと思います。

反省文を書こうとしたのですが、無理でした。
もっと、ひどいことを書いてしまいました。
国民の皆さんにお願いするしかないようです。
私は、皆さんが行動してくれる何かを見つけることが出来るのでしょうか。
今は、その自信がありません。
このまま、すんなりと、抵抗もなく、地獄へ堕ちていくような予感があります。
地獄へ堕ちれば、流石に、モチベーションは生まれると思います。行動しようという人も出てくると思います。
でも、手遅れです。
いつものように、「あの時、こうしていれば」と嘆くことになります。
また、同じことを繰り返すのですか。
後から嘆く「あの時・・・・」が今なのです。
時間は取り戻せません。


2021-11-03



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国民を守る政党を作りませんか [評論]



数多くのグラフを見てきましたが、投票率のグラフも、右肩下がりの、見慣れたグラフです。
統一地方選挙ではなく、個別の地方選挙の場合は30%を切る時もあります。
政権選択の選挙と言われる衆議院選挙でも、50%台です。
今回の衆議院選挙では、コロナ禍で苦しんだ国民が、貧困化で苦しむ国民が、大挙して投票所へ足を運んでもおかしくない状況であったのに、55.93%という投票率でした。国民の皆さんが、非常時であっても、既存の政治に期待していないことを、国民に選択肢がない事を、示したことになります。
国民の半分の方が、選挙に参加していないのです。
どうして、投票率が、ここまで下がってしまったのでしょう。
答は簡単です。
投票しても、しなくても、自分の生活には何の影響もないのです。
では、逆に、なぜ、50%もの人が投票所に行っているのでしょう。
組織票と大量の老人が、投票所に行くからです。
組織票は、自分の組織の利益のために、足を運びます。
パブロフの犬になった老人は、惰性で、投票所に足を運びます。
若者の投票率が低いと非難する方がいますが、私には、若者の行動のほうが、素直で、理に適っているように見えます。
国民は政治に期待していないのです。
政治家は期待されていないから、好き勝手をする。
これ、悪循環じゃないのでしょうか。
かつて、好き勝手をしている自民党を見て、「自民党政治は、何とかしなければならない」と思って、多くの国民が民主党に投票しました。しかし、「消費税の増税はしません」と公約して、政権を取った民主党は、消費税増税という、国民に痛みを強要する置き土産を残して瓦解しました。
国民は、「なんだ、誰がやったって一緒なんだ」と思いました。
これも、悪循環です。
誰も、根っ子に視線を向けません。
国には、国民生活を守る責務があります。
しかし、この国に、「国民」はいません。いるのは「下々」です。守るべき「国民」が存在していないのですから、守る必要はないのです。
これで、政治に期待しろ、と言うほうが無理です。
「お上」は「下々」に向かって「国民」になってくれ、と言いましたか。いや、「下々」は「下々」のままでいて欲しいと願っていたと思います。
組織のために投票所に行く人にとっては、自分の組織に属していない人のことは、どうなっても、別に構いません。「自分さえよければ」いいのです。
では、それ以外の人の、老人の、目的は明確なのでしょうか。「何となく、保守」「何となく、革新」「その時の気分で」という方がほとんどだと思います。「何となく」投票している人は、失礼ですが、何も考えていないと思います。いや、多分、自己満足のために、投票所に行くのだと思います。「俺は投票したぞ」だけです。
「自分さえよければ」「今さえよければ」「何となく」で、ほんとに、いいのですか。
「何のために投票するのですか」と質問した時、どんな答が返って来るのでしょう。私の勝手な想像ですが、「上からの指示だから」と「選挙があるから」と答える人がほとんどだと思います。よく「投票は国民の義務」だと言われることがあります。基準のない義務なんてあるのでしょうか。もしも、基準を持てば、白票という選択肢しかなくなります。選挙制度を変えろ、と言えば、「まあ、まあ、そんな硬いこと言わずに」と言われます。
この国は、誰が守るのですか。この国の未来は、どうするのですか。
多分、「俺には関係ねぇ」と言うのでしょう。
内心で、「だって、皆、好き勝手をやってるじゃん」「俺のせいじゃねぇよな」と思っているのではないでしょうか。
どうして、こうなっているのでしょう。
それは、この国に、目的がないからです。
目的のない組織なんて存在しないはずです。
目的がないために、組織体として機能していないということだと思います。
もちろん、国は、百人百様の人間の集合体なのですから、一枚岩になるなんてことはありません。
それでも、自分の身を守るためには、子供達の未来を守るためには、それに相応しい目的を持つしかないのではないでしょうか。
今の状態は、烏合の衆と呼ばれるに相応しい集合体だと思います。
多分、私達は、自分の身を守るという基本を、忘れているのだと思います。
と言うことは、いつか、自分の身を守れない日がやってくるということです。
目的もない烏合の衆が好き勝手をやっていれば、国が衰退するのは当然です。
特に、最終責任者である国民が、好き勝手をやっているのですから、救われません。
日本崩壊は、約束されているようなものです。
だから、「国力衰退」が進んでいるのです。
もう、壊れ始めています。
これ、皆さんの生活が壊れるということです。
どうして、この現実を「見て見ぬふり」するのでしょう。
私には、理解できません。
自分の身の安全のことなのに、どうして「へら、へら」笑っているのですか。
ほんと、不思議です。
国民の皆さんは、棚から牡丹餅が落ちてくるのを待っています。
「誰かが、何とかしてくれる」日を待っています。
そんな日は来ませんし、牡丹餅も落ちてきません。
そんなこと、知っていますよね。
それでも、皆さんのDNAが、「じっとしていろ」と言います。
それは、皆さんが「下々」根性に支配されているからです。
確かに、「下々」が「国民」になるのは至難の業かもしれません。
それでも、このままだと、皆さんの安全は保てません。
1億2000万人が貧しくなっても、あなただけは貧しくならないという自信はありますか。もしも、そう思っているのであれば、それは、勘違いですから。
DNAに逆らってでも、行動する必要があると思います。
では、行動って何でしょう。
武器を持って、竹槍や鍬を持って、政府を倒せば、私達の安全は守れるのですか。
そうではありません。
武力革命なんてやれば、更に、貧しくなるだけです。
欠けているものを補うしかないと思います。
私達に欠けているものは、目的です。
だったら、目的を作るしかないのではありませんか。
もちろん、目的さえあれば何とかなるわけではありません。
その目的を達成するための責務が必要になります。
国民一人一人が、目的を達成するために力を注ぐ必要があります。
誰かが何とかしてくれる、なんて都合のいいことは起きないのです。
自分の力で自分を守る。
これが、生き物の宿命だと思います。
自分一人で守れない時は、仲間で守るのです。
サバンナで群れを作っている動物は、偶然、群れを作ったわけではありません。
自分の身を守るために、群れを作ることを知っているのです。
彼等は、群れを作ることで、永続を手に入れたいと思っているのです。
目的は、生き延びることです。
それが、生き物の本能なのです。
私達は、サバンナの牛達よりも、永続を守ろうとしていません。

