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令和時代の皆さん [評論]



少数の経済学者の方が、日本経済の衰退に警鐘を鳴らしています。いや、逆から見ると、ほとんどの学者の皆さんが「見て見ぬふり」をしているということです。突出しないこと。権力に逆らわないこと。大勢に迎合すること。何事も安全第一。これが、学者の皆さんの共通の認識のように見えます。その点では、多くの方が、見事に一致協力しています。しかし、学者の皆さんも生活者なのですから、「学問に向き合え」なんて無理は言えません。
なぜ、こんなことになってしまうのでしょう。
それは、この国の運営を担っている、権力の頂点に立っている、自民党が、自分の目的しか見ていないからです。自分の身分を守ることに手一杯です。
自民党の目的は、以前も書きましたが、「自民党政権を維持する」ことです。それ以外のことは何も見ようとしません。自民党にとっては、国も国民も眼中にありません。ただ、ひたすら、政権を維持し、自分を守ることに邁進しています。
それでも、最悪なのは、自民党の国家運営ではありません。
人間は、「自分さえよければ」をやる生き物です。自民党だけではなく、これは、誰もがやることです。ですから、自民党を責めても、何も解決しない、という点で、原因の1つではありますが、自民党を批判しても何も得るものがありません。
経済衰退で一番被害を受けるのは国民なのに、その国民が「俺には関係ねぇ」と言っています。私には、このことのほうが問題だと思います。
もちろん、国民だって、「自分さえよければ」をやる生き物なのです。
つまり、皆が、等しく、悪いのです。
ただ、両者が、全く等しいというわけではありません。
ここに成績不振の外注比率の高い企業があったとします。発注元の企業は、外注先の仕事に関心がなく、外注先の製品には不良品が多く、以前からのお付き合いという理由で同じ会社に外注しているのですから、企業業績は落ちる一方です。この場合、発注元の企業と外注先の企業と、どちらに責任があるのでしょう。両社とも悪いのですが、発注権を持っている発注元の企業のほうが悪いのではないでしょうか。別の外注先を見つければ、業績が回復する可能性があります。その努力をしない発注元企業のほうが、責任は重いと思います。
大昔、トヨタ自動車の研修会に参加したことがあります。トヨタは、アッセンブリー企業ですから、外注先管理はとても重視していて、外注先の社員を集めて、缶詰にして、数日、研修会という名目の教育を行っていました。その時、トヨタの社員が言っていました。「どんな商品でも、探せば、必ず、見つかる。見つからないのは努力をしていない、ということです」と。「見つからなければ、新しく、会社を立ち上げる人に協力する」とも言っていました。彼等は本気でした。だから、世界のトヨタになったのです。
国力衰退の責任は、皆にありますが、投票権という大きな権利を持っている、主権者の責任のほうが重いと思います。
そうは言っても。皆さん、人間ですから、「自分さえよければ」をやめることは無理ですから、どうすることもできないのです。
だとすると、「自分さえよければ」ができないシステムを作るしかないと思います。そのためにも、責務の明確化は必要だと思います。責務が明確になったからと言って、「自分さえよければ」がゼロになることはありませんが、減らすことはできると思います。
また、誰だって、自分以外の誰かに責任転嫁したいです。
いや、責任を追及すれば、自分にお鉢が回ってくることだってありますので、できれば、触れたくありません。
こういう時には、「なあ、なあ、まあ、まあ」は最高の道具になります。
「確かに、俺にも責任はあるかもしれない。でも、それは、皆だって、同じだろ。目鯨を立てるのはやめようよ。なっ。赤信号だって皆で渡れば大丈夫さ」
これが、ずるずると、衰退している原因です。
つまり、この国の衰退の原因は、人間が持っている自浄能力を邪魔している、この「なあ、なあ、まあ、まあ」文化なのです。
何度も、諄々と書いて済みません。
でも、このままでいいとは思えません。
後進国の仲間入りも時間の問題だと言われています。
後進国と言われる国々を見てください。
貧しい生活をしているのは誰ですか。
国民です。
権力者は豊かな生活を、国によっては、贅沢な暮らしをしています。
と言うことは、国が衰退すれば、国民が貧乏籤を引くということです。
自分を守らなければならないのは、国民の皆さんなのです。
多分、そのことは、皆さんも、何となく、漠然と、感じていると思います。
でも、どうすればいいのか、それがわかりません。
そこが問題なんです。
学問を研究している学者の方が、その答を見つけるのが筋なのでしょうが、残念ながら、明治から令和まで、答を見つけている学者が一人もいません。いるのかもしれませんが、私は知りません。いや、私だけではなく、ほとんどの人が知らないと思います。
これは、学術会議が偏向していることに原因があるのではないと思います。単に、学者の皆さんが、自分の立場を守ることに専念しているからだと思います。学者だけではなく、多くの方が「守り」に入っていますので、これも仕方ありません。
答は、待っていても出て来ないと思います。
ほぼ100年、いや、200年、答は出て来ませんでしたので、もう、これ以上待っていても、無理だと思います。
でも、衰退は、どんどん、進んでいます。
皆さんが、貧乏籤を引く日は迫っています。
皆さんも、そのことは、薄々と、わかっているはずです。

ほんとに、答はないのでしょうか。
「言葉の定義」という提案では答えにならないのでしょうか。
どこの馬の骨かもわからない石田の提案など信用できないという気持ちは、よくわかります。私も、この提案で、この国が絶対に立ち直れる、と保証はできません。でも、可能性はあると思います。
誰か、他に、立ち直る可能性がある提案をしている方はいますか。
生産性ですか、構造改革ですか、新しい資本主義ですか。
全く役に立たないとは言いませんが、ここまで状況が悪くなると、死期を、ほんの少し「先延ばし」する効果しか期待できないと思います。
もちろん、「言葉の定義」で成功するかどうかは、やってみなければ、わかりません。でも、立ち直る可能性はあると思います。
「言葉の定義」をする目的は、国と国民の目的と責務を明確にするためです。
「国って、何」
「国民って、何に」
「民主主義って、何」
それを深掘りして答えを出せば、そこから、責務が見えてきます。
責務が明確になれば、自然と、目的も決まると思います。
私は、国の目的も、国民の目的も、「子供達の未来を守る」ことだと思っていますが、「国民生活を守る」ことでも構いません。少なくとも、「自民党を守る」ことではありません。
国の責務と国民の責務が明確になれば、個々の立場の責務も明確になります。
総理大臣には総理大臣の、政治家には政治家の、官僚には官僚の、企業経営者には企業経営者の責務があります。もちろん、国民にも国民の責務があります。
ここで、私が想像している国民の責務について書いてみたいと思います。これは、私の私見ですから、答ではありません。
国民生活は、去年より今年、今年よりも来年、少しずつであっても、豊かになることが国民生活を守るという意味だと思います。
では、国民生活を豊かにするために必要なものは何でしょう。
富だと思います。
新しい富を生み出すことが、国民生活を守ることになります。
では、誰が、その富を生み出すのでしょう。
総理大臣ですか、政治家ですか、官僚ですか、企業経営者ですか。
彼等には、富を生み出せません。
富を生み出せるのは、国民です。
総理大臣や政治家や官僚や企業経営者は、国民をサポートするのが仕事です。
しかし、従来の「お上と下々」というシステムでは、この主客が転倒しています。政府は国民の外注先だと何度も書いていますが、今は、政府のほうが偉いと思っています。政府だけが、そう思っているのではありません。国民も、そう思っています。
国民生活を守るためには、国民が富を生み出すしか方法がないのです。
しかし、国民は、自分の責務を知りませんから、「俺には関係ねぇ」と思っています。
そんな国が衰退するのは当たり前です。
もしも、「国民生活を守る」ことが、この国の目的であれば、今のシステムでは達成することは不可能です。自民党の目的は「自民党政権の維持」です。これでは、国民生活は守れません。ましてや、今の総理大臣は、自分が1日でも長く総理大臣をやることが目的になっています。自民党と岸田総理には、国民生活という影も形もありません。それでも、皆さんは自民党に投票します。これでは、「〇〇の見本」に見えてしまいます。
「じゃあ、お前は、どの党に投票しろ、と言うのだ」
もちろん、既存政党の中に、国民生活を託す政党はありません。
ですから、言葉の定義をして、「責務を果たしてくれる政党に投票します」と言えばいいのです。新しい政党は、自然にできます。
高度経済成長の時代、社長も部長も課長も一般社員も、同じ方向を向いていました。生産性を上げよう、歩留まりを上げよう、無駄を省こう、1円でも安いものを作ろう、もっといい製品を作ろう、と必死でした。それは、あの時代には暗黙の「目的」があったからです。廃墟から立ち上がった私達日本人の多くが、「世界に追いつき、世界を追い越そう」と願っていました。敗戦のリベンジを経済で達成しようとしたのです。その目的があったから一枚岩になれたのです。
今の日本に目的はありません。
「俺には関係ねぇ」と言っても構わないのです。
どうしても、目的は必要です。
でも、今あるのは、中身のないスローガンばかりです。しかも、コロコロ変わります。
目的は、中身があって、初めて、目的になるのです。
その中身が、責務です。
それぞれの立場で、そこで必要とされる責務を各人が果たして、初めて、目的が目的になり、国民生活が守れるのです。
私が解説するまでもなく、こんなこと当たり前のことです。

では、定義と責務と目的があれば、それでいいのか、と言うと、そうではありません。
国とは、誰か特定の人を指しているのではありません。国とは、システムなのです。
目的を達成するためのシステムが、必要、かつ、不可欠です。
なぜなら、目的を達成するために動くのは、人間だからです。
人間は、必ず、「欲」に負けます。特に、権限を持った人間は、「欲」に弱いです。必ず、「自分さえよければ」をやる人が出て来ます。ですから、それを修正するシステムを構築しておくことは必須だと思います。
私は、まだ、そのシステムの中身について、考えたことがありません。でも、必要不可欠であることだけは理解できます。
やらねばならないことは、山積みです。
困難の連続だと思います。
でも、歴史を変えるということは、そういうことだと思います。

言葉の定義は、最初の一歩に過ぎませんが、確かに、言葉の定義をすると、国民にも痛みはありますが、それでも、餓死者が普通に出るような国になるよりは、ましだと思います。
この仕事は、令和の時代の皆さんにしかできません。
多分、令和の次の元号の時代の人達は、食糧を調達することに日々を奪われ、そんな力は残っていないと思います。


2023-12-01



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他国に蹂躙されない国 [評論]



イスラエルで戦争が始まりました。
パレスチナのガザを実効支配しているハマスの大規模な攻撃が、その始まりでした。
これまで実行してきたハマスの攻撃とは、全く違うものです。
オスロ合意が頓挫したことで、パレスチナは国とは認められていません。ですから、ハマスをテロ集団と呼ぶ人も多くいます。自国を持たない民族が行った軍事行動は、やはり、テロなのでしょうか。もしも、パレスチナ国という国が存在していたら、ハマス軍は国軍だったと思います。私は、そこに違和感を感じました。国と国の戦いだけを戦争と呼ぶのは、少し違うと思います。ただ、戦争でもテロでも嬉しくありません。でも、戦争が無くなることはないと思います。
軍事力には大人と子供の差がありますが、これは、戦争なのだと思います。軍事力の差は経済力の差です。なぜ、これほどの差が生まれたのでしょう。
パレスチナ問題の最大の問題は、パレスチナ自治区と呼ばれる地域とパレスチナ人に、経済的な基盤がないことです。国連や他国の支援なしには住民の生活が成り立たないことが、問題なのだと思います。それは、パレスチナ人が国を持っていないからです。
抑圧され、迫害され、多くの同胞を失ったユダヤ人が、自分の国を持てない苦しみを一番理解している筈ですが、ユダヤ人は、今、かつてのナチスと同じことをやっています。しかし、ユダヤ人を責めても、何も解決しません。残念ながら、これが、人間なのです。イスラエルとパレスチナが逆の立場に立っていたら、今、ユダヤ人がやっていることをアラブ人がやっていたのだと思います。私達が同じ立場に立てば同じことをすると思います。
私達日本人には、自覚がありませんが、国は必要なのです。

今回のハマスの攻撃には、イスラエルはビックリしたと思います。
数千発のミサイルとロケット弾がイスラエル領に降り注ぎました。その量に驚くだけではなく、ハマスはドローン攻撃でイスラエルの防御網を破壊したのです。ハマスが、これほど組織的な攻撃をしたのは初めてです。ハマスは、2年前から準備をしたと言っています。
イランの関与がどの程度のものだったのかはわかっていませんが、ハマスがロシアで訓練を受けていたという情報はあります。
米ソ冷戦後に始まった新たな世界潮流は、ウクライナで、イスラエルで、動き始めているように見えます。
ウクライナ戦争では、イランがドローンをロシアに提供し、北朝鮮が砲弾をロシアに提供し、中国もドローンや半導体をロシアに提供していると言われています。中国とロシアとイランと北朝鮮の軍事的な関係は、日々強化されているように見えます。規模は小さいかもしれませんが、ハマス、ヒズボラ、フーシ等々の組織に、資金や武器が流れていたとしても不思議ではありません。国際関係は多極化の時代だと言われていますが、多極化のままで固定することはなく、二極化に向かうのは、よくあることだと思います。
中東でよく起きる紛争だと思っていると判断を間違う可能性があります。今回の紛争が、世界潮流の支流であっても不思議ではありません。
第三次世界大戦へと一歩一歩近づいていると考える必要があるのかもしれません。
もし、そうであるなら、私達も無関係ではありません。
もちろん、すぐに世界大戦になることはないとしても、ベクトルの方向は意識しておかねばならないと思います。
イランは、物価高とヒジャブ問題で国内が安定していませんので、戦争をする余裕はないと言われていて、今回は、中東全体を巻き込んだ第五次中東戦争に発展する可能性は低いと言われています。イラン政府の発言も、腰が引けているように見えます。
でも、中東ですから、何が起きても不思議ではありません。
中東では、政治的合理性や経済的合理性が通用しません。
それは、民族の誇りと宗教という厄介な問題が大きなウェートを占めるのが中東地域の特徴だからです。中東地域では、政治的合理性や経済的合理性は、誇りと信仰の前では、大きな力を持ちません。人間は、感情と理性のコントロールに苦労するものですが、中東での感情の重さは、他の地域とは別物だと思います。
ですから、誰かの感情を刺激する事態が生まれた時には、合理性は役に立ちません。
専門家であっても、中東地域の予測は難しい、と言います。それは、合理性を基準にして予測を組み立てても、意味がないからです。
国と民族と宗教が複雑にからんだ「こじれた関係」という言葉が、中東地域にピッタリの言葉だと思います。
この「こじれた関係」には、2000年の歴史があります。ローマ帝国の時代以来、今日まで、その関係が正常化することはありませんでした。時間は、その複雑さをより濃くしたのではないでしょうか。
最も大きな原因は、時代時代の大国の横暴、大国の「自分さえよければ」だと思いますが、その原因の1つに、陸続きの国家特有の環境があったのだと思います。私達島国に住む人間には、理解できていないのだと思います。欧州、中東、アフリカから遠く離れた東の果てにある小国、それが日本でした。海は、中国歴代の帝国の侵略も困難にしました。文化と歴史と伝統を信奉する方は「日本は神の国である」と自画自賛します。違います。これまでは、たまたま、地理的に有利な場所に国があっただけです。でも、今は違います。海を数分で越えるミサイルが当たり前になったからです。
イスラエルもパレスチナも、他の中東諸国も、アフリカの国々も、地理的に欧州に近かったことで、欧州各国の「欲」の対象にされ、それが不運を招いてしまいました。彼等の感情の底辺には、ローマ帝国に代表される欧州の国々に対する「恨み」があります。中東の人達は、その「恨み」を代々伝えてきましたが、風化する頃には新しい「恨み」が生まれ、「恨み」は何層にも積み上げられ、絶対悪として存在するようになったのだと思います。多分、私達日本人には、想像すらできないのだと思います。
ですから、中東のことは、私にはわかりません。
ただ、何が起きても不思議ではないのだということはわかります。
今回の紛争が、どんな決着を迎えるのか、決着不能になるのか、それもわかりません。
しかし、世界に、何らかの影響が出ることは予測できます。
いろいろな場所で対立が表面化している時代を迎え、今、世界は、激動の時代が始まっていると感じています。
確率は低いかもしれませんが、第五次中東戦争が起き、その延長線上で第三次世界大戦が始まっても不思議ではないと思います。

少し、中東以外の地域の紛争を見てみます。
中国は、インドと、ベトナムと、フィリピンと、台湾と、日本と、小競合いを続けています。アメリカ軍やカナダ軍とも小競合いをしていて、南シナ海や東シナ海で、武力衝突が起きる可能性は、高まっています。
戦争にはなりませんでしたが、尖閣諸島で、意図的な船舶衝突事件がありました。フィリピンでも中国海警による意図的な衝突事件が起きています。アメリカ軍機に対する中国空軍の威嚇行動も増えていると報道されています。小競合いを続けていれば、不測の事態というのは起きるものです。
同じく、朝鮮半島も、不測の事態が起きる環境になっています。
既に、ウクライナでは、本格的な戦争をやっています。
各地の紛争が収斂し、世界を二分して戦うのが、世界大戦ですが、国際関係は、いい意味でも、悪い意味でも、一筋縄では収まりません。予測では、アメリカ連合軍対中国連合軍の戦いになると予測されていますが、私も、そう予測していますが、厄介な問題があります。
それは、アメリカが連合軍に参加するかどうか、わからないことです。
来年、アメリカの大統領選挙が行われます。
もしも、トランプが再登場したら、世界のいろいろな力関係が変化します。
中国は、それまで自重するかもしれません。
トランプが大統領になれば、「アメリカファースト」の仕上げをすると思います。
「海外を支援するのではなく、自国民を支援しろ」というアメリカ国民の声は大きくなっています。日本でも、総理大臣が海外に出向くと、恒例になっているバラマキをし、日本国内から批判が出ていますので、理解できる人も多いと思います。
アメリカは、800万人を海外に派兵しています。派兵先の国は、それなりの負担金を出していますが、それでも、アメリカの収支は赤字だと思います。共和党は、莫大なウクライナ支援もやめろ、と言っています。
同盟国が、アメリカが負担している費用を肩代わりし、更に、海外派兵でアメリカに利益が出るのであれば、トランプは商売として取り組むのでしょうが、アメリカが費用の持ち出しになるのであれば、海外から軍を引くことになります。
日本や韓国は、アメリカ軍が撤退したら、国の存続が難しくなりますので、アメリカの言い値で費用を負担するかもしれませんが、それ以外の国が費用負担に応じるとは思えませんので、トランプは欧州や中東だけではなく世界から兵を引きます。
第二次世界大戦後の世界秩序を最初に壊したのはロシアと中国ですが、アメリカも続きます。いや、中国やロシアは、世界秩序を壊しているのはアメリカだと言います。確かに、それも否定は出来ません。世界を大きく壊すのは、いつも、大国だということです。
トランプは、世界平和は、世界の警察官役は、アメリカの利益にはならないと思っています。
もちろん、トランプの考えている利益は、短期的な利益に過ぎず、中長期的には、大きな損失になることがわかっている人もいますが、皆が皆、分かっているわけではありません。
トランプも、日本の政治家と同じで、選挙至上主義者に見えます。
一票を入れてくれるのはアメリカの国民であって、他国の国民ではありません。拍手が大好きなトランプは、国民に拍手してもらうことが、一票につながり、利益になると思っています。トランプは、票にならないことは、利益にならないことだと思っているでしょう。
世界が激動期に入っていて、世界大戦が避けられないとすると、貧乏くじを引く国が必ず生まれます。イスラエルは、ずっと祖国を持てませんでした。パレスチナは、今も、祖国を持っていないと言っても過言ではありません。激動期では、大国の利益のために国をなくす民族もいるのです。

私達は、祖国があることが当たり前だと思っていますが、私達だって祖国を失う可能性はあるのです。この国が「中国領日本自治区」になる可能性は、決して低くはありません。私達だって、東アジアのパレスチナになる可能性があるのです。
そういう前提に立てば、国力の衰退を「見て見ぬふり」をしているのは、大きな間違いだと思います。
他国に蹂躙されない国になるためには、私達が力を持たねばなりません。力というのは、軍事力だけではありません。それ以上に、経済力が必要なのです。
台湾は独立国としては認められていませんが、香港のように中国に蹂躙されていません。台湾の軍事力は、中国の軍事力と比べるとお粗末なものですが、経済力があるから「中国領台湾自治区」になっていないのです。
国なんて「あって当たり前」と高を括っていると痛い目に遭います。
祖国を失った民族がいることは、現実なのです。
「軍事も経済も、万全の体制を持った国」になるのは不可能なのでしょうが、それでも、その努力はしなければならないと思います。
そう考えると、国力衰退を放置している現状は、大変、危険だと思います。
国が破綻し、国民生活が江戸時代の生活に戻ったとしても、まだ、国が国であれば再起の可能性は残されますが、富を失い、食を失い、国を失えば、再起はできません。今のパレスチナは、経済基盤が乏しい難民キャンプと呼んでもいいと思います。国連の支援がなければ生きていくことも難しいのです。
私達は、パレスチナになってはいけないと言うことです。
ウクライナも中東も、日本から遠く離れた場所での紛争ですが、他人事で片付けていいとは思えません。
近い将来、東アジアも、紛争地域になる蓋然性は低くないのです。
そんな時に、国家破綻などしていたら、私達だって国を失う危険はあるのです。
国を失うと、2000年、いや、永遠に取り戻せない可能性があります。
確かに、確率は低いかもしれません。
でも、国力衰退を阻止する理由の1つにはなると思うのです。
国力衰退をして、いいことなど1つもありません。
ウクライナやパレスチナを語る人は多くいますが、欠けている視点があるように感じます。ウクライナもパレスチナも、私達に直接の影響はありませんが、私達がウクライナやパレスチナになる可能性はあります。そのような分析が必要であり、その対策も必要になる。そんな視点が欲しいです。


2023-11-05



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ジャニーズ騒動 [評論]



何の問題もない国や社会はありません。
どんな国でも、どんな社会でも、多くの問題を抱えています。
ただ、その問題の質と量は、それぞれ違います。
国民生活を破綻させない程度の問題は、残念ですが、目をつぶるしかありません。
何事も、「完璧」はありません。
でも、どうしても対応しなければならない問題はあります。
それが、国力衰退であり、国家破綻であり、国民生活の崩壊だと思います。

私達の国を、私達の社会を、蝕んでいる原因の原因の原因は、文化だと書いています。その文化とは、「なあ、なあ、まあ、まあ」文化です。
この「なあ、なあ、まあ、まあ」文化は、日本人が生み出した優れた文化です。こんな優れた文化を持つ国は他にないと思います。
ただ、万能ではありません。
「なあ、なあ、まあ、まあ」文化の副作用が、悪しき面が、至る場所で表面化してきたのが、最近の日本社会の現実だと思います。
社会を守るために生まれた文化が、意図していないとしても、国力衰退、国家破綻、国民生活の崩壊へ向かっている現状は、変えなければなりません。
ここまで弊害が大きくなったら、文化とは呼べないと思います。
この「なあ、なあ、まあ、まあ」文化の副作用は、政治・経済分野だけではなく、至る場所で社会を迷走させています。
その一例として、今日は、社会を騒がせたジャニーズ騒動について書きます。
「えっ、これも、文化のせい。こじつけだろう」
いいえ、この騒動も、根っ子は「文化」です。
いろいろな意見がありますが、どれも外れています。ほとぼりが褪めたら、元の木阿弥になるのは、今から予測できます。それが「なあ、なあ、まあ、まあ」の凄い所です。
芸能ネタを書くのではありません。「なあ、なあ、まあ、まあ」文化が起こしている数々の弊害の1つとして取り上げたいと思います。

厳密に言えば、罪を犯していない人は、1人もいないと思います。聖人君子などという人は、この世に存在しません。それは、自分の胸に手を当てれば理解できると思います。
「なあ、なあ、まあ、まあ」文化の弊害は、等しく「許されてしまう」所にあります。
「下々」や「弱者」の小罪でも、「お上」や「強者」の大罪でも、「なあ、なあ、まあ、まあ」で許されますので、「お上」や「強者」にとっては、これほど美味しい文化はありません。
私達庶民は、小罪を許してもらう見返りに「強者」のやりたい放題を容認させられ、2000年間耐えてきました。文化と歴史と伝統は脈々と、今でも続いているのです。
「お前に非はないのか」と言われたら、反論できる人はいません。でも、小罪と大罪を同じに扱うのは、違うと思います。
過去と現在は、私達にはどうすることもできませんが、未来は変えることができます。しかし、このまま、「なあ、なあ、まあ、まあ」を続ければ、先はありません。
ジャニーズで起きたことも、同じ原因で起きました。
人権と性被害という視点から取り上げたBBC放送が、この不条理を世界に発信しなければ、埋もれたままだったかもしれません。「人権意識」後進国の日本では問題にならず、外圧があって初めて問題になるのは、いつものパターンです。
ただ、その原因が日本文化にあるということについては、まだ、誰も気付いていません。ほんとに、誰一人、気付きません。ド真ん中に文化という原因があるのに、私達は、その周辺で「ああでもない、こうでもない」と堂々巡りをしています。ド真ん中に足を踏み入れる人がいません。
この国では、「人権」という言葉そのものがメジャーではありませんし、使う人が少ないと思います。「俺には関係ねぇ」と思っている人がほとんどだと思います。それは、「人権」に馴染みがなかったからです。それは、日本がそういう国だったからです。それを生み出しているのは文化と歴史と伝統なのですが、文化と歴史と伝統は空気のようなものですから、その存在を知るのは難しいのかもしれません。
極論かもしれませんが、もともと、「下々」には、人権などありませんでした。でも、それが日常だと「人権って、なに」になってしまいます。
日々、汗を流して働き、年貢を納めるのが「下々」の役目です。現在でも、同じ構図が続いています。なぜなら、私達の意識が「下々」のままだからです。
「下々」は、ひたすら耐えることを求められ、強い相手には従順に従う。それが、この国が築き上げてきた文化と歴史と伝統です。そんな土壌の上で起きた事件が、ジャニーズ騒動です。日本人には、「なあ、なあ、まあ、まあ」が最適な答えだという常識があります。ジャニーズの対応に批判的な人は27%で、評価する人は59%という世論調査を見ると、皆さん、「なあ、なあ、まあ、まあ」が大好きなのです。
皆さんは、食糧難というドツボに落ちた時にも、「なあ、なあ、まあ、まあ」で済ませてしまうのかもしれません。信仰とか洗脳というものは、そういうものなのかもしれません。この強大な文化と歴史と伝統の力は、ほんとに、凄いと思います。

ジャニーズ騒動は、性被害の騒動です。
私達の国は、昭和22年まで姦通罪が存在した国です。弱者には厳しく、強者には優しい国でした。第二次大戦で敗戦国にならなければ、まだ、今でも、姦通罪は存在していたと思います。姦通罪はなくなりましたが、社会通念は、それほど変わったわけではありません。弱者が泣き寝入りするのは、自然に受け入れられていたのです。
ジャニーズ騒動は、本来、刑事事件だと思いますが、つい最近まで、法改正があるまで、刑事事件ではありませんでした。今でも、被害者が男性の場合でも適用されるのかどうか、私は知りません。
どこまで、真実が表に出てきたのかは不明ですが、被害者は300人とか400人と言われています。1人の人間が個人的に犯した犯罪としては、ギネス級かもしれません。
それを、誰もが、ほんとに誰もが、「見て見ぬふり」をしてきました。
どうしてでしょう。
それは、犯行に及んだ人間が、「強者」だったからです。
多くの関係者にとって、「強者」に従うことが利益だったから、「なあ、なあ、まあ、まあ」を使い、自分の行動を肯定しました。大きな利益のためなら小さな犠牲は仕方がない。それを、当たり前だと考えていました。「見て見ぬふり」は、利益だったのです。
「ケツを差し出した子供達にも、芸能界にデビューできるかもしれないという助平根性があったのだから」と言う人もいます。
いやいや、そもそも、そんなことを子供に仕掛けたら駄目でしょう、とは考えないようです。それは、「大人の責務」が曖昧だからです。いや、何もかもが曖昧です。
集団生活に参加している限り、全ての人に責務があります。全員に共通する責務もありますが、立場による責務もあります。例えば、大人には大人の責務が、国家運営者には国家運営者の責務が、会社経営者には会社経営者の責務が、あります。もちろん、国民には国民の責務があります。
それを全て曖昧にしているのが、「なあ、なあ、まあ、まあ」なんです。
そんな社会では、強者が、自分の責務を無視し、いや、責務があることを認識していませんので、やりたい放題をやっても、許されるのです。
当事者のジャニーズ事務所だけではなく、「お上」軍団に属する多くの関係者が、スポンサー企業、広告会社、テレビ局、メディア等々の大手企業の関係者が、口を揃えて「知らなかった」と言います。「噂に過ぎない」と言っています。
「そんな訳ないだろう」と思いますが、「なあ、なあ、まあ、まあ」の社会では、「知らなかった」で済んでしまいます。
加害者側に立つジャニーズ事務所が記者会見を開きましたが、2度目の記者会見会場は荒れました。それは、ジャニーズ事務所が、2時間という制限を設け、「1社1問」というルールを決めたからです。多くの方が、この点を批判していますが、批判だけに終わっています。
なぜ、記者達は、ルールに従ったのでしょう。
仕方ありません。記者達も、これまで隠蔽をしてきた張本人ですから、何も言えなかったのでしょう。ここでも、「なあ、なあ、まあ、まあ」です。
鬼畜の所業を明らかにする記者会見であれば、時間無制限、最後の質問まで答える必要があったと思います。ジャニーズ事務所がルールを決めて、記者がそれに従ったということは、そこに、上下関係が成立したということです。
この上下関係は、まさに、日本文化の真骨頂です。
日本社会の基盤にあるのは、今でも「お上と下々」であり、皆さん、その暗黙のルールに従うことを当たり前だと思っています。加害者が決めたルールであっても、ルールだと言われると、大半の人は従順に従います。ルール自体が妥当なルールかどうかは吟味しません。「下々」根性は染みついていて、「お上」や「強者」には、逆らいません。そのことを、不思議だとも思いません。これも、文化の力です。
どこかで、同じようなことが行われています。
そうです。総理官邸の記者会見です。
まるで、金太郎飴を見ているようです。
私達は、中国共産党が、共産党を利する法律を作り、自国の人民や外国に、「法に従え」と言っていることと同じことをやっているのです。
問題は、ジャニーズ事務所がルールを作ったことだけではありません。
関連会社の社長に任命された某タレントは、会見会場が騒がしくなった時、「この会場は公開されています。子供達も見ています。どうか、落ち着いて」と言ったそうです。
記者席からは拍手があったそうです。
この国には、「いい人」を演じ、「なあ、なあ、まあ、まあ」で丸く収めることが最良のことだと信じている人が大勢いて、それに同調する人も大勢います。これを文化として捉えなければ、何度でも同じことが起きます。
「なあ、なあ、まあ、まあ」の利点は、問題を解決せず、「先送り」し、時間を経て「なし崩し」で、何事もなかったことにできることです。巨悪であれば巨悪であるほど、その恩恵は大きくなるという仕組みになっています。
あの会見場は、数百人の子供達の人権を蹂躙した「鬼畜」について質疑応答する場です。綺麗事で誤魔化していい場所ではありません。犠牲者は子供達です。子供達から隠すのではなく、子供達を守るために、敢えて、子供達に見てもらう必要があります。
確かに、どこの国でも、こういうことは起きますが、日本は、極端です。
何でも丸く収めてしまいます。それが、日本文化です。
そこには、いい面もあれば、悪い面もあるのです。
「お上」や「強者」にとっては、ほんとによく出来た文化だと思います。
国連人権委員会は、国の関与が必要だと言っていましたが、この件では、国も警察も動きません。新聞もテレビも、国の関与を要求しません。境界線がはっきりとしていませんが、ジャニーズ事務所も新聞社もテレビ局も、多分、あちら側(強者)なのだと思います。いつまで、こんなこと続けるのですか。この「お上と下々」は、私達を不幸にするだけです。
少数の強者のために、多数が泣き寝入りをする社会は変える必要があります。
そんな社会の土台になっているのが「なあ、なあ、まあ、まあ」文化なのです。
こんな社会に、活力は生まれるのでしょうか。
そうは思えません。だから、国が衰退しているのです。
ほんと、救いがありません。
子供達を守りたいのであれば、隠すのではなく、言葉の定義をして、「大人の責務」を明確にすることが大人の役割だと思います。
日本社会が、ジャニーズ会見のような茶番を続けている限り、「なあ、なあ、まあ、まあ」は続きますし、国力衰退も進みます。
自分を、家族を、全ての子供達を守ろうとすれば、皆さんが気付くしかないのです。
気付かなければ、何も始まりません。
皆さんは、先ず、「何を守らなければならないのか」を知る必要があります。
権力者の利益ですか。「強者」の横暴ですか。
違いますよね。
いつまで、泣き寝入りを続けるつもりですか。
いつまで、「いい人」を演じ続けるのですか。
六公四民も七公三民も受け入れるのですか。
文化と歴史と伝統の弊害に気付かなければ、皆さんに未来はありません。


2023-11-04



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公職とは [評論]



国民の皆さん。
皆さんの生活は、年々、楽になっていますか。
将来に希望は見えていますか。
老後の心配はありませんか。
こんな質問に、国民の皆さんの何パーセントの人が「YES」と答えるのでしょう。
想像に過ぎませんが、1桁の数値だと思います。
9割以上の皆さんが、生活は苦しくなっている、将来に希望はない、老後が心配だ、と思っているのではないでしょうか。
もっとも、その9割以上の国民の皆さんは、口には出しません。
「言ってみたってどうにもならない」と思っていて、我慢を選びます。
ほんと、「いい人」ばかりです。
口には出しませんが、皆さんの感じている不安は、正しい不安だと思います。
それは、この国の国力が、あらゆる分野で衰退しているからです。具体的に指摘できなくても、皆さんは、それを肌で感じています。だから、不安なのです。
では、この国は、なぜ、こんな国になってしまったのでしょう。
国の姿は、国民次第で、決まります。
国力が衰えているということは、私達の行動が、そういう結果を招いているということだと思います。自民党が、岸田総理が、悪いのではありません。自民党に、岸田総理に、好き勝手をさせているのは、国民の皆さんです。皆さんは、主権者の責務を果たしていません。残念ながら、この国を衰退させているのは、皆さんなのです。
国民が変わらなければ、この国は変わりません。
人間の行動は、その人の思考で決まります。
ここ50年で、多くの方の考え方が変わりました。
「自分さえよければ」と「俺には関係ねぇ」が当たり前になってしまったのです。
今でも、「誰かのために」とか「俺がやらねば」と思っている人もいますが、ほんとに、少ないと思います。もちろん、全員が「誰かのために」と「俺がやらねば」なんて思うことはありません。いつの世でも、「自分さえよければ」と「俺には関係ねぇ」の人はいるものです。ただ、余りにも、その数が増えてしまいました。
なぜ、考え方が変化したのでしょう。
私は、「目的」の欠如が一番大きな要因だと思います。
個別の「目的」ではありません。欠けているのは、国の目的であり、国民共通の目的です。
私達は、この国が、どんな国であって欲しいと思っているのでしょう。
時々、そういう疑問を投げかける人はいますが、それが大きな、国を二分するような議論に発展したことは一度もありません。
ここでも、多くの方が、「俺には関係ねぇ」と思っているのです。
「目に見えない目的なんて、何か役に立つのか」と思うのでしょう。
「目的を持ったって、そんな国にはならないだろう」と諦めます。
でも、そうではありません。目には見えなくても、人間の意識は、自然と、目的に向かうものです。
目的は、人間の思考に影響を与え、行動様式を変えます。
国力衰退という現象は、100年とか200年の単位でやってくる大きな潮流なのだと思います。大きな潮流は、小手先の対応では対処できません。目には見えませんが、「目的を持つ」ような方法でしか対処できないのだと思います。そして、その効果は、参加してくれる国民の皆さんの数に比例するのではないかと思います。
でも、中身のない目的では、衰退を止められません。目的は、お題目ではありません。スローガンでは何も変えられません。
ですから、「言葉の定義」をして、責務を明確にし、その責務を果たす動機としての目的を作れば、行動力の伴った「目的」が生まれるのではないかと思います。
これは、私の個人的な意見に過ぎませんが、国の目的も、国民の目的も、「子供達の未来を守る」という目的にすればいいのではないかと思っています。「子供達の未来を守る」のは大人です。しかし、死亡しなければ、子供は例外なく大人になり、昔、子供だった大人が次の子供達の未来を守るために尽力すれば、目的を継続することができるからです。
もちろん、子供達の親を守らねば子供は守れませんので、「国民生活を守る」ことを目的にすることもできます。
ただ、責務を明確にすると、大変息苦しい世の中になります。四角四面は、どうしても角が立ちます。しかし、衰退を止めるためには、仕方ないのではないかと思います。衰退が止まり、国が豊かになれば、また、「なあ、なあ、まあ、まあ」を持ち出せばいいのではないかと思います。少なくとも、ずっと、「なあ、なあ、まあ、まあ」では、衰退は止まりません。

