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無知な総理と無知な国民 [評論]



このブログでは、「国力衰退」と「日本崩壊」を主なテーマにして書いてきました。
弱小ブログであることと私の提案が常識外れのものであるために、「言葉の定義」は、国民の皆さんに全く伝わりません。何度も、何度も、「もう、やめよう」と思いました。でも、崩壊を防ぐ方法が他にないのですから、書き続けるしかないと思って続けています。自分でも「無駄なことを」と思うことがありますが、他に方法がないのですから、仕方ありません。確かに、「文化を変えましょう」なんて提案を真剣に考えてくれる人なんていないのかもしれませんが、他に方法がありません。
読んでくれた皆さんでも、ヨタ話の類として読んでくれたものと思います。
しかし、最近では、多くの方が「国力衰退」と「日本崩壊」に言及し始め、もはや、ヨタ話では済まない状況が生まれています。
そんな風潮の記事の表題等を、いくつか見て見ましょう。
「国家と無理心中するだけ」
「日本が衰退期であることは否めない」
「90%の日本国民が超貧困層に」
「日本には恐ろしい未来が待っている」
「日本は衰退中の老人国家」
「日本が、衰退途上国にカテゴライズされている」
「衰え続ける日本、根本的問題は」
「衰退日本にトドメを刺す」
「衰退する日本の現状」
「人口減と借金で、30年後に日本終了」
10年前は、こんな表題はいくら探しても見つかりませんでした。
今、このような文章を書いている方に、「ヨタ話を書いている」という意識は、微塵もないと思います。
国力衰退に気付く人が増えたということは、これが、私達の現実なのです。いや、現実は存在していたのですから、どうして、今まで気付かなかったのか、それが不思議です。
まだ、大きな国民世論にまでは育っていませんが、時間の問題で、衰退に気付く人が増え続けていくものと思います。だって、大多数の国民は、薄々とではあっても、そのことを知っているからです。ただ、国民の皆さんは「いい人」ばかりですから、あまり大騒ぎはしません。それでも、意識は大きく変化していくと思います。
それは、六公四民、物価上昇、賃金減少、経済凋落、金融危機、倒産・失業・社会不安、いろいろな負の材料が束になって押し寄せてくるからです。自然災害も無視できません。
いろいろな方が、現状に問題意識を持ってくれたことは、とても、いい事です。
国民の皆さんの不安感も、当然のことだと思います。
でも、今のやり方を続ければ、「日本崩壊」が現実になります。
それは、原因の究明、いや、「原因の、原因の、原因」に誰一人気付いていないからです。
これでは、対処のしようがありません。
皆さんは、日本崩壊の生き証人になるのです。阿鼻叫喚を叫ぶのは皆さんです。
ですから、どうか、一日も早く、自分と自分の家族を守る方法を見つけてください。国家崩壊という巨大な奔流に巻き込まれたら、先ず、助かりません。何かが出来るとすれば、今です。もう手遅れかもしれませんが、騙されたと思って言葉の定義をしてください。

いろいろな方が、いろいろな視点から、衰退の原因を上げています。
国家運営の失敗。
人口減少。
無気力な国民。
どの視点も間違っていません。
でも、それは。原因の1つにすぎません。
なぜ、国家運営は失敗しているのか。そして、なぜ、同時に、人口は減少しているのか。そして、なぜ、同時に、国民は無気力になったのか。全てに共通する原因は何なのか。
個別の原因に対処していても、衰退は止まりません。個々の原因の原因を「原因の原因」と呼ぶならば、その「原因の原因」に対処しなければ、事態は変わりません。
私達は、この「原因の原因」を見つけていないのです。
これは、わたしの個人的な意見に過ぎませんが、原因の原因は、「目的と責務が曖昧」だからだと思います。これは、確かに私の個人的な意見ですが、原因の原因を見つけている人がいないのですから、今のところ、これが唯一の原因の原因なのだと思います。
目的と責務なんて言っても、皆さんには、何のことなのかわからないと思いますが、少し、掘り下げて現実を見れば、わかると思います。政治家だけが、官僚だけが、責務を果たしていないのではありません。国民の皆さんを含む、全ての日本人が責務を果たしていないから、この国は衰退しているのです。
では。
なぜ、この国には目的がなく、責務が明確ではないのでしょう。
それは、言葉の定義をしなかったからです。
では。
なぜ、私達は、言葉の定義をしなかったのでしょう。
それは、私達が、言葉の定義をするという文化を持っていなかったからです。
私達の文化は、曖昧文化と呼ばれています。
曖昧文化の下では、言葉の定義という概念は存在していません。いや、言葉の定義をしないことが、曖昧文化の神髄なのです。
つまり、原因の原因の原因は、文化なんです。
このことに気付いている人が一人もいません。
これでは、対処できません。

この曖昧文化を、下世話な言葉で、わかりやすく言えば、「なあ、なあ」「まあ、まあ」です。あらゆることに境目がありません。
目的であれ、責務であれ、曖昧にすることが、私達の文化なのですから、個々人には明確な責務がありません。結果、誰も責任を取らなくて済むのです。
これは、楽です。
皆で楽をしてきたのです。
「俺には関係ねぇ」と言っても許されてしまいます。
皆で仲良く楽をしていて、国が豊かになるなんてことは起きません。
これでは、潰れないほうが不思議です。
本来、国にも、国民にも、責務があります。「俺には関係ねぇ」と言える人は、一人もいません。私達は、それを「なあ、なあ」「まあ、まあ」で誤魔化してきたのです。

この30年間、日本政府は、何もしなかったわけではありません。いや、「何とかしたい」と数々の政策を実施してきました。でも、国力衰退は粛々と進んでいます。それは、これまでの「やり方」が間違っていたことを証明しています。
もしも、この窮地を脱したいと思うのなら、文化を変えるしか方法はないと思います。
確かに、これまでは、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で何とかなってきましたので、多くの方が、「まあ、いつものように、何とかなるだろう」と思っています。中には「なるようにしかならねえ」「俺には関係ねぇ」と思っている人も大勢いると思います。
実際に、これまでは、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で何とかなってきました。
しかし、実は、「なあ、なあ」「まあ、まあ」は万能ではなかったのです。
この先、その事が、明らかになります。日本の歴史上、初めてかもしれません。
今、「なあ、なあ」「まあ、まあ」が、限界を迎えているのだと思います。

「なあ、なあ」「まあ、まあ」は曖昧文化から生まれました。
確かに、「なあ、なあ」「まあ、まあ」は優れものです。多くの方にとって、心地良いものでもありました。しかし、国が崩壊してしまったのでは元も子もありません。
中には、「なあ、なあ」「まあ、まあ」に問題があるのではないかということに、薄っすらと気付いている人もいます。しかし、この「なあ、なあ」「まあ、まあ」は、特定の場所にあるのではなく、国にも、国民にも、社会にも存在しているのです。いや、この国は、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で出来ていると言っても過言ではありません。それが、文化というものだと思います。特定の誰かが「なあ、なあ」「まあ、まあ」をやめれば済むという話ではありません。

日本衰退の原因の原因の原因は、文化なんです。
曖昧文化の「曖昧」という言葉の対極にあるのが「定義」という概念だと思います。
「曖昧」は意識的に境界線を作らないことで成り立っていて、「定義」は意識的に境界線を作ることで成り立ちます。
一見、「曖昧」のほうが楽に見えますが、その結果が国力衰退です。その先にあるのは崩壊です。地獄に堕ちて七転八倒するくらいなら、責務を果たすほうが楽だと思います。
国民の皆さんは、「このまま、楽をしたいですか」、それとも、「崩壊を回避したいですか」、と問われているのです。
もちろん、楽をして、崩壊を回避したいと思うでしょう。
しかし、残念ですが、そういう選択肢はありません。選択肢は2つしかありません。「曖昧」を選択するか、「定義」を選択するかの、どちらかです。もちろん、3つ目の選択肢があるのであれば、そんな選択肢はないと思いますが、提示してください。

皆さんが、国家崩壊を望まないのであれば、「定義」を選択することをお勧めします。
先ず。
「国とは、何ですか」
「国民とは、何ですか」
「民主主義とは、何ですか」
という言葉の定義をしてください。
言葉の定義をすれば。
国とは、国民生活を守るために作られた人為的なシステムだと言うことに気付くはずです。
今、総理大臣がやっていることは、狭い視野では間違っていません。
確かに、外敵から国民を守ることも必要です。人口減少を防ぐための対策も必要です。
では、そのために、国のシステムを六公四民にすれば、国民生活を守れるのでしょうか。
それは、違います。
六公四民は、それだけで、国民生活を破壊します。
防衛も少子化対策も、国民生活を犠牲にして達成しても意味がないのです。
先ず、国を豊かにし、国民を豊かにし、国民生活を犠牲にしなくても済む範囲で税を集め、それで、国防も、少子化対策もしなければなりません。
こんなこと、当たり前のことです。
では、誰が、この国を豊かにするのですか。
それが出来るのは、国民だけです。
国民には、国を豊かにする責務があるのです。
「俺には関係ねぇ」では済みません。
ところが、誰一人、自分の責務を知りません。
総理大臣も国民も、自分の責務を知らないのですから、責務を果たそうと思うこともありません。
だから、この国は衰退しているのです。
総理も国民も、皆さん、紛れもなく「いい人」なんですが、無知な総理と無知な国民の組み合わせは、最悪の組み合わせだと思います。
私達は、袋小路に追い込まれ、曖昧文化にどっぷりと浸かり、何事も「なあ、なあ」「まあ、まあ」で誤魔化し、「俺には関係ねぇ」と嘯き、皆で仲良く地獄へ堕ちようとしているのです。無知という罪に対する罰としては重いかもしれませんが、仕方ありません。
皆さんは、言葉の定義をするという習慣を持っていませんでした。ただ、それだけのことで、窮地に立っているのです。ほんと、理不尽なことだと思いま。
誰かが、このことに気付いてくれることを期待したいです。

日本人は優秀な民族です。
やれば、出来る子なんです。
奇跡の戦後復興だって、やってのけたのです。
ほんと、もったいないと思います。


2023-06-01



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若者の意識 [評論]



若者(18~25歳)の意識調査をした記事がありました。

「政治について」
政治に興味がない 56.5%
自分が投票しても政治は変わらない 56.9%
政治家に定年制が必要 63.2%
支持する政党がない 61.2%
日本の未来に期待していない 59.0%

「自身の行動や考えについて」
多様性が大事 80.6%
他人に興味がない 63.7%
他人との競争は苦手 71.0%
世の中の役に立ちたい 64.7%
ムダが嫌い 69.7%
周囲から浮かないようにしたい 68.6%
他人に迷惑をかけたくない 81.0%
自分の判断に自信がない 53.0%

「仕事について」
社会に貢献できる仕事がしたい 60.5%
仕事上の競争や優劣に興味がない 65.0%
バリバリ働くよりマイペースがいい 72.7%
スキルアップには挑戦したい 62.5%

このアンケート結果を見た人は何を感じたのでしょう。
私は、若者が現実から逃げたいと思っているように感じました。
能動的でもなく、活動的でもなく、前向きでもなく、明るさもなく、ただただ、自分を守りたいという意識が強いように感じました。
まさに、この国の写し鏡です。
社会に対する、国に対する、自分の未来に対する、諸々の「諦め」が底辺にあるように感じました。しかし、それでも、生きていかなくてはならない。「傷つかないように」「何とか無難に」という意識が、「守りに重点を置く」という姿勢を生み出しているように見えました。
でも、仕方ありません。
国全体として、多くの国民の皆さんも、「守り」に入っています。
そして、この「守り」の姿勢が、国全体の「ジリ貧」に繋がっています。
その渦中にある若者が、「守り」に入っても仕方ないのではないでしょうか。
「自分さえよければ」「なあ、なあ」「まあ、まあ」「俺には関係ねぇ」という大人達の姿勢を見ている若者に、何かを期待するのは難しいのかもしれません。若者が「俺には関係ねぇ」と言っても、それを責めることはできません。
自分の内側に熱を持っている存在、それが若者の特徴の1つです。私のような老人の細胞とは違い、彼等の細胞はエネルギーに満ちています。それなのに、なぜか、若者の心は冷え切っています。
若者も、国力衰退は感じていると思います。
しかし、「ヤバイよ、何とかしなきゃ」という気運は、どこにもありません。
10代、20代の皆さんだけではなく、30代以上の皆さんにも共通するのが、「俺には関係ねぇ」です。大人も若者も、「諦め」という大海に漂う浮遊物になって、嵐の過ぎ去る時を待っているように見えます。しかし、嵐は、ますます、荒れ狂うことになります。それなのに、「俺には関係ねぇ」は、見事に受け継がれています。10年後、彼等は、私達と同じ禄でもない大人になるのです。
私に彼等を責める資格はありません。
私も、何も出来ない、禄でもない、大人の一人ですから。

それでも、現状は何とかしなければなりません。
国力衰退を止めなくてはなりません。
今、この国が壊れ始めていることを否定できる人はいないのではないでしょうか。
今後、更に、壊れます。
最終的には、皆さんが、1人の例外もなく、地獄を見ることになると思います。
これは、国民の皆さんの「俺には関係ねぇ」の結果ですから、このままだと、甘んじて受けるしかありません。残念ですが、後悔は先には立ちません。
個別の総理大臣の名を挙げるまでもなく、総理大臣に出来ることはありません。
この国の、この窮地を救えるのは国民の皆さんしかいないのです。
特に、若者の皆さんの力は不可欠のものです。
そんな若者に、どう伝えたらいいのでしょう。
言葉では伝えられません。私達大人の姿勢だけが若者の意識を変えるのだと思います。
国民の皆さんが、この窮地に気付き、自らを救おうとしなければ、必然的に地獄が来ます。
大変、悲しいことです。
「れば、たら、もしも」で申し訳ありませんが、もしも、私達の目的が「子供達の未来を守る」ことだったら、こんなことにはなっていなかったのではないかと思います。
大変、残念です。

景気は「気」だと言われます。
社会も国も、「気」次第なのだと思います。その「気」と同じ働きをしてくれるのが「目的」だと思います。いや、「目的」が「気」を作るのかもしれません。
もちろん、「気」さえあれば、他に何もいらないという意味ではありません。
最低限、「気」だけは、無くてはならないものなのだと思います。
この国には、今、それが欠けているように思います。
だから、私達の生活も、社会も、国も、まとめて「ジリ貧」になっているのだと思います。
無限の可能性を持っている若者でさえ、「守り」に入っているということは、かすかな光も失われているということだと思います。
では、「気」って何でしょう。
意識だと思います。個人の意識であり、国民全体の意識だと思います。
自分の力で自分を守る、自分の力で自分の家族を守る、自分の力で自分の社会を守る、自分の力で自分の国を守る、という意識なのだと思います。自分で自分を守るためには、自分だけではなく、家族も社会も国も守らなければ、守れません。
原始時代では当たり前だった「自分で自分を守る」という意識は失われ、「誰か」が、「お上」が、守ってくれるのではないかと思ってしまっています。
これ、大きな勘違いです。
原始時代でも、今でも、これからも、「自分で自分を守る」という鉄則は変わりません。
ただ、「守る」という言葉には、2つの意味があります。
前向きに「守る」ことも、後ろ向きに「守る」ことも、「守る」ことです。
今、求められているのは、前向きに「守る」ことです。
以前にも書きましたが、一生懸命働いていても、どれだけ「いい人」を演じていても、私達は潮流の前では無力です。今、国力衰退という悪しき潮流が生まれています。ですから、悪しき潮流を作らないことも、悪しき潮流を止めることも、「守る」ことなのです。これが、前向きに「守る」ということなのだと思います。
「前向きに守るって言われても」
その通りです。
私達は、生活費を稼ぐために、必死で働かなければなりません。他人や社会や国を守ることに費やす時間はありません。
その通りなんですが、潮流という荒波の前では、私達が無力であることも事実です。
生活費を稼ぐことも、潮流も、現実なのです。どちらか片方を守っていればいいということではありません。
「潮流を防ぐと言ったって、私達には何も出来ないと思いますよ」
では、誰が、潮流を防いでくれるのですか。
「そりゃあ、お上の仕事だろ」
では、「お上」は、その仕事をしているのですか。
「・・・・・」
結果的に守れなければ、何にもならないのです。
生活費を稼ぐことも、潮流から身を守ることも必要なのです。
ここで、別の勘違いに気付いて欲しいと思います。
国会議員や官僚は「お上」なのですか。
皆さんは、「下々」なのですか。
違います。
私達は生活費を稼ぐことに忙しいから、潮流を防ぐ仕事を外注しているのです。
皆さんが「お上」だと思っている集団は、私達国民の外注先に過ぎません。
その外注先が、仕事をしないのであれば、仕事をさせなくてはなりません。それが難しいのであれば、外注先を変えなければなりません。これも、国民の責務です。
「政権交代ってこと・・・・ 政権交代では、変わらないだろう」
その通りです。
ですから、私達の生活を守るために、潮流を防いでくれる新しい政治集団を生み出す必要があるのです。これも、私達の責務です。
「そんなこと、無理だろ」
そうでしょうか。
政治家は、私達国民の一票がなければ、国会議員になれません。
今は、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で投票している私達が「こういう人に一票入れますよ」と言えば、彼等は、私達の要求に応えるしか道はありません。
「こういう人」というのは、国会議員の責務を明確にするだけでいいのです。
そのためには、「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義をする必要があります。もちろん、毎日毎日、言葉の定義をする必要はありません。一度、言葉の定義をして、「責務」を明確にし、その検証システムを構築すれば、後は、メンテナンスだけです。
「言葉の定義って言われても、やったことないし」
言葉の定義に専門的理論も専門的知識も必要ありません。
「国って、何」「国は、何のために、あるの」
素朴な疑問を掘り下げていけば、言葉の定義はできます。私のような馬鹿でもできるのですから、心配いりません。
「責務」を明確にすれば、「目的」も見えてきます。
「目的」があれば、若者も前向きになってくれると思います。
そうなれば、日本は再生のスタート地点に立つことができます。
小手先や口先や過去の常識では、スタート地点に立つことさえできません。
文化を変えるしか方法はないのではないでしょうか。


2023-05-05



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自分を守ってください [評論]



このブログでは、これまで、この国の衰退の個々の現象と、その原因について書いてきて、その原因の原因の原因は、「文化」だと書いてきましたが、そのような視点は、未だに、見受けられません。
いつも、「何か、他に、いい方法があるはずだ」と主張する人がいます。でも、そういう方が「いい方法」を提示したことはありません。最終的には、常に、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で終わります。こんなこと、いつまで、続けるのですか。「あちゃー」となって、初めて、気付いても手遅れです。これで、この先、大丈夫なのか、とても心配です。
私は、文化であるとか、潮流であるとか、不安感・閉塞感・焦燥感などと言う、目には見え難いものを、見る必要があると主張してきました。
時代も、その一つです。

今日は、選挙と空気を通じて、時代について考えます。
4月の統一地方選挙の浮き沈みを見てみましょう。
党勢を拡大したのは維新と国民で、後退した政党が2つあります。
自民党は、所帯が大きいことと、いつも、多少の増減はありますので、除外しました。
党勢が後退した政党は、日本共産党と公明党です。
なぜ、でしょう。
時代です。
日本共産党と創価学会は、組織票の雄と言われてきた団体です。
その組織票に翳りが出てきたのです。
古今東西、繁栄し続ける組織・団体はありません。
ですから、いつかは、衰退する運命にあります。
それが、時代の流れです。

1960年代以降、学生運動が盛んな時代がありました。
良し悪しは別にして、若者に熱気が漲っていた時代でした。あの時代、マルクスレーニン主義は、一部の若者のバイブルだったと思います。そんな時代の若者にとって、共産党員になることが、彼等にとってステータスだったのかもしれません。
もちろん、活動家と呼ばれる学生の数は、それほど多くはありませんでしたが、普通の学生(当時はノンポリと呼ばれていました)でも学生運動については知っていましたし、デモに参加しなくても一定の理解はしていたと思います。誰も革命が出来るとは思っていなかったでしょうが、そういう空気感はありました。
そんな時代を生きた若者は、学生運動が下火になっても、革命や革新に一定の理解を持っていたと思います。
しかし、当時の若者が、今、どんどん、鬼籍に入っています。今でもマルクスレーニン主義を信奉している若者は存在していると思いますが、当時の信奉者よりも少ないと思います。いや、かなり、少ないと思います。
日本共産党の力が弱くなるのは、自然なことです。
日本共産党は、「我々は、ブレない」「100年の歴史がある」と自慢します。過去に言及し始めたのです。これは、「我々は、衰えました」と宣言していることになります。ですから、日本共産党の集票力は、この先も、衰えていくと思います。
時代は移るのです。
過去にしがみ付いていると、時代に置き去りにされる運命にあります。

私の感覚ですが、創価学会が飛躍的に信者数を増やした時期は、安保闘争の10年前くらいだったのではないかと思います。強引な勧誘で、しかも、多額の寄進を要求され、周囲の大人の会話を聞いていると「あの人も、被害に遭ったらしい」という内容でしたので、一般市民には、最近問題になった統一協会のような捉え方だったように思います。
飛躍的に勢力を伸ばした創価学会は、社会認知度が高くなるに従い、無茶な勧誘を自粛したようです。今では、平和を愛好する宗教団体というお面を被っていますが、「被害に遭った」多くの人達の不幸を土台にして築き上げた宗教団体だと思っています。
戦後、多くの信者の獲得に成功した創価学会ですが、日本共産党と同じように、信者の高齢化と死亡で、選挙時の集票力を支えてきた信者数が減少しています。
でも、今更、昔のような無茶な信者獲得は出来ません。
時間の経過は、特定の組織・団体が持っていた社会への影響度合いを変え、時代を変えるのです。これは、どんな社会でも同じです。

社会のあり様を変えているものに、「多様性」という空気があります。
これも、時代を反映していて、選挙の時の投票行動にも影響を与えます。
「多様性」は個人の自由を最大化することが目的の一つです。
個人の自由を尊重するということは、組織の縛りが効かなくなるということです。日本共産党と創価学会の場合は、まだ、ある程度、組織の縛りが効いていますが、労働組合の縛りは、ほとんど、効かなくなりました。
これも、時代の流れです。
「多様性」の昨今のトレンドで言えば、LGBT運動も、その一つです。
特に、先進国では「多様性」は尊重される空気があります。
ただ、日本には歴史と伝統に培われた「お上」と「下々」という目に見えない階級制度があり、まだまだ男尊女卑の空気も残っていますので、欧米とは同じようになりません。
それでも、この「多様性」は、日本でも空気になり始めていて、いつの日か、LGBT法案も成立する時が来るものと思います。
ただ、厄介なのは、この「多様性」という時代風潮は、取り扱いを誤ると大きな負の副作用を生み出します。
その副作用とは、「多様性」が「自分さえよければ」に通じているからです。
「別に、それでいいじゃない」と思う人もいるかもしれません。
ほんとに、そうなんでしょうか。
何事にも裏と表があり、それぞれに前提条件があります。完璧なんてことはあり得ませんから、副作用は出るのです。
私達の究極の目的は、自分を守ることです。
自由は大切ですが、優先度は1位ではありません。優先度の1位は生命であり、2位は生活です。自由が確立されても、命や生活を失えば、自由に価値はありません。
先ず、自分の生命と自分の生活を守ることが優先です。
しかし、自分を守るためには、自分の社会を守り、自国の経済を守り、自国の安全を守らなければ、守れないのです。これは、理論ではなく、現実です。
狭義の「自分さえよければ」では、自分を守ることができません。
欧州のように陸続きで国境を接している国々は、経験上、その事を知っていますが、島国の日本の場合は、気付きません。ですから、日本でこの「多様性」を尊重する場合には、充分に気を付けて受け入れないと破滅へつながります。
しかし、時代の流れは、「多様性」に向かっています。
まだ、「多様性」の始まりの時代ですが、日本での「多様性」は投票率の低下にも寄与する性格を持っています。
日本では、「自分さえよければ」や「俺には関係ねぇ」が認められたと勘違いする人がいるからです。「多様性」は、国に対して個人として責任を持ち、社会に対して個人として責任を持たなければ、副作用だけが出てくるのです。
敗戦後、私達の国は、建前だけですが、民主国家になりました。
戦前の軍国主義とは180度の変化です。
多くの日本人が、戸惑ったと思います。
私は、まだ、子供でしたから、その戸惑いの空気は知りません。
大人は、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で、その変化を吸収したのだと思います。
ただ、言葉の定義をしませんでしたから、その中身はわからないまま、「民主主義だ」「選挙権だ」という風潮だけが強かったものと推察します。
しかし、その風潮も、時間と共に薄れ、投票率は下がりました。
それでも、昭和を生きた人達の選挙に対する意識(とりあえず、投票所に行かなくちゃ)は、未だに、あります。
しかし、そう言う人達が高齢者になり、鬼籍に入り、投票行動への意識は、社会全体としては、昭和時代とは違うものになりつつあります。
敗戦後、あの混乱の時代に「言葉の定義」は難しかったと思いますが、10年後でも20年後でもいいので、「民主主義とは」という言葉の定義をしていれば、日本は変わっていたと思います。しかし、ついに、戦後80年経っても、「言葉の定義」はされませんでした。多分、このまま、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で、時間は流れていくものと思います。
政治家は、口先で公約を叫んで国会議員になり、自分の利益確保と支援者への返礼をしておけば、安泰です。そんな政治が続いています。
多くの国民の皆さんは、「これでいい」とは思っていません。
では、政治家が「私が悪うございました」と言うでしょか。
いいえ、言いません。
彼等は、やりたい放題ができる今の状態がベストなのです。
しかし、今のやり方を続けていれば、必ず、破滅を迎えます。
そんなこと、国民の皆さんだって知っています。
国が崩壊して困るのは、国民の皆さんです。
どうか、自分を守ってください。
自分を守るために、社会を守ってください。
社会を守るために、国を守ってください。
それが出来るのは、国民の皆さんしかいないのです。
私は、「投票に行きましょう」と言うつもりはありません。だって、投票所に行っても、投票に値する候補者はいないのです。
皆さんがやらねばならないのは、投票したいと思う候補者を新しく生み出すことです。
特定の組織・団体のためではなく、国民生活を支えるために政治をしたい人がいれば、投票所に行く理由が生まれます。特定の組織・団体に属する人達よりも、国民の数のほうが圧倒的に多いのです。国の責務と国民の責務を確立し、口先ではなく、本気で取り組んでくれる「国民生活を守る党」が誕生すれば、私達の生活は変わります。今は、投票行動が自分の生活に反映していると実感することができません。でも、生活が変わるのであれば、次も、投票所に行こうと思えるのです。
ただし。
「濡れ手に粟」はありません。
「いいとこ取り」もありません。
「助平根性」では、国民生活は守れません。
「俺ではない、どこかの、誰か」はいません。
国民の皆さんが、社会に、国に、個人として責任を持つことで、初めて、皆さんの生活は守られるのです。
でも、今は、あらゆることが「ボンヤリ」としていて、どうしていいのかわかりません。
ですから、先ず、この「ボンヤリ」から抜け出さなければなりません。
「言葉の定義」を推奨しているのは、そのためです。
国民の皆さんが、「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義をして、国の、国民の、責務を明確にし、国としての、国民としての、目的を持てば、新しい政治集団は勝手に生まれます。もちろん、国民の皆さんも責務を果たさねばなりませんが。
このままだと、間違いなく、この国は潰れます。
そんなこと、皆さんだって知っていますよね。
「俺ではない、どこかの、誰か」は存在しません。
バイデンが、習近平が、プーチンが、岸田が、「何とかしてくれる」のですか。
いいえ、皆、自分のことで、手一杯です。
私達の生活を守れるのは、国民の皆さんだけなんです。
私達が財布として岸田に使われるのではなく、私達が岸田を使わねばなりません。なぜなら、政府は「お上」ではなく、主権者である国民の外注先だからです。
しかし、内閣支持率が上昇しています。ほんとに、理解できません。皆さんは、「マゾ」なんですか。六公四民が目前だというのに、国民を痛めつける岸田を「ご主人様」と崇めるのですか。五公五民は、既に「悪政」です。六公四民は「酷政」です。七公三民は「苛政」です。それなのに、国民の皆さんは、どうして、「ふむ、ふむ」なんでしょう。自分で自分の首を絞めて、楽しいですか。


2023-05-04



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不安感と閉塞感と焦燥感 [評論]



4月に、現職の総理大臣を襲撃する事件が起きました。
安倍襲撃事件から1年も経たないこの時期に、同じような、新たな事件が起きたことに、驚きがあります。実害はなかったものの、潮流は健在であることが証明されました。
もちろん、潮流とは、滅びゆく国を静かに押し続けている目には見えない大きな時流のことです。このことに気付いている方が何人いるのか、とても心配です。
まだ、事件の背景はわかっていません。
ただ、日本という国を知らない人が、これらの事件を知れば、毎年、政府要人が狙われるような政情不安の国だと思うかもしれません。
でも、日本に政情不安はありません。逆に、自民党政権の安定度は群を抜いています。
なぜなら、日本には、2000年の歴史と伝統に培われた「お上」と「下々」という盤石の体制があるからです。
そんな国で、なぜ、このような事件が起きているのかは、検証するべきだと思います。
紛争国のような民族紛争はありません。
思想信条による闘争もありません。
武力を行使するような権力闘争もありません。
あるのは、ただただ、個人的な恨みと模倣です。
一体、そこには、何があるのでしょう。
その根底にあるのは、不安感と閉塞感と焦燥感だと思います。
少し、歴史を遡ってみましょう。
テロ事件の最近の例を見てみると。
桜田門外の変が起きたのが1860年で、明治維新が1868年。
226事件が起きたのが1936年で、終戦が1945年。
テロ事件と共に時代は変わっているのです。
私は、当時、生存していませんでしたが、当時の社会は、やはり、不安感と閉塞感と焦燥感が大きかったのではないかと想像します。
最近では、秋葉原事件を始め、いろいろな無差別殺傷事件が流行った時期がありましたが、その根底にあったのも不安感と閉塞感と焦燥感です。
時代が変わる時には、このような事件が起きやすくなる、ということなのだと思います。
それは、社会に不安感と閉塞感と焦燥感が充満し、不安定だからだと思います。
今、皆さんは、何も感じていませんか。
そうじゃありませんよね。
何となく不安ですよね。
何となく窮屈ですよね。
何とかして欲しいと思っていますよね。
時代が変わる時に共通するものが、不安感と閉塞感と焦燥感だとすると、今も、時代が変わろうとしているのかもしれません。

今回の事件について、いろいろな方が、いろいろなことを言い始めていますが、さて、日本社会に満ちている不安感と閉塞感と焦燥感に気付き、その原因を見つけ、対処法を提言できる人が何人いるのでしょう。
余り、いや、ほとんど、期待できないと思います。
対処法として言われるのは、警備の強化くらいしか出てこないのかもしれません。
国民は、安倍元総理が統一教会とズブズブだったことを知ったことで、安倍襲撃事件の犯人に同情が集まり、暴力を容認するような発言があったと言う人もいます。相手がどれほどクズ人間であっても、暴力は容認できないという正論を主張し、言論の自由を制限しろ、と言わんばかりの国会議員もいます。こんなサル共には、時代の空気は見えないのだと思います。目の前の出来事に惑わされず、せめて、国家運営に携わる者は、広くて大きな視点を持って欲しいと思います。
ほんとに、視野の狭さには困ったものです。
個々の事件に囚われずに、時代がどの方向へと動こうとしているのかを知り、悪しき方向へと向かっているなら、そのベクトルを変える努力が求められる時代なのだと思います。
そのためには、今、この国に充満している不安感と閉塞感と焦燥感の存在を知らねばなりません。
これまでもそうであったように、この先も、いや、いつの時代でも、不安感と閉塞感と焦燥感が時代を変えるのではないでしょうか。もしかすると、潮流とは、民の怨念が集まって出来ているのかもしれません。
しかも、私達が向かっている先は、国家崩壊という悪しき未来です。
気付いてくれる人はいるのでしょうか。
誰一人、気付かないとは思いません。
いいえ、この国の将来が「ヤバイ」ことは、漠然とではありますが、ほとんどの方が知っています。それでも、「下々」の人間は、そんなことを口にしてはいけないと思っています。ただ、ただ、じっと我慢することが、自分の役割だと信じています。自分の生活が破綻するというのに、じっと我慢です。ほんとに、歴史と伝統は強力です。
どんな新しい時代であっても、時の経過とともに歪んでいきます。それは、「自分さえよければ」が積み重なっていくからです。これは、どんな社会でもあることです。しかし、それを是正し修正するためには、根拠が必要になります。「なあ、なあ」「まあ、まあ」では、根拠になれません。原理原則になり得る責務の明確化が必要なのです。
ところが、今あるのは、強力な「なあ、なあ」「まあ、まあ」です。
どうして、なんですか。
文化が創り出している空気に、私達は、がんじがらめに縛られているからです。
皆さんは、どうして、この空気を見ようとしないのですか。
総理大臣を筆頭に、市井の老人・子供まで、曖昧という空気の中で「なあ、なあ」「まあ、まあ」「ふむ、ふむ」で自分を誤魔化しているのです。なぜなら、責務を知り、責務を果たすより、はるかに楽だからです。これを、生活の知恵だと言う人もいるでしょう。
そんな社会では、誰も、声を出しません。誰も、村八分になりたいとは思いません。
しかし、表には出しませんが、厳しい現実とは直面しなければなりませんので、怨念だけはあります。それが、不安感と閉塞感と焦燥感を育てるのかもしれません。
もちろん、「お上」だって、不安感と閉塞感と焦燥感が最大の問題だという方向へは動きません。そんなことをすれば、社会不安を認めてしまうことになります。ですから、「お上」は、社会不安をなかったことにします。それが、自分の利益を守ることになるからです。社会不安を「お上」が認めてしまえば、「下々」は「お上」が言っているのであれば、「俺達は、ほんとに、ヤバイんだ」と思ってしまいます。そんな社会になれば、いとも簡単に、社会崩壊が起きます。
ですから、不安感と閉塞感と焦燥感という言葉は、口にチャックをします。
でも、実際の問題は、不安感と閉塞感と焦燥感なのです。

想像は出来ませんが、あり得ない設定ですが、仮に、「お上」も「下々」も、原因が不安感と閉塞感と焦燥感だと認めたとします。
では、その不安感と閉塞感と焦燥感に、どう対処するのですか。
対処法へ辿り着く人は、一人もいないのではないかと思います。それは、誰一人、原因の原因の原因に辿り着く人がいないからです。
ですから、これまでのように、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で一件落着するしか選択肢はありません。「なあ、なあ」「まあ、まあ」が原因の原因の原因なのに、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で対処するのです。まるで、ジョークですが、これが現実です。
国が壊れてしまってから、四の五の言っても何の役にも立ちません。
生活が苦しいと感じている国民の皆さん。
この先に遭遇する生活苦は、次元の違う生活苦です。餓死者が続出するような生活苦なんて想像もしていないかもしれませんが、それが、現実になります。
壊れる前に気付いて欲しいと思います。

