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新疆ウイグル問題 [評論]



新疆ウイグル自治区の内部文書が大量に流出したというニュースがあります。
ここでは多くを取り上げませんが、ネットには多くの記事があります。
新疆ウイグル自治区でジェノサイドが行われている、という疑惑はこれまでも何回となくニュースになりましたが、中国の強固なガードを破ることはできていません。
今回も、内部文書を手に入れたのが、匿名の第三者によるハッキングだと言われていますので、中国政府は「知らぬ、存ぜぬ」で押し通すことが可能です。
西側諸国は、文書の信頼性は高いと言っていますが、状況証拠に過ぎません。
5月に、国連の人権高等弁務官が新疆ウイグル自治区を視察しました。いや、国連は、「これは、視察ではない」と言っていますので、「訪問した」ということのようです。
人権高等弁務官に対して、習近平自身が乗り出して圧力をかけていますので、中国の警戒感も半端ではありません。当然、裏では、驚くようなやり取りがあったものと思います。もちろん、カネも動いたと思います。
新疆ウイグル自治区訪問の正式な報告書が出てくるまでは、かなりの時間がかかると思います。ただ、訪問後の記者会見のニュースを見ると、密室で、中国政府に改善をお願いしたということのようですから、中国の弁務官対策は有効だったということになります。
弁務官は、チリ出身のミシェル・バチェレ氏という方です。
中国は、中国のシナリオに沿って、バチェレ氏を誘導し、無事に帰っていただいたという結果になりました。大成功だったと思います。
バチェレ氏の訪問は、視察ではなく訪問ですから、記者会見でバチェレ氏はその点を強調していたようですから、「ジェノサイドの証拠を手に入れた」という発表は、そもそも、ありませんし、「ジェノサイドはなかった」という評価も出来ませんので、訪問そのものに何の意味もないということを証明しただけです。
バチェレ氏の発言を見てみましょう。
「新疆への訪問では、対テロ政策として行われている手法がウイグルやその他の少数民族の人権に与える影響について懸念と疑念を中国側に提起した」
「特に対テロ政策などに関する見直しを行い、国際的な人権基準に合わせるように促した」
中国国外に住むウイグル人から「(新疆に残る)家族と連絡が取れない」との訴えが相次いでいる問題についても「中国政府の当局者に対して、こうした家族に関する情報を最優先で提供するように訴えた」
この回答に見られるように、バチェレ氏は、提起し、促し、訴えた、のです。しかも、提起し、促し、訴えた、という確証はありません。
なぜ、バチェレ氏が、国連が、ジェノサイド疑惑のある新疆ウイグル自治区を、調査するのではなく、漫然と訪問したのか、その目的が見えてきません。
もしも、世界世論のガス抜きが目的であったのであれば、悪手だったと思います。日本であれば、こういう手法は、それなりに効果があるものですが、それは世界常識ではありません。国連の機能不全を証明する現象の一つになっただけかもしれません。
中国政府が、「私達は、ジェノサイドをしました」と言わない限り、水掛け論が続くだけです。中国政府が、そんな発言をすることはありません。特に、この案件は、習近平マターです。習近平が責任を取らされる案件で、「すみません。私がやりました」なんてことを言うと思っている方はいないと思います。
そんな案件の調査に、なぜ、国連は乗り出したのでしょう。
世界にとっては、このことのほうが問題だと思います。
これも、世界秩序崩壊の一局面だと思います。
もちろん、国連は世界秩序を破壊したいとは思っていないでしょう。「よかれ」と思ってやることが裏目に出ることはよくあることです。
新疆ウイグル自治区にあったとされる数百か所の施設。
西側諸国が強制収容所と呼ぶ施設を、中国政府は「職業技能教育訓練センター」と呼んでいます。そして、今は、まさに、そのような施設になっていると言われています。ただ、西側が強制収容所と呼ぶ施設は、既に中国各地に分散させられていて、その数、数千ケ所と言われていますが、新疆ウイグル自治区を視察しても、所謂「強制収容所」なるものは、既に、新疆ウイグル自治区には存在しません。
新疆ウイグル自治区に溢れていた監視カメラの一時撤去も終了したそうです。住人に対しては緘口令が敷かれていると言われています。
高等弁務官は、中国政府の案内人の指示に従わなければ動けません。
国連は、一体、何を期待しているのでしょう。
国連は、正義の味方を演じているだけ、にしか見えません。
それとも、人権高等弁務官事務所も、既に、中国政府の管轄下にあるのでしょうか。
どんな報告書が出てきても、意味のあるものにはならないと思います。
ジェノサイドという言葉は、ドイツが国として行った、ナチスドイツのユダヤ人虐殺から生まれた言葉だと言われています。
もしも、ドイツが戦争に負けずに、今も健在であれば、ユダヤ人虐殺は証明出来ていたのでしょうか。
あり得ないことです。
ドイツは戦争に負けて、ナチス政府は壊滅しました。
今、中国は、共産党政権は、健在です。
そんな国の国家犯罪を証明することは不可能です。そんなことは、中国政府は百も承知です。そう考えると、国連の意図が、わかりません。
国連にできることは、理想の実現に協力をお願いすることだけです。
西側諸国は「ジェノサイドだ」と言うことしかできません。言うのは自由です。しかし、そんなもの、屁のツッパリにもなりません。
「ならず者国家」は、何をやってもいいというのが、今の、これからの世界です。秩序が壊れるということは、そういうことです。ウクライナ戦争も、その一例です。
WTOもWHOも壊れています。人権高等弁務官事務所が壊れていても不思議ではありません。そもそも、国連の最高意思決定機関である安全保障理事会が壊れているのです。
これは、世界が、世界の秩序が、既に、壊れているということです。
ですから、この先は、人類数万年の実績が示すように、力での解決が始まるのです。
人類は、これまで、力でしか問題解決ができませんでした。
今回も、同じ帰結を迎えるしかありません。
理想とか正義なんて、現実の前では何の役にも立ちません。最後は、力です。
ほんとに、残念で、悲しいことですが、それが現実です。

個人の意見なんて何の役にも立ちませんが、新疆ウイグル自治区で人権弾圧が行われているのは事実だと思います。
でも、私達にできることはありません。
私達にできることは、中国領日本自治区になることを阻止することだと思います。
新疆ウイグル自治区の現状は、明日の私達の姿です。

いつもの罵詈雑言は聞き流して、中国政府の自信の表れとしての発言を見てみます。
「国連人権高等弁務官の訪中における中国の立場は一貫しており、連続している。われわれはバチェレ氏の訪問を歓迎するだけでなく、各国各界の人々が新疆ウイグル自治区を訪れ、真実の新疆を肌で感じ、理解することを歓迎する」
つまり、証拠隠滅作業は完成しているので、「いつでも、いらっしゃい」と言っているのです。この証拠隠滅作業は簡単なことではありません。しかし、中国は、国家事業として隠滅作業が出来る国です。習近平の威信を守るためであれば、経済的な損失を承知の上で上海をロックダウン出来る国、それが中国です。
確かに、いつもの品格のない発言ですが、それでも、自信があるように見えます。

今回の情報流出では、膨大な資料が出てきました。
ウイグル人の弾圧は、国家事業として行われましたので、習近平主導で行われたことは言うまでもありません。随所に習近平の文字が出てきます。
私達には、資料の全貌はわかりませんが、いろいろなニュースが出ています。
中でも、新疆ウイグル自治区を統括する高官の発言録に驚きました。
「4つの打破」をパーフェクトに行えたと言っています。「4つの打破」とは、ウイグル人の根源を打破し、血統を打破し、関係を打破し、起源を打破する、という意味だそうです。
このウイグル人という文字を日本人という文字に置き変えてみてください。
中国領日本自治区で行われるジェノサイドは、日本人を日本人でなくすることです。
今回のニュースに関心を持った日本人は、何人いたのでしょう。
1%でしょうか、2%でしょうか。
そんな調査すら行われないと思います。
チベット、ウイグル、香港の次が台湾であり、台湾の次が日本です。
中国領日本自治区が実現するのは、100年後ではないと思います。
もちろん、100年後であれば実現してもいいという意味ではありません。現在生きている日本人にとっての危機だということを認識してもらいたいと思うのです。
中国にとって、「能ある鷹は爪を隠す」時代は終わり、「爪を誇示する」時代も終わろうとしています。次は、「爪で獲物をしとめる」時代になるのです。
一部の人達の間で、「習近平はウクライナ戦争から何を学んだのか」が話題になっています。
経済制裁には力がないことを学んだという人もいます。
核の恫喝は有効な戦術であることを学んだという人もいます。
中華四千年の夢である世界征服の機は熟して来ていると考えても不思議ではありません。
中国自身も核弾頭の製造には全力で当たっていますが、ロシアを傘下に置けば、アメリカの戦略核に対抗できます。
後は、習近平が、いつ、腹を括るのかにかかっていると思います。
それは、第三次世界大戦は習近平の決断にかかっているということです。
その始まりは、台湾侵攻です。
習近平が懸念するのは中国経済と権力闘争という国内要因だと思います。
不動産バブルの影響、コロナによるロックダウンの影響、民間金融機関の預金凍結騒動、等々、国内問題が山積みです。中国人民の不満も高まってきています。
習近平にとっての今の中国経済は順風満帆ではありません。
ただ、順風満帆ではないからこそ、賭けに出るという条件が整っているとも言えます。
どんな決断でも、あり得るということだと思います。

