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海の果て 第1部の 4 [海の果て]



浜中調査事務所が立ち上がった。出資金は浜中豊と名義だけの出資者十名で登録した。浩平は出資者に名前をださなかったが、実際の出資金はすべて浩平が負担した。固定客と社員の大半は浜中調査事務所に移ってきたので、向こうの社長が怒り狂っているらしい。浩平が月に五百万程度の匿名依頼を出すことになっていたので、設立当初から大赤字を出さずに済みそうだ。浜中の給料は会社経費で約束の一千万が出せるようになるまで、不足分は裏金で浜中に出す約束になっているが、裏の事情を知っている者は浩平と浜中だけだった。先ず、中央官庁の名簿を集め、厚労省から順に名簿を顔写真付きのものにすることをやってもらう。ターケゲットを選ぶ仕事はその後だった。

覚せい剤の取引は、月額で六十キロが限界のようだったが、後藤にはプレッシャーをかけなかった。浩平のルートがいつ無くなるかわからないから、慎重になっても仕方がないだろう。ある日突然ルートが消えた、と言われれば、その取引はなくなる。供給責任を追及しても、何も出てこない。戸籍屋を紹介してもらったり、戸籍の値段を適切なものにしてもらったりと、後藤組を利用させてもらっている。だが、後藤から取引以外の依頼を受けるとは想像していなかった。それは、若い組員を一人、引き取ってくれないか、という頼みだった。集金の金を使ってしまって、何に使ったかも言わないし、返済の目途もないので、本人は「殺してくれ」と言っているらしい。組としては、「はい。わかりました」とは言えないし、「殺す」こともできない。後藤祐樹の数少ない直系の子分なので、困っていた。金だけなら、後藤が立て替えれば済むが、使途不明では納得してもらえない。破門になるだろう。
「破門になったら、もう使えないんだろう」
「先ず、無理です」
「金額は、いくら」
「三百万です」
「なぜ、言わない」
「俺も説得したし、かなり、痛めつけられましたが、言いません。組長の説得にも応じなかったんで、それが致命傷ですかね。破門まですることないと思いますが、自分の息子の直系だから、厳しくせざるをえないんでしょう。最近、俺が稼ぐんで、派閥争いみたいになってましてね。ゴリ押しもできません」
「極道の世界も厳しいな」
「そうなんです。お願いできませんか」
「わかった。僕が引き取るよ。そして、詫び料込みで五百出す。ただ、祐樹の先輩として、堅気の仕事につけるためとしておいてくれ。取引のことは絶対出すなよ」
「ありがとうございます」
「いつ、引き取りに行けばいい」
「明日にでも、来てくれますか」
「わかった」
「ところで、先輩。なに、しょうとしてるんです」
「知らない方がいい。お前に迷惑かけないようにするから」
「そうですか」
「根回ししといてくれよ。組事務所で弁明はつらい」
「はい」
翌日、本間直人という若者を後藤組から引き取った。まだ若い。二十二歳だ。背は高くないが、顔立ちの整った男前で、かつらをつければ時代物の映画に出演できそうだった。二か月前に隣の部屋が空いたので借りていたのはこんな事を想定していたわけではなかったが、本間をそこに住まわせることにした。本間に百万渡して、引っ越してくるように言った。逃げるなら、別に追うつもりはない。組長は五百万で売った、といったが、浩平は買ったつもりはない。縁がなければ、いつかは離れていく。それでもいい。
翌日、自分でレンタカーを運転して、本間が引っ越してきた。荷物を運び入れるのを浩平も手伝った。
「このまま、浦和まで、行ってくれ」
「はい」
