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立法府の不作為 [評論]



このブログでは、不定期ですが、何度も、NHK問題を取り上げています。
NHKは、数々の問題を抱えていますが、国民の財布に影響するという点で、受信料の問題が最大の問題だと思います。
私は、NHK受信料を支払っていません。NHKから見れば、又、受信料を支払っている人達から見れば、私は、非国民であり、訴えられても仕方ない極悪人なのかもしれません。いや、ただの、「面倒くさい奴」なのかもしれません。
では、受信料を支払っている人は、NHK放送が視聴出来て、NHKのおかげで豊かな生活が出来て、満足だと思っているのでしょうか。
NHKの放送は、皆さんの生活を支えていますか。
そんな人は1人もいない、とは言いません。でも、とても、少ないと思います。

では、NHK受信料を支払っている皆さんにとって、NHK受信料なんて、はした金に過ぎないのでしょうか。
そういう人もいるでしょうが、多くの日本人は、そうではないと思います。
それなのに、何故、NHK受信料を支払っているのですか。
「そりゃあ、法律で決められているからだ」と言うでしょう。
ほんと、皆さんは「いい人」です。
では、お聞きします。
放送法では、「NHKに受信料を支払いなさい」と書かれているのですか。
いいえ、「契約を結びなさい」と書かれています。
しかし、実際に、NHK受信料を支払っている皆さんは、NHKが用意した「日本放送協会放送受信規約」という書類にサインすることで、契約したことになっているのです。
では、あの書類には、何が書かれているのでしょう。精読された方がいるのでしょうか。誰も、読んでいないと思います。文字も小さいです。私も精読したことがありません。でも、拾い読みをしただけですが、NHKの都合だけが書かれている書類のように見えます。
では、NHKの都合だけが書かれているあの書面が契約書なのでしょうか。
違うと思います。
契約書とは、お互いの言い分を話し合い、合意し、書面でそれを証明するために作られたものです。相手の言い分だけが書かれた書面は、契約書ではありません。例えば、アパートを借りる時に「賃貸契約書」という書類にサインしますが、もしも、店頭では5万円と言っていたのに、契約書は7万円になっていたら、サインしませんよね。逆に、4万円に書き換えてくださいと依頼したら、大家さんはサインしません。これが、契約です。
契約相手であるNHKの要求だけが書かれている書類に、「法律で決まっているのだから」という理由でサインを強要するのは、詐欺だと思います。法律には「契約をしなさい」と書かれているだけで、「NHKの書類に、無条件でサインしなさい」とは書かれていません。
庶民にとって、契約という概念は一般的ではありません。私達は、個人として、日常で、契約書の文面を考えることはありません。私達の日常生活の中に、契約という概念はほぼありません。民法には「契約の自由」という概念が謳われていますが、ほとんどの人が民法のお世話になることは、ゼロではないとしても、限りなくゼロに近い環境で生活しています。
そんな社会で、「日本放送協会放送受信規約」という「ボンヤリとした」契約書紛いの書類にサインを強要され、皆さんはNHK受信料を支払っているのです。
ただ、社会が「なあ、なあ」「まあ、まあ」で成り立っていますので、皆さんには、違和感はないのかもしれません。「契約」という言葉も、「公共」という言葉も、「法律」という言葉でさえ、定義する必要があると思います。
多くの方が、もやもや感を持っていると思います。私達の無知に付け込んだ悪徳商法だと言っても過言ではないと思いますが、違うのでしょうか。
私には、「おれおれ」も「還付金」も「NHK規約」も詐欺にしか見えません。

皆さんは、必死に稼いだカネで、物やサービスを買います。
それは、カネに代わる価値があるからです。
では、大切なカネを使って、NHKを受信できるサービスを買って、皆さんは、どんな価値を得ているのでしょう。NHKでしか放送しない相撲中継を視聴出来て満足しているという方もいるでしょうし、大河ドラマが好きで、満足している人もいるでしょう。ところが、NHK受信料を支払っていながら、何の利益も受けていない人達が大勢います。ですから、多くの方が、NHK受信料に疑問を持っています。これが現実です。特に、苦しい家計が悩みの種になっている人達にとっては、NHK受信料は重圧です。NHKに受信料を支払わなくてもいいのなら、もう少し子供の食費を増やせるのにと感じている人もいるでしょう。
貧困家庭の収入の何倍もの収入を得ているNHK職員の高額な給料を貧乏人が支える必要は、どこにあるのでしょう。
これは、もう、不条理の世界だと思います。
その原因は、放送法の「契約をしなければならない」という一文です。
施行当時は、それなりに意味のあった法律かもしれませんが、今では悪法だと思います。
本来であれば、国民生活を守るためには、不条理を解消するのが、国の仕事です。
これほど貧困者を作っているのに、その不条理を糺そうとしない立法府に責任はないのでしょうか。これは、立法府の不作為で、時間の経過が、放送法を悪法に変えてしまった結果だと思います。
放送法が制定されたのは1950年です。大昔のことです。
当時は、敗戦の痛手から立ち直るために、国も国民も、必死になっていた時代です。
経済の再生は、最重要の課題でした。
世界でも、ラジオの時代からテレビの時代へと移行する時期でした。
ですから、テレビの普及のために、放送法に、あの一文を書いたことは、間違いではなかったと思います。経済復興のためには、テレビも冷蔵庫も車もクーラーも必要でした。
では、21世紀の今、テレビの普及は、日本経済の起爆剤になるのでしょうか。
そういう時代ではありません。
時代に合わせた国家運営が必要とされている時に、過去の法律を放置するのは、立法府の不作為でしかありません。特に、これほど貧困層の家庭が増えている今、放送法は、既に、悪法と言っても過言ではないと思います。
私も、生活保護費より低い年金で生活している高齢者です。NHK受信料を支払う余力はありません。しかし、今年から、NHK受信料を支払っていない者は、割増金まで支払う義務を負わされてしまいました。悪法に成り下がった放送法の上に、更なる悪法を作ってしまったのです。これは、国民生活を無視した「悪政」そのものです。
でも、日本社会は、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で動いています。
ほんとに、日本国民の皆さんは、「いい人」ばかりです。
私は、「いい人」を演じることが苦手なので、NHK受信料は支払いません。
訴えられたら、戦うしかありません。
この年齢で裁判に耐えられるのかどうかはわかりませんが、戦うという選択肢しかないようです。