いろいろな意見はあると思いますが、目的が必要だと仮定してみます。
そして、その目的は「国民生活を守る」ことだと仮定してみます。
目的というものは、達成するためにあります。
達成するためには、多くの皆さんの尽力が必要です。
何に尽力するのか、が明確でなければ、尽力のしようがありません。
尽力の中身が、責務です。
責務は、一律ではありません。
共通する責務もありますが、立場によって、その責務の中身は変わります。国にとって、国民にとって重要な仕事を担う人は、より重い責務を担ってもらわねばなりません。
例えば、国家運営に携わる国会議員や官僚は、企業を経営する経営者は、司法や国防を担う人の責務は、重いものになります。これは、容認してもらわねばなりません。
ここで、国家運営という仕事を例にして、目的と責務について見てみます。
全ての国民が、それぞれの立場で、「国民生活を守る」という目的のために仕事をするとした場合、今の国家運営は、どう変わればいいのでしょう。
国家運営の仕事をしているのは、国会議員と公務員です。
ここで、国会議員が集合している政党の、今の目的を見てみます。
自民党の目的は、政権の維持です。
立憲民主党の目的は、自民党を批判することです。
維新の会の目的は、自民党に代わり、利権を手に入れることです。
公明党の目的は、創価学会を守ることです。
共産党の目的は、共産主義の国を作り、権力を手にすることです。
その他に、国民民主党、れいわ新撰組、参政党、社民党、その他にも訳の分からい党がありますが、どの党も国民の不満の受け皿になり、国会議員という利権を手に入れることが目的なのではないかと思います。
もちろん、どの党も綱領には、もっともらしい理屈をつけていますが、中身に具体性はありませんので、少し下品な表現ですが、各党の本音を列挙してみました。
既に、死語になってしまった感のある「公職」という言葉があります。勝手に定義をすると、「私欲を捨て、民のために働く職業」なのではないかと思いますが、今では「民の富を収奪し、肥え太る職業」になっています。
人間は、本来、自分の「欲」を実現しようとします。だから「公職」という言葉が生まれたのです。国会議員も政党も、国民生活を守るために存在しているはずですが、そうなっていません。それは、言葉が、どの言葉も、曖昧なままだからです。
国民の皆さんは、そんな現実を見ているのに「ふむ、ふむ」「へら、へら」と「見て見ぬふり」をしています。ほんと、不思議な国民です。
国会議員の、国会議員による、国会議員のための政治構造。
彼等の目的は、どの政党も、「国民生活を守る」ことではありません。
政党だけではなく、所属する国会議員の目的は、どの政党の議員であっても、自分の利権を守ることが目的です。公職に従事している筈の彼等にとって、選挙以外のことは、国民生活のことは、二の次三の次です。
これが日本の国家運営の姿だと思います。ですから、どの党も、どの政治家も、選挙より重要なイベントは存在しません。本来、選挙も国会議員も手段だったと思いますが、今は、手段が目的になっているのです。
彼等にとっては、選挙が命です。
そのためなら、何でもします。統一協会とも協力し、利用します。統一教会の教義を見れば、一目瞭然ですが、保守派が好きな「民族の誇り」でさえ売ってしまいます。選挙で有利になるのであれば、魂でも売る、それが政治家です。
最近の傾向としては、コロナのおかげで、どの党も「ばら撒き」を優先するようになりました。少し中長期の視点に立てば、「ばら撒き」は国力衰退の背中を押す要因になりますが、とりあえず、目の前の選挙に勝つことが優先事項になりますので、与党も野党も「ばら撒き」に頼ります。
こうやって、各党の目的を見ると。
「国民生活を守る」ことが目的になっている政党は存在しません。
もちろん、政治家は、口では「国民、国民」と言いますが、その行動を見れば、国民から見れば、それが口先だけのものだとわかる程度のものでしかありません。
では、「国民生活を守る」ために、国家運営者がやらねばならない課題とは何でしょう。
特定の誰か(経団連や労働組合やその他諸々の支援団体)のためではなく、全ての国民を対象として仕事をしなければならないのが国家運営の仕事だと思います。公職ですから。
貧困化、人口の減少、少子化、過疎化、中小企業の賃金、社会インフラの老朽化、経済活動の低迷、数えれば山のような課題が出てくると思います。
一番の課題は、国民意識を変えることですが、目的と責務が明確になれば、国民だって「俺には関係ねぇ」と言っていれなくなります。
仮に、選挙が目的になるのではなく、「国民生活を守る」ことが目的になれば、党派を超えて協議することも不可能ではありません。

国民が言葉の定義をして、目的と責務を明確にすれば、既存政党は大慌てになります。必死になって、何とか、それらしき目的を作ると思いますが、その時点では国民意識は変わっていますので、口先や誤魔化しでは一票を手に入れることができなくなります。「選挙命」の彼等にとっては地獄です。そうなれば、国民の意識に沿った政治集団が誕生すると思います。そうなれば、与党も野党も雪崩を打ったように、目的と責務に擦り寄ってきます。それ以外に国会議員という身分を守る方法がないのです。
ここで必要になるのが、政党と国会議員の評価システムです。
彼等は、平気で噓をつきます。それを前提にしなければなりません。
「事務的な・・・」「秘書が・・・」「誤解を与えたのなら・・・」等々、言い訳は用意されています。今、国民は、彼等の言い訳を聞くことしかできません。国民には、何の手段もありません。なぜなら、システムを作るのは、国家運営者だからです。彼等は、自分が不利になるシステムは作りません。
必要とされるシステムは、とても多く、個人に出来るような仕事ではありません。ただ、国会議員を守るためのシステムではなく、国民生活を守るためのシステムが必要であることは確かだと思います。私は、具体的に、そのシステムのことは考えていませんが、皆さんで知恵を絞って生み出せば、きっと、いいシステムが生まれると思います。

ここで、10月に誕生した新党「日本保守党」に触れておきたいと思います。
今の日本のあり様が具体化された事例であり、これが、現実なのだと痛感します。役立たずの政党が何百何千と誕生しても、何の役にも立ちません。
発起人の百田さんが言っているように、この新党は「LGBT反対党」のようです。
LGBT問題は、この国の一大事なのでしょうか。議論しなければならない課題だとは思いますが、この国には、優先度の高い一大事の課題が山積みです。
新党結成の意味が分かりません。
いや、彼等は、国家運営という言葉や概念を「自分さえよければ」というフィルターをかけて見ているので、自分達は正しいと信じているのでしょう。
また、参政、維新、自民、国民民主の保守層の受け皿になると言っています。不満の受け皿になって、利権を得る目的としか思えません。これまでの新党結成の流れそのままです。
百田さんと言えば、数々のベストセラー小説を書いた小説家です。想像力は得意の分野だと思いますが、こんな貧弱な想像力で小説を書いていたのでしょうか。
私は、これまで、想像力を取り戻してくださいとお願いしてきました。
私は、間違っていたのかもしれません。
想像力では、問題は解決しないという現実に、とても、落胆しています。


2023-11-03



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洗脳 [評論]



「増税メガネ」から始まり、「増税クソメガネ」にグレードアップした岸田総理のニックネームですが、この先、どんなニックネームが出てくるのでしょう。
私が指摘するまでもなく、国民の皆さんは、増税トレンドが始まっていることを知っているようです。でもね、皆さん、ニックネームをどれほど考えても、どれほど面白くても、何も変わらないことを知っていますか。すぐに、忘れられて、元の木阿弥です。
皆さんがやらねばならないのは、ニックネームを考えることではありません。自民党ではない「新しい政治集団を作る」ために、言葉の定義をすることです。
どうして、そのことに気付かないのか、ほんとに、不思議です。
岸田さんは、かなり、「増税メガネ」を気にしているという報道が流れています。
余りにも、増税、増税と言われるのを嫌ったのか、「税収増を国民に還元する」と発言し、「減税」を匂わせました。その発言を受けて、自民党内から「減税」要請の発言が相次いでいます。どうやら、自民党議員は、既に、選挙モードに入っているようです。選挙の時の「減税」ほど頼りになる言葉はありません。
さて、岸田さんは、どうするのでしょう。
少し前に、岸田さんの右腕と言われる木原さんが減税のことは発言していましたので、木原さんのお許しは貰っているようです。岸田さん自身には何もないから、もう、バレバレですが、他人の話を聞くしかない。それが特技になったとすると、岸田さんは木原さんの傀儡なのかもしれません。
木原さんの減税発言の根拠は、税収の増加です。岸田発言もその線で行われています。
消費税、法人税、所得税が税収増加のベストスリーです。
消費税が増収になったのは、8%から10%への増税と物価上昇の成果です。
法人税の増収は、物価上昇と補助金の成果です。
所得税の増収は、春闘でのベースアップの成果です。
国民にとって、賃金上昇は、既に、物価上昇で消されていますが、税収が増えたのですから、「お上」にとっては歓迎できることです。所得税以外の税収増の要因は、増税と補助金と物価上昇であり、これ、全部、国民負担増による税収増です。
当たり前のことですが、税を支払うのは、形が違っても、国民なのです。税収が増えたということは、それだけ国民負担が増えているということなのですが、そのことを問題視する人はいません。
岸田総理は、減税を「してやったのに」と言ったと報道されています。国会答弁では、給付金を「与える」と発言しています。これは、自分に「お上」意識があるから出てきた言葉だと思います。江戸時代は、まだ、続いているとすると、私達「下々」は土下座をしなければならないのでしょうか。一方、「下々」は、減税の形や給付の範囲で、文句タラタラですが、問題は、そこではないと思います。まさに、「どっちもどっち」です。
この先、防衛費と子供手当の財源としての増税が待っています。
でも、これらは、序の口です。
皆さんの近未来にあるのは、六公四民であり、七公三民です。
岸田さんが大増税をする時に、総理大臣をやっている可能性は低いと思いますが、増税の道を開き、レールを敷いたのは岸田さんです。言い方を変えると、「先送り」という点では、岸田さんは「お上」にとって大きな成果を出しました。
岸田さんは、何度も、「懸案事項を1つ1つ、着実に実現していきます」と言いますが、これは「着実に先送りをしていきます」という意味だと思います。中でも、最大の懸案事項が増税なのですから、「先送り」役を務めた功績は大きいと思います。「なし崩し」役は、他の誰かにやってもらえばいいのです。

さて、この文章をブログに載せるのは11月です。
もしかすると、11月には、解散総選挙が先送りされているかもしれません。
年内に解散総選挙があるという前提で書きますが、外れていたら「ごめんなさい」です。
「増税メガネ」等の流行語は、ネット上で生まれて拡散することがほとんどです。
流行語が国民世論を反映しているかというと、そうでもありません。
それは、電話による世論調査と、ネットでの世論調査には、大きな開きがあることを見ても一目瞭然です。
投票所に足を運ぶのは、圧倒的に老人が多く、ネット世界とは別世界です。流行語で盛り上がるのは若者ですが、若者は投票所に行きません。ですから、流行語は選挙に影響がない、とまでは言えませんが、致命的な影響はないと思います。ただ、空気は変えます。政治家にとって空気ほど厄介なものはありません。
岸田さんは、流行語の勢いに焦って、「減税」という言葉を出しただけかもしれません。
ただ、庶民の直感は、大抵、外れません。
この先、手を変え品を変えて、増税が行われることは間違いありません。
「増税メガネ」という流行語が、「増税」という空気を膨らませてしまうと、厄介なことになると思います。老人と言えども、空気には影響されます。
日本社会は、元々、曖昧な空気で動く社会です。
ですから、空気を軽視していては選挙に勝てません。
昔は、官僚の皆さんが「空気の醸成」に力を発揮していましたが、これだけネット環境が広がると、予期せぬ空気が醸成されることを防げません。ネット民は「言うだけ番長」ですから、実行力はありませんが、空気は独り歩きを始めることがあります。
空気の伝播は、大抵、緩やかなものです。気が付いた時は、空気が風になり嵐になることだってあります。そんな時に、解散総選挙を断行するのは、愚策です。岸田さんは、増税が、風や嵐になる前に選挙をやってしまいたいのかもしれません。
次の総選挙では、自民党が勝つ要素はありません。
それは、自民党も自民党議員も承知していると思います。
ですから、何人落選するのかが問題です。
今、選挙をすれば、30人落選(最近の調査では41人落選だったそうです)し、半年後に選挙をすれば50人落選し、1年後に選挙をすれば70人落選すると予測できれば、今、選挙をすることが正解になります。議員の任期は、まだ、2年ありますが、その間には、増税の話はしなければなりませんので、2年後に、任期満了で選挙をすることは、政権を失う危険も出て来ます。
確かに、岸田政権の支持率は低迷していますが、先のことを考えると、今年中に選挙をすることがベストのように見えます。
彼等の目標である「自民党政権の維持」、そして、増税実現のためには、年内解散は有力な選択肢だということになります。
ここは、思い切って、減税をしてでも、選挙をするのではないかと推測します。
後は、岸田さんの胆力次第かもしれませんが、木原さんが「やれ」言えば、やるような予感がします。

専門家ではなく、部外者でしかない私であっても、こうやって、理屈を積み上げていけるのは、自民党の目的がはっきりしているからです。
その目的とは、「自民党政権の維持」です。
目的さえあれば、自民党でも、それなりの設計ができるということです。
国民から税を徴収し、本予算と補正予算で、税金をふんだんに使って、票になる支持団体の便宜を図り、税制でも優遇し、支持団体に利のある政策を実行する。私が、自民党の人間で、その目的が政権の維持であれば、同じようなことをしていたと思います。
でも、何か、変ですよね。
そうです。目的が違うのです。もしも、目的が、「国民生活を守る」ことであれば、別の国家運営システムが設計されていたと思います。
今のシステムは、自民党の目的に合致したシステムなのです。
それなのに、相変わらず、国民の皆さんは、自民党に票を入れます。
それは、文化と歴史と伝統で洗脳された「下々」が存在しているからです。何もしなくても自民党に投票してくれる「下々」は、必ず、います。自民党は。そこには、自信を持っていると思います。ただ、空気と風と嵐だけは気を付けなくてはなりません。民主党政権が出来た時は、かなり強い風が吹いていました。
六公四民であろうと、七公三民であろうと、忍耐強く、従順に、「お上」の意向を受け入れてくれる「下々」がいなければ、こんな無茶はできません。だって、自分と自分の支援団体のために国家を運営していて、国民のためには全く働いていないのに、国民は票を入れてくれるのです。これほど有難い国民は、日本にしかいないと思います。文化と歴史と伝統という特殊事情がなければ、「下々」はいなくなっていたと思います。しかし、洗脳されているために、「下々」は今でも健在です。
自民党を支えているのは、他でもない、国民の皆さんなのです。先月、一例として、小渕優子に票を入れている群馬県民を「下々」だと書きましたが、「下々」は全国にいて、自民党に票を入れています。自民党が「国民生活を守る」ために働いていないことは、「何となく」知っています。でも、「何となく」、「深く考えることもなく」、「惰性で、つい」、自民党に票を入れてしまいます。きっと、皆さん、底なしの「いい人」なのだと思います。
つまり、私達は、自分で自分の首を絞めているのです。
不思議に思うかもしれませんが、洗脳されていると、そのことに気付けません。
そういう意味では、2000年の時間を費やして洗脳された日本人は他に例を見ないほど「いい人」ばかりだということです。他の民族であれば、どこかの時点で、「何か変だぞ」と気付いていたと思います。
しかし。
この国の目的は、皆さんの目的は、自民党を支えることなんですか。
違いますよね。
「国民生活を守る」という目的がなく、責務がなく、定義もない現状は。
自民党を支えることが目的になっている現状は。
何でも「なあ、なあ、まあ、まあ」で済んでしまう文化は。
「お上」の利益にはなっても、「下々」の利益にならないことははっきりしていると思います。ただ、そのことに気付かなければ、誰も、不思議だとは思いません。
ほんとに、洗脳は恐ろしいと思います。
この洗脳を、呪縛を、解くためには、国民の皆さんが、自ら「言葉の定義」をするしかないと思います。
「いい人」は素晴らしいことですが、「いい人」では自分の生活は守れないのです。
自分を守り、家族を守り、多くの同胞をまもるためには、それなりのことをしなければならないのだと思います。
私は、武器を取れとか武力革命をしろ、と言っているのではありません。
「言葉の定義」をしてください、と提案しているのです。
自民党を支えても、皆さんの生活は豊かにはなりません。
では、自民党ではなく、他の政党なら、国民生活を守ってくれるのでしょうか。
いいえ、どの政党も、「言葉の定義」をしていません。野党の目的は、自民党を倒すことであり、自民党よりもレベル低いと思います。そんな野党では、国民生活を守ることはできません。「駄目党と超駄目党の、どっちが、ましか」で選択していたのでは、国民生活は破綻するしかありません。
国民自らが、「新しい政治集団を作る」という選択肢しかないと思います。
この国では、「下々」の選択肢は「お上」が与えてくれるものだと信じられています。ずっと、そういうお国柄でした。21世紀になっても、「下々」には、自分達で選択肢を創り出そうという発想そのものがありません。与えられた選択肢の中で「どちらが、ましか」で選んでいます。このことは、私達が「下々」意識を捨てるまで続くとすると、全く、光が見えません。国民が、自ら、選択肢を創り出したとしても、それで成功するとは限らないのです。でも、そこには、可能性だけはあります。せめて、可能性だけでもあったほうがいいと思うのですが、可能性を生み出す努力はしません。それは、日本国民の大多数が、いや、ほとんどの日本国民が、未だに、「下々」だからです。自民党政権が続いていることが、それを証明しています。
この「下々」意識を変えるのは、不可能なのでしょうか。だとすると、私達の未来は真っ暗です。どうすればいいのでしょう。
その答が見つかりません。
「増税メガネ」と批判したって、何も変わりません。必要なのは、「言葉の定義」なんです。これは、皆さんの生活を守るために必須のことです。
皆さんが、自分の頭を使って、努力するしかありません。
皆さんは、絶妙なニックネームを考える力を持っています。そんな皆さんにとって、言葉の定義なんて、難しいことではないと思います。
皆さんが想像しているように、六公四民や、七公三民は、近づいて来ています。
もう、手遅れではありますが、なにもしないよりはいいと思います。


2023-11-02



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普通の我慢か最悪の我慢か [評論]



山梨県市川三郷町の町長は、財政が危機的な状況に陥っているとして、「財政非常事態宣言」を出した、というニュースがありました。
財政破綻が目前に迫っている地方自治体は、市川三郷町だけではありません。全国のランキングでは、市川三郷町は、1768市町村中、上から1057位ですから、市川三郷町よりも下位にある危険な市町村は、約700市町村も存在していることになります。もし、巨大地震が起きたら、多くの自治体が「アウト」になります。危険信号が灯っていない市町村がどれほどあるのか心配です。
原因は、国力衰退と過疎化です。
過疎化による税収の減少と高齢化による福祉費用の増大が原因です。
ほんとに多くの自治体が、このダブルパンチに見舞われています。
しかし、有効な対策がないまま、今に至っています。
国がやった対策は、市町村合併です。
この市川三郷町も、山梨県西八代郡の市川大門町と三珠町と六郷町が合併して生まれた町です。
過疎化の原因は、若者が都会へ移り住むことで生まれた社会現象です。若者が都会へ行くのは地元に仕事がないからです。地元に仕事を作ることが、過疎化対策ですが、その対策はされていません。いろいろな方が挑戦しましたが成功していません。なぜなら、社会構造を変える仕事は、個人や団体や自治体に出来る仕事ではないからです。
先月、青森県の若者の減少が著しいという話題を取り上げましたが、山梨県でも、いや、多くの地方都市で起きている現象です。
過疎化の原因(若者の流出)を放置したまま、自治体の規模を大きくすることで、破綻を先送りすることが、市町村合併の目的です。過疎化の原因には対応されていませんので、市町村合併をしても、過疎化は止まりません。
では、過疎化を阻止する方法があるのか、と言えば、今は、ありません。
過疎化の原因である若者の流出を止めるためには、地方都市に仕事がなくてはなりませんが、地方都市に仕事を作るのは簡単なことではありません。ほぼ不可能ですから、いや、多くの皆さんがそう思っていますから、過疎化が進んでいるのです。
と言うことは、従来の思考では、方法は見つからないということだと思います。
新しい思考方法で、新しい方法を見つけるしかありません。
その方法が見つからなければ、このまま、衰退するだけです。
確かに、国力衰退競争では、日本が世界の先頭を走っていますが、この先、国力衰退病で苦しむ国は増え続けると思います。
ですから、これは、人類に対する試練なのだと思います。つまり、今は、人類に大きな知恵が求められている時代だと言うことです。人類は、これまでも、幾多の試練を、知恵を出して、乗り越えてきました。今は、世界が、そういう時代にあるのだと思います。
従来の考え方に固執していては、この時代を乗り越えられません。
私達が直面しているのは、そういう大きな波なのだと思います。
市川三郷町の発表を見れば、過疎化は、従来思考から生まれた市町村合併などという手法で、「何とかなる」時代ではない、と言うことを証明しています。
だとすると、一番の問題は、私達が時代を認識していないことだと思います。
これまでの手法で対処できる課題かどうかを識別しなければなりません。
この場合は、「市町村合併で過疎化は阻止できるのか」を識別しなければなりません。
そんなことは、頭脳明晰な官僚の皆さんなら、当初から、「市町村合併で過疎化は阻止できない」ことはわかっていたはずです。しかし、硬直化した頭脳では、過疎化対応でも、従来手法の「先送り」と「なし崩し」を使うしかなかったのです。
先は見えているのに、いつまで、こんなこと、続けるのですか。
市町村合併では、過疎化は阻止できません。これは、誰が見ても、明白な事実です。ただ、小さな自治体が財政破綻する時期を、市町村合併によるスケールメリットを利用して、「先延ばし」することは可能です。国は、そんなこと、百も承知でやっているのです。
でも、延命は「死」を先延ばししているだけですから、この先にあるのは「死」です。地方自治体にとっての「死」とは、国から財政再生団体の指定を受けることです。
国は、地方自治体に対して財政再生団体の判定を下すことで、責任を逃れます。
悪いのは自治体であり、国ではない、というやり方も「なし崩し」です。
「お殿様」と「お代官様」と「百姓」という構図は、今も健在です。この国の時間は、100年、いや、200年、止まっています。ですから、相変わらず、責任を取らされるのは、いつも住民です。また、この国では、「我慢」が美徳とされています。確かに、美徳と呼ぶに相応しい「我慢」もありますが、全ての「我慢」が美徳ではないと思います。

少し、住民の立場から見てみます。
市川三郷町の町長は、なぜ、「財政非常事態宣言」を出したのでしょう。
その地域に住む住人に対して、「これまでのような市民サービスはしませんよ」という宣言だと思います。更に延命するために、「市民サービスを犠牲にしますよ」という宣言です。
その裏にあるのは、「おたくの息子や娘が都会に出て行ってしまったから、ここは過疎地になってしまった。これは、皆さんの責任だから、仕方ないでしょう」という意味が含まれています。町長も住民も、地域に仕事がないことを承知していますので、誰もが「我慢するしかない」と思ってしまうのです。「仕方ない」で終わります。
でも、これ、何か変です。
国は、市町村合併をすれば責務を果たしたことになるのでしょうか。
国の責務は、何ですか。
国民生活を守ることです。
国民生活は、これで、守られているのでしょうか。
そうは思えません。国は責任を果たしていないと思います。
ただ、国民も責務を果たしていませんので、国だけを責めることはできません。
国民の責務とは、国を繁栄させることです。
もちろん、国民の努力だけでは、国は繁栄しません。
国を繁栄させることを可能とする国家運営を、国民が自分の意志で、本気で、選択することが必要です。主権者には、その権利と責務があります。
そうです。私達には、国民生活を守るための政治集団が必要なのです。2000年間、「先送り」と「なし崩し」で、「なあ、なあ、まあ、まあ」で、やってきた国家運営を、根本から変える政治集団が必要です。
国と国民は運命共同体です。どちらかだけが生き残るなんてことはありません。
まだ、今は、誰も答えを見つけていませんが、私達は、当事者として、過疎化を乗り越える答を見つける必要があります。
しかし、そのことよりも問題なのは、答を得ようとしていないことです。
皆で、示し合わせたように、「仕方ない」で終わっています。
誰もが、「俺には関係ねぇ」と思っていることが問題なのです。
それほど遠い未来ではなく、皆さんの生活は破綻します。
その時、皆さんは「あちゃー」と言うだけですか。
破綻後に、破綻と向き合っても何も出来ません。
破綻に向き合うのは、将来の破綻が見えている、今です。
私も、今、過疎化に対する具体的な提案を持っているわけではありません。
でも、過疎化は、先延ばしするのではなく、対応が必要です。
これは、紛れもない現実です。
言葉の定義をし、国と国民の責務を明確にし、国の、国民の、目的を創れば、私にも見えていませんが、そこから何かが生まれる可能性はあると思います。もちろん、可能性に過ぎませんので、確約はできませんが、可能性はないよりあったほうがいいです。少なくとも、今のままなら可能性はゼロだということを、自治体の現状が証明しています。
15年前に、夕張市が財政再生団体に指定されたのは有名な話ですが、夕張市の後を追っている自治体は、今や、雲霞のように増えています。夕張市の運営苦労話を読むと、心が痛みます。そして、15年経っても再建されていませんし、再建の目途もありません。
どの自治体も夕張市にはなりたくないと思っています。
しかし、第2第3の夕張市は、必ず、生まれます。多分、雪崩が起きるように、次々と、財政再生団体が生まれる時がやってきます。皆で赤信号を渡る時です。
もしも、仮に、何割かの地方自治体が財政再生団体になったら、その割合が1割なのか2割なのかはわかりませんが、この国は、国として機能していると言えるのでしょうか。
市川三郷町の町長が言っているのは「夕張市のような財政再生団体になったら、この程度では収まりませんよ。だから、我慢してね」ということです。
でも、この思考も、変です。
「普通の我慢と最悪の我慢の、どちらを選択しますか」というやり方は間違っています。
国民に我慢を強いるのではなく、国民に努力を促すことが、国と自治体の仕事だと思います。でも、日本人は、我慢慣れしていますので、そのことに気付きません。
そうです、文化と歴史と伝統が、今の日本を「ジリ貧」状態にしているのです。

「たかが、過疎化だろ」、「俺には関係ねぇ」と思っている方もいると思います。でも、それ、違います。財政再生団体に指定される自治体が、次々と出てくる国は、皆さんには未来がない事を示してくれているのです。東京だけは生き残れると思いますか。いいえ、東京も同じ道を辿ります。
最初に、「社会構造を変える仕事は、個人や団体や自治体に出来る仕事ではない」と書きました。では、国なら出来るのでしょうか。いいえ、無理です。国民と自治体と国が、総掛かりで取り組まなければ成功しません。
そのためには、文化を変え、新しい歴史を作るしかないのです。
それが出来なければ、この国は破綻します。
もう、国民生活は、既に、かなり、壊れていますが、更に壊れます。
最終的には、食糧難に遭遇することになります。
どうか、時代を認識して欲しいと思います。
もう、従来の思考では、この新しい時代に対応できません。
私達の思考を根底から変える革命を起こさなければ、時代に対応できないことが、過疎化だけではなくあらゆる場面で顕著になっているのです。皆さん、気付いていますよね。皆さんは、薄々とですが「ヤバイ」と思っていますよね。それなのに、何故、過去にしがみ付くのですか。どうして、自分を守ろうとしないのですか。ほんとに、不思議です。
思考を変えるためには、文化を変えなければなりません。
文化を変えると言うことは、天と地をひっくり返すほどの革命が求められていると言うことです。どうか、そのことに気付いてください。
そして、実際に、文化を変えてください。
「なあ、なあ、まあ、まあ」文化に出来ることは、市町村合併くらいです。
「言葉の定義をする」文化に、どれほどのことが出来るのかは、まだ未知数ですが、挑戦してみる価値はあると思います。
もちろん、「言葉の定義をする」文化以外に、現状を、過疎化を、解消する方法があるのであれば、それでも構いません。
でも、そんな方法、誰も持っていません。
だから、過疎化が進んでいるのです。
私達には、今のところ、「言葉の定義をする」文化を、新しく生み出すという一択しかないのです。確かに、一択ですが、これは、選択肢があるということです。お手上げではありません。
もう、間に合わないのかもしれませんが、過疎化を解消する可能性はゼロではないと思いますので、是非、挑戦して欲しいです。子供達の未来のために。


2023-11-01



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ドリル優子の再登場 [評論]



ドリル優子という呼び方が流行したのは、約10年前です。
「政治とカネ」問題で追及された自民党の小渕優子議員の事務所が、証拠隠滅のためにハードディスクを電動ドリルで破壊したと報じられ、全国に名を売りました。
その小渕優子議員が、今年の内閣改造で、自民党四役と呼ばれている選挙対策委員長の要職に抜擢され、ドリル優子という呼び名が再登場しました。
政治の世界特有の常識である「禊は済んだ」という現象だと思います。
この「禊」という文字は大変便利な言葉で、どんな悪事を働いていても、次の選挙で当選すれば「身の潔白は証明された」という解釈になります。
日本の有権者の多くは、まだ、「下々」です。これは、紛れもない事実です。小渕優子が国会議員を続けていることが、それを証明しています。
「下々」は、「お殿様」だけではなく、「お殿様」の家の「お姫様」にも逆らえません。何よりも、「下々」は、自分の責務を知りません。ただ、ただ、土下座をしてやり過ごすことが習慣になっています。
先ず、小渕優子に一票を投じ、国会議員にしたのは、そんな「下々」の皆さんです。ですから、自分に責任があることを知りません。何の責任も感じていませんので、次の選挙でも小渕優子に投票します。「お姫様」だから、です。そして「禊」は完成します。とても、責任ある主権者の行動とは思えません。投票理由は、「お殿様」だった小渕恵三の娘だから、というものだと思いますが、まさに、これは、「お殿様」と「百姓」の関係です。
「下々」が存在する限り、政治家は好き勝手なことが出来るという風土です。政治家に「禊」という便利グッズを提供しているのは「下々」なのです。それでも、「下々」は「ふむ、ふむ」と納得しています。ほんとに、救いがありません。
私には、平安時代に栄えた陰陽師文化が、まだ、脈々と受け継がれているような印象しかありません。
まさに、歴史と伝統は不滅です。
ただ、私には、小渕優子を糾弾する資格がありません。
なぜなら、私が小渕優子と同じ立場に立てば、ドリルを使うかどうかは別にして、同じことをやっていた可能性が高いからです。「私が悪うございました。議員を辞職します」なんてことは、私も、絶対に言いません。政治家は、バレたことを「失敗だった」と思っているかもしれませんが、「悪事を働いた」とは思っていません。政治家とは、そういう人種ですから、批判をしても意味がありません。政治家は、国民から「落選」という引導を渡されるまで引退が出来ません。
でも、国民の皆さんには、いや、「下々」の皆さんには苦言を言いたいと思います。
選挙区は群馬県だそうですが、選挙区の皆さんは、どうして、ズルをしている小渕優子議員に一票を投じるのですか、と聞きたいです。選択を誤ったのは群馬県民の皆さんです。小渕優子議員も群馬県民も、全く、責任を感じていないだけではなく、「バレてしまったのは不運だった」と思っているのでしょう。それは、小渕優子議員が、破竹の8連勝中だということで証明されているようです。まさに、どっちもどっち、です。
政治家の「禊」という儀式を認め、好き放題をさせているのは、「下々」の皆さんです。
ほんとに、歴史と伝統は恐ろしいです。
今、この国は衰退トレンドの真っ最中で、国民は、日々貧しくなり、将来の展望は全く見えない状態です。
「おらが村」を守っても、何の得にもならないことに、どうして、気付かないのでしょう。
「おらが村」を守っていても、国民生活が壊れれば、「おらが村」も壊れるのです。それとも、群馬県だけは大丈夫だと信じているのでしょうか。なんと愚かなことでしょう。
物理的に見て、現在が、平安時代の延長線上にあることは否定しませんが、陰陽師や「おらが村」という伝統を守っていても、私達の生活は守れません。皆さんは、自分達の生活よりも、歴史と伝統のほうか大事なのでしょうか。
たぶん、そういうことなのだと思います。これを、洗脳と呼びます。
であれば、この国が潰れるのは、必然なのだと思います。
国民の皆さんが、自分の手で、この国を壊しているのです。
ただ、厄介なのは、国民の皆さんが、そのことに気付いてないことです。
自分の中では、良き振る舞いをしていると思っています。
文化と歴史と伝統は、世界最強の洗脳ツールです。宗教ですら足下に及びません。
多分、ドツボにはまっても、きっと、「ふむ、ふむ」と言うのでしょう。
日本の人口の大半の人が、数千万人の非正規労働者とその家族、そして数千万人の年金生活者が貧しい暮らしをしている国、それが日本です。しかも、貧困化が止まりません。
しかし、暴動は起きませんし、政権交代ですら起きません。
何故だかわかりますか。
国民が、国民ではなく、「下々」だからです。
小渕優子に一票を入れた皆さんは、「自分は正しい」と思っています。ですから、何回でも小渕優子に投票するのです。「下々」がいる限り、政治家は、いつでも「禊」が可能なのです。これまでも、文化と歴史と伝統は、常に「お上」の利益のために存在しましたし、今でも、「お上」の利益を守る守護神です。「下々」は、今でも「下々」です。この構図には、救いがありません。

今日は、小渕優子議員に国会議員を代表してもらっていますので、群馬県民の皆さんをボロクソに言っていますが、この構図は、全国規模で存在しています。もちろん、だからと言って、群馬県民の皆さんに責任がないわけではありません。群馬県民の皆さんにも、国民貧困化の重大な責任があります。
「お前は、群馬県のことを知らないから、そんなことが言えるんだ。立候補者の中では小渕さんが一番ましな立候補者なんだ」
「俺達には、他の選択肢はないんだよ」
きっと、そうなのでしょう。
これまでは、そんな言い訳は、真面な意見に聞こえたかもしれません。
しかし、ここまで貧困化が進めば、それは、ただの言い訳に過ぎません。
政治家の都合で政党が結成され、政党の都合で立候補者が決められています。
なぜ、国民の都合で、政党ができないのでしょう。
なぜ、国民の都合で、立候補者が決まらないのでしょう。
これって、おかしくありませんか。
国は、国民生活を守るために存在しているのです。政治家がズルをするために存在しているのではありません。それなのに、国民は既存の政党しか選択肢がないと思い込んでいるのです。それって、封建時代の「下々」のやることです。どうか、「下々」を卒業してください。皆さんは、この国の主権者です。
国会議員だけではなく、後援会長も後援会の人達も事務所のスタッフも、全員、自分の利益のために働いているのです。口では「県民の皆さんのために」と言うでしょうが、そんなことは露ほども思っていません。自分のためにやっているのです。
それが悪いと言っているのではありません。誰でも、そうします。
しかし、投票権を持っている国民には、責任があります。
それは、国民が、この国の主権者だからです。
皆さんは、政治家やその取り巻きのために存在しているのではありません。
ましてや、皆さんは「下々」ではありません。自分のために、自分の家族のために、そして、全ての国民のために、自分達の生活を守るという重大な責務を負っているのです。
皆さんには、その責務を果たす義務があります。
今、既存政党という選択肢しかないのであれば、主権者である国民自身が、新しい政党を自分で作らなければなりません。
それが、責任を果たすという意味です。
百歩譲りましょう。
国民の皆さんが、豊かな生活ができ、幸せであれば、たとえ「下々」であっても問題はないのかもしれません。
でも、現実は、そうではありません。
この先、国民は、更に貧しくなります。
確かに、「下々」という立ち位置は、居心地はいいのかもしれませんが、ドツボにはまりそうになっている今は、「下々」に安住している場合ではないと思います。
しかも、最終責任は、皆さんが取るのです。
「あちゃー」では済みません。
国民生活は、助平根性では守れません。
どうか、自分の責務を知ってください。
「東京に行けて、観劇できて、美味しいお弁当が食べれて、お土産もあって」
「別に、1円にもならない投票権なんだから、それぐらいいいだろう」
これって、世間では「助平根性」と言います。
皆さんに責務がないのであれば、その理屈は通ります。
でも、皆さんは、責任ある立場にいるから主権者なのです。
皆さんは、そのことを知らないだけなのです。
お願いです。
民主主義を知ってください。
国の責務を知ってください。
国民の責務を知ってください。
今のままだと、この国は、貧しくなるだけです。
貧困化の先にあるのは、国民生活の破綻です。

小渕優子議員は、選挙対策委員長就任会見で、ドリル事件を持ち出され、涙目になってみせたそうです。議員を続けるためであれば何でも利用する人のようで、女を演じ、誤魔化そうとすることも選択肢の1つなのでしょう。人間としてもいかがなものかと思います。
群馬県の皆さんは、恥ずかしいとは思わないのでしょうか。
思わないのでしょう。だから、小渕優子が議員を続けているのです。逆に、「うちの姫に、なんてことをするんだ」と思っているのかもしれません。
もし、そうなら、ほんとに、救いがありません。群馬県民の皆さんの行動を見る限り、この国を壊しているのは、国民なのだと痛感します。文化と歴史と伝統、そして、無知は、ほんとに怖いと思います。

また、新党が出来るそうですが、一部の人達の都合で新党が出来ている間は、国民意識が今のままなら、国の責務と国民の責務が曖昧なままであれば、この国は変われないと思います。まだまだ、壊れ続けます。
国民の皆さんが、新しい政治集団を作らねばなりません。ただ、直接、新党を作るのは国民の皆さんの仕事ではありません。国の責務を、国会議員の責務を明確にし、「私達は、責務を果たしてくれる候補者に投票します」と宣言すればいいのです。少なくとも、小渕優子を当選させるのは、間違っていると思います。
国民の皆さんは「下々」ではありません。
国会議員は「お殿様」でも「お姫様」でもありません。外注先の社員です。
政党は、特定の一部の人達が立ち上げるものではありません。多くの国民が民主主義の原理原則を知り、それをオーソライズすることで、自然発生的に生まれるものだと思います。
日本は民主国家だと思っている人が多いようですが、今は、看板がかかっているだけの民主国家です。この国は、実際には、民主主義風王政並立封建制度の国です。その証拠に、民主主義の定義もなく、国の責務が明確ではなく、皇室が存在し、「下々」が健在です。
多くの国民の皆さんの生活が、どんどん、貧しくなっているのは、民主国家の最大の責務である「国民生活を守る」ことが出来ていないということです。本来の責務を守るために、本物の民主国家になってみませんか。
言葉の定義をし、国民による、国民のための、新党が生まれることを期待します。


