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海の果て 第1部の 7 [海の果て]


17

厚労省はしばらく手をつけないことにした。橋本は旧労働省の人間だが、今や将来の事務次官候補の筆頭になった。口先だけではなく、仕事の実力もあるので本当に事務次官になるだろう。
国土交通省の資料に関しては、浜中調査事務所が調べられる範囲は終わっている。浜中調査事務所には農林水産省の調査にかかってもらう。
厚労省の経験から、チーム本間の調査は国土交通省の外郭団体の選別から始めた。意味不明な団体名で、何をやってもおかしくない団体。少人数であることも選別要件とした。四団体を選別し、盗聴器の取り付けと資料の撮影を実行した結果、道路研究会という団体を選んだ。国交省の総務課の名前を借りて、意味のないお知らせメールを送り、パソコンに潜入。道路研究会のパソコンにバーチャル調査員を誕生させた。職員数は十八名となっているが、実際に勤務している職員は四人で机の数も十一しかない。それよりも、収入と支出が桁外れに多いことがわかった。年度によって違いはあるが、五百億以上の金が動いている。道路研究会の仕事は国交省や他の外郭団体から調査を依頼され、それを民間の会社に丸投げしている。ところが、実際の発注者は大手ゼネコンであり、丸投げしている民間会社は大手ゼネコンの関連会社だとわかった。浩平が侵入して撮影してきた資料の脚注には、ゼネコンの会社名が記入されていた。キックバックの金を受け取るためのシステムになっていると判断した。道路研究会の所管課は道路土木局土木課の課長で鳥居正行というキャリア官僚だった。チーム本間には鳥居を徹底マークをするように言った。道路研究会の職員となっている人間と仕事を丸投げしている民間会社の社員を洗い出して、浜中調査事務所に調査を依頼した。
鳥居正行は小柄で大人しそうな、職業は公務員という返事がよく似会う童顔の男だった。ほとんどのキャリアは自信満々で、俺が国を動かしているのだという傲慢を背追っている。だが、鳥居は腰の低いキャリアだった。
チーム本間にとっての問題は尾行に成功しないということだった。尾行に気付かれているという印象はないのに、必ず見失う。相手が意識的に尾行をまいているとしか考えられない。尾行に失敗した時は念のために自宅をチェックする。自宅に帰っている時もあるが、真夜中まで帰ってこない時もある。これでは、チーム本間は仕事をしていないことになる。浩平も尾行チームに参加させられたが成功しなかった。鳥居の変装に気がついたのは志保だった。男子トイレから出てきた鳥居は高級官僚ではなく、中年の職人だった。志保は鳥居の左手の絆創膏だけに注意を向けていたので発見できた。鳥居は田町のマンションに消えた。自宅は恵比寿だから、愛人のマンションなのかもしれない。外で見守っていると五階の端部屋に明かりがともった。愛人は留守だったのか。志保と直人は辛抱強く待った。一時間も経たずに部屋の明かりが消えた。二人はマンションの玄関に目をこらす。老婆と若い女性が別々に出て行ったが、鳥居の姿はなかった。マンションの前の通りは人通りもなく、遠くからの監視だったので見逃したのだろうか。
「あの女」
「は」
「女に変装してたんだと思う」
「女か」
鳥居は変装の名人だっただけではなく、女にも変身していた。そして、鳥居には男の恋人さえいた。
「あいつ、志保より女らしいな」
「直人に何がわかるの」
浩平が鳥居の奥さんの調査を浜中調査事務所に依頼した結果、男関係は派手なものだった。道路研究会の職員の調査結果も意外なものだった。鳥居の妻の旧姓の職員がいたことは驚きではなかったが、議員秘書の名前が五人もあったことである。議員へのキックバックは秘書給料という形で還元されていたし、道路研究会が調査を依頼した民間会社の非常勤の社員は国交省のOBや国交省職員の関係者だった。道路研究会もその先の民間会社も、実態のない立派なダミーだった。そこで年間五百億の金が動いている。
浩平は銀座の路上で鳥居に声をかけた。
「鳥居さん。ですよね」
「えっ」
少し首を倒して、浩平の方を向いた鳥居は、声もきれいで、どこから見ても女だった。
「国土交通省の鳥居さんでしょ」
「いいえ。人違い、みたい。あなたは」
「中野と言います」
落ち着いていて、美人で、きれいな声で、着ている物もセンスがよく、きれいな足の持ち主。変装していることを知らなければ、一目で恋に落ちそうな予感さえする。
「中野さん、どこかでお目にかかりました」
「いいえ。ご挨拶するのは、今日が初めてです」
「残念ね、人違いで」
鳥居は、きれいな笑顔を残して、立ち去ろうとした。浩平は横に並んで歩きながら、田町のマンションと恵比寿のマンションの写真を見せた。
「どこかで、お話できませんか」
「わかったわ。ここにしましょう」
鳥居は田町のマンションの写真を指でさした。
二人はタクシーで田町にある、彼女のマンションに行った。高級マンションに住んでいる女性の部屋には入ったことがなかったが、どう見ても女性の部屋だった。
「着替えた方がよくって」
「僕はどちらでも、いいです」
「そう。じゃあ、このままお話を聞くわ。何かお飲みになる」
「いえ。結構です」
「お話を聞く前に、あなたの正体を教えて」
「あの、すみませんが、やっぱり、着替えてくれません」
「どうして」
「鳥居さんにもどっていただかないと、話しづらい、です」
「あら、いやだ」
「そう言うことじゃなくて。僕、向こうむいてますから」
俺は遊ばれている、と思ったが、嫌な気持ちではなかった。
浩平は玄関の前に立ち、ドアの方を向いた。後で服を脱ぐ音がしている。男が女装しているだけだとわかっていても、胸が騒ぐ。ここに、保田がいなくてよかった。
「もう、いいですよ」
振り向いた浩平の前には、国交省職員の鳥居正行がいた。化粧を落としてかつらも外しているが、女装した時の鳥居を知っている浩平には素顔の鳥居も魅力的な女性に見える。応接用のソファーに向き合って座っても、目のやり場に困っている自分がいた。
「正体を教えるつもりはないようですね」
「はい」
「中野という名前も偽名」
「はい」
「中野さんは、僕のことを調べて、かなり詳しく知ってます。それって、フェアじゃないでしょう」
「すみません」
「お話、聞きましょう」
「ありがとうございます。道路研究会のことです」
「それが」
「業界からのキックバックを受ける団体ですよね」
「・・・」
「職員の中に、小原優子さんという方がいますが、鳥居さんの奥さんの妹さんですか」
「いえ、家内の母親です」
「議員秘書の方が、五名もいますね」
浩平は、国会議員の名前を二人告げた。
「なるほど」
「それと、道路研究会が業務委託をしている会社には実態がなく、社員も国交省関係の人たちばかりです。しかも、道路研究会へ仕事を依頼している本体は大手ゼネコン各社です。まだ、現金の動きは検証してませんが、相当な金額が動いています。なぜ、常勤職員が四人しかいない団体が五百億もの金を動かせるんですか」
「随分、調べましたね」
「これは、まだ中間報告です」
「で、どうしょうと。公表するつもりですか」
「どうして、そう思うんです」
「これだけの調査能力があって、中野さんの人柄を推測すると、不正にメスを入れる世直し隊に見えますが、どこかの新聞社ですか」
「違います」
「なら、公表は難しいでしょう。公表すれば、天地がひっくり返りますよ。こんな爆弾を引き受けてくれる新聞社はありません。新聞社がひっくり返ります。警察や検察が動いてくれますか。答えは、ノーです。大きな組織は、どこも動かないでしょう。赤旗新聞でも躊躇すると思います。だから、公表という選択肢はありません。中野さんは、どうしたいのですか」
「どこも、動きませんか」
「動きません」
「どうしてですか」
「中野さんは、この国の仕組みを理解していません。この国は、道路研究会のようなシステムで成り立っているんです。道路研究会は、一つの例にすぎないが、そのシステムが崩壊すれば、あらゆるシステムに波及することになます。そうなれば、国が崩壊します。既得権益を持っている組織が、そのことを座して見ていると思いますか」
「困りました。鳥居さんの話を聞いていると、国を相手に戦うしか道はない、と言うふうに聞こえます」
「その通りです。しかも、勝つ見込みのない戦いです。いいですか、この国ではちいさな正義を追及することも、小さな不正を積み重ねることもでますが、おおきな正義を求めたり、大きな悪を実現することは不可能です。国家とはそういうものなんです。中野さんは若いから、いや、体制側にいないから見えないのでしょう。国は国民のために存在しているのではありません。国の体制を維持することで、自分の権益を守ろうとする人たちのために存在しているのです。こういう調査をした中野さんに残された道は、革命家になることだけだと思いますよ。あなたが、革命家として先頭を走れば、そんなあなたについてくる公務員も数多くいると思います」
