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無力-12 [「無力」の本文]

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 町村は寺の裏手から本堂に近づいた。何度も忍び込んだことのある床下に入り込み、加代と二人の兵士の到着を待った。三人の足が見え、本堂に消えていく。話し声が上から聴こえて来て、本堂に別の人間がいたことを知って、背中に汗が流れた。しばらくすると、二人の兵士が本堂から出てきて境内の木立の方へ歩いていった。敵が三人で、二手に分かれていることが事態を難しくしてしまったことは確かだった。だが、悩んでいる場合ではない。先ず、本堂の人間を無力化することが必要で、銃を使わずに実行できることを祈った。町村は仏像の裏側に回りこむことに決め、床下を離れようとした時に草を踏む別の足音を聴いた。床下から二人の足が見えた。それがいつも夕日を見に来る母娘のものであることは間違いなかった。これで、敵は五人で三箇所にいることになった。たとえ、相手が五人であっても、これ以上のチャンスはもう二度とないだろう。町村は床下から出て、本堂の裏口から内部へ滑り込んだ。男の声だけが聴こえるが、その内容までは聞き取れなかった。できるだけ近づき、一弾で仕留める必要がある。静かな本堂の中で音を殺すことは至難の業で、町村の動きは一寸刻みにならざるをえなかった。仏像の横手から、やっと人影を確認することができた。座っている加代の前に男が仁王立ちになっている。
「やめなさい」
正面扉の裏側から、激しい口調の女性の声がした。それは、はっきりとした日本語だった。
「やめなさい。私は金明哲の妹の金美姫です。金明哲は知っていますね。あなたたちの話は聴きました。あなたは、佐藤さんですね。我々の間では、あなたのいい噂はありません。すぐにここから出て行ってください」
拳銃を右手に持ち、ズボンを下ろした無様な姿の佐藤の顔が歪んだ。佐藤は銃口を上に向けて威嚇の発砲をした。
「次はあなたを撃ちます」
銃声を聴いて、境内で待機していた二人の兵士が駆けつけてきたが、入り口に美姫と名乗った女性の母親と思われる女性が現れ、兵士たちの動きは凍りついたように止まった。共和国の言葉で、その女性と兵士の間に短い会話があった。そして、兵士たちが本堂に入って来ると、佐藤に銃口を向けた。
「私は、すぐに出ていきなさいと言いました。母が声をかければ、あなたは死にます」
佐藤は片手で自分のズボンを上げた。
「いいでしょう。あなたは、私たちを敵にまわして、この事業が成り立つと思っているのですか。金明哲が厳しい立場になりますよ」
「出ていきなさい」
「北山さん。これで終わったと思っちゃいけませんよ」
佐藤は入り口に向かった。
「佐藤さん。この人に何かあれば、あなたを無条件で殺します。私の家族にも、まだそのくらいの力はあります。共和国の人間にも意地ぐらいあることを覚えておいてください。それと、この人はもともと私が預けた人です。返してもらいます」
金美姫は、視線を佐藤から二人の兵士の方へ移して、共和国の言葉で話しかけ、二人の兵士は大きく頷いた。
肩を落としている加代に覆いかぶさるように金美姫が話しかけている。町村は飛び出したい気持ちを抑えた。佐藤と二人の兵士は武器を持っていて、まだ十分に戻って来る場所にいる。そしてもう一つ、侵攻してきた共和国の人なのに、この母娘に銃を向けることには何か違和感があった。まだ、チャンスが消えたわけではない。

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 美姫は、怒りのために震えている自分を静めることに苦労した。ヘリコプターから落ちてきた女性に出会った時、母は守りなさいと言った。収容施設に連れられていってからも気になっていたが、再び会う運命にあったらしい。それに、いつものことではあったが、母の言葉は重かった。他人に対してこれほどの強気でのぞんだ体験はなかった。
「いきましょう」
