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政治資金パーティー事件 [評論]



自民党の政治資金パーティー事件は、今、東京地検の捜査が真っ最中なので、今は、まだ、どんな結末になるのかはわかりません。
このような事件が起きると、いろいろな方が「国民」という言葉を使います。
そのことは歓迎すべきことなんですが、「国民って何ですか」「国会議員って何ですか」と言う方はいません。どれも、「何となく」の上で議論が進みます。ですから、どんな結論が出ても、「何となく」で終わってしまいます。
それは、「国民とは」という定義も、「国会議員とは」という定義もなく、「国民の責務」も「国会議員の責務」も曖昧だからです。
自分の責務を知らない国会議員が「カネ、カネ、カネ」になるのは、不思議ではありません。人間は、そういう生き物です。私だって「カネ」大好きです。しかし、誰もが「好き放題」をしていたのでは、国は衰退します。衰退する国では、弱者から犠牲になります。元々、国民の多くが、弱者です。弱者とは、封建時代の百姓、今は、大企業にいる人達を除く勤労者と呼ばれる人達で、国民の大多数が該当します。
「ああでもない、こうでもない」と言っている内に時間が経ち、何となく、結論みたいなものが出て、最後に出てくるのは、「なあ、なあ、まあ、まあ」です。
元の木阿弥になるのは目に見えています。
こんなこと、いつまで、やるのですか。
年々、国民生活が豊かになっているのであれば、「なあ、なあ、まあ、まあ」でも構いません。でも、今は、そんな時代ではないと思います。
政治家ではない皆さん、メディアに勤務していない皆さん、利権集団に属していない皆さん、圧倒的大多数の皆さんは、これでいいのですか。
皆さんは、自分を、家族を、守らなくてもいいのですか。
政治資金パーティー事件は、今のシステムから生まれる数ある副作用の1つです。システムを変えない限り、何度でも起きます。

岸田総理は、去年の夏と秋に解散総選挙が出来なかったことで、終わったと思います。
この先、少なくとも、岸田さんが総理では、自民党は選挙ができません。
9月に自民党総裁選挙がありますが、新しい総理大臣になっても、解散総選挙が出来るかどうか、まだ、わかりません。それは、総理大臣の顔をすげ変えて選挙に勝つといういつもの得意技が、次回も有効なのかどうか、今の時点ではわからないからです。ただ、衆議院議員の任期満了は2025年10月ですから、まだ、時間はあります。
どの時点で選挙があっても、次の選挙は波乱含みの選挙になる可能性が出て来ました。
これまでは、デフレ下で「なあ、なあ、まあ、まあ」が有効に作用していたために表面化しませんでしたが、今、国民は、物価高に苦しんでいます。国民生活は苦しくなっているのに、税金や保険料の話題ばかりです。それなのに、自民党では「あぶく銭」が飛び交っているのです。それを見ている国民の皆さんの感覚は、これまでの30年と、同じではありません。投票行動も、これまでと同じというわけにはいかないと思います。
では、衆議院選挙で日本の政治は変わるのでしょうか。
変わらない、と思います。
例え、政権交代が起きても、変わりません。
それは、どの政党も、日本再生プランを持っていないからです。
このまま、国力衰退は、粛々と進行します。
「何か、ヤバそうだよな」という空気はありますが、この国力衰退が日本の最大のテーマだとは思われていません。
日本再生プランがないのは、誰もが、漠然と、「ヤバイ」と思っているだけで、政治家だけではなく、誰一人、国力衰退と本気で向き合っている人がいないためです。
未だに、全員が、口先と小手先で「何とかなる」と思っています。
最悪なのは、国民の皆さんに当事者意識はなく、「俺ではない、誰かが、何とかしてくれ」と思っていることです。自分の生活がかかっているのに、他人事です。
もう、不思議と言うしかありません。
その原因は、やはり、曖昧文化にあると思います。文化は空気と同じで、目には見えませんし、存在そのものを意識することもありません。しかし、文化も空気も、人間の生死を左右する存在なのです。
曖昧文化という土壌の上にいる限り、現状も、未来も、あらゆるものが曖昧模糊としていて、危機感や恐怖感が抑えられてしまいます。「ふむ、ふむ」では行動できません。「なあ、なあ、まあ、まあ」から生まれる「何となく」「何とかなる」は、今でも有効なのでしょうか。そうは、思えません。この事件は、政治家だけの問題ではないと思います。
国家運営を託されている政治家が「自分さえよければ」をやっているだけではなく、国民が、それを黙認していることで、皆で、赤信号に突っ込んで行こうとしているのです。一蓮托生でいいのでしょうか。
「自民党に自浄能力が求められている」と言う方が多くいます。私は、その視点は違うと思います。自浄能力とは、本来あるべき姿が明確な場合に有効になります。政党の責務も国会議員の責務も明確ではない状態で、浄化しても、辿り着く場所がありません。「なんちゃって自浄能力」でしかないのです。
今、求められているのは、国民意識の革命だと思います。国民意識が変われば、政治は自動的に変わります。
もう、この国には「先送り」と「なし崩し」をやっている時間は残されていません。国力衰退は、それほど進んでいるのです。今は、自浄能力や改善や改革などと温いことを言っている状況ではありません。必要なのは、革命です。
それなのに、空気は、「政治改革」になりそうです。いや、又、「政治改革」です。何度やれば、気が済むのでしょう。お手盛りの政治改革に意味はないと思います。
人間社会では「欲」が最強であり、「政治改革」は、何度やっても、元の木阿弥になります。「欲」に立ち向かうことができるのは、オーソライズされた原理原則くらいだと思います。特に、「なあ、なあ、まあ、まあ」の社会で、改革なんて何の役にも立ちません。そのことは、もう、充分、証明されていると思います。
必要なのは、「責務」であり「目的」です。
この国は、自民党のための国ではありません。国民の皆さんの国です。
国民の皆さんは、もう、そろそろ、いい加減、「いい人」を演じるのはやめるべきだと思います。地獄を見るのは、皆さんなんですから。

