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弱き者よ - 4 [弱き者よ]



11

その日は店の定休日だった。定休日と言ってもシャッターを閉めているだけで、おばあちゃんは在庫整理や日頃できない場所の陳列替などで忙しいのだが、真衣の話を聞いてくれた。
「そう、そんな話をしたの」
「私、男の人のことはよくわからない。普通の女の子だったら、あんな話しはしないと思うけど、私、普通の女の子じゃないし」
「そうかな」
「だって、直接言われた訳でもないのに、こんなこと言ったそうですね、でも、私はそんな気はありませんから、なんて言う女の子、いない」
「おばあちゃんは、そうは思わない。そういう話ができて、よかったと思うよ」
「そう思う」
「うん。黙ったままで、奥歯に物を挟んでたら、きっとギクシャクするよ。その方がお互いに困ると思うけど」
「うん。私もそう思った」
「サイコロで、1が出る確率がどのぐらいあるのか知らないし、続けて1が出る確率も知らない。でも、永遠に1が出続けるサイコロは無いと思う。真衣に男の人を信用しろと言っても無理だろうけど、世の中、ひどい男ばかりじゃないと思うよ。主人も信頼できる男だったし、西崎さんだって、荒木田さんだって信頼できる男でしょ。余り話をしたことはないけど、黒岩さんだって、信頼してもいい人に見える。100%じゃなくちゃいけないのかい」
「うん。怖い」
「男でも女でも、100%信頼できる人間なんていないと思うけど」
「ううん。おばあちゃんとお母さんは、100%信頼してる」
「ありがとう。私も真衣の信頼は裏切りたくないし、裏切るつもりもない。けど、100%かと聞かれると自信は無い」
「どうして」
「人間だからさ。人間はどんな風にでも揺れ動くものだからね」
「おじいちゃんが、そうだったの」
「いいや、あの人は最後まで揺れることはなかった。静かな人だったけど、本物の男とはこういう人のことを言うんだなと、何度も思った。おばあちゃんは運が良かったんだね。それでも、実の父親はひどい男だった。私だって、主人に会えなかったら、誰かを信用するなんてことなかったと思う。それも10年ぐらいして、信頼してもいい人が世の中にいるんだということに気がついたんだけどね。黒岩さんじゃないかもしれないけど、真衣が信頼できる男の人も、きっといると思う。そんなもの、時が経たなくてはわからないよ。真衣は自分に正直に生きていればいい。変に遠慮したり、隠したりするより、正直でいた方がいい。特に、真衣の場合は」
「うん」
「もし、真衣が、世の中の男は100%最低な人間だと思ってたら、それは、間違いだからね。少なくとも、私の主人は最高の男だったんだから」
「うん」
「でも、真衣は、真衣でいい」
「私のしたこと、間違ってなかったよね」
「よくやったと思う。多分、黒岩さんも、助かったと思う」
「よかった」
いつも、おばあちゃんには救ってもらう。こんな家で育っていれば妹も死なずに済んだのに。普通に笑い、普通に喧嘩をし、普通の女の子になれただろう。あんな父親でなければ、母も放火をする必要がなかったし、壊れて入院する必要もなかった。なんて、不公平なんだろう。自分だけが、こんなに恵まれていていいのだろうか。ナイフで人を死なせたことも、銃で殺したことも時間が少しずつ記憶を減らしていってくれることを知った。時折、フラッシュバックのように体が思い出す事はあっても、その頻度は少なくなった。だが、あの火事の事だけは真衣の体から無くならない。決して、十字架の重みは減らない。

12月に、真衣は20歳になった。15歳の時には決断できなかった。大学に進学した時も決断できなかった。でも、孝子母もおばあちゃんも、何も言わなかった。真衣は20歳になったら話をしようと決めていた。
真衣の誕生日だけは、毎年小さなパーティをしてくれる。孝子母もおばあちゃんもそれを楽しみにしていてくれた。そんな時は妹の事を想い、胸が痛かった。でも、そのことは言ったことが無い。嬉しそうな顔が礼儀だということぐらい、中学生だった真衣にもわかっていた。
誕生日のケーキはおばあちゃんが好きだから、ほとんど食べてもらう。今年からローソクは立てない事が去年決まった。19本ものローソクを吹き消すのが大変だったのだ。
「真衣も、大人だから、今日はこれだよ」
孝子が冷蔵庫から取り出したのはビールだった。
「ビール」
「真衣が飲まなくても、私は飲むわよ」
「無理しなくてもいいんだよ」
おばあちゃんが、心配そうな顔で二人の顔を見比べた。
「いいよ。乾杯しよう」
「そう。我が家もアルコール解禁」
「・・・」
「孝子がね、真衣の二十歳の誕生日まで禁酒することに決めたの」
「そう」
「真衣が二十歳になってくれて、嬉しい」
「ありがとう。お母さん」
男の想い出も、父親の想い出も、そして酒の想い出も碌なものはない。大学に進学してからも、どんな会合でもお酒は飲まなかった。
「苦い」
「でしょう。この苦さが、いいのよね」
孝子母の気持ちを考えて一口だけ飲んでみたが、美味しいという味覚はなかった。
おばあちゃんの目はケーキを見ていたので、ケーキを切っておばあちゃんの皿に乗せた。
「食事の前に、一口だけね」
おばあちゃんは、ケーキを口に入れて目をつぶった。誕生日のケーキには、何か思い入れがあるのだろう。普段はケーキなど食べないおばあちゃんが、真衣の誕生日だけはケーキを食べて至福の顔をしてくれる。
「お母さん」
「ん」
「おばあちゃん」
「何だい」
「ありがとう。私」
「ん」
「・・・」
「私、片岡真衣になる」
「真衣」
「・・・」
「お母さんの子供になる。里子じゃなく、片岡真衣に。いい」
「・・・」
二人とも、声をなくし、真衣を見ていたが、二人の目から同時に涙があふれ出した。そして、二人とも大きく何度も頷いた。
「一つだけ、お願が、あるの」
「なに」
「病院の母が退院したら、ここに来てもらっても、いい」
「もちろんよ」
「ありがとう。こんなによくしてもらって、厚かましいけど、あの人の事は放っておけない。私が、支えたいの。ごめんなさい。お母さんもお母さんだけど、病院の母も母でいて欲しい。お母さんとおばあちゃんが支えてくれたから、今の私があることはよおくわかっているの。でも、病院の母の事を捨てて、片岡の子供にはなれなかった。今なら、お母さんもおばあちゃんも、許してくれると思ったから」
「当たり前じゃない。私だって、ずっと、その積りだったよ」
「ありがとう。お母さん。おばあちゃん」
「うれしいね、孝子」
「こんなサプライズがあるなんて。真衣が私の子になってくれて、ビールも解禁になって、私、怖いぐらい」
「どう、孝子、披露宴、しない。親子披露宴」
「披露宴か、いいね」
「やめてよ」
「どうして」
「恥ずかしいじゃない」
「恥ずかしいぐらい、我慢しなさい」
「もう」
「安藤さん。西崎君でしょ。勿論、聡美も。荒木田さんと黒岩さん。できれば、あの三沢病院の先生。ごくうちわの披露宴。いいね、やろう。寿司万の二階貸し切りにして」
「いい誕生日ね、今日は」
おばあちゃんが、また泣きだした。何も喋らない、何も食べようとしなかった泥だらけの中学生。そんな真衣の七年間を思い出している目だった。

真衣には反対できなかった。奈良岡医師の都合を聞きに行くのも真衣の役目になった。真衣も養子になる決心をした時に、奈良岡医師には了解しておいてもらいたかったので、三沢病院にやってきた。
「先生。お願いがあってきました」
「どうしたの」
「私、二十歳になりました。で、私の方から片岡の母の養子になると言ったんです」
「そう」
「以前、児童相談所の人から養子の話しは聞きましたが、ずっと決心できませんでした。今では片岡の母もおばあちゃんも他人だとは思っていません。でも、母の事がありましたから、言い出せなかったんです」
「うん」
「母が退院したら、片岡の家に来てもらって、私が支えたいけど、それでもいいですかと聞きました。予想通り、二人とも賛成してくれたんです。一つ屋根の下に二人の母親がいるのも変ですが、事実、私には母が二人いる訳ですから」
「よかったんじゃない。私は、どうにでもフォローするわよ」
「ありがとうございます」
「退院して、落ち着く場所があるということは、とても大事な事なの。ここには、行き場所がない人が大勢いる。片岡さん、いい人なのね」
「はい」
「あなたも、二十歳になった。早いわね」
「はい。その時、おばあちゃんが親子披露宴をしたらと言いだして、できたら、先生にも来てもらいたいと言うんです。先生は忙しいから無理と言ったんですけど、空いている日がないかどうか確かめてということで、今日、来ました。無理ですよね」
「いつ」
「先生の時間を聞いてから、他の人の都合をきくことになってるんです」
「私が、主賓なの」
「いえ、一番忙しそうな人が優先なんだと片岡の母が言ってました」
「そう。私も、出席してみたいわね。成瀬さんの主治医でもあるし」
「いいんですか」
「ただし、二日ほど待ってくれる。調整してみる。駄目な時はごめんね」
「ありがとうございます」
「あなた、変わったわ。もう、二十歳なんだ」
「はい」
「変わったのは、養子の話したから」
「わかりません」
「ひょっとして、恋人ができた」
「まさか」
「そうよね。でも、とてもきれいになったし、落ち着いてる。やっぱり、大人になったってことね」
「自分ではわかりません」
真衣の男性不信を知っている奈良岡医師は、診察料を払っていない真衣のカウンセラーみたいなものだった。大勢の人に支えられていることを、強く感じる。

年が明けて、ある晴れた日曜日、八時に近所の寿司万で親子披露宴が始まった。予定した出席者が全員集まってくれて、おばあちゃんはそれだけで涙目になっていた。
奈良岡医師を紹介した後で、孝子が緊張した顔で挨拶をした。
「12月の、真衣の誕生日に、真衣の方から養子縁組の話をしてくれました。私は、この子を引き取った時から親子のつもりでしたけど、形の上で親子になることも大事なことなんだと思い、とても嬉しかった。母が一番喜んでいます。三沢病院の奈良岡先生にも、忙しいのに来ていただきました。先生はこの子の母親の主治医をしてくれています。この子の母親が退院したら、うちに来てもらって四人で暮らしたいと真衣に言われた時、私はいい娘を持ったと、嬉しかった。今日、こうやって、皆さんに来てもらって、とても、嬉しいです。嬉しい事ばかりで、ちょっと怖いぐらいです。真衣、皆さん、ありがとう」
西崎の音頭で乾杯をし、料理を食べ始めた。
食べながら、真衣の子供の頃の話をする人。事件での真衣の話を、自分の失敗談を中心にして話してくれた西崎。奈良岡医師が真衣との出会いを話し始めた。
「高校生だった真衣さんが、病院に来てくれた時、私は嬉しかった。残念な事ですが、精神科の入院病棟には、あまり来てくれる人がいません。黒岩さんも来てくれますが、幼友達だということだけで来てくれる黒岩さんは、とても珍しいんです。真衣さんが来た時、私は患者の家族と話しているというより、患者さんと話しているような気持でした。真衣さんが重い荷物を背負っていたからだと思います。でも、この親子披露宴の話をしに来てくれた真衣さんは、大人になっていました。入院している成瀬さんに退院して行く場所が出来たことも、とても嬉しい事です。帰る場所のない人が多いんです。片岡さんには、主治医として感謝しています。こういう明るい話は、ほんとに嬉しい」
拍手がおきた。
「真衣。あんたも、何か言いなさい」
「私も」
「そうよ」
「私みたいな人間が、こんなに大勢の人に支えられて、ほんとにいいのかな、と今でも思っています。不運と不幸の塊のような私が今日まで生きてこれたのが、不思議です。ここに来てくれた誰かと出会わなかったら、私は、ここにはいなかったかもしれません。ありがとうございます。皆さんにお返しができるかどうか自信はありません。でも、私の夢は、いい医者になって大勢の人の力になる事です。そんなことで、許してもらえますか」
大きな拍手がおきた。
荒木田が手を挙げた。
「私ごとで、すみません。僕は来月、別の支所に移ります。真衣ちゃんの養子縁組の話しは以前に僕が勧めました。最後にこの話が聞けて、とても嬉しいです。片岡先生の頑張りも、頭が下がります」
「転勤ですか」
「はい。山崎の方に新しい支所を作ります。ここは、黒岩君が来てくれましたので、大丈夫です。相談所の仕事がこれほど似合っている人は珍しいと思います。元刑事とは思えません」
「どういう意味」
「西崎さんは刑事が似合ってますが、黒岩君の刑事は似合わないという意味ですよ」
「まあな」
また、雑談が始まった。

2時間で披露宴は終わった。奈良岡医師はタクシーで帰り、西崎夫婦と荒木田、そして黒岩が一緒に寿司万を出て帰路についた。
「黒岩君。あの子に何か言ったのか」
「別に」
「あの子、変わった。そう思わないか」
「思います。危険な臭いが消えてます」
「俺も、そう思う。お前が刺された事がよかったんじゃないのか」
「そうなんですか」
「わからねえ」
「我々は勘違いをしてるのかもしれませんよ」
荒木田が突然言った。
「・・・」
「だって、絶体絶命の窮地でもあの子はそれを乗り越えてきた。不運の申し子みたいに思っているけど、実際は、とてつもない強運の持ち主かもしれない」
「それは、言える」
「それですよ。僕は西崎さんに一目惚れかと言われましたけど、違うと言いましたよね。違うんです。ほら、偉人伝とかで緯人の周囲には必ずその緯人を支えた人がいるでしょう。あれですよ。僕はその支える人として、真衣さんに会ったんです」
「もしかすると、あの子は医療の世界で無くてはならない人になるのかもしれない」
「きっと、そうです。わかりましたよ、僕」
「ほんと、黒岩君は変わってるな」
「そうなんですって。そうなる人なんです」
「確かに、あの子は、女だと思わない方がいいかもしれないな」
「西崎さん、わかってるじゃないですか」
「お前に、褒められてもな」
その時、黙っていた西崎の妻が何かを言った。
「何か、言ったか」
「ううん、別に」
聡子は「馬鹿」と言ったのだが、誰にも聞こえなかった。男って、どうして、こうも能天気でいられるのだろう。暴力を振う男も、暴力から弱者を守ろうとする男も、幼児並みの精神構造しか持ち合わせていない。まあ、そこが男の魅力ではあるが、そのことに気がついていないというのも、いかがなものか。聡子には暴力に蹂躙されたという体験はない。だから、真衣の苦しみの全てはわからないのだろうが、その一端はわかる。男達には、そのことがわかっていない。世の中から暴力が無くならないのは、男のその能天気にあると思う。そんなこと、言ってみても男達には理解できないから、女は誰一人、口には出さない。何千年も、男と女はそうやって生きて来た。これからも、変わることはないのだろう。

     了




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弱き者よ - 3 [弱き者よ]



7

夕方のニュースになると、園田駅前の映像が流れるようになった。
近くにいる銀行の女子社員が何に熱中しているのかわからなかったが、尋ねてみると犯人の投稿が載っている掲示板だった。この事件が次第に日本中の注目を集める存在になってきている。いや、ネットでは既に大騒ぎの領域に入っていると教えてくれた。現在起きている事件の実況中継など、ネット住民という人種も今までに体験がないらしい。犯人に対する応援が圧倒的に多い。「もっとやれ」「人質を殺せ」という投稿もあった。狂っているとしか思えない。犯人もこの掲示板を見ているようで、楽しそうな雰囲気はネットの反響が原因なのかもしれない。
「ハイジャック犯の浅尾弘樹です」
「少し、話をしませんか」
「質問には答えないと、日下部さんに言いましたけど」
「ええ。そう聞いています。でも、お願いできませんか、ぜひ」
「残念ですが、そのつもりはありません。どうしても、と言うのであれば、警察はこの交渉から降りていただいてもかまいません。交渉の仲介役は見つかると思います」
「仲介役に誰がなってくれると思うんですか」
「それは、これから捜します」
「マスコミは、仲介役、しませんよ」
「それを言うなら、させません、でしょう。別にマスコミでなくてもいいんです。あなたが心配することではありません。どうします。窓口を続けますか。それとも、降りますか」
「我々は、あなたの生命も、人質の方の生命も守りたい。だから、窓口の責任として、あなたと話がしたい。これ、変ですか」
「交渉になってませんよ。僕が電話を切れば、あなたたちは交渉窓口の相手ではなくなります。もう一度だけ聞きます。窓口を続けますか。それとも、降りますか」
「わかりました。我々が窓口です」
「では、食事を通用口の外に置いてください」
「通用口の外ですね」
犯人は電話回線を抜いた。そして、銃をもって警察官の三河の前に立った。
「三河さん」
「・・・」
三河は疲れた顔で犯人を見上げた。
「もうすぐ、その通用口の外に食事が運ばれてきます。それを中に運び入れていただきたい。あなたは、運ばずに逃げることもできます。それは、あなたが決めてください。思い違いがないように言っておきますけど、あなたが食事を運ばなければ、皆さんは食事ができないということになります。そして、あなたが逃げれば、報復としてどなたかが犠牲になることを知っておいてください。でも、ご自分のことが大切だと思えば、逃げることも選択肢の一つです。あなたが決めてください」
「佐々木さん。三河さんの手錠を外してあげてください」
犯人は三河の前から離れて、通用口との間に人質を置く場所に移動し、軽く銃を構えた。警察の突入に備えていることは誰の目にも明らかだった。警察官の三河は重い体を持ち上げるようにして立ち上がって、人質の群れに目をやった。
三河は通用口のドアを開けて、外に出た。暫くは何も起きなかった。人質たちの不安が徐々に膨れ上がって行く。食事の心配ではなく、犯人が報復と言っていたことが不安の原因だった。ドアが開き、両手に袋を持った三河が入ってきた。三河は体でドアを支え、外の人間が手渡す荷物を運びいれた。袋が5つと段ボールが2つ。三河はドアの鍵を閉めて自分の場所に無言で戻った。
「三河さん。食事以外のものは受け取っていませんか」
三河は黙って携帯電話を差し出した。
「佐々木さん。皆さんに食事を配ってください」
人質の緊張が一気に解け、一斉にため息が漏れた。
食事はスチロールの容器に入ったカツ丼だった。まだ、暖かい。漬物ってこんなに美味しかったのかと思うと、食事を通して頑張れと言っている人達がいると感じる。人質たちは元気を貰った。
食事が終わったところで、世話係が交代した。三人目の世話係は同じく女子社員の竹原という女性だった。
人質になってから半日が過ぎた。たった12時間だが、普通の生活をしていた自分を想像しても実感がない。電話をする声も少なくなってきているので、西崎との電話は控えざるを得なかった。犯人がトイレに行った時に、できるだけ時間をかけた。
「真衣ちゃん。あなた、誰と話してるの」
「えっ。ああ。親戚のおじさん。父がいませんから」
「そう。そのおじさんって、警察の人」
「いいえ、クリーニング屋さんです」
「そう。でも、気をつけなさいよ。あの男は、会話を聞いてる」
「はい」

7時に指揮本部の会議が始まった。何もしていない西崎でも疲れを感じていた。
「佐伯警部、その後の説明をお願いします」
黒装束の特殊班、佐伯警部が立ち上がった。
「先ず、内部映像はあのモニターに出ています。まだ一カ所ですが、今夜中にはもう一カ所、設置できると思います。狙撃班は、現状では一人を配置するスペースしかありません。まだ検討します。問題は犯人の銃ではなく、爆発物です。起爆装置の詳細がわかりませんので、犯人の言葉を頼りに推測するしか方法はありません。鞄は閉じたままなので、無線を利用しているものと思います。ただし、犯人の言うような起爆システムが組み込まれているのかどうかについて、確信は持てないという判断です。犯人の部屋を捜査した結果によれば、爆発物を製造したという痕跡はありますが、起爆コントローラーを製造した形跡が見当たりません。犯人が言ったような機能を持たせようとすると、電子機器の制作か改造が必要になりますが、そのような部品も工具も犯人の部屋にはありませんでした。市販品の組み合わせだけでは、難しいだろうという判断です。共犯者がいて、そのコントローラーを提供したという可能性、または別の場所で製造した可能性などを排除していますので、確率の高い推測ではありません」
「それを確認する方法はありませんか」
「ありません。あの鞄の中身を調べられれば、できますけど」
「犯人に、電子の知識があったと思われる痕跡はありませんでしたか」
「犯人の住居を見に行った隊員は、そのような痕跡を見つけていません。電子関係の書籍が一冊もなかったし、半田ごてもありませんでした。それに、犯人は職業についたことがありません。電子関係のプロだという要素はないと思います」
「どんなコントローラーが必要なんですか」
「例えば、タイマーで起爆させる場合、一度タイマーを作動させると時間が経過して起爆に至ります。犯人は最大で4分、最小で2分と言っています。タイマーの初期値は4分で、そのタイマーを何らかの方法でリセットしているものと思います。つまり、タイマーが進んで2分になったところで、何らかの信号により、タイマーは4分に戻るという仕組みです。信号がなかった場合には、2分から、さらにカウントダウンして起爆に至ることになります」
「どんな方法があるんですか」
「例えば、自分の脈拍を信号に変えて送るとか、音声認識でリセットしているとか、他にも方法があるかもしれないということです」
「そんな方法が一般的に使われているのですか」
「いえ。そのようなコントローラーが使用されたという事例は、少なくとも自分は知りません。でも、否定はできません」
「わからない、ということは50%の確率で爆発が起きるということですか」
「残念ですが」
「斎藤次長、犯人の交友関係で電子技術者はいませんか」
「高校中退後の交友関係は不明です。それ以前の交友関係を洗っていますが、該当するような人物は見つかっていません」
「インターネットの方は」
「それも、解析中ですが、そのようなメールは見つかっていません」
「銀行の対応は、どうです」
「現金を用意している途中、という回答です」
「感触は、どうです」
「用意すると思います。ただ、いくら銀行だといっても500億は右から左という訳にはいかないようです。でも、17人の人質を見捨てれば、M銀行は苦しい立場に立たされることになるということもわかっているようです」
「では、この500億を、犯人はどうするつもりなのか。どう思いますか」
「思想的背景はほんとにないんですか」
「ありません」
「確認は取れているのですか」
「取りました」
公安もマークしていなかったということだが、公安が正直になることなどないのだから、完全に信用はできないと刑事畑の人間は考えるだろう。
「愉快犯とは考えられませんか」
「愉快犯」
「例えば、500億の焚き火をしろとか、ヘリコプターで撒けとか、です」
「それはそれで大変な事態ですが、排除はできません」
「犯人の要求は続くかもしれない。飛行機を用意しろと言ってくる。人質と金を乗せて飛び立てば、受け入れる国があるかもしれません。500億ですから」
「その可能性も排除できません」
発言が途絶えた。
「まだ、始まったばかりです。精力的に捜査と検討をお願いします。この状況では突入という選択肢は難しいでしょう」
会議は散会した。この前線本部の様子は、全て政府の危機管理室に中継されている。テロ対策なのだから最終的な判断は危機管理室から出される。現場の指令本部の様子は、その判断に欠かせない。
「明日の朝の食事の手配をしてくる」
兼松課長が部屋を出て行った。西崎は生返事で課長を見送った。
西崎の頭の中も爆発物の事で占められていた。あの鞄の中に爆発物はあるのか。犯人の言う起爆装置があの中にあるのか。犯人はこの事件を公開しながら進めると宣言している。なぜ、ここまで公開する必要があるのか。犯人の目的がはっきりしていないのだから、断定はできないが、公開しなければならない条件が犯人にはある。それは、あの爆発物に関することではないのか。10個の嘘を並べる犯罪者はいない。9個の真実のなかに1個の嘘を紛れ込ませておけば、全体として真実らしく見える。1個の嘘があの爆発物だとすれば、犯人の思うつぼだろう。だが、それをどうやって証明する。
西崎は犯人の表情を直接見たいという強い欲求に駆られた。
柿崎が部屋に飛び込んできた。
「警視。これを」
柿崎が一枚の紙を楠木警視に渡した。ネットに新しい書き込みがあったのだろうが、柿崎の慌て方を見れば事態が動くような内容に違いない。
「何があった」
部屋を飛び出す柿崎を捉えて、西崎は大声を出した。
「下に来い」
西崎も柿崎の後ろを追って、部屋を飛び出した。
一階のプリンターが用紙を吐きだしている。西崎はその一枚を取った。

銀行ハイジャックの浅尾弘樹です。
僕の書き込みを見ていても1円の得にもなりません。
どうです。皆さんも参加してみませんか。
それとも、そんな勇気は持てませんか。
M銀行に要求した金額は500億円です。
これは、一人に100万円配ったとしても5万人分です。
僕の次の要求は、現金を先着5万人に100万円づつ配れという要求です。
銀行が要求を受け入れ、警察が妨害しなければ、明日の朝9時に現金は用意されます。
銀行が要求を拒否するか、警察が妨害をすれば、人質の命は1時間に1人ずつ失われていきます。
ただし、これはゲームではありません。
みなさんが危険に身を晒すことになります。
あなたの不運が重なれば、命を落とすことがあるかもしれない。
犯罪者として捕まるかもしれません。
でも、少しだけ冒険すれば、100万円が手に入るかもしれません。
あなたの人生は充実していますか。
それとも、糞みたいな人生ですか。
失うものは多いですか。
それとも、失うものはありませんか。
あなたが行動を起こせば、この糞みたいな日本の何かがかわるかも。
言いたい放題の「名無しさん」
糞みたいな「名無しさん」
根性、見せてくださいよ。
無理かな。
決断した時から、あなた達の敵は、警察です。
僕の周りも警察で埋め尽くされています。
さあ、この犬どもの包囲の中からお宝を持って帰るのは誰だ。
あなた、あなた、そしてあなた。
いつまで、そんな人生にしがみつくつもりなんです。
大切なものなど何もないあなたの人生に風を入れてみませんか。
冒険という風を。

「このガキ、愉快犯ってことか」
西崎は独り言としては大きな声を出した。こんなことのために、17人の生命が危険に晒されている。許せることではないが、こんな若者がどこにでもいることも事実だ。壊れ始めている世界を、一人の警察官に救える筈もない。
以前に恐喝と傷害を犯した若者に説教口調で反省しろと言ったことがある。なぜ、あんなことを言ったのか。クールに仕事をこなせる男だと自分では思っていたのに、あの時は魔がさした。いやクールに仕事をこなしたいと思っていただけかもしれない。その若者に「おまえらに言われたかねえよ」と冷静な声で言われた。「そりぁ、そうだ」とも言えず、話を変えたことがある。確かに、世界を壊したのは俺達大人だ。俺一人の力で壊したわけではないが、やはり世界をこわしたのは大人たちだと思う。それでも、したり顔で取り締まりをする大人たち。西崎にも偽善者というレッテルを勝手に外す資格はない。困ったことだと言いながら、仕事をするしかない。そんなことを思う西崎は、警察官失格かもしれない。いや、大人たちが大人失格なんだと思う。思っただけでは駄目なんだけど、と感じながらいつも西崎の思考は霧の中へ消えて行く。
犯人の書き込みにより、指揮本部の中は電話をかける男たちの声で満ち溢れた。金を求めてやってくる5万人の人間をどう扱い、どう防ぐのか。この指揮本部で対応する問題ではなくなっていた。政府の危機管理室の仕事であり、東京の警察庁の仕事であった。
呼び集められ幹部に対して、「この件は、私たちの仕事ではありません」と楠木警視は言い切った。若いのに肝の据わった男だと思った。
「何があった」
戻ってきた兼松課長に、犯人のメッセージを渡した。
「西崎よ。どうすれば、いい」
「そんなこと、俺に聞かないでくださいよ」
「このまま、壊れて行くのか、この国は」
「だから、俺に聞かないでくださいって」
犯人のメッセージを、課長も若者の悲鳴だと受け取った。管理職にある警察官なら、先ず新たに出現する5万人の対策を心配しなければならない筈だが、課長も現場の人間だということになる。現場を預かる人間には見えることでも、緯いさん達には見えないのだろう。いつものことだけど。
殺された人間の体を切り刻むことが解禁され、無差別殺人も解禁された。そして、今度はテロも解禁される。いつの日か、ハイジャックした飛行機が国会議事堂に突っ込むようなテロもフィクションだけの世界ではなくなるのだろうか。
新しい指揮本部が西警察署の中に立ちあげられた。園田不動産ビルに設置されたハイジャック本部から西警察の署員は、兼松と西崎を除いて新しい指揮本部に移された。全国の警察本部に非常呼集がかけられ、12時間以内に10万人の警察官を新指揮本部の指揮下に置くことが決められた。
人質の生命を守るためには、現金を配る必要がある。だが、配った現金は全額取り戻す。そのためには、金を受け取った5万人に10万人の警察官を張り付かせる。国家権力をなめるんじゃねえ、という意思表示でもある。不正に取得した金が自由に使えたのでは法治国家ではないと言い切った幹部もいたらしい。世間一般には流れていない情報も、西崎のいる指揮本部には入ってくる。
「課長。これ、やり過ぎじゃないですか。10万人ですよ。戒厳令じゃあるまいし」
「ああ」
「銀行は、あくどく儲けてるんですから500億ぐらい出せるでしょうに」
「警察が取り戻すと言わなければ、銀行は出さないかもしれない」
「人質が殺されても、ですか」
「人の噂も何とかだろ。しばらく耐えれば済む」
「だったら、国が補填すればいい。資産の再配分ってやつですよ。どのみち、金に困ってる連中が押し寄せるでしょうし、炊き出しだと思えばいいんです」
「そんなことになれば、国家権力が権力ではなくなる。何でもありになる」
「実際は、何でもありでしょう。金持ちは」
「それを下々にも許せば、権力の意味がないだろう」
「じゃあ、俺たちは、何なんです」
「下々よ。上が下を取り締まるんじゃない。上は下々に下々を取り締まらせる。そういう仕組みを作る。それが権力だろ。だから、俺たちは犬と呼ばれてるんだ」
「犬、ねえ」
「今更、何。青臭いこと言うな」
「でも、課長も腹立ててるでしょ」
「それとこれとは別だ」
「俺、警察辞めようかな」
「辞表、受け取ってもいいぞ」
「怒らないでくださいよ」
「やってられねえな」
「課長。愉快犯だと、人質は危なくないですか」
「ああ」
「どうしたら、いいんです」
「ああ」
人質になっている真衣には、「まかせとけ。助ける」と言い続けているが、西崎には何の目途もない。それでも、言い続けるしかない。警察官にできることが神頼みしかないのでは、話にならない。あの爆発物が犯人の嘘だという確証が欲しい。刑事の直感としては高い確率で当たっていると思うが、楠木警視に強行突入を進言するほどの根拠にはならない。事態は刻々と西崎の手が届かないところへ行ってしまう。5万人の群衆と10万人の警察官。何が起きても不思議ではない状況に対して、西崎個人の力など役に立たないというより意味がない。
立体的な銃声が聞こえた。監視モニターを担当している警察官が声を出した。
「どうした」
「モニターが消えました」
階段を駆け下りてくる足音がして、特殊班の佐伯が飛び込んできた。
「すみません。スコープが破壊されました」
「あの銃声か」
「はい。狙撃班の一人が負傷しました」
「負傷」
「ファイバースコープを設置してある場所で位置についていた隊員の肩を銃弾が貫通しました」
「命は」
「大丈夫です」
「散弾銃だからな」
「はい」
再び、銃声がした。その銃声はステレオになってなかった。少しくぐもった音に聞こえた。
階段を駆け下りてくる靴音がして、黒装束の特殊班隊員が部屋に来た。
「東側のスコープが破壊されました」
「被害は」
「東側はスコープだけです」
「2カ所とも、やられたか」
「はい」
「新しいスコープを設置してください。映像なしでは何もできない」
「はい。開口部は難しいと思いますので少し時間がかかります。」
「どうするんです」
「穴を開けます」
「スコープの予備は何台ありますか」
「3台です」
「すぐに手配してください。できるだけ多く」
「はい」
「一カ所だけでも、残るように。それと、穴をあける工事は同時に開始してください。音は聞こえても仕方ありません。一カ所でも場所が特定されなければいいのです」
「はい」
佐伯が部屋を飛び出して行くと、すぐに電話が鳴った。
「はい。楠木」
「ハイジャック犯の浅尾弘樹です」
「はい」
「お年寄りが一人、体調を崩しました。交換要員はいますか」
「もちろん」
「5分後に電話します。名前と電話番号を用意しておいてください」
「わかった」
ファイバースコープに関する話だと思っていたので、さすがの楠木警視も返事をするのが精いっぱいだった。
「警視。私が行きます」
「西崎さん、でしたね」
「はい」
「お願いできますか」
「はい」
「危険な任務だという状況はわかってますよね」
「はい」
「ありがとうございます」
西崎は近くにあった紙に自分の携帯電話の番号を書いて渡した。
「西崎さん。必ず救出します」
「ぜひ。お願いします」
西崎は兼松課長の近くに寄った。
「うちのやつに、すまん、と言っておいてください」
「わかった」
聡美は怒るだろうな。警察なんか危ない事ばかりで、一生の仕事じゃないと言っていた。聡美は母親の後を継いで美容院をやっているから、生活には困らない。刑事なんて、髪結いの亭主の道楽ぐらいにしか考えていない。間違いなく、聡美は怒る。でも、ここで手を上げなければ、西崎はこの先自分がまともに生きていけるとは思えなかった。男は勇気があるんじゃない。男は重い十字架を背負って生きていけるほど、強くはない生き物だということを犯罪者を見ている西崎は知っていた。ただ、十字架を背負いたくないだけなのだ。
西崎は銃と手錠、そして警察バッジを課長に渡して指揮本部を出た。銀行に向かいながら、吸いおさめになるかもしれない煙草を取り出した。警察の仕事は嫌いではなかった。特別な才能もない自分にとって警察官になったことで後悔する部分はないと思っている。自分の人生について、深く考えたことはない。まあまあの人生だったんじゃないだろうか。まだ死ぬと決まった訳じゃない。まだ犯人の首に喰いつくぐらいのことはできる。それでも、思い出したこともない過去の光景が脳裡をよぎる。まさか、これが走馬灯。
携帯が振動した。
「はい」
「西崎、さん」
「ああ」
「通用口の鍵を開けておきますので入ってください」
「わかった」
西崎は、最後の煙を思い切り吸い込んで煙草を捨てた。


