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海の果て 第2部の 1 [海の果て]


副題「誰か族」

 誰か族とは、誰かのために生きようとする人たちのことを言う。



 黒い雲が天を覆い、雨は突然にやってきた。沢井亜紀は、軒下へ走ったが、髪も制服も濡れていた。亜紀は怒りの眼差しで空を見た。ハンカチを取り出して眼鏡を拭く。その表情には怒りの残滓もなかった。災いが通り過ぎるのを待つことには慣れている。古い建物の軒に打ち付ける雨音は、屋根を突き破りそうな勢いで、亜紀は周囲を見回した。そこは、毎日通る通学路なので、その建物が使われていない工場であることは知っていた。雨の水煙で道路の向かい側の建物も見えない。その水煙の中から、傘を挿した人影が軒下へ飛び込んできて、亜紀は身構えた。
「野口さん」
同じクラスの野口香織が、全身を濡らして、地団太を踏んだ。
「沢井さん」
野口香織は、傘を放り、ハンカチで顔を拭いた。
「傘、持ってたのに」
顔と髪を拭いただけで、ハンカチは役に立たなくなっていた。
「うち、雨女。なんでやの」
「えっ」
「どんなに天気でも、傘は手放されへんのに」
学校での野口香織は、クラスの太陽のような存在で、笑顔を絶やしたことがなく、誰とでも仲が良く、誰からも好感を持たれている。
野口香織と、お友達でないのは、誰とも口をきかない、亜紀ぐらいだろう。その、野口香織が「雨女」とは信じ難い取り合わせだった。
「沢井さんも、ずぶ濡れや」
亜紀は、笑顔に戻った香織から視線を外して、雨を見た。雨の勢いは更に強くなっていた。
「かんにん。沢井さんも雨女かな、思たんや」
亜紀は、自分がどんな様子なのかわかっていた。普段でも地に落ちた鳥の巣のような髪が、雨に濡れてひどいことになっている筈だった。
「沢井さん。聞いてもいい」
亜紀は、野口香織を無視する様子を見せた。
「沢井さんは、京都が、嫌い」
「えっ」
「転校してきて、一年以上やのに、友達作らへんし。ずっと思ってたんよ。京都が嫌いなんかなって」
「別に」
「そう。私のこと、嫌い」
亜紀は、香織の顔を見て、首を横に振った。
「よかった。じゃあ、今から友達になろう。かまへん」
押し付けがましいことを言っているのに、香織が言うと、そうは感じない。亜紀は、苦笑いをするしかなかった。
「そこに、相馬保育園があるの、知ってるやろ。うち、調理手伝いしてる」
「バイト」
「ううん。バイトと違う思う。二人分の食事もらってるだけ」
「そう」
「遅刻しそうや。少し小降りになったら行こ」
「私は、べつに」
「でも、濡れたままやったら、風邪ひくし。保育園からは、この傘持っていって」
クラスでも、香織はいつも相手のことを一番に考えて行動していることを、亜紀は知っていた。押し付けがましいとは誰も感じていない。人柄だと言ってしまえば、それまでだが、亜紀は何か違和感を持っていた。人間が善であることはない、と思っている。
「野口さんは、いつも、自分のことが二番なの」
「えっ」
「ちがう」
「そんなん、考えたことない」
「そう」
苦労知らずのお嬢ちゃんなのかもしれないと、亜紀は納得した。
雨は小降りになった。
「いこ」
香織にせかされて、亜紀も香織の傘に入って歩き出した。亜紀は友達になったつもりはなかったが、相手はもう親友になったつもりかもしれない。雨宿りした廃工場から保育園まではすぐだった。石の階段を登って、つつじの植え込みの間を進むと、開け放たれた大きな玄関があり、そこには雨に閉じ込められた五人の子供たちが暗い表情で外を見ていた。
「あっ、香織ちゃんや」
子供たちの表情が明るくなったが、亜紀を見て緊張したようだ。
「友達の沢井さん」
「こんにちは」
子供たちが声をそろえて挨拶をした。
「こんにちは」
亜紀は、玄関から目を逸らして小さな声で答えた。小さな女の子は嫌いだ。昔の自分が重なってしまう。
「傘、いい」
傘を取ろうとした手に何かがからみついた。亜紀の指を小さな女の子が握っていた。
「佳奈ちゃん」
なぜか、香織が驚いた声を出した。亜紀は、少し強く手を引いたが、女の子は手を離す様子はなかった。亜紀は香織の方を見た。
「沢井さん、ちょっとだけ待ってくれる」
香織は、女の子の前に座るようにして、女の子の目を見つめた。佳奈ちゃんと呼ばれた子は、目を伏せたまま両手で亜紀の指を握ってきた。
「沢井さん、急いでかえらなあかんの」
「どうして」
「この子が、自分から、こんなことしたこと、あらへん」
香織も、当惑顔で、他の子供たちの方を見た。
「沢井さん、少し一緒にいてやって、お願い」
亜紀は、困った顔をした。別に急ぐ用事などなかったが、子供たちと係わりを持つことに抵抗があった。かといって、力づくで振り払うことはできない。亜紀は、玄関の中に入り、鞄を板間に置いて腰を降ろした。佳奈ちゃんは、亜紀の横に座って、正面を見つめていた。
「ちょっとだけ」
香織は、奥へ走った。子供たちが二人を遠巻きにして見ている。亜紀と佳奈ちゃんは、黙って前を見ているだけだった。
「こんにちは。私、園長の相馬です。ご迷惑かけてるようで、ごめんなさい」
香織に連れられてきた年配の女性が、亜紀の横に背をかがめた。亜紀は、ちいさく首を振った。
「すこし、いいでしょう。上にあがって」
園長の言葉は丁寧だったが、有無を言わさない強さがあり、亜紀は園長に従って靴を脱いだ。三人が入ったのは、面談室と書かれた部屋で、テーブルと椅子だけの部屋だった。
「指が痛いよ。放してくれる」
亜紀は、佳奈ちゃんに頼んだ。だが、佳奈ちゃんは力を緩めただけで、亜紀の指は放してくれなかった。
「放してくれないようね」
園長が座るように手で言った。
「この子が、こんなに強い感情を出してくれたのは初めてなの。あなたには悪いけど、無理を聞いて欲しいの。野口さんのお友達ですって」
「はい」
亜紀は、窓の外を見た。雨がやんだようだった。香織につきあってここまで来たことを後悔していた。
部屋の外が騒々しくなって、香織が部屋に入ってきた。
「佳奈ちゃん。ケーキのおじさんよ。はよう」
「このおねえちゃん。園長先生がつかまえておくから、食べてらっしゃい。大丈夫。まかしておいて」
佳奈ちゃんは悩みぬいて、香織に手を引かれて部屋を出て行った。
「ごめんなさいね。すこし、事情を説明させて」
亜紀は。指をさすりながらうなずいた。
「ここは、看板に保育園と書いてあるけど、少し違うの。昔は普通の保育園だったのよ。でも、今は養護施設みたいなもの。虐待を受けた子供たちを預かっているの。特に性的虐待を受けた子供。だから女の子ばかりなの。佳奈ちゃんは虐待されたわけじゃないけど、あの子のおねえちゃんが被害者で、佳奈ちゃんは多分、その現場に居合わせたのだと思う。あの子、来年から小学校だけど、全くしゃべらないし、喜怒哀楽も出さない。養護学校に行くしかないのかと思っていたの。できれば、普通の学校に行かせたい。だから、今日はびっくりしたの。普通の子供に戻れるかもしれない」
「私に、どうしろと」
「わからない。でも、あなたといれば、あの子に何かが起きるかもしれない。こんなこと初めてだから」
園長は、しばらく黙り込んでしまった。
「あなた、ご家族は」
「母と二人ですが」
「料理はだれが」
「私です」
「調理手伝ということで、出来た料理を二人分持って帰ってくれたらいいから」
「野口さんみたいに」
「ええ。家に帰っても料理はするんでしょ」
「はい」
「そして、あの子と一緒にいてあげて欲しいの」
「一緒にいて、何をするんです」
「何って、普通に遊ぶだけ。本を読んだり、散歩したり」
「私に、なにかを期待してます」
「そうね。そういうことになるわよね。でも、あの子が今の状態から抜け出せなくても、それは、あなたのせいじゃない。ただ、一縷の望みなんだと思う。だめかしら」
「すこし、考えさせてください」
「そうよね。私、きっと無茶言ってるのね」
「ええ」
「それと、ここは公立の施設じゃなくて、全くの私立の施設なのね。確かに補助金は貰っているけど、ほとんどは個人の寄付なの。しかも白石さんという方の寄付金で成り立っている施設なの。その白石さんが月に一度、ケーキを持ってきてくださるの。子供たちは、とっても楽しみにしていて。この施設では、大きなイベントかな。ここにいる子供は、みんな、心に大きな傷を持っていて、男の人には拒絶反応があるのだけど、白石さんだけは、受け入れられているみたい。だから、ケーキも白石さんという男の人が来てくれることも大事にしたいと思っている。この施設を卒業したら、男の人抜きの生活などない訳だし、できれば、いつかは、普通の生活をしてもらいたいから」
「野口さんも、ここの卒業生なんですか」
「どうして。気になるの」
「別に」
「あの子は、ここの手伝いをしてくれている学生さん。それだけよ」
「はい」
「雨が、やんだわ」
大きな窓から陽が差し込んできていた。
「あなたも、ケーキ食べていって。美味しいの」
「はあ」
「いま、持ってくるから」
園長は部屋を出て行った。
面倒なことに巻き込まれたと感じていたが、小さな子供の、小さくて、柔らかくて、頼りない指の感触が、そんな気持ちを封じたのか。   途方に暮れているというのが現状だった。園長の説明の中にあった性的虐待という言葉にも一歩引いてしまう。自分のことだけで精一杯。このまま、帰ってしまおうか。
ドアが開いて、野口香織と佳奈ちゃんが入ってきた。佳奈ちゃんの手には、皿にのったケーキがあった。落とさないように、持てる力を振り絞っている表情で、一歩ずつ近づいてくる。そんな気持ちを壊してしまわないように、香織が佳奈ちゃんの後ろに張り付いていた。亜紀は動けなかった。
亜紀の座っているテーブルの上に、やっとの思いで、ケーキの皿を置いた佳奈ちゃんが、大きなため息をついた。
佳奈ちゃんは一言も口をきかない。亜紀は椅子から降りて、床に膝をつけると、何も言わずに佳奈ちゃんを両手で抱きしめた。佳奈ちゃんの体から、力が抜けていくのがわかった。
「ケーキ、食べたいな」
佳奈ちゃんが体を起こして頷いてくれ、隣の椅子に佳奈ちゃんを移した。ケーキはケーキ屋で売っているケーキのようだ。高校三年になるまで、本物のケーキを食べたことがない。信じられないことだが、亜紀には食べたことのないものが山ほどある。食べるものがなくて、残飯を捜し歩いていた時もあった。「ここまでして、生きていかなければいけないのか」と深刻に思ったこともあったが、生存本能の方が強かった。
「おいしいね」
ケーキは美味しかった。でも、初めてのケーキだとは言えなかった。
佳奈ちゃんが椅子の上に立ち上がって窓の外を指差した。
「どうしたの」
亜紀は、立ち上がって窓の外を見た。保育園は、すこしだけ高台にあり、鴨川が眼下に見える。雨を降らせた黒い雲はなく、太陽の光が川面に反射してキラキラと光っていた。鴨川は底が浅く水面は滑らかではない。その水面で太陽光が反射して、宝石が踊っているようにきらめいていた。
「わあ」
亜紀は、その光景に見とれた。佳奈ちゃんを抱き上げ、出窓に乗せて、二人は無言で光の乱舞に見入った。自然の力の凄さのようなものを感じた。
「すごいね。佳奈ちゃんはここが好きなんだ」
佳奈ちゃんは感性も高く、優しさも気力もある。ただ、声の出し方がわからなくなっているだけなのだと思った。光の洪水の中で触れ合っている二人。
「佳奈ちゃん」
亜紀は、出窓に座っている佳奈ちゃんの正面に立って言った。
「私の名前は、さわい、あき。今日から佳奈ちゃんと友達。毎日は来れないかもしれないけど、また、来るから」
佳奈ちゃんが初めて、大きく頷いた。亜紀は、優しく抱きしめた。
「ごちそうさま。お皿を片付けて、園長先生を呼んできて」
抱いたまま、出窓から降ろすと、佳奈ちゃんは緊張感を持って、皿を手にして部屋を出て行った。年長の友達のために、何かができるときの喜びは、亜紀にも経験があった。
佳奈ちゃんに手を引かれて園長先生が部屋に入ってきた。
「佳奈ちゃんと、友達になりました。何かができるとは思っていませんが、いい友達になります」
「そう。よかった。ありがとう」
園長先生は、背をかがめて、佳奈ちゃんに「待っててね」と言って、亜紀の前に立った。
「ほんとに。よかった。ありがとう。お願いします」
亜紀の前で、園長先生が頭を下げた。亜紀は身の置き場に困った。
「座りましょうか」
佳奈ちゃんを椅子に座らせて、亜紀にも椅子を勧めた。
「さわい、あきさん。どんな字なの」
「はい。谷沢の沢、井戸の井、亜細亜の亜と紀元の紀です。古臭いですよね」
「ううん。いい名前よ。私は、相馬由紀。理由の由と紀元の紀。似てるわね。亜紀さんと呼んでもいい」
「はい」
「佳奈ちゃん。よかったね。亜紀さんが友達になってくれて」
佳奈ちゃんは、下を向いたまま頷いた。
「亜紀さん。無理はしないでね」
「はい」
亜紀も肩を張って無理をするつもりはなかった。
「亜紀さんの都合のいい時に、いつでも来て。部屋も用意できるわよ」
「ありがとうございます」




