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海の果て 第1部の 1 [海の果て]


― 自分族とは、自分さえよければという思考回路が特に優先している人たちのことを指す言葉である ー





片山浩平は上野が好きだった。気取らない人が集まり、雑多な街がどんな人でも受け入れてくれる。上野にはそんな懐の深さのようなものがある。東京に来ると、どうしても足が上野に向い、その周囲に生活圏を作ろうとしてしまう。
「後藤祐樹さんおられますか」
「おたくは」
「片山といいます」
「どちらの片山さん」
「大学時代の友達です」
電話は保留の音楽になった。後藤の事務所に電話をするのは初めてだった。
「先輩ですか」
「久し振り」
後藤祐樹の声はすぐにわかった。
「どこ、行ってたんです」
「山ごもり」
「七年ですよ。七年。最初は捜しました。もう」
「祐樹、稼業を継いだんだ」
「継いだ訳じゃありません。修業中です」
「親父さんは」
「元気、元気」
「そうか。相談したいことがあるんだけど、時間取れるか」
「いつです」
「明日は」
「いいすよ」
「祐樹の番号、教えてくれ」
後藤祐樹の携帯番号を控えた。
「明日、電話する。一人で来てくれるか」
「いいすよ」
上野駅を出たところにある公衆電話のボックスを出た浩平は信号を渡り、美術館に向かう坂道を登った。東京はどこへ行っても人の波だ。浩平は人波に入ると存在感を無くす。中肉中背で特徴のない顔。スーツを着ればサラリーマンになり、ジーパンを履けばフリーター、ジャンパーを着ると工員になる。すでに二十七歳になったが、学生でも通用する。すれ違う人たちにとっては風景の一部のように見えるのか、視線を感じることもなかった。
翌日、ホテルレインボーに部屋をとった浩平は、ホテルの部屋から後藤祐樹の携帯に電話をして、部屋で待った。
「一人」
「はい」
「無理言って、すまん」
「全然変わりせんね。七年振りというのが嘘みたい」
「祐樹は立派になった」
後藤組の一人息子で、親と同じ稼業をすることに抵抗していた後藤祐樹も、どこから見ても極道になっている。
「山ごもりって、何なんです。学校も辞めちゃうし、行方不明になるし、訳わかんないっすよ」
「親父が死んで、学校に行く理由がなくなったから、かな」
「親父さんが理由だったんですか」
「親父は、息子を普通のサラリーマンにしたかった。ところが、息子は武道家になりたかった。武道家の親父が、自分の息子には、武道家になって欲しくないと思ってたんだ。普通は、自分の跡を継がせたいと思うだろ。親父は、俺の拳を殺人拳だと言ってた。自分の家が道場なのに、出入り禁止だったんだ。だから、中学の頃から学校の帰りに山に入って、一人で練習していたんだ。その延長だな、山ごもりは」
「で、武道家になったんすか」
「いや」
「親父さんの言ってた、殺人拳、当たってると思いますよ」
「俺も、そう思うようになった。でも変わらない」
「今、なんで食ってるんですか」
「田舎の土地建物を売った金で食ってる」
「で、相談って何です。俺にできることなら、言ってください」
「組の中での力はあるのか」
「五番目ぐらいかな」
「ビジネスを一つ取り仕切ることは」
「中身によるけど、そこそこには」
浩平は椅子の横に置いておいたカバンから、袋に入った白い粉を取り出して、後藤に渡した。
「まさか」
「その、まさかなんだけど。買ってもらえるか」
「本物なら、もう、喜んで買いますよ」
「よかった」
「どういうことなんです」
「ん。山からおりてきて、全国の道場を見て回ろうと思って、ある場所である人と出会い、ルート作りを頼まれた。あまり、気が進まなかったけど、祐樹のこと思い出して、一度頼んでみようかな、と」
「継続的にですか」
「ん」
「大丈夫っす。うちで受けます」
「ありがとう」
「よしてくださいよ。これ、うちにはありがたい話だし、俺も、組の中で、力持てるし、俺の方からお願いしたいぐらいの話ですよ」
「最初から弱気だな」
「先輩にはったりかけられませんよ」
「わかった。それは、祐樹の好きに使ってくれていいよ」
「マジっすか。キロはありますよ」
