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幸せを失うということ [評論]



「私は、そこそこの生活ができればいい」
「豪邸もブランド品もいらない。毎日、つましい生活でも、ほんの時たま、美味しいものが食べれたら、それでいい」
「仕事で、生き馬の目を抜くような仕事をしたいとは思わない。少しだけ、誰かの助けになる仕事ができれば、それでいい」
「家庭を大事にしたい」
「出世したいとは思わない」
「政治なんて、俺には関係ねぇ」
「家族で、餃子を作り、餃子の形を肴にして盛り上がれば、それでいい」
「普通の暮らしがしたい」
「小さな幸せがあれば、充分」
「他人は他人、自分は自分、私にとっての幸せが欲しい」
ほんとに、多くの方が、こんな願いを持っているのではないかと思います。
特に、若い皆さんは、こういう幸せが好きだと思います。もちろん、小さくても、自分流の幸せが一番だと思います。全く異論はありません。
ただ、問題があります。努力なしに、幸せは手に入らないのです。
戦争になれば、大災害が起きれば、国が崩壊すれば、皆さんの願いは、全て、露と消えてしまうのです。
実に不条理なことだとは思いますが、不幸は勝手にやってくるのです。
国民の皆さんは、自分の願いを守る行動をするしかないのが現実です。誰かが、与えてくれるものではありません。自分達の力で守るしかないのです。国民は、誰一人知りませんが、国民の皆さんには、一人の例外もなく、その責務があるのです。
皆さんは、「こんな小さな願い、別に、罰は当たらない」と思っているかもしれません。
そうではありません。
願いの大小の問題ではなく、不幸は、根こそぎ、幸せを奪っていくのです。
それが、不幸なのです。
たとえ、小さな願いでも、大それた願いでも、関係ありません。皆さんは、自分の幸せを守るために、子供達を守るために、行動するしかないのです。
何度も書きますが「誰かが、何とかしてくれる」なんて奇跡は起きません。
皆さんの小さな努力が、皆さんの意識が、皆さんを、皆さんの幸せを、守るのです。
多分、「国民の責務って、なに」と言う方が多いと思います。考えたこともないと思います。そもそも、国民に責務があるなんてことは、知らないと思います。中には、「言わない」「見ない」「聞かない」ことが、下々の責務だと思っている人もいるでしょう。土下座をしていれば済む、と思っている人もいるかもしれません。でも、不幸相手に土下座をしても、何の足しにもなりません。この国を支えるのが、皆さんの責務です。
仮に、チラッと頭をよぎったとしても、「ま、俺には関係ねぇし」と思ったはずです。日常的に、「俺は、日本の国民だ」なんて考えている人はいないと思いますが、だからと言って、皆さんが国民であることから逃れることはできません。それは、希望する、希望しない、に拘わらず、皆さんは国民であり、国民の責務を負っているのです。
「責務って、何か重そうだし、俺、国民でなくてもいいわ」と言う人もいるかもしれません。もちろん、皆さんは、日本の国民をやめる選択肢も持っています。海外へ移住すれば、日本国民の責務を果たす必要はありません。ただ、残念ですが、「日本には住むけど、責務は果たしたくない」と言う選択肢はないのです。こんなこと、誰も考えません。なぜなら、全ては、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で片が付くからです。
そんな皆さんでも、国には責務があるのではないかと、おぼろげに感じているはずです。
これ、変だと思います。
仮に、国の責務は、「国民の生活と生命を守ることだ」と言えば、皆さんは「ふむ、ふむ」と大きく頷くと思います。しかし、国には責務があって、その国を構成している国民には責務はないという道理は通りません。国に責務があるのであれば、国民にも責務があるのです。しかも、この国は、建前だけではあっても、国民主権の国です。主権者に責務がなくて、外注先の政府に責務があるという理屈は、道理が通りません。
しかし、現実を見れば、国の責務も、国民の責務も、「これが責務だ」なんてものは存在していません。全ては、曖昧という霧の中です。
何となく、ぼんやりと、責務らしき影はありますが、影だけです。

厄介なことに、大きな不幸は、毎日、毎年、やってくるわけではありません。
数十年に一度、数百年に一度の頻度でやってきます。
ですから、私達は、ついつい、忘れてしまいますが、不幸が根絶されたわけではありません。
私達は、いつやってくるかわからない不幸に対処するために、日々、努力することしかできません。
小さな幸せを守るためには、戦争をしてはいけません。国家を崩壊させてはいけません。災害は防げませんが、可能な限り被害を小さなものにしなければなりません。これ、当たり前のことだと思います。だって、皆さんの幸せが壊されるのですから。
皆さんは、そのための行動を、していますか。
「行動、と言われても」と思うはずです。
なぜなら、この国では、国民の責務が、何も決まっていないのです。
責務が決まっていないのに、「行動をしろ」と言われても、行動しようがありません。
先ず、国民の責務を明確にしなければ、何も始まりません。
家族が笑いの中で過ごせる小さな幸せは、天から降ってきているのではありません。
たまたま、そういう環境にあるだけです。
環境は、いつでも、変わります。それが、自然の摂理です。
残念なことに、小さな幸せを継続するためには、大きな努力が必要なのです。
「そんな努力をするくらいなら、別に、不幸になってもいい」という方もいると思います。ただ、現実に、不幸に直面すれば、「ごめん、やっぱ、不幸はいらない」ということになります。そこは事前に気付いてもらうしかありません。
今、ウクライナ戦争のおかげで、不幸が可視化されています。
愛する息子がロシア軍に拉致され、拷問され、後ろ手に縛られて、銃弾で頭を吹き飛ばされ、廃棄物を処分するように埋められる。母親の苦悩は計り知れません。きっと、小さな幸せの中で、皆で笑って生活していた家族だったと思います。戦争がなければ、小さな幸せは続いていたと思います。でも、不幸は、向こうから勝手にやってくるのです。
今回のウクライナ戦争のおかげで、日本の国民の皆さんにも、漠然とした、曖昧な、正体不明な恐怖や不安が生まれました。
ただ、その恐怖や不安は、形になっていません。
想像力を失ってしまった私達は、リアルな未来を予測する習性を失ってしまいました。
ですから、何をしたらいいのか、どうすればいいのか、わかっていません。
ただ、ただ、不安なだけです。
先ず、不安の元を見つけてみませんか。
そして、正面から対峙してみませんか。
それとも、これまでのように、逃げますか。
これまでのように、寝たふりをしますか。
皆さんは、どうしたいのですか。

私は、「人口、財政、戦争、災害、疫病」を五大災禍として書いています。
「衰退」を追加して、六大災禍と呼びたいと思います。申し訳ありません。災禍は増える一方です。
人口減少が止まりません。
財政は悪化しています。
ウクライナで戦争をやっています。
東南海地震・首都直下地震が来るという予測に変化はありません。
コロナパンデミックが来ましたが、致死率の高いパンデミックがやって来る危険を指摘する専門家もいます。
国力衰退は、止まることなく、衰退の度合いを深めています。
どれも、現在進行形の形で続いているのです。
こんな環境の中で、皆さんの「小さな幸せ」は守られるのでしょうか。
「守られないかもしれない」と思っているから、不安なのではありませんか。
皆さんの直感は、そのことを知っているのです。
このまま、不幸の直撃を受けるまで、何もせずに、待つのですか。
不幸に直面した時。
「俺のせいじゃない」「俺は悪くない」「俺には関係ねぇ」「誰誰が悪い」と言い訳を言っていれば、不幸は尻尾を巻いて逃げていくのでしょうか。
そんな都合のいいことが起きないことは、皆さんも知っています。
でも、皆さんは、どうすればいいのか、わからない。
「わからない」ことで、不安は不安のまま、居座っています。
先延ばしで解決しないことも知っていますが、他の道が見えていない。
これでは、不安は消えることがありません。
いや、不安のままであれば、まだ、ましです。
不幸は、容赦なくやってきます。
不安が現実になることが、絶対にないのであれば、「見て見ぬふり」は正解です。
ほんとに、大丈夫なのですか。
貧しい人が増えています。もう、2000万人です。皆さんは、大丈夫ですか。
ウクライナでは、市民がロシア軍に蹂躙されています。あれは、現実ではないのですか。
地震も火山も、不気味です。
不安を解消しなくても、いいのですか。
日中戦争と国家崩壊と地震の3つまとめて起きたら、どうします。
「そんなことにはならない」と太鼓判を押してくれる人はいますか。
答は簡単です。
私達が、「やるっきゃない」のです。
皆さんの、小さいかもしれない幸せを守るために、「やるっきゃない」と思います。

