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文化は見えません [評論]



以前にも、部分的に触れたことがある「未来の年表」という本について書きます。
これまでは、紹介文しか読んでいませんでしたが、今回、「未来の年表 業界大変化」という本を購入しました。920円でした。
著者の方には、申し訳ありませんが、やはり、捨て金でした。
「あとがき」でも書かれていますが、大変、ご苦労されたようです。
その努力には、敬意を表しますが、これでは、日本再生はできません。
それは、提案らしきものがありますが、実現の可能性があるようには思えないからです。
今日は、著者である河合雅司氏の提案について書きたいと思います。
この「未来の年表」シリーズは、4冊あり、90万部売れたそうです。
「未来の年表 業界大変化」は五冊目になるようです。この本が10万部売れれば、100万部売れたベストセラーです。
で、少しでも、何か変わりましたか。
国力衰退のスピードは弱くなりましたか。
そんな様子は、見受けられません。
つまり、ここでも、警鐘や提案は、何の役にも立っていないということです。
それが、現実なのです。

一応、念のために、河合氏の提案を見てみましょう。
提案は、「未来のトリセツ」という表題になっています。
1. 量的拡大モデルと決別する
2. 残す事業とやめる事業を選別する
3. 製品・サービスの付加価値を高める
4. 無形資産投資でブランド力を高める
5. 一人当たりの労働生産性を向上させる
6. 全従業員のスキルアップを図る
7. 年功序列の人事制度をやめる
8. 若者を分散させないようにする
9. 多極分散ではなく多極集中で商圏を維持する
10. 輸出相手国の将来人口を把握する

著者の河合氏も、何も動かないことに苛立っているように見えます。
「おわりに」というページでは、そんな苛立ちが見えます。
だから、日本再生のための提言を書いたのだと思います。
確かに、精神論ではなく、個別具体的な提案です。
でも、的を外しています。
私が提案する「定義」や「目的」や「責務」なんかより、はるかに実務的な提案じゃないかと思われるかもしれません。
でも、これ、誰が実現するのでしょう。
国民の皆さんは、「俺には関係ねぇ」と思っています。国家運営を担っている人達は、自分の「利」しか考えていません。では、誰が、実行するのでしょう。
しかも、この提案を実行するのは、全部、経済界です。
今のように、政治が好き勝手をやっていて、民間だけが頑張れるのでしょか。
国民意識が、今のままなら、手を挙げる人はいないのではないでしょうか。
「提案しましたからね。後は、頑張ってください」では、何も動きません。
多分、どれも、実現しないと思います。
それでも、百歩、いや、千歩、いやいや、万歩譲りましょう。
もしも、仮に、万が一、あり得ないことだとは思いますが、誰かが実行したとして、何年、かかるのでしょう。仮に、国力衰退にブレーキをかけるのに、半分の項目が実現していなければならないとすると、それだけでも、50年かかると思います。残り、半分を実現するのに、更に50年必要だとしたら、日本再生が始まるのは、100年先になります。この国は、とても、そこまでは、もたないと思います。
昨日書いた「日本の自殺」と同じで、河合氏の提案も「絵に描いた餅」です。
もちろん、実践処方箋がない私の提案も、「絵に描いた餅」です。

警鐘や提案は、あったほうが、いいに決まっています。
しかし。
私達の問題は、「どうすれば、実現するのか」という実践処方箋がないことです。
まだ、誰も、この壁を破れていません。
多分、世界の文献を読んでも、そんな処方箋はないと思います。
仕方ない、と言えば、仕方ありません。それは、この国が崩壊先進国だからです。日本は前人未到の場所にいるのです。日本人が壁を打ち破るしかないのだと思います。
今、必要なのは、個別具体的な提案の段階ではないということです。
今、この国に必要なことは、国民意識を変えることです。
国民意識が変われば、政治も経済も変わります。
いや、国民意識が変わらなければ、何も動かないと思います。
もちろん、国民意識を変えることに成功した後には、個別具体的な提案は必要です。
その時には、この河合氏の提案は役に立ちます。

河合氏の「未来の年表」は、日本が、将来、ズタズタ、ボロボロの状態になることを、人口減少という切り口で、示してくれています。それも、観念論ではなく、数字で示しています。大変な労力だったと思います。
しかし、日本の課題は、人口減少だけではありません。
ですから、日本の未来は、「未来の年表」よりも悲惨なものになるということです。
しかし、それを回避する実践処方箋がありません。
千の提案をしても、万の提案を持ち寄っても、意味がないのです。
ですから、国力衰退は、着実に進行しているのです。
私が提案している「言葉の定義」は、実現すれば、国民意識は変わります。国民意識が変われば、個別具体的な提案を実現する可能性も生まれます。もちろん、可能性に過ぎませんが、何もないよりはいいと思います。
しかし、私の提案の弱点は、国民の皆さんに、定義をしてもらう方法がないことです。
組織的な行動が可能な団体が、例えば、政府とかメディアが、主導すれば参加してくれる国民もいると思いますが、政府とかメディアは、「利」を失うことになりますから、「言葉の定義」なんてしません。
ですから、自分の生活を守らなければならない国民が、自発的に、「言葉の定義」をしなければなりません。
しかし、「俺には関係ねぇ」と言っている国民が、そんな行動をすることはありません。
つまり、実践する方法がないのです。
実践する方法がない提案は「絵に描いた餅」です。
ですから、この国が崩壊することは、今の時点でも、確定しているのです。

