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海の果て 第2部の 2 [海の果て]


14

長年京都で暮らしていても、京都の暑さには腹立たしさを覚える。求は、夏にだけ毎年休暇をとっていた。涼しい軽井沢で一週間体を冷やし、残暑を乗り切る。京都の残暑は半端ではないが、夏休みのおかげで精神的には乗り越えられている。ホテルの仕事も不動産の仕事も休日がない商売だったが、ソフトの仕事にも休日はなかった。求が休暇をとるのは一年間に一週間の夏休みだけ。ただ、休暇の後の忙しさは、大変だった。古い土地でもあり、冠婚葬祭だけでも走り回らなければならなかった。京都システムに顔を出すことができたのは、京都に戻ってきてから十日も過ぎていた。相馬保育園のケーキを車に乗せたまま、須藤と打ち合わせをしている。
「ところで、伊藤さんとはうまくいってる」
「はい。いい人ですね、伊藤さん。沢井さんのことも気に入ってくれて、何度もきてくれてます」
株の取引を実際にやっている人を紹介してくれ、と言われて紹介したのが、父の古い友人で伊藤昌一という老人だった。伊藤は証券会社勤務を終わってからも、自分で株取引をしている。実力のほどはわからなかったが、人柄では信頼できる。伊藤も嫌な顔をせずに引き受けてくれた。
「で、どう」
「なかなかのものができますよ。ともかく、沢井さんはすごい。ただ、説明には連れて行けませんよね」
「ん」
「本人がむこうで説明してくれると、後々の対応もやりやすいのですが、バイトさんにそこまでさせては、と思って」
「そうですか。社員でも外注さんでもいい訳ですから、バイトでもいいと思いまけど」
「いいですか。じやあ、行ってもらいますか。しかし、もう一つ問題が」
「問題」
「ええ。あのままでは。あのヘアスタイルと制服で行かれても」
「たしかに」
「白石さんから言ってもらえませんか。それに、多分スーツも持っていないと思います」
「わかりました」
白石は苦笑した。見慣れたとはいえ、あの外見では世間に通用しないだろう。
打ち合わせを終えて、白石は相馬保育園に向かった。子供たちの顔を思い浮かべると、自然に顔がゆるむ気がする。一番肩の力が抜ける時間だった。辛い体験をした子供たちだが、保育園に来てからは子供らしい生き方をしていて、白石も園の職員も救われる思いだった。
玄関で遊んでいた子供たちが、「ケーキのおじさん」と叫んで、食堂に走っていく。幼い子供が一人だけ残っていて、白石に笑顔を送っていた。佳奈ちゃんだ。
「佳奈ちゃん」
無言だったが、佳奈ちゃんは白石の手を引いて、食堂に連れて行ってくれた。食堂はすでに大騒ぎだった。佳奈ちゃんの落ち着き方が亜紀に似てきたように思う。
職員の太田が、いつもの笑顔で子供たちにケーキを配り始め、佳奈ちゃんも列に並んでいた。
「求さん」
「園長」
「いつ、お帰りになったの」
「十日ほどになります。来るのが遅くなりました」
「忙しかったでしょう」
「いえ。慣れてますから。それより、今日は佳奈ちゃんに笑顔をもらいました」
「変わったでしょう、あの子」
「どこか、亜紀さんに似てませんか」
「求さんも、そう思います」
「あの子も、ただものではなくなるんでしょうか」
「土曜日と日曜日は、必ず来てくれます。いつも、遊戯室で読書三昧ですが、最近は、亜紀さんがよく話かけてくれています。仕事の話とか、求さんの話。だから、求さんへの亜紀さんの信頼感が、そのまま、佳奈ちゃんの信頼感になってる。多分、佳奈ちゃんの笑顔はそういうことじゃないかしら」
「僕は信頼されてますか」
「亜紀さんだけじゃありませんよ、私もです」
「恐縮です」
「前に話しましたが、うちも、ついに、パソコンが動きだしてます。
全部、亜紀さんがやってくれました。助かりました」
「それはよかった」


15

八月も残り二日となった。プログラムの完成は近いということが自分でもわかる。伊藤老人と話した内容には到達していないが、久保田の指示する内容は越えているはずだ。九月になれば、予定通り説明書の制作にとりかかる。夏休みが終われば、仕事の時間が少なくなるのが気がかりだった。めずらしく三階に人があふれているが、誰もが自分の世界に入り込んでいる。それは亜紀も同じだった。最近は気を使うこともなく自分の仕事に集中できる。
白石が一人で部屋に入ってきた。白石が来ると、すぐに気づく。亜紀は立ちあがり、軽く会釈した。白石に気づいていない人の方が多いが、気づいていても自分の仕事を続ける人がほとんどだった。
「沢井さん。少し時間ください」
「はい」
「セーブしておいてください」
「わかりました」
亜紀は、作成中のプログラムをセーブして、電源を切った。白石は久保田の許可を取りに行ったようだ。
地下駐車場から車に乗り、白石は無言で走り出した。シートベルトの使い方もわかっている。白石のそばにいることが単純に嬉しかった。車は河原町通りを北上しているが、道路の混雑や景色には関心がなかった。一度だけ市役所に行ったことがあったが、御池通りより北には行ったことがないので、どこを走っているかはわからない。少し車の混雑がなくなり、さらに走り続けて、緑が増えてきていた。白石の車は突然林の中を走り、その林を抜けると、目の前に建物があった。林に入る時に、「北京都ホテル」という案内標識があったので、この建物がそのホテルだろう。林の中にある五階建ての地味なホテルで、亜紀が想像していたホテルとは違った。車はホテルの玄関に乗り入れた。
「おかえりなさいませ」
制服を着た男女が、車の両側からドアを開けてくれる。白石の後について、自動ドアを二つ通り抜けると、学校の体育館の二倍ほどの広間があり、落ち着いた照明の中を進む。東京でも京都でも、ホテルの外観しか見たことのない亜紀にとっては、初めての光景だった。何人もの制服を着た人たちに挨拶され、白石が笑顔で答えているので、亜紀も笑顔で応じた。「従業員通路」という立札の横を通り、通路を何度か曲がって部屋に入った。
「ここが、僕の仕事場」
「はい」
会社を出てから、初めての会話だった。
広い部屋には、会議用のテーブルと応接用の椅子、奥に重厚な事務机が一つある。白石は会議テーブルの椅子を引いて、座るように言った。
「飲み物は何がいい」
「お茶がいいです」
「緑茶」
「はい」
白石は事務机へ行き、電話で話をしている。亜紀は部屋の中をゆっくりと見回した。ホテル業と不動産業をしていることは、白石から聞いていたが、亜紀の想像とは違うようだ。白石の様子や笑顔から想像していた会社社長とも違う。全く別世界の人だったのだと感じた。本当なら、亜紀との接点などあろうはずもない。はるかに遠い存在の人だった。
「座って」
「はい」
「今日は、沢井さんに、少し無理なお願いをします」
「・・・」
「今やってるソフトの説明を、ユーザーの前でしてもらいたい。これは須藤さんの希望でもあります。この仕事をはじめて間もないし、アルバイトという立場であり、少しきつい要求かもしれません。どうです。やってくれませんか」
「私でよければ」
「ありがとう。実は、さらに言いにくいお願いなんですが」
「はい」
「お客さんの前に出るということは、社会に出るということでもあり、外見もそれなりに礼儀ということで、できれば、その髪をなんとかしてもらわなければ、と思う。個人の自由と言われれば、それまでなんだけど、会社としては、協力をお願いしたい」
亜紀にとっては、思いもよらない話だった。
「沢井さんが、そのスタイルを選んでいる理由も聞いている僕としては、言いにくいことなんだけど」
「あの」
「僕にできるかぎり、君のことを守る。今までの君と違う沢井さんになって欲しいと思ってる。了解してもらいたい」
「はい」
白石にそこまで言われて、亜紀は覚悟を決めるしかない。
「ヘアスタイルも、着る物も、持つ物も全部変えてほしい。費用は立て替える。京都システムの給料で余裕が出た時に返してもらうということで、今日は僕の指示に従ってもらえないだろうか」
「わかりました。そうします」
「よかった。ありがとう」
「とんでもありません」
ドアをノックする音がして、お茶をワゴンに乗せた制服の女性と私服の女性が部屋に入ってきた。
制服の女性が三つの茶碗に注ぐ。
「ありがとう。あとはやります」
「失礼します」
制服の女性は出口に向かい、私服の女性にテーブルにつくように白石が言った。
「紹介しよう。スタイリストの緒方さん。この人が沢井亜紀さん」
「緒方です」
亜紀も立ち上がって名乗った。
「緒方さんは、お若いのに予約を取るのに苦労すると聞きました。今日は、無理を言って来てもらいました」
「いえ。そんな、たいそなことありません」
「このお嬢さんを、一日で変えていただきたいのです」
「はい。実は、お会いして、すごくワクワクしてます。白石さん、多分、びっくりしますよ」
「楽しみですね」
「はい。楽しみです」
「沢井さん。緒方さんの助言に従ってもらいます。いいですね」
「はい」


