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無力-17(完) [「無力」の本文]

67
半時間もせずに、榊原が引きずられるようにしてやって来た。申浩基の機嫌が悪いせいかもしれないが、榊原の表情は引きつっていた。加代を見て、不審な表情を見せたが、申浩基が榊原の襟首をつかんで、力まかせに道場の中へ引きずりこんでいった。
日本人の人質は、和平が進んでいることを知らない。佐藤が椅子に拘束されている状況も、北山加代が銃を持ってここにいることも、榊原には理解できない事だった。佐藤の横に放り出すようにして、申浩基は窓際へ行った。教会の司令部に寄って許可を求めた筈で、そこで何か厳しいことを言われたのかもしれない。美姫が近づいて行っても、その視線を避けて外を見ていた。
汚れた服と、長く伸びた髪、そして貧弱にみえる薄い髭が伸びている様子は、誰が見てもホームレスのおじさんだった。救出された時の加代も、そうだったのだろうと思った。
「私を憶えてますか」
横座りをして、落ち着きの無い目をしながら、必死に頭を回転させているのがよくわかる。
「北山さんですよね」
「そうです。あなたに確認したいことがあります」
榊原の目が泳いでいる。
「しゅうとめぐのことです」
頭の良い榊原は不利な状況に気が付いているらしい。榊原に欠けているのは、度胸だった。
「二人を殺したのは、あなたですね」
榊原は大きく首を横に振った。
「榊原さん。あなたの立場はよくわかっています。この佐藤に命令されて、そうするしか方法がなかった。そうでしょう。正直に言っていただかないと、あなたが困ったことになりますよ」
「わ、わたしは、なにも、してません」
加代は、榊原の横の畳に向けて、引き金を引いた。すぐに指を離したので、銃弾は五発で済んだ。入り口にいる二人の兵士と、申浩基と、美姫の銃が一斉に三人の方へ向けられた。榊原は、驚愕の表情のまま固まっていた。
「死にたいですか」
「う。う。う」
「共和国軍と日本は和平交渉をして、日本人の人質は数日中に全員解放されます。この戦争に協力した日本人は全て捕らえられて、拘束されています。ここにいる佐藤は、もう、あなたに命令することはできません。佐藤たち日本人協力者は、日本の警察が調査尋問して、日本の法律で裁かれることになります。いいですか、あなたが正直に話していただかないと、あなたの罪になります。当然、死刑ですよね。わかりますか。あなたに選択の余地はなかったのでしょう。悪いのは、この男です。こんな男の罪を背負って死刑になりたいのですか」
さすがのエリート官僚の頭脳も、行き詰まりをみせていた。
「すこし、考える時間をあげましょう」
加代は美姫の方へ合図して出口へ向かった。榊原の態度と表情から、二人の子供の生命を奪ったのが榊原だと確信した。二人の子供たちは、どんな思いで死んでいったのだろう。きっと、怖かっただろう。修は恵を守ろうとして、先に殺されたと思う。いつも守ってくれていた兄が動かなくなって、恵はどうしたのだろう。今、加代にできることは、古すぎる想念ではあるが、二人の仇討ちしかなかった。日本の刑法に委ねるつもりはない。佐藤と榊原が死刑になるとは限らないのが日本の刑法だった。
「二人を残して、大丈夫かしら」
美姫が心配な声で言ったが、加代は笑顔だけを返した。申浩基は「勝手にしろ」という態度で二人から離れた。
扉を閉めたので、中の様子がわからない三十分が過ぎ、加代は扉を開けた。正座している榊原に話かけていた佐藤が、加代の方を見て口を閉じて、視線を逸らした。榊原はどこを見ればいいのかわからずに、宙を見ている。加代と美姫が道場に入っていった。申浩基は、本気で機嫌を悪くしたのか、入ってくる気配がなかった。美姫は加代の左手の窓際に進み、加代は二人の正面に立った。
「考えはまとまりましたか」
榊原は答えが見つからずに、佐藤の方を見た。
「僕からも聞いてみましたが、彼はやっていないそうです」
不気味な目を輝かせて、佐藤が答えた。
「あなたには、きいていません」
加代は榊原に銃口を向けて、トリガーに指を伸ばした。
「榊原さん」
「あ、う」
「あなたが正直に言ってくれないと、あなただけが死ぬことになるのですよ」
「あ、あ」
加代が銃の狙いを定めるような仕草をすると、榊原は悲鳴を上げて後ろへのけぞった。その時、佐藤が動いた。拘束されていたロープは外されていて、加代の持っている銃に向かって佐藤が飛んだ。榊原に照準を向けていた加代の銃は、佐藤の動きについていけなかった。
佐藤の頭が、目の前で弾け、脳漿が畳に飛び散った。加代は硬直したまま、立っていた。
「きゃあああ」
女の悲鳴のような声を出したのは榊原だった。二度目の銃声がして、榊原の体が弾かれて横倒しになった。
入り口の扉から、申浩基と二人の兵士が飛び込んできたが、美姫の落ち着いた声が三人の動きを止めた。美姫と申浩基が母国語で話していたが、加代の頭の中は真っ白だった。
                           完

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無力-16 [「無力」の本文]

64
 町村は教会にある事務室で、金明進と明哲の親子と向き合っていた。党の政治局員と日本人協力者の制圧は、昨日の十時までに完了し、西警察署と文化公園体育館に監禁されていた。
「方向は決まりました。行動に移る時だと思いますが」
金美姫が通訳し、金明進が頷いた。昨夜遅くまで続いたテレビ放送を、美姫の通訳で見たと言っていた。
「あなたの計画を教えて欲しいと言っています」
「共和国軍の統率力を前提にしますが、先ず、一般の人の武装解除をしていただきたい。完了後に自衛隊が展開します。そして、軍の武装解除をしていただきます。海上自衛隊の施設内に二万人分のテントを設営しますので、全員移ってください。しばらくは、そこの生活になると思いますが、我々を信用していただくしかありません。自衛隊が展開して武力制圧しますが、それは共和国の皆さんの安全確保が目的です。この地域が落ち着くには時間が必要だと思っています」
美姫の通訳を聞いて、親子の間で議論が始まった。共和国語は全くわからなかったが、何を議論しているのかは町村にもわかった。軍人にとっての武装解除は、特別の意味がある。不安は当然のことだろう。しかも、戦闘で自軍の負けを認めざるを得ないような環境にはない。部下を無駄死にさせないためには、致し方のないことではあるが、受け入れるには抵抗があるのだろう。二人の議論は、父親が息子を説得している様子になってきている。町村は二人の議論が終わるまで待つことにした。
稲本幕僚長は、和平後の展開部隊であるにもかかわらず、重装備の過剰とも思える部隊派遣を命じた。戦えば負けたであろうと、共和国の軍人に思ってもらいたいのだ。
「了解したそうです」
「テレビ局に依頼して、昨日の放送を字幕付きで作ってもらっています。自衛隊が展開した後に、その放送をこの地域に流したいと思います。そして、少将の声明と、日本の防衛庁長官の声明を放送して、両国の人たちに事態の把握をしてもらいます。皆さんにも我慢をしてもらわなければなりませんが、日本人も今の施設で、しばらく我慢してもらいます」
日本人と共和国人を合わせると五万人、そこに一万人規模の陸上自衛隊が展開すれば、舞鶴市街地に約六万人の人々がひしめき合うことになり、充分な計画がなければ、不測の事態が起きる可能性さえある。一刻も早く日本人人質を解放したいが、必要な時間はかけるつもりだった。統合参謀本部では部隊の展開だけでなく、和平実施のタイムスケジュールも計画されていた。
「今日中には、その具体的な計画案が提示できると思いますので、検討をお願いしたいと思います」
「お待ちしています」
金美姫が無言の父親の気持ちを代弁して答えた。
教会を後にした町村を金美姫が追ってきた。
「どうしました」
「兄のことで」
「心配ですか」
「はい」
町村は待機している小山曹長と三人の隊員に、先に戻るように手で合図を送った。
「座りましょうか」
町村は、少し先にある岩を指差した。この和平交渉の鍵は、この若い女性とその母親にあると思っている。充分に話し合っておかなければならない。
「お兄さんは、まだ」
美姫が座るのを待って、町村は深刻な声にならないように注意して言った。
「兄は、父のことを心配しています。父を、一人で死なせたくないと思っています。戦うべきだと」
「そうですか。で、あなたは」
「私は、戦わずに済むことを願っています」
「少将が、お父上の生命がかかっていても、ですか」
「わかりません」
「将官は兵の生命を預かります。兵士が死ぬとわかっていても、命令は出さなければなりません。将官は自分の生命を投げ出すことでしか、その責任を取れないのです。それが、軍人の宿命なのでしょう。自分は少将のご意向に敬意を持っています。逆の立場になったとしても、そうでありたいと思います。これは、仮の話として聞いてください。少将が、仮に責任を取ろうとせずに、部下の誰かが責任を取らされたとしたら、お兄さんは、どうするでしょうか」
「だから、戦うと」
「大勢の戦友や部下の生命をかけて、ですか」
「・・・・」
「双方の犠牲者は、数万人になります。しかも、その八割は民間人です。少将は、その数万人の生命を救うつもりなのです。お兄さんにも、その事はよくわかっているでしょう。そんな重大な決断をしたのに、なぜ、死ななければならないのか。それは、お父上が将だから、司令官だからです。このことは、誰にも、どうすることも、できないのです」
「母も同じことを言いました」
「そうでしたか。お二人でお兄さんを説得してください。少将にとっては、自分の息子も部下の一人にすぎないかもしれませんが、死なせたくはないと思っている筈です」
「すみません」
「いいえ。お役にたてなくて、申し訳ないと思います」
すでに、千五百人以上の日本人が犠牲になっているこの事態は、どこかで、辻褄を合わせる必要に迫られるだろう。いずれ、町村の手の届かない場所で、いろいろなことが決められていくことになる。金明進少将と、その家族には、厳しい覚悟を持っていてもらうしかなかった。
「町村さん」
「はい」
「いえ。なんでもありません。ありがとうございます」
美姫が複雑な笑顔を見せて、去っていった。美姫の兄だけではなく、戦闘を主張する軍人は多くいるだろう。圧倒的な力を見せることで、和平へのふんぎりをつけて欲しかった。

65
 前線本部となっている峠のレストランに戻ってきた町村を待っていたのは、陸上自衛隊の野戦服を着用した加代だった。あまりにも話したいことがありすぎて、二人には言葉が見つからなかった。加代の様子は一変していた。今は、日本で一番の有名人と言っても過言ではない。危機管理室での自動小銃の乱射は、全ての国民の目に焼きついている。前線本部を警護している自衛隊員の視線にも敬意があった。地獄を潜り抜けてきた人間の持つ不敵なオーラがあって、少し気おされるようなものを感じるのは町村だけではない。
「あの教会に行きたいの」
加代のまっすぐな視線に、町村は狼狽を憶えた。
「あの人たちに会って、ちゃんと、お礼を言いたい。今、ここにいるのは、私が、ここにいれるのは、あの人たちのおかげだから」
「そう」
「いろいろ、思い出したけど、わたし、もう大丈夫だから」
「そのようだな。すぐに行くのか」
「できれば」
「わかった。一緒に行こう」
町村は小山曹長を探した。クーデターを機に陸上部隊が展開したが、町村の警護だけは陸上自衛隊に引き継がず、倉持のグループがその任務に当たっていた。海上自衛隊の倉持グループは私服だったので、武器を持つとゲリラに見えたが、共和国側に刺激を与えないという意味ではよかった。
「着替えは」
「ええ」
「普段着の方がいいと思う」
「着替える。それと、何か武器が欲しい」
「武器」
「もう、二度と暴力に負けたくない」
「わかった」
危機管理室の中継を見たかぎり、銃器の取り扱いは無理だと思ったが、加代の暴力に負けたくないという言葉には反論できなかった。
小山曹長は陸上自衛隊から短機関銃を調達してきてくれたので、着替えてきた加代を連れて教会へ向かった。共和国軍のパトロールは中止されていたし、人の動きは極端に少なくなっていたので、誰に出会うこともなく待機地点まで行く。教会が共和国軍の前線指令本部になっている。教会の周辺には警備兵がいるが、町村に銃を向ける兵も、声をかける兵もいない。待機地点に小山曹長たちを残して、町村と加代は銃を持ったまま、教会の裏手の建物へ行った。
ドアをノックすると、すぐに金美姫が顔を出した。
「町村さん」
「突然で申し訳ありません。北山さんが、お母さんとあなたに会いたいというので来ました。よろしいでしょうか」
「もちろんです。母も喜びます」
何度も来た事のある居間に入ると、美姫の母親が流し台から近づいて来て、何も言わずに加代を抱き寄せた。加代の方がはるかに背丈はあるが、美姫の母親の方が大きく見えた。加代の背中が震えている。何度会っても不思議な人だった。
「今日は、お礼が言いたくて来ました。あの時、お二人に助けていただけなければ、私は、ここには、いなかったと思います。学校にいる人たちも解放されると聞いています。全ては、お二人の気持ちから始まっているのです。あの時は、私、自分がどうなっているのか、何がおきたのか、わかりませんでした。でも、今は、よくわかります。言葉にすると、気持ちが伝わらないかも知れませんが、本当に感謝しています。ありがとうございました」
テーブルに座った加代が、ゆっくりと感謝の気持ちを伝え、美姫が小さな声で、加代の気持ちを通訳してくれた。母親が熱心に美姫に何かを話している。その表情は子供のようだった。
「私たちがお手伝いできたことを、感謝しています。この和平は、あなたから始まりました。私たちが日本に来た日に、あなたに会いましたが、無意識のうちにあなたを失ってはいけないと感じていたのだと思います。あなたには大勢の人を救う力があるそうです。あなたがここに来たのも、辛い思いをしたことも、全てこの和平に繋がっていたのです。その流れの中で、私たちも少しだけお手伝いができたことを嬉しく思っているのです」
「そんな」
「私は、あのテレビを見ました。何か台本があって、あの演技をしたのですか」
「いいえ。演技をしたつもりはありません」
「あなたの、あの行動で状況は大きく動きました。母はまだあのテレビを見ていませんが、あなたが事態を動かしたことをわかっています。自分でも意外な行動だと思っているでしょう」
「ええ」
「そういうものなのだ、そうです。流れを作る人は、自分では気づかずに、ただ自分の感性で行動するそうです。そうでない人が、流れを作ろうとしても出来ません。和平への流れを作りたかった私たちに出来ることは、あなたを守ることだったのです。あなたがいなければ、もっともっと悪いことが起きていたでしょう」
「よくわかりません」
「それで、いいのです。あなたが感謝してくれて、私たちも感謝している。それで、いいのです」
「ありがとうございます」
母と娘が、共和国語で熱心に話し始めた。時々、視線が加代に注がれることを見れば、加代のことを話題にしているのだろう。
「町村さん」
美姫が町村に言った。
「あのことを、話した方がいいと思いますが、いいでしょうか」
町村にはそれが二人の子供のことだとすぐにわかった。気にはなっていたが、まだ話す自信がなかったので黙っていた。
「すぐにわかると思いますが」
情報開示に努めている現状をみれば、いろいろな事実が明らかになるのは時間の問題だろう。それでも、町村には躊躇があった。自分を取り戻したように見えたが、加代がまだ崖っぷちにいるように思える。だが、この四人がこのようにして集まることができる時がいつになるのか。今が一番いい時なのかも知れないとも思えた。町村は黙って頷いて、同意を示した。
「私たちは、あなたに嘘をついていることがあります」
「うそ」
「二人の子供たちのことです」
加代の表情に狼狽はなかった。
「二度目の公開処刑で死んだと言いましたが、そうではありません。二人は、あの佐藤という男のスパイ役をやっていた日本人に殺されました」
「私のせいですね」
「そうは思って欲しくないのです。あなたに何ができたというのです。あなたのせいではありません。絶対に違います」
「しゅう、と、めぐ。あんなに、いい子だったのに」
「お願い。自分のせいだと思わないで」
「ありがとう」
加代は、大きな笑顔を返した。
「私、頭のどこかで、このことはわかってました。あの男が、そうすることはわかっていたのだと思います。大丈夫です、私。でも、あの子達のために、本当のことを知っておきたい。私は、自分の生涯をかけて、あの子達を弔っていかなければなりません。あの、佐藤という男に会えませんか」
「会ってどうするのです」
「本人の口から聞いておきたいのです。あの男なら、平気で本当のことを言いそうですから」
「それだけですか」
「それだけです。誰かの説明を聞いたのでは、あの子達に説明ができません。お願いします」
美姫は町村に目で問いかけた。
「今日でなくても、いいだろう」
「おねがい。すぐに引き渡されるのでしょう。本当のことは言わなくなると思う。あの男は歪んでる。私が聞けば、本当のことを言うわ。おねがい」
「わかった」
日本人協力者の大半は、舞鶴西警察署に収監されていると、美姫が言った。不穏な様子を感じたが、被害者である加代を説得する言葉がなかった。
母親だけを残して、小銃を持った美姫を追って二人は玄関を出た。美姫が警護に当たっている兵士に近づき、言葉をかけると、兵士が教会の中へ入っていった。すぐに、兄の金明哲と部下の申浩基が出てきて話を始めた。金明哲は終始難しい表情だったが、許可は出たらしく申浩基に命令を出して教会へ戻っていった。金明哲は一度も、町村と加代の方を見なかった。
「町村さんは、まだ行かない方がいいそうです。和平交渉の当事者に何かあれば、取り返しがつきません。北山さんは、私と彼で守ります。大丈夫です」
「わかりました」
和平交渉が成功に近づいているとは言っても、町村が行くことで全てを無駄にする可能性が皆無とは限らない。今の町村は責任を伴う立場にいたし、共和国側の意向に個人的理由で逆らうこともできない。
「一人でも、行くのか」
「行かせて欲しい。私が話を聞ける最後のチャンスだから」
「そうか」
無言の申浩基に従って、加代と美姫が小型トラックの荷台に乗って出発していった。

66
国道27号線に出て北上すると、すぐに警察署に着いた。左手に城門を見ながら、駐車場へと向かう。軍服こそ着ていないが、共和国軍の兵士が群れていた。司令部の金明哲から連絡があったらしく、迎えに出てきた兵士は申浩基に敬礼をすると、三人を三階の道場へ案内した。
道場の入り口に二人の兵士がいて、道場の中央に置かれた椅子に、一人の男が拘束されていた。加代には、その男があの佐藤という男だとすぐわかった。不気味な笑みを浮かべている。自分の気持ちが萎えそうな感覚があった。加代は銃を持つ手に力を入れ、町村に教えてもらった発砲準備をする。金属音が静かな道場に響き、佐藤にも、一瞬緊張の様子があった。
「私、一人で話してもいいですか」
美姫が申浩基に加代の希望を伝えた。
「私たちは、少しだけ離れた場所にいます」
加代は、美姫に頷いて、道場の中央に進んだ。佐藤の歪んだ笑顔に近づく。三メートルほど離れた場所で加代は止まった。
「やあ」
佐藤が声をかけてきたが、加代は無視した。
「やっぱり、あんたはきれいだ。また会えて嬉しい」
「あなたに、ききたいことがあります」
「いいですよ。もっと近くによって、きいてください。ゾクゾクしますね」
「あなたは、自分の立場がわかっていますか」
「もちろんです。この有様ですから。軍人が裏切ることは想定していませんでした。あの連中は民族の誇りを捨てたんです」
「あなたも、でしょう」
「そうかもしれませんが、僕には日本人の誇りはありませんでしたから、裏切りとは言えませんね」
「あの子達を殺させたのは、あなたですね」
「突然ですね。この状況で僕が、はい、そうですと答えると思いますか」
「どうすれば、答えてくれるのですか」
「そうですね。この最悪の状況から、僕を解放してください」
「ここから逃がせ、と」
「そうです。ここの生活は、僕の好みじゃありません」
「それは、できません」
「じゃあ、僕も答えません」
「でも、尋問が始まれば、そうはいかないでしょう」
「僕は、誰も傷つけていませんし、だれも殺してはいません。尋問のしようがないでしょう。それに彼らには、そんな力はありません。ただの軍人でしょう」
「いいえ。あなたを尋問するのは日本の警察です」
「日本の警察」
「そうです」
「どうしてです」
「共和国軍は、数日後に武装解除します。この舞鶴も日本の統治下に戻ります」
「そうだったんだ。変だと思っていたんですよ。日本にこんなことが出来たなんて、信じられませんが、どういうことなんです」
「和平が成立して、あなたたちは、日本の法律で裁かれることになります」
「そう。ま、その方がいいか。日本の法律では、この僕を裁くことはできません。すぐに、無罪放免です。僕は法に触れることは、なにもしていませんからね。そうでしょう」
「そうはいかないでしょう。今度のことで、国家反逆罪の法律が出来るそうです。それに、あなたの殺人教唆は立派な罪になりますよ」
国家反逆罪の法律が制定されると言う話はどこにもなかったが、佐藤の自信が一瞬揺らいだように見えた。
「榊原という人に聞けば、あなたのしたことがはっきりするでしょう」
「あの男はクズです。証言はしないでしょう。証言すれば、自分の罪を認めることになりますからね。それに、国家反逆罪があったとしても、証拠がなければ、日本の警察は何もできません。そこが、日本のいいところです」
「証言しないと思うの」
「しませんね」
「目撃者がいますよ。殺人の」
「それは噂ですよ。目撃者はいません」
「本人をここに呼んで、ききますよ」
「どうぞ。あの男は認めません。計算能力だけは一流です。東大出のキャリア官僚ですよ。どこかのお嬢さんがどうにかできるような男ではありません」
加代は、窓際にいる美姫の方へ歩いた。興奮しているせいか、雲の上を歩いているように足元が不安定だった。
申浩基は反対だったが、美姫の強い口調に負けたようだった。美姫がどう思っているのかはわからないが、申浩基は明らかに美姫に特別な感情を持っている。上官の妹に対する礼儀だけではないように思えた。申浩基は入り口に待機している二人の兵士に見張りを命じて、階段を下りていった。加代と美姫は、廊下にあった長椅子に座った。
「ごめんなさい。無理ばかり、言って」
「あなたは、大勢の同胞の命の恩人だもの」
「私は、何もしていない」
「そうだったわね。いいの。気にしないで」
「彼はよく承知してくれたわね」
「若いのに、頑固な男なの。子供の頃から、ずっとそうだった」
「幼友達」
「ええ。毎日、遊びに来ていて、食事も私の家族と一緒。今も兄の部下だけど、子供の頃からずっと部下だった。私も、かなり面倒みたのよ。同じ年齢だけど、弟みたいだった」
「あなたのことが、好きみたいね」
「ええ。結婚したいと言われたけど、弟だと思っていたから、断ってしまった。まだ、諦めた訳ではないと言っているわ」
「そのようね」
「日本に来る時は、誰も死を覚悟していたの。もし、このまま二人とも生き残れたら、結婚してもいいと思ってる」
「彼には」
「まだ、言っていない」
美姫は自分のことや、家族のことを話した。
「帰りたいでしょう」
「そうね。土地とか空気とか、それに景色。そういうものが懐かしい。でも、私たちが帰れば、間違いなく収容所だから。あの国が変われば、やはり、帰りたい」
「これからが、大変」
「ええ。でも、生きていれば、いつか」
「そうね

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無力-15 [「無力」の本文]

60
 危機管理室には、不自然な沈黙が流れた。政府首脳席にいる多勢の人に不安を与える流れになっている。保身本能が全機能を動員して働いていたが、出口が見つからない不安で一杯だった。
根岸の席へメモが届けられた。
「皆さん。各テレビ局は独自の世論調査を、この放送と並行して実施しております。それによりますと、このクーデターを支持する意見が圧倒的多数を占めています。調査の手法や設問に違いはありますが、支持すると答えた方が、少ない局で88パーセント、多い局は96パーセントになっています。とても信じられない数字ですが、菅野総理はどう思いますか」
「私は、世論調査を信じておりません。この放送を見ての回答だと思いますが、ただただ感情的になっているだけだと思いますよ。感情と武力が一緒になった時は、決して良い結果にはなりません。どうして、わからないのです。我々は、もっとあの戦争に学ばなければなりません。どんな結果になりましたか。日本に壊滅的な崩壊をまねきました。それだけではありません。他の国にも大きな犠牲を強いたのです。自衛隊が敵だと言っている共和国を例に取ってみましょう。先の大戦で、何十万人という共和国の人が犠牲になりましたよね。この事件で犠牲になっている日本人は、人質を含めても数万人にすぎません。当然と言えば当然なのかもしれません。過去に犯した日本人の罪を、償っているのです」
「ちょっと待ってください、総理。総理はこの戦争が正当なものだと言われるのですか」
「正当だとは言っていません。ですが、相手の立場に立てば、致し方の無いことだと思います」
「先の戦争とこの戦争を同じ土俵で論じる訳にはいかないと思いますが、総理は日本人の犠牲はやむを得ないことだと」
「我々日本人は、この苦難を乗り越えなければなりません」
加代が立ち上がり、ふらつきながら壁際に立っている自衛隊員に近寄って行った。厳しい表情だった隊員の顔が戸惑いの表情に変わった。
「銃を」
加代は両手を出しながら、さらに近寄って行く。隊員は銃を自分の胸元に抱き寄せて、威圧感に押されるように後ろへさがった。
「銃を」
加代は隊員の抱える自動小銃に両手をかけた。隊員は日頃の厳しい訓練を忘れてしまったのか、ただ体を強張らせ、安藤一佐と稲本幕僚長へ視線を走らせた。稲本幕僚長が小さく頷くのを見て、隊員は自分の銃から手を離した。
「皆さんには、私たちを救出するつもりはなかったのですね」
銃を両手で抱えた加代が、菅野総理の方へ向き直って静かに言った。右手の人差し指はトリガーにかかっている。
「菅野さん。あなたは、日本人の犠牲者は致し方がない、と言いました。それほどの信念がおありなら、どうしてご自分が人質になって犠牲者にならないのです。公開処刑の柱に縛られることは、あなたにとっては望むところでしょう。それとも、口先だけですか」
無音になった室内に自動小銃の連続音が響き、加代は銃の反動で転倒し、銃弾は天井にめり込んでいった。全弾を撃ちつくして、音が止まった。
「弾を」
壁に背中を預けて立ち上がった加代は、隊員に弾倉の交換を要求した。隊員は銃を受け取ってマガジンの交換をすると、初弾を送り込んで加代に渡した。
「ここを、公開処刑の場とし、そちらの席にいる人は全員処刑します。一人ずつ、あちらのドアの前に立ってください。総理大臣は最後にします。総理大臣の次に偉い人は誰です」
政府首脳席の視線が、津田官房長官へ集まった。
「あなたですね。お名前を聞いておきます」
「ばかもん。こんなことが許されるか」
「舞鶴では、皆、そう思っていましたよ。お隣のお二人に連行係をお願いします。お二人は処刑しません。ドアまで引きずってでも連れて行ってください」
加代から連行係に指名されたのは、副官房長官と総務大臣だった。三人の格闘が始まったが、津田官房長官は引きずられて、泣きわめいていた。死にたくないと叫んでいた。副官房長官と総務大臣は自分が生き残れるチャンスを逃すまいと必死である。津田官房長官のズボンは失禁で濡れていた。
「菅野さん。あなたが皆さんの命乞いをされるのなら、あなただけを処刑するだけにしますが、どうされます」
格闘している三人の動きが鈍くなった時に、加代が菅野総理を冷酷な目でみつめながら言った。三人の動きが止まり、全員が総理大臣を見つめた。「総理」「総理」という叫びが沸きあがり、室内が騒然となった。
「私の体を支えて」
加代は小さな声で横にいる隊員に言った。
「わかりました。引き金はすぐに離してください」
背中を隊員に支えてもらっていたのに、銃口は天井に向いてしまったが、銃声で室内は静かになった。
「菅野さん」
加代は総理大臣に回答を督促した。
「断る。そもそも、なぜ、急に処刑なんだね。武器で脅かされて、はいそうですかと言える訳がない。なぜ、私が殺されなければならない。絶対に断る」
「そうですか。では、順番にしましょう」
落胆のため息が聴こえ、津田官房長官が暴れ始めた。
「どなたか、紐を持っていませんか」
テレビクルーの一人が、予備の電線を手にして振って見せた。
「あの二人に渡してください」
電線を受け取った副官房長官と総務大臣が、無我夢中で縛り、津田官房長官の動きが止まった。二人の男が、加代の方を見て、これでいいかと言う仕草をした。加代は銃口を上に向けて、ドアの上にある金具を指した。
「助けてくれ。死にたくない。頼む。私は総理の言う通りにしただけだ。いやだぁぁぁ」
津田官房長官の泣きじゃくる声は、子供のようだった。
「頭の上を撃たせて」
加代は小声で後ろの隊員に頼んだ。背中から隊員の両手が伸びてきて銃身を掴む。加代はトリガーにかけた指に力を入れた。銃弾は津田官房長官の頭上を横一線に薙いで、甲高い悲鳴が聴こえ、津田官房長官が気を失ったようだった。
「目を覚まさせて」
加代が大声を出して、二人の連行係の男に命じた。二人の男が駆け寄り、大声で名前を叫びながら、ありったけの力で津田官房長官を起こしにかかった。
「あの人は、津田官房長官ですね」
加代は、背中を支えている隊員に尋ねた。
「そうです」
「津田さん。失敗しました」
目を覚ました津田官房長官は、意味不明のうめき声を出した。
「あなたの順番は最後にします。次の順番はあなたが指名してください」
「わかりますか。あなたの順番は最後になりました。次の人を指名してください」
津田官房長官は安堵のあまり、大声で泣きだしてしまった。
加代は天井に向けてトリガーを引いた。銃声で津田官房長官の泣き声が止む。
「津田さん。次の人を」
「総理。菅野総理大臣を」
「わかりました」
菅野総理は自分の前にある机によじ登り、逃げ場を求めた。出口のない危機管理室の中を、菅野総理が逃げ、副官房長官と総務大臣が追った。次第に追う人間が増え、菅野総理は部屋の片隅に追い詰められた。
菅野総理は床に伏せて、嫌々をしながら「やめてくれ」と泣いていた。
加代は銃を隊員に返し、自分の椅子に這うようにしてたどり着いた。余りにも疲れていて、目を開けていることも辛かったが、未だに舞鶴で苦しんでいる人たちのことを思えば、決着をつけるまでは意識を失う訳にはいかなかった。

61
部屋の中が落ち着くには時間が必要だった。稲本幕僚長にとっても、思いもよらない展開だったが、証言者として北山加代をこの場に連れ出すことに執着した甲斐があったと思った。このような展開は、北山加代以外には実現しなかったであろう。ほぼ、流れは決まった。政権の交代は実現する。だが、一番難しい問題が残っていた。
根岸アナウンサーも騒ぎが治まるのを待っていた。至近距離で自動小銃の発射音を聴くことになるとは思ってもいなかった。自分がどうしていたのかを憶えていない部分もあるが、事態の推移は冷静に見ることができた。特に、北山加代の真剣な表情は強い印象で残っている。本当に射殺するだろうと信じるに足る迫力があった。政権を担当する男たちの無様な様子がテレビを通して全国に放送され、本物の信念を持ち合わせていない口先だけの詐欺師だったことが証明された。政治家なのだから仕方がないのかもしれない。
処刑執行人の加代が銃を手放して席に戻ったのを見た政府首脳は、呆然としていた。頭脳明晰な高級官僚たちは、この処刑騒ぎが脅しにすぎないことに気づいたが、その失点を回復する方法が無いことにも気づいた。フル回転した彼らの頭脳は、死を回避できたことを「良」とし、責任は全て政治家にあるという流れを変えてはいけないと瞬時に判断した。あとは、嵐が過ぎ去るのを待てばいい。それなら一番の得意技であり、失敗することなどありえなかった。各省庁から参加している官僚が自分を取り戻し、室内は徐々に落ち着きを取り戻していった。
床に倒れている菅野総理と津田官房長官の二人を除いた者は、政府首脳席に大人しく座っている。
「すみません。どなたか、お二人を席の方へ」
根岸アナウンサーの要請に応じたのは、開き直った副官房長官と総務大臣だった。菅野総理と津田官房長官の政治生命は終わったという判断だったのだろう。国のためにと明言して職についている政治家と官僚が、他の誰よりも自分の立場を守ることを最優先事項としている。人間である以上、自己保身本能が最強の本能であることには違いないが、建前と本音が違いすぎるのも好ましいものではなかった。
「皆さん。ここでの話し合いは終わったわけではありません。北山さんは、舞鶴で人質になっている方の現実を再現していただいた、と理解させてもらいます。犠牲者が出なかったことに感謝します。政府の、余りにも現実から遊離した考え方と、その幼稚な本質が全国の視聴者の皆さんに見ていただけたものと思います。従いまして、自衛隊の要求であります現政府の退陣と新政府の樹立について、世論調査の時間を持ちたいと思いますが、異存のある方はご発言ください」
根岸は、単なるインタビュアとしての立場を放棄して、議長役をやるつもりだった。中立公平を保つ積もりではあったが、人間である以上、多少の個人的見解が入ることは仕方がないと、腹を括っていた。自衛隊の武田という士官と事前打ち合わせをした時に、武田から要求されたのは、国民の声の収集だった。各局は、電話会社を巻き込んで様々な方法で国民の意見収集に力を入れている。感情が優先しているので公平とは言いがたいが、数字を出すことに意味がある。根岸は、感情を表に出さない自衛隊の稲本幕僚長の表情をうかがった。この男は政治家に負けない策士なのかもしれないが、この難局はこの男に託すしかないのではないかと思う。
各テレビ局の放送を写し出しているモニターには、リアルタイムで意見集約の数字が出ていたが、圧倒的な賛成意見の勝利だった。
「幕僚長。国民はこのクーデターを支持しています。自衛隊の見解を話していだだけますでしょうか」
「本来、我々が政権に口を出すことはいいことではありませんが、緊急時ということでお許しください。我々は、中原誠司議員が引き受けてくれることを希望しています。ただし、我々の提案を採用してもらうことが条件になりますが」
「自民党ではないのですか」
「民主党が変わらなければ、日本は再生しないと思っております」
「中原議員に連絡させてもらってもいいですか」
「お願いします」
スタッフの一人が、急ぎ部屋を出て行った。
「我々の提案を聞いてください。実は、全国の皆さんにはこの提案を、ぜひ、聞いていただきたいのです。総論賛成、各論反対では困るのです」
「お伺いします」
「先程もお話しましたが、これは新しい犠牲を出さないためのものです。ですから、他人事と思わないで欲しいのです。口先だけの賛成では困ります。中原議員の賛同も必要ですが、国民の皆さんのご協力がなければ成り立ちません」
「国民の協力ですか」
「舞鶴には、四種類の人たちがいます。共和国軍の軍人、共和国の民間人、党の政治局員、そして日本人協力者です。指揮を執っているのは、政治局員と日本人協力者です。軍人は、共和国内で不穏分子という疑いのある人たちで、民間人は口減らし政策の犠牲者です。民間人と言っても軍事訓練は受けていますので、日本の民間人と同じではありません。現時点で人質救出作戦を実行した場合の被害想定をしますと、人質になっている日本人の半数、共和国側の半数、そして自衛隊にも多数の死者が出るでしょう。北山加代さんの話でもわかるとおり、死者だけが犠牲者ではありません。人質の方は生き地獄にいるのです。この事態を放置して、あらたな犠牲者が五万人になり、十万人に増え、百万人になることもありうるのです。犠牲者が増えることを阻止するための作戦ではありますが、双方を合わせて二万人以上の死者を出すのは耐え難いことです。そこで、我々の独断ではありますが、和平交渉をしました。相手は共和国軍の指揮官です。我々が提案した和平条件は、共和国の軍人と民間人に日本国籍を与え、日本での永住権を獲得してもらうというものです」
「少し、お尋ねしていいですか」
「どうぞ」
「日本人協力者と言うのは、在日と呼ばれている人たちですか」
「いいえ、違います。この作戦には在日の人は一人も参加していません。純粋な日本人です」
「もう一つ。政府が出来なかった和平交渉が、何故自衛隊に出来たのですか」
「それは、大きな幸運に恵まれたおかげですが、命がけで現地に張り付いていなければ出会うことの出来ないものでした。この危機管理室で議論をしているだけでは、何も生まれません」
「で。その和平交渉は成立したのですか」
「いいえ。まだ成立したとは言えません。日本が正式に和平条件を保証しなければなりません。そのために新政権が必要なのです」
「共和国の人たちを受け入れるということですね」
「そうです。文字通り、受け入れるのです。政府が日本国籍を与えただけでは駄目なのです。彼らが、この土地で未来永劫生活ができなければならないのです。そのためには国民の皆さんが彼らを受け入れる必要があるのです。このことを是非、理解して欲しいのです」
「でも、既に千五百人の日本人が犠牲になっていますが」
「その通りです。そのことを含めて受け入れる必要があるのです。感情としては受け入れ難いことではありますが、それを飲み込む度量が求められています。これは、大事業です。被害者になるのは嫌だが、自分の権利を奪われるのも嫌だと言う風潮が強く、日本人は誰もが官僚化しています。このような精神基盤では、この大事業は成り立ちません。あなたの町で、あなたの村で、彼らが生活できる基盤を提供して欲しいのです。共和国で漁業に従事していた人に対して、あなたの漁協で受け入れてください。国と自治体と住民が彼らの生活を軌道に乗せる責任を共有するのです。国民の一人一人に身銭を切って欲しいのです。今の日本は、総理大臣を筆頭に、自分さえよければ、という貧しい精神構造の上に立っています。世界が日本をどのように見ているかを、知っている人は多くありませんが、日本はいずれ自己崩壊するだろうという予測をしています。その根拠は何だと思いますか。人心の荒廃だそうです。日本で一週間、市民生活をすれば、それがよくわかるそうです。この戦争が、日本の崩壊を回避するきっかけになれば、犠牲者の死も無駄にはならないのではないでしょか。我々が、国民に理解を求めているのは、言葉での理解ではないのです。あなたの家に、共和国人の家族を受け入れてくれるかどうかを聞きたいのです。寝る場所も、食べるものも分け合って欲しいのです。受け入れるということは、そういうことなんです。世論調査にこの項目を加えていただきたい」
「わかりました。自分の家に共和国の家族を受け入れるかどうか、ですね」
各テレビ局は、設問の変更作業に全精力を注ぎ込んだ。他局に負けるな、が共通の意識のようである。危機管理室の視線もモニターに集中した。調査の方法は大きく分けて、投票方式と電話による調査方法の二つに集約されるが、それまでの設問では回線の許容量を超える反響があった投票方式の調査に異変が起きていた。全く数字が伸びない状態が続いている。「YES」も「NO」も同数程度だが、意思表示をしない圧倒的多数から見れば、それは誤差範囲程度の投票でしかなかった。ジリジリとした時間が過ぎ、電話調査の暫定結果が出始めたが、「わからない」という回答が九十五パーセントを超える結果となった。どの局の数字も大差は無く、九十五パーセント台の小数点の差があるだけだった。
中原誠司議員が官邸に到着したという知らせがあったが、別室で待機してもらうことになった。
「幕僚長。結果は、ほぼ見えましたが」
「そのようですね。残念ですが、このクーデターは失敗に終わりました。我々は縛に付き、菅野総理に施政権を返上しなければなりません」
「待ってください。全てが元に戻るということですか」
「そうです。国民の支持を得られないクーデターは軍事独裁政権になるしかありませんが、自衛隊にその力はありません」
「舞鶴の人質はそのままで、新しく占拠される地域が出ることも阻止できないのですか」
「仕方ありません。それが、国民の総意ですから」
「そんな」
「大勢の隊員を巻き込み、民間人の北山さんまで巻き込んでしまったことを、深くお詫びしたいと思います。ここからは、警察庁にお願いするしかないでしょう」

62
 危機管理室のドアに、携帯テレビを手にした中原誠司議員が現れた。
「待ってください」
「あなたは」
根岸は混乱した頭を振って、ドアのところに立っている男性に声をかけた。
「中原です。私にも参加させてください。その権利はあると思いますが」
孤立無援になっている状態の根岸には、どんな援軍でも欲しかった。
「幕僚長。中原議員の話を聞く必要があるのではありませんか」
「わかりました。どうぞ」
稲本幕僚長は、北山加代の横の席を手で示した。
「ありがとうございます」
席についた中原は、頭を下げた。
「どうぞ」
「実は、民主党内でも、菅野総理のやり方に批判が続出しております。国の責任は、国民の生命と財産を守ることだと、誰もが理解していますが、菅野内閣はその最重要の責任を果たしていないという批判です。民主党が分裂寸前だと言っても過言ではありません。ここで、政党内部の事情について言及する必要はありませんが、実情を知っておいていただきたいと思います。ところで、世論調査の件ですが、ノーの回答が多かったわけではありません。答えられないという回答が圧倒的な多数意見でした。このことは、致し方のないことでもあります。考えている時間が無い状態ですから、正直な意見だととらえるべきでしょう。イエスやノーが多数でなかったことが正常な意見の反映だと思います。そこで、私に一つ提案があります。我々国会議員は立法府にいます。住民立ち退き法案を成立させて、特定の地域から日本人を強制退去させます。それは、東京都でもいいですし、伊豆半島でも、四国でも、九州でもいいのです。そして、その土地で共和国の人たちに生活を始めてもらいます。自発的に判断できないのなら、強制的に命令されても仕方がないでしょう。そのような無謀な方法を採用してでも、現在の状況は変えなければなりません。これ以上国民を見殺しにしてはいけません。強制退去と言っても、殺したり収容施設に拘束したりする訳ではありません。退去を命じられた住民が不利益を蒙ることにはなりますが、それは国民が自分で選択した結果ではないでしょうか。一つの不利益を避けるために、十の不利益に遭遇してしまうことは、世の中ではありうることなのです。国民の意識にこの難局を乗り切る気概がないのであれば、使ってはならない国家権力も使わねばなりません。殺されたり、人質として拘束されるより、はるかに望ましいことだと思います。ですから、和平交渉は成立させていただきたい」
「そのような法案が国会を通過するのですか」
「これは、政党の問題ではありません。議員の資質が問われる問題です。記名式投票で全員の氏名を公表します。反対票を投じるのは、退去地域に指定された議員と日本を売り渡してもいいと考えている議員でしょう。必ず成立します」
「私は、賛成票を入れます」
井上防衛庁長官が、右手を高く挙げた。井上長官に続いて、右手を挙げる人が続出し、政治家の本能が、中原議員を勝ち組と認める結果になった。菅野総理と津田官房長官の二人を除き、全閣僚が賛成の意思表示をしたことになる。
「稲本幕僚長にお願いしたい。是非とも和平交渉を成功させていただきたい。この機会を逃せば、もう二度と和平は期待できません。共和国は、領土も財産も欲しい時に欲しいだけ手に入れることが出来るのです。こんな美味しい話は世界中どこを捜してもありません。日本という国が没落していくことを、世界はただ見ているだけでしょう。いえ、喜ぶ国さえあるでしょう。自分の国は自分で守らなければならないのです」
この頃から、投票方式の世論調査が活気づいた。
「中原議員。ありがとうございます。政治家の方の協力があれば、この和平交渉も意味のあるものになり、多くの生命が助かります」
「とんでもありません。自衛隊の働きが無ければ、日本はまだ泥沼の中です。引き続き和平交渉に全力をお願いいたします」

63
 加代が証言者の席から解放されて、病院に戻ったのは深夜だった。警護をしてくれた隊員に体を支えてもらって、ベッドに倒れこむようにして横になり、服のまま眠ってしまった。
目を覚ますと、母が加代のベッドにもたれて眠っていた。自分も大変だったが、母にも苦労をかけてしまった。母が加代に付きっきりになっているので、父は不自由しているのだろう。
頭の中の霧が晴れたような、不思議な感覚がする。昔の自分に戻ったのか、新しい自分になったのか。昨日、危機管理室で手にした銃を撃った時、それまで空ろに見えていた現実がはっきりと見えてきた感じがした。自分の足が地面をしっかりと踏みしめている感触がある。
「かあさん」
「加代」
目を覚ました母に、加代は笑顔を見せた。
「あら。眠っちゃったみたい」
「ごめんね。心配かけて」
「加代」
母の真理子は、ほんとに久しぶりに、加代の笑顔を見た。目にも力がある。どこかに行ってしまいそうだった我が子が帰ってきてくれた。目の前が涙で揺れている。
「私、お腹減っちゃった。何か美味しいものが食べたい」
「そう。何か買ってくるわ」
「うんん。どこか、食べに行こう」
「外に」
「この辺に、美味しいレストラン無いのかしら」
「わかったわ」
「シャワーしてから」
母は元気に部屋を出て行った。加代はベッドから降りて立ち上がったが、体がふらつく。そういえば、昨日は何も食べていない。食事の量が少ないことには舞鶴で慣れたが、絶食はさすがにこたえるみたいだった。ゆっくりとバスルームへ行き、服を脱いだ。病室なのに、ホテル並みのバスルームで、大きな鏡に自分の姿が映っている。ここまでダイエットをしたのは、生まれて初めてだった。「別人みたい」と思った。加代は、ゆっくりとシャワーを楽しんだ。
母は警護の自衛隊にも話したようで、私服に着替えた二人の隊員が車椅子を押して警護についてくれた。病院は官庁街の中にあり、暑いビル街をビジネススーツの男たちが忙しそうに行き交っている。近くのビルの地下にあるレストランが美味しいフランス料理を食べさせてくれるらしい。四時という時間から、レストランは空いているだろうと思ったが、ほぼ満席に近い状態だった。病院からの依頼があったようで、奥まったテーブルに案内される。仕事がらみの客が多いのか、女性客は少なかった。警護の二人にも横のテーブルで食事をしてもらう。コース料理の肉で四人分をオーダーした。レストランに食事に来るのは何年ぶりだろうという感じがする。視線を感じて周囲を見ると、スーツ姿の男たちが、加代の噂をしているように見えた。昨日の放送で有名人になってしまったらしい。化粧は苦手だったが、外に出る時は化ける必要があると思った。
料理はどれも美味しかったが、小食に慣れてしまった胃は途中で受け付けなくなってしまった。
「無理しちゃだめよ」
久しぶりに娘と食事ができると言って、母はおいしそうに完食しょうとしている。はやく体力を取り戻したかったが、加代は途中でフォークを置いた。
黒服に蝶ネクタイの店員と口論しながら、ジーパンにTシャツの若者が歩いてくる。
「とまりなさい」
警護の女性隊員が、片膝立ちで銃を向けた。若者はポケットからナイフを取り出し、無表情でさらに近づいてくる。銃声が鳴り、若者の膝から血が飛び散り、膝を撃ちぬかれた体は前のめりに倒れた。隊員は素早く動いて、若者を制圧した。
「誰も動かないでください」
凛とした隊員の声が響く。別の隊員が携帯電話で上官への報告と警察への通報をした。加代は席を立って、恐怖で震えている母の体を抱き寄せた。
警察と自衛隊が同時に雪崩れ込んできた。レストラン内は騒然とし、自衛隊員の群れに囲まれて、加代と母はビルの外へ逃れた。
一時避難として防衛庁敷地内に、加代を乗せた一団の車列が入っていった。警護を担当していた陸上自衛隊特殊作戦群には動揺があった。証言者である加代の動向が敵に漏れていて、襲撃者を近づけてしまった。警護の隊員の冷静な対処で事なきを得たが、警護体勢に不備があった事実は重大である。安全確保のために市谷に駆け込んだものの、警護隊は臍を噛む思いだった。
長官用応接室に入った加代と母の真里子のところへ、北山本部長が来てくれた。
「叔父さま」
「大丈夫か」
「私は大丈夫。母が」
「真里子さん。申し訳ない」
「大丈夫よ、健一郎さん。びっくりしただけだから」
「残念だが、しばらく避難生活をしてもらわなければ」
「わかってるわ」
「叔父さま。私、舞鶴に行きたい」
「・・・」
「この目で確かめたいの」
「でも、大丈夫なのか。まだ、体力も無さそうだし」
「しっかり、食べますから」
「ん。まあ。向こうには町村君がいるし、陸自も展開している。かえって、安全かもしれん」
「私はもう大丈夫だから、母には家に帰ってもらおうと思ってるの。私のせいで、一度も帰っていないから、父が可哀相。出来れば、母の方の警護を」
「加代」
「大丈夫よ、お母さん」