「値段は格安にする。ただし、入手ルートは秘密厳守。これだけは守ってもらう。今から、俺とお前は知人でも友人でもない。たとえ、街中で会っても挨拶はなし。そして、取引には誰もかませない。一対一でやる。もし、違反があったと俺が判断すれば、相手がお前でも、死んでもらう。いいか」
「わかりました。約束します」
「ところで、さっき五番目と言ったよな。組長の息子でもナンバーツーじゃないのか」
「そんなに、甘くはありません。喧嘩が強いだけでは、上に立てません。金です。どんだけ金が稼げるか、ですよ。息子だから、五番目ですけど、実力だと、下から数えた方が早いくらいです」
「これで、稼げばいい」
「そうなんです。俺にとっては渡りに船です」
「決まり、だな。一回目の取引は十キロでいこう。十日後に電話する。金を作っておいてくれ」
「おっす」
「舞い上がるなよ」
「わかってます」
「俺からの電話には、返事だけでいい。余計なことを言うな」
「はい」
「じゃあ」
「おっす」
後藤祐樹は自分のセカンドバックの中身を取り出して、品物を仕舞いこんだ。
「祐樹」
浩平はドアに向かっている後藤祐樹に声をかけた。
「はい」
「それの、純度調べられるか」
「もちろんです」
「その結果を教えてくれるか」
「いいっすよ」
後藤祐樹が部屋を出て行ってから、十分待って浩平も部屋を出た。隣の部屋も予約済みで、キーも持っている。廊下に人の気配がないことを確認して、隣の部屋へ入った。後藤祐樹が失敗した時と、あの粉末が覚せい剤ではなかった時の用心だった。覚せい剤に違いないという確信はあったが、浩平には確認する方法がなかったから、一沫の不安もあった。
日本中の空手と拳法の道場を見てみようと思って旅に出たが、新潟に行った時に、いきがかりで、漁船に乗ることになった。どこにでも世話好きなおじさんがいる。あの船長もそんなおじさんの一人だった。ところが、運悪く遭難してしまい、光栄丸の船長と息子は死体で収容された。アルバイトの男が乗っていたことは誰も知らないので、浩平の捜索は行われなかった。光栄丸に一つだけあったブイにつかまり、浩平は一命を拾った。雨の中、陸地が見えてから、気の遠くなるような時間が経って、浩平は潮に乗った。潮の流れに、人力では逆らう術もなく、海面に浮かぶことだけで精一杯だった。強い力で水中に引き込まれて、意識が薄れていくのが、海での最後の記憶だった。
目を覚まして、しばらくは自分の居場所が理解できなかった。薄暗いゴミ捨て場にいたが、自分が遭難していることを思い出した。足元を流れる水が海水だということに気づくと、ひどい渇きを覚えた。多分、一日以上水を飲んでいない。ふらつく足で立ち上がって見回したが、出口のような場所は見当たらない。難破船と思われる船の残骸やポリタンク、海草などが山になっていた。自然の洞窟のようだったが、その全容はわからない。壁際まで移動すると、人骨らしきものもあった。仲間入りするのは趣味ではない。先ず、水を捜すことだ。岩の裂け目から流れている水を口に含んでみると、海水ではなく雨水のようだった。しばらく、岩に口をつけて飲み続けた。一息ついた浩平は、ゴミをかき分けて出口の探索をしたが、洞窟の奥は暗くて断念せざるを得なかった。悩んでいる時間はない。時間と共に体力は衰えていく。水際に戻った。洞窟に引き込まれた時が満潮だとすれば、引き潮に乗れば脱出できる道理だったが、今がそのどちらなのかわからない。海面と海水の流れを観察するしかない。一時間待って判定不能たったら、流れに飛び込むつもりだ。浩平は時計の秒針が動いていることを確認して、待った。
結果的に生き残った浩平が、洞窟の中にあったゴミの山を思い出したのは、旅を中断して東京の旅館にいる時だった。ビニール袋に覆われてロープで連なる夥しい数の残骸が覚せい剤ではないかという思いだった。浩平はスキューバダイビングの講習に参加し、二ヶ月後に新潟の洞窟に戻った。苦労の上に苦労を重ね、四か月かかって取り出した品物を、レンタカーのトラックに乗せて持ち帰った。自分名義のトラックを購入し、駒込の方にある小さな倉庫を借り、車ごと倉庫に格納して、後藤祐樹に電話をした。品物が本物の覚せい剤だとすれば、一生も二生も暮らせる金になるだろう。

