SSブログ

海の果て 第3部の 4( 完 ) [海の果て]




モニターから警察官の姿が消えた。
「阿南さん、チャンスはありませんかね」
「後に退いただけですからね」
「ですよね」
機動隊の楯がないと、画面の中が寂しく見えてしまう。電話がきた。
「町村です」
「住民の避難状況はどうですか」
「進んでいます」
「町村さん。僕の予言聞いてみますか」
「はい。ぜひ」
「あと、数時間で、警察は後詰に回されます。あなたの役目も、そこで終わります」
「どうしてですか」
「僕が追われている理由は」
「三宅組爆破でしょう」
「他には」
「余罪は出てくるでしょうが」
「今、僕を確保したいと思っているのは、内調です。もう、自衛隊主導の危機管理対策チームが動き始めていると思います。ですから、三宅組の件も闇の中に消えていきます。僕は、国家機密の闇の部分に手を突っ込んでしまいました。だから、警察に逮捕させるわけにいかないんです。せっかく、僕の居場所を突き止めたのに、そのことも表にでることはありません」
「自衛隊ですか」
「あなたも、僕を逮捕することは無理だと思うでしょう」
「そんなことありません。話し合えば」
「何も知らない、いや、知らされていないあなたが、どうやって交渉するんです。自衛隊は、僕を逮捕しようとは思っていません」
「どうするんです」
「抹殺しか、選択肢はないと思っていますよ」
「まさか」
「あなたたちは、よくやったと思います。僕はヘマをしなかったと思っていたのに、よくここまで追い詰めたと感心してます。苦労したでしょう。ここで、自衛隊に持っていかれたら、後悔だけが残ります。でも、それがあなたたちの仕事でもある。難しいとこですね」
「中野さんの条件を教えてください」
「無理ですって。しばらくしたら、上の命令という訳のわからない理由で、警察全体が後詰になります。これが、僕の予言です。それまでは、怪我人が出ないようにすることです」
「納得できませんね」
「だったら、情報交換でもしますか」
「お願いします」
「僕は、かなり自信を持ってたんです。絶対に尻尾は掴まれていないと言う自信を持っていました。そこが、残念なんです。どうして、ここを突き止めたんですか」
しばらく、町村の返事はなかった。
「盗聴器です」
「盗聴器」
「ええ。この二日、データを取ったでしょう」
「三つですか」
「ええ」
「でも、電波は一瞬ですよ」
「我々も、同じものを取り寄せました」
「なるほど。それでわかりました」
「では、中野さんの情報を」
「いいですよ。防衛予算はいくらか知ってますか」
「大体は」
「装備品の価格がどこで決められているかは、知りませんよね」
「ええ」
「政治家と官僚、そして一部の企業が、都合のいい価格を決めています。そして、年間で約五千億円の金が闇に消えます。僕はその半分をピンハネしました。警察にはその被害届は出ていないはずです。なぜなら、まだ半分はそのグループの資金になっているからです。半分と言っても、二千五百億ですからね。簡単には手放せません。僕を逮捕して、裁判にかけることになれば、困るのは僕だけではありません。しかも、その資金を受け取っている政治家が政府を動かしているんです。だから、僕を殺すことしか、選択肢はないんです」
「何か証拠があるんですか」
「なければ、彼等は金を払わないでしょう。証拠はここに置いてませんがね」
「にわかには、信じられない話ですが」
「でしょうね。他にも、山ほどの不正資金から、ピンハネをしてます。三宅組は競合相手だったんです。でも、この話は町村さんの腹の中にしまっておいてください。あなたの命が危険になりますから」
「無理ですよ。この会話は記録されてますから」
「そうですか。迷惑かけてしまいました。言わなきゃよかった」
町村は言葉を失っていた。
警察庁の盗聴器が見つけられていただけなら、今回の仕事には影響しない。このまま、時間が過ぎていけば、スイスの口座に三十兆の金が到着することになる。
「少し、ここで頑張りますか」
藤沢の家が見つけられた理由を聞いて、阿南も安心したようだった。
膠着状態のまま、夕方になった。また、電話が入った。
「町村です」
「どうしました」
「中野さんの予言どおりになりました」
「そうですか。ご苦労さんです。くれぐれも気をつけてください」
「中野さん。我々に捕まるわけにはいきませんか」
「捕まって、どうするんです」
「裁判に持ち込みます」
「町村さんに、そんな力があるんですか。自衛隊に渡せと、上から命令を受ければ、そこで終わりでしょう」
「わたしが駄目でも、今の長官なら、裁判にしてくれます」
「警察庁長官の罷免など、簡単にできますよ。相手は政府そのものなんですから」
「そうなんですか」
「それよりも、住民の安全をお願いしますよ」
「それは、もう」
「僕は、町村さんに捕まっても、いいですよ。裁判になるならね」
「どうやって」
「僕を有名人にしてください。簡単には殺せないほどの有名人に」
「・・・」
「マスコミに、リークするんです。警察組織全体で」
「はあ」
「自衛隊が部隊を展開するには、まだ少し時間があります。戦いになれば、自衛隊にも大量の犠牲者が出るし、このあたりは廃墟になります。マスコミもじっとしていられないでしょう」
「・・・」
「警察本来の使命ですよね。犯罪者を逮捕して裁判にかける。その使命のために、少し違う手段を使うことになりますが、時には、使う手法でしょう」
「相談してみます」
「無理しなくても、いいですよ」
警察が浩平のために何かをやってくれることはないが、警察の面子のためであれば、何でもやってくれるだろう。自分たちが長年追い続けた獲物を、目の前で攫われる。しかも、それが政治的理由によるものであれば、どこかに反発はある。犯人の一方的な言い分に過ぎなくても、統治者の側にも正義がないのであれば、面子が優先しても自己弁明は可能になる。自衛隊が前面にでることに納得できる理由があるのであれば仕方ないが、そうでない場合は、許せるものではない。警察庁長官の判断が流れを決めことになるだろう。ネットには藤沢で起きていることに関する書き込みが増えている。警察が報道規制を外さなくても、有名無実のものにしてしまえば、マスコミの報道は一気に過熱することになる。そうなると、政府も報道を止めるために強腰にはなりきれない。昔の軍部統制を思い出させては、政府側にとって利益にはならない。どうなるのかは、浩平にも読めなかった。