2023-10-05



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必要は発明の母



昨日は高齢化率の話題を書きました。その中で、真の問題は少子化だと書きました。
多分、この認識は多くの方の共通認識だと思います。
しかし、少子化トレンドは衰えることなく進行しています。
私達は、その数値を見て、「ふむ、ふむ」と頷いているだけです。
「じゃあ、お前は、何か有効な提案を持っているのか」
いいえ、持っていません。
「じゃあ、黙ってろ」
そうなのでしょうか。
抵抗しては駄目なのでしょうか。「足掻く」のはみっともないのでしょうか。
「見て見ぬふり」が正しいのでしょうか。
そうは思えません。
少子化だけではありませんが、国力衰退は国の存続を危うくする大きな課題です。考え得るあらゆる対応をすべき課題だと思います。国民の皆さんの生活がかかっているのです。「俺には関係ねぇ」では済みません。
ここで言う「あらゆる対応」とは、経済的、制度的対応だけを指すのではありません。
どうしても必要になるのが国民意識の変革だと思います。
少子化の原因に、結婚しない若者、結婚しても子供を作らない家族、が挙げられています。もちろん、結婚したくても経済的な理由で結婚できない人もいますし、出産・育児の負担が大きすぎて諦めている人もいます。そういう若者に対しては、経済的、制度的なサポートが必要です。
ただ、経済的、制度的なサポートだけでは、問題は解決しません。
「子供を持つ必要を感じない」という若者もいます。「悲惨な未来しかない時代に、子供を持てば、子供が苦しむだけだ」という若者もいます。生き物の本能である「永遠」でさえ、否定する人が実際に存在するのです。それが、国民のコンセンサスになるのであれば、それは仕方ないことだと思いますが、それほど簡単に本能を否定することは難しいと思います。多くの方が、本音では、幸せな家族に囲まれて生きたい、と思うのではないでしょうか。
確かに、先ず、経済的、制度的なサポートをしろよ、と言われればその通りですが、「あらゆる対応」が必要であるという観点から、同時に、国民意識を変えることも不可避なのではないかと思います。
先程も書きましたが、私は、有効な少子化対策の提案を持っていません。
でも、私は、1億2000万分の1です。
いや、もっと言えば、少子化に直面している国は日本だけではありません。数十億人の人達が不安定な未来を抱えているのです。
ここは、人類の叡智が必要とされる時だと思います。
ただ、国際関係は冷徹です。「他国がどうなろうと、知ったこっちゃない」が当たり前です。ですから、日本の少子化は、日本で解決するしかないのではないかと思います。
それでも、1億2000万もの頭脳があるのです。知恵を出し合う必要があるのではないでしょうか。
「必要は発明の母」という言葉があります。
人類は、この言葉を、常に肝に銘じて生きてきたと言っても過言ではありせん。
初期の人類にとって最大の課題が「衣食住」でした。
寒さをしのぐために服を作りました。
食料を安全に食べるために、体温を維持するために、火を見つけました。
雨露を避けるために、洞窟を探しました。
どれも、生き延びるために必要とされたことを、知恵を出して、解決してきたのです。
国力衰退の先にあるのは「滅び」です。
「滅び」の世界では、私達にとって不可欠な要素である「衣食住」が確保できない可能性が高まります。
生き延びることを諦めるのですか。
私達は、生き延びるという必要性を常に抱えているのです。
ここは、知恵を出す時ではないでしょうか。
ただ、皆さんは、少子化の先に「飢餓」が待っているなんて想像はしません。いや、薄々とは知っていますが、口には出しません。
でも、少子化が進めば、待っているのは「飢餓」です。
その事を知ってもらわねば、「知恵を出してみようか」という気は起きないかもしれません。「まさか、大袈裟だろう」
そうでしょうか。
私達の国は、どんどん、貧しくなっています。
皆さん、「見て見ぬふり」をしていますが、それが、現実です。
貧困の先にあるのは何ですか。
北朝鮮やアフリカの貧困国で起きていることは、「飢餓」です。
どうして、日本は大丈夫だと言えるのでしょう。
私達は、少子化に、国力衰退に、対処する必要に迫られているのです。
だから、知恵を出す時なのです。

ここで、少子化が進んでいることを証明する数字を見てみます。
青森県の数字です。
青森県の地方紙「東奥日報」が、青森県内の20代人口の推移を集計した結果を発表し、話題を呼びました、
県内10市のうち6市が2002年からの20年間で20代が半数以下になったのです。
県庁所在地の青森市も54.07%の減少です。
減少率の高いベスト10を見てみましょう。
       2002年  2022年   減少率
佐井町     201     38     81.09
深浦町     918     80     80.39
外ケ浜町    661    166     74.89
平内町    1353    431     68.14
鯵ケ沢町   1055    337     68.06
中泊町    1253    422     66.32
風間浦村    190     68     64.21
蓬田村     290    108     63.45
三戸町     990    367     62.93
大鰐町    1078    401     62.80

特定の世代が、20年で、80%も減少する状態が普通とは思えません。
でも、これは、青森県に限った現象ではないと思います。地方都市では、これが普通になっていると思います。
これで、日本の将来は盤石だと言う人はいないと思います。
「東奥日報」は、危機感を持ってこの数字を載せたと思いますが、危機感を持って受け止めた人が何人いるのでしょう。いや、自分事だと思った人はいるのでしょうか。
多分、「ふむ、ふむ」「俺には関係ねぇ」で終わりです。
どうして、自分の、家族の、子供達の、将来なのに、関係ないと思ってしまうのか、不思議ですが、他人事なのです。
国家運営に携わる人達は、自分の領域の仕事の結果ですから、騒ぎ立てたら、自分の首を絞めるだけですから、「知らんぷり」をします。
本来、この数字に目鯨を立てなければないないのは、国民の皆さんなのですが、国民は、自分の領域ではないと思い込んでいます。
誰も危機感を持ちませんので、ずるずると、少子化は進行しているのです。
国民の責任は重いと思います。
ま、国民は、誰一人、自分の責務を知りませんので仕方ありませんが、不幸なことです。多分、不幸は、こういう隙間から生まれのだと思います。
フランスも、一時期、出生率が低下し、少子化のトレンドを生み出しました。
しかし、フランス政府は、独自の少子化対策を徹底的に推進し、少子化のトレンドを変えました。人口増加は達成できませんでしたが、少子化の傾斜は反転したのです。
もちろん、人種も文化も常識も、何もかも違う国ですから、フランスの対策をそのまま導入しても、日本では上手く行かないと思います。
では、フランスと日本は何が違うのでしょう。
これは、私の独断と偏見かもしれませんが、市民革命をやった国民と、「下々」に甘んじている国民の違いなのではないかと思います。
私達から見ると、フランス人は権利意識がとても強いと感じます。それも、国民の市民意識が強いように感じます。フランス人は、すぐにデモをします。それも、いつも、全国規模に発展します。日本人から見ると「業突く張り」の人達に見えます。為政者にとっては、ほんとに厄介な国民だと思います。
フランス人にとっては、少子化は、自分達の利益を損なうものだと感じたから、政府の少子化対策を受け入れたのだと思います。
自分のために、政府と共に少子化に向き合うことが必要だと感じたのです。
フランス人にとって、少子化対策は「必要は発明の母」だったのだと思います。
そんな意識は、日本国民にはありません。
「お上」の言うがままです。
少子化対策が、自分達にとって死活的に必要だと思っていれば、地方都市の現状は、今の状況にはなっていないと思います。
日本の少子化対策が何の役にも立っていない原因は、政府の無能にありますが、その無能を許しているのは国民意識ですから、問題は、国民にあると思います。どっちもどっちで傷を嘗め合っていても事態は好転しません。
政府を擁護するつもりは全くありませんが、日本の少子化の原因は、やはり、私達に、「下々」に、国民に、あると思います。
皆で、ドツボにはまる宿命(さだめ)なのだと思います。
多分、日本には日本独自の少子化対策が必要なのだと思いますが、中でも、欠かせないのが国民の意識変革なのだと思います。
少子化の先にあるのはドツボなんですから、何とかしなければなりません。
「言葉の定義」をし、責務と目的を明確にすれば、日本独自の少子化対策は生まれる可能性があります。それが、どんなものなのかは、わかりませんが、何もしないよりはいいと思います。
騙されたと思って、「言葉の定義」をしてみてください。


2023-10-04



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文化を変えるという選択を [評論]



今日は、もう「お馴染み」の数値になった高齢化率の話を書きたいと思います。
2022年の日本の高齢化率は、29.0%だそうです。
私の実感では、60%だと言われても信じることができます。私の生活圏では、そのくらい、多くの老人がいます。しかも、私のような貧困老人が多いと感じます。
全国平均の推移を見てみます。
1950年   4.9%
1975年      7.9%
2022年         29.0%
予測値 2045年         36.8%

参考値として、地域別第1位の秋田県の数字も見てみます。なぜか、秋田県は、「全国1位」の称号を多く持っています。
1975年      8.9%
2023年         39.3%
予測値 2045年         50.1%

これ等の数値を見ると、全国平均の2045年の予測値(36.8%)を、秋田県は2023年(39.3%)に、既に、追い越しています。地方は、約20年先行しています。地方自治体の崩壊は既に始まっています。1975年では、1.0%の差しかなかったのに、2023年には、10.0%の差が生じています。これが、トレンドの怖さです。塵が積もれば山になるのです。
日本の少子高齢化は、何の抵抗もなく、着実に進行しています。
もう、この数値に驚く人はいなくなったと思います。
では、この数値は、何を表しているのでしょう。
いや、私達にどんな影響があるのでしょう。
国は、老人が増えれば増えるほど、豊かになるのでしょうか。
そんなことには、なりません。
当たり前ですが、国は、老人が増えれば増えるほど、貧しくなります。
18歳から64歳の人が、0歳から18歳未満の子供と65歳以上の高齢者の生活を賄わねばなりません。これだと、全員で貧しくなるという方法しかありません。
そんなことは、誰でも知っています。
しかし、私達の国は、少子高齢化のトレンドを変えられていません。
それは、変える努力をしていないからです。
いや、「やってるふり」はしていますが、口先や小手先では、どうにもならないことを証明しているのが、高齢化率の数字だと思います。
少子高齢化も国力衰退の大きな要素です。
この国力衰退の責任は、最終的に国民の皆さんが負うことになるのに、国民の皆さんは「ふむ、ふむ」「俺には関係ねぇ」と言っています。まるで、他人事です。これでは、変わらないと思います。
最終責任を取るのは、いつでも、国民なのです。
福島の処理水放出で責任を取らされているのは、誰ですか。
漁民の皆さんです。
高い電気代を支払っているのも国民の皆さんです。
これは、国民の皆さんの問題です。
でも、そんな意識は、国民にありません。「俺には関係ねぇ」で一件落着です。
国民の皆さんにも、言い分はあると思います。
「だって、俺達には何も出来ないだろう」という点では、認識は一致しているのでしょう。でも、これは、勘違いです。
「少子高齢化対策は、お上の仕事であり、下々の出る幕はない」と信じ込んでいます。これも、違います。
「お上でも出来ない仕事を、下々に出来るわけがない」と思っているようですが、ここにも勘違いがあります。
結果責任を取るのは「下々」である私達なのに、いつでも、そこは問題にはなりません。
「お上」の仕事であろうと、「下々」の仕事であろうと、何とかしなければ、ドツボにはまるのは、私達です。これだけは、不変の法則なのです。
ですから。
仕事をしない政府に仕事をさせるのが国民の仕事なのです。
今の政府が仕事をしないのであれば、仕事をする政府に換えなければなりません。
これ、当たり前のことだと思います。
政府は「お上」ではなく、国民の外注先です。
民間企業であれば、口先だけで仕事をしない外注先と契約するでしょうか。
いいえ、そんな民間企業は、成り立ちません。国も同じです。
私達は、完全にボタンをかけ違えています。政府は「お上」ではありません。
国の場合、企業が外注先を変えるように簡単には変えられないと思うかもしれません。
でも、独裁国家であれば不可能ですが、民主国家なら、それが可能なのです。
国民に出来ること。
既存政党に出来ないのであれば、いや、実際に、既存政党では無理ですから、国民生活を守ることを目的とする政治集団を、自ら作ることです。
だって、国家運営を担っている政治家は、国民の信認なしには仕事ができないからです。民主国家では、そのために、主権者である国民に投票権があるのです。
岸田や泉や志位に1票を投じていたら、皆さんはドツボにはまるのです。
それを証明しているのが、この高齢化率の数値です。

少子高齢化という言葉を、少し整理したほうがいいと思います。
少子化が進んでいるために、高齢化率が進んでいるのは事実ですが、少子化と高齢化は別に考える必要があると思います。
仮に、100年間、出生率が同じだとすると、高齢者の率は寿命の長短だけの差になるはずです。更に、少子化を変える方法はあっても、高齢化を変える方法はありません。
少子高齢化問題とは、人口問題であり少子化問題なのです。高齢化そのものを変化させる方法は存在しません。
ただ、高齢化問題は、貧困化に影響します。
ですから、高齢化と貧困化は、受け入れるしかありません。
問題は、少子化と高齢化が、同時進行していることです。
子供の数が減らなければ、時間はかかりますが、劇的な変化は望めませんが、高齢化と貧困化は緩和される時が来ます。
私達は、少子化に、真剣に対応する必要があるということだと思います。
その事を理解している方は、それなりにいます。
いろいろな提案もされます。
しかし、トレンドには何の変化もありません。
どうしてなのでしょう。
その原因は、「中途半端」にあると思います。
その「中途半端」の原因は、日本人の「行動原理」にあると思います。
その「行動原理」の原因は、「文化」だと思います。
その一例を見てみましょう。
岸田政権が推奨する「子供手当の拡充」です。
「子供手当の拡充」を実現すれば、日本の少子化トレンドは止まるだろうと評価している方がいるのでしょうか。そんな評価は聞いたことがありません。
少子化の原因に迫ることなく、「ばら撒き」でその場を凌ごうというやり方です。
しかも、その「ばら撒き」の源資は、国民から徴収する税と保険料です。これは、「皆で豊かになりましょう」という施策ではなく、「皆で貧しくなりましょう」という施策です。貧しくなれば、少子化は進みますので、「子供手当の拡充」は逆効果です。
少子化の原因は、国民の、特に若者の、意識にあります。「子供手当の拡充」で、若者の意識が激変するのでしょうか。そんな気配は皆無です。子育て世代の方は「ま、貰えるものは貰っておく」で終わりです。まさに「中途半端」な施策です。
では、日本人の「行動原理」とは、何でしょう。
「先送り」「なし崩し」「やってるふり」「責任不在」「ふむ、ふむ」「俺には関係ねぇ」「無関心」「従順」「土下座」「いい人ぶりっこ」と数え上げればいくらでも出てきそうですが、これらをひっくるめて表現すると、「なあ、なあ」「まあ、まあ」なのだと思います。
もちろん、一方的に非難されるような「行動原理」ではありません。日本人の行動を賞賛する人は、世界中に大勢います。「何と、ストイックな民族なんだ」と感心されます。でも、これは、世界常識から見ると、日本人は異質な存在である、ということでもあります。
しかし、現実の生活を維持するという点では、もう、従来の「行動原理」では、対応できなくなってしまったのです。確かに、「なあ、なあ」「まあ、まあ」は優れものですが、「なあ、なあ」「まあ、まあ」にも限界があったと言うことです。
だから、国が衰退しているのです。
それでも、皆さんは、まだ、「武士は食わねど高楊枝」をやるのですか。
皆さんは、武士の誇りを胸に、死を選ぶのですか。
ただ、人間は、そう簡単には死ねません。苦しんで、苦しんで、苦しんで、死ぬことになりますが、それでもいいのですか。
もう、これまでの「行動原理」を維持するのは限界なのだと思います。
日本人の「行動原理」のベースにあるのは「曖昧文化」です。
もしも、「行動原理」を変えるのであれば、「文化」を変えなければなりません。
2000年間、お世話になった「文化」を変えるのは、至難の業だと思います。
それでも、背に腹は変えられません。
国力衰退の先にあるのは「ユートピア」ではありません。「滅び」です。
「生き延びる」ことを選ぶのか、「滅び」を選ぶのか、それを選ぶのは皆さんです。
確かに、「生き延びる」ことにも苦労はつきものですが、「滅ぶ」までの時間は、苦労ではなく苦痛の連続だと思います。滅んだ後の地獄では、その苦痛が永遠に続きます。
今、皆さんは、その耐え難いほどの苦痛の道を選択しようとしているのです。
それでいいのですか。
私は、文化を変えるという選択をお勧めします。
ただただ、苦痛しかない地獄の生活を何十年、何百年、何千年続けるより、文化を変える選択をするべきだと思います。実際に地獄へ堕ちてみないと理解できないのかもしれませんが、地獄へ堕ちた後では、後悔しようが、臍を嚙もうが、もう、どうすることもできないのです。この2000年間に、国家規模の試練は何度もありましたが、多分、次にやって来る試練が最大のものになると思います。
数ある生き物の中で、最弱の生き物が人類だと思います。本来であれば、人類は、生存競争に勝てなかったはずです。でも、人類が今日まで生き残ってきたのは、想像力という才能があったからです。皆さんは、そのことを忘れています。
窮地に落ちて「あちゃー」と言うのであれば、猿にでもできます。
どうか、生きる努力をお願いします。
日本という国土も、日本人という民族も、素晴らしい存在だと思います。
そんな場所を地獄に変えるのは間違っていると思います。
「欲」にまみれた「お上」の好き勝手にさせてはいけません。
この場所を守れるのは、国民の皆さんです。


2023-10-03



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時代と文化の不整合 [評論]



今日は、少し、ミクロの視点から、国民の皆さんの将来を見てみましょう。
もっとも、ミクロの視点でも、マクロの視点でも、見るものは、皆さんの将来ですから、同じ結論になります。
最後は、いつもの文化の話になりますが、ご容赦ください。

岸田政権は、9月に、経済対策を発表しました。
経済の「5本柱」だそうです。
〈1〉物価高への対応〈2〉持続的な賃上げと地方の成長〈3〉国内投資の推進〈4〉人口減少対策〈5〉国土強靱(きょうじん)化です。
ところが、国内に、歓迎や期待という空気は生まれていません。
「柱だけでは、風雨は凌げない」という批判すらあります。
「海外や企業にカネをばら撒くのが岸田政権のやり方だ」という批判もあります。
誰が命名したのか「増税メガネ」というニックネームまで出て来ました。つい、頷いてしまいました。本人は気にしているという報道もあります。
「5本柱」の言葉だけ見ると、薔薇色の世界が待っている、と国民に勘違いして欲しいという意図が見えます。
でも、実際には、「皆で、仲良く、貧しくなりましょう」という「柱」です。
皆さんは、年々、豊かになっていますか。
実質賃金の世界比較というグラフを見てもらえば、一目瞭然です。
過去の実績というものは、ほんとに、重いものがあります。政治家が、いくら美辞麗句を並べてみたって、数字には敵いません。
年々、日々、日本人は、他国の皆さんと比べると、貧しくなっています。
もしも、この30年間、他の先進国と同じような経済成長を続けていたら、皆さんの給料は、今の数倍になっていたはずです。もちろん、その分、物価も上がりますから、劇的に生活が楽になるわけではありませんが、今よりも数段良い生活が可能だったかもしれません。少なくとも、給料が上がるという夢は見ることができたと思います。
しかし、この国がやってきたのは「皆で貧しくなりましょう」というやり方であり、その延長線上にあるのが、今回の「5本柱」です。
でも、これが、私達の現実です。

私は、専門家ではありませんので、間違った解釈をしているのかもしれません。その時は、どうか許してください。
1本目の柱である物価高対策。
政府の物価高対策は、電気・ガス料金とガソリン料金の高騰を抑えるものです。食料品や日用品やその他の物品の価格高騰には対応していません。建設資材の高騰で建設会社の倒産が増えているというデータもあります。
電力会社、ガス会社、石油元売り会社に対する補助金を継続することを、物価高対策と呼んでいるようです。
補助金を貰っている各社は好決算になっているという報道もありました。
なぜ、こんなことになっているのか。
自民党と経団連は、古き「お殿様」と「豪商」の関係を継続しているからです。
まさに、歴史と伝統に培われた関係です。
「腐れ縁」と呼んでもいいような関係です。
2本目の柱である持続的な賃上げと地方の成長。
持続的な賃上げについても、経団連との貸し借りの関係維持を指しています。ただ、日本の企業が全て経団連に属しているわけではありませんので、賃上げは一部の大企業に限定されます。2023年の春闘で、大企業の賃上げが騒がれましたが、日本全体としては、また、実質賃金の減少が続いています。
地方の成長については、意味不明ですが、多分、最低賃金のことを指しているものと思います。過疎化に苦しむ地方都市の成長を意図するのであれば、地方に仕事を生み出さねばなりませんが、そんな対策は誰も思いつきません。地方が、最低賃金を上げることで成長するとは思えませんが、何もしないよりはいいのかもしれません。地方でも働いている人はいるのですから、多少でも時給が上がれば、購買力は増える計算になります。逆に、人件費の増加で立ち行かなくなる零細企業も出てくると思います。
3本目の柱である国内投資の推進。
経済を成長させるためには設備投資が欠かせませんが、日本の企業は、どこも、守りに入っています。その空気を変えることなく、投資が増えることはありません。掛け声だけで空気が変わるのであれば、苦労はありません。
また、NISAのことも指しているのだと思いますが、たとえ、NISAであっても、投資は投資ですから、全員が利益を得られるわけではありません。いや、年金財政が危ういのですから、老後は「自分で何とかしてね」という意味の投資推奨です。ただし、これは、あくまでも、自己責任です。
4本目の柱である人口減少対策。
これは、財源で四苦八苦している「子育て支援」のことだと思います。
これまでに何度も指摘しているように、人口減少対策としては、副作用が大きすぎます。副作用とは「皆で貧しくなりましょう」という副作用のことです。
5本目の柱である国土強靱化。
自民党は、もう、何十年も、この国土強靱化を掲げていますが、それで、随分献金も貰いましたが、岸田政権が言う国土強靱化は、軍事力の増強を指しているものと思います。
これも、「皆で貧しくなりましょう」政策です。

言葉だけを聞いていると、薔薇色の未来が待っているように勘違いする人も大勢いるのでしょうが、この「5本柱」で未来が変わることはありません。
いや、変わります。
薔薇色の未来ではなく、皆で、更に貧しくなる未来に変わります。
いつも、システム設計の話を出しますが、岸田政権の政策には、システム設計の基本である「目的」が欠落しています。この国の目的は、何ですか、と問いたい。その目的を達成するために、誰が、どんな、責務を果たすのですか、と問いたい。言葉やスローガンで、何をしようとしているのですか、と問いたい。
弥縫策、対処療法で何とかなる状態ではないとは思わないのでしょうか。
私に見えるのは、政治家の助平根性だけです。

でも、そんなことは、岸田さんにとっては、どうでもいいことです。
「総理大臣を続けたい」
岸田さんは、そのことしか考えていないと思います。
政局専門家の皆さんの見方は、統一協会への解散命令で点数を稼ぎ、具体的経済政策の発表で国民を騙し、補正予算の成立で身内にカネをばら撒き、体制を整えて、解散総選挙をするというものです。
岸田政権は、決して盤石な政権ではありません。ただ、強力なライバルが存在していませんので、「岸田おろし」は起きていませんが、このまま、来年の自民党総裁選挙まで待っていると、「ジリ貧」になる危険もあり、行動しなければならないという焦りがあると言われています。
確かに、来年の9月の総裁選挙まで、このままでいけば、政権支持率は更に低くなると予測されます。岸田さんは、世論調査には「一喜一憂しない」と言っていますが、最も「一喜一憂している」のが岸田さんだと思います。
自民党の総裁選挙は、本音が出る選挙です。
「この総理総裁で、岸田で、自分は選挙に勝てるのか」が最大の関心事です。
政治家にとっては、選挙が命です。
一票を持っているのは国民です。その国民の支持率が低く、「増税メガネ」と揶揄されるような総理で選挙を戦いたいと思う政治家はいません。
岸田政権の支持率は、随分下がりましたが、まだ、底を見たわけではありません。支持率が上がる案件が、突然出てくる可能性はありますが、確実ではありません。
だったら、「今、解散総選挙をしてしまえ」と思っても不思議ではありません。
その焦りは、岸田さんだけの焦りではなく、多くの自民党議員の焦りでもあるとすれば、解散総選挙には現実味があります。

でも、これ、やっぱり、変です。
政治家の都合で政党が作られ。
政治家の都合で政策が決まり。
政治家の都合で立候補者が決まり。
政治家の都合で選挙が行われる。
どこに、国民の出番はあるのでしょうか。
政治家は、自分の身分が一番大事で、国民のことは、低い優先度しかありません。
だから、無党派層が増え、投票率が下がります。投票所に足を運ぶのは、何らかの組織に属している人か、長年の習慣から惰性になっている老人ばかりだと思います。欲得と義理と老害で、この国が蘇るとは思えません。これは、民主主義ではありません。
私達は、どうして、そのことに気付かないのでしょう。
それは、民主主義という言葉の、国という言葉の、国民という言葉の定義がないからです。
政治家が支配する今のシステムでは、国民の出番はありません。国民の皆さんが、自分の生活を守りたいのであれば、国民自身が議論し、言葉の定義をするしかありません。ここで言う国民の議論は、「下々」を集めてやる、結論ありき、の国民「的」議論のことではありません。生身の国民が議論する国民議論のことです。楽をしていれば、どこかでツケが回ってきます。政治家の好き放題を許しているのは、この国の主権者であるはずの国民の皆さんの、低い意識なんです。
この国の今のシステムは、政治家の、政治家による、政治家のための、システムです。これは、文化と歴史と伝統が生み出したシステムですが、これで美味しい果実にありつくのは一部の人達だけです。
この国に国民は存在していません。存在しているのは「国民もどき」の「下々」です。

メディアも、世論も、ミクロの視点からの批判で溢れています。
でも、ミクロの視点では見えないものがあります。
この国の課題は、その見えない部分にあります。
確かに、人々は、目先のことで動きます。人間ですから仕方ありません。
では、本物の課題を世に示し、方向性を出す仕事は、誰がするのでしょう。
学者と呼ばれる人達の仕事だと思います。
しかし、日本の学者は、全く、機能していません。
自分の守備範囲の中に埋没し、広い視野を持つこともなく、とりあえず、今の自分の立場を守りたいと思っているように見えます。
憂国の志を持つ人も出て来ません。
皆さん、どっぷりと、曖昧の中に安住しているのです。
私達の課題は、ミクロの世界にあるのではありません。
マクロの世界、それも、2000年という超マクロの世界にあるのです。
無茶な私見に過ぎないのかもしれませんが、時の流れが緩やかな平安時代には、曖昧文化はフィットした文化だったと思います。曖昧文化は、他に例のないほどの優れものだったと思います。しかし、20世紀以降、時間の経過が早くなり、目まぐるしく変わる環境下では、曖昧文化は真価を発揮できなくなりました。文化は、時代の要請で人間か作り出したものです。であれば、時代に合わせた文化を作ることも理に適っているように見えます。
そうです、文化に気付き、文化を変えることでしか、対処できないと思います。
もっとも、こんなことを言っても、理解してくれる人もいないのでしょう。
何となく体が重い、元気が出ない、心配だけど何が心配なのかわからない、先が見えない、等々の症状は、人間だと精神疾患の症状ですが、国の場合はシステム疾患に当たると思います。時代と文化の整合性が失われ、かなり重症になってしまいました。
そのことに、誰も気付かないのですから、いや、当事者は気付き難いものですが、既に、病気に罹患しているのだとすると治療が必要です。しかし、治療は行われていませんから、この国が壊れるのは、必然だと思います。
多分、多くの皆さんは、「何となく、貧しくなっているような気がする」と感じているのかもしれません。文化なんて代物は、余りにもマクロなものですから、認識しづらいのだと思います。でも、紛れもなく、この国は病気です。病名は、時代と文化の不整合によるミスマッチ病という名称かもしれません。


2023-10-02



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食料の確保 [評論]



このブログを読んでくださる方は、国民のどなた、かです。
それなのに、私は、国民の皆さんをクソミソに書いています。誰も、こんなブログ読みたいとは思わないでしょう。大変申し訳ないと思っていますが、他に方法が見つかりません。国民生活は、壊れ始めていますが、本格的に壊れる日が必ずやってきます。それを防ぐためには、国民の皆さんの力が必要なのですが、そういう空気は醸成されていません。ですから、国民生活は壊れますが、そこで、終わりではありません。再建という大変困難な仕事が待っています。その時に必要になるのが、やはり、「言葉の定義」です。せめて、「言葉の定義」という言葉だけでも憶えておいて欲しいです。

私は、国民の皆さんに、「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義をしてくださいとお願いしています。
そして、そこから導き出される、国の責務を、国民の責務を、明確にし、国の目的を、国民の目的を持ってください、とお願いしています。
しかし、私のお願いは、空論に見えているのではないかと思います。
皆さんは、「言葉の定義 ? 責務 ? 目的 ? そんなことで状況が変わるとは思えない」と言うかもしれません。
では、どうすれば、この状況を変えられるのですか。
八方塞の時は、原理原則に戻るしかないと思います。
原則論が必要になる時、それは、悪しき結果が出ている時であり、悪しき未来が想定できる時です。
原理原則を無視し、ずるずると、悪化を見過ごすのは間違いだと思います。
今が、その時だと思います。
順風満帆な時代では、原理原則なんて無視しても、上手く回ります。いや、きっと、無意識に原理原則が守られているのだと思います。「何とかなる」ものなのです。
逆に、悪化の時代になれば、小手先で、何をやっても上手くいきません。それは、人間社会の最強の存在が「欲」だからです。「欲」は、原理原則をも駆逐する力を持っています。
悪化は、放置すれば、行き着く所まで行ってしまいます。それは、人間の「欲」には限度がないからです。
そんな時は、意識的に、原理原則を知ることでしか、悪化を止められません。
誰も、この国の今の流れを「良」とする人はいないのではないかと思います。
では、どうするのですか。
放っておいて、大丈夫なのですか。
「何か、もっと、上手い方法があるだろう」「まあ、まあ」「俺には関係ねぇ」「何とかなるさ」で、いいのでしょうか。逃げても、事態は好転しません。
多分、「俺ではない誰かが、何とかしてくれよ」と思っているのでしょうが、そんな美味しい話は、ありません。
物価は上がります。
国民負担は更に重くなります。
国力衰退が続けば、いつか、本物の不景気がやってきます。
皆さんは、収入が途絶えたら、どうするんですか。
「あちゃー」と言ったら、何とかなるのですか。
いいえ、残念ながら、これ、自己責任で、一件落着です。
たとえ、誰かのせいだとしても、その誰かが、皆さんの生活を助けてくれるわけではありません。自分で、何とかするしかないのです。そういう意味で、自己責任なんです。
今の、この流れは、絶対にヤバイと思います。

この国を、こんな危険な国にしてしまったのは、国民の皆さんです。
「えっ、俺、それ違うだろ」
違いません。皆さんは、この国の責任者なのに、責任者としての責務を果たしていません。それは、皆さんが責任者としての自分の責務を知らないからです。
誰だって、好きにやってもいいとなれば、自分の利益だけを優先させます。人間ですから仕方ありません。その典型的なのが、国会議員であり官僚であり、そこに群がっている利権集団の皆さんです。
そのことは、皆さんも承知していると思いますが、それでも、皆さんは「いい人」ばかりですから、じっと我慢をします。私は、「いい人」ではありませんので、利権にしがみ付いている人達のことをボロクソに書きます。与党の議員も、野党の議員も、官僚も、利権団体も、全員クソだと書いています。ですから、この国のシステムを変えましょうと提案しています。自民党を非難する声は満ちています。確かに、自民党は最悪の政党です。でも、問題は政党だけではなく、原則のないシステムも問題なのです。
確かに、日本最悪の政党である自民党の悪しき国家運営が国民の皆さんを窮地に堕とそうとしています。
もしも、民主主義が機能しているであれば、自民党以外の政党が、国民の願いをくみ取らなければならない立場にあるのですが、全く、その気配がありません。
ですから、国民にとっては、どの政党も自民党と同等の最悪政党です。
なぜ、こんな袋小路に入ってしまったのでしょう。
現在の政党は、国民の声から生まれたものではなく、政治家の都合で作られた政治集団です。そして、彼等は、自分達は「お上」だと思っています。私達国民は、「あてがい扶持」の政党から、自分達の生活を守る集団を選ぶしかないのです。これは、私達の「下々」意識から生まれていますので、文句は言えませんが。結果、国民も国をも、袋小路に追い詰めているのです。
この国の責任者は、国民の皆さんなのに、自分達で、何かを変えるという意識は、全く、ありません。皆さんは、その責任を放棄して、この国を衰退させているのですから、悪いのは国民の皆さん自身です。ただ、皆さんは、そのことに気付いていません。
一番の最悪は、政党ではなく、国民なのです。だって、責任者ですから。
どの政党も、今の状態で美味しい汁が吸えるのですから変える気はありません。
追い詰められているのは、国民の皆さんなんです。
「お上」に虐げられている皆さんは、「いつか、きっと、お上が何とかしてくれる」と思っています。これを不条理と呼びます。どこまで「いい人」なのか、底が知れません。責任者である国民が機能しないシステムは、欠陥システムです。
国は、国民生活を守るために存在しているのです。
その国を運営する仕事を請け負っている政治は、重税を課して国民の富を奪うのではなく、国民の生活を守るために働かなければなりません。
こんな当たり前のことが、なぜ、できないのでしょう。
どの政党も、自分の利益のために仕事をしているからです。
これは、民主主義ではありません。与野党の国会議員、官僚、利権集団が作った「お上もどき」による、専制国家です。
それは、国家運営者の責務が明確ではないからです。
それは、国民の皆さんが、国の責務を知らないからです。
皆さんは、未だに、政府を「お上」だと思っています。
でも、政党も政治家も官僚も、「お上」ではなく、国民の外注先に過ぎません。
皆さんは、国の責務を知らないだけではなく、国民の責務も知りません。
いや、皆さんは、今でも、自分達は「下々」だと思っています。
それは、一度も、言葉の定義をしたことがないからです。
明治維新から150年です。
その間、誰も、「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義に挑戦しませんでした。
学問を研究することを仕事にした学者と呼ばれる人は、一人二人ではありません。
日本社会が前近代的な体制(封建制度)のままだと指摘した学者は、数多くいましたが、それを変えるための提案をした学者がいないのです。余りにも曖昧文化の影響が日常になっていたために、原因の原因の原因が見えなかったのだと思います。
第2次世界大戦で敗戦するまでは、まだ、封建制度の延長線上の天皇制の時代でしたから、取り上げられなかったのかもしれません。
でも、敗戦を契機に、民主主義国家になったはずですが、この80年間でも、誰一人、言葉の定義に挑戦した学者はいません。
そういう意味では、専門家でさえ気付いていないのですから、国民の皆さんを責めるのは間違っているのかもしれません。
でも、国民の皆さん自身の生活のことですから、国民の皆さんには、言葉の定義をする責務はありました。そのことを指摘する学者もいません。
誰もかれもが、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で、80年間、挑戦しませんでした。
国民の生活は、どんどん、貧しくなっています。
この先、もっと、貧しくなります。
そろそろ、気付く時だと思います。
皆さん自身のために、皆さんの家族のために、子供達の未来のために、気付いてください。それが、皆さんの責務です。責任者である皆さんには重い責務があるのです。

私は、民主主義原理主義者ではありませんが、少なくとも、国民にとっては、民主主義が一番理のある体制だと思っています。
右翼や左翼の理想形よりも、はるかに、いい体制だと思います。
ソ連と中国が失敗していますので、左翼は論外だとして、右翼って、何でしょう。
日本で、右翼と呼ばれる思想を持っている方は、天皇崇拝者です。
天皇制は封建制度の1つの形であり、右翼の方は、封建制度のほうが自分にとって有利だと考えているのです。「お上」と「下々」というシステムが心地よい人は、権力側にいる人達であり、庶民ではありません。
そんな人達の中で、天皇制を復活させることで、神社の利権を最大化するための団体が日本会議であり、現在の右翼の最大勢力です。自民党の大半の政治家が、日本会議の理想に賛同しています。自民党は、少なくとも、庶民のための政党ではありません。
私は、天皇制にも共産主義にも反対です。
国は、国民生活を守るために存在すべきだと考えています。
私は、右でも左でもなく、真ん中だと思っていますが、いや、ほとんどの皆さんがそう思っているでしょうから、珍しいことではないのでしょうが、やはり、真ん中です。
多くの国民の皆さんも、自分は真ん中だと思っているのでしょう。
でも、それ、少し、違います。
ここで、箱庭を想像してください。
箱庭の左側には共産主義を理想とする人達が住んでいて、右側には天皇制の復活を願う人達が住んでいます。ほとんどの方は、その中間に住んでいますが、「言葉の定義」をしていないために、思想という地面を持っていません。そうです。皆さんは、真ん中にいますが、宙に浮いた状態にあるのです。
立っている場所が正しいか正しくないかは別にして、右翼の方も左翼の方も、少なくとも、地に足をつけています。問題は、ほぼ、9割の皆さんが立つべき地面を持っていないことです。皆さん、宙を浮遊していて、どこにでも移動可能ですから、「なあ、なあ」「まあ、まあ」「ふむ、ふむ」「俺には関係ねぇ」が通用します。そういう意味では、とても、居心地がいい場所なんだと思います。
しかし、強風が吹けば、どこに飛ばされるかはわかりません。
「別に、構わないし」と言う方もいると思います。
「俺だけは、大丈夫」と、根拠のない自信を持っている方もいるでしょう。
「多少貧しくても、自分が、そこそこの生活ができれば、それでいい」と思っている方もいると思います。
でも、国が壊れるということは、今ある常識が全て壊れるということです。
「別に」も「大丈夫」も「そこそこ」も通用しない世界があるのです。
もう歴史の中に埋もれてしまいましたが、日本が戦争に負けた時、国民の皆さんは食料の確保に走り回りました。栄養不良で病に勝てずに、亡くなった方も沢山いました。
電気、あって当たり前。コンビニ、あって当たり前。スマホ、あって当たり前。今、「当たり前」と思っているものが失われても、皆さんは、平気ですか。
国が壊れるということは、そういうことです。
ただ、ただ、食料の確保が最大関心事になるのです。
人間は、食べなければ生きていけないという現実を回避することはできません。
80年前に、国民の皆さんの先輩が体験したあの不条理が、再現するのです。
国が壊れる原因は戦争だけではありません。
国力衰退でも重税でも、いや、災害でも、疫病でも、充分、国は崩壊するのです。
原因の如何を問わず、壊れた結果は、食糧難です。
そのことは、既に、あの敗戦で証明済みです。
食わずに生きられる人間は一人もいません。
この国には、1億2000万人分の食料が必要ですが、今は、5000万人分の食料しかありません。やりくりをして、何とか、1億人が飢えを凌いだとしても、2000万人は餓死する運命にあります。


2023-10-01



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他山の石 [評論]



