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ぼんやり [評論]



今日は、内閣府の少子化対策に関する基本理念の文章の一部を転記します。

<<< 少子化問題は、我が国のあり方が問われている課題であり、各種の施策を組み合わせつつ、国、地方公共団体、職域、地域、家族、個人など、社会を構成するすべての主体が、それぞれの責任と役割を自覚し、子どもと家族を大切にする視点に立って積極的に取組を進めていくとともに、進捗状況を検証し、充実に努める必要がある。 >>>

内閣府の考察は、正しいと思います。
「我が国のあり方が問われている」
「国、地方公共団体、職域、地域、家族、個人など、社会を構成するすべての主体が、それぞれの責任と役割を自覚」
「子どもと家族を大切に」
全く、その通りで、拍手を贈ります。しかし、空文になっています。
後述しますが、この考察から導き出された対策が、「家族の日の制定」です。
なぜ、こうなってしまうのか。
何度も指摘しますが、言葉が定義されていないからです。
「責任と役割」とは、何を指すのでしょう。
「責任と役割」が「ぼんやり」としていて、誰も自覚できないから、誰もが「俺には関係ねぇ」と言って逃げるのです。
内閣府の本音を忖度すると、少子化は「下々」の問題だと認識しているということのようです。ところが、「下々」は「お上」のやることだと思っています。
少子化対策に限らず、あらゆることが「ぼんやり」としているのですから、噛み合わなくても不思議ではありません。
国家運営を担う皆さんも国民の皆さんも、まだ、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で「何とかなる」と思っているのです。それ、間違っています。

今日は、内閣府の少子化対策基本方針の文章から、この国の少子化が止まらない原因を見てみたいと思います。少子化には、数多くの原因があると思いますが、その一番大きな原因である国民の貧困化については、有効な対策がないために、あまり触れられず、耳障りの良い言葉を並べる従来のやり方が踏襲されています。
いつものことですが、時代認識や現状認識が、曖昧や慣れや希望的観測の中で行われているのは、大変危険です。昭和16年に、対米開戦を決めた時も、曖昧や慣れや希望的観測がありました。今では、あの開戦が「無謀であった」というのが定説になっていますが、当時は、国民も戦果に拍手を送ったのです。
私達は、今、21世紀最大の失敗(先進国から最貧国への転落)の真っ只中にいます。これは、多分、我が国2000年の歴史の中で最大の失敗になると思います。
確かに、劇的な発想の転換なんて、簡単に出来ることではありません。慣れ親しんだ手法を取りたくなる気持ちは理解できます。しかし、今は、とても危険です。
では、少子化に対する内閣府の基本的な思考を見てみましょう。

<<< 政府は、1990年代半ばからの「エンゼルプラン」、「新エンゼルプラン」に基づき、少子化対策を推進してきた。2003年には、少子化社会対策基本法、次世代育成支援対策推進法が制定され、2005年度からは、「少子化社会対策大綱」とその具体的な実施計画である「子ども・子育て応援プラン」に基づき少子化対策が推進されてきた。
しかしながら、従来の対策のみでは、少子化の流れを変えることはできなかったことを深刻に受け止める必要がある。 >>>

冒頭に反省の弁がある通り、この30年間、この国の少子化対策は失敗の連続でした。
では、今、どうするのか。

<<< 出生率の低下傾向の反転に向け、少子化の背景にある社会意識を問い直し、家族の重要性の再認識を促し、また若い世代の不安感の原因に総合的に対応するため、少子化対策の抜本的な拡充、強化、転換を図っていかなければならない。 >>>

ここでも、いつものように、総合的、抜本的、拡充、強化、転換という使い古した言葉が出てきているということは、「何も変わらない」ことを意味しています。必要とされているのは、耳に心地よい言葉の羅列ではなく、言葉の中身です。それが、定義です。
内閣府が少子化の原因としているのは、次の3点です。
「少子化の背景にある社会意識」
「家族の重要性」
「若い世代の不安感」
どれをとっても、「ぼんやり」です。
その上で、考えられた対策の一つが次のようなものです。