どうしても、私達の目は、比較的鮮明に見える目先のことに集中してしまいます。
でも、目先の対応に追われていたら、国力衰退のような大きな潮流には対処できません。だから、国力衰退は進んでいるのです。
今の私達に求められているのは、先ず最初に、視点を変えることだと思います。
目先の現象の奥にあるもの、更に、その奥にあるものを視る必要があると思います。
「人間社会には、どうして、国という概念が必要なのか」なんて考える人は少ないと思いますが、今は、行き着く所まで行く必要があると思います。
国力衰退を止めるためには、今ある曖昧模糊とした霧を払う必要があります。霧が晴れ、現実と未来が鮮明に見えるようになれば、私達は人間なんですから、危機感も恐怖感も感じることができます。危機感や恐怖感があれば行動できます。
これまでと同じことをしていたのでは、視点は変わりません。
ですから。
私は、国民の皆さんに、言葉の定義をしてくださいとお願いしています。
いろいろなものを見えなくしているのは、感覚を麻痺させているのは、曖昧という文化です。文化といえば、何か善きもののように思ってしまいますが、今は、文化が負の呪縛になっています。文化のために、私達が生活を失い、地獄を彷徨うのは間違っていると思います。国よりも、「お上」よりも、文化よりも、国民生活のほうが大切だと思います。
曖昧という呪縛から解き放たれるためには、言葉の定義が必要だと思います。
なぜ、国民の皆さんにお願いているのかと言うと、誰かが用意した「あてがい扶持」の定義では、国民の皆さんが責務を果たす動機になりません。自分で苦労して手に入れたものであれば、それを実現しようとする動機が生まれます。ですから、どうしても、国民の皆さんに言葉の定義をしてもらいたいのです。
国の主役は国民ですから、最大の責務は「国民の責務」なのです。国民の皆さんが「俺には関係ねぇ」と言っていたら、責務も目的も意味を持ちません。
それだけではありません。
政治家に言葉の定義を一任すると、政治家に都合の良い定義をするからです。それは、選挙制度や政治資金の法律を見れば一目瞭然です。学者に任せればいいようなものですが、学者にもいろいろな方がいて、いや、学者だって人の子ですから、カネを積まれると転んでしまいます。でも、国民は、数が多く、国民を買収するような大金は用意できません。
だから、国民の皆さんにお願いしているのです。
もちろん、このお願いは、無謀なお願いだと思っています。
でも、他に選択肢がありませんので、お願いするしか方法がありません。
もっとも、この国の衰退の結果を受け入れ、責任を取るのは国民の皆さんですから、皆さんの自由です。
多分、「言葉の定義」とか「責務」とか「目的」なんて言っても、それが国民の皆さんの生活にどう関係するのかを理解するのは、とても難しいと思いますので、実現は難しいのでしょうが、是非、気付いて欲しいと願っています。
もちろん、私が国民の皆さんを説得できるとは思っていません。皆さんが、自ら、気付いてくれる日を待つしかありません。
国力衰退の負の影響が、皆さんの生活を破壊する日は、必ず、やってきます。本気で「何とかしたい」と思う日がやってきます。そんな時に、「言葉の定義」とか「責務」とか「目的」を思い出してくれたら嬉しいです。多分、手遅れだとは思いますが、何もしないよりはいいと思います。それは、国が潰れても、地獄になったとしても、再生しなければならない時が来ます。その時に、役に立てばいいと思います。
ですから、稚拙な説明かもしれませんが、説明し続けるしかないと思っています。
99.99対0.01くらいの比率で、時間切れになる可能性のほうが大きいのですから、無駄な抵抗だとは思いますが、文章が書ける間は続けたいと思っています。

さて、最近、「衰退」という言葉をよく見るようになりました。ビッグデータの解析が可能になっていたとしたら、時系列で「衰退」という言葉の使用頻度が知りたいくらいです。
「いい人」を演じていた、大人の対応をしていた、現実を「見て見ぬふり」をしていた人達が、これを「見て見ぬふり」していたら、まだ漠然としたものですが、「ヤバイ」ことになるのではないかという危機感と恐怖感を少しだけ持ったことが、言葉として表現する行動になっているのだと思います。国民の皆さんは、これまで、漠然と、国力衰退は感じていましたので、特に珍しい現象ではないと思います。国力衰退の材料は、私達の身近にありますので、勇気さえあれば、誰にでも指摘することが可能です。
ただ、ここからが難題です。
国力衰退は、どこかの会社が経営不振になっているというものではなく、その対応は簡単ではありません。もちろん、傾きかけた企業でも、立て直すことは至難の業です。そのまま倒れる企業のほうが、はるかに多いと思います。倒れかけている国を立て直すのは、更に、難しいと思います。口先や小手先で「何とかなる」ものではありません。
どんな視点を持って向き合うかで結果が変わるのではないかと思います。
国力衰退は、国民の皆さん全員の生活を変えてしまいます。
課題が大きいのですから、視野も大きくする必要があります。「日本という国は、何のために、存在しているのか」という視点に立たなければ、国力衰退という大きな課題には対処できないと思うのです。
私が「言葉の定義」を提案しているのは、「文化」に気付いて欲しいと言っているのは、そのためです。

国力衰退という潮流は、個別の課題に対応しても変わりません。
国の方向を変えるのですから、国が全体として変わるしか方法はないと思います。
とても難しい課題ですが、方法が1つだけあります。
国民の皆さんの意識を変えればいいのです。
他の動物と違い、人間には、それが可能なのです。
それ以外に方法はないと思います。


2024-01-05



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悪いのは誰だ [評論]



東京地検は、自民党の政治資金パーティーを事件にしようとしています。ただ、検察は法律の枠内でしか事件にできませんので、法律そのものを事件にしようとすれば、国民がやるしかないと思うのですが、そんな仕組みはありません。新しい国家運営システムを作る時には、この不具合を是正できるシステムを組み込むことをお勧めします。
政治に係わる法律は、政治家に、特に与党に有利になるような法律になっていますので、法律の枠内で事件にしても、大きな変化は望めません。
その上、この国の統治システムは、民主主義風王政並立封建制度ですし、社会は「なあ、なあ、まあ、まあ」で動きますので、多少の軋轢はあったとしても、この国のあり様は何も変わりません。衰退は続きます。
ま、やらないよりは、やったほうがいいのでしょうが、ほとんど意味ないと思います。
それでも、政治資金事件も数ある国力衰退の原因の1つですから、考えてみたいと思います。