8

犯人の男が通用口の鍵を開けて、距離を取って銃を腰のところで水平に構えた。携帯で西崎という名前が聞こえたので身代りになるのは西崎かもしれない。眼鏡屋のおじいさんが苦しそうな声を出し始めて一時間は経っている。顔色は青ざめ、呼吸も苦しそうだ。
ドアが開いて、西崎刑事が入ってきた。
犯人は銃口を動かして、眼鏡屋のおじいさんを指した。
「あなたがおぶって外に出してください。外の人間に渡したら、ここに戻ってきてください」
「わかった」
「命が惜しければ、そのまま戻ってこなくてもいいですが、その時はここにいる誰かが犠牲になります。警察官としては、それはできませんよね」
「わかってる」
西崎は不機嫌な顔で眼鏡屋のおじいさんに近づいた。
「内藤さん。もう、大丈夫ですよ」
「ああ」
眼鏡屋のおじいさんは、薄く眼を開けて西崎を見た。顔見知りのようだ。
「俺の肩につかまって」
西崎は、眼鏡屋のおじいさんを抱き起し、背負って力強く歩き始めた。人質の目が二人を追った。西崎がドアを出て行くと、何人もの人質からため息が漏れた。犯人の言う事が正しければ、自分たちの生命は風前の灯の筈だが、それでもおじいさんが救助されたことは人質の気持ちを落ち着かせた。
ドアが開いて、すぐに西崎が戻ってきた。ドアの外に救助の人間が待機していたのだろう。
犯人は眼鏡屋のおじいさんがいた場所を銃口で示した。厳しい目で睨みつけていた西崎も無言で動いた。
「ご自分で、手錠をしてください」
西崎は真衣の横に座って、眼鏡屋のおじいさんがしていた手錠を自分の右手にはめた。
「竹原さん。机の上の袋を持ってきてください」
世話係をやらされている女子がカウンターの向こう側にある机からビニール袋を持ってきた。
「おまわりさんに、渡して」
西崎が袋を受け取ると、犯人は西崎の前に立った。
「その中に、ポケットの物を出してください。全部です」
西崎は携帯電話や手帳を袋に放り込んだ。煙草を入れる時だけ躊躇した。
「それで、全部、ですか」
「ああ」
「他に何かあると、面倒なことになりますよ」
「ない」
「いいでしょう。では、口を大きく開けてください」「もっと、大きく」
犯人は、大口を開いた西崎の口の中に銃口を入れた。
「暴れないでくださいよ。安全装置、外れてますから」
犯人は西崎のボディチェックをした。
「ほんとに何もないんですね。三河さんもあなたも警察官でしょう。警察なら何か小細工するでしょう。マイクとか拳銃とか」
「おまえ、警察のこと、何もわかってないな。人質の安全に影響するようなことを警察がする訳がない」
「でも、それでは僕を制圧できませんよ」
「そんなこと、おまえが心配する事じゃない」
「警察は、可能だと思ってる。そうなんですか」
「当然だろう」
「どうやって」
「そんなこと、俺が言うと思うか」
「殺されるとしても、ですか」
「ああ。そうでなきゃ、ここにはこない」
「強がりを言わないでくださいよ。人質の生命が一番大切なんでしょう。そんな警察に何ができると言うんですか」
「だから、それは話せないと言ってる」
「まあ、いいでしょう。あなたが、どこまで強気を通せるか見たくなりましたよ。警察が約束を破った時、犠牲者の一人目は警察官にしようと思ってましたけど、他の人にします。一般人の犠牲者の方が重みがありそうだと気がつきましたよ」
「馬鹿な事、言うな」
「うん。それがいい」
犯人は銃を肩に担いで、笑いながら西崎の場所から離れた。
「おい」
犯人は立ち止まり、人質一人ずつに銃口を向けた。
「西崎さん。あなたを見る皆さんの目が急に冷たくなったと思いませんか。礼を言います。あなたのおかげで、一枚カードが増えました」
人質の間に刺々しい空気が流れた。誰もが疲れている。決して楽しい会話ではなかった。
「おじさん」
「すまん」
真衣は外に援軍がいることで、少しだけ安心感があったが、西崎が同じように人質になったことで動揺はあった。
「真衣ちゃん。うちの課長に連絡入れてくれないか」
「はい」
真衣は西崎に言われた電話番号を押した。援軍が無くなった訳ではない。
「兼松」
「成沢と言います」
「おう」
「西崎のおじさんは、ここにいます。伝える事があれば言ってください」
「まだ、今はない。時々、連絡してくれるか」
「はい。そうします」
「ああ。西崎に、くれぐれも慎重にと」
「わかってます」
真衣は電話を切った。
「何て」
「くれぐれも、慎重にと」
「ああ」
「おじさん。どうして」
「ん。どうしても、あいつと直接会いたかった。表情とか仕草とか目の色とか、そんなものが知りたかった。外からではわからない」
「そう」
「すまんな」
できるだけ小さな声で話していたが、隣にいる相棒には聞こえていたようだ。
「可能性は」
「えっ」
「黒崎さん、です」
真衣は黒崎を紹介した。
「もちろん。助け出しますよ」
「そんなこと聞いてない。どのぐらいの可能性があるのか、教えて」
「可能性、ですか」
「そう。答えられない程度なのね」
「いえ」
「あの鞄が心配なんでしょう」
「はい」
「あれは、爆弾なんかじゃないわよ」
「どうして」
「どうしても」
「俺もそう思うんですが、証明ができないんです」
「危険を恐れていたら、危険がやってくるわよ」
「でも」
「確かに、変な強盗だけど、あの男は平気で人を殺す。刑事さんならわかるかな」
「そんな様子がありましたか」
「ううん。ないように見える。皆もそれで安心してるようだけど、違うよ」
「おじさん。私にもわからないけど、黒崎さんには見えるみたい」
「見えるって」
「何ていうか、見えない部分が見える。ですよね、黒崎さん」
「ほんとは、見たくないものは見えない方がいいのにね」
「そうですか」
「信じられないって顔ね。別に信用しなくてもいいのよ。ただ、頭の片隅に仕舞っといて」
「はあ」
「警察も、無理に突入して、あの鞄が爆発したら責任問題だから、待ってる」
「何を待ってるんですか」
「自分たちの責任が問われなくなるのを」
「・・・」
「一人か二人、犠牲者が出れば、いい訳ができる。そう思ってるんでしょう」
「・・・」
「最初に身代りになってきた警察の人も、あんたも、上の人はそのつもりで寄こしたんでしょう。二階級特進ぐらいのことで命を捨てて、どうするの」
「違いますよ。俺は、あいつの顔が直接見たかったんです」
「そう」
黒崎は、話は終わったとばかりに向こうを向いてしまった。
「おじさん。そうなの」
「いや。いろいろやってる」
「そう」
「・・・」
「私、黒崎さんみたいに見える訳じゃないけど、あの鞄は違うと思う。あの男だって、最後の武器があの鞄の爆発物だってことは知ってると思う。普通、気にならないかな」
「ん」
「あの男は、鞄の事、全然、気にしてない。命綱なら、視線が行くと思うのに」
「ん」
「ほとんど、携帯ばっかり」
「そうみたいだな」
「銀行強盗なんだから、外にいる警察の事とか、人質の事とか、爆発物の事とか、気になると思うのに、携帯と睨めっこしてる。まるで、遊んでるみたい」
「ああ」
「でも、警察は来ない。そうなの、おじさん」
「いや。俺が何か証拠を掴む」
「他の人が犠牲になっても」
「・・・」
「あの男は死ぬのは警察官じゃないって言った」
「ん」
真衣は携帯を西崎に渡した後、世話係をしてくれている竹原に手錠を外してもらいトイレに向かった。犯人は一瞬だけ真衣の方を見たが、すぐに携帯電話に視線を落とした。銃を腕に抱えたまま、カウンターの内側を歩き回りながら時折笑顔が見える。今は、ネットに書き込んでいるのではなく、ネットの書き込みを読んでいるようだ。真衣は犯人を見ないようにしてトイレのドアを開けた。
犯人の男は解決まで時間がかかると言っていた。西崎の話だと警察の救助はまだ先になりそうだ。この先、何が起きるのか誰にもわからない。それでも、真衣はなんとしても生き残りたかった。まだ短い人生だけど、初めて見えた光は失いたくない。妹の真樹には悪いけど、今は生きてみたいと本気で思っている。
便座に座りながら、真衣は死神とつぶやいて小さく笑った。生きたいと思っている反対側に死が横たわっていることを知っている。死神にしっかりと押さえこまれている自分がいることもわかっていた。どこで途切れても不思議ではない命なのだという気持ちは、真衣の奥深くでどっしりとした重量感を持って沈んでいる。死神との付き合いの方が永いのだから仕方がない。
用を足した真衣は丁寧に手を洗って、鏡に映った自分を見た。鏡の中の自分はいつものように暗い顔をしていた。トイレのドアを出た真衣の目に映ったのは、カウンターの上に置かれている銃だった。犯人は少し離れた場所でケーブルを触っている。多分、携帯の電池が切れたのだろう。ドアの閉まる音がしたが、犯人は振り返らなかった。真衣は真っすぐ銃に向かって歩いた。別に焦る気持ちもなく、走り出そうという気持ちもなかった。
重い。両手で銃を抱えて、そのまま歩いた。まだ、犯人も人質も銃が真衣の手にあることに気が付いていない。
「動かないで」
普通に声が出た。銃口は犯人に向けられている。犯人はカウンターに銃がないことを確認して真衣の目を見た。
「無理」
「動かないで」
「女の子に、銃は扱えない」
「そうかしら」
真衣は銃口を天井に向けて引き金を引いた。だが、轟音はなかった。真衣は小さなレバーを押し下げた。安全装置の存在など知らなかったが、犯人の行動の全てを見ていたので、その動作が必要だとわかっていた。
轟音。
銃が手の上で跳ね上がり、銃を抱えたまま後ろに押し倒される格好になったが、銃口を犯人に向けることには成功した。
「動かないで」
「そんな撃ち方じゃ、僕には当たらないよ」
犯人は自分のザックから大きなナイフを取り出して、カウンターの上に飛び乗った。
「竹原さん」
世話係の竹原が脅えた目で真衣を見詰めた。
「みんなの、手錠を外して」
「竹原さん」
犯人は真衣の方を見たまま、落ち着いた声で竹原を呼んだ。
「あなた、死にたいですか。銃なんて簡単に撃てないし、人に命中させることも無理。それに、あの銃にはあと一発しか弾は入っていない。あの子が僕を殺せなかったら、僕は、これで、一番先に竹原さんを殺すことになる。それでも、いいんですか」
竹原はその場にしゃがみ込んだ。
「おじさん。電話して」
「おっと。西崎さんって言いましたっけ。この子が死んでもいいんですか。僕は銃を返してくれたら、何もしませんけど。あなたが電話すれば、この子に襲いかかりますよ。警察官なら、わかりますよね。この子が危ないことぐらい」
西崎刑事の動きも止まった。
「もう、終わり。返してくれたら、無かった事にしてあげる。君には無理だから」
真衣は首を横に振った。
「おやおや。気が強い子だ。僕もまだやったことないけど、人を殺すって簡単じゃないって言うよ。君に出来るのかな」
真衣は首を縦に振った。
「まさか。じゃあ、撃ってごらんよ」
犯人は両手を広げて胸を突き出した。
真衣は引き金を引く決意をしていた。なめちゃいけない。私は死神なのよ。ただ、男が言ったように相手の胸に命中させる自信はなかった。それでも、どこかに当たれば何か方法はある筈である。
「撃てないだろう」
「・・・」
「その指を離して、銃を床の上に、ゆっくりと置く。できるよね。仕返しなんてしないから」
男はカウンターの上に座って、足をブラブラと振り、笑顔で真衣を説得するつもりらしい。真衣は男の目から視線を外さなかった。手錠の鍵を持っている竹原も警察官の西崎も動けない状況では有利な展開は期待できないが、銃を手放しても状況が改善する訳でもない。それにしても、重いと思った。自然と銃口が下を向く。
「君。可愛い顔して、頑固だね。彼氏、いる」
「・・・」
「じゃあ、こうしよう。君は、その銃を持ったまま、ここから出ていく。僕は止めない。そうすれば、君は自由になれる。それなら、丸く治まると思わない」
真衣はおもわず銀行の通用口に目をやった。確かに魅力的な提案に思えたが、立ち上がることも通用口まで歩いていくことも出来る確信は持てなかった。指先に神経を集中することが真衣に出来る精一杯の行動だった。真衣は銃口を少し上に挙げて首を横に振った。
「あれあれ、いい案だと思ったのになあ。君、死んじゃうよ」
真衣はあらためて首を横に振った。
「じゃあ、最後にもう一回忠告しとくよ。銃を撃ったら、相手はばったり倒れて万事目出度しみたいな漫画、あるけど、実際はそうじゃないらしいよ。人間はそう簡単には死なないんだって。だから、万が一、僕に弾が当たったとしても、僕はこのナイフで君の事を刺す。いい。君には銃弾が一発しかないけど、僕はナイフを何回でも刺す事ができる。つまり、君の息の根を止める事ができるんだ。どっちが有利かわかるだろう。絶対にここから出ていくことがいいに決まってるんだよ。わかる」
男はカウンターから飛び降りた。
「さあ、狙いは、それでいいのかな」
男は三歩ほど左に走ってから、突進して来た。男の顔に笑顔はなかった。
真衣は目を開けたまま、引き金を引いた。
轟音と反動で後ろに押しやられながら、真衣は男から視線を外さなかった。男の体が巨大な力でなぎ倒されたように横向きに二度転んだ。床の上に伸びた男の体に動きはない。男と床の間から流れ出る血を見て、真衣の記憶は途切れた。女子社員の悲鳴を聞いたようにも思うが、自信はなかった。


9

真衣が目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。最初に孝子母の顔が見え、その後ろに西崎の顔があった。
「まい」
「おかあさん」
孝子の顔が歪んで、大粒の涙が落ちてきた。
「ねむい」
「うん」
二度目に目を開けた時も、孝子母と西崎の顔があった。
「みんなは」
「ああ。全員、救助された。怪我人はいない」
「そう。あの男は」
「即死だった。心臓に命中してた」
「そう」
「ごめんな」
「えっ」
「おじさん、何もできなかった」
「また、殺しちゃったのね」
「真衣ちゃんのせいじゃない。あの男が弾をめがけて飛び込んできて、自殺したようなもんだ。真衣ちゃんのせいじゃない」
「そう」
真衣の愛称は揺るぎの無いものになったらしい。これほど「死神」という名前が似合っている人間もいないだろう。体中が重い。真衣はまた眼を閉じた。

一月のセンター試験の成績でT大の医学部に入学を許された真衣は、胸を張って進学した。銀行テロ事件の詳細は世間に広がったが、犯人を射殺した女子高生のことは有名にはならなかった。警察からの説得に人質たちは従ってくれたらしい。報道でも犯人は銃の暴発で死亡した事になっている。ただ、決して口数の多い方ではなかった真衣が、さらに寡黙になった。
医学部の学生にとって、大学という場所は遊び場ではないと何度も念を押された。そのことは、真衣の望むところだった。必要とされる医者になることが、真衣の大目標なのだから、全く違和感はない。可能な限りの知識を吸収すること以外にやることはない。受験生だった頃よりも勉強時間は増え、家事手伝いをする時間が減った。自分の手で何人もの人の命を断ったのだから、帳尻を合わせる事が自分の贖罪だと思っている。相手が死に値する人間であったとしても、殺してしまったことには変わりがない。平気でいられる筈もない。刃物の感触も銃の感触も自分の体の中に沈み込んでいる。無かった事にはできなかった。

医学生としての一年が過ぎた。テストではどの科目でも常に上位三人の中にいたが、真衣の目標は全科目で一番をとることだった。おしゃれにも男女交際にも全く関心が無い。学食で食事をする時も一人で専門書を読みふけった。友達が欲しいと思った事が無い。実際には何を喋っていいのかわからない。その点では中学の頃から変わりがなかった。
勉強漬けの毎日だったが、年に二回だけ、三沢病院に行くことだけは例外にしていた。まだ、母親には会えていないが、奈良岡医師の話を聞くだけでも心が落ち着いた。
「どう、勉強の方は」
「はい。頑張ってます」
「大変でしょう」
「はい。でも、楽しいです」
「そう。あなたは、医者にむいてるかもしれない」
「そうなんですか」
「ええ。自分の出来が悪いから、そう思うのかもしれないけど。だって、楽しいなんて思ったこと無いもの」
「まさか。先生は私の目標です」
「ありがとう。でも、きっと、目標低いと思うわよ」
「先生」
「お母さんのことだけど」
「はい」
診察室に年配の看護士が入ってきて、小声で奈良岡医師に話をした。少し困った顔をした奈良岡医師は、真衣の顔を一度見て「わかった」と返事をした。
「ここでいいですか」
「そうね、どこにいるの」
「前の待合にいます」
「すぐに、行くわ」
奈良岡医師は立ちあがって、真衣の肩に手を当てて「ちょっと、ごめんね」と言ってドアに向かった。
ドアを開けた奈良岡医師が、「あっ」と言ったので真衣が振り向くと、ドアの前に長身の男が立っていた。
「びっくりするじゃない」
「すみません」
「そこに座りましょう」
「はい」
ドアが閉まって見えなかったが、病院が静かだったので話声は聞こえていた。男が頼みごとをし、奈良岡医師が賛成できないと言っているようだった。すぐに話は終わった。
戻ってきた奈良岡医師から母の状況を聞いたところに、また看護士が入ってきた。何か入院病棟でトラブルが起きているらしい。
「先生。私はこれで失礼します」
「えっ、そう。ごめんね、バタバタして」
「いいえ。また、来ます。よろしくお願いします」
「ええ」
奈良岡医師は厳しい表情で診察室を出ていった。精神科でも医療現場なのだから何があっても不思議はない。真衣も診察室を出た。
正面受付の場所で、奈良岡医師と話をしていた男が何かの手続きをしているのが見えた。真衣は時計を見た。三沢病院で一番困るのがバスの発車時刻で、二時間ほどは全く発車時刻が書かれていない時刻表を見るのは嬉しくない。三時の時刻表には一本のバスがあるようだ。ただ、あと四十分は待たなければならない。おもわずため息が出た。いつものことだから、真衣はバス停のベンチに座って本を開いた。大学生になってからは、どこでも本が読めるようになった。たとえ五分や十分でも集中できる必殺技を手に入れたと自負している。
バス停の真衣の前で車が停まったのは知っていたが、真衣は眼を上げなかった。暫くすると、車はバス停を離れていった。もうすぐ十九になるのだから、男と女の間に微妙な空気があるのは知っている。でも、その微妙な空気が微妙になったことはない。街中で男に声を懸けられたこともない。教室で性別を無視した議論はできるが、個人的な関係になったことは一度もなかった。男の方でふっとそんな様子を見せる事があっても、真衣の一メートル手前で引き返して行く。大学生になってからの真衣のニックネームは「バリア」に変わった。死神もバリアも人を寄せ付けないという意味では共通している。本人がそのニックネームの意味に気がついていない訳ではない。真衣はそのニックネームを喜んで受け入れていた。女の子が生まれて初めて出会う異性は父親である。だが、真衣の父親は母親を不幸にしただけの男だった。あの男がいなかったら、と思うが、あの男がいなければ自分も妹も存在しなかったのにとも思う。子供の時から男に対する不信感は生活の一部のようにあった。妹の死も原因の根っ子はあの男だと思っている。強姦に失敗し、逆恨みで真衣を殺しに来て、死んだ男。銀行強盗に巻き込まれて人質にとられ、殺すしか方法がなかった男。身勝手という言葉は男のためにあると思わせるような同級生や先生や警察官。真衣にとって、そんな男という生き物と個人的な付き合いを持つことはありえないことだった。医者になる動機は、自分で生きていける力を手に入れる事が最大の目的だった。バスの時間を待つことぐらい、全く気にならなかった。高校生の時に孝子母に言われて美容院に一度だけ行った事があるが、男の美容師が自分の髪を触ることに耐えられなかった。今でも、おばあちゃんに散髪をしてもらっている。眉の手入れもしないし、化粧品も使わない。口紅も持っていない。自分が女であることを主張する気は全くなかった。毎月来る生理など、尻尾と同じように退化して欲しいと思っている。自分で自分の命が断てないのであれば、女としてではなく、人間として生きることが願いだった。

二年生になってから、授業が一段と難しくなったと感じている。駅前の高架橋の上を歩きながら、真衣は南田教授の先週の授業内容を頭の中で復習していた。バス停に向かう道路は朝の通勤通学時間帯だったが、電車の到着時刻の影響なのか人通りが少なかった。
後ろの方で騒ぎが起きているのは知っていたが、真衣の頭の中は復習で一杯だった。
強い力で体が引き戻され、持っていた重い鞄が肩から外れて落ちた。何が起きたのかわからない。耳元で大きな声が聞こえ、嫌な臭いがした。
「来るな」
真衣に見えたのは、警棒を構えた二人の警察官の姿だった。
「来るな」
「放しなさい」
「うるせえ。こいつも、死ぬぞ」
見知らぬ男に首を羽交い絞めにされ、目の前にはナイフがあった。
真衣の体は男に引きずられて後ろ向きに進んでいる。階段の方から背広姿の若い男が走ってきて、「やめなさい」と叫んだ。手にしているのは警察バッジらしい。三人に取り囲まれた男の動きが停まった。
「お前の話は聞く。先ず、その人を放しなさい」
「この女が死んだら、お前らのせいだぞ、わかってんのか」
「わかってる。だから、話をしよう。悪いようにはしない」
「ごまかしてんじゃねえぞ。こいつを殺して、ここから、飛んだら、てめえらの方が殺人罪だぞ。もっとさがれ。離れろ」
男の呼吸は粗く、体は不安定だったが、首に回している腕の力は強かった。首を絞められているので酸素の吸収が充分ではない。真衣は男の腕を両手で放そうとした。
「動かないで」
私服の警官は真衣に向かって言ったようだ。冗談じゃない、息が苦しいのは私なんだから。
顎のあたりに冷たいナイフが触れた感触があった。
「やめなさい」
真衣の目からは、三人の警察官に人質を救い出す手立てがあるようにはみえない。緊張感だけが増幅していて、後ろにいる男が興奮しているのは体を通してわかる。二人はそれほど密着していた。男の刃物が自分の体を切り裂くまで、そんなに長い時間はかからないだろう。真衣の頭には教壇に立っている南田教授の顔が浮かんだ。
真衣は、ナイフを持っている男の右手に両手をかけておいて、思い切り男の腕に噛みついた。
男が真衣の耳元で絶叫する。刃物が落ちる音がし、呼吸が楽になる。男の腕から口を放すと、真衣は地面に叩きつけられた。真衣の体を飛び越えて二人の制服警官が男に飛びかかった。私服の警察官に腕をとられて起こされた時、男は二人の警察官に制圧されて大声を出していた。真衣は自分の鞄を捜した。いつの間にか見物客が真衣たちを取り巻いている。
真衣は鞄を拾って走った。こんなことで、授業を台無しにする訳にはいかない。いつも成績で競争相手になっている男子学生が一度授業を休んだだけで成績を落とし、苦労したことを知っている。トップ争いの中では些細にみえることでも軽視できないのだ。見物の人垣を押しのけてバス停に走った。
「待ちなさい」
鞄を引っ張られて真衣は転倒しそうになった。
「事情聴取をさせてください」
「後で」
真衣を追いかけて来たのは先ほどの私服警察官だった。
「急いでいるのはわかりますが、協力してもらえませんか」
「後で、警察署に行きます。授業に遅れるんです」
真衣は鞄を取り戻し、走った。バスが停まっている。真衣がバスに飛び乗ると警察官も一緒に乗り込んできた。
「お願いしますよ」
真衣の横に立った警察官が小声で言った。バスは何事もなかったように走り出した。
「後にしてください。必ず、行きますから」
真衣も小声で頼んだ。
気まずい空気のまま、学校にバスが到着し、真衣は時計を見ながら走った。
「授業、終わるまで、待ってますから」
真衣の横を並走している警察官が落ち着いた声で言った。その言葉の意味はよくわからなかったが、警察官が授業に出ることを肯定したのだと解釈した。

黒岩圭三は、女子学生が飛び込んでいった教室の外にある丸いオブジェの石の上に腰を下ろした。所属は県警本部捜査二課の刑事だが、非番で友人を訪ねるところだった。駅前で事件に遭遇し、知らない顔はできなかった。人質になった女子学生には見覚えがあったので、何とか解放しなければならないと思った。警察官と言えば誰もが屈強な武等派みたいに思っているようだが、圭三は武術も逮捕術も苦手で、しかも経済犯罪の部署にいる。だからと言って、事件の関係者から事情聴取もしないで見逃すことなど出来る筈がない。そんなことはわかっているが、女子学生の強い波動には逆らえないものを感じた。
また、始末書の数が増えるが、やむを得ないと覚悟した。圭三のような軟弱な男が刑事として捜査課にいられるのは、その独特の分析力によるものだが、組織の中では浮いた存在でしかないことを自分でもわかっていた。圭三の父親は公認会計士事務所をやっていて、県内では大手の会計事務所として認められている。長兄は父の事務所の副所長をし、次兄は東京に出て会計事務所を構えている。三男の圭三だけが、全く畑違いの警察官になった。黒岩の家にいる限り、公認会計士の資格を取ることは当たり前のことだから、兄たちに負けないように圭三も勉強をして資格だけは取った。大学を卒業したら、東京にいる次兄の会計事務所に勤めることが家族で決められていたようだが、圭三は公務員試験を受けて警察官になったのである。確かに大騒動にはなったが、今では圭三に期待する空気は無くなった。
組織の中で、惰性で生きているような自分に不快感がある。会計という数字の世界に馴染めなかったから警察官になった筈なのに、数字を分析することを仕事にしている。情熱も希望も失くしている自分が許せていない。友達には「いつまで青春やる気なんだ」と言われる。「結婚して、子供ができれば変わるさ」とも言われる。だけど、自分が生きていないという感覚は拭いきれない。それなのに、あの女子学生は鮮烈とも言える生命力を自分の目の前で展開して見せた。あれは、若さだけではなかった。事情聴取は警察の業務であり、市民には協力する義務があると声高に言える空気はなかった。
女子学生が三沢病院で見かけた女だということは、あの場でわかった。診察室で奈良岡医師と面談していたが、そのまま帰った様子からみて、患者ではなく面会者だったのだろう。市内まで送っていってやろうかと思って車を止めたが、空気が遮断されていて声もかけなかった。その時も、どこか不思議な体験をしたという印象が強い。事情聴取という警察業務のためではなく、得体のしれないものを解明したいという気持ちの方が強い。今は、圭三の心を鷲掴みにしている女子学生に主導権を渡してもいいと思っていた。それは、男女間にある一目ぼれという感情とは少し違う。生き様に対する憧れのような感情だった。確かに美人だし、目力もあったが、女の部分は感じなかったからかもしれない。大学何年生かは知らないが、少なくとも圭三とは十歳以上の年齢差があると思うのに、そんなことは意識にもなかった。
「ほんとに、待ってたんですか」
「仕事ですから」
「授業は、まだまだ、ありますけど」
「ええ。待ちますよ」
「いいんですか」
「良くはないけど、待ちます」
「すみません」
「次の教室は、どこですか」
「あの建物です」
「わかりました。待ってますから」
「はい」
「あの」
「・・・」
「三沢病院で会いましたよね」
「あっ」
「僕の友人の主治医も奈良岡先生なんです」
「友人」
「ええ。ああ、僕は黒岩圭三といいます。あなたは」
「成瀬です。成瀬真衣」
「そうですか。成瀬さんですね」
「はい」
「学部は」
「医学部です」
「なるほど。大変だと聞いた事があります」
「教室に行っても、いいですか」
「ええ」
午前の授業が終わり、真衣の後ろについて圭三は食堂に入った。学食はどこの大学でも独特の雰囲気がある。懐かしいと思った。成瀬と名乗った女子学生と同じカレーをトレーにのせて、二人は無言で壁際の席に座った。
「私、本を読んでもいいですか。予習したいので」
「ええ。邪魔はしません」
「はい」
本を取り出したとたんに、女子学生の周りは別世界になった。同じテーブルで同じカレーを食べているのに、世界は遮断されている。圭三はとことん付き合ってみようと思った。スプーンを口に運びながら、遠慮なく女子学生を観察した。ショートカットの髪形は決して似合っているとは思えないが、あまり気にならないタイプなのだろう。一番特徴的なのは、睫毛の長さだと思った。特に下を向いて本を読んでいるので、その長さが意識される。鼻は標準的。大きくも小さくもない。口も同じだ。小顔の中で顔の造作はバランスが取れている。違和感があるとすれば、やはり睫毛だろう。大口を開けてカレーを食べている。周囲のことに全く無頓着。目の前にいる圭三も、この女にはテーブルの一部に見えているのかもしれない。それにしても、この存在感は何なのだろう。つい、数時間前に刃物を押し付けられていた人間には見えない。事件に遭遇したという残滓も無い。普通のジーパンにTシャツとジャンパー。時計はしているが、装飾品は一切ない。靴もスニーカーだ。学生だからそれでいいのだが、T大の女子学生でも多少のおしゃれはしている。身長は高い方ではないが、均整はとれていて、標準より足の長さは長く見える。どこから見ても、男から意識される容姿の持ち主である事は間違いがないが、そのことを意識しているとは思えない。

駅前の現場で警察バッジを提示しているのだから、人質になった女を追いかけていったのが警察官だということはわかっているだろう。あの場にいた二人の制服警官が圭三のことを知っている確率は小さいが、調べれば時間の問題で判明するだろう。圭三はそれを承知で携帯の電源を切っている。中央署の刑事は怒り狂っているだろう。人質の調書はとれないし、犯人に噛みついた女の情報もない。女を追いかけた刑事の携帯も通じないでは、ただでは済まないと覚悟しなければならない。それなのに、今では、圭三は女子学生を守る立場の自分に納得していた。
「すみません。無理言って」
「終わりましたか」
「はい」
既に四時を回っていた。
「多分、乱暴なことを言われると思います。勘弁してやってください」
「はい。わかっています」
圭三はタクシーを奮発して中央署に向かった。

圭三は一階のカウンターで事情を説明した。署内でも音信不通になっている警察官の話は出ていたのだろう。すぐに、階段を駆け下りてきた刑事が怒りの表情で睨みつけてきた。
「あんた、黒岩さん」
「はい」
「何、考えてるの。本部の人間だったら、何やってもいいと思ってるのか」
「いえ」
「あんたの事情聴取もさせてもらう。二人とも上にあがってくれ」
後から降りてきた刑事を入れて五人の刑事に取り囲まれて、二人は階段を昇った。成瀬真衣は驚いた様子もなく、平然と歩を進めた。頭を下げていたのは圭三だけだった。

取調室に入れられた真衣は、別の部屋に連れて行かれた黒岩刑事のことが心配だった。警察官としては気の弱そうな人に見えたが、これだけ他の警察官の怒りを買う事を知っていて、授業に出る事を認めてくれたのだから、気弱な警察官ではないのだろう。真衣は、普通の人たちよりも警察官との接触が多かった。だが、黒岩には同じ臭いがしなかった。
「お譲ちゃん。あんた、大学生」
「はい」
「だったら、市民の義務ぐらい、わかるよね」
「はい」
「何で、逃げたの」
「逃げたわけではありません。こうして、来てます」
「はっ。よく、言うよ」
「・・・」
「すぐに、協力しようとは、思わなかった」
「誰にでも、譲れないものはあります」
「譲れないものって、なに」
「私の場合は、学校の授業です。学生ですから」
「あんた、警察をなめとんのか」
「いいえ」
「名前」
「成瀬です」
「成瀬、何」
「成瀬真衣です」
「字」
「成功の成、浅瀬の瀬、真実の真、衣です」
「住所」
「○○市相生町28です」
「ちょっと、待て」
刑事は後ろで調書に記入している若い刑事から書類を取り上げた。
「池田を呼んで来い」
「はい」
暫くして、別の刑事が入ってきた。
「話を聞いて、調書を作っておいてくれ。まだ、帰すなよ」
「はい。新藤さんは」
「俺は、別件だ。進めておいてくれ」
「はい」

新藤刑事は部屋を出ると、別の取調室に入って携帯を取り出した。
「西崎」
「おう、新藤だ」
「どうした」
「お前、あの銀行テロの女子高生の知り合いだったよな」
「ああ」
「名前は」
「名前」
「その子の名前だ」
「成瀬真衣」
「やっぱり」
「成瀬真衣が、どうかしたのか」
「ああ、今、取調室にいる」
「なんで」
「今朝、駅前でシャブ中が暴れた事件、聞いてるか」
「噂程度に、な」
「男の腕に噛みついて、逮捕のきっかけを作ったのが成瀬真衣だ」
「またか。でも、なんでこんな時間にそこにいるんだ」
「本部の若いのが、追いかけたんだが、出頭してきたのがさっきだ。学校の授業が優先らしい。黒岩というバカが一緒だったと思う」
「で」
「マスコミが騒ぐぞ」
「ああ、ありうるな」
「有名人になったら、あの銀行での発砲も表に出るかもしれん。警察が偽情報を流したと問題にならないか」
「ああ。やばいな」
「お前の方からも根回ししろ。俺もこっちでやる。本部には、うちから話する。そっちの署長からも話を上げろ。お前のところの署長はこんな時しか役に立たんがな」
「わかった。この件は、一点借りだ」
「馬鹿野郎。十点の貸しだ」
「わかった」
「段取りついたら、引き取りに来い」
「わかった」
新藤刑事と西崎刑事は警察学校の同期で、その後も女房へのアリバイ工作などで協力し合う仲間でもあった。
新藤は別室の黒岩刑事の聴取に顔を出した。
「どうだ」
調書を取り上げて読んだ。
「これだけか」
「はい」
「黒岩さんよ、あんた、わかってんのか。始末書ぐらいでは済まんぞ」
「はい」
「何でだ。何で、そこまでする」
「すみません」
「市民の権利じゃ、警察は成り立たないことぐらい、わかるだろ」
「・・・」
「もういい。適当で、帰ってもらえ。本部に落としまえはつけてもらう」
「はい」

何度も同じ事を聞かれ、何度も答えた。警察の取り調べは初めてではない。自分の我を通したということもあり、真衣は最初から腹を据えていた。
もう少し待て、と言って刑事が出て行ってからでも一時間以上は経っているが、取調室に一人で待たされたままだった。やはり、黒岩の事が気になった。
ドアが開いて、部屋に入ってきたのは西崎だった。
「おじさん」
「よお」
「どうして」
「最初にガラの悪い刑事がいただろ」
「うん」
「おじさんの友達。本当は気のいいやつなんだ」
「うん」
「真衣ちゃんの名前が出ると、マスコミの餌食になると電話してくれた」
「・・・」
「ヒロインになんか、なりたくないだろ」
「うん」
「今、本部と交渉中だ」
「うん」
「未成年とか、個人情報とかで匿名にするように頼んでる」
「ごめんなさい」
「真衣ちゃんは悪くない。でも、世間は騒ぎたがる。困ったもんだ」
「あの刑事さんは」
「黒岩刑事か」
「うん。私のために、困ったことにならないの」
「多少は、なる。そんなこと、承知の上でやったようだぞ」
「でも」
「それよりも、帽子持ってるか」
「帽子」
「それと、メガネ。マスクは店にあるだろう。野次馬がいただろう。真衣ちゃんの顔を憶えていてマスコミに通報する奴がいるかもしれん。しばらくは、顔を隠しておいた方がいい。おじさんは有名人になったことないけど、マスコミの攻撃は半端じゃないらしいぞ。勉強なんかさせてもらえないと思うよ」
「はい」
「ああ、それと、孝子には電話しといた」
「はい。すみません」
「そろそろ、帰るか」
「あの刑事さんに会えないのかな。お礼を、言いたい」
「黒岩刑事は帰った」
「そう」
西崎が立ち上がった。
「おじさん」
立ち上がった真衣は西崎に深々と頭を下げた。
「ごめんなさい」
「・・・」
「いつも、おじさんに迷惑かけてる」
「真衣ちゃんが悪いわけじゃない」
「でも、最後はおじさんに助けてもらってる。私、何もできないのに」
「気にするな。真衣ちゃんが医者になったら、助けてもらうよ」

