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海の果て 第2部の 4( 完 ) [海の果て]


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四月五日に、二人は左京区役所に行って婚姻届を提出した。亜紀は大きな試練が始まった緊張感で、口数がいつもより少なかった。
荷物はまとめてあり、畑中さんという人が相馬保育園に取りに行ってくれている。白石の自宅は北白川にあるが、初めてで地理はわからなかった。いたるところにお寺があって、白壁は珍しくないが、古い門を入り、木立を抜けると、平屋の日本家屋があった。何台も停められる駐車場が右手にあり、白石はそこに車を停めた。
「我が家へようこそ」
「はい」
玉砂利の道が玄関へと続いている。開け放たれた玄関の横に三人の男女が待っていた。
「いらっしゃいませ」
亜紀は立ち止って、三人に頭を下げた。白石は使用人という言い方はせずに、家事を助けてくれている人だと言っていた。
「荷物は」
「はい。お部屋に」
「ありがとうございます」
玄関の上り口は、十人でも並んで座れるほどの広さがあった。
「上がって」
白石に続いて、亜紀も家に入った。古くて広い廊下を進み、左へ曲がると、新しい廊下が続いていた。何畳あるのかわからなかったが、広い部屋に入った。部屋の向こうには、広大な庭が広がっていた。
「わあ」
亜紀はその景色に見とれていた。生まれて初めて見る景色だったが、これが本物のお屋敷なんだと思った。白石は別世界の人で、驚くことばかりだったが、少しは慣れている自分がいた。
白石に呼ばれて、亜紀は白石の隣に座った。
「紹介します。今日から我が家の一員になってくれた、亜紀さんです」
「亜紀です」
亜紀は軽く頭を下げた。自分の妻になった女を紹介するのに、さんづけは変だと思ったが、口には出さなかった。
「今西さん、料理をすべてお願いしてます」
「今西どす」
年齢は五十は超えていると思われる、いかにも頑固そうな人だった。
「今西さんの奥さんで、家事全般をお願いしています」
「今西の家内どす」
体つきはご主人の今西さんの倍ほどありそうな女性で、笑顔がとても可愛い人だった。
「畑中さん。庭の世話と、その他もろもろ、何でもこなしてくれるありがたい人です」
「よろしゅうに」
背の高い男前で、年齢は多分今西さんより上、六十を超えているのかもしれない。
「よろしくお願いします」
「皆さんには、長い間お世話になってます。僕にとってはもう家族です。亜紀さんに参加してもらって、力を合わせて白石を守っていきたいと願ってます。亜紀さんは、まだ自分の才能に気がついてませんが、大きな力になってくれます。是非、よろしくお願いします。亜紀さんも、何か言ってください」
亜紀は少し緊張した。
「私は、ご覧のとおり、まだ子供です。何もわかっていません。皆さんに教えてもらいながら、少しづつ前に進めればと思っています。正直なところ、私は貧乏人で、父親の名前も知らない私生児です。常識に欠ける部分も多々あります。本来であれば、ここに来るような人間とは思えません。大半は私が折れる必要があると覚悟しています。でも、自分が自分でなくなるほどには譲歩できないこともあると思っています。その時は、どうか許してください。ごめんなさい」
「自分のことを卑下するのは、今日で終わりにしてください。皆もそんなこと気にしてませんから」
「よろしいでしょうか」
今西が発言した。
「はい」
「奥様には、食べ物の好き嫌いはございますか」
「好き嫌いはありません。でも、その奥様というの、勘弁してください。十年たったら、そう呼んでいただくということで、亜紀と呼んでいただけませんか」
「亜紀さま、ですか」
「いえ。亜紀さんでお願いしたいんですが、いいでしょうか」
「はい」
今西が白石にお伺いをたてるような目つきをした。
「じゃあ、この十年間は、この家の中に限って、亜紀さんでいきましょう」
「あの」
「・・・」
「私、白石さんのこと、家長と呼びます。家長は私のことを、亜紀と呼び捨てにしてください。変ですか」
「仕事みたいだな」
「仕事ですよね」
「じゃあ、人前では家長と呼んでください」
食事の時間や洗濯物から風呂にいたるまで細かい話が出たが、次第に打ち解けた話になり、部屋の中は笑いで包まれた。これが、白石の人柄なのだろう。和やかな雰囲気でありながら、白石に対する尊敬は揺るがない。亜紀と母親との間に信頼関係はなく、いつも冷たい戦争状態だった。だが、白石の家には信頼関係がある。信頼がお金で買えるのだろうかと言う疑問が、一瞬だけ亜紀の脳裏をかすめた。
「案内してあげてください」
白石が今西久子に言った。久子にうながされて、亜紀は立ち上がった。大きな台所は清潔な感じで、食堂と居間は和式ではなかった。用途不明の板の間を通って、寝室と夫婦それぞれの個室に行った。落ち付いた和式の部屋で、亜紀の部屋は家具が並んでいても狭く感じなかった。箪笥を一つづつ開けて、中に入っている物の説明を受けた。和服、洋服、下着、部屋着等、驚くほどの量だった。京都システムの独身寮に置いてあった服やバッグもあったが、見たことのない物が大半で、和服は初めてだった。
「どこに、何が入ってるんか、わからしまへんやろ。いつでも、聞いておくれやす」
相馬保育園から運んでもらった荷物は部屋の隅に小さくまとめられていた。
寝室の障子を開けると、別の建物が見えた。
「向こうは使いません」
「・・・」
「今までは、向こうが母屋どした。旦那さんは亜紀さんのためにここを建て増ししはったんどす」
「新しくですか」
「へぇ」
次は広々とした浴室と、びっくりするほど広い便所だった。再び、食堂を通って台所の横を抜けると、ドアがあり、ドアを開けると廊下が続いていた。
「この先が、畑中はんとうちの住まいになってます」
廊下は渡り廊下になっていて、建物が二つあった。
「入口は別々になってて、うちらは表門使わしまへん。あとで表門の開け閉めをご説明します」
「広いですね。どの位の広さなんですか」
「うちには、わからしまへん。このへん一帯は白石の土地で、なんぼあるものか」
なにもかも大規模で、目の回る思いだった。
客間に戻ると、白石が一人で待っていた。
「僕が、庭を案内します」
「ほな、表門もお願いして、よろしおすか」
「わかりました」
庭を一回りして、二人は居間に戻ってきた。
「緊張してる」
「もう、目が回るほど」
「すぐに、慣れるよ」
「ええ」
「さっき、僕のこと家長と呼ぶと言われたけど、二人の時は勘弁してもらえないか」
「どう、呼ぶんですか」
「もとむ」
「はい」
「お昼を食べたら、石井の叔父のところへ二人で行きましょう。これからも、いろいろお世話になるから」
「はい」
「スケジュール、勝手に決めて悪いけど、しばらくは、いい」
「お願いします。全く勝手がわかりませんから」
「明日から一週間、冠婚葬祭の練習にしましょう。その後、白石の総会に出てから、白石不動産に出勤してください」
「はい。練習って」
「今までに、結婚式やお葬式に出席したことは」
「ありません」
「家長の立場にいると、冠婚葬祭は欠かせません。どこでも一緒と言うわけにはいかないので、経験がないと、その場で途方に暮れてしまいます。喪服の練習もしないと。久子さんが教えてくれます」
「はい」