中国の数字は、公的な数字であっても信頼性と透明性が希薄で、不都合な数字は堂々と隠蔽することもありますので、中国を分析する時は、空気で類推するしかありません。
そんな中国経済に、更なる不透明感が浮上しています。
特に、不動産部門での空気が悪化しています。
永年、「中国の不動産はバブルで、近々、弾けるだろう」と言われ続けて、何年経過したのかわかりませんが、いよいよ、それが現実になろうとしているように見えます。
中国からは、「バブルだと!! 弾けるだと!! 全然、大丈夫じゃないか。中国を貶めようとするアメリカの陰謀に過ぎない」と言われてきました。
実際に、「弾ける、弾ける」と言われ続けても、住宅は作り続けられ、不動産価格は上げ続けてきました。中国の皆さんも、渦中にいる時は気付けなかったかもしれませんが、今、振り返って見ると、「バブルだったんだ」と認識できるのではないかと思います。
しかし、大手不動産会社の中国恒大集団がデフォルトを起こした頃から空気は変わりました。再建中であるとして発表していなかった決算を発表し、2021年度と2022年度の2年間の純損失は810億ドル(日本円で16兆円)になりました。2022年の負債総額は約48兆円だそうです。さすが中国です。1企業の負債総額が、日本の国家予算の約半分です。
これでも、まだ、中国の不動産バブルは、完全には弾けていないのでしょう。
多分、これからが本物のバブル崩壊の時期になるのだと思います。中国政府の手腕が問われますが、多分、何とかするのでしょう。でも、痛みは免れません。
バブルは、人間の「欲」が引き起こす心理現象だと言われます。
「原子力神話」とか「土地神話」とか「安全神話」と呼ばれる「神話」が数多くありますが、安全ではないから、どれも、神話が必要だったのだと思います。
中国でも、土地神話、住宅神話が、更に、「欲」を膨らませ、住宅価格は天井知らずの上昇をしました。実需の倍以上の投機が、その神話を支えていると言われました。中国政府は、何度も「家は住むもので、投資するものではない」と言ってきました。しかし、中国人は儲け話が大好きです。桁外れに好きです。それが、ここまでバブルを膨らませる原動力になったのだと思います。
今、中国人は、不動産を買おうとしません。今、人気なのは定期預金だそうです。
経済の基本原理を見てみましょう。
「物の価格は、需要と供給が一致する場所で決まる」という原則があります。その原則を、一時的に無視するのが投機ですが、投機も最後は辻褄を合わせます。
需要の倍以上の住宅が、既に、建設されている、という説があります。そうであれば、住宅価格は、この先、現在の半値になるということです。儲け話が大好きな中国人は、損失についても敏感です。住宅を投資対象としている人達にとって、将来、価格が下がるかもしれない住宅に投資しようとする人は、この先も減ります。これ、当たり前のことです。
ここからが、中国不動産バブルの見せ場になるのだと思います。
中国の不動産市場の規模は、GDPの30%あると言われています。これも、真実はわかりませんが、正しい数字だとすると、国の経済にとっても打撃です。
不動産業界は、ただ、マンション建設をしているだけではありません。建物以外にも多くの産業が関連しています。何よりも、住宅建設には多額の資金を必要とし、その資金は借金です。つまり、金融業界が関与しています。そして、少しずつですが、金融業界の不穏な空気も醸成され始めています。このほうが、厄介です。
中国経済がどこまで壊れるのかは、まだ、誰にもわかりません。しかも、確かな数字は出て来ませんから、この先も、実際の壊れ方は推測するしかありません。

さて、「他山の石」という言葉があります。
中国でバブルが弾けようが、経済停滞しようが、他人様のことですから、「どうぞ、ご自由に」と言うしかありませんが、他人様から「どうぞ、ご自由に」と言われるのは、少し、キツイです。
やはり、原理原則は、それなりに尊重しなければいけないのでは、と思います。
中国の「バブルだと!! 弾けるだと!! 全然、大丈夫じゃないか」という空気は、私達にとって「他山の石」なのではないかと思うのです。
日本の「財政破綻だと。馬鹿言っちゃいけない。ここまで借金しても、全然、大丈夫じゃないか」という空気だって、正しいとは言えないと思います。
原理原則を無視しても、いいことなどありません。
中国は、家を作り過ぎて、バブルが弾けました。
日本は、借金をし過ぎて、国を崩壊させます。
どちらも、バランスが取れなくなった時に破綻します。古人は、これを「過ぎたるは及ばざるがごとし」と言いました。これも、人間社会の定説のようです。
厄介なのは、バランスを壊す大きな要因が人間の心理だということです。そして、人間の気持ちは、簡単に、コロコロと変わるものです。
中国の場合、これまで、あれほどの購買意欲を持っていた中国人民が、マンションを買わなくなりました。「損をするかもしれない」という人間の気持ちが、不動産業界を変えてしまったのです。
日本の場合でも、金融機関にカネを預けていたら危険だという環境が生まれれば、債券市場が機能しなくなります。今は、誰もが安心して金融機関にカネを預けています。その安全神話が壊れたら、皆さんはどうするでしょう。何が、その導火線になるのかは見えていませんが、人間心理は思わぬことに反応することがあります。それがデマであっても、風評であっても、人間心理は影響を受けます。
もしも、仮に、多くの国民が預金を引き出したら、金融機関の流動資産は一気に減少します。預金の引き出しに応じるために、他の資産の売却が必要になることもあります。そんな環境では、国債購入なんてできません。
経済活動は、需要と供給があって成り立ちます。どちらが無くなっても駄目です。
債券市場も経済活動の場です。需要の側にいる金融機関が現金不足になったら、債券の購入はできません。つまり、国民の行動が、根拠のある無しに拘わらず、変化したら、国は借金が出来ない環境になるのです。
国債を発行しても応札がないという環境が生まれたとしても、「はい。そうですか」では終われません。国は、何としても、国債を売らねばなりません。
日本国内に資金がないのであれば、海外資金に頼るしかありません。
海外に日本国債を買ってもらうためには、高い金利を提示するしかありません。法外に高い金利を示したとしても、日本の国債を買ってくれる投資家は多くはありません。それは、日本国債がデフォルトする可能性が高いからです。それは、ハイリスク・ハイリターンの市場でしか売買できないということです。
仮に。15%の金利を示して販売したとすると、年間15兆円の負担が生じます。それも、借金をして返すしか方法がありませんので、国債発行額は増え続けます。海外の投資家が、「これ以上、無理だろう」と判断したら、そこで、日本国債はデフォルトします。
日本国債がデフォルトするということは、国債は国民の皆さんの預貯金が原資ですから、皆さんの預貯金がゼロになるということです。

さて、上記の計算式は、ルール通りの時の計算式です。
しかし、日本では、大幅にルール違反をしていますので、計算式を複雑にしています。それが、借金の半分を、500兆円強の日本国債を、円を発行している日本銀行が買っていることです。これは、自分で発行した債券を自分で買って消費しているようなものであり、不正な錬金術であり、フェアではありません。これが許されるのであれば、世界にデフォルトする国なんて存在しないことになります。今は、まだ、国際収支の黒字で「円」は認められていますが、いつか、必ず、このトリックが表面化し、「円」が暴落する日が来ます。
国債のデフォルトだけが国家破綻の原因になるのではありません。
通貨の暴落も、国家破綻の原因になります。
ズルをしたって、どこかでバレるのが、世の常です。

人間には、「慣れ」という心理が働きます。
異常も、継続すると「慣れ」ます。「慣れ」ると、つい、異常を忘れますが、そのダメージは蓄積します。ただ、ダメージはアナログで結果を出しますので、気付いた時には修復できなくなっています。後で振り返れば「異常だったよな」と誰もが認めることでも、「慣れ」があると気付けないのです。毎年、借金を源資として国家予算を組んでいることは、明らかに異常ですが、「慣れ」てしまえば、それが当たり前になってしまいます。
ほんとに、怖いことです。
それを是正するのは、原理原則ですが、人間は、つい、そのことを忘れます。
「ここまで大丈夫なのだから、まだまだ、大丈夫だろう」
これを、助平根性と呼ぶのだと思います。
実際の経済活動は教科書通りにいくわけではありません。
でも、それは、教科書を忘れてしまっていいという意味ではありません。
基本とか良識を忘れて、いい事などないのです。
原理原則は、助平根性でどうにかなるものではないという謙虚さが必要です。
私達は、中国の不動産バブルを笑える立場にいません。
私達だって、借金バブルに浸かっているのです。多分、日本の借金バブルの副作用のほうが、桁違いの激烈な結果を招くことになります。
人間の営みは教科書通りにはいきません。
だからと言って、原理原則を無視してもいいということにはなりません。
やり過ぎの修正には勇気が必要ですが、人間社会では、常に、修正が必要です。
国家運営を担う皆さん、どうか、勇気を持ってください。
国民の皆さん、自分の生活を守るために、行動してください。


2023-09-05



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同情はできません [評論]



太古の昔から、人間社会と不条理は切っても切れない関係にあると思います。それは、宇宙の物理的な法則と人間の「欲」が鬩ぎ合い、そこから零れ落ちて硬い結晶になったものが不条理なのではないかと思うからです。ですから、人間社会では「どうしようもない」ことは普通に存在します。ただ、その不条理の量は、社会によって差があるように見えます。不条理は人間の「欲」が生み出しているものなのですから、不条理の少ない社会のほうが生き易いとすると、それを制御するのも人間の仕事だと思います。
その不条理に泣いている国民がいます。福島の漁業関係者の皆さんです。
確かに、気の毒だとは思いますが、同情はできません。
それは、福島の漁業関係者の皆さんを含む、国民の皆さんの自業自得だからです。
この国は、未だに、封建制度下にあります。「下々」は、この2000年間、ずっと、「泣き寝入り」をしてきました。そして、今も悔し涙を流し、「泣き寝入り」するしか選択肢がない人達がいます。でも、どうすることもできません。なぜなら、皆さんは「国民」ではなく「下々」だからです。
皆さんは、いつまで「下々」を続けるつもりですか。
もちろん、国民になったからと言って、無条件に納得できる結果がえられるわけではありません、それでも、今よりは、納得しやすい環境が生まれると無思います。
「何もしなくても、正義は勝つ」なんて、思っていませんか。
「我慢していれば、正義が勝つ」なんて、思っていませんか。
「いい人を演じていれば、正義が勝つ」なんて、思っていませんか。
「お上の指示を守っていれば、正義が実現する」なんて、思っていませんか。
それ全部、勘違いです。不条理は存在するのです。正義は、向こうからやってくるのではありません。正義は、皆さんが意識して勝ち取るものなのです。
少しでも、不条理が少なくなる社会を作るしか方法はありません。そんな社会を作るのは、総理大臣ではなく、皆さんです。国民の皆さんの意識次第で、そういう社会は作ることが可能なのです。

8月に、「放射性物質を除去した汚染水」の海洋放出が始まりました。
放出に賛成する方は「処理水」と呼び、反対する方は「汚染水」と呼んでいます。
ここでは、両者の間を取り「汚染処理水」と呼んでみます。
政治的な思惑で反対している中国と韓国は、今は、除きます。
海洋放出に賛成しているのは政府と東京電力で、反対しているのは、漁業関係者です。
ま、誰が見ても、漁業関係者に勝ち目はありません。
先日も、自民党の得意技は「先送り」と「なし崩し」だと書きましたが、この事案でも、その得意技が使われました。
政府と東電は2015年に「関係者の理解なしには(処理水の)いかなる処分も行わない」と地元漁業者に約束することで「先送り」をし、ほとぼりを冷ますための一定の時間を置き、関係者の理解はないまま、補助金をチラつかせて、海洋放出を決めて、8月に「なし崩し」的に実行されました。いつものやり方です。
漁業関係者は、「騙された」と言っているそうですが、違うと思います。「なあ、なあ」「まあ、まあ」の社会では、日常的に起きる、ありふれた事です。
漁業関係者の皆さんは2015年に約束した時に、「約束を守らなかった時には、具体的に、どう責任を取ってくれるのですか」と言って、責任の取り方を明確にしておく必要がありました。これは、権力と対峙する時の国民の責務です。
でも、「なあ、なあ」「まあ、まあ」の世界では、こんな対応を取る人はいません。ですから、これは、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で約束をしたと思い込んでいた漁業関係者の自業自得です。
政府は、最初から、「先送り」と「なし崩し」をするつもりでした。
日本では、一事が万事、この「先送り」と「なし崩し」で何とかなるのです。それは、日本社会が「なあ、なあ」「まあ、まあ」で動いているからです。
閣議決定の前に、政府と漁業関係者の会合がありました。あれは、「なし崩し」のための儀式に過ぎませんが、その中での、岸田総理の発言を見てみたいと思います。
「漁業者の『これまで通り漁業を続けたい』という思いを重く受け止めている。国として海洋放出を行う以上、安全に完遂すること、また安心してなりわいを継続できるよう必要な対策をとり続けることを、たとえ今後数十年の長期にわたろうとも、全責任を持って対応することを約束する」
私には、身のない、虚しい、具体性のない、口先発言にしか聞こえません。儀式で使われる祝詞ですから、総理は定型文を読み上げただけだと思います。
当然、漁業関係者の賛同は得られませんでした。でも、政府にとっては、儀式をすることが大事な事であって、漁業関係者の賛同を得ることが目的ではありませんでした。
政府も、「なし崩し」が褒められることではないとわかっています。自分を納得させるためにも、是非とも、儀式が必要なのだと思います。
「汚染処理水」の海洋放出は、30年続くと言われています。
ただ、当初の予定は、ほぼ、反故にされますので、50年、100年と続くことになると思われます。その間に、失敗や手違いは、必ず、起きます。ですから、ほぼ、間違いなく、福島の魚の放射能汚染は再発します。汚染が発生する度に、復旧に長い時間が必要になるのです。
では、海洋放出をせず、福島県を「汚染処理水」タンクで埋め尽くし、日本全土をタンクで埋め尽くすことができるかと言うと、それも出来ません。
誰かが泣くしかありません。

どうすれば、いいのでしょう。
多分、どうすることも出来ないのだと思います。
岸田総理は、また、「全責任を持って対応することを約束する」と言っていますが、これは、新たに「先送り」をする、と言っていることと同じです。
国は、以前に「約束します」と言っていましたが、約束を守りましたか。漁業関係者の皆さんは、取るに足らない漁民なのですか。違います。皆さんは、国民です。補助金を出せば「生活を守る」ことになるのですか。違うと思います。「生活を守る」ということは、「誇り」を守るということだと思います。皆さんは、「我々は、補助金が欲しいのではない。漁がしたいんだ」と言っています。それは、「誇り」を失いたくないということだと思います。
漁業関係者の皆さんだけではなく、多くの国民の皆さんも、国の責務を知りません。そんな国で、「誇りを守る」なんて言っても通用しません。
先ず、やらねばならないのは、国の責務を明らかにすることだと思います。それをやらなかった国民の皆さんに責任があるのです。
それと、悪しき風習が、漁業関係者の皆さんと国民の間を遠ざけています。それが左翼の皆さんの、いつもの、政局に利用しようとする助平根性丸出しの、「反対、反対」です。まるで、中国共産党の出先機関みたいです。国民の皆さんは、左翼が声を出すと、身を引きます。これでは、福島の皆さんを、国と左翼が協力して潰しているように見えてしまいます。

何か方法はないのでしょうか。
ありません。
ただ、解決策にはなりませんが、漁業関係者の皆さんが、「不条理だけど、仕方がない」と納得する方法はあるかもしれません。
その為には、「約束とは」「責任とは」という言葉の定義が必要なのだと思います。
責任の取り方を、「なあ、なあ」「まあ、まあ」ではなく、法律にしておけば、「不条理だけど、仕方がない」と諦めがつけられるかもしれないと思うのです。
例えば、根本原因は、原子力発電にあるとして、原子力行政を進めた、国会議員100人、官僚100人、東京電力社員100人が辞職して責任を取るとしてみましょう。首にされる国会議員、官僚、東電社員にとっては、不条理でしかありません。今は、漁業関係者だけが不条理の中にいます。もしも、他にも不条理を受け入れる人達がいれば、「何で、俺達だけが」と思っている漁業関係者は、「仕方ない」と思えるかもしれません。
国は、補助金を出せば責任を取っていることになると思っているようですが、その補助金の源資は税金です。責任を取っているのは国ではなく国民です。国家運営をしている皆さんは、総理大臣は、何1つ責任を取っていません。
岸田さんは、漁業関係者に被害が出た時には、議員辞職するのでしょうか。
しません。
5年後の、10年後の総理大臣が、責任を取って議員辞職をするのでしょうか。
そんなことは、しないと思います。
「先送り」のための約束は、空約束であり、何の価値もありません。
国家運営に携わった者は、原子力発電で儲けた電力会社は、誰も責任を取らないでは、納得がいかないと思うのです。
政治家の言う「責任」は言葉だけです。自分の身を切る「責任」が存在して、初めて「責任を取る」という言葉が意味を持つのだと思います。
刑法では、人を殺せば懲役刑、3人殺せば死刑、という決まりがあります。
なぜ、国家運営には、その法律がないのでしょう。
法律を作っているのは、国家運営者だからです。自分が不利益になる法律は作りません。
どうしようもないことは、必ず、起きます。人間社会では、一部の誰かが、不利益を被る状況は必ず生まれるのです。
後は、それを、どう、納得するかの問題だと思います。
公平・公正・平等は実現しません。
でも、近づける努力は必要だと思います。
次善の策でしかありませんが、漁業関係者も国会議員も官僚も東京電力社員も不利益を被るのであれば、「仕方ない」と納得することは可能だと思います。
漁業関係者の皆さんは悔しい思いをしているでしょう。
でも、それは、皆さんが「なあ、なあ」「まあ、まあ」の社会を容認しているからです。
封建制度下の社会では、「下々」は「泣き寝入り」が当たり前です。
皆さんは、未だに、その「泣き寝入り」をしているのですから、皆さんは、「お上」にとって、お手本になるような、立派な「下々」なんです。「泣き寝入り」が悔しいのであれば、先ずは、「下々」を卒業することだと思います。
「お上」が「私が悪うございました」と言うとでも思っているのですか。
それは、甘いと思います。棚から牡丹餅は落ちてきません。自分の身は自分で守るしかないのです。そのためには、「下々」ではなく、「国民」になることです。ただ、何もせずに国民になれるわけではありません。勝ち取るしかないのです。
その努力をしなかった国民の皆さんの自業自得だと思います。
「どうしろ、と言うのだ」
そうなんです。国民の皆さんは、どうすればいいのか、そこがわかりません。
ですから、私は言葉の定義を提案しています。もっとも、誰一人耳を傾けてくれる国民の方はいませんので、何の役にも立っていません。でも、国民の賛同を得られたら、もしかすると、何かが変わるかもしれません。

言葉の定義は、責務を明確にするためです。
責務を明確にし、その責務に沿った法律で国を運営すれば、被害を受ける国民を無くすことは出来ないとしても、納得感は得られると思います。
ただ、これは、恐ろしいほどの仕事量ですから、簡単に実現するとは思いません。
でも、責務を明確にし、それをオーソライズするだけでも、この国は変わります。
それは、自己規制がかかるからです。「こんなことやっていたら、ヤバイかも」と思えば、「自分さえよければ」や「俺には関係ねぇ」は随分減ると思います。「先送り」と「なし崩し」も簡単ではなくなると思います。
福島の漁業関係者だけではなく、ほとんどの国民の皆さんは、未だに「下々」を守っています。今は、福島の漁業関係者が悔しい思いをしていますが、この先は、多くの皆さんが悔しい思いを、泣き寝入りを、体験することになります。
今の福島の漁業関係者の皆さんの姿は、明日の国民の皆さんの姿です。

これまでの、日本の歴史の中で、言葉の定義、責務の明確化、目的の創造を提案した人はいないのではないかと思っています。2000年の歴史の中で初めてのことだと思います。
ですから、理解されないとしても不思議ではありません。
でも、この国は、今、瀕死の状態です。
私達が変わらなければ、朽ち果てるだけだと思います。
皆さんは不安です。はっきりとしたものではないけど、何となく、不安です。
それは、皆さんの直感が、そのことに気付いているからなのです。
放置していて、いいのでしょうか。
私は、軍事クーデターを起こせと言っているのではありません。
言葉の定義をしてみませんか、言っているのです。
そんなに難しいことなのでしょうか。


2023-09-04



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戦う覚悟



「また、麻生さん、やってしまったのか」と思いましたが、いつもの失言とは少し違うようです。失言王の麻生さんですから仕方ないのかもしれませんが、外交での失言は失言では済みません。
立憲民主党や共産党の批判も、的を外しています。
与党、野党、中国外交部の3者の発言を見た時、的を外していないのは中国外交部だけというのは、とても深刻だと思います。あの威圧的で、暴力的で、品位に欠ける中国外交部の発言が、真っ当な主張に聞こえてしまうのは、ヤバイと思います。
こういう状況を「救いようのない状況」と呼ぶのだと思います。

台湾を訪問している麻生さんは、講演で、台湾情勢について語りました。
「今ほど日本、台湾、米国を始めとした有志国に強い抑止力を機能させる覚悟が求められる時代はない。戦う覚悟です」
「台湾の人たちの生活、幸せ、繁栄を維持するため、現状を守り抜く覚悟を蔡英文総統の後に総統になられる方にも持っていただき、同じ価値観を持つわれわれと一緒に戦っていただけることを心から期待する」

立憲民主党の岡田幹事長の批判。
「台湾有事にならないためにどうするかが求められているなかで、非常に軽率だ」
「政治家は国民の命と暮らしを預かっている。軽々にいう話ではありません」
共産党の小池書記局長の批判。
「明らかに専守防衛に反する。極めて挑発的な発言だ」
「相手に恐怖を与えることであって、まさに軍事対軍事の悪循環を引き起こすことものだと批判してきました。麻生氏の発言は、まさに抑止という考え方の危険性を赤裸々に語っている」
お二人とも、「戦う覚悟」という言葉に反応したようですが、「どうやって、この国を守るのか」という提案をすることなく、言葉尻を捉えて批判する姿勢に、違和感は感じないのでしょうか。「外交で」とか「話し合いで」とは言っていませんが、多分、そういうことなのでしょう。でも、「外交や話し合い」で解決しなかった時、彼等はどう責任を取るつもりなのでしょう。政権政党にならなければ、問題ないのかもしれません。いや、そもそも、政治は責任をとる能力を持っていません。責任が取れるのは国民だけです。だから、国民は主権者と呼ばれているのです。
ロシアによるウクライナ軍事侵攻という現実を見てしまった今、立憲や共産の批判には国民を説得する力がなくなりました。そのことを、どう考えているのでしょう。国民の皆さんは、自民党にも優しいですが、立憲や共産に対しても、ほんとに優しい「いい人」ばかりです。どっちもどっち、これが、まさに、「なあ、なあ」「まあ、まあ」です。
でも、真の日本の課題は「覚悟」でも「軽率」でも「挑発」でもありません。
言葉遊びに終始していること自体が、問題なのです。
「なあ、なあ」「まあ、まあ」の中では、何も見えてきません。
そもそも、麻生発言は、「戦う覚悟」がない日本の政治家が、口先だけで「戦う覚悟」が必要だと言っている茶番に過ぎません。台湾もアメリカも、ジョークとしか受け取ってくれないと思います。もしも、麻生さんが、本気で「戦う覚悟」が必要だと思っているのであれば、台湾で講演するのではなく、日本国内で、何度も何度も、国民に訴えなくてはなりません。他人様に「戦う覚悟」を求めるのは、間違いです。

ついでに、中国の反応も書いておきます。
「身の程知らず」
中国の批判は、的を射ています。まさに、「身の程持知らず」です。
中国人民解放軍は、兵員数で日本の10倍、兵器でも圧倒的な優位を持っている軍です。
これは、「覚悟」でどうにかなるような差ではありません。
中国人民解放軍に対応できる軍は、アメリカ軍しかありません。
しかし、台湾有事の際に、アメリカ軍が介入するかどうかは、わかりません。
アメリカも、政府と国防省は一枚岩ではありません。政府と議会もそうです。最終的には世論が決めることになると思いますが、その行方はわかりません。
麻生さんは、政府と調整したと言っているそうですが、アメリカ政府との調整は、アメリカ国防省との調整は、アメリカ世論との調整は、出来ているのでしょうか。もしも、アメリカとの調整が出来ていないのであれば、失言になると思います。
台湾とアメリカに火中の栗を拾わせて、日本は逃げようとしているという批判もあります。もし、そうなのであれば、麻生さんは国益を毀損させています。
国内問題での失言は、相手が「いい人」ばかりの日本国民ですが、外交での失言の場合、相手は海千山千の猛者ばかりです。失言王の麻生さんでは、心配です。

そもそも、麻生発言は、現実から遊離している「お伽話」に過ぎません。
日本人に「戦う覚悟」なんて全くないのに、なぜ、その現実を無視するのか、そこが理解できません。
麻生さんは、自分が銃を持つつもりはないでしょうから、簡単に「戦う覚悟」なんて言葉を使いますが、国民は、戦うつもり、さらさら、ありませんから。
誰が戦うのでしょう。自衛隊員だけが戦うのでしょうか。
約20万人の自衛隊の皆さんには、覚悟があると言われますが、私は、半信半疑です。
戦争では、敵の軍隊を全滅させる必要などありません。
軍は、1/3が犠牲になると機能しなくなると言われていますが、5万人が犠牲になったとして、残った15万人の自衛隊員は玉砕するまで戦う覚悟なんて持てるのでしょうか。総崩れになるような気がします。国民のバックアップなしに、自衛隊員が最後まで命を懸けるとは思えません。日本では、他国の侵略に対して銃を取ると答えた人は1割しかいません。その1割の中に兵士になれる年齢の人が何人いるのか疑問です。そんな国で、自衛隊員だけが孤軍奮闘出来るとは思えないのです。中国人民解放軍は、日本軍を相手にするのではなく、国民と分断されている自衛隊を相手にすればいいのです。日本の自衛隊は、ロシアの傭兵部隊ワグネルと同じです。ロシアにはロシア軍がありますが、日本には日本軍がありません。傭兵部隊と変わらない自衛隊員の戦闘意欲を叩き潰せば、200万人で20万人を叩けば、中国の勝利です。だから、中国は「身の程知らず」と言ったのです。
政府が安保法制を改定したところで、敵基地攻撃能力を持ったところで、自民党副総裁が「戦う覚悟」と言ったところで、国民意識が変わらなければ、戦えません。
先ず、国民意識を変えることから始めなければ、まさに、中国が指摘したように「身の程知らず」になります。
ほとんどの国民が「戦うのは自衛隊の仕事で、俺には関係ねぇ」と思っています、
もしも、仮に、戦争になってしまったら、国民の皆さんはどうするのでしょう。
日本政府は、焦って、徴兵制度を作るでしょう。
ただ、100万人徴兵したって、中国には敵いません。勝つためには3倍の兵力が必要だと言われますが、600万人の徴兵なんて可能なのでしょうか。
そもそも、徴兵制度が機能すると考えるのは、考えが甘いと思います。
大量の国外脱出が始まると思います。
ロシアでさえ、30万人徴兵の時、100万人のロシア人が国外脱出したと言われています。日本では、2000万人が国外脱出するかもしれません。陸路での脱出ルートはありませんので、困難を極めますが、知恵を絞ってでも脱出することになります。そんな国で、自衛隊員だけが戦うのですか。自衛隊員は人柱なんですか。違うと思います。

私は、「戦う覚悟」なんて必要ないと言っているのではありません。
国にも、国民にも、「戦う覚悟」は不可欠のものです。
それは、現実として、「ならず者国家」は存在するという事実があるからです。
ただ、「覚悟」は、自分が決めることであり、他人に求めるものではありません。
「覚悟、覚悟」と騒ぐことは、「平和、平和」と騒ぐことと同じで何の価値もありません。
先ず、国民が自分の責務を知る必要があることを、知ることです。
その上で、私達は、この国を中国領日本自治区にしない方法を見つける必要があります。
何故なら、人間には「誇り」が必要だからです。
チベットを、新疆ウイグルを、香港を見てください。
中国に占領されたら、同じ境遇に立たねばならないのです。
では、「戦う覚悟」って、何なんでしょう。
その答は、今のウクライナにあります。
中国と日本の差ほどではありませんが、ロシアとウクライナの国力・軍事力には大きな差があります。
そんなウクライナが、なぜ、まだ、ロシアと戦えているのでしょう。
欧米からの武器支援があるからだ、と言う人がいるかもしれません。
もちろん、武器支援がなければウクライナは戦えません。
でも、武器があっても、それを使う人がいなければ、武器は何の役にも立ちません。
ウクライナは、国民が戦っているから、戦争に負けていないのです。
では、ウクライナ人は、なぜ、戦っているのでしょう。
国を守り、「子供達の未来を守る」ために戦っているのです。
あれが、「戦う覚悟」です。
もちろん、ウクライナにも徴兵逃れはありますし、多くの戦死者を出していますので恐怖心もあります。それでも、戦う人は戦っています。少なくとも、今の日本人には、ウクライナ人の真似はできません。
日本の皆さんは、「俺には関係ねぇ」とマジで思っています。
自国の国民に「戦う覚悟」がないのに、台湾で「戦う覚悟」が必要だと主張する麻生さんは、言葉遊びをしているだけです。
現実を直視し、将来を想像し、言葉の定義をし、自分達の責務と目的を明確にし、地に足をつけた行動が必要なのだと思います。

麻生さんの台湾訪問の目的は、来年の台湾総統選挙に注文を付けに行ったという説もあります。
総統選挙で親中派、もしくは、中国優和派の候補が勝利すれば、中国領台湾自治区にならないとしても、中国との新しい契約を結ぶ可能性があります。短期的に見て、そのほうが台湾の利益になりますので、可能性は低くはありません。
しかし、台湾の将来を決めるのは、日本でもアメリカでも中国でもなく、台湾人です。
台湾の将来は台湾人が決め、その結果も台湾人が背負うのです。
もしも、来年の総統選に影響を与えることが麻生さんの目的だとすると、それは「余計なお世話」というものだと思います。中国は「内政干渉だ」と言っていますが、これも、中国が言うことのほうが正しいと思います。
もちろん、水面下で働きかけることは必要です。
でも、講演で言うべきこととは思えません。
麻生さんは、元々、思慮に欠ける無責任男ですから、本人は正しいことをしていると思っているのでしょうが、いつもいつも、ピントがずれます。少なくとも、麻生さんを外交に利用するのはやめなければなりません。それが岸田さんに求められる最低限の見識だと思います。そもそも、駄目政治家の見本のような麻生さんに一票を投じている選挙区の皆さんに、大きな責任があります。
「じゃあ、誰に投票すればいいのだ」
その通りです。だから、国民の手で新しい政治集団を創ることをお勧めしています。

どの側面から見ても、麻生さんの台湾訪問、講演、「戦う覚悟」は正しくありません。
これは、いつもの「失言」ではなく、国益を毀損する「失態」だと思います。
これは、「なあ、なあ」「まあ、まあ」が国内専用だと言うことを知らない「愚か者」がやることです。
「主権とは、国とは」という言葉の定義をしていれば、こんなことは起きません。
「言葉の定義」をしないことによる弊害が至る所で日本の将来を危うくしています。

日本という国にも、日本人という民族にも、素晴らしいものが数多くあります。
しかし、私達は、今、その素晴らしい国を破壊し、最悪の場合、民族の絶滅だってあり得るドツボへと向かっています。
残念ながら、「誇り」は、それなりの基盤が必要です。その基盤がなければ、「誇り」なんて、簡単に瓦解します。「貧すれば鈍する」という言葉があるように、私達は、その「誇り」も失う可能性があるのです。「誇り」は、失って、初めて知ることになるのかもしれません。
私達がいるのは土俵際です。両脚は俵の上にあります。
これまでのやり方では、このまま、土俵下に転落します。
どうか、そのことに気付いて欲しいと思います。


2023-09-03



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お殿様 [評論]



このブログは、暗くて、悪しき未来の話ばかりです。
明るくて、ハッピーな未来のほうが、誰にとっても望ましいものですが、現実は、そうはいきません。
私達は、自分の生活のために、子供達の未来のために、悪しき未来を回避する必要があると思っています。そのためには、悪しき未来を知らなければなりません。
今日も、悪しき未来の話です。

7月、WHOが「鳥インフルエンザのヒト感染に警告を出した」という記事がありました。
WHOは、鳥インフルエンザが、すでに26種類の哺乳類への感染を確認しており、人間への感染は避けられないと言っています。
鳥インフルエンザ「H5N1ウイルス」の人間への最初の感染例は1997年の香港で始まりました。その後、東南アジアや中国などアジアを中心に多数の感染者を出し、2003年から2019年2月までの感染者数は860人で、うち454人が死亡したそうです。この数字は致死率が52.8%であることを示しています。
ウイルスは常に変異し続けています。
今後、鳥インフルエンザ「H5N1ウイルス」が、どう変化するかはわかりません。弱毒化する可能性もありますので、希望は持ちたいと思いますが、どんな現実がやってくるかは、その時になってみなければわかりません。
ヒト・ヒト感染が始まるのは時間の問題だとすると、事前の対策が重要になりますが、日本の場合は、得意の「先送り」が対応を遅らせる可能性があります。いや、ほとんど、何の対応もないまま感染爆発に遭遇すると考えるほうがいいと思います。
鳥インフルエンザに感染した鶏が数千羽、数万羽の単位で殺処分されていることを見ると、感染力の強いウイルスのようです。
もしも、鳥インフルエンザのウイルスが本格的にヒト・ヒト感染するウイルスに変異した時は、新型コロナウイルスとは別物になります。
もちろん、ワクチンや治療薬の研究は行われていると思いますが、仮に、致死率が10%まで抑えられたとしても、新型コロナの10倍の死亡者が出ます。
今は、鳥インフルエンザは四類に分類されていますが、ヒト・ヒト感染が始まれば、一類に分類されるほどの感染症になります。
日本の新型コロナの感染者数は、累計で、約3千3百万人です。
もしも、致死率が10%だと仮定すると、鳥インフルエンザでは、330万人が死にます。この330万人は、都道府県別人口分布の10位に当たる静岡県の人口に匹敵します。
新型コロナの致死率1%でも、あれほどの大混乱を巻き起こしたことを考えると、致死率10%とか50%は、天地をひっくり返すほどの混乱になると思います。しかも「ぶっつけ本番」で遭遇することになります。
電気・ガス・水道・鉄道・物流・医療といった社会インフラを支えてくれている人達が、自分の命の危険を承知で仕事をしてくれるのでしょうか。どんな仕事をしていても、人命は人命です。彼等が家に閉じこもったとしても文句は言えません。
多分、社会も経済も麻痺します。
それは、弱者が、感染症以外の原因で淘汰されることを意味します。

仮に、鳥インフルエンザウイルスによるパンデミックが、5年後に起きたとしましょう。
5年後の日本は、どんな国になっているでしょうか。
国力衰退は、5年分進んでいます。
世界環境の変化度合いによりますが、GDPのマイナス成長が始まっているかもしれません。当然、税収は減少していて、国家財政は、青息吐息だと思います。
六公四民は、実現しているかもしれません。いや、七公三民の可能性も排除できません。
新型コロナで大盤振る舞いをしましたが、鳥インフルエンザでは、そんな余力はありません。いや、又、大盤振る舞いをするかもしれませんが、パンデミックではなく、国家崩壊が先にやって来る可能性があります。
私達は、今、「毒を喰らわば皿まで」という言葉を実践しています。
「1200兆円も借金しているのだから、あと100兆円余分に借りても、いけるんじゃない」
「鳥インフルエンザだから、あと200兆円借りようぜ」
「大丈夫、大丈夫、ここまで借りても潰れてないんだから、問題ないって」

ここで、借金のメカニズムを単純化して考えてみます。
借金も商取引です。
商取引は、買い手と売り手が存在して、成り立ちます。
国が借金をするということは、国が、国債を発行して売り手となり、金融機関が買い手として現金の用意ができて、初めて、取引が成立します。
もしも、金融機関が現金を用意できなければ、商取引は成立せず、国は、借金そのものが出来なくなります。
では、金融機関は、その現金をどうやって調達するのでしょう。
個人の預貯金、企業の流動資産を集めて、調達します。
ところが。
鳥インフルエンザで経済が麻痺し、個人や企業が、現金を一斉に引き出したら、金融機関は払い戻しに応じなければなりません。現金を用意するために、債券を売却する必要も出て来ます。そんな時には、新しい債券の購入はできません。
それは、個人や企業が、資産を現金化する必要が出た時には、債券を買う人がいなくなるということです。
国が、債権の販売ができなくなったら、財政運営は出来なくなります。
これが、デフォルトです。
個人と企業の資産が、借金の総額よりも多ければ、国債の購買力はあります。
しかし、個人と企業の資産が大きく減少したり、国債残高が個人と企業の資産よりも大きくなった時には、国債発行による借金は出来なくなります。
これが、単純なメカニズムです。
国力が衰退し、国民所得が減少していますが、それでも、個人や企業は必死に貯金します。
それは、「いざ」となった時に使うためです。
もしも、その「いざ」を鳥インフルエンザが生み出した場合には、商取引の均衡が破綻することになります。
それは、デフォルトが起きるということです。
では、国がデフォルトすれば、何が起きるのでしょう。
国が負担している社会保障費が支払い不能になります。
「無い袖は振れない」状態になるのです。
この「無い袖」の「袖」とは、現金のことです。
借金できなければ、現金が入りません。
現金を手に入れるためには、増税をするしかありません。
六公四民では、足りません。
七公三民だって、八公二民だってあり得ます。
鳥インフルエンザで、命の危険に直面し、増税で生活が圧迫され、弱い立場の人から淘汰されていくことになります。
「まさか、そんなことには、ならんだろう」
確かに、ここに書いたことは極端な例ですが、否定できるのでしょうか。
いいえ、可能性は否定できません。
実際にどうなるのかは、誰にもわかりませんが、この予測に近い状態が起きた時に、私達には何か手段はあるのでしょうか。
ないと思います。
ということは、このような状態を招かないような国家運営をしなければならない、ということです。
でも、今は、そのような国家運営はされていません。
鳥インフルエンザパンデミックに備えて、南海トラフ地震のような巨大地震に備えて、基金を用意するという国家運営はされていません。
今は、借金をするのではなく、予測されている災害に対処するために基金を積み立てる必要がある時だと思います。
それが、あるべき国家運営の姿です。
なぜなら、国は、国民生活を守るために存在しているシステムだからです。
先送りをして、出たとこ勝負では、大変危険です。
国は、責務を果たそうとしていません。

