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海の果て 第2部の 3 [海の果て]


27

顔面に亜紀の蹴りを受けて腫れていた矢島の顔も元に戻ったころ、下校時の亜紀を柳沢が待っていた。
「工藤が退学した」
「そう」
「何もないか」
「別に」
「そうか、気をつけろ」
「それだけ」
「それだけ、心配じゃないのか」
「別に」
「お前、いつも、男前だな」
「なに、それ」
「俺にできることあったら、いつでも呼んでくれよ」
「柳原君に助けを求めるようじゃお終いでしょう」
「そういうな」
「もういい」
「ああ。じゃあな」
西川病院に寄ると、病室の中が大騒ぎになっていた。佳奈ちゃんは回復が認められて、四人部屋に移っている。その部屋ではしりとりゲームが流行していた。佳奈ちゃんは声を出せないので、紙に書いて参加していたが、全員が紙に書くゲームになっていて、子供たちにとっては新鮮なゲームとして受け入れられている。佳奈ちゃんも生き生きとした目をしていた。亜紀も参加させられて、ゲームは盛り上がる。無理矢理、看護師も仲間入りさせられてしまうこともあるらしく、そのうちに小児科病棟に蔓延するのではなかと心配されていた。
病室で少し遊びすぎて、京都システムに出社するのが遅くなっていた。コンピニで夜食のおにぎりを買って、亜紀は自転車を走らせた。
京都システムのビルが近づいた時に、前方に嫌な空気を感じた。亜紀は自転車を降りて、自転車を押してビルに近付いて行く。すこし暗さの増した道路に男が飛び出して来て、亜紀に突進してきた。右手に持っているのはナイフのように見えた。男が近づくまで待った亜紀は、自転車を男の前に投げ込んでおいて、後へさがった。自転車に足を取られた男が倒れたところで、男が手にしていたナイフを蹴った。ナイフは道路の向こうへ飛んでいき、男は自転車と格闘している。やっと自転車を乗り越えた男の胸元へ、亜紀の前蹴りが入り、男の体は自転車の上に頭から突っ込んでいった。男は攻撃を続けるべきか、逃げだすべきかを迷った。男が背を向けた時、背後から男の股間を亜紀の蹴りが襲い、男は悶絶した。亜紀は男の背中にさらに蹴りをいれて、男を蘇生させると、体をかする程度の蹴りを連発して、男をビルの地下駐車場へと追い込んだ。男は文字通り坂道を転がりながら逃げまくった。
「名前、教えて」
男は逃げる場所を探して、左右を見回す。大きく回転した亜紀の左足が男の顔面を捉え、男の体は壁のコンクリートに激突した。男がまた気絶したらしい。亜紀は男のズボンからはみ出している財布を取って、中を調べた。免許証によると、男の名前は市原智明で、生年月日から男の歳は二つ上の二十歳だった。亜紀は道路に置き去りにしてきた自転車を回収するために駐車場の坂道を登った。自転車を駐輪場に置いて戻ってきたが、男はまだ気を失ったままだった。柳原が心配していたのは、このことなのだろうか。確認はしておかなければならない。亜紀は壁にもたれて、男が立ち上がるのを待った。
「市原君、気がついた」
目を覚ました男が事態を把握するのには、すこし時間が必要だった。
「おまえ」
「そう。沢井亜紀を襲え、誰に言われたの」
「しらん」
「じゃあ。そろそろ警察に電話するよ。君のナイフも道路に転がってるし、女の被害者は有利だよね。襲われたと言えば警察は信用するから」
「・・・」
「男がナイフで女を襲う。傷害未遂か殺人未遂。たまたま逆襲されて、格好悪いけど、状況的に君は不利な立場だし、すぐには帰してもらえないと思うけど、いいの」
「・・・」
「誰に頼まれたのか言えば、このまま帰ってもいいんだけど」
「・・・」
「それとも、もうすこし、痛いおもいをする」
「くどう」
「えっ。だれ」
「工藤玲奈だ」
「なんて、言われたの」
「生意気だから、痛めつけろ、って」
「それ、変でしょう。じゃあ、あのナイフはなに」
「顔に傷つけてこい、って」
「そう、市原君は暴力団の組員さんなの」
「ちがう。ただの友達」
「沢井は危険な女だと、聞いてこなかったの」
男は首を横に振った。危険な女だと知ってたらやらなかったのにという思いが表情に出ていた。
「そうか。君もいいとこの坊ちゃんなんだ。警察に通報なんかされたんじゃ困る。そうなの」
男はコクリと頷いた。
「わかった。今日は帰してあげる。この免許証はしばらく預かるわね。ちゃんと返すから」
「すみません」
意気消沈の男は立ち上がって、亜紀に頭を下げた。
「もう、やめるように言っといて」
「はい」