放心状態の女性は全く反応しなかったが、美姫は辛抱強く待った。佐藤と二人の兵士が立ち去る様子を確認していた母が二人の所へやってきて、ここは危険だと言ったので、母と二人で女性を無理矢理立ち上がらせることにした。母に腕を取られると、北山と呼ばれていた女性は素直に立ち上がり、自分の意思で歩き始めてくれた。右手で女性を支えながら、今日の夕焼けはどんな色だろうと思っている自分が不思議だった。
教会に戻り、その女性に日本のお茶を出すと、驚いた様子で美姫を正面から見つめた。
「修と恵」
「えっ。なに」
「子供たち。あの子たちが危ない」
「どういうこと」
「あの男は、終わりではないと言ってた。子供たちが危ない」
佐藤とその女性の話は聴いていたので、佐藤が子供の命を条件に出していたことを、美姫も思い出した。
「わかった。私が行って来る」
美姫は事情を母に説明して、家を飛び出した。
学校の正門警備にあたっている申浩基が見えた。美姫は簡単に事情を説明して、二人の子供に会わせてくれるように頼んだ。日本に上陸した頃の申浩基は、日本人という人種に強い憎しみの感情を持っていたが、実際に日本人と接触するようになってからは変わり始めた。申浩基の本質は素直で優しい好青年で、国で教えられていたことが全てではないことに気が付いたようだ。日本人に寛容すぎると、美姫の行動に批判的な見方をしていた申浩基だったが、それはもう過去の話だった。現在の申浩基は兄の部下であったが、子供の頃は美姫の遊び友達でもあった。成人になってからは、どちらかと言えばぎこちない関係になったが、それはお互いに異性を感じている証拠でもあった。ここで待つようにと言って、申浩基は校舎の方へ駆け出していった。空が真っ赤に染まり、太陽が沈んでいく。
空の色が刻々と変化していくのに、申浩基は戻ってこない。美姫は胸騒ぎを感じた。さらに時間が過ぎて、申浩基が一人で戻ってきた。そして、美姫は二人の子供が死んだと告げられた。日本人の榊原という男が、二人の子供を絞殺したらしい。殺人事件ではあったが、日本人同士の事件なので遺体の埋葬だけを、その榊原という男に命じることで終了になるようだと言った。その事件は美姫が来る数分前に起きていた。美姫はこの事件が佐藤の命令で行われたのは間違いないのだから、何かできないのかと聞いたが、申浩基は首を横に振るだけだった。たとえ、佐藤の命令で行われたとしても、その証拠があったとしても、日本人同士の事件の責任を、共和国に協力してくれている佐藤に求めることはできないのだと言った。
美姫は申浩基が呼び止める声を無視して正門を後にした。どう伝えればいいのだろう。子供の生命を救うために、屈辱を受け入れようとしていた女性に、何と言えばいいのか。言葉が見つからないまま、美姫は教会に戻ってきた。
居間に入った時に異変を感じた。二人しかいない部屋に三人の視線がある。
「抵抗しないでください」
見知らぬ男が静かな声で言った。

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 母と娘に連れられて行く加代の後を追い、町村は何度も来たことのある教会に来た。少し様子を見てから突入しようと思っていると、勢いよく開かれたドアから娘の方が飛び出していった。家の中には年配の女性と加代の二人しかいない。町村は静かにドアを開けて、家の中へ入った。家の中は静かだったが、人の気配はあった。町村は念のため銃を手にして進んだ。ダイニングキッチンになっている広い部屋のソファに、二人は座っていた。
「騒がないでください」
走りよった町村は、銃口をその婦人に向けて言った。
「勇一さん」
何がおきたのかという、不可解な表情で加代が町村の名前を呼んだ。言葉はわからないようだったが、その婦人は町村に座るようにと手を動かした。
「すまない。こんなに遅くなって」
「来てくれたのね」
「このご婦人は大丈夫か」
「私を助けてくれたの。お嬢さんの方は、子供たちを連れに行ってくれてる」
加代の声は落ち着いていて、昨日も勇一に会っていたような錯覚をするほど自然だった。
「子供たち」
「ええ。敬子さんのお孫さん」
「原田さんの」
「知ってたの」
