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川面城 [短編]


 西暦二千六十六年八月一日。
あの大津波の年から二十年が過ぎていた。兵頭康平達は近畿刑務所の建物に住みつき、そこを川面城と呼んでいた。
康平は二人の子供の父親になっていた。上の男の子は守備隊員になっている。下の女の子は十四歳で、城の中ではまだ子供として生活できる歳だった。広い土地と豊富な水に恵まれて、川面城の食料事情は飛躍的によくなった。五年前に姫路の漁村と物々交換ができるようになり、魚介類も食べることが出来るようになった。それは、米や野菜を外部に出すことができるようになった頃と同じ時期だった。
川面城では、強盗団の襲撃は一度も受けていない。そもそも、外部の人間が川面に来たことがなかった。十年前から、守備隊も農作業に従事するようになり、守備だけを仕事にする人間はいなくなった。全員が予備役になったに等しい。ただし、守備隊の仕事や責任が無くなったのではないので、訓練や武器の手入れは続けていた。
午前中は畑で作業をしていたが、午後は査問会が開かれる予定なので、康平は会議室に座っていた。副官の三浦がやってきた。気が重くなることのない会議などなかったが、査問会は特に気の重い会議だった。トラブルを起こした住人の処分を決めるのだから、誰も喜んでいない。三浦の顔も暗かった。
出席者は六人だが、いつの間にか康平が最年長の隊長になっていた。平均寿命は年々低くなっているようだ。医療班はいるが、レントゲン等の検査手段はなく、手術もできない川面城ではそれも仕方がない。甲子園城にいた頃から、食べる物はその日を生き延びるための最低限のものしかなかった。誰も満足な栄養状態で生きてきたわけではなく、病気に対する抵抗力も弱かった。必死に毎日を生きてきて、気がついてみると同年代の隊長は誰もいなくなっていた。自分も予備役の人間になりたいと思っているが、それを周囲が認めてくれない。平然としているように見えるかもしれないが、自分の中では疲れを感じていて、できれば、隊長という責任を離れ、農作業をしながら死んでいきたいと思っていた。
出席者が揃い、会議を始めようとした時にサイレンが鳴った。康平は三浦の顔を見た。三浦は首を横に振り、訓練の予定はないと言っている。
「監視塔で確認してくれ。私は正門にいる」
「はい」
二人は走った。
農地が広くなった分、住民の行動範囲も広くなり、援助班が探してきた手回しのサイレンが必要になった。毎年、避難訓練は行われていたが、訓練の季節ではない。
康平は正門の外に出て、住民の避難状況を見た。まだ、サイレンは鳴り続けている。
「隊長」
もう一人の副官、細貝が走って来た。
「隊員を集めて、武装する。急げ」
「はい」
状況は把握できていないが、準備は不可欠だった。武器庫の鍵は康平と二人の副官しか持っていない。
守備隊の人間なら正門に集まってくる。内部から出てきた隊員にも、畑から駆け戻ってくる守備隊の班長にも、「武装しろ」と命じた。
まだ、多くの住民が必死で駆けている。城から飛び出して行く若者もいた。年配者の避難を助けるのは若者の仕事だった。
三浦が走って来た。
「約20名。武装しています」
「伝声管は」
「配置しました」
「避難の遅れている人はいないか、見張りに徹底させろ」
「言ってきました」
「細貝に武装の指示を出した。お前も武器庫に行け」
「はい」
正門の大戸は常時閉められていて、土嚢が積み上げられている。通用口へと住民が吸い込まれていく様子を見守った。誰もが緊張した表情をしている。甲子園城の誠心会との戦いを体験していない人間は多い。話しか聞いていない人間は不安が大きいと思われる。
先ほど出ていった若者の群れが、年寄りの手を引いたり腰を押したりして戻って来た。なだらかではあるが坂道になっているから、老人の足では駆け上ってくることは難しい。
一本道の向こうに黒い一団の群れが見えてきた。伝令が走ってきて、全員避難したという報告を受けて、康平も城に入った。
正門の前には武装した守備隊が並んでいた。既に監視塔と伝令に配置されている隊員がいるので、戦闘部隊として動けるのは、集まっている60人ほどしかいない。
「三浦は、一班から四班までを指揮して、北門を出て、正門右手の林で待機。五班は東側、六班は西側の銃眼で守備。残りは、正門横で待機。こちらに銃器があることは最後まで伏せておきたい。銃は見せないように。以上」
高い塀の内側は土盛りされていて、高さ3メートルほどの所に細い銃眼が開いている。援助隊が苦労した苦心の作品の一つだが、これまで役に立ったことがなかった。
康平も銃眼の一つから外の様子を見た。相手は武装しているが戦闘モードではない。先頭にいる二人の背広姿の男の警護をしているようだ。警護する人間の服装は迷彩服で統一され、ヘルメットを被っている様子からは強盗団には見えないが、武装しているのだから危険であることには変わりがない。
「我々は、日本政府の者です」
「ここの、責任者の方と話がしたい」
「門を開けてください」
若い方の背広男が、手をメガフォンにして大声で城へ呼び掛けてきた。
「危害は加えません。安心して、門を開けてください」
銃を持っている人間を引き連れていて、危害を加えないと言うのも勝手な言い草だが、若い男の顔には、自分自身でそう思い込んでいるような緩い表情があった。
放置しておけば、帰って行くかもしれないが、居座ってしまうと面倒になる。康平は階段を降りた。
「開けてくれ」
「隊長」
「大丈夫だ。話をしにきただけだろう」
「はい」
「ただし、私が出たら、その閂は閉めておけ」
「・・・」
「それと、私が撃たれたら、全員を殺せ。これは、命令だ」
「はい」
細貝は、まだ迷っていた。
「細貝」
「はい」
康平は一人で門を出た。
背広姿の男は、一人が康平と同年代ぐらいの痩せた男で、若い方の男は二十代の体格のいい男だった。警護の人間は銃口を下に向けてはいたが、目つきには厳しいものを感じた。
「あなたが、責任者の方ですか」
「いや」
「責任者の方をお願いできますか」
康平は、汚れた野良着に近いものを着ているから、使いの者だと思われても仕方がない。
「話は、聞きましょう」
「あの」
若い男を制して、年配の男が一歩前に出てきた。
「私は総務省の宮部と言います」
「で」
康平は名乗る必要を認めなかった。言葉は丁寧だが、明らかに上から目線の声に聞こえた。
「日本政府を代表して来たと思ってください」
「・・・」
「今、政府は全国の国勢調査をしています」
「・・・」
「全国民の皆さんに、協力いただきたいと思っています」
「で」
「ここに、お住まいの方の名簿を頂きたい」
「名簿」
「できれば、この中も拝見したい」
「用件は、その二つですか」
「今日は、そうです」
「と言うことは、今日で終わりではない、ということですか」
「お話しなければならないことは、沢山あります。それは、後日で結構です」
「そうですか。では、一つ目の答えですが、名簿はありません。二つ目ですが、見学はお断りします。どうぞ、お帰り下さい」
「名簿がなければ、我々が聞き取りをして名簿を作ります。皆さんと話をさせてください」
「訳がわかりません。何故、名簿を出すのですか」
「国勢調査だと言いました」
「ここでは、必要ありません」
「日本にお住まいなのですから、その義務はあります」
「あなたは、政府の人間だと言いましたね、あなた方は認めないかもしれないが、ここも、日本政府です。ここに住むことは、我々日本政府が許可しています」
「ここが」
「そうです」
「無茶を言わないでください。あなた方が日本政府だと言っても誰も認めませんよ」
「同じ事です。我々もあなた方を認めた憶えはありません」
「それは、協力しないということですか」
「そうです。あなたに協力する必要が見当たらない」
「それは、まずいです。協力することをお勧めします。あなたは、最初に責任者ではないと言いました。話を聞くとおっしゃったから話をしたんです。あなたが、結論を出されるのでしたら、是非、責任者の方にお会いしたい」
「我々、日本政府は合議制ですから、特定の責任者はいません。私が事後報告をしておきますから、気を使わないでください。話は聞きましたから」
「そうは、いきません。どうしても、協力していただかなければなりません」
「では、国勢調査とやらをして、何がしたいのですか」
「何って、国が国民の事を知るのは当然だからです」
「そこが、わかりません。我々は、あなた方の国民になったことはありません」
この議論はどこまでやっても堂々巡りになることがわかったのだろう。宮部という男が口を閉じた。いや、そうではなく、怒ったのかもしれない。後ろにいる警護の人間が銃口を少しだけ上に挙げた。
「わかりました。今日は引き上げます。もう一度、正式な話し合いをしたいと思いますが、いいでしょうか」
「何のために、ですか」
「争い事にしないためです」
「争い事。武力で、抑える、つもりですか」
「そう、ならないために、です」
「驚きましたね。いいでしょう。一年後で、どうです」
「そんなには、待てません。一週間後でお願いしたい」
「忙しい人だ。では、三年後としましょう」
「はあ」
「三年がご不満なら、五年後でもいいですよ」
「あなたは、喧嘩を売ってる。皆さんを危険に晒す権利があなたにあるのですか」
「あなた方が何もしなければ、危険はありません。脅しをかけているのは、あなたです」
「では、一ヶ月後にしましょう」
「話し合いをしても、答えは一緒です。我々もぎりぎりの生活をしていますので、あなた方に渡す食料はありません」
「えっ」
「税金だと言って、我々の食料を取り上げることが目的なんでしょう。そうじゃないのであれば、話し合いの余地はあります。そのことを約束できますか」
「・・・」
「一カ月では、その文書は用意できないでしょう。一年あれば、できますよね」
「私の一存で、そんな約束はできない」
「では、結論を持ち帰って、検討して下さい。その答えは、あなた一人で、ここに持ってきてください。後ろにいる危険な人達を連れずに、です」
宮部と名乗った男は、康平を睨みつけながら、しばらく考えていたようだ。
「とりあえず、今日は帰ります。また、来ますので、検討しておいてください」
男は康平の返事を待たずに、回れ右をして警護の人間の間を割った。
「宮部さん」
男は足を止めて、半身になって康平を見た。
「でしたよね」
「・・・」
「次に来る時は、来てもらいたくはないけど、あなたは来るんでしょう」
「もちろん」
「その時は、その銃を持った人達を連れてこないことをお勧めします。そうしていただかないと、あなたも、ここまで辿りつけません。あなたは、命じられた仕事をしなくてはいけない立場にある。違いますか」
「どういう、意味かわからない」
「意味などありません。我々の警戒区域に銃を持った人間が入れば、敵とみなして警告なしに射殺します。あなたが銃をもっていなくても敵として対処することになる。そのことを承知しておいてください」
「我々を脅すのは、ちょっとまずくありませんか」
「脅しではありませんよ。ただの忠告です。どうするかは、あなたの自由です」
康平は男達に背を向けた。
「待ちなさい」
男は、どこまでも上から目線の物言いをした。
「私は、私の判断で、私の仕事をするだけです。あなたに、忠告されるおぼえはない」
「ですから、自由にやってもらっていいのです。あなたの命ですから」
男は三歩前に出てきた。明らかに怒った顔つきになっていた。後ろにいる男達の肩にも力が入っている。
「我々は強引に立ち入ることもできます。あなたが抵抗すれば、あなたを排除してでも、やれるんです。この建物だって国の施設ですから、あなた方は不法占拠しているんです。あの畑だって、あなた方の持ち物ではないでしょう。勘違いしないように」
「だったら、そうしてみれば、どうです」
「なに」
警護の人間が一斉に銃を持ちあげ、銃口を康平に向けた。
康平は、両手を横に広げた。
「もちろん、私は抵抗しますよ」
銃を構えた男達が前に出てきた。
「もう一つ、忠告しておきます。私を殺せば、あなた方も全員、ここで死ぬことになります。仕事の方が大事なんじゃないんですか」
その時、川面城の銃眼から銃口が出てきた。林で待ち伏せしていた別働隊が立ち上がって銃口を男達に向けた。男達の目が泳いだ。倍以上の銃口が、男達に照準を合わせている。
「皆さん。引き金から指を離して、安全装置をかけて、その手を上に上げてください」
男達は宮部の顔を見た。
「数を数えますよ。ゼロが合図です。さん」
「にい」
男達が慌てて右手を高く挙げた。
「では、銃を下に置いてください。もう、数は数えませんよ」
男達の手から一斉に銃が投げ出された。姿形は軍人に見えるが、康平達のように修羅場をくぐって来た兵士ではないと思われる。実弾の入った銃を投げ出すことなどあってはならないことだが、男達にとっては恐怖の方が強かったようだ。銃口を向けられた経験もないものと思われた。
「では、五歩、後ろに下って」
全員が大人しく指示に従った。
「ベルトを外し、荷物も下に」
拳銃、銃剣、予備弾のベルトと背嚢が地面に投げ出された。
「もう、武器は身につけていませんか」
全員が自然と両手を上に挙げている。
「もし、身体検査で武器が出たら、全員、死にますよ。いいですか」
男達は完全に死の恐怖に支配されていた。
「今から、10数えます。射程距離から逃げ出してください。いち」
「にい」
男達が走りだした。それは、全力疾走だった。
「さん」
「しい」
「ごお」
もう、数を数える必要はなかった。
正門から、副官の細貝が走り出てきた。林の中からも三浦が来た。
「追いますか」
「いや」
男達の姿は小さくなっていた。
「二人で、守備態勢を作って、しばらく警戒をしてくれ。今日は、一人も外へは出すな」
「はい」
門を入ると、生産隊の隊長をしている浅井と援助隊の吉崎が近よって来た。
「兵頭さん」
「早急に、対応を話し合いたい」
「わかりました」
三人は本部室に入った。
「話は聞こえてましたか」
「はい」
浅井も吉崎も、康平より10歳は若いが、甲子園城での誠心会との戦闘は知っているし、死体の処理もしている。二人とも、信頼できる男だった。
「先ず、守備隊を復活させなければならない」
「はい」
「私達の畑を引き継いでもらいたい」
「大丈夫です」
「城の外に出ている人はいますか」
「薬草取りに、二人出ています」
援助隊の吉崎が、すまなそうに答えた。
「場所はわかりますか」
「はい」
「すぐに、迎えに行きましょう。守備隊も一緒に行きます」
「はい」
「念のためです。私が向こうの立場なら、ここの住民を誰か一人でも拘束したい。情報が欲しいですからね」
「そうか」
「今日は無理ですけど、明日からは、畑にも守備隊が警護につきます。この件が片付くまで、しばらく、守備隊の指示に従ってもらいます」
「もちろんです」
「援助隊の人を迎えに行く人間は除外して、班長以上に集まってもらいましょう」
「はい」
「多分、みんな、動揺しているだろうけど、この事態を受け止めてもらわなければならないと思います」
「そうですね。兵頭さんは、どう思ってるんですか」
「甲子園城での誠心会との戦い以上の、厳しい状況だと思っています」
「そんなに」
「そうでないことを、祈りたいけど、覚悟は必要です」
「はい。時間は」
「2時間後で、いいですか」
「わかりました」
「援助隊の人は、すぐに選べますか」
「はい」
「じゃあ、正門前に来てください。私も、守備隊の人間を決めておきます」
「はい」
甲子園城でも川面城でも、15歳までは未成年とされ、教育期間に当てられている。15歳になると、一人一人が石田計画の100枚近くある計画書を自分で筆記して作ることで大人の仲間入りをする。だから、全員が石田計画書を持っている。ただ、石田計画には、今回のことは想定されていなかった。いかに生き延びるかが主題であり、新しい国が出来ることも、国が調査にくることも書かれていない。ただ、なぜ国が滅びたのかという記録は別紙としてあり、班長以上の責任を持たされた時に筆記させられていた。

食堂に70名近い人間が集まった。援助隊の班長の一人と、守備隊の三浦が連れて行った6人の中に班長が一人含まれているので、全員ではない。できるだけ椅子を寄せて、小さくまとまって待っている人達の顔は緊張していた。
「今日、政府の役人だという人間が、20人の武装兵を連れてやってきました」
康平は立ったまま、話を始めた。
「要求は、国勢調査だと言い、住民の名簿の提出を要求したことと、ここの内部の調査です」
「どちらも、断りました。その理由は、相手が銃を持っていた事。調査の目的は税の徴収だと判断したからです。多分、東京かどこかに政府が、いや、政府と名乗る集団が出来たのだと思います。彼等は、生き残っている日本人を捜し、国になろうとしているのだろうと推測しました。貨幣がありませんから、彼等に必要なものは、食料です」
「わかり易く言えば、彼等は生産隊の仕事はしません。守備隊や援助隊のような仕事はすると言うでしょう。最近は、我々守備隊も作物を作っていますが、我々の本来の仕事は生産隊と援助隊の人達を外敵から守ることです。その役目があったから、生産隊の人達が収穫した食料で、守備隊も生きてこれたのです。それは、援助隊も一緒です。でも、生産隊にとっては、守備隊も援助隊も必要だった。だから、食料を分けることに問題はありませんでした。一方、甲子園城にいた頃、誠心会という強盗団が来て、備蓄していた食料の半分を出せと言いました。彼等は、私達の食料を何の見返りもなく出せと言ったので、我々は戦いました。守備隊は多くの犠牲者を出しましたが、運よく勝つことが出来、我々は生き延びました。あの政府の人間も、極論ですが、誠心会と変わりがありません」
「この考え方から言えば、我々は、我々の食料を守るために戦わなければなりません。しかし、今度は少し事情が違います。国だと言っていました。どれだけの規模なのかわかりませんが、この宝塚まで遠征してくるだけの力を持っていると考えなければならないでしょう。推測に過ぎませんが、彼等の力はあの20人だけではないと思っています。武器も小銃だけではないとすれば、簡単に勝てる相手ではありません。例えば、千人の軍隊を持っていたら、一万人の軍隊であれば、それが10万人だったら、戦うだけ無駄だということになります」
「では、彼等の要求を受け入れるのか」
食堂には静けさに緊張感が加わり、より静かになった。
「ここで、歴史を振り返ってもらいたいのです。食料を作っていたのは、農民でしたが、彼等は豊かだったのでしょうか。いいえ、何百年も、何千年も、農民は貧しい暮らししかできませんでした。それは、何故でしょう。税があったからです。支配者は、問答無用で農民から収穫物を取り上げてきました。それは、何のためだったのか。支配者は国の安定のためだと言い続けてきました。しかし、支配者は、古くは大きな御殿を、巨大な城を築き、贅沢な暮しをしていました。それは、農民が苦労して育てた農作物があったから、それを税として取り上げたからできたことです。では、国の使いだと言っていた、今度の支配者は、そんなことをしないのか。私には、そうは思えません」
「ここにいる人は班長です。石田計画の別冊は知っています。この国が潰れたのは、やはり支配者の強欲のためだったと知っています。今度だけ、同じ事にならないとは、言えないと、私は思っています」
「そこで、皆さんには、住民の方の意見を集約していただきたい。この問題は、隊長が決めることではなく、班長が決めることでもありません。ここにいる住民一人一人が決めなければいけないことだと思います。戦うか、税を出すか。それを選んでもらわなければならないのです。戦えば、多くの人間が死ぬでしょう。税を出せば、貧しい生活に耐えることになります。他の選択肢があればいいのですが、私には思いつきません」
「意見があれば、言ってください」
「いいですか」
年配の班長の一人が手を挙げた。
「どうぞ」
「税って、どのぐらい」
「わかりません。2割も、あるかもしれないし、8割も、あるかもあるかもしれない。私は5割と、考えました。それでも、生活が厳しくなるのは間違いないでしょう。甲子園城での最初の15年は、食べることも満足にできませんでした。子供の頃の記憶は、空腹です。ずっと、腹いっぱい食べてみたいと思ってました。あなたなら、その体験はあるでしょう」
「交渉はできないんですか」
「最初はできると思います。でも、多分、最初だけでしょう。話し合いの条件として、彼等は武装解除を要求してきます。武装解除をすれば、我々に逆らう力はなくなります。彼等の要求通りになるのは時間の問題でしょう。彼等にとっては、生かさぬように、殺さぬように、生産を続けさせることが望ましいことです」
「では、兵頭さんは、戦うつもりですか」
「いいえ。私には、どんなつもりもありません。皆さんの意見に従います。せっかく、今日まで生きてきて、誰が死んでも、私は嬉しくなんかありません。しかし、皆さんの希望であれば、私が死ぬことは、構いません」
「税を出して、いいことは一つもないんですか」
「いえ。すぐにではないでしょうが、電気や水道が使えるようになるかもしれません。我々に一番不足している医療が手に入るかもしれません。手術ができれば、いい薬があれば、死なずに済んだ人は大勢います。我々の平均寿命は下がり続けていますので、いつの日にか上昇に転ずることもあると思います」
「それは、いつ頃なんでしょう」
「わかりません。50年後なのか、100年後なのか、もっと時間がかかるのか。ここまで潰れてしまった国が、そう簡単に豊かになれるとは思えません。でも、何代か後の子孫はそれを手にすることが出来るかもしれない」
「50年」
「それは、誰にもわからないのでないかと、思います」
「はい」
別の班長が手を挙げた。生産隊の班長で、康平と同年代の清水という男だった。
「どうぞ」
「毎年、収穫は違いますよね。出来高の5割ですか」
「いえ。まだ、5割と決まった訳じゃありませんが、出来高よりは決められた量になるのではないでしょうか。例えば、年間何キロというような」
「では、不作の時は」
「我々の食べるものが減るということでしょう」
「収穫がなかった時は」
「国が、我々の食料を出してくれるか、ということですか」
「そう」
「それも、わかりません。不作になる時は、ここだけではないでしょう。国が面倒を見てくれるかどうかは、その時になってみなければ、わからないと思います」
「ずっと、豊作が続いているけど、必ず、そうではない年が来ます。不作というより凶作という年があれば、飢え死にもあります。備蓄なしに、やってはいけませんよ」
「税を出すことになれば、備蓄は難しいと思います。勿論、物々交換もできませんから、魚は手に入らないでしょう」
「それでも、税を出す方がいいんですか」
「そうは言っていません。でも、どちらかを選ばなければならない状況は変わらないと思います」
しばらく、溜息と班長同士の話声が続いた。
「兵頭さん」
「はい」
「どうやって、みんなに話をすればいいんですか。私には荷が重すぎる」
「それは、私も一緒です。でも、黙っておくわけにはいきません。ありのままを話すしか方法はないと思って、私もここにいます。今でも、逃げ出したいくらいです」
「はい」
若い班長が手を挙げた。
「どうぞ」
「戦うとしたら、私達、生産隊も戦闘に参加するのですか」
「それも、意見を聞いてください。ただ、守備隊が全滅した時に降伏しても、相手にも犠牲は出ている筈ですから、簡単に収まりはつかないと思います。天候や水や土という点では、ここは恵まれています。皆さんも、ここの土を大事に育ててきました。報復としてここから別の場所に移されるかもしれません。そこは、一から土地を作らなくてはならない場所かもしれない。収穫にも影響しますし、一人いくらの税を出せと言われると困ったことになるかもしれません」
「それは、戦争か全面降伏か、ということでしょうか」
「その中間があればいいと思いますが、つきつめれば、そうなるのではないかと、私は考えています。相手も人間ですから、感情で決めるようなことはしないと言い切れません。こちらに都合のいい解釈は極力排除すべきだと思っています」
「それじゃあ、踏んだり蹴ったりじゃないですか」
別の若い男が声を震わせた。
「その通りです。40年前に日本が崩壊した時、大勢の日本人が、同じ事を言っていたと聞いたことがあります。国とはそういう存在なのだと言われた事もあります」
自分達が非常に不利な条件を押し付けられていることが、わかったようだった。しかも、その事に対して自分達が無力であることも。
「いつまでに、やれば、いいのですか」
「次に、彼等が来るまでに。それは、一週間なのか、一カ月なのか、わかりません。ですから、早急に結論を出しておく必要があります。特に戦うという結論の場合、準備にはそれなりの時間が必要になります」
「決めてくれませんか」
「わかりました。それでは、4日後に、ここに集まってください」
「4日」
「多分、時間をかければ結論が出るというものでもないと思います。無理矢理でも決めるしかないのではないでしようか」
「私に答えられないことを聞かれたら、相談に乗ってくれますか」
「もちろんです。一緒に考えましょう」

川面城の重い4日間が始まった。
畑に仕事に出る人間も減った。康平のところへは、班長達がひっきりなしに相談にやってきた。康平は、どんな相談にも真剣に応えるようにした。住民の将来を大きく変えることになるこの問題を疎かにはできない。どんな結論になるとしても、それなりの納得がなければ、この先の辛さを乗り越えることは難しいと感じていた。
そして、再び班長が食堂に集まった。今度は全班長と12名の副官、そして3名の隊長が揃った。3名の隊長と書記を務める生産隊の大場副官だけが机につき、班長は椅子を詰めて座っていた。
生産隊の班長から順に報告をした。一人の班長だけが、結論が出なかったと報告を保留したが、生産隊の意見は、税を納めるという意見。援助隊も納税意見。守備隊は、意見が分かれた。
「特に、意見がある人はいませんか」
康平は、班長達の顔を順に見ていったが、誰も手を挙げなかった。
「納税という意見が圧倒的に多く、これを全体の意見としたいと思います。個人的な感想ですが、皆さんは賢明な判断をしたと思っています。今度、彼等が来た時には、この結論を前提にして交渉し、少しでも譲歩が得られるようにしたいと思います。ただ、完全に決着するまでには、まだまだ時間がかかると思いますので、生活は今まで通りの生活をしてください。不測の事態が起きないように、守備隊も警護をしますし、皆さんも充分注意して下さい。ここで、人質を取られたら、交渉も難しくなります」
会議が終わって、三人の隊長は本部室に入った。
「兵頭さん、これでよかったのでしょうか」
生産隊の浅井が暗い表情で言った。
「皆が真剣に考えました。殴り合いの議論もあったと聞いています。当然の結果ですよ、これは。誰だって死にたくはありません。そういう本音の話し合いができたのですから、この先、大勢の人が今日を思い出し、耐えていく気力が持てると思います。これで、よかったと思います。私は」
「でもね。今日までの我々の頑張りは何だったのか、と思えて」
「おかげで、今日まで、これだけの人が生きてこれたじゃないですか。これからも、生きていくんです」
「政府の人間なんて、信用できませんよ」
「その通りです。彼等を信用する必要はありません。あくまでも、我々が、どうすれば、生き延びることができるか。それだけを考えることです」
「んんん」
「ところで、浅井さん」
「はい」
「あなたに、お願いがあります」
「・・・」
「守備隊の半数以上が、政府の要求を受け入れることは、川面城の滅亡になると思い込んでいます。私の説得も受け入れてはもらえませんでした。この件に関しては、私が命令を出すことができません。彼等をこのままにしておけば、全体に影響が出るでしょう。そこで、この決定に不満を持つ人間を集めて、私はここを出ていこうと思っています」
「えっ」
「今後の、この川面城の指揮をあなたにお願いしたい」
「駄目ですよ、それは」
「よく、聞いてください。今は、ただの不満で済みますが、日々の生活が苦しくなれば、この不満は憎しみに変わります。私達が持っている今の絆は、それほど強いものではありません。満足できるほどの生活ではないとしても、食べることはできています。我々の絆はその上に成り立っています。生活次第では、いつでも壊れる危険があるんです。そうなれば、不満分子は、必ず大きなガンになります。取り除いておかねばなりません。守備隊の人間は銃の取り扱いができるだけではありません。素手でも戦闘能力があるんです。ですから、これは、大勢の人が生き残るためには必要な事です。今回の決定に不満を持っていなかった人でも生活が苦しくなれば、不満を持つようになるでしょう。でも、その人達は、自分が決定に参加していたことで、何とか自制することができます。どちらの結論になっても、我々の進む道は厳しいものです。いや、生き残りを選択した方が、苦しみが長期間続くことになるので、より過酷と言えるかもしれない。でも、耐えるしかない時に、不満分子が暴れれば、全体を危険に晒します」
「でも」
「今、この決断をしておかないと、必ず、後悔します。ここにいる3人は、好き好んで隊長をやっている訳ではない。なりたくてなったわけじゃありません。浅井さんも、吉崎さんも、私も、です。それでも、その立場を、私達は否定できない。私は、隊長に選出された時、考えました。隊長の立場を受け入れるか、城を出ていくかと。結果、引き受けたということは、責任を持ったということだと思いました。決して楽な責任ではありません。それでも、やるしかない。それは、3人とも、同じではないでしょうか。私の理屈、変ですかね」
「いえ」
「私も、背負わなければならないものがあり、浅井さんも、そうです。ただ、浅井さんが背負うものの方がはるかに重いのは気の毒だと思いますが、巡り合わせだと思ってもらうしかありません」
「重すぎます。私には」
「吉崎さんは、どう思いますか」
「浅井さんに、お願いするしかないと思います」
「ちょっと」
「ここの主力は生産隊です。ですから、生産隊の隊長が責任を負うことは自然です。たまたま、生産隊の責任者をしていたのが浅井さんだった。兵頭さんの言う通り巡り合わせとしか言いようがありません。私が、その立場にあれば、私がやらなければならなかったと思います。勿論、私には責任がないとは言いません。私は、どこまでも浅井さんに協力します。確信はありませんが、兵頭さんの考えは無視できません」
「浅井さん。お願いします」
浅井は天を仰いで返事をしなかった。元々、浅井が慎重な男だということを、康平も吉崎も知っている。浅井は信頼に足る男であるし、慎重であることはリーダーには必要な資質だと、以前から感じていた。吉崎と話し合ったことはないが、いいリーダーになると確信していたのは吉崎も同じだったようだ。
「でも、兵頭さん。家族は、どうするんです」
「それを、吉崎さんにお願いしたい。名簿の改竄はいいことではありませんが、私の家族だったとわからないように、してもらいたいのです。私だけではなく、出ていく隊員の家族も同じように。出来ますよね」
「まあ」
「もう一つ、お願いがあります」
「まだ、あるんですか」
浅井の声には非難するような響きはなかった。これなら、指揮を取ることを受け入れてくれそうであった。
「一芝居打ってもらいたい。ここを出ていく独身者と私を追放処分にして欲しいのです」
「追放」
「戦争を主張した危険分子を追い払ったことにするのです。私以外に顔を見られた人間はいません。彼等はここに何人いるのかも、どんな人間がいるのかも知りません。ですから、どんなシナリオでも向こうにはわかりません。それと、私に対しては、いい感じは持っていないでしょう。その私を追放すれば、彼等は納得してくれます。本物の名簿を見せる必要はありませんし、提出する必要もありません。吉崎さんがやり易いようにシナリオを書いてもらえばいいのです。ただし、追放したことは相手との話し合いが終わってから言えばいいと思います。最初から抵抗する意志がないとわかれば、向こうの都合で条件が決まってしまいます。いいですか、正直になっていては生き延びることはできません。騙してでも、嘘をついてでも、こちらの利益になることだけをすればいい。そのことは、肝に銘じておいてもらいたいのです」
「そこまで」
「場所は決まっているんですか」
「援助隊の宮坂さんから、箕面にいい場所があると聞きました」
「そうですか」
「荷車と、武器と、当面の食料。あと、野菜のたねと苗もいただきたい。しばらく農作業をやってたことが役に立ちそうです」
「私も、行きたくなりました」
「浅井さん」
「済みません。私は、戦って死んでもいいと思ってたんです。こんな結果になるとは思いませんでした。だって、許せませんよ。国を潰したのも、我々にこんな生活を強いたのも、全部、国のやったことですよ。のこのこやってきて、また、税を納めろ、という資格なんてありません」
「申し訳ない。浅井さんに全部押し付けて」
康平は本部の部屋を出て正門に向かった。まだ、一番の難関を乗り越えなくてはならない。浅井の説得はそれなりに成功すると思っていたが、舞子の説得には全く自信が持てない。
「康治」
「父さん」
「今、任務中か」
「いえ。今は待機中ですよ」
「少し抜けられるか」
「班長に聞いてみます」
康治はすぐに戻って来た。
「許可をもらいました」
「すまんが、母さんと奈津を呼んできてくれ。武器庫で待ってる」
「わかった」
他人の耳を気にせずに話が出来る場所は武器庫くらいしか思いつかなかった。途中、三浦を捕まえて、武器庫を借りることを断った。職権乱用は初めてだった。
「どうしたの、父さん。こんなところに」
「ん。他の人には聞かれたくない話がある。その辺に座ってくれ。康治、ドアの近くで見張りを頼む」
「わかった」
舞子も奈津も不安そうな表情をしている。自分の表情は見えないが、一番不安を感じているのは自分だと思った。家族のリーダーが不安な顔をしていれば、家族は不安になる。他人を説得する場合には顔を作ることもできるが、家族相手の場合はそれが難しい。
「今日出た方針は聞いたか」
「康治から」
「奈津は」
「私も」
「今日の会議、全会一致ではなかった。特に守備隊の半数は、反対意見だった。でも、9割以上の人が、政府の管理下に入らざるをえないと判断した。この判断は重い。だから、川面城は生き残る道を選んだ。これは、正しい判断だと、私も思う。石田計画でも、目的は生き残る事だった。私達が40年間やってきたのも、その目的のためだった。本当は他に選択肢はなかったのだと思う」
「しかし、どうしても、この理不尽を許せないと思った人間がいた。今度のことが理不尽だと思っていない人間は一人もいないだろう。でも、生き残るという目的を捨てでも、受け入れたくないと思う人間がいた。康治もその一人だ」
舞子と奈津が、少し離れた場所に立っている康治を見た。
「守備隊の28人が、城を出たいと言っている。別の場所で、この理不尽と戦いたいと言っている。生産隊や援助隊の人達の目的は戦うことではないが、守備隊の目的は、住民を守るためとは言え、戦うことが一つの目的みたいなものになっている。そんなところから、守備隊だけに反対意見が出たのだと思う。今まで、守備隊が隊員に教えてきたのは、自分の命に替えても城の住民を守る事、戦う事、勝つ事だった。住民が苦しい状況に追い込まれようとしている今、戦いたいと思うことも、守備隊としては自然な判断かもしれない。父さんは、守備隊隊長としてではなく、一人の年長者として28人を説得しようとした。今度だけは、戦いを放棄しなければいけないと。でも、どうしても納得してもらえなかった」
「で」
「だから」
「なに」
「私と康治は、城を出る」
「はあ」
「すまん」
「馬鹿な事、言わないでよ」
「すまん」
「私は、認めない。そんなこと、認められるわけがない。嫌です」
「・・・」
「父さんと康治は、死にに行くと言ってるのよ。しかも、私と奈津を放り出して。はい、そうですかと答えるとでも思ったの」
「いや」
「他の人のことはわからない。でも、あなたたち二人は、我儘言ってるだけじゃない。この大変な時に、寝ぼけたこと言わないで」
母親の激怒に驚いたのか、父親の我儘が耐えられなかったのか、奈津が泣き始めた。
「理不尽が許せない。甘い事言わないで。理不尽なんて、掃いて捨てるほどあるものでしょう。家族を守れない男が、正義を守れるの。そんなの、嘘っぱちよ。父さんも康治も、そんなことしたら、卑怯者になるだけよ。隊長かなにか知らないけど、私と奈津にとっては、私達の父さんで、私達の康治なの。卑怯者になんかなって欲しくない」
康平には返す言葉がなかった。舞子の言うことの方が正しい。康平は困った。
家族全員で気まずい空気を部屋まで持ち帰った。康治は任務があると言って出ていった。無言で、舞子と奈津は食事の用意をするために動き始め、二人で共同炊事場に出ていき、康平は部屋に一人だけ残された。康平は自分の両手を広げて見つめている。気力で老いを見せないようにしていたが、自分の老いは感じていた。特に、今は、自分が本物の老人になってしまったように思うと、体が沈みこむような違和感があった。
康平は眼を覚ました。いつものように、横に舞子が寝ている。外は暗く、まだ水汲みの時間には早い。眠るつもりはなかったが、体が眠りを要求していた。
康平は夢を見た。それが甲子園城での戦いなのか、川面城に政府の軍が攻めてきたのかはわからないが、康平は戦っていた。銃弾が飛び交い、周囲に爆発音がする。立ち上がった康平の腹部に砲弾が飛んでくるのが見えた。砲弾が自分の体に吸い込まれていくのが見える。銃弾ではないので、人間の体など簡単に貫通すると思っていたのに、砲弾は体内に止まってしまった。一気に痛みが押し寄せる。耐えられない痛みだ。康平は自分の叫び声で目を覚ました。目を覚ました筈なのに、痛みは消えていかない。自分のうなり声が他人の声のように思える。舞子が何か言っているが、意味がわからない。
康平は、余りの痛みのために、転げ回った。もう、夢なのか現実なのかを判別する余裕はなく、痛みに翻弄された。
康治の背中にいることはわかったが、痛みは波のように襲ってきて、背中から転がり落ちる。診療所のベッドの上でも痛みに耐えられずに床に転げ落ちた。遠藤先生がいるのはわかったが、次第に意識が途切れていった。