白石は慎重に運転して七条大橋の手前で右折した。トランクルームのアイスボックスには、大量のケーキが入っている。相馬保育園の子供たちの輝くような眼に会えると思うと、心が浮き立ってくる。だが、その前に一仕事しなければならない。京都システムの須藤から、相談ありのメールを貰っていた。京都システムは株式会社白石の傘下企業ではあったが、実務は須藤という副社長に任せっきりだった。コンピューターソフト開発の会社を起業するつもりはなかったのだが、大手のコンピューターメーカーに依頼していたホテル北京都の電子化は費用に見合ったものにならなかったので、八年前に友人の紹介で東京コンピューターシステムという会社から若手のSEを譲り受けて設立したものだった。会社の代表は白石の名前になっているが、実際の会社運営は須藤誠一というSEがやってくれていて、白石は須藤に全幅の信頼をよせていた。
「白石さん」
二階のドアを開けると、須藤が声をかけてきた。
「どうしました」
「はい。またTCSが納期短縮を言ってきました」
「どうしょうもないですね。的場さんが優秀すぎましたね」
TCSの開発部長をやっていた的場順一郎が独立してからは、後任の部長にTCSの社員も下請け会社も振り回されていた。
「これ以上は、無理ですよ」
「須藤さんの予定は」
「僕は、いつでも、時間作ります」
「じゃあ、来週の早い時点で行きましょうか」
「はい」
「腹決めて」
「はい」
仕事を取りすぎている、と感じていた。しばらく、つらい時期を耐えなければならないのだろう。これほどソフト開発の会社の仕事が過酷なものとは思っていなかった。
「これが、対策案です。目を通しておいていただけますか」
「無理してませんか」
「無理はありますが、これが限界です」
「わかりました」
白石は京都システムを出て、相馬保育園に向かった。園にいるのは、心に大きな傷を持った子供たちだったが、子供たちの顔を見ることを楽しみにしていた。園長の相馬由紀は、亡き妻の姉だった。妻の真紀の希望で、十年前から寄付金は出していたが、妻と息子の誠を五年前に交通事故で亡くした時から、園の運営を全面的にバックアップしていた。ホテル北京都にある洋菓子専門店のケーキを、山ほど持っていくようになってから二年になり、園ではケーキのおじさんと呼ばれている。
園の横にある駐車スペースに車をとめて、アイスボックスから慎重にケーキを取り出すと、石段を登った。先程までの雨はやみ、夏を思わせるような太陽が照り付けていた。玄関で遊んでいた二人の子供が、白石の顔を見て、目を輝かせて、奥に駆けていった。園の中はいつものような騒ぎになっていて、白石が食堂に行った時には、もう十人ほどの子供たちが待っていた。調理を担当している栄養士の大田洋子が、いつもの大きな笑顔で白石を迎えてくれた。
「おこしやす」
「今日は、新作ケーキですよ」
「楽しみやわ」
年長の子供たちが、ケーキ用の皿を用意し始めた。二十人を超える子供が一堂に集まると、賑やかというより騒々しくなる。女の子は
よくしゃべる。少し太り気味の大田洋子が手際よくケーキを盛り付けていく。子供たちが、手にした皿を大事にかかえて自分の席に座り、「いただきます」を待つ様子は見ているだけで楽しかった。
「佳奈ちゃんは」
大田洋子が、この席にいない、佳奈ちゃんという子供のことをきいた。
「談話室に、園長先生といてはる」
「お待たせ」
野口香織が佳奈ちゃんと一緒に食堂に駆け込んできた。
「いっただきまぁす」
白石は机の片隅に座って見ていた。ケーキは充分にあるにもかかわらず、まるで競争だった。ここでは、仕事のことを忘れることができる。大田洋子もケーキの前に立って、嬉しそうに子供たちを見ていた。ここの職員は、誰もが子供大好き人間ばかりだ。安い給料なのに辞める職員がいないのは、園長の人柄のおかげだが、皆子供が好きなのだ。何度も寄付金の増額を提言したが、園長は頑なに受けようとしなかった。「ここは贅沢をする場所じゃないの。居場所を与えることが、ここの仕事だから」と言って、切り詰めた生活をしていた。白石のほうが年上だったが、いつも敵わないと感じている。白石の仕事は多岐に亘っていて人脈も多いが、相馬由紀を超える人物に会ったことがなかった。金や権力という意味では大物はいくらでもいたが、ものの考え方や、身の処し方において、相馬由紀は一級品だった。
全員が食べ終わった頃に、園長が食堂に入ってきた。野口香織と佳奈ちゃんに何かを話して、白石の方へやってきた。
「求さん。いつもありがとうございます」
いつものように、園長は深く頭を下げた。
「ここに来ると、いつも気持ちが落ち着きます」
「今日も、忙しいですか」
「いえ。何でしょう」
「いつも、お願いばかり。また、力になって欲しいことがあるんです」
「もちろんです。私にできることなら」
園長は、佳奈ちゃんに起きたことを話した。
「香織ちゃんは、一期生の野口香織ですか」
「ええ、香織ちゃんも今日友達になったばかりだって」
「で。私は何をすれば」
「いま話した沢井亜紀さんの力になって欲しいの。あの子は何か深刻な問題を抱えていると思う。それがわかるの。でも、あの子が必要としているのは、私ではないように思うのよ」
「わかりました。近いうちに、私が話しをきいてみます。どんな子なんですか」
「香織ちゃん」
食堂に入ってきた野口香織を園長が呼んだ。
「こんにちは。今日のケーキ、変わった味だけど、とても美味しかったです」
「新作だけど、自信はあると言ってました」
「ところで、あの子のことだけど」
「佳奈ちゃんですか」
「いえ、あなたのお友達の沢井さん。どんな子なの」
「沢井さんだけは、私にもわかりません。そこの松葉荘にお母さんと二人で暮らしてると思うけど、それしか知りません」
「そう。学校では」
「誰とも、話をしません。取り付く島がないというか、無視されるというか。強烈なバリアがある、と思います。でも、成績は飛びぬけていいんです。この前、全国共通の模擬試験があったんですけど、沢井さんは一桁だったんです。私は五桁でしたけど」
「一桁って、十番以内って事」
「そうです。学校の成績も、ぶっちぎりの一番だから、一寸、近寄りがたい」
「もちろん、進学コースよね」
「ええ。そういうことになってますけど。どうなのかなあ」
「どうして」
「うちも、貧乏では誰にも負けないけど、沢井さんのお弁当、いつも、おにぎりが一つなんです。国立だとしても、受験料とか入学金とか授業料、払えるとは思えないんです」
「そう」
「文房具とか、持ち物とか、どうみても、うちよりお金があるとは思えないし、休み時間に読んでいる本は、図書室の本ばかりで」
「そういえば、制服も変ね」
「転校してきた時に、先生が中古品を世話したって、聞きました」
「ずっと、あの髪型」
「ええ。きれいな顔だと思うけど、男の子は気持ち悪いって言ってます」
「たぶん、わざとね」
「わざと、ですか」
「若い女の子だったら、少しでも自分を綺麗に見せたいと思うわよね。あの子は隠してる」
「ともかく、変な子なんです。どうして、佳奈ちゃんが」
「そうね」
「来週、東京から帰ってきたら電話します」
「お願いします」
白石が椅子から立ち上がり、園長と香織が頭を下げた。香織も卒業すると、白石の紹介で大手の病院に付属する看護学校に行くことになっていた。