今のままなら、この先、どこかで、大崩壊に遭遇します。
その大崩壊の原因は、戦争、地震、デフォルト、ハイパーインフレ等という引き金によるものかもしれませんが、根本原因は、皆さんが、自分の身を守ろうとしなかったことです。
自分の身を守るためには、集団を守らなければなりません。ここで言う集団とは、属している組織のことではありません。自分が属する組織さえ守っていれば生き残れるなんてことはありえません。国が潰れてしまえば、一緒に潰れるのです。ですから、集団とは、国民の皆さん全員のことです。「自分さえよければ」「今さえよければ」を優先させ、集団を、国民を、守るための行動を放棄すれば、自分を守れなくなるのです。
私達は、生き物は、生き延びるために、生きているのです。
これは、理屈ではありません。
生きる意味なんて、どこを探しても見つかりません。
それでも、私達は生きようとするのです。
大崩壊が起きて、世界の最貧国になれば、嫌でも、その現実に遭遇します。
しかし、最貧国の国で生き延びるのは大変です。
だったら、最貧国になんてなってはいけないのです。
「言葉の定義」という私の提案が、正しいのかどうかはわかりません。
でも、目的も責務もないままで、何とかなるとは思えません。
現に、この国は、壊れ始めているじゃないですか。
縄文時代の人達にとって、死は、集落の絶滅は、常に、身近にあったと思います。
10日食糧が手に入らなければ、30日、食べなければ、死ぬのです。だから、必死に、皆で力を合わせて、食糧の確保をしたのです。理屈抜きで、集落を守ろうとしたのです。
今、貧困家庭の子供が、まともな食事を食べられるのは給食だけだと言われています。
どうして、「この国、何か、変だぞ」と思わないのでしょう。
どうして、皆で、「俺には関係ねぇ」と言っているのですか。
国が崩壊すれば、給食もなくなります。
どうするのですか。