黒岩圭三は県警本部に行って、始末書を書いて課長に提出した。懲戒処分を受けてもいいと思っていたが、課長は始末書を書けと言ってくれた。自分の行動に後悔はないが、組織の中では個人の気持ちなど関係無い。最初、中央署の聴取は厳しいものだったが、途中でやってきた刑事が西警察署の西崎だと名乗って事情を聞かれた頃から突然空気が変わった。取調室から人がいなくなり、放置されていたが、訳がわからないまま、本部に戻れと言われた。何かが動いているような気配があったが、それが何なのかわからない。あの成瀬という女子大生に何か事情があるような感触があったが、誰も教えてはくれなかった。課長も「さあな」と言うだけで、その話を打ち切った。圭三の気持ちの中では「一件落着」になっていない。
二週間後、圭三は西警察の西崎を訪ねた。
場所がないということで、取調室に案内された。勿論、非番ではあるし捜査でもなく、個人の用件なので会ってくれるだけで感謝している。
「非番なのか」
「はい。無理言ってすみません」
「何が知りたい」
「あの成瀬という人の事です」
「どうして、すぐに署に連れて行かなかった」
「出来ませんでした。西崎さんなら、どうしてました」
「俺」
「聞かせてください。西崎さんは彼女の事、知っているんですよね」
「その質問には、ノーコメントだ」
「では、彼女の名前が報道されなかったのは、どうしてですか。犯人逮捕に協力したんですから本部長賞でもおかしくないですよね」
「それも、ノーコメント」
「彼女は、何者なんです」
「ただの女子大生」
「西崎さん」
「どうして、そんなに気になるんだ」
「あの空気です。オーラというか何というか。どこか、とても危険な臭いもします。刑事が職質をかけそうなものを持ってます。放っておいては危険だと思うんです」
「一目惚れってことか」
「そんなんじゃありません。うまく言えませんが、誰かが守らなくてはいけないもの。変ですか」
「まあ、それは言える」
「彼女と一緒にカレーを食べました。向かい合って、ですよ。彼女には僕の存在はテーブルの一部くらいにしか見えていません。男とか女とかの問題じゃありません」
「わかる」
「三沢病院で見かけました。誰か入院してるんですか。これも、ノーコメントですか」
「まあな」
「西崎さん。僕も刑事です。二課ですけど。自分の足で調べようと思えば調べられます。でも、それは彼女のためにならないような気がするんです。踏んではいけないものを踏んでしまう危険はありませんか」
「んんん」
「わかりました。何かがあることは。やはり、自分で調べます」
「黒岩君だったね」
「はい」
「あの子の事は、忘れてもらえないか」
「それが出来ないから、ここに来たんです」
「わかってる。そこを曲げて、忘れて欲しい」
「すみません。それはできません」
「どうして、そこまで拘る」
「わかりません。ただ、僕自身の生き方にも影響があるように感じているんです。勿論、一目惚れとか、恋愛とかじゃありませんよ。全然別の事なんですが、うまく説明できません」
「少し、時間をくれないか」
「時間」
「これは、世間話じゃない。個人の人権にも影響する。黒岩君が警察官でなければ、無視するような質問だと思わないか」
「はい」
「自分で調べます、と脅しをかけられたら、俺にも考える時間がいる」
「脅してなんかいませんよ」
「いや、立派な恐喝だろ。それに、黒岩君にも時間が必要だと思う」
「僕、ですか」
「うまく説明できない、と言った。先ず、自分の気持ちを知ることが先だろ。あの子の事に拘る黒岩君の気持ちに納得できれば、話をしてもいいのかもしれない。俺の言う事、間違ってるか」
「いえ。すみません。僕が強引でした。西崎さん言う通りです。自分の気持ちを整理してから、出直します」
「悪いな」
「とんでもありません。反省します」
圭三は西警察署を出た。西崎が何も答えなかったことが答えだった。あの成瀬という女子大生には何らかの事情がある。ただ、西崎の言う通り、圭三自身の行動が不可解ととられても仕方がないと自分でも気がついた。先ず、自分がなぜあの女子大生のことに固執しているのか、自分自身にもそれをはっきりさせなくてはならない。漠然とではあるが、気になる。それも、かなり強く気になる。だが、それは自分でも恋愛感情とは別物だと思える。子供を守る親の気持ちは、こんな感情なのかもしれない。守らなければならないという気持ちが一番強いように感じている。これでは、まるでストーカーだと思われるだろう。それなら、一目惚れと言った方がまともに受け入れられる。確かに、変だ。
圭三の家では会社の発展と利益の追求が最大の目標だった。圭三を除き、父親と二人の兄はその目標に向け全力で努力している。そのことが悪い事だとは思っていないが、圭三はその目標には乗りきれなかった。せっかくの人生なのだから、何かの役に立ちたかった。警察官になったのも、その気持ちが強かった。裕福な家庭に育った苦労知らずの青二才だと長兄に非難された。反論はできなかったが、反旗は挙げた。独身寮に入り、もう何年も実家には戻っていない。交番勤務の時は、それなりに社会に貢献している実感があったが、捜査課に配属されてからは何かが違うという意識に満たされていた。自分の人生を生きていないという鬱々とした気持ちが膨れていることに原因があるのだろうか。あの女子大生は羽交い絞めにされ、刃物を突き付けられていたのに大学の授業が最優先だった。あの鮮烈な印象は自分の人生を真剣に考えている空気が生んだものだろうか。わからないが、自分が卑小な生き物に思えたのは確かだった。
考えながら歩いていて、気がつくと駅に来ていた。切符を買って改札を通ろうとしたが、駅員と男が口論をしていた。それは、口論ではなく男が平謝りに謝っている。横にいる中学生ぐらいの男子が横を向いて不貞腐れていた。どうやら、無賃乗車をしたのはその子供で、謝っているのは関係者のようだが、親子ではないらしい。圭三はしばらく耳を傾けた。子供は養護施設の子供で、男は児童相談所の職員らしい。何度も頭を下げている男は痩せて背が高いので動作が大きく見える。駅員はもてあまし気味だった。男は料金を支払い、男子に頭を下げさせて駅事務所から出てきた。
「このことは、誰にも言わないけど、これで最後にしてくれよ」
男子は小さく頭をさげて、駈け出して行った。男の目が心配そうにその後ろ姿を追った。
男がホームへと歩き始めたので、圭三は後を追った。
「すみません。児童相談所の方ですか」
「はい」
圭三は名刺を出して男に渡した。
「警察」
「いえ、職務ではありません。非番ですから」
「何か」
「あの子とは、知り合いですか」
「ええ、まあ」
「あなたの、態度が、とても立派だったので、つい、声をかけてしまいました。何でもないんです」
「そうですか」
男は圭三に名刺を差し出した。児童相談所の園田支所、荒木田哲治と書かれていた。
「児童相談所に支所なんて、あったんですね」
「ええ、県内に一カ所ですが、もっと増やして欲しいですね」
「大変ですか」
「ええ。一般の方が想像するより、はるかに酷い状況です」
「何が問題なんでしょう」
「ありきたりですが、何もかも、ですね。親も地域も行政も国も、全部問題です」
「そうですか」
電車が到着し、二人は電車に乗り込んだ。昼間の時間なので電車には数えるほどの乗客しかいなかった。
「何が必要、ですか」
「そうですね、先ず予算ですかね。次に人員でしょう。大変な仕事ですからね」
「親は」
「ここまで社会が壊れたら、親には期待できないでしょう。救われない子供たちが大勢いますよ。自分の力不足を思い知らされます」
「あなたのせいでは、ないでしょう」
「そうであれば、いいんですが。仕事が忙しい事より、壊れていく子供たちが多い事の方がこたえます」
「辛い仕事ですね」
「まさか、辛いのは子供たちで、私たちがそんなこと言えば、子供に笑われます」
「そうですか」
「あなたも、警察官だから、いろいろなことにぶつかるでしょう」
「ええ、でも、僕は経済犯の部署ですから、大人が相手です」
「そうですか。経済犯のことはよくわかりませんが、これだけ子供が痛めつけられる社会は、いつか壊れるような気がしますよ」
「時々、児童相談所の対応が問題にされますが、うちの県では、どうなんです」
「まあ、あまり大きな問題にはなってませんが、問題はどこの県でも起きるでしょう。現状に追いつけていないのが問題です。いつ、何が起きても不思議じゃありません」
「そうですか」
電車を降りて荒木田という児童相談所の男とは別れたが、圭三の心は重かった。あの事件で、あの女子大生に出会ってから、圭三は自分の世界が自分の気持ちとは違う方向へ動いていたのではないかと感じている。いや、その事に気付かないふりをしていただけかもしれない。この状況を打開しなければ、ここで立ち止まらなければ、取り返しがつかなくなるのかもしれない。誰の問題でもない。自分自身の問題から逃げているに違いない。
圭三は三沢病院へ向かった。
「あら、今日はどうしたの」
突然の訪問だったが、奈良岡医師は面談に応じてくれた。
「今日は、後藤のことじゃないんです。児童相談所にお知り合いはいませんでしょうか」
「児童相談所。仕事なの」
「いえ。全くプライベートなことなんです」
「いないことはないけど、どうして」
「転職できないかと思っているんです」
「転職」
「すみません。藪から棒で。実は、この前来た時に成瀬真衣という女性に、ここで会いました」
圭三は事件の話と、授業が終わるまで待っていた事、その事で始末書を書いた事を説明し、児童相談所の職員と出逢った事を話した。
「青臭いと言われるでしょうが、僕は、誰かのために仕事をしたいと子供の頃から思っていました。警察に入った動機もそうでした。でも、何かが違うんです。確かに、犯罪捜査は大事な仕事であり、誰かのためになっているのだと思いますが、違うんです。交番勤務に戻してもらおうかと何度も思いました。でも、今日児童相談所の人と出会って、僕の仕事はそこにあるんじゃないかと思ったんです。衝動的というか、思いつきというか。そんな部分がないとは言えませんが、自分の生き方を変えるチャンスなのではないかと」
「そのことと、成瀬真衣さんのこと、関係あるの」
「はい。彼女のあの凛とした態度に触れて、僕は自分がゴミに見えました。もう一つは、確かに彼女は強い意志で生きていますが、とても危ない空気も持っているんです。何をおいても彼女を守らなければいけないと思ったんです。ですから、彼女の家に近い園田支所で働ければ、自分の生き方が変えられると思ったんです。ストーカーじゃありません。純粋に彼女を守りたいだけなんです」
「少し、強引なこと、ない」
「ですよね。自分でも論理的に説明できないと思っています。でも、チャンスって、こういう時のことを言うんじゃないかと思ったんです。偶然、事件に遭遇し、彼女に出会い、今日、児童相談所の人と出会った。動け、と言われているじゃないかと」
「困ったわね。警察を辞めるんでしょう」
「ええ」
「もう少し、考えた方が、よくない」
「そうなんですか」
「断定してる訳じゃないのよ。時間が必要なんじゃないかしら」
「こんな相談されても、困りますよね。僕はここの患者の友人に過ぎません。どうしてか、先生の事が頭に浮かんでしまったんです。すみません」
「そういうことじゃなくて」
「ありがとうございます。話を聞いてくれた事、感謝してます」
「どうするの」
「はい。直接、児童相談所に相談してみます」
「そう、わかったわ」
奈良岡医師はメモ用紙に名前と電話番号を書いて渡した。
「所長さん。一応、電話はしとく。三日後にね」
「いいんですか」
「あなた、止まらないでしょう」
「すみません」
「でも、せめて、二日間だけでも、考えて」
「はい」
「でも、意外な事って、どこでも起きるのね」
「えっ」
「あなたには、何の迷いもないのかと思ってた」
「ええ。無意識に封じ込めてたのかもしれません。成瀬さんと会ったことで、ごまかしが効かなくなったというか、粉みじんに吹き飛ばされたというか、不思議な感覚です。でも、大切にしたいと思っています」
「後藤君に対するあなたの気持ちが少しは理解できたかもしれないわ」
幼友達の後藤正志が三沢病院に入院したのは、大学受験の直前だった。後藤の父親が経営する会社が倒産し、債権者が押し掛け、受験を前にして後藤正志は強い鬱症状の病気になった。両親と弟は債権者から逃れるために夜逃げをしてしまった。それから十二年間、後藤正志は回復すること無く三沢病院に籠っている。生活保護と障害者年金で入院生活は続けられたが、ジュースを飲んだりする小遣いのような金はなかった。圭三は社会人になってから、年に数回病院を訪れ自分の給料から友達の小遣いを置いていくようになった。後藤正志の負担になるからという理由で、そのことは本人には伝えられていない。それが八年も続いている。奈良岡医師がその理由を尋ねても「友達ですから」という返事しか帰ってこない。圭三は不思議な面会者だった。
一週間後に圭三は休暇をとって、児童相談所を訪問した。採用予定はあるが、試験を受けてもらわなくてはならないと言われた。採用されたら園田支所勤務を希望してもいいかと尋ねると、補充要員は園田支所の人員だと言われた。園田支所の荒木田に新しい支所を軌道に乗せるために移動してもらわなければならないようだ。自分の周囲で起きている事が、全て同じ方向に向かっているような気がしている。自分の判断は間違っていないと確信した。
試験に合格し、三か月の研修を終えて、圭三は園田支所に赴任した。荒木田とは二度ほど面談しているので心配はなかった。一年かけて引き継ぎをし、園田支所の仕事は圭三にまかされる計画だった。経験不足は否定できないが、児童相談所も支所にベテランを配置する余裕はなく、中途採用だった荒木田が園田支所を軌道に乗せたこともあって、児童相談所は二匹目のどじょうを狙ったのかもしれない。児童相談所の職員になったことで、成瀬真衣のことも知ることができた。里親である片岡孝子にも会った。圭三は西警察署に西崎を訪ねた。
「驚いたな」
「成瀬真衣は、里子に出てますが児童相談所の子供でもあります。今度は教えてもらえますよね」
「ああ」
西崎は火事の事から話してくれた。銀行での出来事も公式見解ではないがと断って話してくれた。
「そうですか。ありえないことですよね。誰かが守らなければ」
「あんたが、あの子を守らなくてはならないと言った時、びっくりした。俺もそう思ってたんだ。俺に出来ることは、それほど多くはないけど、そう思ってた。孝子には、里親の片岡孝子はガキの頃からの友達でな、お祓いに行けと何度も言ったことがある」
「ええ」
「これだけ重なると、他人の事とは思えない。俺には子供がいないけど、自分の子供みたいに思ってる。心強い味方ができた。俺からも頼む。あの子を守ってやってくれ」
「はい」
「まだ、一目惚れじゃないのか」
「多分、違います」
「残念だな。二人が一緒になってくれたら、安心なのに」
「そうですね。それもいいかもしれません」


10

真衣は店を通って帰るようにしていた。
「ただいま」
そうやって声をかけると、おばあちゃんの喜ぶ顔が見れる。店の手伝いができなくなって、少し寂しい。銀行の事件があってから、おばあちゃんは真衣に店の手伝いをさせてくれなくなった。孝子母から聞いた話では、おばあちゃんのショックは酷かったらしい。おばあちゃんの責任でも何でもないのに、銀行へ真衣を行かせた事が許せなかったらしい。時間が許す範囲ではあったが、できるだけおばあちゃんと接するようにしている。
お客さんがいるのに、おばあちゃんは満面の笑みを返してきた。ドアを開けて家の土間に入ると、食堂に電気がついていて孝子母と男の人が話をしている。児童相談所に新しい人が来たと聞いているが、その人かもしれないと思った。
「ただいま」
「お帰り」
「あっ」
「お邪魔してます」
「黒岩さん」
「久しぶりです」
「知ってたの」
「あの駅前の事件の時の、刑事さん」
「えっ」
「もう、元刑事です」
児童相談所に来た人の名前が黒岩だということは聞いていたが、同じ人だとは思わなかった。
「どういうこと」
「別に隠してた訳じゃありません。僕は偶然園田駅で荒木田さんに会って、荒木田さんの話を聞いて、自分の仕事はこれだと思ったんです。それに、僕はあの時、警察官として正しい事をしたんじゃなくて、僕の失敗談ですから、話をするようなことでもありませんし」
「真衣は、あなたに感謝してたのよ」
「とんでもありません」
「私、黒岩さんに、礼も言えなかった。ごめんなさい」
真衣は深々と頭を下げた。
「やめてくださいよ。僕の中では失敗談なんですから」
「でも、驚いたわね、あの黒岩さんが、この黒岩さんだったなんて。真衣から名前は聞いてたのに、びっくり」
「黒岩さんに会ったら、ほんとは会いに行くべきだったんだけど、どうして授業に出る事を認めてくれたのか聞きたかった。どうしてなんですか」
「僕にも、それは謎なんです。なんで、あんな失敗をしたのか」
「いいじゃない、もう、この人、警察官じゃないし」
「そうですよ」
「でも、ありがとうございました。あの事で辞めたんですか」
「違いますよ。あれは始末書一枚で決着です。刑事はよく書くんです。始末書」
「ごめんなさい」
「違いますって」
黒岩は慌てて帰って行った。
「狭いのね」
「ほんと。でも、あの人に会えてよかった。お礼を言ってなかったし」
「そうね」
「また、何か問題あるの」
「うん。うちのクラスの子が、虐待に遭ってるかもしれないの」
「そう」
孝子母はいつも誰かの問題を抱えている。でも、一時も休む暇なく走り回っている。その人生では、小学校の先生以外の選択肢はなかったのだろう。孝子母のそのエネルギーは多くの子供たちの力になっている。真衣も救われた子供の一人だった。

孝子は西崎の携帯に電話を入れた。
「おう、久しぶり」
「今、忙しい」
「まあな」
「時間ができたら、電話もらえる」
「何か、あったのか」
「ううん、大したことじゃないと思う」
「そういう言い方、よくないぞ」
「うん。会った時、話すから」
「わかった。今、どこだ」
「駐車場」
「ここのか」
「うん」
「お前、な」
「ごめん」
「待ってろ。今行くから」
五分も経たずに西崎がやってきた。
「ごめんね。忙しいのに」
「何があった。真衣ちゃんに何かあったのか」
「ううん。そうじゃないけど」
「そうか。じゃあ、大事件じゃないな」
「そうだね」
「で」
「黒岩さんのことなんだけど」
「相談所に来た黒岩か」
「そう。どうして、警察を辞めたの」
「どうして」
「真衣の事で辞めさせられたの」
「違うだろ」
「そう。真衣が気にしてたから、一寸、気になって」
「会ったのか、二人は」
「うん。何か、黒岩さんもぎこちなかったし、私も変に気になって」
「そうか」
「ごめんね、時間とって」
「ああ」
話は終わった筈なのに西崎は車を出ようとはしなかった。
「西崎君」
「あの事件で辞めた訳じゃない」
「やっぱり、何かあるのね」
「別に口止めされてる訳じゃないけど、真衣ちゃんがからんでないこともない」
「どういうこと」
「俺にも、よくわからん」
「何が」
「黒岩の言う事が」
「・・・」
「あの事件の後、俺の所へ来た。成瀬真衣について教えてくれと言って」
「で」
「同じ警察官でも、事件に直接関係していないと思ったから、話さなかった。個人情報だからな」
「うん」
「あいつは、真衣ちゃんを守りたいと言うんだ」
「・・・」
「だから、一目惚れか、と聞いてみた」
「うん」
「違うらしい。誰かが守らなければ、あの子は、また事件に巻き込まれると思っている。だから、自分が守ると言うんだ。確かに、あの子は事件に巻き込まれ過ぎている。お前にも、お祓いに行けと言ったことがあるよな」
「うん」
「その後は、何も言ってこなかったから、もう終わったことだと思ってんだが、児童相談所の黒岩ですと言って、ここへ来た」
「うん」
「荒木田さんにも話を聞いたみたいだけど、あの子は里子だから、児童相談所の人間であり、自分には知る権利があるみたいな事を言うから、一応、喋った」
「うん」
「真衣ちゃんを守るために、あの園田支所に来たらしい。でも、あくまでも、男と女の問題じゃないと言ってた。だから、わからねえ。意味不明だ」
「そう、そんなことがあったの」
「あいつは、ちょっと変わりもんじゃないのか」
「そうは見えないけど」
「だよな。本部でも結構優秀だったらしい。俺達とは少し毛色が違う刑事だけど、分析力があったと聞いた。だいぶ、引きとめられたらしい」
「そう」
「変だろ。初めて会った女の子を守るんだと言って、退職なんかするか。俺にはわからん。俺が歳とっただけなんかな」
「うん」
「おい。うん、だけかよ」
「そういう意味じゃない、私にも、わからない」
「お前も、歳か」
「まさか」
孝子は割り切れない気持ちを持ったまま西警察署を後にした。一度黒岩本人に聞いてみたいが、何と切り出せばいいのか見当もつかない。真衣が異性を異性として捉えている様子がないことは容易に想像できた。真衣にとって黒岩は親切な刑事さんに過ぎないのだろう。黒岩が真衣に好意を持っているとしても、孝子には何もできない。逆に黒岩が異性としての感情を持っている方が話しは面倒かもしれない。真衣が自分から話をする男性は、孝子が知っている限りでは西崎しかいない。西崎は真衣の事を自分の子供だと思っている節があるが、真衣にとっては頼りになる警察官のおじさんなのだろう。成り行きに任せるしかないと思うことにした。

少し遅くなったが、まだ明るさは残っていた。真衣は小走りで家に向かった。カラオケハウスは撤去されて空き地になっているが、どうしても走ってしまう。医学生のくせに記憶が脳だけにあるということを信じていない。
「ただいま」
「おかえり」
客がいないので、おばあちゃんがついてきた。
「まだ、孝子は帰っていないんだよ」
「そうみたいね」
食堂には人気がなかった。
「ごはん、食べるだろ」
「ううん、おかあさんが帰るまで待ってる」
「そうかい」
真衣は二階の自分の部屋に向かった。読みたい本はいくらでもあり、調べたいことも山ほどある。まだ先の話だが、卒業する時は一番で卒業したい。それが当面の目標だった。
八時を過ぎた頃に、孝子母の車が戻ってきた。今日は久しぶりに三人で食事が出来そうだ。真衣も本を閉じて部屋を出た。食堂に行くと、孝子母が二人の女の子を連れて入ってきた。
「真衣。ぞうきん、持ってきて」
「はい」
真衣の持ってきたぞうきんで二人の子供の足を拭いた孝子母の顔が悲しそうに見えた。
シャッターを閉めたおばあちゃんが食堂に来たが、二人の子供のことは何も言わなかった。
「ごはんにするね」
おばあちゃんと真衣が食事の用意をし、孝子母は二人の子供に話しかけているが、子供たちの声はなかった。虐待の可能性がある子供のことを話していたから、姉の方が二年生で、妹はまだ幼稚園児だろう。真衣は小さい頃の自分を思い出していた。小さい子供を見ると、どうしても心拍数が増えてしまう。真衣と真樹にもあんな年頃があった。そして、いつもお腹が減っていた。
「さあ、食べなさい。食べたら送って行くから」
二人の子供は無言で食べた。子供たちは無我夢中だった。三人の大人は茫然と子供たちの様子を見るだけだった。真衣は目頭が熱くなり、涙線と戦った。
妹の方は瞼が落ちていくのを堪えて食べていたが、箸の動きも鈍くなり、食べながら眠ってしまった。姉が立ち上がって妹の体を揺すったが妹の反応はない。
「いいわよ。食べてなさい」
孝子母が妹の体を抱き上げて、ソファーの上に移した。妹は苦しみなど何も知らないようなあどけない顔で寝入ってしまった。
姉の方も箸を置いた。
「もう、いいの」
姉は大きく頷いて、複雑な目で孝子母を見て、「ごちそうさま」と小さな声を出した。
「はい」
椅子を降りた姉は、妹の頭の横に座り妹の体に手を置いた。真衣にも憶えがある。妹を守るのは自分の役目だと信じ切っている表情だ。小学二年生の表情ではない。子供たちの向こうにある苦界が見えるようで、三人は無言で箸を動かした。
気がつくと、姉の方もソファーの背に頭を預けて眠っていた。
「よっぽど、疲れたんだね」
孝子母の話によれば、暗い国道を裸足の二人が歩いていて、連れて帰ってきたらしい。
「家に連れて行っていいのかい」
おばぁちゃんも、事情は知らないが想像するだけの体験はある。
「相談所には電話した。荒木田さんも、黒岩さんもいないの。親に連絡もしないでここに置いとく訳にもいかないし」
その時、孝子母の携帯が鳴った。
「はい」
「黒岩です」
孝子母は事情を説明した。
「わかりました。親には僕から電話入れます。あと一時間ほどで園田に戻れますので、一緒に行っていただけますか」
「わかりました。あまり遅くなってもいけないから、子供たちの家で落ちあいましょう」
「はい。下で待っててくれますか。何かあるといけませんから」
「わかったわ」

孝子母が姉をおぶり、真衣が妹をおぶって市営第二団地の下に来た。子供たちの部屋は三階にある。
「もう、来ると思うから、少しずつ階段を上っておこうか」
「うん」
階段を昇り始めると、姉が目を覚まして、歩くと言いだした。車の音がして、孝子母の車の後ろに黒岩の車が停まるのが見えた。孝子母は二階の踊り場から黒岩に手を振っておいて、姉の手を引いて階段を昇った。妹は全く起きる気配もなく真衣の背中で熟睡しているようだ。
三階の子供たちの部屋の前まで来ると、ドアが開いて暗い表情の女が出てきた。
後ろから見ていても姉の体に緊張が走っているのがわかる。
「湯浅さん。担任の片岡です。相談所から電話ありましたよね」
無言で手を出した母親の手を姉が恐る恐る握る。
その時、ドアを大きく開けて男が出てきた。
「相談所に連絡したのは、あんたか」
「そうです」
「余計な事、しやがって」
「あなたは」
子供たちの家は母子家庭の筈で、孝子母も男の存在は予想していなかった。
母親がしゃがみ込んで、姉の体を抱きしめた。暴力を振っているのは男の方らしい。男の右手には包丁が見えた。ドアを挟んで孝子母と真衣は右と左に分かれていたので、孝子母が真衣の方へ動くのと、階段を駆け上がってきた黒岩が真衣の前に飛び出すのが同時だったが、男の包丁は黒岩の腹部に突き刺さった。そこにいた全員の動きが一瞬止まった。最初に動いたのは刺した男で、真衣達を突き飛ばして階段を駆け下りていった。
「お母さん。救急車。おかあさん」
黒岩は両膝を折り、その場に蹲った。
「おかあさん」
携帯のボタンを押す孝子母の手が震えているのが、真衣にも見えた。真衣は背中の妹を母親に渡して、黒岩の体に屈みこんだ。
「黒岩さん」
「だいじょうぶ」
「すぐに、救急車きますからね」
真衣は、孝子母の手から携帯電話を取り上げ、消防署員に場所と怪我の状態を話し、警察にも電話を入れた。
孝子母が黒岩の体を揺すっている。
「お母さん。動かしちゃ駄目。おかあさん」
真衣は孝子の体を黒岩から離した。
「子供たちを、部屋に」
子供たちに見せたい場面ではない。孝子はコンクリートの床に座り込んで茫然としている。
「黒岩さん。動かないように。大丈夫ですからね」
黒岩が真衣の方を向いて笑ったように見えた。救急車が来るまでの時間が恐ろしいほど長いことに気がついた。
サイレンが近づき、真衣は三階の手すりから身を乗り出して、救急車に大きく手を振った。
「お母さん。私、黒岩さんについて病院に行く。警察が来るから、お母さんは事情を説明して」
孝子が頷いた。
「お母さん。大丈夫だから」
「わかった」
黒岩が飛び出してこなかったら、真衣が刺されていた。まだ、死神がついている。黒岩を死なせる訳にはいかない。でも、真衣にできることは祈ることしかなかった。

中央病院の外科手術室の廊下で、真衣は待っていた。包丁はかなり深く刺さっていたので、内臓に損傷があると、重症になる。そんなことにはなって欲しくなかった。
当直の医師は外科の医師ではなかったのだろう。手術が始まるまで少し時間があったように感じた。周囲が静かになり、手術の緊張感がドアの外へも伝わってきた。
暫くして、病院に西崎が来た。
「どうだ」
「手術中。お母さんは」
「今、署で話を聞いてる。あんな孝子を見るのは初めてだ。かなり、ショックだったんだな」
「そう」
「どんな、様子だ」
「まだ、わからない」
「そうか」
「あの男は」
「手配中だ。すぐに捕まるだろう」
「黒岩さんの家族には」
「まだだ。荒木田さんを捜してる。家族の連絡先がわからない」
「そう」
「大丈夫。警察の方から、連絡するから」
「うん」
「念のために、真衣ちゃんからも話してくれるか」
真衣は孝子母が子供たちを連れて帰ってきた時からの話をした。
「あっ、と言う間で。黒岩さんのお腹に包丁が刺さってるのが見えて、刺されたんだとわかった」
「うん」
「おじさん。私のせいかな」
「まさか」
「自分が刺されるのも怖いけど、他の人が刺されるのも、怖い」
「ああ」
「黒岩さん。死んだりしないよね」
「大丈夫。人間、腹、刺されたぐらいでは死なない」
「そうだよね」
やっと手術が終わり、担当の医師が二人の前に来た。
「ご家族の方」
「いえ」
西崎が警察バッジを見せた。
「この人は、現場に居合わせた人です。で、どうです。黒岩君は」
「大丈夫です。内臓の損傷はありませんでした。ただの刺し傷ですから、問題ありません」
「そうですか。包丁を後で鑑識がきますので渡してください」
「はい」
「まだ、麻酔が効いてますよね」
「ええ」
「この子を置いていきますので、よろしくお願いします。家族にも連絡しますから」
「わかりました」
「真衣ちゃん。しばらく、ついててやってくれるか」
「はい」
西崎は携帯で連絡しながら、病院を出ていった。
「最初は、個室の方がいいでしょう」
「はい。お願いします」
ICUに入る必要もないのだと思うと、気持ちが少し楽になった。

病室に入り、看護士が部屋から出ていくと、部屋の中が急に静かになった。黒岩は穏やかな顔だし、呼吸も安定している。突然、黒岩が自分の前に飛び出してきて、真衣に向けた包丁が黒岩の体で見えなくなった。黒岩が倒れて、刺された事を知った時は全身に恐怖が走ったが、すぐに「助けなくては」と思った。医師はただの刺し傷だと言ったが、刺された本人は痛かっただろうし、怖かっただろう。真衣には、何故か、黒岩が身代わりになってくれたという想いが強い。
二時間ほどして、孝子と西崎がやってきた。
「どうだ」
「眠ってる」
「家族には連絡したから、もう来るだろう」
「うん。おかあさん、大丈夫」
「うん。びっくりしちゃって。ごめんね。あんなの、初めてだから」
「私、慣れてても、びっくり」
「そうよね。びっくり、よね」
「あの男、逮捕したから」
「そう」
二人は団地まで車を取りに行くと言って出ていった。西崎に子供たちの様子を聞かなかったが、あの二人はどうしたのだろう。怪我をした黒岩が痛い思いをしただけではない。子供たちは、あの犯人のせいで怖い想いをしていたのだ。いつでも、そうだ。男たちは卑怯者だと思う。子供には暴力をふるい、食べ物を与えず、自分は酒を飲む。あの犯人も酒の臭いがしていた。思い通りにならないことや、嫌なことは、誰にだってある。でも、それを子供に向けても何も解決しないのに。
病室では何もすることがなかった。黒岩の寝顔を見ながら、真樹の事を想った。真樹は、ずっと真衣の中で生きている。自分が変わっただけではなく、真樹も変わった。真樹の怒った顔は思い出せないが、笑っている真樹の顔は思い出す。何も話しかけてはこないが、いつも真衣に笑顔を見せてくれる。だけど、真衣は真樹の笑顔を思い出すと胸が痛い。怒ってくれた方が楽だとも思う。あの二人の姉妹はどうなるのだろう。
病室のドアが開いて男が一人入ってきた。
「黒岩さん、ですか」
真衣は立ちあがった。
「あなたは」
「事件の時、一緒にいました」
「圭三とは」
「後で説明します。先生にはお話、聞かれましたか」
「いえ」
「看護士さんに、知らせてきます。内臓は痛んでいないと聞きましたが」
「それは、看護士に聞きました。あなたは」
ドアが開いて、孝子と西崎が戻ってきた。
「黒岩さん、ですか」
「そうですが」
「西警察の西崎と言います」
西崎は警察バッジを見せた。
「圭三は」
「あなたは、お兄さん、ですか」
「そうですが」
「事情は、外で話しましょう」
二人が病室を出ていった。
「私、まだ先生がいるかどうか、聞いてくる」
「そう」
「お母さん、大丈夫。そこに座ってて」
「うん。ちょっと、疲れた」
ナースステーションの近くにある談話室で、黒岩の兄と名乗る男と西崎が話をしていた。先生に連絡するという看護士に礼を言って、真衣は病室に戻った。
「あの子たちは」
「母親と三人であの部屋にいる。明日、相談所の荒木田さんがあのお母さんと話をして、その後はどうなるかわからない」
「三人で大丈夫なの」
「・・・」
「あのお母さん、随分疲れてたみたいよ」
「そうね。今晩はうちで預かろうかと言ったんだけど」
「そう」
しばらくして、西崎が一人で戻ってきた。
「あの人は」
「先生と話をしてる。帰ろう」
「えっ」
「話しは、後でする。帰るぞ」
「わかった」
西崎の言い方は、有無を言わせない言い方だった。
孝子の車に三人が乗り込んだ。
「どうしたの」
孝子が心配そうな声で言った。
「どうも、こうもねえ。何なんだ、あの男は」
「だから、どうしたの。西崎君、怒ってる」
「黒岩の兄貴らしいが、まるで、俺たちが刃物で刺したみたいな言い方をしやがる。警察だから、いろんな奴からくそみそに言われることもある。事件が起きれば、誰でも気が立ってるから仕方がないけどな。あんな冷静な顔で言われると、腹が立ってしょうがねえ」
「あの人だって、動顛したんじゃないの」
「最初は、俺もそのつもりで話した。でも、あいつは違う。本気で迷惑だと思ってる。冗談じゃねえ。刺されたのは、仮にも弟だぞ」
「そう」
「やるだけのことは、やった。あの野郎に四の五の言われるこたあねえ」
「そう」
西崎は自分の車に戻り、荒々しく出ていった。
「帰ろう」
「うん」
「西崎君、本気で怒ってたね」
「うん。私も、あのお兄さん、変だと思った」
「何か、言われたの」
「あなたは誰。どんな関係かって聞かれた。普通、弟の容体が心配になると思うの」
「そう」
「黒岩さんって、どこか柔らかいって感じするけど、あのお兄さんは、勝手って感じ」
「嫌な男なんだ」
「うん」
「でも、黒岩さんは、私たちの身代わりになってくれた。西崎君は怒るかもしれないけど、知らん顔はできない。私はお見舞いに行くよ」
「私も」
「男って、面倒だね」
「うん」
「真衣、ごめんね。時間とって、事件に巻き込んで」
「ううん」
「明日、遅刻しないようにしなきゃね」
「うん」