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無力-14 [「無力」の本文]

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 安藤一佐を指揮官とする特殊部隊所属の五人が危機管理室に平然と入ってきた。各自、床に降ろした工具箱に似たケースから装備を取り出し、訓練の時より素早い動作で武装していった。
「君たち。何をしてる」
津田官房長官が、荒い声で呼びかけて、部屋にいた全員の視線が入口に立っている武装隊員の方へ向けられた。官房長官に対応する隊員はなく、定められた計画に従って部屋に散会した。
「どういうことです」
津田官房長官は、稲本幕僚長の方へ向き直って言った。
「官房長官。我々はクーデターを起こしました。申し訳ありませんが、全員を拘束させていただきます。反抗された方は射殺されます」
部屋にいた人たちは狼狽の表情で武装隊員を見た。
「幕僚長。こんなことが成功すると思っているのですか」
菅野総理の声は静かだった。
「はい。そのつもりです。皆さんに申し上げます。この建物には大量の爆薬がしかけられています。我々を含めて全員が死ぬには充分な量の爆薬です。ただし、自分は一人の犠牲者も出さずに、このクーデターを成功させたいと願っております」
「それでも、これは死罪ですよ」
「総理。死ぬ覚悟もなくクーデターを起こすと考えておられるあなたが、このような事態を作り上げたのです。舞鶴の人質の苦しみを理屈でわかってはいけません。ところで、ここにおられる皆さんは銃器の力をご存知ではないと思いますので、念のためにデモンストレーションをさせていただきます」
稲本幕僚長の合図で、安藤一佐の自動小銃がマガジン一本分の弾をはじき出した。壁際にある、軽食やコーヒーがテーブルの上で飛び散って床に転げた。
「伊丹長官。あなたは、この状況を知らせてください。警察関係の方からも犠牲者は出したくありません。ここに戻ってきていただく必要はありません。それと、爆発物の件ですが、これも念のためにテストをします。公用車駐車場から百メートル以内にいる人を避難させてください。十分後に車庫を爆破します。急いでください」
警察庁の伊丹長官が転ぶようにして部屋を出て行った。
「残られた皆さんには、もうしばらく我慢をお願いいたします。総理。我々の要求は、人質の救出なんです」
「武力に頼ることしか、あなたたちの頭には無いのですか」
「そうでもないのですが、武力を使わなければならない、ということもあるのです。そこのところを多くの国民に判断して欲しいと思います。幸運がいろいろと重なりまして、先日舞鶴の施設から一人の女性が脱出しました。この女性も悲惨な体験をしていますが、この場に参加していただけることになりました。我々はこの場で、この戦争を、テレビ中継で全国に流したいと考えています。そうすれば、ここにおられる方々は、国民に向けて主張を届けることができますし、国民にとっては情報開示になります。賛成していただけますね。総理」
「もちろんです」
「では、三時間後に放送開始にさせていただきます」
「おい。トイレも行かせない気か」
外務大臣が怒りの声を出した。
「しばらく、我慢を」
安藤一佐が十分経過したことを幕僚長に知らせた。
「爆破」
幕僚長の命令を受けて、安藤一佐は無線発信機のスイッチを押した。幕僚長はこの爆破に巻き込まれた人がいないことを祈った。真田航空幕僚長が情報ブースに行き、モニターにテレビ各局の映像を出すように指示した。NHKを通じて、内容未定だが特番の事前要請がされていたので、クーデター発生という情報を得て、全テレビ局がクーデターの発生と、午後一時から始まる重大発表の予定を伝えていた。共和国との事件が始まった時から、官邸にはテレビ村ができており、車庫爆破の状況がすぐに流れ始める。真田幕僚長は用意してあった詳細声明文をマスコミ各社に送信するように指示し、情報担当官がその作業を開始した。クーデターに関する情報も公開可能と判断した時点て発表することになっている。クーデターの情報開示など前代未聞だったが、稲本幕僚長は強く主張した。
十二時前になって、NHKのスタッフとアナウンサー、そしてテレビクルーが到着した。インタビュアは女性で、根岸幸子という若いアナウンサーだった。NHKには、アナウンサーだけではなく参加する人の生命の保証ができないことを伝えてある。緊張の色は隠せなかった。
一時十分前に地響きがして、北山加代の乗った救急車が、前後を装輪装甲車に護衛されて到着した。救急車から車椅子に乗った加代が二人の女性自衛官に付き添われて降りてくる。洗濯こそしてあったが、加代の着ていた服は舞鶴で着ていたものだった。加代の顔も緊張で青白かった。二台の装輪装甲車は12.7ミリ重機関銃を外に向けて、そこを守ることになっている。銃手を残して、完全武装の兵士が出入り口の守備をするために展開した。首相官邸に二台の装輪装甲車が配置されて、クーデターはそれらしくなった。
テレビ局のスタッフは、危機管理室という与えられたスタジオの効率的なセッティングをするために、政府首脳の座席位置、証言者の座席位置、そしてインタビュアの座席位置を決め、機敏に動いた。このような大掛かりな中継準備を一時間で行うことは至難の業であったが、スタッフの怒号が飛び交う中で準備は着実に進められ、根岸アナウンサーも自分の席につき、急いで作った原稿に目を通していた。政府首脳の集団は雑談で騒々しい。笑い声さえ聴こえる。どこかのテレビ局に収録にきているつもりなのかもしれない。部屋の中はクーデターの緊迫感ではなく、スタジオの緊張感に変わっていた。危機管理室に入れるカメラはNHKのカメラだけなので、民放各社へもリアルタイムで映像を送り出すことになっている。日本のテレビ業界で、一テレビ局の映像を全局で一斉放映するという事態は初めてのことだった。
車椅子に乗った加代と二人の女性自衛官が危機管理室に入ってきた。その時、一瞬だったが部屋の物音が全て消えた。すぐに我に返ったテレビスタッフが、三人を所定の場所に誘導した。
「二分前です」
スタッフが「2分」と書かれたカードを持ち上げて知らせた。根岸アナウンサーは証言者として部屋に入ってきた加代の顔をすぐに思い出した。母親の職場の近くで食事をした時に紹介された女性だ。自衛隊から説明に来た武田という男性は、証言者としての北山加代の過去を何も話さなかったが、ヘリの撃墜で行方不明とされていた新聞社の人物だということを思い出した。

58
 スタッフの秒読みが始まり、根岸に向けてキューが出された。
「こんにちは。ここは、首相官邸にある危機管理室です。この中継は自衛隊の要請により行われます。我々が得た情報では、これが軍事クーデターだということです。早速ですが、自衛隊の責任者の方にお尋ねします。このクーデターという情報は正しい情報でしょうか」
稲本幕僚長が挙手をして発言を求めた。
「陸上自衛隊の幕僚長を務める稲本です。ご指摘のあった情報ですが、正しい情報です。我々は、本日十時に武装クーデターを実行いたしました。現在、政府の機能は停止しています」
「幕僚長とは、自衛隊の制服組と言われる人たちの長という認識でよろしいでしょうか」
「その通りです」
「では、幕僚長にお尋ねします。現在、日本は自衛隊の実効支配下にあるということですか」
「そうです」
「私は、NHKのアナウンサーで根岸と申しますが、私がインタビューをすることに問題はありませんか。そちらにおられる政府首脳の方々の了解は得ておりませんが」
「公平な立場を堅持していただければ、問題はないと思いますが、ご心配なら確認を取っていただいて結構です。」
「ありがとうございます。菅野総理にお尋ねします。私がインタビュアをすることを了解していただけますでしょうか」
根岸は菅野総理に顔を向けた。
「いいでしょう」
「ありがとうございます。では、再度幕僚長にお尋ねします。国民の感覚としては、軍事クーデターなど、あってはならないことだと考えますが、なぜ、このような暴挙に至ったのかご説明いただけますでしょうか」
政府席から「そうだ」という野次がとんだ。
「我々の要求を申し上げましょう。舞鶴で人質となっている国民の救出をするために、現政府の退陣と新政府の樹立を要求します」
「すみません。意味がわかりませんが」
「そうだと思います。どうして意味が通じないかわかりますか」
「それは・・・」
「情報開示です。国民に情報開示がされていないからなんです。マスコミの方でさえ、ほんの一部分しか知らされていないと思います」
「確かに情報が少ないと思います。ですが、問題が問題ですから仕方がない、と思っている方が多いのではないでしょうか」
「人命が失われても、ですか」
「それは、舞鶴自動車道の事故のことですか」
「あれは、事故ではありませんが、その舞鶴自動車道の犠牲者を含めて、推定でどの位の犠牲者が出ていると思っていますか」
「他にも、犠牲者がいるという意味ですか」
「そうです」
「私が知っているのは、あの事故の犠牲者の方だけです」
「では、舞鶴で人質になっている方はどのぐらいでしょう」
「五千人という方もおられますし、五万人という方もいて、実数はよくわかりません」
「そのことを、不思議だと思いませんか」
「調査中と聞いています」
「その調査は、一ヶ月も前に終了しています。遺体を引き取ったわけではなく、人質の方に面接したわけでもありませんが、推定死者は千五百人を超えているものと思いますし、人質の人数は二万二千七百人になると推定しています」
「千五百人、ですか」
根岸は菅野総理へ視線を移したが、総理には動揺の様子がなかった。
「幕僚長。この事件の検証を、最初からさせていただく必要があるように思いますが、よろしいでしょうか」
「もちろんです。その前に。根岸さんとおっしゃいましたね」
「はい。根岸です」
「根岸さん。今、事件の検証と言われましたが、事件の意味をどのように捉えていますか」
「どのように、と言われましても」
「では、言い方を変えましょう。これは事件ですか、それとも戦争ですか」
「わかりません」
「根岸さん。あなたを責めているのではありません。多くの国民が、これを事件と捉えています。日常的に発生する殺人事件と同じ目線で観ています。先ず、その点から検証しましょう。日本人ではない人が、突然日本の国土に上陸してきました。武器を持ってです。その武器で日本人が射殺され、多くの市民が人質となりました。軍人同士なら捕虜という言葉を使いますが、民間人ですから人質という言い方をします。舞鶴という地域が、それらの人々によって閉鎖されました。武力により侵略して、占領したのです。舞鶴では、銃器を持った大勢の敵に支配され、防衛線が築かれています。今、根岸さんが舞鶴へ行ったとします。運がよければ人質、運が悪ければ殺されます。このような状態を、私は戦争状態と理解しますが、根岸さんは、どう判断されますか」
「そう、言われましても。私は舞鶴の現状を知りませんから、お答えできませんが」
稲本幕僚長は隣に座っている真田幕僚長と何事かを相談した。真田幕僚長が立ち上がって情報ブースへ行き、担当官に指示を出している。
「根岸さん。あなたの言われるとおりです。今から、現地の映像を見ていただきます。敵の上陸直後の様子です。その上で判断してください」
「勝手なことは許されんぞ」
津田官房長官が立ち上がって叫んだが、部屋の中に配備されている隊員が一斉に銃口を官房長官へ向け、発砲命令を待つ体勢を取った。緊迫した空気に、津田官房長官が席に戻った。
36インチのモニターに、上陸直後の映像が写し出された。上陸してきた共和国の人々の手には銃があり、次々と警察官が射殺されている状況がはっきりとわかる。危機管理室から全国に流された映像は、テレビ画面を写したものなので品質はよくなかったが、何が起きているのかは判別できた。ほんの数分の映像であったが、根岸の顔が青ざめていた。しばらく沈黙が続き、全員の視線が根岸に向けられている。稲本幕僚長も沈黙していた。
「幕僚長。この、映像を、皆さん見ているのですか」
「この部屋にいる方は見ています」
「信じられません。これを見ていない方はおられませんか」
根岸は政府首脳の席の方へ問いかけたが、誰一人として声を返してこない。
「幕僚長。これは何かのテストなのですか」
「いいえ。これは現実に起きたことです。もう一つ見ていただきたいものがありますが、全国に放映するには不都合なものです。あなたが見て、判断してください。カメラの位置が、少し遠いので見づらいかもしれません」
稲本幕僚長は真田幕僚長に合図を送った。それは、人質収容施設の中で一箇所だけ公開処刑の様子を撮影することに成功したものだった。一分ほどで映像は途切れた。
「これは」
「公開処刑が行われました」
「公開処刑。あの柱に縛られていたのは日本人ですか」
「そうです。人質になっている人が二百人殺害されました。女性も子供も老人も、です」
「この映像を流すかどうかの判断をしろ、と言うのですか」
「そうです。ここには、あなたしかいません」
「時間をください」
根岸は携帯電話を持ち上げて見せた。稲本幕僚長は手を振って「どうぞ」という意思表示をした。しばらく、電話でのやりとりがあったが、深刻な表情で部屋の中を見回した。
「菅野総理にお尋ねします。これは、本当にあったことでしょうか」
「そうです。ただし、海上自衛隊の命令違反が理由でした」
「それは、どういうことですか」
「護衛艦が共和国の船舶を沈めたための、報復だったのです。船に乗っていた共和国の人が二百人死亡しました」
「幕僚長。そうなんですか」
「共和国の言い分はそのとおりです。ただし、共和国の船は台風で操船に失敗したものと思います。護衛艦が関与していないことは科学的に証明することができます。公開処刑の理由が映像を流すかどうかの判断の根拠になるのですか」
「いいえ。そうではありません。事実かどうかです。先程の映像もそうですが、日本ではこのような映像をテレビで放送するのは初めてです。それでも、あえて、放送するべきだと考えます」
「そうですか。あなたは冒頭で、このクーデターが暴挙と言いましたよね。私も、これは暴挙だと思います。こんな方法しか取れなかった自衛隊を、国民はどう判断するのか。判断をするには情報が必要です。ですから、国民の皆さんに我々が持っている情報を共有して欲しいのです。そして、国民の多くがノーと言うのなら、我々はこのクーデターを中止しなければなりません。確かに残酷な映像ですが、わが身に置き換えて受け止めていただきたいのです」
遠くの映像なので、現場の音声はなかったが、何が起きているのかは、充分に判断できる映像だった。無音の映像が二時間続いた。
「幕僚長」
映像の消えた画面に目をすえたまま、根岸が呼びかけた。
「なにか」
「犠牲者は、千五百人と言われましたが、当然これらの映像にはない犠牲者がおられるということですよね」
「そうです。それは、ここにおられる北山さんから話してもらいます。北山さんは、奇跡的に脱出することができた方です。つい最近まで舞鶴の収容施設に監禁されていました。まだ体力が回復していませんが、無理にお願いして、来ていただきました。収容施設の現実を聞いてください」
「北山さんとは面識があります」
稲本幕僚長が意外な顔をした。
「北山さんは、日日新聞の方ですね」
「そうですが」
加代の代わりに稲本幕僚長が返事をした。
「私の母も、日日新聞におります。以前に、母と三人で食事をしたことがあります。舞鶴で墜落したヘリコプターに乗っておられて、行方不明になっていた方です」
加代も根岸の顔を思い出したようであった。

59
 一時間ほど前から、NHKだけでなく全国のテレビ局の電話が不通に近い状態になっていた。ごく稀に抗議の電話もあったが、大半がテレビ局の判断を支持する内容だった。
「北山さん。根岸ですが、憶えておられますか」
「ええ」
「北山さんは、今のテレビを見ようとなさいませんでしたね」
「私には、できません」
「それは」
「私を救ってくれた方が、その時、二人亡くなりました」
「処刑されたということですか」
「はい」
「ごめんなさい。本当に。許してください」
根岸は立ち上がって、頭を下げた。
「お話していただけませんか」
「私は、ある情報について、その確証を取るために舞鶴へ行きましたが、パイロットの八木さんという方が、銃に撃たれて亡くなりました。ヘリコプターは墜落し、私はなぜか助かりました。しばらく意識がなかったので、その時のことは詳しくはわかりません。私が舞鶴に行かなければ、八木さんは亡くならなくてもすんだのです。銃を持った人に囲まれて、トラックに乗せられて連れて行かれましたが、八木さんの死で頭が一杯で、よく憶えていません。上手な日本語を話す女性がいて、右手の怪我の手当てをしてくれたことを少し憶えています。学校に連れて行かれました。そこには大勢の日本人がいて、座る場所にも困る状態でしたが、原田敬子さんという方が私に場所をあけてくれました。後で聞きましたが、私は血だらけだったそうです。それほど痛みは感じていませんでしたが、それなりに痛がっていたのだと思います。その原田敬子さんのお友達で村上健一さんという方が、右手が脱臼していると言って直してくれましたので、少し楽になりました。原田敬子さんは二人のお孫さんと一緒に拉致されていましたが、気持ちがとても大きな人で、母親に会ったようで、八木さんの死を受け入れられなかった私を包み込んでくれました。二人の子供たちは、周囲を困らせることのない、とてもいい子たちで、あんな環境の中で我慢をしている子供たちを見ていると、私。私、その時は、耐えられなくて、死にたいと思っていたのかもしれません。子供たちも、優しくしてくれて、あの子たちのために、生きていたいと思うようになりました。その原田敬子さんと村上健一さんが処刑されました」
「その時の、様子はどうだったのですか。勿論、無理に、とはいいませんが」
「私は、見ていません。気を失っていました」
「それは」
「敬子さんが呼び出されて、部屋を出て行った後、放送があって、処刑と言われて、私、敬子さんの後を追って教室を出て、一階まで行きましたが、そこで、殴られて、気を失ったみたいです」
「そうでしたか」
「私たちには、何もできません。ただ、生きているだけです」
「その他にも、亡くなった方がおられますか」
「はい。大勢の方が亡くなりました」
「どうしてでしょう」
「食事と薬です。体力のないお年寄りや子供が、大勢死にました」
「食事、と言いますと」
「一日三回配られる、おかゆだけが食事でした。給食用のドンブリに入っていて、量はドンブリに三分の一ぐらいです。できるだけ体を動かさないようにしていました」
「薬は」
「子供が風邪をひいても、熱を出しても、生き残るのは、その子の体力次第です。薬は全くありませんでした」
「幕僚長。私たちが聞いていたのは、充分な食料が舞鶴へ毎日送られているという情報でしたが、違うのですか」
「食料は毎日、舞鶴へ送られていましたが、その大半は共和国へ送られていて、人質になっている日本人の食事にはなっていません。上陸した共和国の陣容は、五千人前後の軍人と、約二万人の民間人です。彼らの食糧は現地調達ですから、日本人の分は無いことになります」
「そのことを、皆さん知っておられた」
「そうです」
「薬も」
「そうです」
「このことが、クーデターを起こそうとした理由ですか」
「理由の一つです」
「では、他にも」
「根岸さんが、共和国でこの作戦の指揮を執っているとしましょう。第一段階は、ご覧の通り大成功です。では、この先どうしますか」
「舞鶴のような場所を増やせば、更に得るものが多いということですか」
「その通りです。誰にでも、次の作戦は想定できます。その第二段階の作戦の根拠になっているものは、何だと思いますか」
「さあ」
「日本が無抵抗で、要求が全て満たされるからです。彼らにリスクはありません。日本の土地も、国民の生命も、財産も欲しいだけ手に入ります。舞鶴港への武器の搬入が増加しています。それほど遠い時期ではなく、第二の作戦が開始されるでしょう。この放送を見ている人は、今の今まで、他人事だと思っていました。でも、明日はあなたの街が占拠されて、あなたが人質として拉致されることになるのです。そう言われることに、現実味はありませんか」
「あります。他人事ではありません」
「皆さんに、是非とも、わが身に置き換えて、この現実を受け取っていただきたいのです。まだ、二万人以上の人が苦しんでいるのですから」
「でも、どうして今まで放置されていたのですか」
「それを、お話しなければなりません。自衛隊は文民統制が大前提であり、総理大臣が自衛隊の最高指揮官です。自衛隊独自の行動は、今回のようなクーデター以外にはありません。そのことは皆さんもよくご存知だと思います。自衛隊は共和国の行動を当初からつかんでいました。従って、上陸前の海上での防衛を進言しました。ここで防衛をしていれば、戦闘での自衛隊員の死者は出ましたが、民間人の死者は出さなくても済みました。敵が上陸し、銃器が確認できた時点で防衛出動をしていれば、多数の警察官の死は防げました。舞鶴の住民が人質になった時に、その救出出動をしていれば、多くの人質を救出できたでしょう。人質の収容施設として利用された公共機関の建物に爆薬をしかけられる前に行動を起こしていれば、敵は総崩れになっていたと思います。そして、現時点で救出作戦を実施したなら、人質になっている方の半数以上は死亡する可能性がありますが、このまま放置すれば人質は際限なく増えていきます」
「自衛隊の進言が全て受け入れられなかったと」
「残念ですが、そうです」
「総理にお尋ねしてもよろしいでしょうか。どうしてなのか」
根岸アナウンサーは、菅野総理に視線を移した。
「お話しましょう。今、皆さんは大局を見る目を失っています。かつて、日本の軍部が武力に頼り、大きな失敗を犯したことを忘れてはいけません。日本の国民を死なせただけではなく、アジアの国々の多くの人々に多大な迷惑をかけました。武力では何も解決しないのです。自衛隊の諸君は、そこがわかっていない」
「では、総理。どうすれば解決するのか教えてください」
「話し合いです。それしかありません」
「では、その話し合いが、どこまで進んでいるのか教えてください」
「外交上のことは、このような場所でお話する性格のものではありません。鋭意、交渉中ということでご理解いただきたい」
「それでは、答になりませんが」
「私が、お答えします」
政府首脳席から女性の声が聴こえた。
「あなたは」
「防衛庁長官の井上です」
「ありがとうございます」
「井上君」
菅野総理が感情的な声で言った。
「すみません。総理。何かが進んでいるように誤解を与える言い方は、よいことではありません」
菅野総理があからさまに不機嫌な顔をしているのを見て、根岸は井上長官に質問した。
「防衛庁長官は何も進んでいないとおっしゃるのですか」
「そうです。共和国政府は、この愚かな行動は一部反動分子の仕業であり、統制不可能と回答してきました。平和的に解決して、共和国人民を送還すれば、国内法で処罰するそうです。罪人であることに間違いはないが、共和国の人民でもあるので、鬼畜日帝が犯した歴史を繰り返すようなら、正規の共和国軍が対応せざるを得なくなるとの見解でした。これは、一ヶ月前にあった中国政府経由の共和国の回答でして、直接交渉は一度もありません」
「つまり、総理のおっしゃる話し合いというのは、一度も実現していないということですか」
「はい。話し合いなど一度もありませんし、政府内にはその動きもありません。話し合いとか、平和的という言葉だけがあるだけで、何の具体案も無いのが現状です。お題目を唱えていれば、いつか不幸は去っていくだろうという期待だけです」
「井上長官も閣僚のお一人ですよね」
「とても残念ですが、その通りです。力不足で、説得できなかった自分を恥じています」
「長官はこのクーデターをどう思われますか」
「自衛隊の方には、本当に申し訳ないと思います。皆さん死罪を承知で、このクーデターを起こされました」
「死罪」
「これは反逆罪です。いずれ、軍法会議で死罪になるでしょう」
「幕僚長。そういうことですか」
「他に方法がありませんでした。我々自衛官は、国民の生命財産を守ることを誓って、この職務に就いています。そのためには、自分の生命を失うことも含まれているのです。自分でクーデターを起こしておいて、こんなことを言ってはいけませんが、クーデターはいけません。自分は全自衛官に謝らなくてはなりません。自衛隊に泥を塗ってしまいました。申し訳ないと思っています。死罪は当然の処置です」
「どうして、そこまでなさるのですか」
「自分は国を守りたい。古い考えだと言われますが、男は女子供を守りたいのでしょう。それが出来ない男に存在価値はない。死なねばならんのなら。これは最後のあがきです」

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無力-13 [「無力」の本文]

52
 防衛庁の地下三階で、限られた人数による秘密の作戦会議が開かれた。防衛庁の建物の中で、クーデターの作戦会議が行われるいることを想像する人はいないだろう。二日間で作りあげた作戦は町村のノートにしか書かれていない。武田がよく動いてくれた。出席者は、陸上と航空の両幕僚長、統合参謀本部の北山本部長、陸自の安藤一佐、そして町村の五人だった。
「あの世に行く顔ぶれとしては、申し分ないな」
真田航空幕僚長が言った。A級戦犯は少なくしたいという稲本陸上幕僚長の意見で、参加者は限られることになった。安藤一佐がふてぶてしい笑顔を見せた。今まで作戦会議が行われる度に衝突してきた町村と、同じ部屋にいることを笑ったのかもしれない。
町村は順を追って話を進めた。危機管理室と防衛庁の参謀本部は情報共有のために、通信回線で直結されている。危機管理室の機器を動かしているのは自衛隊の技官であり、日常的に補修が行われていたので、武器と爆薬の搬入は補修機材として持ち込む。参謀本部からのデータを操作して、通信回線の故障と思われる事故を発生させ、その補修と偽って爆薬をセットする。「爆破する」と言っても信じない場合は、被害の少ない場所をダミーとして爆破しなければならないので車庫にも爆薬をセットする。危機管理室の出席者を拘束するために、両幕僚長は武器を携帯するが、迫力を増すために武器は自動小銃とする。危機管理室の状況を公開して、テレビ中継をする。そのためのテレビクルーを選んでおく。舞鶴の現状を伝え、死者の推定数も発表。なぜ事態がここまで悪化したか、段階を追って追及する。そして、事態収拾案を出して、政府決定とさせる。
あくまでも、政府首脳が従わない場合は全員を拘束し、新しい総理大臣を選任する。選挙の時間は無いので、民主党の中でこの案に賛同してもらえる人を捜し、賛同者がいない場合は、自民党と交渉する。国会での決議を得ることを求め、極力軍事政権を避ける。町村は防衛庁長官の委託を受けて、舞鶴で共和国軍の司令官と交渉をする。共和国軍には、党の人間と日本人協力者を制圧してもらう事と、各収容施設に敷設したと思われる爆破物を無力化してもらう。日本政府は、党の人間以外の全ての共和国人の希望者に、日本国籍を与え、永住可能とする。日本政府の決定があり次第、共和国側は武装解除を実施する。党の人間と日本人協力者は収監し、党の人間は強制送還、日本人は裁判にかける。今回の戦争で犠牲になった日本人の補償は日本政府が行う。この和平交渉が成立しない場合は、武力による鎮圧を実施する。町村の作成したクーデターの骨子はこのようなものであったが、B級戦犯となるであろう実行部隊の編成が必要であったし、細部の作戦をこの一両日で作成しなければならなかった。
「町村一佐。わしの言う事を怒らずにきいてもらいたい」
黙って聞いていた稲本幕僚長が発言した。
「はい」
「骨子は、この作戦に異存はない。だが、このクーデターは国民の同意をもらうことが、何としても必要だと思っとる。例え、国民の理解があったからと言って、ここにいる五人の罪が消えることはないが、クーデターが成功した後に問題が残る。二万人と言われている共和国の人間をどうやって受け入れる。無人島にでも移住してもらうのか。そんな島は無いぞ。この狭い国土に受け入れるには、国と自治体、そして住民の協力が不可欠だと思う。情報公開が必須であることには賛成する。しかし、全てが明るみに出て、彼等のやった蛮行を国民が知った時、国民感情として問題は起きないだろうか。喜んで受け入れてくれるだろうか。総論賛成、各論反対にはならないだろうか。うちに来て働かないか、と彼等に言ってくれる人がどれぐらいいるのだろうか。クーデターは一時的なもんだが、彼等の生活は永続しなくちゃならんのだ」
「はい」
「仮に、彼等を強制送還するとしたら、どうなる。地獄が待っていることを知っとる筈だ。つまり交渉は成立しないことになる。我々に残された選択肢は、さきほど言った国民の同意というものしか無いのだろう。諸手を挙げて賛成し、どんなことでもやります、と言うような方法が無いことは確かだ。だが、自分の身に置き換えて、この事態を受け取ってくれる人を一人でも多くすることはやるべきだと思う。それは、徹底的な情報公開しか無いと思う。なぜ、我々が生命を捨ててもいいと思ったか。それは、この悲惨な現実の、生の情報を持っているからだと思う。情報を共有すれば、本気で同意してくれる人が増える可能性がないだろうか」
稲本幕僚長は町村を見つめた。
「そこで相談だが、北山加代さんにテレビ出演を承諾してもらう訳にいかんだろうか。彼女は、ただ一人の体験者なのだから、その言葉には視聴者の心を動かす力があると思う。政治家のような言葉遊びでは、納得してもらえないんじゃないだろうか」
町村は即答できなかった。
「彼女の体調がひどく悪いということは聞いているが、この作戦の成功の鍵は彼女ではないかと思う。多分、彼女を説得できるのは、町村一佐、君しかいないのだろう。個人的なことで申し訳ないが、君の意見が聞きたい」
稲本幕僚長の話は説得力があったが、加代の体調では難しいのではないだろうか。町村は躊躇した。
「幕僚長のおっしゃるとおりだと思いますが、彼女はまだ一言もしゃべりません。体力の衰弱にも厳しいものがありますが、それよりも精神的なダメージが大き過ぎて言葉が出なくなったのではないかと思っています。子供たちの死を知るまでは、不安定でも話すことができました。言い方が変ですが、彼女の目は違う世界を見ています。今は、自分と同じ世界にいないのでしょう」
「北山本部長から、状況は聞いている。それでも、お願いしたい。勿論、彼女が断るなら無理にとは言わない。だがな、彼女もこの事件を一生背負わなければならない。だから、このことで彼女にも生きる価値を見つけてもらいたい。苦しみだけを背負っては生きていけない」
幕僚長の意見というのは、これからの加代の人生も考えての発言であった。つい最近まで人生の伴侶と決めていた女を置き去りにして、自分は大罪を犯そうとしているのだ。加代に何かを残していくのは、人としての務めなのだろう。
「わかりました。やります」
「わしの友人の息子が優秀な精神科医らしい。必要なら相談できるようにしておこう」
町村は、安藤一佐に後事を託して福知山へ戻ることになった。

53
 福知山の市民病院の特別室で、加代は点滴だけで生きていた。
「どうですか」
町村の問いかけに、加代の母親は力なく首を横に振った。母親の名前は真理子だったが、丸子で通っている。体つきが丸々としているだけではなく、明るい笑顔は大勢の人に愛され、周囲を丸く収める天性を持っていた。そんな真里子が、元気を無くして暗い表情をしているのを見るのは初めてだった。
「お母さん。少し休んでください。自分がここにいますから」
「そうね。この子がこんなにやつれて。私、何もしてやれなくて。いけないと思うんだけど、こっちが落ち込んじゃうの。勇一さんが来てくれたから、少し休ませてもらいましょうか」
「そうしてください」
元気のない母親が部屋を出て行った。加代が目を覚ますのは、ほんのいっときで、ほとんどの時間を眠ってすごしている状態であった。母親の真理子は、まだ娘の声を聞いていない。栄養失調だった加代の体内へ送り込まれている栄養分も、表面化するには時間が必要なのかもしれない。腕の傷も初期治療が充分ではなかったので、傷跡が醜く残っている。市民病院の医師は、元気になったら手術しましょうと言っていた。傷跡を見るだけでも母親の気持ちは辛いのだろうと想像した。
眠っている加代を見ているだけの時間が過ぎていく。町村が病院に戻ってきてから、五日目になっていた。病院の生活は決まった時間に決められたことが起きるので、次第にそのリズムにも慣れてきて、焦る気持ちも随分治まっていたが、心が壊れてしまった加代を、この世に戻すにはどうしたらいいのか、何の目算もないことが不安であった。いつものように清掃係の気の弱そうな中年の女性が、恐る恐るドアを開けて入ってきた。部屋の清掃は引き戸を開けて行われるが、五階にある加代の部屋は廊下の突き当たりにあって人通りはない。それでも、人声や物音が聞こえて、少しは気が楽になる。日曜日のせいかいつもより見舞い客が多いようで騒音が大きかったが、元気な声を聞くのは病人にはいい薬になると聞いたことがある。加代が動いたような気がして覗き込んだが、加代は静かに眠っていた。静かに入ってきて静かに清掃を済ませた担当の女性は、出て行く時も静かだった。町村はドアを開けて廊下に出ると、突き当りの窓から市街地を見た。舞鶴の至近距離にあるこの福知山で多くの人が普通の生活を送っている。この落差をどのように理解したらいいのかわからなかった。ナースステーションの近くで子供たちが走り回っているのが見える。子供たちは、楽しそうだ。村上の話によれば、舞鶴の子供たちは楽しみを奪われ、死の意味も解ることもなく、死んでいく子供たちがいる。舞鶴から離れて日常生活圏内いると、その不条理が心を締め付ける。こんな悲しみを、総理大臣はどう受け止めているのだろう。町村は入り口のドアを開けたまま椅子に戻り、点滴をしていない方の加代の手を握った。
「メグ。やめなさい」
二人の子供が廊下を走っていくのが見え、母親が声を抑えて叱責している。若い母親がドアの外を通り過ぎ、子供たちの向かった窓際の方へ行くのが見えた。しばらく、子供たちに言い聞かせている母親の声が聞こえていたが、子供たちは突然歓声を上げて走り出したようだった。
「メグ」
我慢が切れたのか、母親が大声で子供の名前を呼んだ。
町村の両手の中にある加代の手が動いた。目を戻すと、加代が大きく目を開けていた。
「加代」
町村は立ち上がり、加代の目を覗き込んだ。
「勇一さん」
「ん」
「どうして」
加代の目は周囲を確かめた。
「ここは」
「福知山の病院だよ。もう大丈夫だから」
加代は入り口のドアの方へ目をやり、何かを待つような表情になった。短い時間が流れて、加代はベッドの上に上半身を起こした。
「修と恵が」
加代の体が小刻みに震えている。
「イヤァァァ」
病院中に聴こえるような大きな悲鳴だった。加代が町村にしがみついてきて、点滴のポールが床に倒れる。町村には加代が現実の世界に戻ってきたことがわかった。体を震わせて泣いた。息苦しくなるほどの力で、町村にしがみついている。看護婦が部屋に飛び込んできたが、町村は手で看護婦を制した。看護婦の目が点滴の針を捜して、床から拾い上げた。町村は目で「大丈夫」と告げた。看護婦は点滴のポールを立て、薬液の袋と針を持って部屋を出て行った。号泣という言葉は知っていたが、まさしく号泣だった。この時に、自分がここにいたことに感謝した。どこまでも受け止めよう。泣いて、泣いて、泣いて、そして戻ってきてくれ。作戦に必要だからではない。この女と一緒に生きていきたい。傍にいて欲しい。そしてお前の傍にいてやる。町村はあらゆる幸運に頭を下げた。
泣き疲れた加代は、町村の腕の中で眠ってしまった。町村は起こさないように加代をベッドに横たえた。涙で顔中が濡れている。静かな寝息で、寝顔に表情があった。がんばれ。
買い物に出ていた母親の真理子が部屋に戻ってきた。部屋の中の様子に違和感を感じた真理子は、町村の顔を見つめた。
「気がついたようです」
町村は起きたことを話して聞かせた。途中で主治医の大山医師が来たので、初めから話をした。
「少し、時間をかけてやってください」
大山医師は女医らしく、優しい笑顔で町村に注文をつけて部屋を出て行った。

54
 病室はカーテンを開けるようになって、夜でも暗さが減ったように感じると真理子が言っていたが、町村もそう感じていた。空が見えるということが人間には必要なのだろう。加代は自力で食事を摂れるようになり、ベッドの上で起き上がることもできるようになった。口数は極端に少ないが、町村や真理子の話はよく聞いたし、表情も落ち着いていた。ただし、記憶の暗い奈落に落ちることがあり、目の光を失うことがある。そんな時は黙って見守ることにしていた。加代にとっては辛い記憶に違いないが、町村は根気よくその背景の説明をしていた。加代の再生には、新しい光が必要であり、その光は過去の延長線上にある。酷なようだが、それを乗り越えて欲しかった。自衛隊は第二の舞鶴、第三の舞鶴が近々現実化するものと考えている。それでも、政府は嵐が通り過ぎるのを待っているのである。
「村上さんが言っていたが、もう誰も救出部隊など待っていないと言っていた。国は実質的に二万人の国民を切り捨てたことになる」
「私は、待ってた」
「えっ」
「毎日、待ってた」
過酷な状況を生き抜いてきた加代の言葉は重かった。
「すまない」
加代の言っていることが本当の気持ちだろう。村上が言っていたのは、男の強がりや見栄に過ぎないのかもしれない。一週間、加代の様子を観ていて、この話を始めて三日になる。会話ができたのは初めてだった。
「私は、何もできなかった。今でも、苦しんでいる人が、いっぱいいるの」
また、加代の目から涙がこぼれ落ち、町村は話をやめて加代の手を握り締めた。加代は窓の外に広がる空を見上げて、声を出すことなく泣いていた。窓も空も涙で歪んでいる筈だが、本人に泣いているという実感はあるのだろうか。それとも、舞鶴の収容施設の風景を見ているのだろうか。
「勇一さん」
「ん」
「話して。あなたの声を聴いていたい」
「ああ。他の話をしようか」
これ以上の話は重すぎるだろうと思ったが、他の話は無かった。どんな話題であっても、この事件に結びついてしまうのを知っていた。
「すまん。他の話はなかった」
「いいの。続きを」
町村は、村上の死を見届けたときに、一人でクーデターを実行する決心をしたことを話した。北山本部長からクーデターは厳禁されていたが、この病院でその決心を告げると、意外にも賛成してくれたことも話した。
「ここに来たの」
「加代の顔を見て帰ったよ」
「そう」
「金美姫という人を覚えているか」
加代は首を横に振った。
「君を救ってくれた、共和国の女性」
「ああ。お母さんと二人。はっきりとは思い出せないけど」
「あの二人は、司令官の奥さんとお嬢さんだったんだ」
交渉次第では和平が成功する可能性があることを話した。
「で。どうだったの」
「まだ、始めていない」
「どうして」
町村は稲本幕僚長の話を持ち出し、国民の支持が必須の条件であることを話した。
「唯一の体験者である君の話だけが、説得力を持つと言われた。自分もそう思う」
「八木さん、敬子さん、しゅう君とめぐちゃん、そしてケンさん。ほかにも大勢の人が死んでしまった。それなのに、私は生きている。許されるとは思えない。でも、学校にいる人が救われるのなら、何をやってもいい」
「でも、君にとってはつらいことだろう」
「ええ。でも、何もできないよりは。今なら総理大臣を殺せと言われても出来る」
「そんなことは、しなくていい。必要であれば、稲本幕僚長が殺すだろう。君はテレビのインタピューに答えてくれればいい」
「わかったわ」
「自分は東京には付いて行けない。舞鶴で金美姫のお父さんと会う」
「そう」
「断ってもいいんだぞ」
「勇一さんの話で、もう少し生きてみようかと思ってる」
加代の目には、今までに無かった光があった。町村は真理子の部屋に行って事情を話した。真理子は黙って聞いてくれて、あの子には必要かもしれないと了解してくれた。東京の北山本部長に連絡をして、クーデター作戦は開始された。

55
 勇一の熱い気持ちと、包み込んでくれる優しい心遣いが勇気をくれたようだった。勇一の前では、できるだけ平静を保ったつもりだったが、寺での出来事からは記憶が断片的に途切れていた。ただ、あの学校に閉じ込められている人たちを救うためならどんなことでもしたいという気持ちは本気だった。あまりにも多くの人の死に直面して、生きる意味を失っていた。やらなければならないことをやれなかった自分には、罪を犯したという意識が強い。神でもないお前に、何が出来ると言うのだ。わかっている。でも、贖罪の意識が強く、生きる価値が欲しかった。本当は、死んでいった人から「許してやろう」と声をかけて欲しかった。空耳でもいいから、その言葉が聴きたかった。傲慢なのかもしれないが、自分自身を許せていない。自分の意識のすぐ傍に死がある。その死を受け入れるとしても、自分にできることはしておきたかった。死んでしまいたいという気持ちと、生きたいという気持ちが同じところにあることを、漠然とではあったが知っている自分がいた。生き残っている自分が、この先も生き残りたいと願っている。加代の気持ちは右に左に揺れていた。
陸上自衛隊の制服を着た人たちが病室にストレッチャーを押して入ってきた。主治医の先生に頼んで打ってもらった睡眠薬が効き始めている。まだ、ヘリに乗る自信はなかった。母がすぐ横にいる。子供の頃、高熱を出して、父の運転する車で病院に行く時に、母がずっと手を握ってくれていたことを思い出していた。病院の裏口のような所で自衛隊の救急車に乗せられたところまでは覚えていた。
寝入った加代を乗せたヘリは東京へ向かった。
加代を乗せた車両は厚木基地から虎ノ門にある病院に向かった。サイレンもなく、遅い時間に病院に入り、出会う人もなく病室に運び込まれた。航空幕僚長の親族が病院の理事をしている関係で、病院の協力体制は整っていた。
一夜明けた病室に叔父の健一郎が、武田二尉を連れてやってきた。
「お前には、苦労をかけて済まない」
「叔父さま。福知山にも来てくれたのね」
「ん」
「私なら、大丈夫」
「武田は知ってるな」
「ええ」
「インタビューの準備をしておいて欲しいが、大丈夫か」
「はい」
「よろしくお願いします」
武田が加代に声をかけた。