国民の多くが、政治に期待していません。
投票率が低いということは、そういうことです。
国民は、政治ではこの国を救えないことを直感で知っているのです。
それなのに、国民は、「俺には関係ねぇ」と言って、逃げているのです。
もちろん、国民の皆さんの気持ちは痛いほどわかります。誰に投票しても、何党に投票しても変わらないのですから、投票することそのものに意味がないのです。
でも、逃げているだけだと、ドツボにはまるのは皆さんなのです。
皆さんが、自分を守るためには、自分の生活を守ってくれる政治集団が必要なのです。
どうか、その事に気付いてください。
皆さんの心の奥深くには「生き延びたい」という気持ちがあります。これは、生き物であれば、どんな生き物でも持っている本能です。
だったら、生き延びるための行動を起こすしか方法はないのではありませんか。
国民が「言葉の定義」をし、目的と責務を明確にすれば、その目的と責務を実現しようとする政治集団が勝手に生まれます。なぜなら、投票権は国民が持っているからです。
今の、禄でもない政党は、私達には不要な集団なのです。そんな連中を税金で食わせる必要はありません。
与党第1党の政党は「自由民主党」で、野党第1党の政党は「立憲民主党」です。どちらも、「民主党」です。「民(たみ)」が「主(あるじ)」であることを宣言している政党です。
でも、どちらも、自分を支持してくれる「民」の利益を守り、それ以外の「民」を犠牲にして、「自分」が権力を得たいと思っているのです。これでは、封建時代の思考と同じです。これは、民主主義国家ではありません。
「民主」を掲げる政党の人達が、真っ先に、「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義をしてもおかしくはないと思いますが、そんなことはしていません。
ですから、私達は、右の国民や左の国民だけではなく、無党派の国民生活を守ってくれる政党を生み出す必要があるのです。無党派層は最大の集団でありながら、残念ながら、最弱の集団なのです。それは、国民の皆さんが逃げているからです。
もしも、生き延びたいと思うのであれば、私達国民が、最低でも、「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義をするしかないと思います。


2021-11-02



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必要なのは手段ではなく理念 [評論]



このブログは、ほぼ10年前から「日本崩壊」を書き続けています。
その出発点は、何の根拠もない直感によるものでしたから、妄想だとお断りして書きました。
後付けで、理屈を探し、正当化に励みました。
そして、数々のグラフから、「国力衰退」の実態を見つけて、日本のトレンドが「崩壊」へ向かっているという確信を得ました。もちろん、未来のことですから、確定しているわけではありません。ただ、妄想ではなく、推定になったと思います。
そして、「日本崩壊」の元凶である「国力衰退」を止める方法はないかと模索しましたが、見つけられませんでした。そこで、またも、直感で、「言葉の定義」を提案しました。
この提案が正しいかどうかは、まだ、わかりません。数値で証明できるとは思いませんが、それに近いものが欲しいと思っています。
ただ、今回の衆議院選挙を見ていて、方向性は間違っていないと思いました。
今の日本に必要なのは、政治や政策という手法ではなく、目的や責務という理念なのではないかと強く感じました。
まだ、道半ばですが、証明できることを願っています。
これは、我田引水ですから、いつものように、眉に唾をお願いします。

