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無力-7 [「無力」の本文]

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 校内放送が流暢な日本語で始まった。各部屋で代表者を二人選んで職員室まで来るようにという内容だった。ケンさんと呼ばれる男と、三十前後の年齢の男性が選ばれて部屋を出て行った。加代は昨日から世話になっている女性に、初めて礼を言ってから自己紹介した。
「気にせんといて。私は原田敬子。これは孫の修と恵。父親は単身赴任で大阪、母親は仕事の研修会とかで東京。昨日帰ってくる予定やったのに連絡がとれんままや。あんたは、東京から来たんやろ。こんな時になんで」
「取材で来たんですが、そのヘリコプターが撃たれて墜落しました。パイロットの方は亡くなりました。私が無理言ったんです」
「そん時の傷」
「はい。私は怪我だけで」
「そうか。そら落ち込むわ。肩はどう」
「だいぶ、いいです」
「あの人な、接骨医やねん。村上健一いうて、私の幼友達。若いときはけっこうやんちゃやったんやけど、みんな、歳とってしもた。この部屋にいる人も半分ぐらいは近所の人や。これは、いったい何やの」
「戦争だと思います」
「戦争」
「人数はわかりませんが、凄い人数だと思います。みんな銃を持ってます。海岸からここまでの間に死んでる人が何人もいました。警察官が多かった」
「そうか、あそこにいる人の息子も警察官や。大丈夫かな。自衛隊とか助けに来てくれるやろか」
「来て欲しいですよね」
「今朝も何人か殺されたし、それに昨日から食べてへんからお腹も減った。この子らが可哀相でな」
「お幾つですか」
「しゅうが小二で、めぐが年長さん」
敬子が二人の孫の自慢をしている間中、修は窓の方を見ていた。祖母の敬子とはよく話をしていたが、決して大人の会話に入り込んでくるようなことはなかった。母親のしつけがしっかりしているのだろう。妹は兄の服の裾をしっかりと握り締めていた。
代表として職員室に行っていた二人が部屋に戻ってきた。
「皆さん。聞いてください」
村上健一が声をかけた。
「銃声は聞こえましたか」
聞こえたと答える人はいなかった。
「どこの部屋の代表かは知りませんが、職員室で向こうの男に噛み付いたのがいまして、その場で射殺されました。誰も何も言えませんでした。問答無用のようです。私はこの部屋の代表になりましたが、皆さんの要求を受けて交渉に行くようなことはしません。それでよろしいでしょうか」
「どうして代表を引き受けたんだ、君は。一度引き受けたんだ、そんな逃げ腰になってもらっては困るじゃないか。皆の空腹をどうしてくれるんだ」
「その通りです。なんで代表なんて引き受けたんだろうと後悔してますよ。あんたがやってくれますか」
「わかってないな。いったん引き受けた以上、泣き言を言うなと言ってるんだ。それが大人の責任じゃないのかね」
三十台の身なりのいい男で、公家のような顔立ちだが、他人を見下すような目つきが印象的だった。若くても、命令することには慣れているようで、全く臆するところがない。村上は言葉を失った。
「ケンさん。あの人にやってもらいよし」
敬子は本気で怒っているようにみえた。
「とりあえず、報告だけはします。代表のことは後にしましょう」
気弱な笑みを敬子に返して村上が言った。
「あいつらは、共和国の軍隊だそうです。私らは、捕虜です。皆に伝えるように言われたことは四つあります。一番目は、命令や指示には絶対に服従しなければならないと言うことです。違反した者は、即座に射殺するそうです。実際に殺されました。二番目は協力者の募集です。同室の者の言動を監視する協力者だそうです。申し込みは他人に気づかれないようにということです。三番目ですが、この校舎全体に爆発物を仕掛けたそうです。日本の自衛隊が来れば、躊躇なくスイッチを押すと言っていました。最後に、この用紙に名前、年齢、性別、住所、職業を記入して提出しなければなりません。職業のところは詳しく書くように言われました。職業が変わった人は、それまでにやっていた職業も書いてください。パートもアルバイトも全部です。学生は学校名、学年、クラス、部活もです。それと、残念ですが、食事の話は出ませんでした」