「阿南さん。僕も死に場所を探してるんでしょうか」
「そうなんですか」
「阿南さんは、どう見ても、死に場所を探してますもんね。自分もそうなんじゃないかと、今、ふと思ったんですよ」
「片山さんには、生きてて欲しいな」
「阿南さんだって、生きていて欲しい」
「自衛隊が出てくるんでしょ。自分にとっては理想的な展開になってきたなと思ってます。これが、他国の軍隊だったら、もっとよかったけど、警察にやられるよりは嬉しいですよ」
「阿南さん、百姓やると言ってたじゃないですか」
「中途半端な男なんです。自分はこれでいいです」
「ここが、死に場所ですか」
「気にいってるんです、ここ」
「困った人だ」
自衛隊はどういう攻撃をしかけてくるのだろう。テロリストを殺すことが目的なら、最初から砲撃をするだろう。迫撃砲を数発撃ちこめばいい。だが、治安出動という名目であっても、殺戮が目的では、その後の自衛隊の在り方に禍根を残すことになる。特殊部隊を投入し、身柄の拘束を初期目標にすると思われる。
「阿南さん。天井はどうなってます」
「開けられます。ヘリでしょう」
「ええ」
阿南が、狭い階段を登って、天窓を開けて見せた。
「向こうにも、もう一つあります」
「地雷の場所は」
阿南が取り出した見取り図には、地雷原が色分けされていた。

交替で三時間ずつの睡眠を取り、朝を迎えた。阿南も熟睡できるようになっていた。
六時を過ぎて、藤沢の事件が報道されるようになった。封鎖されている道路に向かって自衛隊の車両が移動している映像や、避難所の様子、避難住民に対するインタビューが放映されている。テロリストのアジトを包囲、というテロップが流れている。テロリスト、自衛隊の治安出動、自然災害以外での住民に対する避難命令。どれをとっても、目新しいものばかりなのだから、報道合戦が過熱することは間違いない。マスコミ各社には、総動員令が出ているだろう。政府の発表は限定的にならざるをえない。記事に飢えているマスコミがそれで満足をするはずはない。
「警察が臍を曲げました」
「どこまでリークしますかね」
「今は、鬼退治ですから、まだ政府に有利でしょう。警察が僕を逮捕するためには、五分五分にしたいでしょう。裁判で事実を明らかにして欲しいという世論が必要です。そのうちに、防衛省の不正疑惑が漏れてきます」
「自衛隊は短期決戦で来ますか」
「まだ、わかりません」

京都北白川の白石邸の居間で、食事を済ませた亜紀は新聞を読みながら、優と二人でテレビを見ていた。まだ字を読めない優も母親の真似をして新聞を広げる。亜紀の耳がテレビから流れてきた「テロリスト」という言葉に反応した。警察が三宅組を爆破したテロリストのアジトを包囲している。
「久さん」
亜紀が大声で久子を呼んだ。優の体がビクッと動いた。優にとっては、初めて聞く母親の厳しい声だった。
「はい」
食堂にいた久子が、居間に走ってきた。
「優をお願い」
「はい」
亜紀は自分の部屋に行き、携帯を取り上げて、緒方の電話番号を探した。
「白石亜紀です。ごめんなさい。こんな時間に」
「いえ」
高校三年の夏休みに、白石の希望で髪を切り、変身した時に世話になったスタイリストの緒方とは、個人的な付き合いが続いている。
「緒方さん。テレビ局に知人が多くいますよね」
「はい」
「報道番組をやってる方を、紹介して欲しいの」
「報道ですか」
「藤沢のテロリスト、知ってる」
「いいえ」
「今、流れているニュースなの。そこにテレビある」
「はい」
緒方がテレビを操作する時間を待った。
「はい。やってます」
「その事件の証言が、私にできると思うの。当たってもらえないかしら」
「テレビに出てもいいんですか」
「ええ」
「やってみます」
「多分、人の命がかかってます。急いでお願い」
「はい。わかりました」
「私、今から東京に向かいます。この番号に」
「はい」
亜紀は地味なスーツに着替えて、簡単な旅支度をした。押入れの奥から書類の束を取り出して、鞄につめた。片山浩平から証拠書類というものを受け取り、片山のやってきたことを聞いた後で、亜紀は一か月かけて資料の全てに目を通し、コピーをとって数か所に保管していた。鞄に入れた資料は、そのコピーだった。
「久さん。しばらく留守にします。電話しますから」
「はい」
「優、かあさまは大事な用事があって出かけます。おねがいね」
「いいよ」
「久さん。誰もこの家に入れないように。警察でも、です」
「はい」
亜紀はタクシーに乗ってから、何か所にも電話を入れた。突然姿を消せる立場にはいない。和久井がいれば、和久井に言うだけで済んだが、今は個人秘書のような人はいないので、自分で連絡を入れなければならない。
新幹線が名古屋を出たところで、緒方から連絡がきた。
「亜紀さん。出演の約束、取れました」
「ありがとう。今、名古屋を出たとこです」
「私、東京駅に行きます」
亜紀は切符に書いてある列車番号と到着時刻を緒方に伝えた。
「緒方さん。しばらく、私のマネージャーしてくれませんか」
「やります。今、局中が大騒ぎです」
「おねがいします」
緒方を通じて、何度もテレビ出演を依頼されたことがあったが、全て断ってきた。こんな形で緒方の希望がかなうとは、緒方自身も思っていなかっただろう。
東京駅には、緒方と番組のスタッフの若い男子社員が来ていた。迎えの車に飛び乗った。
「どうなってます」
「少し、風向きが変わっています」
「・・・」
「防衛省の不正がからんでいるらしいという噂です。どこの局も、裏が取れませんからニュースとしては流していませんが、ただのテロリスト事件ではない、というのが局の判断です」
「その防衛省の件、私が証拠書類を出します」
「えっ、ほんとですか」
山本と名乗った男が、興奮した声で電話報告をした。
テレビ局の玄関に着くと、数人の社員が待っていて、亜紀は拉致されるようにして会議室に通された。証言すると言ってきた証人が、若くて、とびきりの美人であることに、待ちうけていたスタッフに言葉はなかった。会議室は亜紀の持ち込んだオーラで充満し、亜紀が席についても、しばらくは誰も口をきかなかった。
「今日は、無理なお願いを聞いていただいて、ありがとうございます」
最初に発言したのは亜紀だった。
「いえ。とんでもありません。私、局長の宗像といいます。藤沢の件で、証拠がお有りだと聞きました」
「はい」