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昼食は天麩羅蕎麦だった。簡単なものだが、蕎麦のイメージを一新する美味しさだった。
「おいしい」
心配そうに見ていた今西が安堵の溜息をもらした。
「みなさんは」
「後でいただきます」
慣れなければいけないことが、山のようにある。自分の下着も洗濯できないお姫様のような生活に慣れることも、仕事の一部と理解しなければならない。どこにでも、苦労はころがっていた。
食事を終えて、二人は石井法律事務所を訪れた。
「いらっしゃいませ」
受付にいた広田の目が大きくなった。
「広田さん。うちの亜紀です。よろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
亜紀は、笑顔を見せて、小さく頭を下げた。誰に対しても、深々と頭を下げてはいけない、と言われている。口数も少なくていいらしい。二人は三階の部屋に案内された。
「おう。これは、これは」
「今朝、届を出して来ました。妻の亜紀です」
「おう」
「石井徹さん。僕の親父の弟さんで、白石の法律関係全てを見てくださってる」
「亜紀です。よろしくお願いいたします」
「石井です。求ちゃんの目は確かだな。素晴らしい」
年齢はもう七十を過ぎているのかもしれないが、温厚で知的な様子は、将来の白石の姿を予測させた。
「十五日の欠席はない」
「そうですか」
「後継指名をするつもりかね」
「はい。披露宴じゃありませんので」
「結婚のことは、連絡しておいたから、披露宴のつもりでくる人もいるだろうな」
「でしょうね」
「亜紀さん」
「はい」
「大変な役回りをお願いして、驚いてますか」
「はい」
「今までも、求君に苦労を押しつけて。一族の者は気楽にやらせてもらってます。まだ、だいぶ先のことだけど、亜紀さんにもご苦労かけることになります。よろしく、お願いします」
亜紀は、笑顔だけで返事を返した。胸を叩いて、「はい」とは言えない。亜紀には、まだ何も見えていなかった。
徹叔父が白石の子供の頃の話をいろいろと聞かせてくれ、楽しい気持ちで石井法律事務所を後にした。
夕食は給仕役の久子が見るなかで、純粋な日本料理と思える食事だった。これが、懐石料理というものかもしれない。
食事も作らない、食べても後片付けをしない。それが、なにか落ち着かない。居間に移っても、お客さまの気分だった。
「疲れた」
「いえ。大丈夫です」
「テレビ見る」
「いいえ」
「そうか。僕もほとんど見ない。ニユースもネットで見てしまうから、見なくなった。亜紀は、そこのパソコン使ってくれていいよ。僕の部屋にもあるから」
「はい」
居間の片隅にある机の上にパソコンが一台置かれているのが見えた。
居間から白石が出て行き、紙袋を持って戻ってきて、書類と形の違う小さめの箱を何個か取り出した。
「これが、パスワードの一覧。本やCDはほとんどネットで買っている。亜紀も自由に使ったらいい。他は、まだ必要はないと思うけど」
「はい」
「それと、これは結婚指輪」
「はい。どうすれば」
「してもいいし、しなくてもいい。ただ、冠婚葬祭の時は久子さんに聞いて適当なものをしてもらわなくちゃいけないが、普段は亜紀の好きにしたらいい。僕は気にならない方だから」
「普通の人は、してますよね」
「ん」
一つの箱には、シルバーのリング、別の箱に石の乗った指輪が入っていた。たぶん、ダイヤなのだろう。
「これを、つけます」
「そう。貸してごらん」
白石がシルバーのリングを亜紀の薬指につけてくれた。サイズは合っていた。
「サイズは緒方さんに聞いておいたから。それと、亜紀の部屋の服だけど、最小限のものを緒方さんにお願いして揃えてもらった。和服の方は久子さんが選んでくれた。制服みたいなものです。普段は好きなものを着ていればいい」
「はい」
「名前が変わって、手続きに時間がかかるだろうから、当面の必要経費は、これで」
真新しい財布を渡された。
「銀行口座やカードは、追々作るから」
「はい」
「日用品で必要なものは、久子さんに言っておけば揃えてくれる」
「はい」
亜紀は、あらゆることを無条件で飲みこむつもりだった。園長も覚悟だと言っていたが、他に方法はないと亜紀も思っていた。
京都システムで仕事はしていたが、個人的にネットを利用していた訳ではないので、ネットに関する知識は相馬保育園にパソコンを導入した時の知識しかなかった。
白石に教えてもらいながら、ネット上の本屋をアクセスし、試し買いとして、京都の地図を二冊購入して決済した。
「なにか、飲もうか」
「えっ」
「二十歳前だけど、もういいだろう」
「お酒ですか」
「飲んだことは」
「一度も」
「じゃあ、ビールにしよう」
亜紀は白石の後から、食堂に行った。きれいに片付いていて、台所からも音は聞こえない。今西夫妻は引き揚げたようだ。
「にがいです」
「慣れると、この苦味が美味しさになる」
「そうなんですか」
今日という日の密度の濃さに酔う思いがした。負けるつもりはない。自立してみせる。今日まで生きてきたのは、自立のためだった。自分自身に負けていたのでは、この先の自立はない。ビールの苦味など些細なことだった。
ビールを飲みながら、徹叔父に聞いた白石の子供の頃の話を、本人の口から聞いた。叔父の記憶違いだと強がっている白石が、可愛かった。二人でビールを二本空けたが、亜紀も酔ってはいなかった。
「今日は疲れたな。風呂に入って寝よう」
「はい」
「じゃあ」
白石は食堂を出て行った。亜紀はビールとグラスを台所へ運び、グラスを洗った。しかし、そのまま洗い場に置きなおした。久子の立場を犯してはいけないと思った。
居間に戻って、パソコンに向かった。京都システムでパソコンに親しんでからは、パソコンの前にいると落ち着くような気がする。
「亜紀も入りなさい」
「はい」
「お湯の調節はわかるかな」
「はい。久子さんに聞きました」
亜紀はパソコンの電源を切って、風呂場に行った。脱衣場にある籠に亜紀の着替えとパジャマが用意されていた。いつかは、自分のことは自分でする生活にしようと思った。
風呂場は広すぎて、すこし落ち着かないが、いつか慣れるだろうと気軽に考えるようにした。風呂場の広さはいいとして、あの便所の広さには慣れる自信が持てなかった。草原で用を足しているような不安を感じる。いろいろなことが、自分の身の丈にあっていないことばかりなので、あきれてしまい。突き抜けてしまっている自分に笑ってしまう。余裕が大きくなってきている自分を意識した。捨て身の強さなのだろうか。
後始末をして、風呂場を後にした。食堂にも、居間にも白石の姿はなく、亜紀は明かりを消して、自分の部屋に入った。髪の毛を短くして、風呂上がりが楽になった。バスタオルさえあれば乾いてしまう。化粧はしたこともなく、クリームさえ塗ったこともない。
寝室に入ったが、そこにも白石の姿はなかった。二人分の寝具があり、男性用と女性用の区別はすぐにわかった。亜紀は自分の布団の横に座って白石を待った。頭の中を空にすれば、腹にある覚悟だけが働くことになる。それでいい。
白石が部屋に入ってきて、布団の上に座った。
「今日は寝よう」
「えっ」
「無理するつもりはない。亜紀が慣れてからでいい。今日はこのまま寝よう」
「いえ。私なら大丈夫です」
「・・・」
「大丈夫ですよ」
「じゃあ、一緒に。おいで」
「はい」


42

総会は十一時から始まる。求は会場になる自分の事務室にいた。徹叔父から席順の説明を受けたが、円卓会議だから、気にすることもないだろう。出席者の中に異論を唱えるような人間はいない。人間が五十人近く集まって、一人もへそ曲がりがいないことを喜んでいいものかどうか。徹叔父と苦笑いをした。議事進行は、いつものように徹叔父の役目であり、今日の主役の亜紀に対しても、何の不安も持っていない。四月五日に籍を入れてから十日過ぎたが、亜紀は一回りも二回り大きくなった。改めて、女の強さを実感させられる。時々、年齢差さえ感じなくなる時がある。
事務室のドアは全開になっており、ホテルの社員に案内されて参加者が集まり始めた。求と徹叔父の方へ挨拶をして、各人が自分の名札のある席についていき、人が増えるに従って、挨拶をし合う人たちで会場は騒がしくなった。
五分前に会場に来るように伝えておいた亜紀が部屋に入ってきた。自分で選んだ、グレーの地味なスーツを着ていたが、事務室の中は一瞬で華やかになった。出席している人たちはほとんど男で、年配の者が多い。一羽の鶴が舞い降りたようなものだった。
「皆さん。席についてください」
徹叔父の呼びかけに、参加者が自分の席に戻りはじめ、次第に喧噪は収まった。求と徹叔父も席についた。
「これから、総会を始めます。欠席者はありません。前回の総会から十五年が経ち、世の中も変わりましたが、皆さんのご努力により支障なく総会が開けたことを、祝いたいと思います。本日は、家長の白石求から、家長の後継についての話があります。ご静聴ください」
徹叔父に促されて、求が立ち上がった。
「お忙しい中、集まっていただき、ありがとうございます。白石グループも順風満帆とは言えません。この十五年間に三人の方が廃業されました。後継者難は、我々共通の悩みです。この五年間、私も白石の解散を視野に入れてやってきました。白石本家の後継は、なぜか、いつも綱渡りのようです。私の代で終わる予感さえしていました。ですが、偶然、ここにいる亜紀に出会って、将来に希望がもてるようになりました。私は、まだ十五年はこの責務を果たすつもりですが、時期をみて、白石亜紀に家長の責務を渡したいと思っています。皆さんにご心配かけずにすむことを、私が一番喜んでおります。是非、皆さんのご協力をお願いいたします」
拍手が静まるのを待って、亜紀が立ち上がった。あわてる風もなく、会場の出席者に目をやって話し始めた。
「初めまして、白石亜紀と申します。家長から、責務を継ぐように言われておりますが、胸を叩いて引き受けている訳ではありません。少なくとも、十年は猶予期間をください、とお願いしています。私はまだ十八で、皆さんの子供か孫のような年齢です。このことは、わかっていただけているものと思っています。今は全力で家長を支えることが、私の役割だと思います。皆さまには、子供か孫のように、亜紀ちゃんと呼んで、可愛がって頂ければ、この上ない喜びです。どうか、よろしくお願いいたします」
柔らかな声でゆっくりと話す様子は、年配者には好感を持たれるだろう。そして、直接接触するようになれば、亜紀のファンが増えていくことだろうと思われた。暖かい拍手に、笑顔で答えている亜紀は堂々としているようにも見えた。
「亜紀ちゃんの成長を見守るということで、ご協力をお願いします。さて、今日は初顔合わせですから、お一人づつ自己紹介をして、亜紀ちゃんに覚えてもらいましょう。よろしいでしょうか」
徹叔父が議事進行していく。
「では、私から、自己紹介を始めましょう」
亜紀が身を寄せてきて、「中に入ってもいいですか」と聞いてきた。求は、亜紀が何をしたいのかわからずに、聞きなおした。
「自己紹介は私のためですよね。正面で聞きたいです」
亜紀が手で真ん中の空間を指して言った。
「わかった」
求は徹叔父に伝えた。求と徹叔父が机を動かして、亜紀のために通路を作った。亜紀は適度な距離を置いて、徹叔父の前に立った。
「ええ、私は石井徹と言いまして、家長の叔父にあたります」
徹叔父が自己紹介を始めた。最初の人が簡単な自己紹介をしてしまうと、後からの人も簡単に終わらせてしまう。そのことを承知している徹叔父は、詳しく自己紹介をしている。いつもながら、徹叔父の気配りには頭が下がるおもいだった。
順番に自己紹介するだけだと、座が白けるところだが、亜紀が正面に立つことだけで緊張感が生まれ、有意義な総会になっていった。中には握手を求める人もいて、連帯感も生まれている。亜紀は人付合いが苦手だと言っていたが、人を惹きつける力は求よりも強いものを持っているようだ。求は、毎日のように新しい亜紀を発見している。自分の予測をはるかに超えた逸材なのかもしれない。
「求ちゃん。あの子、頼もしいね」
徹叔父が小声でささやいた。


