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復元力 [評論]



公表されている世界のコロナ死亡者数は、約700万人、過去2000年の人類史上7番目の数になりました。3年前にコロナが発生した時の私の予測は、ベスト10入りでしたが、ベスト7にまで順位を上げてしまいました。予測が甘かったと反省しています。
ただ、発生メカニズムについては、まだ、確定していません。
それは、中国が協力しない、いや、協力できない事情を抱えているからだと思います。
中国とアフリカは細菌の宝庫です。細菌はコロナウイルスだけではありません。疫病対策には事実解明が欠かせませんが、それが出来ないとなると、今後も、別の疫病に脆弱なまま対峙しなければなりません。
コロナウイルスは、感染力は強いが、毒性の点では、それほど強毒なウイルスではなかったと言われています。それでも、700万人も死亡しているのです。次にやってくる疫病が弱毒性とは限りません。死亡者が、7000万人や7億人の可能性だってあります。そういう意味では、人類の未来は決して明るいものではありません。
ここは、人類が力を合わせて対処する場面だと思います。
中国共産党には、もう少し、人類全体のことを考えて欲しいと思います。
もちろん。無理なお願いですが。
疫病の視点だけではなく、世界の国々は、中国が厄介な国だと思っています。ロシアやイランや北朝鮮だって、そう思っているでしょう。しかし、カネを積まれたら、誰でも「よいしょ」します。人間は「欲」のためなら何でもします。フランスのマクロンを見れば、よくわかります。私でも、カネを積まれたら、こんな文章は書きません。
でも、人間から「欲」はなくなりません。
CO2が原因だと言われている地球温暖化も、ブレーキがかかりません。
最近は、自然災害が、世界的な傾向として増えているように感じます。
人類が「心を入れ替えて」なんて行動を取るとは思えません。
ですから、時期は未定ですが、人類絶滅は必然だと思います。
せめて、生存している間は、先延ばしの努力をしたいものです。
その鍵を握るのが中国だと思います。
しかし、中国共産党は、地球や人類のことではなく、14億人の人民を統制することを最優先事項と考えているようです。
今でも自由とは程遠い中国の言論ですが、今後は、更に大幅に制限されることになります。
「反スパイ法」は、外国人の取り締まり以上に、中国人民の言論や行動を大きく制限することになると思います。
ただ、中国人民は、日本人と違ってヤワではありません。表面的には従順そうに見えますが、そんなことはありません。実に厄介な人達なのです。
私達は、日本国民が世界標準だと考えていますが、それは間違っています。日本国民は、統治者にとって御し易い「いい人」ばかりで、模範生であり、世界の異端だと思います。
この先、中国人民の不満が、どこまで膨らむかが中国の将来を大きく左右します。
人民の不満は、最終的に、内乱まで行くと思います。それが、中国です。
習近平は、その事を知っているから、弾圧のステージを上げているのです。
習近平にとって、怖いのは、アメリカではありません。14億人の中国人民です。
不条理の質と量を、中国と日本で比べて見ると、天と地ほどの差があります。日本では、マイナカードで揉めていますが、中国人から見れば、揉める理由がわからないと思います。
中国人民を苛立たせる不条理の質と量が、最近、更に、増えています。
高度経済成長で覆い隠されていた不条理が、人民の前に立ち塞がり始めました。
中国共産党とすれば、今の経済減速を何とかしなければなりません。
ただ、それは、そんなに簡単なことではありません。
それは、これまで中国経済を牽引してきた不動産投資とインフラ投資という手法が限界にきているからです。先進国並みの経済政策が必要になりますが、即効性という観点から、これは、大変難しいことです。
経済規模が大きくなっていますので、全面崩壊にはならないと思いますが、今の状態が続けば、人民の不満は膨らみます。それを弾圧という手段で乗り切ろうとしている中国共産党の手法が、上手く行くかどうかは未知数です。
ただ、人民の不満が大きくなって人民統制に支障が生じた場合、対外的な紛争を惹き起こす誘惑は強くなると思います。南シナ海や東シナ海の係争地や台湾での武力行使が現実のものになる可能性は否定できません。
中国は、実に、厄介です。