16

白石が部屋を出て行った。
「沢井さん」
「はい」
「希望がありますか。こうしたいという」
「いえ。ありません」
「そうですか。では、私のイメージを話していいですか」
「はい」
「少し、触るわよ」
「はい」
緒方が両手の指で、亜紀の前髪を持ち上げた。
「あなたの性格、男っぽい」
「たぶん」
「ショートカットでもいい」
「はい」
「あなたは、顔が小さいから、思い切ったショートでも似合うと思う。このメガネは」
「度が入ってません」
「やっぱり。外しても、いい」
「はい」
「先ず、ここのホテルの美容室にいきます。結構有名なんですよ。次に、デパートに行って買い物をします。そして、制服も買い替えます」
「制服も」
「この制服は、このヘアスタイルにしか合いません。三年生よね。でも、まだ半年あるから。スタイリストにもプライドあるんです。私のプライドのためだと思って」
「はい」
ホテルの中の一角にいろいろの店舗があり、白石がいつも保育園に持ってきてくれるケーキ屋もあった。連れて行かれたのは、美容室「F」という名前のお店で、店内は清潔でシンプルな佇まいだった。
「加瀬さんを」
「はい。お名前を教えていただけますか」
「白石で予約しています」
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」
受付の若い女性が案内してくれ、壁際の席に二人は座った。部屋の中は静かな活気が満ちている。
「いらっしゃいませ。加瀬です。白石さまより伺っております。どうぞ」
緒方に促されて、亜紀は重い腰を上げた。場違いな所に来てしまったような違和感が体を重くしている。加瀬ですと自己紹介をした人が、二十代なのか三十代なのか、年齢は推定できなかった。きっと男前の部類に入るのだろうが、落ち着いた眼差しに好感が持てる。京都システムという会社に行くようになって発見したのだが、仕事をしている人には二種類の人がいることだ。遊ぶために仕事をしている人と仕事をするために遊ぶ人の二種類で、須藤も久保田も仕事人間だった。もちろん、母親の恋人になる男は、この二種類から外れていた。加瀬という人にも仕事人間が持っている頑固そうな眼差しがあった。大きな鏡の前の立派な椅子に座らされて、緊張する。
「お名前を教えていただいていいですか」
「沢井です」
「ありがとうございます。沢井さま。ご希望を教えていただけると助かります」
亜紀は鏡の中で加瀬の横に立っている緒方の目を見た。
「思いっきりショートに、と思っています。申し遅れましたが、私、沢井さんを担当させてもらう、スタイリストの緒方と言います」
亜紀の代わりに緒方が答えた。
「スタイリストの緒方さん」
「はい」
「緒方志保さん」
「はい」
「お名前は、よく聞きます。三浦律子先生、ご存じですよね」
「もちろんです」
三浦律子は、日本でもトップクラスのスタイリストで、緒方の目標でもあった。
「三浦さまは、ここのお客様なんです。先生が脅威だと言ってました、あなたのこと」
「まさか」
「そうなんですか。緒方さんがショートと言うなら、間違いありません」
「ありがとうございます」
「正直言って、イメージで迷いました。学生さんでなければ、他の選択肢もあるのかなと」
「できれば、分厚くないショートの方が、合わせやすいと思っています」
「失礼します」
加瀬の手が亜紀の髪を、やさしく後ろに束ねた。
「緒方さんのイメージが見えました」
「お願いします」
料理人が包丁を入れる前に素材の吟味をするように、加瀬の手が亜紀の髪をさわっている。
「沢井さま。美容室は初めてですか」
「はい」
「ずっと、ご自分で」
「はい」
「苦労したでしょう」
「ええ」
鏡の中の緒方が怪訝な顔をした。
「沢井さまの髪質は、膨らませるのに苦労します。この髪型を維持するのは、かなり大変だったと思います」
加瀬が緒方に向かって説明した。
「ご自分でカットされてますので、長さもバラバラですし、髪の毛も傷んでいます。これからは、ぜひ、美容師に切らせてやってください」
「・・・」
亜紀は返事に困った。白石に言われたから髪型を変えることに同意したが、美容室に行くような贅沢ができるとは考えていない。
「沢井さま。カットする前に、シャンプーさせていただきますが、よろしいですか」
「はい」
加瀬が別のスタッフを呼んだ。
亜紀は、あらためて覚悟を決めた。
カットに入ってから、亜紀は閉じた目を一度も開けなかった。まな板の上の鯉になるしか方法がない。髪の毛で顔を隠してきた三年間は、誰にも素顔を見せていない。この髪型には安心感があった。だが、今は腹に力を入れる必要に迫られていた。
「沢井さま」
「・・・」
「目を開けていただけますか」
もう、気持ちは落ち着いていた。目を開けて鏡の中の自分を見る。そこには、全く違う自分がいた。顔が露出しただけではなく、耳まではっきりと見えていた。髪型で素顔も変わるということなのか。
「沢井さま。眉にも手を入れていいですか」
亜紀は、うなづいて了解した。自分を乗り越えて、ほほ笑む余裕もあった。
「よろしいでしょうか」
加瀬が緒方に同意を求めた。
「さすがですね。カリスマ美容師の腕は」
「ありがとうございます。シンプルなショートですが、私にとってもベストカットです」
他の美容師も、自分の仕事を中断して、加瀬の後ろで輪になって、ざわめいていた。
亜紀と緒方は、美容室「F」を出た。
「制服、変でしょう」
「ええ」
「今までより、かなり多くの視線にさらされると思う。無視。ね」
「はい」
二人がホテルの出口に行くと、計ったように黒の営業車が寄ってきた。制服の女性がドアを開けて、笑顔を向けた。


17

緒方が携帯電話で連絡をしていたので、デパートに着くと私服の社員が二人待っていた。
「先ず、ジーパンとシャツをお願いします」
二階の売り場に着くと、緒方が売り場を泳ぐように移動しながら、デパート側の社員に次々と指示をだし、既に手には数本のジーンズが掛っていた。移動中の車の中で、サイズを聞かれたが、亜紀は自分のボディーサイズを知らないと言った。狭い車内だったが、緒方は手際よくサイズを測り、ノートに記入していた。
フィッティングルームの前で、手にしていた五本のジーンズから一本だけ亜紀に渡して、「中で」と言った。緒方の顔は仕事顔になっている。
「すぐに、もどります」
緒方は、手にしていたジーンズを社員に渡して、小走りに去って行った。部屋の中で一人になった亜紀は、初めてのジーンズを履き、制服のスカートを降ろした。ウェストには余裕があるが、腰回りはきれいにフィツトしている。
「沢井さん。いい」
「はい」
緒方が顔だけ出して、亜紀のジーンズ姿を見て頷いた。
「これ、着てください」
白いシャツを渡された。緒方はシャツを選びに行っていたようだ。
シャツは半そでの前ボタンで、何の飾りもないシンプルなものだった。制服を脱いでシャツを着たが、ジーンズの中に入れるのか、外に出しておくのか迷ったが、単純に手間のかからない方を選んだ。
「沢井さん」
「着ました」
緒方が部屋に入ってきた。
「屈伸運動してくれます」
言われるままに、亜紀はその場で屈伸運動をした。
「きゅうくつ」
「いえ。大丈夫です」
「ウェスト、大きかった」
「少し」
緒方の手がシャツの下に入ってきて、ウェストをチェックした。
「我慢できます」
「ええ」
前を向いたり、後ろを向いたり。
「とりあえず、これでいきましょう」
「はい」
「これ、着ていきます。値札とか外してください。この制服は他のものと一緒に持って帰りますので」
売場の店員が、手際よく値札の類を取り外してくれる。
「靴は下でしたね」
それから、緒方はデパートの中を嵐のように動き回った。体力には自信があるので心配いらなかったが、頭の中の計算機が集計する金額におびえていた。靴、下着類、スーツ、バックなど、今まで持ったことも買ったこともない種類と数だった。
忙しさのあまり、周囲を見る余裕はなかったが、緒方が言っていたように多くの視線を感じるようになっていた。嵐のような緒方のパワーに対する視線なのか、亜紀に対する視線なのか、衆人環視の状態の中心にいることは理解できた。
デパートを出て、東山通りの小さな洋品店で制服を買い、二人は帰路についた。
「疲れたでしょう」
「大丈夫です。でも」
「・・・」
「びっくり」
「買った量でしょう。そう。私も。一度にこれだけの買い物したの初めて。でも、白石さんの指示だったから。沢井さんに会う前だったから、イメージわかなかったけど、何回も下見に行って、大体の予算も報告して、そういう意味では予定通りなんだけど、実際に買うと大変」
「そうですか」
白石からの指示が出ていたようだった。
「でも、私は勉強になって、すごく楽しかった」
「すごい、パワーでしたよ」
「でしょう。まだアドレナリンが引かない」
車は北に向かっていた。
「白石さんが、あなたのこと、洋服持っていないって言ってたけど、
そうなの」
「ええ。制服とジャージだけです」
「えっ。一年中」
「ごめんなさい。ジャンパーは持ってます」
「ところで、沢井さん、ハーフ」
「えっ」
「そうかなって」
「さあ。私、父親知らないんです」
「ごめんなさい、ほんとに、ごめんなさい。時々、調子に乗る悪い癖があるんです。ごめんなさい」
緒方が何度も謝った。
「いいんです。気にしてませんから」
「顔立ちとか、スタイルとか、私には初めての人なの。すぐにでも、モデルになれると思うけど」
「あの、私、プログラマーの見習なんです」
「コンピューターの」
「はい」
緒方は解せない顔をした。
「私、てっきり、デビュー前の準備だとばっかり。普通、スタイリストを個人的に雇ったりしないもの」
「すみません。期待を裏切ってるみたい」
緒方の口数が少なくなった。スタイリストの職業意識が、クライアントの獲得という夢を見させたようだった。でも、数分で緒方は立ち直った。その打たれ強さは、緒方の過去にいろいろなことがあったのだろうと思わせた。


