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無力-5 [「無力」の本文]

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 統合参謀本部にある舞鶴地上一区監視所のモニターに船影が確認できたのは、夕方の四時を回った頃からだった。舞鶴教育隊にある鉄塔に設置されているカメラは舞鶴湾の監視をしている。地上からの遠隔操作で、ほぼ全方位をカバーできる。一定動作だけなら自動運転も可能であり、現在は五分に一度の首振り動作をするようにプログラムされていた。海自の艦艇は全て訓練と称して沖合に集結していて、岸壁には小型艇の一杯もなかった。
実行されることのない作戦計画を立案することに抵抗がなかったのは、訓練や机上演習の時の感覚であったことに気がついていたのは、町村だけではなかった。これから起こるであろう惨劇を前にして、参謀本部全体がいらだちに覆われていた。官邸の危機管理室の状況は、情報機器の管理のために張り付いている隊員からの文字データの情報として、リアルタイムで届けられている。なにもしないままで時間だけが過ぎていくことに、いらだちだけが増えていった。
「作戦計画は、採用されなくて当たり前と思え。今、この時点で有効な作戦を作り上げることが参謀本部の仕事だ」
北山本部長の言うことは承知しているが、無力感を感じない参謀はいないということも確かであった。戦闘というのは、戦闘配置があって成り立つものであり、部隊の配置には物理的な時間を必要としていた。いまだに戦闘配置の行動が起こせない自衛隊に、軍隊としての機能は期待できないことを官邸は知っているのだろうか。
最初は点にしか見えなかった船影が、次第に大きく見えるようになり、文字通り雲霞のような船団がモニターに映し出されていた。
 官房長官の緊急記者会見が行われ、大量難民が日本に向かっているという発表があったが、具体的なことには何の言及もなく、「何も心配はありません」という言葉で簡単に終わらせてしまった。総理が発案した難民の映像を発表するという案も津田官房長官の独断で取りやめとなり、「難民」という聞きなれない言葉だけが宙に浮いていた。「今、お話できるのはここまでです」と言い切って津田官房長官は記者の質問を無視して会見場を後にした。記者会見の様子を中継するテレビ局はなく、一時間後にNHKがニュースで短く流しただけであった。そんな記者会見の様子も情報データとして作戦会議室へ送られていて、政府がなんら有効な対策を打とうとしないことが、参謀本部を更に苛立たせ、閉塞感を増幅させていた。
状況を見守ることしかできない参謀の集団は、現地の映像を映し出すテレビモニターに集中することぐらいしかやるとはなかった。遠くに見える船団とは別に、小型漁船の群れが舞鶴地方隊の岸壁に押し寄せてくる様子が映し出された。船を大事にする漁師なら絶対にしないような乱暴な接岸をした船からは、赤いジャンパーに赤い野球帽をかぶった男たちが岸壁にこぼれるように降り始める。
「やっぱり」
画面を見つめる武田が首を振った。
「これは、きっと国内組ですよ。十分に練られた作戦です」
市ケ谷からの指示で監視カメラが手動に変わり、岸壁に焦点をあわせ始めた。数人の警備兵が駆け寄って行ったが、すぐに人波の中に見えなくなった。赤い集団は自衛隊の建屋へ押しかける。同じ画面を見ていた地方隊本部はすぐに退避命令を出した。海上自衛隊の陸上戦力は警備兵程度であり、その警備兵にしても銃器使用許可なしに発砲はできない。圧倒的な人数が押し寄せてくれば、防ぎようがなかった。軍事行動だと思って見ていれば、赤い集団が敵の重要な作戦の一部であることは疑いようがないが、官邸では現場で何が起きているのか判断しきれないだろう。官邸にいる航空幕僚長あてに、航空自衛隊の邀撃出動作戦が送られた。小松にある第六航空団が初動にあたり、各方面隊が出動、まだ海上にある共和国船団を殲滅する作戦であった。だが、船団の全てを撃沈できない時のために、陸上自衛隊第三師団に出動命令を出さなければならないので、陸上幕僚長にも作戦計画が送られた。海上自衛隊の主力は領海の境界付近にいるので、時間的に作戦行動は無理になっていた。
