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海の果て 第1部の 3 [海の果て]




浩平と原深雪は二葉銀行本社の前に立った。平日だったので、学校はズル休みになる。
「深雪ちゃんは、何もしゃべらなくてもいいよ。表情は、知らん顔。ボイスレコーダー役のために来たと思っていればいいから」
「はい。そのつもりです」
立派なビルに入った。正面ホールは広く、受付カウンターまでは少し距離があった。
「アポイントはありません。御社の不正に関して、ご相談したいので、担当の部署の方に、お願いします」
今日の浩平はダークスーツにネクタイも締めている。くすんだ赤のネクタイで、柔らかな雰囲気を出したつもりだ。深雪は制服に通学鞄。
「あの。失礼ですが、お名前を教えていただけますか」
「この人は、原深雪さん。私は片山といいます。原さんが被害者です」
「弁護士の方でしょうか」
「いいえ。今日はこの子の親代りとして来ていますので、弁護士ではありません」
弁護士かと言う問いに対して、否定も肯定もしない。相手が勝手に弁護士と判断するのは勝手だ。
「もう少し、具体的に教えていただけますか」
「申し訳ありません。微妙な内容なので、勘弁してください。しかるべき方にお話したいのですが」
「すみません。内容もお聞きせずに、連絡できないことになっておりますので。是非、教えてください」
「そうですか。では、詐欺と横領、確定はしていませんが、もしかすると殺人も視野に入れた不正だとお伝えください」
「うちの社員がと言うこと、ですか」
「はい」
銀行に対する、ゆすり、たかりは日常茶飯事なのだろう。受付嬢には、何の動揺もない。
「しばらく、お待ちください。聞いてみます」
別の受付嬢が、二人を椅子に案内した。電話の内容を聞かせるつもりはないのだろう。浩平は素直に従った。時間は九時三十五分。浩平に緊張感がないので、深雪も平然としていた。七分ほど過ぎて若い男子社員が、受付嬢から話を聞いている。多分、浩平と同年代だと思われるが、自分はエリートだと宣言しているようだった。男が気取った歩き方で、浩平たちが座っている方へ歩いてきた。
「片山さまでいらっしゃいますか」
「はい」
「私、総務の二階堂と申します。お話を伺います。こちらへどうぞ」
浩平と深雪は、気障男の後ろから、小さな応接室に入った。
「二階堂卓也です」
男が名刺を出した。
「申し訳ありません。今日は名刺を持ってきておりません。片山といいます。こちらは、原深雪さんです。被害者の方です」
「どうぞ」
二階堂が二人に椅子を勧めて、自分も座った。
「何か不正に関するご相談だと伺いましたが」
「はい。二葉銀行の社員の方による、詐欺と横領です」
「受付では、殺人の話もしておられましたが」
「殺人については、状況証拠だけですから、私たちでは証拠を示すことはできません」
「そうですか。では、詳しい内容をお話いただけますか」
二階堂は、ノートを広げた。
「二階堂さん。大変申し訳ありませんが、あなたは総務課の社員ですよね。私は会社として責任を取れる方、頭取とは言いませんが、役員の方にご相談したいと思っています。ですから、その手続きをお願いしたいのですが」
「大丈夫です。私が会社を代表してお聞きしますから」
「内容も言わないで、申し訳ありませんが、あなたに責任が取れるようなことではないんです。ぜひ、担当の役員の方に取り次いでください」
「内容も知らずに、取り次ぐのは無理です。私がお伺いします」
「二階堂さん。私たち、軽い気持ちで来ている訳ではないんです。実は、ここに来ること、かなり、迷いました。雑誌社の友人のとこへ行くべきか、直接、警察へ行くべきか、でも、当事者の話し合いが全くないのは、フェアではないと思って来たんです。ですから、あなたの一存で断っていただいても、いいんです。一応、こちらとしては、誠意を示したという実績だけを知っておいていただければ」
「無理を言われても困ります。子供の使いじゃありませんので、内容はお聞かせいただかないと困ります」
「二階堂さん、将来、あなたが役員になられた時には、あなたにお話します。でも、まだ平社員のあなたにはお話することはできません。それと、あなたは、もう責任を負っていらっしゃる。私たちが、このまま帰った場合、二階堂さんに断られたことは公表します。これが、二葉銀行の対応だった、と言うことになります。この件は、二葉銀行さんの信用を大きく傷つけるだけではなく、金融機関の在り方に一石を投ずることにもなりますので、業界での二階堂さんのお名前は、一躍有名になると思います。私は、どちらでもかまいません。役員の方を連れてきていただくか、私たちが、このまま帰るか。あなたが、決めてください」
「ですから、お話を」
「わかりました。従いましょう」
浩平は深雪の方を向いて手を出した。
「もう、切ってもいいよ」
「はい」
深雪が鞄から出したボイスレコーダーを浩平が手にした。
「申し訳ないが、会話は録音させていただきました。あとで、言った、言わないということにならないように。失礼します」