この新疆ウイグル問題は、中国対西側諸国の争いの象徴的な争点だと思います。
それは、「倫理」対「カネ」の闘いでもあると思います。
これは、人間であれば、胸に手を当てて自分に問うてみれば、明らかに、「カネ」のほうが優勢であることは認めるしかありません。「倫理」では「カネ」に太刀打ちできません。
地球上の多くの国家が、中国の「カネ」の前にひれ伏しています。国の数であれば、「倫理」を持ち出す国より、口を噤む国のほうが多数です。日本も、その国の一つです。
品のない罵詈雑言を平然と口にする中国の前で、多くの国が「見て見ぬふり」をするのは、仕方のないことです。だって、誰も「カネ」には勝てません。それが人間です。
その通りですが、だからと言って、中国の属国になってもいいということではありません。せめて、軍事的に中国に侵略されないようにすることは、国の責務です。何度も指摘しますが、そのためには経済力が不可欠です。
中国領日本自治区という言葉を、勝手に作って、勝手に心配している私は、「こいつ、馬鹿じゃねぇ」と思われているのではないでしょうか。
私も、そんなことにはならないことを、心から願います。
でも、ほんとに、大丈夫なのですか。
その根拠は、どこにあるのですか。
この先、日本の国力衰退が顕著になった時、それほど遠い未来の話ではないと思いますが、アメリカは、日本との同盟関係を維持するのでしょうか。利用価値の無くなった日本を守る必要はなくなるのではないでしょうか。
その場合、日本は、地政学的に、中国に呑み込まれることになります。
国民の皆さんは、そんな想像はしないのでしょうか。
私は、中国の拝金主義を否定しているのではありません。彼等は、ただ、現実に向き合っているだけだと思います。
「カネ」が最強であることは、人間社会で当たり前のことです。
「カネ」は唾棄すべきものではありません。
私達に必要なのは、「カネ」よりも「品格」なのでしょうか。
そうではないと思います。
「カネ」を崇拝する必要はありませんが、それでも「カネ」は必要です。「カネ」は勝手に湧き出てくるものではありません。自分達の手で作り出すものです。


2022-06-06



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国民という視点の欠落 [評論]



5月に、日米首脳会談が日本で行われました。
バイデン大統領は、気分良く、帰って行ったものと思います。ただ、アメリカへ戻ると、針の筵の上に座ることになります。バイデン大統領の支持率は36%まで落ちています。
そのことを忖度したのか、岸田さんは、思いっきり尻尾を振りました。
岸田さんは、「今、尻尾を振らずに、いつ、振るんだ」と言うかもしれません。
その気持ちは、よくわかりますが、どうやって後始末をするのでしょうか。
ウクライナに防弾チョッキを送る程度では済みません。
菅総理に続いて、岸田総理も、防衛費をGDP比2%へと増額すると約束しました。
5兆円以上の財源が必要です。
そんな財源、この国のどこにあるのでしょうか。
日米安保がなければ、この国の安全は保たれません。このことは、左翼の一部の方を除いて、国民の常識になっていると思います。ですから、岸田さんは、日本を代表して尻尾を振ったのだと思います。
それは、戦後80年間、「自分の国は自分で守る」という原則に向き合うことなく、先送りを続けてきた結果です。永遠の先送りは存在しません。どこかで、ツケを払う日が来ます。
今は、安全保障で、そのことが顕在化していますが、原則に向き合わず、先送りをしてきたのは、安全保障だけではありません。人口減少や国力衰退でも、ツケを払う日がやってきます。安全保障では、アメリカに尻尾を振れば、アメリカがその気になってくれればという条件はつきますが、まだ、軍事的に国を守ることは可能かもしれません。でも、人口減少や国力衰退の場合は、尻尾を振るご主人様がいないのです。
国力衰退という現実を、皆さんは、和の精神を発揮して、「見て見ぬふり」をしています。皆で、目を閉じ、耳を塞ぎ、口を閉じています。これも、先送りです。
近い将来、この国力衰退が、実害として顕在化する日がやってきます。
皆さんは、どうするつもりなのでしょう。

野党の意を受けた集団が、防衛費増額という空気に反応した結果なのかもしれませんが、「岸田政権は消費税を19%にするらしい」というデマをツイートして、一部の人達が騒いでいます。仮に、その集団をA集団と呼んでみましょう。A集団を動かしているのが共産党なのか立憲民主党なのか、朝日新聞なのか毎日新聞なのかは知りません。しかし、これまでも、定期的に反自民ツイートをやり続けてきました。今回のツイートは、誰が見てもデマでしかありませんので、大きな波紋は生じていません。
そもそも、岸田政権が消費税を、この時期に言及すれば、それだけで政権維持に支障を来します。それも、12%でも15%でもなく20%でもなく、19%です。この数字は、かつて、ある経済団体が言い出した数字です。政治家にとっては、国民を守ることよりも、自分の身分を守ることのほうが比較にならないほどの重要事項です。いくら、彼等が欲の亡者だとしても、こんな暴挙をやるはずがありません。
つまり、反政府組織としてのA集団の力量は、この程度なのだということです。
もう少し、現実味のある、国民の共感が得られるプロパガンダを学ぶべきだと思います。
もちろん、いつかは、消費税の増税は避けて通れません。
そのチャンスは、必ず、やってきます。自民党は、今は、待つ時だと思っています。
ただ、衰退国家が増税をする状況は、破綻間近だと証明するようなものですから、国民の皆さんは覚悟してください。
岸田さん。
先ず、国力衰退を止めることです。
そして、防衛費の増額を可能にする経済成長をすることです。
意味不明な「新しい資本主義」では、これらの課題を解決できません。
国を守るためには、国民生活を守るためには、経済成長が不可欠なのです。
砂上の楼閣の上にミサイルを配備しても、役には立ちません。
岸田さんは、自分で自分の首を絞めているのです。
岸田政権が倒れても、日本が国家崩壊しても、バイデンは「そうか」と言うだけです。
岸田さんは、バイデンに尻尾を振ることの虚しさを感じることはないのでしょうか。
日本は、自分の足で、地面の上に立つことです。
そのために必要になるのが、経済力です。
では、その経済力は、誰が作るのでしょう。
国民です。
国民に働きかけるという選択肢しかないのです。
なぜ、そのことに気付かないのか、不思議です。
ウクライナを見れば、国防が重要であることは明白な事実です。
ですから、防衛力を高めることは不可欠です。
そのためには、まず、先立つものを確保しなければなりません。