ほんとに、文化は巨大です。刃が立ちません。
これまでこの国を支えてきた文化が、この国を潰します。
「そんな馬鹿な」と言う方がほとんどでしょう。
もちろん、未来のことですから、絶対はありません。でも、仮に、万が一であったとしても、潰れた時のダメージが大きすぎます。私達は、他の動物とは違い、想像力という力を持っているのですから、対応策を考えるべきだと思いますが、そうはなっていません。
ですから。
充分な資産をお持ちの方、能力のある方、へは海外移住を強くお勧めします。
そうではない方は、何の役にも立ちませんが、せめて、覚悟をお願いします。
次の日本は、皆さんの想像を超えるほどの悲惨な国になります。

1億2000万人の中には、原因の原因の原因が、確信は持てないけど、もしかすると、「なあ、なあ」「まあ、まあ」に代表される曖昧文化なのではないかと気付いている人は、いると思います。いや、いて欲しいと思います。
しかし、「文化って、なに」「曖昧文化って、なに」と問われると、なぜか、答が曖昧になります。当たり前です。定義をしないことが曖昧文化の本質です。「曖昧」という言葉の対極にある「定義」という言葉に気付く人もいません。だから、その対処法が「言葉の定義」だということに気付く人は、いません。
多分、私、一人だけだと思います。
いやいや、そんなことはないと思います。
ただ、そのことを多くの人に知ってもらい、納得してもらう方法を、私だけではなく、誰も見つけていないのだと思います。
困ったことです。
ほんとに、皆さんに知ってもらう方法が見つかりません。
途方にくれます。
でも、これが現実なのですから、仕方ありません。
地獄へ堕ちることがわかっているのに、指を咥えて見ている事しかできません。
とても、悲しいことです。


2023-05-03



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システムの老朽化 [評論]



4月に統一地方選挙がありました。
マスコミの一部で、課題だと指摘されたのが、無投票選挙区の増加と低投票率です。
ただ、ほとんどの国民の皆さんは、今に始まったことではないので、「俺には関係ねぇ」と思っています。無投票選挙区の増加と低投票率も、右肩下がりのトレンドになっていて、今年も、最低の数値を更新する地区が続出したのは事実です。
でも、これが日本の課題だと考えている人は、ほとんど、いません。マスコミは、適度に、理想を語らねばなりませんので、いつもの対応をしているだけです。
でも、この些細なことに見える現象は、この国に衰退を招いている原因と同根のものであり、国家破綻へと向かっている国に出ている一つの症状です。
その原因は、現行システムの老朽化だと思います。
このまま、古いシステムを使い続ければ、壊れる日を迎えることになります。
これは、地方自治に限定された課題ではなく、統一地方選挙は「一事が万事」の「一事」に過ぎません。
現行システムは、「なあ、なあ」「まあ、まあ」「曖昧統治」という国家を運営するために作られたシステムですが、もう、そのやり方では運営できない時代になったのです。だから、いたる所で機能不全が起きているのです。

無投票選挙区の増加の原因は、過疎化によるものです。
過疎化地区の特徴は、平均年齢の高齢化です。年寄りばかりなのです。
年寄りの価値判断基準は、「邪魔くせー」が、結構、上位にあります。立候補するのも、投票に行くのも、「邪魔くせー」のです。
50歳の若者も立候補しません。小さな自治体の場合は、議員報酬が低く、議員業だけでは食べていけません。例えば、人口1000人未満の自治体の議員報酬は15万円で、議員を専業としている人の割合は10%だと言われています。
無投票選挙区の増加という課題は、仕組みを変えるしかないと思います。2040年までに、自治体の半数が消滅すると言われていますので、今の対応では、まだ、無投票選挙区の増加は続くものと思います。人口減少、国力衰退の国では、止むを得ません。

では、低投票率の課題は、どうでしょう。
システムの変更も必要ですが、これは、システムを変えただけでは、難しいと思います。
民主主義に欠かせないものが選挙です。
少なくとも、51%未満の投票率では、民主主義が機能しているとは思えません。
新聞の購読数やテレビの視聴数の減少に見られるように、これまで社会を支えてきた人が高齢になり、年々、老人が死に、昭和時代の惰性で投票所に行っていた人も減りました。
時代は、日々、年々、変化しているのです。
一方、若者は、自分の生活に政治が生きているという実感を持っていません。「政治。俺には関係ねぇ」と思っている若者が大勢います。
「投票に行きましょう」と宣伝をしても効果はありません。
投票率の低下は、責務を曖昧にしているために生まれた自然現象ですから、宣伝では改善しないと思います。
課題は、投票率だけではありません。
この低投票率を支えているのが組織票なのです。自分の所属する団体の利益になればと意図して投票している人達の助平根性が投票率を支えているのです。もしも、組織票を無効にする方法があれば、投票率は何パーセントになるのでしょう。
そんな選挙構図は、地方選挙の場合、特に顕著です。
組織票は民意ではない、と全面否定することはできませんが、偏った民意であることは否定できません。組織票は「自分さえよければ票」だと言っても過言ではないと思います。
国は、システムを変えませんし、国民は、意識を変えませんので、今の状態が続くものと思います。
ですから、今後は、組織票が地方政治を牛耳ることになり、一部の利益代表による地方自治が一般的になる時代を迎えるのだと思います。いくつかの組織が談合すれば、どんな自治も可能になります。
中には、民主主義の後退だと言う人もいますが、そもそも、日本には民主主義なるものは存在していませんでしたから、その意見は的を外しています。でも、風味は薄まったのかもしれません。日本は、今でも、民主主義風王政並立封建制度です。「下々」は「俺には関係ねぇ」と言えるのですから、このトレンドは、起きるべくして起きているトレンドです。
では、国民の皆さんは、それを「良し」としているのでしょうか。
そうではありません。
皆、一様に、背を低くして、何とか良き風が吹いてくれるのを待っています。
ただ、自分で風を起こすのではなく、どこかの誰かが風を起こしてくれるのを待っています。
そんな環境の中に存在するのは、「不安感」であり「閉塞感」であり「焦燥感」です。
主権者が他力本願なのですから、仕方ありません。
国民の皆さんは、これこそが「下々」の取るべき姿勢だと思っているようです。確かに、楽ですが、楽をしたツケを払うのは、皆さんです。
「下々」に徹することで、豊かで平穏で幸せな生活が実現するのであれば、日本の歴史と伝統は最強の思想になります。
しかし、そうはなりません。
生活が苦しくなり、先々は、もっと苦しい生活が待っていています。
日本の国民の皆さん。
私達のシステムは、どれも、もう、限界なのです。
どうか、その事に気付いてください。
皆さんが気付かなければ、この国は地獄になります。
いや、今でも、地獄を見ている人が増えています。
子供の自殺案件が増えていることも、その一例です。
無投票選挙区の増加と低投票率も「俺には関係ねぇ」と「自分さえよければ」の結果です。これは、あらゆる局面で支配的な考え方です。
当然、国力衰退へもつながっています。
しかし、国力の衰退は、何としても止めなければなりません。
国力の衰退を止められるのは、国民の皆さんしかいないのです。
お偉い政治家の先生方や頭脳明晰な官僚の皆さんが、「ああでもない、こうでもない」と口先で言い続けてきましたが、国力衰退は止まらず、ますます、衰退しています。彼等は、自分で、衰退を止められないことを、現在進行形で、証明してみせているのです。
当たり前のことです。
国を豊かにするのは、国民の仕事だからです。
GDPという言葉は、日本語で言えば、国民総生産です。政治家総生産でも官僚総生産でもありません。国民にしかできないのです。
国民に頑張ってもらうしか方法はありません。
しかし、国民は、国を豊かにするのは「お上」の仕事だと信じ切っています。
なぜ、こんな勘違いが起きるのでしょう。
「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義をすれば一目瞭然なのに、誰も、定義をしてみようとしないからです。
投票率が低くても、「俺には関係ねぇ」で済んでしまいます。
組織票は助平根性が支配しています。彼等にとって、国も、国民も、関係ありません。ただ、ひたすら、自分の利益を追求します。昨日、多くの企業が自社を守るために、人件費削減を選択したと書きましたが、政治でも同じことが起きているのです。「自分さえよければ」が大手を振って闊歩しているのです。自分を守ることは必要です。でも、全体が守れなければ、結果的に自分は守れないのです。非正規労働者を増やし、組織票で政治を歪めている現状を見れば、この国が、国力衰退という病に冒されているのは、自明の理だと思います。
今は、その国力衰退が表面化し、多くの人の目に見えるようになりました。
人間だけではなく、生物の根源的な本能は「種の保存」です。
どうして本能が存在するのかというテーマは、ここでは考えません。
人間も、数十万年もの長い時間、この本能に従ってきました。
これからも、この本能は、存在し続けると思います。
選挙を支配している組織票と呼ばれるものには、宗教団体票、医師会票、農協票等々がありますが、宗教信者だけが、医者だけが、農民だけが生き残っても、人類は生き残れません。これは、自然の摂理に反することです。
私達は、全体として生き残らなければならないのです。「自分さえよければ」「俺には関係ねぇ」は絶滅の思想に過ぎません。
人間は、木の皮や草の根を食べてでも、時には、人肉を食してでも生き延びようとするのです。どんな事態に遭遇しても、私達は、「種の保存」という本能に従ってきたのです。これからも、そうなります。
だったら、木の皮や草の根や人肉を食するのではなく、美味しくて栄養のあるものが食べられる社会を実現するしかないのではないでしょうか。
そんな社会を作り、持続させるためには、あらゆる人が、各々の責務を果たさねば実現しません。もちろん、一人一人の責務は同じではありません。でも、一人一人に責務はあるのです。
しかし、今は、その責務が、何一つ明確になっていないのです。
責務が明確になれば、目的も生まれます。
目的が生まれれば、その目的を達成する動機が生まれます。
今は、国の目的も、国民の目的も、曖昧で、共有されたものが存在しません。私は、勝手に、「子供達の未来を守る」ことを目的にしてみませんか、と推奨しています。
それは、子供達は、必ず、大人になるからです。
昔、子供だった大人が、「子供達の未来を守る」ことを目的とすれば、次世代の子供達が守られます。これは、尽きることなく「子供達の未来を守る」大人が存在することになります。「種の保存」は、「子供達の未来を守る」ことで実現できるのです。

最初に、「一事が万事」と書きました。
その「一事」に過ぎない現行の選挙システムの変更は必要だと思います。
その通りなのですが、選挙制度だけを手直しすれば済む話ではありません。
変えなければならないシステムは山のようにあるのです。
冷蔵庫の中の食品が軒並み賞味期限切れになっていると考えてください。冷蔵庫は役に立っていません。それでも、使い続けるのですか、と問われているのです。
ただ、全く、何もしていないわけでありません。
しかし、追い詰められてシステムを変えていますので、効果が薄く、また、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で変えますので、中途半端な変更しか出来ず、いつまでも、課題は解決しません。それだけではなく、ここまで老朽化が進むと、個々のシステム変更の効果では、課題が改善することは期待できないと思います。私達の国は、小手先や口先でチョロチョロと対応していたのでは効果が得られないほど痛んでいることに気付いて下さい。
必要なのは「考え方」を変えることだと思います。
ただ、言葉にすれば「考え方を変えれば・・・」になりますが、これが至難の業なのです。考え方を変えるためには、私達の基盤にある「曖昧」「なあ、なあ」「まあ、まあ」を変える必要があり、そのためには、文化を変える必要があります。
ただ、そんな発想は、どこにもありません。
ですから、じわじわと、ずるずると、朽ちているのです。
今、私達のシステムは、壊れ続けています。
だから、皆さんは、不安でしようがないのです。
どうか、気付いてください。
このツケを払うのは、国民の皆さんです。
気付いていないと思いますが、今、国民の皆さんは、自業自得という名の道を歩んでいるのです。もちろん、そこに道路標識はありません。道路標識はありませんが、皆さんの直感は、その事を知っています。だから、何となく、不安なのです。


2023-05-02



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吾輩はサルである [評論]



ある老人の繰り言。
昔々、儂等のことをイエローモンキーと呼ぶ不届きな輩がいたと聞く。
儂等は、人間だとばかり思っていたが、近頃、都では、自分達を「サル」と称して自慢する輩がいるそうな。
永田町界隈に住むお偉い先生方が、自分達をサルだと自慢しているのであれば、人間がサルを選ぶとは思えず、儂等「下々」も、きっと、サルなのであろう。
日々、年々、衰退し続ける儂等の生活を見れば、どうやら、間違いなく、この国はサルの国であるようだ。

今日も、国力衰退について書きます。
「非正規労働者の増加」という言葉に報道価値がなくなって、どのくらいの年月が経ったのでしょうか。
急激な増加傾向は収まりましたが、着実に、今でも、増え続けています。日本の労働人口の約4割が非正規労働者になったのですから、もう既に、これが常態になりました。だから、報道価値が失われたのだと思います。
では、実際に、どのくらいの人が非正規労働者なのか、という数値を見てみましょう。
非正規労働者の多い企業ランキングという数値があります。
上位500社の企業名と非正規労働者数が表になっています。
その1位の会社は、スーパーでお馴染みの(株)イオンです。
社員数、42万人。非正規、26万人。正規、16万人です。非正規労働者率は、63%です。女性社員が多い業種ですから、仕方ないのかもしれません。
非正規労働者率が一番高い企業は、95.9%の東京個別指導学院という学習塾です。
500社中、約200社が、非正規労働者率50%を超えています。
500社中、非正規労働者率が10%未満の企業は、27社しかありません。
今の日本社会では、非正規労働者、当たり前、なのです。
問題は、非正規労働者と正社員の間に、賃金格差があることです。この賃金格差が、国力衰退と国民の貧困化を作り続けています。
労働人口全体の非正規労働者率は、38%です。男性の非正規労働者率が23%で、女性の非正規労働者率は、56%です。男性労働者と女性労働者の間にも賃金格差があります。
この数値は、日本の労働環境が、正社員から非正規労働者へ、男性労働者から女性労働者へと、より安い人件費に流れたことを示しています。企業は、自分の会社を守るために、労働者を犠牲にし、国力を衰退させる原動力として動いたのです。
ほとんどの企業が、開発や新規事業ではなく、「いっせいのーでー」と、賃金削減を選択しました。
これは、明らかに、延命策です。
日本経済が衰退しているのは必然的な結果だと思います。
日本経済は、今、延命の途上にありますが、そろそろ、その延命策にも限界が来ていて、将来展望は見通せません。そもそも、延命は、寿命を延ばしているに過ぎませんので、どこかの時点で寿命は尽きます。延命では、病気の治癒はできません。
3月に春闘の記事を書きましたが、春闘は大企業の正社員の賃金が対象ですから、春闘を話題にすることが間違っていると書きました。
今年の春闘では、これまでにない賃上げが行われたという結果になりましたが、物価上昇のほうが優勢で、実質賃金では、下落トレンドにブレーキはかかりませんでした。非正規労働者の賃金を上げた企業もあったようですが、ごく一部です。
多くの非正規労働者は、物価上昇に苦しんでいます。
つまり、国民の約半数は、更に、生活レベルを落とす必要に迫られたのです。
これが、この国の現状です。

その原因は、皆で「守り」に入ったために起きたものです。
その結果、国力衰退が進み、庶民の生活を圧迫しています。
そして、4月に、五公五民の話を書きました。
その中で、近々、六公四民の社会になると書きました。中には「六公四民」を「六公死民」と呼ぶ人もいますが、六公四民では、まだ、国民は餓死しません。
ただ、かなり、苦しい生活を強いられます。
増税と社会保険料増額の話題が盛んになり、現実になる日が近づいていて、六公四民は、最早、夢ではなくなりつつあります。
六公四民では百姓一揆は起きない、と書きましたが、政権交代の可能性はあります。
では、自民党政治が終われば、この国力衰退は止まるのでしょうか。
いや、逆に、政権交代が起きれば、国力衰退は加速されます。
さて、何人の国民が、その事を理解しているのでしょうか。
六公四民で「ヤケクソ」になった国民は、自民党政治に「ノー」と言うかもしれません。それが、自分の首を絞めることに気付きませんので、「あちゃー」という結果になります。
日本国民は、決して、馬鹿ではありません。
でも、この国の国民の皆さんは、絵に描いたような「無知なる国民」なのです。
どうして、既存の政党しか選択肢がないと思い込んでいるのか、不思議ですが、これも、無知の結果です。
これが、歴史と伝統に培われた国民の皆さんの実態です。
曖昧文化の中では、そのことに、全く、気付けません。
自分達が無知であることに気付かないのは、文化によるものですから、容易に気付くことが出来なくても仕方ないのかもしれません。だからと言って、知らないままであれば、皆さんの生活は、この先、更に壊れます。
古来より、「自分で自分を守る」ことの延長線上に、私達の生活はあります。国が機能していないのであれば、それを機能させるのは、国民の皆さんの責務です。
今は、国も、国民も、責務を果たそうとしていません。
なぜなら、国も、国民も、その事を知らないからです。
この先、国民負担率の増加という現実に直面します。当然、国民は不満を溜め込みます。ただ、その不満を解消するためには行動が必要になりますが、無知な国民には、政権交代という行動くらいしか思いつきません。どの政党に政権を託しても現状を変えることが出来ないにも拘わらず、政権交代したら「何とかなる」と思ってしまうのです。
自分で何かを創造するという習慣はなく、与えられた選択肢の中から「まし」なものを選ぶという習性があります。これは、長年、私達が「下々」だったことからくる習性です。
どうぞ、目先の原因に飛びついて、「ヤケクソ」になって、政権交代に突き進んでください。
地獄への階段を1段ずつ降りるという自民党政治を変え、数段ずつ階段を駆け下りる野党連合政権を実現してみてください。その痛みは、多分、現実に遭遇してみなければ理解できないのだと思います。ただ、どっちにしても壊れるのですから、比較すること自体、意味を持ちませんが。
1段ずつか、数段ずつか、の差はありますが、階段を下っていることには変わりません。
どの政党も、国力衰退を止める処方箋を持っていないのですから、どうすることも出来ません。いや、そうではありません。国民の誰一人、処方箋を持っていないのです。

冒頭で老人の繰り言を書きましたが、それは、私達に原因があるように思えます。
国会議員の醜態は、私達の姿を鏡に映したものなのです。よく、「国民にも」責任があるという言い方がされますが、この認識は間違っています。国民がサルであれば、そこから選出される政治家がサルであるのは当然であり、その責任は「国民にしか」ないと思います。
つまり、国民の皆さんが、「無知」という名のサルの集まりなのです。なぜ無知なのでしょう。耳を塞ぎ、目を覆い、口を塞いでいる日光東照宮の三匹のサルが、私達の姿そのものです。そうです。私達は、今も、江戸時代を生きているのです。
だとすると、国民の皆さんが変わるしか、この苦境を脱することはできないのではありませんか。
どうか、そのことに気付いてください。
皆さんは、馬鹿ではありません。ただ、ただ、知らないだけなのです。
国の責務は、国民生活を守ることです。
では、国民生活は、守られていますか。
いいえ、少なくとも、非正規労働者の皆さんは貧困に苦しんでいます。
それだけではありません。
五公五民でも生活は苦しいのに、六公四民へと移行する現実が目前に迫っているのに、それでも、皆さんの生活は、国に守られているという実感を持てますか。
賃金の低い非正規労働者がこれほど増えて、皆さんは、なぜ、黙っているのですか。
皆さんは、国の責務が国民生活を守ることだということを、何となく、漠然と、曖昧なまま、知っていると思っているかもしれません。でも、知っているつもりになっているだけでは、知っていることになりません。皆さんは、行動に移せるほどの明確な責務を知らないのです。これが、無知です。
皆さんの生活が苦しい原因は、国力が衰退しているからです。
その原因の原因は、皆さんが無知だからです。
そして、その原因の原因の原因は、皆さんが曖昧文化の中に安住しているからです。
無知ほど怖いものはありません。

責務は国にあるだけではありませんので、別の責務も見てみます。
電力会社やガス会社を一例として見てみましょう。
今の物価上昇の大きな部分を占めているのが、光熱費の高騰です。個人個人の電気料金やガス代が高くなっているだけではありません。電気やガスを使って物を作っているのですから、私達の食糧や日用品も上昇しています。
しかし、電力会社やガス会社は殿様商売を続けています。
電気料金やガス代が、どんなふうに決まっているか、知っていますか。
あらゆる経費を積算し、利益を上乗せして、販売価格が決まります。
この「あらゆる経費」の「あらゆる」に、電力会社やガス会社の旨味があります。
電力会社やガス会社は、絶対に倒産することはありません。必ず、利益が出る仕組みになっているからです。
電力会社が独禁法に違反して、課徴金として1000億円を徴収されます。
でも、電力会社にとっては、何も問題はありません。それらしい経費を計上すれば、電気料金として消費者から回収できるからです。
公共インフラと呼ばれる事業を運営している企業は、潰れません。
潰れたら、国民が困るからです。
では、公共インフラと呼ばれる事業を運営している企業の責務は、他の一般的な企業と同じ責務しかないのでしょうか。
違うと思います。
電力会社やガス会社は、国民生活を守るために、安価で、安全で、安定した電力やガスを、持続可能なシステムで、供給する責務があると思います。
だとすると、海外の原料に頼るのではなく、人体に危害を与えるような危険なシステムではなく、日本独自のシステムを構築しておく責務があったのではないでしょうか。
公共インフラの「公共」とは、そういう意味があるものと思います。
言葉の定義が曖昧なために、欲が優先し、いいとこ取りをしてきたのが、今の公共インフラなのだと思います。全ての人ではないと思いますが、電力会社やガス会社の社員は、総じて偉そうに振舞います。自分達は選ばれし者なのだという自負があるのかもしれません。「俺様は、〇〇電力の社員様だぞ」という態度の人が多いと聞きます。国会議員の先生様と通じるものがあります。責務も果たしていないのに、どうして勘違いできるのか不思議ですが、これが、日本の歴史と伝統なのだと思います。
国会議員の先生様も、電力会社やガス会社の社員様も、先ず、責務を果たしてください。
もちろん、完璧にとは言いません。
しかし、完璧を目指した努力はあったのでしょうか。
言葉の定義がなく、明確な責務がなく、私達は「なあ、なあ」「まあ、まあ」でやってきたのです。
確かに、「なあ、なあ」「まあ、まあ」は優秀な手法だと思います。
しかし、この「なあ、なあ」「まあ、まあ」にも、限界があったのです。
そのことに気付く必要があります。

公共インフラ企業だけではなく、多くの企業が、いや、そこで働く多くの日本人が、「自分さえよければ」「俺には関係ねぇ」という道を選びました。国としての「目的」がなく、皆が「守り」に徹したことも影響しました。その結果が国力衰退です。
従来の仕組みの延長線上には、日本の豊かな未来はありません。
それが、今、徐々に、形になって出てきているのです。
それが、国力衰退です。
国力衰退を止め、反転させるのは容易なことではありません。でも、それを実現しなければ、私達の未来はありません。
原因の原因の原因を見つけ、それを克服するしか道はないと思います。


2023-05-01



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七公三民



今日は、マイナーな流行語について書きます。ここで言うマイナーというのは、全国的な流行語ではなく、一部で流行している流行語で、内容も「暗い」ものを指します。
最初は、「五公五民」です。
いつだったのか忘れましたが、私も、五公五民のことを書いたことがあります。
国民負担率の数値です。
今回は、財務省が昨年の数値を発表したことで、一部で盛り上がりました。
「一揆だ」という声もありましたが、五公五民では、一揆は起きません。多分、六公四民でも一揆は起きないと思います。ただ、七公三民になれば、起きるかもしれません。
ここで、過去の国民負担率の数値を見ておきます。
1970年    24.3%
1979年    30.2
2013年    40.1
2020年    47.9
2021年    48.1
2022年    47.5
直近の3年間は、50%を目前にして足踏み状態ですが、トレンドを見る限り、50%を超えるのは時間の問題だと思います。
更に。
厄介なことが一つあります。この国民負担率という数値の分母はGDPなんです。
増税が無くても、GDPが減少すれば国民負担率の数値は悪化します。
では、GDPの減少なんて起きないのでしょうか。
とんでもありません。
GDPの減少は避けられません。
人口減少を含む国力衰退は、確実に、GDPを減少させます。
分母の減少(GDPの減少)と分子の増加(税・保険料の増加)のダブルパンチで、どこかの時点で、国民負担率は劇的に悪化することになります。七公三民も夢ではありません。
必要だと言われている目の前ある費用だけを見ても、防衛費、少子化対策費、社会保障費、温暖化対策費、景気対策費、災害対策費、等々の費用は増加します。
大規模な増税が必要です。
そんな日が、いつ来るのかはまだわかりませんが、それほど遠い未来ではないと思います。
岸田総理が「増税は適正で負担可能な範囲にとどめ、同時に今後とも国民の活力を損なわないようにするため、社会課題を成長のエンジンに転換し、持続可能な経済成長を実現することで、国民負担率の分母である国民所得を増やしていきたいと考えます」と言っているのは、寝言に過ぎませんが、間違っていません。当たり前のことですが、岸田さんは、この国の衰退を承知しています。それなのに、「新しい資本主義」などという世迷い事で国民を騙そうとしているのです。
「新しい資本主義」では、「持続可能な経済成長を実現する」ことは出来ません。岸田さんが唱える「成長のエンジン」では、仮に、エンジン全開にしても、経済成長することは無理です。はるかに、桁違いに、国力衰退の潮流のほうが強力だからです。
それだけではありません。
もう一つ、私達の国は、大問題を抱えています。
借金で国家運営をしているという現実です。これは、時限爆弾です。タイマーが何年何月何日に設定されているのかは誰も知りません。でも、どこかで爆発します。
皆さんには、何か希望の光は見えていますか。
見えているなら、是非、教えて欲しいです。
希望的観測ではなく、現実を直視し、素直に将来を予測すれば、国としての崩壊は避けられないと思います。
もちろん、国が崩壊するということは、皆さんの生活が崩壊するということです。
皆さんの生活が崩壊するということは、日々の食事でさえ確保できない日が来るということです。
そうです。大量の餓死者が出る日がやってくるのです。
この予測を否定できる人はいるのでしょうか。
「何とかなるだろう」では、否定できません。
「何とかなるだろう」というコインの裏面には、常に「何ともならない」という言葉があるからです。
皆さんの直感は、この未来を正しく予測しています。
だから、不安なのです。
そろそろ、「いい人」を演じるのはやめたほうがいいと思います。
なぜなら、餓死するのは、あなたかもしれないし、あなたの子供かもしれないし、あなたの孫かもしれないのです。決して、他人事ではありません。

「五公五民」という言葉が盛り上がったように「集団自決」という言葉も盛り上がりました。日本国内だけではなく、世界的に盛り上がりました。
日本という国を存続させるためには、老人の集団自決が必要だと主張したアメリカ在住の学者の発言でした。
海外で盛り上がったのは、「自決」とか「切腹」という異文化に対する興味が主な要因だと思います。
危険な思想だとして非難され、取り下げたようですが、間違っているとは思いません。
私も、随分前に、「国立姥捨て施設」という提案をしたことがあります。
一定の年齢になったら、例外なく、強制的に、姥捨て施設に入居し、安楽死を選択するという法律を作りましょうという提案です。私の提案は「自決」ではありません。自決とか切腹は、物理的な痛みを伴いますので、私の提案では「安楽死」です。
その効果は、社会保障費の大幅削減と老害の排除です。
年金生活者である私のような悲観論者も老害の一人ですから、ほんの少しですが、この国を明るくする効果はあると思います。
もちろん、こんな法律ができることはありません。
自分が老害だとは認識していない人達が立法府を支配しているのですから、彼等が自分の利益を、生命を放棄することはないと思うからです。
でも、この法律が出来れば、日本には、蘇る可能性が生まれます。
他に方法がないのであれば、選択する価値はあると思います。
全ての国民が餓死に直面するよりは、はるかに、価値があるのではないでしょうか。

2つの流行語を取り上げましたが、どちらも、暗く、おぞましい言葉です。
私のブログは「暗い話」を売りにしていますが、そんな馬鹿なブログはこのブログくらいしかありませんでしたが、今は、世間が、平気で、「暗い話」を拡散するようになりました。それは、潮流が大きくなって、影響範囲が広くなったということだと思います。
このような言葉が、一部ではあっても、流行語になるという現実は、認める必要があります。これは、私達の国が、いや、国民が、追い詰められているということです。
では、国家運営を請け負っている人達が、もしも、仮に、奇跡的に、心を入れ替えて、国民の生活を守ることに力を発揮したとして、事態は好転するのでしょうか。
そうは、ならないと思います。
30年前なら、50年前なら、もしかすると、ほんの少しかもしれませんが、その可能性があったかもしれません。しかし、今は、その可能性はゼロです。
多くの方が、未だに、腹の底で、「お上は、何をやっているのだ」と思っています。
政府批判や岸田批判は、大手を振って闊歩しています。
皆さんは、なぜ、こんな無駄なことをするのでしょう。
「お上」がどんなに頑張ってみたって、現状を、国力衰退というトレンドを、変えることが出来ないことくらい、わかっているはずです。それは、もう、何人もの総理大臣が証明してみせました。誰が総理大臣になっても同じです。
皆さんは、「できれば、自分ではない、誰かが、何とかしてくれ」という助平根性が一番楽だからやっているのでしょうが、助平根性では、どうすることもできません。
助平根性で、事態が好転することはないことを、国民の皆さんも知っています。
だから、不安でしょうがないのです。
そろそろ、いや、既に手遅れだとは思いますが、原因の原因の原因に気付く時だと思います。この国の衰退は、国民の皆さんの意識改革、いや、意識革命でしか止めることは出来ないほどの潮流になっています。
どうか、そのことに、気付いて欲しいです。
この国は、歴史と伝統に従い、昔から、「大人の対応」「玉虫色」「なあ、なあ」「まあ、まあ」で運営されてきました。原理原則を表に出せば、衝突が起きます。皆で損を分かち合いましょうという方法であれば、その衝突を回避する可能性が高くなります。それでも、国民生活さえ破綻しなければ、これは利点です。素晴らしい文化だと言えば、そうなのかもしれません。でも、それは「国民生活が破綻しなければ」という条件が成り立たなければなりません。
私は、このままのやり方を続けたら、大量の餓死者を出すことになると警告しています。誰も、今は、聞く耳を持ってくれません。私は、数百万人か数千万人の餓死者が出ると予測していますが、7000万人の餓死者が出ると予測する人もいます。私でも、その予測には同意しませんが、1000万人の餓死者でも、とてつもない被害者が出るのです。国力衰退という現実を放置すれば、この先の日本は、これまでの歴史の延長線上にはありません。新しい歴史が始まるのです。これまでのやり方が通用しないことくらいわかると思います。
そうなる前に、文化を変えるような対応を取らなければ、悲惨な現実に直面します。
この国を崩壊から救えるのは、国民の皆さんしかいません。
皆さんが、その事を知って、行動すれば、崩壊を回避する可能性はあるのです。
ただ、時間の経過とともに、その可能性は減少します。
もう、既に、手遅れかもしれませんが、やらないよりはやったほうがいいです。
奇跡は起きるかもしれません。
国力衰退という潮流は、個別具体的な方策では止めることが出来ないほど巨大な潮流に育ってしまったのです。
今は、文化の革命くらいしか方策がありません。
そのことに気付き、現実を知り、行動を起こせば、奇跡は起きます。奇跡ですから、確実に起きることなんてないと思いますが、奇跡が起きる条件は作れます。
国民の皆さん次第で、この国は変わるのです。
他に方法はありません。


2023-04-05



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瀕死の日本を救う方法 [評論]



「3.11」と言えば。
そうです。2011年3月11日、あの東日本大震災の記念日です。
そして、東京電力福島第一原発の爆発事故の記念日でもあります。
あれから、12年が経ちました。
記念日は、年に一度だけ、あの悲惨な過去を、思い出す日です。
年に一度ですが、思い出さないよりは思い出した方がいいと思います。
津波の映像は、まだ強烈な印象が残っていますが、原発事故は、それ以上に強烈でした。
未だに、避難生活をしている方々がいます。
でも、今、振り返って見ると、私達は山のような幸運に救われたのだと思います。
関東地方から東北地方まで、人が住めない土地になっていた可能性だってあったのです。
当時を思い出して、今でも、私が一番印象に残っているのは、当時の官房長官であった枝野さんの「ただちに・・・」という記者会見です。実際には、放射性物質は漏れまくっていたのに、「ただちに・・・」と言い続けたのです。正真正銘、クソ野郎です。
そして、12年後の今年、電気料金高騰で変化した世論に背中を押されて、岸田政権は原発回帰へと舵を切りました。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という格言通りのことが起きています。
ところが、原発廃止を目標としていた野党が「うん」とも「すん」とも言いません。どの野党も、第2自民党みたいです。これは、政治家が全員、自分の選挙しか考えていなくて、国家観すら持たないクソだからです。こんなクソ共に国の舵取りを任せていれば、私達がクソ壺に落ちるのは必然だと思います。
原子力発電が全否定できないことは理解します。しかし、どれほど重要な国策であっても、「国民生活を守る」ことが最優先です。

原子力発電所で起きる事故の原因は、災害だけではありません。
私達の国の正面には、中国、ロシア、北朝鮮という「ならず者国家」が存在しています。
安全保障環境という点では、その緊張度は右肩上がりに悪化しています。
ミサイルが飛んできても不思議ではない場所に私達は住んでいるのです。
広い海で隔たれていますが、ミサイルは数分で、正確に、着弾します。
政府は、日本の原発は「世界一厳しい安全基準の審査をしています」と言っていますが、何に対する安全なのでしょう。これは、いつものように、中身のない、口先でのゴマカシでしかありません。
その一例を見てみましょう。
政府は、他国からのミサイル攻撃による原発被害についてのシミュレーションをしたにも拘わらず、その内容を発表できていません。シミュレーションをしたことでさえ発表していませんが、もしも、シミュレーションをしていないとすれば、そのことだけで大問題です。「安全である」とも「安全ではない」とも言いません。「そんな問題は存在しない」とも、言いません。これも、曖昧にすることで、責任回避するという、いつものやり方です。
シミュレーションはやっていますし、結果も出ていると思います。でも、発表できません。
なぜ、発表できないのか。
それは、全く、安全ではないからです。
そんな発表をすれば、大騒ぎになり、秩序の維持ができなくなりますから、曖昧にすることが最善の策だと「お上」は考えているのです。
「民は、知らしむべからず、寄らしむべし」という言葉があります。封建時代の統治の基本です。今でも、その方式が生きているのです。ある原発事故被害者の方が「我々には、パニックになる権利もないのか」と言っていたそうです。クソ枝野の「ただちに・・・」も、その一例です。
素人の私が想像しても、原子力発電所は安全ではありません。
原子力発電所の敷地内には、使用済み核燃料棒が、それこそ、山のように保管されています。使用済み核燃料棒であっても、冷却しなければ放射性物質が放出されるのです。プール状の場所に水を満たして、その水を冷却することで核燃料棒の安全を保っています。水が無くなれば冷却出来ません。
もしも、仮に、ミサイルが、使用済み核燃料棒保管プールを破壊したら、核燃料棒は冷却できなくなります。小学生でもわかる、当たり前の話です。金魚鉢が壊れ、水が無くなれば、金魚が死ぬことくらい、誰にでもわかります。
また、制御棟にミサイルが着弾すれば、使用済み核燃料プールの制御が出来なくなるだけではなく、原子炉そのものの制御ができなくなります。
福島原発事故の教訓から、予備電源の備えは厳しくなりましたが、制御棟が破壊されたら、電源も予備電源も役に立ちません。発電所全体が、制御不能になるのです。
これが、政府発表の「世界一厳しい安全基準」なのです。
とても、シミュレーション結果の発表なんて出来ないと思います。
更に、住民避難の体制は出来ていません。
どこまで、放射性物質が飛散するのかはわかりませんが、100キロ圏内に住んでいる住民は、放射性物質が降り注ぐ下にいるのです。
今の官房長官は松野さんです。松野さんは、前例に従って、「中国、ロシア、北朝鮮は、ただちに、攻めてくることはありません」と言うのでしょうか。
現実は、どうでしょう。
ある日、突然、ロシア軍がウクライナに軍事侵攻してきました。
「ただちに・・・」は、1秒後に起きても成り立つのです。
今でも、砲弾、ミサイル、ドローンが撃ち込まれています。ボッコボッコにされた建物が普通の風景のように映像になっています。あれは、明日の原発の制御棟建物の姿です。
今のところ、ロシア軍はウクライナの原子力発電所への攻撃は控えていますが、自棄になったら、ミサイルは飛んでくると思います。
50年前と違い、今は、ミサイル攻撃に耐えられる原子力発電所が必要とされている時代だということなのだと思います。
国の責務は「国民生活を守る」ことです。
その原則さえ知っていれば、そのための行動をしていれば、大丈夫です。