政治家のお偉い先生方は「政治は、結果責任だ」と言います。
では、結果が出て、その責任を取った政治家はいたのでしょうか。
そんな政治家は、過去に、存在していないと思います。
確かに、軍人の中には、結果責任をとり、自刃した人がいますが、政治家は、そんなことはしません。国家運営に従事している官僚の皆さんは、「トカゲのしっぽ」にされて責任を取らされることはありますが、政治家はそんなヘマはしません。
結果責任とは、責任を免除されているという言葉のようです。
なぜ、こんな不条理がまかり通っているのか。
それは、責務が明確ではないからです。
目的もありません。
政治家は、やりたい放題、「自分さえよければ」が公的に認められている特権階級だということです。
江戸時代の「お殿様」と同じです。
政治家は、「お殿様」なんですか。
今は、「お殿様」という名称ではなく「お偉い先生様」と呼ばれています。
でも、本人は、「お殿様」の積りなのでしょう。
政治家は、当然のように、主権者よりも、「お殿様」のほうが偉いと思っています。
日本は、民主国家ではありませんので、致し方ありません。
でも、皆さんは、それでいいのですか。
これって、政治家になれなかった皆さんの自己責任なんですか。
違うと思います。
民主主義は、そういう制度ではありません。
やはり。
ここは「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義をして、責務を明確にし、目的を持つ必要があるのだと思います。
鳥インフルエンザパンデミックであろうと、南海トラフ地震のような巨大地震であろうと、実害を受けるのは国民の皆さんです。
国民の皆さんにも、責務があります。
自分の生活を守ること。
家族の生活を守ること。
皆さんの仲間である国民の生活を守ること。
それが、国民の皆さんの責務です。
民主主義国家では、お殿様や独裁者のために、国というシステムがあるのではありません。
国というシステムは、国民の皆さんの生活を守るためにあるのです。
言葉の定義をすれば、当たり前のことなのですが、何もかも「ぼんやり」としたシステムの中では、国民生活は守れない仕組みになっているのです。
どうか、そのことに気付いて欲しいと思います。


2023-09-02



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私達の得意技は先送り [評論]



何とか持ち堪えていた岸田政権ですが、いよいよ、追い詰められました。
でも、岸田さん、心配はいりません。選挙権を持っている国民の皆さんは「いい人」ばかりですから、自民党内での権力闘争に勝てば、大丈夫です。
多分、岸田さんも、「追い詰められている」とは思っていないでしょう。
それは、岸田さんには、強い味方がいるからです。
「いい人」と「いい人、ぶりっ子」の国民の皆さんです。
言い方を変えれば、忠実な「下々」の国民です。
「いい人」と「いい人、ぶりっ子」を足すと7~8割くらいの国民が味方になってくれます。今は、その半数ほどが迷っていますが、今は迷っているだけで、最終的には味方に戻ってくれると思っているのではないでしょうか。
でも、実際に追い詰められているのは、岸田さんではありません。
追い詰められているのは、国民の皆さんです。
岸田さんも国民の皆さんも、そのことに気付いていません。
元々、「空っぽ」だった政権ですから、こうなることは必然だったかもしれません。岸田さん個人にも、問題はありましたが、総理大臣が誰になっても、大差はないとすると、これは、総理大臣の資質の問題ではないと思います。何度も、諄いかもしれませんが、これは、この国の統治システムの問題です。そろそろ、そのことに気付くべきです。
もう、「なあ、なあ」「まあ、まあ」「先送り」「なし崩し」では、やっていけなくなっています。古き良き時代(民主主義風王政並立封建制度)は限界を超えています。
ところが、政治家も学者もジャーナリストも、国民も、誰一人、「統治システムを変えよう」という声を出しません。その最大の原因は、皆さんが、この国は民主国家だと思い込んでいることにあります。でも、実際には、この国は、民主主義風国家ではありますが、民主国家ではありません。国全体で、「民主主義とは」という定義を共有していないのですから、気付けないのも仕方ありません。
それは、原因の原因の原因を見つけた人がいないからです。
この国の行き詰まりの原因は、国力衰退です。国力衰退の原因は、目的と責務の欠如です。目的と責務の欠如の原因は、言葉の定義をしない文化です。
原因の原因の原因が文化であることに気付いた人がいません。
確かに、気付き難いとは思いますが、気付かなければ、このまま朽ちてしまいます。
そんな国で、国力衰退と国民負担の増加というトレンドは、着実に、前に進んでいます。今のトレンドの行き着く先は、皆さんもご存知だと思いますが、ドツボです。
非難や批判は満ちています。
小手先や口先の提案はありますが、日本の国力衰退はビクともしません。
国民世論も揺れています。
そんな社会環境にある皆さんは、無意識に、何か得体のしれない何かが近づいていることを察知しているようですが、不安ですが、何をしたらいいのか、わかりません。
わかりませんが、わかったふりをして、「ふむ、ふむ」と頷いて、「先送り」をします。
今日は、岸田さんの「先送り」がテーマですが、岸田さんは、単に、国民の写し鏡なのかもしれません。
皆さんは、どうして不安なんですか。
「順風満帆だ」と思っている人が何人いるでしょう。
皆さんの心は、ザワザワしていると想像します。
国民の皆さんだって、今の状況が「ヤバイ」ってことは知っているはずです。
この国の皆さんは、「馬鹿」ではありません。いや、かなり「優秀」な国民だと思います。ただ、皆さんは「知らない」だけです。「馬鹿」ではありませんが、「無知」です。
厄介なことに、たとえ、馬鹿でも無知でも、国が潰れた時の責任は、国民の皆さんが取らされるのです。この鉄則だけは、古今東西、覆ったことはありません。
この国では、これまで、民が「何かをした」という体験がありません。
ずっと、「お上」に丸投げしてきました。
でも、そんなことで何とかなる時代は終わっています。
その結末は、火を見るより明らかだと思います。
皆さんには、「自分の生活を守る」という責務があります。それは法則でもあります。この法則は、人類誕生の時から現在まで、そして、この先も、変わりません。皆さんの生活は皆さんが守るのです。
大きな潮流(国力衰退と国民負担の増加というトレンド)の前では、個人の力では、「自分の生活を守る」という責務を果たすことはできません。大きな潮流に対峙するためには大きな力が必要です。その大きな力を持っているのは、国民だけです。それも、1つの目的のために結集した時の国民の力だけです。このことは、日本だけではなく、どの国でも同じです。
ただ、勘違いしないでください。
野党やメディアがやっているように、批判しろ、とか、非難しろ、と言っているのではありません。批判や非難には何の力もありません。
求められているのは、行動です。
行動と言われると、「〇〇の1つ覚え」のデモを考える人もいるでしょう。しかし、この国の現状はデモ程度では、どうにもなりません。逆に、国民が国民一揆を起こしたら、それだけで、この国は潰れます。必要なのは、的を射た行動です。的を射た行動とは、原因の原因の原因を知った上での行動です。
先ず、知ることです。
この窮地を乗り越えられるのは、出来るだけ多くの国民の皆さんが、「子供達の未来を守る」という同じ目的を持つことなのです。それ以外に、今のところ、道はありません。
少し、根っ子にあるものを見てみましょう。
なぜ、私達は、今、ここにいるのでしょう。
なぜ、人類は、これまで、数十万年も生き延びてきたのでしょう。
人類が、この地球上に存在し始めた時から、私達の願いは「永遠」だったのです。
「永遠」なんて、意味がないと言えば、意味のない事ですが、明確な論理的根拠はありませんが、「永遠」こそが人類の願いだったのです。これは、人類に限定した願いではなく、あらゆる生命体の願いでした。そのために、食べ、子を産み、育ててきたのです。
これまでの長い歴史の中で、「永遠」を否定する思想も価値観も生まれませんでした。忘れているかもしれませんが、今でも、私達の願いは「永遠」なのです。
もちろん、地獄を這うような「永遠」も永遠です。でも、出来れば、幸せな生活のほうがいいと思います。大きな脳に恵まれた人類は、それを自分の手で勝ち取ることができるのです。それが出来るのは人間だけです。
ただ、何もしないで、幸せな生活だけが欲しいという願いは叶いません。それが可能であれば、貧富の差や国力差なんて生まれません。何もしなくていいのであれば、地球上のすべての人類が幸せな生活を享受しているはずです。でも、現実は違います。
私達が、自分の生活を守るということは、簡単なことではありません。必ず、それを阻害するものが存在します。そのほとんどは、人間の「欲」ですが。
その原因を見つけ、原因の原因を見つけ、原因の原因の原因を見つけ、それに対処し、現在の、そして、将来の、幸せな生活を阻害している要因を克服するしか方法はありません。そのためには、多くの国民の皆さんの力が必要なのです。これは、特定のどこかの誰かが実現できるようなものではありません。集団で勝ち取るしかないのです。
もしも、「万能の王」が実在するのであれば、その「王」に全てを委ねるという選択肢はあります。でも、そんな人間は実在しません。多くの民の小さな努力を積み重ねるしか方法はないのです。リーダーシップなんて必要ない、と言っているのではありません。国民と同じ目的を持ち、リーダーの責務を知っている人が、国民の先頭に立つことで、より良き未来を手に入れることは可能です。しかし、その基盤は、あくまで、国民の目的なのです。
現在、国民は目的を持たず、国のリーダーは、「なあ、なあ」「まあ、まあ」「先送り」「なし崩し」で、責任を放棄しているのです。皆で、仲良く、この国をズタズタボロボロにしようとしているのです。
皆さんの未来は、子供達の未来は、真っ暗です。
それほど遠くない未来に、皆さんの生活は根底から壊れると思います。
多くの国民の皆さんの阿鼻叫喚が、今から聞こえるようです。
「ほんとに、皆さん、いいのですか」と問いたいです。

政治だけが悪いわけではありませんが、今の政治は、押しも押されぬ阻害要因です。
これほど「なあ、なあ」「まあ、まあ」「先送り」に特化した政権は珍しいと思います。
岸田政権はフラフラしているように思っている方もいるでしょうが、全くブレていない部分が1つだけあります。
「先送り」です。
どの局面でも、防衛費財源でも、少子化対策財源でも、デジタル化でも、「先送り」を貫徹しています。見事と言うしかありません。
「先送り」と「なし崩し」という合わせ技は、自民党が最も得意とする政治手法ですが、岸田政権ほど、堂々と、いや、臆面もなく、「先送り」をする政権は珍しいと思います。これまでは、「先送り」と「なし崩し」が見えないようにするだけの努力があったように思いますが、岸田政権は、「先送り」を隠すのではなく、総理記者会見を開く度に、前面に押し出しています。もっとも、隠そうが前面に出そうが、本質は「先送り」と「なし崩し」なのですから、この比較には意味がないのかもしれません。
ただ、「先送り」の先にあるのは「なし崩し」です。
ほとぼりが冷めた頃に、頭脳明晰な官僚が知恵を絞って最適な言葉を見つけ、国民負担は重くなります。これまでも、そうやって、国民負担は増えてきたのです。
消費税の導入の時も、国民は反対しました。
議論するからと言って「先送り」をし、ほとぼりが褪めた頃に消費税は導入されました。
10%に増税された時も、国民は反対でしたが、「社会保障の充実のために」という殺し文句を投げられ、国民は「ふむ、ふむ」と頷いて、増税されました。あの時も、6割強の国民が「いい人、ぶりっ子」をして、増税に賛成したのです。
この先も、国民は、きっと、「いい人、ぶりっ子」をすると思います。
私には、救いようのない国民に見えます。
「生活が苦しい」と嘆きながら、「お上」のご指示には「ふむ、ふむ」と言ってしまう。皆さんは、ほんとに、忠実な「下々」です。歴史と伝統は脈々と続いています。多分、自分でも、不思議だと思っているのではないでしょうか。つい、癖で、「ふむ、ふむ」と言ってしまうのです。ほんとに、「いい人」です。
それでも、国民の皆さんも、薄々とではあっても、危険は感じています。
しかし、どうすればいいのか。
それが、わかりません。
いや、「俺達下々には無理だ」と、はなから、諦めています。
この国の民は、自分の力で、国のあり様を変えたという体験がないからです。
民が国を変えるということは簡単なことではありませんが、いろいろな国で実践されていますので、不可能ではありません。しかも、私の提案は、武力を必要としていません。言葉で戦うことはできるのです。
しかし、ほとんどの人が「いい人」で、未だに土下座をしていますし、「下々」意識が染みついていますので、忖度や遠慮が先に立ち、エネルギーは生まれません。「お上に逆らうなんて、そんな恐ろしい、罪なことは、できない」と思い込んでいます。
しかし。
国が崩壊するということは、国民の皆さんの生活が破壊されるということです。
多くの国民の皆さんが、地獄へ堕とされるのを見るのは辛いです。
でも、これが、現実です。
くどいですが、国民の皆さん、「ほんとに、このままで、いいのですか」


2023-09-01



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復元力 [評論]



公表されている世界のコロナ死亡者数は、約700万人、過去2000年の人類史上7番目の数になりました。3年前にコロナが発生した時の私の予測は、ベスト10入りでしたが、ベスト7にまで順位を上げてしまいました。予測が甘かったと反省しています。
ただ、発生メカニズムについては、まだ、確定していません。
それは、中国が協力しない、いや、協力できない事情を抱えているからだと思います。
中国とアフリカは細菌の宝庫です。細菌はコロナウイルスだけではありません。疫病対策には事実解明が欠かせませんが、それが出来ないとなると、今後も、別の疫病に脆弱なまま対峙しなければなりません。
コロナウイルスは、感染力は強いが、毒性の点では、それほど強毒なウイルスではなかったと言われています。それでも、700万人も死亡しているのです。次にやってくる疫病が弱毒性とは限りません。死亡者が、7000万人や7億人の可能性だってあります。そういう意味では、人類の未来は決して明るいものではありません。
ここは、人類が力を合わせて対処する場面だと思います。
中国共産党には、もう少し、人類全体のことを考えて欲しいと思います。
もちろん。無理なお願いですが。
疫病の視点だけではなく、世界の国々は、中国が厄介な国だと思っています。ロシアやイランや北朝鮮だって、そう思っているでしょう。しかし、カネを積まれたら、誰でも「よいしょ」します。人間は「欲」のためなら何でもします。フランスのマクロンを見れば、よくわかります。私でも、カネを積まれたら、こんな文章は書きません。
でも、人間から「欲」はなくなりません。
CO2が原因だと言われている地球温暖化も、ブレーキがかかりません。
最近は、自然災害が、世界的な傾向として増えているように感じます。
人類が「心を入れ替えて」なんて行動を取るとは思えません。
ですから、時期は未定ですが、人類絶滅は必然だと思います。
せめて、生存している間は、先延ばしの努力をしたいものです。
その鍵を握るのが中国だと思います。
しかし、中国共産党は、地球や人類のことではなく、14億人の人民を統制することを最優先事項と考えているようです。
今でも自由とは程遠い中国の言論ですが、今後は、更に大幅に制限されることになります。
「反スパイ法」は、外国人の取り締まり以上に、中国人民の言論や行動を大きく制限することになると思います。
ただ、中国人民は、日本人と違ってヤワではありません。表面的には従順そうに見えますが、そんなことはありません。実に厄介な人達なのです。
私達は、日本国民が世界標準だと考えていますが、それは間違っています。日本国民は、統治者にとって御し易い「いい人」ばかりで、模範生であり、世界の異端だと思います。
この先、中国人民の不満が、どこまで膨らむかが中国の将来を大きく左右します。
人民の不満は、最終的に、内乱まで行くと思います。それが、中国です。
習近平は、その事を知っているから、弾圧のステージを上げているのです。
習近平にとって、怖いのは、アメリカではありません。14億人の中国人民です。
不条理の質と量を、中国と日本で比べて見ると、天と地ほどの差があります。日本では、マイナカードで揉めていますが、中国人から見れば、揉める理由がわからないと思います。
中国人民を苛立たせる不条理の質と量が、最近、更に、増えています。
高度経済成長で覆い隠されていた不条理が、人民の前に立ち塞がり始めました。
中国共産党とすれば、今の経済減速を何とかしなければなりません。
ただ、それは、そんなに簡単なことではありません。
それは、これまで中国経済を牽引してきた不動産投資とインフラ投資という手法が限界にきているからです。先進国並みの経済政策が必要になりますが、即効性という観点から、これは、大変難しいことです。
経済規模が大きくなっていますので、全面崩壊にはならないと思いますが、今の状態が続けば、人民の不満は膨らみます。それを弾圧という手段で乗り切ろうとしている中国共産党の手法が、上手く行くかどうかは未知数です。
ただ、人民の不満が大きくなって人民統制に支障が生じた場合、対外的な紛争を惹き起こす誘惑は強くなると思います。南シナ海や東シナ海の係争地や台湾での武力行使が現実のものになる可能性は否定できません。
中国は、実に、厄介です。

それに比べて、日本国民は、ほんとに、従順です。
ほんとに、日本は平和です。
内乱の危険なんて想像もできません。
中国では、内乱が数々の帝国を滅亡させてきました。
日本には、そういう歴史はありません。
これは、中国人民の持っている復元力だと思っています。
復元力は、自然の力であり、人類にとっては伝家の宝刀なのかもしれません。
船は、簡単には転覆しません。それは、重心と浮力という力が働き、復元力になっているからです。もしも、地球に重力がなければ、いや、弱い重力しかなければ、人間の力では海は征服できなかったと思います。地球がそんな惑星であったら、今の文明は存在しなかったのではないかと思います。
人類にとって、復元力は不可欠の物なのだと思います。
その点では、日本は復元力の弱い国のように見えます。
それは、皆さんが「いい人」で、従順で、忍耐強いからだと思います。
確かに、「欲」に忠実な中国人民は、私達にとって異質の存在なのかもしれませんが、中国人から見れば、私達が異質に見えているのではないでしょうか。いや、地球全体から見た場合、多分、異質なのは中国ではなく、日本なのだと思います。
日本ほど、性善説が当たり前のように存在している国は、珍しいのかもしれません。
性善説を信奉している人も、性善説を主張する人も、大勢います。
でも、世界は性善説とは真逆の論理で動いています。
これが、世界の現実です。
常識は時代で変わります。しかし、日本人は、あまり変わりません。昔から、ずっと、「いい人」です。その根底にあるのが、性善説なのかもしれません。
今の日本に住んでいる私達には、自由の束縛という感覚はありません。もちろん、日本でも、江戸時代だけではなく、20世紀の敗戦までは、自由は束縛されていました。「お上」の批判をすると牢屋にぶち込まれたものです。
今でも、人間の自由を束縛している国は、数多く存在しています。
その代表的な国が、中国、ロシア、イラン、北朝鮮です。これらの国では、性善説が通用しません。正しいのは、独裁者だけです。
では、自由が保障されている国では性善説が有効なのかというと、それは違います。
なぜなら、私達が人間だからです。人間にとって、「欲」は最強の本能です。「欲」の前では性善説なんて何の役にも立ちません。
人間は、どれほど清廉潔白な人だと言われていても、必ず、悪しき面を持っています。ましてや、俗人である私などは、良き面よりも悪しき面のほうが多いかもしれません。ですから、そもそも、性善説は成り立たないのです。自分で自分のことを観察すれば、性善説なんて成り立たないことは一目瞭然だと思うのですが、なぜか、日本人は、性善説を欲しがります。それは、「こうでありたい」という願いがあるのだと思います。もちろん。「ないものねだり」に過ぎませんが、性善説という理想論は精神安定剤の役割を持っていますので、自分を誤魔化すのには役に立つのです。
そんなことは、多くの方が「何となく」理解しています。ですから、性善説一択という人は多くありません。それでも、中には、性善説一択という人もいます。理想論ですから、声高に叫んでも反対する人はいません。そこで、つい、自分が正しいと勘違いしてしまう人がいるのです。こういう人は、どんな社会にも一定数存在しますので、そのことを四の五の言っても仕方ありません。
問題は、「ぶりっ子」です。
人は、いや、特に、日本人は、「いい人、ぶりっ子」をしたがります。日本人は、歴史と伝統の中で培われた「いい人、ぶりっ子」をすることが習性になっていますので、ほぼ全員が、無意識で「いい人」を演じます。変人と言われる私でも「いい人」を演じています。
「いい人」を演じることが悪いとは思いません。そのことで、社会の軋轢が緩和されているという利点もあります。
ただ、国が、自分の生活が、破滅に向かっている時は別です。
地獄が見えていると、人間には、それに反発する復元力が働くのですが、「いい人、ぶりっ子」をやっていると、その復元力が働きません。
本音では「ヤバイ」と思っていても、つい、「いい人、ぶりっ子」を演じていれば、事態は悪化するものです。
今、この国が、じわじわと、ずるずると、劣化しているのは、国民の皆さんが「いい人、ぶりっ子」を演じていることが大きな要因になっています。もっとも、誰も、そんなことは言いません。だって、皆さん「いい人、ぶりっ子」ですから、そんなことを言えば村八分になることを知っています。村八分は、21世紀の今でも怖いです。
誰もが「このままではヤバイ」と思いながら、何も言えない。だから、じわじわ、ずるずるという状態が続いているのです。
もしも、目的と責務がオーソライズされていれば、根拠さえあれば、多くの方が「ヤバイ」という声を出すことができます。そうすれば、復元力は正常に働きます。
人民が弾圧されている国では、生命の危険を承知の上で、真実を表に出す勇気が持てるという現実を見ると、国民生活という視点に立つと、どちらに優位性があるのか、よくわからなくなりますが、自由が保障されていて、復元力が保持できることが最善の道なのかもしれません。
やはり、私達に必要なのは、目的と責務の明確化なのだと思います。


2023-08-05



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噛み合っていない [評論]



「主権者を疑う ー 統治の主役は誰なのか」という駒村圭吾氏の書籍を評している岩瀬達哉氏の文章を取り上げます。
私は、駒村圭吾氏という方が、どれほど有名な方なのか、学者としてどれほど優秀な方なのか、全く知りません。非礼な言葉を数多く書くと思いますが、無礼の段は、平にご容赦ください。私の視点は、「国民生活は守られるのか」です。その視点では、お偉い先生の過去の経歴や知名度は、何の意味も持っていません。
申し訳ありませんが、今回も本を購入せずに、表題だけで評価してみたいと思います。
法学者の駒村氏は、「国家統治の主役は国民なんですよ」と言いたいのだと思います。
日本は、一応、建前では、民主国家ですから、この結論は正しいものです。多分、国民の皆さんに自覚を持ってもらいたいという願いがあって書かれた書籍だと思います。
ただ、建前と現実は、必ず同じものだとは限りません。いや、建前と現実は、大きく乖離することのほうが一般的です。
書評を読む限りでは、私には、駒村氏の主張は、学問のための学問にしか見えません。駒村氏の本だけではなく、この手の本が国民生活に利益を与えているとは思えません。警鐘を鳴らして、その鐘を叩いている本人が「ふむ、ふむ」と頷いているようにしか見えないのです。お偉い学者先生の本は、自分の名前に箔をつけるために書いているものであり、現実社会には何の影響力も持っていないのです。
「変わるべきは、憲法よりも、まず、権利を自覚しない国民自身だ」というのが、駒村氏の結論なのでしょう。
この150年、この手の議論は、多くの方がやってきました。
ただ、いつも欠けているのが、「どうすれば、国民が権利や責務を自覚することができるのか」という視点です。
「先ず、お前が、自覚しろよ」と言われても、「下々」はどうすればいいのか、見当もつきません。だって、それが「下々」にとって、あるべき姿勢だからです。
駒村氏は、改憲を重視していないようですが、この国にとって、改憲は不可欠な要素です。もちろん、現在、国会で議論されているような改憲は不要です。国の責務と国民の責務を明確に規定し、国の目的と、国民の目的を、明確に記した憲法が必要です。
そのためには、国民意識を変えることが不可欠です。「下々」が「下々」のままでは、どんな憲法を制定しても、この国は変われません。
過去にも、「これじゃ、駄目だ」という警鐘は数多くありました。
しかし、「こうやって、変えましょうよ」という処方箋を示した学者が皆無です。ほんと、見事なほど、ゼロです。ですから、150年、それなりの風が吹いたことはありません。
私には、学者の書籍は、学者の自慰行為にしか見えません。
もちろん、結論が間違っているのではありません。
結論は、正しいと思います。
でも、これは、結論の正誤の問題ではありません。
結論を基に、国が変わったかどうか、という結果の問題です。
しかし、150年間、この国は変わっていません。何度か目的らしきものを持った時代はありましたが、曖昧なものでしかなく、いつの間にか、消えてしまいました。この国は、明治維新から今日まで、多分、明日以降も、「民主主義風王政並立封建制度」の国です。
これは、どれほど、正しい結論を出しても、現実的な結果を出さなければ、社会を変えなければ、何の役にも立たないということです。
先月、「前近代的共同体」というものについて書きました。
駒村氏が言う「国家統治の主役は国民」であっても、国が「前近代的共同体」では、どうすることも出来ません。専門家の皆さんの主張は、150年間、同じです。
「だから、どうするんですか」という問いには、誰も答えません。
「国家統治の主役は国民」も、「前近代的共同体」も、「そうだ、そうだ」で終わりです。
もう、そろそろ、何とかしなければなりませんが、お偉い学者先生方は、カネや名誉を手にすることに専念しています。
駒村氏は、「主権者を疑う」と言っています。
主権者という言葉があるだけで、その中身はありません。
その事を棚に上げて、「主権者を疑う」と言われても、誰も反応できません。
その前に、専門家としての自分を疑って欲しいものです。
疑われた国民は、疑われたって、定義もなく、中身もなく、主権者としての責務も目的もなく、何を、どうしろ、と言うのでしょうか。
国民が、国民主権を実現する具体的な方法を提示することが、学者の仕事です。
学者が、知識を得るのは、問題を解決するために得るものです。
知識を弄ぶだけなら、知識には何の価値もありません。
確かに、知識をひけらかせば、カネも名誉も手に入るかもしれませんが、国民には、何の役にも立ちません。
また、駒村氏は、国民の民度が低く、低投票率が定着し、特定の利益集団が国家運営を独占していると言います。
その通りですが、だったら、どうするのです。
「国民が悪い」で終わりですか。
もちろん、悪いのは国民です。
でも、そこで終わらないで欲しいと思います。
国民は、どうすればいいのか、わからないのです。
お偉い先生方が、上から目線で正論を吐いても、何の価値もないと思います。
日本国民は、「下々」ですから、そんな正論には反応しません。
だから、専門家が存在しているのです。
その専門家が「悪いのは国民だ」と言ってみても、不毛でしかありません。
国民の何が悪くて、それを、どうすればいいのかと言う処方箋を示さねば、国民には伝わりません。
この書籍の表題「主権者を疑う ー 統治の主役は誰なのか」の真意は、「この糞国民が」だと思うのですが、真綿で包んで、毒にも薬にもならない「なあ、なあ」「まあ、まあ」の表題になっています。「糞国民よ、目を醒ませ」という表題にして欲しいくらいです。
大学に嫌われ、学生に嫌われ、一般読者に嫌われたのでは商売になりません。カネを稼ぐためには、「なあ、なあ」「まあ、まあ」は不可欠です。それでも、この本が何冊売れているのか知りませんが、買った人は「お気の毒」です。「ふむ、ふむ」で終わるのであれば、時間の無駄だと思います。
「学者とは」という定義がありませんので、学者は何をやっても、何もしなくても、問題はないのかもしれません。
でも、敢えて、言葉の定義をしてみたいと思います。
私の勝手な定義ですが、学者とは、知識を駆使して現状を分析し、課題があれば、その原因を特定し、その上で処方箋を書くことが責務だと思います。
この150年間、この処方箋、特に、具体的に実行可能な処方箋、を提示した学者は皆無だと思っています。
言葉の定義がされていないことが、誰にとっても、居心地はいいのでしょうが、これこそが、致命傷です。
国家運営者には国家運営者の責務があります。
専門家には専門家の責務があります。
国民には国民の責務があります。
どれも、同じものではありません。
国家運営者にも、専門家にも、国民にも、それぞれの責務があるのです。
もちろん、「何のために」という目的も必要です。
それが曖昧になっているために、国全体として噛み合っていないために、国力が衰退しているのです。
誰にも責任はなく、誰もが責任を取る。
これが、「なあ、なあ」「まあ、まあ」の究極の目的かもしれません。
でも、この先も、「なあ、なあ」「まあ、まあ」は続きます。
それは、何も変えない、何も変わらない、ということです。
私達の未来が現在のトレンドの延長線上にあるということです。
国力衰退というトレンドと国民負担率の上昇というトレンドの延長線上に、私達の未来の生活があるということです。
それほど遠い未来ではなく、皆さんはその現実に直面することになります。それでも、皆さんは、「ふむ、ふむ」と頷き、「俺には関係ねぇ」と言い続けていると思います。
でも、行き着く先は地獄です。
ほんと、皆さん、大丈夫なんですか。

もう一人、学者先生を紹介します。
農業経済学者の鈴木宣弘教授です。
7200万人の餓死者というフレーズを紹介した先生です。
米国ラトガース大学の研究者らが、局地的な核戦争が勃発した場合、直接的な被爆による死者は2700万人だが、「核の冬」による食料生産の減少と物流停止による2年後の餓死者は、食料自給率の低い日本に集中し、世界全体で2億5000万人の餓死者のうち、約3割の7200万人が日本の餓死者と推定したことを根拠としています。
その上で、鈴木宣弘教授は、本気で、食料安全保障に取り組まねばならないと警鐘を鳴らしています。
本気の食料安全保障政策が必要であることは言うまでもありませんが、農業分野の改革が必要であることも正しい選択ですが、それだけでは国民生活は守れません。いろいろな分野で、いろいろな方が、いろいろな提案をしています。そんな提案は不要だとは言いません。しかし、この国の課題は、そこではありません。思想とか文化の領域の問題なのです。
農業を守るためにも、餓死者を出さない国を作るためにも、求められているのは、国力衰退を止め、反転させ、国そのものを豊かにする方策が必要です。
それは、簡単なことではありません。一大変革、それも、歴史を変えるほどの変革が求められているのだと思います。
ラトガース大学の研究では核戦争が想定されていますが、仮に、核戦争が起きなくても、日本は食糧危機になります。
その原因は、国力衰退による「買い負け」現象が定着するからです。
鈴木教授も指摘していますが、今でも、この「買い負け」は起きています。日本が、小麦をトン当たり10万円で買うと申し入れても、中国がトン当たり15万円で買うと言えば、生産国は中国に売ります。
食料安全保障は、もう、農業政策で何とかなるようなものではありません。
国力次第で、食糧の輸入は途絶えるのです。
では、どうすればいいのか。
「買い負け」しないで済むように、国を繁栄させねばなりません。
では、誰が、国を豊かにするのですか。
国民しかいません。
では、どうすれば、国民が力を出してくれるのでしょう。
補助金や給付金で、国民は、その気になってくれるのでしょうか。
「貰えるものは、貰っておく」で終わると思います。
国民が自分の責務を知って、努力するしか道はありません。
濡れ手に粟とか上手い話なんてものはありません。地道に、長時間、努力するしか方法はないのだと思います。
今、この国に必要なのは、目的と責務の明確化です。これは、文化を変えなければ実現しません。歴史を変えなければ、衰退するこの国を再生させることは不可能です。
これが日本の処方箋であり、今は、唯一の処方箋だと思います。
有識者でも学者でも教授でも知識人でも、呼び名は何でもいいですが、彼等がこの処方箋の一番近くにいます。
あと、一歩、前に出ればいいだけです。
文化に着目できる先生が現れることを、期待します。


2023-08-04



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ペコペコ集団 [評論]



7月に行われた群馬県知事選挙の投票率が、29.65%で、過去最低になったという記事がありました。
知事選挙の投票率を見ると、元々、群馬県の投票率は47ある都道府県の中で、41位で、決して高くはありません。前回は、36.6%だったようです。ただ、今回の29.65%は46位になりますので、群馬県としては問題があるのでしょう。
全国1位は秋田県で、67.4%。最下位の47位は埼玉県で、24.9%です。
投票率の全国平均は、47.7%ですし、最下位の埼玉県よりは上ですから、29.65%という数字が特別な数字ではないようです。
群馬県民の皆さんも、「まあ、こんなもんだろう」と思ったのではないでしょうか。
東京都周辺の地域が低投票率になっているのは、「俺には関係ねぇ」意識が強いことによるのではないかと思います。埼玉47位、茨城46位、千葉45位、栃木44位、群馬41位と最下位争いをしているのは東京を取り巻く県ばかりです。
ただ、私が一番驚いたのは、全国1位が秋田県だったことです。
以前、NHK受信契約件数を調べた時も、全国1位は、秋田県でした。
多分、これ以外にも、秋田県は優秀な数字を一杯持っているものと思います。
まさに、「お上」にとって、優等生、昔流に言えば学校に従順な「級長」さんです。「お上」から見れば、「下々」にも優劣があるということのようです。
これは、階級制度に縛られている秋田県を褒めているわけではなく、無関心な群馬県を非難しているのでもありません。
「土下座」することに抵抗感のない秋田県も、「俺には関係ねぇ」と言う無責任な群馬県も、他の都道府県の皆さんも、民主主義を意識していない、いや、「知らない」ということだと思います。以前にも書きましたが、「1億2000万人総無知」状態なのだと思います。
この国には、「民主主義とは」という定義がないのですから、当たり前と言えば当たり前のことです。
知事選挙の投票率で、1位の67.4%と47位の24.9%には、2.7倍の差があります。これは、統一国家というよりも、昔の幕藩体制での数字のように見えてしまいます。その土地その土地の風土で投票率に大きな差が出ている国を、近代国家と呼んでいいのかと思います。
これは、言葉の定義がされていないこと、「あるべき姿」が見えていないこと、つまり、国の統治システムが近代化されず、封建制度が継続されていることを示しています。
本来の「あるべき姿」が国民には見えていないのです。
21世紀になっても、未だに、この国は封建制度です。
それは、国民の皆さんが、意識を変えないからだと思います。
皆さんは、今でも、「下々」です。
「下々」が貧困に苦しむのは、封建制度下では珍しいことではありません。
国民の皆さんは、貧困を自己責任だと容認しています。ほんとに、「いい人」です。
もちろん、「悪い人」を推奨しているのではありません。
でも、度を越えた「いい人」は、皆さんを苦しめることになります。
「いい人」をやめて、「強欲」になれと言っているのでもありません。
ただ、間違いなく、限度があると思います。皆さん、「いい人」をやり過ぎです。
確かに、その匙加減は難しいと思いますが、原則を見つければ、それなりに限度は見えてくると思います。
英雄と言われるような個人がいても、国は豊かにはなりません。
国民の皆さんの総合力が国の豊かさを決めます。
国民の皆さんが目的を持ち、責務を知り、責務を果たすことで、国は豊かになります。
確かに、国民の皆さんは「いい人」です。でも、「いい人」だけでは、国は豊かになりません。ですから、貧困に苦しむ人が増えているのです。この先は、もっと、貧乏人が増えます。「いい人」を演じていれば、結果オーライになるわけではないのです。どうか、そのことに気付いてください。

国民の皆さんをボロクソに言っていますが、では、国民が頼りなくても国がしっかりしているかと言うと、永田町ではスキャンダル探しとガキの喧嘩が横行しています。与党と野党は、伝統的にガキの喧嘩をする仲ですが、最近は、野党同士のガキの喧嘩が盛んになっています。いつものことですが、民主主義の定義もせずに、「民主主義の破壊だ」と言う野党もいます。どの政党も、国民に向き合うのではなく、政党間の権力争いに熱中しています。彼等は、自分の選挙のことしか見えていません。国民不在の政治活動こそ「民主主義の破壊だ」と思いますが、そのことに気付くこともありません。確かに、日本は、民主国家ではありませんので、こんなものでもいいのでしょう。
どっちもどっち、です。
ただ、木原事件では、その扱いが変わっています。
スキャンダルが大好きな野党の皆さんも、流石に、下半身のスキャンダルには飛びつかないようです。ま、確かに、警察の捜査が絡んでいると、手が出せないのかもしれません。
でも、妻には殺人に関与した疑惑があり、愛人との間には認知問題があり、妻と愛人は友人であり、まさに、ドラマ並みのドロドロです。ただ、木原議員は政権の中枢人物であり、岸田政権と呼ぶよりも木原政権と呼ぶ人もいるほどの大物ですから、テレビのワイドショーも、喧嘩が売れないようです。政党も警察上層部もテレビも、忖度合戦をやっています。「まあ、まあ」が飛び交っているものと思います。国会議員は、マジで「お殿様」なのかもしれません。ドラマで「お前なんて、クビにするのは簡単なんだぞ」と政治家が警察官に脅しをかける場面がありますが、実際にあるリアルな話のようで、驚きました。
こんな国が繁栄するとは思えません。
国力衰退は、必然だったと思います。
ま、皆さんは、皆で仲良くドツボに落ちるなら仕方ないと思っているようですから、何を言っても無駄なのでしょう。
それでも、子供達の未来を考えると、何とかして抵抗したいと思います。

群馬県知事選挙で当選したのは、現職の山本一太氏です。
この記事には票数も出ていました。
棄権           111万3210票
山本一太氏         36万3559票
石田清人氏         7万7198票
清水澄氏          1万8534票
白票など無効票         9809票
これ、カネをかけて選挙する意味があるのでしょうか。石田氏と清水氏が立候補辞退をすれば済む話なのではないでしょうか。7万票とか1万票に意味があるようには見えません。
山本知事は、投票率の低下について「本当に深刻だ。知事としても政治家としても県政にもっと興味を持ってもらい、投票率増加のため何をすべきか真剣に考えないといけない」と述べたそうです。
では、山本知事は、何をするのでしょう。
広報活動の予算を増やすくらいしかないと思います。
知事は、県民が県政に興味を持っていないことが低投票率の原因だと思っているようですが、何故、県民は県政に興味を持っていないのでしょう。
原因の原因は、何なのでしょう。
県政が、県民にとって自分事ではないから、興味を持てないのです。
群馬県民の7割の人が、県政は自分事ではなく、「俺には関係ねぇ」と思っているのです。でも、これは、県民が間違っているのではありません。実際に、県政なんて他人事でしかないのです。私には、秋田県の数字のほうが異常に見えます。
国の権限が強いので、地方自治体にできることには限度があります。その上、地方行政に寄生している利益集団は国に寄生する集団とも利益を供用しています。馴れ合い、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で行政は動かされています。
国政も地方行政も、政治家と利益団体のために動いているのであり、国民生活のために仕事をしているのではありません。
国民の「俺には関係ねぇ」は、間違っていないのです。
国民は、政治が自分達の生活のために動いていないことを、直感で知っています。
県が、広報活動に予算を投じても、投票率には影響しません。
今は、国の責務も地方自治体の責務も、闇の中です。
ま、確かに、「俺には関係ねぇ」と逃げている国民も、責務を果たしていないのですから、大口は叩けません。
皆で、責務を果たさずに、皆で、ドツボに入りましょう。というのが日本社会です。
皆で、「なあ、なあ」「まあ、まあ」をしているのが、日本社会です。
だから、日本の国力は衰退しているのです。
もしも、こんな国が繁栄するのであれば、それこそ、奇跡です。
逆に、日本の戦後復興は奇跡ではありません。あれは、多くの国民の努力の結果です。当然の結果なのだと思います。