もちろん、幸せを守る方法には、魔法も、一発逆転も、奇跡も、ありません。
一歩ずつ、地道な努力を、続けるしかありません。
医療の世界では、早期発見と早期治療が鉄則です。先送りして、放置したままだと、病状は確実に悪化します。癌であれば、ステージ4へと一直線です。ステージ4の先にあるのは「死」です。国家運営でも同じだと思いますが、なぜか、国家運営では「先送り」が多用されます。そのことを、恥じることもありません。
今日まで先送りを続けたのは私達です。皆さんは、先送りをしたのは政府だと思っているかもしれませんが、先送りをする政府を容認している国民の皆さんも、同罪です。
先送りをしたのですから、茨の道になるのは仕方ありません。
では、どうすればいいのでしょう。
先ず、目的と責務を明確にすることから始めることをお勧めします。
そのためには、言葉の定義が必要です。
この国の目的は何ですか。何のために国はあるのですか。
国民の目的は何ですか。皆さんの幸せを守ることじゃないのですか。
そのために、国は、国民は、何をしなければならないのでしょう。
国の責務と国民の責務を明確にしてみませんか。
そうすれば、皆さんが進む道が見えてきます。
皆さんの前にある道は、困難と苦悩の悪路です。
でも、皆さんを、皆さんの家族を、その幸せを守るためには、前に進むしかありません。
多分、それが「生きる」ということだと思います。
そうだとすると、私達は、これまで「死んでいた」ことに、いや、「眠っていた」ことになります。
そろそろ、目を醒ます時だと思います。
もちろん、これまでのように「眠ったまま」を選択することはできます。ただ、その責任は国民の皆さんが取るのです。それは、皆さんが幸せを失うということです。
古人は、これを「因果応報」と言いました。
「普通の暮らし」「小さな幸せ」なんて、いつでも吹き飛ばされるのです。
ウクライナ戦争は他人事ではありません。
どこの国でもウクライナになれますし、どこの国民もウクライナ市民になれるのです。

ウクライナ戦争を機に、色々な方が、色々な議論をしています。中には、提案をする方もいますが、皆さん、表面の見える部分だけを取り上げています。どれをとっても、絵に描いた餅です。集団マスターベーションと呼んでもいいような議論ばかりです。砂上の楼閣の上に、屋に屋を重ねるような議論して、何か意味があるのでしょうか。
なぜ、こんな現象が起きているのでしょう。
そうです。原則がないからです。
そのことに気付いている方が一人もいません。
土台が無いのですから、砂上の楼閣は簡単に崩壊します。そうなれば、「小さな幸せ」なんて、簡単に吹き飛ばされます。
土台になる、目的と責務という原則を確立することから始めなければ、何をやっても、無駄な抵抗にしかなりません。
今、この国に必要なことは、「言葉の定義」です。
歴史と伝統に囚われて、「言葉の定義」をせずに、何かができると思っている精神構造が、日本中を汚染している「なあ、なあ」「まあ、まあ」が、この国を滅ぼします。確かに、曖昧文化は、私達にとっては空気のような存在ですが、そのことに気付かなければ、21世紀の日本はありません。こんな環境は、歴史上初めてですが、気付くしかありません。


2022-05-06



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実質実効為替レート [評論]



このブログには、暗い未来の話しかありません。
今日も、的中しないことを祈りつつ、暗い、暗い、未来予測の話を書きます。

為替相場が動いています。
相場は動くものですから、別に珍しいことではありません。
私達が目を向けなければならないのは、トレンドです。
それと、そのトレンドを形成している実態です。
ここ数年、1ドル100円から115円で推移していたドル円相場が、120円を超えて130円も超えました。円安のトレンドは、誰の目にも明らかな事でしたが、こんなに早く実現するとは思ってもいませんでした。いとも簡単に、130円を越えてしまいました。
150円を予想する人もいます。いや、150円も200円も300円も不思議ではないという専門家もいます。
150円になれば、庶民生活はかなり厳しくなると言う方もいます。1ドル110円で輸入していた物が36%高くなるのですから、物価上昇と物不足の両方が国民生活を痛めつけます。
既に、物価上昇は始まっていて、庶民の8割は実感しているという調査もありますが、物価は、まだまだ、上昇します。企業物価指数は40年ぶりの伸びを見せていますが、消費者物価への転換は、まだ不十分だと言われています。近々に、企業物価指数が下げに転じるという予測はされていませんので、今の上昇傾向は続きます。
専門家は、アメリカドルと日本円の為替相場は、両国の金利差から生じていると解説しています。しかし、相場は単一の要因で動くとは限りません。複合要因で動くことのほうがはるかに多いのです。国際情勢が不安定になっている今、問われるのは国力という総合力だと思いますので、金利差だけでは説明はつかないと思います。
古くから、通貨は国力を示すものだと言われています。
もしも、そうだとすると、これは、日本の国力衰退が数字になって示されているのであり、国力衰退による円安は、体力の衰えている庶民の皆さんを直撃することになります。
国民の皆さんも、日本の国力衰退は肌身で感じています。皆さんが、自己防衛を選択することは、ごく自然な行動です。その自己防衛の1つに国内資産を海外資産へ変えるという動きがあります。その代表的な例が、この数年で増えた海外株式に対する投資です。海外株式を購入する時は、円を売って、ドルを買います。円を売るのですから、これも、円安の要因となります。企業の海外投資も増えています。ここでも、円は売られます。円安の潮流は生まれつつあるのです。日本が繁栄し、国内に投資先があるのであれば、海外投資はこれほどの大きさにはならなかったと思います。
私が心配しているのは、1ドル200円や300円ではありません。
今でも、1ドル150円になれば、円安倒産が出始め、200円になれば、更に、倒産が増え、300円になれば、バタバタと倒産する時代が来るかもしれません。それでも、それは、序の口です。
私が心配するのは、1ドル1,000円とか10,000円へ向かうトレンドです。
こんな予測は誰もしていませんが、日本の国力衰退の現状から推測すれば、あり得ない数字ではありません。
「50年ぶりの円安」という言葉があります。
まだ、120円台なのに、どうして「50年ぶり」なのでしょう。
実質実効為替レートという指数で見ると、日本円の価値は50年前と同じなのです。
実質実効為替レートの専門的な解説は、しかるべき記事で読んでください。
50年前の円は、1ドル300円前後でした。300円は視野に入っているということです。
そう考えると、国力の衰退は、今後も継続しますので、1ドル1,000円という相場は、それほど異次元の相場ではありません。
いや、国力衰退の現状を見る限り、充分、手の届く範囲にあります。
では、1ドル1,000円時代の私達の生活を見てみます。
計算しやすいように、1ドル1,200円にしてみます。
日本円の価値が、現在の1/10になるということですから、輸入に大きく依存しているこの国の物価は、資源価格の変動を除いて、単純計算をすれば10倍になります。
現在、電気代が7,000円で、ガス代が3,000円というAさんの家計簿を想像してみます。
1ドル120円の時代の、Aさんの家の光熱費は、月額10,000円です。
1ドル1,200円になると、光熱費は、月に100,000円です。
仮に、Aさんの収入が月額200,000円とし、家賃8万円の賃貸住宅で2人の子供と夫婦の4人で暮らしているとします。
光熱費と家賃を支払った残りの20,000円で、食費、学費、その他諸々の費用を捻出しなければなりません。
どう考えても無理だと思います。
Aさんは、どうするでしょう。
家賃4万円の住宅を探すでしょう。1K又は1DKの住宅で4人暮らしをすることになります。光熱費が、どこまで節約できるのか、私には経験がないのでわかりませんが、頑張って、5万円でやりくりしたとします。学費がどのくらい高くなっているかはわかりませんが、それ以外の食費やもろもろの費用は、やはり、10倍になっていますので、決して、余裕のある生活ができるわけではありません。
こういう家庭を、貧困家庭と呼ぶのだとすると、日本中が貧困家庭になるということです。
さて、この試算では、Aさんの収入がなくなるという想定はしていません。
日本中が貧困家庭になって、物が売れるのでしょうか。
いいえ、企業は存続できません。
倒産企業の山ができます。
と言うことは、この国は失業者で溢れるということです。
失業したAさんは、どうするのでしょう。
生きていくためには、食べなければなりません。
Aさんは、自給自足のできる生活を選択するしかありません。
1DKのアパートでは自給自足はできませんので、田舎へ引っ越すことになります。
ただ、生活に困っているのはAさんだけではありませんので、都会から地方への人口大移動が起きていると思います。簡単に、自給自足ができる環境は手に入りませんし、農業に従事したことのないAさんは、途方に暮れるしかありません。
農家の仕事を手伝い、その収穫を分けてもらうことになると思います。昔は、こういう人達のことを小作人と呼んでいました。
ただ、農業は天候次第です。
当然、凶作の年もあります。
そんな時に、最初に倒れるのが小作人です。
こんな状況で、国家機能が、社会保障制度が、保たれているという保障はありません。
多分、国家機関は、汚職の巣窟になっていると思います。
アフリカの貧困国を想像してもらえば、理解しやすいと思います。
そんな時に、十勝沖を震源とするM8.5の地震が発生。
2カ月後に、千葉県北部を震源とするM8.8の首都直下地震が発生。
その1カ月後に、M9.2の東南海地震が発生。
同時に、富士山と桜島が大噴火を起こします。
いわゆる「踏んだり、蹴ったり」という不幸に襲われることもあるということです。
さて、Aさんの家族は生き残れたのでしょうか。