何と言っても、この国は「なあ、なあ、まあ、まあ」の国ですから、この程度の事件であれば、「うやむや」の内に忘れてもらえます。それを前提にしているから、岸田総理は、当面、政治資金パーティーは、「ほとぼりが褪めるまで自粛する」と言っているのです。岸田さんは、わかりやすくて、ほんとに、「いい人」なんだと思います。
今回の事件は、立派な贈収賄事件だと思いますが、新聞・テレビ・野党だけではなく与党までも、申し合わせたように「裏金事件」だと言います。
違います。
国家運営の目的は「国民生活を守る」ことであり、ここで言う「国民」とは、文字通り全国民を意味します。特定の誰かの利益を守ることが国家運営ではありません。ですから、特定の誰かを守るためのカネは、賄賂なのです。
政治資金パーティーで、民間からカネを貰う行為は、立派な贈収賄事件ですが、政治資金規正法という法律で政治家が守られているために刑事事件にはなりません。皆さんは、この法律が不正防止のための法律であると思っているかもしれませんが、違います。帳簿に記載すれば事件としては立件しないという法律であり、カネを貰うことを認めている法律です。
見返りのないカネを出す馬鹿はいません。カネを貰った政治家は、献金を続けてもらうために、便宜を図ります。どう見ても、政治資金パーティーの収入は賄賂でしかありません。
仮に、個人の私が、パーティーを開くのでパーティー券を買ってくださいと言って、企業や団体の事務所に行ったと思ってください。企業や団体は、110番します。恐喝か特殊詐欺だと思われます。「いやー、違います。便宜を図ります。帳簿にも記載します」と言っても逮捕されると思います。私には便宜を図る方法がありませんから。
政治資金パーティーの収益がいくらあるのか知りませんが、数十億円、数百億円のカネを手にしても、帳簿に記載すれば合法で、帳簿に記載しなかった些細な金額だけが罪に問われるのが政治資金規正法です。これ、本末転倒だと思います。
これ、誰が作った法律ですか。
作ったのは政治家です。
更に言えば、自民党の政治家です。自民党議員の目的は「国民生活を守る」ことではなく、「政権を維持する」ことですから、何の不思議もありません。
では、政治資金規正法は、自民党だけで作ったのでしょうか。
国会は、何を議論していたのでしょうか。
もちろん、野党の議員も、カネが欲しいのです。
では、国民は、なぜ、黙っているのでしょう。
私達は「下々」ですから、「お上」のやることに文句を言いません。
多数決という免罪符があれば、何でも、できるのです。
これが、民主主義なんでしょうか。
賄賂を認める法律は、中身は違いますが、香港の「国安法」と何が違うのでしょう。
法律さえあれば何をやってもいい、と言うのは中国共産党の考え方と同じです。
私達は、民主主義の定義をしたのでしょうか。
この国に、目的はあるのでしょうか。
政治家への賄賂を合法化すれば、国民生活は守れるのでしょうか。
いいえ。
この国の民主主義は間違っていると思います。
定義も目的も責務もない民主主義は、民主主義ではありません。
野党もメディアも国民も、そのことを指摘しません。
政治家は、「国民生活を守る」ために働いているのではなく、「カネ」を手にするために働いています。もちろん、私達も「カネ」を手にするために働いています。ただ、政治家が手にしているのは数々の「あぶく銭」です。この違いは大きいと思います。

自民党は、既に、新しい集金システムの構築を始めていると思いますが、未だに「お代官様と越後屋」手法に頼っているとすると、また、失敗すると思います。
確かに、カネが手に入らなければ、与党をやっている意味がありません。
与党になり、権力を握ることに奔走する目的は、何でしょう。
ほんの少し、虚栄心はあるでしょうが、清貧に甘んじてでも虚栄心を満足させる、という人はいないと思います。どう転んでも、目的は、カネです。それも、大金です。カネがなければ選挙に勝てません。カネを稼ぐためにはカネが要るのです。
少々の虚栄心であれば一般国民よりは手に入ります。「先生、先生」と言われて、多くの方がヘコヘコしてくれて、無理難題だって受け入れてくれます。勲章だって貰えます。
大多数の人の「欲」が求めるのは、カネと虚栄心です。政治家は、その両方が手に入る美味しい職業になっているということです。では、誰が、政治をそんな職業にしたのかと言えば、私達国民です。では、国民は、なぜ、そんな馬鹿なことをするのでしょう。それは、「目的」と「責務」がないからです。そして、国民が、未だに「下々」のままだからです。
メディアも野党も、自民党を非難します。でも、その自民党の政治家に一票を投じているのは国民の皆さんです。しかし、メディアも野党も、国民を非難しません。そんなことをすれば、自分達が損をするからです。つまり、自民党もメディアも野党も、更に、国民も、同じ穴の狢なんです。中でも、もっとも非があるのは、彼等の「欲」を容認している国民だと思います。全員が狢をやっていられるのは、「なあ、なあ、まあ、まあ」社会だからです。
やはり、自民党、メディア、野党、国民が、狢をやめるためには、「目的」と「責務」が必要なのだと思います。

自民党に学習能力があるようにはみえません。私には、オレオレ詐欺グループのほうが、学習能力も開発力もあるように見えます。
自民党は、本気を出して、高度な集金システムの構築にかからねばなりません。
私が、自民党の関係者であれば、裏金集金システムの研究開発をする新しい部署を作ります。オレオレ詐欺を開発した人は、その後も新しいシステムを作り続け、今や、立派な資金源に育っています。自民党にだって、できないことではありません。もちろん、それなりの費用は必要ですが、それこそ、必要経費です。政治資金パーティーの利益率は90%だと言われています。1000億円を目標とするのであれば、100億円の経費を払っても800億円が利益になります。しかも、彼等には、法律を作る権限があるのですから、利用しない手はありません。
カネを出したいと思っている人は5万といるのです。そういう人達のためにも、安心安全なシステムができれば、ウインウインの関係が築けます。
なんて発想は出てこないのでしょうか。
多分、出てこないのでしょう。
次の手法も、歴史と伝統に従い、「お代官様と越後屋」方式になると思います。
立件されてしまえば、立派な犯罪者になるのですから、もう少し性根を入れて考えるべきだと思います。「あぶく銭」を手に入れるのですから覚悟は必要です。
もっとも、「なあ、なあ、まあ、まあ」で何とかなるのですから、「お代官様と越後屋」方式でもいいのかもしれません。犠牲になる人は「不運」と諦めてもらえばいいのです。最悪の場合でも、5年も服役すれば済みます。
経済犯罪の場合は、決め手になる物証が少なく、本人か関係者の自供が大きな証拠になります。事情聴取の場では、当然、取引が行われます。取引は、まさに、「なあ、なあ、まあ、まあ」で行われます。金額で不起訴、略式起訴、起訴が決まるようですが、その基準だって「なあ、なあ、まあ、まあ」です。
どこの国にも「なあ、なあ、まあ、まあ」はあると思いますが、日本社会は、ほぼ、この「なあ、なあ、まあ、まあ」で動いています。ですから、その副作用も大きくなります。結果、今は、国力衰退という最悪の結果を招いています。
もちろん、杓子定規に正義を振りかざせば、社会はギスギスします。いわゆる。「落としどころ」があるのです。でも、その「落としどころ」は権力者の胸三寸で決まります。権力者にとっては、「なあ、なあ、まあ、まあ」は最高のシステムなのです。
不正を働いた政治家でも、社会から抹殺されるわけではありません。
ほとんどの政治家が難を逃れます。「ラッキー」と思うでしょう。そんな政治家は、二度と不正は働かないと誓うことはありません。次も、やります。
そうやって、私達は2000年という時間を生きてきたのです。
仕方ありません。私達は人間であり、「欲」からは逃れられません。
ただ、残念なのは、政治家が「国民生活を守る」ために本気で働いていないことです。
それは、「目的」が「国民生活を守る」ことではないからです。
粉骨砕身、国民生活を守るために働いているのであれば、国民だって、1億や2億の不正は諦めてくれると思います。
問題は、「目的」がないために「国民生活が守られていない」ことです。政治家と国民が共にウインウインであれば、たとえ、裏金であっても許容できる範囲だと思います。
費用対効果が悪いから、国民に不満が出るのです。
パイの取り合いをするから軋轢が生まれるのです。
人間に「欲」がある限り、国は繁栄を目指すしかありません。それが国民の責務です。国家運営を担うものは、その国民を支えなければなりません。もう、「お上」と「下々」という関係では、前に進めません。これまでのシステムが限界を迎えているから国力が衰退しているのだと思います。
でも、今は、国家運営者は「自分さえよければ」をやり、国民は「俺には関係ねぇ」をやっています。これは、皆が、共通する「目的」を持っていないからだと思います。