「今度は、大丈夫ですよね」
「であってくれると、いいが」
武田の元気な声に対して、町村の声は不安を含んでいた。
「この作戦を外したら、打つ手はありませんよ」
「わかってる」
だが、しばらくして送られてきた状況報告によると、政府の決定は警察官の投入であった。

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 陸地の様子が遠目にもわかるようになった頃に、先頭を走っている清江号をかすめるようにして、小型の高速艇が次々と先頭に出て海岸を目指した。乗っているのは若い男たちで、制服姿ではないが明らかに軍人であった。いよいよ上陸の時が近づいたことで、清江号の船上では民間人の不安な表情が目立つ。美姫の顔も母の顔も暗かった。十二人のサブリーダーが船倉から持ち出した武器を甲板に並べる。美姫も小銃と予備弾装ベルトを受け取った。腰につけたベルトは重く、それは胸騒ぎのする違和感だった。
岸壁には、赤い服を着た人たちが走っていた。接岸に手間取っていた高速艇だが、次々と人員と物資が上陸している。空になった高速艇は、岸壁を離れて船団の方へ戻り始めた。船団の各船は接岸場所が決められているようで、先頭集団の船が散会し始める。清江号はまっすぐ目の前の岸壁を目指していた。陸地が近づき、申浩基がロープのついた発射筒を持って舳先へ走った。
清江号は接岸のために減速し、停止しなければならない。発射筒から打ち出したロープはタグボートの代わりに陸地から引いてもらうもので、赤い服を着た人たちが用意したウインチを載せた車両につながれていた。その間に後続の小型の船は船舶用の岸壁ではない場所へも取り付き、ロープや縄梯子などを使って上陸していく。陸地に取り付いた船に次の船が横付けし、船と船の間に板を渡して、人が移動していく。無数の船が一度に走りまわっているので海面は波立ち、揺れる渡り板から海中に投げ出される人もいたが、美姫は清江号の上から大勢の同胞が上陸していく様子を見ていた。その目の前の光景を見て、日本に上陸するという話を聞いただけでは感じなかった恐怖心が湧き上がってきた。近くに日本人の姿はないが、上陸していく同胞の顔には恐怖の表情があるように思えた。清江号船上の人たちの思いも同じで、どの顔も引きつっているように見える。若い申浩基の顔も強張っていた。
清江号がようやく接岸に成功し、タラップが降ろされると、高速艇で最初に上陸をしていた軍人が駆け上ってきた。美姫たちはサブリーダーの後につき、タラップを降りる。
「ここで待機していてください」
清江号の人たちは一箇所に集められて、待機をさせられた。サブリーダーたちは、再び清江号に駆け戻り、後続の船の接岸を援助する。高速艇の軍人はクレーンを使って船倉の荷降ろしを始めている。しばらくして、クレーンが梱包された荷物を降ろすと、岸壁で待ち構えていた人たちが用意されていた車両に積み込んでいった。
清江号の向こうに二隻目の大型船が接岸し、その船のクレーンが頑丈な鉄製の渡り板で二隻の船を固定した。兄の明哲がサブリーダーたちと一緒に下船してきた。荷降ろしされた箱の一つを開けて、ロケット砲をサブリーダーたちが背負って、清江号の隊は岸壁を後にした。

19
