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自分を守ってください [評論]



このブログでは、これまで、この国の衰退の個々の現象と、その原因について書いてきて、その原因の原因の原因は、「文化」だと書いてきましたが、そのような視点は、未だに、見受けられません。
いつも、「何か、他に、いい方法があるはずだ」と主張する人がいます。でも、そういう方が「いい方法」を提示したことはありません。最終的には、常に、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で終わります。こんなこと、いつまで、続けるのですか。「あちゃー」となって、初めて、気付いても手遅れです。これで、この先、大丈夫なのか、とても心配です。
私は、文化であるとか、潮流であるとか、不安感・閉塞感・焦燥感などと言う、目には見え難いものを、見る必要があると主張してきました。
時代も、その一つです。

今日は、選挙と空気を通じて、時代について考えます。
4月の統一地方選挙の浮き沈みを見てみましょう。
党勢を拡大したのは維新と国民で、後退した政党が2つあります。
自民党は、所帯が大きいことと、いつも、多少の増減はありますので、除外しました。
党勢が後退した政党は、日本共産党と公明党です。
なぜ、でしょう。
時代です。
日本共産党と創価学会は、組織票の雄と言われてきた団体です。
その組織票に翳りが出てきたのです。
古今東西、繁栄し続ける組織・団体はありません。
ですから、いつかは、衰退する運命にあります。
それが、時代の流れです。

1960年代以降、学生運動が盛んな時代がありました。
良し悪しは別にして、若者に熱気が漲っていた時代でした。あの時代、マルクスレーニン主義は、一部の若者のバイブルだったと思います。そんな時代の若者にとって、共産党員になることが、彼等にとってステータスだったのかもしれません。
もちろん、活動家と呼ばれる学生の数は、それほど多くはありませんでしたが、普通の学生(当時はノンポリと呼ばれていました)でも学生運動については知っていましたし、デモに参加しなくても一定の理解はしていたと思います。誰も革命が出来るとは思っていなかったでしょうが、そういう空気感はありました。
そんな時代を生きた若者は、学生運動が下火になっても、革命や革新に一定の理解を持っていたと思います。
しかし、当時の若者が、今、どんどん、鬼籍に入っています。今でもマルクスレーニン主義を信奉している若者は存在していると思いますが、当時の信奉者よりも少ないと思います。いや、かなり、少ないと思います。
日本共産党の力が弱くなるのは、自然なことです。
日本共産党は、「我々は、ブレない」「100年の歴史がある」と自慢します。過去に言及し始めたのです。これは、「我々は、衰えました」と宣言していることになります。ですから、日本共産党の集票力は、この先も、衰えていくと思います。
時代は移るのです。
過去にしがみ付いていると、時代に置き去りにされる運命にあります。

私の感覚ですが、創価学会が飛躍的に信者数を増やした時期は、安保闘争の10年前くらいだったのではないかと思います。強引な勧誘で、しかも、多額の寄進を要求され、周囲の大人の会話を聞いていると「あの人も、被害に遭ったらしい」という内容でしたので、一般市民には、最近問題になった統一協会のような捉え方だったように思います。
飛躍的に勢力を伸ばした創価学会は、社会認知度が高くなるに従い、無茶な勧誘を自粛したようです。今では、平和を愛好する宗教団体というお面を被っていますが、「被害に遭った」多くの人達の不幸を土台にして築き上げた宗教団体だと思っています。
戦後、多くの信者の獲得に成功した創価学会ですが、日本共産党と同じように、信者の高齢化と死亡で、選挙時の集票力を支えてきた信者数が減少しています。
でも、今更、昔のような無茶な信者獲得は出来ません。
時間の経過は、特定の組織・団体が持っていた社会への影響度合いを変え、時代を変えるのです。これは、どんな社会でも同じです。

