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海の果て 第1部の 5 [海の果て]


11

浜中調査事務所の探偵が一ヶ月間、木谷昌一に張り付いて行動を調べていた。土曜日にゴルフをしない日はないので、金曜日の夜は自宅に帰る。自宅は目黒の官舎。浩平は草むらで木谷昌一を待った。購入した中古のワンボックスカーで阿南が待機している。遅い時間なので、人影はない。男が一人近づいてくる。写真で見ただけでなく、実物も見ているので、男が木谷昌一に間違いないと確信した。草むらから出た浩平は木谷昌一の正面に立った。突然の事態に木谷の体は反応したが、表情は変わらなかった。浩平は無言のまま、木谷の鳩尾に当て身を叩きこんだ。そして、崩れ落ちる木谷の体を掬いあげて背中に乗せた。誰に会うこともなく、阿南が待つ車に着いた。後部座席で待っている阿南に木谷に渡す。人間を制圧する方法はプロの阿南の仕事である。浩平は運転席に乗り込み、車を発進させた。横浜に向かう途中で、木谷の意識は戻ったが、身動きもできないし、声も出ない。
倉庫は倉庫街とも言える場所にあるが、一番不便でさびれた場所にある。倉庫街は、深夜になり静まりかえっている。扉を開ける音が周囲に響き、思わずあたりを見回した。浩平は、頭の中で仕事のスケジュールに扉の改造を書き足した。心配しながら扉を閉じる。暴れる木谷を肩に担いだ阿南が、地下室の鍵を浩平に渡した。地下の射撃場の片隅にある休憩室の椅子に木谷を座らせて、椅子に拘束する。目隠しがされているので、木谷の不安は相当なものになっているだろう。浩平は阿南が目だし帽をかぶるのを待って、木谷の目隠しを外した。
「木谷昌一さん、ですね」
「君は、誰だね」
「沢松と言います」
「どういうことか、説明したまえ」
「わかりました。では、これを見てください」
浩平は鞄から写真を取り出して、机の上に並べた。女王様の靴を舐めている木谷の姿や、女王様の尻の下で喜悦の表情をした木谷。SMプレイに興じている木谷の写真だったが、木谷は声を出さなかった。保田が古川美和の了解を得て撮った写真だが、保田がアパートを引き払って姿を消してしまったので、古川美和も見ることはないだろう。
「あなたには、中学生の息子さんとお嬢さんが、おられますよね」
「どういうことだ」
「二人のお子さんにこれを送ってもいいんです」
「なに」
「それと、この女性はホステスの古川美和さん。と同時に、医薬推進協会の職員のお一人でもありますね。非常勤の」
木谷の顔に動揺が走った。
「ここに、支払実績もあります。明らかに愛人ですよね。木谷さんの奥様は一流会社の会長のお嬢さんですから、離婚して生活に困ることもないでしょう。それと厚労省のホームページに、この写真を貼り付けましょうか、所属と実名入りで」
「いくらだ」
「ありがとうございます。話しが早くて助かります。ゴルフに欠席しなくても済みそうですね」
「だから、いくらだ」
「十億です」
「なに、十億だと」
「はい。初回は十億です」
「初回」
「僕は、あなたの弱みを握って恐喝しています。一回で済むと思いますか」
木谷の目が泳いだ。
「これも、見てください」
浩平は自分で作成した医薬推進協会の名簿を出した。
「この方は、OBで現在入院しておられますね。遺族年金のおつもりですか。この方は、部長の親戚の方です。そして、この方はある参事官の身内の方です。みなさん、勤務実態はありません。もちろん、古川美和さんにも勤務実態はありませんね。医薬推進協会はどんな仕事をして収入を得ているんです」
「君は、誰なんだ」
「ですから、沢松だと言いました」
「どこの、沢松だ」
「どこの、と言われましても。ただの沢松ですから」
「こんなことして、ただで済むとでも思ってるのか」
「いえ。ただでは済ませません。だから、十億だと言ってるんです」
「断る」
「わかりました。なかなか潔くって、大したものです。では、こうしましょう。あなたは、内部告発者として、この資料を野党に送ります。そして、これらの写真は厚労省の内部で配布すると同時に、ご家族にも送ります。あなたは、なにもかも捨てるつもりになったから断ったんですから、それでいいですよね。当然、部長や参事官も詰め腹をきることになりますが、彼らの自業自得でもあり、それはあなたが責を負うものではありません」
「・・・」
「ただ、証拠隠滅を図る可能性がありますから、当分の間、解放することはできません。不自由は我慢してください。死なない程度に食糧と水は供給します。これは約束します」
浩平は阿南に合図を送った。阿南が部屋の隅にあった鎖の束を持ってきて、無言で、木谷の足首に巻き、錠を取りつけていく。二人で椅子ごと木谷の体を移動させ、壁にむきだしになっている補強用のH鋼に鎖を取りつけて、錠をかけた。
「木谷さんは、無駄な努力はしない方だと思いますから、言っときます。ここは、地下室で完全防音になってます。三日したら、また来ます」
写真と資料を鞄に戻し、木谷の持ち物を全部木谷の鞄に入れて、二人は出口に向かった。二人が出口のドアに手を伸ばす前に、木谷が大声をだした。
「待ってくれ」
「大丈夫です。三日後に来ますから。三日ぐらい大丈夫、死にませんから」
浩平は大声で答えて、ドアに手を伸ばした。
「金を出す」
木谷が、さらに大きな声で叫んだ。
「そんなことない、というふうに、首を横に振ってください」
浩平は小声で阿南に言った。
「相談してるように、何か話してください」
木谷に声は聞こえないが、二人の仕草は見えている。最後に、浩平が、仕方無い、という仕草をして、木谷の所へ戻った。
「木谷さん。この話し合いの前提とルールについて、僕は最初に言うべきでした」
「金は払う」
「ルールを教えないのはフェアではありませんでした。先ず、この話し合いの前提を言います。力関係というか、上下関係ですが、九十九対一であなたは負けています。なぜなら、生殺与奪の権利は僕が持っているからです。次にルールを言います。この話し合いには、やり直しはありません。一回勝負なんです。駆け引きも交渉も必要ありません。あなたには、イエスかノーの返事ができますが、一度ノーと言えば、もう変更はできないんです。今回は、僕がルールの説明をしなかったので、一度だけやり直しをします。いいですか、上下関係とルールを充分にかみしめてから返事してください」