この国は、国民は、その事を知っているのでしょうか。
この国は、国民は、自分を守る行動をしているのでしょうか。

いいえ。
知りません。
行動していません。
だから、国力が衰退し、近い将来、崩壊する運命にあるのです。
国家運営を請け負っているのに、自分達をサルと呼ぶ皆さんは、国会で、何をしているのでしょう。重箱の隅で、枝葉のことで、自民党議員を吊し上げることが、まるで、国家の一大事であるかのような議論がされていて、「ああでもない、こうでもない」と言い合っているだけです。野党は、どうして、「シミュレーション結果を公表しろ」と言わないのでしょう。そんなことを言って、政権交代になってしまったら困るからです。
もちろん、公表しない自民党もクソです。
今の国会は、サルの溜まり場であると同時に、クソの溜まり場なのです。
それを許しているのが、国民の皆さんです。いや、国民の皆さんは、投票所に行き、既存政党に所属するクソ共の名前を書き、クソのような国家運営をさせているのです。結果的に、皆さんは、クソを選んでいることに気付いていますか。
誰に、責任があるのでしょう。
明らかに、主権者である、選挙権を持っている、国民にあると思います。
国民が変わらなければ、永田町のクソはクソのまま、サルはサルのままです。
どうか、そのことに気付いて欲しいと思います。
国民の皆さんの生活は、現に、守られていません。それは、原発事故被害者の皆さんが証明してくれています。次は、皆さんの番です。
どうか、言葉の定義をして、国の、国民の、責務を知ってください。
そして、サルではなく、「国民生活を守る」ための政治家を作ってください。国民のために仕事をしてくれる政治家は、国民が作るのです。
瀕死の日本を救う方法があるとすれば、「言葉の定義」だけだと思います。ただ、その確率は、とても低いと思います。10%程度の確率しかないと思っています。しかし、他に方法がないのであれば、いや、他に方法がありませんので、10%であっても、賭けてみる価値はあると思います。
皆さんの生活が守れないということは、子供達の未来も守れないということです。
どうか、子供達の未来を守ってください。
国民の皆さん、一人一人に、その責務があります。
この大事業は、国民の皆さんにしかできません。

今日は、原発の課題を取り上げましたが、本物の課題は、そこではありません。
仮に、シミュレーション結果を公表し、原発をミサイル攻撃に耐えられる構造にしたとしても、それで、そのことだけで、国民の皆さんの生活が守られるわけではありません。
この国は、国力、エネルギー、食料、安全保障、社会構造等々、余りにも課題が多すぎて、いや、課題ばかりで、個別具体的な対応では対処できない国になっているのです。
「考え方」を変えることでしか、この窮地は克服できないと思います。
「考え方」を変えるということは、「文化」を変えるということです。
大きな痛みは伴いますが、「曖昧文化」を捨て、「定義文化」を作るしか方法はないのではないでしょうか。


2023-04-04



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基礎体力の喪失 [評論]



白票運動というものがあります。
選挙の時、投票所には行くが、立候補者の名前を書かずに、投票用紙をそのまま投票箱へ入れる運動です。この白票は無効票になり、立候補者の当落には関係しません。
その歴史は知りませんが、古くからある運動だと思います。
ただ、白票運動が盛り上がったという過去はありません。
ごく少数の人が、自分の信念で実行していた運動です。
衆議院選挙が今年行われるかどうかはわかりませんが、少しだけ話題になりました。
では、これで白票運動が盛り上がるのでしょうか。
いいえ、99.9% 盛り上がらないと思います。
そもそも、白票運動の着地点は、どこにあるのでしょう。
それが、何も見えていません。
あるとすれば、政治の自浄能力ですが、そんなもの、そもそも、存在していません。
有権者の皆さんが白票を投じても、何も、変わりません。
ですから、これまでも、盛り上がることはなかったのです。
私も、随分前に、白票を有効にする選挙制度改革案を提案したことがあります。当時は、まだ、「言葉の定義」に気付いていませんでしたので、自分がお気楽な提案をしていることに気付いていませんでした。
白票を有効にするためには、選挙制度の変更が必要です。しかも、私の提案では、議員定数を固定制から変動制にする必要があります。議員の数が減るのです。これ、全部、国会議員が法律を作らなければなりません。自分が不利になる法律を国会議員が作ることはありませんので、絵に描いた餅です。
言葉だけでは、いや、白票を投じただけでは、何も変わらないのです。
これまで、私も、白票を推奨し、選挙制度改定案も提案してきましたので、大きな顔はできませんが、白票運動では、この国の政治は変わりません。反省しています。
しかし、今、この国は断崖絶壁の上に立っていますので、政治も変えなければならない時代に入っています。もちろん、政治だけではなく、あらゆるものを変える必要があります。中でも、一番重要なのが、国民意識です。国民意識を変えれば、白票運動の必要性もなくなるかもしれません。
この国の現状を見る限り、誰かが、何かを、変えなくてはならないのは、多くの皆さんの共通認識だと思います。「今のままでいい」なんて思っている人はいないと思います。
では、現実問題として、「誰が」、「何を」、「どう」変えるのですか。

先ず、「誰が」って、誰ですか。
皆さんが「自分ではない、誰かが」と思っていたら、「誰か」は、この世に存在していないことになります。
だとすると、皆さんが、今の状況を変えるしかないと思いませんか。
なぜなら、結果的に貧乏くじを引くことが約束されているのは、国民の皆さんだからです。
でも、国民の皆さんは、そんなこと、考えてもいません。
「めんどくせぇ」
「俺には関係ねぇ」
「俺ではない、誰かが、やってくれ。甘い汁だけは吸わしてもらう」
「なんで、俺がそんなことしなきゃならないんだ。お上の仕事だろ」
でも、国民の皆さんが、今の日本の惨状を自分事だと捉え、行動を起こせば、この国は変わります。いや、それ以外の方法では変わらないと思います。
国民の皆さんが、そう考えれば、行動を起こせば、総理大臣は「俺には関係ねぇ」とは言えません。そんなこと言えば、政権を維持できませんし、総理大臣どころか議員の資格すら失うことになります。
国力衰退という潮流が、ひたひたと、身近に迫っていることを肌身で感じている皆さんが、自分を守るために、行動するしかないと思います。
不安感と焦燥感と閉塞感だけは、たっぷりとある社会なんて、誰も望んでいないと思います。数百万人の餓死者を出す国になりたいと思う国民はいないと思います。
しかし、現状を放置すれば、そんな国になります。
「誰が」とは、皆さんのことです。

次に、「何を」、変えるのかが認識されていません。
漠然とした「何を」では、変えたくても変えることができません。
勘違いしている方は、大勢います。
政権が交代すれば。
新しい資本主義を成功させれば。
デジタル革命をすれば。
生産性を上げれば。
これ、全部、勘違いです。
それで、この国が変わるのであれば、アベノミクスでも変わっていたはずです。
この国の現状は、手練手管で何とかなるようなものではありません。
ですから、国力衰退というトレンドは止まっていないのです。
まだ、誰も気付いていませんが、変えなければならないのは、「何を」の「何」は、「考え方」であり、その基盤である「文化」です。
国民の皆さんが、「文化」を変えることでしか、この国は救われません。

では、「どう」変えればいいのでしょう。
政治が機能していないことは、多くの方が実感しています。
それは、政治を機能させる政治家が存在していないからなのでしょうか。
いいえ、この人に託せば、日本は変わる、なんて人物は一人もいません。
クソみたいな政治家しかいません。
しかし、救世主になるような人物の登場を待っていても、そんな夢は実現しません。
それは、個人的な能力で、どうにかできる状況ではないということです。
国の仕組みを変えて、個人の力量に頼らないシステムを構築する必要があるということです。
何か、方法は、私達国民にできる方法はないのでしょうか。
現行のシステムでは、国民は無力です。国民には立法権がありません。ですから、選挙制度1つ変えることもできません。ましてや、国家運営システムを変えることなど、国民には出来ません。では、国民が立法権を持てば、変わるのでしょうか。いいえ、国民には、そんな暇がありません。国家運営を担っている人達が変わるしかありません。もちろん、自浄能力の話ではありません。必要なのは、原則です。この国には、原則がありません。あるのは、曖昧だけです。為政者は何をやってもいいのです。そういう意味では、中国共産党に支配されている中国よりも劣る国だと思います。
そう考えると、一つだけ、私達国民に出来ることがあります。
それが、「言葉の定義」です。
国民に法律を作ることはできませんが、「言葉の定義」をするのは自由です。「言葉の定義」をしたら、懲役10年に処す、という法律はありません。
今の国会議員は、全員がクソです。
「国とは、国家運営とは、国会議員とは、選挙とは」という言葉の定義をすれば、クソの居場所はなくなります。
言葉の定義をすれば、責務が明確になります。
責務を果たさなければ、次の選挙で落選します。
もちろん、言葉の定義をし、責務を明確にし、目的を持てば、夢のような国が実現するなんてことにはならないと思います。しかし、今の苦境は乗り越えられるかもしれません。他に方法がないのであれば、やるしかないと思います。
皆さんは「自分ではない、誰かが、何とかしてくれ」と思っています。
でも、同時に、薄々とではありますが、それが実現することはない事も知っています。
だから、皆さん、不安なのです。
「明日が、不安ですか」
「5年後は、どうですか」
「10年後は、どうですか」
「何の不安もない」と答えられる人が何人いるのでしょう。
想像でしかありませんが、1%はいないのではないでしょうか。
しかし、皆さんは、放置しています。
もしも、国民の責務が明確になっていたら、皆さんは、自分の責務を果たしていないことになります。でも、そのことも、漠然と、心のどこかで知っています。
現状は、消極的な選択ではありますが、皆さんは、自分がドツボにはまることを知っていて、知らんぷりをしているだけだと思います。
「仕方ないじゃん」
でも、ドツボはキツイですよ。泣き言は言いませんか。
「もちろん、言うさ。けど、俺のせいなの」
そうなんです。
「そんなの、おかしいよ。俺、何も悪いことしてないよ」
悪いことをしていようと、いい人を演じていようと、見境なく、ドツボにはまる時は、全員がはまります。それが潮流の凄さです。

今日は、白票運動という提案について書きました。これまでも、いろいろな方の提案について書きましたが、どれも、国の基本となる「国民の生活を守る」という目的を実現することはできていません。
いや、数多くの提案はありますが、国民生活は日々劣化しています。
では、提案が実行されたら、劣化は止まるのでしょうか。
いいえ、止まりません。
もちろん、提案が実現されていれば、劣化のスピードは弱まりますが、劣化そのものは止まりません。
提案が実現されていないだけではなく、提案そのものに、劣化を止める力がないのです。
提案がクソだと言っているのではありません。
劣化が始まっていない状態で、今ある提案を実現すれば、それは、少しだけ良き結果を生むことになると思います。
しかし、一度、劣化が始まってしまうと、どうすることもできません。
潮流というものは、それほど強いものなのだと思います。
この国の劣化を憂いている人達が、「何とかしたい」と思って提案してくれていますが、千の提案を持ち寄っても、万の提案を持ち寄っても、劣化は止まりません。提案の良し悪しの問題ではなく、個別具体的な提案では、潮流は止まらないのです。
それは、基礎体力が失われて青息吐息になっている人に、風邪薬を与えても、湿布薬を貼っても、治らないことと同じです。食生活を変え、生活リズムを変え、地道に体力の増強を図らなければ基礎体力は戻りません。
生活を変えるためには、思考を変える必要があります。
私達の思考は、その多くが文化の上で成り立っています。
だとすると、文化を変えることから始める必要があります。
それが「言葉の定義」です。
これは、大事業です。この国の歴史の大革命だと思います。
簡単なことではありません。
しかし、革命を成功させなければ、劣化トレンドの先にあるのは破滅なのですから、革命を成功させるしか選択肢はないのです。


2023-04-03



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騙しの手口



最初に、マイナンバーカードに関する、あるツイートの内容を転記します。
確認を取っていませんので、内容が正しいのかどうかはわかりません。

ドイツ      違憲判決の結果 マイナ法案は廃案。
フランス     国民の反対が強く、導入できず。
イギリス     運用後1年で廃止。
オーストラリア  国民の猛反発で廃案。
アメリカ     強制ではなく任意だが、情報漏洩が問題になり、不評。

先進国で不評のマイナンバー制度ですが、日本政府は、必死になって、形振り構わず、目的も曖昧にしたまま、導入しようとしています。
不思議ですよね。
「不思議だな」と思うことには、必ず、裏があります。
しかし、まだ、この裏に言及する人はいません。マイナンバー制度にも、きっと、止むに止められない、日本特有の理由が、必ず、あるものと思います。
唐突に、従来の健康保険証を廃止し、マイナカードを有資格者である証明書として使う、という政府方針が出され、マイナカードを取得する人が大幅に増えました。
ほんとに、「いい人」ばかりで、「お上」から見れば、素晴らしい国民です。

ここで、素朴な疑問です。
なぜ、マイナンバー制度が必要なのか。
デジタル化ですか。
違います。
デジタル化が叫ばれるようになったのは、最近です。マイナンバー制度は、普及しませんでしたが、以前から存在していました。
戸籍簿、住民台帳がありますから、誰が、どこに、住んでいるのかは把握されています。
デジタル化が必要なのであれば、既に個人の番号は作られていますので、その個人番号でデジタル化をすればいいと思うのですが、そうしないのは、違う目的があるからです。
ですから、デジタル化は、マイナンバー制度の目的ではなさそうです。
健康保険証のデジタル化も、運転免許証のデジタル化も、身分証明書のデジタル化も、主たる目的ではないように思います。
そもそも、マイナンバーカードを持つ国民の利益は、どこにあるのでしょう。
それが全く見えませんでした。国民の直感は「なんか、ヤバそう」というものでしたから、普及しなかったのです。いつも、国民の直感は正しいのです。
そこで、強制的に、マイナンバーカードに健康保険証機能を持たせ、医療機関には設備を用意させたことで、国民は、渋々と、取得するようになりました。
多くの国民が納得していませんが、「お上」のお達しですから、仕方ありません。
欧米では、国民の反対で頓挫しましたが、日本人は「お上」のお達しには従います。
それでも、多くの国民が、本音では納得していません。
それは、マイナンバー制度の、真の目的がわからないからです。
本音では、まだ、「ヤバそう」だと思っていますが、我慢するのが「下々」です。
ここでも、「歴史と伝統」や「曖昧」が大きな役割を演じています。

そこで、今日は、マイナンバー制度導入の、真の目的を考えてみたいと思います。
これは、私の独断と偏見によるヨタ話ですから、信用していただく必要はありません。
ただ、ヨタ話のままで終わるかどうかは、わかりません。もっとも、ヨタ話では終わらなかったとしても、その時は、社会は大きく混乱していますので、振り返って見ても何の役にも立たないと思います。
結論を先に書きますが、マイナンバー制度の目的は、資産税の新設です。
それを実現するためには、相応のシステムが必要です。
システムには、道具が必要であり、それが、このマイナンバー制度です。
現状では、国は、個人個人の資産を把握できていません。
資産が把握できていなければ、資産税の課税はできません。個々の課税金額も決められず、納付書の送り先もわかりませんので、この新税は実現しません。
銀行に課税し、銀行から徴税すればいいようなものですが、そんな無茶はできません。国民が自分の資産防衛のために預金を引き出せば、いや、必ず、そうなります。それは、現行の金融システムの破壊になり、全銀行が存続不能になります。
国民に、自ら、資産明細を国に申告してもらうしかありません。
では、国民は、積極的に申告してくれるのでしょうか。
あり得ません。
だから、仕掛けが必要なのです。
国民が資産の申告をするための仕掛けはまだ見えていませんが、国家権力があれば難しいことではないと思います。
ここで、強引に、シナリオ(騙しの手口)を作ってみます。
今は、国からの給付金の口座を申請することになっていますが、これは、自分の預金口座を国に申請するという行動に慣れてもらう、誘い水であり、資産税課税の第一歩になるものだと思います。
国家権力とは、法と武力ですが、法さえあれば、ほとんどのことが可能です。
皆さんが申請した預金口座の残高を、国が把握しても良いという法律を作れば、少なくとも1つの口座は確定できます。
仮に、国が把握した預金に対して、3%の資産税を課すという法律を作れば、合法的に徴税をすることが可能になります。同時に、一日に引き出せる預金を制限する法律を作れば、国民は、自分の預金を引き出せません。
その上で、別の預金口座の自己申告を促し、申告しなかった預金からは10%の資産税を徴収するという法律を作れば、国民は申告することになります。法律は必要ですが、法律は国民が作るわけではありません。
それでも、申告されない預金はあると思いますが、その申告されていない預金は、実体のない架空預金だと認定し、没収するという法律を作れば、国民の預金は、漏れなく課税対象になると思います。
次は、資産税の税率を上げていけば、国民資産が存在する間は、無尽蔵に税収を増やすことが可能です。
本来は、日本の借金をチャラにするために使われる税金が資産税ですが、いや、巨額の借金を返すことが出来る資金は、国民資産しかありませんので、日本国債のデフォルトが見えてきた時に新設される税金ですが、借金の返済に充てられるかどうかはわかりません。これまでのように、新しい収入が見込まれると、蟻が集まります。
結果的に、国民資産が消失し、借金は残り、デフォルトして、一件落着という結果もあり得ると思います。
私は、金融や税制の専門家ではありませんので、無茶な方法を書きました。
もっと、騒ぎにならないような妙案はあるものと思います。
ただ、結果は同じです。
国民資産が消失し、借金が残り、国はデフォルトするのです。
もっとも、資産税の新設がなかったとしても、国の破綻は避けられませんので、どちらに転んでも、皆さんの資産は消失することが決まっています。ですから、これは、資産税の問題ではないのでしょう。
国力衰退の潮流は、多くの方にも見えるようになってきました。
このトレンドは、更に、加速して、最終的には国家破綻という最終地点に到達すると思います。資産税は、最後の足掻きに過ぎません。

では、どうすればいいのでしょう。
以前にも書きましたが、自分の資産を守る方法は、1つだけだと思います。
海外移住です。
もっとも、守るほどの資産のない人や私のような高齢者には、その選択肢もありません。高齢者には、海外へ移住しても、生活費を得る手段がありませんので、この国と心中するしかありません。
私は、農業従事者ではありませんので、割と早い時期に餓死に直面することになります。
私と同じ境遇にいる方は多いと思いますので、2000万人から3000万人の老人は、同じ運命を辿ることになります。
実際に餓死する老人が何人くらいいるのかは不明ですが、そこそこの数になると思います。
私は、逍遥として死を受け入れるほどの根性はありませんが、だからと言って、無い袖は振れませんので、ブツブツと文句を言いながら、餓死することになるのでしょう。
仕方ありません。
もう一つ、多くの皆さんが考える方法にタンス預金がありますが、成功しません。資産税新設の時には、通貨も変更され、タンスにある現金は紙屑になりますので、無理です。

では、資産税を新設する時期は、いつになるのでしょう。
わかりませんが、それほど遠い未来ではないように思います。
21世紀、特に、2020年代に入り、世界環境は、政治・経済・安全保障で悪化しています。コロナとウクライナ戦争が、世界を変えたと言えます。なぜか、気候変動や災害の面でも、同じです。今の世界環境で安定的な将来予測を立てられる国は一国もないと思います。この環境を世界は「VUCAの時代」と呼んでいますが、昔の人なら「一寸先は闇」と呼んだと思います。ですから、何が起きても、不思議ではありません。特に、国力衰退という病に罹っている日本の未来は、全く、見通せません。
いつ崩壊しても不思議ではない日本で、大規模な金融危機が起きれば、国債デフォルトを待たずに、資産税が新設される可能性があります。資産税は、他人事では済みません。国民一人一人に直接影響します。
アメリカでは、インフレを抑制するために金利を上げました。その影響で、倒産する銀行が出てしまいました。
日本は、いつから、金利を上げるのか。まだ、その答は出ていませんが、日銀総裁が変わりましたので、どこかの時点で金利上昇は起きると思います。ただ、日本の場合、その舵取りを間違えると、大変なことになります。
メガバンクを除く金融機関は、今でも、多額の含み損を抱えています。
アベノミクスによる異次元金融緩和政策が始まり、投資先のなかった一般金融機関は、雪崩のように海外の債券市場に向かいました。その海外債券は、金利上昇の影響下にあり、既に、多額の含み損を抱えています。
低金利時代の債権は、金利上昇の時代が来ると、含み損になるのです。もちろん、債券は、その満期日まで保持していれば、損失にはなりませんが、途中で手放せば、損失を確定させてしまいます。
今年、金融機関破綻の新しいモデルが生まれました。それがアメリカのSVB倒産です。
このシリコンバレー銀行の倒産は、資金流出と含み損から生まれました。
その引き金になったのが、資金流出のスピードです。
昔は、銀行の店舗に行列が出来ましたが、今は、数分で、慣れている人なら数十秒で、銀行窓口に行くことなく、預金を引き出すことが可能な時代になりました。
資金流出の速度に驚いたアメリカの中小金融機関(200行ほど)は、中央銀行からの借り入れを増やしています。その額はリーマン危機時を超える金額になっているそうです。
SVB倒産は、世界金融市場に不安心理を生み、欧州の大手銀行の株価が急落しました。
中でも、問題山積みのクレディ・スイス銀行は政府主導でUBS銀行に吸収されなかったら、世界金融危機に発展していたと言われています。
各国政府は「問題はない」と言っていますが、政府が「ヤバイですよ」なんてことを言うことはありません。でも、「ヤバイ」と思います。
SV銀行と同じ構図(含み損の拡大)の金融機関は、日本にも、山のようにあります。
SNSで、「〇〇銀行、ヤバイらしい」という噂が流れると、資金流失が起き、金融機関は、含み損のある債権を売らなければならなくなります。
昔は、公的資金を投入して金融機関を救いましたが、今は、無理だと思います。
それでも、預金の保護はしなければなりません。多額の資金が必要です。預金保険機構の持ち金では間に合いません。金融機関倒産の規模が大きければ、預金保護のための公的資金が必要になります。そんな状態では、日本国債を買ってくれる金融機関も多くはないと思います。国債の利回りを上げて、海外投資家に買ってもらわねばなりません。この辺から、国債のつるべ落とし、いや、金利の暴騰が始まるかもしれません。同時に、急激なスタブフレーションがやってくるとすると、資金はいくらあっても足りません。敗戦後の、インフレと資産税という組み合わせが、再現することになります。
私は、金融の専門家ではありませんので、ここで挙げたプロセスが正しいのかどうかはわかりません。でも、長期的視点では、何事もなく、平穏無事に、収まるとは思えません。
頼りない話で申し訳ありませんが、資産税の新設の時期は、わかりません。
もしかすると、5年以内なのかもしれません。
いや、もっと、早いかもしれません。
そこは、地獄の一丁目です。
もう、戻れません。
二丁目、三丁目と、地獄の深みに沈み込むことになります。


2023-04-02



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ぼんやり [評論]



今日は、内閣府の少子化対策に関する基本理念の文章の一部を転記します。

<<< 少子化問題は、我が国のあり方が問われている課題であり、各種の施策を組み合わせつつ、国、地方公共団体、職域、地域、家族、個人など、社会を構成するすべての主体が、それぞれの責任と役割を自覚し、子どもと家族を大切にする視点に立って積極的に取組を進めていくとともに、進捗状況を検証し、充実に努める必要がある。 >>>

内閣府の考察は、正しいと思います。
「我が国のあり方が問われている」
「国、地方公共団体、職域、地域、家族、個人など、社会を構成するすべての主体が、それぞれの責任と役割を自覚」
「子どもと家族を大切に」
全く、その通りで、拍手を贈ります。しかし、空文になっています。
後述しますが、この考察から導き出された対策が、「家族の日の制定」です。
なぜ、こうなってしまうのか。
何度も指摘しますが、言葉が定義されていないからです。
「責任と役割」とは、何を指すのでしょう。
「責任と役割」が「ぼんやり」としていて、誰も自覚できないから、誰もが「俺には関係ねぇ」と言って逃げるのです。
内閣府の本音を忖度すると、少子化は「下々」の問題だと認識しているということのようです。ところが、「下々」は「お上」のやることだと思っています。
少子化対策に限らず、あらゆることが「ぼんやり」としているのですから、噛み合わなくても不思議ではありません。
国家運営を担う皆さんも国民の皆さんも、まだ、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で「何とかなる」と思っているのです。それ、間違っています。

今日は、内閣府の少子化対策基本方針の文章から、この国の少子化が止まらない原因を見てみたいと思います。少子化には、数多くの原因があると思いますが、その一番大きな原因である国民の貧困化については、有効な対策がないために、あまり触れられず、耳障りの良い言葉を並べる従来のやり方が踏襲されています。
いつものことですが、時代認識や現状認識が、曖昧や慣れや希望的観測の中で行われているのは、大変危険です。昭和16年に、対米開戦を決めた時も、曖昧や慣れや希望的観測がありました。今では、あの開戦が「無謀であった」というのが定説になっていますが、当時は、国民も戦果に拍手を送ったのです。
私達は、今、21世紀最大の失敗(先進国から最貧国への転落)の真っ只中にいます。これは、多分、我が国2000年の歴史の中で最大の失敗になると思います。
確かに、劇的な発想の転換なんて、簡単に出来ることではありません。慣れ親しんだ手法を取りたくなる気持ちは理解できます。しかし、今は、とても危険です。
では、少子化に対する内閣府の基本的な思考を見てみましょう。

<<< 政府は、1990年代半ばからの「エンゼルプラン」、「新エンゼルプラン」に基づき、少子化対策を推進してきた。2003年には、少子化社会対策基本法、次世代育成支援対策推進法が制定され、2005年度からは、「少子化社会対策大綱」とその具体的な実施計画である「子ども・子育て応援プラン」に基づき少子化対策が推進されてきた。
しかしながら、従来の対策のみでは、少子化の流れを変えることはできなかったことを深刻に受け止める必要がある。 >>>

冒頭に反省の弁がある通り、この30年間、この国の少子化対策は失敗の連続でした。
では、今、どうするのか。

<<< 出生率の低下傾向の反転に向け、少子化の背景にある社会意識を問い直し、家族の重要性の再認識を促し、また若い世代の不安感の原因に総合的に対応するため、少子化対策の抜本的な拡充、強化、転換を図っていかなければならない。 >>>

ここでも、いつものように、総合的、抜本的、拡充、強化、転換という使い古した言葉が出てきているということは、「何も変わらない」ことを意味しています。必要とされているのは、耳に心地よい言葉の羅列ではなく、言葉の中身です。それが、定義です。
内閣府が少子化の原因としているのは、次の3点です。
「少子化の背景にある社会意識」
「家族の重要性」
「若い世代の不安感」
どれをとっても、「ぼんやり」です。
その上で、考えられた対策の一つが次のようなものです。

<<< 社会全体の意識改革が必要である。>>>
<<< そのための、家族の絆や地域の絆の強化が必要 >>>

「はあ ???  絆 ???」
「家族の絆と地域の絆で、少子化を止めましょう」という結論です。
これを曲解すれば、「少子化は、家族と地域の問題であり、内閣府の問題ではない。国民の自業自得だろう」と言っているようにも聞こえます。
出産・育児は大事業です。家族の「愛」や地域の「思いやり」だけで出来る事業ではありません。でも、国を豊かにすれば、人間は本能に従い、出産・育児という大事業に挑戦してくれる人が増えます。国家運営者の仕事は、国を豊かにすることです。
家族に責任転嫁することが、国の仕事ではありません。
岸田政権の少子化対策も、過去の対策と同じで、成功することはありません。
必ず、失敗します。
対策に掲げた。
「家族の絆」って、何ですか。
「地域の絆」って、何ですか。
家族が仲良くし、地域が支え合えば、少子化が止まるのですか。
いくら日本人が「いい人」だとしても、「ふむ、ふむ」とは言わないと思います。
では、対策にある「社会の意識」って、何でしょう。
「社会の意識」とは、社会を構成するあらゆる国民の皆さんの意識のことです。
内閣府は、国民の皆さんが意識を変えなければ少子化は進むと言っているのです。問題は、政府にあるのではなく、国民の皆さんにあるのですよ、と言っています。だから、国民を啓蒙しなければならない。老害政治家が「少子化は子供を産まない女が悪い」と言って大騒ぎになったことがありますが、まだ、その意識から変わっていないように見えます。
確かに、「俺には関係ねぇ」と言っている国民の意識は、間違っています。
ただ、その前に、国の、国家運営者の、内閣府の皆さんの意識を変えなければなりません。
国と国民が、全く、噛み合っていません。いや、皆で「俺には関係ねぇ」と言っています。
これで、少子化が止まるとは思えません。
では、この問題の核心は、どこにあるのでしょう。
国民の責務も国の責務も曖昧で、誰も自分事だとは思っていないことです。
どっちもどっちです。
国民だけが頑張っても、国だけが頑張っても、問題は解決しません。
ところが、今は、そのどちらも、頑張っていないのです。
誰もが、少子化なんて他人事に過ぎないと思っている。
誰の国ですか、誰の生活ですか。
これは、皆さんの自分事なんです。しかし、そのことに、誰も気付きません。
家族に「愛」があれば、地域に「思いやり」があれば、なんて、無理だと思います。
逆に、少子化が進行しているということは、国が、国民が、積極的に「責務」を果たさなければ、社会は壊れることを証明しているのです。
もう、「なあ、なあ」「まあ、まあ」では、何も解決しません。
そのためには、先ず、「責務」を知らなければなりません。
そもそも、内閣府の皆さんが、国の責務を知らないから、こんな曖昧な対策しか書けないのだと思います。
国が責務を果たし、国民に責務を果たすように働きかけるようにするためには、誰もが自分の責務を知らなければなりません。美辞麗句を並べる前に、先ず、自分の「責務」を知ることです。
「愛」や「思いやり」は必要です。でも、責務を知ることも必要なのです。
岸田政権は、予算倍増だと言っています。
カネをばら撒いても少子化は止まりません。
「愛」や「思いやり」は強要するものではありませんし、たとえ、強要したとしても、少子化は止まりません。
この国に必要なのは、この国に欠けているのは、「責務」の明確化です。
一体、いつになったら、そのことに気付くのでしょう。
「家族」とか「絆」とか「地域」とか「愛」とか「思いやり」という耳に心地よいお題目を掲げ、カネをばら撒けば少子化が止まる、なんてこと、誰か信用しているのでしょうか。
それでも、相変わらず、「なあ、なあ」「まあ、まあ」を続けている。
「責任と役割を自覚すること」が必要だと理解している内閣府の皆さん。
皆さん、馬鹿なんですか。
いつまで、馬鹿を続けるのですか。
内閣府は「社会の意識改革が必要である」と言っています。
どうして、それを実行する具体案を提示しないのでしょう。
国民に対して、「言葉の定義をしてください」と言えば済むことです。
もう、家族の「愛」や地域の「思いやり」では、少子化は止まりません。
いや、それ以前に、この国には、これまで、「愛」や「思いやり」は無かったのでしょうか。
そうではないと思います。
これは、「愛」や「思いやり」の問題ではないということなのです。
「絆」は必要ですが、もう、「絆」で「何とかなる」状態ではありません。
必要なのは、国の責務であり、国民の責務の明確化だと思います。

内閣府は、少子化対策を進めるためには「国民運動の推進」が必要だと言っています。
では、その驚きの国民運動を見てみましょう。 

<<< 「家族の日」や「家族の週間」の制定  >>>
<<< 家族・地域の絆に関する国、地方公共団体による行事の開催 >>>
<<< 働き方の見直しについての労使の意識改革を促す国民運動 >>>

不謹慎かもしれませんが、笑ってしまいました。
冒頭で紹介した文章では「責任と役割」という言葉があり、「意識改革が必要である」と言っていたのに、その具体案が「家族の日の制定」です。これも昭和ガラパゴスの1つだと思います。内閣府と言えば、頭脳明晰集団の中でも、選りすぐりの官僚の皆さんが所属している部署です。日本の最高頭脳から出てきたのが「家族の日」だとすると、笑うしかありません。でも、これが私達の国の現実です。もう、壊れているんです。今の取り組みを続けていれば、この先、もっと壊れます。国民の皆さんは、それでいいのですか。これは、もう、内閣府の問題ではありません。国民の皆さんの問題です。

ここで取り上げた内容は、内閣府の基本方針の一部です。これ以外にも、色々なことが書かれています。共通していることは、何もかもが「ぼんやり」だということです。そのことに気付いている人がいません。「ぼんやり」「曖昧」「美辞麗句」「お題目」「なあ、なあ」「まあ、まあ」では、この国の窮地は救えません。30年間失敗してきて、また、同じことをして、内閣府の皆さんは、何をしたいのでしょう。
この「ぼんやり」は、日本の文化から生まれたものです。もちろん、「ぼんやり」の効用もあります。ただ、窮地に堕ちた時には、致命傷にもなります。そして、今は、その負の側面が、この国を破滅へと向かわせています。


2023-04-01



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今の日本の立ち位置 [評論]



SDGsという言葉があります。
言葉は知っていましたが、詳しい中身を知りませんでした。
中身を見て、吃驚しました。理想のたたき売りです。
実際の人間は、正しいことをするために生きてきたわけではありませんし、この先も、正しいことをするために生きるわけでもありません。それは、ロシアや中国やアメリカの行動を見れば、歴然としています。
普遍的な価値らしきものは存在します。ただ、それは「らしきもの」にすぎません。絶対に正しい価値なんてものは存在しないのではないでしょうか。
しかし、人間は、「らしきもの」さえ守らない歴史を積み重ねてきています。ですから、特定の個人、団体、国の価値が守られることはありません。
と言うことは、SDGsという価値が守られることはないということです。
こんなことを言えば、「身も蓋もない」とお叱りを受けるのでしょうが、だからと言って、現実を無視するわけにもいきません。

SDGsには、17の目標があるそうです。
ここに書き出すと文字数が多くなりますので、項目だけ書いておきます。貧困、飢餓、健康、教育、平等、水、エネルギー、経済成長、気候変動、平和と公正、等々です。
理想を語ることは気持ちいいものです。
でも、「気持ちいい」だけでは済まないのが現実です。