28

亜紀の携帯から電話があり、会って相談したいことがあると言われて、求は京都システムに向かった。相馬由紀から、亜紀が保育園で生活を始めたことは聞いていた。独身寮の件で、少し強く言い過ぎたかなと心配していたところだ。何の相談かわからなかったが、独身寮のことなら須藤にまかせたら、うまくやってくれるだろう。近くまできたら電話をくださいと言われている。求は五条烏丸を過ぎたところで電話をした。
ビルの前で待っていた亜紀を乗せると、駐車場でいいと言う。
「すみません。誰にも聞かれたくない話なんです」
「わかった」
京都システムの駐車場はいつも空に近い。求は適当に車を停めた。
「どうした」
「はい。私、白石さんに頼りすぎてますか」
「気になる」
「はい」
「僕は、君を支えると、言った。何の問題もない」
「ありがとうございます」
亜紀が学校で起きた事件と若い男に襲われた事件の話をした。これ以上、騒ぎを大きくしないためには、どうしたらいいのかという相談だった。
「その生徒、工藤玲奈と言ったね」
「はい」
「多分、僕の知っている子だと思う」
「えっ」
「工藤開発という会社があって、そこの専務のお嬢さんだろう。こんな小さい時から知っている。だとすると、陣内組との関係もある。工藤開発というのは、うちと同業の不動産開発業で、京都ではトップ企業だ。不動産業は多かれ少なかれ暴力団と言われるところと関係があってね、僕も陣内組には知人がいる。うちは地味な不動産業だけど、工藤開発と陣内組とはもっと深い関係にあるだろう。だから、その何とか言う番長の心配は当たっているかもしれない。まだ陣内組が動いてなければ、終りにできるかもしれない」
亜紀の様子は落ち込んでいるように見えた。
「大丈夫。君は悪くない」
「すみません」
「世間ではよくあることだから」
「これ」
亜紀が差し出したのは免許証だった。市原智明という、襲ってきた男のものだと言った。求は免許証の住所を確認した。割烹「市原」の息子と思える。世間は狭いと実感した。心配しなくてもいい、と言って亜紀と別れた。
求は途中で車をとめて工藤高広の電話番号を押した。しばらく電話をしていないので、番号が生きているかどうかわからない。だが、すぐに工藤が電話口に出た。
「白石だ」
「どうした。久し振り」
「今日、一寸、時間とれないか」
「急ぎか」
「ああ」
「一寸、待て」
しばらく待たされた。
「六時半から、一時間ぐらいなら」
「すまんな、三矢でいいか」
「わかった。じゃあな」
求と工藤高広は高校の三年間、同じクラスだった。大学は違ったが、京都に帰ってきた時には二人でよく飲みに行った。お互い忙しくなって、飲みに行くチャンスは減ったが、五年前までは家族ぐるみの付き合いをしていた。
京都という町は不思議な町だと思う。都会でありながら、京都ほど村社会が残っているところはない。
求は六時に「三矢」に入った。京料理「三矢」の看板が出ているのはカウンター席だけの店で、看板のない隣の入口を入ると座敷のある「三矢」になっている。こみいった話なので、突き出しとビールを置いておいてくれればいい、と女将には伝えておいた。
六時半を過ぎて、求はビールを飲み始めた。工藤が時間通りに来たことはないので気にしない。七時前になって、やっと工藤がやってきたが、遅くなったことには触れることなく、手酌で飲み始めた。
昔から、お洒落には人一倍気を使う男で、ますます磨きがかかっている。多分、身につけているものを積算すると、一千万円を超えるのだろう。
「どうした」
「ああ、玲奈ちゃんのことで」
「玲奈のこと」
「学校辞めたのか」
「いや」
「ん」
「転校はした」
「そうか」
「俺は、最初から府立校は気に入らなかったんだ」
「どうして転校になった」
「どういう意味」
「転校の理由を知ってるのか」
「お前に言われることじゃないだろ」
「確かに、俺が知ってることは変だな」
求は七高での事件を簡単に話した。工藤は知らなかったようだ。
「だから」
求はポケットから免許証を取り出して、工藤の前に置いた。
「知ってるか」
「市原のぼんだろ」
「玲奈ちゃんの友達だろ」
「だと思うけど」
市原智明が亜紀をナイフで襲った事件を話した。
「玲奈ちゃんに頼まれたそうだ」
「一寸、待て。その沢井とかいう子は、お前のなんなんだ」
「卒業したら、結婚するつもりだ」
「結婚」
「ああ」
「高校生だろ」
「ああ」
「まっ、いいか。で、俺にどうしろと言うんだ」
「もう、終りにするように、玲奈ちゃんを説得して欲しい」
「子供の喧嘩に親が出るのか」
「そうだ。このままだと、玲奈ちゃんは陣内組に行くかもしれない」
「陣内組か」
「お前が首を突っ込まないなら、表に出すつもりだ」
「どういう意味だ」
「警察に持ち込む。大事になる前に」
「・・・」
「傷害未遂か殺人未遂。依頼者は玲奈ちゃんだ」
「おい」
「俺にとっては家族になる人だから、本気で守る」
「証拠はあるのか」
「男の子たちは、自白するさ。たとえ、証拠不十分で不起訴になったとしても記録は残るし、いじめ問題としてマスコミにも追われる。何一ついいことはないだろう」
「呼び出しといて、脅しか」
「わかった。お前とは長い付き合いだから、一応、声掛けとこうと思ってな。俺にやれることはやる。それだけだ」
「待てよ。何もしないとは言ってない」
「・・・」
「わかった。話をする」
「話をするだけじゃ駄目だ。説得してもらいたいんだ」
「わかった、わかった」
「陣内組にも話しといてくれよ。誰かが勝手にやった、と言う話もなしだ。この件はなめてかかるなよ」
「うるさい。やればいいんだろ」
工藤は勢いよく立ちあがった。
「高広。あの子には、白石の将来がかかってるんだ。お前ならわかるよな」
工藤は返事をせずに、部屋を出て行った。表面では強気な男だが、工藤の本質は気の弱い小心者であることを知っていた。
求は北京都ホテルのフロントに電話をして、「市原」本店の電話番号を調べた。割烹「市原」の本店は市原智明の父親が経営していて、料理人としても売出し中だった。そして祖父が、北京都ホテルに出店している。亜紀が取り上げた免許証の持ち主は本店の市原正明の長男で、求の記憶では大学生のはずだった。人混みに石を投げたら知人に当たるというのは、このことだろう。亜紀の事件の関係者が求の知人でもあることに、改めて驚いていた。
求はタクシーを拾って、嵐山に向かった。市原正明に電話で、直接自宅を訪ねる了解を取っている。京都はどこへ行っても観光地だが、町中に古くからの住宅街もある。夜でもあり、住宅街はしずかだった。市原家の自宅へは、何度かきたことがある。タクシーに一時間待つように言って、門を入った。
日本家屋なのに、応接間が洋間なのは、日本人以外の訪問客があるからと聞いている。畳の間なら二十畳ぐらいある広い洋間に案内してくれたのは、文子さんという年老いたお手伝いさんで、求のことを覚えていてくれた。
「すぐにお呼びします」
入れ違いに、市原智明がやってきた。顔の腫れはまだ引いていない。かなり痛めつけられたようだった。
「どうぞ、座ってください」
「ありがとう。僕のこと覚えてますか。多分君が中学生の頃だけど」
「はい。祖父がお世話になっています」
きちんと挨拶をしておくように父親に言われているのだろう。
「ずいぶん、やられたね」
「はい」
求は机の上に免許証を置いて、智明の方へ押しやった。
「まず、これを返しておく」
「えっ」
「沢井亜紀さんに預かってきた。君に返してくれと」
「はあ」
「あの子は、僕の婚約者なんだ」
もちろん、結婚の話も亜紀にはしていないし、婚約を承諾してくれているわけでもないが、智明にプレッシャーをかけておく必要があった。
「白石さんの」
「そう。歳は離れてるがね」
「すみませんでした。僕、知りませんでした」
「まだ、誰も知らない。さっき、玲奈ちゃんのお父さんに会って、そこで初めて言った。知ってるのは工藤と君だけ。このことはまだ他言無用にしておいてくれるかな」
「はい」
お手伝いの文子さんがお茶を持って部屋に入ってきた。
「やはり、文子さんのお茶は美味しい」
求は出されたお茶を一口飲んで、褒めた。前にも文子のお茶を褒めた記憶があり、本人もそのことは意識しているに違いない。文子は、恥ずかしそうに下を向いて、礼を言って出て行った
「今日来たのは、免許証を返すだけで来たわけじゃない。君にやってもらいたいことがある」
「はい」
工藤に話した内容を説明した。
「玲奈ちゃんが大人しくしていてくれれば、何も起きない。でも、なにか事件が起きれば、工藤にも言ったけど、表沙汰になる。そうなると、君は傷害未遂罪だ」
「仕方ないです」
「玲奈ちゃんも策士だけど、あの父親も策士なんだ。よく似てる。今日か明日には、君のところへ何か言ってくるだろう。その話は向こうにとって都合のいい話になってると思う。僕が、ああ言ったこう言ったと嘘の話もするだろう。だけど、君には君自身の判断をしてもらいたい。直接君の身に降りかかることなんだから」
「はい。ありがとうございます」
「ところで、どうしてあんなことしたの」
「自分でもよくわからないんです」
「こんな結果になることは、わからなかった」
「はい。今、考えれば当たり前のことなんですが」
「もし、君が警察で取り調べを受けたら、お父さんも先代も嘆くだろう」
「はい。でも、仕方ありません。僕かやったことですから」
「ん」
「もう、逃げたくないんです。僕は、今まで、逃げて、逃げて、ばかりでした。大学に入学したのも逃げでした。何もすることのない学校で、どこへ逃げればいいのかもわからなくなってました。店を継がなくてはいけないことはわかってましたが、逃げました。あの子に殴られ、蹴飛ばされていた時、初めて逃げ場のなくなっている自分を知ったんです。僕は彼女を一発も殴れませんでした。多分、指一本も触れていないと思います。何度も何度も蹴られて、倒れて、死ぬかもしれないと思いました。僕が襲った相手は、年下の女の子なのに、地面に這いつくばっているのは僕だったんです。情けないけど、家に帰ってから、ずっと泣いていました」
「そんなに、すごかった」
「はい。気がつくと地面に倒れてました。でも、彼女は何も悪くありません。僕は警察に行きます」
「そうじゃない。自首しろと言いに来たんじゃない。悪い方向に向かうかもしれないから、覚悟だけはしておいて欲しいと思っているんだよ。彼女も表沙汰にしたいとは思っていない。いいか、工藤父娘は悪あがきをすると思う。玲奈ちゃんが陣内組に頼んで、組員があの子を襲ったとする。やられるのは組員の方だろう。その時点で玲奈ちゃんは関係なくなる。組員の面子と沢井亜紀の戦いになってしまうんだ。大騒ぎになる。始まりは、玲奈ちゃんの我儘なんだ。これ以上、騒ぎを大きくしたくない」
「僕は、どうすれば」
「大人になる時だと思う。嵐が過ぎ去るのを待つのも大人の知恵なんだよ。これは、逃げと違う。腹の中に覚悟さえあれば、逃げじゃなくて我慢だと思う。表沙汰になった時に、腹を切ればいい。君に覚悟があることを知れば、工藤も諦めるしかない」
「はい」
「ありがとう。わかってもらえて助かった」


29

二日後に、求は市原智明の携帯に電話をした。
「工藤から、何か言ってきた」
「はい。昨日、工藤のおじさんが来ました。僕は警察へ行ってもいいと言うと、驚いていましたが、そのまま帰りました」
「そう。ありがととう」
「いえ。とんでもありません。白石さん、僕、大学辞めることにしました。親父の下で、見習から修行を始めようと思っています。白石さんと話ができて、逃げの人生やめる決心ができました。というか、あの沢井亜紀さんに叩きのめされて、正面から自分を見ることができたのかもしれません。今は、すごく気持ちが楽なんです。でも、僕、根性なしだから、また、逃げたくなるんでしょうね」
「その時は、沢井亜紀を紹介するよ」
「それは、勘弁してください」
「がんばれよ」
これで、工藤が観念してくれたら、騒ぎが治まる。そして、一人の青年が新しい人生に立ち向かってくれそうだ。
求は工藤の携帯番号を押した。
「白石だ」
「ん」
「どうだった」
「もう、お終いにするそうだ」
「よかった」
「切るぞ」
工藤は一方的に電話を切った。人間は変われないものだと思う。工藤の根性の無さは、昔と変わっていない。引退できずに社長を続けている工藤の父親が気の毒だった。
求は亜紀の携帯にメールを入れた。