この文章を書いている時点では、衆議院選挙の結果は、出ていません。
ただ、何党が勝とうが、何党が負けようが、国民が、日々、貧しくなっているこの現状を、「国力衰退」を、変えることは出来ません。
それは、政治や政策では、もう、この国の崩壊は防げないということです。
各党の選挙公約を見ても、そこに光は見えません。
ただ、政治や政策では崩壊を防げないとしても、問題意識は必要です。
この国の問題は、国民の貧困化です。それは、この国が衰退しているからです。しかし、「国力衰退」の阻止を公約にしている政党がありません。野党でさえ、「国力衰退」という言葉すら使っていません。どの党も、「国力衰退」を「見て見ぬふり」をしているのです。
バラ撒きで何とか票を集めようという浅ましい根性が悲しいです。
民主国家であれば、何よりも優先しなければならないのが、国民生活を守ることであり、国民生活を守るためには、「国力衰退」の回避が必要であり、国家運営者は回避行動に尽力する必要があります。しかし、皆で、「俺には関係ねぇ」と言っています。
今、この国で起きていることは、昭和・平成・令和という時代が終わる末期症状なのではないかと思います。放置すれば、死に至ります。
たとえば、癌の末期になると、手術も化学療法も役に立ちません。モルヒネで痛みを和らげることしかできません。それと同じで、どの党の、どんな政策も、役に立たない時代になったから、バラ撒きしか残っていなかったのだと思います。
しかも、どの党も、バラ撒きの財源は借金です。
コロナで、箍が外れて、いくら借金をしても許されるという空気が生まれたからです。
誰も、未来を見ようとしない風潮は、困ったものです。
中でも最悪なのは、国民の皆さんです。国民は、「だって、俺達には選択肢がないんだもん」と言っているのです。他人事です。どうして、自分で選択肢を作ろうとしないのでしょう。皆さんは、「下々」なんかではありません。皆さんは、一番大きな責務を負っている主権者です。政治家がこの国を変えるのではなく、国民の皆さんが変えるのです。
これは、多分、私達の常識が、「お上」と「下々」という意識が、時代に合っていないからだと思いました。
日本の優れた頭脳が一番多く集まっている場所が、中央官庁です。
100%ではないとしても、彼等は良かれと思って国家運営をしてきたと思います。しかし、何一つ成果は出ませんでした。株価が上昇したのが成果ですか。有効求人倍率が1.0を越えたことが成果なんですか。違うと思います。国力の衰退は進み、貧困層が増えました。最高頭脳集団が奮闘したのに、大きな流れは、何も変わっていないのです。
これは、「政策が間違っているから、国力衰退が止まらない」のではないと思います。
##### 正しい政策があれば、何とかなるだろう ##### という思い込みが間違っているのだと思います。多分、これを、常識の落とし穴と言うのだと思います。
これは、政治でもなく、政策でもない、ということです。
国を繁栄させるのも、国を衰退させるのも、国民次第です。政治や政策に出来ることは限られています。皆で、仲良く、勘違いしているのです。国民の皆さんが、この「国力衰退」を何とかしたいと思わなければ、何をやっても無駄だということです。
今、必要なのは、政治でも、政策でもなく、国民意識だと思います。
常識に縛られたまま、為す術がなくなり、皆で、バラ撒きを選択するしか方法が無かったのだと思います。それが、今回の衆議院選挙です。
今のままでは、誰が総理大臣をやろうと、何党が政権を取ろうと、日本は変わりません。このまま、ずるずると沈んでいくだけです。
その象徴的な政策が、総理大臣の「所得倍増計画」です。吃驚です。無知な国民でさえ「えっ、いつの話だよ」と言っているのに、総理大臣は時代錯誤に気付いていません。
30年やっても駄目だったのです。60年やっても、100年やっても駄目だと思います。いい加減、気付いて欲しいと思います。常識を疑うには充分な時間が過ぎたと思います。こういう時は、原点に戻るしかないと思います。いや、私達には戻るべき原点がありませんので、先ず、それを作ることです。