それに比べて、日本国民は、ほんとに、従順です。
ほんとに、日本は平和です。
内乱の危険なんて想像もできません。
中国では、内乱が数々の帝国を滅亡させてきました。
日本には、そういう歴史はありません。
これは、中国人民の持っている復元力だと思っています。
復元力は、自然の力であり、人類にとっては伝家の宝刀なのかもしれません。
船は、簡単には転覆しません。それは、重心と浮力という力が働き、復元力になっているからです。もしも、地球に重力がなければ、いや、弱い重力しかなければ、人間の力では海は征服できなかったと思います。地球がそんな惑星であったら、今の文明は存在しなかったのではないかと思います。
人類にとって、復元力は不可欠の物なのだと思います。
その点では、日本は復元力の弱い国のように見えます。
それは、皆さんが「いい人」で、従順で、忍耐強いからだと思います。
確かに、「欲」に忠実な中国人民は、私達にとって異質の存在なのかもしれませんが、中国人から見れば、私達が異質に見えているのではないでしょうか。いや、地球全体から見た場合、多分、異質なのは中国ではなく、日本なのだと思います。
日本ほど、性善説が当たり前のように存在している国は、珍しいのかもしれません。
性善説を信奉している人も、性善説を主張する人も、大勢います。
でも、世界は性善説とは真逆の論理で動いています。
これが、世界の現実です。
常識は時代で変わります。しかし、日本人は、あまり変わりません。昔から、ずっと、「いい人」です。その根底にあるのが、性善説なのかもしれません。
今の日本に住んでいる私達には、自由の束縛という感覚はありません。もちろん、日本でも、江戸時代だけではなく、20世紀の敗戦までは、自由は束縛されていました。「お上」の批判をすると牢屋にぶち込まれたものです。
今でも、人間の自由を束縛している国は、数多く存在しています。
その代表的な国が、中国、ロシア、イラン、北朝鮮です。これらの国では、性善説が通用しません。正しいのは、独裁者だけです。
では、自由が保障されている国では性善説が有効なのかというと、それは違います。
なぜなら、私達が人間だからです。人間にとって、「欲」は最強の本能です。「欲」の前では性善説なんて何の役にも立ちません。
人間は、どれほど清廉潔白な人だと言われていても、必ず、悪しき面を持っています。ましてや、俗人である私などは、良き面よりも悪しき面のほうが多いかもしれません。ですから、そもそも、性善説は成り立たないのです。自分で自分のことを観察すれば、性善説なんて成り立たないことは一目瞭然だと思うのですが、なぜか、日本人は、性善説を欲しがります。それは、「こうでありたい」という願いがあるのだと思います。もちろん。「ないものねだり」に過ぎませんが、性善説という理想論は精神安定剤の役割を持っていますので、自分を誤魔化すのには役に立つのです。
そんなことは、多くの方が「何となく」理解しています。ですから、性善説一択という人は多くありません。それでも、中には、性善説一択という人もいます。理想論ですから、声高に叫んでも反対する人はいません。そこで、つい、自分が正しいと勘違いしてしまう人がいるのです。こういう人は、どんな社会にも一定数存在しますので、そのことを四の五の言っても仕方ありません。
問題は、「ぶりっ子」です。
人は、いや、特に、日本人は、「いい人、ぶりっ子」をしたがります。日本人は、歴史と伝統の中で培われた「いい人、ぶりっ子」をすることが習性になっていますので、ほぼ全員が、無意識で「いい人」を演じます。変人と言われる私でも「いい人」を演じています。
「いい人」を演じることが悪いとは思いません。そのことで、社会の軋轢が緩和されているという利点もあります。
ただ、国が、自分の生活が、破滅に向かっている時は別です。
地獄が見えていると、人間には、それに反発する復元力が働くのですが、「いい人、ぶりっ子」をやっていると、その復元力が働きません。
本音では「ヤバイ」と思っていても、つい、「いい人、ぶりっ子」を演じていれば、事態は悪化するものです。
今、この国が、じわじわと、ずるずると、劣化しているのは、国民の皆さんが「いい人、ぶりっ子」を演じていることが大きな要因になっています。もっとも、誰も、そんなことは言いません。だって、皆さん「いい人、ぶりっ子」ですから、そんなことを言えば村八分になることを知っています。村八分は、21世紀の今でも怖いです。
誰もが「このままではヤバイ」と思いながら、何も言えない。だから、じわじわ、ずるずるという状態が続いているのです。
もしも、目的と責務がオーソライズされていれば、根拠さえあれば、多くの方が「ヤバイ」という声を出すことができます。そうすれば、復元力は正常に働きます。
人民が弾圧されている国では、生命の危険を承知の上で、真実を表に出す勇気が持てるという現実を見ると、国民生活という視点に立つと、どちらに優位性があるのか、よくわからなくなりますが、自由が保障されていて、復元力が保持できることが最善の道なのかもしれません。
やはり、私達に必要なのは、目的と責務の明確化なのだと思います。


2023-08-05



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噛み合っていない [評論]