浦和で適当に不動産屋に入り、部屋を借りた。浩平が、手に入れた戸籍の男になり、本間が今まで住んでいた住所を書いて保証人になった。不動産屋は住民票を出せとは言わなかった。次に船橋に行って、浩平は二人目の戸籍の男になり、浦和の男が保証人になって部屋を借りた。川崎でも同じようにした。今は三人分の戸籍しかないが、戸籍屋の大村商事には引き続き、手に入れるように言ってある。何度かローテーションして、捜査の後追いができないようにするつもりだった。当面は住民票の転入をして、保険料と年金を払い、銀行口座を作る。善良な市民の形が整えば、転居したことにする、そこへ新しい戸籍の男が入居する。善良な市民となった行方不明者ができあがり、別の場所で架空の生活をすることになる。一年経てば、最初に保証人になった本間の名前も消えてしまい、本間を手掛かりとして浩平にたどり着くことも難しくなる。              今、浩平がやっているのは一年後を想定している。全てが役立つとは思っていないが、考えられる準備はすべてやっておきたかった。菅原が空き巣に入る民家を決めた時は、充分な準備をする。それが成功の秘訣らしい。今度忍び込むのは、民家ではなく国家機関だから、より緻密な準備が必要だった。想定できない事態は、いくらでも起きる。浩平の想像力が成否を分けると言っても過言ではない。時間が必要となる対策は事前にやらなければならない。
三軒のアジトの管理は本間に任せた。転出と転入、郵便物のチェック、家賃の支払いなど、月に何度かは三か所を回らなければならない。本間は必要な事以外は、口を開こうとしなかったし、その表情は暗いままだった。後藤に確認したが、もともと明るい性格ではないと言っていた。だが、浩平は自分と同じ臭いが本間という若者の中にあることを感じていた。それが、何なのかわからないが、気になることは気になる。中学の頃から不登校で、高校も行っていないと後藤が言っていた。一匹狼で、十代の頃から喧嘩は強く、不良グループも本間を避けていたらしい。
都心の北方向にもアジトになるアパートを確保するために、浩平は本間を連れて代々木に向かった。大久保でもよかったのだが、代々木でアパートを借りた。これで、本間は四軒のアパートの面倒をみなければならない。
「四軒も大丈夫かな」
「はい」
「そうか。無理なら言ってくれ。僕も行くから」
「はい」
浩平は本間を連れて新宿で電車を降りた。学生の時以来だから八年は経っていたが、歌舞伎町の人ごみは変わっていなかった。
「新宿は」
「いえ」
「どっかで、なんか食って帰るか。相変わらず、ここはあまり好きになれない」
歩いているうちに、裏道に入ってしまった。大通りに引き返そうとした時に、四人の男に取り囲まれた。いかにも筋者と思える様子なので、路地の奥でなにかが行われているらしい。浩平も本間も地味な服装なので、単にインネンをつけられている訳ではないのだろう。奥で人が争う音が聞こえてきた。
「こら、なに、見てんだよ」
「すみません。何も見てません。失礼します」
浩平は素直に謝って、引き返そうとしたが、本間が一歩前に出た。
「てめえ。何のつもりなんだ」
一人が、本間の胸ぐらを掴もうとしたが、本間は半歩引いて相手に体当たりをした。充分に体を沈めた体当たりだったので、男が後の壁に激突した。本間は、すぐに次の相手に左ストレートを繰り出したが、別の男の蹴りが本間の腹に入って、本間は前のめりになった。三人が一度に襲い掛かり、本間が地面に這った。地面に這った本間には、三人の蹴りがやってくる。浩平は背中を向けている男に前蹴りを送った。男は本間の体の上を飛び越して、一回転する。浩平は振り向いた二人の男の鳩尾に正拳を打った。男たちがその場に崩れ落ちるのを確認して、本間を立ち上がらせた。最初に壁に激突していた男が、大声を上げながら、浩平にパンチを繰り出したが、男は浩平の蹴りを受けてその場に沈んだ。
「行くぞ」
「はい」
二人は走った。もう、食事どころではなかったので、田端まで戻り、いつもの「美美亭」の野菜炒めになった。
「僕を、守るつもりだったのか」
「すみません」
「ありがとう。でも、僕のことは、守らなくていいから」
「はい」
部屋に戻って資料作りを始めた。浜中調査事務所から、厚労省の官僚の写真が集まってきている。恐喝業務の基本になるであろう、官僚のデータベース資料。それは、営業マンが顧客管理を行うソフトで、スキャナーからの顔写真も貼り付けることができるし、キーワードによるソート機能もあった。
ドアを叩く音がして、本間が顔を出した。
「おう。入れよ」
「はい」
まだ、新宿のことを気にしているのだろうか。
「茶、飲むか」