「だから、金を払うと言ってるだろう」
「まだ、おわかりになってないようですね。力関係は何対何でした」
「・・・」
「あなた、事務次官の前に立った時、どんな態度を取りますか。金を払うと言ってるだろう、と言いますか。違いますよね。僕は非常に気分を害しました。ですから、この話し合いは、ここまでです。今度は、事前に説明しましたから、アンフェアだとは思っていませんよ。霞が関に激震が走るのも、楽しそうだと思い始めているんです」
本気で木谷の目が泳ぎ始めた。
「もう一つ教えてあげましょう。ご家族を大事にしていないあなたですが、三日も連絡がなければ、ご家族は捜索願を出すでしょう。でも、それだけでは警察は動けません。何らかの犯罪が発生しているという証拠がいるんです。目撃情報もなく死体が出ることもなく、何か手が打てますか。あなたの携帯は、もう電波を出していません。永久に行方不明になっている人がどのぐらいいるのか、僕は知りませんが、かなりの数だと思います。現に、この地下室の下には、十体以上の死体が埋められていますが、警察の捜査はありません。行方不明のままです。ですから、木谷さんも希望は持たない方が賢明だと思います」
浩平は椅子から立ち上がった。
「ま、待ってくれ」
「・・・」
「いや、待ってください」
「木谷さん、あなた、東大卒のキャリア官僚でしょう。ほんとに、頭、悪いですね」
「お願いします」
「残念です。糞尿にまみれて、ご自分の立場をよく考えてください。それと、ここには虫が多いだけでなく、かなり大きなネズミも出ます。ですから、気をしっかり持って生き抜くことです。明日、もう一度来ます。あなたの態度が変わっていれば、話し合いに入りましょう」
浩平は木谷の叫び声を無視して、地下室を出た。
「電気はどうしましょう」
鍵をかけた阿南が聞いてきた。
「消しましょう」
地下室なので、月明かりの一筋も入ってこない。漆黒の闇の中で、一番恐ろしいのは人間の想像力だ。虫もネズミもいると言われると、想像力が虫やネズミを創り出す。木谷は一睡もできないだろう。
翌日、夜の十時に浩平と阿南は地下室のドアを開けた。約二十時間、闇の住人になっていた木谷の顔は憔悴しきっていた。縛られていた椅子を倒したままの恰好でうつろな目をしている。阿南が椅子を戻し、木谷の体を拘束していた縄を外し、ペットボトルのミネラルウォーターを渡した。小便の臭いはするが、大便は我慢したようだ。
「木谷さん。話し合いの用意はできましたか」
「はい」
木谷は浩平の方を見ずに、小さな声で返事した。
「水、飲みますか」
「はい」
自分の手の中にペットボトルがあることに気がついたようだ。半分ほど飲んで、大きなため息をついた。そして、肩を震わせて泣き始めた。泣きじゃくっていて、手の着けようがない。よほど恐ろしかったのだろう。この一日で、木谷の人生は別のものになってしまった。一生、今日の体験からは逃れることはできない。驕りの一歩先には絶望が待ち受けている。人間はそれでも生き延びたいと思う。偽物の人生を生きるために、傲慢の上塗りをすることになったとしても、生きたいと思うことになる。
トイレに行ったことで、木谷は話ができる状態になった。
「木谷さん、落ち着きましたか」
「はい」
「昨日も話しましたが、初回分として十億をいただきます」
「はい。用意します」
「ありがとうございます」
「今日、解放していただけますか」
「もちろんです。ところで、医薬推進協会の収入はどうやってるんですか」
「・・・」
「仕事をしてるようには、思えないんですが、一億五千万の収入がありますよね」
「うちの課には、同じような仕事が一杯あります。職員がする場合と外部に依頼するものがありますが、出来上がった仕事の名前だけを変更して、医薬推進協会に依頼します。だから医薬推進協会は仕事をする必要はありません。調査依頼費として、予算をつけます」
「予算の二重取りですか」
「仕事の中身までは、誰も調べません。予算さえ通っていればいいんです。誰でもやっていることです。うちの省だけではありません。先輩たちが、長い時間をかけて作り上げたものですから、当然先輩の方にも権利はあるのです」
「では、医薬推進協会の規模を秘密裏に大きくしてください。特別予算のようなものはあるんでしょう」
「はい」
「年収二千万の職員を十人増やしましょう。そして、半年に五人づつ、退職させます。退職金は一人当たり五千万にしましょう。これで、七億になります。これだけの予算を確保するのが木谷さんの使命です。年間七億です。あなた個人の腹は痛みませんし、ご家族に知られることもない。あなたさえ裏切らなければ、外部に漏れることもありません。どうですか、できそうですか」
「はい。大丈夫です」
「落ち着きましたか」
「はい」
「木谷さんが事務次官になる確率は、まだ、ありますか」
「えっ」
木谷の表情が変わった。頭は悪いが勘はいいようだ。
「どの位、ですか」
「五パーセントぐらいですが」
「五パーセントというのは、あなたが、事務次官になっても不思議ない程度ですか」
「もちろん、です。本命ではないでしょうが、可能性はあると思ってます」
「わかりました。では、事務次官になっていただきます。あなたのライバルたちは、我々が排除します。あなたは、本気で出世してください。厚労省を退官した時、あなたは解放され、我々から、自由になれます。どうです。やれそうですか」
「やります」
「悪魔に魂を売ることになりますが、それでも、やりますか」
「やります」
「よかった。一か月、あなたに時間を差し上げます。あなたの出世計画を作ってください。邪魔なライバルのリストアップと、そのライバルたちの不正を書き出してください。我々が、退官に追い込みます」
「はい」
「いいですか。今日からは、あなたの人生は変わります。出世のことだけを考えてください。女遊びも、なしです。あなたの弱点は下半身にあるんです。簡単に事務次官になれるとは思っていないでしょう」
「はい」
「入省した頃の野心を思い出して、本気をだしてください」
「はい」
「今晩、解放します。ゴルフ仲間の説得とご家族の説得はあなたの仕事です。それと、あなたの監視は続けますので、違反のないようにしてください。もう、ここへは戻って来たくないでしょう」