カネに目が眩んだ政治家の姿を見ていれば、国民の不満は大きくなります。
それは、政権交代の可能性が大きくなるということです。
ただ、Aが駄目だからと言って、Bを与党にしても、Cを与党にしても、国民生活は変わりません。いや、更なる悪化もあると思います。
国民の皆さんが、ほんとに、自分の生活を守りたいのであれば、AでもBでもCでもない、新しい政治集団を作るしかありません。
勘違いしないでください。新党が出来ればいいという意味ではありません。
AやBやCと同じような「自分さえよければ」のDやEの新党が誕生しても何も変わりません。口先で「国民生活を守る」ことを宣伝することなら誰にでもできます。私達に必要な新党は、国民生活を守るプランを持っている新党です。
減税やバラマキでは、国力衰退を止められません。
もちろん、新しい資本主義でも実現しません。
だとすると、方法は1つしかありません。
国民の皆さんの意識を変えることです。
国は、国民の意識次第で、どのようにでも変われるのです。
皆さんは、じっと、「棚から牡丹餅」が落ちてくるのを待っているのですか。
そもそも、棚なんてありませんし、ましてや、牡丹餅なんてありません。
「棚」も「牡丹餅」も、「誰か、何とかしてくれ」という皆さんの助平根性が見ている幻影です。皆さんの生活を守るのは、皆さんです。政治家や官僚という国家運営に携わる人々は、神様でも聖人君子でもありません。放置すれば、例外なく「自分さえよければ」をやる人達です。目的を持ち、責務を明確にし、システムを構築して、彼等に本来の仕事をやってもらわねばなりません。それが出来るのは、国民だけです。


2024-01-04



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消費税の廃止 [評論]



今日は、昨年の参議院での、れいわ新選組の山本太郎代表のことについて書きます。
「こいつ、馬鹿じゃねーの」と一笑に付すような発言ですが、取り上げることにしました。馬鹿について書きます。

参議院予算委員会での山本太郎議員の質問です。
「国民生活は苦しい」
だから。
「消費税の廃止」
「季節ごとの一律給付」
「社会保険料の減免」
を実現してもらいたい。
そして。
「国民の皆さん、政府は国民を殺しにきてますよ」
「ペンペン草も生えないような将来が待っていますよ」
「みんなでひっくり返しましょう。れいわ新選組がその先頭に立ちます」

質問を受ける側の閣僚は無表情を装っていますが、内心では、「こいつ、馬鹿か」と思っていたでしょう。
さあ、茶番劇の開幕です。
阿吽の呼吸の上に成り立っている馴れ合いの出来レースです。
これが、国会の常識なのでしょうか。
コストをかけて選挙をし、コストをかけて国会議員を雇い、コストをかけて国会を運営していますが、何一つ成果が出ません。全部、無駄金です。
国家を運営する仕事を託された人達が、茶番劇を演じ、「ふむ、ふむ」に終始し、「なあ、なあ、まあ、まあ」で一件落着する。
こんな国が繁栄することはありません。国が衰退するのは必然だと思います。

山本代表の質問が、いかに「馬鹿馬鹿しい」質問なのか、少し見てみます。
国民の生活が苦しくなっていることは、正しい指摘です。
国民負担が重くなっていることも、正しい指摘です。
しかし、国民負担を減らせ、という提案は正しくありません。
なぜなら、実現不可能だからです。
れいわ新撰組は政権与党ではなく、弱小野党ですから、実現する必要はありませんが、弱者の恫喝は見苦しいと思います。
もちろん、物理的には、「消費税の廃止」も「季節ごとの一律給付」も「社会保険料の減免」も不可能ではありませんが、それは、生活が苦しいAさんの犠牲を、生活が苦しいBさんに移すだけで、問題の解決にはなりません。
国防も社会保障も止めれば、消費税減税は可能です。
医療を自由診療にし、介護を全額個人負担にし、年金制度を廃止すれば、社会保険料の減免も可能です。ただ、Aさんは楽になるかもしれませんが、Bさんが死にます。
膨れ上がっている借金を、さらに増やせば、給付金の支給も可能です。
つまり、国家運営を止めれば、いや、公的業務を戸籍等の業務だけにすれば、山本代表の提案は実現できます。
でも、そんなことは実現不能です。
なぜなら、AさんもBさんも国民だからです。Aさんを守って、Bさんを殺す国は、Bさんを守って、Aさんを殺している自民党と同じことをやるだけです。
次に。
国民が地獄に堕ち、多くの犠牲者を出すという指摘も、間違っていません。
ペンペン草も生えないような将来が待っていることも、正しい指摘です。
でも、れいわ新撰組に政権を委ねても、同じ結果になります。
何も解決しません。
山本代表は、ここでも間違っています。
国会は、国民生活を守る責務を果たしていません。
では、れいわ新選組の山本太郎代表は、何をしているのでしょう。
国会で、自分のための選挙活動をしているに過ぎません。短い時間で最大の効果を期待すれば、多少、無茶なことも言わなければならないのでしょう。中継がある予算委員会は絶好の宣伝チャンスです。票が欲しいだけのパフォーマンスなんです。国民の中には、騙される人もいるのでしょうが、それほど日本国民は馬鹿ではありません。
ただ、山本太郎に一票を投じた国民は存在するのですから、全員が馬鹿ではないと言い切れませんが、ほとんどの国民が馬鹿ではありません。
日本国民は、確かに、ヘタレではありますが、無知ではありますが、馬鹿ではありません。
税金や社会保険料を徴収しなくても、これまでの生活が維持できると考える国民は、ほんの少数です。ただ、現に、山本太郎が国会議員になっているのですから、そんなこともわからない馬鹿が存在していることは否定しません。
では、れいわ新撰組に票を入れている方は、ほんとに、馬鹿なのでしょうか。
いや、そんなこと、承知の上なのだと思います。山本代表も、そのことは理解していると思います。
だとすると、結局、馬鹿な国民は存在しないのです。
山本代表は、承知の上で、馬鹿なことをやっているのです。
では、なぜ、馬鹿げた提案をするのでしょう。
現状を変えたい、と思っているのでしょう。「やけくそ」と言ってもいいと思います。それは、袋小路に押し込められ、出口が見えない状態に耐えられないからです。
気持ちはわかります。
袋小路を壊してしまいたいという欲求が生まれるのも頷けます。
でも、そんなことして、国民が喜ぶとは思えません。
ただ、「もう、やけくそだ」と思っている国民もいますので、山本代表の難癖に同調してくれる人は、多くはありませんが、いると思います。その人達の票が欲しいという強い「欲」に目が眩んでいる選挙パフォーマンスに過ぎませんが、その気持ちはわかりますが、それでは何も解決しません。
解決策を持っていない苛立ちが、攻撃的で、馬鹿な提案をしてしまう理由です。
これは、れいわ新撰組だけではありません。
誰も、解決策を持っていないのです。
自民党が主張している、生産性向上をしても、賃上げをしても、新しい資本主義でも、解決策にはなりません。
ですから、れいわ新撰組だけが悪いわけではありません。
「苛立ち」に正面から向き合っているという意味では、きっと、山本代表は「いい人」なんだと思います。もちろん、岸田さんも「いい人」ですから、「いい人」が全ての免罪符になるわけはなく、政治家として望ましい政治家ではありません。
政治家には政治家としての責務がありますが、その事を誰も知りません。
明らかに実現不可能なことに、茶番劇に、時間を使う余裕はありません。
やはり、責務の欠如が諸悪の根源なのだと思います。