知事で有名なのは、東京の小池さんと大阪の吉村さんですが、どんどん、横柄になっているように見えます。
小池さんも吉村さんも人間ですから仕方ありません。
知事の周辺にいるのは、「ペコペコ」集団です。
つい、勘違いをしたとしても、仕方ありません。
「ペコペコ」集団の人を非難しているのではありません。
利益のためなら、誰でも「ペコペコ」します。
これ、当たり前のことです。
私が地方自治体の寄生虫であれば、「ペコペコ」なんて朝飯前です。「土下座」だってします。無理難題だって、全部受け入れます。都民も府民も県民も、私には関係ありません。税を出すのは国民ですが、税を使うのは国と地方自治体です。私は徴税権を持っていませんので、私が知事に「ペコペコ」することに、何の不思議もありません。国民に「ペコペコ」したって、1円にもならないからです。
日本の統治システムで最も重視されているのが「和」です。
利益を皆で分かち合うことが重要なのです。もちろん、国民・県民もプレイヤーですから、それなりの利益は配分されます。
でも、これって、「和」って、そんなに素晴らしいことなのでしょうか。
国民・県民の皆さんが生活が苦しいと感じているのは、なぜなのでしょう。
政治・行政は、国民生活のために存在するのではないでしょうか。
政治が、分け前を決めることは、正しいことなのでしょうか。
「和」を錦の御旗に掲げて、政治と「ペコペコ」集団が利益配分をしている現状を民主主義と言っていいのでしょうか。私には専制主義に見えてなりません。
この国が衰退している最大の原因は、国民の皆さんの意識だと思います。
国民の皆さんの意識が変わらなければ、この国は、潰れる運命にあります。
国民の皆さんの自業自得です。
確かに、政治家にも「ペコペコ」集団にも問題はあります。
しかし、国民の意識が変われば、政治家も「ペコペコ」集団も変わります。
国民の皆さんが、政治家や「ペコペコ」集団に「好き勝手」をさせているのです。
だって、政治家も「ペコペコ」集団も人間です。「欲」が優先するのは仕方ありません。
国民の皆さんの意識を変えれば済むことなんですが、その方法がありません。
私も、その方法を見つけていません。
ですから、このまま、ずるずると、朽ちていくことになります。
困ったことです。


2023-08-03



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改革という名の騙し [評論]



昨日は、立憲民主党の窮状について書きましたが、今日は、野党第一党に名乗りを挙げた日本維新の会の「騙し」について書きます。国民の皆さんは、既に、「改革」という言葉に、かなりの数の方が騙されていますが、日本維新の会が野党第一党になっても、政権党になっても、ずるずると壊れ続けている今の状況は何も変わりません。
世論調査では、日本維新の会は、国民の皆さんの誤解で、支持率で立憲を上回る政党になってしまいました。そうです、皆さんは騙されています。駄目な党(維新)と駄目な党(立憲)を比べた時、立憲のほうが、より駄目な党に見えているだけです。
国民の政治全般に対する閉塞感は大きくなっているように見えます。それは、多くの皆さんが「何党がやっても、同じだろう」と思っているからです。その直感は間違っていません。そのくらい「禄でもない政党」ばかりだということです。日本維新の会に夢を託せば、皆さんは後悔します。もちろん、このまま、自民党に政権を託すことは、地獄への道になります。自民党政治を続ければ、ジリ貧から抜け出すことは不可能だと言うことは、国民の皆さんも何となくわかっています。しかし、自民党に代わる政党がありません。
残念ながら、かつての民主党であれ、今の立憲民主党であれ、日本維新の会であれ、どの党が政権政党になったとしても、この国は変わりません。衰退するだけです。
それは、どの政党も、国家運営の基本となる目的を持っていないからです。国民生活を守るという責務を果たせる政党がないということです。
なぜ、目的が持てないのか。
それは、自分達が、目に見えない「民主主義風王政並立封建制度」という土台の上に立っていることに気付いていないからです。曖昧文化の副作用に気付いていません。
今ある政党は政治家が自分の都合で作り上げた政党ですから、国民生活とは無縁です。政治家による政治家のための政党です。国民は「あてがい扶持」のような既存政党ではなく、国民自らが、自分の生活を救うための政党を創り出さなければ、この環境は変わりません。
政権交代をしても何も変わらないことは、かつての民主党政権がコケたことで、既に、証明されています。
ただ、唐突な国防費増額、意味不明な少子化対策、ゴリ押しのマイナンバー政策、側近の木原事件、等々、オウンゴールを続ける岸田政権に対する国民の不信感は大きく育っています。これは、国民の「お灸をすえる」意識を高めているということです。
このまま、岸田さんが、秋に解散総選挙に踏み切った場合、最悪のシナリオとして、政権交代の可能性が浮上します。
この国には、国にも、国民にも、「目的」がなく、国の骨格を作るための選挙なのに、有権者である国民は、「何となく」とか「空気」で投票をしています。判断基準がありませんので、その時の空気で、どんな結果でも起きる可能性があります。
その時の受け皿になるのは、何党でもよく、今は、それが日本維新の会です。
自民党も立憲民主党も、内紛が絶えません。自民と公明の間にもすきま風が吹いています。公明と共産の力に衰えが見えます。これは、これまでの政治の構図が変化し始めているということだと思います。
自民党への「お灸」、立憲離れ、公明・共産の弱体化等々の要素が、維新の大勝に繋がる可能性があります。
そのためには、多くの幸運(全選挙区への立候補者擁立、高い投票率、嵐のような空気)が必要になりますが、可能性という意味では無視できません。
もちろん、日本維新の会に、国民の皆さんの期待に応える力はありません。
2009年の民主党と同じ結果になります。
それは、他の政党と同じで、確固たる目的を持っていないからです。

ここで、日本維新の会の共同代表である吉村大阪府知事の言葉を見てみます。
吉村さんは、維新が政権に就けば、「国会議員の定数3割減」を実行すると言っています。何かを期待させるような言葉ですが、「国会議員の定数3割減」では、この国は何も変わりません。重病の患者に風邪薬を投与するようなものです。
大阪でやったように、議員定数の削減や公務員改革や報酬の削減をしたところで、防衛費や少子化対策費が捻出できるわけではありません。ましてや、国力衰退は止まりません。ですから、日本維新の会が政権を取っても、増税路線は変わりません。岸田さんが敷いた六公四民というレールは、そのままです。
ただ、自民党は、過去の失政を「うやむや」にして増税するのに対して、維新は、一定の責任を取るという姿勢を示しています。
それを、国民の皆さんが、どう評価するのか、だと思います。
では、過去の失政に責任を取れば、国家運営が成り立つのかと言うと、それは、別の問題であり、国民が、国民負担の増加で苦境に立つことは避けられません。
残念ですが、何も変わりません。
「議員定数の削減をするから、増税を認めてください」と言っているだけです。
もちろん、小手先や口先の政策は山のように出してくるかもしれません。
でも、そんなことでは、この国のトレンドは、国力衰退と国民負担の増加というトレンドは、ビクともしません。
何年続くかわかりませんが、最終的には空中分解するしかありません。
その時、国力衰退と国民負担の増加は、大きく一歩進んでいると思います。
もちろん、自民党が政権政党に戻って来ても、何も変わりません。
問題は、「なし崩し」でも「けじめ」でもないのです。
問題は、国力衰退であり、原因の原因の原因を見つけていないことにあります。
そのことに、誰も気付いていません。
既存の、どの政党が政権を取っても、この国は潰れる運命にあるのです。
そんなことは、国民の皆さんも、薄々とですが、知っていると思います。
六公四民や、その先にある七公三民は、知りたくはないでしょうが、心のどこかで知っています。政治が、この国を劇的に変えてくれるなんて妄想は持っていないと思います。「なるようにしか、ならねえ」と思っているでしょうし、「俺には関係ねぇ」と逃げるしかないと覚悟していると思います。
でも、そうではありません。
国民の皆さん次第で、この国は、どのようにでも変えられるのです。
ただ、皆さんには経験がありませんので、その方法がわかりません。
「れば、たら、もし」ですが。
原因(国力衰退)を見つければ。
その原因の原因(責務と目的の欠如)を見つければ。
更に、その原因の原因の原因(曖昧文化)を見つければ。
この国は、変わります。
方法はあるのです。
そのためには、国民の皆さんが、自ら、言葉の定義に挑戦し、責務を明確にし、目的を持てば、この国は変わります。
「ほんとに、そんなことで、変わるのか」「そんな抽象的な方法で、事態が変わるとは思えない」「具体的な方法を提示しろ」「他に、何か、いい方法があるだろう」と言う方が多いかもしれません。
では、第二次世界大戦の頃まで、少し、時間を戻してみましょう。
日本軍は各地で戦争に負け続け、多くの街を廃墟にされ、原子爆弾でとどめを刺され、無条件降伏を受け入れるまで追い詰められた日本が、敗戦後、世界から「奇跡の戦後復興」と呼ばれる経済復興に成功したのは、なぜでしょう。
「奇跡の戦後復興」を実現した世代は、私達の世代よりも上の世代が主力だったと思いますが、私達世代も、その奇跡の中に、熱気の中に、いたことは確かです。私の個人的な感想に過ぎませんが、あの時代には、実際に、熱気があったと思っています。
国としてオーソライズされたものではなく、論理的帰結があったわけではなく、多くの国民に共通した心情として「追いつき、追い越せ、復興するぞ」という願望に突き動かされていた時代があったことは確かです。心情であっても、これも、目的の1つです。
多くの方が、共通の目的を持てば、何かが動くという実例だと思います。
定義された目的ではありませんでしたので、自然消滅し、無目的の時代が続き、そのトレンドが国力衰退へと向かいました。
何か、大きな力が働く時とは、多くの方が同じ願いを、目的を、持った時に生まれるのだと思います。
今は、その目的も、心情(願い)も、ありません。
あるのは、「俺には関係ねぇ」と「自分さえよければ」です。
私は、目的を持つために、責務を明確にしてみませんか、と提案しています。
そうです、自然消滅するような目的ではなく、論理的に、目的を構築してみませんか、と提案しています。未来永劫続く目的を創ってみませんか、と提案しています。
目的を持つことなんて、何の役にも立たないのでしょうか。
そうではないと思います。

皆さんが責務と目的を知れば、新しい政治集団が勝手に生まれます。
政治家の皆さんの責務は「国民生活を守る」ことになり、「自分さえよければ」を封印するしかありません。今のように国民を無視していれば、当選できないからです。
そうなれば、「子供達の未来を守る」目的を前に進める足掛かりができます。もちろん、国民の皆さんは、この国を豊かにする責務を負います。「俺には関係ねぇ」なんて言っていたのでは「子供達の未来を守る」ことはできません。
政治家も、官僚も、学者も、ジャーナリストも、国民も、その立場立場の責務を果たせば、この国の衰退は止まると思います。国が衰退して一番困るのは子供達です。子供達の未来を守れば、私達の未来も守ることになると思います。
多分、こんなことが出来るのは、日本民族しかいないのではないかと思います。
それは、日本の皆さんは、自然に「いい人」を演じることができるからです。日本人の「いい人」を演じる力は、負の循環になる時もありますが、正の循環にも寄与すると思います。
もちろん、日本人が一人残らず責務を果たしてくれるとは思いません。でも、責務を果たしてくれる人が多ければ多いほど、この国は豊かになると思います。

「責務と目的なんて精神論で何かが変わるとは思えない」
そうかもしれません。
では、どうするのですか。皆さんの生活は、どんどん悪い方向へ向かっています。
誰か、そのトレンドを変えていますか。
何か方法はあるのですか。
このまま、見て見ぬふりをしていていいのですか。
「俺ではない、誰かが、何とかしてくれ。俺は、甘い汁さえ吸えれば文句言わないし・・・」が、国民の皆さんの本音なのではないかと思います。でも、こんなこと、実現するのでしょうか。無理だと思います。
「自分さえよければ」「俺には関係ねぇ」という社会が豊かになると思いますか。「自分さえよければの何が悪い」と開き直っても許される社会が、豊かになるでしょうか。
大きな潮流の中では「俺には関係ねぇ」なんて声さえ聞こえなくなります。そもそも、大きな潮流の中では、個人の力なんて、何の役にも立ちません。
今、この国には、国力衰退という大きな潮流が生まれています。それを、個人の力で制御することは不可能です。
数を頼んで制御するしか方法はないと思います。
多くの個人の力を結集するために必要になるのが、目的です。
私達は、自分の生活を守るために、遠回りかもしれませんが、集団となって、大きな潮流を制御するしかないのです。
それが出来るのは、個人の力ではなく、国民の皆さん全体の意識しかないと思います。
そのための責務と目的は不可欠な要素だと思います。
多分、今は正念場です。正念場の国家運営を担う政党や政治家が、今のままでいいとは思えません。
既存の政党では、この潮流を制御することは出来ません。
先ず、助平根性なしに「国民生活を守る」ことに特化した政党を作らねばなりません。
それを実現するのは、皆さんが「言葉の定義」をすればいいだけです。命を差し出せとか全財産を差し出せ、と言っているのではありません。定義をするだけです。


2023-08-02



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あるべき姿 [評論]



6月の解散総選挙が不発に終わり、各政党は仕切り直しをして秋の解散総選挙へ向け、準備に必死です。ただ、これ以上の政権支持率の下落があると、岸田さんが、解散権を行使(乱用)できるのかどうか、まだわかりません。国民の皆さんは、自民党以外の政権が望ましいとは思っていません。もちろん、自民党政治に納得しているわけではありませんが、他に選択肢がないのですから、自民党に投票するという選択肢しかないと思っています。それは、国民が自ら何かを創造したという体験がありませんので、あてがわれた選択肢の中で「少しでもマシな政党」を選ぶという消極的な選択をしてきたからです。
ただ、「お灸をすえる」という意識は常にあります。ゴリ押しのマイナンバー制度は、「お灸をすえる」案件としては手頃であり、選挙には影響すると思います。
もしも、支持率が上昇するような幸運もなく、解散してしまった場合には、自民党大敗の可能性がないとは言い切れません。過去、国民が自民党に「お灸をすえた」のが、2009年です。いや、「お灸をすえる」つもりだったのに、政権交代になってしまいました。国民は、民主党政権を希っていたわけではありません。「俺一人くらい、民主党に票を入れても、変わらないだろう」と考えた人が、意外に多かったのだと思います。
仮に、そんな環境が生まれたとしても、立憲民主党は、ヤバイです。自民党の受け皿になるのは立憲民主党ではなく、今や、日本維新の会になってしまいました。
苦しい立場に変わりがない立憲民主党と立憲民主党所属議員が、足掻いています。まだ2人しか離党していませんが、「離党」という2文字が頭の中で行き来している議員は、かなり、いると思います。ただ、維新が引き取ってくれるか、国民民主が引き取ってくれるか、そこがはっきりしませんので、決断が出来ません。このまま立憲民主党に籍を置けば、落選は避けられませんので、とても、悩ましいと思います。だったら、共産党公認で立候補すればいいのにと思いますが、さすがに、そんな立憲議員はいません。共産党固定票が欲しいだけの助平根性丸出しですが、そのことに気付いているのでしょうか。
他党との選挙協力はしないと言っていた泉代表が、選挙調整はすると言い出して、共産党にまで注文を付けられる有様です。立憲の相手をしてくれるのは共産党しかないのに、共産党との主導権争いに負けたら、最弱野党になってしまいます。国民は、そんな政党に一票を投じてくれるのでしょうか。
ここで、立憲民主党に一票を入れている国民は、どんな人達なのか考えてみましょう。
何人いるかは別にして、立憲民主党の主張に本気で賛同している人達がいます。私には理解できませんが、これは、個人の自由ですから、どうぞ。
昔の社会党だって、そういう人達はいました。しかし、今では、激減しています。過去に、多くの国民が社会党に一票を投じていた時代があったのです。140人もの社会党議員がいた時期もありました。
当時の社会党もそうであったように、立憲民主党に一票を投じている人達の大半は、アンチ自民党の人達で、別に、社会党でも、立憲民主党でも、その他の政党でも、自民党以外の政党であればいい方々です。
昔、「巨人、大鵬、玉子焼き」という言葉がありました。日本人が好きなものの例えを言った言葉です。でも、そこには必ず、アンチ巨人も、アンチ大鵬も、アンチ玉子焼きの人達もいました。ですから、アンチ自民党には、何の不思議もありません。
もちろん、自民党政権に全幅の信頼を置いている国民は少ないと思います。ただ、自民党以外の政党が、明らかに、自民党よりも劣っているのですから、国民の選択肢にはなりえません。国民の皆さんが「自分の生活を守ってくれる」政党を自ら作らなければ、この行き止まり感は解消できないと思います。
政治家も政党も、「国民生活を・・・ 国の将来を・・・ 」なんてことを考えていません。
ただただ、議席が欲しい、それだけです。もっとも、その意識は各党共通ですから、立憲民主党だけに四の五の言ってみたって意味ありません。
本来、国民生活や国の将来をより良きものにするために仕事をすることが政治の仕事であり、それが政治家の責務です。
政治家はその責務を果たしているのでしょうか。
いや、国を、国民生活を、悪しき方向へと引っ張っています。
しかし、それ以上に厄介なことがあります。
それは、誰もその事に言及しないことです。
誰も、愚かな政治家の「自分さえよければ」を止めようとしません。
批判はしますが、処方箋を示して、本気で止めようとしている人がいません。
1億2000万人もの人がいるのに、誰一人、処方箋を示す人がいないのです。
それは、何もかもが「ぼんやり」としているからです。
日本国民は、全員が政治家ではありません。官僚もいれば、学者もいれば、ジャーナリストもいれば、国民もいます。
どうして、誰も、政治家の責務について発言しないのでしょう。
選挙のことしか考えない政治家に、「君たちの責務は選挙で勝つことではないだろう」と疑問を投げつける人がいないのです。たとえ、疑問をぶつける人がいたとしても、具体的な行動を書いた処方箋を提示する人がいません。
ですから、政治家は、本来の仕事をすることなく、選挙対策に力を注ぎます。
これ、誰に責任があるのでしょう。
政治家だけの問題ではないことは明らかです。
学者、メディア、国民が、それぞれの責務を果たしていないから、政治家は「自分さえよければ」をやっても許されると勘違いしているのです。「俺様は、何をやっても許される、お偉い先生様なのだぞ」と思い込んでいます。
多くの方の目に、「自分さえよければ」をやっている自民党や、不甲斐ない立憲民主党の姿は見えているのに、世論は動きません。
いや、世論は、ふらふらとしか、動きません。
そこには、芯がありません。
それは、何もかもが「ぼんやり」としているからです。
誰も、何も言わないから、政治家は、どの政党の政治家も、選挙に勝つことだけが、自分の使命だと信じてしまっているのです。
これは、私達に責任があると思います。
昔は、お殿様に諫言をした武士は切腹したものです。でも、政治家はお殿様ではなく、外注先ですから、政治家に向かって「責務を果たせ」と言っても切腹する必要はありません。
私は、「批判しろ」と言っているわけではありません。批判や非難なら、山のように出回っています。私は、処方箋を提示してください、と言っているのです。
よく「政治が悪い」という言い方をする方がいます。特に、メディアの皆さんは、その傾向が強いと感じます。
でも、それは、違います。
「政治が悪い」のではなく、「政治も悪い」のです。
この「が」と「も」の違いは大きいと思います。
なぜ、こんな簡単なことに気付けないのでしょう。
何度も言いますが、誰も、政治家も官僚も学者もメディアも国民も、「あるべき姿」を知らないのです。
ただの無知です。この国は、1億2000万人総無知状態なんです。
政治家の責務を、官僚の責務を、学者の責務を、メディアの責務を、国民の責務を、誰一人知らないのです。
自民党や立憲民主党の不様な姿を見ているのに、国民の皆さんは「俺には関係ねぇ」と思っています。
驚きしかありません。
だって、国民の皆さんの生活がかかっているのです。他人事ではありません。
「俺には関係ねぇ」と嘯きながら、ドツボにはまろうとしている国民の皆さんこそ、不様な姿を晒しているのです。どうして、自分の生活を守らないのですか。
実害を受けるのは、国民の皆さんなんです。
皆さんは、立憲民主党の姿を笑えるのですか。
あれは、皆さんの姿なのではありませんか。
立憲民主党の今の姿は、「あるべき姿」を知らず、自分の「責務」を知らず、「自分さえよければ」「選挙に勝てれば」という欲に溺れている姿です。遠からず第2の社会党になろうとしている姿です。
でも、これは、国民の皆さんの姿でもあるのです。
どうか、そのことに気付いて欲しいと思います。
これは、他人事ではなく、まさに、自分事なんです。
国民の皆さんの生活の問題なのです。
明日、何が起きても、不思議ではありません。
仮に、明日ではなく、1年後でも、数年後でも、結果は同じです。
国民の皆さんの生活が、破綻します。
「まさか・・・」「よりによって・・・」なんて言っても、後の祭りです。
体力を失っている人は、風邪を引いただけで死ぬこともあるのです。

なぜ、人間は集団生活を始めたのか。
なぜ、人間は、国という仕組みを生み出したのか。
そうです。生き延びるためです。
いや、そうしなければ、生き延びることが出来なかったからです。
それは、今でも同じです。
この先も、もしも、生き延びたいのであれば、私達は「あるべき姿」を知る必要があります。「あるべき姿」を知り、集団を形成する私達が、それぞれの立場で、責務を果たさなければ、生き延びることは難しいと思います。
もう、これ以上「なあ、なあ」「まあ、まあ」では前に進むことは難しいと思います。
後で振り返れば一目瞭然なのでしょうが、今が、私達の正念場です。
どうか、どうか、そのことに気付いてください。


2023-08-01



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立法府の不作為 [評論]



このブログでは、不定期ですが、何度も、NHK問題を取り上げています。
NHKは、数々の問題を抱えていますが、国民の財布に影響するという点で、受信料の問題が最大の問題だと思います。
私は、NHK受信料を支払っていません。NHKから見れば、又、受信料を支払っている人達から見れば、私は、非国民であり、訴えられても仕方ない極悪人なのかもしれません。いや、ただの、「面倒くさい奴」なのかもしれません。
では、受信料を支払っている人は、NHK放送が視聴出来て、NHKのおかげで豊かな生活が出来て、満足だと思っているのでしょうか。
NHKの放送は、皆さんの生活を支えていますか。
そんな人は1人もいない、とは言いません。でも、とても、少ないと思います。

では、NHK受信料を支払っている皆さんにとって、NHK受信料なんて、はした金に過ぎないのでしょうか。
そういう人もいるでしょうが、多くの日本人は、そうではないと思います。
それなのに、何故、NHK受信料を支払っているのですか。
「そりゃあ、法律で決められているからだ」と言うでしょう。
ほんと、皆さんは「いい人」です。
では、お聞きします。
放送法では、「NHKに受信料を支払いなさい」と書かれているのですか。
いいえ、「契約を結びなさい」と書かれています。
しかし、実際に、NHK受信料を支払っている皆さんは、NHKが用意した「日本放送協会放送受信規約」という書類にサインすることで、契約したことになっているのです。
では、あの書類には、何が書かれているのでしょう。精読された方がいるのでしょうか。誰も、読んでいないと思います。文字も小さいです。私も精読したことがありません。でも、拾い読みをしただけですが、NHKの都合だけが書かれている書類のように見えます。
では、NHKの都合だけが書かれているあの書面が契約書なのでしょうか。
違うと思います。
契約書とは、お互いの言い分を話し合い、合意し、書面でそれを証明するために作られたものです。相手の言い分だけが書かれた書面は、契約書ではありません。例えば、アパートを借りる時に「賃貸契約書」という書類にサインしますが、もしも、店頭では5万円と言っていたのに、契約書は7万円になっていたら、サインしませんよね。逆に、4万円に書き換えてくださいと依頼したら、大家さんはサインしません。これが、契約です。
契約相手であるNHKの要求だけが書かれている書類に、「法律で決まっているのだから」という理由でサインを強要するのは、詐欺だと思います。法律には「契約をしなさい」と書かれているだけで、「NHKの書類に、無条件でサインしなさい」とは書かれていません。
庶民にとって、契約という概念は一般的ではありません。私達は、個人として、日常で、契約書の文面を考えることはありません。私達の日常生活の中に、契約という概念はほぼありません。民法には「契約の自由」という概念が謳われていますが、ほとんどの人が民法のお世話になることは、ゼロではないとしても、限りなくゼロに近い環境で生活しています。
そんな社会で、「日本放送協会放送受信規約」という「ボンヤリとした」契約書紛いの書類にサインを強要され、皆さんはNHK受信料を支払っているのです。
ただ、社会が「なあ、なあ」「まあ、まあ」で成り立っていますので、皆さんには、違和感はないのかもしれません。「契約」という言葉も、「公共」という言葉も、「法律」という言葉でさえ、定義する必要があると思います。
多くの方が、もやもや感を持っていると思います。私達の無知に付け込んだ悪徳商法だと言っても過言ではないと思いますが、違うのでしょうか。
私には、「おれおれ」も「還付金」も「NHK規約」も詐欺にしか見えません。

皆さんは、必死に稼いだカネで、物やサービスを買います。
それは、カネに代わる価値があるからです。
では、大切なカネを使って、NHKを受信できるサービスを買って、皆さんは、どんな価値を得ているのでしょう。NHKでしか放送しない相撲中継を視聴出来て満足しているという方もいるでしょうし、大河ドラマが好きで、満足している人もいるでしょう。ところが、NHK受信料を支払っていながら、何の利益も受けていない人達が大勢います。ですから、多くの方が、NHK受信料に疑問を持っています。これが現実です。特に、苦しい家計が悩みの種になっている人達にとっては、NHK受信料は重圧です。NHKに受信料を支払わなくてもいいのなら、もう少し子供の食費を増やせるのにと感じている人もいるでしょう。
貧困家庭の収入の何倍もの収入を得ているNHK職員の高額な給料を貧乏人が支える必要は、どこにあるのでしょう。
これは、もう、不条理の世界だと思います。
その原因は、放送法の「契約をしなければならない」という一文です。
施行当時は、それなりに意味のあった法律かもしれませんが、今では悪法だと思います。
本来であれば、国民生活を守るためには、不条理を解消するのが、国の仕事です。
これほど貧困者を作っているのに、その不条理を糺そうとしない立法府に責任はないのでしょうか。これは、立法府の不作為で、時間の経過が、放送法を悪法に変えてしまった結果だと思います。
放送法が制定されたのは1950年です。大昔のことです。
当時は、敗戦の痛手から立ち直るために、国も国民も、必死になっていた時代です。
経済の再生は、最重要の課題でした。
世界でも、ラジオの時代からテレビの時代へと移行する時期でした。
ですから、テレビの普及のために、放送法に、あの一文を書いたことは、間違いではなかったと思います。経済復興のためには、テレビも冷蔵庫も車もクーラーも必要でした。
では、21世紀の今、テレビの普及は、日本経済の起爆剤になるのでしょうか。
そういう時代ではありません。
時代に合わせた国家運営が必要とされている時に、過去の法律を放置するのは、立法府の不作為でしかありません。特に、これほど貧困層の家庭が増えている今、放送法は、既に、悪法と言っても過言ではないと思います。
私も、生活保護費より低い年金で生活している高齢者です。NHK受信料を支払う余力はありません。しかし、今年から、NHK受信料を支払っていない者は、割増金まで支払う義務を負わされてしまいました。悪法に成り下がった放送法の上に、更なる悪法を作ってしまったのです。これは、国民生活を無視した「悪政」そのものです。
でも、日本社会は、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で動いています。
ほんとに、日本国民の皆さんは、「いい人」ばかりです。
私は、「いい人」を演じることが苦手なので、NHK受信料は支払いません。
訴えられたら、戦うしかありません。
この年齢で裁判に耐えられるのかどうかはわかりませんが、戦うという選択肢しかないようです。

では、NHKという存在そのものを消し去ればいいのでしょうか。NHKをぶっ壊せば、いいのでしょうか。NHKを否定すれば、それで済むのでしょうか。
それは、違うと思います。
NHKには、この70年間で得たノーハウがあります。設備もあります。優秀な人材もいます。これは、日本の財産です。いや、国民の受信料で成り立ってきたのですから、これ等は国民の財産です。潰すのも、捨てるのも、惜しいと思います。
国民の拠出した受信料で、これほどの貴重な財産を築き上げたのです。国民生活を守るために使うことのほうが、本来の使い方だと思います。
出資者である国民の「生活を守る」ために、何が出来るのか。
今は、情報の時代です。情報発信が大きな力を持ちます。
発信力を持っているNHKは、その大きな力になれます。
NHKだけではありませんが、既存のメディアは、そのことに気付いていません。
ほんとに、惜しいと思います。宝の持ち腐れです。
朝日や毎日や赤旗のように、政権批判をしろ、と言っているのではありません。
相手を、いや、敵を貶めるための発信力は、希望を生みません。
しかし、もしも、万に一つ、奇跡的に、NHKが、この国の衰退の原因の原因の原因に気付き、その対処法が「言葉の定義」だと言うことを見つけたら、NHKには、やれることが山のようにあります。
今、この国を救えるのは、国民しかいません。しかし、国民の皆さんは、今でも、自分達が「下々」だと思い込んでいて、その使命に気付いていません。それを、放送を通じて、イベントを通じて、国民の皆さんに知ってもらうノーハウをNHKは持っています。全国に拠点を持ち、イベントで集客する技術も持ち、それを知らせる電波も持っています。
「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉を、その定義を、責務と目的を、国民運動にまで高める力を持っています。
NHKは、公共放送を自認しているのですから、本物の公共放送になる必要があります。国民の生活のために、この国を救うことは、公共を担うNHKの仕事です。
私達は、自分の生活を守るために、この国を救わなければなりません。
NHKは、その先頭に立つことができます。
民放とは違い、スポンサー企業に忖度する必要はありません。国民からもらったカネで、国民の利益を追求するのです。そこには、何も違和感はないと思います。
では、そんなことが、現実にできるのか、と言うと、出来ません。
NHKが、そんなNHKになったら、政府は放送法を改定します。放送法から「契約しなければならない」という文言を消せば、NHKの利権は消えます。
国民のためには放送法の改定はしませんが、政権の利益のためなら、政権は、躊躇なく放送法を改定します。
放送法が改定されたら、誰も、受信料は払いません。
でも、もしかすると、国民がNHKを支持するかもしれません。
どんな結果になるのかは、誰にもわかりません。
でも、ほんの少しですが、希望はあると思います。

今のNHKは、「カネの亡者」です。
既得権益を守るために全力投球をしています。そこには、品位の欠片も見えません。
「亡者」という言葉を辞書で引くと、「金銭など、物質的な物事にとりつかれている者」と書かれています。今のNHKは、まさに、カネに憑りつかれている亡者です。本来であれば、NHKは公共の利益に資する活動を行う組織だと思いますが、やっていることは、「カネ、カネ、カネ」です。
テレビを保持している人だけではなく、スマホを持っている人からも、ネットを利用する人からも、カーナビからも、受信料を取ろうとしています。
カネのために、国民を裁判で訴え、総務省に働きかけて割増金制度を実現させています。
自分達が、誰のために、何のために、放送事業を運営しているのかを忘れています。
いつの間にか、日本の大通りに認知されてしまった「自分さえよければ」という道を、大威張りで闊歩しています。
どうして、皆さんは、見て見ぬふりをするのですか。「俺には関係ねぇ」のでしょうか。
皆さんは、自分で自分の首を絞めていることに気付いていますか。
たかが、NHK問題ですが、これも、一事が万事の一事です。
そして、NHK職員は、私の年収の10倍以上の年収を得ています。
皆さんは、NHK職員並みの収入を得ているのですか。
そうじゃありませんよね。
そんな人は、一握りしかいないと思います。
どうして、皆さんが「ふむ、ふむ」「なあ、なあ」「まあ、まあ」と言っているのか、私には理解できません。
皆さんは、私のような人間を「非国民」だと言うかもしれません。
確かに、「いい人」でも、「非国民」でも、例外なく地獄へ堕ちるのですから、「いい人」を演じていたほうが楽だと考えていても不思議ではありません。
でも、筋の通らないNHK受信料という不条理を、見て見ぬふりをするのは、政府がやっている不条理も認めるということであり、不条理を放置することは、皆さんの生活を破壊することに繋がっています。皆さんは、自業自得をやっているのです。どうか、そのことに気付いてください。


2023-07-05



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高齢者にも責務はある [評論]



精神科医の和田秀樹さんの「日本の高齢者3600万人がいまリアルに後悔している意外な事」という文章から、袋小路で動きが取れない私達の姿を見てみましょう。

老人の6つの後悔。
1.もっと好きなことをしておけばよかった。
2.いろいろ経験しておけばよかった。
3.自分を殺して他人に尽くしすぎなければよかった。
4.周りにもっと自分の気持ちを伝えておけばよかった。
5.お金の心配をしすぎなければよかった。
6.医者の言うことを聞きすぎなければよかった。

もちろん、3600万人の高齢者が一人残らず後悔しているというわけではありません。ただ、1割の高齢者が、感じている後悔だとしても、数百万人の老人が臍を噛んでいることになり、決して、見過ごしていいことだとは思えません。
この6つの後悔に共通するものが、「なあ、なあ」「まあ、まあ」であり、「ふむ、ふむ」であり、「いい人」を演じてきた自分に対する後悔なのではないかと思います。
そういう生き方をしてきたのは、高齢者の皆さんの個人的な嗜好で選択したものではなく、社会通念とか常識とか世間の空気という無形の圧力により、止むを得ず、良かれと思って、流されてきた結果だと思います。これは、巨大な文化の力ですが、そのことに気付いている方が、まだ、いません。
高齢者の皆さん、皆さんは、嘆いて、後悔して、それでお終いなんですか。
このまま「なあ、なあ」「まあ、まあ」を続ければ、後輩も子供達も孫達も、同じ後悔をすることになりますが、「俺には関係ねぇ」でいいのでしょうか。
皆さんには、後輩や子供達や孫達に対して果たすべき責務はないのでしょうか。
いいえ、高齢者には高齢者の責務があると思います。
昔は、この責務を「大人の責任」と呼んでいたと思います。もちろん、これは、高齢者だけの責務ではありません。後輩や子供達や孫達だけではなく、自分ではない誰かのために、考え、行動することを「大人の責任」と呼んでいたと思います。「自分さえよければ」の対極にある考え方かもしれません。
もう、「大人の責任」なんてものは存在しないのでしょうか。
せっかく、後悔したのです。
高齢者の皆さんには、次の世代のために、やれることはあると思います。
誰かのために、何かが出来たら、それは、きっと、自分のためにもなるのではないでしょうか。後悔したままではなく、死ぬことが出来れば、それも価値のあることだと思います。

この国では、皆で責任を分かつことが暗黙の了解です。
それは、誰も責任を取らなくていい、ということでもあります。
危険な交差点は、皆で、一緒に渡ろうよ、というものです。
しかも、強い同調圧力があります。
出る釘は、皆で叩きます。村八分は、今でも、生きています。
敢えて、大きな不幸や大きな幸福という視野を閉ざし、「とりあえず」とか「そこそこ」とか「分相応」でいいと思っています。世間では、これを処世術と呼び、ほとんどの方が慣れ親しんできました。
確かに、これまでは、そのやり方で「何とか」なってきました。
ただ、この「何とか」というのが厄介です。現実として、「何ともならない人」が増えてきたことで、その神話にも陰りが見えてきています。
大きな不幸や大きな幸福を視野に入れる必要がある時もあるということです。

高齢者になるということは、年金以外の収入がなくなるということです。
自分が何歳まで生きるのかわかりませんので、これは、大変、不安なことです。貯金が毎月減っていく恐怖は、結構、恐ろしいことです。体験したことがある人にしかわからないのかもしれませんが、背中が寒くなると言われる恐怖です。その寒さは、実際に、物理的に感じるのです。
現役世代の人達の中にも、収入の少ない非正規労働者やシングルマザーは不安を抱えています。老後資金のない高齢者も、不安で一杯だとすると、半数の国民が大きな不安を抱えているということになります。しかも、そういう方が、年々、増加していて、今後も、増え続けます。
しかし、誰も手を打ちません。
だらだらと、ずるずると、このまま、地獄へと滑り落ちて行く感覚は恐ろしいと思います。夢も希望もない世界は、かなり、生き辛いと思います。

では、一体、何が問題なのでしょう。
先程、「危険な交差点は、皆で、一緒に渡ろうよ」と書きましたが、危険な交差点がなければ、問題ありません。
しかし、朧気ながら、その危険が少しずつ見え始めています。国力衰退もその1つです。
だから、「ヤバイ」とも思いますし、後悔もするのです。
でも、ボンヤリとした危険であり、曖昧な心配ですから、手の付けようがありません。
「何となく、ヤバそうだよな」が実感だと思います。
つまり、何が問題なのかがわかっていないのです。
どうか、気付いてください。
問題は、危険なのは、国力衰退であり、国家崩壊です。
こんなことを書くとヨタ話だと思うかもしれませんが、そうではありません。
これは、今、皆さんの目の前にある実現確率の高い未来であり、明日、皆さんが直面する現実です。その実現確率は90%以上だと思います。
国家崩壊という危険な交差点に、全員で突っ込んで行って何とかなるものでしょうか。
いいえ、ズタズタに引き裂かれるだけだと思います。
常識とか空気とか忖度とか「なあ、なあ」「まあ、まあ」は、経験則です。しかし、直感は違います。本能です。その直感が、危険を感じるから、皆さんは不安なのです。
皆さんは、正しく、不安しているのです。
では、どうすれば、いいのでしょう。
危険を除去すればいいのです。
なんて書くと、いとも簡単なことのように思えますが、これが簡単ではありません。いや、とてつもなく、難しいことです。どのくらい難しいかと言うと、天地がひっくり返るほどの難しさです。ただ、その方法がないわけではありません。
先ず、国民が目の前の危険を具体的に知ることです。
漠然としたものではなく、国民の皆さんに、自分の生活と結びつけて考えられる危険の実態を知ってもらう必要があります。例えば、第二次世界大戦時に経験した食料配給制度の復活とその中身を具体的に示すことで、国民の理解は得られると思います。
課題だらけですが、ここにも、大きな課題があります。
誰が、国民にその危険の実態を示すのか。
今は、その役を果たす人が見当たりません。
官僚や専門家が知っていても、意味はありません。なぜなら、ずっと、知っていたのに、彼等には何も出来なかったからです。
次に、その危険な交差点は、なぜ、危険なのか。
どこに原因があるのかを、見つけなくてはなりません。
国力衰退とその先に待ち構えている崩壊の原因は、山のようにあります。ですから、単一の原因を見つけても、この危険は除去できません。
原因の原因を見つけ、更に、その原因の原因の原因を見つける必要があります。
この原因の原因の原因に対処し、個々の原因を根気よく1つずつ無くしていかねばなりません。その時に、最も必要とされるのが、国民の皆さんの意識です。国民が変わらなければ、国民が「俺には関係ねぇ」と言っていたら、失敗することになります。危険を除去するためには、国を豊かにしなければなりませんが、国を豊かに出来るのは国民しかいないからです。危険を除去するのは、国を豊かにするのは、総理大臣や事務次官や教授ではありません。国民なんです。国民の皆さんの意識次第ですが、危険を除去するまでには、5年か10年か20年かはわかりませんが、長い時間が必要です。
時間切れで国家崩壊がやってくるかもしれません。
その時は、大声で叫んでください。叫んでも、どうにもなりませんが、多少の気晴らしにはなるかもしれません。