「はい」
「連絡はあなたの携帯にします。番号を替えないようにしてください。それと、もう一度だけ拘束しますが、これはわれわれの秘密を守るために必要なことなので我慢してください。痛いほどは縛りませんから」
「はい」
木谷の頭の中には。事務次官のことしかないようだった。
戸籍屋の大村からは継続的に戸籍を購入している。大村の勧めもあって、年配者の戸籍も購入していたが、その値段は驚くほど安かった。年配者は自分で売りに来るケースが多く、当然足元を見られて買い叩かれることになる。しかも、圧倒的に供給過剰で買手市場だった。四か所のアパートで、一般市民になるプロセスを経て、保険証と銀行口座ができるまでは時間が必要になる。医薬推進協会の職員を十人用意するために、忙しい時間が続いていた。本間直人が近くのマンションの一室を借りて、探偵事務所を設立した。本間と保田の二人だけの探偵社だが、少なくとも十人規模にしてもらわなくてはならない。若いだけに本間は苦労するだろうが、本間ならできると思っている。浩平は本間が事務所設立に保田を誘ったことを評価した。自分でも保田を誘っていただろう。浜中調査事務所への依頼は木谷の監視だけを残して、国土交通省の調査に変更した。
一ヶ月後、浩平は木谷を千葉のホテルに呼び出した。
「木谷さん、元気そうですね」
「はい」
「リストは持ってきましたか」
「はい。これです」
木谷は背広の内ポケットから封筒を取り出した。
「拝見します」
所属と名前、そして、やっている不正とおもわれる内容が書かれた手書きのリストだった。
「手書きですか」
「データを残したくありませんので」
「わかりました。この六人がいなくなれば、事務次官はあなたのものですか」
「はい」
「一度に六人は排除できませんよ。せいぜい、年に一人か二人です」
「はい」
浩平は鞄から、医薬推進協会の職員にする名簿の紙を木谷に渡した。
「十人です。いいですか」
「はい。準備はできてます」
「よろしく」
木谷は自分の身の安全と、野望を手中におさめるために真剣になっていることが、よくわかった。やはり、官僚の能力は半端ではない。予算という伝家の宝刀の使い方をよく知っている。身銭を切るわけではない。国を食い物にする怪物だった。浩平は自分の向かっている方向が間違っていないことを確信した。こいつらを食いつぶしてやる。
浩平は自分のアパートに戻って、木谷のリストと浜中調査事務所の調査結果をつき合わせた。リストにある阿部という男には、痴漢の疑いがあるという調査結果があった。浩平は木谷に最初のターゲットの名前を告げて、阿部が持っている予算の取り込みを指示し、実行部隊の本間を呼んだ。
「何日か、この阿部という男を尾行してくれ。朝だけでいい」
「はい」
浩平は調査資料を本間に渡した。
「痴漢ですか」
「やらせの痴漢事件をやる。この男の、好みの女を雇ってくれ」
「わかりました。ただ、事件にすればいいんですか」
「できるだけ大騒ぎにして、新聞沙汰にできれば、手が省ける」
「明日の朝からやります」
「女の子の報酬は、出し惜しみするな。こっちが調べられたんでは困る」
「はい」
二週間後の新聞に公務員の不祥事として、阿部の事件が報道された。阿部は依願退職に追い込まれ、木谷のリストから名前が一つ消えた。


12

木谷のリストの中に、一人気になる男がいた。備考欄が空白になっている。弱みも不正の事実もないということだ。旧労働省系の課長で橋本淳也。年齢が木谷と一緒だということは、東大の同級生なのかもしれない。痴漢事件で阿部を潰したあと、本間にはこの橋本を徹底調査するように言っておいた。
本間探偵事務所の三人が浩平の部屋に集まっている。本間と保田、そして痴漢事件で被害者になった広岡志保という女子社員の三人。広岡志保は本間と同じ施設で育った。本間より一歳年上のホステスをやっていた女の子だった。高校生の制服を着れば、誰が見ても高校生と思う童顔の小柄な女の子だが、目はしっかりしていて、その気の強さがホステス稼業の邪魔をしてると本間が言っていた。
「不倫しています」
「ほう」
「同じ課の米沢真理という三十歳の女です」
本間が写真の束を見せた。華奢な感じの美人だった。
「不倫するようには見えないね」
「片山さん」
保田が軽く手を挙げた。
「内気で、奥ゆかしくて、優しそうな女だと思ってるでしょう。でも、この手の女が一番したたかなんです。怖い女ですよ」
「・・・」
「片山さんの弱点は、女ですね。その弱点を克服するためには、無条件で、女は信用しないことです」
「保田さん。それは言い過ぎだろう」
本間が驚いて、遮った。
「本間さん。それは間違い。片山さんは、僕たちのボスだろ。ボスが間違った判断をすれば、どうなる。ゴメンでは済まないと思うよ」
「でも、そこまで言わなくても」
「わかった。ここは、保田君の言うことが正しいと思う」
「志保ちゃんでも、片山さんなら簡単に騙せるよね」
「保田さん」
「だって、それが本当のことだろう」
「私は、片山さんを騙したりしない」
「どうして」
「だって、片山さんはカッコいいもん」
「立場が立場だからだろう」
「それもあるけど、私はそんなことしない」
「保田さん、もういいじゃん」
「保田君を先生にする。自分でも自信ない。考えてみると、僕はずっと武道としか向き合ってこなかった。女の子とデートしたこともないし、何、考えてるのかもわからない。男を倒す自信あっても、女だとどうしていいか、わからない。だから、皆の話をよく聞くことにする」
「ぜひ、そうしてください」
「ん。先、頼む」
「橋本は、もちろん妻帯者です」
橋本の自宅は国立市にあるが、月に二度ほど帰るだけで、四谷のマンションに住んでいる。賃貸だけど、高そうなマンションだと本間は言った。
「同じマンションに米沢真理も住んでます」
「同じ部屋」
「いえ、隣です」
「不倫の事実は」
「こんな写真しかありません。外で逢引している訳ではありませんので」
写真はベランダにいる橋本の写真だった。
「ここが、橋本の部屋で、こっちが女の部屋です。ベランダから行き帰してます」
確かに隣の部屋のベランダにいる橋本が写っている。
「なるほど。でも、どうしてわかった」
「最初は保田さんの勘です」
「あの目は、上司を見る目ではありません。恋人を見てる目です」
保田が言った。
「よく、こんな写真が撮れたな」