村上は近くにいた敬子に用紙とボールペンを渡して、書き終わったら次の人に回すように言った。
村上の顔が青ざめている。
「あんな人、放っとき」
「ん」
だが、村上は人波を避けながら男の方へ行った。
「私は、村上健一と言います。おたく、名前は」
「何だね、喧嘩を売る気ですか」
「お望みであれば」
村上の服を引っ張る者がいて、村上はそちらへ顔を向けた。
「やめとけ」
「放っといてください、星野さん」
高校時代の空手部の先輩で、今は市会議員をしている星野という男が止めに入った。
「こちらは、税務所の所長さんで、榊原さんだ」
「だから」
「止めとき、悪いことは言わんから」
「ほんじゃ、星野さんがここの代表してくれますか」
「相変わらず、融通のきかんやっちゃ」
「代表する気ないんやったら、引っこんどけや」
もう何十年も昔の話だが、舞鶴の裏社会で村上健一の名前を知らない者はいなかった。喧嘩が強いだけではなく、人を惹きつけるオーラのようなものを持っていて、暴力団の組長から誘いがあったほどの有名人だった。十年ほど舞鶴を離れていて、戻ってきた時にはおとなしいケンさんに変わっていて、子供たちに空手と合気道を教えることに熱中する先生になった。だが、喧嘩の時の迫力は衰えていないようで、星野が黙り込んでしまった。
「榊原さん、言うんか」
「そうだ。榊原だ」
「代表。あんたがやれや」
「そんな、世話役みたいなこと、私がやらなくても」
「私がやらなくてもだと。何様じゃ、お前は」
「皆の総意で決まったことじゃないか。君の責任だろ」
村上が肩に置かれた手を払いのけようとして振り返ると、敬子の厳しい顔があった。
「ケンさん。もうやめ」
「・・・・」
村上が勢いよく立ち上がり、自分の席の方へ向かった。
「税務所の所長かなんか知らんが、命拾いをしたんやで」
村上の代わりに敬子が啖呵を切った。

26
 町村は海自参謀室に北山本部長を呼び出した。参謀は全て統合作戦会議室に詰めているので、部屋の中は無人だった。
「どうした」
「これを。お願いいたします」
「やはりな。その前に俺の話を聞いてくれ。結論から言うが、お前に辞められては困る。舞鶴に行く気なのか」
「自分の責任ですから」
「幕僚長が辞任されて、人事的にも難しい時だから、俺自身、動きがとれない。だから、お前が舞鶴へ行ってくれるのはありがたい。自衛隊がどうなるのかわからんが、いずれは、お前が背負わなければならない時がくる。任務が優先か、自分にとって大切な人の命が優先かという二者択一は避けたい。欲張りかもしれんが、俺は両方欲しい。だから、俺の一存でお前を原隊に返す」
「横須賀に、ですか」
「指令に頼んで、斥候を出してもらった。海上自衛隊で陸地の斥候というのも変だが、情報収集部隊だ。陸自だけに頼っている訳にはいかんだろう」
「いつです」
「昨日の夜中に頼んだ」
「知りませんでした」
「原隊に戻って、その部隊について行ってもらいたい。お前は独自行動でいい。機密調査ということで、話は、ついてる」
「そうだったんですか」
「お前が辞表を持って来なければ、斥候部隊に頼むしかなかった。まだ、あの子のことは言っていない。町村が行ってくれれば、機密調査で押し通す。だがな、本音を言えば、俺が行きたい」
「わかりました。すぐに出発してもよろしいでしょうか」
「頼む」
町村は姿勢を正して敬礼をした。「やはり、このおやじは頼りになる」と思った。
「武田を、ここに呼んでくれ」
北山は、出口に向かう町村に声をかけた。
開店休業状態の作戦本部だが、任務を放棄することはできない。武田に後事を託すしかないのだ。武田に因果を含める役は本部長の方が適任だろうと思えた。
町村は、横須賀の自衛艦隊司令部に出頭し、命令を受領。私服に着替えた町村は、先発している斥候部隊の後を追った。斥候部隊は小隊編成で、倉持一尉が小隊長をしている。寡黙で信頼のおける倉持とは、何度か会ったことがあった。
京都駅から倉持に連絡を入れておいたので、綾部駅の駅舎を出た所で倉持の出迎えを受けた。
「無理言って、すまん」
「久しぶりです」
