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海の果て 第3部の 1 [海の果て]




 片山浩平は京都に来ていた。各地の道場を訪ね、もう一度、武道に救いを見つけようとしたが、その旅は武道に決別するためのものになった。やはり、殺人拳の生きる場所はどこにもない。福岡と大阪で整形外科に通院して小さな整形をしたので、白石亜紀が気づいてくれるかどうか心配だった。北白川に訪問するのは約三年ぶりだった。電話の声は元気で落ち着いていたから、あの事件は乗り切ってくれたのだろうか。それとも、乗りきったふりをしてくれたのだろうか。
入口の門は開いていたので、屋敷の中に入った。そう言えば、玄関から訪れたのは初めてで、少し緊張する。玄関のブザーを押して、少し待つと大きな引き戸が開き、上品な中年の女性が出てきた。
「片山といいます」
「おこしやす。奥様がお待ちしております」
女性は身を引いて、中に入るように言った。綺麗に手入れがされた広い玄関。昔の武家屋敷の玄関もこの様なものだったのかもしれない。女性はもう一度浩平の靴を揃えてから案内をしてくれた。時間の流れが、京都では遅いのだろうか。
広い客間に案内された。その客間は天井裏から見たことがある。亜紀が陣内組の組長の首に短刀を当てた場所だった。障子とガラス戸が開け放たれていて、広い庭が一望できる。浩平には庭の良し悪しはわからなかったが、見ていると落ち着く。世の中の争い事とは無縁の場所に思えるが、この家の主はその争い事で命を落とした。
着物姿の若い女性と小さな女の子が部屋に入ってきた。
「片山さん。また変装してます」
「はい」
前回に変装していて警戒されたのを思い出した。変装ではなく整形だったが、そのことは言わなかった。
「お元気そうで」
「そう見えますか。よかった」
「この子が、あの時の」
「ええ。優といいます。優ちゃん、ご挨拶して」
「白石優です」
母親の美しさは、言葉にできないほどだが、その娘の可愛さもとびぬけていた。
「片山浩平です」
優はにっこり笑って、母親の顔を見た。「どう、上手にできたでしょ」という顔つきだった。母親の亜紀に東京で初めて会った時にも感じたが、その子供の白石優にも気品があった。白石亜紀は私生児で生まれ、貧乏と一緒に成長したはずなのに、凛とした気品があった。白石優は本物のお姫様なのだから気品があるのだろうか。
案内してくれた中年の女性がお茶を持ってきた。
「久さん。優をお願い」
「はい」
久と呼ばれた女性に手を引かれて出て行く優が、振りかって浩平に笑顔を置いて行ってくれた。
「片山さん。優に気に入られたみたいですよ」
「嬉しいです」
「何からお話すればいいのか。最初にお礼をもうしあげます。白石の今があるのも、優も、片山さんのおかげです。あの時、優を流産して、自分で陣内組や工藤に復讐をしていたら、全てを失っていました。白石はそんなことを望んでいませんでした。でも、片山さん一人に押しつけてしまったこと。とても、申し訳ないと思っているんです」
「もう、済んだことです。僕は白石さんに恩義があり、白石さんのためにやったことです。あなたが負担に思うことではありませんよ。あなたの元気な顔と優ちゃんの顔を見ることができました。多分、白石さんには納得していただけたと思います」
「そう言っていただけると。ありがとうございます」
「白石さんにお線香を」
「ありがとうございます。白石が喜びます。白石はあなたのことが、本当に好きでした」
案内された仏間は広く、お香の香りで満ちていた。古い仏壇には、白石の写真が置いてあった。写真で見ても、白石の慈愛に満ちた目は健在だった。自然と手を合わせた浩平は、その写真に見入った。自分のような男を養子にしたいと言ってくれた白石。こんなに素晴らしい人が、欲深い人間の犠牲になって死んでしまう。誰かのためにと生きてきた人が、自分さえよければという強欲の人間に殺されてしまう。この不条理は一体何なのだ。自分族同士の殺し合いは仕方がない。殺るか殺られるかという我欲の中に選択肢はない。それでも、人の命を奪ってしまった傷は予想以上に深かった。争わずに生きる道はないのか。自分族にやりたいようにやられても、争ってはいけないのか。浩平の傷はまだ癒えていなかった。
「白石と何を話してたんです」
客間に戻った亜紀が聞いた。
「いろいろです」
「片山さんに、来ていただいて、白石はほっとしたと思います」