「少し離れたマンションの空き部屋からです」
「もう少し、決定的な証拠が欲しい。これだけだと、白切られるだろう」
「はい。前に聞いた盗聴器を、と思っていますが、駄目ですか」
「わかった。でも、まだ監視は続けてくれ。それと、橋本の奥さんのこと、詳しく調べてくれ。浜中さんとこに、頼んでもいい」
「私、やります」
志保が身を乗り出した。
「志保ちゃん、まだ、無理。ぼくがやる。保田さんのサブ頼む」
本間が首を振った。
「うん。わかった」
橋本淳也と米沢真理の部屋に、菅原が盗聴器を取り付け、本間がデータ収集を担当して、一週間が過ぎた。チーム本間の三人が浩平の部屋に集まった。
「音声、とれてた」
「はい。バッチリです」
「で」
「二人は夫婦ですね。本物の奥さんのこと、女の方は気にもしてないようです。近々、京都に行きますよ。二人で」
「旅行」
「いや。橋本は会議です。来週の金曜日」
「ツーショットの写真が撮れそうだな」
「はい。三人で行ってきます」
「で、本妻の方は」
「すごい豪邸です。大地主の娘で、遊びまくってます。あの橋本と夫婦とは思えないっす。若くて、美人で、ナイスバディーで、公務員の奥さんって感じじゃない」
「子供は」
「いません。別居夫婦ですね」
「不倫とは言えないか」
「でも、形式上では、不倫ですよね」
「ま、証拠だけは掴んで来てくれ」
脅迫の材料としては弱いと思う。どこにでもある話で、公務員だからダメージになるという要素もない。退官に追い込むことも難しいかもしれない。
「データを置いて言ってくれ、僕も聞いてみる」
「片山さんは止めた方がいいと思いますよ」
保田が笑いながら言った。
「どうして」
「刺激強いし、また、女に対する判断を誤ることになりますよ」
「そんなに、怖い」
「はい。女は魔物です。な、志保ちゃん」
「別に」
「まあいい。魔物に会ってみよう」
三人が帰った後で、浩平は録音を聴いた。保田の言ったように魔物がいた。実物は見ていないが、写真から想像していた女とは違う女がいた。二人のセックスがどんなものかは、浩平でも想像できる。橋本は本気で女に惚れているが、女の方は楽しんでいる。橋本にとっては、この女の落差が魅力なのだろうか。浩平にはわからなかった。
京都から帰ってきた本間が一人で報告に来た。保田と志保は国立の本妻の調査に行っていると言った。
「これ、見てください」
本間が大量の写真を出した。全裸の男女が、林の中でセックスしている。すぐ下にある道路には車の通行もあるし、ハイカーの姿もある。
「女は爆発してました。俺にも、まだ信じられません」
「んんんん」
浩平は唸ることしかできない。望遠カメラの映像だが、女の表情もはっきりと写っている。数メートル先にいるハイカーを見ながら、全裸で男を受け入れている女の顔に満足そうな笑みが浮かんでいた。
「片山さんだけしゃありませんから。俺も保田さんには歯が立たないっす」
「まったくだ」
浩平はこの写真を橋本にぶつけてみることにした。勝算はないが、これが限界かもしれないという気がしていた。
まだ人通りが多いので、浩平と本間は橋本のマンションを少し離れた場所に駐車して、橋本の帰りを待った。
「直人。お前は出てくるなよ。探偵の面が割れたんじゃ商売にならん」
「はい」
本間はバックミラーで監視している。
「女が帰って来ました」
助手席の浩平は半身になって、女が通り過ぎるのを待った。実物を見ても、米沢真理は楚々とした美人だった。
「女って、訳わかんないっすよね」
「ああ」
保田の冷笑が目に浮かぶ。だが、頼りになる仲間だった。
一時間後に、橋本が帰って来たことをしらせてくれ、橋本をやり過ごして浩平は車を降りた。
「橋本さん、ですよね」
並んで歩きながら、浩平が声をかけた。
「君は」
歩を緩めた橋本が、浩平の顔を見た。
「山田と言います」
「なんだね」
「橋本さんに買っていただきたい物があります」
立ち止まった橋本の目の前に写真を出した。街灯だけの明るさしかないが、本人にはそれがどんな写真か判別できたようだ。
「五百万です」
「五百万」
「明日、また連絡しますので、よく考えてみてください」
「・・・」
「橋本さんの番号、教えてください」
「何者なんだね、君は」
「厚生労働省の方へ電話しても、いいですか」
「・・・」
恐喝の交渉では、相手の質問には答えない。
「じゃあ、明日」
浩平は背を向けて戻り始めた。
「待ってくれ」
浩平は自分の携帯に橋本の番号を打ち込んで、その場を後にした。本間は指示通り車を移動している。浩平は地下鉄の駅へ向かった。
翌日、盗聴器のデータを収集した本間が、チーム本間を連れて浩平の部屋にやってきた。
「どう」
「まだ、聴いてません」
「そうか」
四人で女の部屋のデータを再生して、聴き始めた。
「どうしたんです、遅かったですね」
「ん。一寸、問題が」
「変ですよ、課長。すぐ、食べます」
「いや。後にしょう」
「どうしたの」
しばらく、会話が途切れた。
「先に、私のこと、食べます」
「実は、京都でのこと、写真を撮った奴がいる」
「えっ。京都って、あの時の」
「ああ」
「あら」
「さっき、山田という男が脅迫してきた」
「どんな、写真なの」
「全部だ」
「持ってこなかったの」
「ああ」
「見てみたかったわ」
「脅迫されたんだ。五百万出せと」
「そう。で、どうするの」
「もちろん、払わない。次は一千万になる」
「そう。困ったわね」
「お終いだな」
「どうして」
「どうしてって、あの時のこと全部だぞ」
「払う気ないんでしょう。だったら、うっちゃっておけばいいじゃない」
「あんなもん、ばらまかれたら、もう、厚労省にはいれないだろ」
「私は、平気よ。不倫なんて、どこにでもあることだもの」
「君」
「だって、ジタバタしたって」
「私には、立場がある」
「だったら、お金払えば、いいのよ」
「何度も何度も、か」
「仕方ないでしょう」
しばらく会話はなかった。
「田舎に帰って、小さな食堂でもやろうかな、と思っている」
「食堂」
「そうだ。食べていけたら、それでいい」
「そう。だったら、そうなされば」
「君にも、来てほしい」
「どうして、私が」
「私は、君なしでは、やっていけない」
「じゃあ、私には自分の人生を選ぶ権利もないわけ」
「そんな」