18

亜紀とスタイリストの緒方を部屋において、求は車を走らせた。河原町通りを下り、京都御所近くの石井法律事務所の駐車場に車を停めた。
「こんにちは」
「あら、白石さま」
受付にいるのは、広田という年配の女性で、百年ほど同じ席をあたためているように思える。
「いますか」
「はい。どうぞ」
求はエレベーターで三階に行くと、所長室のドアを開けて、叔父の石井徹が待っていた。
「求ちゃん。ここにくるのは久し振りだな」
求の父親が長男で、次男が石井家に養子に行った徹叔父、三男が舞鶴で不動産業をやっている田中家に養子に行った譲叔父である。石井法律事務所は、白石グループの顧問弁護士でもあり、北京都ホテルや白石不動産の事務所ではよく顔を合わすが、荒神町の事務所に来たのは何年か前だった。
「裕君は元気にしてますか」
最近、叔父が老けこんだようで心配だった。石井裕は叔父の一人息子で、東京の弁護士事務所にいる。
「変わらず、だ」
石井裕は、刑事専門の弁護士になりたいようで、民事専門の石井法律事務所の後を継ぐ気はないらしい。
「豊君に来てもらおうと思っている」
「舞鶴はオーケーしたんですか」
「本人次第だろう」
田中豊は舞鶴の譲叔父の次男で、石井法律事務所で五年前から働いている。
「どこも、後継者で苦労します。叔父さんのとこだけじゃないです。僕も、決めておかないと」
「そうだな。でも、難しいな。うちの跡取りとは違うから」
徹叔父が、「難しい」というのは、白石の系類に候補者がいないということで、二人の意見は一致していた。白石家の家長になりたいという人はいない。器がなければ、無理矢理後継者にしても潰れるだけである。
白石家がなくなれば、グループ会社の中には危機にさらされるところも出てくる。このことは、叔父もわかっていたが、五年前の事故があって、求の心情を思って黙っていてくれた。白石家は不思議なことに血縁を重視していない。先々代の家長は、白石の系類ではなく、結婚した相手も系類ではなかった。入り婿と入り嫁だから、血は完全に途絶えている。だから、求が誰を後継者に指名しても異議をとなえる人はいない。後継者には能力だけが求められた。白石家の存在が銀行や地域の信頼を得ているために、グループ各社は無形の利益を手にすることができる。
「養女を貰おうかと思ったんです」
「養女。女かね」
「ええ」
「ありえるかも知れんな。候補者は誰」
「京都システムにアルバイトに来ている高校生なんですが。将来、白石を背負ってくれるという確信はないけど、直感が、この子だと言っているんです」
「ほう。もう、その子に話した」
「いえ、まだ」
「求ちゃんの直感なら、僕に異存はないけど、なぜ養女なんだね」
「・・・」
「高校生でも、女だろ。結婚すればいいんじゃないのかね」
「結婚」
「ん」
「相手は高校生で、親子ほど離れてますよ」
「年齢差が何か意味あることかね」
「そうは、言っても」
「真紀さんに申し訳ないと」
「そうではないと思いますが」
真紀というのは、亡き妻の名前だった。
「その子が結婚してくれて、子供が生まれれば、二代分予約したようなもんだよ。一石二鳥」
「叔父さん」
「すまん、すまん。責任ばかり押し付けて申し訳ない」
「無理でしょう。こんなオヤジ相手では」
「ま、希望的観測だよ」
求が亜紀を養女にしたいと思ったのは今日だった。あの髪形は苦労して作り上げたものだということを求は知っている。でも、亜紀はそれまでの生き方をさらりと捨て去る柔軟性を見せた。芯が強いだけの女の子ではなかった。亜紀なら後を託せる。その思いが急激に噴き出した。石井徹に相談したのは、自分自身の直感を実現するためのプロセスのつもりだったが、叔父は養女ではなく妻にしろと言う。その意外性に言葉を失ってしまった。
堀川にある白石不動産に寄ってからホテルに戻ったが、亜紀はまだ帰ってきていない。ロビーの椅子に座って、待つことにした。
亜紀と緒方がホテルに戻ってきたのは、六時を過ぎていた。ロビーに二時間も座り続けていたことになる。ただ、緒方が一緒にいなかったら、亜紀に気がつかなかったかもしれない。全く別人だった。求は自分の動揺を隠すために、二人を連れて事務所へと向かった。事務所の会議机に座って、正面の亜紀を見た。涼しげな目、大きすぎない鼻、大きいが品のある口、そして淫らになる手前でとどまっている少し厚めの唇。髪で隠していた亜紀の全てが生き生きと輝いていた。
「驚いた」
求の表現に、緒方が満足そうに頷いた。
「どう」
「すこし、居心地が悪いです」
「そう」
居心地が悪いと言いながら、亜紀の様子は平静だった。動揺していたのは求の方で、うろたえている気持ちが外に出ていないことを祈った。
「三人で食事をしよう」
求には、もう少し時間が必要だった。二人を連れて最上階にある、レストラン「京都」へ向かった。すれ違う男たちの視線が亜紀にまとわりついてくるのがわかる。レストランは広いフロアを贅沢に使って、客席の独立性を確保している。フロアマネージャーは白石たちを窓際の席に案内してくれた。
「緒方さん、何がいいですか」
「私、何でもいただきます」
接客用の料理はシェフに一任すると決めてあるので、細かなオーダーは必要でなかった。
「お飲物は」
マネージャーが飲み物のオーダーだけはと聞いてきた。
「僕は、いりません」
残りの二人も頷いて同意した。求は自分の動揺が収まっていることに安堵した。
「大変だったでしょう」
求は緒方の苦労をねぎらった。
「いえ。久し振りに楽しかったです」
「ありがとう」
「すこし、立ち入ったことを伺ってもいいですか」
「なにか」
「私の勝手な判断だったんですが、今日は、モデルか女優へのデビューの準備だと思ったんです。でも、沢井さんはプログラマーの卵だと。そうなんですか」
「そうです」
「そこがわからないんです。私、モデルの方も女優の方も、大勢知っています。いろいろな方がいらっしゃいますが、トップクラスの皆さんにはオーラがあります。そして、沢井さんにもオーラがあります。私だけが感じているのではなく、デパートの中で大勢の方が沢井さんのオーラに酔っていました。顔立ちが整っているだけでは一流になれません。でも沢井さんには、沢井さんにしかない力があります。白石さんなら、いくらでもルートはあるのじゃないでしょうか」
「緒方さんのおっしゃるように、沢井さんにはオーラがあります。それは、髪を切る前からありました。ただ、美しさとオーラの延長線上に芸能界という発想は、鉄則ではないと言うことです。今日、こうやって沢井さんに髪を切ってもらったのは、社会との折り合いをつけるためです。本人は気付いてませんが、沢井さんには、ソフト開発の世界を変える力がある、と断言している人もいるんです。多分、舞台でスポットライトを浴びる仕事より、プログラム開発の仕事の方が納得してもらえると思っているんです。本人に聞いてみてください」
「そうなんですか」
「はい」
「緒方さんは、業界の方だから、そう感じるのでしょう。たしかに、芸能界では正論なのでしょう」
「そうですか」
緒方は納得できない表情だった。


19

緒方が帰って、亜紀は白石と二人で事務室へ戻った。そこには、山ほどの荷物が並べられていた。
「大変だったな」
その荷物の山を見て、白石があらためて言った。
「ほんとに、すごい量です」
「緒方さんには、僕が細かに指示しておいた。彼女はそれをしっかりやってくれた」
「ほんとに、これだけのもの、私に返せるのでしょうか」
「急ぐことはない。僕は君に投資をしているけど、それを短期間で回収しようとは思っていない」
「この荷物、ここに置いておく訳にはいきませんよね」
「そうだな」
「うちは、狭くて」
「そう、それは考えなかった」
実際に亜紀の住んでいるアパートは、六畳一間と狭いリビング、もっと狭いバストイレだけだった。家具はほとんどないが、とても荷物は持って帰れない。
「そうだ、寮を荷物置き場にしたらいい」
「はい」
「明日、手配しておく。住むわけじゃないから」
「はい」
「疲れただろう。今日は、もう帰って休んだほうがいい。荷物は明日運んでおくから」
「はい。そうします」
「送っていこう」
「はい」
亜紀は制服の袋だけを持って、白石の車に乗り込んだ。車の中では二人とも無言だった。自分の人生がどう変わっていくのかわからないことに、少しだけ不安がある。自分だけは、自分の素顔を知っていると思っていたが、髪型が変わっただけでその自信も揺らいだ。おもえば、顔を隠すためにだけ鏡に向かっていたように思う。
アパートには誰もいなかった。最近の母は仕事熱心なホステスになっている。張り詰めて、生き生きとして、若返る母。恋人ができたのだろう。京都に来てからは、初めてだった。酔った勢いで、男を部屋に連れて来て、男が自分の家のように振る舞う日がやってくる。もう、男の暴力に蹂躙されることはないが、この狭い空間で同じ時間を共有することに嫌悪感がある。亜紀は体操服に着替えて部屋を出た。京都システムにアルバイトに行くようになって夜間練習の時間が少なくなっている。近くの公園の生木を相手に、拳を叩きこみ、蹴りを入れる。相手の動きを想定して、防御と攻撃の練習をした。それは、決められた型の練習ではなく、実戦を想定した戦いに勝つ練習だった。大河原道場の先生に練習禁止を言い渡されてからの亜紀の空手は、完全に自己流の、実戦で勝つためだけの空手になっている。母の男に襲われて、男に全治三週間の怪我をさせたことが、練習禁止の理由だった。静かな公園なので、気合を出さずに攻撃することにしているが、木を打つ時の音だけは消しようがなかった。しばらくすると、汗が飛び散るようになり、体の動きが自然体で流れていく。体を動かし、汗を流すことで、平常心を取り戻す。空手に何度助けられたことか。気持ちが潰れそうになった時、練習で自分を追い込む。そこには、心の平安があった。
学校でも、保育園でも、京都システムでも一騒動起きることだろう。白石という人物に賭け、覚悟を決めたことは間違いではないという強い気持ちがある。失うものも、逃げる場所もないのが強みだった。
翌日、新しい制服を着て、静かに部屋を出た。土曜日は相馬保育園の日だ。石段を登り、玄関で三人の子供と出会い、遊戯室へ向かった。子供たちの表情には、仲間への親しみはなかった。遊戯室のいつもの場所で本を読んでいた佳奈ちゃんが走って来て、いつものように亜紀に抱きついた。そして、二人は自分の本を読み始める。佳奈ちゃんの様子に全く変わりがなかったことが嬉しかった。佳奈ちゃんに拒絶されたら、どうしょうと心配していた。
しばらくして、遊戯室に園長が姿を見せ、園長の後ろに子供たちがいた。
「亜紀さん」
「おはようございます」
「髪、切ったのね」
「はい。白石さんの命令です。プログラムの説明で、東京まで行くように言われました」
「驚いたわ。子供たちが、知らない人が入ってきたって騒いでいたから」
「ほんと、亜紀さんだ」
中学三年の美咲ちゃんが言った。
園長と一緒に、子供たちが遠巻きにして、亜紀さん、亜紀さんと言っている。
「さあ、みんな、もう大丈夫よ」
園長も子供たちもざわめきながら、遊戯室を出て行った。亜紀は騒ぎが大きくならなくて胸をなでおろした。
昼前になって、野口香織が遊戯室にやってきた。
「沢井さん。えっ、沢井さんなの。うそ」
「切ったの」
「園長先生に聞いた。でも、うっそう。別人や」
「お願い」
「きれい。女優さんみたいやわ。えええ、うっそう」
「もう」
「ほんまに、ほんまやの」
食堂でも、職員の先生たちが大騒動だったが、保育園での一騒動はそれで終わった。
夕方から、京都システムの事務所に行ったが、事務所での騒動は保育園より大きかったが、なんとか乗り切ることができたようだ。須藤に連れられて、寮に行き、寮母さんに挨拶をして、部屋に案内された。吉田さんという五十前後の寮母さんは、どこにでもいそうな気さくな人で安心した。部屋は押入れもベッドも机も備えつけの、ごく小さな部屋で、昨日の荷物がベッドの上に山積みになっていた。
「なにかあったら、さっきの食堂にいます」
「はい」
亜紀は椅子に座って部屋の中を見回した。こんな部屋が自分の城になったらどんなに嬉しいことか。卒業の日が早く来てほしいと思った。


