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政治資金パーティー事件 [評論]



自民党の政治資金パーティー事件は、今、東京地検の捜査が真っ最中なので、今は、まだ、どんな結末になるのかはわかりません。
このような事件が起きると、いろいろな方が「国民」という言葉を使います。
そのことは歓迎すべきことなんですが、「国民って何ですか」「国会議員って何ですか」と言う方はいません。どれも、「何となく」の上で議論が進みます。ですから、どんな結論が出ても、「何となく」で終わってしまいます。
それは、「国民とは」という定義も、「国会議員とは」という定義もなく、「国民の責務」も「国会議員の責務」も曖昧だからです。
自分の責務を知らない国会議員が「カネ、カネ、カネ」になるのは、不思議ではありません。人間は、そういう生き物です。私だって「カネ」大好きです。しかし、誰もが「好き放題」をしていたのでは、国は衰退します。衰退する国では、弱者から犠牲になります。元々、国民の多くが、弱者です。弱者とは、封建時代の百姓、今は、大企業にいる人達を除く勤労者と呼ばれる人達で、国民の大多数が該当します。
「ああでもない、こうでもない」と言っている内に時間が経ち、何となく、結論みたいなものが出て、最後に出てくるのは、「なあ、なあ、まあ、まあ」です。
元の木阿弥になるのは目に見えています。
こんなこと、いつまで、やるのですか。
年々、国民生活が豊かになっているのであれば、「なあ、なあ、まあ、まあ」でも構いません。でも、今は、そんな時代ではないと思います。
政治家ではない皆さん、メディアに勤務していない皆さん、利権集団に属していない皆さん、圧倒的大多数の皆さんは、これでいいのですか。
皆さんは、自分を、家族を、守らなくてもいいのですか。
政治資金パーティー事件は、今のシステムから生まれる数ある副作用の1つです。システムを変えない限り、何度でも起きます。

