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記事紹介 39 [記事紹介]



今日は、臨時で記事紹介をしたいと思います。
ダイヤモンド・オンライン 8/19の記事です。
筆者は 日本総合研究所調査部主任研究員 河村小百合氏。
表題は 「そして預金は切り捨てられた。戦後日本の債務調整の悲惨な現実」です。
表がいくつもありましたが、それは転載しませんでした、詳しく読みたい方は、是非、ダイヤモンド・オンラインで読んでみてください。




日本の財政再建がなかなか進まない。政府債務残高は名目GDP比で約250%と、財政状況は、先進国、新興国を問わず世界で最悪であるにもかかわらず、である。国内には、「財政危機だ、財政危機だと言われたこの10数年間、結局何も起こらなかったではないか」、「リーマンショックや東日本大震災以降、年間40兆円とか50兆円といった金額の新発国債を増発して借金残高を増やし続けても、実際には何も起こっていないではないか」といった意識が蔓延しているようにみえる。
「ギリシャと違って日本は、国債をほとんど国内で消化しているのだから大丈夫だ」、「日本は、国民が多額の金融資産を保有しているから、ネットでみた国としての負債残高は、グロスの負債残高ほどに大きくはないから大丈夫だ」――こうした議論は間違っていないのだろうか。このまま国債残高を増やし続けても、国内消化の比率が高ければ、本当に大丈夫なのだろうか。
一国の財政運営が行き詰まり、立て直しのための万策尽きた後の最後の手段には、大別して、①非連続的な対外債務調整(対外デフォルト)と、②非連続的な国内債務調整(国内デフォルト)の2通りがある。①は、近年のギリシャの事例等があり、その実態や顛末は一般にも比較的よく知られている。他方、②の国内債務調整については、各国ともそうした不都合な事実は対外的に隠したがる傾向があり、詳細があまり明らかにされていないことも多い。
そうしたなか、国内債務調整における事態の展開を詳細に追うことができる稀有な事例は、われわれの意外な身近にある。それは、第二次世界大戦直後に実施されたわが国の債務調整(国内デフォルト)だ。その実態を、財政当局監修でまとめられた『昭和財政史終戦から講和まで』(東洋経済新報社)シリーズ等における記録を基に、つぶさに明らかにする。

終戦直後にわが国が直面した状況

1945(昭和20)年8月15日の第二次大戦終戦の時点で、わが国の財政は軍事関係の支出によって大きく拡大し、財政運営の継続はすでに困難な状態に陥っていた。第二次大戦をはさんだ昭和期の国民所得と物価上昇率、国債残高等の推移は図表1の通りである。
国債に借入金も含めた政府債務残高の規模(対国民所得比)は、1944(昭和19)年度末時点ですでに約267%に到達していた。加えて、戦時補償債務や賠償問題があり、政府債務の全体像の確定は困難な状況にあった。大戦前からのインフレが大戦中さらに加速し、敗戦時の国民の財産・資産は、事実上、現預金に尽きるといっても過言ではない状態であった。
昭和初期において、わが国の国債の約4分の1は外国債(利率は内国債よりかなり高め)が占めていた時期もあったが、戦時中の1942(昭和17)年から外国債の利払いは停止された。わが国は対外デフォルト(債務不履行)状態に陥り、その後1952年まで継続した。国債の構成も、終戦の時点では、金利水準を人為的に低く抑えた内国債が残高の99%を占め、そのほとんどを日本銀行と預金部(政府)が引き受ける状況となっていた。