では、NHKという存在そのものを消し去ればいいのでしょうか。NHKをぶっ壊せば、いいのでしょうか。NHKを否定すれば、それで済むのでしょうか。
それは、違うと思います。
NHKには、この70年間で得たノーハウがあります。設備もあります。優秀な人材もいます。これは、日本の財産です。いや、国民の受信料で成り立ってきたのですから、これ等は国民の財産です。潰すのも、捨てるのも、惜しいと思います。
国民の拠出した受信料で、これほどの貴重な財産を築き上げたのです。国民生活を守るために使うことのほうが、本来の使い方だと思います。
出資者である国民の「生活を守る」ために、何が出来るのか。
今は、情報の時代です。情報発信が大きな力を持ちます。
発信力を持っているNHKは、その大きな力になれます。
NHKだけではありませんが、既存のメディアは、そのことに気付いていません。
ほんとに、惜しいと思います。宝の持ち腐れです。
朝日や毎日や赤旗のように、政権批判をしろ、と言っているのではありません。
相手を、いや、敵を貶めるための発信力は、希望を生みません。
しかし、もしも、万に一つ、奇跡的に、NHKが、この国の衰退の原因の原因の原因に気付き、その対処法が「言葉の定義」だと言うことを見つけたら、NHKには、やれることが山のようにあります。
今、この国を救えるのは、国民しかいません。しかし、国民の皆さんは、今でも、自分達が「下々」だと思い込んでいて、その使命に気付いていません。それを、放送を通じて、イベントを通じて、国民の皆さんに知ってもらうノーハウをNHKは持っています。全国に拠点を持ち、イベントで集客する技術も持ち、それを知らせる電波も持っています。
「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉を、その定義を、責務と目的を、国民運動にまで高める力を持っています。
NHKは、公共放送を自認しているのですから、本物の公共放送になる必要があります。国民の生活のために、この国を救うことは、公共を担うNHKの仕事です。
私達は、自分の生活を守るために、この国を救わなければなりません。
NHKは、その先頭に立つことができます。
民放とは違い、スポンサー企業に忖度する必要はありません。国民からもらったカネで、国民の利益を追求するのです。そこには、何も違和感はないと思います。
では、そんなことが、現実にできるのか、と言うと、出来ません。
NHKが、そんなNHKになったら、政府は放送法を改定します。放送法から「契約しなければならない」という文言を消せば、NHKの利権は消えます。
国民のためには放送法の改定はしませんが、政権の利益のためなら、政権は、躊躇なく放送法を改定します。
放送法が改定されたら、誰も、受信料は払いません。
でも、もしかすると、国民がNHKを支持するかもしれません。
どんな結果になるのかは、誰にもわかりません。
でも、ほんの少しですが、希望はあると思います。

今のNHKは、「カネの亡者」です。
既得権益を守るために全力投球をしています。そこには、品位の欠片も見えません。
「亡者」という言葉を辞書で引くと、「金銭など、物質的な物事にとりつかれている者」と書かれています。今のNHKは、まさに、カネに憑りつかれている亡者です。本来であれば、NHKは公共の利益に資する活動を行う組織だと思いますが、やっていることは、「カネ、カネ、カネ」です。
テレビを保持している人だけではなく、スマホを持っている人からも、ネットを利用する人からも、カーナビからも、受信料を取ろうとしています。
カネのために、国民を裁判で訴え、総務省に働きかけて割増金制度を実現させています。
自分達が、誰のために、何のために、放送事業を運営しているのかを忘れています。
いつの間にか、日本の大通りに認知されてしまった「自分さえよければ」という道を、大威張りで闊歩しています。
どうして、皆さんは、見て見ぬふりをするのですか。「俺には関係ねぇ」のでしょうか。
皆さんは、自分で自分の首を絞めていることに気付いていますか。
たかが、NHK問題ですが、これも、一事が万事の一事です。
そして、NHK職員は、私の年収の10倍以上の年収を得ています。
皆さんは、NHK職員並みの収入を得ているのですか。
そうじゃありませんよね。
そんな人は、一握りしかいないと思います。
どうして、皆さんが「ふむ、ふむ」「なあ、なあ」「まあ、まあ」と言っているのか、私には理解できません。
皆さんは、私のような人間を「非国民」だと言うかもしれません。
確かに、「いい人」でも、「非国民」でも、例外なく地獄へ堕ちるのですから、「いい人」を演じていたほうが楽だと考えていても不思議ではありません。
でも、筋の通らないNHK受信料という不条理を、見て見ぬふりをするのは、政府がやっている不条理も認めるということであり、不条理を放置することは、皆さんの生活を破壊することに繋がっています。皆さんは、自業自得をやっているのです。どうか、そのことに気付いてください。


2023-07-05



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高齢者にも責務はある [評論]



精神科医の和田秀樹さんの「日本の高齢者3600万人がいまリアルに後悔している意外な事」という文章から、袋小路で動きが取れない私達の姿を見てみましょう。

老人の6つの後悔。
1.もっと好きなことをしておけばよかった。
2.いろいろ経験しておけばよかった。
3.自分を殺して他人に尽くしすぎなければよかった。
4.周りにもっと自分の気持ちを伝えておけばよかった。
5.お金の心配をしすぎなければよかった。
6.医者の言うことを聞きすぎなければよかった。

もちろん、3600万人の高齢者が一人残らず後悔しているというわけではありません。ただ、1割の高齢者が、感じている後悔だとしても、数百万人の老人が臍を噛んでいることになり、決して、見過ごしていいことだとは思えません。
この6つの後悔に共通するものが、「なあ、なあ」「まあ、まあ」であり、「ふむ、ふむ」であり、「いい人」を演じてきた自分に対する後悔なのではないかと思います。
そういう生き方をしてきたのは、高齢者の皆さんの個人的な嗜好で選択したものではなく、社会通念とか常識とか世間の空気という無形の圧力により、止むを得ず、良かれと思って、流されてきた結果だと思います。これは、巨大な文化の力ですが、そのことに気付いている方が、まだ、いません。
高齢者の皆さん、皆さんは、嘆いて、後悔して、それでお終いなんですか。
このまま「なあ、なあ」「まあ、まあ」を続ければ、後輩も子供達も孫達も、同じ後悔をすることになりますが、「俺には関係ねぇ」でいいのでしょうか。
皆さんには、後輩や子供達や孫達に対して果たすべき責務はないのでしょうか。
いいえ、高齢者には高齢者の責務があると思います。
昔は、この責務を「大人の責任」と呼んでいたと思います。もちろん、これは、高齢者だけの責務ではありません。後輩や子供達や孫達だけではなく、自分ではない誰かのために、考え、行動することを「大人の責任」と呼んでいたと思います。「自分さえよければ」の対極にある考え方かもしれません。
もう、「大人の責任」なんてものは存在しないのでしょうか。
せっかく、後悔したのです。
高齢者の皆さんには、次の世代のために、やれることはあると思います。
誰かのために、何かが出来たら、それは、きっと、自分のためにもなるのではないでしょうか。後悔したままではなく、死ぬことが出来れば、それも価値のあることだと思います。

この国では、皆で責任を分かつことが暗黙の了解です。
それは、誰も責任を取らなくていい、ということでもあります。
危険な交差点は、皆で、一緒に渡ろうよ、というものです。
しかも、強い同調圧力があります。
出る釘は、皆で叩きます。村八分は、今でも、生きています。
敢えて、大きな不幸や大きな幸福という視野を閉ざし、「とりあえず」とか「そこそこ」とか「分相応」でいいと思っています。世間では、これを処世術と呼び、ほとんどの方が慣れ親しんできました。
確かに、これまでは、そのやり方で「何とか」なってきました。
ただ、この「何とか」というのが厄介です。現実として、「何ともならない人」が増えてきたことで、その神話にも陰りが見えてきています。
大きな不幸や大きな幸福を視野に入れる必要がある時もあるということです。