30

土曜日の十一時に迎えの車を保育園の駐車場に用意するので、北京都ホテルまで来てほしい、と言うメールを受け取った。用件は工藤玲奈の件となっていた。
事件がエスカレートしていく危険を感じて、亜紀は白石に相談せざるをえないと思ったが、事件の発端からの自分の行動に問題はなかったのかと自問していた。白石に頼るのではなく、自分自身でこの事件を終わらせることはできなかったのか。柳原たちに襲われて、あの教室で五人の男子に輪姦されたらよかったのか。空手という武器を持っていたことが、事件を終わりにしなかった原因だろう。大河原先生が「空手を捨てろ」と言ったのは、このことが想定できたからなのか。どんな仕打ちを受けても、どんな犠牲を強要されても、甘んじて受けて、そこから立ち直れと言うのか。そんなことができるのか。男の暴力に蹂躙されて、泣き寝いりするのが女の生き方なのか。自分を守ったことが、間違いなのか。不条理な問が次々と出てくるが、断定できる答えがない。今までの自分であれば、自分のやったことに疑問など持たなかった。明確に正しいことをしたという自信があった。たとえ、事件がエスカレートして、争いが争いを呼び、命のやり取りになったとしても、自分の気持ちにブレはなかっただろう。
今は、答がない。
こんな面倒を持ち込まれて、白石はどんな思いなのか。私を支えてくれると言ったことを後悔しているのだろうか。そもそも、白石はどうしてここまでやってくれるのか。佳奈ちゃんの友達になることが、そんなに重大なことなのか。わからない。
自分の人生が切り開けるかもしれない、と思い始めたために、何かが狂ったのか。たしかに、余りにも簡単に道が見えてきた。そんなにうまくいくはずはない。やはり、また、奈落の底に落ちるだけなのか。プログラムが少しうまくいったから、舞い上がってしまい、自分を失っているのか。
考えれば考えるほど、迷路に入り込んでいく。
十一時少し前に駐車場に行くと、タクシーが一台止まっていた。運転手が降りてきて、亜紀の名前を確認してドアを開けてくれ、暗い気持ちのまま、ホテルに着いた。
「おかえりなさいませ」
ホテルの玄関で礼儀正しい社員が亜紀を迎えてくれたが、笑顔を返す余裕はなかった。
制服姿の女子高生は目立つのか、フロントに近付くと、年配の社員がやってきた。
「沢井さま、ご案内します」
「はい」
一度来たことのあるレストランに案内された。椅子を引かれたので、会釈して座ったが、すぐに白石が姿を見せたので、亜紀は立ち上がった。
「ちょうどいい。紹介しときます。ここの総支配人をお願いしている望月さんです。望月さん。この人がお話した沢井亜紀さん」
「望月です」
「沢井です」
「ホテルのことなら、僕がいなくても、望月さんに言えば大丈夫だから、覚えておいて」
「はい」
「なんでも、言ってください」
「ありがとうございます」
白石の顔を見て少し気持ちが楽になった。望月が去り、白石と二人になると、安心感が増した。
「工藤玲奈の件。一応の話はついたと思う。玲奈ちゃんは小さい頃から我儘しほうだいだったから、どこまで納得したのか、少し心配だけど、たぶん、大丈夫だろう。市原智明君は、後悔していた。自分で警察に出頭してもいいと言ってくれている。市原君が覚悟を持っていれば、工藤親子も動けないと思う」
「すみません。本当にすみません」
「そんなことない。いいこともあった。市原君は料理屋の跡取り息子でね、二十歳になるのに、まだ決心かついていなかったらしい。それが、今回の件で自分の迷いに決着がつけられたと言っていた。青年が一人、自分の道を見つけることができた。これはうれしいことだと思っている。あの子のお祖父さんから礼を言われた」
「すこし、やりすぎました。最初、陣内組の関係かと思って」
「いや。肉体的に窮地に追い詰められたことが、彼の役に立ったようだ。気持ちがぐらついたら、君に会わせてあげる、と言ったら、勘弁してくれと言ってた。あの子にとっては、最初で最後の経験だろうな」
昼食だから、軽めのものということでサンドイッチと紅茶を頼んでくれた。
「あの」
「ん」
「一つ、聞いてもいいですか」
「いいよ」
「私がやったこと、間違ってたのでしょうか」
「それは、ない。ただ、世間には、逆恨みや自分勝手は、どこでも起きている。それだけのことだよ。気にすることない」
「でも、白石さんにやってもらわなければ、もっと大変なことになってたと思うんです。自分で決着をつける力もないのに、私も自分勝手をしたんじゃないかと」
「一人で生きてる訳じゃない。他人の手を借りてなにが悪い。あんな連中に一人で立ち向かう方が、無茶なんだよ」
「でも、白石さんはどうして、そこまでやってくれるんですか。私が佳奈ちゃんの面倒を見てるからですか」
「そのことを、今日、話そうと思って来てもらった」
「はい」
「食事が終わったら、話そう」
サンドイッチの味はよくわからなかった。食事が終わり、求の事務室に行くと、日本茶の用意がされていた。亜紀は二人分のお茶の用意をした。
「実は、この話はもっと先でしようと思ってた。工藤の件があって、今日話すことになった。結論から先に言うけど、僕と結婚してもらいたい」
「・・・」
「藪から棒ですまない。断ってくれてもいいけど、僕の話を聞いてからにして欲しい。いいだろうか」
「・・・」
亜紀は頷くことで返事をした。思いもよらない白石の言葉だった。
「本来は、二人がお互いに好きになって、一緒に居たいという思いで結婚する。そういう意味では、不純な動機だと思っている。前にも、すこし話したかもしれないが、株式会社白石という、何もしていない会社がある。このホテルも京都システムも、白石不動産もその株式会社白石の子会社になっている。僕はこの全ての会社を運営する責任を負わされている。白石という家は古くからある家で、後継者は必ず一人と決められている。兄弟がいても、養子に出される。本家を継いだものには、あらゆる権限が与えられているが、一族に対する責任も義務づけられている。権限の中には、全ての事業を解散させる権限も含まれているから、何が何でも後継者ということではないが、大勢の人たちの生活を考えると、白石を継続させたいと思う。僕は、五年前に事故で妻と後継者になる息子を亡くした。しばらくは解散のことしか考えなかった。一族の中に、白石を継いでくれる人がいれば、それが一番なんだけど、それを託せる人がいない。ところが、一年半ほど前に、偶然片山君に会った。この前、東京で紹介したあの青年だ。僕は、直感的に、この男なら白石を託せると確信した。だから、危ない橋も渡った。警察庁の庁舎の中で立ち往生していた片山君を、うちの社員だと言いきって、連れて帰った。だが、彼はすでに法律から外れた生き方をしていた。彼には彼が責任を持たなければならない人たちを抱えていて、仕事を放棄する訳にはいかないと断られた。片山君が持っていたオーラのようなものに、僕は相馬保育園で出会った。それが、亜紀さん、君だ。女の子だけど、君ならやってくれると感じた。最初は君を養女にしたいと思ったが、叔父に相談したら、結婚したら、と言われた。そして、今回、工藤との話し合いの中で、僕は君を婚約者だと宣言した。僕の跡を継いでもらいたいと思っている人のトラブルは僕にとってもトラブルなんだという覚悟を見せておきたかった。他人には宣言しておいて、本人に知らせないという訳にはいかないので、今日話すことにしたんです。それと、最初に動機が不純だと言ったけど、君のことを大事にしたいと言う気持ちは、僕の中に純粋にあると思っている」
「待ってください」
亜紀は混乱を解消しようと思っていたのに、それ以上の混乱を白石は持ち出してきた。返事のしようがない。
「びっくりするような話で、ごめん。でも、すこし、考えてくれないだろうか」
「でも」
「もちろん、今、返事を欲しいとは言わない。卒業するまでに決めてくれるとありがたい」
「私が、お断りしたら、京都システムでの仕事は」
「それは関係ない。京都システムにとって、すでに君は必要な人材だよ。でも、どうやって断ろうかと考える前に、やってもいいかどうかを考えてくれないか。強引を承知で言ってる。ぜひ、お願いしたい」
たしかに強引だ。こんな白石は初めて見る。
「ともかく、今日は帰らせてください」
「怒らせてしまった」
「そんなことありません。でも、帰ります」


