SSブログ

他国に蹂躙されない国 [評論]



イスラエルで戦争が始まりました。
パレスチナのガザを実効支配しているハマスの大規模な攻撃が、その始まりでした。
これまで実行してきたハマスの攻撃とは、全く違うものです。
オスロ合意が頓挫したことで、パレスチナは国とは認められていません。ですから、ハマスをテロ集団と呼ぶ人も多くいます。自国を持たない民族が行った軍事行動は、やはり、テロなのでしょうか。もしも、パレスチナ国という国が存在していたら、ハマス軍は国軍だったと思います。私は、そこに違和感を感じました。国と国の戦いだけを戦争と呼ぶのは、少し違うと思います。ただ、戦争でもテロでも嬉しくありません。でも、戦争が無くなることはないと思います。
軍事力には大人と子供の差がありますが、これは、戦争なのだと思います。軍事力の差は経済力の差です。なぜ、これほどの差が生まれたのでしょう。
パレスチナ問題の最大の問題は、パレスチナ自治区と呼ばれる地域とパレスチナ人に、経済的な基盤がないことです。国連や他国の支援なしには住民の生活が成り立たないことが、問題なのだと思います。それは、パレスチナ人が国を持っていないからです。
抑圧され、迫害され、多くの同胞を失ったユダヤ人が、自分の国を持てない苦しみを一番理解している筈ですが、ユダヤ人は、今、かつてのナチスと同じことをやっています。しかし、ユダヤ人を責めても、何も解決しません。残念ながら、これが、人間なのです。イスラエルとパレスチナが逆の立場に立っていたら、今、ユダヤ人がやっていることをアラブ人がやっていたのだと思います。私達が同じ立場に立てば同じことをすると思います。
私達日本人には、自覚がありませんが、国は必要なのです。

今回のハマスの攻撃には、イスラエルはビックリしたと思います。
数千発のミサイルとロケット弾がイスラエル領に降り注ぎました。その量に驚くだけではなく、ハマスはドローン攻撃でイスラエルの防御網を破壊したのです。ハマスが、これほど組織的な攻撃をしたのは初めてです。ハマスは、2年前から準備をしたと言っています。
イランの関与がどの程度のものだったのかはわかっていませんが、ハマスがロシアで訓練を受けていたという情報はあります。
米ソ冷戦後に始まった新たな世界潮流は、ウクライナで、イスラエルで、動き始めているように見えます。
ウクライナ戦争では、イランがドローンをロシアに提供し、北朝鮮が砲弾をロシアに提供し、中国もドローンや半導体をロシアに提供していると言われています。中国とロシアとイランと北朝鮮の軍事的な関係は、日々強化されているように見えます。規模は小さいかもしれませんが、ハマス、ヒズボラ、フーシ等々の組織に、資金や武器が流れていたとしても不思議ではありません。国際関係は多極化の時代だと言われていますが、多極化のままで固定することはなく、二極化に向かうのは、よくあることだと思います。
中東でよく起きる紛争だと思っていると判断を間違う可能性があります。今回の紛争が、世界潮流の支流であっても不思議ではありません。
第三次世界大戦へと一歩一歩近づいていると考える必要があるのかもしれません。
もし、そうであるなら、私達も無関係ではありません。
もちろん、すぐに世界大戦になることはないとしても、ベクトルの方向は意識しておかねばならないと思います。
イランは、物価高とヒジャブ問題で国内が安定していませんので、戦争をする余裕はないと言われていて、今回は、中東全体を巻き込んだ第五次中東戦争に発展する可能性は低いと言われています。イラン政府の発言も、腰が引けているように見えます。
でも、中東ですから、何が起きても不思議ではありません。
中東では、政治的合理性や経済的合理性が通用しません。
それは、民族の誇りと宗教という厄介な問題が大きなウェートを占めるのが中東地域の特徴だからです。中東地域では、政治的合理性や経済的合理性は、誇りと信仰の前では、大きな力を持ちません。人間は、感情と理性のコントロールに苦労するものですが、中東での感情の重さは、他の地域とは別物だと思います。
ですから、誰かの感情を刺激する事態が生まれた時には、合理性は役に立ちません。
専門家であっても、中東地域の予測は難しい、と言います。それは、合理性を基準にして予測を組み立てても、意味がないからです。
国と民族と宗教が複雑にからんだ「こじれた関係」という言葉が、中東地域にピッタリの言葉だと思います。
この「こじれた関係」には、2000年の歴史があります。ローマ帝国の時代以来、今日まで、その関係が正常化することはありませんでした。時間は、その複雑さをより濃くしたのではないでしょうか。
最も大きな原因は、時代時代の大国の横暴、大国の「自分さえよければ」だと思いますが、その原因の1つに、陸続きの国家特有の環境があったのだと思います。私達島国に住む人間には、理解できていないのだと思います。欧州、中東、アフリカから遠く離れた東の果てにある小国、それが日本でした。海は、中国歴代の帝国の侵略も困難にしました。文化と歴史と伝統を信奉する方は「日本は神の国である」と自画自賛します。違います。これまでは、たまたま、地理的に有利な場所に国があっただけです。でも、今は違います。海を数分で越えるミサイルが当たり前になったからです。
イスラエルもパレスチナも、他の中東諸国も、アフリカの国々も、地理的に欧州に近かったことで、欧州各国の「欲」の対象にされ、それが不運を招いてしまいました。彼等の感情の底辺には、ローマ帝国に代表される欧州の国々に対する「恨み」があります。中東の人達は、その「恨み」を代々伝えてきましたが、風化する頃には新しい「恨み」が生まれ、「恨み」は何層にも積み上げられ、絶対悪として存在するようになったのだと思います。多分、私達日本人には、想像すらできないのだと思います。
ですから、中東のことは、私にはわかりません。
ただ、何が起きても不思議ではないのだということはわかります。
今回の紛争が、どんな決着を迎えるのか、決着不能になるのか、それもわかりません。
しかし、世界に、何らかの影響が出ることは予測できます。
いろいろな場所で対立が表面化している時代を迎え、今、世界は、激動の時代が始まっていると感じています。
確率は低いかもしれませんが、第五次中東戦争が起き、その延長線上で第三次世界大戦が始まっても不思議ではないと思います。

