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津々浦々 [評論]



今日は、地域発の「時の話題」です。
日本の、兵庫県の、明石市の、市長の話題、です。
天下国家を左右するような話題ではありませんが、根っ子は同じ「文化」の副作用です。
津々浦々、人々の心の隅から隅まで、影響を与えて、この国を雪隠攻めにしている文化という課題を書きます。文化とは、そういうものですから、変えるのは容易なことではありませんが、それでも、ここまで追い詰められたら、そこに手を付けるしか選択肢はないのではないかと思います。

市長も権力者の一員ですが、その影は薄いと思います。市民の中には、自分の住む市の市長の名前を知らない人もいると思います。それでも、住民にとっては、一番身近にいる権力者です。
この国には、約800の市があります。ですから、約800人の市長がいます。
市の運営は市長と市議会が両輪となって行われます。それは、市長も市議会議員も選挙で選ばれるからです。
建前は立派なものですが、市議会議員選挙の投票率は、市長選よりも低く、その権力に正当性があるのかどうかは、とても、疑問です。いや、有権者の大半が「なあ、なあ」「まあ、まあ」で投票しているのですから、選挙そのものに意味がありません。選挙は、単なる儀式になってしまっています。
一般市民は、「俺には関係ねぇ」とか「誰がやっても同じだろ」とか「何も変わらないだろう」と思っているので、投票には行きません。利害関係、義理等に縛られた人達だけが、自分の信条とは無縁の行動をした結果が、今の市政なのだと思います。特に、村の掟が残っている地方では、長老の意見で投票先が決まります。重大な責務を負っている主権者であるという意識は、希薄です。いや、ゼロです。
そのことで、違和感を持つ人はいません。「こんなもんだろう」で終わりです。これも、歴史と伝統の一面です。縄文時代には存在していたと思いますが、「自分達で自分の街を運営しよう」という、民主主義の原点は、もう、この国に存在していません。市は、「お上」の出先機関なのです。今でも、「お代官さま」は存在しているのです。それが、たまたま、選挙という儀式を通過しているために、あたかも、民主主義のように見えるのです。もっとも、これは国政でも同じです。
選挙が儀式になっている原因は、この国が、民主主義風王政並立封建制度という国体だからです。これも曖昧文化が生み出したものです。民主主義も天皇制も「お上」と「下々」という封建体制も包含した体制なのです。3つの体制は、どの体制でも、他の体制とは排他的な関係にあるのに、それらを全て包含したものが、この国の統治システムなのですから、国体そのものが、矛盾を受け入れている体制なのですから、「お上」は、基本、何をやってもいいのです。
ただし、「国民のため」「皆さんの生活のため」という言葉だけは必要です。風味だけですが民主主義という文字がありますから、封建制度下の江戸時代と違って、言葉は必要です。でも、言葉だけでいいのです。
「お上」にとって、これほど美味しい仕組みはありません。解釈次第で、何でも出来るのです。逆に、何もしなくてもいいのです。最終的には、国民が責任を取ってくれるのですから、責任を取る必要もなく、笑いが止まりません。
時代ごとに、多少の違いはありますが、この仕組みが、2000年も続いているのです。
これが、世界に誇る、日本の歴史と伝統です。
そんな環境の中で、事件は起きました。
「市長暴言事件」です。
明石市長の暴言は、数多くあるようですが、辞任に至るような大きな事件になったのは、2件です。
最初の事件は5年前です。
記事によると、「2017年6月に、遅れていた道路拡張工事の立ち退き交渉を巡って市役所職員に対し「あほちゃうか。火をつけて捕まってこい。燃やしてしまえ」と暴言を浴びせていたことが19年1月の報道で発覚した」「これを受け泉氏は2月に辞職」「3月の市長選挙に改めて出馬し、投票者の7割の票を得て当選した」そうです。
二度目の事件は、昨年の10月。
記事によると、「『問責なんか出しやがって。ふざけとるんか』と、『お前ら議員なんかみんな落としてやる』と、そういうふうなことを言われまして。30万都市のリーダーたるべき方が発せられる言葉ではないというふうに思いますね」(明石市議会 榎本和夫議長)。
市長は別の女性市議にも「お前、問責に賛成するなら覚えておけよ」と繰り返し発言したということで、泉市長はその日のうちに2人に謝罪の電話をかけています。その後、2023年4月の任期満了で、出馬しないことを表明した」そうです。
文字にしてみると、ほんとに、下らない争いに見えます。
でも、よくある争いでもあります。
市長本人は認識してないかもしれませんが、多分、自分がぬるま湯に入っている一員であるという認識がなく、半覚半睡状態の周囲の人達が出す空気にイライラしていたのだと思います。周囲の人は、皆さん、同じ空気の中で生活していますので、違和感はないのでしょうが、目を醒ましている人にとっては、イライラの元になります。
一方、半覚半睡状態が秩序だと信じている人達にとっては、なんで、暴言をぶつけられるのか理解できないと思います。怒りまで覚えます。普通は、「場を弁え」「荒波をたてず」「大人の対応をする」ことが常識なのです。
いわゆる、「なあ、なあ」「まあ、まあ」が最善の処世術なのだと思います。
多分、800の市の大半の市政は、「なあ、なあ」「まあ、まあ」の論理で行われているものと推察します。それが、市政の歴史と伝統なのだと思います。
そんな中で、時折、まれに、異端者が出現します。
明石市長も、そんな異端者の一人だったのだと思います。
「口は禍の元」という諺がありますが、明石市長は、それを実践しました。
もちろん、私には暴言を批判する資格はありません。このブログでは、明石市長の暴言なんて「愛ある助言」にしか聞こえないような、ひどい暴言を、数多く書いています。
この暴言事件の根っ子にあるのは、「なあ、なあ」「まあ、まあ」という自治体行政の実態だと思います。それに、ブチ切れたのであれば、その気持ちは、よくわかります。
明石市長は、「大人の対応」が苦手だったのでしょう。