「鳥居さんも、その一人ですか」
「ええ。多分、失敗に終わるとは思いますが、あなたが走り出せば、私も一緒に走ろうとするでしょうね」
「参りました。僕の考えが甘かったようです。僕は世直し隊でも革命家でもありません。新種の暴力団みたいなものです。恐喝を仕事とする暴力団です。鳥居さんを恐喝しよぅとしましたが、不正が日の目を見なければ意味ありません」
「恐喝ですか」
「はい」
「似会いませんね」
「そうですか」
「私の女装趣味なら、恐喝の材料になりますよ」
「ご本人から、そう言われて、金を出せと言えますか」
「確かに、新種の暴力団ですね」
「は」
「暴力団なら、私からなにがしかの金をとるでしょうに」
「僕は、小金、いりません。鳥居さんからは百億単位でいただくつもりでした」
「今、フッと思いつきましたが、厚労省の前久保という課長、木谷という局長、中野さんの仕事ですか」
「まさか」
「私も、内部告発の誘惑に何度も襲われましたが、やめました。受け止めてくれるメディアがないと思ったからです。ところが、あの厚労省のハッキング事件で、ネットが情報発信の大きな武器になることがわかりました。既存のジャーナリズムは体制に組み込まれています。だから、革命はネットから起きます。あれは、中野さんのアイデアですか」
「だから、僕じゃありませんって」
「でも、ハッキングの能力は持ってる。そうですね」
「鳥居さんは、何を言いたいんですか」
「厚労省の情報は他の省庁に充分に伝わっている訳ではありません。厚労省は厚労省で隠しておきたいことが山ほどあるからです。あのハッキング事件で厚労省は大打撃を受けていると思います。それなのに、警告を発信しない。わかりますか、どの省庁でも他の省庁は赤の他人なんです。だから、私はあの事件の全容を知りません。それでも、ネットが大きな力を持っていることは証明しました」
「はい」
「中野さんにネットを自在に使いこなせる力があれば、恐喝の大きなカードになります」
「僕の恐喝に乗ろう、ということですか」
「そうじゃない。中野さんの目的と私の目的は違います。目的を達成するプロセスが同じ線上にある。そういうことです」
「驚きました」
「どうです。協力してみる気はありませんか」
「でも、目的が違う訳ですよね。最後に笑うのは、一人だけ」
「それじゃ、いけませんか」
「鳥居さん。僕があなたを脅して恐喝してるんですよね。逆転してるように思えるんですが、僕の勘違いですか」
「中野さん。ほんとの名前教えてくれませんか。あなたのことが、益々好きになりました。中野さんと呼ぶのは、溝が深い。お願いします」
「それは、勘弁してください」
「そうですか。一度よく考えてみませんか、お互いに」
「はい」
浩平は、ここは引き揚げる潮時だと感じた。このままだと鳥居の魔力に侵されてしまう。
「今日は帰ります。また、連絡します」
鳥居が自分の携帯電話を差し出した。浩平は礼を言って番号を移した。
「中野さん」
「はい」
玄関で浩平は振り返った。
「次、会うとき、女で、いいですか」
「・・・」
浩平が今までに接触した官僚は強欲と二人づれだった。欲を持っていないとしか思えない鳥居との接触には困惑した。それと、あの頭の回転の良さには勝てない。厚労省の木谷の頭の悪さと比較してしまう。同じ東大卒とは思えなかった。
「片山さん」
「お手上げだ」
チーム本間の三人が浩平の帰りを待っていた。
「国交省の不正を掲載してくれるメディアはないと言われた。公表することのできない情報には脅しの価値はないそうだ」
「どうしてです」
「公表されたら困るから、金を払う。鳥居は、公表できるなら協力すると言う。これじゃ、脅しにならない」
「ほんとに、公表できないんですか」
「鳥居の話では、そうなる。一度、試すことは必要だが、鳥居の言葉は説得力あった」
「そんな」
「ただ、どこかの新聞社と接触したとする。敵に回すことになる危険がある」
「どうして」
「鳥居は、前久保と木谷の事件は僕たちの仕事かと聞いた。新聞社の人間がそのことに気がつかないとは言えない。三宅組爆破事件と厚労省ハッカー事件の犯人を追う方が新聞社の利益になると思うだろう。警察と真崎組を敵に回して、その上新聞社を敵に回す。これってヤバくないか」
「そうですね」
「不正が似合わない省庁はどこだと思う」
「検察庁、警察庁、法務省」
「じゃあ、法務省の不正を捜そう」
「国交省をやめて、ですか」
「いや。実験。その不正をネットで攻撃する。反応があれば脅しの材料になる、と思う」
「はい」
「やり方はいつも通り。直人、やってくれるか」
「俺が、ですか」
「チーム本間と菅原さんでやってもらう。直人、我々の基本は」
「準備です」
「菅原さんには連絡しとく」
「片山さんは」
「池崎さんのとこに相談にいく」
「わかりました」
前にも感じたが、池崎たちのいるマンションの部屋は、得体のしれない空気が支配している。男所帯の臭いとも違う。鳥居のマンションとの落差はなんなのだろう。ハッカー三人に集まってもらった。
「法務省の不正をネット上で公表して、大騒ぎさせたいと思ってますが、方法はありませんか」
「不正って、どんな」
「天下りと裏金」
「うんんん。難しいよな」
「この前のような、下ネタはないんですか」
「そうそう。あの女王様のナイスボディー。あれが決め手だったよな」
「そういう政治ネタは、難しいと思います」
「そうですか」
「でも、それが仕事なんですよね」
「ええ。そうです。僕はプロの方にお願いしてるつもりです」
池崎だけは、役に立たなければ片山の仕事が来なくなることもわかっている顔つきだった。
「時間は、どのくらい」
「そうですね、一週間」
「片山さんの希望通りにはならないかも知れませんが、方法を捜してみます」
「よかった。お願いします」
一週間が過ぎて、法務省にも天下りと裏金の存在が確認された。
「留守宅を見つけられませんか」
池崎の話を理解するには、時間が必要だった。
「どういうことです」
「この仕事は、プライドを捨てます。力仕事です」
「説明してくれませんか」
「法務省の不正公表ページに、大勢の訪問者を呼び込むために、数で臨みます。考えられるだけの場所に書き込みをして、公表ホームページへの道をつけます。勿論、ご褒美は用意します。平井君は、雨宮悠里のファンで、画像処理の天才です」
「雨宮悠里って」
「アイドルです。トップアイドル」
「それと、画像処理がどう関係するんです」
「顔が雨宮悠里で、体は他人というコラージュ画像を置いておきます」
「で、力仕事というのは」
「誰にでもできる仕事ですが、時間が必要になります。ここのパソコンを使うのは危険が多すぎます。ですから、旅行にいっているような赤の他人の部屋で作業したい」
「留守宅ですか」
「はい。できれば男子の部屋で、自分のホームページを持っていればありがたい。旅行に行っていれば、その男子にはアリバイがあるので逮捕されることはありません」
「なるほど。なぜ、男子なんです」
「証拠は残さないこと。もし、残ったとしても、見逃す可能性を考えると、女子の部屋はよくないと思っています。あと、手術用の手袋」
「それと、ホームページですか」
「それは、無理にとは言いません」
「どの位の時間が必要なんですか」
「三時間」
「三時間ですか」
「それと、部屋の鍵が必要です」
「わかりました。なんとかします」
なんとかします、と言ったものの、全く絵は描けていなかった。チーム本間の三人に池崎の条件を話した。
「あの」
志保が遠慮がちに言いだした。
「旅行社で調べたら」
「潜入して」
「いいえ。旅行社は誰でも入れるし、パンフレット見てたら、かなり長時間大丈夫。カウンターに座っている人は契約している人でしょ。社員の説明を聞いていれば、出発日も何泊かもわる。その人を尾行して自宅を確認する。一人暮らしの男子を捜すのは簡単です」
「それでいこう」
「でも、ホームページまでは無理です」
「池崎さんも、そこは譲歩してくれてる」
部屋の鍵は、菅原の力を借りることにした。
大川という見知らぬ独身男子が旅行に出かけた夜に、池崎が作業をした。平井と植田の二人は自分の部屋でモニターしている。池崎が作業を終了すると、深夜にもかかわらずアクセスが急増した。キャツチフレーズは「省庁不正第2弾。レアがあるかも」となっていた。厚労省の件でレア画像があったことは有名になっているので、誰もが第2弾に期待したとしても不思議ではない。法務省のホームページからも、不正公表のホームページに直接飛ぶことができるようにしてある。