「白石さんは、あなたの中で、まだ生きてます。あなたに後を託したことを、白石さんは納得していると思います。僕でなくてよかった」
浩平は、白石から養子にしたいと言われて驚いたが、亜紀を後継者にしたことは正しかったと思っている。そう言う意味では、亜紀と浩平は義兄弟なのかもしれない。最初に出会った時の亜紀は直線的な目をしていたが、今は柔らかい目になっている。白石に似てきたのか、白石が遺産として置いて行ったのか。
「忙しいですか」
「はい。これほどとは思ってませんでした。白石はどうやってたのか聞いてみたいと思ってます」
「今日は」
「今日は一日空いてます。必要なら何日でも」
「忙しいあなたの時間を取ってしまって、申し訳ないんですが、僕のお願いを聞いていただけますか」
「もちろんです」
「詳しいことは言えませんが、僕が犯罪者だということはご存じですよね」
「はい」
「できるだけ、ご迷惑をかけないようにしますが、表社会での知人は、あなたしかいないんです」
「はい」
「しばらく京都に住みたいと思っています」
「はい」
「家を探してもらえませんか。できるだけ田舎の方がいいです」
「大丈夫です」
「相馬保育園を紹介してもらいたい」
「寄付の件ですか」
「いいえ。人を捜しています」
「人を」
「忙しいあなたにお願いし難いんですが、京都で基金を作る仕事を手伝ってもらいたいんです」
「基金」
「京都子供基金を作りたいんです。親を亡くした子、親と暮らせない子、親と暮らしてはいけない子、そういう子供たちを受け入れてくれている民間の施設は全国にありますが、どこも運営は苦しい。そして、一定の年齢になると施設を出て行きます。大学まで行かせてくれる施設は少ないんです。僕は大学を中退しているので、大学というところに何かがあるとは思っていませんが、本当に勉強したいと思っている子供もいるでしょう。そして、施設を出た子供が辛い生き方をしているのを知っています。本人次第だと言われればそれまでですが、まだまだ助けを必要としている子供は大勢います。古くからのやり方が限界にきているのに直せない。その第一の原因がお金なんです。京都の財界、宗教界、民間から寄付を集めて基金を作りたい。それを雛型にして、全国に広げていきたいと思っているんです。僕一人の力ではできません」
「基金というのは、利息で運営するってことですよね」
「そうです」
「とても、大きなお金が要ると思いますけど」
「最初は、それほど大きくなくても、いいんです。その母体を作って、別の寄付を受け入れるんです。ただし、寄付金の出所を秘匿できる団体にしたいんです」
「できるんですか」
「どなたか、政治力のある方の協力が必要ですが、可能だと思います」
「そして、片山さんが寄付をするんですか」
「ええ。僕は、二千億のお金を出します」
「二千億、ですか」
「はい。全て、不正なお金です。出所を追及されたら、逮捕されるだけです」
「片山さんも施設で育ったんですか」
「いいえ。でも何人も知っています」
「どうして、です」
「・・・」
「どうして、そこまで」
「亜紀さんは、自分族という言葉、知ってますか」
「はい。自分さえよければ族ですね」
「知っているんですか」
「私も自分族でした。まだまだ、抜け切れていませんが、白石のような誰か族になりたいと思っています」
「そうですか。僕は、自分族の上前をはねるぐらいの自分族なんです。際限がありません。自分のこの行き詰りを打ち破ることができるのは、誰か族なんじゃないかと思ったんです。ところが、これも自分のためなんですよね。笑えるでしょう。それでも、挑戦してみたいんです」
「そうだったんですか。銀座の中華飯店でお目にかかったとき、片山さんは、自分が歩いているのは悪の道だと言いました。悪の道だとしても、自信を持って歩いているのだと思っていました。そんな、片山さんでも迷うことがあるんですね」
「ええ。迷いの海で溺れている気分です」
「数か月でしたが、私も施設で暮らしました。園長先生や職員の皆さんの苦労も知っていますし、子供たちの悩みもわかります。白石の後を継いで、園への支援は続けていますが、これって違いますよね。もっともっと、しっかりとしたものが必要です。残念ですが、それって経済基盤なんです。本当は、園が親にならなくてはいけないんです。十八歳になったら、もう親でも子でもない。ありえないでしょう。子供は誰でも国の宝なんです。たとえ、大人になって国の役に立たなくても、子供の間は宝なんです。碌でもない親の子供として生まれてしまった子供だって宝なんです。子供に親を選ぶチャンスがない以上、これは大人の最低限の責任です。悔しくて、悔しくて」