「主権者を疑う ー 統治の主役は誰なのか」という駒村圭吾氏の書籍を評している岩瀬達哉氏の文章を取り上げます。
私は、駒村圭吾氏という方が、どれほど有名な方なのか、学者としてどれほど優秀な方なのか、全く知りません。非礼な言葉を数多く書くと思いますが、無礼の段は、平にご容赦ください。私の視点は、「国民生活は守られるのか」です。その視点では、お偉い先生の過去の経歴や知名度は、何の意味も持っていません。
申し訳ありませんが、今回も本を購入せずに、表題だけで評価してみたいと思います。
法学者の駒村氏は、「国家統治の主役は国民なんですよ」と言いたいのだと思います。
日本は、一応、建前では、民主国家ですから、この結論は正しいものです。多分、国民の皆さんに自覚を持ってもらいたいという願いがあって書かれた書籍だと思います。
ただ、建前と現実は、必ず同じものだとは限りません。いや、建前と現実は、大きく乖離することのほうが一般的です。
書評を読む限りでは、私には、駒村氏の主張は、学問のための学問にしか見えません。駒村氏の本だけではなく、この手の本が国民生活に利益を与えているとは思えません。警鐘を鳴らして、その鐘を叩いている本人が「ふむ、ふむ」と頷いているようにしか見えないのです。お偉い学者先生の本は、自分の名前に箔をつけるために書いているものであり、現実社会には何の影響力も持っていないのです。
「変わるべきは、憲法よりも、まず、権利を自覚しない国民自身だ」というのが、駒村氏の結論なのでしょう。
この150年、この手の議論は、多くの方がやってきました。
ただ、いつも欠けているのが、「どうすれば、国民が権利や責務を自覚することができるのか」という視点です。
「先ず、お前が、自覚しろよ」と言われても、「下々」はどうすればいいのか、見当もつきません。だって、それが「下々」にとって、あるべき姿勢だからです。
駒村氏は、改憲を重視していないようですが、この国にとって、改憲は不可欠な要素です。もちろん、現在、国会で議論されているような改憲は不要です。国の責務と国民の責務を明確に規定し、国の目的と、国民の目的を、明確に記した憲法が必要です。
そのためには、国民意識を変えることが不可欠です。「下々」が「下々」のままでは、どんな憲法を制定しても、この国は変われません。
過去にも、「これじゃ、駄目だ」という警鐘は数多くありました。
しかし、「こうやって、変えましょうよ」という処方箋を示した学者が皆無です。ほんと、見事なほど、ゼロです。ですから、150年、それなりの風が吹いたことはありません。
私には、学者の書籍は、学者の自慰行為にしか見えません。
もちろん、結論が間違っているのではありません。
結論は、正しいと思います。
でも、これは、結論の正誤の問題ではありません。
結論を基に、国が変わったかどうか、という結果の問題です。
しかし、150年間、この国は変わっていません。何度か目的らしきものを持った時代はありましたが、曖昧なものでしかなく、いつの間にか、消えてしまいました。この国は、明治維新から今日まで、多分、明日以降も、「民主主義風王政並立封建制度」の国です。
これは、どれほど、正しい結論を出しても、現実的な結果を出さなければ、社会を変えなければ、何の役にも立たないということです。
先月、「前近代的共同体」というものについて書きました。
駒村氏が言う「国家統治の主役は国民」であっても、国が「前近代的共同体」では、どうすることも出来ません。専門家の皆さんの主張は、150年間、同じです。
「だから、どうするんですか」という問いには、誰も答えません。
「国家統治の主役は国民」も、「前近代的共同体」も、「そうだ、そうだ」で終わりです。
もう、そろそろ、何とかしなければなりませんが、お偉い学者先生方は、カネや名誉を手にすることに専念しています。
駒村氏は、「主権者を疑う」と言っています。
主権者という言葉があるだけで、その中身はありません。
その事を棚に上げて、「主権者を疑う」と言われても、誰も反応できません。
その前に、専門家としての自分を疑って欲しいものです。
疑われた国民は、疑われたって、定義もなく、中身もなく、主権者としての責務も目的もなく、何を、どうしろ、と言うのでしょうか。
国民が、国民主権を実現する具体的な方法を提示することが、学者の仕事です。
学者が、知識を得るのは、問題を解決するために得るものです。
知識を弄ぶだけなら、知識には何の価値もありません。
確かに、知識をひけらかせば、カネも名誉も手に入るかもしれませんが、国民には、何の役にも立ちません。
また、駒村氏は、国民の民度が低く、低投票率が定着し、特定の利益集団が国家運営を独占していると言います。
その通りですが、だったら、どうするのです。
「国民が悪い」で終わりですか。
もちろん、悪いのは国民です。
でも、そこで終わらないで欲しいと思います。
国民は、どうすればいいのか、わからないのです。
お偉い先生方が、上から目線で正論を吐いても、何の価値もないと思います。
日本国民は、「下々」ですから、そんな正論には反応しません。
だから、専門家が存在しているのです。
その専門家が「悪いのは国民だ」と言ってみても、不毛でしかありません。
国民の何が悪くて、それを、どうすればいいのかと言う処方箋を示さねば、国民には伝わりません。
この書籍の表題「主権者を疑う ー 統治の主役は誰なのか」の真意は、「この糞国民が」だと思うのですが、真綿で包んで、毒にも薬にもならない「なあ、なあ」「まあ、まあ」の表題になっています。「糞国民よ、目を醒ませ」という表題にして欲しいくらいです。
大学に嫌われ、学生に嫌われ、一般読者に嫌われたのでは商売になりません。カネを稼ぐためには、「なあ、なあ」「まあ、まあ」は不可欠です。それでも、この本が何冊売れているのか知りませんが、買った人は「お気の毒」です。「ふむ、ふむ」で終わるのであれば、時間の無駄だと思います。
「学者とは」という定義がありませんので、学者は何をやっても、何もしなくても、問題はないのかもしれません。
でも、敢えて、言葉の定義をしてみたいと思います。
私の勝手な定義ですが、学者とは、知識を駆使して現状を分析し、課題があれば、その原因を特定し、その上で処方箋を書くことが責務だと思います。
この150年間、この処方箋、特に、具体的に実行可能な処方箋、を提示した学者は皆無だと思っています。
言葉の定義がされていないことが、誰にとっても、居心地はいいのでしょうが、これこそが、致命傷です。
国家運営者には国家運営者の責務があります。
専門家には専門家の責務があります。
国民には国民の責務があります。
どれも、同じものではありません。
国家運営者にも、専門家にも、国民にも、それぞれの責務があるのです。
もちろん、「何のために」という目的も必要です。
それが曖昧になっているために、国全体として噛み合っていないために、国力が衰退しているのです。
誰にも責任はなく、誰もが責任を取る。
これが、「なあ、なあ」「まあ、まあ」の究極の目的かもしれません。
でも、この先も、「なあ、なあ」「まあ、まあ」は続きます。
それは、何も変えない、何も変わらない、ということです。
私達の未来が現在のトレンドの延長線上にあるということです。
国力衰退というトレンドと国民負担率の上昇というトレンドの延長線上に、私達の未来の生活があるということです。
それほど遠い未来ではなく、皆さんはその現実に直面することになります。それでも、皆さんは、「ふむ、ふむ」と頷き、「俺には関係ねぇ」と言い続けていると思います。
でも、行き着く先は地獄です。
ほんと、皆さん、大丈夫なんですか。

もう一人、学者先生を紹介します。
農業経済学者の鈴木宣弘教授です。
7200万人の餓死者というフレーズを紹介した先生です。
米国ラトガース大学の研究者らが、局地的な核戦争が勃発した場合、直接的な被爆による死者は2700万人だが、「核の冬」による食料生産の減少と物流停止による2年後の餓死者は、食料自給率の低い日本に集中し、世界全体で2億5000万人の餓死者のうち、約3割の7200万人が日本の餓死者と推定したことを根拠としています。
その上で、鈴木宣弘教授は、本気で、食料安全保障に取り組まねばならないと警鐘を鳴らしています。
本気の食料安全保障政策が必要であることは言うまでもありませんが、農業分野の改革が必要であることも正しい選択ですが、それだけでは国民生活は守れません。いろいろな分野で、いろいろな方が、いろいろな提案をしています。そんな提案は不要だとは言いません。しかし、この国の課題は、そこではありません。思想とか文化の領域の問題なのです。
農業を守るためにも、餓死者を出さない国を作るためにも、求められているのは、国力衰退を止め、反転させ、国そのものを豊かにする方策が必要です。
それは、簡単なことではありません。一大変革、それも、歴史を変えるほどの変革が求められているのだと思います。
ラトガース大学の研究では核戦争が想定されていますが、仮に、核戦争が起きなくても、日本は食糧危機になります。
その原因は、国力衰退による「買い負け」現象が定着するからです。
鈴木教授も指摘していますが、今でも、この「買い負け」は起きています。日本が、小麦をトン当たり10万円で買うと申し入れても、中国がトン当たり15万円で買うと言えば、生産国は中国に売ります。
食料安全保障は、もう、農業政策で何とかなるようなものではありません。
国力次第で、食糧の輸入は途絶えるのです。
では、どうすればいいのか。
「買い負け」しないで済むように、国を繁栄させねばなりません。
では、誰が、国を豊かにするのですか。
国民しかいません。
では、どうすれば、国民が力を出してくれるのでしょう。
補助金や給付金で、国民は、その気になってくれるのでしょうか。
「貰えるものは、貰っておく」で終わると思います。
国民が自分の責務を知って、努力するしか道はありません。
濡れ手に粟とか上手い話なんてものはありません。地道に、長時間、努力するしか方法はないのだと思います。
今、この国に必要なのは、目的と責務の明確化です。これは、文化を変えなければ実現しません。歴史を変えなければ、衰退するこの国を再生させることは不可能です。
これが日本の処方箋であり、今は、唯一の処方箋だと思います。
有識者でも学者でも教授でも知識人でも、呼び名は何でもいいですが、彼等がこの処方箋の一番近くにいます。
あと、一歩、前に出ればいいだけです。
文化に着目できる先生が現れることを、期待します。