「先生」
「癌だな。かなり転移している。痛みは、あった筈だが、何も聞いていないか」
「はい」
舞子は、うろたえている自分に驚いた。最初に思ったのは、昨日、あんなに責めなければよかったという後悔だった。
「すまんな。早期発見をしても、治療は難しい。なるようにしかならん」
「はい」
「まだまだ、痛むだろう。痛み止めだけは売るほどある。わしらに出来ることはその程度なんだ。情けない」
「いえ。よろしくお願いします」
「この男には、生きててもらいたいな」
「はい」
遠藤医師は甲子園城の発起人になった人で、年齢は誰も知らない。70歳だと言う人もいれば80歳を超えているという人もいる。ただし、絶対的な信頼感だけは、誰も否定しなかった。遠藤医師の診断は確かなものだと思っていたので、舞子は、康平の余命を聞きたくなかった。舞子の父親も戦いの中で死んだ。理解はできないが、康平が戦いの中で死ぬことを願っているのではないかと思った。ほんとに、どこまで、男は馬鹿な生き物なんだろうと思う。でも、女にそのことを変える力はないし、そんな男がいなければ、人間は生きていけない。この20年間、充分幸せだった。幸せが一日で途切れる人もいれば、一年で失う人もいる。20年も続いたのだから、これ以上求めるのは強欲なのだろう。戦場で死なせてやりたい。自分にできることは、そのくらいしかないと思った。

「先生」
「どうじゃ、まだ、痛むか」
「いえ。病気ですか」
「ああ。今までも、痛みはあったろう」
「まあ。でも、こんなに痛くはなかった。ひどかった。癌ですか、先生」
「ん」
「それも、だいぶ、進行してるってことですか」
「ん。痛い時は、構わずに痛み止めを出す。遠慮はするな」
「そうですか」
無制限に痛み止めを処方するということは、末期癌だという認識は持っている。ついに、終わるのかと、冷静に受け止めることができたように思う。心配事は山のようにあったが、もう時間はないのかもしれない。
舞子が診療所に来た。
「父さん、どう、まだ痛い」
「いや、もう大丈夫だ、すまんな」
「何、言ってるの」
「末期癌だそうだ」
「うん」
舞子は心配そうな目をしたまま、帰って行った。康平は、またうとうととした。痛み止めの薬のせいなのか、体を動かす気力はまだなかった。
次に目が覚めた時、ベッドの横には三浦と康治がいた。
「おう」
「どうです」
「癌だそうだ」
「そうですか」
「三浦」
「はい」
「隊長選挙をやってくれ」
「でも」
「もう、そろそろ、解放してくれ」
「ええ、まあ」
「いろんな人の顔を思い出す。長くやりすぎたかもしれん」
「奥さんに話をしたんですって」
「ああ、こてんぱんにやられたよ。卑怯者だとよ」
「卑怯者」
「言われてみれば、私達がやろうとしてることは、かっこう良すぎるよな。だから、我儘だと言われても反論はできなかった。正義への殉教を夢見てるガキに見えたんだろうな。ここにバズーカをぶち込まれたような気分だったよ」
「隊長」
「悪いけど、私は外してくれ。もう、戦える体じゃない」
「はあ」
「あの」
康治の声は小さかった。
「なんだ、康治」
「この前から、思ってたんですけど」
「言ってみろ」
「でも、叱られそうですから、やめときます」
「言えよ」
「別行動をするのは、武装解除されるからですよね」
「ああ」
「だったら、武器を隠してしまえばいいんじゃないんでしょうか。武器さえあれば、いつでも戦えますし、そんな日が来るような気がするんです。皆が、ほんとに戦って欲しいと思った時には、守備隊もいないし、武器もない、では辛いのかなって」
「んんん」
「怖くて言ってるんじゃないんです。いや、ほんとは、怖いけど。それより、守備隊を頼ってくれた時に死んだ方が、気分いいかなと思ったんです」
「隠すか」
「あいつらは、ここに武器がどれだけあるか知らない訳でしょう。これで全部だと言えば信用するしかないと思って」
「康治」
「すみません」
「いや、そうじゃない。隊長、少し時間をください。隊長選挙は、後にします」
「どうするんだ」
「もう一度、話しあってみます。康治の言う通りかもしれませんよ。この先、戦いを放棄する訳じゃないとわかれば、皆の気持ちも変わるかもしれない。守備隊は守備隊でいたいと誰でも思っているんです。隊員なら」
「隠す、と言っても、どこに隠す。使い物にならなくなるかもしれんぞ」
「真空パックにすれば、長持ちしませんか。援助隊に、発電機と機械があって、食料品をパックにしてますよね。銃や銃弾だってできると思います」
「なるほど。真空パックか」
三浦と康治が部屋を出ていった。まだ、子供だと思っていた康治の方が、はるかに冷静な判断をしている。やはり、引退する潮時だろうと思った。
生産隊の浅井と援助隊の吉崎が来た。
「びっくりしましたよ、兵頭さん」
「申し訳ない。そろそろ、年貢の納め時かもしれません」
「馬鹿な事、言わないでください」
「ほんと、馬鹿は死ななきゃ、です。ところで、昨日お願いした件、少し保留にしておいてくれませんか」
「それは、いいですけど。どうしてですか」
「話が変わるかもしれません。吉崎さん。援助隊に真空パックの機械があるんですか」
「ありますよ。業務用のやつですからしっかりしてます」
「フィルムって言うか、包むやつも」
「ええ、いろんな種類が、山のようにあります」
「そうですか。それを、お借りするかもしれませんが、いいですか」
「もちろんですよ」
「実は、武器を真空パックにして、隠しておいたら、いざという時に使えるんじゃないかという隊員がいて、そうなれば、いつか役に立って死ねるかもしれないと言うんです」
「なるほど。嬉しいですね。そう言ってもらえるのは」
「まだ、決まったわけじゃありません。その話をしに、今、ここを出て行ったとこです」
その日から、守備隊の体制は変更され、武器の梱包と隠し場所の選定が始まった。
城を出て戦うと言っていた隊員も納得した。隊長である康平が病に倒れたことも影響していたのかもしれない。徹夜作業に近い隊員の頑張りで、全ての作業は約二週間で終了した。しかし、康平の病状は回復へ向かったわけではなかった。食べ物を受け付けないために、日に日に痩せていったが、舞子は遠藤医師の指示する流動食を作り続けた。痛みに耐えるだけでも体力は消耗する。痛み止めを服用しているので、眠っている時間が増えたが、舞子は康平の傍から離れようとしなかった。
「母さん」
舞子はぼんやりと窓の外を見ていた。
「痛いの」
「いや。今日は痛みがない。いよいよ、かな」
「馬鹿な事、言わないで」
「体が、ふわふわしてる」
「そりゃあ、そうよ。食べてないんだもの」
「そうか」
「食べてみる」
「ああ」
「暖めてくる」
「いや、冷たい方がいい」
舞子は立ち上がり、お粥というより水の中に米粒が少しだけ混ざったゆきひらを手にした。
「少し、起こしてくれ」
「そうね」

康平が歩行練習を始めたのは、痛みを感じなくなって食べることが出来るようになってから3週間ほど経った時だった。
「先生」
「ん」
舞子は遠藤医師の部屋に来ていた。
「あの人は、もう、大丈夫なんでしょうか」
「いや。わからん。わからん、というのは、なぜ、痛みがないのかがわからんという意味で、病気が治ったかどうかではない。癌はまだある」
遠藤医師は掌を舞子の前に出した。触診しか方法がないのは舞子も知っている。遠藤医師の手には康平の癌が見えているようだ。
「はい」

10月になっても、まだ暑さが戻って来る日が多かった。康平は出来るだけ歩くようにしている。年寄りの散歩と一緒で、少し歩いては休み、少し歩いては座り込むような散歩だったが、歩ける距離が長くなっているのは嬉しかった。暑さによる汗が気持ちいい。
「外に出てみるか」
「大丈夫なの」
「ああ。天気もいいし」
小さな椅子を持った舞子が付いてきている。舞子は康平に付きっきりだが、康平はありがたいと感じている。あの痛みがいつ戻って来るのか。一人でのたうちまわって死んでいくのも辛いだろうと思う。康平も自分の病気が治ったとは思っていない。残された時間が少ないことも感じる。家族を守れなくなった男に生きている意味はなく、特に守備隊の責任者として、住民を守れなくなった守備隊長は必要ではない。それでも、三浦が隊長選挙を拒絶しているので隊長の立場から逃れられてもいない。もちろん、三浦の気持ちはわかっている。隊長を辞めれば、康平の気力が萎えることを心配しているのだ。
康平は建物を出たとたんに、目を閉じた。部屋の明るさに慣れていた目は、太陽の光に耐えられなかった。
「こんなに、明るかったのか」
「えっ、どうしたの」
「眩しい」
「そうね」
目を閉じていても瞼が明るい。時間をかけて少しずつ目を開けた。体の奥の方からエネルギーが染み出してくる。眩しさのためだけではなく、太陽の光を浴びることができた喜びが涙になったのかもしれない。とても、叫ぶ元気はないが、叫びたいと思った。
「隊長」
守備隊の隊員が大勢寄って来た。
「眩しい」
「よかった」
隊員の笑顔が見れたことも、康平の中ではエネルギーになった。弱気になっていた。まだ、やらねばならないことがあるのではないか。
「眩しくってな」
康平は、また歩き始めた。
屋外に出たことが良かったのか、康平の回復は周囲を驚かせた。舞子が「もう、病人の顔ではない」と言ってくれた。しばらくすると、椅子をもって付き添いをしていた舞子も、康平の自由にさせてくれた。
康平は拡大幹部会を招集してもらった。各隊の隊長と12名の副官が出席した。
「国の役人だと名乗った男に、どう対応するか、話しあっておきたい」
「やはり、来ますか」
生産隊の副官が、質問をした。多分、多くの住民が希望的観測に傾いていると思っていた康平の感触は間違っていなかった。
「当然、来ます。今度は充分準備をして、有無を言わせないようにして、来ます」
「兵頭さんは、交渉に参加してくれないのですか」
生産隊の浅井隊長が、心配そうな声を出した。
「私は、体力的に無理です。浅井隊長を中心にして、交渉してもらわなくてはなりませんが、浅井さんに責任を押し付けるやり方はよくないと思います。全ての人の責任ですが、少なくともここにいる人達には大きな責任があります。極端な話ですが、籤引きで責任者を決めてもいいくらいです」
全員の両肩に重い責任が乗った印象がある。
「この幹部会で決まったことを、浅井さんが代表する形の方がいいと思いますが、どうでしょう」
浅井の顔も明るくなったし、出席者の肩の荷も少し軽くなったようだ。こんな善人ばかりの集まりで交渉が出来るのか、康平の心配はさらに大きくなった。
「そこで。漠然とした議論より、叩き台があった方がいいのでないかと思って、考えたことがあります。よければ、そこから初めてみませんか」
「お願いします」
途方に暮れていた子供達が、年長者のお兄ちゃんを見るような目つきをしている。
「最初に、私が考えたことは、どうしてこの国が、こんなことになってしまったのか。そのことです。この前、宮部という男を見て、この国は、また同じことをしようとしているのではないかと感じました。石田計画に書いてあった、ボタンのかけ忘れです。この国はボタンを掛け間違えたのではなく、ボタンをかけ忘れていたという文章です。以前に読んだ時は気にもしませんでした。と言うか、意味がわかっていなかったのだと気が付きました。石田さんが私達に言いたかったのは、ボタンをかけろ、と言うことではないか。そして、何度も読み返しました。石田さんは、国とは何か、国民とは何かを決めずに、曖昧なままであったために破局を迎えたと書いています。国を運営していた当時の政治家や官僚が、国民の利益ではなく、自分達の利益だけを追求した結果だと書かれていました。そこに欠けていたのが、国とは何か、国民とは何かです」
「そう考えると、そのボタンをかけるチャンスは一回しかないことに気がついたのです。それが、今です」
「今、ボタンをかけなければ、なし崩しに同じ道を歩くことにならないか。彼等は、国勢調査だと言っています。彼等の目的は、税の自動徴収システムを作る事です。その基本情報が国勢調査だとすれば、彼等にはボタンをかける意志がないのではないか」
「ボタンをかけずに、曖昧なままに国家運営をした方が彼等にはいい。税が自動的に入ってくれば、やりたいようにできます。彼等にとって、税は、勝手に沸き出している泉のようなものです。そうやって潰れた国の国民は、どうなったか。ほんとに多くの人達が死にました。私達の周りには、誰もいない。もう、数は憶えていませんが、私達は一体何人の遺体を埋葬したのか。ここに生き残っている人も、どれだけ苦しい毎日を乗り越えてきたのか。彼等は、国の役人だと言い、国の軍隊だと言い、私達が収穫した食料を、当然のような顔をして食べるでしょう。彼等に、それだけの価値があるのだろうか」
「私達は、魚が食べれるようになりました。物々交換が出来るようになったからです。でも、その時に渡している、私達が作った米を、私達は惜しいとは思いません。それは、魚という見返りがあるからです。国と国民の関係も、それならば成り立つのではないか。勿論、彼等は私達に渡す魚は持っていないでしょう。でも、国の役割と国民の役割が決まっていれば納得できるのではないか。そう、考えたのです」
「彼等は、税を徴収して軍隊を作ります。その武力で更に税を徴収する力にします。彼等は、他国の侵略に備えるためだと言うでしょう。では、この40年間、他国の誰かが侵略して来たでしょうか」
「多分、これは、多分です。この国は、放射性物質に汚染されているのではないかと思うのです。私達は何も知らずに、汚染された水を飲み、汚染された食料を食べているのではないだろうか。そんな国に侵略してくる国はありません。そうであれば、この先も侵略してくる国はないし、侵略に対応する軍隊もいらない」
「石田計画には、新しい国が出来た時のことについて書いてありませんでした。どうして、書いておいてくれなかったのかと思いました。しかし、それは、私達が決めなくてはならないことだからだと、わかったのです。私達が、私達の子供や孫に何を残すかは、私達が決めなくてはならないと。石田さんは可能な限りの材料を残してくれていたのだと気が付きました。今度は、私達が残す立場にあるのです」
「川面城の意志として、税を納めることに決まりました。でも、それが私達を苦しめるであろう役人と軍隊のためであっては意味がありません。このことは、川面城だけの問題ではないし、川面城だけで解決できる問題でもありません。その方法も考える必要があります。ここで、間違えば、100年後の私達の子孫は、また滅びることになります」
「石田計画は、自分では暗記しているとまで思っていました。でも、読み直して思ったことは、理解していなかったということでした。今は、わからないけど、きっと、私達は正念場にいるのではないか。そう思うのです。これが、私の考えた事です」
「兵頭さん。すみません。とても、頭の整理ができません。少し、時間を置いてもいいでしょうか」
「ですよね。私も時間がかかりました。もう一つ感じたことがあります。甲子園城の20年と川面城の20年が終わったと感じました。もう、全く別の局面に、私達は立っているのだと。今までの延長線上には、私達の未来はないのだと感じました」
「そうみたいですね」
幹部会は散会した。
「隊長。部屋まで送ります」
三浦が手を出してくれた。
「すまん。少し疲れた。もう少し、ここにいさせてくれ」
「はい」
副官の三浦と細貝が座りなおした。
「隊長。自分にはよくわかりませんが、浅井さんで大丈夫ですか」
「大丈夫。あの人は慎重だけど、粘り強い人だから」
「だったら、いいんですが」
「交渉の場には、浅井さんと吉崎さん、守備隊からは細貝に出てもらおうと思ってる」
「待ってください、私には無理ですよ。三浦先輩にお願いします」
「三浦は、どう思う」
「細貝、でしょう」
「戦争をさせると、三浦の右に出る奴はいないだろう。敵に回せば、私も勝てない。しかし、和平交渉は難しい。三浦なら、席を蹴って戦争に持ち込むことになる。違うか」
「隊長には敵いません。褒めておいて、返す刀でばっさりと切る。しかも、それが間違っていない。人使いの天才ですよ。自分は、隊長のそこが、好きです」
「戦争と、交渉と、人使い。三浦が言うように、三人で一人前かもしれんな」
「それで、私が交渉役ですか」
「仕方ないだろう。一人は年寄りで病人だし、一人は戦争屋で交渉事には不向き。誰が残る」
「隊長が出ないから、守備隊からは交渉役を出さないのかと思ってました」
「そうはいかないだろう」
「細貝が出てくれれば、自分も安心です」
「決まりだ。いいな、細貝」
「はあ」
「三浦」
「はい」
「私達の時代は、終わったかもしれないな」
「はい」
「これから必要になるのは、政治力だろう。細貝は、いいリーダーになると思う」
「はい。今日の隊長の話を聞いて、自分も、どこかで、終わったなと思いました。実は、細貝も隊長と同じようなことを言ってたんです。そん時は、こいつ、何言ってるんだろうと思いましたが、どうやら、そうじゃないらしい」
「そうか。同じ事を言ってたか」
「いえ。同じ事なんかではありません。でも、国ってなんだろうと思ったんです。それだけのことです」
「でも、石田計画のことも、言ってたじゃないか」
「あれは」
「今度のことがあって、今日まで、何人が石田計画を読みなおしただろう。細貝、自信を持て。お前は間違っていない」
「はあ」
「この、煮え切らない態度。何とかなりませんか、隊長」
「そこが、細貝のいいとこなんだろう」
「なるほど」
「ただし、100%戦争がなくなったとは思っていない。三浦抜きで戦争はできない。それは、二人ともわかっているんだろ」
「はい」
「はい」
「ところで、細貝」
「はい」
「今、サイレンがなったら、どうする」
「えっ」
「国の使いとやらが、5分後に門の前まで来る」
しばらく、時間が過ぎた。
「一旦、引き取ってもらいます」
「どうしてだ」
「中に入れるわけにもいかないし、立ち話でもないと思います」
「で、その後、どうする」
「まだ、わかりません」
「街へ行く途中に一軒だけ家があるよな。確か、食堂だった」
「はい」
「援助隊に頼んで、あそこに会議場を作ってもらえ」
「はい」
「今日から、お前はこの件に専念しろ」
「はい」
「三浦」
「はい」
「お前が、向こうの参謀だとしたら、何をする」
「先ず、偵察です」
「その対応は」
「監視場所は確保しましたが、人員の配置はまだしていません」
「一番遠い所は」
「2キロほどです。西と東に」
「そこには、人を出せ」
「はい」
「まだ、守備隊の使命は終わっていない。二人とも、守備隊の隊長になったつもりで、動け。私の了承を取る必要はない。先ず、動け。まとめて報告してくれれば、それでいい」
「はい」
「はい」

拡大幹部会から一週間後に、東監視所から合図が届いた。昼間は川面城の監視塔から、東監視所と西監視所の動きを常時双眼鏡で見ている。夜間の場合は火を焚くことになっていた。合図があったのは、青天の日の午前11時を回った時だった。黄色い旗が10秒間隔で10回振られる。守備隊の隊員が一人、監視所から走りだすのが確認された。
サイレンは鳴らさずに、畑に出ている住民に知らせる伝令が出て、口頭で避難命令を伝えた。すぐに、東監視所の守備隊員が戻って来た。偵察隊と思われる車両を視認、本隊を確認するために一名が監視中という報告だった。
夕方になって東監視所のもう一名の隊員が戻って来た。
「車両が、大小合わせて46台。人員を乗せた大型車両が31台。一台に30名ほどが乗っている模様。10台は物資。小型車両が5台。一台に4名ないし5名。総勢で約1000名と思われます」
その報告を持って三浦が康平の部屋に来た。
「西の監視所はどうした」
「戻るように、旗を挙げました。まだ、戻っていませんが」
「そうか」
「機動部隊が先行していて、歩兵が後から来るのでしょうか」
「先行部隊としては多すぎないか。多分、本隊だろう」
「1000人なら勝てませんか」
「難しいな。車両があって、燃料があって、千人の兵士を集められる。東京からここまで、道路の整備もそれなりにしただろう。向こうにはそれだけの経済力がある。多分、どこかの国からの援助を貰っていると考えた方がいい。1年も経てば、またやってくる」
「そうですか」
「私達には機動力もないし、補給もない。いつかは負ける。その時、ここの住民は皆殺しにされる。生産隊の意向を無視することはできない」
「はい」
「監視体制は」
「全員、配置につけました」
しかし、その日は誰も現れなかった。政府軍は小学校の校庭に駐屯したので、その校庭が見える監視所には6人の隊員が張り付いた。通信手段がないために、伝令要員は必ず置かなければならない。
翌日も、川面城では外出禁止になって、全住民が城内にいたが静かだった。
政府の人間だと名乗る宮部という男が正門の前に来たのは、10時を過ぎていた。背広姿の若い男も前回と同じ男だったが、武装兵は2人しか連れてきていなかった。
浅井が応対に出て、会議場を指定したために、四人はすぐに引き上げていった。
浅井と吉崎、そして細貝の三人が出かけた。三人とも顔がこわばっていたらしい。
康平は自分の部屋で横になっていた。
11時前になって城内が騒がしくなり、浅井と吉崎と三浦が康平の部屋に走り込んできた。細貝ではなく、三浦が一緒にいる意味がわからない。
「すみません。細貝さんが人質にされました」
浅井が深々と頭を下げた。
「・・・」
浅井が早口で喋り始めたが、意味がわからない。
「浅井さん」
「・・・」
「浅井さん。落ち着いて。何があったのか、ゆっくり話してください」
「あの」
「母さん。浅井さんに水を持ってきてくれ」
康平は浅井の発言を手で制して、舞子に水を持ってくるように言った。
浅井は舞子からもらった水を一気に飲み干した。
「深呼吸をしましょう」
しかし、まだ、浅井の目は泳いでいた。
「吉崎さん」
「はい」
「何があったのか、順を追って話してください」
「はい」
吉崎の方が少しだけ落ちついていた。
「こちらの話は何も聞きません。武装解除をして、城への立ち入りを認めれば話し合いをすると言うだけです。何度も押し問答になりましたが、話になりません。そして、突然、兵隊が入ってきて、銃を向けられました。戻って、相談して結論を持ってこい。それまでは細貝さんを預かると言われて、文字通り追い出されました」
「そうですか」
「申し訳ない」
「あなたたちのせいではありません。浅井さん、大丈夫ですか」
興奮していた浅井は、肩を落として俯いていた。
「三浦、監視塔の報告は」
「聞いてきます」
会議場へ兵隊が入って来たということは、敵が動いたということだが、三浦もその状況を掴んでいない。話し合いをするということで、守備隊も安心していたのではないか。
三浦が戻ってくるのに、少し時間がかかった。
「敵は、邀撃体制を取っています。すみません」
「三浦。私は、守備隊の仕事は、まだ、終わっていないと言った。お前はどんな解釈をしたんだ。10倍以上の敵が前面で展開している時に、なぜ、報告が来ない」
「はい」
「浅井さん」
「はい」
「最初に、応対に出る時に、細貝は何も言わなかったのですか」
「いえ。聞いていません」
「そうですか。これは、守備隊の手落ちです。申し訳ない。人質になったのが細貝でよかった。あなた達が人質になってたら、困ったことになっていた」
「・・・」
「敵の部隊をあの会議場から遠ざけ、動かないように要求するのは、守備隊としては当然の行動です。三人が会議に出ることは決まっていたのだから、細貝にはあなた達二人を守る責任もあった。人質になっている細貝は、今はわかっているでしょう。多分、助けてくれとは言わない筈です。細貝のことは気にしないでください」
「でも」
「さて、問題は、どうするか、です。相手は、無条件降伏か戦争かを選択しろと言っているのです。どうします」
「細貝さんが」
「細貝のことは無視して下さい。守備隊という名前ですが、私達は軍人だと思っています。細貝もそうです。覚悟はあると思います。甲子園城での戦いを思い出してください。犠牲は覚悟で私達は守備隊をやっているのです」
「ですが」
「彼等にとって、無条件降伏はベストで、戦争はベターなのでしょう。話し合い、それも対等な話し合いには価値がないと考えている。しかし、私達は、その話し合いで、自分達を守り、子孫を守りたいと思った。そうですよね」
「はあ」
「だったら、それを放棄するのは責任者の仕事ではないでしょう」
「・・・」
「今となっては、乱暴な手段を必要としますが、話し合いの席につかせることは不可能ではないと思います」
「どうするんですか」
「脅します」
「えっ」
「相手が、その脅しに負ければ話し合いになりますが、そうでない場合は、戦いが始まるでしょう。今回だけであれば、戦争しても勝つ確率はあります。その先をうまく収められれば、戦争も選択肢になります。ただし、戦争をした場合は、その後の対応で今以上の政治力が要求されることになります。決して楽な道ではありませんが、道が閉ざされた訳でもありません。でも、私達は、危険を冒すか、相手の言いなりになるかの選択をしなくてはなりません」
浅井は大きく深呼吸をしたが、口は開かなかった。
「浅井さん。皆の意見を集約している時間はありません。生産隊の隊長として、あなたが決めるしかないのです」
「どうやって、脅すんですか」
「それは、守備隊の仕事です。心配いりません」
浅井は、また下を向いてしまった。
「いいですか」
吉崎が口を開いた。
「向こうは、力で押して、自分達のやりたいようにやると言ってるようなものです。つまり、この先も、同じ事が続くということですよね」
「その通りです。彼等は、前回出さなかった牙を出しました。今回は、あれだけの武器を用意したのですから、遠慮するつもりはないと思っているようです。そうであれば、彼等の最初の要求が武装解除というのも当然です。そんな彼等に対して、私達がどうするのか。それを決めることができるのは生産隊だけです。守備隊にも援助隊にも、それを決めることはできません。この城は生産隊の努力で成り立っているのです。そのことを忘れたら、城自体が意味を失くしてしまう。私や吉崎さんがそれを決めれば、守備隊も援助隊も、あの政府の連中と一緒だということになるんです」
「そうですね」
「浅井さん。お願いします。あなたの決定に、守備隊も援助隊も従います。決めてください。それで、いいですよね、吉崎さん」
「はい」
それでも浅井は何も言わずに俯いていた。
「浅井さん。一時間だけ待ちます。生産隊の方と相談してみてください。一時間経っても結論が出ない時は、それはそれで結論としてもいいじゃないですか。その時に、守備隊に出来ることがあるかどうか、また検討してみます」
浅井が無言で立ち上がり、部屋を出ていった。
「私も、相談してきます」
吉崎も部屋を出ていった。
「小学校の監視をしている所だけを残して、監視の隊員を呼びもどしてくれ」
「いいんですか」
「今、発砲するわけにはいかん。小学校の監視所にも発砲しないように伝令を送ってくれ」
「はい」
「三浦」
康平は、部屋を出ていく三浦を呼びとめた。
「しばらく、私が隊長をやる。情報は私に集めてくれ」
「はい」
川面城では、善意をもって相手と話し合う。それが当たり前のことだったので、浅井は相手が宮部であっても善意で応じてくれると思い込んでいたのだろう。康平が交渉役だったら、最初から相手を疑ってかかっただろうと思った。守備隊の人間なら、敵が善意で殺しに来るとは思わない。戦争での善意は、あまり役には立たないのだ。そういう意味では、三浦と細貝は軍人失格と言える。しかし、今更、それを言っても意味がない。守備隊も解散すべき時期なのかもしれない。余りにも平和が続き過ぎた。甲子園城での戦いでは、銃を捨て、両手を高く挙げた敵に、銃弾を浴びせた。あんな過酷な戦いは、もう出来ないのかもしれない。
今、一番心配なことは、自分の命がいつまであるのかという心配だった。個人的な事情ではあるが、舞子や子供達に辛い生活はさせたくないと思う。自分の家族だけではなく、それぞれの家族が苦しむことは避けたかった。
30分で吉崎と三浦が戻って来た。それから10分遅れて浅井が来た。
「兵頭さんの話に乗ってみます。その前に、どうするのか教えてもらいたいのですが、いいですか」
「わかりました」
浅井の様子は先ほどよりは落ち着いていた。
「敵の兵站基地は小学校にあります。食料、銃弾、ガソリンなどが車にあります。それを、破壊、できれば燃やしてしまいます。小学校に残っている武装兵は10人ほどしかいませんので可能です。ガソリンがなければ、彼等は歩いて東京まで帰らなくてはなりません。食料なしで、一週間は戦えません。銃弾の補給がなければ、満足な戦いはできません。その準備をして、私が彼等と交渉します。ただ、私の体力では一回の交渉が限界でしょう。彼等が話し合いの席に着く約束をすれば、浅井さん達が交渉を始めてください。もちろん、細貝も連れて帰ってきます。彼等が同意しない場合は、その時点で戦争になります」
「成功の可能性は」
「わかりません。私が相手の立場なら、戦争よりも交渉を選びますが、彼等がどう判断するかは、わかりません」
「わかりました。やってみましょう。いや、やってもらえませんか」
「はい」
「私にできることは」
「できれば、吉崎さんに同行してもらいたいのと、あそこまで歩けるかどうか自信がありませんので、荷車と3人ほどの押し手を貸していただきたい。そのまま、戦いになれば捕虜になるか殺されるかのどちらかになりますので、それを承知で引き受けてくれる人がいてくれればありがたい。近くまで行けば、歩きますので、押し手の人が帰ることができるようにしたいと思いますが、約束はできません」
「わかりました」
「吉崎さん、よろしいですか」
「もちろん、です」
「三浦」
「はい」
「小学校を制圧して、破壊するのに、何人必要だ」
「20人で、大丈夫です」
「あと、爆薬を掘り出しに行く人間を選んでくれ。一旦、同意していても、あそこの車両を動かしたり、物資を他へ移されたら脅しが効かなくなる」
「はい」
「時間は」
「一時間あれば、展開できます」
「なら、私は一時間半後にここを出る」
「攻撃開始の合図は」
「信号弾を撃つ。破壊したら、速やかに撤退。中止の場合は、サイレンを断続的に鳴らす。中止の場合は、小学校を確保。その後の行動は伝令を送る」
「はい」
三浦は戦争屋の顔になっていた。これなら、つまらん失敗はしないだろう。
「母さん。康治を捜してきてくれないか」
浅井と吉崎も部屋を出ていき、康平は一人になった。康平は目を閉じて、相手の出方を想像し想定していた。
舞子より先に康治が部屋に走り込んできた。
「細貝は捕虜になり、三浦は作戦で出た。お前がしばらく副官代理をやってくれ」
「はい」
康平は、作戦を説明して、監視塔で合図を出す役目を康治に頼んだ。
「私と吉崎さんは、建物の外で交渉する。作戦中止の場合は、両手で丸を作る。中止の時はサイレンを断続的に鳴らし続けろ。私達が拘束されたら、作戦開始の信号弾を撃て。敵部隊が小学校に向かったら、鐘を鳴らせ。そして、私か吉崎さんが両手を挙げたら信号弾を撃て」
「できるか。間違えると、戦争になるかもしれん」
「はい」
「復唱しろ」
康治は冷静に復唱した。
「監視塔の隊員に協力してもらえ。一人ではできん」
「はい」
「行け」
舞子が部屋に戻って来た。
「母さん」
「なに」
「すまん。帰ってこれないかもしれない」
「わかってる。大丈夫。後は任せて」
「ん」
「お兄ちゃん」
「えっ」
子供が出来てからは、父さん、母さんの呼び方になっていた。お兄ちゃんという呼び方はもう古い記憶にしかない。
「私、幸せだったよ。お兄ちゃんは約束を守ってくれた。ありがとう」
「ああ」
「でも、帰ってきてね」
「ああ」
康平は舞子を残して部屋を出た。さっさと歩ければいいのだが、歩みは鈍い。軍人としては様になっていないと自嘲した。限界だ。本当に、帰ってこれないかもしれない。
荷車に乗って橋を越え、敵の前線が見えた所で、康平は荷車を降りた。
「あとは、歩きます。ここで、戻ってください」
危険を冒して荷車を押してくれたのは、全員が康平よりも年長者だった。
「吉崎さん。肩を貸してくれませんか」
康平は吉崎の力を借りて進んだ。
吉崎の笑い声が聞こえた。
「吉崎さん」
「いえね。一秒後には死ぬかもしれない場所を歩いているのに、急に楽しくなってしまいましてね。変ですね。でも、笑えてくるんですよ」
吉崎は緊張の境界線を越えてしまったようだ。戦闘などには縁のなかった人なのだから、仕方がない。
「あなたも、ここの皆が好きなんですね」
「この川面城もね」
「私も、です」
ゆっくりとした速度だったが、二人は会議場の建物に近づいた。建物の前には、宮部を中心にして15人ほどの人間がいた。兵士は銃を上げて二人に向けている。
康平は吉崎の肩から手を外して前進した。疲労で足が笑っている。建物まで辿りつけずに、康平は地面に座り込んでしまった。
「兵頭さん」
「大丈夫。水を貰えませんか」
吉崎から水筒を渡されて、ゆっくりと水を飲んだ。宮部達が近づいてきた。
「武装解除に応じるんですか」
宮部の声は硬かった。
「その積りですが、その前にお願いがある」
「お願いは聞けません。先ず、武装解除するように伝えましたよね」
「わかってます。少しだけ、話を聞いてください。5分でいいですから」
「5分ですよ」
「ありがとうございます」
康平は、もう一口水を飲んだ。
「あなた達の物資は、あの小学校にあります」
指揮官と思われる軍人が息を飲むのがわかった。
「あの物資を、全て破壊する用意ができています」
指揮官が動いた。
「待ってください。動かないで。あなた達が動けば、すぐに破壊します。その前に話を聞いてください」
「私達の目的は、あなた達の物資を破壊することではありません。話し合いをするためです。ガソリンや食料、銃弾がなくなれば、楽な戦争はできないでしょう。ここは、話し合いをしませんか。私達は戦争がしたいのではありません」
「それと、ここは私達の地元です。私達には地の利があります。あなた達の監視だけではなく、トラップもありますし、私達には武器もあります。簡単には勝てないでしょうが、補給物資のないあなた方が相手なら勝つ自信があります。でも、こちらにも大きな犠牲が出ますから、戦争は望んでいません。話しあって平和的に解決したいのです」
「平和的だと。これは、脅しだ」
「その通りです。申し訳ない。できれば、最初からフェアな話し合いができればよかったと思います」
しばらく、敵の相談が続いた。
「話し合いをしてもいい。その前に、破壊できるという証明をしてもらう」
「ただの、脅しだと」
「だから、証明してみろと言うんだ」
「残念ですが、証明のしようがありません。合図をすれば、一気に制圧、破壊をします。これだけの軍隊を前にして、ゆっくりと行動する時間はありません。もし、私の言っていることがブラフだと思うのなら、私達二人を殺してしまえば済む事です。戦争を始める権利を阻止することは、私にはできません。あなた方が決める事です」
また、相談が始まった。康平達を敵だとすると、敵を前にして相談事をしている軍隊は軍の資質を欠いていると言ってもいい。本物の戦争をしたことのない、作りたての軍に過ぎない。制服を着せ、武器を持たせれば軍隊になったと思っているのだろうか。
「あんたの言い分を聞こう。中に入ってくれ」
「申し訳ない。私が建物に入るのも、合図になってしまいます。私達が拘束されたり、殺されたり、あなた達が行動を起こすことも合図になりますが、建物に入ることも合図になっているんです。ここで、お願いします」
「・・・」
「すみません。服が汚れますが、座ってもらえませんか」
宮部と若い背広と指揮官が、不満な顔で地面に腰を下ろした。
「少しだけ、部隊を下げてくれませんか。こんなに身近で銃を向けられていると落ちつきません。お願いします」
宮部が不機嫌な顔で顎をしゃくる。指揮官も怒りを含んだ声で「下がれ」と命令した。
「さて、話を始める前に」
「まだ、何かあるのか」
宮部は本気で怒っている。
「宮部さん。あんた、ほんとに話し合いをする気、あるんですか」
康平は、低い声と鋭い目付きで宮部の目を見た。
「何です」
「細貝という男が、拘束されています。そうですね」
「ああ」
「もしかして、殺してしまったんですか」
「いや」
「細貝を解放して下さい。これは、当然のお願いですよね。我々は話し合いを始める訳ですから」
「わかった」
また、宮部は不機嫌な顔で指揮官を睨みつけた。指揮官は兵を一人呼びつけ、捕虜を連れて来るようにという命令を出した。
少し時間がかかったが、銃を突きつけられた細貝がやってきた。
細貝は姿勢を糺して、康平に頭を下げた。自分が何をしたのか、何をしなかったのか、細貝にはわかっているようだった。
「城へ戻れ。三浦が小学校を包囲してる。お前は、戻って指揮をしろ」
「はい」
「待て。戻っていいとは言っていない」
「そうですか。だったら、この話し合いはなかったことにしましょう。あなた方のやり方には、これ以上付き合えない。私も、戻ります。殺したければ殺しても構いません。その覚悟はできてますから。帰りましょう、吉崎さん」
康平は重い体を持ち上げようとした。
「待て。解放してやれ」
細貝が城に向かって小走りに立ち去った。
「これで、いいな」
「宮部さん」
「まだ、あるのか」
「そろそろ、対等な関係を作りませんか。あなた達のアドバンテージは、私達2人の命だけですよ。なぜ、そこまで、強圧的になるんですか。お互いに相手を尊重して、真摯な話し合いをしなければ、何も前には進みませんよ。もう、あなたの後ろにいる武装集団は圧力にはなりません。一週間もすれば、皆、飢え死にするんです。兵隊に聞いてみてはどうです。何人の兵が、ここに残りたいと思っているか」
宮部の目は、怒りから不安へと変わった。
「東京まで、歩いて帰るのですか」
「・・・」
「ここで、戦争をして、たとえ、勝ったとしても、どんな成果を報告するんですか。ここの住民は最後の一人まで戦いますよ。一つの村を皆殺しにしたことが成果になりますか。あなたの目的は、人殺しではないでしょう。この村の住民も国民にしたいのではありませんか。それも、一生懸命働いてくれる国民に」
「・・・」
「戦争をすれば、死者も出ますし、負傷者も出ます。車両もなく、遺体や負傷者をどうやって東京まで連れて帰るのですか。置き去りにするんですか。争って得をすることなど、どちらにもないんです」
康平は兵隊たちにも聞こえるように大きな声を出していた。
「最後は、私達も売られた喧嘩は買うしかなくなります。私は、なんとか、平和的に話し合いをしたいと思っているんです。話し合いはフェアで対等なものでなくてはなりません。私達は、物資を押さえたことをアドバンテージにはしません。必要な食料はお渡しします。誰も死なず、帰り道のガソリンもあり、この村の住人を国民として登録できる。それが、あなたの仕事だと思います。そうでないのなら、今からでも戦争を始めましょう。私達には戦う覚悟があります」
「わかった」
「宮部さん」
「・・・」
「あなたと私の間には、まだ何の信頼関係もありません。友達でもありません。私なら、わかった、と言わずに、わかりました、と言います。違いますか」
「わかりました」
「ありがとうございます。先ず、名前を名乗りましょう。私は兵頭といいます。吉崎は自己紹介してますか」
「はい」
「宮部さんのお名前は知っています。お二人の名前を教えてください」
「内藤です」
若い背広の男の名前が内藤だとわかった。
「久保田です」
「久保田さんは、この部隊の指揮官ですか」
「そうです」
「私は、この村の守備隊の隊長をしています。職業はあなたと同じです。私は、これまでに多くの人間を殺してきましたし、部下も死なせました。もう、自分が殺すのも、部下が殺されるのもご免です。平和でありたいと願っています」
「はい」
「では、最初に私達の希望をお伝えします。よろしいですか」
「はい」
「宮部さんは国の代表だと言っておられたと思いますが、国の名称は何ですか。どんな理念を持った国なのですか。当然、憲法があると思うのですが、まだ、私達はその条文を見ていません。また、どうやって、憲法が制定されたのかも知りませんので、教えていただきたい。次に、憲法には書かれているのでしょうが、国の義務は何ですか。そして、国民の義務は何でしょうか。最後に、この国が、こんな状態になってしまったことの総括はできているのでしょうか。その反省に立った憲法になっているのでしょうか。ここの住民は日本崩壊の原因を知っていますので、同じ間違いは繰り返したくないと強く願っているのです。もう一つ、付け加えるなら、私達の声は反映されるのでしょうか。これが知りたい事と望む事です。では、宮部さんの要求を聞かせてください。武装解除をして、あの城を占拠して、その後に話そうとしていたことは何でしょうか」
宮部は予想に反したことを言われて、思考停止になってしまったのか、口を開かなかった。
「宮部さん。あなたの要求です。お願いします」
「ああ、前回も言いましたが、国勢調査です」
「それだけですか」
「納税のお願いもします」
「その数字はお持ちですか。概略で結構ですが」
「出来れば、我が国は建国途上ですから、収穫の半分をお願いしたい」
「半分ですか」
「最終的には、調整が可能です。あくまでも、これは概略です」
「宮部さんは農作業をしたことがありますか」
「いえ」
「大変な仕事です。農民にとっては、収穫が一番の喜びです。それを半分納めるのであれば、当然、それに見合うものがあるということですよね」
「・・・」
「すぐに、各論の話し合いに入れますか」
「いや」
「用意するのに、何日かかりますか」
「いや、それは」
「では、次の話し合いは、いつにすればいいのですか」
「追ってお知らせするってことで、いいですか」
「わかりました。ご返事を待ちます」
「よろしく」
「ところで、久保田さん」
「はい」
「私達は、これで引き上げますが、不測の事態を防ぐために、小学校の人員を引き上げていただけますか」
「引き上げる」
「あとは、私達の管理に任せてください。食料はきちんと渡しますから。いいですね」
久保田は宮部の顔を見た。最終判断は宮部にしか下せないようだ。
「一人だけ、伝令を認めます。吉崎が一緒に行けば、攻撃は受けないと思います。吉崎さん、行ってくれますね」
「もちろん」
宮部の思考が混乱している間にたたみかける。このチャンスを逃す手はないと思った。
宮部が頷いた。
吉崎が行った後で、康平は宮部に別の質問を投げかけた。
「今、この国には何人ぐらいが生き残っているんでしょう。少なくとも、この近辺では人の姿は見ませんが」
「それは、まだわかりませんね」
「予想でも、結構です」
「3000万人と考えていますが、もっと少ないかもしれません。私の担当は関西地区ですが、予想よりは少ないと思っています」
「関西地区の全域を回っているのですか」
「まだ、一部だけです」
康平は、宮部の仕事に関する質問を次々と口にした。現実に起きていることを深く考える時間を減らしたい。吉崎が戻ってくるまでは。
ほぼ1時間近く質問攻めにした頃に吉崎が戻って来た。
「宮部さん。私達は戻りますが、次の話し合いの日時が決まりましたら、ここで何らかの合図をしてください。私達はいつもここを見ていますから」
康平は吉崎の手を借りて立ち上がった。しかし、すぐに歩けたわけではない。足の感覚がなかった。吉崎に抱きかかえられるようにして城に向かった。半分意識を失っていたのかもしれない。
気がついた時は、診療所で寝ていた。
遠藤医師が横に座っている。
「先生」
「気分、悪いか」
「いえ」
「そうか。気分悪かったら、遠慮するな」
「はい」
「入っていいぞ。ただし、5分だけだ」
浅井と吉崎、そしてまだ硬い表情の細貝が部屋に入って来た。
「細貝。爆薬はどうした」
「三浦さんに届けました」
「そうか。それでいい。誰か、敵との連絡係を選べ。食料の受け渡しが必要になる。他にもあるだろう」
「康治君でも、いいですか」
「それは、お前が決めることだ」
「はい」
「吉崎さんから、話は聞いたな」
「はい」
「そういうことだ」
「兵頭さん。ありがとうございます」
浅井が、康平の手を握って頭を下げた。
「いや、これは、守備隊の失敗です。交渉するのに、何もなしであなたたちを行かせた守備隊に責任があります。そうだな、細貝」
「はい。すみません」
「交渉する時は、力を見せつけてやるものだと。そのぐらいは、細貝にはわかっていると思っていた私のミスでもあります。ともかく、振り出しには戻した。後は、浅井さん、お願いしますよ」
「はい」
「時間だ、そのぐらいにしておいてくれ」
遠藤医師の一言で、三人は部屋を出ていき、入れ替わりに舞子が入って来た。
「おかえり」
「ああ」
康平は、また吸い込まれるように眠ってしまった。
三日後、薄く目を開けた康平に家族の顔が見えていたのかどうかはわからない。小さな笑みを浮かべて、頷いたように見えたが、それが最後だった。
「いい顔してるじゃないか。痛みがなくて、よかった」
遠藤医師の言葉に、残された家族3人は頷いた。
同じ日に、話し合いを一度もせずに、宮部と政府軍は川面城を後にし、東京へ戻って行った。
二日後。
浅井の発案で兵頭康平の葬儀が行われた。援助隊が四苦八苦して作った棺桶に入った康平の遺骸は、小学校の校庭に組まれた櫓の上に安置され、火葬にされる。甲子園城にいた頃、それも初期の段階で二度ほど火葬の経験はあったが、燃料不足により土葬しかできなかった。だから、40年ぶりの火葬ということになる。川面城の住人全員が校庭に集まった。病人も担架に乗せられて、医療班と一緒に参列している。
約70名の守備隊が整列し、小銃による礼砲を合図にして、大勢の住民が手にした松明で櫓に火が移された。次第に火の勢いが強くなり、青空に炎と煙が昇って行く。こんな贅沢を本人は望んでいなかったと思われるが、浅井の強硬な主張は止められなかった。止めることが出来るとすれば、生きていた頃の兵頭康平ぐらいではないかと思われる。
浅井は、甲子園城と川面城という40年の歴史が終わったことを、住民全員の胸に焼き付けて欲しいと主張した。兵頭康平の葬儀を、その象徴にする。それを、新たらしい川面城の第一歩にしたいと、熱心に説いて回った。



