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どうすることも出来ない [評論]



1月1日早々、「朝まで生テレビ 新春SP」というテレビ番組がありました。
昔、一度観たことがありますが、「これって、バラエティー番組 ?」と思える内容だったのと、老害司会者の横暴が酷くて、観るのを止めたことがあります。
今回は、若者の出演が少なかったせいか、バラエティーにはなっていませんでしたが、実りのない番組でした。司会者は、やはり、老害でした。90歳だそうです。1/26にも、老害で一悶着あったようですが、テレビ局は喜んでいるのかもしれません。
「2024 この国をどうするか」がテーマですから、問題意識が間違っていたわけではありません。
「政治をどうするか」「経済をどうするか」「国防をどうするか」という真面目なテーマでしたが、出演者が問題点を出し合うだけで、少しは、提案もありましたが、終わってみたら、「何も残らない」番組だったと思います。
不満を表明することは大切なことだと思いますが、それを、政権や自民党に「何とかしてくれ」では、井戸端会議にしかなりません。そもそも、政権や政党や議員が国民の要望に従うことはありません。国会議員の目的は、自分が議員を続けることであり、政権の目的は、「政権の維持」だからです。国民の出る幕はありません。
政治に対する不満があっても、それを、国民が是正するシステムが存在しないことが問題なんですが、システムを変えようという話にはなりません。自民党に注文を付けても、いいようにされるだけなのに、文句をつけることしかできない。野党にも国民にも、自民党のやりたい放題を止める手段がないのです。「政治とカネ」問題は、何度も起きますが、それでいいのでしょうか。ほとぼりが褪めれば、また、同じことが、必ず、起きます。国民の皆さんは、何度も煮え湯を呑まされているのに、どうして、システムそのものを変えようとしないのでしょう。
裁判員裁判があります。検察審査会の仕組みもあります。国民生活を最優先とする国政審査会が、なぜ、作られないのでしょう。仕組みを作る仕事を議員がやっている限り、出来ません。泥棒が泥棒を取り締まることは不可能です。
「政治とカネ」問題で、政権も自民党も、袋叩きにされていますので、それなりのことはしなくてはなりませんが、あくまでも、「それなり」です。
主権者は、投票権さえあれば、いいのでしょうか。
全国民に選挙権を与えたのは「お上」の慈悲だということなのでしょうか。
民主主義国になることをお勧めします。強く、お勧めします。
もしも、この国が民主主義国になりたいのであれば、国民の手で新しい政党を作るという方法しかないように思います。

当たり前のことを書きますが、何かを変えようとした時に必要な事。
1 先ず、不満を口にすること。「現状分析」
2 次に、その原因を見つけること。「原因究明」
3 そして、対応策を作ること。「対策立案」
4 最後に、行動すること。「行動」
というプロセスが必要になります。どの段階も簡単ではありませんが、この4つのプロセス全てが揃って、初めて、何かが変わります。こんなこと、言うまでもなく、誰でも知っていることです。知ってはいますが、とてつもなく、難しいことです。
「朝まで生テレビ」では、1に終始しただけです。2も、少しだけありました。
もちろん、1の「不満を口にすること」は大切です。1が無ければ2は無く、2が無ければ3は無く、3が無ければ4は無いのですから、1は必要不可欠です。でも、2と3と4が無ければ、1は意味がありません。
中でも最も難しいのが4番目ですが、そのヒントさえ出ませんでした。
確かに、4番目の「行動」は、ほぼ、不可能を可能にするほどの奇跡が必要です。私も、この壁の前で立ち竦んでいます。でも、この壁を乗り越えなければ、何も変わりません。
出席者の皆さんは、「誰か、何とかしてくれ」と思っています。誰もがそう思っていれば、「誰も、何も、しない」ことになります。どうすればいいのでしょう。
わかりません。私も、提案するものが何もありません。
番組に出演していた皆さんは、「この国、何とかしないと、ヤバイ」という認識は共有していたと思います。しかし、皆さん、何をしたらいいのか、わかりません。
私も、これまでに、テレビ局、政党、政治家、等々に意見書を送りましたが、反応はありませんでした。私も出席者の皆さんと同じです。ブログを書いているだけでは、意見書を送っているだけでは、国民の皆さんが「言葉の定義」をしてくれません。私も「誰か、何とかしてくれ」になってしまっているのです。
多分、「言葉の定義」とか「責務」とか「目的」では、何かが出来るとは思わないのでしょう。いや、「言葉の定義」をすれば、テレビ局に、政党に、政治家に、こんな利益かありますよ、という説得材料の提示ができません。「言葉の定義」をすれば、国全体の利益は得られるかもしれませんが、個々のテレビ局に、政党に、政治家に利益が出るとは限りません。逆に不利益が出る可能性のほうが高いと思います。
誰も見向きもしないのは、当然だと思います。