高齢者になるということは、年金以外の収入がなくなるということです。
自分が何歳まで生きるのかわかりませんので、これは、大変、不安なことです。貯金が毎月減っていく恐怖は、結構、恐ろしいことです。体験したことがある人にしかわからないのかもしれませんが、背中が寒くなると言われる恐怖です。その寒さは、実際に、物理的に感じるのです。
現役世代の人達の中にも、収入の少ない非正規労働者やシングルマザーは不安を抱えています。老後資金のない高齢者も、不安で一杯だとすると、半数の国民が大きな不安を抱えているということになります。しかも、そういう方が、年々、増加していて、今後も、増え続けます。
しかし、誰も手を打ちません。
だらだらと、ずるずると、このまま、地獄へと滑り落ちて行く感覚は恐ろしいと思います。夢も希望もない世界は、かなり、生き辛いと思います。

では、一体、何が問題なのでしょう。
先程、「危険な交差点は、皆で、一緒に渡ろうよ」と書きましたが、危険な交差点がなければ、問題ありません。
しかし、朧気ながら、その危険が少しずつ見え始めています。国力衰退もその1つです。
だから、「ヤバイ」とも思いますし、後悔もするのです。
でも、ボンヤリとした危険であり、曖昧な心配ですから、手の付けようがありません。
「何となく、ヤバそうだよな」が実感だと思います。
つまり、何が問題なのかがわかっていないのです。
どうか、気付いてください。
問題は、危険なのは、国力衰退であり、国家崩壊です。
こんなことを書くとヨタ話だと思うかもしれませんが、そうではありません。
これは、今、皆さんの目の前にある実現確率の高い未来であり、明日、皆さんが直面する現実です。その実現確率は90%以上だと思います。
国家崩壊という危険な交差点に、全員で突っ込んで行って何とかなるものでしょうか。
いいえ、ズタズタに引き裂かれるだけだと思います。
常識とか空気とか忖度とか「なあ、なあ」「まあ、まあ」は、経験則です。しかし、直感は違います。本能です。その直感が、危険を感じるから、皆さんは不安なのです。
皆さんは、正しく、不安しているのです。
では、どうすれば、いいのでしょう。
危険を除去すればいいのです。
なんて書くと、いとも簡単なことのように思えますが、これが簡単ではありません。いや、とてつもなく、難しいことです。どのくらい難しいかと言うと、天地がひっくり返るほどの難しさです。ただ、その方法がないわけではありません。
先ず、国民が目の前の危険を具体的に知ることです。
漠然としたものではなく、国民の皆さんに、自分の生活と結びつけて考えられる危険の実態を知ってもらう必要があります。例えば、第二次世界大戦時に経験した食料配給制度の復活とその中身を具体的に示すことで、国民の理解は得られると思います。
課題だらけですが、ここにも、大きな課題があります。
誰が、国民にその危険の実態を示すのか。
今は、その役を果たす人が見当たりません。
官僚や専門家が知っていても、意味はありません。なぜなら、ずっと、知っていたのに、彼等には何も出来なかったからです。
次に、その危険な交差点は、なぜ、危険なのか。
どこに原因があるのかを、見つけなくてはなりません。
国力衰退とその先に待ち構えている崩壊の原因は、山のようにあります。ですから、単一の原因を見つけても、この危険は除去できません。
原因の原因を見つけ、更に、その原因の原因の原因を見つける必要があります。
この原因の原因の原因に対処し、個々の原因を根気よく1つずつ無くしていかねばなりません。その時に、最も必要とされるのが、国民の皆さんの意識です。国民が変わらなければ、国民が「俺には関係ねぇ」と言っていたら、失敗することになります。危険を除去するためには、国を豊かにしなければなりませんが、国を豊かに出来るのは国民しかいないからです。危険を除去するのは、国を豊かにするのは、総理大臣や事務次官や教授ではありません。国民なんです。国民の皆さんの意識次第ですが、危険を除去するまでには、5年か10年か20年かはわかりませんが、長い時間が必要です。
時間切れで国家崩壊がやってくるかもしれません。
その時は、大声で叫んでください。叫んでも、どうにもなりませんが、多少の気晴らしにはなるかもしれません。

先程、後悔している人を1割と仮定しましたが、それほど多くはないかもしれません。
ある世論調査の結果を見て、そう感じました。
「解散するぞ、解散するぞ」と大騒ぎをして、「負けそうだから、止めとくわ」と言った岸田政権のお粗末な顛末は、取り上げませんが、選挙風は吹きました。世論調査も行われました。その中の1つに、比例代表の投票先、というデータがあります。私が驚いたのは、電話調査とネット調査の差の大きさです。

     電話調査   ネット調査(%)  差(倍)
自民   28.5   12.8    2.2
公明    6.4    3.6    1.8
立憲   14.3    4.3    3.3
維新   16.2   11.5    1.4
共産    8.1    1.1    7.4
未定   16.9   58.7   -3.5 

この数字を見ると、同じ質問をしたとは思えないほどの差があります。
いろいろな要因があると推測されますが、中でも年齢差が大きいと思います。
電話調査の対象者は、ランダムに抽出しますので、高齢者の数が多くなり、ネット調査では、ネットとの親和性が低い高齢者の数は少ないと思います。
また、未来に変化が期待できない高齢者は、変革を好みません。先の長い若者は、少しでも良い未来を求めます。
この差は、高齢者のほうが、「なあ、なあ」「まあ、まあ」と親和性が高いということです。「なあ、なあ」「まあ、まあ」に毒され、後悔している筈の高齢者のほうが、「なあ、なあ」「まあ、まあ」に拠り所を見出しているようです。
もしも、後悔している高齢者が多いのであれば、こんな結果は出ないと思います。
いや、仮に、後悔していても、惰性のほうが優先するのかもしれません。老人は、波風を立てたくありませんから、したり顔で「ふむ、ふむ」と頷くことが好きです。多分、自分を誤魔化すために、後悔しているふりをしているだけなのでしょう。私には、ただの、マスターベーションにしか見えません。「老人が立ち上がった」などという報道はありません。
ただ、行動するには体力が必要です。デモ行進で何時間も歩けませんし、手製銃を作って総理大臣を襲撃することも出来ません。でも、言葉の定義であれば、高齢者でも可能です。それを広めるためにネットに挑戦することも不可能ではありません。しかし、高齢者の行動が報道されることはありません。ほんとに、もったいないことだと思います。人口の1/3もいる高齢者が、現役世代が納めた保険料を当てにし、毎日、飯を食って、糞をしているだけです。後輩や子供達や孫達のために働いても罰は当たらないと思いますが。
余談ですが、共産党の7.4倍には時代を感じます。戦後に流行した社会主義思想や安保騒動での学生運動は、遠い昔話になったようです。社会党が消えたように、共産党も消える運命にあるのでしょう。ただ、正しいかどうかは別にして、社会主義運動や学生運動には、熱気がありました。でも、今は、社会全体に熱気を感じません。皆で、「俺には関係ねぇ」と合唱しているように見えてなりません。
何度も書きますが、人口の1/3は高齢者です。
人口の1/3ということは、数千万人の高齢者が、ただ、ただ、死を待つ日々を送っているということです。もったいない、と思います。「へら、へら」や「ふむ、ふむ」が「大人の対応」だと誤解しているようですが、それは違います。棺桶に入るまで、後輩や次世代の子供達や孫達のために、誰かのために、最善を尽くすことが「大人の対応」だと思います。
しかし、そんな風潮は、全く、感じることができません。とても、悲しいことだと思います。