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総会が終わり、記念品を手に引き揚げて行く人たちの流れは、自然と亜紀の前を通り、親しげな挨拶をしていく。亜紀は、名前と顔と仕事、それに白石との関係を一人一人頭に叩き込んだ。さっと終わってしまえば、次に会った時にも、初対面になるだろう。街で偶然出会っても挨拶ができるようにと願っていた。
「須藤さん」
「沢井さん、じゃなくて、亜紀ちゃん。立派だったよ。京都システムは頑張るからね」
「ありがとうございます。勝手してすみません」
「いやいや。悪いのは白石さんだから」
「あら、聞こえますよ」
「いいんですよ。でも、もう戻ってこないんだろうな」
「すみません」
「でも、たまには、顔出してくださいよ」
「はい。行きます」
出席者はホテル内の食券を持っていて、好みの食事をして引き上げてもらうことになっていた。
会場に残ったのは、白石と徹叔父、そして亜紀の三人だけだった
「亜紀さん。素晴らしい演出だった」
徹叔父が、亜紀の顔をまじまじと見つめて言った。亜紀は演出をしたつもりはない。その場で最善と思われることをするだけで、精一杯であり、計算は全くなかった。
総会の翌日から、白川不動産の研修が始まった。堀川の事務所は本社機能が主で、店頭営業は市内にある十二の店舗がやっている。管理している賃貸物件の数は京都で最大の規模だが、新しい団地を造成するような大型の開発はしていない。地味な経営は何代も維持されていた。
「とりあえず、これを見ておいてください」
専務の内藤が、CDを亜紀に渡した。
本社の二階にある営業の部屋は、二十人ほどの社員が静かに仕事をしている。簡単な紹介が終わり、部屋の隅に用意された机に座った亜紀はパソコンにCDをセットした。
物件名、住所、建物の種類などが一覧になっている。記号や数字は説明を聞かないとわからないのだろう。このデータベースでなにができるのか、しばらくいろいろなことを試してみたり、別のソフトを立ち上げたりして、CDの内容を調べてみた。メインのデータベースと物件のコード番号らしきものが記入された地図がCDの内容のようだ。亜紀は使用されている文字を憶えることに専念した。
昼休みになり、亜紀は内藤に誘われて近くのうどん屋に食べに行った。味も値段も店内も普通のうどん屋だった。
「亜紀ちゃん、と呼ばしてもらうわな」
「はい」
「昨日の亜紀ちゃんは、ほんま、かっこよかった」
「ありがとうございます」
「家長が認めたお人や。ただのべっぴんはんと、ちごたな。わしも、教え甲斐があるいうもんや」
「よろしく、お願いします」
「CD見てもろた」
「はい」
「この商売は、記憶と直感、そして暗算がすべてや。昼からは、わしの講義とあのCDの説明。あとは、亜紀ちゃん次第や」
「はい」
「車はまだ」
「はい。月末になるそうです」
「そうか。ほな、最初は近場やな」
「はい」
午後は三階の会議室で、内藤の講義が始まった。
「ええ、それでは、講義を始めます」
内藤は少し緊張しているようにみえた。京都に来てから、男は単純で可愛らしい動物のようだと感じている。内藤老人の頭をなでなでしてあげたい気分だった。
「白石の商売は、世間からも言われとるが、みみっちい商売に徹しとる。ずっと、それでやってきた。商売の基本は、安く仕入れて高く売る。この一言に尽きる。ここでは、不動産の売買をやり、店では賃貸物件の管理と営業をする。これが、うちのやりかたや。売り買いでは、うちの言い値で買い、うちの言い値で売る。値段が合わん時は見送るだけ。深追いはしまへん。土地開発をして建売住宅を売るような商売もしまへん。儲けは薄いが、損はしまへんわな。亜紀ちゃんはバブル言うても、知らんやろな」
「聞いたことはあります」
「うちはな、何十年とかけて買いためてきた物件を、あのバブルの時に売りまくりましたんや。うちの言い値で売れたからやけど、家長が、売れ、言うたんです。あん時売った物件の大半は、売値の半分で買い戻しました。白石にしたら、未曾有の大儲けですわ。わしも、ちっとは心配やった。手持ちの物件が、ほんま、底つくんと違うかおもた。あとになって、なんで、売れ、言うたんか聞きましたんや。家長、どない答えた思います」
「さあ」
「直感やて。ほんま、無茶しはる。あれがバブルで、いつか弾けるおもた、言うんやったら、かっこええのに、ただの直感やったんです。そやけど、腹据わっとることだけは、確かや。さすがや」
内藤も息子ほどの白石を尊敬し、自分の親分だと思っているのだ。
「今は、あのバブルの時のような商売はできへん。みみっちく儲けることや。最初に、記憶と直感と暗算、言いました。もう一つ大事なことがあります。それが現場です。刑事は現場百回言いますやろ。不動産屋も現場百回ですわ。あのCDを頭に叩きこんで、現場百回、これで怖いものなしや」
内藤の話は、際限なく続いた。


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求は白石不動産の自分の部屋で調べ物をしていた。亜紀の研修は半年で終わり、今はホテルの研修に行っている。不動産に関しては専務の内藤が太鼓判を押してくれた。社員も亜紀の力量を認めていて、既に次期家長としての立場を確立したと言っていいだろう。才能を開花させていく若者を見るのは気持ちがいいものだ。亜紀なら、家長としてやっていけるという確信を持たせてくれた。
内藤が部屋に入ってきた。
「家長。変な噂を聞いてます」
「どんな」
「工藤はんとこが、危ないんと違うかいう」
「そんな話があるんですか」
「その物件も、そうですけど、よそでも出とるそうですわ」
内藤は求が見ている資料を指さして言った。
「ゴルフ場ですかね」
「それに、精華町の物件も」
工藤開発は、夏に先代が亡くなり息子の工藤高広が後を継いだ。ゴルフ場の開発は高広が専務の時に親父の反対を押し切って始めたものだ。共同開発をしていた中国系の会社が、勝手に手を引き、本国に帰ってしまった。どうして、この時期にゴルフ場なのか、誰もが不思議に思っていた。工藤高広はアマチュアとしてはトップクラスのゴルファーだったが、そのことと商売は別の次元のはずで、そんなことは本人もわかっているだろう。工藤開発は京都の不動産業では飛びぬけて規模の大きな会社だから、共同出資をしていた会社がいなくなったとしても誰一人心配する者はいなかった。だが、商売をしている者なら誰もが経験することだが、不運は束になってやってくることがある。
「でもね」
「わしも、そうおもてますが、気になりますわ」
「銀行回りをしてみますか。亜紀を紹介しとく必要もありますからね」
「そうしてもらうと、ありがたい。でないと、手つけられまへん」
どの銀行も白石グループに対しては、最低利率を適用してくれている。借入金と同額以上の預金残高があり、抵当に入っている物件も、ごく僅かしかない。銀行にとっては全くリスクのない顧客ということになるので、付き合いも五分の付き合いだった。資金を貸してもらっていると言うより、借りてあげていると言う言い方が実情に合っている。
都銀も地銀も、ほぼ全ての金融機関と付き合いがあるので、内藤が取ってくれたアポは八件、二日がかりで回ることになった。
工藤開発のメインバンクの三友銀行烏丸支店が最初の訪問先だった。
「ご無沙汰です」
「なかなか白石さんには会えません。私は、ちょくちょくお邪魔してるんですよ」
「いつも、失礼ばかりで」
「白石さんの、わざわざのお出まし、何かうちに不手際がありましたか」
「いや。そういうことじゃありません。今日は家内を紹介しておこうと思いまして」
「そうですか。次期家長になられると聞きました」
「さすがですね」
「内藤専務にも、奥様を紹介して欲しいとお願いしてたんですよ」
「家内の亜紀です」
「支店長の前橋といいます。いつもお世話になっております。お会いできて光栄です」
「白石亜紀です。よろしくお願いいたします」
「すみません。商売と関係ありませんが、噂に違わず、ほんとにおきれいですね」
「ありがとうございます」
「そんな噂があるんですか」
「ありますとも。私もお目にかかって納得しました」
しばらく前橋支店長の話に付き合った。
「ところで、支店長。工藤さんに、なにかありました」
「えっ」
「工藤開発ですよ」
「と、言いますと」
「資金繰りに困っている、という話ですが」
「まさか」
「お話、いただけませんか」
「あの」
「当然、我々にも、大きな影響があります」
「私の口からは」
「やはり、そうですか」
「一寸、待ってください」
白石がポケットから出したものを机の上に置いた。支店長がその小切手と出金伝票を見比べた。
「あと、どのぐらい、ですか。一か月、それとも五か月。言わなくても結構です。指で」
「白石さん。ひどいじゃないですか。これは」
「申し訳ありません。うちも必死で」
支店長は机の上の小切手を手にして、指を三本立てた。
「ありがとうございます」
二人は三友銀行を出た。
「うちにも、そんなに影響があるんですか」
「いや。大したことないでしょう。ああ言わないと、支店長は答えてくれない」
「まあ」
「工藤開発から出たと思われる物件は、しばらく買いません。どんなひも付きかわからない。いつかは、買うことになるでしょうがね」
「わかりました」