浩平が席を立ったのを見て、深雪も席を立った。
「待ってください。僕は何も」
「二葉銀行さんにも、チャンスをと思って来ただけです。これ以上、押し問答するつもりはありませんから。それと、あなたのキャリアを潰してしまったことは謝ります」
浩平は二階堂に頭を下げた。
「待ってください。取り次ぎます。ですから、座ってください」
二階堂は、自分のキャリアのことを言われて、突然変わったようだった。もし、これがマジネタだったら、キャリアどころの話ではない。職を失うことになる。
「二階堂さん」
「ほんとです。このままで、お待ちください。お願いします」
二階堂が立ち上がって深々と頭を下げた。
「わかりました。一度だけ待ちます」
「お願いします」
浩平は座りなおして、時計を見た。浩平と深雪が座るのを確認して、二階堂がドアに向かった。
「二階堂さん」
「はい」
ドアの取手を持ったまま、二階堂が振り向いた。
「今、十時十五分です。十五分だけ待ちます。十五分以内に話し合いが始まるように希望します。それと、話し合いは、ここで、この場所でお願いします」
「せめて、三十分、いただけませんか」
「二階堂さん」
「わかりました」
二階堂が部屋を飛び出して行った。
浩平はホイスレコーダーのスイッチを入れて、深雪に渡した。
約束した十時半にあと一分を切った時に部屋のドアが開いた。そして、六十前後の痩せた紳士が部屋に入ってきた。続いて身を固くした二階堂が入り、更に数人の男たちが入ってきた。
「渋川といいます」
紳士が名刺を出した。常務取締役となっていた。
「片山といいます。こちらは被害者の原深雪さんです」
「お掛けください」
「はい」
「二階堂君。お茶も出てないのかね」
「すみません」
「お茶は、私がいらないといいました」
「すぐに、用意しなさい」
渋川と二階堂以外に部屋に入ってきたのは三人。狭い応接間なので、ドアの前に並んで立っている。
「渋川さん。大変失礼ですが、あなたが、常務取締役であるという証明をしていただけませんか」
「どういうことかね」
渋川は気分を害したようだった。
「初めてお会いする方なので、名刺をいただいても、ご本人かどうか、私にはわかりません。お願いします」
「どう、証明しろと言うんですか」
「証明は無理ですか」
「私は、間違いなく渋川です。本人が言ってる。確かでしょう」
「銀行の方は、押し問答が好きなんですか」
「どういう意味です」
「今は、面子を捨ててください。せっかく話し合いの席につかれたんですから」
ドアのところに立っていた案山子の一人が、渋川に近寄って耳うちした。渋川が頷き、案山子がドアを開けて走った。
「今、証明を持ってくる」
「ありがとうございます。失礼をお許しください。それと、もう一つお願いがあります。いや、お願いじゃなくて、これは助言です。渋川さんだけが、この話を聞かれることをお勧めします。これは、前代未聞の不祥事になる可能性があります。このことを知っている人間は限定すべきだと思います。どんな状況で内部告発が出てくるか、わかりません」
「・・・」
「簡単な話ではありません。詐欺と横領、しかも暴力団がらみです、その上、殺人の可能性すらあります。多分、頭取の辞任ぐらいではすみません。この場に出てこられた渋川さんは、否応なく詰め腹を切らされます。この件は、なにがなんでも、闇の中で処理する必要があると思います。ただ、これは、あくまでも、二葉銀行さんの問題であり、私たちには、失うものは何もありません。ですから、助言だと言いました」
「わかった」
渋川は後を向いて、頷いてみせた。
残っていた案山子の二人がドアを開けた。入れ違いに最初の案山子がパンフレットを手にして入ってきた。受け取った渋川が案山子に部屋を出るように言った。
「これが、証明になるかな」
パンフレットには、役員紹介が写真入りで書かれていた。
「ありがとうございます」
「話を聞きましょう」
「はい」
浩平は席を立って、ドアのロックを回した。
「この子の家は、上野で旅館をやっています。母親が一人で切り盛りをしていましたが、亡くなりました。すると、二葉銀行の上野西支店から、借入金の返済を求められました。女将の力で成り立っていたような旅館でしたから、先の見通しがないと判断されても仕方のないことです。この子もまだ高校生ですし、旅館も古いし、客観的判断でも継続は難しいと思われます。ただ、旅館の経理に計上されていた借入金残高は二百万で、銀行から返済要求があった金額は三億でした。旅館の帳面は高校生になった時から、この子の仕事だったので、帳面のことはよくわかっています。三億の借入金のことは、税理士も知りませんでした。税理士の先生は、三億もの資金需要はないと言ってます。旅館は古いけど、土地は三百坪ほどあります。それが、全て抵当に入ってました。ですから、三億の借入金を返さなければ、この子は、裸で叩き出されることになります。女将さんの死因は急性心不全でした。何も言い残すこともなく、亡くなってしまったので、そのいきさつも聞くことができません。旅館の名前は上野原旅館と言いますが、上野原旅館の口座に、三億円の入金記録はありません。税理士の先生が銀行にある書類の確認に行ってもらいましたが、銀行には書類は揃っていたそうです。ここまでの説明はよろしいでしょうか」