20

夏休みが終わった。亜紀は香織と二人で登校した。京都システムでアルバイトをするようになって、自転車を利用しているが、登校時は押して行く。
「ぜったい、誰も、気ぃつかん」
香織は楽しそうだった。教室に入っても、誰ひとり気づいている様子はなく、無視されている。
「沢井さん、この前借りた本、返すの、もう少し待ってな」
香織がわざとらしい声で亜紀に話しかける。香織に本を貸した覚えはない。すぐに大騒ぎが起きてしまった。
亜紀の周りに人の輪ができていて、野口香織が解説者のような顔で亜紀の隣に立っていた。
一時限目の授業が終わると、教室の外の廊下が人であふれている。職員室でも変身した亜紀のことで騒がしかったという。予想はしていたが、気が重かった。携帯のフラッシュも嫌いだ。
授業がすべて終わり、亜紀は逃げるようにして学校を飛び出した。騒ぎが収まってくれることを願うしかない。元々、学校が好きだったわけではなく、学校しか行くところがなかったので、休むこともなく出席していただけで、熱中できる仕事に出会った今は、学校が色あせてみえる。中退したいという思いが本音だったが、白石の許可が出ないことはわかっていた。
授業が終わると、逃げるようにして自転車を走らせた。
アルバイト先の京都システムでの騒ぎはすぐに収まり、誰もが普通に応対してくれていた。初めての取扱説明書作成も順調に進んでいて、九月三十日の東京での打ち合わせには、問題なく間に合う。エクセル上のソフトなので、久保田の作っているソフトとは比べ物にならないが、マクロのデバッグをしていると、一人前のプログラマーになったような嬉しさがあった。説明書の作成も楽しい。これで生活費がもらえるのなら、学校の成績など何の意味もない。
東京への出張の日がきた。久保田が書いてくれた図で新幹線改札口の場所はすぐにわかった。久保田の姿が見えた。
「おはようございます」
「おはよう」
久保田が目を合わせてくれたくれたのは、ほんの一瞬で、すぐに自分の世界へ戻って行った。ただ、久保田の態度は亜紀に対してだけではなく、誰に対しても同じ態度なので、気にはならなかった。通り過ぎる男たちの視線が、亜紀をとらえていくが、久保田と亜紀が同じ会社の人間だとは思わないだろう。しばらく待つと、白石の姿がエレベーターの上に現われた。白石には独特の雰囲気があり、いつ見ても素敵だと思う。男前の部類には入らないが、なぜかカッコいいと言う表現が似合う。亜紀は白石の笑顔が好きだった。
「待たせた」
「いえ、今来たとこです」
久保田は頷くことで同意を示した。久保田が、白石と亜紀に切符を渡してくれる。切符の手配を先輩にしてもらっていることが心苦しいが、初めての出張なので大目にみてもらっている。
白石を先頭にして、三人は売店へ行った。ユーザーへの手土産と、亜紀の個人的な手土産を買う。白石の助言で、亜紀は大河原道場に行く予定になっている。白石も京都システムの仕事に関係のない知人と会う予定があり、久保田だけが日帰りの予定だった。


21

TCSでの説明会は、成功だったと久保田が言ってくれた。さらに発展した内容の受注も可能らしい。亜紀には肩の荷物を降ろした安堵感と実際の運用で問題が出るかもしれないという心配が同居していた。白石はTCSの役員との酒席会合に出るので、久保田は東京駅に、亜紀は東京駅近くのホテルへ向かった。ホテルは、白石の北京都ホテルしか知らないので、東京のホテルは質素に見えた。ホテルの客室に初めて入ったが、居心地がいいという感触は持てなかった。だが、一日中初めての体験ばかりで、疲労感に負けて、ベッドに横になると眠ってしまった。途中、スーツを脱いで、持参の体操着に着かえたことをかすかに覚えていたが、目が覚めたのは翌朝の六時だった。空腹感があるのは、昨日の夕食を抜いてしまったからだった。白石も同じホテルに泊っていて、七時に電話をしてくれることになっている。空腹感は辛い思いであったが、歯を磨いて、顔を洗って、白石の連絡を待つことにした。
着替えをして、バッグを整理して、窓から空を見て待った。自分の身に起きている、この三か月の激変が沢井亜紀を内側から変えようとしている。何もしない、静かな時間の中にいることで、そのことを実感していた。
七時になって、白石からの電話が入った。一階のロビーで待っているという。ハンドバックだけを持って部屋を出た。スタイリストの緒方が選んでくれた品物はどれも亜紀に合っていた。
白石はロビーの中央で待っていた。
「とても、高校生には見えないな」
「そうですか」
「食事をしよう」
「はい」
レストランは土曜日だというのに、サラリーマンの男性ばかりで、雰囲気としては、仕事のスタート地点にいるようだった。髪を切ってからの亜紀は、男に動じなくなっている。男の視線に右往左往していると、どこにも居場所がない。堂々と胸を張るより他になかった。
バイキングになっている食事を皿に盛って椅子に座ると、白石が驚いた顔をした。
「すみません。夕べ、食べるの忘れて、お腹減ってるんです」
「そうか。食事のこと、言わなかったな」
「横になったら、いつのまにか、眠ってました」
「疲れただろう、昨日は」
「はい。でもホッとしました」
「いい評価だった」
「ありがとうございました」
食事をしながら予定を確認した。大河原道場には午前中いてもいいことになった。亜紀は一人でホテルをチェックアウトし、東京駅から中央線で水道橋に向かった。
水道橋から小石川の方向へ歩く。見慣れた風景が多くなったが、故郷に近付いているという感覚はない。悪い思い出の方が多い場所を故郷とは言わないのかもしれない。
道場に近付いたが、以前の風景とはすこし違うようだ。以前、亜紀が住んでいた家は跡形もなく、小さなアパートになっていた。いつ建てたのかもわからないくらいの古い平屋だったから、建て直すしかなかったのだろう。生まれてから高校一年生まで住んでいた場所が跡形もないということにも、特別の感情は湧かなかった。隣の道場はそのままで、少し安心した。道場の中から子供たちの気合いが聞こえる。亜紀は門を入って、裏手に回り、見なれた引き戸を開けた。そこは、先生の家の台所の入口だった。
「おはようございます」
亜紀はできるだけ明るい声を出した。
「はい。どなた」
道場の奥さんが出てきたが、亜紀のことには気づいていない。
「亜紀です」
「あきさん」
「沢井亜紀です。おばさん」
「ええっ。亜紀ちゃん」
「はい」
「うわぁ。ほんと、亜紀ちゃん。びっくりした。大きくなって」
最後に会ったのが一年半前だから、久し振りには違いないが、大きくなった訳ではない。
「入って、入って」
亜紀は見なれた居間に入った。何も変わってはいない居間に、やっと懐かしい気もちが湧いてきた。奥さんは「お父さん」と叫びながら道場の方へ走って行った。
「後で来るから、座んなさい。お茶いれるわね」
娘が実家に帰ってきた時の、母子の会話みたいだと思った。京都に行ってからの話を熱心に聞いてくれた。一時間ほどして、先生が居間に入ってきた。
「ご無沙汰してます」
「亜紀ちゃんか。変わったな」
「でしょう。コンピュターのプログラムをやってるんだって」
「ほう」
「まだ、アルバイトです。卒業したら、今の会社で働かせてもらいます」
「そうか。よかった。本当に心配してたんだ」
「すみません。何も言わずにいなくなって」
「亜紀ちゃんのせいじゃないさ。お母さんはどうしてる」
「相変わらずです」
「そうか。練習はしてるのか」
「はい。近くの公園で。我流ですけど」
「明日、子供たちの大会があってな、うちの子も大勢出る。どうだ、見ていくか」
「はい。いいんですか」
「もちろん。見るだけだ。母さん、道着を出してやってくれ」
亜紀は道着に着替えた。空手着は何年も着ていないが、気持ちが引き締まる思いだった。
道場では、子供たちが真剣な気合いを出して、型の練習をしていた。
道場に立つと、懐かしさが押し寄せてきた。子供の頃の生活の大部分が、この板の間の上だった。板の模様も傷も知っている。
「やめ」
先生の大きな声が道場に響いた。
子供たちが静かになるのを待って、亜紀が呼ばれた。
「沢井亜紀さん。みんなの先輩だ。知ってる人もいるな。今日は模範演技をしてもらう」
「おっす」
子供たちが元気に返事をした。模範演技の話など聞いていない。でも、これが先生の気の使い方なのだ。亜紀は集中を高めて型を始めた。道場に緊迫感が漲る。板が鳴る音、蹴りで空気が切り裂かれる音、子供たちが息をつめて見つめている。
演技が終わって、女子の指導をするように言われた。明日の大会に出場する子供に対して、一人一か所だけ手を加えた。模範演技をしたおかげで、子供たちは真剣にやってくれた。もう二度とこの道場に立つことはないと思う。先生は、そのこともわかっていて、亜紀に思い出を作ってくれた。
午前の練習が終わり、子供たちが引き揚げていった。
「お昼、食べていきなさい」
着替えた亜紀に奥さんが声をかけてくれた。
「ごめんなさい。まだ、人と会う約束があるんです」
「そう」
奥さんが寂しそうな声をだした。新しい人生を始めようとしている亜紀が別れを言いに来ていることを奥さんは知っている。
「亜紀」
「はい」
「もう、空手はやめろ」
先生は亜紀に空手をやめさせたがっていた。大人しく嫁に行ってくれるような女の子でいてほしいようだ、と奥さんが言っていた。
「はい」
先生の気持ちは、ありがたく受け取る。もちろん、空手を使う場面が来ないように、亜紀も望んでいた。
道場を出て、通りでタクシーを拾った。タクシーに乗ったのは白石の指示だった。場所を説明するのが大変だから、という。
「どちらへ」
「銀座にお願いします」
携帯を出して、白石の番号を押す。
「沢井です。タクシーに乗りました」
白石は運転手に代わるように言った。
「すみません。行先を聞いてもらえませんか」
タクシーの運転手は車を左に寄せて、白石の電話に出て行先を聞いてくれた。
見なれた街並みが過ぎ去っていく。亜紀は過去に決別した。今からは、仕事を精一杯して、自立した自分を実現する。大河原道場に行くことを勧めてくれた白石に感謝した。
「お嬢さん。あそこに見える中華料理の店です」
「ありがとう」
東京で生まれ育ったが、銀座に来たのは初めてだった。
タクシーを降りて、四川飯店の看板に向かって歩き始めると、男が寄ってきた。
「僕はこういうものです」
目の前で、名刺を差し出している男。亜紀はよけて通ろうとしたが、男は道を譲らない。仕方なく受け取った名刺には「佐多プロダクション」の道下という名前があった。
「お話させてもらえませんか」
「けっこうです」
「東京の方ですか、お名前教えてください」
「けっこうです、と言ってます」
デパートの買い物が終わって、北京都ホテルへ帰る車の中で、緒方が言っていた。必ず、スカウトにつかまると。そして、高飛車に断りなさいと。その図々しさは半端じゃないからと言っていた。
目の前の男も、気障を絵にかいたような男で、「俺の言うことを聞かない女なんて、いねぇよ」と友達に嘘吹いているような男だ。
「名刺は貰いました。しつこい人は嫌いです」
亜紀は左足を半歩さげて、殺気を放った。
「どきなさい」
毒気を抜かれた男は呆然として、道を譲った。
四川飯店の店に入ると、店の人が寄ってきた。
「白石さまのお連れさま」
「はい」
「ご案内します」
白石が迎えにいくように頼んだようだ。広い部屋の丸いテーブルに、白石と見知らぬ若い男の二人が座っていた。
「お連れさまがみえました」
突然、大きな危険が亜紀を襲った。亜紀は、かばんを捨てて、後ろへ大きく飛んだ。どんな危険か、どこから来たのかもわからないが、恐ろしいほどの殺気だ。白石と店の人には、何が起きたのかわかっていないらしい。
「ごめん」
若い男が、両手を合わせて謝った。亜紀はどうすればいいのかわからずに、白石の方を見た。
「どうした」
「すみません。僕が余計な事をしました」
「・・・」
「もう、しません。途中、何かありました。殺気が」
「ああ」
「いったい」
「彼女が入ってきた時に、危険が一緒だったんです。ほんとに申し訳ない」
「よくわからないが、紹介してもいいかな」
「はい」
「僕の友人で、沢井亜紀さん。こちらも、僕の友人で片山浩平さん」
「沢井です」
「片山です。ごめん」
「料理、お願いします」
「ああ。はい。すぐに」
三人は席に着いた。
「びっくりしました。僕の気を見破ったのは、沢井さんが二人目です。一人目は、うちの戦闘部隊のリーダーをやっています」
どこと言って特徴のない片山と言う男が言った。先ほど会ったプロダクションの男はブレスレットやネックレス、そして両手の指には大きな指輪をしていた。亜紀には判別できないが、着ていた服もきっとブランド物なのだろう。一番の違いは、目の光だった。片山の眼は澄んだ光で、プロダクションの男の目は濁っていた。
「片山さんは、僕の個人的な、そう、仕事や地域や血縁に全く関係のない、個人的な友人で、僕と片山さんの交友関係を知っている人はだれもいないと思う。今日、二人を紹介したのは、二人がよく似ていると思うからで、単に僕の好奇心を満足させるだけのことに付き合わせたことを、許してもらいたい。特に片山さんは、交友範囲を広げたいと思っていない人なので、申し訳ないと思ってます」
「いえ。白石さんの紹介なら、いつでも、だれとでも会います。そのことで逮捕されることがあっても、別にかまいません」
二人の言っている意味がよくわからない。
「片山さんは、裏社会の人で、逮捕理由は山ほど持っている。大変危険な人なんだ」
「裏社会って、暴力団なんですか」
「そうですね、暴力団が競合相手になるという意味では、僕たちも暴力団という部類になるんでしょう。自分では、ちょっと違うと思ってますが」
「あまり詳しく聞かないほうがいい」
「はい」
「そんなに、似てますか。沢井さんに会っていても、自分では何も感じませんけど。沢井さんは、どうです」
「私にも、わかりません」
「それと、もう一つ。寄付金の仕事を沢井さんに手伝ってもらいたいと思って」
「寄付金って、相馬保育園のですか」
「いや。片山さんに頼まれている分があってね」
「その件ですが、今年は一桁上がってしまいます」
「片山さんは、売上の一パーセントを寄付したい、と言って僕に預けてくれてる。表に出せないお金で、それなりに大変なんだ」
「すみません。感謝してます」
「京都システムの仕事の合間でいいんだ、手伝ってほしい」
「私にできるんですか」
「簡単だけど、秘密厳守で」
「たぶん、僕の逃げ道なんだと思います。自分の悪事は正当化できないけど、再配分することで、少しは自分の気持ちが楽になるのかな、と思っているんです」
亜紀には理解できない話ばかりだったが、話の途中から無理にわからなくてもいい話なのだと思った。必要になれば、白石が説明してくれる。他人に聞かれてはいけない話をしているのに、後暗い話をしているという雰囲気は全く感じられなかった。