45

白石と銀行回りをしたが、三友銀行以外では工藤開発に関して、それらしい反応はなかった。メインバンクが一番に裏切り行為をしたことになる。
「たぶん、三友銀行は必死に回収に回ってるだろう。工藤開発が倒れたら、京都の不動産業では、うちが最大手になる。うちの出金伝票を受け取るわけにはいかない、と支店長は判断した。会社が死にかけると、寄ってたかってその病人の足を引っ張る。そんなことになってはいけない、ということなんだ」
「はい」
内藤専務が、みみっちく儲けると言っていた意味が現実として実感できた。
「工藤開発にも、多くの関連企業がある。その人たちも巻き添えになり、大勢の人が泣きを見ることになる」
「はい」
二日間の銀行回りで、亜紀は多くのことを学んだ。毎日毎日、学ぶことが山ほどあるが、決して苦痛ではなかった。白石の大きな愛情で包まれていて、亜紀は自分のことに専念できる。愛情を信じることができるということが、これほどの大きな力になることを知ったのはごく最近だった。先月、生理がないことに気づいて久子に相談した。病院に行って、妊娠を告げられてからは、特に白石の愛情を感じている。自分が親になるという実感はまだないが、白石の子供ができることは、素直に喜べた。
月に一回の相馬保育園へのケーキの差し入れは亜紀の担当になり、ケーキのお姉さんが誕生した。東京の片山から預かった闇の寄付金も亜紀が担当していて、いろいろな施設に匿名の寄付金として渡している。その詳細を記録につけているが、片山はその報告を拒否しているので、現金の残高も支出先も一人で管理しなくてはならない。そのことは、少しだけ重荷に感じていた。
京都の地理にも、車の運転にも慣れた。京都システムに寄って、須藤や久保田とも会いたいが、仕事の邪魔をするようで遠慮している。亜紀は保育園の駐車場に車を入れた。相馬保育園を出てから八か月しか経っていないが、自分の中では遠い過去になっていて、それだけ懐かしさも強く感じていた。白石が、子供たちの笑顔が何より嬉しいと言っていたことがよくわかる。ケーキに群れてくる子供たちの笑顔は亜紀にとっても、大きな励みになっていた。
特大のケーキの箱を二つ持って、保育園の石段を登る。玄関付近で遊んでいた子供が、大声で叫んで走り去った。
食堂には、もう大勢の子供の歓声が満ちていた。佳奈ちゃんが亜紀にまとわりついてくる。明るくて元気な小学生になっていた。調理師の太田がいつもの笑顔で迎えてくれ、園長も食堂に姿を見せた。
「亜紀さん、ありがとう」
「変わりはないですか」
「皆、元気」
「野口さんは」
「頑張ってるようよ」
野口香織は、高校を卒業して看護学校に行っている。休みの日には保育園に来てくれていた。
「今は、ホテルの研修だって」
「はい」
「どう」
「毎日が勉強で。でも楽しいです」
「よかった」
「先生。談話室、いいですか」
「ええ。いいわよ」
相馬保育園の談話室は、いつも亜紀にとって重要な場所になってきた。
「まだ、誰にも知らせないでおいて欲しいのですが、私、子供ができました。もうすぐ、四か月です」
「亜紀さん」
園長の目が大きく見開かれて、大粒の涙が溢れ出してきた。机を伝うようにして近づいてきた園長が、立ち上がった亜紀の体を抱きしめた。亜紀も園長の体に腕をまわした。よかった、よかったと言って泣きじゃくる。園長が泣きやむまで、しばらく時間がかかった。
「ごめんなさいね。私、うれしくて」
隣の椅子に座った園長が、亜紀の背中に手を置いて言った。
「短い期間だったけど、あなたもここの卒業生。私にとっては、あなたたちは、みんな私の子供なの。一番の心配は、結婚して家族が作れるかということ。それを亜紀さんが、見事にやりとげてくれたの。こんな嬉しいことはないわ」
「はい」
「でも、最近、求さんと電話で話したけど、何も言ってなかったわよ」
「私から、報告した方がいいだろうって」
「求さんらしい。で、亜紀さんは、どうなの」
「まだ、実感ありませんが、求さんが喜んでくれてますから、私も嬉しいです」
「そうなの」


46

工藤高明から電話があった。堀川の事務所に来ると言う。求も工藤開発の本社へ行ったことはないが、工藤が白石不動産に来た記憶もない。かなり、切羽詰まっているということなのか。
硬い表情であらわれた工藤は、工藤です、と一言だけ言って三階の会議室に案内された。
「どうした」
「もう少し、ましな、ビル建てろよ」
「そうか」
「今日は、お前に一肌脱いでもらう」
「ん」
「一寸、急ぎの資金が必要になった。これを売るのはもったいないんだがな。ま、お前が持っててくれたら、まさか転売はしないと思ってな」
工藤がカバンから一枚の紙を取り出した。
「ほう」
「一等地だろ。希望価格はそこに書いてあるが、交渉には応じてもいい」
「これは、大変な金額だな」
「東京や大阪には売りたくない。京都でこれが買えるのは、お前のとこぐらいだ。すぐに買い戻す。勿論、金利分は払う」
「難題だな、これは」
「どうして」
「うちの商売は、工藤も知ってるだろう」
「なんだ、それ」
「言い値で買って、言い値で売る。それが、うちのやりかただ」
「だから、交渉には応じると言ってる」
「だったら、この金額の半値だな」
「半値だと」
「本当は、半値以下のとこもあるが、お前の頼みだからな。それに、抵当権はきれいにしておいてくれよ」
「待てよ。この値段で引き取るとこはあるんだぞ」
「じゃあ、そうしろ。うちは無理な商売はしない」
「見損なったぞ。わざわざ、俺が頼みにきたんだぞ」
「そうなのか」
「俺が土下座すればいいのか」
「いや。土下座でも、地面にもぐっても、同じだよ。商売のやり方は変えられん」
「お前に儲けさせてやろうと思ったんだ。普通じゃ、こんな値段では売れない」
「ほう。じゃあ、今は普通じゃないってことか」
「そんなこと、言ってない。うじうじした商売やってるから、ここから抜け出せないんだろ。目を覚ませ。儲け話なんだ」
「半値なら、儲け話になるかもしれん。それでいいか」
「馬鹿なことを。こんだけの物を、この半値で売る奴がいるか」
「じゃあ。この話は無しだ」
「・・・・」
「悪く思うなよ。これが代々伝わってる白石のやり方だから」
「後悔するぞ」
「仕方ないな」
工藤は席を蹴って出て行った。
入れ替わりに専務の内藤が入ってきた。
「本物ですな」
「らしいですね」
「工藤が倒れると、後始末がえらいことや」
「うちは、最後の最後に残ったおこぼれでいいですよ」
「もちろんですわ。ところで、向こうが半値でええ、言うたら、どないしましたんや」
「言わないでしょう。かなり、思い切った値段でしたからね。半値だと、どぶに捨てるようなものです」
「実は、心配してましたんや。わしが、工藤はんの立場なら、自分だけ泥かぶって、吸収合併してくれ、言うやろな、おもてましたんや。仕入先や工事業者は、無傷とは言えまへんが、それでも、助かります」
「そんな度胸はないでしょう」


47

密度の濃い研修の一日が終わり、居間で白石と静かな時間を持つことが明日のエネルギーを作りだしてくれる。妊娠していることがわかってからはビールを飲んでいないが、夏にビールの美味しさを発見してからは、大きな楽しみだったのに残念でしかたない。出産後には思いっきり飲むぞと決めていた。
十二月に入ると、工藤開発の噂はいろいろなところで出始めていて、建設会社や資材屋が白石不動産に新規取引の交渉に来るようになって困っていると白石が言っていた。
「ほんとに、危ないんですね」
「必死になってるだろう。あいつは気が小さいくせに、強がる。子供の頃から、そうだった。今頃は東京や大阪を走り回ってると思う。うまくいけば、いいと思うが、かなり難しいだろう」
「内藤さんが心配してた、吸収合併の話がきたら、どうします」
「今更だけど、最初にそう言われてたら、困っただろうと思う。僕は白石を守らなくてはならない。たぶん、断っただろう」
「私も、忘れないようにします」
「頼むよ。亜紀と会うまでは、白石グループの解散も考えてた、と言ったよね」
「はい」
「倒産と解散は雲泥の差なんだよ。倒産はその会社だけでなく、関連する会社も大きな被害を受ける。僕が言っていた解散は、それぞれの会社を独立させるか、売却して、関連会社にはその配当金を渡すことができる。解散の後は自己責任で会社を維持していかなくてはいけないから大変だと思うが、倒産に比べれば天国みたいなものだ。もっとも、白石グループを存続させた方が誰もが安心するけどね」
「クループ内で、倒産の可能性が出た時はどうするんです」
「助けますよ。無条件とはいかないけど、基本的には倒産はさせない。廃業はさせるけど、倒産はさせない。白石の家系なのか、無茶する人はいない。みみっちく儲ける人ばかり。その代り、白石の家長の後継ぎを買って出てくれる人もいない。なかなか、うまくはいかないってことだ。この前の総会でも、誰も反対しない。みんな、よかったと胸を撫で下ろしていただろう。算盤勘定はしっかりしてる。グループのバックアップがあれば、銀行は喜んで貸してくれる。しかも低金利だから、誰もが白石の存続を願っている。困っている時ほどお金が必要になるけど、銀行は困っている会社には貸したがらない。困っていない会社になら、いくらでも貸す。これも、現実なんだ」
「銀行って、ずるいですよね」
「銀行だけじゃない。どこの会社でも、ずるいんです。自分の身を守るためには何でもやるんです。どこも、そうやって生き延びているんだよ」
「最近、そのことを知りました。そう思うと、腹が立たないことも発見しました。でも、歳とったみたいで、少し抵抗はあるんですよ」
「気にすることない。誰でもそうなる」
「ですね。お風呂に入りましょう」
「えっ」
「一緒に。背中流しますから」
「ん」
妊娠を告げてからは、白石は亜紀を避けているように思う。流産の心配をしているらしいが、産婦人科の先生は心配ないと言ってくれている。妊娠してからの方が、白石に抱かれたいと願っていた。もっともっと抱いて、と言いたいのを我慢している。今晩は絶対に逃がさないぞと宣言するために、亜紀から風呂に入ろうと言った。