 三日間、相馬保育園に行かなかった。佳奈ちゃんは、自分自身に勝たなければ再生はないと、亜紀は思っている。たとえ、ほんの小さな子供だとしても、自分の体験からも譲れない部分だった。甘えさせてやりなさい、全面的に受け入れてあげなさい、というのは大人の感覚にすぎないと思っている。子供だって、それなりに強かに生きる能力を持っている。心のどこか深いところで、この人に受け入れられている、守られているという確信さえあればいいのだ。亜紀の場合は、道場の大河原先生がそうだった。時間はかかるけど、自分がそんな存在として、佳奈ちゃんに体感してもらうことができれば、必ず再生すると思っていた。
四日目の放課後に、亜紀は相馬保育園の石段を登った。想像していたように、佳奈ちゃんは玄関で、ひたすら待っていた。この四日間、玄関に張り付いていたはずだ。
「佳奈ちゃん」
亜紀はカバンを板間に置いて、両手を広げた。亜紀の胸に飛び込んできた佳奈ちゃんを抱きしめて、そのまま板の間に腰を降ろした。こうやって体が感じる信頼という薄い膜状のものが、一枚ずつ重なっていき、確信という厚いものになることができれば、佳奈ちゃんは自分の人生を始めることができる筈だ。理屈ではなく、自分に勝つという感覚を体で覚えることが出発点になる。自分に勝つことしか、生き残る道はないということを体中が知る日が来る。この相馬保育園に保護されている子供たちは、居場所があるということだけでも恵まれている。だから、自分というものに気づく時間が、より多く必要になるかもしれない。だが、佳奈ちゃんはダメージが大きかった分だけ優位に立っているとも言える。今は、時間が必要だった。亜紀は、先の見えない人生ではあったが、自分の人生を生きていると感じていたし、必ず切り開くことができると信じていた。
「佳奈ちゃん。私、学校の勉強したいの。ここでやってもいい」
亜紀は、佳奈ちゃんを膝から降ろした。佳奈ちゃんは抵抗することもなく、亜紀の横で、亜紀の制服の端を握っていた。
亜紀は日本史の教科書を取り出して、読み始めた。もう、一冊まるごと暗記できるほど読んでいたので、目新しいものはなかったが、教科書に集中した。亜紀の母親は、十八歳で私生児を生み、亜紀が三歳の頃にはホステスとして働き始めたらしい。母親が帰ってこない日もあり、食事のない日もあった。隣の空手道場の奥さんがくれる食べ物で、その日を乗り切ることもしばしばだった。小学生になると、学校から道場に帰り、そして家に帰るという生活になった。家に帰った時は教科書を読みふけることしかなかった。愛読書が教科書だったので、亜紀は高校三年のいままで、学校の成績は一番しか取ったことがない。母親は保護責任遺棄の現行犯であり、亜紀は施設に収容される状況だったが、道場の大河原先生が亜紀を支えてくれた。今から思えば、あの頃から、自分を守るのは自分しかないという現実に気がついていたと思う。小学三年生の頃には、家事も家計も亜紀の担当だったが、そのことは全く苦にならなかった。母親が家計にお金を入れてくれれば、何の問題もなかった。
「亜紀さん。ありがとう」
園長が声をかけてくれた。亜紀は教科書に目を落としたまま、小さく会釈を返した。職員や子供たちが何人も通り過ぎたが、佳奈ちゃんと二人の世界を作って、すべて無視していた。
それから、三日間は毎日相馬保育園に行き、佳奈ちゃんと二人、玄関で勉強をした。二人を覗きにくる子供たちも減っていった。野口香織も二人に小さく手を振るだけで通り過ぎる。園長だけは、必ず声をかけていった。次の日から三日間、保育園に行かずに四日目に行ったとき、佳奈ちゃんは玄関にいなかった。佳奈ちゃんは遊戯室だった広い板の間の片隅で本を読んでいた。
「佳奈ちゃん」
佳奈ちゃんは、本を捨てて、膝立ちしている亜紀の胸に飛び込んできた。
「佳奈ちゃんも、お勉強」
「あそこで、一緒にお勉強しようか」
二人は片隅で、別々の本を読んだ。初めて佳奈ちゃんに出会った頃と比べると、佳奈ちゃんはとても落ち着いた様子だった。
夕方になると、保育園の中が騒がしくなった。「ケーキのおじさん」
という声が聞こえる。
「佳奈ちゃん。ケーキのおじさんよ」
遊戯室の入り口から、香織が声をかけてきた。
「いこ」
亜紀は立ち上がった。佳奈ちゃんはケーキが好物のようだったが、亜紀もケーキが好きになっていた。二人が食堂に行ったときには、すでに大騒ぎになっていた。佳奈ちゃんと二人で列に並んだ。食堂の奥で園長先生と一緒に座っている人が、ケーキのおじさんらしい。野口香織から聞いていたケーキのおじさんは、もっと年配の人だと思っていたが、そうではなかった。園長と話をしながら、時折笑っている。その笑顔に好感が持てた。大河原先生とも違うし、母親のろくでもない恋人たちとも違う。亜紀にとっては初めて出会う人種だった。
佳奈ちゃんと並んでケーキを食べた。美味しい。皆がケーキのおかわりをしていたので、亜紀も二つ目を食べた。最初にこの保育園に来たときの子供たちの目は、よそ者を見る眼だったが、今は仲間と思われているようだ。大河原道場でも大勢の仲間がいたが、一度も心を開いて友達を作ったことはなかった。食べ終わって食器洗いを手伝おうとしたが、年長の子供たちが手際よく片付けていて、亜紀の入り込む余地はなかった。亜紀は遊戯室にもどって、佳奈ちゃんと本を読むことにした。
夕方になって、香織が夕食を告げにやってきて、亜紀は佳奈ちゃんと別れた。香織は、使い捨ての容器に入った二人分の食事を渡してくれる。園長先生が言っていたとおり、保育園に来たときは食事を持って帰るようになっていた。
「ありがとう。いつもおいしい」
「よかった。太田さんにゆうとくわ」
野口香織の友情は気持ちがよかった。友達になったからといってまとわりつくことはしなかった。亜紀は荷物をまとめて玄関へ向かった。
「亜紀さん。時間、まだいい」
「はい」
玄関で園長が待っていた。園長と一緒に談話室に入ると、ケーキのおじさんがいた。
「紹介するわ。こちら、白石さん。この園の最大の理解者なの。美味しいケーキも持ってきてくれるし」
「白石です」
「沢井です」
亜紀は素直に頭を下げた。
「佳奈ちゃんのことで、無理を言ってます」
「いえ」
「みんな、あの子のことは心配しています。最近、あの子の目が変わってきたと園長先生も言ってます。あとは、あの子の力だと思っています」
この白石さんという人は、佳奈ちゃんが再生するのは、本人の力だということがわかっている。こんな大人もいるのだと、亜紀は初めて知った。
「はい。あの子には大きな力があります」
「沢井さんと出会えたことが、あの子の運です」
「ごめんなさい。私が行かないと、夕食が始まらないので。求さん、お願いね」
園長が談話室を出て行った。
「座りませんか」
「はい」
「余計なお世話かもしれませんが、園長が君の相談に乗って欲しいと言ってました。何の相談ですか、と聞いたら、わからないから、相談に乗ってと言うんですよ」
「はあ」
「訳、わらないですよね。僕にもわかりません。でも、園長の考えは、後になって納得いくことが多いんです。だから、ともかく、君と話をしようと思ったんです。迷惑ですか」
「いえ。別に。でも」
「ですよね。では、先ず、友達になりませんか。一寸、歳食った友達ですけど」
「ええ」
「先ず、自己紹介しましょう。僕は、白石求です。要求の求です。ずっと、きゅうちゃんと呼ばれていました。仕事は、いろいろなことをやっていますが、ホテルと不動産とソフト開発かな。京都ですから、ずっと昔は呉服関係でしたが、今は、直接やっている仕事はありません。それから、五年前に交通事故で、妻と息子を亡くしました。園長先生の相馬由紀さんは、妻のお姉さんですが、お手伝いさせてもらっているのは、園長の人となりを尊敬しているからです。あと、ケーキは、うちのホテルにあるケーキ専門店のものです。ここは、ぎりぎりの経費で運営しています。だから、月に一度のケーキの日は歓迎されています。ここに来ることで、僕も一杯元気を貰いますから、お互い様かな。そして、と、仕事で、精一杯で、無趣味です。自己紹介も変か」
白石は、声を出して笑った。やはり、笑顔に魅力があった。
「ごめん。またにしよう。園長のために、言っておくけど、これは交換条件とかじゃないから。佳奈ちゃんのことは佳奈ちゃんのこと。君の事は君の事。あの人はそういう人だから」
「はい」
「足を止めてしまったね」
「いえ」
白石が椅子から立ち上がったので、亜紀も立った。
「ケーキ。美味しかったです」
「ありがとう。うちのホテルの自慢なんです。じゃ」
「はい。失礼します」
亜紀は談話室を後にした。
亜紀は相馬保育園に来てから、何かが動き出しているという感覚があった。生まれて初めてのチャンスかもしれない。残された時間は少ない。亜紀は、進学するものだと誰もが思っている。三者面談を断っても問題は起きない。亜紀の成績なら、先生は何の心配もないからだ。経済的なことも、「大丈夫です」と言い切ってしまうと、先生はそれで納得してくれた。亜紀は、大学に行くつもりもないし、行ける筈もなかった。亜紀の夢は、ほんとに小さい頃から、自立することだった。来年の三月には高校を卒業しなければならないのに、今はまだ何の進路もない。だが、学校の就職斡旋を受けて、御茶汲みや売り子の仕事を自分がこなせるとは思えなかった。かといって、困り果てているわけでもない。矛盾するようだったが、開き直ったら何でもできるという腹はあった。理想を言えば、自分にとって意味のある仕事で生活を立てたいと思う。もっとも、そんな生き方をしている人がいるとも思えなかったが、園長先生はそんな生き方をしている、ごく稀な人なのかもしれない。最近、相馬保育園で働く自分を想像したことがある。あの園長先生と仕事ができたら、きっと楽しいと思う。でも、職員の増員の予定があるのなら、園長は白石に相談をしなかっただろう。お見合いでもないのに、しどろもどろで自己紹介をしている白石の顔を思い出すと、自然に顔がゆるんでいた。今度、白石に会った時は、本気で相談に乗ってもらおう。食堂で白石の笑顔を見た時から決めていた自分に気がついた。それなのに、初対面の白石に対して、女のずるさを出している自分にびっくりだった。