少し、中東以外の地域の紛争を見てみます。
中国は、インドと、ベトナムと、フィリピンと、台湾と、日本と、小競合いを続けています。アメリカ軍やカナダ軍とも小競合いをしていて、南シナ海や東シナ海で、武力衝突が起きる可能性は、高まっています。
戦争にはなりませんでしたが、尖閣諸島で、意図的な船舶衝突事件がありました。フィリピンでも中国海警による意図的な衝突事件が起きています。アメリカ軍機に対する中国空軍の威嚇行動も増えていると報道されています。小競合いを続けていれば、不測の事態というのは起きるものです。
同じく、朝鮮半島も、不測の事態が起きる環境になっています。
既に、ウクライナでは、本格的な戦争をやっています。
各地の紛争が収斂し、世界を二分して戦うのが、世界大戦ですが、国際関係は、いい意味でも、悪い意味でも、一筋縄では収まりません。予測では、アメリカ連合軍対中国連合軍の戦いになると予測されていますが、私も、そう予測していますが、厄介な問題があります。
それは、アメリカが連合軍に参加するかどうか、わからないことです。
来年、アメリカの大統領選挙が行われます。
もしも、トランプが再登場したら、世界のいろいろな力関係が変化します。
中国は、それまで自重するかもしれません。
トランプが大統領になれば、「アメリカファースト」の仕上げをすると思います。
「海外を支援するのではなく、自国民を支援しろ」というアメリカ国民の声は大きくなっています。日本でも、総理大臣が海外に出向くと、恒例になっているバラマキをし、日本国内から批判が出ていますので、理解できる人も多いと思います。
アメリカは、800万人を海外に派兵しています。派兵先の国は、それなりの負担金を出していますが、それでも、アメリカの収支は赤字だと思います。共和党は、莫大なウクライナ支援もやめろ、と言っています。
同盟国が、アメリカが負担している費用を肩代わりし、更に、海外派兵でアメリカに利益が出るのであれば、トランプは商売として取り組むのでしょうが、アメリカが費用の持ち出しになるのであれば、海外から軍を引くことになります。
日本や韓国は、アメリカ軍が撤退したら、国の存続が難しくなりますので、アメリカの言い値で費用を負担するかもしれませんが、それ以外の国が費用負担に応じるとは思えませんので、トランプは欧州や中東だけではなく世界から兵を引きます。
第二次世界大戦後の世界秩序を最初に壊したのはロシアと中国ですが、アメリカも続きます。いや、中国やロシアは、世界秩序を壊しているのはアメリカだと言います。確かに、それも否定は出来ません。世界を大きく壊すのは、いつも、大国だということです。
トランプは、世界平和は、世界の警察官役は、アメリカの利益にはならないと思っています。
もちろん、トランプの考えている利益は、短期的な利益に過ぎず、中長期的には、大きな損失になることがわかっている人もいますが、皆が皆、分かっているわけではありません。
トランプも、日本の政治家と同じで、選挙至上主義者に見えます。
一票を入れてくれるのはアメリカの国民であって、他国の国民ではありません。拍手が大好きなトランプは、国民に拍手してもらうことが、一票につながり、利益になると思っています。トランプは、票にならないことは、利益にならないことだと思っているでしょう。
世界が激動期に入っていて、世界大戦が避けられないとすると、貧乏くじを引く国が必ず生まれます。イスラエルは、ずっと祖国を持てませんでした。パレスチナは、今も、祖国を持っていないと言っても過言ではありません。激動期では、大国の利益のために国をなくす民族もいるのです。

私達は、祖国があることが当たり前だと思っていますが、私達だって祖国を失う可能性はあるのです。この国が「中国領日本自治区」になる可能性は、決して低くはありません。私達だって、東アジアのパレスチナになる可能性があるのです。
そういう前提に立てば、国力の衰退を「見て見ぬふり」をしているのは、大きな間違いだと思います。
他国に蹂躙されない国になるためには、私達が力を持たねばなりません。力というのは、軍事力だけではありません。それ以上に、経済力が必要なのです。
台湾は独立国としては認められていませんが、香港のように中国に蹂躙されていません。台湾の軍事力は、中国の軍事力と比べるとお粗末なものですが、経済力があるから「中国領台湾自治区」になっていないのです。
国なんて「あって当たり前」と高を括っていると痛い目に遭います。
祖国を失った民族がいることは、現実なのです。
「軍事も経済も、万全の体制を持った国」になるのは不可能なのでしょうが、それでも、その努力はしなければならないと思います。
そう考えると、国力衰退を放置している現状は、大変、危険だと思います。
国が破綻し、国民生活が江戸時代の生活に戻ったとしても、まだ、国が国であれば再起の可能性は残されますが、富を失い、食を失い、国を失えば、再起はできません。今のパレスチナは、経済基盤が乏しい難民キャンプと呼んでもいいと思います。国連の支援がなければ生きていくことも難しいのです。
私達は、パレスチナになってはいけないと言うことです。
ウクライナも中東も、日本から遠く離れた場所での紛争ですが、他人事で片付けていいとは思えません。
近い将来、東アジアも、紛争地域になる蓋然性は低くないのです。
そんな時に、国家破綻などしていたら、私達だって国を失う危険はあるのです。
国を失うと、2000年、いや、永遠に取り戻せない可能性があります。
確かに、確率は低いかもしれません。
でも、国力衰退を阻止する理由の1つにはなると思うのです。
国力衰退をして、いいことなど1つもありません。
ウクライナやパレスチナを語る人は多くいますが、欠けている視点があるように感じます。ウクライナもパレスチナも、私達に直接の影響はありませんが、私達がウクライナやパレスチナになる可能性はあります。そのような分析が必要であり、その対策も必要になる。そんな視点が欲しいです。


2023-11-05



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

ジャニーズ騒動 [評論]



何の問題もない国や社会はありません。
どんな国でも、どんな社会でも、多くの問題を抱えています。
ただ、その問題の質と量は、それぞれ違います。
国民生活を破綻させない程度の問題は、残念ですが、目をつぶるしかありません。
何事も、「完璧」はありません。
でも、どうしても対応しなければならない問題はあります。
それが、国力衰退であり、国家破綻であり、国民生活の崩壊だと思います。

私達の国を、私達の社会を、蝕んでいる原因の原因の原因は、文化だと書いています。その文化とは、「なあ、なあ、まあ、まあ」文化です。
この「なあ、なあ、まあ、まあ」文化は、日本人が生み出した優れた文化です。こんな優れた文化を持つ国は他にないと思います。
ただ、万能ではありません。
「なあ、なあ、まあ、まあ」文化の副作用が、悪しき面が、至る場所で表面化してきたのが、最近の日本社会の現実だと思います。
社会を守るために生まれた文化が、意図していないとしても、国力衰退、国家破綻、国民生活の崩壊へ向かっている現状は、変えなければなりません。
ここまで弊害が大きくなったら、文化とは呼べないと思います。
この「なあ、なあ、まあ、まあ」文化の副作用は、政治・経済分野だけではなく、至る場所で社会を迷走させています。
その一例として、今日は、社会を騒がせたジャニーズ騒動について書きます。
「えっ、これも、文化のせい。こじつけだろう」
いいえ、この騒動も、根っ子は「文化」です。
いろいろな意見がありますが、どれも外れています。ほとぼりが褪めたら、元の木阿弥になるのは、今から予測できます。それが「なあ、なあ、まあ、まあ」の凄い所です。
芸能ネタを書くのではありません。「なあ、なあ、まあ、まあ」文化が起こしている数々の弊害の1つとして取り上げたいと思います。