「いえ」
「突っ立ってないで、座れば」
「はい」
「冷蔵庫にビール、あるけど」
「いえ」
突然、本間は板の間に土下座をして、額を板につけた。
「すんません」
「わかったから、座れ」
浩平は少し強い声で言った。菅原の指定席になっている椅子に本間が座った。
「本間君、今から話すことは、説教じゃない。僕は、もう君とは仲間のつもりだから、そのつもりで聞いてくれ」
「はい」
「今からは、ここ、と、ここ、なんだ。これは役に立たない」
浩平は最初に、頭と胸を指でさし、拳を握って見せた。
「頭と度胸を鍛えろ。喧嘩は、もう卒業する時だ。自分の強みは喧嘩だと思ってるだろうが、餓鬼の喧嘩は終わりにする歳だと思う。いいか、一対一で、相手が弱ければ、相手を制圧できる。一対二でも、もしかすると勝ち目はあるかもしれない。でも、それ以外は、自分の負けになるんだ。素手で来るとはかぎらない。刃物やチャカを向けられて、勝てるのか。だから、喧嘩で勝とうとしても、意味はないんだ。護身用の力を持つことは必要だけど、それは喧嘩の道具じゃない。ギリギリの所を切り抜けるための道具にすればいい。僕はそうしてる。もっとも、本間君が僕のようにはなれないし、なる必要もない。僕は二十五年かけて、今の力を作った。でも、役に立つことのほうが、はるかに少ない。いいか、喧嘩に勝っても、自分の中には何も残らない。そう、思わないか。今日だって、喧嘩には勝ったけど、新宿から逃げかえっただけだ。何も残らない。多分、喧嘩の数では本間君の方がはるかに多いと思うが、何が残った。喧嘩は卒業するべきだと思う。もう、わかっていると思うけど、僕は堅気の善良な市民ではない。自分勝手な馬鹿もんにすぎん。ワルを食い散らすワルになろうとしてる、どうしようもないワルなんだ。そのために、僕は頭と度胸を鍛えてる。本間君も、今までため込んだもの、全部捨てることを、お勧めする。せっかく、破門されて、人生が変わったんだから、今がチャンスだと思う」
「・・・」
「よけいな、お世話だったか」
「いえ」
「ともかく、今日のことは、忘れることだ」
「はい」
「パソコンは」
「いえ」
「これ、手伝ってくれるか」
「俺には」
「そうか」
浩平は、パソコンの画面に目を戻した。役所の部局の多さと、公務員の多さにはびっくりする。今、一種合格者の名前を調べてもらっている。重点調査は、キャリアから始める方が効率的かもしれない。
「片山さん」
「ん」
「お聞きしても、いいですか」
「なにを」
「どうして、俺を、引き取ってくれたんですか」
「後藤君に頼まれたから。・・・でもないか」
「・・・・」
「後藤君に頼まれたのは本当だけど、別に引き受ける義理はない。君に会うまでは、なぜ、引き受けたのか、自分でもわからなかった。でも、組の事務所で会った時、これでよかった、と思った」
「どうしてですか」
「何と言うか、匂いかな。どこか、僕に似てる。それだけだ」
「片山さんに、ですか」
「いや。よく、わからん。もう、いいだろう」
「すんません」
「悩むんだったら、自分の部屋でやってくれ。気が散って、困る」
「すんません」
浩平は本間を無視して、入力作業に本腰を入れた。

久しぶりに菅原の携帯に電話した。電源を切らずに、持っているようだ。
「菅原です」
「片山です。手の空いた時に、寄ってもらえませんか」
「わかった」
三時間後に、菅原が部屋に入ってきた。
「菅原さん、携帯の約束、守ってくれてますね」
「深雪の猛特訓に耐えてる」
「ほう」
「メールでもいけます」
「すごい」
「いや。一寸、楽しい」
「よかった」
「仕事ですか」
「違います。菅原さんの仕事は民家ですよね」
「ん」
「事務所は」
「ない」
「防犯カメラが、これでもかっていう事務所に入れますか」
「んんん」
「そこで、なんですが、就職してくれませんか」
「就職」
「電気工事の仕事について欲しいんです」
「電気なんて、やったことない」
「だから、です」
「電気か」
「次の仕事になるのは、厚生労働省の建物になると思います。厚生労働省の出入業者に、すぐに入れとは言いません。電気の技術を多少覚えておいて欲しいんです。僕も就職するつもりです」