「取るものは取る、返すものは返す」

わが国が降伏文書に調印した9月頃から、極めて切迫した財政・経済・金融状況を抱え、大蔵省内部で、専門の財政学者等を交え、具体的な対応策が検討されていった。1946(昭和21)年度予算を概観すると、普通歳入120億円に対し、歳出は172億円、うち78.3億円が臨時軍事費借入金利子や補償金利子も含めた国債費であった。
大蔵省内では、①官業および国有財産払い下げ、②財産税等の徴収、③債務破棄、④インフレーション、⑤国債の利率引き下げ、が選択肢に上るなか、GHQによる押し付けではなく、あくまでわが国自身、財政当局の判断として、「取るものは取る、返すものは返す」という原則に象徴される対応が決定されていった。
具体的には、一度限り、いわば空前絶後の大規模課税として、動産、不動産、現預金等を対象に、高率の「財産税」(税率は25~90%)が課税された(=「取るものは取る」)。それを主な原資に、内国債の可能な限りの償還が行われ、内国債の債務不履行そのものの事態は回避された(=「返すものは返す」)。他方、戦時補償債務については、これを切り捨てる決断を下し、国民に対して政府の負っている債務と同額での「戦時補償特別税」の課税も断行した。そして、これらの課税に先立ち、順番としては一番先に(1946<昭和21>年2月)預金封鎖および新円切り替えが行われている(図表2)。
当時の政策運営上の意思決定の状況について、『昭和財政史終戦から講和まで第11巻政府債務』(執筆者は加藤三郎東大教授)には、昭和20年10月14日の官邸での会合の列席者による回想として、以下のような記述がみられる(89ページ)。
…(前略)…大蔵省として天下に公約し国民に訴えて発行した国債である以上は、これを踏みつぶすということはとんでもない話だ、というような意見が勝ちを占めまして、おそらく私もその一人であったろうと思うのですが、これは満場一致の形で、取るものは取る、うんと国民から税金その他でしぼり取る、そうして返すものは返す、こういう基本原則をとにかく事務当局で決めてしまいました。その場で財産税という構想が出まして、議論を重ねました。この財産税は結局日本戦後の財政史上、国内混乱を起こした以外何ものでもないことになりましたが、財産税の構想はその会合でたまたま議論が起こったものです。…(後略)…
(原資料:今井一男口述「終戦以後の給与政策について」『戦後財政史口述資料』第八分冊、昭和26年12月17日)
また、同11巻85ページには、以下のような記述もみられる。

…(前略)…山際次官(当時)はこの点について次のように語っている。
渋沢さんの大臣御在任中のことを、発生的に考えてみると、いろいろなことの発端が、やはり財政再建計画というやつから来ておる。五箇年計画というものを造って国債をどうするか、それを償還するために財産税ということになって、そのために通貨整理、封鎖ということに発展したのですね。
(財産税について-引用者<加藤三郎教授>)ほかの富の平均化とか、インフレ抑制策というものは、あとからついて来たものです。
(原資料:「元大蔵大臣渋沢敬三氏口述(全)」『戦後財政史口述資料』第一分冊、昭和26年5月8日)

貧富の差なく国民の資産を吸い上げる

戦後の国内債務調整(デフォルト)の中心となった政策の内容を順に確認していこう。
一度限りの大規模課税である財産税の課税対象としては、不動産等よりはむしろ、預貯金や保険、株式、国債等の金融資産がかなりのウエートを占めた(図表3)。課税財産価額の合計は、昭和21年度の一般会計予算額に匹敵する規模に達した。また、本税の実施に先立って作成された、階級別の収入見込み額をみると(図表4)、国民は、その保有する財産の価額の多寡にかかわらず、要するに貧富の差なく、この財産税の納税義務を負うこととなった点がみてとれる。
税率は最低25%から最高で90%と14段階で設定された。1人当たりの税額は、もちろん、保有財産額の多い富裕層が突出して多いが、政府による税揚げ総額の観点からみると、いわば中間層が最も多い。このように、財産税の語感からは、ともすれば富裕層課税を連想しがちではあるが、実際にはそうではなく、貧富の差を問わず、国民からその資産を課税の形で吸い上げるものであったといえよう。
なお、当時は新憲法制施行前で占領下にあり、こうした措置は、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の承認を得て、法律案を衆議院に提出、可決される形で行われた。このように、国による国民の資産のいわば「収奪」が、形式的には財産権の侵害でなく、あくまで国家としての正式な意思決定に基づく「徴税権の行使」によって行われた点に留意する必要がある。
そして、そのようにして徴収された財産税を主たる原資として、可能な限りの内国債の償還が行われた。図表1で、国債の現金償還額が終戦後、ケタ違いの額に伸びていったことは、このような異例の大規模な財産税課税によって、可能な限り国債残高を削減しようとしていた事実を物語っている。