「村上さんと話をしたから」
「ケンさんね。亡くなったわ」
「それも、知ってる。止めることができなかった」
「ケンさんは私の腕を直してくれた」
「そうらしいね」
加代の様子は、本当に昔の加代のようだった。寺での苦痛に満ちた表情はない。収容施設にいた村上の話を聞いただけでも、施設の生活が過酷だったことは疑いようもなく、頼りにしていた村上と原田敬子に死なれて、子供たちを受け止め、佐藤という男の暴力に組み敷かれていたのに、どうして平静な加代でいられるのか。
「もう少し待ってて、子供たちが戻ってきたら、東京に帰るから」
だが、よく見てみると、加代の目には力がなかった。町村の方を見ているのに町村を見ているのではなく、その焦点は町村のいる場所より遠くの方にあった。
「わかった。そうしよう」
その婦人には危険を感じなかったので、銃をしまい、町村は待つことにした。三人が押し黙ったままでも時間が過ぎた。
ドアの音に、別々の思いが反応した。加代は飛びつくように入り口に行き、町村は拳銃に手をやった。母親は、戻ってきた娘に無言で首を横に振っている。
「抵抗しないでください」
「あなたは」
その娘は駆け寄ってきた加代を制して町村に言った。
「自分は、この人を救出にきました」
娘は母親の方へ確認の視線を送った。そして、母親の目が危険はないと言っているのを感じてくれたようだった。
「修と恵は」
「座りましょう」
すがりつく加代を抱いて、娘はソファに座った。母親と娘が目で会話をしている。
「ごめんなさい。連れ出せなかったの」
加代の喉が鳴り、そのまま加代は意識を失った。三人の視線は、しばらく加代に向けられていたが、動く気配は全くなかった。町村と娘の視線が合った。それは、まっすぐな目だった。
「日本の方ですね」
「町村といいます。この女性の婚約者です」
「私は、日本読みでは、金美姫といいます。そして、私の母です。この家は安全です」
「加代を助けていただいたことに感謝します」
「えっ」
「あの寺で」
「見ていたのですか」
「はい。もう少しで、ぶち壊すとこでした」
町村は、拳銃を出して、テーブルの上に置いた。
「軍の方ですか」
「いえ。今は違います」
「子供たちのことなんですが」
「はい」
「この人には言えませんでしたが、さきほど、殺されました。佐藤のやらせたことだと思いますが、実際に殺人行為を働いたのは、榊原という日本人です。加代さんとおっしゃる、この方と同じ部屋の人です。私がもっと早く気がついいれば助けることも出来たのに」
「あなたのせいでないことだけは、はっきりしています。子供たちの両親には、自分が伝えます。共和国の方にそこまで言っていただけるとは思いもしませんでした。感謝します」
「この方を引き渡したのは、やはり間違いでした。それが残念です」
「引き渡したとおっしゃいましたが」
墜落したヘリから投げ出された加代の傷の手当てをしたことと、兄に言われて学校に連行させたことを美姫は話した。
「絶対に傷つけないという約束でした。兄は金明哲と言って、この地域の軍の責任者です。だから、大丈夫だと思ったのです」
「そうでしたか。もう一つお伺いしてもいいですか」
「何か」
「あなたのお父様は」
「父は、この事業の、軍の責任者ですが、一度もここへは来ていません。母も私も、日本に来てからは会ったことがありません。兄の話では無事のようですが、今は党が全体の指揮をしているのです」
「すると、あの寺にいた佐藤という男も党の人間ですか」
「いいえ、あの男は協力者の一人です。党の指揮下には入っていますが、協力者は全員日本人だと聞いています」
「在日と呼ばれている、二世や三世の人ではないのですか」
「違います。純粋な日本人だそうです。どうして、協力者になっているのかはわかりません」
「そうだったんですか」
「でも、党が言ったように戦闘にはなっていません。私たちは戦闘覚悟で上陸したのですが、一度も戦闘にはなっていません。党の力だと言われています」
「でも、あなたはこの人の命も助けたし、私に銃を向けません。どうして」
「父は軍人で人を殺すことが仕事ですが、母は誰の生命であっても、人殺しは認めません。私も母と同じです」
