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悪魔の微笑み [評論]



盛り上がらないまま、立憲民主党の代表選挙が11月に終わりました。
泉健太という人が代表になったそうですが、テレビで何度か泉さんの話も聞きましたが、泉さんも、何が言いたいのかよくわからない人でした。
候補者の皆さんは、立憲民主党の再生が必要だと言っていましたが、曖昧な主張ばかりで、党再生のための対策は持っていないように見えました。彼等は、何かを恐れているように見えましたが、何を恐れているのでしょう。彼等は、何を守ろうとしているのでしょう。
下打ち合わせがあったのかどうか知りませんが、4人の主張に大きな差はなく、マスコミも、商品価値がないと思ったのか、盛り上がりに欠けました。
衆議院選挙の敗因について、4人に共通していたのは、「発信力が不足していた」というものでしたが、そもそも、発信するものがあったのでしょうか。彼等が発信したのは、自民党批判であり、自民党批判が不足していたということなのでしょうか。彼等は、何をしたかったのでしょう。何を言いたかったのでしょう。4人の候補者の話を聞いても、今でも、わかりません。4人共、「むにゃ、むにゃ」でした。
よくも まあ、ここまでクズを集めたものだと感心してしまいました。彼等の話を我慢して聞いた自分を褒めてやりたいくらいです。私は、男女差に偏見を持っていないほうだと思いますが、女性を出馬させなければ、という強迫観念があったのでしょうが、あの女性候補は、特にヒドイです。ところが、その女性は幹事長になってしまいました。そんなに、人材不足なのでしょうか。4人の候補者は、ただ、ただ、自分を守ることに汲々としていました。立憲民主党の中は、魑魅魍魎の巣窟なのかもしれません。離合集散を得意とする政党ですから、悪い予感がします。
私は、これまで、立憲民主党を応援する人の気持ちが理解できませんでした。最近、立憲民主党ファン(支持者ではなく、一票を投じたファン)の方の文章を読んでいて気付いたのですが、立憲民主党ファンの根底にあるのは、アンチ自民党だということのようです。「なるほど」と思いました。
アンチ自民党という点では、立憲民主党の皆さんも、そうです。立憲民主党は、自民党が存在して、初めて存在する政党なのです。自民党を「ああでもない、こうでもない」と言っている時は、とても生き生きとしています。これでは、余りにも寂しいと思います。まるで、昼のメロドラマによくある、「嫌いだけど、好き」という愛憎ドラマみたいです。
この自民党を中心に世界を回すやり方は、そろそろ、やめるべきだと思います。
国民も、既存の政党しか選択肢がないという状況は終わりにすべきだと思います。

少し、個別に感想を書きます。
候補者の皆さん、4人とも、見事に勘違いしています。
政権批判は野党の使命だと言います。これだけは譲れないと言います。何様のつもりなのか、不正を糺すと言います。
野党に、そんな使命はありません。それ、勘違いです。
皆さんの使命は、誰かを非難することではなく、法律を作ることです。
政権をチェックしたいのであれば、そのシステムを作る法律を作ればいいのです。
一例を挙げてみましょう。
本気で、選挙制度改革の法案を、議員定数の廃止と白票の有効票化のような制度を、最初から国会に提出するのではなく、国民に提示し、国民世論を味方につけて、国会での議論を要求してみたら、どうなるでしょう。立憲民主党の皆さんは「国民と向き合う」と言います。国民の賛同があれば、自民党も審議拒否は出来ません。これが、「国民と向き合う」ということなのではないでしょうか。もちろん、多数決ですから、法案は成立しません。でも、国民は、きっと、立憲民主党を応援してくれます。ただし、バラマキ法案は、一時的な効果しか期待できませんので、外してください。
自民党と同じで、立憲民主党の思考も、結果に着目し、結果から始まります。
過去の選挙結果の数字を足し合わせて、「皆でやれば、勝てるじゃん」という発想から野党共闘が生まれています。ただ、選挙の条件は、常に同じわけではありません。特に、この国の国民の皆さんは、時には間違えますが、絶妙な判定を下すのが得意です。しかも、国民は、立憲民主党の皆さんと同じで、口には出しませんが、基本、自民党ファンです。
自民党批判をする時間があるのであれば、その時間を、理念を見つける時間に、システムを構築する時間に、法案を作る時間にすべきです。アンチ自民の人達を当てにせず、立憲民主党が独力で国民の信頼を得なければなりません。

どうすれば、自民党に勝てるのでしょう。
票を数えていたのでは勝てません。
寄って立つ土台を替える必要があります。
自民党と同じ土俵で戦って、勝てると思っているのでしょうか。
新しい土俵を見つけることが、立憲民主党のやることです。
自民党がどんな土俵で戦っているのか、立憲民主党の皆さんは知っているのでしょうか。
結果ばかりに目を向けているのですから、多分、知らないと思います。
自民党の土俵は、民主主義風・王政並立・封建制度という土俵です。匙加減で、どのような統治でもできる制度です。
この制度であれば、「ドブ板選挙」という手法は有効な手法です。利益誘導という武器も使えます。衆議院選挙で、「ドブ板選挙」の底力を見せつけられた立憲民主党の議員は、自分達も「ドブ板選挙」をやらなくてはならないと思っています。これも、結果からの出発です。
簡単に「ドブ板選挙」と言いますが、それほど簡単なことではありません。日々の積み上げが「ドブ板選挙」の土台です。これは、一朝一夕に作れるものではありません。「歴史と伝統」が必要です。自民党出身の小沢一郎や中村喜四郎が、口を酸っぱくして「ドブ板選挙」を推奨しましたが、立憲民主党の議員には出来ませんでした。それが、今年から、にわかに、出来るとは思えません。
立憲民主党の土俵を、立憲民主党独自の手法を、作らなければ、他人の真似をしていたのでは、結果にばかり執着していたのでは、選挙に勝てません。

では、立憲民主党にとっての、新しい土俵とは、何でしょう。
民主主義だと思います。
目の前にあるのに、どうして、民主主義に目を向けないのか不思議です。
立憲民主党の皆さんは、民主主義の定義を、とことん、やったのでしょうか。
「何となく」わかっていると勘違いしているのではないかと思います。
民主国家の、国家とは、何でしょうか。国民とは、何でしょう。
私達の国の、そして、私達国民の、目的は何ですか。
国の責務は、国民の責務は、何ですか。
その「答」が見つかれば、システムも法案も簡単に作れるはずです。
立憲民主党の皆さんは、口を開くと「国民のため」「国民に寄り添って」と言いますが、それが「口先番長」の戯言にしか聞こえないのです。
なぜ、戯言にしか聞こえないのか。なぜ、国民から信用されないのか。
それは、言葉の定義をしていないからです。
だから、上っ面の言葉にしか聞こえないのです。
なぜ、立憲民主党が国民のために働くのかという「理」を、国民に伝えなければ、国民の心には届きません。多分、立憲民主党の議員の方も、その「理」が分かっていないのだろうと思います。立憲民主党の皆さんも、民主主義もどきの思考しか持っていないのです。
民主主義を定義し、「国とは、国民とは」という定義をすれば、国民生活を守る本物の集団になれるはずです。

4人の候補者は、安全保障に関しては、ほとんど、語りませんでした。
どうして、こんな重要な課題の答を持っていないのでしょう。
口を開けば、安保法制の改定や辺野古の工事中止です。これでは、共産党の支部です。アメリカと対等な交渉をする、と言います。その能天気ぶりには驚かされます。世界情勢なんて、「俺には関係ねぇ」と言っているようなものです。2027年までに、中国は台湾に侵攻すると言う方が増えています。アメリカ議会では、台中戦争が始まる前に、在日米軍基地にミサイル攻撃が始まるという報告書が議論されています。立憲民主党は、どうやって、中国のミサイルから国民の生命と財産を守るつもりなのでしょう。立憲民主党は「国民の命は、何よりも重い」と言っていたはずです。安全保障政策で必要なのは、理想論やイデオロギーやお花畑理論ではありません。現実的な対処方法です。辺野古の工事を停止したら、国民の命を守れるのですか。他国の善意を信じていていいのですか。
隣国であるロシア、中国、北朝鮮、韓国は、ミサイル能力の向上に余念がありません。日本は神の国だからミサイルは飛んでこないと信じているのでしょうか。
もしも、他国のミサイルで国民が犠牲になったら、誰が、責任を取ってくれるのですか。責任を取れる人は一人もいないと思います。
立憲民主党は、国民生活を守ることが最大の任務だとは思っていないのです。
国民は、馬鹿ではありません。中国の武力を「ヤバイ」と思っています。そんな国民を、お花畑理論で説得できると思っているのでしょうか。自分の生命と財産を守ってもらえないことがわかれば、たとえアンチ自民党の人でも、自民党を支持してしまうと思います。
現実的な安全保障を考えない政党が国民から信頼されることはありません。

立憲民主党は、不思議なことに、護憲の立場を取っています。
多くの方が知っていますが、自由民主党という党名にある「民主」は偽物です。
立憲民主党の「民主」も偽物なのですか。
民主主義を標榜する政党なのに、民主国家の憲法ではない憲法を守っているのです。
皆さんが守っているのは、民主主義風王政並立封建制度の憲法です。
いや、そのことにすら、気付いていません。
憲法の1丁目1番地に天皇条項がある憲法が、民主国家の憲法なのですか。
民主国家であれば、最初に宣言しなければならないのは、国民主権です。
どうしても、戦争放棄をしたいのであれば、それも憲法にすればいいのです。
今の憲法は、他国の善意を前提とした、「何でも有り」の、お伽の国の、民主主義風王政並立封建制度の憲法です。立憲民主党の皆さんも非難していましたが、解釈で、どうにでもなる憲法です。これでは、国民生活を守ることが最優先事項にはなりません。
「国民のため」「国民に寄り添って」と言うのであれば、立憲民主党が率先して憲法を変えなくてはなりません。でも、立憲民主党は「ああでもない、こうでもない」と言って、憲法改正をさせないようにしています。自民党を中心にして世界を回しているから、「自民党案ありき」になってしまうのです。部分的な改憲ではなく、ゼロから新憲法を作ればいいのです。立憲民主党が最大の改憲勢力になるためには、独自の憲法草案を作り、国民の賛同を得る必要があります。そのためには、民主主義の定義が必要です。