「何も、問題ないように、思いますが」
「では、この録音を聴いてください」
石山と安岡の会話の録音をテープに落として持ってきていた。
「いかがですか」
「これが、うちの行員ですか」
「はい。上野西支店の石山隆志と安岡純也の二人の会話です。どう思われますか」
「それを、どうやって証明するんですか」
「信じていただくしかありません。もっとも、警察に持ち込んで、音声判定をしてもらえば、何の問題もありません。支店のどなたかが聴いても、すぐに誰の声かは判明するでしょう」
「ここでの三億と、あなたの言っている三億がどうやって繋がるんですか」
「明らかに繋がっていると思いますが。証明しなければなりませんか」
「そりゃあ、証明していただかなければ」
「ヨタ話に聞こえますか」
「そうは、言いませんがね」
「そうですか。では、証明しましょう。ただし、ここからの証明は高いものになりますよ。私は、この録音を聴いていただいた時点で渋川さんから、事態収拾のご提案をいただけると思ってました。では、これを見てください」
貸付金の返済資料と通帳のコピーを出した。
「安岡が預かった資料です。三億の金は、この五社に裏融資されています。そして、これは、返済用の特別口座です。このタイトートチというのは、大里組という暴力団のフロント企業で台東土地開発という会社です。五社の貸付残高を確認していただければ、相手企業との残高不整合が出ます。表の会計では、三億は上野原旅館への貸付金になってますので、裏融資の金はすべて、石山と安岡、そして台東土地開発のものになります。ただ、銀行にあった上野原旅館への貸付の書類には、女将のサインもありましたので、偽造ではないでしょう。実に都合よく、上野原旅館の女将が死んでくれたことになります。殺人の可能性もあると言ったのは、このことです。証拠は、まだ、ありません」
「この、資料は、どうやって」
「資料の入手方法に、何か意味がありますか」
渋川が腕組みをして考え込んでしまった。浩平は渋川の反応を待った。渋川の頭の中では、いろいろな場面が想定されているのだろう。
「どう、しろと」
「録音を聴いていただいたところであれば、旅館の抵当権をはずしていただくだけで、よかったんですが、この資料をお見せしたので、別の要求をさせてもらいます。高くつくと言いましたよね」
「それは」
「調査をして、その全てを公表してください。そして、あの二人も警察に渡してください。殺人容疑は、私たちの手には負えません。その上で、抵当権は外してもらいます」
「公表するんですか」
「だって、この子の母親は、殺されたのかもしれないんですよ」
「そうなんですが、公表となると、私の一存では、ご返事できません」
「大変なことになるとは、思います。社員の個人的犯罪だとしても、銀行のシステムを利用した犯罪ですから、マスコミからも徹底的に叩かれるでしょう。公共性を求められている銀行業で、あってはならないことが、起きたんです。事態の収拾には、大変な努力が必要となります。ですから、録音を聴いていただいた時点で、もっと証明が必要なんですか、とお聞きしました。つまり、あなたが判断を誤ったために、公表ということになったんです。そこは、おわかりですよね」
「そんな」
「三十分、時間を差し上げます。あなた一人で結論が出せないのなら、協議してください。結論が出ない時は、こちらが警察に行きます。いいですか、後追いになったら、傷口はもっと大きくなります。先ほども、私の忠告を無視して、事態を悪化させました。今度は、そうならないことを祈ります」
「三十分では、とても」
「渋川さん。この期に及んで、姑息な交渉は止めませんか。価格交渉してる訳ではありませんよ。なんなら、十分にしましょうか」
「わかりました」
渋川がフラフラと立ち上がった。この部屋に来た時には自信に満ちた、やり手の銀行役員だったが、今は、一人の老人になっていた。
「渋川さん」
「は」
「あなたの時計は、今、何時です」
「十一時十分です」
「では、十一時四十分が、約束の時間ですから、走られたほうがいいですよ」
それでも、渋川の動きは鈍いものだった。
浩平はテープレコーダーと資料を、この日のために買ったビジネスバッグに戻して、姿勢を正して、目を閉じた。深雪は、よく対応してくれている。今の深雪は交渉の材料として、この場所にいることを理解している。芯の強い娘だ。このビルを出たら褒めてやろう、と思っていた。銀行は浩平のことを弁護士だと思いこんでいるかもしれない。正義の弁護士なら、不正の公表を求める。だが、事件の公表を求めたのは武器の一つにすぎない。戦いの場合、最初に負けを認めた方が、ずっと敗者になることを知っている。銀行の最高責任者が出てきて、この場で負けを認めれば、戦いは終わる。女将の死が、殺人か病死かを究明することは難しい。そうであれば、公表するメリットはない。この件が決着した後で、石山と安岡の体に聞けばいいのだ。浩平は静かに待った。