48

フロントに立ちお客様の受付をすることが、現在の研修項目だったが仕事は多岐にわたり、宿泊客の受付をしていればいいというわけにはいかない。お客様の質問、要望、クレーム、あらゆることがフロントに立つ担当者に持ち込まれる。応用力が要求される職場で、先輩たちの仕事さばきに目をみはる思いだった。
三時を過ぎ、チェックインのお客様が増える時間になった。事務方の社員が、亜紀に電話だと伝えにきた。携帯電話以外の電話は受けたことがないので、不審な顔をしたようだ。「警察からです」と小声で言われた。亜紀はフロントの裏側にある事務室に行き、電話をとった。
「はい。白石ですが」
「こちらは、東山警察署です。白石求さんの奥さんですか」
「はい。そうです」
「先ほど、交通事故でご主人が病院に搬送されましたのでご連絡いたします。病院は東山通りにある西川病院ですが、場所わかりますか」
「はい。どんな」
「搬送された時は、意識不明でした。今は病院で処置中だと思いますが、急いで行かれた方がいいでしょう。病院の場所、わかりますか」
「はい」
亜紀は受話器を持ったままで立ちつくした。何が起きたのかはわかっている。でも、体はその場に固まったままだ。心配そうに横に立っていた社員が亜紀の手から受話器を取り上げて、警察からの連絡をあらためて聞きなおした。
「わかりました。すぐに、いきます」
社員は総支配人の望月の机に走り寄って報告した。
「亜紀さん」
走り寄ってきた望月が亜紀の両肩に手を置いて言った。
「わかってます」
「すぐに、行ってください。浜田君、車」
浜田と呼ばれた社員が部屋を飛び出していく。
「岩本さん、亜紀さんについていって」
女子社員が自分のバッグと、亜紀の席から取ってきた亜紀のバッグを持って、望月と亜紀の後を追った。
玄関にはホテルの車が待っていた。
「浜田君。落ち付け。安全運転でな」
「はい。わかってます」
亜紀は、女子社員に押し込まれるようにして車に乗り込んだ。
何が起きて、今何をしているのか。全てわかっている。ただ、現実感がない。岩本という、少し年配の女子社員が横に座って亜紀の手を握ってくれているが、手を握られている感触がない。
西川病院は佳奈ちゃんが入院していた病院だから、よく知っている場所だし、白石の知人も多い病院だ。車は東山通りを南下している。少しづつ、現実感が戻ってきた。岩本の手の感触も感じる。その現実感と一緒に、とてつもなく大きな圧迫が押し寄せてきている。夢の中で浮遊するように、現実と夢の間を行き来した。
「亜紀さん」
岩本に呼ばれ、手を引かれて車を降りた。
岩本に手を引かれるままに、病院の廊下の椅子に座った。
「まだ、手術中です」
岩本の説明にも、しっかり頷いている。大丈夫、自分は冷静だと心の中でつぶやいた。車を駐車場に置きに行った浜田もやってきた。
「手術中ですね。総支配人に電話してきます」
浜田が電話をするために姿を消した。
何人もの人が廊下を通り過ぎた。時間の経過はわからない。亜紀は背筋を伸ばし、正面を見て座り続けた。
「亜紀さん」
久子と今西がやってきた。亜紀は黙って頷いた。久子が横に座り、亜紀の手を岩本から受け取った。
手術室の扉が開いて、ストレッチャーに乗った白石が出てきた。亜紀は、その白石の姿を目で追った。包帯で覆われ、酸素マスクで素顔は見えないが、白石に間違いない。亜紀は静かに立ち上がって、白石を追うつもりだったが、手術室から出てきた医者に止められた。
「奥さんですね」
「はい」
言葉で返事をしたつもりだったが、声は出なかった。
「残念ですが、重体です。麻酔も効いてますが、今、意識はありません。今日一日乗り切ってくれれば、なんとか、助かると思いますが、予断はできない状況です。集中治療室で、我々も、ずっとつきますから」
「ありがとうございます」
礼を言ったつもりだったが、自分にも声は聞こえなかった。看護師に先導されて、亜紀と久子は集中治療室へ向かった。岩本と浜田と今西が後ろからついてきている。
しばらく集中治療室の前で待たされ、亜紀だけが部屋の中に入った。白衣を着て、ビニールの帽子を被った亜紀は、白石のベッドの横にある椅子に座らされた。
「まだ、意識はありません。意識が戻った時に、奥さんの顔を見ればご主人も安心でしょう」
「はい」
看護師は、そっと離れて行った。
白石の顔を見る。まだ、耳のところに血が残っている。シーツの下にある白石の体がどうなっているのかはわからない。確かに呼吸をしているが、白石が死に直面している現実は、そこにあった。
「おねがい。おねがい。・・・・・」
誰にお願いしているのか、何にすがろうとしているのか、亜紀は念じ続けた。
「おねがい」
もう、何千回言ったのか、いや、何万回言ったのだろうか。白石の体は動く気配もなかった。医者と看護師が何度も何度も見に来てくれたが、白石に変化はなかった。
時間の感覚は完全に失われている。亜紀は一心にお願いし続けた。
突然、何かに突き上げられるようにして、亜紀は立ち上がった。白石が目をあけている。
「求さん」
亜紀は白石の体に覆いかぶさるようにして、顔を近づけた。白石の視線には力が感じられる。もう、大丈夫だ。
酸素マスクの向こうにある白石の口が動いた。声は聞き取れない。
「せんせい」
亜紀は大声で叫んだ。大丈夫。声は出ている。
看護師が走ってやってきた。
「なにか、言ってます」
「わかった。すぐ先生呼びます」
白石はまだなにか言っている。亜紀は耳を近づけて聞いたが聞き取れない。酸素マスクが邪魔をしている。亜紀は酸素マスクをずらして、自分の耳を白石の口につけた。
「く、ど、う、に、や、ら、れ、た、か、た、や、ま、く、ん、に、そ、ぅ、だ、ん、し、ろ」
「あ、き・・・」
飛び込んできた医者が亜紀を突き飛ばすようにして、白石の酸素マスクを戻し、白石の首に指を置いた。一瞬、白石の体が痙攣し、医者が大声で看護師に矢継ぎ早の命令をだしている。
叫び声が聞こえて、亜紀は意識を失った。


49

目を覚ました亜紀は起き上がった。なぜか、ベッドの上だ。
「だめです。奥様」
久子の声だった。
「家長が」
「わかってます」
久子が覆いかぶさってきて、亜紀はベッドに押し戻された。
「いいですか、私の話を聞いておくれやす」
久子が覆いかぶさった状態で言った。
「奥様は、流産しかかってます。動いたらあきまへん。旦那はんがおらんようになって、お腹の赤ちゃんまでおらんようになったら、どないしますの。お願いやから、うちの言うこと、聞いておくれやす。奥様の気持ちは、ようわかりますが、今は堪えて、安静に。よろしおすか」
「求さんは」
「堪忍や。今は、安静や」
久子が泣いていた。
亜紀には、白石がいなくなったことがわかった。そのまま、地底に引きずり込まれるように意識を失った。
亜紀が寝ているベッドの横に、白石が立って亜紀の方を見つめている。困ったときにする苦笑いの表情だった。
「求さん」
白石の顔が「頼む」と言っている。
「求さん」
意識を取り戻した亜紀の目の前には、久子の顔があった。
「今、そこに、家長が」
「旦那はん」
「・・・・」
「奥様。お腹の赤ちゃん」
「ええ」
亜紀は目を閉じた。白石は死んだ。最後に頼むと言いにきた。約束が違う。守ってくれると言ったじゃない。白石がいなくなる。一人では生きていけない。もう、私は昔の亜紀じゃないの。白石のいない人生などいらない。
どのぐらい眠っていたのか、意識を失っていたのかわからなかったが、亜紀の目の前には病室の天井があった。亜紀は自分の体の中に気力のかけらもないことを知った。「もう、いい」と思った。
絶対安静と面会謝絶のまま、一週間が過ぎた。点滴だけが亜紀の命を支えていた。ベッドの上での排便が苦痛だったが、それに逆らう気力はなかった。


50

今日は白石の最後の言葉が気になりだしていた。「工藤にやられた。片山君に相談しろ」と白石は確かに言った。もしも、それが本当なら、許せない。白石の仇をとるのは亜紀しかいない。白石だって、無念のおもいだったろう。
廊下を行き交う足音が増えてきた。朝になったようだ。病室のドアを開けて看護師が入ってきた。
「白石さん。体温ですよ」
元気な看護師さんだった。
「あら。今日は目が覚めてたの」
「私、ここ、何日ですか」
「えっ、そうね。入院して、七日かな」
「そうですか」
「今朝は、気分、いい」
「ええ」
「よかった。血圧測らせてね」
血圧と体温の測定を終えて、看護師が部屋を出て行った。
白石は、どうして、片山に相談しろといったのだろう。内藤でも望月でもない。白石と片山の関係を知っているのは亜紀だけで、片山が普通の人ではないことが関係あるのだろうか。
点滴のパックを変えにきた看護師が、先生の診察と検査がありますからと言って出ていった。
時計が周りにないので、何時なのかわからなかったが、検査用の機材が運ばれてきて、医者もやってきた。
「産婦人科の三宅といいます。エコーで検査します。いいですか」
「はい」
冷たい液体を塗られ、検査が始まった。
「大丈夫。赤ちゃん元気ですよ」
検査を終えて、三宅医師が笑顔で言った。
「まだ、しばらくは入院してもらいますが、もっと、栄養を取ってもらわないと、退院できませんよ」
「はい」
「流動食からになりますけど、食事を出してもいいですか」
「はい」
「よかった」
三宅医師と検査機材が部屋を出て行くと、入れ違いに久子が入ってきた。
「奥様」
「久子さん」
「よかった」
「毎日、来てくれてたのね」
「ほんまに、よかった」
「ごめんなさい」
久子がいつもの笑顔になった。
「栄養つけたら、退院できそう」
「おいしいもの、作らせます」
「トイレに行けるようにして欲しい」
「まかしなはれ」
「内藤専務と望月総支配人に来てもらえますか」
「ホテルの岩本さんが、もうみえる思いますえ」
「岩本さん、毎日来てくれてるんですか」
「毎日」
白石が死を前にして言った言葉だ。たとえ、それが白石の直感だけだとしても、正しいものに思えてきた。この決着を付けるまでは死ぬわけにはいかない。
岩本が連絡してくれて、昼前には内藤と望月が揃って来てくれた。
「亜紀さん」
「すみません。ご迷惑かけました」
「とんでもありません。みんな、あなたが頼りなんです。じきに石井先生もこられます」
「ありがとうございます。専務さん、何かありますか」
「いや。今は業務停止ですわ。何も心配いりまへん。はよ、元気になっておくれやす」
「そうします。もう少しお願いします。白石の意思を継ぎます。今は業務停止でもしかたありません。工藤さんの方は」
「今のとこ、なんもおまへん」
「岩本さんが毎日来てくれていますが、岩本さんがいないと、事務が大変です。どなたか、別の方ではいけませんか」
「家長の心当たりは」
「和久井さんでは、どうですか」
「あの子は、まだ二年目ですよ。できますかね」
「和久井さんなら、大丈夫だと思います」
「じゃあ、そうしましょう」
和久井美緒は、エントランスホールの担当サブをしている入社二年目の若い女子社員だった。岩本は事務のベテランだが、和久井はまだ駆け出しの社員で、ホテル業務に支障をきたすことはないだろう。だけど、亜紀は和久井の将来にひそかな期待を持っていた。
石井徹弁護士が部屋に入ってきた。
「亜紀ちゃん」
「おじさま」
「よかった」
「ごめんなさい。もう、大丈夫です」
「ん。その目を見ればわかる。ほんとによかった」
「栄養つけたら、退院できるそうです」
「そう。報告事項は一杯あるんだよ。もう少し元気になるまで待とうか」
「いえ。いいです。聞きます」
「じゃあ、私たちは引き揚げます。いいですか」
「はい。ありがとうございます」
内藤と望月が部屋を出て行った。
「おじさま。お願いします」
葬儀の報告から始まった。そう言えば、葬儀のことは全く意識にもなかった。徹叔父が喪主になって葬儀は終わり、遺骨はまだ納骨せずに北白川の仏間にあると言った。納骨は工藤の件が片付いてからだと思った。相続の手続きは、まだ終了していないが、いつでも明細は持参できるようになっていると言った。代表者印も徹叔父が預かってくれている。重要な立場にいる自分が勝手なことをして、大勢の人に迷惑をかけているのだ。
「おじさま。ほんとに感謝してます。もう少しお願いしていてもいいでしょうか」
「もちろん」
「相続の件は、私、伺ってもわかりません。事後報告で結構ですから、進めてください」
「じゃあ。そうしよう」
「ホテルの社員の方で、和久井さんという人に、しばらく助けていただきます。彼女から連絡があれば、よろしくお願いします」
「ん。わかった。無理しないように」
「はい」
徹叔父が帰り、亜紀には疲れが押し寄せてきた。
「久子さん。少し寝ます」
「そうね」