厳密に言えば、罪を犯していない人は、1人もいないと思います。聖人君子などという人は、この世に存在しません。それは、自分の胸に手を当てれば理解できると思います。
「なあ、なあ、まあ、まあ」文化の弊害は、等しく「許されてしまう」所にあります。
「下々」や「弱者」の小罪でも、「お上」や「強者」の大罪でも、「なあ、なあ、まあ、まあ」で許されますので、「お上」や「強者」にとっては、これほど美味しい文化はありません。
私達庶民は、小罪を許してもらう見返りに「強者」のやりたい放題を容認させられ、2000年間耐えてきました。文化と歴史と伝統は脈々と、今でも続いているのです。
「お前に非はないのか」と言われたら、反論できる人はいません。でも、小罪と大罪を同じに扱うのは、違うと思います。
過去と現在は、私達にはどうすることもできませんが、未来は変えることができます。しかし、このまま、「なあ、なあ、まあ、まあ」を続ければ、先はありません。
ジャニーズで起きたことも、同じ原因で起きました。
人権と性被害という視点から取り上げたBBC放送が、この不条理を世界に発信しなければ、埋もれたままだったかもしれません。「人権意識」後進国の日本では問題にならず、外圧があって初めて問題になるのは、いつものパターンです。
ただ、その原因が日本文化にあるということについては、まだ、誰も気付いていません。ほんとに、誰一人、気付きません。ド真ん中に文化という原因があるのに、私達は、その周辺で「ああでもない、こうでもない」と堂々巡りをしています。ド真ん中に足を踏み入れる人がいません。
この国では、「人権」という言葉そのものがメジャーではありませんし、使う人が少ないと思います。「俺には関係ねぇ」と思っている人がほとんどだと思います。それは、「人権」に馴染みがなかったからです。それは、日本がそういう国だったからです。それを生み出しているのは文化と歴史と伝統なのですが、文化と歴史と伝統は空気のようなものですから、その存在を知るのは難しいのかもしれません。
極論かもしれませんが、もともと、「下々」には、人権などありませんでした。でも、それが日常だと「人権って、なに」になってしまいます。
日々、汗を流して働き、年貢を納めるのが「下々」の役目です。現在でも、同じ構図が続いています。なぜなら、私達の意識が「下々」のままだからです。
「下々」は、ひたすら耐えることを求められ、強い相手には従順に従う。それが、この国が築き上げてきた文化と歴史と伝統です。そんな土壌の上で起きた事件が、ジャニーズ騒動です。日本人には、「なあ、なあ、まあ、まあ」が最適な答えだという常識があります。ジャニーズの対応に批判的な人は27%で、評価する人は59%という世論調査を見ると、皆さん、「なあ、なあ、まあ、まあ」が大好きなのです。
皆さんは、食糧難というドツボに落ちた時にも、「なあ、なあ、まあ、まあ」で済ませてしまうのかもしれません。信仰とか洗脳というものは、そういうものなのかもしれません。この強大な文化と歴史と伝統の力は、ほんとに、凄いと思います。

ジャニーズ騒動は、性被害の騒動です。
私達の国は、昭和22年まで姦通罪が存在した国です。弱者には厳しく、強者には優しい国でした。第二次大戦で敗戦国にならなければ、まだ、今でも、姦通罪は存在していたと思います。姦通罪はなくなりましたが、社会通念は、それほど変わったわけではありません。弱者が泣き寝入りするのは、自然に受け入れられていたのです。
ジャニーズ騒動は、本来、刑事事件だと思いますが、つい最近まで、法改正があるまで、刑事事件ではありませんでした。今でも、被害者が男性の場合でも適用されるのかどうか、私は知りません。
どこまで、真実が表に出てきたのかは不明ですが、被害者は300人とか400人と言われています。1人の人間が個人的に犯した犯罪としては、ギネス級かもしれません。
それを、誰もが、ほんとに誰もが、「見て見ぬふり」をしてきました。
どうしてでしょう。
それは、犯行に及んだ人間が、「強者」だったからです。
多くの関係者にとって、「強者」に従うことが利益だったから、「なあ、なあ、まあ、まあ」を使い、自分の行動を肯定しました。大きな利益のためなら小さな犠牲は仕方がない。それを、当たり前だと考えていました。「見て見ぬふり」は、利益だったのです。
「ケツを差し出した子供達にも、芸能界にデビューできるかもしれないという助平根性があったのだから」と言う人もいます。
いやいや、そもそも、そんなことを子供に仕掛けたら駄目でしょう、とは考えないようです。それは、「大人の責務」が曖昧だからです。いや、何もかもが曖昧です。
集団生活に参加している限り、全ての人に責務があります。全員に共通する責務もありますが、立場による責務もあります。例えば、大人には大人の責務が、国家運営者には国家運営者の責務が、会社経営者には会社経営者の責務が、あります。もちろん、国民には国民の責務があります。
それを全て曖昧にしているのが、「なあ、なあ、まあ、まあ」なんです。
そんな社会では、強者が、自分の責務を無視し、いや、責務があることを認識していませんので、やりたい放題をやっても、許されるのです。
当事者のジャニーズ事務所だけではなく、「お上」軍団に属する多くの関係者が、スポンサー企業、広告会社、テレビ局、メディア等々の大手企業の関係者が、口を揃えて「知らなかった」と言います。「噂に過ぎない」と言っています。
「そんな訳ないだろう」と思いますが、「なあ、なあ、まあ、まあ」の社会では、「知らなかった」で済んでしまいます。
加害者側に立つジャニーズ事務所が記者会見を開きましたが、2度目の記者会見会場は荒れました。それは、ジャニーズ事務所が、2時間という制限を設け、「1社1問」というルールを決めたからです。多くの方が、この点を批判していますが、批判だけに終わっています。
なぜ、記者達は、ルールに従ったのでしょう。
仕方ありません。記者達も、これまで隠蔽をしてきた張本人ですから、何も言えなかったのでしょう。ここでも、「なあ、なあ、まあ、まあ」です。
鬼畜の所業を明らかにする記者会見であれば、時間無制限、最後の質問まで答える必要があったと思います。ジャニーズ事務所がルールを決めて、記者がそれに従ったということは、そこに、上下関係が成立したということです。
この上下関係は、まさに、日本文化の真骨頂です。
日本社会の基盤にあるのは、今でも「お上と下々」であり、皆さん、その暗黙のルールに従うことを当たり前だと思っています。加害者が決めたルールであっても、ルールだと言われると、大半の人は従順に従います。ルール自体が妥当なルールかどうかは吟味しません。「下々」根性は染みついていて、「お上」や「強者」には、逆らいません。そのことを、不思議だとも思いません。これも、文化の力です。
どこかで、同じようなことが行われています。
そうです。総理官邸の記者会見です。
まるで、金太郎飴を見ているようです。
私達は、中国共産党が、共産党を利する法律を作り、自国の人民や外国に、「法に従え」と言っていることと同じことをやっているのです。
問題は、ジャニーズ事務所がルールを作ったことだけではありません。
関連会社の社長に任命された某タレントは、会見会場が騒がしくなった時、「この会場は公開されています。子供達も見ています。どうか、落ち着いて」と言ったそうです。
記者席からは拍手があったそうです。
この国には、「いい人」を演じ、「なあ、なあ、まあ、まあ」で丸く収めることが最良のことだと信じている人が大勢いて、それに同調する人も大勢います。これを文化として捉えなければ、何度でも同じことが起きます。
「なあ、なあ、まあ、まあ」の利点は、問題を解決せず、「先送り」し、時間を経て「なし崩し」で、何事もなかったことにできることです。巨悪であれば巨悪であるほど、その恩恵は大きくなるという仕組みになっています。
あの会見場は、数百人の子供達の人権を蹂躙した「鬼畜」について質疑応答する場です。綺麗事で誤魔化していい場所ではありません。犠牲者は子供達です。子供達から隠すのではなく、子供達を守るために、敢えて、子供達に見てもらう必要があります。
確かに、どこの国でも、こういうことは起きますが、日本は、極端です。
何でも丸く収めてしまいます。それが、日本文化です。
そこには、いい面もあれば、悪い面もあるのです。
「お上」や「強者」にとっては、ほんとによく出来た文化だと思います。
国連人権委員会は、国の関与が必要だと言っていましたが、この件では、国も警察も動きません。新聞もテレビも、国の関与を要求しません。境界線がはっきりとしていませんが、ジャニーズ事務所も新聞社もテレビ局も、多分、あちら側(強者)なのだと思います。いつまで、こんなこと続けるのですか。この「お上と下々」は、私達を不幸にするだけです。
少数の強者のために、多数が泣き寝入りをする社会は変える必要があります。
そんな社会の土台になっているのが「なあ、なあ、まあ、まあ」文化なのです。
こんな社会に、活力は生まれるのでしょうか。
そうは思えません。だから、国が衰退しているのです。
ほんと、救いがありません。
子供達を守りたいのであれば、隠すのではなく、言葉の定義をして、「大人の責務」を明確にすることが大人の役割だと思います。
日本社会が、ジャニーズ会見のような茶番を続けている限り、「なあ、なあ、まあ、まあ」は続きますし、国力衰退も進みます。
自分を、家族を、全ての子供達を守ろうとすれば、皆さんが気付くしかないのです。
気付かなければ、何も始まりません。
皆さんは、先ず、「何を守らなければならないのか」を知る必要があります。
権力者の利益ですか。「強者」の横暴ですか。
違いますよね。
いつまで、泣き寝入りを続けるつもりですか。
いつまで、「いい人」を演じ続けるのですか。
六公四民も七公三民も受け入れるのですか。
文化と歴史と伝統の弊害に気付かなければ、皆さんに未来はありません。