56
 倉持の部隊にいる小山曹長と二人で舞鶴に潜入した町村は、岩場にある監視所で周囲の様子を確かめた。街が静まるのを待って、教会の裏手にある家に忍び込んだ。見慣れた居間に、美姫と母親がいた。建物の中に二人以外の気配がないことを確認して、町村は居間に入っていった。
「驚かせてすみません」
町村は驚いて身構えた二人に謝った。
「あなたでしたか。来てくれたのですね」
「遅くなって申し訳ありません」
「よかった」
「いろいろと準備がありました」
「そうでしたか。母の言っていた通りで、とても安心しました」
「お母さんが」
「あなたは、将来国を背負う人だと」
「それは、多分、お母さんの勘違いでしょう」
美姫は笑顔だけで、町村に答えた。町村も美姫の母親には不思議な力を感じていたが、超能力の類の話は信用していなかった。
「お父さんと会うことはできますか」
「もちろんです。父の了解は取ってあります。母の力ですけど」
「ありがたいことです」
「明日の朝には、時間をご連絡できると思います。ここに泊まりますか」
「いえ。出直してきます」
「そうですか。もっと、あなたとはお話がしたかったのに」
「いつか、その時間は来ますよ。きっと」
「そうですよね。あの方は」
「東京の病院に入院しました。だいぶ、元気にはなりましたが、まだまだです。本人はあの時のことを全部覚えている訳ではないようで、あなた方への伝言はありませんでしたが、自分は心から感謝しています。あなた方に救っていただいたことが、全ての始まりになりました。本当にありがとうございました。ぜひ、多くの人を救う道になって欲しいものです」
「母も私も、そう願っています」
町村は、来た時と同じように静かにその家を離れた。いつもより神経がピリピリしている自分に苦笑いするしかなかった。
美姫の父、金明進との会談は夜の八時と決まった。町村との一対一の話し合いになるという。小山曹長は監視所において行くことにした。非常時発信機だけを持ち、武器は一切身につけない。無事に交渉が成功することを祈るだけだった。町村は昼過ぎに監視所を出て、教会の見える場所に潜伏した。母親が一度だけ外出したが、他には何の動きもなかった。七時半を過ぎた頃に、年配の男性が一人でやってきた。司令官であれば従卒がいる筈だが、全くの単身のようだった。町村は八時五分前まで様子をみて、正面ドアを開けた。
「どうぞ」
玄関には美姫が待っていた。
「ありがとう」
美姫の後ろから居間に入ると、テーブルに先程見た年配の軍人が座っていた。母親は台所で何かをしている。男性は椅子から立ち上がったが、表情は硬かった。美姫が父親の正面の椅子を引いて町村に勧め、自分は中間の席についた。
「父の金明進、共和国軍少将です」
美姫が通訳として父親を紹介した。
「町村さんの階級は」
「一佐です。大佐と伝えてください」
美姫が自国語で町村を紹介した。金明進が手で座るように勧め、三人は席についた。金明進が美姫に話しかけた。
「先ず、日本の話を聞きたいと言っています」
「わかっています。その前に当たり前のことを確認させてください。少将がこの席についておられることで、共通の前提に立っているものと理解していますが、お互いの言葉で確認をしておきたいのです。我々は、この戦争を犠牲者の少ない形で終わらせたいと望んでいます。我々の希望が少将の希望と同じものなのかをお聞かせいただきたい」
美姫がメモを見ながら慎重に通訳している。少将はじっと耳を傾けて聴いていたが、大きく頷いて美姫に返事をした。
「和平交渉だと思っているそうです。ただし、本国の了解は無く、司令官としての範囲で交渉に応じて欲しいと言っています。両国の人民に犠牲者が出ることは望んでいません」
「ありがとうございます。自分も軍人なので、駆け引きはできません。単刀直入に申し上げます。各収容施設に敷設したと思われる爆破物を無力化してもらいます。党の人間と日本人協力者を制圧拘束していただきたい。それ以外の方には、本人の希望があれば、日本国籍を与え、日本での永住も可能にします。本国へ戻りたい方には、その手段を提供します。党の人間は我々の手で強制送還とします。日本人協力者の身柄は引き渡していただき、日本の法律で裁かれることになります。日本政府の決定があり次第、共和国側は武装解除を実施していただきたい。これが和平条件の全てです」
町村は美姫がメモを取りやすくするために、ゆっくりと話した。美姫は自分の仕事が重大な役割を担っていることを知っている。真剣な表情で町村の話を通訳していた。
「本当に我々を受け入れることが出来るのか、と聞いています」
「とても、難しいことですが、乗り越えなければなりません。そのための最大限の努力をすることはお約束します」
通訳をした美姫に、考えこんでいた金明進少将が何事か話し、美姫が驚いた表情になった。
「共和国軍の責任を自分一人で負うことはできるか、と言っています」
「その言葉は重く受け止めさせていただきます」
「兵は命令で動いただけで、命令を出したのは司令官である自分だと伝えるようにと」
金明進少将は、自分の生命で責任を取ろうとしている。今からの時間の流れの中で、現実にそのような事態が起きないとは断言できなかった。
「よく、わかっています。と伝えてください」
「自分の生命を含めて、全てを町村大佐にお任せしたいそうです」
「ありがとうございます」
金明進少将の顔は疲れていた。そして静かに話を始めた。共和国へ帰りたいと言う者は少ないだろうが、希望者にはぜひとも便宜を図って欲しい。クーデターを画策しているという密告のために、金明進少将自身は政治犯収容所へ投獄される寸前だったと言った。金明進少将は第八軍に所属していたが、兵は各部隊で不審者と噂されていた者たちばかりで、共和国にとっては不要な者だったこと。だから、共和国にとっては、全員死亡でもいい作戦だったと言った。一般の人民も口減らしの意味合いがあり、日本に来て、毎日食事ができることを喜んでいるので、帰還希望は無いだろう。難民に見せかけるには、女子供も老人も必要だったので、派遣部隊が家族ぐるみになっていたこと。普通は家族を人質に取ることが通例だったが、この作戦はあらゆる面で違例なことばかりだった。だから、成功したのだろう。今、このような状況になってみると、家族ぐるみで来ていたことが町村の提案を受け入れる大きな要因になっているのだと言った。
「さきほどお願いした制圧拘束には、どのくらいの時間が必要でしょうか」
「二十四時間、と言っています」
「わかりました。作戦発動は、自分が伝えに来ます」
母親が出してくれたお茶を飲んで、町村は教会を後にした。玄関を出る時には、自然な動作で町村を抱きしめてくれたが、不思議な感覚だった。如意棒を持った町村がこの女性の手の平の上で走り回っている様子を想像した。

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無力-12 [「無力」の本文]

47
 町村は寺の裏手から本堂に近づいた。何度も忍び込んだことのある床下に入り込み、加代と二人の兵士の到着を待った。三人の足が見え、本堂に消えていく。話し声が上から聴こえて来て、本堂に別の人間がいたことを知って、背中に汗が流れた。しばらくすると、二人の兵士が本堂から出てきて境内の木立の方へ歩いていった。敵が三人で、二手に分かれていることが事態を難しくしてしまったことは確かだった。だが、悩んでいる場合ではない。先ず、本堂の人間を無力化することが必要で、銃を使わずに実行できることを祈った。町村は仏像の裏側に回りこむことに決め、床下を離れようとした時に草を踏む別の足音を聴いた。床下から二人の足が見えた。それがいつも夕日を見に来る母娘のものであることは間違いなかった。これで、敵は五人で三箇所にいることになった。たとえ、相手が五人であっても、これ以上のチャンスはもう二度とないだろう。町村は床下から出て、本堂の裏口から内部へ滑り込んだ。男の声だけが聴こえるが、その内容までは聞き取れなかった。できるだけ近づき、一弾で仕留める必要がある。静かな本堂の中で音を殺すことは至難の業で、町村の動きは一寸刻みにならざるをえなかった。仏像の横手から、やっと人影を確認することができた。座っている加代の前に男が仁王立ちになっている。
「やめなさい」
正面扉の裏側から、激しい口調の女性の声がした。それは、はっきりとした日本語だった。
「やめなさい。私は金明哲の妹の金美姫です。金明哲は知っていますね。あなたたちの話は聴きました。あなたは、佐藤さんですね。我々の間では、あなたのいい噂はありません。すぐにここから出て行ってください」
拳銃を右手に持ち、ズボンを下ろした無様な姿の佐藤の顔が歪んだ。佐藤は銃口を上に向けて威嚇の発砲をした。
「次はあなたを撃ちます」
銃声を聴いて、境内で待機していた二人の兵士が駆けつけてきたが、入り口に美姫と名乗った女性の母親と思われる女性が現れ、兵士たちの動きは凍りついたように止まった。共和国の言葉で、その女性と兵士の間に短い会話があった。そして、兵士たちが本堂に入って来ると、佐藤に銃口を向けた。
「私は、すぐに出ていきなさいと言いました。母が声をかければ、あなたは死にます」
佐藤は片手で自分のズボンを上げた。
「いいでしょう。あなたは、私たちを敵にまわして、この事業が成り立つと思っているのですか。金明哲が厳しい立場になりますよ」
「出ていきなさい」
「北山さん。これで終わったと思っちゃいけませんよ」
佐藤は入り口に向かった。
「佐藤さん。この人に何かあれば、あなたを無条件で殺します。私の家族にも、まだそのくらいの力はあります。共和国の人間にも意地ぐらいあることを覚えておいてください。それと、この人はもともと私が預けた人です。返してもらいます」
金美姫は、視線を佐藤から二人の兵士の方へ移して、共和国の言葉で話しかけ、二人の兵士は大きく頷いた。
肩を落としている加代に覆いかぶさるように金美姫が話しかけている。町村は飛び出したい気持ちを抑えた。佐藤と二人の兵士は武器を持っていて、まだ十分に戻って来る場所にいる。そしてもう一つ、侵攻してきた共和国の人なのに、この母娘に銃を向けることには何か違和感があった。まだ、チャンスが消えたわけではない。

48
 美姫は、怒りのために震えている自分を静めることに苦労した。ヘリコプターから落ちてきた女性に出会った時、母は守りなさいと言った。収容施設に連れられていってからも気になっていたが、再び会う運命にあったらしい。それに、いつものことではあったが、母の言葉は重かった。他人に対してこれほどの強気でのぞんだ体験はなかった。
「いきましょう」
放心状態の女性は全く反応しなかったが、美姫は辛抱強く待った。佐藤と二人の兵士が立ち去る様子を確認していた母が二人の所へやってきて、ここは危険だと言ったので、母と二人で女性を無理矢理立ち上がらせることにした。母に腕を取られると、北山と呼ばれていた女性は素直に立ち上がり、自分の意思で歩き始めてくれた。右手で女性を支えながら、今日の夕焼けはどんな色だろうと思っている自分が不思議だった。
教会に戻り、その女性に日本のお茶を出すと、驚いた様子で美姫を正面から見つめた。
「修と恵」
「えっ。なに」
「子供たち。あの子たちが危ない」
「どういうこと」
「あの男は、終わりではないと言ってた。子供たちが危ない」
佐藤とその女性の話は聴いていたので、佐藤が子供の命を条件に出していたことを、美姫も思い出した。
「わかった。私が行って来る」
美姫は事情を母に説明して、家を飛び出した。
学校の正門警備にあたっている申浩基が見えた。美姫は簡単に事情を説明して、二人の子供に会わせてくれるように頼んだ。日本に上陸した頃の申浩基は、日本人という人種に強い憎しみの感情を持っていたが、実際に日本人と接触するようになってからは変わり始めた。申浩基の本質は素直で優しい好青年で、国で教えられていたことが全てではないことに気が付いたようだ。日本人に寛容すぎると、美姫の行動に批判的な見方をしていた申浩基だったが、それはもう過去の話だった。現在の申浩基は兄の部下であったが、子供の頃は美姫の遊び友達でもあった。成人になってからは、どちらかと言えばぎこちない関係になったが、それはお互いに異性を感じている証拠でもあった。ここで待つようにと言って、申浩基は校舎の方へ駆け出していった。空が真っ赤に染まり、太陽が沈んでいく。
空の色が刻々と変化していくのに、申浩基は戻ってこない。美姫は胸騒ぎを感じた。さらに時間が過ぎて、申浩基が一人で戻ってきた。そして、美姫は二人の子供が死んだと告げられた。日本人の榊原という男が、二人の子供を絞殺したらしい。殺人事件ではあったが、日本人同士の事件なので遺体の埋葬だけを、その榊原という男に命じることで終了になるようだと言った。その事件は美姫が来る数分前に起きていた。美姫はこの事件が佐藤の命令で行われたのは間違いないのだから、何かできないのかと聞いたが、申浩基は首を横に振るだけだった。たとえ、佐藤の命令で行われたとしても、その証拠があったとしても、日本人同士の事件の責任を、共和国に協力してくれている佐藤に求めることはできないのだと言った。
美姫は申浩基が呼び止める声を無視して正門を後にした。どう伝えればいいのだろう。子供の生命を救うために、屈辱を受け入れようとしていた女性に、何と言えばいいのか。言葉が見つからないまま、美姫は教会に戻ってきた。
居間に入った時に異変を感じた。二人しかいない部屋に三人の視線がある。
「抵抗しないでください」
見知らぬ男が静かな声で言った。

49
 母と娘に連れられて行く加代の後を追い、町村は何度も来たことのある教会に来た。少し様子を見てから突入しようと思っていると、勢いよく開かれたドアから娘の方が飛び出していった。家の中には年配の女性と加代の二人しかいない。町村は静かにドアを開けて、家の中へ入った。家の中は静かだったが、人の気配はあった。町村は念のため銃を手にして進んだ。ダイニングキッチンになっている広い部屋のソファに、二人は座っていた。
「騒がないでください」
走りよった町村は、銃口をその婦人に向けて言った。
「勇一さん」
何がおきたのかという、不可解な表情で加代が町村の名前を呼んだ。言葉はわからないようだったが、その婦人は町村に座るようにと手を動かした。
「すまない。こんなに遅くなって」
「来てくれたのね」
「このご婦人は大丈夫か」
「私を助けてくれたの。お嬢さんの方は、子供たちを連れに行ってくれてる」
加代の声は落ち着いていて、昨日も勇一に会っていたような錯覚をするほど自然だった。
「子供たち」
「ええ。敬子さんのお孫さん」
「原田さんの」
「知ってたの」
「村上さんと話をしたから」
「ケンさんね。亡くなったわ」
「それも、知ってる。止めることができなかった」
「ケンさんは私の腕を直してくれた」
「そうらしいね」
加代の様子は、本当に昔の加代のようだった。寺での苦痛に満ちた表情はない。収容施設にいた村上の話を聞いただけでも、施設の生活が過酷だったことは疑いようもなく、頼りにしていた村上と原田敬子に死なれて、子供たちを受け止め、佐藤という男の暴力に組み敷かれていたのに、どうして平静な加代でいられるのか。
「もう少し待ってて、子供たちが戻ってきたら、東京に帰るから」
だが、よく見てみると、加代の目には力がなかった。町村の方を見ているのに町村を見ているのではなく、その焦点は町村のいる場所より遠くの方にあった。
「わかった。そうしよう」
その婦人には危険を感じなかったので、銃をしまい、町村は待つことにした。三人が押し黙ったままでも時間が過ぎた。
ドアの音に、別々の思いが反応した。加代は飛びつくように入り口に行き、町村は拳銃に手をやった。母親は、戻ってきた娘に無言で首を横に振っている。
「抵抗しないでください」
「あなたは」
その娘は駆け寄ってきた加代を制して町村に言った。
「自分は、この人を救出にきました」
娘は母親の方へ確認の視線を送った。そして、母親の目が危険はないと言っているのを感じてくれたようだった。
「修と恵は」
「座りましょう」
すがりつく加代を抱いて、娘はソファに座った。母親と娘が目で会話をしている。
「ごめんなさい。連れ出せなかったの」
加代の喉が鳴り、そのまま加代は意識を失った。三人の視線は、しばらく加代に向けられていたが、動く気配は全くなかった。町村と娘の視線が合った。それは、まっすぐな目だった。
「日本の方ですね」
「町村といいます。この女性の婚約者です」
「私は、日本読みでは、金美姫といいます。そして、私の母です。この家は安全です」
「加代を助けていただいたことに感謝します」
「えっ」
「あの寺で」
「見ていたのですか」
「はい。もう少しで、ぶち壊すとこでした」
町村は、拳銃を出して、テーブルの上に置いた。
「軍の方ですか」
「いえ。今は違います」
「子供たちのことなんですが」
「はい」
「この人には言えませんでしたが、さきほど、殺されました。佐藤のやらせたことだと思いますが、実際に殺人行為を働いたのは、榊原という日本人です。加代さんとおっしゃる、この方と同じ部屋の人です。私がもっと早く気がついいれば助けることも出来たのに」
「あなたのせいでないことだけは、はっきりしています。子供たちの両親には、自分が伝えます。共和国の方にそこまで言っていただけるとは思いもしませんでした。感謝します」
「この方を引き渡したのは、やはり間違いでした。それが残念です」
「引き渡したとおっしゃいましたが」
墜落したヘリから投げ出された加代の傷の手当てをしたことと、兄に言われて学校に連行させたことを美姫は話した。
「絶対に傷つけないという約束でした。兄は金明哲と言って、この地域の軍の責任者です。だから、大丈夫だと思ったのです」
「そうでしたか。もう一つお伺いしてもいいですか」
「何か」
「あなたのお父様は」
「父は、この事業の、軍の責任者ですが、一度もここへは来ていません。母も私も、日本に来てからは会ったことがありません。兄の話では無事のようですが、今は党が全体の指揮をしているのです」
「すると、あの寺にいた佐藤という男も党の人間ですか」
「いいえ、あの男は協力者の一人です。党の指揮下には入っていますが、協力者は全員日本人だと聞いています」
「在日と呼ばれている、二世や三世の人ではないのですか」
「違います。純粋な日本人だそうです。どうして、協力者になっているのかはわかりません」
「そうだったんですか」
「でも、党が言ったように戦闘にはなっていません。私たちは戦闘覚悟で上陸したのですが、一度も戦闘にはなっていません。党の力だと言われています」
「でも、あなたはこの人の命も助けたし、私に銃を向けません。どうして」
「父は軍人で人を殺すことが仕事ですが、母は誰の生命であっても、人殺しは認めません。私も母と同じです」
町村も共和国の人たちは誰もが、特殊な教育を受けた特異な人種だという偏見を持っていたように思った。それと、侵入者が共和国軍と思っていたのも違うようだ。集団が大きくなればなるほど、溝が出来るのは当たり前で、鉄壁の団結など存在しないことに日本人が気づいていないのではないか。まだ、事態を収拾する方法はあると、強く感じた。この母娘を通じて、軍の指揮官と接触を持つことも夢ではない。問題は、協力者と呼ばれる日本人集団だと思った。
「どうか、しました」
黙り込んだ町村に、美姫が不審な表情で言った。
「いえ。日本人もあなたのお国の人も、できるだけ傷つかずに、終わらせる方法は無いものかと思ったんです。あなたとお母さんに会って、少し希望を持っても良いのではないかと思っているんです」
「それが出来れば、とても嬉しい」
日本語がわからない筈の母親が、何度も大きく頷いた。
「お母様は、日本語がお分かりですか」
「いいえ。全くわかりません。母は不思議な人で、人の心を読みます。言葉はいりません。あのお寺で、母が二人の警護の兵士と話しているところを見たと思いますが、誰もが素直に母の言葉に従います。多くの人が、母のことを特別な人だと言いますが、娘の私にはその特別というものがわかりません。殺意を抱くような喧嘩をしていても、母が仲裁に入ると収まってしまいます。ともかく、不思議な人です」
「そうなんですか。自分もここに入った時は、銃を持っていましたし、最悪の状況であれば、射殺してもいいと考えていましたが、お母様に座るようにと手を出されたら、銃を置いて座っていました。不思議です」
加代はソファに横たわったまま全く動かなかったが、呼吸をしていることは確認できた。
「この人は、動けないと思います。しばらく、ここで体力の回復を待ってはどうでしょう」
「ここで」
町村は加代を背負ってでも、安全な場所へ戻るつもりだったが、加代の体力より精神的なダメージの方が危険に思われた。途中で目覚めた時に、加代がどんな行動に出るのか予測できない。それほど、心が痛んでいるように見えた。
「心配でしたら、この家には地下室があります。そして、母と私がお二人を守ります」
「どうして、そこまで」
「さきほど、あなたが言われたことに希望を持ちたいのです。ここにいる同胞は、一般の人の方が多いのです。普通の漁師さんや農業をやっておられた人たちで、老人も子供もいます。死なせたくありません」
「そうですか。日本の軍事力は、縮小したとは言っても、まだかなりの力があります。双方に多くの犠牲者が出ることは間違いありません。それでも、ここまで痛めつけられている日本人を、ぜひ救出したいのです」
「私に出来ることはやります。父をここに連れてきます」
美姫が立ち上がって、町村を地下室へと案内した。頑丈なドアの先は階段になっていて、通気が良いらしく、一階よりも涼しく感じた。以前に住んでいた牧師一家も使っていなかった様子だったが、ベッドと小さな机があり、すぐにでも子供部屋として使えそうだった。
「もう一つ、お願いがあります」
部屋に入った町村は、美姫の目を見て言った。
「はい」
「子供のことですが、今日、二回目の公開処刑があったことにしてくれませんか」
「公開処刑」
「彼女は、自分のせいで子供たちが殺されたということに、耐えられないと思うのです。時間が欲しいのです」
「わかります。私も責任を感じています」
「お願いします」

50
 津田官房長官は、記者会見室の怒号の中で立ち往生していた。公開処刑で二百人もの人質が殺されたという噂の火を消す方法が見つからない。質問をしている記者にも、噂の出所を把握している者はいなかったが、その衝撃的な話はすでに一人歩きをしていた。膠着状態のまま、何も事件は起きていないというのが、政府の公式見解である。人道的見地から人質のために毎日膨大な量の食料を送り続けており、人質の生命には何も心配はないと明言していた。全国から警察官が動員されて、舞鶴周辺には誰も近づけない。勿論、特ダネを狙う人種は決して少なくないが、無事に帰ってきた人は一人もいなかった。敵に殺された人もいれば、味方に殺された人もいる。ただ、死者の数は政府が把握している限りでは、三人だけだった。警察に拘束された人の中には、行方不明で処理され、大阪拘置所に収監されている人もいるらしい、という噂はあった。一騎当千のつわもの揃いのマスコミ業界だったが、抜け駆けに成功する者が出てこないことで、極度のフラストレーションが溜まっている。全てのメディアが、公開処刑の噂に飛びついた結果、記者会見室の混乱が引き起こされた。テレビでは、評論家の先生が、見てきましたと言わんばかりの話をしている。事実を知っているという官房長官の隙が、言葉を歯切れの悪いものにしていて、敏感な記者団の不審を買ってしまった。
「ないものは、ないんです」
津田官房長官は、そう言って記者会見を終わらせた。殺到する記者に揉まれて、マイクやレコーダーで何度も顔に擦り傷を作り、足腰は数え切れないほど蹴られていた。警備の人たちに助け出された時には、スーツもネクタイも無残な状態になっていた。それでも、納得した記者はなく、背中を怒号が追いかけてきた。
「どうでした」
菅野総理が優しく声をかけた。
「ひどいもんです」
その部屋は、もう危機管理室ではなかった。新しい難問が出てこなければ、それが一番だという空気が支配していて、実質的には人質を容認している状態であった。八方塞がりの状態が、かえって心地よいものとして歓迎され、相手の出方をよく見極めて、慎重に判断を下すことが自分たちの責務と思っている。それは官僚の得意技でもあり、各省庁から来ている人たちにはとても居心地のよい場所と言えた。ただ、自然とそうなったのではなく、官僚同士の阿吽の呼吸で完成したものだった。相手が他の省庁の場合は、自分の省庁の利益が最優先であるが、結束が必要と判断すれば、実に見事な協力関係が生まれる。政治家に、それもなりたての閣僚に引きずり回されることは許せることではなかった。責任は政治家に取らせる。その一点さえ心得ていれば、何をやっても許されるのが官僚の世界の極意だった。勿論、人質の苦しい状況は報告されているが、それはただの報告書であり、読んでサインをして、次の人に渡す作業に過ぎなかった。受身に徹することが自分を守ることであり、自分の立場を守ることは全てに優先する。従って、自分以外のこと、特に下々のことを斟酌するのは、官僚の道に反することで、唾棄すべきことであった。
動きの乏しい部屋に警察庁の連絡を担当している事務官が入ってきた。警察庁の伊丹長官に書類を渡して、小声で何かを伝えると部屋を出て行った。
「李宣昌の正体が判明しました」
伊丹長官が、受け取ったばかりの書類を見ながら言った。
「李宣昌と名乗る男は、本名を鳥井正と言う日本人です。日朝新聞の記者をしていた男で、現在四十五歳です」
伊丹長官の説明によると、鳥井正という男は半年前まで社会部の記者をしていたが、自己都合で退職していた。どちらかと言えば一匹狼のような存在で、親しい仲間もいなくて退職理由を知るものはなかった。妻とは八年前に離婚している。両親は既に他界していて、兄弟もなく天涯孤独の境遇であった。共和国との接点等の背後関係については引き続き調査中ということだった。
李宣昌と名乗る男が日本人だと判明したが、それも単なる情報の一つであり、「ふーん。そうか」という、いつもの反応があっただけで能動的に何らかの方策を考える動機にはならなかった。
井上防衛庁長官が勢いよく立ち上がり、何か発言しようとしたが、首を横に振るだけで退席していった。井上長官は福知山の情報収集センターから報告される内容から、人質になっている人たちの苦しい立場に心を痛めていた。特に脱走してきた村上健一の証言が、その悲惨な状況を推測から現実のものへと変える大きな要因であった。一日当たり五万人分の食料を送り続けているにも関わらず、人質は食料責めで反抗の気力を奪われ、体力のない老人や子供の死亡が後を絶たず、僅かな食料のために肉体を提供している女性もいるらしい。総理が二言目には口にする「話し合い」が、単なる逃げ口上に過ぎないことは明らかであったが、出席者の九割が責任逃れに汲々としている状況では、井上長官の発言は役に立たなかった。
「これは、犯罪です」
井上長官は、控え室に遅れて入ってきた稲本陸上幕僚長に言った。
「我々も、その加害者ですね」
「そうなんです」
「自分は、腹を切ろうと思っています」
「辞任するということですか」
「いいえ。幕僚長のままで、単身舞鶴に行こうと思います。殺されるか、人質になるかでしょうが、自分に出来る事はそれぐらいしかありません。隊員には行かせたくありませんから、自分が行きますが、陸上自衛隊としての意思表示にはなるでしょう。長官にお話したのは、ご一緒出来ればありがたいと思ってのことです。長官に死んでいただければ、自衛隊全体の意思表示にすることができます」
「私も一度は考えました。でも、怖くて。人権だ、市民の権利だと言ってきたのに、逃げてばかりの毎日です。よくわかっています。でも、怖いんです。どうしょうもなく、怖いのです」
「長官は正直な方だ。この話は聞かなかったことにしてください」
「稲本さんは」
「自分は、この立場ですし」
「そうですか。少し時間をいただけませんか」
「いえ。長官には残っていただいた方がいいのかもしれません。自分にとっても後事を託せますから」

51
 町村は、加代を連れて第一基地まで戻ってきた。金美姫の家に二日間閉じこもり、まだ正常な状態に戻っていない加代を連れての行軍は厳しかったが、生きて帰れたことに満足しなければならないと思った。美姫から公開処刑で二人の子供が犠牲になったという話を聞いてから、加代は一言も喋らなくなった。焦点を失った目では、町村の存在が理解できているとは思えない。地獄を見すぎてしまった。だが、あの施設には加代の見た地獄の中に、まだ多くの人がいることを思えば、じっとしていることもできなかった。
倉持の車で福知山の病院へ搬送してもらい、陸自の別府一尉に頼んで護衛をつけてもらうことができた。ホテル代わりにと、別の個室を別府が用意してくれたので、町村は喜んでその行為に甘えることにした。人形のようにされるがままの加代が、点滴に入れてある睡眠薬によって目を閉じたのを確認して、部屋を出た町村を倉持と別府が待っていた。
「部屋で話を伺ってもいいでしょうか」
舞鶴の金美姫の家で、二日間考えていた一人クーデターの作戦には、是非とも協力者が必要であったが、現地の実情を一番よく知っている別府に頼むのがいいのも知れないと考えていた。ただ、幕僚長クラスの協力がなくては、一歩も前には進めない。そのためにも、最初に北山本部長の了解が欲しいところだった。
「わかりました」
町村用に用意してくれた部屋に三人が入ったときに、倉持の携帯電話に着信があった。
「町村さん。北山本部長が、一時間でここにみえます」
北山加代救出は、既に倉持がやっていた。職権乱用かもしれないが、多分ヘリを飛ばしたのだろう。
「よかった。できれば、本部長も入っていただいて、四人で話ができるとありがたいのですが、いいでしょうか」
「そうしましょう」
「それまで、少しだけ横になります」
町村は体力の限界を感じていた。風呂に入り、髭をそって、下着も替えたかったが、眠る方が優先した。
ノックの音で目を覚ましたが、条件反射のように銃を向けていた。先頭で入ってきた北山本部長が凍りついたが、町村はすぐに銃口を下げた。
「申し訳ありません」
「いいんだ。あれはよく眠っていた。ありがとう」
「とんでもありません。遅すぎました」
「三十分で風呂に入ってきてくれ。臭くてかなわん」
倉持が着替えの服を買ってきてくれていた。
「ありがとうございます」
北山の好意に甘えて、町村はバスルームへ急いだ。軍人の端くれなので、早風呂は訓練の一つである。町村は十五分で出てきて、倉持が用意してくれた冷たいお茶を一気飲みして席についた。
「早速だが、聞かせてくれ」
「はい。運だけでした」
町村は、加代の救出の内容を簡単に説明し、金美姫のことを話した。
「内部は、一枚岩ではありません」
「そうか。李宣昌と名乗る男が日本人だということは聞いたか」
「いえ。初めてです」
「新聞記者だったそうだ」
「金美姫の話では、かなりの数の日本人が協力しているようです。さきほどの佐藤という男も、そうらしいです」
「どうやら、菅野総理の誕生がこの作戦の始まりだったように思う。自民党の総理大臣だったら、武力を使っただろう」
「問題は、その菅野総理なんです。金美姫の父親は共和国軍の司令官で、接触は可能だと思います。和平交渉が出来たとしても、総理とその取り巻きが前向きに取り組んでくれるとは思えません。正真正銘、これが最後のチャンスでしょう。ですから、菅野総理に一任はできないと思います。そんな危険を犯して、人質の救出が出来ないようであれば、取り返しがつきません。ですから、ここは誰かが身を捨てるしか無いと信じます」
「身を捨てるとは」
「自分が一人クーデターをやります。武力で、こちらの希望どおりのことができるようにせざるをえません。多分、犠牲者も出るでしょう。人質救出後であれば、殺人罪での起訴もかまいません」
「んんん。一寸待て」
「他に、案があれば伺います」
「待ってくれ」
「大量の爆薬と特殊な起爆装置が必要になりますし、危機管理室に入室できる口実が必要です」
「落ち着け。町村」
「落ち着いてはいられないんです。自分は多くのことを見すぎました。これを看過すれば、自分は人間ではいられなくなります。権力の独走を止めることは、いつの時代でも必要です。昔、軍部独走で失敗した国です。今は、政治独走で失敗しようとしている。日本には、そういう風土があるのでしょう。そして、いつの時代も苦しむのは弱い者なんです。菅野総理は、弱者に優しい政治が謳い文句でしたが、この現実のどこが優しい政治なんですか。どれだけ多くの人が、生き地獄の中で苦しんでいると思うのです。大局的に見ても、今、方向転換をしなければ、禍根を残します。わかってください」
「わかってる。俺はやめろと言っているのではない。お前は参謀だろう。激情で作った作戦がうまく動くとでも思っているのか。頭を冷やせ。結果的に成功することが、絶対に必要なんだ。お前は、大局的と言う言葉を使ったが、本当に大局的か。世界の世論はどうなってる。日本で軍事クーデターが起きたとしても、世界は納得する。軍事政権では困るが、民政に戻すことを前提にすれば、何の問題もない。中国だけは別のことを言うだろうが、今回の事で中国の腹は見えたと世界中の常識になっているんだ。これだけ主権を侵されて、何の対応もできない日本は世界の笑いものだぞ。頭の中を一回、空にしろ。あらゆる選択肢の中から作るのが作戦参謀の仕事だろ」
「本部長は、自衛隊のクーデターでもいいと」
「勘違いするな、それも選択肢の一つであることを前提にしろということだ」
自分では冷静なつもりだったが、余りにも悲惨な現実を見てしまったために感情的になっている。しかも、舞鶴にこもりっきりで、視野が局地的になっていることは認めざるをえなかった。
「どう、しろと」
「参謀本部に戻って来い。お前の仕事はそこにある」
「もう、退官しました」
「まだだ。退官処理は途中で止まっている」
「・・・」
「加代のことも心配するな。母親を呼んだ。傷ついた娘を守るのは母親の仕事だろ。お前しかいないんだ。敵の状況を知っていて、交渉のルートを持っている者は他にいない。以前と違って、長官も制服組を理解してくれている。必ず、力になってくれる」
「井上長官が、ですか」
「それとな、これはここだけの話だぞ。俺がいいと言うまで黙っていてくれ」
北山本部長は、別府と倉持の顔を睨み付けて言った。
「稲本幕僚長は、単身で現地入りするつもりだ」
「舞鶴に、ですか」
「そうだ。人質になりに行く。腹を切るつもりだろう。何もできない幕僚長の最低限の仕事だと言っておられた。幕僚長など、なるもんじゃないな。普段は仕事をさせてもらえなくて、腹を切ることだけが仕事なんだから」
陸上幕僚長の話を聞いたことで、町村の頭の中の霧が晴れた。少なくとも、自分の周囲にいる人たちは自分の仕事を誠心誠意やろうとしている。幕僚長だけてはない。別府も倉持も人質の解放に向けて力を尽くしている。時間は少しかかるかもしれないが、結果を出さなければ意味がないと思えた。
「帰ります」

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無力-11 [「無力」の本文]

42
 村上が姿を消して、三日が経った。銃声も無かったし、校庭の墓も増えていないので、敬子は村上が脱走に成功したと信じていた。村上という男は、自分だけ助かりたいと思って行動に移すような人間ではない。必ず、村上は助けに来てくれる。この最悪の状況から助かることがあったら、残りの人生は村上と一緒に生きていきたいと思っていた。お互いに回り道はしたが、結局は結ばれる運命にあったのだと思う。敬子の夫は、頭が良くて大人しい男だった。何の不満もなかったが、心躍る人生でもなかった。ずっと羽目を外さずに生きてきて、敬子の人生で最大の危機に直面した今、自分に正直に生きてみたいと感じていた。この危機をのりこえたら、五年前に死んだ夫も文句は言わないだろう。村上が一度も結婚しなかったのは、自分のせいかもしれないと思ってきたが、村上はそんな素振りはみせなかった。勘違いでもいい、村上の胸に飛び込もう。そして、村上の腕に抱かれて眠りたいと思っていた。
加代は、二人の子供たちに添い寝をしていたが、眠ってしまった子供たちから離れて、廊下に出た。敬子が窓に手を預けて遠くを見ている。加代も黙って敬子の横に行った。
「ねた」
敬子がきいて、加代は頷いた。
「村上さん、どうしてるのかな」
「大丈夫。ケンさんはタフやし」
「敬子さんは、ケンさんのことが好きなのね」
はにかんで小さく頷く敬子の様子は、初めて恋を知った若い娘のように見えた。そんな敬子を見ていると、加代も勇一のことを思ってしまう。勇一はどこで何をしているのだろう。こんな所へ囚われていることを知っているのだろうか。勇一のことだから、きっと必死になって捜しているのだろう。勇一に会いたかった。ここに来て、二人の子供と出会い、まるで母親のように添い寝をしていると、勇一の子供が欲しいと切実に思う。修と恵は、自分のお腹を痛めた子供ではないが、本当にいとおしく思うようになったし、二人も加代を頼りにしてくれる。しかし、毎日が何の意味もなく過ぎていく。共和国の見張りの様子も惰性が感じられるようになった。共和国にとって平穏無事ということは、自衛隊が来ないという見通しがあるということであり、人質にとっては未来が見えないということでもある。それでも、時間は過ぎていった。
朝一番に校内放送があり、番号が読み上げられた。以前にも何度かあったが、それはいつも動員命令だった。学校の南側が爆破された時も、大勢の人がその後片付けに動員された。ただ、動員された人には小さな握り飯が与えられるので、喜んでいる人もいた。今は誰にとっても、米粒一つが大切な食料だったが、動員されるのは男ばかりであった。加代の番号は261番だったが、読み上げられた番号の中には無かった。男たちが何人か部屋を出て行く。校庭に集められた人たちの作業は、校庭の中央に穴を掘る仕事だった。校庭に面した窓から見ている人たちの話では、かなり大きな穴のようだったが、何のための穴なのかは誰にもわからなかった。穴掘り作業は三日間続き、校庭にポッカリと大きな穴が出来た。掘り出した土が周囲に盛り上がっているので、二階の窓から見ると蟻の巣のように見えた。
穴掘り作業が終わった翌日に、校内放送で人質番号が読み上げられた。222番は敬子の番号だった。穴掘りは終わっていたし、動員では呼ばれない女性が含まれていたことで、教室には不安の声が出ていた。番号は何回も読上げられ、校庭に集合するように指示があった。
「加代さん。この子たちをお願い」
「はい。でも、なんの」
「わからへん」
敬子は二人の孫に頬ずりをして、教室を出て行った。校庭に面した窓には、大勢の人が押し寄せ、加代は近づけなかったが、呼び出された人数が二十人で、その中には女も子供もいることが窓から見ている人の話でわかった。どこから現れたのか、五十人ほどの兵士が人質を取り巻いている、と言う声が聞こえ始め、教室が得体の知れない不安で一杯になった。加代も胸騒ぎをおぼえて、子供たちを両手で抱き寄せた。そして、再び校内放送が始まった。
「一週間前、日本帝国海軍は、無慈悲にも我々同胞の船を撃沈した。乗船していたのは婦女子を含む民間人ばかりで、乗組員を含めて二百人以上の犠牲者が出た。我が共和国は、このような暴挙を、決して許さない。日本政府に厳重抗議をした結果、同数の日本人を処刑することで合意に至った。この二十人は、日本政府との合意により、本日公開処刑に処せられるが、この処刑の責任は全て日本政府にあることを承知していただきたい。公開処刑は十時に行う。以上」
人質は凍りついて、一瞬の静寂があったが、校庭でも教室でもパニックが発生した。加代は子供たちを更に強く抱き寄せて目を閉じた。敬子さんが殺される。何とかしなければ。胸の鼓動が抑えようもなく激しくなる。あまりの息苦しさに、加代は叫び声を出していた。子供たちが泣き出し、加代も身を捩って叫んでいたが、子供たちを振り落とすように離して、教室を飛び出した。
階段を駆け下りて、踊り場にいる見張りに体当たりする。突然の行動に対処しきれなかった四人の見張りの男をすり抜けて、加代は一階に飛び降りた。だが、一階から校庭に通じている場所には十人以上の見張りが銃を構えて待機している。加代は悲鳴をあげながらその見張りの男たちに突進した。だが、見張りの男の振り下ろした銃床が加代の後頭部を直撃したために、加代の意識は突然に失われた。

43
 もし、本当に公開処刑が行われるとすれば、校庭だろうと村上が言った。町村と村上は舞鶴西工業所という三階建ての建物に来ていた。金属加工をしていた会社で、村上の友人が経営していたが、その友人もいまは収容所に監禁されている。無人の工場は音がなかった。二人は音を出さないように注意しながら階段を登った。三階の事務室からは、学校の校庭が一望できた。町村は、岩場の監視所から運んできた集音マイクをセットし、ブラインドの間から校庭を見おろした。校庭には処刑場と思われる大きな穴が掘られていた。簡単なイヤホンだったが、充分に音は拾える。学校に動きが出たのは、五時に待機し始めてから四時間後だった。校内放送で番号が読上げられている。
「222」
「どうしました」
「222は敬子の番号や」
「えっ」
「あかんわ」
「・・・」
「なんでや」
町村もその番号が読上げられたのを聞いた。残念だが、幸運は無かったらしい。
「わしは、もう少し近くまで行くわ」
立ち上がった村上の腕を、町村は押さえた。
「危険すぎる」
「わかっとる。せやけどな、あいつは俺が助けに来ると信じてるはずや。少しでも近くで見ててやりたい。なんも、出来んとしても、あいつの最後は見届けたいんや。わかってくれ」
村上の気持ちはわかっている。自分が村上の立場でも、きっと同じことを感じるだろう。愛する人間の死を、黙って見ていることなど出来る訳がない。
「自分も行きます」
「いや。あんたが言うように危険や。あんたには、なにがなんでも、子供たちを助けてもらわなあかん。二人が見つかって殺されたら、誰が助けるんや。加代さんと二人の子供を」
「必ず、戻ってください」
「わかってる」
町村には、村上が戻ってこないことがわかっていた。ザックから拳銃を取り出すと、安全装置を外し初弾を送り込んで、村上に渡した。
「引き金を引けば、弾が出ます」
「すまん」
「でも、最後まで諦めないでください。あなたの気持ちはわかるが、なんとしても戻ってきて欲しい」
村上は笑顔を見せて、部屋を出て行った。町村が視線を校庭に戻すと、校舎から人質が出てきた。体育館の方からも、数人の人が出てくる。町村は小型の双眼鏡を目にあてた。老人も小学生も女性もいる。処刑自体が不条理なのに、共和国は女子供まで殺すつもりなのだ。怒りで体が熱くなる。戦争が感情で成り立っていることを、町村は自分の体で知った。多数の兵士が、銃を構えて人質を取り囲み、人質の顔に不安と恐怖が見える。二十人の人質が揃ったことを確認したのか、放送が始まった。公開処刑が、なぜ行われるのかの説明だった。町村は集音マイクの音を、電波でデータ収集センターへ飛ばした。校庭に呼び出された人たちがパニックになり、叫びだす者、逃げ出そうとする者、その場に崩れ落ちる者で騒然としたが、力づくで押さえ込まれた。校舎や体育館に押し込められている人質の間から、地鳴りのような叫び声が起きている。校庭の二十人は、次々と後ろ手に縛られていった。処刑開始時間が十時と言っていたので、まだ少し時間がある。町村は飛び出したくなる自分を抑えるのが苦痛であったが、これが最後ではない。犠牲者は、これからも止まることなく出ることもわかっていた。この現場にいない人が、このことを結果として知ったとしても、「そうか。気の毒に」で終わってしまうのだと思うと、町村の心は爆発してしまいそうな怒りで溢れた。こういう結果になることは、町村にはわかっていた。この戦争の初動対応で何もできなかった、いや、なにもしなかった日本という国がたどる当然の結果なのだ。校内放送では、日本政府の同意により処刑すると言っていたが、その通りなのだろう。指を咥えて見ているということは、同意したと言われても仕方が無い。「なぜ、何もしない」というのは、人質の人たちだけでなく、多くの国民の本音と感じた。政府は有り余るほどの情報を持っていながら、国民の目に触れないようにしている。町村たちは自衛隊と行動を共にしているので舞鶴に潜入することができたが、舞鶴に通じる道路には警察の検問があって潜入することは不可能に近かった。従って、報道機関の報道内容は現実から大きくかけ離れている。死者の数も不明で、このような処刑が行われようとしていることも知らされていない。倉持の話によると、政府は共和国が要求してきたテレビ中継だけは断ったらしい。現在の政府が日本を統治しているかぎり、日本は国という形をなさないまま滅びてしまう運命にある。
十時になった。一番に指名された男性が、大声で叫び、身を捩って抵抗するが、二人の兵士に両脇を抱えられて引きずられていき、大きな穴の南側に立てられた柱に、四人がかりで縛り付けられてしまった。五人の兵士が穴の北側に横一列に並び準備が整った。目隠しされなかった人質の恐怖は極限にきている。士官らしき男が右手を挙げ、共和国の言葉で兵士に命令を出し、五人の兵士が小銃を構えた。再び、地鳴りのような叫びが校舎から沸きあがって、銃殺をしようとしている士官の声を掻き消したが、士官の男は右手を降ろして次の命令を下した。人質たちの叫び声で、町村に銃声は聞こえなかったが、柱に縛られた人質の男性の体の動きが止まった。四人の兵士が近づき、縄を解いて、処刑の済んだ死体を穴の中に蹴落とす。次に指名されたのは、中年の女性だった。二十名の中に中年の女性は一人しかいないので、その女性が村上の言っていた原田敬子なのだろう。町村は学校の周辺を捜したが村上の姿は見えなかった。女性は覚悟を決めたのか、自分の足で歩いている。小高くなっている柱の所に女性が着いた時に、校門の方から駆け寄る人の姿が見えた。やはり、村上は突入した。柱の所には、敬子と六人の兵士がいたが、一人の兵士が弾かれたように転げ落ちると、異変を知った兵士が村上の方を呆然と見ている。村上は拳銃を乱射しながら突進をやめなかった。別の兵士が肩を押さえて、地面に倒れる。あまりにも近くまできた村上の姿に、他の兵士は自分の銃を村上に向けることを忘れて、身を守るために穴の中へ飛び込んだ。町村の計算では、拳銃の残弾は二発しかないはずだ。呆然と立ち尽くす敬子に、飛びつくようにして村上が駆け寄った。敬子を抱えて、校門の方へ逃れようとした村上の体の動きが止まった。穴の向こうにいた兵士が撃った銃弾が村上を捉えていた。一瞬の間があって、一斉射のような銃弾が、村上と敬子の体を吹き飛ばした。二人は抱き合ったまま、柱の山から転げ落ちて、動かなくなったのが町村にはよく見えた。用心しながら近寄ってきた兵士が、二人に止めの銃弾を打ち込み、柱の所へ引きずりあげた。十人近くの兵士が集まり、村上の顔を見ながら、何かを言い合っていたが、士官の男の命令で二人の遺体は、穴のなかに放り込まれた。脱走した人質が仲間を助けようとして、飛び込んできたことがわかったのだろう。
処刑は淡々と続けられ、二十人の人質と村上の遺体が放り込まれた穴を兵士たちが埋めている。人質以外の日本人で公開処刑を見たのは自分だけだろう、と町村は思った。二十一人の苦痛を背負い、その無念を晴らすのは、目撃証人の自分しかいない。理性などクソ食らえだ。