「私、田舎の食堂で、料理を作ってるあなたの姿なんて見たくないし、どうして、私が食堂のおばさんにならなくてはいけないの」
「・・・」
「私は、あなたに、結婚を迫ったこと、あって」
「いや」
「私は、強い男の側にいたいの。あなたなら局長でも、いいえ、事務次官も夢じゃない。女が強い男を求めるのって、間違ってる」
「いや」
「あなたの価値は厚労省の橋本なのよ。逃げだしたら、ただのおじさん。たかが、不倫の写真ぐらいで、なにもかも捨てようと言うの」
「・・・」
「いっそ、不倫がバレたら、あんなに嫌がっていた奥さんとも別れられるじゃない」
「君は僕と一緒にはこないということ」
「ごめんなさい。私にとって、あなたは最愛の人よ。でも、自分を捨ててまで。二人とも、きっと、不幸になると思う」
「私は、君のいない人生なんて考えられない」
「だったら、厚労省辞めて、食堂のおじさんになる、なんて言わないで」
「際限なく、金を払い続けろ、と」
「他に、方法があるの。私たちを守る方法が」
「そんな、金はない。最初の五百万だって、払えない」
「言ってもいい」
「えっ」
「裏金を作らないの、なぜ」
「だって、間違ってるだろ」
「あなた、正義の味方なの、それとも、キャリア官僚なの」
「えっ」
「正義の味方で自己満足。何、気取ってるの。確かに、仕事の実力は、省内で一番。でも、仕事ができても、周囲と協調できない官僚は優秀な人材とは言えないでしょう。協調って、わかりますよね。利益を分配し合う仲間ってこと。裏金作らないキャリアなんて、キャリアじゃない。あなたのこと、皆が言ってる。だれもがやってることなのに、正義の味方やりたいというあなたの方が変だと思う。中央官庁では、あなたの方が異常なの。予算を自由に扱える中央官庁は誰のためにあるの。あなたたち高級官僚のためにあるんじゃないの。こんなつまらないことで、優秀な人材を失わないような仕組みになってる。国家予算はあなたたちのためにあるんでしょう。それを使って何が悪いの。もちろん、意地張ってるあなたも素敵だけど、そろそろ目を覚ましなさい。私はあなたのこと好きになってしまったから、こうやって付き合ってる。でもね、今だから、言うけど、あなたとのお付き合いは、あなたが厚労省辞めるまでと、私、決めてたの。だから、結婚して欲しいなんて、思ってもいない。食堂はお一人でやってください」
「君」
「今日は、もう帰ってください。それと、しばらく会うのやめましょう。多分、喧嘩になるだけだから」
それで二人の会話は終わっていた。多分、女が別の部屋に行ったものと思えた。
「保田さん。脱帽です」
「すみません。僕も、この女、ここまでの悪だとは思いませんでした。まだまだ、甘かったですね」
「すごいっす」
「橋本本人も言ってたけど、橋本はこの女と別れられないと思う。悪の道に入ってもらいましょう。我々も、五百万ぐらい取っても意味ないし。厚労省の次官になってもらう。そして、五百億稼ぎましょう」
「五百億ですか」
「先ず、橋本の希望通り、離婚させてやる。そしてあの女と結婚してもらう。あの女は僕たちの守り神になれる。だろう」
「はい」
「本妻の方の不倫事実をつかみたい。どうだ」
「それがですね」
保田が申し訳なさそうに言いだした。
「あの奥さん、遊び好きだけど、言葉通り、遊び好きなだけみたいなんです。僕たちが調べた範囲では、男との肉体関係はありません。セックス好きじゃなく、男遊びが好きな女って、いるでしょう。そんな女ですよ、あの奥さん」
「そうか。誰から聞かれても、友達だと答えれば済む」
「そうです」
「じゃあ、セックスフレンドを作ってあげればいい」
「セックスフレンド」
「うってつけの男を捜すことだ。金に困っているプロを捜す。保田さん、自分でやっちゃ駄目ですよ。まったく無関係な男がいい」
「わかりました。捜してみます」
木谷からもらった六人のリスト。浩平は全員消し去るつもりはない。木谷の競争相手を作っておく必要がある。橋本をその競争相手にするつもりだった。
浩平は、橋本を助手席に乗せて、代々木公園近くの路上に駐車した。橋本の顔には疲労が浮き出ている。
「どうされるつもりですか」
「金を払う」
「そうですか。じゃ、写真は没にします」
「一回では終わらないんだろうね」
「僕がやってることは恐喝ですから、要求はエスカレートすることになりますね」
「君のことを知りたいと言っても、無理か」
「勘弁してください。ただ、新種の暴力団だと思ってください」
「金は払うが、すぐには用意できない」
「いいですよ。待ちます」
「えっ」
「橋本さんのことは、調べました。金がないこともわかってます。我々の要求に応じてくれると決心していただいたことが重要なんです。時間さえあれば、金はいくらでもできるでしょう。払っていただくのは、それからで結構です。待ちますよ」
「よく、わからんが」
「あなたは、官僚錬金術を使ってません。少なくとも厚労省では、橋本さんだけでしょう。あなたの実力で錬金術を使えば、金の心配はありません。あなたが、金を払うという決心をした、ということは錬金術を使う決心をしたと解釈してます。だから、待つんです」
「そこまで」
「昨日は、五百万と言いましたが、忘れてください」
「えっ」
「三十億にします」
「三十億」
「年間十億で三年間です」
「きみ」
「難しい金額ではないでしょう」
「無理だよ」
「橋本さん。まだ、腹決まってませんか。一旦、手を染めたら、躊躇しないことです。その代わりに、あなたの事務次官就任を我々がバックアップします。厚労省のトップに立ってください」
「次官」
「もう一つ。現在の奥様、国立の方にお住まいの奥様と離婚できるようにします。あなたが慰謝料を払う必要はありませんし、奥様は反対しません」
「・・・」
「あなたの出世に邪魔になる人物のリストアップをしてください。時間は必要ですが、逐次排除していきます。あなたは、ご自分の能力をフルに発揮してもらえば、自然と事務次官の道が開けます。そして、事務次官を退官された時、我々は消えます。あなたは自由になれるんです」
「事務次官ですか」
「橋本さんも、今回、退官を考えたでしょう」
「ああ」
「たかが、不倫ですよ。無傷とはいきませんが、退官するほどのことではありません。それでもあなたは退官を考えた。多分、他の方はもっと大きな秘密を持っています。公になれば大変なことになります。懲戒免職を避けるために、依願退職を選ぶでしょう。我々には、その力があります。あなたの不倫でさえ見つけたんですから」