51

目が覚めた時は夜になっていた。久子の横に和久井美緒が座っている。
「和久井さん」
久子が立ち上がってベッドの傍にきた。
「目、覚めた」
「はい」
「私、奥様の食事取りにいってまいります」
「はい」
「和久井はん。あと、たのみましたえ」
「はい」
「和久井さん、ここに座ってください」
「はい」
「私、しばらく動けないみたい。で、あなたに助けてもらいたい。やってもらえますか」
「はい。でも、どうして、私なんです。まだ、新米ですし」
「ホテルの仕事じゃなければ、駄目ですか」
「私、ホテルの仕事、好きなんです」
「そうですよね。知ってます。知っていますが、お願いしたいんです」
「わかりません」
「家長の白石が亡くなったことは知ってますよね」
「はい。とても残念に思っています」
「私が、後を継いで、家長をしなくてはいけないことも」
「はい。知ってます」
「私の年齢も知ってますよね」
「はい」
「私のような子供に、できると思いますか」
「わかりません」
「無理ですよね。私も、そう思います。それでも、やるように言われてます。白石には、できない理由を捜すな、と言われました。どうしたらできるか、それを考えろと。だから、大勢の方に協力をお願いしようと思ったんです。私には、和久井さんの協力が必要なんです」
「私のことなど知らないのに、ですか」
「ええ。でも、直感なんです。この前ホールで小さな男の子が迷子になってましたよね」
「はい」
「あなたは、あの子の親御さんを捜しました。あの子が和久井さんに声をかけられた時の表情、憶えてます」
「表情ですか」
「安心の表情です。子供は大人の外観ではなく、その人の本質を見抜いて、手を握るそうです。あの時、あの子の方から和久井さんの手を握りました。私、それを見ていて、和久井さんの本質を見たと思ったんです。たしかに、あなたの細かいことは知りません。でも大切なことはわかっているつもりです。それでは駄目でしょうか」
「手ですか」
「ええ。しばらくやってみて、どうしても、と言われれば諦めます」
「なにをすればいいんですか」
「将来的には、私と二人三脚でやってもらいたいけど、最初は秘書のような役割をしてもらえると助かります。自分より年下の女の秘書では嫌ですか」
「年齢は関係ありません」
「私が嫌い」
「好きでも嫌いでもありません。考えたことありませんから」
「じゃあ。今はどう思います」
「・・・ 好きになれるかも」
「私は、もう、あなたのこと、大好き」
家長の責任は一人で背負うには重すぎる。若い仲間が欲しかった。
「で、私は何を」
「私が動き回れるまでの、臨時連絡体制を作ってください。最終決定ができない状態は、日常業務へも影響します。だから、私が遮断された状況を変えたい」
「わかりました。考えてみます」
どんな対応をするかは和久井に考えてもらいたかった。和久井が細かな指示を求めてこなかったことで、この人選は正しかったと確信した。
亜紀は目を閉じて、自分の世界へ籠った。工藤高広をどうするか、まだ決断できていない。白石の籍に入った時に、亜紀の空手は封印されている。白石との約束事だった。まだ、封印されているのだろうか。自分一人の力で真相究明ができるだろうか。白石なら、どう返事してくれるだろうか。その白石の最後の言葉が、片山への相談だった。白石の直感を信じることが最善の道なのか。
目を閉じたまま、自分一人で実行するというシミュレーションを始めた。問題点が次々と出てくる。その問題点を無視しても、また行き詰ってしまう。無視して、さらに無視して進めてみても、最終目的に近付くこともできない。子供同士の喧嘩とは違う。単純に男の暴力から身を守ることとも違う。亜紀はシミュレーションを諦めた。


52

夕食に久子が持って来てくれたお粥を食べた。多くは食べられなかったが、無理はしなかった。どう考えても簡単にできることは一つとしてない。腹を据えてかかるしかない。復讐が生きる支えになってどこが悪いと開き直った。和久井の最初の仕事は、病室で自由に携帯電話を使ってもいいという許可を得たことだった。
久子と和久井が帰って、一人になった。亜紀は片山の携帯に電話をした。
「はい」
「私、京都の白石です。今、お話できますでしょうか」
「白石さん」
「家内の亜紀です。白石の携帯にあった番号を使いました」
「どうしました」
「実は、白石が亡くなりました。一週間前です」
「白石さんが、どうして」
「交通事故だとされています」
亜紀は、白石の最後の言葉を含めて、簡単に事情を説明した。
「わかりました。それ以上話さなくてもいいです。僕が行きます。病院は」
「西川病院というところです」
「この携帯は、亜紀さんの傍に、いつもありますか」
「はい」
「僕の方から連絡をします。僕の携帯には、電話しないように」
「はい」
朝になって、最初に久子が来てくれた。朝食のお粥を大事そうに抱えている。久子は持てる力で亜紀を守ろうとしている。そのことをひしひしと感じていた。
「ありがとう、久子さん」
「はい、はい。食べて」
九時を過ぎて、和久井が来たが、すぐに出て行った。
担当の三宅医師の診察が終わり、静かな時間がやってきた。
久子は昼食を取りに帰った。和久井は帰ってこない。少し眠ったのかもしれない。ドアの開く音で目が覚めた。
「園長先生」
「亜紀さん。やっと面会許可が出たのよ」
「そうでしたか」
「思ったより、元気そう」
「まだまだ、なんです」
「白石さんのことは、何と言ったらいいのか」
「ありがとうございます」
「ごめんなさいね。なんか責任感じちゃって」
「先生の責任なんかじゃありませんよ」
「ごめんなさい。私にできること、なにかない」
「先生」
「赤ちゃんは」
「ええ。無事です」
「よかった」
ドアが開いて、和久井が戻ってきた。
「お客さんですか」
「入ってください。紹介しておきます」
園長と和久井を引き合わせた。
「先生。もうすぐ、クリスマスですよね」
「子供たちには、言ってあります。だいじょうぶ、だいじょうぶ」
「駄目ですよ、先生。白石が落嘆します」
「でもね」
「和久井さん。ほんとは、私がやらなくてはいけないことなんだけど、この状態ではできないの。あなたにお願いするしかない。お願いできないかしら」
「なにをすれば」
「詳しくは、後で説明するけど、あなたにサンタのお姉さん役をやって欲しいの」
相馬園長が帰り、昼食が終わって、亜紀は和久井に相馬保育園と白石の関係、そして亜紀との関係を詳しく話した。
「知りませんでした」
「白石の社員が出した利益が、何人もの子供たちを救っている。誰も救おうとしない子供たちが、ほんとに大勢いるの。相馬園長はその一人一人を大事にして、自分の人生を作れるようにとご自分の身を投げ出してる。そして白石にとっては、自分の生き様を支えてくれる、大事な事業だったと思う。だから、私も続けたい」
「やります」
「ありがとう。当面の費用はホテルから出せるように望月さんにお願いしておきます。和久井さんが自腹を切るようなことはしないでください。私が退院したら和久井さんの身分もはっきりさせます。無理なこともお願いすると思うけど、お願いします」
「家長。私、少し楽しくなってきました」
「そう」
和久井が亜紀のことを、家長と呼んでくれた。久子が、奥様と呼ぶことも受け入れている。白石はどう言うだろう。
亜紀の病室は特別室のせいか周囲の騒音は少ない。夕食時間を過ぎると、静けさがましてくる。ドアが開いて、男が一人入ってきた。見覚えのない中年男性だ。
「どなた」
亜紀は危険な臭いを嗅いだ。寝たままで、体力もなく、流産の危険があるために運動能力もない。ナースステーションに繋がっているブザーに手を伸ばすしか方法はないと思った。
男は手で制する仕草をして、「片山です」と言った。
「片山さん」
男は両手を上に挙げて、危険はないという様子で近づいてくる。片山とは一度しか会っていないが、まだ三十前の青年のはずだった。
「驚かせて、申し訳ない。電話もらって、駆けつけました。これは変装です。ブザーは押さないで」
「でも」
「そうですよね」
男は部屋の中央で立ち止まって考えた。
「あなたと、会った時の話をしましょう。東京の中華飯店で白石さんと三人で会った時、僕はあなたに殺気を向けましたよね。あなたは、後ろに飛んだ。そうそう、気道の話もしました」
亜紀は手のブザーを離した。
「座っていいですか」
片山はベッドの横の椅子を指差した。
「すみません」
「あっ。起きなくていいです」
「はい」
「こんな変装で申し訳ない。あなたと僕が会ったことにはしたくない。僕の仕事は、用心の上にも用心をします。だから、会うのもこの一回だけにします。知っている限りのことを教えてください」