ドアをノックする音がして、二階堂がお茶を運んできた。微量の殺気を乗せた視線を送り、小さく首を横に振ると、二階堂はお茶を持ったまま引きさがって行った。
約束の時間の直前になって、二人の老人が入ってきた。一人は渋川で、もう一人は小柄な老人だった。
「町田といいます」
小柄な老人が机の上に名刺を出した。サラリーマンは名刺を出すのが好きらしい。浩平は名刺を手にした。役職名は頭取となっていた。
「片山です。こちらは被害者の原深雪さん」
「こちらの原さまには、多大のご迷惑をおかけしているようで、申し訳ないと思っております。事態の解明が終わり次第、改めてお詫びに伺います。ところで、片山さま、この事件の公表を希望されていると伺いましたが」
「はい。殺人の容疑がある以上、警察には届けなければなりません。私たちの手で、真相究明は無理だと思っています」
「我々に、その容疑を晴らす機会はありませんか」
「何か、方法がおありですか」
「ここで申し上げる訳にはいきませんが、ご納得いただける結果を出せます。うちの行員が殺人犯の場合は、当然、警察に逮捕されることになりますので、結果的に公表することになります」
「殺人犯でないことが、証明できれば、どうなさるのですか」
「公表は控えたい」
「詐欺と横領がはっきりしても、ですか」
「できれば」
「でも、もし、私が悪人であれば、二葉銀行は私の金づるになりますよ」
「仕方ありません。この時期に、これを公表することは、銀行の命取りになります。あなたに金を払い続けるしかありません」
「そうですか。頭取のあなたがそこまで、おっしゃるのなら、殺人の捜査はおまかせします。もちろん、結論はお聞きします。私たちの手には負えませんから。そして、詐欺と暴力団がらみの横領については、納得いく結論が出れば、私たちはこの件から、手を引きます。先ずは、実情を調査してください。調査内容を隠したり、嘘をついていると私が判断した場合には、私独自の行動をとります。よろしいですか」
「もちろん、です」
「あなたが嘘をついたとしても、私はその嘘の内容を証明はしません。私が、そう感じた時には、行動を起こします。よろしいでしょうか」
「はい」
「殺人に関しては、時間がかかると思いますが、実情調査には、どのぐらいの時間が必要ですか」
「一か月と言いたいところですが、二週間ください」
「わかりました。待ちましょう。それと、念のために言っておきます。私のこと、知りたいと思いますよね。敵を知ると言う意味では必須条件ですが、やめてください。事態をより複雑にしてしまいます。これも、お約束いただけますか」
「約束します」
「では、二週間後に、連絡を入れます」
浩平が立ち上がり、深雪も従った。
「片山さん。録音テープと、資料を」
「これは、お渡しできません。内容は渋川さんに伝えました。内部の方なら、簡単に調べることができると思いますが」
不正な方法で取得したものを、相手に渡すとでも思っているのだろうか。
「渋川さん。内容はわかっていますね」
「は。なんとか」
「なんとか、では困ります。調査できませんよ」
「はあ」
二階堂は内容を聞くと言って、ノートを広げたが、渋川は、全く控えを取らなかった。記憶違いがあれば、調査に支障をきたすこともある。
「私は、これで、失礼します。あとは役員である渋川さんの責任だと思います」
町田頭取は渋々と浩平たちを送り出した。
浩平は二葉銀行の本社ビルを出て、上野原旅館にいる菅原に電話をした。盗聴器の撤去はしておかなければならない。




一か月が過ぎて、殺人容疑の解明はできない、という結論に深雪も納得してくれた。最初、石山は金利差を利用して小遣銭をかせぐつもりで上野原旅館に貸付を実行したが、女将の突然の死をきっかけに裏融資が始まり、結果的に上野原旅館を被害者にしてしまうことになったようだった。女将と石山は男女の仲で、石山がよからぬことを企んでいたことは、事実だが、女将は犯罪になることを知らなかった。
相続税のために、旅館の一部を物納して資産は減ったが、残りの土地は二葉銀行が買い入れ、深雪は別の場所の小さなマンションのオーナーになった。多分、この事件での二葉銀行の持ち出し額は、二億円以内で治まったとおもわれる。信用失墜の崖っぷちにいた銀行にとっては安い買い物だったろう。横領事件が新聞に出ることもなかった。上野原旅館の従業員には退職金を払い、吉村と清水にも、お礼として百万円が渡された。借入金返済用に立て替えていた資金の返済はしてもらったが、浩平と菅原は一円も受け取らず、深雪の怒りを買ったが、それでよかったと二人とも思っている。