立憲民主党や共産党のように反対表明をしていれば歳費が手に入る政党と同じことをやっていて、自民党に政権運営が出来るとは思えません。
今の状態を続けていれば、GDPは減少します。税収も減少します。防衛費に振り向ける財源は、時間が経てば経つほど減少するのです。そんな国が、身の程もわきまえずに、防衛費の増額を他国のリーダーに約束しているのです。これは、もう、ジョークの領域の話でしかありません。
では、自民党に国家運営の能力がないのでしょうか。
違います。
自民党にも、能力がないのです。
私達の国は目的を持っていません。「なあ、なあ」「まあ、まあ」「先送り」は自民党の専売ではありません。この国には、目的も原則も存在していないから、誰が国家運営をしても結果は同じです。曖昧文化に立脚していることが致命傷になろうとしているのです。
野党の主張も見て見ましょう。
立憲民主党の泉代表は、「2%ありきではない」と言っています。
これは、防衛費の増額は認めると言っていることになります。彼等は、「1%上限」という過去の闘争方針を「2%上限」にしてしまえばいいと考えています。つまり、反対する口実があれば、1%でも2%でもいいということです。原則の「げ」の字にも、目的の「も」の字にも気付いていません。自分達の選挙のことしか考えていないのです。そのことを不思議だとすら思っていません。
この国を、どうしようとしているのでしょう。防衛も経済も理解していない野党。私には、自民党に反対することで議員歳費を得ようとする助平根性しか見えてきません。
共産党は、「専守防衛、平和外交を死守せよ」と言っています。いつまで、昭和の残骸を引き摺るつもりなのでしょう。世界は、新しい局面を迎えているのです。
どの政党にも、国民という視点が欠けています。
それは、この国では、目的と責務が明確になっていないからです。
野党の皆さんは、選挙戦のために、口を開くと「ばら撒け」と言います。国がここまで疲弊すると、もう、「ばら撒き」では解決しません。
もちろん、どんな国でも、弱者と呼ばれる人達は一定数います。そんな弱者を救済するのは国の責務です。「ばら撒き」をしなくても、国民が生活できる国を作ることが国家運営者の仕事です。結果を捻じ曲げるやり方は間違っています。
国力衰退を止め、国力増大の青写真を持っている政党が一つもありません。
自民党は、借金と増税、野党は、「ばら撒き」です。
このままだと、ずるずると、国は衰退するだけです。
もちろん、国民の皆さんも「ふむ、ふむ」と頷き、「なあ、なあ」「まあ、まあ」と言っているのですから、政治家の皆さんだけに責任があるわけではありません。

国民の皆さん。
こんな既存政党に国家運営を任せておいていいのですか。
ドツボにはまるのは、皆さんなんですよ。
皆さんが「いい人」であることは、誰もが認めることです。
しかし。
ドツボにはまるかどうかを決めるのは、皆さんが「いい人」かどうかで決まるわけではありません。皆さんが、どれだけ国家運営に参画したのかで決まるのです。
皆さんは、ロシアや中国の日本への軍事侵攻を歓迎するのですか。
確かに、ごく一部の人達は望んでいるかもしれませんが、ほとんどの日本人は望んでいないと思います。
国民が「俺には関係ねぇ」と言っていたのでは、軍事的に国を守ることはできません。
しかし、最低限、軍事的に国を守ることは必要です。
でも、そのためには、経済力が必要なのです。無い袖は振れません。
国民の皆さんの明日を守るためには、経済力が必要なのです。
そんな国家運営をしている、或いは、しようとしている、政党が存在していますか。
いいえ。そんな政党は見当たりません。
政党も政治家も「自分さえよければ」をやっているだけです。そこに国民目線はありません。彼等は、国家運営者の責務が「国民生活を守る」ことだということを知りません。口先では「国民のために」と言いますが、やっていることは真逆です。自分の選挙のことしか考えていません。それは、与党も野党も同じです。
国家運営者が「自分さえよければ」をやり、国民が「俺には関係ねぇ」と言っているのが、私達の国の現実です。国力が衰退するのは、必然です。
国力が衰退すれば、他国の侵略を許しても仕方ありません。
今は、安全保障に光が当てられていますが、経済や生活や貧困に、光が当たる日は迫っています。これは、特定の誰かのせいではありません。国民の皆さん全員が取り組まなければならない課題です。なぜなら、ここは、皆さんの国だからです。皆さんの生活を支えるのは皆さんなのです。「俺には関係ねぇ」なんて言える人は一人もいません。

現状の延長線上に、この国の国民の皆さんが、望ましいと思えるような未来はあるのでしょうか。私には想像できません。
私が言うまでもなく、少しでも想像力を持っている方であれば、そう思っているはずです。ただ、皆さん、奥ゆかしい方ばかりですから、口には出しません。
もしも、輝かしい未来があるのであれば、ぜひ、教えて欲しいです。
こういう場合は、普通に考えれば、国のシステムを変える時だと思いますが、そうではありません。システムを変えても、日本は変わりません。
文化を変えるしか生き残る道はないと思います。
それは、言葉の定義をすることから始まります。


余談です。
細田衆議院議長への批判が止みません。
その細田発言を見てみましょう。
「いったい、いくらですね、歳費をもらっていると思いますか。議長になってもね、毎月もらう歳費は100万円しかない。“しか”というと怒られちゃうけど、そんなにもらってるのかと言うけど、会社の社長は、1億円は必ずもらうんですよ、上場の会社は」
議員定数削減に関して、「人員を減らせばいいというものかどうか、この辺で考えたほうがいい。民主主義というのは、たくさんの議員で議論をしてもらうほうがよく、1人当たりの月給で手取り100万円未満のような議員を多少増やしてもバチは当たらない」

これは論文ではなく、談話ですから、何が言いたいのかよくわかりませんが、その本音はよくわかります。でも、彼等は、勘違いしています。国会議員の仕事は、選挙区を守ることでもなく、議員歳費を増やすことでもなく、国民生活を守ることです。私には、「カネ、カネ、カネ」「オレ、オレ、オレ」と言っているように聞こえます。つまり、彼等は、国の責務も、国の運営を委託されている自分達の仕事の責務も、知らないということです。国会議員の中でも、細田発言は不評だそうです。それは、「細田さん、本音を言って、どうするの」という苦情だと思います。
さて、皆さんは「ふむ、ふむ」と頷くのでしょうか。
こんな欲ボケ老人に国家運営という仕事を外注していていいのですか。
「じゃあ、どこに外注すればいいと言うのだ。碌な政治家がいないじゃないか」
その通りです。
だから、新しい政治集団が必要なのです。
それを作るのが、今の国民の皆さんの仕事であり、国民の責務です。
優秀な政治家が必要なのではありません。政治家を守る仕事をする政治家ではなく、国民生活を守る政治をしてくれる政治家が必要なのです。


2022-06-05



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女性の覚醒 [評論]



私は、いろいろな記事を読みます。もちろん、記事は玉石混交です。知性を疑うような記事も、多々見られます。そんな中で、いつも、感服するのがフィナンシャルタイムズ紙の記事です。これまでも、何度も紹介してきました。
今日も、フィナンシャルタイムズ紙の記事を参照しながら、戦争について書いてみたいと思います。今回は、否定的な文章になってしまいました。

帝国主義・植民地支配の歴史が終わったのが第二次世界大戦だったと思います。
ただ、まだ、夢から醒めない国は何カ国かあります。
帝国主義の時代に、大国が小国を支配した時代がありましたが、かつて植民地だった小国も、全部ではありませんが、ほぼ、独立しています。
アフリカは紛争が多すぎて、素人には実態が掴めませんので除きますが、第二次世界大戦以降、他国を植民地化した大国は、中国とロシア以外に、存在しません。
軍事侵攻や戦争はありましたが、最後は、大国が軍を撤退させています。例外的に、中国とロシアの支配は続いています。中国とロシアは、新しい世界秩序を作りたいと言っています。支配国と被支配国という構図が新しい世界秩序とは呼べないと思いますが、彼等の夢は、誰も実現できなかった、地球の支配者になることのようです。
フィナンシャルタイムズ紙は、歴史学者の言葉として「大国であることの目的は大戦を戦う力を持つことだが、大国であり続ける唯一の方法は大戦を戦わないことだ」と書いています。おもわず、「ふむ、ふむ」と頷いてしまいました。
ロシアは、準大戦(ロシア対自由主義諸国)とも呼べるウクライナ戦争を始めてしまいました。この先、ロシアは大国の地位を失うと言われています。
日本も、大国に憧れて、アジアの国々を侵略しましたが、当時は、それが世界常識であり潮流でしたが、結果的に戦争に負けて、元々の領土を減らすことになりました。収支決算では赤字です。
フランスとアメリカのベトナム戦争も、ソ連のアフガニスタン侵攻も、アメリカのイラク戦争も、成功した戦争は一つもありません。
将来、世界を相手にして戦争を始めるものと思われる中国も、多分、最終的には失敗するのでしょう。
それでも、野望を抱く指導者は、必ず、出てきます。
きっと、自分なら歴史を変えて、世界の覇者になれると信じているものと思います。
「傍迷惑」以外の何ものでもありませんが、信仰心は、或いは、自己過信は、時として、人を動かします。何よりも、人間の「欲」は無制限に肥大するものです。