先程、後悔している人を1割と仮定しましたが、それほど多くはないかもしれません。
ある世論調査の結果を見て、そう感じました。
「解散するぞ、解散するぞ」と大騒ぎをして、「負けそうだから、止めとくわ」と言った岸田政権のお粗末な顛末は、取り上げませんが、選挙風は吹きました。世論調査も行われました。その中の1つに、比例代表の投票先、というデータがあります。私が驚いたのは、電話調査とネット調査の差の大きさです。

     電話調査   ネット調査(%)  差(倍)
自民   28.5   12.8    2.2
公明    6.4    3.6    1.8
立憲   14.3    4.3    3.3
維新   16.2   11.5    1.4
共産    8.1    1.1    7.4
未定   16.9   58.7   -3.5 

この数字を見ると、同じ質問をしたとは思えないほどの差があります。
いろいろな要因があると推測されますが、中でも年齢差が大きいと思います。
電話調査の対象者は、ランダムに抽出しますので、高齢者の数が多くなり、ネット調査では、ネットとの親和性が低い高齢者の数は少ないと思います。
また、未来に変化が期待できない高齢者は、変革を好みません。先の長い若者は、少しでも良い未来を求めます。
この差は、高齢者のほうが、「なあ、なあ」「まあ、まあ」と親和性が高いということです。「なあ、なあ」「まあ、まあ」に毒され、後悔している筈の高齢者のほうが、「なあ、なあ」「まあ、まあ」に拠り所を見出しているようです。
もしも、後悔している高齢者が多いのであれば、こんな結果は出ないと思います。
いや、仮に、後悔していても、惰性のほうが優先するのかもしれません。老人は、波風を立てたくありませんから、したり顔で「ふむ、ふむ」と頷くことが好きです。多分、自分を誤魔化すために、後悔しているふりをしているだけなのでしょう。私には、ただの、マスターベーションにしか見えません。「老人が立ち上がった」などという報道はありません。
ただ、行動するには体力が必要です。デモ行進で何時間も歩けませんし、手製銃を作って総理大臣を襲撃することも出来ません。でも、言葉の定義であれば、高齢者でも可能です。それを広めるためにネットに挑戦することも不可能ではありません。しかし、高齢者の行動が報道されることはありません。ほんとに、もったいないことだと思います。人口の1/3もいる高齢者が、現役世代が納めた保険料を当てにし、毎日、飯を食って、糞をしているだけです。後輩や子供達や孫達のために働いても罰は当たらないと思いますが。
余談ですが、共産党の7.4倍には時代を感じます。戦後に流行した社会主義思想や安保騒動での学生運動は、遠い昔話になったようです。社会党が消えたように、共産党も消える運命にあるのでしょう。ただ、正しいかどうかは別にして、社会主義運動や学生運動には、熱気がありました。でも、今は、社会全体に熱気を感じません。皆で、「俺には関係ねぇ」と合唱しているように見えてなりません。
何度も書きますが、人口の1/3は高齢者です。
人口の1/3ということは、数千万人の高齢者が、ただ、ただ、死を待つ日々を送っているということです。もったいない、と思います。「へら、へら」や「ふむ、ふむ」が「大人の対応」だと誤解しているようですが、それは違います。棺桶に入るまで、後輩や次世代の子供達や孫達のために、誰かのために、最善を尽くすことが「大人の対応」だと思います。
しかし、そんな風潮は、全く、感じることができません。とても、悲しいことだと思います。


2023-07-04



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死を呼ぶ七公三民 [評論]



国民の皆さんは、岸田政権の「新しい資本主義」という名の政策が、当初から、「中身が見えない政策」という評価が高かったことはご存知だと思います。
日を追うごとに、「新しい資本主義」を覆っていた霧が濃くなり、岸田政権は、スローガンが霧に霞んでいることを奇貨として、ますます、「中身が見えない政策」に変化させています。それでも、これほどいい加減な政策を吹聴しているのに、まだ、「口先総理」というネーミングはされていません。不思議です。
岸田さんは、過去の懸案を解決するのが政権の使命だと言っていますが、懸案となっていた課題(防衛と少子化等)は解決策がないために先延ばししていただけなのに、新たな解決策もないまま、将来の国民負担を増やす約束ばかりしています。
それでも、国民の皆さんは「ふむ、ふむ」と頷いています。
ほんとに、皆さんは優しい国民です。
この国は、「なあ、なあ」「まあ、まあ」を続けるしか能がなく、何も変わらない。
このことが、何を意味するのかを指摘する方がいません。
これまでの日本が、何も変わらないまま、進んで行けば、衰退の先にある崩壊へと進むしかないのです。国民の皆さんが、その事を理解しているようには見えません。
それでも、皆さんは「ふむ、ふむ」と頷いています。
皆さんは、どこまで「いい人」を演じるのですか。
この国が崩壊すれば、いや、間違いなく崩壊しますが、皆さんの生活は根底から崩れます。
これ、誰のせいですか。
岸田総理ですか、自民党ですか、政治家ですか、官僚ですか。
そうではありません。
この国の責任者は、皆さんです。
皆さんは、自分を守るために、彼等の「自分さえよければ」を糺す責務があるのです。皆さんは、その責務を果たしていません。皆さんは地獄の苦しみを味わうことになりますが、それは、皆さんの自業自得なのです。
自分の生活を、自分の家族の生活を、守るのは皆さん自身です。岸田さんではありません。
確かに、「なあ、なあ」「まあ、まあ」の世界では、そのことに気付けません。でも、気付かなくても、責務はあるのです。
現実を知るために、今日は、造語に挑戦してみたいと思います。
国民負担率を、パーセントではなく、日本語で表現してみましょう。
どんな国でも、どんな社会でも、その国を、社会を、維持していくためには費用が必要です。それを負担するのは、その国に住む人達です。それは、国や社会が壊れれば、多くの方が困るからです。だからと言って、国民負担率を重くして、国が壊れれば、本末転倒です。

国民負担率3割 三公七民 良政 最良の政治
国民負担率4割 四公六民 善政 善き政治
国民負担率5割 五公五民 悪政 悪しき政治
国民負担率6割 六公四民 苛政 苛烈な政治
国民負担率7割 七公三民 滅政 絶滅の政治

善政、悪政、苛政という言葉は存在していました。良政、滅政は私の造語です。
国家運営者に許されているのは、四公六民の善政までです。
例外はあります。北欧の国のように、国民生活を守るために国民負担率を高くしている国が存在しています。100年、200年という時間軸で、北欧方式が成り立つのかどうかは、まだわかりません。実験の結果が成功することを祈りますが、どうなるのかはわかりません。
少なくとも、社会保障、医療、教育、をこれまでと同じ水準にしたままでの五公五民は、既に、悪政です。
現在の日本は、五公五民の悪政の時代です。
悪政は、国民にとって厳しい環境ですが、いつの時代でも悪政はあります。それほど珍しいことではありません。
しかし、この先、岸田総理のおかげで、六公四民の苛政の時代を迎えることになります。
苛烈の「苛」ですから、かなり厳しい環境になます。
それでも、六公四民の時代は、過去に何度もありました。
問題は、その先です。
苛政の先にあるのは、滅政です。
滅政では、民族絶滅の可能性があります。

七公三民は、過去に例がなかったわけではありません。
過去の七公三民は、江戸時代の津山藩で実施され、山中一揆に向かいました。
当時、税率は江戸で決められていたのではなく、各藩が決めていました。ですから、七公三民は一地方政府で起きたことであり、日本全土の問題ではありませんでした。
それでも、限定された地方での事であったとしても、百姓は塗炭の苦しみを味わいました。
しかし、百姓を本当に苦しめたのは、自然災害です。
私は、度々書いていますが、「不幸は不幸を呼ぶ」という法則は存在しているのです。
津山藩でも、度々、自然災害で不作が続きました。地震が起き、大雪に見舞われ、洪水・旱魃が百姓を苦しめました。当時の餓死者は1万2000人と言われています。
当時の津山藩の百姓が平和ボケしていたかどうかは知りません。
しかし、今の日本国民は、立派に平和ボケをしています。きっと、津山藩の百姓よりも、私達のほうが軟弱だと思います。七公三民と自然災害の組み合わせに耐える力はないと思います。しかも、税率は地域限定ではなく、全国規模です。
そんな環境の日本で、人口の半数が被災者になると予測されている巨大地震がやってくるのです。
先日、巨大地震のことを書きましたが、あの被害が、七公三民と同時期に起きたら、日本民族は絶滅の危機を迎える可能性があります。
岸田政権だけではなく、これまでの政権がやってきた国家運営方式では、この危機には対応できません。国家運営方式そのものを、劇的に変えるしか道はないと思います。
しかし、その危機感を持っている方がいません。
私達が、どこへ向かっているのか。そのことを理解している方がいません。
お手上げです。
「なあ、なあ」「まあ、まあ」「何とかなる」ではなく、現状を正しく理解し、将来を予測し、危機感を持ち、原因を究明し、原因の原因の原因を見つけ、対応策を考え、実行する、というプロセスが必要ですが、何一つ始まっていません。どのフェーズを取ってみても簡単なものはありません。実行が実を結ぶまでには多くの時間が必要なんです。
その貴重な時間が、何もしないままに、過ぎていきます。
では、一体、誰が、この国を、国民を、救うのですか。
「自分さえよければ」をやっている政治家や官僚や有識者には、出来ません。
もしも、やれるとしたら、国民しかいないと思います。
しかし、国民は「俺には関係ねぇ」と言う人や、「自分さえよければ」をやっている人達の言葉に、「いい人」のふりをして「ふむ、ふむ」と頷くだけです。
どこにも光が見えません。
確かに「なるようにしか、ならない」と言われればその通りなのでしょうが、人間として、大人として、いかがなものかと思います。
このことに関しては、私は、ヨタ話をしているわけではありません。
高い確率で、90%を超える確率で、現実になる切実な話をしています。
過去の延長線上に、そこそこの生活が可能な社会という未来はありません。
そこにあるのは、地獄です。
実際に地獄になってしまってから、「石田の言っていたことは本当だったんだ」なんて言われても嬉しくありません。
津山藩で起きたように、七公三民と自然災害の組み合わせは、実際にあるんです。当時と違うのは、今は、他国による侵略だってあります。
当時の津山藩の人口が何人だったのか知りませんが、1万2000人の餓死者は半端ではなかったと思います。当時は、「貧しさ」も「ひもじさ」も日常だったと思いますので、耐え抜く人は多かったと思いますが、令和の私達にそれが出来るとは思えません。

4月に国民負担率の推移を書きました。
1970年に24.3% だった国民負担率は、2022年には47.5%になっています。
これをグラフにしてもらうと、右肩上がりの線が引けます。
これをトレンドと呼びます。
時間が経過すれば、このトレンドは、更に、右肩上がりで進みます。六公四民も七公三民もこのトレンドを示す線上にありますので、六公四民も七公三民も現実になります。
ただ、グラフは、意味なく右肩上がりになっているわけではありません。必要に迫られて国家運営を進めた結果が数字になっているだけです。中でも、最も影響を与えたのが少子高齢化です。年々、高齢者が増えます。しかし、GDPは横這いです。社会保障費は増加するのに、税収は横這いのままなのですから、国民負担を増やすしかありません。
では、これは、突然、予告なしに、出現した環境なのでしょうか。
違います。
多くの方が、政府でさえ、ずっと心配していたことが現実になっただけです。
少子高齢化は、予定された環境変化です。
しかし、ずっと、先送りを続けてきた結果が数字になっているのです。
「まさか」「そんな」なんて言っていても、トレンドは勝手に進むのです。
そんなトレンドの中、六公四民のレールを、岸田さんが敷き、見え始めています。
六公四民は、もう、皆さんの目の前にある現実です。
それが、七公三民になることに不思議はありません。
六公四民、七公三民は、国家運営失敗の結果です。
では、私達には、国民には、どうすることも出来なかったのでしょうか。
そうではありません。
何度も書きますが、皆さんが「お上」だと信じている国会議員や官僚は、「お上」ではなく、国民生活を守るという仕事を、私達が委託している外注先です。自民党株式会社だと思ってください。岸田さんは、自民党株式会社の現在の社長です。岸田さんは、外注先の社長に過ぎません。皆さんが土下座をする必要はないのです。
普通、外注管理もせずに、外注先の好き勝手にやらせる会社はありません。
そして、今の外注先に、業務を委託したのは、国民の皆さんです。
と言うことは、国民の皆さんが、業務を委託した会社であり、管理責任者なのです。
皆さんは、外注先を管理してきましたか。
してきませんでした。
ですから、外注先は、自分の利益だけを増やすために、国家を運営してきたのです。
国民の皆さんは、なぜか、外注先の利益を守るために、税や社会保険を納めてきたのです。
理屈に合いません。
主権者である皆さんが、業務を発注している皆さんが、どうして、外注先の利益を守ろうとするのでしょう。
それは、皆さんが、主権者ではないからです。
皆さんは、今でも土下座をしている「下々」なのです。
多分、自分でも「何か、変だな」と思いながら、「へらへら」と笑い、分かったような顔をして「ふむ、ふむ」と頷き、何百年も前から「いい人」を演じてきたのです。
もちろん、責務を果たさなくてもいいのですから、「下々」のほうが楽だから、そうしてきたのですが、それを助平根性と呼ぶのです。
ですから、六公四民になっても、七公三民になっても、それは、自業自得です。
もっとも、皆さんには「あるべき姿」が見えていません。
なし崩しに、ぐずぐずと、何となく、悪化の一途を進んでいるのが今のトレンドです。
何を、どう変えればいいのか、さっぱり、分かりません。
ですよね。
先ず、「あるべき姿」を見つけてください。
そのためには、「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義をすることから始めてください。


2023-07-03



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世襲政治家問題 [評論]



加谷珪一さん、という経済評論家の方がいます。テレビ出演もしている有名な方です。
今日は、加谷さんに有識者の代表になってもらい、有識者と呼ばれているお偉い先生方が、責務を果たしていないことを指摘したいと思います。これは、明治時代から続いているもので、加谷さんだけに問題があるのではありません。
テレビで、何度か、彼の意見を聞きましたが、可もなく不可もなく中庸の意見を言う方だと思っていました。私の中では「なあ、なあ」「まあ、まあ」評論家という印象でした。
しかし、その加谷さんが歴史について書いている文章を読んで、「へぇー、こんな分析もしてるんだ」と思いましたので、その事について書きます。
ただ、歴史を承知の上で、テレビで稼いでいるのですから、「自分さえよければ」の確信犯のように見えてなりません。もちろん、確信犯は加谷さんだけではありませんが、有識者と呼ばれる皆さんには、それなりの責務があると思うので、とても、残念です。
加谷さんは、経済の専門家です。日本経済の衰退は百も承知だと思います。その原因が、日本社会を腐らせている歴史と伝統にあることも知っているようです。ですから、日本崩壊は避けられないと思っていると推察します。しかし、彼は、自分の収入を守るために、可もなく不可もない意見を言って稼いでいます。もちろん、加谷さんには、そうする権利はありますので、彼を責めることはできないのかもしれません。ただ、彼は、もう、海外移住するだけのものは稼いだと思いますので、できれば、一般庶民のために、多くの子供達のために、一肌脱いでくれたらいいのにな、と思います。
でも、ここは、彼の意見を聞いてみましょう。

「なぜ日本人は世襲を批判しながら、世襲議員に票を入れるというちぐはぐな行動をとっているのだろうか」という表題です。
彼の答は「お互いが自分に甘くして欲しいと考える、日本人特有の思考回路がある」と書いています。
その通りです。
いわゆる、「なあ、なあ」「まあ、まあ」の社会です。
もちろん、テレビで「なあ、なあ」「まあ、まあ」をやっている加谷さんも、代表的な一人です。これは、曖昧文化から生まれる利点です。
では、「なぜ、このような思考回路を持っているのか」という問いには。
「日本は、まだ、江戸時代の延長線上にある」と答えています。
これも、その通り、だと思います。
「世襲という、ある種の弱点を持つ人物をリーダーにしておきたいという国民の深層心理には、リーダーを甘やかすことで自分も甘やかして欲しいという願望がある」
「一方、世襲によって選ばれた人物は世襲に対する負い目があるものの、自分は特別な人間であると勘違いしがちであり、多少のことなら許容されると、やはり世間に対して甘えの感覚を抱く」
と分析しています。
その上で、加谷さんの結論は。
福沢諭吉、土居健郎、丸山眞男、大塚久雄、山本七平、夏目漱石、渋沢栄一という先人の意見を披露しつつ、「日本社会の構造は典型的な前近代的共同体だ」と結論しています。「先人達も、みんな、言ってるもん」という言い方は、姑息なやり方だと思いますが、結論が正しいので、目をつぶります。

この「前近代的共同体」を私流に言えば、「民主主義風王政並立封建制度」です。
日本は、「前近代的共同体」なのだから、仕方ない。「私には、どうすることも出来ない」で終わります。そこで終わってしまうことが問題なのですが、そのことには、気付きません。多くの先人達も、問題点を指摘してきましたが、明治維新から150年経ったのに、その本質は何も変わっていません。誰一人、そこから先へ行った人がいないからです。
「前近代的共同体」という原因を見つけているのに、そこから脱皮する方法がわからないのです。「前近代的共同体」は、特定の誰かが維持しているのではありません。それを維持しているのは、文化です。これまで、そのことに気付く人がいなかったのが不思議でなりません。先人の皆さんも、加谷さんも、皆さん、聡明な方ばかりなのに、「文化」に気付かない。そのくらい「文化」の力は凄いのです。

加谷さんは、世襲問題だけではなく、衰退を続けるこの国の元凶は「前近代的共同体」にあると結論しているのですから、岸田政権がやっていることに意味がない事を知っていると思います。しかし、テレビ出演では、そんな指摘はしません。それは、原因が分かっていても、解決法がわからないからだと思います。テレビでは、評論家として、目先の解決法を語りますが、彼自身、そんなことで解決するとは思っていないでしょう。
確かに、評論家の仕事は分析することであり、解決策を示すことではないと言われれば、その通りですが、どこかすっきりしません。
有識者と呼ばれる人達は、加谷さんもその一人だと思いますが、勉強はしています。
だから、知識を有する者と呼ばれているのでしょう。
ただ、知識は知識でしかありません。もちろん、無いよりは、あったほうがいいです。
加谷さんも有識者会議等で活躍されているものと思いますが、知識を披露し、「ああでもない、こうでもない」と言いながら、皆で「ふむ、ふむ」と頷き、最終的には「なあ、なあ」「まあ、まあ」で締めくくる。これが、まさに、日本の文化です。
今の有識者の皆さんは、福沢諭吉、土居健郎、丸山眞男、大塚久雄、山本七平、夏目漱石、渋沢栄一という先人達を越えられるとは思っていないのでしょう。ですから、現在の有識者の皆さんの思考も、ここで行き止まりになります。それを150年間続けています。
未だに、封建制度から抜け出せていないということは、そういうことだと思います。
どんなに正しいことを言っても、原因の原因の原因に辿り着かなければ、行動しなければ、何も変わりません。
30年前までは、「なあ、なあ」「まあ、まあ」はそれなりに機能していたと思います。しかし、その方式も、ついに、限界にきています。それを、国力衰退が証明しています。それなのに、誰もが「見て見ぬふり」をしています。
有識者の皆さんの分析は何も生み出していません。彼等は、分析というネタで、ただ、ただ、稼ぐだけです。
今、この国に必要な人材は、知識人でも政治家でもないのだと思います。
今、この国が求めているのは、革命家なのだと思います。
確かに、「無いものねだり」ですから、実現は難しいと思いますが、国民が自ら「言葉の定義」に挑戦することを煽る革命家が求められているのだと思います。
有識者の皆さんが得意とする分析は、分析のための分析に過ぎず、その原因の原因の原因に辿り着こうという意欲は見られません。しかし、私は、有識者の皆さんには、原因の原因の原因を見つける責務があると思っています。
加谷さんも、原因が「前近代的共同体」にあるとわかっています。あと一歩前に進めば、文化に辿り着きますが、足を前に出そうとはしません。もしかすると、「なあ、なあ」「まあ、まあ」社会で稼ぐために自己規制をしているのかもしれません。
原因の原因の原因は不明、行動もしない、革命家もいない、という「無いもの尽くし」なのですから、何かが変わるという希望はありません。
「だったら、お前が、やれよ」
その通りです。
申し訳ないと思います。
私も他力本願なのですから、大きな口は叩けません。
ですから、皆さんと共に地獄へ行くことは承知しています。
ただ、もしかしたら、「この国が地獄になる前に死ねるかもしれない」とか、「地獄へ行っても、この歳だから、そんなに長くは苦しまなくても済むのではないだろうか」という助平根性はあります。
でも、私より若い皆さんは、そうはいきません。
どっぷりと、地獄の味を噛みしめてもらうことになります。
皆さん、大丈夫ですか。
皆さんは、加谷さんのように、海外移住を可能にする資力を持っているわけではないと思います。皆さんは、自分のために、何かをする必要はないのでしょうか。
地獄へ行けば、残念ながら「俺には関係ねぇ」は通用しません。
一人の例外もなく、地獄で七転八倒することになります。

さて、ここで、世襲政治家が、なぜ、力を持っているのか、について考えてみます。
力の源泉は、加谷さんが指摘しているように、「前近代的共同体」にあります。
実際に世襲政治家が総理大臣になるケースは多々あります。
中でも、日本社会で、究極の世襲を実現しているのが、天皇家です。
私達の国は、民主国家だと標榜しているのに、憲法の第一条で、国民ではなく、天皇のステータスを宣言するような国です。
私達の国は、憲法で、架空の、「国民の総意」という虚構を作り、あたかも暗黙の了解があるかのような手法を用いて、世襲をステータスだと認めているのです。
世襲政治家が、未だに、この国を天皇制に戻したいと願っているのは、そのためです。
今の私達は封建制度時代の百姓と同じなのですから、ステータスには逆らいません。土下座という風習はなくなりましたが、精神的には、ずっと、土下座をしています。
ですから、封建制度のこの国では、世襲はステータスであり、それなりの力があるということです。

風味として付け加えられた日本の選挙では、「おらが町の利益を引っ張って来る政治家」が、選ばれます。これも、封建制度下の定番です。
徳川家か、島津家か、毛利家か、山内家か、松平家か、安倍家か。天下を取った地域は経済的な利益を得られるという構図があるから、「お殿様」は必要なのです。
日本人にとっては、日本という国よりも、「おらが町」のほうが大事です。
総理大臣を輩出した地域では、盛大な祝賀会が開かれ、地域の人達も「よかった、よかった、誇らしい」「これで、俺達の生活も、少しは良くなるだろう」と喜びます。
そこに、「国」とか「国民」という概念は存在していません。
日本は、民主国家ではないので、「国民」は二の次でいいのです。
「お殿様一族」は、代々積み上げてきた政治的な資産もあり、永田町でも発言力があり、地元に利益を持ってきてくれる確率が高いのです。
今の選挙は、「おらが町」の利益のためのものです。
ですから、この国は、民主国家にならない限り、国や国民という概念を国民が理解しない限り、世襲政治家はなくなりません。
世襲政治家を批判する人は、それなりにいます。苦々しく思っている人もいるでしょう。
でも、批判だけでは社会は変わりません。必要なのは、解決策です。
しかし、誰一人、解決策に辿り着きません。
時々、思い出したように批判して、終わります。立憲や共産が、解決策も持たずに、批判に専念している姿は、私達の社会を鏡に映しているようなものです。
でも、仕方ありません。
何を、どう、変えたらいいのか、誰も知りません。それは、あらゆることが曖昧で、境界線がないからです。そんな環境の中にいれば、とりあえず、歴史と伝統から得た経験則に頼るしかありません。皆さんの場合の経験則は、封建制度下の百姓としての経験則のことです。百姓にとって、大事なのは自分であり、国がどうなっても、国民がどうなっても、「俺には関係ねぇ」のです。百姓にとっては、地元の利益のために働いてくれる世襲議員に一票を投じるのは、当たり前のことなのです。
国が壊れたら、国民生活が壊れたら、自分の利益も壊れるのに、「皆一緒に壊れるなら、仕方ない」と思ってしまう。そんな「いい人」の集まりです。
国民の皆さんには、国全体を守り、国民生活全体を守ることが、自分の利益を守ることになるという構図は見えていません。
なぜなのでしょう。
それは、誰一人、民主主義の定義も国の定義も国民の定義もせず、自分の責務を知らないからです。
歴史や伝統や文化を否定している私は、謀叛者として獄門打ち首の刑になるのかもしれませんが、日本国民の皆さんは、今でも、封建時代の従順な百姓のままです。褒めているわけではありません。いずれ、百姓の現実に直面することを気の毒だと思っているのです。
どうか、土下座を続けてください。過酷な現実に直面した時、手遅れではありますが、皆さんにも「お気の毒」の意味がわかります。
今なら、まだ、皆さんには、別の選択肢もあります。
加谷さんや岸田さんを見ていると、有識者にも、政治家にも、この国を救う力はありません。
そんなこと、皆さんにもわかっていると思います。
この国を救えるのは、国民の皆さんだけです。
その第一歩は、国民の皆さんが、自ら、言葉の定義に挑戦することです。
自分を、家族を、多くの子供達を、守りたいのであれば、行動するしかありません。


2023-07-02



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広域災害の意味 [評論]



今年は地震の当たり年なのか、よく地震が起きています。
ですから、危険が迫っていると言われる東南海地震、首都直下地震、十勝地震に関心が向いています。中でも、東南海地震の話題は多く報道されます。最近は、東南海地震ではなく、南海トラフ地震と呼ばれることが多いようです。
被害予測では、死者数が32万人とされています。つい「ふむ、ふむ」と頷きそうになりますが、どのくらい深刻な数字なのか、自然災害による犠牲者ランキングを見てみましょう。
バングラデシュの1970年に発生したサイクロンによる犠牲者が、推定ですが30万人と言われていて、これまで、最大の犠牲者を出した自然災害とされています。私達の目の前にあるのは、その数を超える史上最大の災害なのです。
どうして、皆さんは大騒ぎしないのですか。確かに、その衝撃度は遭遇して初めて実感できるものなのでしょうが、このままでいいとは思えません。
東日本大震災の死者数が、約2万人ですから、あの東日本大震災が16個起きる計算になります。私達は、阪神淡路大震災や東日本大震災の惨状に驚愕しましたが、もう、あの記憶は風化してしまったかもしれませんが、あの惨状が16回分一度に起きるのです。多分、実際の被害は、まだ、想像できていないのだと思います。いや、スケール効果があって、16回分では済まないのかもしれません。
日本の6割から7割の地域に、被害が出ます。
被害の大きさと同時に、被災地の広さが、南海トラフ地震の特徴なのかもしれません。この広域という特徴は、甘く見ないほうがいいと思います。
それだけではなく、「連動」という言葉も多く使われています。
危機管理という観点から、最悪の事態を想定してみると、南海トラフ地震と首都直下地震と十勝地震が連動するというシナリオもあります。その時の死者数は、50万人を超えます。被害を免れる自治体は数県だと思います。私達は、世界最大の災害を、目前にしているのに、この平和ボケは何なのでしょう。私の心配は、取り越し苦労に過ぎないのでしょうか。

実務という視点からは、巨大地震、巨大地震連動では、被害が広域化することで、救助・支援・復興を担う人員不足が大きな問題になると思います。
実際の救助・支援・復興に深く関与する自治体の職員の方は、想像せざるを得ませんので、「おい、これ、ヤバイだろ」と思っている人が大勢いると思います。この広域性を問題にする人はいますが、今は、まだ、大問題とはされていません。公的機関は、この「広域」という要素が「不安を煽る」心配がありますので、意図的に問題視しないようにしているのかもしれません。ただ、現実に直面した時には、否応なく大問題になると思います。
助けられる人を助けられずに見殺しにする場面が出てくると思います。
自分が住んでいる都道府県が他の自治体の応援なく、自力で住民の安全を確保しなければなりませんが、そんな体験はしたことがありません。これまでは、他の自治体から多くの応援を得ていたことと比べると、その難易度はかなり高いものになります。
仮に、〇〇県に住んでいるとします。他の県からの支援はありません。
県と市町村の職員は何人いますか。
県下の警察官・消防官は何人ですか。
病院の数は。医師や看護師の数は、充分ですか。
物資調達や物資運搬の業者の数は充分ですか。
水や食料の生産業者は充分ですか。
ボランティアの数は大丈夫ですか。
道路や橋を復旧する工事会社は、存在しますか。
電力会社、ガス会社、水道局の人員は、充分ですか。
もちろん、救助・支援・復興を担う人達の中にも、犠牲者は出ます。
絶対数が足りません。これは、人員不足により、救助・支援・復旧に時間がかかるということであり、今のままだと、救助・支援が届かずに災害関連死をされる方が大幅に増える可能性があるということです。餓死する方も出ることになります。
もう、注意喚起や啓蒙をしている時間帯ではないように思います。
どんな場合でも、無い袖は振れません。
巨大地震の場合は、公助だけでは国民を救えないことは、明らかです。
国は、共助と自助の部分を法制化し、努力義務ではなく、義務にする必要があります。国民生活を守ることが国の最重要課題だとすれば、今は、国民生活を守るために、国家崩壊を防ぐために、国家権力を使う時だと思います。
「巨大災害に備え、国民は、自力で1カ月生き延びる準備をしなければならない。これは、義務です。そのために、消費税を5%下げることにします」
こんな政策を実施する政党は存在しないでしょうが、背に腹は代えられないと思います。
もちろん、これを法制化するためには、大胆な改変が必要となります。
国は、その覚悟を示すために、先ず、自分の身を切る必要があります。
公務員給与を一律30%削減、国会議員歳費を90%削減、参議院を廃止、その上で、最大の歳出項目である社会保障費を始め、あらゆる歳出を10%削減する必要があります。
国の責務は、国民生活を守ることです。
現状のままであれば、結果的に国民生活が破綻したとしても、誰も責任を取りません。
「起きてしまったことを、今更、四の五の言っても始まらないから、水に流して、この先、頑張りましょう」という言い訳で済んでしまいます。
結果的に守れなかったことは、「仕方ない」で済むことなのでしょうか。
私達は、最善を尽くしたのでしょうか。
事前にわかっていたことをやらなかったのは、人災なのではありませんか。
私は、今、やれることをやることが国家運営者の責務だと思います。
自然災害は防げません。
その通りかもしれません。仕方のないことかもしれません。
しかし、災害関連死は、組織として防ぐ努力をするべきだと思います。国は、被害予測を出しておけば、それで責務を果たしたことになるのでしょうか。国民は「ふむ。ふむ」と頷いていていいのでしょうか。私達は、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で巨大地震をやり過ごそうとしています。このやり方は、余りにも、傲慢だと思います。

地震動による倒壊や火災で犠牲になる人、津波の犠牲になる人、一人でも少なくなることを祈りますが、難しいことだと思います。
直接被害は、不可抗力の部分が多いので、広報と啓蒙くらいしかないと思います。実害を防ぐ方法がありませんので、諦めるしかありません。
問題は、地震発生後の社会を、どう維持していくのか、だと思います。生き残った人がこの国を再建しなければなりません。一人でも多い方がいいと思います。
ここで、東日本大震災の時を思い出してみましょう。
全国から、自衛隊だけではなく、自治体職員、警察、消防、電力会社、ボランティアが被災地に駆けつけました。被災した住民による、助け合いもありました。アメリカ軍まで協力してくれました。
それを、全部、自分の自治体のマンパワーだけでやらねばならないのです。
想定されている被害の一部を見てみましょう。ほんの一部です。
発災後4~7日に必要とされる食料は1億800万食だとされています。
ただし、発災後4~7日と記されているということは、発災後3日間は、住民が備蓄食料を持っているという前提です。しかし、ほぼ、備蓄食料はないと思いますから、実際には、2億食必要です。しかし、日本の人口の半分が被災者になると言われています。もしも、仮に、その半数の3000万人に食料を届けなければならないとすると、1日9000万食の食料が必要になり、1週間では6億3000万食が必要ですから、2億食という数字は控えめな数字です。それでも、ここでは、2億食で試算してみましょう。
これを 各自治体が、自分で調達・配布出来るとは思えません。
自衛隊の救援が必要です。
自衛隊は、30の自治体に、2億食の食料を、1日か2日で、道路が寸断されている地域に、輸送しなければなりませんが、自衛隊にその能力はあるのでしょうか。
よくわかりませんが、可能だとしてみましょう。
ただし、1回運べば済むわけではありません。2億食は1週間分です。
更に。
運ぶだけで済む備蓄食料が2億食あったとしても、1回で終わります。
調理不要の備蓄食料が尽きれば、調理しなければなりません。
コンビニ弁当のようなものは作れませんから、「おにぎり」で耐えてもらわねばなりません、
そのためには、精米工場を稼働させる必要があります。
精米できたとしても、その米を、2億食分、炊飯しなければなりません。
炊飯できたとしても、人の手で、2億食分、「おにぎり」にしなければなりません。
梅干しも削り節も集めなければなりません。
季節にもよりますが、炊飯したご飯が腐らないように急がねばなりません。
出来た「おにぎり」を全国に運ぶためには、2億食分の容器が必要です。
これ、誰が、どこで、実現するのでしょう。
それも、毎週、2億食必要です。
多分、実現は困難だと思います。
住民が通常の食料調達が可能になるのは、数カ月後だと思います。
餓死する人が出ても不思議ではありません。
必要になるものは食料だけではありません。水は、食料以上に欠かせないものです。医薬品も必要ですし、30万人分の遺体を保管するドライアイスも必要です。
物資を運ぶ車両だけではなく、ガソリンも必要です。ガソリンスタンドに補給がなければ、ガソリンは短時間で枯渇します。電力の復旧には長時間かかると思いますので電気自動車は使えません。敗戦後、木炭車が走っていたことを思い出しました。
人員も物資も、あらゆる物が不足します。
水と食料は、何としても必要です。国民の皆さんには、3日分ではなく、1か月分の用意をしてもらわなければ、国民生活は破綻します。
この際、国民に自助を強要するしか方法はないのではないかと思います。
マイナンバーカードだって、法律を作って強要したのですから、出来ないことではありません。

南海トラフ地震の経済的被害総額は、1410兆円に上ると想定されています。
国家予算が、年間100兆円ですから、その規模は驚愕の数字です。
1410兆円だけでも、充分に再起不能レベルの損害ですが、もしも、南海トラフ地震と首都直下地震と十勝地震が連動したとしたら、その経済的損失は更に増えます。特に、首都機能が麻痺した時の経済損失は、予測不可能だと思います。
もう、災害とは呼べません。
国家崩壊です。
国民生活は、ぐちゃぐちゃです。
だとすると、これは、国家存続の危機だということですが、この国の国家運営を請け負っている人達に、そんな空気はありません。
国会では、衆議院議員の任期延長の議論が盛んです。
国家運営を担う人達は、自分の身分を守ることしか考えていません。国民生活を守る仕事を委託されている人達に「国民」という視点はなく、あるのは「自分」の利益だけです。「自分さえよければ」が恥ずべきことだという意識もないようです。
政府は、どっちみちパニックになるのだから、先送りが上策だと考えているものと思います。
地震が起きてから、いつものように、「まあ、まあ、まあ、とりあえず、皆で助け合って、復興に向けて頑張りましょう」と言うのでしょう。
南海トラフ地震では、そのやり方は、通じないと思います。
それは、あまりにも被害が大きすぎるからです。
どうして、想像しないのか、不思議でなりません。
衰退病という慢性疾患を抱えている人が、骨折するようなものです。
いや、慢性疾患だけではなく、骨折までして、その上、収入を失うのです。
まさに、踏んだり、蹴ったり、どついたり、です。
収入が保障されているのは、公務員と一部の大企業の社員だけだと思います。
収入がなくなることのダメージは大きく、特に、精神的なダメージが大きいと思います。それでも、気持ちを奮い立たせるには、時間が必要ですが、時間の経過は、その症状を悪化させると思います。貧すれば鈍するのが世の常です。
早めにパニックを体験して、覚悟を醸成しておく必要があるのではないでしょうか。
今度の災害は、これまでのものとは別物だと思います。
これまでと同じ対応では、傷口を大きくするだけだと思います。
災害そのものも巨大ですが、それ以上に、災害後の対応が困難を極めます。
「日本、終わった」という状況を迎える公算がとても大きいのですから、ここは、「なあ、なあ」「まあ、まあ」をやめるべきだと思います。


2023-07-01



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古い格言は生きています [評論]



「後悔先に立たず」という格言があります。
ほとんどの方が、実際に体験したことのある格言です。
しかし、それなのに、いつも、私達は同じ過ちを繰り返します。
ですから、この過ちは、今後も、永遠に、続けることになると思います。
ま、私達は人間ですから、仕方のないことです。