2023-08-04



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ペコペコ集団 [評論]



7月に行われた群馬県知事選挙の投票率が、29.65%で、過去最低になったという記事がありました。
知事選挙の投票率を見ると、元々、群馬県の投票率は47ある都道府県の中で、41位で、決して高くはありません。前回は、36.6%だったようです。ただ、今回の29.65%は46位になりますので、群馬県としては問題があるのでしょう。
全国1位は秋田県で、67.4%。最下位の47位は埼玉県で、24.9%です。
投票率の全国平均は、47.7%ですし、最下位の埼玉県よりは上ですから、29.65%という数字が特別な数字ではないようです。
群馬県民の皆さんも、「まあ、こんなもんだろう」と思ったのではないでしょうか。
東京都周辺の地域が低投票率になっているのは、「俺には関係ねぇ」意識が強いことによるのではないかと思います。埼玉47位、茨城46位、千葉45位、栃木44位、群馬41位と最下位争いをしているのは東京を取り巻く県ばかりです。
ただ、私が一番驚いたのは、全国1位が秋田県だったことです。
以前、NHK受信契約件数を調べた時も、全国1位は、秋田県でした。
多分、これ以外にも、秋田県は優秀な数字を一杯持っているものと思います。
まさに、「お上」にとって、優等生、昔流に言えば学校に従順な「級長」さんです。「お上」から見れば、「下々」にも優劣があるということのようです。
これは、階級制度に縛られている秋田県を褒めているわけではなく、無関心な群馬県を非難しているのでもありません。
「土下座」することに抵抗感のない秋田県も、「俺には関係ねぇ」と言う無責任な群馬県も、他の都道府県の皆さんも、民主主義を意識していない、いや、「知らない」ということだと思います。以前にも書きましたが、「1億2000万人総無知」状態なのだと思います。
この国には、「民主主義とは」という定義がないのですから、当たり前と言えば当たり前のことです。
知事選挙の投票率で、1位の67.4%と47位の24.9%には、2.7倍の差があります。これは、統一国家というよりも、昔の幕藩体制での数字のように見えてしまいます。その土地その土地の風土で投票率に大きな差が出ている国を、近代国家と呼んでいいのかと思います。
これは、言葉の定義がされていないこと、「あるべき姿」が見えていないこと、つまり、国の統治システムが近代化されず、封建制度が継続されていることを示しています。
本来の「あるべき姿」が国民には見えていないのです。
21世紀になっても、未だに、この国は封建制度です。
それは、国民の皆さんが、意識を変えないからだと思います。
皆さんは、今でも、「下々」です。
「下々」が貧困に苦しむのは、封建制度下では珍しいことではありません。
国民の皆さんは、貧困を自己責任だと容認しています。ほんとに、「いい人」です。
もちろん、「悪い人」を推奨しているのではありません。
でも、度を越えた「いい人」は、皆さんを苦しめることになります。
「いい人」をやめて、「強欲」になれと言っているのでもありません。
ただ、間違いなく、限度があると思います。皆さん、「いい人」をやり過ぎです。
確かに、その匙加減は難しいと思いますが、原則を見つければ、それなりに限度は見えてくると思います。
英雄と言われるような個人がいても、国は豊かにはなりません。
国民の皆さんの総合力が国の豊かさを決めます。
国民の皆さんが目的を持ち、責務を知り、責務を果たすことで、国は豊かになります。
確かに、国民の皆さんは「いい人」です。でも、「いい人」だけでは、国は豊かになりません。ですから、貧困に苦しむ人が増えているのです。この先は、もっと、貧乏人が増えます。「いい人」を演じていれば、結果オーライになるわけではないのです。どうか、そのことに気付いてください。

国民の皆さんをボロクソに言っていますが、では、国民が頼りなくても国がしっかりしているかと言うと、永田町ではスキャンダル探しとガキの喧嘩が横行しています。与党と野党は、伝統的にガキの喧嘩をする仲ですが、最近は、野党同士のガキの喧嘩が盛んになっています。いつものことですが、民主主義の定義もせずに、「民主主義の破壊だ」と言う野党もいます。どの政党も、国民に向き合うのではなく、政党間の権力争いに熱中しています。彼等は、自分の選挙のことしか見えていません。国民不在の政治活動こそ「民主主義の破壊だ」と思いますが、そのことに気付くこともありません。確かに、日本は、民主国家ではありませんので、こんなものでもいいのでしょう。
どっちもどっち、です。
ただ、木原事件では、その扱いが変わっています。
スキャンダルが大好きな野党の皆さんも、流石に、下半身のスキャンダルには飛びつかないようです。ま、確かに、警察の捜査が絡んでいると、手が出せないのかもしれません。
でも、妻には殺人に関与した疑惑があり、愛人との間には認知問題があり、妻と愛人は友人であり、まさに、ドラマ並みのドロドロです。ただ、木原議員は政権の中枢人物であり、岸田政権と呼ぶよりも木原政権と呼ぶ人もいるほどの大物ですから、テレビのワイドショーも、喧嘩が売れないようです。政党も警察上層部もテレビも、忖度合戦をやっています。「まあ、まあ」が飛び交っているものと思います。国会議員は、マジで「お殿様」なのかもしれません。ドラマで「お前なんて、クビにするのは簡単なんだぞ」と政治家が警察官に脅しをかける場面がありますが、実際にあるリアルな話のようで、驚きました。
こんな国が繁栄するとは思えません。
国力衰退は、必然だったと思います。
ま、皆さんは、皆で仲良くドツボに落ちるなら仕方ないと思っているようですから、何を言っても無駄なのでしょう。
それでも、子供達の未来を考えると、何とかして抵抗したいと思います。