しかし、大国が撤退を余儀なくされるとしても、戦争による犠牲者は、必ず、出ます。
100年単位で俯瞰してみると、元に戻るのだとしても、侵略された国の国民は、命を失う人もいれば、生き残った人達も、一定期間、奴隷状態になります。
いつかは元に戻るのだから、「どうってことない」と割り切るのは至難の業です。
チベットの人達も、ウイグルの人達も、今、そんな屈辱の日々を生きています。
やはり、植民地や特別自治区になるのは、勘弁してほしいと思います。
たとえ、歴史が「大国の侵略は失敗する」と証明していても、小心者の私は、中国の特別自治区になることを容認できません。
たとえ、歴史が「大国の侵略は失敗する」と証明していても、戦争がなくなることはないということも、現実です。
実に、困ったことです。
現実に対応するしか選択肢はないのではないでしょうか。
太っ腹な日本国民の皆さんは、「なぁに、いつか、何とかなるさ」と思っているのかもしれません。その点では、私は落第生なのでしょう。
では、太っ腹な皆さんは、皆さんの家族や知人が、チベットやウイグルで行われているように、中国人民軍兵士に凌辱(レイプ)されることを「見て見ぬふり」できるのでしょうか。
確かに、短期的なことに目をつぶってしまえば、「何とかなる」のかもしれません。でも、人間って、そんな器用なことができるのでしょうか。
私は、そんな状況には遭遇したくありませんし、「見て見ぬふり」もできません。
兵士による凌辱は、古今東西を問わず、戦場では当然のように起きたことです。表沙汰になっていないだけの話です。幕末の会津藩で、なぜ、多くの女性が集団自決をしたのでしょう。それは、凌辱が当然のように行われていたからです。
ウクライナでも、村に残っていた女性は老人ばかりです。これも、当たり前です。
でも、逃げることが出来ない時は、女性は、死ぬか、凌辱を受けるという選択肢しかないのでしょうか。日本は島国ですから、逃げる場所はありません。
戦争は、暴力の具現化そのものです。
その暴力場面での弱者は女性と子供です。
男の都合で、男の論理で、男の「欲」で、戦争が始まります。
だったら、男は、弱者である女性を、子供を、守る責務があります。
フィンランドとスウェーデンがNATO加盟を正式表明しましたが、これは、外交では国民を守れないと判断したということです。ロシアの武力に対しては武力で自国を守るという選択肢しかないことを痛感したのです。
日本で、「戦争反対、平和、平和」という平和行進を見ていると、女性が多いように感じています。私には、不思議な光景に見えてしまいます。だって、戦争で犠牲になるのは弱者である女性や子供です。「私達を、ちゃんと、守ってよ」と言うべき人達が、軍事力に反対という声を挙げているのです。軍事力のない状態で、弱者が守られると、どうして信じられるのかと、不思議でなりません。だって、敵は、問答無用で攻撃してくるのです。フィンランドとスウェーデンは、外交力では守れないことに気付いたのです。フィンランドとスウェーデンの首相が二人とも女性だということも、とても、象徴的な出来事だと思います。
中国に侵略された時に、女性の皆さんは、会津の女性のように自決するのでしょうか。
そんな覚悟はないと思います。
「あちゃー」と言うしかないと思います。
リアリストであるはずの女性が、なぜ、「軍備反対」と言うのか、ほんとに、不思議です。それは、女性もお花畑の中で昼寝をしているからだと思います。「敵基地攻撃力もなくて、女・子供を守れるの」と言うのがリアリストなのではないのでしょうか。だって、男の暴力の前では、女性は、子供は、無力なのです。
ロマンチストの男が、理想のために「戦争反対、平和、平和」と叫ぶのは仕方がないと思います。男は、ロマンのために生きることが可能です。でも、女性は、それでは生きていけません。10カ月も体内で胎児を育て、激痛の中で出産をするのです。ロマンなんて、「糞喰らえ」です。その上、レイプなんてされたら、堪ったものではありません。女は、尊厳を持ってはいけないのでしょうか。
男の私が、こんな心配する必要はないのかもしれません。
女性の皆さん。皆さんが持っている「子供を産む」能力は弱点なのでしょうか。そうではないと思います。女性がいなければ、人類は絶滅するのです。
女性には、堂々と、「私達を守りなさい」と言う権利があります。
レイプ被害は闇に葬られます。セクハラでは泣き寝入りが常態です。
女性の皆さん、目を醒ますべきだと思います。
日本の精神的な拠り所は、歴史と伝統だと言われています。
女性にとっての歴史と伝統は、抑圧の歴史と伝統なのに、それでいいのですか。
衆議院議長が、文春砲でセクハラ疑惑を書かれています。あの人は、多分、私と同年代の老人だと思いますが、「むにゃ、むにゃ」と言っています。でも、「又か」で終わりです。
日本は、先進国の中では、最悪の男女格差を誇る国です。
私は、国民の皆さんに覚醒をお願いしていますが、女性の皆さんも、いや、女性の皆さんこそ、覚醒しなければならないと思います。

フィナンシャルタイムズ紙が指摘するように、歴史には学ばなければなりません。
その事に異論はありません。
でも、マクロとミクロは同じではありません。
私達は、マクロの視点でも、ミクロの視点でも、現実に対処しなければなりません。
私達は、とても難しい定義ですが、「男とは、女とは、子供とは」という定義にも挑戦する必要があると思います。
21世紀の私達に必要なのは、歴史と伝統と曖昧ではなく、目的と責務と定義なのだと思います。
国民の皆さんは、いつになったら、そのことに気付くのでしょう。
このままだと、間違いなく、「ドツボ」行きです。
皆さんが乗っている電車の行き先表示には、車内の皆さんには見えないのでしょうが、「ドツボ」と書かれています。
女性の皆さん。
皆さんと、皆さんの子供のために、目を醒ましてください。
皆さんは、男のロマンにすぎない「戦争反対、平和、平和」というデモに参加する謂れはありません。皆さんはリアリストなのですから、「中国やロシアや北朝鮮の暴力から、女・子供を守れ」というデモをするべきだと思います。


2022-06-04



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ふんわり [評論]



日本で、専守防衛が議論されていますが、また、建前論に終始するのでしょうか。
多分、その公算が高いと思います。
ある方が、「ウクライナ戦争、あれが、専守防衛の闘い方です」と言っていました。
私も、そう思います。
と言うことは、専守防衛という防衛手法は、「市民の犠牲を前提にしている手法」ということになります。たとえ、ウクライナがロシア軍を押し返したとしても、犠牲になった市民は生き返りません。
ウクライナでは、多くの市民が犠牲になっています。それだけではなく、市民の住居は破壊され、思い出の品も焼かれています。生産活動が出来ずに、収穫した穀物も売る方法がなく、ロシア軍に穀物が奪われています。ウクライナのGDPは半減すると言われています。たとえ、戦争が終わったとしても、経済的な苦境がやってくることは目に見えています。
これが、他国の侵略を許した国の現実です。
専守防衛では、仮に国は守れたとしても、国民を守ることができないだけではなく、貧しい国になるという実例です。
そんな現実を見せられている日本の皆さんは、「ヤバイかも」と言いながらも「俺には関係ねぇ」と思っています。そんな国民の反応を見て、左翼の皆さんは「専守防衛を守れ」と言っています。では、専守防衛で、どうやって国民を守るのでしょうか。そもそも、この国の目的は専守防衛なのですか。それは違います。国民生活を守ることが目的なのです。
国にも、国民にも、国民生活を守る責務があります。
左翼の皆さんには、そんな責務はないのでしょうか。左翼の皆さんは、国民ではないのでしょうか。彼等は、一体、何者なのですか。