2023-11-04



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

公職とは [評論]



国民の皆さん。
皆さんの生活は、年々、楽になっていますか。
将来に希望は見えていますか。
老後の心配はありませんか。
こんな質問に、国民の皆さんの何パーセントの人が「YES」と答えるのでしょう。
想像に過ぎませんが、1桁の数値だと思います。
9割以上の皆さんが、生活は苦しくなっている、将来に希望はない、老後が心配だ、と思っているのではないでしょうか。
もっとも、その9割以上の国民の皆さんは、口には出しません。
「言ってみたってどうにもならない」と思っていて、我慢を選びます。
ほんと、「いい人」ばかりです。
口には出しませんが、皆さんの感じている不安は、正しい不安だと思います。
それは、この国の国力が、あらゆる分野で衰退しているからです。具体的に指摘できなくても、皆さんは、それを肌で感じています。だから、不安なのです。
では、この国は、なぜ、こんな国になってしまったのでしょう。
国の姿は、国民次第で、決まります。
国力が衰えているということは、私達の行動が、そういう結果を招いているということだと思います。自民党が、岸田総理が、悪いのではありません。自民党に、岸田総理に、好き勝手をさせているのは、国民の皆さんです。皆さんは、主権者の責務を果たしていません。残念ながら、この国を衰退させているのは、皆さんなのです。
国民が変わらなければ、この国は変わりません。
人間の行動は、その人の思考で決まります。
ここ50年で、多くの方の考え方が変わりました。
「自分さえよければ」と「俺には関係ねぇ」が当たり前になってしまったのです。
今でも、「誰かのために」とか「俺がやらねば」と思っている人もいますが、ほんとに、少ないと思います。もちろん、全員が「誰かのために」と「俺がやらねば」なんて思うことはありません。いつの世でも、「自分さえよければ」と「俺には関係ねぇ」の人はいるものです。ただ、余りにも、その数が増えてしまいました。
なぜ、考え方が変化したのでしょう。
私は、「目的」の欠如が一番大きな要因だと思います。
個別の「目的」ではありません。欠けているのは、国の目的であり、国民共通の目的です。
私達は、この国が、どんな国であって欲しいと思っているのでしょう。
時々、そういう疑問を投げかける人はいますが、それが大きな、国を二分するような議論に発展したことは一度もありません。
ここでも、多くの方が、「俺には関係ねぇ」と思っているのです。
「目に見えない目的なんて、何か役に立つのか」と思うのでしょう。
「目的を持ったって、そんな国にはならないだろう」と諦めます。
でも、そうではありません。目には見えなくても、人間の意識は、自然と、目的に向かうものです。
目的は、人間の思考に影響を与え、行動様式を変えます。
国力衰退という現象は、100年とか200年の単位でやってくる大きな潮流なのだと思います。大きな潮流は、小手先の対応では対処できません。目には見えませんが、「目的を持つ」ような方法でしか対処できないのだと思います。そして、その効果は、参加してくれる国民の皆さんの数に比例するのではないかと思います。
でも、中身のない目的では、衰退を止められません。目的は、お題目ではありません。スローガンでは何も変えられません。
ですから、「言葉の定義」をして、責務を明確にし、その責務を果たす動機としての目的を作れば、行動力の伴った「目的」が生まれるのではないかと思います。
これは、私の個人的な意見に過ぎませんが、国の目的も、国民の目的も、「子供達の未来を守る」という目的にすればいいのではないかと思っています。「子供達の未来を守る」のは大人です。しかし、死亡しなければ、子供は例外なく大人になり、昔、子供だった大人が次の子供達の未来を守るために尽力すれば、目的を継続することができるからです。
もちろん、子供達の親を守らねば子供は守れませんので、「国民生活を守る」ことを目的にすることもできます。
ただ、責務を明確にすると、大変息苦しい世の中になります。四角四面は、どうしても角が立ちます。しかし、衰退を止めるためには、仕方ないのではないかと思います。衰退が止まり、国が豊かになれば、また、「なあ、なあ、まあ、まあ」を持ち出せばいいのではないかと思います。少なくとも、ずっと、「なあ、なあ、まあ、まあ」では、衰退は止まりません。