 夏の太陽を浴びながら飛ぶヘリコプターの中で、加代は寒さを感じていた。初めて記者らしい仕事をする時には、誰でもこのような不安や恐怖を感じるのかもしれない。だが、遅れてきた新米記者の加代にはわからない事だった。緊張している加代の気持を察して、八木はたえず話しかけてくれた。五年前まで八木は陸上自衛隊にいて、出動したのは災害派遣だけだったと言っていた。訓練に明け暮れる日常の中で、実戦に出てみたいという気持ちもどこかにあったかも知れないが、イラクに行きたいという気持ちにはならなかったらしい。何が不満なのか自分でもわからないまま、五年前に自分から退官したが、空を飛ぶことはやめることができなかった。日日新聞社専用ヘリのパイロットになってからは、どこかで自衛隊を懐かしんでいる自分に驚いたと言った。今回の舞鶴行は怖さ半分、興味半分で複雑な気持らしい。
「もうすぐです」
八木の声がヘッドホンから流れてきたが、加代は反応できなかった。
「北山さん。大丈夫ですか」
「あっ。はい」
「この山を越えると舞鶴です」
「わかりました」
加代はカメラの準備をした。
木々の上を飛んでいたヘリの前が突然広がり、海を埋め尽くすほどの船が視界に飛び込んできた。
「おう」
八木の驚きの声が聴こえる。
「北山さん。カメラ、回してます」
「はい」
加代はあわててカメラを構えて、伝送装置のスイッチを入れる。舞鶴の支局を経由して映像データは東京へ送られることになっていた。
「海岸線まで行きますよ」
「お願いします」
ヘリは横滑りをしながら高度を下げ、海岸へ近づいていく。海を埋め尽くしている船の群れから、人の群れが陸地に流れ込んでいっている。ヘリの高度がさらに下がって、人の様子がはっきりと見えるようになった。
「いかん」
八木が叫んだ。加代も息を呑む。海岸に沿って走る道路に広がった群集の手には銃があるのがわかる。いくつもの銃口がヘリに向けられていた。八木が反転上昇をしようとしたが、ヘリは惰性で地上に近づいていく。降下から上昇に移る一瞬、ヘリは空中で停まったかにみえた。その時、二人の周囲を小銃弾が突き抜けていき、八木の動きが止まった。
「八木さん」
異常を感じた加代が声をかけたが、八木の返事は無かった。
空がまわり、加代の前で景色が流れた。ヘリは五階建のビルへ吸い寄せられるように近づき、回転翼が吹き飛ばされる。ビルの壁を滑るように落下し、樹木の中へ吸い込まれていった。強い衝撃を受けた事はわかったが、意識がとぎれた。
目を開けた加代が最初に見たのは、土と汚れた靴だった。自分がどこに居るのかを理解するのに少し時間があったが、墜落するヘリと八木の顔がよみがえった。
「八木さん」
加代は体を起こした。大勢の人に取り囲まれている。加代はその人たちの顔を見た。顔だけ見ると日本人と同じ顔立ちで、共和国人と判別できないが、状況から彼らが船から降りてきた北の民族だとわかった。全員が銃を持っていて、銃口を向けている人もいる。加代はヘリを捜した。
人垣の向こうに無残なヘリの残骸が見えた。ヘリの方から戻ってきた人が何か話しているが、加代にはわからない言葉だった。立ち上がろうとした時に、初めて痛みを感じた。右手が血に染まっている。左手で痛む顔を触ると、手が赤く濡れていた。それでも加代は立ち上がった。八木を助けなければならないという思いが強い。だが、立ち上がった加代の胸には銃が押し付けられた。
無意識で銃口を払いのけたが、腹部に別の銃の台尻が叩き込まれて、加代はその場に倒れこんだ。
「パイロットは死んだわ」
日本語で話しかけられて、加代はその女性に顔を向けた。その女性の目には敵意がなかった。
「あなた。日本人」
女性は首を横に振った。立ちあがってリーダーと思われる男に共和国語で何かを話している。男は少し迷ったようだが、小さく頷き、周囲に号令をかけた。
「抵抗すると、あなたは殺されます。私は、そうはならないで欲しいと思ってます。私が責任持つからと言って、許可をもらいました。私の指示に従ってください。わかってくれますか。あなたが何かをすれば、私が銃を使わなければなりません。お願いします」