ホテルレインボーで二日待ったが、後藤祐樹は現れなかった。翌日、上野原旅館の女将に保証人になってもらい、田端駅の近くのアパートを借りた。自分の将来には何の展望もないが、しばらく東京に腰を落ち着けてみようと思っている。
駒込の倉庫に通い、簡単な作業ができるように整備した。木材を買って頑丈な作業机を作っていると、小学校の時の工作を思い出して楽しかった。電子秤を購入し、業務用のシール機を揃えた。先ずは、十キロの商品を作らなければならない。
「祐樹か」
「はい」
「レインボーホテルに、村井という名前で予約してある。フロントでキーを貰って、部屋で待っててくれ」
「はい。わかりました」
村井という名前で予約した部屋は六階の二十八号室。浩平は二十六号室から電話をした。一時間もすれば、後藤祐樹が部屋の前を通るはずだ。後藤祐樹は、背が高くて男らしい風貌だが、素直で優しい。決してヤクザ向きではないが、少しはずる賢く成長したのだろうか。錬金術を身につければ、そこそこにはなれるだろうが、極道の世界で一流になることはないだろう。素人の浩平にとっては、うってつけの極道と言える。
ドアののぞき穴から後藤祐樹の姿を確認して、ドアを細く開いてエレベーターに向かう通路を監視した。五分経過。異常は認められない。浩平は部屋を出て、エレベーターで一階のホールに降りた。一度、外に出て戻ってくる。どこにも危険な臭いはなかった。
六階の二十八号室をノックした。すぐにドアが開いて後藤祐樹が顔を出した。
「部屋を変えよう」
「はい」
後藤祐樹は荷物を取りに戻って、浩平の後ろから二十六号室に入ってきた。
「先輩。用心深いですね」
「携帯の電波はあちこちで盗聴されてるんだぞ。大っぴらにできる取引じゃない」
「ですよね」
「で、純度はどうだった」
「はあ、あまり上物ではありません。でも、大丈夫です。商売にはなりますから」
「やっぱりな」
「やっぱり」
「上物だと言われたんだが、どうも信用できなかった。言い方がちょっとな」
「そうなんですか」
浩平の向こうに組織があると思ってくれるだろう。それでいい。
「いくら、用意した」
「三億です」
「転売できるのか」
「はい。うちだけでは捌けませんから」
「どのぐらい、流せる」
「そこそこには」
「そこそこなのか」
「少し、時間ください」
「そうか、よそに話してもいいか」
「それは」
「ルートを作ってくれという要求なんだ。量が問題になる」
「やります。だから、少し時間を」
「わかった。二か月待とう。頑張ってみてくれ」
「はい。どのぐらいの量ですか」
「月に百。無理なら八十」
「やります」
「無理するなよ。祐樹を潰すつもりはない」
「はい」
「品物を確認してくれ」
「はい。これもお願いします」
「いや。俺はお前のこと信用してるから、いい。お前は、組の勘定も入っているんだろ。確認しろ」
「すんません」
後藤祐樹は緊張したまま、キャリーバックを引いて部屋を出て行った。部屋には浩平と三億の現金が残った。浩平は自分が悪の道に踏み込んだことを噛みしめようとした。あと戻りできない場所に踏み込んだが、まだ実感はない。

山ごもりをして、自分で考案した気道を完成させようとした。だが、完成に近づいた気道が殺人道具でしかないことを知ってしまった。殺人拳で武道家と言える時代ではない。目標を失ってしまった浩平は、縋るようなおもいで各地の道場を訪ね歩いた。そして、その旅は、自分が武道家にはなれないということを再確認する旅になってしまった。流されるままに生きていくことしかできない人間になってみると、悪の道であっても抵抗感がない。どんな結末を迎えるかわからないが、行くところまで行くしかないのだろう。どこかのビルの屋上から三億の現金をばら撒きたい衝動を覚えて、苦笑した。
傾きかけた安アパートに戻って、更に暗い人間になってることを、他人事のように見ながら酒を飲んだ。薄い壁一枚の隣室から、ロックの重低音が響いてくる。壁越しのロックを聞きながら眠ってしまった。立派な悪人になったのに、砂を噛むようなおもいは消えずに、凍えるような風さえ吹き始めていた。
何の目標も希望も展望もない毎日は、究極の罰に思える。地獄に落ちても耐えられるように訓練することが、現世の仕事なのか。