2023-07-04



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死を呼ぶ七公三民 [評論]



国民の皆さんは、岸田政権の「新しい資本主義」という名の政策が、当初から、「中身が見えない政策」という評価が高かったことはご存知だと思います。
日を追うごとに、「新しい資本主義」を覆っていた霧が濃くなり、岸田政権は、スローガンが霧に霞んでいることを奇貨として、ますます、「中身が見えない政策」に変化させています。それでも、これほどいい加減な政策を吹聴しているのに、まだ、「口先総理」というネーミングはされていません。不思議です。
岸田さんは、過去の懸案を解決するのが政権の使命だと言っていますが、懸案となっていた課題(防衛と少子化等)は解決策がないために先延ばししていただけなのに、新たな解決策もないまま、将来の国民負担を増やす約束ばかりしています。
それでも、国民の皆さんは「ふむ、ふむ」と頷いています。
ほんとに、皆さんは優しい国民です。
この国は、「なあ、なあ」「まあ、まあ」を続けるしか能がなく、何も変わらない。
このことが、何を意味するのかを指摘する方がいません。
これまでの日本が、何も変わらないまま、進んで行けば、衰退の先にある崩壊へと進むしかないのです。国民の皆さんが、その事を理解しているようには見えません。
それでも、皆さんは「ふむ、ふむ」と頷いています。
皆さんは、どこまで「いい人」を演じるのですか。
この国が崩壊すれば、いや、間違いなく崩壊しますが、皆さんの生活は根底から崩れます。
これ、誰のせいですか。
岸田総理ですか、自民党ですか、政治家ですか、官僚ですか。
そうではありません。
この国の責任者は、皆さんです。
皆さんは、自分を守るために、彼等の「自分さえよければ」を糺す責務があるのです。皆さんは、その責務を果たしていません。皆さんは地獄の苦しみを味わうことになりますが、それは、皆さんの自業自得なのです。
自分の生活を、自分の家族の生活を、守るのは皆さん自身です。岸田さんではありません。
確かに、「なあ、なあ」「まあ、まあ」の世界では、そのことに気付けません。でも、気付かなくても、責務はあるのです。
現実を知るために、今日は、造語に挑戦してみたいと思います。
国民負担率を、パーセントではなく、日本語で表現してみましょう。
どんな国でも、どんな社会でも、その国を、社会を、維持していくためには費用が必要です。それを負担するのは、その国に住む人達です。それは、国や社会が壊れれば、多くの方が困るからです。だからと言って、国民負担率を重くして、国が壊れれば、本末転倒です。

国民負担率3割 三公七民 良政 最良の政治
国民負担率4割 四公六民 善政 善き政治
国民負担率5割 五公五民 悪政 悪しき政治
国民負担率6割 六公四民 苛政 苛烈な政治
国民負担率7割 七公三民 滅政 絶滅の政治

善政、悪政、苛政という言葉は存在していました。良政、滅政は私の造語です。
国家運営者に許されているのは、四公六民の善政までです。
例外はあります。北欧の国のように、国民生活を守るために国民負担率を高くしている国が存在しています。100年、200年という時間軸で、北欧方式が成り立つのかどうかは、まだわかりません。実験の結果が成功することを祈りますが、どうなるのかはわかりません。
少なくとも、社会保障、医療、教育、をこれまでと同じ水準にしたままでの五公五民は、既に、悪政です。
現在の日本は、五公五民の悪政の時代です。
悪政は、国民にとって厳しい環境ですが、いつの時代でも悪政はあります。それほど珍しいことではありません。
しかし、この先、岸田総理のおかげで、六公四民の苛政の時代を迎えることになります。
苛烈の「苛」ですから、かなり厳しい環境になます。
それでも、六公四民の時代は、過去に何度もありました。
問題は、その先です。
苛政の先にあるのは、滅政です。
滅政では、民族絶滅の可能性があります。

七公三民は、過去に例がなかったわけではありません。
過去の七公三民は、江戸時代の津山藩で実施され、山中一揆に向かいました。
当時、税率は江戸で決められていたのではなく、各藩が決めていました。ですから、七公三民は一地方政府で起きたことであり、日本全土の問題ではありませんでした。
それでも、限定された地方での事であったとしても、百姓は塗炭の苦しみを味わいました。
しかし、百姓を本当に苦しめたのは、自然災害です。
私は、度々書いていますが、「不幸は不幸を呼ぶ」という法則は存在しているのです。
津山藩でも、度々、自然災害で不作が続きました。地震が起き、大雪に見舞われ、洪水・旱魃が百姓を苦しめました。当時の餓死者は1万2000人と言われています。
当時の津山藩の百姓が平和ボケしていたかどうかは知りません。
しかし、今の日本国民は、立派に平和ボケをしています。きっと、津山藩の百姓よりも、私達のほうが軟弱だと思います。七公三民と自然災害の組み合わせに耐える力はないと思います。しかも、税率は地域限定ではなく、全国規模です。
そんな環境の日本で、人口の半数が被災者になると予測されている巨大地震がやってくるのです。
先日、巨大地震のことを書きましたが、あの被害が、七公三民と同時期に起きたら、日本民族は絶滅の危機を迎える可能性があります。
岸田政権だけではなく、これまでの政権がやってきた国家運営方式では、この危機には対応できません。国家運営方式そのものを、劇的に変えるしか道はないと思います。
しかし、その危機感を持っている方がいません。
私達が、どこへ向かっているのか。そのことを理解している方がいません。
お手上げです。
「なあ、なあ」「まあ、まあ」「何とかなる」ではなく、現状を正しく理解し、将来を予測し、危機感を持ち、原因を究明し、原因の原因の原因を見つけ、対応策を考え、実行する、というプロセスが必要ですが、何一つ始まっていません。どのフェーズを取ってみても簡単なものはありません。実行が実を結ぶまでには多くの時間が必要なんです。
その貴重な時間が、何もしないままに、過ぎていきます。
では、一体、誰が、この国を、国民を、救うのですか。
「自分さえよければ」をやっている政治家や官僚や有識者には、出来ません。
もしも、やれるとしたら、国民しかいないと思います。
しかし、国民は「俺には関係ねぇ」と言う人や、「自分さえよければ」をやっている人達の言葉に、「いい人」のふりをして「ふむ、ふむ」と頷くだけです。
どこにも光が見えません。
確かに「なるようにしか、ならない」と言われればその通りなのでしょうが、人間として、大人として、いかがなものかと思います。
このことに関しては、私は、ヨタ話をしているわけではありません。
高い確率で、90%を超える確率で、現実になる切実な話をしています。
過去の延長線上に、そこそこの生活が可能な社会という未来はありません。
そこにあるのは、地獄です。
実際に地獄になってしまってから、「石田の言っていたことは本当だったんだ」なんて言われても嬉しくありません。
津山藩で起きたように、七公三民と自然災害の組み合わせは、実際にあるんです。当時と違うのは、今は、他国による侵略だってあります。
当時の津山藩の人口が何人だったのか知りませんが、1万2000人の餓死者は半端ではなかったと思います。当時は、「貧しさ」も「ひもじさ」も日常だったと思いますので、耐え抜く人は多かったと思いますが、令和の私達にそれが出来るとは思えません。