岸田総理は、去年の夏と秋に解散総選挙が出来なかったことで、終わったと思います。
この先、少なくとも、岸田さんが総理では、自民党は選挙ができません。
9月に自民党総裁選挙がありますが、新しい総理大臣になっても、解散総選挙が出来るかどうか、まだ、わかりません。それは、総理大臣の顔をすげ変えて選挙に勝つといういつもの得意技が、次回も有効なのかどうか、今の時点ではわからないからです。ただ、衆議院議員の任期満了は2025年10月ですから、まだ、時間はあります。
どの時点で選挙があっても、次の選挙は波乱含みの選挙になる可能性が出て来ました。
これまでは、デフレ下で「なあ、なあ、まあ、まあ」が有効に作用していたために表面化しませんでしたが、今、国民は、物価高に苦しんでいます。国民生活は苦しくなっているのに、税金や保険料の話題ばかりです。それなのに、自民党では「あぶく銭」が飛び交っているのです。それを見ている国民の皆さんの感覚は、これまでの30年と、同じではありません。投票行動も、これまでと同じというわけにはいかないと思います。
では、衆議院選挙で日本の政治は変わるのでしょうか。
変わらない、と思います。
例え、政権交代が起きても、変わりません。
それは、どの政党も、日本再生プランを持っていないからです。
このまま、国力衰退は、粛々と進行します。
「何か、ヤバそうだよな」という空気はありますが、この国力衰退が日本の最大のテーマだとは思われていません。
日本再生プランがないのは、誰もが、漠然と、「ヤバイ」と思っているだけで、政治家だけではなく、誰一人、国力衰退と本気で向き合っている人がいないためです。
未だに、全員が、口先と小手先で「何とかなる」と思っています。
最悪なのは、国民の皆さんに当事者意識はなく、「俺ではない、誰かが、何とかしてくれ」と思っていることです。自分の生活がかかっているのに、他人事です。
もう、不思議と言うしかありません。
その原因は、やはり、曖昧文化にあると思います。文化は空気と同じで、目には見えませんし、存在そのものを意識することもありません。しかし、文化も空気も、人間の生死を左右する存在なのです。
曖昧文化という土壌の上にいる限り、現状も、未来も、あらゆるものが曖昧模糊としていて、危機感や恐怖感が抑えられてしまいます。「ふむ、ふむ」では行動できません。「なあ、なあ、まあ、まあ」から生まれる「何となく」「何とかなる」は、今でも有効なのでしょうか。そうは、思えません。この事件は、政治家だけの問題ではないと思います。
国家運営を託されている政治家が「自分さえよければ」をやっているだけではなく、国民が、それを黙認していることで、皆で、赤信号に突っ込んで行こうとしているのです。一蓮托生でいいのでしょうか。
「自民党に自浄能力が求められている」と言う方が多くいます。私は、その視点は違うと思います。自浄能力とは、本来あるべき姿が明確な場合に有効になります。政党の責務も国会議員の責務も明確ではない状態で、浄化しても、辿り着く場所がありません。「なんちゃって自浄能力」でしかないのです。
今、求められているのは、国民意識の革命だと思います。国民意識が変われば、政治は自動的に変わります。
もう、この国には「先送り」と「なし崩し」をやっている時間は残されていません。国力衰退は、それほど進んでいるのです。今は、自浄能力や改善や改革などと温いことを言っている状況ではありません。必要なのは、革命です。
それなのに、空気は、「政治改革」になりそうです。いや、又、「政治改革」です。何度やれば、気が済むのでしょう。お手盛りの政治改革に意味はないと思います。
人間社会では「欲」が最強であり、「政治改革」は、何度やっても、元の木阿弥になります。「欲」に立ち向かうことができるのは、オーソライズされた原理原則くらいだと思います。特に、「なあ、なあ、まあ、まあ」の社会で、改革なんて何の役にも立ちません。そのことは、もう、充分、証明されていると思います。
必要なのは、「責務」であり「目的」です。
この国は、自民党のための国ではありません。国民の皆さんの国です。
国民の皆さんは、もう、そろそろ、いい加減、「いい人」を演じるのはやめるべきだと思います。地獄を見るのは、皆さんなんですから。