31

どうしょう。
答えの出ない日が続いている。眠れない夜が続き、授業も、京都システムの仕事も満足に出来ていない。睡眠不足のせいか、足元もふらついているような感覚だった。鏡に映った自分の顔が、疲れきった顔に変わってきた。白石の話を聞いてから二週間が過ぎた。
土曜日の夜になって、食堂の奥にある相馬園長の部屋へ行った。
「どうぞ」
ドアを開けて、部屋に入る。園長は机で書き物をしていた。
「よろしいでしょうか」
「亜紀さん」
亜紀は頭を下げた。
「大丈夫じゃ、ないようね。座って」
「はい」
「何か飲む」
「いえ」
「そう、私、喉かわいちゃった。お茶でいい」
「はい。すみません」
園長はお茶の用意をして、湯沸かしポットのスイッチを入れた。
「なにが、あったの。最近の亜紀さん、いつもの亜紀さんと違う。やっと来てくれたのね」
「はい。どうしていいか」
「話してみて。私にできることがあれば」
「はい」
亜紀は、学校での事件とナイフ事件のことを話した。
「そんなことがあったの。香織ちゃんは何も言ってなかったわ」
「多分、他の人は、誰も知らないと思います」
「ひどい、話ね」
「白石さんに相談しました。暴力団が来たら、私の手には負えなくなると思って」
「そうね」
白石と工藤が知り合いだったこと、ナイフで襲ってきた市原という男も白石の知り合いだったことと、話し合いがうまくいったことを話した。
「よかった。問題は解決したのね」
「はい。そのことを聞きに、白石さんのホテルに行きました」
亜紀は、下を向いて黙ってしまった。
「で」
しばらく亜紀の話を待っていた園長が言った
「そこで、白石さんに、結婚してくれ、と言われました」
「えっ。結婚って言った」
「はい」
「そう」
「工藤玲奈のお父さんに、私が白石さんの婚約者だと説明したそうです。だから、話しておきたいと」
「それは、相手を説得するための方便」
「そうなんでしょうか。白石さんは、私を、最初、養女にしたいと思ったけど、誰かと相談して、結婚になったと言ってました」
「ちょっと、待ってね。結婚の話は、説明の中に入ってるの。それとも、別の話なの」
「わかりません」
「そう。もう少し、詳しく話して。どういう順序でそうなったのか」
園長の質問に答え、あの日のことを思い出しながら話した。
「求さんは、いえ、白石さんは、亜紀さんと結婚したいと思ってるようね」
「そうなんですか」
工藤玲奈の父親への話の中身だったら、悩みは解消する。そうであれば、どれほど楽か、と思った。
「それで、亜紀さんは」
「帰って来ました。びっくりして」
「それで」
「どうしていいのか」
「そう」
「私、白石さんと結婚できるような、そんな人間じゃありません。父親もわからない私生児で、ひどい母親で、貧乏で、育ちも悪く、決して性格がいいとは言えません。白石さんみたいな立派な人に、そんなこと、無理です」
「断りたいの」
「出来れば」
「断れない」
「どう、断れば」
「そうね。亜紀さんが、今、一番信頼している人が、白石さんなんでしょう」
「はい」
「そんな、白石さんを、困らせたくない」
「はい」
「そうよね。それで、食べれないし、眠れない」
「はい」
「断らなければ」
「えっ」
「白石さんとの結婚は絶対できないの」
「そんな」
園長はお茶を入れるために立ち上がった。
「あのね。白石さんが言った、あなたのオーラ、私も感じてたの。初めてあなたと会ったとき。お茶どうぞ」
「はい」
「私の妹が、白石さんと結婚していたこと、知ってるわね。事故で亡くなってしまったけど」
「はい」
「後継ぎになる、仁君も」
「はい」
「白石さんは、すこし、家のことが先にきてる。亜紀さんを一人の女性として、尊重することを忘れてる。白石さんらしくない」
「・・・」
「真紀が、妹の真紀が、いつも大変だと言ってた。白石の家長になることが。仁君が可哀そうだと。だから、今の白石さんも大変なんだと思う。でも、一番考えなければならないのは、あなたの気持ちだと、思う。そんなことのわからない人じゃないのに」
「私の気持ち」
「ええ。ところで、亜紀さんは、結婚をどう思う。一般的な意味での結婚」
「考えたことありません」
「まだ、若いものね。でも、夢とかない」
「ない、と思います。自立はしたいと、ずっと考えてきましたが、その中に結婚は入ってませんでしたから」
「好きな人は」
「そんな人いません」
「今までに、一人も」
「はい。そんな生活じゃありません」
「そうね」
「白石さんのこと、異性として見てない」
「もちろんです」
「お父さん」
「こんなお父さんなら、と思ったこと、あります」
「亜紀さん。時間、かけてみない」
「時間」
「ええ。仮によ、結婚するとして、何が問題になるのか、考えてみない。あなたが、感じているのは、こんな私と、でしょう。それ以外に何か障害がある。歳が離れていること。それとも、動機が不純なこと。白石さんのこと、嫌い」
「いえ」
「歳の差」
「いえ」
「不純な動機」
「いえ」
「こんな自分」
「はい」
「でも、白石さんは、百も承知で言ってると思う。身も蓋もないかもしれないけど、愛だ恋だで、あの人と結婚しても、うまくはいかないと思う。白石さんが家を、家長の責任を放棄するなら、できるけど、多分、白石さんには、そんなこと無理ね。もし、亜紀さんが、自分の気持ちを整理することができれば、二人の結婚、私は、賛成よ」
「・・・」
「白石さんは、あなたを後継者にしたいのよ。最初は養女にしたいと思ってたんでしょう」
「そう言ってました」
「結婚というのが、少し飛躍しすぎなんだけど、あなたなら、白石の家をなんとかしてくれると思った。乱暴な話よね。妻と養女では」
「・・・」
「だから、少し時間をかけましょう。亜紀さんの自立に結婚という選択肢が入れられるかどうか」
「はあ」
「食べるもの食べて、ちゃんと眠って、健康体で考えてみるの。どうしても、断りたいという結論が出たら、私が話してもいい。どう」


32

相馬由紀から、亜紀の件で話があると電話があった。結婚の話をして、亜紀が怒ったように帰ってしまってから、求も苦しい毎日を過ごしていた。もう一度、話をやり直そうと思い、何度も電話に手をやったが、電話はできなかった。相馬由紀に様子を聞けばよかったのに、そんなことも思いつかなかった。だから、由紀からの電話には助けられたような思いがある。保育園でない場所で話をすることになり、「三矢」の予約を取った。
「ここに来るの、久し振りだわ」
「そうですね。何年も前です」
「求さん。今日は、私、抗議に来たのよ」
「はい」
由紀は全くアルコールには手を出さないので、料理には腕を振るってくれるように頼んでおいた。
「亜紀さんから、話を聞いたわ。あの子、食べないし、眠れなかったようよ。ふらつく足で私のとこへ来た。あの子も、普通の人だったんだ、と思ったの」
「すみません。僕の言い方がまずかった」
「その通りよ。求さんに対する信頼は、あの子にとって、何事にも変えられないほど大きなものだから、どう断ればいいのか、苦しんでいたの」
「断る」
「そうよ。あの子は断るつもり、だった。なぜだか、わかる」
「・・・」
「歳の差も、求さんが言った不純な動機も、断る理由には入っていないわ。自分が求さんに相応しい人間ではないことが、断る理由なの」
「どうして」
由紀は亜紀が言った言葉をできるだけ忠実に再現して話した。
「そんなこと、断る理由にならないでしょう」
「あなたは、仕事をしている時は、本当に優秀だと思う。でも、女の気持ちのことは、全くわかっていない。あの子のこと、女の子だとわかってないんじゃないかと。養女なら、まだ許せるかもしれないけど、結婚となると、それではすまない。私までが、腹立たしくなってしまったわ。いい、女は時間をかけて、少しづつ、順を踏んで、あたかも、二人で出した結論なんだと思えるような、そんな錯覚が欲しいの。特に結婚に関してはね。亜紀さんは、男前だから、普通の女の子とは違うでしょう。でも、いくらなんでも、突然すぎると思わない。事務連絡じゃないのよ」
「ええ。それは反省してますよ」
「あの子には、あなたと出会えたこと自体が夢のような話なの。仕事を世話してくれて、いろんな相談に乗ってもらって、本気で、信じてもいい人に初めて出会えたの。二人の信頼関係は、一日でできたの。あの子は、恐る恐る手探りで進んできた。求さんは、そんな亜紀さんを待っててあげたじゃない。あの子の凍りついていた心を開いてあげたのは、求さんの気遣いがあったからでしょう。その信頼を壊したいの。亜紀さんは、二人の信頼を壊すことが一番怖いの。もう、昔の自分には戻りたくないと思っているはずよ。だから、眠れないほど苦しいの。あの子の才能が白石の家には、必要なんでしょう。もし、あの子が心を閉じてしまったら、求さんの手では、二度と開けられなくなるの。わかる」
「わかります」
「だから、亜紀さんには、時間をかけてみましょう、と言ったの。断る理屈を見つけるんじゃなく、自分が一番大事にしている、自立、のために、結婚が自立の一つの選択肢にならないかどうか、考えてみましょうよ、と言ったの。それでも、断りたい時は、私が話してあげるから、と言いました」
「ありがとうございます」
「どなたのアイデアなんでしょう。この結婚の話」
「石井の叔父です」
「この話を聞くまで、想像もしませんでした。でも、とてもいい話だと気がついたの。真紀もきっと喜んでくれます」
「由紀さん」
「真紀は、とても心配してました。白石の家のこと。たぶん、心苦しい思いだったと思う。仁君まで。だから、求さんが、結婚し、後継者ができれば、安心すると思ってるの」
「由紀さんに、そう言ってもらえると、ありがたいです」
「求さんも、真紀も、いろいろな関係の人も、亜紀さんがやってくれれば、助かります。もちろん、私も。だから、亜紀さんの気持ちは大事にしなくては、と思います。亜紀さんにとっても、いいことでなくては、この話は成り立ちません。求さんに、私、偉そうなこと言ってる。あなたなら、聞いてくれると思うから」
「もちろんです」
「しばらく、亜紀さんに時間をあげてください」
「そうします」