4月に国民負担率の推移を書きました。
1970年に24.3% だった国民負担率は、2022年には47.5%になっています。
これをグラフにしてもらうと、右肩上がりの線が引けます。
これをトレンドと呼びます。
時間が経過すれば、このトレンドは、更に、右肩上がりで進みます。六公四民も七公三民もこのトレンドを示す線上にありますので、六公四民も七公三民も現実になります。
ただ、グラフは、意味なく右肩上がりになっているわけではありません。必要に迫られて国家運営を進めた結果が数字になっているだけです。中でも、最も影響を与えたのが少子高齢化です。年々、高齢者が増えます。しかし、GDPは横這いです。社会保障費は増加するのに、税収は横這いのままなのですから、国民負担を増やすしかありません。
では、これは、突然、予告なしに、出現した環境なのでしょうか。
違います。
多くの方が、政府でさえ、ずっと心配していたことが現実になっただけです。
少子高齢化は、予定された環境変化です。
しかし、ずっと、先送りを続けてきた結果が数字になっているのです。
「まさか」「そんな」なんて言っていても、トレンドは勝手に進むのです。
そんなトレンドの中、六公四民のレールを、岸田さんが敷き、見え始めています。
六公四民は、もう、皆さんの目の前にある現実です。
それが、七公三民になることに不思議はありません。
六公四民、七公三民は、国家運営失敗の結果です。
では、私達には、国民には、どうすることも出来なかったのでしょうか。
そうではありません。
何度も書きますが、皆さんが「お上」だと信じている国会議員や官僚は、「お上」ではなく、国民生活を守るという仕事を、私達が委託している外注先です。自民党株式会社だと思ってください。岸田さんは、自民党株式会社の現在の社長です。岸田さんは、外注先の社長に過ぎません。皆さんが土下座をする必要はないのです。
普通、外注管理もせずに、外注先の好き勝手にやらせる会社はありません。
そして、今の外注先に、業務を委託したのは、国民の皆さんです。
と言うことは、国民の皆さんが、業務を委託した会社であり、管理責任者なのです。
皆さんは、外注先を管理してきましたか。
してきませんでした。
ですから、外注先は、自分の利益だけを増やすために、国家を運営してきたのです。
国民の皆さんは、なぜか、外注先の利益を守るために、税や社会保険を納めてきたのです。
理屈に合いません。
主権者である皆さんが、業務を発注している皆さんが、どうして、外注先の利益を守ろうとするのでしょう。
それは、皆さんが、主権者ではないからです。
皆さんは、今でも土下座をしている「下々」なのです。
多分、自分でも「何か、変だな」と思いながら、「へらへら」と笑い、分かったような顔をして「ふむ、ふむ」と頷き、何百年も前から「いい人」を演じてきたのです。
もちろん、責務を果たさなくてもいいのですから、「下々」のほうが楽だから、そうしてきたのですが、それを助平根性と呼ぶのです。
ですから、六公四民になっても、七公三民になっても、それは、自業自得です。
もっとも、皆さんには「あるべき姿」が見えていません。
なし崩しに、ぐずぐずと、何となく、悪化の一途を進んでいるのが今のトレンドです。
何を、どう変えればいいのか、さっぱり、分かりません。
ですよね。
先ず、「あるべき姿」を見つけてください。
そのためには、「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義をすることから始めてください。


2023-07-03



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世襲政治家問題 [評論]



加谷珪一さん、という経済評論家の方がいます。テレビ出演もしている有名な方です。
今日は、加谷さんに有識者の代表になってもらい、有識者と呼ばれているお偉い先生方が、責務を果たしていないことを指摘したいと思います。これは、明治時代から続いているもので、加谷さんだけに問題があるのではありません。
テレビで、何度か、彼の意見を聞きましたが、可もなく不可もなく中庸の意見を言う方だと思っていました。私の中では「なあ、なあ」「まあ、まあ」評論家という印象でした。
しかし、その加谷さんが歴史について書いている文章を読んで、「へぇー、こんな分析もしてるんだ」と思いましたので、その事について書きます。
ただ、歴史を承知の上で、テレビで稼いでいるのですから、「自分さえよければ」の確信犯のように見えてなりません。もちろん、確信犯は加谷さんだけではありませんが、有識者と呼ばれる皆さんには、それなりの責務があると思うので、とても、残念です。
加谷さんは、経済の専門家です。日本経済の衰退は百も承知だと思います。その原因が、日本社会を腐らせている歴史と伝統にあることも知っているようです。ですから、日本崩壊は避けられないと思っていると推察します。しかし、彼は、自分の収入を守るために、可もなく不可もない意見を言って稼いでいます。もちろん、加谷さんには、そうする権利はありますので、彼を責めることはできないのかもしれません。ただ、彼は、もう、海外移住するだけのものは稼いだと思いますので、できれば、一般庶民のために、多くの子供達のために、一肌脱いでくれたらいいのにな、と思います。
でも、ここは、彼の意見を聞いてみましょう。

「なぜ日本人は世襲を批判しながら、世襲議員に票を入れるというちぐはぐな行動をとっているのだろうか」という表題です。
彼の答は「お互いが自分に甘くして欲しいと考える、日本人特有の思考回路がある」と書いています。
その通りです。
いわゆる、「なあ、なあ」「まあ、まあ」の社会です。
もちろん、テレビで「なあ、なあ」「まあ、まあ」をやっている加谷さんも、代表的な一人です。これは、曖昧文化から生まれる利点です。
では、「なぜ、このような思考回路を持っているのか」という問いには。
「日本は、まだ、江戸時代の延長線上にある」と答えています。
これも、その通り、だと思います。
「世襲という、ある種の弱点を持つ人物をリーダーにしておきたいという国民の深層心理には、リーダーを甘やかすことで自分も甘やかして欲しいという願望がある」
「一方、世襲によって選ばれた人物は世襲に対する負い目があるものの、自分は特別な人間であると勘違いしがちであり、多少のことなら許容されると、やはり世間に対して甘えの感覚を抱く」
と分析しています。
その上で、加谷さんの結論は。
福沢諭吉、土居健郎、丸山眞男、大塚久雄、山本七平、夏目漱石、渋沢栄一という先人の意見を披露しつつ、「日本社会の構造は典型的な前近代的共同体だ」と結論しています。「先人達も、みんな、言ってるもん」という言い方は、姑息なやり方だと思いますが、結論が正しいので、目をつぶります。

