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お先真っ暗 [評論]



OECD発表の「国の信頼指数」と呼ばれる「図表で見る政府」によると、政府を信頼している日本国民の比率は、36%だったそうです。
この数字を、どう捉えるかは、その人の考え方によると思います。
「どうして、こんなに低いの?」と感じる人もいるでしょうし、「36%なんて、ありえない」と感じる人もいるでしょうし、「そんなもんだろう」と冷めた見方をする人もいるでしょう。
私は、36%は高すぎると思いますが、50%であっても不思議ではないと思っています。どんな調査をしたのか、調査対象者はどう選別したのかわかりませんので、他の国と比較してみるしかありません。
他国の「政府支持率」下記のようです。
・インド 73%
・カナダ 62%
・トルコ 58%
・ロシア 58%
・ドイツ 55%
・南アフリカ 48%
・オーストラリア 45%
・英国 41%
・日本 36%
・米国 30%
・スペイン 30%
・フランス 28%
・ブラジル 26%
・韓国 24%
・ギリシャ 13%

英国は、EU離脱問題を抱えています。アメリカは、トランプ政権発足時の数字だと思われます。スペインの政権は、いつも不安定なままです。フランスは、オランド政権の末期で、この後、マクロン政権がスタートしますので、もう少し数字は改善するでしょう。ブラジルは、大統領弾劾がありましたし、経済不況が続いています。韓国は、朴槿恵大統領時代の数字のようですから、低くなっています。ギリシャは財政再建の途上ですから仕方ありません。つまり、下位の国々は、政権不安を抱えている国です。日本は、世界でも有数の安定政権と言われていた時代の数字です。この数字は、加計学園問題や防衛大臣の失言や東京都議選の前の数字だと思いますので、今、調査をすれば、もっと低い数字になるものと思います。
シビアにみれば、一桁の支持率が正解だと思いますが、日本国民は優しいし、「なあ、なあ」「まあ、まあ」の国ですから、50%でも驚きません。
ただ、なんらかの政治混乱がある国に近い数字だということは、決して喜ばしい状況ではありません。もしかすると、この36%は上限の数字なのかもしれません。もちろん、こんな数字が発表されても、日本政治が変わることはありません。そして、経済の衰退も続くものと思います。いつか、ギリシャを追い抜いて、世界一を手にするものと思いますが、これが、トレンドというものです。今は、その途中経過に過ぎないと考えると、末恐ろしい気がします。



もう一つ、別の数字を見てみましょう。
「定年退職に関する意識調査」で対象となった15カ国中、定年に向けた準備が最も整っていない国は日本であることがわかった、という記事がありました。
この調査はオランダの保険会社エイゴンが1万4400人の労働者の回答から、対象国の定年準備のレベルを6つの項目(個人の責任・意識レベル・金融知識・定年後の収入・老後用貯蓄・定年後の計画)を10点満点で採点したものだそうです。
■労働者が「定年退職の準備が整っていない」と感じている15カ国
15位 インド 7.6
14位 米国 6.9
13位 ブラジル 6.4
12位 中国 6.3
11位 英国 6.2
9位 オーストラリア 6.1
9位 カナダ 6.1
8位 ドイツ 6.0
7位 オランダ 5.8
6位 トルコ 5.5
5位 ポーランド 5.3
4位 フランス 5.2
2位 ハンガリー 5.1
2位 スペイン 5.1
1位 日本 4.7