庭に向けた亜紀の目には殺気が乗っていた。
「ごめんなさい。片山さんにぶつけることじゃないのに」
「とんでもありません。もっとぶつけてください。僕もやる気が出ます」
「私にできるかぎりのことはします」
「ありがとう」
「昼から、相馬園長のところへ行きましょう」
仕事の電話をしてくると言って、亜紀が部屋を出て行った。白石が自慢していただけのことはある。女のくせに決断の仕方を知っている。ああいう女を男前と言うのだろう。
しばらくして、優が一人で部屋に来た。にっこりと笑っただけで、当然のように、浩平の胡坐の中に座った。小さい子供の扱いがわからずに、浩平の方が緊張する。優が浩平の手をとり、前に回した。尾の白い鳥が庭に来て、餌をついばみ始めた。優がその鳥を指さして教えてくれた。浩平は肩の力を抜いて、両手で優を抱いた。涙が出そうだった。今までに体験した事のない安寧がそこにあった。小さな肩と、小さな指、子供は宝だと言った亜紀の言葉が現実として体感できる。
亜紀が戻ってきた。
「あら」
「・・・」
「片山のおいちゃんの相手をしておいてねって、私が言いました」
「そうですか。ここに座られて、僕がオロオロでした」
「自分で座ったんですか」
「ええ」
「この子には、おいちゃんが大勢いるんです。人気者なんですけど、こんなことは初めてです」
「はあ」
「優ちゃん。ありがとう。かあさまとお話があるから、また後でお願いね」
「うん」
「久さん」
先ほどの中年の女性が優を連れていった。
「どうでした。子供の感触は」
「宝ですね」
「でしょう。私が白石と出会えたのも、小さな子供の小さな指でした」
「泣きそうになってしまいました」
「ええ。片山さん、食べ物の好き嫌いありませんか」
「いえ」
「お昼を食べてから、行きましょう」
「はい。ご馳走になります。ところで、練習はまだしてるんですか」
「白石に封印されてしまいましたが、運動で、型だけは」
「一度、あなたの空手が見てみたかった。僕と立ち会ったら白石さんに怒られますかね」
「運動なら平気ですよ」
「この庭で、いいですか」
「すぐに、着替えてきます」
亜紀が着替えに行ったので、浩平は上着と靴下を脱いで、庭に下りた。土の感触と草の柔らかさが気持ちいい。体が自然と動く。山に戻っても動かなかった体が自然に動いている。その動きは殺人拳ではない。武道だと思えた。子供の頃に、父と練習をしていた時を、父の表情を想い出していた。無心になっていた。片山道場では、父の考案した気道と称する武道を教えていた。父の気道は拳法でも空手でもない、守りがその中心だった。浩平の気道は、空気と空気の壁の間にある細い空間に殺気を通す、まさに殺人兵器だった。それは、父の気道と正反対にある気道だった。強さを求めた浩平が正しいのか、守りを求めた父が正しいのか。父の気道が懐かしかった。
気が付くと、廊下に立ちつくしているジャージに着替えた亜紀の姿があった。
亜紀も素足で庭に降りてきた。
「どうして」
「え」
「どうして、私の型を知ってるんです」
「亜紀さんの型」
「ええ」
「これは、父の型ですが」
「私が自分で作った型と、一緒なんですけど」
「父の型は、他ではやってないと思います。亜紀さんの型をやってみてください」
亜紀がやった型は、確かに父の型と酷似していた。
「これ、ほんとに、亜紀さんが」
「ええ。道場で教えてもらったものではありません」
「亜紀さん。道場主になれますよ。父は、これを気道という名前で教えていました」
「・・・」
「僕は破門されましたが」
「驚きました」
「立ち会ってみましょう。遠慮せずに打ち込んでいいです」
亜紀が半身で構え、浩平は自然体で立った。亜紀が殺気を内にため込み、膨らませているのが浩平にはよく見えた。対峙が続き、亜紀の体から汗が噴き出し、息が荒くなる。
「駄目です。打ち込めません」
亜紀が肩を落とした。
「素晴らしい」
「どう打ち込んでも、私、死んでるんでしょう」
「ええ。それを見切った亜紀さんの腕は一流ってことです。全国の道場を回りましたが、僕に勝てる人は誰もいませんでした。見切った人は何人もいましたが」
「私、一回くらいは勝てるのかと思ってました」
「僕に勝てなくてもいいんです。僕の気道は殺人兵器なんです。実験はできませんが、離れていても、一瞬で人の命を絶つ危険な気道なんです」