円相場、実質実効為替レートに関連する話題として、商社マンの間で「買い負け」という言葉が出てくる頻度が増えているという話があります。
1個100円という商品が、A国にあったとします。
日本は、長年、その商品を買ってきました。A国との関係も良好です。
B国と日本が、その商品を買いたいと申し入れたとします。
B国は、110円で100万個購入するというオファーをします。
日本は、100円で10万個購入したいと申し入れます。
さて、A国は、どちらに売るのでしょう。
明らかに、B国に売ると思います。
日本は、過去の友好関係を強調し、115円で買うから売ってくれと頼みますが、B国は120円の値段をつけてきます。
日本は、115円以上の価格は提示できません。それは、日本国内の価格が130円で、仮に値上げが出来たとしても140円だとすると、120円の価格は提示できません。一方、B国の国内の価格は200円ですから、充分な利益が確保できます。
このような状況を「買い負け」と呼ぶそうです。
そこに、更なる円安が追い打ちをかけますので、「買い負け」する商品は増える一方です。
物価高だけではなく、物不足の状態も起きるのです。

円安の要因は1つではありません。
中でも、最も大きな要因は日本の「国力衰退」だと思います。「通貨は国の実力」という視点が一番問題なのだと思います。「日本売り」という言葉が散見されることは、私達が危険な場所に立っていることを示しています。
ですから、日銀が金融緩和政策をやめて、金融引き締め政策に切り替えたとしても、円安のトレンドは変わらないと思います。ただ、日銀が金融政策を変更すれば、少なくとも、短期的には、円安を穏やかにする効果はあると思います。
ところが、日銀は、金融緩和政策をやめることができません。
未だに、黒田総裁は「物価上昇は一時的なものである」と言っていますし、「円安は、まだ、日本経済へのメリットの方が大きい」と言っています。日銀総裁は、金融と経済のプロのはずですが、プロとしての誇りはないのでしょうか。国民という視点が欠けているプロは、本物のプロとは言えないのではないでしょうか。
中小企業対象のアンケートで、「円安はメリット」と答えたのは僅か1.2%だったそうです。経済界も、経済学者も、「円安はメリット」だという見解は出していません。
言っているのは黒田さんだけです。いやいや、安倍総理も円安を歓迎しています。二人ともアベノミクスという失敗を認めるわけにはいかないのは仕方ありません。でも、現実は、違います。私達国民は、高騰する電気料金に苦しんでいます。黒田さんも安倍さんも、「自分さえよければ」をやっているとしか思えません。安倍元総理は、この国の衰退を、結果として推進した張本人ですが、多くの方が勘違いしています。
相場には、円安、株安、債券安というトリプル安もあります。まだ、明確なトリプル安にはなっていませんが、多分、それは、カウントダウンが始まるということです。それは国家崩壊の初期現象なのだと思います。
ここまで重症になると、小手先で、何とかなるようなものではありません。
相場は、一部の富裕層の遊びだと思っている人もいるかもしれません。
しかし、そうではありません。
相場は、その結果は、私達の生活に直結しているのです。
私達は、そのことを円安で実感することになります。

暗い予測を書きましたが、私達には、どうすることもできないのでしょうか。
そうではありません。
元凶は国力衰退なのですから、国力衰退を止めれば、国力を発展させれば、この窮地から脱出することは可能です。
そのためには、国力衰退の原因を見つけなければなりません。
絶対に正しいと強弁するつもりはありませんが、私は、国力衰退の原因は、国民の皆さんの意識にあると思っています。
平たく言えば、国民の皆さんが、この国を発展させようと思っていないから、衰退しているのだと思います。
国民の皆さんは、どう思っているのでしょう。
「俺には関係ねぇ」と思っています。
「俺一人くらい、別に、いいじゃん」と思っています。
皆さんが、そう思っている限り、この国は、落ちる所まで落ちます。
国民の皆さんは、国を発展させるのも、国を衰退させるのも、「お上」次第だと思っているかもしれません。でも、それは、勘違いです。
日本は独裁国家ではありません。プーチンや習近平なら、国民をドツボに落とす力を持っていますが、民主国家では、たとえ「お上」と呼ばれていても、「お上」にそんな力はありません。皆さんが、勝手に、自分で、ドツボに落ちるのです。それが、民主主義です。
何となく、漠然と、「不安だ」と思っていても、何も変わりません。
どうか、「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義をしてみてください。
そうすれば、皆さんが進むべき道は、必ず、見つかります。


2022-05-05



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敵基地攻撃力 [評論]



ウクライナ戦争という現実に直面し、自民党は、本気で「敵基地攻撃力」を前面に出してきました。その名称は変えたようですが、これは、名称の問題ではなく、何をしようとしているのかが問題なんですが、そこがはっきりしません。とても違和感があります。
2019年にINF条約が失効した時に書きましたが、アメリカは、今、中距離ミサイルの開発と生産に邁進していると思います。アメリカは、主敵を中国だと決めましたが、中距離ミサイル分野では圧倒的な劣勢にあります。しかし、生産して、アメリカ本土に中距離ミサイルを配備しても、中国には届きませんから、役に立ちません。在日米軍やアジアの海軍艦艇を守るためには、中国本土に届く場所に配備しなければなりません。それも、2000発ものミサイル配備が必要なのです。5年後には、4000発必要かもしれません。
沖縄の在日米軍基地に大量のミサイルを配備すれば、中国のミサイルの標的は沖縄に集中します。島礁を含めた日本全土に、分散して配備するしかありません。そのためには、日本が国として「敵基地攻撃力」という形で、中距離ミサイルを配備するしかなかったのだと思います。ここでも「アメリカに、おんぶにだっこ」です。日本の国民を守るためではなく、在日米軍の兵士を守るための中距離ミサイルなのです。
でも、日本政府は、そういう説明を一切しません。
もちろん、中国は百も承知ですから、アメリカに負けない中距離ミサイル戦闘群を作ることになります。日本のミサイル配備なんて、軍事機密でも何でもないのです。
日本政府は、公言しないことで丸く収まると思っているのでしょうか。米中戦争、日中戦争のための軍拡だと言えば、平和ボケの日本人がパニックになってしまいますので、国内向けの説明として、曖昧な説明をするしかないのだと思います。唐突感や奥歯に物の挟まった感は、そこから来ていると思います。
更に、中距離ミサイルには核弾頭を搭載するのかどうかも明らかではありません。自分で非核三原則を作り、好き好んで、自分の手足を縛っているのですから、どうすることもできませんが、ここも、解釈変更や「なし崩し」で何とかしようとしているのでしょうか。そのほうが危険だと思います。
どこに配備するのかも、不明です。
アメリカ製のミサイルなのか、国産のミサイルなのかも不明です。
当然、中距離ミサイルは、これまでの装備になかったものですから、新たに部隊を作る必要がありますが、自衛隊の現状の人員で運用できるのかどうかもわかりません。
いつものように「なし崩し」方式を採用するものと思いますが、私には、正しい国力評価が出来ているようには見えません。
そもそも、この国は、自衛隊だけで、守れるのでしょうか。
今でも自衛官不足で困っています。
日本の現状を見て見ましょう。
この国は、人口減少に直面しています。
それは、自衛隊員も、更に、減少するということです。
それほど遠くない将来、国民に協力をお願いするしかないと思います。
ここは、先送りをする場面ではありません。
しかし、環境が整っていません。
国民の9割の方は、戦いたくない、と言っているのです。
このままであれば、国民が、徴兵制度を受け入れてくれるとは思えません。国民を説得し、環境を変えることが先だと思います。
国民の意志が、どんな災禍を受け入れてでも、「たとえ奴隷になったとしても」「戦争をしたくない」というのであれば、戦争準備をするのは間違っています。ただ、今の生活を維持したいけど戦争は嫌だという我儘は通りません。残念ですが、二者択一です。
一方、国民の皆さんが、今の生活を守りたいと思うのであれば、戦って勝ち取るしか選択肢はありません。これが、世界常識です。「奴隷も嫌、戦争も嫌」は通用しません。
もしも、国民の皆さんが「奴隷は嫌」だと言うなら、そのための行動が必要です。
先ず、国民の皆さんに、戦う意識を持ってもらう必要があります。
「降参しよう」「国外に逃げよう」「平和、平和と叫ぼう」という国民が大半です。
戦う前から、この国は中国に占領されているようなものです。
これは、アメリカの問題でも、日米同盟の問題でもありません。
国民の皆さんが「どうしたいのか」という問題だと思います。
それとも、まだ、日米同盟が基軸なんですか。政府の「アメリカにおんぶにだっこ」で大丈夫なのですか。
アメリカが何とかしてくれるのですか。
アフガン、中東、欧州、ウクライナでのアメリカの姿勢を見ているのに、まだ、神話を信じているのですか。
そろそろ、目を醒ます時です。
日本の国力、軍事力を正しく評価し、相応しい行動を取る時です。