ただ、明石市は、子育て世代の人達に人気の市です。
市長の独断と偏見による市政ですが、子育て支援が充実していて、人口が増えています。人口減少の時代に、地方都市なのに、人口が増えているのです。
議員や職員にとっては天敵かもしれませんが、市民にとっては「良き市長」です。
「なあ、なあ」「まあ、まあ」で市民を犠牲にする市長と、議員や職員に暴言を吐くけど、市民のために働く市長と、どちらがいいのでしょう。
確かに、暴言も吐かず、市民の生活を優先してくれる市長が理想なのでしょうが、現実に、そんな市長はいるのでしょうか。そのためには、「なあ、なあ」「まあ、まあ」と市民生活を両立させる必要がありますが、カネか絡みますので、至難の業です。
意識的に市民に対する施策を実施しなければ、市民生活は向上しません。議員と関係のある人達だけが美味しい果実を食べる社会は、衰えます。これまでの利権行政が、これからも続く利権行政が、地方衰退の一因であることは間違いないと思います。
この構図は、明石市に限ったことではありません。
歴史と伝統に培われた社会のあり方が、市民の利益の最大化を目指したものではないことが、特定の人達だけが得をする社会のあり方が、間違っているのだと思います。それは、この国が民主国家ではないことに起因しています。日本の民主主義は風味にすぎません。
そんな社会ですから、個人的には、市長の暴言を容認したい気持ちのほうが大きいです。
民主主義を定義し、本気で、選挙制度を変えれば、日本は変わります。
できれば、議員や職員の皆さんが、ぬるま湯から出る方法で解消して欲しいと思いますが、そんなことが実現することはありませんので、民主主義で利益を得られる国民が気付き、本物の民主主義の国になればいいだけなのではないかと思ってしまいます。
しかし、そんな議論は、1ミリも存在していません。
議論しましょうよ。
言葉の定義をしましょうよ。
津々浦々、人々の心の隅から隅まで埋め尽くしている曖昧文化を変えなければ、この国は変わりません。私達の社会では、「まやかし」という怪物が暴れ回っています。報道の大半は、その結果が表面化したものばかりです。そして、この「まやかし」という怪物を増長させているのが曖昧文化です。曖昧は、庶民にも、小さく、ささやかな「利」がありますが、為政者には「巨利」があるのです。だから、為政者は、積極的に曖昧文化を広めたのです。私達は、民は、そのことに気付く必要があります。今や、「利」よりも「不利」のほうが大きいと思います。