ほとんど使われなくなった言葉ですが、「雪隠詰め」という言葉があります。「二進も三進もいかない」という言葉もあります。右にも左にも、前にも後ろにも、動けない状態を表す言葉です。今の日本が、まさに、その状態です。ですから、ほとんどの国民が、不安感と閉塞感と焦燥感を持っています。
もう一つ言葉を追加すれば、「自縄自縛」だと思います。環境の変化と時間の経過に対応していたら、いつの間にか、自分で自分を縛ることになってしまっていたのです。それは、原理原則を持たず、先送りを続け、都度都度、新しい事態に恣意的に対応した結果でもあります。臨機応変とか応用力という言葉を使えば、いいことのように思えますが、いい結果が得られるとは限りません。
なぜ、こんな状態になっているのでしょう。
それは、この国が、国家統治システムとして、民主主義風王政並立封建制度というシステムを採用しているからです。民主主義制度ではありませんので、国民生活を守る必要はありません。民主主義と天皇制と封建制は、本来であれば、並び立つことは不可能です。それを実現できたのは、この国の曖昧文化の功績です。曖昧文化は、環境さえ許せば、他に類を見ない素晴らしい文化だと思います。でも、万能ではありません。特定の環境下では、この文化が民族を滅ぼしてしまう可能性だってあるのです。
ただ、厄介なことに、文化は見えません。
更に、何事にも、建前と本音が共存します。国家統治システムにしても、日本は民主主義国であると標榜していて、民主主義風王政並立封建制度なんて言葉は、一切、表には出て来ません。建前と本音が違うことも当たり前のことです。
ですから、現に起きている事象に対応するだけでは、流れは変わりません。
原因の原因の原因に対応するしかないのだと思います。
それは、私達が対応すべき相手は、文化だということです。

どうすれば、いいのでしょう。
少し、歴史を遡ってみましょう。
明治維新で、日本は大きく変わりました。
もしも、あの時、あの内戦がなければ、日本は欧米列強の植民地になっていたでしょう、
ですから、結果的に、明治維新は正しい選択だったと言えます。
ただ、あの時、民主主義を採用していたら、日本は、もっと、変わっていたと思います。
しかし、日本は、歴史と伝統に従い、天皇制を選択しました。
日本の近代史には、歴史と伝統を断ち切るチャンスが2度ありました。明治維新と敗戦です。しかし、私達は2度とも、そのチャンスを無駄にしました。明治維新の時は、やむを得ない状況があったとしても、敗戦の時を逃したことが、今の崩壊へと繋がっています。
明治維新は、権力闘争です。
徳川という支配者を、長州と薩摩が武力で倒したのです。
長州と薩摩は、尊王という大義を掲げて、謀反人という烙印を回避しました。
旗を貸してもらった恩義もあり、天皇制にすることが、都合がよかったのだと思います。
当初は、時期を見て、民主国家にする意図はあったのかもしれませんが、世界の潮流が、それを許さなかったのかもしれません。明治・大正の自由民権運動は、弾圧され、民主主義への道は閉ざされました。
明治政府は、天皇を神格化することで、何をやっても許される、という免罪符を手に入れ、その流れが、大正、昭和へと引き継がれ、第二次世界大戦の敗戦まで続きました。
敗戦を契機にして、民主主義国になるチャンスがあったにもかかわらず、憲法の第一条に天皇条項を書き入れることで、天皇制を温存してしまいました。日本の封建制度の始まりは天皇制です。支配者が、天皇か征夷大将軍かの違いはありますが、天皇制も立派な封建制度です。
その結果、アメリカから押し付けられた民主主義と、歴史と伝統に縛られた天皇制と封建制度を混ぜ合わせ、民主主義風王政並立封建制度という国体が生まれました。
つまり、今でも、歴史と伝統の支配が続いているということです。この国は、基本的に、今でも、封建制度の国です。民主主義国ではありません。「お上」と「下々」という意識は、一度も失われたことがありません。
ですから、先程挙げた「未来のトリセツ」は、誰もが、「お上」の仕事だと思っています。
その勘違いを治さなければ、どんな提案も実現しません。本来、「未来のトリセツ」は、国民が、自分の責務として成し遂げねばならないことなのです。
しかし、国民の皆さんに、その気はありません。皆さんは、自分が「下々」だと信じ切っています。自分に責務があることを知りません。
言葉の定義から始めるしかありませんが、国民の皆さんは動きません。
ですから、今、進行している、この国の崩壊を止める方法は、ないのです。


2023-02-02



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