亜紀は鞄から取り出した書類の束から、一枚の書類を取り出して、緒方に渡した。それは、権田議員が書いた念書だった。念書と書いてあるが、事実上は自白調書である。
目を通した宗像局長がため息をついた。
「本物なんですか」
「筆跡鑑定でも、そこにある拇印の指紋鑑定でも証明されます。それは、コピーですが、原本は私が保管しております」
「テロリスト、いや、テロリストと言われている人と、白石さんのご関係は」
「知人です」
「お身内ではない」
「私は、兄だと思っています」
「お名前も、出せますか」
「はい。片山浩平という人です」
「では、三宅組の件もご存じですか」
「はい。承知しております」
「全て、お話していただけるんですか」
「できれば、片山さんの承諾をいただければ、と思っています。防衛省以外の件は」
「承諾、と言いますと」
「片山さんに、会うチャンスを作っていただけませんか」
「・・・」
「説得したいんです。彼は死ぬ気なんだと思います。私は彼に裁判で証言して欲しいと思っています」
「・・・」
「宗像さん。これが証明されるということが、どういうことかわかりますか」
「と、言いますと」
「年間で五千億円の不正資金があるんです。過去十年だとすれば、五兆円もの税金が不正に使用されているんです。その不正資金を受け取ったという議員の名前もここにあります。その人たちが政治を動かしているんです。現総理の名前もあります。片山さんは、逮捕されても裁判はないと言ってました。つまり、生かしておいては都合の悪い人が大勢いるんです。彼は殺される。そう思うから、ここに来たんです。ただ、あなたたちにとっても、これは危険な賭けになります。局の存亡さえかけなくてはならなくなります。内閣総辞職ぐらいでケリのつくことではありません。体制の崩壊もありえます。ですから、充分、考えてください。ただ、時間がありませんので、結論はすぐにいただきたい。私は次の局に走らなければなりませんから」
「ま、待ってください」
「十五分だけ待ちます。緒方さん、先に出てタクシーを捕まえておいてください」
亜紀は時計を確認し、緒方が部屋を飛び出して行った。
宗像局長も携帯を耳につけたまま、部屋を飛び出して行った。前代未聞の大スクープを前に、正常な行動ができるのか。勇み足でもいいから、亜紀は放送して欲しいと願っていた。
「山本さん」
「はい」
「何か、飲み物をいただけませんか」
「はい。なにが、よろしいでしょうか」
「日本茶があれば」
「わかりました」
山本も部屋を飛び出して行った。残された人は、誰も口を開く勇気はないらしい。
約束の十五分が過ぎた。亜紀は立ち上がり、出口に向かった。資料を残して行っても、発表する気のない局には宝の持ち腐れになるだけにすぎない。だが、勢いよくドアが開き、宗像が戻ってきた。
「よおし、特番の用意だ」
残されていたスタッフから歓喜の声が上がった。
「白石さん。座ってください」
「よろしいんですか」
「百パーセントではありませんがね。権田先生のサイン入りの本があるんです。この念書のここの部分をコピーさせてもらいました。サインの筆跡鑑定をして、同じものなら放送します。ただし、うちの安全も考慮した内容になりますが、そこのところは勘弁してください」
「わかりました」
亜紀は緒方を呼び戻した。
「宗像さん。二人だけで、お話できませんか」
「いいですとも」
亜紀は宗像に連れられて別室に移動した。
「この五千億の行方を知りたいですよね」
「もちろん」
「片山さんが盗ったのは半分です」
「はい」
「残りの半分は、まだ議員たちに渡っています。そして片山さんの分は子供基金という公益法人に寄付されています」
亜紀は子供基金の内容を説明した。今は、片山の命を守ることを優先させる。子供基金のことは、その後で考えればいいと決めていた。片山が死んでしまい、ああそうですか、とは言えない。
「テレビ局もご自分の社が大事ですよね。私にとっても、子供基金は大事なんです。ですから、子供基金を守りたい。配慮していただけると助かります」
「わかりました。片山さんって、ほんとは英雄じゃないですか」
「はい。あの方を死なせてはいけないと思ってます」
「こんなこと聞いて、怒らないでくださいよ。白石さん、片山さんは恋人ですか」
「違います。どう説明すればいいのか。私の行動規範は、いつも主人なら、どうするかで決めています。主人なら迷わずに、片山さんの窮地を救おうとするだろう。だから、私もそうする。それだけなんですけど、納得していただけないかもしれませんね」
「いいえ。わかりました。すみません」
「子供基金のこと、出さなくてもいいでしょうか」
「ぼかして、それらしきことは、言って欲しいですが、あなた次第です。それと、この念書も表に出しません。あなたは、裁判資料として提出できるものを持っているとだけ言ってください。見せてほしいと迫りますが、あくまでも裁判で、と言ってください。我々は資料の信憑性の裏を取ってますから、それで逃げます。他の証拠もお持ちのようですが、それは見ないことにします。うちで爆弾を抱えてしまって、爆発した時に怪我しそうですから」
「ありがとうございます。それと、投降を勧めに行くということで、現地に入れるといいんですが、無理でしょうか」
「それも、今、動いています。これは、信じ難いほどのスクープなんです。しかもテレビ局独自のスクープですから、うちも全力であたります」
亜紀と緒方は控え室に移された。生番組ではあるが、台本が来るのでよく読んでおいて欲しいと言われた。
「緒方さん。ごめんなさいね」
「とんでもありません。私、ますます、あなたのこと好きになりました」




電話のベルが鳴った。自衛隊からの電話だとすると、随分急いでいることになる。
「はい」
「私は、陸上自衛隊第一師団の津山と言います。あなたとの窓口になります。お名前は中野さんだと聞いていますが、よろしいでしょうか」
「はい」
「投降するつもりは、ありますか」
「はい」
「そうですか。投降はしないものだと思っていました。条件がありますよね」
「はい」
「教えてください」
「裁判です」
「裁判」
「裁判にかけるという保証があれば、投降します」
「それだけですか」
「そうてす」
「警察も、その事を知っていますか」
「はい」
「なら、どうして、です」
「津山さんなら、できるんですか」
「もちろん、です」
「まさか」
「は」
