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若者の意識 [評論]



若者(18~25歳)の意識調査をした記事がありました。

「政治について」
政治に興味がない 56.5%
自分が投票しても政治は変わらない 56.9%
政治家に定年制が必要 63.2%
支持する政党がない 61.2%
日本の未来に期待していない 59.0%

「自身の行動や考えについて」
多様性が大事 80.6%
他人に興味がない 63.7%
他人との競争は苦手 71.0%
世の中の役に立ちたい 64.7%
ムダが嫌い 69.7%
周囲から浮かないようにしたい 68.6%
他人に迷惑をかけたくない 81.0%
自分の判断に自信がない 53.0%

「仕事について」
社会に貢献できる仕事がしたい 60.5%
仕事上の競争や優劣に興味がない 65.0%
バリバリ働くよりマイペースがいい 72.7%
スキルアップには挑戦したい 62.5%

このアンケート結果を見た人は何を感じたのでしょう。
私は、若者が現実から逃げたいと思っているように感じました。
能動的でもなく、活動的でもなく、前向きでもなく、明るさもなく、ただただ、自分を守りたいという意識が強いように感じました。
まさに、この国の写し鏡です。
社会に対する、国に対する、自分の未来に対する、諸々の「諦め」が底辺にあるように感じました。しかし、それでも、生きていかなくてはならない。「傷つかないように」「何とか無難に」という意識が、「守りに重点を置く」という姿勢を生み出しているように見えました。
でも、仕方ありません。
国全体として、多くの国民の皆さんも、「守り」に入っています。
そして、この「守り」の姿勢が、国全体の「ジリ貧」に繋がっています。
その渦中にある若者が、「守り」に入っても仕方ないのではないでしょうか。
「自分さえよければ」「なあ、なあ」「まあ、まあ」「俺には関係ねぇ」という大人達の姿勢を見ている若者に、何かを期待するのは難しいのかもしれません。若者が「俺には関係ねぇ」と言っても、それを責めることはできません。
自分の内側に熱を持っている存在、それが若者の特徴の1つです。私のような老人の細胞とは違い、彼等の細胞はエネルギーに満ちています。それなのに、なぜか、若者の心は冷え切っています。
若者も、国力衰退は感じていると思います。
しかし、「ヤバイよ、何とかしなきゃ」という気運は、どこにもありません。
10代、20代の皆さんだけではなく、30代以上の皆さんにも共通するのが、「俺には関係ねぇ」です。大人も若者も、「諦め」という大海に漂う浮遊物になって、嵐の過ぎ去る時を待っているように見えます。しかし、嵐は、ますます、荒れ狂うことになります。それなのに、「俺には関係ねぇ」は、見事に受け継がれています。10年後、彼等は、私達と同じ禄でもない大人になるのです。
私に彼等を責める資格はありません。
私も、何も出来ない、禄でもない、大人の一人ですから。

それでも、現状は何とかしなければなりません。
国力衰退を止めなくてはなりません。
今、この国が壊れ始めていることを否定できる人はいないのではないでしょうか。
今後、更に、壊れます。
最終的には、皆さんが、1人の例外もなく、地獄を見ることになると思います。
これは、国民の皆さんの「俺には関係ねぇ」の結果ですから、このままだと、甘んじて受けるしかありません。残念ですが、後悔は先には立ちません。
個別の総理大臣の名を挙げるまでもなく、総理大臣に出来ることはありません。
この国の、この窮地を救えるのは国民の皆さんしかいないのです。
特に、若者の皆さんの力は不可欠のものです。
そんな若者に、どう伝えたらいいのでしょう。
言葉では伝えられません。私達大人の姿勢だけが若者の意識を変えるのだと思います。
国民の皆さんが、この窮地に気付き、自らを救おうとしなければ、必然的に地獄が来ます。
大変、悲しいことです。
「れば、たら、もしも」で申し訳ありませんが、もしも、私達の目的が「子供達の未来を守る」ことだったら、こんなことにはなっていなかったのではないかと思います。
大変、残念です。