いろいろな意見はあると思いますが、目的が必要だと仮定してみます。
そして、その目的は「国民生活を守る」ことだと仮定してみます。
目的というものは、達成するためにあります。
達成するためには、多くの皆さんの尽力が必要です。
何に尽力するのか、が明確でなければ、尽力のしようがありません。
尽力の中身が、責務です。
責務は、一律ではありません。
共通する責務もありますが、立場によって、その責務の中身は変わります。国にとって、国民にとって重要な仕事を担う人は、より重い責務を担ってもらわねばなりません。
例えば、国家運営に携わる国会議員や官僚は、企業を経営する経営者は、司法や国防を担う人の責務は、重いものになります。これは、容認してもらわねばなりません。
ここで、国家運営という仕事を例にして、目的と責務について見てみます。
全ての国民が、それぞれの立場で、「国民生活を守る」という目的のために仕事をするとした場合、今の国家運営は、どう変わればいいのでしょう。
国家運営の仕事をしているのは、国会議員と公務員です。
ここで、国会議員が集合している政党の、今の目的を見てみます。
自民党の目的は、政権の維持です。
立憲民主党の目的は、自民党を批判することです。
維新の会の目的は、自民党に代わり、利権を手に入れることです。
公明党の目的は、創価学会を守ることです。
共産党の目的は、共産主義の国を作り、権力を手にすることです。
その他に、国民民主党、れいわ新撰組、参政党、社民党、その他にも訳の分からい党がありますが、どの党も国民の不満の受け皿になり、国会議員という利権を手に入れることが目的なのではないかと思います。
もちろん、どの党も綱領には、もっともらしい理屈をつけていますが、中身に具体性はありませんので、少し下品な表現ですが、各党の本音を列挙してみました。
既に、死語になってしまった感のある「公職」という言葉があります。勝手に定義をすると、「私欲を捨て、民のために働く職業」なのではないかと思いますが、今では「民の富を収奪し、肥え太る職業」になっています。
人間は、本来、自分の「欲」を実現しようとします。だから「公職」という言葉が生まれたのです。国会議員も政党も、国民生活を守るために存在しているはずですが、そうなっていません。それは、言葉が、どの言葉も、曖昧なままだからです。
国民の皆さんは、そんな現実を見ているのに「ふむ、ふむ」「へら、へら」と「見て見ぬふり」をしています。ほんと、不思議な国民です。
国会議員の、国会議員による、国会議員のための政治構造。
彼等の目的は、どの政党も、「国民生活を守る」ことではありません。
政党だけではなく、所属する国会議員の目的は、どの政党の議員であっても、自分の利権を守ることが目的です。公職に従事している筈の彼等にとって、選挙以外のことは、国民生活のことは、二の次三の次です。
これが日本の国家運営の姿だと思います。ですから、どの党も、どの政治家も、選挙より重要なイベントは存在しません。本来、選挙も国会議員も手段だったと思いますが、今は、手段が目的になっているのです。
彼等にとっては、選挙が命です。
そのためなら、何でもします。統一協会とも協力し、利用します。統一教会の教義を見れば、一目瞭然ですが、保守派が好きな「民族の誇り」でさえ売ってしまいます。選挙で有利になるのであれば、魂でも売る、それが政治家です。
最近の傾向としては、コロナのおかげで、どの党も「ばら撒き」を優先するようになりました。少し中長期の視点に立てば、「ばら撒き」は国力衰退の背中を押す要因になりますが、とりあえず、目の前の選挙に勝つことが優先事項になりますので、与党も野党も「ばら撒き」に頼ります。
こうやって、各党の目的を見ると。
「国民生活を守る」ことが目的になっている政党は存在しません。
もちろん、政治家は、口では「国民、国民」と言いますが、その行動を見れば、国民から見れば、それが口先だけのものだとわかる程度のものでしかありません。
では、「国民生活を守る」ために、国家運営者がやらねばならない課題とは何でしょう。
特定の誰か(経団連や労働組合やその他諸々の支援団体)のためではなく、全ての国民を対象として仕事をしなければならないのが国家運営の仕事だと思います。公職ですから。
貧困化、人口の減少、少子化、過疎化、中小企業の賃金、社会インフラの老朽化、経済活動の低迷、数えれば山のような課題が出てくると思います。
一番の課題は、国民意識を変えることですが、目的と責務が明確になれば、国民だって「俺には関係ねぇ」と言っていれなくなります。
仮に、選挙が目的になるのではなく、「国民生活を守る」ことが目的になれば、党派を超えて協議することも不可能ではありません。

国民が言葉の定義をして、目的と責務を明確にすれば、既存政党は大慌てになります。必死になって、何とか、それらしき目的を作ると思いますが、その時点では国民意識は変わっていますので、口先や誤魔化しでは一票を手に入れることができなくなります。「選挙命」の彼等にとっては地獄です。そうなれば、国民の意識に沿った政治集団が誕生すると思います。そうなれば、与党も野党も雪崩を打ったように、目的と責務に擦り寄ってきます。それ以外に国会議員という身分を守る方法がないのです。
ここで必要になるのが、政党と国会議員の評価システムです。
彼等は、平気で噓をつきます。それを前提にしなければなりません。
「事務的な・・・」「秘書が・・・」「誤解を与えたのなら・・・」等々、言い訳は用意されています。今、国民は、彼等の言い訳を聞くことしかできません。国民には、何の手段もありません。なぜなら、システムを作るのは、国家運営者だからです。彼等は、自分が不利になるシステムは作りません。
必要とされるシステムは、とても多く、個人に出来るような仕事ではありません。ただ、国会議員を守るためのシステムではなく、国民生活を守るためのシステムが必要であることは確かだと思います。私は、具体的に、そのシステムのことは考えていませんが、皆さんで知恵を絞って生み出せば、きっと、いいシステムが生まれると思います。

ここで、10月に誕生した新党「日本保守党」に触れておきたいと思います。
今の日本のあり様が具体化された事例であり、これが、現実なのだと痛感します。役立たずの政党が何百何千と誕生しても、何の役にも立ちません。
発起人の百田さんが言っているように、この新党は「LGBT反対党」のようです。
LGBT問題は、この国の一大事なのでしょうか。議論しなければならない課題だとは思いますが、この国には、優先度の高い一大事の課題が山積みです。
新党結成の意味が分かりません。
いや、彼等は、国家運営という言葉や概念を「自分さえよければ」というフィルターをかけて見ているので、自分達は正しいと信じているのでしょう。
また、参政、維新、自民、国民民主の保守層の受け皿になると言っています。不満の受け皿になって、利権を得る目的としか思えません。これまでの新党結成の流れそのままです。
百田さんと言えば、数々のベストセラー小説を書いた小説家です。想像力は得意の分野だと思いますが、こんな貧弱な想像力で小説を書いていたのでしょうか。
私は、これまで、想像力を取り戻してくださいとお願いしてきました。
私は、間違っていたのかもしれません。
想像力では、問題は解決しないという現実に、とても、落胆しています。


2023-11-03



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

洗脳 [評論]