れいわ新撰組が政権を取るなんて事態は、起きません。
それは、山本代表にもわかっていると思います。
だから、何でも言える。
そんな人が国家運営の一員なのですから、この国は救われません。
でも、今は、それが認められています。
誰が、何をやっても、何を言っても、構いません。責任を取る必要がありません。
岸田さんや山本さんだけではなく、政治家の皆さんには、「この国には、何が欠けているのか」「なぜ、国力が衰退しているのか」を真剣に考えてもらいたいと思います。
国会では、その議論をしてもらいたいです。

国会の茶番を見ていれば、この国が衰退しているのは、仕方ないと思います。
その原因は、平たく言えば「やる気」がないことだと思います。
「やる気」とは、人間の「意志」です。国家運営を担っている人達にも、国民にも、国力衰退を止めようという「意志」がありません。
「何が何でも、国民生活を守る」という「意志」がありません。
なぜ、「意志」がないのでしょう。
大谷翔平が世界最高のスポーツ選手になったのは、体力と才能だけではないと思います。彼には「勝ちたい」という強い「意志」があったから、世界の大谷翔平になったのだと思います。それは、「世界一」という目的があったからだと思います。
「なあ、なあ、まあ、まあ」では、「目的」を持つことができません。
そして、「目的」がなければ、「意志」は生まれません。
国会議員に富を生み出す力はありません。国会議員は富を浪費するだけです。
では、国会議員は何のために存在しているのでしょう。
富を生み出してくれる国民に「その気」になって貰うために存在しています。
その為には、「お上」と「下々」という意識を根底から変える必要があります。
そして、国としての「目的」を確立することです。
その「目的」を達成するために、誰が何をしなければならないかを明確にすることです。
総理大臣の責務、政治家の責務、官僚の責務、企業経営者の責務、国民の責務を明確にし、国として「目的」を達成する努力をしなければ、国力が衰退し、国民生活は苦しくなり、最終的には、民族そのものが絶滅する環境を作り出してしまいます。
それぞれの立場の人が、それぞれの立場の責務を果たすことで、国は繁栄することができるのです。その国家運営に、どれほど多くの国民が参加してくれるかで、繁栄の度合いは変わります。今は、ほとんどの国民が参加していませんので、国が衰退しているのです。
今、この国に必要なのは、「消費税の廃止」でも「季節ごとの一律給付」でも「社会保険料の減免」でもありません。
必要なのは「目的」の確立と「責務」の明確化です。
「目的」を持ち、それを達成する「意志」を持たねば、国は衰えます。
「俺には関係ねぇ」「自分さえよければ」では、「目的」は達成できません。
山本氏も岸田氏も馬鹿ではありません。考える力を持っています。
ですから、考えて欲しいと思います。
取り敢えず、「選挙」は棚に上げておきましょう。
「そもそも、なぜ、国が存在しているのか」を考えてください。
そうです。
国は、国民生活を守るために存在しているのです。
選挙のために存在しているのではありません。
当たり前のことですが、当たり前過ぎて、忘れているだけだと思います。
歴史を見れば、どんなシステムにも限界はあります。
天皇による支配が限界を迎えて武家による統治システムが生まれました。
武家による支配が限界を迎えて明治維新になりました。
しかし、未だに封建的な手法で、国を統治しようとしています。
もう、封建的手法で国を統治するのは限界なのです。
国民の、国民による、国民のための、システムを構築する時です。
ただ、そこには、大きな壁があります。
明治維新から150年も経過したのに、未だに、封建主義的手法から脱皮できません。
その原因が、文化です。
「なあ、なあ、まあ、まあ」文化を卒業しなければ、新しいシステムは生まれません。
個別の、目先の、政策が不要だとは思いません。
でも、もう、それでは、どうすることもできないほど、この国は弱っています。
今のジリ貧は、この先も続きます。
この国が再生するためには、どうしても、文化を変える必要があります。


2024-01-03



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社会そのものを変える [評論]