町村も共和国の人たちは誰もが、特殊な教育を受けた特異な人種だという偏見を持っていたように思った。それと、侵入者が共和国軍と思っていたのも違うようだ。集団が大きくなればなるほど、溝が出来るのは当たり前で、鉄壁の団結など存在しないことに日本人が気づいていないのではないか。まだ、事態を収拾する方法はあると、強く感じた。この母娘を通じて、軍の指揮官と接触を持つことも夢ではない。問題は、協力者と呼ばれる日本人集団だと思った。
「どうか、しました」
黙り込んだ町村に、美姫が不審な表情で言った。
「いえ。日本人もあなたのお国の人も、できるだけ傷つかずに、終わらせる方法は無いものかと思ったんです。あなたとお母さんに会って、少し希望を持っても良いのではないかと思っているんです」
「それが出来れば、とても嬉しい」
日本語がわからない筈の母親が、何度も大きく頷いた。
「お母様は、日本語がお分かりですか」
「いいえ。全くわかりません。母は不思議な人で、人の心を読みます。言葉はいりません。あのお寺で、母が二人の警護の兵士と話しているところを見たと思いますが、誰もが素直に母の言葉に従います。多くの人が、母のことを特別な人だと言いますが、娘の私にはその特別というものがわかりません。殺意を抱くような喧嘩をしていても、母が仲裁に入ると収まってしまいます。ともかく、不思議な人です」
「そうなんですか。自分もここに入った時は、銃を持っていましたし、最悪の状況であれば、射殺してもいいと考えていましたが、お母様に座るようにと手を出されたら、銃を置いて座っていました。不思議です」
加代はソファに横たわったまま全く動かなかったが、呼吸をしていることは確認できた。
「この人は、動けないと思います。しばらく、ここで体力の回復を待ってはどうでしょう」
「ここで」
町村は加代を背負ってでも、安全な場所へ戻るつもりだったが、加代の体力より精神的なダメージの方が危険に思われた。途中で目覚めた時に、加代がどんな行動に出るのか予測できない。それほど、心が痛んでいるように見えた。
「心配でしたら、この家には地下室があります。そして、母と私がお二人を守ります」
「どうして、そこまで」
「さきほど、あなたが言われたことに希望を持ちたいのです。ここにいる同胞は、一般の人の方が多いのです。普通の漁師さんや農業をやっておられた人たちで、老人も子供もいます。死なせたくありません」
「そうですか。日本の軍事力は、縮小したとは言っても、まだかなりの力があります。双方に多くの犠牲者が出ることは間違いありません。それでも、ここまで痛めつけられている日本人を、ぜひ救出したいのです」
「私に出来ることはやります。父をここに連れてきます」
美姫が立ち上がって、町村を地下室へと案内した。頑丈なドアの先は階段になっていて、通気が良いらしく、一階よりも涼しく感じた。以前に住んでいた牧師一家も使っていなかった様子だったが、ベッドと小さな机があり、すぐにでも子供部屋として使えそうだった。
「もう一つ、お願いがあります」
部屋に入った町村は、美姫の目を見て言った。
「はい」
「子供のことですが、今日、二回目の公開処刑があったことにしてくれませんか」
「公開処刑」
「彼女は、自分のせいで子供たちが殺されたということに、耐えられないと思うのです。時間が欲しいのです」
「わかります。私も責任を感じています」
「お願いします」

50
 津田官房長官は、記者会見室の怒号の中で立ち往生していた。公開処刑で二百人もの人質が殺されたという噂の火を消す方法が見つからない。質問をしている記者にも、噂の出所を把握している者はいなかったが、その衝撃的な話はすでに一人歩きをしていた。膠着状態のまま、何も事件は起きていないというのが、政府の公式見解である。人道的見地から人質のために毎日膨大な量の食料を送り続けており、人質の生命には何も心配はないと明言していた。全国から警察官が動員されて、舞鶴周辺には誰も近づけない。勿論、特ダネを狙う人種は決して少なくないが、無事に帰ってきた人は一人もいなかった。敵に殺された人もいれば、味方に殺された人もいる。