 相馬由紀から電話を受けて、白石は大急ぎでケーキの手配をした。月に一度のケーキの日が、今月は二回目となる。「シフォン」のマスターには事前に緊急品が出ることを伝えてあったが、大変だったろう。何種類ものケーキを寄せ集めて用意されたものを持って、ホテル北京都を飛び出した。会ったこともない、沢井亜紀という女子高生にどう対処したらいいのかもわからない。自分で書いたシナリオで動くことが日常になっているので、今日は足が地についていないような、妙な不安があった。歳を取ったということなのか。四十五才といえば、働き盛りの筈だが、五年前の事故から、以前のような力が出ていないことを自分でも感じている。心の片隅で、楽になりたいという気持ちがある。自分の仕事を重いと感じている自分に驚くこともある。だが、白石グループの会社と社員と家族、全てが白石の肩にかかっているのだ。弱音を吐ける立場にないことは、充分、承知しているのだが、自分の中を吹き抜けていく風を止めることができない。相馬由紀でさえ、白石求は立ち直ったと思っているらしい。
それでも、相馬保育園に来ると元気がでる。
子供たちがケーキに群がっている。沢井亜紀が食堂に入ってきて、「あの子」と園長が目で知らせてきた。乱れた髪で顔が半分隠れているうえに、時代遅れの眼鏡までかけていた。着ている制服も大きすぎる。
「驚きましたね」
「そう。でも、とても魅力的な子よ。話してみればわかるわ」
園長と白石は、談話室に場所を変え、園長は佳奈ちゃんの様子を詳しく教えてくれた。
席を外した園長は、書類を持って戻ってきた。
「またですか」
「ごめんなさい。私、どうしても気がすまないの」
年に何回ともなく、保育園の運営状況を報告してくれる。必要な資金は、無条件で出すから、思い通りの運営をしてくださいと言っているのに、園長は承知しなかった。相馬保育園に資金提供をしているのが、唯一の道楽だったが、税金で持っていかれる分を寄付しているので、さしたる痛みもない。しかも、本来この施設は自治体が運営すべきものだから、白石の寄付金は自治体にとってもありがたいものであり、自治体に対して発言力が増し、白石の事業にとっても有利なものになっていた。
保育園運営状況の報告が終わり、書類を持って出て行った園長は、沢井亜紀を連れて戻ってきた。「お願いね」と言って、園長が談話室を出て行くと、心細さを感じている自分に動揺した。
沢井亜紀は物怖じした様子もなく、静かに椅子に座った。面と向かって見ると、圧倒的な存在感がある。一体、何物。何年も手入れをしたことのないような髪で、顔が半分隠れている。しかも、眼鏡。どう見ても、美人の部類に入る顔立ちなのに、なぜ隠すのか。左手には、何年も洗濯していないような手袋。火傷痕かあざがあって、それを隠しているのか。眼鏡の奥の大きな目は、まっすぐだった。大胆なのか、素直なのか、それとも何もわかっていないのか。その視線は、無造作にこちらの本音を見つめてくる。社会人という身ぐるみを剥ぎ取ろうとしているのか。一体、何物。でも、女子高生で、ほんの子供ではないか。
何故か、少年のように、自己紹介をしていた。
白石は、片山浩平を思い出した。東京で、警察庁の友人を訪ねた時に偶然出会った若者だったが、その圧倒的な存在感に似ている。
息子を亡くして以来、自分の後事を托せる人物に初めて出会えたと思った。だが、その片山浩平はすでにアウトローの世界に生きていた。堅気の世界に戻ってくることはない、とわかっているが、あのオーラは魅力だった。片山浩平は、まだ二十代だと思うが、百人のチームを持っていた。なぜ、片山が自分の仕事の事を話してくれたのか。一年前に突然京都まで来たときに、わかったような気がした。多分、正常な世界との接点が欲しかったのだろう。白石が相馬保育園に寄付をしていることも調べてあった。一億の現金を持ってきて、出所がわからないように寄付して欲しい、と頼んできたのだ。片山の稼ぎは数百億で、全て不正な所得だった。国家公務員の個人的なスキャンダル、組織的に行っている公金の横流しを洗い出し、その口止め料として、公金の横流しをさせるのが片山の仕事だった。米軍の盗聴技術を利用した情報収集で、日本の官庁では簡単に情報を取ることができたらしい。ただし、案件によっては広域暴力団が競争相手となることがあって、独自の武闘組織も持っている。横浜の三宅組事務所の爆破事件は、片山のグループがやったものだと言った。日本全土に勢力を持つ真崎組の傘下だった三宅組を壊滅させたことで、日本全土の暴力団を敵に回すことになったが、まだ片山の正体はわかっていないので、直接の脅威にはなっていない。どうしても衝突せざるをえない時は真崎組の本体を潰すつもりらしい。暴力団の抗争で、鉄砲玉といわれる若者が相手の組長に発砲するようなことではなく、組織の殲滅と主要幹部の殺戮を実行できるだけの、小さな軍隊だと言っていた。「どうして、そこまで話す」と聞いたが、「自分でも、わかりません」と言っていた。まだ、発展途上であり、将来の目標は一兆円だった。利益率が五割の一兆円企業など、世界中さがしてもないだろう。「一体、君は何をしたい」と聞くと、「それも、わからないんです」という答えだった。
沢井亜紀には、片山浩平のような危険な臭いはないが、どこかに共通するものを感じる。園長が心配していたが、なんらかの事情で、重いものを背負っている子供には違いないと白石も感じた。相馬由紀の頼みだから、力になりたいとは思うが、道筋は見えなかった。少し様子を観て見よう、というのが白石の結論だった。
「すこし、時間をください」
白石は園長に短く結論を言って、保育園を後にした。