44
 校舎を揺るがすような音で、加代は意識を取り戻した。誰もいない廊下に横になっていて、修と恵が心配そうに見ている。体を起こそうとしたが、頭の痛みに声を漏らした。加代は手についた血を二人に見られないようにズボンで拭いた。怒鳴り声や悲鳴、そして誰かの名前を呼ぶ声が校舎全体を揺すっている。頭の痛みに堪えて思い出す。敬子を追って校庭に出ようとして意識を失った。加代は敬子の死を感じた。生き残った自分にできることは、修と恵を守ることだ。加代は二人の残された子供たちを両手で抱いた。子供たちは、全体重を加代に預けてきた。きっと、敬子にも加代にも置いていかれたことが不安だったのだろう。加代には「なぜ」が解けなかった。こんな事になっているのに、なぜ、誰も来ないのか。自衛隊はどこへ行ったの。叔父や勇一は何をしているの。この二人をどうやって守ればいいの。答えを見つけられない自分が情けなかった。どうしようもない事情があって、自衛隊の救出が遅れているのだと考えていたが、その自信もゆらいでいた。疑心暗鬼と不安、そして恐怖に混乱する自分を、どうすることもできない自分がいる。それでも、二人の子供たちを守らなければ。暴力に押さえつけられた時に、人間に出来ることなどないのだということを、身をもって体験した今、自分の中に得体の知れない凶暴な何かが座り込んだような気がした。もう考えるのは、やめよう。子供たちを受け入れることだけに専念しようと思った。
数日経って、敬子と村上健一が死んだことを聞いた。ケンさんは来てくれたのだ。敬子は好きだったケンさんに抱かれて死んで、少しは穏やかな気持ちだったろうか。加代だけでも、そう思ってあげることが必要だった。
公開処刑が終わって、一週間が過ぎた。表面上は、そんな出来事があったことも忘れ去られている。誰も、そのことに触れたくないと言った方が正しい。突き詰めて考えた時の、精神の崩壊から自分を守るための本能なのかもしれない。心に傷を受けなかった人はいないと言うのに、気力の抜け落ちた、ゆっくりとした時間だけが過ぎていく。修も恵も祖母の敬子については、何も言わなかった。子供であっても、触れてはいけないことだと感じている。あまりにも不条理に過ぎることで、加代も口に出せなかった。
図書委員の榊原が、加代を廊下に呼び出した。「あいつはスパイだ」という陰口が囁かれていることを、本人は知っているのだろうか。
「佐藤さんが、呼んでる」
「佐藤さん」
「ここの、警備担当の人だ」
「どうして」
「知らんよ。でも、逆らうと損だと思うがな」
「どうして、あなたが呼びに来たんですか」
「そんなことは、どうでもいい。確かに伝えたからね」
それだけ言うと、榊原は階段を下りていった。階段の踊り場にいる見張りに対して顔パスがきくらしい。かなり慣れたとはいえ、空腹感は人質共有の苦痛だったが、自分の体を提供していると噂されている若い女性と、榊原のようにスパイと言われている人は平然としている。榊原のような、品性下劣な男が空腹を克服しているとは考えられないので、噂は正しいのであろう。加代は部屋に戻って、その事は忘れることにした。
三人で、うつらうつらしているところへ見張りの兵士の一人が教室の入り口に来て、「261」と言った。加代は、261番が自分の番号であることに気づくのにしばらく時間が必要だった。
「261」
兵士の発音にはなまりがあったが、自分が呼ばれていることはわかった。
「はい」
加代は腰を浮かした。
「こい」
「どこへですか」
「こい」
「私、一人ですか」
「こい」
兵士は必要な日本語は喋るが、日本人が喋る日本語は理解していない。肩から銃を降ろそうとしている。抵抗されていると思っているようだった。
「わかりました」
子供たちには、すぐに戻るからと言って、立ち上がった。兵士が連れて行ったのは、以前は図書室のようであった。広い部屋に男が一人だけ座っていた。加代の後ろでドアが閉まると、立ち上がった男が近づいてきた。
「佐藤です。一度目は、どうして断ったのですか」
「一度目」
「榊原が呼びに行ったでしょう」
「いいえ。何もきいていませんが」
「そうですか。まあ、いいでしょう。あなたと少し話がしたい。座ってください」
「いえ。ここで結構です。子供たちが待ってますから」
「その子供さんの話ですよ」
「子供の」
「まあ、お掛けください」
加代は仕方なく椅子を引いて座った。佐藤という男は、背の低い、底冷えのするような目を持った若い男だった。学生に見えないことも無い。
「充分な食事が出せなくて、申し訳ないと思っています。子供はお腹を空かしているでしょう。育ち盛りですからね。それに、北山さんも痩せました」
少し離れた所から、佐藤の視線が突き刺さる。
「お話と言うのは」
「どうして、あの子たちの面倒をみているのです。ご自分のお子さんではないでしょう」
「頼まれましたので」
「原田さんに。あの子たちのお祖母さんですね。あの方は残念なことをしました。ああいうことは、やってはいけないことです」
「あの」
「ああ、用件ですね。子供さんに特別食を出してあげたいと思いましてね。ひもじいおもいはさせたくないでしょう」
「日本語がお上手ですが、佐藤さんは日本の方ですか」
「そうです。僕は正真正銘の日本人ですよ。だから、幼い子供が気の毒でしてね」
「全部の子供に、その特別食というのを出していただけるのですか」
「一度には無理ですよ。先ずあなたの、あの子たちからです」
「とても、ありがたいことだと思います。でも、全部の子供たちに出していただける時まで待つように言っておきます。あの子たちは、ききわけがいいですから、待ってくれます」
「そうですか。でも、順を追って増やしていきたいと思っていますのでね、その最初の子供が断ってしまうと、後が続きません」
「あの子たちの順番は最後でいいのです」
「残念ですね。あなたのために何かしたかったんです。この話は忘れてください」
「はい」
「送りましょう」
佐藤はドアを開けてくれた。加代はドアのところに立っている佐藤からすり抜けるようにして廊下に出た。近寄ると肌に電気を通したような不快感があった。
「何か困ったことがあったら、僕に言ってください。力になれると思いますから」
小声で囁かれて、加代は吐き気を堪えた。

45
 町村には、つらい一日になった。だが、受け止めなければならない。偶然が積み重なる時、それをもう偶然とは呼ばない。生き方の選択肢はなく、一点に収斂している。時の流れに竿をさせるような気持ちを持っていた自分が甘かったことを知った。
原田夫妻に、敬子と村上の死んだ様子を話した。子供たちは処刑の列にはいなかったので、生きていると言い切るしかなかったが、村上がいなくなった今では、その子供たちを救出する方法もなかった。原田浩は母親の死とその遺体へのおもいで言葉少なくなっていたが、順子は子供たちのことで、半狂乱の状態になっていた。町村は二人を福知山へ戻すことを決めた。普通の市民がこの状況に対応できるようになるためには、もう少し時間が必要だった。 
原田夫妻に重荷を背負わせても意味はないので、処刑された敬子以外の十九人の死に様には触れなかった。二十一人の死は自分だけで背負う覚悟であった。
苦労をしたが、原田夫妻を福知山に置いて、町村は一人で岩場の監視所に戻った。大きなチャンスになったであろう村上の脱走も、村上の死で終わった。その村上の脱走路を参考にして、学校への潜入のチャンスを見つけることと、辛抱強く何かを待つことが町村の仕事になった。だが、以前と違って、考えることは山ほどあった。一人クーデターが簡単な任務ではないが、一人だから出来ることも多い。必要事項をメモに書き出しながら、作戦計画の立案に取り掛かった。
公開処刑があった日から二週間が過ぎたが、校舎への侵入はまだ実現していなかった。一度は屋上まで到達したが、その先へ進むチャンスはなかった。警備の状況にはかなりの隙間が見えているので、校舎内への潜入も不可能ではないという自信も出てきた。
夕方近くになって、学校の南側から山の方へ向かう道に三人の人物の姿があった。一人は女性で、二人の兵士に銃を突きつけられて歩いてくるように見えたが、その女性には見覚えがある。町村は双眼鏡に目を押し付けた。汚れた服を着て、憔悴した様子で歩いていたが、加代に間違いなかった。突然訪れた好機に、町村の体にはアドレナリンが充満した。三人はゆっくりとした足取りで、寺の方へ向かっている。町村は銃を手にして岩場を離れた。寺には数え切れないほど潜入しているので、土地勘は十分にある。

46
 見張りの兵士に呼び出しを受けた時、加代はそれが佐藤の企みだとわかっていたが、銃を突きつけられれば従うしかなかった。行き先は図書室ではなく、二人の兵士に前後をかこまれ、校舎の外へ連れ出された。南門を出て、山に向かって歩かされる。不安と恐怖で身が竦み、足が思うように動かないが、足が止まると銃口が背中へ押し付けられ、また前に進む。走って逃げ出せば銃で撃たれるだろうか。どうしたらいいの。死んでいった敬子もこんな気持ちだったのだろうか。連れて行かれたのは、少しだけ坂道を登った所にある寺であった。寺の境内に入ると、蝉の声と鳥の囀りがよく聴こえた。真っ直ぐ本堂に向かい、開け放たれている大きな入り口に立った。本堂の中は暗くて何も見えないが、二人の兵士の銃口に押されるようにして進むと、奥の方から聞き覚えのある佐藤の声がした。
「北山さん。よく来てくれました」
建物の中に入ると、外光が無くなったせいか、仏像の前に立っている佐藤の姿が目に入った
「ご苦労様。少し外で待っていてください」
二人の兵士も佐藤の指示に従っている。若い日本人はどんな経緯で権力を手にしたのだろう。
「北山さん。こちらへ」
加代は動くつもりはなかった。
「僕は、暴力は好みません。お願いですから、言ったとおりにしてください」
脅しに屈したくはないが、佐藤と暴力は簡単に結びついた。この男なら、どんな暴力でもふるうだろう。加代はゆっくりと前に進み、歩きながら別の出入り口を探した。佐藤に噛み付いてでも逃げたかった。暗さに目が慣れてきて、佐藤の表情も見えるようになった。
「座りましょうか」
加代はその場に正座をした。座りながら、本堂の入り口で靴を脱いだことを後悔していた。加代が座ると、佐藤が斜め前の場所に座った。
「僕は、この角度からの北山さんが好きですね。今日はこの二十年間で最高の日です」
加代は正面を向いたまま、佐藤の姿を見ないようにした。
「この前、すこしお話しましたが、あなた方三人に特別待遇をしてもいいんです。食事も全く違いますし、風呂にも入れます。テレビだって見れますので、子供は喜びますよ」
加代は、なにも答えなかった。
「どうも、わかっていただけないようですね。残念です。僕はいま絶大な力を持っています。どんなことでもできることを、あなたはわからなければいけません。たとえば、あの二人の子の命ですら、僕の自由になりますよ。子供の命とだったら交換できるでしょう。あなたは、プライドを捨てれば済むことです。僕のささやかな希望をかなえてくれればいいだけで、子供たちの命が助かるのです」
やはり、これが佐藤の本性だったのだ。この男の目を見ていれば、脅しだけで言っているのではない。自分の想いが叶わないと知ったら、本当に二人の子供の命は無くなる。佐藤の言うとおり自分のプライドと嫌悪感を捨てれば済むのだろう。だが、自分にそんなことができるのだろうか。あの公開処刑を思えば、どんなことでも有りうると考えなくてはならない。加代は、あまりの屈辱に顔を伏せた。しばらく時間が流れた。殺してやりたいと思ったが、選択肢が無いこともわかった。
「わかっていただけたようですね。北山さんは僕のこと、嫌いですよね。でも、お願いします。僕のこと好きになってください。それが、あの子たちの生き残る道ですから。僕は、初めてあなたを見た時から好きになりました。特に、その唇がたまりません。夢にまで見ます。その口で僕を夢の世界へ連れて行ってください」
「すこし、考える時間をください」
「初めて口をきいてくれましたね。素晴らしい。でも時間は何の役にも立ちません。なぜかわかりますか」
「・・・・・」
「僕が、認めないからです。徹底抗戦か全面協力かの返事をしてください。返事が無い場合は徹底抗戦と判断して、あなたが部屋に帰るまでに交換条件の片側を実行します。僕からの電話を待っている人間がいるのです」
泣き喚きたい気持ちで一杯だったが、あまりの情けなさに、涙は出てこなかった。
「どうします」
空耳かもしれないが、「断りなさい」という敬子の声が聞こえた。
「条件は、二人の子供の命ですね」
「ありがとうございます。やっと、夢がかないます。それと、念のため言っておきますが、無茶なことは考えないようにしてください。前に、僕の物を食いちぎろうとした女が、無残な死に方をしたことがあります。そうはなって欲しくありません」


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無力-10 [「無力」の本文]

38
 官邸にある危機管理室は静かだった。コンピューターの排気ファンの音だけで人の気配はない。安全保障会議が開かれるのは、朝の一時間だけで、報告だけの会議になっていた。地元選挙区に戻る閣僚もいたし、各省庁からの高級官僚も意味不明な理由で交代要員を送り込んできている。自然と参加者が減り、会議は形ばかりのもとなり、談笑の声さえ聞こえてくる緊張感の無さが常態となっていた。控え室に指定された部屋に常駐しているのは、防衛庁関連の人だけだった。安全保障会議の主要構成員である筈のそれらの人々は、この四週間の間、常にオブザーバーの立場にいて、自由に発言することもできない空気の中にいた。共和国の代表と名乗る李宣昌との専用電話も外務省控え室に繋がるようになっていて、その応対は中田審議官に一任されている状態だった。そんな官邸の中で、一部屋だけ張り詰めた空気の部屋があった。危機管理室とドア一枚で仕切られているデータ収集室では、現地の監視カメラの映像や、洋上にあるイージス艦からの映像が流れ、防衛庁の統合参謀本部で分析された情報が常時更新されていた。四週間が過ぎても辞任した海上幕僚長の任命はなく、その代理指定もされていない。井上防衛庁長官は後任幕僚長の選任について、一度だけ菅野総理に上申していたが、総理からの指示は何もなかった。残された二人の幕僚長は、海上幕僚長の不在に関しては口を閉ざし、控え室とデータ収集室との間を行き来していた。現地で動いているのは海上自衛隊の偵察部隊だけだが、新しい幕僚長が任命されれば、その件を放置しておく訳にはいかないだろうという思惑があるようだった。
「台風の進路はどうだ」
稲本陸上幕僚長が、コンピューターを管理している若い二尉に声をかけた。まだ、台風の季節には早かったが、台風六号が大きく回りこむようにして日本海を目指していた。
「このままですと、今夜から明日にかけて、日本海を縦断する公算が強いそうです」
「そうか。目を離すなよ」
「はい」
気象衛星からの映像は、大きな雲の様子をモニターに映し出している。二週間前より減ったとはいえ、多くの船舶が日本海を移動していた。稲本が心配する事ではないが、共和国の船舶には小型のものも多く、台風に巻き込まれれば被害を受ける可能性もある。海上自衛隊の艦船と海上保安庁の巡視船も日本海に展開しているが、それらは台風の進路を見極めながら移動している筈だった。海上幕僚長不在の間は、海上自衛隊のことも稲本の双肩にかかっているので、海の上のことも気になっていた。稲本は控え室に戻り、井上長官に報告し、会議の招集を進言したが、しばらくして津田官房長官からの「必要ない」という回答があった。稲本は統合参謀本部の北山に連絡を入れ、注意を喚起した。気にかかる時は行動すべし、というのが稲本の長年の行動パターンであり、手を抜いたときには必ず後悔すると信じていた。
仮眠していた稲本が起こされたのは、午前三時を過ぎていた。台風に巻き込まれて共和国の船舶が遭難した模様だというものであった。
「夜間航行の船がいたのか」
「こんごうからの連絡では、共和国の方角から来た船のようです」
「むこうから」
「はい。千トンを超える船のようで、救助に向かうべきかという問い合わせが入っています」
「現場は」
「台風の真ん中です」
「わかった。救助の体制で待機と伝えてくれ」
稲本は、井上長官を仮眠室に訪ね、二人は津田官房長官を会議室へ呼び出した。
「まったく。うんざりだな」
椅子に座っている二人の冷めた目を見て、津田は顔をひきしめた。
「いま、総理も来ますから」
すぐに、菅野総理が入室し、続いて外務大臣を先頭に数人が部屋に入ってきた。
「遭難ですか」
稲本は現況を伝えた。
「目撃情報ではなくレーダー情報ですから、確度は少し落ちますが、まず間違いはないと思われます。ただ、海上は大時化ですから、救助できるとしても、時間的に少し先になるものと思ってください。現在、待機を命じてあります」
「すぐに、現場に向かわせてください。人命救助が優先です」
菅野総理はすぐさま結論を出した。自国民を見殺しにしておいて、人命救助とはなんたることかと思ったが、稲本は顔色一つ変えなかった。
稲本は命令を伝え、現場海域への到着予定時間を確認した。
「二時間後に現場海域に到着の予定です。その頃には、嵐はかなり治まっているものと思われますので、すぐに救助活動を開始するように言いました」
二時間後に「生存者の捜索を開始する」という連絡があったが、「生存者発見」の連絡がないままに、さらに二時間が過ぎた。喫煙コーナーでは、誰かが冗談でも言ったのか、大きな笑い声がしていた。
電話の呼び出し音が鳴り、部屋の中が一瞬で静かになった。中田審議官が危機管理室にいる関係で、回線接続は危機管理室になっていた。
「李宣昌です」
李宣昌の声は硬かった。
「中田です」
「中田さん。なんてことをしてくれたのです」
「どういう意味ですか」
「日本政府は船舶の自由航行を認めましたよね」
「そうしていますが」
「では、どうして海上自衛隊の戦艦が、共和国の船舶に体当たりをしてくるのですか。二隻も沈没しましたよ。納得のいく説明を聞かせてください。こんなことは許せません」
「ま、待ってください。日本の護衛艦が体当たりをしたと言うのですか」
「そうです。一万トンの戦艦が体当たりしたら、どうなるのか、誰にでもわかりますよね。我が共和国の船は千トンですよ。ひとたまりもありません。しかも台風で荒れ狂う海上で、まるでどさくさにまぎれての卑劣な殺人行為ではありませんか」
「とんでもありません。そのような報告は一切ありません」
「言い逃れをするつもりですか」
「とんでもないことです。何かの間違いじゃないですか。たしかに、この台風で遭難した船があるという情報に、救助出動しているところです。我々は人命救助をしようとしているのです。体当たりして沈めるなどありえません」
「そうですか。あくまでも言い逃れをするつもりですね。この報復は必ずさせてもらいますよ。何が起きても、それは日本政府の責任ですから」
いつものように、電話は一方的に切られた。
「井上長官。一体どうなっているんです」
菅野総理が上ずった声で叫んだ。
「そんな事実はありません。これは、まったくのいいがかりです」

39
 村上の体力は、本人が思っているより弱っていた。すぐにでも行動に移りたいと思っていたようだが、まずは体力を回復することだ、という町村の説得に素直に応じてくれた。自分の足で歩くという村上をつれて第一中継基地に行き、倉持に事情を話した。倉持は、本人から事情聴取をしたいと言ったが、体力が戻ってからと断った。村上も事情聴取で一週間も時間を割く気はないだろうと思ったし、町村にしても加代を一刻も早く救出しなければならないと思っていた。倉持が車で福知山駅の近くのホテルまで送ってくれ、福知山にいる別府一尉を通して、ホテルと病院の手配をしてくれた。風呂に入り、髭をそっておくように言って、町村は商店街で下着と服を買った。自衛隊の紹介が無ければホテルへも入れなかっただろう。病院に行く時には、不審者と思われないような様子をさせたかった。風呂に入って疲れきっていた村上だが、青白い顔をしながらも、買ってきたものを身につけてしっかりと歩いた。頭の中にあるのは、収容施設に残してきた三人のことなのだろう。短い距離だったがタクシーに乗って、市民病院の特別室に入ると、すぐに医師の診察があり、点滴が開始された。
「今日は、おとなしくしていてください」
「わかってる。あんたの言うことはきく」
「明日、来ます」
「来るときに電話を手に入れてきて欲しい」
「わかりました」
町村がホテルに戻ると、ロビーに倉持がいた。二人は無言で部屋へ向かった。倉持の表情からは、また新たな難題が持ち上がったことが読み取れた。
「何がありました」
部屋に入ると、すぐに倉持に声をかけた。
「五日前に台風が日本海を通過したのを知ってますよね」
「知ってます」
「あの日に、共和国の船が沈没しました。向こうの言い分では、日本の戦艦に体当たりをされて沈没したと言うのです」
「そんな事実があったのですか」
「ありません。船の存在はレーダーで確認しています。もちろん、嵐の中ですから間違えた可能性もありますが、こんごうは操船ミスと言っています」
「で」
「船には、二百人乗っていたということです。日本政府は船舶自由航行権を認めていました。二百人の命が失われたのは、日本政府の責任だそうです」
「で」
「その責任のとり方について通告がありました。人質になっている人の中から二百人を公開処刑することなんだそうです」
「公開処刑」
「共和国では、公開処刑は珍しくないそうです」
「で、危機管理室はなんと」
「ご存知でしょうが、いつも通告だけらしいですね。一方的に電話をしてきて、一方的に電話を切られるような状態だと聞きました」
「いつなんです。その公開処刑というのは」
「五日後です」
「五日」
「はい。でも、まだ続きがあるのです。その公開処刑をテレビ中継しろと」
「テレビ中継」
「全国放送です。向こうはNHKを指定してきました」
「処刑自体が許せることではないのに、公開で、しかもテレビ中継など言語道断でしょう」
「でも、稲本幕僚長の話では、政府はNHKと打ち合わせを始めているそうです」
「地に堕ちたな」
「陸自が騒いでいます」
「だろうな」
「でも、今回の件では、向こうは海上自衛隊の護衛艦にやられた、と言ってます。うちでも、不穏な空気があります。町村さんなら、どうされますか」
「自分は、退官した身ですから」
「だから、お聞きしています。もし、町村さんが幕僚長ならどうされますか」
「自分は自衛官でも幕僚長でもありませんので、お答えすることが出来ません。ですが、統合参謀本部の北山本部長に釘を刺されています。やってはならんと」
「ところが、その北山本部長が、不穏な空気の中心におられます」
「まさか」
「その、まさかなんです。自分には政治がらみのことはわかりません。ただ、この一ヶ月の経緯をみている限りでは、事態の収拾の見込みは無いように思えます。そうじゃないのですか」
「現状では、見込みは無いでしょう」
「町村さんも、非公式ですが我々の監視任務の一端におられます。二週間前と比べて、舞鶴市街に変化があるようには思いませんか」
「変化」
「はい。少しづつですが、人が増え続けているように感じるのです。各監視所では、特定できる人物には番号をつけて監視していますが、その番号の増加率が最近増えています。海岸を埋め尽くしていた船は激減しましたが、新たに入港してくる船もあります。それも比較的大きな船です。その積荷は、武器と兵員に間違いありませんが、詳細はつかめていません。つまり、次の作戦の準備は進んでいると考えなければなりません。自由航行権で敵の兵站に道を明け渡していますので、当然の成り行きなんでしょうが。例えば、共和国の次の作戦というのが、ここ福知山の占拠だとすると、我々は孤立することになります。今、この斥候部隊には八十五名がいます。町村さんを含めて全員が敵の勢力圏に取り残されるのです。そうなれば、監視機能も破壊されます。監視カメラの情報集約は、ここの第七普通化連隊にありますが、陸自はその機能の移転を始めました。そして、連隊全ての撤退作戦を作り始めたそうです。陸自は、発砲許可は出ないという判断です。我々も撤収作戦の立案をしておりますが、武器使用が認められない状況での撤収は、とても難しいことになっています。海上自衛隊が陸上部隊の撤収をやろうとしているんですから、無理があります。でも、こうやって自衛隊が撤退を続けるということは、それだけ民間人の犠牲者を増やすことになるんじゃありませんか。政府の方針変更が無ければ、被害の拡大は避けられない。そうじゃないんですか」
「そういうことです。初期段階でそれは具申しました。多分、政府は犠牲になってくれと国民に言っているのだと思います」
「犠牲になれ、とはどういう意味です」
「菅野総理は、昔から日本の贖罪を言い続けてきました。きっと、それは総理の信念なのだと思います。これが、その贖罪行為だとすると、数百万人の犠牲が出ないと治まらない可能性があります。総理にとっては、絶好の機会なのかもしれません」
「だから、国民に犠牲になってくれ、と」
「参謀本部にいた時には見えなかったものが、見えてきたように思います。このことは、直接総理に聞くしかないのですが、ほぼ間違いないと思います」
「出来レースですか」
「その可能性も皆無ではありませんが、そこまでの政治手腕は無いように思います」
「町村さんが退官した時に、他に選択肢が無い、と言っていた理由がわかりました。独自に市民への警告を出そうとしたことも納得です。次のターゲットが、ここ福知山と決まったわけではありませんが、警告を出すことはできませんか」
「どうやって、警告を出すんですか。それに、次のターゲットはどこでも可能なんです。大阪でも、東京でさえも。それと、この件は次の作戦の前兆かもしれない」

40
 町村は携帯電話を持って市民病院の村上の部屋へ行った。点滴をしながら、テレビを見ている村上の様子は元気を取り戻していた。
「どうですか」
「おっ。もう、大丈夫や。食ってなかっただけやからな。ここの飯はうまい。ほんまにええもんばっか食わしてもろたわ」
「元気そうです。それと、これ」
町村は携帯電話を渡した。
「おおきに。すぐにやってみるわ」
「その格好ではやりにくいでしょう。自分が電話しますよ。会社名とか教えてください」
「助かるわ。ほんとはこういうの苦手や」
原田浩という子供たちの父親の勤務先は大手の建設会社だった。大阪支社の営業にいるらしい。
意外に簡単に原田浩は見つかった。
「舞鶴のお宅の件で、村上さんと代わります」
「浩か。俺や。村上や」
村上は簡単に状況を説明して、福知山の市民病院に来るように言った。
「おおきに。昼過ぎには来ます。嫁さんも一緒に」
電話を切った村上が、ベッドの上からではあったが、丁寧に頭を下げた。
「よかった。どんな様子でした」
「半泣きやったな。もう、諦めとったんかもしれん。薄情な親やで」
「そうですか。村上さん。実は大問題が起きてます」
「あいつらに、なにか」
「まだです」
町村は、公開処刑のことを話した。
「彼等の戦法は、恐喝戦法です。力を見せ付けて相手を屈服させようとします。ですから、この公開処刑というのは必ず実行されます。今、人質の収容施設は全部で十一ヶ所ありますが、あの収容所からも二十名が犠牲になると思います。四人がその二十名に指名されない保証はありません。この四日の内に、救出しなければならないということです」
「そりゃ、無理や。四日ではなんともならん」
「どんな計画だったんです」
「俺は、あの教室の代表をやっとった。代表言うても、使いっぱしりみたいなもんや。あいつらとの交渉も、各教室の連絡もその仕事でな。体育館にも大勢の人が押し込められとったから、時たま、体育館に行くこともあった。銃を持った監視が二人付くが、二人だけや。そやから、敬子と加代さんに代表になってもらって、そのチャンスを待とう思うてた。そのためには、俺がもう一度行って連絡せなあかん。そして、チャンスを待つ。時間がかかる。無理やな。四日では」
警備の様子を聞くと、正面突破は不可能で、女子供を四人も連れて屋上から逃げることも無理だった。だが、現場を一番よく知っているのは村上で、村上に実現可能な案を出してもらうしか方法はない。「考えさせてくれ」という村上を一人にして、町村は病院の外へ出て、別府一尉に電話で面談の約束を取った。別府は、いつでも会うと言ってくれたので、町村はすぐに連隊へ向かった。正面ゲートの衛兵に来意を告げると、町村の前歴を知らされていたらしく、衛兵は敬礼で迎えてくれ、待っていた車に案内してくれた。データ収集施設は基地の奥まった場所に建っている独立した小さな建物だった。
「お待ちしてました」
車の警笛を鳴らしたのが合図だったのだろう。建屋の前に入っていくと、入り口から別府が出てきた。
「お忙しいのに、無理を言って申し訳ない」
「とんでもありません。一度お話を伺いたいと思っていました」
「倉持君から話を聞いてくれましたか」
「はい。できれば今後の予定もお聞きしたいと思っています」
二人は小さな会議室に入った。別府は町村が話し始めるのを黙って待っていた。
「手を貸してくれとは言えませんので、知恵を貸してもらいに来ました」
「自分に出来ることなら、なんなりと」
町村は、自分の経緯と村上の経緯を話し、四日以内に四人の人間を収容施設から連れ出さなければならない状況にあることを伝えた。町村は、部屋にあったホワイトボードに学校の略図を描き、村上の計画を話し、見張りの場所と人数、そしてその警備の運営について、村上から得た情報を全て話した。
「お話しましたように、村上さんの計画は時間が必要で、四日以内という条件では無理です。そこで、陸上自衛隊のあなたなら、相談に乗ってくれるのではと思いました」
町村は、自分が窮地に落ちていることを認識していたので、別府にたいして一切の隠し事をしないようにしていた。加代が自分の婚約者で、舞鶴に行くきっかけを作ったこと、加代が北山本部長の姪であることも隠さなかった。
「一佐が、もとい、町村さんがそこまで話してくれるとは思いませんでした。あなたの口からはお聞きしていませんでしたが、あなたの事情は知っていました。公的には、一切の協力ができませんが、非公式には全面的に協力させていただきます。本来の我々の任務は人質の全員解放ですが、現時点では不可能です。ですから、一人でも救出したいと誰もが思っています。それが、たとえ民間人の作戦であっても協力したいというのが、我々の心情だと思ってください。あくまでも非公式ですが、ここの連隊長も同じ意見です」
「感謝します」
「時間がありませんので、端的に申し上げます。チームを作ります。自分は特殊部隊の人間を呼びます。町村さんは、村上さんと子供たちのご両親を連れてきてください。倉持一尉にも参加してもらいます。よろしいでしょうか」
「お願いします」
町村は、自衛隊の車両で病院まで送ってもらった。「待っている」という曹長に、目立ってはいけないからと帰ってもらった。
病室の村上は、暗い表情だった。町村は陸上自衛隊の別府と会ってきたことを伝え、チームを作ろうという別府の提案を話した。
「ありがたいことや。もう、俺の頭からはなんも出てこん」
「ご両親は、いつごろになるでしょう」
「一時までには来れるそうや」

41
 大きい会議室に十人の人間が集まった。町村たち四人の民間人と倉持、別府と連隊の士官が二名、山本一佐、中里二尉と名乗った特殊部隊の二人の、合計十人のチームができた。山本がリーダーとなって、いろいろな質問をして、村上が答えた。
「大変残念ですが、難しいでしょう」
特殊部隊の山本が出した結論は、会議室の空気を重くした。
「見張りの大半は民兵と思いますが、それぞれの場所に軍人が配置されていると考える必要があります。第八軍の可能性が高いと言われていますが、彼らは世界最強とさえ言われることがあります。武器も使わず、少人数で、しかも短期間で四人もの人質を救出する。大変残念ですが、不可能としか言いようがありません。村上さんが考えておられたように、四人が脱走したのだと思ってもらう必要があります。でなければ、報復措置をとられて、別の誰かが殺されることになるでしょう。もし、武器を使用するなら、全員を救出しなければなりません。なぜなら、収容所には爆薬が仕掛けられています。四人を救うために、二千人を犠牲にはできません。気づかれずに爆発物を無力化し、気づかれずに学校に侵入して見張りを排除し、退路を確保するために周辺を制圧しなければなりません。それでも、人質の犠牲は出ます。そして、その場で戦闘が開始されることになります。そうなれば、他の収容所にいる人質の救出は不可能になります。敵は陣取りの戦争ができますが、我々は短時間で全域を制圧しなければならないのです。では、特殊訓練を受けた隊員なら、脱走に見せかけて救出することができるかと言いますと、残念ながらそれも無理です。民間の方が実行した場合の成功率が一パーセントだとしたら、我々の場合でも、その確率が数パーセントになるだけでしょう。せっかく呼んでいただいたのに、こんなことしか言えなくて、申し訳ないと思います」
誰も口を開けなかった。
「次善の策ということで、言わせてもらいますが、今度の公開処刑で、二十人に選ばれないことを祈ることしかないのではないでしょうか。そして、村上さんの考えておられた計画を、時間をかけて実行することだと思います。これは、村上さんがその施設におられたという事実が大きな意味を持ちます。気を悪くなさらないで聞いてください。このように生命のかかった行動では現実を直視するしかありませんので、はっきり言いますが、成功の確率より失敗の確率の方がはるかに高いということは、誰にもわかることです。ですから、失敗した時に他に影響を与えない方法である必要があります。脱走した人間が、子供たちの親と一緒に助けに来た。そこには、国や自衛隊の意思が感じられないのです。個人の心情があるだけです。失敗して捕らわれた場合の村上さんには過酷な処置があることでしょうが、そのことは覚悟の上だと思います。失敗した時に、他の人質に影響を与えることが少ないということは大変重要なことだと思います。我々に出来ることは、その際に必要となる武器や用具があれば、どんなものでも調達します。もちろん、軍事用の武器の使用はできません。自衛隊が関与していると思われれば、その報復措置があるからです。その報復措置というのは、何度も言いますが、人質の生命です」
別府が立ち上がりテーブルに両手をついて、深々と頭を下げた。
「残念ですが、プロの分析に従うしかありません。我々も、あらゆるバックアップをします。せっかく集まっていただいたのに。申し訳ありません」
町村にしても、すでに長期間現場に張り付いていたのに、手も足も出ない状況が続いていた。その大前提は、軍事作戦が使用できないということである。村上の脱走に遭遇したことは、偶然がもたらした幸運以外の何物でもない。幸運を手に入れたことで、より大きな幸運を期待してしまっている自分の甘さを、山本一佐に指摘されたようなものである。四人を救出した結果、別の四人が殺されるとなれば取り返しがつかないことになる。たとえ、人間の究極がエゴだとしても、加代は決して受け入れられないだろう。肉体を救出しても、精神の崩壊があれば、救出にはならないという加代の声すら聞こえるようだった。町村たち四人は、倉持の車で病院へ戻った。倉持の目は、元気を出せと言っていたが、病室へ戻った四人に声はなかった。
「村上さん。明日、現地に入りましょう」
「お願いします」
原田夫妻も、町村に頭を下げた。町村は一人でホテルへ引き上げた。思いっきり眠って、落ち込んだ気持ちを追い出さなければ、僅かばかりの光も掴むことができないだろう。睡眠不足で体力の限界が近いこともわかっていた。
翌朝、十二時間近い睡眠をとったことで、町村の腹の底にはエネルギーが戻ってきていた。自分がブレたら、周囲がふらつくことを、参謀という仕事で数多く体験した。作戦立案の作業は根気が作り上げるものだと思っている。そういう意味では、体力勝負なのだ。参謀の気力の衰えは、兵の死につながる。今の自分の場合、それが加代の死に直結しているのだと感じた。
福知山に残っていてくれた倉持の車で、四人は第一基地に向かった。二人の子供の母親である原田順子に福知山で待つように言ったが、固く拒絶された。町村たちがやろうとしていることは、野蛮とも言える男社会の行動なので、原田順子には危険でもあるし、足手まといにもなるのだが、母親の心情を無視することは誰にもできなかった。

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無力-9 [「無力」の本文]

33
 空腹に苦しむ毎日が続いていた。ここに押し込められて二週間が過ぎたが、救援が来る気配もなかった。当初は、すぐにでも助けがくるという期待もあったが、今ではその事を口にする人もいない。経験したことのない不自由な生活と空腹で、部屋の中は静まり返っていた。加代の腕の出血は数日で止まり、痒みも少し治まったが、包帯は取らなかった。その傷は自分でも見たくなかった。食事は一日に三回出されるが、具の見えない雑炊がプラスチックのどんぶりに半分もなく、気のせいか、次第に水分の方が多くなったように思う。逃亡する体力が無くなってきたのか、銃声を聞くこともなくなったが、病死や不審死で校庭にある死体埋葬の小山は毎日増えていた。誰もが空腹で動きたがらないなかで、村上健一は3A教室の代表として交渉にあたっていた。食事の量と質を筆頭に、衣類、医薬品、日常雑貨と足りないものばかりだったが、改善されたものはなかった。トイレットペーパーがなくなり、特に女性は生理の始末に苦労していた。豊富にあるものは水だけだったので、下着を水洗いすることでしのいでいたが、二週間も風呂に入っていないので部屋の中は異臭がしていた。電気、ガス、水道というインフラに関する業務は継続されていて、その仕事についていた人は、それぞれの仕事場に通わされていた。それらのインフラ業務に従事する人の家族は一部屋に集められていて、食事の量も多いという噂があった。学校の外に出ることのできるそれらの人の話では、自分たちの住んでいた家には共和国の人たちが住みついているということだった。インフラの維持は人質のためではなく、新しい住人のために行われているらしい。
「本を借りたい人はいますか」
税務所の所長と言っていた榊原秀男は、経緯はわからないが、図書係を名乗って動きまわっていた。その横柄な態度と、他人を見下した話し方は変わっていない。取り巻きをやっている人たちが、苦手な読書に苦しんでいる様子を苦々しく思うだけで、本を借りようとする人はいなかった。
狭い居住スペースと暑さが、体力の消耗を加速させている。小さな病気が命取りになることもあるのに、学校内に風邪が流行っていた。加代のいる教室でも、二歳の男の子が熱を出して苦しんでいた。ところが、風邪がうつると榊原が騒ぎ出して、親子は人通りの多い廊下に追い出されていた。
村上健一がその子供の熱を抑えようと、タオルを冷やすためにトイレとの間を往復していて、敬子と加代も交代で協力していた。子供は泣く元気もなく、母親の腕の中で粗い呼吸をしていた。人質の中に村上の知り合いの医者がいたが、薬がなければどうにもならないと言われた。医薬品要求交渉はうまくいかず、村上はそのことを自分の責任だと感じていた。
「村上さんは、すごいと思います」
加代と敬子は廊下の窓から外を見ていた。
「倒れなきゃいいけどね。歳なんやから」
「そうですね」
「東京では、私たちがここにいることを知ってるんやろか」
「知っている、と思います」
「助けに来いへんのは、なんで。日本にも自衛隊がおるのに」
「わかりません」
「やっぱり。ますます悪くなるんやろね」
加代は返事に困った。ここでの生活が始まった頃に、食事の量があまりにも少ないので、自分の食事を敬子の二人の孫に分けてあげようとしたら、敬子に断られたことがあった。誰かの情けで生き延びることはできない。状況はもっと悪くなると思うから、孫たちにはこの現実に慣れてもらいたいのだ、と敬子が言ったことを思い出していた。二人はまた無言で外を見た。
この二週間に日本政府がどんな動きをしているのかは、全く知ることができない。多少の知識があった加代にも、自衛隊の出動がないという現実は受け入れられなかった。政府が国民を見殺しにするかもしれないという危惧があったから、叔父と町村はリークしようとしたのはわかっていたが、現実はあまりにも子供じみていた。評論家が後講釈で言う様に、民主党政権を選んだ国民が自分で自分の首を絞めたということなのだろうか。
「あれ。今日は調理場じゃなかったのかね」
敬子が同年輩の女性に声をかけた。
「ああ、おばんは、お払い箱や。どんどん若いのに替えられてるんや」
「なんで」
「ここだけの話やけどな」
その女性の話によると、別メニューを食べさせてもらうために、自分の肉体を提供しているらしい、ということだった。
「まさか」
「なにいうてんねん。こんなおばばでも尻触られたんやで。見えへんけどな、そこの林の向こうにプレハブがあってな。豪勢な食事が置いてあるらしいのや。食べ放題らしいわ。そこに行った人の話やから間違いない。そこで、何したんかは言わへんやったけどな。そんなもん、みえみえや。ほんま、あほらしい」
女性は、頭を振りながらトイレの方へ歩いて行った。
「やっぱり、ますます酷いことになるんや。私ね、ここで死ぬような気がしてんのや。初めてここに連れてこられた時に、そう感じたんよ。しゃぁないけど。あの子らが可哀相で」
「そんなこと、言わないでください」
「かんにんな。あんたに話かけたんも、あんたなら、あの子ら、守ってくれそうに思えたんよ。ずるい思われるかもな」
「もう、この話はやめましょう」
「ごめん。だれか、ほんまに、助けに来て欲しいな」
次の日の朝、廊下で二歳の男の子が息をひきとったが、その死に顔は優しかった。空腹や発熱の苦しみから逃れられたからだと、村上はその子を抱きしめていた。放心状態の母親を連れて村上は校庭へ出て行った。また、小さな土の山が増えることになった。しばらくして、叫び声とも泣き声ともわからない悲鳴が校庭から聞こえてきて、学校中が静まりかえった。その時は、蝉の声もなかった。
その日から村上が誰とも口をきかなくなった。

34
 舞鶴への共和国軍の上陸から、十六日が過ぎ、危機管理室には当初の緊張感はなかった。そこにあるのは安全保障会議ではなく、連絡事務所の事務的な空気だけだった。毎日送られてくるファックスに書かれた物資の手配をすることが、その主要業務と勘違いしている人もいるのかもしれない。食料、医薬品、雑貨が、毎日山のように送り続けられている。米だけでも三十万トンを越えていた。常駐する出席者の数も減り続け、最高責任者である総理大臣の姿も今はない。政治家と官僚の資質で一番大切なもの、それは保身能力であり、彼らは保身術のプロであった。常駐せざるをえなくなった外務省の中田審議官は、「やられた」という気持ちを強くもっていたので、身内に対しては強い態度で臨んだが、そのことを咎める人はなかった。この二週間で危機管理室の皇帝に登りつめた中田は、もともと共和国ファミリーと呼ばれたグループの中心人物であり、その思考が共和国寄りになることは当然の結果であった。
「李宣昌です」
「中田です」
「実は、難問を抱えてましてね」
「李さんほどの方がどうしたのです」
「気が重いのですが、また、中田さんに助けていただきたいのです」
「遠慮せずにおっしゃってください」
「すみませんね。中田さんには何からかにまでお世話になって。実は、本国政府から、船を返せと言われているのです。我々は了解してもらっていたものと思っていたのですが、勝手に持ち出したと非難されてましてね。困ったことです」
共和国の公式見解は、一部反動勢力による暴挙とされているので、李宣昌の発言は筋が通っているように聞こえる。
「李さんは、どうしろと」
「お願いしたいことは、自由航行権です。わが国の船舶が日本海を航行する安全を保証していただきたい。もちろん、日本の領海内もです。別に条約にする必要はありませんが、総理大臣の許可と声明がいただければと。難しいでしょうか。この件がうまくいかないと、私の立場もうまくいきません。なんとか、お願いしたいのです」
「お困りのようですね。ところで、その自由航行権というのは、今回限りということでしょうか」
「いえ。人のやりくりもあって、一度に全部返すのは無理なんです。ですから、一年という期限付きでお願いできませんか」
「そうですか。総理に相談してみましょう」
「ありがとうございます。本当に助かります。この借りは必ず返しますから、なんとか、よろしくお願いします」
「明日、お電話ください」
「ありがとう。失礼します」
危機管理室が動き始めた時から構成員となっている、防衛庁長官と陸空の両幕僚長は信じられないという顔で聞いていたが、中田審議官は三人の方へ視線すら送らなかった。事務官に総理の出席を要請するようにと命じて、中田は書き物を始めた。同室していた人は、メモでも整理しているのだろうと思っていたが、それは総理の声明文下書きだった。
菅野総理はじめ、官房長官、外務大臣などの閣僚が次々に入室してきた。安全保障会議で定められた構成員が全員揃った訳ではないが、中田審議官が李宣昌の要求した内容の説明を始めた。
「条約を結べと言っている訳ではなく、あくまでも期限付きの暫定処置ですので、国会承認は不要と考えます。総理が声明を出して、防衛庁に下命していただくだけで充分でしょう。そのかわりに、両国政府の事務レベル協議を始めることを、こちらの条件とすればいいのではないでしょうか」
話し合いを始めるという条件は、総理大臣の最も希望する事項であることを中田審議官は知っていた。
「皆さんのご意見を伺いましょう」
菅野総理は、愁眉を開いたような表情で言った。やはり、事務レベル協議の開始ということが大変気に入った様子だった。
「事務レベル協議というのは、確かなのか」
津田官房長官が発言した。
「いいえ。まだ先方には言っていません。この条件が受け入れられなければ、総理の声明もないと突っぱねます」
「現状を打開するためには、動く必要があると思います」
芳賀外務大臣が言った。何人かの閣僚が同意を示すように、黙って首を縦に振っていた。
「私も、発言してよろしいでしょうか」
総理と衝突してから、全くと言っていいほど発言をしなかった井上防衛庁長官が手を挙げた。
「どうぞ。井上長官」
菅野総理は鷹揚に手を振って見せた。
「ありがとうございます。わが国と共和国は、現在戦争中ですが、このことは共通認識だと考えてもよろしいですね」
誰一人、同意も反対も表明せず、無言で井上長官を見ていた。
「戦争中の当時国が、敵に自分の国の領海を自由に航行させるなどということは聞いたことがありません。それと、条約ではないとしても、国会に計ることもなく、この場で決めるようなことではないと思われます」
「国会に上程したとしても、可決するでしょう。それとも、井上長官は反対票を投ずるということですか」
さすがに、総理の表情は硬かった。
「反対したいと思います」
「党から除名されても、ですか」
「はい。これはやってはいけないことです」
「君ね」
津田官房長官が、菅野総理と井上長官の間に割って入ってきた
「誰のおかげで、当選したと思っているのかね。そして、誰が長官に指名してくれた。本当に選挙民が選んでくれたなどと思っている訳じゃないだろうね」
「そのことを前提にしても、これはいけません」
「だったら、今、ここで、離党届を出したらどうかね」
「まあまあ。官房長官。そこまで言ったら実もふたも無いでしょう。井上長官もわかってくれますよ。我々は前に進まなければならないのです。どうしても、話し合いのテーブルにつかなければなりません。そうですね、皆さん」
総理のその発言で自由航行は決まった。中田審議官が声明文の下書きを読み上げて、それも了承された。