どんなに落ち込んでいても、腹だけは空く。死んでしまえと思いながら、まだ何かを期待している自分がいる。天に唾しながら、薄ら笑いをしている。浩平はアパートを出て、近くの中華料理店に向かった。ラーメン屋と書くだけで売れる時代に、ラーメンを作らない店。十人がやっと座れるだけのカウンター席しかない、朽ちてしまいそうな中華料理店。狭い調理スペースで身動きもままならないほど太った店主が、不精ひげのまま、無愛想に料理を作り、閉店後はゴキブリが宴会場に使っていると思われる店。だが、安くて、美味くて、量もたっぷりなメニューのファンは多い。浩平の夕食は、いつも、その「美美亭」だった。同じ時間に行くと、同じ顔ぶれに出会う。何年も通っている常連客もいるのだろうが、店主は愛想の一つも言わないようだ。
「野菜炒めと中」
返事がなくても、野菜炒めと中ご飯は出てくるので、黙って汚れたスポーツ新聞に目を落とす。いつも出会う客が二人と、見るからに人相の悪い、見なれない客が一人。店主も口をきかないが、客も注文を口にするだけで静かな店内が「美美亭」の常識。何の興味も持てないプロ野球の情報を眼で追う。
「いくらだ」
人相の悪い客が同間声で言った。
「千八百円」
店主も負けずに不機嫌な声で答える。
「つけといてくれ」
「は」
「つけだ」
「冗談じゃねえ。うちは、つけはなしだ」
「そうか。今日からは、つけもありだ」
「あんた、警察とは、相性悪いんじゃねえのか」
「けちなこと、言うな」
男は矛先を隣に座っている若者に向けた。
「にいちゃん。金払っといてくれ。借りだ」
「えっ」
店主が携帯電話を持ち上げた。
「お客さん。電話するぜ」
「やってみな。サツが来るまでに、こいつは半殺しの目に遭うぜ」
男は若者の襟を掴んで引き寄せた。若者は恐怖の目で店主を見た。男が言うように警察が駆けつける前に若者はズタズタにされるだろう。店主の手は止まった。
店の出入り口は引き戸になっていて、どの席からでも出入り自由になっている。浩平は席を立って外に出た。いつもの浩平なら余計なことはしないのだが、鬱々とした気持ちが腹の中に黒い激情を生み出している。八当たりをしたい気分だった。
男の後ろにあるガラス戸を開けて、男の左手首を取った。
「終りにしましょう」
振り向いた男の顔は、「くそ生意気な若造が」という怒りで赤黒くなった。男は若者の襟にあった右手を外して体ごと浩平に襲い掛かった。だが、宙に舞ったのは男の体だった。コンクリートに思い切り腰を打ちつけたのに、男はすぐに立ち上がっていた。
「やめましょう」
「てめえ」
男は懐から取り出した短刀を手にして、口をゆがめて笑った。
「やめませんか」
「死んでもらうぜ」
浩平は、困ったという表情になった。だが、男が動作を起こす直前に浩平の左足が男の右手首を襲った。短刀は店のガラス窓に当たって落ちる。
「無理ですから」
「うおおおお」
両手を前に突き出して、男が突進してきた。軽く一歩さがった浩平の右足が男の腹部に伸び、重い衝撃音がした。男は顔面からコンクリートに倒れた。男を殺すことは簡単だったが、事後処理を考えると手加減せざるをえない。
浩平は体を入れ替えて、男の逃げ道を作った。まだ襲ってくるようなら、動けなくなるまで痛めつけることになるのが面倒だった。
腹部を押さえながら、ゆっくりと体を起こした男は、後ろにいる浩平の方を見たが、転ぶようにして道路へ走った。
「大将、千八百円、取れませんでした」
自分の席に座った浩平は、申し訳ない様子で言った。
「いいってことよ」
店主は何事もなかったように調理を始めた。
「ありがとうございます」
若者が椅子から立ち上がって浩平に頭を下げた。
「ああ」
浩平は、気にするなという意味を込めて手を振った。
「山岡荘の人だよね」
もう一人の若者が声をかけてきた。
「・・・」
「僕も山岡荘にいますから」
「そうですか」
「強そうには見えないのに、強いですね」
「見えませんか」
「この三人の中で一番弱そう」
「僕は、清水と言います。ほんとに助かりました」
「もう、いいですよ」
「僕、吉村」
「片山です」
確かに、清水はがっしりとした体格で、吉村は長身、浩平よりは強そうに見えるかもしれない。
「二十七」
吉村が自分の方を指さして歳を言った。
「僕も。片山さんは」
「同じです」
「寂しさも一緒かな」
皮肉な顔つきで吉村が言った。三人の男の琴線がどこかで触れ合った。