国連が掲げた目標は、どれも「なるほど」と思うようなことばかりです。
例えば、1番目の目標が「貧困をなくそう」です。「世界から」です。
「なるほど」とは思いますが、「それ、無理でしょ」とも思います。
ウクライナ戦争で、戦争当事国は、両国共、莫大な戦費を使っています。充分な生産活動も行えていません。これは、国民が貧しくなっているということです。そんな現実が、私達の目の前で起きているのです。ロシアとウクライナでは、SDGsなんて、何の価値もないのです。国連がやったことは、小麦の輸出プランに参加しただけです。
人類にとっての理想は、人類が誕生して以来、それほど大きくは変わっていないと思います。1万年前には気候変動が注目を浴びていなかったかもしれませんが、気候に関する理想は、今と同じだと思います。いや、昔のほうが、気候変動による凶作や飢饉が生存を脅かす最大の要素でしたから、気候変動に対する恐怖は大きかったと思います。天変地異を歓迎していた時代なんて存在しません。
この17の目標は、世界中の人々を幸せにすることが、目標です
確かに、この目標が実現すれば、世界中が幸せになります。
しかし、人間は、何千年も社会を形成して生きてきたのに、その結果が現状です。
なぜなのでしょう。
それは、理想を達成する手段がないからです。
手段がないのは、この理想が、大国の、強者の、利益に反するからです。いや、大国の人間の「欲」に反するからです。国益重視、利益重視、が世界常識になっている限り、大国が自分の利益を手放すことはありません。人間ですから、当たり前です。
国連が一声かければ、世界は幸せになるのでしょうか。
世界の紛争を止めることも出来ない国連の声を誰が真剣に聞いてくれるのでしょう。
もちろん、そんなことは百も承知で言っているのだと思います。言うほうも、聞くほうも、17の目標がお題目だということを承知でやっているのです。
ですから、この目標が達成されることはありません。
そんな奇跡は、これまでも、これからも、起きません。
それほど、理想と現実の乖離は、手の付けようがないほど、大きいということだと思います。
人間が行動する際の最大の原動力が「欲」です。
SDGsの目標は、人間に「欲を捨てなさい」と言っているようなものです。
そんなこと、できるのでしょうか。
無理だと思います。

最近、SDGsを強く主張する人が、以前に比べて増えてきた印象があります。若者も、SDGsには理解があります。私には、現実から逃げる口実に使われているように見えます。
この先、どんな展開が待っているのかはわかりませんが、戦後の「平和主義」の再燃にならなければ、と思っています。「戦争反対、平和、平和」と叫んでいれば平和が手に入ると勘違いをしてしまう人達は、必ずいます。
SDGsというお題目を唱えても、何も得られません。

昔、国連に期待する人達が、国連至上主義みたいなことを盛んに言う時代がありました。
世界秩序を守るのは、それが出来るのは国連しかない、というものです。
日本は、軍事力は持てないが、国連軍に参加するのであれば、軍隊を持っても許されるという人達がいました。
もちろん、当時も、国連軍なんて存在していませんでしたし、今も存在しません。しかし、彼等は、本気で、理想を実現したいと思っていたのです。
もう、そんな理想を語る人は、今は、いません。
拒否権を持つ、第二次世界大戦の戦勝国にすぎない常任理事国のアメリカやロシアが、自ら戦争を始めてしまったために、国連の権威は地に堕ちました。
国連は、今回のウクライナ戦争で、世界から軍隊を招集して、侵略国であるロシアと対峙する行動を、何1つ起こせませんでした。
侵略戦争を始めたロシアを、常任理事国から除外することでさえできませんでした。
ウクライナ人の人権は守らなくても、いいのですか。
拷問や処刑を許していて、いいのですか。
SDGsは、理想は、どこへ、消えてしまったのでしょう。
いやいや、これが現実なのです。
お題目では、世界秩序を守れないということです。
昔から、自分の国は、自分で守るしかないのです。
この鉄則は、人類誕生の時から変わっていません。この先も、変わりません。

では、国が滅びるのは、他国の侵略によるものだけでしょうか。
そうではありません。
「自壊」があります。
他国の侵略でも「自壊」でも、犠牲になるのは国民です。
国民も、自分の身は自分で守るしかないのです。
善意の誰かが、国連が、「お上」が、守ってくれるなんてことは起きないのです。
どうか、そのことに気付いて欲しいと思います。
SDGsも、ウクライナ戦争が始まる前であれば、それなりに、マスターベーションとしての価値はあったのかもしれませんが、時間をかけて、SDGsという理想は消えていく運命にあると思います。
「自分の身は自分で守る」という鉄則は、人類絶滅の日まで有効な鉄則です。

さて、「自分の身は自分で守る」という視点から見た時、日本では、他国の侵略による崩壊と、自壊と、どちらが先に来るのでしょう。
「一瞬で死ぬ」か「じわじわと死ぬ」かという2択は望ましい選択肢ではありませんが、今の日本が直面しているのは、そういう選択だと思います。今、皆さんは、「じわじわと死ぬ」過程にあります。
私の個人的な意見ですが、自壊を防ぐことが侵略を防ぐことに繋がるように感じています。保証は出来ませんが、そう感じます。
自壊の現象が始まっていることを示す数値が、多く、出てきています。今後、更に、多くの数値が出てくると思います。
先ずは、この自壊を何とかしなければならないと思います。
多くの方か警鐘を鳴らしています。
しかし、政府も国民も動こうとしません。
つまり、自壊は避けられないということのようです。
国家運営を担っている人達は、自分の「利」が優先しますので、口先だけで、先延ばしをしています。
国民の皆さんは、「自分は手を汚したくない」「俺には関係ねぇ」と思っています。
確かに、それも、選択肢の1つです。
でも、結果は甘んじて受けることになるのですが、それでいいのでしょうか。
「別に、構わない」
「だって、どうしようもないもん」
多分、これが、今の日本の立ち位置なのだと思います。
でも、もしも、子供達を地獄へ連れていきたくないという人がいたら、ぜひ、立ち上がって欲しいと思います。
国民の皆さんには、この国の自壊を防ぐ力があります。
いや、国民にしか、その力は無いのだと思います。


2023-03-05



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気球撃墜騒動 [評論]



アメリカでの気球撃墜騒動が世界的なニュースとなりました。
私は、これまで、アメリカのアジア政策は口先政策の域を出ていないと思っていましたので、アジアでの紛争(朝鮮半島、台湾、南シナ海、東シナ海)へのアメリカの軍事介入は限定的なものか、或いは、全く関与しないか、になるのではないかと思っていました。その最大の要因が、アメリカの国民世論の内向き傾向だったと思います。
しかし、今回の気球撃墜騒動が、ほんの少しだけですが、その空気を変えたのではないかと思っています。
気球が人間の目に見えたことで、その映像が拡散したことで、自分の生活との関連性を否定できなくなったために、国民の中に、「いや、いや、これって、ヤバくねぇ」という心配が生まれました。ロシア、中国、北朝鮮のICBMは国民の目には見えません。自分の目で見えないものは、脅威だと実感することが難しいのです。たかが気球ですが、目視出来たことが、人間の感情を波立たせる結果になったと思います。まだ、一部の国民の感情に影響を与えただけですが、世界の対立は激しくなることはあっても、収まることは期待出来ませんので、今後もアメリカ国民の感情を刺激する事態は起き続けると思われます。
これは、アメリカで世論が変化する可能性が出てきたということです。
過去に、4回(実際の回数は不明)、中国の軍事気球は、アメリカ本土上空にやってきましたが、アメリカ政府はそれを発表していませんでした。その意図は、よくわかりません。
しかし、今回は、民間人が気球を発見し、その映像が拡散されたことで、内緒にできなくなってしまいました。
中国の軍事気球が、自分の家の上空にあったことで、アメリカ国民は現実的な恐怖を感じたようです。
日本では、北朝鮮のミサイルが日本上空を飛んだり(特に、Jアラート)、中国・ロシア艦隊が津軽海峡を横断したり、尖閣諸島での巡視船の戦いを体験していますが、アメリカ国民は、アメリカに住んでいる限り安全だと思ってきたのです。
今回の気球騒動では、気球に向けて、ライフルを撃った市民もいるそうです。もちろん、ライフルの弾では届きません。
アメリカ人にとって、中国の軍事的脅威は、地球の裏側の「他人事」だったのです。ところが、1個の気球で、突然、中国の軍事的脅威が、目の前に現れ、「自分事」になってしまいました。
気球の目的は、軍事的な情報収集だという意見が多いようですが、もしも、気球に生物・化学兵器が搭載されていればと考えた人もいたと思います。その可能性はゼロではありません。中国製の生物・化学兵器で、自分の生命が危険に晒される可能性はあるのです。アメリカ国民に、中国の軍事的脅威が直接実感される状況が、初めて出てきたのです。
当初、バイデン政権は、これまで通り「知らんぷり」をするつもりだったと思いますが、世論が「バイデン政権は、中国に弱腰だ」という方向へと向かい、無視できなくなり、撃墜という手段に出ざるを得なくなったものと思います。
1個の気球が、アメリカ国民の間に、「中国の軍事的脅威は排除しなければならない」という気運を作ってしまった事件だったと思います。しかも、それは、どこか薄気味の悪い、得体のしれない恐怖感ですから、消化し難い一面があります。
私達日本人でも、中国を理解するのは難しいことですが、アメリカ人が中国を理解するのは、更に難しいのかもしれません。それは、歴史の違い、文化の違い、統治体制の違い、言語の違い、宗教の違い等々の目には見えない部分での違いによるもので、理屈ではなく、肌感覚みたいなものです。
すぐさま、「中国を抹殺しろ」という世論にはなりませんが、これからも、別の事案が浮上する度に、世論は強硬なものに変化する可能性があります。アメリカでは、コロナは、中国が世界にばら蒔いたと信じている人も、それなりに存在するそうですから、私もそう思っていますが、不信感の上塗りは強固な不信感へと変わっていくものです。
中国は、これまで、数十個 (確認されていないものを含めると、数百個かもしれませんが) の気球を世界各地へと飛ばしています。この中国製の気球は、風任せに飛行するのではなく、ソーラーパネルで電力を得て、進路を変える推進力を持っているようですから、偏西風を利用した上で、意図的な飛行経路を飛ばす力があるようです。気球から撮影したアメリカの画像も公開していますし、その性能を自慢する記事が公開されているそうです。
気球作戦立案の当初は、気球の大きさも小さく、搭載している機器も気象観測用機器だけだったのかもしれません。なぜなら、明らかに、領空侵犯を犯すのですから、撃墜の可能性は検討したと思います。しかし、これまで、どこの国も放置していたのですから、中国は、それが当たり前のことだと思ってしまったのでしょう。気球の大きさも、搭載する機器もエスカレートしていき、情報収集だけではなく、攻撃する機能(生物化学兵器投下装置、電磁波装置等)も搭載していたかもしれません。昔、日本軍は攻撃用気球を飛ばし、非常に小さな確率でしたが、アメリカ本土攻撃に成功しています。アメリカ人の人命も失われたそうです。昔の気球は、風任せの気球でしたが、気球爆弾は実在したのです。
これまで誰も騒がなかったことで、中国は勘違いをしてしまったのだと思います。
中国にとって、気球がアメリカで撃墜されたことは、想定外の出来事だったと思います。
「気球は中国の物ではない」「アメリカのフェイクニュースだ」とは言わずに、つい、謝ってしまいました。
中国にしたら、珍しいことに、対応がブレました。その後の対応も二転三転し、「アメリカの偵察気球も、中国領を侵犯していた」と言い始め、「青島近辺で発見された気球を撃墜する指令を出した」と発表しました。その後、中国報道官は、米国が「対空砲で蚊を撃っている」「ばかげた大規模な政治的パフォーマンスショーに莫大な金をかけている」とし、力み過ぎて「ぎっくり腰」にならないよう注意を促す、というジョークまで披露しました。その後も、手を変え品を変え、気球撃墜に対して抗議している中国の様子を見ると、知られてはならない装置が搭載されていたのではないかと疑ってしまいます。
もう、平常心を失ってしまったように見えてしまいます。
用意周到な中国にしたら、状況判断を誤りました。
経済失速が顕著になり、戦狼外交から微笑外交へと舵を切り、プリンケン国務長官を招聘し、話し合いを持とうとしていた中国にとって、国務長官の訪中延期は痛手です。習近平は、気球のことは、全く、知らなかったのでしょう。

でも、中国に限らず、人間がやることに「完璧」はありません。
ただ、力を持っている国の状況判断ミスは、大惨事になることがあります。
「イラクに核兵器がある」という誤った判断でイラク戦争は始まりました。イラク戦争でも多くの人命が失われました。
KGBとプーチンが「10日で、ウクライナを制圧できる」という誤った判断をして、ロシアとウクライナで、今、数十万人の人命が失われています。
さて、次の状況判断ミスは、どこで起きるのでしょう。

中国人民軍傘下の「中国気球船団」が、状況判断を誤ったようですが、状況判断を誤る可能性のある部署は、中国人民軍の中に無数に存在しています。
中国人民軍という組織は巨大な組織ですから、致し方のないことだと思います。
心配なのは、台湾侵攻作戦での状況判断の誤りです。
ロシアのプーチンが犯した誤りと同じで、台湾侵攻作戦を立案した人民軍の中のどこかの部署が状況判断を誤っていたとすると、中国は、間違った行動を起こす可能性があります。
アメリカ国防省、軍、情報機関で、中国の台湾侵攻を本気で心配している人が増えていると言われています。2024年から2027年という違いはありますが、数年後に、中国の台湾侵攻は行われると心配されています。実現するのかどうかはわかりませんが、アメリカ情報機関が、ロシアのウクライナ侵攻を警告していて(私を含めて、多くの方が信じていませんでしたが)、それが現実となった過去を考えると、この警告は不気味です。
もしも、台湾侵攻作戦の中に状況判断ミスが隠れていたとすると、中国にもアメリカにも、いや、台湾や日本にとって、大変不幸な結果を招きます。
ウクライナ戦争で、ロシア本土やEUに、ほぼ影響がないように、台湾有事の場合も、一部の中国本土を除き、中国本土にもアメリカ本土にも戦火は及びません。実害を受けるのは、台湾と日本です。
台湾や日本の市民にとっては、中国人民軍の一部の責任者が更迭されるだけでは割に合いません。実に、困ったことです。
戦争は、性善説に立って行われるわけではありません。いや、戦争に勝つためなら「何でもあり」が、戦争というものです。戦争になれば、国際条約でさえ役に立ちません。そして、残念なことに、ロシアだけが極悪非道を実践する特異な国だというわけではありません。中国がチベットやウイグルでやっていることを見れば、中国は、今日からでも第二のロシアになれるのです。
ですから、中国人民軍の攻撃が、在日米軍基地や自衛隊基地に限定されるという保障はありません。ロシアがやったようにインフラ攻撃も想定されます。電力・ガス・水道の喪失だけではなく、原子力発電所が破壊されることによる放射性物質の拡散も心配されます。ロシアは、まだ核兵器を使用していませんが、中国が、東京に核ミサイルを撃ち込むことだって否定できません。
では、私達庶民に出来ることはあるのでしょうか。
ありません。
ただ、ただ、耐えることだけです。

気球騒動の後日談になるのでしょうが、アメリカと中国の高官がドイツで会談した内容は、気球問題が主な議題ではなかったようです。ロシアへの軍事支援を具体的に検討している中国に対する警告が、主な議題だったそうです。
確かに、中国にとってのウクライナ戦争は、メリットしかありません。
ロシアの弱体化。
安価な原油の確保。
欧米諸国の武器弾薬の消耗。
世界が不安定化することによる、帝国主義の復活。
ウクライナ戦争を長期化させることで得られるメリットは、中国の一人勝ちです。ロシアを挫折させず、戦争を継続させることは中国の国益になるのです。
ですから、中国は、アメリカの警告に怒っています。「上から目線で、中国に命令するな」と怒っています。
「米国は、真剣に自省し、自らの行いを批判的に検証し、ごう慢さと偏見を捨て、覇権主義的で横暴ないじめの慣行をやめよ」と言っています。そっくり、そのまま、お返しできるような非難を平気でするのが中国流なのでしょうが、つい、笑ってしまいます。もしかすると、これって、中国流のブラックジョークなのでしょうか。


2023-03-04



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人間の情念 [評論]



以前に、中国はゼロコロナ政策をやめられないだろう、と書きました。
ところが、中国は、突然、ゼロコロナ政策を放棄しました。政策転換ではなく、政策放棄というやり方が、いかにも中国らしく、世界を驚かせました。
完全に、私の予測が間違っていました。大外れ、真逆です。
しかし。
中国人民は、諸手を挙げて、喜んでいるというニュースが流れています。
ロックダウンされるくらいなら、コロナに罹患したほうがいいと言っているそうです。
確率の低い死の恐怖よりも、自由(言論の自由は諦めていますが)を歓迎しています。中国人にとっても、ロックダウン(自由の束縛)が、それほど耐え難かったのだと思います。
ただ、まさに爆発という言葉そのもののような感染爆発が起きました。まだ、中国人民の皆さんは、その渦中にいるのですから、見えていないのかもしれませんが、犠牲者(死者と後遺症患者)の数は半端ではないと思います。
ゼロコロナ政策という間違った政策を実行したのは共産党であり、掌返しをして感染爆発を起こしたのも共産党です。共産党による統治に疑問は出ないのでしょうか。
経済がV字回復すれば、全ては水に流せるかもしれませんが、もしも、経済の停滞が長引けば、或いは、経済が頓挫すれば、人民の不満は政権に向けられます。
何故、政策放棄をしたのかは、闇の中ですが、経済活動の低迷が地方財政を圧迫し、地方政府に財政破綻の可能性があったことによるという説があります。特に、不動産市場の低迷は、地方政府にとって致命傷です。中国では、公式の数字は意味を持たないと言われていますが、不動産関連の経済の縮小は、かなり深刻なものなのだと思います。何とか、倒産は最小限に食い止めていますが、新規の不動産建設は、数字は不明ですが、随分と落ち込んでいるのだと思います。新しいマンションを建築するためには、土地が必要です。その土地を建設会社に提供して収入を得ていたのが地方政府です。土地は、売却ではなく、使用権の付与ですから、100年経てば、また、使用権を売ることが出来るという美味しい商売に慣れていた地方政府にとっては、天地がひっくり返えるような環境が生まれてしまったのです。対応策は考えてきませんでしたので、思考停止状態になり、財政の逼迫が起きました。特定の地方政府だけが財政逼迫したのではなく、ほとんどの地方政府が行き詰りました。中央政府も、全ての地方政府を救済することはできません。ここは、無理矢理でも、経済を動かすしかなかった。そのためには、ゼロコロナ政策は中止するしかなかった、という説です。
「大の虫を活かすために、小の虫を殺す」という伝統が生きていたのでしょう。
大の虫は地方政府で、小の虫が人民です。コロナでの死亡予測は100万人という説もあれば、数百万人だという説もあります。100万人の人民が「小の虫」だとは思えませんが、14億人の中国では「小の虫」なのかもしれません。
春節で、多くの中国人が出身地に帰省しました。その出身地は農村です。農村には、年寄りと子供しかいません。そこに、コロナウイルスがやって来るのです。大変、危険です。しかも、農村部に病院はありません。全土で薬不足が続いていますので、農村部には薬もありません。北京や上海より、死亡率は高くなるものと思います。ただし、中国では、病院で死亡したコロナ患者しかコロナ死亡者と認められません。病院のない農村部では、コロナ死亡者は出ないのです。しかし、肉親は、そのことを知っています。
春節前に出た通達は、さすが中国、というものだったそうです。
「故郷に帰った時の様子を文章で発表したり、見聞きしたことを発信することや、社会を陰鬱にするような喧伝は、この通達をもって厳格に監督管理する」
日本では、私を含めて、言いたい放題ですが、この通達は、中国人民の不満を貯める効果しかないように思います。不満という火薬を充填し続けることに危険はないのでしょうか。

さて、コロナの感染爆発が終わった後に、中国人が冷静になった時に、何が待っているのでしょう。2023年度の中国経済の成長率は3%を切ると予測する人もいますし、0%と予測する人もいます。日本から見れば、それでも成長しているように見えますが、過去の10%とか8%の成長率から見れば、明らかに経済収縮です。若者の失業率は17%だと言われていますが、実際の失業率は30%だという人もいます。不動産バブルは壊れかけています。中国経済の半分は不動産関連だと言われていますので、破壊力は大きいと思います。
中国経済は、正念場に立っているようです。
海外企業の中国離れは、今年から本格的に増え始めると言われています。これは、雇用が失われ、金融流失が始まるということです。
アメリカの半導体輸出規制も、今年から本格化します。
中国の経済予測は、明るいものではありません。
中国共産党は、経済発展と人民弾圧の2本柱で運営されてきました。
人民弾圧という1本足運営では、かなり、厳しくなると思います。
中でも、一番怖いのが、社会不安です。政府及び党の機構は、この社会不安に対処するものに変更されるようです。一部では、スターリン化と呼ぶ人もいます。それは、粛清される人民が数千万人になるということです。共産党対人民の戦いも始まっているようです。

情報が遮断されている中国や北朝鮮のような社会主義国では、現政権の情報しかなく、外部の情報を得る機会がありません。
政権は、最大限の努力をして、外部情報を遮断します。これは、社会主義国の定番です。
しかし、北朝鮮とは違い、中国では、政権の検閲を逃れたネットツールが存在していることも確かなようですから、情報の完璧な遮断は不可能なのだと思います。更に、豊かになった中国人は海外旅行に行きます。実物の情報に接する機会も増えます。北朝鮮と違い、中国での情報統制は至難の業です。しかも、人口が多いことも、統制を難しくします。
人々は、何かに困った時に情報を探そうとするものです。
多くの中国人が、親や祖父母や親戚の高齢者がコロナで死亡したことに、どこか割り切れない感情を持っているようです。病院が長蛇の列で、医療機関に辿り着けた人よりも、自宅療養を余儀なくされた人のほうが桁違いに多いと思います。病院での死者数は、氷山の一角だと言われています。
コロナによる死亡者は、圧倒的に高齢者が多い。これは、世界共通です。中国でも、同じです。自分がコロナウイルスを持ち帰り、親を感染させ、死なせたのではないかという気持ちもあります。特に、火葬場に行列したことには、反発が多いようです。
肉親の情は世界共通です。真面な弔いが出来ないことへの反発は心に残ります。
ゼロコロナ政策は中国以外にはないことを、習政権は自慢していましたが、その政策が理に適っていないことを、中国人民は知りません。あれほどの感染爆発が起きたことが異常であることも知りません。
しかし、肉親の非日常的な死は、簡単には忘れられません。
人は、自分の情念を扱いかねて、情念の負の部分を開放するために情報を探します。
時間はかかりますが、共産党政権の異様さに気付く人も増えてきます。
ある中国人の感想。
「コロナ以前は、多くの人が中国共産党に対して、正直なところ『どうでもいい』といった態度でした。なぜなら政府が一人ひとりの生活に干渉することはなかったからです。しかし、コロナ禍の3年は完全に異なります。中国共産党は一人ひとりの頭上にいて個人の運命を決定することができる、ということを誰もが思い知ったと言えるでしょう」
今回の感染爆発騒動は、まだ小さな波紋に過ぎないのかもしれませんが、大きな波になる可能性を秘めているように感じます。人間の情念は強力です。

これまで、中国人民が不条理を受け入れてきたのは経済成長があったからです。
共産党独裁国家に対する不満が大きくなっても不思議ではありません。
本格的な社会不安がやってきたら、「白紙デモ」では終わらないと思います。
共産党独裁国家の終焉の始まりだと言う方もいます。
もしも、そうだとしたら、中国はどんな国になるのでしょう。
コロリと民主国家になれるのでしょうか。
そうはならないと思います。
では、どうなるのでしょう。
わかりません。わかりませんが、カオス状態になることは避けられないと思います。
抽象的な言い方ですが、ぐちゃぐちゃ、になると思います。
最終的には、力による支配が始まると思います。
最悪の想定では、内戦状態になる可能性もあります。
巨大な組織である人民軍は、一枚岩ではありません。
人民軍もバラバラになると思います。
アメリカは、表でも裏でも、介入してきます。
仲良しに見えたロシアでも、力が残っていれば乗り込んできます。
それ以外にも、介入してくる国はあると思います。
やはり、ぐちゃぐちゃ、になるのではないでしょうか。
ソ連崩壊後のロシアの混乱も大きなものでしたが、あの程度の混乱では終わらないのでしょう。多分、世界を巻き込んだ混乱が生まれると思います。


2023-03-03



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この国の目的は何 [評論]



昨年くらいから、社会に「衰退」という言葉が増えてきた、と書いたことがありますが、昨今では、月に数回、そのような記事を目にします。「衰退」「弱体」「後退」「凋落」「老化」と言葉に差はありますが、どれも、日本の国力衰退を嘆いている表現です。
この社会風潮により、自然と、多くの方が「衰退」という言葉に着目し、そのファクトを探し、更に、「衰退」という言葉が増えているようです。
「国力衰退」という現象が、社会的なテーマになることは、現実を直視するという視点で、歓迎すべきことです。数年前、私は、「なぜ、衰退という現状認識ができないのだろう」と嘆いていましたが、現状認識が出来るようになったことは、大変、嬉しいことです。ただ、その事は終末が近づいているということでもあります。時間がありません。
今は、多くの論者が、個別に、自分なりに、原因解明をしています。
対策を提言している方もいます。
でも、何かが違う、という感触が拭えません。
昨今のコラムから感じる違和感について書きたいと思います。
先ずは、あるコラムから抜粋したものを転載します。

1人当たりGDPはアメリカの半分以下の水準で、イタリアと並んでG7の中で最低水準にある。
『世界競争力年鑑』(2022年版、63カ国・地域)によると、日本の順位は34位。1989年から1992年までトップを維持し、1996年までは5位以内だった。それが1996年の4位を最後に2ケタ順位に定着。2022年は過去最低(2020年と同位)の34位まで低下した。
日本は、韓国27位、マレーシア32位、タイ33位よりも下位となっている。
個別の判定要素の中での上位にある指標は、「経済状況」雇用2位が最高で、あとは「インフラ」科学インフラ8位、健康・環境9位、この3指標のみである。逆に「経済状況」物価は60位、「ビジネス効率性」経営プラクティスは63位で最下位、「政府効率性」財政は62位と厳しい評価だ。24指標中、9指標が40位以下という惨憺たる状況だ。
このままでは、日本は「縮小」と「衰退」の坂道を転げ落ちていくばかりだ。
「なぜ、日本の国際競争力、経済力がここまで落ちてしまったのか、その検証をきちんと行い、原因となっている壁をひとつずつ壊していくしかない」と指摘する。
国際競争力トップだった時代の豊かさに甘えて、あぐらをかいてきた結果がいまの凋落ぶりです。1980年代までは官民共同で技術開発を行い、革新的企業に金融支援を行って成長を助けたものです。
 この10年は、成長戦略と称して金融緩和と財政バラマキを行ってきたものの、資金が効率よく回らず、結局、政府に近い企業群が儲かる仕組みだけが残り、非正規の従業員が世に溢れる状況になってしまいました。政権交代も含めたドラスチックな改革を実現させて壁をひとつずつ壊していかなければ、日本のジリ貧化、地盤沈下は止まらないでしょう。

さて。
このコラムの「衰退」の現状認識は、正しい認識だと思います。私も、以前に世界競争力年鑑のことを書いたことがあります。
では、原因の究明は、どうでしょう。
原因は、政策の失敗だと捉えています。
ですから、必然的に、政策変更が対策になると判断しています。
結果、政権交代を推奨しています。
筋は通っています。
では、結論となっている政権交代が実現すれば、日本の「衰退」は止まるのでしょうか。
多分、このコラムを書かれた方も、それを読んだ国民も、そうは思っていません。
だからこそ、不安感と閉塞感と焦燥感が増幅しているのだと思います。
まさに、袋小路状態ですが、それは、なぜなのでしょう。
そうです、私達には選択肢がないのです。自民も立憲も維新も共産も、どれも同じです。ですから、政権交代では、どうすることもできません。

では。
このコラムに限らず、多くの方の警鐘と提案(もちろん、私の提案も同じです)が実現しない要因は、どこにあるのでしょう。
それは、原因の原因の原因に辿り着いていないだけではなく、仮に、原因の原因の原因がわかっても、実行手段が見つかっていないからだと思います。
もう、個々の原因(政府の政策等々)に対処するやり方では、打開できない領域に入っていますので、必要なのは、先ず、原因の原因の原因を見つけることです。
このコラムで指摘されているように、政府の施策の失敗も原因の1つですが、原因はそれだけではありません。世界環境の変化、時代の変化、意識の変化、と多くのものが変わっていることも、原因です。今の日本は、昭和ガラパゴス状態です。その変化に対応するためには、小手先や口先や政権交代などという常識的な対応では無理です。
実践処方箋が見つかっていないことは棚に上げておいて、今は、先ず、原因の原因の原因を見つけ、次に、それに対処する方法を探すことです。
気付いている方は、まだ、いませんが、原因の原因の原因は文化であり、私達が向き合わなければならないのは、文化です。一刻も早く、そのことに気付いて欲しいです。
今は、新しい文化の構築が必要な時代なのだと思います。
振り返って見れば、この課題は、明治時代から存在していた課題だと思います。
ただ、文化は、目に見えませんから、気付き難いという特徴があります。
どこの国でも、どんな統治体制でも、最終的に、その国のあり方を決めるのは国民意識だと思います。
国民意識を超える経済も政治も存在しません。
その国民意識に大きな影響力を持っているのが、文化です。
日本の場合は、曖昧文化です。平たく言えば「なあ、なあ」「まあ、まあ」です。
では、そんな日本で、なぜ、奇跡の戦後復興ができたのでしょう。
あの時代は、皆が生きることに必死で、「なあ、なあ」「まあ、まあ」では生きていけなかった環境があったからです。もちろん、日本人に潜在的能力があったからできたことですが、一時的に文化の力が衰えたことが、奇跡を生み出したのだと思います。

日本が昭和ガラパゴス状態になっている要因は、「目的」の欠如だと思います。
私は、高校生の頃、「この国の目的って、何だろう」と疑問に思ったことがあります。
若い時は、そんな疑問を持つものです。実際に、年配の方に、そう言われました。
しかし、後期高齢者になっても、あれから60年以上経っても、その答は見つかりません。
それは、この国には「目的」など存在しないということなのだと思います。
「なあ、なあ」「まあ、まあ」の世界では、「目的」なんて害になるだけなのでしょう。
ただ、それで、「何とかなった」時代が続けば、問題はありませんでした。
でも、現実は、「もう、どうにもならない」時代になったのです。

政府に責任がある。
その通りです。
では、国民に責任はないのでしょうか。
そうではない、と思います。
最も重い責任を有しているのは、主権者である国民の皆さんです。そんな皆さんに責任が無いなんてことはありません。皆で、力を合わせて、この国を衰退させてきたのです。
政府と国民が力を合わせる推進力になったのが、「なあ、なあ」「まあ、まあ」です。
官民共同は、この国の特徴の1つです。
しかし、「なあ、なあ」「まあ、まあ」にも、限界があったのです。
そのことに気付かなければ、この「衰退」は止まらないと思います。
このブログの記事を読んでくださった方には、耳にタコだと思いますが、私は、「言葉の定義をする文化」を作りましょうと提案しています。
「曖昧文化」から「言葉の定義をする文化」への変更です。
もちろん、「言葉の定義をする文化」が完璧な唯一のものではありません。弊害も副作用もあると思います。それでも、ここまで追い詰められたら、四の五の言っていられません。
この国には、今、「目的」と「責務」の明確化が必要なのだと思います。
日本人は優秀です。
特に、一致協力という分野では、他の民族の追随を許さないほど優秀です。
「言葉の定義」をすれば、目的と責務が見えてきます。
「目的」があり、「責務」が明確になれば、ものすごい力を発揮すると思います。
文化を変えれば、「衰退」を止めることは可能だと思います。
ただし、残念なことに、まだ、国民の皆さんに「言葉の定義」をしてもらう方法が見つかりません。
ですから、実践処方箋のない私の提案は、今も、机上の空論です。
国民の皆さんに参加してもらう方法が見つからなければ、間違いなく、この国は崩壊すると思います。
政権交代しても、生産性向上やDXに挑戦しても、「衰退」は止まりません。
「衰退」の先にあるのは、当たり前のことですが、繁栄ではなく崩壊です。
崩壊で痛手を負うのは国民の皆さんです。
国民の皆さんには、自分のために、この国を変える必要があるのです。
国民の誰にとっても、他人事ではありません。
どうか、そのことに気付いて欲しいです。
崩壊を止めることが可能となるかもしれない方法はあるのです。
岸田さんが「何とか」するのではありません。そんな力、岸田さんにはありません。
皆さんが、「衰退」を止めるのです。
他に、自分を守る方法はないと思います。


2023-03-02



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階級 [評論]



例年、春闘の話題で賑わう季節ですが、変人の私には、空騒ぎにしか見えません。
政府もメディアも、話題にするのは、僅か数パーセントの大企業の中の、ごく一部の優良企業の、賃金上昇率です。
日本の課題は、「そこですか」と聞きたいです。
勝ち組と言われている人達の現状維持を図っても、この国は蘇りません。もっとも、「大企業の中のごく一部の優良企業の賃金上昇」が実現しないと、公務員の給料は上げられませんので、力が入るのは仕方ないのかもしれません。しかし、圧倒的大多数の国民は「春闘なんて、俺には関係ねぇ」と思っています。
「誰のための国家運営なのか」を問うのは国民の仕事です。
国民の皆さんが、自分の責務を知らないのですから、このまま、ずるずると、この国は朽ち果てる運命にあります。もちろん、この国を繁栄させるか崩壊させるかは、国民次第です。しかし、国民の皆さんは、その責務も知りません。「そんなもん、俺には関係ねぇ、お上の仕事だろう」と思い込んでいます。

ここで、大雑把な平均年収を見てみます。
国家公務員   680万円
地方公務員   660万円
国民      440万円
中小企業    380万円
この数字を見ただけでも、歴史と伝統に培われた階級が存在しています。
参考までに、「大企業の中のごく一部の優良企業」の年収も見てみましょう。今、流行りのM&A企業は外しました。
キーエンス   2111万円
三菱ケミカル  1738
三菱商事    1608
野村      1384
ファナック   1364
東京海上    1338
三井住友    1304
三井不動産   1263
ソフトバンク  1253
電通      1169
エーザイ    1099
ソニー     1051
日本軽金属   1044
・・・・・・
ユニクロ     959
トヨタ      857