35
海上自衛隊の斥候部隊の陣容は八十人を超えていたが、指揮は第一中継基地にいる倉持がとっていた。倉持より上位の士官は派遣されず、町村は倉持とだけ接触していた。倉持には、舞鶴に来た理由と退官した理由を話してある。退官して一市民となった町村に対して、得られた情報は全て開示してくれていたので、町村は三日に一度は基地に戻っていた。陸自の斥候部隊は全員撤退したが、福知山の第七普通化連隊にある情報センターは機能し続けている。陸自の別府一尉の要望で設置した監視カメラはおよそ五十台になり、その映像は福知山の情報センターに集約されていた。自衛隊は、舞鶴のほぼ全域を監視できる体制を作り上げていたので、どのような作戦の立案も可能だったが、まだ一度も実現していない。
「政府の方は変わらず、ですか」
「そのようです」
疲れた声で倉持が答えた。
「人質の人たちは、体力的にも追いつめられているように見えます。自分に見えている範囲では、充分な食事は取れていないと思います」
「そのようです。昨日、別の収容施設ですが、中まで潜入してきたのがいますが、その報告によるとドンブリに半分くらいの雑炊しか食べていないようです」
「毎日、宴会ができるぐらいの食料を渡しているのに、人質に渡っていないことを、政府は知ってますよね」
「もちろんです。これはサギですよ。国民の税金で我々は食べていて、国民は満足に食べていない訳ですから」
倉持が批判的なことを言うのは珍しかった。いつも冷静に見える倉持にもかなりのストレスが溜まっているのだろう。
「この前の自由航行の件は」
「また、やられたようです。敵は船積みで忙しくしています。昨日潜入できたのも、警備が手薄になったからだと思います。食料、車両、その他もろもろ。あらゆる物を船に積み込んでいます。これも、きっと予定通りなんでしょう」
「国民の生命と財産、何でもどうぞ、か」
「たまりませんね」
「船積みは、まだかかりそうかな」
「まだまだ、かかるでしょう」
町村も、警備が手薄になっていると感じていた。学校に潜入するチャンスかもしれない。
町村は自分の持ち場へと戻った。敵の哨戒ルートも時間帯も把握し、安全な経路を開拓していたので、誰とも遭遇することもなく岩場にたどり着いた。町村も何度か市街地に行ったが、寺の裏手に出るぐらいが限界だった。倍率の高い双眼鏡を手に入れてもらって監視しているので、双眼鏡の中だけの顔なじみがたくさんできていた。
寺の裏手から市街地の方へ続く道があるが、その道を利用しているのは双眼鏡で見慣れた母と娘の二人だけだった。二十歳前後の娘は上品な顔立ちの美人で、その母親と思われる女性はひ弱な感じの美しい人だった。何日かに一度だが、夕方になると二人で寺まで登ってきて、境内に座って、黙って夕日を見ている。あまり話しをしているところを見たことはないが、二人はつながっていた。あの国にも同じような寺があるのかもしれない。その望郷の思いが二人を動かしているのだろうか。二人だけを見ていると敵にはみえなかった。あの母娘が来ないようであれば、警備が少なくなっているという情報もあったので、寺からの裏道で市街地に侵入してみようと考えていた。
軍人による哨戒行動に変わりはないが、市街地に防御線を作っていた民兵の多くが海岸の作業に振り向けられているものと思われた。それでも、陸の孤島になっている学校の建物への潜入は難しいだろう。もっとも、目の前にある学校に加代がいるという確証はないままであったが、ここにいるという自分の勘を信じるしかなかった。
夕日が落ちても母娘の姿はなかったので、町村は山を下りた。寺の裏手で潜み、三十分は周囲の様子を窺い続ける。夏の残光でまだまだ明るい。三十メートル進んでは、十分間様子を見る。人声も人の気配も全くなかった。その道に分かれ道はなく、一方向にだけ続いていた。雑木林を抜けて、緩やかな勾配の道をさらに下って行くと、教会らしい尖塔が見えてきて、道はその教会の裏庭に直接つながっていた。町村は木立の中に身を潜めた。教会の裏に建物があり、その窓から灯りが見え、周囲が暗くなっていることに気がついた。なぜ、寺と教会を直接結ぶ道があるのかはわからなかったが、あの母娘以外に利用者がいない理由はわかった。二人はこの建物にいるのだろう。町村は教会の塀に沿って表に向かった。通行する人はいなかったが、教会は普通の一般道に面していた。位置関係から、その道は学校に通じている筈である。町村は道路に誰もいないことを確認して、道路を横切り教会の向かい側にある家の塀に背をつけた。普通の住宅街に、その教会はあった。家々からは灯りがもれ、市民生活が継続している空気が流れている。さらに、先へ進みたい気持ちもあったが、用心して教会の裏庭へ戻った。家々から灯りが消えるのを待ってからでも遅くはない。家の様子と道路の状況がわかる場所にある茂みに腰を落とした。道路に車が走っていないからか、住人が静かに生活をしているのか、虫の音しか聞こえない静寂の中にいた。そこに、かすかにバツハが聞こえてくる。町村は家の中を覗き見たい欲求を感じたが自制した。
午前一時を過ぎて、神経を張り詰めた状態で学校までの道をたどった。家々の灯りはなく、人通りもない。外に対する警備は厳重であったが、内に対しては、無防備とも言える。いつも反対側から学校を見ていて、見えなかった警備体制を見ることができた。学校への侵入も不可能ではないという確信を持った。

36
 体力の衰えは日増しに進行している。加代は自分でも一回り以上痩せたと感じていた。だが、もともと体力の無い老人と幼児の衰弱は激しく、毎日病死者が後を断たない。無気力、無関心と苛立ち、そして怒りが並存し、自分のことしか考えない人が大半で、部屋の空気は澱んでいた。部屋の代表として、精神的な支えになっていた村上が口をきかなくなったことも、大きな影を落としていた。村上は敬子の励ましにも、力なく頷くだけで、立ち直る気配はなかったが、敬子は毎日村上に声をかけ続けている。
「こんな、ひどいことは、初めてやな」
動ける人が減り、人通りの少なくなった廊下の窓から山を見ていた村上が、珍しく口を開いた。
「そうね。いろいろあったけど、ほんとに最悪やわ」
「俺、頭、悪いから、わからへんけど、このままで、なんとかなるんやろか」
「うちにも、わからん」
「せやな。どうにもならん」
村上の全てを知っているわけではないが、これほど打ちのめされている村上を見たことがない。物心がついた頃からの付き合いなので、もう五十年になるだろう。村上が舞鶴から姿を消さなかったら、二人は結婚していたかもしれない。違う人生を歩いてしまったが、二人の間にある感情は、幼馴染というだけのものではなかった。敬子は村上を抱きしめてあげたいと思った。
「ケンさん」
「ん」
「あんた、なんか、変なこと考えとるんと違うか」
「変なことか」
「やめといてよ。うちは、あんたを頼りにしてるんやで」
「ん。ケイちゃんのことは、俺が守ったる」
そう答えながら、村上の頭の中では、何か別のものが動いている気配を感じて、敬子は身の竦むおもいがした。
その夜、村上が部屋を出て行ったことに敬子は気がつかなかった。村上はトイレの窓から雨樋を登って屋上に出ると、屋上の東端から欅の大木をつたって地上に降りた。自分が三年間過ごした学校で、優等生でなかった村上は、過去にも同じルートで学校を抜け出した経験があった。村上の出した結論は、自分一人の力では敬子一人でさえ助けることは難しいというものだった。この町で生まれ、この町で育った村上は、どこに何があるかがわかっているので、一人で逃げるのはそれほど難しいことではないと思っていた。今は、誰かの助けがいる時で、その上で敬子と二人の孫を救い出そうと思った。特に計画や目算があった訳ではないが、悩んでいる自分に愛想が尽きたというのが本心だった。山へ逃げ込む予定の村上は、学校の塀を乗り越えて、逆方向の市街地へ向かった。学校の南側は見通しがよく、危険だと判断した。真夜中の道路には人の気配もなく、西舞鶴教会にたどり着くことができた。教会の裏庭を抜けた囲碁道に入って、村上は地面にへたりこんだ。三週間もまともな食事をしていない。自分の体力の衰えが、人質になっている敬子たちの、特に子供の未来を暗くしていた。村上は気力で立ち上がった。もう何十年も来た事がなかった囲碁道だが、まだ道はのこっていた。子供の頃は、山に入る道としてよく利用した。教会の牧師と寺の和尚が囲碁仲間で、教会と寺を直結する道を、二人の宗教者が許可もないのに作ってしまったと聞いた。そこの林は市有地だったが、当時は誰にも咎められなかったらしい。地図にも無いし、多くの大人たちも知らなかったが、子供の間では有名な場所だった。囲碁道という呼び名も子供たちの間で使われていた名前だった。学校を抜け出すのに、エネルギーの大半を消費してしまったらしく、村上は這うようにして寺を目指した。
寺の裏側から雑木林を登り、大岩を目指す。昔はそこにも道があったが、最近では利用する人もいないのか、道らしきものは無くなっていた。木々に遮られて月の光も届かない暗闇を登った。山中であっても、音を出すことは死につながる。今まで銃はテレビの中のものでしかなかったが、校庭で日本人が射殺された現場を見て、銃の威力は半端でないことを知った。それでも、自分でもびっくりするぐらいの音に蹲る。大岩に出た時には全身から汗が噴出していた。粗い息をしながらも、睡魔に襲われる。体がエネルギー蓄積の時間が必要だと言い張っていた。人の気配を感じて目を開けたときには、背後から押さえつけられ、首には刃物の冷たい感触があった。
「くそっ」
体力の限界を超えて、やっとここまで逃げてきたのに。村上は自分に悪態をついた。
「日本人か」
顔は見えないが、背後の男が言った。
「日本人なら、どうした」
「名前は」
「村上だ。くそったれ」
「わかった。自分も日本人だ。手を放すけど、暴れるなよ。いいな」
刃物と男の体重が離れた。
「自分の名前は町村という。あの学校から逃げてきたんですか」
「そうだ。あんたはなにもんや」
「あの学校に大切な人が閉じ込められている。その人を助けたい」
「そうか」
危険な人物ではなさそうだと思ったら、村上の体から力が抜け、意識が遠ざかっていく。
「おい」
男に体を揺さぶられて、村上は目を開いた。
「あかん。少しだけ眠らせてくれ」

37
 村上と名乗った男は、岩の上で固まったように眠っていた。ともかく、臭かった。警察犬でなくとも後を追うのは容易いに違いない。本当にあの学校から逃亡してきたのなら、情報が欲しかった。共和国軍が追跡犬を連れてきた様子はなかったが、用心のためにここを離脱する必要がある。伸び放題の髭を見れば、村上の憔悴は理解できたが、町村は一時間で村上を起こした。
「疲れているとは思うが、急いでここを離れたい。見つかれば、確実に殺される。わかりますか、すぐに出発しないと」
「わかった。その前に、なんか食うもんないか。力、でえへん」
町村が、いそいで携行食糧の「ピラフ」を容器に出すと、村上は噛みもせずに一気に飲み込んだ。それを見て、町村は自分の水筒を渡した。
「うまい」
携行食糧がうまいと感じるほどの食生活だったのだろう、と町村は悲しい思いだった。
「いきますよ」
「よっしゃ」
まだふらつく村上を抱えるようにして、山道を用心しながら基地に向かった。途中で何度も休憩をはさんだために、基地に着いたときには朝日が昇り始めていた。第二中継基地は岡の麓に隠れるようにして建っている農機具などを入れていた小さな小屋だった。その小屋に着くなり、村上は倒れこみ、そのまま眠ってしまった。町村は床板を外して、その中に村上の体を引きずりこみ、床板を元に戻して村上の横に腰を下ろした。床下は藁が敷いてあり、ベッド代わりになる。臭いは強烈だが、隠しておいた拳銃を手にして、柱を背にして目を閉じた。眠るわけにはいかないが、目を閉じているだけでも、体は休まる。
 三時間待って、町村は村上を起こした。
「ここは」
「大丈夫だ。まだあの連中もここまでは来ない。舞鶴と綾部の中間にある小屋です」
「そうか」
「疲れてると思うが、話してくれませんか」
村上は素直に経緯を話してくれた。それは、町村が想像していた状況を超えていた。町村はポケットから写真を出して村上に渡した。
「この人を見かけませんでしたか」
「これは、北山さん、だろ」
「いたんですか、あの学校に」
「ああ、同じ部屋に。さっき話した敬子が一番親しくしてた人や。ヘリが墜落して、腕に怪我をしてたな。でも、いい人や。この人が救いたい言うてた人か」
「そうです」
「そうか。これで、仲間ができたな。ところで、あんた、なにもんや」
村上は、町村のベルトにある拳銃に目をやりながら訊いた。
「これは、借り物です。自分は一週間前までは、海上自衛隊におりました。辞めました。この人がヘリに乗ったのは自分のせいなんです。どうしても助け出さなきゃなりません」
「そうか。せやけど、日本の自衛隊はどないなってんねん。なんで、救出に行かへんのや」
「はあ」
「どないしたんや」
「ほんとは、守秘義務があって言えないのですが、話します。できれば、あなたの胸の中にしまっておいてください」
「わかった。約束しよう。でも、俺に話をすれば、その守秘義務には違反なんやろ」
「それは、腹くくってます。あなたは、その三人を助けたい。自分はこの人を救出したい。自分にはあなたの協力がどうしても必要だということです」
「すまんな。実は、俺も一人で三人を連れ出す力がなかった。誰かの助けが必要やった。あんたが仲間になってくれたら、ありがたい」
町村は、要点だけだったが、その日までの日本政府と自衛隊の動きについて話をした。加代がヘリに乗って墜落する原因を作ったことも話した。
「今起きているこの事態が戦争なのか。この基本的なことを日本政府は、あえてわかろうとしていないように思えるのです。戦争はいけない。武力は悪だ。だが、自国民が犠牲になることは構わない。怖いのは、そのことを本気で信じている人がいるということです。共和国の人たちは、同胞が何百万人も殺された過去があるから、日本人を何人殺しても正義なのだと教え込まれています。日本政府にも、その論理を容認している人たちが大勢いるのです。あなたは、自衛隊はどうした、と言いましたよね。自衛隊は自分では動けません。総理大臣の命令がなければ、一人の兵士たりとも動けないのです。大半の自衛隊員は申し訳ないと感じています。自衛隊員の仕事は、国民の生命を守ることだからです。あなたの話からも、すでに全体の死者は千人を超えているのではないかと思えます。それでも、自衛隊には何もできません。本当に申し訳ないと思っています」
「まだまだ、犠牲者は増えると」
「増えます。多くのチャンスを逃がしてしまいました。時間が経てば経つほど、犠牲者は増えます。すでに、あの校舎にも爆弾が仕掛けられています。救出作戦が実行されたとしても、何人の人を救うことが出来るのかわかりません。さらに共和国軍は、舞鶴の防衛体制を確立したら、次の行動に移るでしょう。それを防ぐ手段は、現状ではありません。あなたたちと同じ境遇に立たされる人が増え続けるということです」
「それであんたは、国に頼るのをやめた」
「他に選択肢がありませんでした。彼女に死なれたら、自分の人生は成り立ちません」
「総理大臣の奥さんとか娘さんが人質になっていても、何もしなかったんやろか」
「わかりません」
「ところで、あんたに仲間はおらんのか」
「いません。海上自衛隊の部隊が協力してくれていますが、彼らに死んでくれとは言えません。自分の力だけです。あなたが一緒にやってくれるなら、二人で四人を救出することになります」
「俺はやる。けど二人じゃ無理やろ」
「誰か、心当たりでも」
「二人の子供の両親や。あの二人なら、やるやろ」
「連絡が取れるのですか」
「父親は単身赴任で、母親も仕事をしとる。二人ともまともな奴や。会社の名前からたどれば、なんとかなると思うんや」
「村上さんは、お仕事は何を」
「俺か。あの町で小さな道場をやっとる。空手と合気道の」
「そうですか」
「あの子らの父親も、俺の弟子やった。根性はある思うわ」


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無力-8 [「無力」の本文]

29
 舞鶴若狭自動車道の西舞鶴インターチェンジは、多数の自動車の残骸で通行不能になっていた。大型コンテナ車の後部扉が全開にされ、そこから重機関銃らしき銃口が見える。道路は血痕と思われる黒い色で汚れていたが、死体は見当たらなかった。車両の通行は全く無い。聞こえるのは、蝉の鳴き声と風の音だった。
遠くから聞こえる音が次第に近づいてくる。甲高い笛の音が響き、放置された車の陰から小銃の銃口がいくつも現れた。音は近づいてくる車群のものだった。しばらくすると、一列になってやってくるトラックの車列が視界に入ってきた。道路封鎖をしている部隊に出されている命令は、撃退せよというものであった。
先頭車両が減速しながら近づいてくる。既に小銃の射程距離に入っているのに、停まる気配はなかった。それだけで、車群が自衛隊の偽装でないことは明らかだったので、射撃開始の命令は出ていない。引き付けるだけ引き付けてから発砲するつもりらしい。
車群の先頭が百メートルを切った時に、一斉射の命令が出た。

この一斉射の命令が出る二分前に、危機管理室の電話が鳴った。
「李宣昌です。約束の時間は過ぎました。これ以降に近づく車両は、お国の軍隊とみなして撃退します」
「待ってください。もうすぐ食料を載せた車が到着します。撃退など、とんでもないことですよ。強く抗議します。やめてください」
「申し訳ないが、時間は過ぎてます。約束を破ったのはあなたでしょう。強く抗議するのは我々のほうです。不測の事態が発生しても、それはすべて、あなた、津田官房長官の責任ですから。失礼する」
菅野総理の顔から血の気が引き、三山知事へ電話しろと叫んだ。
「菅野です。すぐに車を停めてください。向こうは発砲してきます」
「はあ。約束の時間は、まだでしょう。つい先程連絡があって、もう到着しますよ」
「それが。手違いで。とにかく、すぐに引き返してください」
「てちがい」
「お願いします。すぐに止めてください」
「ちょっと、待ってください」
京都府庁の知事室が騒ぎになっている。入り乱れる怒号が総理の受話器からも、よく聞こえた。共和国側の発砲で死者が出ているという報告が入った。
「菅野さん。どうなってるんだ。これは」
「申し訳ありません。こちらに、今、時間切れだから、近づくと発砲すると電話が入りました」
「申し訳ない、ではすみませんよ」
「本当に申し訳ないことだと思っています。我々も、つい二分前に聞いたばかりで。どうしようもなかったんです。こんなことになるなんて」
「時間切れと、言いましたね」
「そうです。知事から言われた六時間という期限で交渉しました。こちらは極力努力して、一分でも早く届けると言ったんですが、向こうは四時間という約束だったと言い張るもので」
「それじゃあ、交渉になってませんよ。確認を取っていなかったんですか。持ち込めば、なんとか受け取ってくれると、高をくくってたんでしょう。そんないいかげんな交渉で、人命を、なんだと思ってるんです。人命最優先と言っていたのは、誰です。ほんとに、もう、アホかおまえら」
「アホ呼ばわりは無いでしょう」
三山知事が誰かと話している様子で、しばらく会話が途切れた。
「四十五人の人間が行って、生存が確認されているのは、たったの六人ですよ。テレビ局の人たちにも犠牲者が出てます」
「テレビを連れて行ったんですか」
「なにか、不都合でもありますか」
「常識でしょう」
「常識ですと。私が非常識だと言うんですか」
「そうです。こんな時に情報がザルになって、どう処理するつもりですか。信じられません」
「あんたには、失望したよ。人が死んだことの責任は、きっちり取ってもらいますよ」
「人命と言っても、松葉会でしょう。それに許可もしていないテレビです。あなたの判断も甘かったんじゃありませんか」
「ちょっと待て。やくざもんは、人命のうちに入らないのか」
「いや。そうは言ってないでしょう。不幸中の幸いだと言ってるんです」
「菅野さん。あんたは、市民派という看板を出しているだけの偽者だ」
三山知事が受話器を叩き付けた音は、危機管理室まで届いた。
「どうして、もっと冷静になれないんだ」
菅野総理は一人、呟いた。
「テレビが一緒に行ってたんですか」
津田官房長官は、自分に降りかかってくる災難を恐れている。記者会見で叩かれるのは、いつまでたっても我慢のできないことだった。
「そうらしい。まったく、何考えて」
津田官房長官は、テレビクルーも全員死んでくれたらと思ったが、口には出さなかった。
「食料が届かないということですよね」
井上防衛庁長官が菅野総理を見据えて言った。
「そういうことだ」
「では、人質になっている市民はどうなります」
「どうなると言っても、君もここにいればわかるだろう」
「では、このままでいいと」
「いいとは、言っていない」
「向こうの電話を待つだけで、何もできないのが現状だと」
「そうではない」
「では。何かをするんですか」
「だから。懸命に外交ルートで働きかけているじゃないか」
「その外交ルートが、何の進展もなく膠着状態ですよね。相手に期限を切っているのですか」
「そう簡単にいかないものでしょう」
「打開の道が見つかるまで、人質になっている人たちは食事ができないということですか」
「どうしろと言うんだ。また、武力を使えと」
「もう、それは手遅れです。陸上自衛隊の斥候の報告では、人質が収容されている学校には爆薬が仕掛けられたということです。ここで武力を使えば人質は全員爆死します。敵はやるべき事を着実に実行しているのです。その時間を我々が与えているのです」
「誰が斥候を出せと言いました」
「私が命令しました」
「長官にそんな権限は無い」
「でも。私が命令しました。私は、まだ人質救出の希望を捨てていません。情報なしでは何もできません」
「敵と遭遇したら、発砲してもいいと、言ったのですか」
「いいえ。銃器は持っていません。敵に見つかれば死ぬしかないでしょう。それでも、兵たちは行くと言ってくれました。人質の救出を諦めていないからです」
「今こそ、冷静な対応が必要な時なのに、何ということをしてくれたんです」
「総理。冷静な対応と、問題の先送りとは、似て非なるものです。私たちは、もう、何度も、国民の生命と財産を守るチャンスを逃してしまったのです。これ以上の判断ミスは許されません」
「いいですか、我々は情で判断するようなことがあってはならない。自分たちだけのことを考えてはいけないのです。昔、そうやって、どれだけ多くの人たちに危害を加えたか、知らないわけではないでしょう。何度でも言いますが、私は武力行使の命令を出すつもりはありません」
「それは、全ての国民が殺されても、と言うことですか」
「極論を言ってどうなるのです」
「では、総理の許容できる、限界は、何人ですか。国民の命がどれだけ失われれば、武力の行使もやむを得ないとお考えですか」
「井上長官。休憩してきてください。あなた、疲れているのです」
菅野総理は、井上長官を無視して、斥候部隊を引き上げるようにと陸上幕僚長に言った。

30
 陸上自衛隊の斥候部隊への撤退命令は、海上自衛隊にも非公式に伝わったが、幕僚長不在という特殊事情により、現場には伝えられなかった。危機管理室に佐々木海上幕僚長がいなかったために、海上自衛隊は拝命していないことになる。参謀本部は統合機能を持っているが、命令系統はあくまで独立したもので、拝命していない命令を実施することができないというのが北山本部長の見解だった。
一方、現地に向かった町村は、国道27号線が封鎖されていることを確認し、林道から舞鶴市街へ侵入しようとしていた。腰に付けているのは水筒だけで、拳銃等はザックに入っている。敵に遭遇すれば、持ち物検査で窮地に陥ることになるので、それを回避するためには、先に相手を見つけなければならない。単独行になってからは、思うように前進できなかった。林道から外れた岩陰に入り込んだ頃には、五時を過ぎていた。眼下に寺の屋根が見え、その向こうには舞鶴の市街が見えた。もう、何時間も人の声を聞いていないが、どこかで人声がしたような気がして息をつめていると、寺の境内に人影が見えた。三人の男が話をしながら寺を出て行く。全員が小銃を手にしているが、軍人には見えなかった。町村が大きく息を吐き、安心しかけた時に、さらに近くで人声がした。地面に身を伏せて、草木の間から林道をみつめていると、両手で小銃を持った男たちが間隔をあけて近づいてくるのが見えた。胸元に小銃を抱えている様子からも、その身のこなしは軍人のものだった。周囲を警戒しながら、五人の男たちがゆっくりと遠ざかっていった。彼等の守備地域がどこまでなのかは不明だが、すぐにも戻ってくる可能性が高い。町村は音をたてないように移動を開始した。斜面に沿って林道から遠ざかる方向へ向かうが、敵地の中での移動のでは思うような距離は稼げない。次第に袋小路に自分を追い込むことになり、ザックの中から倉持に持っていくように言われたロープを取り出した。町村が張り付いている斜面の下方向に何があるのかは見えなかったが、下に向かう以外に選択肢はなかった。木の根元に慎重にロープを巻きつけ、ロープに身をまかせた。細いロープは特殊素材で出来ていて、強度はワイヤーロープに匹敵すると倉持が説明してくれたが、体重をかける時には背中に汗が流れるような緊張感を味わった。手袋状になった保持用の金具で体重を支えながら、町村は降下を開始した。三メートルほどで藪から抜け出し、足元に大きな岩が見え、さらに三メートルほどで、岩の上に着地することができた。そこは、いくつもの岩が斜面から露出した場所で広さもあったが、視界はきかなかった。町村がロープを放し、岩を回り込むと、別の大きな岩との間に平坦な場所があり、その先に空が見えた。岩と岩の間にある畳一畳ほどの場所を這い進んで先端に行くと、市街地の全貌が見えた。最初に避難した場所から見えた寺の屋根が左の方に見える。高さはまだ充分あるようだった。偶然ではあったが監視場所としては最適の場所であった。ただ、食料も水も二日分しかないので、帰路の確保が必要だったが、状況確認のため、そこに落ち着くことにした。市街地がよく見えるということは、市街地からもよく見えるということなので、先程ロープで降りてきた場所に戻り、夜を待つことにした。携行食糧を取り出し、口に運ぶ。「何とかなる」と高をくくっていた訳ではないが、簡単に潜入と救出ができるような状況にないことは認めざるをえない。町村は腹をくくって横になった。
本気で眠ってしまったらしく、九時を過ぎて目を覚ました。月明かりの中を監視場所に選んだ所まで進んだ。舞鶴の町は月明かりで明るく、各家には灯りがあり、道路には時折車両の通行もある。それは、普通の市街地の夜景だった。町村は腹這いのまま後へさがり、倒木を運び始めた。海上自衛隊に入隊して、山腹で監視小屋の設営をするとは思ってもいなかったが、子供の頃に基地の設営ごっこをしたことを思い出していた。倒木を運び、その枯れ木の枝を剪定して、遮蔽と視界を両立させなければならない。二時間の間に何度も手を傷めて、小声で悪態をつきながら、なんとか想像通りの遮蔽物が完成した。仕上げは明るくなってからすることにして、町村はフード付の双眼鏡を取り出した。特に明るい場所を探して双眼鏡を向ける。左前方にある学校の建物が明るかった。廊下を歩く人影が見え、別棟との間にある渡り廊下には、小銃を手にした人影が見えた。人質の収容施設に間違いないだろう。加代がどこにいるのかはわからない。生存しているという確証は何もなかったが、生きていることを前提にしなければ何も始まらない。学校の校舎や体育館に無理やり人を詰め込んだとしても、三千人が限度とすれば、この学校と同じ規模の収容施設は十箇所以上あるはずで、加代がこの施設にいる可能性は決して多くはなかった。ここは一歩ずつ前に進むしかなかった。先ずは、敵の防衛体制を調査し、潜入経路を見つけることだが、人質全員の救出ということでは、個人や少人数でできるものではない。現場に来て、人質収容施設を目の前にして、自分がしようとしていることは自衛官の任務としては正しくないことが明白であった。町村が目的としたのは加代の救出だけだった。電話連絡ができる場所に戻った時に、町村は退官する決意をした。
爆発音が聞こえたのは、五時を過ぎていた。眠ったのが二時頃だったので、しばらくは混乱していたが、双眼鏡で見るまでもなく目の前に硝煙があった。爆発は次々と起こった。学校の周辺の建物が爆破されている。人質収容施設を陸の孤島にするつもりのようだった。人質の逃亡阻止だけでなく、敵の攻撃にそなえて視界を確保する目的があるものと思われる。敵は着実にやるべきことをやっているのに、我々は何をやっているのだという自責の思いが強くなる。

31
「李宣昌です」
「津田です」
「津田さん。あなたとは話し合えません。申し上げたと思いますが。それとも、あなたが窓口でなければ、話し合いはしないというのが日本政府の方針ですか」
「いえ。そう言う訳では」
「調整してください。のちほど、もう一度だけ、電話します。あなた方に話し合いをする気が無いのであれば、それはそれで結構です」
危機管理室の全員の視線が菅野総理に向けられた。
「残念です。私は官房長官にお願いしたいのですが、話し合いができなければ前に進めません。どなたかお願いできませんか」
総理の発言に答える人はいなかった。津田官房長官が貧乏くじを引いたことは、誰もが承知している。日本国を代表して交渉に当たるこの仕事は、決してやりがいの無い仕事ではない筈だが、現状では窓口として成功する確率が極めて低いのに、自分の将来を危うくするようなリスクを背負うことに価値を見つけることができないと思っているようだった。
「中田審議官。お願いできませんか」
菅野総理は外務省の中田審議官の顔色を伺った。
「申し訳ありません。私は現在中国政府との交渉に専念しておりまして、とても余力がありません。ここは、やはり閣僚の方にお願いするのが筋ではないでしょうか」
「中国との交渉といっても、返事を待っているだけですよね。総理のおっしゃるように、ここは共和国にお詳しい中田審議官が最適ではありませんか」
総理大臣が発言したからには、二転三転させてはいけないという思いがあったのか、官房長官の発言には強さが出ていた。
「中国との窓口は、私がやりましょう。この仕事は中田審議官にやってもらうのが一番でしょう」
話の流れからは、自分に厄災が降りかかるかもしれない芳賀外務大臣が官房長官の意見に賛同を示した。他の閣僚も安堵の表情で首を縦に振る。井上防衛庁長官だけが、机上の一点を睨み付けたまま賛同を表さなかった。危機管理室でひらかれているこの会議は国の安全保障に関するものであるにもかかわらず、防衛庁長官が無視されていることが不自然と思われないことが大きな問題点でもあった。
「仕方ありません。ご命令とあればやらせていただきますが、責任を取れとおっしゃるのであれば、私はこの場で辞任させていただきます。それで、よろしいでしょうか」
「ぜひ、お願いします。勿論、あなたに責任を取れなどと言うことはありません」
この菅野総理の発言で、誰にも傷がつかない結論が出されることになった。
人選会議が一段落したときに、中国の江大使の来訪が告げられ、芳賀外務大臣が気負った顔で部屋を出て行った。部屋の中に一件落着のざわめきが起きた時に、井上長官は稲本陸上幕僚長を別室に連れ出した。
「私は、佐々木幕僚長の辞表を受け取ったときに辞めるべきでした。これは茶番劇です。誰も国民のことを気にかけていません。今、この時点でも、犠牲者が出ているかもしれませんし、災難に苦しんでいる人がいるのです。それなのに、この会議です。これが日本という国の最高意思決定会議でしょう。自分の保身にしか関心のない人たちに運命を委ねてしまった国民はどうすればいいのです。私は、ご存知のとおり武力政策には反対の立場です。それは、いまでも変わりません。武力の行使は最後の手段だと思っています。最後の手段というのは、それを行使してはじめて意味があるのです。皆さんにどのように伝わっているのかは知りませんが、菅野総理の軍備縮小計画に最後まで抵抗した私に、総理は究極の手段は武力だと言ってくれたのです。私はその言葉を信じて今日まできたのです。私の周囲の人たちは、あなたたち自衛隊を好戦論者の集まりだと言いました。総理からも徹底的に押さえつけろと言われました。手綱を緩めれば、前轍を踏むことになるのだと。私は女ですから、ロマンチストではありません。武力でしか守れないものがあることを十分に承知しているつもりです。ですから、総理には、究極の手段を行使しましょうと言ったのですが、そんなことを言った憶えはないと言われました。私も政治家です。自分の信条くらいは持っています。小娘の夢物語よばわりされたんです。あの時点で辞めるべきでした。あの男たちには、これから先も、何も出来ませんよ。ですから、私は辞任して、外で活動したいと思うのです」
「そうでしたか。あなたが、あの計画に反対をしておられたんですか。初めて知りました。でも、辞任には賛成できません。佐々木が辞めたとき、長官を頼むと念を押されてます。井上長官だから言うことをきかない訳ではありません。誰が防衛庁長官になっても、総理は最後の手段を使わないでしょう。それでも、私が長官の辞任に反対する理由を聞いていただけませんか。初期段階で、つまり海上で対応していれば、警察官や自衛官の命は無駄にせずにすみました。次に敵が防御を固める前であれば、多くの人命を助けることができたかもしれません。ことごとくチャンスを逃してきましたが、これから先、チャンスがゼロだとは思いません。時間がたてば犠牲者の数は増えるでしょう。犠牲者が出てもいいとか、増えても仕方ないと言っているのではありません。でも、敵の思うがままにやらせれば、犠牲者は増え続けるでしょう。それを阻止するチャンスはまだあると思うのです。そのときに頼りにできるのが井上長官なのだと佐々木に言われました。自分もそう思います。たとえ、最後の一人を救うためだけであっても、我々には任務を果たす義務があります。ここで、辞めてもらっては困るのです。今からも、その局面で最適とおもわれる作戦を具申し続けます。長官にも主張し続けて欲しいのです」
「わかりました。こんな私に、そのような声をかけていただいて。ありがとうございます」
井上長官と稲本幕僚長が危機管理室へ戻ったときに、芳賀外務大臣が上気した顔で戻ってきた。
「どうでした」
津田官房長官が声をかけた。
「回答文書はありません。共和国側は、一部反動分子が勝手なことをしでかして、共和国政府としても大変困っているのだという返事だそうです。人民と財産を勝手に持ち出して、大きな被害をうけている。船舶が無くなり、漁業が壊滅的な状況であり、人民の生活に重大な懸念がある。日本政府には、人民と財産の返還を要求したいということでした」
「そんな」
「中国政府は、三者で話し合いのできる場を作るべく、鋭意努力中だと言っておりました」
「まだ、中国政府の働きかけは続いているということですね」
「そうです」
その時、指定電話が作動した。
「李宣昌です」
「外務省の中田といいます」
「中田さんですね。よろしく」
「こちらこそ」
「さっそくですが、ファクシミリの回線を確保してください。津田さんの約束違反で食料が確保できず、お預かりしている皆さんはとても空腹だと言っています。必要な食料をリストアップしましたので、それを送らせてください」
「わかりました」
中田審議官は、すぐに電話番号を伝えた。
「それと、先日、高速道路での事故で犠牲者がでていますが、その犠牲者を引き取らせていただきたい」
「もちろんです。引取りに来るのが自衛隊でなければかまいません。明日の朝、九時でいかがです」
「わかりました。明日の九時ですね。今度は発砲をしないように厳重に徹底しておいていただきたい」
「そのようにしましょう」

32
 携帯電話が振動した。メールには「至急 戻られたし」のメッセージがあった。緊急以外は使わないと言っていたので、町村は荷物をまとめて出発した。眼下の市街地では生活が始まっていて、人の動きがよく見えた。敵の哨戒行動は始まっていると考えるべきで、慎重に帰路をたどった。そして、誰とも遭遇することもなく、第二中継基地に到着したが、二時間以上かかっていた。
「第一まで戻ります」
一人で待っていてくれた倉持が言った。
「どうしました」
「総理大臣命令で、陸自の斥候部隊が撤退しました」
「うちもか」
「いえ。我々には撤退命令は出てません。確認しました」
「で」
「陸自は我々に情報を渡したいそうです。後を頼むつもりのようです」
「わかった」
二人は、三時間かけて第一中継基地に着いたが、町村も倉持も全く口を開かなかった。倉持も敵地での危険を十分に承知している。寡黙な男の表情は最後まで緊張していた。第一基地には、海自の四人と陸自の二人が待っていた。
「別府一尉です。そして、庄司曹長です」
立ち上がった陸自の二人が敬礼した。階級では町村が上であることを聞いているらしい。
「倉持一尉です。こちらは町村一佐です。他のものは」
「紹介いただきました」
「座りましょう。先ず、経緯をお話しいただけませんか。よくわかりません」
「この任務は、我々から下命要請をしたものです。幕僚長は御自分が詰め腹を切るつもりで了解したと聞いています。ところが、危機管理室では長官が自分の判断で命令をしたと、総理に言い切ったそうです」
「あの井上長官が」
倉持が驚いた声を出した。
「そうです。あの長官がそう言ったそうです。ですが、総理が撤退命令を出しました。長官には独自に自衛隊を動かす権限はないそうです。つまり、長官が一人で泥を被ってくれたのです。我々は撤退するしか方法はありませんでした。残念です」
「そうですか」
「危機管理室には、航空幕僚長と陸上幕僚長しかおられませんでしたし、総理は陸上幕僚長に撤退を命令し、陸上幕僚長だけが返事をされました。幕僚長不在のために、海上自衛隊は総理の命令を拝命できなかったことになります。海上幕僚長の辞任は総理も了解事項ですので、海上自衛隊に非はないことになります。多分、海自が斥候を出しているということに、総理が気づいていないということなのでしょう。宙に浮いているとはいえ、少なくとも現場に命令違反はありません。ですから、海上自衛隊にお願いするしか、ないのです」
「そうですか。この件は横須賀の司令部も了解ですか」
「了解いただいてます。人数を増やすとも聞いています」
「わかりました。他に選択肢はないようですね」
別府一尉はザックから書類の束を取り出して机の上に広げた。それは地図と写真だった。人質の収容施設は十一ケ所で推定人員は二万五千人。道路の封鎖箇所。防衛線。司令部と思われる建物。敵の推定人員。確認された武器。陸自が設置した監視カメラの場所。人質救出作戦を実行する時に必要と思われる情報は全て含まれていた。
「潜入経路はありますか」
「ありますが、毎日変わると思います」
「収容施設の警備は」
「一番問題なのは、爆発物です。これが、ここの施設に爆薬敷設作業をしている写真ですが、他の施設も同じと考えています。次は、もうご存知でしょうが、半数以上が一般人と思われる人たちです。老人も女も子供もいます。あの国では、全員が民兵だと思わなければいけませんが、どうも我々の感覚では困りもんです。重火器は少なく、主要装備は小銃ですが、その数が一番の装備なのでしょう」
「驚きました。これだけの情報があるのに、救出作戦をしない訳は」
「それは、町村参謀殿がよくご存知でしょうが、総理には自衛隊を出動させる意思がないためでしょう。そうですよね」
「そうなんですか」
「ん」
「人質をこのまま放置するのですか。時間が経てば、更に厳しいことになりますよ」
「菅野総理は、話し合いが問題解決の唯一の方法だと信じておられる。市民派で人権派の総理に武力はふさわしくないと思っておられるようです。そうですね」
「ん」
「そんな。市民の犠牲を前提にしても、ですか」
「総理は政治家ですから」
「下々の出る幕ではない」
「の、ようです。町村一佐といえば、海自のトッブ参謀でしょう。その一佐が、ここにおられること自体が真相なんでしょう」
「わかりました。この件は一佐によくうかがいます。これだけの情報を出して、別府一尉は我々に何をしろと」
「交換条件で出したつもりはありません。確かに、陸自の中にはこの件に批判的な人もいます。いつまでも、陸だ、海だという人たちです。国民を誰が守るのか。相手の武力から国民を守るのは、やはり軍人でしょう。自分も軍人ですが、皆さんも軍人です。それで十分でしょう」
「ありがたい。あなたがここに来ていただいたことに感謝します」
倉持の表情が変わった。別府一尉を見る目に、友人に向ける信頼感のようなものがあった。
「正直言って、我々はまだまだ力量不足です。海自が陸上の斥候をしていることに無理があるのかもしれません。別府一尉が窓口をやっていただけるなら、非公式にですが、あなたの指示で動いても構いません。現場の責任は自分がとります」
「そうですか。実は、高橋一尉にあなたの話を聞いてきました」
「高橋真史ですか」
「ええ。同期ですよね」
「今でも、あいつとは付き合いがありますよ」
「国を守るということは人を守ることだというのが、あなたの持論だと聞きまして、倉持一尉が相手なら、と思いました。うちの指令もこの全資料を持っていくことに賛成でしたし、何とか結果につなげたいと思っています。お願いします」
「町村一佐殿。陸自も捨てたもんじゃありませんね。自分は、別府一尉の指示で動きます」
「ここの指揮官は君だ。問題はない」
町村は席を外して外に出た。部屋に残った六人は、活発な検討に入った。町村は携帯電話に市ケ谷の北山本部長の番号を打ち込んだ。
「北山」
「町村です」
「おお。どうだ」
「本部長。やはり、市ケ谷で想像してたのとは違います。収容施設も見ましたが、我々の任務は、どう考えても、あそこにいる人たちの救出です。特定の個人を救出することは間違いです。自分が甘かったと思います」
「そうか」
「申し訳ありません。やはり、正式に退官させてください」
「そうか」
「お願いします」
「わかった。お前がそこまで言うのなら、それでいい。手続きはこちらでやっておく」
「助かります」
「だがな、必要があれば、何でもいい、言ってくれ。わかってるとは思うが、本当は俺が行きたいんだ」
「わかっております」
「町村」
「はい」
「加代を、たのむ」
「はい」
電話を畳んで部屋に戻った町村は、そのまま二階へ向かった。一階では、窓際に見張りを一人だけ置いて、五人が資料に見入っている。町村は二階で仮眠を取るつもりだった。自分の軽率な提案が、自分にとって一番大切な人を、生死もわからない状況に追いやってしまった。自分の感情を納得させる理屈は、何一つ見つからなかった。


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無力-7 [「無力」の本文]

25
 校内放送が流暢な日本語で始まった。各部屋で代表者を二人選んで職員室まで来るようにという内容だった。ケンさんと呼ばれる男と、三十前後の年齢の男性が選ばれて部屋を出て行った。加代は昨日から世話になっている女性に、初めて礼を言ってから自己紹介した。
「気にせんといて。私は原田敬子。これは孫の修と恵。父親は単身赴任で大阪、母親は仕事の研修会とかで東京。昨日帰ってくる予定やったのに連絡がとれんままや。あんたは、東京から来たんやろ。こんな時になんで」
「取材で来たんですが、そのヘリコプターが撃たれて墜落しました。パイロットの方は亡くなりました。私が無理言ったんです」
「そん時の傷」
「はい。私は怪我だけで」
「そうか。そら落ち込むわ。肩はどう」
「だいぶ、いいです」
「あの人な、接骨医やねん。村上健一いうて、私の幼友達。若いときはけっこうやんちゃやったんやけど、みんな、歳とってしもた。この部屋にいる人も半分ぐらいは近所の人や。これは、いったい何やの」
「戦争だと思います」
「戦争」
「人数はわかりませんが、凄い人数だと思います。みんな銃を持ってます。海岸からここまでの間に死んでる人が何人もいました。警察官が多かった」
「そうか、あそこにいる人の息子も警察官や。大丈夫かな。自衛隊とか助けに来てくれるやろか」
「来て欲しいですよね」
「今朝も何人か殺されたし、それに昨日から食べてへんからお腹も減った。この子らが可哀相でな」
「お幾つですか」
「しゅうが小二で、めぐが年長さん」
敬子が二人の孫の自慢をしている間中、修は窓の方を見ていた。祖母の敬子とはよく話をしていたが、決して大人の会話に入り込んでくるようなことはなかった。母親のしつけがしっかりしているのだろう。妹は兄の服の裾をしっかりと握り締めていた。
代表として職員室に行っていた二人が部屋に戻ってきた。
「皆さん。聞いてください」
村上健一が声をかけた。
「銃声は聞こえましたか」
聞こえたと答える人はいなかった。
「どこの部屋の代表かは知りませんが、職員室で向こうの男に噛み付いたのがいまして、その場で射殺されました。誰も何も言えませんでした。問答無用のようです。私はこの部屋の代表になりましたが、皆さんの要求を受けて交渉に行くようなことはしません。それでよろしいでしょうか」
「どうして代表を引き受けたんだ、君は。一度引き受けたんだ、そんな逃げ腰になってもらっては困るじゃないか。皆の空腹をどうしてくれるんだ」
「その通りです。なんで代表なんて引き受けたんだろうと後悔してますよ。あんたがやってくれますか」
「わかってないな。いったん引き受けた以上、泣き言を言うなと言ってるんだ。それが大人の責任じゃないのかね」
三十台の身なりのいい男で、公家のような顔立ちだが、他人を見下すような目つきが印象的だった。若くても、命令することには慣れているようで、全く臆するところがない。村上は言葉を失った。
「ケンさん。あの人にやってもらいよし」
敬子は本気で怒っているようにみえた。
「とりあえず、報告だけはします。代表のことは後にしましょう」
気弱な笑みを敬子に返して村上が言った。
「あいつらは、共和国の軍隊だそうです。私らは、捕虜です。皆に伝えるように言われたことは四つあります。一番目は、命令や指示には絶対に服従しなければならないと言うことです。違反した者は、即座に射殺するそうです。実際に殺されました。二番目は協力者の募集です。同室の者の言動を監視する協力者だそうです。申し込みは他人に気づかれないようにということです。三番目ですが、この校舎全体に爆発物を仕掛けたそうです。日本の自衛隊が来れば、躊躇なくスイッチを押すと言っていました。最後に、この用紙に名前、年齢、性別、住所、職業を記入して提出しなければなりません。職業のところは詳しく書くように言われました。職業が変わった人は、それまでにやっていた職業も書いてください。パートもアルバイトも全部です。学生は学校名、学年、クラス、部活もです。それと、残念ですが、食事の話は出ませんでした」
村上は近くにいた敬子に用紙とボールペンを渡して、書き終わったら次の人に回すように言った。
村上の顔が青ざめている。
「あんな人、放っとき」
「ん」
だが、村上は人波を避けながら男の方へ行った。
「私は、村上健一と言います。おたく、名前は」
「何だね、喧嘩を売る気ですか」
「お望みであれば」
村上の服を引っ張る者がいて、村上はそちらへ顔を向けた。
「やめとけ」
「放っといてください、星野さん」
高校時代の空手部の先輩で、今は市会議員をしている星野という男が止めに入った。
「こちらは、税務所の所長さんで、榊原さんだ」
「だから」
「止めとき、悪いことは言わんから」
「ほんじゃ、星野さんがここの代表してくれますか」
「相変わらず、融通のきかんやっちゃ」
「代表する気ないんやったら、引っこんどけや」
もう何十年も昔の話だが、舞鶴の裏社会で村上健一の名前を知らない者はいなかった。喧嘩が強いだけではなく、人を惹きつけるオーラのようなものを持っていて、暴力団の組長から誘いがあったほどの有名人だった。十年ほど舞鶴を離れていて、戻ってきた時にはおとなしいケンさんに変わっていて、子供たちに空手と合気道を教えることに熱中する先生になった。だが、喧嘩の時の迫力は衰えていないようで、星野が黙り込んでしまった。
「榊原さん、言うんか」
「そうだ。榊原だ」
「代表。あんたがやれや」
「そんな、世話役みたいなこと、私がやらなくても」
「私がやらなくてもだと。何様じゃ、お前は」
「皆の総意で決まったことじゃないか。君の責任だろ」
村上が肩に置かれた手を払いのけようとして振り返ると、敬子の厳しい顔があった。
「ケンさん。もうやめ」
「・・・・」
村上が勢いよく立ち上がり、自分の席の方へ向かった。
「税務所の所長かなんか知らんが、命拾いをしたんやで」
村上の代わりに敬子が啖呵を切った。