相応しい行動とは何でしょう。
今は、国と国民が対話する時です。
先延ばしをすれば、対話は難しくなります。
「なし崩し」は最悪の選択です。
「国民の皆さん。皆さんには、3つの選択肢があります。ウイグルになるか、ウクライナになるか、それとも大きな犠牲をはらってでも国を守りますか」と問いかけてください。
国民投票をしてもいいと思います。
今のタイミングを逃せば、二度と、国民との対話のチャンスは来ません。
今、いつもの「なし崩し」を使えば、空気はダラダラと戦前の日本へと向かいます。窮地に追い込まれて、日米開戦という無茶をやった時と同じ轍を踏むのですか。
しかし、国民との対話には、目的と責務が不可欠だと思います。
目的も責務も曖昧なままで、国民に問えば、国民は正しい判断が出来ません。
当然の結果として、国民は、自分にとって都合のいい判断をします。
しかし、現実は曖昧なものではありません。
曖昧のままであれば、国民が後悔することになります。
どんな結果になっても、国民は「こんなはずじゃなかった」と言います。
3つの選択肢の中のどれを選択しても、国民は結果に納得できません。仮に、ウイグルを選択した人が、中国領日本自治区を手に入れたとしても、「こんなはずじゃなかった」と言います。ましてや、他の選択肢を取った人は、全く納得できません。
それは、選択する時に原則がないからです。
ですから、国民と対話する時は、先ず、目的と責務を明確にするように、国民に伝える必要があります。価値判断の基準が出来たら、3つの選択肢を示してください。
もちろん、こんなことが実現するとは、全く、思っていません。
ですから、私は、「日本はドツボにはまります」と再三申し上げています。
結果が出た後であれば、「あの時、こういう選択肢もあったのに」と臍を噛むことは出来ますが、違う結果を望むのであれば、事前に対処するしかありません。これ、当たり前のことです。

21世紀の今日まで、日本は奇跡的に生き永らえて来ました。
しかし、21世紀は、日本にとって、初めての試練に直面する世紀になりそうです。
戦争なのか、国家崩壊なのか、巨大災害なのかはわかりませんが、これまでの日本とは全く別物の日本になります。
その根っ子にあるのは文化です。
地球上に籍を置いている限り、唯我独尊では対処できない時代を迎えているのです。
先ずは、生き延びることです。
日本が日本であり続けるためには、私達が変わるしかありません。
曖昧文化、歴史と伝統、神の国、怨霊・亡霊との共存、全部ひっくるめて、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で国家を維持していくことが限界になっています。
「古きを尊ぶ」だけでは、国は永続できません。
もちろん、余力があるのなら、歴史と伝統も守ればいいと思います。
でも、今は、その局面ではありません。
フィンランドがNATO加盟に向けて動き出したそうです。フィンランド国民の中には、射撃練習を始めた人もいるそうです。彼等は、過去を捨て、現実に対処するために前に進もうとしています。私には、彼等の行動は正しいように見えます。「厳しいかもしれないが、フィンランドはウクライナにはならない」という決意をしたのでしょう。そういう決断をした原動力は、国民の意識です。国民の意識が国を変えようとしているのです。
しかし、日本では、右の方も左の方も、好き放題なことを言っています。
右にも左にも属さない人達(8割の国民)は、不安はあるが、「俺には関係ねぇ」と思っています。
だから、自民党は、8割の国民は日光東照宮の猿のような「いい人」だと思っていますから、「なし崩し」方式を多用するのです。
一方、左翼の皆さんは、日本だから好き放題なことを言えていることを知っているのでしょうか。皆さんが大好きな中国やロシアであれば、即座に逮捕です。
左翼の方の発言を見てみましょう。
社民党は、「ロシアの安全は保障されなくてはならない」と言っています。NATOの東方拡大こそが危険なのだという認識のようです。ロシアの安全も、北朝鮮の安全も、中国の安全も保障しなければならないのに、どうして、日本の安全には言及しないのでしょう。
「日本の報道は欧米の報道に毒されていて、片手落ちだ」と言う方もいます。
「本当は、ウクライナ戦争はアメリカが仕掛けた戦争だ」という陰謀論も盛んです。
「アメリカの軍需産業だけが儲かる仕組みになっている」という人もいます。
立憲民主党は、「ロシアも悪いが、アメリカとウクライナがロシアを追い詰めて、ロシアに戦争を始めさせてしまった」と言っています。
「日本のマスコミが偽情報によりウクライナ危機を煽っている」と言う人もいます。
「ドサクサに紛れて憲法を改正しようとしている政治家と言論人に騙されてはならない。マスコミと言論人が危機を煽る時は、常に国民を騙す時なのだ」と言う人もいます。
「自民党は、そんなに戦争がしたいのですか」と言う人もいます。
「ドイツは方向転換をしたが、それは、ドイツが歴史を認めてきたからだ。日本は、過去の過ちを反省することがない」と言う人もいます。
「戦争を起こさせないための話し合いの努力を強化しなければならない」と言う人もいます。
共産党は、ブレることく、未だに、「憲法9条、非武装中立」と言っています。
左翼の皆さんは「我々は、ブレない」と自慢します。
でも、時代は変わります。
環境も、世界も、変わります。
「ブレない」ということは、変化に対応していないということです。
それは、現実を見ていないということです。
これ、自慢できることなんでしょうか。
アメリカを敵とすれば、自民党に反対を唱えれば、自分達の存在意義が生まれるという意識は昭和の時代のものです。
更に、最悪なのは、左翼にも右翼にも、自民党にも立憲民主党にも、国民生活を守るという意識がないことです。確かに、自分の利益が優先されることは致し方ないことなのかもしれませんが、私達の国は、これでいいのでしょうか。
天皇制への執着、社会主義への憧憬は、昭和の遺産です。今は、そんな時代なのですか。
左翼の皆さんは、昭和時代に使い古した常套句を並べるしか能がありません。私には、言葉によるマスターベーションにしか見えません。現実を見る目が曇っているだけではなく、妄想の世界で自己満足をしているように見えます。できれば、昭和を卒業し、この国を根底から変える提案をしてもらいたいと思います。
国民を守るためには、時代に対応するためには、ブレてもいいのです。
確かに、私も妄想の世界に住んでいますし、私の文章もマスターベーションなのでしょうが、私は、国民を虫けらだとは思っていません。彼等の言葉からは、国民に対するリスペクトを感じません。利用しているだけのように見えてしまいます。
日本帝国主義に負い目を感じている皆さんと日本帝国主義の怨念から離れられない皆さんが、どちらも同じだと思いますが、時代に対応できず、「国民生活を守る」という視点を持つことが出来ないまま、国民を危険な領域に導いているようで怖いと思います。私達が守らなければならないのは、今生きている国民であり、この先生きていかなければならない国民です。歴史や伝統という過去の延長線上に居座ることが可能な時代であれば、傷を嘗め合うことも1つの知恵なのかもしれませんが、もう、そんな時代ではありません。この国は、とても危険な場所に立っています。
過去の延長線上に、私達の未来はありません。
日々衰退する国力が、それを証明しています。
時代は、私達に、新しい国と新しい社会を作れ、と言っているのだと思います。
そのことを誰も感じていないのでしょうか。
そうではないと思います。
国民の皆さんの直感は、そのことを知っています。だから、不安なのです。
ただ、その方法がわかりません。
難しく考えるのではなく、言葉の定義をすれば済むことです。
どうか、そのことに気付いて欲しいと思います。


2022-05-04



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白票による選挙ボイコット [評論]