景気は「気」だと言われます。
社会も国も、「気」次第なのだと思います。その「気」と同じ働きをしてくれるのが「目的」だと思います。いや、「目的」が「気」を作るのかもしれません。
もちろん、「気」さえあれば、他に何もいらないという意味ではありません。
最低限、「気」だけは、無くてはならないものなのだと思います。
この国には、今、それが欠けているように思います。
だから、私達の生活も、社会も、国も、まとめて「ジリ貧」になっているのだと思います。
無限の可能性を持っている若者でさえ、「守り」に入っているということは、かすかな光も失われているということだと思います。
では、「気」って何でしょう。
意識だと思います。個人の意識であり、国民全体の意識だと思います。
自分の力で自分を守る、自分の力で自分の家族を守る、自分の力で自分の社会を守る、自分の力で自分の国を守る、という意識なのだと思います。自分で自分を守るためには、自分だけではなく、家族も社会も国も守らなければ、守れません。
原始時代では当たり前だった「自分で自分を守る」という意識は失われ、「誰か」が、「お上」が、守ってくれるのではないかと思ってしまっています。
これ、大きな勘違いです。
原始時代でも、今でも、これからも、「自分で自分を守る」という鉄則は変わりません。
ただ、「守る」という言葉には、2つの意味があります。
前向きに「守る」ことも、後ろ向きに「守る」ことも、「守る」ことです。
今、求められているのは、前向きに「守る」ことです。
以前にも書きましたが、一生懸命働いていても、どれだけ「いい人」を演じていても、私達は潮流の前では無力です。今、国力衰退という悪しき潮流が生まれています。ですから、悪しき潮流を作らないことも、悪しき潮流を止めることも、「守る」ことなのです。これが、前向きに「守る」ということなのだと思います。
「前向きに守るって言われても」
その通りです。
私達は、生活費を稼ぐために、必死で働かなければなりません。他人や社会や国を守ることに費やす時間はありません。
その通りなんですが、潮流という荒波の前では、私達が無力であることも事実です。
生活費を稼ぐことも、潮流も、現実なのです。どちらか片方を守っていればいいということではありません。
「潮流を防ぐと言ったって、私達には何も出来ないと思いますよ」
では、誰が、潮流を防いでくれるのですか。
「そりゃあ、お上の仕事だろ」
では、「お上」は、その仕事をしているのですか。
「・・・・・」
結果的に守れなければ、何にもならないのです。
生活費を稼ぐことも、潮流から身を守ることも必要なのです。
ここで、別の勘違いに気付いて欲しいと思います。
国会議員や官僚は「お上」なのですか。
皆さんは、「下々」なのですか。
違います。
私達は生活費を稼ぐことに忙しいから、潮流を防ぐ仕事を外注しているのです。
皆さんが「お上」だと思っている集団は、私達国民の外注先に過ぎません。
その外注先が、仕事をしないのであれば、仕事をさせなくてはなりません。それが難しいのであれば、外注先を変えなければなりません。これも、国民の責務です。
「政権交代ってこと・・・・ 政権交代では、変わらないだろう」
その通りです。
ですから、私達の生活を守るために、潮流を防いでくれる新しい政治集団を生み出す必要があるのです。これも、私達の責務です。
「そんなこと、無理だろ」
そうでしょうか。
政治家は、私達国民の一票がなければ、国会議員になれません。
今は、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で投票している私達が「こういう人に一票入れますよ」と言えば、彼等は、私達の要求に応えるしか道はありません。
「こういう人」というのは、国会議員の責務を明確にするだけでいいのです。
そのためには、「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義をする必要があります。もちろん、毎日毎日、言葉の定義をする必要はありません。一度、言葉の定義をして、「責務」を明確にし、その検証システムを構築すれば、後は、メンテナンスだけです。
「言葉の定義って言われても、やったことないし」
言葉の定義に専門的理論も専門的知識も必要ありません。
「国って、何」「国は、何のために、あるの」
素朴な疑問を掘り下げていけば、言葉の定義はできます。私のような馬鹿でもできるのですから、心配いりません。
「責務」を明確にすれば、「目的」も見えてきます。
「目的」があれば、若者も前向きになってくれると思います。
そうなれば、日本は再生のスタート地点に立つことができます。
小手先や口先や過去の常識では、スタート地点に立つことさえできません。
文化を変えるしか方法はないのではないでしょうか。


2023-05-05



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