26
 町村は海自参謀室に北山本部長を呼び出した。参謀は全て統合作戦会議室に詰めているので、部屋の中は無人だった。
「どうした」
「これを。お願いいたします」
「やはりな。その前に俺の話を聞いてくれ。結論から言うが、お前に辞められては困る。舞鶴に行く気なのか」
「自分の責任ですから」
「幕僚長が辞任されて、人事的にも難しい時だから、俺自身、動きがとれない。だから、お前が舞鶴へ行ってくれるのはありがたい。自衛隊がどうなるのかわからんが、いずれは、お前が背負わなければならない時がくる。任務が優先か、自分にとって大切な人の命が優先かという二者択一は避けたい。欲張りかもしれんが、俺は両方欲しい。だから、俺の一存でお前を原隊に返す」
「横須賀に、ですか」
「指令に頼んで、斥候を出してもらった。海上自衛隊で陸地の斥候というのも変だが、情報収集部隊だ。陸自だけに頼っている訳にはいかんだろう」
「いつです」
「昨日の夜中に頼んだ」
「知りませんでした」
「原隊に戻って、その部隊について行ってもらいたい。お前は独自行動でいい。機密調査ということで、話は、ついてる」
「そうだったんですか」
「お前が辞表を持って来なければ、斥候部隊に頼むしかなかった。まだ、あの子のことは言っていない。町村が行ってくれれば、機密調査で押し通す。だがな、本音を言えば、俺が行きたい」
「わかりました。すぐに出発してもよろしいでしょうか」
「頼む」
町村は姿勢を正して敬礼をした。「やはり、このおやじは頼りになる」と思った。
「武田を、ここに呼んでくれ」
北山は、出口に向かう町村に声をかけた。
開店休業状態の作戦本部だが、任務を放棄することはできない。武田に後事を託すしかないのだ。武田に因果を含める役は本部長の方が適任だろうと思えた。
町村は、横須賀の自衛艦隊司令部に出頭し、命令を受領。私服に着替えた町村は、先発している斥候部隊の後を追った。斥候部隊は小隊編成で、倉持一尉が小隊長をしている。寡黙で信頼のおける倉持とは、何度か会ったことがあった。
京都駅から倉持に連絡を入れておいたので、綾部駅の駅舎を出た所で倉持の出迎えを受けた。
「無理言って、すまん」
「久しぶりです」
案内された車両はワンボックスの一般車であった。後部座席に乗り込むと、運転席の男がかすかに会釈をした。
「最初に、基本的な事を確認させていただきます」
「ん」
「この任務の指揮は自分が執ります。それと、あなたに対してだけではなく、階級は無いものとして行動することになります。全員が相手を、さん付けで呼びますので、よろしくお願いします。自分は、町村さんの任務を聞かされていません。町村さんは単独で動き、要請があればサポートするようにと言われています。それでよろしいでしょうか」
「助かります」
「我々は、特殊訓練を受けていますので、小型ナイフ以外は武器を持たずに潜入します。町村さんはどうされますか」
「できれば、拳銃ぐらいは持っていたいと思う」
「わかりました。用意します」
武器の携行が見つかれば射殺されますよ、と倉持の顔が言っていた。
「緊急時の発信器をお渡ししますが、時間を保証することはできません。我々が基地にいるとは限りません。最大限の努力はします」
「了解した」
「ただし、我々が全滅した時は勘弁してもらいます」
「それも、了解」
「現地では、食料の確保は難しいので、原則として二日に一度は基地に戻ります。その二日間は携行食糧でしのぐことになります。それと、私物は一切持ちませんので、基地に置いて行きます。携帯電話も新しい物をお渡しします」
「了解」
「相手は、我々よりもはるかに厳しい訓練を受けていると思いますので、無理はしないでください。それとは別に、当然陸自も斥候を出しています。我々の任務は陸自には伝わっていません。接触は避けてください」
「了解した」
「町村さんから、何かありますか」
「情報交換はして貰えるのかな」
「勿論です」
「人質の収容場所がわかれば教えてもらいたい」
「了解しました。それは、我々の任務でもあります」

27
 危機管理室で弁当の手配など、できる仕事ではなく、総務省へ丸投げされたが、総務省は何もできずに、京都府、兵庫県、大阪府に伝えるだけに終わった。緊急時ということで形式は省略されたが、地方自治体への連絡を実施している時に、李宣昌の言った三十分は過ぎていた。
「李宣昌です。準備はできましたか」
「今、やっている」
「で、到着時間は」
「それは、まだ確定していない」
「わかりました。日本政府は食事の用意ができないと言っておこう。残念だ」
「違う。時間の確定はしていないが、必ず間に合わせる。それよりも、犠牲者の遺体を収容させてもらいたい」
「犠牲者とは」
「多くの市民が、警察官が、あなた方の銃で撃たれて死亡している」
「そんな話を、私は聞いていない。何かの間違いでしょう」
「いや。私は知っている」
「では、調査してみよう」
スピーカーの音が切れて、室内は静かになった。
「李宣昌とは何者なんだ」
菅野総理が独り言のように言った。内閣府、外務省、警察庁そして防衛庁も李宣昌に関する資料を持っていなかった。その声は五十歳前後だろう。自信を持った話し方からも、それなりの地位にいるのは間違いない。訛りのない日本語からは、日本で生活をしたことがあると思われるのに、どこにも資料は無かった。危機管理室の指示は、食料の準備時間を回答せよというものから、四時間後に届けろという指示に変わったが、その指示変更にも三十分の時間が必要だった。
「京都の三山知事に電話を入れてください」
菅野総理と三山知事は市民派として、長年の付き合いがあった。総理は、直接依頼するらしい。三山知事から、努力するという返事をもらったが、その声には自信がないようだった。
「官房長官。向こうを怒らせては話し合いができない。そのつもりで応対してください」
三山知事との電話が終わると、暗い表情で菅野総理が言った。
「はあ」
「感情を抑えて、相手の言い分をよく聞くことです。間違っても言い争いなどしないように。話し合えば、必ず道は開けます」
全く発言の機会が無くなった井上長官は、冷静に、しかも客観的に状況の推移を見ている自分に気がついていた。佐々木幕僚長が進言してくれた時が、最後の転換点だったのだろう、と思えるようになっていた。そのチャンスを生かせなかった自分にできることは、もう無いのだろうか。死者だけが犠牲者ではない。人質になっている人たちも犠牲者である。であれば、犠牲者の数は既に二万人を超えていることになる。その二万人が十万人になり、百万人になると言った幕僚長の言葉は決して誇張ではないと思えた。
李宣昌の電話が切れて、一時間後に再び呼び出し音が鳴った。
「李宣昌です」
「津田です。最初にお願いしておきます。四時間は難しいので、六時間にしてください。必ず届けます」
「先ほどは、四時間で届けると言っていただいた筈ですが」
「本当に、申し訳ないと思います。なんとかご納得いただきたい」
十分前に、三山知事から総理への回答があり、六時間後という返事があった。総理は黙っていたが、三山知事は、その条件として組織暴力団の松葉会を使うことを挙げた。後日、どのような交換条件が出てくるのか心配であったが、背に腹は変えられない、と三山知事は言った。
「本当に、あなたが窓口で大丈夫なのですか。菅野総理と直接お話させていただいたほうがいいのかも知れませんね」
「大丈夫です」
「はっきり申し上げますが、あなた、信頼感ないですよね。そこにご列席の方も、そう感じていると思いますが」
「ところで、遺体の件はどうなりました」
「ちょつと。待ってください。まだ食料の話の途中ですよ。津田さん。あなた話し合いする気が無いのじゃありませんか」
「そんなことはありません」
「では、最初のお約束どおり、四時間後ということでよろしいですね。もっとも、もう三時間後ですけど」
「わかりましたよ」
「よかった。皆さんお腹すかせてますから。ところで、遺体があるというお話でしたが、やはりそのような報告は一切ありませんでした。何かの間違いでしょう。では」
回線が切れると、津田官房長官は力なく受話器を下ろした。誰の目にも、津田の失態は明らかだった。菅野総理は、津田の方を見ずに、三山知事への電話を指示した。
「交渉しましたが、駄目でした。やはり、あと三時間でお願いしたい」
長いやりとりがあったが、総理の表情からは交渉がうまくいったという感触は無かった。

28
 加代も空腹感に疲れていた。ヘリの墜落、そして八木の死に打ちひしがれていた時には感じなかった空腹感が、生きる意志を持ってからは肉体的苦痛を伴って襲ってきた。誰もが空腹から逃れるために眠っていた。原田敬子の二人の孫も横になっている。部屋には子供が二十人いて、乱暴な子も喧しい子もいたが、修と恵は静かな子供だった。起きている時は、二人でずっとあや取りをしている。あや取りがうまくいかなくなると、祖母の敬子に助けを求めるが、敬子にもできない時は最初からやり直す。手は出さないが、加代もそのあや取りに見とれていた。祖母に守られながらも、兄が妹を守っている様子がとても温かく感じられた。もう、丸一日食事をしていない時間が過ぎ、全員が水だけで我慢している状態だったので、歩き回る人はいなかった。階段の踊り場には銃を持った見張りが何人もいるが、教室と廊下は自由に行き来できる。人数が多いのでトイレは込み合うが、水だけは自由に飲めた。
校内放送があり、大勢の名前が読み上げられた。ほとんどが女性で、年齢は様々だった。提出された名簿から、何らかの理由で呼ばれたのだろうが、名前を呼ばれた人は誰も不安な表情だった。
放送の最後に、子供は連れてこないようにという注意があったので、子供たちの不安もふくらみ、泣き出す子供もいた。名前を呼ばれていないのに、榊原という男が部屋を出て行ったことに気がついた人は誰もいなかった。
一時間ほどで部屋に戻ってきた人たちの話では、学校給食の経験がある人が呼ばれたらしい。全員が戻ってきた訳ではなく、不採用になった人だけが戻ってきて、採用された人は既に仕事に取り掛かっているということだった。食事の可能性が出てきたことで、誰もが一様に明るい顔になっていた。
榊原秀男が連れて行かれたのは図書室だった。窓際の机に、赤いジャンパーを着た中年の男と、表情のない若い男が二人だけ座っていた。暑いのにどうしてジャンパーなど着ているのだろうと思ったが、口には出さなかった。榊原を連れてきた二人の男は入口に銃を持って立っている。
「座ってください」
榊原は、赤いジャンパーの男が指差した椅子に腰を降ろした。机の上には、菓子パンやコーヒーが置かれていて、灰皿には男の吸いかけのタバコから煙が立ち昇っていた。
「お名前は」
「榊原といいます。榊原秀男です」
「榊原さんね。部屋は」
「たしか、三年A組の部屋です」
男は名簿をめくり、目を落とした。
「ほう。税務署の所長さんですか。財務省とありますが」
「籍は財務省で、見聞を広めるための地方回りです」
「ということは、エリートじゃないですか。すごい人がいたんだ。将来は財務省の事務次官になろうという人だ」
「はい」
「東大出のバリバリですか」
「はあ、まあ」
「すごいな。ところで協力者募集に応募されて、来られたんですよね」
「はい。そうです」
「協力者という意味わかりますよね」
「はい」
「平たく言えば、スパイですけど、よろしいのですか」
「そのつもりです。税務署という仕事がら、私の言いなりになる人をたくさん知っています。私ならきっとお役に立てるのかなと思いまして」
「それは、助かります。そうであれば、あなたに協力者のリーダーをやってもらいたいですね」
「はい。ご期待に沿えると思います」
「私は、金英昌と言います。収容所全体の責任者です。あなたのような優秀な方がおられて、本当に助かりますよ」
「日本語がお上手ですね」
「私は、日本生まれですから。ところで、最初にお断りしておきますが、裏切り行為はなさらないように。勿論、死罪ですが、その前にかなり厳しい拷問があるそうです。私がやるわけではありませんが、専門家がいると聞いています。よろしいですね」
「はい」
「ほんとに。いいんだね」
「はい」
「ここは、この佐藤が管理しています。この佐藤の指示に従ってもらう。いいかね。この男の言うことには絶対服従」
「もちろんです」
「よし。決まった。あとはまかせたぞ」
金英昌という男は席を立ち、ゆっくりと出口に向かった。佐藤と呼ばれた男が立ち上がって、金英昌の後姿に深々と頭を下げた。二十歳を超えているようには見えない佐藤という男の目は冷たく感じるというより、底冷えのするような光を持っていた。採用が決まった安心感で、榊原の注意は自分の空腹感に集中していたので、金英昌に最敬礼をしている佐藤の態度に追随する配慮を忘れていた。榊原の視線は机の上に放置されているパンに向いていた。
「ねえ、君。これ、もらってもいいかな」
佐藤が座ると同時に、榊原が物欲しそうな声を出した。
「き、み」
「えっ」
「きみ、って、俺のことか」
「・・・」
「そうなのか」
「いえ。そうじゃなくて」
「何なんだ」
「すいません。ただ、お腹がすいてるもので」
「そうか。じゃあ、俺は誰だ」
「佐藤さんです」
「違うな」
「はっ」
「多分、さまだろう」
「はい。佐藤さまです」
「おまえ、俺が若いからなめてんだろう」
「いえ。そんなことはありません」
「信用できねぇな。お前の顔にそう書いてあるじゃねぇか」
「いえ」
「榊原。このパンが欲しいのか」
「はい。佐藤さま」
「じゃあ、そこで、犬みたいに四本足になれ」
「はい」
佐藤の目を正面から見て、榊原は自分が判断を誤ったことに気づいた。榊原は、椅子から転げるようにして床に這った。佐藤がパンを手にして立ち上がり、机を回って近づいてくる。榊原は恐怖を感じていた。
「これは、なんだ」
「手です」
佐藤の靴が榊原の指の上にあった。
「いいや。これは、おまえの足だろ。犬には手がないんだよ」
「はい。足です」
「おまえは、食事の時に足で食べるのか」
「いいえ」
「食べる時は、口で食べるよな」
「はい」
佐藤は袋からパンを出し、小さくちぎって床に投げた。
「どうした。腹が減ってるんだろう。食べろよ」
榊原は、床に落とされたパンのかけらに向かって、口を出した。
「もっと、欲しいか」
「はい」
「はい、じゃない。ワンだ」
「ワン」
「よし」
佐藤は後ろにさがり、パンをちぎって落とした。榊原はパンの所へ四本足で歩き、口を出した。
「さすが、東大出だ。おまえは頭がいい」
佐藤は残りのパンを床に落として、靴で踏みつけた。パンの中身のジャムが床に広がった。
「全部食べてもいいぞ。きれいにな」


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無力-6 [「無力」の本文]

22
 「金氏から連絡がありました。李宣昌という人物が窓口になるそうです。連絡はその李氏から入ります」
外務省の中田参事官が菅野総理に新しい事態を告げた。
「どういうことかね。我々は金氏からの連絡を待っていたんじゃないのかね。外務省は話し合いが可能だと判断したから、ここまで待ったんでしょう。今となっては、これは明らかにに侵略ですよ。警察官はじめ市民が犠牲になっている。それをいまさら。そもそも、その李何某というのは誰なんですか。君達には責任感というものがあるのか」
津田官房長官が詰め寄った。
「官房長官。一寸お待ちください。確かにこの事態に対する方法として、外務省は一つの選択肢を提示しました。金氏からも話し合いによる解決という言葉はもらっていましたので、我々は責任ある選択肢の一つとして提案をしたのです」
中田審議官が言いたいことは、決めたのは外務省ではないということだった。津田官房長官と中田審議官の責任のなすり合いが続いた。決定権を持っているのは総理大臣なのだから、外務省の言い逃れは通用することとなる。だが、明らかにミスリードをした外務省には大きな責任があると誰もが思っていた。
「私に、責任とって辞めろということですか」
中田審議官が開き直って辞任したところで、この事態の責任がとれるものではない。責任を取る取らないということでは、たとえ総理大臣が辞職したところで同じことであった。日本という国での「話し合い」という言葉の魔術を知っていた敵のほうが、外交戦術でも一枚上だったということになる。今は、国の意志を決めることができるのがこの危機管理室以外に無いという現実を直視しなければならない時であった。すでに夏の陽も落ち、現地からの映像にも不明確なものが多くなっていた。
中田審議官の胸に吊られていた携帯電話が振動した。李宣昌と名乗る男からの電話で、危機管理室につながる固定電話の番号の問い合わせだった。どこにも知らされていない予備回線の電話番号が李宣昌に伝えられた。
指定した電話器にかかってきた電話には津田官房長官が出たが、李宣昌はスピーカーとマイクを使うようにと指示した。そして、間違いが起きないように録音をするように言った。
「私は、李宣昌と言います。皆さんとの話し合いの窓口は全て私がやらせてもらいます。連絡は、都合で私の方からの電話だけとします。最初にお伝えしたい事は、我々が貴国の市民を捕虜にしているという事実です。捕虜の人数はおよそ、二万人です。わかっていただけますか。このことをお知らせするのは、貴国が間違った行動を起こして欲しくないからです。我々も殺傷は好みません。話し合いを望んでいるからです。またのちほど電話します」
李宣昌の電話は一方的に切断され、危機管理室は静寂に包まれた。
佐々木海上幕僚長が井上防衛庁長官をうながして部屋を出た。井上長官も素直に幕僚長の後に従ってきた。二人は誰もいない小さな会議室に入った。
「長官。あの電話をどう思われますか」
「どうって。大変なことになったと思っていますが」
「大変なことと言われるのは」
「だって、二万人もの人命がかかっているのですよ」
「総理は、軍事力は不要という方針ですが、当然、長官もそのようにお考えですよね。我々は自衛官で、国の方針の是非を云々するつもりはありません。ですから、今はその問題については棚上げにするということでお話できればと思いますが。よろしいでしょうか」
「もちろん」
「ありがとうございます。現状にかんして、残念ながら長官と我々の間には若干の認識のズレのようなものがありますので、その修正をさせていただいて、有効な対策を講じていきたいというのが自衛隊の希望でありますが」
「はい」
「われわれは、今の状況を北の共和国による軍事作戦であるという認識を持っていますが、長官のご認識は同じだと考えてよろしいでしょうか」
「そのようですね」
「軍事作戦を実行するには、その目的があると思います。私は、彼らの目的は日本の占領確保だと思っています。彼の国は政治的にも経済的にも瀕死の状態が続いています。ここまで持ちこたえるとは誰も予測していませんでした。自立反転して回復していくことが難しいということを共和国の指導者もわかっているのです。何としても起死回生の一手が必要だったのです。日本を占領しても、世界中から文句はつかないということも知っています。非難声明ぐらいは出るでしょうが、実害とはなりません。そして、政府も認めている「過去の歴史」があります。自分たちには日本を占領確保する権利があると考えています。軍事的に言えば、今回の作戦は奇策と言えます。日本の軍事力は減少したとはいえ、共和国の海軍力での正面作戦では日本の領土に一歩も踏み込めません。共和国にとっての最強の軍事力であるミサイル攻撃を使用しなかったのも、目的が日本の占領確保だからです。ミサイルで日本を破壊しても、何も得るものはありません。国と国が戦争をして相手国を占領する場合、最終的には地上戦が必要になりますが、海があるために陸上部隊を送り込む手段に困ります。たとえ、戦闘部隊を送り込んだとしても補給線を確保しなければなりません。ですが仮に、地上戦にも勝てたとします。敗戦国である日本には、確保する価値が残っていません。彼らにとっての占領確保の目的は富の移行なのです。日本を生かしておいて、必要に応じて富を移行できるシステムが一番望ましいものなのです。彼らにとって必要なものは、日本人の人質なのです。それも多ければ多いい方が、価値があるのです。立案した作戦参謀は日本という国を熟知しているようです。この作戦は日本以外には通用しないでしょう。そしてこのことが、我国の対応の重要なキーになります。緊急時に長い話になって申し訳ありません。ですが、我々の提案はこれらの前提がないとご理解いただけないと思ったのです」
「反論はありますが、幕僚長のおっしゃる提案というのを聞きましょう」
「ありがとうございます。敵の当面の目的は人質の確保です。彼らには、日本全土を占領する必要はありませんが、更なる人質の確保はしたいでしょう。この二万人の人質は、十万にも百万にもなる危険があります。敵も不安で一杯なのです。人質の数は多い方が安心できるのは、だれしも思うことです。そして、人質の数が富の移行の対価になると思うでしょう。これまでのところ、日本はこの危機を回避する機会を逃しました。日本的な発想で対応するなら、今後も負け続ける可能性が非常に高いと言わざるをえません。李宣昌という男が、なぜ二万人の人質のことだけを言ったのか。裏返せば、人質の確保が完了していないということなのでしょう。彼らには時間が必要なのです。つまり、今が最後のチャンスだということです。日本的な案ではありませんが、強行救出作戦の実施をお勧めしたいのです」
「強行」
「そうです。空挺部隊と航空自衛隊による救出および攻撃作戦です」
「そうなったら、市民はどうなります」
「人質を含めて、かなりの犠牲がでることを覚悟しなければなりません」
「かなりとは」
「少なければ、三割」
「六千人ですか」
「はい。でも、最悪の場合は八割の一万六千人が犠牲になることを覚悟しておかなければなりません」
「それを総理が認めると思いますか」
「ですから、長官にお話しています。敵は総理の思考傾向を十分に検討しています」
「私に、あなたたちと同じ立場に立てと」
「はい。この危機を回避できるのは長官しかいないと信じています」
「まさか」
「個人としての井上和美さんには、ご自分の信念からも、ご納得いただけないでしょうが、井上防衛庁長官としては、苦渋の決断をお願いしたいのです」
井上長官が頭を抱えた。
「無理でしょう」
しばらくして、井上長官が元気のない声で言った。
「私は、総理のことをよく知っています。無理です」
「長官はどう思われますか」
「幕僚長の話にも、一理はあると思いますが、市民の犠牲を前提にした案では受け入れていただけないでしょう」
「人質が増えても、ですか」
「それは、先の話でしょう」
「長官は、北の収容所のことをご存知ですか」
「話は、きいています」
「彼らは、収容所経営については熟知しています。しかも、人権どころか人間としての尊厳を奪うことが運営技術だと思っています。日本人の人質が優遇されるとは思えません。危険を冒してでも救出に来て欲しいと思うようになるでしょうが、敵が人質確保の体制を作り上げた後であれば、救出作戦には多大な犠牲が生じます」
「多大とは」
「救出できるのは、運がよくて一割未満でしょうか」
「無理でしょうが、進言だけはしてみます」

23
 痛みを感じている自分は、どこか別の場所にいる。自分の勝手な行動で八木を死なせてしまったことが、どうにも受け止めようのない重荷になって加代を押しつぶしていた。加代の緊張を和らげようとしてずっと話しかけてくれた八木の声が、まだ耳から離れていない。家族のこと、娘さんの学校のこと、きっと頼りになる父親だったのだろう。そんな家族を壊してしまった。ヘリが墜落し、生き残っている自分がいることを知っている自分。二十八年間の自分の人生が、ビルの壁を削りながら落ちていったヘリと一緒に崩れ落ち、今の加代には何も残っていなかった。知らない女性が加代の腕を消毒し包帯を巻いている。痛みに体が勝手に反応しているのが不思議に思える。それでも、八木の死は受け入れられない。現実に起きたことは全てわかっているのに、それが受け入れられない。ヘリが銃撃され、その銃弾を受けた八木が死に、ヘリは墜落した。ヘリから放り出された自分は助かり武装集団と一緒にトラックに乗ってこの部屋までやって来た。今、目の前で手当てをしている女性も武装集団の一人であった。頭の中ではそれらの現実を正確に理解している筈なのに、そんな自分の現状をうつろな目で見ている自分がいる。さきほどから、得体の知れない激情が喉につまって、息苦しさを感じていたが、それが自分の体に起きているものだという認識はなかった。大きな叫び声が聴こえて、体が震えて、静かになり、何も考えられなくなった。
加代は誰かが言い争う声で目を覚ました。時間の感覚はないが、八木の声が耳に戻ってきた。蛍光灯の明かりが見える。傷の手当てをしてもらった部屋の長椅子に寝かされているようだった。言い争いの声は日本語ではなかった。
突然、部屋に数人の男が入ってきて、加代に銃を向けて「たて」と言った。加代はその言葉が日本語だとは思えなかったが、男の手が立てと言っていた。
立ち上がると痛みが戻ってきたが、気にならなかった。加代は男たちの指示に従った。部屋の戸口に傷の手当てをしてくれた女性が立っていて、加代を見ていたが、銃で押されるようにして建物の外へ出た。男の一人が加代の履いていた靴を投げてよこし、無意識に靴を履いたが、自分の右手が三角巾のようなもので首に吊られていることに気がついた。暗い道路を男の後から歩いていく。周囲の暗さが少しだけ加代を落ち着かせた。男に連れられていった所は学校の建物だった。
二階の奥の教室の中に文字通り放り込まれた加代は、腕の痛みに顔を歪めたが、痛みは痛みに過ぎないと感じていた。部屋の中は熱気と喧騒が渦まいていた。床が見えないほどの人たちがいた。
「ここに座り」
行き場のない加代の手を年配の女性が引き寄せてくれた。加代は言われるままにその女性の横に腰を下ろした。
「怪我してんのか」
加代は頷いただけで、顔を伏せて目を閉じた。気持ちが、重く重く沈んでいく。その重さに逆らう力は無かった。
腕の痛みで目が覚めた。時間の感覚もなく、自分の居る場所もわからなかったが、腕をかばうようにして身を起こした。どこかの学校の教室に連れてこられたことと、見知らぬ女性の横に座ったことを思い出した。その女性は目の前で壁に背を預けて眠っている。小学生か幼稚園児か、幼い二人の子供が女性の膝を枕にして寝ていた。部屋に充満していた子供たちの泣き声は静かになって、いびきと寝息が部屋に満ちていた。最後に見た八木の横顔を思い出し、その重みから逃げるように、加代の意識が宙に浮いていた。肩の痛みは時間とともに増していたが、崩れるように、床に戻った。
体を揺さぶられて目を覚ますと、横にいた年配の女性の顔が目の前にあった。
「傷、いたいのか」
痛みはあったが、意識は濁っていた。
「すごい、うなされてた。だいじょうぶなんか」
加代は起き上がって、壁に背中を預けたが、痛みに顔を歪めた。自分の姿を鏡で見ていないので、自分がどんな状態なのかわかっていない。窓の外は明るくなっていた。
「どこや、いたいの」
加代は自分の左手で右の肩口を触って、また顔をしかめた。顔の右半分は、まだ血で汚れていて、髪の毛も血で固まっている。右の肩から腕にかけても血に染まった包帯がむき出しになっているし、上着は汚れていて、右袖はなく、オープンシャツも肩から破れて下がっていた。このような非常時でなければ、誰もが驚くだろうが、今はその女性以外に関心を示すような人はいなかった。
「肩がいたいんか」
加代は小さく頷いた。
「ケンさん」
女性は窓側にいる人に声をかけた。まだ六十歳までには少し間のある年配の男性が人垣を分けて近づいてきた。
「この人、怪我してるらしいわ。あんたにわかるか」
「痛いのは、どこ」
「肩や」
「ん。お嬢ちゃん、触ってもええか」
男性は加代の前にしゃがみこんで、肩に手をやった。
「脱臼しとるらしいの。腕が上がらんやろ」
男性は痛がる加代を気遣いながらも、肩や腕を動かしたり押したりした。
「骨は折れてはおらんな。そやけど、腕はまだ出血してるわ。脱臼だけは直しとこか」
「そうしたって」
「タオルかなんか、ないか。ちょっと痛いと思うわ」
「そんなもんないわ、着の身着のままやもん」
「そやな。汚れとるけど、このお嬢ちゃんの上着でいこか」
男性は加代の上着を用心しながら脱がせた。
「お嬢ちゃん。これ、しっかり噛んどき。痛いけど、すぐようなるからな」
加代は言われたままに自分の上着を口に入れた。男性は腕を吊っていた三角巾をそっと外して、加代の腕を伸ばして、回転するように押し込んだ。一瞬だったが、激痛に声が出た。口の中の上着を外すと、どっと汗が出てきた。
「いけたか」
「もう、だいじょうぶや。しばらく、これで吊っといたほうが楽やろ」
「世話かけたな。おおきに」
「あんたの知り合いか」
「ぜんぜん知らん人やけど、あんまり痛そうやったから」
「そうか。それより、どないなんのやろ」
「わからんわ」
肩の痛みは取れなかったが、加代は目を閉じた。どうしようもなく気が重い。そこは出入口のすぐ横なので人通りは絶えないが、そんな喧騒も気にはならなかった。
窓の外で連続した炸裂音がして、部屋の空気が一変した。加代も何かに殴られたような感覚で目を開けた。窓際に人が動き、一様に驚きの声が上がった。
「撃たれた」
「五人や」
「なんちゅうことを」
ケンさんと呼ばれていた男性が、窓際から戻ってきた。
「ケイちゃん。えらいこっちゃ。撃たれたで。ほんまもんや。あいつら死んどるやろ」
「知ってる人か」
「わからん」
「逃げようとしたんかな」
「せやろな」
「可哀そうに」
「あいつらの目は本気や。まだまだ死人は出るで」
「ケンさんも、むちゃしたらあかんで」
「わしら、もうそんな元気はない。ところで、ケイちゃんとこ嫁さんは」
「東京に出張や」
「タカシは、まだ大阪か」
「そや」
「たいへんや。この子らも」
二人の話を聞きながら、加代は子供たちを見た。二人の子供は下を向いたままだが、大人たちの話は聞いているのだろう。この子供たちを誰が守るのか。自分は、八木の死という重圧から自分だけを守ろうとしているだけなのではないだろうか。子供たちを見ながら、加代の意識は外界に向けられた。あのヘリの中で八木と一緒に自分も死んだと思えばいいのだ。大したことは出来ないだろうが、子供たちを守るために、まだ自分にも生きていく価値はあるのかもしれない。腹の底から、幼い命を守りたいという衝動が沸いてきて、何故か涙が流れていた。
「どうしたの。あんた」
「大丈夫です」

24
 各報道機関は異常事態と認識しているが、難民受け入れのために舞鶴を閉鎖しているという政府発表をくつがえす材料が見当たらなかった。舞鶴へ通じるあらゆる道路が、全国から集められた警察官によって封鎖され、舞鶴上空は広い範囲にわたって飛行禁止になっていた。取材の記者やレポーターで成功した者はなく、行方不明になっている記者がいるという噂が流れていた。ほとんど具体的な内容のない政府発表に国民は苛立っている。危機管理室で推定される死傷者の数は三百人を超えているとされたが、「鋭意調査中」ということで発表はされなかった。犠牲者の数を発表して何になる。国民の不安を増すだけであるとして、緘口令が敷かれていた。外務省は中国に対して事態の収拾を依頼していたが、中国外務省は調査中という回答を返してくるだけで、外交ルートでの有効な対策はうたれていない。外務省は、いつものように「強く申し入れている」と責任回避の動きさえみせていた。
官邸の危機管理室には疲労感が満ちている。井上防衛庁長官と菅野総理が、コーヒーを持って立ち話をしていた。
「井上君。力では何も解決しない。それぐらいわかってるだろう。話せば道は開ける」
「このままだと犠牲者が増え続けるという佐々木幕僚長の意見も、私には現実味があるように思えるんです。舞鶴に空挺部隊を降ろせば、現地の状況もはっきりします」
「発砲許可を出せ、というのですか。長官は」
「致し方ないかと」
「長官。はっきり言っておきます。私は、発砲を許可するつもりもありませんし、命令すこともしません。そんなことをして、私たちの存在価値はどこにあるのです。二度と戦争をしてはいけません。このことだけは、守ります」
「総理。これは戦争ではありません。防衛です。市民の生命財産を守るための武力行使です」
「我々が武力を使えば、どうなります。近隣諸国から日本帝国の復活だと言われますよ。あの戦争で我々は武力放棄をしたんです。日本は一切の武力を持ってはいけないのです。いままでやってきた自衛隊の縮小計画は、そのためでしょう」
「もう、かなりの犠牲者が出ています。これ以上国民を死なせてはいけません」
「でも、長官の言う武力行使をしたら、犠牲者は出るのでしょう」
「はい。でも、それ以上の犠牲者はでません。犠牲者がどこまで増えるのかわからない状況は回避できます。数万人、数十万人の犠牲が出ても、総理は武力行使をされないのですか」
「その通りです。武力行使はしません。ですから、犠牲者を増やさないために話し合いをするのです。話し合いで解決しないことなど、この世に存在しません。必ず、道は開けますよ」
「そうであれば、いいのですが」
井上長官には、それ以上総理を説得するための言葉はなかったが、総理と同じ側にいた時には感じなかった違和感があった。そう思って危機管理室の中を見回すと、小学校の頃のホームルームに似ているような空気がある。男子生徒にまかせておいてはいけないという思いが、今日の井上長官の原点だったが、今の危機管理室も現実から遊離しているように見えた。
「申し訳ありません。私の力不足です」
井上長官は佐々木幕僚長に対して本気で謝った。
「残念です。でも長官は頑張ってくれたと思います。自衛隊の出る幕は無いということなんですね」
「そういうことです」
「でも、国民は苦しい状況になりました。人質の中には大勢の女性と子供がいるでしょう。こんな時には弱いものが貧乏くじを引かされる。そういう人たちに言うべき言葉を、私は持っていません。この部屋の環境で、コーヒーを飲みながら、ああでもない、こうでもないと言っているのを知ったら、どう思うのでしょうか」
佐々木幕僚長は、上着の内ポケットから辞表を出して、井上長官に渡した。
「幕僚長」
「正式の手続きは、市ケ谷に戻ってからいたしますが、これはここでのけじめだと思っています。私は私の立場で国民を守るという誓いをたてて自衛官になりました。その誓いを果たせない自分には自衛官の価値がありません。無責任と言われるでしょうが、他に取るべき方法を知りません。まことに申し訳ないと思っております」
危機管理室の中が急に静かになった。誰の目にも海上幕僚長が辞表を提出したことは明らかだった。佐々木は直立し、井上長官に敬礼し、少し離れた菅野総理の方向へ向き、同じように敬礼をすると部屋を後にした。
津田官房長官の前にある電話が着信を知らせた。その音は静かな部屋の中で、普段より大きな音に聞こえた。その電話機は、李宣昌との連絡用に指定したものだった。
「官房長官。遺体の引取りを」
「ん。わかってます」
警察庁長官の叫び声に、津田官房長官は大きく頷いてみせたが、その表情からは遺体のことが念頭になかったといううろたえが出ていた。
「はい。危機管理室の津田です」
「李宣昌です。早速ですが、御国の人たちに出す食事がありません。申し訳ないことですが昨夜から何も食べていないのです。大至急、二万人分の食事を届けていただきたい。皆さん、空腹を訴えていますので、四時間位あれば用意できると伝えてあります。場所は、舞鶴自動車道の舞鶴西インターチェンジにお願いします。現在、舞鶴西インターチェンジと舞鶴東インターチェンジの間は、我々が封鎖していますが、この件は指示しておきます。三十分後にもう一度連絡しますので、時間の確認をしておいてください。お願いします」
「わかりました。私の方からもお願いが・・・・」
電話の切られた音がスピーカーから流れた。


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無力-5 [「無力」の本文]

17
 統合参謀本部にある舞鶴地上一区監視所のモニターに船影が確認できたのは、夕方の四時を回った頃からだった。舞鶴教育隊にある鉄塔に設置されているカメラは舞鶴湾の監視をしている。地上からの遠隔操作で、ほぼ全方位をカバーできる。一定動作だけなら自動運転も可能であり、現在は五分に一度の首振り動作をするようにプログラムされていた。海自の艦艇は全て訓練と称して沖合に集結していて、岸壁には小型艇の一杯もなかった。
実行されることのない作戦計画を立案することに抵抗がなかったのは、訓練や机上演習の時の感覚であったことに気がついていたのは、町村だけではなかった。これから起こるであろう惨劇を前にして、参謀本部全体がいらだちに覆われていた。官邸の危機管理室の状況は、情報機器の管理のために張り付いている隊員からの文字データの情報として、リアルタイムで届けられている。なにもしないままで時間だけが過ぎていくことに、いらだちだけが増えていった。
「作戦計画は、採用されなくて当たり前と思え。今、この時点で有効な作戦を作り上げることが参謀本部の仕事だ」
北山本部長の言うことは承知しているが、無力感を感じない参謀はいないということも確かであった。戦闘というのは、戦闘配置があって成り立つものであり、部隊の配置には物理的な時間を必要としていた。いまだに戦闘配置の行動が起こせない自衛隊に、軍隊としての機能は期待できないことを官邸は知っているのだろうか。
最初は点にしか見えなかった船影が、次第に大きく見えるようになり、文字通り雲霞のような船団がモニターに映し出されていた。
 官房長官の緊急記者会見が行われ、大量難民が日本に向かっているという発表があったが、具体的なことには何の言及もなく、「何も心配はありません」という言葉で簡単に終わらせてしまった。総理が発案した難民の映像を発表するという案も津田官房長官の独断で取りやめとなり、「難民」という聞きなれない言葉だけが宙に浮いていた。「今、お話できるのはここまでです」と言い切って津田官房長官は記者の質問を無視して会見場を後にした。記者会見の様子を中継するテレビ局はなく、一時間後にNHKがニュースで短く流しただけであった。そんな記者会見の様子も情報データとして作戦会議室へ送られていて、政府がなんら有効な対策を打とうとしないことが、参謀本部を更に苛立たせ、閉塞感を増幅させていた。
状況を見守ることしかできない参謀の集団は、現地の映像を映し出すテレビモニターに集中することぐらいしかやるとはなかった。遠くに見える船団とは別に、小型漁船の群れが舞鶴地方隊の岸壁に押し寄せてくる様子が映し出された。船を大事にする漁師なら絶対にしないような乱暴な接岸をした船からは、赤いジャンパーに赤い野球帽をかぶった男たちが岸壁にこぼれるように降り始める。
「やっぱり」
画面を見つめる武田が首を振った。
「これは、きっと国内組ですよ。十分に練られた作戦です」
市ケ谷からの指示で監視カメラが手動に変わり、岸壁に焦点をあわせ始めた。数人の警備兵が駆け寄って行ったが、すぐに人波の中に見えなくなった。赤い集団は自衛隊の建屋へ押しかける。同じ画面を見ていた地方隊本部はすぐに退避命令を出した。海上自衛隊の陸上戦力は警備兵程度であり、その警備兵にしても銃器使用許可なしに発砲はできない。圧倒的な人数が押し寄せてくれば、防ぎようがなかった。軍事行動だと思って見ていれば、赤い集団が敵の重要な作戦の一部であることは疑いようがないが、官邸では現場で何が起きているのか判断しきれないだろう。官邸にいる航空幕僚長あてに、航空自衛隊の邀撃出動作戦が送られた。小松にある第六航空団が初動にあたり、各方面隊が出動、まだ海上にある共和国船団を殲滅する作戦であった。だが、船団の全てを撃沈できない時のために、陸上自衛隊第三師団に出動命令を出さなければならないので、陸上幕僚長にも作戦計画が送られた。海上自衛隊の主力は領海の境界付近にいるので、時間的に作戦行動は無理になっていた。
「今度は、大丈夫ですよね」
「であってくれると、いいが」
武田の元気な声に対して、町村の声は不安を含んでいた。
「この作戦を外したら、打つ手はありませんよ」
「わかってる」
だが、しばらくして送られてきた状況報告によると、政府の決定は警察官の投入であった。

18
 陸地の様子が遠目にもわかるようになった頃に、先頭を走っている清江号をかすめるようにして、小型の高速艇が次々と先頭に出て海岸を目指した。乗っているのは若い男たちで、制服姿ではないが明らかに軍人であった。いよいよ上陸の時が近づいたことで、清江号の船上では民間人の不安な表情が目立つ。美姫の顔も母の顔も暗かった。十二人のサブリーダーが船倉から持ち出した武器を甲板に並べる。美姫も小銃と予備弾装ベルトを受け取った。腰につけたベルトは重く、それは胸騒ぎのする違和感だった。
岸壁には、赤い服を着た人たちが走っていた。接岸に手間取っていた高速艇だが、次々と人員と物資が上陸している。空になった高速艇は、岸壁を離れて船団の方へ戻り始めた。船団の各船は接岸場所が決められているようで、先頭集団の船が散会し始める。清江号はまっすぐ目の前の岸壁を目指していた。陸地が近づき、申浩基がロープのついた発射筒を持って舳先へ走った。
清江号は接岸のために減速し、停止しなければならない。発射筒から打ち出したロープはタグボートの代わりに陸地から引いてもらうもので、赤い服を着た人たちが用意したウインチを載せた車両につながれていた。その間に後続の小型の船は船舶用の岸壁ではない場所へも取り付き、ロープや縄梯子などを使って上陸していく。陸地に取り付いた船に次の船が横付けし、船と船の間に板を渡して、人が移動していく。無数の船が一度に走りまわっているので海面は波立ち、揺れる渡り板から海中に投げ出される人もいたが、美姫は清江号の上から大勢の同胞が上陸していく様子を見ていた。その目の前の光景を見て、日本に上陸するという話を聞いただけでは感じなかった恐怖心が湧き上がってきた。近くに日本人の姿はないが、上陸していく同胞の顔には恐怖の表情があるように思えた。清江号船上の人たちの思いも同じで、どの顔も引きつっているように見える。若い申浩基の顔も強張っていた。
清江号がようやく接岸に成功し、タラップが降ろされると、高速艇で最初に上陸をしていた軍人が駆け上ってきた。美姫たちはサブリーダーの後につき、タラップを降りる。
「ここで待機していてください」
清江号の人たちは一箇所に集められて、待機をさせられた。サブリーダーたちは、再び清江号に駆け戻り、後続の船の接岸を援助する。高速艇の軍人はクレーンを使って船倉の荷降ろしを始めている。しばらくして、クレーンが梱包された荷物を降ろすと、岸壁で待ち構えていた人たちが用意されていた車両に積み込んでいった。
清江号の向こうに二隻目の大型船が接岸し、その船のクレーンが頑丈な鉄製の渡り板で二隻の船を固定した。兄の明哲がサブリーダーたちと一緒に下船してきた。荷降ろしされた箱の一つを開けて、ロケット砲をサブリーダーたちが背負って、清江号の隊は岸壁を後にした。

19
 夏の太陽を浴びながら飛ぶヘリコプターの中で、加代は寒さを感じていた。初めて記者らしい仕事をする時には、誰でもこのような不安や恐怖を感じるのかもしれない。だが、遅れてきた新米記者の加代にはわからない事だった。緊張している加代の気持を察して、八木はたえず話しかけてくれた。五年前まで八木は陸上自衛隊にいて、出動したのは災害派遣だけだったと言っていた。訓練に明け暮れる日常の中で、実戦に出てみたいという気持ちもどこかにあったかも知れないが、イラクに行きたいという気持ちにはならなかったらしい。何が不満なのか自分でもわからないまま、五年前に自分から退官したが、空を飛ぶことはやめることができなかった。日日新聞社専用ヘリのパイロットになってからは、どこかで自衛隊を懐かしんでいる自分に驚いたと言った。今回の舞鶴行は怖さ半分、興味半分で複雑な気持らしい。
「もうすぐです」
八木の声がヘッドホンから流れてきたが、加代は反応できなかった。
「北山さん。大丈夫ですか」
「あっ。はい」
「この山を越えると舞鶴です」
「わかりました」
加代はカメラの準備をした。
木々の上を飛んでいたヘリの前が突然広がり、海を埋め尽くすほどの船が視界に飛び込んできた。
「おう」
八木の驚きの声が聴こえる。
「北山さん。カメラ、回してます」
「はい」
加代はあわててカメラを構えて、伝送装置のスイッチを入れる。舞鶴の支局を経由して映像データは東京へ送られることになっていた。
「海岸線まで行きますよ」
「お願いします」
ヘリは横滑りをしながら高度を下げ、海岸へ近づいていく。海を埋め尽くしている船の群れから、人の群れが陸地に流れ込んでいっている。ヘリの高度がさらに下がって、人の様子がはっきりと見えるようになった。
「いかん」
八木が叫んだ。加代も息を呑む。海岸に沿って走る道路に広がった群集の手には銃があるのがわかる。いくつもの銃口がヘリに向けられていた。八木が反転上昇をしようとしたが、ヘリは惰性で地上に近づいていく。降下から上昇に移る一瞬、ヘリは空中で停まったかにみえた。その時、二人の周囲を小銃弾が突き抜けていき、八木の動きが止まった。
「八木さん」
異常を感じた加代が声をかけたが、八木の返事は無かった。
空がまわり、加代の前で景色が流れた。ヘリは五階建のビルへ吸い寄せられるように近づき、回転翼が吹き飛ばされる。ビルの壁を滑るように落下し、樹木の中へ吸い込まれていった。強い衝撃を受けた事はわかったが、意識がとぎれた。
目を開けた加代が最初に見たのは、土と汚れた靴だった。自分がどこに居るのかを理解するのに少し時間があったが、墜落するヘリと八木の顔がよみがえった。
「八木さん」
加代は体を起こした。大勢の人に取り囲まれている。加代はその人たちの顔を見た。顔だけ見ると日本人と同じ顔立ちで、共和国人と判別できないが、状況から彼らが船から降りてきた北の民族だとわかった。全員が銃を持っていて、銃口を向けている人もいる。加代はヘリを捜した。
人垣の向こうに無残なヘリの残骸が見えた。ヘリの方から戻ってきた人が何か話しているが、加代にはわからない言葉だった。立ち上がろうとした時に、初めて痛みを感じた。右手が血に染まっている。左手で痛む顔を触ると、手が赤く濡れていた。それでも加代は立ち上がった。八木を助けなければならないという思いが強い。だが、立ち上がった加代の胸には銃が押し付けられた。
無意識で銃口を払いのけたが、腹部に別の銃の台尻が叩き込まれて、加代はその場に倒れこんだ。
「パイロットは死んだわ」
日本語で話しかけられて、加代はその女性に顔を向けた。その女性の目には敵意がなかった。
「あなた。日本人」
女性は首を横に振った。立ちあがってリーダーと思われる男に共和国語で何かを話している。男は少し迷ったようだが、小さく頷き、周囲に号令をかけた。
「抵抗すると、あなたは殺されます。私は、そうはならないで欲しいと思ってます。私が責任持つからと言って、許可をもらいました。私の指示に従ってください。わかってくれますか。あなたが何かをすれば、私が銃を使わなければなりません。お願いします」
加代はその女性の目を見つめた。そして、その女性に自分の運命を託す以外に選択肢は無いと思った。
「わかりました」
女性は小さなため息をついて、笑顔を見せた。
「お願いがあります。最後にあのパイロットの顔を見たいのですが」
「駄目です。まだ、爆発の危険があるそうです」
加代を取り巻いていた人の群れが動き出して、加代も立ち上がった。右手の痺れは取れず、視界も悪かったが、足に違和感はなかった。ポケットからハンカチを取り出して目を拭いた。まっ赤になったハンカチで何度か目のまわりを拭くと、視界が戻ってきたように感じた。
      