「交渉は終わりですね。裁判の保証という条件を出して、あなたはできるとおっしゃった。交渉役のあなたが、できる判断ではないですよね。形通りの交渉がしたかったんですね。ですから、終りだと言ったんです」
「交渉が終われば、お二人は厳しいことになりますよ」
「承知しています」
「阿南さんは、そのことわかっていると思いますが」
「だから」
「いえ。覚悟ができているのなら、それでいいんです」
「津山さん」
「はい」
「実行部隊の方に、これは訓練ではないと、念を押しておいてください」
「わかってます」
「津山さんはなんでも安請け合いするんですね。あなたの階級は知りませんが将校なんでしょう。あなたの下につく兵が気の毒です。本物の戦争に、あなたは行かない方がいい。負けます」
浩平は受話器を降ろした。
「阿南さんの名前も、二人しかいないことも、バレてましたね」
「わかるでしょう。そのくらいのこと。でも、片山さんの名前はわかっていない」
「自衛隊は、やる気です」
「そのようですね」
「まだ、コーヒー豆あります」
「ええ」
「お願いできますか」
「了解」
テレビでは、まだ防衛省のことは出ていない。リークがあったとしても、裏も取らずに放送するには重い内容に違いない。
浩平は殺気を感じた。
「阿南さん」
「はい」
阿南がコーヒー豆を放り出して、中二階に駆け上がってきた。
「天井を頼みます」
「了解」
「狙撃隊がいます。頭を出さないように」
「了解」
ヘリの音はまだ聞こえていない。
浩平はロケット砲を引き寄せた。昨夜、玄関前にある浩平たちの車を、道路近くまで移動させてある。殺気が次第に強くなってくる。こちらの監視に姿を見せることもなく接近してくる行動は褒めてもいい。しばらくして、遠くから、ヘリの音がしてきた。阿南の体に緊張が漲った。見えた。車の影に走りこんだ兵士が一人。殺気は横にも後ろにもあった。
浩平は、ロケット発射用の窓を開けた。後方で地雷の炸裂音。ロケット砲を車に向けて発射。ヘリが上空に到着。左右の地雷の炸裂音。阿南の自動小銃が火を噴く。
ヘリが遠ざかり、静寂が戻ってきたが、まだ殺気は消えていない。阿南が天井の階段から降りてきた。浩平は殺気のある方向を四か所指差した。後を阿南に任せて、浩平は小銃の安全装置を外した。庭の畑の玄関寄りのところに軍靴が見える。その靴に向けて引き金を引き、一メートル上に向けて二発目を発射した。玄関左の植え込みから、自動小銃が乱射されてきた。浩平はその銃口に向けて、三回引き金を引いた。同時に阿南の自動小銃からも発射音が聞こえた。家の近くにある殺気は一か所になった。一階にある銃眼から外を見た阿南が、来てくれと手で知らせてきた。
「地雷で負傷してます」
「援護します。武器を捨てさせて、部屋で手当しましょう」
「了解」
二人は家の裏口から出た。狙撃兵のいそうな場所はない。
「武器を捨てろ」
阿南が声をかけた。殺気がないことを確認して、阿南の背中を叩いた。
阿南に連れられてきたのは、まだ十代の子供のような兵士だった。左足から血が落ちている。武装解除をして、太ももを縛りあげた。もう、かなりの出血をしているようで、兵士の意識は失われる寸前だった。止血しても、助からないかもしれない。
浩平は、津山という交渉役がかけてきた番号にリダイアルした。
「津山」
「負傷兵がいる。すぐに迎えに来い」
数分後に、赤十字マークをつけた車両がバックで入ってきた。ヘルメットに赤十字マークをつけた兵士が二人降りて来て、後部ドアを開けた。
「自分が行きます」
「援護します」
意識をなくしている負傷した兵士を、抱き上げて阿南が玄関を出た。浩平は小銃を手に援護に出て、二人を見守った。
「伏せろ」
浩平の大声に、阿南が素早く対応した。ドア付近の着弾に続き、銃声がした。浩平は外に出て、遠くの民家の屋根上にいる狙撃兵を気道で倒した。阿南も物陰に退避し、二人の兵士も身を伏せている。投げ出された負傷兵が路上に放置されていた。
「早く、連れて行け」
浩平は赤十字マークの二人を怒鳴りつけた。
「阿南さん、戻ってください」
浩平は小銃を構えて、援護の態勢に入った。阿南が身を縮めて家の中へ駆け込んできた。負傷兵も無事にトラックに収容されたようだ。赤十字マークの兵士が一人、浩平が構える小銃の射界に立って、敬礼をしてから走り去った。
「怪我は」
「ありません」
「自衛隊も、地に堕ちたな」
「今度から、負傷者にはトドメをさしますよ」
自衛隊のなりふり構わぬ姿勢に、政府のあせりを感じた。総理大臣の下命がなければ、自衛隊は動けない。現体制を保持するために強権発動をせざるを得なかったのだろう。電話のベルが鳴ったが、浩平は受話器を取るつもりはなかった。残された道は、殺し合いしかない。
「阿南さん。コーヒーが途中でしたよね」
「あっ、そうだ」
何事もなかったような静寂の中で、二人はコーヒーを飲んだ。次の攻撃を生き伸びる確率は、さらに低くなるだろう。戦える間は戦う。二人の意識は同じだった。
「阿南さん。寝ておいてください。三時間で起こします」
「了解」
ネットでは、防衛省の不正に関する書き込みが増えてきたが、浩平が見ても信憑性のないものが多かった。チーム池崎は浩平たちのやっていることを知らされていないから、書き込みはできない。藤沢テロ包囲事件のテロリストが浩平だとわかっていても、何をしていいのかわからない。イライラしながら見ているのだろう。テレビ各局は、材料不足で立ち往生している。警察がたいした証拠を持っていないのだから、リークにも限度がある。どうやら、ここまでのようだ。

十二時から始まるワイドショーが特別番組に編成替えされた。報道番組でおなじみのキャスターが呼び出されて司会をするようだ。
「今、そこで、あなたの街で起きている、藤沢テロリスト包囲事件の真相に迫るべく、この時間は特別番組をお送りします。先ず、事件の経緯を追ってみましょう」
画面には写っていないが、亜紀はゲスト席に座っていた。コメンテーターと言われる男が二人別の場所に座っている。
「この事件は、どう解釈したらいいのでしょう」
司会者はコメンテーターに質問をした。
「実に、不可解な事件です。この時間でも自衛隊の部隊が増強されていると聞きます。一説によると、テロリストは数名だそうですが、あれほどの軍隊を投入するのは、なぜなのか、という疑問があります。藤沢で一体何が起きているのか、実に不可解ですね」