見事に、世界一、金メダルです。
国の借金も世界一です。
この類の金メダルには、困ったものです。
この数字は、将来的に、社会不安の増大を示す数字になります。しかも、これは、国家衰退というトレンドを後押しする数字にもなります。この数字以外にも、老人の貧困問題は爆発的に増加するという数字が数多く存在しています。もちろん、自己責任ですから、誰かが貧困老人を救ってくれることはありません。もちろん、国には貧困老人を救済する財源はありません。10年後の貧困老人は、少なく見積もっても500万人(まさか!!)と予想されていますが、残念ながら、放置するしか方法はないのです。
私は、老人人口が2,500万人になった時の貧困老人の数は、2,000万人になると思っていますので、社会不安は、現在の予想の数倍になると思っています。皆さんの近所のスーパーでは、見かけない光景かもしれませんが、千円札を握りしめた老人が「これで、買えるだけ」という注文をレジでしていることがあります。レジのおねえさんは、選別作業をしなければなりません。「これは、外しますよ」と言われて、別のかごに入れられる商品を見ている老人の顔は正視できませんでした。私の住んでいる地域では、今でもこういう老人がいるのです。10年後を想像すると、暗澹たる気持ちになります。
収入のない、貯金のない、年金のない老人は、生き延びることができません。10年後に、生活保護制度が機能しているとは思えません。もちろん、葬式の費用などありません。いや、1万円の火葬料も残せないでしょう。もっと言えば、死亡の認知が出来るかどうかも心配です。戸籍制度が崩壊すれば、統治機構も機能しなくなります。
国が衰退すれば、当然、国民の生活は貧しくなります。国民は、「こんな筈ではなかった」と思うでしょう。国民が、その怒りの持って行き場がなくなれば、政府が悪いというキャンペーンを野党やマスコミが始め、空気に左右される国民は、国に対する不満を増幅させることになります。でも、国が国民に責任転嫁をしても、国民が国に責任転嫁をしても、何も解決しません。確かに、失敗の原因は国家運営者の不作為によるものですが、国家運営者の好きにやらせたのは国民自身なのです。国民は、主権者であると同時に、責任者でもあります。これも、定義不在による弊害の一つです。「国民とは」という定義があれば、その定義の中に、「最終責任は国民が負う」という一文があるはずです。
かつて、戦後間もなく、「民主国家の国民の権利と義務」という話題が盛んになった時代がありました。「俺達は、王様だ」「何をやっても、許されるのだ」という馬鹿げた主張もありました。その後、民主国家も、国民も、権利も、義務も、曖昧という荒野に溶け込み、議論が深まることはありませんでした。その延長線上に今日があります。もちろん、議論を深めないほうが、国家運営者にとって利益になったのですから、そう誘導されたのですが、国民は、その事にも気づきませんでした。
手遅れ状態にならないと騒がない場合は、騒がないほうが悪いと思います。それが出来るのは民主国家だけなのに、もったいないことです。
長期的な対応は、本来、国の仕事ですが、民主化を求めなかった国民の、民主主義の定義を知らなかった国民の責任です。これも、「民主主義とは」という定義が欠如していることの弊害です。
将来を予測できる数字は、いくらでもあります。国民は、その対応を政府に求めなければなりません。「国とは」という定義はありませんが、それが国の仕事だからです。一方、最終責任を取るのは国民であり、四の五の言っても、自分と自分の子供と孫の生活がかかっているのですから、事前に騒ぐことが国民の仕事なのです。
国が対応できなかった少子高齢化が、その一例です。20年前に、国民は騒ぎましたか。いいえ、国民は自分の守備範囲だと思っていませんでした。少子高齢化による悪影響は、これから、ますます、大きくなりますが、今となっては、打てる手はありません。「定義」の欠如が、国を亡ぼすという、民主国家では見られない現象が起きるのです。
公助、共助、自助という話を書いたことがありますが、政府は、自らの責任を転嫁するために、ますます、自助を強調するようになるでしょう。自助とは、「最終責任を取るのは、国民の皆さんですよ」という意味です。