昨日は、ユニクロの柳井氏の言葉を引用させてもらいましたが、今日は、サッカー選手だった本田圭佑氏の言葉を引用させてもらいます。

先月、自民党政治資金パーティーの収入に東京地検の捜査が入ったというニュースがありました。ロッキード、リクルート、の次はパーティーなのかもしれません。これも、日本の歴史です。政治改革を「先送り」し、ほとぼりが褪めた頃に「なし崩し」で利権を取り戻し、それが事件になる、という歴史です。歴史は繰り返します。
ただ、騒いでいるのは、新聞・テレビ・野党という、いつものメンバーです。ただ、その目的が、自民党に傷を負わせたいという余りにも姑息で小さなものであるのも、いつも通りです。政治システムを、政界の常識を、温存したままでは、何をやっても変わりません。
過去をズルズルと引き摺り、「なあ、なあ、まあ、まあ」でお茶を濁しているのは、この国に、目的が存在しないからです。目的が存在しませんから、達成する必要がないために、達成するために不可欠となる個々人の責務がありません。皆で仲良く「俺には関係ねぇ」と言っていればいいのです。
一部、左傾の国民の皆さんは反応していますが、大半の国民は醒めた目で見ています。
いや。
「俺には関係ねぇ」
「いつものことだ」
「どうしようもないだろう」
と諦めています。
リクルート事件で、「献金は止めましょう」という空気が生まれ、「でも、政治には、カネがかかる」という訳の分からない、政治家に都合の良い理由で政党助成金という制度が誕生しました。何でも反対の共産党を除き、与党にとっても野党にとっても、願ってもない甘い蜜ですから、法律ができました。
国民の税金で、浄財で、政治家を支えれば、腐敗は無くなるだろう、という性善説に基づいた法律でしたが、政党助成金も献金も頂くという結果になりました。「なあ、なあ、まあ、まあ」の社会では、元の木阿弥、なし崩し、は日常であり、政治家だけがウハウハです。
政党助成金は、既に、既得権益ですから、手放すことはないと思います。政治家は、騒ぎが収まるまで、少し、大人しくしておかねばならないと思っているでしょう。この歴史と文化を変えることが出来るのは国民の皆さんしかいませんが、国民の皆さんは、こんなこと、いつまでやらせておくのでしょう。
沈黙は了解と同じです。
政治家だけではなく、誰だって、おカネが大好きです。
ただ、私達は法律を作る権限はありませんが、政治家は、それが可能です。
国民は法律になってしまうと、何も言いません。「いい人」ばかりですから。
昔、国家権力は法と武力だと書いたことがあります。
その法と武力を使えるのが政治家です。
権力の前では、国民は無力です。
国民の皆さんが諦めてしまうのは仕方ないことなのだと思います。
では。
国民は「お上」の御慈悲に縋るしかないのでしょうか。
お殿様とお代官様と越後屋が、「自分さえよければ」をやっているのに、国民は「ウンともスン」とも言いません。これ、封建制度です。確かに、物理的には「土下座」という風習はなくなりましたが、私達は、精神的には、未だに「土下座」している「下々」です。
何故なのでしょう。
それは、国民が言葉の定義を知らないからです。
何となく民主主義、何となく服従、何となく平和、どれも「何となく」です。
これが「なあ、なあ、まあ、まあ」文化の効果です。これほど統治に適した文化は、宗教を除き、他の民族ではありません。古来より「知らしむべからず、寄らしむべし」と言われている統治システムは、この曖昧文化で実現したのです。
国民は、何も知りませんので、「下々」を返上したいと思っても、子供達のために立ち上がりたいと思っても、根拠が見出せません。「ふむ、ふむ」と頷くだけです。
1億2000万人もの国民がいるのに、そのことに気付く人がいません。
ほんとに、ヘタレな国民だと思います。
「偉そうに。お前が、何とかできるのか」
もちろん、私一人では、どうすることもできません。
でも、国民の皆さんであれば、「何とかできる」のです。
政治家だって人の子です。怖いものは怖いのです。特に、選挙での落選は、滅茶苦茶、怖いです。国民に嫌われたら、美味しい蜜は吸えません。
そう考えると、国民の強みは、投票権にしかないのです。民主国家に限定されますが、国家権力に対抗できるのは投票権だけです。皆さんは、投票権が、使い方によれば、強力な武器になることを知りません。宝の持ち腐れです。
自分が稼いだカネを、「法律だ」「税金だ」「保険料だ」と言われてピンハネされ、政党助成金という名目で政治家の美味しい蜜にしてしまって、「俺には関係ねぇ」「いつものことだ」「どうしようもないだろう」でいいのでしょうか。
税金だけではありません。政治家に献金するのは、その見返りがあるから献金するのです。献金している人は、慈善活動で献金しているわけではありません。一部の人達が自分の利益のために、カネを出して利益を得られる仕組みが、国民の利益になるとは思えません。
これで、いいんですか。
おかしいと思います。
しかし、国民は、「誰かが、何とか、してくれ」と思っています。
どうやら、私達の未来が暗いことに気付き始めた国民ですが、行動を起こすつもりはないようです。これを、ヘタレと呼ぶのです。
国民の皆さんは、悲劇のヒロインなんですか。それとも、マゾなんですか。ただのヘタレなんですか。
真っ暗な私達の未来を、この現実を、変えるのは国民の皆さんしかいないということに、どうか、気付いてください。

サッカー界のビックマウスと呼ばれた本田圭佑氏までが、日本に注文を付けています。
「私は日本人と私たちの未来を信じています。しかし、私たちはできるだけ早く多くのことを変えなければなりません」
「多くの腐敗した制度や無能な老人が権力を握り続けています。それらを変えられなければ、今よりもさらに厳しい状況に直面することになるでしょう」
確かに、「たかが、昔のサッカー選手」かもしれませんが、スポーツ選手にまで、こんなことを言わせるのは、よほど、この国が危険な場所にいるということです。ユニクロの柳井氏と似ている危機感を持っているのは、本田圭佑氏も世界を飛び回っているからだと思います。
いろいろな方が「ヤバイ」と言います。
国民の皆さんも「ヤバイ」と思っています。
でも。
「どうすればいいのか」が、誰にもわかっていません。
柳井氏も本田氏もわかっていません。
「ヤバイ、ヤバイ」と言うだけでは、何も変わりません。
誰か、このドン詰まり状態の日本を変える提案をしていますか。
そんな方は、いません。
何故か、わかりますか。
それは、原因が文化にあるからです。しかも、曖昧文化です。何もかもが曖昧で、確実なものは何一つないのですから、原因が特定できません。原因が文化そのものにあることに気付かなければ、提案のしようがないのです。しかし、その文化の上で考えるのですから、いくら考えても、文化には気付かないのです。
世界を見ている柳井氏や本田氏は、少しだけ、文化の影響力が衰えているために、朧気に危険が見えているのです。でも、朧気では、文化に気付きません。

話題になりませんが、野党は大々的に政治資金パーティーをやっているのでしょうか。
多分、野党がパーティー券を売っても買ってくれる人はいないから、やりたくても出来ないでしょうし、やれたとしても、お付き合い程度の献金では収益は見込めないのだと思います。政治資金パーティーは、パーティー券を買ってくれる人達に見返りがあって成り立つのです。野党には差し出す見返りがありません。仮に、政権交代の可能性が出た政党であれば、先行投資としての献金はあるかもしれませんが、今、そんな政党はありません。献金と利益供与はコインの裏表です。
今は、地検が自民党議員を逮捕することに期待しています。
なぜ、国民運動にしないのでしょう。
それは、規模は自民党ほど大きくはありませんが、自分の首を絞めるからだと思います。自分の小悪を守るためには、大悪を認めるしかありません。
野党も、国民と同じで、ヘタレです。
自民党と自民党を支える利権集団だけが美味しい果実を手に出来るのです。
これは、民主国家ではありません。
でも、国民の皆さんは、自分に責務があるなんてこと知りませんので、「別に、俺、それでも構わないよ」と考えています。「面倒なことに巻き込まないでよ」と思っています。
ですから、この国は、潰れます。
この国を壊すのは、子供達の未来を奪うのは、「欲ボケ政治家」に票を投じている国民の皆さんなんです。
国民の皆さんがヘタレだから、政治家は「欲」に忠実になれるのです。
こんな簡単な事、どうして気付かないのか、不思議でなりません。

本田圭佑氏が指摘しているように、「多くの腐敗した制度」を変える必要があります。でも、このままでは変わりません。何でも、「なあ、なあ、まあ、まあ」で片が付くので、変えようがないのです。
多くの国民の本音は。
「自民党政権では駄目だ」
「しかし、とても、野党には、政権を任せられない」
「だから、自民党しかない」
これが、国民の皆さんの本音だと思います。
まさに、袋小路です。どこにも、逃げ場がありません。
何が問題なのでしょう。
この国では、国民が新しい選択肢を作ったことがありません。
選択肢は、「どこかの、誰か」が用意してくれるものなのです。
これが、日本の歴史と伝統です。
この既成概念を壊さなければ、何も始まりませんが、そのことに気付いている人がいません。だから、袋小路で身動きが取れないのです。
つまり、国民が新しい選択肢を作らなければ、このままだということです。
いくら「ヤバイぞ」と叫んでみても、何も変わりません。
棚から牡丹餅は落ちてきません。