ただ、死者の数は政府が把握している限りでは、三人だけだった。警察に拘束された人の中には、行方不明で処理され、大阪拘置所に収監されている人もいるらしい、という噂はあった。一騎当千のつわもの揃いのマスコミ業界だったが、抜け駆けに成功する者が出てこないことで、極度のフラストレーションが溜まっている。全てのメディアが、公開処刑の噂に飛びついた結果、記者会見室の混乱が引き起こされた。テレビでは、評論家の先生が、見てきましたと言わんばかりの話をしている。事実を知っているという官房長官の隙が、言葉を歯切れの悪いものにしていて、敏感な記者団の不審を買ってしまった。
「ないものは、ないんです」
津田官房長官は、そう言って記者会見を終わらせた。殺到する記者に揉まれて、マイクやレコーダーで何度も顔に擦り傷を作り、足腰は数え切れないほど蹴られていた。警備の人たちに助け出された時には、スーツもネクタイも無残な状態になっていた。それでも、納得した記者はなく、背中を怒号が追いかけてきた。
「どうでした」
菅野総理が優しく声をかけた。
「ひどいもんです」
その部屋は、もう危機管理室ではなかった。新しい難問が出てこなければ、それが一番だという空気が支配していて、実質的には人質を容認している状態であった。八方塞がりの状態が、かえって心地よいものとして歓迎され、相手の出方をよく見極めて、慎重に判断を下すことが自分たちの責務と思っている。それは官僚の得意技でもあり、各省庁から来ている人たちにはとても居心地のよい場所と言えた。ただ、自然とそうなったのではなく、官僚同士の阿吽の呼吸で完成したものだった。相手が他の省庁の場合は、自分の省庁の利益が最優先であるが、結束が必要と判断すれば、実に見事な協力関係が生まれる。政治家に、それもなりたての閣僚に引きずり回されることは許せることではなかった。責任は政治家に取らせる。その一点さえ心得ていれば、何をやっても許されるのが官僚の世界の極意だった。勿論、人質の苦しい状況は報告されているが、それはただの報告書であり、読んでサインをして、次の人に渡す作業に過ぎなかった。受身に徹することが自分を守ることであり、自分の立場を守ることは全てに優先する。従って、自分以外のこと、特に下々のことを斟酌するのは、官僚の道に反することで、唾棄すべきことであった。
動きの乏しい部屋に警察庁の連絡を担当している事務官が入ってきた。警察庁の伊丹長官に書類を渡して、小声で何かを伝えると部屋を出て行った。
「李宣昌の正体が判明しました」
伊丹長官が、受け取ったばかりの書類を見ながら言った。
「李宣昌と名乗る男は、本名を鳥井正と言う日本人です。日朝新聞の記者をしていた男で、現在四十五歳です」
伊丹長官の説明によると、鳥井正という男は半年前まで社会部の記者をしていたが、自己都合で退職していた。どちらかと言えば一匹狼のような存在で、親しい仲間もいなくて退職理由を知るものはなかった。妻とは八年前に離婚している。両親は既に他界していて、兄弟もなく天涯孤独の境遇であった。共和国との接点等の背後関係については引き続き調査中ということだった。
李宣昌と名乗る男が日本人だと判明したが、それも単なる情報の一つであり、「ふーん。そうか」という、いつもの反応があっただけで能動的に何らかの方策を考える動機にはならなかった。
井上防衛庁長官が勢いよく立ち上がり、何か発言しようとしたが、首を横に振るだけで退席していった。井上長官は福知山の情報収集センターから報告される内容から、人質になっている人たちの苦しい立場に心を痛めていた。特に脱走してきた村上健一の証言が、その悲惨な状況を推測から現実のものへと変える大きな要因であった。一日当たり五万人分の食料を送り続けているにも関わらず、人質は食料責めで反抗の気力を奪われ、体力のない老人や子供の死亡が後を絶たず、僅かな食料のために肉体を提供している女性もいるらしい。総理が二言目には口にする「話し合い」が、単なる逃げ口上に過ぎないことは明らかであったが、出席者の九割が責任逃れに汲々としている状況では、井上長官の発言は役に立たなかった。