案内された車両はワンボックスの一般車であった。後部座席に乗り込むと、運転席の男がかすかに会釈をした。
「最初に、基本的な事を確認させていただきます」
「ん」
「この任務の指揮は自分が執ります。それと、あなたに対してだけではなく、階級は無いものとして行動することになります。全員が相手を、さん付けで呼びますので、よろしくお願いします。自分は、町村さんの任務を聞かされていません。町村さんは単独で動き、要請があればサポートするようにと言われています。それでよろしいでしょうか」
「助かります」
「我々は、特殊訓練を受けていますので、小型ナイフ以外は武器を持たずに潜入します。町村さんはどうされますか」
「できれば、拳銃ぐらいは持っていたいと思う」
「わかりました。用意します」
武器の携行が見つかれば射殺されますよ、と倉持の顔が言っていた。
「緊急時の発信器をお渡ししますが、時間を保証することはできません。我々が基地にいるとは限りません。最大限の努力はします」
「了解した」
「ただし、我々が全滅した時は勘弁してもらいます」
「それも、了解」
「現地では、食料の確保は難しいので、原則として二日に一度は基地に戻ります。その二日間は携行食糧でしのぐことになります。それと、私物は一切持ちませんので、基地に置いて行きます。携帯電話も新しい物をお渡しします」
「了解」
「相手は、我々よりもはるかに厳しい訓練を受けていると思いますので、無理はしないでください。それとは別に、当然陸自も斥候を出しています。我々の任務は陸自には伝わっていません。接触は避けてください」
「了解した」
「町村さんから、何かありますか」
「情報交換はして貰えるのかな」
「勿論です」
「人質の収容場所がわかれば教えてもらいたい」
「了解しました。それは、我々の任務でもあります」

27
 危機管理室で弁当の手配など、できる仕事ではなく、総務省へ丸投げされたが、総務省は何もできずに、京都府、兵庫県、大阪府に伝えるだけに終わった。緊急時ということで形式は省略されたが、地方自治体への連絡を実施している時に、李宣昌の言った三十分は過ぎていた。
「李宣昌です。準備はできましたか」
「今、やっている」
「で、到着時間は」
「それは、まだ確定していない」
「わかりました。日本政府は食事の用意ができないと言っておこう。残念だ」
「違う。時間の確定はしていないが、必ず間に合わせる。それよりも、犠牲者の遺体を収容させてもらいたい」
「犠牲者とは」
「多くの市民が、警察官が、あなた方の銃で撃たれて死亡している」
「そんな話を、私は聞いていない。何かの間違いでしょう」
「いや。私は知っている」
「では、調査してみよう」
スピーカーの音が切れて、室内は静かになった。
「李宣昌とは何者なんだ」
菅野総理が独り言のように言った。内閣府、外務省、警察庁そして防衛庁も李宣昌に関する資料を持っていなかった。その声は五十歳前後だろう。自信を持った話し方からも、それなりの地位にいるのは間違いない。訛りのない日本語からは、日本で生活をしたことがあると思われるのに、どこにも資料は無かった。危機管理室の指示は、食料の準備時間を回答せよというものから、四時間後に届けろという指示に変わったが、その指示変更にも三十分の時間が必要だった。
「京都の三山知事に電話を入れてください」
菅野総理と三山知事は市民派として、長年の付き合いがあった。総理は、直接依頼するらしい。三山知事から、努力するという返事をもらったが、その声には自信がないようだった。
「官房長官。向こうを怒らせては話し合いができない。そのつもりで応対してください」
三山知事との電話が終わると、暗い表情で菅野総理が言った。
「はあ」
「感情を抑えて、相手の言い分をよく聞くことです。間違っても言い争いなどしないように。話し合えば、必ず道は開けます」
全く発言の機会が無くなった井上長官は、冷静に、しかも客観的に状況の推移を見ている自分に気がついていた。佐々木幕僚長が進言してくれた時が、最後の転換点だったのだろう、と思えるようになっていた。そのチャンスを生かせなかった自分にできることは、もう無いのだろうか。死者だけが犠牲者ではない。人質になっている人たちも犠牲者である。であれば、犠牲者の数は既に二万人を超えていることになる。その二万人が十万人になり、百万人になると言った幕僚長の言葉は決して誇張ではないと思えた。