事件が終結して目標はなくなったが、浩平は落ち込んでいなかった。アウトローの世界に踏み込んでしまった現状を否定することはできない。浩平は究極の悪を目指してみたいと思っている。世の中には、自分さえよければという自分族が蔓延している。上野原旅館の女将のような人は、どこにもいない。他人様の役に立つことが女将の喜びだったようだ。浩平自身も最悪の自分族の一人である。今度の事件で、秘密の暴露が巨大な利益を生むことを知った。しかも、社会的に地位のある人間の方が秘密の暴露を恐れて、対価を支払ってくれるのだ。中でも、一番、恐れているのは誰だろう。政治家と高級官僚は秘密を持ち、その暴露を恐れ、金を動かす力を持っているように思える。フーバーメモの話を思い出していた。金を集めてどうするのかと言われると、返事はできない。今でも、裏金の処理には困っている。いつか答えが出ることを期待して、今は自分族からピンハネすることに専念してみようと思った。組織を作り、システムを構築して、法律を破り、集金する。これは、暴力団そのものだった。永田町と霞が関をシマとする新しい暴力団の旗揚げをしよう。日本という国を食い物にしている連中を食い物にする新種の暴力団組織。きっと面白くなる。あの盗聴器が、役に立ってくれるだろう。
「片山さん。まさか礼金がもらえるとは思いませんでしたよ」
「それだけのことを、吉村さんはしてくれたんです」
浩平は吉村を自分の部屋に呼んでいた。
「また、何かやることがあるんですか」
「いや。そういうことじゃないんです。吉村さんの尊敬する探偵さんは誰ですか。この人はすごいって人、いるでしょう」
「いるいる。うちの部長はすごいよ。片山さんも、すごいけど、部長もね」
「お幾つぐらいの人ですか」
「四十五かな」
「独立の希望とか、ないのかな」
「あるある。おおあり。社長と合わなくてね。部長がやった方がいい仕事できると思うけど、あの社長ではね。社長も、昔は優秀な探偵だったらしいけど、人格的に問題ありかな」
「部長さん、結婚はしてる」
「いえ。別れたと聞いてますよ」
「一度、その部長と会わせてくれないかな。独立の話をしたいと言って」
「いいですとも」
二つ返事で引き受けてくれた吉村からの返事は翌日にあった。三日後の夜、八時にホテルニューオオタニに宿泊している片山を訪ねてくれるように頼んだ。一人で来るようにと念を押した。吉村には結果の報告をする条件だった。
約束の時間より数分早く、浜中豊がやってきた。
「お呼びたてしてすみません。それと、独立の話だというのに、こんな若造で申し訳ないと思っています。片山浩平と言います」
「浜中です」
学生時代はラグビーでもやっていたようながっしり体型で、五分刈りの頭も、えらの張った顔も四角だった。
「うさんくさい話だと思ってるでしょうね」
「まあ」
「ですよね。実は、そのうさんくさい話なんです。僕は、無法探偵社を作りたいと思っています。その探偵社をあなたにやっていただけないかと思っているんです。こんな話、迷惑ですか」
「単刀直入ですね」
「はい」
「無法というのは、法律を破るということですか」
「はい。場合によってですが」
「どういう場合ですか」
「そこは、まだ僕にもわかりません。でも、きっとそんな時がくると思ってます」
「我々の仕事は、法律スレスレの仕事です。でも明確に法を破ることはしていません」
「浜中さんの哲学では、絶対にやってはいけないことになりますか」
「そうは、言いませんが、場合による、としか言えません」
「仕事の九十九パーセントは、今の仕事と何も変わらないと思います」
「片山さんと私はどんな関係になるんですか」
「僕は出資者であり、顧客です。運営はすべて浜中さんの仕事です。探偵社の仕事ですから秘密厳守ですが、僕の依頼する仕事は、徹底的な秘密厳守でやってもらいます。僕の仕事は、スレスレではなく、一から法律を破っています。ですから、顧客が暴力団みたいなものです。運営には気苦労があると思います」
「暴力団ですか。現実にそうなんですか」
「いや。まだです。でも、そういう組織を作る予定です」
「ううん。こんな重い話とは知りませんでした。吉村君は知ってるんですか」
「いいえ。言ってません。この先も言いません。あなただけが知っていてくれれば」
「即答する程の自信はありませんが、私のメリットはなんでしょう」
「そうですね。自分のやりたいと思う会社運営が、今より多少納得できるという可能性があることと、年収くらいですかね」
「年収ですか」
「現在の年収はどのくらいですか」
「五百ぐらいです」
「社長ですから、倍にはなるでしょう」
「年収が倍で、社長として会社を運営できる。問題は顧客が暴力団だということですね」
「いや。顧客の一部が暴力団だということです」
「どんな規模の探偵社を考えてますか」
「あなた次第です。五人でも十人でも、百人でもかまいません。本格的なリサーチ会社にしてもらってもいいです」
「いくらでも、金は出すということですか」
「はい」
「昔から、美味しい話には裏があると言いますが、その通りの話ですね」
「はい。しかも、ヤバイ裏です」
「その、中身は」
「それは、まだ、お話できません。浜中さんが引き受けてくれれば」
「でしょう、ね。破る法律は重いものですか」
「そうですね、重いと言えば重い。窃盗罪でも、そこそこの刑になるでしょう」
「窃盗罪ですか」
「今の業務遂行の中で、それに近いもの、ありませんか」
「あるでしょう。でも、逮捕されるような悪質なものはありません」