社会保障費の削減も着実に進行しています。生活保護の次は介護でした。介護の次は医療になり、医療の次は年金になるでしょう。選挙との兼ね合いがありますので、時期は未定ですが、社会保障費は確実に削減されることになります。もちろん、削減は一回では終わりません。エンドレスで続きます。ない袖は振れないのですから、仕方ありません。でも、ここに不思議があります。政府も日銀も、国の借金を中央銀行が引き受けても問題はない、と言っているのですから、借金はいくらでもできる筈なのに、どうして、社会保障費の削減をする必要があるのでしょう。そうです。いくらでも借金ができるという言い分が偽物だからです。当たり前のことです。もしも、無尽蔵に借金が出来るのであれば、増税も社会保障費の削減も必要ありません。皆で、使いたいだけ使い、皆でハッピーになればよかったのです。「これでもか」という巨額の借金をし、増税をし、給付削減をする。国民にとって、いいことは何一つありません。それでも、国民は自民党に投票します。日本国民は、どこまで「いい人」なのでしょう。それでも、責任を取るのは、国民です。上の数字は、そんな社会がやって来ることを示している数字なのです。現実は着実に崩壊の方向を向いています。
また、「このままでは、日本の金融緩和政策はヤバいことになるぞ」という意見が増えてきました。国債の購入も、ETFの購入も、マイナス金利政策も、賛成しているのは政府と日銀だけになりそうです。だって、最終責任を取るのは、政府でも日銀でもないのですから、彼等は他人の褌で相撲を取っているのですから、こんな楽なことはありません。責任を取る必要がないのですから、好き放題に出来ます。ところが、今でも、金融緩和政策失敗の最終責任を取るのは国民であるということを、国民は知りません。誰も責任を取らず、誰もが幸せになる方法なんて存在しないのです。誰かが責任を取らねばなりません。責任を取るのは、国民の皆さんです。皆さんは不条理だと感じるかもしれません。「俺が、何か、悪いことをしたか」と思うかもしれません。でも、「国民とは」という定義があれば、簡単に納得できることなのです。
社会保障費を削減することは当然だという空気の醸成も進んでいます。いつか、年金を貰っていると「国賊」と言われる日が来るのかもしれません。醸成された空気が支配する国ですから、これも仕方ありません。
つまり、少し長い目で見れば「お先、真っ暗」状態になっているのです。
これでは、国民の不安が消えることはありません。
国民は、理屈では説明できなくても、直感で、その「お先、真っ暗」を感じています。
でも、定義が存在していませんので、騒ぐことすらできません。
ほんの少しだけ、想像してみてください。
貧困老人が、バタバタと死に絶える日がやって来るのです。いや、貧困老人だけではありません。必死に貯めた1,000万円の貯金に頼って生活をしていた老人は、ハイパーインフレのせいで貨幣価値が暴落し、1万円の価値になってしまったらどうするのでしょう。貯金なんて、何の価値もなくなるのです。中には、年金は物価スライドするから大丈夫だと思っている人がいるかもしれません。しかし、財源があったら、という前提条件が満たされなければ実現しません。多少の貯金がある老人も、多少の年金がある老人も、ハイパーインフレがくれば、即座に貧困老人になるのです。残念ながら、この国の財政は、ハイパーインフレでしか清算できない運命を背負っています。国の財政問題は、庶民には関係ないなんて話は、嘘八百にすぎません。国の財政は、庶民の生活に直結しているのです。
では、若者は、老人問題だから、自分には無縁の出来事だと思えるのでしょうか。そうは思えないでしょう。自分の将来を見ることになるのですから、不安になります。老人だけではなく、全世代の人達が不安の中で生活をしなければなりません。これでは、社会が正常に機能するとは思えません。そんな社会にしたくないのであれば、事前に騒ぐしか方法はないのです。それが、国民に課せられた責任なのですから、定義の不在は、怖ろしいことだと気付いて欲しいと思っています。
先ず、「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義をすることから始めなくてはならないのが、私達国民の仕事です。確かに、もう、手遅れですが、何もしないより、何かをするべきなのではありませんか。