預金封鎖・新円切り替えを先行した狙い

こうした財産税課税に先立ち、昭和21年2月17日には、預金封鎖および新円切り替え(注)が断行されている。新円:旧円の交換比率は1:1であった。日銀や民間金融機関も含めて極秘裏に準備したうえで、国民向けの公表は実施の前日16日に行われ、わずか1日で実施に移される、という「荒業」であった。
実際の政策運営の流れは図表2の年表で確認できるが、預金封鎖・新円切り替えを先行させたのは、財産税課税のための調査の時間をかせぎつつ、課税資産を国が先に差し押さえたとみることができよう。預金封鎖等を発動した「金融緊急措置令」が公布された2月17日には、同時に「臨時財産調査令」も公布されている。
こうした措置について、国民向けには「インフレ抑制のため」という説明で政府は通したが、国民からは相当な反発があったことが、『昭和財政史終戦から講和まで』シリーズでは明らかにされている。その第12巻『金融(1)』100ページには、執筆者である中村隆英東大教授による、以下のような記述がある。
…(前略)…これ以降の政府の説明もこの趣旨で貫かれている。こうして、大蔵当局の一時インフレの高進を抑え、時をかせごうというひかえ目な判断に基づく政策効果の見通しはかくされたまま、公式には徹底的なインフレ対策としての面のみが強調され、一般もそのような政策としてこれを理解することになったのである。そこにこの政策がのちに多くの批判をあびなければならなくなった最大の理由があったといえよう。…(後略)…

戦時補償を打ち切り国内債務不履行を強行

その後、昭和21年10月19日には、「戦時補償特別措置法」が公布され、いわば政府に対する債権者である国民に対して、国側が負っている債務金額と同額の「戦時補償特別措置税」が賦課された(図表5)。これは、わが国の政府として、内国債の債務不履行は回避したものの、国内企業や国民に対して戦時中に約束した補償債務は履行しない、という形で部分的ながら国内債務不履行を事実上強行したものである。そしてこれも、国民の財産権の侵害を回避すべく、「国家による徴税権の行使」という形であった。
政府の戦時債務の不履行や、旧植民地・占領地における対外投資債権請求権の放棄等により、企業、ひいては民間金融機関の資産も傷み債務超過となった。このため同じ10月19日には、「金融機関再建整備法」および「企業再建整備法」も公布された。これを受け、民間金融機関等の経営再建・再編に向けての債務切り捨ての原資として第二封鎖預金が充当された(実施は昭和23年3月、図表6)。要するに、債務超過状態を解消するために、本来であれば国が国債を発行してでも調達すべき、民間金融機関に投入する公的資金を、国民の預金の切り捨てで賄ったのである。
そして、財産税法の公布は、昭和21年11月12日であった。財産税の納付には、不動産等の現物納付が認められた一方で、先行して差し押さえられていた封鎖預金も充当された。
以上が、「非連続的な国内債務調整」の典型例として、わが国が第二次大戦終戦直後に経験した厳しい債務調整の実情である。これらの事実から明らかになるのは、国債が国として負った借金である以上、国内でその大部分を引き受けているケースにおいて、財政運営が行き詰まった場合の最後の調整の痛みは、間違いなく国民に及ぶ、という点である。一国が債務残高の規模を永遠に増やし続けることはできない。「国債の大部分を国内で消化できていれば大丈夫」では決してないのだ。
無論、世界大戦の敗戦国という立場に陥り、社会全体が混乱のさなかにあった当時と、平時の現在とは状況が全く異なる。政府債務残高の規模が、当時とほぼ並ぶGDP比250%の規模に達したからといって、すぐに財政破たんするというものでもなかろう。しかしながら、国債の大半を国内で消化するという現在の状況は終戦当時に通じるし、現時点で債務の膨張に歯止めがかかる見通しは全く立っていない。
今後のわが国が、市場金利の上昇等により、安定的な財政運営の継続に行き詰まった場合、それが手遅れとなれば、終戦後に講じたのと同様の政策を、部分的にせよ発動せざるを得なくなる可能性も皆無ではなくなろう。この点こそを、現在のわが国は、国民一人一人が、自らの国の歴史を振り返りつつ、しっかり心に留めるべきである。




余談です。
第二次大戦の敗戦後に、この国がどのようにして、国民の資産を取り上げたのか、について書かれています。
財務省(当時は大蔵省)は、インフレ対策という看板を掲げて実行しましたが、それは後付けの看板に過ぎず、現実はハイパーインフレになりました。
つまり、財務省にとって都合の良い理由を前面に押し出し、本物は国民から隠したのです。
隠蔽の仕方も、今のやり方と同じです。
その財務省の基本姿勢も書かれています。
それは、「取るものは取る」「返すものは返す」という姿勢です。
ただし、この姿勢は財務省を中心にして地球が回っている場合にのみ有効な姿勢だと言えます。少し補足するならば「国民から、取るものは取る」「国へは、返すものは返す」という意味です。
つまり、国民から税を絞りとり、日銀や政府が抱えている国債を返済しようという作戦だったのです。財務省の人は「そんなの、当たり前だろう」と平然と言うでしょう。でも、国民目線では、当たり前ではありませんが、私が間違っているのでしょうか。
国は、国民に何を返したのでしょう。失われた350万人の命を返したのでしょうか。失われた国民の財産や時間を、返したのでしょうか。国民からみれば、返して欲しいと思っているのは国民の方です。人生そのものを返して欲しいと思っていた国民は数多くいたものと思います。
でも、現実は、全部、逆向きの一方通行でしかありませんでした。
彼等は、国民の持っていたものを根こそぎ取り上げたのです。
国家には徴税権があるのだから、許されるという論理です。
では、国民には、何の権利もないのですか。
踏んだり蹴ったりのひどい仕打ちなのではありませんか。
これは、他所の国での出来事ではありません。この日本という国で、ほぼ70年前に実際にあったことです。
国は何でも出来るのです。それが、国家権力です。
それに従わなければ、国民は処罰されるだけです。
国民が国家運営に失敗したのでしょうか。
戦争をしたのも、その戦費を借金したのも、戦争に負けたのも、全部、「お上」の責任なのではありませんか。民に責任転嫁するやり方は、お殿様だけが偉いという封建制度そのままだったように見えます。
今の日本が、経済成長から見放されたのも、1.000兆円もの借金をしたのも、「お上」の責任なのではありませんか。今でも、この国の基盤は封建制度ですから、民に責任転嫁するのは、ごく自然なことなのです。
当時の大蔵省がやったことと、今の財務省がやろうとしていることは、同じ事なのです。あのようなことは二度と起きないと言える人はいないと思います。同じ事が起きる確率の方がはるかに高いと確信します。それは、この国には、もう、国民貯蓄以外にお金はないからです。「お上」の「自分さえよければ」は何一つ変わっていませんから、国民の財産を根こそぎ取り上げることに躊躇はしないと思います。理屈を作り出す能力は卓越していますから、いや、それが国家運営だと彼等は信じていますから、国民が信じてくれそうな理屈は言うことと思いますが、それは、騙しにすぎません。ま、国民は、今でも、騙され続けているのですから、次も、必ず、騙されます。
ここで、一つ、謝らなければならないことがあります。以前に、タンス預金を推奨するような文章を書きましたし、これからも例として書くかもしれませんが、防衛策にはなりませんので訂正し、謝ります。タンス預金は、通貨を切り替えられたら、何の役にも立ちません。ただの紙屑になります。
国民の資産は、その資産の形態にかかわらず、全部取り上げられるということです。
私達には、日本という国を自ら捨てるという防衛策しかないものと思います。
ただ、これは、誰にでも出来る防衛策ではありません。充分な資産を持っている人か、若くて才能もあり、国外でも生計を立てることが出来る人に限られます。
あなたは、何ヶ国語喋れますか。若さも才能もありますか。

国家運営者の意識は、明治維新でも、戦後でも、今でも、何一つ変わっていません。
彼等の意識によれば、国は国民のためにあるのではなく、国民は国を支えるために存在するのです。彼等にとっては、必要とされるだけの年貢を、民から取るのは当たり前のことなのです。その上、その国を運営する権力者という存在も、国民が支えなければならないものの一つだと考えています。また、国のためという大義名分さえあれば、何をしても、どんな嘘も許されると考えています。これって、民主主義なのでしょうか。
当然のように、事実が隠蔽され、言い訳や争点外しが横行している現状を見れば、現在の日本でも変わりがありません。この国の意識は、まだ封建制度なのです。
石田が、新・資産税と呼んでいる税金は、戦後に実施された財産税と同じものです。新・資産税という呼び名は、石田が勝手に命名しましたが、税目そのものは石田のオリジナルではありません。既に政府内部で検討されているということを聞いたことがあります。
仮に、新・資産税を課税するとすれば、枕詞が用意されるでしょう。
社会保障充実のため。環境保護のため。災害防止のため。成長戦略のため。
いや、財務官僚なら、新しい枕詞を生み出すかもしれません。
日本人は、文化的にも枕詞が大好きです。

真実を隠蔽することも、嘘をつくことだと定義した時、権力者は、嘘をつくことが自分達の仕事だと考えています。いや、70%は、それが主な仕事です。つまり、権力者の発言には30%の真実しかありません。権力者の仕事は、70%が嘘をつくことだとすると、官僚がこの国の最高権力者になった理由も見えてきます。彼等は、言い訳や争点外しのプロ集団です。この技術は政治家にはありません。
やはり「貯金を守ろう運動」はやらなければならないのかもしれません。
でも、国家権力には勝てそうにありませんので、無理なのでしょう。
必ず、70年前と同じ事が起きます。
このことだけは、断言できます。


2013-08-20



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