33

相馬園長に相談したことで、気持ちが落ち着いた。決して問題が解決した訳ではないが、考えるゆとりはできた。園長先生が言ってくれたように、時間をかけて考えてみようと思った。
仕事の方も軌道に乗り始め、佳奈ちゃんが退院してきて、亜紀の生活は元にもどった。でも、薄氷の上を歩いていることに、変わりはなかった。白石との関係を断てば、一からの出直しになる。たしかに、怖いと思えば怖い。でも、失うものが何もなかった頃に戻れば、どうにでもなるだろう。自分に嘘をつけば、どこかで破綻することも想像できる。かと言って、我儘を言いつのるほどお譲ちゃんではない。だれの問題でもない、亜紀自身の問題だと言うことが、今はよくわかっている。白石にふさわしい人間ではないという言い方が、偽善だということにも気づいている。相手のことを考えているのではなく、持てるものを失うのが怖いだけ。この数か月で、余りにも多くのものを、手にしすぎた。
自分の母親が結婚して、家族を作るという人並みの生活をしている訳ではないので、結婚に対する具体的なイメージはない。
考えが行き詰ると、そのことは次の日に持ち越すことにしている。食べることと眠ることを優先しているので、随分楽になった。
十一月になり、さすがに秋の匂いがする。ケーキのおじさんとしての白石は保育園に来ているようだが、平日は夜遅くまで京都システムにいるので会わずじまいだ。最近、なぜか白石に会いたいと思っている自分がいた。
土曜日に、佳奈ちゃんと昼食を済ませて、京都システムに向かった。
七条通りで自転車を停めて、白石の携帯に電話を入れた。
「沢井です」
「おう」
「すみません、勝手して」
「いや」
「お会いできませんか」
「今、どこに」
「京都システムに行く途中です」
「わかった。三十分で行ける。京都システムの前でいいかな」
「はい」
白石とは、一か月以上会っていなかったが、自然な気持ちで話が出来てよかったと思った。自動販売機でお茶を二本買った。
三階に行って、久保田に休ませてもらいたいとことわった。ほんとに久保田はしゃべらない。首を縦に振っただけで、もう画面に目をやっている。自分の席で背中のバッグを降ろして、リストと参考書を入れ、三階を後にした。
三十分と言っていたが、三十分は経っていなかった。
「早かったですね」
「ん」
亜紀は荷物を後に置いて、シートベルトをした。
「久しぶりに、神戸に行こうか」
「はい」
やはり、白石の横にいると落ち着ける。いつものように、なにも話さなくても、自然な時間が過ぎて行く。
車は高速道路に乗った。
「運転、大丈夫ですか」
「えっ」
「いつもと、少し違うみたい」
「そうか」
白石は肩を上下に動かして、緊張をとる仕草をした。
六甲山頂に着くまで、二人は何も話さなかった。白石も落ち着いて、いつもの白石らしい運転だった。
車が停まったので、亜紀はお茶のペットボトルを一本白石に渡した。
「この前、ホテルから勝手に帰ってしまって、ごめんなさい」
「いや。僕が無茶な話をしたから。すまないと思っている」
「びっくりしてしまって」
「相馬園長に、こっぴどく叱られた」
「そうだったんですか」
白石と園長が話し合ったことは知らなかった。
「なぜ、私なんです」
「んんん。僕の直感としか言えない」
「その直感が外れていたら、どうするんですか」
「それはそれで、どうもしない。ただ、僕は自分の直感を信じてる。直感にも大小というか強弱のようなものが、自分なりにあるんだけど、確信に近い直感で外れたことはない」
「私は、白石さんに相応しい人間じゃない、と今でも思っています。あまりにも違いが大きいとは思いませんか」
「確かに、生きてきた環境は違う。でも、なぜ、それが問題なのかわからない。僕は、もういい歳だ。君の全てを受け入れることのできるほどの年寄だと思ってる」
「年寄なんですか」
「そう。それに、全てではないけど、君の生き様は聞かせてもらっている。心配はしていない」
「私、劣等感の塊なんだと感じました。ただ、私の劣等感が白石さんの申し入れを断る理由にならないことはわかってきました。お断りの理由を必死に探していたのは、自分に失うものがあるからなんです。白石さん、園長先生、京都システムの先輩、そして今の仕事、すべて今までに持っていなかったものです。失うのが怖かったんです」
「結婚すると、失ってしまう」
「はい。すぐにそう思いました」
「どうして」
「わかりません。わかりませんが、たぶん、私が自分族の一員だと思うからです」
「自分族」
「自分さえよければ族です。白石さんも園長先生も誰かのために、何かをしようとしてますが、私と私のまわりにいるのは自分族なんです。大河原道場の先生と奥さんは違います。この前、東京に行った時に大河原先生を誤解していたことを知りました。私を養女にという話があったこと、話しましたよね。その時、法外なお金を要求されて断念したことを、奥さんから、初めて聞きました。母がそう言ったのか、男に言わされたのかはわかりませんが、そんなことをする親なんです。自分で育児放棄をしておいて、自分さえよければよかったんです。だから、私は生きている世界が違うと思っているんです」
「じゃあ、君はどうして、佳奈ちゃんの力になってあげているのかな。誰かのためだと思うけど」
「違います。最初は相馬先生に取り入るためでした。その後、白石さんに、よく思われたいという打算が加わりましたが、結局、自分のためでした。ひどい人間です。私、母のこと大嫌いです。でも、私も母と同じ自分族なんです。こんな私が、白石さんを騙して結婚しても、うまくいくはずありません。その時は、私、全てを失ってしまいます。それが怖かったんだと思います。昔の私には、失うものがありませんでしたから、怖いものはなにもなかったんですが」
「君のやっていることが、相馬園長や僕の関心をえるためだと言ったが、そういう野心が全くないとは言わないが、それだけではないと思っている。なぜかと言うと、本人が隠していたとしても野心は見えてしまうんだよ。特に僕のような立場にいると、僕に寄ってくる人は必ず野心と二人づれで来るものなんだ。よく見える。もっとも、僕はその野心が見えていないふりをしているが、実によく見えるものなんだよ」
「じゃあ、母がお金を出せと言ったら、どうします」
「もう、君は子供じゃない。お母さんは言わないと思う」
「もし、言ったら」
「悪いけど、僕は出さない。君をお金で売り買いしてはいけない」
「じゃあ、私が、お金くれなければ、結婚しない、と言ったら」
「君は、言わない。そんなこと、自分が一番わかっている。そうだろう。でも、どうしても、断るために、そういう策をとるとすると、僕はかなりダメージを受けると思う。君がお金を要求してまで、この話を断りたいのなら、仕方ないけど、できれば、その策は止めて欲しい」
「ごめんなさい」
「君のプライドは、君にそんなことさせない」
「はい」
「どうして、そこまで自分を追い込む」
「わかりません。園長先生は、白石さんが求めているのは、後継者なんだと言ってました。白石さんも動機が不純だという言い方をしました。でも、私にそんな大役が務まるんでしょうか。その壁がどうしても乗り越えられないんです」
「本人を差し置いて、言うのも変だけど、君にはその力がある。僕の直感を信じてみては」
「私、白石さんを信頼してますし、白石さんといると気持ちが楽なんです。だから、白石さんと一緒に生きていけたら、嬉しいです。私にとっては夢のような話なんです。でも、自分のこと考えると、ブレーキかかってしまうんです。もう少し、時間もらってもいいでしょうか」
「もちろん。でも、考えすぎて体を壊さないようにしてくれないと、また園長に叱られます」
「はい」
「さっき、佳奈ちゃんのこと、園長に取り入るためだったと言ったよね。ほんとは、どうして」
「小さな手です。佳奈ちゃん、私の手を握って離さなかったんです。佳奈ちゃんの手から、悲しみが伝わってきたんです。自分の小さい時を思い出して、あの小さな手を振りきれませんでした。そして、談話室で光の洪水を見た時に、佳奈ちゃんの友達になってもいいと思いました」
「光の洪水」
「ええ、川面が太陽の光でキラキラ光っていたんです。佳奈ちゃんが教えてくれました。それまでの私、自分のことで精一杯で、誰かの力になれるのは、ずっと先のことだと決めてました。でも、光の洪水の中で佳奈ちゃんと二人でいると、仲間のように思ってしまったんでしょうね。私に何ができるか。子供にとって、どこまででも信頼することができる人に出会うことは救いなんです。ほんとは、親がその役目をしてくれるのですが、あそこにいる子供は、その親に裏切られた子供たちなんです。私は大河原道場の先生や奥さんに助けられました。そういう存在になれればな、と思いました」
「光だったんだ」
「はい。今でも、あれは大好きです」