李宣昌の電話が切れて、一時間後に再び呼び出し音が鳴った。
「李宣昌です」
「津田です。最初にお願いしておきます。四時間は難しいので、六時間にしてください。必ず届けます」
「先ほどは、四時間で届けると言っていただいた筈ですが」
「本当に、申し訳ないと思います。なんとかご納得いただきたい」
十分前に、三山知事から総理への回答があり、六時間後という返事があった。総理は黙っていたが、三山知事は、その条件として組織暴力団の松葉会を使うことを挙げた。後日、どのような交換条件が出てくるのか心配であったが、背に腹は変えられない、と三山知事は言った。
「本当に、あなたが窓口で大丈夫なのですか。菅野総理と直接お話させていただいたほうがいいのかも知れませんね」
「大丈夫です」
「はっきり申し上げますが、あなた、信頼感ないですよね。そこにご列席の方も、そう感じていると思いますが」
「ところで、遺体の件はどうなりました」
「ちょつと。待ってください。まだ食料の話の途中ですよ。津田さん。あなた話し合いする気が無いのじゃありませんか」
「そんなことはありません」
「では、最初のお約束どおり、四時間後ということでよろしいですね。もっとも、もう三時間後ですけど」
「わかりましたよ」
「よかった。皆さんお腹すかせてますから。ところで、遺体があるというお話でしたが、やはりそのような報告は一切ありませんでした。何かの間違いでしょう。では」
回線が切れると、津田官房長官は力なく受話器を下ろした。誰の目にも、津田の失態は明らかだった。菅野総理は、津田の方を見ずに、三山知事への電話を指示した。
「交渉しましたが、駄目でした。やはり、あと三時間でお願いしたい」
長いやりとりがあったが、総理の表情からは交渉がうまくいったという感触は無かった。

28
 加代も空腹感に疲れていた。ヘリの墜落、そして八木の死に打ちひしがれていた時には感じなかった空腹感が、生きる意志を持ってからは肉体的苦痛を伴って襲ってきた。誰もが空腹から逃れるために眠っていた。原田敬子の二人の孫も横になっている。部屋には子供が二十人いて、乱暴な子も喧しい子もいたが、修と恵は静かな子供だった。起きている時は、二人でずっとあや取りをしている。あや取りがうまくいかなくなると、祖母の敬子に助けを求めるが、敬子にもできない時は最初からやり直す。手は出さないが、加代もそのあや取りに見とれていた。祖母に守られながらも、兄が妹を守っている様子がとても温かく感じられた。もう、丸一日食事をしていない時間が過ぎ、全員が水だけで我慢している状態だったので、歩き回る人はいなかった。階段の踊り場には銃を持った見張りが何人もいるが、教室と廊下は自由に行き来できる。人数が多いのでトイレは込み合うが、水だけは自由に飲めた。
校内放送があり、大勢の名前が読み上げられた。ほとんどが女性で、年齢は様々だった。提出された名簿から、何らかの理由で呼ばれたのだろうが、名前を呼ばれた人は誰も不安な表情だった。
放送の最後に、子供は連れてこないようにという注意があったので、子供たちの不安もふくらみ、泣き出す子供もいた。名前を呼ばれていないのに、榊原という男が部屋を出て行ったことに気がついた人は誰もいなかった。
一時間ほどで部屋に戻ってきた人たちの話では、学校給食の経験がある人が呼ばれたらしい。全員が戻ってきた訳ではなく、不採用になった人だけが戻ってきて、採用された人は既に仕事に取り掛かっているということだった。食事の可能性が出てきたことで、誰もが一様に明るい顔になっていた。
榊原秀男が連れて行かれたのは図書室だった。窓際の机に、赤いジャンパーを着た中年の男と、表情のない若い男が二人だけ座っていた。暑いのにどうしてジャンパーなど着ているのだろうと思ったが、口には出さなかった。榊原を連れてきた二人の男は入口に銃を持って立っている。
「座ってください」