「そうか。やってみる」
「お願いします」
「でも、履歴書とか、いるんだろ」
「小さな会社なら、調査はしませんよ。旅館の番頭やってましたと書いとけば、いいですよ。上野原旅館はもうないし」
「そうか」




菅原が錦糸町の電気工事会社に就職し、浩平も田端電気という近くの会社に就職した。三週間後に本間がその田端電気に見習いで入社してきた。
「どういうこと」
本間の行動が理解できずに、アパートに戻ってから問いただした。
「すんません。片山さんが働いているのに、俺が遊んでる訳には」
「アパートの方は」
四か所のアパートの管理は本間に任せてある。
「夜、行きます。日曜もありますし」
確かに、浩平は忙しい毎日を送っていた。田端電気の勤務を終えてから、夜遅くまで資料作成をしている。ぼろアパートなので、隣の住人が何をしているのかは筒抜けだ。本間が自分だけ遊んでいるように感じても仕方なかった。最近、本間は変わった。もともと無口な男だったのだろう。無駄な話はしないが、目に力がある。浩平の一言一言を真剣に聞き、自分から前進する意欲も感じられる。拗ねた様子はなくなり、素直な、いい若者になっていた。浩平は本間に自分のバックアップをしてもらいたいと思っている。そろそろ、今度の構想を話す時期だと思った。
「僕が就職したのは、生活費のためじゃない」
浩平は新種の暴力団立ち上げの構想を話した。
「本間君には、僕のバックアップをお願いしたい。そのうちに、僕一人ではできなくなると思ってる。頼めるかな」
「俺なんかに、できることなんですか」
「僕は、そう、思ってる。せっかく、暴力団、辞めたのに、また、暴力団の一員じゃ、困るか」
「とんでもありません。ホッとしてます。片山さんに言われれば、堅気の仕事もしますけど、いつまで続くか自信ありません」
「堅気の仕事の、何が、気にいらん」
「これが、世間の常識だという態度が、駄目です」
「みんな、そこと折り合いつけて、やってる」
「でも、それが、嘘だと、知ってます。奴等は自分さえよければいいんです。俺がたいした人間じゃないこと、わかってますよ。俺も、自分さえよければ、やってますけど、それが、正しいことだとは、思ってません。極道は、自分が正しいなんて、誰も思ってない。だから、後指さされながら、極道やってます」
「そうだな」
「俺は、どうすれば、いいんですか」
「前にも言ったけど、こことここだ」
浩平は頭と胸を指した。
「本間君は、自分はここが駄目だと思ってないか」
「学校も行ってないし、勉強もしてませんから」
「受験するなら、致命傷だろうな。でも、僕たちは、そうじゃない。学歴なんか、なんの役にも立たない所で生きている。いいか、できない、じゃなくて、やるんだよ。誰かが何かやってくれる訳じゃない。自分の道は自分で作る。他に方法あるか」
「ありません」
「だから、頭を鍛えるんだ。そして、考えたことを実行するには、度胸がいる。腕力はそこそこでいい、僕はそう思っている」
「はい」
「本間君なら、できる」
「片山さん。一つ頼みがあります」
「なに」
「俺、片山さんを、ボスだと思っても、いいすか」
「僕は、仲間だと思ってるがな」
「片山さんは、俺より、年上、っすよね」
「ああ」
「ずっと、気になってしょうがないんですけど、本間君とか、君とか、やめてもらえませんか。なんか、自分が、みじめになるんです。変ですか」
「すまん。癖らしい。何と呼べばいい」
「直人です。それと、君ではなく、お前で、お願いします」
「直人君」
「違いますよ。呼び捨ての直人です」
「呼び捨てか」
「俺、まだ、呼び捨てしてもらえるだけの、信用ありませんか」
「いや。そういうことじゃない。慣れてないんだ」
「俺、頭、鍛えます。だから、呼び方替えてください。こういうの、他人行儀って言うんですよね」
「他人行儀か。わかった。替える」
「仲間って、何人ですか」
「今は、五人。菅原さん、浜中さん、阿南さんと僕たち二人。いずれ、紹介するけど、みんな年上の人ばかり。多分、将来は百人位になるかな」
「俺、五人目っすか」
「数の上では、そうなるけど、先輩後輩も、歳も関係ない。直人がトップやった方がよければ、トップになる。本人の総合力だろう。今は、言いだしっぺの僕がトップをやってるだけだ」