<<< 社会全体の意識改革が必要である。>>>
<<< そのための、家族の絆や地域の絆の強化が必要 >>>

「はあ ???  絆 ???」
「家族の絆と地域の絆で、少子化を止めましょう」という結論です。
これを曲解すれば、「少子化は、家族と地域の問題であり、内閣府の問題ではない。国民の自業自得だろう」と言っているようにも聞こえます。
出産・育児は大事業です。家族の「愛」や地域の「思いやり」だけで出来る事業ではありません。でも、国を豊かにすれば、人間は本能に従い、出産・育児という大事業に挑戦してくれる人が増えます。国家運営者の仕事は、国を豊かにすることです。
家族に責任転嫁することが、国の仕事ではありません。
岸田政権の少子化対策も、過去の対策と同じで、成功することはありません。
必ず、失敗します。
対策に掲げた。
「家族の絆」って、何ですか。
「地域の絆」って、何ですか。
家族が仲良くし、地域が支え合えば、少子化が止まるのですか。
いくら日本人が「いい人」だとしても、「ふむ、ふむ」とは言わないと思います。
では、対策にある「社会の意識」って、何でしょう。
「社会の意識」とは、社会を構成するあらゆる国民の皆さんの意識のことです。
内閣府は、国民の皆さんが意識を変えなければ少子化は進むと言っているのです。問題は、政府にあるのではなく、国民の皆さんにあるのですよ、と言っています。だから、国民を啓蒙しなければならない。老害政治家が「少子化は子供を産まない女が悪い」と言って大騒ぎになったことがありますが、まだ、その意識から変わっていないように見えます。
確かに、「俺には関係ねぇ」と言っている国民の意識は、間違っています。
ただ、その前に、国の、国家運営者の、内閣府の皆さんの意識を変えなければなりません。
国と国民が、全く、噛み合っていません。いや、皆で「俺には関係ねぇ」と言っています。
これで、少子化が止まるとは思えません。
では、この問題の核心は、どこにあるのでしょう。
国民の責務も国の責務も曖昧で、誰も自分事だとは思っていないことです。
どっちもどっちです。
国民だけが頑張っても、国だけが頑張っても、問題は解決しません。
ところが、今は、そのどちらも、頑張っていないのです。
誰もが、少子化なんて他人事に過ぎないと思っている。
誰の国ですか、誰の生活ですか。
これは、皆さんの自分事なんです。しかし、そのことに、誰も気付きません。
家族に「愛」があれば、地域に「思いやり」があれば、なんて、無理だと思います。
逆に、少子化が進行しているということは、国が、国民が、積極的に「責務」を果たさなければ、社会は壊れることを証明しているのです。
もう、「なあ、なあ」「まあ、まあ」では、何も解決しません。
そのためには、先ず、「責務」を知らなければなりません。
そもそも、内閣府の皆さんが、国の責務を知らないから、こんな曖昧な対策しか書けないのだと思います。
国が責務を果たし、国民に責務を果たすように働きかけるようにするためには、誰もが自分の責務を知らなければなりません。美辞麗句を並べる前に、先ず、自分の「責務」を知ることです。
「愛」や「思いやり」は必要です。でも、責務を知ることも必要なのです。
岸田政権は、予算倍増だと言っています。
カネをばら撒いても少子化は止まりません。
「愛」や「思いやり」は強要するものではありませんし、たとえ、強要したとしても、少子化は止まりません。
この国に必要なのは、この国に欠けているのは、「責務」の明確化です。
一体、いつになったら、そのことに気付くのでしょう。
「家族」とか「絆」とか「地域」とか「愛」とか「思いやり」という耳に心地よいお題目を掲げ、カネをばら撒けば少子化が止まる、なんてこと、誰か信用しているのでしょうか。
それでも、相変わらず、「なあ、なあ」「まあ、まあ」を続けている。
「責任と役割を自覚すること」が必要だと理解している内閣府の皆さん。
皆さん、馬鹿なんですか。
いつまで、馬鹿を続けるのですか。
内閣府は「社会の意識改革が必要である」と言っています。
どうして、それを実行する具体案を提示しないのでしょう。
国民に対して、「言葉の定義をしてください」と言えば済むことです。
もう、家族の「愛」や地域の「思いやり」では、少子化は止まりません。
いや、それ以前に、この国には、これまで、「愛」や「思いやり」は無かったのでしょうか。
そうではないと思います。
これは、「愛」や「思いやり」の問題ではないということなのです。
「絆」は必要ですが、もう、「絆」で「何とかなる」状態ではありません。
必要なのは、国の責務であり、国民の責務の明確化だと思います。

内閣府は、少子化対策を進めるためには「国民運動の推進」が必要だと言っています。
では、その驚きの国民運動を見てみましょう。 

<<< 「家族の日」や「家族の週間」の制定  >>>
<<< 家族・地域の絆に関する国、地方公共団体による行事の開催 >>>
<<< 働き方の見直しについての労使の意識改革を促す国民運動 >>>

不謹慎かもしれませんが、笑ってしまいました。
冒頭で紹介した文章では「責任と役割」という言葉があり、「意識改革が必要である」と言っていたのに、その具体案が「家族の日の制定」です。これも昭和ガラパゴスの1つだと思います。内閣府と言えば、頭脳明晰集団の中でも、選りすぐりの官僚の皆さんが所属している部署です。日本の最高頭脳から出てきたのが「家族の日」だとすると、笑うしかありません。でも、これが私達の国の現実です。もう、壊れているんです。今の取り組みを続けていれば、この先、もっと壊れます。国民の皆さんは、それでいいのですか。これは、もう、内閣府の問題ではありません。国民の皆さんの問題です。

ここで取り上げた内容は、内閣府の基本方針の一部です。これ以外にも、色々なことが書かれています。共通していることは、何もかもが「ぼんやり」だということです。そのことに気付いている人がいません。「ぼんやり」「曖昧」「美辞麗句」「お題目」「なあ、なあ」「まあ、まあ」では、この国の窮地は救えません。30年間失敗してきて、また、同じことをして、内閣府の皆さんは、何をしたいのでしょう。
この「ぼんやり」は、日本の文化から生まれたものです。もちろん、「ぼんやり」の効用もあります。ただ、窮地に堕ちた時には、致命傷にもなります。そして、今は、その負の側面が、この国を破滅へと向かわせています。


2023-04-01



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