34

亜紀は神戸から帰って来て、相馬園長の部屋を訪ねた。
「今日、白石さんと会って来ました」
「そう」
「もう少し時間をください、とお願いしました」
「そう」
「園長先生、白石さんに話してくれたんですね」
「ごめんね。黙っていて」
「いえ。ありがとうございました」
「断ったんじゃないのね」
「はい。まだ」
「亜紀さんの中で、なにが問題なの」
「ええ。私が後継者になれるのかどうか、どうしても、そんな、だいそれたこと、納得できないんです」
「白石さんは、なんて」
「直観だと。白石さんの直感を信じてくれと」
「そう」
「だから、もう少し、よく考えてみます」
「亜紀さん。無茶、言っていいかしら」
「えっ」
「やめとく」
「いえ」
「いい」
「はい」
「亜紀さん、結論の出ない結論を出そうとしてるように見える。将来のことは、誰にもわからない。若い人には、自分の才能も読み切れない。だって経験がないんだもの。やってみることによって、出る結論もあるし、わからないことだらけだと思う。私、この歳で、まだ試行錯誤。だから、結論出さなくても、いいんじゃないの。亜紀さんにとって、未知の領域でしょう。白石さんを信じて、黙って飛び込んでしまう。それでいいんじゃないのかしら。白石さんは、必ず、あなたを守ってくれると思う。無茶、だと思う」
「わかりません」
「覚悟しかないと思うの」
「覚悟ですか」
「ごめんね」
「いいえ」
「白石さんのこと、きらい」
「いえ。好きです」
「一緒にいると、楽しい」
「楽しい、と言うより、安心です」
「安心」
「はい。ホッとします。二人とも何もしゃべらないことがあるんですが、そんな時、いいな、と思います」
「結婚ということに、抵抗ある」
「わかりません」
「結婚して、夫婦になれば、セックスするわね。そのことが負担に感じてる」
「わかりません」
「あなたにも、大きな傷があるわよね、そのことが障害になってると思う」
「全くない、とは言えませんが、やはり、後継者になれるのかが、一番心配です」
「今までに、事故以外の体験は」
「ありません」
「酷なこと、言うようだけど、考えてみて。たぶん、自分で意識していなくても、避けて通ってると思うの。ここの子供たちも、そのことが、私、一番心配なの。でも、現実にそうなるの。このことは、誰の助けも役にたたない。自分で乗り越えることしかできないと思ってる。できれば、心の準備は、ひそかに、でいいけどしておいて欲しいのよ」
「・・・」
確かに、結婚すればセックスの問題があることは、頭で理解しているが、隅の方へ押しやっているかもしれない。
「私が、なぜこの仕事をしてるのか、亜紀さんにも知っておいて欲しい。確かに、乙女チックな理由なんだけど、どうしても、抜けられないの。中学の親友が自殺したの。その子とは小学校も一緒、家も近くだった。原因が父親の性的暴力だったの。その父親は、その子の母親に対しても日常的に暴力を振るっていた。外で、他人に対しては、ごく普通の礼儀正しい男性だったけど、家の中では妻と娘に暴力を振るっていたのね。その子のお母さんが、私にそっと渡してくれた日記で知ったの。その親友が日記の中で私に話しかけてるのよ。私、悔しかった。日記の中で話をしてくれるのなら、どうして言ってくれなかったのか。中学生の私が、そのことを聞いたとしても、解決はできなかったけど、死なないで欲しかった。私、大学を卒業して、セーフハウスの仕事についた。暴力から逃げるための、駆け込み寺ね。大人の女性と一緒に子供も逃げてくるけど、逃げるに逃げられない子供たちがいるのを知って、子供の駆け込み寺を作るように運動もしたけど、実現は難しかった。自分でそういう施設を作るお金はないし、役所は決められたことしかしてくれない。結婚して京都に来ていた妹に、そんな不満をぶちまけたの。そしたら、妹のご主人が、相談に乗ると言ってくれた。その人が白石さん。民間の経営に行き詰っていた保育園を買い取ってくれて、自由に使いなさいと言ってくれた。だから、ここは、最初普通の保育園だったの。性的暴力を受けた子供を受け入れ始めると、逆に普通の園児はいなくなっていった。親御さんは影響があると思った。仕方ないわね。二階を改造して、建て増しもして、今の形になったの。セーフハウスで仕事していた時に、逃げてきた母親と娘さんがいて、娘さんも父親の性的暴力を受けていたんだけど。セーフハウスは一時避難場所だから、出て行くのね。何年か経って、その子が逃げ込んできたの。父親の暴力ではなく、恋人の暴力だと言ってね。でも、よく話を聞いてみると、暴力じゃなくて、その子のセックス恐怖心だったの。どうしても男性を受け入れられないのね。二年ほど経って、その子から結婚しました、という手紙をもらった。前の恋人とは別の男性だったけど。嬉しかった。自殺した中学の親友に、話してあげたかった。すごく、難しくて、繊細な問題なのね。セックスは。だからこそ、正面から向き合う必要があると思ってるの。ごめんね。こんな突っ込んだ話をして。でも大切なことだと思う」
「園長先生。もう少し、時間かけます」
「そうね」
「先生。私、怖いんだと思います。半年前は、こんなこと想像もしませんでした。雨が降って、野口さんとこの保育園に来て、佳奈ちゃんに会って、先生に会って、白石さんです。こんなによくしてもらって、私のことで心配してくれて、助けてもらって。出来すぎだと思っても仕方ないですよね。この半年でなにもかも変わってしまった。いいことに慣れてないんです」
「ええ。でもあなたなら、大丈夫よ」


35

クリスマスが近づいてきた。子供たちはパーティーの準備で忙しく、騒々しさは倍増していた。ケーキのおじさんは、年に一回サンタのおじさんになり、暮れには餅つきのおじさんになるのだと園長から聞いた。神戸で会って以来だ。白石に会えるクリスマスが楽しみだった。
土曜日は、洗濯をして、部屋の掃除をしてから、バイト代で最初に買ったアイロンで、制服にアイロンをかけた。
ドアをノックする音がして、「園長先生が呼んではる」という隣室の春花ちゃんの声が聞こえた。
「ありがとう」
園長は食堂ではなく、遊戯室にいた。佳奈ちゃんと二人で立っている。話しをしているようにも見えた。
二人が亜紀の方へ向き直って、園長が佳奈ちゃんの背中を押している。
「あ・・・き」
佳奈ちゃんが声を出した。
「佳奈ちゃん」
「あ・・・き・・さ・・ん」
亜紀は走り寄って佳奈ちゃんの肩に両手を置いた。
「すごい」
「あ・・・き・・さ・・ん」
「すごい。すごい。がんばったね。佳奈ちゃん」
園長が満足そうな笑顔で二人を見ている。佳奈ちゃんが養護学校の先生のところへ、訓練に行っていることは知っていた。
「加奈ちゃんが、最初に亜紀さんの名前を呼びたいと言ったのよ。すごいでしょう。少しづつ、できるようになるって」
「えらかったね。佳奈ちゃん」
死を宣告された病気から立ち直った佳奈ちゃんは、小児科病棟の友達の影響も大きかった。自分でも声を出したいという欲求が強くなったようだ、と園長が言っていた。
「もう、いいよ」
園長が佳奈ちゃんの背中を軽く叩いた。いつも一人ぼっちで遊んでいた佳奈ちゃんが、他の子供たちの仲間に入って遊ぶようになった。佳奈ちゃんにとっては、だれもが大きなお姉さんだったが、仲間に入ったつもりのようだった。
「佳奈ちゃん。もう、大丈夫ね」
「よかった」
「お医者さんに、あと数日と言われた時は、地獄だった。でも、あの病気のおかげで、あの子の中に意欲が出たのね。生きる意欲が」
「ほんとに、よかった、です」
「亜紀さん。ありがとう。ついに、やったわね。あの子にとっては、亜紀さん、母親だから、この先も見守ってやってね」
「もちろんです」
亜紀は暖かい気持ちで部屋に戻った。うれしかった。
白石から結婚の話を持ち出されてから、ずっと自分と向き合う日が続いた。今はもう、正面から自分に向き合える。逃げても、逃げても、逃げる場所はない。自分の運命を素直に受け入れる気持ちは固まっている。佳奈ちゃんの変化が、自分の背中を押してくれているような運命を感じさせる。園長先生が言ってくれたように、目をつぶって飛び込むことが、最善の道だと思えるようになった。それは、生まれて初めて感じる豊かな気持ちだった。
二十四日になって、食堂の飾り付けは完了した。ハンバーグとマカロニサラダ、ポテトのから揚げ、夕食の準備も完成に近づいている。
栄養士の大田洋子さんの指揮下に入って、亜紀もハンバーグの担当だった。子供たちがソワソワしている。
駐車場の方から車のホーンが聞こえると、子供たちが保育園を飛び出して行った。
「すごい荷物やし、みんなで運ぶの」
太田洋子が説明してくれた。台所にいるハンバーグ担当になった三人の高校生だけが残っているだけだ。レンジもフライパンも総動員でハンバーグを焼いている。子供たちが荷物を持って戻ってきた。食堂に用意された机の上に、プレゼントが山のように積まれていく。ケーキの箱が到着し、中からクリスマスケーキが出てきて、子供たちの歓声が一段と大きくなった。子供たちの目が輝いているところへ、白石と園長が来た。
「はいはい、みんな、座りなさい」
園長の一声で子供たちは、それぞれ自分の席に座った。焼きあがったハンバーグを皿に盛り付ける。太田洋子の手際の良さには、いつも驚かされる。ケーキは食事の後と決まっていて、食事の間中、誰かの視線がケーキを監視し続けた。
亜紀は自然と白石に視線が行ってしまっている自分に驚いていた。食事の時間が終わり、ケーキで大騒ぎした後、プレゼントでさらに大騒ぎになった。
隣に座っている春花ちゃんが、亜紀さんは何を頼んだの、と聞いてきた。
「私、なにも」
「そう」
春花ちゃんが名前を呼ばれて、プレゼントを貰ってきた。皆、自分の膝の上に大事に抱えて待っている。全員が手にするまで開けてはいけない約束になっている、と教えてくれた。
「亜紀さん」
「はい」
園長に手まねきされて、白石からプレゼントを渡された。園長は亜紀もここの住人だと言っていたが、亜紀は部外者の居候だと思っている。まさか、クリスマスプレゼントが貰えるとは思ってもいなかった。
「さあ、開けてもいいわよ」
園長の声を待ちに待っていた子供たちが、一斉にプレゼントを開け始めた。ここの子供たちは、生活必需品しか持っていない。一年に一回だけ、クリスマスプレゼントだけは、自分が欲しいと思っているものが手に入る、大切な一日だった。子供たちは一年間、考え続ける。そして、品物と一緒に子供たちは自分の夢も一緒に貰うことになる。亜紀も自分の貰ったフレゼントを開けてみた。電子辞書だった。京都システムの久保田が持っているのを、何回か借りたことがある。プログラムのコメントを書く時や、取扱説明を作る時に便利だった。
「部屋に持って帰っていいわよ。一時間後に集合して、後片付けをしてね」
「はあい」
子供たちは、大きな返事をして、大事なプレゼントを抱えて、一目算に食堂を後にした。食堂に残った大人たちの顔も、幸せで緩んでいた。亜紀は園長と白石が座っているところへ行き、礼を言った。
「ありがとうございます。私まで」
「欲しいもの、聞いとけばよかったけど、つい、忘れちゃって、今日、大急ぎで買ってきて貰ったの。役に立つかしら」
「もちろんです」
「すごい騒ぎだったでしょう」
「はい」
「子供たちは、この日を一年間待ってるの。出費が嵩んで、求さんには悪いんだけど、この日があるから、子供たち頑張れると思うの」
「僕も、今日が一番楽しい。子供たちの笑顔は最高のプレゼントですよ」
「ほんとに、皆、いい笑顔だった」
「はい」
「この後、食堂の片づけが終わったら、歌ったり、ゲームしたり、今日は消灯時間はなし。一時間したら、また大騒ぎになるわよ」
「あの」
「・・・」
「白石さんと、お話させてもらっていいですか」
「ええ。もちろんよ。談話室を使って」
「はい。できたら、園長先生も」
「わかったわ。行きましょう」
三人で談話室に入った。
「白石さん。よろしくお願いします。いろいろ考えましたが、園長先生がおっしゃったように、飛び込むことが一番大事なことだと気がつきました。どうか、よろしくお願いいたします」
亜紀は頭を下げた。
「よかった。おりがとう。僕の言い方が悪くて、辛い思いをさせてしまった。ほんとに、ありがとう。あとは、僕にまかせて」
「よく決心したわね。私も、嬉しい」
「あと、何を、どうしたらいいのか、見当もつきません。言われたようにしますから、お願いします」
亜紀にとって、この結婚は打算かと問われれば、その通りと答えざるをえない。結果が吉と出れば、自立の夢はかなうが、凶と出れば大きな不幸を背負いこむことになる。自分が安全を最優先にできる立場にいないことを知っている。しかも、選択肢は限られていた。