「わかった」
「一週間、じっくり考えてください。あなたに本物の覚悟ができるのを待ちます」
橋本をその場で降ろして、浩平は車を発進させた。橋本の決意は、まだ六分か七分の決意でしかない。本気で決断しなければ、途中でトラブルを起こすことになる。


13

橋本淳也の件が決着して、浩平は前久保健治の調査を始めた。写真を見ても強面の人事課長であることは、すぐにわかる。木谷の資料では、前久保の弱点は博打となっている。本間チームの調査によれば、新橋の秘密クラブ「まこと」に頻繁に出入りしている。そこには、洋風賭場があるという噂だったが、確認はできていない。ただ、都内にありながら、バックにいるのは、真崎組傘下の横浜最大の暴力団といわれる三宅組だった。
「あせるな。時間をかけてやろう」
クラブへの潜入ができないと、本間があせっていた。
「常連客をつかむ。その中で社会的地位が高く、スキャンダルを嫌う人間をみつける。そして、その人間の裏をつかむ。我々の、いつものパターンでやればいい」
「はい」
「危険だから、潜入は僕がやる」
「片山さんが」
「山のような暴力団相手に、直人じゃ勝てないだろう」
「まあ、そぅっすけど」
「暴力沙汰は、僕に任せとけばいい」
「はい」
「片山さん。聞いてもいいですか」
志保が恐る恐るといった声で言った。
「なに」
「直人から聞いてますけど、ほんとに片山さん、強いんですか」
「どうして」
「だって、直人の替わりはいても、片山さんの替わりはいないし」
「おいおい。直人が泣きだすぞ」
「片山さん、危ないことは全部自分でやると決めてるんですか」
「ああ、そのつもりだよ。ただ、僕はマジ強いから。心配ない」
「どの位、強いんですか」
「どのくらいと言われてもな。心配するな」
「志保、やめとけ」
本間チームの三人は帰り支度を始めた。
「直人。それ、何だ」
「は」
「その、封筒だ」
「これっすか」
本間が現金書留の封筒を浩平に渡した。封筒の宛先は、本間と広岡志保が育ったと言う施設の名前になっている。封筒の厚さから、五十万以上の金が入っているはずだ。
「直人。どういうことだ」
「えっ」
「これは、どういうことだと、聞いてる」
「それは」
「お前、この仕事、辞めろ。本間探偵事務所は保田さんにやってもらう。ただし、よそに行って一言でもしゃべったら消すぞ」
ほんの少しだけの殺気を乗せた浩平の声に、三人が固まった。
「ごめんなさい。私が最初にやりました」
「そうか。じゃあ、志保ちゃんも明日から、来なくていい」
「本間さんは、善意で」
「善意だと。おまえら、なめてんのか。この仕事。サツからこの金の出所を聞かれたら、どう答えるんだ。カツアゲしましたとでも言うのか」
「いえ」
「直人。かっこつけれるような人間じゃないだろう、俺たちは。施設の先生にいいとこ見せたかったのか」
「いえ」
「俺たちは、もう充分裏社会の人間なんだ。お前には、はなから、わかってただろうが」
「はい」
「いいか、チーム片山はここにいる四人だけじゃない。お前の甘えた考えで他の人を危険にさらすわけにはいかない。だから、外れろ、と言ってる。わかるな」
「すんません」
本間が畳に額をすりつけた。
「お願いします。やらせてください」
保田までが、畳に額をすりつけて、謝った。
「直人。性根据えて答えろ。いいか」
「はい」
「俺だったら、どうしたと思う」
「・・・・」
「答えろ。直人」
「・・・」
「匿名で送ります」
頭を畳につけたままの志保が答えた。
「直人」
「すんません。俺、間違ってました」
「何回、送金した」
「二回です」
「この仕事やる覚悟、あったんだろ」
「はい」
「皆、頭、上げろよ」
三人が、のろのろと頭を上げた。
「いい機会だから話しとく。僕たちは仲良しクラブをやってるわけじゃない。本気で悪になる気がないなら、やめてくれ。他でこのことを話さなければ、何もしない。まだ、殺人だけはしていないが、いつかはそうなる。君たちに、人殺しをしてこいとは言わないが、殺人集団の一員であることには変わりない。僕たちのやってることは暴力団と一緒。人並みの夢を諦めなくてはできない仕事だと思うし、危険の山だ。いいか、もう一度よく考えてみてくれ。今から、一週間、全員休む。続けるなら、一週間後に、ここに集合。チャンスは今しかない。次にヘマしたら、死んでもらうかもしれないから、よく考えてくれ」
「はい」
「保田さんも志保ちゃんも、よく考えてほしい」
「はい」「はい」
三人が立ち上がって、うなだれて出口に向かった。
「直人」
「はい」
「お前だけ、残れ」
「はい」
他の二人が心配そうな眼差しで本間を見つめる。本間は何度も、大丈夫だという顔で頷いて見せた。
「直人。どうしたんだ」
「はい」
「心配するようなことじゃないのか」
「いいえ」
「本間チームのボスはお前だよな。お前と違って、あの二人は表の世界で生きていけると思う。お遊びはここまでだろう。裏社会の地獄を見たお前は、僕と一緒に地獄に落ちる覚悟があると思う。僕も、お前と一緒に地獄に落ちる覚悟はある。お前一人を地獄にやるつもりはない。お前がこんなドジ踏むとは思わなかったが、それはもういい。あの二人は戻してやれ。保田さんは変わり者だから裏が合ってるのかもしれんが、志保ちゃんは裏で生きる人間には見えない。ボスは下の者に責任がある。自分の責を下の者に押しつけるような暴力団にしたいか。もう一度、最初から人集めを始めろ。地獄に落ちてもいい奴だけを集めるんだ。この仕事は、そういう仕事だ。格好つけてやれる仕事じゃない。国を相手にした喧嘩だ。いずれ、警察が束になって向かってくる。殺しを避けては通れない。警察だけじゃない、公安も情報機関も、自衛隊だって出てくることも覚悟しとかなきゃならん。半端な覚悟では乗り切れない。わかってるよな、直人」
「はい」
「ボスなんかやるんじゃなかった、と思ってるか」
「いえ」
「ボスを辞めたいなら、そう言ってくれ。僕の兵隊として、お前だけは連れて行く」
「いえ。やります」
「どうしてだ」
「片山さんと一緒にやりたいっす。俺、片山さんの役に立ちたい」
「兵隊じゃ、駄目か」
「はい。まだまだっすけど、俺、片山さんの片腕になると決めてますから」