市長と対立しているのは、自民党と公明党の議員のようです。
議員の方の気持ちも理解できます。私が自民党の市議会議員だったら、同じようなことをしたと思いますので、理解できるという意味で、決して、擁護はではません。
自分達の利権の源資である予算を、子育て支援へ振り向けられ、それまで美味しかった予算が減ってしまったのです。何のために議員をやっているのか、忸怩たる思いがあったのでしょう。「これじゃ、苦労して議員になった意味、ないじゃん」と思っているかもしれません。
議員の正義の中には、美味しい果実も含まれていたということなのだと思います。この正義は、いや、利権は、日本全国にある正義であり、利権なのですから、彼等は、正しいと信じて疑いません。子供が、「〇〇が欲しい、みんな持ってるもん」「皆って、誰よ」「AちゃんもBちゃんも持ってるもん」という理屈と同じです。母子の会話の中で、〇〇が子供に必要かどうか、ではなく、皆と一緒のものが欲しいという要求です。自民党議員にとって、利権は、歴史と伝統に培われた正義なのだと思います。
しかし、変人の明石市長は、自民党議員の利権を奪えば、人口が増える自治体になれることを、証明してしまいました。市長は、「どこの自治体でも、出来ることなんです」と言っています。「もちろん、国でも、出来ます」と言っています。自民党議員にとっては、明石市長は、既存の価値観を壊す、歴史と伝統を蔑ろにする極悪人なのだと思います。
では、明石市ではない自治体で、これが実現できるのか、と言うと、先ず、無理です。
明石市長のような変人は、他の自治体にはいないと思います。市長である泉房穂氏の個性があって成り立つことなのだと思います。
しかし、特別な個性がなくても実現できる方法があります。
それが、言葉の定義です。
「民主主義とは」「市政とは」「市長とは」「市議会議員とは」「住民とは」という言葉を定義すれば、どこの自治体でも実現可能となります。
では、それを実現するのは、誰ですか。
自民党議員がやりますか。
彼等が、墓穴を掘るようなことをすることはありません。
利益を得られるのは市民です。市民がやるしかないのです。牡丹餅が落ちてくるのを待っていたのでは、生活は変わりません。
民主主義というのは、市民にとって美味しいシステムなのに、どうして、気が付かないのでしょう。ほんとに、不思議でなりません。
子育て支援に予算を使ってくれたら、助かる市民は大勢いるのです。泉房穂明石市長がいなくても、言葉の定義をすれば、それが手に入るのです。

泉房穂明石市長は、立候補しないと言いましたが、まだ、安心できません。
地域政党を立ち上げて、市議会議員になりたい人を公募しています。5人内定したという噂もあります。市長選挙へは子供政策を推進してくれる人を推薦するようです。もしも、大阪の維新の会のように地域政党として幅を効かせるようになったら、大変です。自民党議員の利権は、ますます、遠ざかります。
明石市の混乱を見て、維新の会も候補者を立てるという噂まで出ています。
利権が少なくなっただけではなく、落選の危険まで生まれてしまいました。
暴言を告発し、天敵を退治するはずが、敵は、牙をむいてきたのです。
自民党議員の皆さんは、どうするのでしょう。
「暴言ごときで騒がなければよかった」と後悔することになるかもしれません。
そもそも、暴言をぶつけられた時、どうして、得意の「なあ、なあ」「まあ、まあ」で対処しなかったのでしょう。多分、「俺は、お偉い議員様だぞ」という驕りがあったのではないでしょうか。


2023-01-05



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