翌日、法務省不正公表ページは嵐のような騒動になった。最初は画像を求めるネットサーファーが殺到したが、騒ぎになると一般のアクセスも増える。ヒット数が増えれば、誰もが公表ページに一度は行ってみようとする。法務省は自省のホームページを閉鎖した。新聞はネット上の事件を報道する。事件を報道するだけなら、新聞社に傷がつくことはないという判断だ。どこの新聞も不正内容には踏み込まない。裏をとる取材は許可されないと思われる。どの新聞社も自分の手で、この種のパンドラの箱を開けてみたいとは思わない。
「池崎さん。大成功ですね」
「心臓、停まるかと思いましたが、今は満足してます」
「いつか、第三弾が必要になるかもしれません」
「勉強しておきます」
浩平は国交省の鳥居に電話をした。
「法務省の件、聞きましたか」
「やりましたね、中野さん」
「会っていただけますか」
「喜んで」
「じゃあ。明日の夜」
「場所は、私の部屋でいいですか」
「まさか」
「えっ」
「僕は夏の虫じゃないですから」
「私が信用できない」
「当然です。明日、電話しますから」
翌日、浩平は高輪プリンスのスイートルームで待機していた。
鳥居がホテルに入ったと直人からの連絡が入った。
「鳥居さん、ロビーで三十分待ってください」
「どういうこと」
「危険物がないか、確認しますから」
三十分後、鳥居が部屋に来た。前回よりも魅力的な女だった。だが、少し怒っている。
「怒ってます」
「ええ」
「犠牲者を出したくないんです。あなたに危険物がついていれば、排除せざるをえませんから」
「どういうことなの。逮捕されるのが怖いだけじゃないの」
「僕は、大丈夫です。警察官に犠牲が出るだけです。そして、その時はあなたの命も危険になります」
「私のため」
「はい」
「どうして」
「わかりません。なぜか、あなたを死なせてはいけないと思うんです」
「私はあなたを戦友にしようとしてるのよ。疑われるのは、イヤ」
「勘弁してくださいよ」
「わかったわ。打ち合わせにしましょう。戦友」
「ありがとうございます」
「法務省の件、見事だったわ。これで、カードができた。今は、どこの省でも戦々恐々としてるはずよ。カードを作ったのはあなただから、先ず、あなたの目的を達成しましょう。いくら要求するつもり」
「二百五十億」
「半分」
「はい。但し、これは初回分です」
「初回分」
「僕は恐喝をしてます。一度で済むとは思っていませんよね」
「今、私の中に激情が渦巻いての、わかる」
「また、怒らせてしまいましたか」
「ううん。あなたを押し倒して、犯したい。ここが痛いのよ」
鳥居は自分の胸を指さした。
「鳥居さん」
「触って欲しい、と言っても、無理よね」
「はい。無理です」
「あああ。どうしょう、私、駄目になっちゃいそう」
「鳥居さん。これ、打ち合わせですから」
「わかってる。わかってる」
鳥居は自分の気持ちを抑えるために目を閉じた。上気した鳥居の顔は美しかった。普通の女の気持ちもつかめないのに、女装した男の気持ちなどわかるはずもない。
「ごめんなさい。もう、大丈夫だから」
「二百五十億の件です」
「そうね。証拠を集めて」
「証拠、ですか」
「ええ。先ず、口座記録。現金の受け渡しの証拠。確かに、道路研究会は私の管轄だけど、私でも知らないことがいっぱいある。大きな現金が動いている。その全容と証拠がいるわね。あなたならできる。私は脅されたと言って、上の了承をとる。そして、あなたは二百五十億を手にする」
「わかりました」
「私は、あなたの目的達成に協力します。でも、条件が一つあります」
「何ですか」
「たびたび、私と会って、打ち合わせをすること」
「たびたびは、無理です。忙しくなりますから」
「じゃあ、できるだけ、時間を作って、でもいいわ」
「いいですよ。いつも、女装ですか」
「ええ。いけなくって」
「一寸、苦手なんですけど」
「そのくらい、我慢なさい」


18

チーム池崎の全面出動を覚悟したが、証拠集めは短時間で終了した。
「敵は手を抜いてますね。誰かが調査に来る事を予測してないとしか思えません」
「どう言うことです」
「ほとんど、ネットバンキングなんです。手間を省くということが優先してますね。僕たちも手間が省けます」
職員への振込、調査費の支払い、ダミー口座からの振替という資金の移動はすべて道路研究会のパソコンで済ませている。一か所に集めた資金の出金だけが銀行の店頭で行われる。だから、道路研究会のパソコンになりすますことで情報は得られる。過去一年間の資金移動情報はすべて池崎のパソコンに集められた。いかにも個々の支払いをしましたと言う体裁を保っているだけで、全容を掴めば不正が表にでてくる。税務署や警察の捜査が無いと言う前提に立たなければ、こんな無茶はできない。日本のエリート官僚も、ぬるま湯の中では知恵が働かなかったのだろう。年間収支の約半分が現金化され、どこかに移動している。鳥居正行の妻の実家の名前になっている口座からの振替は行われていないので、末端口座から振替処理が行われていない口座が国交省の取り分と思われる。議員秘書に支払われている分と現金化された資金の行先が政治家の取り分となる。
チーム池崎は国交省の取り分と思われる口座の、個々の入出金経歴を銀行のシステムに入り込んで調査を続けている。金を動かす場合のセキュリティーは厳しいが、閲覧やコピーはそれほど厳しくない。口座番号さえあれば、必要な暗証番号の類は銀行のシステムに入っているので、それを使えばいい。現金で出金されると、物理的な追尾が必要になるのだが、振替をしているケースがほとんどだった。その振替先が実際に受け取っている人物なり団体となる。
道路研究会が現金の引き出しをするのは十五日と決められているようなので、チーム本間は尾行の準備をした。だが、現金授受の証拠を押さえることは至難の業だと思われる。直人は打開策を考えるために動画も撮ることにして、保田と志保を車に同乗させた。途中、警察署の交通事故掲示板を写して、その日が何日なのかを証明する。運転を担当している若い男は道路研究会の職員ではないが、戸別訪問は常駐している中年の女子職員だった。運搬先は、議員会館や議員事務所ではなく、議員の自宅または秘書の自宅に運んでいるようだ。
「証拠は押えられませんでした」
浩平は尾行から戻ってきた直人の報告をきいた。紙袋を持ち歩いているだけで、現金の授受ではないと言われれば反論のできない映像だった。
「そうだな。一軒ずつ忍び込んでカメラ回すわけにもいかない」
「どうしましょう」
「議員事務所に行ってみるしかないか。現金のままで置いてあったら駄目だが、銀行に持ち込めば情報は取れる。また、菅原さんの力を借りよう」
十一人の議員事務所のデータを盗み出すのには、二か月を要した。各々の口座経歴を調べた結果、道路研究会が十五日に出金した金額と議員が口座へ入金した金額には大きな違いがあった。現金のまま、別の場所に移動している大金が存在する。しかし、そこから先は調査のしようがなかった。名前を聞けばだれでも知っている大物国会議員の事務所には盗聴器を取り付けてもらった。他の情報が取れるかもしれないという思惑で、念のために取り付けたものだが、次の十五日の記録を聴いてみる必要がありそうだ。
盗聴器のデータからは、ヒントになりそうな会話はなかった。完全に手詰まりの状態になった。それでも、浩平はその大物議員に食らいつくことにした。周辺にマンションはなかったので、苦労して小さなビルの小さな部屋を借りた。古いビルの空室率が高くなってきており、今では得体のしれない会社にも部屋を貸すようになったらしい。一応、事務所の体裁をとるために机を配置したり、電話を引いたりした。貿易商社の片山商事として、使用することになりそうだ。議員事務所の監視をするチーム本間は、九時から九時まで交替で片山商事の部屋に社員として通った。
十五日を過ぎると、見たことのある紙袋を持った人たちが議員事務所に集まってくる。数日後に台車に乗せた紙袋が隣のビルに運び込まれるのを確認。監視役の志保が追ったが、どの階に行ったのか確認できなかった。入居しているテナント名を書きとってきた。
「三階のここだと思うんですが」
志保が指したのは「日本の国土を考える会」という団体だった。すぐに、浩平は電気工事士になって三階の「日本の国土を考える会」を訪問した。そこは無人の部屋だった。
翌日、菅原を伴って電気の工事に行った。
「ここは、セキュリティーかかってます。それを調べるのが先ですね」
「どうするんですか」
菅原は天井を見ながら、廊下を捜した。
「先ず、あそこに脚立を立てましょう。片山さん天板を外しておいてください」
浩平は廊下にある天板のビスを外した。反対側の廊下なので、菅原が何をしているのかわからない。
「片付けますよ」
仕事を終えた菅原は浩平を手伝って天板をもとに戻した。