「現地は、道路封鎖が行われていて、誰も入ることはできません。また、航空制限もあって、ヘリも飛べません。そこで、今日は、その真相に迫ることができるゲストの方をお迎えしました」
ゲスト席を写しているカメラに映像が切り替わる。
「京都でホテル業を営んでおられる、白石亜紀さんとおっしゃる方です。白石さん、よろしくお願いします」
「よろしく、お願いします」
「早速、お尋ねしますが、白石さんは、藤沢のテロリストだと言われている人をご存じだと聞きましたが、そうなんですか」
「はい」
「お名前を出していただいても、いいでしょうか」
「はい。片山浩平さんとおっしゃる方です」
「白石さんとは、どう言うご関係ですか」
「主人が大変お世話になった方です。私も、助けてもらっています」
「では、よくご存じの方ですね」
「はい」
「その片山さんという方が、どうしてテロリストとして追われているのでしょう」
「国の不正を知っているからです」
「国の不正、ですか。そのことと、テロリストとどう結びつくんでしょう」
「片山さんがやっていたことは、暴力団のようなことです。その暴力団同士の抗争で横浜にあった三宅組という暴力団事務所を爆破したために、テロリストという呼び方をされたのだと思います。国の不正に食い込んでいるのは片山さんたちだけではありません。ですから、暴力団同士の利権闘争なんです」
「片山さんという方は、暴力団の組長なんですか」
「そういう立場だったと思います」
「驚きました。で、その、国の不正というのは」
「防衛省の装備調達に関する不正です」
「さらに、驚きですが、白石さんは、その中身をご存じなんですか」
「はい。私は、その証拠書類を預かっています」
「それを、持っておられるんですね」
「はい」
亜紀は書類の束をテーブルの上に置いた。
「それを、見せていただけるんですか」
「いえ。お見せすることはできません。この書類は裁判所に提出したいと思っています」
「裁判所と言いますと」
「片山さんには、裁判を受けてほしいと願っています」
「そうであれば、警察に逮捕された方がいいと思っておられるんですね」
「裁判があるのであれば、私は現地に行って説得します」
「逮捕されれば、裁判は開かれるでしょう」
「いいえ。片山さんが知ってしまった内容は深刻なものですから、裁判はないだろうと本人も言ってました」
「どういうことです」
「国には、片山さんの口を封じる必要があるんです」
「逮捕せずに、殺すということですか」
「そうです」
「独裁国ではありませんよ。そんなことはありえません」
「そうでしょうか。では、なぜ、あれだけの自衛隊を向かわせたんですか」
「それは」
「藤沢にいるのは、数人だと言いましたよね。私もそう思います。どんな手段を取ってでも抹殺するつもりなんでしょう」
「それほど、大変な不正だということですか」
「はい」
「教えていただくことは、できませんか」
「それは」
「概略だけで、結構です」
「はい。ここには、四人の方の念書があります。政治家の方と、防衛省の方、そして民間の会社の方がお二人です。自衛隊の装備品の価格はどうやって決まるかご存じですか」
「いえ。知りません」
「この四人の方たちが作っている非公式の団体が決めています」
「どういう団体なんですか」
「いわゆる、談合のための団体だと思います」
「談合ですか」
「この書類のなかには、参考価格としてアメリカ軍が調達している価格もありますが、それに比べると法外な価格で購入されています。その結果、年間五千億円のキックバックがこの談合団体を経由して、不正に分配されているんです」
「まさか」
「その事実を認めた内容が、この念書に書かれています」
「どうして」
「その不正資金を受け取っている政治家の方の名前も、ここにあります。誰もがご存じの政治家の方々です」
「そこに、あるんですか」
「はい。片山さんは、その不正資金の半分を合意の上でもらっているそうです」
「信じ難い話ですね」
「その通りです。その信じ難い話が、もしも、ほんとなら、どうなります」
「大変なことになります」
「不正資金は防衛省だけではありません。証拠がある分だけでも六つの省に不正があります。中央官庁が、税金を好き勝手に使っていることが証明された時に、どうなるとおもいますか」
「体制の崩壊が起きますね」
「国が、一人の人間を抹殺しようとしているんです。片山さんが正しいことをしているとは言っていません。国も片山さんも裁かれるべきだと思います。だから、裁判なんです」
「んんんん」
「それと、このことは言わない方がいいのかもしれませんが」
「なんです」
「片山さんは、その資金を、ある福祉団体に寄付しているんです。私腹を肥やすためにやっているのではないんです」
「寄付」
「ええ」
「政府の説明とは、全く違いますね」
「裁判が必要です」
「でも、こんなことを、話して、白石さんの身に何か起きることはないんですか」
「そのことは、覚悟しています」
「・・・」
「ここにある証拠は、全て、コピーです。本当の証拠は、日本にはありません。事故でも殺人でも、私が死んだら、発表してくれるジャーナリストの方がいます。まだ、海外には本物のジャーナリストがいますから。そうなると、日本は世界から袋叩きにあいます。国益という意味では、日本国中が辛い立場に立つことになります。私も、事業をしています。直接経営している会社が三つあり、関連会社も数多くあります。その仕事が辛い立場に立たされると思います。でも、亡くなった主人なら、やれと言ってくれると信じています」
「そこまで、覚悟を」
「はい」
特別番組が終わり、亜紀が控え室で緒方と二人で休憩していると、局長の宗像が部屋に入ってきた。
「白石さん、御苦労さまです」
「ありがとうございました。宗像さんのご決断には感謝しています」
「そこなんです。私、少し、やりすぎたかな、と反省してます」
「申し訳ありません」
「いやいや。あなたが命を賭けておられるのだから、私が職を賭けてもいいわけなんですが、家内には厳しく怒られるんでしょうね」
スクープもほどほどのものがいい、と感じている顔だった。
「まだ、白石さんが、ここまでの決断をされた真意がわかりません。私があなたの立場だったら、同じことをしたでしょうか」
「わかりません。今、私がやらなければ、という直感だけなんです。若気の至りなのかもしれませんね」
「いや。羨ましくもあります。若さって」
ドアが勢いよく開き、若い男子社員が走りこんできて、宗像の耳に早口で何か言った。