私は、これまで、何度も「不思議だ」「理解できない」という言葉を使ってきました。
また、多くの方が、正体不明の「不安感」を持っています。
きっと、その根っ子は同じなんだと思います。
常識と現実のギャップが、不思議とか不安を生み出しているのではないでしょうか。
それは、人間が経験則に基づいて考え、行動する生き物だからだと思います。この経験則は、常識を生み出す源泉です。日々の生活は、この経験則の上で成り立っています。経験則は、私達の生活そのものなのです。ただ、残念なことに、この経験則は、環境に大きく影響されます。そして、環境は徐々に変化するので、気付き難いという性質があります。そんな時に必要になるのが、立ち還るべき原点なのですが、この国には、その原点がありません。環境変化に対応できず、還るべき原点もないのであれば、時代に合った行動は取れません。それが、今の日本です。
30年変わらないということは、私達の経験則が間違っていたということです。これは、30年間、何もしなかったことと同じです。その事に、是非、気付いて欲しいです。
国は衰退し、貧困化が進み、住みづらい社会になってしまったために、政治不信が生まれ、バラ撒きという選択肢しか残らなかったのです。
では、どうすればいいのでしょう。
誰も、解決策を提示しません。誰も、国民意識が問題だと言いません。
必要だったのは、政治や政策という手法の問題ではなく、国民意識という理念の問題だと思います。今回の衆議院選挙は、手法の限界を示した選挙だったと思います。
選挙を見ていて、私は、そのことに「はた」と気付きました。
さて、何人の人が、このことに気付いてくれたのでしょう。

では、理念とは、何でしょう。
私達は、なぜ、ここにいるのだろう。その問いに答はありませんが、敢えて、その理屈を人為的に決めましょう、というのが理念なのだと思います。
具体的には、国と国民の、目的であり責務だと思います。
目的と責務を明確にした土台の上での国家運営が必要なのだと思います。
今の「なあ、なあ」「まあ、まあ」方式の国家運営では、行き詰まった時に回帰する原点がありません。なぜなら、原点そのものが「なあ、なあ」「まあ、まあ」で見えないからです。
行き詰ったから、倉庫で埃まみれだった「所得倍増計画」まで持ち出すしかなかったのです。私達は、戻るべき目的も責務も持っていませんので、うろたえて、さらに古い常識に戻ろうとしているのです。岸田さんは、「なあ、なあ」「まあ、まあ」の申し子のような政治家だと聞きます。岸田さんらしいと言えばそうなのでしょうが、これは「ヤバイ」です。
もちろん、国民全員で国家運営ができるわけではありません。国民に出来ることは、目的と責務を明確にし、国民自身の意識を変え、国家運営者に戻るべき場所を示すことです。これが、国民の責務だと思います。そもそも、発注者(国民)は外注先(国家運営者)に、製品の仕様と性能を提示しなければなりません。「何でもいいから、納品してくれ」なんて取引は存在しません。
時代は、国民の皆さんに、「さあ、この国をどうするのですか」と問うているのです。時代は、政治家に問うているのではありません。これは、国民が決めることです。
時代は、国民の皆さんに、「常識を疑わなくてもいいのですか」と問うているのです。
さあ、皆さん、どうしますか。
「そんな、意識を変えろ、なんて急に言われたって」と思いますよね。
そんな経験は、この2000年間、ありませんでしたので、理解不能だと思います。
それでも、「意識を変える」か「今の衰退を続ける」かの二択しかありません。
それが現実です。
もちろん、「今の衰退を続ける」という選択肢もあります。
もしも、半数以上の国民の皆さんが「今の衰退を続ける」を選択するのであれば、その意思は尊重されるべきだと思います。
皆さんは、どう考えているのでしょう。
正解は、多分、「何も考えていない」というものだと思います。
ただし、「何も考えていない」としても、「俺には関係ねぇ」と言っていても、それは、「今の衰退を続ける」を選択したことになります。これを、消極的選択と言います。その場合には、北朝鮮やベネズエラのように、貧困と飢餓の中で、理不尽な殺戮の中で、絶望の中で死を迎える覚悟は持っておかねばならないということです。
「こんなことになるなんて、知らなかった」と言っても、何の役にも立ちません。
なぜなら、皆さんには、知る責務があったからです。
これは、自分の責務を果たさなかった皆さんの自業自得です。
国民の皆さんは、国民の責務そのものを知らないのですから、お気の毒だとは思いますが、そのことも、皆さんの自業自得だと思います。
今のこの状況を続ければ、皆さんは、失意の中で死を迎えることをお約束します。これは、私が約束しているのではありません。トレンドが約束しているのです。