「命を預けることより、命を預かる方が、つらい立場に立つことを忘れるな」
「はい」
「お前はあの二人には言わずに、一週間、藤沢に行け。阿南さんという人がいる。阿南さんの指示で動け。自分の命は自分で守る。この基本は変わらない。腕力は重要じゃないと言ったが、最低限の力は持ってなきゃ、ボスの役は務まらない」
「はい」
浩平は、阿南の住所を書いて直人に渡した。
直人が部屋を出て行った後で、藤沢の家に行くというメールを阿南の携帯に入れた。阿南は、倉庫の地下を改造している。舞台で使うような張り子の壁を作り、エアー配管を設置している。阿南独自のアイデアで風船射撃場にしようとしているのだ。浩平たちが銃を使う時は、一瞬の判断が生死を分ける。的に狙いを定め、集中してトリガーを引いている暇はない。セット内にあるどの風船が膨らんでも、瞬時に銃弾を撃ち込まなければならない。そんな訓練施設にしようとしていた。
暗くて庭の様子は見えなかったが、庭の畑も引き継いでやっていると阿南か言っていた。野菜に関しては自給自足の生活ができるらしい。
「どうです。工事の具合は」
「ほぼ、完成ですよ。こんな楽しい生活初めてです」
「そうですか」
新潟にいた時の、あの暗い表情は全くなくなっていて、阿南の表情は生き生きとしていた。自分の命を絶つ決意をした男が、新しい人生を生きている。束の間かもしれないが、浩平はそんな阿南の姿を見ることができたことを喜んでいる。阿南も躊躇なく地獄への道を駆け下りていってくれる仲間だった。仲間に対して、大きな責任を背負うことになるが、浩平にも地獄の現実は見えていなかった。こんなことをして、意味があるとも思えないが、意味のない世界から自分の生き様を見つけるためには、地獄の果てまで行ってみるしかないという思いが強い。戦うことしかできない人間の業なのかもしれない。
「明日、本間直人という若者が阿南さんを訪ねてきます」
浩平は、いきさつを話した。
「あいつは、僕と一緒に地獄に落ちるつもりなんです。でも、百パーセント僕が守ってやることはできません。生き伸びる力は自分でつけるしかない。自衛隊に入って、毎日の訓練で身につけた方がいいんでしょうが、最低限のことを教えてやって欲しいと思ってます。一週間では、大したことはできないでしょうが、短銃の扱いをできるようにしてくれませんか」
「一週間ですか」
「無理ですか」
「難しいでしょうね」
「じゃあ、時間を作って継続的に来るように言います。今日明日に銃撃戦をやるわけではありませんから。ただ、調査の仕事も忙しくなります。できるだけ短期間でお願いします」
「わかりました。とことん絞りますが、いいですか」
「もちろんです。ギブアップしたら放り出してください」
銃の訓練をするより、格闘技の方がいいに決まっているが、短期間で力をつける方法はない。銃という道具に頼ることが、最短の道になる。

約束の一週間が過ぎ、浩平の部屋のドアを最初に叩いたのは広岡志保だった。
「志保ちゃん」
「お願いします」
「直人から、手を引くように言われなかったか」
「言われました」
「なぜ」
「私、お金が欲しいんです」
「金を稼ぐなら、他にも方法はあるだろう」
「男に媚を売って、股を開いて、ですか」
「そうじゃなくても」
「学歴もない、手に職もない私が稼げるお金が、どのぐらいか知ってますか。自分が生きていくので精いっぱい。私は、どうしても仕送りがしたいんです。止めたくありません」
「いつから、仕送りを」
「施設を出てからです」
「志保ちゃん。この仕事はいつまでも続く仕事じゃない。いずれ、潰される」
「それでも、いいんです。私、もうホステスの仕事に戻りたくない。コンビニ強盗やって捕まるのも嫌です」
「いつか、命のやりとりをすることになるかもしれない」
「片山さんには怒られるかもしれないけど、別に命は惜しくないんです。納得できない生き方より、納得できる死の方がいい」
「志保ちゃん、男の人を好きになったことは」
「ありません」
「でも、好きな人ができたら、その人といつまでも生きていたいと思うようになる」
「そして、子供を産んで、捨てるんですか」
「志保ちゃん」
「私、片山さんのことなら、好きになるかもしれません。でも、たとえ片山さんの子供でも生むつもりはありません」
「地獄への道だよ。直人の説明が悪かったと思う」
「いいえ。直人からは聞いてます、最初から」
「んんん」
「片山さんなら、絶望という言葉、知ってますよね。絶望の真ん中から戻ってくる場所はここしかなったんです」
「・・・」
「片山さん。私が女だからって、なめてます」
「いや」
志保がバッグからナイフを取り出した。皮ケースから取り出したのは、女には似合わないサバイバルナイフだった。志保はそのナイフを両手で、逆手に持った。目が座り、手も震えていない。本気で自分自身を刺すつもりのようだ。
「わかった。もういい」
「・・・」
「やめろ」
「・・・」
「お前は仲間だ」
志保の体が痙攣している。極度の緊張感が志保の自由を奪っている。ナイフを手にしたままで危険だった。浩平は志保の指を一本づつ外すはめになった。そして、やっとの思いで志保の手からナイフを取り上げた。
次第に震えが治まると、志保の目から大粒の涙が溢れ出した。浩平には、手の付けようがなかった。黙って眺めるしかない。保田の解説が聞きたかった。女は鬼門か。
「大丈夫か」
「はい」
やっと、志保が落ち着いた。
「志保ちゃんは卑怯者だ。ナイフの次は涙。男をなめてないか」
「ごめんなさい。でも、いいんですよね」
「ああ」
「ありがとうございます」
「僕が止めることわかっていて、やった」
「いいえ。私、もう、いいかなって」
「でも、やっぱり、卑怯だろ」
「すみません」
「この」
「すみません。私、ちびっちゃったみたい」
志保はトイレに走りこみ、浩平は大きな溜息をついた。浩平の敵が浩平を分析した時、弱点の欄に「女」と書くのだろうか。志保は三十分以上もトイレから出てこなかった。
いつもの様子に戻った志保は、コーヒーを入れると言って台所に立った。そして、黙々と掃除を始めた。浩平は朝からやっている国土交通省のデータ作成に戻った。
静かにドアが開いて、直人が来た。
「志保」
台所にいる志保を見て、直人の動きが止まった。
「直人。お前、大丈夫か」
「はい」
だが、直人はその場に座り込んだ。