亜紀の母親は、恋人がいない時の方が少しだけ人間らしくなる。人間らしいと言っても、決していい母親であったためしがないのだが、男に狂っている時の母親に比べれば、天と地の差があった。京都に来てからの一年半、何度か男の影はあったが、深い付き合いにはならなかったようだ。一旦恋人ができると、母の愛美はその全てをかけて、男に尽くすようになる。他人から見れば、常軌を逸していることに思えても、母にとってはかけがえのない真実らしい。恋人ができると、普通のホステスがトップホステスになり、あらゆる努力をして稼ぐが、その全てを男に貢いでしまう。その結果、家計は危機的状況となる。亜紀がへそくりをするようになったのは、小学校三年の頃からだった。一円も無駄にしない生活が続いている。だから、廃品回収は亜紀の得意技だ。大型ゴミの集積所から拾ってきて使っているものは数限りがない。食べ物を拾うことの方がはるかに難しいという体験をしたから、食べ物以外に金を使うわけにはいかなかった。
近くの大型ゴミ集積所で手に入れた自転車に乗り、図書館の本を返すために、東大路通りを北へ向かっていた。亜紀にとって、図書館は我が家の一部だった。
「沢井さん」
グレーの車から降りてきた男に声をかけられて、亜紀は自転車を停めた。
「白石さん」
「自転車旅行かい」
「いえ。そこの図書館にいきます」
背中に大きなリュックを背負っているから、旅行者にみえたのだろうか。リュックの中には、返却する本が入っている。
「図書館」
「はい。本を返しにいきます」
「そう。本を返した後、時間ある」
「ええ」
「この前、話が中途半端で、気になってね」
「はい」
「図書館の前で待ってるよ。いいかな」
「わかりました」
亜紀の気持ちは決まっていた。十八年間彷徨い続けている自分の人生の方向を変える大きなチャンスかもしれない。亜紀に父親がいるとすれば、白石は同じ年頃だろう。大きな賭けをするつもりだった。
図書館で本の返却を済ませ、白石の指示に従って、自転車に鍵をかけて車の助手席に乗りこんだ。車の中の涼しさに驚く。街の騒音も聞こえてこない。車の中は別世界だった。
「シートベルト、して」
「えっ」
「シートベルトしてないと、僕が罰金だから」
「あの」
亜紀は、バス以外の自動車に乗ったことがなかった。白石の体を斜めに走っているのがシートベルトだと思ったが、操作方法の糸口はなかった。
「すみません。初めてなんです」
「車に乗るのが」
「はい」
白石の手が伸びてきて、亜紀の右肩の上からシートベルトを引き出し、「カチッ」と音がして、亜紀はベルトに拘束されたように感じた。亜紀はベルトと止め具を指でなぞって、シートベルトを確認した。車は来た道を引き返し、七条へ向かったが、すぐに知らない道路上を走っていた。京都に来てからの亜紀の行動範囲は、限られた場所であったが、それを意識したことはなかった。車の外は新しい景色であったが、感慨はない。亜紀は些細なことに驚いてみせる同年代の女子の気持ちが理解できなかった。しばらく走ると、外の様子が変わった。それが、高速道路だということはわかった。白石は無言で運転をしている。亜紀も黙って、前を見つめた。相馬保育園で会った時に、白石の人柄は理解している。成人男子に対する敵愾心はなかった。外の世界から隔離された空間に、白石と二人でいることが心地よかった。亜紀には、その心地よさの方が驚きだった。時間の感覚はなく、いつの間にか車は雑踏の中を走っていた。
「少し、待ってて」
コンビニの駐車場に入って、白石が出て行った。コンビニには、あまりいい思い出がない。
「食料」
白石が買ってきた袋を、後部座席に置いた。
「ここ、どこですか」
「神戸。初めて」
「はい」
しばらくすると、車が曲がり角の多い道路に入り、窓からの景色が変わっていった。




山科にある大曲刺繍で打ち合わせをして、白石は市内に向けて車を走らせた。後継者不足で家業を廃止する店が増えている。伝統産業と言われる業種の永遠のテーマだった。
東大路通りへ入り、北へ向かった時に見覚えのある女子高生の頭に出会った。自転車に乗り、大きなリュックを背負っている。そのヘアスタイルの女子高生は、京都に一人しかいないだろう。沢井亜紀のオーラに圧倒されて、少年のように舞い上がってしまった自分を思い出して、少し胸が痛かった。亜紀を追い越したところで、左に寄ってハザードランプを点けて停車した。声をかけると、少し驚いた様子だったが、白石の言うことを素直に聞いてくれた。図書館の本を返却に行く途中だという。白石は東山図書館の前に車を停めて、亜紀を待った。
亜紀は、車に乗るのが初めてだと言う。この時代に、車に乗ったことがない高校生がいるとは思えないが、沢井亜紀の言葉に嘘は感じられなかった。
白石は京都南インターから高速道路にのった。京都ではない場所で、亜紀の相談にのることが、自分の平静を保つことにつながるような気がしていた。学年では息子が一学年下だったが、生きていれば亜紀と同じ年頃だった。自分の子供のような年齢なのに、沢井亜紀のこの存在感は何なのだろう。
六甲山山頂の駐車場に車を置いて、展望スペースに亜紀を連れて行った。ほとんど会話はなかったが、違和感はなかった。誰が見ても親子に見えただろう。山の上から阪神間の街並みを見ても、何の反応もないように思えた。車にも乗ったことがない女の子にとっては、驚きの景色だと思うが、そんな表情はない。白石は眼下に広がる景色の解説をやめた。
「お腹減ってない」
「減ってます」
「パン食べようか」
「はい」
車に戻って、菓子パンの袋を開けた。「どれでも」というと、丸いメロンパンに手をだした。白石は細長のメロンパンにして、紅茶のペットボトルを亜紀に渡した。
「受験勉強で、大変」
「いえ、受験はしません」
「そう」
「でも、就職では悩んでます」
「ん」
今日は、亜紀の方から積極的に話をしてくれそうな空気に白石は難関を一つ越えたような安堵感を感じた。




「私の夢は、自立することなんです。中学進学の時に、自分にできる仕事を探しました。でも無理ですよね。本気だったんですが」
「だろうな」
「相馬保育園の子供たち、性的暴力の被害者ですよね。羨ましいなと言う気持ちもあります」
「どうして」
「安全な場所があって、食べるものがあって、親代わりの先生もいます」
「・・・」
「小六の時に、私も被害に会いました。相手は父親ではありません。うちは母子家庭で、私は父親の顔を知りません。男は母の恋人でした」
「・・・」
「小さい時にはわかりませんでしたが、母は、自分の恋人以外のあらゆることに関心を持っていません。家事も育児も放棄していました」
「・・・」
「私が生き残れたのは、隣の大河原先生と奥さんのおかげです。大河原先生は空手道場の先生です。昔からの下町で、知り合いの多いところでしたから、隣の子供に目をかけてくれたのかもしれません」
「・・・」
「小学校の低学年の頃から、家事は自分でやりましたが、道場にいる時間の方が多かったと思います。料理を教えてくれたのも道場の奥さんです。自分では何もしないのに、母は私が道場に入り浸っていることが気に入らなくて、よく怒られました」
「・・・」
「家計のやりくりも、家事も私の仕事でしたが、自分で料理をしなくてもいい給食の時間が一番嬉しい時間でした」
「ん」
「母の恋人は、よく替わりました。あの男は、働く様子もなく、酔って寝てることが多い、ろくでなしでした。力ずくでした。私、空手には自信あったんですが、役に立ちませんでした」
あの時のことを思い出すと、今でも吐き気がする。酒臭い息が襲い掛かってくる時の恐怖がよみがえる。亜紀は目の前の空を見つめた。「あの男は、母親の承諾をもらっていると言いました」
「・・・」
「母は、大丈夫、避妊するように言っといたと平気でした。この母の言葉で、私は身も心もズタズタにされました」
「無理に」
「いえ、聞いてください。私みたいな子供が、自立が夢だったと言っても信じてもらえません。本気なんです、私」
「ん」
「道場の先生にも、奥さんにも言えませんでした。でも、二つの目標を持つことにしました。男の欲情を刺激しない女になることと、成人男子を倒す力を持つことです」
亜紀は左手の手袋を取って、白石の前に差し出した。その手は少女の手ではなかった。それは何年も砂を叩き続けた手だった。
「その髪は」
「ええ。この眼鏡も度は入っていません」
「そう」
「中2の時に、また母の男が襲ってきましたが、男は重傷で入院しました」
男の肋骨が折れる時の感触がよみがえって、亜紀は拳を握った。
「でも、地獄はその後にやってきました」
「地獄」
「治療費がかかると言って、家計にお金を入れてくれなくなったんです。一ヶ月が限度でした。家の中には食べるものは何一つなくなりました。近くに飲食店もいっぱいありましたから、残飯を拾い集めました。辛くて、全部投げ出そうと、何度も思いましたが、空腹には勝てません。噂が立って、道場の奥さんに現場を見つけられてしまいました」
もうペットボトルの紅茶は無くなっていた。
「道場の先生が母を呼びつけ、私を引き取ると言いましたが、母は承知しませんでした。私は、道場の子供の方がよかったんですが、子供には選択肢がないんですね。でも、どうして承知しなかったんでしょう。厄介払いできるのに」
「ん」
「まだ、利用価値があると思ったんでしょうか」
「んんん」
「私、開き直りました。それまで以上に家計にお金を入れてもらうことで、水に流そうと言いました。必死でお金を貯めて、それで高校に行こうと思いました。あのことは水に流せるようなことではありません。自分を守るためには、お金が必要だったんです。あの時は、高校を卒業すれば仕事が見つかると思いました」
「で、貯まった」
「はい。卒業まで問題ありません」
「よかった」
「中学の時は、お金さえ手に入れば、どんな仕事でもいいと思っていましたが、今は違います」
「今は」
「今は、長く続けられる仕事が必要だと思っています。それは、自分で納得できる仕事じゃないかと思うんです。園長先生に会って、特にそう感じています」
「自分ではどういう仕事が合うと」
「一人でコツコツやる仕事。白石さんの仕事は呉服関係にもありますよね」
「ん。グループ内にはありますよ。どんなことを想像してます」
「染めとか刺繍とかです」
「うんん。楽じゃありませんよ。給料は安いし、仕事はきつい。そして、最後は才能です。人間関係も大変です」
「仕事がきついのも給料が安いのも平気ですが、才能わかりません」
「そうだな、一度見学してみたらいい」
「はい」
「野口さんの話では、成績がいいらしいけど、大学に行く気はないの」
「無理です」
「奨学金もあるし、僕からの借金という手もある」
「ありがとうございます。でも、大学でなにをするんです。それよりも、自分の足で歩きたいです」
「自立」
「はい」
「話してくれたような生活だと、勉強する時間がなかったんじゃないのかな」
「別に勉強したつもりはありません。私の家にはテレビもラジオもありませんでした。母が嫌いでしたから。私は本を読むしかなかったんですが、本を買うお金はありません。ですから、教科書を読むことが、私にとって読書だったんです。道場には上級生がいっぱいいましたから、教科書をいっぱい貰いました。図書館で本を借りれるようになって、いろんな本が読めるようになって助かっています。図書館の本は、ただですから」
「コンピューターは」
「学校の授業でさわっただけです」
「好きになれそう」
「わかりません」
「一度、ソフト開発の仕事を手伝ってみては。あれも一人でコツコツやる仕事だと思う」
「ソフト開発って、プロクラムを作るんですか」
「そう。本を読んで、勉強して、規則に従って言語という文を書いていく。君の得意分野だと思うけど」
「考えたことありませんでした。私にもできるんでしょうか」
「できる。やる気と時間があれば、誰にでもできると、僕も言われましたよ。僕には時間がありませんでしたけど」
亜紀は黙り込んだ。あまりにも多くのことをしゃべった。どう受け取られるのかという計算もしていなかった。でも、今の自分にできる精一杯のことはした。これでいいのだと思った。
京都システムという会社のことを話してくれている。白石が本気になっていることは、その話からよく伝わってきた。