野党第一党の立憲民主党の代表が、政府の権限強化につながる「緊急事態条項」の新設に反対するという演説をしたそうです。
「新型コロナウイルスやウクライナ情勢など、何かと理由をつけて政治家に権力を持たせようとする」「皆さんを外出禁止令の下に置かせようとする」「(日本を)そのような国にしてはいけない」という内容です。
泉さんは、ウクライナ戦争のことを、ウクライナ情勢と言っています。あれは、戦争ではなく、プーチンが言う軍事作戦なのですか。もしも、泉さんがウクライナの政治家だとしたら、同じことが言えていたのでしょうか。いいえ、泉さんには、他人事なのだと思います。
政治家にとって言葉は武器だと言われています。そのことは否定しませんが、余りにも、言葉遊びが横行していて、とても怖いと思います。「自民党だって、同じじゃないか」という反論はもっともです。自民党が国民生活を守ろうとしないことは既成事実です。立憲民主党が自民党と同じなのであれば、立憲民主党に票を投じる価値はどこにあるのでしょう。
肝心要の部分が抜けています。
泉さんは、どうやって国民生活を守るのですか。外出禁止令を出す必要のない国を、どうやって実現するのですか。先ず、そのことを国民に伝えてください。「外交力で」なんて言わないでくださいね。外交で戦争を回避した国はありません。特に、日本の外交力では、立憲民主党の外交力では、「少なくとも、県外」では、相手を説得することは不可能です。
私には、選挙目当ての発言にしか聞こえません。
政治家の皆さん、皆さんは、目的と手段の違いを知っていますか。
皆さんの目的は、国民生活を守れるような国を作ることです。そのために、国民から票を貰うのです。国民の耳に心地よい言葉をかけ、票を貰うことが、皆さんの目的ではなく、それは、手段です。手段を目的にしてしまえば、目的は消滅することになります。皆さんの頭の中は選挙のことしかないのでしょうか。でも、それは、政治家の仕事ではありません。本来の仕事をしてください。それが政治家の責務です。
敗戦後、もうすぐ80年という年月が経つのに、立憲民主党は、中国や北朝鮮や韓国が主張しているように、日本が戦前の帝国主義に戻ると心配しています。帝国主義も戦争もタブーにして歩んだこの80年、私達は、未だに戦前の怨霊から逃れることができていません。
それは、未だに、目的と責務という原則が存在していないからだと思います。
自民党の提案に反対だというのは、私も同意です。
しかし、反対なのであれば、どうすればいいのかを提案しなければなりません。
立憲民主党は、改憲に反対ですから、いや、「先送り」しか考えていませんから、こういう主張をしても、恥じることもないのでしょう。
立憲民主党は政権政党になると言っています。
では、立憲民主党が政権を取ったら、どうやって、国民の生活と国民の命を守るのでしょう。また、「少なくとも、県外」と言うのでしょうか。
口先で、国民の耳に心地よい言葉を発し、「ばら撒き」をすれば、国家運営ができると考えているのでしょうか。ま、国民の皆さんは、自民党にも騙されるような「いい人」ばかりですから、立憲民主党に騙されたとしても不思議ではありませんが、立憲民主党の皆さんも、「いい人」を騙そうとしているのです。
ただ、その責任を取るのは、自民党でも立憲民主党でもなく、国民の皆さんです。政治家って、こんなに気楽な稼業なのでしょうか。そうなんです。だって、彼等は、外注先に過ぎません。責任は、全て国民が取るのです。

立憲民主党の皆さんの頭からは、「ばら撒き」以外の方法が出てきません。
しかし、「ばら撒き」をやっても、戦争や国家崩壊や災害は、防げません。
戦争と国家崩壊と災害は、間違いなく国民の生活を破綻させ、多くの国民の命を奪います。国会議員のお偉い先生方の責務は、「ばら撒き」によって、選挙の時に国民の支持を得ることではなく、原則と理念と政策で国民生活を守ることです。「ばら撒き」で、札束で、国民の頬を殴るようなやり方は卑劣としか言いようがありません。彼等の頭の中には選挙しかありません。選挙のためなら、何でもする。国民の生活を守ることなど念頭にもないということです。こんな次元の低い政治家共に、この国を任せておけば、国民の皆さんが痛い目に遭います。ただ、残念なことに、国民も政治家も、誰一人、あるべき姿を知りません。
確かに、「平和、平和」は国民に歓迎されると思いますが、ただただ、選挙のために、口先だけで国民を騙すのはやめてもらいたいと思います。口先で平和を実現することは不可能です。
自民党は天皇制にしがみ付き、立憲民主党は、帝国主義に怯えているだけ。どうして、国民生活を最優先課題にしないのでしょう。国民生活を守るために、戦争、国家崩壊、災害に対処するのが、政治家の仕事なのではありませんか。
「国とは、国民とは、民主主義とは、国会とは、国家運営とは、国会議員とは」という言葉の定義をしてください。
そうすれば、政治家の皆さんのやることが、皆さんの責務が、明確になります。
自民党が責務を果たしていないことは明らかです。では、立憲民主党の皆さんは責務を果たしているのですか。いや、それ以前に、責務が何かも知らないと思います。
立憲民主党の皆さんは、さんざん批判している自民党と同じ穴の狢にすぎません。皆さんは、天に唾しているのです。
国民も責務を果たしていませんが、国民が頑張れるようなお膳立てをする仕事も、政治家の皆さんの仕事です。政治家が戦争を防止したり国家崩壊を防ぐことはできません。国民に頑張ってもらうしかないのです。
皆で仲良く、目的も責務も持たず、「自分さえよければ」をやっていれば、この国は「何とかなる」のでしょうか。
いいえ、皆で、何もしようとしていないのですから、この国は、ドツボにはまります。
努力が報われるという法則はありませんが、努力しなければ、ドツボにはまるという法則は存在します。
それは、それほど遠い未来の話ではありません。
目的と責務を明確にすれば、今の憲法が役立たずだということが見えてきます。
「先送り」をしても、何も解決しません。
9条や緊急事態条項が問題なのではありません。憲法そのものが問題なのです。
国民主権でもなく、民主憲法でもなく、目的も責務もない憲法が問題なのです。
「平和を愛する諸国民の公正と信義」が目的なのですか。
それとも、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会」が目的なのですか。
そうではありません。
理想が実現しないことは、誰でも知っています。理想と目的は別物です。実現可能なものを目的にしなければなりません。
もちろん、理想が必要ないとは思いません。でも、理想は神棚に飾っておけばいいのです。
私達には、私達の未来を担保してくれる、目的が必要なのです。
私は、勝手に、「子供達の未来を守る」ことが、私達の目的だと思っています。でも、それを押し付けるつもりはありません。皆さんが現実的な目的を掲げるのであれば、それが、私達にとって必要な目的であれば、賛成します。
でも、怨霊やタブーに支配されていたのでは、私達の未来は守れません。

憲法が制定された時代背景と、今の時代背景は、全く、別物です。
では、憲法が制定された当時の時代背景とは、どんなものだったのでしょう。
日本が戦争に負けて、アメリカによる占領統治が行われていた時代です。
アメリカの許可がなければ、何も出来ない時代でした。
日本憲法は、若いアメリカ人がサラサラと書いたという噂話もありますが、実際には、もっと複雑な経緯があって出来上がったと思います。
ただ、アメリカの許可がなければ、どんな条文も日の目を見ることはなかったと思います。
当時の日本の国家運営者は、いや、アメリカによる国家統治の下請けをやっていた人達は、国民の生活よりも天皇制を残すことが大きな願いでした。当時も、歴史と伝統が日本人のアイデンテティーだったのです。日本人は、皇居の前で土下座する人々の存在をアメリカ人に示し、東京に来れない人は地方から、皇居の方向へ向かって土下座していると伝えたと思います。日本国民は天皇の下にあり、天皇なき日本は、何人にも統治できない、と進言したと思います。アメリカ人も、最初は、最大の戦争犯罪人は天皇だと思っていたでしょうが、日本を統治するためには、天皇という存在は外せないと考えるようになったと思います。妥協の産物として生まれたのが「象徴天皇」という考え方です。GHQの下請け集団の皆さんは、民主主義の定義を知りませんでしたから、国民の生活よりも、天皇を選択したのです。戦後日本は、その一歩目から間違っていました。天皇さえ守ることが出来たら、国民はどうなってもいいということです。憲法の第一条に天皇条項が書かれたのは、その結果です。あの時、民主主義の定義を確立しておけば、今の日本は、違った日本になれていたと思います。
では、当時、アメリカ統治の基本姿勢はどこにあったのでしょう。
共産主義との闘いは、既に、始まっていましたので、日本を民主国家にすることであり、ソ連からの攻撃を阻止する場所(在日米軍基地)を確保することであり、少し矛盾しますが、日本を二度と戦争をしない国にすることだったと思います。
当時は、今よりも、はるかに白人至上主義の傾向は強かったと思います。
アメリカ人にとって、日本人は「イエローモンキー」であり、「モンキー」は猿ですから、人間ではありません。猿の惑星の猿と戦争をするような感覚だったと思います。ですから、簡単に叩き潰すことが可能だと思っていたでしょう。
しかし、戦争を始めてしまうと、簡単な相手ではないことが判明しました。当時、「ゼロ戦」に勝てる戦闘機は地球上に存在しませんでした。その「ゼロ戦」を作ったのが、彼等が「イエローモンキー」だと思っていた日本人だったのです。ビックリです。
それだけではありません。アメリカ軍が軍事優勢を確保した後でも、日本軍は簡単には負けを認めません。玉砕だってしてしまいます。徹底抗戦、最後の一人まで戦うのが日本人だったのです。とても、同じ人間だとは思えなかったでしょう。
日本人は、彼等の常識を超えていました。日本人は、とても危険な人種である、野蛮人である、という意識を持ったとしても不思議ではありません。「こんな猿共とは、二度と戦いたくない」と思ったのでしょう。だから、9条が生まれたのです。
原爆の投下も、当時のアメリカ人の感覚から言えば、人道的な配慮を必要とする案件ではありませんでした。なぜなら、人道は、人間同士の道であり、猿相手に人道を考慮する必要はなかったからです。
こんな時代に生まれた憲法が、今の時代に通用するとは思えません。
アメリカは、今では、「日本は、最重要の同盟国だ」と言っています。
アメリカの判断は、度々、いや、頻繁に、間違います。それは、その時々のアメリカの国益が、時代と共に変わるからです。アメリカとは、そういう国です。でも、ロシアや中国よりは、ましです。日本政府も、そう思っているから、アメリカのポチに甘んじているのだと思います。
ただ、飼い主が、必ず、飼い犬を守るのかというと、そんなことはありません。何度も書いていますが、その時のアメリカの国益次第です。私は、10年前から、いつか日米同盟はなくなると書いています。今は、アメリカにとって日本は必要ですが、不要になる日が来れば、日米同盟は終わります。その日が、いつなのか、誰にもわかりません。ただ、未来永劫、アメリカが日本を守ってくれると思うのは夢物語です。
では、日本は、どうすればいいのでしょう。
時代が変わっても、「ならず者国家」は、必ず、存在します。
そうです。「自分の国は自分で守る」しかありません。
軍事的にも、経済的にも、私達は自分を守らなければならないのです。
何度も書きますが、これは、地球上の鉄則です。
いや、もしも、仮に、日本人全員が火星に移住し、火星が日本だけの惑星になったとしても、他の惑星から火星を守るのは、私達です。生きている限り、この鉄則は変わりません。