加代はその女性の目を見つめた。そして、その女性に自分の運命を託す以外に選択肢は無いと思った。
「わかりました」
女性は小さなため息をついて、笑顔を見せた。
「お願いがあります。最後にあのパイロットの顔を見たいのですが」
「駄目です。まだ、爆発の危険があるそうです」
加代を取り巻いていた人の群れが動き出して、加代も立ち上がった。右手の痺れは取れず、視界も悪かったが、足に違和感はなかった。ポケットからハンカチを取り出して目を拭いた。まっ赤になったハンカチで何度か目のまわりを拭くと、視界が戻ってきたように感じた。
      
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 国道27号線で発砲が起きてからは、あらゆる場所で銃器が使われているようだった。舞鶴地方総監部の屋上にあるカメラの映像がその惨劇を映し出していた。駆けつけた警察官は銃を抜く前に群集の集中砲火で倒れていく。パトカーには無数の銃弾が打ち込まれ、乗っていた警察官は何もできないまま殺害されていた。道路に溢れ出た武装集団に、あらゆる車両が略奪されているが、逃げる人たちには発砲されていない。上陸した群集は烏合の衆ではない。集団の動きは統率され、目的を持って動いているように見えた。
「警察官を引いてください」
本部長の北山が電話口でどなり声を出していた。
「発砲されているのは警察官だけです」
命令を出せるのは官邸だけである。自衛隊に出来ることは意見具申に過ぎない。警察官投入という指令が出ている現状をすぐに止めさせなければ、死体の山を築くことになる。
「本部長。舞鶴総監部に撤退命令を」
「ん」
電話を切った北山本部長に町村が言った。
「あいつらの狙いは制服です。最初の上陸の時に警備隊がやられたのは制服だからです。陸上で総監部が抵抗しても無理です。発砲許可も出ていませんし、人数的にも勝ち目はありません。彼等はれっきとした民兵ですよ」
北山が官邸の幕僚長との直通電話を取り上げた。
その時、モニターに一機のヘリコプターが現れた。福知山の方向から現れたヘリは海岸めがけて高度を下げてきている。
「日日新聞です」
武田が町村に知らせた。ヘリには日日新聞社のマークがあった。
「まさか」
道路に溢れている集団の視線が一斉にヘリに向けられている。多くの銃口が上を向き、たたらを踏むような動きをみせたヘリに銃弾が飛んだ。ヘリは空中で一回転して、地上へ向かって滑るように落ちていく。白いビルの壁面をこすりながら、モニターの視界から見えなくなった。それは、あっという間の出来事だった。
「どうした」
電話に出ていた北山はモニターを見ていなかった。
「日日新聞のヘリが撃ち落とされました。このカメラからはもう見えません」
「搭乗者は見えたか」
「いえ。見えませんでした。あの落ち方は、パイロットが銃弾を受けたものと思います」
「どう思う」
「可能性は高いかと」
北山は部屋の隅から日日新聞の柳原に電話を入れた。加代の所在を確認しなければならない。
「柳原に調査を頼んだ」
席に戻った北山は固い表情で言った。
軍事行動だということは明らかになったが、自衛隊の選択肢はさらに限られてきた。空自と陸自の出動と交戦命令の発動を再度具申しているが、官邸からの命令は出ていない。警察官の短銃で相手の小銃に対抗することは、警察官の死者を増やすだけになる。モニターに釘付けになっている武田によれば、重火器も陸揚げされた公算が高いと考えなければならなかった。航空自衛隊による敵の後続部隊の上陸阻止と陸上自衛隊による地上戦が必要になるが、少しでも多くの民間人を避難させることが一番急がれる時だった。民間人が人質になれば、敵はその人質を盾にする可能性が高いだけではなく、市街戦になれば民間人の犠牲も出るだろう。統合参謀本部が当初から抱いていた危惧が現実に起こりつつある。一刻も早く現状を伝えて避難命令を出さなければならない時なのに、官邸の危機管理室は、パニックになっていて、機能不全になっている様子だった。