群馬県知事選挙で当選したのは、現職の山本一太氏です。
この記事には票数も出ていました。
棄権           111万3210票
山本一太氏         36万3559票
石田清人氏         7万7198票
清水澄氏          1万8534票
白票など無効票         9809票
これ、カネをかけて選挙する意味があるのでしょうか。石田氏と清水氏が立候補辞退をすれば済む話なのではないでしょうか。7万票とか1万票に意味があるようには見えません。
山本知事は、投票率の低下について「本当に深刻だ。知事としても政治家としても県政にもっと興味を持ってもらい、投票率増加のため何をすべきか真剣に考えないといけない」と述べたそうです。
では、山本知事は、何をするのでしょう。
広報活動の予算を増やすくらいしかないと思います。
知事は、県民が県政に興味を持っていないことが低投票率の原因だと思っているようですが、何故、県民は県政に興味を持っていないのでしょう。
原因の原因は、何なのでしょう。
県政が、県民にとって自分事ではないから、興味を持てないのです。
群馬県民の7割の人が、県政は自分事ではなく、「俺には関係ねぇ」と思っているのです。でも、これは、県民が間違っているのではありません。実際に、県政なんて他人事でしかないのです。私には、秋田県の数字のほうが異常に見えます。
国の権限が強いので、地方自治体にできることには限度があります。その上、地方行政に寄生している利益集団は国に寄生する集団とも利益を供用しています。馴れ合い、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で行政は動かされています。
国政も地方行政も、政治家と利益団体のために動いているのであり、国民生活のために仕事をしているのではありません。
国民の「俺には関係ねぇ」は、間違っていないのです。
国民は、政治が自分達の生活のために動いていないことを、直感で知っています。
県が、広報活動に予算を投じても、投票率には影響しません。
今は、国の責務も地方自治体の責務も、闇の中です。
ま、確かに、「俺には関係ねぇ」と逃げている国民も、責務を果たしていないのですから、大口は叩けません。
皆で、責務を果たさずに、皆で、ドツボに入りましょう。というのが日本社会です。
皆で、「なあ、なあ」「まあ、まあ」をしているのが、日本社会です。
だから、日本の国力は衰退しているのです。
もしも、こんな国が繁栄するのであれば、それこそ、奇跡です。
逆に、日本の戦後復興は奇跡ではありません。あれは、多くの国民の努力の結果です。当然の結果なのだと思います。

知事で有名なのは、東京の小池さんと大阪の吉村さんですが、どんどん、横柄になっているように見えます。
小池さんも吉村さんも人間ですから仕方ありません。
知事の周辺にいるのは、「ペコペコ」集団です。
つい、勘違いをしたとしても、仕方ありません。
「ペコペコ」集団の人を非難しているのではありません。
利益のためなら、誰でも「ペコペコ」します。
これ、当たり前のことです。
私が地方自治体の寄生虫であれば、「ペコペコ」なんて朝飯前です。「土下座」だってします。無理難題だって、全部受け入れます。都民も府民も県民も、私には関係ありません。税を出すのは国民ですが、税を使うのは国と地方自治体です。私は徴税権を持っていませんので、私が知事に「ペコペコ」することに、何の不思議もありません。国民に「ペコペコ」したって、1円にもならないからです。
日本の統治システムで最も重視されているのが「和」です。
利益を皆で分かち合うことが重要なのです。もちろん、国民・県民もプレイヤーですから、それなりの利益は配分されます。
でも、これって、「和」って、そんなに素晴らしいことなのでしょうか。
国民・県民の皆さんが生活が苦しいと感じているのは、なぜなのでしょう。
政治・行政は、国民生活のために存在するのではないでしょうか。
政治が、分け前を決めることは、正しいことなのでしょうか。
「和」を錦の御旗に掲げて、政治と「ペコペコ」集団が利益配分をしている現状を民主主義と言っていいのでしょうか。私には専制主義に見えてなりません。
この国が衰退している最大の原因は、国民の皆さんの意識だと思います。
国民の皆さんの意識が変わらなければ、この国は、潰れる運命にあります。
国民の皆さんの自業自得です。
確かに、政治家にも「ペコペコ」集団にも問題はあります。
しかし、国民の意識が変われば、政治家も「ペコペコ」集団も変わります。
国民の皆さんが、政治家や「ペコペコ」集団に「好き勝手」をさせているのです。
だって、政治家も「ペコペコ」集団も人間です。「欲」が優先するのは仕方ありません。
国民の皆さんの意識を変えれば済むことなんですが、その方法がありません。
私も、その方法を見つけていません。
ですから、このまま、ずるずると、朽ちていくことになります。
困ったことです。


2023-08-03



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改革という名の騙し [評論]