「総合力って、何です」
「こことここさ」
「やっぱり」
次の日曜日に、本間が秋葉原へ行って、パソコンを買いたいと言ってきた。
「こっから、使ってもいいすか」
「お前に預けてある金は、自由に使える金だよ。女に使っても、バクチに使ってもいい。必要なら、いくらでも渡す。いちいち聞くな」
「はい」
次の日から、本間は一分の余裕もない生活を始めた。寝る時間があるのだろうかと心配だった。二週間程して、本間が浩平の部屋にやってきた。
「片山さん。全然、駄目です。最初は教えてもらって、いいっすか」
「待ってたよ。一から独学は無理。いつ、来るか、待ってた」
「すんません。お願いします」
本間にパソコンを教える仕事が加わり、浩平の忙しさは、その度合いを深めた。そんな時に阿南から連絡があり、接触している筒井という男が住んでいる藤沢まで出向く必要ができた。現金を見せろと相手が言っている。浩平は一億の現金と阿南を車に乗せて、藤沢に向かった。
「これって、自宅なんですか」
「わからない。横浜で何度も会ってるから、横浜だと思ってた。何かの罠なんだろうか」
「そんな、様子ありましたか」
「ない、と思う」
「出たとこ勝負で、行きましょう。阿南さんと二人なら、なんとかなりますよ。人間相手に気道使ったことないから、一寸楽しみです」
「気道」
「自分で勝手につけた名前です」
「武道」
「その積もりですけど、多分、殺人道なんだと思います」
「どんな」
「説明は難しい」
「まあ、片山さんがいるんだから、安心してます」
「阿南さん。命、張っちゃ駄目ですよ」
「はい」
鵠沼の海岸から少し入った住宅街に筒井の家はあった。質素で古い日本家屋だった。
庭で野菜を育てている。畑にいた男が二人に近付いてきた。義足のせいか、歩き方が不自然だったが、その表情は柔和に見える。
「すまんな。こんなとこに呼び出して。説明するから、無茶しないでくれよ」
筒井は軽く両手を挙げて、降参の仕草をして見せた。
「あんたが、ボスの片山さんか」
「はい」
「阿南。少し、力抜けよ。今にも飛びかかりそうだぞ。何の仕掛けもない」
案内されたのは、広い洋間だった。
「こういう家が好きなんだけど、畳に座るのがつらくてな。コーヒー入れるよ」
「ありがとうございます」
浩平は部屋を見回した。薄っぺらな部屋ではなく、金をかけた部屋のように見えた。
「いい部屋ですね」
「そう思うか」
「落ち着けそうです」
「嬉しいね、そう言ってくれると」
コーヒーメーカーをセットしておいて、筒井が大きな本棚の方へ行って、下の方の扉を開けて何かをやっていた。
「阿南。これ、押してくれ」
阿南が本棚を押すと、本棚が簡単に動いた。壁のようにみえる板を筒井がスライドさせると、何段もの棚があらわれる。隠し戸棚だった。
「片山さん。先ず、これを見てくれ」
木箱の蓋を開けると、銃器が並んでいた。短銃、小銃、ライフル銃だ。
「手入れはしてある。すぐに使える」
別の箱には銃弾が整然と入っていた。
「実は、これを買ってもらいたい。俺のコレクションだけど、金がいる」
「見てもいいですか」
阿南が、筒井の許可をもらって、一つずつ手にとって確かめている。
「俺は、現役を引退した老いぼれだけど、静かな余生というのが性に合わん。アメリカの友人がやってるセンターの仕事を手伝わせてもらうことになった。ただのトレーニングセンターじゃなくて、殺人マシーン養成トレーニング。非合法だけど、人気があって人手がたりない。片足無くても、いいそうだ。それで、これの処分をして金を作りたい」
「それで、ここに呼んだんですね」
「これだけのもの、動かすのも大変だし、片山さんは全部買ってくれそうだったからな」
「わかりました。全部、買わせていただきますが、この家ごと売りませんか」
「家ごと」
「もう、日本には帰ってこないつもりなんでしょう」
「まあな」
「家は置いておきたい、ですか」
「ん。できれば」
「じゃあ、十年間、貸してください。十年分の家賃は払います」
「ありがたい」