20
 国道27号線で発砲が起きてからは、あらゆる場所で銃器が使われているようだった。舞鶴地方総監部の屋上にあるカメラの映像がその惨劇を映し出していた。駆けつけた警察官は銃を抜く前に群集の集中砲火で倒れていく。パトカーには無数の銃弾が打ち込まれ、乗っていた警察官は何もできないまま殺害されていた。道路に溢れ出た武装集団に、あらゆる車両が略奪されているが、逃げる人たちには発砲されていない。上陸した群集は烏合の衆ではない。集団の動きは統率され、目的を持って動いているように見えた。
「警察官を引いてください」
本部長の北山が電話口でどなり声を出していた。
「発砲されているのは警察官だけです」
命令を出せるのは官邸だけである。自衛隊に出来ることは意見具申に過ぎない。警察官投入という指令が出ている現状をすぐに止めさせなければ、死体の山を築くことになる。
「本部長。舞鶴総監部に撤退命令を」
「ん」
電話を切った北山本部長に町村が言った。
「あいつらの狙いは制服です。最初の上陸の時に警備隊がやられたのは制服だからです。陸上で総監部が抵抗しても無理です。発砲許可も出ていませんし、人数的にも勝ち目はありません。彼等はれっきとした民兵ですよ」
北山が官邸の幕僚長との直通電話を取り上げた。
その時、モニターに一機のヘリコプターが現れた。福知山の方向から現れたヘリは海岸めがけて高度を下げてきている。
「日日新聞です」
武田が町村に知らせた。ヘリには日日新聞社のマークがあった。
「まさか」
道路に溢れている集団の視線が一斉にヘリに向けられている。多くの銃口が上を向き、たたらを踏むような動きをみせたヘリに銃弾が飛んだ。ヘリは空中で一回転して、地上へ向かって滑るように落ちていく。白いビルの壁面をこすりながら、モニターの視界から見えなくなった。それは、あっという間の出来事だった。
「どうした」
電話に出ていた北山はモニターを見ていなかった。
「日日新聞のヘリが撃ち落とされました。このカメラからはもう見えません」
「搭乗者は見えたか」
「いえ。見えませんでした。あの落ち方は、パイロットが銃弾を受けたものと思います」
「どう思う」
「可能性は高いかと」
北山は部屋の隅から日日新聞の柳原に電話を入れた。加代の所在を確認しなければならない。
「柳原に調査を頼んだ」
席に戻った北山は固い表情で言った。
軍事行動だということは明らかになったが、自衛隊の選択肢はさらに限られてきた。空自と陸自の出動と交戦命令の発動を再度具申しているが、官邸からの命令は出ていない。警察官の短銃で相手の小銃に対抗することは、警察官の死者を増やすだけになる。モニターに釘付けになっている武田によれば、重火器も陸揚げされた公算が高いと考えなければならなかった。航空自衛隊による敵の後続部隊の上陸阻止と陸上自衛隊による地上戦が必要になるが、少しでも多くの民間人を避難させることが一番急がれる時だった。民間人が人質になれば、敵はその人質を盾にする可能性が高いだけではなく、市街戦になれば民間人の犠牲も出るだろう。統合参謀本部が当初から抱いていた危惧が現実に起こりつつある。一刻も早く現状を伝えて避難命令を出さなければならない時なのに、官邸の危機管理室は、パニックになっていて、機能不全になっている様子だった。
NHKも民放も通常番組の放送が流れていて、市民がこの危機的状況を知る方法は無かった。
北山の携帯電話に柳原からの連絡が入った。搭乗者の名前は、八木と北山であった。
「やはり」
町村の心配が現実になった。加代に情報をリークするという発案者は町村だった。たとえ、その目的が正しかったとしても、結果に対する責任は自分にあると町村は思った。
「さくらテレビが特番です」
作戦会議室の片隅にあるテレビモニターの監視に当たっていた陸自の参謀が知らせた。さくらテレビは日日新聞系列のテレビ会社だった。画面には、ヘリから撮影した映像が流れる。舞鶴湾を埋め尽くした船、上陸してくる人の群れ、そして明らかにカメラ自体が回転しているものとなって終わっていた。日日新聞だけが、この映像でウラが取れたとして独自に放送する決断をしたものと思われた。
「日日新聞社のヘリコプターが墜落したものと思われます。乗員の安否は不明です」
アナウンサーの興奮した声が聴こえた。テレビ局もこの映像しか情報が無いらしい。特番に呼ぶ専門家の解説は間に合わなかったようだった。繰り返し同じ映像が流れる。だが、テレビ局は避難を呼びかけるだけの情報を持っていなかった。
「ここから、テレビ局へ情報を流せませんか」
「本部長が、今、幕僚長に伝えているところだ」
敵の侵攻は若狭湾の中でも、舞鶴湾に集中している。軍事作戦であれば時間が重要な要素となるので、上陸用舟艇を使えず一般の船舶で上陸しようとすれば、陸上の支援部隊が必要になると思われる。上陸地点が一箇所に集中しているのは、支援部隊の数に限界があったと推測された。従って、当面は若狭湾から五十ロメートルの範囲の住民を関西地方へ避難させることを勧告すべきであるというのが参謀本部の見解だった。
参謀本部からの意見具申は、次から次へと送られているが、可否の回答さえ来ていなかった。何も出来ない時間が、ただ過ぎていく。幕僚長に噛み付くことなど、本来あってはならない事だが、北山本部長の口調は幕僚長を罵倒しているのかと思われるような強さだった。

21
申浩基と赤い服の男が、入っていったのは「小田急送」という看板の運送会社だった。まだ事態を理解していない年配の男が、一段高くなっている荷捌きプラットホームから不審な二人組を見つめている。二人は左端にある階段から男に近づいていった。
「トラックを貸してもらいます」
赤い服の男が普通の声で話しかけた。男は申浩基の汚れた服と小銃に目を奪われている。
「聞こえてますか。トラックがいるんです」
「なんだ、おまえら」
「あのトラック。鍵は」
「あほか。おまえら。とっとと、出てけ」
申浩基が銃を構え、壁に向かって引き金を引いた。壁の棚にあった荷物が大きな音で落ちてきて、目の前でおきた銃声と、物の落ちる音に男の喉が鳴った。
「鍵」
赤い服の男が手を差し出した。男はトラックの方を顎で示した。鍵は付いているという意味なのだろう。だが、赤い服の男の足が運送会社の男の顔面を捉えた。
「ちゃんと、答えろよ」
赤い服の男は薄く笑って、プラットホームから飛び降りた。申浩基は門で待っている美姫たちに来るようにと手を振った。トラックに駆け寄った赤い服の男が運転席に上がってすぐにエンジンを始動させて、トラックをプラットホームへ後ろ向きに停めた。清江号部隊は階段からプラットホームに上り、そこからトラックへ乗り込む。運送会社の男は、その場を動くことも出来ずに銃を持った集団を見つめていた。二台目のトラックもサブリーダーの一人が運転して、プラットホームに付ける。二百名を越す清江号部隊は三台のトラックに分乗して運送会社を出発した。
清江号部隊の目的地は、「引土」という地名の一角で、国道27号線を走ってJR西舞鶴駅の近くにある。赤い服の男が運転するトラックの後に続き、三台は国道に出て西へ向かった。道路を走る車には銃を持った共和国の集団しか乗っていなかった。機動力は現地調達となっているので、車両の持ち込みはしていない。道路を走っていた車は、早い者勝ちで徴用され、それぞれの目的地を目指している。ほとんどの運転者は銃で脅されて、簡単に車を渡した。なかには抵抗をする日本人もいたが、説得している時間がないので射殺されていた。
美姫は押し黙ったままトラックに乗り込んだ。日本人の女はまだ視線が定まっていない。擦り傷による出血で顔の右半分は真っ赤になっていた。上着の右袖が無く、シャツが血で濡れている。動かない右手の指先から、いまだに血がトラックの荷台に落ちていた。美姫は銃を母に預けて、女の右手に手をやった。
「出血をとめないと」
美姫は破れて貼りついている女のシャツを両手で裂いた。女の腕には擦り傷だけでなく、十センチ以上の切り傷があり出血が続いている。美姫は申浩基に出血を止める処置をして欲しいと頼んだ。「日本人の女など」という気持ちが申浩基の顔に出ていたが、美姫は引き下がらなかった。申浩基は乱暴に女の上着を脱がして傷口に当てて、シャツを破って女の腕を縛った。何度も女の口からうめき声が出たが、女にはそれ以上逆らう気力は無かった。
トラックは幹線道路から外れて、しばらくして住宅街で停まった。教会の高い建物が目の前にあった。写真にあった通りの家並みがあり、男たちがトラックから飛び降りる。女たちはトラックからぶら下がるようにして降りて、男たちの後を追った。申浩基が美姫に頼まれて、日本人の女を背負ってトラックを降りてくれたが、その場に座り込む女には目もくれずに走り去った。美姫と母は女を両側から支えて、自分たちの仕事に向かった。兄の明哲は清江号部隊を統率するためにトラックの上に残っているので、教会の青山という一家を制圧する任務は母と二人でやらなければならなかった。教会の横の道を進むと、協会に隣接して洋風の二階家があった。何度も銃声が聞こえる。美姫は威嚇の銃声であることを祈った。目の前の玄関が開き、年配の女性が姿を見せた。美姫はかかえていた日本人の女から離れて銃を構えた。
「お願いです。抵抗しないでください。この銃は本物ですから」
立ちすくむ女に銃を向けたまま近づいた。
「皆さんを呼んでください」
女は首を横に振るだけで声が出なかった。隣家で大きな銃声と女性の悲鳴が聞こえた。女は耳をふさいでその場に座り込んだ。美姫は女の監視を母に頼んで、建物の中に入った。銃を受け取ってから一度も安全装置を外していない。内に誰がいるかわからなかったが、美姫は安全装置を外さなかった。恐怖心で身が竦んだが、発砲してしまえば、自分も壊れてしまう予感があった。一部屋一部屋、慎重に確認していったが、家の中は無人のようだった。
「あなた以外には、いないのですか」
建物から出てきた美姫が、座り込んで震えている女に確認すると、女は何度も頷いてみせた。
「立ってください」
美姫が女の背中に銃口をつけると、飛び上がるようにして女が立ち上がった。母に待つように言って、美姫は銃口を押し付けたまま女を歩かせた。道路に出ると連れ出されたと思われる日本人が溢れていた。そこは、子供の泣き声と女たちの声で満ちていた。美姫は同胞に連れてきた女を渡して引き返した。ヘリコプターから落ちてきた日本人の女も収容所に連れて行かなければならないが、傷の手当てだけはしてやりたかった。自分が我が儘を通していることはわかっている。
兄が隊長でなければ、女の命を助けることも出来なかっただろうし、申浩基が兄の部下でなかったら、傷の手当てを頼んだ時も許されなかっただろう。
美姫は母と女をつれて家の中へ入った。居間の椅子に二人を座らせて、美姫は薬を捜した。そして、赤十字のマークのついた箱の中に薬を見つけた。


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無力-4 [「無力」の本文]

12
 統合参謀本部の作戦会議室は、よどんだ雰囲気の中にあった。各部隊の出動提案も住民避難勧告も受け入れてもらうことが出来なかっただけではなく、政府発表もされないこととなった。初期警戒マニュアルに従って偵察行動をとっている各機から送られてきている映像は、乗船している人間が難民に見える映像ばかりであった。汚れた衣服の子供たち、老人、そして幼児を抱いた女たち。彼らは日本の偵察機に向かって声をあげ、笑顔で手を振っていた。既に日本の領海内に侵入した船もおり、第八管区海上保安本部の巡視船がそれらの船を監視する位置にいたが、彼らの任務は見守る事であった。官邸の危機管理室では、情報提供だけが自衛隊の任務であり、主役は海上保安庁と外務省であった。ただし、海上保安庁の進言した船舶の臨検は受け入れられず、海上保安庁には何もやることがなかった。外務省の中田参事官が主導し、共和国からの回答待ちの状況がすでに何時間も続いていた。
「このままなだれ込んで来たら混乱するでしょう。海上で待機させて、少しずつ収容しましょう」
津田官房長官が菅野総理にむかって発言した。
「難民として受け入れるということですか」
法務省の三崎大臣が声を出す。
「いえいえ。難民認定をするかどうかは、まだ先の話でいいんじゃありませんか。帰れと言っても難しいでしょう。燃料の問題もあるし、彼らにも人権があるでしょう。とりあえず、収容するしか方法は無いと思いますが」
懲戒解雇という究極の緘口令の中で各省庁と自治体は、収容場所の確保に努めている。秘密厳守のために情報は分割され、担当者には作業の目的がつかめないようになっている。この手のマニュアルは、極端に充実していた。ただ、官公庁には緊急対応というのがなじまない。まだ書類の作成段階で、具体的な場所の確保にはいたっていなかった。そのような状況で、数万人と推定される人たちが海岸線に殺到したのでは、混乱することは容易にわかる。三崎大臣意外に、津田官房長官の発言に反論する人はいなかった。
「いつ、停船命令を出せばよろしいでしょうか」
海上保安庁の高田長官が菅野総理に問いかけた。
「逆に、いつ出せばいいか、教えてください」
「それは」
「早いほうがよいと思います」
高田長官の後にいた大迫次長が答えて言った。
「今、現場に展開している巡視船は十五隻です。それに対して向こうは二千隻以上ですから、周知徹底するにはかなりの時間が必要かと思われます」
「そうですか。皆さん、どう思いますか」
菅野総理は出席者の顔をぐるりと見回したが、反対を表明している顔は無かった。
「では、そういうことで」
「場所を確保しているからという事情も説明してよろしいでしょうか」
「いや、まだ難民認定するとは決まっていないので、期待を持ってもらわないほうがいいでしょう。ただ、停船を伝えてください」
「わかりました」
「相手が停船命令をきかなかった時は、どうされますか」
海上幕僚長の佐々木が発言した。
「ちょっと待ってください。幕僚長、あなたはまだ、軍事行動だと思っているんですか。あきらかに難民でしょう。これは。それとも、なにがなんでも自衛隊を動かしたいのですか」
井上防衛庁長官が甲高い声で詰め寄った。
「そうではありません。予想外のことに対処するのが危機管理だと思うからです」
「私には、そうは聞こえません。あなた方は戦争がしたいのじゃありませんか。いいですか。自衛隊は絶対に動かないでください。わが国は軍の勝手な行動を許しません」
佐々木幕僚長は黙って視線を下に向けるしかなかった。自分の娘だったら怒鳴り飛ばすところだが、相手が長官ではどうしようもなかった。
 海上保安庁が停船命令を出すという情報は、すぐに防衛庁の作戦会議室にも伝わった。町村と武田は送られてくる共和国の船団の映像をにらんでいた。
「一佐。これを見てください。少し低すぎませんか」
「どこだ」
「喫水線です」
「乗ってる人間が多いからじゃないのか」
武田が見ていたのは、百トンクラスの貨物船だった。
「自分もそう思ってたんですが、この大きさですよ。まだ船内に百人ほど乗っていれば理解できますが、そうも見えませんので」
町村もあらためて喫水線を中心にして船の映像を見直してみた。
「確かに、どれも低いな」
「でしょう。人間以外に重い物が乗せられているとすれば、危険ですよね」
「海上保安庁は臨検をしないんだな」
「これだと、臨検には応じないでしょうが、臨検もしなければ相手の思う壺ですよね」
「停船命令を出したら、停船するかな」
「しないでしょう。自分が向こうの参謀なら、巡視船の周りに何隻か停船させて、他はそのまま走らせますね。数の上では、圧倒的に有利なんですから」
「巡視船は全部で何隻出てる」
「十五隻です」
「四隻づつ停船させても、六十隻か」
「楽勝でしょう」
「ということは、雪崩れ込んでくるな」
「そういうことです」
「もう一度、臨検を進言してもらおう。臨検に応じなければ危険信号。臨検して武器が出てくれば軍事行動だ」
町村は本部長の席へ向かった。

13
 美姫が乗船した船は、清江号という比較的大きな船だった。母と一緒に船尾に近い場所にいる。父の金明進はこの作戦の軍の最高指揮官として別の船にいたが、第八軍に所属する兄の明哲がこの船の指揮官として船橋にいるので、家族三人が同じ船に乗っていることになる。この作戦では、大半が金一家のように家族ぐるみで参加させられていた。家族単位で乗船していないのは、もともと家族のない子供たちだけかもしれない。街中にあふれていた浮浪孤児が集められ、各船に分散乗船させられたが、食事が与えられるという条件に逃げ出す子供はいなかった。船酔いに苦しむ人も含めて、全員が甲板上に座らせられていた。平城から来た人と、清津はじめ地方から来た人の服装や身なりは歴然とした違いがあり、自然と二つの集団を作り上げていた。それでも、「手を振れ」という命令が出ると全員が一丸となって行動していた。遠くの方に見えている船は日本の巡視船だと教えられたが、一定の距離を保ったまま近づくことはなかった。日本軍のマークをつけたヘリコプターが二度近くを飛んだが、肉眼でパイロットの顔が確認でき、美姫も複雑な気持ちで手を振った。日本に上陸するということは説明されたが、上陸後の行動については誰も知らされていない。船室に多くの武器と弾薬があることで、なんらかの軍事行動であることはわかっていたが、自分がどのような任務を与えられるのかという不安を持っていた。共和国では幼児を除いて、ほとんどの人が小銃の扱いは訓練されているので、武器に対する違和感はそれほどでもないが、戦争に参加したことも、人間相手に銃を構えたこともないことが不安となっていた。
ヘリコプターが去り、太陽光を直接浴びる甲板上に疲れが出始めた時に、前方に大型の巡視船が現れた。それまで遠巻きにしていた日本の巡視船が舳先を持ち上げて近づいてくる。船上に緊張が走った。清江号には軍服を着用していない第八軍の兵士が十二人乗っていて、艦橋からの指令を乗船者に伝える役割を担っていた。艦橋と繋がる伝声管のそばにいる兵士が艦橋からの指令を大声で伝え、船上に散った兵士が周囲の人間を統率する。「手を触れ」の指令が船上に飛び交った。船尾付近に座っている美姫は手を上げながら、後ろを振り返った。海上には大小さまざまな船が、所せましと続いている。美姫の乗った船上で出た指令を見て、後続の船も同じ動作に移るのが見えた。
波を切って近づいて来ていた巡視船が舳先を曲げ、その横腹を見せて速度を落とした。船首の横にPL61という文字が見えた。機銃がこちらに向けられているのが見え、拡声器の声が遠くに聴こえ始めた。その時、美姫の乗った船の船橋の上に黄色の三角旗が上がった。船上の者は日本の巡視船に向かって手を振り続ける。しばらくすると、後続の船団の中から船速を上げて先頭に飛び出す船が出てきた。清江号は速度を落とすことも、進路を変えることもなかったが、後ろから来た船が巡視船の方へ舵を切っていった。船団に対して右舷を見せて微速前進している日本の巡視船と船団の中間に、四隻の船が割って入るような形で距離が狭まっていく。四隻の船は船団の中では大きい方だが、巡視船と比べるとひどく小さく見えた。四隻は速度を落として巡視船の近くに寄っていった。清江号が少し舵を左に向けると、後続の船団も同じように進路を変えた。
船の動きはどれもゆっくりとしたものだが、船団全体は日本の巡視船をよけるように左右に分かれて進んだ。巡視船の拡声器からは、日本語と朝鮮語で停船命令を出しているが、四隻以外の船はどれも停まる様子もなく、歓喜に満ちた歓声と笑顔と打ち振る手を残して、その場を去って行く。日本の領海にいるのだから攻撃される可能性はある筈だ。
「やめ」の号令がかかり、誰もが疲れた手を下ろした。乗船した時よりも、海上で夜明けを迎えた時よりも不安感が増してきている。元気だった子供たちの目にも不安の色が出ていた。伝声管から「食事用意」の指令が出され、食事当番の女たちが船室の方へ移動を始め、美姫も立ち上がった。具の無い雑炊を食べ続けているが、昼食を出したら船の中には食料になる物は無くなる。目的地に行けば、好きなだけ食べられると説明されていて、それを期待するしかなかった。

14
 巡視船「おき」からの映像が官邸の危機管理室に送られているが、同じ映像を見ていても、状況判断はその人の立場によって全く異なっていた。共和国の古びた船の上で手を振る人を見て、難民に間違いないという確信を持つ人。停船することもなく進み続ける船団に危険を感じる人。現在進行中の状況の中に何か利権になるものは無いかと見つめる人。だが、肌で異常を感じている現場からは、臨検実行の意見具申が何度となく伝えられていた。長官から発言禁止を命じられている自衛隊の幕僚長は、海上保安庁の意見具申に賛同の意思表示もすることが出来なかった。難民受け入れの施設確保は遅々として進まず、数百人という漠然とした数字が一人歩きをしている。今までに災害時の避難場所を確保する仕事は、どの自治体でも実績があったが、収容するのが日本国籍を持った自国民であり、逃亡等の心配は必要なかった。しかし、今度のように相手が日本国籍を持たない難民の場合には、保護と監禁が必要になる。常識的に考えても、数万人と予測される難民を収容する施設など確保できないとわかっていたが、各省庁と自治体に確保せよという方針を示すだけで政府は問題の先送りを選択していた。
「当分は船内で生活してもらうとして、食料の確保と、保安警備の警察官の配置を急がねばなりません」
杉山総務大臣が発言した。各地方自治体から圧力を受けている総務省としては、目先の問題を解決する必要に迫られていた。先ず、意思の疎通を図るために朝鮮語の話せる人材の確保、管理事務所の確保、宣伝カーの確保、食料の確保、そしてその食料を運搬する船舶の確保等々である。ただし、危機管理室で議論されていることは、各省庁の入り口で止められ、実行されることは無い。情報管理に支障があるため、と言うのが理由だった。
「船から降ろしてはいけません。先ずは警察官の配置が必要です」
津田官房長官が発言した。言葉の上では簡単にきこえるが、数千人の警察官を即座に配置するようなことは不可能としか言いようがない。実務の伴わない空論が真面目に議論されている。
「そうです。警察官です」
海上保安庁の高田長官も官房長官に同意した。
太平洋戦争で完敗を喫した日本が驚異の復興をとげ、世界第二の大国になれたのは、必死に働く国民性のおかげであったが、その中心にあった官僚機構の勝利でもあった。その官僚機構が制度疲労をおこし、弊害だけが目立つようになった時に政権を取った民主党は政治主導という選択肢を選んだ。官僚機構が機能していた時は、実務はいつも同時進行していたが、いまは空論だけが駆け巡っている。国家の存亡に関わるような事態でない限り、問題を先送りすることでもそれなりに時間は過ぎていくので、政府とその代表者である閣僚は自分たちが空論をしているだけだということにも気がついていない。耳に心地よい言葉があふれ、まるでマスターベーションに魅せられた中学生のようであった。
その時、総務省の係官が部屋へ駆け込んできて、総務大臣に何事かを耳打ちした。
「金沢で住民が騒ぎ出したそうです」
「どうしてです。あれほど念を押したじゃありませんか。パニックが起きても知りませんよ」
総務大臣の発言に、津田官房長官が叫んだ。
官房長官の否定発言があり、地方自治体への難民収容施設の確保依頼があり、警察庁への重点配備指令があって、情報が表面化しないわけがない。危機管理室で何かが議論されていることも新聞社は把握していたために、官邸の庭にはテレビ中継車が集結している。官邸の敷地内の状況変化を知らせなかった事務方にも重大な責任があるが、危機管理室に出席していた人だけが、秘密は守られているものと思い込んでいた。
「記者会見をしてください」
管野総理が津田官房長官に言った。
「総理がされるのですか」
「いえ。まだ私が出なくてもいいでしょう」
「わかりました」
「この映像を見せれば、誰でも納得してくれるでしょう」
菅野総理は、海上保安庁から送られてきている、船上で手を振る貧しい身なりの人たちの画面を指差した。
「これを出してもよろしいんですか」
「いいと思いますがね。どなたか異議のある方はいますか」
管野総理は、いつものように出席者の同意を求め、いつものように誰からも発言は無かった。津田官房長官が難しい顔をして部屋を出て行った。
「官房長官には悪いけど、少し休憩にしましょう。よろしいですか」

15
 加代が大阪の八尾飛行場に着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。大阪支社の企画部にいる若い男子社員が小型のテレビカメラと伝送装置の箱を持ってきてくれたが、飛行許可がおりずに待たされていた。八木と名乗った中年のパイロットが何度も交渉しているが、既に二時間は待機状態である。不機嫌な顔で八木が戻ってきた。
「なにかあるんですか。いつもはこんなことは無いんですがね」
「そうですか」
「どうしましょう」
「実はですね」
加代は概略を話すことにした。危険も覚悟しておかなければいけないとすれば、事情を説明しておく義務がある。北の共和国から大量の船が日本に向かっていること、もしもそれが軍事行動だとすれば住民に避難を呼びかけなければならないことを話した。
「そうですか。それじゃあ、飛行計画が問題なんだ。日本海をひとまわりしてくれと言われたんで、そのとおりに出したんですよ。やり直してきましょう」
「危険があるかもしれませんが、いいですか」
「仕事ですからね。それに、こんな言い方しては悪いけど、女のあんたが行くんだろう。俺がビビってたんじゃね」
「すみません」
八木は十分ほどで戻ってきた。飛行許可はおりたが表情は厳しかった。
「どうやら、日本海全域に飛行禁止が出てるみたいですね。こんなことは初めてです。急ぎましょう」
二人はヘリの待機場へ走った。カメラと機材は積み込んであり、ヘッドセットの使い方も教わっていた。八木は慣れた様子でチェック項目を読み上げ、計器をチェックし、エンジンを始動させる。ローターが回りだし、さらに八木のチェックが続く。八木の緊張感が加代にも伝わってきた。
飛行場を文字通り飛び出すようにして、八木は高度を上げていった。
「北山さんは、企画部だったよな」
ヘッドホンから八木の声が聴こえた。
「はい」
「報道じゃなくて、なんで企画なんだね」
「それは」
加代は答えようがなかった。
「言えない」
「すみません」
「じゃあ、さっきの船の情報の出所も秘密かね。確かな情報なら、えらいことだ。危険があるなら、はっきり覚悟しておきたいと思うんだが、駄目かね」
危険を犯してくれている八木には話しておかなければならない。
「情報は統合参謀本部からです」
「市ケ谷の」
「そうです」
「やばいじゃない。北山さんはどう思ってるの。戦争になると思ってるの」
「わかりません。でも、自衛隊は警告を出したいのだと思います」
「どうして」
「政府の発表を待っていたんでは、間に合わないと思っているんだと思います。現実にまだ何の発表もされていません。もう時間がないと思うんですが」
「わかった。覚悟を決めるよ」

16
 清江号の船上は話声も無く、静まり返っていた。美姫も皆と同じように頭の上に手持ちの服を広げていた。風はあるが、夏の日差しはあまりにも強すぎた。日射病にならないように各自で陽をさえぎるように指令が出されているが、予想以上に体力は落ちているようで、元気だった子供たちも静かに座っていた。日本の巡視船から離れて、何時間過ぎたのだろう。単調な航海が続いている。陸地は全く見えなかった。
兄の明哲を指揮官として、十二人の兵士が乗り込んでいて、1人の兵士が班長として、四家族から五家族を指揮している。それら班長を務める兵士が船倉から、書類を手にして戻ってきた。
「責任者は集まってください」
申浩基が落ち着いた声で呼びかけた。母と二人の小さな家族だが、美姫が責任者になっている。美姫と他の四家族の責任者が、申浩基の近くに並んで座った。
「上陸後の説明をします」
船上で一斉に説明が始まり、疲れきっていた人たちに緊張が走る。
「私たちは、日本の侵略統治により大きな苦痛と深い悲しみを味わいました。その残虐非道な仕打ちは皆さんもよく知っているとおりです。ですが、偉大な将軍様のご指示を得て、今日、私たちはその忌まわしい過去から開放されるために、日本に上陸して、占領統治を始めます。勿論、一気に日本全土を占領することは出来ませんが、私たちが名誉ある先陣を務めることになります。上陸地点は、舞鶴という所です。大きな港町で、軍港でもあります。皆さんは軍人ではありませんが、国を守る兵士としての役割を持ってもらいます。家族が一つの小隊だと思ってください。小隊の任務は、それぞれが指定された日本の家を占拠することです。そして、そこに住んでいる日本人を捕虜として、指定された収容所へ連行してください。そして、その任務が終われば、その指定された家が皆さんの家になります。ここまでの説明は、いいでしょうか」
申浩基は、自分の前に集まった人を落ち着いた表情で見た。
「では、もう少し具体的な話をします」
申浩基は、封筒の表書きを確認しながら、各責任者に手渡した。
「見てください。簡単な地図と、皆さんの攻撃目標となる家の写真が入っています」
手書きの地図と写真が一枚あった。十軒ほどの家が写っている街角の写真には、目標となる家に矢印が書き込んであり、日本の文字でその家の名前が書かれていた。どこから写真を入手したのだろうと思ったが、美姫は黙って写真を見た。美姫の目標とされていたのは、キリスト教の教会と思われる建物だった。実物を見たことはなかったが、写真では知っていた。
「その攻撃目標地点までは、私が一緒に行きます。次にこの写真を見てください」
申浩基は手にしていた封筒から数枚の写真を取り出した。
「これは、制服を着た日本の警察官と軍人です。警察官と軍人には無条件で発砲してください。武器を持っていますので危険です。民間人は出来る限り捕虜にしますが、身体検査をして、武器をもっていたら射殺してもかまいません」
写真が次々と渡されていった。
「十五歳以下の者と、六十歳以上の人は攻撃に参加しませんので、この船に残してください。それ以外の人には全員に小銃を渡します。当面は、日本人と我々同胞が入り乱れることになりますが、小銃を持っているのが同胞という判断になりますので注意してください。近くであればバッヂで識別できますが、バッヂが見えない距離からの発砲もあります。それと、赤い上着と赤い帽子の人たちは我々の協力者です。皆さんが下船した時には、バッヂも銃も渡してありますので心配はいりませんが、知っておいてください。捕虜は多いほうがいいのですが、自分の身が危険だと判断すれば、迷わずに発砲してください。軍は皆さんの判断を尊重しますし、責任追及もしません。だからと言って皆殺しにしてもらっては困ります。捕虜が我々の切り札になりますから。それから、この写真の警察官と軍人は、第八軍が制圧するつもりですが、撃ち洩らした場合は皆さんにも自分の身を守るための行動をお願いします。何か聞いておきたいことはありませんか」
申浩基の口調は軍人の物言いには思えなかったが、そのことも含めて全てを受け入れなくてはならないことは誰もがわかっていた。父や兄の立場はあるだろうが、たとえ相手が日本人だとしても、美姫は銃を人に向ける気はなかった。こんなことに巻き込んだ父と兄に怒りを覚える。だが、主体体制の中でそんな怒りが口に出せるものではないことは美姫も承知していた。
「あと、二時間ほどで作戦は開始されます」


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無力-3 [「無力」の本文]


 参謀会議は静かだった。衛星写真を見ただけで状況が変化しているのは明らかだったからである。傍受通信の量も急激に増えた。マニュアルに従って空自のP3Cが飛び、海自のイージス艦は、通常の訓練計画を変更していて、すでに日本海の真ん中にいた。十分前には、官邸の危機管理室の立ち上げを具申しており、必要とされる要員は官邸へ向かっていた。各隊の幕僚長も、三十分後には参謀会議室から官邸へ移ることになる。防衛庁内にある有事作戦会議室と官邸の危機管理室はオンライン化されており情報の共有ができるので、各隊の参謀の大半は残っていた。
防衛警戒レベルが引きあげられたことで、各基地では出動準備が始まっている。参謀会議では、部隊の編成と派遣区域の決定をしなければならないが、先ずは緊急配備を第一次出動として、小編成の部隊を動かす必要があった。
「問題点を整理します。まず、政府発表がどのようにされるかが一点。これが北の上陸作戦だとして、その上陸地点をどのように想定するかが二点目だと思われます。三点目は民間人の避難をどうするかです」
会議の進行を担当する町村が出席者の表情に注視していると、陸自が発言の挙手をした。
「上陸地点に関しては、新潟、金沢、舞鶴、鳥取の四ヶ所を想定します。ただし、緊急配備ということであれば、十分な兵力とはなりません。また、それ以外の地域であれば、空自の機動力を初動に当てる等の対応が必要と考えます。これらの想定の前提は、海上で掃討できなかった敵に対してであります。写真で見るかぎりでは、相手は漁船や貨物船のようなので、それほどの抵抗は無いと思っております。また、民間人の避難に関しては、政府発表にもよりますが、訓練をしたことの無い民間人に避難は難しいと思います。我々が避難誘導をしたとしても、指示に従ってくれるとは思えません。つまり、避難しなくても済むようにしなければならないということです」
陸自の安藤一佐が淡々とした口調で言った。前回の参謀会議では、どこか感情的なやり取りがあったが、今回は誰もが冷静であった。本物の作戦立案は誰にとっても初めてのことだったが、三軍を統合した参謀本部が十分機能するという予感が持てた。各隊が具体的な投入戦力想定を時系列で組み上げる作業に入ったところで、各幕僚長は官邸の危機管理室へ向かうために部屋を出て行った。北山将補も席を立ち、加代が待っている会議室へ向かった。
「待たしてすまん」
「いいんです」
「かなり重い話だが、まず聞いてくれ」
北山は現状の概略を話した。共和国の東海岸に船舶が集結していることだけでは脅威にはならないが、それらの船舶が日本を目指して動き出せば大きな脅威となると言った。数千隻の船に数万人の軍人が乗っていて、彼らの日本上陸を阻止できなかったら、民間人に犠牲者が出る危険性が高くなる。
「武田二尉には会ったな」
「はい」
「科学的でないと言われればそれまでなんだが、あの男の直感は無視できないものがある。今の事態がどの程度のものなのかは現実に起きてみなければ何とも言えないが、武田二尉の直感は最大級の危険を感じているらしい。私と町村の心配は、民間人の捕虜なんだ。撃退は可能だと信じているが、あいつの直感が気がかりなんだ。だから、このことをリークして民間人の避難が出来ないものかと思った。勿論、このことが明るみに出れば、私も町村も軍法会議にかけられるだろう。一人でも二人でも避難することができれば、軍法会議でもいいと町村が言い出して加代に声をかけた。だが、町村はこの事に加代を引きずりこむことに危険を感じたらしい。私もそう思う。今、この件で作戦会議が進行中なんだが、民間人の避難の件は賛同を得られなかった。だから、今回のことは全て加代の胸の中にしまい込んでもらいたい。この場にいて、放送も聞いてしまったんだから、異常事態が発生していることは知ってしまったことになる。あの放送はこの階だけだから、民間人で聞いたのはお前だけということになる。現状を話したのは、承知の上で他言無用にしてもらいたいからなんだ。わかってもらえるかな」
「わかったわ。そうする」
「すまん」
加代は叔父の後を歩いて歩哨の立つドアまで行った。頭の中は混沌としていて、宙を歩いて一階のホールまできた。そこは、いつもの防衛庁の正面玄関で、緊迫した様子も無かった。新しいIDカードをバックに入れて、周囲を見渡した。
「どうかした」
「えっ」
他社の松本という女性記者から声をかけられた。
「顔色悪いわよ」
「ええ。風邪気味で」
加代は無理やり笑顔を作ったが、その記者は怪訝な顔をした。 二時間ほど経って、少し落ち着いた加代は社に戻った。帰りしだいすぐに報告するようにというメールがあったので、加代は大田の部屋のドアを叩いた。
「どうだった」
「申し訳ありません。私、参謀の町村さんとお付き合いしています。前に、防衛庁の中を案内して欲しいと頼んだことがあったんですが、今日はその呼び出しだったんです。公私混同で申し訳ありませんでした」
「そういうことか」
部屋に戻った加代は、官邸担当の記者に知人がいないか確かめるために人事資料にアクセスした。同期入社の斉藤愛子がいるらしい。研修期間が終わった後はほとんど付き合いも無かったが、他に話の聞けそうな人は見当たらなかった。政治部に電話をして斉藤の携帯番号を教えてもらい電話を入れた。
「北山加代です。憶えてます」
「もちろん。憶えてるわよ。企画部に変わったんだって」
「そうなの。新米記者」
「一課で何の担当」
「遊軍みたいなもので、まだ勉強中」
社内的にも企画部五課は存在しない。一課でも特命プロジエクト要員という扱いで、詳細を知っているのは、一課の佐々木課長だけだろう。五課の課長も一課ではただの社員扱いだった。勉強したいので、官邸のぶらさがりを見たいと、斉藤に頼んだ。
「いいわよ。いつ」
「今からでもいい」
「急ね。何かあった」
「ごめん。そういうことじゃなくて、そこに愛子がいるのを知らなかったの」
「ん。まっいいか。すぐに来る」
「一時間後でいい」
「いいわ。正面玄関で待ってる」
大田に対して嘘の報告をしたが、それで丸く収まったと思っているわけではない。政府の公式発表を直接聞いて、自分の行動を決めたかった。


 統合参謀本部は、まとめた一次作戦案を官邸に伝送した。自衛隊の作戦出動は総理大臣の指示に基づき、防衛庁長官が出動命令を発動する。陸海空の各隊は、その出動命令に迅速に対応するために行動を起こしていた。町村たちも統合作戦司令室につめっきりになる。静止軌道にある気象衛星がオプション動作に入っていて、日本海の画像データを一時間に二回送ってきていた。船の種類、大きさ、そして船上にいる人数などは判別することができるが、武器の有無などは判別できない。北の共和国海軍の艦船には動きがないので、軍事力評価の判定は困難としか言えない。漁船や貨物船が通常どおり出港したということで、それらの船の数だけが異常値を示しているにすぎない。現象を素直に判定すれば、大量難民の発生とみるのが正しい。官邸の危機管理室での方向も難民問題に収斂していて、自衛隊は念のためのオブザーバー的な立場でしかないようだった。ただ、難民問題に直面したことの無い日本にとっては難しい問題であることに変わりがなかった。
加代が官邸の正面玄関に着いたときには、斉藤は腕章を持って待っていてくれた。
「ごめんなさい。急に無理言って」
「久しぶりね。これって特命プロジエクトっていうやつ」
「うんん。研修項目なの」
「そう。最初、あなた記者志望だったわよね。総務部に行ったから、どうしたのかなと思った。何かあったの」
斉藤は、加代の急な話に、何かあると思っている様だった。同期入社とは言っても、何年も音信が無かった者から電話があれば疑っても無理はないだろう。記者歴五年の勘が納得していない。
「教えなさいよ。何があったの。官邸に関することなの」
「ほんとに、そんなんじゃないって」
「わかった。言えるようになったら、私に一番に教えてくれる」
加代は返事をせずに、小さく首を縦に振った。
「何が知りたい」
「変わったことない」
「特に無いとは思うけど、自衛隊法の改正案のヒヤリングということで、制服さんが来たわね。幕僚長が三人揃うと、ちょっと危険な匂いがするけど、誰もなにも言ってなかったな」
「定例の記者会見では」
「いつもどおりだと思う」
「そう。しばらくついて回っていい」
「いいわよ。初めてでしょう、官邸。案内するわ」
二人は別館へ向かった。官房長官の定例記者会見の時間が近づいていて、会場には各社の記者やカメラが集まり始めていた。テレビでは見たことのある記者会見室は、ざわめいているだけで緊張感はなかった。
「初めて」
「ええ」
「もう少し時間があるから、記者クラブに行ってみようか」
加代は出来るだけ多くの情報が欲しかった。記者クラブのブースでは先輩記者に挨拶をしたが、誰も企画室の記者には関心を示さなかった。
「企画室とは、あまり良くないの。秘密主義というか、情報を出さないから。挨拶してくれただけでも、たいしたものよ。みんな美人には弱いからかな」
斉藤が声を抑えて解説してくれた。初めての記者クラブは独特な雰囲気で、加代は自分が部外者であることを痛感した。斉藤がいなければ、ここに来ることも出来なかっただろと思った。また企画室の評価を悪くすることになるのだろうが、加代の持っている情報は出せるものではなかった。いつか、斉藤には謝ろうと思っていた。
記者会見場に津田官房長官が入ってきて記者会見が始まった。加代は最後部に一人で座っていた。淡々とした口調で発表が始まり、短い時間で終わった。質問事項も数が少なく、官邸での日常業務が支障なく終わりをつげたが、北の共和国の話題は何も出ない。津田官房長官は小さな笑顔を見せて部屋を出て行った。加代は斉藤の姿を捜したが見当たらなかった。何の収穫も無かったが、斉藤に礼もせずに帰ることは出来ない。加代は、重い疲労感を感じた。参加者が部屋から出て行く。カメラクルーが機器の片付けをしているだけになったが、斉藤の姿は無かった。加代は椅子から立ち上がれずに、目を閉じた。自分に出来ることは何も無いことはわかっているが、何かをしなければならないとも思っている。人の近づく気配で目を開けると、斉藤が戻ってくるところだった。
「何かあるわね。官房長官が危機管理室へ向かったように思えるのよ。なんだろう」
「ごめんなさい」
「そんな悲しい顔しないでよ。何かあったら連絡する。話せるようになったら、約束どおり一番に教えてよ」
「ほんとに。ごめん」
「元気出しなさい。記者に貸し借りはつきもの。ちゃんと返してもらうから」
斉藤に肩を叩かれて、加代は官邸を後にした。


「発表は何もしないそうだ。難民対応が当面の議題になっている」
「それでも、なんらかの発表をしていただくわけにはいきませんか」
町村は厳しい目で北山本部長を見た。
「無理だろう。幕僚長の話では、危機管理室は学級委員会らしい。外務省主導ではなにも出来んわな」
「あれだけの船を集めることも、一斉に行動を起こせるのも、この事態が軍主導でやられていることは明白です。明らかに軍事行動です」
「そんなことは幕僚長も承知している。だがな、うちの長官があれではな」
防衛庁内では禁句になっている長官批判を北山がするのは、北山もかなり苛立っているということだった。若き女性市民活動家だった井上和美長官は、組閣の目玉として当選一回で防衛庁長官に就任した。制服組と長官の間には、いろいろな軋轢があった。各幕僚長は辛抱強く対応してきたが、本音の部分では、ほぼ匙を投げていると言った方が正しい。民主党が政権を取った時は、防衛庁長官には中原議員がなるだろうと言われていたが、市民派総理の実現と軍備縮小の公約により中原長官は実現しなかった。井上長官が誕生した時には、現場ではその若さと性別が心配されたが、自衛隊の上層部はそれほど青臭くなかった。しかし、「市民」と「人権」という言葉を金科玉条とする柔軟性の無さには手を焼いていた。
「本部長。我々はどうしても事前対応に目が行ってしまいますが、事後対策を早急に立案すべきではないでしょうか」
「のようだな」
「最悪の事態を想定しますので、それで会議を招集してください」
「わかった。やってみてくれ」
町村と武田は画面上で資料作成に取り掛かった。もう残り時間は僅かなので、多少乱暴な想定でも仕方がないと思った。明日未明に、船団は中間点に達するだろう。難民を装った武装集団が日本海のどこかの地点に上陸する。舞鶴地方隊があることで、舞鶴上陸を断念するだろうか。軍事基地といっても舞鶴地方隊は海軍の基地なので、それほどの不安は持っていないと考えなければならない。海岸線、岸壁、そして上陸後の展開を考慮すれば、町村なら舞鶴を目標地点とする。
軍事的抵抗が全く無かった場合、市内の制圧にはさほどの時間は必要としない。舞鶴市の人口が約十万として、半数が捕虜になった場合はどんな対応が出来るだろうか。もう、軍隊同士が戦う戦争は無いのかもしれない。五万人の民間人が人質になってしまったら、人質の犠牲覚悟で何らかの作戦を実行することが出来るのだろうか。相手は人質を確保した上で、少しずつ支配地域を増やしていけばいい。当初の五万人の人質は時間とともに十万にも百万にもなりうる。
そうなれば、もう国は乗っ取られたことになる。だからと言って、五万人の人質を犠牲にする決断をできる人がいるのだろうか。本部長に対して事後作戦の立案を提案した町村だが、この戦いは、上陸を許した時点で勝敗が決まることを再認識せざるをえなかった。
「こりゃ無理です。いっそ、本物の難民であることを期待しますよ」
「そんなわけないだろう。また、お前の勘は当たってしまうことになる」
「もし、この想定どおりの作戦だとすると、相手の参謀はとてつもなく優秀ですよね。何も東京を占拠する必要は無いわけですからね」
有効な作戦を打ち出せない状態で、町村は作戦会議の招集を依頼した。選択できない二者択一が永遠に続く。町村の頭に加代の顔が浮かんだ。
八時が過ぎて作戦会議が始まった。官邸の危機管理室は何の方針も出さないままに散会していて、三人の幕僚長も作戦会議に参加していた。
「何度も言うようですが、上陸を許せばそこで勝敗は決まります。出動命令と交戦命令が出ないままであれば、明日一日でこの戦いは終わります。これが軍事行動だとすれば、自分は軍事行動であると確信していますが、敵の上陸後に出来ることは無いと判断せざるをえません。我々に出来ることは人質の数を一人でも少なくすることぐらいだと考えます。再度、情報リークの提案をしたいと思います」
陸自の安藤一佐も反対しなかった。海上幕僚長の佐々木と北山本部長が額をよせて相談していた。
「佐々木幕僚長が井上長官と面談される。結論が出るまで休憩とする」
「待ってください」
陸自の安藤一佐が立ち上がった。
「自分は、町村一佐の意見に最初は違和感がありましたが、間違いでした。町村一佐の解析が正しいと思われます。つまり、海上での殲滅しか勝機は無いと自分も信じます。長官と面談をしても何も解決しないことぐらい、どなたが考えてもわかることだと思います。それとも、佐々木幕僚長は勝算がおありなのでしょうか」
「安藤。口が過ぎるぞ」
稲本陸上幕僚長が厳しい声を出した。
「申し訳ありません。ですが、どなたか町村一佐の分析に異議のある方がおられますか。何のために我々がここにいるのでしょう。未曾有の国難を前にして我々が何もしないということは裏切り行為ではありませんか。政治家は辞めれば済むかもしませんが、民間の犠牲は元に戻りません。自衛隊独自の判断でも、阻止すべきだと信じます」
「安藤一佐の退席を命ずる」
安藤一佐は、ゆっくりと敬礼をして部屋を出て行った。自衛隊独自の判断という言葉を使った時点で安藤一佐は軍法会議の候補になった。会議に参加している人間の総意を言ったに過ぎないが、陸上幕僚長は退席を命ずるほかに選択肢は無かった。制服組の最高位にある幕僚長は制服組の代表であると同時にシビリアンコントロールを機能させる責任者でもある。立ち止まっていた海自の佐々木幕僚長が鎮痛な表情で退席した。休憩に入ったので、陸自の参謀は全員部屋を出て行った。町村は、目の前の画面を見つめていた。
「びっくりしました」
武田が小声で言った。
「そうか。でも、安藤一佐は根っからの軍人なんだよ。俺が言いたいことを言ってくれたと思っている。俺が言ったかもしれん」