「増税メガネ」から始まり、「増税クソメガネ」にグレードアップした岸田総理のニックネームですが、この先、どんなニックネームが出てくるのでしょう。
私が指摘するまでもなく、国民の皆さんは、増税トレンドが始まっていることを知っているようです。でもね、皆さん、ニックネームをどれほど考えても、どれほど面白くても、何も変わらないことを知っていますか。すぐに、忘れられて、元の木阿弥です。
皆さんがやらねばならないのは、ニックネームを考えることではありません。自民党ではない「新しい政治集団を作る」ために、言葉の定義をすることです。
どうして、そのことに気付かないのか、ほんとに、不思議です。
岸田さんは、かなり、「増税メガネ」を気にしているという報道が流れています。
余りにも、増税、増税と言われるのを嫌ったのか、「税収増を国民に還元する」と発言し、「減税」を匂わせました。その発言を受けて、自民党内から「減税」要請の発言が相次いでいます。どうやら、自民党議員は、既に、選挙モードに入っているようです。選挙の時の「減税」ほど頼りになる言葉はありません。
さて、岸田さんは、どうするのでしょう。
少し前に、岸田さんの右腕と言われる木原さんが減税のことは発言していましたので、木原さんのお許しは貰っているようです。岸田さん自身には何もないから、もう、バレバレですが、他人の話を聞くしかない。それが特技になったとすると、岸田さんは木原さんの傀儡なのかもしれません。
木原さんの減税発言の根拠は、税収の増加です。岸田発言もその線で行われています。
消費税、法人税、所得税が税収増加のベストスリーです。
消費税が増収になったのは、8%から10%への増税と物価上昇の成果です。
法人税の増収は、物価上昇と補助金の成果です。
所得税の増収は、春闘でのベースアップの成果です。
国民にとって、賃金上昇は、既に、物価上昇で消されていますが、税収が増えたのですから、「お上」にとっては歓迎できることです。所得税以外の税収増の要因は、増税と補助金と物価上昇であり、これ、全部、国民負担増による税収増です。
当たり前のことですが、税を支払うのは、形が違っても、国民なのです。税収が増えたということは、それだけ国民負担が増えているということなのですが、そのことを問題視する人はいません。
岸田総理は、減税を「してやったのに」と言ったと報道されています。国会答弁では、給付金を「与える」と発言しています。これは、自分に「お上」意識があるから出てきた言葉だと思います。江戸時代は、まだ、続いているとすると、私達「下々」は土下座をしなければならないのでしょうか。一方、「下々」は、減税の形や給付の範囲で、文句タラタラですが、問題は、そこではないと思います。まさに、「どっちもどっち」です。
この先、防衛費と子供手当の財源としての増税が待っています。
でも、これらは、序の口です。
皆さんの近未来にあるのは、六公四民であり、七公三民です。
岸田さんが大増税をする時に、総理大臣をやっている可能性は低いと思いますが、増税の道を開き、レールを敷いたのは岸田さんです。言い方を変えると、「先送り」という点では、岸田さんは「お上」にとって大きな成果を出しました。
岸田さんは、何度も、「懸案事項を1つ1つ、着実に実現していきます」と言いますが、これは「着実に先送りをしていきます」という意味だと思います。中でも、最大の懸案事項が増税なのですから、「先送り」役を務めた功績は大きいと思います。「なし崩し」役は、他の誰かにやってもらえばいいのです。

さて、この文章をブログに載せるのは11月です。
もしかすると、11月には、解散総選挙が先送りされているかもしれません。
年内に解散総選挙があるという前提で書きますが、外れていたら「ごめんなさい」です。
「増税メガネ」等の流行語は、ネット上で生まれて拡散することがほとんどです。
流行語が国民世論を反映しているかというと、そうでもありません。
それは、電話による世論調査と、ネットでの世論調査には、大きな開きがあることを見ても一目瞭然です。
投票所に足を運ぶのは、圧倒的に老人が多く、ネット世界とは別世界です。流行語で盛り上がるのは若者ですが、若者は投票所に行きません。ですから、流行語は選挙に影響がない、とまでは言えませんが、致命的な影響はないと思います。ただ、空気は変えます。政治家にとって空気ほど厄介なものはありません。
岸田さんは、流行語の勢いに焦って、「減税」という言葉を出しただけかもしれません。
ただ、庶民の直感は、大抵、外れません。
この先、手を変え品を変えて、増税が行われることは間違いありません。
「増税メガネ」という流行語が、「増税」という空気を膨らませてしまうと、厄介なことになると思います。老人と言えども、空気には影響されます。
日本社会は、元々、曖昧な空気で動く社会です。
ですから、空気を軽視していては選挙に勝てません。
昔は、官僚の皆さんが「空気の醸成」に力を発揮していましたが、これだけネット環境が広がると、予期せぬ空気が醸成されることを防げません。ネット民は「言うだけ番長」ですから、実行力はありませんが、空気は独り歩きを始めることがあります。
空気の伝播は、大抵、緩やかなものです。気が付いた時は、空気が風になり嵐になることだってあります。そんな時に、解散総選挙を断行するのは、愚策です。岸田さんは、増税が、風や嵐になる前に選挙をやってしまいたいのかもしれません。
次の総選挙では、自民党が勝つ要素はありません。
それは、自民党も自民党議員も承知していると思います。
ですから、何人落選するのかが問題です。
今、選挙をすれば、30人落選(最近の調査では41人落選だったそうです)し、半年後に選挙をすれば50人落選し、1年後に選挙をすれば70人落選すると予測できれば、今、選挙をすることが正解になります。議員の任期は、まだ、2年ありますが、その間には、増税の話はしなければなりませんので、2年後に、任期満了で選挙をすることは、政権を失う危険も出て来ます。
確かに、岸田政権の支持率は低迷していますが、先のことを考えると、今年中に選挙をすることがベストのように見えます。
彼等の目標である「自民党政権の維持」、そして、増税実現のためには、年内解散は有力な選択肢だということになります。
ここは、思い切って、減税をしてでも、選挙をするのではないかと推測します。
後は、岸田さんの胆力次第かもしれませんが、木原さんが「やれ」言えば、やるような予感がします。