「僕の希望を言います。全部サイレンサーが装着できるようにしてください。もちろんサイレンサー本体も必要です。それと、銃器の補充ルートを作ってください。爆薬も欲しいと思ってます。あと、可能であれば、マネーロンダリングの請け人になってくれるとありがたいです。これに関しては別途手数料を決めてください」
「あんた、戦争する気か」
「いえ。そんなことにはなりたくありませんが、いつか自衛隊を向こうに回して戦う必要が無いとは言えません。ずっと、先の話ですよ」
「わかった。ひっくるめて、いくらで買ってくれる」
「家賃込みで、一億。現金で」
「そうか。片山さん。もう一つ、無理きいてくれるかな」
「なんでしょう」
「横浜に倉庫を一つ借りてる。三十年契約で、まだ、半分残ってる。実は、その倉庫の地下に射撃場があるんだ。そっちも肩代わりしてもらえないか。賃料は年末に請求がくる。実は、その射撃場、使わせてる人間が何人かいて、それも引き継いでくれるとありがたい。国内には、射撃場が少ないんで、困る奴が何人も出てくる。それに、あんたたちも練習場所が必要だろう」
「もちろんです」
「その地下の施設を作るのに金がかかってる。それを、回収させてもらってもいいか。別の奴に頼むつもりだったけど、あんたの方が面倒がない」
「いいですよ。今日は一億しか持ってきてませんので、お金は後日でもいいですか」
「一千万でいい」
「わかりました。三日待ってください。持ってきます」
「よし。決まった」
「金は車にあります」
「見てみたいな」
「いいですとも」
浩平と阿南は車に戻った。
「阿南さん、品物は確かですか」
「はい。申し分ありません」
「ここに引っ越してください」
「わかりました。でも、片山さん」
「はい」
「あんた、強いだけじゃない。すごい男だよ」
「買い被りでしょう」
「いや。すごい。筒井さんも納得だろうけど、うちだって、基地が必要です。相方丸く治まるってことです」
阿南が言うとおり、浩平たちにとっては、渡りに船だった。これで、マネーロンダリングの道が開ければ、大きな収穫だ。藤沢まで来た甲斐があった。


10

電気工事会社に勤めてから半年経ったが、浩平は解雇された。突然の休みが多すぎるというのが解雇の理由だった。菅原は真面目に勤務している。もう立派に電気工としての仕事がこなせるようになっていて、誰が見ても職人の風貌になり、深雪が喜んでくれてる、と言っていた。本間は、浩平が解雇されて一週間後に依願退職をした。
「俺、どうしたら、いいっすか」
「実は、直人には、新しい仕事をやってもらいたい」
「はい」
「探偵の仕事」
「はい」
「浜中調査事務所、知ってるよな」
「はい。片山さんが仕事させてるとこですよね」
「立ち上げる新暴力団の中心は調査能力になる。浜中さんにも頑張ってもらうけど、もっと突っ込んだ非合法な調査も必要になると思う。直人は、その組織を作ってほしい。浜中さんには言っとくが、二か月で一人前になってもらえないか。本間探偵事務所を作って、人を集めて暴力団らしい調査をやってほしい」
「二か月ですか」
「ああ、そのつもりで頼む」
「任せてください、と胸叩きたいけど、がんばります」
厚生労働省の調査を始めて、半年以上になり、具体的な案件が出始めている。もっと突っ込むためには別動隊が必要だと考えていた。誰にでも、他人に知られたくない事の一つや二つはある。愛人、不倫、性癖、万引き、交通事故のもみ消し、家族の問題、と数限りがない。個人のスキャンダルを足掛かりにして業務上の不正を調べる。大きな金になるのは、この業務上の不正だ。時には、暴力や拷問も必要になるだろうが、その分野は浩平が自分でやるつもりだった。自分の我儘でやっている以上、他人に罪を被ってもらうことを少なくしたい。仲間になってくれた人は、違法を承知の上だが、この覚悟が礼儀だと思っていた。厚生労働省医薬局研究推進課の課長、木谷昌一を最初のターゲットにする。愛人問題があり、その愛人は特殊法人の医薬推進協会の職員になっている。木谷昌一はかなり派手に遊んでいて、愛人も一人ではない可能性がある。医薬推進協会の職員が、なぜ銀座のクラブに勤めているのか、以前二葉銀行の女子行員から情報を引き出してくれた保田に依頼して、古川美和という女性の調査が始まっている。この調査の期間は、浩平の指示で動くことを了解してもらっている。ホステスのマンションの近くにある安アパートを借りて、保田は古川美和に近づいた。貧乏も売りになりますから、と保田は言った。