国という言葉も、国民という言葉も、民主主義という言葉も出ました。
出席者の多くが、この国の課題が、「国、国民、民主主義」にあることは、「何となく」わかっているのです。
でも、誰も、それらの言葉を定義しませんでした。
ですから、誰の責務も明らかになりませんでした。
「政治家が悪い」では何も変わりません。
「政治家を選んでいるのは国民だから仕方ない」では何も変わりません。
必要なのは、行動です。
政治家は選挙のことしか考えていない。政治家の責務が明確であれば、選挙よりも国民生活を守ることが優先されます。いや、そういう政治家しか当選しません。
選挙にカネがかかることも、選挙制度を変えることも、投票率が低いことも、組織票が幅を効かせていることも、「責務」が明確になっていれば、解決可能です。
問題山積みですが、批判、非難では何も変わりません。
今は、「責務」が曖昧なために、無い無い尽くし、になっているのです。
袋小路、雪隠詰め、ドン詰まり、の状態が続く日本を変えられるのは国民の力しかないと思いますが、「言葉の定義」をしないから、その方法が見つからない。
30歳の若者に「あなたのような方が政治をして欲しい」と政治家に言われて、若者は、政治家になりたいわけではないので、黙ってしまう。いや、若者が政治家になっても、呑み込まれてしまうだけだと思いますし、その事を若者は知っている。
若者は、「私ではない誰かが、何とかして」と考えている。
いや、若者だけではなく、誰もが、「私ではない誰かが、何とかして」と思っています。
まさに、不毛の議論というやつです。
この国を変えたいと本気で思っている人も、政治家になりたいとは思わない。それは、一人の政治家では国を変えられないからです。
つまり、国民の一人の力では、何も変わりません。
その事を、皆さん承知しています。
でも、この国を変えなければならないことは、誰もが知っている。
どうすれば、いいのでしょう。
国民という塊にならなければ、国民は力を発揮できません。「責務」と「目的」が明確になれば、「塊」の代わりになるものができるのです。
しかし、今は、「塊」も、「塊」の代わりになるものもありません。
小さな手直しをしながら、既存のシステムで進むしか選択肢がありません。
しかし、手直しでは、この国の衰退は止まりません。
今のシステムでは、もう、どうすることも出来なくなっているのに、システムを変えようとする動きがありません。それは、何事も「なあ、なあ、まあ、まあ」で済んでしまうことに原因があるのですが、誰も、文化に気付かない。だから、出口がないのです。
私達に残されているのは、文化を変えるという選択肢だけだと思います。
考え方を、文化を、変えることから始めないと、袋小路から出ることはできません。

自民党の国会議員と立憲民主党の国会議員が1人ずつ出席していました。
今、大騒ぎになっているのが「政治とカネ」の問題ですから、いろいろな方から政治資金の透明性が必要だという意見が出ましたが、自民党議員は「出来るだけ透明化する必要がある」と同意していました。本人は意識していないと思いますが「出来るだけ」という形容詞が自然に出て来ます。まさに、「なあ、なあ、まあ、まあ」です。
立憲民主党の議員には、「立憲は、何してるんだ」という批判ばかりで、針の筵状態でした。
その立憲議員は、「相続税の大増税」が必要だと熱弁していました。多分、個人的な意見だと思いますが、場は白けていました。2000兆円の国民資産を、相続時に国が税で吸い上げるという提案です。減税を提案しなかったのは、現実的な対応でしたが、「相続税の大増税」を提案するのは、立憲民主党には日本を再生するプランがない事を証明するようなものです。これまでの立憲の主張を見る限り、彼等が持っている政策は「バラマキ」だけです。「バラマキ」には原資が必要だから、相続税で賄おうというつもりなのでしょうか。資産を持っているのは高齢者です。その高齢者を敵に回すような提案をして、立憲は大丈夫なのでしょうか。理解に苦しみます。
司会者も出席者も番組を作っている皆さんも、「目的」が違うんです。
だから、現状認識も原因も対策も違います。
まさに、烏合の衆と呼ぶのが相応しい人達です。
愚痴の言いっ放し、井戸端会議、これこそ「なあ、なあ、まあ、まあ」の集まりです。
結論が出ないのは当たり前ですし、行動なんて起きようがありません。
「どうする 日本」という問いかけは、正しい問いかけだと思いますが、「どうする」という問いかけは「どう、行動するのか」という意味が含まれていると思いますが、ただのスローガンになっています。
それは、「目的」が共有されていないからだと思います。
それも、スローガンではなく、「責務」に裏打ちされた「目的」が無いからだと思います。
現状が「ヤバイ」ことは、共通認識としてありますが、「何のために」が定かではありません。「目的」があって、その「目的」を達成するために、「誰が」「どう」「行動するのか」がなければ、現状を変えることはできません。
「国、国民、民主主義」という言葉が出ているのに、なぜ、気付かないのか。
それは、全てが、曖昧だからです。
全てが曖昧なために、「言葉の定義」なんてしても意味がない。「言葉の定義」をしないから、「責務」なんて、頭をよぎらない。ましてや、「目的」など持つ必然性はない。「目的」がないから、行動する根拠がない。
これでは、結論の出しようがありません。
「どうする 日本」の答は、「どうすることも出来ない 日本」しかないと思います。
あの番組は、日本の現状を象徴するような番組だったと思います。

もちろん、私だって、同じことをやっています。
3番目までは、個人でも到達することは可能ですが、4番目の「行動」は、個人の力ではどうすることも出来きません。私も4番目の「行動」という壁の前で立ち竦んでいます。
国民の皆さんに「言葉の定義」をして「責務」と「目的」を見つけてくださいとお願いしていますが、国民の皆さんに行動してもらう方法が見つかりません。
家庭で、学校で、職場で、地域で、国民の皆さんが「言葉の定義」をする動機を見つけることが出来ていません。
テレビ番組や国会と同じ結果になっています。
ですから、悲しいことですが、私も同じ穴の狢でしかないのです。
仮に、解決策を見つけていても、行動できなければ、意味がありません。
多分、多くの皆さんが、4つのプロセスに気付いて、自ら、行動するしか道がない事を知った時に、動き始めるのだと思います。行動して欲しいと強く願っていますが、私が、いや、私だけではなく、個人に何かができるわけではないのだと思います。
ですから、国が崩壊し、皆さんが地獄に堕ちるまで待たなければならないのかもしれません。ただ、明治維新でも敗戦でも、日本人は文化に気付きませんでした。だとすると、無理なのかもしれません。


2024-02-02



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