さて。
ユニクロやトヨタの平均年収が、1000万円に、2000万円になったら、この国の課題は解消されるのでしょうか。
いいえ。
最大の課題は、国民の平均年収の440万円と中小企業の平均年収の380万円です。
全国の中小企業が、あり得ないと思いますが、5%の賃上げをしたとしても、平均年収は400万円にしかなりません。中小企業で働く皆さんは、5%でも給料が増えれば喜んでくれるでしょうが、でも、課題は解消されません。まさに、焼け石に水です。
この国に必要な賃金上昇は、100%とか200%の賃上げだと思います。それでも、仮に、中小企業の平均年収が、100%の賃上げが実現したとしても、760万円ですから、中小企業の平均年収は、現在のトヨタの857万円を追い越せません。
桁が2桁違うのです。
実際には、5%の賃上げを実現できる中小企業は、とても、少ないと思います。
自民党は、今でも、トリクルダウンという仮説に執着しています。
もう、時代は、トリクルダウンの時代ではありません。
どうして、そのことに気付かないのでしょう。
それは、この国が、全体として、ずるずると、衰退しているからです。
衰退国家では、「自分が一番」ですから、トリクルダウンなんて起きません。
国力衰退を止めて、反転させ、国力発展を実現しなければ、課題は悪化するだけです。
国民の年収が減少するという環境の中、公務員の年収は減少しません。賃金を上げるために、企業の場合は、売り上げと利益の増加が必須ですが、国には、借金という強い味方があります。「賃金の上昇というトレンドを作るために」という理由で、今年も公務員給与の賃上げをすると岸田さんが言っています。
現状認識も原因究明も対策立案も、どれも、的を外しています。
いつからか、多分、50年前くらいから、「結果を捻じ曲げること」が対策になると勘違いしているようです。
最近の対策では、「デフレ脱却」と「賃金上昇要請」が、それにあたります。
デフレも、賃金水準も結果です。
しかも、掛け声だけです。
ざっくりとした、曖昧な対策ですから、結果がどうなっても構いません。
〇〇を、〇〇までに、〇〇にします、という対策ではありませんので口先だけで済みます。
その上、対策が実現しなかった時に、誰も責任を取りません。
こんなこと、いつまで、続けるのですか。
なぜ、こんな馬鹿な国家運営をやっているのでしょう。
現状から逃げる。
原因を見つけない。
対策は、口先で済ましてしまう。
これでは、状況が変わることはありません。
では、なぜ、こんな馬鹿な国家運営を許しているのでしょう。
「下々」は「お上」に「物を言ってはいけない」という伝統があるからです。
未だに、日本国民は、日光東照宮の猿のままなのです。
「下々」は、たとえ、自分が苦しい生活を強いられても、ただ、ただ、我慢することが「下々」のあるべき姿だと信じています。
今の時代、「愚かな」という表現が、とてもお似合いな国民だと思います。

国民が納めた税金を財源として支払われているのが公務員の給料です。
しかし、公務員は、統計資料によると、国民の収入の約1.6倍の収入を得ています。
この数字を見ただけでも、明らかに、「お上」と「下々」という階級は存在しているのです。
しかし、「下々」は文句を言いません。
それは、この国が、民主国家ではないからです。
「もっと酷い国はいくらでもあるだろう」と言う方もいるでしょう。
その通りです。
だからと言って、これでいいわけではありません。
しかも、国は衰退し続けていて、どこかで崩壊することが約束されているのです。
「俺には関係ねぇ」と言っている場合ではないと思います。
「お上」に「好き放題を言わせている」のも、勝ち組に「やりたい放題をさせている」のも、国民の皆さんなのです。
国民が「ノー」と言えば、こんな馬鹿なことは続けられません。
それが民主主義なのだと思います。
国の責務は、国民生活を守ることです。
ここで言う「国民」とは、「僅か数パーセントの大企業の中の、ごく一部の優良企業」の皆さんだけではなく、公務員だけではなく、中小企業で働く皆さん、自営業の皆さん、農林水産業で働く皆さん、も含むのです。
中小企業で働く皆さん、自営業の皆さん、農林水産業で働く皆さんのほうが、圧倒的多数の国民なのです。これらの国民の生活を守るのが、国の責務です。
国も責務を果たしていませんし、国民も責務を果たしていません。
これでは、潰れても仕方ないと思います。

では、なぜ、こんなことになってしまったのでしょう。
答えは、簡単なものです。
国民の皆さんの「下々」意識が強く、今でも「三匹の猿」を真似ているからです。
人間は「欲」の塊です。
「お上」や「勝ち組」が「利」を追求するのは当たり前です。
それを許しているのが、国民の皆さんです。
「お上」も「勝ち組」も「三匹の猿」も、自分の責務を知りません。
この「無知」がこの国を衰退させているのです。
誰も、好き好んで、破滅したいとは思いません。しかし、明らかに、破滅へと向かっています。どうしたらいいのか、誰にもわかりません。ほんとに、わかっていないのです。ですから、意図しているわけではありませんが、歴史と伝統に従い、皆で、「なあ、なあ」「まあ、まあ」「ふむ、ふむ」と言いながら、一致協力して、崩壊への道を歩いているのです。いや、そのことに気付いている人もいません。まるで、夢遊病です。これは、ほんとに、恐ろしいことだと思います。

どうすればいいのでしょう。
今日は、くどくど、と書きませんが、「言葉の定義」をしてください。
時間はかかりますが、希望の光は見えてくると思います。


2023-03-01



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老害を何とかしろ [評論]



今日は、国会議員定年制を提案したいと思います。
これまで、多くの方が出した提案ですが、実現していませんので、あらためて、提案したいと思います。
一般企業の社内規定と同様に、国会内規定として、60歳を定年と定め、努力義務として65歳まで延長するという案はいかがでしょうか。
これだけでも、政治は、ほんの少し変わると思います。
じやあ、誰が、その規定を作るのか。
政治家に、好きにやらせておいて出来るとは思えません。
やはり、国民にしか出来ないことだと思います。
でも、「国民が」って、そんな仕組み、どこにもありません。
そりゃあ、そうです。仕組みを作る政治家が、自分達の自由度を危険に晒すような仕組みを作るはずがありません。もちろん、国民も、自分達が仕組みを作る仕事をする立場にあるとは思っていません。ですから、そんな仕組みは存在しません。
しかし、選挙制度に問題があることは、ここでは棚上げにしておいたとしても、国が国民生活を守る仕事を疎かにしているのであれば、それを糺す責務は国民にあります。誰かが、善意で、あなたを守ってくれるわけではありません。自分の身は自分で守るのです。そのためには、面倒でも、責務を果たすしかないのです。
先ずは、国民の皆さんに、国民には、国政を糺す責務があることを知ってもらわねばなりません。国民の「責務」が曖昧だと、スタート地点にさえ立てないからです。
国民には、現在、選挙以外に国政参画の仕組みがありません。その選挙が組織票に支配され、低投票率が当たり前であれば、政治家は、何でもできるのです。自分に投票してくれる人に利益分配をしていれば、自分の身は安全なのです。国民生活なんて、どうでもいい。
でも、現に、国会議員定年制は実現していません。
では、政治家の老害は、どうするのですか。
政治家の老害は、国民生活に大きな影響を与えます。いや、現に、与えています。
そんなこと、誰もが知っています。
それなのに。
「そんなの、無理だろ」でいいのでしょうか。
皆さんには、それほど余裕があるのですか。政治家の老害くらいでは、生活に影響はないと思っているのですか。この先、増税の嵐がやって来ますが、大丈夫ですか。後の祭りになることはないのですか。

ここで、老害政治家の代表として、問題発言の多い政治家の発言を見てみましょう。
そうです、問題発言の正横綱に君臨している、自民党の麻生さんです。
麻生さんは、1940年生まれだそうですから、今年で83歳になります。
私には、麻生さんの思考は昭和で止まっているように見えるのですが、そんな人物が、政権与党の副総裁を務めているのです。
麻生さん以外にも、昭和思考で止まっている人は多くいます。
そんな人達が、この国の舵取りをしているのです。
そんな国が、前を向いて進んでいけるのでしょうか。
いいえ、昭和から抜け出せていません。
だから、この国の国力は衰退し続けているのです。
では、老害を排除すれば、この国が再生するのか、と言うと、そんな簡単なことではありません。でも、老害の排除は、必要十分条件ではありませんが、数多くある必要条件の1つではあると思います。
ほんとに、麻生さんは、トンチンカンな発言を多くしてくれます。
「ああ、又か」と思うだけで、世間は大目に見てくれます。
これも、人徳と言うのでしょうか。
違うと思います。
馬鹿もここまで極めると、許してもらえるということなのだと思います。
麻生さんは、ただ、お頭が弱いだけなのです。
思考能力に欠ける部分を逆手に取っているところは、政治家らしいと思いますが、それは、傍迷惑でしかないと思います。
そんな麻生さんの最近の発言を見てみましょう。
少子化に関する講演での発言です。
「(少子化の)一番大きな理由は出産するときの女性の年齢が高齢化しているからです」
「中長期的には日本の最大の問題だ」
これが、政権与党の副総裁の発言です。
どうやら、「女が悪い」ということのようです。
「今は、昭和か」と突っ込みを入れたくなります。
逆に言えば「俺達は、悪くない」ということなのでしょう。
こんな人が、こんな老害政治家が、この国の国家運営をしているのです。
女性の皆さんは、反乱を起こすべきだと思います。
反乱なんて起こせないと思っているかもしれません。
いいえ、民主国家では、女性でも反乱を起こせるのです。
民主国家では、銃ではなく、投票という武器があるのです。
「俺様は、お偉い政治家様だぞ」と言っても、国民の票がなければ、ただの人です。
だとすると、麻生さんに一票を投じている地元の皆さんは、この国の衰退に力を貸しているということになります。そんな場所が、日本には数多くあります。多くの国民が、老害政治家に力を与えているのです。つまり、国力衰退は、国民が作っているのです。
ただ、野党に票を入れようにも、投票するに値する政治家がいません。
この国には、国民生活を守ってくれる、女性を守ってくれる政党は1つもないのです。
これ、誰の責任なのでしょう。
馬鹿な政治家のやりたい放題を許しているのは、麻生さんにトンチンカン発言をさせているのは、老害政治家に票を入れている国民の皆さんです。
この事実は、否定しようがありません。
国民の皆さんが、自分の生活を守りたいのであれば、相応の汗をかかねば手に入りません。もう、「なあ、なあ」「まあ、まあ」では、自分の身を守れない時代になっているのです。棚から牡丹餅が落ちてくるのを待っていても、そんな奇跡は起きません。皆さん自身が自分の生活を守るしかないのです。
そのためには、既存の政党ではなく、新しい政治集団を生み出す必要があります。私達には、国民生活を守ることを目的とした政治集団が必要なのです。
どうすれば、そんな政治集団が生まれるのでしょう。
国民の皆さんが、言葉の定義をし、目的と責務を明確にすれば、自然に生まれます。
なぜなら、国の責務は国民生活を守ることだからです。
そして、何よりも重要なことは、皆さんが投票権を持っているということです。
国民生活を守る政党を生み出し、そこへ投票すればいいのです。
こんなに簡単な理屈に、なぜ、気付かないのでしょう。
「俺は何もしないけど、誰かが、何とかしてくれ」なんて都合のいい話が通用する時代ではありません。確かに、言葉の定義をするのは面倒です。目的と責務を明確にすれば、国民の皆さんにも、相応の痛みは出ます。でも、このまま、ドツボに突っ込んで行くよりはいいと思います。
この国を再生するのは、国民の皆さんです。麻生さんではありません。

麻生さんは、少子化の最大の原因は晩婚化にあると言っています。
「勝手なことを言う女が悪い」と言っています。
そうなんでしょうか。
晩婚化も、少子化の1つの要因ではありますが、最大の原因ではありません。
女性が、我儘を言っているわけでもありません。
麻生さんには、現実が見えていない。いや、見ようとしていない。いやいや、見えないふりをしている。
国力衰退という現実が、それを放置した結果が、何ら手を打たなかった国が、少子化を招いたのです。庶民の声を聞くと、「責任転嫁をするな」という意見が多いように思います。私だけが馬鹿なことを言っているわけではないようです。
ただ、原因究明も対策もなく、庶民は、文句を並べるだけです。これでは、お先真っ暗ですし、麻生さんも、言いたい放題です。これは、国の、国家運営者の、国民の、「責務」が明確になっていないことが原因です。政治家に「やりたい放題、言いたい放題」をさせているのは、国民の皆さんです。どうして、そのことに気付かないのか、ほんとに、不思議でなりません。解決方法はあるのです。言葉の定義をすればいいだけです。

晩婚化だけではなく、お一人様世帯が増え続けています。
残念ながら、お一人様では、子は生まれません。いや、物理的には生まれますが、ほとんどの方が経済的な困難に直面しますので、生みません。
晩婚化も、未婚者の増大も、みんな、庶民の自己防衛のためです。
国力衰退に押し流されまいとする庶民の抵抗です。
そんなことも理解できない国家運営者に、この国を任せておいてはいけません。
これは、国民の皆さんの問題なのです。
少子化が、晩婚化が、麻生さんの言う「中長期的には日本の最大の問題」なのではありません。麻生さんのような人が国家運営をしていることが、「俺には関係ねぇ」と言っている国民の皆さんが、日本の最大の問題なのです。
少子化の原因は、国力衰退です。
若者は、男も女も、「生活が楽ではない、余裕もない、結婚なんてして、地獄を見るのは勘弁してもらいたい」と思っています。たとえ晩婚であっても、結婚して、子供を産んでくれる若者は、神様のような存在なのです。それを、麻生さんは批判しているのです。これ、老害以外の何ものでもないと思います。
馬鹿げた提案ですが、少子化対策の第一歩として、議員定年制を提案します。
ただ、これで、現状が劇的に変化するわけではありません。気休め程度の効果しかありません。もしも、何かを変えたいのであれば、国民の皆さんが言葉の定義をして、「目的」と「責務」を見つけてください。生産性向上を唱えても、DXを唱えても、この国は再生しません。ましてや、「新しい資本主義」などと寝言を言っていたのでは、救われません。国民の皆さんの意識を変えるしか方法はないと思います。このままだと、ズブズブと沈んでいくだけです。
ここは、皆さんの国です。老害政治家の国ではありません。


2023-02-05



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少子化対策という旗印 [評論]



今日はフィクションを書こうと思います。
もっとも、私が書いているのは、いつも、将来予測ばかりですから、全てがフィクションなのかもしれません。ただ、今回のフィクションは、いかにもフィクションです。笑っていただければ嬉しいです。

某年某月某日、某所で、某会議がありました。
極秘会議であり、その事を知っている人間は限られています。総理大臣も、公邸にいることになっており、総理秘書の一人が総理役を演じるという念の入れようです。
会議の部屋は、窓もなく、何の飾りもない小会議室。テーブルの真ん中にペットボトルが置かれているだけです。携帯電話の電源も切られ、メモを取ことも禁止です。
出席者は、総理大臣と3人の閣僚、自民党議員3人、財務省幹部3人の10名です。
参加者は、挨拶することもなく席に着き、置かれていた資料に目を通し始めた。
最初に口を開いたのは、議事進行をする財務省のA氏です。
「資料は回収しますので、よろしくお願いいたします」
部屋は、ページをめくる音だけしかしない。
「ふう」
最初に資料を読み終えた議員が、大きな息を吐いた。
魑魅魍魎を代表するような政治家と官僚が、小さな部屋で、集中しているせいか、部屋には「泥沼」のような臭気が満ちていた。
全員が資料を読み終えた後に、A氏が発言した。
「忌憚のないご意見を、お願いいたします」
年長の議員が口を開いた。
「これで、うまく、行くのかね」
「いいえ、先生が、上手くいくようにご尽力頂くのです」
別の議員が発言する。
「時期が悪い」
「では、いつなら、よろしいのですか」
「・・・・」
若手の議員、若手と言っても65歳だが、硬い表情で言った。
「少子化対策という手は、いい手だとは思うが、私も、時期が悪いと思う」
「皆さん、同じ意見だと思って、いいですか。この案で押し切ろうという方は、おられませんか」
「・・・・・」
しばらく、沈黙が続いた。
「総理、いかがいたしましょう」
「確かに、時期は悪い。私も、そう思う。しかし、放置するわけにもいかない」
「でも、皆さんは、先延ばしにしろ、と言っておられます」
「弱ったな」
この秘密会議は5回目になる。A氏は、これまで、秘密が守られたことが奇跡のように思えた。もう、限界だと感じている。今日、結論が得られなければ、仕切り直しをしなくてはならない。会議のメンバーには、徹底的にレクチャーした。総理大臣には、個別に、何度も、レクチャーした。金融と財政が危機的状況であることは、政治家も理解しているはずだ。しかし、政治家は動かない。政治家は、国家的危機に対応することよりも、選挙のほうを優先する。
「財務省主導」とか「財務省の陰謀」と騒ぐのはマスコミだけではない。いや、マスコミにリークしているのは政治家なのだ。官僚主導への抵抗感は強い。特に、財務省に牛耳られていると思い込むと、政治家はムキになる。予算が彼等の利権の源泉なのだから、仕方ないと言えば仕方ない。
「どうだろう」
総理が重い口を開いた。
「私に、一任して、もらえないだろうか」
「それは、構わないが、私は協力できない。いや、大きな声で反対することになる。総理の手勢でやるのは、総理の自由です。もちろん、この会議もなかったことにしてもらいます」
「私も、それでいい」
別の議員も、「勝手にしろ」とばかりに、総理の顔を見た。
公式の場では、総理の要望は優先されるように思われているが、それは、あくまでも、根回しが済んでいることが条件になる。この会議も根回しなのだが、失敗に終わりそうだとA氏は、小さくため息をついた。後は、総理大臣の手腕にかかっている。自民党の反対派と野党の反対を抑えての増税は、ハードルが高い。この総理に、それが可能なのか、A氏は、総理大臣の横顔を見た。たたでさえ、党内基盤の弱い人だ。押し切るのは無理だろう。
「わかりました。この会議は、無かったことにしましょう」
皆が、総理の顔を見た。
総理は、腕を組み、目を閉じた。
諦めるのか、強行するのか、A氏にも判断できなかった。
「では、そういうことで」
反対派の筆頭株の老人が立ち上がった。
総理に賛成してくれるのは、一人か二人。
決を取れば、増税案は否決される。
A氏は、総理が、明確に否決されるのを防いだのだと思いたかった。
部屋には、総理とA氏だけが残った。
「済まなかったね、A君」
「いえ、力足らずで申し訳ありません」
「いや、まだまだ、力は貸してもらいますよ」
「勿論です」
実現するかどうかはわからないが、総理は、やる気らしい。
評判の良くない総理だが、この人が、この国を救うことになるのかもしれない。いや、救うことはできないだろう。増税は、ただの先延ばしに過ぎないが、財務省は、何もやらないよりはいいと思っている。
少子化対策を旗印にして増税をするように提案してきたのは総理だった。少子化対策を自分の成果にしたいという願いが、総理を動かしたのだろう。
前回、社会保障費で増税に成功したからと言って、少子化対策で増税に成功するかどうかは未知数だった。でも、他に、旗印がない事も確かなのだから、総理の提案は正しい提案なのだと思い、財務省はその提案に乗った。自分の提案でなければ、総理は諦めていただろう。
日本円が暴落していないのも、日本の国債がジャンク級になっていないのも、日本には徴税余力があると思われていることによる。国民負担率から見ても、日本の徴税余力は限界に来ているのだが、いつまでも増税しなければ、日本には徴税余力がない事を世界に知らせることになる。日本は、見栄を張り続けなければならない。政権が変わっても、この現実は何も変わらない。自民党以外の政党が政権を取っても、増税からは逃れられない。
歪な形ではあったが、これで、消費税増税の方針は決まった。

ここまでが、フル・フィクションです。
何となく決まっていく様子を書きたかったのですが、うまく書けたかどうか。
少子化対策という旗印の増税が終われば、次は、脱炭素税の増税だと言われています。防衛力強化の本格的な増税も待っています。増税は、終わることはありません。なぜなら、国力が成長していないから、税収が増えることはないからです。ここ数年、税収が増えたという宣伝がされていますが、少し長い目で見れば、税収減は明らかになると思います。
国が困れば、国民から搾り取るという構図は、この2000年間、何も変わっていません。国民の皆さんの負担は、今後、ますます厳しいことになります。苛政と言われる「6公4民」の日も、それほど遠い未来の話ではないかもしれません。
ここからは、少し、現実が入ります。
東京都の小池知事が、「全ての、0歳から18歳の子供を対象に、月額5000円の給付金を支給する」と言いました。小池知事は「異次元の・・・」とは言っていません。
その理由は。
今の少子化を看過できない。東京は、いろいろなものが高いから、それを是正したい。給付金は、毎月、給付して、初めて意味を持つ。子育てに所得制限を設けるのは間違っている。ということのようです。
それに対する街の声。
「ありがたい」「5000円じゃなー」「英断だと思う」というものでしたが、総じて肯定的な意見が多かったように思います。ただ、これが少子化対策になるとは思えません。
子育て政策で一歩先を行く明石市の市長も肯定しています。
小池都知事は、「明石市に触発されて」とは言っていませんが、影響はあったと思います。
それよりも、小池知事は、「さあ、岸田さん、どうしますか」と言いたいのではないかと思います。岸田さんは、「異次元の少子化対策をする」と言っていました。「東京が、5000円出したのに、国が・・・・」というものではないかと思います。

少子化対策が風潮になってくれるのはいいことだと思います。
政府が、どんな「異次元対策」を打ち出してくるのかは、今の時点ではわかりませんが、多分、いや、間違いなく、弥縫策しか出てこないと思います。
そもそも、国が子供のために支出する予算は、OECD諸国の中で、下から2番目です。現状が、逆の意味で、異次元の子供対策なのです。もしも、岸田さんが「異次元の対策」を出すのであれば、北欧の国々を追い抜くくらいの勢いが必要になります。そんなこと、不可能です。ですから、最初から、岸田式「異次元対策」は「口先対策」でしかないのです。
国力が衰退する国では、国民の貧困化が進む国では、少子化は避けられません。
国が豊かになれば、国民が豊かになれば、勝手に人口は増えるのです。たとえ、先進国であっても、劇的な人口増加が望めないとしても、微増、或いは、微減であれば可能だと思います。
フランスは、少子化対策に成功した国だと言われていますが、それでも、合計特殊出生率は1.9です。フランスは、まさに、異次元の少子化対策をしました。1993年に、1.6まで低下した出生率を1.9まで回復したのです。しかし、それは、30年前です。日本では、フランスのような異次元対策は出来ないと思いますが、たとえ、同じことをしたとしても、30年前と今では、時代が違いますし、環境も違います。同じ成果が得られるとは思えません。
それと、少子化対策にはカネがかかります。
そんなカネ、この国には、もう、ありません。
もっとも、少子化対策は、増税の旗印に過ぎませんので、少子化対策が功を奏することはないものと思います。
いつも、スローガンばかりで、成果が実ったことはありません。
特に、この30年間では、成果はゼロです。
しかし、国民の皆さんは、「それで、良し」としています。
責任者である国民が「良し」と言っているのですから、それでいいのでしょう。
この国の国力衰退は、誰が見ても、どう贔屓目に見ても、明らかです。
しかし、国民は、自分がドツボにはまるのに、「俺には関係ねぇ」と言っています。
日本国民の皆さんは、ほんとに、救いようがありません。
国力衰退は、もう、原因ではなく、既に、結果になっています。
誰も、その原因を見つけようとしません。
原因には、その原因があるのですが、そんなこと、無関心です。
原因の原因の原因となると、別の惑星の話になります。
国力衰退が結果ではなく、まだ、原因だと思っている一部の人は、構造改革とか生産性向上を提案します。確かに、原因が真の原因なら、その原因を取り除けば、現実は変わります。でも、結果になってしまうと、どう足掻いても、変わりません。新しいものを創造することでしか、埋め合わせはできません。
実務的な、表層的な対応策では、この国の衰退は止まらないのです。
もっとも、私も、昔は、同じようなことを提案していましたから、大口は叩けません。
日本は、崩壊への階段を、また一段、登ることになりそうです。
こんな国で、子供を産み、育てようと思わなくても不思議ではありません。
先進国なのに、その日の食事に困る子供達が大勢います。
しかし、皆さんは、「俺には関係ねぇ」と思っています。
これは、間違っていると思います。
国民の皆さん。
皆さんは、追い詰められているのです。
確かに、じわじわと、ずるずると、何となく、ではありますが、追い詰められています。
この先に、皆さんの未来はあるのですか。
いいえ、ありません。このまま、ずるずると、破滅へと向かうのです。皆さんは、今、破滅への道を歩いているのです。
もちろん、これは、皆さん自身のせいなのですから、文句は言えません。
でも、子供達を巻き添えにするのは間違っていると思います。
もしも、皆さんの目的が、生きる意味が、「子供達の未来を守る」ことであったなら、こんなことにはなっていなかったと思います。
どうか、気付いてください。言葉の定義をして、目的と責務を見つけてください。
これ以外に、「異次元の少子化対策」はないように思えます。


2023-02-04



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風雲急を告げる [評論]



昨年、北朝鮮は大量のミサイル発射実験を行いました。
年末には、新しいロケット砲の実験も行いました。
口径600ミリの大型多連装ロケットだそうです。
これまで、北朝鮮が保有していた多連装ロケットは、口径300ミリですから、大きさが倍になっています。それは、爆薬の量も倍になるということです。北朝鮮の発表によれば、韓国全域を射程圏に収め、戦術核の搭載も可能だということです。つまり、核弾頭を搭載するために、口径を倍にしたのです。
一連の北朝鮮の軍事力強化には、これまでにない、本気度が窺えます。
ウクライナ戦争や台湾有事に注目が集まっていますが、朝鮮半島有事は大丈夫なのでしょうか。

韓国は、北朝鮮融和政策の極左政権から、アメリカとの同盟重視の保守政権に変わりました。韓国のブレは、いつも、困ったものです。
いつまで保守政権が続くのかわかりませんが、とりあえず、今のところは、大規模な米韓合同軍事演習も行われています。どのような演習が行われているのか知りませんが、朝鮮半島でも、ウクライナ戦争と同じような戦争が起きるとは限りません。もし、戦争が始まるとしたら、北朝鮮軍は、ミサイルと核で戦うと思います。それも、短期決戦です。1週間で、韓国を焦土にしなければなりません。北朝鮮軍に勝機があるとすれば、そこにしかないと思うからです。

アメリカが日本を核攻撃して以来、核兵器は一度も使われていません。
ですから、アメリカの核の傘が、実際に使用されたことはありません。
傘が役に立つかどうかは、誰も知らないのです。
アメリカは、ほんとに、核兵器を使うのでしょうか。
自国領に核爆弾が着弾すれば、躊躇なく、使うと思いますが、他国の領土に着弾した核爆弾に対して、アメリカが核兵器を使うかどうかは、誰にもわかりません。そのことは、韓国も心配しています。アメリカの許可は出ていませんが、韓国世論は、自国の核武装に賛成しています。アメリカの許可が必要だというのも、変な話ですが。

双方の宣伝戦が熱を帯びてきているように思います。
とても、危険だと思います。
そんな中で、12月に、「韓国軍、大丈夫なのか」という事件が起きました。
北朝鮮の5機の無人機が韓国領に侵入し、大統領執務室の近くまで飛来しました。
迎撃すべく韓国空軍が対応しましたが、無人機を撃墜することはできませんでした。
それだけではなく、迎撃に飛び立った戦闘機が一機、離陸に失敗して墜落しました。
しかも、無人機に生物化学兵器が搭載されていたら、ソウルの半数が死傷することになっていたという試算も出ています。まだ、北朝鮮が保有する無人機は1000機程度だそうですが、韓国の対応を見た北朝鮮は、無人機の増産に励むことになります。
大統領は激怒し、国民は呆れてます。

朝鮮戦争が停戦になってから、約70年が経過します。
この70年間の韓国と北朝鮮の経済発展の差は、北朝鮮に軍事的劣勢を強いてきました。
ただ、70年という時間は、双方に慣れを生んでいるのかもしれません。
一人だけ、新鮮な感覚で、必死になっている人物がいます。金正恩です。
スイスに留学していた金正恩は、2011年に北朝鮮のリーダーになった時、その客観的な軍事情勢を知っていたと思います。金正恩は、その劣勢を、均衡に引き上げ、優位を獲得することが使命だと考えたのかもしれません。考えに考えた末に得た結論が、ミサイルと核だったのだと思います。この10年間、金正恩は、その目標に挑戦し続け、成果を挙げています。まだ、米韓合同軍の軍事力には敵いませんが、短期的、限定的な軍事力では、互角の戦いができるところまで来たと思います。それは、核開発があってのことだとすると、金正恩は、自分の考えに自信を持ったと思います。
金正恩は、核弾頭の増産と更なるミサイル開発と量産を指示したと伝えられています。
アメリカ軍を考慮に入れなければ、両国の軍事力は、歪な形ではありますが、対等になったのかもしれません。

韓国大統領は、軍に対して、「一戦を辞さない構えで、敵のあらゆる挑発に対し確実に報復しなければならない」「1000倍にして返せ」と言っています。
軍の無最高司令官の、この発言は、気概を示すという意味ではいいのでしょうが、軍がその気になったら、「ヤバイ」と思います。
宣伝戦ですから、過激な言葉が出てきます。
韓国側の発言が過激になったために、そう感じるのかもしれません。
一方、北朝鮮は、尻尾を振ってくれていた前政権に対しても、容赦のない罵詈雑言を浴びせていたために、北朝鮮の態度に変化はないように見えますが、どこか切羽詰まった雰囲気を感じます。
それは、両国共、経済の不安を抱えているからなのではないかと思います。
韓国は、生産人口の減少、歪な経済構造、硬直した労使関係、中国の圧力、どれをとっても負の臭いがします。韓国社会に閉塞感が出ていても不思議ではありません。韓国経済の絶頂期は終わっているのかもしれません。
北朝鮮は、一国の命運をかける覚悟で戦争に臨まなければなりませんので、米韓合同軍が軍事的優位を保っていれば、戦争にはなりません。ただ、韓国軍が北朝鮮領に侵攻することはできません。それは、核報復があるからです。一方、北朝鮮軍は、勝利の可能性が高ければ、韓国領に侵攻が可能です。以前より、在韓米軍の存在意義は、高くなっています。
そんな複雑な環境の中で、挑発と報復を繰り返していたら、不測の事態が起きる可能性があります。
その時に、金正恩がどんな行動に出るのか。その事を理解している人はいないと思います。あらゆるシナリオを想定しておかねばなりません。
金正恩は「核兵器は、戦争抑制が第1の任務だが、抑制に失敗した場合、第2の使命も決行する。第2の使命は防衛でない別のものだ」と言っています。
確率は低いシナリオかもしれませんが、核の先制使用もあり得るということです。
北朝鮮が、ミサイルとロケット砲で、韓国全土に飽和攻撃を仕掛け、その中に20発の核弾頭を入れておいたとすると、一定数の核爆弾は韓国国内で爆発することになります。ミサイル防衛システムは、全てのミサイルを撃墜できるものではありません。特に、飽和攻撃には対処できません。仮に、7割のミサイルを撃墜したとしても、残りの3割は着弾します。それは、ウクライナ戦争でも証明されています。20発の核弾頭の内、6発の核弾頭は核爆発を起こすことになるのです。
当然、韓国に駐留している米軍にも被害が出ます。
もしも、アメリカ軍が、核に対して核で報復するのであれば、核弾頭が北朝鮮に向かいます。それを防ぐ手段は北朝鮮にありません。
北朝鮮は、そのことは承知していますから、連続して第2波の攻撃を行うかもしれません。
韓国軍は、第1波の攻撃で損傷を出していますので、5割しか撃墜できなかったとすると、10発の核弾頭が着弾することになります。
もしも、アメリカ軍が、核兵器で相応の報復をしたとすると、朝鮮半島で、合わせて32発の核爆弾が爆発することになります。
戦術核の爆発は小さいと言われますが、それは、巨大な核兵器に比べて小さいだけであり、通常兵器とは意味が違います。
朝鮮半島は、北も南も、ズタズタ、ボロボロ、になります。

日本には、影響がないのでしょうか。
そうはならないと思います。
朝鮮半島の上空は放射性物質の宝庫となり、季節風が、その放射性物質を運んできます。
日本でも、広い範囲で、放射性物質による被害が発生します。特に、農作物と水源の汚染が国民生活を苦しいものに変えます。
もしも、このようなシナリオがあり得るとすると、不思議なことが1つあります。
アメリカ軍の韓国駐留は継続されるのか、という疑問です。
北朝鮮の核開発が成功したことで、朝鮮半島はとても危険な地域になりました。
数万人のアメリカ兵と数万人のアメリカ兵の家族が犠牲になる可能性があるのです。アメリカが、世界の警察官役を辞めると言い始めたのはオバマ大統領の時代です。あの時点で、海外派兵の大義は失われています。そんな時代に、大量のアメリカ軍兵士の死は、アメリカ国内で受け入れられるのでしょうか。
そう考えると、アメリカ軍の韓国撤退もあり得るのではないかと思います。
もしかすると。
韓国を見捨て、台湾を見捨て、日本を見捨てる。
それが、時代の流れなのかもしれません。
あり得ないことではないように思います。
もちろん、素人の勝手な感想に過ぎませんが、そんなことになっても、私は「ふむ、ふむ」と頷くことになりそうです。
私は、朝鮮半島が、静かに、「風雲急を告げ」ているように見えます。

いや、朝鮮半島だけではないのかもしれません。
ウクライナ戦争で、世界の空気は変わったように見えます。
空気は伝染するのかもしれません。
イスラエルでネタニエフ氏が、再び首相になりました。イランの核開発も進んでいます。イスラエルが電撃的に、イランを、核施設を、攻撃する可能性は高まっています。
それ以外にも、地域紛争はあります。
世界が、戦争モードに入っているのかもしれません。
もしも、世界のどこかで、第二、第三のウクライナ戦争が始まれば、世界の空気は、一気に第三次世界大戦へと向かうのかもしれません。
国連は機能していません。
アメリカも世界に背を向けています。
世界秩序は失われていると考えたほうがいいと思います。
人間は、理性的な判断だけをするわけではありません。
「何でもあり」の世界が、すぐ、そこに、来ているのかもしれません。
第二次世界大戦の後、世界は「1対1」になり、ソ連が崩壊して「1対n」になり、アメリカが世界に背を向けて「n対n」という混沌の世界になりました。
ウクライナ戦争は、混沌の世界の到来を知らせる号砲だったのかもしれません。


2023-02-03



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文化は見えません [評論]



以前にも、部分的に触れたことがある「未来の年表」という本について書きます。
これまでは、紹介文しか読んでいませんでしたが、今回、「未来の年表 業界大変化」という本を購入しました。920円でした。
著者の方には、申し訳ありませんが、やはり、捨て金でした。
「あとがき」でも書かれていますが、大変、ご苦労されたようです。
その努力には、敬意を表しますが、これでは、日本再生はできません。
それは、提案らしきものがありますが、実現の可能性があるようには思えないからです。
今日は、著者である河合雅司氏の提案について書きたいと思います。
この「未来の年表」シリーズは、4冊あり、90万部売れたそうです。
「未来の年表 業界大変化」は五冊目になるようです。この本が10万部売れれば、100万部売れたベストセラーです。
で、少しでも、何か変わりましたか。
国力衰退のスピードは弱くなりましたか。
そんな様子は、見受けられません。
つまり、ここでも、警鐘や提案は、何の役にも立っていないということです。
それが、現実なのです。