専門家ではなく、部外者でしかない私であっても、こうやって、理屈を積み上げていけるのは、自民党の目的がはっきりしているからです。
その目的とは、「自民党政権の維持」です。
目的さえあれば、自民党でも、それなりの設計ができるということです。
国民から税を徴収し、本予算と補正予算で、税金をふんだんに使って、票になる支持団体の便宜を図り、税制でも優遇し、支持団体に利のある政策を実行する。私が、自民党の人間で、その目的が政権の維持であれば、同じようなことをしていたと思います。
でも、何か、変ですよね。
そうです。目的が違うのです。もしも、目的が、「国民生活を守る」ことであれば、別の国家運営システムが設計されていたと思います。
今のシステムは、自民党の目的に合致したシステムなのです。
それなのに、相変わらず、国民の皆さんは、自民党に票を入れます。
それは、文化と歴史と伝統で洗脳された「下々」が存在しているからです。何もしなくても自民党に投票してくれる「下々」は、必ず、います。自民党は。そこには、自信を持っていると思います。ただ、空気と風と嵐だけは気を付けなくてはなりません。民主党政権が出来た時は、かなり強い風が吹いていました。
六公四民であろうと、七公三民であろうと、忍耐強く、従順に、「お上」の意向を受け入れてくれる「下々」がいなければ、こんな無茶はできません。だって、自分と自分の支援団体のために国家を運営していて、国民のためには全く働いていないのに、国民は票を入れてくれるのです。これほど有難い国民は、日本にしかいないと思います。文化と歴史と伝統という特殊事情がなければ、「下々」はいなくなっていたと思います。しかし、洗脳されているために、「下々」は今でも健在です。
自民党を支えているのは、他でもない、国民の皆さんなのです。先月、一例として、小渕優子に票を入れている群馬県民を「下々」だと書きましたが、「下々」は全国にいて、自民党に票を入れています。自民党が「国民生活を守る」ために働いていないことは、「何となく」知っています。でも、「何となく」、「深く考えることもなく」、「惰性で、つい」、自民党に票を入れてしまいます。きっと、皆さん、底なしの「いい人」なのだと思います。
つまり、私達は、自分で自分の首を絞めているのです。
不思議に思うかもしれませんが、洗脳されていると、そのことに気付けません。
そういう意味では、2000年の時間を費やして洗脳された日本人は他に例を見ないほど「いい人」ばかりだということです。他の民族であれば、どこかの時点で、「何か変だぞ」と気付いていたと思います。
しかし。
この国の目的は、皆さんの目的は、自民党を支えることなんですか。
違いますよね。
「国民生活を守る」という目的がなく、責務がなく、定義もない現状は。
自民党を支えることが目的になっている現状は。
何でも「なあ、なあ、まあ、まあ」で済んでしまう文化は。
「お上」の利益にはなっても、「下々」の利益にならないことははっきりしていると思います。ただ、そのことに気付かなければ、誰も、不思議だとは思いません。
ほんとに、洗脳は恐ろしいと思います。
この洗脳を、呪縛を、解くためには、国民の皆さんが、自ら「言葉の定義」をするしかないと思います。
「いい人」は素晴らしいことですが、「いい人」では自分の生活は守れないのです。
自分を守り、家族を守り、多くの同胞をまもるためには、それなりのことをしなければならないのだと思います。
私は、武器を取れとか武力革命をしろ、と言っているのではありません。
「言葉の定義」をしてください、と提案しているのです。
自民党を支えても、皆さんの生活は豊かにはなりません。
では、自民党ではなく、他の政党なら、国民生活を守ってくれるのでしょうか。
いいえ、どの政党も、「言葉の定義」をしていません。野党の目的は、自民党を倒すことであり、自民党よりもレベル低いと思います。そんな野党では、国民生活を守ることはできません。「駄目党と超駄目党の、どっちが、ましか」で選択していたのでは、国民生活は破綻するしかありません。
国民自らが、「新しい政治集団を作る」という選択肢しかないと思います。
この国では、「下々」の選択肢は「お上」が与えてくれるものだと信じられています。ずっと、そういうお国柄でした。21世紀になっても、「下々」には、自分達で選択肢を創り出そうという発想そのものがありません。与えられた選択肢の中で「どちらが、ましか」で選んでいます。このことは、私達が「下々」意識を捨てるまで続くとすると、全く、光が見えません。国民が、自ら、選択肢を創り出したとしても、それで成功するとは限らないのです。でも、そこには、可能性だけはあります。せめて、可能性だけでもあったほうがいいと思うのですが、可能性を生み出す努力はしません。それは、日本国民の大多数が、いや、ほとんどの日本国民が、未だに、「下々」だからです。自民党政権が続いていることが、それを証明しています。
この「下々」意識を変えるのは、不可能なのでしょうか。だとすると、私達の未来は真っ暗です。どうすればいいのでしょう。
その答が見つかりません。
「増税メガネ」と批判したって、何も変わりません。必要なのは、「言葉の定義」なんです。これは、皆さんの生活を守るために必須のことです。
皆さんが、自分の頭を使って、努力するしかありません。
皆さんは、絶妙なニックネームを考える力を持っています。そんな皆さんにとって、言葉の定義なんて、難しいことではないと思います。
皆さんが想像しているように、六公四民や、七公三民は、近づいて来ています。
もう、手遅れではありますが、なにもしないよりはいいと思います。


2023-11-02



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

普通の我慢か最悪の我慢か [評論]



山梨県市川三郷町の町長は、財政が危機的な状況に陥っているとして、「財政非常事態宣言」を出した、というニュースがありました。
財政破綻が目前に迫っている地方自治体は、市川三郷町だけではありません。全国のランキングでは、市川三郷町は、1768市町村中、上から1057位ですから、市川三郷町よりも下位にある危険な市町村は、約700市町村も存在していることになります。もし、巨大地震が起きたら、多くの自治体が「アウト」になります。危険信号が灯っていない市町村がどれほどあるのか心配です。
原因は、国力衰退と過疎化です。
過疎化による税収の減少と高齢化による福祉費用の増大が原因です。
ほんとに多くの自治体が、このダブルパンチに見舞われています。
しかし、有効な対策がないまま、今に至っています。
国がやった対策は、市町村合併です。
この市川三郷町も、山梨県西八代郡の市川大門町と三珠町と六郷町が合併して生まれた町です。
過疎化の原因は、若者が都会へ移り住むことで生まれた社会現象です。若者が都会へ行くのは地元に仕事がないからです。地元に仕事を作ることが、過疎化対策ですが、その対策はされていません。いろいろな方が挑戦しましたが成功していません。なぜなら、社会構造を変える仕事は、個人や団体や自治体に出来る仕事ではないからです。
先月、青森県の若者の減少が著しいという話題を取り上げましたが、山梨県でも、いや、多くの地方都市で起きている現象です。
過疎化の原因(若者の流出)を放置したまま、自治体の規模を大きくすることで、破綻を先送りすることが、市町村合併の目的です。過疎化の原因には対応されていませんので、市町村合併をしても、過疎化は止まりません。
では、過疎化を阻止する方法があるのか、と言えば、今は、ありません。
過疎化の原因である若者の流出を止めるためには、地方都市に仕事がなくてはなりませんが、地方都市に仕事を作るのは簡単なことではありません。ほぼ不可能ですから、いや、多くの皆さんがそう思っていますから、過疎化が進んでいるのです。
と言うことは、従来の思考では、方法は見つからないということだと思います。
新しい思考方法で、新しい方法を見つけるしかありません。
その方法が見つからなければ、このまま、衰退するだけです。
確かに、国力衰退競争では、日本が世界の先頭を走っていますが、この先、国力衰退病で苦しむ国は増え続けると思います。
ですから、これは、人類に対する試練なのだと思います。つまり、今は、人類に大きな知恵が求められている時代だと言うことです。人類は、これまでも、幾多の試練を、知恵を出して、乗り越えてきました。今は、世界が、そういう時代にあるのだと思います。
従来の考え方に固執していては、この時代を乗り越えられません。
私達が直面しているのは、そういう大きな波なのだと思います。
市川三郷町の発表を見れば、過疎化は、従来思考から生まれた市町村合併などという手法で、「何とかなる」時代ではない、と言うことを証明しています。
だとすると、一番の問題は、私達が時代を認識していないことだと思います。
これまでの手法で対処できる課題かどうかを識別しなければなりません。
この場合は、「市町村合併で過疎化は阻止できるのか」を識別しなければなりません。
そんなことは、頭脳明晰な官僚の皆さんなら、当初から、「市町村合併で過疎化は阻止できない」ことはわかっていたはずです。しかし、硬直化した頭脳では、過疎化対応でも、従来手法の「先送り」と「なし崩し」を使うしかなかったのです。
先は見えているのに、いつまで、こんなこと、続けるのですか。
市町村合併では、過疎化は阻止できません。これは、誰が見ても、明白な事実です。ただ、小さな自治体が財政破綻する時期を、市町村合併によるスケールメリットを利用して、「先延ばし」することは可能です。国は、そんなこと、百も承知でやっているのです。
でも、延命は「死」を先延ばししているだけですから、この先にあるのは「死」です。地方自治体にとっての「死」とは、国から財政再生団体の指定を受けることです。
国は、地方自治体に対して財政再生団体の判定を下すことで、責任を逃れます。
悪いのは自治体であり、国ではない、というやり方も「なし崩し」です。
「お殿様」と「お代官様」と「百姓」という構図は、今も健在です。この国の時間は、100年、いや、200年、止まっています。ですから、相変わらず、責任を取らされるのは、いつも住民です。また、この国では、「我慢」が美徳とされています。確かに、美徳と呼ぶに相応しい「我慢」もありますが、全ての「我慢」が美徳ではないと思います。