ビルの入口で、誰かを待っているという顔で立っていると。警備会社の制服を着た男が二人、ビルに急ぎ足で入って行った。エレベーターは三階でとまった。
「行こう」
「もう、いいんですか」
「警備会社がわかればいい。普通、警備会社の名前はどこかに貼ってあるんだけどね」
「で」
「警備会社によって違う。俺も、ただ単に電気工事会社に行ってるだけじゃないんだよ。仕事柄、警報システムは研究してる」
何度も下見に行き、十日後の深夜に「日本の国土を考える会」の部屋に入った。部屋は小さな事務所になっていて、もう一部屋は理事長室のような部屋だったが、巨大な金庫があった。菅原が大きく息を吐いた。
「出直しましょう」
「はい」
また、十日かけて議員事務所の下見をした二人は、議員事務所で金庫の番号の控えを手に入れ、鍵の複製を作った。
再び、「日本の国土を考える会」の金庫を開けた二人は、現金に目を見張った。
「無理だな、これは」
「そうですね」
二人は何も盗らずに部屋を後にした。「日本の国土を考える会」に常駐職員がいないことが救いだった。三度も忍びこめば危険は増大する。
三度目の訪問はチーム本間も参加した。災害時に使うシューターを用意した。外ではチーム本間が現金を受け取ってくれる。侵入した二人は一生懸命シューターに現金を投げ込んだ。チーム本間の三人の仕事も大変だったろうが、無事に金庫の中を空にすることができた。現金は五十億以上あった。
「これは、証拠の品物だから、しばらくは使えないぞ」
「わかってますよ」
「この件が決着して、返さずに済めば、これは全員で分けよう」
「おう」
「みんな、きわどい仕事ばかり、よくやったと思う」
現金の保管は直人に一任して解散した。一人になった浩平は鳥居に電話した。
「証拠が手に入ったので、一度会いましょう」
「うれしい」
ホテルオークラの部屋に入ってきた鳥居は少し痩せたようだった。
「痩せました」
「わかる」
鳥居の目が輝く。
「いえ。そんな気がしただけです」
余計な事を言ってしまった。
「これが、証拠です」
「これだけ調べられたら、逃げられないわね」
「そして、これが政治ルートです」
ワープロで書いた表と現金を運ぶ写真を渡した。
「証拠としては、少し弱いと思うけど」
「ですよね。政治家ですから。さすがと思いました。日本の国土を考える会の金庫にあった現金の写真はあります。現金、今はありませんけど」
「どういうこと」
「五十億は前払で頂きましたから」
「ほんと。あなたって、ほんとに楽しいわ」
「これで二百五十億の交渉できますよね」
「違うわ、二百億よ。連中、五十億の分は出さないわよ」
「そうですか。じゃあ、二百億です」
「随分、大変だったでしょう」
「まあ」
「私も、国交省なんて辞めて、あなたの仲間になろうかな」
「無理ですよ。鳥居さんはエリート官僚が似合ってます」
「私のこと、いやがってるの」
「そんなことないです。人には、決められた生き方みたいのがあるように思うんです」
「たしかに、そうね」
話を引きのばされて、なかなか解放されなかったが、犯されずに別れられたことはよかったと思った。回答は十日後と指定した。
結果的にネット公表でも、という思いが少しだけあった。鳥居を喜ばしてもいいかな、と言う思いだ。対面していると女としか思えないが、実際にはれっきとした男なのだ。あれが、本物の女だったらネット公表に同意していたかもしれない。
十日後、浩平は確認の電話をした。
「はい。鳥居です」
返事をしたのは、まだ男のままの鳥居だった。
「まだ、国交省ですか」
「そうです」
「電話、し直した方がいいですか」
「いえ。このままで」
何かがあった。
「回答を聞きましょう」
「はい。その前に、もう一度話し合いたいそうです」
「どういうことです。あの資料では不足ですか」
「いえ。そういうことでは」
「鳥居さん」
別の人間の声が近くで聞こえる。
「拒否と受け取って、いいですね」
「待ってください。拒否はしません」
争っている様子が伝わってくる。突然、同間声の男が電話に出た。浩平は電話を切って、念ために電話ボックスを移動することにした。公衆電話が少なくなり、電話ボックスを捜すのも楽ではない。十分近く経って、再び鳥居の電話番号を押した。
「鳥居さん。何か企んでます」
「違います」
「では、すぐに目白の駅に移動して、改札を出た場所で待ってください。一時間です」
浩平は直人に電話して、目白駅で監視体制に入るように指示し、浩平も池袋に移動した。
「目白にいます」
直人から電話が入った。
「鳥居が来る。確認したら電話くれ」
「はい」
浩平は携帯電話をポケットに入れて、公衆電話ボックスの近くに移動した。
「確認しました」
直人から電話が来た。一時間以内に到着したようだ。
「何人、いる」
「五人です」
「何か、変わった様子は」
「この場所では、五人とも周囲から浮いてますけど」
「それだけか」
「はい」
「そのままで、実況報告してくれ」
浩平は公衆電話から鳥居に電話した。
「はい。鳥居です」
「わかるように、説明してください」
「大槻先生が、どうしても交渉する、と言いまして」
「僕と交渉できるのは、鳥居さんだけだと言ってやってください」
浩平は別の耳で直人の実況を聴いていた。「携帯をとられました」
「大槻剛三だ。俺が交渉する」
同間声は大槻議員のようだ。
「聞いているのか。大槻だ」
「落ち着け。指示に従わなければ、交渉は終わる。わかるか。お前も終わりだ」
「もう一度だけ、交渉したい」
大槻は少し弱気になった。
「鳥居さんに、替るんだ」
「申し訳ありません。鳥居です」
大槻は鳥居に電話を戻したらしい。
「鳥居さん。時間あれば、大槻を説得できますか」
「無理だと思います」
「そうですか。じゃあ、大槻の電話番号を聞いてください。僕から話しましょう」
浩平は大槻の電話番号をメモに控えた。
「僕からの電話を待つように言っておいてください」
「はい」
浩平は警察の動きが知りたいと思った。議員の大槻が警察に駆け込むのは、最後の手段だと考えるだろうが、国交省が警察に通報しないとは限らない。捜査本部が出来ている以上、警察は各省庁に厳重注意と単独行動禁止を通告していると思われる。大槻に電話をする前に阿南を呼ぶ電話をした。
「品川埠頭を打ち合わせ場所にする。チーム本間は事前に配置して、敵の全容を掴んでもらう。阿南さんは、僕のバックアップをお願いします」
「相手は」
「警察かもしれないが、僕は暴力団だと思っている。もし、警察だったら、打ち合わせ場所を変更して、警察を移動させてから、打ち合わせは中止する。その間に離脱してもらう」
「暴力団でも、やばくないですか」
「あの議員先生は、簡単には諦めない。極限まで追い詰める」
「そうですが」
「三人は、絶対に手を出すな。何人か死ぬやつが出るかもしれない。それでも、絶対に手を出すな。約束できないなら、この作戦には参加してもらいたくない」
「わかりました」
「阿南さんも、僕が合図するまでは、堪えてください」
「了解」
「もちろん、大槻が一人でくれば、何の心配もなしだ」
場所の下見をして、チーム本間の配置も決めた。打ち合わせは午前一時にコンテナ置き場の突端で行うという電話を大槻にした。
「必ず一人で来てください」
「わかった」
大槻は簡単に返事をした。
チーム本間の三人はすでに配置についているはずだ。浩平と阿南は品川の小学校の通りに車を停めて待機した。
九時を過ぎて、最初の連絡がきた。
「車が何台も集まってきてます。ベンツですから、警察ではないと思います。また、連絡します」
「集まってきた車はベンツだそうです」
「やはりね」
「一時までは、まだ時間ありますね」
「筒井さんの件、報告していいですか」
「忙しくて、聞く暇なかったですね」
「片山さんは、ふっきれたんですか」
「それが、なかなか」
「そうですか」
阿南のアメリカ出張の報告を聞いた。いくつも興味深い話があった。十時過ぎに二度目の報告がきた。
「確認できた人数は、十八人です」
「了解。引き続き頼む」
「はい」
十二時を過ぎて、三度目の報告があって、待ち伏せの人数は二十二人になっていた。
浩平は一時になるまで動くつもりはない。一時になって、四度目の報告があり、大槻と思われる人間と七名が到着したようだ。待ち伏せの場所を地図に書き入れる。
「途中で降ろします。徒歩でおねがいします。地図は持っててください」
「了解」
浩平は車を出した。品川埠頭に入ると車の通行はない。暴走族が来るかもしれないと心配したが、それもないようだ。待ち伏せの車両から見えない場所で阿南を降ろして、浩平は打ち合わせ場所に車を進めた。前方に停まっている車から人数が降りてきたので、車のスピードを落とした。後方から数台のヘッドライトがきている。防犯のための明かりで周囲はそれほど暗くなかった。