一応、念のために、河合氏の提案を見てみましょう。
提案は、「未来のトリセツ」という表題になっています。
1. 量的拡大モデルと決別する
2. 残す事業とやめる事業を選別する
3. 製品・サービスの付加価値を高める
4. 無形資産投資でブランド力を高める
5. 一人当たりの労働生産性を向上させる
6. 全従業員のスキルアップを図る
7. 年功序列の人事制度をやめる
8. 若者を分散させないようにする
9. 多極分散ではなく多極集中で商圏を維持する
10. 輸出相手国の将来人口を把握する

著者の河合氏も、何も動かないことに苛立っているように見えます。
「おわりに」というページでは、そんな苛立ちが見えます。
だから、日本再生のための提言を書いたのだと思います。
確かに、精神論ではなく、個別具体的な提案です。
でも、的を外しています。
私が提案する「定義」や「目的」や「責務」なんかより、はるかに実務的な提案じゃないかと思われるかもしれません。
でも、これ、誰が実現するのでしょう。
国民の皆さんは、「俺には関係ねぇ」と思っています。国家運営を担っている人達は、自分の「利」しか考えていません。では、誰が、実行するのでしょう。
しかも、この提案を実行するのは、全部、経済界です。
今のように、政治が好き勝手をやっていて、民間だけが頑張れるのでしょか。
国民意識が、今のままなら、手を挙げる人はいないのではないでしょうか。
「提案しましたからね。後は、頑張ってください」では、何も動きません。
多分、どれも、実現しないと思います。
それでも、百歩、いや、千歩、いやいや、万歩譲りましょう。
もしも、仮に、万が一、あり得ないことだとは思いますが、誰かが実行したとして、何年、かかるのでしょう。仮に、国力衰退にブレーキをかけるのに、半分の項目が実現していなければならないとすると、それだけでも、50年かかると思います。残り、半分を実現するのに、更に50年必要だとしたら、日本再生が始まるのは、100年先になります。この国は、とても、そこまでは、もたないと思います。
昨日書いた「日本の自殺」と同じで、河合氏の提案も「絵に描いた餅」です。
もちろん、実践処方箋がない私の提案も、「絵に描いた餅」です。

警鐘や提案は、あったほうが、いいに決まっています。
しかし。
私達の問題は、「どうすれば、実現するのか」という実践処方箋がないことです。
まだ、誰も、この壁を破れていません。
多分、世界の文献を読んでも、そんな処方箋はないと思います。
仕方ない、と言えば、仕方ありません。それは、この国が崩壊先進国だからです。日本は前人未到の場所にいるのです。日本人が壁を打ち破るしかないのだと思います。
今、必要なのは、個別具体的な提案の段階ではないということです。
今、この国に必要なことは、国民意識を変えることです。
国民意識が変われば、政治も経済も変わります。
いや、国民意識が変わらなければ、何も動かないと思います。
もちろん、国民意識を変えることに成功した後には、個別具体的な提案は必要です。
その時には、この河合氏の提案は役に立ちます。

河合氏の「未来の年表」は、日本が、将来、ズタズタ、ボロボロの状態になることを、人口減少という切り口で、示してくれています。それも、観念論ではなく、数字で示しています。大変な労力だったと思います。
しかし、日本の課題は、人口減少だけではありません。
ですから、日本の未来は、「未来の年表」よりも悲惨なものになるということです。
しかし、それを回避する実践処方箋がありません。
千の提案をしても、万の提案を持ち寄っても、意味がないのです。
ですから、国力衰退は、着実に進行しているのです。
私が提案している「言葉の定義」は、実現すれば、国民意識は変わります。国民意識が変われば、個別具体的な提案を実現する可能性も生まれます。もちろん、可能性に過ぎませんが、何もないよりはいいと思います。
しかし、私の提案の弱点は、国民の皆さんに、定義をしてもらう方法がないことです。
組織的な行動が可能な団体が、例えば、政府とかメディアが、主導すれば参加してくれる国民もいると思いますが、政府とかメディアは、「利」を失うことになりますから、「言葉の定義」なんてしません。
ですから、自分の生活を守らなければならない国民が、自発的に、「言葉の定義」をしなければなりません。
しかし、「俺には関係ねぇ」と言っている国民が、そんな行動をすることはありません。
つまり、実践する方法がないのです。
実践する方法がない提案は「絵に描いた餅」です。
ですから、この国が崩壊することは、今の時点でも、確定しているのです。

ほとんど使われなくなった言葉ですが、「雪隠詰め」という言葉があります。「二進も三進もいかない」という言葉もあります。右にも左にも、前にも後ろにも、動けない状態を表す言葉です。今の日本が、まさに、その状態です。ですから、ほとんどの国民が、不安感と閉塞感と焦燥感を持っています。
もう一つ言葉を追加すれば、「自縄自縛」だと思います。環境の変化と時間の経過に対応していたら、いつの間にか、自分で自分を縛ることになってしまっていたのです。それは、原理原則を持たず、先送りを続け、都度都度、新しい事態に恣意的に対応した結果でもあります。臨機応変とか応用力という言葉を使えば、いいことのように思えますが、いい結果が得られるとは限りません。
なぜ、こんな状態になっているのでしょう。
それは、この国が、国家統治システムとして、民主主義風王政並立封建制度というシステムを採用しているからです。民主主義制度ではありませんので、国民生活を守る必要はありません。民主主義と天皇制と封建制は、本来であれば、並び立つことは不可能です。それを実現できたのは、この国の曖昧文化の功績です。曖昧文化は、環境さえ許せば、他に類を見ない素晴らしい文化だと思います。でも、万能ではありません。特定の環境下では、この文化が民族を滅ぼしてしまう可能性だってあるのです。
ただ、厄介なことに、文化は見えません。
更に、何事にも、建前と本音が共存します。国家統治システムにしても、日本は民主主義国であると標榜していて、民主主義風王政並立封建制度なんて言葉は、一切、表には出て来ません。建前と本音が違うことも当たり前のことです。
ですから、現に起きている事象に対応するだけでは、流れは変わりません。
原因の原因の原因に対応するしかないのだと思います。
それは、私達が対応すべき相手は、文化だということです。

どうすれば、いいのでしょう。
少し、歴史を遡ってみましょう。
明治維新で、日本は大きく変わりました。
もしも、あの時、あの内戦がなければ、日本は欧米列強の植民地になっていたでしょう、
ですから、結果的に、明治維新は正しい選択だったと言えます。
ただ、あの時、民主主義を採用していたら、日本は、もっと、変わっていたと思います。
しかし、日本は、歴史と伝統に従い、天皇制を選択しました。
日本の近代史には、歴史と伝統を断ち切るチャンスが2度ありました。明治維新と敗戦です。しかし、私達は2度とも、そのチャンスを無駄にしました。明治維新の時は、やむを得ない状況があったとしても、敗戦の時を逃したことが、今の崩壊へと繋がっています。
明治維新は、権力闘争です。
徳川という支配者を、長州と薩摩が武力で倒したのです。
長州と薩摩は、尊王という大義を掲げて、謀反人という烙印を回避しました。
旗を貸してもらった恩義もあり、天皇制にすることが、都合がよかったのだと思います。
当初は、時期を見て、民主国家にする意図はあったのかもしれませんが、世界の潮流が、それを許さなかったのかもしれません。明治・大正の自由民権運動は、弾圧され、民主主義への道は閉ざされました。
明治政府は、天皇を神格化することで、何をやっても許される、という免罪符を手に入れ、その流れが、大正、昭和へと引き継がれ、第二次世界大戦の敗戦まで続きました。
敗戦を契機にして、民主主義国になるチャンスがあったにもかかわらず、憲法の第一条に天皇条項を書き入れることで、天皇制を温存してしまいました。日本の封建制度の始まりは天皇制です。支配者が、天皇か征夷大将軍かの違いはありますが、天皇制も立派な封建制度です。
その結果、アメリカから押し付けられた民主主義と、歴史と伝統に縛られた天皇制と封建制度を混ぜ合わせ、民主主義風王政並立封建制度という国体が生まれました。
つまり、今でも、歴史と伝統の支配が続いているということです。この国は、基本的に、今でも、封建制度の国です。民主主義国ではありません。「お上」と「下々」という意識は、一度も失われたことがありません。
ですから、先程挙げた「未来のトリセツ」は、誰もが、「お上」の仕事だと思っています。
その勘違いを治さなければ、どんな提案も実現しません。本来、「未来のトリセツ」は、国民が、自分の責務として成し遂げねばならないことなのです。
しかし、国民の皆さんに、その気はありません。皆さんは、自分が「下々」だと信じ切っています。自分に責務があることを知りません。
言葉の定義から始めるしかありませんが、国民の皆さんは動きません。
ですから、今、進行している、この国の崩壊を止める方法は、ないのです。


2023-02-02



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耐えてください [評論]



「日本の自殺」という本がある、そうです。
約50年前に、月刊誌文芸春秋に発表された「日本は没落する」という論考が一冊の書籍になったものだそうです。私は、いつものように、本文は読んでいません。
宣伝文句を読んで買うと、いつも後悔しますので、買いません。
宣伝文句というものは、その本の本質を紹介するものなので、宣伝文句以上の中身が本に書かれているわけではないようです。つまり、宣伝文句だけで充分なのだと思います。
「日本の自殺」という論考も、「このままだと日本は没落するから、何とかしろ」という警鐘なのですが、警鐘が役に立ったという歴史的事実は、どこかに存在しているのでしょうか。
多分、警鐘は警鐘で、現実とは無縁のものということなのだと思います。
多分、どう抗っても、壊れるものは壊れるし、死ぬものは死ぬのだと思います。
私も、何とか気付いて欲しいと思って、日本崩壊とか国力衰退という警鐘を鳴らしていますが、何の役にも立ちません。これは、私のブログが弱小ブログであることが原因ではないのかもしれません。警鐘を鳴らしている人は大勢います。お偉い学者先生の警鐘でも、何も変わらなかったのですから、警鐘そのものに意味がないのかもしれません。
ですから、この国は、壊れます。これは、必然なのだと思います。
この国には、壊れる条件が満載なのですから、仕方ありません。
問題は、「壊れたら、どうなるのか」ですが、国民生活は、金正恩のいない北朝鮮になると想像してもらえばいいと思います。
多分、そんなことは、それなりに、多くの方が想像していると思いますが、それでも、何も出来ずに、壊れてしまうのだと思います。
その通りなのでしょうが、歴史や必然に抗ってでも、抵抗したいというのも、人間の性なのでしょう。私も、抵抗したいです。個人の力なんて、屁のツッパリにもなりませんし、勝ち目はありませんが、それでも、抵抗したいです。

さて、「日本の自殺」では、ローマの滅亡も、来るべき日本の滅亡も、その原因は「自壊」だとしています。だから、タイトルが「自殺」になっています。
仮に、中国に征服されて、中国領日本自治区になったとしても、真の原因は、中国による征服ではなく「自壊」なのだとしています。
「自壊」の原因は、思想の欠如だとしています。
私も、そう思います。
ただ、問題は、その思想です。
新しい思想を生み出すのでしょうか。
無理だと思います。
では、既存の思想を、どう利用するのでしょう。
仮に、日本に相応しい思想が見つかったとしても、その思想に基づいた行動をしなければ、思想は何の役にも立ちません。
新しい思想と哲学が必要ですが、そう簡単には生まれません。この先、生まれるかどうかもわかりません。
ですから、代用品を探すしかないのだと思います。
既存の西欧の思想の新解釈でも、中国の思想の新解釈でも、日本独自の思想でも構いませんが、どうしても欠かせないものが整合性だと思います。
その上で、その思想が、日本人の行動原理になるのであれば、この際、どんな思想でもいいと思います。
ただ、思想が存在していたとしても、思想の存在と思想の実践は、全く、別物であり、実践しなければ、どんなに立派な思想であっても、何の役にも立ちません。
「日本の自殺」のように、学者先生の書くものは、リアリズムに欠けるようです。過去の事象は的確に捉えますが、未来のことは、曖昧に書きます。警鐘にはなりますが、提案にはなりません。学術書は、多分、そういうものなのだと思います。提案らしきものはありますが、曖昧な、ふわふわしたものです。

ここで、「日本の自殺」を書いた人達の対応策を見てみましょう。
第一に、国民が狭い利己的な欲求の追求に没頭したとき、経済社会は自壊する。
第二に、国民は自分のことは自分で解決するという自立の精神をもたねばならない。福祉主義はそれを壊す。
第三に、エリートが「精神の貴族主義」を失って大衆迎合に陥ったときに国は滅ぶ。
第四に、年上の世代はいたずらに年下の世代にへつらってはならない。
第五に、人間の幸福は決して賃金の額や年金の多寡や、物量の豊富さによって計れるものではない。
どの提言も、至極、真っ当なものです。
でも、この提言が、役に立つとは、とても、思えません。
誰が、実践するのでしょう。
いや、実践するモチベーションは、どこにあるのでしょう。
更に、「日本は没落する」という確固たる認識を持っていない人達が、何か、行動することなんてあるのでしょうか。漠然とした不安では、行動に結びつきません。
スローガンでは、いや、思想であっても、現実は変わりません。
言葉は必要です。しかし、それ以上に必要なのが、行動です。
そして、厄介なことに、言葉と行動の間には、とてつもないほどの距離があるのです。
「日本の自殺」を書いた人達の提言は、「絵に描いた餅」だということです。
別に、私は、「日本の自殺」という提言にケチをつけているのではありません。
上記の提言を実現するのは、リーダーを含む国民です。そのことを、国民には責務があることを、誰一人、知らないのです。だから、「絵に描いた餅」になるしかないのです。

私は、言葉の定義をして、目的と責務を見つけませんか、と提言しています。
私の提言は、思想ではなく、あくまでも、その代用品ですが、それでも、その構築そのものが、ほぼ、不可能です。それは、私が、国民の皆さんに、自ら、言葉の定義に参加してください、と言っているからです。しかし、国民の皆さんは、間違いなく、参加してくれません。国民の皆さんにとっては、国家崩壊でも、他人事に過ぎません。「俺には関係ねぇ。それは、お上の仕事だ」と信じています。この国が、国民を、そういう国民にしたのです。
では、現状の「なあ、なあ」「まあ、まあ」体制で「利」を得ている人達が、政治家、官僚、学者、メディアの皆さんが、言葉の定義をして、目的と責務を明確にすることがあるのでしょうか。いいえ、ありません。なぜなら、「利」を失うからです。
つまり、私の提言も、「絵に描いた餅」なのです。
ただ、言葉の定義をする目的は、国と国民の目的と責務を明確にすることです。目的と責務が明確になれば、行動のモチベーションが生まれますので、実践の可能性が生まれます。
ただ、実際には、国民の皆さんが、言葉の定義をすることはないと思いますので、どう転んでも「絵に描いた餅」です。まさに、「れば、たら、もし」でしかないのです。
それでも。
ドツボに落ちるのは、国民の皆さんですから、国民の皆さんには、言葉の定義をする動機があります。そこに、一縷の望みがあると信じて、くどくどと、言葉の定義という提言をしていますし、続けていきます。
もちろん、奇跡でも起きない限り、実現することはありません。それでも、奇跡が起きることを願い、提言し続けるしかないのです。「徒労」以外の何ものでもないと思いますが、言葉の定義しか、「子供達の未来を守る」方法は、ないように思えてなりません。
私の目的は、「子供達の未来を守る」ことです。
実は、皆さんの目的も、「子供達の未来を守る」ことなのです。生命体の究極の目的は、「永遠」です。そのためには、「子供達の未来を守る」しかないのです。
もしも、「子供達の未来を守る」方法があるのであれば、言葉の定義なんて必要ありません。「なあ、なあ」「まあ、まあ」でも、歴史と伝統でも、「お上」と「下々」でも、共産主義でも、何でも構いません。
でも、今のままでは、子供達の未来は守られません。これだけは、確信できます。
しかし、どうすればいいのか、わかりません。
どうすれば、国民の皆さんが参加してくれるのか、全く、わかりません。
50年前に提言された「日本の自殺」は、錚々たる方々が提案したことだと思います。
しかし、この国は、何も、変わっていません。
この危機を、お偉い学者先生方が知っていても、役に立たなかったのです。
国民が「ヤバイ」と思って、行動してくれなくては、山は動かないのだと思います。
しかし、それを知らせる方法がありません。
私は、発信力のあるいろいろな方に、いろいろな団体に、言葉の定義について提案しましたが、反応は全くありませんでした。
国民の皆さんに、この危険を知らせる方法は、その対処方法を知ってもらう方法は、この弱小ブログしかないのです。
「日本の自殺」を書かれたお偉い学者先生方の提言も、名もなき貧乏人の私の提言も、この国の衰退を止めることはできないようです。
ですから、この国は滅びます。
いつの日か、誰もが「崩壊」を認めざるを得ない環境になります。
ずるずると、今の状態が続き、崩壊の度合いが大きくなった後、多くの皆さんが壊れたことを認めるような状況が生まれ、そこから、騒ぎが大きくなるものと思います。その契機になるのは、世界恐慌、円安、国債破綻、戦争、災害と数多く存在します。しかし、真の原因は、「自壊」です。衰退し続けているこの国が、変化に耐えらないことが致命傷です。

ま、今でも、手遅れなのですから、その時点で騒いでも対応策はありません。この国が、皆さんの目の前で壊れていくのを、皆さんは、見ている事しかできません。
自分の生活も壊れるのですから、かなりの苦痛を伴うことになると思います。
でも、耐えてください。他に、選択肢はありません。時間を遡れば、選択肢はあったのですが、皆さんは、それを選ばなかったのです。耐えてください。


2023-02-01



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津々浦々 [評論]



今日は、地域発の「時の話題」です。
日本の、兵庫県の、明石市の、市長の話題、です。
天下国家を左右するような話題ではありませんが、根っ子は同じ「文化」の副作用です。
津々浦々、人々の心の隅から隅まで、影響を与えて、この国を雪隠攻めにしている文化という課題を書きます。文化とは、そういうものですから、変えるのは容易なことではありませんが、それでも、ここまで追い詰められたら、そこに手を付けるしか選択肢はないのではないかと思います。

市長も権力者の一員ですが、その影は薄いと思います。市民の中には、自分の住む市の市長の名前を知らない人もいると思います。それでも、住民にとっては、一番身近にいる権力者です。
この国には、約800の市があります。ですから、約800人の市長がいます。
市の運営は市長と市議会が両輪となって行われます。それは、市長も市議会議員も選挙で選ばれるからです。
建前は立派なものですが、市議会議員選挙の投票率は、市長選よりも低く、その権力に正当性があるのかどうかは、とても、疑問です。いや、有権者の大半が「なあ、なあ」「まあ、まあ」で投票しているのですから、選挙そのものに意味がありません。選挙は、単なる儀式になってしまっています。
一般市民は、「俺には関係ねぇ」とか「誰がやっても同じだろ」とか「何も変わらないだろう」と思っているので、投票には行きません。利害関係、義理等に縛られた人達だけが、自分の信条とは無縁の行動をした結果が、今の市政なのだと思います。特に、村の掟が残っている地方では、長老の意見で投票先が決まります。重大な責務を負っている主権者であるという意識は、希薄です。いや、ゼロです。
そのことで、違和感を持つ人はいません。「こんなもんだろう」で終わりです。これも、歴史と伝統の一面です。縄文時代には存在していたと思いますが、「自分達で自分の街を運営しよう」という、民主主義の原点は、もう、この国に存在していません。市は、「お上」の出先機関なのです。今でも、「お代官さま」は存在しているのです。それが、たまたま、選挙という儀式を通過しているために、あたかも、民主主義のように見えるのです。もっとも、これは国政でも同じです。
選挙が儀式になっている原因は、この国が、民主主義風王政並立封建制度という国体だからです。これも曖昧文化が生み出したものです。民主主義も天皇制も「お上」と「下々」という封建体制も包含した体制なのです。3つの体制は、どの体制でも、他の体制とは排他的な関係にあるのに、それらを全て包含したものが、この国の統治システムなのですから、国体そのものが、矛盾を受け入れている体制なのですから、「お上」は、基本、何をやってもいいのです。
ただし、「国民のため」「皆さんの生活のため」という言葉だけは必要です。風味だけですが民主主義という文字がありますから、封建制度下の江戸時代と違って、言葉は必要です。でも、言葉だけでいいのです。
「お上」にとって、これほど美味しい仕組みはありません。解釈次第で、何でも出来るのです。逆に、何もしなくてもいいのです。最終的には、国民が責任を取ってくれるのですから、責任を取る必要もなく、笑いが止まりません。
時代ごとに、多少の違いはありますが、この仕組みが、2000年も続いているのです。
これが、世界に誇る、日本の歴史と伝統です。
そんな環境の中で、事件は起きました。
「市長暴言事件」です。
明石市長の暴言は、数多くあるようですが、辞任に至るような大きな事件になったのは、2件です。
最初の事件は5年前です。
記事によると、「2017年6月に、遅れていた道路拡張工事の立ち退き交渉を巡って市役所職員に対し「あほちゃうか。火をつけて捕まってこい。燃やしてしまえ」と暴言を浴びせていたことが19年1月の報道で発覚した」「これを受け泉氏は2月に辞職」「3月の市長選挙に改めて出馬し、投票者の7割の票を得て当選した」そうです。
二度目の事件は、昨年の10月。
記事によると、「『問責なんか出しやがって。ふざけとるんか』と、『お前ら議員なんかみんな落としてやる』と、そういうふうなことを言われまして。30万都市のリーダーたるべき方が発せられる言葉ではないというふうに思いますね」(明石市議会 榎本和夫議長)。
市長は別の女性市議にも「お前、問責に賛成するなら覚えておけよ」と繰り返し発言したということで、泉市長はその日のうちに2人に謝罪の電話をかけています。その後、2023年4月の任期満了で、出馬しないことを表明した」そうです。
文字にしてみると、ほんとに、下らない争いに見えます。
でも、よくある争いでもあります。
市長本人は認識してないかもしれませんが、多分、自分がぬるま湯に入っている一員であるという認識がなく、半覚半睡状態の周囲の人達が出す空気にイライラしていたのだと思います。周囲の人は、皆さん、同じ空気の中で生活していますので、違和感はないのでしょうが、目を醒ましている人にとっては、イライラの元になります。
一方、半覚半睡状態が秩序だと信じている人達にとっては、なんで、暴言をぶつけられるのか理解できないと思います。怒りまで覚えます。普通は、「場を弁え」「荒波をたてず」「大人の対応をする」ことが常識なのです。
いわゆる、「なあ、なあ」「まあ、まあ」が最善の処世術なのだと思います。
多分、800の市の大半の市政は、「なあ、なあ」「まあ、まあ」の論理で行われているものと推察します。それが、市政の歴史と伝統なのだと思います。
そんな中で、時折、まれに、異端者が出現します。
明石市長も、そんな異端者の一人だったのだと思います。
「口は禍の元」という諺がありますが、明石市長は、それを実践しました。
もちろん、私には暴言を批判する資格はありません。このブログでは、明石市長の暴言なんて「愛ある助言」にしか聞こえないような、ひどい暴言を、数多く書いています。
この暴言事件の根っ子にあるのは、「なあ、なあ」「まあ、まあ」という自治体行政の実態だと思います。それに、ブチ切れたのであれば、その気持ちは、よくわかります。
明石市長は、「大人の対応」が苦手だったのでしょう。

ただ、明石市は、子育て世代の人達に人気の市です。
市長の独断と偏見による市政ですが、子育て支援が充実していて、人口が増えています。人口減少の時代に、地方都市なのに、人口が増えているのです。
議員や職員にとっては天敵かもしれませんが、市民にとっては「良き市長」です。
「なあ、なあ」「まあ、まあ」で市民を犠牲にする市長と、議員や職員に暴言を吐くけど、市民のために働く市長と、どちらがいいのでしょう。
確かに、暴言も吐かず、市民の生活を優先してくれる市長が理想なのでしょうが、現実に、そんな市長はいるのでしょうか。そのためには、「なあ、なあ」「まあ、まあ」と市民生活を両立させる必要がありますが、カネか絡みますので、至難の業です。
意識的に市民に対する施策を実施しなければ、市民生活は向上しません。議員と関係のある人達だけが美味しい果実を食べる社会は、衰えます。これまでの利権行政が、これからも続く利権行政が、地方衰退の一因であることは間違いないと思います。
この構図は、明石市に限ったことではありません。
歴史と伝統に培われた社会のあり方が、市民の利益の最大化を目指したものではないことが、特定の人達だけが得をする社会のあり方が、間違っているのだと思います。それは、この国が民主国家ではないことに起因しています。日本の民主主義は風味にすぎません。
そんな社会ですから、個人的には、市長の暴言を容認したい気持ちのほうが大きいです。
民主主義を定義し、本気で、選挙制度を変えれば、日本は変わります。
できれば、議員や職員の皆さんが、ぬるま湯から出る方法で解消して欲しいと思いますが、そんなことが実現することはありませんので、民主主義で利益を得られる国民が気付き、本物の民主主義の国になればいいだけなのではないかと思ってしまいます。
しかし、そんな議論は、1ミリも存在していません。
議論しましょうよ。
言葉の定義をしましょうよ。
津々浦々、人々の心の隅から隅まで埋め尽くしている曖昧文化を変えなければ、この国は変わりません。私達の社会では、「まやかし」という怪物が暴れ回っています。報道の大半は、その結果が表面化したものばかりです。そして、この「まやかし」という怪物を増長させているのが曖昧文化です。曖昧は、庶民にも、小さく、ささやかな「利」がありますが、為政者には「巨利」があるのです。だから、為政者は、積極的に曖昧文化を広めたのです。私達は、民は、そのことに気付く必要があります。今や、「利」よりも「不利」のほうが大きいと思います。

市長と対立しているのは、自民党と公明党の議員のようです。
議員の方の気持ちも理解できます。私が自民党の市議会議員だったら、同じようなことをしたと思いますので、理解できるという意味で、決して、擁護はではません。
自分達の利権の源資である予算を、子育て支援へ振り向けられ、それまで美味しかった予算が減ってしまったのです。何のために議員をやっているのか、忸怩たる思いがあったのでしょう。「これじゃ、苦労して議員になった意味、ないじゃん」と思っているかもしれません。
議員の正義の中には、美味しい果実も含まれていたということなのだと思います。この正義は、いや、利権は、日本全国にある正義であり、利権なのですから、彼等は、正しいと信じて疑いません。子供が、「〇〇が欲しい、みんな持ってるもん」「皆って、誰よ」「AちゃんもBちゃんも持ってるもん」という理屈と同じです。母子の会話の中で、〇〇が子供に必要かどうか、ではなく、皆と一緒のものが欲しいという要求です。自民党議員にとって、利権は、歴史と伝統に培われた正義なのだと思います。
しかし、変人の明石市長は、自民党議員の利権を奪えば、人口が増える自治体になれることを、証明してしまいました。市長は、「どこの自治体でも、出来ることなんです」と言っています。「もちろん、国でも、出来ます」と言っています。自民党議員にとっては、明石市長は、既存の価値観を壊す、歴史と伝統を蔑ろにする極悪人なのだと思います。
では、明石市ではない自治体で、これが実現できるのか、と言うと、先ず、無理です。
明石市長のような変人は、他の自治体にはいないと思います。市長である泉房穂氏の個性があって成り立つことなのだと思います。
しかし、特別な個性がなくても実現できる方法があります。
それが、言葉の定義です。
「民主主義とは」「市政とは」「市長とは」「市議会議員とは」「住民とは」という言葉を定義すれば、どこの自治体でも実現可能となります。
では、それを実現するのは、誰ですか。
自民党議員がやりますか。
彼等が、墓穴を掘るようなことをすることはありません。
利益を得られるのは市民です。市民がやるしかないのです。牡丹餅が落ちてくるのを待っていたのでは、生活は変わりません。
民主主義というのは、市民にとって美味しいシステムなのに、どうして、気が付かないのでしょう。ほんとに、不思議でなりません。
子育て支援に予算を使ってくれたら、助かる市民は大勢いるのです。泉房穂明石市長がいなくても、言葉の定義をすれば、それが手に入るのです。

泉房穂明石市長は、立候補しないと言いましたが、まだ、安心できません。
地域政党を立ち上げて、市議会議員になりたい人を公募しています。5人内定したという噂もあります。市長選挙へは子供政策を推進してくれる人を推薦するようです。もしも、大阪の維新の会のように地域政党として幅を効かせるようになったら、大変です。自民党議員の利権は、ますます、遠ざかります。
明石市の混乱を見て、維新の会も候補者を立てるという噂まで出ています。
利権が少なくなっただけではなく、落選の危険まで生まれてしまいました。
暴言を告発し、天敵を退治するはずが、敵は、牙をむいてきたのです。
自民党議員の皆さんは、どうするのでしょう。
「暴言ごときで騒がなければよかった」と後悔することになるかもしれません。
そもそも、暴言をぶつけられた時、どうして、得意の「なあ、なあ」「まあ、まあ」で対処しなかったのでしょう。多分、「俺は、お偉い議員様だぞ」という驕りがあったのではないでしょうか。


2023-01-05



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真正面から向き合う [評論]



国民の皆さんも、漠然とは感じていることだと思いますが、この国は壊れ始めています。
皆さんも、「なんか、ヤバそう」と思っているのではないでしょうか。
昨年は、「国力低下」とか「国力衰退」という言葉が数多く出てくるようになりました。数年前は、このブログでしか使われない言葉でした。今年も、その傾向は続くと思います。もしかすると、流行語になるのかもしれません。
12月に恒例となった「今年の一文字」があります。その年に起きた、既に、過去に起きた社会風潮を表す一文字だとすると、今年の一文字が「衰」とか「壊」にならないことを願います。昨年は「戦」でした。
実際に壊れていることを目の当たりにしているから、このような言葉が出てくるのです。
その証左を数字で見てみます。

国の債務残高が、GDP比260%になっていることは有名です。
日本は、毎年、借金経営を続けている国なのです。
しかし、「ここまで借金しても破綻しないのだから、この先も、大丈夫だろう」というのが多くの方の認識です。
それは、違います。
破綻してしまった時のダメージが半端ではありません。
財務省の官僚の皆さんが追い詰められるだけではありません。国民生活が、ズタズタに切り裂かれるのです。
後講釈であれば、なんとでも言えます。
破綻してから「やはり、無理だったか」「俺も、心配してたんだ」なんて言ってみても意味ありません。
破綻は、明日かもしれませんし、5年後かもしれませんが、間違いなく、破綻します。
冷静に見れば、誰にでもわかることです。MMT論者や借金経営で恩恵を享受している人は、いろいろと言い訳を述べますが、借金経営を続けることができないことくらい、誰にでもわかることです。皆さんは、薄氷の上に立っているのです。何らかの外力が加わるか、温度変化があるか、誰かが氷上で暴れれば、氷は割れます。今は、奇跡的に、氷が割れていないだけだと思います。

日本人の給料は上がらない、と言われます。
では、対前年比で、賃金上昇率はどう変化しているのか見てみます。
1954年は、前年比104.8%の上昇でした。
1961年に、前年比112.1%になりました。
1974年に、前年比124.1%上昇を記録しました。
1977年に、前年比107.9%になりました。
2001年に、前年比99.0%になりました。
2020年の上昇率は、前年比100.7%です。
上の数字は平均値ですが、中身が変化しています。
2021年の平均年収は、443万円だそうです。
ただ、2極分化が進み、中小企業の社員の給料は減少傾向にあります。勤労者の53%が400万円以下になっているのは、そのためです。日本は、99.7%が中小企業なのですから、仕方ありません。
2000年以降、100%を切ったり越えたりしていますが、安定して、およそ100%です。それは、中小企業の貧乏人がますます貧乏になっているということです。特に、一人親世帯は、大変苦しい生活を強いられています。充分な栄養を摂れない子供達が大勢います。
これって、壊れているのではありませんか。

少子高齢化により、社会保障費の増加が止まりません。
国は、借金経営ですから、ともかく、カネがありません。
国民から搾り取るしか方法がないのです。
企業に定年年齢の延長をお願いし、年金保険料を払ってくれる人を確保しています。
国民年金保険料の納付年限も5年延ばしました。
パートもアルバイトも、厚生年金に加入させ、保険料を納付してくれる人を増やしました。
今は、年金支給開始年齢は選択可能ですが、この先、年金支給開始年齢が変更されます。70歳、75歳に変更されると言われています。
65歳で年金を受給した人が平均寿命(85歳)まで生きると、20年ですが、その受給開始年齢を75歳にすれば、年金支給額は半額で済むという計算のようです。
もう、あの手、この手、で繕わなくてはならない状態です。

防衛予算の増額方針が決まりました。その財源の中に「歳出削減」という項目があり、年間3兆円の歳出削減が盛り込まれています。歳出削減が可能なのであれば、なぜ、今まで削減をしなかったのでしょう。簡単に歳出を削減できるのであれば、3兆円ではなく、43兆円全額を歳出削減で賄えないのでしょうか。
ここからは、私の勝手な憶測に過ぎません。削減対象になった歳出は、どこかで、その費用を賄える目途が立たねばなりません。検討されている方策の1つが、生活保護受給者の医療費(約1.8兆円)を国費で負担するのをやめて、国民健康保険会計から払うという制度変更です。形の上では歳出削減になります。結果、国民の皆さんが支払う保険料が上がり、それで肩代わりするということになります。玉突き方式しかないと思います。歳出増を、税金、保険料、国債という名前に変える、いわゆる玉突き方式で誤魔化すしかないのだと思います。もしも、私の憶測が当たっているとすると、増税(1兆円)よりも多い額が保険料負担で賄われることになります。多分、「社会保障の質の向上」というような謳い文句が生まれるのではないかと思います。私は、これまで、何度となく「生活保護保険」の可能性に言及してきました。医療費は、その第一弾になるのかもしれません。「生活が苦しい人達を皆さんで支えてください」というスローガンは、いつ出てきても不思議ではありません。税金よりも保険料のハードルが低い理由が、よくわかりませんが、国民負担という意味では同じだと思います。
四苦八苦です。弥縫策の連打です。これって、壊れているのではありませんか。

出産育児一時金という制度があります。少子高齢化対策としては必要な施策です。しかし、財源がありません。そこで、75歳以上の後期高齢者にも負担してもらうことになりました。もう、形振りは構っていられないと言っているようなものです。
子供手当の財源もなく、施策が宙に浮いています。

そんな中、庶民の生活を苦しめているのが、物価高です。
光熱費の高騰が顕著ですが、生活に必要な多くの商品が値上げされています。
値上げされた品目は、作年は、約2万品目でした。今年の春には、第2波の値上げラッシュがやってくると言われています。光熱費は継続して値上げされます。
世界的な資源価格の高騰を受けて、電力自由化で誕生した新電力という会社が立ち往生しています。約20%の企業が、倒産や廃業、電力事業の契約停止や撤退に追い込まれました。
ギシギシという音がしているようです。
秩序が失われているように見えます。これも、壊れている証左です。

まだ、数字にはなっていませんが、今年から、廃業・倒産の第1波が始まると予測されています。それは、一部で、コロナ借金の返済が始まるからです。そんな時期に、日銀が長期金利のイールドカーブを変更しました。世界は、金融緩和政策の変更と捉え、円相場も変動しました。ただ、今年は、日銀総裁が交代する時期です。もし、短期金利政策が変更されたら、20万社と言われるゾンビ企業は資金繰りが難しくなります。資金繰りが出来ないということは、倒産するということです。倒産よりも廃業を選ぶ企業もあると思います。ゾンビ企業だけではなく、大企業でも倒産する会社が出てくると思います。
この先、もっと、一般国民の目にも「壊れる様子が見える」ようになるのです。
これが、国力衰退の実態なのだと思います。