「僕の部屋で飲みませんか」
吉村が清水と浩平の顔を見て、同意を求めた。
「いいですね」
「ん」
カウンターの上に浩平の野菜炒めが出来上がった。
「にいちゃん。これは俺の奢り」
「とんでもありません。あの男からも取れませんでした」
「あいつは、はなから、払う気などありゃしねぇ」
「よく来るんですか」
「いや。初めてだな」
「ヤバい筋でしょうか」
「さあな。ここらのやくざの顔はほとんど知ってるから、よそもんだろ」
「もし、なにかあったら、呼びだしてください」
「ありがとよ。にいちゃん、男前だな」
店主と電話番号を交換して、若者三人は酒屋経由で山岡荘の吉村の部屋に行った。
浩平はフリーターだと自分を紹介した。吉村は探偵社勤務の探偵さん。清水は電子技術者だった。田舎の高校を卒業して、東京の大学に通い、安アパートで一人住まいをしているという境遇も酷似している。東京に来てからは、心を開く友人に出会うこともなく、閉塞感に満ちた日々に流されている。浩平とは別の意味で友人を求めていたようだ。麻薬所持と麻薬密売で逮捕要件を満たしている浩平とは違い、二人は善良な市民。浩平は仮面の友人にならざるをえない。でも、酒盛りは盛り上がった。
週に三回は同じ場所で夕食を共にし、五回に一度は酒盛りになる。三か月もすると、三人は押しも押されぬ親友になった。




一度目の取引が終わって二か月経った頃に、後藤祐樹から電話が入った。元気なのは、少し目処がたったということだろう。一週間後に三十キロの取引をする約束をした。覚せい剤があるから販売する。だが、その対価を受け取っても、その金で何かをするという目的がない。いつか、自爆するしかないのだろうか。
上野に運搬用のキャリーバックを買いに来たが、人ごみにいても、疎外感は消えない。
「片山さん」
声をかけられて、後暗い気持ちがある浩平の体は、一瞬固まった。
「板長さん」
上野原旅館の板前で奈良達郎という男だった。
「買い物ですか」
「はい。ご無沙汰してます。女将さん、元気にしてますか」
「それが、えらいことになっててね」
「・・・」
「片山さん、時間ありませんか。相談に乗って欲しいことがあるんですが」
「もちろん。どうしたんですか」
「旅館まで、いいですか」
「ええ」
「実は、女将さんが亡くなりまして」
「女将さんが」
湯島天神近くの上野原旅館に向かった。旅館の門は閉じられていて、休業中の張り紙があった。古い旅館で木製の大きな門が閉じられている様子は暗く沈んでいる内部を想像させた。横の木戸から入ると、人気のない古い旅館はタイムスリップをして訪れる百年前の旅館のように思えた。廊下の電気を点けながら歩く奈良の後ろをついていく。無音の廊下には旅館特有の臭いだけが広がっていた。原奈津子と深雪の母子が暮らしていた離れの板戸を奈良がノックした。
「譲ちゃん」
「はい」
「入りますよ」
「はい」
板戸を引いて二人は離れの部屋に入った。居間になっている部屋には、女将の娘で高校生の深雪と仏壇の前に座っている見知らぬ男がいた。
「おにいちゃん」
「丸井の前で会って、来てもらいました」
「深雪ちゃん。ごめん。知らなかった」
「お線香あげてやってください」
仏壇の前にいた男が浩平に席を譲った。仏壇には見なれた女将の笑顔があった。線香に火をつけて、手を合わせる。浩平には自分の母親の記憶がない。密かに、女将と自分の母親をダブらせていた。旅館の女将の枠を超えて面倒をみてもらった。勿論、浩平にだけ特別に親切だった訳ではない。上野原旅館に泊まる客は、女将の暖かい情に会いたくてやってくる。美人なのに、その気取らない人柄は大勢の宿泊客の憧れの的だったのかもしれない。
「何があったんですか」
「急性心不全ということで」
奈良が答えた。
「心臓が悪かったんですか」
「いえ。女将さんは病気をしたことがないというのが自慢でした」
「ですよね」
「わからないもんです」
「深雪ちゃん。ほんとに、ごめん」
「片山さん。こちらは、女将さんの弟さんで、菅原道彦さんです。譲ちゃんのお身内は道彦さんだけで、何度も来てもらってます」
浩平は菅原に会釈した。
「片山さんは、お客さんの一人なんですが、女将さんはとても気に入ってました。今の時代に珍しいほどの男らしさを持った人だと言って、自分の息子にしたいと言ってました」