ここで、今、まさに不幸のどん底にあるウクライナで、ある方がインタビューした記事から、今のウクライナ人の後悔を見てみましょう。戦争が始まってしまったことによる、後悔の言葉です。まさに、「後悔先に立たず」の実例です。
「まさか攻めてくるとは思わなかった」
「最後の最後まで信じていませんでした」
「攻めてくるかもしれないという人もいたが、私も私の友達もそんなことは起こるわけないと信じていなかった」
「ロシアの侵攻を防ぐために、自分の国の政府を慎重に選ぶことが必要だった」
「この国では汚職が多く、たくさんの政治家が賄賂を使って当選している。だが、政府の人は安全な執務室から出てくることはなく、被害にあうのは市民ばかり。だからこそ、政府には友好的な外交を結んでほしい。我々はもっと外交政策が得意な政治家を選ぶべきだった」
「ロシアとウクライナの国境に壁を建設しておけばよかったんだ」
「ウクライナは旧ソ連の一部であった際に核兵器が配備されていたが、独立時に自己防衛のための核兵器を撤廃した。今、思えば、当時の政治家の決断は間違いだった。なぜなら、私達が核兵器を撤廃したせいで、ロシアは自信を持ってウクライナへの侵略を開始したのだから」
「もし戦争が始まると知っていたら、自分の子どもたちを守るために銃の扱い方を学んだり、数日間耐えしのげるだけの食糧の確保をしていただろう。また、身の安全のために家の地下に防空壕を掘っておいたと思う」
「2014年にクリミアとドンバス、ルガンスクを奪われた時に、軍事力の増強をしておくべきだった。それなのに何もせず、さらにこの8年間で我々の警戒心は途切れてしまい、今日の結果になった」
「戦争を引き起こさないためには、より多くの武器を生産したり、購入したりすることが必要だったんだ」
「私だったら、オリガルヒ(旧ソ連圏で力を持つ財閥)からお金を回収して、日本や韓国、台湾から多連装ロケット砲などの武器を購入していた」
「ウクライナは自国の防衛のために、もっと武器を用意すべきだった。もっと飛行機や戦車、もっと強い武器が必要だったと思う」
「日本だっていつ攻められるかわからないのだから、備えるべきだ」
「他国との同盟や外交努力をすべき」
「食糧供給などを見直すべき」
「政府に泣きつく前に、自分たちの領土を守るという強いコミュニティを持つことだ」
「ウクライナには、『もし平和を望むのなら、戦争に備えなさい』という格言がある。平和を望むなら、平和を守るための戦争に備えなければいけない。もちろん戦争なんて起こらないことが一番ですが、平和を守るためには有事に備えるべきです」

いくら後悔しても、いくら嘆いても、ロシアの攻撃は毎日続いています。いや、まだまだ、続きます。
ロシアの攻撃によって、人々の生活に欠かすことができない、電気・ガス・水道も被害に遭っています。現地からの映像は、ボロボロに破壊された集合住宅ばかりです。
でも、今は、戦争に負けたら、もっと悲惨な目に遭うことが想像できるから、未来を救うためにウクライナ人は戦っています。
想像力を持つのが遅すぎたことで、これだけの被害に遭っているのです。
これが、「後悔先に立たず」の現実です。
ウクライナの人達は、自分に、国民に、問題があったことを認識しています。
それが、正しい認識だと思います。
私は、この戦争が始まった時から、ウクライナに問題があったと書いてきました。ロシアに戦争を始めさせた、プーチンに、簡単に勝てると思わせたウクライナの失態です。想像力があれば、プーチンの妄想は防げたと思います。

世界の主要国は、ほぼ二分され、第三次世界大戦の機運は盛り上がっていますが、今日は、第三次世界大戦の話ではありません。もちろん、第三次世界大戦への備えも必要ですが、日本には、それ以外にも、国民生活を破壊する未来が待っています。それが、自分で勝手に壊れる「自壊」です。
ここでも、必要になるのは、想像力です。
日本は、今、じりじりと、ずるずると、壊れ続けていますが、いつかは、大きく壊れる日がやって来ます。
その時、私達は、何に困るのでしょう。
国が崩壊するということは、通貨の価値が無くなるということです。日本円の価値が無くなれば、国民生活の基盤である燃料と食料の輸入が出来なくなるのです。
政府は、最後まで水道の供給には、全力を挙げると思いますが、電気・ガス・鉄道・運送という社会インフラは、経済原理で動きますから、崩壊からそれほどの時間を経ずに供給が停止されるものと思います。
スーパーやコンビニも消えます。
一番困るのが、食料の確保です。
人間は、食べなければ生き続けられません。
1週間くらいなら、水だけで生き延びることもできるかもしれませんが、1カ月は無理です。
「戦後の食糧難の時代も、何とかなったじゃないか」と言う方もいるかもしれません。
何とかなったのでしょうか。
栄養失調で多くの方が亡くなったことは、あまり知られていません。
食料の確保が、どれだけ大変だったのかを知っている人も少なくなりました。
ひもじさを知っている人も、私達の世代までだと思います。
更に。
敗戦の時の環境と、今の環境は、違います。
多分、一番違うのは、当時は、「復興」という暗黙の目的が国民に共有されていたことだと思います。今は、目的がありません。ただ、今日は、それ以外の物理的な違いを見てみます。
敗戦時の人口は、約9000万人でした。食料自給率は約70%でした。
今は、人口が1億2000万人で、食料自給率は約40%です。
農地が、農業従事者が、どれだけ減少したのか調べていませんが、激減していると思います。取り敢えず、頑張るしかないと思うかもしれませんが、頑張れる場所(農地)も、頑張る人(農民)も減少していますので、無い袖は振れませんので、「何とかなる」ことはありません。
敗戦時の環境と今の環境は、全く、別物なんです。
ですから、大量の餓死者が出ることは、避けられません。
何人の餓死者が出るかは、その時になってみなければわかりませんが、数百万人とか数千万人の可能性だって否定できません。
こんなこと、皆さんは、想像しているのでしょうか。
そうは、思えません。
「ああ、あの時・・・・・・」になるのは容易に想像できます。
未来の皆さんが「あの時」というのが、今です。
私は、極度の悲観論者ですから、「不幸は不幸を呼ぶ」と思っています。
破綻した日本で。
東南海地震や首都直下地震が起きたら。
中国が軍事侵攻してきたら。
北朝鮮のミサイルが飛んで来たら。
異常気象で農作物が大きな被害に遭ったら。
原子力発電所が事故を起こしたら。
どれも、あり得ないことではありません。踏んだり蹴ったりの事態だってあり得るのです。
だとすると、「自壊」なんてことは、あってはならないことです。
でも、国力衰退は進行しています。「衰退」の先にあるのは「崩壊」です。
ですから、国力衰退を止めることは不可避であり、喫緊の課題です。
そのことを理解している方はいるのですが、その方法を見つけることができません。
今、どうしても、必要なのが、想像力だと思います。
ただし、単に、想像力があればいいのか、と言うと、そうではないようです。
日本人の、とくに頭脳明晰な人材を集めている場所が、官庁です。頭脳ということでは、大企業を何十社集めても、官庁に太刀打ちできません。
官僚の皆さんは、知識も豊富です。数字の意味も理解しています。想像力も持っています。
しかし、実際には、そんな頭脳明晰集団が束になっても、国力衰退を阻止できていません。もう、30年、いや、50年、いやいや、80年、彼等の頭脳は、本来の働きをしていないように見えます。
だとすると、想像力というものには、いろいろな想像力が存在していて、官僚機構には、今、必要とされている想像力が欠けていると考えざるを得ません。
そうだとすると。
私は、官僚に欠けているのは、妄想力なのではないかと思います。もしも、妄想力が必要だとすると、官僚の皆さんの頭脳明晰が邪魔しているのではないでしょうか。優秀であるがゆえに陥っている国家運営連続失敗なのではないかと思います。
私には、官僚の皆さんは、この30年間、まるで、二〇三高地の戦いのように、玉砕戦を挑んでいるように見えます。歴史上の二〇三高地では、勝ち戦になりましたが、平成・令和の戦いでは、勝ち戦になりません。ただただ、消耗するだけです。
妄想力を働かせて、文化の革命が必要だということに気付いて欲しいです。


2023-06-05



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F16戦闘機の供与 [評論]



ロシアの大統領であるウラジミール・プーチンというたった一人の人物の決断が、世界中をかき乱しています。ロシアとウクライナを壊しているだけではなく、世界のあらゆる国々を、この戦争のコストを負担せざるを得ない状況に追い込みました。地球上に生存する数十億人の人間の中の、たった一人の人間の決断が、全ての人に負担を強いているのです。たとえ、この戦争が終わっても、人々の負担は続きます。
今日は、今も続いている戦争の、少し先を想像してみます。

G7の直前、イギリスとオランダが、ウクライナへの戦闘機供与の枠組みを作りました。
そして、G7では、アメリカが欧州の保有しているF16戦闘機の供与を承認する方向へと舵を切りました。
このことは、ウクライナ戦争に大きな影響を与えます。
F16戦闘機の訓練が、3カ月かかるのか半年かかるのかはわかりませんが、もしも、F16戦闘機が投入されたら、戦況は大きく動くとされています。
ウクライナが、今、準備している春の大反撃を延期して、F16戦闘機を待ち、秋の大反撃を実行すれば、ロシアは危機的な状況を迎える可能性があります。
もちろん、F16戦闘機ではゲームチェンジャーになれない、と言う人もいますので、あくまでも、個人的な想像です。しかも、私は素人ですから、信用していただかなくてもいいです。
それでも、F16戦闘機は、多目的戦闘機で、いろいろなことが出来ます。一世代前の戦闘機ですが、空対地の能力が優れています。ウクライナにあるロシア軍のレーダー施設や地対空ミサイルの施設を攻撃する能力があります。これは、ウクライナが航空優勢を獲得する可能性があるということです。
ウクライナ戦争の当初、飛行場への攻撃もありましたし、ロシアの空挺部隊も投入されましたが、その後、ロシア空軍は活躍していません。ウクライナ領から離れた場所でのミサイル攻撃はしますが、ウクライナの上空を我が物顔に飛び回るような活躍をしていません。近代戦では航空優勢が基本だと言われていますが、この戦争では、ロシアもウクライナも航空優勢を持てていません。
もしも、F16戦闘機が投入されることで、ウクライナが航空優勢を獲得すれば、ロシア地上軍は、かなり、苦しい戦いをしなければなりません。ロシアが構築した防衛線は、対戦車戦を想定した防衛線です。防衛線の後方にあるレーダー、ミサイル、長距離砲。補給基地を攻撃されたら、前線は戦闘力を失います。
F16戦闘機の供与は、この戦争の様子を一変させる可能性があるのです。
もしかすると、ロシア軍は、東部からも、南部からも、クリミアからも撤退を余儀なくされるかもしれません。
ウクライナがロシア領に攻め入ることは、NATOの反対があって出来ないと思いますが、明らかに、ロシアの負けになります。
そうなった時に、プーチンは権力を維持できるのでしょうか。
それが、大問題になります。
もしかすると、失脚するかもしれませんし、国外逃亡を余儀なくされるかもしれませんし、暗殺されるかもしれません。
プーチンにとっては、大変、ヤバイことになります。
では、プーチンは、そんな状況を座して見ているのでしょうか。
そんなことはしないと思います。
専制君主にとっては、地球よりも、人類よりも、国よりも、自分の命が一番重いのです。
プーチンは、持てる力を全て使うと思います。
プーチンの最後の切り札は核兵器です。
もう、これまでのように、恫喝のための核兵器ではなく、戦況を変えるための兵器として使うことになります。

ロシアの戦争分析は、第二次世界大戦当時のままなのかもしれません。
近代戦では、航空優勢が戦争の帰趨を決めることは常識とされていますが、ロシアでは、そうなっていないのかもしれません。大祖国戦争の記憶が強すぎることと、最後には核兵器があるという神話があり、戦争分析が近代化しなかったのかもしれません。
戦争開始当初、ロシア軍は航空優勢を取るチャンスはありました。一時的に、ロシアが航空優勢を獲得したように見えた時期はありましたが、結果的に失敗しました。
もしも、ロシアが航空優勢を持っていれば、NATOから搬入される武器弾薬を、その搬送路上で叩くことができたはずです。未だに、ウクライナの鉄道は機能しています。
では、ロシアの基本的な戦略はどこにあるのでしょう。
ロシアは、部分動員で30万人の兵士を投入しましたが、今も、40万人の職業軍人を募集していますが、総動員令という噂もありますが、これらは、どれも人海戦術です。ロシアには、第二次世界大戦でドイツと戦い、2000万人の犠牲を出しながらも、ドイツに勝ったという過去があります。ロシアでの、あの大祖国戦争と言われる戦いは、その後のロシアに大きな影響力を残したようです。今やっている人海戦術は、同じことをやろうとしているのかもしれません。
ロシア軍の参謀の能力がどれほどのものかはわかりません。でも、航空優勢が戦争の最大の要素であることに気付かないとは思えません。ただ、F16戦闘機の供与が実現し、ロシア軍の後方部隊が叩かれてから気付いたのでは遅いと思います。
今は、まだ、「戦争をエスカレートさせるような支援はやめろ」と非難するだけです。
今のロシア軍に危機感があるようには見えません。
F16戦闘機が実戦に参加するまでには、まだ、数カ月あります。
ロシアの味方をしたいとは思いませんが、ロシアは可能な限り速やかに、F16戦闘機の供与に対して対抗策を発表すべきだと思います。
ロシアができる有効な対応策は、核兵器しかありません。
もう、恫喝の時間は終わっています。
そうです、実際に核爆発を起こすしかないと思います。
では、どんな方法が考えられるのでしょう。
正しい分析かどうかはわかりませんが、プーチンの対応を妄想してみます。
ロシアが声明を出します。
「警告として、黒海に核ミサイル着弾させる。通行する船舶は注意するように」
「それだけではない」
「1機目のF16が、ウクライナ領に入った時点で、ウクライナ領内に核ミサイル1発を着弾させる」
「2機目、3機目でも、同じ」
「F16を20機供与するとすれば、20回、ウクライナに核ミサイルが着弾することになる」
「20機を超えた場合は、周辺国だけではなく、NATO主要国も標的にする。その時は、戦略核弾頭になる可能性を否定しない」
「これは、脅しではない。決して、誤解しないように」

もしも、プーチンが、こんな具体的なメッセージを出したら、ウクライナ、NATO、アメリカは、どう対応するのでしょう。
実際に、黒海で核ミサイルが爆発したら、F16戦闘機供与は出来ないと思います。
ウクライナ軍が、春か、夏か、秋の大反撃をしたとしても、F16戦闘機なしに、ロシア軍をウクライ領から撤退させることは難しいと思います。
戦線は膠着します。
ロシアにとっても、ウクライナにとっても、その時点で、停戦交渉に入るという選択肢しか残されていないと思います。
プーチンの大勝利とはなりませんが、占領地を確定できるのですから、プーチンの勝利にはなります。
つまり、核兵器を持っている国は、何をやってもいい、という実績が作れます。
プーチンは、時間をかけて力を蓄え、再び、キーウを攻略すれば、ウクライナ全土を掌握することも可能です。

こんな話、日本には関係ないと思っているかもしれません。
「ウクライナ人は可哀そうだが、ウクライナ戦争なんて、俺には関係ねぇ」と思っている日本国民の皆さん、それは、誤解です。
ウクライナ戦争は、日本の皆さんの生活に直接影響を与えます。
停戦であれ、和平であれ、どんな形であれ、戦争はいつか終わります。
戦争が終わって必要になるのは、ウクライナの復興です。
ウクライナの戦後復興は「日本が主力」として実行することが、国際世論になっていて、岸田総理も「任せておけ」と言っています。
ウクライナの戦後復興には、数百兆円の資金が必要だと言われています。
日本に求められる資金は、100兆円かもしれません。
しかし、日本の現状を見ると、国力衰退で四苦八苦しています。国防費も少子化対策費も、それ以外の国家運営費用も、底をついていて目途が立っていません。
どうするのですか。
想像してみましょう。
乱暴な試算ですが、ウクライナの戦後復興に年間10兆円、国防費に5兆円、少子化対策費に5兆円、その他の国家運営費(これは、利権のために便乗するだけですが)に10兆円必要だとしてみましょう。合計で、年間30兆円の税収増が必要になります。仮に、消費税1%で2.5兆円の増収になるとすると、消費税換算で12%の増税が必要になります。そうです、消費税は10%ではなく、22%になります。
遥か彼方のウクライナで停戦が実現すると、日本の消費税が増税になる。「そんな馬鹿な」と思うかもしれませんが、そうなるのです。無い袖は振れませんから。
残念なことに、30兆円もの増税をしても、日本は借金をし続けなければ国家運営ができません。国力衰退も、着々と進行します。
どうするんですか。
先送りを続けながら、じわじわ、ずるずる、と衰退をするのですか。
それほど遠くない未来に、限界は来ます。
国家崩壊です。
本気で考えることを、強く推奨します。

プーチンがプーチンの理屈で始めた戦争で、多くの命、多くの生活、多くの街、戦費を含めて多くの富、が失われただけではなく、日本人を含め、多くの国の国民が、ウクライナの復興資金に苦しむことになります。
それでも、プーチンを罰する術を持たない私達は、どうすればいいのでしょう。
いや、プーチンを罰したところで、失われたものが蘇るわけではありません。
どうすることも出来ません。
元々、地球上に、万人共通の正義など存在していませんでした。
私達は、今も、その現実の前で、立ちすくむことしかできません。
いや、地球上には、地球が誕生して以来、弱肉強食というルールが揺るぎないルールとして存在しているだけで、それは、今も、変わりません。
これこそが、現実なのです。
争いは、人間の欲から生まれます。
だとすると、人間が人間である限り、争いは無くなりません。
多分、平和や正義を実現する処方箋は、この世に存在しないのだと思います。
もちろん、私にも何一つ提案するものがありません。
人類の絶滅は、天変地異がなくても実現するのです。

では、どうすればいのでしょう。
原因は、プーチンですか。
確かに、こんな戦争を始めたプーチンが悪いことは誰の目にも明らかです。
でも、「プーチンが悪い」と言ってみたところで、プーチンに逮捕状を出してみたって、仮に「ごめんなさい」とプーチンが言っても、何も解決しません。
この先、プーチンのような人間は、二度と出てこないのでしょうか。
いいえ、プーチンよりも更に悪逆非道な人間は、必ず出て来ます。
地球は、人間がいる限り、危険が一杯なのです。
悲しいことですが、これが現実です。
危険が一杯の惑星に住んでいる以上、対応するのが人間の責務です。
どこの国も、自分の国がウクライナにならないように、自分で自分を守る必要があります。
ただ、自分で自分を守るためには、経済力が欠かせません。
日本の場合、国力衰退を止め、国民が豊かになり、国防費でも少子化対策費でも、その増額に耐えられるようにならなければなりません。
それが、自分で自分を守るという言葉の意味です。


2023-06-04



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真の軍事大国 [評論]



2023年も前半を終わろうとしていますが、世界の不穏な動きは衰えません。
国際関係の不安定化の最大の要因は、日米欧先進国の衰退によるものであり、それを代表する米中関係の不安定化ですが、それが世界規模で拡散しているように見えます。
その不穏な空気醸成の先頭を走っているのがプーチンですが、追い詰められたプーチンが、更なる不穏を作り出す環境も見えてきています。
一時期、北朝鮮の核ミサイル問題が大きな国際問題でしたが、今では、北朝鮮問題は、その比重を大きく下げています。核ミサイル開発が進んでいるにも拘わらず、です。これは、それだけ、世界に不安材料が増えてきたということだと思います。
アフリカ大陸の各国の政情不安は、昨日今日の問題ではありませんが、収まる気配がありません。
中近東は、静かに見えますが、波乱のマグマが溜まり続けているように見えます。
フランスのマクロンが、経済的な利益のために、中国にゴマ摺り外交を始めました。
中国の習近平は、スパイ法を強化しています。習近平の判断で、海外企業の社員を全員逮捕することも可能になりました。台湾有事の時の準備だと言われています。
インドは、漁夫の利を手放しません。アメリカが、モディ首相を国賓として招待すると言っていますが、インドは変わりません。

そんな世界情勢の中、日本は、ほんとに、平和です。
内閣支持率が上昇し、50%を超えた、という調査もあります。
国民の皆さんは、何を見ているのでしょう。
皆さんにも、何となく、六公四民という地獄の入り口は見えていると思います。
そして、皆さんが漠然と心配している六公四民は、必ず、現実になります。
それは、防衛費と少子化対策費の増加は一時的な費用ではないからです。恒久的な費用には、恒久的な財源が必要です。今、財源をかき集めているのは、得意とする、先送りをしているだけです。この先、恒久財源は必ず必要になります。それは、六公四民は避けられないということです。その、六公四民というレールを敷いたのが、岸田さんです。その岸田政権を、皆さんは支持しているのです。それは、六公四民を受け入れるということですが、そのことは承知しているのでしょうか。皆さんは、自分の墓を掘っているのですよ。
国をあるレールの上に乗せるのは簡単なことではありません。これまで、日本が得意としてきたのは、先ず、既成事実を作って、後は、なし崩しで、いつの間にかレールの上に乗ってしまっているというやり方です。これが、「なあ、なあ」「まあ、まあ」の国の利点なのかもしれません。岸田さんは、歴史的な偉業を達成するつもりなのでしょうが、結果的に六公四民の国を作ってしまいます。総理大臣の成果と国民生活を比べた時、岸田さんにとってどちらが重要かと言われたら、間違いなく、総理大臣の成果だと思います。
皆さんは、そんな器の小さな人に、この国を任せているのです。
「じゃあ、誰に託せばいいのだ。誰もいないじゃないか」と言うかもしれません。
これまでは、与えられた選択肢の「どちらが、ましか」で、何とかなってきたかもしれません。しかし、もう、過去の延長線上に日本の未来はありません。だったら、皆さんには、自分で、新しい選択肢を作るという方法しかないと思います。
主権者である国民は、誰かが餌を与えてくれるのを待つポチではありません。皆さんが、自ら、餌を作るしかないのです。岸田が駄目なら、国民生活を守ってくれるリーダーを皆さんが、新しく、作るしかないのです。
皆さんの中には、六公四民なんて、「俺には関係ねぇ」と思っている人もいるでしょう。
六公四民に関係しない国民なんて、一人もいません。日本に住んでいる限り、逃げ切ることはできません。例えば、消費税が増税され、いや、必ず増税になりますが、「俺には関係ねぇ」から払わないと言って、通りますか。「俺には関係ねぇ」と言う人には、スーパーが増税分を値引きしてくれますか。あり得ません。それでも、強引に商品を持って帰れば、あなたは窃盗罪で逮捕されます。「俺には関係ねぇ」と言えるのは、山奥で自給自足の生活をしている人だけです。
責任を取るのは、国民の皆さんです。「どこかの誰かが、うまいこと、やってくれる」なんて都合のいいことは起きません。責任を取らされる皆さんが、自分で、自分を、守るしかないのです。
六公四民の先にあるのは、七公三民です。七公三民の国とは、大量の餓死者が出ている北朝鮮と同じような国になるという意味です。七公三民が笑い話では済まなくなるかもしれないのに、ほんと、不思議な国民です。私には、理解できません。

民主主義には、欠点も弱点も弊害もあると言われています。
特に、似非民主主義の国では、それが致命傷になる可能性があります。
岸田さんのような「小人」をリーダーにしてしまうことは、大きな弊害、いや、致命的な欠点になるのだと思います。
岸田さんは悪人ではありません。いや、標準よりも上の善人なのだと思います。
岸田さんは、防衛費の倍増も、異次元の少子化対策も、誰も出来なかった「いい事」をやっていると、本人は、酔いしれているかもしれません。
しかし、岸田さんは、国は「国民生活を守る」ために存在しているという簡単な道理がわかっていません。いや、岸田さんだけではありませんが。
防衛費の倍増も、異次元の少子化対策も必要ですが、それは、先ず、国民を豊かにしてからやることです。
年々、国民を貧しくさせておいて、正しいことのためであれば、年貢を重くすることが正しいと勘違いしているのが岸田さんです。
たとえ、目的が正しくても、そのやり方を間違えてしまえば、それは、悪政になります。
岸田さんは、その道理がわかっていません。
これでは、国を守るという崇高な目的のためであれば、国民を貧困のどん底に閉じ込めていてもいいと考えている金正恩と同じです。
何よりも不幸なのは、国民が未だに「下々」のままで、どんなに最悪な「お上」であっても、我慢してしまうことです。「いい人」を演じることも大好きです。岸田政権を支持しているということは、そういうことです。
国民にも、岸田さんが、「いい事」をしているように見えているのだと思います。
それは、国民も、岸田さんと同じで、道理がわかっていないからです。
繁栄への相乗効果もあれば、衰退への相乗効果もあるのです。自分が最悪であることに気付いていない総理大臣と国民の組み合わせは、足し算ではなく、最悪の二乗になります。
ところが、最悪の組み合わせであることに、誰も気付いていません。
最悪の結果が出るのは、時間の問題だと思います。
これまで、日本の歯車は、空回りをしてきましたが、これからは、噛み合わせが狂い、暴走することになりそうです。

私には、今の国会が、江戸末期の江戸城老中の間に見えてしまいます。
その象徴的な出来事を見て見ましょう。やってきたのは、ペリーではなく、TIME誌です。
岸田総理がTIME誌のインタビューで何を語ったのかは別にして、TIME誌は宣伝文句として、「数十年続けてきた平和主義を放棄し、真の軍事大国になる」ことが日本の選択である、という見出しを発表しました。
岸田さんが言った言葉ではなく、インタビュー内容を要約し、現実の日本の政策を勘案し、岸田さんが言いたいことを短い言葉で表し、宣伝文句としたのでしょう。
その宣伝文句に吃驚した日本政府は、TIME誌に抗議しました。内閣府と外務省は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていたと推察します。
その結果、TIME誌の宣伝文句が変更になりました。
現在の宣伝文句は、「首相は平和主義だった日本に、国際舞台でより積極的な役割を与えようとしている」に変更されたそうです。
日本が得意とする玉虫色の曖昧表現を採用しろと迫ったのでしょう。
では、TIME誌が間違ったのでしょうか。
TIME誌の本文を読んだ人の中には、「間違っていないんじゃない」という人もいます。
では、日本は、政府が主張する、国際舞台でより積極的な役割を果たすために、実際に、何をしているのでしょう。
防衛費を倍増しています。これ、現実です。
今、日本の軍事力ランキングは世界第8位です。
世界第8位の国が、防衛費を倍増するのです。
TIME誌が「真の軍事大国になる」と宣伝したのも、不思議ではありません。
確かに、TIME誌の言葉は挑戦的な言葉ですが、間違っているわけではありません。
ただ、日本の防衛費を倍増したくらいでは軍事大国にはなれません。そんなことは、TIME誌もわかっているでしょうが、TIME誌は、雑誌を売ることが仕事です。そのために、刺激的な言葉を使うのは雑誌社としては普通のことだと思います。
G7の議長国になり、TIME誌の表紙を飾るのです。
岸田さんは、舞い上がってしまったのではないでしょうか。
他の国のリーダーと違って、ほんとに、幼くて、可愛らしい、リーダーです。
岸田さんの本来の使命は、防衛費の増額でも、少子化対策費の捻出でもなく、ましてや、六公四民の国にすることでもありません。
岸田さんがやらねばならないのは、国力衰退を止め、豊かな国を作るために、新しい資本主義などと言う戯言ではなく、政治家や官僚の目を醒まさせ、国民の目を醒まさせ、自らの力で生き抜く国を作ることです。国民の意識が国の未来を決めるのです。そのためには、言葉の定義をすることから始める必要があります。ここまで追い詰められると、「なあ、なあ」「まあ、まあ」では国民を守ることは出来ません。

ただ、岸田さんとTIME誌のゴタゴタ劇は、些細なことに過ぎません。
それでも、折角ですから、日本が「真の軍事大国」になれるのか、いや、「国際舞台でより積極的な役割」を果たせるのかを見てみましょう。
どちらも、無理です。
その理由は簡単なものです。
衰退国家には、軍事大国になることも、国際的な役割を果たすこともできません。
経済力の裏打ちがなければ、どちらも、実現しないのです。
先程書きましたが、直面しているのは防衛費や少子化対策費の増額だけではありません。
総理大臣が、外遊して、カネをばら撒いていますが、あれは、岸田さん個人のカネですか。そうではありません。あれは、皆さんが納めた税金です。
防衛費も、少子化対策費も、他国への資金援助も、全て、皆さんの税金で賄われるのです。
では、皆さんは、まだまだ、余裕で、増税に耐えられるのですか。
とても、無理ですよね。
皆さんの収入が増え、自然増収があるのであれば、増税することなく、何とかなります。以前の日本は、そういう国でした。それは、国力が増大していたからです。
しかし、衰退国家には、それが出来ません。皆さんの収入は、減っているのです。
日本の衰退は、明らかに、末期症状です。
衰退国家のリーダーである岸田総理は、現状認識もなく、防衛費の増額や国際貢献の話を海外の雑誌社に、得意気に語っているのです。国民生活なんて念頭にありません。
皆さんは、そんなリーダーでいいのですか。
もちろん、岸田さん以外の人がやっても、同じです。
それは、誰もが「なあ、なあ」「まあ、まあ」でやっているからです。
問題は、岸田さんではなく、「なあ、なあ」「まあ、まあ」なんです。
このままでは、七公三民だって、夢ではありません。
このままだと、皆さんの生活は、それほど遠くない未来に、破壊されます。
ここまで追い詰められると、そのことに気付くしかないと思います。
ただ、日本の致命傷は総理大臣ではありません。
日本以外の国は、国民に活気があります。少々、リーダーの質が悪くても、逞しく稼いでくれます。日本の場合は、最後の砦である国民の皆さんが「俺には関係ねぇ」と言っているのです。リーダーの資質の良し悪しが、そのまま、国の良し悪しになってしまうのです。
ですから、この国は、必ず、潰れます。
その結果が出た後では、どうすることも出来ません。
どうか、気付いてください。
国民の皆さんは、正真正銘、最後の砦なのです。
そのことに、今、気付くしか、ないと思います。
皆さんが「いい人」を演じていれば、自分で自分の首を絞めることになります。
多分、まっ先に地獄へ行くのは「いい人」の皆さんだと思います。


2023-06-03



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歴史と伝統と文化 [評論]



5月9日、ロシアの対独戦勝記念日という祝日に、軍事パレードが行われました。
世界が注目したのは、プーチン大統領の演説です。
ほぼ、去年と同じ約10分間、ロシアが正しいことをやっているという主張と、国内・国外の同志の賛同を得たいという願いが込められていたと思います。
私には違和感だらけの演説でしたが、ロシア国民は「ふむ、ふむ」と聞いていたのかもしれません。日本国民の皆さんも、大ぶろしきを広げている岸田さんの話を「ふむ、ふむ」と聞いているのですから、ロシア国民も同じかもしれません。
南シナ海で悪逆非道の振舞をする中国が、「国際法を遵守せよ」と言ったり、性的暴行で訴えられ、「恥ずべき行為があった」という有罪判決を受けたトランプが「恥ずべき評決だ」と言ったり、アメリカを筆頭に、中国、ロシア、北朝鮮、イランは、「少なくとも、お前が、言うな」ということを平気で、口にします。
今回の演説でも、ロシアがウクライナに軍事侵攻したことは棚に上げて、国際秩序を壊しているのは西側であり、攻撃を受けているのはロシアであり、自分達(ウクライナも含む)は被害者であると言っています。

今、プーチンが一番欲しいと願っているものが、ロシア国民の愛国心なのだと思います。自ら進んで戦死してくれる国民を熱望しています。
それが、演説の中の「われわれは、祖国への愛、信仰と伝統的価値観、先祖代々の慣習、すべての民族と文化への敬意を決して捨てない」という部分だと思います。
「あれっ」
どこかで似たような言葉を聞いたことがあります。
「歴史と伝統、民族と文化」
日本でも、右側の皆さんが、よく口にする言葉です。
念のためですが、私は左翼ではありません。中国、ロシア、北朝鮮のような国に住みたいという願望は、全くありません。
でも、「歴史と伝統、民族と文化」至上の社会で生きたいとも思いません。
私は、民主主義の社会で生活したいと願っています。

「歴史と伝統と文化」と言われると、どことなく反論出来ないニュアンスがあって、正面切って反対し辛いものがあります。
でも、「歴史って、何ですか」「伝統って、何ですか」「文化って、何ですか」と問うてみると、とても曖昧な答えしかありません。
権力闘争をしてきたのが歴史であり、日本だけではなく、どこの国でも同じことが歴史になっています。国の歴史とは、権力闘争の歴史そのものです。
権力闘争の中では、民は、常に、被害者でした。
ですから、民にとっての歴史は、被害の歴史なのです。民は、富を奪われ、命を奪われてきたのです。
そして、その長い歴史が、伝統と呼ばれているのです。
本来であれば、歴史と伝統は、民にとって、負の遺産に過ぎません。
でも、権力者は、歴史を、伝統を、文化を、「大切にしろ」と言います。
それを、私達は「ふむ、ふむ」と頷いていていいのでしょうか。
伝統には、いろいろな側面があり、伝統工芸も伝統ですが、権力者が支配する社会も伝統なのです。土下座ですら、文化だと思います。
この2000年間、私達「民」は、常に、虐げられてきました。それが私達の「歴史と伝統」だと思います。優雅な生活を享受してきたのは、天皇であり、貴族であり、武士であり、軍人でした。敗戦後、その後を継いだのが自民党です。
私達庶民にとって「歴史と伝統」は、ほんとに価値のあるものなのでしょうか。
違うと思います。
でも、この「歴史と伝統」という言葉は、今でも大きな影響力を持っています。
この「歴史と伝統」という言葉を具体的な言葉に言い換えると、「お上」と「下々」という階級制度になります。そして、21世紀の今でも、私達の社会の根底にあるのは、「お上」と「下々」という階級制度です。
何度も書きますが、私達の国は民主国家ではありません。
民主主義風王政並立封建制度の国です。
天皇制と封建制を1つの鍋に入れ、そこへ風味として民主主義を入れた、ごった煮が、この国の国体です。その始まりは明治ですが、明治維新では、意識して、そういう国体を作ったのでしょう。当初は、そうするしかなかったのだと思いますが、それが、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で今でも続いています。その根底にあるのは、今でも、「お上」と「下々」です。
2000年間、私達庶民は、ずっと「下々」でしたから、もう、「下々」体質が体に染みついています。私達は、意識する前に「下々」なのです。

本気で「民主主義とは」という言葉の定義をしたら、現実は、辻褄の合わないことばかりだと思います。
その一例を憲法で見てみます。
岸田総理は、憲法改正をすると言っています。
国会の憲法審査会で議論がされています。
ところが、そこで議論している国会議員は、誰一人、「民主主義とは」という定義を持っていないのです。それは、民主主義の定義がなく、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で済むからです。もちろん、「国とは、国会議員とは」という言葉の定義も持っていません。
もちろん、国体が「民主主義風王政並立封建制度」であろうと、私達が「下々」であろうと、社会が「なあ、なあ」「まあ、まあ」で成り立っていようと、私達が豊かな生活が出来るのであれば、構いません。
でも、今は、そうなっていません。
「お上」は、私達庶民が必死で稼いだカネをピンハネしています。時間の問題で、六公四民になります。
生活が苦しくて、子供の食費を削らなければならない家庭が数多く存在しています。
「子ども食堂」は増えるばかりです。
子供を持てない人が増え続けています。
苦しい生活を強いられているのは、全部、国民なのです。
「国民が主権者」という謳い文句のある民主主義ですが、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で、ただの謳い文句で、いいのでしょうか。国会議員の子供が、1日1食しか食べていないという話は聞いたことがありません。
80年ほど遅れましたが、先ずは、歴史と伝統を棚に上げて、「民主主義とは」の定義をするべきだと思います。
今、この国は、ずるずると、ぐずぐずの状態のまま、地獄へ向かって滑り落ちて行こうとしています。しかし、足元が「なあ、なあ」「まあ、まあ」で、まさに「ぐずぐず状態」のままですから、踏みとどまることが出来ません。
足は、硬い大地の上で踏ん張らなければ、力が出ません。
その大地になれるのが、言葉の定義だと思います。
では、憲法審査会は何を議論しているのでしょう。
現行憲法のどこを手直しするかを議論しています。民主主義国の憲法になっていないことに気付いていないから、手直しでいいと思っているのです。
民主主義国の憲法の第一条が、どうして天皇条項なのかについて、なぜ、議論しないのですか。
それは、日本が民主主義国ではないからです。
どうして、日本は、民主主義国ではないのですか。
それは、自民党が権力を握っているからです。
では、どうして、自民党は、民主主義に反対なのですか。
それは、天皇制こそが、日本の国体だと思っているからです。
ただ、自民党は、その事を公表していません。
そんなことをすれば、国民の反発を買うからです。選挙に不利になることはできません。
でも、ほとんどの自民党議員が日本会議のメンバーなのですから、関係の深い日本会議の目的を見ればわかります。
ここで、日本会議に関する記事を転載します。
彼等の目的は。
・美しい伝統の国柄を明日の日本へ(皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有という一体感)
・新しい時代にふさわしい新憲法を(日本の歴史、伝統に基づいた憲法)
・国の名誉と国民の命を守る政治を(歴史認識問題と危機管理)
・日本の感性をはぐくむ教育の創造を(愛国心や道徳心、公共心を大切にする教育)
・国の安全を高め世界への平和貢献を(国を守る気概と集団的自衛権の行使)
・共存共栄の心でむすぶ世界との友好を
だそうです。
これが、自民党と日本会議の理想の国体です。美しい言葉の羅列ですが、その裏側にあるのは権力と利権です。国民生活は、二の次三の次です。
つまり、日本は、自民党が政権を持っている限り、民主主義国へはなりません。
では、自民党以外の政党なら、民主主義国へなれるのでしょうか。
いいえ、そうはなりません。
それは、どの政党も、民主主義の定義を持っていないからです。
間違ってはいますが、少なくとも、自民党は理想を持っています。他の政党には、それがありません。共産主義は論外ですから、共産党は除きました。
もしも、皆さんが、民主主義の国に住みたいのであれば、国民の生活を託せる政党は、1つもありません。
もちろん、皆さんが、天皇制の国や共産主義国に住みたいのであれば、別です。
民主主義国に住みたいと思っているのは、私の個人の願いにすぎません。
多分、皆さんは、そんなこと、考えたこともないのではないかと思います。
それは、「なあ、なあ」「まあ、まあ」が心地いいからです。
でも、このまま「なあ、なあ」「まあ、まあ」を続ければ、この国は壊れます。
壊れてもいい、飢えてもいい、のであれば、皆さんの選択を否定する権利は、私にはありません。「どうぞ、ご自由に」と言うだけです。
それでいいのですか。
子供達の未来を奪ってしまっていいのですか。
いや、既に、未来を諦めてしまった子供達が大勢います。
私達大人が、そういう社会を作ってしまったのです。
大人として、いかがなものかと思います。
国民の皆さん一人一人に責任があると思います。


2023-06-02



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