NHKも民放も通常番組の放送が流れていて、市民がこの危機的状況を知る方法は無かった。
北山の携帯電話に柳原からの連絡が入った。搭乗者の名前は、八木と北山であった。
「やはり」
町村の心配が現実になった。加代に情報をリークするという発案者は町村だった。たとえ、その目的が正しかったとしても、結果に対する責任は自分にあると町村は思った。
「さくらテレビが特番です」
作戦会議室の片隅にあるテレビモニターの監視に当たっていた陸自の参謀が知らせた。さくらテレビは日日新聞系列のテレビ会社だった。画面には、ヘリから撮影した映像が流れる。舞鶴湾を埋め尽くした船、上陸してくる人の群れ、そして明らかにカメラ自体が回転しているものとなって終わっていた。日日新聞だけが、この映像でウラが取れたとして独自に放送する決断をしたものと思われた。
「日日新聞社のヘリコプターが墜落したものと思われます。乗員の安否は不明です」
アナウンサーの興奮した声が聴こえた。テレビ局もこの映像しか情報が無いらしい。特番に呼ぶ専門家の解説は間に合わなかったようだった。繰り返し同じ映像が流れる。だが、テレビ局は避難を呼びかけるだけの情報を持っていなかった。
「ここから、テレビ局へ情報を流せませんか」
「本部長が、今、幕僚長に伝えているところだ」
敵の侵攻は若狭湾の中でも、舞鶴湾に集中している。軍事作戦であれば時間が重要な要素となるので、上陸用舟艇を使えず一般の船舶で上陸しようとすれば、陸上の支援部隊が必要になると思われる。上陸地点が一箇所に集中しているのは、支援部隊の数に限界があったと推測された。従って、当面は若狭湾から五十ロメートルの範囲の住民を関西地方へ避難させることを勧告すべきであるというのが参謀本部の見解だった。
参謀本部からの意見具申は、次から次へと送られているが、可否の回答さえ来ていなかった。何も出来ない時間が、ただ過ぎていく。幕僚長に噛み付くことなど、本来あってはならない事だが、北山本部長の口調は幕僚長を罵倒しているのかと思われるような強さだった。

21
申浩基と赤い服の男が、入っていったのは「小田急送」という看板の運送会社だった。まだ事態を理解していない年配の男が、一段高くなっている荷捌きプラットホームから不審な二人組を見つめている。二人は左端にある階段から男に近づいていった。
「トラックを貸してもらいます」
赤い服の男が普通の声で話しかけた。男は申浩基の汚れた服と小銃に目を奪われている。
「聞こえてますか。トラックがいるんです」
「なんだ、おまえら」
「あのトラック。鍵は」
「あほか。おまえら。とっとと、出てけ」
申浩基が銃を構え、壁に向かって引き金を引いた。壁の棚にあった荷物が大きな音で落ちてきて、目の前でおきた銃声と、物の落ちる音に男の喉が鳴った。
「鍵」
赤い服の男が手を差し出した。男はトラックの方を顎で示した。鍵は付いているという意味なのだろう。だが、赤い服の男の足が運送会社の男の顔面を捉えた。
「ちゃんと、答えろよ」
赤い服の男は薄く笑って、プラットホームから飛び降りた。申浩基は門で待っている美姫たちに来るようにと手を振った。トラックに駆け寄った赤い服の男が運転席に上がってすぐにエンジンを始動させて、トラックをプラットホームへ後ろ向きに停めた。清江号部隊は階段からプラットホームに上り、そこからトラックへ乗り込む。運送会社の男は、その場を動くことも出来ずに銃を持った集団を見つめていた。二台目のトラックもサブリーダーの一人が運転して、プラットホームに付ける。二百名を越す清江号部隊は三台のトラックに分乗して運送会社を出発した。