奈良が片山のことを菅原に説明した。菅原は下を向いたままで小さく会釈した。
「何か僕にできることがありますか」
「実は、旅館を閉めなきゃなりません」
「閉めるって、廃業ですか」
「譲ちゃんが若いこともありますが、借金があるんです」
「・・・」
「旅館が三億の借金の抵当に入ってます」
「三億ですか、どうして、そんな大金」
「そこが、わからないんです。儲かるほどの売り上げはありませんでしたが、トントンでやっていけてると聞いていました」
「深雪ちゃんは、なにか聞いてた」
「聞いてません。母はなんでも私に話してくれていると思ってました。二百万の借入金があることは知ってます。三億の話は税理士の先生も知らないし、私が記帳していた帳簿にもありません。高校生になって経理は私がやってましたから」
「どこから」
「二葉銀行です」
「二葉銀行。あの二葉ですか、大銀行の」
「はい。税理士さんに銀行に行ってもらって確認してもらいました。でも、うちには、何の書類もありません」
「銀行が嘘を」
「わかりません。でも、私は母を信じてます。こんな大事なこと、黙っているような母ではありません」
「三億が返済できなければ、明け渡すしかありませんか」
「ええ」
ビルの谷間にある古びた旅館。土地値だけても相当な金額になるだろう。土地バブルが終わったとはいえ、この立地条件なら、右から左に売れるのだろう。
「板長さんは、どう思います」
「女将さんが、黙って借金をしたとは思えません」
「菅原さんは」
菅原は首を横に振った。
板長の奈良が「えらいことになっている」と言ったが、難題だった。浩平には三億を出すことができるが、裏の金がそのまま表の金にはならない。
「銀行の返済はいつからですか」
「来月です」
「返しましょう。お金は、僕が用意します。時間を稼ぎましょう」
「おにいちゃんに、そんな迷惑かけられません」
「前に話したと思うけど、田舎の土地を売った金があるし、今は使う予定もない金だから、心配いらない。最後に決済してもらえばいい」
天下の大銀行の嘘を暴くことは、簡単なことではない。だが、深雪や板長の言葉を信じたい。勝算はないが、あの女将の笑顔に答えてやりたかった。
「深雪ちゃん。学校行ってるか」
「うん」
「女将さんは、深雪ちゃんの笑顔が好きだった。きっと、明るく生きていって欲しいと願っている、と思う。だろう」
「うん」
「おにいちゃんにまかせなさい」
「おにいちゃん」
どんな結末を迎えるのかわからないが、明日の目的ができた。体中から無為という霧が晴れていく。
「仲居さんたちは」
「辞めてもらいました」
「退職金とかは」
「払ってません」
「ここを売る覚悟は」
「仕方ありません」
「銀行が間違っているとすれば、ここを売って、皆さんに退職金を払って、深雪ちゃんの学資と生活費を出すことができる。それでいい」
「はい」
「上野原旅館が無くなるのは、つらいことだけど、女将さんも納得してくれると思う。もっとも、深雪ちゃんが旅館を続けたいというなら別だけど」
「自信ありません」
「そう。叔父さんが、やってくれるなら」
菅原が慌てて手を横に何度も振って否定した。頼りになる叔父さんではないようだった。

空を掴むような話だったが、浩平の足には力が入っていた。
吉村の部屋に集まった二人の友人に相談を持ちかけた。
「相手は二葉銀行だよね」
「そうなんだ」
「ありえないことのように思うけど」
清水が難しい顔で言った。
「何でもありの世の中だから、あるかも」
吉村は反対意見に回った。
「二人の言うように、可能性はどちらもあると僕も思いました。だったら、銀行の間違いだと決めつけてみようと思うんだけど」
「わかった」
「でも、何から手をつけたらいいのか、わからない」
「敵は二葉銀行なんだよね。敵を知ることが最初じゃないかな」
「同感」
「敵を知ることか」
「その旅館に来てた担当者の名前はわかりますよね」
「その人を調べる」
「吉村さん、依頼すれば調べてくれますよね。仕事として」
「もちろん」
「探偵社って、盗聴もやるんですか」
清水が真面目な顔で聞いた。
「盗聴ねえ、やることはあるらしいけど、バレるとやばいしね」