冒頭で、立憲民主党の代表の発言を書きましたが、立憲民主党には「自分の国は自分で守る」という意識はありません。ただただ、国民に「おべんちゃら」を言い、票が欲しいだけです。
もちろん、立憲民主党だけが最悪なのではありません。
自民党も同じです。
こんな次元の低い政治家しかこの国にはいません。
国民の皆さん、大丈夫なのですか。
いつの日か、間違いなく、日本はドツボにはまります。
なぜなら、私達は鉄則を守っていないからです。
少し先に、参議院選挙があります。
皆さんは、また、「どちらが、ましか」という基準で投票するのでしょう。
それ、間違っています。
正しくは、「どちらも、駄目」なのです。
私達に必要なのは、国民生活を守ってくれる、新しい政治集団です。
そのためには、国民の皆さんが「言葉の定義」をし、目的を見つけ、責務を明確にする必要があります。それ以外に、この国が変わる方法はありません。
目的と責務が明確になれば、それを、そのまま憲法にすればいいのです。
GHQと天皇崇拝集団が作った憲法を後生大事にしている時代ではありません。
日本は、実質的な国民主権の民主国家になるべきだと思います。
人間にはいろいろな人がいますから、痛めつけられて、「あれー」と言いながら快感を得る人もいますから、全員にとって最善の道ではないかもしれませんが、奴隷願望のある人を除き、国民の皆さんにとっての最善の道は、民主国家です。

国民の皆さん。
いつものように、無茶な提案をします。
今年7月に参議院選挙があります。
政権選択選挙ではありませんが、ウクライナ戦争が起きてしまった今は、国民の意識が問われる選挙になると思います。
新しい政治集団の誕生は、この7月までには実現しません。
私は、国民の皆さんに、白票による選挙ボイコットを推奨したいと思います。
白票は当落にはカウントされませんが、それでも、国民の意志を示すことはできます。投票総数の10%が白票であれば、きっと、ニュースになると思います。
国民の生活を守り、国民の命を守る政治集団が、この国には必要なのです。
新しい政治集団は、国民の皆さんが「言葉の定義」をすれば、勝手に誕生します。
「なあ、なあ」「まあ、まあ」で投票しても、皆さんの生活は守られません。
それを知ってもらう手段は、今は、白票くらいしかありません。
白票は、国民の権利であるだけではなく、国民の責務でもあると思います。


2022-05-03



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戦争という言葉の定義 [評論]



「戦争反対」を旗印にする方がいます。
私も、戦争には反対です。いや、絶対に反対です。
「戦争とは」という言葉の定義をしてみてください。
以前にも書きましたが、戦争には何種類もの戦争があるのです。その個々の戦争の定義をしなければ戦争の定義は出来ません。
正しいかどうかは別にして、私の勝手な分類ですが、戦争には3種類の戦争があります。言葉では、同じ「戦争」という言葉を使いますが、内容は全く別物です。
1.日本が他国を侵略する戦争。
2.他国が日本を侵略する戦争。
3.世界的な核戦争。
もしかすると、「戦争反対」という旗印で阻止できる戦争は、あるかもしれません。ただし、それが可能になるのは、1番目の「日本が他国を侵略する戦争」だけです。これが実現出来たら奇跡だと思いますが、可能性はゼロではありません。ただし、2番目と3番目は、いかに「戦争反対」と叫んでも防ぐことはできません。可能性はゼロです。
私達は、今日まで、「戦争」という言葉も、概念も、封じ込めて生きてきました。
現実から逃げるために、先送りをするために、私達は「戦争」という言葉をタブーにしたのです。敗戦という現実がありましたから、仕方なかったと思いますが、そのまま、今日にいたるまで、約80年も、私達は現実逃避を選び続けたのです。タブーに支配されるということは、近代国家ではなく、呪術や掟を重視する古代国家の国家運営方式を選択したということです。私達日本人が拠り所にしているのは歴史と伝統ですから、先祖還りは、決して、珍しくありません。
しかし、今回のウクライナ戦争によって、「戦争」をタブー視していれば、戦争をしなくて済むという考え方が、幻想にすぎなかったことが証明されてしまいました。
もちろん、誰でも、「戦争」という概念とお付き合いしたいとは望んでいません。
しかし、現実の「戦争」は、私達の願いとは関係ありません。好むと好まざるに拘わらず、「戦争」という概念とは付き合っていくしかないのが、現実です。
私達の国は、曖昧文化という土壌の上に、歴史と伝統という価値観を拠り所にしてきましたので、上記の3つの戦争は、区別されることなく、同じ「戦争」という概念で捉えていたのです。言葉の定義が習慣になっていれば、「戦争」が一種類ではないことくらい、誰にでもわかることです。
更に、私達の国は、敗戦という特殊事情で、「戦争」という概念の一部にフォーカスして国家運営をやってきました。1番目の「日本が他国を侵略する戦争」を阻止することが、最大の課題となり、2番目と3番目の「戦争」には、目をつぶったのです。
その結果、軍事力に対する正常な判断ができない国になりました。
少しは変わりましたが、以前は、軍事力も自衛隊も悪だったのです。
その先頭に立ったのが、旧社会党であり共産党です。
立憲民主党は、共産党ほど軍事力を憎んでいませんが、口先で「平和」を叫び、現実から逃げることを好んでいます。これも、現実逃避です。個人が「易きに流れる」気持ちは理解しますが、国家運営に関与している人達には、許されないと思います。
共産党も立憲民主党も、それらの政党を支持する国民の皆さんも、軍事力を持たなければ、軍事力を憎んでいれば、国民生活は守れると思っているのでしょうか。
2番目の「他国が日本を侵略する戦争」には、どう対処するのでしょう。
侵略されたら、「すぐに降参してしまえばいい」と言う方もいます。それも、選択肢の1つです。ただし、その場合は、国民が侵略国の奴隷になるということです。これまでのような生活は二度とやってきません。そのことを承知しているのでしょうか。
「戦争」という言葉を定義することもなく、「戦争」の「せ」の字がつくものは全てタブーにしていたために、2番目の「他国が日本を侵略する戦争」に対する国民的なコンセンサスは生まれませんでした。いや、「他国が日本を侵略する戦争」という概念は、具体的に議論されることもありませんでした。いつも、真綿で包んだような議論ばかりしていたのです。
それでも、手遅れかもしれませんが、戦争について、正面から、もちろん、言葉の定義をしてから、議論する時が来ているのだと思います。
しかし、残念ですが、言葉の定義をするという発想は生まれていません。ウクライナ戦争という実例が目の前にあるのに、政府は対応しようとしていません。欧州諸国は、現実的に対処しようとしています。特に、ドイツは大きく変わりました。いくら逃げていても、戦争は、勝手にやって来るという現実に気付いたのです。気付くのが普通です。