榊原は、赤いジャンパーの男が指差した椅子に腰を降ろした。机の上には、菓子パンやコーヒーが置かれていて、灰皿には男の吸いかけのタバコから煙が立ち昇っていた。
「お名前は」
「榊原といいます。榊原秀男です」
「榊原さんね。部屋は」
「たしか、三年A組の部屋です」
男は名簿をめくり、目を落とした。
「ほう。税務署の所長さんですか。財務省とありますが」
「籍は財務省で、見聞を広めるための地方回りです」
「ということは、エリートじゃないですか。すごい人がいたんだ。将来は財務省の事務次官になろうという人だ」
「はい」
「東大出のバリバリですか」
「はあ、まあ」
「すごいな。ところで協力者募集に応募されて、来られたんですよね」
「はい。そうです」
「協力者という意味わかりますよね」
「はい」
「平たく言えば、スパイですけど、よろしいのですか」
「そのつもりです。税務署という仕事がら、私の言いなりになる人をたくさん知っています。私ならきっとお役に立てるのかなと思いまして」
「それは、助かります。そうであれば、あなたに協力者のリーダーをやってもらいたいですね」
「はい。ご期待に沿えると思います」
「私は、金英昌と言います。収容所全体の責任者です。あなたのような優秀な方がおられて、本当に助かりますよ」
「日本語がお上手ですね」
「私は、日本生まれですから。ところで、最初にお断りしておきますが、裏切り行為はなさらないように。勿論、死罪ですが、その前にかなり厳しい拷問があるそうです。私がやるわけではありませんが、専門家がいると聞いています。よろしいですね」
「はい」
「ほんとに。いいんだね」
「はい」
「ここは、この佐藤が管理しています。この佐藤の指示に従ってもらう。いいかね。この男の言うことには絶対服従」
「もちろんです」
「よし。決まった。あとはまかせたぞ」
金英昌という男は席を立ち、ゆっくりと出口に向かった。佐藤と呼ばれた男が立ち上がって、金英昌の後姿に深々と頭を下げた。二十歳を超えているようには見えない佐藤という男の目は冷たく感じるというより、底冷えのするような光を持っていた。採用が決まった安心感で、榊原の注意は自分の空腹感に集中していたので、金英昌に最敬礼をしている佐藤の態度に追随する配慮を忘れていた。榊原の視線は机の上に放置されているパンに向いていた。
「ねえ、君。これ、もらってもいいかな」
佐藤が座ると同時に、榊原が物欲しそうな声を出した。
「き、み」
「えっ」
「きみ、って、俺のことか」
「・・・」
「そうなのか」
「いえ。そうじゃなくて」
「何なんだ」
「すいません。ただ、お腹がすいてるもので」
「そうか。じゃあ、俺は誰だ」
「佐藤さんです」
「違うな」
「はっ」
「多分、さまだろう」
「はい。佐藤さまです」
「おまえ、俺が若いからなめてんだろう」
「いえ。そんなことはありません」
「信用できねぇな。お前の顔にそう書いてあるじゃねぇか」
「いえ」
「榊原。このパンが欲しいのか」
「はい。佐藤さま」
「じゃあ、そこで、犬みたいに四本足になれ」
「はい」
佐藤の目を正面から見て、榊原は自分が判断を誤ったことに気づいた。榊原は、椅子から転げるようにして床に這った。佐藤がパンを手にして立ち上がり、机を回って近づいてくる。榊原は恐怖を感じていた。
「これは、なんだ」
「手です」
佐藤の靴が榊原の指の上にあった。
「いいや。これは、おまえの足だろ。犬には手がないんだよ」
「はい。足です」
「おまえは、食事の時に足で食べるのか」
「いいえ」
「食べる時は、口で食べるよな」
「はい」
佐藤は袋からパンを出し、小さくちぎって床に投げた。
「どうした。腹が減ってるんだろう。食べろよ」
榊原は、床に落とされたパンのかけらに向かって、口を出した。
「もっと、欲しいか」
「はい」
「はい、じゃない。ワンだ」
「ワン」
「よし」
佐藤は後ろにさがり、パンをちぎって落とした。榊原はパンの所へ四本足で歩き、口を出した。
「さすが、東大出だ。おまえは頭がいい」
佐藤は残りのパンを床に落として、靴で踏みつけた。パンの中身のジャムが床に広がった。
「全部食べてもいいぞ。きれいにな」


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