少し、住民の立場から見てみます。
市川三郷町の町長は、なぜ、「財政非常事態宣言」を出したのでしょう。
その地域に住む住人に対して、「これまでのような市民サービスはしませんよ」という宣言だと思います。更に延命するために、「市民サービスを犠牲にしますよ」という宣言です。
その裏にあるのは、「おたくの息子や娘が都会に出て行ってしまったから、ここは過疎地になってしまった。これは、皆さんの責任だから、仕方ないでしょう」という意味が含まれています。町長も住民も、地域に仕事がないことを承知していますので、誰もが「我慢するしかない」と思ってしまうのです。「仕方ない」で終わります。
でも、これ、何か変です。
国は、市町村合併をすれば責務を果たしたことになるのでしょうか。
国の責務は、何ですか。
国民生活を守ることです。
国民生活は、これで、守られているのでしょうか。
そうは思えません。国は責任を果たしていないと思います。
ただ、国民も責務を果たしていませんので、国だけを責めることはできません。
国民の責務とは、国を繁栄させることです。
もちろん、国民の努力だけでは、国は繁栄しません。
国を繁栄させることを可能とする国家運営を、国民が自分の意志で、本気で、選択することが必要です。主権者には、その権利と責務があります。
そうです。私達には、国民生活を守るための政治集団が必要なのです。2000年間、「先送り」と「なし崩し」で、「なあ、なあ、まあ、まあ」で、やってきた国家運営を、根本から変える政治集団が必要です。
国と国民は運命共同体です。どちらかだけが生き残るなんてことはありません。
まだ、今は、誰も答えを見つけていませんが、私達は、当事者として、過疎化を乗り越える答を見つける必要があります。
しかし、そのことよりも問題なのは、答を得ようとしていないことです。
皆で、示し合わせたように、「仕方ない」で終わっています。
誰もが、「俺には関係ねぇ」と思っていることが問題なのです。
それほど遠い未来ではなく、皆さんの生活は破綻します。
その時、皆さんは「あちゃー」と言うだけですか。
破綻後に、破綻と向き合っても何も出来ません。
破綻に向き合うのは、将来の破綻が見えている、今です。
私も、今、過疎化に対する具体的な提案を持っているわけではありません。
でも、過疎化は、先延ばしするのではなく、対応が必要です。
これは、紛れもない現実です。
言葉の定義をし、国と国民の責務を明確にし、国の、国民の、目的を創れば、私にも見えていませんが、そこから何かが生まれる可能性はあると思います。もちろん、可能性に過ぎませんので、確約はできませんが、可能性はないよりあったほうがいいです。少なくとも、今のままなら可能性はゼロだということを、自治体の現状が証明しています。
15年前に、夕張市が財政再生団体に指定されたのは有名な話ですが、夕張市の後を追っている自治体は、今や、雲霞のように増えています。夕張市の運営苦労話を読むと、心が痛みます。そして、15年経っても再建されていませんし、再建の目途もありません。
どの自治体も夕張市にはなりたくないと思っています。
しかし、第2第3の夕張市は、必ず、生まれます。多分、雪崩が起きるように、次々と、財政再生団体が生まれる時がやってきます。皆で赤信号を渡る時です。
もしも、仮に、何割かの地方自治体が財政再生団体になったら、その割合が1割なのか2割なのかはわかりませんが、この国は、国として機能していると言えるのでしょうか。
市川三郷町の町長が言っているのは「夕張市のような財政再生団体になったら、この程度では収まりませんよ。だから、我慢してね」ということです。
でも、この思考も、変です。
「普通の我慢と最悪の我慢の、どちらを選択しますか」というやり方は間違っています。
国民に我慢を強いるのではなく、国民に努力を促すことが、国と自治体の仕事だと思います。でも、日本人は、我慢慣れしていますので、そのことに気付きません。
そうです、文化と歴史と伝統が、今の日本を「ジリ貧」状態にしているのです。

「たかが、過疎化だろ」、「俺には関係ねぇ」と思っている方もいると思います。でも、それ、違います。財政再生団体に指定される自治体が、次々と出てくる国は、皆さんには未来がない事を示してくれているのです。東京だけは生き残れると思いますか。いいえ、東京も同じ道を辿ります。
最初に、「社会構造を変える仕事は、個人や団体や自治体に出来る仕事ではない」と書きました。では、国なら出来るのでしょうか。いいえ、無理です。国民と自治体と国が、総掛かりで取り組まなければ成功しません。
そのためには、文化を変え、新しい歴史を作るしかないのです。
それが出来なければ、この国は破綻します。
もう、国民生活は、既に、かなり、壊れていますが、更に壊れます。
最終的には、食糧難に遭遇することになります。
どうか、時代を認識して欲しいと思います。
もう、従来の思考では、この新しい時代に対応できません。
私達の思考を根底から変える革命を起こさなければ、時代に対応できないことが、過疎化だけではなくあらゆる場面で顕著になっているのです。皆さん、気付いていますよね。皆さんは、薄々とですが「ヤバイ」と思っていますよね。それなのに、何故、過去にしがみ付くのですか。どうして、自分を守ろうとしないのですか。ほんとに、不思議です。
思考を変えるためには、文化を変えなければなりません。
文化を変えると言うことは、天と地をひっくり返すほどの革命が求められていると言うことです。どうか、そのことに気付いてください。
そして、実際に、文化を変えてください。
「なあ、なあ、まあ、まあ」文化に出来ることは、市町村合併くらいです。
「言葉の定義をする」文化に、どれほどのことが出来るのかは、まだ未知数ですが、挑戦してみる価値はあると思います。
もちろん、「言葉の定義をする」文化以外に、現状を、過疎化を、解消する方法があるのであれば、それでも構いません。
でも、そんな方法、誰も持っていません。
だから、過疎化が進んでいるのです。
私達には、今のところ、「言葉の定義をする」文化を、新しく生み出すという一択しかないのです。確かに、一択ですが、これは、選択肢があるということです。お手上げではありません。
もう、間に合わないのかもしれませんが、過疎化を解消する可能性はゼロではないと思いますので、是非、挑戦して欲しいです。子供達の未来のために。


2023-11-01



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog