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空気という疫病 [評論]



ある東大教授の方が、日本の意思決定プロセスは「東大病」に冒されているというコラムを書いています。

「 特定の、誰か、が暴走するのではなく、組織全体がいつの間にか暴走してしまう。だれも責任を取らず、異議も唱えない一方、巧みな言葉の“すり替え”でごまかしながら、コトをするっと進めてしまう。そうこうするうちに既成事実となって歯車が回り始め、誰にも止められなくなる。これこそが「東大病」の正体です」

東大卒のエリートが、この国を支配している。
確かに、それは現実です。
この方は、東大の教授ですから、「東大病」に見えているようですが、これは、決して、「東大病」などではありません。日本は、太古の昔から、こういう統治方式を採用してきた国なのです。そして、封建制度の結晶ともいえる伝統という美名のもとに、多くの若者を教育してきたのです。なぜなら、これは封建制度を維持するためには、実に、有効な方式だからです。日本という国が時代に追い付けずに、衰退しているのは、伝統という名で装飾された日本流の封建制度にしがみ付いているからだと思います。
これは、「東大病」などではなく「日本病」なのです。
この国が構造改革をできない理由もここにあります。日本流の封建制度という現状の構造を逸脱すれば、辻褄が合わなくなり、全体が壊れてしまうという意識があり、頑なに、しがみついているのです。国家運営に携わる多くの方が、これこそが、国家統治の大前提なのだと信じています。先月も曖昧文化について書きましたが、日本流の封建制度も、曖昧文化のおかげで実にうまく作られています。パッと見は封建制度に見えません。正面から見れば、民主主義に見えるように作られています。そのカギを握っているのが儀式です。この方式は一朝一夕にできたものではありません。2,000年という時間が作り上げた方式なのかもしれません。この方式で時代を乗り越えられれば、言うことなかったのですが、うまく機能しなくなってしまいました。それは、グローバル化という世界潮流のせいです。
国民の皆さんは、この国に身分制度などないと思い込んでいると思いますが、それは、皆さんが「下々」だからです。すみません。私も「下々」です。ただ、「選民」という身分があることを知っている「下々」です。中には、身分制度に薄々気付いていて、自分が「下々」であるにも拘わらず、「選民」になりきって、悦に入っている不思議な方もいます。
実際に「選民」と「下々」という身分制度を前提にした国家統治が行われていることを知っているのは、「選民」だけです。東大卒の人達だけが「選民」ではありません。国家運営集団に参加できた人は、自分は選民だと思ってしまいます。選民になってしまえば、もう、そこには、国民という視点はありません。
この方式の中には、多くの要素が巧みに織り込まれています。「忖度」もそうですし、「責任回避」もそうです。皆が悪くて、皆が悪くない。そこにあるのは、選民と選民の「なあ、なあ」なのです。時々、今回のように文科省と内閣府で齟齬をきたしますが、得意の「なあ、なあ」が機能しない時もありますが、それはご愛嬌みたいなものです。日本国民は、「いい人」ばかりですから、時間が経てば、忘れてくれます。
私は、以前に、国会議事堂を国立茶番劇場だと書いたことがあります。「なあ、なあ」だけでは軽く見られてしまいますので、権威付けのために儀式を行う場所なのです。ですから、出し物は、三文芝居でも四文芝居でもいいのです。今年の通常国会は二文芝居でしたが、それもご愛嬌です。
そこには、民主主義の欠片もありません。そんな国の国民は、いつまでも、「下々」にすぎません。
ところが、国民は、自分の国は民主国家だと信じています。
「お人よし」もここまでくると、「お上」にとっては宝物です。
民主主義の定義がないにもかかわらず、どうして、民主国家かどうかを判定しているのでしょう。そうです。「空気」です。日本の主権者は、人間ではなく「空気」なのです。ですから、空気を醸成することが、統治になるのです。そして、その空気を作っているのが「選民」なのですから、当然、空気は「選民」のための空気になります。これは、民主主義ではありません。空気さえ作れれば、どんな統治でも可能になります。最近の例で言えば、戦前の「戦争まっしぐら」という空気です。多くの国民が戦争に違和感を持ちませんでした。空気を介在させて封建制度を維持する、いわば、間接封建主義が、日本の国体なのです。私は、いつも、この国の国体は「民主主義風王政並立封建制度」だと書きます。それは、民主主義という風味を加え、天皇制という味を付け加えていますが、本質は封建制度です。封建制度の国では、私達は「下々」にすぎません。ですから、「下々」が数百万人犠牲になっても、何の問題もないのです。第一次大戦でも、第二次大戦でも、国民は消耗品として使われました。兵士よりも、戦艦や飛行機や銃器のほうが大切にされました。
この国では、他民族に蹂躙されたという歴史はありません。また、過去に、極悪非道の支配者も出ませんでした。極悪非道の支配者に痛めつけられた体験があれば、もっと違った視点が生まれていたでしょう。織田信長が、初めて、極悪非道の支配者になる予定でしたが、残念ながら、暗殺されました。戦国時代、天下統一後の日本を織田信長が統治していたら、今の日本は別のものになっていたと思います。この国では、常に、曖昧が、空気が、支配者だったのです。そして、今、その空気が、時代に適合できずに、病んでいるのです。
確かに、微妙な匙加減で運営する方式には、いい面もあります。四角四面では角が立つという意見も、もっともなことです。でも、それでは、封建制度を卒業することはできません。国民は、いつまでも、「下々」のままです。「俺達は、下々でもいい。なんとか、うまくやってくれ」という意見もあるでしょう。私も、大惨事がやってこないのであれば、それも選択肢の一つだと思います。最終責任を「お上」が取ってくれて、私達国民が無傷でいられるのであれば、願ったり叶ったりです。でも、そんなことは、夢物語です。どう転んでも、最終責任を取るのは、私達国民なのです。国民が、このことに気付かない限り、いつまでも「なあなあ」「まあまあ」が支配することになります。
人間は、つい、現状の延長線上に未来があると信じてしまう性癖があります。
でも、それは、勘違いです。
そんなうまい具合に事が運ぶことは、滅多にないのです。いや、あり得ないことなのです。歴史の年表を見ただけでも、それは明らかな事実です。

私は、いつも、「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義が必要だと書きますが、これは、2,000年の歴史を否定しろ、と言っているに等しいことです。実に、無茶な話です。そんなこと、実現することはありません。ただ、大惨事の後に生き残った日本人が、新しい国を作る時に、もしも、この文章が残っていれば、もしかすると、誰かが気付けば、ひょっとして、参考にする半端者がいれば、役に立つかもしれない、という奇跡を期待しているにすぎません。



もう一つ、同じような趣旨のコラムを紹介しておきます。

あることを実行したいと思っている(実力)者が、最適だと思われる機関を利用して、自分の個人的な意思を巧妙に組織の意思に作り替えるのが「意思決定」だ。検討に必要な材料を揃え、いろいろな人が意思決定に参画した形式を整え、正当性を確保するだけなのだ。そのため、他の意見が入る余地は小さいし、シナリオ外の決定はほとんどない。いわば、「意思決定ロンダリング」と呼んでもいいだろう。
この手の「意思決定ロンダリング」は、国や自治体の意思決定プロセスでもよく用いられる。恣意性を排除するために、「衆知を集める」という名目で「委員会」を組織することが多いが、そこに「御用学者」や「御用財界人」が集められることになる。すでに明確な意思を持っている事務方にとって都合のいい意見を言って、追認してくれる人たちだ。
そこでは「お互いに空気を読み合って」「自分の範囲を越えず」「流れに沿って」「阿吽の呼吸で」話し合いをする技術が求められる。あまりに賛成一色だと困るので、あえて異論を述べてくれる少数の「反対派」は入れてあるものの、多数派はしっかりと押さえてある。
また、このような委員会は、あえて広い部屋で協議が行われ、そもそも話し合いが盛り上がらないような配慮さえなされている。100人は入れる部屋に10~15人人しかいなければ、当然出席者の席は離れる(事務方の傍聴者はやたら多い)。声が通りにくいから、話しづらい。よってマイクを使うので、さらによそよそしくなる。貴重なご意見を承りました。とはいうものの、本質的な問題提起があったときは、巧妙に話しをそらして深い議論はしない。……と、どこまでも事務方に支配されているのである。
このように極めて儀式的な会議体だが、それでも、公的機関が設立した委員会の委員になると、社会的信用度が上がるため、委員会の委員の成り手には困らない。反対派として頑張って意見を述べても、あまり話題になることはない。報告書において、「○○のような意見もあったが…」というわずかな痕跡が残るだけである。恣意性の強い委員会の運営に抗議して「こんな茶番(意思決定ロンダリング)に付き合わされてたまるか!」と途中で委員を辞任する人もたまにいるが、大勢に影響はない。
著名なコンサルティング会社や弁護士事務所などが、その任に当たることもある。事務方の設定した目的に沿って、必要な情報を集め、目的に沿うような理論構築をするのが仕事となる。各種の第三者委員会なども、実質的に外部者が主導する一部の委員会を除き、その多くは事前のシナリオに沿った方向にまとめられる。事務方の意思が、いつのまにか権威を持った外部の識者によってお墨付きを得た「錦の御旗」に仕立て直されるのである。
さらに、このロンダリングの仕組みは、なかなか使い勝手がよい優れものである。もしその答申にそって実施された結果が悪かったときには、その答申が悪かったことにできるのだ。すなわち第三者(なんとか先生や、なんとか会社)が悪いということにしてしまえるということである。もともとその答申は事務方の意見なのだが、形式的には外部の先生のご意見をまとめたものだし、行為の実行者は(間違った)答申に従っただけだ。誰にも責任はない。こんな風に、外部を使った意思決定ロンダリングは、責任逃れには最適だ。



まだまだ少ない方が、こんなやり方に疑問を持っています。でも、そのことが全国規模で問題になることはありません。それは、国民の勘違いが大きく影響しています。この国が民主国家だと信じ込まされていることです。現在の方式は、伝統のある匠の技として重宝され、上記のように、その手法に問題があるとする主張があれば、変人の戯言として、意識的に「お上」が無視することで維持されます。「お上」が無視すれば、国民は騒ぎません。なぜなら、この国の国民は「いい人達」ばかりですから。
そこで使用されるのは、伝統のほうが立派に決まっているという宝刀です。実に不思議です。私達が宝刀だと信じている刀は、封建制度を維持してきた刀なのです。その封建制度の宝刀が、民主制度でも宝刀になるという不思議を不思議とも思わない不思議です。その上、この時代錯誤を時代錯誤だと思わないで平然としていれるのは、曖昧文化のおかげです。どこかに、出口はあるのでしょうか。ありません。だから、ガラガラポンが起きるのです。伝統は文化として受け入れるべきであり、時代が変わっている場合は、統治システムに組み込むのは間違いだと思います。
以前は、現状分析すら出来ていなかったのですから、少しは前進したのではないかと思う方がいるかもしれません。しかし、残り時間が少ない今となっては、そんなことを言っていたのでは手遅れです。今は、現状認識と対策の立案と実行を、一気にやらねばならない時なのです。
もちろん、伝統と文化という巨大な壁があるのですから、可能性は微塵もありませんが、必要とされているのは、民主国家の樹立です。
もしも、この国が民主国家であれば、国家の仕事は「国民の生命と財産を守る」ことであれば、国は、国民に「これからの100年の、国民の皆さんの生命と財産は、こうやって守ることが出来ます」という数字を示さねばなりません。でも、そんな数字は、どこにもありません。逆に、国民の生命と財産は守れないという数字は沢山あります。例えば、50年後の借金は8,000兆円と予測されています。仮に、金利が5%だとすると、400兆円の利息を支払わねばなりません。50年後のGDPが300兆円だとすると、国民は全員、霞を食べて生きなくてはなりません。これで、どうやって、国民の生命と財産を守るのでしょう。
私達は、今日を生きることで精一杯です。仮に、将来を考えても。「来月は」「今年は」くらいのものです。10年先、50年先、100年先を考えるのは国の仕事です。国家運営者までが、今日のことや、過去の失敗で右往左往していたのでは、国民は救われません。定義が曖昧になっていることが、国の本来の仕事を曖昧にしています。国民こそ、この定義不在が大惨事を招くという想像力を持たねばなりません。ここで、百歩譲りましょう。政治家は銭勘定や票勘定に忙しく、庶民は毎日の生活に忙しいのであれば、問題提起や方向性を提示するのは有識者と呼ばれる人達の仕事です。でも、その有識者の皆さんは、各種の会議に招聘されることに腐心しています。私達の将来には、ポッカリと穴が開いたままです。野球に例えるなら、センターの野手がいない状態です。しかも、レフトの野手もライトの野手もカバーに入るつもりはありません。これは、大穴です。これでは、国が滅びます。
石田ごとき爺が、こんなブログを書いていることが、国家崩壊が始まっている証拠です。
漠然とではありますが、壊れかかっている様子は、国民の皆さんにも見えているはずです。日本のガラガラポンは必然的な結果であり、それは、もう、9年後に迫っています。自分や自分の家族を守らなくていいのですか。
多くの国民の皆さんだって、「なんか、変だなあ」と思っていますが、皆さん、いい人達ばかりですから、波風を立てようとはしません。いや、そのほうが、楽だと思っています。
こうして、日々、何事もなく、過ぎることを願っています。
でも、そんな都合の良い未来などありません。現実とは非情なものです。
多くの方が、破滅へ向かっている現実を見ようともせずに、作られた空気だけを信じていますので、何を言っても無駄ですが、そうは問屋が卸しません。
それでも、国民は、根拠もなく「きっと、何とかなる」と信じています。もう、これは宗教のレベルです。この信仰心は崩せません。
それでも、残念ですが、この国は、間違いなく、壊れます。
いや、既に、壊れ始めています。
もう、空気で統治できるような時代ではありません。
300年前であれば、崩壊することはありませんでした。
100年前でも、350万人の犠牲で済んだことを僥倖だと考えねばなりません。
でも、もう、無理です。
今度は、数千万人の犠牲者が出ます。
何度も書いてすみません。
最終責任を取るのは、国民の皆さん、あなたたちなのです。
それなのに、国民という視点が、どこを探してもありません。
「下々」は存在していますが、昔から「下々」は多少犠牲になってもいいのです。
数千万人は、多少の犠牲とは言えませんが、それは仕方のないことです。「下々」ですから。
中には、根っからの「いい人」もいるでしょう。でも、ほとんどの方が「いい人」を演じているだけです。
勝手に、自分には害が及ばないと思い込んでいるだけです。
そうじゃありません。
例外なく、誰の身にも降りかかるのです。
皆さんは、今なら、「いい人」ぶって、「仕方ないさ」と言うかもしれません。
国家運営なんて、自分の守備範囲ではないと思っていますから、そう言うのでしょう。
でも、本物の痛みや苦しみや飢餓がやってきても、「いい人」を通せるのですか。
無理だと思います。
恨み、泣き叫ぶことしか、私達にはできません。
なぜなら、それが人間の本性だからです。


2017-07-04



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