清江号部隊の目的地は、「引土」という地名の一角で、国道27号線を走ってJR西舞鶴駅の近くにある。赤い服の男が運転するトラックの後に続き、三台は国道に出て西へ向かった。道路を走る車には銃を持った共和国の集団しか乗っていなかった。機動力は現地調達となっているので、車両の持ち込みはしていない。道路を走っていた車は、早い者勝ちで徴用され、それぞれの目的地を目指している。ほとんどの運転者は銃で脅されて、簡単に車を渡した。なかには抵抗をする日本人もいたが、説得している時間がないので射殺されていた。
美姫は押し黙ったままトラックに乗り込んだ。日本人の女はまだ視線が定まっていない。擦り傷による出血で顔の右半分は真っ赤になっていた。上着の右袖が無く、シャツが血で濡れている。動かない右手の指先から、いまだに血がトラックの荷台に落ちていた。美姫は銃を母に預けて、女の右手に手をやった。
「出血をとめないと」
美姫は破れて貼りついている女のシャツを両手で裂いた。女の腕には擦り傷だけでなく、十センチ以上の切り傷があり出血が続いている。美姫は申浩基に出血を止める処置をして欲しいと頼んだ。「日本人の女など」という気持ちが申浩基の顔に出ていたが、美姫は引き下がらなかった。申浩基は乱暴に女の上着を脱がして傷口に当てて、シャツを破って女の腕を縛った。何度も女の口からうめき声が出たが、女にはそれ以上逆らう気力は無かった。
トラックは幹線道路から外れて、しばらくして住宅街で停まった。教会の高い建物が目の前にあった。写真にあった通りの家並みがあり、男たちがトラックから飛び降りる。女たちはトラックからぶら下がるようにして降りて、男たちの後を追った。申浩基が美姫に頼まれて、日本人の女を背負ってトラックを降りてくれたが、その場に座り込む女には目もくれずに走り去った。美姫と母は女を両側から支えて、自分たちの仕事に向かった。兄の明哲は清江号部隊を統率するためにトラックの上に残っているので、教会の青山という一家を制圧する任務は母と二人でやらなければならなかった。教会の横の道を進むと、協会に隣接して洋風の二階家があった。何度も銃声が聞こえる。美姫は威嚇の銃声であることを祈った。目の前の玄関が開き、年配の女性が姿を見せた。美姫はかかえていた日本人の女から離れて銃を構えた。
「お願いです。抵抗しないでください。この銃は本物ですから」
立ちすくむ女に銃を向けたまま近づいた。
「皆さんを呼んでください」
女は首を横に振るだけで声が出なかった。隣家で大きな銃声と女性の悲鳴が聞こえた。女は耳をふさいでその場に座り込んだ。美姫は女の監視を母に頼んで、建物の中に入った。銃を受け取ってから一度も安全装置を外していない。内に誰がいるかわからなかったが、美姫は安全装置を外さなかった。恐怖心で身が竦んだが、発砲してしまえば、自分も壊れてしまう予感があった。一部屋一部屋、慎重に確認していったが、家の中は無人のようだった。
「あなた以外には、いないのですか」
建物から出てきた美姫が、座り込んで震えている女に確認すると、女は何度も頷いてみせた。
「立ってください」
美姫が女の背中に銃口をつけると、飛び上がるようにして女が立ち上がった。母に待つように言って、美姫は銃口を押し付けたまま女を歩かせた。道路に出ると連れ出されたと思われる日本人が溢れていた。そこは、子供の泣き声と女たちの声で満ちていた。美姫は同胞に連れてきた女を渡して引き返した。ヘリコプターから落ちてきた日本人の女も収容所に連れて行かなければならないが、傷の手当てだけはしてやりたかった。自分が我が儘を通していることはわかっている。
兄が隊長でなければ、女の命を助けることも出来なかっただろうし、申浩基が兄の部下でなかったら、傷の手当てを頼んだ時も許されなかっただろう。
美姫は母と女をつれて家の中へ入った。居間の椅子に二人を座らせて、美姫は薬を捜した。そして、赤十字のマークのついた箱の中に薬を見つけた。


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