「これは、犯罪です」
井上長官は、控え室に遅れて入ってきた稲本陸上幕僚長に言った。
「我々も、その加害者ですね」
「そうなんです」
「自分は、腹を切ろうと思っています」
「辞任するということですか」
「いいえ。幕僚長のままで、単身舞鶴に行こうと思います。殺されるか、人質になるかでしょうが、自分に出来る事はそれぐらいしかありません。隊員には行かせたくありませんから、自分が行きますが、陸上自衛隊としての意思表示にはなるでしょう。長官にお話したのは、ご一緒出来ればありがたいと思ってのことです。長官に死んでいただければ、自衛隊全体の意思表示にすることができます」
「私も一度は考えました。でも、怖くて。人権だ、市民の権利だと言ってきたのに、逃げてばかりの毎日です。よくわかっています。でも、怖いんです。どうしょうもなく、怖いのです」
「長官は正直な方だ。この話は聞かなかったことにしてください」
「稲本さんは」
「自分は、この立場ですし」
「そうですか。少し時間をいただけませんか」
「いえ。長官には残っていただいた方がいいのかもしれません。自分にとっても後事を託せますから」

51
 町村は、加代を連れて第一基地まで戻ってきた。金美姫の家に二日間閉じこもり、まだ正常な状態に戻っていない加代を連れての行軍は厳しかったが、生きて帰れたことに満足しなければならないと思った。美姫から公開処刑で二人の子供が犠牲になったという話を聞いてから、加代は一言も喋らなくなった。焦点を失った目では、町村の存在が理解できているとは思えない。地獄を見すぎてしまった。だが、あの施設には加代の見た地獄の中に、まだ多くの人がいることを思えば、じっとしていることもできなかった。
倉持の車で福知山の病院へ搬送してもらい、陸自の別府一尉に頼んで護衛をつけてもらうことができた。ホテル代わりにと、別の個室を別府が用意してくれたので、町村は喜んでその行為に甘えることにした。人形のようにされるがままの加代が、点滴に入れてある睡眠薬によって目を閉じたのを確認して、部屋を出た町村を倉持と別府が待っていた。
「部屋で話を伺ってもいいでしょうか」
舞鶴の金美姫の家で、二日間考えていた一人クーデターの作戦には、是非とも協力者が必要であったが、現地の実情を一番よく知っている別府に頼むのがいいのも知れないと考えていた。ただ、幕僚長クラスの協力がなくては、一歩も前には進めない。そのためにも、最初に北山本部長の了解が欲しいところだった。
「わかりました」
町村用に用意してくれた部屋に三人が入ったときに、倉持の携帯電話に着信があった。
「町村さん。北山本部長が、一時間でここにみえます」
北山加代救出は、既に倉持がやっていた。職権乱用かもしれないが、多分ヘリを飛ばしたのだろう。
「よかった。できれば、本部長も入っていただいて、四人で話ができるとありがたいのですが、いいでしょうか」
「そうしましょう」
「それまで、少しだけ横になります」
町村は体力の限界を感じていた。風呂に入り、髭をそって、下着も替えたかったが、眠る方が優先した。
ノックの音で目を覚ましたが、条件反射のように銃を向けていた。先頭で入ってきた北山本部長が凍りついたが、町村はすぐに銃口を下げた。
「申し訳ありません」
「いいんだ。あれはよく眠っていた。ありがとう」
「とんでもありません。遅すぎました」
「三十分で風呂に入ってきてくれ。臭くてかなわん」
倉持が着替えの服を買ってきてくれていた。
「ありがとうございます」
北山の好意に甘えて、町村はバスルームへ急いだ。軍人の端くれなので、早風呂は訓練の一つである。町村は十五分で出てきて、倉持が用意してくれた冷たいお茶を一気飲みして席についた。
「早速だが、聞かせてくれ」
「はい。運だけでした」
町村は、加代の救出の内容を簡単に説明し、金美姫のことを話した。
「内部は、一枚岩ではありません」
「そうか。李宣昌と名乗る男が日本人だということは聞いたか」
「いえ。初めてです」
「新聞記者だったそうだ」
「金美姫の話では、かなりの数の日本人が協力しているようです。さきほどの佐藤という男も、そうらしいです」