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甲子園城 [短編]



 西暦二千四十六年十一月一日。
世界が日本崩壊の年として認定している二千二十六年から二十年の歳月が流れていた。
崩壊当時、世界中が大混乱に陥ったが、世界は数年でその状態を乗り越えた。
日本は国家機能を失っただけではなく、あらゆるものを失い、世界から隔離されたままだった。国連やIAEAによる調査で推定人口は2000万人と発表されていたが、それは衛星写真による調査に過ぎず、人口の詳細は誰にもわからない。まだ、世界地図上に存在している国家らしき存在ではあったが、日本に関するニュースは全く見当たらない。国連から年に一回発表される放射性物質の観測値だけが、ニュースと言えばニュースだった。

岩倉舞子は監視塔の階段を昇った。任務だと割り切っていても、どこかで重さを感じている。母親は「いつか、きっと」と言っていたが、この先に、生きていてよかったと思える日が来るという確信が持てない。五年前に亡くなった母親を羨ましいと思う気持ちもあった。父親が守備隊の隊長をしていることで、無形の圧力もある。隊長の家族だという責任感だけで生きることにも疲れている。でも、そんな気持ちは間違っても表には出せなかった。舞子は、十年前まではよく笑う明るい子供だった。この城に来たのは五歳の頃だったから、それ以前の記憶はそれほど鮮明ではなく、城の生活が当たり前の生活だと思っていた。しかし、一番仲の良かった大川由紀とその母親が、父親に殺された頃から舞子の笑顔は失われた。「未来なんかない」と叫び続けていた由紀の父親は、錯乱状態になって自分の頭を銃で撃ち抜いて死んだ。その叫び声は、大勢の人の心を揺さぶった。舞子自身も無意識ではあったが、未来とか将来を考えないようにしていた自分の気持ちに無理矢理気がつかされることになった。今では、自分達がどんな状況下で生きているのかは、はっきりとわかっている。由紀の父親がどんな気持ちで無理心中したのかもわかる。それでも、生きていくしかない今の境遇は重かった。それは、舞子だけではない、城の住人に共通の重さでもあった。
監視任務は、特に冬場は辛い仕事だが、まだ極寒にはなっていないのが救いだった。階段の踊り場には正美が先に来ていた。二人とも声を出さずに手を挙げて挨拶をした。微かな月明かりしかないが、暗い階段の踊り場でも苦労せずに動くことができるのは、やはり監視任務に慣れたせいなのだろう。舞子は無言で正美の横に腰を下ろした。
直ぐに足音がして班長の山崎雪乃がやって来た。洋子は今日も遅刻するのか。洋子はまだ十二歳で、何をするのにも動作が遅く、遅れてくることもしばしばだった。それでも、洋子は監視任務にとって重要な存在だった。それは、誰よりも夜目が利く能力によるもので、十五歳になる前から監視任務を命じられている。舞子も正美も今年で二十五歳になった。雪乃は多分十歳ほど年上の筈だが、正確な年齢はわからない。
四人一組の監視役が六組あり、切れ目なく監視が続けられている。夏の暑さと冬の寒さ、そして四時間の監視には体力が必要であったので、若い女の重要な任務になっていた。
しばらく待つと、洋子が昇って来た。
「行くよ」
雪乃が洋子を抱えるようにして階段を昇り、舞子と正美は後に続いた。舞子は冷たい風に身を縮めた。監視塔は四方が解放されているので、直接の風がぶつかってくる。
雪乃が鈴村多恵から「異常なし」という申し送りを受け、鈴村班の四人が無言で階段を降りて行った。
この南監視塔は東側と西側、そして南側の監視をする。北側にある監視塔は主に北側だけの監視をすることになっていた。
二十年前までは、甲子園野球場と呼ばれ、ここで高校野球が行われ、高校球児にとっては憧れの聖地だったらしい。だが、今ではそのことに触れる者は誰もいない。遠い記憶というより、記憶として残っていないと言った方が正しいのかもしれない。野球というスポーツがどんなものだったのか、舞子の年代では知らないものの方が多い。
この二十年間、余りにも過酷だったことが人々の記憶を遠いものにしてしまったし、かつてのグラウンドも観客席も住人の施設になり、粗末ではあったがいろいろな建物も建っていて、野球場の面影は失くしていた。そこは、甲子園城と呼ばれ、住人の生命を守る砦となっていた。
舞子は所定の場所に立った。異常はないように見える。雲が出てくれば漆黒の闇になるが、まだ月明かりはある。でも、遠くで動く人影は肉眼で確認することは不可能だった。人工の光源は、城の中にも、外にもない。電気もガスも水道も供給されていないし、どこを探しても乾電池の在庫が残っているとは思えない。もし、乾電池が残っていたとしても、自然放電で残量は少なくなっているだろう。あらゆる生産が停止してから二十年が過ぎているのだ。城の住民も乾電池を捜す行動は既に諦めたし、手動で光るライトも動作しなくなっていた。
監視は、二人が一組になって、決められた場所に立って一時間交代で続けられる。
班長の雪乃が時計を確認して指示を出した。時計として機能しているソーラー時計は城の共有財産になっている。電池式の時計が次々に動作しなくなった時に、本部が全住民から時計を徴収し、共有財産とした。監視隊の班長が持っているのは、そのソーラー時計だった。しかし、ソーラー時計も故障すると修理技術がないので使えなくなる。城では、水時計が実験中だった。
この数年、城が襲われた事はなかったが、監視任務が中止になることはなかった。以前は武装した強盗団が襲ってきたこともあったらしいが、舞子の記憶には暗い部屋に閉じこもっていた記憶しかない。最近では城の外で、住民以外の人間を見たこともない。それでも、厳重な警戒態勢を維持しているのは、過去にそれだけの危険があったからだと父が言っていた。
監視任務も残り一時間になった。雪乃と洋子が監視に立っている。
「雪乃さん」
洋子が雪乃を呼んだ。その声に緊張感がある。舞子も正美も立ち上がった。
「あそこ」
目を凝らして見たが、舞子には闇しか見えない。
「何人、いるの」
「五人、ぐらい」
雪乃は舞子と正美の方を見た。舞子も正美も首を横に振る。
「念のため、北と本部に連絡」
「はい」
舞子と正美は、連絡用のロープに向かった。足元に置いてある石を持ち上げ、金具に紐をかけて石を放した。北側の監視塔と、真下にある本部の方から金具が鳴る音が聞こえた。舞子はロープを持って返事を待つ。暫くすると、ロープを動かす返事が返って来た。
「連絡、終わりました」
舞子と正美がほぼ同時に報告した。
「了解」
雪乃は七時の方向を見たまま返事をした。まだ、雪乃の目では見えていないようだ。人影があると言われて見続けていると、何か動いているような気がしてくるが確信は持てなかった。
五分も経たずに複数の足音が聞こえ、三人の男が監視塔にやってきた。
「どこだ」
「まだ、洋子にしか見えません。七時の方向に五人ぐらい見えるそうです」
男達も眼を凝らしたが、誰の口からも言葉はなかった。
「洋子。動いているのか」
雪乃の弟の兵頭康平が落ちついた声で洋子に声をかけた。康平は守備隊の副官をしている。
洋子は首を横に振った。
「そうか。いるのは、大人ばかりか」
「はい」
「女は」
「いない。と思う」
「動きがあったら、頼むぞ」
「はい」
康平は、二人の男に向き直った。
「レベル3にする。本部に全員集合。伝令は直ぐに持ち場につけさせろ」
「はい」
二人の男が階段を駆け下りていった。
「雪乃。全方位を監視しろ。一カ所とは限らん」
「はい」
洋子を除いた三人は、七時の方向ではない方へ監視の目を向けた。
何の動きもない。背後で城の中のざわめきだけが聞こえる。
「来た」
洋子が声を出した。
「南十番の建物の陰に、男、五人」
甲子園城の周囲に木造建築の建物はない。全て城内の燃料になったか、燃料倉庫に保管されているかのどちらかになっている。木造建築を破壊した目的は燃料の確保だけではなく、田畑の面積を増やす目的もあった。従って、残っている建物はコンクリートの建物で、その建物には全て識別番号がつけられていた。
「南九番に、一人だけ。西に二人、東に二人、動いています」
まだ、洋子以外の人間には見えていなかった。
「東六番に一人」
雪乃の緊張した声が聞こえた。まだ、舞子と正美の目には見えていない。
「南八番に一人」
康平の目にも見えたようだった。
「西六番に一人」
正美が報告した。
「西三番に一人」
舞子も確認して報告した。
「東五番に一人」
雪乃が最後の一人を確認した。
「全員、男か」
「男です」
山崎班の全員が返事をした。洋子の目が確かだったことが証明された。
康平は監視塔の隅にある伝声管へと向かった。
「男、五人、五か所に分散。斥候と思われる」
城内での非常時の通信手段は、鉄パイプを利用した伝声管が使用される。特に夜間は他に通信手段がない。本部に情報が届くまでには五カ所の中継点を必要としたが、その方法が一番確実だった。
「東五番の男、畑に侵入」
「西六番の男、畑に侵入」
「東五番、西六番、畑に侵入」
康平が伝声管に向けて報告する。ただの野菜泥棒なのか。でも、男達の動き方には統制が取れているようなものがある。康平は、斥候だと報告した内容を、まだ変えるつもりはなかった。
緊張した時間は二十分ほどで終わった。城の外にも、監視塔にも、いつもの静かな夜が戻っていた。
「引き続き、監視を頼む」
康平が監視塔から降りていった。

朝になって、鐘が鳴らされ、城内の警戒は一気にレベル5に引き上げられた。レベル5は戦闘態勢である。レベル5になったのは、十年以上昔だと聞いている。
眠る暇もなく、舞子は城の外壁へと向かった。山崎班の守備範囲は南側の30番から39番まで。うず高く積まれている石やブロックは城の外壁に近よって来た敵の頭上に落とすための物で、ほとんど力仕事と言ってもいい。女は家の中で待っているという時代ではなかった。特に若い女は前線に配置される。食料の用意は年配の女性が担当し、前線への物資補給は十五歳以下の子供が担当した。
監視塔は指令所になり、監視も強化され、武器を持った男が所定の場所に立った。
舞子の父親は守備隊の隊長をしている。二十年前、父は自衛官で、伊丹の第36普通科連隊に所属する一尉だった。上官である石田友三郎一佐が作った計画書に従って、甲子園球場を城にする計画に参加した。約百人の自衛官が、統制の取れなくなった自衛隊を出た。当時、自衛隊も暴動の鎮圧に出動していたが、たとえ軍人であっても女子供がいる民衆に銃を向けることに強い抵抗があった。だから、石田一佐の計画書は、多くの自衛官の賛同を得た。国の命令に従わないのだから反乱軍になるのだが、中部方面総監部は石田計画に目を瞑り黙認する姿勢を見せた。幕僚長でさえ、間違っているのは政府であり国民ではないと公言していたために、暴動の鎮圧という任務は有名無実のものになっていたのである。
まだ、ガソリンがあった時代なので、武器弾薬を始め多くの資材が甲子園球場に運ばれた。それだけではなく、石田計画は二十年後、五十年後を見据えていた。現在の甲子園城で一番多いのは農業に従事する人達で、自衛隊出身者は100名にも満たない。甲子園城を一つの国に例えるなら、農業国である。守備隊はその農業を守るために存在している。なぜなら、一番大切なものが食料だからである。強盗団や夜盗が増えることも想定されていたし、食料や燃料がなくなることも当然のことと捉えていた。電気やガソリンに頼っている機器が使えなくなるのは当然だったので、手動で使える工具類が集められ、大学や高校を回って弓矢を集めることも行われた。銃器が使えなくなる日が来ることも計画書には書かれていた。民間企業が存在しなくなれば、どんな部品も弾薬も補充できなくなるのは当たり前のことだが、そのことに気付いた人は少なかった。石田計画で手がつけられていない分野は漁業だったが、それはこれから開発しなければならない。石田計画は栄養学の見地から作られたのではないかと思われるほど、人間が必要とする栄養素に拘っていた。
その石田友三郎は十二年前の強盗団との戦闘で死亡、守備隊の責任者は舞子の父親の岩倉孝蔵が引き継いだ。孝蔵は漁業の村を作るべく、何回も調査に出かけていたが、まだ実現していない。動物性タンパク質は鶏肉だけに頼っていた。
甲子園城の住人は、危険があるために城の近くにしか出ない。その場合も、必ず守備隊が警護に就く。遠出をするのは薬草を捜しに行く医療班か、漁業調査をする守備隊だけだったが、甲子園以外の地域がどうなっているのかは彼等が見たり聞いたりする範囲に留まっていた。その中に京都に本拠を置く誠心会と呼ばれる強盗団の話だけはいつも話題になった。今回、戦闘態勢をとったのは、その誠心会のことがあったからのようだ。食料の供出を強要され、それを拒んだ村は皆殺しにされると恐れられている。未だに銃器が使われているということは、自衛隊出身者が関係している団体かもしれない。
午前中は静かに過ぎた。それは、いつもある日常の一日と変わりがないように思えた。しかし、昼過ぎになって南東方向に人影が現れ、次第に数え切れないような人数になった。その中心には馬に乗った人間が十人ほどいる。誠心会は、馬で蹂躙するという話もあった。
白旗を持った人間が一人だけ、馬で近よって来た。
兵頭康平が城を出て対応した。
「話し合いがしたい」
誠心会の男は防弾チョッキを身につけ、小銃を背中に背負っていた。男は馬を下りずに大声で宣言した。
「何を話し合うのだ」
康平は何の武器も持っていないし、汚れた作業服姿だった。
「お前が代表なのか」
「そうだ」
「もう少し、まともなのは、おらんのか」
「残念だが、私が話を聞く」
「要求は、二つある」
「・・・」
「蓄えの食料を半分だけ、譲ってもらいたい」
「・・・」
「そして、ここの責任者の身内を、預からせてもらう」
「わかった。その二つでいいんだな」
「いい子だ。それで俺達は引き上げる」
「ただし、こちらにも、一つだけ条件がある」
「何だ、言ってみろ」
「お前が、あそこにいる人間、全員を殺してこい。そうすれば、今の条件を呑む」
「なに」
「条件とは別に、助言がある。このまま引き上げろ。それがお前達のベストの選択だ」
「俺達が誰か、知らんのか」
「いや。知っている。誠心会という名の弱い者いじめが好きな弱虫だと聞いている。だが、誠心会もこの甲子園で終わりになる」
「貴様」
男が銃の皮紐に手を持っていった。
「やめとけ、お前のその貧弱な頭は何人もの銃で狙われている。白い旗で守られているなどと勘違いするなよ。お前を殺していないのは、ただの情けに過ぎん。とっとと逃げ出せ」
そんなやりとりが行われている時に、赤い旗がセンターポールに挙げられた。敵から見れば戦闘開始の旗に見えるかもしれないが、それは全員退避の旗だった。
「退避」
雪乃の一声で、舞子達は走った。何度も何度も訓練をした事なので、守備位置についていた全員が速やかに退避した。急に地球上から音が消えてしまったような静けさがやって来た。
康平は指令所になっている監視塔に戻って来た。言いたいことを言ってこいと言われて交渉役に任命されたが、もっとやり方があったのではないかと思った。
康平は隊長の岩倉孝蔵の前で頭を下げた。
「すみません。すこし、言いすぎました」
「あれで、いい」
「はあ」
「あいつらは、何をしに、来た」
「食料の調達です」
「ここでは、食料が余っているのか」
「いえ」
「あいつらに、半分の食料を渡せば、この先一年、皆は何を食べればいい。我々が餓死すればいいのか」
「いいえ」
「ここにいる人達は、必死で作物を作っている。あいつらは、暴力でその貴重な作物を出せと言っている」
「はい」
「今回、食料を渡せば、あいつらは二度と来ないのか」
「いえ」
「一度暴力に負ければ、何度でも、永遠に、負け続けることになる。どうやって、生きていけばいい」
「はあ」
「こちらが、どんな対応をしても、同じ事だ。あいつらは、力で、暴力で、我々をねじ伏せようとする。戦うしかないんだよ。ここにいる人達を守るために、私達はいる。それが、守備隊の仕事じゃないのか」
「はい」
「あいつらの態度は自信に満ちている。どうしてだ」
「・・・」
「それだけのものを持っている。銃はもちろん、重火器もあると思わなくてはならない。守るのは簡単ではないだろう。だけど、暴力に負ければ、全てを失う。最後には心までも失うことになる。守備隊全員の命を張ってでも、住人を守らなければならない。それが、出来ないなら守備隊など、いらん。私達は一粒の米も作ってはいない。住民を守れなければ、我々はただの寄生虫になる。そう、思わないか」
「思います」
「戦うしか、他に道はない。そして、最後には勝たねばならない」
「はい」

暫くすると、キュルキュルキュルという音がして、近くで爆発音がした。舞子達は耳を塞いだ。守備隊の男の人が、迫撃砲だと言った。
「大丈夫です。ここにいれば心配ありません」
何発もの爆発音がやんで、また静寂が来た。しかし、何かが匂う。普通でない音もする。守備隊の男が駈け出していった。
「外で火災が起きていますが、旗は赤のままです。動かないでください」
粗末な家だったが、家の中にはそれなりに大切なものもある。それは、誰でも同じ思いだっただろう。それでも、動く者はいなかった。住民は自分を主張すれば生きていけないことを肌で知っている。本部が住民個人のことではなく住民全体のことを考えていることは、この二十年間で証明されている。城の中には裁判もあり、禁固刑こそなかったが、有罪になれば追放だった。追放は死を意味する。それは、個人にとっては強制でもあり、統制でもあったが、全体が生き抜くためには欠かせないものであると知っていた。ここでは、誰も個人を主張しなくなった。生き延びるためには、そうするしかなかったのだ。
十分ほど過ぎて、再び迫撃砲の爆発音が聞こえてきた。

迫撃砲弾は監視塔にも着弾し、守備隊の隊員が二人負傷して医務室に運ばれた。司令部は監視塔の下の階にあったが、直撃弾が来れば司令部が崩壊する危険もあった。だが、隊長に動く気配はない。通信網や電子機器がある訳ではないので、戦闘状況を直接把握できる場所にいなければ指示など出せない。監視に二人、司令部に四人、伝令に五人の兵士が、砲弾の危険の中にいた。
「前進してきました」
監視塔の隊員が声を上げた。
「敵の武器を確認しろ」
隊長は机の上に手書きの地図を広げて、睨みつけている。
「四時の方角に、ロケット砲らしき銃器を持った人間あり」
「六時の方角。ロケット砲を二台確認」
手動の重火器は、全てロケット砲と呼ぶことになっている。それが、無反動砲であれ、スティンガーであれ、甲子園城の外壁を突き破ることになる危険度は同じだからである。日頃から、出入り口は東側と西側にあるだけであり、その他の出入り口は土盛りをして、瓦礫を積み重ねてあるので破られることはない。通常の出入り口も土嚢の積み上げが完了した。しかし、外壁に重火器で穴を空けられれば、そこから侵入を許すことになる。城内への侵入を許せば、時間の問題で制圧されるだろう。
「四時方向の砲、一番。六時方向の砲、二番と三番。それぞれ距離の報告」
「一番。距離、500」
「二番、三番。距離、500」
「200まで、待て」
隊長が伝令の二人を呼んだ。
「この戦いに住民の防衛隊は使えない。ただし、住民には自分を、自分の家族を守ってもらわなければならない。銃が扱える人には、銃を持たせるように指導員に連絡。各指導員には住民を最後まで守ることに全力を出してもらいたい」
「はい」
二人の伝令が司令部から飛び出していった。
「黒崎君」
「はい」
「敵の人数の確認と、銃器の数を確認してくれ。上の二人には距離の確認に専念させるように」
「はい」
副官の一人である黒崎大悟が階段を昇って行った。
「兵頭君」
「はい」
「守備隊から二十名選抜して、敵の背後に回ってくれ」
「はい」
「充分な武器と弾薬を使って、よし」
「はい」
隊長は司令部から走りだそうとする兵頭康平を呼び止めた。
「この戦いを、君はどう見る」
「かなり、危ないかと、思います」
「その程度か」
「いえ。敵が城内に入れば、負けます」
「その通りだ。それがわかっていればいい。それと、我々は軍隊ではない。交戦規定もない。我々が勝つためには、相手を皆殺しにしなければならない。生き残りが、次回の攻撃をしてくれば、防ぐことはできないだろう。だから、君が敵の司令部を制圧したら、全員にとどめを刺せ。相手が武器を捨て、両手を上げても、射殺しろ」
「はい」
「頼んだぞ」
「はい」
隊長は残っている三人の伝令を呼んだ。
「今、判明しているだけでも、ロケット砲を持っている敵が三人いる。距離200になったら、その三人に向けて一斉射を行う。各班は、そのターゲットをしっかりと見ておくように。ロケット砲を撃たせてはならない」
「はい」
三人の伝令も指令所を飛び出していった。
「間宮さん。何か助言はありませんか」
「最後の攻防戦は一階ですよね」
「そうなるでしょう」
「そこの指揮を、私にとらせて頂きたい」
「自分が行くつもりです」
「司令部を空にして、ですか」
「司令部を移せば、いいのです」
「駄目です。私にも黒崎にも、あなたのような判断はできない。あなたには、最後まで命令を出し続けてもらわなければならないのですよ。戦闘員が一人もいなくなった時、あなたは、自由に戦ってもいいのです。それが司令です」
指揮官が戦死した場合は、副官が指揮を執る。副官は三人いるが、その順番も決められていた。兵頭が別働隊で出ていったので、二人がその責務を負うことになる。間宮は自衛隊でも上官だったし、年齢も五歳ほど上だったが、石田友三郎が死んだ時に間宮は隊長を受けなかった。岩倉孝蔵は、自分で進んで隊長を引き受けた訳ではないが、石田計画に最初から参画していたので、何としても石田の構想を実現し、民族の生き残りを成し遂げたいと思って、隊長の仕事を受けた。
黒崎が戻って来た。
「敵の数、およそ200。自動小銃50、小銃は約50以上。拳銃は不明です。その他の者は日本刀で武装しています」
「そうか。三台以外にロケット砲は見えないか」
「はい」
黒崎の報告直後に監視塔から大声がした。
「砲、一台発見。りゅう弾砲と思われます」
「なに」
司令部の全員が立ち上がった。岩倉も司令部の小窓から覗いた。敵の司令部の前面に砲が出てくるところだった。確かに105ミリりゅう弾砲のようだ。ガソリンの備蓄がまだあったのか。それとも、京都からあの砲を引いてきたということなのか。甲子園城は軍事施設ではない。小銃程度の火力であれば建物は役に立つが、砲弾に対しては無力に等しい。砲弾が大量にあれば、甲子園城を瓦礫に変えることも可能だろう。
岩倉は伝声管に向かって大声を出した。
「総員、西側に退避。総員、西側に退避。走れ」
「監視員、降りてこい」
「はい」
「ここの全員で、退避の誘導確認に走れ。行け」
岩倉を除く全員が飛び出して行った。敵がなぜ広い南側に展開したのか不思議だった。りゅう弾砲の射界が必要だったのだ。自分の甘さに腹立ちを感じながら、岩倉は敵のりゅう弾砲を見詰めた。これで、この戦いは決定的に不利になった。
敵はりゅう弾砲で攻撃して、突入してくるだろう。背後からの攻撃に出た兵頭班があの砲を無力化しないかぎり、籠城戦とはいえ倍以上もの敵に勝てる訳もない。
次々に司令部要員が戻って来た。
「伝声管の要員も退避させたか」
「はい」
全員が戻って来た。
「これからの戦闘の説明をする」
「はい」
「りゅう弾砲の攻撃の後に、敵の突入は始まる。主戦場は一階の着弾点になると思われる。黒崎班は、砲撃が終わり次第、60人で侵入の阻止をする。間宮班は15人で2階3階の守備をしてください」
「はい」
「私は、予備隊をつれて、兵頭班の援護に行きます」
予備隊というのは、怪我をしたり高齢になったりして兵士としての機能が減少した人達の集まりであり、守備隊の人数としては数えられていない。
「司令部は」
「もはや、司令部は機能しない。一階の司令部は黒崎であり、二階の司令部は間宮さんになる。一階と二階の連携もとれないと思うので、独自の判断でお願いする」
「自分が兵頭班の援護に行きます」
「いや、私が行こう」
黒崎と間宮が同時に立候補した。
「ありがとうございます。でも、これは指揮官としての命令です。皆さんの力を信じています。すぐに行動して下さい」
「はい」
「それと、兵頭にも言いましたが、勝利したとしても捕虜はいりません。わかりますよね。捕虜に与える食料はありません。餓死させるより、殺してやったほうがいいと思います。無抵抗の人間を殺すのは抵抗があるでしょうが、全員、殺して下さい。敵の負傷者は、速やかに射殺すること。これは、命令として受けてください」
「はい」
この戦闘ではどの任務も同じような危険度がある。それは、敵も味方も同じ条件だろう。負ければ、少なくとも守備隊の人間に生存者はいない筈だ。この時代、この過酷な条件は守備隊の全員が受け入れてくれると、岩倉は考えていた。
「解散する」
岩倉は最初に司令部を出て走った。2階の西側奥に、病人と年寄りが避難している。
「大山さん」
「おう」
岩倉は大山と五人の男の名前を呼んだ。六人は直ぐに部屋を出てきた。
「敵はりゅう弾砲を構えています。兵頭が20人をつれて回り込んでいますが、我々は兵頭班の援護に行きます。体調の悪い方はいませんか」
「大丈夫だ」
大山の答えに全員が大きく頷いた。
「急ぎます」
岩倉は六人の予備隊を連れて3階の武器庫に向かった。かつての上官もいれば、下士官だった人も岩倉より年長者だった。日頃は農作業に従事しているし、密かにトレーニングをしていたことも知っている。守備隊の任務を外された事に不満があったことも知っていた。
「体力に合わせて、銃弾を持っていきます」
「わかっとる」
銃の手入れは定期的に行っているので、外見だけを見て自動小銃を手にした。背嚢にカートリッジを詰める。多少重くなっても、弾切れになるよりはいい。既にベルトも拳銃も身につけている岩倉が、最初に準備を終わった。
六人の動作は老人のものではなかった。これなら、戦力になる、と少し安心する。
全員が部屋の前に立った。
「海岸沿いを迂回して、一気に走ります。遅れても構いません。但し、必ず追いついてください。正面に展開している敵は約200、砲のある場所には約50です。我々はその50を殲滅します。質問は」
「行こう」
六人の予備隊員の顔は、若い時を彷彿とさせる気力に満ちた顔をしていた。
まだ砲声は聞こえない。近くにいた人達に手伝ってもらって、西側の通用口にある障害物と土嚢をどけてもらって外に出た。背後で閉じられた扉を見た。この戦いに勝たなければ、二度とあのドアの中には入ることが出来ない。
岩倉は前を向いて走り始めた。