1つ1つの事象を見ていると、「まあ、こんなことも、あるよな」で終わってしまうのかもしれませんが、視線を引いて全体を見ると、「ヤバイ」ように見えます。ここに挙げたこと以外にも、衰退の兆候は数多くあると思います。
これ、放置しておいて、いいのでしょうか。
国が発展途上にある時にも、問題は数多くありますが、発展が打ち消してくれます。
いつの時代でも、課題はあるものです。しかし、今は、問題が深刻に見えます。
それは、国が衰退途上にあるからだと思います。
ですから、この国力衰退問題は放置しておいてはいけないのだと思います。
しかし、衰退の原因に迫る本物の対策が講じられていません。
弥縫策に忙しくて手が回らないのだとすると、衰退は進むだけです。
衰退の先に、何か希望はあるのでしょうか。
いいえ、衰退の先にあるのは、間違いなく、滅亡だと思います。
だとしたら。
私達は、この国力衰退問題の原因に真正面から向き合うしかないと思います。
どうか、一日も早く、気付いて欲しいです。
ただ、この国力衰退という問題は、余りにも大きく、余りにも根深い問題ですから、簡単には対処できません。
金融政策でも景気政策でも労働政策でも社会政策でも、役に立ちません。
構造改革でも、生産性向上でも、追いつけません。
もう、これまでのような「なあ、なあ」「まあ、まあ」では、無理なのです。
文化を変えないと、真正面から向き合えない問題なのだと思います。
政策や手法や制度では、方が付かないものがあります。国力衰退も、その1つです。
最後は、人間力に頼るしか道はないと思います。それも、1億2千万人の人間力を結集することでしか解決しない問題なのだと思います。それを実現したのが戦後復興です。何度でも再現することは奇跡とは呼びません。ですから、戦後復興の奇跡は二度と起きることはないのでしょう。でも、今、この国に必要なのは、その奇跡だと思います。
数千年をかけて築き上げた文化を変える国なんて存在しないと思いますが、でも、もしも、それができれば、それも奇跡なのだと思います。
そのことに気付いている人がいません。ゼロです。
国家運営に携わっている政治家や官僚だけではなく、学者や有識者と呼ばれる人達も気付いていません。最も致命的なことは、国民の皆さんが、「俺には関係ねぇ」と思っていることです。これでは、希望の欠片もありません。ゼロなのです。
私は、諄いほど「文化を変えましょう」と書いていますが、誰も、取り合ってくれません。「お前、なに、寝言、言ってるの」としか思われていないのだと思います。ほんと、不思議なくらい、気付いてくれる人がいません。
しかし、時間は、どんどん、進みます。衰退も進みます。
誰も気付かないのですから、希望は、全く、ありません。
行き着く先は、ドツボです。
皆さんがドツボに落ちるのを見ているしかないのです。
ほんとに、悲しいことです。


2023-01-04



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安全保障 [評論]



今、欧州では、嵐が吹き荒れています。
滅多に洪水なんて起きないポルトガルでの洪水の話ではありません。
インフレという嵐です。
イギリスとドイツは10%を越えていますが、フランスは7%と健闘しています。しかし、東欧諸国は、どの国も20%を越えるインフレです。食料品に限れば30%から40%のインフレです。
なぜ、こんな事になってしまったのでしょう。
経済のグローバル化の副作用だと思います。
人は、すぐに忘れてしまいますが、何事にも前提条件があるのです。
経済のグローバル化にも、前提条件がありましたが、グローバル化に慣れてしまって、その前提条件を忘れていたのです。
その前提条件とは。
世界が仲良くしてい「れば」
パンデミックが起きなけ「れば」
異常気象にならなけ「れば」
前提条件が成り立たなくなった時の措置を用意してい「れば」
いろいろな「・・・れば」が成り立たなくなった結果です。
「れば、たら、もしも」は、必ず破綻します。これも、社会の原則です。
特に、生活必需品を輸入に頼っていた時に、大きな影響があります。
兵器や自動車や時計やブランド商品が輸入できなくなっても、庶民は困りません。
しかし、エネルギーや食糧を輸入に頼っていると、前提条件が成り立たなくなった時に痛い目に遭うという事例が、世界各地で起きているのです。
どこの国でも、経済的な利益が優先されます。それは、仕方ありません。
しかし、経済的利益よりも優先しなければならないものがあるのです。それが、改めて、認識されたのが今回のインフレの教訓です。事前対応が必要だったのです。そして、この事前対応こそが国の仕事です。
安全保障の観点からは、価格は重要ではありません。エネルギーは、パチンとスイッチを切り替えるようには変わりません。かなり長い時間が必要です。ですから、エネルギー安全保障は、国の仕事なのです。国が、安全保障対策をしなかったことが、インフレを招いています。これも、国家運営の失敗です。
万全の国土防衛政策をしなかったために、ウクライナはロシアの軍事侵攻を許してしまいました。これも、国家運営の失敗です。
国土安全保障、エネルギー安全保障、食料と水の安全保障は、国が責任を持って対応しなければならない仕事です。もちろん、経済安全保障、社会安全保障、労働安全保障、環境安全保障も重要ですが、国土安全保障、エネルギー安全保障、食料と水の安全保障は、最重要課題だと思います。
さて、日本は、これらの安全保障は万全なのでしょうか。
いいえ、大変、危険な状態です。
太古の昔から、衣食住は、生きていくために、欠かせないものです。
「衣」は、体温を維持するためのものであり、今は、エネルギーです。
「食」は、文字通り、食料です。人間は栄養を補給しなければ生きていけません。
「住」は、安全を守るための住処です。国防は、そのために必要です。
誰でも知っていることです。
しかし、平時には、自国生産のものでも、輸入されたものでも、問題はありませんので、不都合を感じないために、つい、疎かにしてしまいます。
ウクライナでは、多くの国民が死んでいます。生活も苦しくなっています。実際に、衣食住が壊されているのです。それなのに、ウクライナのインフレ率は26%にもなっています。踏んだり蹴ったりです。どの国でも、国家運営に失敗すれば、ウクライナになるということです。それが、国家運営の不作為から生まれていることに気付いて欲しいです。
日本の国土安全保障、エネルギー安全保障、食料と水の安全保障は。どれをとっても、危険な領域にあります。それは、国が仕事をしていないということです。それは、国家運営を請け負っている皆さんが、自分の利益しか考えていないということです。特に、政治家のお偉い先生方は、選挙のことしか関心がありません。彼等にとって、国民や国民生活は、「俺には関係ねぇ」存在なのです。いや、国民は票を入れてくれる人であり、守るべき対象ではないのです。
国家運営の仕事に就いている人は、どこの国でも高給取りです。インフレになっても、困窮するということはありません。しかも、どこの国でも、彼等は税金で生活しているのです。その税金を払っているのは国民なのに、国家運営に失敗した時は、国民が責任を取り、被害者になるのです。
これは、間違っていると思います。
それは、国民が、平時に、何も言わないからです。お偉い先生方の好き勝手を認めていれば、彼等も人間なんですから、自分の利益だけを考えるようになります。ですから、常に、言うべきことを言わなければならないのです。いや、言わないほうが悪いのです。性善説は、稀に起きることはあっても、それは、たまたま、だと思う必要があります。だって、人間なのですから。
ですから。
「お偉い人達が、何とかしてくれる」なんてことは、幻想に過ぎません。
お偉い人達のほうが、欲の皮は厚くできているのです。

「衣食住」の安全保障は国の責務です。
では、国民の責務は何でしょう。
悪しき潮流を作らないことです。
「いい人」を演じていれば、何とかなる、と思っていませんか。
それは、幻想にすぎません。
人間の心の内なんて誰にも見えませんから、人は、無意識の内に、「いい人」を演じます。でも、自分の心の内は、自分には、見えます。そこには、「いい人」の自分もいれば、「悪い人」の自分もいます。でも、「得をしたいから」或いは「損をしたくないから」は本能ですから、どうしても、「いい人」を演じます。これは、どうしようもないことだと思います。確かに、「いい人」を演じていたら、日常生活は、それなりに回ります。ですから、「いい人」を演じることは役に立つと考えてしまいます。
しかし、私達の生活にあるのは日常だけではありません。非日常が存在しているのです。非日常は危険です。その中でも、特に危険な非日常が潮流です。
一旦潮流が生まれてしまうと、個人の力ではどうすることもできません。「いい人」も「悪い人」も根こそぎ流してしまうのが、潮流です。
今、国力衰退というトレンドが、潮流へと変化しています。
これは、日常の対応では、どうすることもできません。
どれほど「いい人」を演じていても、潮流には敵いません。
つまり、「いい人」を演じているだけでは、立ち行かない場合があるのが現実なのです。
その顕著な例が、第二次世界大戦へと突き進んでいき、戦争という潮流に巻き込まれた日本です。戦前の日本人は、誰もが「いい人」ではなかったのでしょうか。そうではありません。ほとんどの日本人が「いい人」を演じていたのに、生活は根こそぎ壊されたのです。
今、また、同じことが起きようとしています。
それが、国力衰退という潮流です。
潮流の前では、いくら「いい人」を演じていても、何の役にも立ちません。
軋轢が出ることを承知の上で、「いい人」を演じることをやめなければならない時もあるのです。潮流が奔流になる前に、「いい人」を演じることをやめ、身を切る必要があります。その時に必要になるのが目的です。目的があれば、自分との折り合いもつけられます。
ただ、その事は、国民の皆さんが、自ら気付くしかありません。
その時に必要になるのが、言葉の定義なのだと思います。
ほんとに、言葉の定義が確立していれば、と思います。国の責務と国民の責務が明確になっていれば、国民の皆さんも気付くことができていたと思います。
どうして、誰も、そのことに気付かないのでしょう。
それが、文化です。曖昧を良しとする文化です。
あらゆることが、曖昧の中に溶けてしまっているのです。ですから、目的も責務も、何一つ明確なものはなく、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で終わってしまいます。
文化の壁は、それほど、恐ろしいほど、巨大な壁になっているのです。
人類史を見ると、過去に、文化が、国を、国民を消滅させたという事例がありますが、この国も、そうなる運命なのでしょうか。
国民の皆さんが気付かない限り、その危険は高いと思います。
こんなことを書いても、変人のヨタ話だとしか思われないのだと思います。確かに、私は変人です。自分でも、そう思います。でも、ヨタ話ではありません。現に、この国は壊れ始めています。それなのに、誰も、解決策を持っていません。
皆さんは、ご自分では気づいていないと思いますが、曖昧温泉に浸かって、「ふむ、ふむ」と言っている人なのです。そんな姿を、一歩引いて、客観的に見れば、きっと、皆さんでも笑ってしまうと思います。温泉の周囲の環境は悪化しています。湯温も下り始めています。
どうするのですか。
いつまで、「ふむ、ふむ」を続けるのですか。
先ず、曖昧という温泉から出ることをお勧めします。もちろん、定義をするという文化が心地よい環境だとは思いません。でも、国民にとっては、少しは良い環境になると思います。


2023-01-03



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群れる蟻 [評論]



岸田総理が、昨年の5月に、アメリカのバイデン大統領が来日した時に「防衛費を、GDP比2%にします」と約束しました。
なぜ、あんな大見得を切ったのか、未だに、私には理解できません。
だって、岸田さんは、「増税はしません」と宣言していたのですから、増税もせずに、この国が、これ以上の歳出増なんて出来る状態ではないことはわかっていたはずです。
確かに、未だに諸国民の信義を信じている一部の人を除き、多くの国民の皆さんは、ウクライナ戦争の報道を見て、「何となく」ではあっても、防衛力の強化が必要なことは認めています。
ただ、防衛力の強化は、言葉だけでは出来ません。
カネが必要なのです。
いや、カネ以上に重要なことがあります。それは、「なぜ、防衛力が必要なのか。誰を守るのか。ほんとに、守れるのか」という問いに対する答がないことです。いや、問い、そのものがありません。
カネも防衛力の必要性も、全て、曖昧の中に埋もれているのです。ですから、私達は、無駄なことに時間を割いているのです。「防衛とは」という定義が必要です。
戦争になれば、莫大な戦費が必要です。平時の予算の3倍は必要だと言われています。
では、仮に、年間300兆円の戦費が、10年必要だとすると、3000兆円のカネが必要になるということです。消費税1%の税収が2兆円だとすると、消費税を150%にしなければなりません。こんなこと、実現不能です。
だから、どこの国も戦争になれば、国債を、戦時国債を、発行するのです。
もちろん、戦時国債は、敗戦国になれば紙屑になりますが、他に手段はありません。
では、日本で、戦時国債が発行できるのでしょうか。
誰が、その国債を買ってくれるのですか。
銀行ですか、保険会社ですか、証券会社ですか、ファンドですか。
どこにも、そんな余力はありません。
これまで、金融機関が国債に投資している原資は国民から預かっている資産です。当たり前のことですが、国民資産以上の資金は、国内にはありません。皆さんの預貯金は、既に、過去の国債購入に使われてしまっています。
もしも、国民資産が2000兆円あって、それが手つかずで残っていたとしたら、7年程度は戦争をすることが可能です。でも、無い袖は振れません。
では、海外の金融機関が買ってくれるのですか。
敗戦国になる可能性がある国の国債を買ってくれる海外金融機関はありません。
それだけではありません。
今回、防衛力強化の議論で出てきたのが継戦能力という言葉です。弾丸が3日分しかない。弾薬保管庫がない。補給路が、補給能力がない。つまり、戦争になれば、日本は3日で無力になるという問題です。
更に、自衛隊員は20万人と言われていますが、戦争になれば死者も出ますし、負傷者も出ます。あっと言う間に数万人が戦線を離脱するのです。それは、ウクライナ戦争を見れば、一目瞭然です。しかし、人員補充ができません。
つまり、日本には、戦争遂行能力が無いのです。
それは、防衛費を、GDP比2%にしても意味がないということです。
そもそも、日本政府に、国民を守る意志はありません。これまでも、今でも、ご主人様であるアメリカが、日本を守ってくれると思っています。
岸田さんがやっているのは、言葉遊びです。政治家の言葉遊びのために、増税されるのです。国民を守るためと言って増税しても、実際には、戦費がない、弾薬がない、兵士がいない。これでは、国民を守ることなんてできません。これは、明らかに、詐欺です。

では、どうすれば、国を守ることが出来るのでしょう。
暫定的に、6つの項目を挙げてみます。
1. 税を納めてくれる国民を豊かにする。
2. 国の目的を作る。
3. 国の責務と国民の責務を明確にする。
4. 国民の国防意識を高める。
5. 財政赤字をゼロにする。
6. 徴兵制度を作る。
これ以外にも必要なことはあると思いますが、気付いた時点で追加します。
6項目、やる気になれば、出来ることばかりです。
ただ、今は、どの項目も手付かずのままです。
このままだと、なし崩しで、空気だけで、何となく、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で、戦争に突入することになります。第二次世界大戦の時と同じです。
日本の得意技ですが、どんな結果になるのかは、歴史が示しています。
更に、悪い条件があります。
それは、国が、日々、衰退していることです。
国民が、日々、貧しくなっていることです。
どう見ても、この国は、戦争なんて出来る国ではありません。
それは、今や最大の敵国になった中国の反応を見ても明らかです。もしも、日本の2%が中国にとって死活的に問題なのであれば、歴史問題、反日デモ、経済的ないやがらせ等々、あらゆる手段を使って対応しなければなりません。しかし、猛反対は起きていません。既に、中国にとって、日本は脅威ではないのです。なぜなら、彼等は、緻密な計算をしているのですから、日本が戦争のできる国ではないことを知っているのです。今は、日本から、古き良き技術を奪うことができれば、いいのです。軍事的には、今の日本は、東南アジアの国々と同じ比重しかありません。2%は、井の中の蛙にしか価値が無いのです。

それなのに。
上記の国防の前提を無視したまま、2%が独り歩きをしています。
しかも。
国防費という名の予算獲得競争が起きています。
岸田さんは、「防衛費を2%にするとは言ったが、兵器と兵員を増やすという約束はしていない。防衛関連費だって立派な防衛費だ」と思っているのかもしれません。
この先、国防費という名目で、いろいろな事業が生まれます。
年間5兆円という、真っ新な砂糖の山が突然湧き出したのです。
蟻が、あちらこちらから集まってきています。
しかも、その砂糖の山の財源は、増税と国債です。
こんな美味しい砂糖は、久しぶりです。
利権屋と呼ばれる蟻の手腕の見せ所です。
つまり、岸田政権も、与党も、国民を守るつもりはないということです。
もちろん、野党も、国民を守るつもりはありません。
それは、上記の6つの条件に手を付ける政権も政党も存在しないからです。
将来の国民の負担である国債と今の国民の負担である増税は、蟻の餌になるだけです。
それでも、国民の皆さんは「ぶー、ぶー」と言いながらも税金を納めます。
ほんとに、「いい人」です。いや、「いい人」もここまでやると「馬鹿」でしかないと思います。国民を守ろうとしない国に、なぜ、国民が貢ぐのですか。ホストに貢ぐオバサンと同じです。これは馬鹿のすることです。だって、日本は戦費が無くて、戦えないのです。戦っても、自衛隊員は無駄死にするだけです。
先月も書きましたが、国防費は、国民が負担するのが筋です。しかし、それは、前提条件が、上記の6つの条件が、満たされなければなりません。今のままで税を負担すれば、それは、皆さんのカネをドブに捨てるようなものです。
多分、国民の皆さんは、そんなことには気付かずに、不満はあっても、大人の対応をして、最終的には「ふむ、ふむ」と頷くのでしょう。
何と言っても、「お上」のお達しですから、「下々」を自認する皆さんは従うしかありません。それが、日本流の民主主義風王政並立封建制度の正しいあり方ですから。
先月、防衛力強化という課題は、総論賛成、各論反対に動くと書きましたが、増税に対する反発は、その空気は、既に、生まれています。左翼の皆さんが、指を咥えて見ているとは思えませんので、予測通りの展開だと思いますが、岸田総理は、また、口先で、増税を正当化しようとして、火に油を注ぎました。明石市の市長がツイートで、「岸田さん、もう、決断しなくてもいいですから・・・」と書いていたそうですが、岸田さんは決断をやめるべきなのかもしれません。「決断しない総理」が岸田さんに相応しい称号なのかもしれません。
先程も書きましたが、国防費は、本来は国民生活を守るための費用ですから、国民が負担するのが筋です。ところが、総理は、先程挙げた6つの要件を曖昧にしたまま、「今を生きる国民の責任として、増税の重みを背負ってください」と語りました。岸田さんの言っていることは間違っていません。しかし、国は何もしないけど、前提条件は無視するけど、予算は有難く使うけど、国民の皆さんを守ることは出来ないけど、国民は増税に耐える責務がある、と言っていることになります。これでは、国民の同意は得られません。流石にまずいと思ったのか、原稿に書かれていた「国民の責任」という言葉を、実際には「我々の責任」と言ったと修正しました。でも、これは言葉の問題ではありません。行動の問題だと思います。
国民の皆さんは、漠然としたものではありますが、6つの要件をおぼろげに知っているのです。それも、皆さんの不安感の原因の1つです。確かに、「いい人」ばかりの国民ですが、流石に、これは、「ふむ、ふむ」とは言えません。「ふむ、ふむ」とは言いませんが、税金は払います。それが「下々」の責務ですから。
「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義が確立していれば、こんなことにはならなかったと思います。
もちろん、言葉の定義が確立していたとしても、強かな蟻は、定義をかいくぐって砂糖を食べに来ますが、それでも、今よりは大きく改善されると思います。
先ずは、言葉の定義から始めることです。
それが、国防の基礎です。
言葉の定義が確立すれば、国力衰退も止められるかもしれません。


2023-01-02



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無知は大罪 [評論]



昨年の後半から体調を崩し、これまでのように書くことが難しくなってきました。
歳ですから仕方ありません。
もしも、更新が途絶えたら、「「ついに、くたばったか」と思ってください。
もう、この国は壊れ始めています。時間がありません。
全く、役には立っていませんが、「子供達の未来を守りたい」と願っています。

昨年の7月、経常収支の季節調整値が赤字になったそうです。
貿易収支ではありません。経常収支です。貿易収支は、ずっと赤字です。
これは、8年ぶりだそうです。
コロナ、ウクライナ、資源高騰、天候不順、円安等々の異常事態によるものであることは否定できませんが、では、今年からは、元に戻るのでしょうか。
そうはならないと思います。インフレに関しては、今年が本番になると言われています。
戻って欲しいとは思いますが、簡単なことではありません。それに、新しい異常事態と呼ばれるようなことは、常に起きるからです。それは、コロナ、ウクライナ、資源高騰が予測されていなかったことを見れば、予測されていた天候不順、円安に対して対応できなかったことを見れば、一目瞭然です。
つまり、今は、異常事態くらいでは、びくともしないほどの国の体力が必要とされている時代なのだと思います。
日々、体力が衰えている日本にとっては、厳しい時代です。
では、体力がないと何が起きるのでしょう。
いろいろな不具合が起きますが、これまでも、何度も言及しましたが、致命傷になるのが、円安です。
どんどん、衰退が可視化されてきたこの国に、投資をしようとする人はいません。
投資する価値のない国の通貨は、誰も相手にしてくれません。
海外でも、日本の経常収支の赤字は報道されています。
日本にとって、最後の砦であった経常収支が赤字転落したことで、中国の報道では、日本が、2023年にリセッションに入るとしています。確かに、円相場は、経常収支の黒字で維持されていた側面が大きいのですから、中国の報道が的中する可能性はあります。
一時的に150円まで円安になりましたが、あれは、日米の金利差による円安という側面が強かったからで、まだ、国力衰退は織り込まれていません。
私が心配している円安は、1ドルが、1,000円とか、10,000円という円安です。
いや、国際通貨としての価値を無くす日が来ることを心配しています。
タイのバーツ、リトアニアのリタス、トルコのリラ、チリのペソ、エチオピアのブルと同じ扱いの通貨になるのです。
「円安なんて、俺には関係ねぇ」と言う方もいると思います。
それは、勘違いです。
1ドル1000円になれば、電気代は今の10倍になります。もちろん、電気代だけではありません。生活費が、今の10倍必要になるのです。もしも、月額20万円で生活している人がいて、物価の高騰に連動させて、月収を200万円に高騰させることが可能なのでしょうか。いや、もっと、分かり易く言えば、20万円で生活をしていた家族に、明日から、「2万円で生活しろ」と言うことと同じです。
不可能です。
ただ、円安は、明日、突然、1000円になるわけではありません。ですから、多少の時間的な余裕はあります。多分、半年とか1年は、1000円にはなりません。それでも、300円でも、500円でも、耐えられないと思います。
そんな円安トレンドが、いつから始まるのか、誰も知りません。私にも、わかりません。
それでも、このままであれば、その日は、必ず、やってきます。素人の私でも、その程度のことは、保証できます。もちろん、私が保証したって、何の役にも立ちませんが。
しかし、この国では、そんな議論がありません。
かなりの数の人が、その事を知っているのに、誰も議論しません。
一致協力して、大人の対応をしています。
これで、いいのですか。
では。
なぜ、議論すらしないのでしょう。
その答は簡単です。
それは、誰一人、解決策を持っていないからです。解決の目途も立たずに議論すれば、責任論が出てしまうから、議論できないのです。
1ドル1000円の時代が来ることが予見できる人は、原因が「国力衰退」にあることを知っています。しかし、余りにも課題が大きすぎて、糸口さえ見つけられません。だから、議論ができないのです。
立憲民主党は「さあ、政権交代だ」と騒いでいます。
政権を交代して、どうするのですか。
立憲民主党の皆さんは、この国の「国力衰退」を、どうやって止めるのですか。いや、「国力衰退」という原因にさえ気付いていないのではありませんか。もし、原因を知っていれば、国会で、「政治とカネ」の議論ばかりしているのは、なぜ、なのですか。
もしも、立憲民主党の皆さんが、ほんとに、国民に対して責任を持っているのであれば、本物の議論をしなければなりません。口では、国民とか、国民生活という言葉を使いますが、何もしないのですから、選挙のためだとしか思えません。
社会党全盛時代もそうでしたが、国会で、何十年も「政治とカネ」の話しかしないのは、野党の皆さんも、国民生活を守るという行動をしていないということです。国民生活を守るためには、「国力衰退」を止めるしかないのです。野党の皆さんは、そんな行動をしているのですか。重箱の隅の、その又、隅をほじくり返して「政治とカネ」の話をして、国民にどんな利益があるのですか。「生活に苦しむ人が大勢いる」と言うのであれば、その原因と解決策を見つけてください。それが、国民生活を守るという言葉の意味です。
野党の支持率が低迷しているのは、課題を把握していないだけではなく、選挙対策しかしていないところに原因があるのです。
もちろん、自民党を擁護するつもりは、さらさら、ありません。
ひどいものです。
防衛費増強予算に蟻が群がっているのを見ても、自民党に国民生活を守る意志は、全く、ありません。国土も、国民も、国民生活も、守るつもりはないのです。
増税と社会保険料増額の議論だけは、熱心です。
国民の皆さんは、これでいいのですか。
給料は上がらない、負担は増え、物価も上がる。
どうして、「俺には関係ねぇ」なんて言えるのでしょう。
「下々」は、耐えればいいのですか。
ドツボに嵌るのは、皆さんなんですよ。
それなのに、国民の皆さんの基本姿勢は、「俺には関係ねぇ」「ふむ、ふむ」です。
これ、違うと思います。逃げている場合ではないと思います。なぜなら、逃げ切れないからです。主権者として、課題と向き合うという選択肢しかないと思います。
知らないとは思いますが、皆さんには「子供達の未来を守る」という責務があります。例外はありません。国民の皆さん、全員に責務があるのです。
国民の皆さんは、本物の議論をしない政治家と同じです。
何もしない政治家に罪があるのは間違いありませんが、そんな政治家を野放しにしている国民の皆さんの罪は、もっと重いと思います。この国の主権者は皆さんです。国家運営の仕事を政治家に外注していますが、責任者は、あくまでも、国民の皆さんなのです。
どこの国でも同じですが、国民意識を越えるような政治は、存在しません。
国民が無責任であれば、政治も無責任になるのです。
この国が衰退しているのは、政治家が悪いのではありません。いや、政治家だけが悪いのではありません。国民の皆さんが。輪をかけて悪いのです。ですから、国が崩壊すれば、国民が責任を取るのです。これ、人間社会の基本ルールです。
国民の皆さん、全員に、責任があるのです。ですから、国民の皆さんが乗り越えるしかないのです。
どうして、こんな簡単なことが無視されるのか、ほんとに、不思議です。
言葉の定義をしないから、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で済ませるから、袋小路に追い詰められて右往左往することになるのです。
無知は怖いです。
皆さんは、人間社会の基本ルールも、自分の責務も知らないのだと思います。
知っているのに知らんぷりをするほど根性曲がっているとは思えません。だって、基本、皆さんは「いい人」なのですから。
皆さんは、ただ、ただ、無知なだけなのだと思います。
もちろん、無知だったら、お目こぼしがあるなんてことはありません。
無知は、重罪です。
相応の償いはしてもらわねばなりません。
無期懲役か死罪の二択です。
今日の食い物を手に入れるために全ての時間を当てる生活をしてください。もちろん、手に入らない日もあると思います。次の日は、今日よりも頑張ってください。それでも手に入らない時は、次の次の日に、何とかしてください。最低でも水と、煮沸する薪だけは確保してください、1週間くらいは、水だけで生きていけます。それでも、手に入らない時は、諦めてください。なに、死ねば終わります。それが、皆さんの償いの方法です。北朝鮮では、一生、満足できる食事をすることなく死ぬ人が大勢いると思います。皆さんは、どうして、北朝鮮のようになりたいのか、不思議でなりません。
無知は大罪だと思います。


2023-01-01



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動乱の時代 [評論]



1989年、中国で民主化を求める抗議運動が起きました。
天安門事件として、世界的に認知されている事件です。
あれから33年、今、中国では、再び、抗議活動が起きています。
ゼロコロナ政策に対する抗議活動です。
今回は、民主化運動になる前に弾圧されることになると思いますが、陰ながらエールを送りたいと思います。
中国人民は、白紙を掲げて抗議しています。
それは、中国では、「岸田政権を打倒せよ」とか「安倍晋三を殺せ」というプラカードを掲げることが出来ないからです。
都市封鎖、行動制限、検査の義務化により、物理的に自由が制限されていることで、中国人民も自由の意味を再確認したようです。
大学でも、単発的に抗議集会は開かれていますが、まだ、本格的な学生運動にはなっていません。大学生が活躍した天安門事件の教訓がありますので、政府も大学も、学生の行動には注意を払っているようです。
プラカードは証拠品になりますから持てませんが、デモ参加者の一部には、「習近平は退陣しろ」とか「自由を」とか「共産党はいらない」という声をあげる者もいて、ゼロコロナ政策に抗議するだけではなく、反政府運動の一面も見せています。
警察の取り締まりも強くなりました。逮捕者も出ています。それでも、消されても、消されても、ネット上にはデモの話題が出て来ます。
この抗議活動の発端は、ウルムチでの火災事故だそうです。
ウルムチ市は北京や上海から遠く離れた新疆ウイグル自治区の都市です。夏以降、100日を越える都市封鎖が行われていて、外部から施錠されたマンションで火災が発生して、逃げ遅れて、10人の犠牲者が出たのです。もちろん、10人という数字は政府の言い分であり、現地では40人とも50人とも言われています。高層マンションでの火災だったようですから、そこに住んでいたのはウイグル人ではなく、中国人だったのでしょう。
上海のウルムチ火災の追悼集会が、ゼロコロナ反対集会へと変わりました。
習近平政権にとっては、ウイグル人は「虫けら」に過ぎないのかもしれませんが、犠牲者が漢人だとすると、上海の中国人にとっても他人事ではありません。ウルムチで起きた事件であれば、上海で起きても不思議ではないと思っているのでしょう。
中国全土で20,000ヶ所、北京でも、ビルやマンションが、5,000ヶ所以上、外部から鎖で封鎖されています。出入りが出来ません。
先月、北京の歩道橋に抗議の垂れ幕を掲げて逮捕された人の話を書きましたが、今度は、一人ではなく、上海だけでも数百人の規模になっています。上海だけではなく、北京でも武漢でも、その他の都市でも抗議活動は起きていますので、1カ月で数万人規模の抗議活動へと変化したようです。
中国共産党は、危険を察知して、取り締まりを強化したようです。海外のニュースでは、人民軍の動員もあり得ると報じています。
ゼロコロナ政策で行動制限をされている人民が何人いるのかは知りませんが、数百万人、或いは、数千万人かもしれません。そのほぼ100%の人達が不満を持っています。数百万人が、数千万人が、抗議活動に参加されたのでは体制維持が難しくなりますので、取り締まりの強化は不可欠だったのでしょう。
ただ、そう簡単にゼロコロナ政策はやめるわけにはいきません。
中国の人口は14億人です。
人口1億人の日本でも、20万人から30万人の感染者が出たことを考えると、毎日400万人の感染者が出ても不思議ではありません。シンガポールの報道では、1000万人の感染者が出るという予測もあると報じています。
そんなことになれば、平時でも脆弱だと言われている医療体制がもちません。オミクロン株が弱毒化したとは言え、重症者は出ますし、死者もるのです。医療提供が出来ない場合は、致死率が上がる可能性が高くなります。
仮に、毎日400万人の感染者が出て、医療崩壊が起きて、致死率が1%になったとすると、毎日、4万人が死にます。5%になれば、毎日、20万人が死ぬのです。もちろん、政府発表の死者数は違うのでしょうが、噂は大きく膨れ上がるものです。「毎日、100万人死んでいるらしい」という噂が出るかもしれません。人民が、パニックになっても不思議ではありません。パニックが暴動になることなんて、普通に起きることです。
それは、国家的な危機です。ですから、ゼロコロナはやめられません。
習王朝が始まったばかりなのに、皇帝は窮地に立たされています。
コロナだけなら、乗り越えられるかもしれませんが、もしも、不幸が不幸を呼ぶような事態が生まれれば、それは厄介なことになります。
不動産バブルは、今のところ、大崩壊を迎えていませんが、これも、大きな地雷原です。
経済成長の鈍化で、倒産や失業が増えているのも、地雷です。
プーチンも地雷の一つかもしれません。
対外的にも、いくつもの地雷を抱えています。
「あれ」も「これ」も「ブルータス、お前もか」は起きうるのです。
習皇帝の手腕が問われることになりました。いや、手腕の問題ではなく、運の問題だと思います。習近平が、どれほどの幸運の持ち主なのかで決まることだと思います。これは、誰にもわかりません。習近平本人にも分からないことだと思います。
さて、習近平が窮地に立つということは、権力闘争が激しくなるということであり、その争いが表面化するということです、
人民暴動が最悪の展開ですから、習近平は、先ず、人民を抑えなければなりません。
ゼロコロナがやめられないのであれば、人民の関心を別のものに向ける必要があります。
丁度、台湾の地方選挙で与党が敗北したところです。
いや、選挙介入をし、中国政府の戦略が功を奏したところです。
台湾侵攻のチャンスでもあります。
米中戦争を始めれば、「コロナで騒いている時ではない、アメリカに占領されてもいいのか」と言えます。
米中開戦が、習皇帝の幸運になるのか不運になるのかはわかりませんが、国内の事態打開にはなります。
どんな展開になるのか、誰にもわかりません。
もしも、最悪の展開になった場合。
全く、準備のできていない日本は、どうするのでしょう。
いや、アメリカだって、準備は出来ていないと思います。
習皇帝が幸運の持ち主であれば、「雨降って地固まる」のかもしれません。
そうこうしている内に、コロナも下火になります。
しかし、米中戦争は泥沼へと向かいます。
さあ、中国で商売をしている海外企業は、どうするのでしょう。
本格的な世界動乱の時代を迎えることだってあり得ます。
これは、神様だって、知らないのではないでしょうか。
北京にとっても、世界にとっても、辺境の地である新疆ウイグル自治区のウルムチという町で起きた一軒の火災が世界動乱の引き金になる可能性があるのです。
ほんとに、人間とは厄介な生き物です。その根っ子にあるのは、「欲」です。もちろん、「欲」は中国だけにあるのではありません。確率は低いかもしれませんが、不幸の神様が、地球全土を覆う可能性だってあると思います。