「すみません。失礼します」
宗像があせった様子で部屋を出て行った。
「引き揚げますか。ホテルは確保できましたから」
緒方はすっかりマネージャーになっている。
「そうですね。あれだけの爆弾を投げてしまったから、このままでは帰れないでしょうね。でも、緒方さんはここまででいいです。ありがとうございました」
「でも」
「これ以上は危険です」
「警護を依頼した方がいいと思いますが」
「誰に」
「えっ」
「今は、国の敵になったんです。警護を頼めば、刺客が来ますよ」
先ほどの男子社員が、また飛び込んできた。
「すみません。局長が、来てほしいと言ってます」
宗像局長の手に負えない事態が起きているようだ。連れられて行ったのは応接間だった。宗像が電話に向かって頭を下げている。「今、変わります」と言って、受話器を持った宗像が近づいてきた。
「官房長官の野々村先生です。あなたと、直接、話したいそうです。いいですか」
「はい」
受話器を受け取った亜紀は、応接セットの椅子にゆっくりと座った。
「お電話変わりました。白石です」
「お呼び立てしてすみません。官房長官の野々宮と言います。放送は拝見しました」
「はい」
「総理が、直接、白石さんと話がしたいと言っています。官邸までご足労いただけませんか」
「はい」
「よかった。迎えの車をすぐにそこにやります」
「私の方からも、お願いをしていいですか」
「もちろんです」
「二つあります。一つは、すぐに自衛隊を止めてください。二つ目は、私の目で片山さんの無事を確認させてください」
「確認と言いますと」
「藤沢の現地に行かせてください。もちろん、説得もします」
「んんんん」
「総理も野々宮さんも、穏便な決着をお望みですよね。このままでは、双方に大きなダメージを残してしまいます。この難局を乗り切れるのは、私だけだと思っていますが、違いますか」
「いや。その通りです。そう思ったから、あなたに電話をしました。少し、待ってください。総理と相談します」


10

浩平はパソコンから目を離して、テレビを見た。藤沢の事件は、取り上げられていないようだ。チャンネルを次々と変えると、特別番組の予告をしているテレビ局があった。特別番組をするほどの材料を手に入れたのだろうか。十五分後には始まる。その時、全身の肌で殺気を感じた。
「阿南さん」
阿南が飛び起きた。
「来ましたか」
「ものすごい数です」
「正面突破ですね」
住宅街の一角だから、遠くは見通せない。
「前だけですか」
「そのようです」
雲のような殺気は前方にしかない。二人は銃眼から目をこらした。次第に車の排気音と軍靴のざわめきが聞こえてくる。
「おう」
道路の前方に大きな車両が姿を現した。
「装輪装甲車です」
「阻止できますか」
「さあ。残りのロケットを全部、撃ち込んでみましょう。片山さんはあの銃座を狙ってください。ロケットを撃ったら、一旦、地下壕に逃げます。一斉射が始まれば、この家は持たないでしょう。瓦礫の中から、応戦するしかありません」
「わかりました」
二人はロケット砲を手にして窓を開いた。後を向いた浩平の目はテレビの中にいる亜紀を見つけた。
「亜紀さん」
音声は落としてあるので、話は聞こえない。
「片山さん」
「おう」
阿南が最初のロケットを発射した。浩平も銃座にむけて引き金を引く。阿南が三発、浩平が二発を撃てば、ロケットはなくなる。
二人は小銃を手に、階段を走り降りて地下壕に飛び込んだ。装輪装甲車を阻止できたかどうかを確認する時間はなかった。直後に嵐のような銃弾が飛んできた。ロケット砲弾による破壊音も聞こえる。そして、ついに木造家屋が倒れる音が聞こえた。
「くそっ。壊しやがった」
「阿南さんは、ここで待っててください」
「断ります。一人でも二人でも道連れにしてやります。筒井さんの家を」
「阿南さん」
一斉射の銃声が止まった。上空にはヘリも来ているようだ。阿南が地下壕を飛び出した。阿南の中には怒りしか残っていない。説得する間もなく、近くにあった自動小銃に持ち替えた阿南が瓦礫の中を右に走った。浩平も仕方なく左に走った。隙間から見えるのは、山のような兵士の群れだった。道路にも住宅の庭にも、銃を構えた兵士がいる。ありったけの銃弾を部屋中に配置してあったので、どこにいても予備弾には困らないが、襲ってきている敵を撃ちつくすだけの弾はないだろう。
阿南の自動小銃の発射音がした。敵は遮蔽物を求めて逃げまどう。浩平は銃口を向けている敵を気道で次々に倒した。阿南がいたと思われる場所に集中砲火が来た。素人ではないので、すでに阿南は移動しているだろう。すると、別の場所から、阿南の銃声が聞こえた。嵐のような銃声が起き、家中に銃弾が飛び込んでくる。銃声が止むのを待って、浩平は阿南の方へ走った。
「阿南さん」
体中に銃弾を浴びた阿南は、すでに絶命していた。確かに、これが阿南の望んでいた死に方かも知れないが、浩平には納得できなかった。体中に怒りが満ちて来る。顔つきも目つきも変わり、体から殺気が飛び出している。
「おうりゃゃゃゃ」
気合いが空気を切り裂く。瓦礫のあらゆる隙間から飛び出した浩平の殺気が、包囲している兵を襲った。
浩平は瓦礫を飛び出した。まだ、敵の殺気は残っている。
「きぃぇぇぇぇぇ」
上空のヘリも操縦不能になり、横滑りしながら墜落炎上し、もう、殺気は残っていなかった。
いよいよ、砲弾による攻撃がやってくる。周辺の住宅も全て瓦礫と化すだろう。浩平は阿南の死体を担ぎあげて、地下壕に降ろした。これ以上阿南の体を痛めたくはなかった。
コーヒーが飲みたかったが、瓦礫の中に座り込み、ペットボトルの水で我慢した。自分もやはり死に場所を探していたんだろうか。どこかへ逃げる気持ちはなかった。抜けるような青空と静寂。音が無さ過ぎる。
浩平は、目だけでテレビを探した。亜紀がなぜテレビの画面の中にいたのだろう。「骨を拾ってあげる」と言っていたが、拾ってもらう骨が残るのだろうか。浩平は、壁に背を預けて、ウトウトしていた。
突然の拡声器の声で、目覚めた。
「片山さん。この声が聞こえたら、銃声を一発送ってください」
「片山さん」
「片山さん。この声が聞こえたら、銃声を一発送ってください」
浩平は近くにある小銃を取って、発砲した。
「今から、白石亜紀さんが、そちらに向かいます。発砲しないでください。聞こえましたら、銃声を三発お願いします」
浩平は、空に向けて三発の銃弾を撃った。亜紀が、なぜ。