昨日は、立憲民主党の窮状について書きましたが、今日は、野党第一党に名乗りを挙げた日本維新の会の「騙し」について書きます。国民の皆さんは、既に、「改革」という言葉に、かなりの数の方が騙されていますが、日本維新の会が野党第一党になっても、政権党になっても、ずるずると壊れ続けている今の状況は何も変わりません。
世論調査では、日本維新の会は、国民の皆さんの誤解で、支持率で立憲を上回る政党になってしまいました。そうです、皆さんは騙されています。駄目な党(維新)と駄目な党(立憲)を比べた時、立憲のほうが、より駄目な党に見えているだけです。
国民の政治全般に対する閉塞感は大きくなっているように見えます。それは、多くの皆さんが「何党がやっても、同じだろう」と思っているからです。その直感は間違っていません。そのくらい「禄でもない政党」ばかりだということです。日本維新の会に夢を託せば、皆さんは後悔します。もちろん、このまま、自民党に政権を託すことは、地獄への道になります。自民党政治を続ければ、ジリ貧から抜け出すことは不可能だと言うことは、国民の皆さんも何となくわかっています。しかし、自民党に代わる政党がありません。
残念ながら、かつての民主党であれ、今の立憲民主党であれ、日本維新の会であれ、どの党が政権政党になったとしても、この国は変わりません。衰退するだけです。
それは、どの政党も、国家運営の基本となる目的を持っていないからです。国民生活を守るという責務を果たせる政党がないということです。
なぜ、目的が持てないのか。
それは、自分達が、目に見えない「民主主義風王政並立封建制度」という土台の上に立っていることに気付いていないからです。曖昧文化の副作用に気付いていません。
今ある政党は政治家が自分の都合で作り上げた政党ですから、国民生活とは無縁です。政治家による政治家のための政党です。国民は「あてがい扶持」のような既存政党ではなく、国民自らが、自分の生活を救うための政党を創り出さなければ、この環境は変わりません。
政権交代をしても何も変わらないことは、かつての民主党政権がコケたことで、既に、証明されています。
ただ、唐突な国防費増額、意味不明な少子化対策、ゴリ押しのマイナンバー政策、側近の木原事件、等々、オウンゴールを続ける岸田政権に対する国民の不信感は大きく育っています。これは、国民の「お灸をすえる」意識を高めているということです。
このまま、岸田さんが、秋に解散総選挙に踏み切った場合、最悪のシナリオとして、政権交代の可能性が浮上します。
この国には、国にも、国民にも、「目的」がなく、国の骨格を作るための選挙なのに、有権者である国民は、「何となく」とか「空気」で投票をしています。判断基準がありませんので、その時の空気で、どんな結果でも起きる可能性があります。
その時の受け皿になるのは、何党でもよく、今は、それが日本維新の会です。
自民党も立憲民主党も、内紛が絶えません。自民と公明の間にもすきま風が吹いています。公明と共産の力に衰えが見えます。これは、これまでの政治の構図が変化し始めているということだと思います。
自民党への「お灸」、立憲離れ、公明・共産の弱体化等々の要素が、維新の大勝に繋がる可能性があります。
そのためには、多くの幸運(全選挙区への立候補者擁立、高い投票率、嵐のような空気)が必要になりますが、可能性という意味では無視できません。
もちろん、日本維新の会に、国民の皆さんの期待に応える力はありません。
2009年の民主党と同じ結果になります。
それは、他の政党と同じで、確固たる目的を持っていないからです。

ここで、日本維新の会の共同代表である吉村大阪府知事の言葉を見てみます。
吉村さんは、維新が政権に就けば、「国会議員の定数3割減」を実行すると言っています。何かを期待させるような言葉ですが、「国会議員の定数3割減」では、この国は何も変わりません。重病の患者に風邪薬を投与するようなものです。
大阪でやったように、議員定数の削減や公務員改革や報酬の削減をしたところで、防衛費や少子化対策費が捻出できるわけではありません。ましてや、国力衰退は止まりません。ですから、日本維新の会が政権を取っても、増税路線は変わりません。岸田さんが敷いた六公四民というレールは、そのままです。
ただ、自民党は、過去の失政を「うやむや」にして増税するのに対して、維新は、一定の責任を取るという姿勢を示しています。
それを、国民の皆さんが、どう評価するのか、だと思います。
では、過去の失政に責任を取れば、国家運営が成り立つのかと言うと、それは、別の問題であり、国民が、国民負担の増加で苦境に立つことは避けられません。
残念ですが、何も変わりません。
「議員定数の削減をするから、増税を認めてください」と言っているだけです。
もちろん、小手先や口先の政策は山のように出してくるかもしれません。
でも、そんなことでは、この国のトレンドは、国力衰退と国民負担の増加というトレンドは、ビクともしません。
何年続くかわかりませんが、最終的には空中分解するしかありません。
その時、国力衰退と国民負担の増加は、大きく一歩進んでいると思います。
もちろん、自民党が政権政党に戻って来ても、何も変わりません。
問題は、「なし崩し」でも「けじめ」でもないのです。
問題は、国力衰退であり、原因の原因の原因を見つけていないことにあります。
そのことに、誰も気付いていません。
既存の、どの政党が政権を取っても、この国は潰れる運命にあるのです。
そんなことは、国民の皆さんも、薄々とですが、知っていると思います。
六公四民や、その先にある七公三民は、知りたくはないでしょうが、心のどこかで知っています。政治が、この国を劇的に変えてくれるなんて妄想は持っていないと思います。「なるようにしか、ならねえ」と思っているでしょうし、「俺には関係ねぇ」と逃げるしかないと覚悟していると思います。
でも、そうではありません。
国民の皆さん次第で、この国は、どのようにでも変えられるのです。
ただ、皆さんには経験がありませんので、その方法がわかりません。
「れば、たら、もし」ですが。
原因(国力衰退)を見つければ。
その原因の原因(責務と目的の欠如)を見つければ。
更に、その原因の原因の原因(曖昧文化)を見つければ。
この国は、変わります。
方法はあるのです。
そのためには、国民の皆さんが、自ら、言葉の定義に挑戦し、責務を明確にし、目的を持てば、この国は変わります。
「ほんとに、そんなことで、変わるのか」「そんな抽象的な方法で、事態が変わるとは思えない」「具体的な方法を提示しろ」「他に、何か、いい方法があるだろう」と言う方が多いかもしれません。
では、第二次世界大戦の頃まで、少し、時間を戻してみましょう。
日本軍は各地で戦争に負け続け、多くの街を廃墟にされ、原子爆弾でとどめを刺され、無条件降伏を受け入れるまで追い詰められた日本が、敗戦後、世界から「奇跡の戦後復興」と呼ばれる経済復興に成功したのは、なぜでしょう。
「奇跡の戦後復興」を実現した世代は、私達の世代よりも上の世代が主力だったと思いますが、私達世代も、その奇跡の中に、熱気の中に、いたことは確かです。私の個人的な感想に過ぎませんが、あの時代には、実際に、熱気があったと思っています。
国としてオーソライズされたものではなく、論理的帰結があったわけではなく、多くの国民に共通した心情として「追いつき、追い越せ、復興するぞ」という願望に突き動かされていた時代があったことは確かです。心情であっても、これも、目的の1つです。
多くの方が、共通の目的を持てば、何かが動くという実例だと思います。
定義された目的ではありませんでしたので、自然消滅し、無目的の時代が続き、そのトレンドが国力衰退へと向かいました。
何か、大きな力が働く時とは、多くの方が同じ願いを、目的を、持った時に生まれるのだと思います。
今は、その目的も、心情(願い)も、ありません。
あるのは、「俺には関係ねぇ」と「自分さえよければ」です。
私は、目的を持つために、責務を明確にしてみませんか、と提案しています。
そうです、自然消滅するような目的ではなく、論理的に、目的を構築してみませんか、と提案しています。未来永劫続く目的を創ってみませんか、と提案しています。
目的を持つことなんて、何の役にも立たないのでしょうか。
そうではないと思います。