「僕、今年、アメリカの展示会に行ったんです。電子機器の展示会なんですけど、変な外人と友達になったんです。で、時間があって、会社訪問して、見せられたのが盗聴器だったんですよ。日本での特約店にならないかと言うんです。盗聴器なんて、日本でビジネスになるとは思えないし、話半分しか聞かなかったんですけど、優れものであることは間違いありません。ネットで売られているような物とは別物です。もし、何が何でも調べる必要があれば、役に立ちませんか」
「どんな盗聴器なんです」
「日本で市販されている盗聴器は、電波を出し続けますよね。だから、見つけられる。その盗聴器は、親機の指示でデータを送信するんです。データは暗号化されていて、超高速の通信で送ります。軍事技術だそうです。普段は電波を出しませんから、見つけられることはありません。盗聴技術では、大人と赤子の差がありますね。驚きますよ」
「すごいな」
「手に入るんですか」
「特約店になればね。個人では難しいかもしれません」
「清水さん。一度オファーしてみてくれませんか。市場調査の段階で、試してみたいと言って」
「ただ、値段を聞いてないんです。まさか、オファーするとは思いもしませんでしたから」
「問い合わせならいいんじゃないの」
「そうですね。問い合わせで、どうでしょう。それと、購入希望者がヤクザでもいいか、と聞いてみてください。清水さんの会社が特約店になることはないでしょうし、これは、どうみても裏の商売ですよ」
「片山さん、ヤクザに知り合いがいるんですか」
「いないわけではない、と言うか、売り込みはできますよ」
「わかりました。一度連絡してみます」
「お願いします」
「俺、一寸、楽しくなってきました。こんなの何年振りかな」
吉村の目が輝いていた。
「僕もです」
清水も大きく頷いている。
「他に何か打つ手はないですかね」
「後は、女でしょう」
「女」
「二葉銀行の女子行員です。女は会社の臍なんです。情報の宝庫と言ってもいい」
「どうするんです」
「ナンパします」
「ナンパ」
「ベッドでなら、どんな話もします。片山さん、予算はどのくらいあります」
「案件が三億ですからね、一割を必要経費に使ったとして、三千万でしょう」
「わかりました。うちに、その道専門の男がいます。別々の依頼ということでやりましょう。費用さえ払えば大丈夫です。わが社にとっては仕事ですから」
「是非、お願いします」
「銀行の担当者の名前、調べてください」

三人寄ればと言うが、とっかかりができた。もっとも、浩平は何の知恵も出せなかったが、前に進む予感はしている。翌日、上野原旅館を訪ねて、銀行の担当者の名前を聞いた。石山という中年男と安岡という若い行員が来ていたようだ。名刺を捜してもらった。
板長の奈良はいなかったが、原深雪と叔父の菅原がいた。四十前後の働き盛りなのに、毎日のように旅館に来ていて大丈夫なのか。
「菅原さん。お仕事は」
「えっ」
「おにいちゃん。叔父さんはね、泥棒なの。ね」
「泥棒。冗談」
「ううん。母さんは、私のことより、叔父さんのこと、心配してた。いつか塀の向こうに行ってしまうって」
「永いことやってるんですか」
「そう。私が生まれる前から」
「それで、一度も塀の向こうに行っていない」
「叔父さんは、それが自慢なの、ね」
「それは、すごい。プロの中のプロじゃないですか」
「そう、叔父さんはプロ。この言葉、大好きなのよね」
菅原が照れ笑いをした。
「でも、今度は私が心配する番。たった一人の肉親だから」
「そうですよね」
「俺、他に何もできねえし」
菅原が初めて口を開いた。
「おにいちゃんがこの旅館取り返してくれたら、足洗ってくれるようにお願いしてるの。泥棒さんに養ってもらうのも、どうかと思うでしょう」
「でも、捕まらなければ、いいんじゃない。誰でも似たようなことしてるんだし」
「おにいちゃん」
「いや。上野原旅館の人は別だよ。世間一般の話。騙して、奪って、逃げてる。違いはないと思うけど」
「叔父さん。駄目よ。叔父さんも上野原旅館の一員だから」
菅原は深雪に頭が上がらないようだ。何かつぶやいたようだったが意味不明だった。女将も子供の頃はこんな娘だったのだろうか。深雪なら、明るくまっすぐに生きていく。深雪が毎日泣き明かすような娘だったら、周囲は重たい負担を強いられていただろう。