「それは、被害届けが出ない、ということですよね。被害届けが出る可能性はあります」
「殺人、強盗、放火のような重犯罪がないということですね」
「そうです」
「弱りました。この話、私にとっては、大きな魅力です。本音は即答したいぐらいです」
「よく、お考えになってからで、いいです」
「これも、答えてもらえないでしょうが、あなたは、何者ですか」
「すみません。ただ、逮捕される条件は十分に満たしているような男です」
「あなたと組めば、私もアウトローの仲間入りですか」
「出来る限り、累が及ばないようにしたい、と思ってますが、確約はできません」
「一寸、下で、コーヒーを飲んで来てもいいですか。少しだけ、一人で考えてみたいんです」
「もちろん、です」
一時間近く経って、浜中が戻ってきた。
「片山さん。この話、お願いします」
「引き受けていただけますか」
「はい。現状を続けても、年金生活が待っているだけです。自分自身が、今の生き方に納得していないことは、知っていましたが、何もせずに、今がある。あなたの話を聞いて、それを痛感しました。私には、系類もないし、誰かのために働くというモチベーションもありません。惰性だけで生きている自分に、嫌気がさしていたのは事実です。あなたと働けば、何かがあるんじゃないだろうか。この歳で考えることではないかもしれないが、充実した生き方ができるのではと。青臭い判断をしました。多分、あなたの魅力に負けたんだと思います」
「ありがとうございます」
「別に、年収に惹かれた訳ではありません。今の給料で十分です。それに、社長になりたい訳でもない。まだ、説明されてませんが、あなたとの仕事には、緊張感があるように思えたんです。それが、引き受ける理由です」
「わかりました。浜中さんとは、初めてお会いしました。会うまでは、本気でお願いするかどうか、決めていませんでした。あなたと、会話を始めて、本気でお願いする気になったんです。なぜか、わかりません。年長者のあなたには失礼ですが、仲間になれる人だと感じたんです。理屈はありません」
「そう言っていただけると、嬉しいですね。私も、まだ枯木になってた訳じゃない」
「では、共犯者になっていただいた浜中さんに、僕のやりたいことをお話します。二葉銀行の件は知ってますよね。吉村さんにも手伝っていただきましたが、おたくの探偵社にも仕事の依頼をしました」
「概略だけは」
「あの件では、差し引き一億ぐらいの利益が出ました。利益は旅館のお嬢さんのものですから、我々は何の得もありません。でも、大きな事を学びました。それは、秘密の暴露が金になる、ということです。で、一番、秘密の暴露に敏感なのは、どんな人種かと考えたんです。僕は、政治家と官僚だと思います。秘密を入手し、恐喝する集団を作ってみたいと思いました。永田町と霞が関を縄張りとする暴力団の旗揚げです。フーバーメモを知ってますか」
「FBIの長官ですよね」
「個人のスキャンダルでも不正でもいいですし、組織的な不正でもいい。日本という国を食い物にしている連中を食い物にする暴力団です。貧乏人からむしり取る訳ではないという言い訳の余地も残しました」
「壮大な計画ですが、大きすぎませんか」
「強大な人種を敵にすることで、手ごたえのある毎日が送れると思ったんです。法律は彼らを守るために作られているんです。彼らを敵に回すということは、彼らの法律を破るということなんです。僕は、敢えて、挑戦してみたい。子供みたいですが、こんな男がいても、いいんじゃないですか」
「実現すれば、快挙です」
「二葉銀行の時も、最初は何の根拠もなかったんです。積み重ねていって、事実が究明できました。だから、実現可能だと思っています」
「他に仲間がいるんですか」
「いえ。仲間になって欲しい人はいますが、まだ、話をしていません」
「吉村君は」
「浜中さんが、独立して、彼も、その探偵社で働く。それでいい、と思います」
「そうですか」
そのまま、具体化の話に移った。浜中にはやるべきことが山ほどあることがわかった。事務所の選定と確保、人材の選別と確保、顧客の確保。早くても三か月はかかると言われた。別に急ぐ仕事ではないので、納得のいく仕事をして欲しいと要望した。

翌日、深雪のマンションに電話をして、菅原への連絡方法を聞いた。だが、連絡方法はないと言われた。毎日電話してくるから、伝えると言ってくれた。
深夜の十二時を少し過ぎたころに、菅原が浩平の部屋に来た。
「菅原さん。電話してくださいよ」
「ああ」
「いないことだってありますよ。こんな僕でも」
菅原は、ニヤリと笑っただけだった。浩平の部屋に来た時に座る場所だと決めている椅子に座った。姿勢を正して、浩平の話を待っている。お見通しらしい。
「話というのは、菅原さんに、仲間に入って欲しいという話です。わかってます、菅原さんはつるまないんでしょう。そこを、曲げて、お願いしたいんです」
「なにを」
浩平は、自分の構想を話した。
「面白そうだな。いいよ」
「えっ。いいんですか」
「ん」
「ありがとうございます」
「変か」
「どうやって説得しようか、悩んだんです。なんせ、相手は菅原さんだから」