「皆には、役得だと言われるんですが、そんなんじゃないんですよね」
「どうして」
「片山さんも、そう思ってるんだ」
「僕が思ってる、と言うより、そう聞いてる」
「吉村さんでしょう」
「ん」
「僕は、女と言う生き物、大嫌いなんです。だから、僕にとっては苦行なんです。でも、これしかできないみたい。仕事と割り切ってやってるから、なんとか」
「そうなんですか」
「好きでやってると思われてますよね」
「だろうな」
「違う才能欲しい、と思ったことありません」
「あるある」
「でも、ないんですよね」
「ん」
「今ある才能と心中するしかない。これが、生きるってことなんでしょう」
「そうかも」
「僕が、女好きになったら、女は落とせない。矛盾してます」
「探偵の仕事が嫌いですか」
「わかりません。僕、前に事務機の営業やってたんですけど、二年で辞めちゃいました。この仕事は五年続いてますから、嫌いでもないんでしょうね」
「ちょっとだけ、偉そうなこと、言ってもいいですか」
「なんです」
「人には、決められた道というか、そうしかならない運命みたいなもんがあると、僕、思ってるんです。これ、僕の場合ですけど。運命から逃げてもうまく行きません。だから、僕は、自分の運命に踏み込んでやれ、と思ってます。保田さんに、そうしろ、とは言いません。僕はそれで、随分楽になりました」
「片山さんって、訳のわからない人ってだけじゃなくて、哲学者でもあるんだ」
「嫌われたか」
「とんでもありません。好きになっちゃいましたよ。僕も、最近、そう思ってるんですよね。土足で自分の運命に踏み込んでやれってね」
「釈迦に説法だったな」
「嬉しいですよ。誰にもこんな話できなかった。片山さんって、人畜無害な顔をして、実は怖い人なんじゃないですか」
「ばれましたか」
二人は大笑いをして別れた。
四か所のアパートの管理は、浩平が引き継いでいる。船橋の帰りに錦糸町に寄って、菅原に会った。
「菅原さん。ビルの一室から、資料を取りたいんです。やってもらえませんか」
「いよいよ、始まるか」
「カメラの場所は、僕が確認します」
「助かる」
浩平は準備を始めた。医薬推進協会は新橋の雑居ビルの五階にある。田端電気の作業服に手を入れて、関東電気工事という会社の作業服にして、医薬推進協会に向かった。浩平は買い取った戸籍の沢松一郎のネームプレートを胸につけ、ワープロで打ち出した作業指示書を持っている。作業指示書の訪問会社名は、隣のビルの五階にある会社名になっていた。
ビルの入口に二台のカメラを確認。常駐管理人はなし。エレベーターにカメラ有り。階段にはカメラなし。トイレを確認、カメラなし。廊下にもカメラはなし。浩平は堂々と医薬推進協会のドアをノックして中に入った。
「関東電気です。調べにきました」
「はあ」
事務机は十台ほどあったが、年配の男性が一人と、中年の事務員が一人、どうやって暇つぶしをしようかと思っていた様子だった。
「臭いって、どんな臭いですか」
「一寸、待って、うちでは、そんな依頼してませんよ」
「えっ」
「階、間違えてるんじゃないの」
事務員の中年女性が、立ち上がってカウンターへやってきた。男性は、関係ないとばかり、窓の外に視線を移した。
「ここ、五階ですよね」
「そうだけど」
浩平はボードに挟んである作業指示書に目をやった。
「見せて」
事務員が浩平の手からボードを取り上げた。
「あなた、これ、隣のビルじゃないの」
「えっ」
「それに、入口のプレート見たの。うちは医薬推進協会」
「うわ」
「しっかりしなさいよ。急ぎなさい。火事にでもなったら、どうするの」
「はい。すみません。申し訳ありません」
医薬推進協会の部屋の中にカメラはなし。浩平はビルを出て、隣のビルに入った。隣のビルに用事がある訳ではないので、入口にあった自動販売機でお茶を買った。
日曜日に浩平と菅原は普段着で新橋のビルの下見にきた。平日と違って、車も少なく、人通りも少ない。駐車スペースにも困らなかった。