22

さすがに疲れていて、すぐに眠ったが、一晩熟睡したことで、疲れは感じていなかった。金曜日は学校を無断欠席し、土曜日は相馬保育園に行かなかった。園長先生には、電話で伝えておいたが、佳奈ちゃんは心細い思いをしていただろう。
亜紀は少し早めにアパートを出た。保育園の玄関を入ったところに、園長先生が走るようにしてやってきた。
「亜紀さん。ありがとう」
「どうしたんですか」
「昨日、佳奈ちゃんが入院したの」
「えっ」
「すごい熱で、バケツにいっぱい吐いて、呼吸困難になって、救急車で」
うろたえている相馬園長を初めて見た。
「園長先生」
「ごめんなさい」
「座りましょう」
「そうね」
亜紀は園長の体を支えるようにして、談話室に入った。
「佳奈ちゃんの容態は今」
「熱は、断続的に高くなるの。それで、佳奈ちゃんがあなたを捜すの。泣きそうな顔で」
「わかりました。すぐに行きます」
「お願い。私、子供たちの病気が一番嫌い」
亜紀はアパートに自転車を取りにもどって、東山通りにある「西川病院」へ走った。三階の四人部屋の締め切ったカーテンの中に、佳奈ちゃんは一人でいた。眠っている。亜紀はベッドの横にある椅子に座って、佳奈ちゃんの寝顔を見た。すぐに目を覚ました佳奈ちゃんが、亜紀の顔を見て、しがみついてきた。
「ごめんね。昨日来なくて」
佳奈ちゃんの熱が伝わってくる。本当に心細かったのだろう。しがみついた手を離そうとはしない。気がすむまで抱いててあげる。佳奈ちゃんの体が震えている。悲しくて、泣いて震えているのではないことに気がついた。ナースステーシュンにつながっているボタンを押した。真っ赤な顔で、うつろな目をして、熱のために佳奈ちゃんは震えていた。
「どうしました」
カーテンを開けて、若くはない女性の看護師が入ってきた。
「熱が」
「また、上がってきたみたいね」
「はい」
「氷枕、持ってきますからね」
看護師が出て行った。強く抱きしめても、震えは治まることはないのだろうが、亜紀は佳奈ちゃんを抱きしめた。
「ごめんなさいね、離してくれる」
戻ってきた看護師は亜紀と佳奈ちゃんを離して、佳奈ちゃんの頭が氷枕の上にくるように寝かせた。
「手を、握っててあげて」
「はい」
上気した顔で、粗い呼吸をしていて、体中が震えていた。その高熱は三十分ほど続いた。熱が少し収まったのか、佳奈ちゃんは疲れて眠りに入ったようだ。
一時間ほどすると、また高熱になり、疲れて眠る。点滴のチューブは次々と薬を送り込んでいるが、効果は見えなかった。
相部屋の他の患者に昼食が配られ、部屋は食べ物の臭いで一杯になった。カーテンを開けて相馬園長が来た。「どう」と目で問いかける。亜紀は首を横に振った。
「亜紀さん。食事してきて。地下に食堂があるから」
佳奈ちゃんの手を、園長に預けて、亜紀は部屋を出た。
ナースステーションに寄って、付添を申し入れたが、規則で付添はできないと断られた。肉親の場合は、医師の判断で許可がでることもあるが、それ以外は無理だと言われた。まだ数時間しか見ていないが、佳奈ちゃんの病状はかなり重いと思う。精神的な支えなしで、病気と闘えるとは思えない。亜紀は一階の玄関を出て、白石に電話を入れ、事情を話した。
園長は二時間ほどいてくれて帰っていった。
熱は四十度を超えているようだ。小さな体で熱と震えに耐えている。その度に絞れるほどの汗をかくので、保育園で集めてきてくれた下着と寝巻きが山のように積まれていた。
夕方になって、付添が許可になったと看護師が伝えにきてくれた。白石が話をしてくれたようだ。小さな介護用のベッドが持ち込まれ、さらに荷物の山になってしまった。今の佳奈ちゃんにとっては、昼も夜もないだろう。夜中に熱で震えている時に誰もいないと、誰からも見放されているように感じるかもしれない。亜紀の姿を捜している、と園長が言っていた。一人で病気と闘うには、佳奈ちゃんは幼すぎた。
学校へは行っていない。もう、何日も無断欠席が続いていて、野口香織が園長に相談していた。園長が学校に行って、担任の大場先生に事情を話して、ようやく了解を取り付けてくれたらしい。亜紀にとって学校の存在感は、はかりなく小さい。
佳奈ちゃんが入院して十日が過ぎたが、佳奈ちゃんの容態は変わらず、苦しい毎日が続く。点滴での栄養補給しかできず、どんどんやせ細っていっていく。食べ物を欲しがらず、無理に食べさせても戻してしまう。汗に濡れた寝巻きを着替えさせる時には、日ごとに痩せて行く体が、いやでも目に入る。そんな現実が続く毎日に、亜紀自身も言葉少なくなっていた。亜紀が傍にいることは知っていると思うが、周囲のことを気にする体力は残っていないのかもしれない。主治医の後藤先生は、回診に来ても、難しい顔をして去っていくだけで、身内でもない亜紀に説明はしてくれなかった。
昼前に園長先生が来てくれたが、二人には話すことがなかった。
「相馬さん」
「はい」
「先生が呼んでおられます」
「はい。すぐ、行きます」
園長は重い腰を上げた。
「園長先生、私、後藤先生に、佳奈ちゃんの容態を聞いてみたいんですが、行ってもいいですか」
「ええ」
二人は、ナースステーションの隣にある、小さな診察室に入った。
「相馬さん。桜井さんのご両親は来られませんね」
「申し訳ありません。何度も、伝えていますが、来てくれません」
後藤医師がレントゲンを取り出して、セットした。
「入院した日、五日前、今日のレントゲンですが、このかげ、わかりますか」
「はい」
「急速に、広がっています。薬が全く効いていません。ウィルス性肺炎と診断していますが、抗生物質がどれも効きません。京大の先生にも協力してもらっていますが、手の打ちようがない、と言うのが現状なんです。残念です」
「と、言いますと」
「身内の方に来ていただいた方がいいと思います」
「えっ」
「そうなんです。長くて一週間。ここ数日かも知れません。申し訳ないと思います」
園長も亜紀も、後藤先生の言っていることが、現実として、理解できるまでに時間がかかった。
「そんな」
「助からない」
「いえ。まだまだ諦めませんが、覚悟は必要だと思います。ご両親にも、このことをわかっていただきたいと、思っています」
二人は呆然と診察室を出た。
「園長先生」
「私、もう一度、お母さんのところへいきます。亜紀さん、付いていてあげて、今の話は、気づかれないように。私は納得しない。そんなことありえない。でも、お母さんには伝えないと」
「はい」
園長がエレベーターの方へ歩きだしても、亜紀は動けなかった。このまま、佳奈ちゃんの側には行けない。亜紀は洗濯物を取りに屋上へ行った。
必ず治ると信じ切っていた。洗濯物に触りながら、亜紀の頭の中は空っぽで、全く働いていない。立ち尽くすだけだった。