この国では、6人に1人の子供が、「飢え」を体験していると言われます。
100円のおにぎりも買えません。
当然、塾なんて夢のまた夢です。
「子ども食堂」が大繁殖しているのに、私達大人は「見て見ぬふり」です。
皆さんは知らないと思いますが、国民には、全ての子供が飢えることなく成長することに力を注ぐ責務があります。「寄付をしろ」という意味ではありません。大人には、一人の例外もなく、子供達が安心して成長できる社会を作る責務があるのです。「俺には関係ねぇ」と言える国民は1人もいません。
今は、子供達のために寄付をしている人でさえも、ボランティアをしている人でさえも、充分責務を果たしているとは言えません。社会そのものを変えるのが、国民の責務です。
しかし、誰一人、国民の責務を知りません。
ですから、責務を果たすことができないのです。
日本国民は、ほんとに、「いい人」ばかりです。今は、その「いい人」の部分が政治家に利用されていますが、責務を知った「いい人」は、本物の「いい人」になると思います。そして、懸命に子供達の未来を守ろうとするでしょう。そんな国民が、責務を果たそうとしない政治家に票を投じることはないと思います。そうなれば、「欲」の塊でしかない政治家でも、政治家の責務を果たすしかありません。国民が変われば、強欲な政治家であっても変わらざるを得ないのです。国は、国民次第で、どのようにでも変われます。
もちろん、理想通りになることはありませんが、この国は変わると思います。いや、これ以外に変わる方法はないと思います。世界で民主主義が行き詰っています。日本が成功すれば、それが世界基準の民主主義になるかもしれません。


2024-01-02



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日本人に未来はない [評論]



ユニクロと言えば、今や、世界ブランドですが、そのユニクロを運営するファーストリテイリング代表取締役会長兼社長の柳井正氏が米誌「TIME(タイム)」(12月4日号)のインタビュー記事で、日本に警鐘を鳴らしているというニュースがありました。
タイム誌を読んでいませんので、ニュースで紹介された断片的な発言を見てみます。

「目を覚ませ。日本は全然先進国ではない。30年間も休眠状態だったのだから」
「日本経済は、製造業への不健全な執着、労働者が企業の肥大化に条件づけられていること、そして税収ではなく急増する借金で賄われている予算のために崖っぷちにある」
「12月、日本の内閣は税収が4,930億ドルしか見込まれていないにもかかわらず、2023年度一般会計予算として過去最高の8,580億ドルを承認し、同期間に2,500億ドルの新規国債発行を計画している」
「日本の公的債務はすでにGDPの264%に達して世界最高となっている、1990年から2019年にかけて、名目賃金(インフレ調整なし)は米国の145%と比べて4%しか上昇していない。生産性はG7の中で、最下位で低迷している」
「北京や上海では、日本の同じ役職と比べた場合、2倍、3倍の報酬をもらっている」
「日本経済を正常化する必要がある」
「日本の政府と官僚は意識を変えるべきだ。なぜなら彼らは何も知らないからだ」
「日本の最大の欠点は個性がないこと」
「日本人は自立すべき」
「もっと世界に足を踏み入れていき、より積極的にならなければ、日本人に未来はない」

発言内容は間違っていません。中でも、「最大の欠点は個性がないこと」「日本人は自立すべき」「日本人に未来はない」という発言は、客観情勢の分析ではなく、柳井氏の意志が入っています。彼の直感は、日本人にしては珍しく、正しい方向を見ていると思います。
「個性がない」ことを欠点と捉える彼の意識は、一般的な日本人の感覚と少し違います。一般的な日本人は、「横並び」に安心感を持ちます。「出過ぎないこと」「指をさされないこと」「その他大勢の中にいること」が、良き事で、「個性を持たない」ことが大人の対応と敬われていることを、知っています。それが日本人です。「俺が、俺が」は嫌われます。いかに上手に「いい人」を演じることが出来るか。日本人は、そこに苦心します。
それは、2000年という長い時間を使って洗脳されてきたからです。日本人は、「個性を持つこと」が良き事だとは教えられていません。歴代の権力者は、一律に「お上」に従う民を育てるために、個性を持たない民を作ったのです。日本人は、昨日今日、個性を失ったのではありません。ですから、明日から、個性を持つことは不可能です。
「個性を持つ」ためには、文化を変えるしかありませんが、柳井氏は、そのことに気付いていません。いや、柳井氏だけではなく、誰も気付きません。
気付いていれば、責務や目的や文化に言及していたのではないかと思います。
柳井さんの仕事はユニクロを成長させることです。それは、見事にやっています。
これまでは、日本という国を救うことが自分の仕事だとは考えていなかったのだと思います。それでも、多分ですが、73歳という年齢が、「このままでは、まずい」と思わせたのではないでしょうか。自分に対する責任、家族に対する責任、会社に対する責任、社会に対する責任、国に対する責任、全ての人が、多くの責任を背負っています。年齢を重ね、自分の背負っている責任について、ほんの少しだけ、気付いたのかもしれません。彼の本業は会社経営ですから、彼の主張が幼いものであったとしても、仕方がないと思います。彼は、ユニクロをこれほどの会社に育てたのですから、充分、責務は果たしていると思います。
「日本人に未来はない」と言っています。ユニクロは世界企業ですから、日本が沈没しても困ることはないと思いますが、世界的な視野に立っている柳井氏は、多分、日本の凋落をヒシヒシと実感しているのだろうと思います。世界的な立場にいますので、タイム誌の取材に応じたことは不思議ではありませんが、日本の雑誌ではなかったことも、日本衰退の客観的な証拠の1つになります。