浩平は車を停めた。前後から男たちが走り寄る。拳銃を手にした男が数人いた。浩平は車を降りて両手を挙げて、歩き始めた。人数を確認すると、二十名前後しかいない。残りの十名は後詰に回ったようだ。阿南が言ってたように戦争を知っている男がいるらしい。
「大槻さん。約束が違いますよ」
「当たり前だ。あの金を返してもらおう」
「そうですか」
大槻の後ろにいる男に見覚えがあった。大阪の松木組の組長で、真崎組の幹部の男だ。三宅組爆破の時に来ていた男。どうやら、関東方面の責任者らしい。
「松木さんですね」
「やはり、あんたが三宅組の」
三宅組爆破の時に顔を合わせたわけではないが、松木は感のいい男のようだ。充分に変装してきているので、不安はない。
「松木さん。僕が一人で来たのが、意外ですか」
「ああ。なにかあるな」
「用心してください」
「名前を聞こうか」
「今は、中野と名乗ってます」
「なめやがって」
「大槻さん。一人できたら、あの金返してもいいと思ってたんですよ。どうです、仕切り直ししますか」
「大槻さん。この男に騙されちゃ駄目ですよ」
「ん。ともかく、あの金はすぐに必要な金なんだ。返してもらう」
「ところで、松木さん。人数が足りませんが、集めていただけますか」
「なに」
「あと、十人」
「調査済みか」
「はい」
「お前の援護がないとわかればな」
「もう、配置済みですよ」
松木は周囲を見回した。
「松木さん。武器を捨てるように言ってください。僕はあまり殺しは好きではないんです」
「・・・」
「チャカを持っている人間から、死ぬことになりますよ」
松木は判断に迷っている。
浩平の左側にいた男が後ろに倒れた。男は動いていない。続いて隣の男が同じように後ろ向きにぶっ倒れた。どこかに狙撃者が潜んでいるとしか思えない。
「チャカを捨てろ」
浩平は大声で警告したが、松木が浩平に掴みかかってくる。浩平の左足が一閃して松木が地面に這いつくばった。
「チャカを捨てろ」
男たちのリーダーが倒れたことで、動揺が広がった。浩平の目の前にいる男が後ろ向きに倒れて、動かなくなった。男たちが銃を投げ捨てる。大槻が金を取り戻すまでは殺すなと指示していたのだろう。本気で浩平に銃口を向けるものはいなかった。
「全員。両手を上に挙げろ」
ざわめく男たちが次々と両手を上に挙げた。松木が起き上がろうとしている。浩平の蹴りが松木の顔面を捉えて、松木が失神した。
「もっと、上に」
男たちは必死に両手を挙げた。
「全員、進め」
浩平は岸壁の方を指差した。男たちは素直に従った。
「飛べ」
暗い海を前にして男たちが怯んだ。
「死にたくないなら、飛ぶんだ」
一人が飛ぶと、次から次へと飛んだ。浩平は失神して倒れている松木と腰を抜かして地面に座り込んでいる大槻の所へ戻ってきた。
「大槻さん」
「は、はい」
「あなた、余程、死にたいようですね」
「そ、そ、そ」
浩平は松木に活を入れた。
「松木さん。残りの部隊を呼んでください」
松木は周囲を見回して、誰もいないことに驚いている。
「場所はわかってます。全員殺しましょうか」
「わかった」
松木が携帯で指示を出し、車が二台やってきた。
「武器を捨てるように言ってください」
「みんな、チャカを捨てろ」
男たちが武器を捨てた。
「海に飛び込んでもらいます」
浩平は岸壁の方を指した。
「三人やられた。みんな、海に飛び込め」
松木も岸壁を指さしてどなった。戸惑う男たちに「いけ」と松木がどなった。これ以上死人を出したくないという松木の気持ちが伝わったようで、男たちは一目散に走って飛んだ。
浩平は手を上に挙げて円を描いた。すぐ傍のコンテナの蔭から、小銃を手にした阿南が姿を見せた。今日は黒い目出し帽だった。
「車に乗ってもらいます」
二人は大人しく浩平の車に乗ってきた。
「運転は僕がします。妙な動きをしたら、構わずに発砲してください」
浩平は三人を乗せて大井埠頭に向かった。
「松木さん。後片付けしとかないと、やばくないですか。銃が転がってますよ」
「電話しても、いいのか」
「そうしてください。用件だけでお願いします。それと、あの三人は気を失ってるだけですから、連れて帰るように言ってください」
松木は電話に出てきた人間に怒鳴り散らかしていたが、電話を終えると疲れた様子で椅子に沈みこんだ。
大井埠頭に車を停めた浩平は大槻を連れて外に出た。
「大槻さん。大変なことをしてしまいましたね」
「すまん」
「どう始末つけます」
「わからん」
「大槻さん。僕のこと若造だとなめてませんか」
「いや」
浩平は振り向きざま、大槻の腹部へ軽い蹴りを入れた。その場に倒れこんだ大槻の顔、腹部、背中、足とあらゆる場所に連打を放った。痛さと驚きで、地面を転がる大槻の顔がゆがむ。
「大槻さん。立ってください」
大槻は丸まったままで喘いでいる。
「立たないと、もっと痛みますよ」
大槻の喘ぎがとまった。耳はよく聞こえている。
「三つ、数えます。ひとつ」
大槻の体がおもちゃの熊のようにすばやく立ち上がって、直立不動の姿勢をとった。六十を超えた老人の動きとは思えない。
「これが、あなたと僕の力関係です。わかりますよね」
「はい」
「今だけではありません。いつでも、あなたを痛めつける力があります。そこを充分に理解してください。横浜の三宅組爆破事件、知ってますよね。また起きるかもしれません。あなたの事務所や自宅で」
浩平は大槻の体に恐怖が浸みこむ時間をおいた。
「大槻さん」
「はい」
「僕の指示に従ってくれますか」
「はい。従います」
「今日のようなスケベ根性は、あなたの損にしかなりません。わかりますか」
「はい」
「今日のあなたの違反は、あの五十億で許してあげます」
「はい」
「国交省の鳥居さんに伝えた条件で、いいですか」
「はい」
「大槻さん。あなたは政治家でしょう。いつまでも、古い権益にしがみついていては駄目です。常に新しい権益を掘り起こして金にする。それが政治家の仕事でしょう。もう、歳とって、その元気ありませんか」
「いえ」
「これを、いい機会として、新しい権益を開拓するんです。その金まで獲ることはしません。初心を忘れてはいません。政治家が貪欲というパワーを失ったら、もう政治家ではありません。先輩が開拓した権益にしがみついている姿は見られたもんじゃない。常に新しい権益に向かっていくのが、政治家のあるべき姿ですよね」
「はい」
「一回だけ、という約束ですから、あなたとの交渉はこれで終わりです。よろしいですか」
「はい」
「僕は、松木さんと話があります。ここで、しっかり立ったまま待っててください。この場所を動いては駄目ですよ」
「はい」
浩平は車に戻った。
「松木さん。提案があります」
「その前に、あんたが何者なのか、教えてもらえないか」
何度も修羅場を潜ってきただけあって、松木は自分を取り戻していた。
「中野などと言う、偽名では困りますね。でも、まだ名前つけてないんです。そうですね、霞が関の一字をもらって、関組としましょう。霞組ではすぐに消えてしまいそうですから」
「ふざけてろ」
「いえ。本気です。今日から関組と名乗りますよ」
「・・・」
「そこで、提案なんですが、霞が関はうちのテリトリー、やくざ風に言えば縄張りというやつです。霞が関に何らかの係わりがあの案件は関組がやります。真崎組は手を引いてもらいたい」
「馬鹿なこと、言っちゃいけない」
「これも、本気なんです。今日は死人を出しませんでしたが、松木さんを含めて全員が死んでいても不思議ではありませんでした。天下の真崎組でも、潰すことができます。真崎組をここまで育てるのは、並大抵ではなかったと思っています。ここで、潰してしまって、いいんですか」
「やくざを、なめちゃいけない」
「あの大槻さんも、そうでした。今までのやり方で何とかなる、と思っていました。真崎組は時代を変えました。やくざ屋さんは、それがいつまでも続くと思っていますよね。あなたなら、何か違うと感じてるはずです。だから、松木さんに話してます」
「・・・」
「西宮をつぶしても、真崎組は変わらないと思ってませんか。僕は大きく変わると思っています。群雄割拠でつぶし合いになります。東京の勢いも強くなります。そして、真崎組の時代が終わるんです。松木さんにとっては喜ぶべきことかもしれませんが、今は時代の先を見ていたのは松木だと言われた方が得だと思いますね」
「一体、何ものなんだ」
「だから、関組ですよ」
「どうしろと、言うんだ」
「だから、霞が関には手を出さないという通達を出してください」
「無理だ」
「そうですか。あなたなら、わかってくれると思ってたのに残念です。次にぶつかった時は、あなたを含めて完璧に潰します。そして、真崎組も」
「一応、話だけはしてみる。話すだけだ。はいそうですかと言う訳がない」
「それでいいです。真崎組に時代を読む人がいることを祈ります。松木さんは、その先を見据えておいた方がいいでしょう」