23

四条堀川にある、白石不動産の本社ビルは三階建ての古びた建物で、街の不動産屋さんのビルと変わりがない。京都の地場企業としては、
トップクラスの株式会社白石だが、その小さなビルが不動産部門の発祥の場所で、本社機能はそこに置かれていた。社長室は狭くて質素だが、そこが求の城だった。大半の時間はその部屋で過ごすが、仕事の事情ではなく、単にその部屋の居心地が良かったからだった。不動産部門の仕事は古くからいる専務の内藤に任せておけば何の問題もない。
「はい。どうしました」
携帯に相馬由紀からの電話が入った。相馬由紀が携帯を持つようになって、初めての電話だ。西川病院の後藤医師から聞かされた話を伝えてくれた。佳奈ちゃんのことは、沢井亜紀に任せっきりだが、亜紀がこの事態を乗り切れるのか不安だと言った。
「いつも、困ったときに助けを求めて、ごめんなさい。また、亜紀さんの力になって欲しいんです。正直、私も余裕なくて」
「沢井さんは、今」
「病院です」
「わかりました。すぐに行きます。大丈夫」
求は渋滞の恐れのある四条通りを避けて、五条通りを東へ車を走らせた。誰も病状がそこまで切迫しているとは思っていなかった。この話を聞いた時の亜紀の心情はどうだったのだろう。医師は付添人に生命を預かってくれとは言わないが、付添人は介護をしていたのに、急に生命を預かってくれ、と言われたと感じてしまうかもしれない。後藤医師に相談して、医師団を作ったのは三日前だった。京大と阪大の若手の優秀な医師を、求は政治力を尽くして集めた。それは、求の個人的我儘であったが、あえて押し通した。患者の桜井佳奈のためというより、付添人の沢井亜紀のためだった。動機は不純と言えなくもないが、亜紀の気持ちを支えてやりたかった。求のためだけではなく、白石グループのためにも、かけがえのない人になる可能性がある。大人の打算だと思うが、それでもいいと思える年齢になっていた。
病室に亜紀の姿はなかった。看護師に教えられ屋上に行くと、洗濯物の間に亜紀の姿が見えた。洗濯物を取っているのではなく、干してある洗濯物を手にしたまま、ただ立っていた。
「沢井さん」
呼びかけに気がついた様子がないので、求は回り込んで正面に立った。
「沢井さん」
「ああ、白石さん」
「相馬園長から電話もらいました。園長も、風邪をこじらせただけで、治るものと思っていた、と言ってました。僕もそうです」
「白石さん」
「後藤先生には、もう一度、話を聞きますが、たぶん、僕が聞いても、同じ話だと思う。君に辛い思いをさせてしまって申し訳ないと園長が言ってた。ほんと、君に頼り切っていた僕も、すまないと思っている」
「そうじゃありません。私は、自分の意思でやってます。園長先生や白石さんに謝ってもらうことじゃありません。ただ、どうしていいのか、わからないんです。ほんとに、わからないんです。どうにかしなければ、と思っても、どうすれば」
「僕の考えを、言ってもいいかな」
「お願いします」
「先ず、座って話をしよう」
「はい」
求は亜紀を椅子のある場所に連れて行った。
「僕は、沢井さんを子供だとは思っていない。自立したいと強く願っていることも知っている。君が自立したいのは、経済的に自立したいと考えているだけで、精神的には、もう自立していると思う。だから、君が大人だという前提で話をしたい。いいかな」
「はい」
「よかった。僕が沢井さんを子供だと思っていたら、あとは僕がやるから、と言うだろう。もちろん、僕に何かができるという意味じゃない。医者が言うのだから、生命の危険は、きっと現実のものだと思う。そこで、あらためてお願いしたい。あの子に最後まで付いていてあげてほしい。あの子が死ぬとしたら、沢井さん、君にいてほしいと願っているはずだ。それに応えてやるのが大人の役目だと思う。だから、最後まで見ていてやってほしい。君には、とても辛いことだと思うが、受け入れてやらなければ、あの子が、あまりにも可哀そうじゃないか。生まれて、まだ、たったの七年、辛いことだけしか知らなかった七年だと思う。残念だけど、世の中は不条理の山の中にある。正しいことだけが、行われている訳ではない。そのことを、君は十分知っている。だから、せめて、最後は安らかに終わって欲しい。納得できなくても、やれることはやってあげたい。沢井さんの気持ちの中に、そういうものがあって、現実とすり合わせができないことが、今の君なんじゃないだろうか。君だって、ここで後ろにさがる気はないだろう。だから、現実を無理矢理でいいから、受け入れて、最後の一秒まで、あの子を支えてやってほしい。ぜひ、お願いする」
求の話を聞きながら、亜紀はじっと一点をみつめていた。
「そうですよね。私に、あの子の病気が治せるわけではないですよね。私、神様になりたがっていたのかもしれません。白石さんの話を聞いて、少し落ち着きました。私にできることを、最後までやっていくこと。悲しいし、悔しい。でも、それは、私事ですね。ほんとに悔しいのは、佳奈ちゃんなんだから」
「ありがとう。もう一つ無理言ってもいいだろうか」
「はい」
「あの子は、今、点滴だけで生きている。そうだよね。体力が極限まで落ち込んでいる。だから、気力は、もう、尽きているのかもしれない。いつも、最後の望みは、人の生きたいという気持ちなんだと思っている。物理的に病気に侵されているわけだから、役には立たないかもしれない。それでも、もう一度、生きたいという気力を持ってほしい。最後だから、優しい愛で、包んで、見送るというのは偽善のように思えるんだ。たとえ、叱り飛ばしてでも、あの子に生きたいと思ってほしい。周りから見れば、鬼の仕打ちに見えるかもしれない。でも、やってはいけないことだろうか。それを、君がやるのなら、あの子は、きっとわかってくれると思う。いや、君にしかできない。あの子と君の間にある信頼は、そんなこと乗り切れるはずだ」
亜紀は、もう求の目を見て話を聞いている。
「白石さんの言うとおり、あの子、弱気になってます。ほんとは芯の強い子なのに。私、鬼になってもいいです」