では、柳井氏が日本国に注文を付けたことで、何かが変わるのかというと、そんなことは起きません。
全く、何も、変わりません。
政治・経済・経営という分野で責任ある仕事をしている人であれば、後半の三行を除いて、彼の言うことは特別なものではなく、常識みたいなものだと思います。「皆、知っている」ことです。「皆、知っている」けど、何も変わっていません。これが現実です。
誰もが「なあ、なあ、まあ、まあ」の社会では、大人の対応として、口に出さないだけだと思います。そういう意味では、柳井さんは、個人の特性だけではなく、「なあ、なあ、まあ、まあ」の社会と少し距離がある場所に住んでいるのでしょう。ただ、「なあ、なあ、まあ、まあ」の社会で生きている人達の心に刺さることはありません。「個性」だとか「自立」なんて言われても、言葉が通り過ぎていくだけです。
「で。だから。なに」で終わりです。
私が、弱小ブログで叫んでみても、何も変わらないのと同じで、知名度のある方が世界的な雑誌で警鐘を鳴らしても、何の役にも立たない。これが、現実です。
でも、「ヤバイ」のは「ヤバイ」のです。ほんとに、多くの方が「ヤバイ」と思っているのに、どうすることも出来ない。こういう状態を、「救いようがない」状態と言うのだと思います。皆さん、「見て見ぬふり」をするしかありません。袋小路です。
なぜ、私達はこんな袋小路にいるのでしょう。
これが、「なあ、なあ、まあ、まあ」文化の副作用です。
皆に責任があって、誰にも責任が無い状態。これが「なあ、なあ、まあ、まあ」の凄い所です。そのことに、誰も気付いていないのです。いや、薄っすらと気付いている人はいるのかもしれませんが、「どうすれば、いいのか」がわかりません。それは、誰もが、「なあ、なあ、まあ、まあ」という土俵の上に立って考えるからです。
「なあ、なあ、まあ、まあ」には、答がありません。全部、間違っているけど、全部、間違っていないのですから、答はありません。文化の巨大さには、感服するしかありません。日本人は、ものすごい文化を作ったのです。多分、地球上にこれほどの文化は存在しないと思います。
ただ、文化のせいで国が滅びるのは、いかがなものかと思います。
文化という呪縛から逃れることが出来ず、行き着く先が地獄だとすれば、文化を誇るのは、考え物です。

何度も、何度も、耳にタコだと思いますが、誰も指摘しませんが、この国の衰退が止まらないのは、この「なあ、なあ、まあ、まあ」文化にあります。
柳井氏のように、症状を示して「ヤバイ」と言う方もいれば、「よくわかんないけど、何となく、ヤバイ」と思っている方もいます。
しかし、「ヤバイ」の元凶が文化にあることは、誰も知りません。
柳井氏も、衰退の症状は指摘しますが、具体的な解決法は提示しません。「個性を持て」「自立しろ」「積極的になれ」と言われても、国民は、具体的にどうすればいいのかわかりません。国民全員が柳井正であれば、可能なのでしょうが、日本では、柳井氏のほうが変人なのです。
私は、柳井氏の意見は間違っていないと思いますが、国民の皆さんは、「日本人は自立していない」と言われても、意味が分からないと思います。いや、自分達が自立していないことを知りません。
各人が、自分の責務を果たすことが「自立する」ということなのだと思いますが、誰も、自分に責務があるなんて思っていません。柳井氏には、どうすれば、日本人が自立できるのか、その方策を提案して欲しかったと思います。柳井氏本人は、「個性的」で「自立」していて、「積極性」も持っているのでしょうが、「俺にできるのだから、誰でもできるだろう」は通用しません。
日本の喫緊の課題は、多くの方が、指摘し始めた国力衰退です。
国力衰退の現象は多岐にわたり、その各々に原因があります。
それらの原因の原因の1つが、「自立していない日本人」だとすれば、なぜ、「日本人は自立していないのか」の原因があるはずです。
それが、「責務」であり、「目的」なのだと思います。そして、「責務」と「目的」に辿り着けない原因が、「なあ、なあ、まあ、まあ」文化なのです。
原因の、原因の、原因を見つけなければ、「自立」は出来ないと思います。
どうすれば、日本人は「自立」できるのか。
文化を変えるしか方法はないと思います。
「なあ、なあ、まあ、まあ」文化ではなく、「言葉の定義をする」文化に変え、「責務」を明確にし、「目的」を持てば、勝手に「自立」するのだと思います。
「自立」という言葉を選択したと言うことは、柳井さんは、朧気ながら、「責務と目的」が必要だということを直感で知っているからだと思います。
そんな柳井さんでも、文化に辿り着いていません。
著名な学者も有能な経営者も、文化の傍まで行きますが、皆さん、文化には気付きません。ほんとに、不思議なくらい、誰一人気付かないのです。
いつかは、「なあ、なあ、まあ、まあ」文化に気付く人が出てくると思いますが、どうすれば、文化を変えられるのかに気付くまでに、また、時間が必要です。
そんな時間は、もう、残っていないと思います。

柳井氏は、「日本人に未来はない」と言っていますが、今、世論調査で「日本の未来は明るいと思いますか」という質問をしたら、どんな答が返って来るのでしょう。
多分、「日本の未来は暗い」と回答する人のほうが多いと思います。
そして、多分、国民は「自分のせいではない」と思っているのではないでしょうか。
一方、国家運営を担っている人達も「自分のせいではない」と思っている。
この国では、皆が悪いけど、誰も悪くない、で済んでしまうのです。実に、絶妙な落とし所があって、皆さん、胸をなでおろします。漠然と、何の根拠もなく、「自分だけは、悪くない」と信じ切っています。
それは、誰も自分の責務を知らないから、成り立つのです。
全員が「俺は悪くない」と納得し、他者の「俺は悪くない」にも目をつぶり、全員が横並びでも、支障がないのが日本社会です。柳井さんが、日本人は、「個性がない」「自立していない」と言っているのは、そのことに、漠然と気付いているからだと思います。
「見なければ、言わなければ、騒がなければ、無視すれば、何事も無いことにできる」
どうやら、「先送り」が好きなのは、自民党だけではないようです。
政治家も官僚も企業経営者も国民も、「先送り」が大好きなのです。
日本人は、基本的に、争い事が、「波風を立てる」ことが嫌いです。ですから、「ヤバイ」案件は、結論を出すのではなく、「先送り」をするのです。しかし、「先送り」は「先送り」であって、何も問題は解決していません。「先送り」された案件は熟成して、大きく育つだけです。中には、時間が解決してくれる案件もありますが、そうではないものも沢山あります。あらゆることを「先送り」しますので、1つ1つの案件は小さなものであっても、数が集まると、それなりの破壊力を持つことになります。
「なあ、なあ、まあ、まあ」文化は、ほんとに、凄いと思います。
何故、こんな文化が生まれたのか。
それは、日本人が「いい人」ばかりだから、だと思います。
ほんとに、日本人は、底なしの「いい人」なのだと思います。日本以外の国では、こういう文化は生まれなかったと思います。

「ユニクロ」を知らない人は少ないと思います。ここまで「ユニクロ」を育てた柳井氏は有能であり、有名な人です。そんな柳井氏の発言であっても、日本の衰退は微動だにしません。なぜなのでしょう。それは、有名か無名かには関係がないのだと思います。多分、必要なのは「数」だと思います。日本企業の経営者の皆さん全員が、柳井氏と同じ発言をしても、変化しないと思います。「数」という力を持っているのは国民だけです。ですから、数百万人、数千万人の国民が行動しない限り、この国の衰退は止まらないのだと思います。
ところが、皆さんは「俺には関係ねぇ」と言っています。ですから、衰退は進み、もう、これ以上衰退できないという所まで行きます。そこは、地獄と言われている場所です。
ほんとに、どこにも、救いがありません。


2024-01-01



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