「この前、楽しかったんだ。仕事変えても、いいかな、と思ってる」
「よかった」
「それと、あんたは、信用できる。あんたの下で働く」
「いや。仲間ですよ」
「五分と五分」
「はい」
「じゃあ、この話は断る」
「えっ」
「俺は、あんたの下で働きたい。それが、駄目なら、この話はなし、だ」
「そんな」
「やめるか」
「いえ。菅原さん抜きでは、この仕事はできませんよ」
「なら、あんたが、ボス。いいな」
「はい」
「この歳になって、こんな奴に会えるとは思わなかった。声かけてくれたこと、感謝してる。楽しみだ」
「わかりました。ボスをやります。で、菅原さん。菅原さんはどの位稼いでました」
「気にしない。金のためにやるんじゃない」
「そうですか、では、とりあえず、年間、一千万でお願いします。仕事が軌道に乗ったら、成果配分しますから」
「一千万か。驚きの金額だが、あんた、金はあるんだろうから、もらっとくよ」
「ただし、条件があります」
「ん」
「携帯電話は、持ってもらいます」
「わかった」
「約束ですよ」
「わかった」

三日後に後藤祐樹と覚せい剤の取引をして、戸籍屋の名前を教えてもらった。後藤の名前を出したら、協力するように言っておいてくれるらしい。犯罪に係る部分は、自分でやるつもりだった。菅原が不法侵入する犯罪のカバーはできないが、他の人間には捜査が及ばないようにしたい。それと、片山浩平の名前で最前線にいれば、いずれ捜査の網にかかる危険があると思った。二葉銀行との交渉の時は片山浩平の名前だった。不法侵入、盗聴、窃盗、恐喝の罪を追及されても、反論のできない状況だった。相手の弱みが大きかったことと、こちらの要求が過大ではなかったことが、相手に告訴をさせなかっただけで、犯罪行為には違いない。恐喝が本業になると、相手との対面交渉は避けられない。名前を変え、変装をして、個人の特定をさせないぐらいの対策はとる必要はある。事案ごとに名前を変えるのは難しいかもしれないが、できるだけ多くの戸籍が欲しかった。
御徒町の古くて小さな雑居ビルの三階にある大村商事のドアを叩いた。ドアは半開きになっているので、そのまま入る。
「だれ」
五十代なのか、六十を超えているのか、巨漢が椅子に収まりきらずにはみ出して座ったまま、浩平を誰何した。残り少ない髪が揺れている。
「後藤さんの紹介です。片山と言います」
「おう。聞いてる。入ってくれ」
「はい」
部屋に入っている相手に入れというのも変だが、浩平は素直に返事をした。
「戸籍がいるらしいな」
「はい」
「ドア、閉めてくれ」
「はい」
金属音をたてて、ドアを閉めた。六畳一間ほどの狭い空間がゴミに近い物で埋まっている。大村商事という社名だから、部屋の主は大村というのだろう。その大村が座っている椅子以外には椅子はなかった。「座れ」とも言っていない。
「どんな、戸籍がいるんだ」
「はい。僕と同じ年頃のが」
「いくつだ」
「二十七です」
「難しい注文だ。老人の戸籍なら簡単だがな、若い奴のは、ないぞ」
「はあ」
「まあ、心当たりがないわけじゃないが、高い」
「はい」
「いくら、出せる」
「相場がわかりませんから」
「んんん。まず、一千万というとこかな、相場は」
「一千万ですか」
「女はいらんのか。女ならもう少し安い」
「女はいりません。一千万でいいです。もし、これが法外な値段だったら、後藤に落とし前つけさせます」
「わかった。手配してみよう。できるだけ安くするように、わしが交渉する。一週間後に来てくれ」
「わかりました。できれば、五人ほどお願いします」
「五人だと」
「はい」
「一度には無理だぞ」
「はい。その電話、使えるんですか」
机の上に廃品と思われるような電話機が置いてある。浩平は指差した。
「ああ」
「番号、教えてください。金を用意しますから」
大村が言った番号を携帯に打ち込み、発信ボタンを押した。
「テストですから」
大村商事の電話が鳴った。
「それと、もう一つ。問題が起きるような戸籍だと、大村さんが痛い目に遭いますから、充分、吟味してください。いいですね」
大村が口を開けたまま、頷いた。普段は、無害の男に見える片山浩平だが、殺気を乗せた発言をすると、一変する。修羅場をくぐり抜けてきたとおもわれる大村の心拍数が上昇したのが見てとれた。

浩平は新潟に向かった。覚せい剤の引き上げに専念している時に民宿のように使わせてもらった三枝直美を訪ねるためだった。海岸沿いに一軒だけのその家は、秘密の作業にうってつけで、寡婦になっている直美が一人で住んでいた。直美は薬草の専門家で、それで生計をたて、世間とは没交渉の、思いっきりの変人だった。浩平のやっていることにも、一切口を出さず、料金も取らなかった。浩平は肉体でその料金を払わされたが、海に潜るよりも過酷なものだった。直美の家にいた四か月で浩平の体重は五キロ減少していた。恋人のトラック運転手が、音信不通になって二か月過ぎた時期に浩平が現れ、直美の欲情は溢れ出したようだった。引き揚げ作業が終わり、直美から解放される喜びを味わっていた時に、恋人が現れた。一瞬だったが、義兄弟が睨みあった。阿南博信という四十前の男で、身のこなしから、明らかに武道の経験者。それも、かなりの腕とみた。阿南も浩平の力を見極めて、すぐに戦いを放棄した。その日に出発してもよかったが、武道者の血が騒いだ浩平は、トラックの運転席で一夜を明かし、阿南に戦いを申し入れた。だが。負ける戦はしない主義だ、と阿南に断られた。阿南は自衛隊の特殊部隊にいた、戦いのプロだったが、上官との折り合いが悪く、退官して、トラック運転手になった。それが、大失敗だった。民間に戦闘能力を生かすような仕事はなかった。自衛隊以外の世界を知らなかった自分が悪かったのだから、誰を恨むこともできないが、鬱々とした生活が続いた。阿南の口からは聞くことはできかったが、どうも、その半年は犯罪に係わっていたようだった。