兵頭班は二号線まで迂回して東へ進んだ。足の速い三浦と佐藤が、小銃だけを持って先行している。少なくとも甲子園城の周囲10キロ圏内に生存者はいない。人影があれば、それは敵の見張りということになるが、全く誰とも出逢っていなかった。武庫川の手前で南に折れて走る。前方に三浦と佐藤の姿があった。兵頭達は出来るだけ足音を出さないようにして、二人に追いついた。
「二本向こうの道路に見張りが二人います」
「一カ所だけか」
「多分」
「二人は、我々が攻撃を始めたら、敵の見張りを制圧。合流してくれ。残りは、散会し、各自、見張りをよけて進む。集合場所は競輪場跡」
その時、砲声が聞こえた。
「なんだ、あれは」
何人かが同時に声を出した。
「敵には、野砲があるということだ。急がなくては、城に穴が開く。行くぞ」
兵頭班は、足音を殺し、見張りを迂回して競輪場を目指した。
競輪場に集合した兵頭班は、新たな斥候を出して、ビルの陰を走った。斥候の内村が片手を挙げて止まるように伝えている。敵の姿が見えたのだろう。その時、すぐ近くで砲の轟音が聞こえた。他の隊員をその場に置いて兵頭康平は走った。
りゅう弾砲の周囲にいる10人ほどの男達は砲兵だが、砲兵以外におよそ50人の武装した男達がいる。離れた場所に、10頭以上の馬がいた。城から見た時は馬に乗っていた男達がいた筈だが、馬が砲声に驚くのか、馬上にいる敵はいなかった。
康平は内村と共に戻った。
「内村班は、右手から砲兵だけを狙え」
「はい」
「山田班と佐伯班は左側から、敵の司令部を攻撃する。敵の人数はおよそ50。最初の攻撃で、少なくとも20は倒したい。残り30なら勝負になる。合図は佐伯班の銃声」
康平は佐伯班と一緒に近くのビルの裏側から侵入した。昔は事務所に使われていたようだったが、窓ガラスは割れ、机の上は分厚い埃で覆われていた。出来るだけ埃を舞い上げないようにして窓脇に取りついた。康平は、他の班が配置につける時間を計った。
砲兵が「発射準備完了」と大声を出し、全員が両手で耳を塞ぐのが見えた。「発射」の声で轟音がビルの壁を揺らした。排出された薬莢が、道路の上を走った。康平は双眼鏡を取り出す。城には既に三カ所の穴があいていた。
康平は佐伯の横に寄った。
「次に、砲手が手を挙げたら、撃つ」
康平は砲手の動きだけに目をやった。五人の男が動き回っている。監督官らしき男が、兵の報告を確認し、右手を挙げた。
「撃て」
佐伯班の六人と康平の銃が銃弾を吐きだした。山田班と内村班も銃撃を開始した。
康平達が優勢だったのは、ほんの数秒だったのかもしれない。敵の応射は機敏に行われた。
敵は瓦礫の向こうに回り、的確な射撃をしてくる。銃の数では、まだ敵の方がはるかに優勢であり、康平達が動きを見せれば集中砲火を浴びるようになった。
「退避するぞ」
このまま動きを封じられたら、背後に回られる危険もある。
佐伯班が背を低くして出口に向かった時に、ロケット砲弾が飛び込んできた。康平も爆風で倒されたが、傷は見当たらない。康平は出口に走った。だが、部屋の出口付近で佐伯班の二名が倒れていた。頭部が大きく損傷していて、二人が死亡しているのは明らかだった。
建物を出た場所に佐伯が蹲っていた。押さえている腹部から出血が見える。
「自分は、ここに残ります。あと、お願いします」
佐伯は康平の返事も聞かずに、建物の中に消えた。
康平は佐伯班の三人を連れて、別の建物を回り込み、山田班が入ったと思われる建物の先に向かった。囮になった佐伯の勇気を無駄にできない。
銃声を聞いて、四人は地面に伏せた。康平は三人を残して建物の端に駆け寄った。五人の男が背を向けて銃撃している。相手は、別行動をしている三浦と佐藤に違いない。後ろの三人に建物を回り込むように手で指示し、康平は自動小銃を構えた。
敵の二人が身をかがめて、康平の方へ走ってくる。三浦達の背後に回り込むつもりだろう。味方の三人が位置につくまで待っている時間はない。康平は二人に向けて引き金を引いた。出来れば流れ弾が残りの三人にも届くように祈った。
康平の銃弾で二人の敵がつんのめるように地面に這った。それに気付いた三人が走りだした。敵の死体に銃弾を撃ち込んでおいて、康平が飛び出して追いかけようとした時に横からの銃撃で一人が倒れた。残った二人は銃を捨てて、両手を高く挙げた。
追いついた康平は、その二人に向けて銃を撃った。驚いた眼をした敵がその場に崩れ落ちる。康平は、無言で二人の頭に銃弾を撃ち込んだ。
康平達は建物の中に入らずに、建物の陰から銃撃を始めた。だが、戦闘は守備隊の方が劣勢だった。敵が左右に展開し、背後に回れば康平達の全滅もあり得る。
その時、突然、敵の側面から銃声がして、敵の抵抗が弱くなった。誰かが援護に来てくれたことを確信して、康平は飛び出した。敵が壁にしていた瓦礫に取りつくと、城の方へと逃げていく敵の姿が見えた。康平は走りながら銃を乱射した。内村班の三人と山田班の二人が建物を飛び出してきて、康平達の五人に合流し、敵の背後から必死で撃ちまくった。敵が立ち止まればこちらにも犠牲が出るが、敵は逃げることに必死だった。
敵の司令部は城に攻撃をかけている味方のいる場所で態勢を変えたかったのかもしれないが、自分達の上官が逃げているのを見た攻撃部隊は危険信号だと思ったようで、その場を離れ始めた。
「一人も逃がすな」
康平は大声でどなりながら走った。十人が左右に展開しながら銃撃を続ける。たった十人で百人以上の敵を包囲する不思議な戦いとなった。城の二階からの銃撃が勢いに乗ってきて、敵は総崩れ状態になった。砲弾で破壊された一階の穴からも敵が退却してくる。
そこは、殺戮の修羅場に変わった。
一人が銃を捨てて、大きく両手を上に挙げると、次々に武器を捨てた男達は「撃つな」と大声で叫び始めた。
銃声が止んだ。
城に侵入していた敵も外に出てくると、同じように武器を捨てた。
「後ろにさがれ」
康平は、身をさらして前に出て、叫んだ。降伏している敵を城の外壁に追いつめる。一階から守備隊の黒崎達が銃を構えて出てきた。
二十人ほどで、五十人を超える敵を壁に追いつめて包囲した。
「撃て」
康平は銃の引き金を引き絞った。それは、無抵抗の人間の虐殺だった。
敵はその場で、次々に死体になった。
康平は無言で、近くにある敵の死体の頭に銃弾を撃ち込む。守備隊は康平にならって、倒れている敵の止めをさし、甲子園城の南側に二百人以上の死体が並んだ。
「佐倉」
「はい」
「向こうに負傷者がいる。応急手当のできる材料を持って、走ってくれ」
「はい」
佐倉と横にいる笹本は看護兵の資格を持っている。二人が、材料を取りに城に駆け込んだ。
「内村班、山田班、佐伯班は運搬車を持って、負傷者と遺体の収容」
「はい」
康平は横に立っている黒崎に声をかけた。
「司令は」
「お前の援護に行った」
「間宮さんは」
「わからん。間宮さんは二階の指揮をしてた」
「間宮さんが来るまで、俺が指揮をとる」
「頼む」
「黒崎。被害状況を」
「わかった」
「犠牲者は、一階の南側の通路に」
「わかった」
「守備隊以外は、まだ動かないように」
胸が悪くなるほどの血の匂いの中で、康平は指示を出した。
二階の守備隊が、三人出てきた。
「間宮さんは」
「亡くなられました」
「そうか。しばらく、ここで見張りをしてくれ」
「はい」
何事もなかったような静けさの中で、康平は銃を構えたまま立ちつくした。
暫くして、佐倉と笹本が戻って来た。
「負傷者は」
「いません」
「いない」
「はい」
「司令は」
「亡くなられていました」
「そうか」
「すみません」
「黒崎に、犠牲者の名前を報告してくれ」
「はい」
「後は、中で、医療班を手伝ってくれ」
「はい」
康平は、その場に座り込みたい気分だった。
別働隊の帰りが遅い。
「牧野」
「はい」
「内村さん達の帰りが遅い。様子を見てきてくれ」
「はい」
黒崎が城から出てきて、ボードを康平に渡した。
ボードには三枚の紙が挟まれていた。死亡、重傷、軽傷の氏名が書かれている。
守備隊の死亡は五十二名、予備隊が六名死亡、重傷が十一名、軽傷が五名とあった。
「五十八」
「ああ」
守備隊は九十四人だから、無傷の人間は二十六名しかいない。
「阿久津さんと倉持さんを捜してきてくれないか」
「ん」
「この死体の処理を頼みたい」
「ん」
甲子園城には、生産隊と守備隊と援助隊があり、阿久津三郎は生産隊の責任者であり、倉持誠は援助隊の責任者だった。
内村班の様子を見に行った牧野が戻って来た。
「捕虜を一名、連れてきます」
「捕虜」
「馬の世話係だと言っています」
暫くすると、二台の荷車の前に両手を挙げた中年の男と銃を構えた内村が歩いて来るのが見えた。
捕虜の足が止まった。無数の死体が目に入ったようだ。内村の銃で体を押された捕虜が歩き出した。守備隊隊員の遺骸が荷車の上に積み上げられている。岩倉司令の遺体もあった。
「一階の南側通路に」
康平は荷車を引いている三浦に伝えた。通り過ぎる荷車に、康平は頭を下げた。ほんの少しの偶然が生死を分ける。これほどの戦いは誰もが初めての体験だったが、生き残っている人間が、例外としか思えない。この戦いで、康平の中の何かが壊れ、何かが生まれている。それが何なのか自分にもわからないが、今、ここに立っている自分は過去の自分とは違う人間だと感じていた。責任を背負った事だけではない。多くの人命を奪ったことでもない。それは、不条理の過酷さなのかもしれない。答えのない疑問の中で、生きていくしか道がない。何のためにと問えば、自分の心は広漠とした砂漠に放り出されることが目に見えている。答えがないだけではなく、答えを求めてはいけないという現実。これが、生きるということだと、人は誰も知らない。勿論、康平に見えるものも、薄暗い闇だけだった。生き残った人間も無限地獄の中にいる。ただ、食うために生き、生きるために人間の命を奪う。これが兵士の業なのか。
「馬は、農作業の役に立つと言っている。馬の世話が出来る自分を殺さないでくれと言われて、殺せなかった」
内村が、無表情に説明した。
康平は怯えた表情の男を見た。岩倉司令の命令は、皆殺しだった。守備隊の責任者になったことで、新たな命令が自分に下せるのだろうか。康平は即答出来ずに、男から視線を外した。
黒崎が阿久津と倉持を連れてきた。阿久津も倉持も60歳を超えているし、死体を見ても驚かないだけの体験はしている。
「お願いがあります」
「これか」
「はい。守備隊は犠牲が大きくて、動けません。もう、敵はいないと思いますが、警護はしなければなりません。お願いできますか」
「わかった」
「それと、守備隊にも多くの犠牲が出ています。できるだけ、家族の手で掘りたいと思いますが、手伝っていただけると有難いです」
「犠牲者は」
康平は犠牲者の名前があるボードを渡した。
「58名」
「はい」
「岩倉さんも、か」
「はい」
「私達で、掘ろう」
「ありがとうございます」
阿久津と倉持は、守備隊の損害状況の紙面を見詰めた。
「倉持さん」
「ん」
「また、墓標をお願いします」
「ん」
甲子園城で火葬が行われたのは数えるほどしかない、燃料不足を理由に全て土葬になった。
あらゆる物が製造されていないので、人が住んでいない家々から物資を調達してきた。許可なく持ちだすのだから泥棒行為になるが、それを咎める人も機関もない。その代わりに、家に放置されていた遺体の埋葬だけは丁寧に行うことにした。腐乱死体もあれば、白骨に近い遺体もあった。それらの遺体を城の住人は誠意をもって埋葬してきた。環境衛生の面からも、その方がよかったので、死体埋葬という仕事は普通の作業として受け入れたのである。甲子園城の住人の墓もあったので、年に一回集まり、清掃と供養もやっている。ただ、甲子園城に攻撃をしかけてきた強盗団の遺体は別の場所に埋められているし、その墓標には名前もない。しかし、決してぞんざいな扱いはしてこなかった。
守備隊は守備に専念し、生産隊は農作物をはじめ食料の生産に専念する。援助隊は、それ以外の仕事を全て受け持っていた。援助隊には、医療班と工作班と管理班があり、墓標の作成も援助隊の仕事だった。ただし、大掛かりな仕事の場合は全員が協力する。そのことは甲子園城の規則として最初に決められたものであった。
「倉持さん、ですよね」
馬の世話係と名乗った男が倉持に声をかけた。
「私、細井です」
「細井さん」
「池田で近所に住んでました。児童公園の横です。憶えてませんか」
「ああ、細井さん」
「よかった」
「どうして、あんたが、ここに」
「私、誠心会で馬の世話係やったんです。それしか出来ませんでしたから」
「敵」
「はい。でも、私は武器など持ってません。馬の世話だけです」
倉持も阿久津も、康平の顔を見た。
「馬は農作業の役に立つから、殺さないでくれ、と言っています。どうなんです、阿久津さん」
「んんん。昔は、牛や馬で耕していたと聞いたことがありますが、使えるのかどうかわかりませんな」
倉持は、細井という男に一歩近づいた。
「あんたは、やってたのか、農業」
「いえ。誠心会は自分で農業をする気はありませんでした。農業経験のある人がいなかったんです。私も経験はありませんでしたが、嫁が農家の出身でしたから、何とかなると思って、何度も言ったんですけど、やらせてはもらえませんでした。でも、できます。古い物置がある農家か、牛舎の残っているような古い農家なら、まだ道具はあるそうです。子供の頃に見たことがあると言ってましたから」
「でも、馬の餌はどうするんです。人間でもまともには食えていない」
「それは、私が調達します」
「どこにあるの」
「昔いた、厩舎に大きな倉庫があって、今までもそこから運んでいました」
「いつまでも、あるわけじゃないでしょう」
「勿論、私も餌を作ります」
「馬は、病気なんて、しないのか」
「いえ。します」
「ここには、獣医はいないけど」
「その時は、諦めます」
倉持が康平と阿久津の方を向いた。
「うちで、預かってみましょうか。兵頭さんの許可があれば」
「阿久津さんは、どう思いますか」
「倉持さんと兵頭さんの判断に任せます」
「あの」
「何です」
「もし、認めてもらえるなら、家族を連れてきたいんですが、あと仔馬も二頭います」
「家族」
「はい。嫁と息子二人の四人で馬の世話をしてたんです」
「ちょっと、待った。この件は自分が決めてもいいですか」
康平は阿久津と倉持の同意を求めた。今は目の前にある死体の始末が先だった。
「任せますよ」
「はい。では、墓の方の手配をお願いします」
「わかった」
阿久津と倉持は急ぎ足で城に戻っていった。
「内村さん。生産隊の警護をしなければなりません。守備隊を集めてください。できれば予備隊の人で動ける人も」
「了解。この男は」
「自分が引き受けます」
「了解」
内村も急ぎ足で城へ向かった。
「あの」
「もう少し、話を聞かせてもらいますが、今は時間がありません。あの看板の下で待っていてください」
「はあ」
「あの看板の下から、少しでも離れたら、殺します。いいですね」
「あの」
康平は男に銃を向けた。
「この場で、死にますか」
「いえ。待ちます」
守備隊の隊員が集まり始めた。誰の顔も暗かった。人数は25名。
「これからの行動を指示しますが、その前に、岩倉司令と本間さんが亡くなられたので、今は自分が指揮を取ります。守備隊の隊長を誰がやるかは別に決めます。いいですか」
康平は隊員の顔を、左から順に見た。異議を出す空気はなかった。
「これから、生産隊の人に墓を掘ってもらい、ここの死体と、守備隊隊員の埋葬を行います。人数が少ないので、四人一組の班を六班、臨時に編成します。一班と二班はそれぞれの墓地を警護、三班、四班、五班は運搬経路の警護、六班は手分けして伝令とします。司令部はこの場所に置き、自分と黒崎が、ここにいます。予備隊の人も来てくれると思うので、手薄だと感じた班は連絡してください。何か質問は」
「では、班分けをします。班長の立候補」
四人の隊員が手を挙げた。
「あとは、内村さんと三浦。班長は隊員を選んでください」
自然に、六つの班が編成された。
「銃弾の不足がある人は、すぐに補充をしてください。ここに戻ったら、警護に出るまで、敵の銃と弾薬の回収をしてもらいます。以上」
隊員の全員が城に戻っていった。これだけの戦いで銃弾に余裕のある隊員はいない。
「黒崎」
「ああ」
「隊員の家族に連絡してくれるか、墓も掘ってもらわなくてはならない」
「わかった」
「名簿は、倉持さんの所にある」
「ん」
守備隊の副官をしているが、康平も黒崎も若い。半数以上は康平より年上だった。別に世襲と決まっていた訳ではないが、守備隊の父親を持つ男子は守備隊になり、生産隊の子供は生産隊になっていた。例外がない訳ではなかったが、全体で数人が別の道に進んだだけだった。康平の父親も自衛隊出身の守備隊員で、父親は岩倉司令とは同期で最初から石田計画に参加していた。
鍬やスコップを持った生産隊の男達が城から出始めた。守備隊の隊員も戻ってきて、敵の武器と弾薬を回収し始めている。少し離れた場所に生産隊の列が出来て、阿久津隊長が康平の立っている場所にやってきた。
「準備ができた。始めましょうか」
「わかりました」
多くの荷車が集められ、死体を荷車に乗せる作業が始まった。墓掘りの生産隊とそれを警護する守備隊も出発している。予備隊の老人達も銃を持って参加していて、守備隊に代わって武器と弾薬の回収を始めた。
康平は父親からも岩倉からも石田計画の詳細を聞いていたし、守備隊が何をしなければいけないかも教えられていた。その目的は日本人を絶滅させないことだった。そのためには同じ日本人からも城の住人を守らなければならない。それは、非情に徹しなければ出来ないのだと何度も言われてきた。だから、岩倉から敵の全員を射殺するように命令されても違和感はなかったが、人間を殺すことになるのだから平然としているのは表面だけで、気持ちの中には重いものがあった。命令を受ける立場にある時は、命令といういい訳ができるが、自分が命令を出す立場が予想以上に大変なことがわかった。
康平が甲子園城に来たのは12歳の時だった、それから20年間に、何度も危機的状態を迎えたことは体験として知っている。大規模な外敵の襲来はこれで二度目だが、食料不足による危機は何度もあった。難民を受け入れるという人道的な意味では正しいと思われた事が、全住民の餓死に繋がることを体験で知った住民が排他的になるのは致し方がないと康平も思う。その餓死を救ったのはインフルエンザだった。栄養不足になった住民の半数が病死したことで、残された人間は生き延びた。今でも充分な食料がある訳ではない。人道的行為は、自分の生命を差し出さない限り実現できない。それが現実というもので、10人の難民を救うためには10人の住民が死ななければならないことを意味した。天候の関係で農作物の不作があれば、ほぼ一年間は耐乏生活を強いられる。食料事情はこの数年間で改善されたとはいえ、20年経った今でも解決されたとは言えない。
強盗団の死体が次々に荷車に乗せられて無言で運ばれていく。死体には慣れていると言っても、楽しい仕事でないことに変わりはない。
2時間で死体はなくなり、血に染まった広場だけが残った。どこからも銃声はなく新たな敵はいないと思われる。
康平は看板の下に座り込んでいる馬係だという細井に声をかけた。
「助けてくれるんですか」
「いえ。まだ決まっていません。もう少し、話を聞かせてください」
「話って」
「あなたは、家族を連れてきたいと言ってましたが、他の誠心会のメンバーにも家族はいたんでしょう」
「ええ」
「何人、くらい」
「はっきりと数えたことはないけど、200人、くらい」
「その人達は、米とか野菜とか、食料を作っていたんですか」
「いや、誰も農作業などやる人はいませんでしたよ。自衛隊出身とか、サラリーマンとか、中には暴力団の人間もいました。農業の経験なんてありませんから」
「では、食料は、全て、どこかから奪ってきたものを食べてた」
「そうです」
「ここに来た人間だけでも250人以上いますから、500人もの食料は大変なものです」
「ええ、ですから、あちこち、しょっちゅう集めに行きました」
「なぜ、ここに来たんです。今までは来たことがないのに」
「近くでは、集まらなくなって。甲子園には大きな村があるという話でしたから」
「でも、全員、死にました。残された京都にいる家族は、どうなるんです」
「ですから、家族を連れてきたいんです。あそこにいれば、死ぬだけです」
「でしょうね」
「は」
「残念ですが、あなたを京都に行かせることはできません。ここにも余分な食料はないんです。諦めてください」
「どういう」
「あなたには、死んでいただくしかないのです」
「馬は、馬はどうするんです」
「放します。私達では面倒みれませんし、殺し方も解体の仕方もわからない」
「そんな」
「あなたも誠心会という強盗団の一員なんでしょう。覚悟はして来た筈です」
「嫌だ」
「わかります。こんな世の中でなければ、と思います」
「俺が、帰らなくても、皆はここに来るかもしれん。女子供でも、あんたたちは殺すのか」
「残念ですが、そうなります」
「そんな」
「理不尽だと思いますか」
「そりゃあ、そうだろう」
「あなたたちが、やってきたことは、理不尽ではないんですか」
「・・・」
康平は銃を構えた。
「待ってくれ。家族を呼びにはいかない。俺一人で馬の面倒をみる。絶対に役に立つから、殺さないでくれ。頼む」
「自分一人でも、生き延びたい。じゃあ、家族は」
「諦める」
「それは、違うでしょう」
「頼む。何でもする、殺さないでくれ」
康平は引き金を絞った。せめて即死できるようにと狙いは頭にした。
銃声を聞いて、待機している予備隊の人間が銃を構えて康平の方を見た。
荷車が一台戻って来た。
「この死体も、お願いします」

作業は夕方までかかった。
疲れた顔の生産隊の人達も城に引き揚げた。
守備隊の隊員は城の外で、簡単な食事をとった。
「皆さん。食べながら聞いてください」
「これからの任務を説明します。1班から3班までは、交代で入口の警護に当たります。4班から6班は墓地の警護をします。犠牲者の家族の方がいる間は、続けます。全員が引き上げたら、入口の警護に合流してください」
「葬儀は」
隊員の一人が質問した。
「これから、やるつもりです。向井さんにお願いにいきます」
向井達郎は、甲子園城の中で一人だけお経を知っている老人だが、体調が悪いと聞いているので、本人に確かめてみなくてはならなかった。
「黒崎。食べ終わったら、向井さんに聞いてきてくれないか」
「わかった」
黒崎が食べ終わって立ち上がった時に、阿久津がやってきた。
「葬儀は、どうする」
「向井さんに、聞きに行こうと思っています」
「そうか。向井さんはやると言っている」
「そうですか」
「生産隊の皆も、参列したいと言っている。あんたたちが守ってくれた訳だから、当然のことだけど、もう、危険はないんだろう」
「まだ、わかりません」
「そうか。順繰りに出ていっても駄目か」
「わかりました。墓地までの経路に警備を配置します」
「すまんな。疲れているのに」
「ただし、守備隊の指示には従ってください」
「わかった」
「向井さん、大丈夫でしょうか」
「向井さんの希望だから」
「はい。準備ができたら迎えに行きます」
「ああ」
「阿久津さん」
「・・・」
「ありがとうございます」
「なんの。礼を言うのは、わしらや」
康平は阿久津の背中に礼をした。生産隊の人達が作る食料が全ての基本になっている。生産隊を守備隊が守れなければ、守備隊も滅びるしかない。でも、生産隊は守備隊に敬意を払ってくれている。それは、有難かった。
「任務の変更です。4班から6班は城と墓地の間の道路を警備します。墓地には自分と黒崎、それと予備隊の方に手伝ってもらいます」

葬儀が始まった。一カ所だけ援助隊が用意してくれた薪が燃えている。灯りはそれしかない。真新しい墓の全てに光は届かないが、灯りのためだけに薪を焚くことなど初めてだった。向井達郎の低い読経の声と薪が燃える音だけが墓地の音だった。五十人ほどの人の群れが墓地にやってきた。両手を合わせ、深々と頭を下げている。目には見えないが、鎮魂の気持ちは墓の中で眠る犠牲者に届いていると康平は信じた。なかには遺族の所に行き、声をかけてくれている人もいる。
深夜まで、人の群れは続いた。向井達郎の読経の声も途切れなかった。最後に、向井達郎は生産隊の若者に背負われて城に戻って行った。予備隊の老人達に促されて、遺族も城へ向かった。康平は岩倉隊長の墓に近づいた。そこには、舞子の座り込んでいる姿があった。
「舞」
「お兄ちゃん」
「済まない。隊長は俺達を援護するために来て、犠牲になった」
「うんん。お兄ちゃんのせいじゃないよ」
「大丈夫か」
「守備隊の娘だから、覚悟は、いつでも、できてる」
「舞」
「でも、ほんとは、いやだ。父さんに生きていて欲しい」
「すまん」
舞子は盛り上がった土をさすっていた。
一人っ子だった舞子は、康平の妹のようにして育った。正式に守備隊員になった康平は、訓練に明け暮れて時間がなくなり、舞子と話をする時間もなかったが、気持ちは繋がっていると思うことにしていた。康平の父親も、岩倉司令も康平を将来の隊長に育てようとしていたようで、誰よりも厳しい訓練をさせられた。康平もそれに応えようと、全力をぶつけた。石田計画は10年20年で出来るものではない、100年200年の結果が求められている。そのためには、世代交代が重要な課題になっていたのだ。
「舞。今日からは、俺が舞を守る。多分、忙しいと思うけど、必ずお前を守るから」
「うん」

一か月が過ぎ、岩倉舞子は兵頭舞子になったが、監視塔で監視任務についている。冬らしい季節になり、楽な仕事ではなかったが、他に生きる道がないこともわかっていた。
兵頭康平は正式に守備隊の隊長になり、激減した隊員の補充に苦労していた。
舞子は深夜の2時過ぎに任務を終えて部屋に戻った。先に戻っていた康平が火を起こし、お湯を作ってくれていた。深夜まで仕事をする守備隊は、部屋も薪も恵まれている。部屋に戻って飲む一杯のお湯は、この城の中では贅沢品でもあった。一杯のお湯は体を温めてくれるだけではなく、気持ちも温めてくれた。
「どうしたの。元気ないみたい」
「いや」
「大変みたいね」
「ん」
「愚痴をこぼせば、少しは楽になるわよ」
康平は力のない笑みを返してきた。
甲子園城には決められた様式の婚姻届はないが、管理班にある登録簿が書き換えられた時が結婚した日になる。それは、食料を含めあらゆる物資が配給制になっていて、公平を保つためにも必要な帳簿だった。登録簿が書き換えられると、各隊の長から班長に伝えられ、班長から隊員に伝わる。死亡も出産も結婚も、住人の全ての人が口頭で知ることになる。本来であれば出産や結婚は祝うべきことだが、祝い事をするほど食料に余力はない。淡々とした日常が続くだけであった。
甲子園城では晩婚が多い。長期的に見れば、結婚と出産は奨励すべきことだとわかっていたが、短期的にみると人口の増加は城の存続に影響するという心配があり、自然に抑制する気持ちになったようだ。恋愛はどんな障害も克服すると思っていたのは昔のことで、恋愛であっても食料という障害は越えられない事を証明したのだ。それは、何度も餓死という恐怖の前に立たされた人間の知恵だったのかもしれない。
康平の気苦労は、守備隊の増員が進まないところにあることはわかっている。誠心会との戦いで守備隊の半数以上が死亡し、守備隊の任務に復帰できたのは35名だった。生産隊や援助隊の若者を勧誘しても、家族の了解がとれない。自分の息子を死に追いやりたいと思う親がいないのは当然のことだった。
舞子は、康平の背中を抱きしめた。守備隊増員の手助けはできないが、せめて康平の苦労を労ってやりたかった。
その時、突然ドンと突き上げるような衝撃を受け、すぐに大きな横揺れが始まった。
「地震」
いつの間にか、舞子は康平の腕に抱かれて康平の体の下にいた。何もないように思っていた部屋の中を物が飛び交い、公平の背中に落ちているのが康平の動きでわかった。
随分長かったようだが、揺れがおさまった。
「大丈夫か」
「うん」
「お兄ちゃんは」
「俺は、大丈夫。本部に行く」
「うん」
結婚しても、お兄ちゃんという呼び方は変わらなかった。それが一番康平に相応しいようにも思えた。部屋には物が散乱していた。
康平が部屋を出ていった。叫び声やざわめきが聞こえてきた。舞子は、念のために薪に水をかけて部屋を出た。あれだけの揺れだったのだから、怪我人がいるものと思わなければならない。

甲子園城の真ん中に、移設した建物がある。かつて野球場だった頃の二塁ベースの外野寄りになる。本部には当直の三浦がいて、二人は建物の外で隊員が来るのを待ったが、誰も来ない。指示を待つまでもなく、自分が受け持っている区域の被害調査を始めているのだろう。
「俺も、行っていいですか」
三浦もそのことに気付いて駈け出して行った。
阿久津と倉持がやって来た。二人とも、無言で康平の横に並んだ。月明かりしかない場所だったが、表情の暗さは見えた。
被害報告の隊員がやって来始めた。康平達三人は建物の中に入って報告を聞き、管理班の人間がそれを大きな紙に書き取っていった。
ほぼ全ての被害状況が判明したのは、地震発生後30分だった。怪我人が28名、大きく破損した個所は2カ所だった。
「兵頭さんは知らんだろうが、35年前に東北地方で大地震があった」
「はい」
「あの時は、地震の被害よりも津波の被害の方が大きかった」
「ここまで、津波が来ますか」
「わからん。随分昔の記憶だが、東海、東南海、南海地震が連動すると言われていたことがある。その時のハザードマップによれば、最悪の場合、ここも被害に遭うかもしれん」
「そうですか」
「地震の規模も、発生した場所もわからんから、津波が来るとしてもいつになるかはわからない。念のために避難しておくべきかもしれん」
「わかりました。そうしましょう」
「倉持さん。物品ごとに避難場所を決めてくれんか」
康平は建物を出た。守備隊は集まっていた。
「津波が来る可能性がある。あらゆる物資をできるだけ高い場所に避難する。その避難場所は管理班が作成しているので、それを頭に入れて避難誘導をしてもらう。三浦」
「はい」
「今日の当直は監視塔で行う。津波の監視をしてくれ」
「はい」
三浦は緊張した表情で駈け出して行った。
「守備隊の指揮所は監視塔の下におきます。銃は必要ありませんが、警戒レベルは3にしますので、伝令は配置についてください」
守備隊は班ごとに、守備範囲が細かく決められている。どこからどこへ、何が動かされるのかがわかれば、行動できる訓練はしてあった。
生産隊の人間も、援助隊の人間も集まって来た。
台が持ちだされて、阿久津がその台に上がって津波対策を説明した。それを聞いた責任者が順番に本部建物の中に入って避難図を見て散って行った。
康平は守備隊の指揮所を監視塔に置くことを阿久津に伝えて、黒崎と一緒に監視塔へ向かった。
「津波って、どうなんだ」
「わからん」
かつての日本社会は、あらゆる分野で電力に依存していたために、電力の喪失は人々の生活を根底から変えてしまった。情報の分野でも同じ変化を余儀なくされ、日本人は情報の全てを失ったと言える。康平達の年代の人間にとって、子供の頃に見たテレビは過去の記憶であり、現実との開きが大きすぎて記憶自体が偽物ではないかと思うこともある。勿論、インターネットなどはその言葉すら憶えていなかった。そもそも、電力のない世界など全く想定されていなかったことが、現実をさらに悲惨なものにしてしまった。
康平は監視塔の最上階に昇った。
「どうだ」
「何も見えません」
三浦は双眼鏡に眼を当てたまま答えた。
「監視班の皆は、各自の家に戻って避難活動に参加して下さい」
「はい」
四人の女子監視班が監視塔を降りていった。
「黒崎。伝声管に張り付いていてくれ。俺は、ここで指揮する」
「わかった」
康平は暗闇の中を見た。水が押し寄せてきても見えるのかどうか心配だった。
「隊長」
「ん」
「ここは、大丈夫でしょうか」
「わからんな。俺だって津波は初めてだ」
「じいちゃんが言ってましたが、いっぱい家が流されたそうです。津波の跡は野っ原になったそうです。じいちゃんは、昔、気仙沼という所にいて、津波から必死で逃げたと言ってました」
「らしいな」
東北の大津波の話は大人達の想い出話として聞いたことがあるが、実感もなければ想像もできなかった。
監視塔が大きく揺れた。
「余震、ですね」
「ん」
監視塔は、野球場のスコアボードになっていた場所なので、鉄骨に外壁が張り付けてあるだけの簡単な作りになっているので、揺れは大きく感じるかもしれない。
「最初の揺れだと、ここは、凄かったでしょうね」
「ああ」
「監視班の女子は、よく我慢しましたね」
「ああ」
三浦は、よく喋った。多分、強い恐怖心のためだろう。康平も怖かった。得体のしれない敵を待っているのだから、怖くて当たり前だと自分に言い聞かせた。
「どうだ」
阿久津が監視塔に昇って来た。
「まだ、何も見えません」
「そうか」
「本部の方は、いいんですか」
「倉持さんにお願いして来た。じっとしておれんよ」
「はあ」
「何も情報がないというのは、辛いな」
「はい」
「あの時は、2万人もの人が亡くなった。海まで持っていかれて遺体がない仏が何千人もいてな」
「はい」
「ひどいものだった」
「この城は大丈夫でしょうか」
「そう、あって欲しい。あの時も鉄筋のビルは水に持って行かれなかったが、壊れたビルがあったのかどうかは、わからん」
「そうですか」
地震発生から一時間半が経過した。津波が発生したとして、その到達がいつになるのか誰にもわからない。城の中では人声だけではなく鶏の鳴き声や様々な音がしていて、騒然とした空気が監視塔まで届いているが、城の外は不気味に静まり返っていた。
「隊長」
三浦の緊張した声がした。
何かが動いている。そう見えるだけかもしれないが、康平にも何かが見えていた。
「黒崎。退避」
黒崎が伝令管に向かって退避と叫んでいる声が聞こえた。
「三浦。鐘を鳴らせ」
「はい」
監視塔には緊急事態を知らせる鉄板がぶら下がっている。鉄の金槌で叩くとよく響く。江戸時代に火事を知らせる半鐘があったようだが、まだ甲子園城には鉄を鋳造する技術がないので、それと同じ役目を鉄板がやっていた。
暗闇の中をゆっくりと水が這い上がってくるように見え始めた。勿論、それが水なのかどうかは判別できない。妖怪だと思えば妖怪にも見える。
海岸線には防波堤があった筈だが、開口部もあったという記憶がある。どこから侵入して来たのかは暗闇の中では判別できないが、得体のしれないものが広がっていくのは見える。監視塔の上は無言だった。
じりじりとした時間が過ぎていった。
「止まったみたいです」
三浦の声に阿久津が大きな溜息を吐いた。康平にも周囲の空気が和らいだように感じられた。これで終われば、地震の被害だけで済む。決して小さな被害ではなかったが、安堵感が阿久津の溜息になったのだろう。
それでも、監視塔の三人は双眼鏡を下げようとはしなかった。
また、じりじりとした時間が過ぎる。夜が明けたわけではないが、東の空が少し明るくなったような気がした。それは、危険が去ったという気持ちが持ち込んだ錯覚かもしれないが、暗闇の恐怖と津波の恐怖が合体して欲しくはない。
「もう、大丈夫でしょうか」
双眼鏡を下ろして、康平は阿久津の顔を見た。
「わからんな」
康平の体が震えた。その時、初めて寒さを感じた。監視塔の上に立つ服装でないことに気がついた。
「寒いですね。阿久津さん、大丈夫ですか」
「ん」
自分がどんな顔をしているのかはわからないが、阿久津の顔は寒さに固まっているように見えた。
「自分達が監視してますので、何か着る物を持ってきてはどうですか」
「いや。もう少し、続ける」
「そうですか」
三人は双眼鏡を目に当てた。
監視塔にいる人間だけではなく、城の住民全員が息を呑んでいるような静寂が支配する中で東の空が明るくなってきた。それは、錯覚ではなかった。はっきりと水面も見える。
「水が引きます」
「なに」
双眼鏡を下ろしていた阿久津が、慌てて双眼鏡を目に当てた。
何かに吸い取られるように水が引いていくのが監視する三人にも確認できた。
「来るぞ」
音というより圧力のようなものを感じた後に、不気味な塊が持ち上がって来た。そして、塊のまま康平達の方へ押し出されてくる。それは、水には見えなかった。金縛りに会ったように体が動かない。声も出ない。
塊に何かが押しつぶされたのか、金属音が響いた。
「三浦。鐘を」
康平は絶叫していた。
「津波がくるぞ。黒崎。知らせろ」
「津波が来るぞ、津波が来るぞ」
黒崎が伝声管に向かって叫び続けている。
「ぶつかるぞう」
塊は甲子園城の外壁にぶつかって、跳ね上がり、上空から水になって監視塔を呑みこんだ。
監視塔の三人は水になぎ倒されるように監視塔内部の壁に叩きつけられた。康平はとっさに阿久津の体を抱きとめ、吹き飛ばされて右肩に衝撃を受けた。息苦しさはすぐにとれた。
康平は立ち上がって、南側の開口部によろめくようにして辿りついた。右手が動かない。開口部から下を見ると、二階の窓ガラスの下まで一面の水だった。水位は急速に上がってきている。周囲は見渡す限り黒い水の世界になっていた。
窓ガラスが砕ける音がした。このまま水位が上がれば、三階に避難した住民は呑みこまれてしまう。
「黒崎。大丈夫か」
「大丈夫だ」
「できるだけ高い場所に避難させろ」
「わかった」
三浦と阿久津が横に来た。
「もう一度、鐘を」
「はい」
「阿久津さん。大丈夫ですか」
「終わったな」
「えっ」
阿久津の声はうつろに聞こえた。
「まだ、大丈夫ですよ」
「いや、もう終わりだ」
日頃の阿久津は弱音を吐くような男ではない。康平は阿久津の顔を見た。全身水浸しだが、阿久津の目からは涙が出ていた。その場に座り込んだ阿久津の背中が泣いている。
康平は、また水面に目を凝らした。二階の窓の上あたりから水位は上昇していない。これなら、助かるかもしれない。ただ、何もできることはなかった。