36

恒例となった相馬保育園のクリスマスイベントは、求にとっても楽しい行事になっている。一年に一回、子供たちの本音の顔が見れる日だった。時間が欲しいという亜紀に遠慮していたが、大手を振って会うことができる。
山ほどのプレゼントとクリスマスケーキを運ぶ子供たちの騒ぎはすさまじいものがあった。
食堂の中は園長の声が聞こえない状態だったが、夕食のハンバーグが運ばれてくると、飛び跳ねる子供もいた。
「はいはい、手伝ってね」
調理師の太田洋子が大声で言った。
ハンバーグの皿を両手に持って亜紀が出てきた。落ち付いた様子で子供たちに指示を出している。相馬保育園の子供たちの中で、亜紀は最年長だったこともあり、子供たちは素直に従っていた。亜紀が求の方に軽く会釈をし、求は笑顔を返した。深刻な表情はなく、自然なふるまいだった。
食事とケーキが終わり、一人一人にプレゼントを渡した。子供たちは自分と自分のプレゼントの世界を作り、夢の世界にいた。
子供たちが部屋に引き揚げ、求は園長と亜紀の三人で談話室に入った。他の二人は落ち着いているのに、求は緊張していた。
亜紀は、よろしくお願いします、と言ってくれた。求は肩の力が一度に抜ける思いだった。亜紀に断られていたら、後継者を見つけるのに何年もかかるだろうし、その努力を自分がするのかどうかもわからなかった。多分、解散の選択肢が大きくなっていただろう。
決断を下した亜紀は、清々しい表情で、また一回り大きくなったように思えた。
翌日、求は京都システムに須藤を訪ねた。
「須藤さん。今日は無理なお願いをしに、来ました」
「どうしたんです。改まって」
「沢井さんのことなんですが」
「はい」
「僕と結婚してもらいます」
「は」
「結婚して、僕の後継者になってもらおうと、思っています」
「まさか」
「その、まさかなんです。僕の方から一人前のプログラマーにして欲しいと頼んでおきながら、申し訳ないと思っています」
「待ってください。藪から棒じゃないですか」
「申し訳ない」
「僕は沢井さんにうちの将来を賭けているんです。二年もすれば、うちも元請けのできる会社になれる。そう信じています。ですから、沢井さんを引き抜かれては困ります。ほんとに、絶対に困ります。結婚に僕は反対です。結婚は個人の自由ですが、会社を辞めてもらっては困ります。駄目ですよ、白石さん」
「そうなんですが、そこを曲げてお願いします」
「駄目です。考え直してください。僕は今まで白石さんに反対をしたことはありませんよね。それに、白石さんあっての京都システムだということもわかっています。でも、この件だけは納得できません。なんとか考え直してください。お願です」
須藤の強い拒絶反応にあい、求はたじろいだ。今までの須藤からは想像もできないような反対表明だった。だが、何度でもお願いするしかない。
求はその足で真鍋建設の事務所を訪れた。亜紀に結婚を申し込んだ直後、亜紀の承諾を貰えていないのに、自宅の増築を依頼してあった。現在の母屋の南側に新母屋を作る予定で動いてもらっている。真鍋社長は頑固な社長だったが、日本建築では右に出る建築会社はない。全ての予定を変更してもらった上に、三月一杯で完成するように、無理を言わなければならない。
「お願いできますか」
「あんたの頼みじゃ、やらな」
「ありがとうございます」
求は引き続き、石井法律事務所に徹叔父を訪ねた。求は白石の総会をやるつもりでいた。白石の総会は、求が家長になった十五年前にやって以来だった。亜紀から承諾を貰った報告をして、総会の取りまとめを依頼した。
「総会をやろうと思っています」
「そうだな。その方がいい」
「叔父さん。まとめてくれますか」
「わかった。いつがいい」
「四月の早い時期に」
「久しぶりだな」
「ええ。十五年」
「もう、そんなになるか」
「十五年は、あっと言う間ですね」
「ほんと、ほんと。他にすることは」
「思いついたら、またお願いに来ますよ」
「そうか。ともかく、よかった」
「ありがとうございます」
求は家長になる時、徹叔父に後見人になって欲しいと頼んだ。京都人には珍しく鷹揚な人柄で、グループの重要な要になってくれている。弁護士というより市場のおやじが似合っていた。


37

新しい年を迎えて、求は再び須藤を訪ねた。
「須藤さん。やはり、お願いしたい、と思っています」
「そうですか。僕も考えました。残念ですが、白石さんの意向は断れません。人材を確保しても、資金力がなければ、絵にかいた餅というやつです。大きい仕事を受ければ受けるほど必要になる資金も大きくなります。白石さんと決別する積もりなら、できるのでしょうが、白石さんから離れるということは、沢井さんを失うということでしょう。こんなチャンスを逃すのは残念ですが、諦めます。僕としてはお二人の結婚を、個人的に祝福しますが、京都システムの須藤としては決して喜ばしいこととは言えません。今でも、考えなおして欲しいと願っていますよ」
「すみません」
「で、いつなんです」
「四月です」
「仕事のきりがついたら、どうしたらいいですか」
「後は、僕が。車の免許も取ってもらいたいと思ってます」
「そうですか。じゃあ、二月一杯で」
「いいんですか」
「了解したんですから。ゴネたりしません。ところで、後を継ぐと言いましたよね。ここの仕事より、はるかにハードでしょう。でも沢井さんなら大丈夫ですよ」
「須藤さん。そう、思います」
「ええ。半年でしたけど、目から鱗です。年齢じゃないんですね。才能というか、器と言うのか、沢井さんの将来は、予測不能です。僕は、世界的なコンピューター技術者になると期待していました」
「たぶん、コンピューター技術者の方が社会に貢献できるのだと思います。白石の後継ぎをしても、白石グループに貢献してくれるだけで、社会への貢献度では小さいでしょう。そう言う意味では僕の我儘なんでしょうね」
「白石さん。承知の上なんですね。もう、僕は何も言いません。お二人の幸せと言うよりご健闘を祈ります」
「ほんとに、申し訳ありません。感謝します」
求は須藤と別れて、電話をくれるように亜紀にメールをして、堀川へ向かった。
「専務。結婚することにしました」
「は」
「結婚します」
「そう。そらよかった。あの世で、先代に申し開きせな、おもてました」
専務の内藤は、父の代から不動産一筋で、白石不動産の主だった。
「相手は、まだ高校生です。後を継いでもらうつもりです」
「ほう」
「で。お願いなんですが、不動産の仕事、教えてやってもらえませんか」
「わしで」
「不動産がわかっていないと、白石の仕事はできません。あと十五年で僕の代も終わります。教育は専務にやってもらうのが一番だと思っています」
「こんな年寄りでええのか」
「僕も専務に鍛えられました。まだまだ、歳を理由にしてもらっちゃ困りますよ」
「きついね」
口では迷惑そうな言い方をしているが、内藤の顔は喜んでいた。
「四月からです」
「四月」
「半端な女の子じゃないですから」
「ほう。ほんまか」
「頼みましたよ」
「家長命令には、従わな」