レンタカーを借りて、直美の家に着いた。縁側に座っている阿南が、浩平の方に目を向けた。思いっきり暗い表情で、男のぬけがらのようだった。
「ご無沙汰してます。片山です」
「・・・」
まだ、思いだしてくれてはいない。
「去年、ここで、しばらくお世話になった、片山です。阿南さんですよね」
「おう」
「直美さんは」
「山」
「元気ではないようですね」
「ああ」
「阿南さんに、話があって、来ました」
「俺に」
「はい。でも、又にします。無理みたいですから」
「・・・」
浩平は車の方へ戻った。車のエンジンをかけようとしていると、阿南がフラフラと立ち上がって、車の方へ歩いてきた。
「俺に、話って、なに」
「いいんです。阿南さんがもう少し元気な時に、話しますよ」
阿南は薄く笑った。
「これ以上、元気にはならないと思うから、話せよ」
「そうなんですか」
「ああ」
「じゃあ、乗ってください」
「ああ」
「阿南さん。ずっとここに」
「ああ、生ける屍としてな」
浩平は暴力団設立の構想を話した。暴力団だから、武闘組織が必要で、仲間になってもらいたいと頼んだ。死んでいた阿南の目に光が戻ってきている。
「自分は、何をすれば」
「文字通り、武器を持って戦って欲しいんですよ。ただし、命の保証もしませんし、警察に逮捕されることもあります」
武器を持って戦うという言葉が、阿南の腹の中に火をつけたようだ。
「国と喧嘩しようって、か」
「はい。僕は相手がデカいほうが、燃えるんです」
最初、下を向いて、小さく笑っていた阿南が、身をそらせて大声で笑い出した。手の付けようがなかった。阿南は、涙を拭きながら笑い続けた。
「僕、なんか。変なこと、言いました」
笑いの治まるのを待って、浩平が聞いた。
「そうじゃない。なんか、おかしくてよ。俺、今日、死ぬつもりだった。直美は遠出だから、帰ってこない日なんだ。もう、意味ねえし、終りにしょうと思った。結構、自分では硬い決心だったのよ。でも、あんたの話を聞いただけで、生きる気になってる。笑えるよな」
「どうして、そこまで」
「戦うことしか知らない、かたわもんなんだ。娑婆に生きる場所がないことを、おもいしらされた。なんもできん根性なしさ。上官が気に入らなくて、辞めたけど、上官がいないと生きていくこともできない。そんな自分に嫌気がさした」
「そうなんですか」
「今日、捨てた命だ。片山さんに、預ける。好きなように使ってくれ」
「はあ」
「一寸、待っててくれ。荷物まとめてくる」
阿南は、しっかりした足取りで車から出て行った。そして、十分も経たずに、右肩にバックパックをかついで戻ってきた。
「これ、記念に、取っといてくれ」
阿南が、鞘つきのサバイバルナイフを浩平に渡した。
「これは」
「それで、死ぬ予定だった。行こう」
「はい」
阿南を連れ出したのが浩平だとわかった時の、直美の怒りを想像すると、一刻も早く、ここから去るべきだと浩平も思った。
東京に戻って、浩平は阿南のアパートを借り、前払だと言って阿南に二百万渡し、家財を揃えるように言った。
「ボクシングジムに行きたいけど、この金使ってもいいかな」
「もちろんです。ジムのお金は別に出します」
「いや。これで充分」
生気に満ちた阿南に戻っていた。
一か月ジムに通っている阿南が、試合に出てはどうかと言われた。
「この歳で試合になんか、出れるか、と言ってやった。あいつらのは遊びにすぎん。戦う気があるのか、聞きたいよ」
「阿南さん。無茶しないでくださいよ。我々は、善良な市民じゃありませんから」
「わかってる」
「体、鍛えるだけで、スパーリングでは負けてください」
「そうだな」
「ところで、武器の調達、できますか」
「ああ」
「どこで」
「自分が新兵の頃にいた先輩で、傭兵で海外に行ったこともある人が、横浜にいる。片足無くして、もう兵隊には戻れないけど、いろんなルートを持ってると聞いた」
「そうですか。一度、聞いてみてください。武器の選定は阿南さんがしてください。サイレンサーは絶対に必要です。だから、まがい物はだめです。まともな武器がいります」
「わかった」
今すぐ阿南の働きが必要だとは思っていないが、一年後には必要になる予感がある。選択肢は増やしておきたかった。


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