まだ終わってはいませんが、これまでのウクライナ戦争を、ロシア対ウクライナという視点に、中国と日本という視点を加味して、振り返ってみましょう。
ウクライナ戦争は、上に挙げた2番目の「他国が自国を侵略する戦争」になります。ウクライナ人が「戦争反対」と叫んでも、何の役にも立ちません。
ウクライナは、2014年、突如としてクリミア半島を失いました。奪ったのはロシアです。
その後、ロシアは、ウクライナ東部で内戦状態を作りました。ロシアの支援なしに、親ロ派のウクライナ人が蜂起したとは考えられません。ですから、ロシアには、ウクライナ全土制圧の青写真があって、その計画を着々と進めていたと考える必要があります。
日本は、まだ、尖閣諸島を失っていませんが、中国の青写真の中には、台湾の併合と沖縄諸島の併合は、克明に描かれていると思います。もちろん、その先には、中国領日本自治区の青写真も含まれています。
今回のウクライナ戦争は、ロシアの計画を一歩前に進めた結果だと思います。
20万もの兵力で、1900年代のような戦争を始めたことには、世界が驚きましたが、ロシアにしてみれば予定の行動だったようです。
この戦争は、どうすれば防げたのでしょう。
ウクライナで、親ロ派政権が出来ていれば、戦争にはならなかったと思います。
では、日本で、野党連合政権ができれば、中国は日本に侵略することはないのでしょうか。それは、野党政権が、どれだけ親中派政権になるか、いつ日本を中国に売り渡すか、にかかっています。自民党政権よりは、中国に弱腰になると予測できますので、中国は侵略してこないかもしれません。これは、軍事侵略をしないという意味であって、中国共産党の支配下に入るということです。
当初の予想に反して、ウクライナは戦い続けています。ですから、戦争は簡単には終わらず、ウクライナ人の犠牲は、今後も増えます。
西側諸国は、日本も含めて、ウクライナ支援をしています。武器弾薬の供給、情報の供給、生活支援物資の供給は、今後も続きます。その支援が止まれば、ウクライナは戦争に負けます。ウクライナは、裕福な国ではありません。自力でロシアと戦える力はありません。さて、西側の支援は、いつまで続くのでしょう。アメリカでは、ウクライナ戦争は5年続くと言われるようになりました。西側諸国は、日本も含めて、5年も支援し続けることができるのでしょうか。楽観的な予測はできないと思います。
ウクライナ戦争が長期化すれば、ロシアも疲弊しますが、それ以上に、ウクライナが疲弊します。ウクライナは耐えるしかありませんが、できるだけ短期間で戦争を終わらせる必要があるのはウクライナのほうだと思います。そのためには、ロシア領内にあるロシア軍砲兵陣地とミサイル基地を破壊しなければなりません。この先、ウクライナに必要な軍事物資は、対戦車ロケットや短射程の対空砲ではなく、航空機であり、長射程のミサイルです。いわゆる敵基地攻撃能力がなければ、「やられっぱなし」になります。ただ、この場合、我慢比べになり、ロシアが、生物化学兵器や核兵器を使用する可能性も高まります。
ただ、ウクライナ戦争は、ウクライナの問題であり、ウクライナがロシアに降参したとしても、アメリカが、イギリスやドイツやフランスが、ロシアに占領されるわけではありません。西側諸国の国益という視点に立てば、ロシアに大量破壊兵器を使わせないためにも、ウクライナ支援をやめるという選択肢もあります。
中国が日本に侵略してきたとして、日本が戦ったとして、西側諸国の支援は、いつまで続くのでしょう。これも、楽観的な予測は難しいと思います。
ウクライナ戦争から得られる教訓。
ならず者国家は存在するという現実を受け入れることです。
先程挙げた2番目の「他国が日本を侵略する戦争」に、どう対処するかを考える必要があるということです。
1つの選択肢として、親中派政権を作り、軍事衝突を経ずに中国領日本自治区を実現することです。国民は奴隷にはなりますが、戦争をするよりは少ない犠牲で済みます。戦争をして、1年で100万人の犠牲を出すか、降参して、100年で100万人の犠牲を出すかの違いは大きいと思います。100年で100万人の犠牲者であれば、1年では1万人で済みます。もちろん、自由と尊厳を失うのですから、そのくらいのメリットはなくてはなりません。
ただ、覚悟はしてください。自由と尊厳を失うだけではなく、貧困も受け入れなくてはなりません。属国になった私達は、自分のためではなく、漢民族のために働くのです。中国農村部の中国人よりも下等な「虫けら」として生きていくのです。ま、慣れていると言えば、その通りですが、これまでの「虫けら」より、はるかに厳しいことになります。
もう1つの選択肢として、日本の軍事力を強化するだけではなく、近隣諸国との軍事同盟の構築と、日米軍事同盟の強化です。
ただ、この条件を機能させるためには、必須のことがあります。
日本人の9割は、戦いたくないと言っているのですから、先ず、戦える人間を増やす必要があります。もしも、ウクライナ人が、日本人のように「俺には関係ねぇ」と思っていたら、アメリカもNATOも支援しなかったと思いますので、とっくの昔にウクライナは負けていたと思います。
独立国家としての日本を存続させたいと思うのであれば、それを実現するためにやらねばならないことがあります。
それが、国の目的であり、国民の目的であり、国の責務と国民の責務の明確化です。
国を守るためには、子供達の未来を守るためには、残念なことですが、大人が戦って、国を、子供を、守らねばなりません。地球は平和の花園ではありません。もう一つ、「俺達は何もしない」けど、「誰かが、何とかしてくれる」なんて、美味しい話はありません。国民の皆さんが守るしかないのです。

日本の報道ではボカシが入っていますが、ウクライナ各地で市民の惨殺死体が報じられています。軍用車両の無残な姿も、破壊された家屋も、死体も、そんな映像が日本人の目にも飛び込んできます。
日本の「いい人達」も「ひょっとして、これ、ヤバイんじゃない」と感じ始めています。
確かに、不安ですが、どうすればいいのか、誰にもわかりません。
国民の皆さんは、「これ、ヤバイじゃん。誰か、何とか、してくれよ」「俺は、何もしないけど」と思っているのではないでしょうか。
政府も、不安に思っている国民にかける言葉を持っていません。いや、「国民? そんなことより、俺の収入は大丈夫なのか」と心配しているのではないでしょうか。
突如、2番目の「他国が日本を侵略する戦争」にフォーカスが当たってしまったのです。
曖昧な中で、「ヤバイ」だけが突出すると、戦前の日本に戻ってしまう危険があります。
今こそ、言葉の定義が必要な時です。
基本的に、日本人は「いい人」ばかりですから、意図せずに空気に流される性質を持っています。「何となく」という空気を醸成すれば、日本人はどこへでも流れます。
1941年の日米開戦も、その一例です。
冷静に考えれば、いや、言葉の定義をしていれば、日米開戦が暴挙であることは理解できていたと思います。でも、曖昧な空気で決めてしまったのです。
「何となく」という空気や、占いや、天意や、神風に頼るのではなく、現実を直視して、言葉の定義をして、現実的な対応をする必要があると思います。
しかし、今の日本に、そのような動きはありません。
これは、大変危険なことだと思います。
「お上」も「下々」も、ただただ、不安です。不安という空気だけでは、先が見えません。では、なぜ、不安なのでしょう。それは、不安の正体を見つけていないからです。
不安の正体を知る必要があります。「何となく、不安」では対応できません。地道な作業になりますが、言葉の定義をして、現実を見て、私達が向かうべき道を見つけることです。不可能なことではありません。今は、慣れ親しんだ曖昧や歴史や伝統に縋る時ではないと思うのですが、そのことに警鐘を鳴らす人がいません。

国連人権委員会では、ウクライナでのロシアの残虐行為に対して、ロシアの資格を停止する提案が議決されましたが、24カ国が反対をしました。これは、世界には、中国を筆頭に24カ国もの「ならず者国家」になり得る国が存在するということです。もちろん、賛成した国の中にも、棄権した国の中にも「ならず者国家」は存在します。
「平和を愛する諸国民の公正と信義」が成り立たないことも、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会」が存在しないことも、明らかです。幻想の上に築かれているのが日本国憲法です。もちろん、憲法の前文は建前であり理想ですが、それを言い訳にしていたのでは、国民生活は守れないという現実は存在しているのです。ウクライナは、今、それを証明しているのです。
私達は、幻想の上にではなく、現実の上に立脚すべきだと思います。


2022-05-02



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自由と尊厳を失います [評論]



ウクライナ戦争で、北部を占領していたロシア軍が撤退した町に入ったウクライナ人は、数多くの市民の死体を見つけました。
路上に放置された遺体、両手を縛られていた遺体、耳を切り取られた遺体、それらの死因は銃によるものです。
ウクライナ政府と西側諸国は、「戦争犯罪だ」と非難をしています。
ただ、仮に、戦争犯罪が証明できたとしても、ロシア国民がプーチンを引き摺り降ろし、法廷へと突き出さない限り、戦争犯罪を裁く方法を私達は持っていません。
そもそも、国家犯罪の証明は至難の業です。
仮に、状況証拠だけで犯罪を証明したとしても、犯罪者が主権国家の指導者であった場合には、罪を償わせる方法がありません。
国際犯罪を裁くのは国連の仕事ですが、国連の意思決定の最高機関である安全保障理事会には拒否権という仕組みがあります。たとえ、国連憲章に明らかに違反していたとしても、拒否権を持っている国が一国でも反対すれば、国連は何も出来ないという現実を何度も証明しています。
国連という仕組みを作ったのは、第二次世界大戦の戦勝国です。
安全保障理事会の拒否権という仕組みも、その時、作られました。
イギリスのチャーチルは拒否権に反対したそうですが、ソ連のスターリンは応じませんでした。チャーチルはスターリンに「君が侵略した時は、誰が止めるんだ」と言ったそうです。チャーチルもスターリンも先見の明があったということなのでしょう。
1945年に設立されてから77年間、国連改革の提案は何度も出されましたが、一度も実現したことがありません。
残念ながら、この地球上には、万人の利益になるような仕組みが存在していません。私達は、人類は、その答を持っていません。これが、現実です。
どうしても、新しい答を手にしたいのであれば、第三次世界大戦が必要になります。
ところが、第三次世界大戦の戦勝国が、新しい国際機関を立ち上げたとしても、必ず、助平根性は残ります。もっとも、第三次世界大戦が核戦争であったなら、新しい国際機関が誕生するかどうかも疑問です。つまり、犯罪の犠牲者にならない唯一の方法は、「自分の国は自分で守る」しかないのです。
人間に「欲」がある限り、公平・公正・信義・正義なんてものは成り立ちません。
もちろん、人類に「欲」があったからこそ、今日まで人類は生き残ってきたのです。
人間の「欲」を無くすということは、人類が絶滅するということです。
ですから、人類は、「欲」とも「不条理」とも共存していくしかないのです。
これが、私達の現実です。
だとすると、何度も書きますが「自分の国は自分で守る」しか方法がありません。
戦争になれば、多くの市民が犠牲になります。中には、虐殺される市民もいます。
それでも、多くの国が、自国を守ろうとします。
それは、どこの国の国民も、「奴隷」として生きていくことを「良し」としないからです。これも、「欲」です。いや、それが人間なんです。ウクライナだって、自由と尊厳を捨て、ロシアの属国になっていれば、こんな犠牲は払わなくても済んだはずです。