38

京都システムの前で待ち合わせをして、亜紀は初めて白石不動産を訪問した。予想していたものと違って、古くて小さなビルだった。三階にある白石の事務室は北京都ホテルの事務室の数分の一しかなく、室内も質素なものだったが、落ち着ける事務室だった。
「狭いでしょう」
「はい。でも、いい部屋です」
「今でも、この不動産部門が白石の中心なんです。ここは父の代から変わっていない。この部屋は落ち着けるんですよ」
「ええ」
「今日は、これからのことを相談しておこうと思ってね」
「はい」
「須藤さんから、やっと許してもらいました。君を辞めさせること、絶対反対と言われてたんです。あんな須藤さん、初めて。それだけ期待してたんだな」
亜紀は須藤がそれほど期待していたことを知らないので、答えようがなかった。
「で、二月末日で退職と言うことになった。結婚は四月と言ってある。四月でいい」
「はい」
「君の結婚観というか、希望と言うか、そう言うの、聞かせてくれないか」
「別にありません」
「こうしたい、とか」
「ありません」
「弱ったな。式はこうしたい、とか、旅行はどこがいい、とか、住まいの理想とかです」
「何もありません。式は、しなくてはいけないんですか」
「ウェディングドレスとか、ウェディングケーキとか、なにかあるでしょう」
「ありません。式をする、と言われれば、それに従います。できれば、何もないほうが、嬉しいです。私、そういう、何て言うか、派手なことは、自分の身の置き場に困ると思うんです」
「そう」
「すみません。式はこうする、と言われれば、やります」
「いや。そう言うことじゃない。女の子なら、なんか、夢みたいのあると思ったんだ」
「そう言う夢を見る環境じゃなかったことは、白石さんは知ってますよね。急に、女の子にはなれません」
「わかった。式は無しにしよう。僕はその方がありがたい。この歳で新郎席も抵抗あるしね」
「よかった」
「旅行は」
「私、旅行なんて行ったことありませんから、わかりません。白石さんが考えているのでいいんです。行っても、行かなくても、場所がどこになっても、希望はありません」
「住む場所も」
「はい。私にとって、この結婚は自立の一つの道だと思ってます。白石さんのお嫁さんになって、白石さんの帰りを待つ専業主婦になるわけじゃない、と。仕事ができる環境があって、白石さんや、大勢の皆さんのお役に立つことが、自分の自立だと思ってますし、必要とされなければ、自立できないと思ってますから。京都だと、やはり、しきたりとかあるんですか」
「しきたりじゃない。僕が一方的に決めたんじゃ、また、君に辛い思いをさせるかな、と思って」
「ありがとうございます。でも、もう、飛び込む決心をしたんです。白石さんが一方的に決めてくださっていいんです。私、どんなことしてもついていきますから」
「ありがとう」
「あまり、気を使われると、窮屈になります。私に文句付けられるぐらいで、いいんですよ」
「それって、プレッシャー」
「ごめんなさい」
「じゃあ、式は無し。旅行は落ち着いてから考える、ことで、いいかな」
「はい」
「住むところは、僕が今住んでる場所でいい」
「はい」
「二月で仕事を終えたら、車の免許を取ってください。一か所に、じっとしている仕事じゃないから、機動力は必要です。これも、いいですか」
「はい」
「四月の初めに、白石の総会をやります。関連する会社、個人の方に集まってもらい、皆さんに紹介します。いいかな」
「はい」
「白石の中心は、やはり不動産業なので、四月からは、先ずここで勉強してもらいます」
「はい」
「京都中を走り回ることになると思うけど、地理の勉強にもなります」
「はい」
「そして、これが問題になるのかもしれないが、君のお母さんに会える機会を作ってもらいたい。家を出て行って、誰かと結婚し、その結婚相手が誰かも知らない、と言うわけにはいかない。けじめとしても挨拶をしておきたい」
「この話題が出なければいいな、と思ってましたが、やはり、会わなくてはいけませんか」
「是非」
「駄目だと言っても、白石さんは、一人でも会いに行くんでしょうね」
「多分」
「わかりました。卒業式が終わってからでいいですか。学生を卒業してからにしたいんですが」
「それで、いい」
「一度だけですよ」
「わかった」
普通の母親であれば、と何度思ったことか。京都に来てよかったことは、沢井親子のことを知る人がいないことだった。
「何か、聞いておきたいことは」
「ありません。具体的に聞かせてもらって、よかった」
「僕たちはパートナーだと思ってる。それでも、君を幸せにしたい」
「うれしい、です」
白石の気持ちは、真っ直ぐ伝わってきた。幸せになるということの実感は湧かないが、少なくとも、今は幸せだと思えた。
ドアをノックする音がして、老人が一人部屋に入ってきた。
「専務」
「このお譲はん」
「そうです。紹介しておきます。沢井亜紀さん。こちらは内藤専務という、白石不動産の生き字引のじいさま」
「沢井です」
「内藤です。えらいべっぴんや」
「座ってください」
三人が椅子に座った時、ドアがノックされ、若い女性がお茶を持ってきてくれた。
「んんん。家長の言ってはった意味、わかりました。半端とちゃいますな。楽しみや」
内藤老人が余りにも見つめるので、亜紀は目のやり場に困った。


39

卒業式が終わって、一週間が過ぎた。事前に母の予定を聞いておこうかと思ったが、気の進まないまま、白石との約束の日になってしまった。
亜紀は白石を連れて、母のアパートに向かった。
台所の窓が開いていて、人影があった。
「びっくりするじゃないか」
「一寸、いい」
「なに」
「うん。ちょっと」
母は顎でドアの方をさした。
亜紀はドアを開けた。玄関といっても、人間が一人立てば一杯になってしまう程度の広さだから、亜紀は靴を脱いで台所に入った。白石も亜紀の後から入った。
「だれ」
お湯を沸かしながら、母が不機嫌な声で言った。
「はじめまして、白石求と言います」
「・・・」
「突然、お邪魔してすみません」
「は」
全く、取りつく島もない。
「お嬢さんと、結婚したいと思い、ご挨拶にきました」
座れ、とも言われていないので、白石が立ったままで挨拶をした。
「はあ」
「母さん」
「どう言うこと」
「私、白石さんと結婚することにした」
「だから」
「ご挨拶に」
「出て行ったと思ったら、こういうことかい」
「母さんが出て行けって言ったのよ」
「こんな年寄りと、金」
「そんなんじゃない」
「だって、変だろ。まだ学生だろうが」
「もう、卒業式終わったから」
「ふうん。あたしは別にどうでもいい。せいせいするよ」
「ありがとうございます」
「さっさと、帰りな」
ドアが開いて、ジャージ姿の男が入ってきた。年齢は三十から四十の間だろう。若い時は、それなりに男前だったろうが、荒れた生活がそのまま顔に出ている、いわゆる、ろくでなしだった。コンビニの袋を持っているのは、食糧の買い物に行っていたようだ。
「こいつら、だれ」
「むすめ」
「へえ、こんな大きな娘がおったんか。へええ、えらいべっぴんやないか、なあ、ねえちゃん」
「もう、帰るとこだよ」
男は白石と亜紀の間をすり抜けるようにして、小さなテーブルの椅子に座った。
「それに、ええ体しとる。なんで、黙ってたんや。おいしそうやんけ。ねえちゃん、今日、泊っていき。おっちゃんが、ええこと教えたるさけえな」
「あんた」
「なんや。別に減るもんやないやろ。この、おっさんはなんや」
「結婚するんだって」
「まさか。そりゃあ、無茶やで。やめとき。もう、役にたたへんで」
「帰りましょう」
亜紀は、白石をうながした。
「待たんかい」
亜紀は左足を引いた。
「あんた。この子は駄目。大怪我するから」
「あん」
「あの手袋の下、見てみれば」
「手袋。見せてみいや」
亜紀は手袋を外した。争いになるより、はるかにいい。
「マジかよ」
「二人とも、とっととお帰りよ」
亜紀は白石の体を押し出すようにして、母のアパートを後にした。
「ごめんなさい」
アパートの階段を降りた所で、亜紀は謝った。
「君が謝ることじゃない」
「でも」
「一応、お母さんには伝えることができた、としょうよ」
「はい」
後味の悪い対面だったが、仕方のないことだった。白石の気持ちが離れてしまわないことを祈った。


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