「気道ですか」
「見えませんけど、空気は一定ではないんです。空気の壁と壁が入組んでいて、細い道が縦横に出来ているんです。その、ごく細い空気の道に殺気を通すと武器になるんです。殺気の大きさを変えると、僕の周囲にいる人は全て死にます。僕は、そんな化物になってしまいました」
「苦しいんじゃありません」
「その通りです。反省してます。父にもよく殺人拳だと言われました」
「お父様は」
「もう、亡くなりました」
「そうですか。きっと、片山さんのことを心配してたんでしょうね」
「今は、そう思っています。親不幸な子供でした」
「奥様。お食事の用意ができましたよ」
廊下から久さんと呼ばれていた女性が大声で呼びかけた。
「久さん。足を拭くもの、お願い」
「はい」
食堂で三人の人を紹介された。亜紀は家族の一員だと言っていたが、いわゆる使用人で、庭担当、料理担当、そして家事担当の三人だった。玄関で出迎えてくれたのは今西久子という家事担当の人で料理担当の今西正とは夫婦だった。料理は京風懐石と言うのだろう、上品な和食で、味は絶品だった。
和久井美緒という女性が迎えにきた。秘書だと紹介された。大人たちが外出する様子を見て、優が「抱っこ」をせがんだ。亜紀が着替えをしてきても、優は浩平の首から手を離さなかった。
「片山のおいちゃんは、また来てくれるからね」
車庫で今西久子に優を渡した時の優の眼差しは忘れられなくなりそうだった。
和久井美緒の運転する車で三人は相馬保育園へ向かった。
「ケーキは」
「はい。積んであります」
「大変だったでしょう」
「ええ。でも、前沢さんは喜んでますから」
「そうね。一度、前沢さんに出張してもらって、ケーキ作りの実演してもらったら、前沢さんにも喜んでもらえると思わない」
「はい」
「改装の時なら時間作れないかしら」
「はい。相談しておきます」
「ケーキの差し入れは、白石が始めたことなんです。美緒さんにお願いして、続けています。白石はケーキのおじさんと言われて、園では人気者でした。今はケーキのお姉さんが人気者になってます。そうよね」
「はい。この仕事はいつも楽しいです。元気が出るんです」
「白石もよく言ってました。ケーキを持って行って、元気をもらって帰るって」
「はい」
相馬保育園は立派な建物ではなかった。園の横にある空き地に車を停めて、和久井がトランクからケーキの箱を取り出した。
「美緒さん。今日は片山さんに持たせてあげて」
「はい」
浩平は大きな紙袋に入っているケーキを両手に持たされた。石段を登って玄関に行くと、数人の子供が三人の大人を見つめてた。すぐに、子供たちが亜紀と美緒にまとわりついてきた。
「ケーキのお兄さんよ」
亜紀の言葉に子供たちの視線が浩平に集まった。一人の子供が、建物の奥へ走りこんで行った。「ケーキのおにいさんだよ」と叫んでいる。玄関にいた子供たちも一斉に走って行った。
「行きましょう」
亜紀を先頭にして、三人は食堂に入った。浩平はケーキを机の上に置いた。続々と子供たちが食堂に入ってくる。
「あきさあん」
小さな女の子が、亜紀に抱きついた。亜紀も膝を折って、その子を抱きしめた。職員の女性がケーキを袋から出して、子供たちが用意した皿に配り始める。浩平は子供たちの勢いに負けて、食堂の隅に押しやられた格好だった。
「すごいでしょう」
和久井が浩平の横に来て言った。
「ええ。あの子は」
「家長のもう一人の子供」
「もう一人の」
「実の子じゃなくて、母親替わりなんです」
食堂に中年の女性が入ってきた。
「亜紀さん」
「先生」
「忙しいのに、よく来てくれたわね」
「はい」
亜紀に言われて、女の子はケーキの列に並んだ。
「先生に会っていただきたい方がいるんです」
「あの方」
「はい」
「談話室に行きましょうか」
「はい」
小さな談話室に四人が座った。
「この方が」
「はい」
「求さんの気持ち、わかるわ。どこか似てる」
亜紀が浩平を紹介すると、園長の相馬由紀が納得したように頷いた。
「片山さんには、京都子供基金を創りたいというプランがあるんです」
「子供基金」
「はい。児童養護施設をバックアップする基金です」
「詳しく教えて」
亜紀が浩平のプランを、不正資金の部分を除いて説明した。
「片山さんは、東京の方」
「いいえ。僕、九州です」
「どうして、京都なの」
「相馬園長がおられるからです」
「私」