翌日、学校の帰りに病院に寄ることにした。手ぶらで行くのもどうかと思ったが、先ずは様子を見て、必要な物を持っていく方がいいと思った。
病室のドアを開けると、年配の女性と目が遭った。
「失礼します」
「どなた」
「あっ、すみません」
黒岩が本当にすまなそうな声を出した。
「どなたなの」
「虐待にあってた子供の小学校の先生のお譲さん」
「成瀬と言います。黒岩さんには、申し訳ないと思ってます」
「そう」
「あなたのせいじゃ、ありませんよ。刃物を持ってたのはあの男ですから」
「でも」
「じゃあ。私は帰りますからね」
女性は真衣の事を無視して帰り支度を始めた。真衣はドアの所に立ったまま、身を縮めた。
「ほんとに、必要なものはないのね」
「ええ。もう大丈夫ですよ」
「そう。もう、こんな面倒は困りますよ」
「すぐに退院しますから、もう、いいです」
「そう」
女性は真衣に視線を送ることも無く部屋を出ていった。
「不愉快なおもいさせて、すみません」
黒岩がベッドの上で頭を下げた。
「いえ」
「警察から連絡がいったもんだから、無理して来たんです。顔を合わせるのは七年ぶりなんです」
「ええ」
「気にしないでください」
「ええ。何か要る物はありませんか」
「荒木田さんにお願いしました。大丈夫です」
「そうですか」
「あの姉妹がどうなったか、知りませんか」
「いえ。私、学校の帰りに寄ったので、何も聞いていません」
「そうですか。今日、荒木田さんが話をしてくれることになってるそうです」
「ええ。私もそれは聞きました」
「座りませんか」
「はい。痛みます」
「痛いです。麻酔、切れてますから」
真衣はベッドの横の小さな椅子に座った。
「黒岩さんが来てくれなかったら、私が刺されてました。女の子が背中にいましたし、多分、よけきれなかったと思います」
「あれは、あなたや先生の仕事じゃありません。僕の仕事です。間に合ってよかった」
「でも」
「あなたが責任感じることは、まったく、ありませんからね。あの二人を保護してくれて、食事までさせてくれたそうですね」
「ええ」
「西崎さんに聞きました。感謝してます」
「いえ」
「昨日、兄にも会ったそうですね」
「はい」
「西崎さん、怒ってました。あなたにも、失礼な事、言ったんでしょうね」
「いえ、べつに」
「すみません」
真衣は病室を見た。湯呑茶碗が一つあるだけで何もなかった。
「ほんとに、要る物、ないんですか」
「大丈夫です。全部、荒木田さんにお願いしましたから。この茶碗は看護士さんが貸してくれました。先生の教え子だと言ってました」
「自販機で、何か買ってきます」
「そうですか」
「何がいいですか」
「じゃあ、レモンティーをお願いできますか」
「はい」
真衣は病室を出た。紹介されは訳ではないが、あれは母親に違いない。自分の子供が事件に遭遇して、怪我をしているのに何も持ってこなかったのだろうか。それに会話も親子の会話とは感じなかった。母親と男の子の関係はよくわからない。
真衣はレモンティーを捜して一階の自販機まで足を伸ばした。部屋には小さな冷蔵庫があったので、レモンティーを二本とお茶を二本買って戻った。
レモンティーを黒岩に渡して、残りを冷蔵庫に入れた時に、荒木田が紙袋を二つ持ってやってきた。
「遅くなって、ごめん」
「いえ。ありがとうございます」
「それにしても、君の部屋はきれいに片付いていますね。驚きましたよ」
「はあ」
「あっ、真衣さん。来てくれたんですね。大変ご迷惑かけて、申し訳ありません」
荒木田は真衣に頭を下げた。
「とんでも、ありません」
「まだ、先生にもお会いしていない。今夜にもお伺いします」
荒木田の態度は、孝子と真衣に、ほんとに済まない事をしたと思っている事が表情に出ていた。相談所の仕事で、民間人に怪我をされたら立場上困るというだけの計算で言っているのではないことは、真衣にもわかった。
荒木田は、黒岩に荷物を見せながら器用に仕舞いこんでいった。
「どうでした」
「ん。ハウスに行ってもらうことになった」
「そうですか」
「母親も暴行されていたらしい。先ず、母親のケアをしないと。君のおかげで、あの男はしばらく出てこれない。時間はあるよ」
「怪我の功名ですね」
「文字通り、怪我のおかげだ。でも、怪我が大きくなくてよかった」
「あの男、傷害の前科があるみたいです。西崎さんが言ってました」
「そうですか。実刑ですね」
「はい。そうであって欲しいです」
「僕は、事務所に戻らなくちゃ。他に要るものは」
「大丈夫です。ありがとうございました」
荒木田は真衣が出したお茶に手もつけずに病室を出ていった。
「荒木田さんって、すごいですね」
「ええ。僕はあの人と一緒に仕事ができたこと、自分の財産だと思っています」
「荒木田さんのことは、よく母から聞きます」
「あの子供たちが、普通に暮らして欲しいです」
「ええ」
もう、子供たちの心には大きな傷がついている。あの子たちに黒岩が望んでいるような普通の暮らしが来ることはないと真衣は思った。

真衣は、翌日も病院に行った。黒岩は何度も真衣の責任ではないと言ってくれるが、真衣の代わりに黒岩が刺された事は消せなかった。何も出来ることはないが、何かすることは無いかと問うことぐらいは自分の役目だと思っていた。
「僕、暇ですから、来てくれるのは嬉しいんですけど、時間がもったいないです。勉強があるんでしょう」
「すぐに、帰りますから」
部屋の中は病室らしくなっていた。手が届く棚には、専門書や文庫本が並んでいる。寝巻も自分の物に変えたようだ。
「医学部の勉強って、大変なんでしょう」
「いえ。楽しいですよ。知らない事ばかりだから、時々、ワクワクします」
「真衣さんは、どんなお医者さんになるんでしょうね」
「私にも、まだ、わかりません」
西崎が部屋に入ってきた。
「真衣ちゃん。来てくれたんだ」
「はい」
「真衣さん、昨日も来てくれたんですよ」
「よかったな。望みどおりだ」
「えっ」
「西崎さん」
「おう。ところで、あいつ殺意はなかったと言いだした。もう一度、最初から話してもらえるか。真衣ちゃんも」
西崎の事情聴取が終わり、真衣も西崎と一緒に病室を出た。
「おじさん。さっき、望み通りって言ったのは、どういう意味なの」
「別に意味は無い。若い女の子が見舞いに来てくれたら、喜ばしい、という程度のことだから」
西崎の返事は、どこか嘘っぽく聞こえた。
「そう」
その夜、真衣が西崎の言葉を孝子に言った時、孝子も何か知っている感触があった。
「お母さん。黒岩さんのことで、何か知ってる」
「・・・」
「教えて」
「うん」
「なに」
「大したことじゃない」
「うん」
黒岩が真衣を守るために警察を辞めて児童相談所に来たという西崎から聞いた話をした。
「西崎君の勘違いだと思うよ。そんなことで、仕事辞めるの、変だもの」
「うん」
「ただの偶然よ」
「そうね」
荒木田も黒岩も男のくせに優しい一面を持っている。それは否定できないが、真衣の父親も昔は優しく明るい男だった。男なのだから、どうにでも変わるのだろう。真衣は何度も世話になった西崎の事も信じ切っている訳ではない。男は自分の許容範囲を超えた時に、最低の男になる。それだけの事だと思っていた。それはそれとして、黒岩が黒岩の人生を自分のために変えたのだとしたら、それは思いとどまってもらいたいと思う。男でも人間なのだから。真衣はそこまで傲慢になるつもりはなかった。できれば、男には自分の人生に絡まないで欲しいと思う。でも、人としては、どうなのだろう。
真衣は結論が出せないまま、一週間病院に行かなかった。普通の女の子であれば、知らん顔するだろう。黒岩本人から言われた訳ではなく、西崎の話だけを聞いて、変に邪推しているようで言いだしにくいのもあったが、孝子と児童相談所の関係はこれからも続く。そして、黒岩と顔を合わせる度に気にしなくてはいけないのも気が重い。最初にはっきりさせておいた方がいいという結論になった。たとえ、真衣を守るために身代りになったとしても、真衣が助けられたことに変わりはない。黒岩は、子供たちにとっても、母にとっても大事な人になるだろう。たとえ、相手が男だったとしても、人としての礼は守らなければならない。それが、真衣の結論だった。
「痛みは、もう、とれました」
「ええ。元気です。早く退院したいんですけどね」
「よかった」
「片岡先生に伝えてください。忙しいんですから、見舞いはいいって」
「はい。言っときます。黒岩さん、缶詰めの果物なんて食べます」
「ええ。好きですよ。みかんとか」
「よかった。開けていいですか」
「持ってきてくれたんですか」
「いつも、手ぶらだと、気になるんです。見舞客にも立場がありますからね」
「すみません。気を使わせて」
真衣は、持ってきた紙容器と缶詰めを持って、流し台へ立った。
「黒岩さん」
「はい」
「この前、西崎さんの言ってたことなんですけど」
真衣は缶詰めを開けながら、黒岩の方を見ずに言った。
「西崎さん、ですか」
「望みがかなったな、って言った事です」
「えっ。西崎さん、しゃべったんですか」
「まあ」
「おしゃべりなんですね。西崎さんには、ちょっと、がっかりです」
「いえ。母が聞き出したんです。西崎さんは母には弱いんです。不思議ですけどね」
「それでも、ひどいですよ」
真衣は缶詰めのフルーツを入れた容器をベッドの横のテーブルに置いた。ラップに包んできたプラスチックのスプーンを添えて黒岩に手渡した。
「いただきます」
「黙ってるのって、卑怯かなと思ったんです」
「・・・」
「私、男の人、だめなんです」
「知ってます。西崎さんに聞きました」
「ほんとに」
「はい」
「やっぱり、西崎さんはおしゃべりかも」
「はあ」
「私、男の人、信用してないんです」
「わかります」
「医者になりたいと思ったのも、自分一人でも生きていけると思ったからなんです」
「ええ、そうだと思いました」
「ですから、黒岩さんが守ってくれたとしても、私には何もできないんです」
「そんなこと、考えてもいません」
「気の強い女だと思われるかもしれませんけど、黒岩さんには相談所の仕事してもらいたいし、私とのことで、子供たちに迷惑かけたくないんです。ごめんなさい。勝手なこと、言いますけど」
「いいえ。西崎さんはわかってくれなかったんだと思います。僕があなたの事を守りたいと思ったことは、その通りですし、今でもそう思っています。でも、少し違うんです。聞いてもらえますか」
「はい」
「多分、僕の育った環境をわかってもらえないと、話が見えなくなると思いますので、そこから話します。父は会計事務所をやってます。上の兄は、その事務所で副所長ですし、下の兄は東京で会計事務所をやってます。僕の家は、僕が子供の頃から事業の拡大と金儲けの話ばかりでした。成り行きで、僕も資格はとりましたけど、どうしても仲間入りができなくて、警察官になりました。家族全員が猛反対でした。今時、勘当なんてありませんけど、昔流に言えば、勘当されたんだと思います。ずっと、会っていませんでしたし、電話で話したこともありません。この前、会っていただいたとおり、自分たちの常識が正しいと信じている人達です。僕は小さい時から先頭に立つのが嫌いで、気がつくと誰かを支える側にいましたが、僕にはそれが一番安心できるんです。警察官になる時も、市民を支える警察官になりたいと思ったんです。交番勤務の時はよかったんですが、刑事になってからは違いました。真衣さんと初めて会った時も、僕はずっと、何かが違うと悩んでいたんです」
「・・・」
「真衣さんに遭った時、僕は思い切り殴られたような衝撃を受けたんです。それは、あなたが生きていて、僕が生きていなかったからだと、今ではわかります。真衣さんは、前に、どうして授業に出るのを認めたのかと聞きましたよね」
「ええ」
「頭が真っ白だったんです。警察官でも人間ですから、いや、人間の自分が優先されるのは、どんな職業でも一緒だと思います。あの時の僕は、眩しいくらい鮮烈なあなたの姿に見入るだけでした。警察官の職務など、どうでもよかった。それだけでも警察官失格ですよね。ただ、鮮烈な、美しいほどのあなたの中に、とても危険な臭いもしたんです。もちろん、あの時はあなたのことは何も知りませんから、具体的な危険が何かもわかりませんでしたけど、この人は守らなければいけないと、強く感じたんです。西崎さんは、一目惚れだろうと言いましたが、そんな生易しい感情じゃなく、僕には、あなたを守ることが昔から決められていた、ごく自然なことに思えたんです。たまたま、あなたが女で、僕が男だったというだけで、西崎さんは一目惚れだと決めつけましたが、あなたが男だったとしても、あるいは僕が女だったとしても、同じ結論だったように思っています。ここは、確かに説明し難いところですが、実際にそうだったんです。三沢病院で会いましたよね。あの病院には僕の友人が入院しています。彼の家族は夜逃げしていて、彼には身寄りがありません。小さな子どもの頃からの友達で、彼を支えるのは僕の役目だと思っています。誰でも、誰かに支えられて生きてますよね。僕は、誰かを支えている時に、自分の人生を生きていると思うんです。そんなのは偽善だと言われました。自分自身でも偽善者なのではないかと疑った時もあります。でも、僕の場合は、そうとも言えないんです。それは、荒木田さんに会った時に、そう思ったんです。あの人は、子供たちを支えることが仕事ですけど、仕事を超えているんです。僕と同じような人がいる。僕は、荒木田さんに会って、この人と一緒に働きたいと思いました。そして、三沢病院の奈良岡先生の紹介で児童相談所に行ったんです。園田支所は僕にとってベストの場所だったんです。でも、真衣さんは何も気にする必要はありません。僕が勝手に自分の生きる場所を求めただけなんです」
「だから、あの時、飛び出したんですか」
「ええ、それも大きな動機ですが、あれは僕の仕事です。あなたや片岡先生の善意は有難いと、感謝していますが、僕たちが善意だけに頼るようになったら、僕たちに価値はありません。僕が刺された事で、あの姉妹と母親が一旦は苦境から抜けられますし、あなたや先生も傷つかずに済みました。僕は自分の判断は正しかったと思っています」
「私の心配は、的外れ、ですか」
「ええ。あなたが心配するようなことではありません。真衣さんは今まで通り、鮮烈な生き方をしてください。あなたの生き様が、見知らぬ人を勇気づけていることも、人生をやり直す勇気を与えている事も現実ですから。あなたはあなたでいいんです。あなたを守るなどと言って、僕が一番いい思いをしているんです。この仕事につけたことで、僕は生き直すことができたんですよ。僕は一生分の御褒美を貰った気分です」
「黒岩さんは、それでいいんですか」
「いえ。それがいいんです。そんな奴もいるんです。一歩間違うとストーカーになってしまいますけど、僕は違いますからね」
黒岩の説明を納得した訳ではないが、黒岩との距離感を保つためには、どこかに線を引く必要がある。どうでもいい男の事なら気にすることはないが、それでは済まない。おばあちゃんに相談してみよう。孝子母のお父さんは、黒岩のような人ではなかったのだろうか。もう少し時間をかけて決めることだと思った。



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弱き者よ - 2 [弱き者よ]



3

真衣は二年生になっていた。強姦未遂事件は闇に葬られた。孝子母が「忘れなさい」と言い張った。納得したわけではないが、我儘の言える立場にいないことは自分が一番知っている。簡単なことだ。心を閉ざせば済む。重いものは背負いなれている。一つぐらい増えても大丈夫。心配なのは、このまま自分がどこへ流れ着くのかわからないことだった。
「真衣。あんた、進路の事、何も言わないね」
「進路」
「三者面談とかないの」
三人で、遅い夕食の時だった。
「真衣は成績いいから、心配ないよね」
おばあちゃんが笑顔で言った。
「でも、志望校とか学科とかあるでしょう」
「大学」
「まさか、進学しないとか。他にやりたいことがあるの」
「ううん」
「先生は、なんて」
「話してない」
「まさか。高見沢の子は一年の時から志望校あるらしいじゃない」
「でも、私は」
「私は何よ。里子だから」
「・・・」
「孝子」
「だって、黙ってたら、この子いつまでも言わないよ」
「大学に行ってもいいの」
「当たり前じゃない」
「うん」
「どこでもいいよ。ハーバードでも東大でも」
「駄目よ、そんな遠くは」
「例えばの話よ、母さん」
「考えてみる」
「真衣。私は、本気で母親やってるつもりだよ。もっと無理言いなさい」
「うん。ありがとう、おかあさん」
確かに学校は受験一色と言ってもいい。一年生の時には、楽しい高校生活をと言っていた生徒も、二年生になると目の色が変わった。偏差値だけしか見えていない。死神と言われた真衣のことを気に掛ける生徒はいなくなった。楽ではあったが、嫌われていた時よりも疎外感を押し付けられたような空気は気持ちいいものではない。
中学の成績で自動的に決められた高校が高見沢高校だった。真衣にとっての高校進学は大学受験が目的ではなかった。そして、高校でも他にやることがなかったから勉強をしただけで、受験戦争に参加していたわけではない。漠然とではあったが、一生続けられるものを身につけたいとは思っていた。男に頼る生き方だけはしたくない。病院の母は夫という男に人生を滅茶苦茶にされた犠牲者だと思っている。母のような生き方はしたくない。そういう意味では孝子母の生き方の方が納得できる。でも、自分には子供と接していく生き方はできないと思う。西崎刑事や神野刑事のような仕事も無理がある。自分にできることは何なのだろうということを考えなくてはならない。真衣にとっては初めての未来への挑戦になる。こんな日が来るとは思ってもいなかった。
母の許可をもらって居間にあるパソコンで大学の情報を見た。見るだけでも心が躍る。施設の子に大学進学はない。自分の意識では施設の子だったから、大学案内だけでも別世界のことのように思う。真衣の目は医学部に向かっていた。三沢病院の奈良岡先生の白衣に強い印象があった。自分が医者になれることなど想像すらしたことがないが、いろいろな条件が合致する。最大の条件は男に頼らずに生きていけることだが、奈良岡医師が言っていた研究もできるかもしれない。そうすれば、病院の母の病気に役立つかもしれない。歳を取っても医者を続けている人は多い。病人を助けることで贖罪ができるかもしれない。人間の命を救う死神というのは、かなり恰好がいい。真衣は夢中になって調べた。
医学部は他の学部と違って六年かかる。それだけ授業料も多くなる。孝子母は承知してくれるだろうか。私立大学の医学部の費用は驚くほど高く、除外する。T大の医学部なら、国立大学で、家から通えるし、偏差値の75も問題はない。クラスの中でもT大を目指している子は多い。仲間に入りたい訳ではないが、少しだけ嬉しい。真衣は入学案内を取り寄せることにした。
入学案内が届き、三人で顔を揃えた。
「ここでも、いい」
「医学部」
「うん。6年かかるけど」
「まさか、真衣が医学部にねえ」
「やっぱり、無理」
「いや。いいんじゃない。ねえ、母さん」
「ああ」
「医学部だと偏差値は」
「75ぐらい」
「大丈夫なんだ」
「うん。なんとか。これからも、受験の勉強するし」
「そう。医者か。三沢病院の先生の影響」
「それも、あると思う」
「・・・」
「それと、私みたいに暗い子でも、出来るかもしれない」
「真衣は、大学のこと考えてなかったみたいだけど、卒業したら、どうするつもりだったの」
「おばあちゃんの手伝い」
「一生」
「わかんない。お手伝いしながら、何か技術を」
「技術か」
「私、子供の相手、無理だし、愛想悪いし。それに医者なら、男に頼らずに生きていける」
「それが、本音」
「うん」
「医者でも、愛想笑いはするよ」
「しない医者もいる」
「真衣は、しないんだ」
「うん」
「そうね。無愛想な医者でも、身内に医者がいれば心強い。ねえ、かあさん」
「ああ。真衣ならできるよ」
「塾とか、どうするの」
「行かない」
「そう」
「できれば、センター試験で入りたい」
「ぶっちぎりでないと無理みたいよ」
「駄目なら、一般でもいい」
「何人だっけ」
「100人」
「センター試験よ」
「10人」
「これで、うちにも受験生の誕生だ」
「ほんとに、いいの」
「もちろんよ。頑張りなさい」
「うん」
翌日、放課後に担任の村山教師をつかまえて進路の話をした。
「受験することにしました」
それまで、真衣の進路は家事手伝いになっていて、薬局で働くことになっていた。
「そうか。よかったな」
よかった、という意味がわからないが、大したことではないだろう。
「で、第一志望は。成沢ならどこでも問題ないけど」
「T大の医学部です」
「T大でいいのか」
「はい」
「お前なら、東京の医学部でも、行けるぞ」
「いえ。地元で」
「そうか」
「何か、問題が」
「いやいや、何もない」
村山教師の態度が、どこか煮え切らないと感じた。
「よろしくお願いします」
「わかった。頑張れよ」
「はい」
村山教師の態度が変だと思っていた理由が一週間後にわかった。
「成沢。お前、受験するんだって」
同じクラスの柳沢が話しかけてきた。
「・・・」
「牧野が泣いてたぞ」
「どういうこと」
「成沢相手じゃ、牧野に勝ち目はないからな。あいつの家は病院だから、医学部しか行くとこないんだろ」
競争相手が増えたことで、牧野の合格確率が落ちたという意味だろう。
「それが、私のせいなの」
「そうは言わないけど、あいつは複雑だろ」
「・・・」
もう、真衣は返事をしなかった。もともと、連帯感のあるクラスではないし、仲間外れにされることも慣れている。的外れの嫌味を言われても答えようがなかった。競争など好きではないが、受験戦争に参加した以上、競争を否定することはできないことも現実なんだろう。できるだけセンター試験で、いい成績をとることだ。そうすれば、牧野に恨まれずに済む。
真衣は問題集を買ってきて、本気で受験勉強を始めた。
夏休みに全国区の塾で行われる模擬テストでは、偏差値86を出した。偏差値を気にする自分が不思議だった。学校のテストでもテストの度に順位が上がり、その年の暮れにはそれまでトップにいた男子に大差をつけて勝った。死神と呼ばれる真衣を見る同級生の視線は、更に冷たくなった。
学校が冬休みに入って、不愉快な視線を浴びなくて済むことが心地よい。朝もゆっくり寝ていいと言われているので、昼近くになって居間に下りて行った。
居間のガラス戸の向こうに見知らぬ男がいる。いつも来る薬の販売会社の営業社員ではない。ジーンズとフードつきのジャンパーを着た暗い目つきの男だ。
土足のまま板間に上がり、ガラス戸を開けて入ってきた。
「誰」
返事はない。男の口元が笑ったように見えた。真衣は店に続くドアの方を見た。すぐ近くにおばあちゃんも安藤さんもいる。
男がジャンパーの内側から出した物を見て、息を呑んだ。鈍い光を出しているナイフはどんな物でも断ち切れそうな存在感がある。
男は無言で真衣に近づいてくる。男の顔を思い出した。随分痩せていたが、カラオケハウスの裏で襲ってきた男だ。目を見れば、男が自分を殺しに来たことがはっきりとわかった。だが、叫ぶ余裕はなかった。男は左手でマフラーを取った。男の喉には手術痕がはっきりと残っている。男は、また、無言で笑った。小動物をいたぶるように、真衣の目の前でナイフをひらひらと動かした。男の手が伸びて、ナイフの切っ先が目の前まで迫る。目の前をナイフが風を切って横切る。男は立ちすくんでいる真衣の様子を楽しんでいるようだった。
その時、店の方のドアが開いて、おばあちゃんが二人に気がついた。
「そこで、なにしてるの」
男が動き、腰だめにしたナイフを突き出してきた。真衣は夢中で体を捻った。男は踏みとどまって、手にしたナイフを横に薙いだ。おもわず右手で顔を守ったが、右手に痛みが走った。真衣はテーブルを回りこむようにして逃げた。男の突き出したナイフを避けたが、すぐにナイフは上から振り下ろされ、真衣の右肩から胸の上を斜めに走った。相手にナイフを振り回させていれば、最後には刺されることがはっきりとした。腕と胸の痛みはあったが、真衣は男の右手を両手で持った。力で押しあえば負けるのはわかっていたが、ナイフの切っ先を相手に向けようと力を振り絞った。男に押され、ガラス戸にぶつかり、板間に押し出された。土間と板間の間には30センチ程の段差がある。真衣は後ろにさがりながらも体の向きを変えた。男と体が入れ替わった時、男の体から力が失われた。ナイフの切っ先も相手の方へ向けることができたと感じた時、二人は板間から土間に二本の棒が倒れるように横倒しになった。思い切り土間に叩きつけられて、その衝撃で真衣は弾き飛ばされた。「終わった」と思った。もう、これ以上は防ぎきれない。
男は起きあがってこなかった。男の胸にはあのナイフが刺さっているのが見えた。それでも、真衣は這うようにして店の方へ逃げようとした。自分の体が赤く染まっているように見えたのが不思議だった。痛みはあるが、それよりも体がだるく感じる。
板間も土間も血で染まっていた。死んでしまったのか、真衣が動かない。順子の呼ぶ声にも反応しないが、まだ呼吸はしているように見えた。
救急車はまだ脈のある真衣を先に搬送した。胸の傷が深くて出血も多かった。あと数分遅れていれば失血死の可能性もあったようだ。男はナイフが心臓を直撃していて、その時点で即死だった。

病院にいる孝子の所へ西崎がやってきた。
「どう、真衣ちゃん」
「うん」
「おばさんと安藤さんから事情は聞いた」
「今度も、真衣が殺人罪なの」
「まさか。あの男が殺人未遂で起訴されるだろう。真衣ちゃんは被害者だ」
「あの時、戦っておけばよかった」
「一緒だ。有罪になっても執行猶予だったろう。あいつは、同じことをしたと思う」
「警察では、防げないの」
「無理だな。全員、刑務所に入れとかなきゃならない。お前も、俺も」
「・・・」
「残念だけど、人間のやることは、最低の事ばかりだからな」
「どうしてなの。真衣、ばかり」
「ああ。俺もそう思う。犯罪などに縁がない人の方がはるかに多い。それなのに、あの子は三回目だ。あり得ないことだ」
「心に傷を受けて、今度は体を切り刻まれて、酷すぎるよ」
「どこかに、お祓いに行って来た方がいい」
「うん」
「こんな時だ。孝子がしっかりしてなきゃ」
「わかってる」
「明日になれば、真衣ちゃん、話、聞けるかな」
「西崎君の仕事も、辛い仕事だね」
「優しいこと言ってくれるね」
「自分が弱気になってるのがわかる。私、あの子に何もしてやれていない」
「そんなことない。ま、たとえそうだとしても、平然としてるふりをしてやれよ」
「そうだね」
「明日、来るわ」
西崎が帰って行くと、病室は静かになった。個室しか空きがなかったし、重症だったので仕方がないが、落ち込んでいる孝子にはこの静けさが重い。真衣は麻酔で眠っているが、目を覚ましたら、何と声をかけてやればいいのか。自分のため息に驚かされる。
小さなソファーの上で眠ってしまったようだ。深夜の2時を過ぎていた。孝子は真衣のベッドの横の椅子に座った。酸素マスクをつけて、点滴のチューブがぶら下がっている。計測機械のコードも伸びていて、その外見だけでも重症患者だった。
真衣の体が動き、目を開けた。
「真衣」
「・・・」
「痛い」
「おかあさん」
真衣の声はかすれていて、聞き取りにくかったが、確かに「おかあさん」と言った。
「もう、大丈夫だからね」
「のど、かわいた」
「ああ、そうだね、待ってね」
孝子はナースセンターに走った。文字通り走っていた。
「せんせい」
「千佳ちゃん。何か、飲み物」
「目、覚めたんですか」
孝子は何度も頷いた。
「そこの自販機で、何か買ってきてください。吸い飲みをお貸しします」
「自販機」
孝子は小銭を取りに病室へ走って戻った。
「先生、お茶かスポーツドリンク」
「うん。わかった」
この病院にも孝子の教え子が何人もいる。西田千佳も、その一人だった。顔見知りの看護士がいることは心強い。
真衣がお茶を飲み終わった時に、当直の医師が 部屋に入ってきた。計測機のデータを確認して、真衣の手をとって脈の確認をした。
「痛い」
真衣は少し考えて、首を横に振った。
「もう、全然大丈夫だからね。でも、時間が経てば痛みがくると思う。我慢できなければ、薬を出すから看護士に言って。用意させとくから」
真衣は小さく頷いた。
「君は、よく頑張った。二重丸の子だね」
「二重丸」
おもわず、孝子が聞いた。
「生きる。その強い意志がこの子を助けたんですよ。簡単に諦めてしまう子もいるんです」
「よかった」
「おかあさん。この子は大丈夫」
「ありがとうございます」
孝子は深々と頭を下げていた。

痛みが押し寄せてきている。どんな怪我だったのか、自分で確認する時間はなかったが、今までにない痛みだった。孝子母はずっと横の椅子に座っている。自分が一人ではないと思わせてくれている母には感謝していた。
看護士が来て、点滴の入っていない左手に注射をした後で、また眠ったようだ。眠りが浅いのか深いのか、どれだけ時間が過ぎているのかわからない状態が続いた。西崎のおじさんが病室にいたようだったが、いなかったのかもしれない。
担当の医師が来て、看護士が包帯の取り換えをして、初めて自分の胸の傷を見た。右肩から両乳房の間を斜めに走った傷は30センチ以上あるように見えた。自分の体の傷なのに覚めた目で見ている。孝子母のうろたえた様子の方が気になった。大怪我だったようだが、気持ちの上ではそれほどのダメージは感じていない。誰も話をしないが、あの男はどうなったのだろう。胸に刺さった刃物を見た。ドラマのシーンを見るような感覚しかないが、大変なことが起きたことはわかっていた。

痛みはなくならないが、酷い痛みは峠を越えたようだ。時間の感覚が不確かで、何日経ったのかはわからなかったが、少しずつ周囲が見えるようになった。早く自分の足でトイレに行きたいと思う。孝子母にも休んでもらわなければ。
西崎のおじさんと神野刑事が部屋に入ってきた。
「真衣ちゃん。どう。まだ、痛むか」
「少し」
「そうか。話、聞けるかな」
「うん」
神野刑事の質問に答えながら、憶えていないことが多いと自分でも思った。でも、思い出せる限りのことを答えた。警察の尋問に慣れているのもどうなんだろうと思いながら、丁寧に答えた。
「あの男は」
「即死だった」
「そう」
死神の真衣が、ついに本当の殺人者になった。そのことに驚きはなかつた。「やっぱり」という思い。落ち着くところへ落ち着いたような、自分が自分になったような、そんな安心感があった。開き直りだと非難されてもいい。自分の生き方が見つけられそうな今、それに全力で向かって行って何が悪いのだ。胸に大きな傷を負い、女の武器を一つ失ったことには失望していない。男がこの傷を見て怯んでくれた方がいいとさえ思えた。
「真衣ちゃんが悪いんじゃないからな」
「ありがとう、おじさん」
ナイフの切っ先を男の方へ向けたのは真衣だった。殺意があった訳ではないが、自分の行動が一人の人間の生命を奪ったことは事実だった。それでも、死んだ男に対して申し訳ないという気持ちはない。生きていて、また出会えば、殺意を持って殺してもいいと思う。
早く退院して勉強がしたい。病院の母が死んだ訳ではないが、生きているとは言えない。母と妹とあの男。三人もの生命を奪った自分は、何人の生命を救えば許してもらえるのだろう。どうしても医者にならなくてはならないと強く思う。こんな計算は悪魔の計算なのだろうか。だが、重い十字架を背負い続けるには、助けが必要だった。
正月を挟んで一カ月間学校を休んだが、病院でも家に帰ってからも、全てを忘れて試験問題集に集中した。高見沢高校の中でも、受験の鬼と言われる存在になりたい。