「直人」
直人の返事はなく、目を閉じていた。浩平は顔を近づけて直人の呼吸を確かめた。死んでいるわけではない。そのやつれた顔を見れば、限界をここまで引き延ばして来て、ここで力尽きたのがわかる。阿南の訓練が過酷なものだったに違いない。浩平は直人の体を抱えて、自分のベッドに移した。
「大丈夫。生きてるよ。寝かせておこう」
心配そうな志保に、浩平は大きく頷いてみせた。志保が台所を磨き始め、浩平も自分の仕事に戻った。時折、直人の様子を確認する。胸が上下している。大丈夫だ。
「片山さん。私、何か買ってきます」
「ん。直人が起きた時に欲しがるようなものを頼む。この一週間、きつい訓練を受けてたんだ」
「はい」
志保がバッグを持って部屋を出ようとした時に、保田が来た。
「保田さん」
「来てたのか。本間さんは」
志保は顔で浩平のベッドにいる直人の方を指した。
「行ってきます」
志保が部屋を出て行った。
「買い物に行ってもらった」
「直人は」
「体、鍛えなおしてもらった。ぶっ倒れている」
「そうですか」
「保田さんは、どうして」
「僕は、辞める気なんてありませんよ。変ですか」
「保田さんなら、普通の生活できるでしょう」
「僕に、ですか」
「ああ」
「普通の生活、ね」
「僕たちは、はみだしもん、だけど、保田さんは違う」
「違いますか」
「そう、思う」
「まっ、いいです。今日、来れば、やらしてもらえるんでしょう。この仕事」
「まあ」
「僕、扶養家族があるんです。だから、金が欲しいんです」
「扶養家族」
「本当の家族じゃありません。ガキの頃の友達とその仲間。どうして僕が面倒みてるのか、今となっては、自分でも不思議なんですがね。あいつら、放りだしたら生きていくの難しくなると思ってるんです。いきかがかりでそうなってるんですけど、そういうことってありません」
「よくわかりませんが」
「ですよね。僕の趣味だと思ってください」
「その友達、何やってるんです」
「何もしてないです。だから、扶養家族」
「何人」
「今は三人」
「今は、って」
「勝手にいなくなって、また帰って来て、増えたり減ったりです」
「何者なの、その人たち」
「パソコンおたくっていうか、ハッカーというか。ともかく、生産的な仕事は何一つできない半端な人間ですよ」
「以前、本間探偵事務所やる前は、そんなに給料なかったでしょう」
「それは、大変でした」
「女に貢がせてた」
「それもあります。だから、この仕事、助かりました。それなのに、はい、そうですかとやめる訳にはいきません。片山さんだって、僕たちの食い扶持、稼ぎたいと思うでしょう。僕にも養う扶養家族がいるんです」
「自分の命かけても、ですか」
「そういう意味では、もう一つ理由がありますね」
「何です」
「僕は、片山さんのことが、好きなんです」
「えっ」
「あああ、勘違いしないでくださいよ。僕、そっちの趣味ありませんから」
「ああ」
「僕、片山さんみたいに、なれない。女の話を例にしても片山さんにはわからないでしょうが、女がよく言う台詞です。―あなたみたいな人、初めて―なんてね。僕も、そんな心境です。別に、こんな命、いつでもくれてやりますよ」
「わかりませんね」
「でしょうね。それより、あの子も続けるんですか」
「ああ」
「やっぱりね」
「やっぱり」
「いろんな理由はあるでしょうが、あの子も、片山さんのことが好きなんです。男と女の話じゃありませんよ」
「いつも、保田さんの話は別世界だな」
「こんな奴がいてもいいでしょう」
「まあね」
「志保ちゃん、買い物だと言いましたよね」
「ん」
「迎えに行ってきます。きっと、両手に荷物かかえて、ヘロヘロいってますよ」
「そうだな」
保田が出て行き、浩平は直人の寝顔を見ながら考えた。調査はしばらく中断するしかない。保田も志保も、阿南の訓練に耐えてもらう。
二人が両手に荷物を抱えて戻ってきた。三人でほか弁を食べたが、直人が起きてくる気配はない。保田と志保も帰る様子がない。結局、三人が床の上で雑魚寝をすることになった。翌朝、志保と保田が起きて朝食の準備をしていることを知っていて、浩平は寝たまま、自分の両肩にある重みを感じていた。この先、この重みはさらに増えるだろう。予測はしていたが、現実の重みは重かった。
突然、直人がベッドの上で起き上がった。
「目が覚めたか」
浩平は起き上がって、直人に声をかけた。
「片山さん」
直人は部屋を見回し、保田と志保を見て、ベッドに寝ている自分を見た。
「すんません」
「腹、減っただろう」
「はい。いえ」
「起きろ。朝めしだ」
「片山さん。そこで寝たんですか」
「ああ。三人で雑魚寝」
「すんません」
「いいから、起きろ」
「はい。どうして、二人がいるんです」
「辞めないそうだ」
「そんな」
直人が自分の体を持ち上げるようにしてベッドを離れ、台所に行った。
「志保」
「ごめん。片山さんを脅して、オーケーもらった」
「脅した」
「ごめん」
「直人。すまん。志保ちゃんにやられた」
「片山さん」
「僕も、オーケーもらったから」
保田を見た直人に、保田が宣言した。
「すまん。お前の頭越しにやるつもりはなかったんだけど、やられた。すまない」
直人が音をたてて椅子に座った。
「腹、減った」
野菜サラダ、ベーコンとスクランブルエッグ、オレンジジュース、そしてパンが山のように机の上に並んだ。四人は黙々と食べた。こんなに作ってどうなるのかと思った朝食は全て若者の胃袋に収まった。
保田がコーヒーをいれてくれた。正直、志保が作ったコーヒーより美味い。
「どうだった」
「きつかった、です。マジきつかった」
「合格したのか」
「まだまだ、だと言われました」
「そうか」
しかし、以前の直人とは少し違うと感じた。拳銃の訓練を受けただけで、精神訓練をしたわけではない。だが、直人は脱皮しようとしていると、浩平は感じた。
「本間探偵事務所は、当分の間、休業にする」
皆の視線が浩平に集まる。
「全員で、訓練に参加してもらう。直人が受けた訓練だが、どのぐらい時間がかかるのかはわからない。探偵事務所の再開は、その後にする。それと、念のために言っとくが、チーム本間のボスは直人。異存はないな」
「はい」
保田と志保が同時に返事を返した。


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