デモの話題ではありませんが、中国という国を知る記事がありましたので、転記しておきます。スパイ容疑で有罪判決を受けた日本人の証言です。チベットやウイグルや香港とは違い、まだ、日本には気を使っていると思える内容です。彼等は、紳士的に対応したつもりなのかもしれません。
{ 中国で「スパイ活動」を行ったとして実刑判決を受け、10月に解放され帰国した日中青年交流協会の元理事長、鈴木英司氏(65)が拘束から解放までの状況を語った。
鈴木氏は2016年まで200回以上訪中し、日中交流を推進したが、同年7月、帰国直前に北京の空港で拘束。逮捕前に隔離部屋で尋問される「居住監視」が約7カ月間続き、17年に起訴され、19年に懲役6年の実刑判決を受けた。
空港では男6人に車に押し込まれ、アイマスクをつけられ暗い隔離施設に連行された。「弁護士にも会えず本すら読めない。7カ月間で太陽を見たのは15分だけだった」と厳しい居住監視の実態を語った。
起訴理由には、日本の情報機関の代理人として活動し、朝鮮問題を中国外務省に聞いたとする〝違法行為〟が挙げられた。裁判では当局が10年から鈴木氏を監視し、「友好人士のお面をかぶったスパイ」とみていたことも分かった。無実を訴えたが審理は非公開、開廷されたのも一度だけ。孤立無援だったという。}
さて。
この中国の対応は、日本が、独立国であることによるものと思います。もしも、中国領日本自治区になれば、こんな対応はしません。精神的な、肉体的な、暴力に晒されます。特に、女性の皆さんには、隠れるか、逃げるかの方法を見つけてもらう必要があります。チベットでもウイグルでも、レイプは日常的に行われています。実情は明らかになっていませんが、多分、手あたり次第、なのだと思います。特に、若くて、美しい女性は、間違いなく犠牲になると思います。ですから、女性の皆さんこそ、日本の独立を守る必要があるのです。

選択肢がある訳ではありませんが、私は、国民を鎖で封鎖する中国のような国に住みたいとは思いません。女を守れない、子供だって守れない、いや、自分さえも守れない国になりたいとは思いませんが、国民の皆さんは、どう、思っているのでしょう。
物理的に鎖で人民を閉じ込めるのです。確かに、足首ではないとしても、これでは、奴隷時代のようです。
でも、従順な日本の皆さんは、この国が中国領日本自治区になれば、「大人の対応」で、粛々と従うのでしょう。私には、無理です。


2022-12-06



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納得感 [評論]



第三次世界大戦は不可避であり,中国連合軍とアメリカ連合軍の戦いになると書いたのが、いつだったのか忘れましたが、旗幟鮮明になってきたように思います。
戦争の前には、侵略国は、金(金塊)を買い漁るという説があります。ロシアも、ウクライナ戦争の前に大量の金を買ったそうです。そして、今、中国が金を買い漁っています。それも、秘密裏に買っています。戦争準備を始めたと言ってもいいのかもしれません。
中国連合軍の主要参加国は、以前にも書きましたが、ロシアとイランと北朝鮮です。
アメリカ連合軍の参加国が、日本、韓国、台湾、オーストラリアだとしてみます。
兵員数だけでは軍事力の評価はできませんが、それでも、中国連合軍の兵力は、約500万人で、アメリカ連合軍の兵力は、約250万人です。装備、練度、経験でアメリカ連合軍が勝っているとしても、アメリカ連合軍が、絶対優勢などということはありません。
ウクライナ戦争の長期化が、ロシアとイラン、ロシアと北朝鮮の関係を深くしました。中国は、番長ですから、まだ、出番は来ていません。ロシア、イラン、北朝鮮は、単独でも、結託しても、アメリカに太刀打ちできません。中国の配下になって戦うしかありません。それでも、アメリカに屈服するよりは、中国の子分になる道を選ぶことになります。理由は簡単です。アメリカの支配に屈すれば、独裁が維持できないからです。
でも、なぜ、戦争になるのでしょう。国家体制は違っても、共存すれば済むことです。
しかし、中国は、共存を望んでいません。それは、自分が作ったルールで世界を支配したいというのが、彼等の夢だからです。今は、共存が必要ですが、世界一の軍事力を手に入れれば、共存する必要はないのです。世界最強の軍事力を持ち、その武力で他国を中国の支配下に置けば、政治的にも経済的にも支配できるからです。世界の富は中華帝国に集まってきます。ルールも自分で作れます。これが、中華の夢です。チンギスハンが為し得なかった世界征服を実現することが中華の夢です。
アメリカの経済界も、日本の経済界も、中国市場で利益を得てきました。ただ、一方的にアメリカや日本だけが利益を得たのではなく、中国も莫大な利益を得ました。今の中国は、アメリカや日本が育てたと言っても過言ではありません。
EUも、短期的に得られる利益に目が眩み、中国様様で、利益を貪りました。特に、ドイツは、中国とロシアに深入りしてしまいました。この数十年のドイツの発展は、中国抜きでは実現できませんでした。ギリシャもイタリアも、中国なしには国体を維持できませんでした。しかし、中国資本による浸食が顕著になって来て、これは「ヤバイ」と思い始めました。EUは参加各国に「中国依存を減らせ」と言っています。ドイツも中国依存を減らそうとしています。ただ、簡単ではありません。だって、民間企業は、中国と取引をしないということは、倒産を選ぶということです。どこの企業も、そんな選択はしません。
中国は、「世界の企業の皆さんは、14億人の消費者がいる中国を捨てられますか」と言っています。
そんな企業は、世界に一社もありません。
それだけではありません。世界には中国製品が溢れています。
中国の長期戦略は、着々と実を結んでいます。
中国が、国内問題で自滅しなければ、時間の問題で、中国の野望は実現します。
確かに、どこの国の経済界も、中国抜きで経営は語れません。
ただ、政治は、違います。
独裁国家ではなくても、国家権力は強力です。
奴隷になるより、戦うことを選ぶのが民主国家です。
国家は経済的利益だけでは動けないのです。
民主国家の意志は、その国の国民の意志です。中国の支配下で、中国皇帝の指図で、生きることを容認できるとは思えません。自由を体験したことのある西側諸国の国民が納得することはないと思います。アメリカは、今、内向きになっていて、戦争は望んでいませんが、尻に火が付けば別です。
ですから、自然な帰結として、世界大戦が始まるのです。
この地球では、同じ地域に住む人間の意見が対立した時、話し合いが行われます。でも、話し合いで両者が合意できない場合は、力で解決します。人類は、これまで、そのやり方で対立を治めてきました。これまでも、これからも、そのやり方は変わりません。最終的に、人類は、力による現状変更という手段しか持っていないのです。

世界は、風雲急を告げています。
本来、変化に鈍いはずの日本が、国防力の増強を声高に言い始めました。
岸田さんは、自民党内では左派に属していると思いますが、影響力の強い右派の安倍さんがいなくなったのに、勇ましい発言を繰り返しています。
「へら、へら」「よしなに、よしなに」の岸田さんが、国際会議で、中国やロシアを国名を出して非難しました。国名を出しての非難は、超タカ派のアメリカでも抑制的です。
何があったのでしょう。
理性を失っているのでしょうか。
そうではないと思います。これは、国民に知らせることのできない、危険な情報が存在しているということだと思います。
私の妄想に過ぎませんが、「アメリカは、もう、同盟国を守るつもりがない。日本も例外ではない」ことが明白になっているのではないでしょうか。
シリアもアフガニスタンもウクライナも、アメリカの直接の同盟国ではありませんが、アメリカは一歩引いています。アメリカの軍事力に対する信頼感は、大きく後退しているのが現状です。アメリカの国力も無限ではありません。世界展開をしているアメリカ軍の費用は、当該国が一定程度の負担をしていますが、アメリカが自腹を切っていることも事実です。「それなりの支援はしますが、皆さんの国は、皆さんで守ってください」と言われても不思議ではありません。日本政府は、ずっと、「日米安保があるから大丈夫だ」と言い続けてきました。その日米安保神話が壊れたとすると、岸田さんの焦りも頷けます。
ただ、アメリカのフェイクニュースかもしれないという見方もあります。
「なあ、なあ」「まあ、まあ」「ぬらり、くらり」「憲法が・・・」「「国内が・・・」と言って動こうとしない日本政府に業を煮やしたアメリカが流した情報かもしれません。
岸田さんは、脅しには弱そうです。
アメリカに見放されたら、日本は自国を守れません。こんなことは、常識です。
焦ります。
右派とか左派とか、言っている場合ではないのでしょう。
国防力増強は、今や、待ったなしの環境にあるのだと思います。
戦後80年、日本はアメリカのポチに徹してきました。いつも、ご主人様の顔色を見なくてはなりませんので、ご主人様の傍を離れられません。明らかに運動不足です。食べ物も、流動食を食べていたために、歯や顎の力も衰えています。ところが、ある日、突然、首輪を外され「お前は、自由だぞ」と言われたら、どうすればいいのでしょう。近くでは、ご主人様が立ち去るのを、獰猛な中華ドーベルマンと朝鮮狼とシベリア狼が、ポチを見ています。とても、戦って勝てるとは思えません。どうしましょう。
もっと厄介なことがあります。
ポチの仲間の犬は、「平和憲法で日本は守られている」「戦争反対」「平和、平和」と言っています。現実を離れ、神話の世界に安住しています。これも一種のマインドコントロールだと思います。マインドコントロールを解くのは簡単ではありません。今更、「自分の国は、自分で守もろうじゃないか」なんて言っても、聞く耳を持ってくれません。
日本が法治国家で、憲法が最高法規だとすると、憲法には従わねばなりません。
従っていますか。
自衛隊は、どう贔屓目に見ても、憲法違反です。
憲法違反だけど、解釈次第では、憲法違反ではない。これが、常識になっています。
憲法解釈という手法は、まさに、「なあ、なあ」「まあ、まあ」です。
もしも、国を、国民を守るのであれば、憲法を変えなければならなかったのです。
憲法制定以来、一度も、改定していません。
時代は、今、昭和ですか。
現行憲法が制定された時、今のロシアは存在していましたか。今の北朝鮮は存在していましたか。アジア最強の中国は存在していましたか。
この国は、今日まで、自力で国民を守る憲法を持っていなかったのです。いや、明日も、自力で国民生活を守る憲法は持たないと思います。自衛隊という文言を憲法に追加すれば何とかなると考えているのです。
まるで、お伽話の世界に住んでいるように、平和を愛する諸国民の信義という、この世に存在していない、架空の神話を、作文を、信じていたのです。いや、今も、信じています。
ロシアが、北朝鮮が、中国が、平和を愛しているのですか。
日米安保が絶対不変のものだと信じて疑うこともしませんでした。
アメリカが、無条件で、日本を防衛してくれると信じていたのです。
「どんだけ、能天気な国なの」と言われても反論できません。

さて、更に、厄介なことがあります。
いつものことですが、「総論賛成、各論反対」が浮き彫りになる環境になってきました。
防衛力強化賛成、増税反対が、それです。
政府は、防衛力の強化は、増税で賄うという方針です。今は、法人税が候補になっていますが、財源の安定性からは、所得税や消費税に頼る日が来ます。
でも、国民は、生活が苦しいのに、これ以上増税されたら堪ったものじゃない、というのが本音です。
政府と国民、どちらの主張も間違っていません。
どうするのでしょう。
やはり、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で決着するのでしょうか。
防衛費は、天から降ってくることはありません。残念ながら、この国で生活する国民の皆さんが負担するという選択肢しかありません。なぜなら、軍(自衛隊)は国民生活を守るためにあるからです。そのシステムに異論のある方は、国を出ていくしかありません。ただし、国防費を負担しなくてもいい国は、この地球上にはありませんから、火星まで行っていただくしかありません。
多分、必要なのは、多くの方が「なるほどな」と思える「納得感」なのだと思います。
人が「なるほど」と納得するためには、「何のために」という目的があってこそ判断できるのですが、この国には、その目的がありません。
これでは納得のしようがありません。
もしも、仮に、国の目的が、実は、天皇と国会議員を守ることだとした時、国民の皆さんは、防衛力が必要だと思えますか。ましてや、天皇や国会議員を守るために、増税を受け入れられますか。そんなこと、納得できないと思います。国防は、私達の生活を守るためのものですから、受け入れるしかないのです。
では、カネだけ出せば、いいのでしょうか。
それで、国が守れるとは思えません。
他国が軍事侵攻してきた時、「あなたは、どうしますか」というアンケートがあります。79カ国で調査したところ、日本は「国を守るために戦う」と答えた人が13%で、ぶっちぎりで、79カ国中の最下位でした。しかも、78位のリトアニアは32%です。この13%という数字は驚異的な数字なのですが、そのことは話題になりません。日本の約9割の皆さんが「国防なんて、俺には関係ねぇ」と信じているのです。「カネを出したくない」「戦いたくもない」では、国を、国民生活を守ることなどできないと思います。
そもそも、目的を見つけるためには、「国とは、国民とは」という言葉の定義をしなければ手に入りません。国の責務、国民の責務 が曖昧なままでは、見つかりません。だから、今まで、目的がなかったのです。これまでは、全部、「なあ、なあ」「まあ、まあ」「なし崩し」でやってきたのです。
また、今回も、「なあ、なあ」「まあ、まあ」「なし崩し」でやるのですか。それで、皆さんは納得できるのですか。
もちろん、防衛費をゼロにし、平和を愛する諸国民の信義とやらを信じることも選択肢です。ただし、信義など存在しなかった場合には、現に、ウクライナでは信義が存在していないことが立証されていますが、チベットやウイグルになる覚悟は必要です。これは、国民の皆さんが決めることです。政府が決めることではありません。
ここは、国民投票をやる局面だと思います。
防衛力増強に賛成な人も、反対な人も、よくわからない人も、その判断基準が曖昧なまま国民投票をやっても、良い結果が出て来るとは思えません。
どんな結論を得るにしても、判断基準が必要だと思います。
「国とは、国民とは」という定義もせずに、判断するということは、目隠しをしたまま断崖を歩くことと同じです。決して、納得できる結論は得られません。
ほんとは、この80年間のどこかの時点で、言葉の定義をして、方向転換しておかなければならなかったのだと思います。「先送り」では何も解決しません。「先送り」の結果、追い詰められて出す結論は、決して、望ましいものにはならないと思います。
必要なのは、目的と責務だと思います。
そろそろ、「なあ、なあ」「まあ、まあ」「なし崩し」を卒業する時です。


2022-12-05



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臍を噛む思い [評論]



エジプトでCOP27が開催されました。
今回のテーマは「損失と損害への補償」だと言われています。
ウクライナ戦争によるエネルギー危機に直面し、排出規制を議論したくない欧州と、カネが欲しい後進国の思惑が一致した結果のテーマになったようです。
だとすると、世界会議は、高邁な理想論を論ずる場ではなく、各々の欲望を満たす戦いの場のようです。ま、それでも、温暖化対策を放棄するわけにはいかないのでしょう。でも、私には、皆さんがドン・キホーテをやっているように見えてなりません。温暖化対策程度で人類絶滅が防げるとは思えないのです。
後進国は、「地球環境を壊したのは、先進国だ。俺達は、その被害者だ。だから、先進国はカネを出せ」と言います。
数の上では、圧倒的に後進国のほうが多いのですから、全会一致の会議では発言力は強くなります。先進国も一枚岩ではありませんので、裏工作も困難です。
2019年のデータで、世界のCO2排出量を見てみましょう。
1位 中国     29.5%
2位 アメリカ   14.0
3位 インド     6.9
4位 ロシア     4.9
5位 日本      3.2
国連加盟の国が196カ国だとすると、残りの191カ国の平均排出量は、1国当たり0.22%です。中国の排出量は、それらの国の平均排出量よりも飛び抜けて多い(130倍)のですが、中国の存在感は感じられません。いつもは声高に叫ぶ中国外交部の声も聞こえてきません。アメリカの大統領が出席して演説しましたが、まさに「言うだけ番長」でした。
世界全体のCO2排出量は360億トンと言われますが、単純平均をすると1カ国当たり1.8億トンのCO2を排出していることになります。そんな時に、ウクライナ戦争によるCO2排出量増加は約1億トンと言われていますので、ロシアは、CO2排出に大きく貢献していることになります。
この地球上に、正義は存在するのでしょうか。
いいえ。明らかに、「欲」のほうが勝っています。

このCOP27は、欧州主導で始まりました。
欧州は、理想を看板にすることが好きです。
数年前、難民問題で欧州が混乱した時、多くの人達が「難民を救え」と声を出しました。しかし、今は、難民を、どうやって他国に押し付けるのかが焦点になっています。
欧州に限らず、人道主義という謳い文句は、「自分の利益が損なわれない限り」という条件付きのものであり、いつでも、変更可能なのです。
欧州は、今、ウクライナ戦争によるエネルギー危機を迎え、「自分の利益が損なわれている」のだから、石炭火力を使うことを容認することになっています。数年前は、石炭火力を止めようとしない日本は袋叩きになっていました。
人道主義と呼ぶよりも、ご都合主義と呼ぶほうが正しいのかもしれません。
先進国は、日本も含めて、2050年とか2060年にCO2排出をゼロにすると宣言しています。30年先、40年先のことですから、誰もが「言うだけ番長」をやっているように見えます。では、多少長引いたとしても、CO2排出ゼロが実現するかというと、そんな予測は実現することはないと思います。
なぜなら、利益を失ってでも、或いは、損失を出してでも、CO2排出ゼロを実現する理由がないからです。
「そう言えば、昔、そんな議論があったよな」という日が来ると思います。
人間は、どの国の人でも、「欲」が最優先です。
もちろん、理想なんて無視してしまえ、というのは間違っています。理想は、理想として、あったほうがいいです。しかし、それは、あくまでも、理想としての理想です。現実ではありません。
後進国の皆さんだって、CO2排出なんてことには関心がありません。先進国から、1円でも多く取るためには、どうすればいいのかが関心事です。
人類は、いつかはわかりませんが、絶滅する日を迎えます。
その日を一日でも先延ばしする努力は、あってもいいとは思いますが、地球史や宇宙史の中では些細なことにすぎません。理想や努力は尊いものですが、それが実現するという保障はどこにもありません。
もっとも、「幸せとは、自己満足である」と言った人がいますが、人は、誰でも、幸せを願うものですから、これで、いいのかもしれません。
「欲」がなければ、人間は死に絶えます。「欲」があれば、同じく、死に絶えます。つまり、人類は死に絶える運命にあるということです。
だとすると、高邁な理想に引き摺られるのではなく、現実的な対応が求められているのだと思います。地球温暖化による海面上昇で被害に遭う人達を、どう救うのか。旱魃や洪水に強い農業をどう確立するのか。現実的な課題は、多く存在しています。そこに注力することのほうが、大事なのではないかと思います。
ただ、地球環境の破壊はCO2だけではありません。
放射性物質による環境破壊があります。
核兵器の拡散と使用は、近い将来の課題として浮上しています。
ウクライナ戦争で明るみに出たことの一つに、ロシア製武器の脆弱性があります。
これまで、ロシアから武器を買っていた国々は、ウクライナ戦争を見て、役に立たない武器を買っていたことを知り、「ヤバイ」と思っています。
ロシアの経済的な強みは、資源と武器でした。武器市場でのロシアの存在感は大きかったと思います。この先、ロシア製の武器が市場から駆逐されていくことは容易に想像できます。現に、韓国が武器輸出を急増させています。ただし、韓国の武器市場での成長は一時的なものに終わり、他の市場でも見られるように、韓国製の次に台頭してくるのが中国製です。武器市場でも、アメリカと中国による寡占状態が生まれると思います。
では、ロシアはどうするのでしょう。
資源の安定的購買者を失い、武器市場でも顧客を失えば、ロシア唯一の強みである核兵器を売るしか道はなくなります。
世界に紛争地域と呼ばれる場所はいくつもあります。今後も、紛争地域がなくなることはありません。そんな地域で、一発でケリをつけられる武器が簡単に購入できるとすると、紛争当事者は躊躇なく採用すると思います。
ロシアには、核兵器の技術を輸出するという選択肢もあります。既に、イランとの協議が始まっているという記事も出ています。
そんなロシアを止めることが出来る国はありません。
たとえ、低出力の戦術核だとしても、放射性物質は発生します。福島原発事故でも証明されたように、放射性物質は風で拡散されます。
核拡散と核使用が日常となれば、地球環境は破壊されることになります。
CO2による温暖化よりも、早く、現実のものになる可能性もあります。
ウクライナ戦争は、そのパンドラの蓋を開けたのかもしれません。

視線を引いて、地球を俯瞰して見てみると、人々は、右往左往しながら、「ああでもない、こうでもない」と言いながら、不確実な未来へと歩んでいるように見えます。
これは、地球温暖化対策に限ったことではありません。
皆さんには、明るい未来が見えているのでしょうか。
私の目には「人類絶滅」という文字が見えます。もしかすると、「人類絶滅」は、それほど遠い未来ではないのかもしれません。
では、世界を救う方策は、ないのでしょうか。
多分、ないと思います。
絶滅の危機が現実になった時、それは、温暖化による危機ではなく、戦争による世界的な危機だと思いますが、人々は「何か、やれることがあったんじゃないだろうか」と思うかもしれません。しかし、手遅れです。
その元凶は、全て、人間の「欲」から生まれています。
ほんとに、人間の「欲」は厄介です。理性では、わかっているのに、事前の対策は打てないものなのです。この先、50年を見ていれば、地球温暖化対策を見ていれば、そのことは証明されると思います。

地球規模での「人類絶滅」は、まだ、空想の域を出ませんが、この国の国力衰退による国家崩壊は、もう、空想の問題ではありません。私達の身近の現実問題になっています。近い将来、皆さんの身に降りかかるのが国力衰退による国民生活の崩壊です。
今年になってから、国力衰退や国力低下に言及する方が増えました。国民の皆さんも「ふむ、ふむ」と頷いていると思います。
もう、国力衰退は現実なのです。
ところが、誰一人、その解決策を提示できていません。
本来であれば、国家運営を担う政治が先頭に立たなければならない場面ですが、政治は「ばら撒き」策しか思いつきません。
国力が衰退しているだけではなく、頭脳も衰退しているようです。なぜ、原因の原因の原因を見つけて、対処しようとしないのか、ほんとに、不思議でなりません。
過去にも国力が衰退した時代はありましたが、今回の国力衰退は、別物です。小手先や口先や弥縫策で何とかなるようなものではありません。
今、私達が直面している危機は、日本の歴史が1万5000年だとすると、1万5000年で体験したことない、初めての危機だと思います。直近の敗戦よりも深刻な危機です。世界史の中には、国家運営に失敗して消滅してしまった国もあります。日本は、世界史の史実として残されるような国になる可能性があるのです。
多分、皆さんは「まさか」「大袈裟な」と感じると思います。
でも、皆さんの「まさか」なんて、簡単に実現するのです。
「まさか、徳川が滅びるなんて」「まさか、日本が戦争に負けるなんて」と当時の人は思っていました。つまり、過去の延長線上に未来があるという常識は、いつでも、常識ではなくなる日が来るということです。皆さんの「まさか」なんて、何の役にも立ちません。
民間でも、国力衰退や国力低下に言及する方が増えてきましたし、国家運営を担っている皆さんにも、その意識はあると思いますが、相変わらず、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で何とかなると思っています。その程度の危機意識しか持っていないのです。
そうではありません。今回の危機は、これまでに体験したことのないほどの危機なのです。チョロチョロとした対策で、「何とかなる」ようなものではありません。「ばら撒き」なんて論外です。
歴史的な危機に対しては、歴史的な対策が必要です。
その選択肢の一つとしてあるのが、文化を変えるという方法です。
歴史的な危機だという認識のない人に、こんなことを言っても「馬の耳に念仏」かもしれませんが、これまでに類を見ない対策を立てるしかないのです。
私は、「なあ、なあ」「まあ、まあ」という曖昧文化を、言葉の定義をするという文化に変えて、「目的を持ちましょう」と提案しています。
多分、皆さんは、「何じゃ、そりゃあ」と思うでしょう。
「経済対策や構造改革じゃないのか」と呆れるのではないでしょうか。
残念ですが、この国の衰退は、原因の原因の原因に対応するするしかないと思います。
その原因の原因の原因は、文化なのです。
文化を変え、これまで持てなかった「目的を持つ」ということです。
国民の皆さんのマインドを変えるしか方法はないと思います。
そのための「目的」です。
これまでのように、「お上」に丸投げをしていれば、ドツボに嵌るのは皆さんです。そのことを皆さんの直感は知っています。だから、不安なのです。
ほんとに厄介なことですが、「嗚呼、あの時、ああしていれば、こうしていれば」なんて思っても、何の役にも立ちません。後になって、「あの時」というのが、今です。
私達は「臍を噛む」ことはできませんが、「臍を噛む思い」は体験することができます。崩壊すれば、「臍を噛む思い」を体験する時間は、たっぷりと用意されています。今は、危機を乗り越える知恵を出す時だと思います。


2022-12-04



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NHK受信料アンケート [評論]



NHKと受信料徴収業務委託契約を締結していた仙台の会社が倒産したというニュースがありました。コロナで戸別訪問ができなかったそうです。
NHKは、300億円という巨費を投じて、NHK受信料徴収の営業業務を外部委託しています。NHKの皆さんは、営業の前線に立ちませんので、庶民の声には無関心でいられまますし、対応することもありません。政府への対応と裁判への対応で、自分達の利益を守ることに必死です。NHKって、何様なのでしょうか。
「受信料=カネ」です。
口では、公共とか国民という言葉を使いますが、私には、既得権益を守ることに執着し、「カネ、カネ、カネ」と叫んでいる、強欲集団にしか見えません。勝手に「NHKは公共放送だ」と強弁していますが、公共の定義を毀損する団体にしか見えません。もちろん、今は、定義がありませんから、何をやっても自由です。
それでも。
NHKと受信契約をしている世帯は、2011年のNHKの調査によれば、全国平均で72.5%だそうです。それが、2021年度には、79.6%まで上昇したそうです。日本全土の8割の世帯が受信料を支払っている関係で、NHKの剰余金は数千億円になっていると言われています。NHK 職員の高給も有名です。1700億円をかけた新社屋建設事業も順調に進んでいるそうです。笑いが止まりません。
これ等の数字は、私には、異様な数字に見えますが、それだけ、この国には「いい人」が多いということなのだろうと思います。
都道県別の契約率を見てみましょう。(2011年度)
  ベスト4            ワースト4
秋田県   94.6        北海道   63.5
島根県   90.9        東京都   60.8
新潟県   90.1        大阪府   57.2
鳥取県   89.2        沖縄県   42.0
沖縄は米国領の時代がありましたので、例外だとすると、ワースト1は私が住んでいる大阪府です。大阪府の57.2%も驚異的に高い数値だと思います。大阪に、こんなに「いい人」がいるとは思いませんでした。ただ、この契約率を「いい人」ランキングに置き換えると、秋田県の皆さんが、最も「いい人」で、大阪府が、最も「いい人」の少ない地域ということになります。そういう見方をすれば、納得できる部分があります。
秋田県の94.6%は、驚きでしかありません。秋田では、NHK受信料を払っていない人は、「村八分」の世界なのでしょうか。田舎の皆さんには、封建制度の残滓が強く残っていますので、「お上」には弱いです。誰も民主主義の定義をしませんので、そのことは、致し方のないことだとしても、NHKは「お上」ではありません。「お上」でもないNHKが、放送法という利権を手にしているだけで、「お上」の振舞をしているように見えます。一般社会で、94.6%という数字は、異様です。90.0%以上の数字は、専制国家では見られる数字ですが、民主国家ではあり得ない数字です。これも、日本が民主国家ではないという証です。
NHK受信料は、地上波契約で14,000円/年、衛星波契約で24,000円/年です。
公的負担が増え、物価が上昇し、食費でさえ節約しなければならない時代に、テレビがあるからという理由だけで、NHK放送を見ない人でも、これだけの金額を支払っています。
なぜ、こんな不合理なことが起きているのでしょう。
その答は、国民の8割の方が「いい人」だということ以外に見つかりません。
NHKと契約している人は、NHKが生活に欠かせないと思っているのでしょうか。
そんな人は、いないと思います。
では、なぜ、契約しているのでしょう。
多分、そこにあるのは、「なあ、なあ」「まあ、まあ」なのでしょう。
食費を削ってでも、NHK受信料を支払う価値は、どこにあるのか。秋田県の人に聞いてみたいです。

ここで、NHK受信料に関するアンケート調査の記事を紹介します。

「NHK受信料は妥当だと思いますか」
「高いと思う」と回答した人が、90.3%。
「安い」と感じている人は、0.8%。
「NHK受信料を支払っている」と回答した人だけでみても、88.3%の人がNHK受信料は「高い」と感じながら支払っていることが分かりました。
NHKは、受信料を徴収する必要性の根拠を「NHKが特定の勢力、団体の意向に左右されない公正で質の高い番組や、視聴率にとらわれずに社会的に不可欠な教育・福祉番組をお届けするため」としています。
「NHKの番組は質が高いと思いますか」
「思わない」と回答した人が、40.2%。
「質が高い」と感じている人は15.2%。
2017年12月の最高裁判決にて、合憲と判断された放送法第64条1項『協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない』についての質問。
「日本国憲法で認められている契約の自由に反すると思いますか」
「違憲だと思う」と回答した人が、68.5%。
これを受信料を支払っている人だけでみても、「違憲だと思う」と答えた人が62.2%にのぼることが分かりました。
「毎週欠かさず見ているNHKの番組はありますか」
「ある」と回答した人は27.3%。
「NHKはスクランブル放送にするべきだと思いますか」
「するべきだと思う」と回答した人が、69.2%。
最後に、「NHK受信料を支払うことに納得していますか」
「納得していない」と回答した人が、73.4%。
これを受信料を支払っている人だけでみても、受信料支払いに「納得していない」人が64.3%と半数以上を占めていたといいます。

このアンケートで見ても、NHKと契約している皆さんが納得していないことが明らかです。それなのに、8割もの皆さんが、契約している。
ほんとに、不思議な人達だと思います。
やはり、「いい人」と思うしか、答が見つかりません。
21世紀になっても、「謎の国、ジパング」は健在なのでしょうか。
「お上」と「下々」という制度はありません。いや、無いはずです。しかし、その制度は、今でも、秋田県だけではなく、全国的に、色濃く残っています。NHKを「お上」と勘違いする人もいます。それは、この国の曖昧文化が国民を支配しているからです。もしも、定義する文化が生まれたら、訳の分からない「決めごと」が山のように出てくると思います。NHK受信料も、その1つです。
契約率の異様さにも驚きましたが、法律に対する国民意識にも驚きました。
「日本国憲法で認められている契約の自由に反すると思いますか」と聞いたところ、68.5%の人が「違憲だと思う」と回答したそうですが、この68.5%はとても低い数値だと思います。放送法は民法よりも上位の法律なのでしょうか。憲法や民法の概念を、なぜ、放送法は無視できるのか、わかりません。放送法には「契約を」「しなければならない」という文言があり、自由を制約しています。これは、明らかに、違憲だと思います。もちろん、これは、司法の問題ではありません。放送法に「しなければならない」と書かれていれば、その条文で判断するしかないのです。司法は万能ではありません。放送法が存在することで、憲法や民法の基本理念は曲げざるをえない。これは、立法の不作為だと思います。
多分、国民の皆さんも、「公共放送なんだから、仕方ない」と、「何となく」思っているのでしょう。
では、NHK放送は、ほんとに、公共放送なんですか。
今は、法律も公共の定義も曖昧なままです。矛盾した法律と曖昧な定義の社会では、力のあるものが有利になります。
では、「公共」って何でしょう。
電気・ガス・水道は、公共インフラと呼ばれていて、国民は、この公共インフラなしには生活が成り立ちません。国民生活に不可欠なものが「公共」なのだと思います。
では、NHK放送がなければ、国民生活は成り立たないのでしょうか。
いいえ、NHK放送がなくても、何の支障もありません。
憲法の「契約の自由」に反しているのは、放送法そのものなのです。
放送法の改定は立法府の仕事です。
何でもかんでも、「違憲だ、違憲だ」と騒ぐ野党の皆さんは、どうして、黙っているのでしょう。野党の皆さんも、「国民生活を守る」と言っていませんでしたか。国民は、食費を削って生活を維持しようとしているのです。無駄な出費はできないのです。NHK放送受信料は、まさに、無駄な費用です。念のためですが、「NHKをぶっ潰す」必要はありません。押しも押されぬ公共放送になればいいのです。もっとも、NHKがそんな組織になったら、自民党は放送法を改定すると思いますが。
立法府の皆さんは、自分の責務を知り、仕事をしてください。
野党の皆さんも、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で、逃げているだけだと思います。

ここにも、「言葉の定義」不在による「なあ、なあ」「まあ、まあ」が大手を振って闊歩しています。「公共とは」という言葉の定義をすればいいだけの話だと思います。
「言葉の定義」不在による、「なあ、なあ」「まあ、まあ」による、不合理と沈滞と衰退は、私達の生活を壊しているのです。
今でも、多くの子供が、衰退の犠牲になっていますが、このままだと、ほとんどの子供達が、その被害の真っ只中に立たされます。私は、小学校や幼稚園から聞こえてくる子供達の声を聞くと、ほんとに癒されます。あの声が悲鳴に変わるのです。想像するだけでも恐ろしいことです。
その原因は、国民の皆さんが責務を果たしていないからです。
国民の皆さんが、意図して、積極的に、子供達の未来を壊そうと思っていないことは承知しています。それでも、この国を壊しているのは、他の誰でもなく、皆さんです。
知らないとは思いますが、国民の皆さんには「子供達の未来を守る」責務があります。もちろん、国にも「子供達の未来を守る」責務があります。国がその仕事をしていないなら、主権者である皆さんが、仕事をし、責務を果たす国家運営者を選ばねばなりません。既存の政党にそんなことが出来ないことは、衰退する国力を見れば、明らかです。ですから、皆さんは、新しい選択肢を、新しい政党を、生み出すしかないのです。それが、皆さんの仕事です。
こんなこと言っても、皆さんは、責務があること自体を知らないのですから、意味不明な批判に聞こえると思います。
それでも、子供達の未来を壊さないで欲しいと思います。
知らず知らず壊しても、意図的に壊しても、結果は同じです。
子供達の未来は、真っ暗です。
多分、いや、間違いなく、国民の皆さんは「俺には関係ねぇ」と思っているのでしょう。「そんなもん、お上の仕事だろう」と胸を張って言うのではないでしょうか。それ、違います。皆さんには、子供達の未来を守る責務があるのです。だから、主権者なのです。
「知らない」ということは、ほんとに、恐ろしいことです。
極論を言えば、子供達の未来を壊しているのは、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で、NHK受信料を支払っている皆さんが代表していると言ってもいいと思います。NHK受信料で、NHK職員の豊かな生活を保障するよりも、貧しい子供達の食事を確保することのほうが、はるかに、公共に資すると思います。NHK受信料にも、ふるさと納税のようなシステムがあれば、多くの国民の皆さんが、子供の食事代に使って欲しいと思うのではないでしょうか。そうなれば、NHK受信料にも意味が生まれるかもしれません。
公共に資する価値もないのに、放送法という利権があるだけで、NHKは、「濡れ手に粟」を享受しているように見えます。まるで、「お上」のような振舞をしているように見えます。
私には理解できません。
それは、私が「いい人」ではないからなのでしょうか。
そうではないと思います。
皆さんは、今でも、自分は「下々」だと信じているのです。
日本は、偽物ではありますが、それでも、民主国家です。皆さんは、もう、「下々」ではありません。皆さんには、民主国家の国民としての責務がありますが、そんなことは考えたこともないのでしょうか。
確かに、NHK受信料問題は、「たかが」NHK受信料です。でも、これは、「されど」NHK受信料問題なのです。一事が万事の一例です。至る所にあるNHK問題が、この国を蝕み、壊しているのです。「あちゃー」と言ってからでは遅いと思います。
どうか、民主国家の国民としての責務について考えてください。皆さんには、それを考える責務もあります。


2022-12-03



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