もう、手遅れかもしれませんが、皆さんの意識を変えてみませんか。
別に難しいことではありません。
「言葉の定義」をするだけでいいのです。
皆さんは、この国の「何」なのですか。
枯れ木の一本なのですか。それとも、一匹の虫けらなんですか。
違いますよね。
皆さんは、人間であり、この国の主権者です。
そして、この国は主権者である皆さんのために存在しているのです。
「お上」や総理大臣や天皇のために存在しているのではありません。
国民の皆さんが、主権者としての意識を持ってくれればいいのです。
主権者とは、最終責任を取る人のことです。
皆さん以外に責任を取ってくれる人は存在しません。
崩壊している国を見てください。ベネズエラのマドゥロ大統領が責任を取っていますか。北朝鮮の金正恩が責任を取っていますか。ベネズエラや北朝鮮で、貧困や飢餓や生命喪失という実質的な責任を取っているのは国民です。
日本だけは、違うのですか。日本では、自分ではない誰かが、責任を取ってくれるのですか。そんな人がいるのであれば、是非、教えてください。
「国力衰退」が進み、世界の最貧国になった時、誰が、責任を取るのでしょう。
国民の皆さん以外に、そんな人はいません。
生活はどうしますか。食糧はどうしますか。医薬品はどうしますか。
誰かが与えてくれるのですか。天から降って来るのですか。
皆さんは、貧困や飢餓や生命喪失という形で物理的な責任を取る立場にいるのです。
それが、主権者なのです。
皆さんは、「親方日の丸」とか「おんぶにだっこ」が大好きだと思いますが、主権者には、そんな権利はありません。逆に、皆さんは、子供達を守る立場にいるのです。
この国を、ベネズエラや北朝鮮のような国にしないようにするのが、皆さんの、主権者の、責務です。
この国の現状と、この国の未来に、責任を持つのが主権者です。
「主権者なんて、勘弁してくれ」と言いたくなります。
私も、そう思います。でも、これは、いかに国民の皆さんが責務を果たしていないかの証でもあると思います。この落差の大きさに気付かないまま、時は流れているのです。私には、これこそが日本の致命傷に見えます。
皆さんは、主権者の責務を知りませんよね。
自分が主権者だという意識もなく、ましてや、主権者の責務なんて、考えたこともありませんよね。それを知ってもらうことが、意識を変えるという言葉の意味です。
たまたま、この国は民主国家という看板を掲げています。
独裁国家では不可能であっても、民主国家であれば、国民の皆さんが崩壊を防ぐことが可能なのです。
主権者の責務を知ってもらうためには、皆さんが、ご自分で「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義をしてみてください。皆さんの責務は、そこにあります。同時に、国の責務も明確になります。その上、目的も見えてくると思います。
「子供達の未来を守る」ことを、目的にしてみませんか。
子供達を守ろうとすると、自分を守らなければなりません。自分を守るためには、「国力衰退」を止めなければなりません。既存の「お上」の好き勝手を許していたのでは、子供達の未来は守れません。是非、「下々」意識を卒業してください。残念ながら、皆さんは、「下々」ではなく、重い責務を持った主権者なのです。
この国は、国民の皆さんの国であり、未来の国民の皆さんの国なのです。
選挙カーで声を張り上げている欲ボケ亡者の国ではありません。


2021-11-01



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