「どうやら、菅野総理の誕生がこの作戦の始まりだったように思う。自民党の総理大臣だったら、武力を使っただろう」
「問題は、その菅野総理なんです。金美姫の父親は共和国軍の司令官で、接触は可能だと思います。和平交渉が出来たとしても、総理とその取り巻きが前向きに取り組んでくれるとは思えません。正真正銘、これが最後のチャンスでしょう。ですから、菅野総理に一任はできないと思います。そんな危険を犯して、人質の救出が出来ないようであれば、取り返しがつきません。ですから、ここは誰かが身を捨てるしか無いと信じます」
「身を捨てるとは」
「自分が一人クーデターをやります。武力で、こちらの希望どおりのことができるようにせざるをえません。多分、犠牲者も出るでしょう。人質救出後であれば、殺人罪での起訴もかまいません」
「んんん。一寸待て」
「他に、案があれば伺います」
「待ってくれ」
「大量の爆薬と特殊な起爆装置が必要になりますし、危機管理室に入室できる口実が必要です」
「落ち着け。町村」
「落ち着いてはいられないんです。自分は多くのことを見すぎました。これを看過すれば、自分は人間ではいられなくなります。権力の独走を止めることは、いつの時代でも必要です。昔、軍部独走で失敗した国です。今は、政治独走で失敗しようとしている。日本には、そういう風土があるのでしょう。そして、いつの時代も苦しむのは弱い者なんです。菅野総理は、弱者に優しい政治が謳い文句でしたが、この現実のどこが優しい政治なんですか。どれだけ多くの人が、生き地獄の中で苦しんでいると思うのです。大局的に見ても、今、方向転換をしなければ、禍根を残します。わかってください」
「わかってる。俺はやめろと言っているのではない。お前は参謀だろう。激情で作った作戦がうまく動くとでも思っているのか。頭を冷やせ。結果的に成功することが、絶対に必要なんだ。お前は、大局的と言う言葉を使ったが、本当に大局的か。世界の世論はどうなってる。日本で軍事クーデターが起きたとしても、世界は納得する。軍事政権では困るが、民政に戻すことを前提にすれば、何の問題もない。中国だけは別のことを言うだろうが、今回の事で中国の腹は見えたと世界中の常識になっているんだ。これだけ主権を侵されて、何の対応もできない日本は世界の笑いものだぞ。頭の中を一回、空にしろ。あらゆる選択肢の中から作るのが作戦参謀の仕事だろ」
「本部長は、自衛隊のクーデターでもいいと」
「勘違いするな、それも選択肢の一つであることを前提にしろということだ」
自分では冷静なつもりだったが、余りにも悲惨な現実を見てしまったために感情的になっている。しかも、舞鶴にこもりっきりで、視野が局地的になっていることは認めざるをえなかった。
「どう、しろと」
「参謀本部に戻って来い。お前の仕事はそこにある」
「もう、退官しました」
「まだだ。退官処理は途中で止まっている」
「・・・」
「加代のことも心配するな。母親を呼んだ。傷ついた娘を守るのは母親の仕事だろ。お前しかいないんだ。敵の状況を知っていて、交渉のルートを持っている者は他にいない。以前と違って、長官も制服組を理解してくれている。必ず、力になってくれる」
「井上長官が、ですか」
「それとな、これはここだけの話だぞ。俺がいいと言うまで黙っていてくれ」
北山本部長は、別府と倉持の顔を睨み付けて言った。
「稲本幕僚長は、単身で現地入りするつもりだ」
「舞鶴に、ですか」
「そうだ。人質になりに行く。腹を切るつもりだろう。何もできない幕僚長の最低限の仕事だと言っておられた。幕僚長など、なるもんじゃないな。普段は仕事をさせてもらえなくて、腹を切ることだけが仕事なんだから」
陸上幕僚長の話を聞いたことで、町村の頭の中の霧が晴れた。少なくとも、自分の周囲にいる人たちは自分の仕事を誠心誠意やろうとしている。幕僚長だけてはない。別府も倉持も人質の解放に向けて力を尽くしている。時間は少しかかるかもしれないが、結果を出さなければ意味がないと思えた。
「帰ります」

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