「俺のために、言ってるのか」
「そうです。あなたには何かある。もう少し見てみたい」
「わからん男だな」
「降りてください」
松木が車を降りて、浩平は大槻の様子を見た。直立不動だが、体中が震えている。時間の問題で倒れるだろう。浩平は二人を残して、車を発進させた。


19

「片山さん。あれは、何をしたんです」
「あれが、気道です」
「初めて、見せてもらいました」
「危険な殺人道です。だから、武道家を諦めました」
「筒井さんがやってたような傭兵になれば、世界のトップになりますね」
「殺すためだけの戦いは、ちょっとね」
「そうですね。片山さんには似合わない」
「今日、僕の部屋に泊ってくれませんか。明日、集まってもらおうと思ってます」
「いいですとも」
直人に連絡して、明日の集合の段取りを頼んだ。菅原はもう寝ているかもしれない。
翌日の夜、菅原の時間に合わせて六人が集まった。
「今日は、これからのことを話し合いたいと思って集まってもらいました。仕事がどんどん増えて、これ以上は難しいと思う。どうしたら、いい」
「どうしたら、と言われても」
「今までの仕事で守りに入るか、人数を増やすかの時期だと思う」
「それを決めるのが、片山さん、あんたの仕事だよ」
滅多に口を出さない菅原が言い、皆が頷いた。
「菅原さん」
「みんな、ついていくよ」
「そうですか。僕が足を洗いたいと言っても、ですか」
「それは、それでいい」
誰の顔にも、異存はないと書いてあった。
「では、一つ提案があります。ここにいる一人一人が新しいチームを作って、組織を大きくする方法です。チーム本間は解散。チーム保田、チーム広岡、勿論、チーム菅原も作る。新しい仲間を一人づつ確保すれば、今の倍の人数になる。日本の国土を考える会から頂いた金は、約束通り分けて各人の資金とします。一人十億です。ここから一番難しいのは、裏切り行為だと思う。ここまでは、僕の責任で皆を守るし、皆を守るために排除もします。だが、新しい仲間に対する責任は、それぞれの人にある。組織というものは、そういうものだと思う。やってもらえるだろうか」
「目をつけてる奴がいる。俺も一人じゃ苦しいと思ってる」
菅原が最初に賛成の手を挙げた。
「自分も仲間にしたい奴がいる。まだまだ出番が少ないから、言いだせなかった」
阿南も賛成した。
「僕は、浜中事務所にいる男にします」
保田が賛成した。
直人と志保が、目を丸くした。
「私には無理です。十億はいりません。誰かのチームに入れてください。お願いします」
志保は降りた。
「直人」
「俺、何も考えてなかったから、今から捜します。でも人数は増やします」
「そうか。誰か志保を引き取ってくれるか」
「僕が引き取ります」
保田が手を挙げた。
「直人さんには、片山さんの副官の仕事もあって、大変だと思いますから」
「志保はそれでいいか」
「はい。ありがとうございます」
「じゃあ、志保の十億は保田さんが取ってくれ。保田さんには池崎さんたちの面倒もみてもらわなくちゃならないから、その分だと思って」
「はい。わかりました」
「しばらく、まだ、先に進むか」
五人の顔が引き締まって見えた。
「実は、昨日、真崎組に宣戦布告してきた。いよいよ、暴力団になった。霞が関を縄張りとする暴力団。霞が関の一字をとって、関組だと名乗った。つまり、僕たちは犯罪集団なんだ。どんなに格好つけても、犯罪集団に変わりはない。危険の崖っぷちを歩かなければならない。ここからは、本気の覚悟がいる。皆は生身の人間だから、辛いことも、死ぬこともありうる。それでも、いいのか」
誰も返事をしなかったが、覚悟はしている。
「じゃあ、一年後に新体制を完成するとして、心配事が一つある。警察の動きがわからないことだ。捜査本部が出来て時間も経った。証拠は握られていないと思っているが、よくわからない。今回の品川埠頭の件でも、警察は情報を取るだろう。大槻が密告する可能性もある。警視庁は難しいとしても、警察庁に複数の盗聴器を仕込みたい。できるだけ多くの情報を取ってもらいたい」
異例ではあるが、捜査本部は所轄署ではなく警視庁におかれている。事件が東京と神奈川にまたがっているためではなく、霞が関が大きく係わっているという理由のようだ。ただ、警視庁内部では刑事と公安に軋轢があり、纏まっているとは思えない。どちらにしても、警察庁には全ての報告が上がってくる。さらに、事件が大阪や神戸に広がれば、内調や他の調査機関も独自に動き始めるだろう。それぞれの組織の調整が必要になり、最終的には警察庁が重要な役割を担うことにならざるをえない。そして、国家機関の内部で綱引きが始まる。秘密の暴露を恐れる省庁と議員。内閣に圧力がかかり、検察、警察、公安、調査機関もフリーハンドの捜査は難しくなる。犯人に迫るということは、国家機関が公然とやっている不正の公表に迫ることにもなる。国民は国が暴力団とこれほど密接に繋がっているとは思ってもいないだろう。暴力団はすきま産業と似ている。不正のすきまに浸透していくのは当然のことで、それが仕事なのだから仕方がない。不正のない国家機関など存在しないのだから、暴力団と二人三脚になるのは、必然とも言える。不正はやってます、暴力団とは協力してます、などということは国民に知らせてはいけない。時々、小さな不正を摘発し、国民のガス抜きをすることも国の仕事であるが、大きな不正を暴露されることなどあってはならないことである。
浩平は革命家でもなければ、正義の味方でもない。だから国を転覆させようという意図もない。生きることに行き詰ってるだけの名もない市民なのだ。ただ、その名もない市民が新興暴力団となって不正の構図のなかに割り込もうとしている。既存の暴力団と勢力争いになることも、仕方のないことだと思っている。理屈も哲学もない。緊張感のある一日が欲しかっただけの男だ。国家機関と暴力団に追われ、力関係で決着が着くとすれば、最終的には死だけしか選択肢は残されないのだろうという予感はある。どこまで戦えるのか。自分では、自衛隊が治安出動してきた時が最後だと感じている。国軍を相手にして勝てるとは思っていない。国の秘密はもっとある。深刻で危険な秘密が山のように存在している。その秘密を浩平が握って、突如革命家に変身した時に、国はどう対処するのだろうかという興味がないわけではない。自分は生まれながらの戦士なのか。そうだとすれば、目の前の敵を倒すことが使命なのかもしれない。わからないことばかりだ。
組織が大きくなれば、浩平一人で全員を守ることはできない。今日の提案は、自分の命は自分の責任で守ってもらうという宣言でもある。だから、志保の判断は正しい。多分、女の直感なのだろう。やはり、女は恐ろしい。
菅原が会社を辞めて、職場を替えた。新しく就職した会社は東都メンテという会社で、官公庁の仕事ばかりを請け負っている。菅原は電気工として、立派に一人前になっていたので、辞めるのには随分苦労したらしい。
二か月後に、菅原が警察庁と警視庁の電気図面を持ってきた。
「よく、こんなものコピーできましたね」
「実にゆるい。いいのかなと思ってしまう」
「助かります」
「どっちにする」
「警察庁に」
「じゃあ、警察庁の担当にまわることにする」
「そんなこともできるんですか」
「本採用になったら、希望を聞いてくれるらしい」
「日本という国、大丈夫なんでしょうか」
「俺もスパイみたいなもんだけど、よその国は楽だと思うよ」
それから一ヶ月後に本採用になった菅原は毎日のように警察庁に仕事にでかけた。
菅原と話し合いの結果、長官室と刑事局長室、そして刑事第七課長室の三か所に盗聴器を取り付けることになった。
データ収集は走行中の車からも可能なので、運転手さえいれば走り回るだけでデータを取りこむことができる。毎日同じような場所に車を停めて親機の操作をしなくていいので怪しまれることもない。問題はデータを聴く作業にあった。キーワードを指定して、そこだけを拾いだすことができるという高度なソフトは付属品としてついていない。阿南が筒井を経由して確認中だった。音声を文字に落とすことができれば、文字の検索が可能になるのだろうが、日本語に対応させるだけのニーズはないと言われている。五時間のデータには五時間かかるのが現状だった。直人が仲間として連れてきたのは、録音データを聴く作業をしてくれる女の子だった。直人や志保の後輩で、施設を出て、社会の荒波に翻弄され、生活を支えるため際どい仕事につかざるをえない若い女の子。その仕事でもいいという子もいるが、苦痛に思う子もいる。経済的にも精神的にも追い詰められ、行き場を失った女の子が二人やってきた。高校を卒業すると施設を出なければならない。行方のわからない子供や犯罪に走った子供、男の食い物になっている子供。不幸を背負っている子供たちの数は少なくない。そういう子供たちは、清廉潔白では生きていけないということを体で知っているから、犯罪に係ることには抵抗がない。大人なんて、きれい事だけ言って信用できないと思っている。直人のアパートにも志保のアパートにも、行き場を失った子供たちが来ていることは浩平も知っていた。直人も志保も、あえて仲間にはしなかった。自分たちがやっていることが犯罪行為だということがわかっていたからだ。だが、追い詰められて、死と直面している子供たちに、その場しのぎの金を与えても解決にならないことを体験していた。「死ぬぐらいなら」という思いで、直人は二人の女の子に仕事を与えた。経済的に安定すると、子供たちは精神的にも安定するらしく、録音を聴く仕事を一生懸命にやって、おしゃれをする余裕も出てきたと直人が言っていた。今までに関係した人物の名前や団体名、そして省庁や暴力団、それらの言葉をキーワードとして渡してある。何度かキーワードにヒットしたが、何の進展もないらしいということが判明しただけで、成果は上がっていない。