4

死神が悪魔に進化した。真衣は自分の事をそんな目で見ていた。修羅場というものは通過した後、ただの思い出になるだけではないようだ。家族以外の周囲の人間は底知れぬ暗闇を見るような目つきで真衣の事を見るようになった。真衣がクラスメートのことを幼い子供だと感じていることが原因なのかもしれない。先生でさえ真衣に声をかけることはなくなった。
受験勉強が苦しいとか、嫌だと感じたことは一度もない。楽しいことだから寸暇を惜しんで勉強する。偏差値は勝手に上がっていった。そのことで、クラスの中では浮いた存在になる。しかし、あの事件以来、些細なことは気にならなくなっていた。先生は、三年の夏休みは受験生にとって最後の正念場だと檄を飛ばしているが、その言葉で奮い立つ生徒より萎縮する生徒の方がはるかに多いとの認識はないようだった。学校から、両親から、更には自分自身から追い込まれ、行き場を無くした生徒の目にあるのは焦りだけだった。今までも教室が居心地のいい場所だったことはないが、脅えた小動物の群れが蹲るだけの教室は地獄絵図みたいなものだ。
夏休みに入り、登校の必要がなくなって気持ちは楽になった。真衣にとっては勉強のできる環境さえあれば、それでよかった。昼と夜を逆転させないために、生活のリズムは変えない。深夜の時間帯が勉強に向いているとも思わなかった。普通の生活をすることを心がけた。テレビこそ見ないが、店の手伝いもするし、洗いものも手伝う。受験生がいる家庭に見られる緊迫感は無かったので、おばあちゃんも孝子母も平気で用事を言いつけるし、真衣も喜んで協力した。あの事件があって、孝子母は真衣をどうやって支えて行くかと悩んだそうだが、真衣は逆に明るい子供になった。もっとも、それは真衣が自然に明るく振る舞う力を手にしたということに過ぎなかったが、おばあちゃんや孝子母が喜んでくれれば十分にご褒美を貰っていると思えるようになった。以前ほど里子という立場を意識しなくなったとはいえ、それが無くなった訳ではなかった。
「真衣」
「はい」
「悪いけど、銀行に行ってくれる」
「いいよ」
片岡薬局は商売が大繁盛しているわけではないが、それでも一週間に一度は入金と両替をするために銀行へ足を運ぶ。
九時になると、おばあちゃんが用意した鞄をもって銀行へ向かった。ジーパンにTシャツという軽装で携帯電話とハンカチだけを持って家を出た。強姦未遂事件の後、孝子母の命令で持たされた携帯電話だが、両手で数える程度の使用頻度しかない。それも持ち始めた頃に使った程度で、この数カ月間は充電をするだけの機械になっていた。
商店街のシャッターが全て開くという状況はこの園田駅前商店街でもないが、ほとんどのシャッターが閉まったままという状況でもない。シャッターを開けて開店準備を始めている店もあった。駅前にあるM銀行園田支店は生命保険会社のビルの一階にある。学校は夏休みだし、通勤時間帯は終わっているので駅前は人通りが少なかった。
真衣は銀行に入ると、真っすぐ番号札の機械に向かった。客の数はそれほど多くはない。それでも、何か参考書を持ってくればよかったと後悔した。ATMでも入金と両替は出来るが、おばあちゃんが窓口を利用していたので、真衣もそれに倣っていた。
何もすることがなく椅子に座っていると、正面にいる窓口の銀行員を見詰めてしまう。一秒でも早く処理すべく、トップギアで働いている様子がわかる。銀行員になったら、自分でもあんな働き方ができるのだろうか。以前はそんな見方はしなかった。
10分ほど待った時に、違和感のある客が入ってきた。黒づくめの服装。背中に大きなバックパックを背負い、大型のキャリングケースを引っ張っている様子は銀行には似つかわしくない。大勢の視線がその若い男に向けられた。男は空いている椅子に、肩にかけていた皮のケースと背中のバックパックを下ろし、ケースのジッパーを開け始めた。その動作は自然なものだったので気にならなかったが、ケースの中から出てきたものを見て、真衣は息を呑んだ。
男は取りだした銃を構えて、応接間になっているらしい部屋のガラスに向けて発射した。
轟音とガラスの割れる音が店内に空白の時間を作った。その場にいた全員が手を止め、一瞬だが息を止めた。すぐに女性の悲鳴があがった。
「はあい。みなさん。銀行強盗です。おとなしくしてください」
銀行員は訓練していると聞いたことがあるが、あの音を聞いては冷静でいられない。女性の叫び声はやまなかった。真衣の体は金縛りにあったように動かない。
男は、再び銃を構えて引き金を引いた。銃声の後、応接間の奥にある壁に穴が開いた。
二度目の銃声で銀行内は静寂を取り戻した。
「皆さん。動かないでください。動くと危ないですよ」
男はポケットから取り出した弾を素早く入れて、銃口をゆっくりと左右に振った。
「あなた」
男は一人の男子社員を指差した。
「そう。あなた。シャッターを閉めてください」
指名された男子社員は男を見詰めるだけで動かない。いや、きっと動けないのだろう。
男は銃口をその社員に向けた。
「死にたいですか」
男子社員の体がぎこちなく動いた。蒼白な顔面と揺れる視線。それでも、男子社員は入口に向かって歩を進めた。男子社員がスイッチを押すと、モーターの音が聞こえ、ゆっくりとシャッターが降り始めた。
「元の場所に戻って、床に伏せてください」
男の態度は冷静であり、威圧感はない。まるで普段の会話をしているように見えた。
「皆さんも、床に伏せて、動かないようにしてください」
男は全員に聞こえるように大きな声を出したが、凶暴な印象は全くない。
「できれば、殺したくないんです。お願いします」
真衣は椅子の前にうつ伏せで横になった。
シャッターが閉まるまで随分時間がかかったように思えた。鈍い音がしてモーターの音がなくなった。
「銀行の方は、立ち上がって、こちらに集まってください。ゆっくりとお願いしますよ」
来客用の広いフロアに銀行員が出てくる。男の立っている場所を避けるようにして、銀行員は壁際に並んだ。
「そのまま、床に伏せてください」
男は椅子の上に置いてあるバックパックを開けて、ビニール袋を二つ取りだした。
「あなた」
シャッターを閉めるように言われた中年の男子社員を指名した。
「お名前は」
「・・・」
「あなたの名前」
「工藤」
「じゃあ、工藤さん。立ってください」
工藤と名乗った男子社員は、少しよろめきながら立ちあがった。男の声は柔らかいが、最初のあの二発の銃声は十分恐怖を与えていた。
男はビニール袋から小さな袋を取り出して、工藤の所へ近づいた。
「出してください」
工藤が袋から出した物は手錠だった。
「二人づつ、一人は左手、一人は右手です。その手錠をかけてください」
男は椅子に腰を降ろして、工藤の作業を見守っていた。真衣は年配の女性と手錠で繋がれた。金属の冷たさは、自由を奪われたのだという実感を与える。それでも、無理矢理拘束されたという恐怖はなかった。作業は淡々と進む。
「御苦労さま。あなたも左手にして、伏せてください」
男は別の袋から取り出した手錠で、二人づつ椅子やパイプに固定していった。固定用の手錠は鎖の部分が1メートルほどの長さがある。真衣は近くの椅子に拘束された。座ってもいいと許可は出たが、逃げ出す時は椅子を抱えて逃げなくてはならない。
全員が拘束され、男は女子社員の前に行き、名札を確認した。
「本橋さん」
女子社員の顔が硬直した。
「抵抗しなければ、殺しません。僕の指示に従ってくれますか」
「・・・」
「どうします」
女子社員は首を縦に振るしか方法はなかった。
男はポケットから小さな鍵を取り出して、本橋と呼ばれた女子社員の手錠を外した。
「先ず、電話のケーブルを全部外してください。うるさいでしょう」
女子社員は立ち上がって、大きく息を吸った。そして、事務室の電話機から次々とケーブルを外していった。電話の呼び出し音がなくなると、他人の息遣いが聞こえるほどの静けさがやってきた。
「本橋さん。携帯、ありますか」
女子社員はカウンターの方を指差した。そう言えば、本橋という女子社員は窓口に座っていた人だった。
「では、携帯で、110番してください。銃を持った男にハイジャックされました、と伝えて、この事件を担当する電話番号を教えてくれるように頼んでください。それと、この事件の窓口になる人の携帯番号とメールアドレスを一緒に教えて貰ってください」
銀行強盗が人質にむかって110番をしろと命じる。誰だって変に思う。本橋も首を傾げた。
「お願いします」
本橋は自分の席に座り、命令に従って110を押した。
「はい。こちら、110番。どうしました」
「あの」
「どうしました」
「あの、M銀行園田支店です。銃を持った男にハイジャックされました」
「ハイジャック、ですか」
「はい」
「あなたは」
「園田支店の本橋と言います」
「今、どこから、電話してますか」
「園田支店からです」
「犯人は、そこにいるんですか」
「はい。電話するように、言われました」
「犯人から、ですか」
「はい。この事件の担当の電話番号を聞くように言われてます。それと、担当者の名前と携帯電話の番号、そして、メールアドレスを聞くようにと」
「わかりました。このまま、待ってください。切らないで下さいよ」
「はい」
警報は警察に届いていて、園田支店に異常があることは承知しているようだった。予備知識がなければ、いたずら電話だと思われるような内容の話なのに、警察は電話が現場からの電話だと判断したようだった。すぐに先ほどの警察官の声がした。
「今、調べています。状況をお聞きしたいが、話せますか」
「待ってください」
本橋は携帯を耳から離して、男を見た。
「今、調べるそうです。状況を教えろと言ってますが」
「答えてやってください」
「はい」
「答えて、いいそうです」
「犯人が、そう言ったんですか」
「はい」
「傍にいるんですか」
「はい」
「銃を持って、ハイジャックと言いましたが、人質がいるってことですか」
「はい。全部で20人くらいです。数えますか」
「いえ。どんな状態なんです」
「皆、手錠で拘束されています」
「怪我人は」
「いません」
「発砲はありましたか」
「はい。二回」
「犯人は、一人ですか」
「はい」
「何か、要求されましたか」
「いいえ」
「犯人は、どんな男ですか。男ですよね」
「若い男性です」
「その男は、どんな様子をしてますか」
「あの、すみません。もう、電話を切るように言われました。先ほどの番号は」
「もう少し、待ってください」
「もう一度、電話します。もう、切らないと」
「わかりました」
電話を切った本橋が震えているのは、真衣の場所からでもわかった。
「皆さん」
男が少し大きな声を出した。
「僕は、この銀行にも、ここにいる人にも、恨みはありません。ですから、犠牲者を出さずに終わることを願っています。ただし、警察とはチキンレースになると思いますから、その時は、残念ですが、犠牲者が出るかもしれません。チキンレースというのは我慢比べのことです。このことは、いずれ、わかります。こんなことに巻き込んでしまったことを申し訳ないと思います」
「僕は、銃を持っていますし、その鞄の中には爆発物も入っています。警察も簡単には制圧できないと思いますので、少し時間がかかります。ここから、逃げ出そうとか、僕をやっつけようなどと考えないでください」
「できるだけ、おとなしく、気長に、そしてリラックスしていただいた方が皆さんのためです。携帯は自由に使ってもらっていいです。ただし、長電話は駄目です。それと着信音が煩いから、かけるとき以外は電源を切っておいてください。トイレも、一人づつになりますが、行っていただきます。この本橋さんに手錠の鍵を渡しておきますので、彼女に言ってください。ただし、お一人五分程度で用を足してください」
「本橋さん」
「はい」
「手元に携帯を持ってないと思いますので、皆さんから携帯の場所を聞いて、渡してあげてください。できれば、充電機も。電源の延長コードも必要です。お願いできますか」
「はい」
本橋という女性社員は、窓口のリーダー格の中堅社員だと思われる。既婚者かもしれない。脅えてはいるが、この状況で落ち着いた行動は称賛に値する。
本橋が社員の携帯電話を捜して渡している間、男は窓口のカウンターの上にキャリングケースを持ちあげ、バックパックから何かを取り出して作業を始めた。
次第に電話をする声が増えてきた。真衣も家に電話をした。
「おばあちゃん」
「どうしたの」
「銀行で、ハイジャック犯に人質にされちゃった」
「なんて、言ったの」
「銀行に、強盗が来て、銀行の人も、お客も人質になって、手錠で繋がれてるの」
「嘘でしょ」
「そうよね。変だよね。でも、犯人は、電話してもいいと言ったから、皆、電話してる」
「ほんとなの」
「ほんとなの。危害はないけど、お母さんにも連絡しておいて。私は無事だって」
「そんな」
「また、電話するから」
「ちょっと」
おばあちゃんは、きっと落ち込むだろうなと思った。誰かに迷惑をかけることを特に嫌がっているおばあちゃんだから、きっと自分のせいだと思うだろう。誰のせいでもない。こんなことに巻き込まれるのは、そういう運命にある自分が悪いのだと思う。こんな出会い頭の事件に巻き込まれるのは、自分の中に何かがあるせいだと確信した。孝子母がおばあちゃんを支えてくれることを祈った。
「電話しました」
「私、携帯、苦手でね」
手錠で繋がれた相棒が苦笑いをした。
「家の番号は、何番です」
「かけてくれるのかい」
「心配するでしょう」
「電話しても、心配すると思うけど」
「ええ。そうですよね」
「もう少し、後に、お願いできる」
「ええ。いつでも」
「でも、変な強盗だね」
「はい」
「うちの息子と、同じくらいの歳なんだよ。どっかダブってね」
「そうですか」
「あんたは、学生さん」
「はい。高三です」
「受験」
「はい」
「えらい時に、ぶつかったね」
「はい」
「私、黒崎雅子」
「成沢真衣です」
「真衣ちゃん」
「はい」
「真衣ちゃんは、全然脅えてないよね」
「そんなことないですよ」
「そう見えるのは、あんたの中に闇があるからかな」
「闇」
「あるだろ。底の見えない闇が」
「そんなもの、見えるんですか」
「見えなくていいものが見えるのも、いいことじゃないけど、仕方ない。そうなんだから」
「霊能者」
「そんな悪者じゃないよ」
「悪者、ですか」
「あの男は薄っぺらのぺらぺら。ああいうのが多いね。自分の事しか考えてない。真衣ちゃんは重い重い物を背負って、それでも前に進もうとしてる。昔は、そういう人が多かった。闇はいつか勲章になるよ」
「そうなんですか」
「そうは思えないって、顔してる」
「はい」
「だろうね」
「私、死ぬんでしょうか」
「わからない。でもあの男は簡単に人を殺すだろうね。根っからの悪でもないのに、人間を殺すことに抵抗がない。そんな軽い男が増えた。なんとか、切り抜けなさい」
「ええ」
切り抜けなさいと言われても、真衣にその方策は浮かばない。自分の歩いている道は、短くて、死に直結しているだけの道なのかもしれない。短い過去を振り返れば、そう思わざるを得ない。微かな希望にすがって、受験勉強をしていたことは何の意味も持たないのではないだろうか。おばあちゃんや孝子母だけではなく、病院の母にも悲しみを残すだけの存在なのではないだろうか。明るい考えは何一つ浮かばなかった。
銀行内は次第に静かになっていった。
「本橋さん、自宅に電話しましたか」
「はい」
「もう一度、110番に電話してください」
「はい」
本橋は大きく深呼吸をして、携帯に目を向けた。
「はい。110番です。どうされました」
「先ほど電話したM銀行の本橋と言います」
「本橋さん。変わりありませんか」
「はい。お願いした件、わかりましたでしょうか」
「はい。申し上げます。何か書くもの用意されてますか」
「はい」
担当の警察官が言った内容を、本橋は手元のメモに書いていった。
「こちらの担当者が電話したいと言っているんですが、どこに電話すればいいか、聞いてもらえますか」
「待ってください」
「警察が電話したいと言ってますが」
「僕が電話しますので、それまで待つようにと、言ってください」
「はい」
「こちらから、電話するそうです。それまで待つようにと言われました」
「そうですか。あなたたちには被害はありませんか」
「はい」
「人質の方は、どうしてますか」
「皆さん、電話を終わって、静かにしてます」
「電話」
「私も自宅に電話しました」
「電話、できるんですか」
「はい。携帯の使用は自由だそうです」
「・・・」
「もう、いいですか」
「あの」
男が首を横に振っている。本橋は電話を切った。
男がカウンターを離れて、人質の群れから少し離れた。
「本橋さん」
「はい」
「ここに、来てください」
本橋は重い腰を上げるように、テーブルに両手をついて立ち上がった。
「携帯を持ってきてください」
「はい」
本橋は男の立っている場所から少し離れた場所で立ち止まった。恐怖心が目に出ている。
「大丈夫です。撃ちませんよ」
「・・・」
「ここから、写真を撮ってもらいたいんです」
「・・・」
「写メです」
「あ」
「できるだけ、僕も皆さんも、全員が写るように、お願いします」
男はカウンターの所へ戻った。
本橋は携帯を構えて、何枚かの写真を撮った。そのフラッシュが不気味に感じられる。犯人が何をしようとしているのか、誰にもわからない。そこに不気味さがあった。
「見せてください」
本橋の携帯を受け取った男が、撮られた写真を見ている。人質全員の視線が男の動作に注がれていた。
「一番目の写真にしましょう。内部の写真ですというコメントを付けて、先ほど聞いたメアドに送ってください」
「はい」
本橋が携帯の操作を始めた。
「皆さんの中に、病気の方はいますか」
「例えば、透析をする必要があるとか、注射をする必要のある重い病気です」
銀行員の中年男性が一人手を挙げた。
「何の病気ですか」
「糖尿病です」
「わかりました。他の方は、どうです」
誰も手を挙げなかった。
「メール、送ってくれました」
「はい」
「この電話は、外に繋がりますか」
「はい」
窓口の机にある電話機をカウンターの上に置き、男がケーブルを接続した。
「メモをください」
「はい」
メモには、電話番号と担当者の名前、そして携帯電話の番号とメールアドレスがきれいな字で書いてあった。
「日下部です」
「ハイジャック犯の浅尾弘樹です」
「浅尾さん」
「はい。父は県会議員の浅尾弘道です。住所とか生年月日はそちらで調べられますよね」
「わかりました」
「写真は見ていただけましたか」
「見ました」
「写真を撮ってくれた人を入れると、人質は17名です。お一人、糖尿病の方がいます。長時間は難しいかもしれません。どなたか警察の方で身代りになってもいいという方がおられたら、相談に応じます」
「他の方は」
「病気の方はお一人です。皆さん、自宅への連絡はしていると思いますので、人質の方の名前もじきにわかると思います」
「あなたの要求は、何なんですか」
「僕の要求の前に現状認識をしませんか」
「・・・」
「僕は散弾銃を持っています。弾は充分な量を持ちこみました。それと、写真に写っている鞄の中に爆発物があります。稲沢の方で爆発事件があったのを知っていますか」
「小さな小屋で爆発した事件ですね」
「あれは、実験ですから、威力は小さなものです。ここにある鞄に入っている爆発物はかなりの量になります。このビルが倒れるかどうかはわかりませんが、この部屋の中の物は壊滅状態になると思います」
「ビルごと倒すということですか」
「わかりません。そのつもりはありませんけど、やってみないとわかりません。もう、特殊班の方は配置についていますか」
「特殊班」
「SATの人です」
「それは」
「いずれ、強行突入の時が来るでしょう。あなたたちには、数分の時間しかないことを知っておいてもらいたい。でないと、人質の方は全員死にますし、突入した警察官にも大勢の犠牲者がでることになります」
「どういう意味ですか」
「僕の射殺に失敗して、僕にスイッチを押す力が残っていた場合は、すぐに爆発しますが、僕が死んだ場合にはタイマーが作動し、短くて2分、長くても4分後に爆発します。シャッターを破り、人質の手錠を外し、避難する時間は2分しかないということです。2分以内に救出可能という確信があればやってください。それと、あの鞄はカウンターに接着剤で固定してあります。僕自身の射殺は、この計画の中では想定していますので、僕は納得しています」
「・・・」
「もう一つ。僕は、この事件の全てを公開しながら進めて行くつもりです」
「公開、ですか」
「人質の方にも、情報を発信してもらいますが、僕もネットを通じて公開するつもりです。つまり、あなた方警察の対応も、全て公開されると考えてください。都合のいい警察発表はできませんので、注意してください。それと、僕との連絡はできません。必要と考えれば、僕の方から連絡します。先ほど電話をしてもらった本橋さんの携帯にも電話はしないように。ここでは着信を禁止しています。あなた方の電話で本橋さんが犠牲者になっても困るでしょう」
「浅尾さんが、一人でやってるのですか」
「はい。協力者はいません。僕、一人です。これだけの情報が手に入った訳ですから、しばらく時間を差し上げます。検討してください。次に電話した時に、僕の要求を伝えます」
男は一方的に喋って電話を切った。
自分でハイジャック犯だと名乗った浅尾という男は、自分の携帯を出して、しきりにキーを押している。
「犯行声明を出しました」
「皆さんも、いくらでも発信してもらっていいです。着信は禁止しますが、発信なら電話でもメールでも自由にやってください」
暫くして、勇気ある女子社員がトイレに行った。
ハイジャックされて、2時間が過ぎた。
真衣は相棒の黒崎雅子の自宅に電話を入れて、黒崎にも話をしてもらった。
「おかあさん」
孝子母は仕事を放り出して帰ってきてくれていた。
「大丈夫なの」
「うん、今のところ、大丈夫みたい」
「私にできることは」
「西崎さんの電話番号、知ってるよね」
「うん」
「西崎さんと話した方が、いいんじゃないかと思うの」
「そうね、言うわよ」
孝子が二度繰り返して電話番号を言った。
「わかった。おばあちゃんのこと、お願い。おばあちゃんのせいじゃないから」
「うん」
「切るね」
真衣は西崎の番号を押した。
「西崎」
「おじさん。真衣です」
「おう、真衣ちゃん。話は聞いた。大丈夫か」
「今のとこ、大丈夫。おじさん、私にできることない」
「そうか。そうだな」
「着信電話は禁止だけど、こちらからはかけられる」
「わかった。十分後に電話くれるか」
「はい」


5

銀行ハイジャック事件の特別捜査本部は、M銀行園田支店の正面にある廃業したカラオケ店の建物の中にあった。西崎も捜査本部の一員ではあるが、所轄の捜査員の仕事は運転手役だった。中心にいるのは県警本部の人間ばかりであり、西警察署からは兼松刑事課長が一人だけ本部に詰めているだけだった。
駅前広場の駐車場は閉鎖され、バスの発着も別の場所に移された。駅舎の前から機動隊のバスが並べられ、臨時の歩行者通路が確保されている。駅自体を閉鎖したいところだが、まだ乗降客は臨時の通路を通って利用している。犯人は銃を持っているので、流れ弾の危険があった。
西崎は、臨時捜査本部の中に入り、課長の姿を捜した。
「課長」
「おう、どうした」
「中にいる人質と連絡がとれています。何かできることありませんか」
「誰」
「成沢真衣です」
「成沢って、あの成沢か」
「そうです」
「勘弁してくれよ」
「こちらからは電話できないそうですが、向こうからは自由だそうです」
「犯人もそう言ってる」
「もうすぐ、電話が来ます」
「あの子が、ヤバいことにならないか」
「向こうから、言ってきたんです。何かできることないかと」
「そうか。待っててくれ」
待合室だったスペースに衝立を立て、長机を持ちこんだだけの捜査本部とカラオケルームだった部屋を片付けて指令室にした部屋があるようだ。兼松課長は指令室に入ってしばらく出てこなかった。
西崎の携帯が振動した。
「西崎」
「真衣です」
「真衣ちゃん。今、捜査本部とうちの課長が話をしてる。10分でなくてもいい。電話出来る時に適当に電話してくれないか。真衣ちゃんに危険が及ぶようなことは、してはいけない。そんなことになれば、俺は孝子に許してもらえない。だから、危険がないと思われる時だけでいい。これだけは絶対に守ってくれ。わかるな」
「はい」
「長話もいけない。切るぞ」
「はい」
真衣の申し入れに食いついてしまったが、そのことで真衣を窮地に追い込んだら悔いが残る程度では済まない。突破口になりそうな状況だと、それにのめりこむ刑事の習性が他人を不幸にする場合がある。それがわかっていても、刑事は突っ込んでしまう。西崎は悩んでいた。
部屋から顔を出した課長が手招きした。
指令室には五人の男がいた。その五人の中で一番若いと思われる男の前に連れられて行った。
「警視、うちの西崎巡査部長です」
「はい。ああ、日下部です。中の人質と知り合いですか」
「はい」
「どんな人です」
「成沢真衣という、高校三年生の女子です」
「高三の女子」
「はい」
「どんな子ですか」
「どんな、と言われますと」
「頼りになりそうか、ということですよ」
「さあ、どうでしょうか」
「どうでしょうか、という程度だということですか」
「まあ」
「わかりました。兼松課長と待機していてください」
「わかりました」
課長と西崎は指令室を出て、本部になっている机の一番端に座った。
「何です、あの若造」
「そう言うな」
「あの歳で警視ってことはキャリアでしょう。あんなのに任せておいて大丈夫なんですか」
「西崎」
「手柄だけが欲しいって顔してますよ。早く東京に帰りたいだけでしょう」
「西崎。もう、それ以上言うな」
「はいはい」
「ともかく、今までの状況を説明しとく」
状況といっても、浅尾弘樹と名乗る犯人が電話で喋った内容だけだった。送られてきた写メを父親に見せて、確認は取れている。散弾銃も父親の持ち物だと推定された。人質の家族から届けられた内容により、17人いる人質の大半が確定出来た。犯人の言った内容で不審な部分は見つかっていない。ネットの掲示板に犯行声明が出たことも確認済みである。
「目的は、何なんです」
「それは、まだわからん」
「要求は」
「それも、まだだ」
「でも、この犯行は異様ですよね」
「ああ」
「人質が自由に電話してますよね。内部の写真も送ってきた。自己紹介までする犯人はありえませんよ。これは、どういうことなんです。本部はどう捉えているんです」
「まだ、何もわかっていない」
「犯人はSATのことも言ってたんでしょう。もう、来てるんですか」
「ああ」
「どう見ても、おかしい。変です」
「警視庁の特殊班が、こちらに向かっている」
「警視庁」
「ばか、声がでかい」
「はあ」
「これは、銀行強盗事案じゃない。銃と爆発物で武装した犯人が人質を取っている。もう、立派にテロなんだ。政府の危機管理室も動いている」
「テロ。犯人に何か背景があるんですか」
「それは、まだわからん。要求が出てくれば、方向は見えてくる」
「で、県警本部の特殊班は動いてるんですか。穴開けるとか、マイクを仕掛けるとか」
「いや。警視庁が来てからだ」
「もっと、でかいビルを借りなきゃ」
「どうして」
「警視庁ごと来ますよ。ここでは入りきれない」
「まあ、それは言える」
「うちの出番も県警本部の出番もなくなりますよ。地域住民とは何の関係もない連中が仕切れば、辛い立場に立つのは人質と周辺住民でしょう」
「じゃあ、うちで、何とかなるのか」
「それは」
「県警本部なら、どうだ」
「んんん」
「少なくとも、お前と俺がここにいる。交通整理してるより、いい」
「まあ」
「これだけは、言っとく。あの子に無理させちゃいかん。上がなんと言ってきても、お前だけはあの子の立場に立って判断しろ。交番勤務になっても、俺がいるかぎり元に戻す」
「はあ」
課長に言われるまでもなく、警察官という立場は二番にすると決めている。一番は成沢真衣の安全以外にない。確かに成沢真衣は頭がいいし、修羅場も体験している。高校三年生の女子生徒に過ぎない成沢真衣に重荷を、人命に関わる重荷を背負わせることはできないと思っていた。携帯が振動し、西崎は席を立って本部の衝立を出た。
「真衣です」
「真衣ちゃん。最初にルールを決めとこう」
「はい」
「先ず、俺からは電話しない」
「はい」
「安全と思えなかったら、真衣ちゃんは電話をしない」
「はい」
「電話の途中でも、真衣ちゃんの判断で電話を切る」
「はい」
「いいかい、安全の上に、安全を確保する」
「はい」
「おじさんは、全力で対応するけど、期待はしないでもらいたい」
「はい」
「ほんとは、期待しろと言いたいんだけど、期待外れは嫌だろ」
「ええ」
「今、現在、俺にできることは、何もない。だから、真衣ちゃんと俺の考えていることを統一させておきたい。そんなつもりじゃなかったと、後で後悔するの、辛いもんな」
「はい」
「先ず、真衣ちゃんの、そのままの気持ちは」
「助かりたい。私だけじゃなく、皆が」
「ん」
「ここで、死んじゃったら、酷くない」
「ひどい」
「おばあちゃんもお母さんも応援してくれているから、私、大学に行きたい」
「ん」
「おじさんなら、わかるよね。私が大学に行けるなんて、驚きでしょう」
「ああ」
「だから、おじさん。助けて。三度目の正直なんて、嫌だからね」
「ん」
「実はね、こんな風に思っている自分が、不思議なの。生きていたい、という本音がよくわかった」
「ああ」
「それだけ」
「ん。わかった。今度は、おじさんが、どう思っているか、だけど、電話、まだ大丈夫か」
「一度、切る。しばらくして、電話する」
「わかった。いいか、絶対に無理はするな。絶対に」
「はい」
西崎は廊下を歩き回った。まるで檻の中の熊だったが、本人は周囲に気を使うほどの余裕はなかった。
「西崎」
「真衣です」
「今度は、おじさんの正直な気持ちだ」
「うん」
「犯人の様子はどうだ。イライラしてるとか、緊張してるとか」
「そんな風には見えない。とても、落ち着いてる。どちらかと言うと、楽しそう」
「そうか」
「歌でも歌いそう」
「やっぱり、変だよな」
「へん」
「犯人は、今、犯罪行為の真っ最中だろ。警察が取り囲んでることもわかってる。落ち着いてる場合じゃないはずなんだ。それに、人質の真衣ちゃんは、こうやって自由に外部と電話をしてる。警察が欲しがる内部の写真も、犯人が送ってきたし、自己紹介までしてる。どう考えても、変」
「そうだね」
「なぜ、犯人は、こんなことしてるのか。自分にとって利益があると考えるのが自然だろ。そこに、きっとこの事件を終わらせるヒントがあると思ってる。それが何なのか、さっぱりわかってないけどな」
「うん。変ね」
「真衣ちゃんには、俺の目になって欲しい」
「わかる。一寸、待って。電話するみたい。切るね」
「ああ」
西崎は急いで本部の中に戻った。

「はい。日下部」
「ハイジャック犯の浅尾弘樹です」
「質問がある」
「質問は、受け付けません。それでご不満なら、電話を切ってください。僕は、交渉先を警察以外にしてもいいんです。例えば、テレビ局とか」
「・・・」
「どうしますか」
「質問はやめる」
「では、先ほどの人質交換の件からですが、どうしますか」
「交換したい」
「そうですか。では、その方の電話番号をお聞きします。この電話が終わり次第、直接本人と打ち合わせします」
「すぐに調べる」
「わかりました。では、最初の要求です。もうすぐ昼になります。人質の方のために昼食を差し入れていただきたい。コンビニのおにぎりは駄目ですよ。そうですね、近くの民家の方にお願いして、手製のおにぎりにしてください。17名分です。食事に薬を仕込むという話を聞いたことがありますが、人質を眠らせても意味ないですよね。僕は自分の食料は持ちこんでますから、差し入れの食料は食べません。飲み物も用意してください。何か問題ありますか」
「いや」
「では、二つ目の要求です。現金を用意してください」
「現金」
「金額は、500億円です」
「500億」
「M銀行の本社に連絡してください。新札でも旧札でもいいです。できれば、帯封があった方がいい。受渡し場所は、この銀行の前です。明日の朝、9時まで待ちます。この電話、録音してますよね。繰り返し聞いて、間違いのないようにお願いします」
「無理だ」
「その無理を通すのが、あなたの仕事です。お願いします。先ほどの電話番号は」
電話番号を伝えると、電話は一方的に切れた。
録音された電話内容が、すぐに捜査本部の部屋でも確認された。これでは、警察の窓口が子供扱いされたようなものだった。警察内部の肩書だけで交渉人になった日下部警視は何の役にも立っていない。一秒たりとも犯人から主導権を奪えないまま、素直に要求をお聞きしただけだった。
「課長」
「ん」
「警視庁に任すしか、ないようですね」
「ああ」
指令室から、初老の男が出てきた。不機嫌な顔を隠そうともしていない。
「兼松課長」
「はい」
「昼食の手配、お願いできますか」
「はい」
男は肩を落としたまま、指令室に戻って行った。
「あれは」
「刑事部の斎藤次長」
「お気の毒に」
「ああ」
兼松課長が自分の携帯電話を取り出して、衝立の外に出て行った。西崎も課長の後ろについて出た。17名分のおにぎりを依頼している。
「誰に頼んだんですか」
「米屋の井川」
「友達」
「いや、遠いけど親戚だ。せめて、いい米を食べてもらいたいじゃないか」
「まあ、そうですけど」
「俺は、一度署に戻る」
「はあ。まずいでしょう」
「昼食の手配のためだ。西署の代表は、お前だ」
「課長」
「課長命令だからな」
課長は平然と出て行った。確かに居心地のいい捜査本部ではないが、管理職としては戦列放棄に等しい。真衣との電話がなければ、自分が飛び出していたかもしれない。
一時間後に課長が戻ってきた。その間に真衣から二度電話があったが、すぐに切った。あまり頻繁に電話をしていると、何がおきるかわからないという心配があった。
捜査本部の机の端に座っているのは西崎だけじゃない。兼松課長と同年代と思われる地味な男が誰とも口をきくこともなく座り続けている。
「まだか」
「ん」
「そうか」
課長が声をかけて、男の肩を叩いて西崎の横に戻ってきた。
「誰です」
「県警本部の三河警部補だ。人質の身代わりに志願した」
「ああ」
「昼飯の電話はまだか」
「まだだと思います。用意は」
「できた」
「持っていく時、俺も行きます」
「いや、いい。細川を連れて行く」
「そうですか」
誰かの携帯電話が鳴った。マナーモードにしていない警察官がいることに驚いた。
「はい。三河です」
少し離れた場所で三河という警部補が電話に出ている。暫く、返事をしていたが、立ち上がって指令室に入って行った。
「兼松」
「はい」
本部の斎藤次長が出てきた。
「三河に食事を運ばせる。犯人の指示だ。入口まで一緒に行ってくれ」
「はい」


6

西崎と連絡していることで、真衣の気持ちは落ち着いている。何かが変わるようなことはしていないが、外部の人間と繋がっていることは、自分の中に籠らずに済む。犯人が昼食のことで指示を出していた。同時に人質の交換が行われるようだ。銀行員の男性が糖尿病だと言って手を挙げた時、他の銀行員が驚いた様子をした。糖尿病だということを誰も知らなかったという印象だが、あの男は嘘をついているのだろうか。
犯人が自分の携帯電話を手にして、プッシュボタンを押している。
「今、どこにいますか」
「銀行の前です」
「横に通用口のドアがありますので、そこまで移動してください」
「わかりました」
「電話は切らないでください」
「わかりました」
少し人質の間に緊張があった。
「ドアの前にいます」
「お一人ですか」
「はい」
「鍵を開けます。強行突入をすると犠牲者が出ることになりますよ」
「わかってます。そんなことはしません」
「ドアを開けて、荷物を入れてください」
犯人はドアの鍵を開けると、ドアから離れ、携帯をポケットに入れて銃を構えた。
中年の男性がビニール袋を四つと小さな段ボールを二つ、ドアの内側に持ちこんだ。
「ドアを閉めてください」
「はい」
「本橋さん」
「はい」
「その人の手錠を外してあげてください」
本橋が銀行員の男性の手錠を外した。人質がトイレに行く度に手錠を外しているので、慣れた手つきになっている。
「あなたは、外に出てもらって結構です」
銀行員は何度も何度も頭を下げて、出て行った。
「三河さん」
「はい」
「そこに座ってください」
「本橋さん。その人に手錠を、お願いします」
人質交換作業は、何の問題もなく終了した。
「三河さん」
「はい」
「武器は持ってませんか」
「持ってない」
「マイクはどうです」
「ない」
「調べて、出てきたら、面倒なことになりますよ」
「わかってる」
「そこに、うつ伏せになってください」
三河は素直に横になった。犯人は、片手でゆっくりと体を調べていく。
「仰向けになってください」
三河が体を反転させた。
「口を開けてください。少し痛いですよ」
犯人は銃口を三河の口に押し込んで、体を調べた。
「靴を脱いでください」
三河が脱いだ靴を、犯人はドアの外へ放り投げて鍵をかけた。
「三河さん。命令で来たんですか。それとも、志願したんですか」
「もちろん、志願して来た」
「そうですか。あなたの勇気に敬意を表します。何かあれば、あなたが最初の犠牲者になることを承知で来た、ということですね」
「そうだ」
「ここだけのルールを説明します。電話の着信は認めませんが、発信は認めています。ただし、あなたは警察官なので、携帯は没収します。トイレは、彼女に言って手錠を外してもらって行っていただいて結構です。時間は短くお願いします。すぐには解決しないと思いますのでリラックスしてください。以上です。携帯を」
携帯を受け取った犯人は定位置にしているカウンターの向こうの席に戻った。
「本橋さん。皆さんに食事を配ってください」
昼食はプラスチックケースに入った三個のおにぎりと漬物。誰もが無言で食べた。空腹だっただけではなく、おにぎりと漬物が美味しかったからだが、人質の心に余裕があったことが最大の原因だった。人質でありながら、外部との繋がりが断たれていない。銃と爆発物と手錠に拘束されているのに、切迫感は少ない。そこには不思議な空気があった。
真衣もおにぎりを二つと漬物を食べて、ペットボトルのお茶を飲んだ。犯人は自分で持ち込んだ物を食べていたようだが、何を食べていたのかは見えなかった。
銀行の男子社員が、手を挙げた。
「すみません」
「どうしました」
「たばこを吸ってもいいですか」
それを聞いた真衣は、お前は小学生か、と思った。
「我慢してください」
「駄目ですか」
男子社員は落胆した様子で肩を落とした。
西崎が「なんか、変だ」と言っていたが、真衣もその思いが強くなっている。犯人の意図はどこにあるのだろう。爆発物を用意し、自分の食事も用意している。犯人の計画は時間をかけて充分に練り上げられたものなのだろう。落ち着いているし、焦る様子は一度も見せていない。
食事の匂いが残る中、犯人が席を離れて近づいてきた。
「佐々木さん」
「はい」
銀行の女子社員の前で、屈みこんだ犯人が女子社員の胸の名札を見て声をかけた。
「本橋さんの代わりをやってもらえませんか。本橋さん、かなり疲れてます」
「・・・」
「おねがいします」
「はい」
女子社員が小さな声で返事をした。
「本橋さん。御苦労でした。佐々木さんと交代してください」
「はい」
犯人に言われて気付いたが、確かに本橋という社員の顔には疲労が浮き出ていた。それに気づく犯人は誰よりも先を走っている。犯人の後ろ姿だけを見ていたのでは、何も見えてこないのではないだろうか。
世話係の交代が終わった。
「犯人さん。質問してもいい」
相棒の黒崎雅子が手を挙げた。
「あなたも、たばこ、ですか」
黒崎は苦笑いをして首を振った。
「何です」
「私にも、あなたと同じ年頃の息子がいるんです。だから、あなたのことが心配で」
「で」
「目的は、何」
「・・・」
「どうして、こんなことしたの」
「犯行目的と犯行動機ですか」
「あなた、死ぬ気でしょう。死んじゃったら、誰にもわからなくなる。皆に知っておいて貰った方がいいんじゃないかと思うの」
「そうでもないです。どっちでも、いいみたいな事ですから」
「そう。でも、私は知りたい。私たち、死ぬかもしれないのよね。冥土の土産に持っていきたいじゃない」
「お土産は、なしってことで」
「寂しいわね」
そこで、黒崎雅子は口を閉じた。まだ手荒な事をしていないからといっても、相手は立派に銀行強盗だし、銃も持っている。親戚の男の子と話をするような訳にはいかない。横に座っている真衣の方が緊張していた。
犯人は自分の席に戻り、下を向いている。その手元は見えないが携帯電話を操作しているように見えた。
人質は来客者が5人と銀行の社員が11名、そして警察官が1名の17人だった。真衣は人質の様子を観察した。来客者は真衣と黒崎、年配の男性が1人と中年の女性が2人の5人だ。きっと商店街の人達なのだろう。銀行の場合、なぜ社員と言わずに行員と呼ぶのか不思議だったが、真衣の目には普通の会社員に見える。男性社員が3人と女子社員が8人。銀行というのは女性の職場なのだとわかる。電話してる人もいれば、メールをしている人もいる。食事をした後で、うとうとしている人もいた。絶体絶命の場所に閉じ込められているにもかかわらず、時間の流れはゆったりとしていた。
「佐々木さん」
「はい」
「あのテレビは、使えるんですか」
「はい」
「ニュースが見たいんですけど、お願いできますか」
「はい」
佐々木がリモコンを使ってテレビの電源を入れ、音量を上げた。NHKのニュースが始まる時間だった。最初のニュースが銀行ハイジャック事件のことだった。まだ、詳しい発表はなかったようで、事件が起きているということを伝えるだけのニュースだった。
浅尾弘樹と名乗った犯人は、興奮した様子もなくテレビを見ていた。
「佐々木さん。音を落としてください」
「はい」
「時々、他の局もチェックしてくれませんか」
「はい」
犯人がネット上に犯行声明を出しても、テレビ局がそのまま電波に乗せることはできない。犯人の浅尾は警察に宣言したように、事件の推移を掲示板に載せている。それでも、その投稿が犯人のものと特定できなければテレビ局は取り上げることはできない。ネット上には犯行声明らしきものや、犯行予告ともとれる投稿がいつも存在する。警察発表でもないかぎり、投稿の信憑性を証明することはできないのが現状だった。マスコミに突き上げられるような格好で警察は事件の存在を認めたという段階なのだろう。じきに、マスコミの取材班が東京から押し寄せてくる。現地の映像が送れるようになれば、テレビはハイジャック事件一色に染まることになる。