今の日本では、明らかに、中国の侵略を押し返すことはできません。
自国を守れない私達の前には2つの選択肢があります。
ウクライナになるか、ウイグルになるかの選択肢です。
皆さんは、どちらを選びますか。
もしも、どちらも選びたくないのであれば、「自分の国は自分で守る」しかありません。
ただ、その場合は、ウクライナやウイグルの比ではない犠牲者が出ます。
それが現実です。
それでも、私は、個人的には、自由と尊厳を失うより、「自分の国は自分で守る」立場に立ちたいと思いますが、これは、あくまでも、個人の願いにすぎません。
多くの国民の皆さんが、ウクライナやウイグルを希望するのであれば、それはそれで従うしかありません。
それとも、「お上」に丸投げしますか。
これが、一番、無難な選択なのかもしれません。
「他人のせい」にできる魅力は、捨てがたいと思います。
ただ、どちらに転んでも、辛酸を味わうのは国民の皆さんです。
自分で決めたほうが、後味だけはいいと思いますが、どうなんでしょう。
こんな時に、国の目的、国民の目的、国の責務、国民の責務が明確になっていれば、少しは、答が出しやすいのかもしれません。
でも、そんなものは存在していません。
きっと、皆さんは、文句を言いながらも「お上」に丸投げすることになるのでしょう。
「お上」は、責任を取ってくれる国民が、辛酸を舐めてくれる国民が、「お上」に任せると言っているのですから、こんなに楽なことはありません。
ウクライナ戦争の報道を見た国民の皆さんは、8割以上、「不安だ」と言っています。
でも、同時に「敵基地攻撃能力」について質問すると、賛成5割、反対5割になります。戦いたくないという人も9割います。何が何でも国を守るという意識はありません。あるのは「なあ、なあ」「まあ、まあ」です。これは、原則がありませんから、仕方ありません。
「お上」は、いつものように、「ああでもない、こうでもない」と言いながら、うじうじとしながら、曖昧なまま、ある日、とんでもない事態になって、「あちゃー」と言うことになると思います。
でも、その「あちゃー」を選択したのは、「お上」に丸投げをしていた国民の皆さんですから、辛酸は舐めていただくしかありません。
アメリカの属国であればウクライナになり、中国の属国になればウイグルになり、「自分の国は自分で守る」ことを選べば多大な犠牲者を出します。
地球上に住んでいる限り、犠牲は受け入れなくてはならないということです。
どれも選びたいとは思いませんが、他に選択肢がありません。
どんな結末でも納得はできないと思いますが、中でも、一番ましな選択は何なのかを考える時が来ているように思います。
責任を取るのは、国民の皆さんですから、皆さんが決めるべきだと思います。
なんて、誰も思っていないのでしょう。
でも、現実は容赦なくやってきます。
覚悟だけでも持っておいたほうがいいと思うのですが、どうなんでしょう。

「ひどい」
「ロシアが悪い」
「アメリカもNATOも逃げている」
日本では、まさに、他人事でしかありません。
まさか、自分の国が、ウクライナやウイグルになるなんて、中国人民軍に蹂躙されて虐殺される日が来るなんてことを、想像もしていません。
この国では、「不安」は、既に日常になっていますので、新たな「不安」が出てきても、「ふむ、ふむ」としか言いません。誰かを非難していれば、何とか時間は通り過ぎていきます。「俺達には何もできない」「俺には関係ねぇ」と思っています。
多分、ウクライナの人もウイグルの人も、現実に直面するまでは、同じような感覚だったのではないかと思います。それでも、悲劇は容赦なくやってくるのです。ウクライナで起きていることも、ウイグルで起きていることも、フェイクニュースではありません。現実に起きていることです。
そんな実例を目にしているのに、誰も気づこうとしません。いや、逃げています。
どこまでも、「俺には関係ねぇ」と思っています。
諸国民の公正と信義を信じている日本の皆さん、いや、信じている「ふり」をしている日本国民の皆さん、「俺には関係ねぇ」で済むのでしょうか。

私は、中国と戦争することが解決策だとは思いません。
最も望ましい形は、「日本は、ちょっと、厄介だし、手を出さないでおこう」と中国に思ってもらうことですが、それは、私達の覚悟が試されているということでもあります。
一方、中国の属国になり、自由と尊厳を失ったとしても、奴隷になったとしても、生き延びることのほうが正しいのかもしれません。
中国帝国が、いつまで存続するのかはわかりませんが、永久に続くとは思えません。数百年後か、千年後かはわかりませんが、帝国は自壊します。そこから、新しい日本が始まる可能性だってあると思います。
何を選択するのか。
それを決めるのは国民の皆さんです。
なぜなら、どんな選択をしても、その責任を取るのは、辛酸を舐めるのは、国民の皆さんだからです。
ただ、厄介なことに、家族が虐殺されることも、自由と尊厳を失うことも、その場になって、初めて、その苛酷さに気付きます。平和ボケの極致を極めた私達には、想像すらできません。
人間には、想像力という才能があるのですが、ほぼほぼ、機能しません。それは、ボケ症状のために、自分にとって都合の良い想像だけが想像力だと思っているからです。
「うちの子に限って」とか「まさか、私が」とか「なんで、私なの」という言葉をよく聞きます。自分には不幸はやってこないという願望が、想像力を無力にしているのです。
もっとも、私のように不幸な事態ばかりを考えている悲観論者も、いかがなものかと思います。ただ、「事実は小説よりも奇なり」という言葉もあります。悲観論者になる必要はないと思いますが、もう少し、想像力を使うことをお勧めしたいと思います。
しかし、このような提言も議論も、この国には見当たりません。
とても、心配です。
歴史と伝統に従い、泣き寝入りが私達の生き様なのだとすると、仕方ないのかもしれません。

何よりも、私達の国は、国民の命を守るつもりはありません。
どうか、そのことは、知っておいてください。
先月も書きましたが、報道ベースでさえ、核戦争の可能性が出ています。
しかし、私達には、核戦争から身を守る方法がありません。
私は、日本に、公的な核シェルターが何ヶ所あるのか知りませんが、皆さんはご存知ですか。
東京に28ヶ所、大阪に4ヶ所という話もありますが、この数だと、庶民が避難できるわけではないと思います。多分、皇族やお偉い先生方が避難する場所なのだと思います。
日本の核シェルター普及率は、0.02%だそうです。50%でも10%でも1%でもありません。いや、0.1%でもありません。0.02%は、まさに、驚異的な数字です。
参考までに、スイス、イスラエルが100%、ノルウェー98%、アメリカ82%、ロシア78%、フィンランド70%、イギリス67%、シンガポール54%だそうです。
日本には、「我が国は唯一の被爆国だ」という常套句があります。唯一の被爆国の核シェルター普及率が0.02%しかないのは、なぜなのでしょう。その答は簡単です。日本という国には、国民を守るという原則がないのです。その原因は、「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義がないためです。しかし、国民は、盲目的に「お上」に従うことが、国民の使命だと思っています。国家運営の仕事を託された国会議員は、国民の生活と国民の命を守ることが自分の仕事だとは思っていません。自分が選挙で当選することだけが目的になっているのですから、国民を守るという意識なんて持っていないのです。
一例として、お偉い先生方は、憲法に緊急事態を追加すべきだと言っていますが、国会議員の任期の延長が目的です。国民を、どうやって守るのかという視点はありません。
国の目的も責務も決まっていないのですから、どうすることもできません。
こんな国家運営を許している皆さんは、底なしの「いい人」です。
これは、もう、神の領域かもしれません。


2022-05-01



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