浩平は警察庁の庁舎は見に行って知っていたが、内部の雰囲気は見当もつかない。一度見ておきたいと思って出かけた。玄関ぐらいなら入れるだろう。
有楽町駅から歩いて、皇居を右手に見ながら歩き、桜田門の警視庁を見上げて、しばらく進むと警察庁の庁舎が見えてきた。スーツ姿の団体が浩平を追い越して正面玄関に入って行く。浩平はその団体の最後尾について庁舎に入った。何か大きな会議があるのだろう。警備員に咎められることもなく、エレベーターに乗って六階で降りた。別のエレベーターで二十階まで行き、下へ向かって一階ごとに止めていった。まったく人通りがない。十一階で女子職員が乗ってきたので、エレベーターを出た。危険が迫っている。違うエレベーターで下へ向かった。やりすぎた。菅原の教訓を忘れている。十階で降りて、用件をかかえている人間に成りきって歩き始めた。
「すみません」
後ろから呼び止められたが、聞こえない振りをして歩いた。後で足音がする。前方の部屋から男が二人出てきた。窮したか。
「日吉君、ここで何してる」
前方の男の一人が声をかけてきた。
「すみません」
とりあえず、謝った。
「入口で待ってるように言っただろう」
「はい」
「お知り合いですか」
後ろから追ってきた若い男が聞いた。
「ええ。うちの社員ですが」
「どうしたんだね」
「この方は参事官のお知り合いの方ですか」
「そうだが」
「失礼いたしました。自分の勘違いです」
「君。名前は」
「はっ。刑事局の大川です」
「僕の大事な友人に失礼だろう。謝りたまえ」
「申し訳ありません」
「俺からも謝る。許してやってくれ」
「いや。こっちが悪い。謝ります。ここでいいよ」
「そうか」
「日吉君。行くぞ。よくお詫びしろ」
「はい。申し訳ありませんでした」
浩平は警察庁の二人に深々と頭を下げた。
「失礼するよ」
「おう。また、きてくれ」
若い男が最敬礼をして二人を見送った。
浩平は男の後ろについて警察庁を出た。
「タクシー」
「はい」
浩平は走って、通りでタクシーを停めた。
「乗りたまえ」
男が小声で言った。
「神田須田町、お願いします」
男は鞄から書類を出して見ているだけで、一言もしゃべらない。浩平も口を閉じた。
神田須田町のビルに入って、TCSという会社に入った。コンピューターソフトの開発会社のようだ。そこでは、取りとめのない話を三十分しただけで出た。エレベーターで二人になった。
「しばらく付き合いなさい。つけられてるかもしれない」
「はい」
タクシーで東京駅に行き、男の指示どおり京都駅までの新幹線の切符を二枚買った。
「京都までは、追って来ないだろう」
「はい」
「君は品川でも横浜でも、降りたらいい」
「はい」
「あの若い男は納得してなかった。仮にも、警察庁ですからね。確認するだろう」
「はい」
「名前は」
「片山浩平です」
「そう。しばらく、日吉君だな」
「申し訳ありません。京都まで行きます。心配ですから」
グリーン車だから、周囲に乗客はいない。
「何をしてたか、聞かないんですか」
「答える気、ないだろう」
「ええ。すみません」
「一眠りする」
「はい」
本当に、男は京都駅到着まで寝ていた。
「京都です」
「そうか。あぶない、あぶない」
「お名前、聞いてもいいですか」
「白石です」
「白石さん。よく考えると、僕、かなり危険でした。助かりました」
「もう、いいよ」
「どうして、助けてくれたんですか」
「わからない。なんで、だろう」
「ありがとうございました」
「どこか、泊まるあては」
「いえ」
「うちに泊ってもいい。ホテルをやってる」
「はあ」
「無理にとは言わない。若い人はそれなりにあるだろう」
「いえ。泊めてください。ご迷惑でなければ」
「料金はとるよ」
「はい」
「その前に、何か食べていこう」
「はい」
その店は四条河原町の近くの込み入ったところにあった。常連客らしい。
「参事官の和泉は小学校からの友達で、東京に行くとよく会いに行ってた。いい奴だけど、官僚になってからは変わった。あの特権意識にはうんざりする。永い友情も今日で最後にしようと思った時に、君に出会った」
酒を飲みながら白石は自分の気持ちを分析し始めた。
「三年前に妻と息子を交通事故で亡くしてね。かなり、こたえてる。立ち直りたいけど、いや、立ち直らなければいけない立場だけど、なかなか」
浩平は返事のしようがなかった。
「後を継いでくれる人でもいれば立ち直れるかもしれないという思いもある。若い人を見ると、そんな目でみてしまう。この若者は後継者にどうだろうという目で見てしまうんだ。君を見た時、この男だと思った。理屈はない、そう感じたんだ。君は自分の持っている存在感みたいなものに気づいてるのかな」
「さあ」
「だろうな。僕にも何の根拠もないんだ。だから、よくわからない」
「はあ」
「僕は自分の直感には自信がある。でも、これは悪あがきにすぎない。言ってることも支離滅裂だ。何してるのかな」
白石が弱々しく笑った。自信に満ちた立派な社会人に見えたけど、心には大きな傷を持っているらしい。初対面の男の前で、ここまで自分をさらけ出せる人がいるのか。そう思うと、親近感がつよくなった。なぜか、初めて会った時から、白石という男に惹かれている。浩平の人生で初めて会う男かもしれない。
「白石さん。褒めていただいて、嬉しいんですが、僕はそんな男ではありません。僕はもう法の外にいます。申し訳ありません」
「だろうな。あんな場所で立ち往生している君は、普通じゃない。あの若い男のほうは、君を疑っていた。当然のことだけど」
食事をして、白石のやっているというホテルに行った。東京のホテルと違って落ち着ける、気持ちのいいホテルだった。
東京に戻って、浩平は浜中に電話をした。警察庁で危険な目に会ったことは誰にも話すつもりはなかったが、白石については調べておきたかった。
「浜中さん。京都の探偵社、どこか知りませんか」
「京都ね。調べてみましょうか」
「お願いします」
「何を調査するんです」
「普通の調査です」
「わかりました」
浜中調査事務所は順調に伸びている。浜中も自信に満ちた社長になった。浩平の依頼による調査料が、まだ事務所を支えていたが、必要でなくなる日も遠くないと思う。浜中から紹介された探偵社に白石の調査を依頼した。
白石に関する調査結果が送られてきた。京都の地場企業としては、トップクラスの最優良企業だった。株式会社白石の代表者で、ホテル業と不動産業、そしてソフト開発会社を直接経営している。昔は糸関係の仕事をしていたようで、関連会社として呉服関連の会社が三十社ほどある。白石グループと呼ばれていて、京都では有名な会社だった。ルーツは京都の公家らしい。後継者にこだわっていた白石の発言が理解できた。白石グループの経営は地味で堅実だという。銀行が競って取引を求めるような、リスクのない会社のようだ。白石個人の報告もあった。妻子を交通事故で亡くし、現在は四十三歳の独身。地元有名人でありながら、公の名誉職には付いていない。私立の養護施設へ多額の寄付を個人としてやっている。亡くなった妻の実姉の施設らしい。個人の資産総額は推定でも数百億と言われている。
探偵社の報告を読んで、最初に感じたことは、白石が自分族ではないということだった。旧家で資産家の白石は自分族になる必要もなかったということか。いや、白石の人柄からも白石が自分族ではないということを浩平は感じていた。金持ちは誰でも自分族だと決めつけていたことが間違いなのか。「自分さえよければ」の対極は「誰かのために」とすれば、自分族の対極は誰か族と呼べる。白石に清新な印象を受けたのは、白石が誰か族だからなのかもしれない。そう言えば、上野原旅館の女将も自分族ではなかった。個性の問題なのかもしれない。上野原旅館の女将や白石に惹かれるものを感じる。そこに生きる道があるのか。わからない。自分族の最先端にいる政治家や官僚を相手にしている浩平も自分族の最先端だと感じている。わからない。