右手の細い路地の向こうに赤十字マークの車が停まった。グレーのスーツを着た女が一人で歩いてきた。その女を目だけで追った。確かに、白石亜紀だったが、あまりにも場違いな状況に体は反応していなかった。亜紀は、真っ直ぐ浩平の方へやってきたが、視界が開けて、死体の山が目に入って、足を止めた。それは一瞬のことで、すぐに近づいてきた。
「片山さん」
浩平の正面で膝を折った亜紀が呼びかけた。
「どうして」
「よかった」
「骨を拾ってくれるんじゃ」
「骨だけじゃなくて、よかった。今から、総理大臣相手に取引をします」
「テレビに出てましたね」
「ええ」
「どうして」
「説明は、後で、ゆっくりします。行きますよ」
「どこへ」
「総理官邸。そして、京都」
「京都」
「優が、片山のおいちゃんは、って聞くの」
「優ちゃん」
亜紀に手を取られて、浩平は立ち上がったが、真っ白な頭の中に阿南がいた。
「阿南さんが」
「阿南さん」
浩平は地下壕の方を指差した。
「あそこに、いるの」
浩平は地下壕から、阿南の死体を引き揚げたが、それは一仕事だった。
「取引が成立したら、引き取りに来ましょう。阿南さんは待っててくれます」
「そうか」
浩平は、亜紀に引っ張られるようにして、車に向かった。赤十字マークのヘルメットをかぶった兵が直立して敬礼していた。どこかで、見たことのある男のような気がしたが思い出せなかった。
ヘリに乗ったところまでは覚えている。

ヘリの中で、片山が気を失った。市ヶ谷の防衛省に着陸した亜紀は救急車を要求し、近くの民間病院に片山を入院させた。総理官邸からの一本の電話は、不可能を可能にしてくれる。突然の入院要請にもかかわらず、特別室が用意された。
「ここで、お話できませんか」
「病室で、ですか」
「ストレッチャーを官邸に持ち込むより、いいでしょう」
「わかりました」
野々宮官房長官との電話を切って、亜紀は地獄から帰ってきた男の寝顔を見た。数百人と思われる兵士たちの死体の山。また、苦脳を背負いこんでしまったのだろうか。白石の死で、絶望の真っ只中にいた時に助けてくれたのは片山だった。今度は、亜紀が片山を救う時だった。
竹原洋介総理と野々宮官房長官が二人だけで部屋に入ってきた。
「白石です」
亜紀は二人の老人と握手をした。亜紀は自分の笑顔力を知っている。笑顔と握手で、仲間になる。失敗したことはなかった。
「最初に、お願いがあります」
「なにを」
「藤沢に、片山さんの仲間の遺体かあります。丁重に取り扱ってください」
「わかりました」
野々宮が電話で防衛省に連絡を入れてくれた。
広い個室に机と椅子が持ち込まれた。総理大臣を立たせたまま、と言う訳にはいかないという警護の人間の配慮だった。
「総理、全てを闇に閉じ込めませんか」
「どうやって、です」
「シナリオを作ることにかけては、あなた方は専門家でしょう。片山さんの命が助かって、犯罪の全貌が不明で、裁判も開けない。私は、そのシナリオに協力します」
二人の老人が顔を見合わせた。
「証拠を渡してくれる、ということですか」
野々宮が笑顔で言った。
「あれは渡せませんが、公表はしません」
「それでは」
「不安ですか」
「そうです」
亜紀はしばらく考えているふりをした。政治家は、これ以上の譲歩はないということが納得できるまで粘り腰を見せる。地方の政治家も国会議員も同じものを持っている。子供基金の寄付集めで、京都中を走り回った時に何度も体験していた。別に悪気でやっているのではないこともわかっていた。それが、政治家の習性なのだと思っている。
「やはり、お渡しすることはできません」
「それでは、話し合いにならないでしょう」
「そうですか。残念です」
「えっ」
「野々宮さんは、あの現地をご覧になってませんよね。たった二人の男相手に軍隊が死体の山を晒していました。素人の私でも、想像を超えています。自衛隊員の命もあなたの命と同じものだと思います。あなたたちの判断で、さらに多くの犠牲者が出てしまいます。とても残念だと思います」
亜紀は席を立って、ベッドの方へ移動した。今の浩平に戦闘能力はない。亜紀でも老人二人なら倒すことができるだろうが、部屋の外にいる警護の人間が来れば、敵う筈もない。交渉決裂は、片山の命だけではなく、亜紀の生存も危険にする。それでも、亜紀の直感は強気を選択しろと言っている。耐えるしかない。
「白石さん」
総理が呼びかけた。
「はい」
「あなたを、信じましょう」
「よろしくお願いします」
亜紀は頭を下げた。譲歩を迫られている度合いが、失うものの大きさによるならば、政治家側に不利なのは明らかである。ただ、多少なりとも得をしたという意識で決断してもらった方が、その後の展開は有利になる。
「では、失礼する。後は秘書官をよこしますので、よろしく」
「はい」
総理大臣ご一行様が病院から引き揚げた。亜紀は京都の石井法律事務所に電話を入れた。
「家長」
「叔父様。ご心配かけてすみません」
「大丈夫か」
「はい」
「驚いたよ」
「説明は戻ってからします。援軍が欲しいんですが」
「何を」
「遺体の引き取りと埋葬です」
「わかった」
叔父の石井徹に病院を告げて、自宅に電話をする。
「久さん」
「奥様」
「優は、どうしてる」
「元気にしてます」
「そう」
「奥様、危険なこと、おへんか」
「もう、大丈夫。畑中さんに来てもらいたいの」
「はい。私は」
「久さんは、優をお願い」
「はい」
翌朝、総理秘書官の飯田という男がやってきた。片山浩平は藤沢から逃亡し、全国指名手配になったと言う。警察庁に残っている似顔絵が、唯一の資料だった。自衛隊の犠牲者は発表されない。捜査本部は縮小し、この事件の風化を待つことになる。適当な時期に、テレビ局のインタビューがあり、亜紀は海外に逃亡した片山から連絡があったと答える。証拠資料は全て片山が持って行ってしまい、手元には残っていないことになる、と言った。テレビで亜紀が発表した防衛省疑惑は、くすぶり続けることになるが、時間が解決してくれるのを待つらしい。
片山が生き残り、子供基金が無事であれば、亜紀の目的は達せられたことなる。どんな証言でもするつもりだった。
石井法律事務所の顔見知りの職員が二人到着し、飯田秘書官と阿南の遺体引き取りの打ち合わせをしてもらった。三人が病室を出て行った後に、畑中正幸が来てくれた。畑中は庭師の仕事だけではなく、なんでもこなしてくれる。亜紀は片山を車で京都に連れて帰るつもりだった。