24

また、白石に助けられた。後藤先生の話を聞いて、自分を見失ってしまった。アルバイトを始め、東京出張もなんとかやりきったことで、大人の仲間入りをしたような過信を持ってはいなかったか。後藤先生や看護師さんたちに、不平や不満を持っていなかっただろうか。自分の力で、なんとかしようという驕りはなかったか。神様になろうとしていた自分の未熟さが、恥ずかしい。だが、白石の話を聞いて、もう、吹っ切れた。佳奈ちゃんの生命が、ここまでだと言われても、最後の一秒まで励ましたい。自分の無力に負けて、逃げだしたいという気持ちが、どこかにあったことを自分だけは知っている。無力でもいい、そんな自分に正面から対峙しなくては、介護にはならない。
「やってくれるか」
「はい」
心配そうな顔の白石に、亜紀は笑顔で答えた。
「洗濯物、洗濯物」
亜紀は、乾いているものだけを取り入れて、屋上を後にした。途切れていた介護のリズムが復活した。
部屋に戻ると、高熱にうなされている佳奈ちゃんの頭に、看護師が氷枕を当てているところだった。
「ありがとうございます。また」
「ん、かわいそうに。お薬、先生に聞いておくから」
「はい」
熱に震える様子に耐えられず、解熱剤を出せと何度も看護師にせまったことがある。後藤先生は、体が熱を出すことで戦っている、無理に熱を下げられないと言って、簡単には解熱剤を出してくれなかった。亜紀にできることは、解熱剤を要求することではない。佳奈ちゃんの気持ちを支えることなのだ。
高熱で震えがきている時は、触られるのが嫌みたいだった。熱がすこし下がった時に手を握ると安心してくれる。亜紀は椅子に座って、小さくなった佳奈ちゃんを見つめた。「がんばれ」「負けるな」。亜紀は声に出さずに、佳奈ちゃんに話しかけた。
四人部屋にいたのは最初の数日で、ウィルス性の疑いが出てからは個室へ移り、周囲への気遣いはいらなくなっていた。着替えを置いておく場所に困らなくなり助かっている。取り込んだ洗濯物を畳んで、セットする仕事をした。
熱が高くなって震える、その高熱が引き、着替えると、疲れて眠る。何回繰り返しただろう。今は静かな寝息だ。亜紀は佳奈ちゃんが目を覚ます時を待った。
残っている洗濯物を取り込んで部屋に戻ると、佳奈ちゃんが目を覚ましていた。
「のど、かわいた」
佳奈ちゃんは弱弱しく笑って頷いた。冷ましたお茶を少しだけ吸った。点滴が水分の補給をしてくれているせいか、お茶を飲む量も減ってしまった。
「佳奈ちゃん。私の話聞いてくれる」
亜紀は、佳奈ちゃんの手を握った。
「小さい頃、佳奈ちゃんと同じ位の小さい時、私、食べるものがなくて、苦しい時があったの。母親の育児放棄、わかるかな。他所で食べさせてもらったり、ゴミの山から食べ物拾ったり、大変だった。こんな辛いこと、もうやめたいと思った。お腹減ってると、元気なくなっちゃうの。もういいやと思った。でも私、頑張った。どうして、頑張ったのか、もう覚えてないけど、今は、頑張ってよかったと思っている。佳奈ちゃんも、いま、苦しいよね。もういいや、と思ってるよね。でも、駄目。病気なんかに負けないで欲しい。佳奈ちゃんが高校生になる頃には、私、おばさんだけど、話をしたい。こんなことあったよねって話をしたい。佳奈ちゃん、そう思わない」
佳奈ちゃんがちいさな笑顔を返してくれた。
「病気なんだから、苦しくて、辛くて当たり前でしょ。負けないで。私も負けなかった。いい、心の中で、負けるもんか、負けるもんかって言い続けるの。病気になんか、負けるもんかって」
佳奈ちゃんが頷いてくれる。
「言ってみて」
佳奈ちゃんは素直に、言ってくれている。亜紀には聞こえるようだった
「もっと」
「なんども」
「がんばって」
亜紀は佳奈ちゃんの体を抱きしめて、「負けるもんか」と耳元でささやいた。
佳奈ちゃんは疲れたのか、また眠ってしまった。亜紀は食堂へ向かった。食欲はない。それでも食べる。亜紀自身も「負けるもんか」の気持ちだった。病院にいるだけで、病気になるような気がする。大人しい患者ばかりではない。一晩中苦しそうな声で泣いている子供もいれば、死んで行く子供もいる。看護師が誰もいなくなった個室のベッドメイクをしていると、その部屋の子供は霊安室に移されたということだ。親の泣き声も、この短期間の間に二度も聞いていたが、自分の番が来るとは思ってもいなかった。亜紀の場合、睡眠時間が切れ切れにしかとれないことも、体力の消耗に繋がっているのだろう。消灯時間は九時だが、佳奈ちゃんの容態が落ち付いていれば、十時頃には寝ることにしていた。それでも、夜中に二度は着替えさせてやらなくてはならない。介護は体力勝負だった。
主治医の後藤先生は、午前と午後の二回、回診にきてくれるが、消灯時間の前に後藤先生が顔を出してくれた。
「先生」
「いや。今日は当直だから」
「そうでしたか」
いつもと違う時間に医師の回診があれば、危険信号かと思う。先生も髭が伸びて疲れた様子だった。もう、医師や看護師に対する反感はなくなった。素直に感謝している。先生が部屋を出て行く時も「ありがとうございます」と心から言える。
後藤先生が部屋を出てから、手まねきした。
「疲れてるだろう。君はよく頑張ってくれてる。僕たちも必死だ。あの子を励ましてやってほしい。人間の生命力が、どんな薬より効くことがある。医者が言うことじゃないかもしれないが、限界で勝つのは、その人の生命力なんだ。頼むよ」
「はい」
後藤医師が初めて声をかけてくれた。
亜紀は、佳奈ちゃんの様子を確認して横になった。大勢の人が佳奈ちゃんのために力を貸してくれている。きっと、佳奈ちゃんは病気に負けない。私も負けない、と思った。
病院の朝は看護師さんの検温で始まる。
「桜井さん。お熱、計ってね」
いつものように、体温計を渡されて、亜紀は佳奈ちゃんを見た。いつもと様子が違う。
「佳奈ちゃん。体温計だよ」
佳奈ちゃんの体がいつものように熱くない。顔が青ざめてみえる。亜紀は耳を近づけて、佳奈ちゃんの呼吸を確かめて、体温計を脇に挟んだ。いつもは、汗を拭いてから体温計を入れるのだが、汗はかいていなかった。
自分が寝ていた付添ベッドを整理して片づけ、お茶を冷やす入れ物を用意する。電子体温計の計測完了の音を聞いて、体温計を取り出した。熱は三十六度六分だった。入れ方が悪かったようだ、と思って佳奈ちゃんのおでこに自分のおでこを重ねてみた。佳奈ちゃんのおでこが熱くない。何が起きたのか。今まで、発熱は四十度を超える。それが収まっても三十八度までしか下がらない。発熱は慣れてしまうと、三十八度でも随分楽になるらしく、周囲の人も一息つけた。三十六度台の体温は初めてだった。
「桜井さん。どうかな」
「それが」
亜紀は体温計を看護師に渡した。
「ん」
看護師は佳奈ちゃんの顔に手を当てた。
「ほんとだ。ないね」
「大丈夫でしょうか」
長くて一週間と言われている。これが容態の変化で、最悪の事態が迫っているのだろうか。亜紀と看護師は、しばらく見つめあっていた。
「後藤先生、当直あけで、まだ居ると思う。すぐに連絡しとくからね」
看護師が部屋を出て行き、亜紀はもう一度佳奈ちゃんの額に自分の額を重ねてみた。佳奈ちゃんが目をあけた。
「佳奈ちゃん。どう」
「しんどい」
「楽」
佳奈ちゃんが頷いた。
「熱ないよ」
佳奈ちゃんも自分の手で、額を触ってみたが、よくわからないという表情をした。十分後に後藤医師が入ってきた。
顔を触り、目を開き、口の中を確認すると、聴診器を胸に当てて、しばらく音を聴いていた。
「昨夜はどうだった」
「そういえば、着替えをしてません」
「最後は」
「昨日の夕方、六時か七時ごろです」
「んんん。下がってるね。もう少し様子を見てみよう。今日、熱が出なければ、峠は越えたかもしれないね。少しでも変化があったら、すぐに知らせて」
「先生、今日はお休みですか」
「いや。いるよ」
「わかりました」


25

熱が下がって三日が過ぎ、園長と亜紀は後藤医師に呼ばれた。
「見てください」
後藤医師はレントゲンの説明をしてくれた。
「もう、大丈夫ですよ。抗生物質は全く効きませんでしたが、なぜかホルモン剤が効きました。過去にそういう事例があって、念のため投与しました。どういう因果関係があるのか、これからです」
佳奈ちゃんはお粥を食べられるようになったし、何よりも目に力が戻ってきた。園長先生が話をしてくれ、亜紀も月曜日から学校に復帰する許可が出た。
久し振りにアパートに帰り、思いっきり寝たいと思っていたが、母の美愛からおもわぬ話をされた。アパートを出てくれと言うのだ。アルバイトで収入があるのだから、自分で生活しろと言う。
安いアパートを捜さなければならない。母親から離れることは願ってもないことだが、それを母親から言われたことに驚いた。母親に恋人ができたのは間違いない。男がアパートに来るようになって、あの狭い部屋での三人の生活など願い下げだ。次は本当に殺してしまうことになるかもしれない。
翌日、不動産屋を訪ねた。とびきり安いアパートを捜していると言ったが、思ったほど安くはなかった。
「学生」
「はい」
「その制服、七高やな」
「ええ」
「あんたが、住むんか」
「ええ」
「親御はんは」
「いますけど」
高校生には貸せないから親の名義で借りるか、しっかりした身元引受人をと言われた。要は部屋代が払えない時は誰が払ってくれるのかが問題のようだった。アルバイトでは駄目なのだと言われた。部屋代で迷惑かけるようなことはしないと言っても、初めて来た客の言葉を信じてくれないのは当然でもあった。
母親の名義で借りるつもりはないので、身元引受人を捜すことになる。亜紀の身元引受人になってくれそうなのは、白石か相馬園長しかいないが、白石には頼めない。白石は母親に会うと言うだろう。
亜紀は保育園に相馬園長を訪ねた。
「亜紀さん」
「今日は、園長先生にお願いがあって来ました」
「亜紀さんが」
「はい」
二人は談話室に入った。
「どうしたの。亜紀さんには、頼みごとはしても、されることなどないと思ってたわ。ちょっと、嬉しい。私でできることなら、何でも言って」
「実は、身元引受人をお願いしたいんです」
「身元引受人って」
「アパートを借りたいんです」
「お母さんのところを出るの」
「いえ。出て行ってくれと言われたんです」
「どうして」
「一寸」
「難しい話のようね。白石さんには」
「話してません」
「わかったわ。結論から言う。身元引受人になるわ。ただ、説明してくれると、嬉しい」
肩肘張らずに、園長先生には話をしよう。これからも、園長先生とは長い付き合いになるだろう。今日はいい機会かもしれない。
亜紀は自分の過去を話した。
「母も、狭いアパートで三人が暮らすのは無理だと感じたのだと思います」
「辛いこと、よく話してくれたわね。あなたも犠牲者だった。実の父親だけじゃなく、内縁の男の犠牲になる子供も多いの。あなた、その重みを一人で背負ってきたんだ。そうなの」
「先生が白石さんに頼んでくれて、京都システムの仕事をして、自立のきっかけができたんです。自立は私の一番大きな夢なんです」
「そうよね。白石さんのおかげで、明かりが見えた。白石さんはあなたの苦労を知っていて、受け入れてくれたのね」
「感謝してます。何度も助けてもらってます」
「ところで、さっきの身元引受人のことだけど、アパート捜すのやめて、ここに来てくれない。私も心強いし、佳奈ちゃんも喜ぶし、皆も歓迎してくれる。言ったことあると思うけど、部屋はあるの。そうして」
「でも」
「皆には話さないけど、亜紀さんはここに入る資格があるじゃない。もっとも、公共施設じゃないから、資格の有無は私が決めてるんだけど」
他人の好意を負担に感じていた昔の自分は、白石に出会って変わったように思う。卒業まであと半年だけど、ここで暮らすのもいいかもしれない。昔、大河原先生から亜紀を養女にしたいという話があったが、実現しなかった。自分ではもう大河原の子供になったつもりだったので、落胆も大きかった。先日、大河原道場に行った時に、奥さんが謝っていた。あの時は母の美愛から、かなりの額のお金を要求されて断念せざるをえなかったと言っていた。そんな事情も知らないで、恨んだこともあった。あの母親から離れることができるのなら、手段はどうでもいい。
「ありがとうございます。助かります」
「よかった」