53

亜紀は年末に退院した。古い母屋にある仏間で、白石の遺骨と会った。片山の調査の結果が出るまで、納骨するつもりはない。まだ、出歩くことは止められているが、和久井の努力で連絡網は機能しているから、業務に支障はなかった。誰かが近くにいる時は明るく振る舞っていたが、一人になると喪失感に打ちのめされる。白石が直感したように、事故が単なる事故ではなく、仕組まれたものだとわかれば、自分の全能力を使って、いや、自分の生命を賭けてでも復讐したいと願っている。この想いだけが亜紀を支えていた。
亜紀の退院を皆喜んでくれ、久子は若返ったようにさえ見えた。亜紀と生まれてくる白石の子供を守るのは、自分だと確信しているようだ。「旦那さんは、使用人の私たちを家族同然に扱ってくれた。私たちにもいろいろなことがあったが、旦那さんの大きな気持ちのおかげで生きてこれた」と久子は振り返った。「今度は、私たちが、ご恩を返す時なんです」と言い、亜紀のまだ大きくなっていない腹部を見つめていた。
最初はホテルの仕事を離れることに抵抗していた和久井美緒も、秘書役に徹してくれている。保育園でサンタのお姉さん役をしてからは、白石を支える一員になったことを喜んでくれた。
徹叔父から、相続に関する事情も聞かされ、手続きもほぼ終了する。会社関係の代表者はすでに白石亜紀の名前になっていた。名実共に白石の家長になったわけだが、亜紀の中ではまだ決着していない。毎日、片山からの連絡を待つ日が続いていた。片山がどんな方法で真相究明しようとしているのかはわからない。亜紀にも片山にも捜査の公権力はないので、立ちふさがる壁は大きい。片山が真相究明してくれるのかどうか、半信半疑だったが、片山以外にこの件を相談できる人はいなかっただろう。
大晦日になり、自宅にいる限り世間の喧噪は届かないが、それぞれの会社の業務は継続している。ホテル勤務をしていた和久井も、年末年始が休みだと思っていないようで、「いつか、まとめて休みます」と言ってくれた。
「内藤専務から来てもいいかと問い合わせがありましたが、どうしましょう」
「今日ですか」
「はい」
「わかりました。もう、不動産はお休みなのにね。急ぎの用件なのかしら」
「用件は聞いてませんが、聞きましょうか」
「いえ。来てもらってください。時間は、和久井さん決めて」
「はい」
亜紀の承認決済が必要な事項はメールで済ませていて、病院で会って以来内藤とは会っていない。体調不良を理由に仕事は最小限にしているが、本音を言えば、誰とも会いたくはなかった。白石の書斎にある大きめの椅子に座り、白石の蔵書を読んでいる。もっとも、活字を追っているだけで、中身は理解しているとは言い難い。体の中に醒めきった部分と激情が同居していて、自分自身を扱いかねていた。
十時に内藤がやってきた。
「具合は、どないで」
「ごめんなさい、まだ」
「大事にしてもらわんと」
「今日は」
「へぇ。こんな時やけど、工藤の物件、そろそろ結論出さなあかんかな、おもてます」
「その件なら、もう少し待ってください。なにか、特別な状況がありますか」
「いや、それはおへん。営業の連中が焦っとりますんで、士気を落とさんようにおもて」
「内藤さんには、ご苦労かますが、お願いします」
「いつごろ、ですやろ」
「内藤さん。何か私に隠していることでもあります。どうして、急がれるのか、わかりませんが」
「とんでもない。なんもありまへん」
「そうですか。もう少し待ってください。お願いします」
片山の調査が終わるまで、動いてはいけないと言う直感があった。最悪の場合、時期を逸して利益を失ったとしても、白石は納得してくれるだろう。白石の最後の言葉は誰も知らないし、片山に調査を依頼したことも知られていない。「自分の直感を最後まで信じる」と白石は言っていた。たとえ、結果がよくなくても、それが実力なのだから仕方ない。自分以上にも自分以下にもならない。このことは、どうすることもできないと言っていた。亜紀も工藤物件で利益を失ったとしてもいいと考えていた。


54

何事もなく正月が過ぎた。体調は自分でも驚くほど回復していた。まだ、白石の書斎に一人でいる時間が多かったが、周囲の人たちに安心感を与える技術は進歩した。家の中に緊迫感はなく、平穏無事な日常が過ぎている。だが、亜紀の喪失感は日増しに大きくなっている。自分が妊婦でなければ、思いっきり立木に拳を打ち込みたいと思う。片山に依頼せずに、流産覚悟でも自分で真相究明をした方がよかったのか。自分の中に宿っている生命が白石二世だという現実だけが、亜紀の暴挙を止めている。白石に抱きとめて欲しいという激情ともいえる感情に襲われると、肉体的な痛みさえ感じた。
白石の部屋で読む本は詩集ばかりになった。決して気が楽になるわけではない。ほんの少し、現実から逃れたかった。
片時も手放さなかった携帯電話が振動した。この携帯電話に電話をくれるのは片山か間違い電話かのどちらかだ。
「亜紀さん」
「はい。そうです」
「今晩、遅くに、そこに行きます。今、書斎ですか」
「はい」
「書斎で待っていてください」
「はい」
電話は一方的に切れた。電話が切れてからの方が胸の動悸が大きい。来るものが来た。亜紀は静かに椅子に座った。書斎にいることが、どうして片山にわかったのだろう。不思議だった。
一日が終わり、亜紀にとっては長い夜が来た。何度時計に目をやっても、時間は遅遅として進まない。
十一時を過ぎて、書斎のドアから片山が静かに入ってきた。
「片山さん」
片山は以前東京で会ったときの片山だった。
「随分、時間がかかってしまいました。心配だったでしょう」
「はい」
「どこから、入ってきたのか、と、思ってます」
「はい」
「無断で申し訳ないが、何度も、来てます。あなたの様子を見に」
「知りませんでした」
「夜になれば、この建屋にはあなた一人だということも知ってます」
「・・・・」
「座ってもいいですか」
「あっ。ごめんなさい。座ってください」
「おもてなしはいりませんよ」
「はい」
椅子に座った片山がCDを机の上に置いた。
「結論から言います。白石さんが見抜いたとおり、工藤高広の仕業でした。実際に手を下したのは、遠藤という全く関係のない男です。このCDの中には、それぞれの証言が入っています。あとで聞いてください」
「はい」
「背景と仕組みを説明しましょう。工藤開発が経営危機になっていることはご存じですね」
「はい」
「倒産を回避するためには、白石さんの会社の協力が必要でした。工藤高広という男は経営者には向いていません。私が分析した限りでは、工藤開発が生き延びるためには、白石さんのところに吸収合併をしてもらうしかなかったと思います。工藤高広は当座の資金繰りがつけば、なんとかなると考えていた。で、白石不動産に手持ちの不動産の売却話を持ちかけた。白石さんがその話を断ったことは知ってましたか」
「はい」
「そこで、白石さんがいなくなれば、なんとかなると考えた。どうして、そんな論理が成り立つと思ったのか。そこで、工藤は知り合いの陣内組に話を持って行った。白石求を殺してくれと。暴力団といえども、はいそうですか、と言って請け負うことはありません。でも、暴力団のもう一つ先に、請け負ってくれる組織があることを工藤は知っていました。自動車事故を装った殺人ビジネスがあるんです。相場は三千万だそうですが、工藤は五千万の空手形をきって依頼したんです。もう、商売人の金勘定とは思えません。多分、個人的な恨みになってたんでしょう。二人は友達だった」
「はい。そう聞いています」
「自動車事故が故意のものか、過失によるものかの判定はできません。相手が死亡している時には、加害者の言い分だけしかわかりません。たとえ、裁判で有罪となっても、刑法の殺人罪より軽くて済みます。借金を抱えて、暴力団に追われている人間にとっては、渡りに舟なんです。ただ、何が何でも相手を殺さなければなりません。ブレーキもかけないし、衝突後もアクセルを踏みこみます。殺される方にはその殺気が伝わるんでしょう。白石さんは、普通の事故ではないと気づいたんです」
「ひどい」
片山はポケットから写真を取り出して、亜紀に渡した。
「知ってますよね」
「はい。営業部長の内藤さんです」
「これも見てください」
片山が机の上に三枚の写真を並べた。
「これが、工藤高広です」
工藤高広と白石不動産の内藤部長が一緒に写っている。内藤部長は内藤専務の息子で、比較的気の弱そうな人物だという印象しか残っていない。
「工藤は」
「昨夜から、行方不明です。もっとも、昨夜は僕が事情聴取してましたが、陣内組に預けた後はわかりません」
「・・・・」
「この中には、工藤の証言と陣内組の組長の証言が入ってますが、物的証拠はなく、証言だけですから、警察に持ち込んでも事件としては受け付けてくれないでしょう。だからと言って、あなたが裁いてはいけません。ご自分で決着つけようと思ってますね」
「はい」
「それは、一般社会に属している人がやってはいけません。それとも、あなたも、裏社会の一員になりますか」
「それでも、いいです」
「だと、白石さんの意思は、白石さんがあなたに託したことは、どうでも、いいんですか」
「それは・・・」
「私がお願いしている寄付金はどうなります。あなたがやってくれているんですよね」
「・・・」
「この家にいる今西さんたちは、どうします」
「・・・」
「そして、これが一番大事なことですが、その子はどうするんです。裏社会で育てるんですか」
「じゃあ、どうしろと」
「全部、飲みこみなさい。それしかありません。あなたならできる。できると思ったから、こうやって全てを話しています」
「できません」
「いいえ。できます。あなたは白石さんの愛情を裏切ってはいけません。あなたのことも調べました。あなたにとっては、初めての本物の愛だった。そうでしょう。短い時間だけど、あなたは幸せだった。ここから先の人生、白石さんのためだけに生きても、いい、と思いませんか」
亜紀は返事ができなかった。
「この事は言わないで済めば、と思ってましたが、言います。僕の独断で、工藤高広はすでに死んでいます。あなたに相談しなかったことは謝ります。実際の殺害行為は陣内組が実行しました。その証拠映像もありますが、それは見せません。白石さんの仇は、勝手に僕がとりました。ごめん」
「・・・」
「時間をかけてでも、乗り越えてください」
しばらく二人とも黙っていた。
「では、僕は帰ります。それと、今までの携帯番号は破棄しますので、今日以降繋がりません。新しい番号です」
片山がメモを渡してくれた。
「暗記して、その紙は捨ててください。約束してください」
「はい」
「いいですか。乗り越えてください」
「あの」
「・・・」
「教えていただけないのかもしれませんが、どうして、ここまでのことがわかったんですか」
「そうですね。細かいことは言えませんが、三十人でほぼ一か月かかりましたよ」
「三十人、ですか」
「白石さんは、命の恩人ですからね。必要なら何百人でも動員しますよ」
「すみません。私、駄々こねてますか」
「あなたの立場なら、自然なことでしょう。そのことも承知の上で、乗り越えてほしいと思ってるんです」
「私は、どうお礼をしたらいいんですか」
「乗り越えて、寄付金の仕事を引き受けてください」
「よく考えてみます」
「じゃあ」
片山は来た時と同じように、自然な様子でドアから帰って行った。