国民の中には、専守防衛を基本とする日本が敵基地攻撃能力を持つことは許されないという空気があります。「軍事力なんて必要ない。だって、日本には平和憲法があるじゃないか」と本気で信じている国民が、信じられないほど、大勢いるのです。
ですから、議論することは必要だと思いますが、中身のある議論になっているようには見えません。それは、言葉の定義がされていないからです。「何となく、専守防衛」が日本での専守防衛なのです。
敵基地攻撃能力は、専守防衛の領域を越えているという意見もあります。
敵基地攻撃能力は、先制攻撃に当たるという方もいます。
日本は過去に他国を侵略した国だから、侵略につながる敵基地攻撃能力は、持ってはいけないという方もいます。
ただ、議論の前提が、いつもの事ですが、曖昧なまま議論されています。
相手国の都合で戦争が始まった時、私達がどんな状況を迎えるのかという具体的な前提がありません。いつもの事ですが、「国民」という視点が欠けています。
左翼の皆さんは、口には出しませんが、敵の攻撃の一発目は甘んじて受けるという前提のようです。それが、専守防衛だと言います。でも、その時の国民がどんな状況にあるのかに関しては口にしません。国民も、自分の所にはミサイルは飛んで来ない、と根拠なく思い込んでいますので、左翼の主張に「ふむ、ふむ」と頷きます。
そこで、左翼の皆さんにも、比較的理解されやすい折衷案を考えてみます。
それを、限定的敵基地攻撃能力と呼んでみましょう。これも、定義の一つです。
一発やられたら、一発撃ち返す、という考え方です。
左翼の皆さんも、馬鹿ではありませんから、敵基地攻撃能力を全否定しているわけではないようです。共産党でさえ、いざとなれば自衛隊を出動させると言っていますので、そこそこの、それなりの、反撃は認めています。ただ、与党も野党も、何故か、「最小限」という言葉が好きです。これも、「なあ、なあ」「まあ、まあ」です。
では、その限定的敵基地攻撃能力を想像してみましょう。
仮に、中国が、一発目の攻撃として、東京に核ミサイルを撃ち込んだとします。
「最初からそんなことはしないだろう」と反論するかもしれませんが、ほんとに、そうなのでしょうか。私には、軍事的には正しい選択に見えます。中国には、そういう主張をする人もいます。
広島の原爆による直接の犠牲者は15万人だと言われています。
現在の原爆の威力は、広島型原爆の1000倍の威力だと言われています。
と言うことは、首都圏に住む1400万人は、全員、死にます。その周辺の地域の皆さんにも影響があるでしょうから、少なくとも2000万人の犠牲は覚悟しなければなりません。
日本に核ミサイルはありませんから、限定的敵基地攻撃能力を持っていたとして、北京に通常爆弾で反撃したとしても、北京の犠牲者は、それほど多くはありません。
こちらが紳士的に振舞えば、相手も紳士的に振舞うというのは、スポーツの世界の話であり、戦争では通用しません。日本の一発の反撃に対して、敵は、500発のミサイルを撃ち込んでくることのほうが軍事的には正しい選択です。
日本の人口の半数は死にます。
これが、限定的敵基地攻撃能力です。
敵基地攻撃能力に反対する方は、その犠牲を受け入れると言っているのです。
これほど国民を無視している発言に、国民は何も言いません。いや、「日本には平和憲法があるから、誰も攻めてこない」と信じています。
国民は、「俺は何も悪いことはしていない。だから、少なくとも、俺の所へミサイルは来ない」と思っています。ほんとに、そうなんでしょうか。ウクライナの国民は悪逆非道の国民だったから、プーチンが言うように「ネオナチ」だったから、その報いを受けているのでしょうか。違います。日本人が「いい人」ばかりであっても、平和憲法があっても、戦争は相手の都合で始まるのです。
日本政府の皆さんや野党の皆さんは、「国民」を「国民生活」を「国民の命」をどう考えているのでしょう。いつも、その視点が抜けています。
彼等は、「国民生活を守る」ことが、国の責務であることを知らないから、選挙のことしか考えていないから、「ああでもない、こうでもない」と屁理屈をこねて自己満足しているだけです。
こんなこと、ほんとに、受け入れられるのでしょうか。
しかし、国民の皆さんは、そんな政府を、そんな野党を、容認しているのです。もちろん、積極的に容認しているとは言いません。でも、皆さんは、何もしていません。それは、結果的に容認しているということになるのです。
皆さんが犠牲になるのは必然であり、自業自得です。
それとも、何か得体の知れない何かが、神風が、私達を守ってくれるのでしょうか。これも、曖昧文化の副作用です。理想と、いや、夢想と現実は同じではありません。
敵基地攻撃能力に反対する方は、数千万人の国民の命を犠牲にしても構わないと言っているのです。これが、国家運営に参画している人達の意識です。
国民は、守られていません。
国民の命なんて、政治家の皆さんの選挙の前では、何の価値もないということです。国民よりも、国民生活よりも、自分の選挙のほうが圧倒的に大事なのです。
これ、どう考えても、お花畑で昼寝をしているとしか思えません。
そろそろ、目を醒ます時だと思います。

何度も書きますが、戦争は、絶対に、反対です。
そのためには、「他国から侵略される戦争」を防がねばなりません。
国は、国民を守らなければなりません。
私達が生き残るためには、フルスペックの軍事力が必要です。それでも、中国の軍事力には敵いません。日米同盟だけではなく、西側軍事同盟に参加することが必要であり、アジア軍事同盟の創設が必要です。中国の力は、そこまで大きくなっているのです。
私達は、国民生活が守れるだけの軍事力は持たねばなりませんが、私達がやらねばならないことは、その軍事力の行使を、どう制御するのかを考えることだと思います。アメリカやロシアや中国にならないようにするためには、どうすればいいのかを考えることが必要です。
自民党は、9条に自衛隊の文字を追加すれば済むと思っています。
そんな認識で、国民を守れるのでしょうか。
国防をゼロベースで再構築する必要があると思います。
なぜなら、国の責務は、国民生活を守ることだからです。
与党も野党も、未だに、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で何とかなると思っているのです。
すべては、原則がない事に端を発しています。
先月、フィンランドのNATO加盟の話題を書きました。
フィンランドが変わったのは、国民世論が変わったからです。
フィンランドでは、銃弾の在庫が無くなって、店頭から消えたそうです。フィンランド国民が自衛のために、銃撃の練習を始め、銃弾の消費が増えたからだそうです。
仮に、九州が中国人民軍に侵略されれば、国民の皆さんの意識は変わるのかもしれません。フィンランドにとってのウクライナ戦争は、そういう戦争なのです。
日本でも、国民世論が変わらなければ、この国を守ることは、国民生活を守ることは、できません。
しかし。
日本国民は、未だに「戦争反対、平和、平和」と叫べば戦争にはならないと信じています。
外交で戦争は回避できると信じています。
過去の世論調査では、実に多くの国民が、「日本には平和憲法があるから、日本は大丈夫なのだ」と本気で信じています。圧倒的多数の日本人が、そう信じているのです。これ、冗談ではなく、ほんとに、そう思っているのです。
試しに、憲法に「平和のために、南シナ海を元に戻す。中国は尖閣には近づかない」と明記すれば、実現するのでしょうか。
ウクライナ戦争を見た今でも、その信心は揺らぎません。確かに、ウクライナ戦争を見て、不安は感じていますが、それでも、日本だけは大丈夫だと信じているのです。もう、理屈の世界ではなく、宗教の領域に入っていると思います。
現実とこれほど遊離している国民も珍しいと思います。
これも、曖昧文化の効能であり副作用なのだと思います。
「お目出度い人々」と呼ぶしかありません。
ほんとに、「いい人」ばかりなのです。
「いい人」は犠牲にならないという法則があれば良かったのですが、残念ながら、そんな法則はありません。
先月、「戦争とは」という言葉の定義についてかきましたが、国民の皆さんが思っている「戦争」は、「ふんわり」としたものです。具体像は持っていません。
子どもの目の前で母親が、夫の目の前で妻が、親の目の前で娘が、レイプされて殺されるのが戦争です。自転車に乗って友達の家に行こうとしていた人が銃撃を受けるのです。
家族が、友人が、次々と死んで行くのが戦争です。
そんな惨劇を、私達は「ふんわり」で包んでいるだけなのです。
そんな惨劇をあからさまに口にすることは、適当ではない、はしたないことだ、と思い込んでいます。目と耳と口を閉じ、地面に這いつくばり、嵐が去るのを待つのが日本流だと信じています。まさに、私達は、今でも、日光東照宮の猿です。
実際の戦争に遭遇すれば、百人が百人共、「ふんわり」と現実との余りの落差に驚き、後悔することになります。もちろん、後悔したって、現実は変わりません。