26

引っ越しは簡単だった。驚くほど荷物が少なく自転車で三回往復して終わった。二階の一番奥にある部屋で、窓からは鴨川が見えた。
月曜日から学校に行き、帰る途中で病院に寄って京都システムに行く日常が始まった。京都システムでは待ってましたとばかりに、仕事が始まった。久保田の指導でVBを本格的に始める。大手薬品会社の統合ソフトで、全事業所の既存のデータベースを新ソフトに統合し一元化するもので、全ての業務がこのソフトをベースにして展開される。大人数のスタッフの中の一人だが、身の引き締まる思いだった。
京都システムでは亜紀を特別な目で見る人はいなくなったが、学校ではまだ人が群れる。騒ぎがおさまるまで静かに待つだけだった。
授業が終わり、帰り支度をしている時に、同じクラスの矢島という男子が近寄ってきた。一度も話をしたことのない、小柄で地味な男子で、苗字しか知らない。
「沢井さん」
「・・・」
「かんにん。野口さんが」
「野口さん」
「文化祭のことで、困ってて、呼んできてって」
「私」
「みたい」
意味不明だったが、野口香織の名前を無視することもできなかった。
「どこ」
矢島に連れられて行ったのは、今は使われていない三階の端部屋だった。部屋に入った途端に、矢島と別の男子が二人でドアに立ちふさがった。矢島は明後日の方向を向いていた。騙されたことは明らかだった。部屋は会議に使っていたのか、中央に長机がコの字型に並べられ、パイプ椅子が乱雑に置かれている。五人の男子生徒と女子が一人。女子の名前は工藤玲奈という七高のマドンナと呼ばれている二組の女子生徒だった。長机の議長席のパイプ椅子に両脚を伸ばして座っているは、七高の番長で柳沢という大男だ。部屋の中にはオスの臭いが充満している。何のためにこの部屋に連れてこられたのかは明明白白だった。
亜紀は番長の柳沢の方へ歩き出した。面倒なことになってしまったが、逃げる方法は無いと思わなければならない。亜紀の正面に男子が一人立ち塞がり、亜紀の背後に一人の男子が回り込んだ。正面の男子の顔は卑猥に歪んでいる。下品の見本のような顔だ。絶対に女の子にもてないタイプで、暴力でしか望みを遂げることのできない男だと断定してもいい。
「さ、わ、い、さん」
嫌な口臭が臭ってきそうだ。亜紀は右に動く動作をしておいて、左足の蹴りを相手の膝に叩き込んだ。力を加減したつもりだったが、男子はその場に崩れ落ちた。後にいる男子に動く度胸はないと判断して、亜紀は柳沢に近づいた。
「二組の柳沢君だよね」
「すごいじゃん」
「訳、教えてくれる」
「わけね」
「そう。柳沢君、番長だよね。セコイ真似できないでしょう。それとも、君も男じゃないの」
床に倒れている男子と柳沢を見比べて言った。
「訳がわかれば、やらても、いいってか」
「わからないまま、やられるよりはね」
「ま、いいか」
「柳沢君」
工藤玲奈が鋭い目つきで言った。
「いずれ、わかることだろうが」
「・・・」
「玲奈の依頼だ」
「工藤さんの依頼って」
「一寸だけ、ヤキを入れてくれって、な」
「理由は」
「理由も言うのか」
「おねがい」
「おねがいときたか。ま、いいか。理由は二つある。そうだよな、玲奈」
工藤玲奈はしらん顔をした。
「その一、お前、転校生だろ。一年の時は、玲奈が学年トップだったんだ。二年になって、お前が転校してきて、トップは奪われた。その二、この夏休みまで、七高のマドンナは玲奈だった。お前は、そのマドンナも奪ってしまった。俺は、中学まで東京だったから知らないけど、玲奈は小学校でも、中学校でも人気ナンバーワンのスーパーマドンナだったらしい。プライド傷つくよな。玲奈の気持ちもわからなくない。だから、引き受けた」
「そう。わかったわ。私、今日から成績落とす。マドンナにもなりたくない。だから、工藤さんが一番。だったら、理由はなくなる。それでいいでしょう」
「そんなことは、解決にはならない。落ちたプライドはどうする」
「それは、工藤さんが解決すること。柳沢君の決めることじゃない。柳沢君は問題を解決した」
「そうもいかない」
「まだ、何かあるの」
「ん」
「お金を貰った」
「お前」
「あたりなの」
「まさかね」
「私が、工藤の倍出すと言ったら」
「それは、ない」
「じゃあ、三倍」
「お前、金あんのか、一万、二万と違うぞ」
「百とか二百なら」
「まじかよ。でも、やめとけ。こいつんち、大金持ち。競り合ったらお前の負けだ」
「無理」
「無理だな」
「わかった。柳沢もやめる気はない」
「ああ、契約不履行は格好悪いだろう」
「私に勝つ気」
「俺、今まで負けたことないから」
「相手が弱かったのね」
「そうか」
「確かに、強そう。私も、手加減できないだろうなって思ってる」
「手加減」
「だから、悪いけど、障害が残るかも」
「お前」
「気は進まないけど、急所も外さない。目と背骨、そして、男の急所。最悪の時は、一生、車椅子になる。でも、許してくれるのよね」
「わかった。お前も一生、女にはなれなくなる。いいな」
柳沢の顔が笑ってはいなかった。亜紀は靴を脱いで、靴下も脱いだ。足を床になじませる。柳沢は百八十で百キロという巨漢だから、体力勝負では全く勝ち目はないだろう。守りに入って後ろに退がれば、そこで負けになる。柳沢が動く瞬間に攻撃に移る。その先は、感性で動けばいい。柳沢の体力に一蹴りで致命傷というのは難しいかもしれないが、亜紀は飛ぶことにした。前蹴りでダメージを与えることが必要だ。
柳沢と亜紀は広い場所に出た。
亜紀は静かに柳沢の高まりを待った。体はいつでも飛べる準備に入っているが、柳沢は気が付いていない。
柳沢が前に向かって動き始めた瞬間に、亜紀も前に走り出した。
飛ぶ。亜紀の足刀が柳沢の顔面に叩き込まれた。
亜紀の足に衝撃が伝わる。その衝撃に耐えて、更に、蹴りの力を押し出した。普通の男なら、後方へ吹っ飛んでいる筈だが、柳沢の体は、その場で倒れただけだった。亜紀の体は柳沢の体に重なるように落下した。
柳沢は瞬間的に気を失ったのか、動かなかった。亜紀は転がり、柳沢の伸びきった体の横で、膝立ちになって待った。動けば、正拳を叩きこむ。
柳沢は、すぐに目を開けた。だが、動かなかった。
「わかった。お前の勝ちだ。障害者手帳はいらねぇよ」
「よかった」
柳沢は上半身を起して頭を振った。
「生まれて初めて負けた相手が、女。これって、相当、きついな」
工藤玲奈が出口に走り出した。
「つかまえて」
亜紀は鋭い声で入口の男子に命令した。逃亡防止のために配置されている二人が両手を広げて、工藤玲奈の前に立ち塞がった。
「ここに」
呆然と立っている男子に、工藤玲奈を連れてくるように言った。逃げ切れないと判断したらしく、工藤玲奈は自分から戻ってきた。
椅子に座った工藤玲奈は、窓の方を向いて、不機嫌を体中で表現している。不愉快な顔でも、その端正な顔立ちは美しい。さすが、マドンナにふさわしい美人だと思った。でも、その腹は腐りきっている。
「何したのか、わかってるの」
「ふん」
「柳沢」
「ああ」
「男が女にヤキを入れるって、どうするつもりだったの」
「どうって、決まってるだろ」
「私を、皆で、ってこと」
「聞くなよ、そんなこと」
「こいつらの目、ギラギラしてたよね」
「そうか」
「工藤は、わかってた」
「普通、わかるだろ」
「そうかな」
「・・・」
「わかってない、と思わない」
「本人に聞けば」
「本人は答えないと思う」
「だから、なんなんだ」
「やっぱ、わかった方がいいと思うの」
「はあ」
「自分が体験すれば、どういうことか、よくわかる」
「言ってる意味、わかんねぇよ」
「負けても、責任はとれないってこと」
「そうは、言ってないけど。ヤバイだろ」
「私だったら、ヤバクなくて、工藤ならヤバイ。どういう意味」
「別に」
「私が知らないことが、まだあるみたいね」
「・・・」
「ここには五人の男子がいるよね。女子が一人騙されて連れ込まれた。私が、なにをしても正当防衛になると思わない。殺したら過剰防衛かもしれないけど、死ぬ寸前なら問題ないと思うよ。先の心配より、今の心配をしたら」
「おまえ、マジかよ」
「全員に障害者手帳を渡してあげてもいい」
「わかったよ。こいつんち、大金持ちってだけじゃない。陣内組とも繋がってるんだぜ、お前だって、あとあと面倒になるって」
「陣内組」
「暴力団」
「そりゃ、ヤバイ。確かにヤバイ。でも、暴力団にやられても後遺症は残らないよ。立派な傷害罪だし、そこまではしない」
「・・・」
「どうする」
突然、亜紀は出口に走った。その勢いのまま、出口を固めている矢島の顔面に左足の蹴りをぶつけた。矢島は鼻血を床に飛ばして大きく倒れこんだ。残った出口係の男子は、呆然と立ちすくんでいる。亜紀が手で奥へ移動するように示すと、大人しく従った。
床に倒れて、恐怖の眼差しで見上げている矢島にも、奥に行くように指示した。
「わかったよ」
ゆっくりと戻った亜紀に、柳原が言った。
最初に亜紀の蹴りで倒れた男子は起き上がることも忘れて、同じ場所に座り込んでいる。
「君、名前は」
「馬場です」
「君が、一番乗り。いいね」
「あっ。はい」
「立って」
馬場と名乗った男子は、足をかばいながら立ちあがった。苦境の中にも関わらず、馬場の顔には卑猥な笑みがあった。
「ゆるさへんえ」
目を見開いた工藤玲奈が悲痛な声を出した。よりによって、最初に襲い掛かってくる男が、馬場だということは、工藤にとっては犯されること以上の屈辱と思うだろう。皆が息を飲み、緊張が走った。
右足を引きずりながら、更に近づいて行く。
「いややあ」
工藤が悲鳴をあげて床にしゃがみこんだ。
馬場は一気に工藤に飛びかかった。
押し倒された工藤の目の前に、馬場の卑猥な顔が迫っている。
「そこまで」
亜紀の鋭い声が部屋に響いた。だが、馬場はもう我を失っている。
「とめろ」
亜紀は柳原に言った。柳原の剛腕によって、やっと引きはがされた馬場は、何が起きているのかわからない様子だった。
「もう、いい。行きなさいよ」
工藤玲奈は、ノロノロと立ち上がり、定まらない足で出口に向かった。
「みんな、よく聞いて」
床に座っている五人の男子は従順だった。
「今日のことは、一切、誰にも言わないこと。君たちにとっても名誉なことじゃないし、これ以上、私もトラブルはいらない」


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