10
官邸記者クラブのブースに顔を出した加代を見て斉藤が高い声を出した。加代も斉藤もタバコを吸わないが、加代は目で斉藤を連れ出して、誰もいない喫煙場所に行った。
「話してくれる気になった」
「条件付でもいい」
「条件って」
「うちの社からこの情報が出たことを知られたくない」
「うう。スクープには出来ないんだ」
「駄目」
「大きいの」
「多分。人命がかかってると思う」
「政府がらみで、人命がかかってるんじゃ、大事じゃない」
「だけど、裏は取れていない」
「そう。私じゃ無理みたいね」
斉藤は携帯を取り出してボタンを押した。
「今、チーフに来てもらうわ」
やって来たのは、本間という年配の記者だった。斉藤の説明を聞き終わった本間が加代の目を見つめた。
「話を聞いてから決めてはいかんかね」
「はい。約束をしていただきたいです」
「出来ないと、言ったら」
「やめます」
「いつから、企画部」
「つい、最近です」
「企画部には、あまりいい思い出が無いんでね」
「斉藤さんから聞きました」
本間は胸のポケットからタバコを取り出した。
「いいかな」
「どうぞ」
本間はタバコに火をつけると、大きく吸い込んだ。
「条件を呑むしか、ないか。約束しよう」
「ありがとうございます」
「で」
「はい。昨日、北の共和国から大量の船が日本に向けて出港しました」
「大量って」
「数千隻だそうです」
「数千」
「大量難民の発生か、難民を装った軍事行動の可能性があります」
「まさか」
「はい。もしも、これが軍事行動だとすると、民間人が人質になる可能性があります」
「すぐには信用できない話だが、この情報の出所はどこ」
「言わなければいけませんか」
「裏が取れていないんだろ。言ってもらわないと」
「防衛庁です」
「防衛庁。まさか。防衛庁のどこ」
「統合参謀本部です」
「それは無いでしょう。本物ならえらいことだよ」
「ですから、こうやってお願いしてます」
「統合参謀本部のだれ」
「本部長の北山は、私の叔父なんです」
「それにしても、こんなでかい情報がどうしてここにあるの。君の上司は知ってるのか」
「いえ。話、してません」
「驚いたな」
「叔父からは口止めされています。このリークが表に出れば軍法会議だそうです」
「叔父さんは、リークという言葉を使ったのか」
「はい」
本間は加代から目を離し、吸っていたタバコを消した。
「本物らしいな」
「私もそう思いましたので、危険な橋を渡っています」
「どうして、うちではいけない」
「昨日、防衛庁を訪問した記録がありますし、調べれば叔父と私の関係はわかります。それに、決して口外しないと約束もしました」
「そうか。どうして欲しい」
「他社の、できれば新聞社でないところから、質問を出してもらえないかと」
「テレビ局のリポーターだな」
「難民発生の情報があるが、どうか。と」
「いつ、くる」
「多分、今日」
「時間、無いじゃないか」
「すみません」
「どうして、話す気になったんです」
「自分でも、よくわかりません」
「わかった。やってみよう。斉藤、このお嬢さんにくっついてろ」
本間は走って別館へ入って行った。

11
 午前の定例記者会見が始まった。津田官房長官の表情は昨日より緊張しているように見えたが、共和国の動きには全く触れられなかった。
「質問を」
津田官房長官は会場を見渡した。五列目中央に座っていた男性が手を挙げた。田村というテレビ局の報道記者として有名な人だった。
「共和国からの大量難民が日本に向かっているという情報がありますが、政府の対応はいかがでしょうか」
「難民ですか。そんな情報があるんですか」
場内に緊張が走った。津田官房長官の目も泳いだ。
「さあ、私は聞いていませんが、情報源を教えてくれませんか」
「漁師さんです。日本海に出漁している漁師さんが大量の船を目撃しています」
「そうですか。さっそく調べてみます」
「もう一つ、よろしいですか」
「どうぞ」
「官房長官はお聞きではないようですが、仮に、そのような事態があれば、当然、危機管理室が動きますよね」
「でしょうね」
「仮に、危機管理室が動けば、官房長官もメンバーのお一人ですか」
「そうなるでしょうね」
「でも、出席されていないということですね」
「そうです」
「ありがとうございました」
会場の人間が一斉に動いた。「他にご質問は」という津田官房長官の声を聞いている者はいなかった。駆け出しながら携帯電話に向かって大声を出す記者が増え、大声が出口に向かって殺到した。津田官房長官の否定発言は、否定したために事実と認定された。津田官房長官は呆然と立ち尽くしていた。
「あまい」
斉藤がつぶやいた。
「えっ」
「官房長官よ。どこの社も飛び出したでしょ。前からそうだったけど、彼は記者という人種を甘く見すぎてる。私も記者の端くれだけど、記者の動物的直感は半端じゃない。しかも、ほとんどの社の記者の直感に触れてしまった。難民事件は本物だったわ」
「斉藤さん。ありがとう。本間さんにもお礼を言っておいて」
「どうするの」
「現場に行ってみる」
「現場って」
「日本海」
加代は急いで社に戻り、官邸での出来事を自分の役回りも含めて大田に報告した。
「申し訳ありません。独断で動きました」
「そうか。何かあるとは思っていたが、そういうことか。僕の指示で動いたということにしなさい。君にこんな一面があったとはな。お嬢ちゃんだと思ってたよ」
「よろしいんですか」
「五課は、何でもありですよ」
「すみません。現地に行かせてもらえませんか」
「君はカメラ回せるか」
「はい」
「ヘリを用意する。よそに先を越されるなよ。うちの社にも」
「はい」
加代はポーチを腰につけただけの軽装で、大田の指示に従い調布飛行場に向かった。カメラは大阪の八尾飛行場で受け取ることになる。叔父か町村へ連絡をしておきたかったが、加代は情報の守秘を約束した叔父を裏切っていた。

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無力-2 [「無力」の本文]


「やっぱ、何か変ですよ」
「船か」
町村は後輩の武田二尉のほうに向きを変えた。衛星写真で捉えた共和国の東海岸に、大小の船が集結している。この二週間の間に、西海岸の船という船が、海路だけでなく陸路からも移動していた。そのことが何を意味するのかは判っていないが、異常事態に変わりはない。町村も武田も海上自衛隊員である。海と船は一番の関心事だった。
「本部長へは報告してあるけど、幕僚長のところで止まっているそうだ。この件に関しては、どこも報告していない。作戦計画以前の問題だ」
「なんか気になるんですよ」
「無茶を承知で作ってみるか。漁船を使用した日本上陸作戦に対する防衛計画とでもしよう」
「笑われるでしょうね」
「笑いたい奴には、笑わせておけばいい。俺はお前の勘を信じるよ」
防衛庁庁舎の地下三階にある統合参謀本部は、陸自、海自そして空自の三自衛隊から、それぞれ十名前後の参謀が集められている。本部長の北山健一郎将補は海上自衛隊出身だが、海上自衛隊からの作戦であっても容赦はない。作戦会議を招集しても、笑い飛ばされる公算が大きいことを承知で臨まなければならないだろう。だが、町村は過去の経験から武田の動物的な勘を信じていた。武田は童顔で、長髪にして服装を変えれば、すぐにでもアイドルになれるような美形なのだが、美男美女にありがちな嫌味を感じさせない。少し落ち着きのないのが気になるが、その直感にはいつも驚かされてきた。武田にも漁船による日本上陸作戦などあり得ないことは判っているのに、何か違和感を持っている。海自は共和国の海軍力には、まったく脅威を感じていない。古い艦船ばかりで、錬度も低い。共和国には、海路からの日本攻略戦術は無く、もっぱらミサイル開発に力を入れてきたと言える。だが、本当にそこに落とし穴は無いのか。
「船数は、どう思う」
「そうですね、二千から五千」
「五千として、一斉行動に出てきた時は、壊滅は難しいだろう。陸自も空自も出動だな」
「米軍のような、精度の高い写真が欲しいですね」
「泣くなよ」
先任将校は山崎一佐だが、席にいることは少ない。あらゆる調整業務をしていて、作戦会議を招集するには山崎の力が必要だった。
「明日は一佐もいるだろう。今日の内に概略を作ろう」
日本海の防衛は舞鶴に基地を持つ舞鶴地方隊の任務だったが、舞鶴地方隊だけでは難しい。そもそも漁船相手に行う戦闘など想定された事もない。佐世保や横須賀の戦力は期待できない。事態が起きてからの移動は時間的に無理がある。事前配備にはそれなりの根拠が必要になり、今の状況でそれが可能だろうか。
「こんな作戦、作った人はいないでしょうね。やっぱ、笑われるわ」
「誰が、一番笑うかも予測に入れとこう」
「間違いなく、安藤一佐でしょう」
安藤は陸自のエースと言われる男で、作戦会議では海自の町村と対立してきた。
二人がまとめた作戦概略は、通常の作戦の一項目ほどの量にしかならなかった。未知数が多いのでどうしても内容があいまいになってしまう。それでも提案してみようと町村は思っていた。
「よお」
疲れた顔の北山本部長が部屋に入ってきた。
「本部長」
部屋には町村と武田の二人しかいなかった。二人が同時に立ち上がって敬礼をした。
「お疲れのようですね」
「疲れる」
自衛隊の縮小計画を進める会議が続いていて、北山本部長も引きずり込まれていた。
「明日、作戦会議をお願いしようと思っています」
「ん。例の船か」
「はい」
「そんなに気になるか」
「武田の直感が自分の中で引っかかります」
「わかった。明日聞かせてもらう。武田の勘にも困ったもんだ。当たるからな」
「自分もそう思います」
「じゃあ」
町村に何か言いたいことがあったようだったが、北山はそのまま部屋を出て行った。
翌朝、朝一番に山崎をつかまえて、至急で会議の招集を要請した。概略書に目を通した山崎は、何も言わずに電話に手を伸ばした。山崎から作戦内容に注文をつけられたことはない。先任将校の中には口うるさい人もいるらしいが、山崎は全てを呑み込んでくれる。作戦参謀というより、師団長にするほうが自衛隊のためになるのだろうが、北山が手放さないという話を聞いたことがあった。五分後には、会議を十時から始めることが決まった。
「今日は少し苦労しそうだな」
「はい」
町村は参謀本部の全員に会議の時刻と概略書をメールした。
会議室には、出張中の者を除いて二十五名の参謀と三名の事務官が出席した。北山本部長から政治関連の報告が行われたあと、町村は大型プロジクターの前に立った。プロジクターに二週間前の衛星画像と昨日の画像を並べて表示する。
「まず、これを見てください」
武田が、全体画像と拡大画像を手際よく切り替えて表示した。陸路を運ばれていると思われる画像も表示する。
「国全体で、何かをしようとしていることは、この画像から判りますが、その真意は全く判明していません」
プロジエクターの画像が日本海と日本を含むものに変えられた。
「ご覧のとおり、ここは漁船でも行き来できる距離です。もし、これらの漁船群が一斉に押し寄せてきたとしたら、それなりの脅威になるものと考えます」
陸自の安藤一佐が、町村の説明を遮るように発言した。
「作戦計画の検討に入る前に少し確認させてください。これらの事態を軍事行動だと判断しているのですか」
「まだ、軍事行動と判断した訳ではありません」
「傍受無線に異常があったとは聞いていませんが」
「私も、無線は平常だと聞いています」
「ごく常識的に考えて、漁船でも上陸作戦が可能だと判断したということですか」
「成功の確率は、かなり小さなものでしょうが、可能ではあると考えます」
「では、町村一佐だったら、そのような作戦計画を作りますか」
「いいえ。作りません」
「政治的でも軍事的でも、変化の兆候があるという情報を我々は聞いていませんが」
「私もそのような情報は聞いていません」
「確かに、この状況は普通ではないと思いますが、もう少し情報が欲しいものですね」
「そのとおりだと思います。この状況の先にあるものを想定することも、皆さんに助けていただきたいと考えています」
町村は、この会議で安藤と対抗する気は最初からなかった。「なぜ」という疑問の前に同列で立ってもらえればいいのだと考えていた。
「では、この会議が作戦会議ではないと」
「いいえ、作戦会議にして欲しいと考えています」
「空自さんは、どのように考えておられますか」
「困りましたね」
航空自衛隊の高尾二佐が言葉をにごした。各隊での意見交換が行われ、会議室は騒々しくなった。
「乱暴でありますが、この表にあるような状況にどのように対応するかをお聞かせいただけませんか」
町村がプロジェクターの画面を変えると、全員の視線が集まってきた。
「大小二千隻の船に兵員五万人、そして千隻の補給船とします。舞鶴地方隊が、この内の四割を沈めたとします。仮に、上陸地点を舞鶴としますと、兵員三万人が舞鶴に上陸します。当然ながら、敵は第八軍が主力と考えます。民間人が避難できる時間的余裕は一日が限度と考えると、上陸後すぐに捕虜になるであろう民間人はかなりの数になるものと思われます。何の根拠もありませんが、捕虜は五千人とし、死者は千人としてみます。錬度と武器を考慮すると、敵の損害は非常に軽微となるでしょう。このような状況での作戦は、どのようなものになるでしょう」
「本部長。町村一佐の前提が乱暴すぎませんか」
安藤が北山の方を向いて発言した。
「確かに乱暴だ。ひどいもんだ。でも、一度やってみるか」
陸上自衛隊には、伝統的に本流意識がある。統合参謀本部の本部長が海上自衛隊出身者であることも、納得していない。安藤は、ためいきをついて、頭を振った。
「地上戦になりますと、我々にできることは陸自さんの支援作戦にならざるをえません」
高尾が常識的な発言をし、安藤が高尾を睨み付ける。安藤だけでなく、陸自の参謀の多くが、いつも二対一になることに不満を持っていた。伝統的に海自と空自を一段低くみる陸自の体質は、統合参謀本部が出来てからも変化はなかった。
安藤一佐が、ため息を一つついて、発言した。
「わかりました。では、もう一つ乱暴な前提を付け加えましょう。この状況では、初動が全てを決めるでしょう。無人の砂漠で陣取りをする訳ではありません。捕虜が犠牲になることもあると言う前提です。無茶な話ですが、この決断が無ければ撃退は難しいでしょう。町村一佐の表にある五千人の捕虜の半数は犠牲になる可能性がありますが、ここで躊躇すれば、さらに多くの捕虜が発生し、戦局はさらに不利になります。相手は第八軍です。本来であれば、五万の兵力が必要でしょう。この五万の兵力を一箇所へ集中するだけで、想像を絶する困難があります。つまり、時間がかかると言うことは、捕虜の数がさらに増えているということです。そこで、陸自の五千の兵力と、空自の全面的な攻撃と、護衛艦からの攻撃が必要と考えます。このような戦闘をする場合、捕虜の犠牲は覚悟しなければならないと言うことです。捕虜の犠牲を前提にしてはいかんと言うなら、町村一佐の前提条件の四割を十割にしてもらわなければなりません。海上で殲滅できなければ、酷い戦になります」
安藤の意見は正論であったが、海上での殲滅は不可能である。事前に兵力の集結が出来ないという点では海自も同じである。会議は一日中続いたが、結論は何一つ得られなかった。
「ここまでにしよう。各隊ともさらに検討しておくように」
北山が、次の作戦会議の日時を指定しなかったということは、実質的な作戦の立案までには到達できないということだった。


共和国では、半年ほど前から日本軍による侵略の危機が盛んに放送されていて、人民の結束を訴えていた。敵の上陸作戦を阻止するために、海岸線の防衛強化が叫ばれ、多くの人民移動が実施されている。南浦などの西海岸から船舶の移動も実行されていた。
清新の市街を見おろす場所にある、61招待所に宿泊するようになって一ヶ月がたった。日本語学科の学生の大半が参加させられているので、学生達は旅行気分であったが、次第に重苦しい雰囲気になってきている。金美姫も生来の明るさを失っていた。指導員が運転する車に四人の学生が引率されて、個別の家々をまわるのだが、車内での会話はもう無い。指導員は四十過ぎの無口な男だったが、最近ではその男の声を聞いたことがない。各人が担当する家々のメモを渡されて、目的地に着くと学生は無言で車を降りてゆく。一日におよそ五軒の家を訪問して、決められた日本語を教えていた。教えている日本語は簡単なもので、「うごくな」「とまれ」「あるけ」などの単語ばかりであったが、日本語の発音になるまで何度でも繰り返す。単調な授業であったが、何度も指導員が回ってきて様子を見ていくので、教えるほうも教えられる方も気が抜けなかった。当初は一軒に一家族だったが、最近では二家族以上が一つの家で生活をしていた。日本語教育以外の会話は禁止されているが、生徒の側の会話を聞いていると、ほぼ全国から集められているようだった。その日の訪問先は以前に訪問した家だったので不思議に思ったが、家の中に入ってみると新しい家族がいたので疑問は解けた。まだ歩き始めたばかりの子供のいる若い家族で、その夫は軍服を着ていた。
以前に来た時は六人家族だったが、祖父母にあたる二人の老人だけが残っている。巻物のようにして持ち歩いている教科書を壁に掛けて、美姫は事務的に授業を開始した。言葉の意味を説明して、一音ずつ発音してみせる。子供は母親にしがみついたままで美姫を凝視していた。四人の大人に大きな声で唱和してもらう。少しずつ音をつなげて、一つの単語にするのであるが、以前に教えたはずの二人の老人よりは、若夫婦の方が覚えが早い。
「中尉さん。一人だけで言ってみてください」
エリ章から人民軍中尉とわかるが、名前まではわからないので、階級で呼んだ。しっかりした発音で日本語としてなんの違和感もなかった。
「とてもすばらしいです。日本語が喋れるんですか」
「いいえ」
「そうですか。とても上手です」
一時間半の授業も終わりに近づいて、部屋の空気が少し和んだ。
「お嬢さん。私のことを覚えていませんか」
「えっ」
「一度、閣下の使いで平城のお宅に行かせてもらいました」
父の着替えを取りに来た兵隊が、緊張のせいか、荷物を持たずに飛び出して行ったことがあったことを思い出した。
「安さん」
「覚えていてくれましたか。ありがとうございます」
夫は妻の方を見て、得意そうな顔をした。
もう亡くなったが、美姫の祖父も軍人だったし、父親も、そして兄も軍人である。大学に行くまでは、美姫の知人といえば軍人とその家族で、大学生になったころは、自分の視野の狭さに驚いたほどだった。エリート大学には違いはないが、多種多彩な若者がいた。特権を利用して遊びまわる学生もいたが、大多数は真面目に自分の学問と取り組んでいる。しかし、学問以外に何の興味も無いというわけではなく、安全が得られれば痛烈な体制批判をする学生もいた。密告されて姿を消した学生もいたが、抑圧された体制の中では多くの若者が現状批判を内に秘めていると言える。平城にいた時は、他の学生より外国人に接触することが多かったが、共和国には聞き上手な人が多いと言われた。美姫も自分の意見は決して口に出さなかった。母親からも「笑顔で聞きなさい」と幼い頃から教え込まれていたので、喋らないことが苦痛ではない。笑顔には自信があった。日本語学科の中では常にトップクラスの成績をあげていたので、日本人の先生に直接授業をしてもらったこともあり、臨時で通訳の仕事もした。しかし、接した日本人からは「鬼畜」の感触は得られなかった。「鬼畜日帝の攻撃」という言葉も、聞き飽きたと言っても過言ではないので、誰もが受け流している。ただ、平城と清新とのあまりにも大きな落差に学生達の神経は磨り減っていた。家々も古く貧しい。市街を行きかう人々の様子も貧しく生気がないし、孤児の数にも驚いた。「何かが違う」という感触は、清新に来てから更に強くなった。
授業を終えて招待所へ戻ると、母親がいた。
「どうして」
母親は笑顔でうなずくだけであった。経験から母親のこの笑顔は重大事件なのだとわかった。友人の家族も大勢来ていて、久しぶりの再会に招待所が活気づいていた。


 加代が五課へ配置転換になって一ヶ月が過ぎた。時間の過ぎていく感覚が今までの生活と全く違っていた。まるで時間と競争しているように感じてしまう。仮眠ベッドは使うまいと思っていたのに、すでに何度も自分の部屋に帰っていない日があった。
「また泊まったのね」
根岸は五課の人間にとって、いつも母親のような存在であった。加代もつい頼ってしまう。
「癖になってしまうわよ」
「ごめんなさい」
「今日、お昼一緒にどう。ちゃんと食べてないんでしょ」
「そうですよね。今日は食べます」
目を通さなければならない資料が日毎に増えていっているように思う。まだ、それほど多くの報告書を書いているわけではないのに、報告書を書くたびに参考資料のリストが大田から届く。それが苦痛ではないが、時間が不足してしまうので睡眠時間を調整するしかなかった。
「根岸さん。お昼に行きましょうか」
いつもは根岸が加代の部屋に来るので、少し早めに部屋を出て根岸を誘った。
「あら。珍しいわね」
「お腹減っちゃった」
「そう。今日は少し違うお店にしましよう。娘が来るの」
「娘さん」
「あなたと同じ歳よ」
「そうなんですか。私、遠慮した方が」
「まさか。さばけてるというのか。時々男の子じゃないかと思うの。でもきっと気が合うと思うわ。行きましょう」
根岸が連れて行ってくれたのは、いつもの食堂より二ブロック離れた所にあるフランス料理店だった。そこも古くからあるお店らしく、看板の文字が消えかけていた。根岸はウエイターに会釈をして奥へ進んでいった。
「おまちどうさん」
「あら。ちょうど今から頼むとこよ」
「こちらは北山加代さん」
「あっ。根岸アナウンサー」
根岸の娘というのは、テレビでいつも見ていたNHKのアナウンサーだった。ショートカットのボーイッシュな感じはテレビで見るのと同じだった。
「テレビで見るのと同じって、よく言われるわ」
「え」
「初めて会った人の感想。根岸幸子です。イヤな名前よね」
「北山です」
「どうして、幸子なのかって子供の頃から抗議してるの。親にはもう少し知恵をしぼって欲しいと思うわ」
「いつも、こうなの。気にしないでね」
加代と幸子は肉料理にして、根岸は魚料理になった。
「記者の仕事って大変でしょう」
「まだ、なりたてだから。アナウンサーの方が大変でしょう」
根岸から同じ年齢だと聞いていたが、自分よりはるかに大人だという印象をうけた。
「最初はアナウンサーという仕事に憧れていたけど、自分の娘には勧めない。専業主婦になりたいという娘がいい。社会的立場での男の思考回路にはうんざりだわ。ひとりよがりのロマンチストって最悪。男社会だから仕方ないけどね」
「また、なにかあったの」
「いつも、なにかあるのよね。かと言って、女社会になったらもっとひどいことになるとは思う」
「トラブルがあると、こうやってお昼を食べに来るの。で、母親だってことを思い出させてくれるのよ」
「母さんには感謝してます」
乱暴な言い方をするが、幸子の話には嫌味がなかった。たぶん、幸子の笑顔がそうさせているのだと思った。加代は職場での男達に失望はしていない。環境がよかったと言えばそれまでなのだが、これからもそうであって欲しいと思う。
食事は美味しく、三人での会話も楽しかった。加代と幸子は電話番号とメールアドレスを交換して別れた。幸子の表情も和らぎ、元気を取り戻したようだと根岸が言った。
事務所に戻った加代は、資料を読む仕事にとりかかった。防衛庁の参謀本部へは日参していたが、毎日誰かと面会できるわけではない。防衛庁の広報からは参謀本部の情報は出てこないので、どこの新聞社でも参謀本部に対してはゲリラ的な取材方法をとらざるをえない。各社ともそれなりのパイプを持っていて、僅かではあるが非公式情報は入手していた。新人記者の加代が海自とのパイプを持っていることを他社の記者は不審に思っていて、「美人はいいね」と嫌味も言われる。加代が本部長の姪で町村の恋人であるという背景はまだ誰にも知られていないようで、加代も神経を使っていた。だから、町村から社に電話があった時は驚いた。電話の件を報告した時の大田の表情は、加代の驚きをはるかに超えるものだった。町村が加代の恋人だということは大田も知らない。参謀本部の第一線にいる現役の参謀から新聞社の記者に呼び出しがかかるなんてことは前代未聞のことなので、どう対応したものかと思ったようだった。
町村からは腕章も入館証も使わないように言われていたので、加代はまっすぐ正面受付に向かった。事務官が現れて、入館証作成の部屋へ案内された。個人情報を所定の用紙に記入し、写真を撮られてしばらく待たされた。自分でも初めて防衛庁を訪問しているように感じてしまう。新しい入館証を首にかけて、事務官と二人、エレベーターで地下へ降りた。地下一階の廊下を何度か曲がって奥へ進むと、武器を持った軍人が二人立っているドアの前に出た。事務官は手にしていたボードを渡して引き返して行き、歩哨軍人がインターホンで連絡を取っている。しばらくしてドアが開き、制服を着た海自二尉が出てきた。
「北山さんですね」
入館証の写真と実物を見比べながら二尉が言った。
二尉の後ろをついて行くと、別のエレベターホールにでた。
「武田といいます。町村一佐の下で働いています。本部長にはよく叱られています」
武田二尉は加代が本部長の姪で町村の恋人だということを知っているらしい。笑顔で答えるのもおかしいと思い、加代は軽く会釈をした。エレベーターで地下三階へ降りて、再び歩哨の立つドアをぬけて、小さな会議室へ案内された。
「ここで、しばらくお待ちください」
加代の会社の会議室よりはるかに上質の部屋で、防衛庁の地下会議室にいるという感触は無い。防衛庁がこの建物に統合された時に、立派すぎて落ち着かないと町村が言っていた。加代は机の上に出した手帳を、じっと見つめた。緊張しているのが自分でもわかる。
「よお」
町村が部屋に入ってきた。職場にいる町村の姿を見るのは初めてだった。加代は椅子から立ち上がって頭を下げた。
「呼び出して、すまん。君に無理難題を押し付けるのは気が進まないんだが、相談に乗ってもらいたいと思って。勿論、話を聞いた後で、断ってくれてかまわない。かなり、微妙な話なんだ」
「はい」
町村が、手にした資料を見つめて黙ってしまった。
「まだ。決心がつかない。自分から言い出したことで、本部長の了解も取ったんだが、本当にこの件に君を引きずり込んでいいものか」
町村は悲しそうな笑顔を見せて、黙り込んでしまった。
「いかんな。ごめん。やめとく」
加代は話を聞いてみたい気持ちと、聞いてはいけないという思いがあった。加代は自分の恋人が町村であることに誇りを持っている。仕事以外でも、その柔軟な思考と鮮やかな決断力はいつも尊敬していたので、これほど苦悩している町村を見るのは初めてだった。
町村が席を立った時に、北山本部長が会議室に入ってきた
「本部長」
「うん。話は終わったのか」
「いえ。やめました」
「やめた」
「はい。やはり、この件に民間人を引き入れてはいかんと思います」
「そうか。そうだな」
「申し訳ありません。自分の勇み足です」
「すまんな。加代」
「私」
加代は話を聞いていないので、どういうことなのかわらない。
「ほんとうに申し訳ない」
町村が姿勢を正して加代に頭を下げた時、勢いよくドアが開いて武田二尉が入ってきた。
「動きました」
「なに」
部屋の中にいた三人の軍人に異様な緊張が張り詰めて、加代は身を縮めた。
「山崎一佐を捜せ」
町村が緊張した声で武田に言った。
「本部長。レベルを上げてください」
「わかった」
町村と武田が飛び出すように部屋を出て行く。ドアの所で町村が加代の方を向き、「すまん」という動作をした。
「加代。ここで一時間ぐらい待っててくれるか。どうしても手を借りなきゃならんかもしれん」
「えっ、はい」
「どこにも連絡は入れないでくれ。頼む」
部屋を出て行く叔父の背中が緊張していた。
五分ほど過ぎた時に金属音がスピーカーから流れ、防衛警戒レベルが「3」になったとアナウンスがあった。


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無力-1 [「無力」の本文]


長梅雨の予測が出されていたのに、日中は初夏のような日差しが続き、その暑さはまだおさまっていなかった。お茶の水駅のホームで、加代は上着を脱いで腕にかけた。丸みのある顔に、いつものような柔らかい表情はなく、目は遠くを見つめている。上着を脱いだほうが、その均整のとれたスタイルが強調され、男達の視線が注がれていたが、気がついていないようだった。電車がホームに入ってきた音に反応して、中央線の車内に乗り込んだ。
加代は人事異動の内示のことで、まだ悩んでいた。叔父の北山健一郎は、自衛隊統合参謀本部の本部長職にあり、多忙をきわめている。そんな叔父が加代と食事をする時間だけは苦労して作っていることを知っているので、中止にはできなかった。三年前に叔母が亡くなり、気落ちしていた叔父を元気づけようと、一緒に食事をしたのがきっかけで、この三年間はほぼ定期的な行事になっていた。子供に恵まれなかった叔父夫婦は、加代が生まれた時から自分達の子供のように接してくれていたので、一人残された叔父を放っておくことはできなかった。加代の人事異動は、その叔父に関係したものだった。
レストラン・ミルは、上智大学の横から少し入り込んだところにあり、年配のオーナーシェフが家族だけで営業している目立たないレストランだった。常連客の溜まり場になっているような店だったが、料理は加代の口にあっていた。
「いらっしゃいませ。お待ちですよ」
一番奥の席で叔父は本を読んでいた。
「ごめんなさい。遅くなっちゃった」
「元気、無いな」
「ええ」
料理はいつもシェフのお勧めと決まっているので、オーダーの必要はなかった。
「今日は、初めて加代の難問を聞かされそうだな」
加代は元気のない笑顔を返した。
「食事の前に話を聞くよ。そんな顔で食べたら美味しくないだろう」
「怖い顔、してる」
「悲しい顔かな」
「かも」
「町村君と何かあったか」
「うんん。私、社を辞めなきゃかも」
「おい。穏やかじゃないな」
加代は、昨日あった人事異動の内示の話を切りだした。日日新聞社の総務部に勤めて六年になるが、企画部五課への配置替えだった。
「で」
「企画部は三課までしかないの」
「それで、五課」
「柳原さんに聞いてみた」
柳原は叔父の友人で、正式の役職は持っていないのに発言力はあるらしく、見えない権力者とも言われている。
「安全保障研究チーム」
「ほう」
「私が叔父さんの姪だということを誰かが見つけたそうなの」
「柳原は言わないだろう」
「名前は言えないと。でも追認はせざるをえなかったと」
「そりゃあ、あいつにも立場があるもんな」
「ひどいでしょう。私にスパイになれってことでしょう」
「まあ、短く言えばそういうことだな。でも当然といえば当然かな」
「たしかに、私は記者になりたかった。でも」
「で、社を辞めると」
「うん」
「暗い顔にもなるな」
「うん」
「でも、記者になりたかったんだろ」
「うん」
「俺はいいよ」
「でも」
「ただ、町村君とのことは二人でよく話をすることだ。それに俺が本当のことを言うとはかぎらない。結果的に加代が逆スパイになるかもしれない」
「逆スパイ」
「だろう」
「そうね」
「お互い様ってことよ。加代は自分のために動けばいい。」
「そういうことよね。叔父さまが機密漏洩なんてありえないのよね。私、なに考えていたんだろ」
「よほど、偽情報を見つける自信があるんだろう」
「つまり、私がなにかを判断するような事ではない」
「そういうことさ。美味しく食事にしよう」
「こんな忙しい時にごめんなさい」
「とんでもない。こんな時間もなければ、やってられないよ。それより、町村君を呼びだしてやってくれ。ほとんど、寝てないんじゃないかな」
加代にいつもの柔らかい表情が戻ってきた。いつまでも子供なんだなと思う。仕事が変われば、また結婚は先の話になるのかもしれない。町村勇一と初めて会ったのは、勇一が叔母の葬儀の手伝いにきていた三年前だった。その後、叔父の家で何度か姿を見たことはあったが話をするほどの間柄ではなく、一年ほど前に叔父と三人で食事をする機会があり、二人は急速に親しい関係になった。学生時代の恋愛がひどい結果となって、二度と恋愛などするものかと堅い決心をしていたが、勇一の人柄に接してその決心は遠い想い出になった。叔父は勇一のことを「うちのエースだ」と言うが、その茫洋とした人柄からは想像もできない。統合参謀本部の参謀をするぐらいなのだから優秀な才能を持っているのだろうけど、加代はまだその片鱗も見たことがなかった。言葉に出したことはないが、二人とも結婚の時期かなと思っていたが、ふんぎりがついていないのは加代のほうだった。


事務の引き継ぎは三日で終わり、加代は私物をまとめて三崎町にある別館に移ることになった。
「北山加代さんですね」
「はい」
奥行きのあるビルらしく、思ったより長い廊下を歩いて部屋に入った。部屋は会議室で、テーブルに十人ほどの人がいた。
「北山さんが、来られました」
「ごくろうさん。ありがとう」
責任者とおもわれる年輩の男性が立ち上がった。
「北山です」
「どうぞ。座って下さい。根岸さん、コーヒーをお願いします」
加代は私物の入ったダンボールを床に置いて、そっと椅子に腰をおろした。
「少し違和感があるでしょう」
「はい」
「慣れてください。私は太田です。ここの責任者です」
全員を紹介してくれたが、誰の名前も覚えられなかった。自分でもだんだんと声が小さくなるのがわかった。
「今日は以上。北山さんへのブリーフィングは僕がやります」
全員が退席したあとに、太田が近くの席に座り直した。髪の様子からは五十代後半に見えるが、それ以外のエネルギーは五十前を感じさせる。眼鏡の奥の光にも強さがあった。
「五課へようこそ。事情は承知しています。貴女が統合参謀本部長の北山さんの姪御さんで、柳原さんの紹介で入社されたこともです。でも、不安ですよね」
「はい」
「すぐに慣れますよ。我々の仕事は安全保障に関するあらゆる情報の収集と分析ですが、場合によっては身の危険に遭遇することもあるかもしれません。もっとも、この十年間にそのようなことは一度も起きてはいませんが、覚悟だけは持っています。脅しているつもりはないんですが、中途半端は貴女にとっても我々にとっても、決していい結果にはなりません。貴女が総務部へ戻りたいのだったら、そのようにすることもできますが」
太田が言葉をきって、目で同意を求めていた。
「やらせていただきます」
まだ不安はあったが、大田の話し方と視線に反発を感じた。子ども扱いされている。加代は覚悟を決めた。
「よかった。事情が事情なので、少し心配はしていたんです。仕事部屋へ案内しましょう」
案内された仕事部屋というのは、言葉どおりの部屋であった。頑丈なドアの中は広い作業机があり、カーテンの奥にはベッドと洗面所があった。
「びっくりですか」
「はい」
「出勤も自由、泊まり込みも自由です。仕事の中身しか求めません。この部屋は鍵もかかりますし、防音も完璧ですから、プライバシーは守られています。マスターキーはありますが、まだ一度も使ったことがありません。ただ、必要なものは揃えて下さい。布団とか洗面用品は全て自己負担になります。座りましょうか」
太田と加代は並んで座った。
「最初にIDの取得、そしてパスワードとメールアドレスの登録をやっておいて下さい。貴女には統合参謀本部を担当してもらいますが、まずは安全保障全般の資料を読破してもらいます。かなりの量になりますので、十日間ぐらいはかかるでしょう。読まなければいけない項目は、後でメールします」
五分ほどの説明で太田が部屋を出ていった。もう戻る場所がないことを認めざるをえないようだ。
加代はパソコンの電源を入れて必要事項を入力し、IDコード、パスワードとメールアドレスを書き出した。登録が終わると、パソコンはリブートを開始したので、加代はダンボールに入っていた私物の整理をすることにした。私物といっても、ごく少ない。自分用の筆記具、メモ帳、カーディガンとスニーカーで、それを片づけるとダンボールの中はティッシュが残っているだけだった。
パソコンが立ち上がると、既に太田からのメールがあった。読まなければならない項目が書き出されている。加代はそのメールをプリントアウトした。総務部に在籍していたとはいえ、新聞社の一員なので社会情報にはそれほど疎いほうではないと思っている。とりあえず、最初の項目から挑戦することにした。目を通していくと、一般的な政治情勢の解説で、それほど目新しいものではない。だが、その量は半端ではないようだった。ドアをノックする音で反射的に時計を見ると、十二時を四十分も過ぎている。
「はい」
「食事にしてください」
太田と、最初に加代を案内してくれた根岸と呼ばれていた女性が立っていた。
「部屋の鍵は引き出しに入ってますから」
加代がセカンドバックと鍵を持って部屋を出た時には、根岸だけが待っていてくれた。
「このビルには食堂は無いんです。もっとも、社員食堂で美味しいという所はあまり知りませんので、これでいいのかも」
根岸の後を歩いて行き、ドアを通るとエレベーターホールになっていた。
「社員用のエレベーターです。裏が通用口になっていますので、次からはこれを使ってください」
裏通りには違いないが、交通量も人通りも多かった。根岸が連れて行ってくれたところは、すぐ近くの丸福食堂という古びた看板の店で、昔ながらの定食屋だった。
「若い人は嫌かもしれませんね」
「いえ、こういうお店、好きです」
「味とお値段では、私の一押しです」
満席の店内の隅に席を見つけて、根岸がすばやく座った。座ると同時にメニューを加代に渡して、手を挙げる。
「何か嫌いなものは」
「いえ。何でも食べます」
「ブリ定食がおすすめ」
「はい」
根岸がすすめるままに、ブリ定食二つが注文された。「母親みたい」と加代は思った。
「あなた、本社の総務部にいたんでしょ」
「はい」
「転職したんだと、思ったほうがいいわね。自分の家に帰ることのほうが少ない人もいるぐらいだから、かなりきつい職場だと思う。だって、個人用の仮眠場所がある職場なんて聞いたことないもの」
「ええ」
根岸は、食事の間、いろいろな情報を教えてくれて、少しだけ周囲が見えてきたように感じた。なによりも、おすすめと言っていた通り、ブリ定食が美味しかった。
次の日から、加代のハードスケジュールが始まった。泊り込みこそしなかったが、十二時前に帰ることはなく、土日も休めなかった。新しいファイルを開けるたびにあらわれる膨大な量の資料に、目の前が暗くなる思いだった。それでも、十日でなんとか読破することができた。それらの資料を読み始めたのが、何年も前のような気がする。日本の防衛の最前線に立っているようにも思う。
まだ、自民党政権のほうがよかったのかもしれない。突然の解散総選挙になったのは二年前で、あっけなく政権交代になってしまった。民主党にも、山のように問題があり、代表がめまぐるしく変わった。総選挙で勝利した時の代表が菅野直太で、そのまま総理大臣に就任したが、今でも民主党の中はまとまっているとは言えない。総理大臣になってからの菅野直太は、昔よりさらに市民派に傾き、問題山積の状態であった。就任三ヶ月後に、選挙公約でもあったイラクからの自衛隊撤兵を、米国の反対を押し切って実行して、日米関係が危険になってしまった。さらに、六ヶ月後には世論の圧倒的な反対があったにもかかわらず、日中安全保障条約を締結して中国に膝を折った。まだ、日米安全保障条約こそ破棄されてはいないものの、日本政府の要望により、昨年の暮には在日米軍の完全撤退がおこなわれ、条約破棄も時間の問題だとみられている。経済面でも日本の破綻を予測する論調が世界の主流となっているが、対応はすべて後手後手となり、経済界のいらだちは限界にきていた。アメリカ市場も中国市場もそれぞれ脆弱な部分を持っているが、多くの経済危機を乗り越えてきているアメリカと違い、中国の危機は世界を震撼させるだろうと言うのが常識であり、最大の影響を受けるのが日本だと言われている。社会面では、個人の人権が極度に主張され、いたるところで摩擦が表面化し始め、司法の硬直化をまねき、「話し合い」という標語がまるで人格を持ったように一人歩きをしていた。軍事面では、アジアにはもう危機はないと言う政府が、次々と防衛予算を削減し始めていて、自衛隊員の再就職先を見つける政府プロジエクトも発足するという。「話し合い」で問題解決を図る国に、軍事力は不要だと決め付け、中国などからは大きな拍手で歓迎された。軍事費の削減がその効果を発揮する五年後には、国の財政も立ち直る予測が政府から発表されていたが、税収の減少が予測値に反映されていないと批判されているのも事実であった。
さほど危機感を持っていなかった加代も、この十日間で明日にも起こるかもしれない日本崩壊を感じざるをえなかった。確かに、加代のいる新聞社は右よりだと言われていたが、読んだ資料が偏向資料とは感じない。包括的に判断をすると、危機が目の前にあるように感じてしまう。レポートを書く前に、加代は叔父に話を聞きたいと思った。


 レストラン・ミルで、加代は叔父の健一郎と向き合っていた。
「このままだと、近い将来に日本は壊れてしまうような気がするの。私の勘違いなの」
「いや。それが常識的な見通しだろう」
「常識的と言うのは、間違っていると言うことなの」
「ん。間違ってもいるし、間違ってもいない。日本が壊滅的な状態になるだろうと言うことは、たぶん合っているのだろう。だが、壊れてしまうことが悪いことなのかと言うと、俺は違うと思う。日本という国は、壊れないと再生できないと言う困った習性を持っている。民主党政権になってから、破壊への道を走り出したと言う人がいるが、自民党政権でも、いずれ同じことになっていたと思う。自民党なら二十年、民主党なら五年。壊れるなら早く壊れたほうが、ダメージが少ないとも言える。これからだって、何が起きても不思議じゃないだろう。思い悩んでも始まらない。棺桶に片足を突っ込んだ時に、まっ、いいかと思えるかどうかだと思っている」
「自衛隊は大変なんでしょう」
「ものすごくね」
「どうするの」
「どうもしないさ。与えられた条件の中で最善を尽くすのが軍人なんだよ」
「自衛隊が無くなるの」
「五年もすれば、実質的にそういうことになるだろうな。戦えない軍隊はもう、軍隊とは言えないだろう。それまでは頑張らなきゃいかんと言うことだ」
「どこかが攻めてきたら」
「難しい質問だな。まあ、一般的な答にしかならんが、二年以内なら、なんとか防衛できるだろう。ただし、戦ったとして、だ」
「戦ったとしてって」
「交戦命令が出ないと、自衛隊は戦闘をしない」
「どうなるの」
「つらい状況になるだろうな」
「自衛隊は、そうなっても、何もできないと」
「我々が勝手に動けば、軍事クーデターということになる」
「クーデターは起こさない」
「自衛隊の中にはクーデターでも、という人間がいることは否定できない。でも、軍事クーデターの先に何か展望はあるかね。俺は、残念ながら展望は無いと思っている」
「難しいのね」
「あまり町村君をいじめるなよ。あいつはまだ若い。加代を守るために戦うと言い出したら、止まらないだろう。戦争で一番ひどい目にあうのは、いつも、女と子供なんだ。男は、守るべき者のために死ぬことを、どこかで納得してる。DNAがそうなってるんだろう」
「どんどん、自信が無くなっていくわ」
「加代のように素直な娘には、きついかもしれんな」
「よく、考えてみる」
 叔父と別れた加代は、社に戻ってレポートを書き上げてしまうことにした。一度踏み出してしまったのだから、しばらくはこのまま進むしかないと思っていた。


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