このチグハグ感は、どうして生まれているのでしょう。
どうして、夢想と現実が違うことを認識しないのでしょう。
何度も書いていますが、曖昧が原因だと思います。
多くの方が、いや、ほとんどの方が、戦争には反対です。私も、絶対、反対です。
この国を戦場にしてはいけません。
でも、戦争は起きます。これが、現実です。
戦争になれば、何が、どう、変わるのかという現実を知っておかねばなりません。
現実に直面すれば、「ふんわり」や「曖昧」では方が付かないのです。
たとえ好ましくないことであっても、正しい認識を持ち、正面から向き合うしかありません。
そのためには、現実を知ることです。
「ならず者国家」は存在するのです。これも、現実です。
「ならず者」は、相手が弱いとわかれば、征服したくなってしまうのです。子供の「いじめ」と同じです。弱い子供が狙われるのです。
だから、「こいつは、弱い奴だ」と判断されたウクライナは侵略されているのです。あの場所にアメリカ合衆国があっても、ロシアは戦争を始めていたのでしょうか。プーチンは馬鹿ではありません。普通の隣人として振舞っていたと思います。
国民が、お花畑で昼寝をしているような国を征服するのは簡単です。
やりたい放題です。
戦争は非情です。「ふんわり」なんてありません。
そのことに、ぜひ、気付いて欲しいと思います。
現実を認識するためには、何が必要なのでしょう。
何度も、諄くて、済みません。どうしても、言葉の定義が必要です。
皆さんは、目も耳も口も脳も心も持っています。
見てください。聞いてください。言葉に出してください。考えてください。感じてください。それが、人間としての責務であり、皆さんの宝物なのです。
どうして、持っている宝物を使わないのですか。


2022-06-03



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不幸の神様が大喜び [評論]



IMFは、4月に、世界のインフレ率見通しを、3.8%から7.4%へと変更しました。
3.8%の予測を発表したのが昨年の10月ですから、僅か6カ月で倍の7.4%になったのです。これは、明らかに、激変です。
しかし、日本政府に、危機感はありません。まるで、私達は、お伽話の夢の国に住んでいるような感覚しかありません。もちろん、国民の皆さんは、とても不安に思っていますが、政府は何事もないような態度を続けています。
私は、極度の悲観論者ですから、本当に、心配しています。
この7.4%が、何を、どこまで、計算しているのかは不明ですが、半年後には、再び、予測の変更をする可能性が残っているとすると、心配です。
日本の私達の視野に入っているのは、ガソリンの値上げや電気料金の値上げに見られる燃料価格の上昇ですが、食糧や食用油や肥料や飼料の値上げも始まっています。いわゆる、資源価格というものが、軒並み上昇し始めています。これは、世界トレンドです。
日本の今年のインフレ率予測は、今のところ、1.2%とか1.6%のようです。
しかし、4月の消費者物価は2.1%の上昇になっています。この消費者物価指数には、いろいろな種類があり、帰属家賃を除く指数だと、4.2%の上昇です。専門家は、年内は2.0%台の上昇が続くと言っています。もちろん、日銀は、一時的な上昇にすぎない、と言っています。日本でも、予測値の改定は行われると思います。個別の上昇率を見てみると、エネルギーが20%、食料全体では4%、食用油は36%、マグロは17%だそうです。
企業物価の上昇は、既に10%を越えています。
企業は、ますます、人件費の削減に励まなければなりません。
いろいろな商品やサービスの値上げが、度々、ニュースになります。
もしも、国民に購買力があれば、インフレは個人消費を増やし、GDPを押し上げます。では、国民に購買力があるのでしょうか。いいえ、ありません。庶民の節約モードは始まっていますし、今後、節約モードはグレードアップします。なぜなら、庶民は、赤字家計では生活できないからです。企業は、値上げはしたが、売り上げが増えない。売り上げは増えたが販売数量が減る。それは、既存の顧客を失うということであり、顧客離れは、企業にとっては致命傷になります。国民の購買力という名のパイの大きさは変わらないのですから、個人消費が伸びるという結果は得られません。これは、ますます、国力衰退が顕著になるということです。インフレを吸収できる賃金の上昇がない日本では、インフレは、単純に、国民の窮乏化を進める動きになるしかありません。
世界のインフレ率が7.4%で、日本のインフレ率が1.6%だとすると、日本が世界から取り残されているということです。
デフレだからですか。
違います。
国力が衰退しているからです。
「お上」は、「デフレ」という言葉を前面に出し、本質的な課題を無かったことにしています。デフレは、ただの経済現象です。経済現象には原因があり、それが、国力衰退です。
もちろん、IMFの予測は世界の平均値ですから、20%の国もあれば、2%の国もあるのでしょう。ただ、先進国では、7%前後のインフレになっている国が多いようです。そんな差を、「日本はデフレだから」で切り捨てています。デフレは結果であり原因ではありません。
世界的なインフレは、資源価格の高騰が大きな要因ですが、中でも、食糧価格の高騰は人間の生存に直結していますので深刻な問題となっています。
私は、度々、「不幸が不幸を呼ぶ」「不幸の神様は群れたがる」と書いています。
しかも、不幸の神様は、何故か、貧乏人が好きで、寄ってきます。
食糧価格高騰の始まりは、コロナでした。その後に、気象環境の変化による不作がやって来て、更に、ウクライナ戦争が重なりました。その後も、世界各地の気象環境の変化が、更なる価格高騰を助長しています。そして、副次的な要因として、世界中で、資源の取り合いが始まっていて、価格高騰に拍車をかけているという現実があります。
世界は、食料備蓄量の増大に必死です。特に、中国は、世界の食糧備蓄量の半分を占めるほどの備蓄をしています。中国の食糧備蓄は、既に、武器として使える量になっていると思います。中国の戦略には、いつも感心させられます。「自分さえよければ」も、ここまでやれば、武器になるということなのだと思います。それは、中国の国家目標が世界征服だからだと思います。自分の選挙にしか「自分さえよければ」を発揮できない日本とは、大きな差があると感じざるを得ません。いや、そもそも、日本には、国家目標が存在していません。私達は、そんな中国と対峙しなければならないのです。とても、勝てるとは思えません。
2008年の食糧危機では、餓死者も出ましたし、暴動も起きました。
2022年から2023年にかけては、2008年を凌ぐ食糧危機が起きる可能性があると心配されています。食糧危機だけでも大変ですが、危機は、食糧だけで終わるのでしょうか。
今は、世界秩序の曲がり角です。
新しい世界秩序がどんな形になるのかは、まだわかりませんが、世界が変わろうとしている事だけは間違いないと思います。

不幸は、まだまだ続きます。
農産物生産に不可欠な肥料の価格高騰がありますが、価格だけではなく、供給量の不足が、更なる食糧価格高騰を進める要因になると言われています。
ロシアとウクライナとベラルーシは、世界的な肥料輸出国です。戦争と制裁で、そんな国の輸出が止まっているのです。今年の肥料不足は、来年の収穫に影響します。
今、私達の目に見えている不幸だけでも、充分、危険ですが、まだ、見えていない不幸も姿を見せる時が来るかもしれません。いや、不幸の神様は、嬉々として出番を待っているものと思います。今、不幸の神様達は、100年に1度か、1000年に1度の不幸の祭典がやってきたと喜んでいるのかもしれません。
不幸の神様が最も喜ぶのは、やはり、戦争なのではないでしょうか。
戦争は、不幸の神様にとっては、玉手箱のようなものであり、不幸のバーゲンセールでもあります。80年も大規模戦争がなかったことは、不幸の神様にとって受難の時代だったのかもしれません。
そう考えると、人類が向かっているのは、第三次世界大戦なのだと思います。
ヨーロッパでは、既に、第三次世界大戦は始まっていると言う人もいます。
残念ですが、私達は世界大戦を防ぐ手段を持っていません。しかも、第三次世界大戦は核戦争になる可能性もあります。
軍事同盟であるNATOの会議に日本が招待されたり、フィンランドの首相が日本を訪問しています。フィンランドと日本って、首相が訪問するほど緊密な関係だったのでしょうか。ロシアに土地を奪われているという共通項はありますが、日本人にとってのフィンランドは、オーロラとかムーミンとかでしか馴染みのない遠い観光地の一つに過ぎなかったと思います。
これって、普通のことなのでしょうか。
明らかに、時代は動いているのだと思います。
欧州にとっての敵国であるロシアの友好国は中国です。当然、中国との戦いも視野に入れなければなりません。特に、中国の一帯一路の終着点は欧州です。経済的な利益ばかり見ていた欧州は、一帯一路が軍用路になることに気付き始めました。
そんな中国の脅威に晒されているのが日本です。敵の敵は味方ですから、相互連携をしたいと考えても不思議ではありません。ですから、フィンランド首相は、欧州の大使として日本を訪問したのだと思います。