「僕も一緒に中に入れませんか」
「ん」
「盗聴器も仕掛けたいし、コピーする資料も多いから」
「片山さんと出会ってから、初体験ばかりだな」
「難しいですか」
「いや。初体験はこなしていくつもりだから、やってみよう」
「安全第一ですよ、菅原さん」
「わかってる。見てくる」
菅原は車を降りて、隣のビルに向かった。医薬推進協会が入っているビルと違って、隣のビルには、人の出入りがそれなりにある。菅原は三十分ほど出てこなかったが、両手に缶コーヒーを持って出てきた。
「片山さん、高所恐怖症はないよね」
「はい。大丈夫です」
「隣のビルは、文字通り雑居ビルで、セキュリティーは弱い。屋上に行って来たけど、隣のビルに行ける。階段にカメラないな」
「はい」
「じゃあ、二人で行こう」
「お願いします」
それからの一週間、夜遅くになって、下見を三回やった。菅原が納得できるまで、浩平は口をだすことはしなかった。菅原の許可が出て、実行は金曜日の夜と決まった。七時までに、階段を使用して最上階の空き部屋に来るように言われた。医薬推進協会に侵入するのは、深夜の一時となる。
菅原は先端に大きな釣り針のようなものがついているロープを投げて、身軽に隣のビルに移動した。ロープを張り直し、そのロープに命綱をつけて、浩平は空中を移動した。運動神経には自信がある浩平だったが、足が地に着いていない不安は大きかった。着地した時には、自然と大きな吐息をついていた。
「大丈夫か」
「はい」
屋上の扉の鍵は、菅原の手にかかり、すぐに解錠され、二人は中に入った。十一時に警備員の見回りがあることは確認しているが、警報装置の有無は確認できなかった。菅原は、階段のドアや廊下の機器を調べて、警報装置のセンサーらしきものはないと判断した。
五階の医薬推進協会に侵入し、盗聴器の取り付けを菅原に頼み、浩平は書庫とロッカーを調べた。浩平の目的は、従業員の人事資料、できれば年末調整の時の資料が欲しかった。資料は事務員の机の引き出しにあった。鍵はかかっていたが、別の引き出しに、その鍵があり、菅原の手を煩わすこともなかった。給与明細も振込銀行の資料も見つかり、浩平はコピー機の電源を入れた。コピー機の音が気になったが、他に方法がない以上危険を冒す必要がある。落ち付いてコピー作業に集中するだけだった。二十分で菅原が取り付け作業を終えて、手伝ってくれたので、約四十分でコピーが完了した。慎重に現状復旧作業をして、侵入してから四十五分で医薬推進協会の部屋を出た。隣のビルに戻り、二階の窓から地上に降り、菅原が調査した逃走経路で大通りに出た。終電も終わっているのに、まだ多くの酔っ払いが動いていた。タクシーで代々木まで行き、五分歩いて代々木のアパートに入った。あとは静かに朝まで眠ることだ。菅原との間に会話はほとんどない。浩平は目を閉じて、今度の仕事を最初からたどってみた。移動手段と運転役が必要だと反省した。タクシーでの移動は危険がある。車とナンバープレートを手に入れる。小さな倉庫を借りて、駐車場として使う。資料を盗み出す仕事はこれからもあるから、高性能なカメラも必要だ。コピー機を動かしてたんでは駄目だと思った。まだまだ、準備することは一杯あった。
翌日は、近くにある月極駐車場の契約をして、レンタカーも一か月借りた。毎日データを取りに新橋まで行かなくてはならない。資料にあった医薬推進協会の職員のうち、古川美和を除いた職員の調査を浜中調査事務所に依頼した。
一週間、盗聴データを確認したが、事務所の中は静かなもので、いつもの二人の声しか録音されていない。女子事務員が長電話をしている時は、あの年配の男性職員も来ていないようだった。給与明細では、年収一千万を超える職員が六人はいるはずだったが、その姿もない。私用電話以外の電話がかかってこない。仕事をしている様子もない。経理資料によれば一億五千万の収入があり、その大半は人件費になっている。調査中の職員が何者かがわかれば、そのカラクリも解明できるだろう。


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