この「前近代的共同体」を私流に言えば、「民主主義風王政並立封建制度」です。
日本は、「前近代的共同体」なのだから、仕方ない。「私には、どうすることも出来ない」で終わります。そこで終わってしまうことが問題なのですが、そのことには、気付きません。多くの先人達も、問題点を指摘してきましたが、明治維新から150年経ったのに、その本質は何も変わっていません。誰一人、そこから先へ行った人がいないからです。
「前近代的共同体」という原因を見つけているのに、そこから脱皮する方法がわからないのです。「前近代的共同体」は、特定の誰かが維持しているのではありません。それを維持しているのは、文化です。これまで、そのことに気付く人がいなかったのが不思議でなりません。先人の皆さんも、加谷さんも、皆さん、聡明な方ばかりなのに、「文化」に気付かない。そのくらい「文化」の力は凄いのです。

加谷さんは、世襲問題だけではなく、衰退を続けるこの国の元凶は「前近代的共同体」にあると結論しているのですから、岸田政権がやっていることに意味がない事を知っていると思います。しかし、テレビ出演では、そんな指摘はしません。それは、原因が分かっていても、解決法がわからないからだと思います。テレビでは、評論家として、目先の解決法を語りますが、彼自身、そんなことで解決するとは思っていないでしょう。
確かに、評論家の仕事は分析することであり、解決策を示すことではないと言われれば、その通りですが、どこかすっきりしません。
有識者と呼ばれる人達は、加谷さんもその一人だと思いますが、勉強はしています。
だから、知識を有する者と呼ばれているのでしょう。
ただ、知識は知識でしかありません。もちろん、無いよりは、あったほうがいいです。
加谷さんも有識者会議等で活躍されているものと思いますが、知識を披露し、「ああでもない、こうでもない」と言いながら、皆で「ふむ、ふむ」と頷き、最終的には「なあ、なあ」「まあ、まあ」で締めくくる。これが、まさに、日本の文化です。
今の有識者の皆さんは、福沢諭吉、土居健郎、丸山眞男、大塚久雄、山本七平、夏目漱石、渋沢栄一という先人達を越えられるとは思っていないのでしょう。ですから、現在の有識者の皆さんの思考も、ここで行き止まりになります。それを150年間続けています。
未だに、封建制度から抜け出せていないということは、そういうことだと思います。
どんなに正しいことを言っても、原因の原因の原因に辿り着かなければ、行動しなければ、何も変わりません。
30年前までは、「なあ、なあ」「まあ、まあ」はそれなりに機能していたと思います。しかし、その方式も、ついに、限界にきています。それを、国力衰退が証明しています。それなのに、誰もが「見て見ぬふり」をしています。
有識者の皆さんの分析は何も生み出していません。彼等は、分析というネタで、ただ、ただ、稼ぐだけです。
今、この国に必要な人材は、知識人でも政治家でもないのだと思います。
今、この国が求めているのは、革命家なのだと思います。
確かに、「無いものねだり」ですから、実現は難しいと思いますが、国民が自ら「言葉の定義」に挑戦することを煽る革命家が求められているのだと思います。
有識者の皆さんが得意とする分析は、分析のための分析に過ぎず、その原因の原因の原因に辿り着こうという意欲は見られません。しかし、私は、有識者の皆さんには、原因の原因の原因を見つける責務があると思っています。
加谷さんも、原因が「前近代的共同体」にあるとわかっています。あと一歩前に進めば、文化に辿り着きますが、足を前に出そうとはしません。もしかすると、「なあ、なあ」「まあ、まあ」社会で稼ぐために自己規制をしているのかもしれません。
原因の原因の原因は不明、行動もしない、革命家もいない、という「無いもの尽くし」なのですから、何かが変わるという希望はありません。
「だったら、お前が、やれよ」
その通りです。
申し訳ないと思います。
私も他力本願なのですから、大きな口は叩けません。
ですから、皆さんと共に地獄へ行くことは承知しています。
ただ、もしかしたら、「この国が地獄になる前に死ねるかもしれない」とか、「地獄へ行っても、この歳だから、そんなに長くは苦しまなくても済むのではないだろうか」という助平根性はあります。
でも、私より若い皆さんは、そうはいきません。
どっぷりと、地獄の味を噛みしめてもらうことになります。
皆さん、大丈夫ですか。
皆さんは、加谷さんのように、海外移住を可能にする資力を持っているわけではないと思います。皆さんは、自分のために、何かをする必要はないのでしょうか。
地獄へ行けば、残念ながら「俺には関係ねぇ」は通用しません。
一人の例外もなく、地獄で七転八倒することになります。

さて、ここで、世襲政治家が、なぜ、力を持っているのか、について考えてみます。
力の源泉は、加谷さんが指摘しているように、「前近代的共同体」にあります。
実際に世襲政治家が総理大臣になるケースは多々あります。
中でも、日本社会で、究極の世襲を実現しているのが、天皇家です。
私達の国は、民主国家だと標榜しているのに、憲法の第一条で、国民ではなく、天皇のステータスを宣言するような国です。
私達の国は、憲法で、架空の、「国民の総意」という虚構を作り、あたかも暗黙の了解があるかのような手法を用いて、世襲をステータスだと認めているのです。
世襲政治家が、未だに、この国を天皇制に戻したいと願っているのは、そのためです。
今の私達は封建制度時代の百姓と同じなのですから、ステータスには逆らいません。土下座という風習はなくなりましたが、精神的には、ずっと、土下座をしています。
ですから、封建制度のこの国では、世襲はステータスであり、それなりの力があるということです。