冷房が使えないので、捜査本部の中はうだるような暑さだ。持ちこんだ扇風機も熱い風をかき回すだけでは室温を下げることはできない。西崎は建物の外に出て、煙草を手にした。西崎の仕事は冷房の効いたオフィスでするものではないので、暑さには慣れていたが本部の中は熱すぎた。少し離れた場所にある園田不動産のビルを借りる交渉が行われている。東京のエリート連中をあのカラオケハウスに閉じ込めれば、それだけで県警本部は辛い立場に立たなければならないという判断があったようだ。自分の管轄内で起きた事件を別の人間が指揮する。決して気分のいいものではない。警察官である自分が言うのも変だが、大きな事件が少ない西警察署管内に特別捜査本部ができるのは珍しいので、自分の家に警察が踏み込んできているような不快感があった。
犯人の浅尾弘樹の父親は県会議員だが、母親は浅尾建設の社長をしている。園田不動産は、その浅尾建設の系列会社らしい。
人の動きが忙しくなった。捜査本部の移動が始まったようだ。日下部警視が全速力で走りだした。犯人からの電話がいつ来るかわからないので、電話回線の切り替えも一瞬でしなければならないし、窓口の日下部警視も瞬間移動をするぐらいでなくてはならない。
「西崎。行くぞ」
兼松課長に声をかけられて、西崎は煙草をもみ消した。
「課長。電車は」
「じき、だろう」
JRに交渉して、全列車が園田駅を通過するように依頼している。隣の駅との間はバスで結び、事態が更に悪化すれば電車は折り返し運転になる。近くの住民の避難は、西署の大半の人間が出て誘導した。駅前に残るのは警察官だけになるだろう。二次被害がでれば、県警本部上層部の首が飛ぶことになる。
「嵐が来る」
「・・・」
「警視庁の次には、東京からマスコミの集団が来る」
「ありゃりゃ」
「県警本部も総員出動だろう。マスコミ対策だけでも大変だ」
「そういえば、さっき大きなカメラ担いだ奴がいましたよ」
園田不動産ビルの前に車列が止まった。西署の交通課が後続の車両を誘導している。
「警視庁が来たな」
「はあ」
園田不動産ビルの二階会議室が捜査本部の指揮所になった。西崎と兼松が二階に行った時には、すでに幹部による捜査会議が始まっていた。ドアの外を特殊班と思われる黒装束の一団が上の階へと駆け足で通り過ぎた。
「戦争ですね」
「戦争だろ」
「そうは思えませんけど」
「どうして」
「ここは、東京のど真ん中じゃありません。重要施設がある訳でもない。地方の、ごく普通の田舎町ですよ。こんな町でテロは似合いません」
「過剰反応だと思うのか」
「いいえ。銃と爆発物ですから、過剰だとは思いませんが、テロではないと思います」
「どうして、そんなことが言える」
「さあ、どうしても、ですかね」
「この事案でも、西崎の勘は通用するのかな」
「さあ、わかりません」
「嫌な予感がするんだ」
「駄目ですよ、課長の悪い予感は」
「わかってる」
「金は用意できるんでしょうか」
「まだ、わからない。あの会議が終わったら確認しとこう」
「500億でしょう。意味わからない」
「金を持って高飛びするつもりでないことだけは確かだな」
「この犯人のやることは、訳わからんことばかりですよ。いちいち、気に入りません」
「捜査本部は後追いになってる。先を読まないと、いつまでも追いつけないかもしれん。警視庁に期待するしかないがな」
「ええ」
「西崎。先を読め。警視庁も県警本部も所轄に何かを期待してるってことはない。それは、本部の方針から外れていても文句言う奴がいないということだ。俺たちは俺たちの捜査をする。お前の言う田舎刑事の意地みたいなもんが役に立つかもしれん」
「課長。管理職がそんなこと部下の前で言っちゃまずくないですか」
「大丈夫だ。証人はいない。もっとも、俺が言わなくても、お前はそうするだろ」
「そうですけど、上司が唆すのもどうかと思います。懲罰もんですよ」
「お前もな」
「煙草、吸ってきます」
「ああ」
犯罪者に共通すること。それは必ず嘘をつくということだ。小さな犯罪でも大きな犯罪でも、自分を有利にするために巧妙な嘘をつく。長年犯罪者と向き合ってきた西崎は、そのことを知っている。この事案の場合、犯人は特定されているのだから、警察は犯人と対峙していることと同じだ。取調室か立てこもりの差は無視しよう。犯人は、どんな嘘をつこうとしているのか。それが、まだ見えない。
「西崎」
「おう」
警察学校で同期だった柿崎という男で、二人とも優等生ではなかった。名前が似ているので、落ちこぼれの代名詞になったのが両崎という呼び名だった。教官も「西崎と柿崎」と言わずに両崎とよんで説教した。柿崎はいつの間に習得したのか、上司に取り入る術を身につけて、県警本部の刑事課に所属している。
「なんで、お前がここにいる」
「本部の待機班だ」
「へえ。お前が、ね」
「何、やってる」
「俺はネット担当だ」
「それが、そうか」
「持っていくとこだ」
「俺にも、一部くれ」
「ほんとに、本部にいるんだろうな」
「一緒に行こう。うちの課長も上にいる」
「わかった」
柿崎は会議中の幹部に一部づつ配布し、残りを空いている机の上に置いて、西崎に頷いて見せた。しっかりした野郎だ。資料を手渡すのではなく、机の上にある資料を西崎が取れば、柿崎の責任にはならない。警察学校にいた頃は純粋な若者だったのに、いつのまにか世渡り上手になっている。昇進試験も無難にこなし、今は警部補殿だ。試験を苦手とする西崎は一生巡査部長のままだろうと自分で確信している。少しは見習わなくてはならない。
「犯人の書き込みだそうです」
西崎は一部を課長に渡した。事件の経過が細かく書き込まれている。その内容には自分を有利にするような誇張も嘘もない。つまり、つけ入る隙がないということだ。
真衣からの電話は、およそ30分に一度の割合で来ているが、真衣を励ます言葉だけで終わっている。犯人からの連絡もなかった。ただ、特殊班の動きは慌ただしく、何かが進行している。
警察は第一段階として説得を試みる。説得に関しては粘り強く試みる。だが、それはあくまでも試みるのであって、結果が出るかどうかは相手次第になる。ただし、この事案に限っては現在まで説得は行われなかった。
警察が事件発生から終結まで一貫して考えているのは強行突入のことである。強行突入のために可能な限りの情報を収集し、最も有効と思われる手段を取り、果敢に行動を起こす。その時、人質の安全は最大限考慮されるが、考慮ばかりしている訳にはいかない。総合的判断という言葉で納得が得られる状態になれば、強行突入は実行される。そんなことは西崎にもわかっていた。
巨大な車輪が回り始めている。所轄の刑事にできることは限られている。真衣を救いだせるという、根拠に乏しい自信は時間と共に削られていく。犯人に主導権を握られたままでは、人質の救出など願うこともできない。まだ、見えていない犯人の嘘を見つけなければ何もできないということだった。
犯人が使用した電話も、最初に110番をしてきた本橋という女子社員の携帯も繋がらない。犯人からの電話を待つだけという状態は決して好ましいものではない。幹部の中には拡声器を使うべしという意見もある。「お前は完全に包囲されている。武器を捨てて出てきなさい」と拡声器で叫んだところで、効果があるとは思えないという意見が大半だったし、犯人の両親には説得する意志もない。三階にいる特殊班の検討結果次第で、一気に強行突入に踏み切るという決断もあるのではないかと思われた。
電話が鳴った。
「はい」
「ハイジャック犯の浅尾弘樹です。日下部さんと声が違いますね」
「楠木と言います。今からは私が窓口になります」
「どうぞ。人質の方の夕食の依頼です。六時にもう一度電話しますのでよろしく」
「浅尾さん。少し話できませんか」
「それより、現金の方はどうですか。問題ないですよね」
「全力でやってますよ。どうして・・・」
電話は切れていた。すぐにかけ直したが応答はなかった。
斎藤次長が兼松課長の方を見て、頷いてみせた。課長は軽く会釈をして立ち上がった。人質の食事の手配は所轄の仕事だと課長も納得している。コンビニ弁当を差し入れるようなことはしたくないと思っているらしい。人質にとっては最後の食事になる可能性もある。その食事がコンビニ弁当では申し訳ないと思っているのだろう。
所轄の二人は指揮本部のオブザーバーのような立場にあった。会議には参加できないが、同じ部屋にいることはできる。必要に応じて指示に従う、便利屋みたいな存在だった。二人一緒に部屋を離れることはできないが、一人残っていれば部屋の出入りは自由なので、喫煙者の西崎にとっては都合のいい立場だった。
捜査本部全体の指揮を取っているのは、警視庁の西原警視正という風采の上がらない中年男性だが、実際に捜査を動かしているのは楠木という若い警視だった。
「主導権は、現在のところ犯人側にあります」
楠木警視の話し方は落ち着いていて、県警本部の日下部警視に比べると信頼できそうな感じがした。
「その主導権を我々の方に持ってくるための努力が必要だと思っています。そのためには、犯人について、よく知っておく必要がありますし、犯人の弱点を掴むことです」
このキャリアは、若造のくせに捜査がわかっていると西崎は思った。犯人の弱点を掴むことで主導権は変わる。どんな犯罪にも共通することだった。
「一度、犯人についてわかっていることを整理してみましょう。斎藤次長、お願いできますか」
日下部警視を指名せずにベテランの斎藤次長を指名する知恵も持っているようだ。
「はい」
日下部警視の方を心配そうな視線で見た後、斎藤次長が話し始めた。
「犯人は、浅尾弘樹、29歳です。父親は県会議員、母親は浅尾建設の社長です。男ばかりの三人兄弟で浅尾弘樹は末っ子です。一番上の兄は父親の秘書をしており、次兄は浅尾建設の専務取締役をしています。本人は、高校中退で、過去も現在も職業についたことはありません。現住所はK市の加美町です。両親とではなく、祖父母と一緒に暮らしていました。5年前に祖父が、2年前に祖母が亡くなり、現在は加美町で一人暮らしです。加美町は、ここから電車で20分の場所です。高校中退の理由はわかっていません。友達は多くありませんでしたが、いじめ等はなかったと言っています。突然学校に来なくなり、それ以降は一度も会ったことがないそうです。ただ、加美町での聞き込みでは、ひきこもりになっていた様子はなく、祖父母と一緒に花の栽培をしていたようです。近隣の人は、おとなしい男だと言っています。銀行強盗など想像できないそうです。祖母も、優しい孫だと言って可愛がっていたと聞きました。ただ、両親との折り合いは悪いようで、両親の方でも息子の説得に力を貸す気は全くありません」
「高校中退と両親ですね。犯人の弱点は。どんな両親なんですか」
「はい。父親は婿養子で、母親は浅尾建設の二代目社長です。浅尾建設はN県では大手建設会社で、商売も手広くやっています。傘下に貸金業もあり、我々は暴力団との癒着もあると思っています。犯人が住んでいる祖父母の家は、父親の実家になります」
「農具小屋の爆破がありましたが、その加美の近くですか」
「すぐ近くではありませんが、車で15分程度の場所です」
「土地勘はあったということですね」
「はい」
「両親と息子の関係、そして、高校中退。更に深く捜査をしてください」
「はい」
「特殊班の検討結果によりますが、人質救出にとって一番の障害は爆発物です。それとネットです。犯人は克明に事件の推移を投稿しています。基本的に犯人の投稿内容については否定もしくは無視しますが、世間が騒ぐことは避けられません。ですから、警察は一枚岩でなくてはなりません。皆さんの協力が必要です。お願いします」
黒装束の男が部屋に入ってきた。
「紹介します。警視庁警備部特殊班の佐伯警部です」
「佐伯です」
「どうです」
「難しい、です」
「問題は」
「我々はあのビルの3階を借りて、救出シミュレーションをしましたが、2分で人質救出を終わらせることはできませんでした。4分でも難しいでしょう。これは、訓練ではありませんので、人質がどんな行動に出るか予測がつきません。爆発音や銃声の中で、人質が冷静な行動を取るとは想像できないからです。食事に睡眠薬を入れて、人質を眠らせた状態で突入した方が成功の確率が高くなります。それでも、この時間の制約は厳しいと考えます。最悪の場合、人質も我々警察も、多くの犠牲者を出すことになります」
「内部の映像は」
「はい。2カ所からの映像がとれるようになります」
「犯人を瞬時に無力化することは、可能ですか」
「はい」
「爆発物の起爆装置に、犯人の言うような装置を組み込むことは」
「本庁の方で検討してもらっていますが、不可能ではないと言われました」
「そうですか。更に検討してください」
「はい」
黒装束の男は厳しい表情で部屋を出て行った。
「さて、犯人の目的がわかっていません。どなたか、意見はありませんか」
会議は静まりかえった。
「身代金が目的ではありませんよね。現状では、何の対策もとれません。犯人の後追いをしていては、主導権をとれないということです。是非、皆さんにも知恵を絞っていただきたい。お願いします」
指揮本部の会議は終わり、個別の打ち合わせが始まった。
お友達になりたいというタイプではないが、指揮官としては合格点を出してやってもいいかもしれないと西崎は思った。それにしても、犯人は何を隠そうとしているのだろう。



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弱き者よ - 1 [弱き者よ]




神よ
答えよ
弱き心を持つ男に
強き肉体を与え
強き心を持つ女に
その力を与えなかったのは
なぜ
支配と隷従を放置し
世界を混沌とさせたのは
なぜ
今、世界が崩壊へと走っている
そのことが予測できなかった訳ではあるまい
それとも
人類が今日まで生き延びたことが奇跡だと言うのか
苦しみから至福が生まれると
本気で信じたのか
答えよ
神よ











1

電車が到着したようだ。駅から出てくる人が多かった。待合室に人影があるのは、到着した電車が下り電車だったのだろう。駅舎の中に入り、空いているベンチを捜した。売店のおばさんが真衣を見た。いつもはチラッとしか見ないが、真衣の様子に目を止めている。おばさんと友達になっているのは妹の真樹で、真衣はおばさんと話をしたことがない。おばさんの目が、「妹は」と言っていた。真衣は売店から目を逸らして離れた場所に座った。教科書を取り出して読み始める。なんの心配もない生活がどんなものだったのか、今では思い出せない。しかも、今日は妹と喧嘩をして、気持ちはさらに沈んでいた。教科書の文字を見ていると、文字が日本語に見えなくなってくる。やはり、真樹のことが気になった。でも、もう万引きはしたくなかった。真樹は「あんぱんが食べたい」と言って駄々をこねた。昔、真衣は一度だけあんぱんを万引きしたことがある。心臓が飛び出してくるのではないか、と思うほどの恐怖を味わった。だから、もうしない。真樹は学校の給食を食べているのだから我慢しなさいと叱った。真樹は、「おねえちゃんのケチ」と叫んで走って行ってしまった。姉妹にとって、何よりも辛いのは空腹だった。毎日のことだが、今も真衣は空腹の痛みを感じている。空腹に慣れることがないのは、なぜなのだろう。母が勤めに行くのが四時で、父親が飲みつぶれて眠るのが七時。それより早く帰っても碌なことはない。七時過ぎに、そっと家に入り、味噌汁を作ってご飯にかけて食べるのが真衣と真樹の夕食だった。お米や味噌がない時もある。母の稼ぎの大部分は父の酒代になってしまうからだ。母は二年前まではスーパーに勤めていたが、父が何度も勤務先に前借りに行き、母は首になった。仕方なく、母は電車に乗って繁華街の酒場に勤めるようになった。ホステスになって給料が増えた分、父の酒量が増えたので子供たちの空腹は未だに解決していない。中学生と小学生の二人の姉妹にできることは何もなかった。
真樹のことが心配になり、真衣は六時に駅を出た。真衣の家は田畑が広がる、文字通り町外れにあった。歩を進める度にどんどん気持ちが重くなっていく。
消防車が鐘を鳴らしながら真衣を追い抜いて行った。
なぜか、真衣は胸騒ぎを感じて、小走りになっていた。二台目の消防車が真衣を抜き去って行った。
材木工場の塀が終わると、目の前に火があった。闇の中で炎が踊っている。
「真樹」
真衣は全速力で走った。家の前の空き地に座り込んでいる女がいる。こんな時間に母がいるはずがないのに、その背中は母の背中だった。
「母さん」
「真衣」
「・・・」
「真樹は」
「・・・」
母の顔が変わった。
「一緒じゃなかったの」
「まさか」
「あああああ」
母が火に向かって走り出した。
「危ないですから。下がってください」
消防隊員が大声を出した。
「子供が」
「奥さん」
「どいて。あの子を巻き込むわけにはいかないの。どいて」
「だめです。奥さん」
消防隊員が両手を広げて立ちふさがったが、母は消防隊員を突き飛ばして走った。
「清水。止めろ」
ホースを用意していた別の隊員が振り返って、突進してきた母を抱きとめた。
「行かせて。子供が」
「無理です」
二人が揉み合って、地面に打ち付けられた。隊員は立ち上がったが母は倒れたままだった。
「奥さん」
母の体は反応していない。
「救急」
待機していた救急隊員が走り寄った。まだ放水は始まっていない。家の中で何かが小さく爆発する音がした。
真衣は火の熱さと恐怖で、その場に座り込んだ。
「成沢さん」
「先生」
「真樹ちゃんは」
真樹の担任をしてくれている片岡先生が真衣の横に身をかがめて見ていた。真衣は首を横に振った。
「下がってください」
消防隊員の声は命令だった。
真衣は火の粉の真っただ中にいた。
「真衣さん」
片岡先生に腕を取られたが、立ち上がれなかった。体の自由がきかない。先生に引きずられて空き地を離れた。担架に乗せられた母が救急車に運ばれて行くのが見えた。真衣の頭の中は真樹のことで一杯だった。「どうか、家に戻っていませんように」と祈る気持ちだったが、真樹には他に行くところがないこともわかっている。真衣は既に、母が火をつけたことを確信していた。「どうして、気がつかなかったのか」と母を責める気持ちがあるが、自分のせいだということもわかっていた。こんなことだったら、万引きをしてでも強盗をしてでもパンを食べさせてやればよかった。
真衣は茫然と消火活動を見ていた。時間の感覚はなくなっている。目の前の出来事は現実ではないように感じている。それは、まるでプールの底に沈んだままで景色を見ているような感覚だった。
放水が始まると、火はあっけなく消えた。農協が仮の倉庫として使っていた建物を改造して住んでいたので、太い柱も分厚い壁もない。家財道具も最小限の物しかなかった。
少し離れた場所で先生と消防隊員が話していた。
「真樹ちゃんとお父さんみたい」
真衣は縋るような眼で先生を見た。嘘だと言って欲しい。
「先生も残念だわ」
その時、真衣は大きくて重い十字架を背負った。妹の死は取り返しのつかない重罪だった。
小学二年生の時に、父が会社を辞め、この町にやってきた。母の話では流行のリストラによるものだったようだ。明るくて元気だった父は酒に逃げた。家に酒がなくなると、暴れるようになり、家庭は崩壊した。三人で逃げようと母に相談したが、母は寂しそうに笑うだけ。「いつか、昔のお父さんに戻ってくれる」と母は信じたかったのだろう。妹の真樹が物心ついた時は飲んだくれの父親になっていたので、父親とはそんなものだと思っているところがあり、一人だけ明るい性格の子供でいられたし、それが救いでもあった。姉妹が別々の行動をとることなど、年に一度あるかどうか。それほど二人の間は密着していた。そのことが母を安心させていたようで、母からありがとうと言われたことがある。最低最悪ではあったが、見せかけの安定だけはあった。他の人から見れば、そんな状態を安定とは言わないのだろうが、ないよりはあった方がいい。今は、その最低最悪の安定すら失くしてしまったのだと思う。転びながら、這いずりまわりながら中学一年になったことに何の意味があるのだろう。
真衣は周りを見た。見知らぬ風景の見知らぬ町の見知らぬ道路にしゃがみ込んでいる自分。妹の世話をすることで、自分自身を保つことができていたことは漠然と知っていた。いや、妹を失ったことで気づいたのかもしれない。
「お母さんのいる病院に行こう」
先生がしゃがみ込んで真衣の顔を見た。
真衣は首を横に振った。父と妹を失くし、共犯者になった母をも失くした。母とは会いたくなかった。真衣は首を横に振って立ち上がった。
宙を歩いているような不安定を感じながら、歩き始めた。
「どこに、行くの」
「大丈夫です。友達の家に泊めてもらいます」
真衣に友達と言える人間はいない。同級生が真衣をはじき出していたわけではなく真衣が拒絶していたせいで友達はできなかった。友達同士でお互いの家を訪問している話は聞いたことがあるが、真衣は誰かの家に遊びに行ったことがない。それは、友達を家に呼ぶことができない現実があったから。小学校の頃は給食費も払えない時が多く、積立など払ったことがない。先生は何とかするからと言ったけど、修学旅行へは行かなかった。たとえ小学生でも世間づきあいはあるのに、貧乏人にはそれができない。母が火をつけることも認める。父が死ぬことも仕方がない。でも、真樹を巻き添えにした母と自分は許せなかった。その日暮らしで、未来に何の光もない毎日だったが、妹の明るさだけが生きる糧だったことに気付いた。自分には真っ暗な闇しか残されていない。
駅舎が見えてきたが、真衣は道を右に曲がった。次第に人家が少なくなり、両側が畑になった。遠くで踏切の警報が鳴っている。時たま、車が行きかった。
真衣は暗い農道に入り込んだ。この辺は田圃が多く、今は作物のない季節だった。暗闇の中を、足元だけを見て進んだ。
真衣は足を止めた。真樹の声が聞こえたように思い、暗闇の中を見つめた。
この農道は、昔、線路の土手に生えているつくしを取りに真樹と二人で来たことがある。
暗闇の中に、見覚えのある小さな小屋がうっすらと見えてきた。風が強くなってきたようだが、寒さは感じていない。足を前に出していることにも意識はないし、靴の下にある地面の感触もなかった。
小さな物置小屋の横に腰を下ろした。土手を駆け上がれば線路がある。真衣は耳を澄まして音に集中した。
時間の経過はわからないが、遠くで電車の音がしている。真衣は鞄を置いて立ち上がり、両手を地面について土手を登った。電車の音がはっきりと聞こえる。上り電車の明かりが見えていた。
真衣は獲物を前にしたライオンのように、地面に伏せた。電車の音も風の音も聞こえなくなった。近づいてくる電車のライトだけを追った。
体が自然と起き上がり、足が前に出た。電車は運転手が真衣の姿に気づいても、もうブレーキは間に合わない距離に来ていた。線路まで行けば、全ては終わる。
だが、左足が動かないことに気付いた。それまで消えていたあらゆる音が戻ってきた。
「真衣さん」
誰かが自分の名前を大声で呼んでいる。真衣は自分の足を振り返った。片岡先生が真衣の足を両手で掴んで叫んでいる。どうして、先生がここにいるのか。足を引き抜こうと力を入れたが動かない。電車が間近に来ていて、大きな警笛を鳴らした。
電車が轟音とともに目の前を通る。風が吹き荒れた。
真衣の体から力が抜けて行った。電車が逃げるように遠ざかっていく。
真衣は地面に倒され、先生がのしかかってきた。はがい締めにされて、息が苦しかったがどうでもよかった。周囲が静かになり、先生の粗い息遣いだけが聞こえる。
押し付けられていた力が消え、体を起こされ、先生が正面から抱きついてきた。先生の体が震えている。そして、先生は泣いていた。

片岡孝子は薬局の一人娘だが、結婚もせずに小学校の教師をやっている。店は孝子の母と昔から来てくれている薬剤師の安藤さんがやってくれていた。スーパーにも薬局があり、専門店も進出してきているので、昔ながらの薬局は時流に遅れてはいたが、今のところ商売は成り立っていた。店の裏手にある駐車場に入り、エンジンを切った。助手席にいる成沢真衣は一言も口をきかずに下を向いたままだった。
「着いたわよ」
孝子は車を降りて助手席へ廻り、ドアを開けた。
「降りて」
真衣は素直に降りてきた。本当に諦めてくれたのかどうか。自信は持てないが、今は見守る以外に方法はない。中学一年といえば、まだほんの子供にすぎない。火事に動顛した程度では電車に飛び込もうとするはずがない。見えていない部分の方が大きいのはわかっていた。
住居用の玄関を入ると大きな土間になっていて、店舗用のドアに続いている。壁際には商品在庫が積まれていて、ガラス戸の向こうに居間があった。
「おかえり」
店に通じるドアが開き、母親の順子が顔を出した。
「ただいま」
「どうしたの。二人ともどろどろよ」
「ああ。一寸ね」
「その子は」
「成沢真衣さん。今日泊まってもらうから」
「そう。さっき、西崎君が来たわよ」
「西崎君」
「火事のことで」
「ああ。あとで電話しとく」
「そう」
後で話すから、と目で合図して母との会話を打ち切った。
靴を脱いで板間に上がり、ガラス戸を開けて居間の明かりをつけた。
「上がって」
部屋に入った真衣を見ると、制服のまま泥遊びをしてきた生徒のように、泥と草で無残に汚れていた。自分のズボンとジャンパーも汚れている。あの土手で、二人で格闘をしたようなものだから仕方がない。
孝子は真衣を連れて二階に上がった。自分の部屋の隣にある客間として使っている部屋に案内した。
「待ってて」
自分の部屋に入ってジャージを取り出し、客間に戻ると、真衣は部屋の真ん中に茫然と立ったまま窓の方を見ていた。
「後で、これに着替えなさい」
押し入れを開けて、布団を下ろしてシーツを敷く。毛布と掛け布団を重ねて、寝る準備を整えた。
「しばらく、寝てなさい」
「・・・」
「真衣さん」
言葉ではなく、ジャージと布団を指差して、腕を折って耳に持っていき、寝るように言った。真衣が小さくうなづいた。
階下に降りると、母が台所に立っていた。
「西崎君に電話しとく」
孝子はそう言って、庭に出た。
「刑事課の西崎さんをお願いします。はい。片岡と言います」
西崎はすぐに電話口に出てきた。西崎と孝子は小学校に行く前からの付き合いで、今でもいろいろな場面で接触がある古い友達だった。西警察署の刑事をやっている。
「孝ちゃん。今、どこ」
「家に帰ってきた」
「成沢真衣は」
「二階にいる」
「話が聞けるかな」
「今は、無理」
孝子は事情を説明した。
「そうか。だったら、すぐにでも話が聞きたい」
「どうして」
「放火の疑いがある」
「あの子が」
「わからん。でも、あの子は一番近い関係者だからな」
「警察署に連れて行くの」
「話の内容によるけど、そうなるかもしれん」
「わかったわ。でも、無茶しないでね」
「ん。五分で行く」
西崎が来たら、二階に来るようにと母に頼んで、孝子は二階に取って返した。襖をノックして、返事を待たずに部屋に入った。真衣は制服のまま部屋の中央で座り込んでいた。
「警察の人が、火事のことで聞きたいことがあるらしいの。いい」
初めて真衣の表情が動いた。
「すぐに終わると思うから」
気休めでも、安心させたかった。西崎は疑ってかかるかもしれないが、犯人と決まるまでは真衣のことを信じることぐらいしかできない。
「先生。さっきのこと、話した。西崎さんは昔からの友達で、いい加減な奴じゃないから。話してあげて」
火事という言葉にかすかな反応があっただけで、真衣の表情に変化はなかった。着替えさせるだけの時間はないと判断して、孝子は真衣の横に座った。
階段を上ってくる男の足音が聞こえ、西崎が部屋に来た。孝子は西崎の顔を見て首を横に振った。尋問は無理だと伝えたかった。
西崎は真衣の正面に座って、真衣の顔を直視した。真衣の目に西崎の姿が映っているのかどうか定かではない。
「成沢真衣さん。だね」
「・・・」
「家が火事になったよね」
「・・・」
「その時、君は、どこにいたのかな」
「・・・」
西崎は言葉を変えて、同じことを三度聞いたが、真衣の反応はなかった。
ため息をついた西崎が孝子に「話がある」と目で言って、立ち上がった。
孝子は西崎と一緒に階段を下りて、そのまま玄関を出た。
「放火の疑いって、ほんとなの」
「消防は、そう言ってる」
「あの子のお母さんは」
「まだ、話が聞けない」
「・・・」
「病院でも暴れたらしい。鎮静剤で眠ってる。目が覚めても、どうかと病院の先生は言ってた」
「そう」
「二人、死んでるんだ。放火なら、殺人事案になる」
「そうね」
「母親も、あの子も。重要参考人なんだ」
「だから」
「署に連れて行かなきゃならない」
「馬鹿、言わないで。留置する気」
「仕方がない。それに、自殺を図ったんだろ。保護する必要もある」
「・・・」
西崎が間違ったことを言っているわけではない。でも、正論が正しいという保証は、どんな場合でもないことも事実だ。孝子は考えた。成沢真衣にとって、この瞬間の大人の判断が真衣の人生に大きな影響力を持つことになる。後になって、あの時の判断は正しかったのだと言ってみても、それは言い訳にすぎない。真衣が放火犯でなかった時、留置されるということが自殺へのだめ押しになってしまわないか。孝子は何度か真樹の家庭訪問であの家に行ったことがある。たぶん、あの家族はこれでもかと言うほど痛めつけられていたと感じた。そんな子供を大人の都合で追い込んでいいのか。
「西崎君は、私の友達だよね」
「それとこれとは別だろ」
「西崎君だから、私は電話をした。彼女の自殺のことも話した。友達としての誠意だから。今度は、西崎君の番」
「片岡」
「さっき、どこにいたって、聞いてたよね」
「ああ」
「それって、アリバイなんでしょう」
「ああ」
「今日中に証明してあげて。私はあの子に張り付いてるから」
「無茶、言うな。本人が何も言わないのに、どうやって証明するんだ」
「それが、警察の仕事でしょ」
「おい」
「西崎君なら、できる。町中で聞きまくって。あの子の足取りを追って。明日になったら、私が連れていく。それまでに、証明してあげて。お願い」
今度は西崎が天を仰ぐ番だった。
「で。どこか立ち寄りそうな場所、知ってるのか」
「先ず、学校」
「火が出たのは六時前だぞ。学校は関係ない」
「そうね」
「妹の方の担任だったんだろ。妹の立ち寄り場所は」
「そうね。そう言えば、よく駅に行くと言ってた」
「駅」
「待合室で勉強してるんだって」
「駅か」
「スーパーとか、本屋とか。ともかく町中よ」
「ほんとに、お前は、変らねえな」
「お願い」
西崎が玄関に向かった。
「どこに行くの」
「顔写真がなかったら、捜せないだろ」
「そうか」
西崎が孝子の家を飛び出して行ってから一時間も経たずに孝子の携帯が鳴った。駅員と売店の女性の証言で真衣のアリバイが証明されたという知らせだった。
孝子は二階に行った。真衣は制服のまま、体を折り曲げて畳の上で眠っていた。孝子は真衣の体を布団の上に運んで寝かせた。こんな歳で、電車に飛び込む決心をしてしまう。もう、遠い昔のことで思い出せないが、自分が中学生の頃はどうだったのだろう。孝子のクラスにいたこの子の妹は明るい子供だった。家庭訪問であの家庭を見て驚いた。明るいふりをしているが、本当は大きな問題を抱えているのだと感じた。妹は姉の存在があったから明るく振る舞えていたのかもしれない。そうならば、姉は妹の痛みも引き受けてくれていたのではないだろうか。自殺にまで追い込まれたのは、この子に妹の分と自分の分の深い痛みや重い悲しみがあったからなのだろうか。小学校の教師をしていると、問題を抱えている子供の多さに驚く。何年か経てば教師歴二十年のベテラン教師になるというのに、子供たちの悲しみに慣れることができない。結婚もしていないし、子供もいないから青臭いままだと陰口を叩かれていることは知っている。でも、感性を失った教師にはなりたくない。子供たちの苦しみを見て見ぬふりはできない。教師にできることは限られているが、せめて気持ちだけは支えていたい。
階下から母の声が呼んでいた。時計を見ると既に八時半を過ぎていた。
「夕飯。あの子の分、どうする」
「あのまま、寝ちゃった」
「そう。あんたも、着替えなさい。泥だらけよ」
「そうね」
店のシャッターを閉める音にも気がつかなかった。だが、確かに空腹を思い出していた。
二人で食事をしながら、今日の出来事を話した。
「そう。あの小屋、まだあるの」
「えっ」
「佐山に行く道から少し入ったとこでしょ」
「知ってるの」
「うん。あんたは知らないけど、お父さんと初めて出会った場所なの」
「どういうこと」
「不思議だよね。私もあそこで、電車を待ってた。お父さんがいなかったら、私もいなかったかもしれない」
「自殺」
「高校の、三年生の時。父親の借金のために、風俗に売り飛ばされる寸前だった。逃げ出して、行くとこもなく、もうお終いだと思って、電車を待ってた。その日に、母親が家に火をつけて無理心中して、弟と三人が死んだ。私は死ぬ運命の中心にいたのね」
「知らなかった」
「だから、私は必死に生きた。お父さんにもらった命だから。それなのに、お父さん、先に逝っちゃうんだもん。不公平だと思わない」
「そんな話、初めて。どうして黙ってたの」
「自慢話にはならないだろ」
「でも。娘が知らないのも、問題じゃない」
「そうかい」
「そうよ」
「でも、あの子、どうなるんだろう」
「うん」
「西崎君は放火だと言ってるんだろ。母親が火をつけたとしたら、あの子は、行く場所も戻る場所もなくなったんだよね」
「うん」
「いつも、子供って悲しいね」
「うん」
翌朝、孝子は母親に真衣のことを頼んで学校に出勤した。