社会のあり様を変えているものに、「多様性」という空気があります。
これも、時代を反映していて、選挙の時の投票行動にも影響を与えます。
「多様性」は個人の自由を最大化することが目的の一つです。
個人の自由を尊重するということは、組織の縛りが効かなくなるということです。日本共産党と創価学会の場合は、まだ、ある程度、組織の縛りが効いていますが、労働組合の縛りは、ほとんど、効かなくなりました。
これも、時代の流れです。
「多様性」の昨今のトレンドで言えば、LGBT運動も、その一つです。
特に、先進国では「多様性」は尊重される空気があります。
ただ、日本には歴史と伝統に培われた「お上」と「下々」という目に見えない階級制度があり、まだまだ男尊女卑の空気も残っていますので、欧米とは同じようになりません。
それでも、この「多様性」は、日本でも空気になり始めていて、いつの日か、LGBT法案も成立する時が来るものと思います。
ただ、厄介なのは、この「多様性」という時代風潮は、取り扱いを誤ると大きな負の副作用を生み出します。
その副作用とは、「多様性」が「自分さえよければ」に通じているからです。
「別に、それでいいじゃない」と思う人もいるかもしれません。
ほんとに、そうなんでしょうか。
何事にも裏と表があり、それぞれに前提条件があります。完璧なんてことはあり得ませんから、副作用は出るのです。
私達の究極の目的は、自分を守ることです。
自由は大切ですが、優先度は1位ではありません。優先度の1位は生命であり、2位は生活です。自由が確立されても、命や生活を失えば、自由に価値はありません。
先ず、自分の生命と自分の生活を守ることが優先です。
しかし、自分を守るためには、自分の社会を守り、自国の経済を守り、自国の安全を守らなければ、守れないのです。これは、理論ではなく、現実です。
狭義の「自分さえよければ」では、自分を守ることができません。
欧州のように陸続きで国境を接している国々は、経験上、その事を知っていますが、島国の日本の場合は、気付きません。ですから、日本でこの「多様性」を尊重する場合には、充分に気を付けて受け入れないと破滅へつながります。
しかし、時代の流れは、「多様性」に向かっています。
まだ、「多様性」の始まりの時代ですが、日本での「多様性」は投票率の低下にも寄与する性格を持っています。
日本では、「自分さえよければ」や「俺には関係ねぇ」が認められたと勘違いする人がいるからです。「多様性」は、国に対して個人として責任を持ち、社会に対して個人として責任を持たなければ、副作用だけが出てくるのです。
敗戦後、私達の国は、建前だけですが、民主国家になりました。
戦前の軍国主義とは180度の変化です。
多くの日本人が、戸惑ったと思います。
私は、まだ、子供でしたから、その戸惑いの空気は知りません。
大人は、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で、その変化を吸収したのだと思います。
ただ、言葉の定義をしませんでしたから、その中身はわからないまま、「民主主義だ」「選挙権だ」という風潮だけが強かったものと推察します。
しかし、その風潮も、時間と共に薄れ、投票率は下がりました。
それでも、昭和を生きた人達の選挙に対する意識(とりあえず、投票所に行かなくちゃ)は、未だに、あります。
しかし、そう言う人達が高齢者になり、鬼籍に入り、投票行動への意識は、社会全体としては、昭和時代とは違うものになりつつあります。
敗戦後、あの混乱の時代に「言葉の定義」は難しかったと思いますが、10年後でも20年後でもいいので、「民主主義とは」という言葉の定義をしていれば、日本は変わっていたと思います。しかし、ついに、戦後80年経っても、「言葉の定義」はされませんでした。多分、このまま、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で、時間は流れていくものと思います。
政治家は、口先で公約を叫んで国会議員になり、自分の利益確保と支援者への返礼をしておけば、安泰です。そんな政治が続いています。
多くの国民の皆さんは、「これでいい」とは思っていません。
では、政治家が「私が悪うございました」と言うでしょか。
いいえ、言いません。
彼等は、やりたい放題ができる今の状態がベストなのです。
しかし、今のやり方を続けていれば、必ず、破滅を迎えます。
そんなこと、国民の皆さんだって知っています。
国が崩壊して困るのは、国民の皆さんです。
どうか、自分を守ってください。
自分を守るために、社会を守ってください。
社会を守るために、国を守ってください。
それが出来るのは、国民の皆さんしかいないのです。
私は、「投票に行きましょう」と言うつもりはありません。だって、投票所に行っても、投票に値する候補者はいないのです。
皆さんがやらねばならないのは、投票したいと思う候補者を新しく生み出すことです。
特定の組織・団体のためではなく、国民生活を支えるために政治をしたい人がいれば、投票所に行く理由が生まれます。特定の組織・団体に属する人達よりも、国民の数のほうが圧倒的に多いのです。国の責務と国民の責務を確立し、口先ではなく、本気で取り組んでくれる「国民生活を守る党」が誕生すれば、私達の生活は変わります。今は、投票行動が自分の生活に反映していると実感することができません。でも、生活が変わるのであれば、次も、投票所に行こうと思えるのです。
ただし。
「濡れ手に粟」はありません。
「いいとこ取り」もありません。
「助平根性」では、国民生活は守れません。
「俺ではない、どこかの、誰か」はいません。
国民の皆さんが、社会に、国に、個人として責任を持つことで、初めて、皆さんの生活は守られるのです。
でも、今は、あらゆることが「ボンヤリ」としていて、どうしていいのかわかりません。
ですから、先ず、この「ボンヤリ」から抜け出さなければなりません。
「言葉の定義」を推奨しているのは、そのためです。
国民の皆さんが、「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義をして、国の、国民の、責務を明確にし、国としての、国民としての、目的を持てば、新しい政治集団は勝手に生まれます。もちろん、国民の皆さんも責務を果たさねばなりませんが。
このままだと、間違いなく、この国は潰れます。
そんなこと、皆さんだって知っていますよね。
「俺ではない、どこかの、誰か」は存在しません。
バイデンが、習近平が、プーチンが、岸田が、「何とかしてくれる」のですか。
いいえ、皆、自分のことで、手一杯です。
私達の生活を守れるのは、国民の皆さんだけなんです。
私達が財布として岸田に使われるのではなく、私達が岸田を使わねばなりません。なぜなら、政府は「お上」ではなく、主権者である国民の外注先だからです。
しかし、内閣支持率が上昇しています。ほんとに、理解できません。皆さんは、「マゾ」なんですか。六公四民が目前だというのに、国民を痛めつける岸田を「ご主人様」と崇めるのですか。五公五民は、既に「悪政」です。六公四民は「酷政」です。七公三民は「苛政」です。それなのに、国民の皆さんは、どうして、「ふむ、ふむ」なんでしょう。自分で自分の首を絞めて、楽しいですか。


2023-05-04



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