どうしても、私達の目は、比較的鮮明に見える目先のことに集中してしまいます。
でも、目先の対応に追われていたら、国力衰退のような大きな潮流には対処できません。だから、国力衰退は進んでいるのです。
今の私達に求められているのは、先ず最初に、視点を変えることだと思います。
目先の現象の奥にあるもの、更に、その奥にあるものを視る必要があると思います。
「人間社会には、どうして、国という概念が必要なのか」なんて考える人は少ないと思いますが、今は、行き着く所まで行く必要があると思います。
国力衰退を止めるためには、今ある曖昧模糊とした霧を払う必要があります。霧が晴れ、現実と未来が鮮明に見えるようになれば、私達は人間なんですから、危機感も恐怖感も感じることができます。危機感や恐怖感があれば行動できます。
これまでと同じことをしていたのでは、視点は変わりません。
ですから。
私は、国民の皆さんに、言葉の定義をしてくださいとお願いしています。
いろいろなものを見えなくしているのは、感覚を麻痺させているのは、曖昧という文化です。文化といえば、何か善きもののように思ってしまいますが、今は、文化が負の呪縛になっています。文化のために、私達が生活を失い、地獄を彷徨うのは間違っていると思います。国よりも、「お上」よりも、文化よりも、国民生活のほうが大切だと思います。
曖昧という呪縛から解き放たれるためには、言葉の定義が必要だと思います。
なぜ、国民の皆さんにお願いているのかと言うと、誰かが用意した「あてがい扶持」の定義では、国民の皆さんが責務を果たす動機になりません。自分で苦労して手に入れたものであれば、それを実現しようとする動機が生まれます。ですから、どうしても、国民の皆さんに言葉の定義をしてもらいたいのです。
国の主役は国民ですから、最大の責務は「国民の責務」なのです。国民の皆さんが「俺には関係ねぇ」と言っていたら、責務も目的も意味を持ちません。
それだけではありません。
政治家に言葉の定義を一任すると、政治家に都合の良い定義をするからです。それは、選挙制度や政治資金の法律を見れば一目瞭然です。学者に任せればいいようなものですが、学者にもいろいろな方がいて、いや、学者だって人の子ですから、カネを積まれると転んでしまいます。でも、国民は、数が多く、国民を買収するような大金は用意できません。
だから、国民の皆さんにお願いしているのです。
もちろん、このお願いは、無謀なお願いだと思っています。
でも、他に選択肢がありませんので、お願いするしか方法がありません。
もっとも、この国の衰退の結果を受け入れ、責任を取るのは国民の皆さんですから、皆さんの自由です。
多分、「言葉の定義」とか「責務」とか「目的」なんて言っても、それが国民の皆さんの生活にどう関係するのかを理解するのは、とても難しいと思いますので、実現は難しいのでしょうが、是非、気付いて欲しいと願っています。
もちろん、私が国民の皆さんを説得できるとは思っていません。皆さんが、自ら、気付いてくれる日を待つしかありません。
国力衰退の負の影響が、皆さんの生活を破壊する日は、必ず、やってきます。本気で「何とかしたい」と思う日がやってきます。そんな時に、「言葉の定義」とか「責務」とか「目的」を思い出してくれたら嬉しいです。多分、手遅れだとは思いますが、何もしないよりはいいと思います。それは、国が潰れても、地獄になったとしても、再生しなければならない時が来ます。その時に、役に立てばいいと思います。
ですから、稚拙な説明かもしれませんが、説明し続けるしかないと思っています。
99.99対0.01くらいの比率で、時間切れになる可能性のほうが大きいのですから、無駄な抵抗だとは思いますが、文章が書ける間は続けたいと思っています。

さて、最近、「衰退」という言葉をよく見るようになりました。ビッグデータの解析が可能になっていたとしたら、時系列で「衰退」という言葉の使用頻度が知りたいくらいです。
「いい人」を演じていた、大人の対応をしていた、現実を「見て見ぬふり」をしていた人達が、これを「見て見ぬふり」していたら、まだ漠然としたものですが、「ヤバイ」ことになるのではないかという危機感と恐怖感を少しだけ持ったことが、言葉として表現する行動になっているのだと思います。国民の皆さんは、これまで、漠然と、国力衰退は感じていましたので、特に珍しい現象ではないと思います。国力衰退の材料は、私達の身近にありますので、勇気さえあれば、誰にでも指摘することが可能です。
ただ、ここからが難題です。
国力衰退は、どこかの会社が経営不振になっているというものではなく、その対応は簡単ではありません。もちろん、傾きかけた企業でも、立て直すことは至難の業です。そのまま倒れる企業のほうが、はるかに多いと思います。倒れかけている国を立て直すのは、更に、難しいと思います。口先や小手先で「何とかなる」ものではありません。
どんな視点を持って向き合うかで結果が変わるのではないかと思います。
国力衰退は、国民の皆さん全員の生活を変えてしまいます。
課題が大きいのですから、視野も大きくする必要があります。「日本という国は、何のために、存在しているのか」という視点に立たなければ、国力衰退という大きな課題には対処できないと思うのです。
私が「言葉の定義」を提案しているのは、「文化」に気付いて欲しいと言っているのは、そのためです。

国力衰退という潮流は、個別の課題に対応しても変わりません。
国の方向を変えるのですから、国が全体として変わるしか方法はないと思います。
とても難しい課題ですが、方法が1つだけあります。
国民の皆さんの意識を変えればいいのです。
他の動物と違い、人間には、それが可能なのです。
それ以外に方法はないと思います。


2024-01-05



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