津波の襲来から一日が過ぎた。甲子園城は崩壊を免れ、人的被害は数人の怪我だけで済み、物資の被害も大きくなかった。周囲にはまだ水が残っていたが、それは静かに存在しているだけで荒々しさはない。そうは言っても、周囲の景色は一変した。田畑の痕跡はなくなり、小さなビルは水に持って行かれ、荒涼とした空き地だけが残った。
康平の右肩の怪我も骨には異常がなく、打撲と内出血の治療を受け、痛みは残っているが我慢できる範囲にあった。康平は阿久津を捜していた。監視塔で「終わった」と言った阿久津の言葉が耳から離れない。米の収穫は終わっていたし、鶏の避難もできた。野菜に被害は出たが、野菜の備蓄もある筈である。それなのに、なぜ、阿久津は「終わった」と言ったのだろう。あの言い方には、全てが終わったような響きがあった。
阿久津は居住区の狭い部屋で寝ていた。
「阿久津さん」
「ああ、兵頭さん。あんたには助けてもらった」
「具合はどうですか」
「歳ですからね」
「そんなこと、言わないでくださいよ」
「こればっかりは、歳とってみないとわからない。説明のしようがないんですよ」
確かに阿久津の顔色は悪い。それまでは、阿久津に老人の衰えを感じたことはなかったが、横になっている阿久津は老人だった。
「阿久津さん。監視塔で、終わったと言いましたよね」
「ああ」
「あれ、どういう意味なんですか」
「文字通りの、意味だよ」
「でも、なんとか、持ちこたえましたよ」
「ん。確かに。でも、ここは、もう終わりです」
「どうして、ですか」
「あの水は、どこから」
「どこって」
「海から、ですよね。つまり、海水ですから、塩水です。海水に浸かった土地では作物はできないんですよ」
「・・・」
「百姓にとっては、土は何よりも大事な、時には家族よりも大事なものです。毎日毎日、何年も、いや、先祖から土を育ててきたのが百姓です。その土が、一瞬で死んでしまったんです。元に戻すには、何年もかかります。我々には、そんな時間ありません。来年、収穫がなければ、ここにいる大半の人が餓死することになりますよね」
阿久津は疲れたような溜息を吐いた。康平は、言葉が出ずに阿久津の顔を見詰めた。
沈黙が流れた。
「どうすれば」
「土地を捨てるしか、ないでしょう」
「捨てる」
「移住するしか、ないんです。この土地を捨てて。でも、私には、もう、その元気がありませんし、この土地を離れたくない。長生きしすぎました」
「待ってください。他の方も、このことを知っているんですか」
「百姓なら、知っています」
「阿久津さん」
「夏目君を捜してきてもらえませんか」
「俊介、ですか」
「お願いします」
夏目俊介は、康平と同じ年代の生産隊副官をしている男で、子供の頃からの友達だった。守備隊に勧誘したいぐらいの体格をしていて、寡黙だが気持ちの暖かい男だった。
捜しまわって、やっと鶏小屋にいる夏目俊介を見つけた。
「俊介」
「おう」
「阿久津さんが、呼んでる」
「ん。どうした」
「ともかく、来てくれ」
「ん」
途中で援助隊の倉持に会った。
「倉持さんも、来ていただけませんか」
「どうしました」
「阿久津さんが、寝込んでしまいました」
「そりゃあ、いかん」
阿久津の部屋に行くと、布団を畳んだ阿久津が座っていた。
「起きて、大丈夫ですか」
「大事ない。倉持さんも来てくれましたか」
「どうしました」
「なに、ただの年寄り病ですよ」
「実は、津波の件で、ここでは、もう作物は育たないと、阿久津さんに言われました」
「夏目君」
「はい」
「塩害の話は聞いたか」
「はい」
「私には、もう、力が残っていない。この土地を守っていくだけなら、年寄りでもできるが、新しい土地を育てるのは無理だ」
「どういうことです」
倉持には話が見えていなかった。
「塩害で、数年間、ここでは収穫ができないそうです。阿久津さんは、ここを捨てて、移住するしか、方法はないと言っています」
「移住」
「移住が可能かどうか、私にもわからんが、ここにいれば、食料は尽きる。だから、夏目君に来てもらった。君に皆を頼みたい」
「私ですか。こんな若造には無理ですよ」
「そうじゃない。これから必要とされるのは経験でも知識でもない。力だよ、夏目君。わしらの時代はこの津波で終わった。ここで、躊躇すれば、この城にいる人達は、残らず死ぬと思う。それを突き破ってくれるのは若さしかない」
「でも」
「新しい土地を探して、住む場所を確保し、住民を移住させ、物資を運ぶ。新しい土地と言っても何年も放置されていた土地だろう。その土を育て、収穫できるようにするには、力で押しまくらなければできない。年寄りにできる仕事じゃないんだよ。来年、収穫がなければ、誰も生き残れない」
「・・・」
「倉持さん。私は間違ってるのかな」
「いえ」
「兵頭さんは、どう思う」
「やるしか、ない、と思います」
「そう。やるしかない。それができるのは、夏目君、君だけなんだよ」
俊介は眼を閉じてしまった。突然、千数百人の生命を預けると言われても、はい、そうですかと引き受ける人はいないだろう。逆に、簡単に引き受けるようでは、その人選が間違っていることになる。直感的には時間が残されているとは思えない。しかし、俊介に覚悟が出来るまでの時間は惜しんではならないと康平は思った。阿久津に言われてみて、住民の未来を託せる男は俊介以外にいないと思えてきた。
「阿久津さん」
「ん」
「体調が悪い時に、申し訳ないと思うんですが、幹部総会を開いて、このことを、つまり収穫ができないことを、皆に知ってもらうべきだと思いますが、いけませんか」
「ん」
「倉持さんは、どう思いますか」
「やるべきかもしれませんね。我々年寄りは、できれば穏便に事を進めたいと思う。しかしねえ、今回は、阿久津さんも言いましたが、年寄りは足を引っ張りかねない。これは、時間との戦いになると思う。私は兵頭さんの意見に従いますよ」
意図した訳ではないが、各隊の隊長が揃って話し合っているので、事実上の幹部会になっている。三人が合意すれば、幹部総会を開くことになる。
「わかった」
管理班の人間が走りまわって班長クラスの人間を一階の広場に集めた。広場はまだ泥水に埋まっていたが、長靴にはき替えた人達が集まって来た。いつもは床に座って討議される幹部総会だったが、今回は立ったままの会議になった。
台に上った阿久津が静かな声で塩害について話をした。生産隊の大半は知っていたようだったが、守備隊や援助隊の人間は息を呑んだ。甲子園城の住民にとって、食料の問題は飛びぬけて大きな問題であり、それ以外の問題は付随的な問題に過ぎない。集まっている人間の中に、ひもじさを知らない人は一人としていないだろう。
「残念だが、選択肢は一つしかない」
阿久津は、真剣な目つきの班長達の顔を見た。
「この土地を捨てて、新しい土地に移り、その土地を育て、収穫まで辿りつかねばならない。百姓なら、それが簡単なことでないことをよく知っている。それでも、他に道はない」
「私は、ここで20年間、ここの土地と生きてきた。勝手知った土地だったが、それほど簡単なことではなかった。毎年、毎年、今度は駄目かと思いながら、やってきた。この先のことを考えると、私はここで、この土地とともに朽ちてもいいとさえ思う。私が一人なら、きっと、そうする。選択肢は一つしかないと言ったが、生き残るという条件の場合であり、死ぬことも受け入れれば、ここに残る選択肢もある」
「これまでも、決して楽ではなかったが、この先には、はるかに大きな苦しみがある。それを受け止めると決めるのは、住民の総意しかない。皆とよく話し合って、決めてもらいたいと思う」
阿久津が台を降りた。
城の運営は合議制で行われてきたが、この十年間のリーダーは阿久津が勤めてきたと言っても過言ではない。だから、阿久津の言葉には重みがあった。
倉持が台に上がった。
「もう一つ、伝えておかなければならないことがあります」
「先ほど、わかったことですが、墓地は全て流されていて、何も残っていません。遺骨も見つけることができなかったと報告を受けました」
「明日、もう一度、ここで幹部総会を開きます。以上です」
打ちひしがれた人達が、重い足取りで広場を後にする。康平は阿久津に寄り添って、部屋に連れていった。

翌日、住民の総意として移住が決まった。生産隊の隊長を夏目俊介が引き継ぎ、援助隊の隊長には工作班長をしていた浅井智也がなった。同年代の三人がそれぞれの隊の責任者になり、甲子園城は新しい一歩を踏み出した。しかし、三人の隊長に自信があった訳ではない。不安しかなかった。阿久津が言っていたが、三人にあるのは若さだけだった。
「どうすれば、いい」
「わからん。わからん時は、動くしかない」
「何から、やればいい」
「先ず、移住先を見つけることじゃないのかな」
「移住先か」
「俺達は、ここしか知らない。無茶でも歩いてみるしかないだろ」
「だな」
「方向を決めてみないか。北か南か西か東か」
「地図を持ってこよう」
智也が地図を取りに行った。
「俊介。よく引き受けたな」
「仕方がないだろ」
「はっきり、言っとくが、お前が頼りだからな」
「馬鹿言え。俺が100なら、康平も100で、智也も100だ。三つに割って一人33でない事だけは確かだけど」
「ああ」
智也が持ってきた地図を机の上に広げて、三人は見つめた。
「先ず、南はない」
「ん」
「北、だな」
「ん」
「どこまで、津波の水が行ったのか、わかるのかな」
「行けば、わかるだろ」
「じゃあ、とりあえず、ここ、宝塚だな」
「ん。そんな見当だろ」
「何人で行く」
「各隊から二人。六人でどうだ」
「ああ」
「時間は」
「時間って」
「何日必要か、だ」
「んんん。1週間」
「往復でか」
「いや、往復なら2週間。多分、やり直しをする時間はない」
「出発は」
「明日、だな」
「ん」
「わかった」
無鉄砲としか言いようのない計画だが、それが精一杯であった。
「ところで、せめて二人には拳銃を携行してもらいたい」
「触ったこともないのにか」
「守備隊は小銃を持っていくし、守るつもりだが、万が一の場合だ。六人全員が帰ってこなければ、残った人は途方に暮れるだろう。それだけ、次の行動が遅れるとは思わないか」
「ん」
「今日中に訓練してもらいたい」
「わかった。そうする」
二週間分の食料と水、炊飯器具、薬、雨天用の合羽、寝袋。それだけではなく、康平と三浦は小銃と予備のカートリッジを持たねばならない。決して楽な荷物ではないが、若さだけで跳ね返すしかない。早朝、六時に甲子園城を出発した。

一行は、直ぐに道を塞がれることになった。上に高速道路が通る広い幹線道路は、津波に流されてきた木造家屋や車や色々な残骸で埋まっていた。津波が引いていく時に家屋や車が流されていくのは見たが、それがほんの一部に過ぎなかった事を知って驚いた。それらの残骸を通り抜けてみると、周囲の景色は一変した。コンクリートの建物の残骸はあるが、密集していた建物はなく、甲子園口まで見渡すことが出来る。広いと思っていた道路には瓦礫が残っていた。六人は足を止めて、その光景に目を奪われた。
瓦礫を迂回しながら進む道程は、前進の速度を遅くするだけではなく、精神的にも負担が大きくなった。足元を確認することが多く、誰もが下を向いて歩いていたことも気持ちを暗くする。当面の目的地である宝塚に辿りつけるかどうかもわからない。瓦礫の中を彷徨い歩いただけで城に戻ることになれば、そのことだけで城に残された住民の希望は引き裂かれるだろう。六人は背中の重い荷物以上の重さを感じながら無言で歩を進めた。
電車の線路と交差する高架橋の頂上に辿りついた一行の目に見えた物は、一面に瓦礫と化した市街地の廃墟だった。康平には、その街の昔の記憶がなかったが、調査隊に参加してくれている生産隊の加藤と援助隊の佐々木の表情は固まっていた。加藤と佐々木は40代だから、以前の街を知っていたのだ。休憩をするつもりはなかったが、全員がその場に座り込んだ。
「嘘だろ」
この光景を見てみると、甲子園城は津波被害の最前線にあったようだ。城が崩壊を免れたことは、ただの幸運だったのかもしれない。でも、それは、まだ甲子園城の住人にはチャンスが残されているということではないかと康平は考えた。
「行きましょう。何が何でも」
「ああ」
直ぐに俊介が立ちあがった。
六人は、瓦礫と泥に覆われた道なき道を進んだ。時々、方向感覚がなくなり、康平は磁石を取り出して調整しなければならなかった。六人は昼食を諦めて歩き続けた。休憩に適した場所がなかっただけではなく、焦りがあったのかもしれない。加藤と佐々木が遅れ始め、康平は少し進路をずらして大きなビルに向かった。野宿する場所を確保しなければ、一日目で挫折してしまうかもしれない。
やっと、ビルの四階に昇って瓦礫と泥から解放された。
食事を終えると、話をする間もなく康平以外の者は眠りに入った。一日中、人間には出会わなかったが、康平と三浦は3時間交代で見張りに立つことにしていた。座っていると寝入ってしまいそうだったので、康平は廊下を歩き続けた。
丸二日かかって瓦礫の海は脱出できた。そこでも景色は一変したが、よく見れば過酷な世界とも言える。遠くから見ると、草原の中に建物があるのではないかと思うほど雑草が生い茂っていて、道路の割れ目からも草は伸びていた。人の姿はなく、音もない。
六人は歩き続けた。探していたのは、崩壊前に農地として作物を作っていた場所だった。住宅の間に小さな農地らしき草むらはあったが、千人以上の食料を収穫するにはそれなりの土地が必要であり、水路もしっかりとしたものが欲しいと俊介が言っていた。農作物から食料を得る農民にとって、土地と生活は切り離せないし、簡単に移住など出来る筈もなかったので、今回の土地探しは真剣だった。
もう、宝塚まで来ていると思われるが、立ち止まるほどの土地には出会えなかった。もし、生き永らえている人がいるとすれば、田畑から食料を得ること以外には考えられない。農地かただの空き地かは判別できないが、一面に雑草が伸びている。人の手が加えられているような痕跡は見当たらなかった。
三日目には、橋を渡り、山に向かって歩いた。家屋が少なくなり、草原に近い景色を進む。
生産隊の加藤が、何かの臭いを嗅ぐような動作をした。
「田舎の臭いがする」
そう言われてみると、街中の臭いとは少し違う気がする。風で雑草が揺れる音がする。
俊介と加藤が立ち止まり、雑草の中に分け入り、土を触っては話すことが多くなった。
「農地か」
「ああ、間違いない」
持ってきた地図には、康平達が立っている道路が載っていないので、地図が古いのか、道路が新しいかわからない。農道ではなく、幹線道路のようなしっかりとした道路で、その両側に田畑がある。元々は田園だった場所に無理矢理道路を通したとしか思えない。
しばらく進むと小さな橋がかかっていた。川とは呼べないほどの小さな川だったが、水は流れていた。
生産隊の二人が川に沿って進み始めたので、三浦に援助隊の二人を警護するように言って、康平は生産隊の二人を追った。それは、農業用水路のようだ。一時間ほど歩きまわって、元の道路に出た。遠くに三浦達三人の姿が見える。生産隊の二人の手は土で汚れていた。
「この水路の元を見に行く。時間がかかるかもしれないので今度は全員で行った方がいい」
合流した俊介は、自然とリーダーになっていた。
小川の畦道を上流に向かった。しばしば道が途切れたが、迂回して上流を目指す。次第に雑木林の中を進む形になったが、なんとか小川を見失うことなく前進した。少し開けた場所で昼食を取った。
「どこまで、行けばいいのかな」
「もう少し、行ってみたい」
俊介は水源を確認したいようだ。このままだと街中には戻れそうにない。康平は、野営地のことが気になり始めていた。この三日間は天候に恵まれている。テントを持ってきていないので、文字通りの野宿になりそうだったが、それでも安全は確保したい。
小川を見失いたくないので、どうしてもじぐざぐに進むことになり距離はかせげないし、山登りをしているようなものだから疲労も溜まる。三時を過ぎる頃から六人のペースは落ちてきた。岩場に出た。
「俊介」
康平は先頭を歩く俊介に声をかけた。
「ここで、野宿にしないか。林の中で日が暮れると面倒になる」
「そうだな」
六人はその場に荷物を下ろして座り込んだ。
「あの上に登って、見てくる」
俊介は大きな岩を指差した。
「わかった。俺も行く」
康平は小銃だけを手にして、俊介の後を追った。
「おう」
「どうした」
頂上に辿りついた康平に俊介が指差した。そこには大きな池があった。
「あれなら、水源に問題はないな」
「ああ。明日はあの池まで行く」
岩の上からの景色は緑の木々と茶色になった雑草が生い茂る草原だった。
「あれは、道じゃないか」
「ああ」
康平達が歩いてきた小川の北側ではなく反対側に明らかに人間が作ったと思われる道が雑草に埋もれて続いていた。小川の南側を歩けば、何時間も早く池に辿りついていただろう。帰路は時間が節約できそうだった。
「あれは何だろう」
周囲を見回した康平の目に大きな建物が見えた。
「ん。でかいな」
「しかも、立派な塀がある。方向はあの道の先だな」
康平達が歩いてきた宝塚の市街地から伸びている道路も見える。
「ここは、いけるぞ」
「そうだな」
翌日、元の道路の橋まで戻った。
少し登り勾配になっている道路を先に進むと、高い塀が姿を見せた。
「何だろう」
「刑務所じゃないか」
年配の佐々木が答えた。
「刑務所って、何です」
しんがりを歩いている三浦が質問する。
「犯罪者を閉じ込めておく所だよ」
「犯罪者」
三浦は甲子園城で生まれた若者だから、昔の世界のことは知らない。甲子園城でも学校はあり、勉強はしているが刑務所のことまでは教えていない。康平も言葉は知っているが、実際に見たことはなかった。
建物の正面までやってきた。近畿刑務所という看板がある。大きな門は開放されていて、奥の建物が見えた。
人の気配はないが、康平は俊介だけを連れて中に入った。小銃の安全装置を外し、初弾を送り込み、いつでも発砲できる用意をした。俊介も拳銃を手にして、少し緊張している。
建物は、あらゆる戸が開け放されていて、風が吹き抜けている。どの部屋にも人骨がないということは、犯罪者も刑務官もこの建物を捨てたと考えた方がいいだろう。
全ての部屋を確認し、監視塔にも登った。どの部屋も整然としていて、荒らされたような形跡もない。建物はまだ新しく、日本崩壊の直前に建てられたのではないかと思われた。市街地からの道路も新しかった。田園地帯の真ん中に通っていた道路は、この刑務所のために作られたものではないかと思われた。
全体の敷地面積は広く、高い塀と建物の間には空き地と思われる空間が広がっている。雑草に占拠されているが、手を入れれば使い道はいくらでもありそうだ。
六人は入口にある庇の下で昼食をとった。
「畳みは腐っていたけど、それ以外はきれいなもんだ。ガラスも割れていない。明日からでも住める。土地もあり、建物もあった。あと、必要なものは何だろう」
「水」
「そうか。人間の水だ」
崩壊後の新世界では、かつて自動的に供給されていた電気と水と燃料がない。電気は作れないが、水と燃料は確保しなければ生きてはいけない。薬品や道具、塩や砂糖も無人になった住宅から集めて使ってきた。それもいつかは限界がくるかもしれないが、当面は食料を自分達の手で作り出すことだった。崩壊から20年が過ぎても、未来への展望は開けていない。今を生き抜くことでしか未来へは繋がらないのが現実だった。
食事の後、三人づつに分かれて、周辺の調査に出かけた。
集合時間を四時にしていたが、どちらの班も余裕を残して戻って来た。佐々木が湧水を見つけ、水筒に新しい水を入れて戻って来た。甲子園城では、雨水や川の水を煮沸して使っていたので、湧水を始めて飲んだ三浦は自然の水の美味しさに驚いていた。
調査隊の役目が果たせそうな場所に巡り会い、全員の顔に安堵の表情があった。
「問題は」
「えええ、まだ、何かあるんですか」
俊介の暗い顔を見て、三浦が落胆した声を出した。
「道路だ。城から物資を運ぶ道路がない。荷車が使えなければ、無理だろう」
「そうだな」
「せめて、半分の人数は、農地の整備にかからなければならない。一日でも早く収穫できるようにしないと、食料が」
「捜そう」
「・・・」
「俺達が来た道だけが、道じゃないだろう。迂回してでも、荷車が通れる道を捜すんだ」
「そうだな。泥は仕方ないとして、多少の瓦礫なら皆でどければいい」
「今までのところでは、あまり危険はなかった。帰りは二班に分かれて、違う道を帰ろう。無条件で通れる道はないとして、少しでもましな道を捜す。できれば坂道が少ない方がいい」
「そうだな」
話し合いが終わって、皆が寝袋に入った。康平は歩哨に立つべく建物を出た。
暫くすると、俊介と智也がやってきた。
「俺と智也も歩哨に立つよ」
「気にするな」
「お前と三浦は、俺達の半分しか寝ていない。それは、よくない」
「これは、俺達の仕事だ。俊介は食料を作る。智也は水路を作り、病人を治す。そして、俺達は、お前達を守る。お前達が働けなければ、俺達も生きていけない。お前が気を使うことじゃない。これは、俺の仕事なんだ」
「そうか」
「そうさ」
「この前でも、守備隊の人は大勢が亡くなった。俺達は逃げてただけだ。どこか、割り切れないんだよ」
「それは、違うな。俺達守備隊は食料の欠片も作っていない。生産隊が作ったものを食べてるだけ。それは、俺達が俺達の仕事をしているから許されることであって、何もしていない奴には喰わせないだろ。何度も言うけど、これは俺の仕事だ。命をかけるのも、いや、命がかけれるのは、この仕事をすることで生かさせてもらっているからだよ」
「わかった」
「とっとと、寝てくれ」
「ん」
俊介と智也が戻って行った。俊介と智也が、守備隊のことを気遣ってくれたことは嬉しいと思った。あいつらと一緒に、未来をつかみ取りたい。やらねばならないことは、山のようにある。岩倉司令が果たせなかった漁民との連携という宿題もある。石田計画を軌道に乗せるのは自分達の仕事なのだと思った。

調査隊が帰って来た。舞子のいる部屋にはまだ帰ってきていないが、本部に入って行く康平の姿を見た。元気そうだし、笑顔があった。きっといい知らせを持って帰ったに違いない。安堵感が体の中に落ちていくと、自然に涙が出た。
銃弾に痛めつけられた父の遺骸を見た時、舞子はこの世に一人で取り残されたと強く感じた。母を失った時よりも喪失感が大きく、自分の魂が見知らぬ場所を彷徨っているような不安を感じた。母からも、父からも守備隊の任務を聞かされていて、父の死は自分の身近にあるという覚悟を持っていたつもりだった。だが、それは頭の中だけの実体のない空想に過ぎなかったことを、父の遺骸は教えてくれた。遺体が置かれたコンクリートの床に飲みこまれてしまいそうな無力感と孤独に襲われ、動くことも出来なかった。守備隊の隊長の娘という立場だけで生きてきたように思った時、自分には何も残っていないのではないかと感じた。そんな気持ちで、父が埋められた墓地の土を触っていた時に、康平が声をかけてくれた。
全てを失ったと思った舞子が自分を取り戻したのは、守備隊の隊長の妻という立場だった。自分自身の中に何もなくなっても、立場という無形のものが生きる支えになるということに驚いたが、舞子はそれを受け入れた。本音では生きたいと思っている自分がいる。そのことにも気付かされた。だから、康平を失いたくないと強く願っている。康平の声が聴ければ、康平の笑顔が見れれば、康平に触れることができれば、まだ生きていける。
今は、息が出来ないぐらいに康平に抱きしめてもらいたかった。






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「天軍の藍」 [短編]


年に一回開催される天軍世界会議の日を迎えて、藍(アイ)と琉(リュウ)は日本代表として出席していた。日本地域司令部が若い二人を代表として送り込んだのは、会議の結果に期待を抱いていない証拠だと二人は思った。少なくともこの百年は苦しい運営を強いられている日本地域だったが、世界の状況から見て増員を得られる可能性は極めて低いと判断したのだろう。二人の若者の修行を兼ねて、百年先のことを考えての決断だったのではないだろうか。どの地域も出席者には長老と呼ばれている人たちを送り込んでいた。
天軍の兵士は一日に一人しか誕生しない。一年で三百六十五人しか生まれてこない兵士を、どの地域に何名派遣するかを決める世界会議で、日本地域はこの百年間に十名しか獲得していない。文字通り焼け石に水の増員だったが、他の地域の状況から勘案すると、日本地域は恵まれていると評価する兵士もいる。地球上に生きている人間の人口は激増している。それなのに、天軍兵士は数千年前と同じペースでしか誕生しない。もしも、この天軍という組織が人間界のものであれば、過労死による死者で天軍消滅を迎えるか、暴動で自滅するかの運命を辿っていただろう。
世界中から集まった代表が地域の現状を報告している。その悲惨さは想像していたよりも深刻なもののようだ。今年も増員獲得は無理だと思わざるをえない。過去の世界会議に出席した先輩を非難していた二人だったが、今は言葉もない。
人間という生物は、善と悪の二面を持っている。人によって、その善と悪の割合は違うが、悪を持っていない人間は一人もいない。人間が邪悪な行動をすると地軍兵士が一人誕生する。誕生した地軍兵士は、人間にさらなる悪行を勧める。悪行の内容や回数は肥大するばかりなので、人口の増加率を凌駕する勢いで地軍兵士が増え続けているのが現状だった。地軍兵士は天軍兵士に触れられるだけで消滅するのだが、無尽蔵に湧き出す地軍兵士を根絶やしにすることは不可能といえる。
天軍兵士と言えども、地軍兵士の生みの親になっている人間を倒すことはできないので、地軍兵士を駆逐するという作業を何千年も続けてきたが、最近、触れただけでは消滅しない地軍の兵士がいるという報告が中国地域からあった。過去にも南アメリカ地域で同じような報告があったが、この三十年間そのような実例はない。南アメリカ地域の場合、人間が足を踏み入れたことのない場所に監禁しているが、その地軍兵士が逃げ出したのではないとすると、今後も同じような地軍兵士が出現する危険がある。今日の会議ではそのことも大きな議題となるだろう。
「琉」
「ああ」
「今年も、駄目みたいだね」
「ああ」
「他所は、もっと、ひどいんだ」
「ああ」
休憩時間だった。天軍兵士も地軍兵士も人間の目では見ることができないが、兵士同士には姿が見える。人間で言えば二人ともまだ十代半ばの女子と男子だった。
「俺たち、何、やってんだろう」
「仕方ないよ。私たち、天軍なんだもの」
「ああ」
「それより、あの突然変異の地軍兵士、どうするのかな」
「ああ」
「琉」
「ああ」
「その、ああ、やめてよ」
「ああ」
「ばか」
「ごめん」
「琉は、人間、殺したいと思ったこと、ないの」
「あるさ。毎日、そう思ってる」
「だよね。先輩たちも、そう思ってるんかな」
「だろう。ひどいの一杯、いるから」
「人間が、みんな、死んだら、私たち、どうなるのかな」
「そんなこと、わかんないよ」
「でも、考えない」
「考える。でも、わかんない」
「そう言えば、こんな話、地上ではしないね」
「どやされそうだもんな」
「地軍の兵士は、どう、思ってるのかな。人間なんて滅べばいいと思うのかな」
「さあな」
「典さんが言うように、昔の人間はあまり悪さをしなかったのかな」
「そんなこと、ないよ。だって、人間なんだもん」
「でも、今と違って、目は行き届いていたのね」
「うん」
藍と話をする時は、気をつけなくてはならない。返事の仕方だけでも、むきになって怒りだす。二人でペアを組んで戦い初めて五年になるが、藍のパワーは年々増強し、今では全世界の天軍兵士のトップクラスにまでなっていた。このままでは、化物になってしまうのではないかと心配する長老もいる。天軍兵士は人間の神ではなく、人間の付属品にすぎない。天軍兵士が神の権力を使えば、人類自体が消滅してしまう。琉は地軍兵士に触らなければ駆逐できないが、藍は遠くからでも地軍兵士をなぎ倒してしまう。このままでは、人間を消滅させるような力を手にするのではないかと心配されていた。地軍兵士に突然変異のような兵士がいるように、藍も天軍兵士の突然変異なのかもしれない。同じ天軍兵士でありながら、琉は藍のオーラに怯えてしまう時があった。
藍は琉のことを対等な仲間だと言っているし、本人もそう信じているようでもあったが、周囲の見方は違っていた。琉のことを藍の副官と考えている仲間もいるし、部下だと思っている奴もいた。力の差が歴然としているのだから、仕方がないと琉も納得している部分があるが、藍はそれを認めていない。そんなことを認めるなと、琉に食ってかかってくる。人間が悪行という行為をなして、地軍兵士が誕生し、その地軍兵士を見つけて天軍兵士が駆逐に向かう。だが、最近では地軍兵士を生み出そうとしている人間を検出するという能力を藍は手に入れていた。地軍兵士の大きさや多さという規模もわかるらしく、先回りをする場面が何回かあった。
休憩時間にも関わらず、議長室に来るようにという使いが来た。
部屋に入ると、世界会議の議長を務めているJKと呼ばれている長老が一人だけで待っていた。
「休憩時間なのに、済まない」
「いえ」
「座って、話をしよう」
「はい」
藍と琉は、勧められた椅子に座った。
天軍兵士の兵役は人間界の長さで言えば五百年。JKは引退を前にした長老だった。
「典と話したんだか、藍の活躍は素晴らしいものだ」
「とんでも、ありません」
「典とは同年兵でな。地域は違ったが、今日まで仲間でやってきた」
「はい」
「今日は、藍に頼みごとがある」
「はい」
「突然変異と思わる地軍の兵士のことは知っているな」
「はい」
「以前にボリビアで起きたことは聞いているか」
「はい」
「今だに、なにもできていない。隔離拘束しているだけだ」
「はい」
「中国で、同じ事例が起きた。だから、今後も、この可能性はあるだろう」
「はい」
「藍の力で倒せるかどうか、試してみてもらいたい」
「はい」
「中国地区司令部の糸という兵士が来ている。藍が戻り次第会議を始める」
「はい」
中国地区司令部の糸という兵士に紹介され、藍と琉はワープした。
中国共産党の幹部である毛劉生の息子で毛光沢という上海大学の学生が、既に三人の女子学生を殺害している。通り魔の仕業だと言われていたが、被害者は毛光沢と同じ教室で学んでいた学生だった。図書館にいた毛光沢の周囲には山のような地軍兵士と三人の大きな地軍兵士が見えた。
「琉。こいつら、違うよ」
「ああ」
地軍兵士は天軍に見つけられないように、擬装したり、身を縮めたりしているのが普通だが、ここの三人は平然と身を晒している。図書室には別の人間についている地軍がいたが、それらの兵士には逃れようという様子がある。
「糸さん。何回、攻撃しました」
「何十回と、やった」
「そうですか。琉。念のため、一度、速攻で一人だけ」
「わかった」
琉が飛んだ。だが、三人の地軍兵士には何の変化もなかった。兵士は藍の方を見て、笑ったように見えた。
藍の目が青色に変化して、光を帯びた。一瞬にして地軍兵士の姿が消えた。
「消えた」
「藍」
「いつもと、違う。抵抗が大きかった」
「どう、やったんだ」
糸が目をむいて訊いた。
「私にも、まだ、わかっていません」
「んんん。でも、よかった」
「他の地軍はどうします」
「きりがない。後で、誰かをよこす。戻ろう。議長が待ってる」
「はい」
三人は再びワープして会議場に飛んだ。会議場は大西洋の洋上にある。天軍兵士のワープ力には個人差があり、藍は琉に勝ったことがない。琉は藍のスピードに合わせてくれていた。
報告を聞いた議長は、大きな溜息をついた。ボリビアの事件以来、ずっと気になっていたに違いない。
「藍」
「はい」
「ご苦労だった」
「とんでもありません。私はなにも」
「だかな。お前のその力が、人間や天軍にとっていいものなのかどうか、わしには、わからん。今となっては、なくてはならないものになってしまったようだが、なぜか、ここがざわつく。歳のせいかのう」
「議長」
「いや。お前が悪いとは思っとらん。ただ、おまえの力はもっと、もっと強くなるかもしれん。藍は人間を抹殺したいと思ったことはないか」
「いえ。あります」
「わしらも、気持ちは同じじゃ。だが、わしらには、その力がなかった。おかげで、誰ひとり禁を破ったものはおらん。天軍は神ではない。だから、人間を裁くことはできん。これだけは、どうしても、譲れん」
「どんなに、酷い人間でも、ですか」
「そうだ」
「・・・」
「不満か。いいか、藍。もし、天軍が人間を裁くとして、誰が決める」
「それは、司令部でも世界会議でも」
「司令部にも、会議にも、そんな力はない。ならば、どんな悪行を裁く」
「あまりにも、酷過ぎる悪を」
「それは、どうやって、決める」
「誰が見ても、酷いと思う人間はいます」
「いいか。今日、明日の話をしとるわけじゃない。何千年も、何万年も先のことを考えねばならん。だれでも、正義を求めるものじゃ。自然と基準は厳しいものになる。最後には、人間は一人も残らなくなる。なぜならば、人間は悪行をする生き物だからじゃ。わしらは神にはなれんし、神になってはいかん」
「議長。神は、存在するのですか」
「そんなものは、おらん。たとえ、人間でも、天軍兵士でも、自分が神だと思った時が地獄の始まりなのじゃよ」
「どうして、神はいないのですか」
「無いものねだりじゃ。全知全能の神がいてくれたら、助かるという助平根性じゃ」
「では、人間に救いはない、と」
「ない」
「今のままでは、人間は滅びませんか」
「滅ぶかもしれん」
「それでも、いい、と」
「いい、とは言わんが、仕方のないことじゃよ」
「黙って、見ているだけ、ですか」
「そうだ。今までも、今からも。天軍は天軍の使命を果たす。それしかできん」
「つらい、使命ですね」
「ん。おまえだけじゃない。天軍の兵士なら、誰もが、そう思っとる。わしらは、人間の悪行を見る仕事をやっとる。辛くないわけがない」
「はい」
「今から、わしの言うことを、しっかりと聞いてくれ。今日から、藍は天軍にとって欠くことのできない最終兵器になった。じゃが、おまえが禁を破れば、名簿からお前の名前を消すことになる。そうなれば、駆逐できない地軍兵士が増殖するかもしれん。そして、人間は破滅への道を転げ落ちるかもしれん。そうなるとわかっていても、わしは、おまえの名前を消す。これだけは、譲ることができん。わかってくれ」
「はい」
天軍兵士は名簿から名前を消されると、消滅する。過去、兵役中に名前を消された兵士は一名もいなかったと聞いていた。
「琉」
「はい」
「藍を守ってやってくれ」
「はい」

日本に戻った藍と琉は、通常任務についた。天軍兵士には八時間だけ自由時間が認められていて、残りの十六時間は、地軍の掃討作戦に従事する。だが、どこの地域でも自由時間というのは名目だけのものになっている。司令部の指示から外れるだけのことで、やっていることは地軍の掃討という仕事だった。兵士は兵士なりに個人としてのこだわりがあり、重点的な掃討行動をしたいと思っている。藍は児童虐待に曝されている子供たちを守りたいと思っていた。小まめに地軍を取り除いてやらないと、地軍兵士に唆された親が暴力をふるい続ける。だから、自由時間の八時間だけは、その仕事に専念することにしていた。それでも、殺されてしまう子供たちがいる。内縁の夫や、恋人の男に逆らうことが怖くて、自分の子供が虐待されていることから目を背ける母親もいて、男が帰ってくるのを待つこともあった。目の前で子供が死ぬ現場にもいた。暴力を振るっている男を抹殺したいという強い欲求を押さえるだけでも苦しい。でも息の絶えた子供の小さな体を見ると、自分を止めることが困難になる。琉がいつも、そんな藍を体で止めてくれる。
藍と琉が通常任務でパトロールする地域は奈良北部だった。大都会に比べれば人間の情緒は大人しい方だが、そこにもあらゆる悪行が横行している。桃源郷のような地域は世界中を捜してもない。
「藍」
琉が指さす方を見た。
「すごい」
豪邸の前に停まった車から出てきた女の周りに無数の地軍がいた。掃討対象から外れる、ごく小さな地軍の兵士がひしめきあっている。その数は数えることもできないほどの多さであった。
「限界、超えてる」
地軍兵士は人間と共にあり、十メートルも離れると自然消滅してしまう。その女の引き連れている地軍は膨れ上がるだけ膨れていた。過去に天軍兵士に遭遇したことがないか、掃討対象から外れていたために見逃されてきたかのどちらかだと考えられる。
「虚言」
「ああ。大うそつきだな。どうする」
「女のスカートの中」
「ん」
「少し、大きいのが隠れてる」
小粒の地軍は、天軍に攻撃されないことを知っているから、天軍兵士がやって来ても隠れようとはしない。
女は黒い雲を引き連れるようにして家に入って行った。
「行くよ」
「ああ」
女は十九歳。G女子大の学生証を持っていた。死ぬほど多くの嘘をついて生きている女子大生だった。たわいもない嘘なら誰でもつくが、スカートの中に隠れた地軍兵士の大きさからは、嘘が重大な結果を招いた可能性がある。充分掃討する対象になると判断した。使用人がいるような大きな家。女の部屋も畳二十畳ほどの広さがある部屋だった。女が着ている物を脱いで全裸になると、大きめの地軍兵士が二人現れた。
「いた」
部屋は地軍兵士で埋め尽くされていた。
「私が、やる」
藍がパワーを溜めて、放った。部屋に充満していた地軍兵士が一瞬で消滅した。女の目には天軍兵士も地軍兵士も見えないはずなのに、周囲をうかがい、バスローブで体を隠した。何らかの異変を感じたのだろう。女は裕福な家に生まれ、可愛い容姿に恵まれているのに、どうしてこれほど多くの嘘をつくのだろう。二人は念のため両親の部屋を見ることにした。すると、父親の部屋にも母親の部屋にも溢れ出しそうなほどの地軍がいた。両親も大勢の人を騙して生きている人間だった。
嘘つき家族の家を後にした二人は北に向かった。
「段々、早くなる」
「何が」
「藍の武器。こう、パワーを溜めて、バーンと行くだろう。以前はもう少し、時間がかかってた」
「そう。自分では、よくわからない」
道路脇に車が二台停まっている。その車の外で二人の男が言い争っていた。
「あっ」
「どうした」
「あの男、ナイフを持った」
次の瞬間、片方の若い男がナイフを相手の腹部に突き刺した。かなりの大きさの地軍が男の横に現れた。ナイフを刺した若い男は返り血を浴びたまま、平然と自分の車に乗り込み、その場を後にした。
「琉。あいつを、たのむ」
「おう」
琉は車を追い、藍は倒れた男に近づいた。男は痛みにのたうち回りながら、携帯で救急車を要請していた。男の周りに血が広がっていく。救急車は間に合うだろうか。このような緊急場面に出会っても、天軍兵士にできることは何もない。人間には聞き取れないとわかっていても、「がんばれ」と言うしかなかった。
琉が戻ってきた。
「終わった」
「うん」
「間にあうかな」
遠くで救急車のサイレンが鳴っている。男は気を失っていて、動かない。男についている小さな地軍兵士が動いているということは、男がまだ死んでいない証だった。
「藍」
「うん」
「行こう」
「うん」
二人は山沿いを東に向かった。
毎日毎日、人間の悪行を見続けている天軍兵士の心が死んでしまわないのが不思議だった。天軍兵士にも感情はあった。
その日のパトロールを終えて司令部に報告書を提出した。
「藍」
「はい」
「明日。ボリビアに行ってくれ。世界会議の要請だ」
「はい」
「向こうの司令部のBLに会ってくれ」
「BLさんは、典さんの知りあいですか」
「ん。頼りになるやつだ」
「地軍を駆逐したあとの人間はどうしたらいいんですか」
「それは、現地にまかせろ。おまえは駆逐するだけでいい」
「はい」
三十年隔離していたということは、地軍兵士を生み出した人間は三十年間行方不明になっているということになる。そんな人間が社会に復帰できるのか。事情を知らない藍にできることではなかった。
現地司令のBLが言った通り、隔離場所は人跡未踏の場所にあった。天軍兵士なら簡単に行くことができるが、人間を運ぶとなると至難の業だったろう。
藍の力が、一瞬でボリビアの地軍兵士を駆逐すると、BLは中国の糸と同じ表情で驚いていた。南米司令部が三十年間苦しんでいたことが、その表情に表れていた。
「人間を、ここまで、どのように運んだんですか」
「えっ。知らなかったのか」
「はい」
「議長に聞いてくれ。議長が話してないのなら、私の口からは言えない」
「そうですか」
「だが、助かった。本当に助かった。典にもよろしく言っておいてくれ」
「はい」
「後は、こちらでやる」
「はい。琉、帰ろう」
「ああ」
「琉」
「ん」
「私を待たずに、最高スピードでワープしてみて」
「どうして」
「どのくらいの差か、知っておきたい」
「いいのか」
「うん」
「怒るの、なしだぞ」
「わかってる」
「よし。行くぞ」
二人は同時にワープした。
司令部に先着したのは、当然、琉だった。時間的にはごく僅かなものだったが、距離にすれば二百キロメートールは遅れていた。
「こんなに離されるとは思わなかった」
「おまえに勝てることが一つぐらいないと、ペア組んでられない」
五年前に日本地域に配属されて、琉とはずっと一緒に行動してきた。琉の気持ちに立った時、果たして自分の行動は正しかったのだろうか。琉には不満があったのかもしれない。藍は口を閉じた。周囲に副官とか部下のように見られて、気分がいいはずはない。自分が上官だと思ってないとしても、周囲が勝手に言っていることだとしても、琉に対する配慮が足りていなかったのではないだろうか。
その日、人間界は休日で奈良にも多くの観光客が来ていた。奈良の地方ニュースと言えば、いつも鹿の話題と決まっている。鹿のいる奈良公園の近くに猿沢の池がある。小さくて汚れた水の池だが、人出の多い場所だった。パトロールをしている藍が何かを見つけた。
「藍」
「あの男」
「どうした」
「悪行の手前だと思う」
藍が指差した男は、池の一点を見つめて立っている。近くを歩く観光客とは違う空気を持っていた。
「無差別殺人」
「えっ」
「胸のところでナイフを握ってる。止めなきゃ」
「どうやって」
天軍の兵士は地軍に対してだけ力を発揮する。地球上のあらゆる物体に対しては、何の影響もあたえることができない。天軍兵士も、その力も全ての物体を透過してしまう。だから、人間にとっては物理的にまったく影響を与えない無と同じだった。
男の背後に藍が立った。
男の右手が動き、異様な目が通行人に向けられた。次の瞬間、男が道路に倒れこんで、右手のナイフが音をたてて道を滑った。近くにいた通行人の女性が叫び声を出した。地面に転がったナイフが勝手に浮きあがり、宙を飛んで池の中に沈んで行った。
実際には、藍が男を投げ飛ばし、ナイフを拾って池に投げ込んだのだが、人間の目には見えていないので、男が一人で暴れているように見えた。濁った水面からはナイフを見ることができない。男は慌てて立ち上がり、その場から走って逃げた。
「藍。おまえ」
「やってしまった」
「なんで、あんなことが、できるんだ」
「わかんない」
「いつから、なんだ」
「多分、かなり、前から、だと思う。実際にやったのは、初めてだけど、できると思ってた」
「そうなんだ」
「あの人間、今日のことで、もう止めてくれると、いいのにね」
「ああ」
「私、名簿から消されてしまうのかな」
「違うだろ。議長は人間を殺したら、と言っていたんだ」
「でも、その内、殺してしまうかも」
「勘弁しろよ」
「琉に迷惑かけてしまいそう」
「馬鹿」
司令部でその日の報告すると、すぐに世界会議からの出頭命令がきた。出頭命令には琉の名前はなかったが、そんなことを気にする琉ではない。
藍と琉はJKの机の前に立っていた。
「藍」
「はい」
「先ず、ボリビアの件、ご苦労だった」
「はい」
「今日、人間を投げ飛ばしたそうだな」
「はい」
「いつからだ」
「今日から、だと思います」
「こうなるのではないかと、思っておった」
「藍は人間の悪行を止めただけで、殺してはいません」
「わかっとる。まだ、名前を消す、とは言っとらん。落ち付け、琉」
「はい」
「以前に、藍と同じように、人間に対して力を使える兵士がいた」
「ボリビアの」
「そうだ。結局、その兵士は、その後、人間を処刑した」
「はい」
「仕方なく、わしはその兵士の名前を消した」
「はい」
「このことは、ごく一部の者しか知らん。だが、藍には言っておく。この掟を曲げることはない」
「はい」
「天軍には、お前が必要だ。わかってくれ」
「はい」
「それだけだ。戻って、よし」
「はい」

気の遠くなるような、徒労とも思える任務が続いていた。
前回の世界会議で宿題になっていた駆逐範囲の変更に関する個人聴取の順番が藍と琉に回ってきた。駆逐する地軍兵士の基準を変えなくては、やっていけない状況になっている地域が増えたためだった。
「琉の意見は」
「さあ、よくわかりません。決められたら従います」
「そうか。藍は」
「私は、逆だと思ってます」
「逆」
「今よりも、もっと小さな地軍を駆逐しなければ、この状態はよくならないと思っています。特に子供たちについている地軍は小さくても駆逐するべきです。子供たちは地軍の囁きに影響を受けています」
「まあ、そうだが」
「地域ごとに差があってはいけないのですか」
「難しい、な」
「典さんの話を聞いて、天軍は違う方向に行ってるように思いました」
「わしが、何を言った」
「昔は、こうじゃなかった、という話です。昔は目が行き届いていて、小さな地軍も駆逐していましたよね。天軍が基準を変えたことで、人間が基準を変えてしまったんじゃないでしょうか。人間は、この程度なら許されるだろうと範囲を広げて、元に戻れなくなっているんじゃないかと思います。大人がそうなれば、子供も同じように基準を変えることになる。違いますか」
「いや。でもな」
「この前の世界会議で、現状は理解しているつもりです。私の意見が的外れだと思われることもわかります。でも、何かが違うという感じが消えません。典さんも、そう感じてるんでしょう」
「そりゃあ、そうだが、な」
「すみません。余計な事を言いました」
「ん。でも、わしらはどこかで間違った方向に進んだのかもしれん、という心配はある。ただ、もう、後戻りはできない場所にいるような気もする」
「琉と同じです。決まれば従います」
「そうか。お前の気持ちは、報告しとく」
「はい」
二人は司令部を後にして、通常パトロールに戻った。
「俺も、段々、お前のことが心配になってきた」
「私も」
「自分でも、か」
「うん。いつか、名簿から消される。そんなに遠くない。そんな気がする」
「そうか。俺に、何か、できることは」
「ありがとう。琉には心配ばかりかけて、悪いと思ってる」
「気にするな。お前のやりたいように、やれ。俺は、いつでも、お前の相棒だ」
「琉」
パトロール中に、世界会議から呼び出しがきた。
「今度は、アフリカ、だ」
「議長。もう、事態は変わってしまったんではないでしょうか」
「どういうことだ」
「私たち突然変異だと思ってますよね。ほんとに、そうなんでしょうか。もっと、ひどいことが起きる予感がするんです」
「そうか。そう思うか」
「はい」
「どう、すればいい」
「私が、どうして、こうなったのか。自分でわかってないんです。天軍の中には、他にも、いるのではないのでしょうか。気がついてないだけで」
「ん」
「全員、試してみても、無駄にはなりません」
「藍の力を見た中国司令部がやってみたそうだが、いなかった」
「そうですか」
「今日、自分のことを分析してくれ。ALにも同行してもらう」
「はい」
「先ず、お前のことを調べることが第一歩かもしれん」
「はい」
藍と琉、そして世界会議のALの三人はアフリカ東地区へ飛んだ。アフリカ東地区司令部のUT司令官が三人を案内した場所は、某国の宮殿のような場所だった。宮殿は内戦で荒れ果てた国内の様子とは別世界のような豊かさだった。
地軍兵士の大きさは桁外れの大きさだった。人間の三倍はあるだろう。
「あの男は」
「この国の大統領」
「何をしたんですか」
「虐殺だ。ゲリラ兵士を匿った容疑で一般人を百人以上殺した」
「自分の手で」
「そうだ」
十人以上の天軍に囲まれていても、その地軍兵士に動揺はないようだ。この地軍兵士にとって、天軍兵士はもう敵ではないのであろう。地軍には統一司令部のようなものは存在しない。その場その場で人間にくっついている。ボリビアや中国で出現した突然変異の兵士のことは知らないはずなのに、中国で見た地軍兵士と同じようなふてぶてしい表情をしている。
「始めます」
藍は地軍兵士を見ながら、エネルギーを溜めていった。今までの地軍兵士とは大きさが違う。藍の目が青く変わり、次第にその濃さを増していく。エネルギーを放った藍の体は後方に弾かれるような勢いで飛ばされていた。そして、地軍兵士の姿は消えていた。
「よかった」
琉が走り寄って来て、藍を支えた。
「大丈夫か」
「疲れた」
「ああ」
天軍の仲間も周りに寄ってきた。
「ALさん。先に戻ってください。俺たち、ゆっくり戻りますから」
「わかった。ゆっくりでいい。議長には言っておく」
二人はワープせずに、アフリカ大陸の上空を飛んで世界会議本部に向かった。上空から見てもアフリカ大陸には地上の色を変えるほどの地軍兵士がいる。
「琉。地球は変わる」
「ああ」
「もう、元には戻れないのかもしれない。人間は破滅に向かってる」
「ああ」
「天軍のせいなのかな」
「違う。いや、違うと思う」
「世界中の地軍が変異したら、天軍は何の役にもたたなくなる。私一人では駆逐できないと思う」
「ああ」
「時間があるのかどうか」
「ああ」
「それよりも、もっと悪い予感がしてる」
「どんな」
「わからない」
ゆっくり、五時間かけて大西洋上の世界会議本部に戻ってきた。先に戻っていたALと議長のJKが二人を待っていた。
「ご苦労だった」
「弾き飛ばされました」
「ALから聞いた。じゃが、駆逐できてよかった」
「はい」
「二人とも、日本には戻らなくていい。世界会議直属の部隊を作る。日本司令部の典から了解はもらっている。ALと一緒に新しい部隊を創ってもらいたい」
「あの」
天軍において、世界会議の命令は絶対の権力を持つ。名簿から名前を削除する権限を持っているということが、その究極の権限である。だが、藍は即座に返答ができなかった。それは、継続して見守っている虐待児童やいじめ被害に遭っている児童が大勢いる。それらの子供たちのことを考えると、二つ返事で「はい」とは言えない。
「わかっておる。典には子供たちのことを頼んでおいた。今は、無理にでも承知してもらう。このまま、地軍が変異を続けて全地軍が変わったら手の打ちようがなくなる。どれだけの時間が残っているのかもわからん。それに、お前が言ってる悪い予感。わしも、そう感じておる。多分、一刻を争わねばならん事態が来ているのだ。子供たちへの藍の気持ちは大切なことだが、今は承知してくれ」
「はい」
「ALの案を聞いてくれ」
「はい」
「今日、初めて現場を見たが、残念ながら何もわからなかった。でも、我々には第二第三の藍が必要になる。訓練でできるものではないとするなら、発見しなければならない。時間はかかるが、最初に全地区で藍の力を見てもらう。わかっている範囲で藍の話も聞かせたい。次に、まだ兵役に出ていない五年から十年の子供たちの中に第二の藍がいることを期待して、しばらく子供たちの訓練に入ってもらう。もちろん、その間に緊急出動があれば、対応しなければならない。更に、重要なことは、藍が自分の力をよく知ることだろう。それが、全天軍兵士の中から新しい藍を見つける力になる。当面は三人だけの部隊だが、いつか、天軍の主力部隊になるかもしれないと思っている」
「明日、緊急世界会議を招集した。全地域が緊急事態だと認識してもらわねばならん。ALを隊長とする特別部隊の任務も全員に知っておいてもらわねばならん。隊長はALじゃが、これは藍の部隊だ。琉の協力もいる。このまま、人類を滅亡させるわけにはいかん」
「はい」
「藍。体調はどうだ」
「もう、大丈夫です」
「なら、特別部隊は活動開始してくれ」
「わかりました」
天軍兵士に実質的な休み時間などない。特別隊になっても同じ。通常任務より過酷な任務を背負わなければならない。三人の特別隊はすぐにアフリカ西地区へ飛んだ。
その日から特別隊の全世界をくまなく回る任務が始まった。隊長のALが藍の武器を「青光剣」と呼んだ。毎日、ワープと青光剣の連続だった。藍の体力消耗は激しく、琉を心配させたが、藍は休むとは言わなかった。
全世界を回るのに一か月かかった。でも、第二の藍は見つからなかった。デモンストレーションのために何百回と青光剣を使い、青光剣の威力はますます強く、より速くなったが、第二の藍を見つけるという希望は実現できなかった。特別隊は、次の目標になる子供たちの兵舎に行くことになった。
天軍兵士は生まれて五年で成人になり、五年目からは学科と実技の訓練に入る。十年を経過すると各地に配属され兵役につく。訓練する実技は、ワープだけだったが、厳しいものだった。子供兵舎は北極圏の近くにある。藍と琉にとっても懐かしい場所だった。
当時の教官がほとんど残っていた。教官を四班に分けて青光剣の実際を見てもらい、子供たちの中に可能性がないかどうか意見を聞き、藍と琉も臨時教官になって子供たちと接することになっている。
藍と琉が子供時代に、一番厳しい教官だったAYが二人の所へ来た。
「先生」
「元気そうだな」
「はい」
「事情は聞いている。そこで、何か、ヒントはないのか」
「私にも、よくわからないんです」
「何か、思いつけ」
「はあ」
「何でもいい、お前の気持ちでもいい。この五年間、何を考え、何をしようとした」
「人間の子供たちを助けたいと思いました」
「それから」
「ひどい人間がいると、抹殺したくなりました」
「そうか。できるのか」
「わかりません」
「他には」
「将来が心配でした」
「将来」
「はい。人間は破滅に向かってるんじゃないかと」
「ん。いつ、気づいた。自分の力に」
「最近です。半年ほど、前」
「どんな、状況だったんだ。その時」
「児童虐待をしている男が来た時です」
「男。父親じゃないのか」
「多分、子供の母親の恋人」
「ああ。で」
「間にあわないと思って、男についてる地軍に意識を集中したように思います」
「消えてた」
「はい。消えました。琉は私の後にいたし、他には誰もいなかったんで、自分がやったんではないかと思いました。意識してやったのは、その次です」
「そうか。気がつかなかったか」
「はい」
「難題だな。これは」
「はい」
「まあ、いい。子供たちと接して、何か感じたら、俺に知らせろ」
「はい」
教官として、琉は適任者だった。琉のワープ力は天軍の中でも上位にある。藍は助手の仕事を喜んで引き受けた。子供たちも若い教官に興味を持ってくれた。
二か月経っても青光剣に関する進展は全くなかった。途方に暮れるという言葉が似合いすぎる。もう、手さぐりする方法も見つからない。子供たちとは仲良しになったが、友達を作りにきたわけではない。
「藍」
「うん」
「イライラするな」
「してない」
「藍らしくないぞ」
「ごめん」
琉の目はごまかせない。
「俺は、出会えるような気がしてるんだ」
「だれ」
「わからん。でも、そんな気がする」
「そう」
「誰のオーラかはわからないが、この兵舎にお前と同じオーラを感じるんだ」
「そうなんだ。私も注意してみる」

翌日、世界会議からの呼び出しがかかった。全く成果の出ない特別隊の動きに周囲もいらついているのかもしれない。隊長のALも渋い表情だった。ただ、本部の担当者の声が慌てていたから、どこかで新たな変異地軍が出た可能性もあるとALは言った。
「具体的なことは」
「ない。すぐに出頭せよ。それしか言わん」
琉が担当している訓練生を別の教官に預けて、三人は飛んだ。
案内された本部会議室には大勢の幹部が集まっていた。アフリカで会った東地区司令部のUTもいた。アフリカで何かが起きたのか。全員の視線が特別隊に向けられた。
「ご苦労。そこに座ってくれ」
議長のJKが厳しい表情で空いている椅子を示した。やはり、特別隊に対する問題なのか。三人は心配そうな顔で議長を見た。
大きなスクリーンには地形から見るとアフリカ東地区と思われる上空からの映像があり、映像はどんどん高度を下げていく。黒い雲のようなものが見えたが、更に近づくと、それは地軍兵士の大軍だった。
「どうして」
藍が声を出した。地軍は人間から離れては存続できない。せいぜい十メートルが限界のはずなのに、映像の地軍は空を浮遊している。
「変異地軍の大量発生と人間からの離脱が行われていると思われる。実は、東地区の天軍兵士が三十八名行方不明になっていることと関係があるのではないかと考えている」
「地軍に消されたということですか」
「その可能性が大きい。まだ、誰もその現場を見ていないが、連絡は全くない」
数の上で圧倒的に勝っている地軍が天軍兵士を消去する力を手にすれば、天軍と地軍の数千年にわたる戦いは終末を迎えることになり、天軍が駆逐されて、その存在は地球上から消え去ることになる。
「藍。この大軍を消すことができるか」
「わかりません。でも、この映像を見る限り、変異地軍は湧き続けていると思わなければなりません。何か別の対策が必要です」
「別の。どんな」
「発生源を消さなければ」
「人間を、か」
「はい」
「それは」
議長が絶句した。
「地軍がどんな武器を手に入れたのかわかりませんが、私が消された場合、変異地軍を消す方法はなくなります。それほど遠くない将来に、地球上は天軍に駆逐できない地軍で覆われることになるのではないでしょうか。いえ。全ての天軍が消滅してしまいます」
「全員、このまま待機していてくれ」
議長と四人の副議長が部屋を出て行った。
藍は立ち上がってアフリカ東地区司令部のUTのところへ行った。
「この映像は」
「監視部隊が四人張り付いている」
「監視部隊に危険はないのですか」
「わからんが、何かあれば離脱せよと言ってある」
敵の力量がわからずに戦うことの危険は計り知れない。通信機能を持っている天軍兵士も数は限られている。大切にしなければならない。
「見る限りでは、地軍にスピードはないように思いますが、ワープしたような形跡はありませんか」
「それは、確認できていない」
「どの位のスピードなんでしょう。監視部隊に地軍のスピードを計測するように伝えてくれませんか。最高スピードが知りたいです」
「そうだな。すぐに伝える」
「お願いします」
天軍兵士だって、生まれた時からワープできるわけではない。五年間厳しい訓練の結果に得られる唯一の武器なのだ。地軍兵士が同じだとは言い切れないが、せめてワープという武器だけでも持っていなければ対策は生まれてこないだろう。
藍の不安は自分自身にあった。青光剣の全てを把握できているわけではなく、弱点が何かもわかっていない。第二の藍が見つかっていない状況では、他の兵士に頼ることもできない。見通しのきかないままの戦いでは、どこに落とし穴があるかも見えない。それで、本当に戦えるのだろうか。
いつもは、すくにでも現場に行こうとする藍だったが、何かが気になる。琉の表情も不安そうに見えた。
「琉。どう思う」
「わかんない。なんか、いやな感じだ」
天軍に残された手段は、藍を投入することしかない。それは、わかっているが、藍の玉砕は天軍の玉砕になってしまう。自信が持てないと感じたのは、初めてだった。議長に人間の抹殺を進言したが、人間を抹殺する力が自分にあるのだろうか。
議長が部屋に戻ってきた。
「聞いてくれ」
会議室が緊張した。
「天軍の最終兵器は、藍しかおらん。藍を失えば、天軍は存続できなくなるという意見は間違っていない。従って、この事態を収拾するためには、人間の抹殺を許可するしかない。あくまでも、人間を抹殺することが目的ではない。現地で、藍がやむをえないと判断したら、世界会議はそれを認める。他に方法があるなら、何でもいい、発言してくれ」
発言者はなかった。
「藍。行ってくれ。ただし、必ず、帰ってこい」
「はい」
特別隊の三人はアフリカに飛んだ。
現地上空から見降ろしてみると、地軍の数はスクリーンで見るより多く感じる。初めて空を飛ぶ力を得た地軍兵士は、まるでお祭りのように喜んでいるように見えた。その大きさも様々で、何千なのか何万なのかとらえきれない。三人はしばらく上空に留まって地軍兵士の乱舞に魅入ってしまった。
「琉。行こう」
「ああ」
上空から急降下しながらエネルギーを溜め、群れの真ん中を切り裂くように青光剣を放った。一瞬にして空間ができ、二人はその空間を突っ切った。降下しながら、次々に青光剣を放つ。大地が見えてきた。そこから、二人は反転して上空に舞い上がった。
ALが待機している場所に戻った。
「どのぐらいの範囲が消えましたか」
「百メートル前後だろう」
「そうですか。そんなもんですか」
藍が青光剣で開けた空間は次第に地軍に埋められていく。
「どう、思いますか」
ALは視界に収まらないほどの群れを見た。
「無理だろうな。この数だ。藍の限界もわからない。先ず元を断つことだろう。その上で、時間をかければ駆逐できると思う」
「地上に降ります。議長に伝えておいてください」
「わかった。充分に注意しろ。危険だと思ったら退避だ」
「はい」
藍と琉は大きく回りこんで地上に向かった。発生源になっている場所を見つけるために地軍の少ない場所を進んだ。
「藍」
「うん」
「あそこだ」
琉が指さす方向に地上から黒い雲が舞い上がるように見える場所がある。以前に来たことのある大統領府に使用されている宮殿のようだ。
宮殿の外に巨大な穴が掘られていて、次々に人間がその穴に飛び込んで行く。武装した兵士が銃を乱射しながら、一般人と思われる人の群れを穴に追い込んでいるようだ。それは地獄絵図だった。銃を手にした二百人ほどの兵士から次々に地軍が発生し、空に登っていく。兵士は制服を着ているから正規軍の兵士なのだろう。
藍は一人の兵士の後ろに回り、兵士の腰にある銃剣を抜き、背中から心臓を突き刺した。銃剣はそのままにし、兵士を後ろから抱え自動小銃の引き金に指を置いた。追われている側ではなく、追っている兵士の一団に銃弾を叩きこんだ。兵士が倒れていく。味方の兵士の銃で殺された兵士は、すぐに銃弾を藍が抱えている兵士に向けてきた。全弾を撃ちつくした藍は、次の兵士の後ろに回った。味方同士の撃ち合いになり、その場は大混乱になったが、藍は根気よく兵士を殺し兵士の銃を同じ仲間に向けて撃ち続けた。
人間の目には天軍は見えないし、銃弾は天軍兵士の体を通過してしまう。その場から逃げだそうとする兵士を追い、藍は全員抹殺するつもりだった。湧き上がる地軍の姿がなくなってきた。百人ほどの部隊になった政府軍兵士は宮殿の中へ逃げ込んだ。だが、味方の銃で倒されていく兵士は累々と死体を晒していく。藍は、悪の巣窟になっている宮殿にいる人間を全員抹殺してもいいと考えていた。
その時、異変を感じた藍が立ち止った。周囲に大量の地軍兵士がいる。藍は青光剣を放った。後にいたはずの琉の姿が見えない。
「琉」
琉の返事がない。
藍は宮殿を出た。外は地軍であふれていた。
琉の姿がない。
一か所だけ、地軍兵士が群れて黒くなっている場所があり、天軍兵士の足が見えた。
「りゅうぅぅぅ」
藍は飛びながら青光剣を放ったが、消える地軍兵士の数が少ない。
青光剣が効かない?
藍は地軍の群れの中に飛び込んだが、地軍に跳ね飛ばされる。転回して、勢いをつけて地面すれすれを飛び、琉の足を掴んだ。そのまま、力づくで引っ張った。地軍の黒い雲からはぎ取った琉を抱きとり、瞬時にワープをかけた。
琉に動きはない。琉を抱いたままワープをして、琉が安全かどうかを考えるゆとりはなかった。一キロ上空までがワープの限界だった。
「りゅう」
琉の鼻孔や口の中に細かい地軍兵士がいるのが見える。
藍は力いっぱい琉の背中を叩いた。口の中から、鼻の中から地軍兵士がこぼれ落ちる。胸にひざ蹴りを入れると、琉がむせて口から大量の地軍兵士が吐き出された。
藍は両手で琉の背中を叩き続けた。
苦しそうな表情だったが、琉が目を開けた。藍は青光剣を放つ。琉の体内から出てきた地軍が消えた。
「りゅう」
「ああ」
「飛べるか」
「ああ」
藍は琉の体を支えて、さらに上空に移動した。
「琉。吐け」
ごみのように細かい地軍が出てきたが、最後は空咳になった。
「琉。わかるか」
「ああ」
天軍兵士のエネルギーは地球上の酸素を取り込み変換する。地軍はその酸素取り込みを阻害すべく口や鼻を塞いでいた。あと少し遅れていれば琉は消滅していたかもしれない。
「俺、どうなった」
「もう、大丈夫だよ」
「ああ」
「酸素、吸えてるよな」
「ああ」
「よかった」
藍は琉を支えて、現場を離れた。そこへALが来た。
「何があった」
「琉が消されるところでした」
藍は状況を説明した。
「アフリカ地区の兵は、それで消えたのか」
「そう思います。近づいてはいけません。防ぎようがない」
「わかった。監視部隊も、さらに遠くへ移動させる」
「琉が気を失っている間は、青光剣は効きませんでした」
「琉が」
「今まで、琉は必ず私の傍にいたから、気づきませんでした。琉がいないと青光剣は使えないようです」
「そうなのか」
「琉の体力が戻るまで、時間を下さい」
「わかった」
「何か方法はないでしょうか。琉を守る」
「議長に頼んでみる」
「百人以上の人間を殺したと伝えてください。でも、まだ全部ではありません」
「ん。ワープはまだ無理か」
「琉のダメージがまだわかっていません。危険です」
「そうだな。二人とも安全な場所にいてくれ。私は本部に戻る」
「はい」

藍は琉の様子を見ながら、ゆっくりと地球を北上し、イラン上空で休んだ。
「藍。まだ、体の中にいるか、あいつら」
「いや。いないと思う」
「俺、消えるとこ、だったのか」
「うん。たぶん」
「お前の邪魔した」
「違う。私が気付かなかったのが、原因だ。琉がいないと青光剣が使えない」
「そうみたいだな。変な気分だ」
「ずっと一緒にいたから、つい。ごめん」
「へっ。俺も初めて役にたった」
「ごめんなさい。私、琉を守る」
「ほんとに、わかんないことばっか、だな」
「ほんと」
「あいつら、まだあのままか」
「うん。でも、気にしないで。琉の体力が大事」
「ついに、人間を抹殺したな」
「うん」
「あんな方法、いつ、思いついたんだ」
「あの場で」
「人間は内輪もめだと思ってるだろうな」
「うん」
琉の様子はだいぶ落ち着いてきた。だが、藍の頭の中は、どうやって琉を守るかということでいっぱいだった。
「琉」
「ああ」
「前に、私の心が読めるって言ってたよね」
「ああ。全部じゃないけど。大体な。でも、あのやり方はわかんなかった」
「どの」
「人間の抹殺」
「そう」
「どうして」
「二人の体、紐で結んどいたら、どうだろう」
「それだと、お前、動きにくいだろう」
「うん。でも、何かしないと、琉も青光剣も消える。このままじゃ、天軍は消滅してしまう」
「ああ」
琉が目を閉じた。琉の肩に手をかけた藍は、酸素を取り込んでいる様子を確認して、その手を外した。体力の消耗がよほど激しかったのだろう。成人した天軍兵士は睡眠を必要としない。実際には体の各部が短時間づつ休みをとっているという話だが、本人には何の意識もない。眠りという記憶は、藍の中でも遠い記憶になっていた。
「琉。死ぬなよ」
藍は琉の寝顔を見ながらつぶやいた。
ALが本部から戻ってきた。目を閉じている琉を見て、驚きの表情で藍を見た。
「大丈夫」
藍は小声で答えて、少し琉から離れた。
「眠っています」
「そうか」
「本部は、どう言ってます」
「安全の確保が最優先。監視部隊はさらに距離をとって監視する」
「はい」
「琉の体力が戻ったら、子供兵舎へ行ってくれ」
「子供兵舎」
「まだ訓練年齢になっていない子供の中にバリヤを作る子供がいるらしい」
「バリヤを」
「その子供と一緒なら、琉を守れるかもしれない」
「そうですか」
「もう一度、議長の言葉を伝えておく」
「はい」
「安全確保を最優先にしろ、と言う言葉だった」
「はい」
三時間後に目を覚ました琉は昔の琉に戻っていた。二人は子供兵舎へワープした。

特別隊が待つ部屋へ教官が連れてきたのは、まだ成人になっていない二人の子供だった。緊張が顔に出ている。白い髪を後ろで束ねた男の子は、黒い髪を一つに結った女の子を自分の後ろに庇うように立ち、特別隊の三人に向かって挑戦的な視線を送っていた。
「281番と282番」
教官は二人を紹介して、男の子の頭を無理矢理下げさせた。281番と呼ばれた男の子は教官を睨みつけた。教官は今の状況がわかっているので、何とかしたいという気持ちだったのだろう。
「四人にしてもらえませんか」
藍は部屋から大人を排除した。
「琉。説明してあげて」
「やあ。二人とも俺たちのこと、知ってるよな」
無言の視線が戻ってくる。
「俺は琉。こいつは、藍」
やはり、無言。
「俺たち、窮地に立ってて、窮地、わかるか、滅茶苦茶、やばいってこと。だから、お前たちの助けが欲しくてここにいる」
「どう、やばいか。それはな」
琉はわかりやすい言葉で説明した。途中から子供たちが反応し始めた。
「もう少し、藍の来るのが遅かったら、俺はここにはいない。こいつは強いけど、俺はそんなに強くない。でも、俺がいないと、こいつは強くなれない。ややこしい話で悪いな。俺が敵の攻撃を受けなければ、藍は敵を倒すことができる。ここまでは、わかるか」
二人が頷いた。
「おまえ、バリヤ作るんだってな」
281番の男の子が頷いた。
「そん中に、俺も入れるか」
「うん」
やっと、声を出してくれた。
「今、ここで、できるか」
男の子は大きく頷いて、女の子の手を握り直し、左手で円描いて、頷いてみせた。
「もう、いいのか」
琉が手を前に出して近づいた。
「おっ」
藍も手を伸ばした。そこには、見えない壁があった。
「よし。外せ」
男の子が、また円を描いた。
「俺も、まぜてくれ」
女の子が琉に向かって手を出した。三人が手を繋いで並び、男の子が左手を回した。
藍がバリヤを確認する。
「叩いても、大丈夫なの」
男の子が頷いてくれた。藍は何度も叩いた。
「ぶつかっても、いい」
男の子の許可を貰って、バリヤに体ごとぶつけてみた。
「すごおい。酸素は大丈夫なの」
男の子が得意そうに頷いた。
「何時間ぐらい、できるのかな」
男の子は首を横に振った。それほど長い時間やった経験がないのかもしれない。
「もう、いいよ」
バリヤが外れた。
「おまえ、すげえな」
琉が驚きの声を出した。
「俺たちの仲間になってくれ、頼むよ」
「いいよ」
「やったあ」
琉も子供に戻ったようにはしゃいだ。
「藍。こいつらに名前つけようぜ。番号じゃ、かっこ悪いし」
「うん。何がいいかな」
藍も初めて兵士になって名前を貰った時は嬉しかった。
「この子は、髪が白いし、白(ハク)。この子は髪を結んでいるから、結(ユイ)」
「はく、と、ゆい。いいね」
「いいかな」
二人の子供は大きく頷いた。一気に大人になった気分だろう。
「特別隊は、五人だ」
琉も、白と結も笑顔だった。しかし、藍の頭の中は課題でいっぱいだった。余りにも二人は子供すぎる。五年の訓練期間を飛ばして兵役に入ることになる。地上のことも知らないし、ワープもできない。バリヤが何時間持続できるのかもわからない。
「おまえら、青光剣、知ってるか」
二人は知らないと首を振った。
「こうな、目が青くなって、バーン。すると、地軍が消える。すごいだろ」
「この子だって、目が赤くなるよ」
「えっ」
「怒ると、赤くなるんだ」
藍と琉が目を見合った。藍と同じようなオーラと言っていたのは、この子のことだろうか。言われてみれば、自分の小さい時に似ていなくもない。
「やってみて」
「駄目だよ。怒らないと、赤くならない」
「そう」
「琉。青光剣は後にしょう。先ず、バリヤだ。持続時間と強度。次はワープ。この子らを乗せてワープできるか。ワープした時に、この子らにダメージはないか。テストが必要だ」
「そうだな」
「私は、教官に会ってくる。ALにも知らせとかなきゃ。琉は、ここで、バリヤのテストを繰り返して確実なものにしておいて。時間はない」
「わかった」
藍は一人で、ALに会いに行った。
「あの二人、特別隊にもらいますけど、問題ありませんか」
「もう、議長にも確認した。教官もいいと言っている。バリヤ、使えるか」
「琉にテストを繰り返してやってもらってます。使えると大きな武器になります。先ずは、やってみなくてはいけないことを試してみます」
「俺にできることは」
「アフリカの状況を見ててください。そんなに時間はありませんよね。あのまま変異地軍が増えると、別の問題が出てくるかもしれません」
「承知。俺のことは助手だと思え。どんなことでもやる」
「ありがとうございます。日本でテストすること伝えておいてください。行く前に教官に会ってきます」
教官は訓練に出ずに、藍と琉を、白と結のことを待っていてくれた。
「どうだ。使えそうか」
「はい。今からテストします。あの子らはワープできませんよね」
「ああ」
「私が子供を抱いてワープして、あの子らにダメージありませんか」
「俺の直感でいいか」
「はい」
「いけると、思う」
「あの子らは、天軍にとって宝になります。壊したくない」
「時間、無いんだろう」
「はい」
「一週間あれば、少しだけでも自分で飛べるようにするけど」
「一週間は無理です。最大で二日です」
「だろ。藍が抱いて飛べ。一度に長い距離は飛ぶな」
「はい」
「藍はテストするんだろ。テストしながら、ワープも教えろ。お前と琉ならできる」
「はい」
見切り発車のようなことばかりが続く。緊急時だから仕方がないと言っても、琉を失いかけたことは事実だ。白も結も失うことはできない。自分のことだけに専念できていた頃が懐かしい。地球上の地軍兵士を一瞬で全て消し去ることができる力が欲しかった。

藍が結を胸に抱き、琉が白を抱き、小刻みにワープをしながら日本に向かった。藍が行こうとしている場所は嘘つき女子大生の部屋だった。変異地軍の危険度は小さな地軍の群れだと思っている。琉の鼻を塞ぎ、口を覆って酸素吸入を止めさせて琉を消し去ろうとした。白のバリヤが微小地軍を阻止できなければ、幼い二人をアフリカ上空に連れて行くことはできない。
久しぶりに訪れた日本は懐かしい臭いがした。日本で通常任務についていたのが遠い昔の出来事のように思える。予想通り女子大生の部屋は地軍であふれていた。女子大生は自分が嘘つきだという認識は持っていないのだろう。白、結、琉の順番で手を繋ぎ、白が左手でバリヤを作った。白が歩いて部屋に入る。藍はいつでも青光剣を放てる準備をした。逃げ惑っていた地軍兵士は、バリヤの中にいる三人の天軍が何もしないことを知って、怖々とバリヤに近づいてくる。白と結にとっては、初めて見る地軍兵士の姿なので、驚きの表情だった。普通の地軍は触れば消えてしまう存在だと教えてあるので恐怖心はないようにも見える。だが、バリヤの向こうにいる地軍の群れは決して気持ちのいい存在ではない。結の目には怖さも混じっているようだ。白がさらに奥に進む。三人が入ったバリヤは地軍の群れにすっぽりと入り込み、その周辺を地軍兵士が動き回っていた。時間が経ち、慣れてきた地軍はバリヤに触り始めた。見えない障害物があることを知った地軍兵士の中には大きく口を開けて噛みつこうとしている兵士もいる。離れた場所から勢いをつけて、体ごとぶつかってくる兵士もいたが、バリヤにはじき返されている。少し大きな地軍兵士が来たが、バリヤを突き破ることはできないようだ。ぶつかってはじき返さるのが楽しいようで、バリヤの周囲は遊園地になっていた。
三時間経過した。
藍は念のため地軍兵士が変異地軍ではないことを確かめるために、自分の手で近くにいる地軍に触れた。
「白。バリヤを外して」
白がバリヤを外し、琉が地軍を消す見本を見せた。白と結にとっては初めての地軍掃討行動になる。緊張しているはずだ。藍と琉が見守る中で、二人は任務を遂行した。
「二人とも、天軍の兵士だ」
琉が声をかけて、二人を抱きしめた。
「行こう」
子供兵舎へ向けて戻りながらワープの訓練をしたが、二人の背筋はワープができる状態にまで育っていないと思われる。五年を経て訓練に入るように決められていることは、それなりの理由があると納得しなければならない。琉が両手に二人を抱いてワープしようとしたが失敗した。当面は一人ずつ胸に抱いて藍と琉がワープする方法しかない。
ただ、このテストでは一つだけ不思議な体験をした。何度も結を抱いてワープしていたからなのか、結に対して特別の気持ちが生まれているのだ。それは、琉も同じらしい。初めて出会った時よりも、二人を守りたいという気持ちが強い。幼い二人を危険な場所に連れて行くことにも疑問を感じている。本当に、兵士の中にバリヤを作れる者がいないか、もう一度確認しておかなければならない。
「教官。ワープは無理でした」
「そうか」
「わかってたんですか」
「ん。でも、お前たちが選んだ二人だから、もしかして、と思った」
「危険じゃないですか」
「すまない」
「あの子ら、無理して壊れたらどうするんですか」
「すまない。だが、今は無理も必要だろう」
「それは、変です」
「藍も琉も、無理してないか」
「それと、これとは」
「今は、天軍の危機だ。だから、お前も無理をしてる。天軍が消滅しまってからでは遅いと思った」
「でも、あの子らが壊れたら、もっと危機になります」
「ん。すまない」
「教官のこと、頼りにしてるんです。次から教官に相談できないじゃないですか」
「悪かった。俺も、あせってたようだな。あのアフリカで消された兵士の中には俺の生徒だった兵士が何人もいたんだ。天軍兵士が消されるなんて、ありえないことだった。だけど、だからと言って、あの子らを危険にさらすことは、お前の言う通り、間違ってた。許してくれ」
教官がこれほど素直に謝るとは思いもしなかった。とても、これ以上教官を責める気持ちは持てない。誰もが焦っている。自分も。
天軍兵士は種の保存に関与していないので生殖能力を持っていない。だから、人間界にある恋愛感情の類はない。その分、同志愛、仲間意識、子弟愛のようなものが強くなる。他人より得をするという条件もない。衣食住は世界会議の議長から兵役に就いたばかりの兵士まで同じで、金銭という概念もないから、あくせくする兵士もいない。美食もなく、娯楽もない。もちろん、贅沢という概念は存在していない。日々、任務の遂行だけを百年一日のように続けている。人間から見れば変かもしれないが、そうなのだから仕方がない。それは、地球上で最強の存在だったことによるものだったが、これから先の天軍には変化が起きるのかもしれない。地球が変わり、人間が変わり、地軍も変わってきた。天軍だけが変わらない存在でいられる保証はどこにもない。藍の青光剣も白のバリヤも、過去の天軍には全く必要とされなかった能力だったが、若い兵士の藍と子供の白にその能力があったことは時代が変化する証なのかもしれない。
アフリカの変異地軍の様子を映し出している映像を見る限り、大きな変化はないように見える。だが、放置して、地軍がさらなる変化をした時に、天軍が対応できるかどうかは未知数である。今、対処せずに未来に禍根を残すようでは、人間と変わりがない。
ALを除く四人の特別隊はアフリカにむかった。
アフリカ上空で眼下に変異地軍の群れを見ながら、綿密な打ち合わせをやった。指揮官は藍だが、藍を含めて誰もそのことを不思議だと思ってない。チームワークの一瞬の遅れが致命傷になる可能性がある。何度も伝え、何度も復唱させた。
藍が先頭に立ち、三人が入った白のバリヤが続く。天軍特別隊はゆっくりと地軍の群れに近づいていった。前回、藍が人間を抹殺したために変異地軍の増加は無くなっているように見える。だから、地軍を駆逐した後で、最小限の人間抹殺作戦を実施する作戦だった。
変異地軍は天軍を恐れていない。最初は近づいてくる四人の天軍に注意を向けたが、次第にその興味は薄れ、飛びまわる。前回より地軍兵士のスピードが速くなっている。このまま地軍のスピードが上昇していけば、百年後か二百年後か不明だが、天軍と同じスピードに達する時が来るかもしれない。青光剣を使えない天軍の優位はスピードしかない。数の上で絶対優位に立っている地軍がスピードという武器を手に入れれば、天軍兵士は地球上から消滅する。この作戦が重要な意味を持っていることを、藍と琉はひしひしと感じていた。
近づく。立ち止まる地軍兵士が増え、天軍兵士と向き合うように集結し始めた。地軍は逃げずに戦う意欲を示している。今までの地軍兵士は、ひたすら逃げ回っていただけだった。
更に近づく。塊りになった地軍が前に出てきた。山のような地軍の群れが向かってくると、それだけで威圧感がある。藍は我慢した。白と結は我慢できるだろうか。バリヤの中にいる琉に任せるしかない。正面の敵はとまったが、両翼の地軍は動きをとめずに大きく天軍を包囲するつもりのようだ。指揮官がいるようには思えないが、組織された軍のような動きを示している。
初めて、藍が青光剣を放った。目の前の地軍が大量に消え、地軍の動きがとまった。
青光剣の一撃が戦いの火蓋を切った。
地軍はすぐに立ち直り、包囲網を絞ってくる。
藍はバリヤの周りを飛びながら、連続して青光剣を放つ。
青光剣が眼前の地軍を消しても、包囲網に穴は開かない。包囲網が四人の天軍に近づいてくる。藍は青光剣を撃ち続けた。だが、バリヤに到達する地軍が出るほど近くに迫ってきた。撃っても、撃っても限がない。大軍を前にして、一か所に留まって戦うことは大きな不利を背負うことになる。藍の体力も無限ではない。
戦場離脱の決断をしなければならない時がきた。
「琉。離脱」
「おう」
「いち、にい、さん、よん」
「よん」で藍が最大級の青光剣を放ち、「ごお」でバリヤを外してワープする作戦を立ててある。
藍は「ごお」と叫びながら、結に向かって飛んだ。青光剣を放つ余裕はない。結の口と鼻を自分の胸に埋めてワープをかけた。僅かだが琉に遅れた。ごく短い時間だが地軍と触れる時間があった。細かい地軍が体内に入ってきたことがわかった。しかも、地軍という障害物の中をワープする。その衝撃に結が叫び声を出した。地軍の群れを抜けてワープが通常に戻ったが、藍の体力が限界だった。
「あいっ」
琉の声が遠くでした。背中や胸に衝撃が走る。藍は大きく咽て、地軍を吐きだした。無意識に青光剣を放つ。
「吐け」
琉の切迫した声が届く。まだ、地軍を全て吐き出していない。だが、意識が途切れ途切れになる。自分に向けて青光剣を放つことはできない。このまま消えるのか。
「藍。吐け。負けるな」
結の目が赤く光り始めている。それを見つけた白が琉に知らせた。
「結。藍にむけて、撃て」
「早くしろ。消えてしまうぞ」
「撃てっ」
「こらっ」
藍の体が琉の両手の中で柔らかくなった。藍が気を失ったようだ。だが、酸素は取り込んでいるように見える。結の青光剣が藍の体内の地軍を消してくれたのかもしれない。琉は顔を近づけて藍の呼吸を確認した。
「大丈夫だ。気を失っただけだ」
白と結が肩の力を抜いた。
「結。お前のおかげだ。藍は助かる」
「えっ。お前、今、青光剣、使った、よな」
夢中だったが、結が初めて青光剣を使ったことに、琉が気づいた。
「やっぱ、結もできるんだ」
結の場合は青光剣ではなく、赤光剣と言うべきかもしれない。
「お前たちも疲れたろ。眠っていいぞ」
白は頷いて目を閉じた。バリヤを張り続けて、白も疲れていた。
結は藍の指を握ったまま、その場を離れようとしなかった。
藍は二時間眠り続けた。
藍は自分の指の温もりで目を覚ました。
「あい」
「ゆい」
目の前に結の頼りなげな目があった。
「藍。気が付いたか」
藍は琉の腕の中にいた。
「私、どうしたの」
「疲れたんだろ。お前の体の中の地軍は結が消してくれた」
「結が」
「結が青光剣を使った。結の場合は青光剣ではなく、赤光剣かもしれん」
「ここに、どのぐらい、いるの」
「二時間かな」
「白は」
「そこで、眠ってる」
「結は眠らなかったの」
「こいつは、お前の指を離さない。藍が目を覚ますまで心配だったんだろ」
「そう」
「ともかく、全員、無事だったんだ」
「うん。結。ありかとう。助けてくれて」
藍は起き上がり、結を自分の腕に抱きよせた。
「ありがとう。結」
結は寝息をたてていた。
「琉」
「ああ」
「私の作戦は失敗だった。どうしよう」
「失敗なんかじゃない」
「ううん。あの作戦では犠牲者が出る」
「もう少し早くワープすれば平気だよ」
「違う。作戦を変えなきゃ駄目だと思う」
「どうするんだ」
「それが、わからない」
藍は考えた。考えながら三人の仲間の顔を見た。
「琉」
「ああ」
「無理、言って、いい」
「なに」
「この子ら、返そう」
「バリヤは」
「バリヤなしで、戦う」
「・・・」
「時間かけて、駆逐する」
「その時間がない、と言ってたのは、お前だろうが」
「でも、仕方ない。青光剣を撃って、ワープする。それの繰り返しでいく」
「あれだけの数だぞ」
「三人を危険に晒したくない。琉と二人ならスピードで負けることはない。深追いしなければやれる」
「また、大量に発生してきたら」
「ずっと、続ける。だから、琉に無理言ってる」
「わかったよ」
「ごめん。琉になら死んでくれと言えるけど、この子らには言えない」
「ああ」
琉ならわかってくれる。藍はそう信じていた。何かが起きて、うまくいかないことがあるかもしれないが、細心の注意を持って任務を遂行しよう。振り出しに戻ってしまったが、やるしかない。白が目を覚ましたが、結が眠っているから待つように言った。
二時間後に結が目を覚ました。
「行こう」
「どこへ、いくの」
何か様子が変だと思ったのだろう。白が怪訝な表情で訊いた。
「二人は、子供兵舎で待機しててもらう」
「どうして」
「次の作戦は、そういう作戦だから」
「あたし、かえらない。あいといる」
結が固い表情で反対した。
「駄目。二人は待ってて」
「どうして、藍の命令をきかないんだ、お前たち」
「あいが、きえてしまう」
「は」
「そうなのか」
白が結の顔を覗きこんで訊いた。
「うん」
「じゃあ、おれもかえらない」
「白。何、言うんだ」
「おれたち、いなくなったら、あいがきえる。ゆいがそういってる」
「どういうことだ」
「こいつのよげんは、ぜったいに、はずれないから」
「はあ」
「力づくでも、連れて帰るよ」
「だめ。ほんと、だから。あいはいなくなっちゃう」
「行こう、琉」
無理矢理抱き上げた藍の腕の中で、結が暴れまくった。そんな状態ではワープなどできない。仕方なく結を放した。説得しなければならない。
「結。よくきいて。この部隊の隊長は私。だから、作戦は私が作る。結も特別隊の兵士だよね。だったら、私の命令に従わなければならない。でないと、結には特別隊から出て行ってもらうことになる。そんなの、いやだよね」
「わたし、あいと、いっしょに、たたかうから。かえさないで」
「命令には、従わないと言うの」
「いや」
こんなに聞き分けのない結は初めてだった。
「藍。無理みたいだぜ」
「馬鹿言わないで」
「でも、結の予言が当たっても困る。議長に何て報告すればいい」
「琉」
「もう一度、作戦を立て直せ」
「あたし、たたかう」
「結の力では、まだ無理よ」
「かえさないで」
結局、結の強情に負けて、結の赤光剣を試すことになった。ヒットアンドアウェイの方法は変えない。それを四人でやることになった。一撃を与えて、ワープ、また一撃を与えてワープする。離れた場所から青光剣を撃った場合、駆逐できる数が減ることになるが安全第一でするしかない。藍と結が手を繋ぎ、琉と白が手を繋ぐ。いつでもワープできる態勢で戦う。
「結。いち、にい、さん、で撃つ。やってみて」
「いち、にい、さんっ」

四人は戦場に戻った。
慎重に近づき、距離は遠かったが結の赤光剣を撃たせた。青光剣ほどの威力はないが、武器としては充分役にたった。赤光剣に続いて藍の青光剣を放ち、四人で後退した。
地軍の数を考えれば気の遠くなるような作戦だったが、安全は確保できる。一年でも十年でも、いや、百年かけてでも駆逐できればいいとしなければならない。後は、この変異地軍の大量発生が起きないことを祈ることだ。そう思って自分を納得させているが、何かが起きるような不安が藍の気持ちから抜けていない。この事態を早く終結させてしまわなかったことで、取り返しのつかない禍根を残してしまいそうな不安。その不安の正体がわからない分、藍の悩みは深かった。
一週間、同じ方法で地道に地軍の数を減らしてきた。見た目には成果が出ているようには思えないが、焦る気持ちを抑え続けた。
「結」
「はい」
「次から、ごお、でやってみよう」
「いち、にい、さん、しい、ごお」
「そう、ごお、で撃つ」
蓄積したエネルギーが大きくなった分、破壊力が増大した。
退避して、再び戦場に戻った時、突然地軍に包囲された。地軍も天軍の動きを観察しているのに、同じやり方を何百回と使えば問題が出ることを想定しておかなければならなかった。しかも、地軍のスピードが当初の何十倍にもなっている。藍と琉のスピードと比較すればまだまだ遅いが、白と結のスピードに負けないくらいのスピードになっていたのだ。
「退避」
藍は結を抱き、琉が白を抱いてワープした。
「藍」
「なに」
「増えてないか」
「私も、そう思う」
駆逐しても駆逐しても、地軍の数が減らないと感じていたが、実際には、一週間前より増えているように思っていた。
「一度、本部に戻ろう」
「そうだな」
藍は緊急会議を要請して、本部に向かった。
出迎えてくれたALが暗い顔をしている。状況は把握しているようだ。各地区の代表も会議室に揃っていた。
「残念ですが、掃討作戦は失敗だと思います。是非、皆さんに知恵を絞っていただきたいと思って、戻って来ました」
「ずっと、そのための会議をやっとる。じゃが、打開策はない」
議長の声にも元気がなかった。
「そうですか」
会議室にいる五十人ほどの出席者は今日まで天軍を導いてきた。だが、今は疲れ切った表情で座っているだけ。藍は、それも仕方のないことだと思った。事態は天軍指導部か対処できる範囲を超えている。
「わしの、個人的な考えを聞いてくれるか」
議長が力のない声で言った。
「お願いします」
「最初に言っておくが、この事態は藍のせいではない。お前はよくやった。ここにいる全員が特別隊の皆に感謝しとる。そのことは、わかってくれ」
「はい」
「じゃが。ごく、近い将来に、天軍の消滅は避けられんじゃろう。青光剣の力では、あの地軍の増殖に立ち向かえんことは認めざるをえん。先ず、地軍の増殖を止めることじゃが、人間を消すことができるのは、藍しかおらん。わしらには、なんもできん」
「そこで、じゃ。わしらが地軍の餌食になり、その隙をついて地軍を生み出しとる人間を、お前に消してもらう。わしには、それぐらいしかできん」
「議長」
「わかっとる。馬鹿げた方法じゃ。わかっとる」
「聞いてください。現場にいた私の意見ですが、多分、全軍を投入しても成功しないと思います。それは、集団自決にしかなりません」
「ん」
「戦場に戻ります。私たちには時間を稼ぐことしかできませんが、最後までやってみます。諦めるのは、いつでもいいでしょう。議長」
「ん」
「私に、全権をください。私の決定には全軍が従うという権限です」
「わかった。お前に、託す」
五人の特別隊員は特別隊の詰め所に集まった。
「私は、議長の許可を得て、全軍を指揮する立場になった。これからの作戦は、私の命令に従ってもらう」
藍は四人の顔を厳しい目で見た。
「作戦は、私と琉が青光剣とワープを駆使して、最大限の地軍駆逐を行うこととする。以上」
「いや」
「結。決まったことだ。私の命令は絶対なの」
「いや。あたしも、いく」
「駄目だ。許可しない」
「あたしは、へいし、じゃない。めいれいはとどかない。だから、いく」
「へっ。お前、言うじゃないか。ガキのくせに、なかなかのもんだ。藍。お前の負けだ。こいつらだって、子供兵舎で地軍に飲み込まれるより、戦った方が気分いいと思うよ。そうだな」
「うん。あたしも、あいといっしょに、たたかう」
「白はどうだ」
「おれも、いく」
「司令官どの。決まりだ」
「琉」
議長から全権を貰った意味がないではないか。死地に乗り込むのに、子供など連れていけるか。琉の馬鹿。何考えてるんだ。
「藍。お前の体の中の地軍を消したのは、結だぞ。大きな借りがある。違うか。結の我儘きいても、罰はあたらねぇ、と思うがな」
結と白が大きく頷いた。仕方がない。
「わかった。ただし、条件がある」
「現地では、私の命令には絶対服従してもらう。兵士でも子供でも。約束できるか」
「了解」
「りょうかい」
「おれも、りょうかい」
今度のことで、重荷を背負うことには慣れてきたが、天軍の運命も子供たちの運命も背負わなければなない。やはり、重い。

アフリカ上空に戻った四人は息を飲んだ。見渡す限り地軍の海だった。
藍は気持ちを切り替えた。戦士に徹して最善を尽くす。悩みや迷いは、戦士にとって致命傷になる。訓練期間に教官からよく叱られたことを思い出せ。
「やりかたは、一緒。ヒットアンドアウェイ。結が最初に赤光剣を撃つ。近づいてくる地軍を青光剣で倒す。すぐに退避。カウントは琉と白。以上」
攻撃地点を決めるのは藍の任務だった。藍は地軍の群れが突き出している場所を選んだ
「いち、にい、さん、しい、ごお」
琉と白が声を合わせてカウントする。ごお、で赤光剣が敵を倒し、その反動で近づいてくる地軍を藍の青光剣がなぎ倒す。
「退避」
次の攻撃地点を捜す。
特別隊の攻撃は続けられた。結と白はまだ子供だから、最低でも二時間は睡眠が必要になる。それ以外の時間は、攻撃を休まない。目の前の敵を倒す。
「藍。後だ」
藍は振り向きざまに青光剣を撃った。なぜ、回り込まれたのか。また、地軍のスピードは上がったのか。
「退避」
原因はわからなかったが、それからも何度か後ろに回り込まれた。
「次の攻撃をして、休む」
その日の最後の攻撃地点を決めて、四人が舞い降りた。
藍と結の正面にいる地軍が後退した。射程距離から逃れる動き。見つけられないが指揮官がいるとしか思えない動きだ。天軍に一瞬の躊躇が生じた。その瞬間にワープしていれば間に合ったのかもしれない。前後左右、そして上下も地軍に囲まれた。
一人でワープする時は、多少の障害物は乗り越えられるが、子供を抱いてのワープは危険が大きい。
「琉。カウント」
「結。天井に向けて撃つぞ」
地軍が包囲網を絞ってくる。
「いち」
「にい」
「さん」
「しい」
「ごおぉぉ」
結の赤光剣と同時に、藍が青光剣を放った。
銀色の光が周囲を染めた。
「たい・・」
藍は退避と叫ぶ言葉を飲み込んだ。何が起きたのか。
周囲を埋め尽くしていた雲霞のごとき地軍兵士が消えていた。周囲だけではない。見渡せる範囲に地軍兵士の姿がない。
「なんだ、これ」
琉の声は裏返っていた。
四人の天軍兵士は呆然としたままだった。
本部にいるはずのALが現れた。ワープしてきたらしい。
「消えてる」
「ALさん」
「本部の映像で地軍が消えた。映像が途切れたのか、どうか、確認しに来た」
「他は」
「どこにも、いない」
「地上は」
「それは、まだ確認してない」
地軍が消えたことの分析より、変異地軍の発生がどうなったかを確認し、阻止しなければならない。
五人は地上に飛んだ。



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不運 [短編]


 遠い空に微かに星が見える。田舎では星はもっと身近にあったのに、という記憶が一瞬頭をよぎったが、落合一馬が空を見たのは、都会の空に不満があるのではなく、雨の心配をしただけだった。夏場はできるだけ野宿をする必要がある。簡易宿泊所に泊まるのは十日に一度と決めていた。既に、自分がホームレスの一歩手前にいることは承知していた。住民とのトラブルを避けるために、就寝場所と決めた公園には遅い時間に密かに侵入し、静かに寝て、早い時間に出て行く。不審者という通報をされて、警察が来てしまったことが二度あった。金がないということは不審者と同じことなのだと知った。住所不定、無職という状態の人間には住みにくい国だった。
蚊避けのために作った簡易テントを用意しようとした時に足音を聞き、一馬は動きを停めた。男が一人、目の前のアパートに入って行った。鉄製の階段を登る男の足元は酔っているようだ。二階の端部屋にたどり着いた男は苦労して鍵を開けて入っていった。一馬は小さくため息をついた。周囲の音を注意深く聞きとってから、バックパックの紐を解きにかかった。
「あっ」
アパートに入って行った男の顔が気になっていた理由がわかった。病院で隣のベッドにいた黒岩という男に間違いない。退院した後、しばらく黒岩のことを捜したが、見つからなかった。入院していた五年前には、ホストをしていると言っていたが、あの様子だと、まだホストをしているように見える。一馬より三つ歳上だと言っていたので、三十六になっているはずだ。少しくたびれたホストに見えた。
一馬は荷物を背負って公園を出た。二ブロック歩くと大通りがあって、空車をつかまえることができる。遅い時間だったが、迷わず簡易旅館に向かった。タクシーに乗るのも五年ぶりだった。大串旅館は三階建ての手入れが行き届いていない建物で、白い壁はモルタルの割れ目に沿ってまだらになっている。この三年は大串旅館以外に泊まったことはないので、利用回数は少なくても常連の一人だと思われる。
帳場でテレビを見ながら居眠りをしていた大串が目を開けた。七十歳を越えていると言われているが、人の気配がすると、自動機械のように目を覚ます不思議な人だった。
「空いてますか」
「ああ、落合さん。元気だったのか」
「はい」
帳場の棚から鍵をとり、カウンターの上に置いてくれた。一馬が千五百円を渡すと、また居眠りを始めた。大串旅館の部屋代は千円だが、一馬が泊まるのは特別室なので少し高い。三階の階段スペースに無理矢理押し込んで作った部屋で狭かったが、隣の部屋のいびきに悩まされることがない。五百円も余計に出して泊まる物好きはいないのか、その部屋は空室のことが多かった。
部屋に入った一馬は、斜めになった壁板を外して紐を引いた。釣り竿用の袋に入った宝物は誰にも見つからなかったようだ。

運と不運はどんな基準で配分されているのだろう。努力すれば、いつかは運が開けるのだと言う人がいる。そのことが真っ赤な嘘だと知らなかった子供のころ、西岡先生の言葉を真に受けて、自分を殺し続けてきた。
一馬の父親はトラック運転手だったが、競馬に狂っていた。一馬の名前の由来は一着馬の着を外しただけの名前だと母親から聞いた。生活費を博打に使ってしまう夫の代わりに、母親は街のスナックに勤めていたが、若い男と蒸発してしまった。借金で身動きのとれなくなった父親は、失意のまま首を吊った。
まだ、田舎では本家と分家の区別が根底にある。本家の次男と同じ学年だった一馬は、子供の頃からその三谷正樹の子分という立場だった。その関係は高校を卒業するまで続いた。中学から剣道部に籍を置いたのも正樹が剣道部だった関係からで、防具も竹刀も本家から下げ渡されたものだった。中学の剣道部顧問をしていた西岡先生に認められ、希望しているわけではないのに個人的に練習させられた。目立ちたくなかったから、校内の試合や練習では負けることに決めていたが、対外試合では負けたことがない。西岡先生はそんな一馬の才能を認めてくれたのだが、ひいきされているようで心苦しい気持ちの方が勝っていた。高校生になっても西岡先生の個人教授は続き、県内で落合一馬の名前は有名になった。経済的な理由で大学進学などできる立場ではないことを知っていた西岡先生は一馬に警察官になることを勧めた。剣道で日本一になれと言われたが、父親が傷害事件を起こし、執行猶予付きながら有罪判決を受け、警察官への道も閉ざされた。母親の蒸発と父親の自殺があったが、本家の三谷家の援助で高校だけは卒業し、西岡先生の紹介で大手電気メーカーに就職した。
十年間、電子技術者として努力を続けて、技術者としての誇りを手にした時に会社の方針変更で一馬の勤務していた事業部は廃止となった。事業部廃止の話を一馬は病院で聞いた。交通事故で両足骨折という全治三か月の重傷を負い、ベッドに縛り付けられていた。従業員は九州の関連会社に配置転換と決まっていた。仕事の内容も電子技術とは無縁の製造ライン監視要員であり、病院に訪ねてきた係長も「都落ち」だと言った。退職金割増制度を利用して、退職金を増やすことで納得せざるをえないという係長は退職を決意していた。「俺には、他人に誇れるほどの技術もないから、仕方ない」と寂しそうな顔をした。「君のような技術を持っていたら、どこにでも仕事はある」という係長の話を真に受けたわけではないが、一馬は電子の仕事が続けたかった。退職希望の話を聞いて人事の人間が足繁く病院まで来てくれ、一馬はベッドに寝たまま退職を迎えた。
中央病院五階の外科病棟に入院していた時に隣のベッドにいたのが、交通事故で入院していた黒岩という男だった。外科病棟で患者同士が話題にする話は賠償金のことが多い。保険屋からいくら取ったか、という自慢話が盛んである。黒岩は自慢話の頂点にいた。そして、いつの間にか一馬の指南役になっていた。その黒岩が紹介してくれたのが谷岡啓司という男だったが、一馬はその谷岡という男に賠償金を騙し取られてしまった。何枚もの書類にサインした時に白紙委任状が混ざっていたらしく、保険会社の担当者は保険会社には責任がないと言い張った。まだリハビリの途中で、すでに黒岩も退院していたので、一馬にできることはなかった。
退院後に黒岩と谷岡を捜しまわったが、その行方を掴むことはできずに、賠償金を取り戻すことを断念せざるをえなかった。それよりも再就職の目処が立たないことが問題だった。たまたま失業率が増加している時期で、電子技術者の求人も枯渇し、面接の結果も良くなかった。失業保険が切れてからも求職活動をしていたが、気がつけばフリーターになっていた。失業保険が切れてからは貯金がみるみる減っていき、一年前にアパートも出ざるをえなくなった。
将来に何の展望もなく、明日に何の希望もない日々が続き、ホームレスになってでも生き延びることに意味が見いだせない。父親のように首を吊るしか残された道はないのかもしれない。今の一馬には行く場所も帰る場所もなく、誰に必要とされることもなく、その日のねぐらを捜す毎日を生きている。今度の冬を乗り越えることができるのだろうか。
虎の子の持ち金をタクシー代に使うなど馬鹿げたことだったが、黒岩から谷岡の居場所を聞き出し、金を取り戻すことだけが現状を変える唯一の方法だと思うしかない。五年前の金を返せと言われて、「はい。そうでしたね」と返してくれるわけはないが、久し振りに巡り合った目標というやつだった。一人で不運を背負って生きていくことに疲れている自分を知っている。この目標が最後の目標でも構わないという気持ちが、短時間の間に固まっている。遠慮して、その上に遠慮して生きてきた人生を終わりにしてもいい。一馬の心は、生まれて初めて解放されていた。絶望は死に至る病だと言った哲学者がいたが、絶望から逃れるためには、人はどんな目標にもしがみつく。たとえ、それが破滅に向かう道程だとしても。