二人ともペットボトルを空にして、よくしゃべった。既に、陽は落ちて、しばらくすれば神戸の夜景が見れるようになるだろうが、白石は車を出した。山道を下る時に見える風景にも、亜紀の表情は変わらなかった。今、この子には自分の将来のことしか目に入っていない。その強い思いが伝わってくる。まだ短いが、壮絶な人生を生きてきて、自分の人生はこれから始めるのだと言う強さ。女の子がここまで強くなれるのだろうか。自分の過去を初めて話すと言う言葉も嘘ではないだろう。たとえ、話の全てが嘘であったとしても、別にかまわない。沢井亜紀という一人の人間の熱意には答えてやりたい。自分には、誰かの人生を応援する力がある。ただそれだけのことだ、と思った。
山道から市街地に入り、三宮駅のガードをくぐって海岸の方へ向かい、車を停めた。友人の持ちビルのスペースに駐車して、車を降りた。
「食事をしていこう」
「はい」
その店は、テキサスのステーキハウスを意識した地味な店だったが、神戸に来た時には、白石がよく行く店だった。
「白石さま」
「空いてますか」
「はい。すぐにご用意いたします」
案内されたのはオープンスペースではなく、予約客に提供する間仕切りのある少し余裕を持ったテーブルだった。
「いらっしゃいませ」
「ご無沙汰で」
「ほんとに、お久しぶりです。間宮さまも、お忙しそうです」
「彼は、ほとんど日本に帰ってこないと聞きましたよ」
「そうらしいですね」
白石はステーキとサラダを二人分オーダーした。異様な髪型と大きすぎる制服を着た女子高生だったが、白石の同伴者なので問題はなかった。その店は平然と入店を断る店だった。ステーキもステーキハウスも、亜紀には初めてのことだと思うが、そんな様子は全く見せなかった。生まれ育ちに曲げられない、天性の品格のようなものを感じる。
白石の食べる様子を見ながら、落ち着いてナイフを使っている。
「おいしい、です」
「よかった」
相馬保育園の佳奈ちゃんという言葉を失なっている子供に対する接し方に、園長の相馬由紀が感心していた。甘やかさず、突き放さず、子供の持っている力を引き出そうとするやり方に驚き、「あの子の優しさは本物だわ」と言っていた。六甲山頂では、亜紀の強さを見た。優しさと強さと才能があれば、何でもできる。残るのは、この子の才能だと思った。
相馬保育園の前に車を停めた時には十時を過ぎていた。
「遅くなってしまった」
「いいえ」
「自転車はどうする」
「明日、取りにいきます」
「そう、家まで送ろうか」
「いえ。すぐそこですから」
「しばらく、考えてみたらいい」
「はい。考えました」
「ん」
「残念ですが、どういう仕事に挑戦したらいいのか、まだ私にはそれを決める力がありません。ですから、白石さんの直感を受け入れるか、どうかを考えました。私は、ソフト開発という仕事に挑戦してみたいです」
「ん。やってみるか」
「はい」
「今日、時間は、まだ大丈夫かな」
「はい」
「行ってみようか。まだ大勢いると思う」
「はい」
白石は、白石七条ビルへ向かった。ビルの灯りは全てついている。休む時間のない不思議な業界だった。
二階のドアを開けて、須藤の姿を捜すと、打ち合わせテーブルで資料を広げている、疲れた顔の須藤がいた。
「おつかれさん」
「白石さん」
「遅くに、すまんな」
「どうしました」
「ん。一寸頼みがある」
「あっ、すいません。どうぞ座ってください。コーヒー入れます」
「ありがとう」
白石は亜紀に椅子を勧めて、自分も座った。二階は作業スペースではないので、この時間だと須藤以外には誰もいない。コーヒーを持った須藤が戻ってきた。
「ありがとう」
「ありがとうございます」
「頼み事って、何でした」
「この子をプログラマーにして欲しい。沢井亜紀さんと言って、僕の友達です」
「はい」
須藤は怪訝そうな返事をした。仕事は専門知識が必要なので、社員の採用も須藤がやっている。白石が人事に口を挟んだことは一度もなく、須藤には戸惑いがあったようだが、何か事情があることを察してくれた。
「いいですよ」
「経験も知識もなし。学校でパソコンをさわったことがあるだけなんです」
「誰でも、最初はそうです」
「現役の高校生だから、放課後しか使えません。夏休みは、それなりにできると思いますが、どう」
「はい」
「それと、もう一つ。沢井さんには、あの保育園の小さい子供のカウンセリングをお願いしているので、その時間が取れるようにしてやって欲しい」
「急ぎますか」
「ん」
「何か事情があって、早急にプログラムを組む必要があるとか」
「いや。そういうことでは。来年、卒業したら、戦力になれればいいですよ」
「なら、急ぐってことですね」
「半年では無理」
「戦力という意味では」
「そうですか。じゃあ、事情が許す範囲で、しかるべく速やかにということで」
「わかりました。いつからです」
「明日からでも、大丈夫かな」
「はい。大丈夫です」
「じゃ。明日の放課後、ここに来てください。できれば、履歴書を書いてきてくれると助かります」
「はい」
「白石さん。待遇はアルバイトでいいんですか」
「そうしてください」




ソフト開発、プログラムという言葉は、言葉として知っているだけだった。それでも、白石の直感に賭けたことを後悔しないで済むように自分の全てをぶつけなければならない。亜紀は履歴書を持って自転車を走らせた。
「失礼します」
京都システムの二階のドアを開けた。昨夜は須藤という副社長だけしかいなかった部屋に六人の男女が打ち合わせをしていた。打ち合わせをしている須藤と目が合った。須藤が同じテーブルの椅子を指差した。亜紀は打ち合わせの邪魔にならないように、そっと椅子に座った。打ち合わせの内容は、日程の調整をしているようだ。亜紀は何度も視線を感じていた。けっして居心地のいいものではない。
「紹介しておこう」
須藤が立ち上がって言った。亜紀も急いで立った。
「沢井亜紀さんです。七条高校の三年生で、来年はうちの仲間になります。白石さんのたっての依頼で、半年で戦力になってもらいます。経験はなしです」
「半年ですか」
「そう。半年」
誰もが考え込んでいる。
「久保田くん。どう」
「はあ」
亜紀に負けないぐらい乱れた髪の男子社員が返事に困っている。
「冷機の仕事は大村くんに渡して、TCSの方に専念して、沢井さんを頼む。どうだろう」
久保田以外の四人に安堵の表情があった。
「久保田くん」
「はあ」
久保田が小さな声で返事した。
「よし。解散。久保田くんは残って」
四人が部屋を出て行った。
「沢井さん。こっちに座って」
「はい」
「紹介します。久保田隆君」
「久保田です」
久保田はまだ一度も亜紀と目を合わせていない。
「沢井亜紀です。よろしくお願いします」
「久保田君は、シャイで人付き合いは上手とは言えないけど、プログラミングの腕は一流ですし、誠実な人です」
「はい」
「多分、白石さんの紹介ということが、気になってる。そうだな、久保田くん」
「はあ」
「僕にも、白石さんの真意はわからない。でも、白石さんの頼みだから、こたえたい。だろう」
「はあ」
「沢井さん」
「はい」
「全く経験のない人を半年で戦力にすることは無茶な話です。白石さんも、そのことを承知の上で言ってます。でも、私たちは、なんとか、こたえたい。私たちがここまでやってこれたのは白石さんのおかげなんです。社長だから当たり前とは、誰も思っていません。多分、白石さんの人柄なんでしょう。是非、こたえたいと思っています。かなり、きついことになりますが、沢井さんにも頑張ってもらわなければなりません。お願いします」
「はい」
「久保田君」
「はあ」
「沢井さんと打ち合わせをして、計画と日程表を作ってください。学校もあるし、外せない用事もある。君ならできる。いや、この仕事は久保田君にしかできないと思っている。頼む」
「はあ」
亜紀は久保田について三階への階段を登り、左に折れて部屋に入った。事務机が二十ほどの部屋だったが、人の姿はなかった。窓の近くの端の机を久保田の指が指している。「君の席だ」と言っているらしい。亜紀はその席の前に立った。久保田は奥の書棚で探し物をしていた。何冊かの本を持って久保田が近づいてきて、久保田の手が「どうぞ」と言っている。座ってもいいようだ。
「この本を読んでください。理解できなくてもいいです。そして、質問事項を書き出してください」
本は、「エクセル入門」と「エクセル制覇」、そして「コンピューター辞典」だった。
「このパソコンは、沢井さん専用ですから、自由に使ってください。質問事項ができたら、僕に声かけてください」
久保田は奥の机に戻っていった。エクセルなら授業で経験があった。ただ、プログラムとどう関係しているのかわからなかったが、「入門」の本をひらいた。亜紀の読書法は、先ず最後のページまで読みきる。それで終わりになる本もあるが、何回も読み直す本もある。「入門」は読むだけでは無理で、実際にエクセルを動作させる必要があることがわかった。パソコンの電源を入れて、エクセルを立ち上げる。亜紀はエクセルに熱中した。
「沢井さん。そろそろ終わりにしましょう」
目の前に久保田が立っていた。
「もう、十時ですから」
「はい」