これは、些末なことかもしれませんが、「構造改革とは」という定義がないために、国会が、いつものように三文芝居で国費を浪費しています。
「構造改革」という言葉は盛んに使われますが、私も使いますが、その中身については千差万別の解釈があるように思っています。統治構造の改革、政治構造の改革、経済構造の改革、社会構造の改革、どれをとっても一筋縄で解決するような問題ではありません。しかし、構造改革しかこの国を救うことができないことも確かです。だったら、言葉の定義をして、本気で取り組むべきだと思うのです。今は、目的も手段も曖昧なままです。
私は、NHKと契約をしていませんので、友人の家で閉会中審査をみましたが、安倍総理は「岩盤規制に風穴を開けるために」と何度も答弁していました。安倍総理は「構造改革」という言葉も政治用語にしてしまったようです。政治家の先生方(これは、蔑称です)は、法律に違反していなければ、何をやっても良いという基本理念で活動していますから、金や票のやり取りは秘匿しても、言葉の意味を変えることなど、正当な行動だと考えています。
昨日も言葉による騙し政治のことを書きましたが、私には、日本語受難の時代に見えてなりません。利用できるものは何でも利用しよう、という下心が丸見えで、不快な気分になるのは私だけなのでしょうか。国対委員長も幹事長も官房長官も総理大臣も、「丁寧」という言葉を乱発しています。「丁寧」という言葉を口にすれば、丁寧に説明したことになると思っているようです。いや、実際に効果があるから、彼等は「丁寧」を使うのであり、言葉に騙される純な国民がいる限り、「ふむ、ふむ」と大人の対応をしている国民がいる限り、勘違い国民がいる限り、彼等は使い続けるでしょう。ですから、政府だけが悪いわけではありません。ただ、本質を隠し、言葉で騙すやり方は、国にとっても、国民にとっても、不幸なことだと思います。
話は脇道に逸れますが、重婚疑惑やストーカー疑惑のある議員が謝罪会見を開き、後援会の人達と握手をしている映像がありました。濃い化粧の高齢女性が多かったように思います。皆さん、それぞれ事情はあると思いますが、あの勘違い高齢者は「気持ち悪い」と感じてしまいました。多分、これは、私の偏見なのでしょう。でも、やはり、気持ち悪いです。できれば、もう少し薄い色の紅を使ってくれると嬉しいです。
総理、もしも、総理が高い理念で岩盤規制に挑戦しているのであれば、京都産業大学に獣医学部を新設したのであれば、総理の言葉でも説得力があったと思います。加計理事長は古くからの友人なのですから「ここは、辛抱してくれ」と頼めば、友人なのですから、親友なのですから、加計理事長も承知してくれたと思います。もしも、加計理事長が「ゴルフにも連れて行ったし、飯も食わしてやっただろう」と言うような人間ならば、友人にしてはいけません。なぜなら、総理は、国家国民のために働く人だからです。それとも、友人の便宜を叶えるために政治をやっているのですか。お願いですから、「そうだ」なんて言わないでくださいよ。ただ、「それの、どこが、悪いんだ。皆やってることだろう」と言われると、その通りですから反論はできませんが、せめて、一人くらい、そんな人がいて欲しいと思うのは、庶民のささやかな願いです。
世間では、愚かにも、安倍総理は、国家国民のために働いてくれていると信じている人がいるようですが、その評価を無駄にしてしまったことは、大変残念だと思います。
もっとも、私は、安倍総理を、日銀に国債ファイナンスをさせた戦後最大級の戦犯だと思っていますので、残念だとは思っていません。
ただ、好き嫌いの感情だけであれば、私は、安倍さんが嫌いではありません。「安倍さんと蓮舫さんの、どちらが好きですか」と問われれば、安倍さんのほうが好きだと答えます。私は、「トランプとヒラリーのどちらが好きか」と問われれば、トランプと答えるような変人ですから、国に損害を与えるかどうかという観点からは、落第です。個人的な好き嫌いは、できるだけ封印しているつもりですが、端々に見えているかもしれません。それは、謝らなくてはなりません。
一方、野党の皆さんにお願いしたいことがあります。
加計問題など、ごくごく、些細なことにすぎません。野党の皆さんは、完全に力配分を間違っています。特に、蓮舫さん。加計問題に必死になっている姿は、見苦しいと思います。そのような近視眼的な展望しかないから、代表辞任に追い込まれるのです。
どうか、国会で「構造改革とは」という議論をしてください。
構造改革とは、文科省の対応で見られるような、既得権益者擁護ではありません。
ましてや、内閣府がやっている、新しい利権集団を作ることでもありません。
加計問題を政治家と官僚の闘いにするのではなく、原点に戻すこと、「構造改革とは」という定義をすることから始めなくてはなりません。法律違反かどうかという議論は、国会の仕事ではないと思います。
特に、今の日本に必要なのは構造改革なのですから、そのことを議論すべきです。
定義がなくて、利益に走ってしまうのは、人間ですから、致し方ありません。
でも、定義があれば、その定義に沿うように動くのも人間なんです。
確かに、人間は、弱くて愚かな生き物ですが、他の動物にはない理性という素晴らしい一面も持っています。
だからこそ、人類は、まだ、生き残っているのです。


2017-08-02



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