現実は、どの政党も、民主主義風王政並立封建制度に、どっぷりと浸かっているということだと思います。
それは、自民党の土俵で戦い、それに勝たねばならないということです。
どうして、こんな不利な戦いをするのでしょう。
多分、風さえ吹けば、何とかなると思っているのでしょう。
自民党が政権運営に失敗することを、ひたすら、じっと、待っているのが、今の立憲民主党です。だから、最優先で、自民党の粗探しに奔走するしかないのです。
過去に、民主党政権が誕生してしまったことが、野党を思考停止に追い込んだのだと思います。あの民主党政権誕生は、慢心した自民党に国民がお灸をすえたから出来たのです。民主党の力で政権が取れたのではありません。あくまでも、主人公は自民党だったのです。
かつての民主党政権が誕生したことが悪魔の微笑みであったように、10月の衆議院選挙で、立憲民主党が小選挙区で9議席増やしたという結果も、私には、悪魔の微笑みに見えます。来年の参議院選挙でも、悪魔は、それなりに微笑んでくれるかもしれませんが、この先、立憲民主党が政権を取ることはないと思います。それは、共産党の協力なしには選挙に勝てない構図を作ってしまったからです。国民は、共産主義は選びません。
ただ、政権交代だけが目標なのであれば、「後は野となれ山となれ」でいいのであれば、目標は達成できるかもしれません。棚から牡丹餅は、あります。
今は、都合よく「国力衰退」が進んでいる時です。その「国力衰退」を利用すれば、いや、加速させれば、政権交代は可能です。
「国力衰退」の時代だということは、貧困層が増加する時代です。相対的貧困層が絶対的な貧困層へと移行する時期でもあります。だとすると、「もう、共産主義でも、いいや」という国民が多くなるということです。立憲共産党は、実現可能なのです。
本末転倒ですが、政権交代が最終目標なのであれば、国を壊せば、政権は手に入ります。
国民の皆さん。こんな政党、必要なんですか。
もちろん、自民党も要りません。他の政党も不要です。私達には、本気で国民生活を守ってくれる政党が、必要なのです。

ま、既存の政党に国家運営を丸投げしていれば、国家崩壊までの時間の勝負に過ぎませんので、どちらに転んでも、国民はドツボにはまります。
責任を取るのは、国民の皆さんです。
国家運営をするのが、自民党だろうと、立憲民主党だろうと、共産党だろうと、国民にとっては同じです。何党が政権を取っても、国民がドツボにはまることは約束されているのです。確かに、自民党は変わらねばなりません。立憲民主党も変わらねばなりません。
しかし、一番変わらなければならないのは、国民なのです。
なぜなら、責任を取らされるのは、国民だからです。
ベネズエラで、北朝鮮で、アフリカの多くの国で、苦しんでいるのは誰ですか。
国民です。
これが、人間社会の原則なのです。


2021-12-06



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従順と服従の結末は [評論]



岸田政権の経済政策が、少しずつ明らかになってきました。
まだ、「新しい資本主義」が何を意味するのかは、私にはわかりませんが、深読みをするのではなく、「デフレ脱却」と同じで、自民党が得意とするスローガンに過ぎず、意味はないと思ったほうがいのかもしれません。NHKが世界の経済学者や各分野の専門家を集め、資本主義の終焉について議論したことがありますが、資本主義の未来像は見えなかったと記憶しています。日本の一政治家が、その未来像を見つけたのであれば、世界的な大発見になると思いますが、そういう視点での評価は聞いたことがありません。ご本人も、理論立てて説明できないのだとすると、多分、間違いなく、ただのスローガンだと思います。岸田政権が終わった後でも、「結局、あの新しい資本主義って、何だったの」と言われるのではないかと思います。
経済政策については、各省庁に、「予算をつけてやるから、何でも持ってこい」と言ったかどうは知りませんが、毎度、同じことをやっているように見えますが、これで活路が開けると思っている方はいないのではないでしょうか。
「皆さんの話を聞くのが、私、得意なのです」と総理は自慢しています。
だから、いっそ、「全部、政策にしてしまえ」と思ったのでしょうか。
どうも、よくわかりません。
自民党という政党が賞味期限を過ぎているという認識を持っている人はいないのでしょうか。個人的には、新しい資本主義ではなく、新しい政治集団を、新しい文化の創設を、と願います。政策は、基本理念次第だと思いますので、瀕死の状態のこの国を立ち直らせたいのであれば、必要になるのは、新しい文化なのではないかと思います。もう、この国の現状は、小手先や口先で、「何とかなる」状況ではないと思います。
岸田政権の経済政策は、総花式政策とか曖昧政策と呼ぶことが正しいのかもしれません。中には、選挙で協力してくれた公明党への返礼だと言う人もいます。
多分、岸田さんは、とても「いい人」なのだと思います。
ただ、曖昧、ぺこぺこ、揉み手、八方美人という総理のお人柄が出ているようで、とても心配です。曖昧がこの国を衰退させているのに、その曖昧を更に進めようとしている姿勢は、敗戦に向かっていた、かつての日本の様子と似ているように思えます。人間は追い詰められると、何故か、悪しき方向へと進んでしまうという習性を持っています。いよいよ、最貧国になる日が間近に迫っているということなのかもしれません。
岸田総理は、自慢げに語っていますが、「これなら、期待が持てそうだ」と評価する人はいないようです。著名なエコノミストの皆さんは、「お上」との関係もあり、奥歯に物の挟まったような表現をしています。もろ手を挙げて賛成していないということは、「期待が持てない」と言っているように聞こえます。外資系のメディアは、はっきりと「期待が持てない」と言っています。岸田政権が短命で終わるのではないかという予測さえ出ています。
資源価格の高騰と円安の影響もあり、10月の貿易収支は670億円の赤字になり、3カ月連続で赤字です。1ドル115円が、たかが数円の円安が、円安とは思えませんが、円安の影響があるのだとすると、数百円、数千円の円安になれば何が起きるのでしょう。その時点で、日本は破綻するのではないでしょうか。石油関連の価格高騰だけではなく、食料品も、その他諸々も、高騰しています。10月の企業物価指数は8%上昇しましたが、消費者物価指数は0.1%の上昇です。これは、企業が8%の収益を悪化させているということです。企業は人件費の削減を更に進めなくてはなりません。それでも採算が取れなければ販売価格を上げなければなりません。岸田政権の「賃金上昇」政策の真逆の現象が起きているのです。11月にスタグフレーション(stagflation)の文章を書きましたが、その危険もないとは言えません。
岸田政権の目玉政策と言われる、看護師、介護士、保育士の公的賃金の引き上げは人材確保に苦労している業界にとって、有難いことです。ただ、公的賃金は一般の賃金よりも低いと言われていますので、今後も、継続的に賃上げが必要になります。そんなことが、岸田政権にできるのでしょうか。単発で終われば、人気取りのバラマキ政策になってしまいます。
確かに、公的賃金の引き上げは必要な政策なのだと思いますが、ただ、それを吸収するのは国力であり、国民力です。公的賃金と言われているように、公的賃金の財源は社会保険料と税金です。公的賃金の引き上げは、税や社会保険料の負担増を意味します。国民の皆さんは、耐えられるのでしょうか。政治生命をかけて、公的賃金を、税や社会保険料を、継続して上昇させていけるのでしょうか。給与明細書の社会保険料の金額を見て「うーん」と言っている皆さん、大丈夫ですか。公的賃金は、皆さんの保険料で支えられているのです。
公的賃金の上昇を阻害する要因は、税や社会保険料だけではありません。
政府が宣伝する公的賃金の引き上げが、実質的な従業員の賃上げにつながる保証はありません。現在も、賃金に充当する目的で配られている補助金がありますが、賃金に充当されている金額は半分以下だと言われています。補助金でも保険料による収入でも、企業の収入を配分する権利は、企業にあります。賃金に反映するかどうかはわかりません。
長期計画に自信を持っている企業は、非常に少ないと思います。何が起きるかわからないと思っている経営者は多いと思います。先が見通せなければ、どの業種の企業でも、賃金の上昇には消極的にならざるを得ません。企業にとっては、生き残ることが最優先課題です。
意味不明な「新しい資本主義」が、国民の可処分所得の減少トレンドを反転させることができるのか、とても疑問に思っています。
もちろん、コロナで傷を負った業界は、まだまだ、癒えていません。
いろいろな悪条件が揃っている日本で、始まったばかりの岸田政権の経済対策が評価されていないということは、日本の明るい未来は見えないということだと思います。
ただ、一部の公費喰いの皆さんの中には、喜んだ人は大勢いると思います。
「おい、予算を食いに行こうぜ。俺は、10億くらい食えそうだ」という人達が、プロジェクトを立ち上げているのではないかと思います。

自民党は、過去30年、「成長」を言い続けてきました。
では、日本経済は成長しましたか。
いいえ、ずるずると衰退しただけです。
岸田政権も、世論に迎合し「分配」という文字を入れましたが、スローガンは「成長と分配」です。「分配」が先行していますが、「成長」が先だと言っています。「あれっ」
普通に考えれば、「成長」が必要なことくらい小学生でもわかります。立憲の枝野さんは、「分配」が先だと言って信用されませんでした。幼稚園児であれば「はーい。先生」と言ってくれたかもしれませんが、選挙権を持つ有権者には通用しませんでした。
「成長」が必要なことは、誰にでもわかることですが、実現は簡単ではありません。
スローガンだけで、カネをばら撒くだけで、「成長」できるのであれば誰も苦労しません。
総理大臣が変わる度に、口先で「成長」を言い続け、大金をばら撒いてきましたが、30年間成長しませんでした。これが現実です。
また、同じことをやろうとしているのです。
今回も、財政無視というコロナ風潮を利用し、総理も「カネに糸目をつけずに大盤振る舞いをします」と自慢しています。事業規模で80兆円、財政支出50兆円の大規模補正予算を組むと豪語しています。
しかし、間違いなく、借金を積み上げるだけの政策になると思います。
これまでも、こうやって、日本の借金は増えてきたのです。
経済政策だ、国民のためだ、と言いながら、一部の人達の懐を温めてきたのです。
大学でも億単位の裏金が動くのです。国家規模ですから、百万円単位ではなく、その支出金額は、百億円や一千億円ですから、1%の裏金でも巨額のカネになります。
これが出来るから、政治家はやめられないのかもしれません。
この歳になって後悔しても始まりませんが、政治家を目指していればと思うこともあります。もっとも、「大人の対応」が下手な私には無理だと思いますが。

岸田政権の政府高官は、「成長は、イノベーションです」と言います。
言っていることは間違っていません。
間違っているのは、やっていることです。
誰が、イノベーションを起こすのですか。
イノベーションを起こすのは、政治家ではなく、国民です。
では、国民は、イノベーションを起こす意思を持っているのでしょうか。
政治家が「イノベーションを起こしてください」と言って、国民は「了解しました」と言うのでしょうか。
いいえ。国民は、「俺には関係ねぇ」と言っています。
しかも、国家の経済を成長させるようなイノベーションは、1人や2人のイノベーションでは足りません。数百万人、数千万人の国民がイノベーションに挑戦する必要があります。
今、やらなければならないのは、国民の意識を変えることです。
国民意識を変えずにカネをばら撒いても無駄金になるだけです。いや、一部の利権集団が甘い汁を吸うだけです。
国がやらねばならないことは、「俺には関係ねぇ」と言っている国民意識を変えることなのです。中身のないスローガンでも、カネをばら撒くことでも、ありません。
経済成長は、国民が生み出すという原則を無視して、成長することはありません。
しかも、残念ながら、この国に、国民はいません。この国に住んでいる人は、皆、「下々」なのです。「お上」に逆らわない従順な「下々」であり、「いい人」の集まりなのです。「下々」は、「いい人」は、消極的に「お上」に従うだけで、「ふむ、ふむ」と頷くだけで、「お上」が口先で「イノベーションだ」と言っても、自分から能動的にイノベーションを起こしたりしません。国民は、美味しい果実が、空腹を満たす牡丹餅が、棚から落ちてくるのを待っているのです。良き事も悪しき事も、ただ、受け入れるだけです。
それでも、戦後の混乱期に、奇跡のように、国民がイノベーションに挑戦した時期がありました。あの数十年は、奇跡としか思えません。あの頃は、ほんとに、多くの国民が新しいことに挑戦し、それを経済成長につなげました。多分、戦争に敗れ、全てを失い、「下々」という意識も一時的に失っていた時代なのだと思います。2000年の歴史の中でも、稀有な時代だったのではないかと思います。
日本人は、イノベーションを起こす能力がないのではありません。
その気になれば、奇跡だって起こす人達なのです。
国民を「下々」のままにしておくのは、国益に反します。
先ず、やらなければならないことは、「下々」を「国民」に変えることです。

衆議院選挙で躍進した維新が、得意気に「身を切る改革」と言っています。
議員報酬を、官僚の報酬を、下げたら、イノベーションが起きて、この国は何とかなるのでしょうか。
そんな奇跡は起きません。
維新は、大阪で、10年間、「身を切る改革」をやってきましたが、大阪は日本のシリコンバレーになったのですか。世界をリードする企業が生まれたのですか。
破綻寸前だった地方財政が、持ち堪えただけです。
もちろん、やらないよりは、やったほうがいいです。
でも、それで、国家経済が成長するわけではありません。
「身を切る改革」程度では、国は変わらないのです。

私達の国に必要なのは、文化を変えることです。
改善や改革では文化は変わりません。
革命に匹敵するような行動がなければ、文化は変わりません。
「下々」を「国民」にするためには、曖昧文化を基盤とした「お上」と「下々」という、裏の統治機構を変えなければ、何も変わらないのです。
曖昧文化に立脚した民主主義風王政並立封建制度をやめて、民主国家にならねばなりません。それは、「言葉の定義」をする文化を導入するということです。
国は、国民に働きかけて、「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義をするように誘導しなければなりません。
教育現場で、国会で、選挙で、討論会で、公報で、いや、メディア戦略等のあらゆる手段を駆使して、国民が「言葉の定義」をするように促さなければなりません。
魔法のような成長戦略なんて存在しません。
成長は、多くの国民がコツコツと積み上げるしかないのです。
1人の力で何とかなるイノベーションもあるのでしょうが、多くの人の力が集まって生まれるイノベーションもあると思います。日本人には、後者の方が似合います。
時間はかかりますが、今は「下々」でも、いつか、その「下々」が自分の責務を果たす「国民」になるしか方法はないと思います。
そして、これは、貧困化が進む国民が救われる方法でもあります。

もちろん、「言葉の定義」なんてしてしまえば、既得権益者は大損をすることになります。
今は、「先生」と呼ばれている国会議員は、ただの外注先の一社員になってしまいます。当然、歳費も文書交通費も政党助成金も見直されます。支援団体との馴れ合いによる補助金行政がなくなれば、政治資金パーティーに参加してくれる人もいなくなります。自分の政党の支持者の声だけを聴いていたのでは、政権交代になります。
「言葉の定義」から生まれた、目的と責務が、国の土台になれば、「お上」という存在はなくなりますし、美味しい蜜の部分もなくなります。「自分さえよければ」「今さえよければ」が通用しなくなると、既得権益者の利益は破壊されます。
しかし、「子供達の未来のため」が、国と国民の目的になれば、美味しい蜜は諦めてもらうしかありません。もしも、本気で、この国を立て直したいと思っているのであれば、一部の人達の美味しい蜜は度外視できるはずです。
なんてことは、理想論にすぎません。
当たり前のことですが、現体制で利益を得ている既得権益者が革命なんて起こしません。
「お上」が「お上」を否定することなんてないのです。
革命は、現体制で冷や飯を食っている人が起こすのです。
この国で冷や飯を食っているのは誰でしょう。
どんどん貧しくなっている国民です。
だったら、国民が、この国を変えようとしなければ、この国は変わらないということです。
しかし、この国の国民は、皆さん、「下々」ですから、「お上」のご下命がなければ動くことはありません。
「お上」は何もしない。
「下々」は何も出来ない。
だとすると、このままのトレンドが続くということです。
ご愁傷様と言うしかありません。
「従順」と「服従」の結末を、どうぞ、味わってください。
かなり、エグイ味だと思いますが。


2021-12-05



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三枝成彰氏の提言に反論 [評論]



今日は、作曲家の三枝成彰氏の文章に反論しますが、これは個人攻撃ではありません。
いや、三枝氏の提言は、孤立無援の私にとっては、唯一の同志と言ってもいいと思います。三枝氏は、この国の現状を危機と捉えていますし、その原因は国民にあると思っています。こんな方は、この国では珍しいです。
それでも、敢えて、三枝氏の提言から、見えていないものを見てみたいと思います。


三枝成彰氏
私は、自民党が勝った最大の原因は、国民の多くが現状に満足しているからだと思う。
日本人は自ら変わることを欲せず、内紛や外圧によってしか変われない体質だ。
昔から「変革」や「革命」を唱えるのが大好きだが、実際に行ったためしがない。
大化の改新(仏教伝来)や明治維新(ペリーの黒船)も、外国からの刺激によって体制が変わっただけだ。
時に百姓一揆や米騒動などはあっても、真の「下克上」は起きなかった。
フランス革命のように、圧政に苦しむ民衆が政府を転覆させたことがないのだ。
国民が総じておとなしく、政治に文句を言わない日本は、ある意味で「いい国」と言えるのかもしれない。
これほど為政者にとって御しやすい国民もそうそういないだろう。
だが、現実を見てほしい。「今の生活は豊かで、何の不足もない」と言い切れる人が、この国にいったい何人いるのか?
多くの人が大なり小なり貧しさを抱え、思うに任せぬ暮らしをしているのが現実だ。
しかし、それでも「このままでいい」と考えてしまうのはなぜなのか?
平均所得(約552万円)を下回る世帯は61.1%、貯蓄がない世帯は13.4%。「生活が苦しい」と答えた世帯は54.4%に上る。
日本の貧しさは世界的に見ればさほどでもないのだろう。
しかし、貧しいのは現実だ。
治安が良く物価も安く、一定の住みやすさが保証されているから「変えて悪くなるよりは現状維持でいい」と考えるのだろう。
国民が政治を変える手段は選挙での投票しかない。
が、いざその段になると、日本の有権者はみな二の足を踏む。
保守政権の長期化による政治家や官僚の思考の硬直化は良くないと誰もが分かっているはずなのに、だ。
江戸時代から「世間に対して不平不満を言う者は人間がなっていない」と儒教の影響の下に教え込まれたためだろうか。
そして今回も私たちは、変わるチャンスをまた自らの手で遠のかせた。
16世紀フランスの裁判官エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの「自発的隷従論」に、「悪い政治が成り立つのは、国民が進んでそれを受け入れているからだ」とある。
約500年後の日本にも同じことが起きている。
「流れる水は腐らない」という言葉は、この国ではすっかり忘れられたようだ。
濁った水を再び流れさせるには、政治に物申す国民が必要なのだ。


三枝氏は、この国が危機に直面しているという認識を持っています。
更に、その危機を克服するのは、国民の力だと思っています。
こういう方は、ほんとに、少ないと思います。まさに、慧眼です。
政治家の先生方、学者の先生方には、三枝氏の爪の垢を飲んでほしいです。
つい、「ふむ、ふむ」と頷いてしまいそうです。
それでも、敢えて、批判的な解釈をしてみたいと思います。
三枝さん、ごめんなさい。
三枝氏だけではありませんが、この国の将来を憂いている皆さんの提言や警告は、手遅れだし、具体性に欠けますし、あまりにも表面的に過ぎます。
今、必要なのは、原因の根っ子であり、行動です。
そのために必要になるのが、理念です。
しかし、残念ながら、理念が天から降って来るわけではありません。理念を生み出すための行動も必要になります。行動のメカニズムを見つけなければなりません。
そこには、巨大な壁があります。曖昧という名の文化の壁です。
私は、行動原理(メカニズム)を見つけていませんので、大きなことは言えませんが、皆さんは、行動原理が必要だということに、まだ、気付いていません。
10年前であれば、三枝氏が主張する内容でよかったと思うのですが、「国力衰退」がここまで進行すると、このような一般論では間に合わない時代になってしまいました。

《 自民党が勝った最大の原因は国民の多くが現状に満足しているからだと思う 》
そうではありません。
国民の皆さんは、自分で、能動的に動くという習慣を持っていませんので、どうすればいいのか、途方に暮れているのです。為す術を知らないために、あたかも、現状に満足しているように見えるのです。決して、満足しているわけではありません。
もちろん、この国を壊しているのは、何もしない国民です。その点では、三枝氏の指摘は正しいと思います。
どうして、こんなことになるのでしょう。
三枝さんの精神は開放されているのでしょうが、国民の皆さんは、今でも、自分は「下々」だと固く信じているのです。「お上」には逆らいません。

《 昔から「変革」や「革命」を唱えるのが大好きだが、実際に行ったためしがない 》
その通りだと思います。
では、なぜ、《 実際に行ったためしがない 》のでしょうか。
結果ではなく、原因を見てください。
日本は、曖昧文化という土壌の上にあるからです。文化を抜きに日本の歴史は語れません。
日本人も、変革や革命が必要だということは理解しています。
でも、理解していることと、実行することは、別物です。
実行するためには、確固たる根拠が必要になります。
しかし、曖昧文化の下では、この根拠は得られません。
なぜなら、あれも正しいし、これも正しいからです。
この国には、確固たる目的と責務が存在していません。
何でも正しいのです。いや、何でも正しくて、何でも正しくないのです。ですから、「お上」が恣意的に決めることが可能なのです。「下々」は、その「お上」の判断に疑問を感じていても、「お上」を信じるのです。それが「下々」の責務だと思っているからです。
民主主義における目的と責務、天皇制での目的と責務、封建制度での目的と責務は、同じものではありません。しかし、この国は、民主主義風王政並立封建制度で統治されているので、民主主義も天皇制も封建制度も、全部、正しいのです。しかも、天皇制と封建制のほうが、民主制よりも圧倒的に長く続いているのです。いや、日本の民主主義は、風味に過ぎませんので、民主制になったことは、一度もありません。
ですから、この国では、変革や革命を実行する確たる根拠は得られないのです。
更に、天皇制や封建制では、「お上」に逆らうことは、命を失うことを意味しました。今は、風味だけですが、民主国家という看板を掲げていますので、物理的に命を失うことはありませんが、人によっては社会的生命を失う危険があります。そのような空気が、たっぷりとあるのです。
基本、「下々」が「お上」に逆らうことなんて出来ません。
いや、国民は、そう信じているのです。
だから、行動しないのです。
古い例を見てみましょう。
飢饉で多くの村人の命が守れないと判断した時だけ、数人の命を差し出すことを承知で、百姓は一揆を起こしました。100人の命を守るか、5人の命を捨てるかの選択をしたのです。私達は、2000年間、こういう生き方をしてきたのです。そう簡単には、行動できません。
国民は、とことんまで、我慢することが習性になっているのです。今も、そうです。
しかも、今の民主主義は風味に過ぎませんので、「お上」に逆らうだけの根拠は見つかりません。ほんとは、日本人だって、市民革命をしてもいいのです。しかし、歴史と伝統には勝てません。
つまり、民主主義風王政並立封建制度では、革命は起こせないのです。
それは、目的も責務もなく、革命の根拠が得られないからです。
先ず、民主主義という風味ではなく、本物の民主国家になることが、必要です。
そのためには、曖昧文化ではなく、定義する文化が必要です。
「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義があって、初めて、国民のための行動が起こせるだけの根拠が手に入るのです。
ただ、難しいのは、この「言葉の定義」をするためにも行動が必要だということです。
定義が天から降ってくるわけではありません。国民が、能動的に定義をしなくてはなりません。これも、行動です。曖昧文化の下では、定義をするという行動でさえ起こせないのです。いや、そもそも、曖昧文化の辞書には「定義」という言葉は存在しませんので、考えもしません。
つまり、私達は出口のない場所にいるのです。
国民は、この国が壊れつつあることを知っています。将来、もっと、壊れるであろうことも知っています。しかし、どうすればいいのか、わかりません。壊れている国を、ただ、見ている事しか出来ないと思っています。それが、「下々」の生き方なのです。
そんな「下々」の皆さんでも行動できるメカニズムを見つけなければなりません。三枝氏のような、解放された精神を持っている方には、メカニズムを見つける努力をして欲しいと、切に願います。そして、提言して欲しいです。

《 「変えて悪くなるよりは現状維持でいい」と考えるのだろう 》
それは、違います。
変えれば良くなるという選択肢があるという前提は、通用しません。変えれば悪くなるのがわかっているから、現状維持しか選択肢がないのです。
もちろん、国民が、与えられた選択肢しかないと思っていることが、間違いです。
でも、「選択肢がないのであれば、作ってしまおう」という発想はありません。それは、自分達がこの国の「主」だと思っていないからです。
日本人は、能動的な行動をしない人達なのです。いや、能動的な行動を慎むことが大人の対応だと言われてきたのです。国民は、馬鹿ではありません。いや、とても聡明な人達です。ただ、自分達は「下々」だと信じているだけです。奥ゆかしく、「いい人」です。もう、信じ難いほどの「いい人」なのです。未だに、「従順」と「服従」が自分の責務だと信じています。2000年かけて洗脳されているのです。この歴史は伊達ではありません。
「お上」が、度々、歴史と伝統を口にするのは、国民が「下々」であることを忘れて欲しくないからです。

《 国民が政治を変える手段は選挙での投票しかない 》
その通りです。
では、投票する時に、選択肢がない場合は、どうすればいいのですか。
選ぶものがないのに、「選べ」と言われても困ります。
日本国民は、自分で選択肢を創り出すという経験をしたことがありません。「お上」の都合で用意された選択肢から選ぶしかないのです。
選挙制度さえあればいいのではありません。
まず、民主国家になり、目的と責務を明確にし、その目的と責務に合致した選挙のシステムを構築しなければ、選挙をする意味がありません。今の選挙は、ただの儀式です。

《 「悪い政治が成り立つのは、国民が進んでそれを受け入れているからだ」 》
この主張も、少し違うと思います。
この国の国民は「下々」ですから、悪い政治を、「進んで受け入れ」ているわけではありません。「下々」は、「お上」のご下命であれば、「受け入れる」ことが、当たり前だと思っているからです。これは、儒教よりも古い「しきたり」によるものです。
「受け入れている」という結果を問題にするのではなく、なぜ、悪政を受け入れているのかを解明してみてください。
曖昧な空気の中では、「ふむ、ふむ」と頷くか、「俺には関係ねぇ」と拗ねてみせるか、のどちらかしか選択肢がありません。
国民の皆さんは、他の選択肢があるなんて、考えたこともありません。
国民は、今でも、「従順」と「服従」が自分達の責務だと信じています。
歴史と伝統は、それほど強力なのです。

《 濁った水を再び流れさせるには、政治に物申す国民が必要なのだ 》
うーん。
確かに、水は濁っていますが、人間社会に清流などというものは存在しませんし、どんなに頑張っても清流になることはありません。
また、政治は、簡単には国民の声を聞きません。
政治が、国民の声を聞くのは、国民の声を聞かなければ自分達の利益を損なうと判断した時だけです。それは、一票を失う危険がある時に限られているのです。
だとすると、多くの国民が、物申すための、同じ根拠を手に入れる必要があります。
そのためには、国の目的と責務を明確にする必要があります。
先ず、民主国家にならなければなりません。言葉の定義をしなければなりません。
天皇や征夷代将軍やその名を騙る「お上」が「主」ではなく、国民が「主」であることを、国民が認識することから始める必要があります。国民が、「お上」と「下々」という縛りから解放される必要があると思います。
そのためには、国民が自ら、「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義から始める必要があるのです。
もちろん、これが至難の業です。
でも、この難関を越えなければ、何も始まりません。
いつの日か、「言葉の定義」に気付いてくれる人も出てくると思います。いや、そうあって欲しいと願っています。

三枝氏の提言に反論することで見えてきたのは、曖昧文化であり、目に見えない「お上」と「下々」という統治システムであり、国民を支配する歴史と伝統です。この巨大な障壁に立ち向かえるのは、文化しかないと思います。
出発点は、「定義する」という文化を作ることです。
「曖昧文化」は強力です。曖昧文化を批判している私でも、自分では気づいていませんが、曖昧文化に支配されている部分が多々あると思っています。
でも、今の私達に必要なのは「定義する文化」だと思います。
こんな発想は、どこにもありません。
「言葉の定義」をするという行動が必要なのですが、誰も、行動しません。
これでは、何も変わりません。
三枝氏の提言に、「ああだ」「こうだ」とイチャモンをつけましたが、行動メカニズムを見つけることが出来ていない私の提言も、絵に描いた餅に過ぎないということだと思います。ほんとに、残念なことです。


2021-12-04



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価値基準をもう一歩先に [評論]



新宿駅前で、一部の若者のグループが「石炭火力発電の中止」を訴える呼びかけをした、というニュースがありました。
私達、日本国民にとっての最重要課題は、地球温暖化対策なのでしょうか。
どなたも声には出さないと思いますが、違う、と思います。
これは、COP26で石炭火力発電が議題になった影響だと思います。
では、一般市民が集まり、「そうだ、そうだ」と連呼したのでしょうか。
いいえ、1000人中999人は「俺には関係ねぇ」と通り過ぎたと思います。
問題意識を持った若者の行動は称賛します。
しかし、後進国の仲間入りをしようとしている日本では、一般市民の共感は得られません。
極端な言い方をすれば、スーダンで「地球温暖化対策」を求めるようなものです。
一般市民は、「いつまでも楽にならない生活を何とかして欲しい」と思っています。
これは、スーダンでも日本でも同じです。
この国の国民にとって、「石炭火力発電の中止」や「地球温暖化対策」は、自分の問題ではありません。
彼等は「命を優先しろというシンプルな問題です」と訴えましたが、地球温暖化で命が脅かされる前に、貧困で命が脅かされる日がやって来ることを、一般市民は知っています。
今のところ、地球温暖化問題は、生活に余裕のある人たちの問題でしかありません。この問題を牽引しているのが欧州であることも、その事を裏付けています。かつて、難民問題で揺れていた欧州では、ボートピープルの難民の子供の死を映像で見せられ、人道が前面に出たことがあります。しかし、受け入れた難民が事件を起こしたことで、人道が引っ込みました。自分の身に危害が及ばない範囲でしか、人道は機能しません。欧州の人達が悪いのではありません。人間とは、そういう生き物なのです。生活の中での問題と、余裕の中の問題は別物なのです。
中豪貿易摩擦で石炭が不足した中国が、電力供給に支障を来しているだけではなく、石炭を原料とする尿素水の輸出を制限しました。その結果、7割以上、中国産尿素水に頼っていた韓国が大混乱しました。韓国ではディーゼル車が多く、尿素水が必需品だったからです。
ディーゼル車にはSCR(排ガス浄化技術)という技術が使われています。そのSCRを稼働させるためには尿素水が必要なのです。今後、どのような展開が待っているのかはわかりませんが、SCRを遮断し、CO2を排出しようという案も出ています。CO2削減の世界世論に逆らいますが、生活防衛のためなら止むを得ないという考え方です。物流を麻痺させてでも、CO2を削減するというのは国民の同意が得られません。韓国の例でも見られるように、生活の中での問題と、余裕の中の問題は別物なのです。
もちろん、地球温暖化問題なんて無視しろとは言いません。
でも、私には、「地球温暖化対策」は無謀な試みにしか見えません。例えば、富士山麓に住んでいる蟻が、富士山を貫通する通路を作って餌を確保しようと試みているように見えます。自然は、余りにも巨大です。しかし、人間には、どうすることもできません。CO2排出を減らしたら、温暖化が止まるという保障もありません。だからと言って、何もしなくてもいいとは言いません。余裕の範囲内で、できることはすべきだと思います。それでも、自然には勝てません。温暖化が進み、地球上に人類が住めなくなる日がやって来るかもしれません。多分、人間がどう足掻こうとも、地球は変化します。人類は、それを宿命として受け入れるしかないのではないでしょうか。
私達がやらねばならないことは、他に山ほどあります。
「地球温暖化対策」の前に、国を立て直しませんか、という問題だと思います。
COP26に出席した岸田総理は、100億ドルの支援金を出すと表明しました。既に600億ドルを支援すると約束していますので、合計で700億ドルの支援です。700億ドルは、約7兆円です。先進国としての責務だと言われれば、仕方のないことですが、日本は、もう、先進国ではありません。日本は、満足に食事も摂れない児童が山のようにいる国です。給食制度の拡充と無償化をしなければならない国です。狭量だと批判されても、自国の国民を助けるほうが先だと思います。
いや、そうではありません。
700億ドルの支援金を出せる国にならなければならないのではないでしょうか。
日本の総理大臣が海外へ行くと、例外なく支援金を出します。
総理大臣が海外でバラ撒いているカネは、総理大臣の資産から出しているのではなく、全て、税金です。皆さんが納めた税金です。
しかも、国内にカネはなく、火の車で、世界に類を見ない借金王です。
こんな国家運営をやっていて、いいのですか。
昭和後期の豊かな日本の真似をしていて、いいのですか。
私達は、総理大臣を筆頭に昭和から抜け出せていません。
国力が衰退し、年々、貧困層の国民が増えている国です。
国が、国民生活を守っていない国です。
国民の皆さんは、どうして、平然としているのでしょう。
理解に苦しみます。
先ず、自国を豊かにしましょうよ。その上で、貧しい国々を助けましょうよ。
自民党はトリクルダウンを推奨している政党です。大企業を豊かにすることが目的の政党です。その理念は、どこへ行ってしまったのですか。
理屈に合わないことばかりが横行しています。
その根っ子にあるのは、理念の欠如であり、「国力衰退」です。

話題は変わります。
作家の真山仁氏とジャーナリストの河合雅司氏の対談が、「衰退する日本」を心配する対談が、週刊朝日に載っていたそうです。私は、新聞も週刊誌も読みませんので、ネットの記事で読みました。「衰退する日本」をテーマにした珍しい記事です。
真山仁氏は「ハゲタカ」で有名になった作家です。河合雅司氏も「未来の年表」という人口問題を書いた本で有名になりました。
両氏は、国力が衰退した要因を列挙し、警鐘を鳴らしています。
その一部を抜粋してみます。

「昭和の後始末もできず、いたずらに費やされた30年だったと思います」
「戦後の高度経済成長の余勢を駆って進んでしまった」
「バブルがはじけて経済がおかしくなった時も、見て見ぬふりをしました」
「日本型経営モデルが崩れることは決まっていたのに、ほとんどの日本企業が対応しなかった」
「結果として我々より少し下の世代で非正規雇用が増え、正社員でも昇給しにくくなってしまった。いわゆる就職氷河期世代ですが、その時、我々の世代はもっと声を上げなきゃいけなかった。[気の毒に]と他人事のように過ごしてしまった」
「過渡期を見過ごしてきたツケを今払わされています。この30年、企業は、株価を上げることしか頭になくて、壊してはいけないものを壊してしまった。残念なのは、[それ、おかしくないですか]と声を上げる人を、日本社会は大事にしないんです」
「経営者は目先の利益を確保することしか考えていないし、政治家は次の選挙に当選することばかりを気にかけている。どうしたら自分だけ損をしないで得するかが価値基準になったような社会は、いつか破綻(はたん)します」
「現状を肯定するだけでは、想像力は湧き上がってこないんです」
「失敗しないことにこの30年を費やしてきたために、失敗を乗り越えて出てくるはずの天才が突出する可能性をつぶしてしまいました」
「若者はすごく冷静に見ていますよね。おかしいことをおかしいと言わない大人を見て冷めていく」
「学生には[こんな日本でがんばる意味があるのか]と言われてしまいます」
「昔は[非常識]と呼ばれていた“常識破り”が常識になっている状況を認め、その呪縛を解かなければならない時が来ていると思います」
「イギリスは議会制民主主義で小選挙区制です。イギリスの有権者は、自分たちが選んだ議員が地元の活動にかまけていると怒るんですよ。[国のためにがんばれ、国会議員だろう]って。選挙で投票して終わりではなく、当選した議員が国をよくするための政治活動をしているかどうかチェックしている。ところが日本では、政治はお上(かみ)がやるものという考えが根強く、この人に投票したら未来の政治がどうなるかという想像力を持って選ぶ人は少ない。好青年だから投票してあげようという態度で臨みがちです」
「過去の成功パターンを踏襲することにどれほどの意味があるでしょうか」
「立ち止まる勇気が必要です」
「うまくいかなかった事象をきちんと検証して、未来に備えることができるかどうか。済んだことは振り返りたくない、きれいごとは聞きたくないと耳をふさいでいる人たちにも届くよう」


「国力衰退」を正面から捉えていることも、的確な個々の要因分析も拝読する価値のあるものだと思います。
ただ、「価値基準」に気付いているのに、どうして、「言葉の定義」を提唱しないのか、そこが不思議です。両氏が心配している事象の根っ子にあるのは、「価値基準」です。「価値基準」という言葉を使っているのですから、そこに課題があることには気付いているようですが、まだ、漠然とした「価値基準」しか念頭にないように見えます。価値基準の構築に必要なのは、目的と責務だと思いますが、そのことに気付いていません。両氏以外の専門家の先生方の中にも、「価値基準」に気付いている方はいます。しかし、皆さん、そこで「回れ右」をしてしまいます。もう一歩踏み込めば、「言葉の定義」に気付くのでしょうが、とても、残念です。
しかし、問題提起と問題分析と現状認識を示して、警鐘を鳴らしても、誰も行動しなければ意味がありません。
行動が伴わなければ、何を言っても無駄です。
どうすれば、行動に移せるのか、私も見つけていませんが、そのメカニズムを見つけなければ、無駄になってしまうのです。
両氏の問題提起は、誰もが知っていることですから、多くの方が「ふむ、ふむ」と頷くと思いますが、頷くだけです。
それは、問題提起に終始し、具体的な行動指針がないからです。
では、行動指針があれば、国民は行動してくれるのかと言うと、それだけでは、行動を生み出せません。
それは、具体的な行動指針(言葉の定義)を提案している私の提案でも、「ふむ、ふむ」で終ってしまうことを見れば明らかです。
もっとも、週刊朝日と私のブログは比較にもなりませんが、国民の皆さんの心に届くような仕掛けがあれば、発信者の大小は関係ないものと思います。私にも、その仕掛けが見えていないから、国民の皆さんの行動は起きないのです。
この国の国民の皆さんは、自分で、無意識に、自分は「下々」だと思っていますので、自発的に動くことはしません。どうすれば国民が行動してくれるのか、そのメカニズムを見つけなければ、どんなことを提案しても、猫に小判なのです。
ほんとに、難しいです。
真山仁氏も河合雅司氏も、個人の利益のために問題提起をしているのではありません。言葉にはなっていませんが「子供達の未来を守りたい」という意識は感じられます。
このような問題提起や意見や対策が、もっともっと、多くの人達から発信されるようになれば、国民は行動を起こすのでしょうか。いいえ、行動はしないと思います。10年前に比べると、随分増えたと思いますが、国民は、まだ動きません。この先も、多分、いや、間違いなく、行動に移すことはないと思います。
行動メカニズムは、何なのでしょう。
行動がなければ、何も変わりません。
日本社会に、そんな兆しはあるのでしょうか。
皆無だと思います。
ですから、この国が崩壊するのは必然であり、これまでも何度も指摘したように、残り時間がどのくらいあるのかだけが問題なのかもしれません。
とても、残念です。
今日は、真山仁氏と河合雅司氏の主張を紹介しましたが、両氏以外にも、この国の将来を心配している方は、それなりにいると思います。
私が提案する「目的と責務の明確化」も、新しい価値基準を作ることです。
誰も言及しませんが、これが、根っ子だと思います。
両氏が必要だと主張する「価値基準」と私の「価値基準」が同じものではないとしても、両氏は根っ子の近くに来ていると思います。是非、見つけて欲しいと思います。
人口問題、経済問題、政治問題、社会問題、個々の事象の対策を作っても、国は変われません。逆に、価値基準を変えれば、多くの事象が変わります。
必要なのは、手法ではなく、理念だと思います。
いや、理念を生み出すための行動だと思います。
どうすれば、多くの国民の皆さんが「言葉の定義」に挑戦してくれるようになるのか、そのメカニズムを見つけない限り、全てが、無駄であり、崩壊は必然なのです。


2021-12-03



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国民の皆さんの意識次第 [評論]



10月に、白票に関する提案をしました。
もちろん、常識を逸脱した提案であることは承知しています。あのような選挙制度改正が行われる確率は、ゼロだとも書きました。ただ、国民意識を覚醒させる効果と政治に緊張感を持たせる効果はあると思いますので、お勧めします。もっとも、非常識で、大人の対応ができない、「いい人」でもない、変人と言われる私の提案ですから、耳を傾けてくれる人はいないと思いますが、これは、皆さんの利益になることです。
もちろん、国会議員の利益という高いハードルがありますので、実現はしません。
今は、国の利益や国民の利益よりも、国会議員の利益が優先されている時代です。
貧しい国民が増えている国で、国民の外注先でしかない国会議員の年収が数千万円というのは、誰が見ても異常だと思います。しかも、国会議員の年収を支えているのは国民の税金です。年収100万円の国民が支払った消費税が使われているのです。銀座のクラブの「飲み代」を払っているのは、皆さんです。私には、理解できません。
道理よりも無理が通ってしまう国の、国力が衰退するのは必然だと思います。
それでも。
10月の選挙期間中に、白票が話題になったという小さなニュースがありました。
白票が議論の対象になることは、正常な反応だと思います。
それは、多くの方が「俺達には、選択肢がない」と思っているからです。
なぜ、国民は「選択肢がない」と思っているのでしょう。
なぜ、国民は、自分で選択肢を作ろうとしないのでしょう。
それは、表面には出ていませんが、「お上」と「下々」という暗黙の束縛を受けているからです。「下々」は「お上」のご下命が無ければ動けないと信じているのです。
国民にとって、国家運営者が住む世界は、自分達が住む世界とは別の世界だと思っているのです。私は「お上」という言葉をよく使いますが、使っているのは、私だけではありません。「お上」という言葉は、まだ、死語ではないのです。「お上」と「下々」という世界が実在しているから、「お上」という言葉が生き残っているのです。明治以前も、明治から令和までも、この「お上」と「下々」という世界は途切れることなく続いています。私達は、なぜ、外注先の社員に過ぎない国会議員を、「先生」と呼ぶのですか。彼等は「お上」に所属する「お偉い先生方」だと思っているからです。私達は「先生」を選んでいるのですか。それとも、外注先の社員を選んでいるのですか。そんなこと、誰も言いません。私達は、「お上」と「下々」という世界を容認しているのです。そんな「下々」に選択肢なんてありません。
ただ、私達の「下々」意識は強く、選択肢がないのであれば、自分達で選択肢を作ろうという発想はありません。それが、「下々」です。「分相応」という言葉があります。その身分に相応しい対応、という意味です。「下々」に許されているのは、「従順」と「服従」です。行動なんて、もっての外なのです。
「下々」の皆さんがやっている白票の議論には意味がありません。
それは、議論そのものが「お上」と「下々」という常識に縛られた議論だからです。
論点は、「お上」と「下々」を具体化した現行制度の下で、白票に意味があるのかどうか、というものだったのです。
現行制度を前提とした議論では、何も生まれません。
白票は、有権者による、政治に対する、「お上」に対する、不信任票です。しかし、有権者の意思は無効とされるのです。主権者の意思よりも、政治家に必要な得票が優先されているのです。これが、民主主義なのでしょうか。
議論に参加した学者先生は、「なあ、なあ」「まあ、まあ」としか言いません。
皆で、傷を嘗め合って、一件落着です。
与えられた環境の中でしか議論が出来ないのであれば、議論はマスターベーションになるしかありません。
多分、常識に支配されている「下々」は、「ああでもない、こうでもない」と議論することで、納得してしまうのだと思います。ほんとに、「いい人」です。
常識で「何とかなる」のであれば、この国は衰退していなかったと思います。
もう、常識では「何ともならない」状態になっているから、国が衰退しているのです。
現行システムを否定することから始める議論も必要だと思います。
では、白票の議論をした人達は、何か結論は得られたのでしょうか。
結論は「仕方ない」というものです。
ほんと、皆さん、絵に描いたような「いい人」です。
いや、「下々」としては優等生だと思います。
政治家のお偉い先生方に、「どうぞ、お好きにやってください。俺達下々には、権利、ありませんから」と言っているようなものです。
主権者が、匙を投げていて、国民生活は守れるのでしょうか。
どうして、選挙制度を変えようという運動にならないのでしょう。
「これ、おかしいだろう」と思っても、国民の要求を実現するシステムは、この国にはありません。主権者なのに、システム変更を要求するシステムがないのです。私達は、ほんとに、主権者なのですか。これでは、「お上」のやりたい放題です。この国は、誰のための国なのでしょう。
誰も、疑問を感じていません。「なんか、モヤモヤとしている」だけで、いつものように、「従順」と「服従」を大切にしています。ほんと、「いい人」です。
それは、私達に、そんな経験がないからだと思います。
私達は、庭の小さな池で生きている鯉と同じなのでしょうか。
私達は、与えられた環境を作り替えてはいけないのでしょうか。
どうして、新しい環境を作ろうとしないのでしょうか。
それは、寄って立つ理念がないからだと思います。
「従順」と「服従」が、自分の責務だと信じているからです。
「お上」だとか、「世間」だとか、「常識」だとか、「歴史と伝統」だとかに縛られているからだと思います。
もう、この国は、過去に縛られていれば、破滅を迎えるだけなのです。
私達が生き延びるために選挙制度を変える必要があるのであれば、私は、そう思っていますが、変えるべきだと思います。
もちろん、選挙制度を変えれば、「国力衰退」が阻止できるわけではありません。変えなければならない既存のシステムは山のようにあります。国民の皆さんがシステムを変える必要があると認めることが、「国力衰退」阻止の出発点になる可能性があるということだと思います。ただ、国民が好き勝手に変えていいというものではありません。
そんなことをすれば、自分達に都合の良い選挙制度を作った政治家と同じことをやることになります。
私達がしなければならないのは、判断基準を作ることです。
そのためには、目的と責務を明確にすることです。
国の責務が、国民生活を守ることであれば、国民は、国民生活を守れる人達を、国民の外注先として選定しなければなりません。「情」や「儀式」で外注先を選定している企業なんてありません。あったとしても、その企業は生き残れません。
国家運営を請け負う外注先として、選挙で立候補する人達の中には、国民生活を守るために立候補するのではなく、自分の利益を最大化するために立候補する人がいます。いや、ほとんどの立候補者が自分の利益のために立候補しているのです。仮に、選挙の時だけは、国民生活を前面に押し出したとしても、当選すれば、コロリと、自分の利益が最優先になります。中国の習近平でさえ、この事が民主主義の欠点だと指摘していますが、それは、民主主義ではないと思います。
私達は、人間ですから、人間は「欲」の塊ですから、そうなることが自然だとして、それをシステムで制御するのが民主主義だと思います。
ですから、選定に当たっては排除のルールを持っておくことが不可欠です。白票もその手段の一つです。極端かもしれませんが、選挙の場合は、性悪説に立ったほうがいいと思います。
今は、ほぼ10割の立候補者が、自分の利益のために立候補しています。
「国民のために・・・」と言っているのは選挙の時だけです。
仮に、目的と責務が明確になっても、9割の立候補者は、「欲」を背中に背負って立候補すると考えておいた方がいいと思います。それが、人間です。それを前提にした選挙制度が必要だということです。
仮に、我欲ではなく、国民のためにと思って立候補した人でも、不正は働きます。
もちろん、政治家だけが不正を働くわけではありません。国民の、限りなく100%に近い人達が不正を働きます。人間は、誰でも、欲のためであれば、不正を働くのです。政治家を悪者呼ばわりしている私だって、墓場まで持っていく話はいくつもあります。国民の皆さんも同じだと思います。ですから、人間は悪事を働く、という前提に立つ必要があるのです。

私達が、今のやり方を続けていれば、どうなるのでしょうか。
ベネズエラの国家運営が、日本と同じだとは言いませんが、結果は似たようなものになるのではないかと危惧します。
ベネズエラのニュースはこれまでも何回か書きました。
10月に、再び、デノミが実施されたそうです。
2008年に、1/1000に
2018年に、1/100000に
そして
2021年に、1/1000000になりました。
これを、日本に置き換えて見ます。
10兆円の資産を持っていた人の資産が、1円になる計算となります。
個人で10兆円の資産家なんて、いないと思います。
ですから、国民で、資産を持っている人はいなくなるということです。
どう見ても、誰が見ても、ベネズエラという国は壊れています。
ベネズエラの場合は、国民が「俺には関係ねぇ」と思っていた以上に、為政者の「自分さえよければ」が国を壊したと思いますが、どんな理由があったとしても、崩壊は崩壊です。最後に苦しんでいるのは、ベネズエラの国民の皆さんです。
日本の国民の皆さんは、1/1000000のデノミなんて想像もできないと思います。いや、自分の国で、そんな馬鹿なことが起きることはないと信じ切っています。しかし、現実は、そんな甘いものではありません。どこの国でも、ベネズエラになることができるのです。この先、第二第三のベネズエラが誕生しても、何の不思議もありません。もしかすると、第二のベネズエラになるのは日本かもしれません。何よりも、国と国民が一致協力して「自分さえよければ」「俺には関係ねぇ」をやっているのですから、日本は、その条件を満たしています。ベネズエラのニュースなんて、気にしている人はいませんが、ベネズエラは、明日の日本なのかもしれません。いや、私は、その可能性が高いと思います。
ベネズエラは、とても優良な油田を持っています。石油を売って、世界の富を集めて、国民を豊かにすることも可能でした。しかし、時代は、化石燃料から離脱する時代になってしまいました。もちろん、化石燃料が全く売れない時代は来ないと思いますが、それでも、この先50年の世界環境は、50年前と同じ環境ではないと思います。頼みの綱の石油が売れなくなれば、国の再建は、難しくなります。これも、不幸が不幸を呼ぶ現象の一つだと思います。仮に、政権交代が起きても、国民生活を最優先する政権が生まれたとしても、経済基盤が弱ければ、再建は、とても難しい事業になります。実際には、国民生活を最優先とする政権の誕生は、ほぼ、無理だと思いますので、ベネズエラの国家再建は難しいと思います。その原因は、ベネズエラ社会に定着してしまった「自分さえよければ」だと思います。
ベネズエラの現政権が何年続いているのか知りませんが、縄文時代の1万年から見れば、一瞬に過ぎないと思います。縄文時代と現在を単純に比較することはできないと思いますが、それでも、「自分さえよければ」は大きな障害になると思います。
縄文時代の皆さんの最優先課題は、食糧です。食糧確保が、何よりも優先された社会だったと想像できます。そこに「自分さえよければ」の入り込む余地はありませんでした。それだけではなく、縄文時代の皆さんは、子供達を、子供達の未来を守るという意識が強かったと思います。「永続」は生き物の本能ですから、子供達は、その「永続」の象徴ですから、大事にするのは当たり前の社会だったと思います。「自分さえよければ」「今さえよければ」では、社会を維持できません。それが、1万年という時間を生み出したのだと思います。
日本の国民の皆さんに、「子供達の未来を守りたい」「子供達に、今よりも良い社会を渡したい」という意識はあるのでしょうか。私には、そうは見えません。誰もが、「自分さえよければ」「今さえよければ」に浸かりきっているように見えます。その点では、ベネズエラと同じです。
ベネズエラの人口は2800万人だそうです。
数百万人が国外へ逃れましたが、ベネズエラ人は避難した国でも厳しい生活だそうです。
国内に残った人達は、食糧、医薬品の枯渇や暴力で、より苦しい生活を強いられていますので、国外逃亡は正しい判断だったのでしょう。
皆さんは、こんな国になりたいと思いますか。
「まさか」と思うかもしれませんが、他人事ではないと思います。
私達の国も、充分、壊れています。
この先、もっと、壊れます。
ベネズエラだって、北朝鮮だって、遠い存在ではないと思います。いや、直線的に向かっていると言ってもいいのではないかと思います。

先月も書きましたが、崩壊も、ここまで来ると、政治では収拾がつきません。
この窮地を救えるのは、国民の皆さんしかいないと思います。
大勢の国民の皆さんが、「不安感」「不満感」「閉塞感」を持っています。
だからと言って、暴動を起こせ、と言っているのではありません。国民の皆さんの意識次第で国が変わるのです。
国が変われば、国民が変わるのではありません。国民が変わるから、国が変わるのです。
先ずは、皆さんが、自分は「下々」だという既成概念を捨てることです。
皆さんは、国民なのです。この国の現状にも未来にも責任を持っている主権者なのです。
「下々」のままでは、何かを変えるなんてことは出来ません。
多分、皆さんは、自分が「下々」であるとか「国民」であるとかは考えたこともないと思います。今は、それを考える時だと思います。
その出発点として、言葉の定義をしてみてください。


2021-12-02



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ドブ板選挙の時代なのか [評論]



衆議院選挙から1カ月が過ぎ、選挙モードは、もう、忘却の彼方になっていますが、この国は、今後も、同じような選挙をするのでしょうか。
私達は、何のために選挙をしているのでしょう。
こんな疑問を持つ方はいないと思います。
でも、ここまで追い詰められると、ここまで国力衰退が進むと、当たり前を当たり前のままにしておくのは、いかがなものかと思います。
「選挙」の定義は何ですか。選挙の「目的」は何ですか。立候補する人の「責務」は、投票する国民の「責務」は、何ですか。ぼんやりとした建前しかないように見えます。立候補者の供託金も、なぜか、世界一。日本の選挙は、そのやり方に驚く外国人がいるほど変。そして、ほぼほぼ、儀式になっています。私達は、この国でしか選挙権がありませんので、知らないだけで、日本の選挙は変なのかもしれません。
「いろいろなご意見はあるでしょうが、ともかく、投票所に行ってください」という方がいます。盲目的に投票所に行くことに、意味はあるのでしょうか。
「選択肢は用意していませんが、とりあえず、投票所に行ってください。これは、儀式ですから、参列することに意味があるのです」と言ったほうがわかりやすいと思います。
より多くの国民が、目的と責務を明確にして、選挙に参加する環境を作ることが必要だと思います。国民意識を、選挙制度を、変えることが、必要だと思います。
投票率でも示されているように、選挙に期待している国民が、余りにも少ないと思います。それは、選択肢がないからです。そして、折角一票を投じたのに、投票した立候補者が国民のために働いてくれていないと思っているからです。政治家と国民の間に信頼関係がないからです。それは、共通の目的がないからだと思います。
国民が、国家運営に参画できる方法は、選挙しかありません。民主主義の根幹は選挙にあると言われますが、今の選挙が、個人個人の投票行動が、国家運営に寄与していると感じている方が、どれほどいるのでしょう。
そもそも、国会議員は、国民生活を守るために雇われているとは思っていないでしょうし、国民も「こんなもんだろう」と思っています。いわゆる「なあ、なあ」の関係が、当たり前になっているのです。
「なあ、なあ」「まあ、まあ」が優先する選挙では、時代に対応できません。
ここは、立ち止まるべきだと思います。
今回の選挙は、予想が大外れした選挙だと言われています。
選挙前の予測とは真逆の、立憲の一人負けの選挙になってしまいました。
私は、9月に、自民党に、「民主主義を選びますか、共産主義を選びますか」という戦術を提案しました。もちろん、自民党は私の提案なんて知りません。でも、自民党には、そのことに気付いた人がいたのです。自民党は、その論点を前面に出しませんでしたが、随所に取り入れていたように見えます。その戦術を採用しなかった選挙区では、自民党が負けたという分析もあります。失言王の麻生さんが「立憲共産党」と言ったことも有名になりました。
一方、立憲民主党には、「理念を掲げなさい」と提案しましたが、立憲が提示したのはバラ撒きと自民党批判でした。
国民の判断は、自民も駄目、立憲も駄目、というものです。だから、維新が勢力を約4倍に伸ばしたのです。こんな明らかな結果が示されているのに、与党第一党も野党第一党も、そのことを認めません。
与党は、「自民党を勝たせていただいて、ありがとうございます」と言っています。
野党は、「小選挙区で勝ったのだから、自分達は間違っていない」と言っています。
維新は、国政に参加して10年です。実績もありません。持っている理念も他党と差別化できるほどのものではありません。国民は、他に選択肢がないから、不本意ながら、維新に票を入れたのです。維新の皆さんは勘違いしているようですが、国民は、維新に政権を担当してもらいたいとは思っていません。
皆さん、自己弁護ばかりで、国のことも、国民のことも、忘れています。
国会議員の仕事は、国家を運営することです。国家を運営するということは、国民生活を守るということです。今は、定義がありませんので、見えていませんが、国民は、国民生活を守るために、国会議員に運営業務を外注しているのです。
しかし、この30年で、国民は貧しくなりました。
それは、国家を運営している皆さんが、自分の仕事をしていないということです。
「俺には関係ねぇ」と言っている国民に向かって、「国民が頑張らないからだ」「お前が、頑張れ」と言わなければならなかったのです。しかし、投票権を持っている国民に、そんなことは言えません。保身を優先させたのです。
これも、目的と責務の欠如が原因です。
「私達も責務を果たします。国民の皆さんも責務を果たしてください」と働きかける必要があったのに、目的も責務も知らなかったから、何も言えなかったのです。
どんな仕事でも、楽をしていたのでは、目的は達成できません。
国民生活を守ることが責務だと認識されていないために、国家運営を担当する人達を選ぶ選挙でも、論点がボケてしまっているのです。
つまり、与党も野党も、どの党も、理念を、目的と責務を、持っていませんので、国民の利益になる政党ではないのです。
もちろん、何もしようとしない国民が一番の癌です。国民が変わらなければ、何も変わりません。

選挙後、立憲の幹部は、「俺達は頑張った」「接戦に持ち込めた」「小選挙区では勝った」「野党の一本化は成功した」「俺達は間違っていなかった」と言っています。選挙で負けたくらいでは、自分の勘違いに気付けないようです。立憲の皆さんに欠けているのは、選挙手法ではなく、理念です。野党は理念で与党より優らなければ勝てません。理念が欠如している野党が負けることは当たり前です。理念とは、目的であり責務です。
国民は、2009年の失敗を憶えていました。自民党にお灸をすえるつもりが、民主党政権を作ってしまった、という記憶です。自制した有権者は多かったと思います。
今の日本は、順風満帆ではありません。多くの国民が、不平や不満や不安を持っています。本来であれば、与党に厳しくなるはずでした。しかし、現実は、野党が敗北したのです。野党の皆さんは、自己弁護をするだけでいいのですか。
禄でもない自民党よりも、選択肢にさえなれなかった立憲は、箸にも棒にもかからない状態だったということだと思います。どっちも駄目だけど、駄目さ加減で選べば自民党しかない、と思った国民が多かったということです。
これは、どう見ても、末期症状です。
既存政党の中で、どちらが駄目かの競争が選挙の争点になるということは、この国がドン詰まりの場所にいるということです。
こんな選挙に意味があるのでしょうか。
専門家の先生方は、「政党の自力の差が出た」選挙だったと言っています。
「政党の自力」とは、何でしょう。
専門家の解説を聞くと、それは「ドブ板選挙」のことのようです。
ここにも、古い常識が、ゾンビのように生きているのです。
地方の運動員が走り回り、「なあ、なあ」「まあ、まあ」を駆使し、頭を下げ、一票一票拾い集めてくるのが「ドブ板選挙」です。立候補者は、笑顔を振りまき、握手をしまくり、頭を下げまくって、票につなげます。もちろん、日頃は、盆踊りに参加し、冠婚葬祭に参加し、顔を売ることが仕事です。
この「ドブ板選挙」の根っ子にあるのは何でしょう。
そこにあるのは「情」です。
知人の知人の知人であっても、頼まれれば、無視できないのが日本人の「情」です。
情に訴える選挙が、これまでの選挙だったと思います。昔の村社会は、この情で動いていたのではないかと思います。村社会で統治できるのは、数百人、数千人の規模です。オラが村の掟で、国は統治できません。村が、何千、何万と集まっているのが国です。国には、国の目的と責務が必要です。ところが、国政選挙が村の掟みたいな「ドブ板選挙」で行われているのだとすると、国民生活が守られなかったとしても仕方がありません。
「情」で投票するということは、国民が判断基準を持っていないことの証明です。国民が目的も責務も知らないということです。
「〇〇さんに頼まれたから、××党に票を入れた」ことで、この国は繁栄するのでしょうか。
選挙で敗れた立憲も、自民党を見習って、「ドブ板選挙」の方向を目指すようです。極論ですが、もしも、立憲が、本気で「ドブ板選挙」をやれば、泥仕合になります。「イデオロギー」や「情」に勝てるものは「カネ」しかありません。カネが飛び交う選挙になれば、それは、民主主義ではありません。
これからも、このやり方を続けるのですか。
右肩上がりに繁栄している国であれば、情に頼っても、それなりにやれるかもしれません。しかし、国力が衰退している国で、同じことをやれば、大きな間違いを犯す可能性があります。いや、既に、国は壊れ始めています。
この先、今までのような「ドブ板選挙」でこの国が蘇るとは思えません。

私には、選挙そのものが、国家統治システムそのものが、国会論議と同じように、重箱の隅に追いやられているように感じます。いや、退化しているようにしか見えません。
どなたも危機感は持っていませんが、いや、認識すら持っていませんが、私達の今の課題は、《 生き延びる 》か《 滅びる 》かです。皆さんは「そんな、大袈裟な」と思うでしょうが、近い将来、必ず、その現実に直面します。
国力に関するグラフを見てください。
どれも、見事に右肩下がりです。これが、トレンドです。
そのグラフの線を延長してみてください。右肩下がりの線が行き着く先はどこですか。
世界の最貧国です。これを、必然と言うのです。
国民生活が破綻することなく、世界の最貧国にはなれません。
真っ先に、国民生活から破綻していくのです。
私達の国では、明らかに、貧困層と呼ばれる人が増えています。
これは、戦後、初めての体験です。
皆さんの経験則は、常識は、役に立ちません。
貧困層が増えているということは、私達は、崩壊の真っ只中にいるということです。
どうか、そのことに気付いてください。
国民の皆さん。ついでに、国家運営者の皆さん。
漠然とした不安感だけでは、想像できないかもしれませんが、皆さんの直感は、この現実を知っています。実際に壊れた時に気付きますが、それでは手遅れです。
今までと同じように「なあ、なあ」「まあ、まあ」でやり過ごすのですか。
それも一つの選択肢ですが、国民生活の破綻と引き換えです。
私達は、今のトレンドに、積極的に立ち向かうしか方法はありません。
先ず、下向きのトレンドを止めることが必要です。

既存のシステムでは、「なあ、なあ」「まあ、まあ」では、「ドブ板選挙」では、この状況は克服できません。
それは、もう、充分、証明されたのではありませんか。
難しいことですが、今は、新しいことに挑戦するしかないと思います。
もちろん、選挙制度も統治システムも換えなければなりません。
でも、ただ、換えればいいというものではありません。
下向きのトレンドを止めても、それは、上向きのトレンドになることを意味しません。
国力を上向きにするシステムが必要です。
何度も書いていますが、国力を決めるのは国民です。
国民が変わらなければ、何も、変わらないのです。
それは、皆さんにとっても、国にとっても、子供達にとっても必要なことです。
国民の皆さんが、皆さんの責務を果たすことでしか、この国は救えません。
禄でもない政治家に任せておけば、この国は潰れます。

今の選挙制度は、詐欺と同じです。
人を集めて、いや、カモを集めて、「さあ、1万円のコースにしますか、それとも、2万円のコースにしますか」というメニューを出します。買わないという選択肢が用意されていないのが詐欺の手口です。
今の選挙のメニューも、人を集めて、「与党にしますか、それとも、野党にしますか」というものです。「今の政治は容認できない」という選択肢があって、初めて、選挙になると思うのですが、違うのでしょうか。
議員定数も固定、白票も認めない、というやり方は詐欺だと思います。
国民が意思表示を出来るのは選挙しかありません。国民が「今の政治は容認できない」という意志を持っていても、伝える方法がないのです。
選挙が「お上」の決めたルールで縛られているのですから、国民に発言権は無いに等しいと思います。しかし、「投票所へ行きましょう」という広報は叫ばれます。これ、詐欺です。
国民の皆さんは「いい人」ばかりですから、「ふむ、ふむ」と頷いていますが、これが国民主権の国だとは思えません。
国会議員は、当選してしまえば、人格が変わり、自分の利益だけを追う人に変身します。
2週間だけ頭を下げれば、4年もやりたい放題ができるのです。一度国会議員になれば、誰も、その利権を手放そうとしません。何代も世襲している人もいます。ほんとに、国会議員は国民の代表なのですか。それ、ただの思い込みなのではありませんか。私には、彼等が国民の利益を代表しているとは、とても思えません。だって、これだけ貧しい人が増えているのです。国民の声は、届いていません。
間接民主主義という建前が機能していません。
今のやり方であれば、重要法案は、全て、国民投票にする必要があります。
だったら、今やっている選挙そのものが意味を持たないということです。
「選挙とは、国会議員とは」という言葉の定義が必要だと思います。
やはり、言葉の定義がないことによる弊害は広範囲に出ているということです。
先ずは、言葉の定義をすることから始めるしかないと思います。


2021-12-01



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