風味として付け加えられた日本の選挙では、「おらが町の利益を引っ張って来る政治家」が、選ばれます。これも、封建制度下の定番です。
徳川家か、島津家か、毛利家か、山内家か、松平家か、安倍家か。天下を取った地域は経済的な利益を得られるという構図があるから、「お殿様」は必要なのです。
日本人にとっては、日本という国よりも、「おらが町」のほうが大事です。
総理大臣を輩出した地域では、盛大な祝賀会が開かれ、地域の人達も「よかった、よかった、誇らしい」「これで、俺達の生活も、少しは良くなるだろう」と喜びます。
そこに、「国」とか「国民」という概念は存在していません。
日本は、民主国家ではないので、「国民」は二の次でいいのです。
「お殿様一族」は、代々積み上げてきた政治的な資産もあり、永田町でも発言力があり、地元に利益を持ってきてくれる確率が高いのです。
今の選挙は、「おらが町」の利益のためのものです。
ですから、この国は、民主国家にならない限り、国や国民という概念を国民が理解しない限り、世襲政治家はなくなりません。
世襲政治家を批判する人は、それなりにいます。苦々しく思っている人もいるでしょう。
でも、批判だけでは社会は変わりません。必要なのは、解決策です。
しかし、誰一人、解決策に辿り着きません。
時々、思い出したように批判して、終わります。立憲や共産が、解決策も持たずに、批判に専念している姿は、私達の社会を鏡に映しているようなものです。
でも、仕方ありません。
何を、どう、変えたらいいのか、誰も知りません。それは、あらゆることが曖昧で、境界線がないからです。そんな環境の中にいれば、とりあえず、歴史と伝統から得た経験則に頼るしかありません。皆さんの場合の経験則は、封建制度下の百姓としての経験則のことです。百姓にとって、大事なのは自分であり、国がどうなっても、国民がどうなっても、「俺には関係ねぇ」のです。百姓にとっては、地元の利益のために働いてくれる世襲議員に一票を投じるのは、当たり前のことなのです。
国が壊れたら、国民生活が壊れたら、自分の利益も壊れるのに、「皆一緒に壊れるなら、仕方ない」と思ってしまう。そんな「いい人」の集まりです。
国民の皆さんには、国全体を守り、国民生活全体を守ることが、自分の利益を守ることになるという構図は見えていません。
なぜなのでしょう。
それは、誰一人、民主主義の定義も国の定義も国民の定義もせず、自分の責務を知らないからです。
歴史や伝統や文化を否定している私は、謀叛者として獄門打ち首の刑になるのかもしれませんが、日本国民の皆さんは、今でも、封建時代の従順な百姓のままです。褒めているわけではありません。いずれ、百姓の現実に直面することを気の毒だと思っているのです。
どうか、土下座を続けてください。過酷な現実に直面した時、手遅れではありますが、皆さんにも「お気の毒」の意味がわかります。
今なら、まだ、皆さんには、別の選択肢もあります。
加谷さんや岸田さんを見ていると、有識者にも、政治家にも、この国を救う力はありません。
そんなこと、皆さんにもわかっていると思います。
この国を救えるのは、国民の皆さんだけです。
その第一歩は、国民の皆さんが、自ら、言葉の定義に挑戦することです。
自分を、家族を、多くの子供達を、守りたいのであれば、行動するしかありません。


2023-07-02



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広域災害の意味 [評論]



今年は地震の当たり年なのか、よく地震が起きています。
ですから、危険が迫っていると言われる東南海地震、首都直下地震、十勝地震に関心が向いています。中でも、東南海地震の話題は多く報道されます。最近は、東南海地震ではなく、南海トラフ地震と呼ばれることが多いようです。
被害予測では、死者数が32万人とされています。つい「ふむ、ふむ」と頷きそうになりますが、どのくらい深刻な数字なのか、自然災害による犠牲者ランキングを見てみましょう。
バングラデシュの1970年に発生したサイクロンによる犠牲者が、推定ですが30万人と言われていて、これまで、最大の犠牲者を出した自然災害とされています。私達の目の前にあるのは、その数を超える史上最大の災害なのです。
どうして、皆さんは大騒ぎしないのですか。確かに、その衝撃度は遭遇して初めて実感できるものなのでしょうが、このままでいいとは思えません。
東日本大震災の死者数が、約2万人ですから、あの東日本大震災が16個起きる計算になります。私達は、阪神淡路大震災や東日本大震災の惨状に驚愕しましたが、もう、あの記憶は風化してしまったかもしれませんが、あの惨状が16回分一度に起きるのです。多分、実際の被害は、まだ、想像できていないのだと思います。いや、スケール効果があって、16回分では済まないのかもしれません。
日本の6割から7割の地域に、被害が出ます。
被害の大きさと同時に、被災地の広さが、南海トラフ地震の特徴なのかもしれません。この広域という特徴は、甘く見ないほうがいいと思います。
それだけではなく、「連動」という言葉も多く使われています。
危機管理という観点から、最悪の事態を想定してみると、南海トラフ地震と首都直下地震と十勝地震が連動するというシナリオもあります。その時の死者数は、50万人を超えます。被害を免れる自治体は数県だと思います。私達は、世界最大の災害を、目前にしているのに、この平和ボケは何なのでしょう。私の心配は、取り越し苦労に過ぎないのでしょうか。

実務という視点からは、巨大地震、巨大地震連動では、被害が広域化することで、救助・支援・復興を担う人員不足が大きな問題になると思います。
実際の救助・支援・復興に深く関与する自治体の職員の方は、想像せざるを得ませんので、「おい、これ、ヤバイだろ」と思っている人が大勢いると思います。この広域性を問題にする人はいますが、今は、まだ、大問題とはされていません。公的機関は、この「広域」という要素が「不安を煽る」心配がありますので、意図的に問題視しないようにしているのかもしれません。ただ、現実に直面した時には、否応なく大問題になると思います。
助けられる人を助けられずに見殺しにする場面が出てくると思います。
自分が住んでいる都道府県が他の自治体の応援なく、自力で住民の安全を確保しなければなりませんが、そんな体験はしたことがありません。これまでは、他の自治体から多くの応援を得ていたことと比べると、その難易度はかなり高いものになります。
仮に、〇〇県に住んでいるとします。他の県からの支援はありません。
県と市町村の職員は何人いますか。
県下の警察官・消防官は何人ですか。
病院の数は。医師や看護師の数は、充分ですか。
物資調達や物資運搬の業者の数は充分ですか。
水や食料の生産業者は充分ですか。
ボランティアの数は大丈夫ですか。
道路や橋を復旧する工事会社は、存在しますか。
電力会社、ガス会社、水道局の人員は、充分ですか。
もちろん、救助・支援・復興を担う人達の中にも、犠牲者は出ます。
絶対数が足りません。これは、人員不足により、救助・支援・復旧に時間がかかるということであり、今のままだと、救助・支援が届かずに災害関連死をされる方が大幅に増える可能性があるということです。餓死する方も出ることになります。
もう、注意喚起や啓蒙をしている時間帯ではないように思います。
どんな場合でも、無い袖は振れません。
巨大地震の場合は、公助だけでは国民を救えないことは、明らかです。
国は、共助と自助の部分を法制化し、努力義務ではなく、義務にする必要があります。国民生活を守ることが国の最重要課題だとすれば、今は、国民生活を守るために、国家崩壊を防ぐために、国家権力を使う時だと思います。
「巨大災害に備え、国民は、自力で1カ月生き延びる準備をしなければならない。これは、義務です。そのために、消費税を5%下げることにします」
こんな政策を実施する政党は存在しないでしょうが、背に腹は代えられないと思います。
もちろん、これを法制化するためには、大胆な改変が必要となります。
国は、その覚悟を示すために、先ず、自分の身を切る必要があります。
公務員給与を一律30%削減、国会議員歳費を90%削減、参議院を廃止、その上で、最大の歳出項目である社会保障費を始め、あらゆる歳出を10%削減する必要があります。
国の責務は、国民生活を守ることです。
現状のままであれば、結果的に国民生活が破綻したとしても、誰も責任を取りません。
「起きてしまったことを、今更、四の五の言っても始まらないから、水に流して、この先、頑張りましょう」という言い訳で済んでしまいます。
結果的に守れなかったことは、「仕方ない」で済むことなのでしょうか。
私達は、最善を尽くしたのでしょうか。
事前にわかっていたことをやらなかったのは、人災なのではありませんか。
私は、今、やれることをやることが国家運営者の責務だと思います。
自然災害は防げません。
その通りかもしれません。仕方のないことかもしれません。
しかし、災害関連死は、組織として防ぐ努力をするべきだと思います。国は、被害予測を出しておけば、それで責務を果たしたことになるのでしょうか。国民は「ふむ。ふむ」と頷いていていいのでしょうか。私達は、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で巨大地震をやり過ごそうとしています。このやり方は、余りにも、傲慢だと思います。