「僕一人では、何もできません。大勢の方の協力が絶対に必要なんです。実際に施設を運営されている相馬園長と企業に話を紹介してくれる白石さんが、京都におられるからです」
「そう。亜紀さんの紹介だから、私、片山さんのこと、信用してないわけじゃないのよ。でも、よくわからない。あなたは、何をするの」
「僕は・・・」
「それに、こういう話は何度も立ち消えになってるの。だって、基金にするような金額は集まらないから。お話としては、とてもいいお話ですけど」
この園長先生は一筋縄ではいかない。
「すみません。実はもう少し込み入った話なんですが、ここから先をお話すると、皆さんに守秘義務を強要しなければならなくなります。よろしいでしょうか」
「守秘義務の強要と、おっしゃいました」
「はい」
「穏やかな話じゃないようね。亜紀さんは知ってるの」
「はい」
「そう。だったら、いいわ」
「和久井さんは、どうです」
「私、わかりません。でも家長が了解してらっしゃるなら」
「犯罪に係ることでも、ですか」
「えっ」
「いえ。あなたに犯罪を犯せと言ってる訳ではありません。知りませんと言い通すことができるかという意味です。多少の拷問は覚悟していただく必要はありますけど」
「家長」
美緒は亜紀に救いを求めた。
「あなたの判断でいいのよ。私は知りませんと言い通します」
「僕は、無理強いするつもりはありません。断る勇気も大きな勇気です」
和久井美緒の困惑はしばらく続いた。
「わかりました。私、家長についていきます」
「ありがとうございます。僕は、不正な手段で二千億円を手にしました。この金を基金にしたいんです」
「二千億」
「園長先生。不正なお金で、やってはいけませんか」
亜紀が落ち着いた声で言った。
「驚いたわ。こんな重い話だったのね」
談話室が静まりかえった。
「その犯罪の中身までは、教えてもらえないのよね」
「それは、言えません。亜紀さんにも言ってません。逮捕されても、僕は裏で殺されるだけです。裁判はありません。皆さんは知らない方がいいと思ってます」
「で、私は何をしたらいいのかしら」
「児童養護施設の責任者の方で、この人なら信頼できるという人を紹介していただきたい。全国の全施設に援助したいと思いますが、この金額では無理です。できれば、各県にモデル施設を作りたい。その雛型になる施設を京都で作れればと思っています。実際にどの位の費用がいるのかも、やってみなくてはわかりません。金をばらまくだけの基金では子供たちは救えないと思っています。本当に子供たちの目線でシステムを構築できる人が必要なんです」
「片山さんも、施設で」
「いえ。僕は違います。施設で育ち、苦しい生き方をせざるをえない人たちを知っています。だからと言って、これは施設の子供を甘やかすための基金ではありません。自分の人生を自分の力で切り開けるような基盤が必要なのではないでしょうか。施設の子供が医者になってもいいと思いませんか。親は、子供が自分の力で生きていける力をつけることを望んでいます。施設が、十八になったらお終いでは駄目だと思いました。施設も子供たちに力をつける場所であって欲しい。でも、金が、足りませんし、安定していません。世の中では無駄な金が腐るほど垂れ流しになってるんです。そんな金を、子供たちのために、使ってはいけませんか。夢でしかないのかもしれませんが、何もしないよりはいいと思います」
「片山さん」
「はい」
「私、日常に流されていたのかもしれません。そう言えば、最近、夢を語ったことがありません。昔は、もっともっと、夢があったのに。私達が夢を失えば、子供たちが夢を無くす。こんなことも、忘れていたのね。ごめんなさい」
「園長先生」
「守秘義務なんて、糞くらえ、だわ。私、片山さんを守ります。福祉って言葉も嫌い。何様のつもりなの。子供が犠牲になる社会なんて」
「二千億の金では、五十億の資金しかできません。せめて、五百億は欲しいと思っています。つまり、二兆円の元金が必要になります。このプロジェクトが役に立つとわかれば、僕はその二兆円を集めます。そのためにも、子供基金が市民権をとり、誰からも破壊されない組織になる必要があります。ですから、皆さんの力を貸して欲しいんです」
「モデル施設を作るのに最適な人がいます。ご自分の施設でも、工夫をこらしてやってますが、やはり、資金不足で困っています。いつでも紹介します」
「では、先ず計画書を作ります。会計士の方、弁護士の方にも協力をお願いしなければなりません。でも、ここから参加していただく方には守秘義務の強要はできませんので、二千億の話はしません。匿名寄付金については、亜紀さんに政治力をお願いしなければならいかもしれません。よろしいでしょうか」