眠り続ける片山の診断結果を聞くために、詰め所で医師の説明を聞き、部屋に戻ると、片山が目を覚まし、ヘッドの上に座っていた。
「片山さん」
片山が悲しそうな表情で亜紀を見た。何か言いたそうに口を開くのだが、言葉にはならないようだ。亜紀は片山の手を取った。
「いいのよ。もう。あとは私が、守るから」
浩平の顔が無表情になり、目は何も見ていない。心が壊れてしまったのか。三十人もの人命を奪ってしまったと苦しんでいた男が、今度は数百人の命を絶ってしまったのだ。立ち直れるのだろうか。
翌日、畑中の運転する車で、三人は京都に向かった。少し、表情は出るようになったが、発音はない。片山の中で荒れ狂う嵐が外に飛び出しそうになることもある。
京都に入り、車は北白川を通り越して、鞍馬へ向かった。白石家の菩提寺になっている仁明寺に連れて行く。仁明寺は地味な、どこにでもある寺だが、観光客の入山は拒否している寺で、白石家専属の寺だと言ってもいい。叔父を通じて和尚には了解をとってある。白石の墓もあり、亜紀も月命日には必ず行く寺だった。
蝉の声を聞きながら、自然道を登り、本堂の脇にある小さな庵に入った。開け放たれた庵に座り、片山の表情に少し落ち着きが見える。周囲は自然林で、山の中の一軒家のような佇まいが、傷心の片山にどう影響するのか心配だったが、大丈夫のようだ。
「しばらく、放っときなさい」
和尚にまかせて、一か月が過ぎた。
「様子はどうですか」
「まだ、のようだな」
捉えどころのない和尚だ。六十前後の大柄な和尚だが、その細い目の中をよむことはできない。結婚はしているが、子供はいない。ただ、民さんと呼ばれる奥さんはくるくると動きまわる働き者で、さらに世話好きだった。民さんが寺を支えている。和尚が本堂に行くと、その民さんが現れた。
「民さん」
「愛想なしで、ごめんね」
「いえ」
「来たころよりは、元気になった。でも、まだ、のようね」
「そうですか」
「もう少し、時間を」
「はい」
亜紀が、何もできずにホテルへ戻ってくると、和久井が待っていた。忙しい和久井が来るのは珍しい。子供基金の仕事に体ごとぶつかっている和久井は、理事長にふさわしい女性になっていた。
「美緒さん」
「家長」
「珍しいわね。何かあった」
「ええ」
亜紀は和久井を連れて、自分の事務室に入った。
「これを、見てください」
和久井が出した資料は銀行口座の出入り表だった。百万単位の入金が連続で入金されている。一日に数千件あるという。それが、今日まで三日間連続で入金している。しかも、送り主はすべて外国からだった。
「どういうことなんでしょうか」
その寄付金が片山のものだと、亜紀にはわかった。
「片山さん、でしょうか」
「たぶん」
「どうすれば」
「いったん、別の口座にプールしておきましょう」
「片山さんは、まだ」
「ええ」
「そうですか」

半年が過ぎて、仁明寺の民子が北白川の家を訪ねてきた。
「和尚が、そろそろ、いいだろう、と言ってます」
「そうですか」
仁明寺には、毎月墓参に行っているが、片山はいつも不在だった。
「片山さんは、朝の十時までしかいません。どこに行ってるのかはわかりません。おむすびを持って出て行って、帰ってくるのは夕方です。最近は、本堂の掃除もしますし、お墓の草取りもします。口はききませんが、目がしっかりしてきたと、和尚が言ってます」
「よかった」
翌朝、亜紀は優をつれて仁明寺を訪れた。優の足に合わせて、ゆっくりと登って行く。鞍馬はまだまだ寒いが、朝の境内はすがすがしい。こんな早い時間にお出かけをすることが珍しいのか、優の足はしっかりとしていた。本堂の前庭を掃いている男がいる。坊主頭で作務衣を着ているが、片山に間違いない。優も気づいたようだ。亜紀の手を離して、一人で作務衣の男に近づいて行く。しばらく、優に任せよう。気配に気づいた男が振り向いた。
「片山のおいちゃん」
立ち止まった優が呼びかけた。驚きの顔に悲しみの表情が浮いている。膝を折った男に向かって優が走った。そして、片山の首にしがみついた。片山の手が恐る恐る優を抱きしめた。亜紀は二人に近づいた。
「よかったね、優」
片山は、何かを伝えたくて口を開けているが言葉にはならなかった。
「片山さん、無理にしゃべらなくても、いいですよ。それより、優にその頭を、よしよし、させてあげてください」
「・・・」
「優、おいちゃんの頭、よしよし、してあげて」
片山の首から手を離して、優は片山の坊主頭を優しく撫ぜた。そして、片山の頭を胸に抱き寄せた。「もう、大丈夫だからね」と言っているような抱擁だった。片山の体が震えている。亜紀も優に抱かれると、いつも泣いてしまう。ほんとに、不思議な子だった。
「おいちゃんの部屋、見せてもらおうか」
「うん」
優の抱擁から解放された片山は、その場に呆然としていた。
「いこ」
優に手を取られて、片山は立ち上がり、歩き出した。冬なのに、片山の庵は開け放たれていた。
「いい」
片山の顔を仰ぎみて、優は片山の許可をせがんだ。片山が大きく頷くと、優は靴を脱いで、少し高くなっている板間によじ登り、部屋に入った。狭い部屋の真ん中に立って、珍しそうに周囲を見渡して、その場に正坐した。優は、首をかしげて照れ笑いをした。大人の真似をしているつもりなのだろうか。
「かあさまも、いい」
「いいよ」
亜紀も片山の部屋に入って、優の横に座った。
「いいお部屋ね」
「うん」
優に手まねきされて、片山も部屋に入ってきた。優を真ん中にして、三人は庭を向いて座っている。
「片山のおいちゃんは、病気で声が出ないの。だから、今は優とお話できないの。早く良くなるといいね」
「うん」
優のちいさい手が片山の指を掴んだ。何の会話もない時間が過ぎていく。庵の中にいると、なぜか、亜紀の気持ちも豊かになったような気がする。
「優、そろそろ帰りましょう」
優は下を向いて小さく首を横に振った。
「おいちゃんは、お仕事があるの」
優は立ち上がって、片山の頭を抱きしめてから、部屋を出た。
部屋に座っている片山の方を何度も振り返った優が、心配そうな顔で亜紀を見た。大丈夫なのと目が聞いている。
「また、来てあげようね」
「うん」
坂を下って、庵が見えなくなっても、優は振り返った。

                                 完


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。