では、この激動の時代に、日本はどう対応しようとしているのでしょう。
目の前に食糧危機という現実が出現しようとしているのです。
この食糧危機は、途上国だけの問題なのでしょうか。
政府は「現時点では、わが国への食糧供給への直接的な影響は確認されていない」と言っています。
では、「現時点」で「直接的な影響」がないのであれば、「将来」の「間接的な影響」については、何の心配もないのでしょうか。
政府は小麦の値上げをしましたが、これは「直接的な影響」の範疇に入らないのでしょうか。
日本は、食料、肥料、飼料を大きく輸入に頼っています。特に、種や肥料や飼料は、ほぼ100%輸入品です。「影響がない」なんてことは、言えないと思います。
大臣は、自分が傷つかないように「現時点では」という言葉と「直接的な」という言葉で逃げているだけです。
自分達は、政府は、何もしません、と言っているようなものです。
何のために、国というシステムがあるのでしょう。
農水省は、「日本の商社は優秀だから、彼等が何とかしてくれるだろう」と思っているのかもしれません。しかし、その商社が、世界市場で「買い負け」をしているのが現状です。確かに、輸出入の実務では商社に頼るしかありませんが、商社に「おんぶにだっこ」でいいとは思えません。国家運営者の責務は、「責任を逃れる」ことではなく、「国民生活を守る」ことです。商社の社員には、「自分達が国を背負っている」という自負があると聞きますが、農水省にその自負はあるのでしょうか。
目的も責務も明確ではありませんので、大臣の発言が逃げ口上にすぎなくても、許されてしまう。いつまで、「なあ、なあ」「まあ、まあ」をやるのでしょう。どうして、国民の皆さんは「知らんぷり」をするのですか。私達の国は、既に、2000万人もの国民が貧困層だと言われる国になっているのです。「欲ボケ老人」に任せておいていいのですか。
福島原発事故の時、当時の枝野幹事長が「直ちに、人体には影響がありません」と答え続けましたが、自民党政権でも同じことをやっています。
このことは、自民党や、民主党の成れの果ての立憲民主党に国家運営を任せておいてはいけないということだと思います。
この国には、新しい政治集団が必要です。国民生活を守るための政治集団です。
この新しい政治集団を誕生させるのが、国民の皆さんの仕事です。
国民の皆さんが「俺には関係ねぇ」と言っていたら、この国は「ドツボ」にはまります。もう、間に合わないのかもしれませんが、それでも、やるべきだと思います。
農水省に限らず、政府の答弁は、判で押したように、終始、「推移を注意深く見ていきます」という定型文で答えます。
確かに、「見ているだけ」ですから、言行一致という点では合格ですが、「見ているだけ」が政府の仕事なのでしょうか。
「見ているだけ」であれば、私にもできます。
「見ているだけ」だけが問題なのではありません。
国民の皆さんが、そのことに異を唱えません。これが、最大の問題です。
あらゆる場所で、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で終わってしまうのです。
あらゆることが、棚上げされて、忘れ去られるだけです。
これも、曖昧文化の副作用です。
この国が曖昧文化の副作用で窒息しそうになっていることに、どうして気付かないのでしょう。専門家の中には、曖昧に原因があるのではないかと気付いている人もいますが、どうすればいいのかがわからないから、「まあ、まあ」で終わってしまいます。もう一歩なのに、ほんとに、惜しいと思います。
「曖昧」という言葉の対極にある「定義」という言葉に、どうして、気付かないのか、とても、不思議でなりません。簡単なことだと思いますが、不思議です。
誰も、自分の責務を果たそうとしません。
それは、責務そのものを知らないからです。
誰も、目的を持っていません。
いや、国家運営を担っている人達は、選挙で当選することが目的だと信じています。
こんな国が地球上に存在していることが奇跡に近いと思います。
綺麗事では済まないのは世の常です。
生き延びたいのであれば、それなりのことはしなければなりません。
もちろん、選択に迷うことはしばしばあると思います。
そんな時に必要になるのが、立ち戻る原則ですが、この国には、それがありません。
歴史と伝統ですか。
そこは、曖昧の海です。
何もかもが曖昧なのです。
誰も傷つかないように、「皆で地獄へご一緒しましょう」ということなのでしょうか。
皆で行けば、「地獄だって怖くはありませんよ」ということなのでしょうか。
そんな訳ありません。痩せても枯れても、地獄は、地獄です。
目的を確立し、責務を明確にして、それを原則にし、今は、この難局を、皆で乗り切ることを考える時だと思います。今は、そういう時代なのだと思います。
それが出来るのは、国民の皆さんしかいません。
少なくとも、皆で地獄を目指す時ではないと思います。
今は、国民の皆さんの覚醒が必要とされている時です。
「欲ボケ老人」に国家運営を任せておいてはいけません。


2022-06-02



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私達の普遍的な価値とは [評論]



このブログでは、社会で起きている些細な出来事を検証しています。
それは、些細な出来事の集大成が国の未来を決めるからです。
贔屓目に見ても、この国の衰退は明らかです。しかし、あらゆる立場の人が、そのことを「見て見ぬふり」をしています。政府を筆頭に、政治家、学者、メディア、そして、国民も、まさに、一枚岩のようです。これが「和の精神」というやつなのでしょうか。
でも、隠しようもなく、この国の衰退は明らかです。5年前と比べれば、この衰退という空気は、少しずつ、その濃度を増しているように感じます。「なんか、ヤバくねぇ」と感じている国民は増えていると思います。
国家崩壊の原因は、国力衰退の原因は、多岐にわたります。
一部の政治の問題を解決しても、一部の経済の問題を解決しても、一部の社会の問題を解決しても、国全体の問題が解決するわけではありません。それだけではなく、解決策として打ち出した政策が、衰退の背中を押してしまうこともあります。
多くの皆さんは、国家崩壊なんて陰謀論にすぎないと思っているかもしれません。
でも、自分で勝手に壊れるのは、陰謀でも何でもありません。
今、「俺には関係ねぇ」と言っている人でも、国が壊れて食う物に困った時には、「関係ねぇ」なんて言っていられません。政府に対して「どうしてくれるんだ」と怒りをぶつけても、天から食糧が降ってくるわけではありません。食う物に困るような環境を作ってはいけないということです。結果が出てからでは、どうすることも出来ません。
どうか、自分を、家族を守る行動をしてください。
一番困るのが食糧です。可能であれば食糧の備蓄をしてください。500年分の食糧があれば、何とか、生き残ることは出来るかもしれません。今は、保存期間500年の食糧なんて存在していませんので、発明してください。それが出来ないのであれば、国家崩壊を防いでください。