盗聴データの中に、品川埠頭という言葉が出てきた。暴力団の抗争があったらしいという未確認情報が、三宅組爆破事件捜査本部の捜査に追加されたようだ。匿名の通報者からの情報で、品川埠頭の抗争は暴力団と二人の男の争いだったという。一人は小銃を持って覆面をしていたという情報があり、捜査本部はその小銃に大きく反応している。国内では自衛隊以外に存在しないはずのプラスチック爆薬が使用されたことと、散弾銃やライフル銃ではなく小銃が使用されたらしいという情報からは、事件の首謀者が左翼過激派ではないと結論したようだ。捜査本部の目は、国外テロ集団に向いていたが、テロ集団と暴力団の抗争はありえないという意見も多い。
浩平は、匿名の通報者は大槻議員以外にいないと確信した。どこまで往生際の悪い男なんだろう。まだまだ抵抗をするつもりのようだ。既得権益にしがみつく執念には病的なものさえ感じる。このまま放置すれば、国交省の鳥居との取引にも影響する。
一か月の調査をして、浩平は菅原と阿南をつれて大槻議員の自宅に向かった。大槻の選挙区は九州だが、小石川にも自宅を持っている。秘書が一人と家政婦が一人同居している。その日は、家政婦が月に一度自分の息子の家に外泊する日だった。前久保の家にいた家政婦の浜さんの件で、浩平は家政婦が苦手だった。菅原に侵入の先導をしてもらい、二人が続く。浩平が秘書の部屋に行き、寝ている秘書の頸部を締めて落とし、阿南が秘書の両手と両足を縛って拘束する。強力粘着テープで口も塞いだ。菅原は不測の事態に備えて、退路を確保するために家を出た。阿南が寝室の大槻を拘束して、食堂に抱えてきた。口いっばいにタオルを詰め込まれているために叫び声は聞こえないが、喉の動きからは叫んでいるように思える。食堂の椅子に座らせて縛り直した。今日は三人とも目だし帽で覆面をしているが、大槻にはそれが浩平だとわかっているようだ。
「大槻さん。僕が誰かわかりますよね」
大槻は首を上下に振って答えた。
「今、このタオルを取りますが、大声を出すと暴力的に制圧しなければなりません。よろしいですか」
大槻がまた首を上下に振った。
「楽になりましたか」
もう、声を出すことができるのに、首を上下に振っている。
「大槻さん」
「俺はなにもしとらん」
「どういうことです」
「俺は、何もしゃべってない」
「わかりませんね。僕には、あなたが何かしゃべったとしか、聞こえませんが。そうなんですか」
「知らん」
「何をしゃべったんです。何か僕に知られてはまずいことがあるようですね」
「だから、何もしゃべっとらん」
「いいでしょう。今から、じっくりお聞きします」
浩平は大槻の口の中にあったタオルを阿南に渡して、台所に行き、出刃包丁を持って戻ってきた。包丁を見た大槻が椅子の中で暴れた。タオルを口にしているので声は出ない。
「大槻さん。どうやら、あなたは約束を破っているように思えてきました。何をしたのか、何をしゃべったのか、それを教えていただきます。でも、あなたには聞きません。あなたの体に聞きます。あなたは嘘つきでも、体は正直だと思いますよ」
浩平は出刃包丁の背の方で、大槻の膝頭を軽く叩いた。椅子ごと大槻の体が飛びあがったのを見て、阿南が椅子に体重をかけた。浩平は、屈み込み、五つずつ数えながら、包丁の背で大槻の膝頭を叩く。ひとつひとつの衝撃は軽いものだが、数が重なると痛みになっていく。浩平は無心になって、数えながら膝を打ち続けた。次第に大槻の痙攣が大きくなってくる。浩平が顔をあげて大槻の顔を見ると、涙と鼻汁で大槻の顔が光っていた。
「大槻さん。このまま叩き続けると、左膝は壊れます。でも、まだ右膝があり、両腕もあります。そして、二つの目もあります。あなたは、僕のことをなめてかかってます。僕は既に二十五人の命を奪っています。あなたが、二十六人目になることに、何の躊躇もありません。ですから、両足、両腕、両目を無くす苦痛の中で、あなたに死んでいただきます」
大槻がイヤイヤをした。
「多分、あなたの、汚い、その根性は変わらないでしょう」
大槻がさらに首を左右に大きく振った。
「どうしました」
浩平は大槻の口からタオルを取り出した。
「何でも、何でも、言うとおりにします」
「じゃあ、大槻さんは何をしたんですか、僕との約束を破って」
「すみません。品川埠頭での争いは二人の男と暴力団との争いだった、と匿名で知らせました」
「どこに」
「警察です」
「そうですか。それだけですか」
「はい。誓って、それだけです」
「ところで、大槻さんの部屋に金庫、ありますよね」
「はい」
「どこにありますか」
「・・・」
「何でも、言うとおりに、するんじゃなかったんですか」
「本棚の下です」
阿南が寝室の本棚の奥に隠れている金庫を見つけた、と指で知らせてきた。
「鍵はどこです」
「・・・」
浩平はタオルを手にした。
「鞄の中です」
「番号は」
阿南が金庫の中の物を食堂の机の上に並べた。浩平はその中にある書類に目を通して、大槻の縄を解くように言った。
「これにサインをお願いします」
浩平は、懐から取り出した紙とボールペンを机の上に置いた。細く折ってあるので、何の書類かわからない。
「何の」
「それは、知らなくていいです。サインを。これと同じサインを」
金庫の中に入っていた契約書の大槻のサインを横に置いた。自署捺印の重さを知っている男には、酷な要求だったが、大槻は五枚の紙にサインをした。
「実印はどれですか」
机の上に並んでいる印鑑から大槻が選び、浩平は参考にした契約書の印と比べ、印鑑証明の印鑑とも付け合わせた。
「大槻さん。あなたが警察に知らせた内容は、どう言う内容でした。もう一度教えてください」
「暴力団と争ったのは二人の男だと言いました」
「それだけですか」
「ほんとに、それだけです。ほんとに」
「そうですか。では、僕の計画を教えてあげましょう。あなた方の取り分二百五十万から半分を出していただくように言いました。でも全額出してもらうことにします。秘書給与も没収です。他の五人のお仲間や党本部は何と言うでしょうか。選挙で公認が取れると思いますか。それに、秘書をしている息子さんの公認も難しいでしょう。先ほど書いていただいたのは十億の借用書です。五人のお仲間に渡します。あなたは、議員を辞めて、さらに五十億の借金を抱えることになります。自分さえよければと思った、あなたの助平根性が招いた結果なんです」
「・・・」
「その助平根性を二つ教えましょう。一つ。約束を破って、警察に通報したこと。匿名かどうかは問題ではありません。二つ。通報内容をごまかしたことです。大したことではないと思ってましたね。背信行為は、あなたにとつては日常茶飯事であっても、政界以外では通用しません。少なくとも、僕との関係においては、嘘は命取りになるんです」
「・・・」
「あなたは、議員としては終わりです。堂々と警察に駆け込みなさい。政治資金規正法違反だけでは済みませんがね。それより、そんなスキャンダルを党本部が認めますか。あなたは、闇に葬られるだけです。読みが甘い。そう思いませんか。もう一つ、警察にどんな情報を出すんですか。あなたが、僕の何を知ってるんですか」
大槻は、やっと自分の立場を理解したようだった。
「二人の様子を詳しく話しました」
「そうですか。それなら、理解できます。普通、そうするでしょう。最初から言えばよかったんです」
大槻が力なく笑った。
「覚悟ができたようですね」
大槻は慌てて首を左右に振った。さすが、国会議員の鏡のような男だ。この執着は褒められることかもしれない。どんな逆境からも生きて帰るという信念は立派だ。
「大槻さん。あなた、政界の古狸と言われてますよね。裏事情にも詳しい。僕の手先になりませんか。報酬は百二十五億です。党や仲間のためではなく、僕のために働いてみては」
「えっ」
「ただし、危険ですよ。僕は」
「お、お願いします」
「あなたの、その助平根性。買いましょう。裏切った時は、苦しんで、苦しんで、死んでもらいます。いいですか」
「はい」
「生き延びれば、逆転の可能性もある。そう思ってませんか」
「いえ」
「じゃあ、最初の仕事として、大槻メモを書いてください。政界の不正を洗いざらい書くんです。それが、僕への忠誠心になります。できますか」
「やります」
「多分、大槻さんのことだから、誤魔化そうと知恵を絞ると思いますが、今回だけは正直に、全てを書き出してください。僕は、当然のことですが裏をとります。大槻メモに嘘があれば、その場で契約は解除になります。弁解は聞きません。僕が嘘だと感じた時が、あなたの最後の時です。よろしいですね」
「はい」


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