釣り竿用の袋に入った宝物を取り出した。いつの時代の物かは知らないが、脇差は鈍い光を放っている。中学の時に本家の土蔵の中から無断で持ち出したものだが、刀身を見ていると落ち着く。脇差を鞘に納めて、袋の中からナイフを取り出して足に取り付けた。壁板を元に戻し、袋に入れた脇差をバックパックに納めた。二度とこの部屋に戻ってくることはないかもしれないと思うと、旅館の部屋だというのに懐かしさを覚える。部屋に鍵を掛け、鍵をポケットに入れて、靴を手にして階段を降りた。
「ん」
「すぐに、戻ります」
「ん」
一馬はタクシーで公園に戻った。一人で歩く時間は短い方がいい。不審尋問に引っ掛かれれば銃刀法違反で留置されてしまう。タクシーを降りると、帰宅する住人らしく足早に歩き、黒岩が入って行った部屋のドアを無造作に開けた。やはり、鍵は掛っていなかった。部屋の中は酒の匂いがした。一馬は鍵を掛け、ズックを脱いで部屋に入った。女の臭いはしない。一人暮らしのようだが片づいていた。狭い板の間の奥に畳の部屋があり、男の足だけが見えている。いびきが聞こえた。ベッドとタンス、そしてテレビ。黒岩はベッドにたどり着く前に電気も消さずに寝入ってしまったようだ。
一馬は黒岩の足を蹴った。いびきは止まったが、目は覚まさない。板の間に戻り、ゴミ箱に使っているバケツに水を入れて黒岩の顔をめがけてぶちまけた。
「うわあ」
何が起きたのかわからない黒岩が一人で暴れた。
一馬はもう一度台所に戻り、もう一杯水をバケツに満たした。
「目、覚めました」
「誰だ。てめえは」
起き上がっている黒岩の顔面にバケツの水が当たり、勢いで黒岩の体が倒れた。
「てめえ」
「目、覚めましたか」
黒岩は濡れた服を心配し、髪型を直した。だが、現実を認識するには至っていない。一馬は板の間から椅子を持ってきて座って待った。
「なんだ、おまえは」
「憶えてませんか、僕の顔」
「・・・」
「中央病院の五○六号室。憶えてますよね」
「・・・」
「ああ、あの頃は、髪、長かったですけどね」
「落合、君」
「思い出してくれたようですね」
「なんで」
「もう一杯、水、いりますか」
黒岩は首を横に振った。
一馬は袋から脇差を抜きだして、峰を黒岩の首に当てた。
「危ないですから、動かないでくださいよ」
黒岩の目が戻ってきていた。光る刀身と一馬の顔を見比べている。
「どうして、来たか。わかってますよね。谷岡の居場所が知りたいのと、あんたの役回りを聞いておきたい」
「俺は」
「何も知らないと言うのなら、このまま死んでもらいますよ」
「俺は何もしてない。全部、谷岡がやったことだ」
「あんたは、僕に谷岡を紹介しましたよね。あんたの取り分は、いくら」
「二十万。それだけ。俺はいらないと言ったのに、押しつけられたんだ」
「充分、共犯者ですよ」
「違う。俺は断ったんだ」
「全部でいくらだったんです」
「多分、二百か三百」
「そうですか。僕も金に困ってましてね、取り戻したいんです。谷岡はどこにいるんです」
「無理だ」
「無理」
「あいつは、クラブの店長やってるけど、そこのクラブは組関係なんだ」
「谷岡も、組員」
「違うけど、同じようなもんでしょう」
「それでも、取り戻す」
「あんたは、何もわかってない。あいつらは、何でもありだよ。敵いっこない」
「やってみますよ」
「本気」
「ああ」
「俺も、あいつには、痛い目にあってる。別に庇うつもりはないけど、あんた、殺されるよ」
「あんたら、仲間じゃなかったのか」
「まさか」
「何があったんです」
「女をとられた。あいつ、俺の女を売り飛ばしやがった」
「黙ってたんですか」
「どうしようも、ないだろう。ほんとに、やばいから」
「それでも、やりますよ。どこのクラブですか」
「マジかよ」
「金、取り戻したら、半分、あげますよ。案内してください」
「えっ」
「金には、困ってませんか」
「いや。でも、な」
「そうですか。どこにあるのか教えてください」
「競馬場近くのグリードという店」
「わかった。で、あんたには大人しくしていてもらいたい」
「ああ」
「どっちがいいですか。この場で死んでもらうか。縛らせてもらうつもりだけど」
「えっ」
「この部屋には、誰か来ますか。同僚とか友達とか。鍵は開けときます。一週間くらいは生きていられると思いますけど」
「・・・」
「あんたに通報されたら、もっと、やばいですよね」
「案内する。半分、もらえるんだよね」
「もちろんです。でも、危険なんでしょう。いいんですか」
「案内したら、逃げても、いいよね」
「金も貰わずに、ですか」
「いや。もらってから」
「危ないことになりますよ」
「いい」
黒岩という男も根は善人なのだろう。だが、金がなければ生きていけないことを知っている。黒岩が金のために転んだとしても、一馬は責めることはできない。そうやって生きている人間は、掃いて捨てるほどいるのだ。ほんの束の間の夢でもいい。他に何ができるというのだ。
「わかりました。行きましょう」
「待ってくれ。このままじゃ行けないよ」
「そうですね。着がえてください」
黒岩が着替えている横で、一馬は脇差を振った。横に薙ぎ、袈裟に切り降ろす。風を切る音は殺気そのものだった。鶏肉を切ったことはあるが、まだ人を切ったことはない。骨を断った時にどれほどの刃こぼれができるのかも予想できないし、どこまでやれば刀身が折れるのか、経験はなかった。刃渡りは四十センチと短いが、相手が大刀を向けてきているわけではないので、小太刀でも充分に武器になると思っていた。

クラブ「グリード」は繁華街から離れた場所にあった。広い駐車場はほぼ満車で、日付が変わっても大勢の客を集めている有名店のようだ。一馬には無縁の場所だったので、どんな人種が集まっているのか想像もつかない。
「黒岩さん。ここに来るのは、どんな人たちなんですか」
「半分は親の金で来る奴。残り半分はその金目当てで来る」
「黒岩さんも、よく来るんですか」
「いいや。ここには来ない」
「初めて、ですか」
「いや、何度かは」
「行きましょうか。大丈夫ですか」
「ああ。仕方ない」
ドアの前に立っていた体格のいい男が無表情に二人連れの客を値踏みした。黒岩一人なら問題はないが、一馬の様子はクラブに出入りするような人種には見えないようだ。
「谷岡、来てる」
「ああ。はい。お客様は」
「黒岩」
「黒岩さま」
「確認してみるか」
「いえ。どうぞ」
男が引き戸になっている重いドアを開けると、大音響の音楽が飛び出してきた。
「事務所か」
「はい。多分」
一馬は黒岩の後ろを歩いた。黒岩に案内してもらって正解だったようだ。一人で来ていたら、西も東もわからないで途方に暮れたことだろう。中央に舞台があって全裸に近い女が体を動かしている。男たちから「あと一つ」コールがかかっていた。七対三の割合で男の方が多いが、女たちも男たちの声に合わせて手拍子を打っていた。
「黒さん」
関係者以外立ち入り禁止の立札の前に立っていた男は黒岩の顔を知っていた。
「いる」
「はい。中です」
通路の少し奥に黒塗りの扉があった。黒岩が扉を押して中に入り、一馬も続いた。正面に休憩中と思われる黒服の男が一人、コーヒーを飲みながら雑誌を見ていた。男は部屋に入ってきた二人の男を見た。簡単に人を殺しそうな危険な顔をしている。扉を閉めると音は無くなった。
「黒ちゃん。珍しいな」
部屋の右手から声がかかった。谷岡だった。五年前には、調子がいいだけの男に見えた谷岡には、ふてぶてしい貫禄がついていた。
「今日は、なに」
黒岩が一馬の方を見て、一歩さがった。
「だれ」
一馬は谷岡が座っている机の前に進んだ。
「僕のこと、憶えてませんか」
「さあ、どこかで、会ったっけ」
「病院で」
「病院」
「この頭じゃ、わかりにくいかな。五年前だし」
一馬は坊主頭を撫ぜてみせた。
「ああ、おもいだした。たしか、落合とか言ったよな」
「よかった。憶えていたんだ」
「で。何の用」
「何の用はないでしょう。預けてある金を貰いに来たんですよ」
「金。なに、それ」
「思い出してくださいよ」
一馬は横にあるテーブルにバックパックを置いて、椅子を引き寄せて座った。
「わけのわからねえこと、言うな」
「黒岩さんは、話してくれましたよ」
「あいつが、何しゃべったか知らんが、思いだせねえな」
「そこを、思いだしてもらわないと、困るんですよ。金がいるんです」
「お前、馬鹿か」
「確かに、五年前は馬鹿でした」
「おい。三沢。こいつを、つまみだせ」
一馬は袋から脇差を抜きだした。
「思い出すんです」
三沢と呼ばれた男がナイフを手にしたのが目の端で見えた。男は一直線で突っ込んできた。一馬は体を開き、男の小手に脇差を落とした。「ぎゃあ」と叫んだ男の手はナイフとともに床に落ちていた。手首から血が噴き出し、絶叫しながら、無くなった手首を押えて床を転がっている。谷岡は呆然と見ていた。
一馬は血のついた刀身を谷岡に向けた。
「思い出しましたか。金を返してくれたら、帰りますから」
「ないよ」
「ない」
「今は、ない」
「じゃあ、死んでみますか」
谷岡は首を横に何度も振った。
「だから、ここには、金はない」
「そんな筈、ないでしょ」
「ほんとに、ないんだよ」
「押し問答してたら、あの人、死にますよ」
三沢と呼ばれた男の声が小さくなってきた。
「黒岩さん。この人、何かで止血してやってください」
「できないよ」
「腕を縛るんです。できるだけ、強く」
「できない」
一馬は近くにあった電気コードをコンセントから引き抜き、黒岩に投げた。
突然、谷岡が走り出した。
余計なことをしたと後悔しても遅かった。一馬は追った。谷岡は扉の前まで行っている。扉を手前に引いている時間だけ距離が縮まったが、谷岡が扉を抜けるまでには追いつけなかった。
「あいつを、止めろ」
扉の前で立ち番をしていた従業員に命じる声が聞こえた。
命令に従おうという行動と一馬の右手にある脇差に対する本能がぶつかり、男は両手を広げてその場に立ちつくした。
一馬はとっさに峰を返して男の脇腹を払い、その場で体を入れ替えて走った。倒れる男を残像で見ながら、一馬は走った。悲鳴と怒号が移動する。谷岡が前のめりになって倒れかけ、なんとか持ちこたえて入口に走る。その僅かな時間の遅れが谷岡の命取りになった。重い引き戸を開けるだけの時間はなくなっていた。扉を背にして正面を向いた谷岡の首にむけて、一馬は脇差を水平に払った。目をむいて、口を大きく開けた谷岡の首と口から大量の血が噴き出し、その場に崩れるように谷岡の体が沈んだ。一馬は頭から谷岡の血を浴びていた。
扉が動いて、外にいた見張りの男が顔を出した。目の前で血を噴き出しながら倒れているボスの姿と、返り血に染まって立っている一馬の姿を見比べて引っ込んだ男が、大きく扉を開けて入ってきた。男の手には鉄パイプがあった。
「やめとけ」
腕で顔の血を拭った一馬は男に声をかけた。だが、男は唾を吐き飛ばすと鉄パイプを青眼に構えた。
「てめえこそ、やめとけや」
男の声は自信に満ちていた。一メートルを超える長さの鉄パイプを、まるで竹刀を持つような余裕で持っている。体格のいい男がより大きく見える。一馬も青眼に構えた。剣道界では嘱望されていた男に違いない。対外試合で多くの選手と対戦したが、これほどの威圧を感じさせる男はいなかった。
「ほう。名前を聞いておこうか」
「落合一馬」
「相馬勇気。こんな奴に出会えるとは思わなかったぜ」
音楽がなくなり、場内が静かになった。
自分から動けば負けになる。相手の方が強い。もし、チャンスがあるとすれば、一回だけだと思われた。この男相手にこちらが真剣を持っていることが強みになるとは思えない。人間相手に初めて真剣を振るったが、躊躇はなかった。それだけが一馬の武器だった。待つ。
対峙したまま、時間が流れる。命を張っている戦いの緊張感は、その場にい合わせた人間にも緊張を強いていた。
後ろの方で誰かが倒れる音がした。パトカーのサイレンが向かって来ている。誰かが警察に電話をしたようだ。男が上段に構えて、前に出た。一馬の脇差の長さでは遠いが、男の鉄パイプには充分の距離になっている。だが、一馬はその場で待った。どちらに動いても脳天に一撃をくらって、勝負はつく。心だけは晴れ晴れとしていた。パトカーの赤色灯が近くに停まったのを感じた。
男が上段の構えを解き、青眼に戻して、一歩引いた。
「やめとく。お前の突きを防げそうにもない。相打ちじゃ、俺の方が損だ。でも、お前、もう逃げられなくなったな。じゃあな」
相馬と名乗った男は鉄パイプを捨て、身を翻して、ドアを出ていった。一馬は追えなかった。
警察車両が何台も到着し、人の足音が聞こえる。一馬は引き戸を締めた。ドアの鍵を捜したが見つからなかった。
谷岡を殺したことで目標は消えてしまった。相馬と名乗った強敵もいなくなった。何をすればいいのだろう。
店内にいる大勢の人間が警察の登場で騒ぎ始めている。少し考える時間が欲しい。一馬は壁際に並んでいるブレーカーのスイッチを全て切った。完全な闇になったことで、騒ぎはさらに大きくなった。
引き戸が少し引かれて、外の明かりがさしてきた。背広姿の男が二人、身をかがめて侵入してきた。手には拳銃が見える。一馬の脇差が一人目の男の小手を下段から切り上げ、返す刀でもう一人の男の小手を断ち切った。二人の男の絶叫が部屋に響いた。外からの明かりの中で、二つの拳銃を拾い上げベルトに差した。一馬の防衛本能は、ドアを何とかしろと言っている。
相馬が捨てていった鉄パイプが目に入った。一馬は引き戸を締め、鉄パイプを引き戸のレールの上に置いた。
ブレーカーのスイッチを元に戻したので、部屋の明かりが戻り、店内には安堵の声が聞こえた。警察官の一人は全く動いていないが、もう一人はうめき声を出しながら床を転げている。店員の誰かが運動のために使っていたと思われる縄跳びの縄があったので、二つに切って男たちの腕を縛って止血をした。既に、多くの血が失われている。助かるのかどうかはわかない。男は、止血をしている一馬の様子を不思議そうに見ていた。
一馬はやっと現状認識ができるようになっていた。日本刀を持った男が人質をとって立てこもっている。その凶悪犯を包囲している警察。何人殺されたのか判明していないが、少なくとも谷岡の死体を見ている相馬の話から死者がいることだけはわかっている。人質を取っていることを知っている警察が、なぜ侵入してきたのか。一馬は動いていない男の体を探って、携帯を取り出して番号リストを表示した。几帳面な男なのだろう、名前の後ろに階級もあった。阿部警部補の名前を押してダイアルした。もう一度、男の体を探って警察バッヂを取り出して男の名前を確認した。
「はい」
相手が出た。
「平瀬さんの携帯から電話していますが、状況はわかっていますか」
「二人は」
「怪我をしてます。放置すると危険です。連れて行ってもらいますから、無茶をしないようにしてくれますか」
「わかった。人質を解放しないのか」
「その話は後です」
「わかった」
一馬は携帯を切って、部屋の中へ行った。
「あの二人を外に出します。手伝ってくれる人。四人必要です」
手を挙げた男を四人選んだ。
「二人で運んでもらいます。ドアを開けますが、勝手に逃げたりしないでください。約束してくれますか。僕の手には拳銃があります」
四人の男が同意した。
「この二人を無事に連れ出せたら、ここに戻ってくる必要はありません。開けますよ」
一馬は鉄パイプを外してドアを引いた。血の海の中をよろけるようにして、怪我人二人と人質四人が建物を出て行った。それを確認し、ドアを閉めて鉄パイプを戻した。
最初に手首を切って落とした男を思い出し、黒岩の姿を捜したが見つからなかった。
「もう一人、怪我人がいます。誰か事務室を見てきてください」
従業員らしき黒服の男が事務室に向かったが、部屋を出てきた男は両手でバツ印をして見せた。続いて、男は床に倒れている仲間を指さしている。峰打で倒した男のことを思い出した。
「連れてきてください」
「駄目です。立てません」
一馬は阿部警部補に電話をした。
「はい。阿部」
「二人は」
「病院」
「担架が三台、必要です。用意ができたら、この電話に連絡ください」
「わかった。救急隊員は必要か」
「担架です」
四人の男が出て行っているので、警察は内部の状況を把握しているはずだ。救急隊員を装った警察官を投入したいと考えたのかもしれない。
防衛本能だけで動いているが、先の展望はなにも見えていない。最終的に制圧されることは仕方がない。逃げるとしても、逃げる場所もない。この状況で何かできることはないだろうか。少しだけでも笑って死にたいものだ。
すぐに電話が鳴った。警察車両も救急車も、そして消防車さえも集結していると思われる。
「はい」
「担架の用意ができた。ドアを開けてもらいたい」
「わかりました。外から担架を押し込んでください。僕は銃を持っていますから無茶しないでください」
「わかってる」
ドアを開けると、その隙間から担架が押し込まれてきた。押し込んでいる男たちの手に恐怖が見える。たぶん、救急隊員の手だろう。一馬はドアを閉めた。
「説明します。死んだ人が二人と怪我人が一人います。もちろん、死体を担架に乗せる仕事もしてもらいます。六人の方」
その場にいた全員が手を挙げた。この状況から逃れられるチャンスを誰もが希望している。女も手を挙げていた。
一馬は端から六人の男を無造作に指名した。運と不運はいつも非情と決まっている。一早く生きている人間に近寄った男が怪我人の担当を確保し、残りの四人が死体の担当になった。自分が死体になるより、死体の処理の方がいいに決まっている。六人の男の行動は素早いものだった。何よりも自分の安全を確保することが最優先になる。
担架が三台入口に並んだところで阿部警部補に電話をし、ドアを開けた。当面の仕事は終わった。その先を考えなければならない。一馬は、血のない床に座り込んだ。気がつかなかったが、極度に疲れているようだ。そのまま、眠ってしまいそうだった。
携帯電話が鳴ったが、誰か他の人の携帯だろうと思っていた。もう、携帯を手放してから三年はたつので、あまり意識がない。ポケットから取り出すとLEDが点滅していた。
「はい」
「阿部です」
「はい」
「人質を解放しませんか」
「まだ、もう少し、待ってください」
「何か、要求があるんですか」
「今は、ありません」
「お名前は、落合さんでいいですよね」
「そうです」
「落合さん。人質を解放して、あなたも、出てきてください。もう、これ以上の犠牲は出したくない。なんなら、自分が替わりに人質になってもいいです。お願いしますよ」
「もう少し、時間をください」
一馬は電話を切った。この部屋にいる人間が人質と言えるのだろうか。音楽こそ無いが、勝手にグループを作って話をしているし、自由にトイレにも行っている。逆らわなければ危害は加えられないようだと思っているのだろう。部屋の片隅に厨房のようなものがあった。一馬は立ち上がり、小さな厨房に入り、ミネラルウォーターを持って入口に戻った。一馬が近づいていっても誰一人恐怖を感じていないらしい。日本刀と拳銃を持っているのに舐められたものだ。
水を半分ほど飲んで、阿部に電話した。
「阿部です」
「落合ですが、要求を伝えます」
「はい」
「警察で一番偉い人は誰ですか」
「署長ですか」
「いえ。もっと、上の人」
「県警本部長」
「もっと」
「だったら、警察庁長官」
「もう、その上は、いませんか」
「長官より上は、総理大臣でしょう」
「そうですか。総理大臣でもかまいません。偉いさん一人で五人の人質を解放します。この部屋には三十人ほどの人がいますから、六人集めてください」
「無茶、言わないでください」
「阿部さんは、さっき身代りになると言いましたよね。偉いさんにはできないんですか」
「それとこれとは、話が違う」
「どう違うんですか」
「どうって」
「十分後に返事してください。返事がないか、拒否の場合は、十分に一人づつ人質を射殺します。これが僕の要求です」
「十分」
「身代わりの身代わりは駄目ですよ。ほんとに偉いさんかどうか、証明してもらいますからね」
一馬は電話を切って時計を見た。こんなことで、何かが変わることはないだろうが、能天気な顔で笑っている若者よりも、失いたくないものを一杯もっている年寄りの方が扱いやすい。今のままでは人数も多すぎて扱いにくい。総理大臣が来ることはないだろうが、総理を道連れにして死ぬのも面白い。新しい目標ができたことで、気持ちが落ち着いたような気がした。
十分後。阿部からの電話が来た。
「要求に従う」
「賢明な判断だと思います。警察官の拳銃で市民が処刑されたら、洒落になりませんからね」
「すぐにとは、いかない。時間をもらいたい」
「勿論です。説得に三十分、移動に一時間あげます。警察の総力を挙げて達成してください」
「無茶、言ってもらっては困る。一時間や二時間では何もできない」
「一時間半後から処刑を始めます。十分に一人です。何人で止められるか、やってみましょう。一時間半以内なら犠牲者はでませんが、半日も遅れたら全員死ぬことになります。僕は、もう、五人も手にかけました。ここから先は、何人でも一緒なんです。そんなこと、わかってますよね」
一馬は電話を切った。そして、天井に向けて拳銃を発射した。部屋の中が水をうったように静かになった。
「聞いてください」
「今、警察と交渉して、皆の替わりになる人を集めてくれるように要求しました。総理大臣や警察庁長官のような偉い人に来てもらうように要求しました。五対一で人質交換をします。ここにいる五人と大臣一人の交換です」
人質の間から歓声があがった。
「ただし」
一馬は両手を挙げて、人質を鎮めた。
「ただし、警察が約束を守らない場合は、一人づつ処刑することになります。一時間半後に最初の犠牲者が出ることになります」
人質の落胆が聞こえた。
「警察が約束を破れば、そのために誰かが死ぬことになります。偉いさんが皆の身代わりになるのが嫌だと言うのなら、全員が死ぬことになるかもしれません。どうせ死ぬなら派手に死んでみませんか。どなたか、テレビ局に知り合いはいませんか。リポーターとカメラをここに呼びましょう。処刑の中継をするんです」
「いいですか。テレビカメラが入っていたら、警察もいい加減なことはできないと思いますよ。しかも、この拳銃は警察官の持っていた拳銃です。この銃で人質が処刑される。その様子がテレビで中継されるとすれば。警察は総力を挙げて、たとえ、総理大臣を拉致してでも、ここに連れて来なくてはならなくなります」
「心当たりのある人は、電話をかけまくってください。自分の命が懸かってるんです。ここに一番早く到着したテレビ局が中継の権利を獲得できると、伝えてください」
一馬は阿部の番号を押した。
「はい」
「阿部さん。もう一つ、犯人からの要求があります」
「何です」
「テレビカメラをこの中に入れます。妨害しないようにお願いします」
「落合さん。図に乗っちゃいけません。犯人の要求なら、何をやってもいいんですか。この現場には誰も入れません」
「そうですか。何か都合の悪いことがあるんですか」
「当たり前でしょう。一般人を巻き込むわけにはいかないんですよ。誰が安全を保証するんです。あなたが保証できないことぐらいは、わかりますよね」
「わかりました。方法を考えます。次、電話するまでに、今の阿部さんの考えを警察の公式見解にしておいてください。今は、映像を送るぐらい何とかなるんです。もちろん、建前の話ではなく、警察が妨害したことは公表せざるをえませんから、上に話を通しておいてください」
十五分後に日東テレビが中継車を出す約束をしてくれた。
何らかの集団ができると、自然とリーダーが出現するものだが、人質の中にもそんな男が現れていた。年齢は一馬より五歳ほど下で、軟派専門の男に見えるが意外に硬派なのかもしれない。
「あんた。名前は」
「須田です」
「歳は」
「八です」
「少し、話、できるかな」
「はい」
一馬は須田を入口まで連れていった。
「僕は、これ以上、この人たちを殺すつもりはない」
「わかってます」
「ん」
「見てれば、わかりますよ」
「うまく、やってたつもりだったのに」
「そうなんですか」
「もう、二人は殺してる。あの刑事も危ないかもしれない。だから、その責任はとるつもりだ。ただ、ちょっとだけ、世間の年寄りを困らせてやりたい。自分のことしか考えていないのに、したり顔をしている連中の肝を冷やしてやりたい。協力してくれないか」
「もちろんです。皆も乗ってくれると思いますよ」
「いや。皆が乗ってくると困るんだ。あくまでも、悲惨な状態の人質でいてもらわなければならない。僕は凶悪な殺人犯で、罪のない人たちを人質にとっている卑劣な男でなくてはならない。ばれない方がいい。だから、個人的に、須田さんに頼んでる」
「はい。何をすれば」
「警察はテレビカメラを入れさせないつもりだ。たぶん、この銃が問題なんだと思う。市民が、警官の拳銃で殺される。それが放送される。隠ぺいしたくなるよな。警察の立場もわからないわけではない。でも、なんでも、年寄りの思い通りになったんじゃ、まずいよね」
「はい」
「だから、カメラが入れない時は、ここの映像をテレビに流れるようにしたい。ネットに流れるだけじゃ駄目だと思う。その知恵を皆で出してくれないか。テレビ局とも打ち合わせしてもらいたい」
「やってみます」
一一〇番をしたのは人質の誰かだし、一度も電話を禁止していないから、大勢の若者がこの事件を知っていると思われる。ネット上にはこの事件がほぼ中継に近い形で知らされて、一馬の映像もすでに存在しているのだろう。返り血を浴びて危険な男の顔になっていることを祈った。
誰も近寄らない入口の近くで腰を下ろして両足を投げ出した。体も気持ちも重い。疲れだけではないようだ。何の意味もないゲームをやっているような虚しさが心を占めている。あらゆる出口が塞がれ、死への一本道が残されているだけの現実に、心の方が先に死のうとしているのだろうか。何だったのか。自分の人生に何か意味があったのだろうか。楽しかったことや嬉しかったことを思い出そうとしても何も出てこない人生。この事件が終われば、何も変わらない世界が、平然と動いて行く。余命数時間。笑うしかないのか。せめて、自分の命だけは自分で終わらせたい。将来の希望とは言えないが、今、持てる目的は他人に自分の命を預けないということ。その時まで、自分が自分でいられる気持が持続できることを祈ろう。せめて、それだけは。
一瞬、眠ってしまったのかもしれない。目を開けると須田が目の前に立っていた。
「うまく、いきません」
「そうですか」
「テレビ局は、確認のとれない情報は流せないそうです」
「わかりました。いろいろ、ありがとう」
「待ってください。終わりってことですか」
「仕方ない、でしょう」
須田が一馬の正面に座り込んだ。
「お名前、教えてくれませんか」
「落合です」
「落合さん。年寄りに一泡吹かせてやりましょうよ」
「無駄ですよ」
「そうでしょうか」
「それに、これ以上、やれば、あなたも困ったことになるんじゃありませんか」
「法律に触れなければ、いいんでしょう」
「警察は、こちらの要求は飲みません。身代わりの人質を連れてくることもないでしょう。人質を処刑すると言ってる僕が、これ以上殺すつもりがない。つまり、この騒ぎは終わりなんです。あなたたちも、解放される。それで、いいんじゃありませんか。もともと、僕はこんな騒ぎを起こすつもりはなかったんです」
「茶番劇は、やめとけ、と言うんですか」
「そうです。何も変わることはありません」
「でも、俺の中では、変わってしまったんですよ」
「・・・」
「俺は、親の脛をかじりながら、劇団をやってます。シナリオを書いて、演出をして、役者もやります。公演の度に赤字を出す劇団ですがね。うちの家は、役人になるか銀行に勤めるかが正しい生き方で、それ以外は間違いなんです。演劇なんて、ありえない選択なんです」
「親の脛がしっかりしていて、寝る場所があり、食うにも困らない。須田さんの考えのほうが、間違っている。二十八でしょう。餓鬼の反抗期じゃあるまいし、親の言うことを素直に聞くことの方が、よほど立派だと思いますが。違いますか」
「確かに、一言もありません。この歳までフワフワと生きてきたことは否定しません。落合さんの迫力を目の前にして、俺は自分の人生全てが否定されたと感じてしまったんです。もっとも、薄々とは感じてたんです。どこか違うと思ってたんです。でも、それは親の言うことを聞くことじゃありません。ただ、今日から生き方を変える必要はあると思っているんです。ですから、このまま解放されるんではなく、何かやりたい。こんな個人的な理由ではいけませんか」
「個人的な理由がいけないとは言いません。僕も個人的な理由で、こんなことをしたんです。だれでも、そうでしょう。でも、僕みたいに取り返しのつかないことをやる、いや、やらねばならない必然性は須田さんにはないでしょう」
「駄目ですか」
「僕も、あの男が素直に金を返してくれたら、何もせずに帰ったと思います。でも、そんなことにはならないだろうとも思ってた。あの男を殺す覚悟はあったんです。それでも、こんなことになるとは想像もしていませんでした。人間の予測など、何の役にも立たないということです。事態は勝手に動いていってしまう。その時は、もう、後の祭りなんです。僕には、こうなる必然性があった。だから、受け入れざるをえない。でも、そうでないなら、やめといた方がいい。須田さんは、何がしたいんです」
「はい。漠然としたものなんですが、世の中に充満しているのに、目には見えない重圧みたいなもの。それを壊さないと息苦しいとか、思うんです。俺も大臣は来ないと思ってます。これって、目に見えない重圧の一つなんじゃないでしょうか。普通では、こんな機会はありませんし」
「重圧ですか。でも、茶番劇くらいでは風穴は開きませんよ」
「ええ。でも、何もしないよりは、よくないですか」
「さあね。あと三十分で約束の時間になります。その時に決めましょう」
「はい」
須田は須田なりに、苦労していると思っているのだろう。でも、一馬からは羨ましい悩みごとに見えた。
約束の一時間半が過ぎたが、阿部からの電話はなかった。予想通りだったが、電話ぐらいしてこいよ、と思いながら電話をした。
「落合です」
「ああ」
「阿部さん、ですよね」
「すまん。まだ、なんだ」
「そうですか。残念です」
「落合さんよ。そこにいるの、ほんとに人質なの」
「どうして、です」
「何度も、こうやって話してるけど、あんたの後ろにいる人質の緊迫感とか感じられないんだよね」
「そう思うのなら、突入すれば」
「でも、万が一ってこともあるから」
「わかりました。我慢比べ、なんですね。さっき一発使ってしまいましたから、警察の銃で処刑できるのは九人です。残りは、僕の脇差でやります。三十人をころすのは、結構大変ですけど、頑張ってみますよ。十分に一人ですからね」
「待ってくれ」
「は」
「どうして、そこまで、やるんだ」
「あなたたちが、ここを包囲したからですよ」
「悪いことは言わん。これ以上罪を重ねるな」
「は」
「もう充分だろう」
「最低でも、もう二人は殺してるんです」
「いや。三人だ」
「あの刑事さん、駄目でしたか」
「もう、これ以上、やめろ」
「どうしてです」
「どうして、だと。お前のために言ってるんだ。これ以上、罪を重ねるな」
「ここで、止めたら、何かいいことがあるんですか」
「なに」
「ここから先、誰も殺さなかったら、これまでの殺人を無かったことにしてくれるんですか。ありえないでしょう。三人でも三十人でも一緒ですよね。警察が突入してくれたら、もっと殺せるかもしれない。やってみませんか」
「おまえ、な」
「そうだ。阿部さん、あなたが身代わり第一号になってみますか。偉いさんという条件付けましたけど、阿部さんなら歓迎しますよ。あなたが来てくれたら、五人の人質を解放します。一人目の処刑は十分間延期になります。それまでに、偉いさんが来てくれればいいんです。もちろん、十分後の処刑一号は、阿部さん、あなたになります。どうしますか」
「時間が足りないんだよ。これでも、必死にやってる」
「ですから、十分間、阿部さんが時間を稼ぐんです。怖いですか。誰も来てくれないことが、怖いですか」
「馬鹿なこと、言うな」
一馬は電話を切った。もう、終りにしようと思っていたのに、また予想外の展開になってしまいそうだ。
電話をしている様子を須田が見つめていた。一馬は須田に来るように手で知らせた。そして横に座るように目で知らせた。
「集音マイク、監視用カメラがあるかもしれないので、小さい声で話しましょう」
「だったら、音楽流しましょう。あの男がDJをやってる男です」
暫くして、須田が戻ってきた。
「ラップをかけるように、言いました」
音楽が流れて、行き詰っていた部屋の空気が溶けて行った。体を揺する者もいる。笑顔もある。
「どうでした」
「約束は破られました」
「やっぱり」
「その気はなかったんですが、また、突っ張ってしまった」
「はい」
「シナリオを書いてください」
「わかりました」
「できれば、カメラも排除したい」
「やってみます」
須田がすぐに戻ってきた。
「これを、見てください」
「これは」
「この建物を写したものです」
外はすでに朝の明るさが近づいていた。
「こんなものまで」
「ネットでは、大騒ぎです。落合さんは英雄ですよ」
「馬鹿な。僕は犯罪者ですよ」
「でも、警察相手に戦ってる。充分、英雄です。俺も、そう思う」
「狂ってる」
「いいじゃないですか。写真は、こっち側だけですが、反対側も手配してもらいました」
黒っぽい服装にヘルメットを被った警察の特殊部隊と思われる人間が屋根に一人と壁に二人いる。
「僕には見えませんが、須田さんは」
「それらしきものが、あるように見えますが」
「近づけますかね」
「DJの部屋が一番近いと思います」
須田の案内で二人はDJ室へ向かった。
従業員から裏口の前は山積みの荷物で使えないと聞いていたので、出入り口は正面の一か所だけだった。人質をとっている犯人としては、逃げ道を遮断するために、その一か所しかない出入口を見張る必要があるのに、一馬は階段を上ってDJ室に入った。ガラス窓から見える天井は近い。確かに胃カメラの先端のような物があった。携帯の写真を確認して、警察官の居場所を想像して拳銃の引き金を引いた。致命傷にならないように狙ったつもりだが、須田が気付いてくれないことを祈った。カメラが消えた。これ以上の人殺しはしたくない。殺人のアドレナリンは消えてしまったようだ。脇差で即死は望めないから、銃弾は自分のために予備を含めて二つは残しておかなければならない。
出入り口に目を向けると、男が一人スライドレールの上に置いてある鉄パイプを取り外していた。黒岩のようだ。黒岩が逃げだせば、警察の障害は一つなくなる。カメラとマイクでおおよその内部状況を把握している警察は突入してくるだろう。直前までカメラは生きていた。だから、警察は犯人が出入口を離れてDJ室にいることを知っていると考えなければならない。
「逃げろ」
一馬は須田とDJ担当の男に大声で怒鳴った。二人を追い出すように階段を駆け降りる振りをして、一馬は部屋に戻った。
DJ室の窓からは、束になった警察官がなだれ込んで来ているのが見えた。楯と拳銃を持った機動隊だった。二階のDJ室と人質の間に楯を並べた警官が並んだ。一馬は二階の窓を開けてその様子を見た。警察の誤算は人質が簡単に避難しようとしないことだった。まるで、デモ隊を排除する時のように人質をごぼう抜きにして連れ出さなければならなかった。その狼狽は警察の行動を手荒なものにし、人質からは抗議の怒号が聞こえる。人質の多くは、これから始まる予定だった茶番劇を楽しみにしていたのだ。須田も悔しそうな顔をして、何度も一馬の方を見ていたが、強制的に連れだされていった。肩の荷が降りた気分だった。
惜しいと思える人生ではなかった。どん詰まりまで来ていた人生だった。ライフルを構えている警官もいて、数十丁の拳銃が一馬に向けられている。一馬はその射界に体を晒している。
「人質は、全員、保護した」
拡声器の声がした。
「これ以上、抵抗しても、無駄だ」
「銃を捨てて、出てきなさい」
入口の扉から顔と拡声器を出しているのは、阿部だろう。
「銃を、捨てなさい」
抵抗して、警察の銃で撃たれても死ぬ保証はない。今更、生かされたんではたまらない。

後日。
警察発表によれば、警察の行動には間違いはなかったとした。
被疑者死亡のまま、殺人の容疑で落合一馬は起訴された。
                                 了


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