布団が温い。誰かが何度か部屋をのぞきに来たが真衣は寝たふりを続けた。たぶん、片岡先生だろう。早くに目覚めていて、昨日の出来事は可能な限り思い出していた。いや、そうでもないかもしれない。でも土手の上で先生に抱きしめられていた時のことは細かなことまで覚えていた。電車が通り過ぎた後に、体を震わすほどの恐怖がやってきた。あの時は先生が震えていると感じたが、本当は自分が震えていたのかもしれない。夢に真樹の笑顔が何度も出てきたが、父親の顔は、目が覚めた今でも、うっすらとしか思い出せない。取り返しのつかないことをした時の、底が抜けたような不安感が胸を締め付ける。布団が暖かい。真樹はあの冷たい布団の中で死んでいった。私は、この先どうすればいいのだろう。もう電車に飛び込む勇気はない。あの怖さには勝てない。それでも、真樹を殺したのは自分に間違いない。真樹はもういない。真樹がいたから、毎日を乗り越えてこれた。どうやって時間を前に進めていけばいいのか。自分ひとりだけ生き残っていいのか。そんな堂々巡りをしながら、うとうととしていた。
「まだ、寝てるの」
見覚えのないおばさんが布団の横に座っていた。
「私、片岡先生のお母さん。よろしくね。成沢真衣さんって言うのよね。まいちゃんって呼んでいい」
真衣は眼でうなずいた。
「お腹、減ったでしょう。ご飯にしよう」
そう言えば、昨日から何も食べていないことを思い出したが、なぜかあの空腹の痛みは感じていなかった。
「トイレは、そこを出て、右の突き当たり。洗面所は階下にあるから。もうすぐお店開けるから、食べてくれると助かる。それと、着替えるのよ」
おばさんは笑顔を残して部屋を出て行った。
起き上がろうとして、少しめまいがした。空腹のせいなのか、先生と格闘したせいなのかわからない。用心して立ち上がった。明るい朝日が当たっているのだろう。カーテンが明るく、部屋は光に満ちていた。制服が泥だらけになっている。靴下を替え、ジャージに着替えてカーディガンを羽織った。足は泥で白く汚れ、切り傷も何カ所かあった。ふらつく体で部屋を出て、トイレに入った。そこで初めて下着が汚れていることに気付いた。燃えてしまって、着替える下着がないことにうろたえた。ナプキンはすぐに見つかった。下着はそのままでナプキンだけを借りた。貧乏をしていて、何もない家だったが、全てを失ったことを実感した。
階段を下りると、おばさんが洗面所に案内してくれた。タオルと歯磨きセット、ブラシまで用意してあった。鏡に写っている顔も髪も泥で白くなっている。顔を洗い、何度もタオルを洗って髪を拭いた。大きな鏡を見ると、鏡の中の真衣の目から涙が流れていた。スーパーで鏡の前に立ち、「こんな鏡があるといいのにね」と真樹と話した時のことを思い出していた。真衣は洗面台の前でしゃがみこみ、声をこらえて泣きじゃくった。どこに隠れていたのかと思うほど涙は止まらなかった。息苦しくて声が出る。他所の家なのに、声を出して、体を震わせて、泣いた。
広い居間の食卓の上に食事が用意されていた。
「適当に食べてね。私、お店にいるから」
ガラス戸を開けて、おばさんが声をかけてくれた。
焼き魚、卵焼きとほうれん草のおしたし。真衣はガス台にある味噌汁をよそい、炊飯器の暖かいご飯を入れた。小学校の給食で食べて以来の御馳走だったが、食べることができなかった。お腹をすかせたまま死んでいった真樹のことを思うと、体が受け付けていない。やっとの想いで味噌汁だけを食べ、炊事場で食器を洗った。真衣が炊事場に立つと、真樹はすぐ横で真衣の手つきを飽きずに見ていた。だが、今は、横に真樹の姿はない。
二階に戻って、布団をたたみ、柱にもたれて座った。鞄から教科書を出す元気はなかった。今までも、毎日、生活の心配をしてきたが、この先、どうやって生きていけばいいのか見当がつかない。家もなければ、お金もない。それでも、もう母親に頼る気持ちはない。
心配ごとと後悔との間を行ったり来たりしながら、座り続けた。

孝子は買い物をするために、早めに学校を出た。他の先生が不思議そうな顔で見送ってくれた。教師の鏡のような孝子が早めに帰ることは珍しい。私用には違いないが、自分のクラスの子供の姉が窮地に陥っているのは他人事ではない。
下着と普段着、そして靴下を買ったが、サイズがわからなくて、靴とブラジャーは買えなかった。本人を連れてくるしかないだろう。留守中の火事では、何もかもが必要になる。女の子だから着るものは大事だと思った。
スーパーを出て、孝子は西警察署に向かった。署内の一般駐車場に車を停めて西崎を呼び出した。
「ごめん。呼び出して」
「ああ」
「お母さんは」
「今は、ここにいる」
「退院したの」
「怪我はたいしたことない。脳震盪だそうだ」
「で」
「これ以上は話せないよ」
「西崎君。それ、本気なの」
「仕方ないだろう。捜査情報を外部に漏らせば懲罰もんだぜ」
「そう。本気なんだ。わかった。聡美は怒ると、ほんとは怖いってこと、知ってるよね」
「孝ちゃん」
「私が知ってること、全部、聡美の耳に入ってもいいの」
「そんなやり方、汚いだろ」
「西崎君の家庭を壊したくないよ。でも、聡美には知る権利、あるよね」
「わかったよ。御立派な友達だよな」
「そう。世間はそうやって動いてる。違う」
西崎は困ったときに唇を舐める癖がある。孝子は西崎が過去に犯した浮気を知っている。親友でもある西崎聡美にそのことは話していない。孝子が知っているだけでも浮気相手は二人いた。尋問すれば余罪が出てくるに違いない。西崎は唇を舐めながら話し始めた。
「たぶん。火をつけたのは母親だろ」
「お母さんが、そう言ったの」
「はっきりと自供したわけじゃないけど、そうとしか考えられない」
「どうして」
「家庭の事情は知ってるんだろ」
「まあ」
「話が死んだ娘のことになると、錯乱状態になる。娘が家に帰ってきていることに気がつかなかった。そういうことなんだろう」
「そう。どうなるの」
「送検することになる」
「放火殺人」
「だろうな」
「証拠は」
「まあ。たぶん、立件できるだけの証拠はあると思う」
「そう」
「情状酌量はあるだろうけど、二人だからな」
「あの子は、どうなるの」
「一応、児童相談所には連絡した。片岡薬局にいることも伝えてある」
「施設に行くの」
「引き取ってくれる親戚がいなければ、そうなるだろう」
「そう。なんてことなの」
「俺も、そう思う。父親と妹が死んで、母親が殺人犯じゃ、一人残された娘はどうすればいいんだ。あの母親はまだ、そのことに気付いていない。気付いた時が怖いな。あの様子では耐えられないかもしれない」
「ありがとう。聡美の件、ただの脅しだからね。言わないよ。聡美のためにも」
「ひでえ、友達を持ったもんだ」
「ごめんね。でも、もう、してないよね。浮気」
「ないない」
「今度したら、ほんとに言うからね」
「わかったよ」
警察署を出てすぐの信号を見逃しそうになって、急ブレーキを踏んだ。自分のことではないのに動揺している。孝子は運転に専念してガレージまでたどり着いた。疲れた。でも、あの子の方が、もっともっと疲れているし苦しんでいる。母は店にいるから、家に明かりがないのはいつものことだけど、二階にも明かりがないのはおかしいと思った。嫌な予感がして、慌てて車を降りた。
「かあさん。あの子は」
「ああ。おかえり。二階にいるよ」
「真っ暗よ」
「電気、ない方がいいみたいよ」
「そうなの」
「私、今、降りてきたところ。元気はないけど、二階にいる」
「ありがとう」
孝子は車に戻り荷物を持って家に入った。居間の灯りをつけて、階段を上った。
「入るわよ」
開いたままの襖の向こうの暗闇に座っている真衣の姿がぼんやりと見えた。
「電気、つけるよ」
真衣は眩しそうに顔を下に向けた。光は感じてくれているようだ。
「私、子供いないから、わかんなくて。とんちんかんなもの買ってきたかもしれない。下着と普段着。そのジャージ大きいものね」
孝子は買い物を取り出して、畳の上に並べた。
「ブラジャーはサイズわかんなくて、買えなかった。靴も。それから、学校へは連絡しといたから。しばらく休みますって」
「すみません」と言ったようだったが、声が小さくて聞き取れなかった。
「制服。クリーニング、出すよ。二日もあればやってくれるから」
畳んでおいてある制服をスーパーの袋に入れた。
「あの、ナプキンもらいました」
「ああ、場所、わかった」
「はい」
「しまった。生理用のパンツ忘れた。今日は、私の使っておいて。大きいかな。ないよりはましか」
「すみません」
「それと、お風呂に入りなさい。頭、まだ白いよ。シャンプーとか決まったのがあるの」
「いえ」
「私のでいい」
「はい」
「三十分くらいで沸くから」
孝子は制服を入れた袋を持って部屋を出た。真衣が返事をしてくれた。大丈夫かもしれない。風呂の水は何日目だっただろうか。家事は母親にまかせっきりで、そんなこともわからない。駄目な娘だと思った。
風呂に火をつけて、店の方から外に出た。五軒先に昔からのクリーニング店がある。
戻ってくると、母が台所に立っていた。
「私。やろうか」
「えっ」
「無理、か」
結婚もしないで、仕事を理由に家事もしないで、ずっと母に甘えてばかり。あの子は全てを失い、自分の足で歩いていかなければならないというのに。反省しなくては。
「私、何すればいい」
「落ち着きなさい」
「そうよね」
母は昔からよく動く人で、いつの間にか仕事を片付けてしまうスーパーお母さんだった。初めて昔の話を聞いたが、思いつめて自殺しようとした過去があったという話には驚いた。父もそんな話をしてくれたことがない。いつも、優しい笑顔で、なんでも受け入れてくれる世界一のお母さんだと、今でも思っている。
「かあさん」
「なに」
「私、この歳になっても、親離れしてないんだね」
「そうかい。あんたはあんたで、いいんじゃない」
「そういう優しいことを言ってくれるから、つい、その気になってる」
「どこか、具合でも悪いのかい」
「反省してるのよ」
「らしくないよ」
「うん」
「いつものあんたでいた方が、あの子も楽だと思うよ」
「そうか。そうだね。学校の先生しかできないか」
孝子は湯加減をみるために風呂場に向かった。新しいバスタオルはどこにあったのか、記憶をたどる。風呂場で石鹸やシャンプーを確認。追いだきの方法も教えておかなければならない。
真衣が風呂に入っている間、孝子は台所で母親の手伝いをした。母は店と台所を往復しながら手際よく料理をしている。孝子にはその動作がゆったりとしたものに見えるのに、次々と料理ができあがっていく。食器を出して、盛り付けを担当した。
いつもは学校から帰ってきて、用意された食事を当たり前のように食べて、また仕事をするという生活をしていた。孝子も母も健康面では何の問題もないが、還暦を迎えた母に頼り切っている自分の生活態度を変える時期に来ていると感じる。教師という仕事は好きだし、まだまだ続けて行きたいが、何かを変えなくてはならない。真衣の自殺を阻止するという劇的な出来事が、自分自身を振り返る機会になっているように思えた。ただ、現在の最重要事項は成沢真衣のことだった。
食事の用意ができ、孝子は真衣の部屋に行った。真衣は先ほどと同じ場所に座り、バスタオルを頭からかぶった状態で頭が折れ曲がっていた。孝子は一瞬不吉な想像をしたが、真衣の肩が揺れているのを見て、息を吐いた。かける言葉は見つからない。真衣の横で膝を折り、バスタオルで真衣の髪を拭いた。
「ドライヤー、使う」
真衣が首を横に振ったようだった。
「ご飯、食べよう」
孝子はそっとバスタオルを頭から外した。真衣の鼻が赤くなっている。泣いた方がいい。
「ほら。鼻、かんで。食事にするよ」
孝子はポケットから出したティシュを渡した。鼻をかんだせいで、真衣の鼻はさらに赤くなった。
「立ってみて。大きさ、どう」
スカートは少し大きかったかもしれない。大は小を兼ねる、と決めつけ、ベルトのついているスカートを選んできた。
「少し、大きかったね」
シャツとセーターは似合っていた。
「寒くない。靴下は」
「大丈夫です」
「そう」
孝子は後ろに回って、真衣の背中を押した。
居間の食卓に母はいなかった。
「ここに、座って」
孝子は土間に下りて、店のドアを少しだけ開けた。やはり、お客さんがいるようだ。
部屋に戻り、二人分の味噌汁とご飯をよそった。
「お客さん、来てるから、先に食べよう」
孝子は真衣の正面に座った。
「うちの肉じゃが、おいしんだよ」
真衣の目からテーブルの上に、大粒の涙が零れ落ちた。そして、両手を胸の前で握りしめて、嗚咽になった。睫毛が長いせいか、普段でも泣きそうに見える真衣だが、下を向いてばかりなので、いつも泣いているように見えていた。今は、本気で泣きだしたようだ。
孝子は真衣の後ろにまわり、後ろから抱きしめた。
「いいよ。遠慮せずに泣きなさい。あんたは、泣いて、いいんだよ」
孝子の手にも容赦なく涙が落ちてきた。真衣は両手で顔を覆って号泣した。孝子の体にも真衣の悲しみが、苦しさが伝わってくる。孝子の目からも涙が出ていた。
泣きすぎて酸素不足になったように真衣があえぎ始めた。無理やり立たせて、体を支えてソファーに連れて行った。食事のできる状態ではない。二人でソファーに座り、膝の上に真衣の頭をのせて、背中をさすった。悲しさや苦しさは、溜めずに外に出した方がいい。
三十分以上も泣いていた真衣が静かになった。泣き疲れて、眠ってしまったようだ。
母が店から戻ってきて、二人の様子をみて、毛布を持ってきてくれた。

食べようとすると喉がつまり、涙が出てくる。この家に来て一週間が過ぎたが、空腹に苦しめられていた時より体力がなくなっていた。二階でぼんやりとする毎日だが、行動を起こす気力はなかった。
「入ってもいいかい」
先生のお母さんが部屋に来た。
「ここの商店街は木曜が定休日でね。今日はお休み」
真衣が背中を預けている壁におばさんも並んで座った。
「寒くは、ない」
真衣は小さく頷いた。そう言えば、寒さのことは忘れていた。
「少し、話、しても、いいかい」
おばさんは、そう言っただけで、黙ってしまった。
「あんたの気持、よくわかる。どうしてかわかる」
「・・・」
「私も、昔、そう、もう四十年以上も昔の話なんだけど、あんたと同じだった。だから、私も胸が痛い」
「あの時、私は高二だったから、もう少しお姉さんだったけど、私も、あの土手で電車を待ってた」
思わず真衣はおばさんの顔を見た。
「主人が、孝子のお父さんが私を助けてくれた。その娘が、同じ場所であんたのことを止めた。びっくりしたわ」
「私の父親は賭けごとに狂っていて、家は貧乏だった。母が昼も夜も働いたけど、そのお金を奪い取って遊びに行ってしまうのよ。弟は心臓に病気を持ってたけど、医者に行くこともできないし、食べるものもないような家だった。一番辛かったのは、空腹。空腹ぐらい慣れればいいのに、毎日が苦しかった。私も弟も学校は休むことが多かった。お弁当が持っていけなかったから」
「父親の借金が膨れて、父親は私を暴力団に売った」
「売春って知ってるよね」
「私がお金を稼げば、父親のギャンブルは続くだろうし、私は死ぬまで売春婦として働かなければならない。だから、私は隙をみて、家を飛び出した。着の身着のまま、持っていくお金もなかった」
「どこを、どう歩いたのか思い出せないけど、あの土手にいた。あの時は、他にどうすることもできなかった。行くとこも、帰るとこもないし」
「どうして、主人が私を見つけたのか。気がついた時には、この家にいた。主人の両親もいて、厄介事を持ち帰った息子を非難するような視線で見ていたのを憶えてる。でも、主人は徹底的に私のことをかばってくれた。どうして、そこまでしてくれるのか、私も信じられなかった」
「その日の夜、母親が父親と弟を道連れにして、家に火をつけて死んでしまった。最初は私が疑われていたけど、主人の証言で、私の疑いは晴れた。でも、私は家族を一度に失ってしまった。弟が可哀そうで、私が卑怯者のような気がして。私さえ売春婦になっていれば、母も放火などしなかったかもしれない。そう思うと、悪いのは自分なのだと思えた」
「そんな私をどこまでも支えてくれたのが主人だった。後でわかったんだけど、主人は底抜けの、信じられないほど優しい人だったの。いい人は早死にするって言われるけど、風邪をこじらせて、あっという間に逝ってしまった。死ぬ前に、俺は幸せだった、なんて言って」
「そんな主人が、よく言ってたことがあるの。人間は、たまたまの連続で生きてるだけで、そのたまたまが切れた時が寿命なんだって。そして、そのことは人間の力ではどうすることもできないんだ、と」
「たぶん、私が売春婦になったとしても、三人は救われていなかったと思うと言ってくれた。売春婦になって苦しい生き方をしなければならない人間が、一人でもそこから逃れることができたことの方が大切なんだと」
「私が、主人と会ったことも一つのたまたまなんだけど、たまたまが続く限り人間は生きていかなくちゃならない。どうせ、生きなければいけないのなら、他の誰かのために生きたっていいじゃないかというのが主人の口癖。そんな主人の影響で、娘は結婚もせずに子供たちのために、自分のできることをやり続けている。私は、そんな孝子が好き」
「私たち、けっこう、似てるでしょう。私、びっくりしちゃった」
「私・・・・」
「うん」
「喧嘩したの」
「誰と」
「真樹と」
「そう」
「私たち、二人とも、いつもお腹が空いてた。一度だけ、あんぱんを万引きして二人で食べたことがあった。怖くて、足が震えて。もう、二度としたくないと思った。でも、あの日、真樹がぐずって、どうしてもあんぱんが食べたいと言い張って。あの子は一人で家に帰っちゃった。私が万引きして、あの子にぱんを食べさせていたら、あの子は死なずにすんだ。おばさんが、毎日御馳走作ってくれるけど、真樹が食べれないのに、と思うと」
「そう」
「あの火事は、母さんがやったんだと思う」
「そっくり、だね。悲しいよね。でも、あんたのせいなんかじゃない、とおばさんは思う。たまたまが切れちゃったんだよ」
「・・・」
「料理作る人は、食べてくれる人がいると幸せって、あんたなら知ってるよね。最近、私、とても、不幸。自分のためでなくてもいいから、おばさんのために食べてくれると、すごく嬉しい。駄目かな」
真衣は、その日から、食べる量を増やした。

会議室が空いていなかったので、孝子は校庭で荒木田を迎えた。
「言ってくだされば、行きましたのに」
「別件で近くまで来ましたんで、気にせんでください」
痩せて背が高いせいか、首の長さが孝子の倍はあるのではないかと思う。児童相談所のベテラン職員の荒木田とは何度も会っているので、それほど気を使う相手ではなかったが、真衣の件だと思うと緊張はあった。
「成沢真衣さん。先生の家にいるんですよね」
「はい」
「どうです。様子は」
「母とは少し話をするようですけど、私とは、まだ。ほとんど食べませんし」
「そうですか。いや、そうでしょうね。悲しいことです」
「ええ」
「僕が行っても、話は聞けませんね」
「たぶん」
「そう、でしょうね」
「話してくれるかどうかわかりませんけど、なにか聞いておきましょうか」
「いえね、本人が、親戚のことを知らないだろうかと思いましてね」
「親戚」
「僕の方で調べた限りでは、あの夫婦の親兄弟はおらんのです。もっと遡って調べれば、遠い親戚はいるのかもしれませんが、あまり縁が薄いと引き取れとは言えませんし、あの子のためにもならないかもしれない。本人からも話を聞いておきたいと思うんですよ」
「そうですか」
「施設に入った方が幸せな子もいますから、一概には言えませんが、できるだけ調べてあげないとね」
「ええ。一度、聞いてみます」
「もし、話してくれそうなら、すぐにでも行きますから」
「わかりました。私の方から荒木田さんに電話します」
「助かります」
荒木田がいつでも子供のことを最優先に考えていることは知っている。仕事とはいえ、無造作に調査をすれば、傷ついた子供の心に塩を塗るような結果になることを心配している。荒木田はそういう気遣いのできる人だった。警察官の西崎とは少し違う。
孝子は家に戻って、母に相談した。孝子から見ても、真衣と母の間にある垣根はそれほど高くはない。
「その返事、急ぐのかい」
「そんなことはないと思うけど、そんなには放っとけないでしょう」
「そうだね。施設に行くことになるのかね」
「わからないけど」
「なんと、ね」
「私、一寸、出てくる」
「ご飯は」
「帰ってからにする」
「わかった」
孝子は西崎を呼び出した。携帯に電話したが、まだ警察署にいた。
「西崎君、家に帰ってるの」
「今日は、当直だよ」
「そうなの」
「あの子は、どうしてる」
「しばらくは、何も食べなくて、心配したけど。少しだけは」
「話は、できるか」
「まだ、なにか、あるの」
「どんな、家庭だったのか」
「それが、必要なの」
「いや。必要でないかもしれない」
「どういうこと」
「起訴になるかどうか」
「・・・」
「最初の頃は、錯乱状態だったけど、今、あの母親の目は向こうの世界に行ってる」
「えっ」
「もう、なにも喋らない。取調室に座っていても、俺の方を見てるんだけど、俺のことを見てないし、表情も変わらない。検事は精神鑑定すると思う」
「そんな」
「自供はとれなかったし、服に付着していた灯油だって、家庭の主婦なら不思議ではないし、誰も現場を見た訳じゃない。状況証拠は放火で、放火できる人間が他にいないとすれば、犯人はあの母親なんだけど、調書取る前にああなったんじゃお手上げだ」
「で」
「起訴しても、弁護士は心神喪失を言うだろう。検察も二の足踏むと思う。起訴して、心神喪失で、強制入院かも」
「そう」
前回脅迫したおかげで、西崎は内部事情をそれほど抵抗なく話してくれた。この事実が表にでると西崎は危ない立場に立たされるかもしれない。孝子は西崎の心配もしなければいけないと自分に言い聞かせた。だが、真衣の母親が戻ってくる確率は無いものと考えなければならないだろう。児童養護施設の件は早急に結論を出さなければならない。施設の子供は何人も知っている。子供たちの環境は収容される前よりはよくなるが、子供たちが喜んでいるのかどうかは微妙な部分があると思っている。劣悪度が大から中に変わっても劣悪であることに変わりはないからだ。
家に戻り、真衣の母親の話を母に話した。西崎から聞いたとは言わなかった。
「母さんの話なら、少しは聞いてくれる。あの子に親戚のこと、聞いておいてくれないかな」
「いいけど、言うかね」
「うん。でも、このまま、というわけにも、いかないし」
「そうだね」
孝子が食事をしている間に、二階に行った母が戻ってきて首を横に振った。
「知らない、そうだよ」
「そう」
翌日の昼休み時間に孝子は荒木田に電話をして、本人は知らないと言っていると連絡した。
「そうですか。近々、会いに行きたいと思いますが、先生はどう思いますか」
「ええ。いつまでも、というわけにはいきません。そう簡単に立ち直れるとは思えませんし、かといって、いつまでも。学校もありますし」
「そうですよね。思い切って、明日、行ってみましょうか」
「ええ。気を使っていただいて、すみません」
「とんでもない。先生には感謝してるんです。でも、先生の気持ちはあの子には届いていると思います」

真衣は、毎日、畳の目の数を数えていた。おばさんに元気づけられて、無理して食べているうちに、食べることが以前ほど苦痛ではなくなったように思う。今まで、他に楽しみのなかった真衣は、教科書を読むことだけが楽しみだった。それなのに、今は、鞄を開ける気持ちも起きてこない。泣き続けているうちに、真樹のことで泣いているのか、自分のことで泣いているのか、はっきりしなくなってきていた。
「児童相談所の人が来てるの。大切な話だから、聞いてあげて」
「はい」
先生の声には、譲れないという強さがあった。手元から離せなくなっているタオルで涙を拭いて立ち上がった。先生の顔も複雑な表情だった。
一階の食卓に、痩せた年配の男の人が座っていた。真衣は先生に勧められるままに、その男の人の正面に座った。先生が隣の椅子に浅く腰をかけて、男の人に声をかけた。
「僕は、荒木田です。児童相談所という所から来ました。成沢真衣さん、ですね」
真衣は小さく頷いた。
「とても、つらいことがあった後なのに、ごめんね」
「・・・」
「子供は、一人では、どうしょうもないことあるよね。食事や寝る場所や着るものも。僕の仕事は、そういうことで困ってる子供たちの手助けをすること。だから、なんでも言っていいんだよ。君の力になりたい」
「お母さんは警察にいて、当分、帰れないと思う。生活費は、お母さんが仕事してたんだよね。家も無くなってしまったし、お母さんも、仕事、できない。つらいこと、言って、ごめんね」
「今は、片岡先生がやってくれているけど、もう少し先のことも考えると、君には保護者が必要だと思う。君の生活の面倒をみてくれる人。親戚の叔父さんとか叔母さんはいないのかな」
真衣は首を横に振った。叔父さんや叔母さんだけではなく、お祖父さんやお祖母さんの話も聞いたことがなかった。
「そう。そういう子供たちのために、児童養護施設があるの、知ってるかな」
駅前にいる不良の子供たちのことを、同級生が施設の子だと言っていた。その子たちが不良に見えたわけではないが、皆と同じように避けるようにして通り過ぎたことがあった。そう言えば、親のいない子が行く所だと言っていた。たぶん、その施設なんだろう。
「小さい子供から、高校生まで、多くの子供たちが生活し、学校に行ってる。保護者の代わりに子供たちの面倒をみてくれる大人がいて、いろいろと助けてくれる所なんだよ」
「近いうちに、そこに君を連れて行きたいと思うんだけど。いいかな」
おじさんは、施設のことをいろいろと話してくれていた。自分の力だけでは生活できないことは承知している。子供たちが大勢で生活しているこということは、それなりの難しいこともあるのだろうと想像できたが、生きて行くためには仕方がない。電車に飛び込もうとしてできなかった。電車が通り過ぎた後にやってきた、あの圧倒的な恐怖を乗り越える力は、今はもうない。真樹を死なせたことで、大きくて重い十字架を背負った。死ぬことができなくて、鉄のように重いものを飲み込んだ。そして、施設という所に行くことで、両足を鎖で繋がれることになるのだろう。生きることも、死ぬこともできない時って、どうなるんだろうと思った。確かなものなんて、何もない。私にも、何もない。死んでしまった真樹の方が運がよかったのだろうか。今までだって多くのことを諦めて、一日一日を乗り越えてきた。このおじさんは、私が喜んで施設という所へ行くことを望んでいるのだろうか。それぐらいのこと、乗り越えるのは簡単なことなのに。
「一日か、二日で、迎えに来れると思う。いいよね」
真衣は頷いてみせた。

客が帰ったようだった。居間には孝子だけが椅子に座っていた。
「誰だったんだい」
「児童相談所の荒木田さん。明日か、明後日、迎えにくるって」
「施設」
「うん。母親は戻ってこれないと思う」
「そう」
「私、先に食べて、いい。あの子と二人で」
「そうしておいて」
「ちょっと、仕事も溜まってて」
「うん」
順子は店に戻った。片岡薬局の営業時間は、朝九時から夜の八時まで。遅くまで店を開けていても売り上げが上がるわけではないのだか、決めたことは守っていた。シャッターを閉めるまでは時間がある。順子は自分の胸に最後の問いかけをしていた。夫を失くした後、戸籍上の筆頭者は順子だったが、この家の責任者は孝子だと決めていた。孝子もその積りでいるので、何の問題もない。ただ、この件だけは無理を言わなければならないかもしれない。
シャッターを閉めて居間に行くと、食卓の上は孝子の書類で埋まっていた。
「ごめん。今、片付ける」
「いいよ。私は、ここで食べるから」
順子は調理台の上に食器を並べた。あの子が食べるようになってくれて、調理に力を入れているからなのか、自分自身の食事の量が増えたように思う。夫がいて、まだ孝子が子供の頃、料理を作ることが楽しかったし、三人で囲む食卓には幸せが溢れていた。今が不幸だとは思っていないが、意識して噛みしめるような幸せもない。毎日、同じ日常が流れて行くだけで、あの時のように弾むような時間がなくなった。歳を取ったのだから、こんなものでいいのだろうが、懐かしい想いはあった。
食事が終わり、洗いものをしていると、風呂から上がった真衣が「おやすみなさい」を言いにきた。「いただきます」も「ごちそうさま」も言うようになったが、それ以上のことはまだ喋らない。本当は、「おいしい」も言って欲しいけど、もう少し時間が必要なのだろう。
「忙しい時に、悪いけど。一寸、話、いい」
「何。あと十分だけ。すぐに終わるから」
「うん」
順子はソファーで新聞をめくった。商店主として、日本の経済活動の一端を担っているのだから社会情勢を知っておく必要はあると思っているが、あまり役に立っているとは思ったことがない。ただの習慣になっているだけかもしれない。ジャイアンツ五連勝。夫が生きていたら不機嫌な声を出していることだろう。ジャイアンツが今のジャイアンツになった頃から日本が壊れ出したような気がする。
「母さん。何、話って」
「いいのかい」
「うん」
孝子が順子の横に座った。
「あの子。やはり、施設に」
「うん」
「うちに、引き取れないのかい」
「引き取るって」
「養子縁組とか。あの子、他人のような気がしないのよ。そっくりで」
「養子か。考えもしなかったわ」
「駄目かね」
「母さんは、そうしたい。そうなの」
「ああ。もちろん、私の子供というわけにはいかないから、あんたの子供として。あんたなら中学生の子供がいたって不思議じゃない」
「養子、ね」
「駄目かい」
「一度、荒木田さんに相談してみる」
「父さんが生きてたら、きっと、そうしたと思うのよ」
「うん。父さんなら、そうするわね」
「あんたは、どうなの」
「そうね。よく考えてみる」
「明日、連れていっちゃうんだろ」
「それは、変更できると思う」
「できるだけ、あんたの手はとらないようにするから」
「わかった。考える」

翌日、孝子は学校から児童相談所に向かった。児童相談所と言っても、正式には園田支所になる。児童相談所の重要性が叫ばれ、県もその機能を拡充させるために支所を作る方針を出し、実験的に園田支所が開設されたのが二年前だった。園田児童相談所は所長と所員三名の小さな相談所で、中央相談所の所長を兼任している前田所長は名前だけの所長なので、荒木田が一人で背負っているような相談所だった。昔と違って、児童相談所はなくてはならない存在になっているが、行政の対応は中々進んでいない。小学校の教師をしていると、児童相談所に対する不満はいっぱいある。そんな中で、園田児童相談所は荒木田の懸命な努力で成り立っているような相談所だった。二年前に赴任してきた荒木田という男が、どんな男なのか知る人は少ない。孝子も荒木田の個人的なことは全く知らなかった。身元不明の死体ではないが、年齢も三十代から五十代としかわからない。独身であることは確かなようだが、結婚しなかったのか離婚したのか、死別したのかわからない。この土地の人間でないことは、話をしている時の違和感のあるアクセントでわかる。関西以西のどこか、九州かもしれない。わからないことが多い男だが、子供たちを大切に扱い、親身になってくれる、温かみのある人間であるということは接した人間ならよく知っている。
事務室には荒木田が一人だけ、パソコンに向かっていた。
「こんばんは」
「あっ、先生。どうしました」
「今、いいですか」
「どうぞ」
荒木田は立ちあがって、会議机の方を指差した。
「今、お帰りですか」
「はい」
「お茶入れますから」
「いえ。そんなこと」
「丁度、喉が乾いてたとこなんです。渡りに船のお茶ですから」
「すみません」
小さなお盆に載せた茶碗を持ってきてくれた。
「いただきます。遅くまで、大変ですね」
「この仕事は、仕方ないです。気を抜けば、子供たちの命にも」
「そうですよね。荒木田さんが来てくれて、私たちほんとに助かってます」
「そう言ってもらえると、嬉しいです」
「どうして、この仕事を」
「ははは、巡りあわせ、ですかね。ところで、今日は」
「ああ、はい」
「成沢真衣さんの、こと」
「はい。母が言いだしたんですが、あの子をうちで引き取れないかと思って」
「引き取る、と言いますと」
「養子縁組でもいい、と母は言ってます」
「養子ですか」
「何か」
「今は、無理かもしれません」
「・・・」
「あの子の保護者は、あの母親なんです。母親は、大学病院に入院しました」
「入院」
「精神鑑定のための、強制入院です。今は、完全に自分を失っています。何も聞こえていないようだし、何も話をしないそうです。母親の、保護者の同意をもらうのは難しいと思います。特別養子縁組もありますが、そうなると、あの母親が孤立します。あの子の場合、問題があったのは父親で、あの子と母親の関係は悪くなかったと思うんです。後になって、母親が孤立した事を知った時、あの子がどう考えるか心配です」
「そうですか」
「あの子には、もう少し時間が必要だと思うんです」
「ええ」
「里親ではいけないんですか」
「里親か」
「成沢真衣として、先生の家で生活をする。名前や戸籍上の続柄は変えられませんが、実質的には先生の家の子供として生活できます」
「ああ」
「いつか、自分の意思で決めることができるようになります。それでは駄目ですか」
「あの子が、辛い立場になりませんか」
「名前が違うことで、いじめに遭うとか、ですか」
「ええ」
「仕方がない、という言い方は可哀そうですが、施設に行けば、施設の子だと差別されるのは現実に起こることです。子供たちは、それを乗り越えるしかありません。あの子も、それは同じです。残念ですが」
「差別」
「ええ。辛い立場に立たされた子供たちなのに、社会は差別という接し方をします。でも、それが現実で、どの子も乗り越えなければならないんです。飢えて死ぬより、虐待されて死ぬより、差別を乗り越えることの方がいいと、子供たちは時間をかけて納得せざるを得ないんです。大人は、多くの大人たちは、その現実に目をつぶります。いや、気付かない振りをします。当事者も周囲の人たちも、別世界の出来事ではないのに、自分のこととは捉えてくれません。悲しいことですが、そうなんです」
「・・・」
「児童養護施設は、そんな子供たちに全てを用意してくれているわけではありません。最低限のことしかできません。食べさせて、寝る場所を確保して、修学のチャンスを提供するだけです。大人の勝手な論理で、その犠牲になった子供たちに大人がしていることはその程度のことにすぎません。里親制度も機能しているとは言えませんが、子供たちに本気で向き合ってくれている里親もいます。小さいけれど、それは光になります」
「里親の条件とか、あるんですか」
「あります。でも、先生のお宅なら、何の問題もありません」
「そうですか。一度帰って母と相談してみます」
「お願いします」
「荒木田さんは、どうやって、乗り越えているんですか」
「・・・」
「だって、子供たちに寄り添って、子供たちの辛い立場をわかっていて、ご自分が辛くはありませんか」
「ほんとに辛いのは、子供たちですから。私が泣きごと言ったら笑われます。あえて言うなら、先生のような人に出会うことができる。それが救いなんだと思います」
荒木田の目は一瞬だけ遠くを見た。荒木田の背中の向こうには、孝子の知らない荒木田の素顔があるように思えた。
家に戻って母親に里親の話をした。予想した通り、母はそれでもいいと即答した。後は、本人の了解を取るだけだ。孝子は二階に行って、真衣を連れて降りてきた。
「真衣ちゃん。あなた、うちの子になる気はない」
「えっ」
「昨日、来てくれた荒木田さんと相談したんだけど、あなたさえよければ、私も、母も、あなたに、うちの子として来てもらいたいと思ってるの。里親制度って知ってる」
「いえ」
「児童養護施設に問題あるとか、そういうことじゃないの。母はあなたにいてもらいたいと思ってる。私も、そうしてくれた方が嬉しい。どう、思う」
「わたし、施設に行きます」
「えっ」
孝子は、真衣のあまりにもはっきりとした返事に言葉を失って、母の顔を見た。
「この家が、きらい」
母が身を乗り出して聞いた。
「わたし、施設に」
「どうして」
「どうしても」
「妹さんのこと」
真衣は小さく頷いた。
「わかった。あんたの気持は、わかった。そうだよね。じゃあ、おばさんの気持ちも、言っていいかな」
「・・・」
「昔、おばさんのこと、引き取ってくれた主人の話、したよね。私、時々独り言、言ってるけど、独り言じゃないの。今でも、ここで、主人と話をしてるの」
順子は両手を自分の胸にあてた。
「あんたのことも、いっぱい、話した。孝子の事、褒めてくれたし、わたしには、自分にできることをすればいい、と言ってくれた。父さんなら、きっと、私があんたの背負っているものを一緒に背負うことを知ってる。だって、あの人は、孝子の父さんは、私の弟を、ずっと一緒に背負ってくれていたから。私も、あんたの妹の事、背負っていきたい。きっと、きっと、あの人は、そう言う。私、あの世で、父さんに嫌われたくない。だから、無理矢理でも、あんたには、ここに、いて欲しい。おばさんのために。お願い」
「・・・」
「わかった。今日、答えを出すの、やめよう。もう少し、考えてみよう。それでいい」
孝子が結論を先延ばしにすることで、三人は解散した。子供だからという甘い考えがあったことを反省した。真衣が、どうしても施設に行くと言えば、それはそれで仕方のないことだと思う。大人が勝手に、よかれと思ってやることが、子供にとっていいことだとは限らない。大勢の子供と接してきた孝子にはわかっていることだった。だが、母がここまで言い切るとは思わなかった。今は、時間が必要だと考えた。