10

 夏休みになって、亜紀は誰よりも早く出勤した。京都システムの事務所は、鍵を掛ける暇がないから、出入り自由だった。今は、パソコンの前に座ることが楽しくて仕方ない。途方に暮れていたのは最初の一週間だけだった。書き出していた質問事項の大半は自分で解決できたので、久保田と話をする機会はあまりなかった。今までの人生も本が友達だったが、今も本が最大の友だった。授業中以外の時間は参考書を読んでいた。本に書かれている事を画面で確認することが楽しくて、いつも早くパソコンの前に座りたいと思う。
「楽しそうだね」
須藤が亜紀の横に立っていたが、全く気がつかなかった。
「はい」
「どうですか」
「楽しいです」
「よかった。好きになれそうですか」
「はい」
「今は、何を」
「マクロのデバックです」
「えっ。マクロの」
「はい」
「QB」
「はい」
「驚いたな。これ、TCSの」
「そうです」
エンドユーザーは証券会社で、エクセルによる株価の簡易分析ソフトだった。
「久保田君」
須藤は久保田を呼んだ。
「これ、もう回線に接続されてるの」
「はい。貰っているIDとパスワードでアドインしています」
「そう。フローの説明は」
「しました」
「これで納入」
「そのつもりです」
「驚いたな」
「沢井さんは、大丈夫です」
「納期の方は」
「問題ないと思いますが、最後は僕も」
「そう」
「9月ですよね」
「うん」
「プログラムは、8月には。多分、9月は説明書だけですよ」
「そう。今までの分、見せてくれるかな」
「はい」
亜紀はやりかけのプログラムをセーブして、未完成の株価分析ソフトを立ち上げる。須藤が近くにあった椅子を引き寄せて亜紀の横に座った。
「最初は、ユーザーの設定画面です」
亜紀は簡単な数値を入れながら画面の説明をした。全てが出来ているのではなく、フローの骨格が半分ほどプログラム化されているだけだったが、須藤は熱心に質問してきた。久保田は少し後ろにさがり、窓にもたれた楽な姿勢で二人のやりとりを眺めている。
「出来ているのは、ここまでです」
「なるほど。久保田君の言うとおり8月にはできるね」
「でしょう」
久保田が後ろから声をかけてきた。
「で。沢井さんは、どう」
「どうって」
「8月にはできる」
「フローに書かれていることだけなら」
「どういう意味」
「私、株なんてわかりまんので、役に立つのかどうか、そこがすごく不安なんです」
「ううん。正直言うとね、このエクセルは付録みたいなもので、とりあえず、フローにあることができればいいんですがね。でも、自分が作ったものがどう役に立つかは知りたいよね」
「はい。全体ができてからでいいんですけど、実際に株取引をしている人に意見を聞いてみたいと思います。その結果で大幅な変更が必要になれば、8月は難しいかもしれません」
「そこまで考えているなら、早いほうがいい。捜してみよう」
「でも、まだできていません」
「何度でも見てもらえばいい。その人と共同開発をするつもりでやれば、現実的なものができるし、付加価値は大きく変わる。再度売り込みをやってみる価値が出てくる。付録が付録でなくなるよ」
「・・・」
「いいですね、それ。付録が稼ぐ、好きです、そういうの。やりましょうよ」
窓にもたれていた久保田が少し興奮した口調で言った。
「沢井さんはアルバイトで、給料は固定ですが、社員は出来高払いなんです。全く仕事をしなかったら、基本給だけですから、生活できません。多くのソフトは一人で全部作るのではなくて、大勢の人の合作になります。いろいろな分野のエキスパートが必要なんです。売上に見合う予算があって、社員はプログラムを請け負って、その予算を分配するんです。ただ、ユーザーから押し付けられる、いわゆる付録には予算がありません。この付録の予算を捻出するのが、結構大変なんです。付録で売り上げがあれば、実にありがたい」
「はぁ」
「それと、付録の良し悪しでユーザーの評価が左右されるしね」
「はい」
「そのうちにわかるよ」
「はい」
「久保田君。新鮮な感覚が、我々から失われているってことだな」
「ですね」
「予算を捻出することに汲々としていては、差別化できないってことだ。沢井さん、勉強になったよ」
「はぁ」
須藤の言っていることが、亜紀にはわからない部分があった。
久保田たち、プログラマーがどのぐらいの月収なのかわからない。まして、副社長とはいえ、実質的な経営者である須藤の月収など想像すらできなかった。オーナーである白石の個人的紹介ということがあったおかげか、亜紀のアルバイト代は、10万円の固定給となっていた。それは、亜紀にとっては驚愕の金額だった。もうすぐ初めての給料が振り込まれる。銀行に自分の口座を作ったのも初めてだった。10万円あれば、自立することができる。亜紀にとっては重い仕事であり、自分の力が必要とされないかぎり得られないこともわかっていた。須藤の言葉を褒め言葉と受け止めたい。自立のために、自分の全てをぶつける覚悟はできていた。


11

 求は「北京都ホテル」のオーナー事務室で、総支配人の望月と人事の打ち合わせをしていた。個人用の携帯にメール着信のランプが点いている。須藤からのメールのようだった。このところ、宿泊客からの苦情が続いていた。客質が落ちたのか、社員の心に隙ができているのか。そのことで、社員の士気が落ちているのが気になる。望月はローテーションをやってみてはと言っているが、求は社員の力が落ちたとは感じていない。
「部門ごとに集まってもらって、私が皆に話すということで、どうでしょう」
「白石さんが」
「いつも、望月さんに悪役をお願いしてばかりで、申し訳ないと思っているんです。たまには、私がその役をするのも新鮮かなと思いますが」
「はい。私は、少し客質が落ちたのかなと思っているのです。社員はよくやっています。でも、客質の良し悪しは、この仕事では当たり前のことですから、こちらで対応する必要があります。ただ、社員の士気が落ちているのは確かです。白石さんに声をかけてもらえば、がんばれます」
「少し、内装に手を入れましょう。料金を上げてもかまいません」
「それもいいですね」
「会議の日程は、望月さんにお願いします」
「わかりました」
望月が部屋を出て行き、求は須藤のメールを見た。急ぎの用件ではないようだったが、求はホテルを出た。しばらく京都システムに顔を出していないので、沢井亜紀のことが気になっていた。
「白石さん」
須藤は驚いた様子だった。
「どうしました」
「それほど、急ぎではなかったんです」
「いえ。私も沢井さんのことが心配でしたから」
「そうでしたか。じつは、沢井さんの関連なんです」
「何か」
「トラブルじゃないですよ」
「そう」
「白石さんのお知り合いで、どなたかデイトレーダーの方はいませんか」
「株のですか」
「はい。TCSの仕事で証券会社の物件がありまして、その一部を沢井さんにやってもらってます」
須藤はデイトレーダーが必要になったいきさつを話した。
「ほう」
「白石さん。彼女は、もしかすると、びっくりするような才能を持っているのかもしれませんね。僕は多くのオタクを見てきましたが、僕の理解を超えています」
「そんなに」
「白石さんは、わかってたんでしょう」
「いえ。多分、本人も」
「そうですか。沢井さんを担当しているのは、久保田君なんですが、ほとんど一人でやったそうです。しかも、デイトレーダーの話が聞きたい、というのはSEの発想です。驚きました」
「沢井さんは、まだいますか」
「ええ。夏休みになってからは、寝る時間だけ家に帰る状態だそうです」
「未成年者をそこまでやると、問題じゃ」
「ええ。久保田君もかなり強く言ったそうですが、聞き入れてはくれないそうです。一度、見てやってください」
求と須藤は、三階に行った。十人程の男女がパソコンの前で難しい顔をしている。部屋に入ってきた二人に注意を向ける者はいなかった。遠く離れた窓際の席に亜紀がいる。その特徴的な髪型で、すぐにわかった。二人はまっすぐ窓際へ向かった。亜紀が立ち上がって挨拶をしている。求は軽く手を挙げた。
「がんばってるようだね」
「はい」
「どう」
「楽しいです。こんなに楽しいとは思いませんでした」
亜紀の表情からは暗い影が消えていたが、その存在感はさらに大きくなったように思われた。
「沢井さん、君のソフト、もう一度頼みます」
須藤に言われた亜紀は、椅子に座ってキーを叩いている。求にはできなかったブラインドタッチだった。
「はじめます」
亜紀の説明に従い、画面のデータが動いて行った。
須藤や久保田が作ったソフトであれば、「そう」と言っただけかもしれないが、プログラムに接して一か月の初心者が作ったソフトなら、須藤が言ったように驚きの内容だった。
「まだ、ここまでしかできていません」
亜紀が立ち上がって、すまなそうに言った。
「驚いたな」
「そうでしょう」
部屋にいた社員が集まってきた。
「沢井さん。もう一度」
後ろに立っていた久保田が声をかけた。現役のプログラマーに囲まれ、緊張した様子で亜紀は座りなおした。「おう」とか「んんん」という先輩の声がしている。
「すごいな。沢井さん。よそでやってた、とか」
「いえ」
「だよな。現役の高校生やし」
「須藤さん。もう納品しましょう」
しばらく、褒め言葉が続き、亜紀が身の置き場にこまっている。
先輩たちが騒々しくそれぞれの席に戻って行った。
「トレーダーの件は白石さんにお願いしたから」
「はい。ありがとうございます」
求は、須藤と二人で二階に降りた。
「他の連中も、本気で驚いていました。もう、同僚扱いでしょうね」
「びっくり、ですか」
「はい。見たことも、聞いたこともありません。あんな人がいるんですね」
一時間ほど、須藤と打ち合わせをして、求は亜紀を連れ出した。