地震動による倒壊や火災で犠牲になる人、津波の犠牲になる人、一人でも少なくなることを祈りますが、難しいことだと思います。
直接被害は、不可抗力の部分が多いので、広報と啓蒙くらいしかないと思います。実害を防ぐ方法がありませんので、諦めるしかありません。
問題は、地震発生後の社会を、どう維持していくのか、だと思います。生き残った人がこの国を再建しなければなりません。一人でも多い方がいいと思います。
ここで、東日本大震災の時を思い出してみましょう。
全国から、自衛隊だけではなく、自治体職員、警察、消防、電力会社、ボランティアが被災地に駆けつけました。被災した住民による、助け合いもありました。アメリカ軍まで協力してくれました。
それを、全部、自分の自治体のマンパワーだけでやらねばならないのです。
想定されている被害の一部を見てみましょう。ほんの一部です。
発災後4~7日に必要とされる食料は1億800万食だとされています。
ただし、発災後4~7日と記されているということは、発災後3日間は、住民が備蓄食料を持っているという前提です。しかし、ほぼ、備蓄食料はないと思いますから、実際には、2億食必要です。しかし、日本の人口の半分が被災者になると言われています。もしも、仮に、その半数の3000万人に食料を届けなければならないとすると、1日9000万食の食料が必要になり、1週間では6億3000万食が必要ですから、2億食という数字は控えめな数字です。それでも、ここでは、2億食で試算してみましょう。
これを 各自治体が、自分で調達・配布出来るとは思えません。
自衛隊の救援が必要です。
自衛隊は、30の自治体に、2億食の食料を、1日か2日で、道路が寸断されている地域に、輸送しなければなりませんが、自衛隊にその能力はあるのでしょうか。
よくわかりませんが、可能だとしてみましょう。
ただし、1回運べば済むわけではありません。2億食は1週間分です。
更に。
運ぶだけで済む備蓄食料が2億食あったとしても、1回で終わります。
調理不要の備蓄食料が尽きれば、調理しなければなりません。
コンビニ弁当のようなものは作れませんから、「おにぎり」で耐えてもらわねばなりません、
そのためには、精米工場を稼働させる必要があります。
精米できたとしても、その米を、2億食分、炊飯しなければなりません。
炊飯できたとしても、人の手で、2億食分、「おにぎり」にしなければなりません。
梅干しも削り節も集めなければなりません。
季節にもよりますが、炊飯したご飯が腐らないように急がねばなりません。
出来た「おにぎり」を全国に運ぶためには、2億食分の容器が必要です。
これ、誰が、どこで、実現するのでしょう。
それも、毎週、2億食必要です。
多分、実現は困難だと思います。
住民が通常の食料調達が可能になるのは、数カ月後だと思います。
餓死する人が出ても不思議ではありません。
必要になるものは食料だけではありません。水は、食料以上に欠かせないものです。医薬品も必要ですし、30万人分の遺体を保管するドライアイスも必要です。
物資を運ぶ車両だけではなく、ガソリンも必要です。ガソリンスタンドに補給がなければ、ガソリンは短時間で枯渇します。電力の復旧には長時間かかると思いますので電気自動車は使えません。敗戦後、木炭車が走っていたことを思い出しました。
人員も物資も、あらゆる物が不足します。
水と食料は、何としても必要です。国民の皆さんには、3日分ではなく、1か月分の用意をしてもらわなければ、国民生活は破綻します。
この際、国民に自助を強要するしか方法はないのではないかと思います。
マイナンバーカードだって、法律を作って強要したのですから、出来ないことではありません。

南海トラフ地震の経済的被害総額は、1410兆円に上ると想定されています。
国家予算が、年間100兆円ですから、その規模は驚愕の数字です。
1410兆円だけでも、充分に再起不能レベルの損害ですが、もしも、南海トラフ地震と首都直下地震と十勝地震が連動したとしたら、その経済的損失は更に増えます。特に、首都機能が麻痺した時の経済損失は、予測不可能だと思います。
もう、災害とは呼べません。
国家崩壊です。
国民生活は、ぐちゃぐちゃです。
だとすると、これは、国家存続の危機だということですが、この国の国家運営を請け負っている人達に、そんな空気はありません。
国会では、衆議院議員の任期延長の議論が盛んです。
国家運営を担う人達は、自分の身分を守ることしか考えていません。国民生活を守る仕事を委託されている人達に「国民」という視点はなく、あるのは「自分」の利益だけです。「自分さえよければ」が恥ずべきことだという意識もないようです。
政府は、どっちみちパニックになるのだから、先送りが上策だと考えているものと思います。
地震が起きてから、いつものように、「まあ、まあ、まあ、とりあえず、皆で助け合って、復興に向けて頑張りましょう」と言うのでしょう。
南海トラフ地震では、そのやり方は、通じないと思います。
それは、あまりにも被害が大きすぎるからです。
どうして、想像しないのか、不思議でなりません。
衰退病という慢性疾患を抱えている人が、骨折するようなものです。
いや、慢性疾患だけではなく、骨折までして、その上、収入を失うのです。
まさに、踏んだり、蹴ったり、どついたり、です。
収入が保障されているのは、公務員と一部の大企業の社員だけだと思います。
収入がなくなることのダメージは大きく、特に、精神的なダメージが大きいと思います。それでも、気持ちを奮い立たせるには、時間が必要ですが、時間の経過は、その症状を悪化させると思います。貧すれば鈍するのが世の常です。
早めにパニックを体験して、覚悟を醸成しておく必要があるのではないでしょうか。
今度の災害は、これまでのものとは別物だと思います。
これまでと同じ対応では、傷口を大きくするだけだと思います。
災害そのものも巨大ですが、それ以上に、災害後の対応が困難を極めます。
「日本、終わった」という状況を迎える公算がとても大きいのですから、ここは、「なあ、なあ」「まあ、まあ」をやめるべきだと思います。


2023-07-01



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