2

高校生になれば、何かが大きく変わると思っていたが、何も変わらなかった。
真衣は孝子先生を、お母さんと呼び、そのお母さんの母親をおばあちゃんと呼んでいた。おばあちゃんの強い希望で施設に行くことを諦めたが、そのことによる気持ちの負担は背負わなければならないと覚悟してのことだった。罰を受けて施設に行くことの方が自分にふさわしいと思っていたが、おばあちゃんはそれを認めてくれなかった。孝子先生は迷っていたようだったが、おばあちゃんの勢いには勝てなかった。校区の関係で三木中学ではなく園田中学に転校し、この年高校生になった。別に期待していた訳ではないが、何も変わらない毎日が続いている。陰でつけられた渾名の「死神」は高校に来てからも無くなることはなかった。面と向かって死神と呼ばれることはないが、聞こえることを承知で言っているのはわかる。その渾名が嫌いなわけではない。命名者には、お見事と褒め言葉を贈りたいと思う。自分に最もふさわしい渾名、それが死神だった。先生の質問には答えるが、生徒間での会話は持ったことがない。返事すらしない。真衣の瞳の奥にあるものがわからないために、不気味と感じるらしい。自分の顔を鏡で見ても、不気味だと感じるのだから、他人にはよほど不気味なのだろう。殺人者の自分が友達を作って、一体、何の話をすればいいのかわからない。人殺しより死神の方がいい。
おばあちゃんは、時間がたてば、と言ってくれたが、三年経っても背負った十字架の重さは変わらない。電車の車輪の大きさとあの重量感、そして巻き上げる風。電車が通り過ぎて感じたあの恐怖と懐かしさ。草も土も小屋も、充満している空気も、生きている証拠の全てが懐かしかったあの時。二度と死ぬことはできないと知って震えていた自分の体。どんなに重くても歩き続けるしかない。何のために、どこへ。何も答えのない毎日を、ただ生きている。今という時間を乗り越えるために、そのためだけに、もがき苦しんできた。その苦しさから逃れるためだけに勉強をした。勉強に集中している時間だけは、苦しさが薄らぐような気がしたから。楽をしたくて勉強をしているなどと他の人には言えない。他人には言えないことがいっぱいあった。孝子お母さんにもおばあちゃんにも、わかってもらえないだろう。まして、同級生にわかってくれと言っても無駄なことだと思う。死神で結構。自分でもそう思っているんだから。でも、高校生になって一つだけいいことがある。真衣の高校は県内でも一番の進学校だから、他人を無視して勉強することが不思議だと思われないことだった。真衣以外にも、口を開かない生徒が何人もいる。自分の世界に入り込んで大学入試のことだけを考えているらしい。真衣には志望校も志望学科もない。一年生なので、家でもその話題は出ていない。大学入試など、真衣にとっては些細なことのように感じられていた。
この三年間で変わったこと。それは、真樹を死なせたのは自分で、共犯者などいないということに気付いたことだった。母に責任を半分押し付けて、逃げようとしていただけに過ぎないと気付いたのだ。母があの男を殺すには、十分すぎる訳があった。当然のことをしたのだと思う。それなのに、真樹と喧嘩をして家に帰してしまった。母をずたずたに切り裂いたのは、真樹ではなく、自分だったのだとわかった。母を共犯者だと決めつけていた。犯人はお姉ちゃんだと真樹は知っている。
母は三沢病院に強制入院させられていると聞いていた。どうしているのだろう。自分と同じように、いや、それ以上に苦しんでいるのだろうか。三沢病院はN市から三十分も電車に乗れば行くことができる。高校生になって電車通学になり、行動半径が広がったので三沢に行くことは冒険ではなくなっている。半年以上も決心がつかなかったのだが、化学の時間が先生の都合で休講になり、成り行きで三沢までの切符を買っていた。母と会って、何を言うのか、何も決めていないが、行くだけでも行ってみよう。
三沢駅からは、三沢病院行きのバスが出ていた。大きなバスは狭い道を苦労しながら対向車とすれ違い、十分足らずで病院に到着した。乗客は三人しかいなかったが、正面玄関に向かったのは真衣一人だった。
病院だから大勢の人が行きかっているのかと想像していたのだが、玄関を入ると、受付のカウンターの向こうに座っている女性以外に人影は全くなかった。
「どうぞ」
立ち上がった女性が手を差し伸べている。真衣は前へ進んだ。
「面会ですか」
「はい」
「これに、記入してくださいね」
書類には面会簿と書かれていた。日時と患者名と面会者名、そして関係の欄に長女と書いて渡した。緊張感で字が躍っているように見えた。
「連絡しますので、そこに掛けてお待ちください」
少し離れた場所にあるベンチに腰を下ろした。受付の女性は下を向いて電話をしている。真衣はこのまま、そっと、帰ってしまいたいと思っていた。
「成沢さん」
五分程して名前を呼ばれた。
「先生から説明がありますので、第一診察室にお入りください」
「・・・」
「そこを、左に曲がったところに診察室がありますから」
「はい」
真衣は恐る恐る歩を進めた。左に曲がると何列ものベンチが並んでいて、診察室と書かれた部屋が四部屋ほどあった。ノックして部屋に入ると、中年の白衣を着た女性が小さな笑顔で迎えてくれた。孝子先生より年上だけど、おばあちゃんよりは若い年齢に見えたが、頭にはかなりの白髪があった。
「成沢さん」
「はい」
「座って」
「はい」
「私は、成沢和子さんの主治医で奈良岡と言います」
「はい」
「その制服は高見沢高校よね。何年生」
「一年です」
「そう」
初対面なのに、奈良岡という女医は真衣の顔を懐かしそうに見つめていた。
「片岡さんの家にいるの」
「はい」
「片岡順子さん。元気かしら」
「はい」
「一度、電話で話したことがあるの。聞いてない」
「いいえ」
「そう。お母さんが、ここに入院してるいきさつは、聞いてる」
「はい」
「成沢さんが入院してきた時、私、成沢さんの家族から話が聞きたいと思って、あなたが片岡さんの家にいることを調べて、電話したの。でも、順子さんは、しばらく待って欲しいと言って、あなたの事情を説明してくれた。あなたは中学一年だった。今日は順子さんに言って来たの」
「いえ」
「自分の判断で」
「はい」
「お母さんに会ったら、最初に何を言いたい」
「わかりません」
「様子が知りたかったの」
「それも、よくわかりません」
「そう」
奈良岡先生は、書類に目を移してページをめくった。「母さんのせいじゃないよ」と言ってやりたいと思っていたが、言うと決めていたわけではない。
「最初に言っとくわ。今日は、面会を許可しないつもりなの」
「・・・」
「あなたが苦しんできたのは知ってる。いや、まだ苦しんでいることはわかる。きっと、ここにきてくれたのには、いろんな気持ちがあってのことだろうと思う。明日にでも退院できるわよ、という話ならいいんだけど。きっと、あなたには重すぎる話かもしれない。一人で決心して、ここに来てくれた。そんなあなたになら、話せると思うから。聞いてくれる」
「はい」
「ありがとう。精神科の病気については、あまり知られていない。三沢病院と聞いただけで嫌な顔をする人もまだいる。医学が進歩したと言っても、まだまだ。特に精神科の病気についてはわからないことが多い。だから、私の話は断定だと思って聞かないでね」
「はい」
「内科の病気だと、肺炎と胃潰瘍ははっきりと区別できるし、科学的な証明もできる。精神科の病気の場合は、病名はいっぱいあるけど、その区別はとても難しいの。一つ一つの症状によって病名をつけると、一人でいくつもの病気にかかっていることになるけど、精神科の場合はそういう患者さんが多い。成沢さんも同じ。それと、一般的には病気の原因を見つけて、それを治せば病気がよくなると思うわね。精神科の病気がその領域に到達するにはまだまだ時間がかかる。今、私たち医者にできることは、その場その場の対処療法しかないと言ってもいい。患者さんの話を聞き、薬を処方するのが精いっぱい。私は、胸を叩いて、まかせなさいとは言えない。治りますから希望を持ってくださいと言い続けている医者が多くて、現状ではそれが正しいのだと思うけど、私にはできない。確かに治る患者さんはいる。病気によっては薬で治る人もいる。私の患者さんだった人も治った人は多くいるけど、患者さん本人の気持ちか、神の意志が働いたとしか思えない。冷たい言い方でごめんね」
「いえ」
「成沢さんの場合、はっきりとしているのは失語症。たとえば、統合失調症やうつ病やパニック障害。症状から言えば、病名はもっとある。でも、病名なんて意味ないわね。成沢さんはあの事件で心を壊してしまった。希望は時間が治してくれるかもしれないと言うこと。そうなった時には、あなたの力が必要になると思う」
「はい」
先生は白い紙を取り出して、そこに四本の線を引いた。
「ここが健康な人。そして、ここが病気のひと。そして、この間にあるのがグレーゾーン。意味わかる」
「はい」
先生はその紙に曲線を何本も引いた。たぶん、バイオリズムを表しているのだろう。
「私は、この線。あなたは、この線かな、それともこの線」
「こっち、です」
「私と一緒なんだ。精神科の医者なのに、自分で危ないと思うことがある。お母さんの場合は、こんな線になる」
先生は赤のボールペンで新しい線を引いた。グレーゾーンと病気を跨る線だった。
「この幅が大事なの、こうなるためには」
先生は赤い線をカーブさせながら、健康ラインの上まで持ち上げた。
「でも、今は、ここにいる」
病気ゾーンの中間あたりにある赤い線の一番下をボールペンで塗りつぶした。
「なにかあれば、ここまで行ってしまうかもしれない」
病気ゾーンの一番下にある線を指した。
「今は、あなたに会うことが、いい方向に行くとは思えないの。せっかく、来てくれたのに」
「いえ」
「成沢さんの症状がここまで悪くなったのは二度目。一度目はテレビで火事のニュースを見た時で、今回は散歩の途中で子供の姿を見たためだと思う。あの火事で妹さんも亡くなったのよね」
「はい」
「科学的根拠はないけど、私は治ると思ってる。こんな医者の勘だけじゃ信用できないと思うけど、私は自分の勘を結構信用してる」
「はい」
「どうしたの。怒った」
「いえ」
「わたし、少し、言いすぎたのかな」
「いえ。違うんです」
「そう」
「ただ」
「うん」
「やっぱり、私が悪いんだと思って」
「あなたが」
「ええ」
「話してみて。お母さんのためになるかもしれない」
「母さんは、悪くないんです」
「うん」
「私が悪いんです。私のせいで、母さんも」
「ちょっと、待ってて」
先生はドアを開けて出て行った。真衣は先生の書いた赤いボールペンの線を見た。重い十字架を背負っている自分も苦しいが、母はもっと苦しんでいるのだ。あの時、真樹と喧嘩などしなければ、母もこんな苦しみを味わわなくてもすんでいた。真衣は息苦しさに自分の体を抱えた。
「だいじょうぶ」
戻ってきた先生が後ろから真衣の肩に手を当てた。
「ええ」
「お茶でよかった。私、コーヒー駄目だから」
「はい」
「よかったら、飲んで」
「はい」
二人は、缶を開けてお茶を飲んだ。
「私」
「うん」
「私のせいなんです。真樹が死んだのも、母さんがこんなことになったのも」
「うん」
真衣は、真樹と喧嘩したこととその原因を話した。
「母さんは、真樹が帰ってきていることに気がつかなかった。私は、最初、母さんのことを恨みました。真樹を殺した共犯者だと思いました。でも、私が真樹を一人にしたことが全ての原因なんです。母さんは悪くない。真樹を見てたのは、私ですから」
「ううん」
「あの男から逃げるために、母さんがしたことは、間違っているとは思いません。母さんは私と真樹のことを守りたかっただけなんです」
「わかったわ。あなたは、この三年間で、そういう結論を出した。重かったでしょう。いや、今でも重いよね」
先生は重いと言った。この先生には私が背負っているこの重い十字架が見えているのだろうか。真衣は初めて先生の目を見た。
「あなたの目を見れば、その重さはわかるよ。先生も泣きたい。泣いていいよ」
「いえ。もう、泣けないんです」
「泣けない」
「最初は泣いてばかりでしたけど、いつからか、泣けないんです」
「それは、苦しいね」
「いえ。もう慣れました」
「私、さっき、治る人がいると言った。本人の力か神の意思かわからないけど、この苦しい世界から抜け出す人がいる。医者だから科学者のつもりだけど、人間の知恵では追いつかないものがあることも体験してる。信仰心も薄いし、もちろんクリスチャンでもないから、私が言う神は仏様でもキリストでもないんだけど、神の意志みたいなものはあると思っている。人間の力ではどうすることもできない力があると思う。科学を武器にして病気と闘っている医者が、そのことを一番実感しているんじゃないかと思う。自分たち医者は、病気に対して弱い立場だから。だから、必死に戦おうとしているように見える。妹さんの事は、あなたやあなたのお母さんの力ではどうすることもできなかった、そんな力が働いたと私は思う。たぶん、それが正しい答えのような気がする。私があなたに、あなたのせいじゃないよ、と言ったところで何の力もないよね。でも、神の意志があると思っている人間がいるということも知っておいて欲しい」
「はい。ありがとうございます」
先生が真衣に力を与えようとしていることが伝わってきていた。
「成沢さん」
「はい」
「もう、これ以上、無理、と思ったら、また、ここに来て。私に何ができるか、約束はできないけど、できる限りのことはする。お母さんにあなたの気持ちを伝えるチャンスがあれば伝える。お母さんに会うのは、もう少し先にして頂戴。ごめんね」
「ありがとうございます。来るまでは不安だったんです。でも、来て、よかった。母の事、よろしくお願いします」
「私にできる範囲だけど、頑張るわ」
真衣は立ちあがって奈良岡医師に頭を下げた。孝子先生やおばあちゃんとは違う近さを感じさせてくれた医師に感謝の気持ちを込めた。
「えっと、真衣さんだったわね」
「はい」
「また、来てくれるよね」
「はい」
「次は会えると、いいね。お母さんに」
「はい」
真衣は病院の玄関を出て、建物を見上げた。この中に、苦しみ続けている母がいる。いつか、生き続ければ、母と暮らせる日があるかもしれない。真樹を死なせた犯人は自分なのだから、母を支える責任は自分にある。
バス停に着いたが、バスは一時間に一本しかない。おばあちゃんは心配してるだろう。病院まで戻れば公衆電話があるかもしれないと思ったが、三沢駅から電話しても間に合うだろうと考えた。真衣は高校生なのに携帯電話を持っていない。片岡のお母さんは、買いなさいと言ってくれたが、友達もいないのに携帯電話など必要なかった。こんな形で携帯電話が必要になるとは思わなかった。
三沢駅の公衆電話からおばあちゃんに電話をして、三沢病院の帰りだと知らせた。
園田駅に着いた時には八時を過ぎていた。駅前なのに八時を過ぎると閉める店が多いせいで、人通りも少なく全体に暗い印象がある。特に廃業したゲームセンターの前は暗かった。
無意識のうちに足を速めていたが、三人の男に道を塞がれた時は驚きのあまり声も出なかった。男たちも無言で真衣の両手を押さえ、暗い建物の裏に連れ込もうとした。危険信号が真衣の中で鳴り響いている。真衣は抵抗して足を止めたが、両脇にいる男の力はより強いものになった。
「た・・」
助けて、と叫ぼうとしたが、腹部に激痛が走り、声が消え、その場に崩れ落ちた。誰かに殴られたという経験はなかったが、殴られたことはわかった。暴力の怖さに身が縮んだ。
「声、出すんじゃねぇよ」
髪をつかみ上げられ、両脇の男が体ごと持ち上げるような力で真衣の体を立たせた。後ろにいた男が正面に来て、真衣の顔を両手で掴んだ。
「痛いの、嫌だろ。すぐに済むから。な」
真衣は男たちから逃れるために身をよじった。顔に激痛が走り、目の前が暗くなる。
「た・・」
又、腹部に痛みが走り、吐き気で息が苦しい。それでも、続けざまに何度も殴られ、真衣の意識は一瞬だが遠のいた。
宙を飛んでいる自分に気が付き真衣は体を捩った。その直後、顔面に衝撃を受けて、頭を上げた。フェンスが見え、電車のレールが光っていた。真衣の両脇に男が二人倒れている。
「何、やってんだよ。だらしねえな」
リーダー格の男が笑いながら、真衣の上に馬乗りになってきた。両手を膝で押さえられて身動きが取れないが、まだ動く両足で抵抗した。
「まだ、やるか。この女」
男の両手が右から左から真衣の顔面を捉えるが、真衣には逃げる隙間がない。また、意識が遠のいていく。
目を開けると、下半身を露出した男の姿が足元に見えた。襲われる。その時、自分が消えたような不思議な感覚になった。真衣は両腕を前に出し、静かに男に抱きついた。男の首に顔を密着させ、ゆっくりと男の喉に噛みついた。男の体に衝撃が。真衣は更に強く噛んだ。逃れようとして後ろに倒れこむ男。だが、真衣の歯は男から離れない。二人の体が一つになって倒れこむ。男の体が痙攣している。
仲間の男たちが、フェンスを乗り越えて逃げて行き、別の人影が現れた。
「離れなさい」
真衣は男の喉に噛みついたまま、目を上げると、警察官の姿が見えた。力を抜いて歯を男の首から離した後、真衣は本当に気を失った。
次に、真衣が目を覚ましたのは鉄格子の中だった。
どこにいるのか、何が起きているのか理解できないが、近くに下着が落ちているのに気付いた。それは、自分の下着だった。誰もいない静かな板間の上で下着を付ける。体中が痛みに悲鳴を上げている。顔の左が痛い。鏡を見るまでもなく、腫れあがって熱を持っているし、何かで汚れているのがわかる。男に襲われ、抵抗し、男の喉に噛みついたことを思い出した。恐怖心がぶり返し、体を震わせる。あの時は自分を守ることに必死で恐怖心を感じていなかったのかもしれないが、圧倒的な衝撃が襲ってきた。声が漏れ、それは悲鳴になった。
鉄格子の向こうに警察官が姿を見せた。
「静かにしなさい」
だが、真衣の悲鳴は止まらない。いや、自分の意志では止まらない。手を握り締めても、体を折り曲げても、体の震えと悲鳴は制御できない状態になっていた。三年前の放火犯の女のことを知っている看守がいたら、宿命のようなものを感じていたかもしれない。そこは真衣の実母が留置されていた場所でもあった。
時間が経ち、悲鳴が泣き声に変わり、そして静かになった。
放心状態の後に、強い眠気に襲われ、真衣は壁にもたれたまま寝入っていた。
「起きろ」
体を揺さぶられて目を覚ました真衣は、間近にいる男の顔を見て思いっきり突き飛ばした。
「おう」
後ろ向きに倒れた男は警察官の制服を着ていた。背広姿の男が中に入ってくる。立ちあがって逃げようとした真衣は板の間に叩きつけられていた。右腕がねじられ、膝で押さえつけられた真衣は動くことができなくなっていた。
「大丈夫ですか」
「ああ、何なの、この女」
「気、つけてください。男を噛み殺そうとした女ですから」
「まじ」
「腰ひも、お願いします」
「わかった」
制服警官が出て行った。
「まだ、暴れるようだと、何度でも投げ飛ばしますよ。わかりますか」
「・・・」
「言いたいことがあったら聞くから、大人しく。わかったかな」
「・・・」
「返事をしろ」
真衣は首を縦に振って見せた。
腰紐と手錠をかけられて、エレベーターで二階の小さな部屋に連れられて行った。
すぐに別の背広姿の男が部屋に入ってきて、真衣の正面に座った。
「名前は」
「・・・」
「名前」
「・・・」
「だんまり、か。あんたは、傷害の現行犯で逮捕されている。わかってるのか」
傷害?
現行犯?
何、それ。
「なんだ。その目は。相手は重体で、手術中だぞ。おいっ」
真衣は男から目を逸らした。
「坂本。学生証」
「はい」
「成沢真衣。高見沢高校の一年生。そうだな」
男は学生証の写真と真衣の顔を見比べた。
男は刑事だと思うが、その態度を見ていると口を開く意欲は無くなっていた。
「何をした」
「・・・」
「なぜ、あんことをした。痴話喧嘩か」
「・・・」
部屋のドアが勢いよく開けられて、別の男が入ってきた。
「おじさん」
「西崎さん」
「ん」
「西崎さん、非番ですよね」
「真衣ちゃん。どうした、その顔」
「西崎さん。まずいっすよ。自分が担当してますから」
西崎刑事は片岡の母の友人で、西崎の家には母に連れられて何度か行っているし、西崎の妻の聡美は母の親友でもあった。
「ちょっと」
真衣の前に座っていた刑事が西崎に呼ばれて部屋を出て行った。

「西崎さん。この件は自分が担当ですし、非番の西崎さんが口出しするのはまずいでしょう。どうやら個人的にも知っているようだし、課長に話、通してくださいよ」
「わかってる。何があった」
「もう」
「何があったのか、聞いてるんだ」
「あの女が男の喉に噛みついて殺そうとした。今は傷害の現行犯です。現着の警察官が目撃してますから、間違いありません。被害者は手術中です。病院には宮本がいます。命に別条はないようなんで殺人にはなりませんけど、処置が遅れていれば死んでいた可能性もあるそうです。これは消防の話ですけど。何か問題ありますか」
「事情は」
「それを、今から聞くとこですから」
「あの怪我は」
「それを、今から聞くんですって」
「被害者の男は」
「中央病院です」
「取り調べは、ちょっと待て」
「はあ」
「いや、ちょっとだけ待ってくれ」
「ですから、課長に」
細川巡査部長は一年前に西警察署に赴任してきた。県警本部にいたことで、最初から所轄の西崎たちを下に見る態度は誰からも好感を持たれていないのに、本人にその自覚がないのでは変わりようがなかった。警察では縦の関係が民間より厳しい。階級の上下。上司と部下の関係。そして、先輩後輩の関係。それ以外にも本部と所轄の関係もある。西崎と細川は階級では同じだが、先輩後輩の関係では西崎の方が五年ほど先輩になる。だが、細川は西崎に敵対心のようなものを持っているらしく、西崎のことを所轄のダメ刑事と陰口をきいていることも知っている。課長も細川の扱いには困っているようなので、課長の立場も考えなければならなかった。
西崎は独断で病院に向かった。
中央病院の外科手術室の前には、若手の宮本刑事がいた。
「ご苦労さん」
「西崎さん」
「どうだ」
「もう、終わると思いますけど、今日は非番じゃ」
「まあな」
「現場では、呼吸困難状態で、消防が気道確保に苦労したらしいです。喉に噛みついたまま睨んだ女の顔は肉食動物の顔だったと、現着した大村が言ってました」
「そうか。被害者の身元は」
「ええ、免許証持ってました」
「免許証は」
「多分、受付にあると思います。細川さんには連絡入れました」
「そうか」
宮本の知っている範囲の事を聞いて、西崎は病院の事務所に向かった。
この事件は細川の担当事案であり、その細川の協力が得られなければ自分で調べるしか方法はなかった。加害者と被害者、そして犯行現場。
片岡孝子も成沢真衣も知っている。確かに暗い女の子だが、真衣が傷害の加害者になることなど考えられない。
事務所で被害者の所持品を見せてもらった。免許証の名前は芝原浩次。一年前までは何度も目にした名前だった。中途半端なワルだった。送検こそされなかったが、刑務所への一本道を歩いている男と言える。西警察署の管内から姿を消していたが、戻ってきたのだろう。仲間の話を聞かなければならない。西崎は栗田正夫の家に車を走らせた。
栗田正夫の母親と少し険悪な会話になったが、なんとか正夫を外に連れ出した。
「浩次。いつ戻ってきたんだ」
「つい、最近、かな」
「今、どこにいるか、知ってるか」
「知らねえよ」
「今日、一緒だったろ」
「いや」
「じゃ、お前はどこにいた」
「ずっと、家にいた」
栗田正夫の目は泳いでいる。裏を取るのは後でいい。
「なんで、逃げた」
「は」
「あの現場にいたんだろ」
「知らねえよ」
「まあ、いい。でもな、深みにはまる前に、あいつとは切れろ。おふくろさん、泣くぞ」
強がりを言っているが、栗田正夫は気の弱い、どちらかと言えば優しさをどう使っていいのかわからないまま、芝原浩次に使われているような男だった。
宮本刑事から聞いた現場の状況と、怪我をしたのが芝原浩次という男だったということがわかれば簡単に絵が描ける。強姦犯が芝原で、真衣はその被害者。女の逆襲に重傷をおった情けない犯罪者という構図になるのだろう。
西崎は署に戻り、課長に報告した。
「神野」
神野刑事は刑事課の紅一点。融通はきかないが真面目な刑事だと西崎も信頼している。
「もう一度。話してくれ」
西崎は神野に自分の調べた範囲の話をした。
「細川に変わってお前が話を聞いてくれ」
「はい」
「被害がなかったのかも」
「わかってます」
神野が部屋を出て行った。
「なんで、お前がからんでる」
「あの子の母親は、自分の古い友人なんです。母親と言っても里親ですけど」
「里親」
「ええ。三年ほど前にあった放火事件の生き残りです。火をつけたと思われるのは、あの子の実の母親で、今は強制入院している筈です」
「ああ、あの事件か。薬局の家にもらわれた子が、そうか」
「はい」
「そして、今度は強姦事案か」
「ええ」
その時、細川刑事が顔色を変えて部屋に入ってきた。
「課長。どういうことです」
「ん」
「なんで、神野が出てくるんです。納得いきません。それに、西崎さんがここにいるのは何なんです」
「西崎。話してやれ」
「はい」
西崎は芝原浩次と栗田正夫のことを話した。
「あの子、何か話したか」
「いえ。ずっとダンマリです」
「女の刑事の方が話しやすいと、課長が判断した。そうですね、課長」
「ああ」
「でも、女があそこまで、しますか」
「細川。まだ何も固まってない。神野が話を聞き出せたら、裏を取れ。わかったな」
「はあ」
西崎は部屋を出て、取調室へ向かった。取調室の前には坂本刑事が立っていた。
「どうした」
「神野さんに追い出されました」
「そうか」
今、部屋に入れば西崎も追い出されることが容易に想像できた。西崎は署の建物を出て、煙草に火をつけ、孝子に電話を入れた。
「無事なのね」
「ああ」
「いつ、帰してくれるの」
「まだ、時間はかかる」
「そう」
「大丈夫。俺が送り届けるから」
「うん。ありがとう」
「孝子。もう、脅しはなしだぞ」
「わかってる。全部忘れる。あの子の事、お願い」
「ああ」

「驚いた。でも、すごい。よくやった。私はそう思う」
真衣の話を聞き終えた神野刑事は、眩しそうに真衣を見た。
「明日、レントゲン撮りに行こう。それと、その怪我も」
「・・・」
「骨折があるかもしれないし、内臓も心配。今はまだ気が張ってるから、わからないということもある。念のためよ」
「はい」
「ごめんね。最初、失礼があったと思う。特にあいつは。西崎さんが動いてくれてよかった。ほんとに、ごめんね」
「西崎さんが」
「結構、頼りになるんだよ、あの人は」
「はい。家に電話してもいいですか」
「もう少し、待って。西崎さん呼んでくるから、相談してみて」
「はい」
暫くして、お茶のボトルを持った西崎が部屋に入ってきた。
「すまなかったな」
「いえ」
「孝子には電話しといた」
「すみません。怒ってました」
「いや。心配してた。あんな孝子、初めてだよ。本物の親子みたいだった。でも、きっとあいつは、真衣ちゃんの顔見たら、怒ると思う」
「うん」
「真衣ちゃんは、大丈夫か」
「さあ」
「ん。おじさんでできることがあったら、遠慮するなよ」
「うん。ありがとう」
「顔、痛いか」
「少し」
「神野、呼んでくるわ。その血だけでも取っておいた方がいい。孝子やおばさんが目を回すと困るし」
「神野さんって、さっきの刑事さん」
「ああ。それと、家に帰れるように話してみる。これで、終わった訳じゃないけど、帰りたいだろ」
「はい」
「もう少し、待っててくれ」
「うん」
しばらくして戻ってきた神野刑事がトイレに連れて行ってくれて、顔の傷の手当てをしてくれた。
「少し腫れてるけど、傷は大したことないと思う」
「はい。すみません」
「あなた、強い子ね」
「そんなことありません」
悪いことには慣れてるだけなのだ。
「そう」
最初の刑事に犯人呼ばわりされて、その怒りで怖さがどこかに行ってしまった。あのカラオケハウスの駐車場での出来事が他人事に思えている。
一時間後に、西崎の車で家に向かった。
「自分で、話せるか」
「うん」
「俺が、話しようか」
「大丈夫です」
「そうか」

学校は二日休んだだけで、真衣は元の生活に戻った。いや、そう見えるように頑張った。暴力の恐怖は、まだ真衣の体を震わせる。事件を知っている西崎刑事や神野刑事、そして孝子母やおばあちゃんは優しくしてくれるが、一人で立ち向かわなければならないということを思い知らされているような気もする。真衣も世間の壁というものを身近に感じる歳になった。病院の母が、よく世間という言い方をしていた。世間に守られているのは自分ではなく、世間からはみだした存在の自分を守るのは自分しかいないのだと、自覚を強いられているようにも感じる。
事件から十日ほど過ぎ、神野刑事が片岡薬局にやってきた。孝子母が早く帰宅していたのは西崎の要望があったからのようだ。
「今回の事件のことなんですが」
警察署で会った時の神野刑事と雰囲気が少し違うと感じた。
「ご存知かと思いますが、強姦罪は親告罪と言って被害者による被害届によってのみ成立する犯罪です。つまり、被害届を出さなければ犯罪とはなりません。被害者側にもいろいろな事情があり、被害届が出ないケースは決して少なくはありません。真衣さんの場合は未遂ですが、これも犯罪です。今頃、こんな話をするのもどうかと思いますが、真衣さんやお母さんの考えをお聞きしたくて来ました」
「被害届を出せ、ということですか」
孝子が固い表情で質問した。
「いえ。これは、警察がどうこうしろという話ではありません」
「問題があるのは知っています。特に若い女性の場合は、その人の人生に大きな影響を与えることになる、とも聞いています。まだ、家族で、その話はしていません。できません」
「そうですよね。でも、警察としてはお話をお聞きしなくてはなりません。残念ですが、申し訳ありません」
「いえ。あなたが謝ることではありません。でも、何も話をしていないんです」
「はい。では、一度話し合っていただいて、ご連絡いただけませんか」
「ええ。そうします」
家族の固い表情に見送られて、神野刑事も固い表情で帰って行った。
「真衣は、どう思う」
「わからない」
「そうよね。私も。母さんは、どう思う」
「これは、やはり、真衣の気持ちが一番じゃないかねえ。辛い時に、追い打ちをかけるようだけど」
「しばらく、考えてみようか。真衣」
「うん」
「神野さんの言ってた意味、わかるよね。裁判とか、世間とか」
「うん」
孝子が一人になるのを待ってたかのように、西崎から電話がきた。
「うちの神野が行っただろ」
「うん」
「そのことで、話したいことがある。今から出れるか」
「わかった」
商店街のはずれで西崎の車が待っていた。
「被害届の件だけど」
「うん」
「どうする」
「まだ、わからない」
「この件は、俺から話を聞いたと言ってもらっては困る。そん時は、本気でお前と絶交する。そのつもりで聞いてくれ」
西崎の顔はいつもと違って深刻だった。
「うん」
「実は、向こうの弁護士が出てきた」
「弁護士」
「ああ。加害者の男はろくでもない奴だが、父親は一応真面目で、社会的にも通用する男だ。勿論、名前も職業も言えないけどな。だから弁護士が出てくるのは仕方がない。犯人の男の怪我、知らないよな」
「うん。真衣は詳しく話をしない」
「そうだろうな。真衣ちゃんは、男の喉に噛みついたんだ」
「喉」
「パトカーが行った時には、呼吸困難になってた。消防が応急手当をして、病院で手術して、命に別条はなかったが、危なかった」
「そう」
「ただ、後遺症は残るらしい」
「後遺症」
「声が出なくなるかもしれない。声帯が潰れていたんだそうだ」
「・・・」
「向こうの弁護士は、これは傷害だと言ってきた」
「傷害」
「ああ」
「だって、悪いのは、その男でしょ」
「ああ」
「そんなの、変」
「わかってる。だが、その部分だけ見れば、間違いなく傷害になる。向こうは、なぜ送検しないのだと言ってる。送検して不起訴になるのであれば、それはそれでいいと」
「いやがらせ」
「被害届が出れば、警察の処置を表に出すらしい」
「被害届を出すな、ということ」
「ああ。喧嘩両成敗だと」
「喧嘩じゃないでしょう」
「そんなこと、相手は百も承知で言ってる」
「でも、神野刑事はそんなこと、何も言わなかった」
「だから、俺が言ってる。ほんとは、こんな話、ばれたら、俺は首だ」
「ひどい」
「ああ。やってられないよな。孝子が戦う気なら、それでもいい。ただ、泥仕合にはなる。正当防衛なのか過剰防衛なのか、裁判所の判定になるが、負けるとは思わない。でも、こちらにも覚悟はいる。あの子には辛いことになるかもしれん」
「なんてこと」
「向こうは、父親の世間体だけは、何が何でも守る気らしい。あの弁護士なら、被害者の名前のリークぐらいしそうだし、あの子の母親のことも出てくるかもしれない」
「もう」
「こんな話、あの子にはできない。お前が判断するしかないだろ」
「母親の役ってこと」
「ああ」
「西崎君には、迷惑かからないの」
「俺の事は、いい。だけど、この話は絶対に他に言うなよ」
「わかった。考える。時間は、ある」
「あまり、ない。向こうには早く決着したい事情があるみたいだ」
「そう。でも、話してくれてありがとう。西崎君には世話になるばかり。ごめんね」
「お前から、礼を言われるのも、な。もう、母親なんだな、お前」
「そうなのかな」
「ああ」
西崎と別れて商店街を歩きながら、考えをまとめようとしたが、孝子の頭の中は軽いパニック状態だった。何も持たずに家を出たので持ちあわせはなかったが、孝子は喫茶店に入った。もう70歳にはなる桝本老人が一人でやっている喫茶店で、学生の頃から知っている。
「おじさん。つけで、コーヒー」
「あいよ」
客の姿はなく、商売になっているのかと心配になるが、今の孝子にははるかに大きな心配がある。自分には強姦の体験などない。怖かっただろう。だが、それは貧弱な想像に過ぎないということがわかっている。だから、真衣がどんな気持ちなのか、今、何を思っているのか、わからない。そして、親としての責務は何なのだろうという問いにも答えは見つかっていない。守りたい、いや、守ると思っても、守ると言うことがどういうことなのかわからなくなっている。親は「長いものには巻かれろ」としか言えないのか。弱肉強食という現実の前に立たされ、立ち往生している。「法は強者のためのもので、弱者の味方などではない」と言い切った友人がいた。自分の中で、いかに漠然とした理解が多かったのかがわかる。教師としては失格なのだろうか。いや、人間としてはどうなのだろう。
戦うことが正義なのだと思う。でも多くを失っても、それでも戦う価値があるのだろうか。一番傷つくのは、一番守ってやらねばならない真衣なのだ。これは教壇の上でのきれい事ではすまない。母親が子供の痛みを少しでも小さくしたいと思っちゃいけないのか。



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