一回目の会合から一週間が過ぎた。浩平も後藤祐樹との取引の仕事で忙しかったが、清水と吉村も忙しかったようだ。
吉村の部屋で第二回目の会合が行われた。
「一週間が、あっと言う間だった」
開会宣言のように、吉村が言った。他の二人も大きく頷いた。
吉村が書類を取り出して説明を始めた。
「この石山と、これ、安岡。そして、貸付係にいる堀川恵が調査対象です」
「これは」
「名簿ですよ」
「こんなものが、手に入るんですか」
「時々、思うんだけど、片山さん、どこか国外に行ってました」
「えっ」
「少し、時代、遅れているから」
「申し訳ない。わかりますか」
「今は、何でも、入手可能なんです」
「そうみたいですね。実は五年間一人で山ごもりしてました。でも、たった五年ですから。もともと常識に欠けるんでしょうね」
「山で何を」
「僕は武道家になりたかった。修業してました」
「強い訳だ」
「僕も、片山さんみたいな人、初めてです。武道家なんだ」
清水も疑問が解けたという顔つきだった。武道家は普通の人間ではないと言われたようなものだったが、常識に外れていることは間違っていない。
「で、この石山という男、何かありますよ」
「何かって」
「銀行の中にいる時の顔と外の顔が全く違うんです。遊び方も派手だし、会っている人間も堅気じゃない。調べてみると、大里組の人間なんです」
「暴力団」
「そう、しかも幹部クラスですね、あれは」
「吉村さん。暴力団の方は、あまり追わなくていいですよ。何かあったら困ります」
「わかってますよ。石山は離婚していて、一人暮らしです。結構なとこに住んでます。銀行員だとしても、少し金回りよすぎです」
「臭いますね」
「若い方の安岡ですが、これは、普通のサラリーマンです。趣味がいいとは言えませんが、普通でしょう」
「趣味が変ですか」
「ロリ趣味です。片山さんにはわからないかな」
「そのぐらいわかりますよ」
二人が大声で笑った。
「もう。で、女の方は」
「そっちは、まだです。女を落とすのは、時間が必要なんだと、馬鹿にされてしまいましたよ」
この部屋にいる三人は、女に強いとは言えない。デートをしているような様子もない三人だった。
「盗聴器のことなんですけど」
清水が一枚の紙を取り出した。
「購入は可能ですが、大きな問題が一つあります」
「どんな」
「初回購入の金額が、八千万円だそうです」
「八千万」
吉村が驚愕の声を出した。
清水が紙に書かれている明細の説明をした。盗聴器は、固定型と使い切り型の二種類で、それぞれの親機と子機がある。親機がバックアップを含めて二セットづつ。固定型の子機が二百台。使い切り型の子機は千台だった。それぞれの単価も書かれている。
「妥当な値段なんですか」
「わかりません」
「吉村さん。その石山という男が、不正に係わっていたとして、証拠みたいなものが、手に入りますか」
「うううん。難しいかな」
「多分、監視しているだけでは、壁を越えられないように思うんですよ。違法ですが、さらに、突っ込んだ調査をしようと思えば、盗聴しかないと思います」
「でも、八千万でしょう」
「問題は金額だけですよね。もし、百万だったら、買いますよね」
「百万ならね」
「清水さん。親機を四セットにして、同じ金額で、いけますか」
「さあ」
「それと、もう一つ。この取引が成立したとして、受け渡しは日本国内で、支払は現金払いという条件をつけてみてください」
「どういうことです」
「転売するんです。親機二セットと子機を半分。もし、八千万で売れれば、残りはタダになります」
「おおう」
「でも、売れますかね」
「売るんです。僕がなんとかします」
浩平に転売の目途など全くなかったが、使えない金は腐るほどある。相手が現金決済してくれれば問題はなかった。
「支払は、ドルではなく、日本円が条件です。一億でもかまいません」
「すごい」
「最初は、世話になった上野原旅館の女将さんのためと思って始めたんだけど、やり始めると、自分のための仕事に思えてきて、今は、やり遂げたいと思っている。これって、何なんでしょうね」
「わかる。僕も同じ気分」
吉村の言葉に、清水も大きく頷いた。


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