皆さんが責務と目的を知れば、新しい政治集団が勝手に生まれます。
政治家の皆さんの責務は「国民生活を守る」ことになり、「自分さえよければ」を封印するしかありません。今のように国民を無視していれば、当選できないからです。
そうなれば、「子供達の未来を守る」目的を前に進める足掛かりができます。もちろん、国民の皆さんは、この国を豊かにする責務を負います。「俺には関係ねぇ」なんて言っていたのでは「子供達の未来を守る」ことはできません。
政治家も、官僚も、学者も、ジャーナリストも、国民も、その立場立場の責務を果たせば、この国の衰退は止まると思います。国が衰退して一番困るのは子供達です。子供達の未来を守れば、私達の未来も守ることになると思います。
多分、こんなことが出来るのは、日本民族しかいないのではないかと思います。
それは、日本の皆さんは、自然に「いい人」を演じることができるからです。日本人の「いい人」を演じる力は、負の循環になる時もありますが、正の循環にも寄与すると思います。
もちろん、日本人が一人残らず責務を果たしてくれるとは思いません。でも、責務を果たしてくれる人が多ければ多いほど、この国は豊かになると思います。

「責務と目的なんて精神論で何かが変わるとは思えない」
そうかもしれません。
では、どうするのですか。皆さんの生活は、どんどん悪い方向へ向かっています。
誰か、そのトレンドを変えていますか。
何か方法はあるのですか。
このまま、見て見ぬふりをしていていいのですか。
「俺ではない、誰かが、何とかしてくれ。俺は、甘い汁さえ吸えれば文句言わないし・・・」が、国民の皆さんの本音なのではないかと思います。でも、こんなこと、実現するのでしょうか。無理だと思います。
「自分さえよければ」「俺には関係ねぇ」という社会が豊かになると思いますか。「自分さえよければの何が悪い」と開き直っても許される社会が、豊かになるでしょうか。
大きな潮流の中では「俺には関係ねぇ」なんて声さえ聞こえなくなります。そもそも、大きな潮流の中では、個人の力なんて、何の役にも立ちません。
今、この国には、国力衰退という大きな潮流が生まれています。それを、個人の力で制御することは不可能です。
数を頼んで制御するしか方法はないと思います。
多くの個人の力を結集するために必要になるのが、目的です。
私達は、自分の生活を守るために、遠回りかもしれませんが、集団となって、大きな潮流を制御するしかないのです。
それが出来るのは、個人の力ではなく、国民の皆さん全体の意識しかないと思います。
そのための責務と目的は不可欠な要素だと思います。
多分、今は正念場です。正念場の国家運営を担う政党や政治家が、今のままでいいとは思えません。
既存の政党では、この潮流を制御することは出来ません。
先ず、助平根性なしに「国民生活を守る」ことに特化した政党を作らねばなりません。
それを実現するのは、皆さんが「言葉の定義」をすればいいだけです。命を差し出せとか全財産を差し出せ、と言っているのではありません。定義をするだけです。


2023-08-02



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あるべき姿 [評論]