「はい」
三人は相馬保育園を後にした。白石不動産で水島俊という若い男子社員が合流し、浩平の家探しをしてくれる。京都の風景が消えていき、どこにでもある田舎になった。竹林や雑木林を通って、舗装されていない細い道を登ったところに、一軒の民家があった。建物はそれほど古くはないが、田舎の一軒家に違いない。九州の田舎にも同じような家があった記憶がある。深い山ではないが、山の中のような場所にある家が気に入った。
「ここ、お願いします」
「わかりました」
白石不動産の社員は、一軒目で決まったことに満足している様子だった。
「ついでに、家事をやってくれる方を紹介してくれると、助かります」
「大丈夫です。手配しましょう」
「水島さん。地元の方ですよね」
「はい」
「買い物に付き合ってもらえませんか。車と家電と簡単な家具、その他もろもろ」
「いいですよ」
気のいい若者なのか、亜紀に言いつけられているのか、水島は不動産の仕事以外の仕事も快く承諾してくれた。翌日の時間を決めて、水島を四条大宮で降ろした。
「片山さん。今はどこに泊ってます」
「駅前のホテルです」
「荷物は」
「ホテルです。バッグ一つですけど」
「じゃあ、取りに行きましょう。京都に来て、他所のホテルでは白石に叱られます」
「はい」
「それと、先ほどの水島ですが、どう思いました」
「どうって」
「片山さんの、アシスタントにと思ってますけど、合格しますか」
「もちろんです。僕からもお願いしょうと思ってました」
「よかった。じゃあ、そうしましょう」
「ありがとうございます」
浩平が泊っていたホテルで荷物を取って、三人は北京都ホテルに向かった。
「初めてですか」
「いえ。一度、泊めていただきました」
「印象は」
「落ち着いたホテルです」
「そう言われるのが、一番嬉しい。ね、美緒さん」
「はい」
ホテルのオーナー事務室には、数人の男が待っていた。
「ごめんなさい。お呼び立てして」
「いえいえ」
会計事務所の所員と弁護士事務所の所員だった。浩平が亜紀に子供基金のことを話してから、まだ数時間しか経っていない。ここまでの準備ができる亜紀の能力に、浩平は驚いている。ゆったりと、さりげなく行動しているように見えたが、これほど先を読む力を持った人には出会ったことがない。国交省の鳥居も勝てないだろう。
「公益法人を設立したいと思います」
亜紀が子供基金の構想を説明した。設立準備委員会の立ち上げ、計画書の作成、日程表など、設立に必要なことを文書化することを依頼した。
「できれば、設立趣意書を至急作成して、寄付金集めに行きたいと思ってます」
「わかりました」
「和久井さん」
「はい」
「御池の白石ビルの五階に事務局を置きます」
「烏丸御池の、ですね」
「ええ、事務局が動けるように準備してください」
「どの位の規模ですか」
「そうね、三十人。来ていただく方は、みなさん、それなりの方になると思います。応接室は三つ。会議室も三つ。一階のネームプレートも忘れないようにね」
「はい」
浩平が口を出す隙はなかった。出席している者は、亜紀より年長者ばかりだったが、リーダーは白石亜紀だった。きれいな顔して、この女、ただものではない。
「最後に、事務局の責任者は、こちらの片山さんにお願いします。私も事務局員として入ります。皆さんにも、それなりの力を出していただきます」
亜紀が本気だと言うことは、言わなくても全員に伝わっていた。設立準備委員会の事務局に白石の家長が入ると宣言するということは、それなりのことをしろ、と言っているに等しい。
「次の打ち合わせには、所長にも出ていただけるように言っておいてください」
言葉は丁寧だが、「舐めた真似するな」と言っているようなものだ。突然の呼び出しだったから都合がつかなかったのだろうが、亜紀は釘を刺した。
亜紀は、出席した四人の男を自分で送りに行った。
「和久井さん。あなたのボスは、化物ですね。もちろん、いい意味ですよ」
「はい。同感です」
「いつから、秘書を」
「三年です」
「だったら、あなたの家長は、まだ十代でしたよね」
「はい」
「抵抗はなかったんですか」
「ありました。でも、今は年齢など意識したこともありません」
「ほんと。化物だ」


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