12

 久しぶりに白石の顔を見て、懐かしい人と再会した時のような暖かい気持ちだった。「食事をしよう」と言われて、嬉しかった。亜紀も白石に相談したいことがある。社員の半数は独身者で、例外なく独身寮にいる。寮は、会社のすぐ傍にあり、昼食ですら食べに帰る社員がいた。亜紀は家を出て、寮に入りたいと思っていた。寮で自分一人の生活ができるということは、小さな夢の実現に違いない。久保田から聞いた話では、寮費も食費も格安だった。そのことで、白石の考えを聞きたかった。
込み入った場所にある駐車場に車を置いて、込み入った場所にある料理屋へ連れて行かれた。細長いカウンター席だけの店の奥を抜けて、こじんまりした部屋に通された。
「いま、おぶをお持ちします」
着物を着た年配の女性が、柔らかい笑顔を残して部屋を出て行った。
「ここのご主人の奥さんです」
「はい」
「すごいじゃないですか。須藤さんは、ただただ驚いてました」
「そうなんですか。私、本に書かれてることを、そのまま書き写しているだけなんです。須藤さん、大袈裟なんですよ」
「でも、先輩たちも驚いていたじゃないですか」
「よくわかりません」
「須藤さんは、小学校の頃からパソコンをさわっていて、パソコンオタクと言われていたそうです。だから大勢のプログラマーを見てきてます。それに、彼は信頼できる人ですから、きっと、大袈裟でもいい加減でもないと思います」
「はぁ」
女将が、お茶を持って部屋に入ってきた。
「女将さん。紹介しておきます。沢井亜紀さんといって、私の大事な友人です」
「三矢の女将どす。よろしゅうに」
「沢井です。よろしくお願いします」
「今日は、この人が未成年者なので、お酒はいりません」
「へぇ。腕によりをかけて、美味しいもの、作らせます。凛として、おきれいなお嬢はんや」
亜紀は、女将のお世辞にあっけにとられたような顔だった。きれいなお嬢さんなどと、言われたことはない。接待業の最前線にいる女性のすごさを見たと思った。本気で言っているようにしか聞こえなかったが、どんな術を使うのだろう。白石といると新しい世界ばかりだった。
「さすが、お上手ですね」
女将が出て行って、亜紀は白石に言い訳のように言った。
「そうですか。相馬園長も同じことを言ってました」
「園長先生が」
「なぜ、隠すのかと言ってました。園長は君の子供の頃のことを知らないから。ところで、仕事の方だけど、君自身はどう」
「すごく、ほんとに、すごく楽しいんです。でも、実際にお役に立ててからだと思っています。お金をいただくんですから、自分が楽しいだけじゃ駄目ですよね」
「いえ。先ず自分が楽しくなくてはね」
「自分でも、こうなるとは思っていませんでした」
「じゃ、しばらくこのままでやってみよう。君が最初、呉服関係の仕事のことを言ってたのが気になっててね」
「すみません。私、何もわからないまま、勝手なこと」
「いや、そういう意味じゃない」
「このまま、続けさせてください」
「よかった」
「我儘ばかりですけど、もう一つお願いしてもいいでしょうか」
「なにか」
「独身寮に入りたいんですけど、いけませんか」
「独身寮」
「はい。アルバイトでは、駄目でしょうか」
「んんん。そうではないと思うが、多分、保護者の了解がいると思う。須藤さんには」
「言ってません。でも、中学を卒業して働いている人は入れますよね。学生だから、ですか」
「中学卒業の人の場合も、未成年の場合、多分、保護者の了解はもらっていると思う」
「そうですか」
「どうしても、というなら、僕がお母さんの了解をもらいに行ってもいいけど」
「それは」
白石を、母に会わせることは出来ない。母は母、自分は自分と思っているが、生理的な拒絶反応が自分のなかにあった。
「君は、今でも働きすぎている。自分の責任でやっている、と言っても、会社にも責任がある。それが、社会というものだ、と言わなければならない」
「白石さんも、ですか」
「ん」
「私にとっては、この仕事、命がけなんです」
「自立」
「そうです。自立です。でも、きっと、わがままなんでしょね」
社会の仕組みが、いつか目の前に立ち塞がるだろうという予感はあった。たとえ、些細なことでも、仕組みに押しつぶされることが、悔しかった。
「すみません。今の話は聞かなかったことにしてください。白石さんを困らせるつもりはありません。ごめんなさい」
白石が、本当に当惑していた。これほど感情を表に出したことは、自分の記憶になかった。自分のことを理解して、応援してくれている白石を困らせて、どうするの。感情が昂ったためか、何年も働いたことがない涙腺に違和感がある。こんな場面での涙は卑怯よ。でも、体が震えて、目が霞んだ。「私、白石さんに甘えようとしている」。道場の奥さんにも、体ごと甘えたことはない。いつでも分別のある子だった。亜紀のなかでは、もう寮のことは問題ではなかった。大人社会の壁の最前線に、白石がいることが、亜紀の感情を揺さぶっていた。
「ごめんなさい。今日は、帰らせてください」
「ん」
「今日の私は変です。白石さんの前で壊れたくないです」
「いいよ。こわれても。十八年分の悔しさを」
亜紀の目から、大粒の涙が噴き出した。白石は泣きそうな私をわかっていた。寮のことではなく、十八年分の涙だとわかってくれている。白石といると、あらゆるものから守られているような気がするのはなぜだろう。机に両手をあて、体を支えて、声を出して、亜紀は泣いた。何かが体から抜けていく。


13

「何かあった」
野口香織が、心配そうな声で聞いてきた。土日の昼間は、相馬保育園で、佳奈ちゃんと過ごすことにしている。
「どうして」
「沢井さん、変わった」
「そう。何も」
亜紀も、自分の変化に気がついていた。白石の前で大声で泣いてから、自分の中に、いろいろなことが許せるような、不思議な感情が出てきている。相手の気持ちが手に取るようにわかるし、それを許せる気持ちもあり、自分の気持ちにゆとりができた。
自分のことで精いっぱいだった過去の自分に苦笑する。佳奈ちゃんを助けているのではなく、佳奈ちゃんに助けられたのかもしれない。佳奈ちゃんとの出会いが、園長先生と白石に結び付けてくれ、その延長線上にいる自分。暴力、差別、非難の渦巻く中で溺れたくないと、必死にもがいていたことが、昔のことになりそうな予感がある。ただ、このまま、苦しみから完全に解き放たれることなどある筈がないという確信に似たものもある。それでも、一つの節目を通り越したことは確かで、香織の目には「変わった」とみえたのだろう。
部屋の片隅で、佳奈ちゃんと二人で読書にふけった。読んでいる本が教科書から、コンピューターの技術書に変わっただけで、二人の関係は何も変わっていなかった。佳奈ちゃんの読む本も絵本から童話になり、読める文字も増えていた。
「亜紀さん」
遊戯室の入り口で、園長が手まねきしていた。
亜紀は、席を外すことを目で知らせて立ち上がった。佳奈ちゃんは、亜紀が離れることに不安を示すようなことはなくなっている。佳奈ちゃんはすぐに本に目を戻した。
談話室に入ると、自然と川面に目がいく。だが、曇りのせいで、光の乱舞はなかった。
「また、亜紀さんにお願いがあるの。私、お願いばかりしてるわね。よく反省はするのよ。でも、誰かに頼ってしまう。悪い癖。ごめんなさいね」
「いいえ」
亜紀の母親は、自分のためだけに生きていて、相馬園長はいつも誰かのために生きている。自分には、どちらの生き方もできないように思う。
「パソコンを入れようと思うの。私、どこか毛嫌いしていたかもしれない。最近は住所を聞く前に、メールアドレスを聞かれるのね。施設に係る人たちとの情報交換も、今は全部メールみたい。だから、そろそろ、時代についていかなくちゃと思ったの。この前、友人の紹介で養護施設の先生に会ったの。プライベートで佳奈ちゃんの発音練習をしてもらえそう。でも、「メールアドレスは」、って言われて、「今、手続き中です」って言ってしまったわ。携帯電話も持たなきゃいけないようよ。亜紀さん、携帯は」
「会社から、渡されています。まだ、使ったことはありませんけど」
「そう。私、おばぁちゃんになった気分」
「そんな」
「で、一から十まで世話してもらいたいけど、時間ある」
「大丈夫ですよ。会社にはパソコンのプロがいっぱいいますから」
「助かるわ。よろしくね」
「はい」
「ところで、亜紀さん、何かあった」
「えっ」
「ごめんなさい。別に詮索するつもりはないのよ。とても、明るくて柔らかになったと思う。素敵よ。だから、心配してる訳じゃないの。単なる好奇心かな」
「何もありません。ただ、プログラムの仕事が楽しくて」
「そう。よかった」
夕食を佳奈ちゃんと一緒に食べて、亜紀は事務所に向かった。
二階には、久保田しかいなかった。

「久保田さん。相馬保育園、知ってます」
「ん。白石さんが応援してる施設だろ」
「そこの園長先生に、パソコンの世話をしてほしいって頼まれたんです。何もわからないので、一から十まで」
「予算とか、言われた」
「いえ。それは聞いてません」
「ま、いいか。パソコンで何がやりたいのかな」
「メールと情報収集だと思います」
「わかった。概略を書き出しておくから、自分でやってみる」
「はい。そうします」
最初の頃と違って、仕事以外の話も、少しだけするようになった。須藤に紹介された時に、シャイだけど信頼できる人だと言われたが、須藤の言葉通りの人だと思う。いい先生に会えたことも、プログラミングが楽しくなった原因だ。亜紀は席に戻り、自分の仕事を始めた。


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