6月の解散総選挙が不発に終わり、各政党は仕切り直しをして秋の解散総選挙へ向け、準備に必死です。ただ、これ以上の政権支持率の下落があると、岸田さんが、解散権を行使(乱用)できるのかどうか、まだわかりません。国民の皆さんは、自民党以外の政権が望ましいとは思っていません。もちろん、自民党政治に納得しているわけではありませんが、他に選択肢がないのですから、自民党に投票するという選択肢しかないと思っています。それは、国民が自ら何かを創造したという体験がありませんので、あてがわれた選択肢の中で「少しでもマシな政党」を選ぶという消極的な選択をしてきたからです。
ただ、「お灸をすえる」という意識は常にあります。ゴリ押しのマイナンバー制度は、「お灸をすえる」案件としては手頃であり、選挙には影響すると思います。
もしも、支持率が上昇するような幸運もなく、解散してしまった場合には、自民党大敗の可能性がないとは言い切れません。過去、国民が自民党に「お灸をすえた」のが、2009年です。いや、「お灸をすえる」つもりだったのに、政権交代になってしまいました。国民は、民主党政権を希っていたわけではありません。「俺一人くらい、民主党に票を入れても、変わらないだろう」と考えた人が、意外に多かったのだと思います。
仮に、そんな環境が生まれたとしても、立憲民主党は、ヤバイです。自民党の受け皿になるのは立憲民主党ではなく、今や、日本維新の会になってしまいました。
苦しい立場に変わりがない立憲民主党と立憲民主党所属議員が、足掻いています。まだ2人しか離党していませんが、「離党」という2文字が頭の中で行き来している議員は、かなり、いると思います。ただ、維新が引き取ってくれるか、国民民主が引き取ってくれるか、そこがはっきりしませんので、決断が出来ません。このまま立憲民主党に籍を置けば、落選は避けられませんので、とても、悩ましいと思います。だったら、共産党公認で立候補すればいいのにと思いますが、さすがに、そんな立憲議員はいません。共産党固定票が欲しいだけの助平根性丸出しですが、そのことに気付いているのでしょうか。
他党との選挙協力はしないと言っていた泉代表が、選挙調整はすると言い出して、共産党にまで注文を付けられる有様です。立憲の相手をしてくれるのは共産党しかないのに、共産党との主導権争いに負けたら、最弱野党になってしまいます。国民は、そんな政党に一票を投じてくれるのでしょうか。
ここで、立憲民主党に一票を入れている国民は、どんな人達なのか考えてみましょう。
何人いるかは別にして、立憲民主党の主張に本気で賛同している人達がいます。私には理解できませんが、これは、個人の自由ですから、どうぞ。
昔の社会党だって、そういう人達はいました。しかし、今では、激減しています。過去に、多くの国民が社会党に一票を投じていた時代があったのです。140人もの社会党議員がいた時期もありました。
当時の社会党もそうであったように、立憲民主党に一票を投じている人達の大半は、アンチ自民党の人達で、別に、社会党でも、立憲民主党でも、その他の政党でも、自民党以外の政党であればいい方々です。
昔、「巨人、大鵬、玉子焼き」という言葉がありました。日本人が好きなものの例えを言った言葉です。でも、そこには必ず、アンチ巨人も、アンチ大鵬も、アンチ玉子焼きの人達もいました。ですから、アンチ自民党には、何の不思議もありません。
もちろん、自民党政権に全幅の信頼を置いている国民は少ないと思います。ただ、自民党以外の政党が、明らかに、自民党よりも劣っているのですから、国民の選択肢にはなりえません。国民の皆さんが「自分の生活を守ってくれる」政党を自ら作らなければ、この行き止まり感は解消できないと思います。
政治家も政党も、「国民生活を・・・ 国の将来を・・・ 」なんてことを考えていません。
ただただ、議席が欲しい、それだけです。もっとも、その意識は各党共通ですから、立憲民主党だけに四の五の言ってみたって意味ありません。
本来、国民生活や国の将来をより良きものにするために仕事をすることが政治の仕事であり、それが政治家の責務です。
政治家はその責務を果たしているのでしょうか。
いや、国を、国民生活を、悪しき方向へと引っ張っています。
しかし、それ以上に厄介なことがあります。
それは、誰もその事に言及しないことです。
誰も、愚かな政治家の「自分さえよければ」を止めようとしません。
批判はしますが、処方箋を示して、本気で止めようとしている人がいません。
1億2000万人もの人がいるのに、誰一人、処方箋を示す人がいないのです。
それは、何もかもが「ぼんやり」としているからです。
日本国民は、全員が政治家ではありません。官僚もいれば、学者もいれば、ジャーナリストもいれば、国民もいます。
どうして、誰も、政治家の責務について発言しないのでしょう。
選挙のことしか考えない政治家に、「君たちの責務は選挙で勝つことではないだろう」と疑問を投げつける人がいないのです。たとえ、疑問をぶつける人がいたとしても、具体的な行動を書いた処方箋を提示する人がいません。
ですから、政治家は、本来の仕事をすることなく、選挙対策に力を注ぎます。
これ、誰に責任があるのでしょう。
政治家だけの問題ではないことは明らかです。
学者、メディア、国民が、それぞれの責務を果たしていないから、政治家は「自分さえよければ」をやっても許されると勘違いしているのです。「俺様は、何をやっても許される、お偉い先生様なのだぞ」と思い込んでいます。
多くの方の目に、「自分さえよければ」をやっている自民党や、不甲斐ない立憲民主党の姿は見えているのに、世論は動きません。
いや、世論は、ふらふらとしか、動きません。
そこには、芯がありません。
それは、何もかもが「ぼんやり」としているからです。
誰も、何も言わないから、政治家は、どの政党の政治家も、選挙に勝つことだけが、自分の使命だと信じてしまっているのです。
これは、私達に責任があると思います。
昔は、お殿様に諫言をした武士は切腹したものです。でも、政治家はお殿様ではなく、外注先ですから、政治家に向かって「責務を果たせ」と言っても切腹する必要はありません。
私は、「批判しろ」と言っているわけではありません。批判や非難なら、山のように出回っています。私は、処方箋を提示してください、と言っているのです。
よく「政治が悪い」という言い方をする方がいます。特に、メディアの皆さんは、その傾向が強いと感じます。
でも、それは、違います。
「政治が悪い」のではなく、「政治も悪い」のです。
この「が」と「も」の違いは大きいと思います。
なぜ、こんな簡単なことに気付けないのでしょう。
何度も言いますが、誰も、政治家も官僚も学者もメディアも国民も、「あるべき姿」を知らないのです。
ただの無知です。この国は、1億2000万人総無知状態なんです。
政治家の責務を、官僚の責務を、学者の責務を、メディアの責務を、国民の責務を、誰一人知らないのです。
自民党や立憲民主党の不様な姿を見ているのに、国民の皆さんは「俺には関係ねぇ」と思っています。
驚きしかありません。
だって、国民の皆さんの生活がかかっているのです。他人事ではありません。
「俺には関係ねぇ」と嘯きながら、ドツボにはまろうとしている国民の皆さんこそ、不様な姿を晒しているのです。どうして、自分の生活を守らないのですか。
実害を受けるのは、国民の皆さんなんです。
皆さんは、立憲民主党の姿を笑えるのですか。
あれは、皆さんの姿なのではありませんか。
立憲民主党の今の姿は、「あるべき姿」を知らず、自分の「責務」を知らず、「自分さえよければ」「選挙に勝てれば」という欲に溺れている姿です。遠からず第2の社会党になろうとしている姿です。
でも、これは、国民の皆さんの姿でもあるのです。
どうか、そのことに気付いて欲しいと思います。
これは、他人事ではなく、まさに、自分事なんです。
国民の皆さんの生活の問題なのです。
明日、何が起きても、不思議ではありません。
仮に、明日ではなく、1年後でも、数年後でも、結果は同じです。
国民の皆さんの生活が、破綻します。
「まさか・・・」「よりによって・・・」なんて言っても、後の祭りです。
体力を失っている人は、風邪を引いただけで死ぬこともあるのです。

なぜ、人間は集団生活を始めたのか。
なぜ、人間は、国という仕組みを生み出したのか。
そうです。生き延びるためです。
いや、そうしなければ、生き延びることが出来なかったからです。
それは、今でも同じです。
この先も、もしも、生き延びたいのであれば、私達は「あるべき姿」を知る必要があります。「あるべき姿」を知り、集団を形成する私達が、それぞれの立場で、責務を果たさなければ、生き延びることは難しいと思います。
もう、これ以上「なあ、なあ」「まあ、まあ」では前に進むことは難しいと思います。
後で振り返れば一目瞭然なのでしょうが、今が、私達の正念場です。
どうか、どうか、そのことに気付いてください。


2023-08-01



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