今は、実感はないと思いますが、皆さんの使命は「生き延びること」だと思います。
いずれ、そのことを実感する日がやってきます。
よく「大局的な観点から」という言葉を好む政治家がいますが、政治家の言う「大局的な観点」とは、自分にとって利益になる観点という意味です。自分の利益を阻害しない範囲が「大局」に相当します。今、私達の前にある衰退という課題は、この「大局的な観点」で処理できるようなものではありません。必要なのは、特定の誰かの「大局的な観点」ではなく、より多くの人の「普遍的な観点」なのではないかと思います。
理屈では、その通りですが、これが中々の難題です。
なぜなら、人間は、「欲」を捨てることができないからです。
いや、「欲」こそが人間の本質だからです。
そういう意味では、「普遍的な観点」というものは成り立ちません。
「普遍的な観点」に近づける方法はないのでしょうか。
ありません。
ありませんが、必要です。
だって、国が崩壊して喜ぶ人はいません。
観点という言葉は、必ず人間が介在しますので、普遍的にはなりようがないのです。人間は、千差万別と言われます。百人百様の観点が存在するということです。例えば、私の独断と偏見は、私にだけ正しいことであり、普遍的という言葉とは、全く縁がありません。
ここは、「普遍的に見える観点」を作るしかないのではないかと思います。
絶対正義なんてものは存在しませんので、それを承知の上で、できるだけ多くの方のコンセンサスが必要となります。
たとえ、偽物の「普遍的な観点」を作るにしても、国民の皆さんの積極的な意志が必要なのです。そこが、一番の難題です。
ここは、無茶を承知で、国民の皆さんが積極的に参画してくれるという前提にします。
その上で、「普遍的」とは何でしょう。
今という時代は、普遍的なものを見つけるのは難しい時代だと思います。
時代を遡ってみましょう。
縄文時代ではなく、それ以前の、日本に人間が住み始めた頃を想像します。
当時の日本人は、何を願っていたのでしょう。
多分、単純ですが、「生き延びること」だったと思います。
今の私達と同じで、昔の人達も食べなければ生きていけません。
雨露をしのぎ、外敵から身を守る、安全な場所も必要だったでしょう。
火も水も必要だったと思います。
彼等は、生き延び、子供達に未来を託すことが、生活の全てだったと思いますし、最大の目的だったと思います。
そのためには、先ず、食う必要がありました。その生活は食い物を確保することに大半を使っていたと思います。草を、木の実を、草の根を、魚を、鳥を、動物を食べたと思います。中には、毒を持っているものもあったでしょうから、死んだ人もいたと思います。当時は、書物なんてありませんから、あらゆることを経験則に頼っていました。食べ物を選別するためには多くの知見があったほうが有利です。他の家族と友好関係を持つことも利益になったと思います。この経験則が大事にされたことから、後に、長老や占い師をリーダーにする社会が生まれたと思います。
ともかく、「生き延びること」、これが全てです。
これは、人間だけではありません。
生命を持つ者の、根源的な願いだったと思います。
大昔の人達の願いなんて、今や、何の価値もないのでしょうか。
もちろん、「生き延びて、何になる」と言われれば、答はありませんが、永遠を求め続けるのが生き物です。そこに、意味なんてないのだと思います。
私の勝手な解釈に過ぎませんが、人間の普遍的な価値とは、今でも、「生き延びること」であり、「子供達に未来を託すこと」なのではないかと思います。
多分、人類絶滅のその日まで、この普遍的価値は不変なのだと思います。
当時は、「俺には関係ねぇ」なんて言う人はいなかったと思います。生き延びることに全精力を注いでいたと思います。それだけではなく、他の人間も同じ目的を持っていましたので、不満はあったと思いますが、協力して、知恵を出し合って、力を合わせて、必死になって、生き延びることが最優先だったと思います。「自分さえよければ」「今さえよければ」もご法度だったでしょう。
そう考えてみると、現代の私達は、その真逆をやっています。
これは、「ヤバイ」と思います。

では、今の日本では、この普遍的価値は守られているのでしょうか。
貧困は、「生き延びる」ことを阻害する最大の要因です。
相対的貧困率では、世界で13番目に高い数値になっています。貧困者は、約2000万人と言われています。何とか「生き延びる」ことは出来ていますが、「子供達の未来」よりは、今の生活を維持することのほうが優先されています。子供の数が減っているだけではなく、子供達の抵抗力は弱まっています。未来を託された子供達は、重く感じるかもしれません。
絶対的貧困率も絶対的貧困者数も数字にはなっていませんが、絶対的貧困者は存在しています。それは、炊き出しに並ぶ人達がいることで証明されています。彼等も、「生き延びる」ために、ゴミ箱を探し、廃品を集めて、その日の食べ物を手に入れています。「子供達に未来を託すこと」なんて気持ちは1ミリもないと思います。統計数値には出ていませんが、「生き延びる」ことが出来なかった人もいると思います。
私達が知っておかねばならないことは、相対的貧困層の皆さんは、絶対的貧困層に、いつでも移行可能な予備軍だということです。
相対的な貧困の増加は、もう日本のトレンドになっています。ですから、この先、相対的貧困層の人は増え続けます。経済的な環境の変化があれば、このトレンドは、勢いを増します。それは、必然的に、絶対的貧困者を生み出すことになります。
国民にとっての経済環境の変化は、個人ではどうすることもできません。
庶民に影響する経済環境の変化とは、物価の上昇であり、企業の倒産・廃業であり、失業者の増加等々があります。コロナ支援金のおかげで、環境変化は抑えられていますが、いつまでも続くわけではありません。一足早く物価上昇が始まっていますが、企業の倒産・廃業の増加や失業者の増加は、それほど遠くない未来に始まります。
日本経済を、他国と比較して、素直な目で見ていただければ、いかに日本経済が衰えているかはわかっていただけると思います。
敗戦後には、日常だった栄養失調という言葉は、最近、あまり聞きませんが、この先は、また、メジャーな死亡原因になると思います。死亡原因の項目に「餓死」という項目は無いようですが、「餓死」も増えると思います。絶対的貧困国とは、それが当たり前の世界になるということです。

この国は、日々、衰えています。
どうして、誰も、原因を見つけようとしないのでしょう。
結果を変えることが、対策になると信じているようにしか見えません。
その典型的な例を見てみましょう。
企業間競争は、国内競争ではなく国際競争の時代になり、日本の企業は、リスクの高い開発や研究やイノベーションに資金を投入するのではなく、人件費の削減に力を入れました。守りを優先させたのです。経団連の要望に従い、政府は非正規労働者を容認しました。これも、人件費という結果を力技で変えるものです。
国力衰退の最も大きな直接的原因は、企業が「守り」に入ったことです。ただし、その原因の原因は別にあります。それが、目的と責務の欠如です。更に、その原因となっているのが、言葉の定義をするという風習の欠如です。今、私達が見直さなければならないのは、曖昧文化だと思います。
人件費の削減に邁進しましたが、それでも、国際競争力では世界に太刀打ちできません。
低額給与者を非正規労働者に置き換えることに成功した企業は、今度は、高額給与者の駆除に乗り出しました。希望退職者募集だけでは限界があったのです。そこで、経済界は、野党の要求する「同一労働同一賃金」に目を付けました。
経済界は、人件費の削減のために非正規労働者を作ったのです。非正規労働者の待遇を正規労働者の待遇にしてしまえば、元も子もありません。目的は、正規労働者の待遇を非正規労働者の待遇に近づけることが目的でなければ、整合性はとれません。
少しずつですが、その動きは表面化してきています。
中でも最も大きな流れは、ジョブ型雇用と呼ばれるものですが、日本社会に浸透するには、まだ、時間がかかります。
ですから、個別対応として、企業は正社員の各種「手当」の削減に動いています。あらゆる手段を使って、未だに、人件費を削減することに注力しています。ジョブ型では、通勤手当や家族手当などはありませんから、移行期間と考えているのかもしれません。ジョブ型人事制度を採用している企業は25%、移行中・検討中が30%、未検討が35%、未回答が10%だそうです。
非正規労働者側が、不平等だと訴える案件では、企業側が敗訴し続けています。これも、企業側にとっては想定内の事だと思います。裁判所からお墨付きを貰うようなものです。企業にとっての選択肢は、正規社員の待遇を非正規社員並みにすることです。
企業は、正社員に対して「裁判では負けます。皆で会社存続を諦めるか、皆さんの手当てを削除するか、選んでください」と言っています。今は、「会社存続」という言葉は伝家の宝刀です。いつ、どんな、企業が潰れても不思議ではない時代になったのです。正社員は会社の要求を受け入れるしかありません。
こんな企業風土の中で、社員は、どう考えるのでしょう。社員の皆さんも、守りに入るしかありません。企業も社員も防衛です。全体が衰退するのは当たり前だと思います。
この一連の非正規問題の出発点は、どこにあったのでしょう。
日本企業が、衰退の原因を克服するのではなく、人件費が高いという結果を捻じ曲げたことが出発点です。結果を捻じ曲げ、そこから生まれた結果を、更に捻じ曲げる。これでは、終わりはありません。これが、今、日本で起きていることです。原因を究明し、それに対応するのではなく、結果を捻じ曲げることで辻褄を合わせようとしたことが、国力衰退に拍車をかけました。
今のやり方を続けていれば、この国の未来は真っ暗です。
従来の考え方を変えるしか道はないと思います。
そのためには、その根拠を見つけなければなりません。
私達の「普遍的な価値」を再認識することも必要ですし、基準となる明確な目的も責務も必要です。多くの国民が納得して、力を合わせてくれる根拠が必要です。
その上で、原因をとことん究明し、真正面から対応することが求められています。
特定の誰かの「大局的な観点」など、不要です。
誰か、一刻も早く、このことに気付いて欲しいです。


2022-06-01



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