55

二週間が過ぎた。立ち直ったとは言い難いが、片山の説得の中にある誠意には逆らえないとも思っていた。片山は、一人で飲みこめと言った。その通りで、誰に相談することもできないし、たとえ、相馬園長にもこの話はできない。重いものも苦いものも、飲みこむことを強要されることが、大人になるということなのか。

ホテルにある割烹「市原」の市原老人が面会したいと言ってきていると和久井から連絡があった。一度だけ、お店で会って挨拶をしただけの老人だったが、尊敬できる人だと感じていたので、いつでもどうぞと返事をした。
市原老人と孫の市原智明が和久井の案内でやってきた。
「無理なお願いをして、申し訳ありません」
「ご無沙汰しています」
老人に続いて、市原智明が体を固くして挨拶した。
「料理の修業を始めたと聞きました」
「はい。走り回ってます」
「よかった」
「白石さんと、あなたのおかげです」
「で、今日は何か」
「すんません。智明がどうしても、お願いしたいことがあると申しますんで」
「お願いですか。でも、工藤さんがらみは駄目ですよ」
「その工藤がらみなんです」
孫の智明が固い表情で答えた。
「じゃあ、聞かないでおきます」
「駄目ですか」
「ええ。まだ彼女と」
「はい」
「残念ね」
亜紀は老人の目を見た。
「市原さん」
「すんまへん。このとおり」
市原老人が頭を畳につけた。市原老人は何も聞いていなかったようだ。孫の体を引きずるようにして、帰って行った。あの市原智明が後を継ぐのであれば、市原本店の将来には投資できない。市原老人の年齢を考えると、ホテルに別の日本料理店を入れる必要があると感じた。
それから三日後に工藤開発が倒産した。社長は行方不明ということであり、死亡という噂はなかった。
亜紀は、内藤専務を呼んだ。
「専務。これを見てください」
亜紀は工藤高明と内藤部長が写っている写真を出した。
「これは」
「内藤部長は工藤物件を買うように勧めていませんでしたか」
「そう言ってました」
「この写真は、そのことの少し前のものだと思います」
「この写真をどこから」
「ほんの偶然でした。言いませんけど」
「あのアホが」
「内密に調べてください。専務以外に知られないように。真相がわかればそれでいいです」
「はい」
「内藤部長も騙されているんでしょう。いいですか、辞めさせろと言っているのではありませんよ。ほんとのことが知りたいだけですから」
「はい」
亜紀はまた一つ飲み込んだと思った。亜紀の中にある被害者感情は、治まっていない。誰もが、白石の死は交通事故だと思っている。だから、亜紀が複雑な感情に苦しんでいることを知る人もいない。
翌日、内藤専務の弁明は聞いた。追及すれば、内藤親子は辞めざるを得なくなる。後任の人選ができるまでは、今の体制でいくしかないと判断した。
あらゆるものを放り出したいと思っても、次々と仕事上の決断を迫られ、最善と思われる判断を下している。そのことが、責務を投げ出すことを難しくしていた。
一週間後に、内藤専務から陣内組組長が会いたいと言っているが、どうしたらいいか、と問い合わせが入った。内藤専務は事情を知らないので、工藤開発倒産に関連した話ではないかと言った。片山の話では陣内組は手を出してこないはずなのに、何の用件なのか。断れば、どんな対応をしてくるのだろう。はい、そうですかとは言わないだろう。会ってみることにした。工藤高明の計画に乗った男だ。自分の手で、復讐することもできる。きっと、片山には怒られることだろうが、片山の努力を無にしないで、できることがないか。会って決めればいい。
午後になって、陣内隆三が内藤とやってきた。庭を一望できる客間に入ると、六十を過ぎているとおもわれる痩せた老人が、畳に額をつけていた。内藤は身の置き場に困っている。
「白石です」
上座に座った亜紀が落ち着いた声で言った。
「陣内隆三と申します」
陣内は頭を下げたまま名乗った。
「顔を上げてください」
顔を上げた陣内を正面から見つめた。暴力団の組長に初めて会うが、どこにでもいそうな老人の顔だった。
「奥様。お人払いをお願いしてもよろしいでしょうか」
「わかりました。専務、食堂で待っててください。しばらく、誰も来ないように」
「・・・」
「お願いします。お茶は用件が済んでからでいいと久子さんに伝えてください」
「はい」
何が起きているのかわからないまま、内藤が部屋を出て行った。
「用件を聞きましょう」
「はい」
陣内は上着の内側から、白木の短刀を出して、亜紀の方へ押しやった。
「いつ、刺していただいても、いいです。私の命と引き換えに頂きたいものがあって来ました」
亜紀は目の前に置かれた短刀をゆっくりと手にして、鞘を払った。
「よろしいんですか」
「はい」
「何を」
「片山さんから、渡されたCDとDVDです」
「誰です、その片山さんというのは」
「奥様。工藤の一件、お聞きになりましたよね」
「ええ。聞きました。お名前はおっしゃいませんでしたが」
「あの方が、片山さんです」
「そうですか。白石に世話になった者だとしか」
「遺族の方には、話をすると言われました」
「はい」
「あのCDとDVDの中身はご存じですよね」
「知ってます。あなたが黒幕です」
「申し訳ありません。今日は命を差し上げるつもりで来ましたが、私が死んだあとはきれいにしておきたい。老人の未練です。片山さんが持っていれば、こんなお願はしません。でも、こんな言い方をして申し訳ないが、素人さんは何をなさるかわかりません。ぜひ、頂きたい」
「警察に持って行くと」
「かもしれません」
「あの方に止められました」
「そうですか」
「でも、お渡しできません」
「そこを」
「ご老人の覚悟はわかりました。私は、あなたの命が欲しい。白石の無念を晴らしたい。でも、お渡しする物が、もうないんです。言葉だけでは私が納得しないだろうと思って用意したそうです。四つに折って持ち帰られました」
「四つに」
「残念です。あの方は、全てを知った上で、全部飲み込めと言って、出て行きました」
「そうなんですか。奥様の言葉を信じましょう。ならば、ここまでです。それで、刺してください」
「自首することはできませんか」
「それは勘弁してください。もちろん、奥様の罪にはしません。自殺で処理するように言ってありますので」
「そうですか」
陣内は両手を膝の上に置き、目を閉じた。
「陣内さん」
「は」
「どうしてです」
「と、おっしゃいますと」
「陣内組は暴力団なんでしょう。だったら、私から、無理矢理取り上げることもできたでしょうに」
「いえ。無理です。奥様に手を出せば、陣内組は跡形なく消えてしまいます。片山さんは、それをやってしまう人です。暴力団の組長が言うことではないでしょうが、全滅は避けたい。それに、もう老人ですから」
「陣内さん。度胸がおありですね。あの工藤に、もう少し度胸があれば、こんなことにならなかったのに。もう、白石は帰って来ません」
「申し訳ありません」
「何を言っても」
「奥様」
「・・・」
「今は、奥様の手にかかることが、少し楽しい。いい人に会えた、と思ってます。遠慮なさらずに、恨みを晴らしてください」
亜紀は短刀を持って立ち上がった。陣内が目を閉じて、真っ直ぐ座っている。陣内の前で片ひざをつき、右手に持った短刀に左手を添えて、短刀の峰の方を陣内の首に当てた。陣内は短刀を首に当てられても微動だにしなかった。
亜紀が陣内から離れて、短刀を鞘に戻した。
「陣内さん。私にはできません」
「奥様」
「抵抗してくれて、逃げ回ってくれれば、できたかもしれません」
「許していただけるので」
「いいえ。許すことはできません」
「はい」
「もう一度聞きます。なぜ、ここに、来たんです。命を捨ててまで」
「はい。極道が脅しに負ければ、失格です。わしは、片山さんの脅しに負けて、いいなりになりました。わしの命で済むことなら抵抗したんでしょうが、組の連中を全員殺すと言われたんです。横浜で、それなりに大きな組が全員抹殺されたことを知っとります。犯人は挙がってませんが、片山さんがやったとわかりました。わしも、歳取りすぎました。時代が変わっていることに気づきませんでした。だから、引退することにしました。で、今度の件はきれいにしておきたい。老人の命で許してもらえるのなら、そうしたい、と思ったんです。わしは、極道の面汚しです。素人さんにこんなことお願いすることが、もう極道としては失格です。要は、歳取ったということなんでしょう」
陣内が庭に目を向けて、独白するように言った。老人の顔だった。
亜紀も庭に目を向けた。忸怩としたおもいがある。
「奥様。お幾つになられました」
「どうしてですか」
「わしには、子供も孫もおりませんが、失敗だったかなと思いましてね。わしの人生、失敗ばかりでした。もう少し前に奥様に会っておれば、こんなこともせずに済んだと」
「・・・」
「また、お邪魔してもよろしいでしょうか」
「お断りします。二度と会いたくありません」
「そうですね。片山さんに会った時も自分の歳を感じましたが、今日も、痛いほど歳を感じます」
陣内は最初の時と同じように深々と頭を下げて、席を立った。


56

四十九日の法要を済ませて、白石の遺骨を納骨した。選択肢はいくつでもあるというのは真っ赤な嘘だ。岐路に立った時の選択肢は、いつも一つしかない。片山が言ったように、全てを飲み込む道しか残されていない。現実として不条理な暴力が存在し、その暴力に苦しむ人が大勢いる。相馬園長のように、暴力を受けた被害者のケアーだけが人間に残された選択肢なのだろうか。恨み、憎しみ、痛み、後悔、無念、そして懺悔。諦めを道連れにして、苦しみを背負い続けていく人生のどこに価値を見出せばいいの。白石の愛に報いるためにと、自分自身を納得させようとしている自分自身の向こうに嘘が透けて見えている。本心は、もっと愛されたかった、もっと傍にいてほしかった。もっと、もっと、もっと。これって、我儘なの。白石の声が聞きたい、笑顔を見たい、体に触れていたい、一緒に生きていきたい。どうやって、飲み込めばいいの、教えて、求さん。


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